武術私論

 
→ HOME
→ 活動方針
→ 稽古会のご案内
→ 武術私論
→ 戸山流について
→ 稽古日程
 
→ リンク
→ ジオログ
→ ゲストブック(連絡版)

メール メール

 

【斬りについて 1】

 

演武の時、我々は専ら竹を斬るわけですが、使用する刀は必ず「刃引き」の刀を使います。竹に当たる角度が少しでも狂ったり、刀勢が鈍ると、「斬れない」という現実を突きつけられるため、刃引きの刀を使うことは「物を斬る技術」を否応なく向上させる効果的な方法だと私は信じています。ただ、その反面、刃引きの刀を使うことで刀勢を上げるということに必要以上に固執してしまうことになりがちでもありますが…。

 

「竹を斬る」という演武の形式を採る限り、我々の演武における最重要事項は「竹を両断する」こととなります。竹の両断に失敗すれば、即ちその演武自体が失敗であったと観客には判断されてしまいます。しかし、武術的な見地から言えば、「竹を見事に両断できたか」ということよりも、「刀が竹に当たるまでに、どのように自分の身体を動かしたか」ということの方が重要であるはずです。もちろん、その両方が常に出来ないということは未熟なのであり、その演武は本来の意味で「失敗」となるのですが…

 

戸山流のように物を斬る流派や団体の技術は「物を斬る」ということに特化した技術に変容してしまう危うさを常に含んでいるということを忘れてはならないのです。

 

【斬りについて 2】

 

居合の流派の中には物を斬る行為をタブー視する流派や団体は結構あります。

『そもそも据え物斬りは、「死体」あるいは「縛られて抵抗できない罪人や捕虜」を刀の斬れ味を試す目的で試し斬りにすることを想定しており、物を斬るということは、物を斬った感触を楽しむということに過ぎず、ひいては死体や身動きできない人間に斬りつけた感触を楽しむという残忍で卑しい心とつながることになる』というのがその理由だと説く流派もあります。私は、この流派の考えを面白いと感じますし、言わんとしていることも理解できます。ただ、我々の流派にとっての「竹」は、死体や縛られた人間などではなく、あくまでも自分に危害を与えようとしている「敵」を想定したものであり、そこが我々と彼との斬りというものについての見解の相違だと考えます。

我々は稽古においても竹を斬る場合は、常にそういった状況を想定する必要があるわけですし、実際そのように意識をして稽古しています。竹を斬る場合も、まず「身体の使い方」があり、その上で「しっかりと斬る」ことが求められるわけです。私が竹を斬ることに武術的な意味合いを認めるのは、この点です。

したがって、「試し斬り」や「据え物斬り」という言葉はあまり使いたくないのです。

 

【斬りについて 3】

 

「試し斬り」や「据え物斬り」という言葉はあまり好きではないと言いましたが、私は「斬り」を否定しているわけでも、演武で斬りを行うことも否定しているわけでもありません。いや、それどころか、私は斬りには愛着もあり、それを人前で演武することにも矜持を持っています。

 

時々、日本刀とはスターウォーズに出てくる「レーザーソード」のように、触れれば斬れるものだと思いこんでいる人もいますが、刃引きの刀を使う我々にとっては「日本刀って思ったよりも斬れない」というのが実感です。実際は刃の付いた刀を使ったことがないので、日本刀本来の斬れ味は実はよく分からなのですが…。

 

「斬り」というものは、居合・剣術にとっては必要条件です。竹や藁が見事に斬れるからといって、武術的には特別な価値があるわけではありませんが、少なくとも居合や剣術を稽古している人が物を斬ることができないなどということは致命的であり、それは武術的な価値云々と言う以前の問題です。「居合(剣術)をしていますが、斬れません」という理屈は一切通じません。普段物を斬る稽古をしていなくても、正しい型稽古を積んでいさえすれば、据え物を斬ることなど全く苦にならないはずですし、もし据え物さえも斬ることができないならば、その型稽古の存在価値を疑われても仕方がないでしょう。

 

ここで大切なことは、「普段型稽古をしているその型の通りに据え物を斬ることが出来るかどうか」です。居合を稽古している人でも、いざ斬りになると鞘から刀を抜いて据え物に近付いて行き、おもむろに振りかぶって斬りつける人がいますが、このような「型の稽古は型の稽古、斬りの稽古は斬りの稽古」では意味がありません。もちろん、演武も同じです。

 

【斬りについて 4】

 

物を斬る稽古をしていると、どうしても斬るという目的に固執してしまい、刃筋を合わせ、刀勢を上げることのみを重視してしまいがちですが、これでは武術としての本質から外れていってしまうことは明らかです。

ただ、矛盾するようですが、私は、ある一定の期間は斬るという目的に固執して稽古することも必要ではないかとも思っています。

 

「斬り」を「手裏剣打ち」に置き換えると分かり易いかもしれません。手裏剣術も武術ですから、手裏剣は「敵」に向かって打つのであり、決して固定した「的」に向かってではありません。たとえ「的」に向かって稽古していても、「敵」に向かって手裏剣を打っているという「想定」は忘れてはいけないはずです。すると、「どのように身体を動かすか」という他の武術と同じ課題が見えてきます。

したがって、手裏剣も、「的に刺されば良い」というものではありません。しかし、手裏剣は、少なくとも刺さらなければ話になりません。刺さることにこだわり、刺さることに徹底的に固執して稽古する、そうすることではじめて見えてくるものもあるはずです。斬りも同じです。斬れなければ話になりませんし、斬ることに固執することによって見えてくるものがあると考えます。

「手裏剣を実際に打つと、当たって刺さるという目的に固執してしまう危険性がある」と主張し、的に向かって実際に手裏剣を打つという稽古に対して疑問を呈し、手裏剣を打つ動作のみの「型稽古」だけを稽古している人は存在しないでしょう。大切なことは、「固執し続けない」ことです。

 

【斬りについて 5】

 

さて、たとえ一時期「斬り」に夢中になっている人も、いつかは「身体の動き」に関心を持つはずです。自分が「武術」を稽古しているのだという自負がある限りは。それは「自分は武術として正しい稽古をしているのか」という問いを自らに発せざるを得ないからです。

 

ある程度自分の斬りが安定してきた頃、誰でも「このように動かないものを斬る稽古を重ねていて、果たして動くもの(人)に対応するような業のレベルまで到達することができるのか」という疑問は心の中に渦巻くはずです。

 

確かに、漫然と斬りに時間を費やしていれば、「いかに太い竹を斬るか」ということだけを追い求めて終わってしまうことになりかねません。そこで「形」による相対稽古がどうしても必要不可欠となってくるのです。

 

また、方法次第では動かないものを斬るという稽古も、動くものに対応する業のレベルまで到達することができることになると私は信じます。

 

空手家の柳川昌弘氏は著作「武道空手の理」の中で「捲藁突きこそ、究極の空手稽古である」と主張し、その理由を次のように述べています。

『空手にクレー射撃のごとき技術を求めてはならない。それは事実上ほとんど不可能でもあり、その必要もない。誘導ミサイルも動体目標に命中するように見えるが、正しくは現在位置から○△メートル離れた予想位置にあるべき固定仮想目標を目指しているに過ぎない。人間も移動する目標を目前でとらえて、あくまで「固定目標(球が止まって見えるように)」として攻撃するものなのである。その「感性」は移動目標を追うことで磨かれるものではない。つまり「動態視力」とは何か異なる「時間に関わる感性上の能力」であり、それはもともと人間が誰でも先天的に所有する能力である。

 空手以外の武道においても、こうした固定目標を剣などで突き続けることで大成した人物が少なくない。初めから千変万化の打突法を一つ一つ練習したところで、物の役には立たないのである。固定目標を確実に2・3ミリの誤差もなく突けるようになれば、人間のどんな動きにも対応できるようになるものである。』

 

確かに、剣道でも動かない相手に対し打突を繰り返す基本打ちによって技量は上達し、それがやがて動く相手に対応する技術へと昇華して行くものです。

 

この柳川昌弘氏の考えに基づけば、「斬りにおいても固定目標を確実に2・3ミリの誤差なく斬れるようになれば、人間のどんな動きにも対応できるようになる」ということになります…。果たしてそれが本当かどうかは今後の検証を待つとして、お勧めの稽古方法は、正月の「門松」作りです。ご存じの通り、門松は袈裟に斬った斬り口のちょうど真ん中に節があるように斬っています。これを作るためには、節の少し上に35度〜40度で刀を入れ、真ん中で節を通過し、節の少し下から刀が抜けるようにしなければなりません。そして、必ず型を使って斬る。なかなか難しいですが、効果的な方法だと思います。

 

いずれにしろ、斬りの稽古をするときは漫然と竹を斬るのではなく、目印を付けてそこを斬る稽古を積むことが肝心です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【何のために武術を稽古しているのですか?  

 

「何のために武術を稽古しているのですか?」

武術を稽古している皆さんは、こうした問いを誰かから発せられた経験はありませんか?たとえ、この問いを他人から発せられた経験はなくとも、誰でも一度くらいは自問したことはあるのではないでしょうか。さて、皆さんは、何のために武術を稽古しているのでしょうか…。

 

そもそも、何かのために武術をするという考え方に私は反発を抱いていました。曰く「喧嘩に強くなるために武術を稽古する」、曰く「健康のために武術を稽古する」、曰く「古の武士の生き方を学ぶために武術を稽古する」、曰く「仕事に役立てるために武術を稽古する」…。

どの理由も納得できるようなものではありません。

たとえ、その目的が「人格形成のため」といった本来崇高なものであるにしろ、「何かのために」という発想は、大げさに言うなら「武術に対する冒涜」だとも感じていました。「武術を稽古する目的など、その稽古自体が目的に決まっているではなのか」そう反発を覚えていたわけです。

 

また、「武道とは人格形成の道である」と堂々と主張する人に限って人格者ではないケースが多かったことも、反発を感じた大きな理由の一つです(笑)。

もちろん、「武道=人格形成の道」と信ずる人の中にも尊敬すべき人格者はたくさんいらっしゃいましたが、それは、もともと人間的に魅力のある人がたまたま武術を稽古しているというのが真実に近いと思われました。その頃の私は、「私たちの稽古するものは、敢えて武道とは呼ばずに武術と呼称している。なぜなら術を追求する自分自身の姿勢の甘さを言い逃れるために人格形成の道という言葉を弄びたくないからだ」というある有名人の発言に共感を覚えたものでした。

 

 

【何のために武術を稽古しているのですか? ◆

 

私が稽古する目的は、敢えて言うならば自身の技量が向上し続けることです。皆さんも自身の技が向上してゆく実感は、他の何事にも代え難い喜びを感じるはずです。

さて、技を向上させるため自分の身体を動かそうと意識すると、改めて自分の身体のことを実は何も知らないのだということに気が付きます。そして、否応なく自分の身体と対峙することになります。それは新たな自分自身と出会いでもあります。もしかすると自身の技が向上してゆく喜びとは、即ち「未見の我」を見出した喜びと言い換えても良いのかもしれません。だからこそ、私たちは武術を飽きずに稽古し続けているのでしょう。

 

ただ、私は興味の対象は、身体の操作法、すなわち「体の動かし方」ではないのです。私の興味の対象はあくまでも、「武」術なのです。

さて、「武」の条件とは何なのでしょうか…。スポーツと違って、「筋力に頼らない動き」を身につけることでしょうか。それも重要なことです。しかし、それだけではないはずです。それだけだと「武術」ではなく「身体操作術」であって、何か決定的なことが欠けているように感じます。では、武術とは「敵を想定し、その敵を倒す術」なのでしょうか?確かにそうですが、それだけだと競技スポーツとの違いがよく分かりません。競技スポーツでも「敵を倒す」ためには、あらゆる鍛錬や工夫を怠りませんし、ルールの中で「勝敗」がはっきりと現れるため、型稽古のみの武道や武術が失いがちな厳しささえ有する場合もあります。それでは、武術とは、「ルールなどに縛られず、フェアでなくとも手段を選ばず、とにかく敵を倒す術」なのでしょうか? 確かに生き死にの場面では武術にはスポーツのような試合上のルールはないでしょうが、だからといって、ルールを無視することが武術の全てだと定義して良いわけはもありません。人としてのルールを破ることが武術の特徴であり価値だなどと本気で思っている人はいないでしょう。私たちは人としてのルールを破るために毎日の稽古を続けていることになってしまいます…。

 

 

【何のために武術を稽古しているのですか? 】

 

私が考える「武」の絶対条件とは、「間」と「先」です。「間」とは、主に空間的な間、すなわち間合・間積もりのことですが、それだけでなく時間的な間も含みます。「先」については、改めてここに書くまでもないでしょう。

 

この「間」と「先」を全く意識しないということは、武術を稽古する上では決してありえないことです。となれば、武術の稽古をしていれば、否応なくこの「間」と「先」に対する感覚は鋭敏にならざるを得ません。前述した通り、私たちは武術を日常生活や仕事に生かすために稽古しているのではありません。しかし、稽古の中で身に付き、鋭敏となった「間」や「先」の感覚は、日常生活の中でも自然と生きてくるはずです、たとえ自分自身が意識をしていなくとも…。

武術を稽古している人の中にも、人間関係の距離感を把握することが下手な人がいます。気配(空気)を読むことが鈍く、周りへの配慮に欠ける人もいます。気付きを行動に移すまでにタイムラグがある人もいます。こういった人は、「間」や「先」の感覚が鋭いとはどうしても思われません。

 

しかし、私が一流の技を持っていると感じた人々は日常生活の姿を見ていても、例外なくこの「間」や「先」に対する感覚が鋭く、人間関係としての距離感、気配の察知、周りへの配慮、気付きから動作へ移るまでの迅速さなど、全てに於いて見事なものでした。

 

この「間」や「先」の感覚というものは、武術だけに限らない普遍性を有していると私は実感しています。

 

「道」という言葉を「人の通る道」ではなく「普遍性を有するもの」と定義し、「武」としての「術(技)」の稽古の中に普遍性を有するものが存在すると考えられるならば、我々が稽古しているものを「武道」と呼んでも差し支えない、最近私はそう思うようになりました。でも、本当はいまだに「武術」という言葉の響きの方が好みなのですが(笑)。

 

 



Yahoo!ジオシティーズ