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2011年3月11日の被災報告
2011年3月13日に記す

 ようやく実家の電気が復旧したので被災当時の状況を書き留めておこうと思う。

 被災したのは陸前高田駅にほど近い職場でのこと。

 3月11日の14:50ごろ。前日ようやく職場に入った新しいストーブで快適に過ごしていたところに突然地震が来た。
 2日前にデカイやつが来たんでそれの余震かと思ったが、すぐさま比較にならない規模の揺れがきた。
 特徴的だったのは揺れの時間がとにかく長くて収まらないこと。ちょっと弱ったと思えばまたぶり返してくる。
 「ブイーン!」と警戒のサイレンが鳴り避難の指示が出た。俺はこの後に及んでも逃げることに躊躇していた。勝手に事務所を空けてもいいのかというためらいがあったのだ。
 たまたま同じ時間に待機していた同僚の人の「ほっぽっていくぞ!」という声に引っ張られていなければ俺は今ここに居なかったであろう・・・。
 当時事務所には5、6人の人が居たがめいめいの自家用車に乗って数珠繋ぎに避難することになった。幸い俺以外の人は地理に詳しい。(俺はこの事務所に異動してきて3ヶ月ほど)

 俺は、Sさんという人の車の後ろについて高台を目指す。ただし、俺が貴重品の持ち出しに手間取ったんで俺と同行したのはSさんだけになってしまった。
 ついたのは鳴石という住宅地。丘陵地帯で建売の住宅なんかが並んでるような所だ。
 この時俺はまだ「会社の指示を待たずに勝手に移動してまずくなかったか?」とか「津波で事務所が水かぶったら片付けがうっとおしいなあ」とかのんきなことを考えていた。
 スピーカーからはひっきりなしに「避難してください!避難してください!」というセッパクした声が聞こえてくる。それが突然「ザー・・・」という音に切り替わり、ぷっつりと音が消えた。
 はっきりと異常事態だということが分かったのはこの時だった。
 Sさんが言う。「市役所がやられたんだ・・・。」予想は恐らく正しかった。この瞬間、防災の本丸たる市役所が津波にやられたのだ。

 前述した通り、事務所には5、6人の人が居た。
 方向的には同じだったはずだが、細かい集合場所までは決めていなかったため俺とSさんは他のメンバーとはぐれてしまっていた。
 他の人たちを探しがてらカーナビのワンセグをかけると次第にコトの大きさが分かってきた。津波の大きさが10mを超えたこと。地震のマグニチュードが観測史上最強だったこと・・・。

 車を流しているうちに市街を俯瞰出来る場所に出た。街の色がドス黒い色にそまっていた。津波の第一波は既に街を消していた。
 最初の揺れがフリーザレベルの化け物だとすればギニュー特戦隊レベルの余震はどっかんどっかん続いている。
 その余震が巻き起こしたのであろう。遠目だが確かに俺も津波を見た。真横一文字の白い線が手前方向に動いているのが分かった。

 現実感は無かった。しかし確実にあそこで人が犠牲になっているのだ。Sさんには寝たきりの母親がいる。「婆さん死んだだろうな・・・。」彼がぽつりと漏らしたその言葉でようやく「そういう事態」だということがが分かった。
 16:30頃、Sさんが「もうこうなっては仕事も職場も関係ない。それぞれにできることをしよう。」というニュアンスのことを言った。肯くしかなかった。

 Sさんと別れた。前述した通り、Sさんの家は押し流されているだろうことを本人は確信していたし、「今晩泊まる所が分からない」とも言っていたが、別れ際の言葉は「家に帰る。」という表現だった。俺はどう言ったらいいかわからず、いつもの仕事上がりのように「お疲れ様でした」としか言えなかった。

 一人になった俺は「内陸の実家に帰る」という方針を決めた。
 俺は三ヶ月前に内陸から沿岸部への異動が決まり、実家から大船渡にあるアパートに入り、ここから陸前高田の職場に通勤していた。
 大船渡も大きな被害を受けていることは確実。アパートにはとても帰れないだろう。
 ならば自家用車で実家に帰るのが一番安全だ。幸い愛車、スズキスイフトの燃料計は2/3の残量を示していた。片道ならば充分すぎる量だ。
 と、なると一番の問題は通行可能なルートが存在するか否かだ。カーナビは搭載しているが、道路は寸断されている可能性がある。なんとか通行可能な道路の情報を得て、それをつぎはぎのように合わせて帰宅ルートを作り上げる作業が必要になるだろう。
 ・・・俺にそんな機用なことできるのか?

 とりあえず慣れない土地を車で流すと氷上橋という陸橋に出たところで、さっきはぐれた営業所のメンバーと再会。「お前だけさっさと逃げたかと思ったよw」と軽口を叩かれた。あんた等も逃げたんでしょうに。しかし、土地勘のある人が一緒なのは心強い。
 周りに居た避難者に話しかけたりしてみると近くの高田第一中学校が避難場所になっているらしい。「帰宅するにせよ、野宿するにせよ、避難所にお世話になるにせよ、まず情報が必要だ。避難所に行ってみよう。」という意見が出た。従うしかなかった。

 とりあえず車を止め、避難所に歩いていく途中、津波が押し寄せた跡の最先端を見た。
 車を止めた場所からほんの数百メートルのところだった。自分では意識しなかったが結構危機一髪な状況だったと知り、ゾっとした。
 驚くべきことに、最先端だというのに威力は全く衰えていなかったことを、押し流されてきた軽自動車の群れが示していた。電気系の異常か、誰も操作していないのに勝手にチカチカライトが点滅する様が可哀想でたまら
なかった。

 あたりは次第に暗くなってきた。そういえば最初の揺れの一撃で電気は死んでいたことを思い出した。民家の明かりはもちろん街灯もつかない。
 いや、一本だけ煌々と光る街灯があった。「ありゃー、アレだよ。最近流行りのソーラー充電の。」と解説する同行者。ああ、あれが。確かにすごい技術だけど、こんな状況じゃ逆に気味が悪いだけだ。

 避難所になった中学校には既に自治体、警察、消防、消防団が集まり、被災者の受け入れを行っていた。
 ここで、たまたまその日盛岡に出ていて地震の後高田に帰ってきたという人に会うことが出来た。来ることができるなら出ることも可能なはずだ!実家に帰れる可能性はかなり高くなった。
 しかし沿岸から内陸への道はただでさえ危険な峠道だ。余震が続く中でしかも夜間。一刻も早く実家の両親に会いたかったが危険すぎると判断。一晩避難所に泊まることにした。

 避難所での体験はひたすら寒かったとかひもじかったとか、読んでもつまらないことしか書けないので詳しくは書かない。
まあ、非日常的な体験を散文的に箇条書きにしてみようと思う。

・飲み水の確保のためにトイレが真っ先に断水された。小便は女は便器でしたあと流さず、男は外で立ちションするようにとの指示。大便は・・・頑張ろう。
・寝具が無いので学校中のカーテンを外して代用したこと。カーテン外す作業は俺も手伝った。
・暖房らしきものはあるがあって無きがごとし。この状況で寝たら確実に風邪引くので一晩中起きて体動かしてた。暗闇で黙々腕立てする姿を見てPTSDの発作と誤解されなかったか心配だ。
・俺は直接は聞いてないが不平不満を言う人はやはりいたらしく、
「既に亡くなられた人や、家を失った人や、もっと辛い状況で今晩過ごす人もいるのです。身一つ助かり、屋根のあるところで過ごせる幸運を思えばあれが無いこれが無いなどと言えないはずです!」
と警察の人が説教してたこと。

 夜が明けて7:00頃、自宅に向けて発車。ちなみにこの時点では前日の昼食以降、避難所で配給された水一杯飲んだだけ。

 あわよくばアパートの状況を確認しつつ国道107号線に抜けたかったので大船渡へ。普段使わない農面道路から遠目に見える光景は未だかつて見たことの無いもの。市内は泥水色に染まり川と言う川は木片で埋まっている。今はまだそういう「光景」でしかないが時間が経てば自らの労力をもって対峙しなければならない実体を持った「現実」になるであろう。

 意外にすんなりと大船渡には抜けられた。しかしここまで。市街地は被害が大きく通行止めになっていた。見れば大きな火災も起きている。そういえば昨夜は高田もボーボーに燃えていた。もはや火事ですら驚きには値しなくなっていた感覚に、今この文章を書いていて逆に驚く。

 ここで引き返すか、大船渡中学校の避難所で待機するか二つに一つ、と警官に言われたのでとりあえず中学校に行ってみた。ここに来る途中、アスファルトのひび割れがあちこちにあったし、中学校の石階段が上から下まで一直線にヒビ割れてたのには驚いた。

 高田の避難所とは違い、大船渡中学校は街に程近いところに立っていたので被害状況は肉眼でも見て取れる。見慣れた町並みが瓦礫に埋まっている。 途中ラジオで聞いたところでは大船渡駅は波にさらわれ「消滅」したそうだ。
 「消滅」である。ガイエスハーケンを喰らったイゼルローン要塞の第七ブロックでもなく、デススターの攻撃を受けた惑星オルデランでもなく、慣れ親しんだ建物や街が「消滅」してしまったのだ。
 津波というものはなにもかも無に帰してしまものなのだと、個人的には定義した。

 一時は大船渡でもう一泊、という考えも頭をよぎったが、高田の農道から内陸に抜けられるかもしれない、と思い立ち高田に引き返すことに。燃料は限られているので無駄足は痛い。ガソリンスタンドはもちろんお休みなのだ。
 カーナビに表示されている道路をなんとかたどるが、(交通規制は反映されないので音声ガイドなどあてにならない)辻辻で通行止めにぶちあたる。 さんざん迷ったあげくガス欠、という最悪の事態が頭をよぎる。

 竹駒という所で交通整理をしていた消防団員に聞いてみた。
「あー、なんとか北上に抜けられないですかねえ。」
「あ、山道でよければ抜けられますよ。」
 口や表情には表さないが頭の中ではファンファーレが鳴っていた。

 車同士の擦れ違いが難しい細道とか、急な砂利道とか、確かに普段なら通りたくない道だが、ナビの地図は確実に幹線道路に近づいていた。国道340号線・・・ここまで来れば・・・。

 脱出は成功した。
 国道に出られたのだ。ここまでくればあとはよほど強い余震でがけ崩れでもない限り拒むものは無い。ほどなく立ち寄った道の駅で「ウチは営業してないけどあっちの公民館で炊き出しやってるよ。」と教えてもらいそこでおにぎりと味噌汁をご馳走になる。ほぼ一日ぶりの食事だ。
 再出発すると自衛隊の車両と次々擦れ違う。横田小という学校には何台ものトラックが集結しており壮観だ。頑張ってくれよ、あっちは地獄だぜ。

 車をおもいきり飛ばしたいがあんまりムチャはできない。なにせ停電のせいで信号機が機能してないのだ。トンネル内の照明すら消えている。今回は初めて見る光景ばかりだ。
 事故に遭うこともなく実家に到着。途中ケータイのアンテナが立ってるのを確認次第メールを送ったんだけど届いてなかったらしくて両親びっくりしてた。
 地元の営業所に無事を報告。みんな半ば死んでるものと思ってたらしく口々に良かったな、と声をかけてくれた。
 この営業所には去年の秋口にとんでもない迷惑をかけたあげく転勤した事情があったのでただただ嬉しかった。

 俺の被災体験はこうして終わった。
 今回助かったのは「運がよかった」につきる。

 まず大船渡のアパートじゃなくて高田の職場にいたこと。アパートから避難できるのは歩いて五分の神社になるだろうが、その場合愛車は持っていけないから確実に車は水の中で、移動の手段を失っていた。

 そして職場に他に人がいたこと。何もかもかなぐり捨てて逃げ出す決断が一人で出来た自信が無いし、どこに逃げればいいのかも分からなかっただろう。

 どこにも怪我をせず自家用車を確保できるという、被災状況下にあって最高の状態だったわけだが、一つボタンをかけちがってもこんな早い時期に実家に帰ることはできなかった、っていうか死ぬ可能性もかなり高かったと思う。

 今回の日記を読み返しても分かるとおり、俺が自分で能動的に決断を下した場面は実に少ない。常に他人の決断に乗っかって他人に助けてもらった。そして助かった後は他人に祝福してもらった。全て他人がいたおかげだ。

 今回俺は家も失っていないし、財産と呼べるような高価なものも失っていない。避難所も一日いただけで大した苦労もしていないから、本格的な被災者の人に偉そうなことは言いにくいんだけど、頑張って欲しい。俺は他人に助けられた。あなたたちも誰かを助け、また助けられて欲しい。

 だから頑張ってくれ。今はこうしてパソコンの前で安穏としているけど岩手という土地に住んでいる限り俺も少なからず復興の苦労を共有することになるだろう。また助け助けられて、全てが終わったら祝福することができたらいいと思う。

(mixiに投稿した日記から転載)

管理人:都山(tozanfyahoo.co.jp)