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森岡正博 ★★★

著者の紹介

1958年高知生まれ。大阪府立大学総合科学部人間科学科教授。生命倫理、哲学、科学論。生命学を提唱。「脳死の人」(法藏館)、「生命感を問いなおす」(ちくま新書)、「宗教なき時代を生きるために」(法藏館)、「生命学に何ができるか」(勁草書房)など。

著者について

僕の部屋に3冊著書が転がっているが、まずは「宗教なき時代を生きるために」を読んだ。

おすすめ著作とおすすめしない著作

特になし。

リンク

Life Studies Homepage 森岡正博のHP。生命学の情報満載。テーマ別のレポートや掲示板、著書紹介など、どれも充実している。著書をPDFで全文公開するという試みもすばらしい。リンクやプロフィールは笑え、森岡さんの人柄がうかがえる。

著作リスト

★★☆ 宗教なき時代を生きるために
★★★ 生命観を問い直す
★★★☆ 脳死の人

著作の評価

「宗教なき時代を生きるために」 法蔵館 1996年 おすすめど ★★☆ 2003年3月1日読了
 オウム真理教とはなんだったのか。確かなことは日本の社会で起こった出来事である。だとするとオウム真理教が生まれ、バブル期に信仰者を増やし、最後には地下鉄サリン事件を引き起こすまでにいたった原因は日本の社会にあるはずだ。オウム真理教を論じるときには自分たち自身の問題と認識しないと論じることはできないし、論じたところで何の役にも立たないだろう。著者は自分もまたオウム真理教の信者であったかもしれない、精神構造はオウムであったと認め、そこから自分の20代のときの体験を述べつつ、オウムに至ってしまう精神構造を明らかにしようとする。著者はもともと科学者にあこがれて大学に入学した。しかし、生や死とは何なのか、絶対の真理とは何かなどを知りたかった著者にとって、現在の巨大化し複雑化した自然科学はそのような問いの答えを求めるものではなく、それどころかそのような問いを持つことをはじめから拒否しているように思えた。結局文学部に転部するが、閉塞状況に陥ってしまっていたときに超能力や神秘体験にあこがれていたことを正直に告白する。超能力を身につけることによって真理が手に入るかもしれない、自分が生まれ変わるかもしれない。自己の体験に基づきながら、何故超能力や神秘体験にあこがれたのか、閉鎖的な空間で人が、我々の外部=間違い、悪と我々=正しい、正義の世界を作っていき、またその世界の居心地のよさに自分の場所を見つけ出していく心理を述べている。オウムの信者たちは超能力や神秘体験に憧れて、あるいはこの世の真理や生きる意味を知りたくてオウム真理教に入信したのだろう。しかしその結果は真理を教祖の中に見出し、自分たちだけの濃密な閉鎖空間を作り出した。真理は自分たちの側にあり、外の世界が間違っているというと精神構造を過剰に育ててしまい、最後には地下鉄サリン事件を起こしてしまう。オウム事件を目の当たりにした今、私たちは他人が述べる真理を自らの真理に重ねることでは自分を救えない。自然科学もそのような問いにこたえてくれない。それでは、どうすればよいのか。著者の答えはいたってシンプルだ。自分の目と頭で考えることである。自分で考えることは孤独でとてもつらい作業だ。そのようなときに絶対的な真理を説く人がいてその誘惑に負けそうになっても、もう一度自らが考えそのような真理を相対化してみることである。そして孤独に陥ったときや誘惑に負けそうになったときにはそれを支えてあげられるネットワークが必要なのだと著者は説く。すべての苦悩を背負ってあげることはしないし不可能だが、ほんの少し苦悩を分け合うことができるようなネットワークである。生きる意味なんてどうでもいい、この現実に適応していくだけだという人もいるだろう。しかし、そうでない人もいっぱいいる。そんな人たちがオウムに自分の生きる場所を見出してしまったのだ。そういう人たちのためにこのようなネットワークが必要であると著者は説くのである。

 この本は特に目新しいことが書いてあるわけではない。大方常識的に考えれば行き着く答えである。この本の良いところは著者がオウムの事件を自分のこととして認識し、自分の体験を振り返りつつ誠実に論じているところだ。自分の体験を正直に告白することによって説得力が出ている。著者と同じような体験や悩みを持つ人にとってはこの本を読むことは非常に大きな力となるのではないだろうか。しかしこの本は決して処方箋を提示していない。支えあいのネットワークが必要と書いているが、具体的にはどのようなものがありうるのか提示できていないし、著者もそのことを認めている。そのようなネットワークができたところで新たな宗教やサークルになるだけであろう。著者は具体的な解決法などは言えないが、この本を手に取った読者が自分の頭で考えるということを学んでほしいと願って書いたのではないかと思う。そういう意味ですばらしい本である。しかし、私にとってはあまり評価が高くない。なぜなら私は生と死の意味を切実に求めたことがないし、真理などどうでもよい。毎日がそれなりに楽しければいいのだ。そんな私にとって本を読む理由は思いも寄らない視点からの分析や主張を楽しむことである。そういう意味で、この本の主張の大半は納得できることであるが、それ以上の思いもよらないことはかかれていなかった。尾崎豊について論じた章があるがなかなか面白いので、尾崎豊ファンだった人にはすすめたい。

「生命観を問い直す」 ちくま新書 1994年 おすすめど ★★★ 2003年12月20日読了
 現代社会が直面している大きな問題に環境破壊の問題と脳死や生殖技術などの生命倫理の問題がある。この二つの問題はどちらも自然と生命をどのように捉えるかという問題である。この二つの問題を生命という視点から捉えなおし、過去の議論とそれらの議論の問題点を分かりやすく説明している。ポイントをついた入門書としておすすめできる。

 私たちは自然を利用しつくすことによって現在の快適な生活を維持している。だが、地下資源を大量に利用し、二酸化炭素を排出し、他の動植物を絶滅へと追い込んでいる。そしてとうとう私たち人間自身の生活もこのままでは危機的な状態になりかねない。自然の許容能力を超えて、自然を利用しているのである。一方で自然の利用は私たち人間という自然にも及んできている。自然を機械的に利用するものとみなす考え方が技術の進歩によって、人間自身も利用可能な対象となったのである。出生前診断、体外受精などによって良い遺伝子のみを残すという考え方や身体を取替え可能な部品とみなしたり、実験台とみなす考え方が確実に広まっている。だがこれは人間社会に人の生死や生命の価値といったものに大きな混乱を引き起こす。

 このような事態に私たちはどのように対処すべきなのだろうか。科学技術至上主義への批判はこれまでいくつも出てきた。ルソーの時代から現代まで、ディープエコロジーやニューサイエンスなど自然主義的な考え方はいくつも提示されているのも関わらず、それほど私たちの生活は変わっていないし、環境問題はいまだに深刻である。議論はされてきたし、一部の人は自然環境にダメージを与えないような生活を送ろうとしている。だが、全体としてはせいぜいごみを捨てるときに分別をきっちり行う、スーパーで袋をもらわないようにするといったことぐらいしか生活習慣は変わっていない。省エネやリサイクル技術など産業技術の発展による解決を人々は期待しているようにも思える。私もそのような期待を持っていることを否めない。

 著者は生命という視点を導入してこれらの問題を論じようとしている。生命の本質とは快楽を求める欲望であるという。人は無尽蔵の欲望があるし、いったん叶えられた欲望を捨て去ることはできない。健康な子供が欲しい、より長くいきたい、豊かで健康的な生活を送りたい。これら「生命の欲望」をどのように考えるのか。著者は臓器移植の問題に触れて、他人の臓器までもらって生きたいと思うエゴイズムを強調する。他の動植物や地球環境、発展途上国の人々を犠牲にしてまで、豊かな生活を求めたいという考え方と同じである。

 この「生命の欲望」という視点はよく理解できるし、そのとおりであると思う。この視点の強調は環境倫理や生命倫理の問題を論じるうえで重要なものであるとは思うが、しかし実践的なものにどう結びつくのであろうか。人間にはエゴイズムがある。そのとおりだと人は答えるだろう。豊かな生活を求めることが悪いことだとはいえない。環境問題や南北問題があってもそれは技術の発展で解決すれば良いし、解決できない間は何らかの規制をかければ良い。医療の問題にしても、存在している人間への差別や家族など周りの人に対するケアをきちんと解決できれば、身体の資源としての利用も可能なのではないだろうか。本書は実践的な解決策を述べるものではないが、「生命の欲望」を強調したときにそこからどのような思想が生まれ、影響を与えるのかが見えてこない。人間にはエゴイズムがあると理解したときに、出てくる解決法は自然環境のコントロールと本人の意思を尊重した先端医療という結論に落ちつくように思える。つまり、現在の社会的なスタンスである。環境問題や先端医療の問題に興味を持つ人は、現在の社会の考え方を超えた解決法を模索しているはずである。生命倫理学や環境倫理学の発展がどのような思想を生み出し、そして社会政策や人々の意識にどのような変容を迫ることができるのだろうか。私は不安の方が大きい。企業や医師たちのエゴイズムが結局社会的な力を持つのではないだろうか。私が環境や先端医療の行き過ぎに異議を唱えるとすれば、与えられた運命やもの、身体に人があまり手をつけない方が良いとしかいえない。現在の生活レベルを下げることができないなら、これ以上生活レベルを上げる場合は環境へのコストや身体の部品化は避けたうえで生活レベルの向上に努めるべきであるとしかいえない。そしてこのような議論は実際切実な欲望を持つ人の前では弱いものであろうし、社会的な力を持つことは難しい。

「脳死の人」 法蔵館 2000年 おすすめど ★★★☆ 2003年9月4日読了
 脳死の問題を私達はどのように考えればいいのだろうか。医学的に脳死は人の死として認められている。だが死を巡る議論は医学的になされるだけでは不十分である。死の問題には物理的現象としての死だけでなく、個人や社会の死の受容という問題がある。心臓が完全に停止するのを待って初めて死を認める人は多い。脳死を意識が二度と戻らない不可逆的な状態と理解していても、それを死と受け入れられないのは普通の感覚である。特に親しい人の死の場合はそうであろう。この場合は医学的な死を理解する事ができても、死の受容が終わっていないのである。また死をどのように扱うかは社会全体のあり方にも影響を及ぼす。もし、死体を単なるモノ、資源としてみなすのなら、そのような社会では人間の尊厳が尊重されるのか疑わしい。例え死んでいても単なるモノではなく人である。単なるモノと見ることができない人たちが存在するからである。脳死という問題は脳死の人を資源として扱うために生まれた問題であることを決して忘れてはならない。その上でそれぞれの死生観を尊重しながら、次の命へとつなぐ方法を模索していく必要がある。

 本書は脳死を考える際の基本的な考え方を提示している。著者は端的に脳死を人と人との関わり方の問題であると述べる。脳死と判定された人の意思の尊重、家族の死の受容、医者、社会全体。そして移植が行われる場合には、レシピエント、移植医、コーディネーターなど多くの人が関わる。これらの当事者となる人々の関わり方がどうあるべきかが重要なのである。決して脳死の科学的な説明だけが必要なのではない。そこでは様々な問題が比較考量されつつも、まずは本人と家族が納得できる死を迎えるように配慮されるのが最優先であろう。死を受容する場所と時間、医者と看護師による家族への説明とケアなどはもっとも重要でありながら論じられることが少ない。このような立場から本書では医者と患者の関係、自分の死と他者の死、現代医療の専門主義的、システム的なありかた、医療の効率性といのちのかけがえのなさ、脳死の人の身体の資源としての利用などから脳死を論じていく。

 著者は基本的に脳死の人からの臓器移植を容認している。ただきちんとした手続きを踏むべきであると論じているだけである。本人や家族へのケアや情報の公開など基本的なことが行われる保証がない限りは移植はするべきではない。また、たとえ臓器が不足しても、まずは本人と家族の意思を優先すべきであって、意思表示のない場合の移植はすべきでないし、ましてや医者や社会からの無言の圧力で家族の意思決定が影響されてはいけない。そう考えると脳死の問題の本質的なところはほとんど決着を見ているのではないだろうか。実際に日本人は外国より脳死を死と認める人の割合が高いらしい。それでも脳死の人からの臓器移植が進まないのは医師への不信や脳死の人とその家族の尊厳を守る環境が整備されていないことが原因なのではないかと述べる。脳死が死であると受け入れるかどうかという問題よりは現代医療のあり方の問題へと論点が変わりつつあるのではないか。

 私自身は脳死の人からの臓器移植は認めざるを得ないと考えている。だが本音としてはあまり認めたくない。他人の死を前提とした医療には非常に違和感を感じるし、脳死であっても心臓が動いている状態を人の死とは考えられない。だが一方で移植によって救われる命があり、それを切実に望む人の生きる権利も尊重されるべきであると考えるから、きちんとした手続きを経た臓器移植は認めるべきであると思う。だが脳死の人の身体利用は臓器移植に止まらず、人体実験や血液やホルモンなどの貯蔵、作成などの利用の問題へと発展していく。緊急性のある命を救うための脳死の人の身体利用と漠然とした将来の医学の発展のための身体利用はきちんと線を引くべきであろう。たとえ医学が発展しても人の身体をモノとして扱うような社会が果たしてよい社会なのかどうか考えなければならない。。

 本書は脳死の問題を考える際の基本書になっている。生命を効率性の面から見るのではなく、かけがえのないものとして見る基本姿勢には非常に共感できる。このことは現代科学の先端で起きる様々な問題を考える際の基本姿勢ではないだろうか。クローン技術や不妊治療、動物実験、遺伝子治療など、私達は多くの問題を抱えている。そしてそれらの研究に携わっている専門家は自分の研究を正当化しようとするし、見切り発車をしていることが多い。科学の発達に合わせて、人の生命観や自然観は変わらざるを得ないが、そのような変化を急がずゆっくりと受容していくために社会全体の問題として議論され、コンセンサスを得ていかなければならないのであろう。当分の間は人を設計可能な部品の集合とみなすことはないだろうし、その間は人をモノとみなすような行為はするべきではないと私は考える。


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