鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
昭和天皇の終戦の聖断:Surrender of Japan 2006
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◆連合国首脳会議と昭和天皇による終戦から降伏調印式・東京裁判


写真(左):1945年2月4日-11日,ソ連クリミア半島で開催されたヤルタ会談;連合国首脳会談の会談によって,米英仏ソによるドイツ戦後の分割統治やポーランドの国境策定、東欧諸国の戦後処理を発表した。日ソ中立条約の破棄を通告したソ連は,1945年8月9日、対日参戦したが,これもヤルタ密約で,米国の了解済みだった。後に冷戦時代になると,米国は豹変してヤルタ協定の拘束力を否定したが,このような詭弁も戦略外交では当然なのであろう。
写真(右):1945年9月3日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の連合軍最高司令官マッカーサー元帥General of the Army Douglas MacArthurとサザーランド中将Lieutenant General Richard K. Sutherlandが参謀総長梅津美治郎(うめづよしじろう)大将の降伏調印を見守る。:梅津美治郎(1882年1月4日 - 1949年1月8日)は,二・二六事件後に陸軍次官として陸軍内を粛正した。また,ノモンハン事件後、関東軍総司令官に就任し,関東軍の粛正にも関わった。終戦時の御前会議では本土決戦を主張し,降伏調印式への出席も最後まで拒んでいた。


読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、降伏した昭和天皇の否定、祭政一致の独裁政権という本音のようだ。

1.1941年12月7日の日本海軍による真珠湾「騙まし討ち」が,米連邦議会に対日宣戦布告を決意させた。しかし,それ以前,第二次大戦に中立を維持してきた米国であるが,米大統領ルーズベルトと英首相チャーチルは,1941年8月14日,太平洋憲章によって,領土不拡大,機会均等,恐怖・欠乏からの自由,平和確立を宣言していた。参戦直後の1942年1月1日、ワシントンで、米・英など26カ国が署名した連合国共同宣言が出され,国際連合に連なる反枢軸連合が形成された。日本との和平交渉は,日本の降伏まで行われなかった。

1945年12月7日0610,ハワイ真珠湾に向けて,日本海軍機動部隊の空母から,第一波攻撃隊が発進した。0740,第一波攻撃隊が真珠湾上空に進入,0755,日本機の攻撃開始。1000,日本機の攻撃終了,1300,日本海軍機動部隊が本国に撤退。

日本軍による真珠湾攻撃によって,戦艦「アリゾナ」,戦艦「オクラホマ」など戦艦5隻が沈没・大破(ただし,上記以外3隻は復旧され戦線復帰)した。戦艦3隻も損害を受けた。また,米国人の死者は2,403名,負傷者は1,178名に達した。

1941年12月7日午後1時(ワシントン時間)、日本側から米国務省(外務省)に面会の申し入れがあった。面会は午後1時45分とされ、日本側は20分遅刻して午後2時5分に到着した。日本の二人の大使たち(野村吉三郎駐米大使・来栖三郎特命全権大使)は、「ハル・ノート」への回答文書を手渡した。

写真(左):米国務長官コ−デル・ハルCordell Hull;1941年11月26日日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」(ハル・ノート)を手交した。ルーズベルト大統領の1941年12月8日の議会演説(Pearl Harbor Address to the Nation)は,最も成功した「正義の戦争」のプロパガンダ(?)で、これによって連邦議会と世論を参戦に一本化し、人員・資源・技術を戦争のために総動員することが可能になった。以後,連合国は「騙まし討ちをした卑怯なジャップ」に和平交渉をもちかけること一切無かった。事実上,無条件降伏のみを認めたのである。ハルは,1943年には連合国共同宣言に関わるなど,国連創設に努力した。

国務長官ハルは、その場で文書を読んで(事前の暗号解読で宣戦布告を意味するとは分かってはいたが)、不快感をあらわにし,言った。「50年間の公務の中で、これほど恥知らずな文書を,地球上で受け取ったことない」
"----so huge that I never imagined until today that any Government on this planet was capable of uttering them."

日本の大使が米国務長官ハルに英訳に手間取った最後通牒(と日本が認識している文書)を手渡したのは、12月7日午後2時20分(ワシントンの東部時間)で、真珠湾攻撃の終わった後である。これが,「日本の宣戦布告の遅れ」といわれるが,大日本帝国憲法では,宣戦布告の権限は,統帥権をもつ日本軍の大元帥(昭和天皇)がもっている。天皇による宣戦布告の「大詔」は、1941年12月8日午前11時40分(東京時間)と,真珠湾攻撃の半日後に発せらた。

ルーズベルト大統領は,宣戦布告なしの「卑怯な騙まし討ち」として非難し,連邦議会に対日宣戦布告を求める演説を行った。真珠湾攻撃の翌日(米国の1941年12月8日)、ルーズベルト大統領は、Pearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」として、日本への宣戦布告を議会に求めた。この演説巻頭に「屈辱の日」の表現が使われた。

"Yesterday December 7 1941-a date which will live in infamy-the United States of America was suddenly and deliberately attacked by naval and air forces of the Empire of Japan. "

1941年12月7日0755の真珠湾空襲は、1週間前から決定していた(12月1日の天皇臨席の御前会議で)。ハワイ攻撃を隠すために、偽りの日米交渉を継続したと米国は考え,「握手するそぶりをして、後ろに匕首を突き出す」日本を許さなかった。
真珠湾攻撃は,米国における反日憎悪を一気に高め,報復(連邦議会による宣戦布告)は正当化された。米国本土に住んでいる日系人を(米国籍を取得していようと),財産没収の上,強制収容所に隔離するのも当然だ---,と米国人は考え,実行した。

真珠湾攻撃の4年以上前,1937年7月の日中全面戦争以降,米国は日本の中国侵略を非難し,1939年7月,日米通商条約を廃棄、1941年3月,米国は武器貸与法を成立させた。ここでは,「米国の防衛に不可欠と米国大統領が考える国に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給・処分する権限を大統領に与えるもの」とした。武器貸与法によって,英国,中国への大規模な信用供与,それに基づく武器輸出が行われた。

Remember Pearl harbor(右):「ジャップの騙まし討ちの匕首(あいくち)」平和のオリーブの枝を差し出すメガネザル日本軍人が、自由の女神を背後から匕首で刺そうとする。女神を守るために「戦時公債(War Bond)を買おう。」

<武器貸与法Lend-Lease Actによる1941年3月-45年9月の輸出>
航空機.........................14,795機
戦車..............................7,056台
ジープ...........................51,503台
トラック.......................375,883台
大砲...............................8,218門
機関銃..........................131,633丁
爆薬.............................345,735 tons
建築資材..................$10,910,000
蒸気機関車.....................1,981台
輸送船..................................90隻
対潜水艦用駆逐艦................105隻
魚雷艇..................................197隻
石油製品....................2,670,000tons
綿花........................106,893,000 tons
皮革.................................49,860 tons
タイヤ.............................3,786,000本
軍靴............................15,417,000足

1941年7月末-8月初頭,米国は日本資産を凍結,日本の在米不動産・親友資産を海外に移転できなくさせ,対日石油輸出を禁止した。9月末,対日鉄屑輸出も禁止した。

1941年8月9-13日には,カナダ(英国連邦の一員として対独参戦している)ハリファックス近くで,米英の政府・軍高官による大西洋会談が開催された。ニューファウンドランド島沖アルゼンチアに停泊した米巡洋艦「オーガスタ」艦上から,1941年8月14日,ルーズベルト大統領と英国首相チャーチルは,大西洋憲章Atlantic Charter)を世界に公表した。この米英共同声明「大西洋憲章」は,領土不拡大,国境維持,反ドイツの立場で,次のように謳われている。

写真(左):1941年8月大西洋会談中のルーズベルト大統領とチャーチル首相;英新鋭戦艦「プリンスオブウェールズ」艦上で会談した。米英軍の高官も話し合っている。両者の間には,米国陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥が見える。

1941年8月14日の大西洋憲章Atlantic Charter
第一、両国は、領土その他の拡大を求めない。
第二に、両国は、国民の自由表明意思と一致しない領土変更を欲しない。
第四、両国は、現存義務を適法に尊重し、大国たると小国たるとを問わず、また、先勝国たると戦敗国たるとを問わず、全ての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の均等な開放がなされるよう努力する。
第六、ナチ暴政の最終的破壊の後、両国は、全て国民に対して、自国で安全に居住することを可能とし、かつ、全て国の人類が恐怖及び欠乏から解放され、その生を全うすることを確実にする平和が確立されることを希望する。

大西洋会談には,英国首相チャーチルが英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」に乗艦し,カナダにきた。ドイツ戦艦「ビスマルク」を撃沈した新鋭戦艦による演出は,会談への熱意の表れである。大西洋憲章は, 米英の政府と軍の最高指導者が集まり,事実上,米英同盟を宣言したもので,米国が,英国の側に立って,対ドイツ,対日本に宣戦布告をする準備である。米英の共同謀議による戦争計画とも解釈できる。

米大統領ルーズベルトが,日本に対する経済制裁を強化,英国側にたって,第二次大戦に参戦する希望を抱いていることが明らかになった。日本は,艦隊を動かすにも,海外から資源を輸入する船舶を動かすためにも,石油は不可欠であり,米国からの輸入に70%以上を頼っていた。石油輸入が途絶えては,国力維持は困難である。

米国は,日本に対して強硬な経済制裁を行い,(満州を除く)中国からの日本軍の撤退,日独伊三国軍事同盟の解消を要求してきた。この時点で,日本は米国との和平交渉を諦め,開戦を決意した。近衛文麿内閣の時,1941年9月6日の御前会議で、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合,対米英蘭戦争を起こすことを決定した。

写真(左):大日本帝国首相東條英機陸軍大将;1941年10月から陸軍大将として,内閣を組織したため,日米開戦の責任者と目された。ドイツのヒトラー,イタリアのムッソリーニと並んで,日本の指導者とされることもある。しかし,東条英機首相には,内閣の任免権も,軍の最高指揮権も,宣戦布告の権利もなく,独裁者というには程遠い存在である。
大日本帝国憲法の第四章「国務大臣及枢密顧問」は次の通り。
第五十五条 1.国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2. 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
第五十六条  枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス
海軍のハワイ攻撃計画は進んでおり,東條首相が関与する余地ほとんどなかった。

開戦を決意するとした1941年10月上旬を迎えると,近衛内閣は総辞職し,開戦の決定の責任を回避した。そこで,国体護持,日米和平を重視する昭和天皇の意向を踏まえ,木戸幸一内大臣は、1941年9月6日の御前会議に下した日米開戦の決定を白紙に戻す(「白紙還元の御状」)。そして、東條英機陸軍大将を内閣総理大臣を推挙した。東條大将は,近衛内閣の陸軍大臣としては,開戦賛成派であったが,天皇への忠誠心が厚く,天皇の信頼も得ていた。

1941年10月に成立した東條内閣は,日米交渉を続けた。しかし,真珠湾攻撃を含む「海軍作戦計画ノ大要」が、1941年11月8日に大元帥昭和天皇に上奏された。「海軍作戦計画ノ大要」は,真珠湾攻撃を含むもので,海軍軍令部総長永野修身と陸軍の参謀総長杉山元が、侍従武官長宛てに発信した。計画には,海軍軍令部次長伊藤整一と陸軍参謀本部次長塚田功から総務部長、主任部長、主任課長など作戦の中枢部の軍人が名を連ねている。

米国は1941年11月26日,満州事変以前の状態への復帰を要求した「極東と太平洋の平和に関する文書」(ハル・ノート)を手渡してきた。これが,ハル・ノートである。その最重要部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」である。日本が中国占領地(満州は除く余地あり)やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則とした。

ハル・ノートが日本に手交された直後,1941年12月1日,天皇、首相,参謀総長,軍令部総長など日本の最高首脳陣が揃って出席した御前会議が宮中で開催された。そして,(国会ではなく)御前会議で対米英戦争の宣戦布告が最終決定された。

大元帥の天皇は,主要閣僚の総意を尊重し、対米英戦,真珠湾攻撃を(不本意かもしれないが)裁可した。12月1日の御前会議では、宣戦布告の意図が、1941年12月7日12時44分(ホノルル時間)以前には知られないように、宣戦布告は東京時間の12月8日午前7時40分(ハワイ時間12月7日午後12時40分)とすることも決められた。 写真(左):海軍の軍令部総長永野修身;1934年3月30日海軍大将,1943年6月21日元帥。1941年4月9日-1944年2月21日海軍軍令部総長。広田内閣の海軍大臣に就任、「国策の基準」を策定し,対米戦争準備を始めた。連合艦隊司令長官、軍事参議官を経て、1941年6月〜1944年2月に軍令部総長。海軍内部で反対の多かったハワイ真珠湾攻撃計画を認可した。1947年東京裁判では日米開戦の責任を問われたが公判中に病死。

海軍軍令部とは,陸軍の参謀本部に相当し,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。軍令部も参謀本部は天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。 陸海軍の総長は,天皇によって中将か大将から任命(親補)される勅任官であり,次長は総長を補佐する御前会議の構成員である。

1941年11月8日海軍作戦計画の上奏文では、フィリピン、マレーに対する先制空襲と同時に、ハワイ停泊中の敵主力艦隊を、航空母艦6隻からなる機動部隊で空襲すると述べた。攻撃地点についても、オアフ島北方200マイルから全搭載機400機を発進して空母、戦艦、航空機を目標として奇襲攻撃を加えると説明している。香港,シンガポール攻略についても述べた。この上奏文は,陸海軍高官が認めた最終攻撃計画であり,開戦予定日(12月8日)のちょうど1ヶ月前に真珠湾攻撃計画も含め,統帥権を有する大元帥昭和天皇に,臣下として報告がなされた。

真珠湾攻撃計画は,連合艦隊司令長官山本五十六が主導したが,無謀な作戦として,反対論が強かった。それを,軍令部総長永野修身が認可した。最終的には陸軍も同意して,天皇が裁可している。ドイツ軍,米軍と違って,日本軍は少数の軍事専門家による創意工夫よりも総意を重視したが,連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の主導した真珠湾攻撃は例外だったようだ。

日本の最後通牒,すなわち14部のメッセージ"Fourteen Part Message" の最初の部分が、暗号でワシントンの日本大使館に送信されたのは,1941年12月6日(日本時間)であり,最終部分は12月7日(開戦予定日前日)である。つまり,最後のぎりぎりまで,和平交渉の打ち切りは告げず,真珠湾攻撃当日数時間前に,宣戦布告をするつもりだった。これは、真珠湾攻撃のための艦隊行動やマレー半島上陸を目指す輸送船団の動向を,米英に察知されないためである。しかし,宣戦布告の遅延は,「直前まで和平交渉を模索中であると欺瞞して、攻撃意図を隠した」として,米国から非難された。

しかし,米軍の通信隊の「マジック」は,日本の暗号を部分的に解読していた。東京とワシントンの日本大使館あるいは世界各国の大使館や軍への無線通信を傍受し,日本の攻撃が差し迫っていることを理解していた。 国務長官コーデル・ハルも,マジック情報によって,日本の大使二人よりも先に,日本の日米交渉打ち切りを知った。しかし,米国民の戦意を高揚し,総動員するためには,真珠湾攻撃は「卑怯な騙まし討ち」であるほうがよい。

真珠湾攻撃の検証;「卑怯な騙まし討ち」を吟味する。

太平洋戦争と欧州大戦に米国が参戦して1ヵ月後,1942年1月1日、ワシントンで、米・英・ソ・豪・加・印・蘭・NZ・パナマ・ノールウェー・ポーランド・南アフリカ共和国・ユーゴなど26カ国が連合国として署名した宣言,いわゆる連合国共同宣言Joint Declaration by United Nationsが出された。

連合国共同宣言 
この宣言の署名国政府は,大西洋憲章the Atlantic Charterとして知られる1941年8月14日付米国大統領並びに英国首相の共同宣言に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し、これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に現に従事している(a common struggle against savage and brutal forces)ことを確信し、次のとおり宣言する。

(1) 各政府は、三国条約の締約国及びその条約の加入国でその政府が戦争を行っているものに対し、その政府の軍事的又は経済的な全部の資源を使用することを誓約する。
Each Government pledges itself to employ its full resources, military or economic, against those members of the Tripartite Pact and its adherents with which such government is at war.

(2) 各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独の休戦又は講和を行わないことを誓約する。
Each Government pledges itself to cooperate with the Governments signatory hereto and not to make a separate armistice or peace with the enemies.

 この宣言は、ヒトラー主義に対する勝利のための闘争において物質的援助及び貢献している又はすることのある他の国が加入することができる。
The foregoing declaration may be adhered to by other nations which are, or which may be, rendering material assistance and contributions in the struggle for victory over Hitlerism. (引用終わり)

連合国共同宣言は,1941年8月14日の英米共同の大西洋憲章を基礎にし,日独伊の枢軸国に対して,連合国は,単独不講和・不休戦とし,全資源を投入して戦うことを誓約した。そして,対日独伊戦争勝利こそが「生命、自由、独立、宗教的自由を擁護する」ならびに「人類の権利及び正義を保持するためには不可欠である」と戦争の大義を宣言した。

当初の署名国は,United States of America, the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland, the Union of Soviet Socialist Republics, China, Australia, Belgium, Canada, Costa Rica, Cuba, Czechoslovakia, Dominican Republic, El Salvador, Greece, Guatemala, Haiti, Honduras, India, Luxembourg, Netherlands, New Zealand, Nicaragua, Norway, Panama, Poland, South Africa, Yugoslaviaの26カ国。その後、フィリピン(亡命政府),エチオピア(イタリア占領から解放),イラク(英国支配)など,1945年3月までに,次の19カ国が追加署名した。

Mexico ......... June 5, 1942     Ecuador ........ Feb. 7, 1945
Philippines .... June 10, 1942    Peru ........... Feb. 11, 1945
Ethiopia ....... July 28, 1942     Chile .......... Feb. 12, 1945
Iraq ........... Jan. 16, 1943      Paraguay ....... Feb. 12, 1945
Brazil ......... Feb. 8, 1943      Venezuela ...... Feb. 16, 1945
Bolivia ........ Apr. 27, 1943     Uruguay ........ Feb. 23, 1945
Iran ........... Sept. 10, 1943     Turkey ......... Feb. 24, 1945
Colombia ....... Dec. 22, 1943    Egypt .......... Feb. 27, 1945
Liberia ........ Feb. 26, 1944      Saudi Arabia ... Mar. 1, 1945
France ......... Dec. 26, 1944

真珠湾攻撃から1ヶ月もたたない1942年1月1日の連合国共同宣言 Joint Declaration by United Nationsへの署名は,国際連合の原加盟国の必要条件である。大戦終結までにここに署名した47カ国は,全て対ドイツ,対日参戦した。1945年2月以降に参戦した南米諸国や中東諸国は,国際連合に加盟し,戦後の国際関係を有利にしようとする目的で,対日参戦した。

米国は,反日プロパガンダを大々的に展開し,敵愾心を沸き立たせ,連合国を組織して,(かたちだけではあっても)国際協調の下に,日本軍を殲滅し,降伏させようと決意する。こうした背景から,連合国は,枢軸国へは事実上,無条件降伏を求め,和平交渉を行わない方針を採用した。連合国は,日本,ドイツに和平交渉の提案をするつもりはない。日本が無条件降伏を申し出るか,日本本土が占領されるかしないと,対日戦は終わらない。

2.アジア太平洋戦争の中期の1943年11月下旬,枢軸国の無条件降伏を念頭においていた米英中首脳によるカイロ会談が行われ,その直後に,米英ソ首脳によるテヘラン会談が行われた。カイロ会談では,中国の蒋介石の意向を踏まえて,領土不拡大の原則が支持され,日本の支配地域である満州,台湾などを中国に返還することが定められた。日本の無条件降伏も確認された。テヘラン会談では,ソ連のスターリンが対日参戦の意向を示唆し,英米中ソを“4人の警察官”として戦後の安全保障を目指す国連構想が承認された。1945年2月のヤルタ会談では,ドイツの戦後処理と並んで,ヤルタ協定として,ソ連の対日参戦と日本の領土を本土に限定することが密約された。


写真(左):1943年11月22-26日カイロ会談
;蒋介石とその婦人宋美麗が,米大統領ルーズベルト,英首相チャーチルを挟んで着席している。後方には,米軍スチルウェル将軍,英軍マウントバッテン卿。GENERALISSIMO CHIANG KAI-SHEK AND MADAME CHIANG seated with President Roosevelt and Prime Minister Churchill at the Cairo conference. Standing from deft: General Shang Chen, Lt. Gen. Lin Wei, Generals Somervell, Stilwell, arid Arnold., Sir John Dill, Lord Louis Mountbatten, and Lt. Gen. Sir Adrian Carton de Wiart.

1943年12月1日カイロ会談Cairo Conference 1943の概略は次の通り。

日本国ニ対スル将来ノ軍事行動協定:三大同盟国The Three Great Alliesハ 海路陸路及空路ニ依リ其ノ 野望ナル敵国ニ対シ 仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ。右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。

日本国ノ侵略ヲ制止・罰スル:同盟国ハ自国ノ為ニ 何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス。又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス。
        :同盟国ノ目的ハ 日本国ヨリ1914年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ 日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト 並ニ満州,台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ 清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ 中華民国ニ返還スルコトニ在リ。
It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen form the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and the Pescadores, shall be restored to the Republic of China.

日本国ハ 暴力・貪慾ニ依リ 日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ 駆逐セラルヘシ。
Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed.

三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隸状態ニ留意シ ヤガテ朝鮮ヲ自由 且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス。
The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.

三同盟国ハ 同盟諸国中 日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ 日本国ノ無条件降伏ヲモタラスニ必要ナル重大 且長期ノ行動ヲ続行スヘシ。

日本人には,「カイロ宣言」には,反感を持つ人も多い。Navigator of the Historical termでは,「『カイロ宣言』は、---国際法上、何らの拘束力も持ち得てはいない。又、草案に謳われている太平洋島嶼・台湾及び澎湖島等の日本領土については、奪取・占領・盗取した事実はなく、明らかな事実誤認かつ歴史歪曲である。従って、「カイロ宣言」に依拠する「ポツダム宣言」も不完全、---日本が履行する義務は無い---。」とある。

Toron Talkerでも,「『カイロ宣言』は,国際条約などではなく、単なる米英中首脳によるプレスリリースであり、「調印」などもされていない。----調印日とされる昭和18年12月1日、調印当事者であるはずの蒋介石は、すでにカイロから重慶に戻っていた----。おそらく中国が世界中に流したデマが、一人歩きしたものと考えられる。」とある。

「カイロ宣言は捏造」は,「 日本の外務省は『カイロ宣言で満州、台湾、澎湖は中華民国に返還されたことを声明した。しかし1972年の日中国交回復以降は、上述の中華民国は中国を指す』と宣言し、台湾は中国の一部であることを認定した」という。つまり,現在に連なる「台湾」領有問題になっている。

しかし,カイロ会議の結果発せられた「しかるべき手続を踏んで」朝鮮を独立させるという文言は、戦後実現された。これが,米英仏のアジア・アフリカの植民地解放(闘争)につながる予感はあったのか。

1943年12月1日に公表された「カイロ宣言」(カイロ会議)は、実行に移され、実現した。ソ連の対日参戦,日本への無条件降伏要求貫徹はもちろん,満州,台湾,朝鮮,太平洋諸島は,日本が奪取した“taken by violence and greed”地域と認定され,日本の領土とは認められなかった。つまり,1945年の日本降伏後,アジアの情勢は,カイロ会議の公表通りになった。

実際,STRATEGIC PLANNING FOR COALITION WARFARE 1943-1944 by Maurice Matloff ;Cairo-Tehran A Goal Is Reached: November - December 1943から,カイロ会談の経緯を見ると,決して中国,米国,英国の利益が一致したわけではなく,各国が自国に有利な戦略を採用させたがった。その妥協の産物として,対アジア戦略,対日戦争方針が定められた。

1943年11月22日早朝,カイロに到着したルーズベルト大統領は,数日前に到着していた蒋介石総統Generalissimoと夫人の宋美麗にあった。ホテル「メナ・ハウス」Mena Houseで, 軍人も交えた会談を行った。 米軍からは,中国方面陸軍司令官スチルウェルGenerals Stilwellと航空部隊司令官シェーンノートChennaultが,英軍からはマウントバッテン卿Lord Louis Mountbatten,アジア方面連合国司令官the Supreme Allied Commanderとしてウィデマイヤー将軍General Wedemeyerが参加した。米英側は,11月22-26日の間全て出席したが,中国側は,その全てに参加したわけではない。11月23日に,中国側と米英側が会談したが,24日は中国側は出席していない。中国の対日戦争を支援するには,ベンガル湾,北ビルマのルートが重要であると思われたが,チャーチルはスマトラ侵攻を提案した。結局,1944年1-2月に,英軍がきたビルマのチンドウィンChindwin河を越えてアラカンに侵攻するCHAMPION作戦が有望視された。しかし,中国の蒋介石は,ビルマから中国への補給路Burma Roadを維持,拡大することができないという理由で,CHAMPION作戦に賛同せず,作戦の基本方針は,米国にかかることになった。

米国は,数ヶ月以内にベンガル湾を超えた作戦を実施すること,中国陸軍90個師団の兵員,装備を整備すること,月1万トンをヒマラヤ山脈the Hump越えで,中国に輸送することを約束した。

つまり,米英中は,自国に有利となる戦線を重視しており,決して一枚岩の団結を誇っていたわけではない。1943年11月22-26日のカイロ会議では,各国が妥協しながら,アジア戦略を練っていた。STRATEGIC PLANNING FOR COALITION WARFARE 1943-1944 by Maurice Matloff参照)


写真(左):1943年11月28日-12月1日,テヘラン会談
;ビッグ・スリーには,10年以上,ファシスト日本と交戦している中国代表蒋介石は含まれない。所詮,第二次大戦は欧州大戦である。しかし,欧州優先のために,英国,ソ連,フランスなどは,日本占領へ介入してこなかった。つまり,日本の再建を早める役割を果たした。"The Big 3": Joseph Stalin, Franklin D. Roosevelt and Winston Churchill meeting at Tehran in 1943.

洪仁淑(2000)博士論文「第二次世界大戦直後の東アジアにおける大国の働きと朝鮮民族の対応:朝鮮半島と日本地域を中心に」には,次のように記されている。
1943年10月の米英ソ三国外相のモスクワ外相会議で,晩餐会の席上、スターリンは初めて対日参戦の意思を表明する。これを受けて,1943年11月22-26日の米英中のカイロ会議で、ルーズベルトは蒋介石に大連を自由港として譲ることを要請し,ソ連が中国と協調することを条件に蒋介石は,これに同意した。1943年11月28日から12月1日,米英ソのテヘラン会議で、ルーズベルトはスターリンに、ソ連の不凍港として大連を国際的自由港化する案を提示した。これは,ソ連の対日参戦の代償であるが,中国を犠牲とする取引であった(引用終わり)。

1943年11月22-26日のカイロ会談では,中国,米,英の対アジア戦略は調整しきれず、テヘラン会談The Tehran Conferenceで同様の問題が議論された。

カイロ会談の終了した翌日,1943年11月27日,米大統領,米統合参謀本部,英首相の一行は,別々にカイロから空路でテヘランに向かった。ここで,米英ソの三巨頭の初の首脳会談が開催されることになった。(STRATEGIC PLANNING FOR COALITION WARFARE 1943-1944 by Maurice Matloff参照)

1943年11月28日から12月1日のテヘラン会談では,スターリンが対日参戦の意向を示唆し,英米中ソを“4人の警察官”として戦後の安全保障機構を樹立するというルーズヴェルトの国連構想が承認された。1944年5月の欧州侵攻Operation Overlord,トルコへの参戦勧告とソ連のトルコ支持,ユーゴのチトーの率いるパルチザン支援も合意された。

写真(左):1945年2月4-11日,ソ連クリミア半島で開催されたヤルタ会談の三巨頭 "Big Three":Winston Churchill, Franklin D. Roosevelt and Joseph Stalin at Yalta in 1945. 日ソ中立条約の破棄が国際条約違反だという条約文言の正当性を,米英もソ連も歯牙にもかけいない。北方領土をソ連に割譲することを認めたのは,米英であり,日本は戦後,米国に頼る安全保障を選択した。北方領土問題に関して,日本は米国に謝罪を求めなくても良いのか。

第二次世界大戦後の処理について,1945年2月4-11日,米英ソはヤルタ会談を開催し,ヤルタ協定を締結した。ここでは、米英仏ソの四国のドイツ分割統治,ポーランドの国境策定、バルト三国のソ連併合などの東欧諸国の戦後処理を定めた。米ソは,ヤルタ秘密協定として,ドイツ敗戦後90日以内に,ソ連が対日参戦し,千島列島・樺太をソ連に併合することを決めた。カイロ宣言,すなわち朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とし,台湾は中国(蒋介石政府)に返還することも確認された。

日本にとって重要なのは,この公表されなかった「ヤルタ秘密協定」である。

ヤルタ協定:クリミヤ会議の議事に関する議定書中の日本国に関する協定

三大国(ソ連・米国・英国の指導者)は、ドイツが降伏し且つ欧州戦争が終結した後2ヶ月または3ヶ月を経て、ソ連が、次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した。
1 外蒙古(モンゴル)の現状維持。
2 1904年日露戦争の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、次のように回復される。
(イ) 樺太の南部と隣接するすべての島をソ連に返還。
(ロ) 大連を国際港化し、ソ連の優先的利益を認め、海軍基地として旅順港租借権を回復。
(ハ) 東清鉄道と大連に繋がる南満州鉄道は、中ソ合併会社を設立して共同運営。但し、ソ連の優先的利益を保障。中華民国は、満州における完全な利益を保有。
3 千島列島は、ソ連に引渡す。
 前記以外のモンゴル並びに港湾及び鉄道に関する協定は、蒋介石総統の同意を要する。大統領は、スターリン元帥からの通知により、この同意を得るために措置を執る。
三大国の首班は、ソ連の要求が日本国敗北後に確実にされることに合意した。
ソ連邦は、中華民国を日本国の束縛から解放する目的で、自国の軍隊によりこれに援助を与えるため、ソ国連と中華民国との間の友好同盟条約を中華民国政府と締結する用意がある。 (ヤルタ協定意訳引用終わり)

衆議院 平成17年2月25日(金曜日)予算委員会第三分科会には,北村直人分科員の次の発言がある。
「1875年には今度は樺太と千島の交換条約というのがあった。そして、---1904年には日露の戦争もあった。そのときには、我が国はロシアに勝利をした。----ポーツマス条約で南樺太が我が国の領土になった----。
 その後、カイロ宣言だとかヤルタ宣言だとかいろいろあって、サンフランシスコ平和条約が結ばれたとき、---全権を持っていた吉田全権がきちっと発言をしているんですね。----ロシア、当時のソビエトが言っていることは承服をすることはできないということを明確にしながら、そして、1956年の9月7日には、日ソ交渉に関する米国の覚書というのがあって、その中でも、ヤルタ協定というものはアメリカはこう考えているということを明確にしている。そういう史実というものがある。
 私は、昨年の十一月にロシアに久しぶりに行ったときに、ロシアの国会議員を含めてロシアの国民が、そういうきちっとした世界が認めている史実について余りにも認識をしていないということは、我が国の外交交渉の中にあって、外務省が、ロシアの国民やロシアのそういう方々に対しての史実の啓蒙ということについて一体どうしていたのかなという疑念と反省を私は持ちました。」(引用終わり)

ロシアの国民への啓蒙活動を行うには,自らロシア語のwebを立ち上げて発言すればよい。米国がヤルタ協定を後になって反故にしたのが「史実」と強弁するなら,親米ご都合主義のように思われる。ソ連には日ソ中立条約を破棄する権利がある。問題は,破棄した後,定められた期限前に攻撃を開始したことである。これは条約を反故にしたことである。しかし,米国は,ヤルタ協定で,日本の領土をソ連に取引条件として提供して,ソ連参戦を要請したのである。歴史認識の修正をすべきは,現在の日本の同盟国米国である。同盟国アメリカができない「反省」を,ロシアに求めても無駄である。
連合国として対ファシズム戦争を戦うことが優先された時代のヤルタ協定が,冷戦という国際関係の変化によって,遵守されなくなるのは,当然である。為政者や国政担当者は,国益のためには,豹変することも,国際条約を都合よく解釈することも辞さない。戦争のための同盟,あるいは同盟を結ぼうとした指導者たちなど所詮,その程度のものである。

Winds of war;Film depicting Nazi assassination plot in Tehranでは,ドイツのスパイ,ソ連と英国に圧迫されていたイランの視点は,国会議員のお話よりはるかに興味い。

3.戦争末期,日本軍では,全軍特攻化,一億王特攻が唱えられた。第一線の将兵が潔く玉砕した,自ら発意して特攻したとして,「犠牲的精神の発露」を讃える「特攻玉砕自然発生説」が流布されてきた。これは,玉砕戦・特攻作戦を進めた軍上層部の意図と無責任さを隠蔽する自己欺瞞のように思えてくる。

日本軍の第一線の将兵が自ら発意して体当たり特攻をし,あるいは潔く突撃・斬り込みをし自決したという「特攻玉砕自然発生説」は、レイテ戦での神風特攻隊沖縄玉砕戦について,盛んにいわれるが,次の理由で否定される。
…召阿忙爐未戮状況にはない人間が、国に殉ずるのは難しい。なぜ佐官級の軍人の特攻は10名程度しかいないのか。特攻出撃しない高級軍人たちは,卑怯者か。特攻戦死で残される家族は,特攻出撃を喜んだのか。
特攻兵器の開発,生産は、第一線の将兵にはできず,軍上層部の命令が不可欠。
B莪貔将兵が、陛下から頂いた航空機を「無断で」自爆、破壊させる身勝手な行動は,軍隊の規律の前では許されない。
ぢ莪貔の将兵は「特攻作戦」を計画,組織,実行するだけの権限,人員,機材をもっていない。
したがって,軍上層部が,特攻「部隊」を編成し,特攻作戦を指揮したのである。形式的に志願させても,実質は命令に等しかった。

日本海軍は,1944年3月に,人間爆弾「桜花」,人間魚雷「回天」,特攻艇「震洋」の開発を決定し,6月には陸軍も突撃艇「マルレ」の設計を開始した。これらの特攻兵器は,1944年10月20日の神風特攻隊(航空機による体当たり自爆攻撃)よりも,半年も前に計画されていた。

1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,特殊奇襲攻撃として特攻兵器を整備し,特攻作戦を展開する計画を立てている。

特攻兵器の開発・量産;人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」


写真(左):沖縄戦当時の首相鈴木貫太郎;慶応3年(1867)12月24日〜1948年4月17日。大阪生まれ。海軍軍人。明治20年(1887)海軍兵学校卒業。日清戦争に従軍。1898年海軍大学校卒業。日本海海戦に参加。海軍省人事局長、第2次大隈内閣海軍次官、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官を歴任。1925年海軍軍令部長。1929年侍従長兼枢密顧問官に就任。侍従長在任中の1936年、2・26事件で襲撃され、生き残り,引責辞職。1944年枢密院議長、1945年4月7日という沖縄戦の最中に組閣の大命を受け、77歳で内閣総理大臣。戦後,組閣とともに終戦に奔走したように偽られ,誤解されている。彼は,「有利な条件で和平交渉を切り出す」(終戦でも降伏でもない)ために,沖縄戦を進め,徹底抗戦した。ポツダム宣言受諾後、130日で総辞職。
写真(右):小磯国昭;1930年軍務局長。陸軍次官、関東軍参謀長、第5師団長、朝鮮軍司令官を歴任し、1937年大将となる。1939年平沼内閣の拓務相、1942年朝鮮総督。1944年東条内閣辞任のあとを受けて首相に就任した。しかし,米軍の沖縄本島上陸から1週間後に辞任。戦後,A級戦犯として、東京裁判で終身刑の判決を受けるも,服役中に病死。

1945年1月25日の最高戦争指導会議「決戦非常措置要綱 」では,「物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」として,「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」とした。

最高戦争指導会議とは,1944年8月4日以降小磯国昭内閣で設けられた。それ以前,東条英機内閣のときは大本営政府連絡会議と呼ばれた。
最高戦争会議の出席者は,政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席。蔵相ほか閣僚や参謀次長・軍令部次長も列席。天皇も臨席する。

天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏など,さまざまなルートで最新の情報が伝達され,御下問もした。つまり,戦局や戦争方針について,統帥権をもつ大元帥昭和天皇は,明確な情報をもとに,裁可を下すことができた。

全軍特攻化、一憶総特攻して守るべきは,国体である。こんなことは,日本の軍事・政治の指導者はみな知っていた。しかし,宮中グループには,国民は一億総特攻のような無茶な命令を受け入れないと感じていた。

平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸は,宮中グループの日記や手記の次のような文書を紹介している。

岳父近衛文麿公爵秘書官だった。細川護貞『細川日記』
1945年8月8日
「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信−内務省得意の無電も−途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、是こそポツダム宣言に独乙以上に徹底且つ完全に日本を破壊すると、彼等が称した根拠であつたらうと語り、或いは是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----直ちに木戸[幸一]内府を訪問せらる。内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。敵側では、トルーマンが新爆弾につき演説し、「対独戦の際、英国にて発明、1940年チャーチル、ローズヴェルトの話にて、予算二十九億ドル、十二万人の労働者を使用して、メキシコ近くにて製作に着手、現在六万人を使用せり」と。

1945年8月9日
「午前九時、軍令部なる高松宮殿下にお電話申し上ぐ。[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。何卒参内遊ばして、御上に或いは内大臣にお打合せ遊ばしては」と言上、殿下は「近衛にやらせろやらせろ』と仰せあつて----余は此の車にて、十一時半荻窪に公を訪ねたる所、夫人と昼食中なりしも、ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。---宮中にては最高六人会議の開催せらるるあり、その時会議を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。

侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」 

1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。社稷もいよいよ本当の危局に陥つた。全くいやになつて了ふ。公私共に全く前途の楽しみを失つて了つた。

芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日
2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.

1945年8月8日
午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用

特攻作戦の崩壊:特攻自然発生説の検討

4.アジア太平洋戦争の末期,宮中グループは,軍上層部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性を大いに危惧していた。1945年2月14日の「近衛上奏文」が,国体護持のために,終戦の聖断を求めたのも,同様の趣旨からである。天皇の権威は,大日本帝国憲法によって与えられたのではない。皇祖の天孫降臨神話によっている。天皇の権威があって,大日本帝国憲法が,欽定憲法として与えられた。米軍空挺部隊や上陸部隊の本土上陸によって,伊勢神宮,三種の神器などが奪われては、天皇制の正当性が損なわれる。

写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。僕はこの会談の成立せんことを心から祈り、わが国のため日夜心血を注いだのである。しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といった。

元首相近衛文麿は,日中全面戦争を開始した。しかし,日米開戦を回避しようとしたこともある。1945年2月14日に「近衛上奏文」で「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,次のように昭和天皇に上奏した。

敗戦ハ我カ国体ノ暇僅(カキン)タルベキモ、英米ノ世論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス。随(シタガッテ)敗戦ダケナラハ 国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ 敗戦ヨリモ 敗戦ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。(中略)

-----ソ連ハヤガテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候。---右ノ内特ニ憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。
少壮軍人ノ多数ハ 我国体ト共産主義ハ兩立スルモノナリト信シ居ルモノノ如ク、軍部内革新論ノ基調モ亦ココニアリト存シ候。(中略)

抑々満州事変、支那事変ヲ起シ、之ヲ拡大シテ遂ニ大東亜戦争ニマテ導キ来レルハ 是等軍部内ノ意識的計画ナリシコト 今ヤ明瞭ナリト存候。満州事変当時、彼等カ事変ノ目的ハ国内革新ニアリト公言セルハ、有名ナル事実ニ御座候。(中略)

昨今戦局ノ危急ヲ告クルト共ニ 一億玉碎ヲ叫フ声 次第ニ勢ヲ加ヘツツアリト存候。カカル主張ヲナス者ハ 所謂右翼者流ナルモ 背後ヨリ之ヲ煽動シツツアルハ、之ニヨリテ国内ヲ混乱ニ陷レ 遂ニ革命ノ目的ヲ達セントスル共産分子ナリト睨ミ居リ候。(中略)

一方ニ於テ 徹底的ニ米英撃滅ヲ唱フル反面、親ソ的空氣ハ次第ニ濃厚ニナリツツアル樣ニ御座候。軍部ノ一部ニハ イカナル犠牲ヲ拂ヒテモソ連ト手ヲ握ルヘシトサヘ論スルモノモアリ、又延安トノ提携ヲ考ヘ居ル者モアリトノ事ニ御座候。

----勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ 滿洲事變以來 今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。彼等ハ已ニ戦争遂行ノ自信ヲ失ヒ居ルモ、今迄ノ面目上飽クマテ抵抗可致者ト存セラレ候。
モシ此ノ一味ヲ一掃セスシテ 早急ニ戦争終結ノ手ヲ打ツ時ハ 右翼、左翼ノ民間有志、此ノ一味ト饗応シテ、国内ニ一大混乱ヲ惹起シ所期ノ目的ヲ達成シ難キ恐有之候。從テ戦争ヲ終結セントスレハ先ツ其前提トシテ此一味ノ一掃カ肝要ニ御座候。

此ノ一味サヘ一掃セラルレハ、便乗ノ官僚並ニ右翼、左翼ノ民間分子モ影ヲ潜ムヘク候。蓋シ彼等ハ未ダ大ナル勢力ヲ結成シ居ラズ、軍部ヲ利用シテ野望ヲ達セントスル者ニ外ナラザルカ故ニソノ本ヲ絶テハ枝葉ハ自ラ枯ルルモノナリト存候。

---元來米英及重慶ノ目標ハ日本軍閥ノ打倒ニアリト申シ居ルモ、軍部ノ性格ガ変リ ソノ政策カ改マラハ、彼等トシテモ、戦争ノ継続ニ付キ考慮スル樣ニナリハセスヤト思ハレ候。ソレハトモ角トシテ、此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。」(「近衛上奏文」引用)


写真(右):1945年3月の東京空襲被災者
;1944年末から,マリアナ諸島のサイパン島,テニアン島に米陸軍航空隊B29戦略爆撃機が350機以上配備され,本土空襲が始まった。米軍による大量殺戮が繰り返された。他方,日本の軍部も政治家は,連合国との和平交渉をすべきであると公言しなかった。国家への忠誠心が厚いのか,無責任なのか,鈴木貫太郎総理以下,みな徹底抗戦を当然のように主張した。写真は,Air Raid against Cities引用。

昭和天皇は、近衛上奏文について,次のように御下問された。(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)
天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想[統制派]がございます。これを目標と致します。」(中略)
近衛「従来、軍は永く一つの思想[統制派]によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者[皇道派]もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これら[皇道派]を起用すれば、当然摩擦を増大いたします。考えようによっては何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、[皇道派]阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」

天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

1945年2月14日の昭和天皇への近衛上奏文によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明した。そして,軍部の一味が戦争終結の最大の障害になっているので,彼らを一掃して,軍閥を倒せば,米英中と和平交渉も容易になると考えた。軍部を建直して共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだのである。しかし,1945年7月26日に,米英中のポツダム宣言が通告されても,終戦を決断するどころか,鈴木貫太郎首相は,7月28・29日に,ポツダム宣言の黙殺拒否声明を世界に発した。

7月27日にポツダム宣言が公表された日本では,7月28日に各紙が「笑止」「聖戦あくまで完遂」などと報道された。鈴木首相も,7月28日に記者会見し「ポツダム宣言はカイロ会談の焼直しであり,政府として黙殺して、断固戦争完遂に邁進する」とした。7月29日,日本の同盟通信社は,黙殺を"ignore it entirely"と、ロイターとAP通信は"Reject(拒否)"と訳し報道した。


写真(右):1945年,焦土となった東京空襲被災地
;1944年11月24日の東京都武蔵野市の中島飛行機空襲以来,サイパン島やテニアン島から出撃したB29爆撃機が,連日のように本土を空襲した。1945年3月10日,米B29爆撃機340機が東京を大空襲し,死者10万人、負傷者11万人、家を失った者100万人に達した。B29爆撃機は,5月24日250機、翌25日250機が東京を再び大空襲した。

1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。ここでは,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,あくまで聖戦を完遂するとして,本土決戦の準備を進めた。

内閣書記官長迫水久常(1964)『機関銃下の首相官邸』恒文社1964によれば,1945年6月8日の御前会議「戦争指導の基本大綱」を巡って,直後の6月22日最高戦争指導会議で,昭和天皇から次のお言葉があったとしている。
「----先般の御前会議において、戦争指導の大綱が決まったが、本土決戦について、この際万全の準備を整えなくてはならないことはもちろんであるが、他面、戦争の終結について、この際従来の観念にとらわれることなく、すみやかに具体的研究をとげ、これの実現に努力するよう希望する---。」

1931年の満州事変以来,1945年8月までに,日本陸軍の参謀総長は5人、海軍の軍令部総長は6人、陸軍大臣は12人、海軍大臣は9人も交代している。この15年間,一貫して対外戦争指導を陸海軍最高司令官「大元帥」として指揮した昭和天皇は、最高レベルの軍事的,政治的,計座的情報を基にして,意思決定を下す。その下された決定は,参謀総長,軍令部総長,陸軍大臣,海軍大臣の誰一人として変更できない。 

伊藤博文が「憲法は君権を制限しなければならない」と考えていたのは,天皇が絶対権力(統治権)を握っていることを理解していたからである。大日本帝国憲法は大権事項が多いが,これは成文化されていない国体が周知の事実だったからである。

大日本帝国憲法ですら,天皇の持つ大権を若干制限するに過ぎないのであって,事実上,絶対君主の地位を与えている。天皇にも自制心があり,絶対君主だから,人殺しも自由であるという無茶な発想はありえない。中国の歴代皇帝,欧州の歴代皇帝をみればわかるように,一流の専制絶対君主は,啓蒙され,臣民に対してよき統治を目指すものだ。昭和天皇も,立憲君主のように振舞った。これは,昭和天皇の至高の人格・神格がそうさせたのである。日本の至高の存在は,憲法などではなく,国体である。


写真(右):1944年12月8日,宣戦布告記念日の大元帥陛下「礼強御統帥」
;毎月8日は「大詔奉戴日」(たいしょうほうたいび)、天皇より開戦詔書を頂いた有り難い日。開戦記念日の12月8日には,毎年新聞の一面に、天皇陛下の立派な写真が掲載されるのが通例だった。「大元帥に戦争指導の実験はなく,軍部の飾り物だった」という誤った説は,不敬罪にあたる。(終戦記念日の新聞引用)

参謀総長杉山元陸軍元帥は就任中の1940年10月から1944年2月まで,大本営政府連絡会議や上奏の際の御下問奉答筆記などを収録した「杉山メモ」を残した。

1941年2月1日,日米開戦前にインドシナ施策要綱を上奏した際の御下問は,次の通り。
天皇 :世論指導ニ於テ英米ヲ刺戟セズト云フガ,如何ナル方法アリヤ。(→米国が経済制裁を含め,日本に反撃してくることを的確に見抜いている。)
総理 : 現在迄モ充分注意シアリ。今ノ所一般ニ荒々シイ気分ハアリマセン。今後一層注意指導シマス。
天皇 :海軍ハ威圧行動ノ為,幾許ノ兵力ヲ使用スルカ。(→米英の世論への刺激を抑えながら,威圧を可能とする兵力の算出を命じている。)
海総長:現在ノ艦隊ノ配置ヲ説明ス。高雄ニ在ル兵力要スレハ,連合艦隊ノ一部,若ハ主力ヲ派遣ス。成ルヘク武力行使セズニ,目的達成ヲ期シテ居リマス。
天皇 :陸軍ハ如何。
陸総長:海軍ト同様ノ意見デス。
天皇 :航空基地港湾施設ノ具体的案如何。(→陸軍部隊が陸路進撃する進駐ではなく,航空部隊と艦艇の協力する立体的攻勢を提議している。)
海総長:港湾施設ハ「カムラン」湾ヲ指シマス。航空基地ニ関シテハ未タ確定シテアリマセン。
天皇 :陸軍ノ航空基地ハ如何。
陸総長:「サイゴン」「プノンペン」付近ヲ予定シテ居リマス。之等ハ将来ノ作戦ヲ考慮セハ,当然準備スヘキ航空基地デス。尚「ツーラン」「ナツラン」ニモ必要デス之等ハ,「マレー」ニ対スル上陸作戦ノ為必要デス。
天皇 :「シャム」ニ対シ飛行場ヲ要求シアリヤ。(→同盟関係を結んでいるタイを日本の東南アジア攻勢拠点とする戦略を提議し,日米開戦前から航空兵力を的確に重視している。)
海総長:南部タイニハ,サイゴン附近ト同様必要デス。
陸総長:「サイゴン」附近ニハ特ニ必要テスガ,南部タイニハアマリ考ヘテ居リマセン。全般ヲ通シ,可及的外交ニ依リ,兵力使用ハ成ルヘク避ケタキ方針デス。

作戦決定やその実施については、天皇の意思は介在していない,と評して「プレスルームでの記者会見」のようだとする意見がある。しかし,大元帥は,国際関係や戦略だけでなく,地理,兵器についても一流の知識を持つ。最高級の軍事専門家が,的確な質問をして,軍事作戦を勝利に導くべく思案している様子が窺える。


写真(右):1943年9月,ニューギニア東北海岸ラエLaeで日本の軍旗を鹵獲したオーストラリア軍
;Australian troops display a Japanese flag they took during the capture of Lae, September 1943. By this stage of the war the myth of the Japanese ‘superman’ had been broken by a string of Allied victories dating back to Milne Bay the previous year.(Australian War Memorial引用)

1943年3月3日:ニューギニア東部「ラエ」兵団輸送の失敗上奏(米航空隊の攻撃によりポートレスビー攻略部隊を乗せた輸送船団が大損害を受け撤退) 
御上 何故直クニ「マダン」ヘ決心ヲ変ヘテ上陸シナカツタノカ。此度ノコトハ失敗ト言ヘハ失敗テアルカ,今後ニ於ケル成功ノ基ニモナルナラハ,却ツテ将来ノ為ニハ良イ教訓ニモナルト思フ。
 将来安心ノ出来ル様ニヤツテ呉レ。航空兵力ヲ増加シテ,兵力ノ使用モ安全ナ所ニ道路ヲ構築シ,---地歩ヲ占メテ考ヘテヤツテ呉レ。(→この後,陸軍参謀本部は,従来は海軍の航空兵力しかなかったニューギニア東部へ,陸軍航空隊を派遣する。従来まで補給を軽視していた陸軍であるが,急遽,ニューギニアに道路建設を開始する。)
 今後「ラエ」「サラモア」カ「ガダルカナル」同様ニナラナイ様ニ考ヘテヤツテ呉レ。
 「ガダル」ノ撤退カ成績カ良過キタノテ,現地軍ニ油断アリシニ非スヤ。アトノ兵力ハ如何ニ運用ノ腹案ナリヤ 。(→ガダルカナル島からは陸上部隊を撤退させたが,ニューギニアから撤退させた部隊はない。)

昭和天皇が「よく考ヘてやってくれ」と言った相手は,陸海軍の最高位の将軍である。天皇自身が作戦を直接指揮するのではない。作戦の細部を作成するスタッフ(参謀本部)に,大局的な支持を与えているのである。(社長が,何人の営業担当者をどの町に何時に派遣するか指示することはない。)大元帥は,質問の形をとっているが,実質的な作戦基本方針の提示である。(社長が,提出された計画に色よい返事をしなければ,部下が計画を変更するのは,常識である。)大元帥昭和天皇に統帥権があり,この提案は,至高の命令であり,それに基づいて,帝国陸軍参謀本部はニューギニア方面の作戦計画を立案し,実施した。


写真(右):1944年3月19日,ニューギニアでオーストラリア軍の捕虜になった日本兵
;Singorkai, New Guinea, 19 March 1944: Four Japanese prisoners being interrogated by Lieutenant C. E. Bishop, the commander of a patrol of the Papuan Infantry Battalion.(Australian War Memorial引用)

陸海軍統帥権を保持する大元帥は,現地部隊をコマのように直接動かすのではない。作戦の根幹となる基本方針を決定するのである。しかし,現地部隊の用兵が,あまりにも下手なために,部下を叱責した。米軍の攻撃にあわてて基地に逃げ帰ってた臆病さを叱責し,航空兵力の活動の及ばない地域での道路建設の提言をしている。陸軍の参謀総長を呼びつけて,質問できる大元帥の威厳が,統帥権として具現している場面である。

 大元帥のご下問を受けて,参謀総長は,早速,ポートモレスビー攻略のために,陸路を使った山越え作戦を立案する。1943年9月15日,天皇のご下問から半年後,第十八軍司令官安達二十三中将指揮下の第五十一師団の8600名は,サラワケット越えでポートモレスビー攻略のためにラエを出発した。安達軍司令官は,マダンにあり,第二十師団中井少将の率いる第七十八連隊が,マダンとラエ間の道路工事に従事していた。大元帥のご下問という形で申し渡した命令が,忠実に実行に移された。

大元帥の命じた作戦は大失敗する。しかし,大元帥のたてた作戦方針に異議を申し立てるわけにはいかない。ニューギニア派遣軍は「マダン」死守のために,さらに戦死者を増やした。

1943年6月6日「アリューシャン」方面の情勢上奏
天皇 此度作戦計画ヲ斯クシナケレハナラナイコトハ遺憾テアル。トウカ之カラ先ハ,克ク見透シヲツケテ,作戦ヲスル様ニ気ヲ附ケヨ。
総長 洵ニ恐懼ノ至リテ御座リマス。今後十分気ヲ附ケテ参リマス。
天皇 陸軍ト海軍トノ間ハ,シックリ協同シテヤッテイルカ。
総長 全般的ニハ能ク協同シテヤツテ居リマス。殊ニ参謀本部ト軍令部トノ間ハ,克ク協同ノ実ヲ挙ケテ参ツテ居リマス。
 出先ハ局部的ニ各々任務、立場ノ関係カラ,ピツタリ行カヌ点カ無イカモアリマセヌカ,シカシ左様ナ場合ニハ,コチラカラ幕僚ヲ派遣シタリ,出先カラ人ヲ招致シタリシテ,遺憾ノ点ノナイ様ニ致シテ参リマシタカ,今後ハ中央出先トモニ一層注意ヲ致シマス。
天皇 米ノ戦法ハ常ニ我背後ヲ遮断シテ,日本軍ノ裏ヲカク遣リ方カ従来屡々テアル。(→米軍司令官マッカーサーの考えた蛙飛び作戦を見抜いている。)今後トモ,之等ヲ念頭ニ置イテ作戦スル様ニ。
総長 今後一層努力シ最善ヲ尽シマス。

1943年6月8日:「アリューシャン」キスカ島撤退作戦に関して武官長に漏らした御言葉(武官長ヨリ総長ニ連絡) 
陛下ハ,一昨日参謀総長ニ又昨日ハ軍令部総長ニ御下問アリ。
今度ノ如キ戦況ノ出現ハ,前カラ見透シカツイテイタ筈テアル。然ルニ,五月十二日ニ敵ガ(アッツ島ニ)上陸シテカラ,一週間カカツテ対応措置カ講セラレ,濃霧ノコトナド云々シテイタガ,霧ノコトナトハ前以テ解ッテイタ筈テアル。早クカラ見透シカツイテイナケレバナラヌ。
陸海軍ノ間ニ本当ノ肚ヲ打開ケタ話合ヒカ出来テイルノテアラウカ。一方カ元気ニ要求シ一方カ無責任ニ引受ケテイルト云フ結果テハナカラウカ。話合ヒカ苟モ出来タコトハ,必ス実行スルト云フコトテナナケレハナラヌ。
 協定ハ立派ニ出来テモ少シモ実行カ出来ナイ約束(ソレハ「ガダル」作戦以来陛下カ仰セニナリシコト)ヲ陸海軍ノ間テシテ置キナカラ実行ノ出来ナイコトハ約束ヲシナイヨリモ悪イ。
陸海軍の間軋轢カアツテハ今度ノ戦争ハ成立シナイ陸海軍カ真ニ肚ヲ割ツテ作戦ヲ進メナケレハ-----霧カアツテ行ケヌヨウナラ 艦ヤ飛行機ヲ持ツテ行クノハ間違ヒテハナイカ
 油ヲ沢山使フバカリデ---斯ンナ戦ヲシテハ「ガダルカナル」同様敵ノ士気ヲ昂ケ,中立、第三国ハ動揺シ,支那ハ調子ニ乗リ,大東亜圏内ノ及ボス影響ハ,甚大テアル。
 何トカシテ何処カノ正面デ米軍ヲ叩キツケルコトハ出来ヌカ。(→米軍に一勝しなければ,国際関係上,日本の地位はますます低下することを見抜いていた。大元帥として戦局の不利になっていることは,百も承知だったのである。昭和天皇は,戦局の全般についてのみならず,戦争に参加していない中立国・第三国へも配慮している。まさに,世界の指導者の一人である。)

これは, 『杉山メモ』(下)p.19にのっている話で,1943年5月のアッツ島における陸軍部隊全滅「玉砕」に直面し、昭和天皇は,杉山元参謀総長に次の作戦方針を示した。「霧があって行けぬようなら艦や飛行機を持って行くのは間違いであり,石油の浪費である。このような作戦は,敵の士気を高揚させて,中立や第三国を日本から離反させ,中国を利することになる。大東亜共栄圏内の占領地域は敗退続きの日本を信頼しなくなる。米軍に攻撃を仕掛けて,局地的な勝利をあげ,民心を安定させよ。」大元帥の統帥のあり方を具現した「御下問」である。(半月城通信No. 53参照)

ビルマハ陸軍カヤツテイルカ,陸軍ハ負ケテハセヌガ,海洋デハ,ドウモ陸軍ノ力ヲ出スヨウニナツテイナイ----杉山ハ,海軍ノ決戦ヲ以テ,今度ノ戦イヲ「カバー」スル様ナコトヲ言ツテイタカ,アンナコトハ出来ハセヌ。

大元帥は陸軍と海軍が綿密に協力していないことが作戦失敗につながっていると指摘し,先を見通して作戦をするようにと指示している。具体的には,濃霧のためにキスカ島撤収作戦が進捗していないという言い訳に,地理的,季節的な条件を把握していないのか,と激怒している。

1943年5月アッツ島玉砕で,日本軍守備隊が殲滅されたが,これは,日本軍最高司令官大元帥にとって,最大限の屈辱である。国軍の名誉のために,再び完敗の玉砕戦を起こしてはならない。アッツ島より米国本土寄りのキスカ島日本軍守備隊を早く撤収させたい。しかし,大元帥の心中を理解しないかのような陸軍と海軍との対立に,昭和天皇は,苛立っている。

日本軍には陸海軍の統合参謀本部が存在しないが,これが制度上の日本軍の最大の弱点であることを昭和天皇は的確に見抜いている。しかし,陸海軍とも,大元帥にのみ責任を負うとされたために,陸海軍の協力は困難だった。

最高司令官は,国軍には大元帥ただ一人がいる。陸軍最高司令官も,海軍最高司令官も天皇が兼任していた。統合参謀本部議長は存在せず,陸海軍の二つの作戦が,すべて大元帥の下に届けられた。しかし,陸軍と海軍の作戦は,事実上,別々であった。陸海軍は,航空兵器,爆弾,弾薬,火器の規格も,操作方法もまったく異なっていた。

資源確保が,戦略上不可欠であることも熟知していた。艦隊行動が石油の無駄遣いになることを憂慮している。国際関係にも配慮して,占領地の人心掌握を心配している。ミャンマー方面では陸軍中心であるが,インド洋方面の情勢に陸軍が対処できないことを嘆いている。

戦争中盤以降,大元帥は,軍高官の上奏に際して,攻勢をかけることを要望している。敵からの攻撃を受けて,受動的に戦争をするのでなく、主導権を確保して、戦機を掴むように命じている。「天皇は戦争の実態をしらなかった」という話は,戦後の捏造である。軍人は,臣下として天皇に忠誠を尽くすことを本分としており,戦局の悪化,都合の悪い事実も隠さず報告している。不興をかえば,辞任,自決するのみである。大本営発表では,軍事能力のない国民相手に,偽りのプロパガンダも多かったが,最高の戦略策定能力を持つ大元帥には,戦局の実相が伝えられ,作戦企図も明確に述べられていた。

写真(右):1945年7月28日-8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three":英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee; 米大統領トルーマンU.S. President Harry S. Truman; ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin。後方は,米海軍参謀長レーヒ提督Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff(日本軍兵士の心理研究書を執筆し,日本人ガールフレンドもいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。); 英外相ベヴィンBritish Foreign Minister Ernest Bevin; 米国務長官バーンズU.S. Secretary of State James F. Byrnes(対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治先導者); ソ連外相モロトフSoviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov(独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結)。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。

木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940年-1945年に内大臣を務める。

木戸幸一『木戸幸一日記』「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
 (略)午前十時二十分拝謁す。戦争終結につき種々御話ありたるを以て、右に関連し大要左の如く言上す。
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、------爰に真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。(引用終わり)

1945年7月17日,ドイツ・ベルリン郊外のポツダム会談において、米大統領ハリー・トルーマン(4月12日就任),英首相チャーチル(後日は新首相アトリーに変更)、ソ連首相スターリンの三巨頭は,ドイツ敗北後の欧州,特にポーランドなど東欧の戦後処理を話し合いをはじめた。その際,いまだ交戦していた日本に対する降伏勧告も検討された。ポツダム会談前日,1945年7月16日、米ニューメキシコ州で初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆発実験が成功したために,米国は,ソ連に対して強硬な態度に出たが,これは日本に対する降伏勧告にも反映した。

写真(右):1945年7月28-8月1日,ポツダム宣言後の三巨頭 "Big Three":英首相アトリーAtlee,米大統領トルーマン,ソ連首相スターリン。日本への降伏勧告「ポツダム宣言」は、三巨頭共同宣言ではない。会談の期間中に、ソ連にかわって中国の蒋介石が宣言した。この宣言を受諾しない場合,日本は迅速かつ完全に破壊されるとの冷徹な通告を行ったが,これは原子爆弾投下を隠喩したものだった。This "Potsdam Declaration" described Japan's present perilous condition, gave the terms for her surrender and stated the Allies' intentions concerning her postwar status. It ended with an ultimatum: Japan must immediately agree to unconditionally surrender, or face "prompt and utter destruction".

「ポツダム宣言」は,米大統領ルーズベルト,英首相チャーチル,中国主席蒋介石が署名した,日本への無条件降伏勧告であり,概略は次の通り。 

1 米大統領、中華民国政府主席,英首相ハ 数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上,日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フル---。

2 米英中ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ 数倍ノ増強ヲ受ケ 日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ。

3 世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ 日本国国民ニ対スル先例ヲ明白ニ示スモノナリ。---吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ 日本国軍隊ノ不可避 且完全ナル壊滅ヲ意味スベク 必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ。

4 日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル 我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国ガ引続キ統御セラルベキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履(ふ)ムベキカヲ 日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ。
5 吾等ノ条件ハ以下ノ如シ。右ニ代ル条件存在セズ。遅延ヲ認ムルヲ得ズ。

6 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ 平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルヲ以テ 日本国国民ヲ欺瞞シ 之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ 永久ニ除去セラレザルベカラズ。
There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

7 新秩序ガ建設セラレ 且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ 連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ --占領セラルベシ。

8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。(1943年11月27日のカイロ宣言では,日本は,第一次世界大戦で奪った太平洋諸島の放棄、中国から奪った満州・台湾・占領地の中国返還、朝鮮独立など「大西洋憲章」領土不拡大の原則が引き継がれた。)

9 日本国軍隊ハ 完全ニ武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ 平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ。
The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.

10 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ 奴隷化セントシ 又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ 厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル 民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ。
We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

11 日本国ハ 経済ヲ支持シ 実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ 許サルベシ。但シ 日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ 此ノ限ニ在ラズ。右目的ノ為原料ノ入手ヲ許可サルベシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ。
Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese, participation in world trade relations shall be permitted.

12 前記目的ガ達成セラレ 日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ 平和的傾向ヲ有シ 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ 連合国ノ占領軍ハ 直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ。

13 日本国政府ガ 直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ 政府ノ誠意ニ付 保障ヲ提供センコトヲ 同政府ニ対シ要求ス。 右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。
We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

(⇒「ポツダム宣言」(米英中三国宣言)およびUCLA Asia Institute;Potsdam Declaration引用)

要約すれば,日本軍の無条件降伏(13),軍国主義者の排除(4),占領地・植民地(朝鮮・台湾など)放棄・本土への領土限定(8),戦争犯罪人の処罰(10)を求めた降伏勧告がなされたといえる。

ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。米大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltは,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman(61歳)が、4月12日に第33代大統領に就任。英首相チャーチルも、総選挙の開票で一時帰国している最中,選挙で敗北し、7月27日に英国新首相アトリー(1951年10月26日まで在籍)へ政権交代し,ポツダムには戻らなかった。また,ポツダム会談に加わったスターリンは,ポツダム宣言には参加しておらず,中国の蒋介石が欠席しているにもかかわらず,ポツダム宣言の提唱者のひとりとなった。
 連合国の枢軸国への強硬政策が基本方針とされていたために,ポツダム会談では各国首脳陣の入れ替わりや複雑な事情によても,ポツダム宣言における無条件降伏の勧告は,全く変更されなかった。

米海軍参謀長レーヒ提督や陸軍長官スチムソンのように,天皇制の維持,すなわち国体護持を条件とすれば,本土の都市空襲と無制限潜水艦作戦による物資供給の途絶によって戦争遂行能力の低下した日本と講和できると考えた軍の戦略家もいた。

しかし,1941年12月の真珠湾攻撃とドイツの宣戦布告以来,太平洋と欧州で大戦争を戦い,連合国首脳会談を20回も繰り返してきた主戦国アメリカ合衆国としては,日本への無条件降伏の要求を取り下げることはできない。日本が特攻作戦を大規模に展開して,日本本土上陸作戦で多数の米軍死傷者が見込まれるとしても,無条件降伏の要求は変更するつもりは無かった。後日,原爆投下の惨状が明らかになると,米軍の死傷者を少なく抑えるために,日本へ原爆を投下したと,トルーマン大統領,スチムソン陸軍長官は弁明したが,1945年前半の米国の戦略において,敵味方の死傷者の多さは,問題とはなっていない。

枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の交戦意思を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかったようだ。

しかし,日本側は,米国,連合国とは,全く異なる視点から,戦争の前途を心配していた。

写真(右):1947年,東京裁判でA級戦犯として尋問される木戸幸一元内大臣(1889.7.18〜1977.4.6);Autographed photograph of Kido Koichi testifying at the Tokyo Trial, 1947. Collection George Picard. 木戸孝允の養子の木戸孝正の子。妻は陸軍大臣児玉源太郎の四女ツル。東京出身。近衛文麿と共に革新貴族を代表し,現状維持派の西園寺公望らと区別される。厚相・内相時代を通じ産業報国連盟顧問。1940年内大臣に就任、首相前歴者・枢密院議長からなる重臣会議を招集して、内府の責任で後継を奏請する方式を実施。近衛文麿の<新体制>を助ける。この新方式は,元老の手中にあった内閣組閣の権限を内府に移し、政治意思統合の機能を天皇権威に求める傾向を強め,内府の権限拡大に結びついた。(歴史が眠る多磨霊園:木戸幸一引用)

   木戸幸一『木戸幸一日記』二〇・七・三一(「カマヤンの虚業日記」引用)
 御召により---御前〔昭和天皇〕に伺候す。大要左の如き御話ありたり。
 先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身辺に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。----宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ。謹んで拝承、直に石渡宮内大臣を其室に訪ひ、右の思召を伝へ、協議す。

〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
 ----御文庫にて拝謁す。ソ連が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、----。首相は十時半より最高戦争会議を開催、態度を決定したしとのことにて辞去せらる。(略)
一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せりとのことなりき。(引用終わり)

天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、葦原中国の平定,統治のために降臨したという日本神話である。天照大神の命により、葦原中国を統治するために,高天原から高千穂峰に降る(天孫降臨)。その時,王権・統治権・主権のシンボルとして三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)と常世のオモイカネ、タヂカラオ、アメノイワトワケを副えた。「この鏡を私(アマテラス)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。オモイカネは、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と神勅を伝えた(『古事記』)。これらの二柱の神は伊勢神宮に祀ってある。トヨウケは伊勢神宮の外宮に鎮座している。

天孫降臨の神話,三種の神器は,天皇の大権の基盤であり,象徴である。憲法が,天皇の大権を定めるのではなく,神勅が定めている。『昭和天皇独白録』でも終戦の聖断を下した理由として「第二には国体護持の事で木戸も同じ意見であったが、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい。」とある。

万世一系の皇祖からの伝統・神話が,国体の正当化するのであって,明治天皇が臣民に与えた大日本帝国憲法が天皇を統治者たらしめるのではない。三種の神器は,天皇を統治者としての正当化すると同時に,天皇にとっても皇祖との契約でもあり,守るべき責任がある。

しかし,外国からの侵略軍は,天孫降臨の神話,三種の神器の権威を認めない。連敗の軍や敗戦の困窮に陥れられたと感じている国民も,天皇の権威を認めないかもしれない。日本軍の一部(特に統制派)とソ連,延安にある中国共産党とが共謀して,国民を煽動して,国体変革をたくらむ共産革命を引き起こすかもしれない。連合軍、日本軍、臣民が抱く感情を考えると、昭和天皇は、国体護持に関する巨大な不安をに襲われたであろう。大元帥昭和天皇に,終戦の聖断を下す背景にあった。原爆投下という外圧は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化し,ソ連参戦は,国体変革を目の前の危機として意識させた。

1945年8月9日の御前会議では,ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べられたが,終了後,昭和天皇は木戸幸一に次のように語った。
「本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。----(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])

1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,米国務長官バーンズJAMES F. BYRNESに降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,次のように述べている。

"In obedience to the gracious command of His Majesty the Emperor who, ever anxious to enhance the cause of world peace, desires earnestly to bring about a speedy termination of hostilities with a view to saving mankind from the calamities to be imposed upon them by further continuation of the war, the Japanese Government several weeks ago asked the Soviet Government, with which neutral relations then prevailed, to render good offices in restoring peace vis-vis the enemy powers. Unfortunately, these efforts in the interest of peace having failed, the Japanese Government in conformity with the august wish of His Majesty to restore the general peace and, desiring to put an end to the untold sufferings entailed by war as quickly as possible, have decided upon the following.
(天皇がしていること,日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したいこと)

"The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, ---(日本政府は,ポツダム宣言の受諾準備よし。)

写真(左):1945年9月17日発行『TIME』の表紙を飾った米国務長官ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes (May 2, 1879 – April 9, 1972);米国の孤立主義から,第一次大戦の国際連盟は十文には機能しなかったが,その時代とは異なり,第二次大戦後は,米国務長官バーンズが,地球儀が象徴する世界(国連?)の舵取りをする。This time the method and manner would be different. Would the results be different? ("Jimmy" Byrnes—the "Assistant President."

 1945年8月11日,米国務長官バーンズの返答
  米英ソ中を代表して,ポツダム宣言は,天皇統治権(国体)に関して言及していないが,連合国最高司令官の下に置かれることになると,次のように述べた。

"With regard to the Japanese Government's message accepting the terms of the Potsdam proclamation, but containing the statement, 'with the understanding that the said declaration does not comprise any demand which prejudices the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler,' our position is as follows:

"From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.

"The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration, and shall issue his commands to all the Japanese military, naval and air authorities and to all the forces under their control wherever located to cease active operations and to surrender their arms, and to issue such other orders as the Supreme Commander may require to give effect to the surrender terms.

"Immediately upon the surrender the Japanese Government shall transport prisoners of war and civilian internees to places of safety,---.(捕虜の即時解放要求。)

"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people. (日本国民の自由に表明する意思によって,日本の最終的な政治体制を決定するものとす。)

"The armed forces of the Allied Powers will remain in Japan until the purposes set forth in the Potsdam Declaration are achieved." (ポツダム宣言が成就されるまでの連合軍の日本駐留。)(引用終わり)

写真(右):海軍大臣米内光政大将(1880年3月2日〜1948年4月20日)「1937年には林銑十郎内閣の海軍大臣に就任し,三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。天皇の信頼も厚く,1940年には岩手県出身者としては3人目の内閣総理大臣に就任,しかし陸軍の反対に会い半年後に退任。太平洋戦争末期には小磯内閣で4期目の海軍大臣に入閣,終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し,海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。」とある(ウェブもりおか>先人記念館引用)。

1945年当時海軍大臣であった米内光政は,「戦後の東京裁判で証人として出廷した際には被告となった畑をかばって徹底してとぼけ通し、ウェッブ裁判長から『こんな愚鈍な首相は見たことがない』と罵られても平然としていた。小磯・鈴木両内閣に海相として入閣した米内光政は、必死で戦争終結の道を探った。----あの時代に、戦争への流れをささやかでも抵抗した良識派軍人の居たことは特記されねばならない。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され----GHQの意向で留任している。」とフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』はいう。

戦後になって,GHQ側に尋ねられ,米内光政は次のように語ったという。「率直に申し上げれば、戦争のターニングポイントは、そもそも開戦時にさかのぼるべきでした。私は当初から、この戦争は成算のないものと感じていました。----戦争がはじめられてからのことを言えば、ミッドウェーの敗戦か、または、ガダルカナルからの撤退を転機といいたいのです。----もはや、挽回の余地はまったくないものと見当をつけていました。----その後にも、サイパンの失陥があり、レイテの敗北が起こりました。そこで私はもうこれで万事終わりだと感じていました。」と述べたという(海軍兵学校人物伝3「ステーツマン米内光政」引用)。

米内光政は,日米戦争の敗戦を見越していた一流の親米派,良識派の政略家として,知識人からの覚えがめでたい。
しかし,1936年12月,米内光政は,連合艦隊司令長官に就任し,1937年2月には海軍大臣になり,(対中国ではなく)対米戦争を意識した巨大戦艦「大和」「武蔵」建艦計画を決定(起工は1937-38年)し,1937年7月7日の盧溝橋事件とそれに続く第二次上海事変で,海軍艦艇による砲撃・中国大陸海上封鎖,さらに南京など中国の都市への戦略爆撃を行った。中国での泥沼の戦闘を開始したのは,日本陸軍というのは片手落ちであり,華中(上海・南京など)・華南(広州・海南島など)へ戦線を拡大したのは,日本海軍である。日中和平工作を打ち切りを強行に主張したのは米内光政海軍大臣である。
米内光政海軍大臣は,日独伊三国同盟に反対したが,「反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった」ということはできない。対米英戦争についてはともかく,対中国戦争を拡大することに,ためらいは無かったし,対中国戦争が,対米英戦争につながるとも認識しなかったようだ。

米内光政大将は,日米戦争を開戦阻止の行動はとっていない。サイパン島陥落後の1944年7月22日,小磯国昭内閣の海軍大臣に就任しても,和平交渉を提議していない。それどことか,米内光政は,海軍大臣として,人間魚雷「回天」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」など特攻兵器を開発・量産し(1944年3-7月),レイテ戦では,米内海相が大西瀧治郎中将を第一航空艦隊司令長官に任命し,神風特別攻撃隊を送り出した(1944年10月)。1945年4月7日,鈴木内閣で再び海軍大臣に就任したが,1ヶ月半以上,終戦,和平交渉を話題にしていない。当時,沖縄戦「菊水作戦」として,海軍特攻機を連日のように出撃させていた。鈴木貫太郎内閣は,終戦内閣として組閣されたのではない。鈴木内閣は,徹底抗戦を主張し,沖縄戦で戦果をあげることを期待し,一億総特攻,全軍特攻化を進めた。米内海軍大臣もそれに協力した。鈴木内閣が終戦内閣だったとか,米内大臣が終戦に尽力したという俗説は,戦後に作られた話である。

米内海軍大臣が終戦を切り出したのは,1945年5月末,沖縄戦敗北が決まった時点でのようだ。阿川弘之『米内光政』は,「米内はこの(8月14日の)時も十日の御前会議の時も、ほとんど発言しなかった。のち、小泉信三に『もう落ち着くところは分っていましたから、私はあまりしやべる必要はありませんでした』と語っているが、それが米内の流儀らしかった。…(8月15日正午)晴れた暑い日であった。自動車も動かず工場も操業していないので、空が青くよく澄んでいた。放送が終ると、米内は左隣に汗をうかべて立っている豊田軍令部総長に、『よかった』と握手を求め、真昼の夏空を見上げながら首を二、三度振って、別に重い足取りという風でもなく大臣室の方に帰って行った」という(昭和史を歩く4(終戦)引用)。

米内光政海軍大将は,長らく海軍大臣として,戦争を指導をする立場にあり,特攻作戦を展開した。1945年5月末という沖縄戦敗北が決定的になった段階になって,やっと終戦を口にしたが,海軍大臣として終戦を提議したり,意見を積極的に公言したわけではない。終戦を他人事のように受け流した。とすれば,海軍大臣としての敗戦の責任も回避しているように思われる。このような大将を「良識派軍人」として評価しなければならないのだろうか。

鈴木貫太郎首相のポツダム宣言黙殺発言について,鈴木自身は,戦後1年経って「この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり…」と後悔した。鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言について、高木惣吉海軍少将が米内光政大将に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内自らは沈黙したままで、鈴木首相のみが責をとった形となった。

1945年8月14日の御前会議前に,陸軍大臣阿南惟幾大将(8月14日自決)は,昭和天皇に第二総軍司令官の畑俊六陸軍元帥、第一総軍司令官の杉山元陸軍元帥、海軍軍令部総長の永野修身海軍元帥に,意見を聴取することを提案した。開戦時の参謀総長杉山元帥は,開戦時の軍令部総長永野元帥は,昭和天皇に対して「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と徹底抗戦を奏上したという。

写真(右):大日本帝国陸軍大臣阿南惟幾大将 (あなみ これちか、1887年2月21日 - 1945年8月15日) :大分県竹田市出身。東京府に生れ。鈴木貫太郎総理大臣とは、以前に侍従長と侍従武官の関係だった。梅津美治郎参謀総長とともに本土決戦を唱えるが、昭和天皇の終戦の聖断に従う。軍事クーデターを戒め、8月14日夜、ポツダム宣言受諾の直前に陸相官邸で自刃。「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」昭和二十年八月十四日夜 陸軍大将惟幾という辞世を紹介したwebに次のようにある。「阿南は名将山下奉文と同じ陸軍士官学校第18期生である。陸士のエリートは卒業後ドイツやフランスへ留学するのが常だった。しかし阿南の成績は悪く、エリートコースから外れた軍人だった。阿南に実戦の経験はほとんどない。----阿南の望むこと、それはただ一つ、親愛なる天皇の身の安全、国体護持であった。---阿南は割腹の前に一枚のYシャツを出してこう語った。『これはな、自分が侍従武官をしていたころ、陛下から拝領したもので、お上が肌に付けておられたものだ。これを着用して自分は逝こうと思う。武人としてこの上ない名誉だよ。自分が死んだら、これを身体にかけてくれ。』---阿南の棺は市ヶ谷陸軍省の丘の上、焼け野原の拡がる帝都を見下ろせる高射砲の砲座の上に運ばれた。横には宮城前で自決した玉音盤クーデター首謀者、畑中少佐、椎崎中佐の棺が並べられた。3つの棺は一緒に荼毘に付された。 」

1945年7月26日に発表されたポツダム宣言の受諾をめぐって,閣内の意見がわかれた。阿南惟幾陸相は、「一億玉砕を覚悟で、本土決戦をすべきである」として徹底抗戦を主張した。広島への原爆投下の3日後,8月9日の御前会議でも、8月14日の最後の御前会議でも,阿南惟幾陸相は一貫して,徹底抗戦を主張する主戦派であった。しかし,阿南惟幾大将は、侍従武官長も経験しており,皇道派として、天皇に対する忠誠心がある。(近衛上奏文の述べた皇道派による軍の一新が思い起こされる)

「阿南陸相が最後まで終戦に反対し,徹底抗戦を主張し続けたのはなぜか。」という設問がよくなされている。これに対して,「彼が,徹底交戦を主張したのは,天皇の終戦にかける堅い意思は、分かりすぎるほどわかっていたはずである。そこで疑問が生じる。」というのは,早計である。大元帥昭和天皇は,神勅と大日本帝国憲法の条文に照らしても,統治権の総覧者として,宣戦布告と和平の決定権と陸海軍の統帥権を保持する大元帥として,終戦を一人で決断できた。政府首脳(陸軍大臣と海軍大臣を含む)や軍高官(参謀総長や軍令部総長)の輔弼を受けて,天皇が統治を総覧するとはいうが,輔弼は統治の根幹には必ずしも不可欠ではない。しかし,大元帥昭和天皇は,終戦・和平というよりも,事実上の降伏を決断しなくてはならない状況に置かれていた。天皇が外国に降伏したことなど,日本の歴史始まって以来,ただの一度もない。したがって,皇祖,国体護持のためと理由をあげても,昭和天皇にとって,降伏とは恥辱そのものである。したがって,日本降伏の聖断の背景に,天皇の赤子・臣民・国民を思う大御心があるとする伝統的な保守派の理解はもっともである。

阿南惟幾陸相は、悠久の日本の歴史のなかで,初めての降伏という恥辱の決断を大元帥昭和天皇にさせるつもりはなかった,昭和天皇は,萬世一系の栄えある(降伏をしたことのない)天皇家の名誉を保持すべきであり,「終戦=降伏の聖断」を下し汚名を被るに忍びない。阿南惟幾大将は,その天皇の苦衷を察して,徹底抗戦を主張した。天皇への忠誠心の篤い皇道派の陸軍大将,元侍従武官長であるからこそ,大元帥昭和天皇の名誉のために,本土決戦を戦う覚悟だったのであろう。

それを,「本心では本土決戦を否定しながらも、陸軍の暴発(内乱、暴動など)による国家の致命傷を防ぐため、部内の強硬派に対するジェスチュアとして本土決戦を主張し続け、無血終戦をなしとげた」という阿南惟幾大将による腹芸を主張する識者がいるのには理解に苦しむ。天皇への忠誠一徹の阿南惟幾陸相が,昭和天皇の面前で,姑息とも思える交渉術や腹芸を行ってまで,終戦にこぎつけようとしたというのは,後から創作された俗説であろう。

終戦の聖断下った最後の御前会議の後(8月14日夜),阿南惟幾陸相は,他の参加者とともに終戦の詔書に副書(署名)した。「全閣僚の副書がなければ、閣議の決定は法的に成立せず,その決定は国家意思とはならない」という識者もあるが,そうではない。宣戦布告と和平の大権と陸海軍の統帥権は大元帥天皇のみが保持しており,輔弼者の意向や閣僚の副署の有無によって,掣肘されることはない。

大任を果たしたからではなく,終戦の聖断が下ったために阿南惟幾陸相は、8月15日早朝、「一死、大罪を謝し奉る」として割腹自殺した。阿南惟幾陸相の自決は、陸軍が終戦を受け入れるためではなく,天皇の苦衷の大御心を思って,敗戦という最大の汚点=戦争敗北責任を全て引き受け,国体護持の忠誠心に殉じた。阿南惟幾陸軍大将は,最も不名誉な日本の敗戦責任を引き受け,大元帥昭和天皇に対して,日本敗北という大罪を死をもって謝したのである。戦争責任を認めて引き受けたという点で,阿南惟幾陸軍大臣は,評価される。

「阿南陸相は、まさに自分の命をかけて終戦を実現させ、日本を破滅から救った立役者の一人なのである」という評価は,完全に的外れである。天皇への忠誠と戦争敗北の責任を引き受けた結果が自決となった。(⇒阿波陸相の自決については,阿南陸相と終戦【修親原稿】藤岡信勝参照。)

本庄繁陸軍大将は,枢密院顧問であり,元関東軍司令官として,活躍したため,1945年11月20日,割腹自殺した。享年68であった。また,陸軍の梅津美治郎陸軍参謀総長は東京裁判で戦争責任を引き受けた。

しかし,日本海軍の米内光政海軍大臣、豊田副武海軍軍令部総長は,戦争責任を引き受けなかったのであり,敗北の責任を謝すこともなかった。もちろん,降伏調印式への出席も理由をこじつけ断っている。彼ら海軍の戦争指導者は,戦犯追及を逃れるだけでなく,敗戦の責任も認めない。敗戦の責任を事実上,大元帥一人に負わせた。戦争の大権,軍の統帥権を文字する最高司令官に責任転嫁するのは,敗北後のドイツの将軍たちと変わらない。戦争責任を回避して,保身に勤める高級軍人たちは,大元帥昭和天皇への忠誠心,敗戦の責任・悔恨があるのかどうかも怪しくなってくる。

杉山元陸軍元帥は,1940〜1944年参謀総長,教育総監をへて1944年7月小磯内閣で陸軍大臣,1945年鈴木内閣では第一総軍司令官。1941年に対米戦争の成算を昭和天皇から「汝は支那事変勃発当時の陸相であるが、あのとき事変は3ヶ月で終わると申したのに今になっても終わっていないではないか」と詰問され,杉山が「支那は広うございますので」と釈明した。すると、昭和天皇は「太平洋は支那より広いではないか」と逆鱗に触れた逸話がある。
杉山元陸軍元帥は,敗戦後1945年9月12日拳銃自決し、夫人もそれに殉じた。戦争責任を理解していた所作であろう。参謀総長時代に会議の内容などを記した「大本営政府連絡会議議事録(杉山メモ)」を残している。杉山メモは,杉山元参謀総長が職にあった1940-1944年の「大本営政府連絡会議」「御前会議」他の筆記記録および上奏時の御下問奉答の記録である。

天皇に政策や戦略の裁可を求める「上奏」は,内閣と軍部(参謀本部と軍令部)の二通りがある。日清・日露戦争においては、当時の首脳陣が内閣と軍部を取りまとめて一括して上奏した。しかし1930年代になると軍部は統帥権の独立を理由として、単独上奏するようになった。そこで,統帥権の独立によって、議会と内閣は,軍部に制約を加えられなくなったのである。したがって,統帥権を保持する大元帥天皇のみが,軍部と直接に,軍事作戦について討議することになる。大元帥昭和天皇は,陸軍参謀総長と海軍軍令部総長に輔弼されてはいるが,議会,内閣の輔弼を受けられないまま,軍事作戦に関与せざるをえない。

杉山元陸軍元帥は,明確に徹底抗戦を徹頭徹尾貫いた点で,「意志強固な軍人」である。敗戦の責任をとっての自決することは,元帥・大将には当然であったろう。他方,米内光政海軍大将は,東京裁判(極東国際軍事裁判)の戦犯に指名されないために,東京裁判では証人席に立った。

戦後の東京裁判において,日本陸軍は大将5人、中将1人が絞首刑になったが、海軍の将官はひとりも処刑されなかった。こうして,陸軍を強硬派,主戦派とし,海軍をリベラル,反戦派・良識ある軍人とするいう伝説,すなわち「陸軍悪玉・海軍善玉神話」が創作されたようだ。(今日のぼやき:副島隆彦を囲む会三村文男(2002)『米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉説」の虚妄を糺す』参照)

「いったい海軍というのはわたしが古巣だが、そういった点では、ずるいところがあった。たとえば陸軍は横暴で困るなどと口ではいう。で、その陸軍が、何かいいことをするときには、どうも陸軍がね、といいながら、すっかり陸軍のせいにしておいて、自分らも便乗してしまう。」(岡田啓介(1950)『岡田啓介回顧録』;日本海軍を検証する 引用)同じように「海軍はずるいところがある」と,1944年12月5日に軍令部作戦(正式には第一)部長に就任した富岡定俊少将も述べている。降伏調印式という「無残な敗北の席」に,軍令部総長も海軍大臣も出席を拒み,軍令部作戦部長という格下の部下を出席させている。

1945年8月6日に広島への原爆投下、8月9日に長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告があった。この危機に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。
(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

1945年2月14日の昭和天皇への「近衛上奏文」によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。近衛公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とするなど,宮中グループは,終戦の形式的な理由が与えられたことを嗅ぎ取った。そして,不穏な国内情勢,すなわち国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感が,日本を混乱させ,国体の変革にもつながると敏感に感じ取っていた。海軍大臣米内光政大将は,鋭い政治感覚の持ち主である。

1945年8月14日の最後の御前会議では,陸軍(梅津・阿南),内閣(豊田)らの主戦派の意見を聴取した後,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。----戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下したという(御前会議引用)。

5.アジア太平洋戦争の敗戦は,終戦の聖断によって,決定した。しかし,1945年9月2日,東京湾上の戦艦「ミズーリ」で行われた降伏調印式では,米マッカーサー元帥の親日的占領政策,国体護持を予期させるものがあった。

1945年8月15日1200,「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴視者の皆様、ご起立願います」…「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこきも御自ら、大詔をのたらませたもうことになりました。これより慎みて玉音をお送り申します」。国歌「君が代」につづいて「終戦ノ詔書」を天皇自ら読み上げた。国民にとって初めて聞く天皇の肉声,「玉音放送」である。

大東亜戦争終結ノ詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ 万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所。 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ 亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ尽セルニ拘ラス 戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス。 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所 真ニ測ルヘカラサルニ至ル。

而モ尚交戦ヲ継続セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ。是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ。

朕ハ 帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ 職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク。且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ。

惟フニ 今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス。爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル。然レトモ 朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ。若シ夫レ情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ 為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム。
宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ。
              御名御璽
             昭和二十年八月十四日

写真(左):1945年8月30日 日本の厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官マッカーサー元帥:ダグラスDouglasC54輸送機「バターン」から厚木飛行場に降り立ったMajor General Joseph M. Swing, Commanding General, 11th Airborne Division, (left); Lieutenant General Richard K. Sutherland (3rd from right); General Robert L. Eichelberger (right).実は8月28日,厚木飛行場では海軍保安部隊からの派遣隊が守る日本軍将校(有末精三中将、鎌田金宣一中将、山澄忠三郎大佐)らが米先遣部隊の到着を受け入れている。C-46輸送機16機が8時28分に到着し,先遣隊(直属の部下のC.B.ジョーンズ海軍大佐、E.K.ウォーバートン第5航空軍大佐、民間技師のC.R.ハッチンソンとD.M.Dunne、SigC(通信隊)のS.S.オーチンクロス大佐とL.パーク大佐、ATISの通訳のF.バウアー少佐)を率いるチャールズ・P.テンチ大佐(GSC, of the G-3 section of GHQ)が降り立った。9時35分、15機のC-54、C-46、C-47の2番目のグループが到着,11時、15機のC-54の3番目のグループ到着。これらの飛行機は,総勢30名の将校と120名の通常装備の兵士を運んでいた。(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:マッカーサーレポートVol.2について参照)

中川八洋(2000)『大東亜戦争と「開戦責任」−近衛文麿と山本五十六』では,近衛は,ソ連のスターリンが望む方向に確信を持って日本を舵取りした共産主義者という。アジア太平洋戦争は,中国の共産化を促し、冷戦構造をもたらしたが,その元凶はスターリンと彼に協力した近衛文麿,尾崎秀実など日本政界・軍部の中枢にいた共産主義者であるとする。近衛上奏文は,近衛の正体を覆い隠す芝居であったと決め付けた。

しかし,「近衛日記」昭和十九年七月二日・十四日)(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)に、次のようにある。
 「当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しており、又第三インターは解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず。」

「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。現段階は、まさに此の方向に歩一歩、接近しつつあるものの如し。革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。予は此の事を憂慮する余り、陛下に上奏せる外、木戸内府に対しても縷々説明せるも、二・二六以来、真崎、荒木両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍終れりとなせるも何ぞ知らん。皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり。」(引用終わり)

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印団:前列;外相重光葵Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat),参謀総長梅津美治郎陸軍大将General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. 中列; 大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将Major General Yatsuji Nagai, Army; 終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男Katsuo Okazaki; 大本営海軍部(軍令部)第一部長富岡定俊海軍少Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; 内閣情報部第三部長加瀬俊一Toshikazu Kase; 大本営陸軍部(参謀本部)第一部長宮崎周一陸軍中将Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. 後列(左から右に): 海軍省副官横山一郎海軍少将Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; 終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎Saburo Ota; 大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐Captain Katsuo Shiba, Navy, 大本営陸軍参謀・東久邇宮総理大臣秘書官杉田一次陸軍大佐Colonel Kaziyi Sugita, Army. Naval Historical Center(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:ミズーリ号艦上の降伏調印式参照)

降伏文書調印にあたっての詔書:1945年9月2日降伏調印とともに交付された詔書「映像で見る占領期の日本」引用
朕は昭和二十年七月二十六日米英支各国政府の首班がポツダムに於て発し後にソ連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し、帝国政府及び大本営に対し連合国最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合国最高司令官の指示に基き陸海軍に対する一般命令を発すベきことを命じたり、
朕は朕が臣民に対し敵対行為を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の条項並に帝国政府及び大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
               御名御璽

Japan Surrenders

降伏文書:1945年9月2日ミズリー号艦上の降伏調印式で調印された文書「映像で見る占領期の日本」引用
下名ハ茲二合衆國、中華民國及「グレート・ブリテン」國ノ政府ノ首班力千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和國聯邦力参加シタル宣言ノ條項ヲ日本国天皇、日本國政府及日本帝國大本営ノ命二依り且之二代り受諾ス右四國ハ以下之ヲ連合國卜称ス

下名ハ茲ニ日本帝國大本営並ニ何レノ位置二在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ連合国二対スル無條件降伏ヲ布告ス

下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ワス一切ノ日本國軍隊及日本國臣民二対シ敵対行為ヲ直二終止スルコト、一切ノ船舶、航空機並ニ軍用及非軍用財産ヲ保存シ之カ毀揖ヲ防止スルコト及連合國最高司令官又ハ其ノ指示二基キ日本國政府ノ諸機関ノ課スヘキ一切ノ要求二應スルコトヲ命ス

下名ハ茲ニ日本帝國大本営力何レノ位置ニ在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下二在ル一切ノ軍隊カ無條件二降伏スヘキ旨ノ命令ヲ直二發スルコトヲ命ス

下名ハ茲二一切ノ官 、陸軍及海軍ノ職員二対シ連合國最高司令官カ本降伏実施ノ為適当ナリト認メテ自ラ發シ又ハ其ノ委任二基キ發セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スルコトヲ命シ並ニ右職員カ連合國最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任二基キ特ニ任務ヲ解カレサル限リ各自ノ地位ニ留リ且引績キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行ウコトヲ命ス

下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ條項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スルタメ連合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者カ要求スルコトアルヘキ一切ノ命令ヲ發シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

下名ハ茲ニ日本帝國政府及日本帝國大本営二対シ現ニ日本國ノ支配下二在ル一切ノ連合國俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所へノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ス

天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ実施スル為適当卜認ムル措置ヲ執ル連合國最高司令官ノ制限ノ下二置カルルモノトス

千九百四十五年九月二日午前九時四分日本國東京湾上二於テ署名ス
大日本帝國天皇陛下及日本國政府ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
        重光 葵
日本帝國大本営ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
       梅津 美治郎 千九百四十五年九月二日午前九時八分日本國東京湾上二於テ合衆國、中華民國、連合王國及「ソヴィエト」社曾主義共和囲連邦ノ為ニ並ニ日本國ト戦争状態ニ在ル他ノ連合諸國家ノ利益ノ為ニ受諾ス

連合國最高司令官 ダグラス・マッカーサー,合衆國代表 シー・ダブリュー・ニミッツ,中華民國代表者 徐永昌,連合王國代表者 ブルース・フレーザ,「ソヴィエト」社会主義共和國連邦代表者 クズマ・エヌ・ヂレヴィヤンコ,「オーストラリア」連邦代表者 ティー・ユー・ブレーミー,「カナダ」代表者 エル・コスグレーブ,「フランス」國代表者 ジァック・ル・クレルク,「オランダ」國代表者 シェルフ・ヘルフリッヒ,「ニュージーランド」代表者 エス・エム・イシット

加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』(下)pp.80-94は,降伏文書調印の日を次のように描写する。(「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用)
---ミズリー号に接舷してタラップを登る段になって、また、ひと苦労した。隻脚(上海事変の際に朝鮮人の投げた爆弾で右脚を失った)の重光全権が、ステッキをたよりに重い義足を引きずって、一歩一歩喘ぐようによじ登る姿は、実に、痛ましかった。----
上甲板は黒山の人だった。我々は両全権を最前列にして、そのうしろに三列に並んだ。すぐ前には緑の布におおわれたテーブルの上に降伏文書と覚しき書類が置いてあり、これをはさんで、戦勝国代表が一団になって立っていた。----色とりどりの服装に、肩章・徽章・勲章が眩しく輝く。周囲には褐色の軍服を着た米軍の将官が立ち並び、燃えるような憎悪の眼―と私は思った―を光らせている。後日知ったことだが、ハルゼイ提督などは、日本全権の顔のどまんなかを泥靴で蹴飛ばしてやりたい衝動をかろうじて抑えていたのである。
甲板ばかりではない。マストの上に、砲塔の上に、煙突の上に、実に、ありとあらゆるところに、さながら曲芸の猿のように、“観衆”は鈴なりになって、我々を凝視していた。---日本全権団の動作を、その一挙一動を、追っていたのである―露骨な敵意と無限の好奇心とをもって-----生れていまだかつて、人間の視線がこれほどの苦痛を与えるものだとは知らなかった。私は歯を食いしばって屈辱感と戦いながら、冷静を失うまいと必死に努力した。
ふと見ると、傍らの壁に小さな日章旗が描かれている。幾つもある。多分、ミズリー号が撃墜・撃沈した日本の飛行機・艦船の数に相当するのではあるまいか。----花と散り急いだ特攻隊の青年たち、彼らの霊がこの旗にこもっているとすれば、今日この調印式の光景を、そも、なんと見るであろうか...。

写真(右):1945年9月2日,東京湾上で日本降伏調印式Formal Surrender of Japanを宣言する連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥General of the Army Douglas MacArthur:戦艦「ミズーリ」USS Missouri (BB-63)艦上で ,英国Admiral Sir Bruce Fraser; ソ連Lieutenant General Kuzma Derevyanko; 豪General Sir Thomas Blamey; 加Colonel Lawrence Moore Cosgrave; 仏General Jacques LeClerc; オランダAdmiral Conrad E.L. Helfrich; ニュージーランドAir Vice Marshall Leonard M. Isitt. 米国陸軍Lieutenant General Richard K. Sutherland; 中華民国General Hsu Yung-chang; 米海軍Fleet Admiral Chester W. Nimitz. 掲げられている星条旗はペリー提督 Commodore Matthew C. Perryが,1853年に東京湾に来航した時のもの。

私の瞑想は靴音で破られた。足早にマッカーサー元帥がテーブルに向かって歩いて来たのである。マイクの前に立ち止まると、演説を始めた。演説はないはずだったから、意外だった。----元帥はこの演説において、理想や理念の紛争はすでに戦場において解決されたから、改めて議論する必要はない、といって、我々は猜疑や悪意や憎悪の気持に促されて今日ここに相会するのではなく、過去の流血と破壊のなかから信頼と理解にもとづく新しい世界を招来しようと切に念ずるものであると説き、自由と寛容と正義の精神を強調したのである。そして、最後に、占領軍総司令官の義務を「寛容と正義によって」履行する決意であると結んだ。私は、“tolerance and justice”という言葉が反復されるのを聞いて、我れと我が耳を疑った。
意外である。刀折れ矢尽きて無条件降伏をした敗敵を前にして、今日の場合、よもや、このような広量かつ寛厚な態度をとろうとは、まったく予期していなかった。----自制して静かに、自由と覚容と正義を説くのは、まことに立派だと思った。勇気に富むクリスチャンだと思った。そして、日本はこれで救われたと思った。そう信じた。私のみならず、艦上のすべての人は、ことごとく元帥に魅了されていた。----演説を終ると、元帥は厳しい口調で日本全権に降伏文書の調和を促した。

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上のサザーランド中将が重光葵外務大臣の降伏調印を見守る。右は,随員の外務省情報部長加瀬俊一。:Lieutentant General Richard K. Sutherland, U.S. Army, watches from the opposite side of the table. Foreign Ministry representative Toshikazu Kase(加瀬俊一) is assisting Mr. Shigemitsu(重光葵). Naval Historical Center.加瀬俊一の手記を読むと,彼ら宮中グループが,マッカーサー元帥を日本再建,国体護持の道筋を与えた人物とて,過剰といえるほどに,高く評価していることに驚かされる。東京裁判についても,同じ趣旨で,うまくいったと考えたはずだ。後になって,東京裁判は無効だというような自称保守派の意見を聞いたとき,内心,その浅はかさを感じたのであろう。

重光全権が進み出た。----「重光葵」と署名した。---続いて、梅津全権が署名し、次にマッカーサー元帥が署名した。---あとは、アメリカ、中国、イギリス、ソ連邦、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順番で戦勝国代表が次々に署名した。
これを見ながら、東海の孤島日本がよくもこれだけ多数の強国を相手にして、大戦争をしたものだと、いまさらのように、その無謀に驚く思いがした。それと同時に、これだけの政治家、外交官がいるのに、連合国側としても、なぜに日本を自暴自棄的な戦争に追いこんだのだろうか、と疑わざるを得なかった。国民政府代表が進み出た時には、アジアの二大国として親善たるべき日華両国が長く抗争し、いま、勝者と敗者に分かれて相対する悲劇を、形容に絶する哀感をもって味わった。
また、赤い軍服を着たソ連代表が胸を張って傲然と構えた際には、終戦に先だって日本政府がクレムリンに和平の仲介を依頼したにもかかわらず、中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦した経緯を想起して、一種の不潔感を禁じ得なかった。そのようなソ連を対日参戦に誘導したアメリカ外交も愚かであるが、対日戦争と対独戦争の終了は、やがて米ソ関係を冷却せしめるに相違ないと思われた。----VJデーの乾杯が期せずして米ソ反目の開始となる。とすれば、戦勝国の祝杯も必ずしも甘露ではなかったろう。


写真(右):1945年9月2日,東京湾の戦艦「ミズーリ」艦上の日本降伏調印式の終了;降伏文書の回収を行うKatsuo Okazaki 加瀬俊一は,日米開戦時には東郷茂徳外務大臣の秘書官兼政策局六課(北米担当)課長。加瀬俊一は,Lieutenant General Richard K. Sutherlandとやり取りをして,国名と代表者氏名の一致しないことを訴えた。

----元帥はおごそかに調印式の終了を宣すると、直ちに退場した。そこで、降伏文書(二通署名した)を一部受領せねばならぬ。私はサザーランド参謀長からこれを手交されると、その場でいちおう点検した。参謀長は、なにをぐずぐずしているのか、といわんばかりの態度で、頻りに我々の退場を目顔で督促したが、私は知らんふりをしてゆっくりと点検を続けた。すると重大な誤記がある。カナダ代表が誤って次のフランスの欄に署名したので、順送りに、国名と代表者名が一致しなくなったのである。私は参謀長にこれを指摘して、「これは持ち帰れない」といった。参謀長は当惑の態で、これで我慢しろというようなことを繰り返す[富岡定俊回想とは異なる]。結局、我々一行は正確な調印文書を受領して、天皇陛下に復命する義務があるのだ、といって押し問答をしたあげく、参謀長が所要の訂正を加えて体裁を整え、とにかくケリをつけた。


東京湾での降伏調印式直後の米海軍戦艦USS Missouri (BB-63) 上空の米軍航空部隊パレード:戦艦「ミズーリ」の40センチ三連装砲からみた日本の降伏調印式直後の F4U, TBM ,SB2Cの威力誇示の飛行。U.S. Navy carrier planes fly in formation over USS Missouri (BB-63) during the surrender ceremonies, 2 September 1945.

----これで式は滞りなく終了し、我々一行は、往路を逆に、再びランスダウン号に乗って、横浜港に向かった。---この時、----VJデーを慶祝して、四百のB29と一千五百機の艦載機が一大ページェントを展開した。その轟音の問から、マッカーサー元帥の本国向けの放送が流れる。これが、また、流麗豪壮な演説であるが、日本についてもその将来を期待して、「日本民族の精力が平面的でなく立体的に発動し、その才能が建設的に活用されれば、必ずや現在の悲境から脱出して、尊敬に値する国際的地位を回復するであろう」と大胆に予言したのである。

私は---急いで調印式の経過、とくにマッカーサー元帥の態度と演説の意味を詳説した報告書を認めた。重光全権はこれをもって直ちに参内した。----私はこの報告書を、「もし日本が勝っていたら、果して今日マッカーサー元帥がとった態度をアメリカに対して示し得たでありましょうか」という疑問で結んだ。これには陛下も暗然たる表情で同感の意を表されたのである。

いま、敗戦によって、国民がこの事実に思い至れば、それが、とりも直さず、再起の大道に連なるのである。マッカーサー元帥は、いみじくも、この大道を展望したのであってその意味で、我々に新たな勇気をふるい起させたのだった。元帥の演説は暗黒をつらぬく一条の光明だったといってもよかろう。

---私は首相官邸から議事堂へ急いだ。衆参両院議員が私の帰るのを待ちわびていた----とにかく憂国の情においては純真な人が多かった。調印式の経過を説明したうえ、「占領は厳格だと思う。だが、マッカーサー元帥は、“寛容と正義”を力説しているから、我が国の前途は必ずしも悲観するに当るまい。正しい主張ならば、元帥も快く耳を傾けるのではあるまいか。ただ、それには、今日を再出発の日として、全国民が一億一心となって祖国の再建に猛然と全力を結集せねばならぬと信ずる」という趣旨を訴えた。----盛んな拍手をあとにして辞去する時、私は、これこそ愛国心の爆発だと思った。マッカーサーにこの愛国の拍手をきかせたいと思った---。

その日も薄暮、私は情報部長として外人記者と初会見をした。----戦前からの顔見知りの者も少なくない。会見が終わっても、一人だけ居残った老記者がいた。彼は大きな手を差し出し、「けさは辛かったろうね。私も辛かった」という。温かい手だった。UP通信社のマイルス・ボーンだった。 
彼が立ち去ったあとで、なにげなく机の上に置いたシルク・ハットを取り上げると、美しく包装されたチョコレートが音を立てて転がり出た。金も、銀も、赤も、青も、緑もある。久しぶりに見る珍品だった。ああ、平和が戻った―そう思った、つくづくと。加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用終わり)

現在の保守派には,「米国への従属はけしからん」「独自外交を展開すべきだ」「戦後日本の個人主義教育が人身の荒廃をもたらした」と主張する政治家・指導者が多い。しかし,終戦後の保守派(宮中グループ)の政治家・指導者たちは,従来まで戦っていた敵国の温情を受け,親米派を主流とし,マッカーサー元帥の恩恵を肌身に感じて,彼を個人的に尊敬した。まさに,日本人を殺害してきた敵に,媚をうり追従していると錯覚してしまうほどの耽溺である。彼ら保守派の大先輩(宮中グループ)こそが,自らの身の処し方こそが,米国への従属,親米の立場を選択したのであり,それが日本再建の道であると確信していた。決して,米国の占領政策を押し付けられたとか,マッカーサー司令官の下で強要されたものではなく,日本の保守は自らの企図,すなわち国体護持と日本再建を実現してくれる政府が占領軍総司令部であり,マッカーサー元帥だったのである,保守派は,占領軍総司令部を利用して,国体護持と日本再建を図ったのである。このような米国従属を企図した親米保守派の政治的末裔が,反米,独自外交を唱えるのは,大先輩の深謀遠慮をないがしろにする行為のようにみえる。それとも,当時とは状況が変わって,国体は完全に護持された現状では,再び対米独立路線を歩むのが国威発揚につながると考えているのであろうか。

いずれにせよ,今の日本を作った,今の親米,米国追従路線を選択したのは,キュウチュウグループに代表される保守派である。その後に,大きな禍根を残したというのであれば,それは占領軍総司令部という外圧ではなく,新米保守は自らが引き起こした禍いであり,彼らがその責任を追うべきである。

大本営海軍部/軍令部作戦部長富岡定俊少将の回想(映像で見る占領期の日本:降伏調印式関係史料集引用)

降伏式の全権選定がまた一騒ぎだった。連合軍の指令で政府を代表する全権と大本営を代表する全権各一名と随員数名ということであったが、誰が行くかということになると皆いやだいやだで引き受け手がない。
重光外相の代表はまず動かんところだが、大本営はもめたあげく、梅津参謀総長が無理矢理に押しつけられた。海軍の代表の段になると、「梅津代表となれば総長だ」という者があったが、豊田総長は猪首を横に振った。「それじゃ次長(自決した大西中将の後任の高柳儀八中将)だ」と言えば「いやだ」という。とうとう「作戦に負けたのだから作戦部長行け」とのっぴきならぬ無理往生で私が海軍の主席随員にされてしまった。こういうところに、たしかに海軍はずるいところがあった。何しろ“降伏するぐらいなら死ね”と十八、九歳のころから五十歳近いその年まで長の年月たたきこまれた観念では、今から考えればおかしいぐらいだが本当に死ぬより辛かった。

午前八時過ぎ四隻並んで横浜埠頭践橋に横付けされていた米駆逐艦の一隻に乗った全権一行は上甲板の士官室に案内された。----重光全権らはモーニングにシルクハット、梅津全権は軍服に丸腰、随員もそれぞれこれ倣った服装である。
一行が乗艦すると駆逐艦は音もなくスルスルと横付を離したがわれわれはいつ横付を離したか気がつかなかったぐらい手ぎわがいい。日本の駆逐艦だったら----人の走る足音、相当やかましいはずだが、「こりゃ大したものだ、なかなか操船がうまいぞ」とちょっと意外な気持がした。 「今日は自動車で来る途中爆弾の一発ぐらいはくらうだろうと思ってたが」と臨員の一人が述懐した。


写真(右):1945年9月2日(日本3日),東京湾の戦艦「ミズーリ」での降伏調印式に出席した日本代表団;重光葵(外務大臣),梅津美冶郎参謀総長(海軍の豊田副武軍令部総長は欠席) and 梅津美治郎(陸軍大将・参謀総長)Chief of the Army General Staff. 後方は,左から右に:永井八津次(陸軍少将、大本営陸軍参謀);岡崎勝男(終戦連絡中央事務局長官);富岡定俊(海軍少将、大本営海軍部第一部長);加瀬俊一(内閣情報部第三部長), 宮崎周一(陸軍中将、大本営陸軍部第一部長)。さらに,後方は左から右に:横山一郎(海軍少将、海軍省出仕);太田三郎(終戦連絡中央事務局第三部長);柴勝男(海軍大佐、大本営海軍参謀(軍令部第一部), 杉田一次(陸軍大佐、大本営陸軍参謀、東久邇宮総理大臣秘書官)。「東久邇日記」九月二日によれば,「重光代表は政府代表は近衛公がよいと申し出てきたが、私は考慮中だといって確かな返事をしなかった。梅津参謀長も大本営代表は、参謀総長と軍令部総長と二人でなければいけないと再三いって来たが、私は返事をしなかった。しまいに、梅津は、『もし参謀長一人を代表とする時には自決する覚悟である』とまでいって来たが、私はなおも返事をしなかった。梅津は私に直接交渉はしなかった。私は近衛、木戸、緒方三大臣と相談して、重光、梅津を代表とすることにし、天皇陛下のお許しを経て、終戦処理委員会で発表し、三十一日の閣議で決定してしまった。これが国政をあずかる最高責任者の態度というものであろうか。」とある。

二、三十分すべるように静かな東京湾を走って、木更津と横須賀との中間位に停泊していた当時世界最大の戦艦ミズーリ号の付近に漂泊した。周囲には東京湾を埋めつくすかと思うくらい軍艦と輸送艦が停泊している。迎えのランチででミズーリ号に向かったが、隻脚の重光全権は大兵肥満の米水兵にまるで子供でも抱くように軽々と舷梯に抱きおろされた。案内の士官も兵隊のいたわり方も昨日まで必死の戦いを続けた憎たらしい敵国人だという様子がいささかもない。周囲に集まった水兵が皆カメラでこの情景を写そうとする。大の男が赤ん坊のように抱かれている姿はあまりみっともよくはない。外務省の随員が案内将校に「済みませんが、ここの写真はやめさせてもらえませんか」と頼めば、「オーライ」と気軽に引きうけて大声で号令すると皆カメラを引っ込めてしまった。

どんな取扱いを受けるか侮辱を受けるかと心ひそかに覚悟していた私は「オヤッ、これは大分見当が違ったぞ」と、ちょっと心を打たれた。
舷梯を上がると「ピーッ」とホイッスルが鳴る。まるでミズーリの艦長になったような扱い方だ。ミズーリ艦上では---テーブルが一つ、椅子が二つ、マイク数個が備えてあるばかり、机に向かって艦首の方に日本全権の席、向かい合って正面に連合軍各国代表、両方には米軍将星、山のように群れ集まった各通信員、映画班員のために桟敷が準備されている。定めの席につく間、だれ一人予期していた侮蔑的態度を示したものがない。八月十九日マニラに派遣された我が軍使が比島人から受けた非常な侮辱的取り扱いに比べてこれはまた何という違いだろう。式場の側壁には1852年、ペルリ提督来航の際の古い星条旗が掲げられていた。

どんな過酷な義務と懲罰を加せられるか、もしもの時にはと心配もし、心ひそかに覚悟するところのあった私は周囲の風物もあまり心にとまらなかった。目についたのは米軍将星の列の中で一人だけ戦闘帽をかぶったハルゼー将軍の姿であった。ブルと仇名されただけに精悍な面構え、この人ばかりは許すまじき面持でわれわれをにらみつけていた。
九時前後になって式が始まった。マッカーサー連合軍最高司令官が、マイクの前に立った。無造作な軍服姿だが堂々たる態度、声量豊かな声。「…戦は終わった、恩讐は去った。神よ!この平和を永遠に続けさせ給え!」最後の言葉を述べるとき元帥の目は空の一角に向けられその敬虔な態度と声音は、人に対して語る姿ではなかった。日に見えぬ神に捧ぐる誓いと祈りのほかの何物でもなかった。----しかし元帥のこの言葉と態度には心の底から組伏せられてしまった。恩讐の彼方にあるおおらかな気持、キリストの愛があの大きな胸に包まれている。それに引替え何と小さな島国根性であったかと心の底から打ちのめされた気持であった。不覚の涙で目尻が熱くなる。

日本の降伏が定まってから在日の外国の論調は無電で聴取していたが、峻厳そのもので、ただただ実力で押えつけて管理し変革するという線を越えたものは一つもなかった。然るにそのようなことは元帥の言葉にも態度にも微塵もうかがわれなかったのである。「ペルリ」提督の星条旗をかざったマッカーサー元帥の心が初めてわかった。

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上で日本降伏文書に署名するSupreme Commander Allied Powers (SCAP)マッカーサーDouglas MacArthur 元帥;連合軍最高司令官マッカーサー元帥の後方には,1942年にフィリピン コレヒドール島で日本軍に降伏した米国陸軍Lieutenant GeneralウェンライトJonathan M. Wainwright, とシンガポールで日本軍に降伏した英国陸軍Lieutenant General Sir パーシバルArthur E. Percivalがいる。二人とも,日本軍の捕虜収容所から解放されたばかりだった。署名に使用した金ペン軸(5本使用)は,ウェンライト中将とパーシバル中将に各1本プレゼントされた。

日本側全権の署名に引続き連合軍側の署名が始まった。マッカーサー元帥がバターン(降伏)のウェンライト将軍とシンガポール(降伏)のバーシバル将軍を従えて署名を始めたが四、五本用意されていた万年筆をとってダグラス・マッカーサーと署名を区切って、順々に両将軍をさし招きその万年筆を記念に渡して握手した。両将軍ともずいぶん痩せている、気の毒なような気がする。
次に米国代表のニミッツ提督が第三十八機動部隊司令長官マッケーン中将等を従えて米軍代表の列から出てきた。----いつも彼の写真を作戦室に掲げて今度はどういう手に出るか、どんな戦略で来るかと明暮れ睨めっこして頭を悩ました相手であった。---終始合理的な強靭無比な戦いぶりを見せた猛将で、どんな凄い風貌かと思えば、これはまた意外にも最もレファインされた紳士である。態度は鄭重謹厳で地味な様子、いつも日本海軍を馬鹿にするなと戒めていたというのももっともだと思われた。-----彼は恐らくは自分が全滅させた日本海軍の屍を踏みにじりはしないであろう。静かに花輪を置く人ではあるまいか。
ついてきたマッケーン将軍も瀟洒たる紳士でこれが日本全土を荒らし回った第三十八機動部隊の指揮官だったかと意外に思うような人柄であった。いつもこの機動部隊を目の敵にして狙っていたがついにその目的を達し得なかった私は、余人にはわからぬ感慨を覚えた。

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上で日本降伏文書に署名する Hsu Yung-Chang 徐永昌;連合軍最高司令官マッカーサー元帥に続いて,アメリカ合衆国代表のC・W・ニミッツ海軍元帥,中国(中華民国)代表 徐永昌将軍が署名した。

米国代表の次は中国代表の徐永昌将軍であった。この人は端正瀟洒な紳士だったが、代表の列にいる時から終始ソワソワして落着きが無く、前後左右と話をして外交辞令を振りまいている様子だった。戦捷者らしく傲然たるところがなく、何だか照れくさそうで、見ていても妙な感じだった。
次は英国代表フレーザー提督が四名の随員を従えて出て来た。皆純白の防署服半ズボン長靴下、---スマートなゼントルマンである。---
次はソ連代表デレビヤンコ将軍。アッここにも東洋人がいたという感じ。アングロサクソソに比べてズッと東洋人に近い。欧州でも日本でもずいぶんソ連人にも会ったが何の不思議もなく西洋人だと思っていたが、こうして各国代表を並べてくらべて見ると確かに違う。-----

各国代表が式場を去ったあとで、日本側が降伏文書を点検したところが、カナダ代表が署名欄を間違えていた。岡崎外務随員の要求にサザーラソド参謀長はいとも無造作に手ぎわよく訂正処理して、もし立場が逆だったらやるであろう「このまま持って帰れ、敗戦国が生意気言うな」といったようなところが微塵もないのがうれしかった。

また駆逐艦で横浜へ送られて東京へ帰る途中、行きも帰りも瓦轢の道は同じ、景色も同じ景色だが、今こそ完全に打ちひしがれた気持であった。「国亡びて山河あり」の無限の悲しみに、心はしめつけられるように苦しかった。
これなら「レジスタンスはやらないで済むな」と思い、帰ってから米内さんに報告したら「うんわかった。お前死ぬなよ」と言われた。ある先輩からも懇々とさとされて、私は古巣の海軍大学校の片すみに、みなさんのお骨折りで史料調査会を設け、今日まで戦史の研究をしている。(降伏調印式関係史料集 ・『文藝春秋』1950年9月号引用終わり)

1945年9月2日(日本3日)戦艦「ミズーリ」での降伏調印式におけるマッカーサー元帥の演説
MacArthur's Speeches: Surrender ceremony on the U.S.S. Missouri
降伏調印前
We are gathered here, representatives of the major warring powers, to conclude a solemn agreement whereby peace may be restored. The issues, involving divergent ideals and ideologies, have been determined on the battlefields of the world and hence are not for our discussion or debate. (理想とイデオロギーを巻き込んだ問題は,戦場で片がついたのであり,もはや議論の余地は無い。)Nor is it for us here to meet, representing as we do a majority of the people of the earth, in a spirit of distrust, malice or hatred. But rather it is for us, both victors and vanquished, to rise to that higher dignity which alone befits the sacred purposes we are about to serve, committing all our people unreservedly to faithful compliance with the understanding they are here formally to assume.

It is my earnest hope, and indeed the hope of all mankind, that from this solemn occasion a better world shall emerge out of the blood and carnage of the past ---a world dedicated to the dignity of man and the fulfillment of his most cherished wish for freedom, tolerance and justice.(過去の流血と大量殺戮の後に,自由,寛容,正義を重んじる威厳ある人々の前に,よりよい世界が現れることを希望する。)

降伏調印署名後の演説
Today the guns are silent. A great tragedy has ended. A great victory has been won....(今日,銃声がやんだ。大いなる悲劇が終わり,偉大な勝利が勝ち取られた。)

As I look back upon the long, tortuous trail from those grim days of Bataan and Corregidor, when an entire world lived in fear, when democracy was on the defensive everywhere, when modern civilization trembled in the balance, I thank a merciful God that he has given us the faith, the courage and the power from which to mold victory. ----We must go forward to preserve in peace what we won in war.(我々は,戦争で勝ち取った平和を,将来まで,保持しなくてはならない。)

A new era is upon us. Even the lesson of victory itself brings with it profound concern, both for our future security and the survival of civilization. The destructiveness of the war potential, through progressive advances in scientific discovery, has in fact now reached a point which revises the traditional concepts of war.(勝利の教訓は,我々の今後の安全保障,文明の生存への強い関心を引き起こす。)

----We have had our last chance. If we do not now devise some greater and more equitable system, Armageddon will be at our door. The problem basically is theological and involves a spiritual recrudescence and improvement of human character that will synchronize with our almost matchless advances in science, art, literature and all material and cultural development of the past two thousand years. It must be of the spirit if we are to save the flesh. (もしも,我々がより適切なシステムを構築できないのであれば,最終戦争ハルマゲドンはすぐやって来るであろう。問題は,基本的には,技術的ではあるが,同時に精神的再燃と人類の持つる性向の改善にも関連している。)

1945年9月3日(米国2日)の日本降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説は,内容を吟味しても,日本の戦争責任,戦後処理,兵士の復員,政治体制,国体,占領政策の具体像は述べられていない。にもかかわらず,多くの日本政府首脳陣や軍高官に感銘を与えたようだが,これはひとつには,降伏調印式の演出と日本代表段への丁寧な応対にあった。そして,降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説には,敵国日本とその軍隊への侮蔑的態度,政府首脳・大元帥昭和天皇への非難が無かったが,このことが,日本政府首脳陣や軍高官に,戦後日本の再建の期待を抱かせるものだったのである。

6.第二次大戦中,頻繁に連合国首脳会議が開催され,米英ソ仏中の対ドイツ・日本戦略が話し合われた。会談は,戦略重点の対立もあったが,無条件降伏という基本方針を貫いた。また,ドイツと日本の戦後占領統治についても議論されたが,欧州に比してアジアの戦後計画には,対日戦を担ってきた米国の影響力が強く,日本の戦後は米国に委託された形になった。

第二次大戦中の30回の連合国首脳会談に,チャーチル14回,ルーズベルト12回,スターリン 5回の出席で,軍人,外相の会談も多い。会談は,欧州戦と戦後の欧州・ドイツの取り扱いに関しての多く,枢軸国への無条件降伏の要求のように枢軸国を対象とした内容も,欧州優先の思想から言えば,ドイツを念頭においていたといえる。

大戦中の連合国首脳会議20回のうち,中国代表が率先して参加したのは,国連関連を除いて,1943年のカイロ会談1回だけで,日本と対日戦争が明示的に取り上げられた会談も5回に過ぎない。これは,対日戦争とアジアの問題については,米国主導で解決することが連合国の方針であったことを反映していると思われる。

連合国首脳会談で,日本の戦後処理が明示されていない以上,戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向を具体化する占領軍総司令官マッカーサー元帥にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,マッカーサー元帥の権威の大きさを熟知して,それに積極的に協力することによって,戦後日本の再建,国体護持に尽力したようだ。つまり,敗戦後の日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていたといえる。

7.アジア太平洋戦争の戦争責任追及の場として,東京裁判(極東国際軍事裁判)で,A級戦犯だけが断罪され,国体が護持された。1951年サンフランシスコ講和条約では,占領国日本は東京裁判の判決を受容する(強要される)ことで,国体を護持しながら,賠償金をかけられることなく国際社会への復帰を認められ,独立国として再出発した。東京裁判の判決やあり方については,疑義があるが,A級戦犯刑死者は戦後,靖国神社へ合祀された。

終戦とともに,鈴木貫太郎内閣(1945年4月7日〜8月17日)は総辞職したが,これは敗戦の責任を取ったということであろう。後を継いだ東久邇宮内閣(1945年8月17日〜10月9日)は,初の皇族内閣である。それまでは戦争責任が皇族に及ぶのを避けていたが,終戦の成果は,聖断によってもたらされたのだとすれば,皇族内閣によって戦争終結を実現したいとの希望があったのであろう。終戦の二週間後,1945年8月28日,東久邇宮首相は閣議後の会見で「全国民総懺悔をすることが、わが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩であると信じる」と語った。これは,敗戦の責任は,国民にあるとも受け取れる見解であり,戦争指導者の戦争責任をあいまいにするものであった。一億総特攻から一億総懺悔へ,「君主は豹変す」である。下村定陸軍大臣も「(敗戦ではなく)終戦と称してほしい」と発言したという。 (→ザ20世紀 昭和20年 終戦(敗戦)参照)

昭和天皇弟宮高松宮宣仁親王,元首相近衛文麿,内大臣木戸幸一,元内大臣牧野伸顕,内閣総理大臣秘書官・高松宮御用掛細川護貞,内閣副書記官長高木惣吉,宮内省松平康昌,外務省加瀬俊一,宮内庁御用掛寺崎英成など日本の宮中グループは,米占領軍上層部と連携して,日本の復興,国体護持,大元帥昭和天皇の訴追排除に尽力した。

戦後、近衛文麿は,東久邇宮稔彦王内閣で国務大臣を務めた。1945年10月4日にマッカーサーを訪ねた。そこでは,開戦においては天皇と宮中グループは,陸軍に引きずられてやむをえず開戦に同意させられたと説き,皇室と財閥を除けば日本に共産主義革命が起こると述べた。サザーランド参謀長,アチソン顧問は,近衛を信頼して大日本帝国憲法の改正を託たという。

しかし,1945年11月には,近衛の戦争責任が追及されるようになり,『世界文化』に掲載された評論では,日中戦争・太平洋戦争の開戦の責任を軍上層部に転嫁し、自分が軍の独走を阻止できなかったことは遺憾であると釈明したという。1945年12月6日にGHQから巣鴨拘置所出頭命令を受けたため,昭和天皇に戦争責任が及ばないようにと,荻外荘で青酸カリを飲み自殺。(→wikipedia近衛文麿引用)

戦後1945年12月18日の近衛文麿自殺については,メモの形で遺された「心境」が,息子通隆によって,午前三時前次のように発表された。(終戦前後2年間の新聞切り抜き帳(19)近衛公の自殺20.12.18引用)
 「僕は支那事変以来多くの政治上の過誤を犯した。これに対して深く責任を感じてゐるが所謂戦争犯罪人として米国の法廷において罰を受けることは耐へ難いことである。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこその事変解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は米国との誤解にありとの結論に達し日米交渉に全力を注いだのである。その米国から今犯罪人として指名を受けることはまことに残念に思ふ。しかし僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国においてさへそこに多少の知己が存在することを確信する。」

 通隆と二人だけで午前一時頃から二時まで語り合った主な事柄は,次のごとく発表された。
・自分は日支事変の解決、日米交渉の成立に全力を尽くしたが力及ばず今の事態に立ち至ったことを遺憾とし上は陛下に対し奉り下は全国民に対し責任を痛感してゐた。
・国体維持の問題については自分が全力を尽くして護って来たところのものである。これは国民、別して近衛家としては当然さうあらねばならないと強く主張した。(引用終わり)

写真(右):1946年東京裁判の開廷された市ヶ谷の陸軍省・参謀本部があった建築物の一部分:1937年6月に竣工した陸軍士官学校本部庁舎であり、1941年以降は、左側に陸軍省、右側に参謀本部が入った。自衛隊の市谷駐屯地に防衛庁が移転し,多くの建物が取り壊されたが、歴史的価値のある一号館の一部のみが記念館として移設保存された。東京裁判の法廷とされた大講堂と、旧陸軍大臣室が残されている。写真の「市ヶ谷記念館」は,本来の建物の5分の一ほどしか残されていないので注意されたい。

1946年、敗戦国日本で、捕虜虐待や住民殺害などの戦争犯罪だけではなく,「平和に対する罪」と「人道に対する罪」について,容疑者の公開裁判が行われた。戦勝国が一方的に「敵性人物」を処刑するのではなく、公開裁判に付したのは驚くべきことである。1946年の極東国際軍事裁判=東京裁判では、A級戦犯(戦争指導者として起訴)が裁かれた。

東京裁判には,日本軍が再び世界の平和・安全保障の脅威とならないようにするという目的と,占領した日本を,親米の国に変換するという二つの目的があった。連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) ダグラス・マッカーサーは、占領国日本の統治において大元帥昭和天皇の協力を不可欠と考えたために、国体を維持し,大元帥昭和天皇の訴追も退位も行わなかった。

戦後,宮中グループは,対米英太平洋戦争を否定して戦時中の日本の軍国主義者を指導層から排除すること,天皇の戦争責任から解放し,国体を護持することを企図し,その目的を達成するために,極東国際軍事裁判(東京裁判)の意義を認めた。そこで,宮中グループは,国際検察局に積極的に戦犯リスト情報を提供し協力関係を築こうとした。宮中グループは,天皇を擁護するためには,戦争責任を誰かが引き受けなくてはならず,それは東条英機などA級戦犯であると考えた。内大臣木戸幸一が提出した「木戸日記」は,A級戦犯の選定に寄与した。

 満州事変,日中戦争,対米英太平洋戦争は,陸軍強硬派が主導したように言われるが,それに同調した海軍はもちろん,宮中グループ,官僚,財閥も連座している。そして,最終判断を下した大元帥昭和天皇も無関係ではない。

しかし,東京裁判では,アジア太平洋戦争の責任は,主に陸軍上層部に押し付けられ,宮中グループは,大元帥昭和天皇の意思を踏まえて,和平を望んだが,経済封鎖された状況で,日本の内乱・革命を防ぐために,やむをえず対米英太平洋戦争に踏み切ったとの立場を堅持した。大元帥昭和天皇,宮中グループ,官僚,財界,そして,国民は,戦争犠牲者であって,戦争責任はない。戦争責任を負うべきなのは,A級戦犯であるという歴史認識を作り上げた。これは、戦勝国のみならず、敗戦国日本の日本人指導者の意図でもあった。

 このような戦争責任論は,冷戦が激化する中,米英にとっても都合が良い。冷戦の開始によって,米国の占領政策は,非軍事化・民主化から反共化に移っていった。日本を親米国家にして,米国の同盟国に育成する戦略が採用された。この戦略を担うための日本側の政治勢力が,保守的な宮中グループであり,1948年10月に成立した吉田茂内閣だった。吉田茂は,内大臣牧野伸顕の娘婿で,新米保守の日本を方向付けた。(→極東軍事裁判参照)

写真(右):1948年東京裁判に出廷した東條英機元首相:勲章や肩章など全ての虚飾を剥ぎ取られた軍服を着ている。Former Prime Minister Hideki Tojo testifies during his trial at the old War Ministry building in Tokyo in 1948.
東條英機(とうじょう ひでき 1884年7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年12月23日):1940年第二次近衛文麿内閣で陸軍大臣,1941年内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣,1942年外務大臣を兼務。1943年文部大臣・商工大臣・軍需大臣も兼務。1944年参謀総長も兼務。サイパン陥落後、首相辞職。予備役に就く。戦後,拳銃自殺図るも失敗。 東條首相は,天皇親政を実りあるものにするために,頻繁に上奏を繰り返し,天皇の意思を汲み取りながら国政に尽くした。忠臣として,昭和天皇からも信頼されたからこそ,首相・陸相・内務大臣・外務大臣・参謀総長など兼ねる独裁が可能になった。東條英機大将は,大元帥昭和天皇に有無を言わさず日米開戦を認めさせたとの証言をしたが,これは天皇を訴追から守るための偽証だった。東京裁判では,開戦の全責任を引き受け,処刑された。このような,ディールは,マッカーサー元帥,フェラーズ准将など米軍上層部と日本の宮中グループの協力で可能になった。東京裁判の最大の意義は,国体護持を貫徹したことにある。これを抜きにして「東京裁判史観」を論じても本質に迫ることは出来ない。

東條英機宣誓供述書 (東京裁判をぶっとばせ引用)には,アジア太平洋戦争が自衛戦争・植民地解放戦争であったこと,天皇に開戦の責任は無いことが述べられている。
「----当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つたという事がただ一つ残された途でありました。----「東亜開放」とは東亜の植民地ないし半植民地の状態にある各民族が他の民族国家と同様世界において対等の自由を獲んとする永年にわたる熱烈なる希望を充足し、以て東亜の安定を阻害しつつある不自然の状態を除かんとするものであります。
 第一の問題は---私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。

 第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。

(1941年)11月5日決定の帝国国策遂行要綱に基く対米交渉遂に成立するに至らず帝国は米英国に対し開戦す」以上の手続により決定したる国策については、内閣および統帥部の輔弼および輔翼の責任者においてその全責任を負うべきものでありまして、天皇陛下に御責任はありませぬ。」 (東條英機宣誓供述書 ;東京裁判 東條英機 後編引用))

東京裁判における対米関係としては,大元帥昭和天皇の戦争責任を認めないという点が最も重要である。A級戦犯は,大元帥昭和天皇の免責のために犠牲的精神を発揮し(させられ),全ての責任を引き受けた(引き受けさせられた)。その意味で,東京裁判では,日本の再建と国体護持を願う宮中グループと米国における対ソ・反共産主義グループの協力が指摘できる。米英政府高官と米軍上層部は,国体を護持することが,米国の支配下で,日本の政治的安定と産業界・経済の復興に繋がると判断した。東京裁判を無効であると強弁する人たちは,大元帥昭和天皇を超A級戦争犯罪人として訴追し,処刑するつもりがあるのか。

日本のアジア太平洋戦争後の国際社会復帰は,1951年のサンフランシスコ講和会議と講和条約による。その中で,東京裁判(極東国際軍事裁判)の結果を完全に受諾したことを表明した。国体が護持された以上,日本政府は大満足であった。「東京裁判は無効だ」として,大元帥の戦争犯罪を問題にする政治家はいなかった。



写真(右):大元帥昭和天皇
;満州事変,日中戦争,太平洋戦争と昭和期の日本陸海軍の総司令官,統帥権の保持者として,戦争指導を行った。幼いときから一流の帝大教授,将軍に直接学び,帝王学を身につけた。

1889年2月11日公布の大日本帝国憲法は,「皇朕レ謹ミ畏ミ 皇祖 皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ継承シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ」という告文で始まり,「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在 及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ」との憲法発布勅語が続いている。

天孫降臨の神勅を引き継いだ天皇は,神格化され,現人神(あらひとがみ)として統治を宣言した。この重要なお言葉こそが,日本の基盤「国体」を表現している。条文の解釈よりも,このお言葉こそ,天皇中心の国体を表現している。

第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 」とし,第四条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とした。大臣,陸軍参謀総、海軍軍令部長らは,天皇の統治権・統帥権を補弼するにすぎない。天皇は,立法・司法・行政の三権を総攬し、大元帥として陸海軍の統帥権を持つ絶対的存在だった。

軍事について,天皇の権威は絶対である。第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」,第十二条「天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」,第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」として,国軍の統帥権,軍の編成権,軍事予算の決定権を保持し,宣戦布告と講和の全権を握っていた。立憲君主制のような議会主義,国民主権,軍のシビリアンコントロールは,全く想定されていない。明治から敗戦までの天皇制は,絶対君主制である。天皇が与えた欽定明治憲法が国体・天皇の存在の根拠であるはずがない。皇祖神話が天皇制の基盤であり、誰からも掣肘されることのない天皇は、絶対権力を持つ(神聖にして侵すべからず)。当時の天皇制は,立憲君主制ではなく,「啓蒙絶対専制君主制」である。

しかし,第三条で,「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」として,天皇無答責を定めた。国内法によれば天皇に戦争責任は及ばないことになる。

⇒◎東京裁判:東條英機と国体護持参照

戦争,特に民間人も動員される総力戦がもたらした惨状に向き合うことなく、自己の主張する大義を説いても,戦争の本質はつかめない。鳥飼研究室としては,戦争の大義,イデオロギー,国家戦略の前に,終戦の経緯や東京裁判の意義が誤解されたり,プロパガンダが展開されたりしたという事実を認識し,戦争が、大義やイデオロギーの当否,あるいは政治制度いかんにかかわらず、大量破壊、大量殺戮をもたらすという帰結を冷静に把握したいと思う。

戦争を正当化する大義を認めれば,お互いが自己の大義を振りかざすだけで,破壊と殺害が正当化されてしまう。あくまでも,平和の理念,各人の幸福,国の盛衰を,戦争よりも優先して,考えるべきであろう。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との戦争論を見直したいと思います。
鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。2006年5月6日以来Counter名の訪問者があります。写真,データなどを引用する際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

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