政治思想学会会報第23号 2007年3月

カメレオンと孔雀
――マイケル・イグナティエフ『アイザイア・バーリン』石塚雅彦・藤田雄二訳(みすず書房、2004年)に寄せて

森 達也(専修大学兼任講師)

 「狂気なまでに誇り高いが、同時にみずからにたいする憎しみに満ち、全知であると同時にすべてを疑い、冷酷であると同時に激しく情熱的で、傲慢であると同時にみずから卑下しており、苦しんでいると同時に冷静、彼を尊敬する家族、献身的な信奉者、全文明世界の崇拝に囲まれていると同時にほとんど完全に孤独であった。彼は、大作家の中でもっとも悲劇的である。絶望した老人は、人間の救いの彼方に、みずから盲いてコロヌスの地を彷徨する」[1]。思想史上の、また同時代の人物の姿を言葉によって見事に蘇らせるその才能――上の引用は彼の出世作であるトルストイ論からの一節である――によって知られるアイザイア・バーリンであるが、今度はその彼の姿を劣らぬ鮮やかさで描き出したのが、マイケル・イグナティエフによる『アイザイア・バーリン』である。本書に対する世間の関心は高く、ヘンリー・ハーディの調査によれば、原著(1998年)に寄せられた書評は50を越える[2]。これは主題となった人物の知名度に加え、マルチな才能を発揮するジャーナリストとして注目を集めていた著者の存在に負うところも大きいだろう。イグナティエフの経歴と業績の詳細については、すでに数多く出版されている彼の邦訳書の解説[3] および彼自身のウェブサイト[4]に詳しいのでそちらに譲るが、その著作活動だけを見ても、『苦痛の適切な基準』(1978年)をはじめとする思想史研究、民族紛争とナショナリズム、人権、アメリカ帝国論、さらにはフィクションと幅広い。また昨年のカナダ自由党党首選に立候補して話題を集めたことは記憶に新しい。
 本書においてとりわけ興味深いのはその主題と書き手との関係である。両者に共通する特徴は多い。「訳者あとがき」にもあるように、二人は世代こそ違え、共にロシアにルーツをもち、ナショナリズムに深い関心を寄せつつもその政治的信念はリベラルであり、故郷を離れて世界中で活躍するコスモポリタンでもある。本書には、単に伝記作家が主題に抱く関心はもとより、政治的信条を同じくする一哲学者に対する関心以上のものが伺えるのであり、それは言わば父と子のような、この二人のあいだに存在する独特の関係を意識させる。さらに、彼がこのプロジェクトに費やした10年という時間――それはバーリンの予想以上の長寿の結果であるという異論はさておき――は、この作品に対する彼の並々ならぬ知的野心を暗示している。

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 バーリンはかつて「狐はたくさんのことを知っているが、ハリねずみはでかいことを一つだけ知っている」というギリシャの詩人アルキロコスの一節を用いて人間を二つのタイプに区別した。唐突ではあるが、私もここで思想家を二つのタイプに区別してみたい。人物を孔雀あるいはカメレオンに喩え、その思想を色彩と仮定しよう(残念ながら両者を結びつける気の利いた詩句を見つけることはできなかったのだが)。孔雀はみずからが滅びた後もその美しい羽根を遺す。孔雀は、その思想が作者の人生や個人的気質と切り離し可能なタイプの思想家を表している。他方、カメレオンの色彩がその存在自体と不可分のものであるように、人物とその思想の結びつきを容易に解きほぐせないタイプの思想家も存在する。もちろんこの区別もハリねずみと狐の区別と同様に、あまりに厳密に押し進めれば馬鹿げたものになってしまうのだが、ある程度の役には立つと思われる。
 孔雀を研究する人々の関心はもっぱらその羽根の光彩を分析すること、あるいは加工して新たな作品を作り出すことにある。たとえばジョン・ロールズの政治的リベラリズムを彼の生涯やパーソナリティとの関連の下で読み解く研究は、一部の伝記的叙述を除いて皆無であるが、彼の構築した理論は多くの研究者たちのあいだで流通し、彼らは緩やかな研究者集団を形成しながらその含意を探究している。孔雀の羽根を普遍的理論の象徴とすれば、他方でカメレオンの色彩は特定の状況において発揮されるその人物の個性を示しており、かつ、それはみずからの生存を助ける保護色でもある。このタイプの思想は集団的研究に向かず、リサーチ・プログラムの中核に位置づけられることも稀である。バーリンのリベラリズムはしばしばこの後者に分類される。
 同じ思想家を扱う場合にも、この両方のアプローチが可能である。バーリンに関するモノグラフはイグナティエフ以前にもいくつか存在しており、それ以後もコンスタントな出版がある。その代表的存在であるジョン・グレイの『バーリン』(1995年)は、『ミルの自由論』(1983年)に始まる彼の自由主義研究の終着点であり、その意味で同書はバーリン思想の普遍的含意を抽出する試みと言えよう。彼はそれを「闘争的自由主義(agonistic liberalism)」と呼び、価値多元論と選択の自由の基底性に立脚するポストモダン的な自由主義の一種と位置づける。これに対してイグナティエフによる本書は、グレイその他の研究において主題的に論じられることのなかった、いわゆる知識人としての彼の思想と行動の関係に焦点を当て、その知見を政治理論に還元させる目論見をもって書かれており、さらにイグナティエフ自身の政治的アイデンティティの探求も垣間見られる。
 こうしたアプローチの相違にもかかわらず、グレイは本書を好意的に評価している。彼はその書評の冒頭で「あらゆる哲学は意図せざる伝記である」というニーチェの言葉を引き、思想がその人物と不可分であることを認め、バーリンの著作はこれを示す格好の材料であるとしている[5]。これは単なる伝記に与える評価以上のものを含んでいる。完全に普遍的な理論といったものは存在しない。あらゆる理論はその内に何かしらの個人的観点を含んでおり、常に特定の人物や勢力の関心に支えられている。バーリンの著作が研究対象と研究者自身の思想との区別を曖昧にしているという批判はしばしば聞かれるところだが、これを逆手に取り、彼の思想史研究からその政治思想を読み取ることは可能である。本書に方法論的前提に関する記述を期待することは見当違いかもしれないが、研究対象を通じて自らの関心を表現するバーリンの思想史のスタイルに言及している点(第16章)はこれと整合的である。このように考えれば、本書は単なる知的伝記であるのみならず、別の方法による政治思想研究であり、さらにはイグナティエフ自身のリベラリズムの表明であるとさえ言えるだろう。本書は二重の意味においてカメレオン的である。

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 イグナティエフはバーリンの刺激に満ちた生を軽快な筆致で伝えている。有名な「アーヴィング‐ウィンストン‐アイザイア事件」はもちろんのこと、ワイツマンやベングリオンらイスラエル指導者たちとの対話、ホワイトハウスでのケネディの印象、パブロ・ピカソやショスタコーヴィッチ、ストラヴィンスキーら芸術家との出会い、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』刊行をめぐる彼の苦闘など、興味を惹くエピソードは枚挙に暇がなく、その要約は不可能に近いばかりか、本書の魅力を損なう可能性がきわめて高いので、興味を覚えた方はぜひ実際に読んでいただきたいと思う。
 では問題のリベラリズムの探求はどこにあるのか。アラン・ライアンが指摘するように、本書は一種の教養小説(Bildungsroman)の形式を有しており[6]、そこにはバーリンの知的、精神的、性的な成熟にまつわるエピソードが多数用意されている。三者が一つに集約されて物語の第一の頂点を形成する出来事は、1945年のモスクワ訪問とそれに続くレニングラードでのアンナ・アフマトーヴァとの邂逅である。彼がこのロシアの女流詩人と語り明かした一夜についてはバーリン自身のエッセイ、そしてジョルジュ・ダロスによる『未来からの客人』に詳しいのでそちらに譲るが[7]、本書もこのソヴィエトでの出来事に2章を割き、この経験が彼に与えた影響の大きさを示している。それはしばしば言われるように、スターリン主義に対する終生変わらぬ反対、全体主義的支配に対する個人の自由と芸術的天才の擁護であった。
 注目したいのは物語の第二の頂点である。これは1950年代半ばにやってくる。第一の頂点とは対照的に、ここでは彼の私生活での出来事が中心を占める。1953年のLSEにおける彼のオーギュト・コント講義の主題は様々なタイプの決定論に対する人間的自由と責任の擁護であったが、第13章がこの『歴史の必然性』の荘重なトーンの中で閉じられた後、続く第14章は彼の「憂鬱な40歳の誕生日」――独身者の悩み――で再開される。この二つの主題の「落差」は著者一流のユーモアだと思われるが、この前者の主題は形を変えて後者に流れ込み、彼の結婚にまつわるエピソードを見事に演出している。バーリンが「自由の心理学」についての「洗練された論証」を武器に、人妻であったアリーンを夫の「牢獄」から解放し、めでたく結婚を取りつけるくだりは刺激的であり、まさしく彼自身による自由の哲学の大胆な実践例となっている。長らく自由な傍観者を自認していた彼は、このとき普段稀に見る行動力によって関係性へと身を投じ、みずからの運命を拓き、そして選択の結果として確立した帰属関係に伴う責任を実感したのである。
 彼の哲学に何かしら深遠なものを期待する人々は、その有名な自由論が彼個人の結婚騒動と俗流の実存主義から説明されるのを見て愕然とするかもしれない。孔雀としてのバーリンに失望する人々、たとえばリンダ・グラントは、そもそもバーリンの思想は個人的に過ぎ、そして「あまりに浅薄な」ものであって、哲学的な意義を有していないと苦情を述べている[8]。だが他方でこのような世俗的な記述は、哲学者が世間から超越した神聖なる存在ではなく、その知的権威が「普通の男女により明示された選好」をア・プリオリに凌駕するものではないという彼の反完成主義の証明であるとも言える。世俗的であることは彼の哲学の浅薄さを示すものではなく、むしろ哲学の専制的支配の弊害が意識されつつある時代において積極的な美徳となった。この点はイグナティエフの心を強く捉えたようで、彼はバーリンの「世間性(worldliness)」を示すエピソードを物語の冒頭と最後に配置し、世俗的な雑事に飽くなき関心を示すバーリンの姿、その「存在の軽快さ(lightness of being)」を読者に印象づけている。さらにこの主題は「都市への帰属」論などに見られるイグナティエフのコスモポリタニズムと通底していると考えられるが、ここでは措く。
 バーリンのリベラルな気質を表すもう一つのキーワードは「超然(detachment)」である。本書の様々なエピソードから垣間見えるように、彼は明確な政治的コミットメントや党派的行動を避ける傾向があり、さらには私生活においてもしばしば友人たちの「大胆な冒険」を眺める傍観者であった。この彼の気質をどう読むべきか。たとえば、それは諸価値の選択と喪失の認識という彼の多元主義の表明であるとか、政治からの自由という彼のリベラリズムの表明であるという意見があり、あるいは逆に彼の臆病さ、あるいは日和見主義を示すものであるという意見もある。おそらくこのどれもが完全に当てはまることもないし、完全に見当違いというわけでもないだろう。知識人といえば一般に政治問題に積極的に関与するというイメージがあるが、しかしバーリンは逆に傍観者的な態度によってある種のコミットメントを示すような、言わば「行動しない知識人」であった。ここでカメレオンの第二の特徴が浮かび上がる。カメレオンの色彩は捉え難い。それは周囲の色彩に応じてめまぐるしく変化する。果たしてそこには本当に何か一貫した思想が存在するのだろうかと首を傾げたくなることもある。
 バーリンがツルゲーネフに関する講演を行ったのは1970年のことだが、そこで示されたリベラルの精神とは、冷静さと臆病さの混合物であった。イグナティエフはこれを逆にある種の勇気の現われと解釈している。本書の第16章は次のように結ばれる。「人間は、命を賭す意志があるかどうかではなく、ほかの者たちが冷静さを失ったとき、道徳的にも政治的にも、自分の冷静さを保つことができるかどうかで判断されるべきなのである。バーリンもツルゲーネフも、このような控えめであるが厳格な基準によって、みずから設定したテストに合格したのだった」(280頁)。バーリンはワイツマンに関するエッセイの中で、人はしばしば与えられた選択肢の中から選ぶことを余儀なくされるのであり、その際に「中立的であるとかコミットしないこと」を選ぶことはできないと述べている。彼は選ばないこともひとつの選択であると自覚していた。価値多元主義の世界において、一方の選択はしばしば他方の喪失を意味する。彼の煮え切らない態度は両立不可能な価値の多元性に対する彼の認識、および選択に伴う喪失に対する彼のまなざしを思い起こさせる。選択されない価値は決して無意味な、劣ったものではなく、選ばれたものに劣らず価値あるものであったかもしれないのだ。性急な判断を下さず、ぎりぎりのところまでなるべく多くの価値を救おうとする彼の知的傾向がこの”detachment”の態度に表れている。それはロールズの反省的均衡を連想させる「不安定な均衡(precarious equilibrium)」という言葉に要約される、彼のリアリズムの重要な側面である(余談だが、彼がその雄弁とは対照的に執筆活動に関してきわめて億劫であったことは、こうした彼の不決断な性格によって説明できるかもしれない。彼はロマン主義に関する膨大なノートを著作に纏めることなく放置した。これを救い出して現在も次々と出版しているのがヘンリー・ハーディであるが、これらの著作集は著者自身の最終的決断を経ていないという意味では不完全なテクストである)。
 しかしながら、現実主義から日和見主義へと至る道程はきわめて短い。バーリンがこの態度留保によってなるべく多くの価値を救い出そうとしたのは確かだが、それは同時に彼自身が特定の立場に立って攻撃されることを避ける保護色とも受け取られた。この「擬態」はさほど効果を示さず、彼は右派左派の両方からしばしば容赦ない攻撃を受けた。八方美人も一つの立場であることの証である。攻撃の先頭にはペリー・アンダーソンがおり、エドワード・サイードもバーリンのリベラリズムにおけるイスラエル例外主義を痛烈に批判した。ここにおいて彼の現実主義は悪しきカメレオン精神の表れであるとの嫌疑をかけられることになる。
 彼を日和見主義から守った防波堤は、人間的自由と価値の多元性という単純な格律への終生変わらぬ忠誠だけであった。だがこの「ポリシー」は彼をそこから救うのに十分であったようにも思われる。伝統的な智慧が示すように、思慮の政治が賢明なる現実主義にとどまるためには、一方で原理や正義への忠誠が不可欠である。そして普遍的な原理がカメレオンの精神と出会うとき、その政治的ヴィジョンはきわめて中庸な性質を示す[9]。これは平凡ではあるが決して無意味ではない。彼のお気に入りの言葉に、「真理が発見されたとき、それがア・プリオリに面白いものであるとは限らない」というものがあるが、自分の発見が目新しいものでないことに彼が不満を覚えなかったのは幸運であった。思想史の森で拾い上げた、ただ一枚の孔雀の羽根――多元主義の哲学――が彼を救った、と言えるかもしれない。

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 本書執筆後のイグナティエフの課題の一つは、彼が理解するバーリンの知的遺産をいかに継承するかということであろう。みずからが追求すべき政治的ヴィジョンの片鱗を彼がそこに見出したのは確かなようであり、本書の出版以後、寛容、ナショナリズム、人権、立憲主義などに関するリベラルな論考を次々に公表している。たとえば道徳的判断の基準を善の実現ではなく害悪の回避に求める「まだましな悪(the lesser evil)」アプローチは、バーリンの「品位ある社会」やジュディス・シュクラールの「恐怖のリベラリズム」の精神を実践的原理へと翻訳する野心的な試みである。
 二人のあいだには多くの共通項が存在するが、他方で重要な相違を一点指摘するとすれば、それは政治に対する両者の態度であろう。バーリンがベトナム戦争の是非に関して曖昧な態度を取ったことで右派と左派の双方に失望を与えていたその頃、イグナティエフが米国でベトナム反戦デモに参加していたというのは印象的な対照であるが、政治から距離を置きがちなバーリンに対し、イグナティエフは明確な政治的コミットメントを求める傾向がある。人道的介入に関するイグナティエフの見解はその顕著な例であろう。彼は『人権の政治学』の中で人権の形而上学的基礎づけ主義を排し、その理念に対する「政治的」コミットメントの重要性を強調しているが、具体的場面においても同様の積極的な政策を支持した。その結果、人権を理由としたアメリカのイラク介入に対する彼の支持表明は穏健なリベラルたちを困惑させ、それはタカ派リベラルの勇み足と酷評されるほどであった[10]。本来ならばここでバーリンの”detachment”がイグナティエフの活動的な気質に対するブレーキの役割を果たすことが期待されるのだが、その効果は十分に発揮されていないようである。
 この違いはどこから出てくるのか。もちろんそれを気質の相違に求めることもできるが、他にもいくつかの説明が可能である。まず、彼が追求するリベラリズムの性質を挙げることができる。それは言わば実践のリベラリズムであり、彼自身が要約するように、「あなたにとっての苦痛と屈辱は、私にとっても苦痛と屈辱にならざるをえない、という基本的な直観」[11]以外にほとんど具体的内容をもたない。それを受肉させる方法はこの命題の論理的展開ではなく、各人がおかれた状況においてこれを実践することであると考えるのはある意味自然である。カメレオン的なものをこの世に残すには、みずからがその役を演じるしかないというわけだ。
 加えて、世代の相違というのは劣らず重要な要素かもしれない。イグナティエフは民族的アイデンティティの問題に深い関心を寄せているが、どちらかといえば当事者意識には乏しい。彼はいわゆる「故郷喪失」以後の人間である。民族的帰属はそれが彼の身体の一部であるかのようなリアリティをもたず、それゆえ彼は他者の帰属感覚とその作用を様々な現場で、みずからの想像力を通じて理解しようと努めてきたに違いない。他方でバーリンの世界観はそれよりも古い層に属している。彼はみずからの帰属をアイロニカルに捉えてはいなかった。イスラエルは19世紀思想の貯蔵庫だと言われるが、彼の頭の中にもこの古い世界観は残り続けた。シオニズムに対する彼の終生変わらぬ忠誠は、彼のリベラリズムとの整合性云々を超えたところで存在していたと言ってもあながち間違いではないだろう。帰属の感覚と暴力を恐れるリベラルな気質は彼の中に否応なく存在する。彼は両者をみずからの理性で調停せねばならなかった。つまり、バーリンにとってのナショナリズムが当事者としての問題であったのに対し、イグナティエフにとってのそれは理解すべき他者の問題である。『人権の政治学』の読者は、この論考が当事者集団の外側に立つ介入者からの視点で書かれているのに気づくだろう。ルポライター、参与観察者、帝国的介入者、これらに共通する外部と内部のディレンマをどのように考え、また実践するのか。彼はこの難問と向かい合うことなくして、理論と実践をわが身をもって架橋する「行動する知識人」という(おそらくは彼自身の)理想を成就することはできないように思われる。
 現時点で彼に対する最終的な判断を下すのはあまりにも性急に過ぎよう。加えて、ここでイグナティエフを批判する一方でバーリンを手放しで賞賛することはできない。バーリンの反暴力主義的なリベラリズムは、彼が政治家にはならずに学問的世界にとどまったからこそ可能であった立場なのかもしれないのだ。思えば、バーリンに影響を受けた人びとは、アカデミズムというよりはむしろ政治の世界への進出が目立つ。イグナティエフはもちろんのこと、バーリン思想の影響の下でリベラル・ナショナリズム論を展開したヤエル(ユーリ)・タミールは現在イスラエルのオルメルト連立内閣の下で教育大臣を務め、そして、かつてはストイックな政治思想研究者であったジョン・グレイも最近では時事的なテーマを多数論じている。彼らが今、バーリンとは違う一歩を知的にも政治的にも踏み出す必要を強く感じているのも事実ではないだろうか。今後の彼らの活動に注目したい。


[1] Isaiah Berlin, The Hedgehog and Fox: An Essay on Tolstoy’s View of History, paperback ed., Phoenix, 1999, 81. 河合秀和訳『ハリねずみと狐』中央公論社、1973年、147-148頁。
[2] Henry Hardy, Isaiah Berlin Virtual Library (http://berlin.wolf.ox.ac.uk/).
[3] 幸田敦子訳『民族はなぜ殺し合うのか:新ナショナリズム6つの旅』河出書房新社、1996年。添谷育志・金田耕一訳『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』風行社、1999年。真野明裕訳『仁義なき戦場:民族紛争と現代人の倫理』毎日新聞社、1999年。金田耕一・添谷育志・高橋和・中山俊宏訳『ヴァーチャル・ウォー:戦争とヒューマニズムの間』風行社、2003年。中山俊宏訳『軽い帝国:ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』風行社、2003年。エイミー・ガットマン編、添谷育志・金田耕一訳『人権の政治学』風行社、2006年。
[4] http://www.michaelignatieff.ca/
[5] John Gray, “Monopolies of Loss,” New Statesman, 20 November 1998, 48-50.
[6] Alan Ryan, “Wise Man,” The New York Review of Books, December 17, 1998.
[7] Isaiah Berlin,“Meetings with Russian Writers in 1945 and 1956,” in Personal Impressions, ed. Henry Hardy, Oxford University Press 1998, pp. 156-210. 河合秀和訳「ロシアの詩人たちとの会話」、福田歓一・河合秀和編『時代と回想』、岩波書店、1983年に収録。Gyorgy Dalos, The Guest from the Future: Anna Akhmatova and Isaiah Berlin, with the collaboration of Andrea Dunai; translated from the German by Antony Wood; Farrar, Straus and Giroux, 1999.
[8] Linda Grant, “Unbearable Lightness of Berlin,” Guardian, October 24, 1998.
[9] 興味深いことに、善の追求と対比されるところの悪の回避という主題はエリザベス朝期における一部の現実主義者の著作に見出せる。塚田富治『カメレオン精神の誕生』、平凡社、1991年、154-155頁。この点で、バーリンが20世紀の政治的状況をホッブズ的と述べたことはきわめて示唆的である。
[10] 中山俊宏「リベラル・デモクラティック・インターナショナリストによる帝国是認論」、前掲『軽い帝国』所収。
[11] 前掲『人権の政治学』156頁。

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