たけの音楽小考

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3.「モーツァルトのレクイエム」


「レクイエム」、日本語では「鎮魂曲」と訳されるローマ・カトリック教会の死者の為のミサ曲は、多くの作曲家により今日迄に幾多の 作品が生まれています。清浄無垢なフォレのレクイエム、典雅でありながら悠長なチマローザ、死者もびっくりするようなヴェルディの 迫力、そしてモーツァルト最後の作品となった彼の「レクイエム」。このモーツァルトの曲について、自分の考えをまとめてみたい との思いにかられてからずいぶんと長い時間が過ぎてしまいました。この曲には彼の他の作品には無い、何か不思議な、純粋でいて かつ凄絶なメッセージが秘められている気がします。この曲の本質がどこにあるのかその秘密を知りたいと思うのですが、 自分の考えの核心がなかなか定まりません。

私自身モーツァルトのすべての作品を聴いたわけではありませんが、私の知る限りこの「レクイエム」以外のすべての作品は、 自分の体調、精神がどのような状態にあっても、彼の示すやさしさ、いたわりが海辺の砂が引く潮を吸い込むさまに似て、心にごく自然に 染み込んで来ます。しかしながら、この「レクイエム」ばかりは私の慣れ親しんだモーツァルトには無い異なった一面を、しかもはっきり した主張を持って見せています。とは言っても純粋かつ清潔さにおいては他の作品と同じに終始一貫したものがあり、ただその精神性が 私の手に届かない高次の世界へ飛躍を遂げてしまったという感じです。いかにしたら一人の人間にこのような曲が書けるのか、 モーツァルトに与えられたその才能に改めて驚嘆を覚えると共に、この曲に対しては畏敬の念さえ持ってしまいます。 彼の他の作品からは常にやさしさ、思いやりを感じ取るのですが、この「レクイエム」からは更に加えて世俗的な執着をすべて脱ぎ捨てて しまった、そして何かがふっ切れたような精神の崇高な飛翔を見る思いがします。この作品を聴いて、今まで自分はモーツァルトの音楽の 良き理解者だと思い込んでいたのですが、私がモーツァルトを理解していたのではなく、モーツァルトが聴き手である私を理解していた に過ぎなく、この最後の作品にして初めて彼がその本来の姿を現しただけなのかも知れません。

この「レクイエム」は彼が自分の死を迎えて自身のために書いた曲でしょうか。迫り来る自分の死を自覚し、与えられた最後の仕事を 完成すべく、残り時間とせめぎ合いながら必死の思いで書き急いだ作品かも知れません。しかし天は充分な時間を彼に与えず、 とうとう作品半ばで彼はこの世を去ることになります。そしてこの作品は彼の弟子によって完成されています。 でも私としては死の床の上で体の動かなくなった彼が、弟子に代筆させ完成したと信じたいのですが。

モーツァルトは全部で626の作品を残していますが、この「レクイエム」の直前までの作品たちと比べてこの最後の曲に表れた内面性、 精神性の突然の飛躍にはただ驚くばかりです。そしてそこにはいったいどのような力が彼の上に働いたのか、その力こそがこの曲が持つ 本質かも知れません。彼の多くの曲にあってこの「レクイエム」は単に最後の曲というだけではなく、何か人間の能力、英知を超えた 大きな力が働いた結果、カオスの中から音楽の純粋なもの、永遠不滅なものだけが結晶化されたような曲に思えます。




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