慶良間(ケラマ)諸島
大平洋戦争の当時、アメリカの兵隊はとても恐ろしく残酷だと教えられていました。捕まれば男は八つ裂きにされる。女は犯されてから殺される。今では信じられないことですが当時の人々は本気でそう信じていたのです。

戦争末期、1945年の3月26日。その恐ろしい鬼畜米英がついに沖縄に押し寄せて来ました。最初の上陸地点は那覇の対岸に位置するケラマ諸島。今ではダイビングなどのマリンスポーツが盛んな美しい島です。

まず艦船と飛行機から激しい砲爆撃を加えて島を焼きつくします。それから上陸を開始。小さな島なので逃げるところはありません。追い詰められた住民達は「集団自決」を決行します。軍から自決用に手榴弾が支給されています。家族や親戚でそれを囲んで爆発させるのです。

それがない人、不発だった人はいろんな方法で自殺します。紐で首を閉める、首を吊る。カミソリやカマ、ナタで頸動脈を斬る。ネズミ取りの毒薬を飲む。棒や石で殴るとか。自分ではなかなか死にきれないですから、お父さんが、奥さんや、子供を殺す。兄が妹を殺す。

愛する人が苦しむところは誰もみたくないでしょう。だから一瞬で死ねるように、できるだけ思いっきり、殴るなり切るなりしないといけないわけです。そして自分は最後に自殺する。

そうやって島民がそれぞれ自殺していったのです。 無惨です。死ななくてもよかった人が大勢いたのです。そして死にきれなかった人、奇跡的に助かった人は多くを語りません。



米軍 本島へ無血上陸
沖縄本島への上陸は。4月1日の朝の8時半からでした。エイプリルフールです。読谷、嘉手納、北谷にわたる海岸が無数の艦船と上陸艇で埋め尽くされました。船とその水飛沫で海が見えないほどだったといいます。

米軍全兵力は45万人。そして上陸部隊は18万人。空母や戦艦など大型の船が170隻というような大部隊で、これは米軍にとっても最大規模の上陸作戦でした。日本本土への侵攻基地として、又その後の東アジアの戦略もにらみ、最初から沖縄に大きな基地を作る予定でした。
上陸に先立って船から大量の砲弾を徹底的に打ち込みます。そして飛行機からも爆撃を加えます。日本軍が陣地を這って待ち構えていると予測してのものです。上陸中に攻撃されると大損害を受けますから。上陸中が最も危険なのです。

しかし日本軍からの反撃はほとんどなく予想外の静かな上陸となりました。そのまま重要拠点の飛行場もあっさり占拠してしまいます。 それと知らずに日本軍の飛行機が着陸してきたそうです。米兵はエイプリルフールじゃあるまいしと不思議がったそうです。

チビチリガマとシムクガマ
上陸地点の住民は嵐のような「艦砲射撃」を避けて近くのガマ(洞窟や鍾乳洞、ほら穴)に避難していました。沖縄にはこのようなガマがたくさんあります。

「チビチリガマ」という洞窟に避難した140人の住民はアメリカ兵に包囲され投降を呼び掛けられます。壕内は自決派と投降派がいるわけですが、中国戦線を見た従軍経験者、またサイパンの玉砕を知っている人などにより自決を決行してしまいます。布団に火をつけて煙りと炎で85人が犠牲となりました。

しかしそこから800mしか離れていないもうひとつの「シムクガマ」。1000人の住民が避難していましたが全員が助かっています。ここにはハワイ帰りで英語の解る人がいたのです。

この人はアメリカ人をよく知っていたので鬼畜米英は軍の流したデマだと知っていました。住民を虐殺するようなことはアメリカ人はしないと皆を説得し自決を思いとどまらせたのです。

集団自決
避難していたガマがついに敵に発見されてまう。入り口から「カマワン(Come On)デテコイ」と呼び掛けられる。アメリカ兵は残虐だと教えられている。捕まったら、ひどい殺され方をされる。

中国戦線を見た人の話しによると神国である日本軍も中国の住民には恐ろしい事をする。それなら鬼畜米英に捕まったらただではすむわけがない。自分の妻や親や、子供達をそんな目にあわせるわけにはいかない。自殺するほうがどれほどましだろうか。

それに生き残って捕虜になることは非国民であって恥ずかしいことでした。 皇民化教育は沖縄でも熱心に行なわれていたし軍国少年もたくさんいたのです。天皇陛下の為に潔く死ななければならない。また投降しようとすれば日本兵にスパイ容疑で即、処刑されるのです。

住民は飛行場や壕の建設に協力している。おかげで壕の場所、部隊の規模、大砲の配置など知っていたりするから、捕まって秘密がもれる事は十分ありうる。よって捕虜になる事イコールスパイ行為ということになるのです。

投降のビラを見ていただけでも、方言を使っただけでも、スパイ容疑です。日本軍のいるところでは投降は許されません。投降すれば後ろから撃たれます。軍民ともに玉砕するしかないのです。

暗い高温多湿なガマの中で爆撃に脅え水も食料もままならない。そして日本兵の恫喝や略奪。そんな状況が何日も続き、ついに鬼のような米兵に発見される。これでは集団で自殺するしかないのです。というよりやっとこれで楽になれるというぐらいの気持ちではないでしょうか。

持久戦
沖縄の日本軍兵力は11万。米軍の1/4です。装備も旧式で武器も弾薬も満足にない。そして中心となるはずだった精鋭部隊を台湾に移されてしまう。米軍と戦える戦力ではありませんでした。大砲を1発撃つと百発帰ってくるというような悲惨なありさまです。

米軍の上陸に対する攻撃は逆に大きな被害を受けるので、上陸させてから持久戦に持ち込むという作戦でした。できるだけ戦闘を長引かせるというのが沖縄守備隊の使命です。

沖縄を攻略されれば次は本土決戦となってしまいます。

実際、米軍には南九州、湘南、九十九里浜への上陸作戦がありました。湘南の海を米軍艦隊が埋め尽くすという、こともあり得たのです。すでに日本の敗戦は決まっていたでしょう。少しでも米軍を沖縄に釘付けにして、あわやくば一泡吹かせて戦後の講和を有利にしようというものでした。天皇制は残したいということなのです。

作戦を立てた八原大佐はその期待に応え、おかげで沖縄では約3ヶ月以上という長期間の戦闘が続きます。その間、沖縄全土を穴だらけにするような猛烈な爆撃と艦砲射撃が雨のように降り続くことになります。 これは「鉄の暴風」と呼ばれています。

中 部 戦 線
本軍の司令部壕はよりによって首里城の下に作られていました。文化遺産の下なら米軍も攻撃をためらうということなのでしょうか?おかげで周りにあった琉球王朝文化遺産は徹底的な砲爆撃を受けてほぼ壊滅しました 。

アメリカ軍主力部隊は沖縄を南北に分断した後、首里を目指して徐々に南下してきます。上陸から1週間。日本軍の反撃が始まります。4月8日、嘉数高地の防衛ラインから日本軍の砲門が一斉に火を噴きます。日本軍は洞窟などの地形を巧みに利用した陣地で待ち構えていました。

対する米軍は海からの艦砲射撃、飛行機からの爆撃。この援護を受けて戦車を盾に進軍してきます。地面 を耕しながら進むような圧倒的な物量攻撃です。日本軍はいよいよ防ぎきれなくなると、その戦車に爆弾をかついでいって自爆します。夜襲をかけ日本刀で斬り込んだりします。昼は米軍が押し、夜に日本軍が取りかえすという一進一退の激しい攻防戦が続きます。日本軍はそのつど大量の死傷者をこうむりながらですから交代要員のいる米軍に徐々に崩され後退していきました。

ついに5月29日、瓦礫となった首里城跡に星条旗がひるがえります。 日本軍は主力の70%のを失いほぼ壊滅状態。1日につき1500人もの戦死者をだしたことになります。

この中部戦線は大平洋戦争最大の激戦地の一つです。直線距離でたったの10キロほどですが米軍がここを進むのに一ヶ月半もかかっています。圧倒的な物資をもった米軍でさえも一日200mしか進めなかったことになります。それほど日本軍の抵抗は壮絶で米軍の被害も少なくありませんでした。

とくに両者の攻防が最も激しかったといわれる「すりばち丘」。重要拠点だったために、この小さな丘を一日に何度も奪回しあい、米軍の死者2662人。加えてなんと発狂者1289人!。日本軍の方は記録はありませんがその何倍もの死者でしょう。

打ち込まれ続けた砲弾で地中の白い石灰岩が露出して砂糖パンのようになったことから「シュガーローフヒル」と呼ばれたそうです。今では返還地にできた天久副都心の一角に公園として残っています。

私の実家の近くの弁ケ嶽も「チョコレートドロップ」と呼ばれたそうで米兵と日本兵が激しくぶつかり疲労困ぱいのあまり最後はだれも発砲しなくなり口合戦になったそうです。

米軍の最終的な全戦没者は12520人となっています。

艦 砲 射 撃
軍艦からの「カンポー」は沖縄全土に大量 に打ち込まれました。多くの人がこれでやられたのだと思います。ガマからガマへと避難している途中とか、水を汲みに行くとき、食料を探しているとき、人のよく通る交差点で、「カンポー」が突然落ちて爆発する。

飛行機の爆撃と違って逃げる間がありません。そばにいた人は数名は一瞬でバラバラです。また砲弾の爆発した破片が飛びますからそれが体に突き刺さって重傷をおう。

片足がもげたり同体がが真っ二つになったりする。運良く助かった人は爆弾でできた穴に遺族を埋めて目印を置いて避難していく…。

「艦砲ぬ食えー残さー(かんぽーぬくぇーぬくさー)」という唄があります。戦後生きのこった人は艦砲の食べ残しなんだという意味です。

また、着弾点を指示する「トンボ」と呼ばれる観測機があって、これに見つかると「カンポー」が飛んでくるので悪魔の使者として恐れられたそうです。

南 部 戦 線
首里の司令部壕が攻略された時点で沖縄戦は終わるはずでした。移動できない負傷者を1万も抱えていましたし、軍人としても、逃げ回るよりも皆でいっせいに玉砕して散って行きたい。ところが 3万の残存部隊を南部のほうに移してまだ持久戦を続けるわけです。そこにはすでに20万の住民が避難しているところなのです。その後ろは海ですから逃るところはありません。

そこに撤退するということは避難民のど真ん中を戦場にするということです。 知念半島が安全地帯になっていましたが、もはや混乱の中でそれを伝えることもできません。おりからの豪雨にまぎれて部隊は撤退していきました。歩けない負傷兵には自決用の青酸カリが配られました。

この地域は特にガマ(洞窟)が多く持久戦に向いた地形となっていました。しかしその中には住民がすでに避難しています。そこに軍が入ってきます。また軍に守ってもらおうと思って追い詰められた住民がやってきます。軍は守るどころかガマを陣地にするので住民を追い出す。または危険な入り口付近に追い立てる。外は砲爆撃が雨のように降り注いでいるので安全なところはガマ以外にありません。

日本軍の最後の組織的な抵抗も終わり各部隊がバラバラでゲリラ戦を続けているような状況です。最高司令官の牛島中将も6月23日に自決(この日は沖縄の終戦記念日となっています)。

アメリカ兵にとっては戦争は終わったようなものでした。あとは残兵狩です。 ガマをひとつずつ潰していきながら南下していきます。まず入り口から日本語、沖縄方言で投降を呼びかけます。住民が投降しない理由も知っていたのでハワイの沖縄一世二世、すでに捕虜になった人を連れてきて説得したりもしました。

それで応じなければ日本兵も住民も一緒に火炎放射器やガス弾で皆殺しにしていきます。 ブルトーザーで生き埋めにしたり、ガソリンを流して火をつけたりします。中では住民の集団自決が起きます。

真っ暗なガマの中で多くの人々が死んでいきました。

食うや食わずの避難民、 家族、子供やオジーオバー。

追い詰められた日本兵、
「ひめゆり」などの女子学徒隊、
男子学生の鉄血勤皇隊、
竹やりの防衛隊、
奴隷のように使われた朝鮮人軍夫、
だまされて連れてこられた朝鮮慰安婦。

沖縄人の全戦没者は15万人にのぼると言われています。そのうち約2/3の10万人がこの南部戦線で亡くなっています。

日本兵
住民は捕虜になって初めてアメリカ兵と接するわけです。水や食料、チョコレートをくれる。ケガを治療してくれる。老婆をおぶってくれる。沖縄方言もしゃべっていい。鬼と教えられていたのにえらい違いです。

それに対して自分達を守ってくれるはずだった日本軍は高圧的な態度での横暴ぶりが目につきます。日本刀を抜いてヒステリックに脅迫し食料を奪う。物資を無理矢理提供させる。アメリカーよりも友軍(日本軍)のほうが恐かったとも言いわれています。

悪質なものになると、ガマの中で泣く赤ん坊は米軍に見つかるので射殺する。投降しようとするものは後ろから狙撃する。捕虜になった住民を収容所から拉致してきて殺す(食料を奪うため)。

また方言しかしゃべれない老婆をスパイといって日本刀で切り殺す(みせしめ)。中国などで日本軍がやってきたようなことが沖縄の住民に対しても行われたのです。

そのように残虐行為を行う者はほんとうに少数派だとは思いますが、体験談などを読むとあまりに悲惨で怒りがこみ上げて来ます。沖縄人の命を奪ったのはなんといっても米軍の砲爆撃や機銃掃射ですし米兵が沖縄人を虐殺したり強姦した例もたくさんあるでしょうが。仲間である同じ日本人から殺されることはやはり悲惨としかいいようがないです。
「戦争というものはそうやって人を狂わせてしまうものなのだ」という言葉で片付けることなど絶対に無理です。

嶋田知事
その当時、沖縄県の知事は沖縄人ではありませんでした。死を覚悟で大阪から赴任したのは神戸出身の嶋田叡(あきら)。県の行政のトップが逃げ出すような混乱した中、警察部長の荒井退造と共に一人でも多くの住民を救うため、食糧確保、疎開などに最後の最後まで尽力しました。このおかげで20万の命が救われたといいます。 沖縄戦末期、摩文仁の丘で消息を絶ち遺骨は発見されていません。この2人の英雄は県職員と共に慰霊塔「島守の塔」に祭られています。 まさに沖縄の歴史に残る大恩人なのです。
また海軍の大田実少将は自決前、沖縄の払った犠牲と今後の配慮をひたすら訴えるような、異例の電文を大本営に送っており沖縄人から感謝されています。


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