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2012年は夏目金之助[漱石]の岡山逗留120周年
日本文教出版岡山文庫シリーズ280として
『岡山の夏目金之助(漱石)』が発刊されました。
夏目金之助[漱石]の岡山逗留の全容を
出来るだけ詳細に正確に記述しました。
機会があれば御参照下さい
サフィーも元祖・漱石足跡調査同行犬として登場します!
2012年10月24日

これまでに作成した「夏目金之助の岡山逗留」ビデオをまとめておきます。

総括PV
http://www.youtube.com/watch?v=gO6wAgoNl5k&feature=player_embedded

1 京都
http://www.youtube.com/watch?v=yxYZE-a5oZs&feature=player_embedded

2 岡山1
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=_iY_1YjTup0

3 岡山2
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=EyVXnd4G1fY


オリジナルウエブ版
夏目金之助(漱石)の岡山逗留とその前後




逗留に至る経緯

夏目家は江戸牛込馬場下横町の世襲制の町名主で、祖先の夏目四郎兵衛に嫡男がなく安永二年四月、臼井家から小兵衛直克を養子に迎え、夏目小兵衛直克として夏目家を継がせ、その後、代々、通り名は小兵衛を襲名した。直道、直基を経て、嘉永五年12月に夏目家を継いだ小兵衛直克は男子5人=長男大一(安政三年生まれ)、次男栄之助(安政五年生まれ)、三男和三郎(安政六年生まれ)、四男久吉(3歳で没)、五男金之助(慶応三年生まれ)と女子3人をもうけた。次男栄之助は、逆に嫡子の絶えた臼井家を継いで臼井直則を名乗ったが、臼井家自体は現存せず、直則は牛込喜久井町の夏目家に同居したままであった。三男和三郎も一時、福田家の養子となり、五男金之助は、生後まもなく露天商の古道具屋へ里子に出された後、2歳で塩原昌之助・やす夫妻の養子になった。明治5年には壬申戸籍上、金之助は塩原家の実子とされ、明治7年には、職業「雑業」の塩原家戸主とされた。

しかし、まもなく浅草諏訪町の扱所に亡夫の家禄処理の件で相談に訪れた寡婦、日根野かつと不倫関係になった塩原昌之助は、日根野かつとその連れ子れん母娘と浅草寿町10番地の日根野かつの家で同棲を始めた。塩原やすは夫の不義を小兵衛直克に訴え、一時、金之助を連れて馬場下の夏目家に身を寄せたが、明治7年12月には、金之助も、塩原やすのもとを離れて、養父塩原昌之助のもとで、日根野かつ、日根野れん母娘と浅草寿町10番地で暮らすようになった。この頃、隣接の浅草寿町11番地に新設された第一大学区第五中学区第八番小学、戸田小学校に入学した。明治8年4月から塩原夫婦の離婚手続きが開始されたが、明治9年二月に塩原昌之助は戸長を免職され、下谷西町15番地に転居送籍した。金之助は明治9年八月に塩原姓のまま夏目家に戻り、明治14年1月21日に母千枝が亡くなるまでの4年余り、実父母と共に暮らした。しかし、金之助は再婚した塩原昌之助の家にも出入りし、塩原家との関係は戸籍上も事実上も続いた。小学校は戸田小学校から第一大学区第三中学区第四番小学、市谷学校に転校した。さらに上級学校進学のため、市谷学校から六年制の尋常小学校、錦華小学校(神田猿楽町)に転校し、明治12年に東京府第一中学校に入学した。

母千枝の死後、まもなく明治14年4月頃、東京府第一中学校を退き、漢学塾の二松学舎に入学したが、明治14年11月に二松学舎を退いてから、その後の二年間の金之助の詳しい消息は不明である。わずか4年あまりながら一緒に暮らした思い出深い実母千枝の死後、自分を不義理に扱った父小兵衛直克が残った夏目家と金之助の関係が急速に希薄にあるいは疎遠になった感は否めない。

明治16年9月、大学予備門受験準備のため、英語を習得できる変則学校、成立学舎へ入った。途中から明治英学校でも勉強した。明治16年9月頃には、小石川極楽水の際の新福寺の二階二間に五名の友人と共に下宿して自炊しながら大学予備門予科への入学準備をしていた(明治英学校に通学した頃は富士見町に下宿していた)。

明治17年9月11日、大学予備門予科(校長は杉浦重剛)へ入学した。成立学舎出身者が中心になって「十人会」を組織した(塩原金之助・中村是公・太田達人・佐藤友熊・橋本左五郎・中川小十郎・斉藤英夫・小城斎等)。当時は、神田猿楽町の末富屋(二階建て部屋数十室くらい)に下宿して通学した。あまり勉強せず、寄席通いなどしていたらしい。予備門構内の北が校有地になり、高いブランコが設けられた時、金之助は誰よりも上手に乗ったという。明治17年9月か10月には長兄で夏目家家長、陸軍省文官十等出仕、翻訳担当、夏目大助と一緒に芝金杉1丁目の高橋家に1年か1年半くらい(高橋栄子、当時5歳の証言)寄留した。また、明治18年春から夏にかけて、数少ない朋友太田達人が下宿にしていた、大観音の傍らに住む漢詩人間中雲帆の離れ四畳半に、毎日のように訪れ、何度も泊まった。

明治18年5月末、十人会の仲間と下宿先の末富屋から江ノ島へ徒歩遠足に出かけた直後から患ったと考えられる虫様突起炎が増悪して明治18年9月には夏目家に戻った。翌年までには回復したが、明治19年7月に腹膜炎を合併して第一高等中学校(旧大学予備門)予科二級から一級への進級試験が受けられず、追試にも落ちて留年した。しかし、この後、発奮して学業に打ち込み、首席を通した。明治19年9月、父直克の警視庁軽視属退官を機に自活を決意して、本所区松坂町二丁目20番地の江藤義塾に勤め、二階の北向き二畳間に下宿して、一年余り、午後二時間ずつ、英語や幾何の教鞭をとった。

ところが、明治19年末に長兄・大助、次兄・直則が殆ど同時に結核を発病した。金之助が看病した大助は明治20年3月21日に31歳2ヶ月で亡くなった。5月に三兄和三郎も喀血し、その三兄直矩が看病した臼井直則(次男栄之助)は明治20年6月21日に28歳8ヶ月で亡くなった。直則が亡くなった前後、金之助は夏目家で暮らした。夏目家では大助、直則の相次ぐ死により、家督相続を三兄直矩にするか、五男金之助にするか、問題を生じた。生前、大助は、金之助を塩原家から復籍させて、自分の養子とした上で、夏目家の家督相続させる意向であったことを思い出した直矩が金之助に跡を取るかと尋ねると「こんな家の跡を取るのは嫌だ」と断った。

しかし、直矩にも喀血の既往があり、いづれにしても、夏目家断絶を危惧した小兵衛直克は、明治21年1月28日、2歳から9歳までの7年間分の養育費240円を塩原昌之助に支払う形で金之助を夏目家に復籍させた。しかし、10歳以降、明治10年から明治21年までの養育費の件は未解決となり、塩原昌之助は「互に不実不人情に相成らざる様致度存候也」という証文を金之助に書かせた。生後まもなく厄介者扱いで里子や養子に出され、跡継ぎが途絶えそうになると、掌を返したように復籍させられて家督相続問題の渦中に巻き込まれ、さらに元の養子先との腐れ縁にも縛られた。後に塩原昌之助との間に複雑な金銭問題を引き起こした件は自伝的小説「道草」に詳しい。



明治6年(1873)10月1日開設された「岡山電信局」跡

臼井家を継いだ直則(次男栄之助)は芝の電信学校を卒業して、秋田・東京の電信局で勤めた後、明治16年8月、岡山電信局へ転勤したが、殆ど隣り合わせの、竹藪に囲まれた内山下138番邸(後に岡山測候所のできた内山下58番地の一部、川崎町1番地に近い場所と思われる)に祖先が禄高300石で池田候の馬廻り役をしていたという士族片岡機(はずみ)が住んでいた。直則は「片岡家の隣家に下宿」していたが(小坂晋:第一章 塵芥茫々:漱石の愛と文学; 10-37, 講談社、1974)、その長女小勝(かつ)は、背がすらりとした、色白の、鼻筋の通った面長の美人で、才気の走った顔立は「漱石好みの美形」であったという。学問、書道に秀で、地唄の三味線が上手かった。



京橋西詰めから見る『水の手筋』
公衆電話ボックス付近は岡山で初めて電柱が立ったところで
「岡山電信局」は、さらに北寄り、「片岡家」はその上手にあった

小勝は、明治13年、邑久郡太伯村字神崎出身の岡山県庁役人、武田信洵(のぶあや)と18歳で結婚したが、懐妊中、夫婦でチフスに罹患し、夫がなくなった。小勝は九死に一生を得て男児を生んだが、夫の従兄弟半で、石井十次も医学生時代に薫陶を受けた神崎の産科医太田否三が小勝の若さを思いやり、男児を養子として引き取り、「あなたはまだ若いのだから」と言って、小勝を片岡家に復籍させていた。



河川敷から見る岡山城二ノ丸東門(下水の手門)跡

栄之助・直則は、小勝が弾く地唄の三味線を朝夕聴き、また、時々顔を見る度に、すっかり惚れ込んで、遂に結婚し、片岡家から電信局へ通うようになった。一時長崎に出向したが、脚気を患って岡山電信局に戻り、また、片岡家に同居した。



夏目金之助(左)と臼井亀太郎(右)
明治22年1月7日 東京神田錦町「加藤写真館」で撮影




明治17年ー21年頃、東京で撮影されたと思われる小勝と亀太郎の写真
岸本家御遺品=17代当主宗省氏夫人多津子様御遺族の御好意による


明治17年10月、臼井直則・小勝夫婦は東京に戻り、夏目家に、そして、金之助と同居した。この時、小勝は、東京大学予備門予科1年生で頭の良かった金之助をとても可愛がったという(後述の上道郡金田村在住であった岸本栄治氏が小勝の口から直接聞いた話)。また、小勝は金之助と同い年の実弟亀太郎を岡山から呼び寄せ、正則英語学校に入学させ、夏目家から通わせたとされている(伊原仙太郎『西大寺つれづれ』)。

しかし、亀太郎は、既に明治16年12月には上京していたことが明らかになった。すなわち、片岡亀太郎は、明治16年12月から明治17年2月まで東京小石川区私立同人社に、明治17年二月から明治17年七月まで東京神田区私立成立学舎に、明治17年七月から明治18年九月まで東京神田区官立大学予備門に在学、6ヶ月の空白期間を経て、明治19年四月から明治21年八月まで東京神田区私立国民英学会に在学、重複して、明治21年二月から明治21年十一月まで陸軍省総務局局員陸軍将校語学研究会に勤務、明治21年九月から明治22年七月まで東京神田区私立国民英学会に勤務していた(平成21年11月原武哲氏との私信)。

したがって、明治17年2月から明治18年9月まで、成立学舎及び大学予備門において、亀太郎と金之助は同窓であった可能性がある。もし、亀太郎が上京直後より夏目家から通学していたとすると、岡山赴任の明治16年8月から11月までのわずか3-4ヶ月で、直則と小勝の婚約が急ピッチに進んで親戚関係になったため、義理の弟、亀太郎の東京での住まいとして直則が夏目家を斡旋した可能性がある。

しかし、金之助は、明治16年9月以降、夏目家を離れて、あちこちで学友と下宿生活を送っていたので、上京した亀太郎が金之助と夏目家で一緒に暮らしていた可能性はかなり少ないと思われる。むしろ、金之助が夏目家を出て下宿していたため、早ければ明治16年12月以降、親戚になった亀太郎が代わりに夏目家(玄関を入って右の漱石の部屋)で暮らし始めたのではないかと思われる。

同様に、明治17年10月に岡山から夏目家に戻って来た次兄直則・小勝夫妻が、直後から、金之助と同居した可能性もかなり低いと考えられる。その後、虫様突起炎が増悪して明治18年9月には夏目家に戻った頃は、確実に、直則・小勝夫妻・亀太郎・金之助の同居時代と思われる。直則・小勝夫婦は、明治19年、一時、牛込津久戸町に新居を構えて中央電信局へ通ったが、明治19年末に長兄・大助、次兄・直則は殆ど同時に結核を発病し、直則も夏目家に戻った。金之助や三兄、直矩の看病の効もなく相次いで亡くなったが、明治20年6月に直則が亡くなった前後、金之助は夏目家で暮らした。「道草」に出てくる、直則の遺言で金之助への譲渡が小勝からも明言されていた両蓋の銀時計が結局、三兄直矩の手に渡ってしまい、小勝も何も言わなかったため、金之助が家の者全てに愛想を尽かしたというエピソードはこの時のことであった。



一方、亀太郎は、明治19年、岡山區大黒町(後楽園の東、古京町辺)の達間富という家に養子縁組していたが、直則の死後、性格の素直な亀太郎を愛していた直則の遺言に従い、明治21年2月18日、亀太郎の達間富家との養子縁組を解消させ、4日後の明治21年2月22日、戸籍上臼井小勝の養子とした後、臼井亀太郎として臼井家を継がせるため、小勝は臼井家を離籍し、旅費22円をもらって、岡山の片岡家に復籍した(正式の復籍は金之助逗留中の明治25年7月23日)。小勝はその22円をそのまま東京で勉学中の亀太郎に送った。

こうして、片岡家は夏目家の重要な縁戚となった。
明治22年1月7日、東京神田錦町「加藤写真館」で、夏目金之助と臼井亀太郎の写真が撮影されたのは臼井亀太郎誕生から1年後であった。下宿生活が多かった金之助と夏目家で暮らした亀太郎の接点は意外に少なく、両者が親密な間柄になったのは、亀太郎の上京直後からではなく、むしろ、亀太郎が臼井家を継いだ前後からと思われる。

明治22年七月以降、1年間の空白期間を経て、岡山に戻っていた亀太郎は、明治23年11月から明治30年11月まで岡山県岡山市岡山普通学校に勤務、重複して、明治29年6月から明治30年8月まで岡山県立岡山尋常中学校英語科教授嘱托になっていた(平成21年11月原武哲氏との私信)。亀太郎は英会話が得意で、後述の岸本家には外人を連れてしばしば訪れていた。

小勝は、臼井家を継いだ実弟の亀太郎と共に岡山の片岡家で暮らした。当時、片岡家で働いていた女中の実家、上道郡金岡村の研師が錆物や鏡を磨きながら、近隣の村々を歩いている内に、旧家同士の片岡家と金田村の岸本家の仲介を思い立ったらしく、間もなく、明治21年か22年(遅くとも明治22年秋までに)、当初、上道郡金岡新田村在住で、前後に、上道郡金田村(現岡山市金田)在住となった平民医師岸本庄平(村役場が戸籍への記載を間違えたもので、正しくは昌平)と再婚して岸本小勝となった(入籍は当時の慣習で遅れたらしく、漱石逗留後の明治25年10月6日)。岸本家は代々池田候の御典医を勤めた家柄で、昌平は15代目当主であった。昌平も一度結婚した後離婚していた。

その後、臼井亀太郎は、片岡家と親交のあった資産家、光藤兄弟(初代亀吉と二代目亀吉(当時は定吉))と一緒に、明治23年、東京上野で開かれた第三回内国勧業博覧会(4月1日ー7月31日)(昭和3年に市制40周年を記念して岡山市でも開催された)見物のために上京、漱石のいた新宿喜久井町の家に半月程度逗留した。亀太郎と金之助は同い年の顔馴染みで、家の都合で養子に出された境遇も同じで仲が良かったと思われる。

岡長平著「岡山盛衰記」や小宮豊隆著「夏目漱石」によると後年、二代目光藤亀吉(定吉)は、「玄関を入って右手の漱石の部屋に総勢四人が寝起きしていた。漱石が、三人が傍でがやがややっている中で勉強しているのを見て気に毒になり、外へ出ても良いがどうしようと相談すると、漱石は、いくら傍で騒いでいても気にしなければ、一寸も邪魔にはならないから遠慮するには及ばないと答えた。しかし、自分たちが厄介になっている間に、漱石が一度も父や兄(和三郎)と話をしているのを聞いたことがないことを実に妙に感じた」と回想している。一心不乱に勉学に打ち込む金之助の夏目家での微妙な立場を伝えている。金之助は、その後も明治25年4月北海道岩内町浅岡家と養子縁組をした。戸主や推定相続人について兵役免状される兵隊養子であったが、金之助の復籍を求めていた塩原昌之助から引き離す目的もあった。

金之助・子規 関西へ出発



明治25年12月、制服姿で撮影された金之助
明治25年7月の岡山逗留中もこのような風貌であったと思われる

金之助は、明治17年(1884)9月、東京大学予備門予科、明治21年(1888)9月、第一高等中学校本科第一部(文科)、明治23年(1890)9月、帝国大学文科大学英文科と進んだ。文科大学卒業前年の明治25年5月から学資補給のために東京専門学校(現早稲田大学)講師となった。『帝国大学一覧』[第6冊]明治24-25年第九章分科大学通則によると、第一項に「学年は9月11日に始まり、翌年7月10日に終わる」とされ、第三項で、明治25年の第三学期課業は6月17日に終わり、6月21日から学年試業、7月10日に第三学期終了、7月11日から9月10日までの2ヶ月間が夏期休業であった。

金之助はこの夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に初めて関西を旅した。荒正人「増補改定 漱石研究年表」(私は昭和53年頃、岡山大学文学部が招聘した荒正人氏のロシア文学に関する講演を聴講したが、研究年表では、金之助初の関西の旅を含む明治25年の記載事項が充実し始めていた)を参照しながら述べると、6月18日土曜日午前9時から、ブッセ教授の哲学の試験があって、金之助は受けたが、子規は試験場に来たのに受けずに帰ったらしく、翌日、金之助が子規に追試を受けるよう勧めた。

6月21日火曜日から規定通り、学年末試験が始まったが、終了が早かったのか、正規の夏期休業が始まる4日前の7月7日木曜日、新橋発午後9時55分(訂正:明治25年7月改定では9時50分)の最終夜行列車で子規と京都に向かった。7月8日金曜日午後3時30分、七条京都停車場に到着(所要時間17時間35(40)分)、人力車に3-4分揺られて麩屋町の柊家(〒604-8094 京都市中京区麩屋町姉小路上ル中白山町 )に着いた。



柊家さん 画像=HPtopから転載




2011年2月27日撮影(麩屋町通りの柊家さん)



2011年2月27日撮影(御池通りから見える柊家さん)

「柊家」西村様コメントと私信
『夏目漱石氏が明治25年夏、正岡子規さんと共に、私共にご宿泊になった事は、書物にも書かれてますので間違いがないと思いますが、残念ながら私共にはその記録が残っておりません。
私共の旧館は江戸末期、明治年間、昭和の戦後と色々な時代の一角があります。旧館の一角に岡本一平氏の漱石先生と題したデッサン画のような絵が掛かっておりますが、それもどのような経緯で掛かっているのかは解りません。』
2007年11月25日

初代京都七条停車場(当時は烏丸通七条南)から、人力車で柊家さんに向かったルートとしては、そのまま『烏丸通』を上って、当時は道幅の狭かった『御池通』までは上らず、手前の『姉小路通』を東へ向かって『麩屋町通』を上った可能性が高いのではとコメントされた。祇園祭は、寺町通りを通ったらしく、河原町通りは狭かったので、一般的な人力車のルートではなかったかもしれないそうだ。現在の柊家さんの門の位置は当時のままで、上部のガラス戸は当時なく、人力車はそのまま玄関先まで進入していた。
2011年02月27日

夕刻、宿から見物に出かけ、清水堂から京の夜景を眺め、円山公園や妓楼のある遊興街を歩き、柊家に戻った。学年末試験終了直後の初めての京都探訪に、金之助の気分も高揚していたようだ。明治40年に京都を再び訪れた際の夏目漱石自身の回想(大阪朝日新聞記事「京に着ける夕」)によると、岡山逗留直前の京都での様子が記され、開放感に溢れ、頼りにも誇りにもしていた学問への思いも語られている。

始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町(ふやまち)の柊屋(ひいらぎや)とか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。・・・子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行(ある)いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥いて、一房ごとに裂いては噛み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間にやら幅一間ぐらいの小路に出た。この小路の左右に並ぶ家には門並方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしと云う声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしと云う。知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕まえそうに烈しい呼び方をする。子規を顧みて何だと聞くと妓楼(ぎろう)だと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目分量で一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に練って行った。穴から手を出して制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったからである。子規は笑っていた。・・・子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜の月円きに乗じて、清水の堂を徘徊して、明かならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼を微茫の底に放って、幾点の紅灯に夢のごとく柔かなる空想を縦ままに酔わしめたるは、制服の釦の真鍮と知りつつも、黄金と強いたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸のまま世の中へ飛び出した。』
夏目漱石「京に着ける夕」



明治時代の『山ばな平八茶屋』母屋 画像=HPより転載

山ばな 平八茶屋さんによると
「名物麦飯とろろ汁と川魚料理(鯉やごりの飴焚き、もろこの焼き物など)」を満喫したと思われる

7月9日土曜日は比叡山に登って、帰りに川魚料理屋「平八茶屋」(左京区修学院)に立ち寄り、柊屋に戻り二泊目の夜を過ごした。7月10日日曜日、大阪に向かい、大谷藤次郎(大阪市東区北浜3丁目金森方)を訪ねたが、連絡の行き違いで、津山に帰省中で会えず、神戸に向かった(神戸で子規の友人竹村黄塔を訪ねたかもしれない)。

子規は、10日、神戸から汽船で三津浜港に向かった。7月11日月曜日、子規は松山市港町4丁目16番戸の自宅に到着し、その夜は、訪ねてきた高浜虚子と2時間余り歓談した。



明治27年10月5日庚寅新誌社(東京)発行『汽車汽船 旅行案内』

明治27年に発行された庚寅新誌社(東京)の『汽車汽船 旅行案内』によると大阪商船株式会社による「細島(宮崎)航路」=「大阪−神戸−多度津−今治−三津浜−長浜−別府−大分−佐賀関−臼杵−佐伯−細島)=神戸前日出帆便の「多度津入港日が毎月5日、11日、15日、21日、25日」と「宇和島航路」=「大阪−神戸−多度津−今治−三津浜−別府−大分−佐賀関−八幡浜−宇和島」=神戸前日出帆便の「多度津入港日」が毎月2日、8日、12日、18日、22日、28日)」が就航、明治18年には宇和島運輸会社による「第1宇和島丸」(143.74トン、神戸河野造船所建造)が「大阪−神戸−高松−多度津−今治−三津浜−守江−日出−別府−大分−佐賀関−川之石−八幡浜−俵津−吉田−宇和島航路」に就航していた。

明治27年当時の時刻表を基にすると、子規が乗船した可能性があるのは、大阪商船「細島(宮崎)航路」で、神戸10日17:30出帆、高松、多度津、今治(11日8:10入港、8:30出帆)経由で三津浜は11日11:40入港になる。残念ながら、明治25年当時の時刻表が存在せず、厳密に運航状況が把握できないため、確定出来なかった。



逓信公報に記載された明治23年1月と明治26年2月の細島線時刻表



逓信公報に記載された明治23年1月の宇和島線時刻表



逓信公報に記載された明治25年1月の伊万里線時刻表
伊万里線は明治27年7月廃線となり、同年11月発行の『汽車汽船 旅行案内』には載っていなかった

ところが、山崎 善啓著「瀬戸内近代海運草創史」創風社出版2006.06発行によると、大阪商船会社は明治20年8月、逓信省から大阪以西各港間の定期航海を命じられ、船舶改良費・郵便物航送補助金を下付されていた。すなわち、汽船は郵便物航送定期船でもあったため、断片的ながら、明治27年以前の運行時刻表が『逓信公報』に記載されていた。これによると、明治25年7月10日に子規が乗船した可能性があるのは、運行日程表から見る限り、細島線や宇和島線ではなく、二年後の明治27年7月廃線になった『伊万里線』であった可能性が浮上した。神戸出帆時刻は20:30であった。但し、郵便物運送が神戸港からであったために『逓信公報』には大阪出帆時刻が記載されていない。



『大阪朝日新聞』明治25年7月9日の大阪商船会社汽船大阪出帆広告

しかし『大阪朝日新聞』明治25年7月9日の大阪商船会社汽船大阪出帆広告に「盛行丸 七月十日午後三時 神戸多度津今治三津濱門司馬關博多唐津呼子伊萬里行」と掲載されていた。「盛行丸」は伊万里線に就航していたと考えられ、「10日出帆」も明治25年1月の伊万里線運行表と整合する。特に、子規が乗船した10日当日分の大阪出帆広告であり、同じ日に複数の汽船が出帆するとは考えられない。明治25年1月と7月の伊万里線の運行時刻が全く同じかどうかは確認できないが、子規は7月10日に大阪商船伊万里線の大阪15:00出帆『盛行丸 伊萬里行』に神戸から乗船して20:30に三津浜に向けて出発した可能性が高い。

漱石 神戸から岡山へ



明治35年頃の岡山停車場
北村長太郎編「岡山後楽園・備作名勝写真案内」岡山:細謹舎,明35.11から

荒正人氏の漱石研究年表では金之助も、同10日、『汽車(山陽鉄道)』で岡山へ向かった(昭和54年当時、岡山へ向かった日が「9日または10日」と記載され、確定されていなかった)と記載されている。神戸岡山間142Kmの行程は当時6時間程度を要した。しかし、荒氏の年表では「10日」に岡山に向かい、6時間で着くはずの金之助の岡山着が、どういうわけか、翌日「11日」と記載されている。



開通当時の機関車と同型の230形式タンクSL  明治25年頃から導入された貫通式のボギー客車

「遊and見ぃin玉島」から転載

遊and見ぃin玉島によると、明治21年1月、山陽鉄道株式会社が、神戸-岡山、岡山-広島、広島-下関の3区間を各3ヵ年で完成予定として着工した。神戸-姫路間は明治21年12月に開通。明治24年3月18日に神戸-岡山間が開通、9月に福山まで開通した。岡山停車場は御野郡石井村大字上出石にあった。停車場が出来るまでは一面の草叢であったが、瞬く間に新築の屋舎が軒を並べて立ち並び、運送問屋・荷物取り扱い店・旅人宿・割烹店・売茶亭などが営業していた。停車場の北を走る国道の東南に「三好野花壇」があり、屈指の旅館に数えられていた。汽車は「岡蒸汽」、岡山駅は「ステショ」と英語訛りで呼ばれて名所となり、見物人が絶えなかったらしい。神戸-岡山間の最初の列車は、踏み切りや沿線に見物人が詰め掛けたため、徐行・一時停止を余儀なくされ、岡山到着が3時間あまり遅れたという。客車と貨物車の混合7両編成で1日上下合わせて15本が運転された。平均時速25キロ(急行列車は平均時速約40Kmであったが、登場したのは明治27年10月からで岡山姫路間1日1往復のみ)、客車1両の定員30名。金之助来岡は神戸岡山間開通後1年余りであった。これより、岡山の玄関口が「三幡港」から「岡山駅」へ、商業の中心が「京橋」から「表町」へと移行する過渡期であった。

山陽鉄道神戸三原間汽車時刻表 明治25年7月改定(日本交通公社図書館所蔵)では、神戸発の汽車は8本あるが、最終便を含めて3本は姫路止であった。したがって、神戸岡山間は神戸5:18発岡山10:24発、神戸7:35発5:18発岡山12:42発、神戸9:46発岡山14:49発、神戸13:48発岡山19:00発、神戸18:27発岡山23:28発の計5本であった。神戸20:03発の最終便は21:59姫路着/止で岡山には行けなかった。

ところが、その後の調査で「山陽鉄道神戸三原間汽車時刻表 明治25年7月改定」の施行は三原停車場(後に糸崎停車場)開業に合わせて『7月20日』であったことが判明した。

結局、金之助が7月10日、神戸岡山間の移動に利用した可能性のある山陽鉄道は下記『明治24年11月3日改定の尾道停車場開業に伴う時刻表』で運行されていた。

神戸     岡山     尾道
06:00 →  11:28  → 14:27
08:00 →  13:53  → 16:56
12:49 →  18:52  → 21:55
15:30 →  21:00(岡山止)
17:00 →  19:04(姫路止)
19:00 →  21:05(姫路止)

参考文献 長船友則「山陽鉄道物語」JTBパブリッシング 2008年2月1日

神戸岡山間の移動に関する疑問(2008年9月3日)


京都神戸間は2時間30分程度かかるが、金之助と子規は、10日当日、京都を出発して大阪で友人を訪ねてから神戸に向かったので、神戸6:00発岡山11:28発や神戸8:00発岡山13:53発への乗車は無理である。初対面の片岡家の夕飯時に間に合いあうくらいの神戸12:49発岡山18:52発が妥当だが、やはり難しい。となると、岡山行き最終便神戸15:30発岡山21:00着に限られる。

しかし、この最終便を利用したとしても、余程の事がない限り、金之助の神戸発・岡山着は共に『10日』となる。子規が、関西方面が初めての漱石を神戸停車場で見送り、その後、20:30出帆の盛行丸に乗船するため、神戸港に向かったとことになる。当時の神戸停車場は、現在とほぼ同じ相生町(『神戸駅130年史』『明治24年和英詳密神戸市全図』)にあり、神戸停車場から神戸港の距離は、現在の中突堤までとして約900メートルなので、移動時間はそれ程かからなかったと思われる。

敢えて、神戸10日発岡山11日着を説明するにはゝゼ屬余程(3時間以上)遅れた。岡山での逗留先(片岡家)へ夜半に到着するのを遠慮して、岡山停車場到着後駅周辺の宿に泊まり、11日朝片岡家に向かった(当時「三好野」は駅構内の支度所の運営を任されていた。また、駅の北に「三好野花壇」という屈指の宿泊所を設けていた。他にも「旅人宿」はあったらしい)、同じくE喘罎良穎あたりで一泊して、改めて11日岡山に向かった、などが考えられる。荒正人氏の7月10日の項は「漱石は汽車で岡山に向かった」と記載され、厳密には、10日の内に岡山に出発したとは書かれてないので、↓と同じく10日は神戸に宿泊して11日に改めて岡山に向かった可能性もある。しかし、やはり、かなり不自然な時間調整を強いられるという印象を免れない。このように、山陽鉄道を利用したとする場合は、荒正人氏の「漱石11日岡山着」という記載に関して、その経緯を再検討する余地が出てくる。荒氏の記載は綿密を極め、あやふやな点は確定を避けられているので、「漱石11日岡山着」には根拠があると考えられる。但し、荒氏は資料等の出所に関して、守秘義務が関わる場合は、明らかにされていない場合があり、恐らく、同様の理由で、「漱石11日岡山着」の根拠については示されなかったと推定される。となると、神戸岡山間の移動に関する山陽鉄道の利用について荒氏が疑問を抱かれなかったのだろうかという思いは残る。

金之助の神戸岡山間の移動手段に関する新たな可能性

ここまで「漱石研究年表」の記載通り、金之助は神戸岡山間の移動手段として汽車(山陽鉄道)を利用したことを前提としてきた。しかし、汽車で岡山へ向かうのが午後の最終便しかなくて「到着が夜半では先方にも迷惑(片岡家とは縁戚関係とは云え、亀太郎以外とは初対面、金之助の子規への手紙にも、滞在中、お互いにかなり気を使っていた様子が伺われる)」となれば、汽車以外の移動方法も考慮する必要がある。

そこで、子規と前後して『金之助も神戸から汽船に乗って船中泊で岡山に向かった』可能性が出てくる。汽船による移動なら「漱石と子規は神戸港まで行動を共にする」ことになり、また、「岡山への移動と宿泊が同時に可能」であり、山陽鉄道による移動より利便性が高く、時間調整として自然な流れとなる。

長澤文雄氏のHPによると、明治17年5月1日(1884)開設の大阪商船大阪廣島線は、途中の変遷を経て、明治22年(1889)7月1日の大阪発廣凌丸を最終船として、大阪岡山線と改称され、毎月10回両地を発航、岡山碇泊中は丸亀、多度津、笠岡、福山に延航した。さらに、明治25年6月16日からは玉島に延航して『大阪玉島線』と改称され、神戸/岡山/土ノ庄/高松/多度津へ寄港していた。漱石の神戸岡山間の移動は明治25年7月10日なので『大阪玉島線』就航直後に当たる。



明治25年6月17日付の大阪朝日新聞には大阪商船の大阪出帆広告として“毎日出航 岡山丸亀多度津玉島行”と掲載されている。前述の7月9日付けの10日分の出帆広告でも確認できる。神戸港からの出航時刻と岡山への到着時刻が妥当(10日夜発11日午前着)であれば、金之助の神戸岡山間の移動が"汽車ではなく汽船"であった可能性が極めて現実味を帯びる。

漱石の神戸から岡山への移動手段の問題は、適当なタイミングが重要という点で、移動は早ければ良いというものでもないというところにあるが、ちょうど岡山の表玄関が、海上交通を代表していた三蟠港から、陸上交通の象徴になろうとしていた岡山停車場に移り始めていた微妙な時期であったこととも関連して興味深い。

2008年9月03日

金之助の神戸岡山間の移動手段は『大阪商船(大阪)玉島線』

近代ボート競技歴史研究所より御提供頂いた情報

明治27年10月5日庚寅新誌社(東京)発行『汽車汽船 旅行案内』(定価金6銭)によると





大阪商船会社(玉島線)は両地毎日発航、その往航は

神戸出帆発時刻 初日(午)後 7:30発

 船中泊

岡山着 二日目(午)前 4:30 2時間停泊 岡山発 (午)前6:30
土之庄着 (午)前8:10 30分停泊 土之庄発 初日前8:40
高松着  (午)前9:55 30分停泊 高松発 (午)前10:25
多度津着  正(午)0:35 30分停泊 多度津発 (午)後1:10
玉島着  (午)後 3:10


その復航は

玉島発 三日目 (午)後 1:00
途中略、、、
船中泊
神戸着 四日目(午)前7:30

(大阪、玉島線)の運賃表によると
神戸〜岡山間 上等80銭 中等40銭 下等30銭

岡山の港は、海の表玄関として明治3年以来、県下唯一の蒸気船発着港であった三蟠港と推定される。神戸港を夜19:30に出航して、船中泊、岡山には9時間後の翌朝4:30に到着していた。その後、2時間停泊して、土之庄に向けて出帆し、高松、多度津、経由で玉島に15:10到着、そのまま停泊し、翌日の午後13:00に出帆して、復路に就き、岡山神戸間が船中泊で、翌朝7:30神戸着である。

就航当日明治25年6月17日の大阪商船の出帆広告によると『(大阪)玉島線』は(神戸/岡山/丸亀/多度津/玉島)に寄港していた(但し、丸亀寄港は奇数日大阪発往航路のみ)。金之助が乗船したのは、3週間後であり、恐らく、同じダイアと思われる。二年後の明治27年10月5日発行『汽車汽船 旅行案内』のダイア(神戸/岡山/土之庄/高松/多度津/玉島)では丸亀への寄港がなくなり、代わりに、土庄・高松へ寄港するようになっているが、神戸岡山間には大きな変更がなかったと思われる。

以上から、金之助は、明治25年7月10日、汽車で大阪から神戸停車場まで移動して、そのまま、山陽鉄道で岡山に向かったのではなく、その後も、徒歩か人力車で、神戸港まで子規と行動を共にしたと思われる。漱石は、神戸20:30出帆の大阪商船「伊万里線」『盛行丸 伊萬里行』に乗船して三津浜に向かう子規に見送られながら、一足先(明治27年10月5日庚寅新誌社(東京)発行『汽車汽船 旅行案内』を参考にすると)、神戸19:30出帆の大阪商船「玉島線」に乗船し、船中泊しながら、9時間かけて、翌朝4:30に岡山三蟠港に到着したと推定される。

蛇足ながら、玉島港まで行った可能性は極めて低い。三蟠港に2時間停泊後、さらに四国周りで玉島に寄港するからである。万が一、玉島で下船した場合、さらに、玉島港から人力車で、明治24年に出来た「玉島停車場」まで行き、山陽鉄道に乗って岡山停車場へ、岡山停車場から人力車で片岡家に向かうことになるが(岡山停車場から片岡家までは2.3キロ程度あり、人力車(時速8-10キロ)で15-20分程度(12銭くらい)かかる)、所要時間も移動距離も大幅に延びてしまい、不都合と思われる。


三蟠港波止場 画像=「三蟠村誌」



「三蟠港跡」から眺めた児島湾(左手は児島湾大橋)  堤防越しに見る児島湾西方向

吉備人出版「児島湾の人と干拓」
児島湾に面した沖新田の堤防は、1692年当時、総延長6518間
堤防を一番から九番の9つの丁場(現場)に分けて同時進行で競い合いながら工事
沖新田の堤防の始まりは旭川に沿った現・江崎からで
「宮通(みやみち)」が堤防と接する部分から南が「一番」



明治天皇が上陸後10分間御小休された三蟠港の「山長旅館」 画像=「三蟠村誌」



三蟠港跡に立つ明治18年8月の明治天皇御上陸記念碑   右の石碑題字=大原桂南(母方祖父)



明治初期の陸上主力輸送機関「人力車」
岡山に人力車が来たのは明治4年
運賃は「一里当米一升=20銭(散発代くらい)」が相場
「岡山までの片道は普通車夫で30銭、健脚車夫では50銭」
画像=「三蟠村誌」


2008年9月05日



金之助 三蟠港から人力車で片岡家へ

これまでの検証から、金之助の神戸岡山間の移動手段は、大阪商船『玉島線』である可能性が高く、到着は岡山『三蟠港』と思われる。三蟠港へは早朝4:30着であるが、乗船客の待ち合わせ等で汽船は2時間停泊していたようだ。また、三蟠港は遠浅のため、大型船の場合は沖に停泊して、艀を使って人や荷物・貨物の積み下ろしをしていた。したがって、『玉島線』に就航していた船の大きさにもよるが、漱石の実際の三蟠港上陸は4:30から20-30分程度は遅れていたかもしれない。下船後、金之助は、三蟠港の待合所か、あるいは、すぐ東にあった「山長旅館」の休憩所で1時間から1時間半程度休んだと思われる。午前6時半から7時くらいに、人力車(時速8−10キロ)に乗り込んで、風光明媚な旭川河口を西に眺めながら「御成り道」を北に約7.5キロ走り、左折して小橋・中橋・京橋と渡りながら、西に400メートル進み、さらに、京橋西詰めを右折して250メートル北に進んで、午前7時半から8時くらいに逗留先の片岡機邸(二兄臼井直則(旧姓夏目栄之助)の妻(現・岸本)小勝の実家、岡山市内山下町138番邸)で旅装を解いたと考えられる。

金之助は、小勝の戸籍の臼井家から片岡家へ復籍手続き(明治25年7月23日)、小勝の再婚(上道郡金田村の岸本家への正式入籍は漱石の岡山逗留後の明治25年10月6日)並びに臼井亀太郎の竹との婚約など、手続きや慶事が重なり、夏目家の家長代理(明治20年3月に長男大一が亡くなり、5月に三男和三郎が喀血、6月に次男栄之助が亡くなっていたため)として西下、岡山を訪問したようだ。岡長平「ぼっこう横丁」に閑谷校見学をその目的と記載してあるが、一義的なものとは思われない。



大正時代の旭川河畔京橋付近
夥しい数の船が見える
画像=山崎一二 「大正昭和比較写真集」より



大正六年の京橋開通式
画像=「三蟠村誌」



岡山城二ノ丸東門(下水の手門)跡から眺める夜明け前の現在の京橋
「水の手」の片岡家があったのはこの付近

金之助 岡山見物

 

金之助が見た岡山城天守閣 烏城

 

内堀を渡る「目安橋」と「内下馬門」跡

 

「鉄門」跡と「不明門」



片岡家からは「烏城道」を北に進み、「外下馬門」を通り、まもなく「目安橋」で内堀を渡って「内下馬門」から入場し、「不明門」より天守閣へ向かったと思われる



金之助が見た岡山後楽園

 

「廊下門」



「廊下門」から後楽園を望む

 

 

 

岡山城を見物した後、「廊下門」から出て、右手対岸に後楽園を眺めながら
旭川沿いを西に進み、次いで、右にカーブしながら、石関町、下出石町と北に進んで
「鶴見橋」西詰めに至り、これを渡って後楽園正面入り口に到着したと思われる。

 

 


金之助が滞在した片岡家は「水の手」(現岡山県庁の南側付近)にあり、風光明媚な土地であった。「・・・小子来岡以来愈壮健日々見物と飲食と昼寝とに忙がはしく取り紛れ打ち暮らし居候去る16日当地より金田と申す田舎へ参り二泊の上今朝帰岡仕候閑谷黌へは未だ参らず後楽園天守閣等は諸所見物仕候当家は旭川に臨み前に三櫂山を控へ東南に京橋を望み夜に入れば河原の掛茶屋無数の紅燈を点じ納涼の小舟三々五々橋下を往来し躅光清流に徹して宛然たる小不夜城となり、・・・」と、7月19日火曜日付子規宛書簡の前半で、逗留先からの眺めとして旭川、操山、京橋が挙げている。旭川の夕涼み「奈良茶」にも言及し、西中島から続く河原に掛茶屋が立ち並んで無数の灯りが点り、京橋の下は納涼舟が往来し、川面に映る灯りが小不夜城のように見えると伝えている。

見物先は『後楽園天守閣等は諸所見物仕候』と記録されている。岡山到着当日の7月11日月曜日から金田村に出かける前日の7月15日金曜日までの5日間となる。但し、11日は強行軍の疲れを癒すために、外出は控えた可能性が高く、正味は翌12日から15日までの4日間であろう。しかし、4日あれば、周辺のかなりの場所に出かけられたと思われる。「後楽園天守閣」は3-4時間あれば充分見物できる。明治24年3月に岡山停車場が陸の玄関として開業し、海の玄関三蟠港と交通運輸の中心を競い始めた頃であった。「等」に含まれる場所として、後楽園・岡山城から少し西に足を延ばせば、顔馴染みの初代光藤亀吉が住んでいた上之町があり、停車場開業で賑わっていた。また、明治25年3月に完成したばかりの西日本最大級の遊興施設亜公園も盛況で、その北の天神山には旧岡山県庁があった。これらは後述の洪水の際の避難場所としても重要で、金之助は亀太郎と一緒に訪ねていたと想像される。「閑谷校見物」は遠距離なので、元々、金田村訪問の後から予定していたと思われる。閑谷校までは片道35キロ以上あり、人力車で出かけるような距離ではない(日帰りなら、到着するや否や、帰らないといけない)。洪水騒動で結局見物できなかったが、もし、出かけていれば山陽鉄道で、県内の停車場、岡山、長岡、瀬戸、和気、吉永、三石のうち、最寄り駅は「吉永」停車場、ここから南へ約3.5キロくらいの距離になる。時速25キロとして吉永停車場まで1時間30分くらい、そこから、徒歩で30分、人力車で20分くらいとして片道2時間前後であったろう。

金之助 上道郡金田村の医家岸本昌平邸滞在



明治40年頃の岡山県管内全図

片岡家から上道郡金田村へ至る道には、小橋東詰めから『御成道』を南下して三蟠村で『宮道』に入って東へ進むルートと、小橋から中納言・門田屋敷と東に進み「大道(当時、道幅が最も広かった)」へ入り、東山峠を越えて池ノ内で右折し、「牛窓往来」を南東に進むルートがある。2つのルートは光津で出会い、金田村へ向かう。



「牛窓往来」へ通じる東山峠旧道、門田文化町3丁目辺り

「牛窓往来」の方が光津までの距離は短かくてすむが、東山電停を過ぎて峠に差し掛かると急勾配が続き、少なくとも人力車向きではない。以下、風光明媚で11日早朝岡山三蟠港港到着後片岡邸へ向かう時も通っていたと考えられる「御成り道」「宮道」ルートを採用した。

片岡家から岸本家への行程(GOOGLE EARTH画像)

航空写真 (匆機邸→京橋→中橋→小橋→旧山陽道から「御成り道」を南へ→

三蟠村で「宮通」(現岡山県道215号江崎金岡線の一部)に入って東へ→沖田村→清内橋


航空写真◆\尭盒兇鯏呂辰蕩政田村→嘉平樋(現・上南中学校西)で宮通(終点)と別れて

航空写真 南に進み、上南公民館手前を左折して東へ→金田天満宮を右折して南へ→岸本家




旧平井村あたりの『御成り道』 右手に旭川を臨む



旧三蟠村に入ってまもなく『御成り道』を左折して『宮道通』へ



『宮道通』入り口から東方向を臨む



1818年の沖新田東西之図

 

「宮道通」           「沖田神社」と「清内橋」





本来の宮道は新清内橋西詰めで左折して沖田神社正面を通過して百間川西岸に至る

 

百間川西岸から臨む旧清内橋に続く中州の西の端  同じく下流に臨む現在の新清内橋



当時の百間川は大部分が広い中州
現在の中州の西端から見る旧清内橋に至る中州東西道 清内橋刻銘 旧清内橋(東西方向)




現清内橋の100m上流東詰に残る旧清内橋(長さ40m幅員5.75m)

明治25年7月16日土曜日、金之助は臼井亀太郎の案内で人力車に乗って上道郡金田村(現岡山市金田)へ向かった。その行程は記録されていないが、当時、商業の中心であった「京橋」と海運業の中心で岡山の海の玄関であった「三蟠港」を結ぶ風光明媚な旭川東岸ルートが最も現実的であろう。明治18年8月5日午後3時、明治天皇が、海路、広島から蒸気船横浜丸で児島郡米崎沖合いに到着、小蒸気船に御召替えになり、午後3時30分、上道郡江並字三番角(三蟠波止場)に上陸された。山長旅館に10分間御小休後、午後3時40分、二頭立ての馬車で、三蟠土手「三蟠街道」を後楽園延養亭に向かって出発された。明治天皇御巡幸に際して旭川東岸は、三蟠港から小橋までの土手道=「三蟠街道」は馬車が通れる立派な『御成道』に改修されていた。
おそらく、漱石一行は「水の手の片岡家」を出て「京橋・中橋・小橋」で旭川を渡り、その東岸を『御成道』に沿って南下、平井村から三蟠村に入ったところで左折して「宮通」(現岡山県道215号江崎金岡線):東は上南中学校の西、嘉平樋から西は旭川堤防まで。1709年沖田神社が現在の位置に移ってから神社参詣の道として宮道と言われた。1818年の沖新田東西之図に「宮道通」と書かれている。岡山〜牛窓間主要道。城下から牛窓港間の通行に使用、近世は朝鮮通信使の接待も往来。古くは芥子山麓を通っていたが、沖新田完成後、この地を通る道が整備され、往来に道標など往時を偲ぶものが残る)を東に進み、三蟠村・沖田村と通過、沖田神社を左手に見ながら、沖元から「清内橋」(元禄時代からあるが、当時は沖田神社から船で広大な中州に渡り、其の中州から東岸へ渡る小さい橋として描かれている)で百間川を越え、光政村を経て金田村に至った
のではないかと推定される。約11キロ、1時間余りの行程になる。百間川を越える時、亀太郎は金之助に、治水事業として旭川から百間川を分岐させたのは熊沢蕃山の献策で津田永忠の施工であることや義太夫の「生写朝顔日記」に登場する宮城阿曽次郎(後の駒沢次郎左衛門)は蕃山をモデルにしていることなどを説明した。



旧清内橋を渡ると、「宮道」は左斜め方向に進み、現・県道215号線の北を並行して東に走る



市立上南中学校で右折、感知式信号を直進、宮道と別れて南へ

 

金田天満宮 東西絵図では「天神宮」として画かれている



市立上南公民館の手前を左折、金田天満宮を右折



しばらく直進して右左と直角に曲がって南へ

 

まもなく右手に岸本邸  東西絵図に画かれた「岸本家」


このルートは沖新田東西絵図でも確認できる 「金田天満宮」が目標になり、そこからは南へ直進と分りやすい。別ルートで、市立上南公民館の前で斜め左に進み、自転車店のある六叉路を再び斜め左に進んで、まもなく左折し、東に進むと岸本家に至る。このルートも東西絵図で確認できるが、最後は殆ど畦道で車一台通るのがやっと、人力車は無理だったかもしれない。



明治25年7月16日から金之助が三泊四日した岸本家
岡山文庫33 大岩徳二著「岡山文学風土記」より



現在の岸本家遠景

昭和29年、伊原仙太郎氏が取材した昌平の長女・貞子さんの話によると、金之助は、金田村の岸本昌平(37歳)・小勝(30歳)夫妻の家を訪ね、再婚の祝いを述べた。金之助は数えの26歳、帝国大学文科大学の学帽学生服姿、髪の濃い純然たる学生であった。岸本家当主・昌平は安政3年5月20日生まれの37歳、小勝は文久3年6月29日生まれの30歳であった。昌平は「夏目の金さんは随分変わり者だった」と話していた。金之助は、座敷に上がるや否や、(フランネルの)制服の膝をきちんと折って座った。初対面の小勝の夫昌平に挨拶し、昌平への銚子織りの木綿の縮(常陸国鹿島郡波崎地方を原産地とする木綿ちじみで、銚子港から船積みされていたので銚子ちじみと呼ばれいた)一反、小勝への濃茶の小さい矢絣模様がハイカラな縮の浴衣一反を、それぞれ、紙で包んだ祝いに水引をかけて渡した。昌平は「粗品と表書きするところを贈呈と書いてあった」と笑っていたそうだ。(この部分、江藤淳氏は片岡家での出来事として記述したが、伊原仙太郎氏の記録通り、岸本家でのエピソードと考えられる) また、毎年、その着物を見るたびに「これは夏目の金ちゃんがくれたものだ」と懐かしがっていたという。紙と水引は比較的最近まで残っていたらしい。伊原仙太郎氏によると、現存していた昌平への土産の着物は、長年着古されて色も模様もすっかり褪せて、模様の渦のような跡が板目の如く見えたが、文豪の土産だと思うと恩賜の御衣のように懐かしいと記載されている。小勝へのへの土産は貞子さんの妹が嫁がれる時に貰ってゆかれた。

当時の岸本家には旧家らしく古色蒼然とした庭があった。前庭、中庭の木々、築山、石組、池泉等は京都東山山麓の禅寺の風雅さを思わせ、一面に苔が生えているところは夢窓国師が造園したといわれる嵯峨の西芳寺の一隅を連想させた。金之助は「こんな箱庭式の庭は嫌いだ。もっと広い庭で背の高い松の木が数本植えてあって、ブランコがあったり、跳ね回ることができるようなのが好きだ」と言ったらしい。「来年は卒業なんですが、学士号なんか別にもらわなくてもいいんですがね」と言ったらしい。

医家で子のなかった岸本夫妻は家で御馳走したり、稲田ばかりの村では面白くないというので、金之助と亀太郎を連れて方々遊び廻って楽しませて、歓待した。金之助は岸本家滞在中、小勝のことを「姉さん、姉さん」と呼んでいたという。時あたかも、チヌ鯛の漁れる季節で、幸西で大きなチヌが釣れたので、小勝が笹蒸しにして供し、二人はその珍味を満喫したという。普段は朝寝坊の金之助も明けるに早い田舎では自然に起床も早かった。

庭についての発言は、金田訪問前に出かけていた可能性のある「亜公園」を意識していたのではないかと思われる。学士号の件は、形式・称号に束縛されて、自由を失うことを嫌った金之助の後の「文学博士号辞退事件」を思い浮かばせる発言である。後述のように、岸本家滞在直後、大学を退学して社会に出ようとしていた子規を思いとどまらせるために、まるで反対のことを書き送っているのと対照的発言であるが、恐らく、子規の卒業を楽しみにしていた正岡家の経済的問題を考慮してのことであろう。

『稲田ばかりの村では面白くないというので』という発言が昌平のものか、金之助のものか、気になる。漱石の方から、初対面の昌平にいきなり、そのような発言をするとは考えにくい。漱石は東京に住んでいて、むしろ、田舎の風景を楽しんでいたと推定される。とすると、昌平が気を使って、あちこち連れて見物したことになる。夏で日暮れも遅く、16日、17日、18日と各5−6時間程度の見物時間が取れたと思われるので、「鳩島遊覧」以外にも、何箇所か出かけたのであろう。岸本家から近い順番では、金田天満宮・松中島観音寺・西大寺観音院などを見物した可能性がある(伊原仙太郎氏も、吉井川に舟を浮かべて漕ぎ上り、石門の影を映す河岸に舟を着けて、西大寺観音院を見物した可能性が高いと指摘している)。





金之助・亀太郎 児島湾で舟遊び

『金田村漱石ロード』
7月17日、金之助が児島湾の舟遊びで「岸本家」と「九蟠の港」を往復した道筋
創業明治11年の老舗日乃出醤油有限会社4代目小泉昌和社長からもお話を伺う
Google Earthで片道1.3キロ

 

岸本家から南に通じる道を120m進み          T字路右手の「小泉醤油店」を左折

 

東に90m進み、八番用水路に向かう           右折して八番用水路沿いに南へ

 

185m進んで左折して、東へ250m直進

 

十字路を越えて、さらに250m直進、前方が畦道のT字路に至る

 

T字路を右折して南へ145m直進、最初のT字路を左折

 

真東へ240m進み、次の十字路を越えて、さらに180m直進

 

九蟠7号陸閘門(幸西渡辺り)で吉井川西岸に到着
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7月17日日曜日朝、昌平は、金之助と亀太郎を連れて九蟠の海に向かった。備前富士「芥子山(けしごやま)」を背にしながら海岸に達すると眼前に浮かぶ児島の島々の間に白帆が見え隠れするのを楽しんだ。九蟠の大倉という漁師に頼んで、吉井川の河口から、金之助と亀之助を乗せたテント張りの舟を児島湾に出して遊ばせた。村人の話では、大倉では昌平が頼むといつでも漁船を出した。

   

備前富士「芥子山(けしごやま)」    『鳩島』と風物詩『四手網漁』の小屋

昌平は、かいず釣りをして漁師が釣った魚を携えて湾に浮かぶ鳩島に上陸させ、漂着した木片や藻屑を焚いて林間に酒肴を温めるという風雅な趣向で二人を饗応した。これはこの地方の良家で客に対する最高の歓待であった(岸本家には亀太郎からの礼状はが残っていたが、金之助からのものは見つからなかったらしい)。鳩島には「勘三郎の穴」がある。大きな岩が2枚あって、其の間にちょうど人が一人入れるくらいな穴があり、降りて行くと、畳何枚か敷ける程の平地がある。池田光政の治世に「勘三郎」という偽金作りが人知れず樽に乗って、鳩島に渡り、穴の中に隠れて偽金を製造していたという「偽金作りの勘三郎伝説」が伝わっていた。それ以前は海賊の住処であったとも云われている。金之助らは「勘三郎の穴」を覗き込んで頗る奇異の眼を見張り、偽金作りの勘三郎伝説に耳を傾けた。夏が苦手の漱石は備前の夕凪には悩まされたが、暮れ行く美しい夕焼け空を飽かずに眺めたという。

二ヶ所ある「九蟠の港」

 

九蟠港と神社(南海沖地震前は神社の東の海沿いに二軒、南に二軒遊郭があった)

「九蟠港」と言えば、吉井川河口西にある港が思い浮かぶ。江戸時代から岡山藩の海上交通上重要な港で、明治時代には巨大な蒸気船も出入りした。大阪と高松を結ぶ尼崎海運の汽船の寄港地でもあった。さらに明治24年当時は、西中島・東中島、日比、下津井、牛窓に次いで5番目の規模の31人の娼妓を抱える遊郭があり、歓楽街を有する観光港であった。

  

水門町の「九蟠の港」    水門町の九播港から見る鳩島

  もう一箇所、九蟠西寄りの八番用水が児島湾に注ぐ処に「水門町の九蟠の港」がある。水門町の九蟠港は、小さい舟が出入りしていたらしく、とりわけ、鳩島へ渡るのに便利な場所である。現在の九蟠漁業協同組合はここにある。吉井川河口から離れてはいるが、岸本家からも、八番用水沿いに南に下ると一直線で到着する。

 

道なりに直進

 

まもなく水門町が見えると児島湾に到着


舟遊びの出発は『幸西渡し付近』

2009年2月、岡山市立上南公民館松村館長のお世話で地元の方から聞き取り調査する機会があった。鳩島へ舟を出した大倉という漁師は、幸西渡付近で並びで渡船業を営んでいた同じ大倉姓の三軒のうち、唯一、漁師もしていた大倉寅吉さん、当時43歳と推定された。吉井川の西半分は干潮時に十番辺りまで干潟が出来て、幸西渡から舟を渡す時も、実際に渡す深い所は東岸に近い短い距離であった。また、水量の優った旭川の影響で児島湾の潮流は西から東に向かうため、幸西渡から鳩島まで1時間くらいかかった。以上から、金之助と亀太郎を乗せた舟が出発したのは、現在の二箇所の九蟠港ではなくて、幸西渡付近であった可能性が高いと考えられる。






金之助 九蟠の砂浜で大蛤拾い

7月18日、金之助一人が大蛤拾いで「岸本家」と「九蟠の砂浜」を往復した道筋
前日と同じルートで幸西渡し付近の浜辺に出たと推定される

 

九蟠7号陸閘門(幸西渡辺り)の吉井川西岸
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当時、吉井川河口の九蟠港から上流の西岸は、現在のエクスラン工場辺りの「十番」と云われる堤防の終結部(〆崎様(しめざきさま)の神社付近が終点)まで干潟があり、潮干狩りができた
金之助もこの干潟で大蛤を10個ほど掘り出したと思われる


  

帰りは、大蛤を越中褌に包んで畦道を引き返し、八番用水まで戻って右折  次いで、水門を左折

 

T字路奥手に道を挟んで「小泉醤油店」、右手手前に「岸本栄治氏宅」
この辺りで岸本栄治氏が、後の文豪・夏目漱石の異形を見た



「岸本栄治氏宅」を右手に見ながら右折すると「岸本昌平邸」が前方に見える


昭和29年、伊原仙太郎氏が取材した岸本栄治氏(大多羅小学校では伊原仙太郎氏の父親と同級生)、当時76歳の話によると、7月18日月曜日は、金之助一人が、越中褌一つのいでたちで、蛤掻きを持って九幡の浜辺に出かけた。

前日の「水門町の九蟠港」に向かうルートを辿り、八番用水沿いに185m進んで左折、そこから、東へ500m進むと前方が畦道のT字路に至る。ここから、第一経路=前方の畦道をそのまま直進して「乙子渡」と「幸西渡」の中間辺りで吉井川西岸に到着と第二経路=前方が畦道のT字路を右折、南へ145m進んで、次のT字路を左折、東に420m進むと、河口から約1.2キロ程度上流の九蟠7号陸閘門(幸西渡辺り)で吉井川西岸に到着の二つのルートが想定される。地理に明るくない漱石が一人で出かける場合、途中まで前日の道を辿り、その先は出来るだけ、単純なルートが選択されたであろう。出で立ちからは海水浴した可能性もある。第一ルートの方が殆ど直進の最短ルートでわかりやすく、可能性大と思われる

当時は、現在のエクスランの工場手前の10番辺りまで干潟が出来ていた。濫獲もなく、大きな蛤がたくさん生息していたらしい。漱石は、五つ六つも獲ると面白くなって、夢中で掘り、たちまち、大蛤を10個余り掘り出した。東京育ちの金之助は、持ち帰ろうにも、其の方法を考えていなかったので、持て余した。かといって、捨てて帰るのは惜しかったとみえ、無鉄砲にも、窮余の一策で越中褌を外し、全部の蛤をぐるぐる巻きにして、振りチンで帰ったらしい。午後2時頃のことであった。当時、農家も極めてまばらであったが、岸本家の近所に住み、自宅付近で遊んでいた当時15歳の岸本栄治氏がこの様子を目撃していた。ちょうど小泉醤油店と栄治氏宅に挟まれた道を、大蛤を包んだ越中褌を抱えた漱石が疾走して右にカーブするところを見かけたはずである。栄治氏は「これは本当の話しぞな」と繰り返し繰り返し言っていた。栄治氏は岸本家の使いで度々片岡家にも出かけたらしい。栄治氏は、後の文豪・夏目漱石の異形を実際に見た最後の人であったが、昭和43年7月26日91歳で亡くなっている。

「硝子戸の中」でも述べられているが、東京大学予備門予科の頃、暑中休暇には毎日のように友人太田達人と大川水泳場に出かけていたので、金之助が越中褌で泳ぐことは珍しいことではなかったと思われる。帰りの格好は、どうせ帰ったら外して洗うんだし、人目につきやすい道は困るが、田圃の畦道なら人目に付かずに引き返せると考えてのことであろう。特に7月中旬なら左右の田圃の稲の穂も、ある程度の高さがあり、少なくとも、下半身は余り目立たずに済んだと想像される。八番用水まで戻ると、さすがに大急ぎで岸本家を目指したと思われる。栄治さん宅から昌平氏宅まではわずか120mの距離で、走れば15秒くらいで着く。さすがに、そのままの格好で家の中に入るのは気が引けたはずで、玄関先で身づくろいしたのであろう。18日の夕食の食卓には「褌に包まれていた大蛤の吸物」が上っていたはずである(筆者推測)。岸本家の方に、このエピソードが伝わっていないのが不思議であるが、話が話だけに他言無用だったのかもしれない。

「金之助 九蟠の砂浜で大蛤拾い」の信憑性について

「7月18日月曜日、九蟠の海岸で大蛤十ばかりを掘り出し、越中褌に包んで帰る

荒正人は「漱石研究年表」の中で、このエピソードを独立項目として、そのまま採用されている。直前の項目で、児島湾での舟遊びと鳩島上陸のエピソードの出典は伊原仙太郎氏と明記されているが、九蟠の砂浜で大蛤拾いのエピソードの出典は明確にされていない。

ところが、岸本家の御遺品には、年代日時不詳ながら、荒正人氏の東京の住所と姓名(名前にふりがな付き)が記された便箋が一枚(恐らく荒氏直筆)残されている。さらに興味深いことに、昭和53年の春、荒氏は岡山大学文学部の招聘で津島の教養部講義棟でロシア文学の講演をされ、私も同級生と聴講した。したがって、その来岡時に、好機と捉えて、岸本家を訪問し、岸本貞子さんに直接取材されたかもしれない。荒氏の研究年表の岡山逗留の部分が詳しくなるのがこの頃であったこととも整合性がある。岸本栄治氏は既に亡くなっていたので会えなかったはずである。荒氏の研究年表で、児島湾での舟遊びと鳩島上陸のエピソードの出典は伊原仙太郎氏と明確なのに、九蟠の砂浜で大蛤拾いのエピソードの出典が伏せてあるのは何故なのか。

荒氏が証言者のプライバシーに配慮されていたことを考えると『父・岸本昌平からの伝聞』ながら、岸本栄治さん亡き後、岸本貞子さん(昭和60年12月9日没)が(あるいは、間接的ながら、15代当主岸本昌平が)九蟠の砂浜で大蛤拾いのエピソードの件の二人目の証言者であることを暗示している可能性がある。もしも、貞子さんの証言が岸本栄治さんからの伝聞なら、伊原仙太郎氏の岸本栄治さんへの直接取材に明らかなプライオリティーがあり、荒氏の取材はその裏づけという立場になるので、荒氏も、九蟠の砂浜で大蛤拾いのエピソードの出典として伊原仙太郎氏の名前を明記されたはずである。

一方、江藤淳氏は「漱石とその時代 第一部」の中で、出典不明ながら、児島湾での舟遊びと鳩島上陸のエピソードは採用、九蟠の砂浜で大蛤拾いのエピソードは不採用であった。但し、江藤氏は銚子縮みの贈呈の件を岸本家ではなく片岡家と勘違いされるなど、漱石の兄嫁、登世と漱石の関係が重要な研究テーマであった氏は、漱石の岡山逗留の件には深入りされていなかったと思われる。このあたりにも、漱石の行動を徹底的に掘り起こした荒氏との研究姿勢の違いが明瞭である。

九蟠の砂浜で大蛤拾いのエピソードが事実とすれば、帝国大学の学年末試験を終えて、東京のしがらみからも開放され、つかの間の青春を謳歌していた夏目金之助の、岡山逗留中の隠されたエピソード(秘話)と考えるのが妥当であろう。


明治20年の地租改正に基づく地図(金田天満宮所蔵)

この地図では小泉醤油さんのT字路を右に曲がり、15メートルほど進んで左折して南に進むと八番用水沿いの道に出る道が描かれていて現在も存在する。距離的にはT字路を左折するルートよりも短い。往復の一部はこのルートを通っかもしれない。



 

 

往路



 

 

復路


さて、岸本家は夏目漱石が訪問した家として記憶されているが、その背景には350年余り続いた医家としての歴史がある。しかし、詳細な歴史は記録されていないので、最後に、岸本家に残された遺品を元に、第15代当主岸本昌平の時代を中心に回顧して見たい。沖新田は元禄5年(1692)に津田永忠によって完成した。一方、金岡新田は民営新田で完成した時期は不明ながら、開発が進展しないため、藩営に切り替わったのが寛文11年(1671)であった。岡山藩藩医(御典医)であった岸本家が金岡新田村に入植した経緯や時期は不明である。

当初、金岡新田の砂川は百間川に合流していたが、排水の都合で、享保9年(1724)、一の井堰の上流から金岡村開に向けて堀り進み、吉井川に排水できるように新砂川を設けた。しかし、水位の高低差の不足等で、排水は滞った。延享元年(1744)には、砂川流域五ヶ村が砂川の江川への付け替え訴訟を起こしたが、寛延元年(1748)、藩の水野主計による江川筋検分では認可されなかった。

その後、宝暦2年(1752)、新砂川を廃止して、元のように、砂川を百間川に合流させた。新砂川川跡は、宝暦3年(1753)、金岡新田村在住の医師、初代岸本宗周(宝暦8年(1758)6月29日没)が請け負って埋め戻し、十町歩余の田を作り、この新砂川跡の田は『宗周開き』と呼ばれた。宗周の墓は宗周開きの中、太子堂の近くにあった。

もともと5基のお墓があったが、15年程前、宗周の墓を含めて岸本家に縁の深い3基が昌平や小勝と同じ場所に移されたようだ。但し、宗周には初代岸本宗周の他、二代目岸本宗周(寛政8年(1796)12月29日没)、さらに、第12代当主御典医三代目岸本宗周(嘉永六年(1853)10月22日没)と、三人の宗周が存在するため、何代目の宗周の墓が移動されたのかは定かではない。他の二基の候補には、第13代当主御典医岸本勇彌(天保8年(1837)9月22日没)、三女梅婿養子、邑久郡福田村豆田医師松原東省次男、第14代当主医師岸本周造(天保元年(1830)6月5日-明治22年(1889)2月20日没)が挙げられる。御典医の肩書きは第13代当主までであった。第14代当主医師岸本周造は平民医術の肩書きであった。

岸本家は、第14代当主医師岸本周造長男、第15代当主、医師岸本昌平(安政3年5月20日昭和7年1月23日没)の時、後の文豪、夏目金之助が、明治25年7月16日から19日まで、三泊四日で滞在したことでも知られている。

しかし、平成19年(2007)10月30日、岸本家は、第17代当主宗省氏夫人多津子さんが86歳で御逝去に及び、池田侯に仕えた医家としての350年余り続いた歴史を閉じた。今回、ご遺族の御好意により岸本家に残された御遺品を拝見する機会があった。第15代当主、岸本昌平の半生を中心に、明治6年から昭和7年にかけての医家岸本家ならびに岸本医院の歴史を振り返る。 岸本昌平の父、第14代当主岸本周造は、1876年明治9年、岡山県令高崎五六に漢洋法折中内科 平民医術師として医業開願を申請し、1877年明治10年4月、医業鑑札を取得した。住所は岡山県備前国第12区三番小区上道郡金岡新田村404番地(確認できる最も古い住所)であった。岸本家は1818年文政元年の沖新田東西之図では上道郡金田村1835番地に画かれていて、ここから2.5キロあまり北に離れた地で医業を施行した理由は明らかではないが、この場所は祖先の初代岸本宗周が作った宗周開きとその中にあった宗周の墓にも近いことから、金岡新田村に居住した宗周に対する特別の思いで、この地を選定した可能性もある。宗周開きの中で、岸本宗周の墓があった位置から南西方向の金岡新田に当たり、旧新砂川の対岸に近い場所であった。第14代当主岸本周造による一人体制の医業は明治10年4月から明治15(あるいは17)年まで5〜7年余り、上道郡金岡新田村404番地 で続きた。

続いて、岸本周造と第15代当主岸岸本昌平による二人体制の医業期間は明治15(あるいは17)年から周造が亡くなる明治22年まで5〜7年余り、上道郡金岡新田村218番地で続いた。この住所は、上道郡金岡新田村404番地からは殆ど直線で600メートル程北へ進んだ八軒家橋の少し南当たりに相当する。

第15代当主岸本昌平による一人体制の医業期間は明治22年から大正4年まで27年間に及び、この間、明治25年7月16〜19日には夏目漱石金之助が滞在した。また、岸本昌平/第16代当主岸本三郎(昌平長女貞子婿養子)による二人体制の岸本医院としての医業期間が大正4年8月から大正8年まで4年間あったが、岸本三郎死去後は、岸本昌平による一人体制の岸本医院としての医業期間が15年続いたが、昭和7年の昌平の死去と共に岸本家は医家としての歴史を実質的に閉じた。住所は上道郡金田村1835番地。この住所は、1818年の沖新田東西の図に画かれている場所だが、記録としては、岸本医院開院に際して書かれた大正二年付けの岸本昌平履歴書で確認できるものが最も古い。

昌平の父・第14代当主岸本周造は明治10年に院主となり(上道郡金田村1385番地から約2.5キロメートル北の上道郡金岡新田村404番地)、その後、明治15(17)年から明治22年まで第15代当主昌平が助手として医業を補佐し(上道郡金岡新田村404番地から約600メートル北の上道郡金岡新田村218番地)、明治22年、周造の死後、昌平が一人体制で院主を継承した。漱石が滞在した明治25年を含め、明治19年から明治28年に渡る10年間の資料は空白で、岸本家の御遺品から、明治22年以降、第15代当主・昌平による医業が施行された場所(住所)を特定することは出来なかった。

とりわけ、昌平が上道郡金岡新田村218番地から、上道郡金田村1385番地へ移った(戻った)時期は不明である。岸本家は、沖新田東西の図からも明らかなように、文政元年(1818)年には金田村1835番地に存在した(逆に、沖新田東西の図には、上道郡金岡新田村404番地や218番地に相当する場所に岸本家は画かれていない)。しかし、宝暦3年(1753)、初代岸本宗周は金岡新田村に住んでいたので、その後、沖新田東西の図が画かれた1818年までに南の上道郡金田村1385番地に移ったと考えられる。

しかし、その後、第14代当主岸本周造は、遅くとも明治9(1876)年には金岡新田村404番地に居住していた。その場所は、宗周開きにある岸本宗周の墓の近くであった。詳しい理由は不明だが、先祖の宗周に対する特別の思いがあった可能性もある。

その後、岸本周造/岸本昌平による二人体制の医業継続に当たって、明治15(または17)年から明治22年までは金岡新田村404番地から600m程北に位置する上道郡金岡新田村218番地に移ったと推定される。

しかし、漱石が岸本家に滞在した明治25年は、明治22年の父周造没後で、昌平が一人体制で医業を継承していた。場所は、伊原仙太郎の取材等、関係者の証言からも、上道郡金田村1835番地であることは確実で、明治22年の父周造の没後まもなくして金岡新田村218番地から金田村1835番地に移動した(戻った)と推定される。

岸本昌平と片岡小勝は、遅くとも、明治22年秋には再婚していたので、臼井直則(夏目栄之助)と小勝の死別が明治20年6月であったことを考えると、住所が11キロ余り離れていた二人の縁談はかなり急速に進展していた。その理由の1つは、池田藩縁の家柄であった昌平と小勝の再婚の縁を仲介したのが、片岡家で働いていた女中の実家、上道郡金岡新田村の研師であったこととされている。このことからも、明治22年以前は、岸本昌平も金岡新田村に居住していたと考えるのが自然と思われる。

恐らく、祖先の土地に拘りのあった周造の死去と昌平の独立、さらに昌平と小勝との結婚を期に、上道郡金田村1835番地に戻ったと考えられる。特に、昌平の医業は公衆衛生分野が重要な位置を占めていたので、九蟠の港に近い金田村1835番地がより適当であったとも考えられる。

したがって、漱石が岸本昌平を訪ねた明治25(1892)年は、昌平が金岡新田村218番地から金田村1835番地に移動して間もない頃であったと考えられる。金田村1835番地の岸本家が沖新田東西の図に画かれた1818年から74年の歳月が流れ、さらに、少なくとも15年以上、空き家になっていた可能性もあり、昌平・小勝夫妻の入居に当たっては母屋等には改修や建替が行われていたかもしれない。

岸本昌平は、岡山医学教場を明治16年9月に卒業し、在学中から父周造助手として実地研修を積み、明治17年から昭和7年までの50年間、半世紀に渡って、特に明治22年の父周造没後は殆ど一人で、岸本医院を支え、種痘業務、コレラ流行阻止予防業務、梅毒検査助手業務等、九蟠の港にも特化した地域公衆衛生感染阻止予防に貢献し、また、村会議員としても21年間活躍した。コレラ検疫では大阪へも出向し大阪府から表彰されている。

待望の養子婿・東京帝国大学医科大学内科介補・岸本三郎との共同診療体制は岸本三郎の早逝に伴い、大正4年から大正8年までのわずか5年で幕を閉じた。跡継ぎのないまま、さらに15年余り、一人で岸本医院を切り盛りせざるを得なかったのは岸本昌平にとって慙愧に耐えなかったろうと思われる。昭和7年1月23日に岸本昌平が亡くなり、岸本家の医家としての歴史が閉じられ、さらに、第17代当主宗省氏夫人多津子さんが86歳で御逝去に及び、350年余り続いた岸本家の歴史が閉じられた。


子規学年末試験落第

『3泊して19日火曜日朝に片岡家に戻ったが、そこには、松山に帰省していた子規から「(墨汁一滴では「リース先生の歴史で」)学年試験に落第した」旨を告げる17日付けの手紙が届いていた。その日の午後、金之助は子規に返事を書いた。その7月19日火曜日付子規宛書簡の後半では、子規の行く末を思いやり、また、卒業を心待ちにしていた正岡家の経済事情も考え、文学士になるべく二年間辛抱して卒業するようにと子規に翻意を促した。書簡前半で、三泊した金田村滞在が二泊と記され、そのままになっているところにも金之助の慌てぶりが感じられる。直前の金田村訪問のことは、最も記憶に新しいはずで、本来なら、これだけで手紙一通くらい書き残しても不思議はないが、一言しか触れていないのは、余程、子規のことが気になっていたためであろう。後便を出すつもりでいたようだが、4日後には、追い討ちをかけるように、"旭川氾濫による大洪水に遭遇"という金之助にとって大事件が勃発し、残念ながら、もはや、金之助自身が岡山市内見物や金田村訪問の詳細について詳しく書き残す機会は失われたように感じられる。

「貴地17日発の書状、正に落手拝焼誦仕候。先は炎暑の候、御清適奉賀候、小子来岡以来愈壮健日々見物と飲食と昼寝とに忙がはしく取り紛れ打ち暮らし居候去る16日当地より金田と申す田舎へ参り二泊の上今朝帰岡仕候閑谷黌へは未だ参らず後楽園天守閣等は諸所見物仕候当家は旭川に臨み前に三櫂山を控へ東南に京橋を望み夜に入れば河原の掛茶屋無数の紅燈を点じ納涼の小舟三々五々橋下を往来し躅光清流に徹して宛然たる小不夜城となり、君と同遊せざりしは返す返す残念なり。今一度閑谷見物かたがた御来岡ありては如何。一向平気にて遠慮なき家なり。試験の成績面黒き結果相成り候由、鳥に化して跡を晦ますには好都合なれども、文学士の称号を頂戴すには不都合千万なり。君の事だから今二年辛抱し玉えと云はば、なに鳥になるのが勝手だと云うかも知れぬが、先ず小子の考えにては、つまらなくても何でも卒業するが上分別と存候。願わくは今一思案あらまほしう
鳴くならば 満月になけ ほととぎす
余は後便にゆづる乱筆御免」

鳴くならば 満月になけ ほとゝぎす

「満月」は卒業のこと、「ほとゝぎす」は子規のこと、同じ泣くなら、落第して泣かずに、無事、卒業に臨んで泣け、と子規を鼓舞する内容、まさしく、岡山逗留中の明治25年7月19日、学年末試験に落第した子規の行く末を思いやりながら、片岡家で詠んだ岡山ゆかりの唯一の句である。これほど、金之助の岡山逗留と深いかかわりのある句はありえない。手紙の趣旨は、前半の近況報告より、むしろ、後半部分にあったと思われる。松山17日発の手紙が丸2日以内の19日午前に岡山に着いたのは今日並で速いと思われる。速達だったのかもしれない。

関連調査 誤解を招く『文学の小径』漱石句碑



旭川が氾濫した未曾有の大洪水に遭遇



明治25年水害の図 新撰岡山県全図

ところが、子規に手紙を書いた4日後の7月23日土曜日午後から24日日曜日にかけて、台風接近で水かさの増した旭川が氾濫して未曾有の大洪水となり、死者74名、家屋流失5543棟という被害に遭った。

◇岡山縣御津郡誌(大正12年10月31日発行)

「同25年7月23日、大洪水前夜よりの雨は午前八時頃より暴風雨となり、午後7時止む。旭川出水二丈余、本郡旭川の沿岸堤防決潰の箇所、人家の流出少なからず。岡山三大橋墜落、旭川支流、笹ヶ瀬川沿岸の損害多く、岡山石關町、出石町、本郡南方旭川堤防決潰の為南部一面海となり、浸水床上に及び、低地は浸水軒端に達す。本郡児島湾堤防を決潰して南部一面の水を滅するを得たり。之が為沿海の地方は十数日間海中に在るが如く、満潮時には海水床上に及ぶ、稲作全く腐敗して収穫皆無となる。・・・・・」

「岡山県水害史 第一冊上」91頁「明治25年7月暴風雨洪水紀事」によると『7月22日午後から微雨、次第に北東の風が強まり、午後6時には風速10mを記録、23日午前5時30分には真東の烈風に変じ、風速15mを記録、さらに午前8時に気圧が最も下がり、最大風速30mを記録した。午前6時から午後6時の12時間の降雨量166mmに達し、暴風雨中心は18時間に渡り岡山県を移動、23日午前9時頃岡山県西部に最接近、正午頃岡山県を通過した模様。県職員が水防指導に派遣されるも、23日午後9時頃、石関町・下出石町で堤防2箇所決壊し、中橋・小橋共に墜壊、京橋は東詰めで10間にわたり陥没、さらに御野郡大字南方北方で破提、3箇所から水侵入して市内一円浸漬、最低でも床上二尺以上、最高床上五尺以上に及び、市民狼狽周章。一時、舟がなければ移動できない状態になった。上之町・下之町・紙屋町の浸水が最も甚だしく、次いで東西中山下・東田町等が之に次ぐ浸水を蒙った。県庁主務官吏と市役所吏員が各所に派遣され、焚き出し米の準備をしたが、東中山下の市役所は浸水で機能せず、石関町の岡山神社境内に出張所本部を、橋本町に同支部を設置した。焚き出し米配給は、本部、支部、東田町、蓮昌寺、瓦町、妙勝寺で行われた。』

金之助一人で天神山へ避難


水の手の一階立てだった片岡家も浸水が床上五尺(1尺=30.3cmとして五尺=150cmは漱石の身長に相当)に及び、大きな被害を蒙った。

当初、金之助は、旭川上流から牛や藁屋が流れてくるのを面白そうに眺めていたが、堤防決壊後、床が浸かり始めてからは大騒ぎとなった(岡長平著「岡山盛衰記」)。金之助は、水が出始めると「大変だ」と一声叫んで、自分の本が入った小さな柳行李を担いで「一人で避難」、「県庁坂」の「小高い所」に辿り着いたと記録されている。

岡山逗留も二週間に近づき、周辺の地理にも慣れてきた頃で、避難場所を目指せたと思われる。『水が出始めると』に注目すると、漱石の避難開始は堤防が決壊した午後9時頃以降であり、雨は止んでいたが、夜遅くになる。生まれて初めての洪水体験で、地元市民でも「狼狽周章」したと記されているので、相当慌てていたと思われるが、自分の本はちゃんと持ち出したあたり、ある程度の余裕、冷静さも見受けられる。

岡長平著「岡山盛衰記」には「どう避難しやうかと相談の最中へ、かねて懇意だった光藤定吉君(今の二代目光藤亀吉)が、救援にやって来て、取敢えず、自分の家の別荘(上之町西裏)へ案内した」と記述されている。内田百里痢巖石先生臨終記」にも、百里、明治44年早春、入院中の漱石に長与病院で面会した時のことが記されている。初対面で緊張している百里法⌒石は百里龍仁げ山の話題を最初に持ち出し、19年前になる明治25年7月の岡山逗留中の未曾有の大洪水の話をしている。百里『二階のない家に来ておられた為に水に漬かって、そこから避難せられた所が、今は魚峯とかいう料理屋の座敷になっているそうである。』と書いている。これらによると『二代目亀吉が、いきなり、金之助を片岡家から光藤家別荘に連れて行った』ような印象を受ける。

しかし、漱石自身によって『(小高い丘で)終夜眠らずに明かし』と記録されている通り、最初に避難した所は、あくまで「天神山の旧岡山県庁」であり、県庁が開放されていたと推定される。実際、上之町も最も浸水した場所の1つであり、直ぐに避難するのは無理であったと考えられる。避難経路に派遣されていた水防担当職員からも、水の手はもとより上之町も帰宅が無理という情報は伝わっていたと思われる。但し、兄の初代光藤亀吉から指示を受けたと思われる当事者の二代目光藤亀吉(定吉)自身が片岡家に救援に向かったと述べている点を考慮すると、金之助自身の言及はないが、金之助の天神山への一次避難の際、念のために、二代目光藤亀吉(定吉)も付き添った可能性は否定できない。しかし、いづれにしても、二代目光藤亀吉(定吉)は、一旦、光藤家別荘に戻り、水の引き具合等の安全を確認してから、25日になって、改めて天神山に向かい、『上之町西裏』の光藤家別荘(夏目漱石避難座敷)へ金之助を案内したと考えられる。また、二代目光藤亀吉(定吉)も加わわった、片岡家からの緊急避難先の話し合いでは、最も安全な天神山を目指すことで完結し、最終的に金之助が光藤家別荘へ避難するという事案は話題にならなかったと考えられ、この部分は、岡長平氏の聞き間違いか記憶違いと思われる。また、内田百間の父久吉と初代光藤亀吉との間には因縁があって『久吉は志保屋を発展させましたが、明治30年半ばには、中島で豪遊するようになり、遂に上之町の金満家光藤亀吉と色恋沙汰で鞘当てを演じた挙句、色恋沙汰では勝ったものの、酒税滞納を密告されて事業を傾かせ、遂に志保屋を倒産させてしまいました。明治38年、その久吉も亡くなり、家業を継ぐ道を閉ざされた百間を一層文学に傾倒させる切っ掛けともなりました。』(岡山文庫137 岡将男「岡山の内田百間」より)とされている。したがって、内田百里猟描曚砲弔い討癲百里寮顕箸魴垢せる切っ掛けとなった仇、初代光藤亀吉の名前が、弓之町の離れ座敷に漱石を避難させた人物として漱石の口から登場して百里魘辰せたという事情もあり、咽喉が詰まり、舌がもつれて、思うに任せず、生返事を繰り返すのがやっとであったため、動揺して、漱石の話を正確に記憶できていなかった可能性が高い。そうでなければ、後述のように、片岡家で、金之助が行方不明になったと心配することはあり得ないからである。



明治12年から昭和20年まであった天神山の旧岡山県庁(一次避難先)

 

城下から城下筋を北に進み、最初の信号を左折すると『旧県庁坂』
上り切った坂の中央辺りが「旧県庁」正面玄関、現在は県立美術館の南の壁




「県庁坂」の西を下り、右折するとスロープ途中右手に『岡山県庁跡』石碑 山頂に『天神山』石碑

「小高いところ」とは、現・岡山県文化プラザのある「天神山」のことである。岡山県文化プラザへ通じる上り坂の途中右手に「岡山県庁跡」と記された碑がある。旧岡山県庁は1878(明治11)年〜1879(明治12)年にかけて、鹿島が一括請負で天神山に建てた木造2階建、579坪の洋風建築で、昭和20年6月20日の戦災に遭うまで岡山県庁として機能していた。恐らく、当時、地の利から避難所の1つになっていて、住民が押し寄せたのではないかと想像される。



『亜公園』全景と『亜公園集成閣』(岡山文庫122「目でみる岡山の明治」から)



『亜公園集成閣』石碑


当時、県庁坂の南には、神戸岡山間開通直後の明治24年3月20日に開園した岡山初のレジャー施設「亜公園」があった。「亜」とは「後楽園に亜(つ)ぐ二番目の」という意味らしい。中でも、東京の浅草十二階(浅草凌雲閣)などをヒントに園中央に建てられた七階建ての高層楼閣『亜公園集成閣』が話題を呼んだ。岡山城天守閣よりも一間半高かったとか。『岡山県大百科事典』『写真集 岡山県民の明治大正』(山陽新聞社)によると「夏の納涼、冬の雪見には多くの市民が集まり、岡山の名所であった」 集成閣の周辺に「汁粉を売る天神茶屋、鉱泉・金成湯、寄席/芝居小屋・天神座、料亭屋兼宿屋・常磐木、梅団子・三子善哉、写真屋・如水軒、撞玉・双竜軒(岡山第一号)、すし屋、牛肉屋、うどん屋、射的(岡山第一号)、吹き矢、玉ころばし、魚釣り、旅館、劇場、など38軒」あったという。撞玉と射的は岡山第一号で随分人気があったらしい。ちなみに、金之助は高等中学校時代の兵式教練で小銃の取り扱いが上手だったらしく、射的は漱石の関心を引いた可能性がある。遊具は設置されてなく、どちらかと云えば、成人の遊興施設という印象。『ぼっこう横丁』では「阿呆園の狂人楼」との表現も見られる。漱石が「亜公園」に足を運んだかどうかは不明だが、噂は耳にしていたであろう。少なくとも、県庁坂を上る時、金之助の左手の視界に「亜公園」が入っていたことは間違いない。漱石は、岸本家の庭を眺めながら「古色蒼然とした庭よりも、ブランコがあったり、跳ね回ることができる庭が好きだ」と云ったはと伝えられている。この発言が「後楽園」と「亜公園」の対比を意識していたかどうか不明だが、金之助は、7月16日からの金田村岸本家の訪問に先立って「岡山城と後楽園に出かけていた」ので、少し西に足を伸ばして「亜公園」を見物していた可能性は充分にある。特に、岡山の地理に明るくないはずの漱石が「大洪水という混乱の最中に一人で県庁まで避難出来た」のは「亜公園」見物で、県庁坂や県庁との位置関係を記憶し、避難の際も「亜公園集成閣」を目標物の1つにしたのではないかと想像される。その後、「亜公園」は、わずか5年余りで閉園、上之町の守護神「甚九郎稲荷」の境内に「亜公園集成閣」と刻まれた石碑が残されている。「岡山県人は飽きっぽい」と云われる時の引き合いに出されていたらしい。いずれにしても、金之助は位置方向感覚が優れていたようだ。



江戸時代と現在の市街を重ね合わせた「元禄の岡山」



明治28年岡山縣管内全圖市街図




明治28年岡山案内記




明治31年の岡山市街図



金之助避難経路

金之助の避難経路を推定するに当たり、以下の状況を考慮する必要がある
“鯑颪内山下138番地片岡邸から天神山岡山県庁である
金之助は岡山逗留二週間に及び、見物等の体験から周辺の地理を把握していた。
H鯑颪堤防が決壊した23日午後9時以降で、片岡家に浸水が始まってからである。
せ間経過と共に上之町など市街中心部を経由する避難は困難になった。
夜間の緊急避難であり、水防対策で派遣されていた県官吏・市吏員による
避難経路の誘導があった
と思われる。
μ声25年岡山市街図(水害図)を見ると、浸水を免れたのは
内山下(内堀内>本丸内)、後楽園、天神山岡山県庁、亜公園、岡山神社であった。
当時の道は「元禄の岡山」「明治28年岡山縣管内全圖市街図」「明治28年岡山案内記」及び
「明治31年岡山市街図」を参考に推定する。
により、漱石が片岡家の人達と離れ離れになる程、混乱していたとすれば、
中心部程、浸水が進行していたはずで、避難は内山下(内堀内)を北北西に進んだ可能性が高くなる。

第1避難ルート



片岡邸から水の手筋を直ぐに斜め左に曲がり、「石山みち」を北に直進



現・県庁通りを横切り、さらに北に直進

 

左手に石山門跡が見えると東から右曲がりで北に向かう「烏城みち」に合流



まもなく左手に「池田光政公隠居所跡(画像=岡山城西の丸西手櫓)」が見える

 
その先は、当時、大部分が内堀で、画面左の「西の丸」石垣内側に通路があった
「旧内堀」を北に横切り、矢印の階段を下りると「当時の東西道」がある。



「西の丸」石垣の端と階段の間に、当時、内堀(現・烏城みち)を渡る橋が架かっていたと思われる



第1避難ルートA



「当時の東西道」を西に進み、2番目の角を右折
直進して岡山神社前を左折



前方に県庁坂が見える

第1避難ルートB

 

「当時の東西道」を直進して現在の「城下筋」に出て右折



左手に「亜公園」続いて「県庁坂」が見える

第1避難ルートについて

内山下138番地の片岡邸から程近い内堀の東端から始まる「石山みち」を道なりに直進して、石山門で烏城道に合流する経路でわかりやすく、最短距離の避難経路となる。最後は、第1避難ルートAの岡山神社前に出る道が本来の道筋であるが、亜公園完成後は城下筋まで出たかもしれない(第1避難ルートB)。「池田光政公隠居所跡」は当時、高等小学校があったが、「岡山」「石山」「天神山」と市内3箇所の小山の1つ石山に位置し、避難所として使われていたのではないかと思われる。漱石が辿りついた頃には、既に避難してきた近隣住民で満杯状態で、天神山への避難を誘導されたのかもしれない。堤防が最初に決壊した石関町・下出石町に近づくが、既に県庁から水防指導に職員が派遣されていて、決壊した午後9時以降、誘導・迂回指示等があったと思われる。石山付近は小高い場所で、浸水水流の速さは気になるが、全行程で浸水水位はさほど高くはなかったはずで、移動時間のロスもあまりなかったと思われる。



第2避難ルート

 

第1避難ルート同様に、水の手筋を斜め左に進み「石山みち」へ入り、「あくら通り」を右折

 

「あくら通り」を東に進み、現・県庁西筋を左折して北へ

 

「県庁通り」まで進み、右折して東へ

 

「県庁通り」を進み、当時、堀に渡されていた橋を越えて左折、「烏城みち」へ入り北へ



「烏城みち」を北に進み、道なりに左カーブして西へ



林原美術館前を右折、北に進み、再度道なりに左カーブして西へ



山陽放送を右折して北へ進み、石関町へ

 
以下、第1避難ルート同様で、当時、画面左の「西の丸」石垣内側の通路を通って
「旧内堀」を北に横切り、「当時の東西道」に出た。

第1避難ルートA



「当時の東西道」を西に進み、2番目の角を右折
直進して岡山神社前を左折



前方に県庁坂が見える

第1避難ルートB

 

「当時の東西道」を直進して現在の「城下筋」に出て右折



左手に「亜公園」続いて「県庁坂」が見える

第2避難ルートについて

「烏城みち」経由のルートで「水の手筋」から「石山みち」に入るところまで第一避難経路と同じである。「あくら通り」を右折して東に向かい、現・県庁の西を南北に走る道に出て、左折して北に進む。県庁通りに出て右折して東へ進み、橋を渡って左に曲がり、「烏城みち」に入る。石山門以降は第1避難経路と同じである。来岡後、見物した岡山城に出かけるのに最適と思われるコースで、「烏城みち」の「外下馬門」を通過して「内下馬門」から入城したと思われる。一旦東に向かって氾濫する旭川に近づくという心理的ストレスがあり、第1避難経路よりも移動距離が伸びるが、本丸内の「烏城みち」は最も水害のなかったところという長所があり、移動距離は多少延びても、移動時間は節約できた可能性がある。

第3避難ルート

 

片岡邸から「水の手筋」をそのまま進み、現・相生橋の西詰めで左折して県庁通りを西へ



「内堀」にかかっていた橋の手前で右折して「烏城みち」に入る

以下、第2避難経路と同じ

第3避難経路について

「水の手筋」経由で「烏城みち」に入るコース。旭川西岸沿いに北上し、岡山城天守閣を正面に眺めながら進む風光明媚な経由のルートで「岡山城見物」には使われたかもしれない。しかし、「水の手筋」は「内堀」東端の「石山みち」に入るところまでしか画かれていないため、現在のように相生橋西詰めに至る道は存在しない。通過するのに快適とは言えなかった可能性がある。まして、洪水では道として機能していたのかどうか怪しいこと、氾濫している旭川沿いを進むことになること、夜間の移動であること、結果的に「内堀」内では比較的浸水したこと、などの状況を考慮すると、敬遠されたか、制限されていたのではないかと思われる。第2避難経路よりさらに距離が長くなるのも難点である。

第4避難ルート

「水の手筋」を南に下って京橋西詰めから橋本町を「西国街道」で西へ進み、現・西大寺町東詰めで右折、電車通りに沿って「大手門」から「二の丸」城内に入って北に進み、「県立病院」西北の角まで来る。ここで右折して、石山門の方に進んで「烏城みち」に入り、第1避難経路に合流するか、あるいは、左折して「西門」から内堀を渡って右折し、現・「オランダ通り」を内堀に沿って北に進み、上之町の北東角まで来て、「亜公園」を左に見ながら、現・県道を北に進み、県庁坂に至るか、のどちらかになる。橋本町から「西国街道」をさらに西大寺町に進んで右折し、現・表町商店街を北上するのは無理であったと思われる。西に向かうほど、土地が低く、最終的に浸水被害が最悪になった場所なので、遅くなるほど水位も増して避難は困難を極めることになり、「オランダ通り」経由の避難も難しかったと思われる。いづれにしても、時間的にも距離的にも不利となる。

以上、4つのルートを想定したが、第1あるいは第2避難経路を利用した可能性が高いと思われる。避難時間が早く、内堀内の浸水水位が低ければ、最短移動距離の第一避難経路を、避難開始が遅くなり、内堀内の浸水水位が増していれば、移動時間短縮を重視して第二避難経路が選択されたと推定される。

金之助"上之町西裏"へ避難



『県庁坂』の西を下り左折すると南は「旧上之町」方面


初代光藤亀吉離れ"夏目漱石避難座敷"



初代・光藤亀吉(1847・8/5-1912・4/9)実業家・政治家。備前国御野郡七日市の勝尾嘉三次次男。上之町の紙商・和泉屋亀吉の養子となる。明治7年2月上之町組頭。その後、上之町甲長、同戸長、水火防頭、岡山市会議員・議長・参事会員・県会議員
「岡山県大辞典」山陽新聞社刊より
俳優の本郷功次郎氏は玄孫にあたる

7月25日、漱石は避難していた天神山の旧岡山県庁を出て、亜公園を左手に見ながら県庁坂の反対側の道を西に下り、左折して上之町方面に南下、初代光藤亀吉の『離れ(別荘)』に辿りついた。光藤兄弟(初代亀吉と二代目亀吉(定吉):小宮豊隆著「夏目漱石」には光藤兄弟と記載されている)は明治23年の第三回内国勧業博覧会(4月1日ー7月31日)見物のために上京した時、金之助のいた新宿喜久井町の家に半月程度逗留していて懇意であった。



「甚九郎橋」ゆかりの「甚九郎稲荷」

 


小早川秀秋の頃、現在の表町一丁目と県立文化センターを結ぶ中ほどに「上之町北ノ橋」があり、「上之町(現・表町一丁目・天神町)から弓之町へ渡る橋」』であった。宇喜多秀家の旧臣佐久間甚九郎は、関ケ原の戦いに敗れた後に、旧領に潜入して新領主小早川秀秋の動静を探っていたが、ある時、無頼の徒に絡まれて喧嘩となった。甚九郎は、相手を投げようと足を踏ん張った瞬間に橋がバリバリっと割れて堀川に落ちた。そこで、悪党が甚九郎に襲い掛かろうとした時、天から「コンコン」と狐の声がした。そして、あまりの恐ろしさに悪党は逃げ去った。甚九郎は、神の加護と祈念した。このような故事にちなんで、橋は「甚九郎橋」、橋の下にあった稲荷は「甚九郎稲荷」とよばれるようになった。「甚九郎橋」の南詰めが『上之町の北限』となる。現在の「甚九郎稲荷」は「上之町会館」とオリエント美術館に挟まれて、南北に細長い境内となっている。入り口の柱には明治25年3月23日と刻まれ、漱石来岡4ヶ月前に建てられていたことになる。「甚九郎稲荷」は、現在、天神町にあるが、元は旧上之町であった。上之町の防災祈願の稲荷としても大切にされていて境内の清浄水を湛える石(画像左)の前面右端には、『漱石避難座敷』の所有者、初代光藤亀吉の名前も刻まれている。さらに亜公園廃園後、県会議事堂が建設される際、亜公園園内にあった天神神社が甚九郎稲荷に合祀され、鎮座していた「備前焼唐獅子」(画像右)も境内に安置された。





旧県庁から旧上之町への避難ルート

7月25日、金之助は天神山の旧県庁から旧上之町に向かい(黄色太線)、
初代光藤亀吉所有の「離れ座敷」に避難した。荒氏の「漱石研究年表」では、離れの場所が「岡山県庁のある小高い丘の上」と記載されているが、天神山は最初の一次避難場所である
南北に伸びる旧上之町の北寄りの1/6程度は、現在、もも太郎大通りの下に埋没
「離れ座敷」の正確な位置も不明となった

この離れ座敷は、岡長平著「岡山盛衰記」や銅前正太郎氏(岡山文庫148「岡山の表町」)によると『上之町西裏』にあったらしく、後に「貸家」となり、大正時代には『魚峰』という料理屋になり、上之町の新年宴会や寄り合いに利用されていた。内田百痢巖石先生雑記帳」の『漱石先生臨終記』には、昭和9年9月の大風水害をもたらした室戸台風の話題に絡んで、この料理屋の名前が「魚峯」として登場する。後に魚峰が奥津へ行ったあと、同じく、料理屋の「利久」が入った。



昭和9年9月の室戸台風による大風水害 内山下付近(左) 第六高等学校正門付近(右)
この頃、東京にいた内田百里蓮岡山中学の恩師木畑竹三郎氏から
「魚峯の座敷に上がると、明治25年の洪水の時のことを思い出す」という手紙をもらっている
同級の竹三郎と金之助は、竹三郎が病で帰岡して知己を得ず、すれ違いになっていた
画像=「岡山県庁ものがたり(蓬合巌)」「六高回想」より

さて、金之助が避難していた部屋は、岡山ガス社長「二代目光藤亀吉(定吉)」が『夏目漱石避難座敷』として大切にそのままの姿で保存していた。しかし、昭和20年の戦災で惜しくも焼け落ちた。戦災後、上之町の西裏の『離れ座敷』の位置は不明となった。入れ替わりが激しいところへ、戦災で混乱したのが痛手だ。さらに上之町自体、駅前通を挟んで北に延びていたが、駅前通の幅員が大幅に拡張された現在、既に駅前通(現・桃太郎大通り)に埋もれている可能性もあった。しかし、亡くなった時は上之町町葬にされた程の名士の家と"夏目漱石避難座敷"としても評判となっていた「離れ」の位置が、目標物を含めて、全くわからなくなったというのも不思議であった。

しかし、2008年5月、甚九郎稲荷の1つ北の筋の少し西で『現・天神町2-10』にある料亭の元の地主さんが光藤亀吉の孫と判明した。岡山市編「元禄の岡山 よみがえる岡山城下の町割図」によると、元々、この付近の土地は、元禄時代は上之町と弓之町の境となる『中堀』の北西部分で甚九郎橋がかかっていた。当時の上之町の北限は、甚九郎橋の南詰め、すなわち、中堀の手前であった。幕末の弓之町・上之町付近の絵図 を見るとその様子がわかりやすい。漱石が旧県庁から西に下り、左折して南に上之町方面へ下ったと考えられる道は破線で描かれ、明治になって出来たこともわかる。明治15年以降、中堀は、段階的に埋め立てられて、明治31年の市街図では確認できない。しかし、明治28年の市街図では狭いながらも、確認可能なので、漱石来岡の明治25年には一部存在したと考えられる。

中堀埋立地の北東部分には、現在、甚九郎稲荷があるが、その鳥居には「明治25年3月25日」と刻まれているので、金之助来岡当時、埋め立て地に建物が立ち並んでいたことは間違いない。中堀北西部分の埋め立て地が旧上之町に帰属したのであれば、西裏に当たる『現・天神町2-10』付近は『漱石避難座敷』があった最有力候補となる。天神山からの避難に大変便利な場所である点は見逃せない。上之町自体は最も浸水が激しかった場所であったが、浸水の最も少なかった天神山に近い北に位置し、浸水もさほどではなかったか、あるいは、水の引きが良かったのではないかと思われる。上之町表記であった記録は確認できないが、地形的に旧上之町としても不思議ではない場所である。岡山市立中央図書館所蔵の「昭和8年2月訂正昭和初期旧岡山市街番地図」で照合すると、やはり、上之町ではなく「弓之町126番地」に相当したが、岡山地方法務局の土地台帳では「弓之町126番地」の地主は明治・大正・昭和と確かに光藤家であった。

2009年2月25日の岡山地方法務局での確認作業で「弓之町126番地」は番邸制による表示は不明であったが、土地台帳によると、大正2年6月27日に初代光藤亀吉(大正元年4月9日死亡)から二代目光藤亀吉に家督相続されていた。当時は209.25坪の土地であった。次いで、昭和30年2月18日に二代目光藤亀吉から長男と思われる光藤一氏に家督相続されていた。その後、昭和36年2月9日、126番地は元の126番地の部分と、残りを、西から東へ126-3、126-4、126-5、126-6に分割され、さらに後に126と126-6が126-6,126-7、126-8、126-9、126-10に分割されていた。これにより、明治25年7月25日から8月2日にかけて、夏目漱石が避難した当時、209.25坪の土地に離れが建てられていたと思われる。

一方、2008年8月、岡山市教育委員会文化財課に「市議会議員略歴」に掲載された初代光藤亀吉の住所は「上之町23番地」との情報が届いた。この番地は現・十全ビルとその北付近で、上之町西裏に相当するが、地主は光藤家ではなかった。しかし、岡山地方法務局によると、「市議会議員略歴」の住所は明治34年12月1日施行岡山県令第111号による番地制表記ではなく、それ以前の"番邸制表記"で記載されていたはずであった。実際、市議会議員略歴は原本ではなく、戦後に写し直されたもので地番表記に混乱があったのではないかと思われた。そこで、上之町23番地を『上之町23番邸』と読み替えると番地制では「上之町95番地」に相当し、旧上之町通りの西に面した東西に細長い土地で、旧駅前通(現・岡山県道42号 岡山停車場線 通称桃太郎大通り)から3軒目であった。地主は明治・大正・昭和と光藤家であった。結論として、初代光藤亀吉の市議会議員としての住所『上之町23番邸』は、明治30年7月16日から施行された番地制表記では「上之町95番地」と判明した。

「昭和初期旧岡山市街番地図」では『上之町95番地』は、旧駅前通(現・岡山県道42号 岡山停車場線 通称桃太郎大通り)北の帝国銀行の東側にあたる東西に細長い土地で、通りからは3軒目の位置にあった。

『上之町95番地』と『弓之町126番地』の地主は共に『明治大正昭和と光藤氏』であった。二箇所の土地は近接していて『上之町95番地』から北に80メートル程進んで西に曲がり、40メートル程進んで左手が『弓之町126番地』になる。直線距離で√80×80+40×40=√8000、およそ89メートル、味噌汁の冷めない距離である。金之助来岡当時、司法書士事務所が軒を連ね、道を隔てて北に岡山地方裁判所があり、場所柄、閑静であったらしい。明治25年7月当時、初代光藤亀吉の母が「離れ」で病気療養中であったと金之助自身によって記録されているが、『上之町95番地』と『弓之町126番地』は"母屋と離れ"の位置距離関係として矛盾しない。さらに「弓之町126番地」の南は、東西に走る路地に接し、東に進むと旧上之町通だが、この路地が旧上之町と旧弓之町の境界線であった。離れ南の勝手口がこの路地に開き、母屋との行き来に使われていたと想像される。特に「上之町95番地」よりも北に位置する「弓之町126番地」は洪水を逃れるのにも好都合な場所と思われる。『弓之町126番地』はその住所表記の点を除けば"上之町西裏゛と言われても違和感は全くない。



天神山から南に下って旧弓之町から旧上之町通に入る手前の三叉路を西に進むと
旧地方裁判所(現・岡山東税務所)の前に『旧弓之町126番地』=光藤家離れ跡地(赤いポストの辺り)

 

旧上之町と旧弓之町の境界に相当する路地
この路地は『弓之町126番地』の南に接し、東に進むと旧上之町通に至る
『漱石避難座敷』は"上之町西裏にあった"と言われても違和感のない場所に存在した



旧上之町通の天神山方面及び甚九郎稲荷のある通りとの三叉路から見た路地入り口

『弓之町126番地』南は"東西に走る路地"に接し、東に進むと旧上之町通りに出る。この路地は"弓之町と上之町の境界線"でもあった。恐らく明治25年7月当時も存在して「離れ南の勝手口」がこの路地に開き、母屋との行き来に利用されていたと思われる。

"上之町西裏゛にあったとされてきた"初代光藤亀吉離れ=漱石避難座敷゛は実質的に"上之町西裏゛と云える位置の『弓之町126番地』に存在し、その"母屋"が『上之町95番地』にあったと推定される。


岡山空襲直後の旧上之町・弓之町と"初代光藤亀吉母屋跡"及び"離れ(漱石避難座敷)跡"



「昭和初期旧岡山市街番地図(昭和8年2月訂正)」での"光藤亀吉母屋"と"離れ(夏目漱石避難座敷)"の位置



現在の『旧岡山市弓之町126番地』="初代光藤亀吉離れ(漱石避難座敷)跡付近"
"懐石 昇一楼"さんのお店あたり

終戦後、両地は共に天神町と町名変更され、上之町との結び付きが弱くなり、旧上之町あるいは旧上之町西裏として記憶に残ることはさらに難しくなった。『弓之町126番地』="漱石避難座敷"は料理屋さんと縁があり、わかっているだけでも、魚峰→利久→福寿→現在の"懐石 昇一楼"さんと連なってきた。

一方、『上之町95番地』="初代光藤亀吉母屋"は旧駅前通(現・岡山県道42号 岡山停車場線 通称桃太郎大通り)の拡張工事に伴い、埋没した可能性が高い。「岡山復興区画整理誌」では「昭和34年度を初年度とする当初5ヵ年計画で駅前−城下線を22メートルから50メートルに拡巾」と記録されている。実際は、岡山国体開催に合わせて昭和37年に完成したと思われる。「旧岡山市街番地図(昭和8年2月訂正)」では幅員は8間=1.8メートル×8=14.4メートルなので、終戦後、昭和34年までに7.6メートル程度拡幅されて22メートルの幅員となり、さらに昭和34年以降昭和37年までに28メートル拡巾されて50メートルの幅員になったようだ。結局、昭和8年当時からは35.6メートル拡張されている。



単純に北に拡張されたと仮定すると「旧岡山市街番地図(昭和8年2月訂正)」では「上之町98番地」まで、「十五銀行支店」の裏から少し北まで、拡張されたことになるので『上之町95番地』は桃太郎通りの北側車線で横断歩道の西、地下駐車場出口付近に相当する。 「昭和初期旧岡山市街番地図」で、昭和8年当時、二代目光藤亀吉(定吉)の住所は『岡山市内山下石山10番地』であったことが示唆された。前述の内田百里硫山中学時代の恩師木畑竹三郎の住所とも近く、"夏目漱石避難座敷"の件で両者は知り合いになっていた可能性がある。

岡山空襲から63年間不明となっていた光藤家の母屋と離れ(夏目漱石避難座敷)の位置が特定された。光藤家離れは上之町西裏と言われて違和感のない「弓之町126番地」に存在し、その母屋が「上之町95番地」にあったと考えられた。

旭川氾濫で片岡家にも浸水が始まった明治25年7月23日夜半、初代光藤亀吉の指示で片岡家に救援に向かった二代目光藤亀吉(定吉)の勧めで、金之助は、一人で一次避難した天神山の旧県庁で二夜を過ごし、明治25年7月25日月曜日、水が引いて安全が確保されたのを確認して出迎えに来た二代目光藤亀吉(定吉)に案内され、亜公園を左手に見ながら、西に下り、まもなく左折して南に向かい、旧上之町に入る手前で、右折して西に進み、岡山地方裁判所南向かいの『弓之町126番地』=光藤亀吉離れ座敷=漱石避難座敷に到着したと思われる。


これまで、昔を知る人の記憶を頼りに調査を続けてきたが、殆ど手がかりはなく、限界が感じられた。すでに、その昔、岡長平氏ですら「わからん」と云っているくらいだから無理はない。現在の町名は天神町で旧上之町あるいは旧弓之町(旧上之町西裏)との繋がりが記憶に残ることは難しくなっている。調査も、記憶を手掛かりに、記録の発掘や再検討がより大切な時代になりつつある。

最新トピック:光藤家母屋と離れの映像

皮肉にも、母屋や離れを焼き払った米軍が、昭和20年5月13日、事前の偵察飛行で撮影した航空写真(米国国立国会図書館所蔵 画像提供:工藤洋三氏並びに岡山市デジタルミュージアム)に光藤家母屋と離れが写り込んでいた。焼失するまで「夏目漱石避難座敷」は保存されていたので「弓之町126番地」に見える家こそ避難座敷があった光藤家離れである。土地の北半分近くを占める大きな建物が認められ、西は、昭和8年当時で湯屋と記された建物(貸家かもしれない)に接していた。南東の角地付近に東西に長い建物が、また、やや南西寄りの部分に正方形に近い建物が認められ、それぞれ、大きな建物と連絡があるように見える。周辺の家と比較すると、離れの中心的な建物が相当大きかったことがわかる。後に貸家として料理屋に使われ、上之町の会合が開かれたという話も頷ける。岡長平著「昔を今に 岡山盛衰記」には、二代目光藤亀吉(定吉)から聞いた話として「光藤の別荘へ逃げた漱石先生、二階へ篭城して、一歩も外へ出ない。他人が見物に行っているのを黙って眺めてをるばかりだ。偶に手紙を書くぐらいのことで、朝から晩まで、本ばかり読んでたそうである。その二階は昔の儘に保存されてをる。料理屋にはなってをるが、光藤氏は何一つ変更する事を許さないばかりか、その保存に極力努めてをられる。」これより、金之助が過ごした『夏目漱石避難座敷』は、大きな建物の二階で、通りが見渡せる北側(岡山地方裁判所寄り)にあったと考えられる。一方、母屋に当たる上之町95番地(23番邸)も確認できた。旧上之町通りに面して、通りから小さい建物が3つ縦に並び、所謂、鰻の寝床と言われる典型的商家の佇まいである。母屋より離れの方が広大で生活の中心は離れであったと推定される。
最終改定 2011年1月13日記




弓之町126番地跡地全景



"漱石避難座敷"のあった光藤亀吉離れの東隣には、昭和20年6月29日の岡山大空襲直前、永井荷風が疎開先にしていた弓之町松月旅館跡がある。"漱石避難座敷"跡は当時、料理屋利久が営業していたはずで、荷風も"漱石避難座敷"を見学したかもしれない

一方、片岡家では、このことを知らず、金之助が濁流にでものまれたのではないかと案じていた。金之助は、亀吉の祖母が大患療養中のため、長く世話になるのは遠慮して、8月1日月曜日、避難から8日目に『どこからともなく』片岡家に戻ったが、
「まあ、あんたみたいな人があるもんか。ちったー、家の片付けを手伝うてくれればええのに、自分の物だけ持って逃げてしもうてから。大切な親戚の子が流されて死んだかと思うて人が心配してるのに。金ちゃんはほんとにひどい人。でもまあ生きていてくれてよかったけど」
と片岡機夫人から云われた。

そのまま読むと、片岡家の人々と金之助の間には意思の疎通が余ほど乏しかったことになる。金之助の行動も非人情というより不人情と思われかねない。地震ならともかく、一人で逃げるにしても、1つ屋根の下で避難場所等について最低限の打ち合わせをする時間はあったはずだが、漱石が「一人忽然と避難した」という印象を残し、また、『どこからともなく』戻ったのも、第三者には、如何にも無頓着という心象を与える。それまで、家の都合で里子や養子に出された金之助の拠り所は「黄金と強いたる制服の釦」に象徴される学問であった。家や土地や家族に対する思いは片岡家の人々と違ったかもしれない。

実際は、前述のように、二代目光藤亀吉(定吉)を交えて、片岡家では緊迫した話し合いがあり、金之助は天神山を目指すことまでが了解事項になっていたと考えられる。避難に際して家財道具などの整理もある片岡家の人々(機・機夫人・亀太郎)は『親戚からの大切な預かりもの』である金之助を一刻も早く避難させたいと思ったはずである。子規宛の手紙に記された漱石自身による片岡家から受けていた待遇の様子からも明らかである。幸い、逗留二週間に及び、周辺地理にも明るくなっていた(ここで、後楽園・烏城・亜公園(未確定)などを見物していたことが役に立つ)。「金ちゃん、石山の高等小学校か、天神山の県庁がわかるかな、片付けしたら、わたしらーも直ぐに行くから、先に行けるか」と聞くと「行けます」と言うので、あとで天神山で会う約束をして『一足先に一人で避難させた』可能性が高い。闇夜の急な浸水で、間際の挨拶などは出来なかったと思われる。

遅れて、金之助を追うように、片岡家の人々も天神山へ避難したが、暗闇の中、ごったがえしていたため、金之助と再会出来なかった。一方、25日、金之助は、片岡家の人々と出会う前に、水の引きも早かった光藤家別荘の安全を確認して天神山に駆け付けた二代目光藤亀吉(定吉)から「水の手に戻るのは無理じゃけえー、家の離れに、おりゃあーえーがー」と二次避難先となった"上之町西裏"の光藤家離れに案内されたと思われる。一人で避難させたら、本来の避難場所以外の処へ逃げて連絡もなく、行方不明は8日間にも及び、夫人も、安堵と、それまでの心配や苛立ちが重なって、小言になったと推定される。

8月4日木曜日、金之助が子規に宛てた手紙では

『・・・水害、なかなか烈しく、床上五尺程にも及び、23日の夜は近傍に立退き、終夜眠らずに明かし、25日より当地の金満家の光藤という人の、離れ座敷に迎え取られ候ところ、同家にても、老母大患にて厄介に相成るも気の毒ゆえ、8日目に帰宅仕り候。帰寓して観れば、床は落ちておる、畳はぬれておる、壁は振り落ちておる。いやはや、目もあてられぬ次第。四斗樽の上へ、三畳の畳をならべ、これを客間寝室となし、戸棚に浮き出したるを、次の間の中央に据え、その前後左右に、腰掛けと破れ机をならべ、これを食堂となす。屋の中を歩行すること、峡中を行くが如し。一歩を誤てば、縁の下に落ち、なんともはや、まるで古寺か、妖怪屋敷というも、猶、形容し難かるべし。それでも、5日か1週間となるに従い、この野蛮な境遇にもなれて、さのみ苦痛とも思われず。可笑しきものなり。

実は、一時の避難のため、君のところでも、まかり出でんかと、存居り候いしが、旅行中にて、留守にでも遇ったら困る(大阪で、津山に帰省中の大谷藤次郎と行き違いになった件を意識した文面か)と思い、今まで差し控え居り候。かかる場合に、当家に厄介に相成り候も、気の毒ゆえ、先日より帰京せんと致し候ところ、いま少し落ち着くまで、是非逗留のうえ、ゆるゆる帰宅せよと、強いて抑留せられ居り候へども、此方にては先方へ気の毒、先方では此方へ気の毒と、気に毒と気の毒との鉢合わせにて、さりとて、発矢、面目玉をつぶすという訳にもゆかず、御憫笑下さるべし候。実に今回の大水は、驚いたような、面白いような、怖しいような、苦しいような、種々の原素を含み、岡山の大洪水、又、平凸凹一生の大波乱というべし。しかし、余波の長くして、今に乞食同様の生活をなすは、少し閉口、石関の堤防をせきとめるや否や、小生肛門の堤が破れて、黄水反乱には恐れ入る。それに、床下は一面の泥で、其上に寝ること故、よほど身体には害があるならんと、愚考仕るばかりで、目下の処では、当分この境界を免かることを能はざんと、諦め候・・・・・』


8月4日木曜日付子規宛書簡は洪水の話題で溢れ、金之助と片岡家の人々がお互いに気を使いあった様子も記されている。疲労や衛生状態の悪化で下痢にも見舞われた。『小生肛門の堤が破れて、黄水反乱には恐れ入る』に注目、「肛門の堤」とは肛門括約筋のことで、漱石は激しい下痢に見舞われていた。しかし、下痢が激しい分、嘔吐や高熱を免れた。水分摂取で下痢による水分喪失を補い、胃腸炎を乗り切ったのである。「脱水を起こしやすい嘔吐・発熱」を「下痢で回避する」のが胃腸炎克服の極意で漱石も心得ていた。しかし、さすがに不便な生活が続き、閑谷学校見物などを諦め、8月10日水曜日、岡山を後にして松山の子規の元に向かった。この大洪水は金之助にとってあまりにも衝撃的で、洪水以外の岡山の記憶を希薄にした可能性を否めない。7月19日火曜日付子規宛書簡では「余は後便にゆづる」と記してあり、4日後の洪水騒動がなければ、見物先や金田村訪問について詳しく書き残された可能性があったが、実現しなかった。

吉井川氾濫で岸本家も被害

岸本家も吉井川の氾濫で床上二尺も浸水し、怪我人救助のため九番堤防へ出かけていた昌平の留守を守っていた小勝は土蔵の二階に避難して「助けて」と悲鳴を上げていたという。

小勝は士族の長女に生まれ、学問もあり、地唄が得意であった。字も上手で、七夕祭りには近所の子供に短冊の手本を書いて与えたり、大筆の穂先を割って、爪楊枝に細字で和歌や都都逸を書いたりさえした。岸本家には小勝の三味線や地唄・常磐津・義太夫の譜本がたくさんある。先夫、栄之助に長崎で買って貰った支那鞄が残されている。小勝の裁縫は稚気満々たるもので、反って愛嬌があったそうであう。美人薄命、小勝は明治27年10月20日、肺結核で亡くなった。直前に、小勝は最初の夫との間の子、信男(神崎の浜田屋近藤伊勢松へ養子に出たが、その後、伊勢松に男子が誕生し、浜田屋を出て武田信男と名乗る)に一目会いたいと言い出したので、昌平は「そんなことがあったのか、何も遠慮はいらぬ。早く言えば良かったのに」と言って、早速、使いを遣って当時14歳の信男を通っていた寺子屋から呼び寄せたが、臨終には間に合わなかったそうだ(武田家には亀太郎と小勝の写真が保存されている)。現在、岸本家の墓地にある小勝の墓は片岡小勝姫霊と旧姓で刻まれ、夫・昌平の墓から離れた場所に小さく建てられているという。その後、昌平は邑久郡幸島村大字西幸崎越中屋定本源蔵長女ゑひを後妻に迎えたが、これまた、賢夫人の誉れ高く、「贈呈」の件は、その長女貞子さんが父・昌平から聞いた話である。貞子さんは昭和60年12月9日90歳で亡くなっている。
第17代当主岸本宗省氏夫人多津子さんが2007年10月30日86歳で逝去され、残念ながら、岸本家が途絶えた。多津子さんとは、9月12日に御挨拶に出向き、庭でお話ししたのが最後になった。


夏目金之助の岡山逗留回想

金之助は生後まもなく里子や養子に出され、相次ぐ長兄の死で復籍させられると家督相続の矢面に立たされ、養父母との金銭問題も引きずり、家や土地や家族には複雑な思いを抱いていた。岡山逗留前半は試験終了直後でしがらみの多い東京を離れた開放感も手伝って市内見物や金田村訪問など岡山を満喫した。しかし、落第した子規からの手紙到着を契機に逗留後半は慌しくなり、子規の学業継続を案じていたところへ、追い討ちをかける洪水騒動が起こった。金之助が拠り所にしていたのは学問であったが、岡山逗留の真っ只中、その学業を捨て一足先に実社会に飛び出そうとする友人子規の姿を目の当たりにし、学問にも不安な思いを抱き始めていた金之助の姿が浮かんでくる。

金之助の岡山逗留に関わる記録は限られ、不明な点の多くは合理的説明で埋め合わせざるを得ない。2007年10月には旧金田村の岸本家が途絶え、金之助が滞在した当時の原風景が、また一つ消え去ろうとしている。大洪水との遭遇が金之助のそれ以外の岡山の記憶を希薄にした可能性は否めない。本来、金之助が書き残すはずだったが、相次いだ子規落第騒動や洪水騒動で、記録から消え去ろうとしていた金田村滞在中のエピソードが伊原仙太郎氏の取材で記録された意義は大きい。青春時代の金之助の岡山逗留が出来るだけ正確に伝えられることを望む。


  

資料 岡長平「ぼっこう横丁」



資料

岡長平:夏目漱石と岡山:昔を今に岡山盛衰記;p19-24 、吉田書店 1937

伊原仙太郎「夏目漱石と西大寺市」
ー旧金田村の岸本家を訪ねた学生金之助ー
岡山春秋社 岡山春秋 通巻第23号 昭和28年12月1日発行13-18ページ

伊原仙太郎「夏目漱石と西大寺市」
岩波書店 図書11月号 第63号 昭和29年11月5日発行16-20ページ

岡山懸郷土誌叢刊 上道郡誌(大正11年3月発行)

伊原仙太郎「西大寺つれづれ」1986年刊行非売品

六軒屋の富岡阿佐子さん記録『若き日の夏目漱石と金田村」

荒正人「増補改定 漱石研究年表」

江藤淳『漱石とその時代第一部』


金之助 松山へ

金之助はこの洪水のため、閑谷校見学などの予定を切り上げた。片岡機の案内で金毘羅宮参詣をしていたかもしれないが詳細不明。「金毘羅宮参詣」は、児島を経由して四国(金毘羅山)へ行く「金毘羅往来」と呼ばれる街道があった。下津井、下村、田の口から「金毘羅船」が出て、丸亀までは海上6里(約24キロ)を渡していたらしい。金毘羅山と瑜迦山(由加山ゆがさん)は「両参り」といって、両方参らないとご利益が無い、と言われていたが、両方は参れない人のため、田の口(由加山の南)に「金毘羅宮の鳥居」があった。「金毘羅宮参詣」だけなら、三播港や玉島港から多度津経由でも可能である。漱石も、必ずしも四国まで出かけたとは限らず、由加山までに留めた可能性もある。そもそも、洪水の後始末も大変な時期に「金毘羅宮参詣」自体考えにくく、少なくとも、「金毘羅宮参詣」のみの旅はなかったと思われる。

荒正人「増補改定 漱石研究年表」によると「8月10日水曜日、汽車で尾道まで行き、尾道港から三津浜まで汽船に乗るか、または、岡山から汽船で多度津港を経由して三津浜港に到着した。」と記載され、四国行きのルートは確定されていない。

普通なら、京橋から旭川東岸の御成り道を人力車で南に下り、最寄の三播港を目指すはずである。または、前年に開通していた山陽鉄道(岡山ー笠岡)で玉島駅へ向かい、玉島港を目指した可能性もある。しかし、台風接近による7月23日24日の三大河川の氾濫で、京橋も崩落していたし、三播港や玉島港など岡山からの出発が不可能であった場合の選択肢として、尾道ルートに言及されたと思われる。むしろ、尾道ルートを先に書かれているところから、岡山三播港や玉島港の利用が出来なかったと推定された可能性がある。先ず、明治25年8月10日水曜日の時点で、各港が利用できたかどうかの確認が重要になる。『神戸又新日報)』(明治25年7月29日付)には大坂商船会社の神戸出帆広告として「岡山玉島行ハ毎日出港ス」と掲載されているので、少なくとも、洪水から6日後の時点で三播港や玉島港が使用できていたことになり、8月10日であれば尚更大丈夫と解釈できる。

明治25年8月時点では、〇闇店舛らは、金之助が来岡時に利用したと考えられる大阪商船玉島線(大阪→玉島)往路(毎日運行)で岡山三播6:30出帆ー土庄ー高松経由ー多度津12:35入港、玉島港からは、同じく大阪商船玉島線復路(玉島→大阪)(毎日運行)玉島13:00出帆ー多度津15:00入港、H道港からは馬関(下関)始発の神戸行き:尾道13:00出帆ー鞆の浦経由ー多度津16:20入港が就航していた。いずれも、多度津経由で三津浜に行くことが可能であった。しかし、接続線の便は細島線、宇和島線、伊万里線の中では、神戸10日発の伊万里線のみで、しかも、多度津出帆は11日早朝6:00である。三播港が利用できたのなら、やはり,離襦璽箸最も楽であり、昼過ぎに多度津に着いて「金毘羅宮参詣」をして一泊し、翌11日早朝に伊万里線に乗船して三津浜に向かった可能性がある。

稀有の「岡山京橋ー三幡沖航路」は全長13Kmの河川航路で、鉄道駅(岡山停車場)から人力車で市街を抜けて京橋から乗船して、児島湾の三幡港に至り、沖合いの連絡船(岡山三幡ー高松航路本船)に乗り移るという「連絡船の連絡船」という不思議な航路であった。「岡山三幡ー高松航路」本船は、土庄経由で高松港に向かった。1日2往復、片道所要時間は4時間程度であった。しかし、「尾道ー今治航路」開設が1897年明治30年、「尾道―多度津航路(上り下り午前午後各1本ずつ)」および「岡山三幡―高松航路」が開設されたのは1903年明治36年10月である。

子規・漱石・虚子

私が漱石氏に就いての一番旧い記憶はその大学の帽子を彼ってゐる姿である。時は明治24、5年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士が帰省してゐた時のことで、その席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキテンと折って坐った若い人と、居士の母堂と私とがあった。母堂の手によって、松山鮓よばれてゐるところの五目鮓が拵へられて某大学生と居士と私との三人はそれを食ひつつあった。他の二人の目から見たら其頃まだ中学生であった私はほんの子供であったであらう。又17、8の私の目から見た二人の大学生は遥かに大人びた文学者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に来たのであったらうか。それはその後しばく氏に會しながらも終に尋ねてみる機會が無かった。矢張休みを利用して此地方へ来たついでに帰省中の居士を訪ねて来たものであったらうか。その席上ではどんな話があったか、全く私の記憶には残って居らぬ。ただ何事も放膽的であるやうに見えた子規居士と反對に、極めてつつましやかに紳士的な態度をとってゐた漱石氏の模様が昨日の出来事の如くはっきりと眼に歿ってゐる。漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬ様に行儀正しくそれを食べるのであった。さうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸をとるのであった。それから両君はどういふやうにして、どういふ風に別れたか、それも全く記憶に無い、ただ其時私は一本の傘を居士の家に忘れて帰って来たことと、其次ぎ居士を訪問してみると赤や緑や黄や青やの詩箋に二十句ばかりの俳句が記されてあった、それを居士が私に見せて、「これが此間来た夏目の俳句ぢや。」と言ったことを竟えて居る。どんな句があったか記憶しないが何でも一番最初に書いてあった句が鶯の句であったことだけは記憶して居る。

・・・・・それから三、四年経って明治二十八年に私は松山に帰省した。この明治二十八年に帰省した時に、漱石氏は大学を出て松山の中学校の教師になってゐたので、それを訪問してみることを子規居士から勧められた。三、四年前一度居士の宅で遇った大学生か夏目氏其人であることは承知してゐたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐ったまへで碌に談話も交へなかった人のことであるから、私は初對面の心持て氏の寓居を訪ねた。氏の寓居といふのは一番町の裁判所の裏手になって居る、城山の麓の少し高みのところであった。その頃そこは或る古道具屋が住まってゐて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帯もしない書生上りの下宿生活をして居ったのであった。・・・・・裁判所の横手を一丁ばかりも這入って行くと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りっめたところに、その古道具屋の住まってゐる四間か五間の二階建の家があった。私はそこでどんな風に案内を乞うたか、それは記憶に残って居らん。多分古道具屋の上さんが、「夏目さんは裏にゐらっしやるから、裏の方に行って御覧なさい。」とでも言ったものであらう、私はその家の裏庭の方に出たのであった。今言った蓮池や松林がそこにあって、その蓮池の手前の空地の所に射?があって、そこに漱石氏は立ってゐた。それは夏であったのであらう、漱石氏の着てゐる衣物は白地の単衣であったやうに思ふ。その単衣の片肌を脱いで、其下には薄いシャツを着てゐた。さうして其左の手には弓を握ってゐた。漱石氏は振返って私を見たので近づいて来意を通ずると、

「ああさうですか、一寸待ってください、今一本矢が残ってゐるから。」とか何とか言ってその右の手にあった矢を弓につがへて五、六間先にある的をねらって發矢と放った。其時の姿勢から矢の當り具合などが、美しく巧みなやうに私の眼に映った。それから漱石氏は余り厭味のない気取った態度で駈足をして其的のほとりに落ち散ってゐる失を拾ひに行って、それを拾ってもどってから肌を入れて、「失敬しました。」と言って私を其居間に導いた。
私はその時どんな話をしたか記憶には残って居らぬ。ただ艶々しく九髷を結った年増の上さんが出て来て茶を入れたことだけは記憶して居る。」
高浜虚子「漱石氏と私」より

三津浜停車場から伊予鉄道で古町停車場を経て外側停車場で下車、城戸屋(松山市三番町・現二番町401番の7)に宿泊した。松山市港町4丁目16番戸に子規を訪ね、子規の母八重から松山ずし(もぐりずし)を馳走された。高浜虚子と初めて会ったのも、このときである。高浜虚子「漱石氏と私」によると、当時の虚子は、金之助が松山に来た経緯はともかくとして、金之助という人を全く知らなかったようだ。しかし、虚子によって描写された会食中の金之助の立ち振る舞いは、正しく金田村の岸本家に伝えられた漱石の逸話と不思議なくらい符合している。虚子は子規と金之助がどんな話をしていたか記憶がないと書いているが、金之助にとって一番の気がかりは「子規の学年抹試験落第」の件であり、当然、その事は話し合われたことであろう。後半は、金之助が松山中学校の英語教師として愛媛に赴任していた明治28年の夏に虚子が訪ねた時の話で興味深い内容である。金之助は「三番町城戸屋」に旅装を解いてまもなく、4月中旬には「一番町津田方(愛松亭)」に移り、さらに7月中旬に「二番町上野方(愚陀仏庵)」に引越した。虚子による金之助の下宿先の記載は「一番町津田方(愛松亭)」に一致するので、虚子と漱石の二度目の対面は明治28年初夏と推定される。ちょうど、漱石は弓を射ていたが、玄人はだしの所作に見えたとある。気分転換とも、集中力を養うためとも、思われるが、暑中でもあり、以前から弓道として嗜んでいたことを窺わせる記載である。遡ってみると、明治27年2月初め、風邪症状から血痰混じりとなって肺病(結核)と診断されて養生したが、3月上旬に回復した際、弓の稽古を朝夕していた(明治27年3月12日付け正岡常規宛書簡)。江藤淳氏によると「弓は軽症結核に効果がある」との通説があったらしい。しかし、北里柴三郎の診察も受けているが、結核ではなく、咽頭炎の可能性が高かったようだ。5月には殆ど全快していた。まして、1年以上過ぎた明治28年に、結核に対する効果を期待して続けていたとは考え難く、その上達度から見ても、元々、弓を引くのが趣味の1つであったと考えられる。実際、明治26年7月、帝国大学寄宿舎にいた時、級友から弓道を勧められていた。明治27年5月には散歩する時間もなくなるくらい、弓に熱中して朝夕100本ずつ練習していた。ここで思い出されるのが、明治25年7月岡山逗留中に見物した可能性のある「亜公園」。名物は七階建ての「集成閣」であったが、「射的」も岡山第一号として紹介されて呼び物であった。金之助の余り語られることのなかった「的を射る趣味」からの連想では、亜公園で亀太郎と射的や吹矢の腕前を競う金之助の姿が目に浮かぶ。

その後、26日金曜日朝、金之助は正岡子規、新海非風、大原尚恒と共に松山を離れ、三津浜港に向かい、虚子や河東碧梧桐に見送られて神戸に向かった。27日土曜日午前中に神戸港に到着し、堺に出かけて妙国寺を見物、蘇鉄を見た。門前の北村刃物店に寄って買い物をして、大阪に泊まった。28日日曜日、子規は布引の滝に出かけたが、金之助が同行したかどうかは不明。29日月曜日に京都に着き、柊屋に宿泊した。30日火曜日、午前8時55分、七条京都停車場から神戸停車場発静岡行の汽車に乗り、午後8時52分静岡停車場に到着(所要時間11時間57分)、駅前の大東館または清鶴館に泊まった。31日水曜日午前8時51分、静岡停車場発新橋行の汽車に乗り、午後3時50分、新橋停車場に着いた。

その後の片岡家と臼井家

1894年(明治27年)12月、片岡家では岸本家に嫁いでいた長女(岸本)小勝が亡くなった。1896年(明治29年)には片岡機邸の家屋敷は鉱山王・沢田正泰に売却され、片岡家は瓦町へ転居した。しかも、同年6月1日には、旧片岡邸内山下138番邸を含む内山下58番地へ岡山県立測候所が移転してきた。したがって、殆ど売却直後に、旧片岡邸内山下138番邸は取り壊された可能性が高い。

原武哲氏との私信によると、臼井亀太郎は、明治23年11月から明治30年11月まで岡山普通学校教師、その間、明治29年6月から明治30年8月までは岡山県立岡山尋常中学校英語科教授嘱托であった。ところが、突然、九州に渡り、明治30年11月から福岡県立尋常中学修猷館雇教員となっている。

臼井亀太郎は、金之助の次兄、臼井直則と結婚した姉の小勝が、明治17年から明治21年にかけて東京の夏目家で暮らした時、夏目家から学校に通っていた。亀太郎は金之助と同い年で仲も良く、お互いに良き話し相手であった。さらに直則の死後、夏目家の大切な縁戚、臼井家を継いで臼井亀太郎を名乗った。このことが、小勝の再婚や亀太郎の竹との婚約に際して、金之助の夏目家家長代理としての岡山逗留の伏線となったことは前述の通りである。

ところが、興味深いことに、明治29年4月に熊本第五高等学校に赴任していた夏目金之助が、五高からの出向で、1897年(明治30年)11月9日に福岡県立尋常中学修猷館の英語授業を参観していた。金之助は、1897年(明治30年)11月8日、当時、福岡県立尋常中学修猷館に勤めていた帝国大学文科大学の後輩、藤井乙男の家に泊り、翌9日午前10時から午後2時まで休憩を挟んで4時間英語授業を参観した。二年級訳読(平山虎雄)、三年級訳読(鐸木近吉)、四年級和文英訳及び五年級訳解(小田堅立)であったが、英語担当教官の力量はハイレベルで、漱石は、とりわけ、岡山県出身で授業を常時英語で行った小田堅立を高く評価した(原武哲:喪章を着けた千円札の漱石 伝記と考証 第三章 熊本時代漱石の「佐賀福岡尋常中学校報告書」)。

臼井亀太郎の同校就任が漱石参観の前後であるところから、漱石による英会話の得意な亀太郎の修猷館への推薦など、三者間で事前に何らかの話し合いが存在したのではないかと想像される。その傍証として、藤井乙男の「私の見た漱石とその俳句」(「現代のエスプリ 夏目漱石」至文堂、昭和42年7月1日)に「その後でありましたか夏目君の親戚の臼井某といふ人が福岡の中学校の英語の教師に来まして、其ことにつき私に何分よろしく頼むといふやうな手紙を貰ったことがありました。」との記載が残されていた。漱石からの手紙そのものは発見されてないため、詳細不明ながら、金之助が臼井亀太郎の修猷館就職に当たって藤井乙男に一筆書き送っていたことは間違い。しかし、せっかく就職した修猷館も、明治31年8月31日に依願退職した。

その後、臼井亀太郎は教師を辞めて明治生命保険会社の外交員となって、山口県熊毛群光井村に移住した。1903年(明治36年)には、亀太郎と竹との間に出来た娘加年子を片岡家の養女に出すが、娘婿が得られなかったのか、加年子は亀太郎の元へ戻り、片岡家は衰退する。さらに人柄の良かった亀太郎も、次第に酒を嗜むようになり、臼井家もまた衰退を始め、大阪出張中に旅館で急死を遂げた。(伊原仙太郎「夏目漱石と西大寺市」岩波書店 図書11月号 第63号 昭和29年11月5日発行16-20ページ)

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上道郡金田村の医家・岸本家の歴史
明治初期から昭和初期まで

岸本家は、代々、池田侯に仕える医家として350年余り続いた。ご遺族の御好意により岸本家に残された御遺品を拝見する機会があり、第15代当主、岸本昌平の半生を中心に、明治から昭和初期にかけての医家岸本家の歴史を振り返った。

岸本家は、沖新田開発と共に、地域の医療活動に従事したと思われ、既に、1818年の沖新田東西之図に岸本家が画かれている。岸本医院の成立は、昌平の父、第14代当主・岸本周造が院主となった明治10年と推定される。周造は明治9年、岡山県令高崎五六に漢洋法折中内科 平民医術師として医業開願を申請し、明治10年4月、医業鑑札を取得した。住所は岡山県備前国第12区三番小区上道郡金岡新田村404番地であった。

虎列刺(コレラ)病、ペスト、梅毒に関する検疫や天然痘の予防(種痘)は重要な業務であった。漱石が滞在した明治25年を含め、明治19年から明治28年の10年間の資料は空白ながら、その間、明治22年に岸本周造が亡くなり、岸本医院の大黒柱が昌平になった。岸本昌平は、岡山医学教場を明治16年9月に卒業したが、在学中から父周造助手として実地研修を積み、明治17年から昭和7年までの50年間、半世紀に渡って、特に明治22年の父周造没後は殆ど一人で、岸本医院を支え、種痘業務、コレラ流行阻止予防業務、梅毒検査助手業務等、九蟠の港にも特化した地域公衆衛生感染阻止に従事した。

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Dozie:2013-05-30日更新