movie

 

小津安二郎

 東京物語

 秋日和

 東京暮色

 

真珠の耳飾の少女

転校生

ハウルと解体する城

コレリ大尉のマンドリン

ビューティフル・マインド

バタフライ・エフェクト

惑星ソラリスまたは首都高のフーガ

いちご白書がもう一度

あさき夢みし〜とはずがたり、ふたたび

 

 

 


 

 

東京物語

 

  この作品によって、私は映画に対する見方、考え方が変えられてしまいました。そういう意味で、特別な映画なのですが、あまりたくさんのことを言えるような気がしません。愛している人について、感情が先に立ってしまって客観的に、人にわかるように説明できないのと同じように。……

 映画館で観たわけではありません。昔々、休日にベッドの中から何となくつけたテレビでやっていました。監督の名前も知らなかったし、かったるいモノクロ映画だなって思って見始めました。しかし、観ているうちにだんだん得体の知れない感情が迫ってきて、見終わったときにはまぎれもない傑作に出会ってしまったと、しばらく呆然としてしまいました。映画の内容よりも、そのときの部屋の様子の方がありありと思い出すことができます。世界が違って見えるような体験ってそういう気がします。……結局、その衝撃がDVDボックス4つによる全集まで買うところまで、入れあげてしうことになりました^^;。画像はそのおまけでついてきた公開当時のパンフレットの復刻版です。

 この映画についても、小津監督についても多くの人が多くのことを語り、今も海外の監督がインスパイアされて作品を作っています。それだけに私が今さら付け足すようなことは何もないのですが、最初に何の予備知識もなく見ることができたのは幸せだったと思います。日本映画史上(おそらくは世界レヴェルでも)屈指の名作だとか、短いカットを撮るのに何十回とやり直させたとかといったようなことは、映画を観る上で邪魔になりかねないでしょう。世間の評価が高ければ、見終わっても自分の目と頭で判断したという自信が私には持てないからです。

 こんなふうに書いてくると、この映画を紹介するのはかえって罪作りで矛盾しているのかもしれないと思います。でも、小津作品自体が矛盾に満ちています^^。……何気ない日常動作と能に通じるような緊張感に満ちた形式美、穏やかな日常会話と観る者が抱く激しいとさえ感じる暗黙のメッセージ。ふつうよく言われるローアングルだとか、同じ方向を向いて会話するから視線が交錯しないといったことは、私にはあまり本質的なことだとは思えません。

 この映画は映画を超えて、映画とは何かを伝えているように私は感じます。そういう意味で、メタ映画だと思うのです。そんなとんでもないことを小手先の思いつきや特殊な技術を使わず、ただ彼自身が言ったように「豆腐屋が豆腐を作るように」丁寧にカットを積み重ねていって成し遂げているのです。

 


 

 

秋日和

 

 小津安二郎監督の映画は題名もストーリーも互いによく似ていると言われます。特に今回の「秋日和」(1960年)についてはそういう感が深いですね。秋という文字の入ったタイトルだけで、「麦秋」(1951年)、「小早川家の秋」(1961年)、「秋刀魚の味」(1962年)とある中で、もっともひねりがないですし、話の内容も未亡人の母親が心配で嫁に行く決心がつかない娘を中心に、亡父の友人3人が母親と娘の両方の縁談を画策した結果、結局は娘は結婚するものの、母親は孤独に残されるという、親子関係を描き続けた戦後の作品の典型的なパターンといった感じです。

  では、この作品がおもしろくない平凡なものなのかと言うと、私はとても好きです。通常は父と娘(世界映画史上でも屈指の名作の「東京物語」の場合は嫁と舅)という関係が軸なので、エレクトラ・コンプレックス的な気配が漂うのですが、その点がこの作品では母親と娘なのであまり強い感情は呼ばず、そのためかえってコメディとして機能しやすくなっていると思います。友人役の佐分利信、中村伸郎、北竜二の会話はとてもおもしろく、大人の無邪気な駆け引きといった趣があります。特に佐分利信は東大出の丸の内の商社の重役という役柄がぴったりしていて、今はこういう役を演じられるような風格のある人がいないような気がしますし、何よりこんな昼間からゆっくりうな重をご馳走したりするような紳士自体が現実にもいなくなってしまったのかも知れません。

  そのように考えると、とても母親には見えない若い原節子と娘の司葉子が中心の物語というよりは、それを見守る佐分利信の視点から映画が組み立てられているような気がします。それに対して、岡田茉莉子演じる娘の同僚が会社にとっちめに来るところから実家の場末の寿司屋にそれと知らせずに連れて行くところは、この作品に鮮やかな破調を作り出していて何度見てもおもしろいものです。岡田茉莉子は初期の小津作品に多く出演した岡田時彦の遺児で、彼女が生まれてまもなく死去したため、フィルムを通して父親に会うことができると語っているそうですが、であればこそ思う存分、ヴェテランの名優たちを相手につけつけ言いたい放題言っていえて、それでいてどこかユーモアがあって、若々しい魅力を感じさせてくれます。

  戦後の小津作品には多くの食べ物が出てきますが、戦時中に不自由した反動ででもあるかのように大体はカロリーの高いものです。冒頭の法事の場面からビフテキだのトンカツだのの話が出てきますし、先ほどのうなぎ屋で佐分利信は母と娘と別々にご馳走し、母娘はトンカツ屋でビールを飲んで、娘はいったんは断りながら交際を始めた佐田啓二とラーメンを食べています。寿司屋で注文されるものもハマグリだの赤貝だの何やら意味深なものです。

  さて、この作品に限りませんが、非常に似たような何気ない場面が少しずつ変化しながら登場します。例えば司葉子と岡田茉莉子が会社の屋上から、新婚旅行に行く友人を見ようと湘南電車(当時の新婚旅行ってそうだったんですね)を見る場面では、手前に都電が走り、更に手前に中央郵便局の郵便車がたくさん見えます。その場面が何回も登場し、最後には司葉子がいなくなって岡田茉莉子は渡辺文雄と並んで見ます。つまり友人の結婚=退社が、司自身に及ぶという時間の経過が変わらない風景によって強調されているのです。

  こうしたテクニックはあちこちに使われていますが、最も強い印象を与えるのは最初と最後の方に出てくる高橋とよがやっている料亭でしょう。法事の後と結婚式の後に清澄橋の優雅なシルエットが出て、料亭の廊下の絵に水の反映がゆらいでいるショットがあって宴席の場面になるのですが、これが時間の経過を表すとともに、法事と結婚式という正反対のものが結びつけられます。この額縁のような構造があるからこそ、結尾の原節子の孤独が際立つという効果を挙げています。彼女を訪れた(見舞ったと言ってもいいでしょう)岡田茉莉子の「おばさまが元気そうで安心したわ」という台詞が残酷にさえ思えます。

  蛇足ですが、2年後の遺作「秋刀魚の味」でヒロインを演じる岩下志麻が佐分利信の秘書役で出ています。姿勢がよく気品がありますが、注意していないとわからないでしょう。

 


 

 

東京暮色

 

 この作品は1957年(昭和32年)のもので、「早春」と「彼岸花」の間の時期に作られた、すなわちモノクロ最後の作品です。小津監督は54年に「今度は何か一つ、変わったものをやらないかとよく人から云われる。そんな時、いつも僕は、豆腐屋なんだから、精々、豆腐の他、焼豆腐か、油揚げか、飛龍頭しか出来ないのだ、と返事をする。そう変わったものは、一人の僕からは生まれそうにもない。今のところは、うまい豆腐を、うまい飛龍頭を、拵えることだけで一杯だ。変わったものなら、デパートの食堂に行けばある」と強い自負心をもって書いています。飛龍頭はがんもどきのようなもので、私の育った大阪では“ひろうす”っていう発音だったように思います。

  この作品は「麦秋」や「東京物語」のような“豆腐”に対して、彼なりに変化をつけた“飛龍頭”であろうと思います。まず、笠智衆と原節子の小津作品の典型的な父娘が登場しますが、娘は結婚していて、夫に愛想をつかして実家に赤ん坊を連れて帰って来ていて、いつもの原節子の役どころと大きく違います。夫は無責任で口だけは達者だけれど後ろ向きで誠意がありません。ストーリーは次女の有馬稲子を中心に動いていきます。彼女は学生なのですが、怠惰で博打に明け暮れている学生の子を孕んでしまい、途方に暮れてその相手を探し回るのですが、自分の子かどうかを疑うようなことさえ言われてしまいます。

  こういった暗いストーリーは戦後の作品でも「風の中の牝鶏」や「早春」がありますが、何より父親も姉も次女の危機に見て見ぬふりに近いような態度が異様です。不実な彼氏に喫茶店で待ちぼうけを食わされ、相手を追い回す中で警察に補導されます。いくら深夜に若い女性(でも21歳です)とは言え喫茶店にいただけで警察署に連れて行かれるとは警察もずいぶん親切?だったんだと思いますが、それについて姉は母がいなくて寂しかったからだと言い、父は母がいないから甘やかしすぎたからだと言い、眼前の問題の解決にはなりそうもないことを言っています。それが“信じているから”というものなのでしょう。

  ところが、周りの見る目は全く違います。男を追いかける姿に友人にすら冷ややかに見られ、野球解説者の物真似で陰で茶化され、しけたラーメン屋のおやじの藤原釜足にさえ“アプレ”なんて言われます。アプレ・ゲールはフランス語で戦後っていう意味で、戦後育ちのよく言えば自由奔放、悪く言えば不道徳な連中のことを言ったものです。この“きちんとした家のお嬢さん”が転落していく様子は無残なほどで、彼女は思い余って一人で堕胎しに行くのですが、三好栄子演じる女医のおできでも取るような態度と、そのすぐ後の姪の赤ちゃんの無邪気な表情との対比は残酷なものです。

  さて、母親がいないのは実は夫がソウルに赴任している間に夫の部下と出来てしまい、夫と子どもたちを置いて逃げてしまったからなのですが、シベリアで抑留された男と別れてしまい、引き上げる途中にナホトカで更に別の男と出来て帰ってきて、五反田の麻雀屋で働いています。長女から妹に近づくなと言われるのですが、人が良さそうだけど貞操面でルーズな母親を山田五十鈴がうまく演じていて、原節子の積年の恨みのこもった怒りの表情(彼女の大柄で美しい顔は、「麦秋」などでもそうですが、怒ると世にもおそろしい感じです)を引き立てています。

  この母親のことを妹も結局は知ってしまい、自分には母親のふしだらな血が流れていると考えます。堕胎したことは誰にも言わないのですが、それを知っている観客が3歳のときに自分を捨てて男に走った母親と対峙する場面は悲痛です。

  表面的には自分が父親の子ではないのではないかと詰問する娘に母親がそれだけは疑わないでくれと訴えるという会話なのですが、母親のような無責任なことをしたくないから堕胎したという自己正当化にしがみつこうとしてできない有馬稲子の演技が冴えています。何よりこの場面には小津監督が好んだまあ能天気と言っていいような明るい音楽が流れていて、過度に登場人物に感情移入することを意図的に拒否しています。

  その後、ラーメン屋で酒をあおっていた有馬はたまたま来た彼氏を何回も叩いたあげく外に飛び出して行きます。その先には踏切があって、不気味な大きな目が描かれた眼鏡屋の看板だけが“魔の踏切”で彼女の意図せざる“自殺”を見守っていたのです。

  さて、ここまで“豆腐”と違う面を紹介してきましたが、“飛龍頭”と言えども豆腐から作りますので、その面を紹介しましょう。笠は銀行の監査役で、「秋日和」を始め多く登場するオフィスにいて、近くの“う”一文字の看板の鰻屋で妹の杉村春子と昼飯を食べます。杉村はここでも会社を切り回しているにぎやかで、お節介な叔母さんを軽妙に演じています。

  笠と原の父娘の別れがやはりこの映画の枠構造を成していて、妹の死をきっかけに原が夫のもとに帰り、笠が孤独になるところで映画が終わります。この作品を有馬の物語と思っていた観客にはちょっと違和感のある構成です。笠は、妻に逃げられ、息子を亡くし(これは台詞の中で語られるだけです)、次女も事故で死んだわけなので、せめて長女が元の鞘に戻ったのを喜ぶべきだという状況がかえって彼の寂寥感を強めています。

  そのちょっと前に山田が線香の一本でもということで供花を持って訪れますが、原は家に上げようとはしません。母親を冷たく追い返した原が顔を覆って一人泣くのですが、それが有馬が何度も一人で泣いていたのと全く同じなのは見事な演出だと思います。室蘭に男と一緒に行く山田は上野駅で、列車の窓を開けて娘が来てくれないか何度も見ますが、にぎやかな明治大学の応援歌が無関係に聞こえるだけです。

  そう、この映画の登場人物はとても“現代的”で他人のことに無関心に見えます。それはお節介を焼いても仕方がない(前半しか杉村は出てきません)というふうに思っているからでしょうが、そのためなのか私はこの映画の登場人物の多くを愛することができません。印象的な場面や台詞はたくさんあるのですが、“豆腐”の作品のようにいつまでも心に残ったりしないのはそのせいかも知れません。……まあ、私が時代遅れだってことですが。

 


 

 

 

真珠の耳飾りの少女

 

 このフェルメールの絵をテーマにした映画で、旧作DVDになっていたので(ケチなんです^^)、公開時から気にはなってたんですが、やっと観ました。映画のストーリーはHPから貼り付けちゃいましたが、次のとおりです。

 

 1665年、オランダのデルフト。タイル職人の父親が失明したため、家計を支える役目を負った17歳のグリート(スカーレット・ヨハンソン)は、画家ヨハネス・フェルメール(コリン・ファース)の家へ奉公に出されることになった。フェルメール家は、気位の高い妻のカタリーナ(エッシィ・デイビス)、彼女の母で家計を取り仕切っているマーリア(ジュディ・パーフィット)、そして6人の子供たちという大家族。フェルメールが1枚の絵を完成させるのに3カ月以上の期間を要するため、家計はつねに逼迫した状態にあり、そのことをめぐる夫婦間の口論も絶えなかった。広大な屋敷には、夫を非難するカタリーナのヒステリックな声と、走り回る子供たちの足音が、昼夜を問わず響き渡っている。しかし、その喧噪を唯一免れている場所があった。フェルメールのアトリエだ。カタリーナから、アトリエの掃除を命じられたグリートは、そこに置かれた完成間近い絵の美しさに強くひきつけられる。

 ある日、フェルメール家では、パトロンのファン・ライフェン(トム・ウィルキンソン)を招いて盛大な晩餐会が催されることになった。マーリアとカタリーナは、その場でファン・ライフェンの注文を取ろうと必死だったが、当のフェルメールは、「次に何を描くか決めていない」と言い、妻と義母を大きく失望させる。しかし、それからほどなくしてフェルメールは新作を描き始める。きっかけを与えたのは、グリートだった。彼女がアトリエの窓を掃除したことによって生まれた微妙な光。その色の変化が、フェルメールを創作に駆り立てたのだ。窓を拭くグリートの姿をインスピレーションの元に、カメラ・オブスクラを使ってデッサンを始めるフェルメール。その現場に足を踏み入れたグリートは、「光がイメージを作り出す」というフェルメールの言葉に、深い感銘を受ける。

 やがて、グリートが優れた色彩感覚の持ち主であることに気づいたフェルメールは、アトリエのロフトで絵の具を調合する仕事を手伝わせるようになる。骨灰を磨りつぶす棒に添えられたフェルメールの手の感触に、思わず男性を意識してしまうグリート。使用人の仕事についてから、彼女は肉屋の息子ピーター(キリアン・マーフィー)と交際を始めていたが、彼に対する気持とは異なる崇拝と畏れが入り交じった感情を、グリートはフェルメールに抱くようになる。

 冬がめぐってきたころ、グリートはアトリエのロフトで寝起きをし、家事労働の合間のわずかな自由時間を、絵の具の調合に費やすようになっていた。彼女の美的な感性はますます研ぎ澄まされていった。表面的には主人と使用人の距離を保っていたものの、もはやふたりの関係は、芸術上のパートナーと呼べるものだった。そして、その親密さが、フェルメールの家族の間に波紋を引き起こす。フェルメールの娘コルネーリアは、グリートに泥棒の濡れ衣を着せようとし、かえってフェルメールの怒りを買う。そんなフェルメールの態度に嫉妬心を露わにし始めたカタリーナは、グリートに「疫病神」という侮蔑の言葉を投げつけた。ただひとり、フェルメールの創作意欲に対するグリートの影響力を見抜いていたマーリアは、グリートの存在を容認する立場を取っていた。この調子でフェルメールが絵を描き続けてくれなければ、一家は破産の運命をたどることになってしまうからだ。

 そのマーリアが、絵の注文を取るためにファン・ライフェンを屋敷に招いたのは、それからまもなくのことだった。グリートの存在が家族間に不穏な空気をもたらしていることに気づいたファン・ライフェンは、晩餐の席で、グリートをモデルに加えた集団肖像画を描いてはどうかと、フェルメールを挑発する。それは、たちまち町の噂になった。というのも、以前、ファン・ライフェンは、フェルメール家に雇われたばかりの使用人をモデルにした絵を発注し、その後で使用人を手込めにしたことがあったからだ。その話を使用人仲間から聞かされていたグリートは、不安のまっただ中に立たされる。そんな彼女に、フェルメールは言う。「注文された集団肖像画とは別に、君を描く」と。

 デッサンは、マーリア以外の家族には秘密で行われた。フェルメールに頭巾を外せと言われたグリートは、青いターバンを巻き、キャンバスの前でポーズを取る。が、何かが足りないと感じたフェルメールは、カタリーナの真珠の耳飾りをグリートに着けさせようとする。「それはできません」と拒むグリート。だが、フェルメールから描きかけのデッサンを見せられた彼女は、自分自身の内面までが写し取られたその絵の出来映えに息を呑んだ。グリートの中の芸術家の心が、そして、画家を愛する女としての心が、彼女にこう告げていた。絵の中の少女には、真珠の耳飾りが必要だと。

 しかし、この決断によって、グリートは大きな代償を支払うことになる……。

 

  かなり長いストーリー紹介ですが、梗概としてはとても丁寧で、よくできているなって思います。でも、実のところ、これで出来事のほとんどが語られていますから、ちょっと退屈してしまいました。当時のデルフトの街並み、とりわけフェルメール家の内部はびっくりするほどの出来映えで、彼の作品の中に入り込んだような気になります。

 でも、お話としては、ちょっとインスピレーションに欠けたおとなしいもので、どうせフェルメールの伝記的事実はほとんどわからないんですから、ファンを怒らせるようなものでもよかったんじゃないかって思いました。例えばアマデウスみたいにw。まあ、私がこういう芸術映画を鑑賞するのに向いてないのかもしれませんが。フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」をネタに掌編を書きましたので、よかったら読んでみてください。

 さて、テーマになっている絵は、昔々上野でゆっくりと観たことがあって、当時はフェルメールがそんなに日本では有名じゃなかったのか、とても空いていました。日本で観た絵画展で唯一と言っていいほど幸せな気分を味わったものです。

  他のフェルメールの作品と違って、背景の窓も調度もなく、あどけないとも官能的とも言えるような、青いターバンの少女だけが浮かび上がるように描かれていますから、それにインスパイアされて小説にし、映画にしたのは慧眼という気がします。グリートが初めて美しい巻き髪を見せるところ、フェルメールが彼女の耳に針を突き立てるところは、とても官能的です。

  だんだん映画の感想から離れていくような気がしますが、フェルメールが絵を描くだけで生計を成り立たせていたという、ストーリーの骨格部分は無理があるように思います。40枚足らずの絵しか残っていないし、失われた作品が大量にあるということもないでしょう。パトロンがいようがいまいが、当時の絵画の取引値段から推計すればわかることですが、中流以上の生活を送るためにはおそらく何百枚と描かなければならないはずです。映画にも出てきますが、絵具となる顔料は天然由来のものですから非常に高かったし。

  そうそう、映画のセットは上に書いたように見事なんですが、フェルメールの絵の複製はひどいものでした。ひと目で違うってわかるような深みのないものですから。

 


 

 

 転校生

 

 1982年の映画ですから、もう20年以上前の作品です。それまでCFとかで斬新な映像を見せていた大林監督が本当に撮りたかった尾道3部作の第1作です。もちろん尾道と言えば小津安二郎監督の「東京物語」の舞台であるわけです。原作は山中恒の「おれがあいつで あいつがおれで」で、いわゆるジュニア小説だと思いますが、読んでいません。

  ストーリーは原作のタイトルどおりなんですが、中学生の斉藤一夫(尾美としのり)と一夫のクラスに転校して来た斉藤一美(小林聡美)のお互いの心が、ひょんなことで入れ替わってしまうことによる、二人の戸惑いとドタバタといったものです。「とりかえばや物語」のような際物的なテーマを純な中学生を主人公に据えることで、性へのためらいがちな興味という形にうまく昇華しています。それを更にあたたかい物語に仕上げているのは、大林自らの想い出が生かされているせいでしょう。

  一夫は常に8ミリ撮影機(もちろんフィルムです)を持っています。私小説と同じような意味での私映画だとも言えるのかもしれませんが、私は村上春樹が「ぼく」で語り始めたのと同じようなもの、「ぼく」映画だと思います。私小説とぼく小説の違いは、

 <どこが違うのだろうか? それがそう簡単に説明できれば苦労はない。煙草入れを探ろうと懐に手を入れかけ、そのまま腕組みをした。庭に目を遣る。>っていうのと、

 <どこが違うんだ? んー、むずかしいんだよね。ぼくは自分で言っておきながら、よくわかってなかったのかなってことがあるみたいだ。やれやれ。>っていったところですよw。

  こうした映像における語り口(8ミリ映像を使ったりしていることを含めて)のintimateなところが多くの模倣作(映画に限らないですが)の追随を許さないところでしょう。もちろんこれは大林の気質に起因するところも大きく、タイトルの前に出てくる”a movie”という文字は、ブラームスが「ドイツ・レクイエム」に不定冠詞をつけたのと同じような、よく言えば謙虚、悪く言えば優柔不断な性格の現われで、その風貌も含めてw、おセンチなところなど共通するものを感じます。……私はこういう人の作品に妙に惹かれてしまいます。

  この監督の下で、最高の演技を見せているのが若き日の小林聡美です。男の子の心を持ってしまった女の子をすごく自然に(と言うのも変ですが)演じていて、例えば着替えをするところなどは唖然とするほどのうまさです。尾美としのりの方はオカマっぽいだけで、まあそれで友だちからいじめられるのを小林が助けるといったエピソードがあるんですが、どうしても彼女の引き立て役になってしまいます。彼女はわざわざ言うこともないでしょうけど、別に美人でもなく、ごくふつうの容貌ですが、この映画ではとても魅力的です。心が入れ替わっているときだけw。

  彼女はテレビ・ドラマ「それでも猫が好き」なんかだと素でやっているように見えるかも知れませんが、実は計算しつくした演技者です……って、感じでもないか^^^。たぶん運動神経がいいっていうのと同じように、演技神経がいいんですよ。あんまり考えなくても高いレヴェルの演技が計算したもの以上にできる、そういうふうに見えます。もちろん努力はしてるんでしょうが、才能と努力は最終的には同じことです。

 尾道三部作は、原田知世「時をかける少女」、富田靖子「さびしんぼう」と続くのですが、美少女二人が束になっても小林の強烈さには勝てないですね(個人的には富田靖子の雨の中のワンショットは忘れがたいものがありますが)。

 この映画は、どうにか二人が元通りの心と体になった後、一夫が引っ越していくトラックの窓から8ミリで一美を撮るところがラスト・シーンになっています。「さよなら、あたし」「さよなら、おれ」このとても自然な台詞によって、私にとってこの映画の意味が全く変わりました。これは荒唐無稽なおとぎ話ではないのだ、初恋に普遍的な、相手の中に切ないほど入り込んでしまう気持ちを描いたものなのだと。そんなふうに相手を「おれ」と呼べるようなことは、10代のある時期だけで、もう二度とないのだと。……でも、一夫は8ミリを撮り続け、一美はスキップして行ってしまう。残酷なほど軽やかに。

 


 

 

ハウルと解体する城

 

 正月休みに「ハウルの動く城」をDVDで見ました。ずいぶん時季遅れですが、映画館は嫌いだし、DVDが出たからといってすぐに見ないことが多いので、私はいつもこんな感じです。ですから、これから書くことももうとっくに誰かが言っているありふれたことだろうと思います。また、映画全体について何かまとまった批評みたいなことを言うつもりもありません。

  私には「千と千尋」ほどおもしろくなかったんですが、なぜそうなんだろうってことです。たぶん「動く城」が原因なんでしょう。あれってなんでしょう? ごたごたガラクタを寄せ集めたようなもの。移動する時にうごめくもの。……こう言えばピンと来る人も多いと思いますが、心臓ですね。ハウルという少年の心臓であり、心の有り様なんです。だから、ドアのスイッチを切り替えればいろんなところにつながっているし、その中には雨が降り続いている荒野もあれば、ハウルしか入っちゃいけない黒い世界もあるわけです。男の子ってそういう部分がなくっちゃね。それなのにソフィーっていうお節介な女の子が掃除をしに来るわけです。老婆になったからよけいずけずけそういうことができるわけです(ソフィーの側から言えば男の子を知り、大人になるために魔法をかけられたと言えるでしょう)。だから、ハウルは変わっていく。だから、この映画にはやたら心臓を食うって話が出てきます。

  城=心臓を動かし、生かしているのは火(悪魔でもあるようですが、これまた性衝動を媒介にして考えれば当然ですね)=生命力です。ハウルが心を取り戻していくと城は解体していき、物語は終わります。そう、これは心を失った少年が心を取り戻す話なんですね。だから、少女が愛する人を見つける冒険物語であり、それにすがろうとするさびしい大人を描いた「千と千尋」ほど私にはおもしろくなかったんです。お話として一見似ているようですが、その論理が違えば様相も違うし、見ている側に訴えるものが異なるのは当然です。

  もちろん魔法使いのサリバン先生の位置づけとか戦争との関係とかが浮いているといったこともありますが、何よりすらすらわかりやすすぎるためにお話の底を浅くしているように思いました。きっと宮崎駿も男の子はあんまり好きじゃないんでしょう。でも、ハウルのような論理的骨格を持たずにストーリーの展開だけの凡百の映画(もちろんアニメだけでなく、ふつう映画こそそういうものが多いのですが)をはるかに凌ぐものであることは確かなんですが。

 


 

 

コレリ大尉のマンドリン

 

 コレルリの10枚組CDを時々聴いていますが、とてもいいです。しっとりしてて、味わいがあって。……まあ、それ以上言うこともないんですが。……この映画ってなんでコレリ大尉なんでしょ?同じCorelliなのに。ネットでデータ探すのにえらい苦労しました。チョピンじゃあるまいしって、スペイン語ではそう言うそうです(このネタがわかった人はコメントしてください^^)。

  それはともかく、いい映画です。ニコラス・ケイジって、どう見てもさえない中年男なんですけど、「ウインド・トーカーズ」なんかでもそうですが、軍人としての任務と自分の感情との板ばさみ(昔ふうに言うと義理と人情のどちらが重い、かな^^)みたいな役をやると、とってもいい味でますね。名前からするとイタリア系なんでしょうか。……それ以上に、スペイン人のペネロペ・クルスがいいなぁ。美人で凛としてて、田舎の島のドクターっていう居心地の悪いインテリの感じがよく出てて、そこがまたセクシー^^。

  折角探したHPなので、孫引きしちゃうと、「舞台は第二次世界大戦下のギリシア・ケファロニア島。イオニア海に浮かぶこの美しい島で、当時どのような悲劇が繰り広げられたか、この映画によって初めて知る人も少なくないだろう。ギリシアは1941年にドイツ・イタリアの両軍に占領されてしまう。ケファロニア島を占領したのは主にイタリア人だったが、いわばお目付役として少数のドイツ軍も存在した。島の人々にとって、イタリア軍は敵であったが、イタリア人ならではの天真爛漫さで、兵の中には島の人々と馴染みになる者もいた。イタリア兵にとっての悲劇は、1943年、イタリアの降伏から始まる。友軍であったはずのドイツ軍が武器の引き渡しをイタリア軍に命じ、抵抗したイタリア兵を虐殺したのである。無惨に放置された彼らの亡骸を埋葬したのは、ケファロニアの島の人々だった」というお話です。

  映画を見慣れた、勘のいい人ならニコラス・ケイジのイタリア軍大尉のコレルリ^^とペネロペ・クルス演じる女医のからみも、これだけでだいたいわかりますよね。ヒューマンな映画ってそういうお約束どおりストーリーが運んでくれないと困るんですが、そういう点でもこの映画は申し分ないです。

  まあ、イタリア軍の女と歌好きのちゃらちゃらぶりとか、ヴァーグナー嫌いとか、ナチス・ドイツの中にも良心的な、でもなんにもできない奴がいるとか、そういう細部がとても丁寧に作られててうれしいです。それでいて、ドイツ軍との戦闘では、悲壮な覚悟で戦う男たちの気持ちが異様な緊張感とともに、画面全体から伝わってきますしね。弱国ギリシアの悲哀とそれでもプライドをもって毅然として事にあたるケファロニア島の人びと。……私はこういう話に弱いです。そういう人びとと美しい自然を象徴しているのが、女医のペラギアで、これまた愛国心とイタリア軍人への愛情との板ばさみになるわけです。

  最後はちょっと意外な、でもこうでなくちゃっていう終わり方です。

 


 

  ビューティフル・マインド

 

 

  この映画のストーリー紹介では、次のように書かれています。「1947年秋、数学者ナッシュがプリンストン大学の大学院に到着するところから始まる。すべてを支配する真理、真に独創的な着想をみつけたいと、数学の研究に没頭する彼は、ときに変人にも見えた。友だちはルームメートのチャールズだけ。方程式で占められた頭に、遊びや恋の入る余地はなく、いつも研究への焦燥感でいっぱいだった。だが、数年後、あるひらめきから、彼は、古典経済学の創始者アダム・スミスが打ち立てた150年来の経済理論を覆す新理論にまで到達した。それが、後日、ノーベル賞受賞の根拠となる“非協力ゲーム理論”だ。こうしてナッシュは、アメリカ数学界の若きスターになった。遅ればせながら恋もして結婚もした。しかし、そんな彼の才能に、国防省の諜報員パーチャーが目をつけた。それからは、あるトップ・シークレットをめぐり、ナッシュの周囲にあやしげな人影が出没し始める。やがてその人影は、ナッシュの心の影にもなっていく」

  ところが、これはネタバレしないようにしているのでこうなっていますが、実はルームメイトのチャールズもその姪のマーシーも、諜報員パーチャーもすべてナッシュを生涯苦しめる統合失調症(かつては精神分裂病と呼ばれましたが)が見させる幻影なのです。前半は、天才の変人振りと彼の生徒だったアリシアとの恋愛が描かれているのですが、ナッシュが無理やり入院させられてからは一転してけなげな妻が病に苦しむ夫を助ける物語に変わります。かつての名作「レイン・マン」はトム・クルーズ演じる弟の視点から兄の障害を描き、それをそのまま受け入れる物語だったわけですが、この作品の場合、ほぼ主人公のナッシュの視点から描かれています。つまり、「レイン・マン」では観客はダスティン・ホフマンの自閉症の見事な演技を見ながら、安心して、障害者をおもしろがったり、同情したりすることができる第三者的な立場にいるのですが、この作品では我々は自分の視覚とか理性とか正気を疑う羽目に陥るのです。

  私はほとんどミステリィとかの犯人や謎が途中でわかったためしがなく(「シックス・センス」ではわかってしまったので、それだけで凡作だと思っています^^)、この作品も何か変だなと思いながら、ナッシュが入院させられても最初は精神科医のローゼンが本物なのか疑わしく思っていたくらいです。負け惜しみみたいに思われるかも知れませんが、簡単に騙されるのは悪いことではなく、映画や小説を楽しめる範囲が広いと思っていますし、騙すだけの理由がちゃんとあればそれでいいと思います。この映画では、他人とコミュニケーションがうまく取れない代償にルームメイトの幻影を見たのだろうかとか、数字のつながりに特別の関心と感覚があることを評価してほしいといった欲望がパーチャーを始めとする諜報部員たちの幻影を見せたのだろうかといった想像をかき立てます。すなわち、自我への不安に襲われるからこそ主人公とその病気を内側から理解することができるように感じました。

  また、彼が数学的天分に恵まれていると思っているときには奇矯な振る舞いも楽しく見ることができますが、発病後は同じ振る舞いも周りの嘲笑の的となりますし、見る側もそれをマイナスに評価してしまうのに驚きを感じます。大げさに言えば数ある天才神話へのアイロニーになっているとも言えるでしょう。

  女性との付き合いもぎこちないどころか、初対面の女性に頬っぺたを叩かれるようなことをナッシュは言うので、とっても美しいアリシアとスムースに交際が進むので、これも電車男^^的な幻影ではないかさえ思いますが、その後の子育てしながらの苦労にはよく続くなあと思いますし、最後のノーベル賞授賞式でのスピーチにはほろりとさせられます。

  さて、この映画は数学者を採り上げているので、数学の話もかなり出てきます。それについて直接評価できるような能力は私にはないのですが、ナッシュの中心的な業績が非協力ゲーム理論における均衡分析だとすると、ゲーム理論の創始者のフォン・ノイマンの名前が出てこないのはちょっと奇異に感じましたし、多変量解析やらリーマン予想やら違った分野の話が文脈なしにいろいろ出てくるので、アクセサリー的なものかなという印象を受けました。

 


 

 

 

バタフライ・エフェクト

 

この映画のストーリーは一応次のようなものです。

  少年時代の約束。幼馴染みのケイリーのもとを去るとき、エヴァンは“君を迎えに来る”と誓った。だが、いつしか時は流れ・・・エヴァン(アシュトン・カッチャー)とケイリー(エイミー・スマート)は別の道を歩んでいた。

  エヴァンはごく普通の少年だった・・・時折、記憶を喪失“ブラックアウト”してしまうことを除いては。記憶の喪失は、7歳の頃から頻繁に起きていた。将来の夢を絵にしてみよう、と教室で言われたとき・・・あるいは母アンドレア(メローラ・ウォルターズ)とともに過ごす午後。そして、施設に収容されている父に会いに行った際も“ブラックアウト”は起きた。アンドレアはエヴァンの脳波を精神科の医師に検査してもらうが、何も奇妙な点は見出せずにいた。精神科医は治療のため、毎日の出来事を日記につけるようにすすめる。

 エヴァンと幼馴染みのケイリー、彼女の兄トミー、そして太ったレニーが幼い頃から共に遊んでいる仲間たちだった。少年時代は永遠に続くようにと思われた。が、それはエヴァンが13歳の時、トミーが言い出した、あるいたずらによって唐突に終わりを告げる。そのいたずらとは・・・エヴァンの記憶にはその瞬間に“ブラックアウト”が起きていた。気が付いた時に、彼は森の中におり、周りには強烈なショックのあまり倒れてしまったレニー、彼を抱きかかえようとするトミー、ただ震えているケイリーがいた。エヴァンは何が起きたのかまったく思い出せなかった。しかし、何か決定的な出来事が起きたのは間違いがなかった。

  アンドレアはエヴァンを連れてその街を引っ越すことを決める。エヴァンを乗せたクルマが走り去る時、走って追ってくるケイリーの姿が見えた。エヴァンは“君を迎えに来る”と紙に書き、窓ガラスに押し付けた。

  そんな大切な約束さえも時の流れは押し流していた。心理学を勉強する大学生となっていたエヴァン。今では“ブラックアウト”が起きることもなかった。過去は遠のき、ケイリーの記憶さえ消えかけていたが、すべては平穏だった。幼い頃の日記を見つけてしまうまでは。

  懐かしい日記を紐解いたとき、“それ”は起こった。気が付くと、エヴァンの意識は、日記に書かれている出来事の中にあったのだ。鮮明に蘇る過去の記憶、あの陽光、あの空気。それは強烈なリアリティを伴っていた。夢なのか、現実なのか。少年時代の空白の記憶の一端に触れてしまったエヴァンは、もう一度、あの頃の仲間たちを訪ねたくなる。ケイリー、トミー(ウィリアム・リー・スコット)、レニー(エルデン・ヘンソン)。そして、エヴァンは知ったのだった・・・あの時のいたずらによって、彼らの人生が大きく狂っていたことを、彼が“迎えに来なかった”ためにケイリーに起きた出来事を。約束を果たしたい・・・ケイリーへの思いが、エヴァンにある決意をさせる・・・。

  エヴァンはもう一度、日記を開く。何が起きるか、彼にはわかっていた。それはいつ終わるとも知れない危険な旅の始まりだった・・・。

 

 これじゃあイントロダクションとしての意味しかなく、ネタバレしないでこの映画を紹介することは不可能だと思いますので、以下お読みになる方はそのつもりで。……エヴァンは友だち、とりわけケイリーを救うために日記をタイムマシンのように使って、過去を書き換えていくんですが、そのお話の基本骨格自体が私の好みに合っているんでしょう、とてもおもしろかったです。あの時、ああすればよかったなんてのは誰でも考えることでしょうけど、およそ無意味ですね。でも、無意味だからこそのめり込んでしまうタイプの人間っているものです。

 そうやって書き換えられた過去をよくできた映像(特に最初のモテモテになるときの映像はたぶん麻薬やマリファナの幻想のイメージなんでしょうけど、とても刺激的です)で見せてくれるんですが、中でもヒロインのケイリーが自堕落なウエイトレスやきれいでセクシーな大学生、無残な売春婦といろいろ変わるところが見どころのような気がしました。

 もうちょっと映画の内容という面で言うと、7歳と13歳の時の欠落した記憶が埋められていくに従って、そのときの何気ない会話が意味深いものに再解釈されていくところが映画の醍醐味のように感じました。つまり台詞を始めとした演技は一つでも何通りにも解釈できるところがいいんですね。ちょっと幼児体験がすべてを決めるみたい決定論的なところがこの映画のタイトルの拠って立つカオス理論と矛盾してるんじゃないかとは思いましたが。

 この映画からいろいろ示唆されることも多くてまた何らかの形で書くこともあると思いますが、一つだけ気づいたことを書いておくと、レニーとトミーという幼馴染はエヴァンの性格のある一面を投射したものなんじゃないでしょうか。レニーは幼少期の体験で人格が崩壊していたり、別の過去では精神病院で拘束されながらエヴァンに「おまえがこうしているはずだったんだ」って言って、同じような能力を持っていたエヴァンの父親との類似性を感じさせます。サディスト的なトミーは、映画の冒頭で出てくるエヴァンが描いた残虐な絵に近いんですね。でも、この絵のエピソードは私には映画全体の中であまりうまく消化されていないように思います。エヴァンが包丁を持って母親の前に現れる場面へのタイムスリップも失敗しますしね。……ひょっとするとエヴァンがトミー的にふるまう過去も考えられていたのかもしれません。まあ、こんなふうに映画に余韻があって、その世界の中であれこれ考えて遊べるのが私にとってのいい映画なんですけど。

 そうそう、DVDにはストーカー編と涙のハッピーエンド編っていう2つの別エンディング(画像はその場面です)がついてるんですが、どっちかって言うと笑っちゃうようなもので、オリジナルのでいいんだよなって念を押すためのもののような気がしました。

 


 

  惑星ソラリスまたは首都高のフーガ

 

 

 仕事の必要上、首都高をよく通るんですが、あの皇居周辺や赤坂辺りのうねうねとカーヴが続き、地下にも潜ったりするところをあまり混んでないときに通るとタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」というSF映画を思い出します。

 大阪万博を未来都市として撮ろうと思っていたのが当時のソ連政府のお役所仕事のせいで閉幕してしまっていて、代わりに首都高を撮ったんだそうです。でも、知らないで見るとなかなか印象的で、むずかしそうなSF映画が始まりますよって感じがします。
 例によって、あらすじを安易に貼り付けちゃいます。

 
惑星ソラリス、それは宇宙のかなたの謎の星で、生物は存在は確認されないが、理性を持った有機体と推測されるプラズマ状の“海”によって被われていた。世界中の科学者達の注目が集まり、"海"と接触しようとする試みが幾度か繰り返されたが、いずれも失敗に終った。そして、ソラリスの軌道上にある観測ステーションは原因不明の混乱に陥ってしまっていた。
 心理学者クリスが原因究明と打開のために送られることになった。美しい緑に囲まれた我が家を後に宇宙ステーションヘと飛び立つクリス…。
 しかし彼を待っていたのは異常な静寂と恐しい程の荒廃だった。物理学者ギバリャンは謎の自殺を遂げ、残った二人の科学者も何者かに怯えている。そんなある日、突然クリスの前に、すでに10年前に自殺した妻ハリーが現われた。
 彼女はソラリスの"海"が送ってよこした幻だった。"海"は人間の潜在意識を探り出してそれを実体化していたのである。妻の自殺に悔恨の思いを抱いていたクリスは、遂には幻のハリーを愛するようになるが、科学者としての使命感と個人的な良心との相剋に悩まされる……


 この映画は、キューブリックの「2001年宇宙の旅」と並ぶSF映画の名作ってことになっていますが、原作のスタニスラフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」を先に読んで感動していただけに映画はあんまりおもしろくなくて、正直退屈でした。「2001年宇宙の旅」はCG全盛の今見ても(実際に数年前にDVDで見ましたが)その特撮技術の見事さ、作り込みの丁寧さには感心しますし、リヒャルト&ヨハン・シュトラウスの音楽の使い方とか、宇宙船の内部の無重力の見せ方とか娯楽的要素があって楽しめますが、こちらの方はセットがベニヤ板でできてるのかなって感じがしてシラけちゃいましたから。……ソダーバーグがリメイクしたのもわかんないではないです。そっちは見てないんで何にも言えませんが、タルコフスキーって信者が多いらしくて散々な評価みたいでした。

 いちばん気に入らなかったのはラストが原作と違うことで、あれれって思っていたら、よりにもよってバッハのオルゲル・ビュッヒライン(オルガン小曲集)の中のBWV639「Ich ruf' zu dir, Herr Jesu Christ わたしはあなたに呼びかけます、主イエス・キリストよ」が鳴るんですね。「ハンニバル」もそうだったんですが、私はバッハが好きなだけに映画であんまり使ってほしくないんです。それは神聖なバッハ様を汚すとかそういうことじゃなくて、彼の曲を聴くと意識が映画から音楽の方に行っちゃって、落ち着かないんですよ。だいいち原作では「愛する人間を亡くす」という個人に属する問題と記憶という一般的な問題を極めて緊密に結びつけた結末だったのが、映画では意表は突いているかもしれないけれど、肩透かしのようなラストになってて、「あとはバッハ先生よろしくね」なんて感じがして不愉快でした。……私に言わせればバッハが徹頭徹尾音楽でものを考えているのに対して、タルコフスキーは映像でものを考えてないってことになりますね。

 


 

 いちご白書がもう一度

 

 

 この映画は名前だけは知っていたので、先日、BSで放映されていたのを機会に見てみました。あらすじを例によって貼り付けます。

 
サイモン(ブルース・デイヴィソン)の大学は、目下ストライキ中だ。学校当局が、近所の貧しい子供たちの遊び場になっている土地に、予備将校訓練隊のビルを建てようとしたのが、そもそもの始まりだった。これに社会不安、政治状況がからみあって、騒ぎは深刻の度を加えていった。
 サイモンはボート部員で、学校友だちのチャーリー(ダニー・ゴールドマン)と同居していたが、ある日、見物がてら警備線の張りめぐらされた、構内に入って行った。チェックを受けて本館に入ると、内は占拠学生で賑わっていた。総長室で用を足すカップル、天井から入り込むベントン博士(イスラエル・ホロヴィッツ)、オルガナイザーのエリオット(ボブ・バラバン)、議長役の学生(ジェームズ・クーネン)、など、サイモンの好奇心を刺激してやまなかった。
 そこで、偶然、校門のところで魅かれた女の子に出会った。彼女はリンダ(キム・ダービー)といい、女性解放委員をしていた。リンダと知り合ってから、サイモンは積極的に闘争に参加するようになり、舵手のエリオット(バッド・コート)を、籠城組にひき入れてしまった。しかし、リンダには、闘争に対するサイモンの態度が気に入らず、またボーイフレンドのいる身で、いつもサイモンと一緒にいることにもたえられず、彼から去って行ってしまった。
 リンダのいなくなった籠城生活は、サイモンにとって、バラ色の光を失ってしまったが、反対にゲバルト闘争に対する本質的な眼が開きはじめた。そして、右翼のボート部員ジョージ(マーレイ・マークロード)に殴られたことから、急速に、運動の渦中へ入っていった。その彼の意識の高揚を待ち受けていたかのように、リンダが彼のところへ戻って来た。彼女と同じ目的のため、手をたずさえて行動することに、彼ははじめて、すがすがしい生き甲斐のようなものを感じた。
 時が経つにつれて、当局の腐敗が暴露され、学生の怒りは、奔流となってあふれ出した。ついに、当局は実力行使を決定。武装警官隊は州兵の応援を得て、バリケードを破り、屋内に突入して来た。講堂に数百名の学生たちが集結していた。侵入者たちは、大義名分を盾に、暴力をふるい、襲いかかった。学生たちは、学内いっぱいに波紋のような輪をつくり、怒りをころして抗議をつづけていた。
 しかし、棍棒はようしゃなく振りおろされ、輪はたちまち寸断されてしまった。学生たちは、次々に排除され、サイモンとリンダもその中にいた。2人は、たがいにかばい合い、権力の暴力に抵抗した。棍棒がリンダの顔を鮮血で染めた。サイモンは純粋な怒りをもって、警官に躍りかかっていった。だがやがて、学生の反抗は、圧倒的な武力の前に鎮圧されてしまった。しかし、いま、沈黙をよぎなくされた、これら若き怒りたちは、明日の反乱の日を求めるかのように、学内を彷徨い続けていた。


 1968年4月のコロンビア大学の学園紛争の参加したジェームズ・クーネンの原作によるもので、彼自身上記のように議長役として出演している70年の映画です。76年にまだ荒井由実だったユーミンが“「いちご白書」をもう一度”という曲を作っていて、おじさんが遠い目をしてカラオケで歌っているのを聴いた人もいるでしょう。……こうやって年代を挙げていくだけで、団塊の世代だぁぁって感じですね。英語で言うとベビーブーマー、フランス語ではアプレ・ゲール(ウソだけどw)。引用させてもらいながら言うのもなんですけど、“あらすじ”にしても、ゲバルト闘争、権力の暴力、純粋な怒りととっても濃いっていうか、中島みゆきのような暑苦しさがw。シュプレヒコールの波♪なんてね。

 でも、この映画は実際に見るとかなりバラバラな印象を受けます。なんかおもしろいことないかな的ないい加減なサイモンがミニスカのむちむちしたリンダとなかよくしたいから、学生運動に巻き込まれちゃった青春グラフティのようなところとゲバラや毛沢東のおっきなポスターがことさらしく画面に出てきて権力の欺瞞と闘う学生の姿をルポルタージュしてみましたみたいなところが混ぜ混ぜです。“民主的なお話し合い”で作ると往々にしてこうなるんですけど。

 それでこの映画の題名の「いちご白書」なんですが、オリジナルは“The Strawberry Statement”で、学長が学生たちに向かって「君たちはいちごだ。甘くて赤い(つまり共産主義者)」と演説したのに由来しています。ひねくれ者の私としては、学長さんうまいこと言うじゃんって感心しちゃいましたw。世間知らずの甘ったれのくせに社会や政治のことになるとやたら過激で実現性のないことを言う、学生ってそんなもんです。まあ、今はそういうのも少なくなって小賢しいのばっかりかもしれませんが。……で、それが邦訳では白書になったんですが、これは誤訳のようで名訳なのかなって思います。いろんな要素が低予算のせいなのか整理されずに生のままモザイク的に出てくるところが(当時理解されていた)白書ってイメージに合ってるなって。

 この映画ではいろんな音楽が出てくるんですが、最初とエンディングに出てくるバフィ・セント・メリーの歌う「サークル・ゲーム」がポップでセンチメンタルなメロディとヴィブラートなのか音程が不安定なのかわかんないような歌い方とが相まって、とてもいいですね。「回転木馬のように季節は巡る。人生はまるでサークルゲームのようだ」って歌詞なんで、今でもノスタルジックな感じのCMソングに使われたりします。この映画では額縁のように使われているので、青春の一場面的なイメージを強めてると思います。

 それと対照的なのがジョン・レノンの“Give Peace a Chance”で、体育館(あらすじで講堂ってなってるのは安田講堂でもイメージしたんでしょうかね)に籠城した学生たちが床を叩いて歌います。レジスタンスって感じですね。非欧米風(だと思うんですが)の単純素朴なリズムが抵抗運動とか革命とかって気分を昂揚させてくれて気持ちいいんだろうなと思います。

 さて、最後に白書っぽいことを書きます。団塊の世代ってだいたい昭和23年(1948年)前後の人たちを言うんですが、今でも210〜220万人もいて、110万人ほどの最近の赤ちゃんの倍もいます。下の図はいわゆる人口ピラミッドですが、もちろんこんなグラマラスなおねえさんのようなピラミッドは建ってられませんね。バストの部分が団塊の世代で、ヒップの部分が彼らの子どもの世代、団塊ジュニアです。

 





 これを見てるだけでも年金を始めとした社会保障はどうなるのか、景気対策とかで散々浪費したツケの巨額の財政赤字を誰に払わせるのかって気になりますが、まあそれはとりあえずおいときましょう。私が言いたいのは、かつての学生運動の本当の理由ってこの団塊、大量の人のカタマリが暇で自由な大学生だったから起こったんだってことです。……もちろんいっぱい異論があるでしょうね。ヴェトナム戦争があった、成田空港問題があった、公害があった、大学が腐敗していた、そんな社会の矛盾が背景にあったんだよ、わかってないねと。なるほど。じゃあ、そんな社会の矛盾だか、政治のおかしなことはなくなったんですか? ユーミンの歌のように就職が決まって長髪を切ったのは問題が解決したからですか?……今だって社会問題や政治問題はいくらでもあります。昔より多いか少ないかは別として。

 で、私が言いたいのは、もうすぐこの団塊の人たちが順次会社を定年になって、やっぱり暇で自由になるってことです。彼らの持っている大量のおカネを目当てに既にいろんな企業がもろもろの商品戦略を立てていることはご存知だと思いますが、それだけではないでしょう。目の前に忙しくてかまっていられなかった社会問題や政治問題もあるわけです。実際、そういう問題に多少なりとも継続的に取り組んで来たのは、私の見るところ団塊の世代以下の主に女性です。ってことで、「いちご白書」がもう一度なんですよ。甘くて過激な、そして結局社会を良くするどころか、引っ掻き回すだけで後は知ったこっちゃない、説明責任なんていう言い訳だらけの人間を育てるだけの空騒ぎが起こるでしょう。いやはやそう思うと憂鬱です。

 そんな悲観的な私に頼もしい人生の先輩、団塊の世代の方のやさしい声が響きます。……何を言っているんだ。ぼくら(先輩は一生この一人称を使うんでしょうか?)だってもうあんないちごじゃない。世の中の仕組みも人生の酸いも甘いも噛み分けた大人に成長したんだよ。あれをよこせ、これをよこせなんて結局、君たちの負担を増やすばかり、ぼくらは子どもたちの倍もいるんだからつつましくしないとね。今の政治にしても社会にしても、いやそんな大げさなことを言わなくても企業にしても、良くなっていないとすればそれを支えてきたぼくらの責任じゃないか。文句を言うなら企業の中で主張し、自分たちの周りで行動すべきだったんだ。それを気楽な立場になったからって、口を拭ったように若い諸君にああしろ、こうしろなんて高みから言うなんて恥を知らないやり方だ。平和にはチャンスを、しかし我々にはもうチャンスは十分与えられてきた。今さら何を言おう。……てな人はいますかねw。

 


 

  あさき夢みし〜とはずがたり、ふたたび

 

 

 「とはずがたり」を題材にした映画があるというので、見よう見ようと思いながら原文の方の連載が終わってしまいました。今になってやっとDVDを見つけてレンタルしました。私は原作と映画を比較していいとか悪いとか言うのは間違っているという立場で、「原作の雰囲気を損なっている」というよくある批判は安直なだけじゃないかって思います。それで、最初は原作と切り離して映画としてどうかってことを書いてみます。

 最初に時代背景を説明するような場面が続きます。蒙古襲来に伴う庶民の悲惨な生活、それらをよそに快楽的な生活に耽る皇族・貴族といったことで、この映画が作られた1974年という時代に合った、しかし今となってはNHKの大河ドラマだって採らないようなありきたりの歴史観です。で、もちろん女性は弱者で虐げられる存在ってわけです。主人公の四条は後深草院や西園寺実兼の思惑のままに産んだ子を取り上げられたり、好きでもない男と一夜を過ごすことになったりします。四条は元来西行にあこがれ、厭世の気持ちや踊り念仏の一遍上人に惹かれたりもしてたんですが、情熱的な愛情を注いでくれた阿闍梨が急死したことをきっかけに出家して、諸国遍歴する中で真の生き方を発見します。……

 脚本は大岡信ですが、ストーリーはパッチワークだし、台詞に意味も魅力もなくてひどいものだと思います。だいいち基本的な歴史知識も持っていないのか、阿闍梨と一遍上人が面影が似ているという設定はともかく上人が護摩を焚くのにはびっくりしました。念仏を称えさえすれば浄土に行けると何回も登場人物に言わせてるのに……それこそ密教の階級性wに自覚がないんじゃないかって思いました。実相寺昭雄監督は、影を多用した凝った映像でそれなりに効果を挙げているところもありますが、それが作品の中で意味があるのかないのか、自分は自分の撮りたい絵を撮らせてもらいますってところみたいです。音楽は広瀬量平でコル・レーニョが効果を挙げているところやチベット音楽みたいなのも出てきて、映像とはよく合っていました。

 キャストの中では阿闍梨の岸田森が情欲の虜って感じで、いちばんおもしろかったですね。私だったら彼を中心に据えて院との三角関係だけで作っちゃいますが。華麗でドロドロのねw。ジャネット八田の四条は、目線や少しだけ出てくるヌードはいいんですが、動いたり、しゃべったりするとダメでしたw。……何よりだらだらした筋の運びで、もう終わりかなと思うとまだ続くっていう私のいちばん苦手な映画で、2時間がとても長くて、ハリウッドのプロデューサーにハサミを入れてほしいって思いました。

 で、原作(ただこの映画には「とはずがたり」への言及はないので、単に参考にしたってことかもしれません)との関係について言うと、エピソードはいっぱい借りてきていますが、原作のイメージは全くありません。蒙古襲来も出てきませんし、庶民は「卑しき者ども」っていう見方ですし、子どもが連れていかれようが、思ってもいない男と情交することになろうが、まあ一応は嘆きますが、すぐにけろっとして豪奢な宮廷生活をエンジョイしてたっていうのが原作者二条の姿です。諸国遍歴してるときも自分は都の文化の伝導者とでも思っているみたいですからね。そうそう、映画はなぜ二条を四条にしたんでしょうね。だいぶ庶民的なにぎやかなところに下ってますけどw。

 もちろん最初に言ったように原作を変えたっていいんですが、それで何か別の価値が生まれたかって言うと四条のキャラクターは平板で魅力的でもないし、苦悩も浅くて全く感情移入できません。岩清水八幡宮で院と再会するところも、院の葬列を裸足で追いかけるところも使わないのがそのいい例だと思います。そのため、映画全体として変にマジメで、重苦しいだけなんですね。最後のシーンで四条が実兼に渡すのが上人を自ら描いた絵巻物で、つまり「一遍上人伝絵巻」の作者は四条でしたってオチなんでしょうけど、生半可な思いつきを得意気に脚本にしたっていうこの映画全体の象徴のようで苦笑いするしかありませんでした。