横浜探検隊!

岩亀楼ゆかりの地の探検

● 喜遊(亀遊)について

喜遊の辞世  岩亀楼を語る上でこの話を語らずにはいられないというのが、「喜遊」という遊女の物語です。
 喜遊は岩亀楼の中でもとりわけ人気のある遊女で、器量、心意気ともに兼ね備えていました。
 こんな素晴らしい女性ならば是非会ってみたいものだと目をつけた人の中に、ペリー艦隊の軍人がいました。 この軍人は喜遊にどうしても会いたくて、岩亀楼を訪れるのですが、喜遊としては外国人の相手をするのが嫌でこれを拒み続けました。 そこでこの軍人は幕府の役人を通し、岩亀楼の主人に喜遊がその軍人の相手をするようにと命じたのです。
 しかし喜遊としてはどうしても外国人の相手をすることだけは拒みたかったため、
 「露をだに厭う倭の女郎花
 ふるあめりかに袖は濡らさじ」
 という辞世を残し、自ら喉を懐剣で突いて自害したというお話です。
 この物語については、有吉佐和子さんの「ふるありかに袖はぬらさじ」という作品で鑑賞することができます。
 ちなみに、この喜遊については不明なことも多く、この話が事実かどうかは分からないとの事ですが、 遊女たちが外国人の相手をしていたのは事実のようです。

● 岩亀楼の灯篭

岩亀楼の灯篭  岩亀楼があったのは、現在の横浜公園のあたりです(当時は港崎(みよざき)と呼ばれていました。)。
 日米通商条約によって横浜が開港されたのが安政6(1859)年6月2日です。それより少し後の6月10に岩亀楼は港崎廓仮宅として開業し、 同じ年の11月11日に港崎廓として移転開業しました。
 幕府が開港場に遊廓の設置を認めたのは、駐留する外国人と日本人の間に問題が発生するのを防ぐ意味合いがあったと考えられています。
この港崎遊郭の中で特に目立ったのが、岩亀楼や五十鈴楼であったようです。なかでも岩亀楼の建物はとりわけ豪華で、 「美那登能波奈(みなとのはな)横浜奇談」では、「岩亀楼の家造りは、蜃気楼のごとくにして、あたかも龍界にひとしく、 文月の燈籠、葉月の俄踊、もん日もん日の賑わひ、目をおどろかし、素見ぞめきは和人、異人打ちまじりて、昼夜を分かず」と表現されています。 また昼間には、建物の見学を希望する人からお金を取って建物の内部を案内したりもしていました。
   しかし、岩亀楼を含め港崎遊郭は、開業から7年後の慶応2年(1866)に起きた大火災により消失してしまいました。
そして現在、横浜公園の一角には、岩亀楼の石燈籠が置かれているだけで、港崎の名前も遊廓もありません。

● 岩亀稲荷

岩亀稲荷  「岩亀稲荷」は、横浜市西区戸部町の岩亀横丁にあるお稲荷様です。
 この「岩亀」という名前の由来は、横浜の開港当時(1859年:安政6年)の港崎(みよざき。現在の横浜スタジアム付近。)町にあった、 一番大きく豪華な遊郭「岩亀楼」からとったものです。当時この「岩亀楼」の遊女らが静養するする寮がこの横丁にあったことからこのあたりを 「岩亀」と呼び、寮内にあったお稲荷様を「岩亀稲荷」と呼びました。
 現在では岩亀楼の寮はありませんが、今でもお稲荷様だけは残されています。そして毎年5月25日には盛大に例祭が行われています。
 このお稲荷さんの入り口は大変狭く、一見邸宅の入り口のようですが、門をくぐって入ると、小さな鳥居と祠があります。 両脇は住宅ですので、中には静かに入りましょう。

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