鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
東京裁判 極東国際軍事裁判 Tokyo Trial 2006
Search the TorikaiLab Network

◆極東国際軍事裁判/東京裁判:Victors' Justice;The Japanese War Crimes


写真(左):1946年3月3日-1945年8月19日,東京を出発した日本降伏軍使が木更津経由で沖縄の伊江島飛行場に到着
写真(右):降伏軍使の一行;1945年8月19日,伊江島からマニラに米軍輸送機で向かった。



写真(右):市谷記念館(現在の東京裁判法廷):玄関を入ると大講堂に着くが,そこが極東国際軍事裁判の法廷である。しかし,防衛庁移転に伴いもとの壮大な建築物は,縮小されごく一部が残されているだけである。各種ホームページでは今の復元記念館を、当時「東京裁判」が開廷された建造物として誤って紹介している。建築物のごく一部分だけを,敷地の隅に移動して、復元した資料は重要だが、歴史とともに,東京裁判は矮小化されているかのようだ。ここから「東京裁判史観」が発信されたことはない。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力と軍国主義の肯定、反米英の国威発揚外交推進、独裁政権獲得という本音のようだ。
【アジア太平洋戦争インデックス】
戦時ポスター:世界の動員:1940年代の連合国・枢軸国
戦争犯罪の本】/【東京裁判の本】/【沖縄戦・特攻・玉砕の文】/【戦争論・平和論の文

1.1941年12月7日の日本海軍による真珠湾「騙まし討ち」が,米連邦議会に対日宣戦布告を決意させた。東京裁判では,満州事変以来の日中戦争以上に,日米開戦の聖断について,戦争責任が注目されていた。

1945年12月7日0610,ハワイ真珠湾に向けて,日本海軍機動部隊の空母から,第一波攻撃隊が発進した。0740,第一波攻撃隊が真珠湾上空に進入,0755,日本機の攻撃開始。1000,日本機の攻撃終了,1300,日本海軍機動部隊が本国に撤退。

日本軍による真珠湾攻撃によって,米海軍戦艦「アリゾナ」,戦艦「オクラホマ」, 戦艦「ネヴァダ」,戦艦「カリフォルニア」,戦艦「ウエストバージニア」の5隻が沈没・大破(ただし3隻は復旧され戦線に復帰)した。戦艦「ペンシルバニア」,戦艦「テネシー」,戦艦「メリーランド」も損害を受けた。また,米国人の死者は2,403名,負傷者は1,178名に達した。

1941年12月7日午後1時(ワシントン時間)、日本側から米国務省(外務省)に面会の申し入れがあった。面会は午後1時45分とされ、日本側は20分遅刻して午後2時5分に到着した。日本の二人の大使たち(野村吉三郎駐米大使・来栖三郎特命全権大使)は、「ハル・ノート」への回答文書を手渡した。

写真(右):ルーズベルト大統領の1941年12月8日の議会演説:Pearl Harbor Address to the Nation.最も成功した「正義の戦争」のプロパガンダ(?)で、これによって連邦議会と世論を参戦に一本化し、人員・資源・技術を戦争のために総動員することが可能になった。以後,連合国は「騙まし討ちをした卑怯なジャップ」に和平交渉をもちかけること一切無かった。事実上,無条件降伏のみを認めたのである。

日本の大使たちは、国務長官ハルに英訳に手間取った最後通牒(と日本が認識している文書)を手渡した。時刻は,12月7日午後2時20分(ワシントンの東部時間)で、真珠湾攻撃の終わった後であった。しかし,大日本帝国憲法によれば,宣戦布告の権限は,統帥権をもつ大元帥昭和天皇がもっている。昭和天皇による宣戦布告の「大詔」は、1941年12月8日午前11時40分(東京時間)と,真珠湾攻撃の半日後に発せらた。これが真の宣戦布告であり,大詔の発せられないうちに,臣下が宣戦布告することはできない。

ルーズベルト大統領は,宣戦布告なしの「卑怯な騙まし討ち」として非難し,連邦議会に対日宣戦布告を求める演説を行った。真珠湾攻撃の翌日(米国の1941年12月8日)、ルーズベルト大統領は、Pearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」として、日本への宣戦布告を議会に求めた。この演説巻頭に「屈辱の日」の表現が使われた。(→演説音声を聞く)。

"Yesterday December 7 1941-a date which will live in infamy-the United States of America was suddenly and deliberately attacked by naval and air forces of the Empire of Japan. "

日露戦争では戦闘開始後に,宣戦布告をし、1930年以降の中国侵攻には一切宣戦布告はしていない。中立国の米国から軍需物資を輸入するために、戦争ではなく「事変」として扱われた。また、1941年12月7日0755の真珠湾空襲は、1週間前から決定していた(12月1日の天皇臨席の御前会議で)。偽りの日米交渉を行って,真珠湾攻撃という騙まし討ちをした日本は,米国で憎悪の対象になり,日本へ報復するために,米国連邦議会は対日宣戦布告をした。

図(右):真珠湾の報復をせよ「我々の弾丸で、報復を成し遂げるだろう」;編隊を組んで帰還する日本海軍機を睨みつける男は,星条旗柄の服を着たアンクル・サム(米国人の象徴)。真珠湾の報復を誓って拳をあげている。第一次大戦に米国が(遅れて)参戦したときも,アンクル・サムが動員を呼びかけた。

米国は日本の中国侵略を非難し,1939年7月には日米通商条約を廃棄した。1941年3月,米国は武器貸与法を成立させ,米国の防衛に有益な国への武器や戦略物資の売却、譲渡、貸与をする権限を,米大統領に与えた。武器貸与法Lend-Lease Actによって,1941年3月-1945年9月までに,連合国に対して,航空機14,795機,戦車7,056両,石油製品267万トンなど大量の兵器と物資が連合軍に貸与された。

1941年7月末-8月初頭,米国は日本資産を凍結,対日石油輸出を禁止した。9月末,対日鉄屑輸出も禁止した。

1941年8月9-13日,初めての連合国首脳会談が,カナダ(英国連邦の一員として対独参戦している)ニューファウンドランド島沖で大西洋会談が開催された。
大西洋会談のために,英首相チャーチルは,英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」に乗艦してカナダにやってきたが,この英戦艦は,ドイツ戦艦「ビスマルク」を撃沈した殊勲艦で,会談への熱意を表現した。そして,1941年8月14日,米英共同声明大西洋憲章Atlantic Charter)を米巡洋艦「オーガスタ」艦上から世界に公表した。

「大西洋憲章」は,領土不拡大,機会均等,安全な居住地の確保,恐怖・欠乏からの解放,反ナチス暴政の立場を示した。つまり,大西洋憲章は, 米英の政府と軍の最高指導者が集まり,事実上,米英同盟を宣言したもので,真珠湾攻撃の4ヶ月も前に,米国は,英国の側に立って,対ドイツ,対日戦争を準備した。これは,「米英共同謀議による戦争計画」ともいえる。

写真(左):1941年8月大西洋会談中のルーズベルト大統領とチャーチル首相;英新鋭戦艦「プリンスオブウェールズ」艦上で会談した。米英軍の高官も話し合っている。両者の間には,米国陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥が見える。

日本敗戦後の東京裁判では,日本の指導者(政治的首脳陣と軍上層部)による対中国戦争,対米英戦争に関する共同謀議,すなわち開戦・侵略戦争開始の責任が問われた。しかし,日本の共同謀議など,所詮,狭い国内の一部の勢力の「謀議」であり,「共同謀議」というほどの組織力はなかったし,国際的な連携(共同),すなわち,ドイツやイタリアなどとの連絡もなく,戦争を開始するという,国際的にも連携のない戦争計画であった。日本の抱いた一方的な終戦(勝利)の見込みとは,ドイツの英国屈服,ソ連制圧にともなう,米国の戦意低下,和平交渉という他力本願なものであった。

戦争終結の明確なビジョンもない日本の「戦争計画」を焦点にして,共同謀議という戦争責任を問うのであれば,これは日本軍・政府首脳の能力を過剰に高く評価しすぎており,笑止である。日本の戦争計画は,連合国が考えたような計画的なものでも,合理的なものでもなかった。アジア太平洋戦争(日本の対中国戦争,対米英戦争)は,無謀な戦争計画のもとに開始されたといってよい。

日本では,宣戦布告は天皇の大権であり,民意を反映する国会にあって,戦争開始の当否が議論されたことはない。対中戦争は,暴虐な中国国民政府を懲らしめることを大義とした。対米英開戦は,天皇を主体とする国体護持を錦の御旗とし,自存自衛,アジア解放(八苦一宇)を大義名分とした。このような大義名分を,連合国(中国・アジアの植民地宗主国)は,戦争開始の正当な理由とは一度たりとも認めたことはない。敵国の戦争の大義など認める国はないし,戦後60年を経過しても,これは当然だろう。

米国は,日本に対する経済制裁を背景に,中国からの日本軍の撤退,日独伊三国軍事同盟の解消を要求した。しかし,近衛文麿内閣の時,1941年9月6日の御前会議で、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合,対米英蘭戦争を起こすことを決定した。

写真(左):大日本帝国首相東條英機陸軍大将;1941年10月から陸軍大将として,内閣を組織したため,日米開戦の責任者と目された。ドイツのヒトラー,イタリアのムッソリーニと並んで,日本の指導者とされることもある。しかし,当時の首相には,内閣の任免権も,宣戦布告の権利もないばかりか,軍司令官ですらない。

海軍のハワイ攻撃についても,既に計画は進んでおり,東條首相が関与する余地はほとんどなかった。1941年12月1日の御前会議で,天皇の下,日米開戦の最終決定にかかわったが,国策を決定する権利は首相にはない。

国体を重視する以上,日本政府首脳・軍上層部などいずれも,天皇(大元帥)の輔弼者にすぎないのであって,このような日本の二義的指導者たちが「共同謀議」によって,戦争を開始する不可能であろう。もしも,共同謀議で戦争を開始したのであれば,天皇の輔弼者たる分をわきまえない越権行為であり,反逆罪,抗命罪に相当するような大逆事件である。かれらは全て,国内法によって処分されなくてはならない。

実際,開戦を決意するとした1941年10月上旬を迎えると,近衛文麿首相は辞任し,近衛内閣は総辞職してしまう。開戦の決定に関わるのを避けて,責任を回避したのである。そこで,国体護持,日米和平を重視する昭和天皇の意向を踏まえ,木戸幸一内大臣は、1941年9月6日の御前会議の日米開戦の決定を白紙に戻す(「白紙還元の御状」)こととし,東條英機陸軍大将を内閣総理大臣に推挙した。東條大将は,近衛内閣の陸軍大臣としては,開戦賛成派であったが,天皇への忠誠心が厚く,天皇の信頼も得ていた人物である。首相には,宣戦布告はもちろん戦争計画に対する拒否権はない。まさしく,天皇大権に従うのみというのが当時の政府首脳・戦争指導者(とされた人々)の立場であろう。「宣戦布告にベトーできない」とは,首相東条英機陸軍大将にこそふさわしい言葉である。

1941年10月に成立した東條内閣は,日米交渉を続けたが,米国は1941年11月26日には,満州事変以前の状態への復帰を要求した「極東と太平洋の平和に関する文書」(ハル・ノート)を手交した。ハル・ノートの最も重要な部分は、第二項「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」である。日本が中国占領地(満州は除く余地あり)やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則とした。

ハル・ノートが日本に手交されるにおよんで,もはや米国が日本との和平を本気で求めてはいない,と日本の首脳陣は判断した。そこで,天皇、首相東條英機など日本の最高首脳陣が揃って出席して,12月1日,御前会議が、宮中で開催され、(国会ではなく)そこで対米英戦争の宣戦布告が最終決定された。真珠湾攻撃を含む「海軍作戦計画ノ大要」が大元帥昭和天皇に上奏されたのは、1941年11月8日である。 大元帥の天皇は,主要閣僚の総意を尊重し、真珠湾攻撃による対米英戦を(不本意かもしれないが)裁可している。12月1日の御前会議では、宣戦布告の意図が、1941年12月7日12時44分(ホノルル時間)以前には知られないように、宣戦布告は東京時間の12月8日午前7時40分(真珠湾のあるホノルル時間の12月7日午後12時40分)とすることも決められた。

1941年11月8日の「海軍作戦計画ノ大要」は,真珠湾攻撃を含むもので,海軍軍令部総長永野修身と陸軍の参謀総長杉山元が、侍従武官長宛てに発信した。これには海軍軍令部次長伊藤整一と陸軍参謀本部次長塚田功ら総務部長、主任部長、主任課長など作戦の中枢部の軍人が名を連ねている。

写真(左):海軍の軍令部総長永野修身;1934年3月30日海軍大将,1943年6月21日元帥。1941年4月9日-1944年2月21日海軍軍令部総長。広田内閣の海軍大臣に就任、「国策の基準」を策定し,対米戦争準備を始めた。連合艦隊司令長官、軍事参議官を経て、1941年6月〜1944年2月に軍令部総長。海軍内部で反対の多かったハワイ真珠湾攻撃計画を認可した。1947年東京裁判では日米開戦の責任を問われたが公判中に病死。

海軍軍令部とは,陸軍の参謀本部に相当し,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。軍令部も参謀本部は天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。

1941年11月8日海軍作戦計画の上奏文では、フィリピン、マレーに対する先制空襲と同じくして、ハワイ停泊中の敵主力艦隊を、航空母艦6隻を基幹とする機動部隊によって空襲すると述べている。攻撃地点についても、オアフ島北方200マイルから全搭載機400機を発信して航空互換、戦艦、航空機を目標として奇襲攻撃を加えるとしている。香港,シンガポール攻略についても述べられている。この上奏文は,陸海軍高官が認めた最終攻撃計画であり,開戦予定日(12月8日)の1ヶ月前に真珠湾攻撃計画も含め,大元帥昭和天皇に報告された。

日本の最後通牒,すなわち14部のメッセージ"Fourteen Part Message" の最初の部分が、暗号でワシントンの日本大使館に送信されたのは,1941年12月6日(日本時間)であり,最終部分は12月7日(開戦予定日前日)である。つまり,最後まで和平交渉の打ち切りを告げず,真珠湾攻撃当日数時間前に,最後通牒するつもりだった。しかし,通牒遅延は,「和平交渉を欺瞞して攻撃意図を隠した」として,米国から非難された。

しかし,米軍の通信隊の「マジック」は,日本の暗号を部分的に解読し,日本の攻撃が差し迫っていることを理解していた。国務長官コーデル・ハルCordell Hullも,マジック情報によって,日本の大使二人よりも先に,日本が日米交渉を打ち切ったことを理解していたが,米国民の戦意を高揚し,米国国民・資源を総動員するためには,真珠湾攻撃は「卑怯な騙まし討ち」であるほうがよい。

真珠湾攻撃の検証;「卑怯な騙まし討ち」を吟味する。

開戦の大詔にも,自存自衛のための戦争と主張されたが,これには反論も可能である。
1941年11月26日に手交された「極東と太平洋の平和に関する文書」(ハル・ノート)第二項「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす」では,中国からの日本軍の全面撤兵要求には,満州を除く中国からの撤兵でよかったのであり(交渉可能),撤兵期限もない将来の課題に過ぎなかった。石油が途絶する危機というのも,本国をドイツに占領されているオランダとの石油取引の商談が成立しており,回避された。戦後,東京裁判になってから「ABCD包囲陣」の存在が主張されたが,英国もオランダもアジアで対日戦争を誘発しようとは思わなかった。なにしろ,本国がドイツの攻撃に晒され,危機的状況にあったのであるから。
こうなると,自存自衛のために,対米英開戦をしたという理由も,合理的な判断とはいえない。東京裁判で裁かれたA級戦犯の「共同謀議」とは,このよなうな無謀で杜撰なもので,「共同謀議」と呼べるような綿密な戦争計画とは思えない。

太平洋戦争と欧州大戦に米国が参戦して1ヵ月後,1942年1月1日、ワシントンで、米・英・ソ・豪・加・印・蘭・ニュージーランド・パナマ・ノールウェー・ポーランド・南アフリカ共和国・ユーゴースラヴィアなど26カ国が連合国として署名した宣言,いわゆる国連国共同宣言Joint Declaration by United Nationsが出された。

国連共同宣言(連合国共同宣言) 
 大西洋憲章the Atlantic Charterに賛意を表し、これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に現に従事していることを確信し、(1)連合国側への参戦国に対する軍事的経済的な支援,(2)敵国と単独の休戦又は講和を行わない ことを宣言する。

  国連共同宣言は,1941年8月14日の英米共同の大西洋憲章を基礎にし,日本、ドイツ、イタリアという枢軸国に対して,連合国は,単独不講和・不休戦で,全資源を投入して戦うことを誓約した。そして,枢軸国に対する勝利が「生命、自由、独立、宗教的自由を擁護する」ならびに「人類の権利及び正義を保持するためには不可欠である」と対枢軸国戦争の大義を宣言した。

当初の署名国は,26カ国であるが,その後、1942年の6月5日のメキシコ(米国影響下)以来,フィリピン(日本占領),エチオピア(イタリア占領),イラン(英国支配),ブラジル,トルコ,エジプトなど1945年3月までに19カ国が追加署名した。

真珠湾攻撃から1ヶ月もたっていない1942年1月1日の連合国共同宣言 Joint Declaration by United Nationsへの署名は,国際連合の原加盟国の必要条件である。大戦終結までにここに署名した47カ国は,全て対ドイツ,対日参戦した国となる。

開戦劈頭から「卑怯な騙まし討ち」を仕掛けてきた日本に対して,米国は,反日プロパガンダを大々的に展開し,敵愾心を沸き立たせ,連合国を組織して,(かたちだけではあっても)国際協調の下に,日本軍を殲滅し,降伏させようと決意する。こうした背景から,連合国は,枢軸国へは事実上,無条件降伏を求め,和平交渉を行わないという基本方針を採用した。

日本では,米英仏中ソの五大国との戦争を,「大東亜戦争」とよんで,自衛戦争,植民地解放戦争を戦ったという見解があるが,イラク,ブラジルのような国も,日本に宣戦布告した。国連(=連合国)中心の戦後処理に便乗した「弱小三等国」のようにも思えるが,国際関係を重視した冷徹な国家戦略としては,当然である。つまり,現在の多くの開発途上国が,日本に無条件降伏を迫って,宣戦布告した。日本の戦争の大義(自衛戦争,植民地解放戦争)は,参戦国から正当であるとは公認されなかった。

2.アジア太平洋戦争の中期の1943年11月下旬,米英中首脳によるカイロ会談が,その直後,米英ソ首脳によるテヘラン会談が行われた。カイロ会談では,中国の蒋介石の意向も踏まえて,領土不拡大の原則が支持され,日本の支配地域である満州,台湾などを中国に返還することが定められた。日本の無条件降伏も確認されている。テヘラン会談では,ソ連のスターリンが対日参戦の意向を示唆した。1945年2月のヤルタ会談では,ソ連の対日参戦と日本の領土を本土に限定することが密約された。

写真(右):1943年11月22-26日エジプトで開催されたカイロ会談Cairo Conferenceの三巨頭 "Big Three":蒋介石,ルーズベルト大統領,英首相チャーチルが,対日戦とアジアの戦後処理が話し合った。The meeting was attended by President Franklin Roosevelt of the United States, Prime Minister Winston Churchill of the United Kingdom, and Generalissimo Chiang Kai-shek of the Republic of China. 1943年12月1日に,カイロ宣言がラジオ放送された。

1943年12月1日カイロ会談Cairo Conference 1943の概略

各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。

三大同盟国The Three Great Alliesハ 日本国ノ侵略ヲ制止シ 且之ヲ罰スル爲今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ。
右同盟国ハ自国ノ為ニ 何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス。又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス。

右同盟国ノ目的ハ 日本国ヨリ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ 日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト 並ニ満州Manchuria、台湾Formosa及澎湖島ノ如キ日本国カ 清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ 中華民国ニ返還スルコトニ在リ。

日本国ハ 暴力・貪慾ニ依リ 日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ 駆逐セラルヘシ。

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隸状態ニ留意シ ヤガテ朝鮮ヲ自由 且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス。

三同盟国ハ 同盟諸国中 日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ 日本国ノ無条件降伏ヲモタラスニ必要ナル重大 且長期ノ行動ヲ続行スヘシ。


写真(左):1943年11月22-26日カイロ会談
;蒋介石とその婦人宋美麗が,米大統領ルーズベルト,英首相チャーチルを挟んで着席している。後方には,米軍スチルウェル将軍,英軍マウントバッテン卿も見える。GENERALISSIMO CHIANG KAI-SHEK AND MADAME CHIANG seated with President Roosevelt and Prime Minister Churchill at the Cairo conference. Standing from deft: General Shang Chen, Lt. Gen. Lin Wei, Generals Somervell, Stilwell, arid Arnold., Sir John Dill, Lord Louis Mountbatten, and Lt. Gen. Sir Adrian Carton de Wiart.

1943年12月1日に公表された「カイロ宣言」(カイロ会議)は,次々に実現した。日本への無条件降伏要求は貫徹された。満州はもちろん,台湾,朝鮮,太平洋諸島は,日本が奪取した“taken by violence and greed”と認定され,日本の領土とは認められなかった。ソ連は対日参戦し,日本を降伏させ,戦後,日本の領土は,本土に限定された。朝鮮独立が認めら,アジア・アフリカの植民地解放闘争につながった。


写真(左):1943年11月28日-12月1日,テヘラン会談
;蒋介石・婦人宋美麗は参加していないが,米大統領ルーズベルト,英首相チャーチルはカイロ会談直後にテヘランに移動した。"The Big 3": Joseph Stalin, Franklin D. Roosevelt and Winston Churchill meeting at Tehran in 1943.

カイロ会談の終了した翌日,1943年11月27日,米大統領,米統合参謀本部,英首相の一行は,別々にカイロから空路でテヘランに向かった。ここで,米英ソの三巨頭の初の首脳会談が開催されることになった。(STRATEGIC PLANNING FOR COALITION WARFARE 1943-1944 by Maurice Matloff参照)

1943年11月28日から12月1日のテヘラン会談では,スターリンが対日参戦の意向を示唆し,戦後の安全保障機構を樹立するというルーズヴェルトの国連構想が承認された。また,1944年5月の欧州侵攻Operation Overlord,ソ連のトルコ支持の合意をみた。

写真(左):1945年2月4-11日,ソ連クリミア半島で開催されたヤルタ会談の三巨頭 "Big Three":Winston Churchill, Franklin D. Roosevelt and Joseph Stalin at Yalta in 1945. 日ソ中立条約の破棄が国際条約違反だなど,戦力を重視する米国は歯牙にもかけいない。この米国に頼る安全保障を日本の保守派は選択した。北方領土問題で「米国の謝罪」は,必要ないのか。

第二次世界大戦後の処理について,1945年2月4-11日,米英ソはヤルタ会談を開催した。ヤルタ協定を結び、ドイツ分割統治など戦後欧州の処理を定めた。米ソは,ヤルタ秘密協定として,ドイツ敗戦後90日以内に,ソ連が対日参戦し,千島列島・樺太をソ連に併合することを決めた。朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とし,台湾を中国(蒋介石政府)に返還するカイロ宣言も確認された。

日本にとって重要なのは,この公表されなかった「ヤルタ協定」である。

写真(右)1945年2月11日、ソ連、ウクライナ、ヤルタ会談に参加した三巨頭、左よりイギリス首相ウィストン・チャーチル、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、ソ連共産党書記長ヨシフ・スターリン。後方は左よりイギリス外務大臣アンソニー・イーデン、アメリカ国務大臣ヘンリー・スティムソン、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ。ルーズヴェルト大統領はこのヤルタ会談の時も体調が万全ではなく、長旅がたたって帰国してから2か月後に病死。
THE YALTA CONFERENCE, FEBRUARY 1945, Catalogue number: TR 2828, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION、 Production date:1945-02、 Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Photography, Creator: War Office official photographer,
Object description: The Prime Minister Winston Churchill, the President of the United States, Mr Franklin Roosevelt, and Marshal Joseph Stalin of the Soviet Union photographed in the grounds of the Livadia Palace, Yalta during the eight day Yalta Conference. Object description(correct Label): Standing behind the three leaders are, left to right: the British Foreign Secretary Anthony Eden, MP, the American Secretary of State, Edward Stettinius, the British Permanent Under-Secretary of State for Foreign Affairs, Alexander Cadogan, the Soviet Commissar for Foreign Affairs, Vyacheslav Molotov, and the American Ambassador in Moscow, Averell Harriman. 
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 2828)引用。


ヤルタ協定クリミヤ会議の議事に関する議定書中の日本国に関する協定

米英ソの指導者は、ドイツが降伏し且つ欧州戦争が終結した後2ヶ月または3ヶ月を経て、ソ連が、次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した。
1 モンゴルの現状維持。
2 1904年日露戦争の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、次のように回復される。
(イ) 樺太の南部及びこれに隣接するすべての島をソ連に返還。
(ロ) 大連商港を国際化し、ソ連の優先的利益を擁護し、ソ連海軍基地としての旅順口の租借権を回復。
(ハ) 東清鉄道及び大連に出口を提供する南満州鉄道は、中ソ合併会社を設立して共同に運営。但し、ソ連の優先的利益を保障し、また、中華民国は、満州における完全な利益を保有するものとする。
3 千島列島は、ソ連に引渡す。
 ソ連は、中華民国を日本国の束縛から解放する目的で、中華民国との間の友好同盟条約を締結する用意があることを表明。 (ヤルタ協定意訳引用終わり)

3.戦争末期,日本軍の対連合国への対抗手段は,特攻しかなくなった。全軍特攻化,一億王特攻が唱えられた。ここで,玉砕戦・特攻作戦を進めた軍上層部の意図,すなわち敵に一撃を与えて,和平の契機を得ることには,大元帥昭和天皇も承服した。鈴木貫太郎内閣も,組閣当初は,沖縄戦を全力で戦うつもりで,本土決戦も準備していた。徹底抗戦を叫んでいたのであり,決して終戦内閣などではない。


写真(左):沖縄戦当時の首相鈴木貫太郎大将;慶応3年(1867)12月24日〜1948年4月17日。大阪生まれ。海軍軍人。明治20年(1887)海軍兵学校卒業。日清戦争に従軍。1898年海軍大学校卒業。日本海海戦に参加。海軍省人事局長、第2次大隈内閣海軍次官、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官を歴任。1925年海軍軍令部長。1929年侍従長兼枢密顧問官に就任。侍従長在任中の1936年、2・26事件の襲撃を受け、生き残るも引責辞職。1944年枢密院議長、1945年4月7日という沖縄戦の最中に組閣の大命を受け、77歳で内閣総理大臣。戦後,組閣とともに終戦に奔走したようにいわれるが,有利な条件で和平交渉を切り出すために,沖縄戦での大戦果を期待していた。ポツダム宣言受諾後、130日で総辞職。
写真(右):小磯国昭;1930年軍務局長。陸軍次官、関東軍参謀長、第5師団長、朝鮮軍司令官を歴任し、1937年大将となる。1939年平沼内閣の拓務相、1942年朝鮮総督。1944年東条内閣辞任のあとを受けて首相に就任した。しかし,米軍の沖縄本島上陸から1週間もたたないうちに辞任。戦後,A級戦犯として、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けるが服役中に病没。

1945年1月25日の最高戦争指導会議「決戦非常措置要綱 」では,「物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」として,「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」とした。

最高戦争指導会議とは,1944年8月4日以降小磯国昭内閣で設けられたが,それ以前の東条英機内閣のときの大本営政府連絡会議のことである。
最高戦争会議の出席者は,政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席した。蔵相ほか閣僚や参謀次長・軍令部次長などが列席する。天皇も臨席する。

天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏など,さまざまなルートで最新の情報が伝達され,御下問をした。つまり,戦局や戦争方針について,統帥権をもつ大元帥昭和天皇は,明確な情報をもとに,裁可を下した。

本土決戦に向けて,全軍特攻化が進み,「一憶総特攻」が叫ばれ,国体護持が最優先された。しかし,宮中グループは,原爆投下とソ連参戦の後は,一億総特攻を,国民が受け入れ,実施するとは信じられなくなっていた。

平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸は,宮中グループの日記や手記の次のような文書を紹介している。

岳父近衛文麿公爵秘書官だった。細川護貞『細川日記』
1945年8月8日
「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信−内務省得意の無電も−途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、----是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----木戸[幸一]内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。

1945年8月9日
「----[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。---」と言上、十一時半荻窪に[近衛文麿]公を訪ねたる所、---ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。---宮中にては最高六人会議---を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。

侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」 

1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。---」

芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日
2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.

1945年8月8日
午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用

特攻作戦の崩壊:実現しなかった一億総特攻

4.アジア太平洋戦争の末期,宮中グループは,軍上層部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性を大いに危惧していた。1945年2月14日の「近衛上奏文」が,国体護持のために,終戦の聖断を求めたのも,同様の趣旨からである。天皇の権威は,皇祖の天孫降臨神話,三種の神器によっている。そこで,米軍の空挺部隊や上陸部隊の本土上陸によって,伊勢神宮,三種の神器が,敵に占領されることを危惧した。

写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。-----しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といったとされる。

近衛文麿は,日中全面戦争を開始した首相で,1945年2月14日に「近衛上奏文」で「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,次のように昭和天皇に上奏した。

----英米ノ世論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス。---敗戦ダケナラハ 国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ 敗戦ヨリモ 敗戦ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。

----ソ連ハヤガテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候。---右ノ内特ニ憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。
----勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ 滿洲事變以來 今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。----

---此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。」(「近衛上奏文」引用)

昭和天皇は、近衛上奏文について,次のように御下問された。(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)
天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

1945年2月14日の昭和天皇への上奏文によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明した。そして,軍部の一味が戦争終結の最大の障害になっているので,彼らを一掃して,軍閥を倒せば,米英中と和平交渉も容易になると考えた。軍部を建直し共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだ。しかし,1945年7月26日に,米英中のポツダム宣言が通告されても,即座に終戦を決断することはできなかった。

1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。ここでは,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,戦争完遂,本土決戦準備を決定した。

木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940-1945年に内大臣を務める。

木戸幸一『木戸幸一日記』「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、------真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。(引用終わり)

1945年7月17日,ドイツ・ベルリン郊外のポツダム会談において、米大統領ハリー・トルーマン(4月12日就任),英首相チャーチル(後日は親首相アトリーに変更)、ソ連首相スターリンの三巨頭は,ドイツ敗北後の欧州の戦後処理を話しあった。その際,日本に対する降伏勧告も検討された。ポツダム会談前日,1945年7月16日、米ニューメキシコ州で初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆破実験が成功した。米国は,ソ連に対して強硬な態度に出たが,これは日本に対する降伏勧告にも反映した。

写真(右):1945年7月28-8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three":英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee; 米大統領トルーマンU.S. President Harry S. Truman; ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin。後方は,米海軍参謀長レーヒ提督Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff(日本軍兵士の心理研究書を執筆し,日本人ガールフレンドもいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。); 英外相ベヴィンBritish Foreign Minister Ernest Bevin; 米国務長官バーンズU.S. Secretary of State James F. Byrnes(対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治先導者); ソ連外相モロトフSoviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov(独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結)。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。

「ポツダム宣言」は,米大統領トルーマン,英首相チャーチル,中国主席蒋介石が署名したとされた,日本への無条件降伏勧告であり,概略は次の通り。 

1 米大統領、中国主席,英首相ハ---,日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フル---。

3 世界ノ自由ナル人民-----吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ 日本国軍隊ノ不可避 且完全ナル壊滅ヲ意味スベク 必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ。

4 日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル 我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国ガ引続キ統御セラルベキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履(ふ)ムベキカヲ 日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ。

6 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ 平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルヲ以テ 日本国国民ヲ欺瞞シ 之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ 永久ニ除去セラレザルベカラズ。

7 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ 且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ 連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ --占領セラルベシ。

8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。(1943年11月27日のカイロ宣言では,日本は,第1次世界大戦で奪った太平洋初頭の放棄、中国から奪った満州・台湾・占領地の中国返還、朝鮮独立など「大西洋憲章」領土不拡大の原則が決まっていた。)

9 日本国軍隊ハ 完全ニ武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ 平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ。

10 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ 奴隷化セントシ 又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ 厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル 民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ。

11 日本国ハ 経済ヲ支持シ 実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ 許サルベシ。但シ 日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ 此ノ限ニ在ラズ。----日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ。

12 ----日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ 平和的傾向ヲ有シ 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ 連合国ノ占領軍ハ 直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ。

(⇒「ポツダム宣言」(米・英・支「三國」宣言)およびUCLA Asia Institute;Potsdam Declaration引用)

要約すれば,日本軍の無条件降伏(13),軍国主義者の排除(4),占領地・植民地(朝鮮・台湾など)放棄・本土への領土限定(8),戦争犯罪人の処罰(10)を求めた降伏勧告がなされた。

ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。米大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltは,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman(61歳)が、4月12日に第33代大統領に就任。英首相チャーチルも、総選挙の開票で一時帰国していて選挙で敗北し、7月27日に英国新首相アトリー(1951年10月26日まで在籍)への政権交代し,ポツダムには戻らなかった。また,ポツダム会談に加わったスターリンは,ポツダム宣言には参加しておらず,中国の蒋介石が欠席しているにもかかわらず,ポツダム宣言の提唱者のひとりとなった。
 連合国の枢軸国への強硬政策は,不抜の方針とされていたために,このような各国首脳人の入れ替わりや複雑な事情によても,ポツダム宣言における無条件降伏の勧告は,全く変更されなかったと考えられる。

米海軍参謀長レーヒ提督や陸軍長官スチムソンのように,天皇制の維持,すなわち国体護持を条件とすれば,本土の都市空襲と無制限潜水艦作戦による物資供給の途絶によって戦争遂行能力の低下した日本と講和できると考えた軍の戦略家もいた。

しかし,1941年12月の真珠湾攻撃とドイツの宣戦布告以来,太平洋と欧州で大戦争を戦い,連合国首脳会談を20回も繰り返してきた主戦国アメリカ合衆国としては,日本への無条件降伏要求取り下げはできなかった。1945年前半の米軍の日本本土上陸作戦において,日本民間人の死傷者はもちろん,米軍死傷者が多いから取りやめるといた弱腰は問題とならなかった。

枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の交戦意思を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していたほどである。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,天皇のためには死をも厭わず最後まで戦う狂信的な民族であるとの認識が,米国人(軍民)に広まっていた。しかし,連合国の市民はもちろん,政治家・軍人の大多数にとって,日本は無条件降伏させるべき宿敵である。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという提案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。

しかし,日本側は,米国,連合国とは,全く異なる視点から,戦争の前途を心配していた。

写真(右):1947年,東京裁判でA級戦犯として尋問される木戸幸一元内大臣(1889.7.18〜1977.4.6);Autographed photograph of Kido Koichi testifying at the Tokyo Trial, 1947. Collection George Picard. 木戸孝允の養子の木戸孝正の子。妻は陸軍大臣児玉源太郎の四女ツル。東京出身。近衛文麿と共に革新貴族を代表し,現状維持派の西園寺公望らと区別される。厚相・内相時代を通じ産業報国連盟顧問。1940年内大臣に就任、首相前歴者・枢密院議長からなる重臣会議を招集して、内府の責任で後継を奏請する方式を実施。近衛文麿の<新体制>を助ける。この新方式は,元老の手中にあった内閣組閣の権限を内府に移し、政治意思統合の機能を天皇権威に求める傾向を強め,内府の権限拡大に結びついた。(歴史が眠る多磨霊園:木戸幸一引用)

木戸幸一『木戸幸一日記』二〇・七・三一(「カマヤンの虚業日記」引用)
 先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身辺に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。----

〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
 ----ソ連が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ-----。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説----。
一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せり---。(引用終わり)

天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、葦原中国の平定,統治のために降臨したという日本神話である。天照大神の命により、日本を統治するために,高天原から高千穂峰に降る(天孫降臨)。その時,王権・統治権・主権のシンボルとして三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)を副えた(『古事記』)。

天孫降臨の神話,三種の神器は,天皇の大権の基盤であり,象徴である。本来,天皇が下した大日本帝国憲法によって,天皇の大権が定められるはずがない。天皇大権は,神勅によっている。『昭和天皇独白録』でも終戦の聖断を下した理由として「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい。」とある。万世一系の皇祖からの伝統・神話が,国体の正当性を証明するのであって,天皇は神勅によって,統治者たらしめらる。

しかし,連合国軍,連敗の国軍(皇軍,日本陸海軍),敗戦の困窮に陥れられたと感じている国民は,いずれも天皇の権威を認めなくなるかもしれない。この国体護持への大きな不安が,大元帥昭和天皇による終戦の聖断の背景に指摘できる。原爆投下という外圧は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化し,ソ連参戦は,国体変革を目の前の危機として意識させた。派終戦の決断を,連合国軍,国軍,国民に正当化するのに,原爆投下,ソ連参戦は都合がよかった。

1945年8月9日の御前会議では,ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べられたが,終了後,昭和天皇は木戸幸一に次のように語った。
「本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。----(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])

写真(左):米国務長官ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes (May 2, 1879 – April 9, 1972);第二次大戦末期,米国務長官バーンズは,トルーマン大統領の先輩として振る舞い,反ソ連の立場を優先し,原爆投下によって,米国の戦後の覇権を確立することを企図した。("Jimmy" Byrnes—the "Assistant President."

1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,米国務長官バーンズJAMES F. BYRNESに降伏を申し出た。 スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したいこと」を伝えた。

 1945年8月11日,米国務長官バーンズの返答
  米英ソ中を代表して,ポツダム宣言は,天皇統治権(国体)に関して,連合国最高司令官の下に置かれることになると述べた。"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people. (日本国民の自由に表明する意思によって,日本の最終的な政治体制を決定するものとす。),"The armed forces of the Allied Powers will remain in Japan until the purposes set forth in the Potsdam Declaration are achieved." (ポツダム宣言が成就されるまでの連合軍の日本駐留)。(引用終わり)

写真(右):海軍大臣米内光政大将(1880年3月2日〜1948年4月20日)。

1945年当時海軍大臣であった米内光政は,「戦後の東京裁判で証人として出廷した際には被告となった畑をかばって徹底してとぼけ通し、ウェッブ裁判長から『こんな愚鈍な首相は見たことがない』と罵られても平然としていた。---」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

戦後になって,GHQ側に尋ねられ,米内光政は次のように語ったという。「率直に申し上げれば、戦争のターニングポイントは、そもそも開戦時にさかのぼるべきでした。私は当初から、この戦争は成算のないものと感じていました。----戦争がはじめられてからのことを言えば、ミッドウェーの敗戦か、または、ガダルカナルからの撤退を転機といいたいのです。----もはや、挽回の余地はまったくないものと見当をつけていました。----その後にも、サイパンの失陥があり、レイテの敗北が起こりました。そこで私はもうこれで万事終わりだと感じていました。」と述べたという(海軍兵学校人物伝3「ステーツマン米内光政」引用)。


1936年12月,米内光政は,連合艦隊司令長官に就任し,1937年2月には海軍大臣になり,(対中国ではなく)対米戦争を意識した巨大戦艦「大和」「武蔵」建艦計画を決定(起工は1937-38年)した。1937年7月7日の盧溝橋事件とそれに続く第二次上海事変で,海軍艦艇による砲撃・中国大陸海上封鎖,さらに南京など中国の都市への戦略爆撃も彼が決定した。中国での泥沼の戦闘を開始したのは日本陸軍であるというのは片手落ちであり,華中(上海・南京など)・華南(広州・海南島など)へ戦線を拡大したのは,日本海軍である。日中和平工作を打ち切りを強行に主張したのは米内光政海軍大臣である。

米内光政大将は,サイパン島陥落後の1944年7月22日,小磯国昭内閣で海軍大臣に就任し,海軍が人間魚雷「回天」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」など特攻兵器を開発・量産した(1944年3-7月)。レイテ戦では,米内海相が大西瀧治郎中将を第一航空艦隊司令長官に任命し,神風特別攻撃隊を送り出させた(1944年10月)。米内大将は,1945年4月7日,鈴木貫太郎内閣で再び海軍大臣に就任し,沖縄戦「菊水作戦」として,海軍特攻機を連日のように出撃させた。鈴木貫太郎内閣は,終戦内閣として組閣されたのではない。鈴木内閣は,徹底抗戦を主張し,沖縄戦で戦果をあげることを期待し,一億総特攻,全軍特攻化を進めた。米内海軍大臣もそれに協力した。

米内光政海軍大臣が終戦を切り出したのは,1945年5月末,沖縄戦敗北が決まった時点でのようだ。阿川弘之『米内光政』は,「米内はこの(8月14日の)時も十日の御前会議の時も、ほとんど発言しなかった。のち、小泉信三に『もう落ち着くところは分っていましたから、私はあまりしやべる必要はありませんでした』と語っているが、それが米内の流儀らしかった。…(8月15日正午)晴れた暑い日であった。---放送が終ると、米内は左隣に汗をうかべて立っている豊田軍令部総長に、『よかった』と握手を求め、真昼の夏空を見上げながら首を二、三度振って、別に重い足取りという風でもなく大臣室の方に帰って行った」という(昭和史を歩く4(終戦)引用)。

米内光政海軍大将は,長らく海軍大臣として,戦争を指導をする立場にあり,特攻作戦を展開した。1945年5月末という沖縄戦敗北が決定的になった段階になって,やっと終戦を口にしたが,終戦について多くの意見を述べ、積極的な終戦工作をいたことは無い。終戦を他人事のように受け流した。とすれば,それは敗戦の責任も回避しているように思われる。

1945年8月15日,日本のポツダム宣言受諾によって、連合国軍最高司令官に任命されたマッカーサー元帥は,滞在していたフィリピンの首都マニラから,日本政府に対し、「即時停戦」を命ずるとともに、「正式降伏受理の打合せをなすため、軍人顧問を帯同する充分の権限を与えられたる使者」をマニラに派遣するように命令した。

写真(右):1945年8月19日 参謀次長河辺虎四郎中将軍使が搭乗した一式陸上攻撃機:1945年8月19日,軍使一行約17名は羽田から木更津経由で沖縄伊江島に向かった。途中からは,米陸軍航空隊のB25爆撃機がエスコートした。

河辺虎四郎(1979)『河辺虎四郎回想録』毎日新聞社
マニラへの使節
八月十六日米国政府からつぎの要旨の通告が電報された。 A 直ちに連合国最高司令官の許に使者(複数)を派遣せよ。この使者はつぎの諸要件を備えなければならぬ。
 a 日本軍隊および司令官(複数)の配置に関する情報を持つこと。
 b 連合国最高司令官およびその同行する軍隊が、正式降伏受理のため、連合国最高司令官の指示する地点に到着し得るよう、連合国最高司令官の指令する打ち合わせをなすべき十分の権限が与えられてあること。
B 降伏の受理およびこれが実施のため、ダグラス・マッカーサー元帥が連合国最高司令官に任命せられた。
 同元帥は正式降伏の時、場所およびその他詳細事項に関して、日本政府に通報するであろう。
 連合国最高司令官は、日本国政府に対し、フィリピン・マニラ市にある連合国最高司令官の司令部に、日本国天皇、日本国政府、日本国大本営の名において、降伏条件を遂行するため必要なる諸要求を受領するの権限を有する代表者を派遣することを命ずる。右代表者は、到着とともに、連合国最高司令官の要求を受領するの権限が与えられていることの天皇の証明文書を、連合国最高司令官に提出しなければならぬ。右代表者は、日本国陸軍、日本国海軍および日本国空 軍をそれぞれ代表する権限ある顧問を帯同するものとす。

 右一行は日本飛行機により、伊江島の飛行場にいたり、同地より米国の飛行機によりフィリピン・マニラに輸送せられるものとす。右一行の日本への帰還も、同様の方法によるものとす。

 「私は、この使節の任務が、降伏文書に調印する程度の高級な地位を要するものであるならば、陸軍側としては参謀総長が、これに当たるのが妥当であろうと信じたので、自ら総長に意見を述べたが、なかなか引き受けようとの意志も表明されない。そこで、私は土肥原大将および杉山元帥に頼んで、総長の説得方尽力を求め、土肥原、杉山両大将も一応梅津総長を説いたが、総長はいろいろの理由で承知をしないのであった。----
かつて大西軍令部次長とも「降参だけはしたくないものだ」と語り合ったあの晩もあったが、「忍び難きを忍ばねばならぬ」と詔書のお言葉をそのままに下僚に求めながら、口惜しいからなどとの感情で使命を回避する気にもなれない。

八月十八日朝までに、陸軍側の随員選考ようやく確定した。それまでに一部の人が私を相当にてこずらせたのであったが、結局つぎの七名が行くこととなった。  天野少将(第二課長)、山本大佐(第六課長)、松田中佐(第二課、航空)、南中佐(軍事課)、高倉中佐(軍務課)、大竹少尉および竹内少尉(ともに通訳要員として第二部より)  陸軍内で随員をとるために私をてこずらしたのは、指名された一部の者が″恥辱″のこの任務を引き受けることを欲しないための拒否的態度であった。非常に気合いをかけていた若手連に対して、その心事を私は、深く咎める気持ちになり得なかった。むしろなだめすかして、私自身と同様の気持ちになってくれることを望むだけであった。彼らのある者はもはや「上官の命令」そのことすらも、拒否して、自決するとも降伏軍使団の一員たるの任を免れようとする気持ちにあるのであった。私とても中佐や大佐であったら、そんな気持ちになったかも知れない。--- 

総理から天皇の信任状を手交せられ、また、一同に、「この際はじめて敵地に使する一行の労を多とする。しっかり頼む」との意をもって激励された。---夕刻陸海軍の一行は参謀本部に集まり、梅津総長と豊田総長列立の上、統帥上の命令を受けた。そのあと、両総長が主人となり、冷酒の乾杯をもって送別の意を表された。

参謀本部において、第一、第二部および軍務局の部局長以下の関係者が集合し、主として、敵側第一次進駐部隊を何日頃に引き受け得るかを検討した。---まず十日の余裕を求むるよう折衝すべきだという空気であった。関東地方における軍隊の撤去、これに代うるのに警察力をもってする配置等々、現在の荒廃状態において短時日の間になしとげがたいことはよくわかる。---勝利感の絶頂にある敵側が、果たしてそうした日本側の事情を斟酌してわれわれの側の希望を受け入れるかどうか、第一、私および随員をして果たしてわれわれの自発的の発言を許すかどうか、既にわれわれは ”休戦の談判”を放棄してしまっているのだ。

この会同の席へ、海軍側からの情報が入って来た。それによると、厚木飛行基地にある海軍飛行部隊は、終戦に激昂していまなお乱暴を働き、海軍中央部側からの説得などに耳を傾ける気色もなく、今日も、木更津でマニラ行き一行の乗用機の試験飛行がなされたとき、厚木の戦闘機がこれを追っかけていた。何をしでかすかも知れんというのである。陸軍では、私ら一行の搭乗機が、先方側の指令による、白塗青十字の塗装をしているので、敵機と誤認して攻撃して来る防空戦闘機があるかも知れんとの考慮から、明十九日われわれの飛行機の行動について、航空隊一般に通諜しておいた。ところが海軍では、前記の危惧もあるので、故意に通諜することを控え、むしろ秘密扱いにされていたのであった。

六時一同ダグラスに乗り込み、十分ばかりで木更津の海軍(第三航空艦隊)基地に到着し、寺岡<謹平>海軍中将に迎えられ、ここで朝食の馳走にあずかる。

 勢ぞろいした一行の顔触れは、外務省側から岡崎調査局長と湯川書記官、陸軍側は前に決まったメンバーに変化なく、海軍側からは横山少将、大前大佐、吉田大佐、寺井中佐、杉田書記官、溝田嘱託で、伊江島まで往復する藤原主計少尉がいた。

  全体白塗、青色の十字を胴体に描いた―先方の指令による―海軍用「陸攻」機二機は、不名誉の一団をのせるべく、その準備が完了していた。一団は二機に分乗し、午前七時十五分頃あいついで離陸した。昨日からの情報を考慮して相当遠く南方洋上に出で、伊江島を目標に、その航法は寺井海軍中佐が指導した。

---ただ一つ、正式の降伏調印の際に天皇親ら出て来いということを指令されることがあるまいか、過日のサンフランシスコの放送では、そういった意味を伝えていた。---もしも天皇の臨場署名等を要求されたら、その指令を知って甘受して、復命できることか。--

午後一時半頃われわれは伊江島に無事着陸した。----滑走路の舗装状況や土地の掘開状況などを見ると、敵側の占領後に大いに手を入れたことがよくわかり、戦争間われわれの最も手痛い強敵であった動力化土工器材の偉勲をマザマザ見せつけられた。われわれの乗機がピストに誘導せられると、物見高く黒白の兵隊ども、戦争がすんでいかにも嬉しいというような顔付きで、大勢集まって盛んに写真機を向けている。覚悟をして釆たこととはいいながら、不快極まりない。

 ---数十メートル歩くと、DC IV式機がある。タラップまで案内され、またも、手合図でそれに乗れとの意が通ぜられた。四発の堂々たる大型機、機内にゆったりした座席三十二、通路も広い。---「すばらしいものを奴さん等使っていやがる」と、羨望やら反感やら自侮感やらわからぬ感じがひらめいた。---数名の兵が機内にあってわれわれのサービスをする。あたかも空輸会社の飛行機に観光旅客として乗り込んだような感じだ。こうした待遇ぶりは、敵国の軍使にも丁寧な取り扱いをする文明国の態度でもあろうが、一面また余裕綽々たる大戦勝国の威風を誇示するものとも考えざるを得なかった。

午後二時過ぎ、この大型機は悠々と離陸した。---当番兵は間もなくサンドウィッチとレモンジュースとをわれわれに配給した。今朝七時頃木更津で朝食をしたそのままの腹中であっただけに、非常な食慾で食い終わった。

 午後五時四十五分(私の時計−東京時間)マニラのニコラス・フィールド飛行場に着陸した。---その大佐の案内について数十歩行くと、一台の自動車があった。---車が動き出してから、大佐の通訳で将官はいう、「日本側の一行は六名ぐらいだと思ってあるホテルに準備したが、十六名と知ってから急にホテルを変更した。---」云々、あたかも遠来の客にものいう態度であった。ホテルに行けば、八時三十分から会同するから、それまで休憩し、その間沐浴食事などを終わってくれとのことであった。

午後八時三十分から開かれる会同のための書類が宿舎に届けられた。日本語の翻訳文も付けられてある。これに一応目をとおして見ると、正式降伏調印は、八月二十八日東京湾内米国軍艦の艦上で行われると指定され、それがために、同月二十六日マッカーサーは、空輸部隊を伴って厚木飛行場に到着、その先発の一部は二十三日に到着するとプログラムがきめられている。そしてわれわれ使節が受理して帰るべき書類は、(一)降伏文書、(二)降伏に関する天皇の布告文 − すなわち詔書、(三)降伏実施に関する陸海軍総命令第一号、この三種類のものであることがわかった。

私の懸念していた問題、すなわち陛下親ら降伏調印のため臨席なさるよう要求されることがあるまいかの問題は、この渡された書類によって、そうではないことが明らかになった。というのは、降伏調印は、政府および大本営それぞれの各代表者によってなさるべきものと、示されてあるからであった。

そこでこの地での私自身の努力は、敵側の進駐プログラムを可及的に延期せしめるということになった。私は---われわれ一行が東京に帰った後十日の余裕を与えられなければ、とうてい混乱のない整斉たる米軍の進駐ができ得ないということを、陸海空情報提示の際に彼側に了解させるように申し合わせた。

夕食をすまし、マッカーサー司令部―マニラ市庁―に出頭した。先方から差し向けられた車によって案内された。案内にあたった人は、飛行場に来ていた代将 − 情報部長ウィロビー氏であることがわかった − その人で、今日の会同には軍人だけと指示して来たので、政府代表岡崎氏は出席せず、ウィロビー代将、横山海軍少将と私の三人が先頭に同車して行った。

司令部に着くと、写真撮影の集中射を受ける。覚悟の上ながらうるさい限り。フラッシュの閃光でまばゆくてたまらぬ。---階上に登り、一事務室で一同は佩刀をはずし帽子手套とともに机の上におき、案内を受けて参謀長の室に入った。私は持って行った信任状を参謀長に提示手交し、一行に各自自分の名前を述べるように命じた。---われわれは直ちに導かれて、三階の一室に入った。

相当に広い一室であったが、その一側に机が一線にならべられ、既に先方側は七人着席していた。われわれはそれぞれ名札で示してある席に着いた。---サザランド参謀長は、開会を宣した後、「只今から第一次進駐に必要な情報の提供を求める。まず空軍関係から」と指示した。

 米側では第一次進駐を予定している厚木飛行場の状況についてたずね出した。彼側はいままでこの飛行場について集め得た諸情報、その中には彼側が撮影した空中写真もあったが、それらの諸情報をもとにして寺井海軍中佐に対し、いろいろ技術的かつ具体的の諸問題をたずねたが、彼らの予測し期待してるところと実情が非常に違っていることが判明し、質問者もいささか当惑の体である。

大竹少尉はいわゆる二世の出身者であるだけに、見事な通訳ぶりを示した。---「---第一次進駐を貴方が企図している関東地方について見るも、ここには現在米軍の上陸作戦を考慮して多数の軍隊が充満している。この地方に米軍を進駐せしめるためには、某地域にわたり日本軍隊の全部を他に移さなければならぬ。この事は目下の運輸交通の力からして、短い期間の間にはこれをなし得ることではない。しかも一面、わが国は建国以来はじめての一大悲劇にあい、民心の昂奮状態は、貴方でも想像ができることと思う。そこでこの民心の平静を保ち、貴方軍隊との間に、なんらの不祥事件をも発生する心配をなくするには、軍隊撤去の後に必要な警察力を配置しなければならぬ。そして空襲による戦禍のため、地方の疲弊がはなはだしく、食糧と住居の確保がはなはだ困難な状態にあり、煩雑な民政処理がいる。----誠意をもって、なんとか両国の間に思わぬ不祥事件の起こらぬようにと念願するが故にこの事情を述べる次第で、----要は、よく日本内地の現状に応ずるよう、検討を加え、貴方軍隊の進駐に対するわが方の受け入れ態勢を整えるに十分の時間的余裕を与えるよう再考せらるべきものと信ずる。実にこの際両国間の問題が、事故なく円滑に進むかどうかは、将来のいっさいに関し大なる関係があると私は信ずるが故に、貴方においてもとくと考慮されたい。この際数日をおしんで、無理をすることは、遠く将来に必ず大きい禍根をのこすものと思う」との意を述べた。

---当初すこぶる厳粛にはじめられた会議であったが、こうして、室内にばらばらになって、彼我談合をはじめてからは、一般の空気が非常になごやかになり、ここかしこ朗らかな笑い声さえきかれるようになった。---この話の間にサザランドは、広島の被害状況を私にたずね、私の答をきいて、彼もまた驚きの表情をしていた。おそらく彼にも生まれてはじめての知識であったのではあるまいか。

やがてグループごとの検討は終わり、一同もとの席に着いた。----会議再開となって、改めて彼側の示したものによれば、私らの東京に帰った後五日間の余裕を与うるいわば妥協案であった。すなわち先発隊の厚木到着が二十六日、マ元帥の日本到着二十八日、調印三十一日というのである。一同は席を立ったが、米側の諸氏が缶詰のビールを開いて、わが方に饗した。むし暑いこの地の夜半、そのビールの味はすてきであった。もちろん賑やかな雑談をしたわけでもなかったが、彼側の態度はいかにも友誼的で、すぐそのあとに仕事が待っているかのごとき挙措、そのあり様はわれわれ一行にも、今まで食うか食われるかで争っていた仇敵だなどという感じを起こさすものがなく、国際共通の軍職心理、殊に幕僚業務の共通性、私にはその辺の空気になんともいえぬなごやかさを覚えた。宿舎に帰り着いた時はもう夜中一時頃であったろう。宿舎に私宛にウィロビー氏の名刺を付けた紙包が届けられてあった。それは煙草とウイスキーであった。

宿舎から、迎えられて、十時三十分、昨夜の室に入った。今日は岡崎外務省局長も列席した。---最後に、東京に伝達すべき三種の文書を改めて手交され、十二時近く、全会議の終わりを宣せられたから、私は、立って、われわれがマニラ滞在間に与えられた先方の好意に感謝の意を述べたところ、サザランド氏もまた、わが方の協力に対して謝意を表し、一同解散をした。私は、ウィロビー氏の案内で飛行場に走った。到着の時と同様、日本語を話すマシベーア大佐も同乗をした。この車の中ではお互いにほとんど全く旧知の間柄のような気持ちとなり、ウィロビー氏がドイツ語をよく話すことも知り得たので、彼と私とはドイツ語で直接の会話をはじめるようになり、----マシベーア大佐はかつて東京で米国大使館付武官補佐官を勤めたことがあることを話し、東京の知人の彼や是やについて話していた。ウィロビー氏は私を飛行機の中まで送り、座席の世話までしてくれて、わかれるに際して、ドイツ語で「またあいましょう」といい、今度は彼から手を伸ばして、握手をかわした。

篠つく豪雨の中を離陸した。離陸後私もやや自分にかえった気楽さとなり、数十分ないし数時間の過去が思い出され、また、人種や民族を超越した人情の美しさが思われ、首をめぐらせば、人間相互には敵もかたきもない、殊に軍人の職というものは、なんと妙なものだなあ……などと黙想を続けた---。---航行約五時間で、六時頃、雨後のしるしもない快晴の伊江島に着き、アメリカ機を去った。昨日のようないかめしい応対もなく、すぐにわれわれの乗るべき陸攻機が来た。

----われわれの他の一機が、只今の地上滑走中、制動機に故障を起こして機体が傾いたため、翼端を地上に擦った。どうしても小修理をしなければ飛行が出来ぬ---。----先行帰任の一班を定め、重要書類を持って、すぐさま帰路につくこととし、他の一班はこの夜この地に宿泊して明朝出発することときめた。

  午後六時半頃、私らは伊江島を離陸した。----機内は無燈暗黒であるからわれわれは眠る以外にすべもなし。----「海面に不時着をしなければならぬようですから、救命具を付けて下さい。----私のすぐ前の座席にいた岡崎氏は、「携行書類は私がもっています」と私に告げた。----機速は急に減った。機体の沈降が明瞭に感ぜられ、文字どおりに「刻々」気温が増すのがわかる。エンジンが時々バンパンと鳴る。----私は膝の前の座席をかたくつかんで、のめらぬようにと頑ばっていたが、そのうちに、機体前部の着地を感ずるとともに、相当に強い惰力的の衝撃を受け、それと同時に、頭上の闇の中から、何物かガタコトと転落する響きがきこえ、瞬時の後急激な一撃突とともに機体が静定停止した。----乗務員が前から、「どなたかお怪我がありませんか、代表閣下はいかがですか?」とたずねてくれた。----後部の出入ロの方に歩くと、扉は故障なく開かれ、海水に足を浸している乗務員の一名が、私を背負う姿勢で迎えてくれた。

---私は背負われて数メートル、浜におろしてもらった。---月が落ちて暗くなりはじめた。あたかもそこへ一名の老人が浜づたいに来たので、「ここはどこかね」とたずねたところ、天竜川河口の左岸に程近い場所であることを説明してくれた。----老人にも依頼して、近所の部落の警護団をわずらわし、ついで天竜飛行部隊のトラックを寄越してもらい、一同これに乗って元の浜校へ行くこととし、東京への報告については警察系統に頼る処置をした。

------浜松飛行部隊の大平少佐---に相談したところ、この地の飛行機は全部富山に転居しているのであるが、ちょうど昨日富山から連絡に来た重爆機一機が小故障のため、当地に滞留している。只今からすぐに整備員をおこし、明朝六時半までには必ず東京まで私を送り得るように手配するという大平氏の答であった。

---約二時間の仮眠後、八月二十一日の早朝兵隊さんのこしらえてくれた兵食に舌鼓を打ち、飛行場に行き、そこでわれわれを待っていた四式重爆に乗り込み、七時やや前、快晴の浜松飛行場を離陸した。---八時頃調布飛行場に着いた。

 宮崎中将が一人出迎えに来ていてくれた。同氏から東京では昨夜以来総理殿下以下大いに心配していたこと、現在総理官邸に関係者多数集まって報告を待っていることなどを伝えられた。----総理官邸には、総理殿下以下、外務(重光)・海軍(米内)両大臣、近衛国務相、梅津・豊田両総長のほか関係省部の課長級まで多数参集して私たちを待ち受けていた。  総理および両総長に申告、ついで参集諸君一同の前で復命報告を終えたのがおおむね十一時であった。午後一時十五分から総理侍立のもとに、私だけ拝謁し、簡単に復命上奏を終わった。 そのあと更に要求され、木戸内大臣および蓮沼侍従武官長に対し、やや詳細にわたって報告をした。(映像で見る占領期の日本 −占領軍撮影フィルムを見る−マニラ会談に関する史料集引用,戦後:玉音放送から一週間のドキュメントは要約あり。)

1945年8月19日,天皇によって「戦争終結後の国民生活を明朗ならしめよ。例えば灯火管制を直ちに中止し、町を明るくし、娯楽機関の復興を急ぎ、また信書などの検閲を速やかに停止せよ」とあり、防空総本部は,20日正午を期し燈火管制解除することをと発表し,逓信省も信書の検閲を停止するように通達した。午後6時、東久邇宮首相は,クーデターを戒めて「国体護持について、責任者として積極的かつ具体的な考えを持っているから、諸君は自重し、厳粛なる態度をもって事に処せよ」との放送をしていた。(戦後:玉音放送から一週間のドキュメント8/20引用)

写真(右):1945年8月19日 日本降伏使節団が搭乗した一式陸上攻撃機2機が伊江島に到着:1945年8月19日,降伏使節団16名は沖縄伊江島に着いたが,飛行場は見物の米兵でいっぱいだった。当時の写真は,公式撮影だけはなく,米兵のプライベート・フィルムにも多数残っている。やはり,正面から戦ってきた敵の航空機と軍人を見据えるることは,最大の見物だったのであろう。

 

降伏使節団の行程は,日本機により伊江島飛行場に至り,同地より米機によりマニラに輸送せらるるものとされた。そこで,8月19日0718,降伏全権委員の河辺虎四郎中将(参謀本部次長)と随員13名は,羽田をたち,木更津飛行場から,白塗り緑十字マークの一式陸上攻撃機2機で,伊江島飛行場に向かって出発した。途中、米軍のP38戦闘機に誘導され伊江島飛行場に到着。降伏使節団は,米軍のC54輸送機に乗り継いで、マニラ時間の1754,マニラに到着した。

 河辺全権一行は同夜、「日本軍の武装解除に関する事項」と「占領軍の日本進駐開始を八月二十六日とすること」などの指示を受け、8月20日、次の内容の降伏文書を受領した。

ポツダム宣言の条項受諾の確認  
帝国軍隊の無条件降伏
一切の日本国及日本国民の敵対行為の終止及軍用非軍用財産の毀損防止
一切の陸海軍及行政官吏の離職制限
天皇帝国政府及其の後継者のポツダム宣言条項履行確約
連合国俘虜及被抑留者の解放及保護
天皇及帝国政府の国家統治の権限がポツダム宣言の条項実施の為適当と認むる措置を執るべき連合国最高司令官の制限の下に置かれるべきこと

写真(左):1945年8月19日 日本降伏軍使を沖縄の伊江島に運んだ一式陸上攻撃機:1945年8月19日の早朝一行約17名は羽田飛行場から木更津に飛びそこから大型の一式陸上攻撃機2機に分乗して沖縄に向かった。四国沖にかかると打合せた通り米軍機が現われ誘導した。伊江島に着いてから,Douglas C-54輸送機に乗換えてマニラに予定の通り午後一時に発った。 John H. Payne, Jr. ("Jack"), flew Republic P-47 Thunderbolts. After the Japanese surrendered, their surrender envoy passed through Ie Shima, flying their big white-painted Mitsubishi G4M Betty bomber with green croses. Dad was there. (DAD'S PLANES参照)

 降伏文書を受領した一行は、20日1300,マニラを出発、伊江島飛行場経由で21日0830,羽田飛行場にもどった。
8月28日、日本占領の米軍先遣隊150名がフィリピンから厚木飛行場に到着し,翌29日、マッカーサー元帥はマニラから沖縄読谷飛行場に飛来し、8月30日に厚木に降り立った。

岡崎勝男(1947)「降伏軍使マニラへの旅」『政界ジープ』10月号所載,pp.52-58;安田武・福島鋳郎編『ドキュメント昭和二十年八月十五日占領下の日本人』1984年、双柿舎
マニラ行きの命
不安と焦燥の中にとうとう八月十五日となった。終戦の詔勅とともに我々も一時に疲れが出たようでがっかりしてしまった。しかし実際の仕事はそれからそれへと追いかけてくるので休むどころではなく、国内多方面との打ち合せは勿論、スイス,スウェーデンを通じての外部との連絡やマニラの連合軍司令部との直接の交信なども多くなって、ますます多忙の中に日一日と暮れて行った。

そのうちマニラの総司令部から降伏に関する指示をうけるため、日本側陸海軍の専門家を至急マニラに派遣せよとの要求があってこの準備に忙殺されていると、八月十六日になって突然外務大臣から、自分もその使節の一行に加って行くようにとの命令があった。正式の代表は参謀次長河辺虎四郎中将であったが、外務大臣は私には副団長の格で出掛けるのだとの話であった。

八月十九日の早朝一行約十七名は羽田飛行場に集合して、そこから木更津に飛び木更津飛行場から大型の爆撃機二機に分乗して沖縄に向った。飛行機は木更津をひそかに離陸して南へ南へと飛ぶ。これは万一特攻基地から降伏打合に行くことを探られ襲撃されてはならないというわけで、殊更本土を離れて遥か南の海を飛んで行ったのだそうである。

---四国の沖にかかると打合せた通りアメリカの飛行機が現われてわれわれを誘導してくれた。そこでこちらからは予め打合せていた通り「バターン、バターン」という呼出し符号を無線で飛ばした。すると向うからYes,we are Bataan’s watch dog,follow us―という返事がきた。戦争という冷酷な現実にも拘らず、ここにもアメリカン・ユーマーがあるのを微笑ましく思った。
引続き一機だと思っていたアメリカの飛行機が二機になり三機となる。ふと気がつくと見渡す限り一面に、米国機が飛んでいるのに驚いた。数は二百や三百ではなかったであらう。我々を誘導するわけでもないし、又我々を保護してくれるにはあまりにも大袈裟だ。恐らく日本の降伏飛行機を見物がてら飛んできたものではないかしら。我々の爆撃機はこのアメリカの大群の飛行機に囲れながら、とうとう沖縄本島の肩のところにある伊江島の上空に達した。

伊江島飛行場の光景は今でも忘れられない。恐らくあの島にいる米国人も沖縄の住民も、挙って我々の一行を見物に出てきたのであろう。ちょうど我々は珍らしい動物かなにかのようにあらゆる人の眼に曝され、非常に多くの写真機の的になったのであって自分はこれほど多くの写真を写された経験は生れて初めてだった。

我々が伊江島に着いてみるとそこから乗換えてマニラに行くべきアメリカの大型飛行機はすでにプロペラを廻して用意してあった。---殆ど休む暇もなくアメリカの飛行機に乗移って予定の通り午後一時伊江島を飛立った。

米軍の輸送機は非常に大型で我々一行が全部入っても半分の座席もふさがらない位である。---六時マニラのニコルス飛行場についた。飛行機を出てみると総司令部から将官一名、佐官数名がきていて我々を指図して自動車に分乗させ直ぐに宿舎に向った。後で知ったことであるが、この時の将官はウィロビー少将で長くマックアーサー元帥の下にあり、その後東京にきて現在も総司令部の諜報部長をしており、また佐官の中には日本に長くいて日本語の読み書きも自由に出来るマッシュバー大佐も交っていた。

このときの飛行場の周囲とホテルに向かう途中の光景は伊江島の時にも増して物凄い物であった。やはりこの珍しい動物でも見物しようという風に集った数万の群衆、この群衆の中から一斉射撃を加えるカメラの放列、これに交って比島人の我々を罵る声、こうした渦の中を我々はウィロビー少将以下の保護の下に漸く宿舎に着いたのであった。沿道に列ぶ比島人の中から時々「コリッコリッ!」というような声が聴えたので聞いてみると、日本人が従来比島人に対して「コラッコラッ」といっていたので、それが訛って我々に用いられたのだそうであった。

マニラは東京や伊江島にもまして非常に暑く、我々の通る沿道は、見るも無惨なまでに破壊されていた。これは空襲よりも寧ろ、砲撃によるものなどが多かったそうである。
廃墟の中に僅かに残った建物の一が我々の宿舎であった。各々室を当てがわれて水風呂に汗を流し、直に食堂に行くとまた思いがけない御馳走が沢山並んでいた。その後米国の通信にも日本の使節団は、七面鳥の饗応を受けたと書いてあったが、正にその通りで七面鳥のみならず、色々の御馳走に戦争以来の胃の腑を驚かした。

食事が終ると間もなく会議のために出掛けるのであった。この時も飛行場から来たと同じように、M・Pの先導によって往来の交通を一時止め,我我の車のみが廃墟の街を疾走して司令部の所在地であるシティ・ホテルに入った。ここで先方の代表たるサザランド参謀長に面会し、我々が正式に使節であることを証明する書類を渡して直に会議に入ったのであるが、この時は陸海軍の専門の軍事事項のみを説明する目的であったから、自分ら数名は少時にしてそこを辞して宿に帰って待っていた。午前二時頃と記憶するが一行は会議から帰って来て、色々とその模様について報告があったが、大体に於て話は順調に進み先方も我等の誠意のあることはよく諒解したようである。

それから朝迄打合せを続け、翌朝十時再び会場に出向いたが、この時は先方の注意もあり、自分も河辺中将と一緒に室に入った。会場には既にサザランド参謀長を真中にして、ウィロビー少将、ウィットロック少将、シャーマン海軍大将、チャンパーリン少将、ハッチソン准将等陸海軍の将星がずらりと並んで我等を待っていた。その態度は厳格であったが、勝者の傲慢さもなければ、敗者を侮るような様子も見られなかった。そうして会議はアメリカ式の能率本位でそれからそれへと議事を進めていった。

正午迄には凡ての説明も指示も完了して会場を出るとすぐ自動車に乗せられ、一路飛行場に向った。自分等の荷物はと聞くとそれはアメリカ兵が各々ホテルの室に行って荷物を詰めて飛行場に送るという話であった。飛行場に着くと話の通り荷物も届いており飛行機のプロペラも廻って居って我々が乗ると直ぐ動き出して、一路伊江島に向うという仕組である。この驚くべき能率のために我々のマニラ滞在は二十時間足らずで、凡ての使命を果し帰途に着いたわけである。

人間味ある米軍の将星
自分はマニラ滞在の短い間にウィロビー少将やマッシュバー大佐などと色々話をする機会を得た。そうしてこのアメリカの将軍が、昔から日本の尊んでいた武士道精神をそっくりそのまま持って居て、厳正ではあるが苛酷ではなく、正しく且つ人間味のある態度をことごとに示してくれたことを今でも忘れない。この時以来自分はウィロビー少将を深く尊敬しているが、このような態度は米軍一般に持つところのものであろうということを直感して、日本の降伏とそれに引き続く占領はきっと満足に行くであろうと思うようになった。従ってマニラに来るまではどうなることかと気遣っていた不安も帰る時分にはすっかり消えて、寧ろ明るい気持ちを懐いて戻ってきたのであった。

思わぬ不時着
飛行機は予定通り五時間許りで伊江島に到着した。八時頃になると日はとっぷりと暮れ、飛行機は暗闇の中を一路東に飛んで行った。東京の無線連絡は時々続けていた。----突然上の機関室からパイロットが降りて来て「どうもガソリン・タンクの故障らしく油が漏れてもう飛行を続行することが出来なくなった」という報告であった。
自分は河辺代表と相談してもし海へでも落ちる場合には、一番大切なのはマニラから持参した書類であるから、これを何とかしてなくさぬようにしなければならない。----やがてひどい衝撃と共に飛行機が何かに打当たった。そのはずみに自分は前にのめって引くり返った。
----再び「ドスン」という物凄い衝撃があって自分は頭から先に引くり返って二度程くるくると回ったように覚えている。----飛行機は初め海の中に落ちたが、パイロットは直ちにこれを滑走さして巧みに水上を走り、漸く岸の浅瀬に無事にのし上げたのであった。----他の人に聞いてみると誰も打撲傷はあったが血を出した人はなかった。
やむを得ず暫く海岸にじっとしていると、十一時少し廻ったころかと思うが海上から大きな月が出て急に周囲が明るくなった。----暫くすると向うの漁船の蔭から漁師らしい人が二人やってきた。なぜもっと早く来てくれなかったかといったら、彼らは、大きな飛行機が急に落ちたのできっとこれは米軍のB29であらうと思って船の蔭に隠れて様子をみていた、ということで大笑をした。

東久邇宮首相に報告
漁師の案内で二哩ばかり歩いて町に出て、そこでトラックを借りて浜松の飛行場に急行した。行ってみると飛行場は爆撃で惨胆たる状態になっており飛行隊もどこへ行ったか分からない。丁度二日前連絡に来た飛行機が一台エンジンの故障でまだ飛行場にいたから午前二時頃からあたりの人を動員してその飛行機を応急修理して朝の八時頃一同はこれに乗込んで東京に向った。
---調布飛行場に着き、それから直ぐに総理官邸に急行した。総理官邸は東久邇宮を初め閣僚一同が我々を待っておられたので直ぐに報告をした。----我々の飛行機の消息は前夜に十時過ぎからバッタリ杜絶えてその後全然分からないために総理も非常に心配され、官邸に夜を徹して待っておられたそうであった。

杉山元陸軍元帥は,1940〜1944年参謀総長,教育総監をへて1944年7月小磯内閣で陸軍大臣,1945年鈴木内閣では第一総軍司令官。1941年に対米戦争の成算を昭和天皇から「汝は支那事変勃発当時の陸相であるが、あのとき事変は3ヶ月で終わると申したのに今になっても終わっていないではないか」と詰問され,杉山が「支那は広うございますので」と釈明した。すると、昭和天皇は「太平洋は支那より広いではないか」と逆鱗に触れた逸話もある。
1945年8月14日の御前会議前に,陸軍大臣阿南惟幾大将(8月14日自決)は,昭和天皇に第二総軍司令官の畑俊六陸軍元帥、第一総軍司令官の杉山元陸軍元帥、海軍軍令部総長の永野修身海軍元帥に,意見を聴取することを提案した。開戦時の参謀総長杉山元元帥は,開戦時の軍令部総長永野修身海軍元帥は,昭和天皇に対して「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と徹底抗戦を奏上したという。
杉山元陸軍元帥は,敗戦後1945年9月12日拳銃自決し、夫人もそれに殉じた。参謀総長時代に会議の内容などを記した「大本営政府連絡会議議事録(杉山メモ)」を残している。杉山メモは,杉山元参謀総長が職にあった1940-1944年の「大本営政府連絡会議」「御前会議」他の筆記記録および上奏時の御下問奉答の記録である。

天皇に政策や戦略の裁可を求める「上奏」は,内閣と軍部(参謀本部と軍令部)の二通りがある。日清・日露戦争においては、当時の首脳陣が内閣と軍部を取りまとめて一括して上奏した。しかし1930年代になると軍部は統帥権の独立を理由として、単独上奏するようになった。そこで,統帥権の独立によって、議会と内閣は,軍部に制約を加えられなくなったのである。したがって,統帥権を保持する大元帥天皇のみが,軍部と直接に,軍事作戦について討議することになる。大元帥昭和天皇は,陸軍参謀総長と海軍軍令部総長に輔弼されてはいるが,議会,内閣の輔弼を受けられないまま,軍事作戦に関与せざるをえない。

例えば,『杉山メモ』(下)p.19によれば,1943年5月のアッツ島における陸軍部隊全滅「玉砕」に直面し、昭和天皇は,杉山元参謀総長に次のようにご下問した。
 「霧があって行けぬようなら艦や飛行機を持って行くのは間違いではないのか,油を沢山使ふばかりで-----斯んな戦いをしては『ガダルカナル』同様敵の士気を昂け 中立、第三国は動揺して 支那は調子に乗り 大東亜共栄圏内の諸国に及ぼす影響は甚大である。何とかして何処かの正面で米軍を叩きつけることは出来ぬか。」(半月城通信No. 53引用)

写真(左):1945年8月19日 日本降伏軍使が沖縄の伊江島からマニラに向かう:1945年8月19日,軍使一行約17名は羽田から木更津経由で沖縄伊江島に着いた。そこから,Douglas C54輸送機に乗換えてマニラに予定の通り午後一時に発った。(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:外務省調査局長岡崎勝男「降伏軍使マニラへの旅」参照)

杉山元陸軍元帥は,明確に主戦派,徹底抗戦を徹頭徹尾貫いた点で,「意志強固な軍人」とみなすことができる。敗戦の責任をとっての自決することは,元帥・大将には当然であったろう。他方,米内光政海軍大将は,東京裁判(極東国際軍事裁判)の戦犯に指名されないために,東京裁判では証人席に立った。

戦後の東京裁判において,日本陸軍は大将5人、中将1人が絞首刑になったが、海軍の将官はひとりも処刑されなかった。こうして,陸軍を強硬派,主戦派とし,海軍をリベラル,反戦派・良識ある軍人とするいう伝説,すなわち「陸軍悪玉・海軍善玉神話」が創作されたようだ。(今日のぼやき:副島隆彦を囲む会三村文男(2002)『米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉説」の虚妄を糺す』参照)

「いったい海軍というのはわたしが古巣だが、そういった点では、ずるいところがあった。たとえば陸軍は横暴で困るなどと口ではいう。で、その陸軍が、何かいいことをするときには、どうも陸軍がね、といいながら、すっかり陸軍のせいにしておいて、自分らも便乗してしまう。」(岡田啓介(1950)『岡田啓介回顧録』;日本海軍を検証する 引用)同じように「海軍はずるいところがある」と,1944年12月5日に軍令部作戦(正式には第一)部長に就任した富岡定俊少将も述べている。降伏調印式という「無残な敗北の席」に,軍令部総長も海軍大臣も出席を拒み,軍令部作戦部長という格下の部下を出席させている。

1945年8月6日に広島への原爆投下、8月9日に長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告があった。この危機に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「-----原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。
(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

1945年2月14日の昭和天皇への「近衛上奏文」によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。近衛公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とするなど,宮中グループは,終戦の形式的な理由が与えられたことを嗅ぎ取った。そして,不穏な国内情勢,すなわち国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感が,日本を混乱させ,国体の変革にもつながると敏感に感じ取っていたという点で,海軍大臣米内光政大将も,鋭い政治感覚の持ち主であったと考えられる。

1945年8月14日の最後の御前会議では,陸軍(梅津・阿南),内閣(豊田)らの主戦派の意見を聴取した後,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。----戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下したという(御前会議引用)。

5.徹底抗戦は,陸軍だけではなく,閣僚の中にも根強かった。1945年8月14日の最後の御前会議でも,昭和天皇を輔弼すべき政府・軍の首脳は,日本の降伏(ポツダム宣言受諾)を決定できなかった。日本の降伏は,大元帥昭和天皇による終戦の聖断によって,決定した。1945年9月2日,日本の降伏調印式に出席した日本降伏代表団の人選は,不名誉な降伏のために難航したが,出席者は,マッカーサー元帥の親日的占領政策,国体護持を直観した。

1945年8月15日1200,「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴視者の皆様、ご起立願います」…「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこきも御自ら、大詔をのたらませたもうことになりました。これより慎みて玉音をお送り申します」。その後「君が代」につづいて、「終戦ノ詔書」が,大多数の国民にとって初めて聞く天皇の肉声を通じた「玉音放送」として,流された。

大東亜戦争終結ノ詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ 万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所。 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ 亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ尽セルニ拘ラス 戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス。 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所----

朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ。----

朕ハ 帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ 職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク。且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ。

----朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ。----宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ。
              御名御璽
             昭和二十年八月十四日

写真(左):1945年8月19日 米軍占領したの沖縄県伊江島飛行場に降り立った日本軍降伏軍使を乗せた一式陸上攻撃機:白色に塗られ,日の丸に代えてミドリ十字のマークを付けている。ここから,降伏軍使は,ダグラスDouglasC54輸送機に乗り換え,マニラ飛行場に向かった。

「近衛日記」昭和十九年七月二日・十四日)(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)に、次のようにある。
 「当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しており、又第三インターは解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、-----大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず。」

「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。-----革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。-----二・二六以来、真崎、荒木両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍終れりとなせるも何ぞ知らん。皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり。」(引用終わり)

写真(右):1945年8月19日 伊江島飛行場に降り立った日本軍降伏軍使が一式陸上攻撃機からダグラスC54輸送機に乗り換える:白色に塗られ,日の丸に代えてミドリ十字のマークを付けた双発機から,銀色無塗装の四発大型輸送機に乗り換えて,即日マニラ飛行場に飛び立った。

降伏文書調印にあたっての詔書:1945年9月2日降伏調印とともに交付された詔書「映像で見る占領期の日本」引用
朕は昭和二十年七月二十六日米英支各国政府の首班がポツダムに於て発し後にソ連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し、帝国政府及び大本営に対し連合国最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合国最高司令官の指示に基き陸海軍に対する一般命令を発すベきことを命じたり、
朕は朕が臣民に対し敵対行為を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の条項並に帝国政府及び大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
               御名御璽

Japan Surrenders

写真(左):1945年8月30日 日本の厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官マッカーサー元帥:ダグラスDouglasC54輸送機「バターン」から厚木飛行場に降り立ったMajor General Joseph M. Swing, Commanding General, 11th Airborne Division, (left); Lieutenant General Richard K. Sutherland (3rd from right); General Robert L. Eichelberger (right).実は8月28日,厚木飛行場では海軍保安部隊からの派遣隊が守る日本軍将校(有末精三中将、鎌田金宣一中将、山澄忠三郎大佐)らが米先遣部隊の到着を受け入れている。C-46輸送機16機が8時28分に到着し,先遣隊(直属の部下のC.B.ジョーンズ海軍大佐、E.K.ウォーバートン第5航空軍大佐、民間技師のC.R.ハッチンソンとD.M.Dunne、SigC(通信隊)のS.S.オーチンクロス大佐とL.パーク大佐、ATISの通訳のF.バウアー少佐)を率いるチャールズ・P.テンチ大佐(GSC, of the G-3 section of GHQ)が降り立った。9時35分、15機のC-54、C-46、C-47の2番目のグループが到着,11時、15機のC-54の3番目のグループ到着。これらの飛行機は,総勢30名の将校と120名の通常装備の兵士を運んでいた。(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:マッカーサーレポートVol.2について参照)

降伏文書:1945年9月2日ミズリー号艦上の降伏調印式で調印された文書「映像で見る占領期の日本」引用
---「ポツダム」---宣言ノ條項ヲ日本国天皇、日本國政府及日本帝國大本営ノ命二依り且之二代り受諾ス右四國ハ以下之ヲ連合國卜称ス

下名ハ茲ニ日本帝國大本営並ニ何レノ位置二在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ連合国二対スル無條件降伏ヲ布告ス

----一切ノ日本國軍隊及日本國臣民二対シ敵対行為ヲ直二終止スルコト----一切ノ軍隊カ無條件二降伏スヘキ旨ノ命令ヲ直二發スルコトヲ命ス

----「ポツダム」宣言---ヲ実施スルタメ連合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者カ要求スルコトアルヘキ一切ノ命令ヲ發シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

---日本國ノ支配下二在ル一切ノ連合國俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所へノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ス

天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ実施スル為適当卜認ムル措置ヲ執ル連合國最高司令官ノ制限ノ下二置カルルモノトス

千九百四十五年九月二日午前九時四分日本國東京湾上二於テ署名ス
大日本帝國天皇陛下及日本國政府ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
        重光 葵
日本帝國大本営ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
       梅津 美治郎

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印団:前列;外相重光葵Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat),参謀総長梅津美治郎陸軍大将General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. 中列; 大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将Major General Yatsuji Nagai, Army; 終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男Katsuo Okazaki; 大本営海軍部(軍令部)第一部長富岡定俊海軍少Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; 内閣情報部第三部長加瀬俊一Toshikazu Kase; 大本営陸軍部(参謀本部)第一部長宮崎周一陸軍中将Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. 後列(左から右に): 海軍省副官横山一郎海軍少将Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; 終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎Saburo Ota; 大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐Captain Katsuo Shiba, Navy, 大本営陸軍参謀・東久邇宮総理大臣秘書官杉田一次陸軍大佐Colonel Kaziyi Sugita, Army. Naval Historical Center(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:ミズーリ号艦上の降伏調印式参照)

加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』(下)pp.80-94は,降伏文書調印の日を次のように描写する。(「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用)
写真(右):1945年9月2日,東京湾上で日本降伏調印式Formal Surrender of Japanを宣言する連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥General of the Army Douglas MacArthur:戦艦「ミズーリ」USS Missouri (BB-63)艦上で ,英国Admiral Sir Bruce Fraser; ソ連Lieutenant General Kuzma Derevyanko; 豪General Sir Thomas Blamey; 加Colonel Lawrence Moore Cosgrave; 仏General Jacques LeClerc; オランダAdmiral Conrad E.L. Helfrich; ニュージーランドAir Vice Marshall Leonard M. Isitt. 米国陸軍Lieutenant General Richard K. Sutherland; 中華民国General Hsu Yung-chang; 米海軍Fleet Admiral Chester W. Nimitz. 掲げられている星条旗はペリー提督 Commodore Matthew C. Perryが,1853年に東京湾に来航した時のもの。

私の瞑想は靴音で破られた。足早にマッカーサー元帥がテーブルに向かって歩いて来たのである。マイクの前に立ち止まると、演説を始めた。----元帥はこの演説において、理想や理念の紛争はすでに戦場において解決されたから、改めて議論する必要はない、といって、我々は猜疑や悪意や憎悪の気持に促されて今日ここに相会するのではなく、過去の流血と破壊のなかから信頼と理解にもとづく新しい世界を招来しようと切に念ずるものであると説き、自由と寛容と正義の精神を強調したのである。そして、最後に、占領軍総司令官の義務を「寛容と正義によって」履行する決意であると結んだ。----
意外である。刀折れ矢尽きて無条件降伏をした敗敵を前にして、今日の場合、よもや、このような広量かつ寛厚な態度をとろうとは、まったく予期していなかった。----自制して静かに、自由と覚容と正義を説くのは、まことに立派だと思った。勇気に富むクリスチャンだと思った。そして、日本はこれで救われたと思った。そう信じた。私のみならず、艦上のすべての人は、ことごとく元帥に魅了されていた。----演説を終ると、元帥は厳しい口調で日本全権に降伏文書の調和を促した。


写真(右):1945年9月3日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の連合軍最高司令官マッカーサー元帥General of the Army Douglas MacArthurとサザーランド中将Lieutenant General Richard K. Sutherlandが参謀総長梅津美治郎(うめづよしじろう)大将の降伏調印を見守る。:梅津美治郎(1882年1月4日 - 1949年1月8日)は,二・二六事件後に陸軍次官として陸軍内を粛正した。また,ノモンハン事件後、関東軍総司令官に就任し,関東軍の粛正にも関わった。終戦時の御前会議では本土決戦を主張し,降伏調印式への出席も最後まで拒んでいた。加瀬,富岡など宮中グループは,マッカーサー元帥を日本再建,国体護持の道筋を与えた人物とて,過剰といえるほどに,高く評価している。彼らは,東京裁判についても,同じ趣旨で,うまくいったと考えたはずだ。後になって,東京裁判は無効だというような自称保守派の意見を聞いたとき,内心,その浅はかさを感じたのであろう。

----戦勝国代表が次々に署名した。これを見ながら、東海の孤島日本がよくもこれだけ多数の強国を相手にして、大戦争をしたものだと、いまさらのように、その無謀に驚く思いがした。それと同時に、これだけの政治家、外交官がいるのに、連合国側としても、なぜに日本を自暴自棄的な戦争に追いこんだのだろうか、と疑わざるを得なかった。国民政府代表が進み出た時には、アジアの二大国として親善たるべき日華両国が長く抗争し、いま、勝者と敗者に分かれて相対する悲劇を、形容に絶する哀感をもって味わった。
また、赤い軍服を着たソ連代表が胸を張って傲然と構えた際には、終戦に先だって日本政府がクレムリンに和平の仲介を依頼したにもかかわらず、中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦した経緯を想起して、一種の不潔感を禁じ得なかった。そのようなソ連を対日参戦に誘導したアメリカ外交も愚かであるが、対日戦争と対独戦争の終了は、やがて米ソ関係を冷却せしめるに相違ないと思われた。----VJデーの乾杯が期せずして米ソ反目の開始となる。

----私は---急いで調印式の経過、とくにマッカーサー元帥の態度と演説の意味を詳説した報告書を認めた。重光全権はこれをもって直ちに参内した。----私はこの報告書を、「もし日本が勝っていたら、果して今日マッカーサー元帥がとった態度をアメリカに対して示し得たでありましょうか」という疑問で結んだ。これには陛下も暗然たる表情で同感の意を表されたのである。

いま、敗戦によって、国民がこの事実に思い至れば、それが、とりも直さず、再起の大道に連なるのである。マッカーサー元帥は、いみじくも、この大道を展望したのであってその意味で、我々に新たな勇気をふるい起させたのだった。元帥の演説は暗黒をつらぬく一条の光明だったといってもよかろう。

---私は首相官邸から議事堂へ急いだ。衆参両院議員が私の帰るのを待ちわびていた----調印式の経過を説明したうえ、「占領は厳格だと思う。だが、マッカーサー元帥は、“寛容と正義”を力説しているから、我が国の前途は必ずしも悲観するに当るまい。正しい主張ならば、元帥も快く耳を傾けるのではあるまいか。ただ、それには、今日を再出発の日として、全国民が一億一心となって祖国の再建に猛然と全力を結集せねばならぬと信ずる」という趣旨を訴えた。----盛んな拍手をあとにして辞去する時、私は、これこそ愛国心の爆発だと思った。マッカーサーにこの愛国の拍手をきかせたいと思った---。

写真(左):1945年9月2日,東京湾の戦艦「ミズーリ」と艦上を舞う米海軍任務部隊艦載機;日本降伏調印式の終了後,航空機のパレードが行われた。

加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用終わり)

敗戦国の降伏調印使節が,戦勝国の司令官に感服して,日本人の愛国心の表れが,敵将演説への拍手であり,それを敵将に聞かせてやりたいと述べている。今からみると,まるで,敗者が勝者に媚びへつらっているか,勝者に洗脳されたような文章であるが,当時はどうだったのか。

大本営海軍部/軍令部作戦部長富岡定俊少将の回想(映像で見る占領期の日本:降伏調印式関係史料集引用)


写真(右):1945年9月2日(日本3日),東京湾の戦艦「ミズーリ」での降伏調印式に出席した日本代表団;重光葵(外務大臣),梅津美冶郎参謀総長(海軍の豊田副武軍令部総長は欠席) and 梅津美治郎(陸軍大将・参謀総長)Chief of the Army General Staff. 後方は,左から右に:永井八津次(陸軍少将、大本営陸軍参謀);岡崎勝男(終戦連絡中央事務局長官);富岡定俊(海軍少将、大本営海軍部第一部長);加瀬俊一(内閣情報部第三部長), 宮崎周一(陸軍中将、大本営陸軍部第一部長)。さらに,後方は左から右に:横山一郎(海軍少将、海軍省出仕);太田三郎(終戦連絡中央事務局第三部長);柴勝男(海軍大佐、大本営海軍参謀(軍令部第一部), 杉田一次(陸軍大佐、大本営陸軍参謀、東久邇宮総理大臣秘書官)。「東久邇日記」九月二日によれば,「重光代表は政府代表は近衛公がよいと申し出てきたが、私は考慮中だといって確かな返事をしなかった。梅津参謀長も大本営代表は、参謀総長と軍令部総長と二人でなければいけないと再三いって来たが、私は返事をしなかった。しまいに、梅津は、『もし参謀長一人を代表とする時には自決する覚悟である』とまでいって来たが、私はなおも返事をしなかった。梅津は私に直接交渉はしなかった。私は近衛、木戸、緒方三大臣と相談して、重光、梅津を代表とすることにし、天皇陛下のお許しを経て、終戦処理委員会で発表し、三十一日の閣議で決定してしまった。これが国政をあずかる最高責任者の態度というものであろうか。」とある。

どんな過酷な義務と懲罰を加せられるか、もしもの時にはと心配もし、心ひそかに覚悟するところのあった私は周囲の風物もあまり心にとまらなかった。---九時前後になって式が始まった。マッカーサー連合軍最高司令官が、マイクの前に立った。---「…戦は終わった、恩讐は去った。神よ!この平和を永遠に続けさせ給え!」最後の言葉を述べるとき元帥の目は空の一角に向けられその敬虔な態度と声音は、人に対して語る姿ではなかった。日に見えぬ神に捧ぐる誓いと祈りのほかの何物でもなかった。----しかし元帥のこの言葉と態度には心の底から組伏せられてしまった。恩讐の彼方にあるおおらかな気持、キリストの愛があの大きな胸に包まれている。それに引替え何と小さな島国根性であったかと心の底から打ちのめされた気持であった。不覚の涙で目尻が熱くなる。

日本の降伏が定まってから在日の外国の論調は無電で聴取していたが、峻厳そのもので、ただただ実力で押えつけて管理し変革するという線を越えたものは一つもなかった。然るにそのようなことは元帥の言葉にも態度にも微塵もうかがわれなかったのである。

これなら「レジスタンスはやらないで済むな」と思い、帰ってから米内さんに報告したら「うんわかった。お前死ぬなよ」と言われた。ある先輩からも懇々とさとされて、私は古巣の海軍大学校の片すみに、みなさんのお骨折りで史料調査会を設け、今日まで戦史の研究をしている。(降伏調印式関係史料集 ・『文藝春秋』1950年9月号引用終わり)

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上で日本降伏文書に署名するSupreme Commander Allied Powers (SCAP)マッカーサーDouglas MacArthur 元帥;連合軍最高司令官マッカーサー元帥の後方には,1942年にフィリピン コレヒドール島で日本軍に降伏した米国陸軍Lieutenant GeneralウェンライトJonathan M. Wainwright, とシンガポールで日本軍に降伏した英国陸軍Lieutenant General Sir パーシバルArthur E. Percivalがいる。二人とも,日本軍の捕虜収容所から解放されたばかりだった。署名に使用した金ペン軸(5本使用)は,ウェンライト中将とパーシバル中将に各1本プレゼントされた。

1945年9月2日(日本3日)戦艦「ミズーリ」での降伏調印式におけるマッカーサー元帥の演説
MacArthur's Speeches: Surrender ceremony on the U.S.S. Missouri
降伏調印前 (理想とイデオロギーを巻き込んだ問題は,戦場で片がついたのであり,もはや議論の余地は無い。過去の流血と大量殺戮の後に,自由,寛容,正義を重んじる威厳ある人々の前に,よりよい世界が現れることを希望する。)

降伏調印署名後の演説(今日,銃声がやんだ。大いなる悲劇が終わり,偉大な勝利が勝ち取られた。 我々は,戦争で勝ち取った平和を,将来まで,保持しなくてはならない。新時代の到来である。勝利の教訓は,我々の今後の安全保障,文明の生存への強い関心を引き起こす。もしも,我々がより適切なシステムを構築できないのであれば,最終戦争ハルマゲドンはすぐやって来るであろう。問題は,基本的には,技術的ではあるが,同時に精神的再燃と人類の持つる性向の改善にも関連している。)

1945年9月3日(米国2日)の日本降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説は,内容を吟味しても,日本の戦争責任,戦後処理,兵士の復員,政治体制,国体,占領政策の具体像は述べられていない。にもかかわらず,多くの日本政府首脳陣や軍高官に感銘を与えたようだが,これはひとつには,降伏調印式の演出と日本代表段への丁寧な応対にあった。そして,降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説には,敵国日本とその軍隊への侮蔑的態度,政府首脳・大元帥昭和天皇への非難が無かったが,このことが,日本政府首脳陣や軍高官に,戦後日本の再建の期待を抱かせるものだったのである。

20回の連合国首脳会談が開催されたが,チャーチル14回,ルーズベルト12回,スターリン 5回の出席で,軍人,外相の会談も多い。会談は,欧州戦と戦後の欧州・ドイツの取り扱いに関しての多く,枢軸国への無条件降伏の要求のように枢軸国を対象とした内容も,欧州優先の思想から言えば,ドイツを念頭においていたといえる。

大戦中の連合国首脳会議20回のうち,中国代表が率先して参加したのは,国連関連を除いて,1943年のカイロ会談1回だけで,日本と対日戦争が明示的に取り上げられた会談も5回に過ぎない。これは,対日戦争とアジアの問題については,米国主導で解決することが連合国の方針であったことを反映していると思われる。

連合国首脳会談で,日本の戦後処理が明示されていない以上,戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向を具体化する占領軍総司令官マッカーサー元帥にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,マッカーサー元帥の権威の大きさを熟知して,それに積極的に協力することによって,戦後日本の再建,国体護持に尽力したようだ。つまり,敗戦後の日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていたといえる。


写真(左):1946年3月3日-1948年12月12日,東京で開廷された極東国際軍事裁判;オーストラリア出身のウッブSir William Webb裁判長が,米国出身のキーナンChief Prosecutor Joseph Keenan 検事総長の起訴した28名(3名は後に除外)のA級戦犯を裁いた。
写真(右):大本営 ;1936年6月に陸軍士官学校本部として建てられ,その後,大本営陸軍部・海軍部が設けられた。大講堂もあり,その正面に「玉座」が設けられていた。(安田講堂にも,陛下の控えの間があった。当時,一流名士の集う場所は,皇族への配慮が常識である。)1946年に極東国際軍事裁判が開催された市谷の東京裁判の法廷となった。長らく,自衛隊の市ヶ谷駐屯地に残され,使用されていた。しかし,2000年に防衛庁が六本木から市ヶ谷に移転したさい,建物の大半は取り壊され,一部分的が移築・復元された。

6.アジア太平洋戦争の戦争責任追及の場として,東京裁判(極東国際軍事裁判)で,A級戦犯だけが断罪され,国体が護持された。1951年サンフランシスコ講和条約では,占領国日本は東京裁判の判決を受容する(強要される)ことで,国体を護持しながら,賠償金をかけられることなく国際社会への復帰を認められ,独立国として再出発した。東京裁判の判決やあり方については,疑義がある。しかし,現段階で判決の無効を主張することには,対アジア,対米英という旧連合国との国際関係を悪化させるだけである。

昭和天皇弟宮高松宮宣仁親王,元首相近衛文麿,内大臣木戸幸一,元内大臣牧野伸顕,内閣総理大臣秘書官・高松宮御用掛細川護貞,内閣副書記官長高木惣吉,宮内省松平康昌,外務省加瀬俊一,宮内庁御用掛寺崎英成など日本の宮中グループは,米占領軍上層部と連携して,日本の復興,国体護持,大元帥昭和天皇の訴追排除に尽力した。

戦後,近衛文麿は,東久邇宮稔彦王内閣で国務大臣を務め,1945年10月4日にマッカーサーを訪ねた。しかし,1945年11月には,近衛の戦争責任が追及されるようになり,『世界文化』に掲載された評論では,日中戦争・太平洋戦争の開戦の責任を軍上層部に転嫁し、自分が軍の独走を阻止できなかったことは遺憾であると釈明したという。1945年12月6日にGHQから巣鴨拘置所出頭命令を受けたため,昭和天皇に戦争責任が及ばないようにと,青酸カリを飲み自殺。(→wikipedia近衛文麿引用)

戦後1945年12月18日の近衛文麿自殺については,メモの形で遺された「心境」が,息子通隆によって,午前三時前次のように発表された。(終戦前後2年間の新聞切り抜き帳(19)近衛公の自殺20.12.18引用)
 「僕は支那事変以来多くの政治上の過誤を犯した。これに対して深く責任を感じてゐるが所謂戦争犯罪人として米国の法廷において罰を受けることは耐へ難いことである。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこその事変解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は米国との誤解にありとの結論に達し日米交渉に全力を注いだのである。その米国から今犯罪人として指名を受けることはまことに残念に思ふ。しかし僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国においてさへそこに多少の知己が存在することを確信する。」

 通隆と二人だけで午前一時頃から二時まで語り合った主な事柄は,次のごとく発表された。
・自分は日支事変の解決、日米交渉の成立に全力を尽くしたが力及ばず今の事態に立ち至ったことを遺憾とし上は陛下に対し奉り下は全国民に対し責任を痛感してゐた。
・国体維持の問題については自分が全力を尽くして護って来たところのものである。これは国民、別して近衛家としては当然さうあらねばならないと強く主張した。(引用終わり)

写真(右):1946年東京裁判の開廷された市谷の陸軍省・参謀本部:1937年6月に竣工した陸軍士官学校本部庁舎であり、1941年以降は、左側に陸軍省、右側に参謀本部が入った。自衛隊の市谷駐屯地に防衛庁が移転し,多くの建物が取り壊されたが、歴史的価値のある一号館の一部のみが記念館として移設保存された。東京裁判の法廷とされた大講堂と、旧陸軍大臣室が残されている。

第二次世界大戦の敗戦国を「戦勝国」が裁いたのが,国際軍事裁判といわれる。ここでは,捕虜虐待や住民殺害などの戦争犯罪だけではなく,「平和に対する罪」と「人道に対する罪」について,容疑者の公開裁判が行われた。1945年8月には,ドイツのナチス幹部を裁くニュルンベルク国際軍事裁判が始まった。そして,1946年1月19日には,極東国際軍事裁判憲章Charter of the International Military Tribunal for the Far Eastが定められた。東京裁判は,1946年3月3日から1948年11月12日まで開かれた。

戦犯容疑者の区分は,三等級である。
A級 "Class A" とは,平和に対する罪(crimes against peace), B級"Class B" とは,捕虜虐待など通常の戦争犯罪(war crimes), C級 "Class C" とは人道に対する罪(crimes against humanity)であり,戦犯として起訴されたのは,A級戦犯として25名の政府首脳・軍高官,BC級戦犯として3万名の軍人・軍属などが起訴された。

東京裁判の裁判官(11名)の出身は,米マイロン・C・クレーマーMajor-General Cramer,英Hon Lord Patrick,仏Henri Bernard,ソ連Major-General I.M. Zarayanov,中の梅汝敖Major-General Mei Ju-aoの五大国,カナダEdward Stuart McDougall,オランダProfessor Bert Röling,オーストラリアのウィリアム・F・ウエップ(裁判長)Sir William Webb,ニュージーランドHarvey Northcroftという戦勝国と並んで,インドのラダビノード・パールRadhabinod Pal,フィリピンのジャラニラColonel Delfin Jaranillaという連合国植民地代表もいた。

写真(右):1946年東京裁判の開廷された陸軍省自衛隊旧市谷駐屯地:A court room scene at the Tokyo Trial held at a former Ministry of Army building at Ichigaya, Tokyo.

1946年1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、1946年4月26日に裁判が開始された。起訴は,1946年4月29日(昭和天皇誕生日)で,裁判費用(27億円)は、日本側の負担になる。日本軍が再び世界の平和・安全保障の脅威とならないようにするという目的と,占領した日本を,親米の国に変換するという二つの目的があった。実際,連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) ダグラス・マッカーサーは、占領国日本の統治において大元帥昭和天皇の協力を不可欠と考えたために、国体を維持し,大元帥昭和天皇の訴追も退位も行わなかった。

東京裁判では、日本への都市爆撃,原子爆弾投下,無制限潜水艦作戦など連合国軍の大量殺戮は裁かれず,証人への偽証罪の適用も無かった。また、戦後の「国際法」によって,過去の戦争責任を裁くという点で,罪刑法定主義・法の不遡及が満たされいないことも指摘された。

戦後,宮中グループは,対米英太平洋戦争を否定して戦時中の日本の軍国主義者を指導層から排除すること,天皇の戦争責任から解放し,国体を護持することを企図し,その目的を達成するために,極東国際軍事裁判(東京裁判)の意義を認めた。そこで,宮中グループは,国際検察局に積極的に戦犯リスト情報を提供し協力関係を築こうとした。宮中グループは,天皇を擁護するためには,戦争責任を誰かが引き受けなくてはならず,それは東条英機などA級戦犯であると考えた。内大臣木戸幸一が提出した「木戸日記」は,A級戦犯の選定に寄与した。

 満州事変,日中戦争,対米英太平洋戦争は,陸軍強硬派が主導したように言われるが,それに同調した海軍はもちろん,宮中グループ,官僚,財閥も連座している。そして,最終判断を下した大元帥昭和天皇も無関係ではない。

しかし,東京裁判では,アジア太平洋戦争の責任は,主に陸軍上層部に押し付けられ,宮中グループは,大元帥昭和天皇の意思を踏まえて,和平を望んだが,経済封鎖された状況で,日本の内乱・革命を防ぐために,やむをえず対米英太平洋戦争に踏み切ったとの立場を堅持した。大元帥昭和天皇,宮中グループ,官僚,財界,そして,国民は,戦争犠牲者であって,戦争責任はない。戦争責任を負うべきなのは,A級戦犯であるという歴史認識を作り上げた。

 このような戦争責任論は,冷戦が激化する中,米英にとっても都合が良い。冷戦の開始によって,米国の占領政策は,非軍事化・民主化から反共化に移っていったから,日本を新米国家にして,米国の同盟国に育成する戦略が採用された。この戦略を担うための日本側の政治勢力が,保守的な宮中グループであり,1948年10月に成立した吉田茂内閣だった。吉田茂は,内大臣牧野伸顕の娘婿で,新米保守の日本を方向付けた。(→極東軍事裁判参照)

写真(右):1948年東京裁判に出廷した東條英機元首相:勲章や肩章など全ての虚飾を剥ぎ取られた軍服を着ている。Former Prime Minister Hideki Tojo testifies during his trial at the old War Ministry building in Tokyo in 1948.
東條英機(とうじょう ひでき 1884年7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年12月23日):1940年第二次近衛文麿内閣で陸軍大臣,1941年内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣,1942年外務大臣を兼務。1943年文部大臣・商工大臣・軍需大臣も兼務。1944年参謀総長も兼務。サイパン陥落後、首相辞職。予備役に就く。戦後,拳銃自殺図るも失敗。

東條英機宣誓供述書 (東京裁判をぶっとばせ引用)には,アジア太平洋戦争が自衛戦争・植民地解放戦争であったこと,天皇に開戦の責任は無いことが,次のように述べられている。
「日本の国防上に与えられたる致命的打撃-----米英蘭の資産凍結により日本の必要物資の入手難は極度に加わり日本の国力および満州、支那、仏印、泰に依存する物資によるのほかなくその他は閉鎖せられある種の特に重要な物資は貯蔵したものの消耗によるのほかはなく、ことに石油は総て貯蔵によらなければならぬ有様でありました。
 この現状で推移すればわが国力の弾発性は日一日と弱化しその結果日本の海軍は二年後にはその機能を失う。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は極度の戦時規則を施すも、一年を出ずして麻痺状態となることが明らかにされました。ここに国防上の致命的打撃を受くるの状態となつたのであります。

 当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つたという事がただ一つ残された途でありました。我々は国家の運命を賭しました。しかして敗れました。しかして眼前に見るがごとき自体を惹起したのであります。

大東亜政策の前提である「東亜開放」とは東亜の植民地ないし半植民地の状態にある各民族が他の民族国家と同様世界において対等の自由を獲んとする永年にわたる熱烈なる希望を充足し、以て東亜の安定を阻害しつつある不自然の状態を除かんとするものであります。

日本はいまだかつて検察側の主張するがごとき、ソ連邦に対し、侵略をなせることはもちろん、これを意図したこともありません。我国はむしろソ連邦の東亜侵略に対し戦々兢々その防衛に腐心し続けて来たのでありました。

私はいまだかつて我国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、また敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてありませぬ。

1946年東京裁判に出廷した東條英機元首相:東條首相は,天皇親政を実りあるものにするために,頻繁に上奏を繰り返し,天皇の意思を汲み取りながら国政に尽くした。忠臣として,昭和天皇からも信頼されたからこそ,首相・陸相・内務大臣・外務大臣・参謀総長など兼ねる独裁が可能になった。東條英機大将は,大元帥昭和天皇に有無を言わさず日米開戦を認めさせたとの証言をしたが,これは天皇を訴追から守るための偽証だった。東京裁判では,開戦の全責任を引き受け,処刑された。このような,ディールは,マッカーサー元帥,フェラーズ准将など米軍上層部の意向と日本の宮中グループの協力で可能になったのであり,東京裁判の最大の意義は,国体護持を貫徹したことにある。これを抜きにして,「東京裁判史観」を論じても本論には迫れない。

 戦争が国際法上より見て正しき戦争であつたか否かの問題と、敗戦の責任いかんとの問題とは、明白に分別の出来る二つの異なつた問題であります。

第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題であります。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私はいまだかつて我国が本戦争をなしたことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、また敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてありませぬ。

 第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。

「(1941年)11月5日決定の帝国国策遂行要綱に基く対米交渉遂に成立するに至らず帝国は米英国に対し開戦す」以上の手続により決定したる国策については、内閣および統帥部の輔弼および輔翼の責任者においてその全責任を負うべきものでありまして、天皇陛下に御責任はありませぬ。

(中略)天皇陛下が内閣の組織を命ぜらるるに当つては必ず往時は元老の推挙により、後年、ことに本訴訟に関係ある時期においては重臣の推薦、および常時輔弼の責任者たる内大臣の進言によられたのでありまして、天皇陛下がこれらの者の推薦および進言を却け、他の自己の欲せらるる者に組閣を命ぜられたというがごとき前例はいまだかつてありませぬ。

内閣および統帥部の責任を以てなしたる最終的決定に対しては天皇陛下は拒否権は御行使遊ばされぬという事になつて来ました。----これを要するに天皇は自己の自由の意志を以て内閣および統帥部の組織を命ぜられませぬ。内閣および統帥部の進言は拒否せらるることはありませぬ。天皇陛下のご希望は内大臣の助言によります。
 しかもこの御希望が表明せられました時においても、これを内閣および統帥部においてその責任において審議し上奏します。この上奏は拒否せらるることはありませぬ。これが戦争史上空前の重大危機における天応陛下の御立場であれれたのであります。(東條英機宣誓供述書 ;東京裁判 東條英機 後編引用))

写真(左):1948年東京裁判で死刑になった板垣征四郎陸軍大将:1885年生まれ。1904年10月東京陸軍士官学校卒、1913年に日本陸軍大学へ進学。1917-1919年参謀本部部員。1922年参謀本部中国課課員、1931年3月、日本陸軍歩兵学校で「軍事上から見た満蒙」演説で、中国東北は日本の「国防の第一線」であるとした。1932年8月8日陸軍少将。満州国執政顧問に就任。1934年8月1日、満州国軍政部最高顧問、1936年3月23日関東軍参謀長、1938年6月3日近衛内閣の陸軍大臣に就任。1939年9月4日支那派遣軍総参謀長、1945年4月7日第七方面軍司令官に就任するも、9月シンガポールで英軍に投降。(靖国神社に祀られるA級戦犯:板垣征四郎引用)
写真(右):1948年東京裁判で死刑になった松井岩根陸軍大将:1937-1938年の「南京虐殺事件」の責任を中支那方面軍司令官としてとらされたが、実際の捕虜・便衣隊・敵性住民の処刑命令を出した部下の中島師団長などは、すでに病死していた。

極東国際軍事裁判にA級戦犯として起訴された28名の被告defendantsの判決は,次の通り。

<絞首刑(死刑)>Death by Hanging
板垣征四郎:陸相(近衛・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。1945年4月7日、第七方面軍司令官,英軍へ投降。1948年12月23日、巣鴨拘置所で絞首台。
木村兵太郎 :関東軍参謀長・近衛・東條内閣陸軍次官・1944年7月ビルマ方面軍司令官。1948年12月23日、絞首刑。
土肥原賢二 :奉天特務機関長(満州国建国・宣統帝溥儀担ぎ出し)、教育総監(1945.4.7〜11.30)・第12方面軍司令官。1948年12月23日、絞首刑。辞世の句「天かけりのぼりゆくらんわが魂は 君が代千代に護るなるべし」
東條英機:首相(日米開戦〜サイパン戦)・陸相(陸軍大臣)・参謀総長
武藤章 :陸軍省軍務局長・第14方面軍参謀長(フィリピン戦)。戦犯中最若年、中将で唯一死刑。
松井石根:中支那方面軍司令官(南京攻略)。1948年12月9日、花山老師に処刑前の述懐をなした。「南京事件はお恥ずかしい限りです。----慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。---折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、このあとでみなが笑った。----従って、私だけでもこういう結果になることは当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味でたいへんに嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。」
広田弘毅:首相・第1次近衛内閣対中国戦争時外相。玄洋社の頭山満など大陸派と関係を持ち,対中戦争に邁進。

東京裁判のA級戦犯への判決(☆極東国際軍事裁判引用)

写真(左):1948年東京裁判で死刑になった武藤章陸軍中将:1912年陸軍士官学校第25期卒、1920年陸軍大学卒。1936年関東軍参謀部第二課課長となり、1937年盧溝橋事件に際して大佐として対中国強硬策を主張、第二次上海事変では杭州湾上陸を提案。中支方面軍参謀副長として、南京地区における日本軍の宿営地手配を担当。1939年少将に昇進し陸軍省軍務局長、1941年中将に昇進、1942年近衛第二師団長(スマトラ島攻略)。1944年、第14方面軍(フィリピン)参謀長。
写真(右):1948年東京裁判で終身刑になった畑俊六陸軍元帥(1879.7.26〜1962.5.10);1900年陸軍士官学校卒、中尉で日露戦争に従軍。1910年陸軍大学校卒。1912-16年まで駐独在武官。1937年軍事参議官、教育総監、大将に昇進。1938年中支那派遣軍司令官。1939年5月侍従武官長。1939年8月-1940年7月、阿部・米内内閣で陸軍大臣。1941年3月-1944年11月,支那派遣軍総司令官。1945年第二総軍司令官として敗戦を向かえる。

<終身刑>Life Imprisonment
荒木貞夫 :犬養・斎藤内閣陸相・第1次近衛内閣・平沼内閣文相。病気で仮出所後,釈放。1966年11月2日死去。
梅津美治郎:支那駐屯軍司令官・広田・林・近衛内閣陸軍次官・関東軍司令官・参謀総長。1949年1月8日、服役中に病死。
大島浩:1934年ドイツ大使館付武官,1938年ドイツ大使就任(日独伊三国同盟)。1955年、減刑、出獄。1975年6月6日死去。
岡敬純 :近衛・東條内閣海軍省軍務局長。1944年7月18日,海軍次官。1973年12月4日死去。
賀屋興宣 :北支那開発会社総裁・東條内閣蔵相。1955年仮釈放、1958年正式赦免後、衆議院議員選挙に5回連続当選。池田内閣の法務大臣。1977年4月28日死去。
木戸幸一:内大臣
小磯国昭:朝鮮総督・陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・拓務大臣・首相(フィリピン戦)。巣鴨拘置所内で病死。70歳。
佐藤賢了:陸軍省軍務局軍務課国内班長(国家総動員法)・陸軍省軍務局長。1956年に釈放。 1975年2月6日死去。
嶋田繁太郎 :1941年10月18日〜1944年7月17日海軍大臣・軍令部総長。1955年仮釈放後、赦免され、1976年6月7日死去、92歳。
白鳥敏夫:駐イタリア大使(日独伊三国同盟)。1940年8月、近衛内閣大政翼賛会総務。1949年9月、服役中に獄死。
鈴木貞一:第2次近衛・東條内閣企画院総裁・大日本産業報国会会長。1955年9月に仮釈放,1958年に赦免。
南次郎 :1931年若槻内閣の陸相(満州事変),1934年関東軍司令官,1936年朝鮮総督(6年間)。1942年5月枢密顧問官。1954年に出獄後,1955年12月5日死亡(81歳)。
橋本欣五郎:翼賛政治会総務・大日本赤誠会統領。仮釈放後,1957年6月29日死去。
畑俊六:阿部内閣陸相・中支那派遣軍総司令官。1954年仮釈放,偕行社会長に就任。
平沼騏一郎 :枢密院議長・内務相・首相。国粋主義団体「国本社」を創立、会長。裁判時81歳。保釈され1952年8月死去。
星野直樹 :満州国総務長官・企画院総裁・東條条内閣書記官長。1958年の出所後、旭海運株式会社社長、東急電鉄株式会社取締役、ダイヤモンド社会長を歴任。

写真(左):1948年東京裁判で禁固20年の判決を受けた東郷茂徳 (1882年12月10日〜1950年7月23日);薩摩焼の陶工の末裔旧姓朴で5歳の時に改姓。東京大学文科卒業。1913年8月 奉天総領事館領事官補、1925年在米大使館1等書記官、下宿先のドイツ人女性エディータ(東郷エヂ)と結婚。1929年6月に在独大使館参事官、1937年10月 駐独大使、1938年10月駐ソ連大使(ノモンハン事件)。1941年10月18日東条英機内閣の外務大臣兼拓務大臣。1948年11月、A級戦犯として東京裁判で禁固20年の判決が下るも、、1950年アメリカ陸軍病院(現在の聖路加病院)で病死。(東郷茂徳(とうごうしげのり)引用)
写真(右):1948年東京裁判で終身刑になった南次郎陸軍大将:(1874〜1953)騎兵として日露戦争に出陣、大尉として功四級金鵄勲章を授与。1930年に陸軍大将。1931年、若槻内閣で宇垣後任として陸軍大臣,満州事変が起こる。1934年、関東軍司令官、1936年の2・26事件の責を負って辞職するも、1936年8月,朝鮮総督就任。「内鮮一体」「一視同仁」を図る。「東洋平和の根基たる日満一体の宏図を遂げ、----朝鮮の負荷する使命のますます大なるものあるを惟う。---人的、物的の両要素にわたり、内鮮一如、鮮満相依の境地を洞察して、資源を開発し---真に雄強国民として、---生活の基礎に達せしむる---」と1936年8月27日就任演説で述べた。1938年陸軍特別志願兵令、国家総動員法を施行。1941年6月の国民学校令で学校教育から韓国語を追放した。(〈人物で見る日本の朝鮮観〉南次郎引用)

<有期禁錮>
重光葵:1939年駐英大使,1941年中華大使、43年よ東条・小磯・東久内閣の外相を歴任。禁固七年。1954年日本民主党副総裁、鳩山内閣副総理兼外相。
東郷茂徳 :1937年10月 駐独大使、1938年10月 駐ソ連大使,・駐英大使・南京政府(汪兆銘)駐在大使をへて1945年4月9日 鈴木内閣の外務大臣。1948年11月、禁固20年の判決を受け、巣鴨プリズンで服役、1950年7月223日m,アメリカ陸軍病院(現聖路加病院)で病死。

<判決前に病死>
永野修身 :広田内閣海相・連合艦隊司令長官・軍令部総長(1947年1月5日没)
松岡洋右:第2次近衛内閣外相。1940年9月27日,日独伊三国同盟の調印式,1941年4月13日,日ソ中立条約を締結。岡肺結核の悪化で1946年6月27日没。

<精神異常を理由に免除>
大川 周明:拓殖大学教授・大アジア主義と国家主義の思想家。1945年12月A級戦犯として逮捕・起訴されたが精神疾患で免除。

東京裁判における対米関係としては,大元帥昭和天皇の戦争責任を認めない(認めさせない)という点が最も重要である。A級戦犯は,大元帥昭和天皇の免責のために犠牲的精神を発揮し(させられ),全ての責任を引き受けた(引き受けさせられた)。その意味で,東京裁判では,日本の再建と国体護持を願う宮中グループと米国における対ソ・反共産主義グループの協力が指摘できる。米英政府高官と米軍上層部は,国体護持が,米国の支配下で,「反ソ連・反中共」の日本の政治的安定と産業界・経済の復興に繋がると判断した。

日本のアジア太平洋戦争後の国際社会復帰は,1951年サンフランシスコ講和会議と講和条約による。その中で,東京裁判(極東国際軍事裁判)の結果を完全に受諾したことを表明した。したがって,靖国神社参拝,A級戦犯合祀という国内問題は,アジアだけでなく太平洋を越えた米国でも,カナダ(英国連邦の一員として,欧州戦に当初より参戦)でも大きな意味がある。ジョンホプキンス大学やジョージワシントン大学のアジア研究施設の所長たちは,「戦争を正当化することは,日本と戦った米国の戦争観と対立するのであって,異なった歴史解釈の上に日米の安定的な安全保障関係,軍事同盟関係を築くことは,不可能である」との見解を表明している(朝日新聞2006年4月30日)。



写真(右):大元帥昭和天皇
;満州事変,日中戦争,太平洋戦争と昭和期の日本陸海軍の総司令官,統帥権の保持者として,戦争指導を行った。幼いときから一流の帝大教授,将軍に直接学び,帝王学を身につけた。日本で最高の教育を受け,中国国家主席大元帥蒋介石,独総統ヒトラー,英首相チャーチル,米大統領ルーズベルトに匹敵する以上の一級の頭脳を持つ軍最高司令官である。

1889年2月11日公布の大日本帝国憲法は,「皇朕レ謹ミ畏ミ 皇祖 皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ継承シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ」という告文で始まり,「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在 及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ」との憲法発布勅語が続いている。

つまり,天孫降臨の神勅を引き継いだ天皇は,神格化され,現人神(あらひとがみ)として統治を宣言した。日本臣民は,天皇の赤子となった。このような重要なお言葉を無視した憲法の解説は,法学としてはともかく,日本の基盤「国体」を捨象しているといえる。

第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 」とし,第四条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とした。大臣,陸軍参謀総、海軍軍令部長らは,天皇の統治権・統帥権を補弼するにすぎない。天皇は,立法・司法・行政の三権を総攬し、大元帥として陸海軍の統帥権を持つ絶対的存在だった。

軍事について,天皇の権威は絶対である。第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」,第十二条「天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」,第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」として,国軍の統帥権,軍の編成権,軍事予算の決定権を保持し,宣戦布告と講和の全権を握っていた。立憲君主制のような議会中心,国民主権の統治形態,軍のシビリアンコントロールのような事態は想定されていない。

しかし,第三条で,「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」として,天皇無答責を定めた。国内法によれば天皇に戦争責任は及ばないことになる。

8.1946年1月1日、昭和天皇は「新日本建設ニ関スル詔書」(人間宣言)を発した。同年11月3日には,象徴天皇制を定めた日本国憲法が公布され,主権は国民にあること,戦争放棄が明記された。東京裁判は,勝者による敗者の裁きであるが,これは戦争の敗者に対する一方的断罪ではなく,国際法廷による戦争責任の認定であり,無条件降伏をした日本は受け入れざるを得ない。戦争責任を認めることが,旧連合国、勝者が連なる国際社会に,日本が復帰する条件となったのは当然である。


写真(右):1945年9月東京での昭和天皇と占領軍総司令官マッカーサーDouglas MacArthur元帥の第一回目の会談:三枚撮影され,これだけが公開された。このとき公開された天皇とマッカーサーの二人の写真は,敗戦の悲哀を含んだ昭和天皇の様子を広く国民に伝えることとなり,天皇への同情論が起こる契機ともなった。

敗戦後の1946年1月1日、昭和天皇は「新日本建設ニ関スル詔書」を発し,天皇の神格を否定した。「詔書」は「天皇の人間宣言」とされ,1946年1月1日付新聞各紙は一面でこれを報じた。

新日本建設ニ関スル詔書:昭和21年年頭の詔書あるいは国運振興ノ詔書:人間宣言

ここに新年を迎う。かえりみれば明治天皇、明治のはじめに、国是として五箇条の御誓文を下し給(たま)えり。いわく、 
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし
一、官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
一、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし
一、知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし
叡旨公明正大、また何をか加えん。朕(ちん)は個々に誓い新たにして、国運を開かんと欲す。 すべからくこの(明治天皇の)御趣旨にのっとり、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上をはかり、新日本を建設すべし。

大小都市のこうむりたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は、まことに心をいたましむるものあり。しかりといえども、わが国民が現在の試練に直面し、かつ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束をまっとうせば、ひとりわが国のみならず、全人類のために輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。それ、家を愛する心と国を愛する心とは、わが国において特に熱烈なるを見る。いまや実に、この心を拡充し、人類愛の完成に向かい、献身的努力をいたすべきの時なり。


思うに長きにわたれる戦争の敗北に終わりたる結果、わが国民ばややもすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈綸せんとするの傾きあり。詭激(きげき)の風ようやく長じて、道義の念すこぶる衰え、ために思想混乱あるは、まことに深憂にたえず。
しかれども、朕は汝(なんじ)ら国民とともにあり。常に利害を同じうし、休戚を分かたんと欲す。
朕と汝ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神(あきつかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。

朕の政府は、国民の試練と苦難とを緩和せんがため、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は、わが国民が時難に決起し、当面の困苦克服のために、また産業および文運振典のために、勇往せんことを祈念す。

わが国民がその公民生活において団結し、あいより助け、寛容あい許すの気風を作典興するにおいては、よくわが至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。かくのごときは、実にわが国民が人類の福祉と向上とのため、絶大なる貢献をなすゆえんなるを疑わざるなり。
一年の計は年頭にあり。朕は朕の信頼する国民が、朕とその心を一にして、みずから誓い、みずから励まし、もつてこの大業を成就せんことをこいねがう。
                     御名 御璽
(→『昭和21年年頭の詔書』引用)

昭和天皇自身は、1977年8月23日の記者会見で、冒頭に五箇条の誓文が取り入れられたことについて「神格は二の(次の)問題であり、日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったことを示すためにあれを発表することを私は希望したのです」とまで言い切っており、“人間宣言”の呼び方には疑義がある(新日本建設に関する詔書 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用)

人間宣言で、明治天皇の五箇条の御誓文を蒸し返したことは、敗戦国の元最高政治責任者・最高司令官としては、米国など連合国と臣民への精一杯の抵抗だったのであろう。

1946年11月3日公布の日本国憲法の公布文は,「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。御名御璽」とある。

日本国憲法前文には,次のようにある。
1.日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

2.日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

3.われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

4.日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第一条【天皇の地位・国民主権】「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされた。
第三条【天皇の国事行為と内閣の責任】「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」
第四条【天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任】「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

国民統合を具現する天皇の役割は,国家儀礼に限定し、国政に関しない「象徴天皇制」が確立された。

昭和天皇は,1975年の記者会見で「戦争終結時には閣内で意見がまとまらず、意見を求めてきたので自分の意見で決定した。開戦時は閣議決定があり、覆すことができなかった」「(戦争責任については)そういう言葉のアヤについては、私は文学方面はよく分からないから、お答えできかねます」と答えている。(→戦前戦後で位置づけ激変:「現人神」から「人間宣言」へ引用)


日本で軍神顕彰など戦意高揚のプロパガンダが徹底されたのは、日中全面戦争以来、総力戦に突入したためである。そして、日米開戦によって一層の兵士,兵器,資源,輸送手段、労働力が求められるようになり、その物資・人員を総動員する必要が生まれた。総力戦は、前線の戦闘部隊だけでなく後方、すなわち銃後の国民によっても戦われている。これは、兵器生産,資源節約,食糧増産、兵員供給、物資運搬など、国民生活のあらゆる方面に関連したという意味で「総力戦」である。
総力戦における世論形成は,大元帥昭和天皇の下での国民統合を意図し,一億総特攻や玉砕戦を正当化した。戦後に,東京裁判や天皇制にどのような意味を感じるか,持たせるかは,広く議論すべきであろう。

日米開戦劈頭から「卑怯な騙まし討ち」をした日本に対して,米国は,反日プロパガンダを大々的に展開し,敵愾心を沸き立たせた。そして,首脳会談を繰り返すことで、連合国を組織して,(かたちだけではあっても)国際協調の下に,日本軍を殲滅し,日本を降伏させようと決意した。さらに,エチオピア,イラク,ブラジル,ボリビア,イラン,エクアドル,ペルー,トルコ,エジプトのような小国も、連合国側に立ち、日本に宣戦布告した。小国の参戦を,大国の尻馬に乗った「弱小三等国」のように思う人もいるだろう。しかし,日本への宣戦布告は,国連(=連合国)中心の戦後処理を見越して,国益に配慮した国家戦略である。

つまり,現在の開発途上国は,アジア太平洋戦争では,日本に無条件降伏を迫った。そのことが,日本の戦争の大義,すなわち自衛戦争,植民地解放戦争という大義を,一国として信じていなかったことの例証となる。現在の開発途上国で,日本が,自存自衛,人種平等のためにアジア太平洋戦争を起こしたと認識する人々は,ほとんどいない。ナショナリズムが浸透している国で,自国の起こした戦争を「反省」するナショナリストは,稀である。戦勝国では,誰も敗戦国日本の主張する戦争の大義など,信じない。敗戦国がアジア太平洋戦争を正当化しようとしても,戦争に負けたことを怨んでの「負け犬の遠吠え」「負け惜しみ」,他国民の抱くナショナリズムを理解できない者,軍事的に重要な地位を取り戻そうとする「軍国主義者」として,誹謗,中傷されてしまう。

アジア太平洋戦争の肯定的な意義を吹聴したり,東京裁判は,勝者の裁きであり,公平ではないと唱えても,世界の大多数の世論からは,相手にされない。これは,大半の国が連合国の立場で、対日参戦していたからである。したがって,世界の大半は,旧連合国であり,その勝者のナショナリズムの浸透を理解することなく,現時点で東京裁判の不正を蒸し返すことは,愚作である。「戦争観をめぐって政治が揺れ動いている」というのは,あくまで,国内に視点を限定した近視眼的な話であって,東京裁判から60年たっても,世界は「自国中心主義のナショナリズム」を強固に固めつつある。

世界(戦勝国だった連合国)に向かって,敗戦国日本が東京裁判を否定することは,戦争責任を否定することである。敗者が勝者に向かって,勝者こそが不正をしていたと主張することである。つまり,アジア太平洋戦争の戦争観の食い違いを認めさせようとすることである。慢心している勝者は、敗者の「こじつけ」として受け入れない。

また,小国でも大国の言いなりにはならない人々が多い。現在,日本が多大な援助をしている,現地法人を設立し,雇用を創設するなど経済協力している,などの経済関係は,小国民の戦争観には,あまり影響しないのではないか。日本には,中国で生産した商品が溢れ,中国には日本企業が投資し生き残りをはかっているが,だからといって,中国に感謝したり,対中国戦争を悔恨するということになならない。過ぎ去った過去の戦争に対して,現時点での経済関係は,大きな意味を持ち得ないであろう。

アジア太平洋戦争では,日独伊以外,大半の国が,対日独宣戦布告をして,連合国に参加している。したがって,日本の敵国=勝者のナショナリズムを前提にした議論をしない限り,これらの旧連合国は,東京裁判の解釈を巡って,再び日本の敵国に回ってしまう。「戦争に負けた」ことを忘れた日本人が,連合国に向かって東京裁判の不正を申し立てることは,無益・有害な反抗である。敗者が,勝者と対等の立場で発言,取引することはできない。敗戦直後の日本国民は,そのことを深く認識していたから,「戦争に負けるとはこういうことか」と得心し,諦めていた。戦争の勝者が,戦争に負けた敗者の側を裁くのは、冷徹な国際関係にあって当然である。
東京裁判では,敗戦の責任を認め,事実上,戦争責任を一手に引き受けたものがいた。しかし,生き残ったものが,戦争責任のとり方に不服を唱えて,処罰・処刑された処刑者に鞭打っている。処刑されたことを自体を無効としようとしている。これでは,何のために裁判を受け,恥を晒し,判決を受けたのかわからない。敗者である以上,戦争責任を誰かが負うしかないであろう。

しかし,アジア太平洋戦争の終戦後,連合国の講和会議による一方的な日本への戦争責任の指定ではなく,新たな国際法廷が開設されたのは,進歩といえる。
]合国の総意を得ようとしたこと,形式上「裁判」という形を採用し公正を演出したこと,
∧刃造紡个垢觝瓩箸靴篤仔租規範を戦後の事後立法によって国際的に裁こうとしたこと,
この2点は,国際法廷の先駆ともいえる。
日本は,事実上,世界を敵として戦った。しかし,連合国に,敗北を認め,無条件降伏した。この事実がある以上,東京裁判に不正があろうとなかろうと,再び,東京裁判の開始前に戻ることはできない。

東京裁判結果の取り消し,あるいは東京裁判の冤罪を認めさせるには,旧連合国に再び正面から挑み,国際協定によって,東京裁判の判決を無効にするか,戦勝国となり,旧連合国を(裁判によってもよらなくても)断罪できるときだけではないだろうか。1918年に,第一次大戦に敗北したドイツは,第二次大戦で1941年にフランスを破り,降伏させ、恨みを晴らしたのである。

東京裁判や天皇制を巡っての議論が感情的になり,中国,韓国,米国などの国際関係の安定が崩れ,さらに国民統合のあり方とその方法を巡って混乱することは,国内的にも避けたほうが賢明である。国体護持,国民統合,世論の安定を図る有能な政府は,価値観の衝突,国民と世論の混乱を引き起こす問題を,強行解決する愚を犯してはならない。さまざまな意見を表明する言論の自由,信仰を拘束せず特定の宗教の国家庇護を認めない宗教の自由を維持して,事実・経緯の全貌を明らかにしつつ,長期的に議論すべきであろう。

戦争,特に民間人も動員される総力戦がもたらした惨状に向き合うことなく、自己の主張する大義を説いても,戦争の本質はつかめない。鳥飼研究室としては,戦争の大義,イデオロギー,国家戦略の前に,終戦の経緯や東京裁判の意義が誤解されたり,プロパガンダが展開されたりしてきたという事実を認識し,戦争が、大義やイデオロギーの当否,あるいは政治制度いかんにかかわらず、大量破壊、大量殺戮をもたらすという帰結を冷静に把握したいと思う。

戦争を正当化する大義を認めれば,お互いが自己の大義を振りかざすだけで,破壊と殺害が正当化されてしまう。あくまでも,平和の理念,各人の幸福を,戦争よりも優先して,考えるべきであろう。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との戦争論を見直したいと思います。
当サイトへのご訪問ありがとうございます。2006年5月6日以来Counter名の訪問者があります。写真,データなどを引用する際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
連絡先: torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Tel: 0463-50-2122, Fax: 0463-50-2078
free counters Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 5000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright © 2005 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.