movie2

 

 

 武士の一分を今頃見ました

 かもめ食堂はなぜ気持ちいいか?

 借りた映画と撮った写真

 ロリータとヴァンパイア

 GW前に見た映画

 「バベル」を見ました

 「小説家を見つけたら」を見ました

 「スティーブン・キング/シャイニング・特別版」を見ました

 「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」を見ました

 「長江哀歌(エレジー)」を見ました

 「アパートの鍵貸します 」を見ました

 「飢餓海峡」を見ました

 「鉄男」を見ました

 「レザボア・ドッグス」を見ました

 「麦の穂をゆらす風」を見ました

 「アメリ」を見ました

 「活きる」を見ました

 「アニー・ホール」を見たけどね

 「セレンディピティ」を見ました

 「あなただけ今晩は」を見ました

 「自虐の詩」を見ました

 「デイズ・オブ・グローリー」を見ました

 「SAW」を見ました

 「お熱いのがお好き」を見ました

 「ゴッドファーザーPART供廚鮓ました

 「パリの恋人」を見ました

 「悪夢探偵」を見ました

 「ゴッドファーザーPART掘廚鮓ました

 「バンドワゴン」を見ました

 「デスノート」と「デスノート the Last name」を見ました

 映画評の書き方

 

 


 

  武士の一分を今頃見ました(2008-03-10)

 

 

  今、話題の映画なんて見たことがないんですが、これはずいぶんと話題になりましたから何か書くのも気恥ずかしさがありますね。映画は私の場合、時間や環境が整わないとなかなか見れないんですが、引越しを期に抜本的に改善が図られたんでこれからたくさん見ることになりそうです。なんで、あんまり気合を入れて書くと面倒になるから簡単にしておきます。

 いちばん印象的だったのは壇れいの美しさと色気です。やっぱりあれくらい腰つきがあった方が時代劇らしくていいですね。ただそれが脚本にも影響したのか、セリフに「ご新造の美しさ」といったのが頻出するのはどうかと思います。現代劇に昔風の言葉や方言を散りばめたような言葉遣いで、奥深さが損なわれています。

 キムタクの太刀回りは見事なもので、盲人らしさも十分表現できていたと思います。少なくとも敵役の坂東三津五郎や師匠役の緒形拳よりも強そうでした。そういえば緒形拳が後半に1回しか出て来ないのはストーリー運びとしてちょっとどうかなって思いました。

 この映画は武士の一分=プライドというよりは壇れいとキムタクの夫婦愛がテーマで、そのことは妻の襷の紐を鉢巻にして決闘することや芋がらの煮物が2回出てくる(つまり剣の師匠より重要w)ことから明らかですが、そのため論理性が少し甘くなっています。飯炊き女にまでなって戻って来た妻を迎え入れるのは人情としては当然なんですが、道理としては決闘に勝って恥を雪いだからといって不義を働いた妻を赦す謂れはないだろうと思いました。妻の告白を聞いて「俺の知っている加世は死んだ」と言う新之丞の印象的なセリフがありますが、妻がどうやって彼の中で生き返ったかをドラマとして説明しきれていないということでしょうね。

 まあ、私が時代劇として自然だと思うストーリーは、妻の告白を聞いたら即座に自害を迫り、果し合いを済ませたら自分もあっさり切腹という殺伐としたもの(これらの選択肢はセリフの中で言及されています)で、それじゃあリアリティはあっても興行としてはうまくいかないでしょう。だからこの映画のストーリーでいいんですが、それにしても何かもう一つエピソード(桃井かおり辺りがからむかな)を入れて「しょうがない置いてやるか」とするような丁寧さがほしいですね。……どうも山田洋次監督の映画ってさらっと見ると「おもしろいなぁ、いい話だなぁ」って思うんですが、ちょっと気になりだすと劇中の人物たちはどうやって生きているのか心配になってくる、そんな感じがあります。

 


 

 

 かもめ食堂はなぜ気持ちいいか?(2008-03-13)

 

 

 この映画は女性には人気があるようですが、その理由は小林聡美(個人的にはいまだに「転校生」のヒロインですが)ともたいまさこが共演した名作「やっぱり猫が好き」と一脈通じるゆったり・ふわふわ・くすくすな感じってところでしょう。あの3人の女性の醸し出す雰囲気を室井滋より現実感のない片桐はいりに変え、舞台をヘルシンキにすることで一層濃厚にしています。

 時折挿入されるシュールに近いような不思議な場面がいい感じですが、中でもマサコ(もたいまさこ)が森に行ってキノコを腕にいっぱい取るとなかなか見つからなかったスーツケースが出て来て、ところがその中に服とかじゃなく光り輝くキノコが入っていた場面はちょっと感動しました。彼女がなぜフィンランドに来たのか、なぜフィンランド語がしゃべれないのにアル中のおばさんとコミュニケーションできるのか、なぜ彼女がフィンランドに居続けるのか、そうしたことがいちばん映画らしい語り方で説明されていたからです。

 いつまでも続いてほしい気持ちよさというのがこの手の作品の魅力そのもので、それ以上の意味を求めても仕方ないんだろうと思いますが、なぜそう感じるのかは語ることが出来るかもしれません。おにぎりやシャケや豚肉の生姜焼きといった家庭料理のおいしそうなことや武骨で装飾のない北欧独特の食器やイスやテーブル、それらが相俟って浮かび上がる清潔で透明な白夜の空気感を指摘する人が多いでしょう。私はそうしたことから、かもめ食堂は「あったはずの美しい過去の日本から見た、そうなってほしかった未来=非存在の現在の日本」じゃないかと思います。もっと簡単に言えば小津安二郎のホームドラマの世界を現代に投影したものでしょう。ああいう能に似た簡素で禁欲的な様式美(例えば主要登場人物は日本人3人、フィンランド人3人です)に満ちた世界は日本人の血肉に沁み込んだ憧れなんです。サチエ(小林聡美)がコーヒーを淹れる仕草は茶の湯のような儀式性を示し、客を出迎える挨拶についての3人のやり取りは狂言のようです。

 かもめ食堂はそうしたある種の理想郷で、本当にそうなるまでのエピソードの積み重ねがこの映画の「ストーリー」ですから、サチエがなぜヘルシンキで現地の人相手に日本の家庭料理の店を始めたのか、なぜ3人以外の日本人は出て来ないのかといった根本的なことは当然説明されません。そういう意味では話の構造はおとぎ話と同じですが、ジブリのアニメと同様に見る人はサチエの過去を半分くらいは想像できるでしょう。でも、その半分の過去は見る人がなぜこの映画に惹き付けられるかについての個人的な事情と関係するような気がします。いや、かもめ食堂をこよなく愛する女性はそう考えるんじゃないかなってところですが。

 ミドリ(片桐はいり)もマサコも見るからに今のギスギスした社会に居場所がなさそうですが、サチエは表面上はそう見えません。だから、見る人は例えば「あたしも居場所がないヒトだけど、ミドリやマサコほどじゃないかな。でも、サチエが抱えてる暗いモノはあたしと同じタチのものかもね」と登場人物に感情移入し、彼女たちがかもめ食堂で働くのを見て、自分自身も癒されていくように感じるのでしょう。テーブルを2人がやたら拭いているのはまるで永平寺の修行僧のようだと思いました。……最初の客でガッチャマンの歌詞をサチエに訊くトンミ(ヤルッコ・ニエミ)がずっとタダでコーヒーを振舞われるのは深い必然性がありそうです。主要登場人物の中で客人(まろうど、まれびと)である彼だけが過去の個人的事情を感じさせません。心に触れる作品は多くの場合神話や宗教と関係するものだろうと思います。

 


 

 

 借りた映画と撮った写真(2008-03-27)

 

 

最近DVDで見た映画についてメモ程度のことを書いておきます。まとまった感想を書くような感じではないんですが、どれもそれなりにおもしろかったです。ついでに最近撮った隅田川と桜の写真からいくつかを掲げます。桜は咲いていくのを撮ろうと思ったらあっという間に咲いちゃいましたね。

 

 

「グレングールド〜アルケミスト(錬金術師)」グールドがバッハのパルティータや新ウィーン楽派の曲をまるで指揮するように演奏する姿を見るのはとても楽しかったんですが、何年か前にBSか何かで見たような気がしました。そういう二度買い的なことは私にはよくあります。

 

 

「ヒトラー〜最期の12日間」絶対権力の愚かしさと悲劇を描いたって言葉でだいたい括ることができそうな映画です。戦争映画はAV(オーディオ+ヴィジュアルって意味です。もちろん)的に楽しめるので好きなんですが、その点もちょっともの足りませんでした。ヒトラーやゲッベルスの妻はさもありなんって感じで、いい演技でした。

 

 

「フラガール」松雪泰子も蒼井優もスタイルはいいし、フラも上手だなって思いましたが、しずちゃんの天然な演技と池津祥子の役作りが印象的でした。高度経済成長期って「失われた時」だからこれからもいい映画やドラマがたくさん出るでしょうね。

 

 

「交渉人〜特別版」ストーリーも人物造形もよくできてるんですけど、それだけになんかこの手のハリウッド映画によくある味付けだなって思っちゃいました。

 


 

 ロリータとヴァンパイア(2008-04-14)

 

 

 キューブリックの「ロリータ」とニール・ジョーダンの「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」を見ました。もう返却しちゃったし、次のも見始めているので、忘れないうちに簡単に書いておきます。

そういうつもりもなかったんですが、この2本の映画はロリコンっぽい映画です。前者は元祖ナボコフが脚本を書いていますが、62年の公開当時の「良識」に配慮したものになっていて、ピーター・セラーズ演じるクレア・キルティの方がよほど異常さを感じます。まあ、そこが(キューブリックのその後の作品とは違って)かなりゆるい感じがするこの映画を救っているんですが。

 

 

後者は少女のままで永遠に成長しない吸血鬼というテーマ自体がそれっぽい感じですし、クローディア役のキルスティン・ダンストは魅力的ですが、それにしては彼女自身の苦悩の描き方が不十分だと思いました。時間そのものを描く「ポーの一族」の作者のような天才性が脚本家になかったと言ってしまえばそれまでですが。

両方ともいわゆる倒叙法で描かれていて、ロリータを奪われるんじゃないかというハンバートの不安が妄想ではないことやブラッド・ピット演じるルイが現代まで生き続けることが予め保証されているんですが、それが安心感につながるか、サスペンスの不足につながるかは見る人によるでしょう。

「ロリータ」には60年代のアメリカの様々な風俗――upper-middleの住居やダンスパーティや長距離ドライヴや病院が出てきて、日本の同時代と同じようななつかしさを感じました。「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」はアメリカ独立直前のニューオーリンズの上流階級の退廃的な生活がゴシック・ロマン的なお話によく合っているようでした。ポオが詩や小説で描いたのはこんな感じかなって思って見ていたら、セリフの中にちょこっとポオの名前が出てきたのでなんだかうれしくなりました。

 


 

 GW前に見た映画(2008-04-30)

 

最近見た映画についてちょっとだけ。

 

 

「眠狂四郎 殺法帖」市川雷蔵の有名なシリーズの第1作です。先入見的に抱くイメージよりは軽快で朗らかな狂四郎って感じです。脇役陣も古きよき大映の時代劇って感じだし。若き日の中村玉緒さんがとても上手で清楚で、でも色っぽいです。

 

 

忍者・捨丸役の高見国一の陰のある屈折した感じがちょうど大河ドラマ「新撰組!」で新見錦を演じた相島一之(上の画像)を連想させてよかったですね。

 

 

「ナビィの恋」特典映像で監督の中江裕司が「この作品はミュージカルだ」みたいなことを言っていましたが、確かに沖縄の歌とケルト音楽を聴くためと割り切った方がいいように思います。西田尚美演じる奈々子のぶっきらぼうな感じとか、おばあに置いていかれる恵達役の登川誠仁のかわいらしさとか、いいところはいろいろあるんですが、脚本がゆるすぎるのでナビィの平良とみも演じにくそうでした。仮面をつけたアブジャーマーを演じた山里勇吉の特異な声と節回しに魅せられました。でも、最後で仮面をはずしちゃうんで作品が素人くさくなっちゃうんですね。

 

 

「仁義なき戦い」これも有名なシリーズの第1作です。ずるくて弱くて粗暴な人間がいっぱい出てきます。それを描くのが主眼で、きちんと仁義を守ろうとする菅原文太は主役としてのエクスキュースなんでしょう。渡瀬恒彦のくせのある感じがよかったですね。冒頭に原爆投下が出てきますが、ドラマの中には全く被爆者が出てこないのと殺人罪で投獄されたのに講和条約の恩赦で仮釈放されるのが変に感心してしまいました。

 


 

 「バベル」を見ました(2008-05-30)

 

 

この映画は3つのお話のオムニバスと言っていいんだろうと思います。東京のヤスジロー(役所広司)とその娘で聾唖者のチエコ(菊池凛子)の話、モロッコをバスで旅行中のリチャード(ブラッド・ピット)とスーザン(ケイト・ブランシェット)夫婦と彼女を狙撃するヤギ使いの少年の話、リチャードの子どもたちを子守するメキシコ人のアメリア(アドリアナ・バラッザ)の話の3つです。

リチャードとアメリアの話のつながりは始めから明らかなんですが、東京の話がどうつながるのかは最後にならないとわかりません。ということはそれぞれの話のストーリーもさることながら「この3つがどうつながるのか?」はこの映画の評価を大きく左右するわけですが、ヤスジローがモロッコで猟のお礼にプレゼントした銃が狙撃に使われたという種明かしには思わず「それだけかいっ!」と突っ込みたくなりました。

ヤスジローの妻が銃で自殺したことが語られていますし、チエコもヤギ使いの少年も性的衝動に憑かれていますからテーマ的には東京とモロッコはつながるものがありますが、子守の話には銃も性もなく、アメリカとメキシコの格差や外国人労働者問題がテーマらしきものです。

リチャードの話と残り2つとの間にはテーマ的にもつながるものをいろいろ見つけることができますが、東京の話とアメリアの話のつながりが見えず、せいぜいが「大人の都合に振り回される子どもたち」といったものです。実際にエンディングに「子どもたちに捧ぐ」といった字幕が出てきて、思わず「やっぱりそれがホンネですか」とつぶやいてしまいました。……もちろんテーマなんかなくても、わからなくても映画を楽しむことはできますが、それなら「バベル」なんて思わせぶりなタイトルをつけない方がいいし、ましてや紹介するだけでも面倒なオムニバス映画なんかやめた方がいいでしょう。

すべてのエピソードがジグソーパズルのように緻密に関連付けられたものにするか、コラージュのように全く無関係なものから偶然生じるものを狙うかが私は好きで、中途半端なのは趣味じゃないですね。

 


 

 

 「小説家を見つけたら」を見ました(2008-06-02)

 

 

この映画はセリフの中にもちらっと出てくるサリンジャーをモデルにしたものだと思うんですが、そうでなければ主人公のフォレスター(ショーン・コネリー)が処女作だけで文学部の講堂に肖像画が掲げられるような偉大な作家になっているという設定に無理があると言われるでしょう。つまりおとぎ話のようなもので、「マイ・フェア・レディ」のイライザをロンドンの下町からブロンクスの黒人少年ジャマール(ロブ・ブラウン)に移し変えたといえばわかりやすいように思えます。

ただジャマール自身も天才少年ということになっていて、奨学金をもらって大学に入り、そこのイヤミな教授(マーリー・エイブラハム、サリエリを演じた人ですね)が口走る一節をまるでイントロ・クイズのように次から次へと作家名を当てていくというこれまたイヤミなことをやります。

イライザはなんの取り柄もないことになっていますが、映画の観客にはヘプバーンの美しさは明らかですから、男であるヒギンズ教授によって引き立てられる「理由」は客観的に保証されています。ところが、文才を映画で表現するのはむずかしいですから、文学クイズのようなことになってしまいますし、同性愛っぽいとまでは言いませんが、女っ気の乏しい映画になってしまいます。アンナ・パキン演じるジャマールの彼女は味わい深い(ということになっているはずの)エピローグには登場しません。

登場人物はサリエリ教授以外はジャマールにやさしい人ばかりで平板です。やっぱりおとぎ話はミュージカルの方がいいんで、こうした重厚な感じの造りは向いてないように思いました。

 


 

 「スティーブン・キング/シャイニング・特別版」を見ました(2008-06-03)

 

 

 「シャイニング」はキューブリックの作品が有名ですが、それに不満を持っていた原作者のスティーブン・キングがプロデュースしてテレビドラマで作ったものです。どっちがいいとか悪いとかいう以前に2つの作品は原作と映画化の関係を鮮やかに表わしていると思いました。

 私は原作自体は読んでないんですが、キングの小説はいくつか読んだことがあって、このドラマを見ていると彼のもって回ったような文章が思い浮ぶような感じがしました。そういう意味では原作の雰囲気を伝えているのはこちらということになるんでしょう。しかし、それだけに90分×DVD3面と思いっきり長くて、「もうさっさと暴れちゃってよ」と言いたくなります。小説の運びと映画の運びは違うし、テレビドラマはこれまた違うんでしょう。

 キングがキューブリックの作品が気に食わなかった最大の理由は「家族間の愛憎」というテーマを切り捨てたことじゃないかなって思います。キューブリックの映画には観念や妄想に憑りつかれた人間はいっぱい出て来ますが、情愛深い人間はちょっと思いつきません。彼はイメージを映像化することに執着した人で、人間の感情を描くことには熱心ではなかったと思います。それが彼が作る画面の異常な緊張感を生んでいる原因の一つでしょう。それとは対照的にこのドラマでは夫婦、親子の愛情がたっぷりと描かれています。と同時にアルコール依存症の父親をめぐる家族内のいざこざも執拗に見せられ、断酒会の教材にぴったりじゃないかって感じです。……つまり「ただのホラー」では原作者は満足しなかったんですね。

 こう言うとキューブリックの映画が「ただのホラー」みたいですけど、まあそうかなって思います。「2001年宇宙の旅」や「時計じかけのオレンジ」を始めとして、彼の映画は深遠な意味が含まれているようにも言われますが、それを言葉にしようとするとうまくつかめないで、曖昧になったり、取りこぼしたりする部分があるでしょう。私はそんなものにかまけるよりは映画として「ひたすらおもしろいもの」を作った人だと考えた方がいいんじゃないかと思っています。その材料として使えると思ったからキングの小説を好きなように使ったんでしょう。彼はオリジナルのストーリーを作るのは苦手だったみたいですが、原作を自分の表現したいものに自由に改変する能力は抜群だったんだろうと思います。原作と無関係に映画を評価すべきであるというのが私の考えですが、その好例が2つの「シャイニング」だと言うと……どっちがいいのか言ったことになっちゃってますかw。

 


 

 

 「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」を見ました(2008-06-04)

 

 

この作品は母を想う子と子を想う母の心温まる感動作です。やんちゃな少年時代、東京での自堕落な生活、ようやく社会に認められるようになっていく息子……それをいつも見守ってなけなしのおカネを工面してくれた母親。誰でも少しずつ覚えのあるような気恥ずかしいような、切ないような場面の数々です。樹木希林とその若い頃を演じる内田也哉子がとてもいい演技をしています。特に福岡の炭鉱町から東京に向かう樹木はまるで死出の旅のような思いつめた表情です。「上京」というものを演じてこれに勝るものはちょっとないでしょうし、最後の東京タワーでの寂寥感と解放感が漂う場面とよく照応しています。

と書いてくると私がこの作品を評価しているように思われそうですが、実はそれほどではありません。まずオダギリジョー演じる息子が出世して、やたら儲かっているみたいなのが気に食わないです。世の中のほとんどの息子はもっと冴えなくて、親に心配かけるのを仕事のように思っているものです。それにあんな親孝行な息子はありえません。通常は母親が死んでから「墓石に布団は掛けられない」とか言って泣き崩れる無反省な生き物です。つまりあの息子はリアリティがありません。さらに、家庭を顧みない父親に愚痴やイヤミの一つも言わない母親も変です。ついでに言うとその田舎から出て来た婆さんの料理に餌付けされたのか、やたらなつく息子の彼女や友だちも奇妙です。……こんな無茶苦茶を言うと「原作の本にはそう書いてあって、それはぜーんぶ事実なの!」といった批判があるかもしれません。

でも、そんなの関係ありませんね。事実だろうが、現実だろうが、映画としてのリアリティがないものはないからです。私がこの映画を見てて感じていたのは偽装めいた居心地の悪さです。何かウソをついている、何か本当のことを言っていない、そんな気色悪さを「心温まる場面」、「やさしい気遣いのあふれる場面」で感じました。それは演技のせいではなく、脚本か演出が通俗的な感覚に阿ってキレイ事を並べたせいでしょう。そういう意味で小林薫が演じた甲斐性なしの父親がいちばん安心して見ていられました。病院の個室の料金を息子に訊いて、トホホな表情をするところが私にはいちばん「心温まる場面」です。あるいはすべてに背を向けたような佐々木すみ江演じる祖母にリアリティを感じます。

「しかし、この映画は母子愛のおとぎ話として成立している」という批判があるかもしれません。それはそのとおりで、これは「昔々ある炭鉱町に……」という昔話か寓話だと思えました。「フラ・ガール」や「ALWAYS 三丁目の夕日」やその他諸々の映画やドラマなどと共通した「昔は貧しかったけど、みんな元気で頑張ってたよなあ。だからさ……」といった回顧的な話です。そういうのは私も好きなんですが、でもそんな後ろ向きの話ばかりでいいの?こんなちっちゃい映画ばかりでいいの?と思います。この国もいよいよ年老いて来たなという気がします。

 


 

 「長江哀歌(エレジー)」を見ました(2008-06-11)

 

 

これは不思議な感触の映画です。冒頭のダムに沈んだ住所に連れて行かれるところまでの人を食ったような話の運びは、昨今の日本やアメリカの映画に飽きが来ている私にはとても新鮮でした。その後もなんの脈絡もなくUFOが長江の上を飛んだり、オブジェが廃墟になったような建築物がロケットのように飛んで行ったり、脂ぎった男たちが山盛りの麺を食べながら狭い船室に次々と現れたり、京劇の扮装をした数人が携帯ゲームをやっていたり。……時折小道具に合わせて現れる烟(タバコ)、酒、茶、糖(アメ)の4つの文字も不思議な感じです。舞台になっている三峡が李白を始めとする詩人・文人に愛されたことと関係があるのかないのか。

しかし、いちばん不思議なのは完成すれば600キロの長さの貯水湖を出現させ、300万人以上の住民の退去を強いる三峡ダムの建設工事でしょう。その壮大さ、荒っぽさはまさに中国らしいもので、この国家プロジェクト自体が奇想天外、摩訶不思議なものです。まだ人が住んでいる建物の壁に「三期(最終)工事後はここまで水位が上がる」と赤いペンキで書いていったり、ビルの取り壊しを人手でやっていたり、電話1本で巨大な吊橋のライトを点けさせる実業家が出てきたり。

この映画には2人の主人公がいて、動機は違うけれどどちらも家族を探しに水没する奉節という街に来て、互いに知り合うこともなく去ります。即物的で情緒を排した描写(エレジーという邦題は適切と思えません。原題の「三峡好人」も手抜きっぽいけど)ですが、2人とも心をこの街に残していることはよく伝わってきます。ただドラマとしての組み立てに監督が腐心したとは思えないので、消えゆく奉節を主人公とした物語として見た方がいいように思います。

蛇足ながら四川大地震の映像を見たときこの映画を思い出しました。ビルの残骸や街の混乱ぶりがとても似ていました。

 


 

 

 「アパートの鍵貸します 」を見ました(2008-06-12)

 

 

この映画は1960年の公開ですから、もう50年近く前のものです。古きよきアメリカをビリー・ワイルダー監督が描いた古きよき映画です。そんな時代のアメリカのことなんて知っているはずもないのにどの場面を見ても無性になつかしく感じます。保険会社で出世を夢見るバクスター(ジャック・レモン)が最初にいる大部屋ではたくさんのサラリーマンが計算機を操作しています。彼らはいつ頃コンピュータに取って代わられたのかなという思いがよぎります。

話自体はバクスターの憧れていたエレヴェータ・ガール(これも今では日本のデパートでしか見れないでしょう)のフランがおえらいさんと不倫をして、よりにもよって自分の部屋で自殺未遂を図って……というものですから決して明るい話でもないと思うんですが、明るいさわやかなコメディに仕上がっています。この映画のストーリーで今の監督が描くとどうなるでしょうか。

 

 

フラン役のシャーリー・マクレーンはとても魅力的です。それもあって見てる方は彼女がなかなかバクスターのせつない気持ちに応えてくれないのにやきもきします。湿っぽくならず、誤解されても言い訳もしないバクスターよりもずっと。……私はこの映画のポイントはここにあると思います。登場人物に感情移入してしまうのはいい映画なら当然ですが、登場人物以上に想いをめぐらせてしまう、俳優が演技していないところまで引っ張られていくというのは名監督ならばこそでしょう。観客は知恵比べや頭の体操をしたいんじゃなく、手玉に取られたいのです。

 

 

 


 

 「飢餓海峡」を見ました(2008-06-13)

 

 

この映画にはありし日の伴淳三郎や若かりし日の三国連太郎、高倉健が出ていますが、中でも純情一途な娼婦役を演じて映画の中間部分の主役的な左幸子が印象的でした。私の彼女についてのイメージとはかなり違った感じの妖艶な演技もあったりします。ただ大金をくれた男の爪を大事に保管し、取り出していとおしむ場面があるんですが、演技がいいだけに女性のフェティシズムってあるのかなって思いました。

ラストでは三国連太郎演じる被疑者の犬飼太吉が青函連絡船から飛び込み自殺をするんですが、その狙いは10年前の津軽海峡の事故が殺人事件だったのかどうかを謎として残し、彼が大量殺人者なのか、運命に翻弄された犠牲者なのかを観客に考えさせるといったところなんでしょう。でも、その仕掛けはラストにリアリティがなさすぎて空振りだと思います。被疑者に手錠も捕縄もなしにデッキに立たせる警察もないだろうと思いますし、それ以前に自供をうながすためにはるばる舞鶴から連れて行く必然性も感じられないからです。

10年前の事件の真相を明らかにしないと直近の舞鶴の事件(こっちで娼婦と書生を殺していることは観客には明白)について何も供述しないと被疑者が言うのを唯々諾々と受け入れる警察はたとえ戦争直後だろうが、明治時代だろうがありえません。直接に責任のある事件の解決を図ろうと物証や証言が得やすいところから攻め立て、その上で余罪を追及するのが常識でしょう。

別に捜査方法の議論をしているのではなく、ちょっと高倉健らが演じる警官の立場に立って考えればわかることです。私のようにぼんやり見てる人間でも変だなとひっかかるところがあるようでは感情移入を誘うことはできないでしょう。いくら名演技やいいカットがあっても白々しく見えるだけで、「果たして主人公はこの海峡で殺人を犯したのであろうか?」なんて訊かれたとしても「どっちが真相かそっちでは考えてないんでしょ?」としか答えようがありません。絵に描いた餅の中身は粒あんかこしあんかと訊かれても「それって心理テストですか?」と返したくなるような。

やたら長い映画で内容的にもタッチ的にも何本かの映画を繋いだような感じです。それ自体は悪くないんですが、それだけに最後のプロットはしっかりしておいてほしかったですね。

 


 

 「鉄男」を見ました(2008-06-18)

 

 

この映画を見ていて、とてもなつかしい気持ちになりました。昔ながらの小汚いアパートの一室や古い町工場が舞台になっているせいもありますが、登場人物と機械やチューブがしっくりとなじんでる感じがするからです。89年の白黒映画ですが、たぶん当時としてもレトロっぽい感じがしたと思います。それにしてもその後、ITだのヴァーチャルだの重さのない、さわれもしないものに脳みそを侵食された我々にはこの作品のような豊かなイマジネーションはもう失われてしまっているような気がします。

塚本晋也監督の名前は鬼才みたいな感じで聞いたことはあったんですが、作品を見たのは初めてでした。見てみて「こりゃあ、おもしろいや。えへえへ」と思ったんですが、意味とかストーリーとかは全くわかりません。だいいちなぜ「男」が「眼鏡の女」に襲われるのか、なぜ「やつ」と対決するのかなどなど全然理解してませんでしたから。それって無調の音楽だとテーマとか聴き取ろうとするのをやめて、ひたすら聴くだけになっちゃうのと似てるのかもしれません。大抵はその手の映画も音楽もつまんなくて眠っちゃうんですが、たまーに歯車が噛み合ったように引き寄せられます。まるで自分が考えたみたいに映像や音楽が展開してくれるのは稀な快感です。ゲンダイ的なものやゲイジュツ的なものに時々接したくなるのはそのせいでしょう。

石橋蓮司が出てくる辺りからイメージが少しもたれ始めますが、映像技術的には加速していくようです。CGのない時代でしょうから、すごく手間が掛かっていると思いました。CGでは無残なことになったでしょうけど。

 


 

 「レザボア・ドッグス」を見ました(2008-06-18)

 

 

この映画の監督のクエンティン・タランティーノが「鉄男」のファンだというので見たんですが、「そりゃ逆さまだろ!」と言われそうですね。でも、私にはそういうことがよくあります。ただ作品の印象は全然違っていて、ぶっきらぼうな感じです。

最初にキャスト全員を出してやたら四文字熟語(違うけど、あれですw)が出てくる会話が延々続いたり、いきなり銃撃されて死にそうなやつを運転しながら励ます場面になったり、肝心の宝石強盗の場面は出さなかったり、最後に無理やりほとんど全員殺しちゃったりと、「どういうつもりだ?」と突っ込みたくなるようなところが満載で、それが監督のねらいでもあるんでしょう。

「レザボア・ドッグス」って「掃き溜めの犬たち」って意味だそうですが、警官も含めて登場人物全員を指しているだけじゃなく、監督自らもそうだと思っているんでしょう。つまり「なんてレザボア[四文字熟語]ドッグスなんだ!」と吐き捨ててほしいのかなと。

そういう意味でとても「クール」に仕上がっていると思いますが、引っ掛かるのが「人を信頼することが破滅につながる」というテーマらしきものです。これも私には映画にテーマや教訓を求める常識人をあざ笑うものだと思えますが、それだけに疑問や不安を全く持たないMr.ホワイトはさすがにはちょっとリアリティを欠いているような気がしました。

 


 

 

 「麦の穂をゆらす風」を見ました(2008-06-21)

 

 

この映画は「社会派ケン・ローチ監督が、激動の歴史に翻弄される2人の兄弟を軸に、独立戦争から内戦へといたる1920年代のアイルランド近代史を描いた悲劇の物語」です。とレンタルしてるところのHPをコピペしちゃってますが、まあ、だいたいこういうまとめ方でいいような感じの映画です。

支配者であるイギリス人はひたすら乱暴で残酷。待ち伏せした私服のアイルランド人たちに軍服を着たイギリス兵がバタバタ射殺されて、すかっとしちゃいます。でも、戦争映画として見たらそんなに迫力はなくてこんなんで独立できたのかなって感じでした。

内戦になってからも狭いところでやってる感じで、兄が弟を銃殺刑にしちゃうのもなんだか人間的です。内戦や革命ってもっとぞっとするような裏切りや密告といった人間の弱さ、卑しさに満ちたものだろうって思ってるんで。。

最初に自分の名前を自国語で「ミホール・オスラウォン」とイギリス兵の前で名乗ったために「あの子の名前は(英語名の)マイケル・オサリヴァンです!」と叫ぶ母親たちの前で虐殺される少年が出てきます。それを見てて、昔ヨーロッパに行った時に隣になったイギリス人との会話を思い出しました。彼とはワインの話や航空会社のサーヴィスの話をしてたんですが、彼が「日本のKoreaへの態度はよくない」といった歴史問題みたいな話を持ち出しました。いい加減お酒を飲んでたし、飛行機の中だからけっこう酔っ払っていたんで、そんな面倒な話を英語でやりたくないからむにゃむにゃごまかしてたんですが、止める素振りもなく批判してくるんで、むっとして「日本とKoreaの関係はイギリスとアイルランドの関係と同じだ」と英作文の例文みたいな言い方をしました。もちろん言外に植民地帝国だったイギリスに言われたくないという口吻を匂わせて。よくしゃべる彼が一瞬ひるんで「アイルランドとの関係は複雑で……」と言うので、「同じだね」と。……もちろんそこで会話は途切れてしまいました。ちょっと仲良くなったくらいで外国人と歴史の話なんてするもんじゃありません。

 で、そんなことを思い出して、日本の歴史と重ね合わせて映画を見てしまいました。イギリス軍の拷問で主人公の兄が爪を剥がされる時もKoreaの独立運動家のことを想起しちゃったりして、とても居心地の悪い思いをしました。

 この映画で印象的だったのはアイルランドって寒くて天気が悪くて、草原と岩だらけのいかにもやせた土地みたいで、風がびゅーびゅー吹いてるところだなってことでした。

 


 

 「アメリ」を見ました(2008-06-22)

 

 

この映画を見て、きっと「自分のために作られた映画だ!」と思った女性が多いでしょう。クレーム・ブリュレのお焦げをスプーンでつぶしたり、平たい石を見つけてポケットに入れて水切りをしたりするのが好きで、アメリカ映画でわき見運転をするのが嫌いだったりする、そういうのって自分だけの些細なことかなと思って誰にも言わなかった「秘密」なのに。

私がもし映画監督だったらこの作品を見たらものすごく嫉妬すると思います。いい作品だっていうだけじゃなく、楽しんで作っているというのがひしひしと伝わってくるから。セックスに始まり(アメリの誕生)、セックスに終わる(アメリのオーガズム)ストーリーもチャーミングな数々のエピソードも特徴的な色使いもよく考えられているんですが、それ以上に水切りの石のような発想の飛躍、飛翔するようなカメラワークがアドリブ感を与えます。

お話としては他人とコミュニケーションを取ることができない女の子がルノワールの模作をしている人間嫌いのおじいさん(だけじゃないかな)に励まされて、恋人を捕まえるというものですから、現実だとアメリは明るくも魅力的でもないのかもしれません。いや、そうだからこそ多くの女性の共感と支持を得たんでしょう。

学校にも行かせてくれないで、自分のことを理解してくれない父親の話に相槌を打っているアメリはとても大人びていて、現実的です。その反動なのかドワーフの人形を夜中に盗っちゃうんですが。でも、どうやって人形に世界旅行をさせたんでしょうか?(こう書いたらスチュワーデスに預けたのよって教えてくれた人がいました。でも、そういうことじゃないんですけど) なぜテレビにアメリが出て来たりするんでしょうか?……もしかするとこの映画の中の出来事のほとんどはアメリの「妄想」かもしれません。でも、それでいいんでしょう。

「秘密」も「妄想」も子どもにとってかけがえのない「現実」であるように少なからぬ女性にとって切実なものなんでしょう。それらを紡いで「夢」を見せるのが映画の大切な役割なんだろうと思います。。

 


 

 「活きる」を見ました(2008-06-24)

 

 

この映画は1940年代から国共内戦を経て、文化大革命後までのある夫婦の物語といった趣きの作品です。歴史を庶民の視点から描くものも、ホームドラマの背景に歴史を絡めるものも両方ありますが、これは一応前者に属するものと言っていいでしょう。かつて日本でもおびただしい数のそうした歴史ドラマが作られました。かつてのNHKの朝の連続ドラマは空襲などの戦時下の生活と戦後の復興を軸にストーリーができていたような気がしますが、最近では太平洋戦争自体が遠い昔になりすぎたのか少なくなりました。

中国人のチャン・イーモウ監督が94年にこの映画を撮ったのも、中国が「自らの過去を振り返る」歴史段階に来たということなのかもしれません。特に文化大革命の自己批判や紅衛兵運動の怖さや花束の代わりのように毛沢東語録が何十冊と送られる愚劣さを簡潔に表現する技術はなかなかのものです。ただ日中戦争についてはなぜか描かれていません。

3時間にわたる特別版ですが、影絵人形芝居の道具をうまく使って家族の変化を表わしています。麺や餃子やマントウといった料理がやたら出て来るんですが、そこもホームドラマの味わいを深めています。ただ家の跡継ぎ(そうしたものは社会的には否定されているはずですが)はいるものの主人公の子どもが2人とも死んでしまってもハッピーエンドっぽいのは我々の感覚と違っているような気がしました。

あるいは我々とよく似た顔つきなのにこの作品の登場人物が日本のドラマのようにはホンネを洗いざらい語ったりしないのに戸惑っているのかもしれません。常に党や革命を賛美する演説をぶつ町長を私は体制迎合派だなと軽侮してたんですが、最後に淡々と「自己批判」に向かう姿に深い内面を感じました。

 


 

 「アニー・ホール」を見たけどね(2008-06-25)

 

 

この映画ってアカデミー賞を4つも取ってるけど、セックス・コンプレックスと自意識過剰と他人のあら探しとその他もろもろを素早く無表情につぶやくユダヤ人ってそんなにインテリに見えるのかな? それとも公開された74年って映画の将来に絶望して精神科医をハシゴしてた映画関係者が多かったのかな?

30年経って日本にもこの作品の登場人物とよく似た人たちが多くなった(マリファナやコカインは一般的じゃないけど)けど、ウディ・アレンみたいなタイプ(もちろん見かけ。名声や才能はタイプと言わない)が次から次へと女性にモテるようになったという話は聞かないね。どうせ観客に向かっていろいろ内面的なことを説明するなら、ダイアン・キートン演じる内面性たっぷりな女性にも、他の空っぽの女性にもなぜモテるのか、コツを教えてほしいね(名声や才能やカネはコツと言わないよ。念のため)。ついでだけど、運転が乱暴で、歌がセクシーで、テニスが終わった後にナンパされるのを待ってる女性についても教えてほしい(これは個人的にね)。

マクルーハンが出てきて知ったかぶりをやっつけてくれたのはおもしろかった。カポーティはわからなかった。ポール・サイモンはイタかった。背が低くて、冴えなくて、中途半端にイヤミで、根っからのニューヨーカーがなぜロサンジェルスのレコード会社社長なんだ?

……ウディ・アレンにかぶれたらちょっとこんな感じの文体になるかなって思って、書いてみました。もちろん下手くそです。モノマネが上手だなんて自意識が不足してる証拠にしかならないですからw。

 


 

 「セレンディピティ」を見ました(2008-07-01)

 

 

恋愛映画を見ててもあまりそう思うことはないんですが、この映画は「二人で見るべき作品だなぁ」と思いました。素敵な相手と見れば出会いや運命や結婚についておしゃれな会話ができそうですし、それほどでもない相手でも魔法が掛かってしまって「幸福な勘違い」ができるかもしれません。でも、一人で見たって全然とは言いませんが、あまり楽しいものではありません。クリスマス・シーズンに見なかっただけよかったのかもしれませんが、本や紙幣に名前や電話番号書いたら危ないだろとか、婚約相手から訴えられるんじゃないのかとかいろいろ突っ込みたくなってしまいました。

この映画ではありえないような偶然と当然そうするはずの必然とをうまく組み合わせているところがいいなと思いました。あるいは偶然だけじゃ出会えないし、いくら努力してもチャンスを逃してしまうこともあるといった教訓がこめられていると言ってもいいのかもしれません。恋愛映画において教訓はスパイスとして重要です。

偶然で感心したのが本を婚約者から贈られるところで、古典的な運命の描き方を踏まえたものだと思いました。必然では主人公たちが忘れ物をしたところに戻ることによって再会するというのに納得しました。冒頭でも使われたモチーフを意図的になぞっているので、時間の推移が見えるような感じになっています。

努力は親友とのドタバタということになるんでしょうか。男友だちの方にお話がより割かれているのはその方がしっくり来るからでしょう。ユージン・レビイ扮する店員の怪演が期せずして男の友情への皮肉になっているような感じです。

「セレンディピティ」には一時期はまっていろいろ書きましたが、この映画とはなんとなく縁がなく見てませんでした。それが今になって見たのは何か意味があるのかもしれません。もちろん勘違いなのかもしれません。そういう気分自体がこの言葉の指し示していることのような気がします。

 


 

 「あなただけ今晩は」を見ました(2008-07-02)

 

 

ビリー・ワイルダー監督、ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンの主演という「アパートの鍵貸します」と全く同じ組合せなんで、レンタルして見ました。とてもよく出来た作品と思いますが、どこか割り切れない感じが残りました。それはたぶんに主観的な私の趣味に属するもののような気もしますし、映画としての作り方に関係しているような気もします。はっきりしないので手探りで書いていきますが、まずは後者から。

冒頭の娼婦のイルマ(シャーリー・マクレーン)が客を相手にウソの身の上話をしながらチップを稼ぐ場面(タイトルとカットバックしながら見せるのがいいテンポです)に現れているようにこの映画にはウソがいっぱい出て来ます。お話の軸自体もヒモになった元警官のネスター(ジャック・レモン)がX卿なるあやしげなイギリス紳士に変装してイルマの上客になるというもので、しかもそのX卿をネスターが殺害した容疑で逮捕されるわけですから、ウソがウソが呼んでホントになってしまったという趣向です。

この作品の狂言回しをしているのがバー"Moustache"のマスター(ルー・ジャコビ)で、大学教授だの弁護士だの医者だのいろんな経歴をその場その場で、口から出まかせのように語り、「それは余談だがね」"That's another story."と言います。私はこのすべてを見渡しているような人物がこの映画を理解する上での鍵だろうと思います。

マスターは変装した自分を殺した容疑をかけられたネスターに「娼婦を働かせるヒモになっているのがイヤで、客を装いながら深夜アルバイトをしていた、それが真実だが、誰もそんなことは信用しない」と言い、愛情と嫉妬からX卿を殺したと自供し、同情を買った方がいいと言います。つまり真実ではなく、ウソの方がいいということです。この手のシニシズムは映画にはよく出てくるんですが、この作品ではそれを体現するようなX卿がセーヌ川から蘇ったり、イルマの子の父親になったり、最後のイルマの出産の場面に出て来たりして、ちょっと暴走気味です。

それもこれも"That's another story."とまとめられてしまうんでしょうけど、結局それは「映画だから」ということですし、それにやや頼りすぎてしまったような感じがします。さっきマスターが経歴を口から出まかせのように語ると言いましたが、それはウソじゃないのかもしれません。わざとどっちつかずのところに観客を放り出してケムにまいているような感じです。

しゃれたラブコメディなのに野暮な詮索をしていると思われるかもしれません。しかし、そうであればこそキレイに騙してほしいような気がします。この作品は大掛かりなセットをわざわざ作って撮られていると思いますが、セーヌ川畔の場面だけはロケでしょう。そこで架空の人物のX卿が殺され、蘇る(という勘違いを生む)というのはなんだか生々しいように思えます。

そろそろ主観的なことを書いてもいいと思いますが、奇妙に実体化したX卿がイルマを妊娠させてしまう、いやそれ以上にイルマが愛情を抱いているのが気に入らないのかもしれません。それはやはりネスターとは別の人物になってしまっているから。

こういうとシャーリー・マクレーンに引き続き参っているように思われそうですが、そこもちょっと微妙です。かわいい娼婦という役柄に合いすぎているんじゃないかとか。イルマが緑色が大好きで、服から下着からそればかりなのもどうなのかなとか。……そういうのはキリもないのでやめておきますが。

 

 

 


 

 「自虐の詩」を見ました(2008-07-06)

 

 

この作品の見どころは、イサオ(阿部寛)がちゃぶ台をひっくり返したり、折角幸江(中谷美紀)が働いて稼いだおカネを奪ってパチンコですってしまうというヒモぶりとそれをあきらめているような幸江の反応でしょう。

そんなどうしようもない男とは別れた方がいいと思うのがふつうですが、幸江は別れません。たぶん絶対に。バイト先の店主(遠藤憲一)や隣室のおばちゃん(カルーセル麻紀)は幸江の身の上に同情したり、イサオの振る舞いに怒ったりしていますが、別れられないと思っているはずですし、その理由もなんとなくわかっているでしょう。この「なんとなく」というところが大事で、変に理屈をつけない方がいいんだろうと思います。

ところが、この作品ではそれをやってしまったようです。後半に幸江が流産しそうになるところから回想シーンになって、かつて幸江が街娼をしていて、それなのにヤクザだったイサオが一途な愛を向け、体を張って危ういところを助け、指を詰めてまでしてカタギになって幸江と一緒になったことが語られます。これが幸江が離れられない理由でもあり、表面的には幸江を虐げているイサオが実は深く愛しているという説明になっています。でも、その頃の幸江は気が強くて、美しく、イサオはひたすらやさしくて、現在の二人につながるものはおよそありません。非常識でおもしろい現在を常識的な過去で説明しようとして失敗していると言わざるをえないでしょう。

そうした通俗性はお腹の子が助かって、家族で海辺にたたずむラストにも感じられます。典型的なハッピー・エンドで「幸や不幸はもういい。どちらにも等しく価値がある。人生には、あきらかに意味がある」という幸江のナレーションをかぶせても私の心には響きません。不幸のどん底にある人が言ってこそこの言葉に「意味がある」でしょう。

それよりもよかったのは中学時代の幸江(岡珠希)と友人の熊本さん(丸岡知恵)です。貧乏くさくて、要領が悪くて、そのくせずるいところもあって、不幸のカタマリのような幸江は自然と現在の幸江につながります。同じく貧乏で、髪の毛がごわごわしてて変てこで、でもタフな熊本さんは「ああはなりたくない」と「ああいうふうに生きてみたい」という相反する感情を抱いてしまう対象でしょう。人は誰でもそういうふとしたときに思い出す友人を持っているという感慨をもたらしてくれました。

 


 

 「デイズ・オブ・グローリー」を見ました(2008-07-09)

 

 

この映画は第2次大戦において、フランスの植民地だったアルジェリアやモロッコなどの「現地人INDIGENES」が祖国の解放のために戦いに参加させられながら、人種や宗教の違いから種々の差別を受けたという話です。「INDIGENES」がオリジナルのタイトルですが、「そういう言い方をしちゃいかん」というセリフがフランス人上官同士で交わされるので差別的ニュアンスがあるんでしょう。とは言え、「ムスリムという言い方もいかん」とも言われてましたが。

戦争と差別というテーマはとても興味深いものですし、戦闘や昇進だけでなく、食べ物や恋人との文通に至るまで行われた差別の描き方は説得力のあるものでした。でも、おびただしい墓標という戦争映画の常套手段的な最後の映像にオーヴァーラップして、今も恩給面で旧植民地の兵士には差別があるというテロップを見て、ちょっとプロパガンダが過ぎるような気がしてきました。その辺のひねくれた見方をちょっと敷衍してみます。

通常の理解ではアフリカ、イタリア、フランスの連合軍による解放というか侵攻は主にイギリス軍とアメリカ軍が中心だと思うんですが、この映画には全く出てきません。この作品だけ見ると三色旗とラ・マルセイエーズの下に集まった兵士がナチス・ドイツをやっつけたように思えるでしょう。つまり祖国解放戦争という神話を構築し、そこに植民地の人びとも回収しようとしてるような気がします。それはそのまま現在の多民族・多宗教国家としてフランスは生きていくべきだというプロパガンダのようにも思えます。この意味で「デイズ・オブ・グローリー」という能天気な英語タイトルはあながち間違っていないかもしれません。

「アメリ」に八百屋の店長からいじめられる店員役で出ていたジャメル・ドゥブーズがアルジェリア人役で出ていますが、彼は右腕を子どもの頃に失っているそうです。通常の映画であればどうということもないんですが、戦争映画の兵士役で何の説明もなく、誰もそのことに触れず、ずっと右腕をポケットに入れたままでピストルで戦うのはどうかと思いました。軍隊の実際を少しでも知っている人ならありえないと思うでしょう。初戦で彼が塹壕に手榴弾を放り込んで手柄を立てるのもわざとらしい感じです。見えているはずのものを見えないふりをするのって差別と無関係ですかと皮肉を言いたくなりました。

さて、悪口はこれぐらいにしていちばん印象深かった点を挙げます。この映画では北アフリカ、イタリア、プロヴァンス、アルザスとロケ地が移動するたびにモノクロの画面に色がついていきます。最初は砂漠の中の乾いた町だったのがヨーロッパになり、北進して緑が濃く湿気も多い感じになっていきます。それがいい感じだなって思って見ていたら、アルザスの町に入ったジャメル・ドゥブーズが「こんな寒いところにはとても住めない」と言います。このセリフには故郷を遠く離れて戦争をしてきた兵士の感慨がこもっていて、「INDIGENES」というタイトルの意味を考えさせるものがあるなと思いました。

 


 

 「SAW」を見ました(2008-07-18)

 

 

最初からゲームっぽい映画だなと思いました。残虐な場面、意外な犯人、トリッキーな展開などなど、カルトっぽいエンタメといえばいいのか、人気を得られる要素がてんこ盛りです。気持ち悪さと生理的な嫌悪感をたっぷり味合うことができて、シリーズ化されたのもむべなるかなって感じです。

ゲームっぽさは、密室になった汚いバスルームに足を鎖でつながれた男が二人、手が届かない真ん中に死体、刻々と迫るタイムリミットというシチュエーションだけではありません。登場人物がみんなありきたりというか、平板というか、怒りや悲しみや恐怖や不安はあっても、ユーモアや自嘲がありません。極限的な状況にリアリティを持たせたいならこれらの要素は不可欠だと思うんですが。そう思って見ると二人の心理的な駆け引きも浅い感じです。

こういう映画を見てるとアキバの事件とか潮見の事件とかを連想する人も多いでしょうし、無関係だと言い切ることもできませんが、それは現在的な犯罪であり、現在的な映画だという以上の意味にはならないような気がします。どちらも原因ではなく、結果であり、現象だということです。表面的にわかりやすいところで批判し、規制しやすいから「見せるな」、「作らせるな」と規制しようとするのはそれこそゲーム的な単純さでしょう。

 


 

 「お熱いのがお好き」を見ました(2008-07-19)

 

 

ビル・ワイルダー監督でジャック・レモンが出演する作品の3つめです。この映画がいちばん有名で、マリリン・モンローの唄う「I wanna Be Loved by You」は誰しも聞いたことがあるでしょう。コメディ映画の傑作中の傑作とされていて、名場面、名セリフが次から次へと出て来ます。文句のつけようがないと言いたいところですが、「アパートの鍵貸します」に参ってしまっている私としてはそうでもありません。

まず、ジャック・レモンのしがない楽士ぶりや陽気な女装ぶりと比べると相方のトニー・カーチスは随所に冷たく、ごつごつした感じがにじみ出てしまいます。いちばん似合っているのが3役目のシェル石油(なぜそうなったかはワイルダー流のウィットですが)の眼鏡をかけた気取り屋の御曹司役です。

彼がよくないこともあって、モンローのせっかくのセクシー+かわいらしさがそれだけになってしまい、血の通った人間という感じが希薄です。別に変装が見破れないからとか、大金持ちに簡単になびくからとかだけじゃなく、男の妄想の中にしかいない都合のいい女としか思えないのです。もちろんそういう映画、特にコメディの多くはそうなのかもしれませんが、それをよしとしないだろう監督と主演だけにかえってモンローが気の毒です。

そういう意味では、女性ばかりの楽団に二人が紛れ込み、フロリダに向かう寝台車の中で、禁酒法の時代なのに酒盛りになって、若い女の子の体でギュウギュウ詰めの中、水枕を使ってカクテルを作ったり、つまみがあちこちから集まったりというのが、男の好きなもの満載って感じでした。

 


 

  「ゴッドファーザーPART供廚鮓ました(2008-07-26)

 

 

 パート1よりもパート2の方がいいと言われる数少ない作品の一つで、この映画の成功をきっかけに続編にパート2とつけるのが流行ったようです。でも、単に正編が売れたから柳の下のドジョウのように作られたものと違い、この作品ではパート1の前後の時間を描くことで、見る人に重層的な形でファミリーの歴史を浮かび上がらせることに成功しています。

 主人公のマイケルが上院委員会で査問を受けた場面で、マフィアの「ファミリー」とふつうの意味での「家族」のどちらの意味なのか混乱が生じますが、これはこのシリーズ全体のテーマを端的に表わしたものだと言っていいでしょう。シチリアでマフィアのボスに家族をことごとく殺された少年ヴィトがアメリカに渡り、犯罪に手を染めながら次第に地元の顔になり、自分の家族を創り上げていく過程とヴィトの死後、ファミリーのドンになった末の息子のマイケルが第1作のヴィトの姿をなぞりながら自分の家族と軋みを生じていく過程が交互に語られます。

 この映画の最大の長所はこのほとんど2つの映画といっていいような数十年を隔てた2世代の物語をうまく組み合わせたところでしょう。こういう場合にしばしば「緻密な計算の下、緊密に構成された」といった修辞が使われるような気がしますが、私はそうは思いません。別に個別に分析をしたわけではありませんし、仔細に見ればそういう点も多いのかもしれませんが(今はDVDでそういう見方をするのも容易で一種の流行りなのかもしれませんが)、2つの物語の関係がつかず離れずだからいいんだろうと思います。例えば交響曲の楽章の関係のようなもので、それぞれの楽章の調性や主題と展開やパッセージの処理がありながらも、なんとなく統一感があるといったようなことです。これをギチギチに構成しちゃうとあそびも広がりもなくて楽しめないものになってしまいます。

 何よりこの作品はパート1に登場したマーロン・ブランド演じる完成された理想のゴッドファーザーであるヴィトが観客のイメージにあって、それとパート2の人物とを頭の中で比較対照することでおもしろさが増すわけですから、なおさらこの作品の中でまとまりすぎない方がいいんだろうと思います。つまり第1楽章に続く2つの楽章といった趣きで、三角形の構造を持っていると言ってもいいのかもしれません。

 さて、この映画の欠点も挙げておきましょう。それはここまで述べた長所の反面で200分と長すぎることです。特にキューバ革命前後の場面はおもしろいことはおもしろいのですが、アメリカの恥ずべき過去を告発するといった政治的意図のために作品としてのバランスを失しているように思いました。また、日米開戦時にマイケルが従軍したことを告げて、やがて父を迎えにみんなが出て行き、彼が一人残される最後のシーンは印象的でもあり、暗示的でもあるんですが、視点もマイケルのものですし、画面のテイストも異質で、パート1に回帰するコーダを無理につけたような浮いた感じは否めないと思います。そんなこんなでエピソードに耽溺したがるテレビドラマをまとめて見せられたような気がしてしまいます。

 


 

 「パリの恋人」を見ました(2008-07-28)

 

 

 オードリー・ヘプバーンとフレッド・アステアによる唄って踊ってのミュージカルにグラビア的要素を付け加えたような感じの映画です。アステアはこの映画の撮影時には58歳なのに見事な踊りと優雅な仕草で老いは(顔の皺以外は)全く感じさせませんし、28歳のヘプバーンにいきなりキスしちゃいます。最後はテーマパークのお城の庭のようなところでラヴシーンを繰り広げるし。

 ヘプバーンもダンスはうまいんですが、バレエを習ってたことも練習を重ねたことも透けて見えてしまって、アステアのような「縫い目のない踊り」にはなりません。それよりはパリの名所を背景にいろんな服を着てポーズを決めるとインスピレーションに満ちたものになります。彼女のストップモーションのような美しさをうまく生かした作りです。

 この映画の原題は「Funny Face」というんですが、彼女扮する共感主義というカルトっぽい思想にかぶれた色気もない本屋の店員がカメラマン役のアステアに「ちょっとかわいいじゃないか」と見出されることに由来しているんだと思います。「ローマの休日」や「マイ・フェア・レディ」もそうですが、彼女は「ぼくにしか君の本当の良さはわからないよ」っていうタイプの役がとても似合います。堂々たるセックスシンボルじゃないということで、その辺のニュアンスがわかればなかなかうまいタイトルだなと思います。

 ケイ・トンプソン演じるファッション雑誌の編集長がいい味を出していながらストーリー展開にはあまり機能していないことなど、ドラマとしては安直としか言いようがない作品ですが、音楽にはガーシュウィン、衣装にはジヴァンシーが参加していて、憧れのパリに乗り込んだアメリカ人がファッション界を席巻するといった趣きはたっぷりです。

 


 

 「悪夢探偵」を見ました(2008-08-05)

 

 

塚本晋也監督の映画で最近のものを見ようと思ってレンタルしました。「鉄男」よりも10倍わかりやすいですが、おもしろさは半分もないように思いました。20年近い年月を隔てても汚いアパートや金属音、ぐらぐらするカメラワーク、一瞬だけインサートされる気味の悪い映像といった点は変わりません。悪夢探偵に松田龍平、刑事にhitomiという配役からしてエンタメよりに作られていますが、魅力を感じるところが同じなのは監督がそうしたものが好きだからでしょう。

後輩刑事がおとり捜査の犠牲になって死んでからクライマックスになって、監督自身が演じる連続事件の犯人「0」が現れるんですが、テンションはかえって下がっていきます。きっと物語を回収するのが苦手というか嫌いなタイプなんでしょう。

「0」が最後に悪夢探偵に対し、「さあ、これからこの忌々しい社会をめちゃくちゃにしてやろうじゃないか!」といったセリフを言いますが、これは「鉄男」の末尾で同じく監督が演じた「やつ」が「男」に言ったセリフと同じです。しかし、その反応は正反対で、悪夢探偵は「あんたはホントに能天気だな」というものです。つまり自身の代表作のパロディになっています。しかし、そのアイロニーは時代の変化を嘆いているだけのように響きます。

こういうふうにいうと失敗作だと思っているように聞こえるかもしれませんが、そう言い切れないところがあります。映画としての出来を超えて、描こうとしていることにただならない気配が感じられるからです。他人の夢に入り込み、隠れた死の衝動を利用して八つ裂きにする人物や、同じく夢の中に入れる能力を持ちながら、それがイヤでしょうがない人物はこの作品の作者と極めて近い存在だと考えられます。「あ。今、タッチしました」というちょっと意味のよくわからない、それだけに実感がこもった「0」のセリフがその例です。「悪夢探偵は職業ではない」と強調されているのは、好きでやっていることではない、どうしようもなく身についた能力だということなんでしょう。

選んだのではなく、勝手に選ばれた能力、それを人は天才と呼ぶんでしょう。本人にもわからないような心の奥底が見えて、すごい、羨ましいと思うのは凡人の浅はかさです。天才自身はそんなもの見たくもないんです。望んでそうなったわけではないと言えば贅沢言うな、傲慢だと思われるでしょうけど。……見えぬけれどもあるんだよ。いっそ見えぬ方がいいんだよ。そう言いたくもなるでしょう。

 


 

 「ゴッドファーザーPART掘廚鮓ました(2008-08-13)

 

 

「パート1よりもパート2の方がいいと言われる数少ない作品の一つ」だとこの間言ったシリーズの第3作ですが、「映画のパート3はオケのコンサートのアンコールのようなものだ」と言えばいいでしょうか。すなわち、「芸術的には余分なものを与えられて得をした気分になる人たちのために専ら興行的理由によって作られるもの」ということです。

そこまでこの映画を酷評するのはちょっと気の毒かもしれません。ドラマの中の時間(20年間)とほぼ同じ時間(16年間)を経て制作され、マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)を始めとした第1作からの出演者が年老いた姿で登場し、ヨハネ・パウロ1世の謎の死が重要なエピソードとして挿入され、最後の「カヴァレリア・ルスティカーナ」の舞台とシンクロしながら二重の暗殺劇が進行するといった点はかなり高く評価できるでしょう。

でも、アル・パチーノのメイクはわざとらしく、タリア・シャイア演じるコニーがキャラの一貫性もなくゴッド・マザーになり、従兄のヴィンセント(アンディ・ガルシア)にメアリー(ソフィア・コッポラ )はコロッと惚れてしまう。‥‥つまりはドラマとしての粗雑さ、人物造形の浅薄さが目立つわけで、そうした例はまだまだ挙げることができます。それがエピソードや演出が十分に埋め込まれずに浮き上がって、結局前2作をなぞったようなところばかり目立ってしまいます。

それ以上にこの映画を好意的に評価できない最大の理由は(孤児から養子になった)義兄弟のトム(ロバート・デュヴァル)が登場しないことです。パート靴賄然、彼とマイケルの確執が中心になるだろうと思っていた私としては唖然とするほかありませんでした。彼が出演しないことになった時点でこの作品はモメンタムを失って、緊張感もなくいくらでも続けられるシリーズものと同じようなものになってしまったと思います。

 


 

 「バンドワゴン」を見ました(2008-08-14)

 

 

この作品はミュージカル映画史上の傑作と言われているそうで、フレッド・アステアの代表作でもあるようです。歌って踊って恋をしてという楽しく、肩の凝らない内容ですが、その味わいを深めているのはある種の苦味であるように思いました。

まずアステア演じる主人公は落ち目のダンサーです。ミュージカルの花形スターだった彼は有名ではあるものの使いにくい存在です。それを旧知の脚本家夫妻が今をときめくプロデューサー兼脚本家兼演出家兼俳優のジャック・ブキャナンに引き合わせる。平幹二郎にも似た風貌のブキャナンはアステアの持ち味と合わないようなファウストをテーマに置いた大げさなミュージカルを作ろうとする。‥‥

この1953年の作品はおそらく現実のアステアが得意とした小粋で軽いミュージカルが衰退し、大掛かりで豪華な舞台にとって代わられた現実を背景としているでしょう。何より「バンドワゴン」というタイトルは1921年に20歳そこそこのアステアの出世作であり、言葉としては行列の先頭の楽隊車のことで、人気のあるグループとか時流といった意味なんだそうです。

次にヒロインのシド・チャリシーは設定上もおそらく実際もクラシック・バレエの人で、かなりの素養のある人だと思います。でも、そのことを役の上でもアステアは嫌がっていますし、おそらく実際にもアステアはうれしくなかったでしょう。その理由は専門的なことはわかりませんが、バレエの大げさなところとか、上品ぶったところじゃないかなと思います。しかし、自分に合わせられる女性ダンサーがなかなかいない以上は仕方ないということもわかっていたでしょう。

でも、そんなこんなを全部自覚し、ぬけぬけと自分の立場や感情を映画の中に露出しながら、最後は自分の根っこであるヴォードヴィルやレヴューに近いようなミュージカルをやります。ストーリーの脈絡がつかめないような、でも楽しい曲がいっぱいのミュージカルを劇中劇として。劇中劇は大昔から劇やオペラで多く使われてきました。なぜそうなのかは面倒な議論になるので今はやめておきますが、機能としては「無理な話も許される」ということが一つあります。荒唐無稽なお芝居も劇中劇としてさらにくるんでしまえばいいだろ?好きにさせてもらうよ。‥‥アステアの苦みばしった笑顔が浮かんできます。

 


 

 「デスノート」と「デスノート the Last name」を見ました(2008-08-24)

 

 

前編の「DEATH NOTE デスノート」を見てるときにブログを書くネタは思いついたんですが、最後の方で弥海砂(戸田恵梨香)が出てくるところから明らかに後編を意識したものになっているので、「the Last name」を見てからにしました。

いろんな要素が混じった映画で、それが大ヒットにつながった原因でしょう。いちばん大きいのはデスノートという「魔法の道具」の魅力です。神話や昔話には、どんな願いもかなえてくれる魔人が出てくるランプとか、身にまとうと姿を隠すマント、持っているだけで世界を支配できる指輪といった魔法の道具がしばしば登場します。デスノートもその一種で、顔を知っている人の名前を書くとその人を死に至らしめることができ、さらに便利なことに死ぬ直前の状況も思いどおりに操れます。

それを手に入れた藤原竜也演じる夜神月(ライト)が法律や裁判では裁ききれない悪人の名前をせっせと書いて殺していくわけです。死刑に値する犯罪を犯しながら精神鑑定の結果、心神喪失や心神耗弱とされて死刑を免れた犯罪者やなかなか死刑が執行されない囚人といった法律で裁けない悪人を処刑し、正義が実現する理想社会を創ろうとします。

このモチーフにも類似のものは多くて、例えば小説では「罪と罰」がありますし、テレビドラマでは「必殺シリーズ」が想い起こされます。正義を実現するために個人が法律を超越することが許されるかとか、そのために無実の者を犠牲にするのもやむをえないと考えるかといったところは「罪と罰」に類似していますが、「必殺シリーズ」と同様にあまりそうした深刻な問題に深入りすることなく、L/竜崎(松山ケンイチ)との知的ゲームが中心となったエンターティメントになっています。

エンターティメントとしてのおもしろさを増しているのは、プロファイルによる捜査手法が多く使われていることでしょう。それ自体今どきめずらしくもありませんが、死神のレム(池端慎一郎)がライト自身と似て非なる特徴の高田清美(片瀬那奈)を選ぶのを予見するというプロファイルを逆手にとったアイディア(説明もややこしいですが、そこがいいんですね)は感心しました。しかし、それならデスノートについての記憶を失っている間のライトが犯人のキラは自分自身でしかありえないとなぜ思わなかったのかという疑問が生じざるをえないでしょう。

こうした突っ込みはいろいろできるんですが、もう一つだけ気になったのを挙げると海砂が大学で竜崎に会ったときに偽名を使っているのを不審に思った(という表情をしています)にもかかわらず、後になって一日に何百人もの本名と寿命を見るから覚えていないというのは(彼女が決して低い知能レベルではないだけに)不自然です。つまり論理性を重視したゲームっぽい前編と海砂を中心とする恋愛もからんだエンタメ寄りの後編といったところで、論理が若干破綻するのもストーリーの展開上仕方ないでしょう。竜崎が極端な甘い物好きとか、死神のリュークがリンゴが大好物といった設定はお話にリアリティを与え、意味深さもあって、とてもいいなと思いました。そうした細部はフィクションの命です。

 

 

さっきのモチーフの話に戻ると、「罪と罰」では殺すべき対象=悪の代表は金貸しの老婆で、「必殺シリーズ」では悪徳役人ですが、この作品では法律では裁けない犯罪者です。こういう違いは時代の世相を反映したもので、それぞれ金融資本家、政治家・官僚、犯罪者が正義に反しながらそれを免れているという感覚が広く共有されていたということでしょう。

別の言い方をすれば、法律が悪いとか正義が実現していないとこれらの作品が主張するのは、どこに倫理・道徳の重点を置くべきかを示すためでしょう。資本主義に倫理を、政治に倫理をというのはわかりやすいんですが、じゃあ「デスノート」については何かと言えばおそらく憲法と刑事訴訟法、つまり人権を保護する法体系とそれを実施する刑事司法行政ということになるでしょう。これらは犯罪者、悪人を一切の例外なしに権力の濫用から守るシステムですが、それ自体に現代では多くの人が苛立ちを感じ、正義の実現を妨げるものだという非難を向けているように思います。こう言うとたぶん「いや、そうではなく、そういうシステムに便乗して、人権を振りかざし、それを悪用しようとする連中を批判しているだけだ」といった反論があるでしょう。……この辺のことは私はこれまでもいろいろな形で書き、これからも書くでしょうし、この映画では警察官の父親も法学生のライトも刑法と刑事訴訟法の区別もなしに一緒くたに法律と呼んでいるとしか思えないので、これ以上の議論はやめておきます。

それよりも私としてはデスノートのルールがやたら多いのがおもしろいと思いました。もちろんどんな魔法の道具でもルールがありますが、こんなに煩瑣ではありません。死神自身も様々なルールに縛られていて、まるで現実の世界や法律みたいです。ややこしい法律なんかじゃ正義は実現できないとみんな思っていて、その鬱屈を晴らしてくれるものはどこか似ているんですね。それは結局のところ観客を含めてみんながそうした世界にどっぷり漬かっているからなんでしょう。……やっぱり魔法の道具は人びとの心を映し出すようです。

 


 

 映画評の書き方(2008-10-07)

 

 

 

 1か月以上、映画について書いていないけれど、それは面倒だからで実際にはかなり見ている。いちいち書いていると見るのさえ面倒になってしまうからやめていただけで、とはいえ溜まってくると気になるのも因果な性分だ。

今、連載している「明月記」関係の記事は書き下しとはいえ漢文を前に頭をひねらないといけないし、あちこちの文献も見なくてはならないので手間も掛かる。ブログの間隔が空くのもあまりよくないと思っているのだけれど、かといって記事を書きたくなるようなニュースもない。先日読み終えた今西錦司の「生物社会の論理」も感想というほどのものはない。映画はその点気楽だと言うと叱られるかな。

そこで思いついたのがリストを掲げて、それを少しずつ書き足していくという安直な方法である。8月の半ば以降に見たものでなんにも書いていないもののリストは次のとおり。

「ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR」

なんか大昔の暴走族ってかわいかったんだぁって感じ。でも、そういった「なつかしモノ」以上の何かがこの映画にあるかというと「さあ?」って感じ。ドキュメンタリーとしてはNHKの「新日本紀行」の方がおもしろいでしょ。

 

「シッコ」

マイケル・ムーアの作品は初めて見たが、とてもおもしろいし、ヒューマンな人柄がよくわかる。「カナダ人を引っ掛けろ!」(カナダ人と結婚して医療保障制度を利用しようという)サイトに誘引するところなど、現実にコミットメントする姿勢は日本でもほしいものだ。

アメリカとキューバの医療保障制度の比較は秀逸。すべてが事実そのままとは思わないが、政治家の演説よりは真実味があるだろう。

 

「七年目の浮気」

「グレン・グールド エクスタシス」

「ミュンヘン」

「300 <スリーハンドレッド>」

「赤線地帯」

「ラヂオの時間」

三谷幸喜の映画って「THE 有頂天ホテル」もそうだったけど、作為ばかりが目立つくせにストーリーが不自然で、人物造形も雑で「ホントにビル・ワイルダー監督に私淑したのか?」と思わせる。たぶんたくさんの登場人物を操るだけの技量がないんだろう。

 

「ヴィトゲンシュタイン」

ヴィトゲンシュタインの生涯と思想を映画にしてみましたといった感じの作品。その思想の射程を示せているわけでもないし、映像としてのおもしろみがあるわけでもない。緑色の火星人も彼の哲学を理解するキッカケというか、一発芸としてはいいんだけど、何回も使っちゃねぇ。。

 

「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」

あっさり言ってしまうとこの作品のテーマは「人間は何によって人間たりえているのか?」ということだろう。だとすると「GHOST」は心とか魂とかいうことになりそうだが、魂という言葉は別途出てくるので、少し違うのかもしれない。

しかし、そうしたテーマに沿ったストーリー展開は「人形使い」が暴走し始めたところから単なるアクションものにずれていってしまっている。まあ、それはそれでおもしろいし、自分が本当に人間なのか不安を持つサイボーグと自分が誰であるかもわからない「人形」というアイテムはインパクトがあるのだが。

 

「生きるべきか死ぬべきか」

「サンセット大通り」

「世界中がアイ・ラヴ・ユー」

ウディ・アレンのミュージカルというのも逆説的な感じだが、96年の作品なのにモノーラルというのもちょっとびっくりした。もちろんアフレコでマイク位置を考えなくていいようにするためだろうけど、いつの時代の話なのかバラバラな感じを一層強めてしまった。いつもどおりぶつぶつ言ってる冴えない中年男のご自分がいちばんエラく見える。脱獄囚がセレブなお嬢さんをモノにして、強盗仲間に引きずり込むところがブラックユーモアとしてよくできていた。

 

今日の段階(10/7)では監督もキャストも何にも書いてないし、これも最近見た順になっている。ぼくが利用しているネットDVDレンタルの履歴を貼り付けたものにすぎないからだ。少しずつ足して独立した記事にしようかなと思うかもしれない。そうしたらこの記事の日付を過去にずらしてしまえばいい。感想というほどのものがないものも多いからそんなふうにスピンアウトしていくのはあまりないかもしれないけど、胸のつかえが下りたような気分にはなったかもしれない。

10/9にいくつかの作品について感想を足した。

10/15にも少し足した。

 

 <09年4月のサイトアップ時の追記>

 ご覧のとおり結局、タイトルを挙げただけで、内容について触れないままになったものが多かった。何よりその後もたくさんの映画を見ているけれど、記事にするのはやめてしまったままである。今から考えるとよくもまあマメに書いたものだと思うほどだけれど、読み返すと場面が蘇るから無駄ではなかったのだろう。流れていく川も時間も映画も描くことで何かが留まってくれるのだろうか。ぼくにとってこの時期がそんな勘違いをしたくなるような季節だったということか。

 いろいろいい映画を見ることができたが、シャーリー・マクレーンに出会えたことが何よりもすばらしい。ぼくが現実に見た天才はカルロス・クライバーただ一人だが、彼女の演技はあの完璧でかつ破天荒なコンサートと似ている。若い頃から年取った今も、頭の回転が恐ろしく速く、かわいらしく、でもおそらく付き合いづらい人だろう。だから、グールドと同じようにDVDの中にいてくれればそれでいいんだ。

 映画だけではないけれど、こういう批評のスタイル(そんなに客観的でも分析でもないかもしれないけど)で書くことはもうないような気がする。何か作品を取り扱うにしても、もっと崩したスタイルになるだろう。それがどんなものかまだわからないもどかしさが最後の文章に表れているのかもしれない。