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靖国神社:戦没者追悼・特攻・玉砕・東京裁判 2006
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◆靖国神社・無名戦士の墓:戦没者追悼施設・玉砕と特攻・極東国際軍事裁判


写真(左):靖国神社本殿;東京都千代田区九段にあり,祭神は,護国の英霊とっている246万柱,1869年(明治2年)東京招魂社として創建された。悠久の歴史のある神道であるが,神社自体の歴史が浅いためか,建築物は国宝にも重要文化財にも指定されていない。
写真(右):第一次大戦の戦没者を追悼するために建設された米国の「無名戦士の墓」;第二次大戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争の戦没者も埋葬されている。

写真(右):1945年9月3日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上のマッカーサー司令官とサザーランド中将が参謀総長梅津美治郎大将の降伏調印を見守る。:梅津美治郎(うめづよしじろう、1882年1月4日 - 1949年1月8日)は,二・二六事件後に陸軍次官として陸軍内を粛正した。また,ノモンハン事件後、関東軍総司令官に就任し,関東軍の粛正にも関わった。終戦時の御前会議では本土決戦を主張し,降伏調印式への出席も最後まで拒んでいた。

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【アジア太平洋戦争インデックス】:日中戦争から沖縄戦まで
沖縄戦の住民:軍政と集団自決
神風特別攻撃隊:1944年10月レイテ戦
戦時ポスター:世界の動員:1940年代の連合国・枢軸国
USS GUEST DD472 OKINAWA CAMPAIGN
UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY:SUMMARY REPORT
U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、核兵器保有、祭政一致の独裁政治という本音のようだ。
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1.靖国神社には,祖国に殉じた英霊を奉るだけではなく,彼らの偉業,英雄的行為,犠牲的精神記念するモニュメントが残っている。日本軍の特攻賛美と関連して,日露戦争の廣瀬中佐による旅順港閉塞作戦,第一次上海事変の「爆弾三勇士」など日米開戦前から,大陸で開花していた突撃精神,犠牲的精神が顕彰されている。

犠牲的精神の発露による「特攻殉死自然発生説」は,1932年2月22日,第一次上海事変での日本陸軍「爆弾三勇士」でも主張されている。中国軍の陣地を破壊する爆弾を運搬した兵士の行動が,犠牲的精神の発露であるとされた。

靖国神社参道入り口に高さ25mの大鳥居がある。大鳥居(第一鳥居)は大正10年,靖国神社創建50年祭の時に建立されたが、1943年(昭和18年),資源回収のための金属供出にだされてしまう。戦後1984年に浄財1億6000万円をかけて再建された。

大鳥居を入って,まっすぐ行くと,「大村益次郎の銅像」が立っている。大村益次郎は,長州藩出身で,倒幕,天皇中心の大日本帝国の創建に,軍事指揮官として貢献。明治時代には,国民皆兵のための徴兵令,国軍創設に尽力した。

 二の鳥居近くの両側には,大灯篭が立っている。灯篭の基壇には,日本海軍、陸軍をテーマにしてた戦争関連の彫刻が,施されているいる。この灯篭は「富国徴兵保険」(富国生命保険相互会社)が,1931年の満州事変を機に、徴兵保険の売り上げ業績が伸張したために,返礼として靖国神社に奉納したものである。灯篭基壇の青銅の彫刻は,左右各7枚あるが,次のような戦場の場面がある。

1..天津城入城
2.日露戦争における広瀬武夫海軍中佐:広瀬中佐は,ロシア軍の旅順港を中古輸送船で閉鎖しようとした特殊作戦を指揮した。この時,中佐は,閉塞船に残された部下の杉野兵曹長を捜索中,行方不明になった。これが,名誉ある軍人の犠牲的精神の発露として,顕彰されている。
3.日本海海戦:戦艦「三笠」艦上の連合艦隊司令長官東郷平八朗
4.従軍看護婦:日本赤十字の活躍
5.上海事変勃発時の海軍陸戦隊による市街戦
6.第一次上海事変の爆弾三勇士:長崎県出身の北川丞一等兵,佐賀県出身の江下武次一等兵、長崎県出身の作江伊之助一等兵は,三軍神と称えられた。

写真(右):靖国神社大灯篭基盤のレリーフ「爆弾三勇士」;第二鳥居と神門の参道両脇に,日本陸軍と日本海軍の物語を彫った燈籠がある。戦時下でも,ここの金属は供出されずに,残されたようだ。

1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致――三勇士の忠烈」
 「3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
----訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(『大阪毎日』引用)

「三勇士の歌」は,『朝日新聞』『毎日新聞』が公募し,1932年3月25日に入選作が発表された。『毎日』の「爆弾三勇士の歌」には、総数8万4177編の応募があり、この中から、与謝鉄幹の作品が選ばれた。

1932年第一次上海事変における「爆弾三勇士」は,靖国神社の灯篭のレリーフにもなっている。アジア太平洋戦争では,資源回収運動がさかんになり,金属供出が自発的に,あるいは半強制的に行われた。寺院の梵鐘も供出された。埼玉県の祖父母の家でも,蔵の窓にある鉄格子を全て供出した。(そのおかげで,戦後,盗難にあった。)しかし,東京の中心にある靖国神社灯篭基壇にある青銅レリーフは,英霊追悼を具現化したものであるから,残された。宗教施設も戦争に巻き込まれ,戦争推進のための国策や動員が,宗教施設を従属させることは珍しくないが,靖国神社の場合,英霊追悼という国教的地位にあるために,優遇された。伊勢神宮もそうであるが,首相はもちろん,大元帥昭和天皇の参拝が行われている。現人神の天皇が参拝するのであるから,その権威は高い。それだけ大日本帝国にとって重要な施設だった。

写真(左):「爆弾三勇士」の歌を作詞した歌人与謝野鉄幹;(1873年2月26日 - 1935年3月26日)京都府岡崎の生まれ。山口県徳山女学校で国語教師を4年間勤めるも女生徒と問題を起こし、退職。20歳で上京。1899年「東京新詩社」を創立し、翌年「明星」を創刊した。3度目の妻の与謝野晶子と浪漫主義運動を展開。鉄幹は,1894年日清戦争を契機に朝鮮に渡る。与謝野晶子(1878〜1942)は『君死にたまふことなかれ』によって反戦歌人とされる。しかし,1932年『支那の近き将来』では「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」と,『日支国民の親和』では「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」と述べた。

宗教施設など戦争の前には動員されるに過ぎない存在なのか,戦争やそのための動員は,宗教施設に資金と英霊追悼,遺族慰安の場を提供する存在なのか。

宗教施設は,精神,心の問題を扱うのであって,戦争認識や戦争観には拘泥しなくてもいいと思う現代人もいる。しかし,勇壮で悲惨な,そして死をもたらす戦争は,死後の問題を扱う宗教と密接不可分の関係にある。戦争が宗教施設に影響を与え,本来の目的とは異なる役割を与えられることもある。場合によては,宗教的施設,英霊追悼も,国策と戦争プロパガンダに巻き込まれてしまう。

戦没者,遺族への慰めなど,心と死の問題を扱う宗教施設は重要である。しかし,戦争とかかわることで,第一義的役割が,変質してしまう危険も忘れることはできない。

2.日本軍による「特別攻撃」は,日米開戦劈頭の真珠湾奇襲に際しての特殊潜航艇による真珠湾突入,雷撃作戦である。ここでは隊員たちが「軍神」として大々的に賞賛され,靖国神社に奉られた。


写真(右):ハワイ諸島オアフ島に座礁した甲標的(甲型);1941年12月7日に真珠湾の米軍艦艇を雷撃するために湾内に侵入しようとしたが果たせなかった。真珠湾種攻撃の翌日に米軍により,半分埋もれた船体が引き揚げられた。

特殊潜航艇「甲標的」(乗員2名)の実戦での初使用は,1941年12月7日の真珠湾奇襲攻撃である。真珠湾の湾口に待機していた伊号潜水艦5隻から各1隻,合計5隻(10名)が発進した。1941年12月7日(現地時間)のことである。

特別攻撃隊(司令佐々木大佐)は,伊22の岩佐直治大尉と佐々木直吉一曹,伊16搭載の横山正治中尉と上田定二曹,伊18搭載の古野繁実中尉と横山薫範一曹,伊20搭載の広尾彰少尉と片山義雄二曹,伊24搭載の酒巻和男少尉と稲垣清二曹の合計10名である。

空母艦載機による空襲前に,特殊潜航艇が,米軍哨戒機に発見され,米海軍駆逐艦に撃沈された。残りの甲標的は1-2隻が真珠湾内突入し,米艦船を雷撃したようだが,戦果はなかった。

日本では,特殊潜航艇も真珠湾の米艦船撃沈を成し遂げたように公表した。潜航艇搭乗員10名のうち,9名は戦死・行方不明となり,「九軍神」とされた。ただし,特殊潜航艇搭乗員酒巻和男少尉だけは,捕虜となったため軍神から除外された。酒巻少尉と同じ特殊潜航艇に搭乗した稲垣ニ曹は,行方不明,海軍二等兵曹から二階級特進し兵曹長になり,軍神として讃えられる。

決死攻撃に際して捕虜という汚名を被ることは,恥である。投降できない日本の将兵は,攻撃の成否にかかわらず,帰還できないのであれば,自決するしかない。甲標的による決死攻撃は,1944年10月からの特攻とほとんど変わることがない。

戦死,玉砕すれば,靖国神社に合祀され,軍神となる名誉があったが,捕虜となれば恥辱が待っている。戦没者には,低い階級の将兵や軍属にも,ミコトとして手厚い待遇をし,敬ってくれる靖国神社であるが,生き残って捕虜となった将兵には,黙殺という厳しい処置がなされた。あたかも,捕虜は破門されたかのごとくである。階級にかかわらず死者が尊ばれるのが,靖国神社の世界である。

1941年12月7日の真珠湾への特殊潜航艇による「特別攻撃」が、部下の志願による犠牲的精神の発露であったとする見解が、流布されたが、これは1944年10月以降フィリピン戦における神風特攻隊の神話と全く同じである。部下が自発的に特攻を申し出て、上層部がその熱意にほだされて、特攻を認めて特攻作戦が行われたとされた。


写真(右):真珠湾を攻撃し戦死した甲標的5隻の搭乗員は九軍神となった。;甲標的は,搭乗員2名で,出撃した5隻の10名の搭乗員のうち,戦死したのは9名。捕虜となった酒巻少尉は,日本海軍の恥部として,軍神からはずされた。中央に描かれているのは真珠湾に浮かぶフォード島Ford Island で,ヒッカム飛行場がある。作者不詳。

昭和17(1942)年4月発行 月刊誌『画報躍進之日本』では,生きて帰らない覚悟で,特殊潜航艇による特攻が行われたことを述べ,搭乗員たちの勇気と技量を絶賛している。「自己犠牲を厭わない勇士」の感覚こそが「特別攻撃」という自殺攻撃を正当化できる。

真珠湾への特別攻撃を実施した特殊潜航艇搭乗員は,戦果をあげなかったが,軍神と讃えるためには,戦艦撃沈の大戦果が必要とされ,偽りの戦果が公表された。そして,1943年4月8日,合同海軍葬が日比谷公園斎場で行われた。葬儀管理者は,海軍大臣嶋田繁太郎(敗戦後A級戦犯として起訴)が勤めた。

軍上層部は,特別攻撃隊員の勇気だけでは,軍神とするには値しないと考えた。しかし,特攻精神を顕彰し,戦意を高揚するためにはには,軍神が必要であり,そのために戦艦撃沈という偽りの戦果を捏造した。こうしたプロパガンダには,靖国神社や葬儀を含めて,擬似宗教装置が用いられ,九軍神のような英霊の顕彰,特攻精神のを形成・喧伝に,大いに利用された。


1942年5月真珠湾攻撃犠牲者追悼式がカネオヘ基地で行われた。米国でも、犠牲者を勇士として顕彰し、戦意高揚を図っている。戦争プロパガンダは、宗教的体裁を採って行われることも多い。

たしかに、Japan and the Second World War in Asia ;Fujita Tsuguji, "The day of the Saipan gyokusai [Saipan-to gyokusai no hi]" (oil). Theodore F. Cook, Jr. William Paterson Universityでも、多角的視点から藤田の戦争画を取り上げている。特攻という生命を祖国に捧げる行為を正当化するのには,宗教にも似た家族愛、祖国愛、天皇などの高次元の精神を体現する必要があろう。

連合艦隊司令長官山本五十六大将は、1942年2月11日、ハワイへの特別攻撃隊は「多大の戦果を揚げ、帝国海軍軍人の忠烈を中外に宣揚し、全軍の士気を顕揚したることは、武勲抜群なりと認む」として、感状を授与した。

日本側は,真珠湾攻撃で,未帰還機29機(戦死49-54名)の損害を受けたが,敵艦や敵航空施設に体当たり自爆した指揮官(海軍兵学校出身者)は,勇気と戦功を評価され、戦死後,二階級特進の扱いを受けた。真珠湾攻撃時の二階級進級者は,少なくとも7名いる。有名なのは「海鷲三士官」で,海兵60-65期出身である。

⇒◆1941年12月7日(日本時間8日)の日米開戦は真珠湾攻撃を参照。
⇒◆1941年12月7日(日本時間8日)の真珠湾奇襲における特別攻撃は特殊潜航艇「甲標的と軍神」を参照。

真珠湾攻撃では、特別攻撃隊が「九軍神」とされたが、祖国に殉じた者は、兵士、軍属、民間人を問わず、靖国神社に御霊を合祀され、軍神となることができた。軍神は何百万人も存在し、祖国のために殉じる模範を示しておられる。

靖国神社の合祀は、殉国者とその遺族にとって最大の名誉である。生きている国民,兵士は、九軍神に続いて、命を投げだし、大御心(おおみごころ)に沿うように、ご奉公しなくてならない。祖国への犠牲は、靖国神社に御霊として合祀されることで癒される。これは、軍人恩給、遺族年金などと相まって,高次元の宗教的慰安を提供する。靖国神社で命(ミコト)として永遠不滅の名誉を手に入れることもできる。

 米国でも星条旗に忠誠を誓って、総力戦に賛意を表明し、動員に全面的に協力しなくてはならない。日米の個人的つながりや交流は、総力戦の前に黙殺された。敵も親であり子供である、敵にも家族があるなどという女々しい親近感は排除される。敵愾心を燃やし、敵撃滅を図る雄雄しさが賞賛される。

3.真珠湾「騙まし討ち」に勇敢に戦った犠牲者・生存者は,テロの犠牲者であると同時に,米国の英雄としても扱われている。真珠湾攻撃では,日本軍は,軍神を生んだが,米軍も英雄を生んだ。戦後になって,撃沈された戦艦「アリゾナ」の残骸とそこに眠る戦死者は,国立記念物「アリゾナ・メモリアル」となった。

米国にとり真珠湾の第一の意義は,(植民地ではなく)米国の民間人80名以上,軍人も合わせて3500名もの死傷者(死者2300名)を出したことで,「卑怯なテロ」という(米国による)判定が下る。真珠湾攻撃じゃ、多数の人命を奪った「宣戦布告もない卑怯な騙まし討ち」として非難された。


1941年12月7日、真珠湾で炎上する戦艦「アリゾナ」USS Arizona (BB-39):左には、戦艦「テネシー」の甲板上で消火用ホースで消防活動に従事する人々が見える。Naval Historical Center

「アリゾナ・メモリアル」は,真珠湾の名所でもあるが、沈没したままの船体の上に、記念プラットホームを作って、犠牲者の氏名を刻んだ石碑を設置。近くの陸上には、展示館や映像ホールがあり、そこを見た後、ランチに乗ってここに渡る。乗員1,177名が死亡したが,今でも沈んだ船体に留まり,任務を続けている。米国では真珠湾攻撃の生存者を、敗残兵とは見なしていない。勇敢に反撃したこと、大火災に立ち向かい懸命に消火活動をしたこと,転覆した艦内に閉じ込められたり、炎に包まれたりしてる戦友を命がけで救出したことを高く評価している。まさに、真珠湾の英雄として扱っているし、今でも記念式典でのスピーチに最大級の英雄として迎えれられている。

真珠湾で撃沈された戦艦「アリゾナ」の残骸は、1962年から国の記念物・記念館「アリゾナ・メモリアル」として運営・管理されている。アリゾナ・メモリアルの年間訪問者は140万人で、うち70%が米国人である。

撃沈された戦艦は,敗戦の恥辱の証拠だが,それをあえて「アリゾナ・メモリアル」として英雄追悼の場とし,ナショナリズムを高揚させる擬似宗教装置に転換した。これは,プロパガンダによる戦意高揚ともみなされる。

写真(右):アリゾナ・メモリアル:真珠湾で沈没したままの戦艦「アリゾナ」の船体の上に、記念プラットホームを作って、犠牲者の氏名を刻んだ石碑を設置。近くの陸上には、展示館や映像ホールがあり、そこを見た後、ランチに乗ってここに渡る。乗員1,177名が死亡したが,今でも沈んだ船体に留まり,任務を続けている。真珠湾の国営記念碑。

「アリゾナ・メモリアル」は、沈んでいる残骸と遺体が、神殿のような聖地として見なされる。戦死者は無駄に命を落としたのではなく、任務を全うした英雄として、立派な石版に氏名が刻印され、尊敬、追悼される。1,177 Officers and Men were lost with the ship and remain on duty inside her rusting hulk.「1177名の将兵が沈んだが,残された船体で彼らは英霊として義務(任務)を果たしている」

燃える戦艦群として,戦艦「アリゾナ」Arizonaが炎上し、戦艦「ウェストヴァージニア」West Virginiaの甲板が波に洗われた。しかし,大爆発する危険を冒して,米海軍水兵は燃える戦艦に横付けし救助活動をした。こんな災難にも、米国国旗がマストに掲げられた。
転覆して艦底を見せる戦艦「オクラホマ」での救出作業
も有名で,船内に閉じ込められた米国兵士を救助するために,生存者の発見に努め,艦底に穴が開けられた。同時多発テロの消防士も同じように称えられた。それと全く同じことが,60年前にもあった。だから,真珠湾攻撃は,9.11テロはそれと同じ文脈で語られる。

米国には、靖国神社のような神殿はないが、無名戦士の墓,戦死者記念碑は、星条旗とならんで、人命とその自由な意志を顕彰している。戦艦「アリゾナ」の残骸も「記念碑」である。現在でも,地下鉄サリン事件で,サリンを撤去して亡くなった鉄道職員を「犠牲者」とみている日本と,ツインタワー崩壊で死亡した消防士を「英雄」とみる米国との違いがある。(⇒自爆テロと特攻・真珠湾の関連

他方,日本海軍は,1942年6月>ミッドウェー海戦で敗退した。日本海軍は空母4隻,重巡洋艦1隻,艦載機(250機)を殲滅させられた。戦死者は3500名で,その中には歴戦の熟練搭乗員も多数含まれる。(米軍の損害は、空母1隻,駆逐艦1隻,航空機150機で、戦死者は300名だった。)

ミッドウェー海戦敗退後、日本海軍の軍令部は、生還者を、敗残兵として隔離し,直ぐに戦地に追いやった。これは,敗北を隠すためでもあるが,無敵皇軍の神話を守るために,生者を人身御供にだしたも同然だった。聞き取り調査など冷静な敗戦原因の分析をするつもりは無かった。

日本軍では,敗残兵は,軍の栄光を汚す存在と認識され,無敵皇軍の名誉を守るために,生き残った国軍将兵・捕虜・投降者たちを抹殺する傾向がある。戦闘に破れたとき,戦没者・生還者・捕虜のいずれの運慶をたどろうとも,日本軍上層部から名誉ある地位を授けられるとは限らない。屈辱的な敗残兵として闇に葬られ,黙殺されることも多かった。軍上層部による将兵の評価は,戦勝・戦果を重視するから,靖国神社に合祀されているからといって,軍が将兵を英霊として処遇してきたわけではないのである。

4.玉砕戦は,日本軍の壊滅的敗戦であり,特攻作戦は,日本軍上層部の計画した死を命じる作戦である。軍神を祭り,護国の鬼として顕彰する必要性は,玉砕と特攻でますます強まった。遺族たちを慰め,戦死者を追悼する必要性もいっそう強くなった。そこで,玉砕と特攻とは,靖国神社と強く結びついた。

戦争を背負った画家/藤田嗣治によれば,東京国立近代美術館の戦争記録画約150点(戦後アメリカ軍に接収され、「永久貸与」の形で返還されたもの)中、藤田作品は最多の14点を数えるという。そして, 『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』などは「戦争画」を越えているとし,普遍的な「宗教」(特定の宗教ということではなく、人の死を悼むという宗教的感情)画の域にまで達しているのではないかとする。

藤田嗣治は,1943年5月29日、アラスカのアッツ島の日本守備隊全滅を描いた作品を描いた。この攻防戦は,米軍の戦死600名に対して日本軍の戦死は2,638名という大敗だったが,日本の大本営は翌日,「玉砕」と呼んで,国民の士気を高めようとした。守備隊長山崎保代陸軍大佐は「軍神」とされ,死後,中将に二階級特進した。敗北を糊塗する「玉砕」という美名を冠して,英雄叙事詩を作り出そうとした。この戦いに感動したのか,芸術家として活躍の場を嗅ぎ取ったのか,3か月後開催された「国民総力決戦美術展」に藤田嗣治は「アッツ島玉砕」を出品した。


藤田嗣治「アッツ玉砕」:1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本陸軍守備隊全滅を描いた作品。米軍の戦死600名に対して日本軍の戦死は2,638名の大敗を,日本軍は「玉砕」と呼んだ。山崎保代陸軍大佐は「軍神」と賞賛され,死後,中将に二階級特進。敗北を糊塗するために「玉砕」という美名を冠して,英雄叙事詩を作り出そうとした。その3か月後の「国民総力決戦美術展」に藤田嗣治の「アッツ島玉砕」が出品された。

藤田嗣治「アッツ玉砕」について,戦争画を読む(11)―藤田嗣治と戦争画は,次のように評価している。

北の島での戦いを描いたこの絵は、----敵も味方も定かではない。ただ凄惨な殺し合いがあるだけの残酷な(ある意味で戦争の実態を描いた)絵画である。---軍部の考えていた戦争画とは、戦争記録画であり戦意高揚画(=プロパガンダ絵画=《英雄譚》)だった---。 しかし、軍部の意見とは逆に、国民からの藤田戦争画の「人気」はかえって高まっていく。それはなぜか? ---藤田の『アッツ玉砕』の前には賽銭箱が置かれている。そして作者がその横に立ち、賽銭が投じられるたびに頭を深く下げる。---これは美術展ではなく、宗教行事の場なのである。---美術展を訪れる人々は、アッツ島で戦死した人々に対して、鎮魂の儀式を行っているのである。そして、その意味を作者である画家も知っている。自分の《絵画に対して》ではなく、《絵画を通して戦死した人々に対し》敬意が払われていることを。これはまさしく「殉教画」なのである。

藤田を代表とする力量のある画家たちは、軍部のプロパガンダの意図を乗り越えて、あるいは制約にもかかわらず、美術の持つ力を見せてくれました。一言で表現するならば、近代日本で初めて普遍的な「宗教画」を描いたのです。それは、特定の宗教ということではなく、「人の死を悼む」という宗教的感情を率直に示したものでした。(→戦争画を読む(11)―藤田嗣治と戦争画引用終わり)

戦争画を宗教画と同じように荘厳なものとして評価するが,藤田嗣治の「殉教画」とは,報恩愛国,国体護持,護国の鬼などを顕彰する軍国的なものだったのか。それとも,無残に殺害され,戦争の犠牲になった人々を哀悼し,戦争や戦争指導者への憤怒を癒す宗教なのか。戦争の悲惨さを訴える悲壮な絵画,愛国心や歴史ロマンを掻き立てる悲劇的な絵画が,宗教画,殉教画に匹敵するという場合,殉教した理由と殉教と認定した宗教的権威が問題となる。

学問は,真善美の追求を目的とするが,私見によれば芸術表現は,心地よさ,カタルシスを求めがちになる。栄枯,ロマン,苦悩,悲惨さを表現することはできるが,論理的な戦略,戦争責任などの戦争認識を芸術として表現することは,難しい。

  戦争芸術とは,政府や軍の動員といった受動的要因だけではなく,芸術家の名誉欲や自己表現への熱情が引き起こす自発的要因からも創作される。そこでは,芸術作品の表現力とならんで,表現する心情・思想が問われ,信じる宗教の影響力が分析される必要があろう。

 戦争は,生死を含む特異な思想・心情を兼ね備えた事象であり,戦争にかかわる芸術は,作品だけではなく,芸術家のもつ宗教と戦争観に大きく影響されてくる。

5.「特攻玉砕自然発生説」とは,第一線の将兵が潔く玉砕した,あるいは自ら発意して体当たり特攻をしたとして,「犠牲的精神の発露」が玉砕・特攻に直結したとする俗説である。「特攻玉砕自然発生説」は,玉砕戦・特攻作戦を進めた軍上層部の意図と無責任さを隠蔽する。かれらが,玉砕者・特攻隊の英霊を靖国神社で顕彰できるのは,戦没者に対する自己責任,統帥上の責任,戦争責任を明らかにしてからであろう。そうでなければ,社会的欺瞞・自己欺瞞のように思えてくる。

「特攻玉砕自然発生説」は、次の理由で否定される。
…召阿忙爐未戮状況にはない人間が、国に殉ずるためとはいえ、あっさりと特攻に出撃できた若者はいなかった。残されるもの、家族のことを考え,死ぬことに苦悩し,司令官に憤り,日本の将来を心配していた。
⊃祐峙雷、人間爆弾を開発,生産することは、第一線の将兵には,できるない。軍上層部の命令によって,特攻兵器が開発,生産されていた。
B莪貔将兵の発意で体当たりをし、陛下から頂いた航空機を「無断で」自爆、破壊させるような身勝手な行動は,軍隊という鉄の規律の前では許されない。軍上層部が,特攻「作戦」を計画し,特攻「部隊」を編成し。特攻を指揮した。
ぢ莪貔の将兵が「特攻作戦」を計画,組織,実行するだけの権限,人員,機材をもっていない。軍上層部が特攻作戦として,実施した。

1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,特殊奇襲攻撃として特攻兵器を開発し,特攻作戦を展開する計画を立てている。

「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信で,特攻の発表は,戦意高揚のため,攻撃隊名称も併せて発表すべきことを指示していた。

日本海軍は,1944年3月に,人間爆弾「桜花」,人間魚雷「回天」,特攻艇「震洋」の開発を決定し,6月には陸軍も突撃艇「マルレ」の設計を開始した。これらの特攻兵器は,1944年10月20日の神風特攻隊(航空機による体当たり自爆攻撃)よりも,半年も前に計画されていた。


写真(左):沖縄戦当時の首相鈴木貫太郎;慶応3年(1867)12月24日〜1948年4月17日。大阪生まれ。海軍軍人。明治20年(1887)海軍兵学校卒業。日清戦争に従軍。1898年海軍大学校卒業。日本海海戦に参加。海軍省人事局長、第2次大隈内閣海軍次官、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官を歴任。1925年海軍軍令部長。1929年侍従長兼枢密顧問官に就任。侍従長在任中の1936年、2・26事件の襲撃を受け、生き残るも引責辞職。1944年枢密院議長、1945年4月7日という沖縄戦の最中に組閣の大命を受け、77歳で内閣総理大臣。戦後,組閣とともに終戦に奔走したようにいわれるが,有利な条件で和平交渉を切り出すために,沖縄戦での大戦果を期待していた。ポツダム宣言受諾後、130日で総辞職。
写真(右):小磯国昭;1930年軍務局長。陸軍次官、関東軍参謀長、第5師団長、朝鮮軍司令官を歴任し、1937年大将となる。1939年平沼内閣の拓務相、1942年朝鮮総督。1944年東条内閣辞任のあとを受けて首相に就任した。しかし,米軍の沖縄本島上陸から1週間もたたないうちに辞任。戦後,A級戦犯として、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けるが服役中に病没。

1945年1月25日の最高戦争指導会議「決戦非常措置要綱 」では,「物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」として,「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」とした。

最高戦争指導会議とは,1944年8月4日以降小磯国昭内閣で設けられたが,それ以前の東条英機内閣のときの大本営政府連絡会議のことである。
最高戦争会議の出席者は,政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席した。蔵相ほか閣僚や参謀次長・軍令部次長などが列席する。天皇も臨席する。

天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏など,さまざまなルートで最新の情報が伝達され,御下問もしていた。つまり,戦局や戦争方針について,統帥権をもつ大元帥昭和天皇は,明確な情報をもとに,裁可を下した。

沖縄戦以前から,日本陸海軍上層部は,特攻兵器を開発・生産し,特攻隊を編成した。本土決戦に向けて,全軍特攻化が進み,国民を巻き込んだ「一憶総特攻」が叫ばれた。全軍特攻化,一億総特攻によって,死をとして,守るべきは,国体であるり,国民の生命財産の保全は,二の次とされた。

玉砕するまで戦っても,特攻作戦を続けても,結局は,日本は戦いに敗れた。その作戦の失敗と敗戦という責任をとることは,軍上層部には,苦痛であり,軍の名誉も汚されてしまう。

玉砕せず,特攻にも出ないで,部下に玉砕・特攻を命じる司令官・参謀たちも,自らの行動が卑怯者のようで苦しかったであろう。そこで,玉砕戦・特攻を部下に命じたという心理的な負担を取り除くため,自分は生き残ってしまったという負い目を逃れるために,玉砕や特攻は,第一線の将兵の犠牲的精神の発露であるという「特攻玉砕自然発生説」は都合がよい。認知的不協和を軽減できるからである。勇敢な日本軍将兵という「軍の名誉」を保持するのにも効果的である。

しかし,特攻玉砕自然発生説は,玉砕戦と特攻作戦を推進した責任を白紙にするものである。特攻玉砕自然発生説を流布する人物に,戦死させた英霊に面する資格があるとは思えない。

特攻作戦の崩壊:特攻自然発生説の検討

6.世界各国では,古くから戦争を記念し,戦死者を追悼する施設が,厳粛な宗教の形をとって,あるいは国家的記念事業や宗教的な装いを凝らして,建設されてきた。凱旋門や戦争記念はもちろん,無名戦士の墓,故人記念モニュメント,平和祈念堂などの形態がある。大日本帝国の靖国神社もそのひとつとも考えられる。

靖国神社や無名戦士の墓については,多数の議論が展開されている。参考文献 (靖国神社参拝問題)「靖国神社」に関連した書籍の一覧マッコイの非論理的な世界吉村作治 考古学者のひとりごとなど,文化人の名が並んでいる。梅原猛の国家神道批判では,「味方の亡魂より被害を与えた相手の亡魂を手厚くまつる,祟りを恐れるのが伝統神道」という考えが示された。

神道には、教祖、明確な教義が確立しているようには思えないし,日本の風俗に結びついて、緩やかな宗教として認識されている。人々を救済するために仏が神に姿をかえて現世に出現したという本地垂迹説や神仏習合が許容されたのは,教義が厳格でないことが理由であろう。
 しかし,1868年(明治元)からは,神仏分離令をだして,廃仏毀釈も行われ,神祇官も再興した。そして,1870年,大教宣布の詔にもとづいて,神道教化運動も展開された。1889年の大日本帝国憲法では,「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限に於て」信教の自由が認められていたが,神社神道は宗教とは別次元のものとされた。1900年には、神社や神官を所管する内務省神社局(1940年以降の神祇院)が設置され,神社の造営も公費で行われた。つまり,神社は、天皇が祭祀長となって,国家が管轄しするものであり,国民が崇敬すべき対象となったのであり,国家神道が確立されたといえる。(⇒神道(しんとう)参照)

 総力戦に役立つように、特別攻撃を都合のいいように解釈し、国民を総力戦に動員する擬似宗教装置がつくられ、軍人精神を増幅して,英霊の神話をつくった。


靖国神社の大鳥居:靖国神社は1869年に創建。祖国を守る意義ある死に方をした軍人/民間人を祭る。大鳥居(第一鳥居)は、戦時中に金属徴用されたが,戦後1974年に再建された。笠木(上の横木)の長さは約34メートル、柱の高さが約25メートル、重量は100トン。鋼管製。

靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建され、東京招魂社と呼ばれた。1879年に靖国神社と改称された。後に1853年ペリー来航以来、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった。

靖国神社への合祀は、陸・海軍の審査で内定し、天皇の勅許を経て決定された。陸・海軍省所管で,被祀者の遺骨・位牌はない。しかし、霊璽簿に氏名を記入し、合祀祭を行い「御霊(みたま)」を招来して祀っている。祭神であるという理由から「柱(はしら)」という単位で数える。合祀祭には天皇も参加した。

靖国神社は,空襲被害者など一般戦没者を合祀する神社ではない。戦争に積極的に参加した「戦死者」が中心である。戦死者には,祖国のために戦った人々であり,日本軍兵士だけではなく,軍属,民間人,朝鮮出身者,女子を含む。また,戦死者の遺骨を納める墓ではない。つまり,一般戦没者を追悼する悲哀の場所ではない。祖国に尽くし,天皇陛下に忠誠を尽くした武人・勇者,出征し戦死した兵士を顕彰する施設である。合祀された戦死者・戦没者は,戦争犠牲者ではなく,英霊・勇者として顕彰され,祭神となる。そこは,崇高,光輝な場所であり,弱弱しい敗残者や敗北主義者の来る場所であってはならないのであろう。

靖国神社御祭神戦役・事変別柱数■(平成16年10月17日現在)
明治維新 7,751      西南戦争 6,971
日清戦争 13,619     台湾征討 1,130
北清事変 1,256      日露戦争 88,429
第一次世界大戦 4,850   済南事変 185
満洲事変 17,176      支那事変 191,250
大東亜戦争[太平洋戦争] 2,133,915    合計 2,466,532柱

2004年10月現在,命(ミコト)として祀られた人柱の数(合祀祭され数の合計)は246万に達しているのであるが,合祀合計に対して,アジア太平洋戦争(支那事変19万1,250柱、大東亜戦争[太平洋戦争]213万3,915柱)の合祀が94.3%に達し,戦後合祀(88万柱)が35.7%も占めていることは注意すべきである。

 第一次大戦前の1911年5月,命(ミコト)として祀られた人柱の数(合祀祭され数の合計)は11万8499柱,1945年までに19万1250柱を祀った。つまり,靖国神社に合祀されるには,祖国に尽くして戦死したとの陸海軍の認定と大元帥の勅許が必要た。そこで,アジア太平洋戦争の終結までは,戦死しても靖国神社に合祀されるとは限らず,戦死者の一部が御霊を招来され祀られてきた。しかし,Wikipedia靖国神社年表によれば,戦後に合祀された御霊は,1946年5月1日第67回合祀祭で新規合祀 2万6969柱追加,1947年に5万9337柱追加,1956年に11万2609柱追加,1957年に47万10柱追加,1958年に21万7536柱追加など,戦後になって新たに88万柱以上が新規合祀された。

 戦後になって認められた戦没者が急増し,2004年10月現在、 軍人・民間人にかかわらず命として祀られた人柱の数は、合計246万6532柱あるが,戦後合祀が35.6%に達している。換言すれば,戦中には認められなかった戦没者にも,合祀対象になったと考えられ,それは祖国に尽くし,天皇陛下のために命を投げ出した人々の認定が,戦前・戦中までの基準よりも拡大されたことを意味している。

1959年4月と10月の合祀祭では,BC級軍事裁判刑死者の新規合祀 346+479柱が招来された。1978年10月の合祀祭では,極東国際軍事裁判A級戦犯刑死者および関連死亡者の新規合祀14柱が昭和殉難者として祀られた。これは,宮司が氏子の総意を得て実施した措置という。

写真(右):日本のために戦死した男女を祭神(ミコト)として奉る靖国神社本殿;軍人・軍属で日本のために戦い死亡した男女を,神として慰霊する。日本人将兵だけではなく,政治的指導者,朝鮮半島や台湾出身者,学徒や女子挺身隊なども奉られている。宗教的祭礼は,軍人だけでなく、愛国心を堅持したい人々をひきつけているが、競合する国立慰霊施設の新設には反対している。

靖国神社の国家管理を復活する「国家護持運動」は,1969年に国家管理化を目指す「靖国神社法案」の国会提出を契機とする。以後、1973年まで5回靖国神社法案を提出したが、審議未了により廃案となった。靖国神社の国家管理に関しては、現在の神社形式、神道による祭祀を維持するのであれば,憲法の「政教分離」に反するため,非宗教化することが必要条件になる。靖国神社の国家管理に対しては、戦友会や遺族会など2000万人もの「靖国神社国家護持」嘆願署名が集まったというが,靖国神社宮司は,非宗教化を受け容れられないとしている。(靖国神社;出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照)

東京裁判では,東京大空襲も原爆投下した米国が裁かれなかったから,正当性がないとする識者は,1945年にA級戦犯を合祀した靖国神社を参拝するが,その靖国神社には,東京大空襲や原爆投下による一般戦没者は祀られてはいない。つまり,靖国神社を参拝しても,東京大空襲や原爆投下による一般戦没者の追悼にはならず,東京裁判史観を抜け出してはいないのである。

7.アジア太平洋戦争の敗戦後,靖国神社の創建目的に照らして,現在の靖国神社は,戦争犠牲者追悼,平和祈願の場としてはふさわしくない,あるいは日本国の首長が,靖国神社を公式参拝することは,宗教の自由,政教分離に反するとの批判がでてきた。その一方で,現在の日本の繁栄の礎を築いた英霊を追悼するのは,日本人として当然であり,首相は公式参拝はもちろん,天皇もご親拝すべきであるとの意見も根強い。

「愛媛玉ぐし料訴訟」では,愛媛県知事が靖国神社の例大祭に玉ぐし料を県費から支出したことにつき,政教分離の観点から違憲が訴えられた。

平成四年 第一五六号同九年四月二日>「愛媛玉ぐし料訴訟」大法廷判決

一 県が靖國神社又は護國神社の挙行した例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際し玉串料、献灯料又は供物料を県の公金から支出して奉納したことが憲法二〇条三項、八九条に違反するとされた事例

1992年最高裁大法廷判決要旨

一 愛媛県が、宗教法人靖國神社の挙行した例大祭に,玉串料として9回にわたり各5000円(合計4万5000円)を、同みたま祭に,献灯料として4回にわたり各7000-8000円(合計3万1000円)を、宗教法人愛媛県護國神社の挙行した慰霊大祭に,供物料として9回にわたり各1万円(合計9万円)を、それぞれ県の公金から支出して奉納した。これを社会的儀礼にすぎないものと評価しているとは考え難く、奉納者においてもこれが宗教的意義を有するとの意識を持っていた。

つまり、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別の係わり合いを持った。一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援し,右宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こす。したがって,憲法20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」、89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」に違反する。この裁判で最高裁は愛媛県知事の靖国神社への県費支出を違憲と判断した。

 1991年1月10日の仙台高裁判決でも,「津地鎮祭訴訟」最高裁判決(1977年)で違憲性判断の目的・効果基準を踏まえながら、「天皇、首相の公式参拝は、目的が宗教的意義を持ち、特定の宗教への関心を呼び起こす行為。憲法の政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超える」と,違憲判断を下した。


靖国神社遊就館の展示室:靖国神社に併設されている遊就館は,以前は雑然とした(しかし充実した内容の)展示場だった。1961年から靖国会館「宝物遺品館」として,兵器や兵士遺品などを展示していた。富国生命保険相互会社(フコク生命)が,1980年まで九段本社としていた跡地に,1986年,靖国神社遊就館が新装,再建された。靖国神社奉賛会(1998年設立)の資金協力もあって,2002年7月,遊就館は一新されて,巨大な戦争博物館となった(→遊就館の由来参照)。入り口には,日本を代表する零式艦上戦闘機が展示されている。手前のガラスケースには,九九式20ミリ機銃が展示してある。この展示を見る人々は,優秀な戦闘機や兵器を生み出した日本の工業力,技術力の高さは,誇るべきものである,と感じるであろう。

H05.02.16 第三小法廷・判決 昭和62 148 運動場一部廃止決定無効確認等、同附帯及び慰霊祭支出差止
  一 市が忠魂碑の存する公有地の代替地を買い受けて右忠魂碑の移設、再建をし,忠魂碑を維持管理する地元の戦没者遺族会に対しその敷地として右代替地を無償貸与した。このような行為は、忠魂碑が、戦没者記念碑的性格のものであり、特定の宗教とのかかわりが少なくとも戦後においては希薄であること、戦没者遺族会が宗教的活動をすることを本来の目的とする団体ではないこと、市が移設、再建等を行った目的が、忠魂碑の存する公有地を学校用地として利用することを主眼とするもので、専ら世俗的なものである。したがって,憲法20条3項により禁止される宗教的活動には当たらない。

二 財団法人日本遺族会及びその支部は、憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」に該当しない。

三 市の教育長が地元の戦没者遺族会が忠魂碑前で神式又は仏式で挙行した各慰霊祭に参列した行為は、忠魂碑が、元来、戦没者記念碑的性格のものであること、戦没者遺族会が宗教的活動をすることを本来の目的とする団体ではないこと、右参列の目的が戦没者遺族に対する社会的儀礼を尽くすという専ら世俗的なものである。したがって,憲法上の政教分離原則及び憲法20条、89条に違反しない。

靖国神社のような宗教施設とそこでの宗教行為には,現代では,日本国憲法に定められた信教の自由,政教分離,特定の宗教への国家支援禁止,と深くかかわってくる。
日本国憲法第二十条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
第八十九条 「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」


写真(右):靖国神社遊就館の展示室(2):長らく遊就館に野ざらし展示していた貴重な日本陸軍の実戦使用火砲が,2002年に増設されたガラス張りホールに,展示された。サイパン島から奇特者が自費返還を図った戦車ですら,それまで野ざらしにしたままだった。写真は、日本陸軍の九六式15サンチ榴弾砲(手前)と八九式15サンチ加濃(カノン)砲で,1945年の沖縄戦で米軍に鹵獲されたものである。本来,砲兵部隊に軍旗は無かったが,「砲=軍旗」であり,砲兵は最後まで砲とともにある(死ぬ)べきとされた。しかし,これらの砲は,ほとんど無傷で,米軍に奪取されてしまった。戦後,日米安全保障条約のよしみで,自衛隊に返還され,それが遊就館に展示されている。後方は,タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で活躍した1936年製の蒸気機関車C56。戦後もタイ国内を走っていたという。いずれにせよ,このように歴史的な兵器を戦争遺物として施設内に保管・展示するようになったのは,戦後50年以上たってからである。愛国心を鼓舞し国民的な靖国総参拝論を主張する政治家・実業家たちでも,戦争遺物に無関心で,予算措置も労力も惜しんだ。多額の政治献金を受けながらも、エセ愛国者は、日本兵器の保管・展示には関心なく、そのための資金提供をしなかった。

「靖国神社参拝に関する政府の基本的立場」:平成17年10月

 小泉純一郎総理は、今日の日本の平和と繁栄が、戦没者の尊い犠牲の上に成り立っているとの強い思いを抱いている。そして、祖国のために心ならずも戦場に赴き命を落とさなければならなかった方々に対し、心からの哀悼、敬意及び感謝の気持ちを捧げると共に、戦没者が目にすることができなかった今日の日本の平和と繁栄を守ることの重要性を自覚し、不戦の誓いを込めて、総理の職務としてではなく、一人の国民としての立場で靖国神社に参拝している。

 総理の靖国神社参拝が、過去の軍国主義を美化しようとする試みではないかとの見方は誤りである。総理はかねて、靖国神社への参拝は、多くの戦没者に敬意と感謝の意を表するためのものであり、A級戦犯のために参拝しているのではなく、また、日本が極東国際軍事裁判の結果を受け入れていることを明言している。総理は「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」ことを認め、「歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻」むべきことや、「世界の国々との信頼関係を大切にして、世界の平和と繁栄に貢献していく決意」であることを、繰り返し表明している。

 日本は、この歴史的転換点にあって、東アジアの未来のため、建設的に貢献していく決意であり、そのため、中国・韓国を含め、アジア近隣諸国との友好協力関係を極めて重視している。日本はすでに戦後60年間、この姿勢を行動で示してきた。そして、今後も、近隣諸国との関係を一層強化し、東アジア地域の平和と安定に貢献していくことが、日本の最重要政策の一つである。(引用終わり)


靖国神社を参拝した日本陸軍兵士:抜刀した将校に指揮され「捧げつつ」をして敬礼する。(写真は「世に倦む日日」引用)

世に倦む日日では,次のよう論じている。
 靖国神社が問題なのは、それが戦前の日本を侵略戦争に導いた軍国主義の精神的支柱であったからである。靖国神社は,戦死者を追悼する場所ではない。天皇の戦争に出征し戦死した戦没兵士を顕彰する祭儀施設である。戦死者を追悼する場所と言うなら、それは千鳥が淵の全国戦没者墓苑のことを指す。そして戦死者の墓地と言うなら、それは全国の墓地のことであり、遺族が故人の霊に黙祷を捧げる場所を言う。首相や閣僚や国会議員が靖国神社を参拝するのは、祭神である皇軍兵士を英霊として顕彰する国家神道の宗教行為であり、それはまさに侵略戦争の肯定を意味する。----靖国神社は明治国家が戦没兵士に名誉を付与するために創設した施設であり、その目的は国民を天皇の戦争に動員するためであった。---(→世に倦む日日

戦前における靖国神社は,現行憲法の課している規制を受けてはおらず,大日本帝国の国境的地位の中で,祖国防衛,軍人英霊の追悼という役割を担っていた。アジア太平洋戦争当時の靖国神社の役割を,現在のそれと同じものとして理解してはならない。戦前も,戦後も天皇による靖国神社参拝はあり,祭祀長・皇祖崇拝者としての意味は残っているが,一般国民の参拝感情や,神社への経済的支援は,戦前とは異なっている。

参拝行為を一瞥すれば,同様の形式であり,参拝者の心情や神社への経済的支援の差異は,顕在化しないために,見方によっては,戦前も戦後も参拝は,全く同じ意味を持つという解釈も可能である。こうして,靖国神社参拝問題は,国際的にも波紋を広げた。参拝行為自体が,軍国主義の復活を意味するとの解釈は,形式,外観を重視すれば,否定するのは難しい。心も問題を形にしたら同じ形態であれば,やはり心も同じ軍国主義に染められているはずだという主張にも一理あるかもしれない。

しかし,イデオロギー的立場から言えば,問題は単純なものである。

高森明勅拓殖大学客員教授は,「靖国神社問題をどう解決するか」ということに対し 「これは単純なことで、一言で言うならば、日本人が本来備えるべき正気を取り戻したならば、 靖国神社問題なるものはたちまちにして雲散霧消する」と言い放ち、政教分離をはじめ,戦後の日本人が望んで改正したわけではない憲法・中韓が突然に靖国参拝批判をしたという外圧・一方的なアジアへの侵略とする捻じ曲がった歴史認識という三つの問題を指摘する。そして,これはマッカーサーの呪い(マインドコントロール)であり、本来ならば、日本人の努力・自覚によって、とっくに克服されているべきところが、未だ乗り越えていないことに目を向けて欲しいと訴える。(→「第七回公開講座「英霊顕彰勉強会」開催」社報『靖国』平成18年3月号掲載引用)

漫画家小林よしのりは,A級戦犯に法的な責任は全く無いと論破し,小泉純一郎首相の私的参拝の仕方を、東京裁判史観の中の参拝でしかないと位置づけ「日本人の本来の観念、国民性がどんどん壊されているということに、もっと危機感を持つべきだ」と述べる。「国を守ると言う時に、国民の歴史感覚を受け継いだ美風を守ろうという決意が無い限り、英霊の前で手を合わせても、果たして喜んでいただけているか分からない。」と訴える。(→「第七回公開講座「英霊顕彰勉強会」開催」社報『靖国』平成18年3月号掲載引用)

「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・瓦力元防衛庁長官)が2006年4月21日朝、春季例大祭が始まった靖国神社を参拝した。議員本人は96人で、代理を含めると参加者は計190人。昨秋の例大祭とほぼ同規模だった。閣僚、副大臣本人の参拝はなかった。参拝した自民党議員は87人、民主党は2人,国民新党1人、無所属6人などが参拝した。参拝した日本遺族会会長古賀誠元自民党幹事長は,中国、韓国との関係が冷え込む中での参拝について「日本が再び戦争の惨事を繰り返すことがないように改めて心に誓う大事な参拝だ。私は常にお参りする時は心の中で(A級戦犯を)分祀している」と述べたという(→毎日新聞2006年4月21日参照)。

日本人でなくとも,靖国神社に公式参拝する人もいる。たとえば,世界の軍関係者の靖国神社参拝としては,ドイツ空軍総監ヨハネス・シュタインホフ中将,フランス護衛艦ヴィクトール・シェルシェとヘリ空母ジャンヌ・ダルクの乗組員と士官候補生,米国空軍士官学校の士官候補生,イタリア、J・アンドレオッティ国防相と陸海空軍士官候補生,タイ練習艦隊司令官パントム海軍少将,アルゼンチン海軍練習艦リベルタード号艦長オスカルモヘ海軍少佐と海軍士官候補生,在日アメリカ海軍司令官ダニエル・T・スミス海軍少将,ブラジル練習艦隊クストディオ・デ・メーロ号のシャモンテ艦長以下士官候補生,スペイン海軍練習艦隊ファン・セバスチャンエルカー号のリカルド・ラウレル海軍中佐,ブラジル・イスラエル・ポーランド・トルコの各国駐在武官,ペルー海軍練習艦隊ルイス艦長,チリ海軍練習艦隊エメラルダ号シルバ大佐以下士官候補生と駐日大使の参拝もあった。

もっとも,首相よりも,神道権威の祭祀長の天皇参拝(御親拝)のほうが,はるかに神社にとって重要な出来事である。靖国神社は,御親拝を求めないのか。

写真(右):神道最高司祭としての昭和天皇;天皇の祭祀は、「精神の継承」「祈り」「禊祓(みそぎはらい)」を皇祖に対して行うもので,祭祀は神である皇祖との対話そのものである。天皇は祭祀を通じて神や皇祖に接し、御霊(みたま)をみずからの心身に受ける(皇室における祭祀と道徳参照)。戦後60年以上たつと,神道の最高権威に向かって,再び靖国神社への御親拝を要請する政治家も現れた。

戦後の靖国神社御親拝:靖国神社公式参拝関係年表および神社年表引用
1945年11月20日 天皇陛下御親拝21回目/幣原喜重郎首相参拝
1952年10月16日 天皇・皇后陛下御親拝
1954年10月19日 天皇・皇后陛下御親拝
1957年4月23日 天皇・皇后陛下御親拝
1959年4月8日 天皇・皇后陛下御親拝 臨時大祭 創立90周年
1965年10月19日 天皇陛下御親拝 臨時大祭
1969年10月19日 創立百年記念大祭第二日、昭和天皇・皇后(皇太后)行幸啓
1975年11月21日 天皇・皇后両陛下 終戦30年 御親拝(大東亜戦争終結三十周年に当たり昭和天皇・皇后(皇太后)行幸啓)

首相や閣僚など,神道を代表しない人物でも,国際関係や政治では重要問題を提起する。しかし,靖国神社に合祀されている戦死者は,政治家のために死んだわけではなく,悠久の大義,祖国愛,国体護持,天皇,家族愛のために命を投げ出したのかもしれない。もしも,そうであれば,靖国神社における最高の戦没者追悼は,御親拝ということになる。昭和天皇は,戦後八回にわたって,あきらかに靖国神社参拝を自ら率先して行った(最高の祭祀長が他人に促されて参拝することはありえない)。1975年を最後に,御親拝はないが,春秋の例大祭などにおいては勅使が遣わされている。

櫻井よしこwebサイトは,天皇参拝の中止について,次のように推測している。
1975年11月20日、参議院内閣委員会で日本社会党の野田哲、秦豊、矢田部理の3議員が,天皇靖国参拝につき質問に立った際,吉国一郎内閣法制局長官は、天皇参拝は「憲法第20条第3項の重大な問題になるという考え方である」と答えた。これは,「信教の自由」を謳った第20条の第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と記されていることを受けている。しかし,天皇皇后両陛下は,翌21日,靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者記念墓苑に参拝した。そこで,「陛下の参拝とりやめは、参拝をめぐる政治的論争がおさまらないことを懸念した宮内庁が決定したものと思われる。」と述べている。

「首相が国民を代表して国に殉じた人々に感謝し慰霊することが憲法違反であるはずがない。---中曽根氏は外国の意向故に、日本国の土台を揺るがせた。陛下はそのことを悲しみ、「うれひはふかし」と詠まれたのではなかったか。天皇の心をこれ以上曲解し、踏みにじることは許されない。国民と共にありたいとする天皇家の想いに配慮するなら、“A級戦犯”を含む全ての人々の慰霊のためにこそ、靖国神社にお越し頂くのがよいのである。努々(ゆめゆめ)、“A級戦犯”を外して、などと考えてはならない。まして「陛下のために、A級戦犯を外す」などとは、万が一にも言ってはならない。」(『週刊新潮』2005年6月9日号 日本ルネッサンス 第168回「靖国で天皇も政治利用するのか」引用おわり)

 2006年1月28日,小泉純一郎首相の靖国参拝問題に関連し、麻生太郎外相は名古屋市で開かれた公明党議員の集まりに出席し、「(靖国神社の)英霊は天皇陛下のために万歳を叫んだのであって、総理万歳と言った人は誰もいない」とし、「天皇陛下が参拝するのが最も望ましい」と述べた。「参拝できなくなったのは、(三木首相が1975年に私人として参拝したことに伴う)公人、私人の話だ。解決の答えはいくつか出てくる」と語った。
日本の麻生太郎外相が天皇の靖国神社参拝を提案したことと関連し、韓国政府は「受け入れられない話」とする立場を示した。韓国政府当局者は2006年1月30日、「問題の本質は靖国神社にA級戦犯が合祀されている点であり、小泉純一郎首相や、日本の象徴である天皇が参拝することは認められない」と述べた。

しかし,麻生太郎外相は,1月31日の記者会見で、「今の状況で天皇陛下に参拝していただきたいと申し上げたことは全くない」「政府代表はもちろん、陛下が国のために尊い命を投げ出した方に弔意を自然に表すにはどうすればいいのかという問題提起を行ったつもりだ」と、靖国参拝をめぐる“問題提起”だったことを強調した。事実上,天皇の靖国神社参拝を求める(麻生太郎)発言は撤回された(⇒東京新聞「靖国神社への天皇参拝 政治利用、懸念も」,朝鮮日報2006/01/31【妄言】麻生外相「天皇が靖国神社参拝を」,麻生外務大臣が天皇の靖国参拝に言及参照)。

昭和天皇が1975年以降,靖国神社親拝をしていない理由を推測したり,今上天皇に参拝を求めるなど,「真の愛国者」を自称する有名人は,天皇の神威・権威をさほど恐れてはない。しかし,このような意見や発言自体が,天皇の心を忖度することであり,逆鱗に触れる,とは考えないのか。戦後も靖国神社を親参したが,1975年以降は親参していない昭和天皇・今上天皇の心情・意図と,その神道的,社会的,政治的意味については,有名人や権威ある報道者は、気ままに話しているような印象を受ける。

8.アジア太平洋戦争の戦争犠牲者追悼,平和祈願の場として,国営戦没者追悼施設を設けるべきである,靖国神社に変えて,戦後1953年に作られた千鳥ヶ淵戦没者墓苑を戦没者追悼の場とすべきであるとの意見も出ている。

靖国神社参拝問題を,イデオロギー解釈したり,法的解釈したりするのではなく,むしろ国際世論や国際関係の安定を念頭において,参拝形態自体を変化させようとする動きも出てきた。具体的には,身元不明の遺骨を納める無名戦士の墓を念頭に置いたて作られた「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を,日本国国営無名戦士の墓として,追悼するほうがよいとの意見である。靖国神社は,氏名が明らかで祖国に尽くした戦没者だけを合祀する施設であり,空襲犠牲者など一般廃棄物戦没者を祀ってはいないし,遺骨も引き取らない。にもかかわらず,靖国神社宮司は氏子の総意としてか,無名戦士の墓における公式な戦没者追悼に反対している。

 新たな国立戦没者追悼施設の建設を求める超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」も発足した。会長は自民党山崎拓前副総裁、副会長は民主党の鳩山由紀夫、公明党冬柴鉄三両幹事長が決まっており、設立総会に100人の議員が参加したようだ(→徳島新聞社説(2005年11月8日)参照)。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑:靖国神社は1869年創建だが,千鳥ヶ淵戦没者墓苑は,戦後の1959年に完成。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑公式ページには次のようにある。「先の大戦で海外における戦没軍人及び一般邦人のご遺骨を納めた「無名戦没者の墓」として昭和34年3月28日に創立されました。平成13年5月現在348,406柱が、六角堂内に安置されています。毎年5月 に厚生省主催の慰霊行事として拝礼式が、また、年間を通じて各種団体主催の慰霊行事が随時行われています。面積1.6ヘクタールの苑内には、樹木が鬱蒼と茂り、その利用形態にふ さわしく、静かで荘厳な公園です。」

<千鳥ヶ淵戦没者墓苑>
 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるために国が設けたものである。墓苑には、開設当初の1953年には約34万8000柱の遺骨が納骨されているが,海外での日本人戦没者240万人の14.3%に過ぎなかった。
「無名戦没者の墓」に関する1953年12月11日の閣議決定によれば,
1  先の大戦による海外戦没者の遺骨については、「日本国との平和条約」の発効を機会に、計画的に収集を行うこととされ、1953年1月から本格的に政府による収集が行われた。

2  しかしながら、収集された遺骨の大部分は、氏名の判別が困難で遺族に引き渡すことが不可能であることから、これらの遺骨については、1953年12月11日の閣議決定「「無名戦没者の墓」に関する件」において、概ね次により取り扱われることとされた。

ア  遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるため、国は「無名戦没者の墓」(仮称。以下「墓」という。)を建立する。

イ  「墓」に納める遺骨は、政府において収集する戦没者の遺骨及び現に行政機関において仮安置中の戦没者の遺骨であって遺族に引き渡すことのできないものとする。

ウ  「墓」の規模構造については、関係方面の意見を徴した上所要経費とともに別途決定するものとする。

この当初の「無名戦没者の墓」は、「無名」と言う言葉が嫌われたために,1959年に「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」として開設されることになった。


写真(右):アーリントン国立墓地の無名戦士の墓:衛兵が立っている姿は,英霊に対する崇拝のようだ。擬似宗教装置として,戦争犠牲者を英霊として顕彰している。被葬者である兵士の匿名性ゆえに逆に国家全体を象徴する墓といえる。The Tomb At Dusk, Courtesy of the Department of Defense. It may take months for a soldier to earn the right to TEST to wear the coveted silver Tomb Guard Identification badge, and even then, the award is temporary. Only after the sentinel has served at the Tomb of the Unknown Soldier for nine months does the award become permanent.

全日本無名戦没者合葬墓建設会による戦没者の墓建設の推進
幣原内閣時代に、既に「各国の“無名戦没者の墓”に類するものを造ったらどうか」との考え方があったが、1952年5月に結成さた全日本無名戦没者合葬墓建設会は、早々に、戦没者の墓を都内豊島ケ岡に建設することを目標にして、建設資金を全国市町村長に呼びかけ、一戸10円募金を始めて、戦没者の合葬墓建設の具体化に着手した。

全日本無名戦没者合葬墓建設会の趣意書
「…米国にはアーリントンに無名戦士の墓があり英国にはトラファルガー広場に無名戦士の塔があり仏国にはパリ凱旋門内に無名戦士の墓があって、何れも全国民により毎年鄭重な祭典が行われておりますが、それは人道上当然のことで、私どもはわが国にもその必要性ありと考え、東京の各地を視察した結果、文京区豊島ケ丘を第一候補地と認め、ここに用地四千坪を始め、祭典その他に必要な施設の準備を進めて参りました。
戦没者は全部靖国神社に合祀すれば足りるではないかと言う人もありますが、同社は主として戦死軍人軍属の御霊を祀る所で一般戦没者には及ばず、而も御遺骨を埋葬する場所ではありません。その上神道以外の宗教とは相容れないものがあって友邦の外交使節の参拝を受けることもどうかと存じますから、御遺骨の実体、各宗派の立場、外交上の儀礼の点から考えても、靖国神社とは別に霊場を造営する必要があります。……大霊園を造り毎年春秋に神、仏、基の各宗派によって厳粛な祭典を挙行し、後代再び斯様な犠牲者を出さないよう、世界悠久の平和を祈念することに致したく…
」(「援護」59号、昭和35.6.5から)

全国戦争犠牲者援護会は、1954年9月、全国遺族等援護会として発足し、間もなく社団法人となった。設立の趣旨は「既設諸団体と協力して遺族、傷痍軍人等の援護を強化し、戦没者の慰霊顕彰を推進する」としている。そして,国に殉じた戦没者を慰霊顕彰し、あまねく、戦争犠牲者を援護することは、国家、国民の義務であり、これこそは、愛国心を高揚し、日本の健全な復興発展を図る道であるとする。援護会の名誉会長は,宇垣一成(元陸軍大臣)だった。(→千鳥ヶ淵戦没者墓苑の建設経緯引用)


写真(右):2004年10月15日,千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れた衆議院議員:1971年8月生まれの若い議員は,「厳かな雰囲気の中,60年前の日本に思いを馳せた」と述べる。それ以前に,思いを馳せたのは,どこでなのかと思う。

ちぎれて肉片になった死体は,芸術の対象とはなりにくいが,勇士のりりしい姿,苦闘する将兵,激しい突撃,愛国心,大義への犠牲を抽象化したものが,記念碑,モニュメント,無名戦士の墓である。「絵になる」風景を造形するためにも,芸術家を動員し,宗教家に協力を求めて,国家的被造物が創作され,尊敬の念をかきたてる。

1932年に完成したアーリントン国立墓地の無名戦士の墓には、第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で戦死した身元不明の兵士一体ずつが埋葬され、全戦没者を代表させている。墓碑文に「神のみぞ知る亡きアメリカ将兵1名、名誉ある栄光のうちにここに眠る」と刻まれ,米国の英雄的戦いに命をささげた勇者を顕彰している。

靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑による両施設の相違>
1953年1月,戦後初の外地遺骨収集事業が開始され,のマリアナ諸島,アッツ島の遺骨収集が行われたが、身元不明で遺族に引き渡すことができない遺骨、厚生省等で仮安置中の遺骨で遺族に引き渡しできない遺骨を収める「墓」を建立する決議がなされた。

靖国神社は,従来から戦没者の御霊を奉ってきたために,新設の「墓」のあり方によっては、戦没者慰霊に関する国民の観念が、二元化されると危惧した。

しかし,政府は、その「説明資料」で「靖国神社は全戦没者の「霊」を祀るものであるのに反し、「墓」は特別の事情にある遺骨を納める施設であるので、両者の性格はおのずから異なり、両者は観念上も実体も抵触するものではない」と述べた。

厚生省引揚援護局長も「墓の性格は、端的にいえば、戦没した者の無縁遺骨を収納する納骨施設である。したがって、この墓は、全戦没者を祭祀する靖国神社とは、根本的に性格を異にし、両者はそれぞれ両立しうるものである。又この墓は、外国における無名戦士の墓とも異なるものである。外国における無名戦士の墓は、国営の戦没者の墓から一体を移し、これによって全戦没者を象徴するものとする建前をとっているが、今回国において建立する墓は、このような趣旨は含まれていない。この面からも靖国神社とは趣を異にする」と述べた。(「墓」は宗教施設ではないので,所管は,厚生労働省、宗教施設の所管は,文部科学省である。)

1956年11月28日、政府は閣議において、1953年12月11日の閣議決定を確認し,建設場所は,当時宮内庁所有の千鳥ヶ淵元賀陽宮邱跡とすることを内定した。

靖国神社および日本遺族会は、従来靖国神社境内に建立すべきであると主張してきたが、大勢上、政府の意向を認めざるを得なくなり、その代り12月3日、当時の遺族会副会長逢沢寛氏と、官房副長官砂田重政氏(戦争犠牲者援護会々長)との間に要旨次のような覚書を取り交した。

仮称無名戦没者の墓は信仰的に靖国神社を二分化するものでなく、現在市ヶ谷納骨室に安置せる八万余柱の御遺骨及び今後海外より収納する所謂引取人の無き御遺骨収納の墓であること。
本墓の建設により、八百万遺族の憂慮している靖国神社の尊厳と将来の維持、及び精神的、経済的悪影響の波及しないような措置をすること。
 就ては、例えば国際慣行による我国訪問の外国代表者等に対し、我国政府関係者が公式招待又は案内等をなさざること。
靖国神社の尊厳護持について、来る通常国会の会期中に政府をして、精神的、経済的措置をなさしむること。
本墓の地域は靖国神社の外苑の気持で取扱いし、将来法的措置を講ずること。(→四 靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑引用終わり)


千鳥ヶ淵戦没者墓苑の桜:戦没者墓苑に隣接する千鳥ヶ淵には,1957年頃、千代田区が植えた染井吉野が多数り,都内屈指の桜の名所である。千代田区では夜桜見物のための照明を設備し,見物客を誘導整理する警備員も配置される。ワシントンには,桜並木とジェファーソン記念堂があるが,桜見物者は,千鳥ヶ淵戦没者墓苑で戦没者に思いを馳せるのかと思う。

靖国神社以外ありえない慰霊施設:大原康男には,次の記述がある。
・「千鳥ヶ淵の墓苑」は遺骨が誰であるか分からない場合、また名前が分かっても引き取り手である遺族が判明しない場合、そのような遺骨をまとめて葬る、いわば公設の墓地として作られたもの。「無念仏のお墓」と言っても差し支えない。その意味で、アメリカにあるような「無名戦士の墓」と違うんです。アメリカの「無名戦士の墓」というのは、戦場から本当に名前のわからない遺体を複数集めてきて、それをさらに絞って、一つの戦争ごとに一体を埋葬したお墓です。だから、まさしく「無名」の戦士の墓であり、戦死者全体を象徴しているお墓である。「無名戦士の墓」に参拝することは、戦死者全体にお参りするという意味を持つ。(引用終わり)

ここからは,どのような差異があるのか不明確である。

9.アジア太平洋戦争の末期,宮中グループは,軍上層部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性を大いに危惧していた。そこで,敗戦によっても,国体を護持できるように,終戦の聖断を下した。1945年9月2日,東京湾上の戦艦「ミズーリ」で行われた降伏調印式では,米マッカーサー元帥の親日的占領政策,国体護持を予期させるものがあった。その後,アジア太平洋戦争の戦争責任追及の場として,東京裁判(極東国際軍事裁判)で,A級戦犯だけが断罪され,国体が護持された。1951年サンフランシスコ講和条約では,占領国日本は東京裁判の判決を受容する(強要される)ことで,国体を護持しながら,賠償金をかけられることなく国際社会への復帰を認められ,独立国として再出発した。東京裁判の判決やあり方については,疑義があるが,A級戦犯刑死者は戦後,靖国神社へ合祀された。

写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。僕はこの会談の成立せんことを心から祈り、わが国のため日夜心血を注いだのである。しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といったとされる。

元首相近衛文麿は,日中全面戦争を開始した首相であるが,日米開戦を回避しようとしたこともある。1945年2月14日に「近衛上奏文」で「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,次のように昭和天皇に上奏した。

----英米ノ世論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス。随(シタガッテ)敗戦ダケナラハ 国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ 敗戦ヨリモ 敗戦ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。(中略)

カクノ如キ形勢ヨリ推シテ考フルニ、ソ連ハヤガテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候。
少壮軍人ノ多数ハ 我国体ト共産主義ハ兩立スルモノナリト信シ居ルモノノ如ク、軍部内革新論ノ基調モ亦ココニアリト存シ候。(中略)

昨今戦局ノ危急ヲ告クルト共ニ 一億玉碎ヲ叫フ声 次第ニ勢ヲ加ヘツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ 所謂右翼者流ナルモ 背後ヨリ之ヲ煽動シツツアルハ、之ニヨリテ国内ヲ混乱ニ陷レ 遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨ミ居リ候。(中略)

----勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ 滿洲事變以來 今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。彼等ハ已ニ戦争遂行ノ自信ヲ失ヒ居ルモ、今迄ノ面目上飽クマテ抵抗可致者ト存セラレ候。
モシ此ノ一味ヲ一掃セスシテ早急ニ戦争終結ノ手ヲ打ツ時ハ右翼、左翼ノ民間有志、此ノ一味ト饗応シテ、国内ニ一大混乱ヲ惹起シ所期ノ目的ヲ達成シ難キ恐有之候。從テ戦争ヲ終結セントスレハ先ツ其前提トシテ此一味ノ一掃カ肝要ニ御座候。

---元來米英及重慶ノ目標ハ日本軍閥ノ打倒ニアリト申シ居ルモ、軍部ノ性格ガ変リ ソノ政策カ改マラハ、彼等トシテモ、戦争ノ継続ニ付キ考慮スル樣ニナリハセスヤト思ハレ候。ソレハトモ角トシテ、此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。」(「近衛上奏文」引用)

昭和天皇は、近衛上奏文について,次のように御下問された。(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

1945年2月14日の昭和天皇への上奏文によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明した。そして,軍部の一味が戦争終結の最大の障害になっているので,彼らを一掃して,軍閥を倒せば,米英中と和平交渉も容易になると考えた。軍部を建直して共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだのである。

1945年8月15日1200,「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこきも御自ら、大詔をのたらませたもうことになりました。これより慎みて玉音をお送り申します」。その後、「終戦ノ詔書」が,玉音放送された。

大東亜戦争終結ノ詔書

----朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ 万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所。 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ 亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
----

而モ尚交戦ヲ継続セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ。是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ。
----惟フニ 今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス。爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル。然レトモ 朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ。若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ 為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム。
----誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ。
              御名御璽
             昭和二十年八月十四日

中川八洋(2000)『大東亜戦争と「開戦責任」−近衛文麿と山本五十六』では,近衛は,ソ連のスターリンが望む方向に確信を持って日本を舵取りした共産主義者という。アジア太平洋戦争は,中国の共産化を促し、冷戦構造をもたらしたが,その元凶はスターリンと彼に協力した近衛文麿,尾崎秀実など日本政界・軍部の中枢にいた共産主義者であるとする。近衛上奏文は,近衛の正体を覆い隠す芝居であったと決め付けた。

しかし,「近衛日記」昭和十九年七月二日・十四日)(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)に、次のようにある。
 「----我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず。」

「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。----故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。-----皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。----皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり。」(引用終わり)

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印団:前列;外相重光葵Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat),参謀総長梅津美治郎陸軍大将General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. 中列; 大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将Major General Yatsuji Nagai, Army; 終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男Katsuo Okazaki; 大本営海軍部(軍令部)第一部長富岡定俊海軍少Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; 内閣情報部第三部長加瀬俊一Toshikazu Kase; 大本営陸軍部(参謀本部)第一部長宮崎周一陸軍中将Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. 後列(左から右に): 海軍省副官横山一郎海軍少将Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; 終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎Saburo Ota; 大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐Captain Katsuo Shiba, Navy, 大本営陸軍参謀・東久邇宮総理大臣秘書官杉田一次陸軍大佐Colonel Kaziyi Sugita, Army. Naval Historical Center(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:ミズーリ号艦上の降伏調印式参照)

日本のアジア太平洋戦争後の国際社会復帰は,1951年のサンフランシスコ講和会議と講和条約による。その中で,東京裁判(極東国際軍事裁判)の結果を完全に受諾したことを表明した。したがって,靖国神社参拝,A級戦犯合祀という国内問題は,アジアだけでなく太平洋を越えた米国でも,カナダ(英国連邦の一員として,欧州戦に当初より参戦)でも大きな話題になってくる。ジョンホプキンス大学やジョージワシントン大学のアジア研究施設の所長たちは,「戦争を正当化することは,日本と戦った米国の戦争観と対立するのであって,異なった歴史解釈の上に日米の安定的な安全保障関係,軍事同盟関係を築くことは,不可能である」との見解を表明している(朝日新聞2006年4月30日)。

降伏文書調印にあたっての詔書:1945年9月2日降伏調印とともに交付された詔書「映像で見る占領期の日本」引用

降伏文書:1945年9月2日ミズリー号艦上の降伏調印式で調印された文書「映像で見る占領期の日本」引用
下名ハ茲ニ日本帝國大本営並ニ何レノ位置二在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ連合国二対スル無條件降伏ヲ布告ス

下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ワス一切ノ日本國軍隊及日本國臣民二対シ敵対行為ヲ直二終止スルコト----下名ハ茲ニ日本帝國大本営力何レノ位置ニ在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下二在ル一切ノ軍隊カ無條件二降伏スヘキ旨ノ命令ヲ直二發スルコトヲ命ス

下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ條項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スルタメ連合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者カ要求スルコトアルヘキ一切ノ命令ヲ發シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ実施スル為適当卜認ムル措置ヲ執ル連合國最高司令官ノ制限ノ下二置カルルモノトス

加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』(下)pp.80-94は,降伏文書調印の日を描写する。(「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用)
私の瞑想は靴音で破られた。足早にマッカーサー元帥がテーブルに向かって歩いて来たのである。マイクの前に立ち止まると、演説を始めた。演説はないはずだったから、意外だった。----元帥はこの演説において、理想や理念の紛争はすでに戦場において解決されたから、改めて議論する必要はない、といって、我々は猜疑や悪意や憎悪の気持に促されて今日ここに相会するのではなく、過去の流血と破壊のなかから信頼と理解にもとづく新しい世界を招来しようと切に念ずるものであると説き、自由と寛容と正義の精神を強調したのである。そして、最後に、占領軍総司令官の義務を「寛容と正義によって」履行する決意であると結んだ。私は、“tolerance and justice”という言葉が反復されるのを聞いて、我れと我が耳を疑った。
意外である。刀折れ矢尽きて無条件降伏をした敗敵を前にして、今日の場合、よもや、このような広量かつ寛厚な態度をとろうとは、まったく予期していなかった。----自制して静かに、自由と覚容と正義を説くのは、まことに立派だと思った。勇気に富むクリスチャンだと思った。そして、日本はこれで救われたと思った。そう信じた。私のみならず、艦上のすべての人は、ことごとく元帥に魅了されていた。----演説を終ると、元帥は厳しい口調で日本全権に降伏文書の調和を促した。

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上のサザーランド中将が重光葵外務大臣の降伏調印を見守る。右は,随員の外務省情報部長加瀬俊一。:Lieutentant General Richard K. Sutherland, U.S. Army, watches from the opposite side of the table. Foreign Ministry representative Toshikazu Kase(加瀬俊一) is assisting Mr. Shigemitsu(重光葵). Naval Historical Center.加瀬俊一の手記を読むと,彼ら宮中グループが,マッカーサー元帥を日本再建,国体護持の道筋を与えた人物とて,過剰といえるほどに,高く評価していることに驚かされる。東京裁判についても,同じ趣旨で,うまくいったと考えたはずだ。後になって,東京裁判は無効だというような自称保守派の意見を聞いたとき,内心,その浅はかさを感じたのであろう。

----これで式は滞りなく終了し、我々一行は、往路を逆に、再びランスダウン号に乗って、横浜港に向かった。駆逐艦の上では全権団は、さすがに緊張感から解放されて、思い思いに印象を語り合っている。この時、----VJデーを慶祝して、四百のB29と一千五百機の艦載機が一大ページェントを展開した。その轟音の問から、マッカーサー元帥の本国向けの放送が流れる。これが、また、流麗豪壮な演説であるが、日本についてもその将来を期待して、「日本民族の精力が平面的でなく立体的に発動し、その才能が建設的に活用されれば、必ずや現在の悲境から脱出して、尊敬に値する国際的地位を回復するであろう」と大胆に予言したのである。

私は駆逐艦の一隅に座を占めると、急いで調印式の経過、とくにマッカーサー元帥の態度と演説の意味を詳説した報告書を認めた。

-----元帥の演説は暗黒をつらぬく一条の光明だったといってもよかろう。

---私は首相官邸から議事堂へ急いだ。衆参両院議員が私の帰るのを待ちわびていたのである。----「占領は厳格だと思う。だが、マッカーサー元帥は、“寛容と正義”を力説しているから、我が国の前途は必ずしも悲観するに当るまい。正しい主張ならば、元帥も快く耳を傾けるのではあるまいか。ただ、それには、今日を再出発の日として、全国民が一億一心となって祖国の再建に猛然と全力を結集せねばならぬと信ずる」という趣旨を訴えた。----盛んな拍手をあとにして辞去する時、私は、これこそ愛国心の爆発だと思った。マッカーサーにこの愛国の拍手をきかせたいと思ったことだった。(加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用終わり)

昭和天皇弟宮高松宮宣仁親王,元首相近衛文麿,内大臣木戸幸一,元内大臣牧野伸顕,内閣総理大臣秘書官・高松宮御用掛細川護貞,内閣副書記官長高木惣吉,宮内省松平康昌,外務省加瀬俊一,宮内庁御用掛寺崎英成など日本の宮中グループは,米占領軍上層部と連携して,日本の復興,国体護持,大元帥昭和天皇の訴追排除に尽力してきたことが窺われる。

戦後、近衛文麿は,東久邇宮稔彦王内閣で国務大臣を務めた。しかし,1945年11月には,近衛の戦争責任が追及されるようになり,『世界文化』に掲載された評論では,日中戦争・太平洋戦争の開戦の責任を軍上層部に転嫁し、自分が軍の独走を阻止できなかったことは遺憾であると釈明したという。1945年12月6日にGHQから巣鴨拘置所出頭命令を受けたため,昭和天皇に戦争責任が及ばないようにと,荻外荘で青酸カリを飲み自殺した。(→wikipedia近衛文麿引用)

写真(右):1946年東京裁判の開廷された市谷の陸軍省・参謀本部:1937年6月に竣工した陸軍士官学校本部庁舎であり、1941年以降は、左側に陸軍省、右側に参謀本部が入った。自衛隊の市谷駐屯地に防衛庁が移転し,多くの建物が取り壊されたが、歴史的価値のある一号館の一部のみが記念館として移設保存された。東京裁判の法廷とされた大講堂と、旧陸軍大臣室が残されている。

第二次世界大戦の敗戦国を「戦勝国」が裁いたのが,国際軍事裁判といわれる。ここでは,捕虜虐待や住民殺害などの戦争犯罪だけではなく,「平和に対する罪」と「人道に対する罪」について,容疑者の公開裁判が行われた。1945年8月には,ドイツのナチス幹部を裁くニュルンベルク国際軍事裁判が始まった。そして,1946年には,極東国際軍事裁判=東京裁判が開始された。A級戦犯とは,戦争指導者として有罪判決を受けた戦争犯罪人である。
東京裁判の裁判官(11名)の出身は,米マイロン・C・クレーマー,英仏ソ,中の梅汝敖の五大国,カナダ,オランダ,オーストラリアのウィリアム・F・ウエップ,ニュージーランドという戦勝国と並んで,インドのラダ・ビノード・パール,フィリピンのジャラニラという連合国植民地代表もいた。

写真(右):1946年東京裁判の開廷された陸軍省自衛隊旧市谷駐屯地:A court room scene at the Tokyo Trial held at a former Ministry of Army building at Ichigaya, Tokyo.

1946年1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、1946年4月26日に裁判が開始された。起訴は,1946年4月29日(昭和天皇誕生日)で,裁判費用(27億円)は、日本側の負担になる。日本軍が再び世界の平和・安全保障の脅威とならないようにするという目的と,占領した日本を,親米の国に変換するという二つの目的があった。実際,連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) ダグラス・マッカーサーは、占領国日本の統治において大元帥昭和天皇の協力を不可欠と考えたために、国体を維持し,大元帥昭和天皇の訴追も退位も行わなかった。

東京裁判では、日本への都市爆撃,原子爆弾投下,無制限潜水艦作戦など連合国軍の大量殺戮は裁かれず,証人への偽証罪の適用も無かった。また、戦後の「国際法」によって,過去の戦争責任を裁くという点で,罪刑法定主義・法の不遡及が満たされいないことも指摘された。

戦後,宮中グループは,対米英太平洋戦争を否定して戦時中の日本の軍国主義者を指導層から排除すること,天皇の戦争責任から解放し,国体を護持することを企図し,その目的を達成するために,極東国際軍事裁判(東京裁判)の意義を認めた。そこで,宮中グループは,国際検察局に積極的に戦犯リスト情報を提供し協力関係を築こうとした。宮中グループは,天皇を擁護するためには,戦争責任を誰かが引き受けなくてはならず,それは東条英機などA級戦犯であると考えた。内大臣木戸幸一が提出した「木戸日記」は,A級戦犯の選定に寄与した。

 満州事変,日中戦争,対米英太平洋戦争は,陸軍強硬派が主導したように言われるが,それに同調した海軍はもちろん,宮中グループ,官僚,財閥も連座している。そして,最終判断を下した大元帥昭和天皇も無関係ではない。

しかし,東京裁判では,アジア太平洋戦争の責任は,主に陸軍上層部に押し付けられ,宮中グループは,大元帥昭和天皇の意思を踏まえて,和平を望んだが,経済封鎖された状況で,日本の内乱・革命を防ぐために,やむをえず対米英太平洋戦争に踏み切ったとの立場を堅持した。大元帥昭和天皇,宮中グループ,官僚,財界,そして,国民は,戦争犠牲者であって,戦争責任はない。戦争責任を負うべきなのは,A級戦犯であるという歴史認識を作り上げた。

 このような戦争責任論は,冷戦が激化する中,米英にとっても都合が良い。冷戦の開始によって,米国の占領政策は,非軍事化・民主化から反共化に移っていったから,日本を新米国家にして,米国の同盟国に育成する戦略が採用された。この戦略を担うための日本側の政治勢力が,保守的な宮中グループであり,1948年10月に成立した吉田茂内閣だった。吉田茂は,内大臣牧野伸顕の娘婿で,新米保守の日本を方向付けた。(→極東軍事裁判参照)

写真(右):1948年東京裁判に出廷した東條英機元首相:勲章や肩章など全ての虚飾を剥ぎ取られた軍服を着ている。Former Prime Minister Hideki Tojo testifies during his trial at the old War Ministry building in Tokyo in 1948.
東條英機(とうじょう ひでき 1884年7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年12月23日):1940年第二次近衛文麿内閣で陸軍大臣,1941年内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣,1942年外務大臣を兼務。1943年文部大臣・商工大臣・軍需大臣も兼務。1944年参謀総長も兼務。サイパン陥落後、首相辞職。予備役に就く。戦後,拳銃自殺図るも失敗。

極東国際軍事裁判にA級戦犯として起訴された28名の被告defendantsの判決は,次の通り。

<絞首刑(死刑)>Death by Hanging
板垣征四郎:陸相(近衛・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長
木村兵太郎 :関東軍参謀長・近衛・東條内閣陸軍次官・ビルマ方面軍司令官
土肥原賢二 :奉天特務機関長(満州国建国・宣統帝溥儀担ぎ出しに関与)、第12方面軍司令官
東條英機:首相(日米開戦〜サイパン戦)・陸相(陸軍大臣)・参謀総長
武藤章 :陸軍省軍務局長・第14方面軍参謀長(フィリピン戦)
松井石根:中支那方面軍司令官(南京攻略)
広田弘毅:首相・第1次近衛内閣対中国戦争時外相

1946年東京裁判に出廷した東條英機元首相:東條首相は,天皇親政を実りあるものにするために,頻繁に上奏を繰り返し,天皇の意思を汲み取りながら国政に尽くした。忠臣として,昭和天皇からも信頼されたからこそ,首相・陸相・内務大臣・外務大臣・参謀総長など兼ねる独裁が可能になった。東條英機大将は,大元帥昭和天皇に有無を言わさず日米開戦を認めさせたとの証言をしたが,これは天皇を訴追から守るための偽証だった。東京裁判では,開戦の全責任を引き受け,処刑された。このような,ディールは,マッカーサー元帥,フェラーズ准将など米軍上層部の意向と日本の宮中グループの協力で可能になったのであり,東京裁判の最大の意義は,国体護持を貫徹したことにある。これを抜きにして,「東京裁判史観」を論じることは片手落ちであろう。

<終身刑>Life Imprisonment
荒木貞夫 :犬養・斎藤内閣陸相・第1次近衛内閣・平沼内閣文相
梅津美治郎:支那駐屯軍司令官・広田・林・近衛内閣陸軍次官・関東軍司令官・参謀総長
大島浩:駐ドイツ大使(日独伊三国同盟)
岡敬純 :近衛・東條内閣海軍省軍務局長
賀屋興宣 :北支那開発会社総裁・東條内閣蔵相
木戸幸一:内大臣
小磯国昭:朝鮮総督・陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・拓務大臣・首相(フィリピン戦)
佐藤賢了:陸軍省軍務局軍務課国内班長(国家総動員法)・陸軍省軍務局長
嶋田繁太郎 :軍令部総長・東條内閣海軍大臣・軍令部総長
白鳥敏夫:駐イタリア大使(日独伊三国同盟)
鈴木貞一:第2次近衛・東條内閣企画員総裁・大日本産業報国会会長
南次郎 :関東軍司令官・朝鮮総督
橋本欣五郎:翼賛政治会総務・大日本赤誠会統領
畑俊六:阿部内閣陸相・中支那派遣軍総司令官
平沼騏一郎 :枢密院議長・内務相・首相
星野直樹 :満州国総務長官・企画院総裁・東條条内閣書記官長

<有期禁錮>
重光葵:第2次近衛内閣外相(7年)
東郷茂徳 :駐ソ大使・駐英大使・南京政府(汪兆銘)駐在大使・外相(20年)
<判決前に病死>
永野修身 :広田内閣海相・連合艦隊司令長官・軍令部総長(1947年1月5日没)
松岡洋右:第2次近衛内閣外相(1946年6月27日没)
<精神異常を理由に免除>
大川 周明:拓殖大学教授・大アジア主義と国家主義の思想家

東京裁判における対米関係としては,大元帥昭和天皇の戦争責任を認めないという点が最も重要である。A級戦犯は,大元帥昭和天皇の免責のために犠牲的精神を発揮し(させられ),全ての責任を引き受けた(引き受けさせられた)。その意味で,東京裁判では,日本の再建と国体護持を願う宮中グループと米国における対ソ・反共産主義グループの協力が指摘できる。米英政府高官と米軍上層部は,国体を護持することが,米国の支配下で,日本の政治的安定と産業界・経済の復興に繋がると判断したと考えられる。



写真(右):大元帥昭和天皇
;満州事変,日中戦争,太平洋戦争と昭和期の日本陸海軍の総司令官,統帥権の保持者として,戦争指導を行った。幼いときから一流の帝大教授,将軍に直接学び,帝王学を身につけた。日本で最高の教育を受け,中国国家主席大元帥蒋介石,独総統ヒトラー,英首相チャーチル,米大統領ルーズベルトに匹敵する以上の一級の頭脳を持つ軍最高司令官である。

1889年2月11日公布の大日本帝国憲法は,「皇朕レ謹ミ畏ミ 皇祖 皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ継承シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ」という告文で始まり,「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在 及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ」との憲法発布勅語が続いている。

つまり,天孫降臨の神勅を引き継いだ天皇は,神格化され,現人神(あらひとがみ)として統治を宣言した。日本臣民は,天皇の赤子となった。このような重要なお言葉を無視した憲法の解説は,法学としてはともかく,日本の基盤「国体」を捨象しているといえる。

第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 」とし,第四条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とした。大臣,陸軍参謀総、海軍軍令部長らは,天皇の統治権・統帥権を補弼するにすぎない。天皇は,立法・司法・行政の三権を総攬し、大元帥として陸海軍の統帥権を持つ絶対的存在だった。

軍事について,天皇の権威は絶対である。第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」,第十二条「天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」,第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」として,国軍の統帥権,軍の編成権,軍事予算の決定権を保持し,宣戦布告と講和の全権を握っていた。立憲君主制のような議会中心,国民主権の統治形態,軍のシビリアンコントロールのような事態は想定されていない。

しかし,第三条で,「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」として,天皇無答責を定めた。国内法によれば天皇に戦争責任は及ばないことになる。

日本国憲法の天皇と戦争に関する条項は,次の通り。
第一条【天皇の地位・国民主権】「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされた。
第三条【天皇の国事行為と内閣の責任】「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」
第四条【天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任】「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

国民統合を具現する天皇の役割は,国家儀礼に限定し、国政に関しない「象徴天皇制」が確立された。

日本で軍神顕彰など戦意高揚のプロパガンダが徹底されたのは、日中全面戦争以来、総力戦に突入したためである。そして、日米開戦によって一層の兵士,兵器,資源,輸送手段、労働力が求められるようになり、その物資・人員を総動員する必要がうまれた。総力戦は、前線の戦闘部隊だけでなく後方、すなわち銃後の国民によっても戦われている。これは、兵器生産,資源節約,食糧増産、兵員供給、物資運搬など、国民生活のあらゆる方面に関連したという意味で「総力戦」である。
軍属や看護学徒を顕彰するのも、その総力戦に必要な世論を形成するためである。

偉勲をあげた自己犠牲の戦士、すなわち軍神がつくられ,それを至高の存在,英霊を生み出することで世論操作,世論形成が進み,国民の士気向上にも結びつく。戦時の靖国参拝,戦死者の合祀には,このような総力戦における世論形成,大元帥昭和天皇の下での国民統合の目的があった。戦後に,靖国神社参拝にどのような意味を感じるか,持たせるかは,広く議論すべきではあるが,議論をすればするほど,戦争を巡る価値観の衝突,政治的混乱が顕著になる可能性がある。

日本国の最高指導者,あるいは靖国神社の最高監督としては,中国,韓国,米国などの国際関係の安定が崩れることを避け,さらに国民統合のあり方とその方法を巡って混乱すること,世論が紛糾することも避けなくてはならない。靖国神社参拝という問題で,国民統合が崩れ,世論が紛糾することは,決して,国家神道のためにも,国体護持のためにもならない。国体護持,国民統合,世論の安定を図るには,価値観の衝突,国民と世論の混乱を引き起こす靖国問題を強行解決する愚を犯してはならない。靖国神社と戦没者追悼に関しては,さまざまな意見を表明する言論の自由,信仰を拘束せず,特定の宗教の国家庇護を認めない宗教の自由を維持して,長期的に議論すべきであると考える。

10.古くから,世界各地には,戦争犠牲者追悼,平和祈願の場が設けられている。そこは,宗教施設のようでもあるが,国家施設,国営記念碑のようでもある。宗教的意義よりも,国家的意義,ナショナリズム,イデオロギーなど様々な大義が,表彰されている。場合によっては,大義を戦没者追悼によって,強化し,喧伝しているようにも見える。


台湾にある中正記念堂:蒋介石を記念して1980年に建設された。記念堂の三方には花崗岩の階段が84段あります。正面の階段5段を加えると89段になり、これは蒋介石の享年89歳を表現している。中正ギャラリー,文物展示室も完備している。

女学生も母親も、学童・児童すらも総力戦にあっては「戦争をしている」のである。

総力戦は,日本だけでなく、敵連合国、米国でも同様である。女子の労働力を純授産業に大量投入し,黒人労働力・黒人兵士も導入した。男子大学生だけでなく、女子大生も、学徒動員されあるいは、軍事訓練を施されていた。米国は民主主義を標榜していたが、ファシズムの「大日本帝国」と同じように,総力戦のための物資/人員の動員が協力に推し進められ,そのためのプロパガンダが,文化人,芸術家を動員して徹底的に行われた。

中華民国でも,軍官学校で厳しい訓練を行っていたが,蒋介石総統に兵士が忠誠心を寄せるように教育した。その際,中核となるのは,農民反乱の思想的根拠になった仏教・道教ではなく,ナショナリズムと並んで,孫文,蒋介石,毛沢東への個人崇拝や国民党絶対,共産党絶対といった一党支配の構図であった。そこで,中国軍将兵の士気を高める擬似宗教装置として,孫文の中山廟,中正記念堂が作られた。


台湾にある中正記念堂のメインホール:蒋介石の銅像が安置されており,24時間,警護の衛兵がついている。台座には蒋介石の遺言が刻まれており、像の上方には倫理、民主、科学、すなわち三民主義の本質であり蒋介石の基本政治理念が記されてる。また両側には蒋介石の名言「生活の目的は人類全体の生活を向上させるためであり、生命の意義は宇宙が継承する生命を創造することである」が刻まれている。

中華民国(台湾)の台北市に宮殿陵墓建物がある。これは,国民党総統だった蒋介石を追悼する中正記念堂である。「中正」は,蒋介石の本名で,堂は蒋介石の生誕90年に当たる1976年10月31日に起工され、1980年3月31日に完成した。三層からなり,階段部分、建造物本体、屋根まで合計70メートルの高さがある。入り口は,青銅鋳造で高さが16メートル、 階段を上ると、目の前には、蒋介石の銅像が衛兵に衛兵に警護され鎮座している。像の上方には蒋介石の基本政治理念であった「倫理、民主、科学」という(孫文の主張した)三民主義の本質が書かれている。

国家指導者や軍上層部にとって,芸術などプロパガンダに従事する侍女(はしため)に過ぎない。しかし,芸術家にとって,戦争は自分の活躍の場を誇示し,あるいは作品を通じて自己表現をする場と認識されているのかもしれない。ともに,死者の名誉を称え,追悼すると同時に,残された指導者が自己の正当性を維持し,大義を確固とするために故人の遺徳を利用しているようにも感じられる。


ワシントンDCのジェファーソン記念堂を正装して訪れた米海軍婦人部隊WAVEs:ジェファーソン記念堂は、生誕200年にあたる1943年12月に4年間をかけて落成した。基礎をうったのは、フランクリン・ルーズベルト大統領で、巨大な青銅製のジェファーソンの像は1階にあったが、今は堂内に移転されている。周囲には,1912年に日本から送られた「ワシントンの桜」が植えられているのが悲しい。The memorial was dedicated in 1943 on the 200th anniversary of Jefferson's birth, four years after President Franklin Roosevelt laid the cornerstone. The memorial appears at its most beautiful in early spring when the Japanese cherry trees are in bloom. The trees were presented as a gift from the city of Tokyo to the city of Washington in 1912.

宗教と政府が一致している祭政一致では、天皇・神道の受容が忠誠の表明となる。米国では、国家とキリスト教が合体することを認めていない「宗教の自由」があるので,祖国に対する忠誠は、国旗、歴史的記念物、墓地などで示される。

米国のワシントンDCのジェファーソン記念堂(Jefferson Memorial)は、アメリカ合衆国の第3代大統領Thomas Jefferson(1743-1826)を記念する国立の記念建造物は,ジェファーソンを記念するモニュメントである。ジェファーソンは、独立宣言を起草した英雄である。キリスト教では、人間が神になることはないが、偉人は死後に、英霊として尊敬され,国家顕彰の対象となることがある。ジェファーソン記念堂は、生誕200年にあたる1943年12月に4年間をかけて落成した。基礎をうったのは、フランクリン・ルーズベルト大統領で,まさに戦時中に民主主義の最前線で戦うアメリカを演出しようとしたのかと思えてくる。つまり,偶像崇拝を禁じているとか,キリスト教になじまないとかは,国家的要請の前にはいかようにも解釈できるし,第一義的なことではない。

図(右):第一次大戦の戦没者を追悼するために建設された米国の「無名戦士の墓」;第二次大戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争の戦没者も埋葬されている。Sailor and girl at the Tomb of the Unknown Soldier, Washington, D.C.1943年5月。"Here Rests In Honored Glory An American Soldier Known But To God" とある。

米国には,有名なアーリントン国立墓地Arlington National Cemeteryの「無名戦士の墓」The Tomb Of The Unknownsがある。1946年4月6日からは,24時間,衛兵が警護している。これは,1921年3月に連邦議会が,第一次世界大戦で戦死した米軍将兵の葬儀をアーリントン国立墓地の追悼場で行なう旨決議し,11月11日にフランス戦線での戦死者が埋葬されたのが契機となっている。ここには,第一次大戦,第二次大戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争の無名戦士が眠っている。

戦没者を追悼する施設・芸術には,経済的収入,マーケティングに配慮したものもある。これは市場経済の影響を受けており,戦没者追悼とならんで,あるいはそれを大義名分にして,興行収入,観光振興など経済的利益を目指すこともある。

戦争記念施設や戦争・特攻を扱った芸術には,戦没者追悼の意図を持ってものも多い。しかし,同時に経済的な意味合いやマーケティングをも配慮し,資金,技術,人員を投入していることがある。

故人や遺族の視点からは,戦没者追悼とは死者霊魂を慰める異例の儀礼であり,戦死者の記憶を純化して,遺族の苦悩や悲しみを癒すという重要な役目がある。宗教的に,死者の魂をおくるために必要不可欠であると考える。遺族や戦友たちの「こころ」は亡くなった人々への哀悼でり,「靖国神社を悪く言う人々は、他人事なのです」という意見にも一理ある。

写真(右):アーリントン国立墓地ARLINGTON NATIONAL CEMETERYの無名戦士の墓:アーリントン国立墓地は,バージニア州の小高い丘の上にある国立墓地。約200エーカーの広大な墓地<で,独立戦争やベトナム戦争などアメリカのために命を犠牲にした兵士たち17万5000人や国民的英雄など、23万人以上の名前が墓碑に刻まれている。

しかし,戦没者追悼も,国家的指導者や軍上層部にとっては,政治的に邪推し,メディアリテラシーに注目すれば,全く別の意味をも持ってくる。

偽りの戦没者追悼とは,自分が仕掛けたあるいは受けて起った戦争で,将兵・軍属などが命を失い,戦争の犠牲になっても,それは戦争指導者の責任ではないということを示すもの,あるいは回航手段としてのジェスチャーとして形だけ取り繕う「ヤラセ」である。戦没者は犠牲者というよりも,立派な英雄であり,彼らを追悼したり,崇めたりすることで,戦争責任は回避される。国体護持,民主主義の擁護,祖国防衛,民族自立,民族解放など戦争の大義のために殉じた英霊たちが粛然として存在する,姿を現す。英霊を社会的に認識させた厳粛な儀式,荘厳な施設・宗教儀礼・プロパガンダの前には,戦争責任の問題は霞んだちっぽけな問題になりさがる。戦争における大量殺戮・大量破壊の責任など存在しなくなる。

芸術家,学者,宗教家など有名な文化人が動員され,かれらの知的能力を発揮した宗教的あるいは擬似宗教的な国家的英霊崇拝の具象化は,とても美しく厳粛に彩られるものである。問題はその理念を受け入れるかどうかという心情,認識,事実判断であろう。形には惑われやすいものだ。

11.西暦73年の第一次ユダヤ・ローマ戦争では,マサダ要塞に立て篭もったユダヤ人が,徹底抗戦した後,集団自決し,玉砕したという伝説がある。そこで,マサダ要塞は,現在のイスラエル軍にとっても,民族の誇りが具現した場所として聖地となっている。有名作家曽野綾子は,マサダ要塞の玉砕者の英霊としての認識に比較して,1945年3-6月の沖縄戦における「住民集団死」について,玉砕者の名誉を汚す解釈がなされていると批判する。沖縄住民集団死は,祖国を守る日本軍に後の憂いを残さないように,潔く身を処置し玉砕した結果であるという。しかし,このような住民の集団死の多くは,捕虜になることへの恐怖が第一の要因である。

マサダの集団自決の神話
住民を巻き込んだ戦いは、古代からあるが、有名な集団自決の伝説は、紀元73年の第一次ユダヤ・ローマ戦争におけるマサダMasadaの要塞でのものである。これは、ローマの大軍に包囲されたユダヤ兵士・住民960人が集団自決collective suicideした事件で、ローマ市民権を持つ歴史家ヨセフスJosephus Flaviusのあらわした『ユダヤ戦記』The Jewish Warが唯一の文献証拠である。

ローマ軍は70年にエルサレムを攻略し、ユダヤ人の叛乱は鎮圧し、抵抗したユダヤ人は、捕虜になった後、殺害された。一説には、ユダヤ人が宝石や金を飲み込んでいると思われ,腹を裂かれた。ティトゥス将軍はローマへと凱旋したが、エルサレム以外で抵抗を続けた兵士・住民は、難攻不落といわれたマサダの要塞に2年間籠城したといわれる。

写真(左):マサダの要塞;73年にユダヤ人960名が集団自決したとされ、イスラエルの聖地(世界遺産)になっている。The summit of Masada sits 190 feet (59 m) above sea level and about 1500 feet (470 m) above the level of the Dead Sea. The mountain itself is 1950 feet (610 m) long, 650 feet (200 m) wide, 4250 feet (1330 m) in circumference, and encompasses 23 acres.

死海の西にあるマサダの要塞は、470メートルの丘上の街で、宮殿、貴族の家、シナゴーク、食糧庫、町をまもる軍事施設、展望台があり、岩をくりぬいて作った貯水槽には4万トンの水を蓄えることが出来た。

 マサダ集団自決のの悲劇とは、マサダ要塞に篭城した兵士・住民960人が、ローマ軍の2年間の兵糧攻めに合い、集団自決したという伝説である。マサダの司令官Elazar ben Yairの最後の演説は、次のようであったという。

“Since we long ago resolved never to be servants to the Romans, nor to any other than to God Himself, Who alone is the true and just Lord of mankind, the time is now come that obliges us to make that resolution true in practice...We were the very first that revolted, and we are the last to fight against them; and I cannot but esteem it as a favor that God has granted us, that it is still in our power to die bravely, and in a state of freedom.”我々にはまだ勇敢に死ぬ力があり、自由の国にとどまっている。

マサダ要塞では、ユダヤ人男性が妻子を殺害した後,お互いの命を絶った。(この自決の仕方は,沖縄戦も同じ。)その自決の様子を、洞窟に隠れていた女2人、子供5人が生き残り、ヨセフスに伝えたという。

マサダの集団自決committed suicide は、捕虜とならずに自決した潔さから、民族独立の戦いの尊さを示し、ユダヤの美談と名誉の象徴となった。現在のイスラエルにとっても、祖国存続の基盤となる物語である。イスラエル軍入隊宣誓式は、マサダ要塞上で国旗掲揚、旧約聖書ヨシュア記朗読の中で行われる。そして、「マサダは二度と陥落しない」と誓う。Masada symbolizes the determination of the Jewish people to be free in its own land. まさに,マサダ要塞は,祖国防衛の宗教的象徴として,聖地の扱いを受けている。

曾野綾子(2003)「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」『正論』平成十五年九月号所収で、次のように述べた。
「イスラエルでは今でもこの地を民族の歴史の誇りとして扱う。----同じような悲劇を持つ沖縄では、自決した人たちの死は軍から強制されたものとすることに狂奔した。それは死者たちの選択と死をおとしめるものであろう。イスラエルと日本のこの違いはどこから来るのか。私はそのことの方に関心が深いのである。」
沖縄戦における住民集団自決は,祖国への住民の熱き思いがこもっている玉砕であり,悲劇的な美談として理解すべきであるという。軍民一体の徹底抗戦を強調する文化人は,日本軍守備隊の足手まといにならないように自決した,あるいは敢闘したあと,捕虜となることが名誉を汚すので,潔く自決したとの軍国神話を信じ,流布している。

写真(右):マサダの要塞;Masada today is one of the Jewish people's greatest symbols. Israeli soldiers take an oath there: "Masada shall not fall again." Next to Jerusalem, it is the most popular destination of Jewish tourists visiting Israel. As a rabbi, I have even had occasion to conduct five Bar and Bat Mitzvah services there. It is strange that a place known only because 960 Jews committed suicide there in the first century C.E. should become a modern symbol of Jewish survival.

マサダで集団自決した兵士・住民は,ローマ軍によってエルサレムが陥落された時の住民虐殺、投降し捕虜となった場合の恐怖を抱いた。長期間徹底抗戦した後に捕虜になっても、残虐行為を受けるしかない。それよりは,自ら死んだほうがましであるとの恐怖があった。つまり,マサダ要塞のユダヤ人は,ローマ軍に虐待,処刑される恐怖の前に,自決したと考えられる

マサダの集団自決の悲劇自体に、歴史学から疑問が呈されている。
・戦争はエルサレム攻略でほぼ終了し辺地のマサダで大規模戦闘はきていない、
・1000人のユダヤ人を1万人のローマ軍団が3年も包囲する必要がない,
・ヨセフス『ユダヤ戦記』の集団自決の証言は、生き残りの女性からの口伝とされている、
・口伝律法を6世紀頃まとめたタルムードTalmud/には、「マサダの悲劇」について言及がない(→Talmudを読む)
・ユダヤの律法では自殺を禁じており,同朋殺害も美徳とは認められない、
このような反証がされているが、マサダの悲劇は、「民族国家のために死ぬまで戦うという名誉」というメッセージを伝える者にとって、あるいは現在のイスラエルにとって、重要な国家的意義を表す伝説であり,兵士・住民の集団自決の美談は語り継がれねばならない。960人のユダヤ人集団自決(マサダの悲劇)は、証拠不十分で、立証できていない。しかし,歴史的事実の真偽は,祖国の強固な一体感を確保するという愛国心,ナショナリズムの前には,重要なことではない。After all, the heroism in the Masada narrative and in the context is not at all self evident or understood.

12.侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館(南京大虐殺記念館)は,南京市の共産党委員会と人民政府によって,1985年8月15日、南京の地に「血で書かれた歴史」を永遠に刻むため、江東門の「万人坑」跡地に建設された。1937-38年の南京事件を記念,追悼するとともに,日本の侵略行為,残虐行為を非難する。

写真(右):侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館のニューメモリアル;2005 The memorial hall of the victims in Nanjing massacre by Janpanese invaders

侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館は,広場陳列、遺骨陳列、史料陳列からなっているが、史料陳列では日本軍による残虐行為の写真が並ぶ。広場に入ると、建物正面の佇まいに圧倒されるが、そのまん前には、斬り落とされた首の彫刻が据えられ、左側には生き埋めにされたと人の腕が大地から突き出ている。南京攻略戦に伴う中国側の戦没者は,30万人と公認され,その数字が大きく掲げられている。(「人権と教育」月刊307号(1999.6.20)引用)

しかし,最大の意義は,Gao Wenbin,Dai Baoyu,Li Famingなど南京事件の中国側生き証人の記録を,写真,手形,足形を含めて,次のように整理し,次世代に伝える資料としたことであろう。

写真(右):侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館のZha Fukuiの手形と足形;2005 The memorial hall of the victims in Nanjing massacre by Janpanese invaders

Zha Fukui Male Born on Feb. 27,1915
Age when making handprints and footprints: 87
In December 1937, the Japanese invaders did a massacre in Nanjing.One day at the end of December, Japanese soldiers broke into our courtyard,and i was stabbed by them at 5 places,two serious wounds and three minor wounds.I fainted in blood,and escaped from death with the help of my family.In our courtyard,five people were killed by Japanese soldiers by stabbing.The scars of stabbing can still be seen on my body,and I will never forget this huge debt of blood.
(Investigated and recorded by Heng Zongqin,Gu Shunqin and Liu Zhenxi)

1995年の拡張工事に続いて、2002年12月には900平方メートルの新しい展示ホールが建設された。巨大な標志碑の上端には大虐殺が発生した日を示す「1937.12.13−1938.1」、記念館正面入り口には犠牲者数をあらわした「300000」のモニュメントなどがある。2004年3月1日からは、政府による入館料の全額補助により無料開放された。これに伴い、見学者数が激増。1月足らずの間に見学者数は20万人を超えた。(「現代中国ライブラリィ/現代中国事典」南京大虐殺記念館引用)

南京大虐殺記念館は今回、南京大虐殺史研究会の初代会長を務めた故・高慶祖教授、記念館に400万香港ドルを寄付した香港の実業家・陳君実氏、南京大虐殺の証拠を20年間探し続けている日本・大阪府の小学校教師・松岡環氏、「ザ・レイプ・オブ・南京」を著した中国系アメリカ人の故アイリス・チャン氏ら4人に、「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館特別貢献賞」を授与した。(「人民網日本語版」2005年8月16日引用)

写真(右):侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館の「南京事件犠牲者の遺骨」 ;Some of the victims'bones. 2005 The memorial hall of the victims in Nanjing massacre by Janpanese invaders

「平和甦る南京」の写真特集 田中正明では,次のように侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館を非難する。
侵華日軍南京大屠殺記念館が建設され、入り口正面に中国語・英語・日本語で、「30万遭難者」と大書したが、この記念館の創設を進言したのは、日本社会党の有力者、田辺誠である。更に、記念館の中に飾られた写真の多くは、日本から持ち出されたものである。ガラスケースの中に入れられた大量の人骨は、本多記者の言う、「万人抗」や「死体橋」から発掘されたものではなくて(だいたいそんなものは存在してない)、近くの新河鎮の戦闘で戦死した中国兵の遺骨である。
記念館の建設の前後には本多、洞、藤原氏ら、例の虐殺派の「南京事件を考える会」のメンバーがそろって訪中しており、開館式には日本の総評(現、連合の前身)代表2名が参列している。極端な表現を許してもらうならば、南京戦に参加していない中国共産党政府には、南京の史料などほとんどありようはずがなく、結局、日本人が創作し、日本人の脚色・演出によるシロモノ。(引用終わり)

◇⇒検証:南京事件参照。

中国の南京市では、2005年12月13日、各界と国内外の平和を愛好する友好人士3000人が、南京大虐殺で受難した30万人を悼む集会を開催した。南京市でサイレンが響き,数十人の南京大虐殺生存者を含む中国各界の人々と日本広島平和交流団など内外の友好人士は、南京大虐殺遭難同胞記念広場で追悼儀式を盛大に行い、黙祷と花輪を捧げ、犠牲者に対する哀悼の意を表した。これは,68年前の1937年12月13日、日本軍が当時の中国の首都南京を占領した日である。(China Radio International:2005-12-13 16:05:14引用)

南京大虐殺記念館は、南京事件の史実を伝えることを大義名分とした公的機関ではあるが、特定の宗教によって統一されているのもではない。しかし、南京大虐殺記念館の荘厳なモニュメントは、犠牲者の追悼と加害者への非難という役割を持った国家的な「擬似宗教装置」でもある。

博物館、図書館、資料館としての機能を重視するのであれば、不必要な「記念碑」が存在する以上、南京大虐殺記念館や靖国神社遊就館に限らず、何らかの意図を持った「モニュメントによる顕彰・糾弾」がなされているといってよい。また、展示品自体を、何らかの意図を持った「遺品・聖人遺骸・英霊の御霊」として認識し、それによる宣伝を図っているのかもしれない。こうなれば、モニュメントも遺品などの展示品も、荘厳な擬似宗教的装置として機能し、「プロパガンダ」を担っているともみなすことができる。ただし、プロパガンダであるから、事実・史実でないとは限らないのであって、プロパガンダの善悪・正当性にかかわらず、政府や軍というものは、世論形成のためにプロパガンダを行うものだとの認識を持つことは、必要であろう。

マサダ要塞の集団自決の美談は、歴史の一コマではない。南京事件の虐殺者数・戦没者数についてについても。数万から30-40万人まで,実際の人数の確定は非常に困難である。しかし,一国の国家の戦略、民族の栄光に直結する重要事項に関しては,歴史的事実認識以上の高度な政治的国家宗教的判断が要求される。マサダでのユダヤ人集団自決も、南京事件の虐殺者数30万人も,歴史的事実の認定以上の高度の政治的国家宗教的判断から、認定がされている。歴史的事実の真偽は,国家的要請の前に二の次とされている。

日本の靖国神社は,軍国主義精神の表れのように理解する識者も多いが,国家を神道的に統合する宗教的祭礼装置としても位置づけられる。経典,教義が確立していない神道は,祭礼,儀式,寺院・偶像などの宗教装置そのものが,「宗教」とみなすこともできる。そうなれば,これは歴史的事実の問題ではない。また,マサダ要塞の悲劇,南京虐殺についても,さらに沖縄戦の住民集団自決,特攻作戦,玉砕戦についても,議論の余地は残っている。
 戦争を宗教,国家戦略の枠組みの中で扱うという「政治的」態度に対して,歴史的事実を基にした論争は,かみ合わないのであって,最終的には,個人評価・認識に伴う価値判断が求められる。鳥飼研究室としては,戦争の大義,イデオロギー,宗教,国家戦略の前に,戦争実態が見えにくくなったり,プロパガンダが行われたりする事実を認識し,戦争が、大儀やイデオロギーの当否にかかわらず、大量破壊、大量殺戮をもたらすという帰結を冷静に把握したいと思う。

13.1945年3-6月の沖縄戦における「住民集団死」など,沖縄戦は住民も巻き込んだ悲惨な戦闘で戦没者は,20万名に達した。日本の軍民は,潔く身を処置し玉砕した結果であるとの主張があるが,住民の集団死は,捕虜になることへの恐怖が第一の要因である。住民や兵士の苦悩と恐怖を思うと,戦没者が英霊であるとか,今日の日本の繁栄の基礎を築いたと主張されても,心穏やかではいられない。戦没者追悼や慰霊のために,戦跡/平和祈念公園に沖縄平和祈念堂や「平和の礎」などの施設が作られた。

写真(左):渡嘉敷島の住民集団自決;1944年9月8日 鰹漁船乗組員130人軍需部漁労班に徴用。村営航路船嘉進丸、軍船舶隊に徴用。日本軍基地隊、鈴本少佐以下1,000有余人駐屯部落内民家、小学校々舎を隊員宿舎に駐屯。9月20日 赤松嘉次大尉を隊長とする特幹船舶隊130人入村、渡嘉敷、渡嘉志久、阿波連に駐屯。 10月 防衛隊員79名現地徴集。1945年1月 青年会、婦人会に徴用令。学童6年生以上軍に協力。鈴木部隊沖縄本島へ移動、朝鮮人軍夫220人入村。3月27日米軍渡嘉敷島上陸、翌3月28日の住民集団自決で329人死亡。渡嘉敷村全戦没者日本兵76人、軍属87人防衛隊41人、住民368人。(→渡嘉敷村の沿革(1/3))

米国陸軍公式戦史『沖縄−最後の戦い』Seizure of the Kerama Islands
大田昌秀・前沖縄県知事講演「戦後沖縄の挑戦」

渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数は,日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人とされる。一般住民368名の犠牲ののうち,集団自決あるいは追い詰められての集団死の犠牲者329名とされる(→渡嘉敷村史資料編)。

「渡嘉敷村の歴史」戦争体験に記載された渡嘉敷島の少年(当時14歳)による住民集団自決体験談


写真(上):沖縄戦で戦死した日本兵(左)と米軍に収容された沖縄の婦女子(右)


 慶良間列島に配備された海上挺身(水上特攻艇)隊員の言葉
「防衛召集兵の人たちが、軍人として戦いの場にいながら、すぐ近くに家族をかかえていたのは大変だったろうと思います。----当時、日本人なら誰でも、心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して、軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持はあったでしょうし、家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。
つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、自らの命を絶った、という面もあると思います。死ぬのが恐いから死んだなどということがあるでしょうか。」(⇒『ある神話の背景』赤松大尉指揮下の第二中隊長富野稔元少尉の言葉引用)

防衛庁の防衛研究所戦史室の記録は、「この集団自決は、当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮が、きわめて強かったことがその根本的理由であろう。…小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた。」

60年目の証言 沖縄戦「集団死」の真実
沖縄キリスト教短大金城重明名誉教授は、沖縄戦で住民が互いに殺しあう『集団死』を体験した。
1945年3月26日、金城さんが住む渡嘉敷島に米軍が上陸。圧倒的な兵力を前に成す術がない住民たち。旧日本軍から見放され、行き場所をなくし極限状態の彼らは捕虜となったら死ぬ以上の苦しみを受けると教えられ、米軍を恐れていた住民は集団死に追い込まれた。「紐を使ったり棍棒を使ったり刃物で頚動脈を切ったり…何でも手に取る物は凶器になった」
当時16歳だった金城さんは、両手に持った石を何度も母親の頭に打ち下ろした。妹と弟の命も自らの手で絶った。「自分たちだけ生き残ったらどうしようと。早く死ななくちゃ、という状況で、ある一人の少年がここでこんな死に方するよりは米兵に切り込んで死のう、と」。棒切れ一つで米兵に挑んだ金城さん、しかし、捕虜となり生延びることとなった。

中国捕虜の刺殺;1938年2-3月に,津浦線沿いに南下した北支那方面軍は,台児荘で中国軍に反撃され後退。このような日本軍の苦戦の中で,三八式小銃の先につけた銃剣で捕虜を刺殺した。捕虜の刺殺は,度胸試し,弾薬節約,見せしめなどの効果を期待して行われた。日本に抵抗したり,天皇を否定したりする敵に対して,処刑は当然であり,残虐行為とは認識されていなかった。これは,大阪毎日新聞の収集した写真で,日本陸軍報道部が検閲した結果,不許可になった写真のうち一枚である。捕虜は無残に処刑されると恐怖していた沖縄住民は,自決用の手榴弾,小銃が欲しいと思った。同時に,日本軍によって,利敵行為となる米軍への投降を事実上禁じられていたという心理的負担も大きい。

1957年、旧厚生省援護局も現地で聞き取り調査を行い、日本軍の命令による集団自決だったと認定した。集団自決した住民は準軍属とみなされ、遺族らには援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)に基づく年金が支給された。(⇒「集団自決」神話の真相引用)

宮城晴美(2000)『母の遺言』高文研では, 「『玉砕』は島民の申し出 援護法意識した『軍命』証言」として, 戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)の適用を受ける目的が述べられている。(→母の遺言 宮城晴美女史引用)

戦後1946年,GHQの命令で軍人恩給が停止されたが,サンフランシスコ講和条約後の1952年戦傷病者戦没者遺族等援護法が成立し、1953年以降,軍人軍属や戦傷者などを対象に,障害年金、障害一時金、遺族年金、遺族給与金又は弔慰金が支給されることとなったが,これは軍人恩給の事実上の復活である。同法では「公務傷病の範囲」を広く解釈している。

沖縄住民の集団死あるいは集団自決は,「崇高な犠牲的な精神の発露」であり,差別されていた沖縄県民が臣民としての忠誠を尽くした証拠とみる説がある。しかし,当時の住民は,鬼畜米英という日本のプロパガンダを信じ,日本軍が中国・フィリピンでしたように,捕虜となれば虐待・処刑されると考えていた。投降も事実上禁じられていた。捕虜になり無残に処刑されるくらいなら,自決したほうがよいと,恐怖に支配されてやむをえず死を選んだ。  

 慶良間列島の日本軍の特攻艇による特攻隊員からみて,戦意・士気の萎えた住民は,敵に寝返るスパイとして嫌悪されたかもしれない。敵性住民に対しては,非国民,裏切り者,スパイとして処断しようとする気持ちが出ても不思議ではない。

沖縄の日本軍は,戦闘の時に,住民が食糧確保の障害になるだけではなく,利敵行為をすることを恐れた。これは,敵への情報提供,捕虜になり,道案内・通訳として働くこと,日本軍の配備上方をもらすこと,捕虜となり生き延びうることが日本軍将兵に知れ渡り,士気が低下すること,などである。日本軍は,「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」との考えを,住民にも警告的に流布していた。

日本軍による中国やフィリピンでの捕虜・敵性住民の虐待・処刑の経験から,「鬼畜米英」も日本人捕虜を処刑し、女を辱めると信じ込んだ。この認識の下で,自らの手で家族,友人とともに死ぬ集団死はせめてもの慰めとなった。これは異常な状況である。


写真(右):沖縄で米軍に収容された住民
;米軍は3月26日に慶良間列島上陸時に軍政を敷いた。そして,沖縄の民間人を収容所やキャンプに隔離,収容した。食糧などを支給したことをもって,保護したとも言える。沖縄は焦土と化した---とも言われるが,日本本土が焦土と化したというのと同じく,戦災を免れた集落もある。

実は,沖縄戦で自殺した日本人は少数派である。大半の民間人は,米軍に疲れきって,汚れて,米軍にばらばらに収容された。結局,米陸軍第77師団は,慶良間列島で1,195名の日本の民間人と121名の日本軍将兵を捕虜とした。26名の朝鮮人の集団は,座間味島で白旗を掲げて投降した。

阿嘉島では,日本軍中尉が自発的に投降した。5月後半,座間味島の米軍パトロールに,日本軍少佐が捕虜となり,慶良間列島に残っている日本人を降伏させることに協力した。

沖縄戦初期の1945年4月末の段階で,沖縄住民12万人以上が,米軍による軍政の下で生活していた。これは,日本軍上層部の心情からいって,敵への大量投降,集団降伏にも等しい状況であり,非国民,卑怯者という謗りを免れないのであって,公表されたことは無かった。かえって,沖縄の軍民は潔く玉砕したとの偽りの報道がなされた。( ⇒沖縄戦の住民と軍政


写真(右):戦跡/平和祈念公園(沖縄平和祈念堂)
;沖縄平和祈念堂は、沖縄県民はじめ全国民の平和願望、戦没者追悼の象徴として建設された。堂内には、沖縄県下の各町村及び学童による募金活動の支援を受けて、芸術家山田真山の沖縄平和祈念像が安置され,胎内には「平和の礎刻銘者名簿」が納められている。西村計雄画伯の絵画「戦争と平和」(20点連作,各300号)が堂内の壁面を飾り、敷地内には彫刻家佐藤忠良のブロンズ製の「少年」の像をはじめ、 祈念堂の理念に賛同された日本画壇の第一線で活躍する画家から贈られた大作を展示する美術館などを設置。沖縄平和祈念堂は、“美と平和の殿堂” として訪れる人々に戦没者を追悼する役割を果たすと共に沖縄戦終焉の地・摩文仁(まぶに)から世界に向けて恒久平和の実現を訴える。

平和祈念公園
沖縄戦跡国定公園内、糸満市摩文仁(まぶに)地区に所在。付近一帯は摩文仁の丘とも呼ばれる。園内には、平和祈念資料館・国立沖縄戦没者墓苑・平和の礎(いしじ)・黎明之塔などの慰霊・平和祈念施設がある。
沖縄平和祈念堂では,毎年のように8月15日,沖縄宗教者の会主催「祈りと平和の集い」が,各宗教・宗派の代表,来賓,関係者,信者等約700名が参加して執り行われる。この行事は,県内の各宗教・宗派15団体で構成する沖縄宗教者の会が,それぞれの信仰を尊重し,互いに協力し合わなければ真の平和は築けないとして「沖縄から世界へひろげよう平和の祈り」のスローガンのもと一堂に集い,先の大戦で犠牲になった沖縄戦戦没者と南方海域に眠るすべての御霊を慰め,世界の平和実現を訴えるために開催している。(平和祈念祈念堂第15回「祈りと平和の集い」引用)

平和祈念資料館の設立趣旨に「沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされるものもありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。」
「私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人々に私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民ここの戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。」とある。

1994年7月起工式をした「平和の礎」建設の趣旨
 沖縄県の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和の確立に寄与することを願い、国籍及び軍人、民間人を問わず、沖縄戦などで亡くなったすべての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎(いしじ)」を建設する。

 
写真(右):沖縄戦などの戦没者を追悼する「平和の礎」
;沖縄の「平和の心」を世界に伝えようと、沖縄戦終結50年を祈念し、1995年に摩文仁丘に落成した。沖縄戦で亡くなった全ての人々の名前を刻んだ碑。軍人,民間人をはじめ,アメリカや韓国,中国など外国の人々の名前も刻まれている。24万名以上の氏名が刻まれている。ただし、沖縄県民については、沖縄戦に限らず、全戦没者を対象としている。強制連行され死亡した朝鮮人慰安婦の遺族の中には、周囲の差別や日本人と同列視されることへの反発から、石碑への刻銘を拒否した者もあった。

1995年6月に完成した「平和の礎」の基本理念
○戦没者の追悼と平和祈念:沖縄戦で亡くなった国内外の20万余のすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。
○戦争体験の教訓の継承:沖縄は第2次世界大戦において、国内で唯一の住民を巻き込んだ地上戦の場となり、多くの尊い人命、財産を失った。このような過去の悲惨な戦争体験を風化させることなく、その教訓を後世に正しく継承していく。 
○安らぎと学びの場 :戦没者の氏名を刻銘した記念碑のみの建設にとどめず、造形物を配して芸術性を付与し、訪れる者に平和の尊さを感じさせ、安らぎと憩いをもたらす場とする。また、子供たちに平和について関心を抱かせるような平和学習の場としての形成を目指す。

沖縄県出身の戦没者
ア 満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した者
   イ 1945年9月7日後、県内外において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者(ただし、原爆被爆者については、その限りではない。)

他都道府県及び外国出身の戦没者
ア 沖縄守備軍第32軍が創設された1944年3月22日から1945年3月25日までの間に、南西諸島周辺において、沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した者
イ 1945年3月26日から同年9月7日までの間に、沖縄県の区域を除く南西諸島周辺において、沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した者
ウ 1945年9月7日後、沖縄県の区域内において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者

沖縄県民14万7000名,沖縄県以外の日本人7万3000名,朝鮮人133名,台湾人28名,米国人1万4000名,合計23万4000名の戦没者の名前が刻まれている。(沖縄県出身戦没者統計) 沖縄守備隊の海軍根拠地隊司令官大田實少将が海軍次官あてに出した6月13日最終報告「大田少将 決別の辞」では,次のように述べている。
沖縄戦の開始以来,陸海軍は防衛戦闘に専念していたため,県民を殆ど顧みることがなかった。しかし,県民は,青少年を全部を防衛召集に捧げ,家屋と家財を焼却させられ,残る老人幼児婦女子も軍の作戦に差し支えのない小防空壕に避難した。若き婦人も看護婦,炊事婦は元より,砲弾運び,挺身斬込み隊へ申し出るものもあった。所詮,敵来たりなば,老人子供は殺され,婦女子は後方に送られ毒牙に供せられるから,親子生き別れて,娘を軍の衛門に捨てる親もあった。
「日本陸海軍部隊が沖縄に進駐して以来,勤労奉仕,物資節約を強要せられて,一部は悪評なきにしもあらざるも,日本人としてご奉公の護りを胸に抱き,沖縄島は焦土化せん。沖縄県斯く戦へり。県民に対し後世特別ご高配を賜らんことを。」


写真(右):戦跡/平和祈念公園「平和の礎」
;沖縄の「平和の心」を世界に伝えようと、沖縄戦終結50年を祈念し、1995年に摩文仁丘に落成した。並んだ石碑には国籍、軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々の氏名が刻まれている。ただし、沖縄県民については、沖縄戦に限らず、全戦没者を対象としている。強制連行され死亡した朝鮮人慰安婦の遺族の中には、周囲の差別や日本人と同列視されることへの反発から、石碑への刻銘を拒否した者もあった。

「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」といった戦陣訓の認識が,日本人にあった。これは,勇猛果敢に戦い,決して降伏しないという決意を固めさせるものである。負の側面は,降伏して捕虜となれば,過酷な扱い,残虐行為を受け,場合によっては,処刑されるという恐怖の心理によって,叩き込まれた。決して降伏しない,潔く玉砕した日本人は,自己犠牲的な愛国心の発露というには,あまりにも苦痛に満ちている。非常に苦悩した末の,恐怖の選択であったと思う。

しかし,潔く自決,自殺できなかったからといって,生き残った捕虜を責めることはできない。沖縄住民は,生き残った捕虜が多数派であり,それは決して恥ずべきことではなく,人間として,家族として当然の選択だったのであるから。

「戦死者」「戦没者」を勇士・今日の繁栄を築いた人々として崇め,英霊として顕彰することだけが,追悼ではないだろう。空襲犠牲者など「戦闘参加者でない」死者,戦後になって亡くなった病死者,敵国・占領地の犠牲者,捕虜を含む戦争の時代を生き延びた人々のことも忘れるわけにはいかない。靖国神社と戦没者追悼のあり方を考えるときに,参拝問題だけではなく,追悼の範囲とその追悼の意味づけが,より重要な課題となるのではないかと考える。

戦争,特に民間人も動員される総力戦がもたらした惨状に向き合うことなく、自己の主張する大義を説いても,戦争の本質はつかめないであろう。死後の世界・滅亡と永遠の世界・至福との関連で,殺し,殺されること,破壊し,破壊されることの意味を心の奥底で考えさせ,有意義な回答を与えるのが,宗教とそれを体化した宗教施設の役割ではないか。(味方の戦死者だけではなく)「戦争に関わった人々を追悼する」ことを視野に入れた施設があっても良い。これは,擬似宗教的な国家施設となるであろうが,戦争の経緯や兵器だけではなく,大量破壊,大量殺戮の実態を伝え,総力戦に巻き込まれ,動員された全ての人々の心を,思い起こさせる施設であるべきだろう。

文化人と戦争画:戦争芸術

戦争を正当化する大義を認めれば,お互いが自己の大義を振りかざすだけで,殺害が正当化される。宗教は,あくまでも純粋な平和の理念,理想の追求,個人の一生涯の目標,死後の世界を語るべきであろう。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との戦争論を見直したいと思います。
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