オートポイエーシスの表紙写真

『オートポイエーシス』(河本英夫著 青土社)に対する批判的書評







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金哲顕

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目次

はじめに

 近頃オートポイエーシス論をテーマとする書物が書店に並び始めている。オートポイエーシス論は1970年代にチリの神経生理学者H.R.Maturanaが創始し、後にF.J.varelaも加わって発展し、N.Luhmannなどを経て、河本英夫氏によって一層純化され体系化された。

 マトゥラーナとヴァレラの共著論文『オートポイエーシス』(河本英夫訳 国文社)が1972年に出、そこではじめて「オートポイエーシス」なる語が登場した。河本英夫氏の主張に従えば、オートポイエーシス論は最新の第三世代のシステム論であり、これまでのシステム論を乗り越えた最も優れたものとされている。ここでは彼の著作『オートポイエーシス』を材料にしてこの思想を批判してみたい。以下の論述で[註]あるいはは私の見解もしくは補填的挿入である。その他は全て『オートポイエーシス』の引用文もしくは要約文である。

 「オートポイエーシス」はauto−poiesisであり、autoとpoiesisのどちらもギリシア語である。autoは「自身の」の意であり、poiesisはアリストテレスでは「詩作術」、つまり「製作する」という意味である。したがって「オートポイエーシス」は「自身製作」「自己製作」「自動製作」「自主製作」とも言える。

 詩的製作が創造的であるように、この「オートポイエーシス」も「端的に(無自覚に)作動し続ける」という意味で機械的ではあるものの、そこには過去のものにはとらわれない創造的な活動がある。それは主に生命活動の作動であり、細胞・神経システム・免疫システム・身体システム・心的システム・社会システム・経済システム・法システムなどなど、生命活動のあらゆる自動システムに見られるものとされる。

 河本英夫氏は「あとがき」で次のように記している。

「オートポイエーシスは、最先端のシステム論である。……オートポイエーシスは作動から組み立てられるスピード化時代のシステム論であり、あらゆる規範や規則や目標が揺らぎ消滅したのち、なお創造的に行為することの可能性を理論化したものである。」(335ページ)

 大きな自負心であるが、これは果たして成功したのだろうか?

 以上からも分かるように、オートポイエーシス論は「作動」に全ての価値を置く機能主義的システム論である。したがってこの著作の中では構造主義に対する批判が一つの基調になっている。私は、「新しいパラダイム」で示したように、機能と構造をどちらも排除せず、両者を弁証法的に総合して捉える立場であるが、機能主義と構造主義は互いに相手を排除し、自分の原理によって相手を無化しようと試みる。

 物事には構造と機能が表裏のように存在している。それは物質が運動と、また自然が法則と切り離せないのと同様である。構造のない機能はなく、機能を持たない構造もない。そして両者はそれぞれ質の異なったものなので、相手側に汲み尽くされるものではない。

 構造と機能は究極的な形では「脳と心」という姿で現れている。だから例えば一例として、機能主義者は人間の精神とその行動の全てを、心の論理だけで説明し尽くそうとし、構造主義者は脳(感覚端末をも含む)だけでそれらを説明し尽くそうとする。しかし本当は両者をともに含む論理(構造−機能論理)でなければ何事も理解できないわけである。それは構造と機能の弁証法で物事を捉えることの必要性を訴えている。

 だいたい原理的にいって、生命がどちらか一方であることは決してない。生命は多様な質の有機的総合体だからだ。こと生命に関しては、何にしろ一元論では駄目である。しかし河本英夫氏はヘーゲル弁証法が大嫌いで、むしろシェリングの自然哲学を好む。

 ドイツロマン主義哲学に立つシェリング哲学と、そこから出発したヘーゲル哲学、この両者の哲学的な理論構成は(それが論理的に展開されているか、いないかは別として)似ているところが多い。だが、河本英夫氏は、ヘーゲル哲学では既存の永遠普遍な実体(理念)が大前提とされ、それが理性的に、必然的に、つまり予想可能なありさまで展開することに納得できない。

 その代わり、彼は、全ては理性や意識以前の得体の知れない「無制約的なもの」が、偶然に、予測不可能な仕方で展開する、としたシェリング哲学に好感を持つ。そのためヘーゲル弁証法の真の射程距離を見誤り、機能主義に陥ってしまった。それはつまり、河本英夫氏の並々ならぬ自負心にも拘わらず、オートポイエーシス論は成功していないということを意味している。

 たとえば最近、遺伝子が設計図としてすべてを決定しているという遺伝子決定論の誤りが示された。遺伝子は基本パラメータを決めているだけで、発現結果は個々の因子のランダムな働きによる、ということも少なくない。たとえばタテジマキンチャクダイの縞模様は色素活性因子と色素抑制因子とのランダムなせめぎ合いによるもので、遺伝子にあらかじめその縞模様の有様が指示されているのでないことがほぼ実証された。

 肺の発生学上の分岐的な形成過程や細菌性粘菌の集団化とその運動でも、それぞれランダムな働きの結果であることが示された。そうでこそ以前は10万を越えるとされた人間の遺伝子数がおよそ2万五千という少ない数であることにも納得がいく。

 これらはむろん偶然やランダムの重要性を示すものではある。しかしどこまでもパラメータ上のランダムなので、結果は概ね決まってくる。そのためランダムに形成されるタテジマキンチャクダイの縞模様はどの個体でもよく似ている。だがそこに偶然による個性も現出することになる。以上はランダムとパラメータ、偶然と必然はともに機能して、弁証法的に作動していることを示している。無制約的な偶然だけでは何事も説明できない。

 読後感としては、「よくもまあ機能主義一辺倒で無理やり全てを説明し尽くそうとしたものだなあ」というものである。その才知とレトリックに感心もし、驚きもし、あきれもした。だからこの著作のそこここに多くの問題点が見受けられた。

 それをたどることによって目的とする批判が成し遂げられるが、その前に河本英夫氏が三つの世代に分けた三種類のシステム論をまず紹介しなくてはならない。その概略を、私なりの解釈で、以下の自家製の表にまとめた。この表では各世代の対応部分を同じ色で統一してある。

三世代のシステム

第一世代
(動的平衡系)
自己維持系システム organization
(有機構成) 
境界前提 階層既存 量から質への転換 A=A(同一律)
進化の結果から見た細胞の生命論理 関係 自己閉鎖系、環境開放系 自己既存 f(x,y,z,……α,β,γ)
第二世代
(動的非平衡系)
自己組織化システム organization
(組織化)
境界形成 階層形成 対立物の相互浸透 矛盾律(A≠非A)
生命細胞の生活現状から見た生命論理 生成 自己開放系、環境開放系 自己形成 f(x,y,z,t ,□,f,f,f……)+α
第三世代
(オートポイエーシス)
自己産出システム organization
(生命化)
境界の自己決定 階層消滅 否定の否定 排中律
生命発生、生命そのものの視点からの論理 産出 内と外の消滅 自己産出 f(□,□,□,□,……)

[註1]
表から分かるように各世代には著者の設定した方程式 f( )がある。

第一世代の方程式 f(x,y,z,……α,β,γ ) の x,y,z……は、エネルギー形態や各種機能系の状態を指標する変数で、α,β,γ は調整因子である。システムに平衡が保たれているので、ここでは時間は変数でない。つまり第一世代は時間の関数でない。

第二世代の f(x,y,z,t ,□,f,f,f……)+α の x,y,z は、エネルギーや空間的配置にかかわる変数で、ここではシステムは非平衡だから時間の変数  が導入される。□はシステムが作動しつつ新たに獲得する変数で、f,f,f ……は、この関数そのものが自己言及的に関わることを示す変数である。α は環境との相互作用によってもたらされる摂動項だ。

第三世代のf(□,□,□,□,……)の場合、はシステムが作動しながら獲得する変数であり、あらかじめ決まっているものではない。

第三世代のf(□,□,□,□,……)の□は未知だから「?」という記号に置き換えても良く、すると、私見では、この方程式は、f(?,?,?,?……)と記述してもいいわけだ。つまりこの方程式の変数は全て未知である。これでは到底、経験科学の指針とはなりえない。つまりオートポイエーシス論は、全く無内容だということである。

著者は、「オートポイエーシス論がシステム論である限り、それは哲学や思想ではなく一種の経験科学である」(151ページ)とか、「オートポイエーシスの論理は、生命科学、経済学、法社会学、生態学、科学論、精神医学等々に適用可能である」(212ページ)とか言いいつつも、同時に、「この関数は、……これでもコードなのかと思えるほど異様なかたちをしている。要するに何も決まっていない関数に近い」(208ページ)とか、「オートポイエーシスは何ものでもないが、何にでもなりうる普遍性を示している」(222ページ)とか言明している。それはつまりオートポイエーシス論の無内容性を示すものである。

[註2]
表における「正・反・合」というのはホームページ開設者の区分けである。また弁証法論理学における「量から質への転換」「対立物の相互浸透」「否定の否定」と、そのそれぞれに対応する形式論理学における「同一律」「矛盾律」「排中律」も、同様である。あとは著者の語をそのまま使ったか、それに相応すると思われる語を任意に入れた。弁証法論理学はものごとの動態論理であり、形式論理学は静止論理である。

ちなみに、排中律は「AはAでも非Aでもないものではない」で、これは明らかに弁証法三法則の「否定の否定」(ないものではない)に対応している。オートポイエーシスを「排中律」や「否定の否定」と並べたのは、まず「否定の否定」については、これが実はものごとが自己を止揚して一段高い段階へ自力で上る論理である点がオートポイエーシスに通じ、また排中律については、これがかたちのうえでは「第三のものはありえない」と主張しつつも、現実には、(たとえばA[白]と非A[黒]との間に無限の階調の灰色があるように)、Aと非A両者の間に無限の中間態があって、そこに現実の複雑な生きた実態が見られるからである。

以下ではこの上表を参考にしつつ、著者の『オートポイエーシス』の各章をたどりながら批判的に分析していきたい。


第T章 動的平衡系(第一世代システム)

1 システム論前史

 まず生命現象が普通の物質の法則とは違っていることを前提に、その相違性の意味を、デカルト的な「機械論」に抗して、非物質的な、非解剖学的な実体としての「生気」の意味で理解したのが、かつての「生気論」だった。こういう生気論は機械論とは和解できない。しかし本当はこの両者は次元が異なるところに位置していて対立などしていない。だから生気論は形を変えていつでも繰り返し登場する可能性がある(16ページ)。

 機械論は機械の概念が、時計→水車→工場→ベルトコンベヤーの生産ライン→コンピュータと発展するにしたがって豊富な内容を獲得し、その都度その水準の生命理解を与えるが、生気論は、「それでは生命は説明し尽くされていない」といつも反論することになる。

 本当の問題は、生気論と機械論との論争でなく、「生命は機械に還元できるか?」という還元論の問題である(19ページ)。生気論ははじめは要素還元主義に対する最初の突破口だったし、それが「有機構成」(Organization)の概念だった。その概念が生物学の発展によってさらに具体化され、普通の物質とは違う生命の特性が明らかにされ、それによって、「有機構成によってもたらされる現象は、各要素の物理、化学的性質に還元しえない」(21ページ)という結論が生物学に採用された。

 要素に還元できないということは、多階層性の導入を意味する。各段階にはそれ自身の要素となるものがあり、「高分子、細胞内器官、細胞、組織、器官、個体というように多階的に区分される各階層は、それぞれ構成化の水準を異にしていることになる」(21ページ)。より高い階層のある物(全体)は一つ低い階層に属する要素(部分)の単なる代数和以上のものであることを提示できさえすれば、機械論的等質性に対立して生じる生気論は生起しない。「機械的な諸要素の代数和はもはや機械でない」ということを証明したことになるからだ(22ページ)。ここから有機体論には、

(1)有機体のシステムは各要素、各部分の独特な構成関係を示す
(2)有機的に構成されたネットワークは、一つの階層をなし、有機体は多階層的になる

 という視点が組み込まれていることになる(22ページ)。

2 動的平衡系

 「有機体は開放系として、外界と物質代謝、エネルギー代謝しながら、自己を維持するシステムである」(23ページ)。これは19世紀半ばごろまでに明らかになった。その中心概念は「有機構成」であり、その特徴は、

(1)相互位置不変の法則(有機体の各部分の空間的配置パターン─例えば、口・食道・胃・腸の順序など)
(2)相互補填の原理(特定部分が欠損しても隣接部分が補填する)
(3)平衡の原理(特定の部分の肥大が他の部分の縮小をもたらして全体の形態が調整される)

(4)各器官は共通の機能を遂行するために生理学的に協同している(トラの牙は鋭く、腸は短く、アゴは丈夫で、足は短くてド太い)

(5)組織はそれが属する器官によってさまざまな形態を取るが、形態が異なろうと同じ組織には共通の性質が生じる。器官と有機構成との関係は、固有化した要素とそれらの関係だが、組織と有機構成の関係は、有機構成の成立によってはじめて組織が固有化するという関係である

(6)個々の構成要素は単なる手段でなく目的であり、また協同し合って全体を可能ならしめ、全体の理念によってそれぞれの位置と機能が規定される
(7)いかなる部分も他の部分を産出する

(8)流動する自然の生成プロセスの円環、循環する生成プロセスこそ有機構成だ

 以上である。

 ジョフロア・サンチレールの見解である(1)から(3)に見られる有機構成では、下位階層と上位階層との間に、全体と部分の自律性と従属性がある。全体は理念として部分に対して支配的だが、その存在根拠を部分としての要素に持っていてその面で従属的で、また反対に、部分は全体に対して支配的でもあり、従属的でもある。ここでは「全体−部分関係」「自律−従属関係」が見られる。

 キュヴィエの見解である(4)は機能から見ているので、部分の集合である空間的な・物質的な・構造的な「全体」を持ち出さなくてもいい。ここでは「全体−部分関係」を除去できる(26ページ)。

 ところで機能は階層関係によって「機能従属の原理」を持つが、それはシステム作動の結果としての機能をシステムの作動に先立つ本性のように見ているからだ。階層的機能論の難点は、下位の機能からどのようにして上位の機能が発生、形成、定着したかほとんど説明できないところにある(27ページ)。なぜなら第一世代の動的平衡のシステム論では諸階層は動かしがたい既存のものとされているからだ。
[註3]
機能から見れば構造的な「全体」は要らない、というのには問題がある。というのも、機能はいつも構造と切り離せないからだ。「全体」を無視しても、背後にいつもついて回っているのである。そのことが機能主義者の眼中にない。機能主義者には「全体」は先立つものでなく、階層間の均衡維持の結果にすぎない。要点は「固定された全体を設定することが誤りである」ということなのに、流動・固定を含めて、全体概念そのものを否定したことに河本英夫氏の問題がある。
 ピネルとビシャの見解である(5)の場合、有機構成に先立つ固有な要素はなく、有機構成によってはじめて固有の要素が生じる。これは既存の固定した要素から成り立つ動的平衡システムである第一世代システムを超えた、次代の自己組織システムである第二世代のシステムとつながっている(28ページ)。

 (7)の産出関係はカントの見解であるが、これは第三世代のオートポイエーシスで主題化する。

 シェリングの見解である(8)は生成プロセスが循環して閉域をなしたときに階層形成がなされることを示すもので、既存の階層を論じるのでなく、階層が形成される論理を示している。これは第二世代につながる(29ページ)。

 さて、環境に対して開放的な動的平衡システムには、外部環境からの揺れに対して自己の一定性を保つ「内的環境」が備わっている。これをキャノンは「ホメオスタシス」と呼んだ。この「内的環境」に対して次の二つの解釈がある。

(1)システムの開放性に力点を置く解釈

血液・リンパ液・神経システムなどの内的環境は、有機体の構成要素としての細胞が、外界へと開かれていくための媒体であり、他面それらは外界の条件変動を緩和し、栄養物質、温度、水分、酸素について一定状態にして構成要素の存在条件を一定幅に保つための緩和液である(31ページ)

(2)システムの閉鎖性に力点を置く解釈

有機体は死んだ細胞や血液・リンパ液・液質・粘液などの塩溶液の層のため直接大気に触れておらず、この壁のあるおかげで有機体でありうる(31ページ)

 第一世代のシステム論は動的な恒常的システムとしての生命を捉えようとするが、生命そのものの起源を捉える論理ではなく、また新しく進入する無限の抗原に対してそのつどそれに応じた抗体を創造的に産出する論理でもなく、部分を絶えず交換しつつ自己維持している状態を記述できる論理でもない。

 これらの問題は第二世代のシステム論や第三世代のシステム論がはじめて取り扱い得るテーマであり、第一世代のシステム論であるベルタランフィのシステム論では、「この構想をどんなに拡大しようとも、これら三つのの謎は解くことはできない」(35ページ)。

 「システムが恒常性維持を通じて動的平衡を確保すると、……安定した層が生じる。つまり階層区分である。階層とは、動的平衡にあるシステムの恒常性の結果としてもたらされたものに他ならず、動的平衡の成果を観察者の位置から特定したものに他ならない。……階層のうち、どれ一つとして静止し、固定しているものはない。不断の生成プロセスを繰り返しながらなお恒常性を保っている。これを観察者から見たとき、それぞれ特定の階層に見えるのである。」(36ページ)
[註4]
ここで河本英夫氏のいう観察者は、オートポイエーシス論の成否を分かつ大きな術語であることがのちのち明らかになってくる。著書『オートポイエーシス』の最後は「観察システム」の論究で締めくくられているほどなのだ。

観察者は一見すると生命の外から生命を見ている「他人の目」のように思われるが、実は、その生命自身(たとえばその人間自身)の中の観察する目・観察する系のことである。他人(例えば他の人間)の目は二次的な観察系にすぎない。この区別が最後の「観察システム」の節まで漠然としていて、著者の本意がなかなか掴めなかった。

生命は心的システムの中で反省を繰り返し、ついには客観的に観察する高次の能力を得るわけだが、その能力を行使するものを観察者として述べているのである。著者によると、普通、観察者はオートポイエーシスをその内部から見るのでなく外から見るので生命の動態や本質を見誤ってしまうが、観察のそうした宿命的な欠点を熟知して、それを括弧に入れながら観察する系を、著者は「観察システム」と呼ぶのである。

それがすなわちオートポイエーシス論の構築なのだが、それによってすでにオートポイエーシスの論理と背反・矛盾するものが裏側からひそかに導入されているのである。そのことを、のちのち私は具体的に指摘することになるだろう。

3 多階層関係論

 階層関係は第一世代のシステム論に自明なものであるが、これはアリストテレスの「目的−手段関係」で捉えられた階層関係以来のものだ。そこでは下位階層は上位階層の手段で、上位階層は下位階層の目的だとする(38ページ)。「全体の全体」(究極の全体)である最上階は自己目的(純粋目的=純粋形相)となり、「部分の部分」(究極の部分)である最下層は自己手段(純粋手段=純粋質料)となる。

 A・ケストラーの「ホロン」論は、現実には実在しない「究極の全体」と「究極の部分」を取り除けようとする。そこでケストラーは、下位階層に向けた自律的な顔と上位階層に向けた従属的な顔の(ヤヌスのような)二つの顔を持った中間階層に注目し、それを、(ギリシア語の「全体」を意味する「ホロス」に、粒子や部分を意味する「オン」を結びつけ)、「ホロン」と呼んで、あたかも「ホロン」において全体と部分とを総合し、全体主義と要素主義とをともに乗り越えたかのように振舞った。しかしこれは問題の解決を「ホロン」という造語でごまかしたものにすぎない。(40ページ)

 先のキュヴィエの機能論をさらに進めたのがビシャである。彼は各機能系を独立したものとし、有機体を各機能システムの錯合体(リゾーム)だと規定することによって、有機体を統合する全体性を無用のものとし、そこからキュヴィエの機能的な階層関係を取り除いた。

 ビシャの見た各機能システムの関係は、上・下でも部分・全体でも自律・従属でも目的・手段でもなく、唯一、死に対する遠近性によって規定される。まず肺が死に、次に心臓が死に、その次に脳が死ぬ、といった関係でしか見ないわけだ(41ページ)。死に対する遠近性はともかく、ビシャが機能からも階層関係を取り除いた方向は、後に第二世代のハイパーサイクルや第三世代のオートポイエーシスにつながるものだ(42ページ)。

 既存の階層を網羅的に論じたのはN・ハルトマンで、彼の階層論は大別して次の三つの法則群からなる(42〜44ページ)。

(1)累層法則(階層間の連続−非連続関係)─再来の法則・変様の法則・新奇の法則・層距離の法則──(要素−複合体関係)
(2)依存法則(階層間の規定−非規定関係)─強さの法則・無頓着の法則・質料の法則・自由の法則──(質料−形相関係)
(3)凝集法則(各階層内部のカテゴリーの相互関係)─結合の法則・層統一の法則・層全一性の法則・包含の法則──(契機−統一体関係)

   [註]ここではこれらの諸法則の説明は省く。それについては『オートポイエーシス』の当該ページを参考にしていただきたい)

 さて、以上の全てが内的に齟齬をきたしていないわけではない。(3)の統一的全体性と(1)の変様・新奇は少なからず拮抗する。(3)は層形成後、契機−統一体関係を軸に、(1)は層形成の場面で、要素−複合体関係を軸に考察していて、そこにズレがあるからである(45ページ)。

 階層関係論は既成の安定した階層間の関係を問題にする。それらがどのように形成されるかは第一世代のシステム論では論議できない。第二世代の自己組織性でこそ、階層形成が主なテーマとなる。「付言しておけば、第三世代システムは、階層関係を消滅させる」(45ページ)

4 構造主義生物学

 第一世代(動的平衡系)の基本骨格の中心にあるのは、有機構成と階層関係論で、自己維持するシステムには環境との物質・エネルギー代謝としての入力・出力がある(45ページ)。つまり自己に対しては閉鎖系で、環境に対しては開放系だ。そして第一世代の基本視座は「関係」である(46ページ)。「関係」はこれまで見てきたように要素−複合体関係以下のあれやこれやの様々な「関係」として現れている。

 それらは既にあらかじめ存在している「関係」として捉えられていて、もともとそれが動的平衡の「結果」であることが忘れられている。ここでは「関係」は永久不変のものとして実体化される。そして、「その『関係』が現象の根拠として位置付けられる限り、それは『構造』と呼ばれる。第一世代システムはどこまでも構造主義的である。」(47ページ)


 「構造主義生物学」はその系譜の末尾として現れた。構造主義は「構造」の要素還元を否定する。「構造」は原子・分子への還元はできない。そして、遺伝子に欠陥があってもそれにふさわしい「構造」がなければ発現しないというように、ものごとが発現するにはそれに対応する「構造」が成立していなくてはならないとする。その結果、発現の種類に応じてそれだけ多様な「構造」が存在するわけで、構造主義は多元主義にならざるを得ない。

 構造生物学の主張する「構造」の特徴は次の五つである。(50ページ)

(1)物質の関係として実定される(実定のテーゼ)
(2)文節恣意性と対応恣意性を含む(恣意性のテーゼ)─例えばDNAの95%は何に使われているか分からず、残りの5%の遺伝子部分についても、どこから文節されるかは任意である─
(3)それじたい無根拠であり、原子、分子の関係からは演繹されない(無根拠のテーゼ)
(4)閉鎖系である(閉鎖系のテーゼ)
(5)その全てが発現するのではない(可能的多元構造のテーゼ)

 恣意性があることで原子・分子への還元ができないこと(無根拠性)が帰結する。しかし「構造」が無根拠だとされた瞬間、それの生成問題が掴めなくなる(51ページ)。その他にも構造主義生物学には以下の五つの問題点がある。(52ページ)

(@)「構造」が発動して現象をもたらすという点で、もはや閉鎖系とはいえない。完全に閉鎖系なら有機体は活動を停止しなくてはならない。だがそれは有機体の本質に矛盾する。
(A)「構造」は一義必然的に特定の現象を発現させるというのは、構造主義生物学の定義にすぎない。
(B)「構造」が物質的関係だとすれば、文化現象は脳の生物学的「構造」によってもたらされるとする他ないが、それでは心的システムの産物としての文化現象を捉え得ない。脳は典型的な「自己言及的システム」であって、そこでは物質的関係のみならず、関係の関係、階層間の繰り込み関係という自己言及的な心的システムが成立している。(53ページ)
(C)構造の多元性についてはその可能性とその現実性を分けるべきだ。発現すればそれはたった一つの可能性しか発現しない。だから、構造主義生物学は、どうして多くの可能性があるのにたった一つしか現実には発現しないのか、その排除の機構を説明しなくてはならない。それがないなら、多元主義という用語は言葉遊びにすぎない。「構造主義生物学は、可能性と現実性をすりかえて議論しているように思う」(54ページ)。
(D)構造主義生物学では「基本となる構造」が全てで、その構造の創発性・新奇性が実は還元論を克服させている。だが構造主義生物学では複雑な現象に対しては「基本となる構造」だけでは対応できないので、「構造」の派生態である「構造列」を設定して当たらせている。しかし、これでは複雑な現象が新たな創発的階層である場合、その新しさに対応できないことになる。なぜなら「基本となる構造」だけが創発的だからだ。(54ページ)

 構造論とは無関係に、その多元主義のテーゼ(相対主義・複数主義・立場の等価性)そのものは正しいが(61ページ)、構造主義生物学の問題は構造を無根拠としたところにある。これでは構造は先天的になり、「はじめに構造ありき」という〈:創造神話的な)構造創造説に近い。また「『構造から上位構造が形成されるさいにも、創発性は認めた方がよいと思う。」(55ページ)

[註5]
機能主義と同様、構造主義には「主義としての自己絶対化」の誤りがある。つまり構造を無根拠としたのは明らかに誤りだ。構造はなんであれ生成したものだからである。また河本英夫氏が「新たな上位構造にも創発性を認めよ」と勧めているのも正しいし、多元主義を認めているのも正しい。しかし、いずれ読者にも分かる通り([註7]、[註9]、[註33]、[註64]、[註65]参照)無制約的な混沌から立ち現れて自己循環的に自生自存する自己完結的なオートポイエーシスそのものも無根拠だから、無根拠を論拠にして構造主義を否定するのはいただけない。


第U章 自己組織化(動的非平衡系)(第二世代システム)

1 生成プロセス

 「有機体が形成過程をへて、自己生成していくことは、見なれた現象である。双葉は劇的な転換をとげ、茎や花へと生成し、幼虫は蛹、成虫へと反復的に劇的な生成プロセスをへる」。この段階でのシステム論は、自己維持や定常的形態や定常的関係がテーマだった第一世代の動的平衡ではなく、自己組織化における動的非平衡が中心概念となる。

 「第二世代システムでは、関係ではなく生成に力点が置かれる」。その有機体での典型例が胚発生である。未分化な胚は細胞分裂を繰り返し、やがて個々の器官へ、さらには個体へと形成されていく。この過程ではいつも動的非平衡状態にあり続けつつ、自己形成を行う。(64〜65ページ)

 とはいえ、第二世代の論理はまだ第一世代のようには内容が整理されておらず、まだまだ改良段階にある。また「古典的な難題として、プリコジンやハーケンのような無機的現象の自己組織化と、アイゲンやロートのような有機的現象以上の自己組織化とが架橋されていない」。(65ページ)

 第二世代システムは開放系として環境と物質・エネルギー代謝を行いながら自己形成し、しかも自己のシステムの形成を通じて周辺条件を変化させていく機構だが、それは、「流動する無秩序状態から、自己生成をへて秩序状態が形成されるのであるから、階層がそれとして形成されるプロセスが問われている。つまり第二世代では階層生成論となる。」(66ページ)

 「自己組織化」を「外的原因によらず、自分自身で組織化すること」だと言っても何の説明にもならない。「組織化のプロセスの結果、つくりだされたものが「自己」であって、つくりつけの「自己」がなにか別の自己をつくるわけではないからである」(67ページ)。
[註6]
地球上での最初期の細胞が生れる時はいざしらず、一度それが生じると、あとは「つくりつけの自己がなにか別の自己をつくる」わけだから、河本英夫氏のこの指摘は自然の有機界では最初期の細胞形成の場合にのみ当てはまる。しかし、河本氏は第二世代のシステム論で記述される細胞の日常生活においても、こういう論理を貫徹させて議論を混乱させている。

大抵の細胞は何万年も同じ自己の繰り返しで生活していて、数十、数百万年単位でやっと既存の自己から新しい自己へと自己形成していくのである。その過程はあたかも止っているかのように遅遅としている。だから、止っているものとして分析し、あとで総合してアニメーション化することで、生命の本質と動態のあらかたは理解できるわけである。
 さて、個体発生において、それじたい何ものでもない発生胚(システム)から、秩序立った形態をもつ個体が形成されるが(67ページ)、ここで、

(1)「前成説」(生成プロセスの結果形成されてきたものや生成プロセス自体に先立つ原基的構造【プログラム】が存在する)
(2)「後成説」(未分化で一様な質料が、生成プロセスそのものにおいて、徐々に秩序だった形態へと形成されていく)

 のニ説が対立的に主張される。

 「前成説」では、生成過程は連続的に行われ、そこにプログラムにない偶然の因子による新しいものは生れない。「成長した動物にそなわっているもので、胚にないものはない」という「連続性」への信念が「前成説」の基本である。これは現象の背後に同一のコード(経験科学的諸法則)を発見しようとする立場であって、現代では「遺伝子」にそれが求められている。この観点では蛹から蝶への変態なども自己組織化でなく、たんなる連続的変化にすぎない。(67〜69ページ)

 「後成説」では、生成の各段階でみずからプログラムを形成する。そこにはあらかじめ存在している同一のコードはない。同じ胚の部分でも、針で突ついたり薬品処理したりすると別の器官になったりする。「後成説」は胚発生の必然的過程を「事実」として映すのではなく、それは先と後の二つの時点の関係を物語る「物語」でしかない。

「後成説には観察者によって導入される物語が不可欠である。そのため後成説は、物語の性格によっていく種類かに分かれる。複雑化の物語(オーケン、スペンサー)、反復の物語(ヘッケル)、個別化の物語(フォン・ベーア)が代表的なものであり、自己組織化のさいの組織化の方向を物語として示すのである。」(70ページ)

 複雑化はオーケンののちスペンサーにおいて進化の基準とされたが、その場合、統合と分岐と秩序化が一次的なポイントになる。(71ページ)

 ヘッケルは、システムの個体発生を、進化の系統樹に書かれた系統発生の急速な繰り返しとして描く。

 フォン・ベーアは、例えば動物に共通するものが最初に発生し、その後、特定の種に固有なもの、さらにその種の個体に固有なものというように胚の分化が継続するとする。

「最初ヒトの胚は、脊椎動物と同定できるごくわずかの特徴しか含まず、どんな種類の脊椎動物に成長するかは未定である。やがて個体発生の進行とともに、霊長類、ホモ=サピエンス種、黄色人種へとしだいに固有化し、最後に個体の特徴が分節する。」(73ページ)

 河本英夫氏は、「自己組織化の生成プロセスは、フォン・ベーアタイプの物語を手本にしている」と述べている。

「それ自体何ものでもないシステムの初期状態から可能性が制約されるように、固体化が進行する。秩序だった個体の形態が、未分化で等質なものから生じる点と、さまざまな可能性を制約して現実的な個体が生じる点とを、自己組織化の議論は、フォン・ベーアタイプの議論から継承している。」(73ページ)

「生成プロセスを後成説の枠内で語ろうとすれば、観察者からの物語コードの導入が不可欠である。そのため自己組織化の議論をするさいには、「観察者の視点」にいつも気を配っていなければならない。(:定常均衡の)第一世代システムとは異なり、(:生成不均衡の)第二世代システムでは観察者が顕在化する。」(73ページ)
[註7]
果たして第二世代のシステム論では「観察者」と「物語」がどうしても顕在化するものだろうか? 「物語」とならざるをえないだけの任意性が胚にあるのだろうか? そもそもこれは「胚発生の道程がいろいろとありうる」ということでしかなく、いずれ「物語」だったものはフレキシブルな「客観的法則」となるのではないだろうか? 

たしかに胚は針で突つかれたり薬品処理されたりすれば、元のものとは異なる器官を生み出すのかもしれないが、その場合でも、とんでもない何かを生み出すのではなく、概ね予想できる範囲内に収まるものである。それは胚の自由度が100%ではなく、その種の胚として様々な既定の規則・法則・コードで大枠を決められているからだ。つまり変容の自由度はいつも制約されている。とするなら、これは観測者の任意な「物語」を意味しはしない。

この観察者問題は第三システムである「オートポイエーシス」においてさらに大きな比重を持った問題として取り上げられるが、いずれその段階で詳しく触れるように、実はそこにオートポイエーシス論の本質的な弱点を垣間見ることができる。

河本英夫氏はこれまで見てきたように、「未分化で一様な質料」「流動する無秩序状態」「それじたい何でもない発生胚」「未分化で等質なもの」「それじたい何ものでもないシステムの初期状態」などといった表現をする。

これはシェリング哲学の「無制約的なもの」から出発したもので、ついには哲学的な原理にまで高められ、物質・生命・心を生み出したそもそもの宇宙の初めにおける「カオス」や量子力学的確率論の「偶然」となる。根源的カオスからの秩序の生成」というのが著者の哲学原理である。それは理性主義のヘーゲルを否定してロマン主義者のシェリングを肯定する彼の姿勢でもある。哲学的原理だから、物質・生命・心のあらゆる局面でそれは有効という主張になるわけである。

しかしどのような場合でも、完全にカオスや無秩序が支配しているわけではない。そこにはのちにそれぞれの秩序となるべき「原秩序」がすでに含まれている。それが様々な機縁でいろいろな秩序として現れるのであって、そこにはおのずと制約が伴っているのである。根源的カオス哲学は誤りである。

さて、73ページから78ページにかけてヘーゲルやエンゲルスの弁証法を痛烈に批判する揶揄的な文章が続く。ヘーゲルに対する著者の嫌悪感が弁証法への正しい評価を曇らせている。この時点では著者の弁証法批判について詳しく述べない。それはこのHPの最後に取っておこう。

だが、とりあえず、たった一つ、構造と機能とを弁証法的に、動的に、総合的に見ることで、構造主義や著者の機能主義の様々な欠点が克服できているという点だけでも、弁証法を著者のように一概に無視してはいけないことが分かる。弁証法に対する評価を、著者が行う角度(境界論)だけから行ってはならない。

2 動的非平衡システム

 ビーカーの溶液に横から音波を当てると突如結晶が生じることがある。音波は結晶化のきっかけを与えた。そういうふうに、一度偶然に結晶化が始まると、あとは自動的に結晶化が進んでいき、結晶は自己組織的に増大していく。このとき結晶の境界は、結晶と溶液環境との相互作用によって決定される。

 ここでは、「初期の偶然性」と「カスケードの非可逆性(自動進行)」「システム全体の相転移」「反復的進行」「要素と秩序(システム)の間の飛躍」「自己の境界の変動」「システムの開放性(環境との相互関係)」および「自己言及性」が特徴となっている。(79〜81ページ)

 自己組織化で最も目を引くのは「混沌から秩序へ」「未分化な始源より分化した関係へ」の相転移である。分子集合が自己自身を組織化する。ハーケンはこれを「協働現象」と呼んだ。分子の関係が全体的に組み替えられるので、ここでは「関係」ではなく「生成」が主要な力点である。(82ページ)

 さて「ベロウソフ−ザボチンスキー」現象という化学液現象がある。この溶液では時間とともに色が、赤、青、赤、青と周期的に変わっていく。つまり自分と同じ分子を自分で複製しているわけだ。自分が自分に作用して自分を作っていく。これを「自己触媒作用」という。とはいっても、この溶液現象は永久反応ではない。反応を永久化するには、溶液を新たに追加したり、副産物を除去してやらなくてはならない。

 こういう自己組織化は「秩序から混沌へ」と向かう自然界に普遍的なエントロピー増大則(熱力学第二法則)に一見、矛盾するようにみえる。しかしそれはシステムを閉鎖系としてみるからである。実際のシステムは開放系であり、自己組織化の秩序がずっと維持されるのは、外部からエネルギーを補填し、また内部に蓄積された副産物を外部へ除去するからだ。

 たしかにそういう観点から、これまでは、自己組織化システムが外部と関わる開放系であることが秩序化をもたらすという議論がなされてきた。しかし、「開放性を強調することは、エントロピー増大の法則に逆行する現象の成立要因を外部に求めることであり、秩序化の可能性は外部に委ねられてしまう」(84ページ)。これではシステムの創発性の可能性を外部から持ちこもうという発想になってしまう。

「かりに開放系で自動的な創造性が生じるのであれば、閉鎖系においても創発の可能性があるにちがいない」(84ページ)。内部に可能性があるからこそ、外部がその発現のきっかけを与えてくれるわけだ。

「たとえ閉鎖系であろうと、システム内部のいたるところに秩序の創造の可能性はひそんでいる。 それがプリゴジンの言う「ゆらぎ」(大勢からのズレ)である」(85ページ)。分子の中には実は秩序から無秩序へ向かう大勢の中でも、確率論的に無秩序から秩序へ向かう微小部分がいつもある。平衡状態では無秩序化するが、反対に非平衡状態では秩序化することができるのも、そのおかげだ。だから、エントロピーが増大するといっても、平衡状態で平均をとると無秩序に向かっている、ということにすぎない。

 したがって、常時外部環境からのエネルギーの流れにさらされて平衡状態から遠く離れれば離れるほど、秩序化が起きる可能性がある。その可能性が現実化して持続的に秩序形成するためには、さらに何段階もの機構が必要だ。これが「ゆらぎをつうじての秩序の形成」と呼ばれるものだ。(86ページ)

 結晶が成長する場合、外部に、熱とともにエントロピーを放出ことによってエントロピーが減少し、空間的な構造がつくられる。いったん結晶ができ上がると、熱平衡になっても結晶は壊れない。このような構造を「平衡構造」という。

 渦などの構造の場合は、熱平衡になると、構造はたちまち壊れる。これを「散逸構造」と呼ぶ。動的構造である「散逸構造」は非平衡状態の中でしか存続できず、そのため外部環境との入・出力が欠かせない。(89ページ)

 著者が挙げる自己組織化システムの必要条件は以下の三つである。

(1)非平衡の開放系
(2)システムの境界の変化
(3)システム内の未決定要因

 これは、M・アイゲンが挙げた生命に不可欠な条件、すなわち、「平衡から遠く離れた開放系」「自己増殖、あるいは物質の増幅」「突然変異」に対応している。これらはプリゴジンの「散逸構造」にも見られる。(89〜90ページ)

 結晶形成や昆虫の変態や胚発生などに見られるように第二世代のシステムの境界は不断に変化しつづけている。ところが、免疫システムの例などでは、システムの本体が境界を変えつづけるのでなく、変動する境界がそのつど定まることによって、はじめてシステムそのものが成立している。「この場合、システムは環境との相互作用を通じて、そのつどシステムの『自己』を形成する。」(90ページ)

 免疫システムでは全ての抗原に対する抗体の情報が遺伝子に存在していて機能しているのでない。そのようなことは到底不可能で、むしろ体内に侵入してくる無数の新しい抗原にそのつど「自己」を臨機応変に形成して対処している。その場合、たとえばT細胞は自己と非自己との境界を、まわりの状況によって定める。たとえば、もともとAであったものがBの環境内で成熟させると、Bを「自己」とし、さらにそれをCの環境内で発達させると、Cを「自己」とするが、ときにはもともとのAを「非自己」とさえ認識してしまう。〈92ページ〉

「……『こうして免疫系における『自己』と『非自己』の識別能力は、環境に応じて著しい可塑性をしめすのである。』 ここで語られている事態は、免疫システムが生成する環境に応じて、自在に自己−非自己の境界をひいていることである。これは結晶が成長していく場合とはまるで異なっている。……環境との相互作用に応じて自己の『境界』を徴づけるコードを、そのつど設定するのである。このコード設定こそ、『自己組織化』と呼びうるものである。」(92ページ)

 この事態は認識論に多くの問題を投げかける。ここではあらかじめ決まった自己などというものは存在しないし、そもそも変身する「本体」なる自己も、どこにもない。(93ページ)
「註8」
河本英夫氏のこのコメントはどこか、「個々の馬だけがあるのであって、馬そのものは存在しない」という唯名論を思い出させる。しかし、遺伝子の中には「馬そのもの」の諸規定をなすコードがあって、それにプラスαをして「アオ」なり「ハイセイコー」なりの個々の馬が存在している。

そもそも馬は「種」として存在し、個々の馬だけでは存在しない。種は「馬そのもの」のことではないか? これは馬という種と個々の馬がともどもに実在するとする弁証法的な捉え方を促すものだ。

「決まった自己などない」というのは、いわゆるA=Aという形式論理学の大前提が揺らぐということであろう。しかし生成の論理である弁証法では転化や相互浸透や否定の否定を通して自己が絶えず非自己なる他在となるから、著者はむしろ弁証法にもっと注意の眼差しを向けるべきであろうと思う。

あらかじめ決まった自己はない、とすることで、著者のようにそれを究極化し、固定的な形而上学的テーゼのように絶対化してはいけない。抗体にはなにも自己性がないのではない。抗体はどこまでも抗体であって、そこに変わらぬ自己性がある。それが様々な環境の中でいろいろな抗体として現象しているのだ。そもそもいろいろな抗体になりうるのも、そこに抗体なるものがずっと自己同一的に存在しているからである。

 ここでビーカー内の結晶化について視点をさらに深めてみる。すると二つの見方が可能である。

(@)結晶をシステムとし、溶液を環境として、増大しつづける結晶を、自己組織システムとして捉える。システムの構成要素は格子状の分子配列だ。
(A)溶液内の結晶生成プロセスをシステムの構成要素だとし、生成プロセスの集合をシステムだとする。このとき結晶は生成プロセスから除去される廃棄物である。

 (@)は構造からシステムを見る視点で、(A)はシステムの作動(機能)からシステムを見る視点である。構造から見るとシステムと環境との区別(:これは観察者の観察と概ね重なるとされる)があるが、作動(機能)から見ると、「システムの境界は、空間的には定まらない。空間的な境界によってシステムを規定しているわけではないからである。」(94ページ)

 「システムが作動しつづけるためには、生成プロセスが継続しなければならない」。だから、生成システムの反復的進行に関与しつづける全範囲がシステムである。そこでシステムの境界を、「生成プロセスが生成プロセスの開始条件となるような全範囲」というように規定できる。これは「純粋に作動的(機能的)に規定されている。この境界設定は、空間的なものではなく位相学的である。……この(A)の視点は、すでに第三世代のシステム、オートポイエーシスまで移行している。」(95ページ)

 (A)の視点でシステムの境界を位相学的に決めると、システムそのものにとっての境界規定が導入できる。(@)の視点では外の観察者の視点が不可分に関与していて、境界設定においても観察者の存在や位置に注意を払わざるを得ない。結晶の場合は問題ないが、生態システムや社会システムの場合のように自分自身を含む自己組織的システムの場合は、そもそも誰も観察者で終わらないからである。(95〜96ページ)
「註9」
河本英夫氏の基本的立場がここから本格化する。つまりシステムを「作動」として機能主義的に捉える立場だ。(1)の視点でなく(2)の視点に立ち、「構造」の視点をあらかじめ省いておいてみずからの立場を概念規定しているわけだ。だがそうすると、「これは本来二つある見方のうちの一つを選んだものにすぎない」という自覚がずっとなければならないのに、これからあとは自分の機能主義的立場を絶対化していくのである。

すでに述べたように、そもそも事物には構造と機能とが表裏のように存在している。この両者は本来切り離してはいけないものだ。切り離すと、歪な形でいずれどこかでそれを補填しなくてはならなくなる。それが「構造」にかわる非物理空間的な「位相空間」である。この「位相空間」という概念はのちになってはっきり現れてくる。

いずれ著者によって「自己と環境との区別は観察者が外から見たものにすぎない」とされるに至るから、作動プロセスそのものから見ればそもそもシステムの内外の区別はつかない。しかもこれは非物理空間的なので、その結果、「環境」は消滅していく。こうした見方は第二システムを経て、第三システムのオートポイエーシスの立場では一層強化される。そして第二世代と第三世代のシステムは、自己を自己として認識できないままに終わる。結局、自己と環境の形成をみずから行いながらも、自己も環境も知らない「盲目のシステム」ということになるのである。

ちなみに、システムの境界を「生成プロセスが生成プロセスの開始条件となるような全範囲」と規定するのは、なるほど自己触媒システムや自己循環システムの場合、その「機能」から見れば一種の意味らしきものを持つ。

だが、これを「生きる」という生命機能のプロセスでいうと、「生きるというプロセスが生きるというプロセスの開始条件となるような全範囲」ということになり、これでは無機物からどのようにして「生きる」ということそれ自体がこの地球という環境の中で生成したのか説明がつかなくなる。だからこれは無根拠論であり、一種の永久循環的な自己創造論であり、ちょっとしたトートロジー(同語反復)だといえる。

河本英夫氏は第二世代システムの境界規定としてそれを述べたにすぎないが(96ページ)、それにしても環境についてこうした抽象的な言い方をせざるを得ないのも、機能主義の立場から構造そのものを省いてしまったからだといえよう。

さて、またまた観察者の問題が提出されているが、自己言及的システムでなければこの場合、問題はない。そして社会システムのように自分自身がすでにその一部である自己言及的システムを問題にする場合でも、「観察者の立場に立っているために対象を不可避的に捉え損なう」ということはない。むしろ観察者の立場に立っているからこそ、対象を客観的に正確に捉えうるのである。だから、観察者の立場とシステムそのものの立場がそれほど違うものとはならない。社会科学も歴史科学も精神科学も、それぞれ発展途上にあって、まだ完結しておらず完結し得るものでもないが、そのことは観察者問題(その不可知論)とは直接関わりがない。

付言しておくと、厳密に言えば著者における「作動」と「機能」とは違う。著者によれば「機能」はシステムの作動の結果にすぎない。とはいえ、上に見たように、著者みずから「作動的(機能的)」という述べ方をしており、「作動」を機能主義的に見ていることは確かである。この「作動」は決して「構造」からは規定されていない。それは「機能」を生み出すものであっても、間違っても「構造」から生み出されるものではない。

 
 「(1)生成プロセスを構成要素とする自己組織システムは、ほどほどの大きさのビーカーであれば、溶液全体が自己組織システムとなっている。生成プロセスの連鎖が溶液全体に及ぶからである。……(2)ところでこのとき奇妙なことに気づく。自己組織システムの作動は、ビーカーの壁に支えられているのではないか。……ビーカーの壁がひとたびこわれれば、溶液はあふれ出し、生成プロセスは停止する。(3)自己組織化のプロセスは、システムを支える外的条件にまもられてはじめて成立する。結晶生成の自己組織プロセスにとって、ビーカーの壁は先天的でありどのようにしてもはずすことのできない条件である。……(4)しかし有機体は、ビーカーの壁に相当するものを自分自身で産出する。……システムがみずからの境界を自分で産出するようになったとき、システムは……第三世代、オートポイエーシスである。」(96〜97ページ)
「註10の@」
上記の引用文の中の(1)から(4)の符号はホームページ開設者が便宜上付けたものである。

(1)の部分について言えば、溶液全体は物質であり位相学的な自己組織システムなどではないのに、それを自己組織システムだとしているところが論理矛盾である。だからこそ(2)のところで、位相学的な自己組織システムが物理的な壁によって支えられていることが「奇妙」に映る訳だ。

(3)にあるように、機能主義的な自己組織プロセスにとってもし物質であり構造でもあるビーカーが先天的であるなら、それはそもそもの機能主義的設定が誤りだったことを示しているのである。そもそも構造(壁を含む)を機能主義の立場から否定し無視した結果が、こうした自己矛盾に至らしめたといえる。

したがって、(4)で示されている、壁を自分自身で産出することのできるオートポイエーシスなる第三世代が存在しているとしても、このような矛盾を抱えた論理ではオートポイエーシス論に多くを期待できそうもないことが予想できる。

3 シェリングの自然哲学

[註10のA]
98〜116ページにはシェリングの自然哲学とそこから著者が学んだ内容が述べられているが、そこは今のところ本稿にとくに関係がないので省略することにする。いずれ本稿の終わりの部分でヘーゲル弁証法について述べるときに簡単に言及したい。

4 階層生成

 「階層生成は自己組織システムの要となる機構である」。その機構の三つの基本的なタイプは次の通りだ。(117ページ)

(1)要素の相互作用による階層生成
(2)円環形成による階層形成)
(3)自己触媒システム(ハイパーサイクル)


(1)については、化学的化合物の場合が典型的で、要素の集合は全体と一致しないし、それはつまり複合体は要素に還元できないという意味である。たとえば、粒子と粒子、原子と原子、分子と分子とが結合するとエネルギーを放出し、低いポテンシャルに移って安定する。つまりエネルギー準位が低いため、結合以前の状態(階層)とは質的に異なったものになっている。

 これは「要素−複合体関係」(構造)から捉えた第一の階層生成のタイプで、要素は大抵同質のものが想定されている。ところが例えば音波で結晶ができる場合は「音」と「形」という全く異質なものが関係しており、自己組織化システムは「要素−複合体関係」では捉えきれないことが分かる。(118〜120ページ)


(2)については、赤、青、赤、青と周期変化をする先のベロウソフ・ザボチンスキー反応液がある。ここでは生成過程でいくつかの反応段階を経たのち最初の物質が再び生成される。生成プロセス全体は持続的に作動する円環をなしており、それによってみずから閉域を作り、より高い一つの階層を形成している。これは「要素ー複合関係」(構造)から階層を導き出しているのではないので第二の階層形成のタイプである。(123ページ)

 ここでは次のことがいえる。

(@)生成産物の一部が再び生成につながり、そこに「産出=産物」という関係が生じている。
(A)たえず生滅する部分的反応が連鎖して安定した全体のサイクルができあがるなら、(:神であれ、宇宙であれ、細胞であれ、自己であれ)「全体」というものをあらかじめ想定して、それを、部分を統合する独立的な理念や実体として捉えるような「全体−部分関係」の固定的論理は必要がなくなる。したがって先験的な「全体」というものは無用だ。
[註11]
(1)の「要素は大抵同質のものが想定されている」というのは間違っている。細胞においてはむしろ異質のものが有機的な結合をみせているからである。「有機的」というのはそもそもそういう意味である。細胞の中では「音」だけでなく「電磁波」「磁場」「電場」など様々な質がともに作用して「かたち」を形成している。要素−複合論は厳密に言えば同質の要素による複合論とは違う。

〈A〉については、自然界の中の一部の反応が自己循環系だからといって、それがあたかも自然界全てに通用するかのように言明するのは問題だといえよう。たとえば自律的自己発展の宇宙の存在は果たして宇宙を創造した神の存在を否定しきることができるだろうか? 

もし神が宇宙を自律的自己発展の論理で創造したとすれば、宇宙はどこまでも自律的で、その説明に神はほとんど無用になる。しかしそれでも神は存在して、ところどころで奇跡や啓示などを通して超越的介入をすることができるわけである。神の存在証明については「神存在の普遍的な『三一』の印」のページをご参照。

神の存在については科学は肯定も否定も不可能である。それは科学の次元を超えた事柄だからだ。したがって哲学的見解を述べるというならいざ知らず、科学的見解を述べるというのであれば、神の有無に関わる全ての言明には厳しい自己制限が必要だろう。

この場合でも、ベロウソフ・ザボチンスキー反応には、外部からのエネルギーの新たな注入と、内部で蓄積された廃棄物の外部への排除が継続的な自己循環に必須となっている。つまり本当の自己循環系ではないのだ。

これは細胞も心も社会や歴史についてもそうである。完全な自己循環系などどこにも実在しない。広げに広げてこの宇宙全体についても、それが完全な自己循環系であるかどうか、誰にも証明できない。完全な自己循環系があたかも実在するかのように仮構して、主観的なものであれ客観的なものであれ、先験的なもの一切を否定するのは暴論と言うほかない。

「産出=産物」という関係については[註26]で批判する。
 さて、円環形成によって生じる五つの帰結は次の通りである。(125〜128ページ)

(@)生成プロセスの円環が閉じて階層が生成すると、観察者とは無関係に、システムそのものにとってはじめて内−外の区分が生じる
(A)外から見る観察者は、作動する円環によって区切られている当のものを「自己」と呼ぶ(初源的な「個体性」の獲得)
(B)円環が形成されることで、生成プロセス一般や物質一般のなかに、円環継続に資するもの、抑制するもの、無関心なものが区別され、初源的な「環境」が生じる
(C)円環は自己維持するために環境とのインプットとアウトプットを行う開放系である。(だが、作動する円環と自己言及性とオートポイエーシスとは内包・外延関係が異なる)
(D)生成プロセスの構成要素は不断に生成消滅するもので実体的に存在するものでない。それらは円環が継続できれば何で代替してもいい。
(3)については階層形成の第三のタイプである「自己触媒システム」がそれである。ここには初源的な「自己言及的サイクル」が成立している。自己自身の生成プロセスをみずから触媒する自己触媒システムは、

             I
        X────→I   (α)

 と表すことができる。

「 I は無秩序状態 X から生成する。……ところで最初の I はどのようにしてできたのか。この点については偶然だと考える以外にはない。自己組織システムの端緒は偶然だからである。」(129ページ)
[註12]
生命細胞は酵素を前提としているが、その酵素は細胞によってしか作られない。これは最初の生命がどのようにして生成できたのかという問題にとって大きなネックになっている。お互いに相手の存在が前提だからだ。この問題はニワトリと卵の関係のように探求者を戸惑わせる。ニワトリと卵の場合は、進化の中で両者の発展をたどることがその解決であるが、(たとえ最近のRNAワールド仮説を考慮しても)生命細胞の場合はさらに困難な問題である。

そのうえその後の「GADVタンパク質ワールド仮説」によれば、「RNAワールド仮説」では「遺伝子 - 遺伝暗号 - タンパク質」という生命細胞の全一的諸関係が論議できず、たとえばRNAと、タンパク質を構成する20種のアミノ酸の遺伝コードとのつながりの起源が説明できず、この仮説には期待が持てそうにないらしい。とはいっても「GADVタンパク質ワールド仮説」もまた多くの推測を含むものであり、これからどうなるか分からない。

さらに自己複製するさまざまな人工細胞も擬似的な生命細胞として実験室で作られているが、それらのほとんどが既にある生命細胞機能を部分的に援用したものである。

したがってこの問題の解決を「偶然」の一言で済ませるのは、むろん論外のことであろう。ここには宇宙・生命・心の存在に関する究極的な問題が潜んでいるからだ。河本英夫氏はのちにオートポイエーシスを「ひたすら作動するだけの自動機械」だとし、そのことによって一切の目的論を排除するわけだが、それはつまり宇宙の存在については「宇宙は偶然に出来た」とする立場から出ている。だから彼の最後の拠り所は「偶然」という曖昧で空虚で、いわば無責任な概念である。

彼の「偶然」と彼の「無秩序」とは相互に関連している。無秩序を原初とすることで「偶然」が許されるからだ。したがって無秩序が原初でなければ著者の立論は根本的に成り立たなくなる。

しかし誰がどう考えても、「全ての原初が無秩序だった」とは考えられない。どのようなものでも、存在する限りなんらかの秩序や構造があるからである。

インフレーション・ビッグバン宇宙論では、「宇宙の創世は時間も空間もなかったところからなされた」とするが、それでも(正しいかどうかはともかく)ホーキングの構想した虚時間理論においては、宇宙創世以前に量子力学が通用している。それは量子力学の秩序と構造が宇宙創世前にすでに存在していることを前提としているのである。

量子力学は原理的に「偶然」や「飛躍」の存在を許すが、それはそういうことを許す量子力学的秩序を持った理論だからだ。初源を無秩序だとするのは河本英夫氏の機能主義思想からの要請にすぎない。
 さて自己触媒システムは自己自身を変数とする関数として、I=f(……、I……)として表わし得る。これが自己言及性の基本型だ。自分が自分に関わるので、Iという表記も出来る。その特質を三つあげる。(130〜131ページ)

(a)指数関数的に生成プロセスが進行(遅延)する。(歯止めのない化学的な急速進行でなく、生命にとっては遅延による調節の方が重要だ)
(b)同一の生成産物が生成プロセスを触媒している。(触媒はみずからと同一の物質の産出を指令している)
(c)このサイクルの境界は、内的な情報により定められているように見える。

 さらに高次な自己触媒的システムは「E→E2→E3→E4→EnE(β)のように表記できる。Eは触媒酵素で、次の触媒En+1の触媒にもなる。これは最初に挙げた(α)のようには直ちに自分を触媒するシステムではないが、回りまわって一つの大きなループをなして自分を触媒する自己触媒システムである。これはより高次な組織化であり、新たな階層段階だ。(132ページ)

 これは(2)に挙げた色が赤、青、赤、青と周期的に変わる溶液反応とは違い、生成産物が直ちに次の生成プロセスに入るわけではないから、ある程度自由度があり、生成プロセスのどこかが欠けても容易に修復することができる。アイゲンなどによって生命の起源に関係すると目されている一本鎖RNAの複製機構がその典型で、レプリカが触媒となってレプリカのレプリカであるもとのRNAが複製される。しかし現存する自己触媒のサイクルの多くは一段高い「ハイパーサイクル」になっている。(133ページ)

 ハイパーサイクルはアイゲンの着想で、個々の触媒が自己複製を行うと同時に、この複製のとき次の触媒のための触媒を作り出す。ひとたびサイクルが元に戻って閉じると、自己複製サイクルと、自己に回帰する循環的な生成プロセスが組み合わさっている。これはいわば(α)(β)とを重合させたものだ。

 Iはその場で自己複製を行い、同時にEを産出する。そのEはEを産出してI生み出す。これを繰り返して最後には自分自身に戻ってくる。盲目的な自己複製サイクルが機械的に自己維持することが、結果として全サイクルの作動へとつながる。その例の一つがRNAファージが細菌細胞に感染した場合である。(134〜135ページ)

 ハイパーサイクルは、同じハイパーサイクルを構成要素とする一段階高次の「超ハイパーサイクル」に拡大できる。こうした拡大は際限なく行える。また、IがEだけでなくF1も産出できるなら、そこにIにサブサイクルのコブが付いたような超ハイパーサイクルが成立する。これはIのどこにおいても成立し得、F1やG1など複数のコブの付いた超ハイパーサイクルも可能だ。そして、F1やG1などのサブサイクルにそれぞれさらに小さな自己複製サイクルのM1〜n〜1やN1〜n〜1というサイクルも介在するというようにもなりうる。遠いサイクルどうしはほぼ独立だが、それでもどこかで連動している。(136ページ)

 ハイパーサイクル・モデルから次の三つの帰結が導き出される。

(@)自己複製的な構成要素の自己と、システム全体の自己とが二重化する。

 盲目的な自己維持的構成要素のシステムからみれば、全システムはまるで予定調和のように超越的に作動しているようにみえる。またこの構成要素システムが作動しなければ全システムは作動しないにもかかわらず、全システムからみれば、構成要素システムは他のシステムによって代替可能な要素システムの一つにすぎなくなる。

「構成要素のシステムは盲目的に自己複製し(独立性)、また全サイクルの作動をつうじて自己複製が触媒される(従属性)」から、階層関係論でかつて独立性と従属性とが論議された本当の根拠がこれで明らかになる。「そのことによって(N・ハルトマンによる)独立性と従属性を説明するための概念操作的解明は不要になる。」(138ページ)
[註13]
独立性と従属性の階層論理はここで言われているようなハイパーサイクルが見られる自己触媒的な自然だけでなく、それ以前の無機的自然にも通用している全自然に普遍的な論理だから、全自然の一部にしか通用しない自己触媒論を論拠にそれを否定することは不可能である。
(A)ハイパーサイクルによって、ようやく先験的な全体性を全面的に廃棄できる。

 多くの部分的機能を持っているシステムが調和している場合、これまではそこに全体性の理念が先験的に要請されてきた。ところがハイパーサイクルは独立した機能システムが共作動する機構を示している。「こうして最終的に先験的全体性の一切の残滓を取り除くことができる。」(140ページ)
[註14]
これは著者の機能主義的短絡である。これもハイパーサイクルが関係してくる自然の局面でしか通用しない。それに、一般に部分間が調和しているという場合、調和は何の調和であろう? 部分を超えた何がしかの全体の調和であろう。

私はすでに完全な自己循環系が実在しないことを述べたときに(主観的にしろ客観的にしろ)先験的全体性を否定できないことを証明したが、また、神の存在を科学的に否定できない限り、先験的な全体の概念を消滅させることはできない、ということも証明した。そして科学は神について「存在する」とも「存在しない」とも永久に言えないのである。創造者なる神が存在すれば、全体としても部分としても、あらゆるものは神の観念・神のシナリオの中に先在する。
(B)ハイパーサイクルの形成は、階層分化に新たな機構をもたらす。

 観察者から見れば、高分子、細胞内小器官、細胞、組織、器官、個体というように階層を分けることになるが、これらは同じ空間内で共作動している筈で、空間的階層イメージではそれぞれの階層が空間的に区分けされ、その共作動の実態が掴めない。ハイパーサイクルはその欠陥を埋めることができる。

 ハイパーサイクルからオートポイエーシスまでほんの一歩である。ハイパーサイクルはひとたび形成されても、このサイクルにふさわしい定常的な環境、つまり壁や容器がなければ一挙に作動を停止してしまう。有機体は、内的環境のようなみずから自身の容器を自分で産出している。そのときシステムは新たな段階、第三世代のオートポイエーシス・システムに入る。(142ページ)
[註15]
これらの階層が同じ空間内で複雑な相互関係をしているのを、空間的に・構造的に・機能的に、明らかにするのが生物学であろう。「階層が空間化されると共作動の実態が掴めない」などということはあり得ない。だからハイパーサイクルがその欠陥を埋める必要もない。

それに、機能主義と矛盾している筈の容器や壁が必要なオートポイエーシス論などは、論理的自己矛盾である。容器や壁が不可欠なら、はじめから構造も取り入れて、構造と機能の両面から弁証法的に論議を進めるべきだったのである。

 ハイパーサイクルは「下位の自己複製システムは代替可能」といった大幅な自由度を獲得している。そのため複数のハイパーサイクルが下位の自己複製サイクルを共有するとか、相手から借り受けるということも生じる。たとえば原核細胞が、もとは独立した細胞だったかもしれないミトコンドリアや葉緑体などを取りこんで真核細胞化する場合がそれであり、これを「システムの共生」という。たとえば原核多細胞生物(:であるラン藻類で)の共生にはそうしたものがみられるようだ。

「したがって原核細胞から真核細胞への移行は、宿主の細胞が空間的に描かれた境界のうちに、ミトコンドリアや小胞体が入り込むことでなく、むしろ作動する円環の多重化である。……ハイパーサイクルを代表とする作動する円環は、純粋な機能システムであって、ほんとうのところ空間内に表象することはできない。……ハイパーサイクルを精確に表現しようとすれば、三次元的な物理空間ではなく、純粋に設定される空間、つまり位相空間を考えなければならない。空間内に描かれる円は、本来この位相空間の写映像でしかないのである。」(144ページ)

 自己組織システムを関数化すれば、

 f(x,y,z,t ,□,f,f,f……)+α

 である。x,y,zは、エネルギーや空間的配置にかかわる変数で、ここではシステムは非平衡だから時間の変数 t が導入される。□はシステムが作動しつつ新たに獲得する未知の変数で、f,f,f……は、この関数そのものが自己言及的に関わることを示す変数である。二回自己言及すればf、三回ならfとなる。αは環境との相互作用によってもたらされる摂動項だ。未知の変数である□があるため、第二世代システムは本来的に非決定論的なシステムである。
[註16]
ここで機能主義的な概念である「位相空間」が物理空間の代理物あるいは補填物として導入されていることが分かる。構造一般を無視した機能主義的観点でものごとを見れば、構造は別の姿、それも機能主義的な姿に変貌する他はない。それが「位相空間」だ。機能が根源であり全てであると考えてしまうから、こうした非物理的な「位相空間」を想定し、あたかもそれから二次的に物理空間が生じたかのごとき記述になるのである。

だがしかし、げんにミトコンドリアや小胞体が宿主の物理的空間内に入り込まなかったなら、真核細胞は生れなかったではないか? だから、いつもものごとは構造と機能の両面から正しく捉えなければならない。もし研究の過程で物理空間のほかに位相空間も必要であれば、(物理学においてベクトル空間で示された位相空間が理論構築上よく利用されているように)、それも援用して対象を把握すればいいだけの話だ。
 

第V章 オートポイエーシス(第三世代システム)

1 オートポイエーシスの視点

 オートポイエーシスとしての有機体には以下の四つの特徴がある。

(1)自律性(外的、内的なあらゆる変化においても自己を保持する)
(2)個体性(異物を摂取しても自分の一部に変換し、自己の同一性を保持する)
(3)境界の自己決定(たとえば免疫システムにおける自己と環境との自己決定など)
(4)入力と出力が不在

 この中でオートポイエーシスにとって最も本質的な特徴は(4)の「入力と出力が不在」である。これはとても異様で、「ほとんど理解不能である」(155ページ)。そのためオートポイエーシス論は「外界との物質・エネルギー代謝を一切行わないシステム」だと大いに誤解を招いた。(156ページ)

「産出プロセスを中心にして有機体を捉えると、有機体は自分の構成要素を連続的に産出し、この構成要素が有機体を構成し、さらにまた有機体は自分の構成要素を産出する。……この際限のない循環のプロセスを追跡すれば、自己自身へと回帰するような閉域ができていることがわかる。オートポイエーシスはこの循環を有機体の唯一の必要条件だとする。このとき循環を追跡している視点は、システムを空間内に観望している視点とはまるで異なっていることがわかる。こうしてシステムそのものにとって(für sich)の視点と、観察者にとって(für uns)の視点とが明確に区別される。自律性、個体性、境界の自己決定という有機体の特質は、システムそのものにとっての視点から規定されたものである。」(159ページ)

[註17]
ここでは「システムそのものの視点」は「機能」からの視点であり、「観察者の空間的視点」は「構造」からの視点であることに注意を喚起したい。

さて、もし自律性、個体性、境界の自己決定などが「システムそのものの視点からしか見えない」ということなら、著者の文章にも意味がある。その場合には当然、観察者の視点とシステムそのものの視点とを区別する必要があるだろう。

しかし自律性、個体性、境界の自己決定という有機体の三つの特徴は、そもそもこれまでの観察者の視点から研究されて得られたものではなかったか? だから、ことさらのごとく「システムそのものの視点」と「観察者の視点」とを区別し、後者の視点を貶める必要性がどこにあるのか、さっぱり理解できなくなる。

だいたい読者もいずれ分かるが、オートポイエーシスは、「自分が作動して自己循環的な閉域を作り、内・外の区別を作っていることさえ知らない盲目作動機関」なのである。だからマトゥラーナとヴァレラの共著『オートポイエーシス─生命の有機構成』(1972年)でも、「オートポエティック・マシン(機械)」と呼ばれている。

つまり「自分」も「環境」も全く眼中にないし、それらの存在に気づいてもいない。ただ端的に「作動するだけ」なのだ。だから、結局、その内・外は観察者がはじめて区別できるもの、また、区別しなければならないものとなるわけである。「オートポイエーシス・システムには入力や出力がない」というのも、著者はあれこれ言ってはいるが、つまりは、「盲目のオートポイエーシスにとってはその入力・出力が見えないし、存在しない」という意味に過ぎない。

そういう完全盲目のオートポイエーシスが、いかにして自己を区切り、内・外を作り出し得るのか大いに疑問だと言える。システムが無意識ではあっても、生命細胞がそうであるように、即自的にしろ対自的にしろ、どこかで、なんらかのかたちで、内・外を認識しているからこそ、内・外を作り出せるのではないだろうか? 

内・外を作り出していることさえ全く気づかずに、どうして内・外を作っているのだろう? いかにしてそのような能力を得たのか? それにまた、自分も環境もさっぱり見えないオートポイエーシスが、それらがすっかり見える観察者の立場を批判するのは、盲人が目明きを批判するようで、どこかおかしい。

いっておくが、この観察者はオートポイエーシスとは無関係の第三者のそれでなく、みずからもオートポイエーシスである動物が進化の中で獲得した高次の反省能力のことなのである。
「システムを産出的作動だとすると、システムと外的条件をどのように詳細に分析しても、システムの産出的作動を分析したことにはならない。観察者が行うようなシステムと外的条件との作用関係の分析は、システムそのものの作動を何も明らかにしない。システムの産出関係とシステムと外界の作用関係とは明確に区別される。そのため入力や出力のような因果的な作用関係でシステムを捉えたのでは、システムの産出関係はまるで理解していないことになる。オートポイエーシス・システムにおいては、産出関係と作用関係を明確に区別することが必要である。このときシステムと外的条件との作用関係は、システムが自分の構成要素を産出するという産出関係を決定していないことは明らかである。」(159〜160ページ)
[註18]
これは、「私は私であり、私と環境との関係で私であることが決まるものではない」ということである。ものごとは、それと外部との関係とは違う、ということだ。だから、「外部との関係で、ものごとの本質は捉えられない」となる。

たとえば認識論で「クオリア問題」というものがある。「クオリア」とは主観的な生(なま)の知覚体験であり、たとえば、「私の見た赤いリンゴの『赤』は私だけのもので、他人には決してその『赤』の微妙な見え方が分からない」といった問題だ。これは、私の[赤」は、それと他人の見た「赤」との関係では分からない、というふうにも言え、「私は私であり、私と環境との関係で私であることが決まるものではない」と酷似していることが分かるだろう。

ところが『脳のなかの幽霊』(角川書店)で著者のラマチャンドランが示したように、脳に被せる磁気ヘルメットの作用で、私の大脳と他人の大脳とを連動させれば、私の「赤」は他人にそのまま伝えられるのである。このことは「私固有の世界とその他の世界との原理的な障壁」というものが、結局、さしたるものでない、ということを示している。

むろん自律的で個性的な生命体でなくとも、一般に、或るものは、それと外部との関係とは異なる。それは論理的にもそうならざるを得ない。だからといって、その或るものが外部との関係で捉えられるものでない、ということにはならない。

たとえば、私は環境の中から、その一部として生成し、環境の中に、環境と共にある。だから環境を理解しなくては、また環境との関連の中での私を理解しなくては、本当に私を理解できるわけがない。

河本英夫氏が「入力や出力のような因果的な作用関係でシステムを捉えたのでは、システムの産出関係はまるで理解していないことになる」とかなんとかいうのは、オートポイエーシスの盲目的作動性を前提にしてのことである。盲目的なオートポイエーシスにとっては環境との入・出力など存在しないし、だからオートポイエーシスの視点からは作用関係は見えない。

したがって、結局、河本英夫氏は、「目明きの観察者は盲人にならないと盲目のオートポイエーシスのことは分からない」と言っているのだ。いわば「盲目の私のことは、あなた自身が盲目になってみてくれないと、分からない」ということである。しかしあなたが盲目になった途端、あなたはなにもかも見えなくなり、盲目の相手も視界から消えて、盲目そのもののことは分かっても、せっかく分かってあげなくてはならない「盲目の相手問題」そのものが消失する。つまり、これでは盲目のオートポイエーシス問題そのものが消滅するわけである。
「システムを産出的作動として捉え、自分の構成要素を産出するという産出作動の循環のうちから(自分を)みる限り、システムはただひたすらみずからの構成要素を産出するという循環を繰り返すだけである。この視点をとれば、どのようにしてもシステムの外から、システムと外的条件とを関連づけるような視点は出てこない。オートポイエーシスの視点を一貫させ、システムの作動を内的に捉える限り、いわば入力も出力も見えないし、また見ることもできない。」(160ページ)
[註19]
これは、「オートポイエーシス・システムにとっては自分も環境も何も見えず、ただひたすら作動するだけだ」ということを言っているにすぎない。それがなにか大した知見をもたらすだろうか?
 
 オートポイエーシス構想のきっかけはマトゥラーナの行った神経生理学の研究(ハトの網膜実験)である。それはハトの色知覚実験だが、要するに色の錯覚が問題になっている。たとえば、ある状況下では「赤」ではなくその補色である「緑」が見える。「緑」の電磁波長は物理的には実在しないのにそれが見えるのは、外的な物理的刺激の特徴と神経システムとがうまく対応していないことを示している。物理的な電磁波の波長スペクトルは連続的だが、視覚はそれを非連続なそれぞれの色として知覚する。これらは、「神経システムはそれじたいの関連の内部でのみ作動している」という結論に導く。つまり神経システムには入力も出力もない。「神経システムは外的刺激を受容してそれに対応した反応をするのではなく、むしろそれじしんの能動的な活動によって視覚像を構成する。」(161〜163ページ)

 「神経システムには入力も出力もない」という事態の説明に以下の三つの選択肢が挙げられる。

(@)刺激の除去によるシステムの作動

 外的刺激の大半は効率からみて短時間のうちに整理・編集されて捨てられる。だから視覚像の形成はたしかに外的刺激に対応したものでない(a)。だが、これは刺激が外部を想定しているので「入・出力がない」の説明には駄目である(b)。(163〜164ページ)(:aとbはHP開設者のつけた符号)
[註20]
(a)の部分については、ラマチャンドランの『脳の中の幽霊』でも同じようなことが主張されている。しかし、これは生物が効率的に環境判断して生きていくために進化させてきた能力であって、編集や整理の中でも環境に対する客観的判断の大枠は失われていない。それは、生物が環境の中で生れ、環境の一部として進化してきたため、認識においても、生活においても、生物(人間を含む)と環境との間に、一切、質的障壁がないからである。

つまり客観的対象は効率的に整理・編集されて客観的に知覚されている構成とはいっても、単なる主観的構成でなく、客観的構成(対応反応=反映)である。だからこそ生物は数十億年も生き延びて進化し、なかでも人間は自然法則を知ってこのような科学文明を築き上げることができたわけである。対応反応面を全く無視し、構成面を絶対化しては判断を誤ることになる。
(A)ミクロ平面とマクロ平面の非対応

 神経システムへの外的刺激とその視覚像との間には対応関係がない。ミクロ平面での外的刺激はマクロ平面での構成と異なる。ミクロ平面での同じ刺激がマクロ平面ではそれぞれ別の視覚像になるネッカーキューブ(直線で囲まれた立体像が左上もしくは右下方向を向いているように見える)のことがある。マクロ平面での処理には恣意性や偶然性や「ゆらぎ」も宿っているといえる。しかしこれも外的刺激を認めるという点で「入・出力がない」の説明にはならない。(165〜166ページ)
[註21]
「神経システムへの外的刺激とその視覚像との間には対応関係がない」という著者の考えはすでに批判しておいた。錯覚や幻覚は非正常的な知覚であって、それをもって正常な知覚一般の認識にそのまま結びつけるのは間違っている。錯覚や幻覚などの研究は、そもそも正常な知覚の真相を知るための補助的な研究なのだ。よく研究者が非正常なものや例外に注目して大きな成果を挙げる事があるが、だからといって、それを正常な本体そのものに無批判に適用しては判断を大きく誤ることになる。
(B)自己言及システム

 自己言及システムは自己触媒的な自己円環だから、「入・出力がない」の説明にとって全く意味がないわけではないように見える。たとえば、「神経システムは、みずからの構成要素と相互作用しながら作動する自己言及システムだ。それによって産出されるものは、神経システムの構成要素(シナプス)だけである。「これによってシステムはみずからの内を一貫して作動するだけになる。たとえ外的刺激が加えられようと、そのことによってシステムの作動が自己自身へと回帰していくという作動の様式に変化はない。」(166〜167ページ)

 とはいえ、この閉鎖的な神経システムが作動するには通常の体細胞からエネルギーを得なくてはならない。つまりやはり神経システムに入力が不可欠ではないかということになる(167ページ)。これでは「入・出力がない」の説明につながらない。

 しかし、自己言及システムとオートポイエーシス・システムとは違う(168ページ)。自己言及性を言う限り、当の自己が前提とされていなければならないが、オートポイエーシスは作動を通じて自己を産出するシステムである。自己言及はそののち作動してシステムを複合的にしていく。

 システムと外部を分けるのは観察者である。「観察者はシステムとその外部とを同時に捉え、システムは一方では自己言及的に閉じて作動し、外的条件は他方でシステムに外から関与する」。ところが「オートポイエーシス・システムは観察者に依存せず自己を規定できなければならない」。「システムが産出的作動によってみずからの境界を産出する場合には、システムそのものから見たとき、その外部は観察者によって指定されるような空間的円環の外というようなものではないはずである。」(169〜170ページ)

 自己言及とはいわば「反省」の機能である。そして一旦自己言及されると、自分の全てが反省に付され、一段高い高次の新たな段階を産出する。それゆえこれを単に閉鎖系として捉えて「入・出力がない」の説明に使用できない。(170ページ)

「これらの検討をふまえて、神経システムには入力も出力もないという事態を明確に言いきってみたいと思う。……オートポイエーシスはシステムの作動を中心にして組み立てたシステム論である。たとえばハイパーサイクルは自己自身へと回帰するような作動を継続することではじめて円環をなし、存在する。作動が停止すればただの物質の集合である。……その作動によってシステムの内部と外部が区分けされる。システムの作動に先立っては『内部も外部も存在しない』。……観察者にとっても、内部も外部も存在しない。(それは)システム本体と外部環境との相互作用関係でひかれた境界にすぎない。」(170〜171ページ)
[註22]
システムそのものから見ても「内・外がない」し、観察者から見ても「内・外がない」という河本英夫氏の言い方は、これからも何度となく出てくる混乱点である。これまでは観察者は内・外を区別するものとして記述されてきたのに、突然このように「観察者から見ても内・外がない」という言い方に変わっている。これは、「観察者は全てを客観的に見るので、すべてを外から見ている。だから全ては外であって内・外はない」という意味なのだ。つまり、主観主義のオートポイエーシスから見れば内しかなく、客観主義の観察者から見れば外しかないから、両者ともに「内・外はない」と言っているのである。

通常こういう言い方はしない。とりわけ内外論が得体の知れないオートポイエーシス論で混乱している時には、注意して避けるべきところだ。オートポイエーシスからも、その正反対の観察者からも、同じく「内・外はない」というのでは混乱を招く。「内・外はない」といえば一切の空間的な概念が立ち消えになる。そういう雰囲気を醸成しようと、著者はレトリックでトリックを行っている。
 「(1)神経システムと外的刺激を空間内に区分けすることは意味がないのである」。「というのも、神経システムはそれ独自で視覚像を構成し得るからである」。だから外的刺激が本当に外部からの刺激かどうか、判別できない。(2)「神経システムを眼球表面の内側に設定し、外的刺激をその外に設定するのは、明らかに観察者による区分である。(3)だが、観察者による区分は全く意味がないのである。神経システムの作動を捉えない観察者から見たとき、本来システムには『外部も内部もない』。神経システムはみずからの作動によって内部と外部をはじめて区分するのであり、作動にさきだって内部も外部も存在しない」。(171ページ)(番号はHP開設者による)
[註23]
(1)については、なるほど想像や夢や幻覚はそうかもしれないが、それは動物の正常な意識状態ではない。もし外部からの刺激かどうか判別できないとすれば、一体どうやってこの数億年の間、動物は生存できたのだろう? 視覚の他の感覚も働かせ、それらを総合して、それが外部から来たものか、それとも内部記憶から来たものか、判断できるのである。

(2)については、もう論議するまでもない。

(3)については、神経システムが脳やそれに準じる構造物を持っているということを前提にすると内外論の答えがおのずと出る。機能ばかりみているから、作動主義(機能主義)になり、「作動にさきだって内部も外部も存在しない」などという言い方になるのだ。

かりに(譲る必要もないが)百歩譲って「作動にさきだって内部も外部も存在しない」としても、オートポイエーシスの作動の後に内部も外部もできていれば、それでいいではないか。それが観察者の内・外と「ほぼ同じ」であれば、ここになんの問題もない。著者が、「ほぼ同じ」どころか、「外部からの刺激かどうかも判別できない」などと、実態から根本的に外れたこと主張するので、いたずらに問題がこじれるのだ。

だいたい神経システムは具体的にはどれかの神経システムであり、突然天から落ちてきたものでないから、いつも過去の自己とその境界を引きずっている。それが作動によってそのつど引き直されるというにすぎない。つまり作動に先立ってすでに内部も外部も存在しているわけである。
 「(a)神経システムは感覚器表面において絶えることなく環境世界からの刺激を受けている。しかし神経システムの作動で行われていることは、神経システムの構成要素を、産出、再産出するだけであり、システムはそれじたいの同一性を保持するよう、自己内作動を反復するだけである。(b)たとえ感覚器表面に外的な刺激があたえられようと、この刺激に対処するよう神経システムが作動しているわけではない。このシステムの特定の作動をひきおこす要因が、観察者から見て内的なものであろうと外部に由来するものであろうと、神経システムはこれらを区別しない。(c)神経システムにとって、それが作動する要因については、内部も外部もない。神経システムからみれば、環境との関係で区画されるような境界はなく、その境界をもとに想定されている入力も出力もないことになる。」(172ページ)

 「(d)オートポイエーシス・システムは、産出プロセスのネットワークであって、純粋に機能的なシステムである。そのため機能的に設定される空間、つまり位相空間を考えなければオートポイエーシス・システムをうまく表象することができない。……オートポイエーシス・システムはシステムの産出的作動を中心に据えることによって、物理学的空間を相対化し、空間の意味を変えようとしている。」(a・b・c・dの符号はHP開設者による)(173ページ)
[註24]
(a)については、その意味は、「事実、外部から刺激を受けていても、自己内作動を反復するだけの神経システムには、それがさっぱり分からない。だから神経システムには内外がない」ということである。「自分に見えないから自分には内外がない」とするわけだ。

(b)については、このようなことが事実なら、動物はいささかも環境認識せずにこれまで生き延び、進化してこられたことになり、それこそ神秘の謎に包まれてしまう。すでに述べたように、知覚の「構成」はむろんあるが、動物の知覚は、環境の大枠や大事な情報を客観的に反映しているのだ。

(c)については、これは、「自分も環境も見えない盲目のシステムから見れば、全ては即物的な反応世界にすぎず、内も外もない」ということにすぎない。

おどろいたことに、河本英夫氏は「神経システム」ばかりでなく、のちに触れる(「思考」を構成素とする)「心的システム」でさえ、自分の自己も環境も分からないとしている。分かるためには「反省」という自己言及が必要だが、そうなると観察者になってしまう、とするわけである。

ところが、かたや神経システムは、外部からの知覚によらず、内部の記憶にため込まれたイメージをもとに想起や夢や想像さえできるとして、神経システムが徹底した閉鎖系であり「入出力はない」と主張しているわけだから、神経システムには記憶経路も含まれているとみなくてはならない。だが、記憶というものは、いつもすでにどのイメージも、環境判断と共に仕舞い込まれているので、つまり「反省」を経たものとして蔵されているので、実は、想起や夢や想像によって神経システムの完全閉鎖性を主張したのは誤りだったわけだ。

(d)については、そもそも機能主義的に捉え返された物理空間(構造)である「位相空間」を、逆に物理空間の起源であるかのように装っている。こういう作業はいずれその段落で触れるが、第W章でついには「時間」にも適用される。とりあえずは、176ページで、「オートポイエーシスの機構は、時間−空間体系のもとで描かれるものではなく、時間、空間に先立って純粋に産出的作動を行うものとして描かれる」と述べている部分だけを指摘しておきたい。

その他では、今のところ、ここではオートポイエーシスが純粋に機能的なシステムであると、著者自身が語っているということに注意を喚起したい。つまり作動システムはどこまでも機能主義なのだ。

2 オートポイエーシスの機構

 オートポイエーシスという「この産出のプロセスのネットワークは、システムの構成素(構成要素ではない)を産出する。この構成素は物理的なものであり、物理的空間内に存在する。だから物理的空間という視点を中心にして考えると、空間内にはない産出プロセスのネットワークから、空間内に構成素が産出されたかたちになる。……ビーカー内の流動する透明な溶液から、突如空間内に結晶が析出する場合……をイメージしてほしい。」(177〜178ページ)
[註25]
どうやら「機能から構造が出てきた」という主張のようであるが、そもそも構造と機能は、ともに、ものごとの表裏としてあるものだ。機能主義からみると、「構造は先在するものでなく、機能から生れた」としたいところだろう。ところがこの結晶化はなにも機能主義的位相空間の転化によるようなものでない。これは単に溶液という構造から結晶という構造への(物質から物質への)転化にすぎない。機能だけからみているので、まるで位相空間から結晶が突然析出したかのように見えてしまうのだ。

ここで注意しておきたいのは、著者の言う機能システムの構成素が「物質」だということである。これはおかしい。そういえばすでに引用した166ページの自己言及システムのところでは、位相空間内にあるべき神経システムの構成要素は「シナプス」だとされていた。このシナプスも物質なのだ。そして容器のビーカーや壁も物質である。これらは機能主義とは調和しない。

システムの構成要素や構成素がシステムと同じ位相でなくては、これは論理矛盾である。だからこれらの物質の導入は一種の剽窃だといえよう。機能主義ならその主義を徹底させて、構成要素も構成素も、物質なんかでなく、位相空間内の作動システムや機能でなくてはならない。容器や壁の要求などは論外である。

機能主義が物質の構成要素や構成素を要求するばかりでなく、器や壁さえ要求するのは、みずからの欠点と誤りを露呈するものだ。しかし、一旦導入された奇妙な「位相空間内の物質」は、これからオートポイエーシス論の要となっていく。だからオートポイエーシス論などは何の希望も持てない論外の理論だということである。

「構成要素」と「構成素」との違いは、(たとえば単細胞生命体の多細胞化など)、オートポイエーシスの複合系形成論で明らかにされる。もし多細胞生命体の「構成要素」としての個々の細胞がオートポイエーシスなら、それはどこまでもみずからオートポイエーシスである多細胞生命体に属さないで自己形成する自律性と個体性を持った独自なものでなくてはならない。そうなれば個々の細胞は多細胞生命体の「構成要素」ではあっても、多細胞生命体の「構成素」(これは多細胞生命体を構成するが、また多細胞生命体によって他の構成素と代替もされ、かつ作られもする)ではない、とする他ないことから来た。

多細胞生命体の構成素が個々の細胞でなければ、それでは一体それは何なのだろう? 著者は251ページでそれをオートポイエーシスではない「細胞間媒介物質」だとしているが、それよりも多細胞生命体の構成素が個々の細胞でなく、そのような細胞間媒介連結物質だというのも奇妙な感じがする。これはオートポイエーシス論の誤りを示している。むしろ構成要素とか構成素とかの区別を取り除けて、個々の細胞もそのような細胞間媒介物質も、ともに構成素(構成要素)であるとすべきだろう。構成要素と構成素とを分けなくてはならないのも、ひとえに手前勝手なオートポイエーシスの概念規定のためなのだ。

 オートポイエーシスの定義から細胞をみれば、「細胞システムとは、構成素を連続的に産出する産出プロセスのネットワークであり、この産出のネットワークが反復的に作動する範囲が細胞システムであって、細胞は細胞膜によって画定された閉域のことではない。作動しつづける産出プロセスのネットワークがシステムの本体である。細胞システムはみずからの空間内の構成素、つまり細胞内高分子を連続的に産出し、また逆に構成素はみずからを産出した産出プロセスのネットワークを再産出する(「産出=産物」の関係178ページ)。そのことをつうじて、空間内にシステムの構造を形成する。システムの構造の境界が細胞膜である。」(178〜179ページ)
[註26]
「産出=産物」の関係というのはおかしい。これでは「機能=構造」あるいは「システム=構成素」となる。厳密には、産出体=産物、あるいは産出=被産出とすべきだ。産出体=産物は「物質」において同次元であり、産出=被産出は「機能」において同次元である。それを「産出=産物」とするのは「機能」と「物質」、位相空間と物理空間との混同だ。これは機能主義の立場から「構造」を無視したのを、このような混同であとで剽窃して埋め合わせているのである。
 オートポイエーシスの機構は以下の三つの点で既存のシステム論とは大幅に異なる。

(1)産出プロセスを基本にする
(2)産出プロセスと構成素との関係を、一種の循環によって規定している
(3)いまだ空間、時間関係はどこにも入っていない



 【まず(1)を説明する】

 オートポイエーシス・システムは産出プロセスのネットワークとして統一体をなし、その統一体の形態がオーガニゼイションと呼ばれる(179ページ)。無理にそのネットワークの要素的部分(:構成要素の言い換え)を取り出せば、それは「個々の産出プロセスの関係」である(180ページ)。これはこのネットワークの要素的部分(:機能)ではあっても、構成素(:物質)ではありえない。「部分−全体関係が成立するためには、部分、全体が同一平面に属していなければならない。……オートポイエーシス・システムは構成素を産出するシステムであって構成素はシステムの要素でも部分でもない。(181ページ)。
[註27]
機能主義では機能の部分はあくまでも位相空間的に同質な「機能」としなければならず、ここでの著者のこういう言い方が正しいのだ。すでに指摘したような、壁・容器・シナプスなどの物質が要素的部分・構成要素であるような記述は間違いである。

それにしてもややこしい。機能主義的なシステムは物質なる構成素を作るが、この構成素物質がまた機能なるシステムを再び作る。これは機能と物質との循環で、これが先に「産出=産物」として示されていたわけだが、機能と物質が循環してシステムが維持されるなら、そもそものはじめから機能と物質(構造)の両方を統一的に取り入れておくべきだった。このような混乱が起きるのも、構成要素と構成素とを分けるオートポイエーシス論とその機能主義のためである。

そもそも「構成要素」(要素的部分)と言う言葉も不適切だし、「構成素」という言葉も不適切である。「構成要素」なら要素として部分であるし、「構成素」というなら、それはシステムを構成する資材であって、システムは構成素と同じ質のものでなくてはならない。構成素が物質なら、それによって構成されるシステムも物質、つまり構造を持った物質システムでなくてはならないのである。ところが、そこをごまかしてオートポイエーシス論が成り立っている。

このごまかしは、「オートポイエーシスである多細胞生命体の中の、それ自身もオートポイエーシスである個々の細胞は、多細胞生命体の構成要素ではあっても構成素ではなく、多細胞生命体の構成素は細胞間媒介物質だ」とする点で明らかであろう。明らかに多細胞生命体の構成素は細胞と細胞間媒体物質の両方だからである。

この事実は「オートポイエーシス論でいう構成要素と構成素との違いなど、もとから存在しない」ということを意味している。そもそも多細胞生命体は細胞なしに細胞間媒介物質だけで成立するものだろうか? 成立するものでなければ、細胞間媒介物質だけが多細胞生命体の構成素でないことになろう。しかしそれでは細胞間媒介物質を構成素だと規定したことが誤りだったということになる。

「オートポイエーシスは、システムの作動が継続することを、システムの唯一の必要条件としている。そしてまたそれは十分条件でもある。……オートポイエーシスには進歩も成長もない。……(それは)ただ(:「構造」にとらわれている)観察者の頭の中にだけある。」(180ページ)

[註28]
オートポイエーシスには内・外がないから、「進歩も成長もない」という帰結が出てくる。それはこのシステムがただ作動するだけの盲目の自動機械で、自分の視点から見れば、自分も環境も、見えず、存在せず、したがって自分と環境の変化も把握できず、それでオートポイエーシスにとっては進歩も成長もないわけだ。オートポイエーシスの典型例は生命だが、そうだとすれば、どうして生命は進歩も成長もし、進化に進化を重ねてきたのだろうか? 「構造」に過度の嫌悪感を持つと、当たり前のことがこのように全く理解できなくなる。
「オートポイエーシス・システムは構成素を反復的に産出しつづけるシステムであって『単位体』だとされる。オートポイエーシス・システムは部分−全体関係からも要素−複合体関係からも組み立てられてはおらず、カテゴリー上、部分は存在しないのである。オートポイエーシス・システムが単位体であるかぎり、内部には階層関係を持たない。たとえば細胞を想定したとき、機能レベルに応じて細胞内高分子、細胞内器官、細胞というように階層区分が生じる。しかしこれはオートポイエーシスからみれば、産出された産物を観察者の位置から機能単位に区分することである。多階層性の議論は、いわば横から地層平行化した階層を観望しているのである。……オートポイエーシスは各階層に内的な視点を取ることを要求する。ところがそのことによって観察者によって組み立てられている階層関係そのものが消滅するのである。」(181〜182ページ)
[註29]
オートポイエーシスが「単位体」だというのは、「構造」的部分を持たないということである。それはオートポイエーシスを機能主義的に定義したことの結果にすぎない。つまり単なるレトリックだ。現実の生命体(著者のいうオートポイエーシス)は構造を持ち、その構造を支える部分を持っている。「構造」や「物質」を無視すると、このように「単位体」という訳の分からない概念を導入することになる。

オートポイエーシス・システムは、それが複数存在する場合、自律性や個体性や境界の自己決定能力によって、定義上、どれかがどれかに属するということはありえない。もし複数のオートポイエーシス系が存在すれば、そこには自律−従属関係ではない別の関係で系が成り立っているとする他ない。

多細胞生命体ではその生命体のシステムがオートポイエーシスであり、また構成要素(要素的部分)である個々の細胞もオートポイエーシスだから、そこには「ゆるやかな結合」というようなもの、あるいは後に著者が「相互浸透」と表現したような方法などで、多細胞生命体全体のつながりを構成しなくてはならなくなる。だから多細胞生命体は自分の内にある個々の細胞の支配者・産出者たり得ない。

この論理は個々の人間と社会(もしくは国家)、人間社会と地球生態系、地球生態系と全宇宙(全宇宙がオートポイエーシスである場合)というように拡大していき、ついには宇宙と神にまで広がる「相互浸透」にならざるを得ないはずだが、一切の神秘的実体や目的論や必然論を排除する唯物論者の著者はむろんそこまでは広げない。

それにしても、国家とは権力機関だから、「個々の人間と国家の間に支配ー被支配の関係はない」とはいえない。多細胞生命体と個々の細胞の間にも支配ー被支配の関係は明らかに存在すると言えよう。現実に照らし合わせてみると、自律−従属関係一般を成立させないオートポイエーシス論はどこか間違っていることが分かる。

オートポイエーシスは盲目ではあるが、著者も認めているように、オートポイエーシスは自己循環のサイクルによって内・外を区切っている。観察者はこれを観望して確認しているにすぎない。著者はその確認が誤りだというのであろうか? 

ただ「オートポイエーシスは盲目なので自分が作り上げた内・外が見えない」というにすぎないのに、著者はあたかも観察者にそれが見えるのは間違いだと言っているようだ。著者は、「オートポイエーシスは盲目だから、あなたも盲目であれ。オートポイエーシスを観望してはならず、内・外の区別を見てもならず、階層区分を見てもならない」と主張しているわけだが、これはなにかおかしい。これでは何も分からなくなる。

内・外も階層もオートポイエーシスが作ったものとして、実際にシステムそのものにとって(für sich)存在する。それを観察者が確認しているにすぎない。オートポイエーシスにそれが見えないからといって、我々も見てはならないとは言語道断である。

 【次に(2)を説明する】

 産出プロセスと構成素の循環を発見したことでマトゥラーナはオートポイエーシス論を創始できた。オートポイエーシスは「自己産出システム」と訳されるが、この「自己」はシステムが作動し自己の境界を決めてはじめて定まるものである。「この自己は、システムそのものにとって(für sich)規定されており、観察者からの境界導入によって人為的に設定したものではない。」(183ページ)
[註30]
システムそのものにとって(für sich)規定されているというのと、観察者からの境界導入によって人為的に設定したものではないというのとは、根本的に違うことである。観察者がいてもいなくても客観的に実在するものは実在する。人間が現れるずっと以前に三葉虫がいたことを誰が否定できよう。生命がこの地球上に出現するずっと以前からこの太陽系は実在した。これらは観察者(人間や生命体一般)の存在とは何の関係もない。

それから、純粋な「機能」としての産出プロセスと、純粋な物質であり「構造」である構成素とを循環させ、無批判に結び付けて成立したオートポイエーシス論は、その出発点から矛盾している。もし両者を循環させたかったら、はじめから「構造」と「機能」の両面を等しく重視すべきだった。純粋な機能主義の立場に立って構造を根本的に無視・軽視・蔑視してきたにもかかわらず、今になって両者を循環させるのは、これは「機能」の裏側からの「構造」の剽窃である。
 オートポイエーシスを理解するためには、たとえば、

 まず第一に、生成プロセスが生成プロセスの開始条件となって、生成プロセスが継続する自己組織システムである結晶の場合と比較してみればよい。循環継続する結晶生成プロセスにおいては、溶液外に析出した結晶ではなく、溶液の内で進行している生成プロセスに注目するべきで(184ページ)、「生成プロセスの連鎖としての自己組織システムからみれば、あの美しい結晶は、産業廃棄物ないし糞のようなものである」。(185ページ)

 ビーカー内の自己組織システムは、結晶という糞をするのである。してみると、析出された結晶(:糞)が、再度みずからを産出した生成プロセスを産出するようになったとき、(:システムと構成素〈結晶生成での糞としての結晶〉の相互産出が実現して)、生命が誕生し、オートポイエーシス・システムが作動を開始するのである。」(185ページ)

 さらに、第二に、ハイパーサイクルと比較してみればよい。ハイパーサイクルは「生成プロセスの連鎖がこの連鎖じたいを反復する条件となること」である。これによって閉域が示唆され、システムの自己が示される。だが、ハイパーサイクルはその継続をささえる容器が別立てで必要だ。その容器をみずから自身で構成するようになったとき、オートポイエーシスが成立する。」(186ページ)

 さらに、第三に、自己言及システムと比較すればよい。自己言及システムは、「自己の境界が形成されてのち、さらに自己が自己自身と相互作用するという在り方である」(187ページ)。これはオートポイエーシスの内部に獲得される一段階高次の反省的・観察的作動様式で、自己の境界そのものを形成する循環産出システムとしてのオートポイエーシスとは違う。オートポイエーシスはあらかじめ自己の境界を設定しておらず、またそうした既存の自己のうえで成立する観察者の視点とは異なる。(187ページ)

[註]以上を総合すれば、「オートポイエーシス・システムとは、みずからの産出物をみずからの構成素として、みずからのシステムに再利用し、みずからの器や壁をみずから産出し、自己をみずからの作動の中で形成していくもの」ということになる。これが大変な発見なのであろうか? 誰でも生命活動に対して持っている普通のイメージではなかろうか?

 【最後に、(3)を説明する】

「オートポイエーシス・システムが産出プロセスのネットワークと規定されている以上、この(:純粋に機能的な)規定の中には時間も空間も含まれていなかった。そのためシステムは物理空間内にシステムとして実現していかなければならない。実現とは純粋に機能的システムが物理的空間内の構造を形成することを意味する。……オートポイエーシスの場合、この構造を形成する構成素は、再度産出プロセスのネットワークを産出するのだから、機能と構造が相互産出というかたちで連結されたとき、オートポイエーシスが成立している。」(188〜189ページ)
[註31]
そもそも構造と機能は切り離せないのに、それを機能主義の立場から切り離し、構造を二次的なものとして捨てたからこそ、このように機能から構造を実現しなくてはならなくなったのだ。構造は時間、とりわけ空間を前提とした概念なので、著者が構造を捨てたとき、空間も捨てているのである。それを隠して、「この(純粋に機能的な)規定の中には時間も空間も含まれていなかった」というのは、レトリックによる一種のトリックにすぎない。

機能と構造の相互産出というのは、先の「産出=産物」のことである。「機能と構造の相互産出」というぐらいなら、はじめから構造も機能と並ぶ重要なものとして議論を立てるべきだった。だがオートポイエーシス・システムは純粋に機能的だと言っているすぐあとにこの言葉が出ているのでは、「構造はオートポイエーシスの本質的欠陥を補うためにあとで裏側から剽窃的に取り入れられている」といわれても仕方がない。
「システムは、みずからを産出するような構成素を産出するようになったとき、システムが作動し、システムは成立する」(189ページ)。システムの側から見れば、構成素は何でもよい。構成素が空間内の物質なら、その構成素によって空間的な構造が形成され、社会システム経済システムのように構成素(コミュニケーション支払い)が空間内の物質でないものなら、その構成素によってそれに見合う位相空間の構造が形成される。「オートポイエーシスの規定には、空間の概念が含まれていなかったが、システムの実現を考えていくと必然的に位相空間論を導入せざるをえない。これは空間概念の変更である」(190ページ)。「(たとえば)、細胞内の物質は産出されては代謝されて消えていくのだから、空間内の要素的物質を中心にして三次元空間を組み立てるよりも、産出関係の機能に着目し、その機能に物質を投影した方が、作動するシステムにはふさわしい」(191ページ)。「位相学的な構造分析は、社会システムや経済システムのように明確に視覚化できないシステムにとって、かなりの威力を発揮するはずである。」(192ページ)

[註32]
「システムは、みずからを産出するような構成素を産出するようになったとき、システムが作動し、システムは成立する」という言い方はおかしい。これでは、システムが成立する前に、システムはみずからの構成素を産出しなくてはならない。

社会システムや経済システムを機能主義から見れば、構造はあらかじめ無視されているわけだから、当然その穴埋めとして位相空間が導入される他ない。何か新しい発見がなされたわけではなく、単にそういうことである。空間の概念を機能主義から見て位相空間化しているにすぎない。物理学ではこうした仮想的で抽象的なベクトル位相空間がよく理論に使われる。たとえば素粒子のスピン(自転)を上向きや下向きのベクトル空間で示したりする。もしかすると、これはそこからの転用ではないか?

「その機能に物質を投影した方が、作動するシステムにはふさわしい」という言い方に対しては、これは、「機能主義の観点から見れば機能面に注目した方が適合的だ」ということを言っているにすぎない。何度も繰り返して言うが、構造と機能の両面を等しく重視した観点から生きた全体としての対象を捉えるべきなのだ。これは社会システムや経済システムについても言える。

著者の河本英夫氏は、「明確に視覚化できないシステムにとって、かなりの威力を発揮するはずである」と言っているものの、それに続けて、「だがいまだ実行例が少ないために、どの程度の有効性をもつのかの判定はできない」と述べている。

HP開設者の考えでは、盲目のオートポイエーシス・システムは機能と構造を野合させた矛盾したもので、かつその方程式f(□,□,□,□,……)の変数が、作動の中でこれから作られていくものとして、何もかも未知なので、実効的な成果は何も持たないと思う。むろん、一部の研究者がオートポイエーシス論への変な興味から何がしかの応用論文を書くことがあるかもしれないが、たとえ一定の成果を得たとしても、それは本質的には的を外した研究になることだろう。
  
「システムは産出的作動を通じてみずからを実現する」というオートポイエーシスの規定からは次の三つの帰結が導き出される。

(1)事態−根拠関係から可能態−現実態関係へ

 構造主義は作動や機能の根拠を既知の構造に置くが、これは事態−根拠関係から議論している。オートポイエーシスは事態−根拠関係をあっさり断念し、可能態−現実態関係を主軸にして考える。オートポイエーシスは未知の可能なものの自己実現であり、オートポイエーシスにとって構造は産出的作動の結果にすぎない。

(2)作動という根拠

 未知の可能なものの自己実現だといっても、多くの可能なものの中から最も根拠のあるものが実現するということでなく、(それなら事態−根拠関係になってしまう)、全くの偶然で可能なものの一つが実現するということである。「システムが現実化するにあたって別段正当な根拠は必要ない。オートポイエーシスの規定をみたす構成素がたまたま存在すれば、システムは作動することによって現実化する。」(194ページ)

(3)行為−存在論

 オートポイエーシスの「システムにとって産出的作動という行為を行うことが、そのまま現実に存在することである。行為することがすなわち存在することであるような行為存在論である。システムは認識主観に対して、とりわけ(:観察者の)反省的な考察に対して存在しているのでなく、産出的作動という行為を行うことによって存在している」。つまり、これは「認識−存在論でなく、行為−存在論である。オートポイエーシス・システムは、作動することによってそれじたい存在するのである。」(195ページ)
[註33]
(1)(2)(3)を要約すると、「オートポイエーシスは、なんらの根拠なく、みずからの作動によって可能なものを偶然に現実化して自己を産出する」ということである。これも「なんらの根拠なく」を除けば、別段、新しい知見ではない。なんらの根拠もなく自己を産出するのであれば、それは神に等しい。HP開設者としては、構造と機能の両方が必要なように、「事態−根拠関係も可能態−現実態関係も、必然も偶然も、反省(観察)も産出も、認識も行為も、それぞれ両方が同じだけ必要だ」と主張すべきだと思う。


3 作動するシステムのコード

「同一の初期条件で二つの結果が対等に生じるとき、そのうちの一つに定まるのは、確率的偶然である。……初期条件を定めても結果が一義的に定まらない。この事態は近代科学的な法則設定による(:決定論的)コード化の限界を示すように思われる」(196ページ)。近代科学は、たとえば、細胞のある瞬間のストロボ写真を取り、またすぐ次の瞬間のストロボ写真を取って、それらをアニメーション化することによって細胞の生きた動態を捉えたつもりになっているが、それは観察者の構成にすぎず、細胞自身は一瞬の停止もなく動きつづけているのである。つまり、「なによりも一瞬一瞬の静止状態をつなぎ合わせたものとは異なったように、みずから作動しているはずである。」観察者からはどのように工夫しようと、漸近的な接近にしかならない。「してみると動きつづけているものは、近代科学的なコード設定にとってどこまでも位相学的外部にとどまりつづけている。」(196〜198ページ)
[註34]
現代科学では、量子力学は「原理的偶然」の存在を認め、カオス力学は未来の未知性を保証している。近代科学のコードも進化しているのである。また、生きた細胞は一瞬たりとも停止していないが、それは「生きた細胞の真実はアニメーション化によって捉えられない」ということを意味しない。もし捉えられないとすれば、それでは、一瞬たりとも停止していない動いているものの全て(相対性理論では静止系は特殊な一部であり、ほとんど全てが相対的に絶えず動いており、量子力学では粒子に静止状態はないから、これはほぼ全物体に該当する)は理解できないものとなる。

これは、言葉や知覚は「対象そのもの」でないから、言葉も知覚も対象を捉えうるものでない、というのと同じ誤った思想である。言葉も知覚も、進化論的可知論(人間を含む生物は環境の一部として生れ、環境に適応して進化してきたので、生物と環境との間には、認識においても生活においても、原理的障壁はなく、環境適応は環境の客観的認識なので、生物は正しく客観的対象世界を認識している)によって、基本的には対象を正しく捉えていることが証明できる。

それと同様に、生きた細胞は「アニメーションそのもの」ではないが、アニメーションは生きた細胞の動態を「漸近的な接近」以上に客観的に映している。著者は198〜199ページでベルグソンの「持続」やクリプキの「行為するものと規則とのパラドックス」を提示して自説を擁護しているが、それはあたらない。そもそも運動する物体に対する人間の動的視覚そのものも一コマ一コマの静止画像を脳が処理しアニメーション化して成立している。それはほとんど映画フィルムを動かしてそれを見ているのと同じなのだ。
「ベルグソンとクリプキの問題提起をつうじて、(オートポイエーシスのように)みずから作動しつづけるシステムの記述は、現在人間が手にしているコード化の手法によっては、到達することのできない課題であることがはっきりした」(204ページ)。コードそのものがすでに観察者の位置から捉えたもので、オートポイエーシスは本当はコード設定そのものになじまない。とはいえ、無理にでもオートポイエーシスの視点からみれば、「コードは生成プロセスの関係を定め、みずから作動することによって具体的に値が定まるようなものでなければならない」((205ページ)。コードは設計図のようにあらかじめ決まっているのでなく、作動の中で産出されるのである。「ハチがハチの巣を作る場合、あらかじめ寄り集まって巣の設計図をみて、役割分担を決めた上で巣をつくっているとは、まず考えられない」。「オートポイエーシスではあらかじめのコードはない。オートポイエーシスのコードを、既存のコード表示を用いて表記すれば以下のようになる。」(207ページ) 

 f(□,□,□,□,……)


 はシステムが作動しながら獲得する変数であり、あらかじめどのようなものになるかは決定されていない。「この関数は、……これでもコードなのかと思えるほど異様なかたちをしている。要するに何も決まっていない関数に近いのであり、既存の関数形式になぞらえて表記すればこのようにしかならないのである。つまりこれは観察者からの関数設定という記述様式の限界をそのままあらわしている。」(208ページ)
[註35]
ミツバチが巣を作るのは遺伝子に刻み付けられた設計図による。それはあらかじめ存在するなんらかの設計図的機能によって作られている。だからこそいつも同じ形の巣になる。

は未定だから「?」で表記しても良い。すると f(□,□,□,□,……)f(?,?,?,?……)となる。これでは何も分からない。機能主義的に構造(物質)を取り除き、あとで「機能と構造の相互産出」などと言いながら構造を裏側からこっそり導入するような理論が、何か正体を持った明確なものである訳がないのである。

著者の河本英夫氏によれば、オートポイエーシス論は経験科学だということだが、これでは(既存の関数形式で表記される)経験科学に何か示唆的なものを与え得るとは到底考えられないし、また既存の関数形式を超えた新分野でも、基本的には何も与え得ないと思う。

「オートポイエーシスは、みずからの作動で自己を決定する機械論である。……してみるとオートポイエーシスは、いっさいの目的論からまぬがれた『最後の機械論』であることがわかる。……現段階ではオートポイエーシスのコード化を一挙にやりとげることは困難かもしれない」210ページ)。たとえば、オートポイエーシスの場合、これらの記述の前提となる要素の集合そのものは、どのようにして決まったのかという問題がある。「あらかじめ観察者の位置から集合を決めておくことができない。集合論的な表記を、ただちには適用できないのである。(だから)要素の集合素のものをシステムの作動の側からひき出してこなければならない」。(210ページ)

[註36]
オートポイエーシスのように自己自身で、偶然に、可能性の中から自己を現実化する自己完結的な機械が存在すれば、一切の目的論から免れることができるのであろうか? 

(神の存在を科学は否定も肯定もできないので)、もし神が存在して宇宙を自律的な法則のもとに創造したとすれば、それによって一切の自律的なものの起源は説明できる。自己完結的に自律的なものが存在するからといって、それを理由に、創造者なる神の存在を否定し、目的論一切を否定することは不可能だ。

げんにオートポイエーシスの場合でも、可能性の存在が前提になる。その可能性はオートポイエーシスより以前のものだ。それはどのようにして存在するようになったのであろう? その問題まで機械論によって説明できてこそ、一切の目的論を排除できるのである。

さて、オートポイエーシス論が集合論的な表記をただちには適用できないのは、他のオートポイエーシスが入ってくる複数系のオートポイエーシス論では、観察者が他のオートポイエーシスも含めた他者を認識するのであって、オートポイエーシスには自己も環境も他者も見えないからである。だから本当は「ただちに適用できない」だけでなく永遠に適用できない筈のものである。この集合問題は次の第W章で説明される。

次の第W章「オートポイエーシスの展開」ではオートポイエーシスの複数系問題を中心に、オートポイエーシス陣営内部の論争が紹介されている。ここではその内部論争そのものには立ち入らないで要点だけをたどっていく。
 

第W章 オートポイエーシスの展開

1 システムの自在と普遍性

(A)オートポイエーシスはその構成素によって指定される位相空間内に存在する。構成素が細胞内高分子であればシステムは細胞システム、免疫グロブリンであれば免疫システム、ニューロン細胞であれば神経システム、コミュニケーションであれば社会システム、支払いであれば経済システム、思考であれば心的システムである。それぞれは閉じたシステムになっており、これらは空間的に交叉していても、産出関係においては明確に異なる閉鎖的システムで、それぞれの構成素は一貫してその同じ構成素を産出するだけである。「個々のコミュニケーションは、次のコミュニケーションを予期しながら産出され、個々のコミュニケーションの意味内容は、次のコミュニケーションの産出をつうじて明確になる」。観察者は同一構成素産出の継続性から、そのシステムと他のシステムを区別できる。(212〜213ページ)

(B)「通常世界は、物質、有機体、人間、共同体、経済、社会、文化、歴史等々のように区切られている」。これらは階層関係で組み立てられているが、オートポイエーシスは産出関係による再区分を要求し、神経、免疫、体細胞、遺伝複製、心、経済、法、社会、科学等は、それぞれ産出関係によって一貫して閉じたシステムとなる。これらのシステムは階層区分をなすのでなく、何重にも交叉した(シャボン玉の)円環のように互いに他を貫いている。……オートポイエーシスの世界は多元的であるが、それらの多元的なものは、基礎的なものから高次のものまで配列される多元性ではなく、……それじたいの作動によってみずから領域化を行うことによってもたらされた多元性である。」(214〜215ページ)

(C)「オートポイエーシスにおいては、膨大な数のシステムの境界線が導入されるだけではない。構成素を産出することによって、システムの作動を継続できる新たな構成素が存在する場合には、新たなシステムが突如出現する。……システムの自然発生である。あるいはすでに作動しているシステムの一部の変数に別立ての変数が入り、新たなシステムとして独立していくことがある。これを『システムの分化』という。」(215ページ)(:A、B、Cの符号はHP開設者による。以後も同じ) 
[註37]
まず(A)について。ニューロンは細胞だからオートポイエーシスで、構成素とはなり得ない。ここで著者は自説と矛盾したことを言っている。また、社会システムがオートポイエーシスなら、それは盲目的な、前反省的なシステムとなるが、それなら「次のコミュニケーションを予期」することは不可能だ。ここでも著者は間違っている。

つぎに(B)について。構造からみれば明らかに自然には土台から積みあがる階層が存在する。それを否定することは誰にもできない。機能からだけみるから、階層があたかも消失したかのように細工できるわけである。機能からみれば、階層関係でなく、シャボン玉関係のようになるのかもしれないが、それは機能から見たからに過ぎない。

最後に(C)について。偶然性や未来予測不可能性はすでに量子力学やカオス力学から明らかになっている。突如出現するものや自然発生はむろん存在する。問題はそれが著者によってあちこちで哲学原理として究極化されて、一切の法則性や必然論や目的論を、相対化もしくは否定する根拠にされているところにある。

オートポイエーシスには「内・外はない」とか、「進歩も成長もない」とか、「階層関係はない」とかいうのも、「宇宙は根本的に偶然に支配された無秩序だ」と前提されているからである。その無秩序がオートポイエーシスの盲目性を妥当化しているのだ。

ところが宇宙が原理的に無秩序である訳がないことは明白である。どのようなものでも、存在するには、たとえ原初的なものだとしても、それなりの構造があるからである。オートポイエーシスでさえ「重力」や「強い力」や「弱い力」や「電磁気力」など、この宇宙の数々の自然定数値のアンサンブルによってはじめて成り立っている。
 
 さまざまなオートポイエーシスは互いに独立ではあるが、影響しあっている。影響は受けるが、自己の産出関係においては質的には何も決定されない。つまり自己自身であることは続く。「コミュニケーションを構成素とする社会システムは、構成素を反復的に産出することによって、自己の境界を区切る。その境界の位相学的外部を『環境』という。システム−環境は、位相空間論の概念である。環境は作用関係でみれば、内部も外部もないというようにシステムに浸透している。」「オートポイエーシス・システムであれば、それぞれが産出的作動によって自己の境界を区切る。その他のものは、(他のオートポイエーシスも含めて)それぞれの自己にとっての環境に区分される。にもかかわらず環境は、それぞれの自己に内部も外部もないというように浸透しているのである。こうした(多重シャボン玉構造のように)縦横に交叉したシステム−環境関係が、オートポイエーシス多元論の意味である。」「第三世代では環境は全く意味を変える。システムに対置され、システムと相互作用するような外界ではなくなる。環境とはシステムによって区切られた位相学的外部である。」(215〜216ページ)

[註38]
著者の用語法にはほとほと困惑してしまう。「環境は作用関係で見れば、内部も外部もないというようにそれぞれのシステムに浸透している」という意味が分からない。「作用関係」というのは、159ページに記述されている文面、すなわち、「観察者が行うようなシステムと外的条件との作用関係の分析は、システムそのものの作動を何も明らかにしない。システムの産出関係とシステムと外界の作用関係とは明確に区別される。そのため入力や出力のような因果的な作用関係でシステムを捉えたのでは、システムの産出関係はまるで理解していないことになる」という文面から、かつて観察者系だとされ排除されていた。ところがここではオートポイエーシスに肯定的に捉えられている。

「内部も外部もない」は、159ページの文脈では、一方では、本質的に反省以前の状態にある盲目のオートポイエーシスにとっては、何も見えず、「内部も外部もない」という意味だったし、他方では、観察系にとっては全てが反省された外部なので、「内部も外部もない」という意味だった。だが、ここでは環境は「位相学的外部」として概念化され、どういういきさつからか、突然、新出の「システム−環境関係」なるものと結びつき、いつのまにやら「作用関係」が肯定されている。これは一体どういうカラクリなのだろう? 

この第W章の中ほどの「システムのカップリング」の節に進むと、複数系のオートポイエーシスが多細胞生命体などをテーマにして論議されるが、そのとき、互いに自律的であるべき複数のオートポイエーシス間には自律−従属関係はありえず、「相互浸透」でゆるやかな連合体となっている、というように議論されていく。この215〜216ページの文面で「浸透」「浸透」と繰り返し、それを肯定的に評価しているのは、その前段を構成しようとしているからなのだろうか? ともかく訳の分からないこの「環境は、それぞれの自己に内部も外部もないというように浸透している」という言葉は、以後、耳にタコができるほど、読者を洗脳するかのように、毎ページといっていいぐらい頻繁に繰り返される。

これまで著者は、オートポイエーシス・システムの内部からシステムを見るべきで、外から観察者のように見ては実態や動態が分からなくなると、口を酸っぱくして何度も繰り返し強調してきた。すると、とりあえず或るオートポイエーシスの内部から見なくてはならなくなる。

その内部から見れば、自己の他は、他の一切のオートポイエーシスも含めて、全て環境になる。しかも、オートポイエーシスにはただ作動があるのみなので、自分としては自己も環境も区別できない。区別は観察者がするものとされているのだ。

そうなると、オートポイエーシス(例えば単細胞生物)はどのように他のオートポイエーシス(例えば他の単細胞生物)と出会い、それと作用し合い、いかにして連合体(例えば多細胞生物)生れたか、その説明が非常に困難になる。
(ちなみに、一つの細胞が分裂して二つの細胞になる場合もそうだし、また、それ以前に、精子や卵子が生殖細胞で作られる場合や、その両者が結合して受精卵となり新たなオートポイエーシスとして出現する場合もそうである。)
自律性のため、オートポイエーシスが他のオートポイエーシスを産出できないから、とりわけそうである。そのためこの場合でも、「連合体生み出したか」という表現も許されず、「連合体生れたか」と言わなくてはならない。オートポイエーシスは偶然によってみずから生れるもので、何か他の自己が生み出すものではないとされているからだ。

さて、多細胞化するときの過程では、単細胞間のなんらかの(「生物反応」という名の)原初的認識があって、それで相手と作用し合うとしなくては、多細胞化の説明は不可能だ。つまりオートポイエーシスは、即物的にでも環境を探知し、反省し、観察するわけである。この能力が進化の中で発達し、ついに人間の認識能力となった。

考えてみれば、自己反復は反復による自己維持だから、自己反復するオートポイエーシスにとって観察系は、自己維持の目的のためにも本来そなわっていなくてはならない。環境のことが分からないでは自己維持ができないからである。多細胞化においても、また免疫や知覚など環境認識の自己維持系においても、観察系はオートポイエーシスに不可欠だ。

だから、そもそも著者が観察系を排除したことが誤りだったわけであり、そのため今になってこういう形で観察系を裏側からひそかに取り入れているのだといえよう。一種の剽窃である。機能主義の視点から一度排除した構造をこっそり裏側から取り入れたり、先に排除した観察系をあとでこっそりシステムに取り入れたりしては、これはオートポイエーシス論の致命傷ではないだろうか?

(A)「オートポイエーシス・システムは、構成素の選択によって変数を変える(自在性)。……システムは作動しながら、産出した構成素をもとに構造を構築する。このとき構成素のかなりの部分を変えることによって、自己の構造を全面的に組み変えることができる。……構造はひとたび形成されれば、システムの作動を制約し、システムの作動を安定化させる。にもかかわらずシステムの構造そのものも、システムが作動することによって維持されている。こうしてオートポイエーシスでは構造変換は自在になる。……反復的作動と劇的変換は無理なく両立する。」(218〜219ページ)

(B)動物の個体発生は一個の細胞から開始される。一個の細胞が分裂を繰り返しながら、しだいにさまざまな組織・器官へと分化していく。……システムの作動をつうじてひとたび特定の性質をもつ変数が入り、それによって継続的に作動が行われれば、システムの作動が維持されたまま別立てのシステムが分化していく。……一般にシステム分化は、システムが作動を継続しながら、別種の構成素を産出し、それらが独自の構造を形成するようになったとき成立する。」(220ページ)
[註39]
(A)について。システムの構造に対する自在性は機能主義の目指すところである。しかし構造なくして機能はない。ある構造が別の構造に変わるとき、そこには事物の法則が働いているにすぎないが、これを機能主義でいうと、あたかも全ての構造に先立って機能があるかのようになる。それは法則が事物を生み出したという言明と同じなのだ。ところが事物と法則とはものごとの表裏であり、どちらが先だというものではない。(A)の論拠となっているシステムと構成素の循環が、機能と構造との矛盾した野合にすぎないことはすでに明らかにされている。その野合の上での議論は(B)も含めて全て無効である。

(B)について。単細胞生命体から多細胞生命体が生れてくるいきさつも、一つの細胞から減数分裂で複数の細胞が生れてくるいきさつも、オートポイエーシスの論理では捉えられない。これは既に明らかにされたところである。むろんこれらのいきさつの説明はここでは何も述べられていない。ただ分化についての無内容な文章がつづられているだけである。

もし無内容でないと主張したければ、少なくとも、オートポイエーシスの生殖細胞からそれ自身オートポイエーシスである精子と卵子が産出され、それらが結合し受精卵となって新たなオートポイエーシスとなり、その受精卵が細胞分裂して多細胞化していく有様、つまりこの三段階のそれぞれの過程を全てオートポイエーシス論で矛盾なく示さなくてはならない。
 オートポイエーシスの自在さと普遍性についての三つの特徴は以下の通りである。

 (1)オートポイエーシスとその要素

 システムを要素の集合として見るのでなく、作動を中心にして見るのが正しいのは、そこで産出される要素はいずれ産出されては消費され、消滅していく(:一過的な)ものだからである。(221ページ)
[註40]
「一過的な」はHP開設者の挿入であるが、この文章の意味はそういうことである。システムの作動からみれば要素は一過的なのかもしれないが、それらがなくてはシステムが存在し得ないという点で、それらはシステムに不可欠なものであり、システムにはいつもそれらの要素が存在している。生成消滅しているのは個々の要素にすぎない。個々の要素にとらわれるから一過的に見えるのである。

(2)オートポイエーシスの普遍性と固有性

 オートポイエーシスは構成素の選択によって自在なものになり、さまざまな領域に適用可能になる。「オートポイエーシスは、何ものでもないが何にでもなりうる普遍性を示している」。「オートポイエーシスの普遍性は、作動を継続する機構であり、(:その都度の)うごきそのもののかたちである。……(:その都度の)うごきそのものが普遍性となっているために固有化は自在であり、(:帰納法のように普遍性を求めると固有性が失われるとか、経験主義のように固有性を追求すると普遍性が消滅するとかではなく)……ここには普遍性と固有性の新たな結合様式があらわれている。」(222〜223ページ)
[註41]
大変な自負心であるが、オートポイエーシスのさまざまな自己矛盾をみれば、空しい虚勢である。「普遍性と固有性との新たな結合方式だ」といっても内容は皆無で、言葉だけのレトリックにすぎない。著者のいう「何ものでもない」オートポイエーシスが具体的な経験科学の方法論を提示できるわけもなく、それは未知の□だけを変数としているオートポイエーシスの方程式を見れば誰にでも納得できよう。

これまで紹介してきた著書の内容は、とどのつまり、「オートポイエーシスはただ自己循環的に作動してみずからの構成素を産出し、それによって自らの境界を区切る」ということ、そして、「どの構成素を産出するかでさまざまな領域の科学に適用できる」ということだけであった。これらの言明にどういう具体的内容がありうるのかさっぱり分からない。

(3)オートポイエーシスの多元性

(A)「オートポイエーシスは(独特の)多元的システム論である。……オートポイエーシス・システムは観察者からみて多元的であるが、システムの作動そのものからみると、どのようにしても多元的であることを知りようのないシステム論である。そしてこれが行為の多元論である」(223〜224ページ)。オートポイエーシスはみずからの作動をつうじて自己の境界を区切り、「それによって自己と環境が区別されるが、この区別は(:観察者が既存のコードやパラダイムによって)二つのシステムを相対比較するような区別とはまったく別のものである。」(225ページ)

(B)「システムは産出関係をつうじて境界を区切るが、そのさい環境は内部も外部もないというかたちでシステムに浸透する。システム−環境関係は、事柄の内的関係ということに新たな意味を開いている。内的関係は一般に、密接な関連はあるが必然性はなく、それ以上事柄をつめることができない事態を指して、そう呼ばれる。……システム−環境関係において、環境はシステムに浸透しているものの、システムからみればシステムの産出的作動にとって、それがどのように関与しているのか不明なのである。」(225〜226ページ)
[註42]
まず(A)から。これについては、観察者をあとからひそかに導入している一種の剽窃だと指摘しておいた。それをいまさら「行為の多元論」などという訳のわからない用語を作り出してごまかしている。オートポイエーシスは作動して自己と環境とを区切るが、その事実を全く知らないのである。だからその区別はオートポイエーシスにとっては存在せず、したがって「観察者の行う区別とは別物だ」と言うことすらできない。

つぎに(B)について。これも(A)と同じ剽窃である。盲目のオートポイエーシスにとっては本当は「システム−環境関係」さえ存在しないのだ。それを、「浸透」などという曖昧な用語で、あたかも「なにか不明なかたちで」「それ以上事柄をつめることができない事態」として、説明なしに導入している。

これはオートポイエーシスにはそもそも自分しか存在せず、他のオートポイエーシスを含む複数系や多細胞化の論理がないからである。だから、それ以上説明を要求されないように、「それ以上事柄をつめることができない事態」と表現しているわけである。この「浸透」という曖昧な用語は、いずれ「システムのカップリング」の節で、多細胞体の個々の細胞どうしをつなぐ「相互浸透」という用語に発展する。

2 心的システムの位相空間─認知の行為存在論

(A)「心的システムは、オートポイエーシス・システムのなかでももっとも複雑」で、「しかもシステムの作動が当初よりほぼ全域にわたって自己自身に関与するという意味で、心的システムは高次の自己言及システムである。心的システムの構成素である意識(:思考。以下同じ)は物質やコミュニケーションを産出することはなく、一貫して意識(思考)として作動するだけであり、しかもさらに自己に関与して自己を産出するだけである」。窓外の緑の木々、風のそよぎ、青空、昨日見たオートバイ事故の現場、「その一つ一つが思考である。浮かんでは消えていく思考を、心的システムは連続的に産出している。心的システムはみずからの構成素(:思考)を連続的に産出することによって自己の境界を区切る。構成素を産出する行動をつうじて、同時にシステムの境界を区切り、システムの自己と環境とを区分する。」(230〜231ページ)

(B)意識(思考)にとっては意識(思考)しか存在しない。意識が何ものかの意識であっても、意識にとって存在するのは意識のみだ。意識にとっては全ては意識なのである。「こう言うとただちに、心的システムは見えている世界全域に広がるのだから、世界全域がすなわち心的システムになってしまい、これではただのメイキャップされた独我論ではないかという疑念が生じる。こうした疑念は、心的システムの位相学的領域をただちに空間的表象に重ねるところから生じている。」(231〜232ページ)
[註43]
まず(A)について。意識や思考は当然何ものかについてのそれである。そこには自己や環境について、自己言及的な反省が潜んでいる筈だ。すると心的システムはオートポイエーシスとは異なるのかといえば、著者によればそうでもない。

つぎに(B)について。自生・自存的で自己完結的なオートポイエーシスにはそもそも自分しか存在しないので、オートポイエーシス論はそもそもの初めから多細胞化の論理さえない独我論だった。また著者は独我論的に、「外的な刺激に対応することなく神経システムは作動し、感覚の向こうに感覚と対応一致する客観的世界はなく、知覚は神経システムの能動的な活動によって構成されたものだ」としていた。それをいまさら「位相空間と物理空間とは違う」という論理で独我論だという批判をかわすのはおかしい。位相空間で自分しか存在しないなら、それが現出した物理空間でも自分一人しかいないのだ。

「心的システムの位相学的領域の内実をもう少していねいに追いかけてみなくてはならない」。室の内部には見えない電磁波が飛び交っているが、「これらは心的システムの位相学的外部であり、心的システムの産出作動によって区分されたシステムの環境である。……おそらくミリ単位以下の世界は心的システムの位相学的外部であり、環境である。車を運転している時、ミリ単位の世界の思考まで産出されればかえって危険である。……心的システムはみずからの作動をつうじて、感知するもの/感知しえないものの境界を区切るのである。」(232〜233ページ)

「心的システムは、産出した構成素を再度反復的に産出することができる。窓の向こうに木々と電柱と屋根が見える。眼を閉じてただちに同じ光景を産出することができる。心的システムは外的刺激に対応して作動するのではなく、一貫してみずからの作動を反復し、みずから自身で構成素を産出する。その構成素によって区切られる位相学的内部が、心的システムの自己である。そのためオートポイエーシスでは、知覚と錯覚を基本的に区別することができない。オートポイエーシスの一般的な定義にしたがって、システムに入力も出力もない以上、錯覚を錯覚であるとするための基準がどこにもないからである。」(234ページ)
[註44]
どうやら著者は心的システムを知覚システムだけに限っているようだ。 だが、「心的システム」と名打ったものを知覚に限定してほしくないものである。我々はいつも心に知覚を超えたもっと広い領域を委ねている。できれば「心的システム」という名ではなく「知覚システム」と名づけてほしかった。

河本英夫氏によれば、知覚による世界の向こうにある「知覚され得ない世界」が心的システムの環境になる。「思考」といっても、知覚としての意識だけだ。想起されるオートバイ事故の記憶も、知覚の記憶だけに限られているようだ。これがいやしくも「思考」という名にふさわしいものであるかどうかはともかく、それで心的システムを反省や観察から守っている積りらしい。

とはいえ、記憶はいつもすでに観察による環境判断とともに仕舞い込まれている。知覚というものも、いつもなんらかの観察による環境判断を無意識のうちに行っている筈である。ところが著者はそれを認めたがらない。

「知覚による世界」は普通の我々には客観的実在世界に対応したものだが、「知覚は、それが幻覚か現実か、みずからは原理的に区別できないし、知覚は外的刺激に対応するものでない」とする著者の立場からすれば、それはただの「意識の世界」に他ならない。そしてその意識の世界である知覚された世界の向こうに存在する(たとえばミリ波以下の)「知覚され得ない世界」も、むろんこれも(顕微鏡などで)知覚されれば意識の世界になるから、潜在的に意識の世界である。そういうものとして、心的世界の環境なのである。

するとオートポイエーシスはとりあえず或るオートポイエーシスとしての自己であり、その他は、他のオートポイエーシスも含めて全て環境だから、これらは心的システムとしての自己の意識世界となる。結局、全てはそのオートポイエーシスの意識世界に他ならない。だからオートポイエーシス論は本質的に独我論なのである。

こういうわけで、著者はついに、「そのためオートポイエーシスでは、知覚と錯覚を基本的に区別することができない。オートポイエーシスの一般的な定義にしたがって、システムに入力も出力もない以上、錯覚を錯覚であるとするための基準がどこにもないからである」と述べることになる。

しかし、もし生命体が知覚と錯覚を区別できなかったとするなら、どのようにして数十億年の間、生き長らえ、進化し、人間にまで至ったのか、皆目見当もつかない。

「オートポイエーシスの心的システムの経験科学的意義をはっきりさせるために、以下に19世紀初頭のヨハネス・ミュラーの「特殊神経エネルギー説」の八項目を示す。(235ページ)

(@)外的要因によって生じさせることのできる感覚は、すべて内的原因が神経の状態に変化をひきおこすことによってつくり出すことができる
(A)(B)各々の感覚器官は、刺激因が内的原因であれ、外的原因であれ、それに特有の感覚を生じる
(C)同一の感覚が異なった原因によって起こる
(D)感覚において感受されているのは、外的身体の質や状態でなく、むしろ感覚器官そのものの神経の質であり状態である
(E)感覚の神経は、特定の感覚だけを喚起し得る
(F)大脳にふくまれる神経の中枢部分が特殊感覚を感受しており、感覚器官と連結している抹消の部分は関与していない
(G)感覚器官によって獲得された情報は、各々の感覚器官でその神経の質とエネルギーとの関係によってさまざまに変化していく

 (A)(B)はたとえば「眼球を強く打っても眼にはそれ特有の光だけが見える」といったことで、これは「システムはただひたすらみずからの作動を繰り返すだけ」というオートポイエーシスの正しさの一つの保証である。

 (@)(D)(F)からは、「世界は心的システムが構成する」という独我論が帰結しそうであるが、それは位相空間と物理空間の違いを取り違えるからである。「作動する神経システムの境界は、神経システムの(空間的な)構造の境界とは異なっている」(238ページ)
[註45]
著者の河本英夫氏は自分が独我論者だとされるのを恐れているようだが、彼の文脈はそう取れるし、そうしか取れない。

ちなみに、(@)(D)(F)をそのまま認めれば、それは独我論しか出てこないだろう。(@)は現実と幻覚は区別できないという著者の意見であるし、(D)と(F)は著者があちこちで述べているその「からくり」に他ならない。

(@)はむろんただしい。にもかかわらず、生物は現実と幻覚とを区別してこれまで生き延び、進化してきた。もし両者を区別できなければ全生物は一日以内に絶滅するに違いない。生物が生き延びてこられたのは、外的原因と区別できないほどそっくりに「内的原因が神経の状態に変化をひきおこす」という人為的あるいは病的なことが、非常に少ない例外だったからである。そしてそれはこれからもずっと例外でありつづけるものなのだ。

〈D)は、いわゆる、「脳は感覚端末の向こうの感覚対象を感じているのか、それとも感覚端末の状態を感じているのか」という問題である。これは先に述べた進化論的可知論(人間を含む生物は環境の一部として生れ、環境に適応して進化してきたので、生物と環境との間には、認識においても生活においても、原理的障壁はなく、環境適応は環境の客観的認識なので、生物は正しく客観的対象世界を認識している)によって、「脳は感覚対象を感じている」と答えることができる。

(F)は〈D)を感覚端末から脳へ遡及させただけの問題であって、同じく進化論的可知論によって、「脳は感覚端末に反映した感覚対象をほとんどそのまま感受している」と答えることができる。
「(1)心的システムは感知しうるもの/感知しえないものの区分を、自己と環境として区切る。そのため心的システムの環境は、観察者によってのみ示されるのであり、システムそのものにとっては際限のない暗闇である。心的システムの環境は、観察者によってしか気づかれることがない。(2)……心的システムの作動を語るために、観察者は不可欠なものとして要請されながら、括弧に入れられる。ということは観察者はより多くのことを知りうるが、事態を根本的に見誤る視点そのものになっている。(3)……心的システムの主体とは何か。(もし)心的システムの主体というものがあるとすれば、作動という行為そのものである」。(4)意識〈思考)は心的システムの構成素であるが、そこに作動そのものは現れない。それは作動の結果としての産物に過ぎない。「しかも知覚はそれじたい行為でありながら、みずから行為であることを隠蔽する行為である。産出的作動そのものは位相領域を形成する行為であり、位相領域のうちにあらわれ出ることはないのである。」(239〜240ページ)(:番号は開設者による)
[註46]
(1)についていうと、観察者によってしか気づかれないのは、どのオートポイエーシスもそうだった。どのオートポイエーシスも自己と環境について何も知らずに作動しているから、暗闇は環境にあるだけでなく、自己にもあるのである。心的システムの知覚意識はまだ自己を反省していないから、自己自身にも気づいていないはずである。

 にもかかわらず、知覚には反省の前段階が生じ始めていることを、(2)では、「観察者は不可欠なものとして要請されながら、括弧に入れられる」、(4)では、「知覚はそれじたい行為でありながら、みずから行為を隠蔽する行為である」という中間表現などで示そうとしている。

(3)は心的システムの主体を「自我」だとするのでなく、機能主義者らしく「作動」とする。つまり心の主体は自我ではなく、一種の盲目的で自動機械的な知覚産出そのものだとしているわけだ。心的システムは作動を通じて自己を区切るわけだが、その自己が主体となるわけでもない。機能主義は自我の存在を嫌う。それは先天的で実体的なものだからだ。自我があると全て自我が行う行為になってしまう。作動は自我の作動と化してしまうわけである。

3 システムのカップリング

「複数のシステムを考えるさい、オートポイエーシスは、ただちに困難に直面する。というのもあらかじめ複数のシステムを設定しそれらを相互に関連づけるようなことは、観察者の視点から行われているからである。オートポイエーシスは、一貫してみずからの作動をつうじて、自己と環境を区分するシステムであり、このさい環境は自己に対置されるような客観ではなく、システムに内部も外部もないというように浸透していた。この事態を起点にして複数のシステムの関係を捉えなくてはならない。」(247〜248ページ)
[註47]
複数系のオートポイエーシスを記述するにはあくまでオートポイエーシスの外部の視点が必要なため、この困難は、オートポイエーシスの内部からの視点を追求してきたオートポイエーシス論には本来的に乗り越えられない根本的な困難である。だからすでにその矛盾が明らかにされた言葉、つまり「環境は自己に対置されるような客観ではなく、システムに内部も外部もないというように浸透していた」という言いまわしでごまかそうとする。

「浸透」というのはオートポイエーシス自身には絶対に分からないことである。それは観察者の視点からしか分からない。それを「環境は自己に対置されるような客観(:観察者の視点)ではなく」といって言葉ですりかえ、煙に巻いてごまかすのは、あたかも自分めがけて飛んでくる矢を、目をつぶることで消滅させようとする心理的自己欺瞞と変わりない。観察者の必要なオートポイエーシス論はオートポイエーシスそのものから離れているので、定義上、破綻しているのである。

「オートポイエーシス・システムは、みずからの作動をつうじて一貫して自己を維持する単位体である。複数個の単位体の関係を、マトゥラーナは『カップリング』と呼ぶ。カップリングについて、マトゥラーナはいまだ観察者の位置から述べるにとどまっているようにみえる。かなり苦しい説明をしているのである。マトゥラーナは、次のように規定している。
『二つ以上の単位体の行為において、ある単位体の行為が相互に他の単位体の行為の関数であるような領域がある場合、単位体はその領域でカップリングしていると言ってよい。カップリングは、相互作用する単位体が、同一性を失うことなく、相互作用の過程でこうむる変容の結果として生じる』。」(248ページ)
 ……(この記述では)複数のシステムをあらかじめ設定し、それらを要素−複合体関係で考察している。……ところが要素−複合体関係で、複合システムを考えると、ただちに(マトゥラーナとヴァレラとの間に発生した)難問が生じる」。
 それぞれがオートポイエーシスである要素システムが複合して新たなオートポイエーシスの単位体ができると、要素の方はより高次な複合システムである新しいオートポイエーシスの構成素、従属物になってしまう。……「要素システムのオートポイエーシスを維持すれば、複合システムをオートポイエーシスとして構想することができず、要素システムを断念したのでは、オートポイエーシスの構想を台無しにしてしまう。」(250ページ)

「そもそも彼らの立論の仕方に無理があったのである。オートポイエーシスの要素システムが複合するさい形式的にみれば、(以下の)三つのパターンを考えることができる。」(250〜251ぺ−ジ)

(1)要素システムのオートポイエーシスが放棄されて高次システムだけがオートポイエーシスになる〈例:原核細胞から真核細胞への移行)
(2)要素システムはオートポイエーシスだが、複合システムはオートポイエーシスでなく、ゆるやかなネットワークを形成する(例:ハイパーサイクルと組織細胞)
(3)要素も複合体もともにオートポイエーシスである。このとき複合体は要素を構成素とはせず、新たな構成素を設定する(例・細胞間媒介物質)
[註48]
(3)が河本英夫氏の新しい立場であるが、そこには[註25][註29][註38]で述べたような本質的困難がつきまとう。これらの註を再度お読みいただきたい。
「たとえば人間が集まり社会を形成し、社会システムが作動を開始する場合、社会システムは形成途上ではたしかに人間からなる複合体であるが、ひとたび社会システムが新たな構成素を設定して作動すると、オートポイエーシス単位体となる。この段階ではもはや要素−複合体関係はとることができない。社会はコミュニケーションという構成素の設定に応じて、独自の移動領域を形成し、そこに存在する。このときもはや社会は、複数の人間から成る集合体ではなく、また個人と社会は階層的な上、下関係としても区分されない。……人間は位相学的外部、つまり環境に区分されるからである」(252ページ)。同様のことは個々の細胞と多細胞生命体の場合にもいえ、その場合、多細胞個体の構成素は個々の細胞ではなく、細胞間媒介物質である。

「人間も細胞も、環境としてそれぞれの社会や多細胞個体に浸透している」。個々の人間と個々の細胞からみれば社会システムや多細胞個体は環境であり、社会システムや多細胞個体からみれば個々の人間と個々の細胞が環境である。「こうした事態をルーマンは『相互浸透』と呼んだ。……複数のシステムが作動をつうじて互いに他を環境としている場合が、相互浸透である。……一方のシステムの作動に連動するように別のシステムの作動が交叉しながら浸透している場合だけが相互浸透にふさわしいからである。」(253〜254ページ)
[註49]
個々の人間や細胞がオートポイエーシスの外部環境となったのは、著者の機能主義的発想によって、はじめから「構造」(物質)を外部に捨象した結果にすぎない。

また「浸透」を「相互浸透」へと発展させても、「浸透」が観察者の視点のものであることからは逃れられない。オートポイエーシスの論理を矛盾なく徹底させれば、「浸透」も「相互浸透」も決して使用できない筈である。それらがはっきりした物理的作用や相互作用ではなく、なにか観察者の視点からも逃れられるかのような「潜在的なパラメータ(:256ページ)」「内部も外部もないひそかな浸透」ででもあるかのように繕ってみせても何にもならない。「ひそかに浸透」していれば、それで観察者問題は解決するのだろうか?
河本英夫氏はこの相互浸透論から次の三つの帰結を引き出す。

(1)階層関係の消滅

(システムの作動の視点を取り入れたとき、下位階層はもはや下にみえず、みずからの作動によって環境区別されるだけで、オートポイエーシスにはシステム間に上下はなく、ただ多様なシステムが交叉しつつ作動しつづけている)


(2)固有の位相領域の交叉

(システム同士はその固有性を維持していて、単に相互浸透するのみだ。ここでは個人のかけがえのなさと、個人が社会システムへと巻きこまれていくことが無理なく両立する)


(3)相互浸透の普遍性

(一般に質やカテゴリーの異なる二つのものが密接に関連している時、そこに相互浸透が成立している。たとえば色と硬さなど異質のもの同士の間でみられる相互浸透もオートポイエーシス固有の「内的視点」から捉えることができる)


「システムのカップリングを考えるさい、実はカップリングのモードは相互浸透だけではない。心的システムと身体システム、心的システムと神経システムは、カップリングのなかでもさらに(「相互隠蔽」とでも呼ぶべき)別モードが成り立っていると予想している。これらのモードについては現段階ではまだ明示的に語ることができない。」(258〜259ページ)
[註50]
(1)は、盲目のオートポイエーシスに見えないだけのことである。(2)は、オートポイエーシス論における構成要素と構成素との曖昧さを克服しないで空論を重ねている。(3)は、オートポイエーシスの「内的視点」が複数系で破綻しているのに、なおそれに固執している。

さて、著者は、明示的に語れない事態に「相互隠蔽」という語を当てはめて問題をさらに複雑化している。「相互浸透」でさえオートポイエーシス論を破綻させているのに、そのうえ「相互隠蔽」を持ちこまれては話にならない。

「相互浸透の特徴がもっとも明確に示されるのは、社会システムと心的システムの間である」。コミュニケーションと意識(思考)とは強く影響しあっている。「心的システムの作動によって構造構築が行われ、思考と思考の関係づけが形成されると、構成素は秩序化され高次の構成物を産出する。それが『表象』である。」(259ページ)

「社会システムと心的システムは、もろもろのシステムのなかでも特異である。(これらは)本来どのようにしても観察者の視点を取ることができない」(262ページ)。観察者自身がすでにそれらの内部にいるからだ。つまり何をしても自己言及になる。「思考についての思考、コミュニケーションについてのコミュニケーションの産出である」。(263ページ)

「言及性とは、一般に関連づけの作動であり、伝統的には『反省』と呼ばれてきたものであることがわかる」(263ページ)。自己言及システムは自己と境界とが区切られたあとに行われる高次の産出的作動であり、そこでは、繰り返し自己との相互作用による高次の産出を行う。「それとともに、自己が自己に関与することによって自己の境界を自覚的にひきなおし、行為によって形成された自己に対して、この自覚的な自己を置き換えてしまうのである。」(264ページ)

 それによって、「自己言及性が成立しているシステムでは、自己言及性とともに、自己言及とは区別される他者言及が成立する。自己言及性によって自己が自覚的に境界づけられる以上、顕在化された自己に対置される他者との関与が生じる。自己に関与する高次の産出的作動が可能になると同時に、(:どれについてもそうだが、たとえば、心的システムからみれば、経済システムや法システム、社会システムなどといった)他者に関与する構成素(思考)の産出を行うことができる。……この場合自覚的に境界づけられた自己に対置される他者は、もはや環境ではなく、自己にとっての他者、あるいは対象であるにすぎない。」(264ページ)
[註51]
たしかに自己言及システムのなかでは自分の外に出ることができない。とはいっても、客観的認識はできる。そういう意味では、自己言及システムのなかでも観察者の視点を取ることができる。我々は多細胞生命体で、哺乳類で、霊長類だが、それらを観察して客観的に認識できるし、ついには人類自身やその大脳や心に対しても客観的認識が可能だと言える。

 自己言及システムはすでに反省的に自己の存在を前提としている高次な自覚的作動であるので、著者によれば、盲目的作動を本質とする本来のオートポイエーシスではないようだ。したがって、「行為によって形成された自己に対して、この自覚的な自己を置き換えてしまう」と非難され、「自覚的に境界づけられた自己に対置される他者は、もはや環境ではなく、自己にとっての他者、あるいは対象であるにすぎない」と切り捨てられる。

とはいえ、心的システムや社会システムのように、自己言及システムであると同時にオートポイエーシスでもあるシステムが存在するのは明らかである。それはどう評価されるのだろうか? 

HP開設者からみれば、自覚的な自己の段階に至ったオートポイエーシスの方が、盲目のオートポイエーシスより一層優れているように思える。また、環境は自己の他者や対象と同じものだと考えられる。それ以外の環境など果たして存在するのだろうか? 盲目のオートポイエーシスにしかない環境などあるのだろうか? それにしても盲目のオートポイエーシスに環境など果たしてあるのだろうか?

著者は「自己にとっての他者、あるいは対象であるにすぎない」という言葉で、他者や対象を自己の産物としているが、それは著者の独我論のせいであって、そもそも他者や対象は自己の産物などではないのである。
「経験は心的システムと社会的システムとの間を自在に転換する」〈265ページ)が、「このさいシステム間を自在に行き来する経験は、システムの外に立つ観察者が視点を換えるようなものでなく、行為の形態を一挙に全面的に変えていくのだ」(267ページ)
[註52]
一体何を言っているのか分からない。そもそも観察者の視点なくして複数系のオートポイエーシスは語れない。もし経験が複数のオートポイエーシスを行き来するのであれば、その経験は観察者の経験なのである。経験が自在に行き来することができるのも、複数系を区別できる観察者だからこそではないか。それを度外視して、著者は、経験は観察者の視点とは違う行為者の視点であるかのように述べている。
「この経験という言葉に対して、少なからず経験の主体というものを導入したい誘惑にかられる。……オートポイエーシスにおいては、経験の行為をつうじて自己がそれとして産出されるのであって、主体が行為を取り行っているのではない。そのことによって、心的システムにおいてさえ主体という表象を取り除くことができる。心的システムはみずからの産出的作動をつうじて自己の境界を区切り、自己を創出するとともに、自己言及的作動をつうじて自己自身のイメージを産出することができる。この高次の産出の結果が主体である。」(267ページ)
[註53]
意識や経験の段階のずっと以前に、生命細胞それ自身の主体性や自我性の問題が解かれなくてはならない。もしそこにすでに主体性や自我性が存在していれば、どの動植物においても既存の主体性が進化の新しい段階で別の姿を取ったとみることができるからである。そういうアプローチをすべきところを、著者は人間段階の経験や意識の主体性の有無について、その段階の作動論理だけで答えようとしている。

もしあなたが自分の経験の行為をつうじてあなたの自己がそれとして産出されるのであれば、あなたの自己はあらかじめ存在していないのであろうか? 著者の言葉の直接的な意味は、日々の経験をつうじて「昨日の私は今日の私とは違う」というように、自己の内容が変化していくということだろう。その場合、自己そのものは既存のものとして存在する。ただ自己の内容の一部が変わるだけにすぎない。

著者の話はちょっと筋違いになっている。そもそもあなたの話は、経験をつうじて自己や主体性が忽然と無から形成されるという話にはなりえないのだ。実のところ自己そのものは決して経験の産物ではない。だから「主体が経験の行為を取り行っている」のである。
「心的システムの産出的作動をつうじて、たとえ他者についての思考を産出しようとも、それは心的システムのつくりだした思考である。そのため心的システムはどのように他者について思考しようとも、それはいつも自己の構成素であって、そうなると他者そのものには到達しようがない。……これが他我問題のアポリア(:行き詰まり)の基本型である。この問題について、心的システムと社会システムの相互浸透からは、あっけないほどの解答があたえられる。社会システムの作動において、コミュニケーションを産出するさい、人間は一般に社会システムに相互浸透する環境である。そのため個々のコミュニケーションの産出をつうじて他者には自明なかたちで出会いつづけている。……しかし心的システムへと経験が転換した途端に、この自明であった他者は、すべて環境の側に区分されている。そして他者についての思考を産出すれば、いずれも自己の構成素となる。」(269〜270ページ)
[註54]
「どのように他者について思考しようとも、それはいつも自己の構成素であって、そうなると他者そのものには到達しようがない」という言葉は、「言葉はいつも言葉であって対象そのものではない」「感覚はいつまでも感覚であって対象そのものではない」「意識はいつも意識であって対象そのものではない」というのと同じ類である。なんども言及したように、このような不可知論は進化論的可知論によって克服されている。そもそも他我問題というアポリアが起きるのも、独我論の立場に立ってものをみているからである。

このアポリアを説明するのに著者は心的システムと社会システムの二つの位相を並べて経験を行き来させているが、独我論は間違いなので、そもそもアポリアなど存在しなかったのだ。それを、「心的システムと社会システムの相互浸透からは、あっけないほどの解答があたえられる」などと、うそぶいている。

そして、それがなにか明確な概念ででもあるかのように、何のしっかりした説明もない「相互浸透」なる語によって、人間は社会システムの環境であり、コミュニケーションの産出をつうじて「他者には自明なかたちで出会いつづけている」などと述べている。

ところが、社会システムの構成素は人間でなくコミュニケーションであって、コミュニケーションの相手である他者は独我論から見て「本当のところ存在しているかどうか分からない」というようなものだった筈である。それを「他者には自明なかたちで出会いつづけている」などと言うのは、全くのごまかしとしか言いようがない。

4 自己言及と観察システム

「システムの自己が自己自身に関与しながら作動を行うという点で、心的システムは典型的な『自己言及的システム』である。ここでの自己言及性は、システムの作動によって自己がすでに確保されていて、それに対して自己自身が作用するという意味で『再帰的』と呼ばれる。……自己自身へと帰るように作動する再帰的相互作用は、何度も繰り返し自己へと相互作用することができ、……その延長上で心的システムは、みずから観察するシステムになっていくのである。自己言及性の固有の作動をつうじて観察システムが出現する。」(272ページ)

「自己言及性は、伝統的には『反省』と呼ばれてきたものである。だが自己言及性の分析は、機構の詳細さと作動の多様さという点で、数段『反省論』から進んでしまう。」(273ページ)
[註55]
これによると、心的システムにおいてオートポイエーシス自体がついに観察者の視点を持つに至っている。それなら著者はこれまでなぜオートポイエーシスから観察系を排除しようとしてきたのだろうか?

ところで、いずれ分かるが、河本英夫氏は、「観察システム」という言葉で従来の観察者の視点とは別の視点、すなわち、「観察という行為の欠点を知り尽くしてそれを括弧に入れ、システム内部からの視点でシステムをみる観察」の視点を提示している。これこそまさしく著者のオートポイエーシス論の視点なのだ。

というのも、オートポイエーシス論も、それがオートポイエーシス内部の盲目点からのものでないかぎり、一つの外部観点からシステムを見渡した議論だからである。したがって「観察システム」とは著者の立脚点そのものなのだ。だからこそ著書全体の最終章ともいえる第W章の最終節で「観察システム」が論じられている。反省を含むオートポイエーシスとしての心的システムになにか肯定的なものがあるとすれば、それは心的システムがこの「観察システム」を持つからだろう。

とはいえ、外部観察の欠点を括弧に入れた内部観点からの「観察システム」は、観察行為一般からすれば非常に特殊な観察行為である。それは観察をさらに幾重にも外部から観察しているからである。つまり更なる反省だ。反省は内部視点から遠ざけるから、したがって「観察システム」が果たして本当にシステムの内部視点たりうるのかどうか疑わしい。「観察システム」というのは、オートポイエーシス論が一切の観察を排除できなかった結果、仕方なく導入した「内部視点の観察系」という一種のトリックではないだろうか?
「(心的システムにおいて)構成素の産出的作動は、産出された構成素(:ある知覚=思考=意識)と相互作用するよう作動することができる。……(:そのとき)構成素がそれとして再帰的に産出されている。この作動は構成素(:ある知覚)をそれ(:その知覚)として確定するような作動であり、構成素に構成素が関与するような初等の自己言及的作動である。この場合、確定した自己に自己が関与するというよりも、この自己言及性をつうじてはじめて構成素の自己が確定する以上、自己言及性(セルフ・レファレンス)のうちでも自動言及性(オート・レファレンス)と呼ぶべきものである。……オート・レファレンスは、すでに気がついたときには構成素の自己をそれとして確定している。構成素に自己言及性が導入されるのは、この段階をまってである。」(273〜274ページ)

「この場合、……この再帰的相互作用のなかに、それぞれの構成素をそれとして区別することが含まれている。……特定の構成素の自己の再帰的確定と、構成素間の差異の導入とは裏合わせである。無理に論理化すれば、自己言及と他者言及は、互いに区別されたものとして同時に成立する。……区別された(思考としての)構成素は伝統的な用語法にしたがって「表象」と呼ぶことができる。……表象は産出されたものというより、確定的に構成されたものというニュアンスがつきまとう。」(274〜275ページ)

「表象は他と区別された思考であることによって、他との区別、対比のなかに置かれる。さらに表象はオート・レファレンスをつうじて構成素としての自己の境界をひくことによって、それじたい他者言及性をもつ。……表象は自己の外部についての表象、つまり何かについての表象となる。……言ってみれば表象は、観察された思考である」(275ページ)。ここでは「作動」としてのオペレーションが、高次の能動感のある対象の意味処理的な「作用」としてのオペレーションとして誤解される。「つまり観察という行為は、当初より自己の行為を(:すなわち自己の作動と作用を)誤解して成立する行為である。表象の産出的作動を、たんに構成素間の区別の作用として実感するのである。」(276ページ)
[註56]
区別することがなにか不本意なように述べるのは「蒙昧主義」というべきである。もし表象が対象を区別できないものだとするなら、著者は、区別しなくて済むどのような方法で、対象を捉えることができるのであろうか? 著者が対象を捉えることができるのも表象が区別の能力を持つおかげであろう。表象は作動であり同時に作用である。観察が作動であり同時に作用であることは、なにも誤解などではない。それが誤解に見えるのは、機能主義的に作動と作用を分ける誤ったオートポイエーシス論そのもののためである。

(1)「表象の産出をつうじて心的システムは、再度あらためてみずからの境界をひく。……(:それによって)表象は心的システムに対置された外界についての表象となる。……表象はこの自己の内部に属し、この自己に対置された外界の対象についての表象になる。こうして外界についての心的表象の構成的形成という、認識論の基本図式が成立する。」(276ページ)

(2)「ここでは行為の境界が、人為的に制御されうる境界に置きなおされているのである。このとき……観察者はあたかも、システムの内部と外部をともに見分けるような位置を得るが、それというのも心的システムの境界を、二次的に高次の作動によって導入された自覚的境界と等置しているからである。観察はみずからの行為を隠蔽し、産出された結果を表象するだけであり、観察とは表象を表象することである。」(276〜277ページ)

(3)これまでのオートポイエーシスでは自己と環境の区別は行為者である作動システムが行い、区別はあらかじめ存在していなかった。これが真実態である。ところが、「これに対して観察はあらかじめ区別を前提にしている。区別を前提にした産出的作動であるため、観察は表象を固定し表象を内部に構成したものだと実感している。……(:しかし)システムの作動をつうじて産出された境界と、観察者が判別している境界とは明らかに異なっている。」(277ページ)
[註57]
(1)については、何度も述べたように、外界は決して心的表象の単なる構成的形成物ではない。心的表象は、多少の構成は行っても、外界を大なり小なり忠実に反映しているのだ。

(2)については、なにか人為的に制御されれば実態を見失うかのような言い方であるが、別にそのようなものではない。

(3)については、区別され固定された表象も、それらをアニメーション化することによって生きた動態を捉えることができるし、「観察者が判別している境界と作動によって産出された境界とはほとんど同じである」といえる。
「この段階で観察者にとって諸々のパラドックスが生じることになる。……というのも産出的作動の行為は、区別そのものを産出するが、区別された両側をともにとらえることはできない。それに対して観察者は区別されたものの両側を捉える位置から区別の意味をひき出すからである。」(277ページ)
[註58]
しかし産出的作動は心的システムの観察系においても行われて、しかも自己と環境の両側をともにとらえているではないか? もし観察系=反省系をオートポイエーシス論から排除するなら、オートポイエーシス論は心的システム・社会システム・経済システム・法システムなどを含む人間段階には適用できず、せいぜい無反省な人間以前の生物段階にしか適用できない論理になってしまう。それでは著者が心的・社会的・経済的・法的システムをオートポイエーシスとしたのは一体何だったのか? だいたい著者が本来的に盲目システムであるオートポイエーシス論を反省レベルの人間段階にまで広げたのは誤りである。

オートポイエーシスは自己反復によって自己維持するシステムであるが、それなら、盲目性を超えて、自己維持のために知覚や反省という環境認識システムがオートポイエーシス・システムの内部に現れてきたのは、システムにとって自然なことではないだろうか? つまり盲目のシステムはそれだけではシステムの存在にとって不充分である。もしオートポイエーシスがどこまでも盲目であるなら、このシステム論は明らかに間違っている。なぜならシステムは自己維持のために知覚や反省を内部にみずから生じさせたからである。これがシステムの本能であり本来の生態なのだ。

HP開設者に言わせれば、反省段階を含む高次のシステム論の方がオートポイエーシス論よりもっと優れている。なぜなら観察系は内部も外部も見ることができるからだ。それを知っているからこそ、著者は今になって「観察システム」を導入しようとしているのではないだろうか?
 

 心的システムは……同じ表象を前−後に区別する。「前−後という区別の様式が時間形成の初発にある」。それをさらに反省し区別を貫く共通の軸が獲得されると時間意識が生れる〈279ページ)。「それはあらかじめ直線上に設定された時間軸(ニュートン的時間)の上を時刻を追うように動くシステムではない。そのような時間は、システムの作動に先立って、観察者があらかじめシステムの外に設定しておいたものにすぎない。オートポイエーシスはただ作動を反復し、作動をつうじてみずからの内部に時間を獲得するのである。……この前−後の幅のちがいによって区別そのものへの再帰的相互作用が獲得する(:主観的な)時間意識は変容していく。……こうしたことから次々とやってきては尾を引くように過ぎ去っていく意識の中を流れる時間も、独立した次元もしくは形式ではない。……時間をそれとして独立に取り出しているのは、観察者の心的システムにおいてである。」(280ページ)
[註59]
これではあたかも時間は心的システムが構成したものであるかのようである。しかしこの宇宙が心の創出以前から存在していたのは自明である。つまり人間以前に三葉虫はいたし、あなた以前にあなたの父母がいた。

主観がどのような時間意識を持つかはそれぞれであるが、それは時間そのものの客観性を疑問視させる性質のものでない。時間は心的システムが表象間に前−後の区別をする前にすでにある。だからこそ、前−後の区別ができるわけである。

なるほどニュートン的な絶対時間は相対性理論で相対化された。とはいえ、それで時間そのものが主観的な構成物になったのではない。観察者の運動系によって時間の尺度が空間の尺度と共に変動するというにすぎない。そこには相対性理論の方程式が示す、尺度の変動を支配する客観的法則がある。その法則によって観察者の運動系ごとに時間と空間の見える角度が異なるようになる。別の観察系に移ればいつもその時空が、元の観察系に戻ればいつも元の時空が観察される。主観の構成物でないそういう客観性があるわけである。

だから時間は「独立した次元」であり、観察者は多かれ少なかれその客観性を正しく捉えているわけである。
「区別された思考は、相互に系列をなすことによって、心的システムの内部に構成素の系列という新たな境界がひかれる。……隣接性による構成素の系列が形成され、系列そのものに再帰的相互作用が働くと、そこに分類学的な類種概念が形成される。」〈282ページ)

「自己言及的作動の高度化にとって、言語の導入は不可欠であり不可分である。言語の導入によって心的システムは作動を安定化させるとともに、言語は作動を制約する。(:社会システムの)コミュニケーションをつうじた言語の導入によって、心的システムの構成素の関連づけに強固な秩序が導入される。心的システムの内部に縦横にひかれた区別の境界には、範例の規則(文法規則)が(:否応なく)食い込んでしまう。」(283ページ)

「類種概念は、表象の系列化による境界導入を過度に安定させてしまう。というのも産出的作動をつうじて形成される表象間の系列を、類種概念によってあらかじめあたえられた枠取りのように理解することができるからである。」(284ページ)
[註60]
言語がオートポイエーシスのどういう過程を経て生じたかについて著者の説明はないが、以上でオート・レファレンスという「反省」から、「観察」「表象」「時間意識」「概念」などが導出されるいきさつが全て説明された。これはいずれついには「自己意識」を経て「自己認識」にまで至る。そしてこれら全ては世界の真実から離れさせるものとして批判される。とどのつまり、著者にとっては人類以前の無反省な盲目のオートポイエーシスが全てであるらしい。 
「心的システムは、これらのもろもろの何かを外部とし、表象を内部とするような新たな位相学的境界をひく。表象の他者言及性をつうじて、これらの他者を外部とし、表象そのものを内部とするような新たな境界がひかれるのである。……この境界導入によって心的システムは、身体と対置される心的システム、社会システムと対置される心的システムのように、他のシステムと対置されて自己のイメージを形成する。ここでは他と区別された境界のうちで自己が自己に関与するよう、オート・レファレンスが作動している。これが意識が意識に関与すると実感される自己意識である。」(288ページ)

「自己意識は、自覚的に自己と対象との区別を行い、それのみならず自己と環境との区別そのものを制御可能なものにする。みずからを対象を制御しうる構成主観とし、対象を構成されるべき客観であるとすることによって、主観−客観という区分を自分で持ち込むことができる。」(288ぺーじ)

「心的システムはさらに心的システムそのものについての表象を産出することによって、自己の像を自己の外に作り上げることができる。……自己言及性をつうじた自己認識の段階であり、このとき心的システムは、自己と対置された環境(対象世界)のうちに判別される対象の一つであるような見かけをもつ。……そのため認識された自己には、本来的にいつも誤解がともなっている。少なくとも自己の意識も、自己にとっては本来不透明である。産出的に行為している自己が、(:自覚的に)対象化された自己にまるごとあらわれ出ることはないからである。だがこれらの自己言及性のなかに、この自己言及を取り行い、自在にそれを処理しうると実感している観察者が出現している。……自己の外に産出された自己と、その自己を産出する自己をともに見分けているような観察者が出現している。心的システムは、みずからの産出的作動をつうじて観察するシステムを生み出したのである。」(288〜289ページ)
[註61]
自己認識が自己を対象化した認識であるかぎり、「自己認識は自己と対置されている」とは言える。しかしそれによって自己が本当に自己の外に出たと実感されているわけではない。自己はそれが単なる認識上の操作にすぎないことを知っている。だからその「見かけ」に騙されることはなく、そこに誤解も本来ない。

それにまた、「認識された自己は自覚された範囲内の自己だから自己の隠れた部分を逃している」という著者の指摘に対しては、「そうとは限らない」と答えることができる。心の中の無意識の世界でさえ観察者の目が及ぶからである。自己の内外をともに見分けている観察者は盲目のオートポイエーシスよりもずっと優れている。だからこそ生命はそういう観察系をさまざまな知覚器官として発展させてきたし、その知覚による観察のおかげで生き延び、進化し、現在に至っている。

ここで明らかになったように、観察者とは第三者のことでなく、自分の生存要求に応えて発展してきた自分自身の新たな高次の能力である。だから一概に「観察者が、外から、実態を損ねながら見ている」というように思いなすのは誤りだといえよう。

それにしても盲目のオートポイエーシスがどうして心的システムにおいて目明きの観察系を生み出すのだろう? 「観察システム」もオートポイエーシスではあろうが、それではそこのオートポイエーシスの盲目性はどこに行ったのだろう? 「観察システム」は本来のオートポイエーシスではないのだろうか?

 


 オートポイエーシスの心的システムの考察から導き出される三つの帰結を以下に述べる。

(1)認識論的図式の消滅

 システムは作動によって自己と環境を区別するのであり、あらかじめ自己や環境が主観−客観というように区別されてあるわけではない。「そのため主観−客観、能動−受動、命題−事態という対関係で設定された認識論的図式は、……システムの機構そのものによって語られることもなく消滅している。観察者はより多くのことを知りうることによって事態を誤解する視点として成立してしまう。そのためシステム論的分析は、〈:著者みずからのように)観察者の視点を繰り返し括弧に入れながら、システムの行為を明るみに出す。」(298ページ)

(2)反省と基礎付け

「オートポイエーシスは反省の意味を大幅に変える。……システムは端的に再帰的に相互作用する。自覚的に区切られた自己に対して、自己総体についての再帰的相互作用を行う。そのためオートポイエーシスでは、根拠への遡行や自己自身を対象化する反省という表象がすべて消滅してしまう。基礎付けとは、オート・レファレンスをつうじて自覚的にひかれた境界の内部に、再帰的相互作用による構成素の産出をつうじて、構造の一つの局面を構築することである。……これとともに経験的なものと超越論的なものの区別も消滅する。超越論的なものは自覚化された自己言及にすぎなくなる。」(299〜300ページ)

(3)観察システム

「高次の自己言及的な作動の延長上に、観察者であることの限界に気づいている観察者が成立する。こうした観察者としてのシステムを『観察システム』と呼びたい。……観察システムは、何段階もの自己言及によって成立しているので、自分自身の経験がきわめて限定されたものになっていることを自覚している。……それは繰り返し新たな境界線を浮かび上がらせる。ただし既存の領域を意図的に逸脱し、脱領域化していくところに力点はない。産出的作動を反復するオートポイエーシスにとって、作為ほど縁遠いものはないからである。観察システムは、不断に自己を自己の外から捉え、自己を世界との関係で捉えてしまう本性をもつ。それが反省ということの本性だからである。観察システムは、こうした理解の限界に自覚的であり、視点ごとに括弧に入れながら、みずからの行為の次元を明るみに出そうとする。だがこの次元が意識の反省を遡行的に下降することによっては、到達不可能なものであることも明らかである。観察システムにとってこの次元を記述する機構が、オートポイエーシスであった。」(300〜302ページ)
[註62]
(1)について。オートポイエーシスの独我論的な立場からみれば、本当は自己と環境の区別さえもなく、盲目的な自己しか存在しないし、また、知覚の対象も、「心的システムと環境との対応関係は、本来どのようにしても知りようがない」(290ページ)というように、もともと存在しないかも知れないものなのだ。だから「オートポイエーシスには主観しかなく、もともと客観は存在しない」という意味で、主観−客観図式は消滅している。しかしこれはオートポイエーシス論が誤っていることを示しているのである。HP開設者としては、より多くのものを知ることができることによって著者の言う「誤解」を防ぐことができると思っている。

(2)については何を言っているのか分からない。突然、開き直られて、「自覚的に区切られた自己に対して、自己総体についての再帰的相互作用を行う。そのためオートポイエーシスでは、根拠への遡行や自己自身を対象化する反省という表象がすべて消滅してしまう」と言われても、何のことやら分からない。「基礎付け」の定義もさっぱり分からない。それでどうして経験的なものと超越論的(:先験的)なものとの区別が消滅するのか全く理解できない。著者の哲学的立場はシェリングであって、著者はところどころでカントの先験哲学を批判しているが、この文脈もその一部である。開設者としてはシェリングもカントもヘーゲルによって克服されていると信じているから、シェリングとカントとの間のこういう対立は論議の的にさえならない。

(3)について。観察者がどこに自分の欠点があるか理解できるのも観察によってである。それをことさら「観察システム」と名打って従来の観察と次元を異にするものとするのは、どうかと思われる。観察システムは、「繰り返し新たな境界線を浮かび上がらせる」「既存の領域を意図的に逸脱し、脱領域化していく」というのは、真実を求めてあれこれの仮説を設定することを意味しているが、それはなにも著者のいう「観察システム」に固有するものではない。また仮説の設定を「作為」とするのは一面的である。そもそもオートポイエーシス論にしても一つの仮説であるには違いない。だいたいどのようなかたちであれ盲目の無反省なオートポイエーシスに目明きの観察系を持ち込むのは自己矛盾である。

(1)「覚醒した意識は、みずからの作動によって自己の境界を区切る。そのことによって浸透しているもろもろの世界は、日常の環境へと区画される。そのとき意識はそれがなんであるかを知りようがない。というのも環境は、意識みずからが作り出す位相学的外部だからである。」(307ページ)

(2)「自己意識は本来観察ということを行う行為である。だがいずれにしろ観察はきわめて限定された行為である。……しかも自己意識からの観察は、事柄の外へ出てしまうというそれじたいの本性によって、本来錯誤を含んだものになる。そこではシステムの作動の経験を行う前に、経験の観点だけが問題になる。……この錯誤を消滅させることはできない。」(316ページ)

(3)「しかしこの観察にともなう錯誤を括弧に入れ、システムの作動そのものに経験をそわせ、この経験を記述することはできる。そうなったとき観察はそれじたい作動するする行為となり、記述は(:『観察システム』という)一種の運動となる。……観察システムはいずれにしろ観察という行為しか行えないが、それでもシステムの作動を記述することができる。」(316〜317ページ)

(4)「また精神の産出行為である作品形成は、みずからの産出的作動によって境界を形成するが、その境界がなんであるのかを知りようがない。作品形成は純粋な産出行為であり、そのことによって同時に作品そのものの境界を産出しているからである。これはちょうど訴訟システムの作動が、その内部の誰にとっても不明なのと同じである。観察システムは、作品の作動に経験をそわせ、この境界を自覚的に浮かび上がらせる。観察システムは観察という行為しか行わないことによって、はじめてシステムの境界を自覚的に明示するのである。」(317ページ)(:番号は開設者による)

[註63]
(1)について。環境はまさに意識に浸透しているのに、作動の中では覚醒した意識でさえ環境を認識できないとは一体どういうことだろう? 作動中のオートポイエーシスは全く盲目だということがこれでよく分かる。とはいえ、意識が環境を認識できないとすれば、意識は何に対する意識なのだろう? それが意識の名に値するものだろうか? 

(2)について。「自己意識とは観察行為だ」とする著者は、「事物や事柄の外部からしか行えない観察は、内部で本当に起きていることを掴めないから限定的であり、錯誤を含む」としている。だが、外部からの観察を通して内部の動態や生態をリアルに掴むことはアニメーションの手法によっていくらでも可能だ。

オートポイエーシスの代表である細胞は、この数十億年の間ほとんど同じことを繰り返しており、個々の細胞内部で行われている新たな物質の創出も、同一種の他の細胞が過去に何億回何兆回も行ってきた行為であり、既存のものである。だから既存の物質の産出として、既存の概念の枠内で細胞活動を十分捉えることができる。つまり、細胞活動の生きた動態を掴むためには、細胞活動のあらゆる細部のそれぞれの瞬間を固定して捉え、それを全部まとめてあとでアニメーション化すれば事足りる。

著者の主張のように、「撮影の間隔をどのように短くしても細胞はその間も止っていないから細胞の全活動を把握できない」というのは事実だが、それでもアニメーション化で細胞のリアルな真実が掴めることは間違いない。全ての瞬間を埋め尽くすようにしなければ生きた細胞活動が掴めないというものではない。

だいたい人間の生身の視覚でさえ残像効果でものを見ている。それは人間の視覚が世界をアニメーション化しているということである。人間の視覚がそういうものであれば、アニメーション化は避けられない。だが、細胞活動や生命活動のリアルな有様を捉えるには、これで十分なのである。

これは大抵のいわゆる「オートポイエーシス」と呼ばれているものに対しても当てはまる。無機物から最初の細胞へ、単細胞生命体から多細胞生命体へ、無脊椎動物から脊椎動物へ、恐竜から鳥類へ、爬虫類から哺乳類へ、等などの「大進化」と呼ばれる出来事も含め、それが過去に繰り返された周期的出来事である場合、あとで実験室でそれを再現することさえできれば、やはりその動態や生態は掴める。

もし当てはまらないものがあるとすれば、現在あるいは未来の非周期的な出来事だけであろう。つまり、生命進化の未来や、人間の精神活動や人間社会の未来である。そこでは全く新しい未知なことが起きていて、既存の概念だけでは捉えられる筈もない。だとしても、これらについてはオートポイエーシス論にも捉えることができるわけではない。

(3)については、普通の観察で十分であり、著者のいう「観察システム」など別段必要でないということで答えることができる。本来的に盲目であるオートポイエーシスのいわゆる「内部視点」から見ても、何も見えないと思う。

(4)について。ここにもオートポイエーシスの盲目性が露出しているが、作品形成や訴訟がその環境を知らないなら、どのようにして作品や訴訟が可能なのかさっぱり分からない、とだけ答えておこう。


[ヘーゲル弁証法について]

[註]最後にここではこれまで触れてこなかったヘーゲル弁証法に対する河本英夫氏の批判についてコメントし、同時に著者の哲学的立場であるシェリングについても言及したい。まず、第U章 自己組織化(第二世代システム)第1節 生成プロセスの中の「化学の分子形成と弁証法」(73〜78ページ)の段落に述べられている著者の見解をまとめておく。(@〜Gの符号はHP開設者による)
〈@〉「分子形成の生成プロセスには、階層の飛躍と相転移が含まれている。水素と酸素とから水ができる事例がある。……水には水素にも酸素にもみられない性質が生じる。……(しかし)水素と酸素の化合物ができるさいには、ほとんどの確率で水ができる。できあがった水もそれ以降変化しない。たしかに水には水素にも酸素にも見られなかった性質が生じるが、にもかかわらず生成物に新たな媒介変数が生じたわけではない。……水素と酸素からほとんどの確率で必然的に水が生じるなら、水の性質は水素と酸素に含まれていると言ってよい。」(73〜74ページ)

〈A〉「自己組織化のプロセスにおいて、階層飛躍をともなう生成が生じる場合には、生成物に新たな変数が獲得されねばならず、変数のとる値によって生成物は可変的なものになるにちがいない。そのため初期条件から生成産物へ到るプロセスには、必然性はない。(74ページ)

(B)「水のような安定した化合物を階層生成のモデルケースとすると、もう一つ困ったことが生じる。生成プロセスの基本型が、複数の要素からの相互作用に置かれてしまう点である。要素−複合体関係だけで考察するようになるのである。」(75ページ)

〈C〉「このことにはエンゲルスの『自然弁証法』の影響もいくぶんか荷担している。……弁証法の三法則は、(@)量から質への転化、およびその逆の法則、(A)対立物の浸透の法則、(B)否定の否定の法則である。……量から質への転化は、構成要素の同じ分子でも構成数によって性質が異なる場合である。N2OとN2O5とは、常温で気体と固体の違いがある。対立物の浸透は、酸とアルカリのような対立物が中性塩を形成する場合を想定してみればよい。否定の否定の法則は、磁石の一方の極の対極の対極はもとの極である場合を想定してみればよい。」(75ページ)

〈D〉「これらの定式化は、複数の要素の相互作用による生成を基本にしている。相互作用による生成は、生成プロセスを要素−複合体関係に推し込めるだけではない。ここでは階層生成の機構が解明されているようにみえながら、固定した初期条件から固定した産物への移行が語られるだけになる。……このときシステムの作動はなんら捉えられていないことになる。」(75〜76ページ)

〈E〉「エンゲルスはヘーゲルの弁証法が化学の領域でもっとも威力を発揮すると診断している。これは弁証法そのものの本性に関連している。弁証法の反転が生じるのは、事柄の境界においてである。事柄を追い込むようにして論証を進め、事柄の境界に到ったとき、事柄そのものが事柄の反対物を同時に要請してしまう。」(76ページ)

〈F〉「当面ここで確認できるのは、事柄を境界に追い込んでいけば、境界において明確な二分法(在る・無い、肯定・否定、正・負など)が出現することであり、弁証法的な転移は境界においてこそ意味をもつという点である。……ひとたび弁証法的な統合が語られれば、二分法的両項の統合ということになってしまう。『自然弁証法』で、ヘーゲルの論理が化学によくあてはまると言われるのは、異なる構成要素からの化合物の合成が、境界で生じる事態に構造上似かよっているからである。」(77〜78ページ)

〈G〉「しかし事柄の境界への追い込みを除いて、自然界のいたるところで法則として弁証法が妥当しているとなれば、化学の化合物のように唖然とするほど無理やりな話になってしまう。もとより弁証法的な反転や統合は境界においてしか生じない。階層生成をともなう飛躍的生成は、事柄の境界においてのみ生じるのである。これに対して、自己組織化の議論は、システムのいたるところに新たな秩序形成の可能性が確率的にふくまれていることから出発する。階層生成をともなうシステムの生成プロセスの可能性は、システムの全域に遍在する。それが『ゆらぎ』である。」(78ページ)
[註64]
すでに触れたように、河本英夫氏がヘーゲル弁証法に対して見せる敵愾心はその実体説・合理主義・必然論にある。つまり、「実体として先在する絶対精神が、あらゆる偶然を通して必然的に、その既存する合理的な永遠の論理を外化し、自己展開して、ついに自己自身に戻る」という思想が、事柄の、とりわけオートポイエーシスの盲目性・混沌性・偶然性・可能性・創発性に反するからである。だから著者の言う「ゆらぎ」は本質的に反ヘーゲル的な性質を持っている。

しかし「盲目のオートポイエーシスが全くの混沌から単に偶然だけで自己創発的にその可能性を現実化して生成した」ということに、どれだけの真実味があるのだろう? いかなる秩序もない混沌などは「無」と同様に存在しないし、秩序が一切存在しなければ、可能性そのものも存在しない。

ホーキングによれば、宇宙創世以前の虚時間宇宙にも量子力学の法則が想定されている。量子力学はなるほど量子飛躍などの「原理的偶然」の存在を許す。だとしても、それはそういう量子力学の法則があったうえでのことなのである。

 一旦宇宙が創世されてしまうと、ただちにほとんど全ての自然定数値が決まってしまい、あとはそのとき定まった自然法則の支配のもとで、物質の運動や進化が行われるにすぎない。そして物質進化のそれぞれの最初の局面以外では特段に新しいことも起きず、それらの多くの運動は周期的であり、それぞれの生命活動や生物活動も周期的である。

そういう条件のなかではじめて、著者のいわゆる「オートポイエーシス」なるものも生れてくる。なにも全くの混沌から「オートポイエーシス」が生成されるわけではない。それは多くの既存既定の諸条件の上で現れたのである。「ゆらぎ」はいつも既に存在する何ものかの「ゆらぎ」でしかない。

(@)〜〈G〉のそれぞれについては後で触れるが、これらを総論的にみると、著者はなにか弁証法が単なる化学変化の論理であるかのように曲解させようとしている。だが弁証法は決してそのような性質のものではない。物理・化学・生物学・意識(心)・社会・歴史などにも適用できる性質のものである。

生物学の分野については、弁証法はなるほど、まだダーウィン説が現れる前だったので生命進化の論理として提出されたものではないし、その面では多少不備があるけれども、それでも「弁証法は有機的」と言われてきたように、それは生命活動の論理でもある。また、量と質・対立物の相互浸透・否定の否定の弁証法は何も「境界」でのみ作用しているものではなく、「境界」でその作用が最も露になるだけである。どこででも作用していないものは「境界」で作用することもない。

ヘーゲルは「絶対精神」という神的な実体を想定し、それを唯物論者のエンゲルスは「物質」に置き換えた。とはいえ実体の存在と弁証法とは直結するものではない。極論すれば、「実体を想定しない弁証法もありうる」ということである。

ところで著者によれば「エネルギーは機能で、物質は構造だ」ということらしいが、エネルギーは相対論的・量子力学的な時空構造の中にあって、いつも何らかの形態を持っており、純粋に非構造的というものではない。純粋エネルギーとされる静止質量のない電磁波〈光)でさえ、通常の4次元時空間の空間を構成するマイナスエネルギー状態の微粒子(ディラックの「ロバの粒子」)を媒質(一種の構造物)とする波動であるとされている。

また時空10次元超ひも理論や最近の時空11次元のM理論では多次元空間における超紐や超膜といった構造体の存在とその揺れが想定されていて、構造とエネルギー、空間と時間がさらなる奥行きを見せている。そういう時空の構造があった上でのエネルギーであって、原初的混沌を想定させるような純粋に非構造的なエネルギーというものは存在しない。

機能主義は容易にエネルギー主義に結びつくが、それはあたかも空間と時間とでできている宇宙を時間だけで説明しようとするのと同様の誤りである。なぜなら、「時間─機能─エネルギー」というパターンは「空間─構造─物質」というパターンと対極をなしているからである。位相であれ実相であれ時間と空間が共に必要なら、機能と構造も共に必要なのだ。

それでもなお、「原初のビッグバンでエネルギーがヒッグス機構によって質量を得、物質の素粒子に転化したから、物質よりエネルギーの方が根源的で、したがって構造より機能が優先する」ともし主張するとすれば、それは一面的である。なぜなら超ひも理論やM理論ではビッグバンそのものとその後の宇宙の全歴史がより多次元の超ひもや超膜といった構造体の振動に起因するとされているからである。つまり構造体は我々の宇宙の構造物を越えてさらなる深みのなかに伸びている。そしてそれはすでにエネルギーと一体になっている。

弁証法でいう必然論はヘーゲルにおいては永遠の神的論理の必然的展開となるが、その場合でも偶然を媒介して必然化することになっている。そしてそういう永遠の昔に既に論理的に決まっていることの弁証法的な必然的展開論はヘーゲル哲学だけのことで、神的存在を認めない史的唯物論者のエンゲルスには当てはまらない。

ただしエンゲルスも生産力と生産関係による歴史発展の必然論を説いている。とはいえ、それは弁証法を適用した(誤った)一例にすぎず弁証法の全てではない。それにエンゲルスは歴史発展のなにもかもが必然だとは主張しない。圧倒的な数の個々の人間の主体的参与とさまざまな種類の無数の小さな偶然を通して歴史発展の大枠のみが必然的に進行するという考えである。弁証法は必然論と直結しない。弁証法はそもそも近代科学の機械論的な必然論・決定論を否定することを目的とする、必然と偶然を総合する有機的論理だった。

弁証法は、(ヘーゲルよりはエンゲルスの方がより一層、そしてその後はさらに)、矛盾・偶然・可能性・創発性・不合理・盲目性の存在を「自己発展の契機」として許している。許していないのは「完全なる混沌」だけだ。そういう意味で弁証法は合理主義と直結しない。「合理だけではない」とするのが弁証法なのである。

だから河本英夫氏が弁証法を一顧だにしないのは行き過ぎだといえよう。弁証法にもオートポイエーシス論に取り入れることのできるものがふんだんにある。ところが、著者はシェリング哲学における反省的意識以前の「無制約的なもの」(:完全なる混沌)を出発点とするから、弁証法に度外れた敵愾心を燃やすことになる。


さて〈@〉について。水素と酸素という二つの既存の要素を複合させて水という新たな階層ができあがっていることは間違いない。だから著者の批判は、たんに、「化合物(水)は第一世代の階層であって、新たな媒介変数を要求する第二世代の階層でない」ということにすぎない。自然界がすべて第二世代か第三世代のシステムならいざしらず、物理学や化学の無機物については(例外はあるが)概ねこれでいいわけだ。

〈A〉について。「初期条件から生成産物へ到るプロセスには、必然性はない」というのは第二世代についての言明だが、それはだいたい量子力学の法則が働く局面か、生命活動に局限されるものだろう。量子力学は「原理的偶然」の存在を認め、生命は(抗体反応に見られるように)環境からの不測の干渉に対しても既存のシステムを利用して臨機応変に対応するという自由度を持っている。生命の自由度は意識〈動物)や自己意識(人間)において最も発展している。

〈B〉について。これは(C)と〈D〉との関連でみると、「弁証法は既存の要素−複合体のみで生成プロセスを考察している」という含みを持っているが、それは著者が水という化学化合物の例にこだわっているからである。水はヘーゲルもエンゲルスも弁証法の一例として挙げてはいるが、彼らが挙げる弁証法の例は化学化合物だけではない。でなければ、彼らが弁証法を、生命体・人間精神・人間社会・その歴史発展などに適用できた筈がない。

そしてその場合、むろん既存の要素の複合体として未来を見ているのではなく、未来は別の要素(たとえば別の全く新しい生産様式や所有関係や消費形態など)によって創出されるものだとしている。だから、未来へのそうした過程では既存の要素が別の新しい要素へと自己発展していくわけである。弁証法が歴史発展の論理だとされているのは、そういうことを意味しているのだ。

〈C〉について。弁証法三法則を化学反応を典型例として理解しようとするから、このような誤った判断に陥るのである。量と質・対立物の相互浸透・否定の否定はなにも化学反応に典型的なものでなく、むしろ生命反応や精神活動においてこそ典型的なものだ。この三法則は、物理・化学・生物学・精神科学・社会学・歴史学など、どこにでも適用できる普遍的な法則である。ただし定量的な法則でなく、いくぶん哲学原理の様相を帯びてはいる。

〈D〉について。弁証法では「固定した初期条件から固定した産物への移行が語られるだけになる」というが、それは弁証法を固定した要素−複合体の論理だとしたからである。それについては〈B〉について答えたところで批判しておいた。

さて、オートポイエーシスは固定したいかなる既存既定の諸条件からも出発しないのかといえば、そういうことは全く不可能である。あらゆる既存の物理法則や化学法則がすでにオートポイエーシスの前提になっているからである。宇宙自体がオートポイエーシスの場合でも、ホーキングの虚時間宇宙論をみれば、すでに量子力学の法則の支配下で宇宙が創世されている。

著者の誤解にもかかわらず、矛盾・偶然・可能性・創発性・不合理・盲目性の存在をゆるす広義の弁証法は初期条件を生み出す過程についても動的に捉えることができるし、既存する初期条件から新たな産物を生み出す過程についても動的に捉えることができる。

いや、それよりも、オートポイエーシスは盲目で自己も環境も知らないで、ただ作動するのみであり、そのうえオートポイエーシス論にはすでに指摘したあれこれの剽窃や矛盾がある。したがって、オートポイエーシス論における要素−複合論の定義にしても何にしても、そこでの諸概念にはそれほどの意味はない。そのようなオートポイエーシス論に弁証法を批判する権利が果たしてあるのだろうか疑問に思う。

(E)について。エンゲルスが、ヘーゲルの弁証法が化学の領域でもっとも威力を発揮するというような言い方をしたのは、19世紀後半当時、自然科学のなかでも化学が最も目覚しい発展を遂げていたので、「弁証法はそこでも威力を発揮している」という意味の、いわば宣伝的言辞だった。弁証法は化学に典型的という意味では全くない。

「境界」については、すでに記述したように、量と質・対立物の相互浸透・否定の否定の弁証法は何も「境界」でのみ作用しているものではなく、「境界」でその作用が最も露になるだけである。どこででも作用していないものは「境界」で作用することもない。それはつまり、「境界」で作用することは境界によって区切られているものの全域に作用しているということなのである。

境界の内も外もない曖昧模糊で、そもそも境界で何が起きているかもさっぱり分からないオートポイエーシス論が、著者によっても少なくとも境界で何事かを捉え得るとされる弁証法を批判する権利はない。色も形も見えない盲人が色盲の人の見る世界を、「形の境目しか見えていない」と批判する権利があるだろうか?

〈F〉について。ものごとの力動にはいつもその背後に矛盾した二つの力が働いている。それを統一的に見ていこうとするのが弁証法だ。矛盾し拮抗する二項を総合しようとすることは力動する世界を把握するためには不可欠である。それと要素−複合論とは直結しない。二項は要素の二項だけでなく、要素と複合も二項となりうるし、既存と未存も、(著者の立脚点であるシェリングの自然哲学における)無制約的なものと制約的なものも、混沌と秩序も、二項になりうるからである。

 だいたい作動を通じて自己の境界を区切るというオートポイエーシスについての議論も、「観察システム」からみると、自己と(非自己なる)環境との二項になっている。(説明がなくどうもよく分からない論理ではあるが)、オートポイエーシスのカップリング系では、環境は「内部も外部もないというように」自己に浸透しているものとして受け入れられているから、「オートポイエーシスには盲目的自己の作動だけがあり、環境は存在しない」と型どおり主張して、自己と環境との二項論を否定する、ということも、著者はできない筈である。「観察システム」が存在しなければオートポイエーシス論そのものが成立しないから、なおさらそういえよう。

〈G〉について。著者は「階層生成をともなうシステムの生成プロセスの(確率的な)可能性は、(境界だけでなく)システムの全域に遍在し、それが『ゆらぎ』だ」という。だが、弁証法は境界だけで機能する法則でなく、ただ境界で最も露になるというだけであり、それは実は境界によって区切られているものの全域に作用しているのである。そしてエンゲルスにおいては弁証法は「本質は現象する」「可能性は実現する」という論理であって、可能性は現実性とともにその存在が認められている。

エンゲルスが『自然弁証法』で記しているように、弁証法はすでに完成した体系でなく、これからも豊かに発展していくものである。それはヘーゲル→マルクス・エンゲルス→レーニン・毛沢東へと発展した後もさらに新しく発展してきたし、これからもそうなっていく。それは弁証法自身がもともと有機的論理であるためだが、発展を内包するそういう体系を、すでに成長が終わった体系に対するように批判することはできない。機能と構造を弁証法的な対極と見ることによって機能主義や構造主義を止揚しうるという点だけでも、単眼的な機能主義のオートポエーシス論より優れているのである。


 ここで第U章 自己組織化(第二世代システム)第3節 シェリングの自然哲学の要約を紹介したい。(A〜Dの符号はHP開設者による)

(A)「自己組織システムを理論構想として考察するにあたって多大な手がかりをあたえてくれるのはシェリングの自然哲学である。自己組織システムの基本的視点を、全面的にみたしているようにみえるし、さらにいくつかの点でオートポイエーシスまで突入しているからである。……シェリングの自然哲学では、自然の認識論的な位置づけは、象徴的に「先験的過去」という言葉に託されている。意識、さらには自己意識の追想によっては、すでに思い起こすことのできない過去こそ、自然だというのである。……自然は、自己意識がたまたまそこから系列的に派生したかもしれないような進化論的な前史ではなく、意識そのものの基層である。」(102ページ)

(B)「意識、とりわけ反省的意識が対象を捉えようとすれば、意識はあらかじめ、自律的なものとしてみずからの境界を設定してしまっている。……この意識に対して客観が対置されることになる。シェリングは、これを反省による抽象の結果だという。主観的意識の成立と客観的対象の成立は論理的に同時であり、いずれも抽象の結果を捉えているにすぎない。……そのため客観の起源を問うためには、抽象された意識の立場からではいつも遅すぎるのである。意識がそれに対してはいつも遅すぎる過去、それこそ先験的過去であり、自然である。」(103ページ)

(C)「だからといって、主観−客観の未分化な状態を基層に据え、自然への解明を進めるというわけにはいかない。……主観−客観の未分化な状態というのは、意識がそれとして成立したのち、意識の反省をつうじて、主観、客観の分離以前へと遡行しようとする、純粋に意識の立場からの議論である。先験的過去は、……もっとも単純な場面で取り出せば、行為と意識の関係にかかわっている。(:例えば電話しながら電話している行為を十全に意識できないように)、行為しながらその行為を十全に意識することはできない。……行為を対象として意識すれば、遂行されつつある行為から離れなければならず、そのことによって意識は行為を捉えるためにはいつも遅すぎる。……ヴァイツゼッカーの定式化によれば行為と意識との間には根源的な裂け目があり、意識の側からそれをうめることはできない。シェリングが自然哲学で解明しようとするのは、この行為する自然(:「それじたい物質となり生命となり人間となる精神」268ページ)であり、意識以前につねにすでに行為している自然である。」(104〜105ページ)

(D)「シェリングの自然哲学において、自然を作動する機構として組み立てる場合、はっきりと判別できる道具立てが二つある。動力学(:力動論)と有機体論である。……シェリングは知の絶対的根拠をもとめるという企てのもとで、『無制約的なもの』を指摘する。経験的な知の対象は、いずれも制約されたものだが、制約されたものは、……無制約的なものに対する反定立という仕方でのみ定立される。そうだとすると無制約的なものは知の対象ではありえず、物でもない。(それは)それじたいで存在するような絶対的な活動性である。自然が意識の前史として、知の根底に据えられると、自然はそれじたい無制約的な活動性だとされる。ところが無制約的な活動性は捉えようがないのだから、この活動性は制約されて、〈:意識にとっては)特定の個物となる。」(107ページ)


 これをシェリング自身「ディナミーク」(力動論)と呼んでいるが、従来の動力学との「基本的な相違点は以下の三つである。」

(1)シェリングは無制約的なものを物質ではなくエネルギー的なものとして捉える。ニュートン力学では剛体がモデルケースだが、「それに対してシェリングは、おそらく溶液の中から突如析出する結晶や、大気中に突如出現する雲をモデルケースにしている。そのため物質は空間内に空間の内側から出現するというのである。……現代的にいえばエネルギー場のようなものを想定し、そこになんらかの制約が働き、特定のエネルギー形態になるという理論構想に近い。」

(2)ニュートン力学の基本は均衡であるが、シェリングでは「無制約的な活動性」と「制約する活動性」との不均衡を前提としている。根源的活動が(:無制約的活動を一方に据えた)不均衡な二重性のため、産物は(:予期せぬかたちで)みずから自身を超えて高まっていく可能性を含むことになる。

(3)ニュートン力学では空間は絶対的な前提で、物質に先立つものだが、「シェリングの構想においては、根源的な活動性は空間内にはなく、産出性はそれじたいの活動によって空間をみたし、みたされた空間が物質であって、物質が空間をみたすのではない。……このことによって三次元空間を相対化することができる。」(109〜110ページ)


「シェリングが自然を機構化するさい、有機体論がもう一つ大きな柱になっている。有機体は、形式−質料、原因−結果、(産物−産出)、部分−全体のような二元的分離を現実的に断ち切る機構として導入される。」(110ページ)

「不均衡状態にあるものは通常次々とかたちを変える。(:ところが)自然界は定常的に安定した個物でみちている。この事態を説明するために、シェリングは産出が連続的に反復される機構を考える。……自己自身へと回帰するように産出が反復されることが産物の自己維持であり、反復によって産物は自然界の特定の次元を占めるようになる。(これは)現代でいう『自己言及的作動』の原初形態である。……階層分化の機構に関してシェリングは十分言葉を費やしていない。にもかかわらず産出の反復の機構は、階層分化を直感的に捉えている。」(111〜112ページ)

「さてこうしたことから自然哲学の構想は、動力学と有機体論の極限的な組み合わせで成り立っていることがわかる。視覚的に形象化すると、動力学は根源的ニ力の拮抗であり、有機体論は反復的に作動する円環である。」(112ページ)

 シェリングの議論のうちシステム論に生かしうる点は(1)産出的力動の現実化 (2)円環プロセスの生成 (3)階層形成の段階 以上の三つである。
[註65]
これをみると著者がシェリングから著しい影響を受けたことが分かる。なかでも意識によっては知識とならない「無制約的なものの作動」が大きい影響を与えている。これこそがオートポイエーシスの偶然性・可能性・創発性・盲目性・混沌性の由来するところだ。

(A)から(D)をみると、「無制約的なもの」は意識以前の「行為する自然」(先験的過去)で、それは意識によって立てられる主観−客観図式を超えるものだとされる。だが、意識以前のものがどのように人間に把握できるというのであろう? 行為の視点から事物を捉えるという場合でも、それは「観察システム」がオートポイエーシスに対してそうであるように、結局、意識が行っているのではないだろうか? だからこそシェリングも、意識不可能な「先験的過去」なる「無制約なるもの」から意識可能な「制約する活動」を導出し、その両者の活動で力動論を展開したのではないか? 

シェリングは「意識以前の無制約的なもの」という言葉で、知識では捉えられない汎神論的な絶対者を想定している。おそらく無神論者である著者の河本英夫氏が汎神論者である筈はないだろうが、それでも「無制約的なもの」(つまり混沌)を原初に想定している。しかしこれは実証不可能な哲学的想定であって科学的命題ではない。

そもそもなぜ意識は意識以前のものを捉えることができないのだろう? 「意識が生じると、意識の主体としての主観と、意識される対象としての客観が分けられるから、意識はいつも両者が分けられる前の実態を取り逃がしている」というのは、果たして真実なのだろうか?

著者の「作動」するオートポイエーシスは反省的意識以前の「盲目」状態だが、それはつまりこの「行為」と「意識」との本質的乖離論に起源する。

とはいえ、本当に行為と意識とは本質的に乖離しているのだろうか? 著者が挙げている電話における行為と意識の例は、意識と行為との本質的な乖離なのか? 電話していることを意識すると、電話している行為がリアルタイムで十全に意識されないとしても、それで電話をする行為の本質が捉えられないと果たして言えるのだろうか? 

考えてみれば、電話をしている行為は電話をしていないときにその内容を検討してみることで十分に理解できる。著者が「システム内部の視点でシステムを見ないとオートポイエーシスは理解できない」という意味は、「外部からみると、そのもの自体の視点が見失われ、時間的に寸断され、空間的に局部化されたものしか把握できなくなり、生きた全体としてのそのものの動的な実態が見失われる」ということに尽きる。

それは(電話のときと同様に)リアルタイムの理解ができないという意味でもある。後で行う理解はすべて対象の外からの理解になるからだ。しかし対象を理解するとき別にリアルタイムで理解する必要などは全くない。局部局部の瞬間瞬間の有様を把握し、あとでそれを全部つなぎ合わせてアニメーション化すれば、生きた実態を、ほとんど残りなく、本質理解から外れることのないままで、理解できる。

それが対象そのものの視点からみたものと違う理由は全くない。「意識は主観−客観図式にしたがって実態を引き裂く」というのは、不可知論を展開するカント的な理解にすぎない。何度も紹介したように、進化論的可知論からすれば、意識はちゃんと正しく客観的対象の認識を行っているのである。独我論者からみれば客観的な他者の視点が可能なのはいかにも悔しいことかもしれないが、これが世界の真実なのだ。

そもそも「時間的に・空間的に切断されないそのもの自体の視点」なるものは、実際、我々に意味があるものだろうか? 意識以前のそういう視点は、我々にどういう具体的な方法論を与えてくれるのだろう? 著者の示したf(□,□,□,□,……)というオートポイエーシスの方程式によれば、その変数は何もかも未知の□(?)ではなかっただろうか? これは何もかも未知なので何にでも応用できるということでもあるが、それは同時に、何の具体的な方法論でもないという意味でもある。

二元的分離の克服については、シェリングの属するドイツロマン主義(啓蒙主義の分析的知性や実証的経験の重視を否定し、直接的感情や天才的直感、全一的生命を尊重する立場から創造者なる絶対者を考え、世界をそれの漸次的自己実現とし、人間においてその最高の実現をみる)から出発したヘーゲルの弁証法こそが、論理的・反省論的な・精神(意識)の現象学のかたちで、それを目指した。シェリングは二元的分離を、論理や反省を経ないで、すぐさま直観的に、いわば神秘主義的に克服しようとしたにすぎない。

不均衡力学による自然の発展やその円環による階層形成なども、、矛盾論や、次々と入れ子式に続く正・反・合の弁証法の姿で、原初的にはすでにヘーゲルにも見られるものである。


HP開設者の哲学的立場

最後にHP開設者の哲学的立場を簡単にご紹介すれば、この宇宙に対しては進化論的可知論である。だが、この宇宙を超えた諸宇宙については不可知論だ。人間を生んだこの宇宙は人間と同様の質であるため認識可能だが、この宇宙を超えてしまうと、それが保証されない。

我々が何物かについて「存在する」と言う場合、それを感覚器官で感覚してそういうわけだが、我々が感覚できるのも、感覚器官を構成する素粒子と感覚対象を構成する素粒子が同じ種類だからである。

そもそも同じ種類の素粒子で構成されているものの間にしか相互作用はありえない。素粒子が異なる別の宇宙は我々の感覚器官には透明である。だから認識はおろか、その存在さえ掴めない。別の宇宙の中には我々の言葉や数字さえ全く意味をなさないものもあるだろう。そこでは我々の一切の論理学や数学も無意味化する。

そして我々の宇宙を含むこれら全ての宇宙を超えた次元に創造者なる神が存在する。さらに、「神存在の普遍的な『三一』の印」の論稿末尾のニ宇宙説に関する「個人的な超常現象体験」(とくに黙示録の一聖句の有無)で示したように、その神が我々の自然や歴史の全てをあらかじめシナリオ化し、それらを上演している。だから全てはいわば「一ミリ一秒まで決まっている」。だとしても、それは我々の自律性や自由度と矛盾しない。

我々の宇宙は弁証法的に自己発展する法則のもとで神に創造され、それゆえにこそ我々のような自由な主体が生命進化の末に現れることができた。物質あるいは宇宙が自律的でなければ自律的主体としての人間がこの宇宙に出現することはあり得ない。

神がこの物質宇宙を自律的なものとして創造したのは、いずれ神と人間とが出会い相互理解できるようにするためであり、主体としての神は主体としての人間にしか理解できないからである。それゆえ全ては決定されてはいるものの、人間は自律的で自由である。

人間の自律的自由の形式を通して神は世界史のシナリオを実演する。簡単に言えば、人間の意欲を通して神は人間を動かすので、人間は、神の作用と自分の内なる意欲と区別がつかないのである。

とはいえ、神は何も弁証法の諸法則に縛られているのではない。弁証法の諸法則は神が任意に定めた法則であり、神の性質とは無関係である。

そもそも哲学的立場として可能なのは、

(1) 神が事実この物質宇宙を客観的に創造した(有神論的宇宙論)
(2) 神がその全能コンピュータ(神の心)の内の特定の心的システム回路(たとえば「私」や「あなた」や「彼」)に架空の感覚情報をインプットして、その大脳やそれを取り巻く身体や宇宙や人間社会があたかも物質的に存在するかのように仮想体験させている(有神論的独我論)
(3) またあまりありそうにないが、(2)の拡張版として、複数の心的システム回路に同じ宇宙や歴史の感覚情報を、機会原因論的にあたかもそれぞれの立場から架空に体験させているという場合もありうる(有神論的複数独我論)
(4) 物質宇宙は神無しでそれ自身で自生し自存する(唯物論)
(5) 物質宇宙は神無しで人間主観が構成した幻影である(独我論)

この5つの立場しかない。

(4)は「有るは有るである。したがって有るは自存する」とするギリシア哲学以来のトートロジー(同語反復)の伝統を持つ。これはつまり「AはAである」という同一律において、Aを「有る」と置いたものだ。同一律の論理的自明性に依存して「有る」を導出しているにすぎない。つまり論理という言葉にだけ依存した方法による、言葉の「有る」から実在の「有る」の導出である。ともかくここでは「有る」は決して被造物ではあり得ない。その「有る」が物質だとされると唯物論になる。

(5)は現実世界を先験的主観の構成物だとするカント説、またヒューム説など知覚の向こうに客観的対応物はないとする(経験論を含む)古今の様々な感覚主義哲学などがそうである。

現実世界を仮象とするインド系のバラモン教・ヒンズー教・仏教説はおおむね宇宙は神・仏だとする汎神論・汎仏論だから(2)(3)(4)(5)の中間形態だといえる。宇宙は神・仏として自生自存するものとみると同時に、神仏の見た一夜の夢とも、また自分の見ている夢ともするからである。

(1)と(2)と(3)はともに神の創造した世界であり、一つは普通の客観的な物質宇宙、のこりの二つはバークリー哲学にみられるような主観的な仮想宇宙である。(2)と(3)の場合、神は特定の心的システムに一種の夢を見させているといえる。デカルトはバークリー以前にこのような立場を一応想定し、それを神の完全性(誠実性)によって認めず、この宇宙の客観的実在性を認めた。

ところが、実は神はこの現実と夢の二つの宇宙を使い分けている。神はあるときは人間を物質宇宙におらしめるが、時にはしばし仮想宇宙へと連れ出し、それからまたもとの物質宇宙に戻すということも行う。多くの人間がいる客観的な物質宇宙の中から特定の個人を選んでしばらくのあいだバーチャルな現実という夢をみさせ、そしてまた、もとの物質宇宙に戻すわけだ。この「バーチャルな夢」という点ではインド系のバラモン教・ヒンズー教・仏教説にも通じている。

だから現実と夢の両方の宇宙がともにあり得るのである。インド系のバラモン教・ヒンズー教・仏教説の言うように主観の彼方に物質宇宙が実在しない場合もあるし、また存在する場合もある。どちらか一方でなければならないというわけではない。

したがって、従来の(1)と(4)の普通の客観主義哲学も、(2)(3)(5)の独我論的な主観主義哲学も、自己絶対化する「主義」、つまり「どちらか一方だけである」という立場としては真実でない。

(了)