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クラナッハ:ユーディット

クリムト:ユーディット

ティッチアーノ:ダナエ

クリムト:ダナエ

ブリューゲル:雪中の狩人

マチス:葦の中の水浴

ルーベンス:毛皮をまとった妻

モディリアニ:ラロッテ

クリムト:白樺のある農家

シャガール:天子に抱かれたヤコブの戦い

芸術家Mのできるまで

ピアノの森

 

 


 

 

 

クラナッハ:ユーディット

 

 ウィーンに住んでいたとき、お客さんが来るとだいたいご案内するコースが決まっていて、その中に美術史美術館がありました。ですので、30分とか1時間とかのご都合に合わせて、ポイントを絞って解説めいたことをしていました。美術史美術館はヨーロッパきっての名家ハプスブルク家の所蔵品が中心ですから、名画も多いのですが、必ずこのクラナッハの絵(1530年)をご紹介し、その反応を見るのが密かな楽しみでした。特に女性の場合には……

 この絵は、旧約聖書に取材したもので、ユーディットという寡婦が祖国を救うために一人、敵陣へ赴き、敵将のホロフェルネスを誘惑し、ことの済んだ後で、その首を切って敵を敗退させたという話です。救国の英雄、美貌と勇気を兼ね備えた賢女といったところでしょう。

 しかし、クラナッハがそういう公式解釈に則って描いたとは到底思えません。冷酷な目と堅く結ばれた口元にわずかに漂う笑み……このユーディットはどう見てもアブナイ女です。気品に満ちた容姿の裏には、セックスと殺人を果たした後のエクスタシーが隠されていると言って差し支えないでしょう。クラナッハは念の入ったことにこの絵と同じようなテイストで、あのサロメも描いていて、そちらでは洗礼者ヨハネの首の入った大きなお皿を抱えています。

 かのボッシュもそうですが、聖書に題材を取りながらアブナイ絵を描くというのは、どうも中世以来の伝統で、ちょっとだけ知識があれば(絵画に使われるお話はだいたい決まっています)ふにゃふにゃした印象派の絵なんかよりもよほどおもしろい世界が広がっています。美術の教科書には出てこないでしょうけど。

 品行方正な紳士、淑女の耳元にそっと近づいて、どうです?こういうのってお気に召しませんか?とクラナッハはささやき続けています。

 悪趣味? 現代は悪趣味な映画やゲームやマンガがあふれています。どうせ悪趣味なら、400年以上経っても悪趣味であり続けてほしいものです。

 


 

 

 

クリムト:ユーディット

 

 ユーディットと言えば、こっちの世紀末ウィーンの代表選手クリムトの作品の方が有名でしょう。前回のクラナッハと比べると、クリムトはもっとユーディットの陶酔の表情を前面に出し、金色を多用してとても装飾的な画面を作っています。その一方で、ホロフェルネスの首はほとんど描写していません。ですので、残酷さは消えて、エクスタシーと言うか、官能美が強調されています。

 美術史美術館の内装をクリムトは手がけていて、元々はそういうデザインが本職でしたが、肖像画で女性の美しさを最大限引き出してくれるため、ウィーンのセレブwな女性に大人気だったそうです。今で言えば売れっ子カメラマンみたいなもんでしょう。そういう職人には生首なんかはよけいなものだったのだろうと思います。

 クラナッハとクリムト、どちらを評価するかは人それぞれですが、どちらのユーディットを魅力的と感じるか……私の答ははっきりしています。

 


 

 

 

ティッチアーノ:ダナエ

 

 ゼウスはギリシア神話の最高神で、雨雲や雷を自由に扱うことができる、つまり自然の猛威の象徴です。気まぐれで豊饒をもたらす自然らしく、大変な浮気者wで、嫉妬深い妻のヘラの目を逃れるため、様々なものにメタモルフォーゼして美女を訪れ、片っ端から子どもを作っちゃいます。中でもレダのときの白鳥とこのダナエの場合が絵画の題材としてよく使われます。白鳥の方は音楽もあったかも。

  ダナエの父はどこだかの王様だったのですが、娘の産んだ子に殺されるという神託を下されて、娘を青銅の塔に閉じ込めてしまいます。娘可愛さじゃなくて死ぬのが嫌で箱入り娘にしちゃうんですから、ちょっと情けないですが、ギリシア神話では運命に逆らうようなことをすればするほど実現してしまいます。オイディプス王の話が典型です。案の定、ダナエの美しさを聞きつけたゼウスは、雷のように素早く、彼女の元へ黄金の雨に変身して降りそそいだのです。それで生まれたのがあのメデューサを倒した英雄ペルセウスというわけです。

  クラナッハのときに絵画に取り上げられる聖書のエピソードは大した数じゃないということを言いましたが、それはギリシア神話でも同様です。ちょっと知っていれば欧米の美術館巡りも楽しいでしょうし、構図がどうとか、色彩がどうとかいう(学校で教えるような)無味乾燥な鑑賞方法からおさらばできるでしょう。音楽で言うとソナタ形式とか和声法とかいうことですが、私見によればそういうのは一応知っていればいいので、あんまり分析的な批評ばっかりするのは、貴族が料理人の食材や調理法を気にして厨房に入るようなみっともなさを感じます。

  さて、前置きが長くなってしまいましたが、このティツィアーノ(1488-1567)では光輝く黄金の雨、白い肌のダナエ、雨を防ごうと慌てるばあやが三角形の構図で描かれていますw。そう思ってみると、彼女の腕、2本の脚、老婆の腕が小さな三角形を形作りリズミカルな画面構成になっています(やっぱりつまんないなぁ)。それらはすべてダナエのポーズと肌の美しさ、エロスを際だたせるためであり、プラド美術館でも指折りの名作です。彼女の表情はどうです? 少なくとも夜這いをかけられて怖れているようには見えないでしょう。やや陰になった目の辺り(これが天才の業です)からは、求めていたものがやって来た満足と恍惚がほのかに漂っているように感じます。

  ……隅っこの犬は守るべき主人を守れず、丸まっていますが、神の登場でなす術もない父親を象徴しているようにも思えます。娘なんて自ら望んで奪われていくものですが、これを世の父親は受け入れられないでくだらないことをしてしまうのでしょうねw。

  ティツィアーノはヴェネチィア派の代表選手で、フィレンツェ派のミケランジェロ(1475-1564)やラファエロ(1483-1520)と同時代人です。ベッリーニに始まるヴェネチア派は、他にジョルジョーネ、ティレントレット、ヴェロネーゼと多くの才能を生みました。ヨーロッパの美術館ではよく見かけますので、知っておいて損はないと思います。

 


 

 

クリムト:ダナエ

 

 ダナエの絵では、このクリムトの方が有名でしょう。彼は極端に切り詰められた空間にまるで胎児のようなポーズのダナエを押し込んで、眼のような、プランクトンのようなフロイト的な模様の薄いカーテンを配し、閉ざされた寝室の雰囲気を醸し出しています。

 いやそんなことよりも大きなお尻、エクスタシーの表情と指……これほどエロスがあふれた絵も少ないでしょう。ゼウスが変身した黄金の雨は股の間にたっぷり降りそそいでいるしw。まあ、神話に名を借りたきれいでエロな絵だと言っていいでしょうし、だから人気も価値もあるんだと言い切っちゃいましょう。この際^^。

 画像でははっきり見えないかもしれませんが、微妙な位置にある黒い四角が何を現しているのか、私にはとても気になります。ゼウスの意識のようなものなのか、デザイン上の配置なのか、単なるキズではないんでしょうが、画面に溶け込んでいないだけに目を引きます。……これを男性器だろうと親切に教えてくださる方がいらっしゃるんですが、残念ながらそうしたフロイト的な解釈でこの絵の理解が深まるとは私には思えないのです。

 


 

 

 ブリューゲル:雪中の狩人

 

 ウィーンの美術史美術館は、お客さんのお伴で嫌というほど行ったのですが、昨年、ひさしぶりにウィーンを再訪したときもやはり行ってしまいました。なつかしい数々の名画の中でも、最も人口に膾炙しているのがこのブリューゲルの「雪中の狩人」(1565年)だろうと思います。この絵は同じく有名な「バベルの塔」と右の角隣り、さらに出入り口を挟んで、左には「農民の結婚」、「子どもの遊戯」、「幼児虐殺」と並び、ブリューゲルのファンにとっては聖地のようなコーナーでしょう。 下に再現してみました^^。

 この絵は、117×162cmとそれほど大きなものではなく、他のもだいたい同じようなサイズなので、「バベルの塔」なんかは意外に思う人も多く、「本物ですか?」と率直な質問をされた方もありました。いくらよくできた画集でも実物とはどこか違いますし、そのときの天候や見る側の体調とかでも違って見えると思いますが、初めて見るときの違和感というのはまた別のもののような気がします。そういうのが何度も見ていると消えていき、逆に複製は見る気がなくなってしまいます。 

 私は実物を前にしてくどくど説明するのは嫌いで、ゆっくり見てくださいっていう方がいいんですが、何か解説してほしいっていう人がほとんどでした。美術展でいちばん人気がある作品は、入口のごあいさつのパネルだというのが私の皮肉で、ああいうのは読んだことないですし、ましてやカタログを片手に鑑賞と言うより、点検みたいなことをしている人の気が知れません。ですので、自分の目で見るためのあくまで補助として、この絵であれば狩りが不猟に終わって犬もしょんぼりしていることやそうした近景と遠景のスケート遊びとのコントラストみたいなことを言うだけでした。絵画の解説でいちばん簡単で、聞いた人がわかった気になるのは構図です。空間芸術ですから構図は誰でも言われれば納得しちゃうんですね。

  今は実物が目の前にないので、もう少し分析的なことを言うと、近景と遠景はリズミカルな木々と家並みでつながれていて、飛ぶ鳥が視線の方向を誘導しています。もっとすごいのが、ほとんど白と黒で描かれた大胆な色彩――冬の彩りのない風景をそのまま描いたということでしょう。さっき挙げた彼の他の作品もそうですが、印象派以前はやにっぽい色調がほとんどなのに、この絵は全くそういうところがなく、非常にモダンな感じがします。そうしたことで生み出される寒さという皮膚感覚が不猟というドラマを引き立てているわけです。

  ブリューゲルの絵には「農民の結婚」のように解読しにくいものも含めて、明らかにドラマがあります。たぶん瞬間を切り取った絵の前後に起きることを想像させることによって、時間という要素を直截に取り込もうとしたのでしょう。優れた芸術家は自分の芸術分野にとって困難なことに取り組みたがるというのが私の考えで、空間芸術にとっては時間、平面の絵画においてはセザンヌやピカソが取り組んだように立体をいかに表現するかという問題が重要であったと思います。

 

 

 

 

 


 

 

マチス:葦の中の水浴

 

 南仏のニースには多くの美術館があって、その中にはマチス美術館もあります。ここには大作はないのですが、いわゆるブルー・ヌードのシリーズがあってとても印象的で、きれいでした。空港に行くまでの短い間でしたが、朝早かったので窓からの光も瑞々しかったのを覚えています。

  こうしたいかにも抽象的な絵を見ると反発する向きもあるでしょう。こんなのはマチス(1869-1954)だからありがたがられるのであって、一応の絵心があれば誰でも描ける切り絵みたいなものではないかと。確かに造形といって特別なものはなく、通常の意味でのマチエールもなく、実物の色も全くグラデーションのようなものはありません。

  この問題についての私の考えを述べる前にちょっと寄り道をして、終生のライヴァルであるピカソの話をしましょう。ピカソはマチス以上に有名で高価ですから、そういった類の批判にさらされてきました。ある日本の有名作家は激したとも言うべき筆致でピカソなんかに感心したことはないと主張しています。その適否はともかく、権威にひれ伏さず、「裸の王様」だと言う勇気は常に必要でしょう。私も正直言ってキュビスム以降のピカソについて全部が全部傑作なのかは疑問を持っていますし、ゲルニカを観たときも大きいなぁ、すごい警備だなぁという間抜けな感想しか持てなかった人間です。しかし、箱根の美術館でピカソが描いた夥しい絵皿を順々に観て行って「どうだい? 私は呼吸しただけでも天才だってことがわかるだろう?」と彼に言われている気がして、好感は持てなかったもののその才能には圧倒されました。

  マチスの制作に対する姿勢はもう少しまじめなものだと思いますが、同様に多くの類似作品が並べられた美術館で観た上で判断すべきだと思います。ピカソもマチスも高い世評を背景に、悠々自適の晩年において自由気ままに造形と戯れているのですから。……

  この「葦の中の水浴」(1952年)もマチス美術館で同時期の多くの絵画、彫像、服飾デザインなどがあって、初めて理解されるものなのかもしれません。でも、冒頭に述べたような幸福な条件の下で観た私には、この作品単独で取り出しても、ここまで単純なフォルムでいながら、しかもエロスがちゃんと漂っているのは見事だと思えます。それは実際の女性のイメージを喚起するなどといったものではありません。

  抽象画も絵画の一種ですから、どのように見ようとその人の自由ですが、私は具象画に還元したりはせず、そのまま作品と対話するのが好きです。そして、多くのダイアログが成り立つ作品が私にとっての傑作なのです。その内容をふつうの言葉で表現することは困難なのですが、そこがまた心に残る所以でもあるわけです。……この絵のレプリカがとてもよくできていたので買い求めて、部屋に飾っています。しかしながら、今まで来客の関心を惹いたことはありません。

 


 

 

 

 ルーベンス:毛皮をまとった妻

 

 ルーベンス(1577-1640)はレンブラントより少し前の世代に属しますが、対照的に世俗的な栄光に包まれた生涯を送りました。多くの天才を輩出したフランドル地方に生まれましたが、イタリア、スペインを渡り歩くうちに技量も名声も上がり、アントワープの宮廷画家として、1200点に上る作品を量産しました。ヨーロッパの美術館に行くと、またお会いしましたねって感じで彼の作品が多く展示されているのもかつての王侯貴族からの人気と制作量を示すものでしょう。

  特に彼の作品は巨大なものが多く、ウィーンの美術史美術館にあるものでも「イグナチウス・ロヨラの奇跡」は535cm×395cmですから面積にして21屬△泙蝓∀讃間くらいのものです。名前は忘れましたが、これとペアのような感じでほぼ同サイズの宗教画(たぶん同様にイエズス会のために描いたものでしょう)が広い展示室の反対側にあって、壮観です。ダイナミックな構図、衣装などの質感の表現力、色彩の配置の妙、すなわち技術として申し分ないものです。ただし、広く知られているようにこうした作品はルーベンス個人がすべて描いたわけではなく、多くの弟子たちが分担した“ルーベンス工房”によるものです。こう言うと芸術を“個性の表現”と考える向きからは価値の低いものと考えられるのかもしれませんが、私にはそれは偏狭な時代遅れの考えという気がします。

  例えば宮崎駿監督によるアニメには多くの人が製作に関与しているわけですが、それをもって彼がたぶん独りで描いたコミックス版の「風の谷のナウシカ」よりも価値の低いものと言うことはできないでしょう。現代はプロデューシングがクリエイティヴな仕事においても重要なファクターであり、ルーベンスについてもそういう観点で評価すべきでしょう。その上で“個性”を見ることは可能で、それが価値判断の“通貨”のようになっているのかもしれませんが、直接的に作品として優れているかどうかで判断すればいいのではないかと思います。

 では、私が“ルーベンス工房”の巨大な作品が好きかと言えば、感心はしますが、感動はしませんねw。ルーヴル美術館のダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」(58屬△襪里任舛腓辰箸靴織泪鵐轡腑鵑らいの広さです)辺りを頂点とする巨大な作品についてそうであるように。……ただこういった作品は日本で見ることはおそらく不可能なので、欧米の美術館を訪れる際の醍醐味の一つだろうと思います。

  さて、いずれにしても六畳間もある作品をここの画像に掲げても何の意味もないので、「毛皮をまとった妻」(ca.1635-40)を採り上げることにしましょう。これも176cm×63cmという一人の人物画としてはほぼ最大の、おそらく等身大のものでしょう。60歳前後の巨匠が晩年に娶った若い妻エレーネを描いた極めて私的な作品で、いくらなんでも工房の連中には手伝わせなかったでしょうねw。現代の美の標準がシャラポワみたいなタイプだとするとこのエレーネはちょっとお肉が多いのかもしれませんが、それでもエロスは十分感じますね。まあルノワールほどじゃないし、モディリアニなんかそうですけどヌードはちょっと太り気味な方がいいんでしょう。

  それ以上に老いてますます盛んなルーベンス先生に感心してしまいます。ヴィーナスの格好をさせてアリバイを作った上で、体をねじらせたり、右腕で乳房を持ち上げさせたり……ずるいですよ、ねえ? このポーズはかなり無理があるはずで(女性の読者だけやってみてくださいw)、それだけにダイナミズムを生んで、筋肉の緊張がより彼女の肢体をいきいきと見せているわけです。もちろん毛皮の黒が肌の血の通った白さを引き立てていることは言うまでもありません。これだけの傑作の制作年代がはっきりしないのは、おそらく自分だけのものとしてずっと手元に置いていて、遺産となったんじゃないかと思います。彼がこの絵を描いた動機がどうであれ、死んでしまったら恥ずかしいようなものしか残らない凡人とはわけが違いますか。

 


 

 

モディリアニ:ラロッテ

 

 この間、雨の代官山の詩を書いて、そこにユトリロを出しましたが、春先とか、秋の終わりくらいの肌寒い雨の日には、エコール・ド・パリの絵が似合うような気がします。本当は仕事にも行きたくないし、外出だってしないでヨーロッパの片田舎の老人みたいに一日中窓の外を眺めていたいような。そんなことをしていると段々精神的に退行していって、昔のことばかり思い出して感傷的な気分になります。……

 私にはモディリアニの絵ってそういう感じです。人間、いつもいつも名作、傑作ばかり見ていたいわけではないでしょう。技術も先見性も中途半端で、底の底のところで何がしたかったのか、本人だってわからなかった、でも捨てきれない昔馴染みの画家です。

  彼の作品はほとんどが人物画で、風景画ばっかりのユトリロと好対照ですが、大きく3種類くらいに分かれるような気がします。横たわったポーズの多いヌード、アフリカとかの彫像の影響が顕著な奇妙な形の半身像、そしてこの”Larotte”のような感傷的な暗めの肖像画です。

  ヌードは肉感の表現においても、肌のあたたかみのある色彩においても、いちばん成功しているでしょうが、どうも娼婦っぽい表情が好きではありません。ゆらりと揺れたようなエメラルド色の瞳のない肖像画は、彼自身がいろいろ工夫して自分の将来を託した絵だと思いますが、結局自分のものにこなしきれなかったように思えます。

  最初は驚くのですが、慣れてくるとデザイン化された記号、つまり悪い意味でのマンガのように見えてくるのです。逆に実際のマンガ家の方がモディリアニの絵の持つ独特の媚びたような感傷性を真似ている場合もあります。でも、沈み込んだような色彩においても、粗壁のようなマチエールにおいても言わば自分の手の内で仕事しているので、破綻は少なく、親しみやすく感じます。

  この絵も全く冒険をしていないわけではなく、筒のような首を中心に幾何学的な胴体と頭でまるでキュビスムのように構成しながら、花瓶に挿した花を思わせるような髪の毛で不自然さをカヴァーしています。でも、この絵の魅力はその目でしょう。全く塗りつぶすのではなくわずかに瞳を描くことで、彼と彼に近かった人の哀しみを否応なく表現しています。

  彼が貧困と病に倒れ、それを知った妻のジャンヌ・エピュテルヌは身重であったのにもかかわらず、アパルトマンの窓から飛び降りて、後を追ってしまいました。この有名なエピソードは、絵を観る場合には本来はどうでもいいことのはずなんですが、彼の絵にはそうさせないものがあるのです。それは感傷的という意味で弱点であり、親しみやすさという意味で他にとって代わられない強さでもあると思います。

 


 

 

クリムト:白樺のある農家

 

 この絵はウィーンでも、美術史美術館ではなく、オーストリア・ギャラリーの所蔵です。クリムトの作品はこことベルヴェデーレ宮殿、何よりベートーヴェン・フリーズなどで有名なセゼッション(分離派美術館)にあって、要はハプスブルク家の持ち物になる前に王朝が崩壊してしまったんでしょう。

  これまで彼の作品については、「ユーディット」(11/30)と「ダナエ」(12/2)を採り上げてきました。しかし、1900年のこの作品は見ておわかりのようにクリムトの絢爛豪華にして、頽廃的なイメージとは全く違っています。まず目に付くのは目線の低さです。農家が画面の上端ぎりぎりに描かれていることから、ほとんどうつむいていると言っていいでしょう。彼の他の風景画においてもこうした異様な目線の低さがしばしば見られます。

  次にひょろひょろとした白樺の頼りなさです。単純な話、こういう木を子どもが描いたら親や教師は心配する必要があるように思います。バウムテストはもっと厳密な指示を与えて描かせるものですし、それ自体どこまで信用の置けるものなのか疑問はありますが、少なくとも女性を描いているときのクリムトが公的なペルソナをまとっていたとしたら、この絵では私的なペルソナで不安におびえる姿を示していると言えるように思えます。

  また、この画面が正方形なのも注意すべきでしょう。一体に絵の縦横の比率は、古来から言われる黄金比(1:(1+√5)/2≒1.618)前後にするのが落ち着きがいいはずなのに、クリムトは「ユーディット」のように極端に縦長の画面を使ったりしてきました。不安定な気分に私などはなってしまいます。……ただ、そういう精神分析学的な解釈ではなく、もっと素直に掛け軸や色紙のような中国や日本の絵画の影響を見た方がいいのかもしれません。「ユーディット」がそうですが、しばしば装飾的な額縁を含めて作品として成立しているのも、そういった東洋の工芸品の文脈で考えるのがいいでしょう。

  この絵に描かれた内容に戻ると主役は小さな花をつけた野草と白樺のように思いますが、タイトルは“Bauernhaus mit Birken”で農家に白樺が添えられている(mit、英語のwith)ことになっています。そんなにこだわる必要はないのかも知れませんが、この主客転倒もどこかゆがんだものを感じます。

  こんなふうなことを考えながら、クリムトの作品を観ていくと安易な比喩だとは思いながらもマーラーのシンフォニーと相通じる世紀末ウィーンの時代精神を感じざるを得ないのです。

 


 

 

 

シャガール:天子に抱かれたヤコブの戦い

 

 南仏のニースにはシャガール美術館があって、大作がたくさん収蔵されています。シャガールの色彩は実物で見ると本当に美しく、うっとりとながめてしまいますが、中でも青が私は好きです。そこの小さなコンサートホール(auditorium)には青いステンドグラスがあって、その光を浴びていると何か水族館の魚のような気分になります。何度も出たり入ったりして、楽しみました。。外国の美術館はたいていが空いていて、世界的名画でもゆっくりと対話をすることができますし、自分のリズムであちこちふらふら見たりできます。。。そういうことが日本ではできず、まるでラーメン屋の行列みたいだし、早く次へ行けよっていうオーラを周りから感じるので、行きません。。。堪能できないような名画は自称、ネコ似の私には小判でしかありません^^。

 この絵はそのステンドグラスの感じにいちばん近いものです。シャガールには聖書に素材を取ったものが多いようですが、この美術館のHPはフランス語しかなくてよくわからないので、説明はしません。まあ、ヤコブって人が天使にすがっているってことくらいで^^。。。

  そんなより黄色いにわとりとか、左下のロシアの農家といったシャガールの絵ではおなじみのモチーフの方が目をひきます。そういうのをあれこれ探しながら、青い世界にひたるのはとても気持ちがよかったですね。。。

 ニースは週末に行っただけなんですが、とてもお気に入りの街になりました。3月のストックホルムから行ったこともあるでしょうが、あったかいし、明るいし、だいいち海産物を始めとした食べ物がおいしかったぁ。。部屋で飲むためのつまみを買いに食料品店に行ったんですが、エスカルゴの缶詰がないので店のおやじに訊いたら、「ふふん。パリの連中はそんなものを食べるそうだがな」と笑われてしまいました。。。多くの画家に愛された理由の一つもそういうことなのかもしれません。

  


 

  芸術家Mのできるまで

 

 

 森村泰昌って人がゴッホとかに変装?して名作を再現したり、マリリン・モンローになって安田講堂でパフォーマンスをしたりしているのはなんとなく知っていて、どこかでひっかかりを感じていたんで、図書館で「芸術家Mのできるまで」という半自叙伝を見つけて読んでみました。

 彼の作品は悪ふざけのようにも、変な趣味のようにも見えますが、想像したとおりいたってマジメなものでした。出世作(と言うんでしょうね)になったゴッホの「パイプをくわえた自画像」のときは粘土と釘で帽子を作って、3時間かかってメイクし、挙句の果てに髪の毛を押さえるために巻いていたゴムバンドで鬱血して失神しても撮影を敢行したんだそうです。この作品までは、80年代という今から考えればうわついた時流に乗って、心地よく品のいいモノクロ写真を撮っていたのに、どぎつい色の写真(ゴッホの作品とそっくりにしようというんですから当然です)を発表した時の世間の反応を次のように書いています。

 このときの体験は、私には不思議な反転現象だった。社会の仲間入りをはたそうと努力してきたこれまで、あんなに不親切きわまりなかった社会だったのに、たてをついて怒鳴ってみたら、はじめて社会は真剣に振り返ったのである。絶縁状を叩きつけ、芸術によって「反社会」を宣言したら、相手は絶縁とは反対に、興味をしめし自分からこちらに歩み寄ってきた。(46ページ)

 時流というのは気まぐれな専制君主(今の時流で言うとご主人様かなw)のようなもので、媚びてくるものは拒み、たてつくものには時に恩寵を与えるものなのかもしれません。もちろんほとんどの場合は黙殺か扼殺なんでしょうし、それこそゴッホもゴーギャンもセザンヌもおそらく喉から手が出るほどその恩寵を待ち望んでいながら、その城門を開ける呪文がわからなかったんじゃないかと思います。

 幸運に恵まれた彼は言います。「私はゴッホになったことがある」この言葉は「作品を外から鑑賞するのではなく、中から体験したのである」という意味だと一応理解しておきましょう。私としてはこういうまとめ方は読書感想文的で好きではなく、「ゴッホが粘土と釘でできた帽子をかぶっていたことに気づいた」と言いたいんですけどねw。……で、実はこの本の本編の最初にこの言葉が唐突に出てきて、「おかしなことを言うなあ」とひっかかりを感じながら読み進めて行くと、さっきのような創作上の苦労話が出てきて、絶縁状という言葉でゴッホになる「必然性」が納得させられるという仕掛けになっています。……この過程は彼の作品を受け入れる際の、異物感から親近感(最後まで居心地が悪いことを含めて)を抱く過程と同質のものだと言っていいでしょう。もちろん彼自身も言うように、芸能は広く多数にウケなければいけないのに対し、芸術は少数の人間に深く食い入らないといけないわけですから、彼の作品を全然評価しない人がいてもかまわないんですが。

 この本は彼がヴェネチィア・ビエンナーレのアペルト(オープン)部門で注目されるようになり、メジャーになっていくまでの話と人見知りで妄想癖のある少年時代の思い出話が交錯しながら描かれています。私も同じ大阪生まれで、彼が生まれ育ち、活動の場にしている鶴橋(コリアン・タウンとして有名です)の辺りもよく知っているので、なつかしい感じがしました。中でも自由な校風で知られる高津高校の美術部の顧問の先生がとても暖かく描かれています。彼の母校の美術部は全国的にも有名であったらしく、体育会系のノリなんですが、その先生は説教めいたことも言わず、生徒が画家になるのを勧めたりもせずに、しかし個展を開いたりすると目立たないように来てくれるような人物であったそうです。……ニューヨークでの個展のポスターを持ってきた彼にこう言います。

 「君は十分すぎるほどやった。もういつやめてもいいんやで」
 「頑張れ」と声援を送るひとはあっても。「やめてもいい」と言うひとはまれである。作品を作る行為の苦労を知ったひとにしか言えない、愛情あるひと言であろう。(140ページ)




 
 このときのポスターにはこのクラナッハの「ユーディット」をモチーフにした作品が使われていました。彼はそのことについて語りませんが、恩師の言葉と無関係とは思えません。

 


 

  ピアノの森

 

 「ピアノの森」を12巻まで読みました。例によってマンガ喫茶で一気に。なかなかおもしろいなって思いました。「のだめ」と比較するのはあまりいいことじゃないような気がしますが、音楽的には「のだめ」の方がよく勉強もし、取材もしているだろうと思います。例えば主人公の一ノ瀬海やその先生の阿字野壮介がどんなふうなピアノを弾いているのかほとんどわかりません。「誰も聴いたことがない感動的な演奏」と言うしかないでしょう。ライヴァルの雨宮修平やその父の雨宮洋一郎のピアノの方がもうちょっと具体的に描写されているのは皮肉ですが、ある意味当然なんでしょう。前者はわかる人だけわかる天才であり、後者は良かれ悪しかれ万人向けの優等生ですから。2世代にわたる勝負!という構図でもあるわけです。

 演奏内容(?)だけでなく、選曲も、CDまで出てる「のだめ」に比べると魅力に欠けます。読んでない人やクラシックになじみがない人には不親切な言い方になりますが、「そこで『ラ・カンパネラ』かいっ!」とか「M響wとラフマニノフ〜〜??」と突っ込んでしまいました。……いえ、そういうのがダメっていうんじゃなくて、曲名を出すだけならもっとパンチ力がないとねってことです。そういう意味ではモーツァルトがうじゃうじゃ出てくるのとストリップの伴奏にイギリス組曲が使われてるのがおもしろかったですね。

 マンガとしてどうなのかって言うと、構成が甘いと思います。母親の怜子や恋人の冴ちゃんの出し入れなんかを見るとご都合主義的だと言われても仕方ないでしょう。しかし、そうした後先をあまり考えない作者の描き方は今の時代の趣味に合っているのかもしれません。つまり論理性をあまり気にせずに印象的な場面を次々とつなげていく韓流ドラマふうのストーリー展開は、エンターテイメントとしてだけでなく、ある種の自由さを与えているようにも思えます。でもこういうのは計算ではなく、作者の資質によるところが大きいのかもしれません。例えば丸山誉子が腱鞘炎になって一日だけ子どもたちの相手をするエピソードなんかはそのままにする(12巻まででは)のがもったいないようなものです。そう考えると最初に登場した時の感動的な便所姫の話もあんなに長いものにするつもりだったのかどうか。ウェンディ〜w。……

 考えてみればこの作品の主題であるピアノの森と主人公の住む森の端はリアリティなど始めから放棄しているわけで、象徴的な神話の舞台だと思った方がいいでしょう。ピアニストとしてやっていこうと一ノ瀬海が思った時にお約束のようにピアノに雷が落ちますが、それは神話がお約束(=宿命)に満ちているのと同じでしょう。インバイの子こそが聖なるものとしてのクラシック音楽の本質に近づけるという言わば宗教的意識がドラマを支えているわけです。

 登場人物はとても魅力的です。才能が大してない、しかし音楽を愛してやまない人間、司馬や佐賀のような脇役もていねいに描かれています。「のだめ」もそうなのですが、報われることの少ない人生(ほとんどすべての人間にとってそうですが)を描くのに音楽は最適だとさえ思えます。……でも、いちばんきれいで魅力的なのは凡人を嘲笑う『マリア』なんだよなぁw。