鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
戦争画:アッツ玉砕とサイパン玉砕の神話 2006
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◆戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕◇ War Pictures


図(上左):従軍画家カー・アイビー1944年作「幽霊の行軍」(ブーゲンビル島の米軍将兵)
:Ghost Trail;Kerr Eby,Charcoal and pastel, 1944.Gift of Abbot Laboratories.NAVAL HISTORICAL CENTER引用。Kerr Ebyは1899年東京生まれ。アボット研究所Abbott Laboratoriesの戦場芸術家プログラムcombat artist programに参加し,1943年10月から1944年1月まで,南太平洋方面の海兵隊に配属。タラワTarawa環礁上陸作戦,ブーゲンビルBougainville島の戦場で暮らした。ブーゲンビル島では熱帯病に罹患し衰弱,帰国。1946年死亡。 図(上右):カー・アイビー1944年作ブーゲンビル島で戦死した米海兵隊「軍曹の最期の権利」 :Last Rights For the Sergeant;Kerr Eby,Charcoal, 1944,Gift of Abbot Laboratories.海兵隊が近くに埋葬された戦友を想い黙祷する。Numbers of humble graves like his line the long road toward Pacific victory.(このような沈黙の勇者の墓が太平洋戦争の勝利に連なる。)ブーゲンビル島はガダルカナル島よりも南東にあり,日本軍の最前線飛行場もあった。機上の山本五十六大将が暗殺された場所でもある。

図(右):スタンディッシュ・バックスStandish Backus1946年作「広島の園、秋」Garden at Hiroshima, Autumn:Standish Backus (1910-1989).In 1945 he was transferred to the Bureau of Naval Personnel to assist in establishing a special Graphic Presentation Unit. Late in the War Backus was assigned to cover operations in the Pacific as a Combat Artist.

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15-19世紀の戦争画;ブリューゲル,ボス,ゴヤ

玉砕戦の真実:アッツ、タラワ、サイパン、ペリリゥー、沖縄

1.日本軍による「特別攻撃」は,1941年12月の日米開戦劈頭における真珠湾奇襲に際して,特殊潜航艇による真珠湾突入,雷撃作戦として行われ、潜水艇搭乗員9名は「九軍神」として賞賛され。九軍神を称える歌が作られ、藤田嗣治は,第1回大東亜戦争美術展(1942年開催)に大作「十二月八日の真珠湾」を出品した。

甲標的は、1941年12月7日,真珠湾の米軍艦艇を雷撃するために湾内に侵入しようとした。しかし、座礁した潜航艇が真珠湾攻撃の翌日に米軍により引き揚げられた。その後,米本土に運搬され,各地を巡回して展示された。これは,戦時国際の販売目的のためである。特殊潜航艇「甲標的」は真珠湾の湾口に待機していた伊号潜水艦5隻から各1隻,合計5隻が発進した。1941年12月7日(現地時間)のことである。


図(左):「九軍神」(真珠湾攻撃で戦死した甲標的5隻の搭乗員10名のうち9名);甲標的は,搭乗員2名で,出撃した5隻の10名の搭乗員のうち,戦死したのは9名。捕虜となった酒巻少尉は,日本海軍の恥部として,軍神からはずされ,闇に葬られた。中央に描かれているのは真珠湾に浮かぶフォード島Ford Island で,ヒッカム飛行場がある。作者不詳。捕虜となった酒巻和男少尉を,日本軍は黙殺した。画家もそれを知っていたであろう。非国民として黙殺した。


特殊潜航艇が,米海軍駆逐艦に攻撃され撃沈。残りの甲標的1-2隻が真珠湾内に進入。雷撃できたようだが,戦果を挙げることはなかった。

しかし,日本では,真珠湾への特殊潜航艇による特別攻撃で米戦艦を撃沈したと公表した。潜航艇搭乗員10名のうち,酒巻和男少尉は捕虜となったため,戦死した9名が「九軍神」として讃えられた。1943年4月8日 「九軍神」合同海軍葬。日比谷公園斎場 葬儀管理者は海軍大臣嶋田繁太郎が勤めた。捕虜となった事実とともに特殊潜航艇搭乗員酒巻少尉は抹殺された。

真珠湾への特殊潜航艇による特別攻撃

『画報躍進之日本』1940年9月号 東洋文化協会発行。1940年7月22日に第二次近衛文麿内閣成立後,9月27日に日独伊三国軍事同盟が締結された。これを発表するかのような近衛首相の演説が画報の表紙を飾った。白黒写真しか普及していない時代,カラーの絵画・着色写真には,大きなインパクトがあったはずだ。10月には既成政党を解散して挙国一致の大政翼賛会の結成を図る。しかし,一党独裁は日本の国体(天皇制)に相容れないため,新党の結成には至らなかった。10月12日の大政翼賛会の発足式でも首相は「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」と放言した。その後,政党が混乱,解散する中で,軍部と官僚の主導(輔弼力?)が高まる。1941年7月28日にフランスのインドシナ半島植民地「南部仏印」に進駐(軍事占領)。米国の対日制裁が強化され,日米和平交渉も行き詰まった。9月6日御前会議で修正した『帝国国策要綱』で10月下旬の対米英蘭戦争を決意。『神戸市「戦争体験を語り継ぐ貴重な資料」所蔵を引用


図(左):Collier's Magazine 1942年12月12日号の表紙:1941年12月7日,真珠湾に爆弾を投下しようという大元帥昭和天皇を擬した翼のある悪魔。Cover art by Arthur Szyk depicting a batlike caricature of Hirohito flying above Pearl Harbor, getting ready to drop a bomb米国雑誌Time(1945年5月21日号)表紙「大元帥昭和天皇」もある。そこでは「米国はドイツ降伏後の欧州から太平洋に軍を回しているが,それは現人神に対する戦いのためである。わが無敵艦隊は天皇の島を壊滅させ,航空部隊は天皇の町を焼き払った。わが陸軍は,天皇の土地の侵攻準備中。--米国人にとって,日本の現人神は,がに股の薄っぺらなちびに見える。(To them this god looked like a somewhat toothy, somewhat bandy-legged, thin-chested, bespectacled little man...)」と述べた。


昭和17(1942)年4月発行 月刊誌『画報躍進之日本』第7巻第6号に掲載された「殉忠特別攻撃隊九軍神の逸話」

 特殊潜航艇は岩佐大尉が幾度か上官に懇願し,無暴にも近いこの特別攻撃実施に当たっては、これを許す上官達としてまた骨身を削る熟慮を重ね、検討に、検討が加へられそして最後に沈黙の提督山本司令官の「断」となったのだ,成功の確算もさる事ながら、志願勇士の烈々たる熱意に深く打たれての「断」であったに違ひない。

----数ケ月後に来る「死」のために、猛訓練を續ける心は何といふ崇高な心情だらうか。時は遂に来た、十二月八日真珠湾攻撃「果たして自分等の微力がよく敵の艨艟を沈める事が出来るか、たゞ大君の御為に醜の御楯となればよいのだ」まことに貴い精神力と云ふよりほかはない「死よりも強し」とは此の事を云ふのだらう
勇士達は、襦袢から袴下まで新しいものに着更へ上官に最後の申告を行った。勇士達は「行って参ります」とは云はなかった、生還を期さないからだ

-----「アリゾナ型」戦艦--を見かけて一隻の特殊潜航艇が、海豹の如く進んで行った、瞬くうちに、遥か真珠湾内に一大爆発が起こり火焔天に沖し、灼熱した鉄片が花火のやうに高く舞ひあがった。(→昭和17(1942)年4月発行 月刊誌『画報躍進之日本』引用終わり)



ドイツのパウル・パドゥア1941年作「1941年5月10日」(西部戦線攻勢)"Der 10. Mai 1940" by Paul Matthias Padua, 1941 :この日,ミューズ川を渡河し,中立国ベルギーに侵攻。西部戦線攻撃第一日目である。その後,迂回して,アルデンヌを突破してフランスを屈服させた。ドイツ国防軍の勇士たちの力強く統制の取れた渡河作戦の絵画は,ナチスドイツ勝利を暗示している。1931年に火災で焼失したミュンヘン美術館を引き継いで,1937年にドイツ芸術館が完成した。開館式には,アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler総統のほか,ヒムラー Heinrich Himmler 親衛隊司令官,ゲッペルスJosef Goebbels宣伝相、トロースロ教授婦人も出席した。日本の「大東亜戦争美術展」も華やかだのだろう。((Third Reich in Ruins:Haus der Deutschen Kunst, Munich;Geoff Walden引用)

1941年12月7日,真珠湾への特殊潜航艇による「特別攻撃」が行われたが、それは,部下の志願による犠牲的精神の発露であったとする見解が、流布された。軍が命じたのではなく、戦局困難な状況で、部下が自発的に特攻を申し出て、上層部がその熱意にほだされて、特攻を認めた---。こういうありえない理由で、1932年2月の第一次上海事変「爆弾三勇士」,1941年12月の真珠湾への特殊潜航艇による特別攻撃,1944年10月の神風特別攻撃隊が説明されている。

神風特別攻撃隊:特攻第一号関行男大尉の神話


図(左):藤田嗣治画「十二月八日の真珠湾」:米海軍基地の真珠湾と湾内フォード島飛行場の攻撃の様子。攻撃成功、日本海軍の大勝利を伝える。1942年の2.7M×1.7Mの大作。水柱が立ち上り、大戦果を暗示する。藤田嗣治は、戦後フランスに移住し、ランスには、藤田作成の壁画・十字架を飾る「フジタ・チャペル(la chapelle Fujita)」がある。戦争画を描いたからといって,大量破壊、大量殺戮を賛美したわけではない。自存自衛、大東亜共栄圏の確立、国体護持ためなど、戦争には公式の大義がある。戦争=悪、という見方を藤田嗣治はとらなかったはずだ。NAVAL HISTORICAL CENTER、Online Libraryに保管されているデジタル画像より引用。

Japan and the Second World War in Asia ;Fujita Tsuguji, "The day of the Saipan gyokusai [Saipan-to gyokusai no hi]" (oil). Theodore F. Cook, Jr. William Paterson Universityは、多角的視点から藤田の戦争画を取り上げている。特攻(自爆攻撃)を正当化するのには,宗教にも似た家族愛、祖国愛、国体護持などの高次元の精神を体現する必要がある。

森谷南人子(なんじんし)(1889-1981年)は,「軍神の生家」(尾道市立美術館所蔵)を描いた。これは,真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇で潜入した北広島町出身の上田定・兵曹長の生家が描かれている。そこを通り過ぎる通学中の小学生(国民学校生徒)三人が,軍神の萱葺きの平屋の生家に頭を垂れている絵である。

軍の組織の力よりも,一軍人の精神力,努力のほうが,文化人にとっても,芸術表現にふさわしいかもしれない。


門馬春嶽1943年作「山本五十六元帥」:連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を成功させたが,ブーゲンビル島前線視察中に,米軍戦闘機に襲撃され,機上戦死。軍神として国葬。NAVAL HISTORICAL CENTER、Online Libraryに保管されているデジタル画像より引用。

真珠湾攻撃の特別攻撃隊は「九軍神」とされ、靖国神社に御霊を合祀され、軍神となった。殉国者とその遺族にとって最大の名誉である。戦死者の遺族は靖国神社の軍神となり,合祀されることで癒される。軍人恩給・遺族年金などの補償と高次元の宗教的慰安の二種類の慰めが遺族に提供される。

 米国でも星条旗に忠誠を誓って、総力戦に賛意を表明し、動員に全面的に協力しなくてはならない。日米の個人的なつながり、交流は、総力戦の前に否定され、黙殺される。敵も親であり子供である、敵にも家族があるという親近感は暗黙裡に排除される。敵は,鬼畜,野獣であり,悪魔である。人間ではない。自爆テロリストに対するメディア報道と同じである。総力戦では,事実理解や真理追究よりも敵愾心を燃やして、戦意向上を図ることが優先される。日米双方とも,文化人を動員した芸術上の総力戦が展開されたが,これは芸術足りえるのであろうか。

◆1941年12月7日(日本時間8日)真珠湾攻撃
靖国神社:軍神と戦没者追悼


日本軍の特別攻撃は,将兵の犠牲的精神の発露として,自然発生的に始まったとする「特攻玉砕自然発生説」が唱えられるが,これは,次の理由から否定される。
…召阿忙爐未戮状況にはない人間は、残されるもの、家族のことを考え,死ぬことに苦悩し,司令官に憤り,日本の将来を心配していた。
軍上層部の命令によって,特攻兵器が開発,生産されていた。
B莪貔将兵の発意で、陛下から頂いた航空機を無断で自爆させる身勝手は,軍隊の鉄の規律の前では許されない。
ぢ莪貔の将兵が「特攻作戦」を計画,組織,実行するだけの権限,人員,機材をもっていない。
1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,特攻兵器を開発し,特攻作戦を立てている。日本海軍は,1944年7月中に人間爆弾「桜花」,人間魚雷「回天」,特攻艇「震洋」の開発を決定した。陸軍も特攻艇「マルレ」を配備し,1945年には,特攻専用の航空機キ-115「剣」を試作,量産した。

1944年7月,サイパン島を失った日本陸海軍は,米軍による本土空襲に恐れおののき,特攻兵器の開発・生産,特攻隊の編成を本格的に進める。1945年4月末,沖縄戦の敗退が明らかになると,本土決戦を目指した全軍特攻化,「一億総特攻」を決定。死を賭して,守るべきは日本の国体である。

1945年1月25日、最高戦争指導会議(総理大臣、外務大臣、陸海軍大臣,参謀総長、軍令部総長が出席し,天皇が臨席)で決定された「決戦非常措置要綱 」では、「物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ 以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」とした。そして「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」と,全軍特攻化の方針を決めた。

「一憶総特攻」を唱えるのであれば,高級軍人か、軍籍ある宮様が、特攻機あるいは水上自爆艇に一人乗り込んで体当たりを仕掛けるのがよい。彼らが,「一億総特攻のさきがけ」となれば,日本陸海軍の一兵卒から小国民にいたるまで、感服したはずだ。しかし,そんなことは起きないうちに敗戦となった。

図(右):米国アルバート・ムレイ作「ニミッツ提督」Fleet Admiral Chester W. Nimitz, USN;Albert Murray.ニミッツ提督(元帥)が戦艦ミズーリ艦上の日本降伏調印式(1945/9/02)に参列したときの写真をもとにした絵画。右にマッカーサーDouglas MacArthur元帥,ハルゼーWilliam F. Halsey大将が控えている。後方の影に,軍門に下った日本の重光葵外相・参謀総長梅津治三郎陸軍大将以下の降伏使節団。出席した栄光の日本海軍の最高位は,軍令部第一部長富岡定俊海軍少将。ニミッツ元帥とは比較にならない。降伏調印式への出席を拒んだ海軍大臣米内光政大将,海軍軍令部総長豊田副武大将,連合艦隊司令長官小沢治三郎中将を有能なリベラル派海軍軍人と評価するのはいかがなものか。Naval Historical Center 引用。

敗戦後,日本画家の描いた戦争画は,一転して,戦争協力画,戦争賛美画として,悪の烙印を押された。政治家・元軍人の変節はすばやかったが,戦争画はそのままの形で残ってしまった。戦時中にもてはやされた戦争芸術家は,言い逃れはできなかった。

敗戦後,特攻作戦失敗の責任,敗戦の責任をとることは,日本軍上層部にとっては苦痛であり,結局,責任は放棄された。自らは特攻に出ず,部下に特攻を命じた司令官・参謀は,自己保身的な卑怯者のように感じて、苦しかった。特攻作戦で3000名以上の若者の命を犠牲にしたものの,敵の軍門に下った将軍は「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」の戒めを破った。その心理的負担を取り除くために,「特攻は第一線の若い将兵の発意,犠牲的精神の発露である」という特攻自然発生説を信じ込んだ。信じさせようとした。

敗戦後,仇敵の米国,占領軍総司令官マッカーサー元帥を信頼して,それに積極的に協力し、国体を護持した有能な政治家・元高級軍人は、最大級の転向者,変節漢のように見える。それとも「君子は豹変す」なのか。あるいは,戦時中から,連合軍に共鳴していた「仮面リベラル派=非国民」だったのか。

芸術家は,人間の心情を解き明かし,国家の栄光や興亡というロマンに感銘し,それを物語として表現しようとするのに長けている。しかし,特攻や戦争とその悲劇・栄光は,戦術・戦略,経済社会,生活について,実証的・理論的に分析して,初めて明確なものとなる。心情,精神,思想,宗教,伝統など文化問題だけに着目し,無形のものだけを素材にすれば,創作者は,戦争をいかようにも芸術表現できる。



現代でも戦争や特攻に関しては,たくさんの有名文化人が活躍の場を与えられている。これはそれだけの市場,資金が存在することを意味するが,彼らの才能が,芸術的表現を通じ,発揮される場でもある。

2.連合国でも,有名な画家を,従軍画家,戦場公式画家として,前線の部隊に配属した。芸術家を動員して,彼らに戦場を,そこで戦う将兵を描かせたのである。芸術家は,自己の才能を活かせる場所あるいは自己実現の場所として,従軍画家を志願したようだが,「自由と民主主義を守る正義の戦争」という大義を信じて,戦争協力した側面も強かった。日本やドイツと異なり,戦勝国,自由と民主主義を守ったという認識に支えられて,戦争画かは,戦争を描いたことを誇りにしているようだ。


写真(上):米海軍画家グリフィス・コール1944年作品「日本軍の真珠騙し討ち」
;"The Japanese Sneak Attack on Pearl Harbor" Charcoal and chalk by Commander Griffith Bailey Coale, USNR, Official U.S. Navy Combat Artist, 1944. U.S. Navy Art Gallery所蔵, Washington, D.C. 卑劣なだまし討ちによって大損害を受けたが,これを絵画として表現することで,日本の騙まし討ちの卑劣さと,報復のための戦争協力をすることが主張されている。「真珠湾騙まし討ちをしたジャップを撃つべし。」これは反日プロパガンダを企図した戦争画なのかもしれない。


米海軍画家グリフィス・コールGriffith Baily Coale(1890-1950)は,1941年にニミッツ提督に艦艇に乗って海軍の戦争画を描く従軍画家と戦争記録画の必要性を訴えた。すでに第一次大戦の時,英国では海軍従軍画家プログラムを採用して成功していたからである。

1941年8月8日,米国の参戦前,コールは海軍予備仕官(中佐)として, 戦争芸術家Combat Artistとして採用された。始めは北大西洋での 米潜水艦について仕事をした。次に,日本軍奇襲攻撃後の真珠湾を訪れ,その悲劇をスケッチした。また,ミッドウェー島に派遣され実情を把握した後,「ミッドウェー海戦での勝利」Victory at Midwayを出版した。次に,東南アジアの英領セイロン島に派遣され2枚の作品を完成させたが,現在はない。(WASHINGTON NAVY YARD:WASHINGTON DC 20374-5060より意訳)


図(右):米国従軍画家カー・アイビー1944年作「長い沈黙」(タラワ上陸戦の戦死者を眺める海兵隊員)Long Thoughts;Kerr Eby,Charcoal, 1944.Gift of Abbott Laboratories. 引用したNAVAL HISTORICAL CENTER解説には,The artist often wondered what the infantryman thought as he looked over his handiwork. This Marine searched for water for his friends on the still-smoking beach. The fight was still going on farther down the island.とある。行方不明の戦友を捜しているように説明しているが,遺体は足首にゲートルを巻いているので日本兵であろう。

米国の画家カー・アイビーKerr Ebyは,1899年メソジスト宣教師の子息として東京に生まれる。第一次大戦時に米国陸軍に入隊。1941年の日米開戦後,入隊を志願したが,高齢のために叶わなかった。そこで,アボット研究所Abbott Laboratoriesの戦場芸術家プログラムcombat artist programに参加し,1943年10月から1944年1月まで,南太平洋方面の海兵隊に加わった。 タラワTarawa環礁上陸作戦に参加し,3週間ブーゲンビルBougainville島の戦場で暮らした。ブーゲンビル島では熱帯病に罹患し衰弱し,帰国。1946年死亡。

米国でも第二次大戦中,100人以上の将兵・民間人が戦場画家 'combat artists'として活躍した。戦後,50年以上たって,米国でも彼らの作品12,000点以上は,大部分忘れ去られている。(⇒米国の戦場画家・従軍画家Combat Artists参照)

ブーゲンビル島やタラワ島など日米の激戦に取材し,辛苦をなめた海兵隊員たちの様子をスケッチし,それを記録に残した。ブーゲンビル島やタラワ島の戦いは,いずれも米海兵隊が勝利した戦いである。しかし,アイビーの描いた戦争画は「勝利した米軍」というよりも,戦闘,地形,気候に苦労した米軍将兵であり,彼らの汗と血,犠牲の末に得た勝利である。

図(左):ヘンリー・バーヌ・プアHenry Varnum Poor1943-44年作「B 25爆撃機」;B25「ミッチェル」Mitchell爆撃機は,信頼性が高く,航続距離が長い上に操縦も容易だったので,天候と滑走路の条件の悪いアリューシャン方面で使用された。図(右):ヘンリー・バーヌ・プアHenry Varnum Poor1943-44年作「二人のエスキモー」 2 KotzebueEskimos;米軍兵士としてアラスカ防衛軍に参加したエスキモー(イヌイット)は,米国人としての国民統合の象徴ともいえる。アジア太平洋戦争は,肌の色,宗教の争いではなく,自由と正義を守る戦いである。エスキモーは,過酷な環境で,祖国のために勇戦する。このようなプロパガンダあるいは戦争協力画ともみなしうる。連合国でも,戦争協力画が多数描かれたが,戦争とは全て,味方を正当化しようとするものであり,芸術もそれに奉仕するように,動員された。

ヘンリー・バーヌHenry Varnum(1888–1970)はカンザス州生まれの米国人画家で,当初,経済学を志したが,芸術家に転向。ロンドンとパリにも留学した。1911-1-19年にスタンフォード大で教鞭をとるも,第一次大戦参戦に伴い,従軍。第二次大戦時は,アラスカやエスキモーと戦争とのかかわりを多数描いている。戦後,司法省やペンシルヴァニア大学のフレスコ画も描いている。コロンビア大学とメーン大学で教鞭をとった。『芸術家の見たアラスカ』Artist Sees Alaskaを1945年に刊行している。


図(上左):米国トム・ライア1944年(?)作「ペリリゥー島の日没」Sundown at Peleliu: Sick Bay in a Shellhole. The Padre Read, 'I am the resurrection and the Light'
:砲撃でできた穴で戦友を埋葬する男の右手には聖書が、左手には末期の水をいれた水筒。
図(上右):米国トム・ライア1944年(?)作「2000ヤード先の凝視」"2000 Yard Stare: Down from Bloody Ridge Too Late. He's Finished—Washed Up—Gone" :ペリリゥー島攻防戦で,壮絶な戦いを見つめてきた海兵第一師団隊員。 "Down from Bloody Ridge Too Late. He's Finished - Washed Up - Gone" 海岸を行くと,砲撃でできた穴があった。そこは,負傷兵で込み合っていた。夕方の光にかき混ぜられているようでもあった。茫然自失した海兵隊員の目は,頭にあいた黒い二つ穴のようだった。彼の精神は麻痺し,顎は垂れ下がっていた。 Down by the beach again, we walked silently as we passed the long line of dead Marines under the tarpaulins."BATTLE of PELELIU 引用。

 米国の従軍画家・テキサスの郷土画家トム・ライアは、1945年の作品集 Peleliu Landingで次のように書いている。"The padre towered over the crouching figures like a plaster saint with canteens and a Bible. Amid the frenzy, the wreakage and snipers' bullets, he looked very lonely, very close to God as he intoned his prayers over the shattered men."
Tom Lea (1907-2001)は、1941-1946年、雑誌「ライフ」の関係で、10万マイル以上、戦場を飛び回った。1944年9月15日、パラオ環礁ペリリゥー島上陸に際しては、第一海兵師団の上陸部隊第一波として日本軍のいる海岸に上陸した。一方で、同じペリリゥー戦をあつかったライア作「トーチカ」The Blockhouse では,トーチカを焼き払った第一海兵隊の手前に,死んで仰向けになった日本兵が描かれている。 


図(左):オーストラリア陸軍従軍画家ハル・アイボルHele Ivor1943年作「アレキサンドリアに撤退してきたオーストラリア第六師団」136.9 x 206 cm:1940年10月イタリア軍がギリシャに侵攻するも占領できず,1941年3月英連邦軍(英国,オーストラリア,ニュージーランドなど)、ギリシャ保護のため上陸。1941年4月ドイツ、イタリア、ハンガリー枢軸軍がユーゴ、ギリシャに侵攻。5月には英連邦軍は撤退し,ギリシャは降伏。1942年4月ギリシャで共産党系のギリシャ人民解放軍を組織。1941年5月,ギリシャで敗れた英連邦軍は,英国保護国エジプトのアレキサンドリアに逃げ帰った。

1900年,大英帝国議会、王室の承認を得たオーストラリア憲法に基づいて1901年1月1日オーストラリア連邦成立。連邦議会(上院、下院)、総督府(王権の代行)、連邦高等裁判所が創設され、6州からなるオーストラリア連邦を構成,大英帝国自治領となる。
1914-1918年の第一次世界大戦では、アンザック軍(Anzac:Australia New Zealand Army Corps)を欧州戦線に派遣。1915年4月25日、連合軍と共にトルコのガリポリ上陸作戦に参加し、大損害を受け撤退。Hele, Ivor (1912-1993)は,1940年末に北アフリカ戦線,1941年にニューギニア戦線に参加した。


図(右):オーストラリアのハル・アイボル1949年作「オーストラリア軍コマンド中隊:ジャングルでの休息」2/10th Australian Commando Squadron: patrol resting in jungle,51.2 x 61.2 cm The Navy Art Collection Branch Online Exhibitsから引用。

Hele, Ivor (1912-1993)は,1940年末に北アフリカ戦線,1941年にニューギニア戦線に参加した。

1931年 オーストラリア連邦は、ウェストミンスター法により大英帝国から英連邦(the British Commonwealth of Nations)の一員になる。英連邦内の植民地と自治領は、英国の国王を英連邦の結合の象徴とした独立国家になった。しかし,英国議会は、オーストラリア連邦に対する立法権と州議会の立法権に対する拒否権をもつ。

オーストラリア,ニュージーランド,カナダは英連邦軍として,米国が参戦するよりはるか以前に,第二次大戦に参戦していた。英国の影響下,戦争芸術プロジェクトを進めて,従軍画家を戦場に送り出した。総力戦であることをいち早く認識しており,ナチスドイツ軍に,そして日本軍に敗退させられた連合軍をも絵にしている。枢軸軍に大損害を与えたとの偽りではなく,連合軍敗退の様子を映す戦争画を描いた。しかし,それは祖国の市民たちの抗戦意思を強め,枢軸軍に報復を誓わせるような戦争協力画であった。


図(上左)オーストラリア陸軍従軍画家ハル・アイボル1944年作「戦場での埋葬」:1943年7月のニューギニア島北岸,先日に殺された3人の若いオーストラリア兵を埋葬する。Battlefield burial of three NCOs;Ivor Hele,oil on canvas,76.3 x 91.6cm,In a 1983 interview, Hele recollected: My most moving event in New Guinea was with the 2/3rd [commando] mob and three of their NCOs that were killed and stretched out. I started drawing and it started to drizzle with rain and a couple of the other blokes, digging in madly, stopped and propped up a couple of sticks and put round a sheet over the top of me.図(上右)ハル・アイボル1947年作「二人の日本兵の死」:Two Japanese done over; 2/10th Australian Commando Squadron. 76.3 x 91.9 cm ニューギニア島アイタペ・ウェワク作戦。二人の日本兵がオーストラリア軍パトロール部隊に殺され,キャンプファイヤーで燃やされる。Australian War Memorial, Canberra 引用。

オーストラリアの従軍画家ハル・アイボルIVOR, HELEは,1912年南オーストラリアのアデレード生まれ。1928年に仏独に渡航し絵を学ぶ。1932年から3年間,南オーストラリア芸術学校で教授。1940年6月にオールトラリア陸軍に入隊。情報局で地図作成。11月,中東に出航。1941年1月第六師団の従軍画家となる。1942年3月に帰国。1944年6-8月ニューギニア戦線に参加。1944年10月-1945年1月,再びニューギニア戦線に参加。1947年に陸軍を退役。1952年公的従軍画家として朝鮮戦争に参戦。少佐階級。


図(上左):オーストラリア従軍画家マーレイ・グリフィンMurray Griffin1967年作「バクリ・パリットスロン道路での日本軍戦車への攻撃」(シンガポールを防衛するオーストラリア軍対戦車中隊)Attack on Japanese tanks on the Bakri-Parit Sulong Road 152.3 x 274.2 cm Muar Road; 2/4th Anti Tank Regiment; reconstruction of action against Japanese tanks by 2/4th Anti-Tank Regt.戦後20年を経て描かれた「自分たちの戦争記録画」になっている。
図(上右):マーレイ・グリフィン1946年作「名前だけの病院:タイ・ビルマ鉄道建設現場」日本軍の仮設病院に収容された泰緬鉄道建設労働者のオーストラリア軍捕虜。sheet: 35.1 x 51.2 cm. Hospital ward, Burma-Thailand railway.戦後6年後に,日本軍の非道さを訴える戦争記録画になっている。


 マーレイ・グリフィンMurray Griffinは,1903年オーストラリアのビクトリア州生まれ。 1919-1923年メルボルンの国立美術学校 National Gallery Schoolで学び,1935年にストッチ校で芸術を教えた。1936-1940年,メルボルン技術大学で,芸術マスターとなった。グリフィンは,Contemporary Art Societyの当初からの会員であり, 公的従軍画家official war artistとして,1941年11月にシンガポールに到着した。オーストラリア陸軍第8師団に配属された。これは,日米開戦前であった。しかし,日本軍は1942年2月にシンガポールを占領した。このとき1万5000人のオーストラリアの将兵と一緒にグリフィンも捕虜となっている。

 捕虜となっている3年間以上の間,グリフィンは将校待遇だったが,強制労働にも従事させられたことがあるという。(本来は,ジュネーブ条約では将校への強制労働は禁止)
During the fighting Griffin had stored his art supplies in Singapore. They were found several months later by a prison working party and returned to him. When these supplies were exhausted, fellow prisoners scrounged or manufactured replacements.

図(右):オーストラリアのドナルド・フレンド Donald Friend1945年作「ラブアン島での自殺突撃;日本人の死」"Japanese dead from suicide raid, Labuan" :ボルネオ島から現地住民の食料略奪にカヌーでやってきた日本将兵にたいして,オーストラリア軍が素敵なご馳走を見舞ってやり、殲滅させた。These Japanese soldiers died in a suicide raid on the Australian base on Labuan Island. In Friend's notes about the incident he describes in detail the Japanese arriving in canoes from Borneo. The locals, ordered by the Japanese to prepare food for them, betrayed their presence to the Australians, who "surprised them at their meal and obliterated them". 76.4 x 101.8 cm、Painted in Sydney, 1945. Australian War Memorial引用.


 グリフィンは,捕虜の期間中に230点の作品を残した。その中には,タイ・ビルマ鉄道建設労働に従事させられ,生き残ってシンガポールのチャンギ収容所に帰ってきた捕虜からの話を基にした絵もある。
グリフィンは,対日戦勝利後解放され,帰国後,溜め込んだスケッチを元に戦争画を描いた。これは,公的な記録としての側面と個人や戦友の感情を追憶・追悼する側面があったと思われる。

図(右)カナダのアレックス・コルビーAlex Colville1946年作「オランダにおける歩兵」 :Infantry, near Nijmegen, Holland.父親をモデルにした初期の作品。The Royal Winnipeg Rifles in the Netherlands. Alex Colville used his father’s face and his own hands as models for those of the leading soldier. フランスを開放した連合軍には,カナダ軍も参加していた。1944年10月にベルギーとオランダに入った。そして,1945年の冬から春にかけて,オランダ東北部を開放した。北西方面欧州戦でのカナダ将兵の死傷者は4万4,339人,そのうち死者は 1万1,336人。他方,イタリア戦線には 9万2,757人のカナダ軍将兵が参加し,死者 5,399人,負傷者 1万9,486人,捕虜 1,004人。(Canadian War Museum参照)

アレックス・コルビーAlex Colville 1920年生まれのカナダを代表する画家で,ナショナルギャラリーのweb絵画には彼の戦争画は展示されていない。しかし,人物画がたくさんある。

「俺に続け!」Follow Me ! は,1944年10月20日,フィリピンのレイテ島に上陸した米陸軍第24師団将兵たち。日本同様,米国でも戦意高揚に結びつくような勇壮な戦争賛美画である。News of the success of the American Forces in establishing a beachhead on Leyte - the first foothold in the Philippine Islands - was joyfully received by the American nation. The President radioed congratulations to General MacArthur and added, "You have the nation's gratitude and the nation's prayers for success as you and your men fight your way back ......"


図(右):ジャック・ニコルス1946年作「ノルマンディの風景−ゴールド・ビーチ」Normandy Scene, Beach in Gold Area(英連邦カナダ芸術家Jack Nichols (1921-)):フランスの難民がノルマンディーの戦場でカナダ軍の将兵に保護されている様子。Homeless French civilians are comforted by soldiers in one of the British assault areas in Normandy. 1944年6月6日,米英加を中心とする連合軍の欧州大陸上陸が北フランスのノルマンディに敢行されたが,民間人が戦闘に巻き込まれるのを恐れて,避難してきた。上陸海岸は,西からブラッドレー将軍指揮の米軍担当の「ユタ」「オマハ」、デンプシー将軍指揮の英・カナダ軍担当の「ゴールド」「ジュノー」(カナダ第3歩兵師団)「ソード」の5管区に分けられた。この作品は,連合軍賛美なのか,それとも戦争における民間人の悲惨さを表現した芸術なのか。

米国陸軍の戦争画家:Aemy Artworkには,現代までの戦争画がずらりと並んでいて,戦争芸術の息の長さと現代アートを実感できる。
 カナダの戦争芸術については,レオナルド・ブルークスLeonard Brooks(official war artist, Second World War)が,"These paintings have left a legacy of truthful seeing and feeling, and caught for posterity some of the deep and terrible days of courageous despair and brave hopes for a better future."と肯定的な評価を述べている。


図(右):スペイン内戦の時の炎上する町からロバを引いて逃げ出す市民(11歳のロドリゲス君の戦争画) [An evacuation. Resurrección Rodriguez, age 11]. Mandeville Special Collections Library University of California, San Diego引用

連合国の戦争画
米国陸軍の戦争画
米国陸軍の戦争画(2)
オーストラリアの戦争画
英国の戦争画
カナダの戦争画
WW2 in the Pacific & Asia (104)航空機画

日露戦争外国のポスター
日清戦争錦画

国家指導者や軍上層部にとって,芸術などプロパガンダに従事する侍女(はしため)に過ぎないが,芸術家にとって,戦争は自分の活躍の場を誇示し,あるいは作品を通じて自己表現をする場に過ぎないといえる。ともに,死者の名誉を称え,追悼すると同時に,残された指導者が自己の正当性を維持し,大義を確固とするために故人の遺徳を利用しているようにも感じられる。日本の戦争画を評論したが、連合国の戦争画についも、同様の指摘が当てはまるかもしれない。

 日本でも連合国でも,文化人は,総力戦における戦争協力,すなわち動員に参加することを求められ,強要され,あるいは自ら進んで協力を申し出た。文化人に活躍の場が与えられれば,彼らはそれを最大限に利用した場合が多かった。結果として,政府や軍の戦争方針に協力することとなったが,彼らの目的は,戦争協力というよりも,芸術表現自体にあったようだ。

 政府・軍の進める戦争,国策,動員に賛同して,自己の芸術活動を展開できれば,国策への追従を退廃とは感じず,自己表現,自己実現,自己の才能を開花させる場として,戦争を歓迎するかもしれない。戦争は芸術家に資金,活躍の場を提供する機会でもあり,自分の芸術活動の前には,戦争が社会や個人にもたらす結果は二義的となるかもしれない。あるいは,個人的な思い入れが強く,自らの経験や見たものを描くこと通じて,自己表現をする欲求に駆られてくるのかもしれない。これは,芸術家の内的・自発的な欲求である。

3.戦争画については,第二次大戦前,スペイン内乱を扱ったピカソの「ゲルニカ」のような戦争の悲惨さを滲ませる作品がある。日本でも戦後,丸木位里・俊「原爆の図」「沖縄戦の図」が描かれた。

図(右):ピカソPicass1937年作「ゲルニカ」: "Guernica";1937年完成。3.5 m× 7.8m。マドリード、プラド美術館所蔵、レイナ・ソフィア王妃芸術センターMuseo Reina Sofia寄託。

1937年4月26日、スペイン共和国に叛旗を翻したフランコ将軍は,ナチス・ドイツの義勇空軍コンドル軍団に、共和国派の終結したバスク地方ゲルニカGuernica爆撃を要請した。突然スペインの小さな村ゲルニカを爆撃した。ピカソPablo Picasso (1881-1973) はその知らせをパリで聞き,殺された牡牛や馬、鳩などの動物たち、地面に倒れる兵士、死んだ子供を手に悲痛な顔をした母の姿を描いた。戦争を引き起こす人間の暴力性と、人の命が犠牲になる様を描き,フランコ派の非道を告発した。

「ゲルニカ」は、制作直後に開催されたパリ万国博覧会スペイン館の壁面を飾った。しかし,フランコ派閥の勝利したスペインに戻ることはなく、第二次世界大戦勃発直前の1942年まで、反ファシズム運動の象徴として世界各国を巡回した。そして,ニューヨーク近代美術館Museum of Modern Art in New Yorkに寄託された。

ようやく祖国スペインへの帰還を果たしたのは,ピカソもフランコも死んだ後、1981年である。
丸木位里・俊1950年作「原爆の図 第2部 火」
;「うつぶせて家の下敷きになったまま失心した人、紅蓮(くれん)の 炎につつまれていった人。グラスの破片がざくりと腹につきささり、腕がとび、足がころがり、人々は倒れ、 焼け死んでいった」1950年完成。1.8m×7.2m。財団法人原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)所蔵。

財団法人原爆の図丸木美術館「原爆の図」に,次のようにある。

1945年8月6日、原子爆弾が広島に投下され,3日後の8月9日には長崎にも原爆投下。二つの原爆による死亡者数は20万人以上。
広島は位里の故郷で親、兄弟、親戚が住んでいた。当時東京に住んでいた位里が知ったのは「広島に新型爆弾が落とされた」ということだけ。いったい広島はどうなってしまったのか。
位里は原爆投下から3日後に広島に行き、焼け野原が広がるばかりの光景を見た。俊は1週間後に広島に入り、二人で救援活動を手伝った。

水墨画家の位里と油彩画家の俊の共同制作で、描いた「原爆の図」は,1950年の「第1部 幽霊」「第2部 火」「第3部 水」,1951年の「第4部 虹」,1951年の「第5部 少年少女」,1952年の「第6部 原子野」と続き,1982年の「第15部 長崎」で完成する15部32年間にわたる連作である。

パブロ・ピカソ「ゲルニカ」,丸木位里・俊「原爆の図」のような戦争画は,個人の戦争への思いを自発的に描いたり,描かずにはおけなかった感情を自ら表現している。戦争への深い思いや嫌悪感・苦悩があらわされている。陰惨な絵画を観ていると暗澹たる気分になる。戦争で起こった出来事は、真実ではあっても、善でも美でもない。

4.戦時中の日本の優秀な画家,たとえば鶴田吾郎,小磯良平,藤田嗣治,中村研一,山田新一などは,芸術報国運動の一環として,従軍画家になったり,戦争画を描いたりした。連合国でも,芸術家は戦争に動員された。他方,芸術家は,戦争や政府・軍のプロパガンダに便乗して,積極的な自己表現を展開しようとした。芸術にパトロンはつきものなのか。

戦争の陰惨さやしみを描く戦争画とは対蹠的に,戦争の祖国防衛,ナショナリズム,国威発揚,国家の名誉と栄光など,肯定的側面を表現した戦争画も多い。1926年完成の聖徳記念絵画館のような立派な施設でも,金山平三「日清役平壌戦」、太田喜二郎「日清役黄海海戦」、鹿子木猛郎「満州軍総司令部の奉天入城」、中村不折「露役日本海海戦」などの大作を公的資金を使って保存,展示している。

東京国立近代美術館所蔵品ギャラリー「近代日本の美術」は,1937年の日中全面戦争以降、1945年に敗戦を迎えるまで、「個性に立脚するはずの近代芸術家をとりまく時代状況は厳しいものとなりました。一方で多くの画家たちが戦争記録画の制作に動員されました」とする。芸術家が動員され,やむをえず戦争賛歌の絵画を描いたとする立場を表明しているのである。約70名の画家が描いた153点の「戦争記録画」が戦後米国に接収された後、1970年になって東京国立近代美術館に無期限貸与の形で返還された。

日中戦争が1937年に勃発すると,大日本陸軍従軍画家協会が結成された。1938年からは軍は従軍画家を派遣し、1939年には従軍画家は200名に達していた。

 「さまよえる戦争画―従軍画家と遺族たちの証言」によれば,「この時期、すでに報道における絵画の地位は、速報性においてはラジオに、記録性においては写真に遅れをとる時代遅れのメディアであることは明白であった。しかしあえて軍部が従軍画家を任命したのには特別の意味があった。それは絵画のもつ抽出性・創作性、すなわち史実の断片を切り取る抽出性であり、それを最大限利用して“事変”を“聖戦”に作り変えていくプロパガンダの有効な宣伝媒体として、軍部が絵画をとらえていたからに他ならない。戦争画の総元締め・陸軍報道部は従軍画家に対して『国民の士気を鼓舞するために迫力のある大画面で誰でもわかる写実的な絵を描くこと』と命令を下していた。」(引用終わり)



図(右):鶴田吾郎1938年作『敵地へ出発』東京藝術大学大学美術館所蔵;1890(明治23)年東京牛込区(新宿区)生。早稲田中学校中退。白馬会洋画研究所に通い、中村彜と親交。1920年帝展「盲目のエロシェンコ」初入選。1925年太平洋美術学校教授。1926年国民新聞社入社、朝鮮に渡って京城日報に移籍。第6回-10回帝展入選。1928年四国、1930年朝鮮、満州、ソビエト、ラトビア、フィンランド、スウェーデン、ドイツ、フランス等、1935年ハルピン等、10年樺太、北海道を旅行。42年従軍画家として戦地に赴任。1969年死去。
後方に描かれているのは九二式偵察機で近距離偵察機(直協機)。発動機475馬力,最高速度220辧す丗鎧間 4-5時間,三菱で230機生産。1932年制式の旧式偵察機なので,軍事機密扱いとされず,原型どおり描かれている。


鶴田吾郎と「戦争画」(Chinchiko Papalog )に次の記事がある。
 鶴田吾郎は戦後、「戦争画家」として“有名”になってしまった。多くの画家たちが経験したように、絵の具やキャンバスの配給を断たれるからではなく、また福田一郎のように特高から呼び出しを受けて検挙されたわけでもなく、さらには靉光のように軍部への非協力から前線へ兵士として送られてしまう危険性があったわけでもない。(鶴田吾郎は)1937年に自らすすんで、中国の戦地へ絵を描きに出かけている。もともと、各地を旅行して写生するのが好きだった彼は、その延長線上で「戦地」を捉えていたのかもしれない。だから、「我々は思想家にあらず画家なのだから描きたいものは何だろうと描くのだ」(「画家の立場」朝日新聞1945年10月25日)と、戦後みごとに開き直ってみせたのだろう。---
 彼の代表的な作品『神兵パレンバンへ降下す』は、旅行好きの鶴田が得意の“現場”へ出かけ、作戦に参加して描いているのではない。軍部のニュースフィルムや戦場写真などを見ながら、アトリエで描いたものだ。つまり、日本軍の作戦動向を強く認識し、共鳴・共感をともないながら描いたことになる。これを、美術や絵画という文脈(妙な言い方ですが・・・)ではたして捉えられるのだろうか? 確かに、当時の人たちに大きな感銘を与えたのは間違いない。「戦争画」の展覧会には、数多くの人々が押しかけて賑わっていそうだ。でも、それは美術を鑑賞しにきたのではなく、ラジオや新聞ではいまいち臨場感を得られない人たちが、「リアルな戦場」を疑似体験しにやってきたのではなかったか。太平洋戦争が始まる前、軍部のプロパガンダの一環である「戦争画」の展覧会によって、勇んで志願し中国の戦場で死んだ人間だって少なからずいただろう。(鶴田吾郎と「戦争画」 [気になる下落合]引用終わり)


図(右):小磯良平1941年作「娘子関を征く」第二回聖戦美術展出品。1937年10-11月の太原攻略の前哨戦。娘子関の占領を目指して第二十師団川岸文三郎中将(1936年12月1日就任)率いる将兵が出撃。重い荷物を背負い,ゲートルを足に巻いている。手にしているのは三八式歩兵銃。川岸兵団には野戦重砲兵連隊が配属され、重砲36門が配備されていたという。駄馬で砲弾箱や山砲(?)を運搬しているようだ。乾燥した大陸に精悍な日本将兵が頼もしい。後に陸軍大臣となる第五師団師団長板垣征四郎中将(1937年3月1日就任)も太原攻略に参加している。(「日華事変と山西省」山西戦場の勝敗を決めた忻口と娘子関の戦い 参照)

ウィキペディア(Wikipedia)-小磯良平(1903年7月25日 - 1988年12月16日)
 1903年神戸市生まれ。兵庫県立第二神戸中学校(現県立兵庫高校)から、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中に、『兄妹』(1925年)が帝展入選、『T嬢の像』(1926年)が帝展特選を果たす。首席で卒業後、フランス留学を経て「新制作派協会(現新制作協会)」の結成に加わる。その後東京芸術大学教授などを務めて後進の指導にあたり、定年退官後も迎賓館(赤坂)大広間の壁画『絵画』『音楽』を制作。(wikipedia引用)

神戸市立小磯記念美術館には次の記載がある。
1927年、規定課題の『自画像』(東京芸術大学大学美術館蔵)、竹中郁をモデルにした『彼の休息』(東京芸術大学大学美術館蔵)の2作品で98点という最高得点をとり、首席で卒業。その翌年、小磯は念願であったフランス留学に出発し、一足先に到着していた竹中とともに2年間ヨーロッパを遊学。絵画技法の習得よりも、各地の美術館をめぐり、アングル、コロー、クールベ、マネ、ドガなどの巨匠達の作品を鑑賞。---
 神戸に戻ってからの小磯は、精力的に絵筆を振るい始めます。優れた素描力を十分に生かしながら、「欧州絵画の古典的な技法を日本の洋画に根付かせる」ための研究を根気強く続け、独自の画境を開く。また母校の教授として、東京芸術大学で教鞭をとり、画学生たちの若い感性を大切にした指導で、日本の洋画界に大きく貢献した。(引用終わり)

日華事変と山西省;山西戦場の勝敗を決めた忻口と娘子関の戦いには,次のような記述がある。

1937年の山西戦場における日本軍と中国軍の戦闘の勝敗を決めたのは、忻口と娘子関での戦争だ。河北省との東部省の境に位置する娘子関は太行山脈の隘路にあり、嶮しい山岳地帯を背にした要衝である。1937年10月、太原攻略を目指す日本軍とこれを阻もうとする中国軍との間で激戦が繰り広げられた。
----兵力約8万の日本軍に対して、中国軍は40万人の大兵力だった。板垣兵団は、混成第十五旅団及び堤支隊等を右翼(東)に、歩兵第二十一旅団等の師団主力を左翼(西)に配置し、翌10月3日より、火砲95門と航空支援をもって攻撃を開始した。これに対し、中国軍は正面に11個師、右翼に3個師、左翼に6個師の兵力を配置し、火砲9個団の支援をもって迎撃した。忻口戦は準備周到な中国軍に対して勢いに乗って山西省に侵攻した板垣兵団が大苦戦を強いられた戦いとして記憶されている。陣地に籠もる敵に対する攻撃に奇策はなく、優勢な兵力を以て攻めるしかない。劣勢の板垣兵団は戦闘開始直後から損害が続出し苦戦を強いられた。一時は日華事変始まって以来の負け戦を覚悟したようだ。戦闘は11月2日に中国軍が撤退するまでの約三週間の長きにわたって行われたが、板垣兵団の窮地を救ってくれたのは平漢線方面(第一軍)と津浦線方面(第二軍)から南進してきた北支軍だった。

10月21日中に娘子関前面の雪花山陣地が陥落し、23日には旧関が突破され、戦線は崩壊。11月4日、忻口から撤退した中国軍は太原北郊陣地への展開を命じられたが、部隊が展開を終了する前に、娘子関方面の敗軍を追撃してきた川岸兵団が太原城の東へ殺到。11月8日、板垣兵団を中心に日本軍は総攻撃を開始、同日中に城内に突入し、太原は陥落した。
 美術オピニオン;TORA「娘子関を征く」小磯良平には,「小磯良平の「娘子関を征く」は実際の戦闘場面ではないが、このように日中戦争のターニングポイントとなった山岳戦に赴く兵士を描いたものであり、戦意高揚の目的を十分に果たしていたのである。」とある。(引用終わり)

娘子関突破ができずに苦戦した太原攻略戦であったが,小磯良平「娘子関を征く」ではそのような中国軍の頑強な抵抗に苦しんだ様子は伝わってこない。戦争画とは,時間の一段面を区切って表現するので,戦闘詳報のように実態を映すものでもない。画家の訴えたいことを芸術的に表現するために,余分なものは剥ぎ落とされる。実際と異なっていても何の不思議もない。


図(右):清水登之1943年作『突撃』(栃木県立美術館所蔵)artlog引用。1944年陸軍美術展には「汪兆銘主席と中国参戦」を出品。1944年戦時特別文展には「工兵隊架橋作業」を出品。

編集長日記:第19回戦い やるのは兵士 やるのは選手に次の記事がある。
日曜美術館(NHK教育TV)の日本美術における戦後60年企画の第一回を見た。清水登之(トシ)という画家の生涯と戦争のかかわりの話。ニューヨークで活躍していた清水が、帰国して何を描いてよいかわからなくなった。そのとき彼の創作意欲をもたらしたのが戦争であった。清水は20世紀的な風景を描くモダニズムの画家で、彼はモダニズムの画家として戦争に新しい題材を感じた。日中戦争を見てきた彼が書いた絵には、大量殺戮近代戦争が描かれていた。----軍部は、こうした画家たちを戦争礼賛のPRに使うべく従軍画家として戦地に送った。そこで清水が描いた作品は、戦争を人間的な躍動感のある行動として描写したもので不思議な高揚感をヒトに与える作品である。しかし、時代も清水の人生も次第に暗転していく。
兵士のモデルを息子の育夫にやらせていたが、その育夫が戦艦乗りになって戦地へ行き台湾沖で戦死する。やり場のない悲しみ。身内の死に直面して清水は、精神的なショックから白血病に冒される。育夫の肖像画を描く以外に作品を残すことはなくなった。泣きながら息子の絵を何枚も描いた。死の直前に娘に言った言葉「戦争は厭だ」戦争は自分に関係のあるヒトの死として目の前に現れることを私たちは忘れてはならない。(編集長日記引用終わり)

Fish Eye:清水登之しみず とし 1887(M20)-1945(S20)作品一覧には,「擬装」「江南戦場俯瞰」「南方地下資源」などが載っている。

財団法人大川美術館(群馬県桐生市)日記にみる…清水登之・滞欧そして帰国後の軌跡;岡 義明には,次のような清水に関する詳しい記事が載っている。
1940年頃になると、日記にも「物資統制が明かに各戸へ響いて来た 石炭、薪炭の不足は冬期制作を扣えた吾々画家へは相当な痛手だ、」(日記:昭和15年1月2日)などと出てくるようになる。また従軍作品を発表すると、よく軍人も来場するようになった。戦争は実生活の上でも現実になってきたのだ。
 「陸軍美術協會より金百円也送って来た これは南京郊外湯水鎮に於ける陸軍病院内へ飾付ける為め二十人の画家を動員して一点づつ制作さしたもので十号以上の型とし一点に付き二百円支給すると云ふ池田少佐の約束であった…」(日記:昭和16年1月10日)。
清水はこの頃から頻繁に、そして積極的に軍部と行動を共にするようになる。

 聖戦美術展の審査員には第1回展からなる。航空美術協会の発起人にもなった。彩管報国隊として長期間の従軍も行なう。それと同時(と言っても過言ではない程ハッキリと)に、人生に悩む発言(日記への記述)はさっぱり見られなくなった。“好むとか好まざるとか”いうよりも、むしろ巨大な時代の流れに、彼は自然と自らの身を託していくようになっていった…のだった。

1942年、彼は南方へ従軍した際に台中の飛行場で飛行機が燃えるのを目撃している。その凄さを日記に記しているが(年譜・日記125 参照)少々のんびりしていたようにも思える。現場の臨場感は感じられるが、戦地とはいえ割りと整ったホテル住まいをし、名所旧跡を尋ね、各地の料理に舌鼓を打つ。まるで旅行気分だ。それは未だ日本の戦局がよい時期であったからである。そして南方から戻った昭和17年の後半から彼は、軍主催の展覧会での作品発表、書籍作成の挿画の依頼、また会合なども増え、益々忙しくなっていく。数年前まで個人で(いわば“どさ回り”をして)作品を頒布し、その売れ行きの悪さを日記にグチッていたのが、まるでウソの様である。

 さすが1943年になると、従軍するにも意気込みのある言葉が出てくる(年譜・日記135 参照)。そして東京では絵の具も買えない状況となっていった。「絵具は今日限りで何時になれば販賣されるか一時?中止になるので今日中に指定の絵具店へ出頭買求められたしといふ通知を受け取ったので出かけて行く」(日記:昭和18年10月31日 ?は原文のママ)。「美報から絵具 画板 画布の配給券届く 面倒になったものだ」(日記:昭和19年7月16日)。そして1944年6月ごろからは、ついに東京の自宅近辺でも緊張感が高まってくる。「敵は小笠原へ押し寄せて来てゐるから何處東京が空襲されるか判らぬ」(昭和19年7月8日、日記)。1945年は清水の生涯最後の年である。しかしこの年の日記の所在は現在不明である。(大川美術館日記にみる…清水登之;岡 義明引用終わり)。

図(右):宮本三郎1942年作『山下、パーシバル両司令官会見図』;第一回大東亜戦争美術展出品。1943年,当作品が第2回帝国芸術院賞を受賞。東京国立近代美術館所蔵。宮本三郎(1905年5月23日 - 1974年10月13日)は,1936年 二科会会員,1938年 渡欧,1939年 第二次世界大戦の勃発に伴い帰国,1940年 陸軍省嘱託として中国派遣日本軍へ従軍という経歴を持つ。1942年には,「戦争記録画」制作のため、藤田嗣治,小磯良平らとともにマレー半島,タイ、シンガポールなどに渡り,「山下、パーシバル両司令官会見図」「香港ニコルソン附近の激戦」を完成。1944年,39歳で「海軍落下傘部隊メナド奇襲」に対し、朝日文化賞を受賞。7月に石川県小松市に疎開した。
山下奉文大将は、シンガポール攻略の名将として称えられた。パーシバル将軍率いる英印軍を降伏に追い込んだ。この会談の写真も公開されているので,それを見て描いた作品である。しかし,背景に描かれた国旗は本来なかったものである。マレー半島もシンガポールも,日本の占領下に置かれて,「独立」はさせるつもりはなかった。特に,日本海軍の支配したインドネシア西部(資源地帯),南東方面(ソロモン群島)は,完全に占領下に置いたままだった。1944年10月,台湾沖海戦の大戦果という誤報に基づいて、日本陸軍はレイテ決戦のために、山下将軍にルソン島から兵員、物資を抽出を命じた。山下将軍は,当初,ルソン島持久戦を主張するが,やむをえずレイテ決戦を命じる。彼は,戦後,フィリピンのラグナ州で処刑。パーシバル将軍は日本軍の捕虜になったが,戦後,解放された。


東京国立近代美術館では,何点かの戦争画,たとえば有岡一郎「ジャワ沖海戦」(1942年)、伊原宇三郎「島田戦車部隊スリムの敵陣突破」(1944年)、中村研一「柳州爆撃」(1941年)の展示を行った。芸術家はマレー攻略など南方占領地を拡大していた戦勝の時期にもいい絵がかけるらしい。苦闘した末に獲得した勝利の果実は,実に甘い。決して楽に手に入れたものでは味わうことはできない。このことを十分承知している芸術家は,苦闘の末の勝利という戦争芸術を表現しようとした。戦争に勝っている時期でも,強い相手を打ち負かしたことが,軍の名誉である。勝利した相手が,弱かったのでは,勝って当然であり自画自賛できないではないか。

東京国立近代美術館の解説では触れられていないが,1966年アメリカの軍需物資倉庫で発見された日本人画家の戦争画は,1970年に153点が返還されている。しかし,そのほとんどが陽の目を見ることなく黙殺,死蔵されている。当時の有名画家の描いた戦争画とは,「戦争記録画」というよりも「戦争賛美画」であり,これらは芸術的あるいは技巧的には素晴らしくとも,絵画の表現する内容・思想が危険視されているようだ。日本絵画史の暗部として認識され,戦争画が黙殺された。しかし,戦争賛美と受け取られるリスクがあるものは,安全第一で非公開にしているという安易な基準を適用しているだけであろう。


図(右):藤田嗣治1941年作『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』;第二回聖戦美術展出品。1939年の日ソ国境紛争ノモンハン事件を描いた。戦争画を読む(11)―藤田嗣治と戦争画 その5によれば, 日本軍はソ連軍の圧倒的な火力・機械力の前に大敗した)に取材したもので、「この戦闘で戦死した将兵の霊を慰めるために」との依頼主(ノモンハン事件敗北の責任をとって退役させられた荻洲立平陸軍中将)の意図があった。とされる。しかし,この絵では,日本軍が撃破したソ連陸軍のBT戦車が鹵獲される場面が描かれ,ノモンハン事件に精神力で勝利した日本陸軍といった構図になっている。

東京国立近代美術館には,藤田嗣治の戦争画も返還されたはずだが,展示されていない。webに掲載されている藤田嗣治略年表も,「1934年 二科会会員となる。戦時中は従軍画家として活躍する。」の次には,一気に「1949年 ニューヨークのブルックリン美術館付属美術館の教授として招かれる。」とジャンプし,戦争画を黙殺している。これから推測すると,藤田嗣治作の戦争画を芸術として評価していないようにもみえる。しかし,「人やものの描写は重量感を増しました。こうした表現は、二科会での活動を経て、戦時中に描いた戦争画で頂点に達したように見えます。」として,芸術として高く評価している記事もある。

戦争を背負った画家/藤田嗣治によれば、藤田嗣治の父・藤田嗣章は陸軍の軍医総監で、大敗したノモンハン事件に取材した絵画を「この戦闘で戦死した将兵の霊を慰めるために」と事件当時の第23師団長・小松原道太郎中将から依頼されている。こうした背景から,東京国立近代美術館の戦争記録画約150点(戦後アメリカ軍に接収され、「無期限貸与」の形で返還されたもの)中、藤田作品は最多の14点を数えるという。


図(上右):中村研一1942年作「マレー沖海戦」"Sea Battle off Malaya":第一回大東亜戦争美術展出品作品。1941年12月8日、英国東洋艦隊(司令長官トマス・フィリップス海軍大将)は、日本軍上陸部隊を乗せた輸送船団攻撃のため、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」駆逐艦4隻を率いてシンガポールを出撃した。しかし、12月10日、日本海軍航空隊の陸上爆撃機約80機は、これを攻撃し、戦艦2隻を撃沈。この大勝利を描いた戦争画である。Japanese war art painting by Nakamura Kanichi, 1942, depicting Japanese Navy aircraft making successful torpedo attacks on the British battleship Prince of Wales (center) and battlecruiser Repulse (left) on 10 December 1941.

中村研一(1895〜1967)は、東京美術学校を卒業後、フランスに留学し、帰国した1928年の第9回帝展、翌年の第10回帝展で特選、1930年の第11回帝展で最高賞の帝国美術院賞を受賞。1931-32年の第12回、第13回帝展では審査員を務めた。1942年、シンガポールからインドシナ旅行。コタ・バルに15日間滞在。「安南を憶う」新文展で昭和奨励賞。「コタ・バル」で朝日賞を受賞。 1945年茨城県の知人宅に疎開。5月代々木のアトリエが焼失。終戦後、小金井市中町に転居。 日本芸術院会員。日展理事を歴任。

第1回大東亜戦争美術展(1942)  
 グアム島占領 江崎孝坪 (1941),英領ボルネオを衝く 福田豊四郎 (c.1942)
キャビテ軍港攻撃 三輪晁勢 (1942) ,攻略直後のシンガポール軍港 矢沢弦月 (c.1942)
香港島最後の総攻撃図 山口蓬春 (1942),カリジャティ西方の爆撃 吉岡堅二 (1942)
ジャワ沖海戦 有岡一郎 (1942),ボルネオ作戦 川端実 (c.1942)
カリジャティ会見図 小磯良平 (1942),クラークフィールド攻撃 佐藤敬 (1942)
神兵パレンバンに降下す 鶴田吾郎 (1942) ,マレー沖海戦 中村研一 (1942)
コタ・バル 中村研一 (1942) ,神兵奮戦之図(落下傘部隊パレンバン精油所攻撃) 中山巍 (1942)
十二月八日の真珠湾 藤田嗣治 (1942),シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 藤田嗣治 (1942)
潜水艦の米空母雷撃 藤本東一良 (1942),ウエーキ島攻略戦(その1) 松坂康 (1942)
ウエーキ島攻略戦(その2) 松坂康 (1942) ,バリ島沖海戦 三国久 (c.1942)
山下、パーシバル両司令官会見図 宮本三郎 (1942),香港ニコルソン附近の激戦 宮本三郎 (1942)
四月九日の記録(バタアン半島総攻撃) 向井潤吉(1942),バタビア沖海戦 石川滋彦 (1942)
我が駆逐艦敵重巡ヒューストンを襲撃 小早川篤四郎(1942),ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲 御厨純一 (1942)


図(右):米国グリフィン・コール1942年作「日本巡洋艦「最上」「三隅」を空から攻撃」:Attack on Japanese Cruisers Mogami and Mikuma from Air;Griffith Baily Coale,Charcoal, circa 1942.1942年ミッドウェー海戦で日本の重巡洋艦は衝突する失態を犯し,米軍の空襲で「三隅」撃沈。これを誇示するグルフィン・コール作品集「ミッドウェーの勝利」に載っている。敵艦隊殲滅というテーマは,急降下爆撃機に日の丸をつければ,日本軍の戦争画そのものに見える。The Navy Art Collection Branch Online Exhibitsから引用。

第2回大東亜戦争美術展(1943)
 「航空母艦上に於ける整備作業(三部作ノ内一〜三) 」新井勝利 (c.1943),「潜水艦の出撃」 茨木 風 (1942)
「設営隊の活躍 」加藤栄三 (1943) イサベル島沖海戦 小堀安雄 (1941)、 十二月八日の黄浦江上 橋本関雪 (1943)
「ツラギ夜襲戦」 三輪晁勢 (1943)、「基地に於ける整備作業」 山口華楊 (1943)
「船団護送」 大久保作次郎 (1943)、「提督の最期 」北蓮蔵 (c.1943)
「印度洋海戦」 小早川篤四郎 (1943) 、「ニューギニア戦線−密林の死闘 」佐藤敬 (1943)
「レンネル島沖海戦」 三田康 (1943) 、「ルンガ沖夜戦 」清水良雄 (1943)
「珊瑚海海戦」 中村研一 (1943)、「ソロモン海戦に於ける米兵の末路」 藤田嗣治 (1943)
「○○部隊の死闘−ニューギニア戦線」 藤田嗣治 (1943)、「十二月八日の租界進駐」 松見吉彦 (c.1942)
「海軍落下傘部隊メナド奇襲」 宮本三郎 (1943)、「駆潜艇の活躍」 藤本東一良 (1943)

1943年の第二回大東亜戦争美術展に特別奉掲された絵画もある。これは、藤田嗣治「天皇陛下伊勢の神宮に御親拝」、宮本三郎「本営御親臨の大元帥陛下」、小磯良平「皇后陛下陸軍病院行啓」である。北原恵 (2004)「天皇ご一家」の表象によると、これらの三枚の油彩画は、当時、第二回大東亜戦争美術展において他の戦争画を率いる役割を果たし、ヒエラルキーの最高位に位置していたにもかかわらず、戦後、画家の業績一覧からも戦争画の美術史研究からも消し去られ忘却されていく。戦争に関与する天皇・皇后像を排除して戦後再構築された「戦争画」というジャンルと言説化の政治性にも疑問が残るという。


図(上):米国グリフィン・コール1942年作「急降下爆撃下の日本空母」:Dive Bombing Japanese Carriers;Griffith Baily Coale,Oil on canvas, circa 1942.1942年ミッドウェー海戦で米軍は日本の空母4隻,重巡洋艦1隻を撃沈する大戦果を挙げた。これを誇示する戦争画は,海戦直後に作成,グルフィン・コール「ミッドウェーの勝利」として公開された。なにしろ,真珠湾攻撃以来,英国艦隊殲滅,フィリピン陥落,インドネシア陥落と日本軍は破竹の進撃を続けていた。それに反撃し,日本艦隊を殲滅したのであるから,真珠湾以来の報復が成功した記念である。戦死した日本海軍航空戦隊の熟練搭乗員の損失は大きく,二度と立ち直れなかった。The Navy Art Collection Branch Online Exhibits引用。

ナショナルギャラリー(仮称)とは何か? 〜あまりにも“日本的”な美術の現実:藤田一人によれば、戦時中、朝日新聞社と陸軍美術協会、軍報道部等が主催する聖戦美術展や大東亜戦争美術展の会場となったのは、東京府美術館(東京都美術館)である。ここでは、帝展・新文展・日展と続く官展はもとより、院展、二科、春陽、国画、独立といった主要公募団体展の会場ともなった。美術家の活動拠点、能力発揮の場といえる。

米国に持ち去られ,返還された戦争画は,「GHQと153点の戦争記録画」『日本大学紀要』参照。


図(右):北蓮蔵「提督の最期 」"Last Moments of Admiral Yamaguchi":1945年戦争記録画展出品。1942年ミッドウェー海戦で戦死した海軍航空戦隊司令官を1943年に描いた。山口多聞海軍少将(1892年8月17日 - 1942年6月6日)は、第二航空戦隊司令官として真珠湾攻撃に参加し、ミッドウェー海戦でも同司令官として「飛龍」に座乗した。山口提督、加来艦長は、飛龍」と運命をともにしたが、軍の威信低下を恐れた大本営海軍部はミッドウェー海戦の惨敗を隠し、山口中将戦死の公表も1年後の1943年4月22日に遅らせた。作品完成も戦死公報後の1943年になった。Rear Admiral Tamon Yamaguchi, commander of the Japanese Carrier Striking Force's Carrier Division Two, elected to remain aboard his flagship Hiryu when she was abandoned during the early morning of 5 June 1942. He is depicted here in the middle of the scene as he bids farewell to his staff. Hiryu was the fourth Japanese aircraft carrier to be lost during the Battle of Midway.

北蓮蔵(1876-1949)は、1895年明治美術会に出品。1897年東京美術学校入学、白馬会展に出品、同会会員。1898年東美卒。1900年パリ万国博覧会に出品。1910-14年帝国劇場背景主任1922年帝展出品。1927-1930年留学。

小川原脩は,1941年召集され旭川の第七師団から中国東北部(旧満州)に出征。1944年陸軍美術展で「アッツ島爆撃」を公開。陸軍報道班員として,高見順ら10数名とともに,1944年中国の華中を回り,1945年戦争記録画展で「成都爆撃」を公開。戦後は,ふるさと北海道で描き続けた。
【戦争と画家 小川原脩の生涯】)に次のようにある。
 小川原脩は,東京のアトリエで、軍部から渡される航空写真や戦闘機の写真を見ながら場面を思い浮かべた。早稲田大非常勤講師河田明久は「小川原は見ていない場面をありありと描く戦争画に、うってつけの技量と描写力を持っていた」と言う。1943年には決戦美術展で陸軍大臣賞を受賞する。東条英機の名が書かれた賞状と軍刀が贈られた。「動員」「総力戦」の視点で戦争を研究する東海大助教授の鳥飼行博は戦争画の役割を、こう説明する。「写真なら余分な情報も写るが、絵は軍が伝えて欲しい部分だけを取り出して強調できる」(2006年08月17日北海道朝日新聞【戦争と画家 小川原脩の生涯】「玉砕美化」[旭川支局・中村尚徳担当]引用)


図(右):小川原脩「バタン上空に於ける小川部隊の記録」:1943年決戦美術展で陸軍大臣賞を受賞した作品。首相東条英機大将の名が書かれた賞状と軍刀が贈られた。「アッツ島爆撃」も航空機と眼下の風景を描いた戦争画である。

 藤田嗣治は,戦時中、陸軍美術協会理事長として、戦争画家の人選などにあたった。戦後は戦争責任を問われ,画壇で非難の的になった。1950年、パリに戻った藤田は「レオナール・フジタ」と改名、日本国籍を捨てた。小川原脩も美術文化協会を除名された。戦後は,ふるさと北海道で描き続けた。戦時中に描かれた多くの戦争画は終戦後、占領軍に接収された。米国に渡った後、1970年に無期限貸与という形で日本に戻った。保管する東京国立近代美術館は1977年、50点を公開することを決めたが、直前になって中止。小川原は晩年、戦争画の公開を主張し続けた。2000年に「ニューズウィーク」の取材にも、病床から「隠すべきではない」と答えた。戦争画にかかわった画家たちの中で、小川原は最後まで生きた。そして自身の戦争責任を語った。(2006年08月19日北海道朝日新聞【戦争と画家 小川原脩の生涯】[旭川支局・中村尚徳担当]引用)

中国社会科学院日本研究所は「芸術的精神溢れた画家が戦争を画題に選んでも何ら不思議はない。モチーフが何 にせよ、絵画そのものの命は芸術性にこそある。芸術か否かの判断は鑑賞者の感 性、芸術的水準による。
 芸術であるから戦争遂行のプロパガンダにならぬという理屈もまた成立しない。むしろ芸術性が高いほどプロパガンダ効果が大きいのではなかろうか。敗戦から58年過ぎた今日であっても、日本軍国主義なる言葉がしばしば外国の方から指弾 されるのを思えば、一括公開に慎重という意志は分かる。
 戦争画を描いた画家たちにも複雑な思いがあって、描きたくないが陸軍の要請ゆえ描いた方、積極的に戦争画を通して新境地を開拓せんとした方、戦後に責任追及されるのじゃあるまいかと怖れられた方などいろいろおられるらしい。芸術性それ自体は反戦か好戦かによって決まることではないが、プロパガンダの一翼を担ったという事実は(無形であっても)消えない。
小川原脩は戦後倶知安に閉じこもり「群れと個」をモチーフに、わが道を辿った。描きたくもない戦争画を描き、したくもない戦争に参加した思いをぶつけるところなく昨年彼岸へ行かれた。にもかかわらず国民たるを免れる ことはできない。敗戦59年目初日の重たい気分であります。(引用終わり)」

戦争画と戦争画家について,さまざまな立場,視点から多角的に議論が深まることで,戦争,総力戦の根幹が見えてくる。


図(右):英国ローレン・ハリス1942年(?)作「ハッガード二等兵」:Private W. A. Haggard.:Lawren P. Harris (1910-1994). 1942年8月19日,北フランス奇襲攻撃のディエップ上陸作戦には,カナダ第2師団の将兵 4,963人も参加したが,作戦は大失敗し70%以上の損害を被った。その生き残りがこのハッガード二等兵である。苦衷を滲ませる暗い表情で,決して勝者ではない。しかし,敗戦に生き残った兵士を敗残兵として蔑む日本軍とは対照的に,健闘と努力を讃えるかのごとき抑制を利かせている。

総力戦では、画家,芸術家も動員され、多くの戦争画が描かれる。藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎、中村研一、川端龍子など著名な画家の多くが日本軍の戦争画プログラムに名を連ねた。 画家は従軍したり、軍部から写真提供されたりして、戦争,特に戦闘場面を自分の感性によって再現してみせたようだ。日本の軍部は国民の士気を鼓舞するために、戦争画を組織的に描かせ,展覧会で公開した。「日本美術報国会」(会長・(横山大観)などの統制団体に加入し、軍の方針に協力した。

決して勝利を描く明るい絵だけが戦争協力がなのではない。打ちひしがれた兵士のために報復しようと戦意を高める戦争協力画もある。暗く陰鬱な印象を与えるから「反戦画」であるというのは,単純すぎる。

連合軍とナチスドイツも戦争芸術に力を入れていた。画家は,勝利の戦いだけではなく,敗退した様子や戦いに負けて生き残った戦士をも描いている。戦争協力画とは,味方の勝利・敵の敗退を描いたものであると,単純化することはできない。敗退する様子を描いて,国民に奮起させるのも立派な戦争協力画である。問題は,戦争の大儀と正義の戦いを納得させる戦争プロパガンダと結びついてくる。動員された画家たちは,自国の勝利を願って,さまざまなスタイルで,占領,敗退,動員,栄光,正義,苦悩などを描いた。まさに芸術的表現が求められる課題である。


図(右):フランツ・アイヒホルスト1943年作「スターリングラードの記憶」Franz Eichhorst "Remembrance of Stalingrad.":「大ドイツ展」に出品された戦争画だが,負傷し,つかれきった表情のドイツ兵士も描いている。暗い気分を醸し出しているのは,藤田嗣治の玉砕戦の戦争画と似ている。しかし,負傷してはいても,前途をしっかり見つめるドイツ兵は,強固な意志を感じさせる。ドイツ国防軍は,決して敗けたままでは終わらない,前途あるドイツの若者を苦しめたソ連赤軍に報復してやる,という敵愾心を抱かせる。The painting was displayed at the 1943 "Great German Art Exhibition." According to Kunst dem Volk: "The pale colors, the splendid presentation, and the solemnity of the moment are emphasized in this picture, which has an almost monumental character.しかし,後方に塹壕を越えるソ連軍のT-34戦車の76.2ミリ砲が小さく描かれ,豊富な手榴弾を持つドイツ歩兵が阻止してしまうように見える。

1943年1月,ドイツ東部戦線のスターリングラード攻防戦の敗戦では,健闘むなしくドイツ国防軍第6軍所属将兵15万人が死亡し,9万1000人がソ連軍の捕虜となった。しかし,ドイツ軍はこの敗北を隠すことなく,公表した。アイヒホルスト作「スターリングラードの記憶」(1943)は,決して勝利を表現した絵ではなく,立派なドイツの兵士を打ちのめしたことを示した。しかし,同時に,強固な意志,戦意は衰えてはいず,ソ連赤軍への対抗心,敵愾心を抱いている負傷兵の意気込みも伝わってくる。敗戦を描く戦争画でも,芸術家の才能如何では,戦意高揚に結びつく戦争協力画に仕立てることができる。ナチスドイツの戦争画にも,勝利に向かって前進するドイツ軍兵士だけでなく,負傷兵や苦悩する兵士が描かれている。(Haus der Deutschen Kunst, Munich;Geoff Walden参照)

<スターリングラード攻防戦写真集リンク>
Stalingrad | 1942-1943 :Photos from the soviet photographer Georgii Anatolyevian Zelma (Uzbeki, 1906-1984)
Stalingrad | 1942-1943 Pictures by soviet photographers
The battle for/in Stalingrad :September 1942 > February 1943 Photos from the Archive of Stalingrad [Volgograd]


図(右):アドルフ・ライヒAdolf Reich1942年作「ミュンヘン住民による羊毛回収」"The Wool Collection at a Munich Local Group." :1941年6月22日,ドイツ軍はソ連に侵攻したが,その冬までにモスクワ前面でソ連赤軍の反撃を受け窮地に陥る。冬季装備が不足しており,外套,帽子,マフラー,手袋から毛布まで羊毛や毛皮の製品が老人や女子も含めて多数の市民から集められ,前線に送られた。It displays a drive collecting woolen goods for soldiers during World War II. It is an effort at displaying the Nazi idea of Volksgemeinschaft, the people's community. Young and old work together for the good of Greater Germany.総力戦とは,銃後の女,老人も戦争をしている。それを喚起させる戦争動員画であると思う。


国家総力戦とは、戦争状態にある国家が、戦争遂行に対して持ちうる能力(国力)を総動員して行わねばならない状況及びそのような形態の戦争をいう。ここでは,一国のすべての国民と資源・食料を動員し,戦争を遂行するために必要な一元的戦争指導体制を樹立することが課題となる。総力戦体制の面からみると,第二次大戦時には民主主義型(米英カナダなど),ファシズム型(日本,ドイツ,イタリア),社会主義型(ソ連)という三つのタイプが存在した。米英では,基本的人権の部分的制限や行政権の肥大化などの問題をはらみながらも,基本的には議会制民主主義を維持しつつ総力戦体制が構築され,日本,ドイツ,イタリア三国では議会制民主主義の否定のうえにファシズム体制が築かれ,ソ連では社会主義制度に基礎をおく総力戦体制が作られた。(Total warおよび総力戦体制参照)

1943年2月18日、ベルリン・スポーツ宮でのナチスドイツ宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスによる総力戦演説は,スターリングラードの敗戦を認め,ドイツが苦境に立たされていることを認めたうえで,文明を守り,戦争に勝利するために,動員に協力することを訴えている。1万5000人の民間人,軍人を前に,総力戦を訴えたゲッベルス大臣の演説は次のようなものだった。(総力戦布告参照)
 「スターリングラードはドイツ国民に対する一大警鐘であった。今もそうである。ボルシェヴィストの脅威は常よりも大きく、それに対するわが国防軍は唯一の砦である。もしこれが敗れるならば、もしドイツ国民が降伏すれば、世界は屈伏する。敏速な行動が要求され、一分たりとも失うことは出来ない。西欧二千年の文明は危機に瀕している。
 今ここで重要なのは、ボルシェヴィズムを打倒する方法ではなくて、その目的、すなわち危険を除くことである。----我々は、あれこれの異議に構わずに事を始める。国民社会主義で教育され、訓練されたドイツ国民は完全な真実を堪えることが出来る!国民はドイツがいかに困難な状況にあるかを知っている。今はすべてがどうしてそうなったかを問う時ではない。ドイツ国民は戦争の苛酷で無慈悲な顔をのぞき見た。ドイツ国民は今や総統と苦楽をともにする決意を固めている。
 総力戦は刻下の急務である!我々は進んで高い生活水準を破棄し、できるかぎり徹底的かつ速やかに我々の戦争能力を高めようではないか。わが国民が今後何百年もボロを着ねぱならないような状態を招来するよりは、むしろ数年間、つぎのある服を着ることを我々は欲する。総力戦のためにとられるこれらの措置は戦線へさらに兵士を送り、兵器工場へ女性労働者を送りこむことになろう。これらの非常手段をとったにもかかわらず、我々が不安な日々を過ごさねぱならないという事実についてはなにも言うつもりはないが、そうすることは国民の空気をはれやかにするに力あるであろう。
 我々の側には誠実で信頼の置ける盟友がいる。イタリア国民は、我々とともに迷うことなく勝利への歩みを続けるだろう。東アジアでは勇敢な日本国民が、アングロサクソンの戦争勢力に打撃また打撃を加えている。我々の勝利の確実さには何の疑いもない。」(引用終わり)


図(右):英国ローラ・ナイトDame Laura Knight1941年作「旋盤作業」Ruby Loftus screwing a breech-ring:Clark Dame Knight, Laura(1877-1970)は,海外にも赴いた三人の英国女流芸術家の一人である。ニュルンベルク裁判を描いた絵画もある。Knight worked on a number of commissions for the WAAC(War Artists Advisory Committee) during the war and was one of only three British women war artists who travelled abroad. Canadian War Museum 引用。

The Canadian War Records (CWR), Canada's Second World War art programは二種類の芸術を生み出した。これは,戦場の現場でのスケッチfield sketchesと最終的な絵画である。戦争芸術委員会the War Artists' Committee (WAC) は,芸術家が,戦地の状況やその戦士たちの心情を理解できるように,実際に戦場に赴くことを勧めた。これは,手段であり,最終的な作品"productions"こそが,重要である。作品は カナダの高い文化水準,歴史への審判,芸術活動を体現したものである。The instructions charged the artists with portraying "significant events, scenes, phases and episodes in the experience of the Canadian Armed Forces," and required each of the 32 artists hired to produce a certain number of paintings. The official instructions also played a role in the final compositions. "Action Episodes", defined as "Eye Witness Records" and "Reconstruction", the instructions stated, were, in order of importance, the first subjects to be tackled.
Exhibition Themes カナダの戦争画


図(右):カナダのクラーク1947年作「パラシュート縫製作業所」(1947年)Clark, Paraskeva (1898-1986) Parachute riggers. パラシュート(絹製)縫製作業に励む女子労働者。クラークは,カナダ空軍の女子部隊について作品を残している。"After having some personal experience with life and activities of the Women's Divisions in the RCAF(Royal Canadian Air Force) or Wrens," noted Clark in a letter to the director of the National Gallery of Canada, "I lost all hope to see 'any drama' there. But I found exciting enough the fact that in some of the activities, women performed the jobs, previously done by men and thus, released (perhaps) some men for fighting duties or for war industries." Oil on canvas 101.8 x 81.4 cm. Beaverbrook Collection of War Art. Canadian War Museum 引用。

第二次世界大戦でもカナダは英連邦の一員として,1939年に参戦し、英国支援のために3個師団を派遣。ハリファックスと英国を結ぶ海上交通には,輸送船,護衛艦とその乗員を提供している。また,英連邦空軍訓練計画を設立し約12万人の空軍要員を訓練した。1941年には英国租借地香港にカナダ軍3個大隊が派遣。1943年にイタリア戦線,1944年に西部戦線に派兵している。カナダは,日米開戦後,日系カナダ人,日系アメリカ人を,収容所に隔離した。

Art Gallery米国の戦争画

国家総動員の中にあって,民間人も軍人同様,戦争に動員される。兵器や食料の生産,物資回収・資源節約,慰問品配送と老人,女子,子供でもできる戦争がある。市民一人ひとりが戦争に協力することを求められる。戦争画は,国家総力戦における動員を円滑に行うために,銃後の市民にも,戦争に参加しているという意識を植え付ける必要がある。そのために描かれた画は,兵士や武器が描かれていなくとも,戦争協力画である。
ナチスドイツの戦争画にも,勝利に向かって前進するドイツ軍兵士だけでなく,負傷兵や苦悩する兵士が描かれている。

5.日本画の巨匠横山大観は,兵士や兵器を配した戦争画を書かなかった。旭日,富士山,桜など日本の美を力強く描いた。それは,光輝ある神国日本が国体の精華を世界に及ぼしているかのごとくである。横山大観は,航空機献納運動に自作販売代金を献上し,日本美術報国会の会長も勤めた愛国者である。


図(右):横山大観1942年作「輝八紘」:日蓮の「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」、『日本書紀』巻第三神武天皇の条「掩八紘而爲宇」(あめのしたをおおいていえとなす)から「八紘一宇」を造語した。1940年には近衛文麿首相が「皇国の国是は、八紘を一宇となす建国の精神に基づく。」と発言。この精神は人種平等や民族自決を謳ってはいるが、実質的には「アジアは地域最高の先進国である日本が家長として率いる。よって諸国は日本を中心とした秩序に従うべし」というように、大東亜戦争の正当化に使われていくことになる。(wikipedia引用)
1942年の横山大観の名画「輝八紘」は,戦場を描いた地上の土臭い戦争画ではなく,光輝ある伝統の強国日本そのものである。神国日本が,八紘一宇の威徳を世界に輝かせる状況を旭日,不二,桜によって芸術的に体現している。聖戦を戦ってもおかしくないような力強い威徳(武威?)を発散している。

神戸新聞記載の浅美術研究家 笹木繁男氏の評論には,次のように述べている。
 「彩管報国」絵筆(彩管)を執って国に尽くすというこのかけ声の下に、さまざまな「戦争画」が描かれた。「アッツ島玉砕」などのリアルな描写で世間を圧倒した洋画家の藤田嗣治。日本画の大家・横山大観は富士山や日輪(旭日)の図で「日本精神」を鼓舞したとされる。美術研究家の笹木繁男氏=東京都=は「何がそこに描かれたかをよく見ることが大切」と話す。(三上喜美男)
 ---藤田は帰国後、大量の「戦争画」を描いた。「アッツ島玉砕」に見られる兵士や住民の自決などの残酷な描写は、「戦意高揚には逆効果では」と物議も醸した。そこに「反戦」の意図を読み取ろうとする見方もある。
 しかし当時、アッツ島の戦闘は本土決戦の前哨戦と位置づけられ、軍部にとっては「玉砕」をいかに国民に受容させるかが急務だった。藤田の絵はそうした軍部の意向に沿った作品であり、国のために命を投げ出す「散華」の表現でもあった。
 大作の玉砕図を、藤田は軍部の指示からわずか二、三カ月で仕上げている。西洋絵画に精通し、群像を画面上で自在に操れる卓越した技量を持つ藤田だからこそ描けた「戦争画」といえる。
 ---横山大観は戦争中、富士山や日輪(「旭日桜花」「朝陽映島」「朝陽の図」など)ばかり描き、「戦争画」は手がけなかったといわれる。確かに大観をはじめ多くの日本画家は、戦闘図など直接的な戦争を描くことはなかった。しかし富士山や日輪は日本という国家の象徴であり、絵の中には「日本精神」を鼓舞するための精神性が盛り込まれている。
 例えば、大観が広島・江田島の海軍兵学校に贈った「正気放光」には、荒波の上にそびえ立つ富士山が描かれている。富士=日本を不沈戦艦になぞらえた絵だ。海軍の士官候補生はこの絵に礼をして戦地に向かったという。大観の絵には一貫した思想性がある。「翼賛的」というなら、藤田の「戦争画」より大観の絵の方が「翼賛的」だといえるだろう。その絵は戦後、米軍の接収を逃れるため隠され、今は江田島の海上自衛隊の学校に掲げられている。だが「門外不出」とされ、私たちが直接目にする機会はない。
 絵には社会が反映される。戦争期に戦争を描くこと自体は、決して悪いことではない。称賛と批判の一線は微妙だ。「戦争画」は、いろんな面を見ないといけない。それにはまず絵を見せること。隠すことからは何も始まらない。(→神戸新聞(2004/08/30)引用終わり)


図(右):スタンデシュ・バックス1945年作「富士山を眼下にしたコルセア戦闘機」:Standish Backus:Corsairs Fringe Fuji;Mount Fuji, for all that it means to the Japanese, has proved a warm friend of American pilots, not only during wartime raids but during the occupation. During routine patrols, Marine pilots often went out of their way to buzz the sacred slopes.--Standish Backus, 1945.1942年の横山大観の名画「輝八紘」では輝いていた富士山も星のマークをつけた海軍のコルセア戦闘機に征服された。神国日本も米陸軍航空隊のB29爆撃機の空襲を受けた。CONTENTdm Collection引用。B29爆撃機の護衛のように解説されることもあるが,海軍(海兵隊)戦闘機なので,直接護衛ではなく,日本軍航空兵力の撃滅,地上攻撃に従事。

横山大観《夜桜》について:佐藤美貴によれば,横山大観は,それまで「朦朧派」と揶揄され在野の画家であったが,1930年イタリア王国ベニト・ムッソリーニ統領統治下で開催された日本美術展(ローマ展)で日本画界の主流へと転じた経緯が述べられている。ローマ展以降の大観は、1931年帝室技芸員就任、1936年帝展松田改組への全面的協力、1937年文化勲章受賞、帝国芸術院会員、1943年日本美術報国会会長就任、1946年文部省主催第一回日本美術展覧会第一部審査員など官を代表する日本美術界の巨匠へと転じた。
横山大観は,1921年 米国六大都市で開催される日本美術院同人絵画展覧会の出品。
1922年(大正11年)6月25日、大正天皇の第二皇子淳宮雍仁親王が20歳の誕生日を迎え秩父宮家を創設した際「秩父霊峰春暁」を作成,1928年献上(現在,宮内庁三の丸尚蔵館蔵) 献上。
1938年,文部省から制作依頼のあった、ドイツ帝国ヒトラー総統への贈呈作を完成させた。
1940年5月軍に献納した絵画の売り上げ金で,愛国第445「大観」号と銘銘された三菱九七式重爆撃機が会社から陸軍に収められ,海軍にも九六式攻撃機(中攻)と九六式艦上戦闘機が献納された。(http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html引用)

Fish Eye横山大観には,年代別に大観の作品が掲載されている。

横山大観の戦時中の絵画は,陸軍報道部のいう「国民の士気を鼓舞するために迫力のある大画面で誰でもわかる写実的な戦争画」ではない。大観の描いたものは,旭日,富士山,桜など日本の象徴を配して,光輝ある日本国,「八紘一宇」を表現している。これは,天皇の威徳,国体の精華を全世界にあまねく及ぼさなければならないという聖戦の本義を芸術表現したともいえる。問題は,天皇の威徳に従わない国や人々をどのように処すべきかである。

図(右):横山大観「海潮四題・秋」と「龍踊る」:1940年,皇紀2600年展覧会出品の海山十題の中の作品。展覧会には海10点,山10点の合計20点が出展された。海は海軍,山は陸軍を意味しているとして,絵画の売上金50万円は陸海軍に譲渡された。その資金をもとに,三菱から爆撃機2機,戦闘機1機が日本陸海軍に献納された。海軍献納機は報国号,陸軍献納機は愛国号と呼ばれるが,献納した企業名や学校名をつけて命名する。横山大観の献納の場合,報国あるいは愛国「大観」号である。自らの画業50年と、紀元2600年を記念して製作した「海・山十題」は敗戦の混乱によって散りじりになり、長い間行方不明になっていたが,幻の2作が2002年に発見され、63年ぶりに全て揃った。「秋季特別展」2006/8/30-11/30:足立美術館(島根県安来市)では,それを「小春日」「虎溪三笑」「冬之夕」「紅葉」「春風秋雨」「曙色」「神国日本」「中秋之月」「山川悠遠」とともに展示。

『新版・小熊秀雄全集第五巻』創樹社,1991(平成3)年11月30日第1刷;テキスト入力:小林繁雄には,横山大観の戦争時期の活躍に関する次の記述がある。
<時局と日本画―横山大観の場合>
 (1937年の盧溝橋事件に端を発した日支)事変は芸術各部門に--衝撃を与へた、日本画壇においても、そのショックを免れるわけにはいかなかつた、先づ明瞭な現れとして戦時インフレイションのお蔭で、近来珍しく日本画が売れ、その価格も突拍子もない高価な取引が行はれた、然しすべての日本画家がその作品が売れるわけではない、矢張り少数の「選ばれた者」だけで、依然として物質的不遇な作家は多いわけだ、ただ事変下において、日本画もまた完全に商品化の路を辿つたといふことである、
 従つて制作を刺戟されて、作品が大量に描かれ展覧会も頻りに行はれ、有名無名に拘らず、この制作刺戟の恩恵にだけは浴したわけである、-----
 最近の日本画壇の一問題としては、(1940年皇紀2600年の)横山大観の個展であらう、海と山とに因む二十点の作品は一枚二万五千円宛に、計五十万円に売れ、陸海軍に分割して、寄附した、まことに彩管報国を実践したわけである、この作品展は事変下の制作刺戟をもつとも有効に、芸術的情熱と、政治的意義とを捉へることに、ふりむけて成功したものといふことができるだらう、芸術ヂャーナリズムはこゝへ来て大観号を出して、大観礼讃をするらしい、
 しかしこれらの美術ヂャーナリズムは多分に追従的であるから大観の正統さを礼讃をするよりも、その五十万円の赤誠を礼讃することに尽きるであらう、二十枚五十万円に売れたといふことは価格的には少しも驚ろくには当らない、----殊に芸術作品の価値が、金銭価格に換へられない純粋な存在であることを思へば尚更二万五千円は安い売り方だといへる、---。
 大観は価格として五十万円の赤誠を示した、美術、文学の世界を通じて、これはまた最高の価格的赤誠の現れである、しかしそのことを軽忽には採りあげられない、美術ヂャーナリズムが軽忽に大観礼讃を行つたらおかしなものである。

 美術家の中でも従軍して上海で死んでゐる人までゐる、この人の赤誠はいつたい金額にして何程に換算していゝだらうか、文学者の中でも不健康をひきずつて戦蹟慰問や第一線慰問をしてゐる人もある、畳の上に坐つて大観が描いた絵が一枚二万円に売れ、戦地の泥土の中にしやがんで描いた従軍画家の絵が十円に売れたといふことに就いて、これは価格の差を論じてはいゝが、赤誠の差はうかつに論じられない、大観もまたその無名従軍画家も、赤誠において純粋であつたといふことは均しいからである。(インターネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jp引用終わり)

6.戦争画には,戦争賛美,戦争殉教,戦争記録,反戦画などさまざまな側面がある。最近,藤田嗣治の「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」のような「戦争記録画」を単なる戦争賛美画ではなく,戦争の悲惨さを表現した戦争画であると見直す動きが出てきた。しかし,総力戦であった大東亜戦争・アジア太平洋戦争を一副の絵で表現するのは困難で,画家の戦争観の影響した主題が問題となると思われる。

図(右):藤田嗣治1943年作「アッツ島玉砕」;最期の一兵まで戦い捕虜を出さないことを誇りにした日本軍にとって,殉教画にも等しいと感じてもらえれば,その意図を達成したことになる。日本軍は,勇ましい勝利しか戦争画として認めないというのは,あまりにも単純化した見方である。荘厳な氏を迎える「殉教画」を高く評価する日本の軍事的指導者も少なくないはずだ。凄惨な体当たりに,神風特別攻撃隊「敷島」「大和」「朝日」「山桜」部隊という国学者本居宣長の短歌由来の典雅な部隊名を考案しているのであるから。これは源田実中佐が軍令部で「愛国百人一首」を眺めて命名したのであろう。1943年「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」が波平暁男/伊藤武雄/伊藤久男によって歌われた。作詞 裏巽久信,作曲 山田耕筰。

藤田嗣治は,1943年5月29日、アラスカのアリューシャン列島西端での『アッツ島玉砕』を描いた。アッツ攻防戦は,米軍の戦死550名に対して日本軍の戦死は2,638名という殲滅戦であるが,日本の大本営は翌日,「玉砕」と呼んで公表し,国民の士気を高めようとした。守備隊長山崎保代陸軍大佐は「軍神」とされ,死後,中将に二階級特進した。敗北を糊塗するために「玉砕」という美名を冠して,英雄叙事詩を作り出そうとした。この戦いに感動したのか,芸術家として活躍の場を嗅ぎ取ったのか,3か月後開催された「国民総力決戦美術展」に藤田嗣治は「アッツ島玉砕」を出品した。


写真(右):アッツ島で万歳突撃して殺害された日本軍将兵;藤田嗣治の戦争画では,日本軍が追い詰められて最後を全うした姿が非情に描かれている。実際,野ざらしになった戦死した日本兵が,米兵の前に晒されている。勇敢に最期まで国体護持の使命を全うした日本軍といった構図は真実を表したものなのか。40名の日本兵の遺体が積み重なっている。U.S. Army Signal Corps引用. The photo shows just where the soldiers fell. Later these bodies were removed and buried. 藤田嗣治「アッツ島玉砕」は,この米国陸軍の公式写真とそっくりな構図である。米軍が大勝利として陸軍週報などで公開した写真を藤田が日本陸軍から手渡されて参考にしたのであろう。もし,この写真を基にしているのなら,無残に敗れたという印象を拭い去るために,最期まで徹底抗戦したという構図に変更したことを意味する。これは,のちの全軍特攻化の前触れである。少なくとも,現在,多くの識者が指摘するように,藤田嗣治「アッツ島玉砕」が軍の意向に沿わなかったということは,まず,ないであろう。白兵戦の真価を発揮するかのごとき,降伏しない徹底抗戦は,軍が強調したかったことである。日本軍こそが「玉砕」の語を広めたのである。

戦争画を、戦争協力のためのプロパガンダとして糾弾するのはやさしいが、戦争画を読む(11)藤田嗣治と戦争画でも、藤田嗣治「アッツ玉砕」について,次のような評価している。
 絵は、凄惨な殺し合いがあるだけの残酷な(ある意味で戦争の実態を描いた)絵画である。この頃から藤田の戦争画は酸鼻なだけで、かえって国民の戦意を喪失させるだけだ、との意見が軍部から出始めていた。軍部の考えていた戦争画とは、戦争記録画であり戦意高揚画(=プロパガンダ絵画=《英雄譚》)だったからである。

 しかし、軍部の意見とは逆に、国民からの藤田の戦争画の人気はかえって高まっていく。藤田の『アッツ玉砕』の前には賽銭箱が置かれている。そして作者がその横に立ち、賽銭が投じられるたびに頭を深く下げる。---これは美術展ではなく、宗教行事の場なのである。---美術展を訪れる人々は、アッツ島で戦死した人々に対して、鎮魂の儀式を行っているのである。---自分の《絵画に対して》ではなく、《絵画を通して戦死した人々に対し》敬意が払われている。これはまさしく「殉教画」なのである。

 『この絵は、確かに俺が描いたのだが、俺が描いたのではない。死者の霊が、俺の腕を借りて、それを描かせたのだ』。

藤田を代表とする力量のある画家たちは、軍部のプロパガンダの意図を乗り越えて、あるいは制約にもかかわらず、美術の持つ力を見せてくれた。----近代日本で初めて普遍的な「宗教画」を描いた。それは、特定の宗教ということではなく、「人の死を悼む」という宗教的感情を率直に示したものだった。ただ、それが戦争中だったことが、美術界にとっても、画家個人にとっても不幸だった。(→戦争画を読む(11)―藤田嗣治と戦争画引用終わり)

図(右):ウィリアム・ドラッパー1942年作「平和の休息:アムチトカ島上陸作戦」Rest In Peace (Solders Pause During Landing Operations)William F. Draper、Oil on board; 1942;シービーズと呼ばれた飛行場設営部隊がアリューシャンAleutian列島アムチトカAmchitka島に飛行場を建設する様子を描いている。戦闘部隊だけでなく設営部隊もが過酷な環境の中で頑張っています,お国の役に立っていますということを訴えているようだ。

藤田嗣治は、「絵画が直接にお国に役立つと言う事は何と言う果報なことだろう」、「いい戦争画を後世に残してみたまへ。何億、何十億という人がこれを観るんだ。それだからこそ、我々としては尚更一所懸命に、真面目に仕事をしなけりやならないんだ」 といったという。

「絵として美術史的に重要なら、フジタ自身としても最高のもの」との美術評論家(洲之内徹氏)の評価があるという。『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』などは、プロパガンダ絵画としての「戦争画」を越えて,普遍的な「宗教」、人の死を悼むという宗教的絵画の域にまで達しているという。

問題は、画家本人が体制に追随しているにもかかわらず、描いた作品が、彼らの意図すら乗り越えたものになってしまうという、ある意味で矛盾した、皮肉なプロセスだと評している。(戦争を背負った画家/藤田嗣治引用終わり)

 真珠湾一周年を期して開かれた第一回大東亜戦争美術展の様子を、夏目漱石や与謝野鉄幹などと交わった洋画家、石井柏亭は次のように語っている。「藤田(嗣治)氏の画を前にして、私は観客の一人が感謝の頭を下げて居るのを見て、戦争美術展の公衆に対する特殊な意義のあることを思わざるを得なかった。」また太平洋戦争における日本軍玉砕として大々的に報じられたアッツ島守備隊の全滅を描いた藤田嗣治の「アッツ島玉砕」(193×259)は、陰惨な死闘の情景が描かれたものであるが、国民総力決戦美術展に出品された作品の前には、賽銭箱が備えられていたという。
 敗戦の四ヶ月前まで美術雑誌が出版され、美術展覧会が一ヶ月前まで開かれていた特殊な戦時下における美術優遇は、奢侈品等製造販売制限規則(1940年)から美術品が除外されたときから運命付けられていたという。(→さまよえる戦争画――従軍画家と遺族たちの証言引用終わり)

プロレタリア美術と戦争画における「国民」的視覚 :小林俊介(山形大学教育学部)2003では、映像的・瞬時的な国民的視覚に基づく戦争画が、歴史画的な時間性を表現し切れなかった理由として,報道写真を写したような、国民に周知の映像に依存したことを指摘する。他方,藤田嗣治の戦争画が歴史画的な時間性を獲得したのは、画法だけではなく、玉砕戦の描写が、軍と藤田がかくあるべしと想像する「絵空事」であったことに依存すると考える。戦局の悪化した時期、報道写真の入手は困難であり、物語性を復活させ、「殉教図」として「礼拝」の対象にさえなったとする逸話を紹介する。

「玉砕」の出典は,北斉書元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(人間は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」とされるが,最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が壊滅した負け戦の時である。日本軍敗退は明らかであったが、敗北の責任を回避するために「玉の如くに清く砕け散った」と喧伝した。藤田嗣治が「アッツ玉砕」を描いたのも、それに触発されたのであろう(あるいは軍から要請されたのか)。それ以降,守備隊殲滅という日本軍敗退は,1943年11月22日タラワ戦(ベティオ島),1944年2月5日クェゼリン環礁,7月3日ビアク島,7月7日サイパン戦,11月24日ペリリゥー戦,1945年3月17日硫黄島,1945年6月23日沖縄と続く。これらはみな「玉砕戦」と呼ばれた。

「玉砕」のこのような見解も成り立つかもしれないが,web鳥飼研究室では,戦争の具体性に触れつつ,独自の見方を提供してみたい。軍民ともに運命をともにし,最後の一人(一兵でなく)まで戦うという「一億総特攻」「玉砕戦」は、「戦争殉教」そのものである。したがって、戦争殉教画が、戦争協力を訴える側面も指摘できる。「悲惨な末路を描いた戦争殉教画であるから,戦争協力画ではない」との見方には賛同できない。

画家であっても,戦時中に活躍の場を与えられるどころか,徴兵され,戦地に赴任し,戦病死した元画家・画家志願者もたくさんいた。語りつぐ戦争(15)「戦地に散った若き画家たち」には,次の画家たちの言葉が紹介されている。渡辺武27歳「せめて、この絵具を使い切ってから征きたい」沖縄で戦死
蜂谷清22歳「ばあやん、わしもいつかは戦争に行かねばならん。そうしたら、こうしてばあやんの画も描けなくなる」レイテで戦死。
結城久30歳「自分は、這いずってでもきっと還ってくる」
岡田弘文28歳「絵はもうやめる。戦争が終わったら、子どもを集めて絵を教えよう」
現在も,生き残った,元飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊)伊藤直之氏のように,当時のスケッチを参考にして航空戦の様子を描いた戦争画がある。戦死者を追悼するとして,戦死者追悼画家 松本武仁氏のように特攻隊や沖縄戦などの戦争画を写真を参考にして書いておられる方もいる。

7.1943年5月,アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が全滅,1944年7月にはサイパン島が陥落した。日本の大本営は即座に「アッツ島玉砕」「サイパン島玉砕」を公表した。藤田嗣治「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」は,陰惨で戦争殉教画であるとの評価も受けている。軍部が厭戦画(反戦画)であるとの烙印を押したという伝説まである。しかし,戦争殉教は,死ぬまで戦う,降伏し捕虜にならないという徹底抗戦,民間人も含めた一億総特攻の戦略には,整合的である。玉砕戦を英雄譚,英雄叙事詩とすることこそ軍の要請であった。実際には,捕虜や投降者も少なからずいた「敗戦」を「玉砕」とするために,悲劇的な戦争画は有益であった。

図(右):ヘンリー・バーヌ・プアHenry Varnum Poor1942年作「アラスカ防衛軍募集に応じたムトック・マースト」 Major Muktuk Marston Signs up Soldiers; "Sign up for the Alaska Territorial Guard at the school on Little Diomede Island.米軍は少数民族とも言えるエスキモー(イヌイット)を兵士として利用しようとした。国民統合の意味のあった。日本軍がアラスカの一部(アッツ・キスカ両島)を占領している状況では辺境とはいえ,本土を侵されたことには変わりはない。図(右):ヘンリー・バーヌ・プアHenry Varnum Poor1943-45年作「雲の晴れたアダック島」;アダック島に急遽飛行場を整備した米軍は,ここからアッツ島,キスカ島の日本軍を空襲した。並んでいるのは,ドーリットルDoolittleによる東京初空襲にも使用されたB25「ミッチェル」Mitchell爆撃機。

1943年5月Attu Battlefield and U.S. Army and Navy Airfields on Attuからみたアッツ攻防戦の経緯
1942年6月7日,キスカKiskaとアッツAttuの両島を日本軍が占領。米軍は1942年9月にアダック島Adak, 1943年2月にアムチトカ島Amchitkaに航空基地を整備し、キスカ,アッツを攻撃した。

キンケード提督(少将)(北太平洋方面軍)は, ブラウン少将の指揮する第7師団にアッツ上陸地点確保を命じた。戦艦3隻(Pennsylvania, Idaho,Nevada)が支援艦砲射撃を行った。

5月11日,北部海岸への上陸。日本軍の抵抗は激しく、キンケード提督は戦意不足としてブラウン将軍を更迭し、陸軍のランドルー少将をアッツ部隊指揮官に任命。

5月29日、日本軍は万歳突撃。5月30日,日本はアッツ陥落を認め(玉砕として)公表。

⇒■アッツ玉砕戦の真実

図(右):ヘンリー・バーヌ・プアHenry Varnum Poor1943-45年作「配給の列」 ; 辺境の極北では,物資が豊富とされる米軍兵士であっても,十分な宿舎も食堂もなく,装備も貧弱なまま,野外で食事を配給された。このような困難に耐えて,本土を担うたくさんの立派な米軍将兵はがいる。このような戦争の苦闘に立ち向かう勇者を表現した「戦争協力画」。この絵を見て,「過酷な場所だから,徴兵されたくない」と思う臆病者はいない。図(右):ヘンリー・バーヌ・プアHenry Varnum Poor1943-44年作「1943年アリューシャン列島の朝,B24爆撃機とP38戦闘機」Aleutian Morning 1943, B-24s and P38s ;エンジン4機の重爆撃B24リベレーター(解放者)と双発戦闘機P38ライトニング(電光)。ともに,信頼性の高い機体だったが,悪天候による損害も多かった。十分な通信誘導システムと気象観測ができていない時代,長距離攻撃は困難が多かった。

日本軍2500名のうち生存者は29名。米軍1万5000名のうち死者550名,負傷者1500名。さらにアッツ島の悪天候のために1200名の負傷者があった。これは不適切な軍靴と外套のためである。日本の大本営は将兵は全員玉砕と報じた。29名の捕虜は不名誉な存在として黙殺された。皇軍将兵たるもの戦陣にあっては「生きて虜囚の辱めを受けず」であり,降伏することは許されない。火力,航空兵力の絶対的不足を,精神力,士気の高さで補おうとしたのである。

万歳突撃は,防備を固めた敵陣への白兵突撃は自殺攻撃である。自ら殺されに行くよりも,陣地に隠れて最期の一兵まで持久戦を戦い続けるほうが,敵の損害拡大,兵力拘束には有利である。クエジェリン環礁,サイパン島などでは万歳突撃が行われたが,硫黄島攻防戦,沖縄戦では自殺的な万歳突撃は行われなくなった。

日本軍の精神主義が,藤田嗣治の初の戦争画に描かれた1939年ノモンハン事件から強化されたことは興味深い。戦争画など戦備の役には立たないかもしれないが,国家総動員体制の中で精神力の動員には不可欠であろう。

図(右):米国エドワード・レーニング1943年作「尋問」(1943年5月アッツ玉砕後,捕虜の日本軍人への尋問);INTERROGATION. Aleutian Islands, World War II. By Edward R. Laning, 1943.全員潔く玉砕して皇軍将兵の潔さを見せたはずが生き残り敵に降伏した敗残兵がいたとあっては日本軍の不名誉である。このように信じ込ませるには,藤田嗣治「アッツ玉砕」は殉教画であることが望まれる。戦争協力画とは,決して勇猛果敢な勝利だけを描いたものではないであろう。このように米軍の捕虜になった日本軍将兵は,日本軍上層部にとって抹殺すべき存在である。勇敢な兵士が降伏して敵の軍門に下るはずがない。捕虜を認めないのは,兵器・兵力の上で劣勢な日本軍の唯一の武器は,精神力であるからだ。最期まで戦うという気概,熱狂がなければ,到底,装備優秀な米軍に抵抗することはできない。兵力を比較して対戦したら,撤退するか,降伏するしかなくなってしまう。降伏>投降>捕虜を許さないという鉄の規律があってこそ,最期まで将兵を戦わせることができる。死ねば殉教者,軍神として追悼するが,降伏して生き残れば非国民として黙殺する。(生き残ったことを誹謗することはしない。全員玉砕している建前になっているのであるから。わざわざ捕虜となれば生き残れることを教えるわけはない。)

アッツ・サイパン玉砕戦の真実を読む。

1943年5月30日大本営発表「アッツ島玉砕」
「アッツ島守備隊は、5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ、5月19日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し、皇軍の真髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信全く途絶、全員玉砕せるものと認む。」
「傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、これに先立ち悉く自決せり。我が守備部隊は二千数百名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。敵は特殊優秀装備の約二万にして、5月28日まで与えたる損害六千を下らず。」
山崎保代大佐は,軍神となり二階級特進し陸軍中将任ぜられた。


米国スタンディシュ・バックス1946年作 「混沌」(グアム島上陸地点)Muck:Standish Backus #12Watercolor, 1946,24 1/2h" x 30 1/2w" The process of winning the ground from the enemy so that a great base for future operations might be built, developing it as a harbor, constructing the base facilities, and using it as a base, all had to go on simultaneously at Guam. Bottlenecked, as always, was cargo handling in a very limited docking area. The rains came and went many times a day. Traffic sank into the muck, units dropped out to be hauled out later. Huge cats pulling loads of coral kept the causeways going. And the air hung with moisture and sweat.

米軍は特殊装備だったが,冬季用の軍靴や外套は不適切であった。陸上への支援艦砲射撃も,後年の島嶼攻防戦と比較すると手ぬるかった。航空支援も悪天候のために不十分であった。結果として,日本軍は,地形と濃霧を利用して,敵の火力を緩和し、頑強な抵抗を継続できた。しかし,大本営発表では頑強な抵抗は、日本軍の勇戦のためとされ,精神力だけが賞賛された。藤田嗣治「アッツ島玉砕」は殉教した忠勇なる戦士を描いた点で,軍部の絶大な支持を得たはずである。戦争の陰惨さを映してはいるが,悲劇の英雄譚は,アッツ玉砕を報じる大本営発表「死ぬまで戦い、潔い最期を遂げる日本人」に適っている。
1943年10月「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」が発表された。作詞は裏巽久信,作曲は山田耕筰である。本来,完敗の敗けいくさ「アッツ島日本軍守備隊全滅」を「アッツ玉砕」と悲劇の英雄叙事詩に読み替えようと日本の軍部は熱心だった。

芸術的な戦争記録映画もたくさん製作されている。(戦記映画復刻版 VHS 全25巻参照。)

アッツ・サイパン玉砕戦


図(右):ロバート・ベネー Robert Benney1944年作「懐中電灯での手術」サイパン島の米軍野戦病院Flashlight Surgery, Saipan;日本軍航空機の爆撃の間,懐中電灯で照らしながら手術をする。劣勢にあるように錯覚してしまうような陰惨な戦争画であるが,実際にはサイパン島の日本軍を米軍は圧倒していた。芸術家の表現したものは,戦争の実際全てに当てはまるわけではない。気楽な勝利ではなく,苦闘する将兵こそが,芸術家の創作意欲を刺激する。

1944年6月11日から,米軍はサイパン島を空襲,艦砲射撃。6月15日以降,総勢7万人の米軍が,サイパン島に上陸。サイパン守備の日本軍は第43師団(斉藤義次陸軍中将)、など4万人。日本の空母機動部隊は、反撃したが、マリアナ沖海戦で米海軍任務部隊に大敗し,6月24日には,天皇にサイパン島奪回が不可能であることを上奏。7月6日には日本軍将官たちも自決。その後、3000名の日本軍将兵が、万歳突撃を敢行。マッピ岬では多数の民間人が、断崖から身を躍らせ自決した。アッツ島陥落の1年後、玉砕は,日本軍将兵だけではなく,日本民間人にまで及んだ。

「サイパン島玉砕」は,次のように述べる。
清沢『暗黒日記』に次のような記述がある。「米英が鬼畜であるとの宣伝が行き渡っている。浦河から苫小牧までの汽車で挺身隊が乗った。その隊長が曰く『大西洋憲章というものをチャーチルとルーズベルトが作ったが日本人を皆殺しにすると決議した。男も女も殺してしまうのだと声明した。きゃつ等に殺されてなるものか」、これが汽車中の演説である。また日本人に子を生ませないように、睾丸をとるとか、或は孤島に追いやるとかいうことも、一般人の間には信じられている」(1944年3月10日)
 新聞記事---のほとんどが、米国が日本人の抹殺を企図しているという内容を扇情的に記しているものなのである。それに『毎日新聞』なぞは、「社会欄に大きく、『殺せ、米鬼を』と特別活字で書いている」(1944年3月13日)

 菅野静子「サイパン島の最期」;降伏を勧めるビラをみて、兵士は「こんなのにつられてウカウカでていこうものなら、男はみんな戦車の下敷きさ」と語る。そのことばを聞いて菅野は、「そんな場合、女の運命はわかりきっている。もしそうなったら、私はりっぱに自決しよう‥・と心にちかった。」と。----この意識は、日本軍が中国など各地で捕虜・民間人を問わず、虐殺や強姦、掠奪等を行ってきたことの裏返しである。(「サイパン島玉砕」引用終わり)


藤田嗣治1944年作『サイパン島同胞臣節を全うす』:1944年7月初め、マリアナ諸島サイパン島の日本軍守備隊玉砕を描いた作品。米軍の死傷者1万5000名に対して日本軍将兵2万300名,民間人1万名が死亡している。軍民が一体となって防戦したが、衆寡敵せず,捕虜を出さずに潔く全員玉砕したといわれた。この作品は,軍民一体となった徹底抗戦,最後の全員玉砕を表現した悲劇の英雄譚、殉教画のだという識者が多い。

サイパン島玉砕とフジタ画伯には,新聞に掲載された藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を全うす」を引用しながら,次のように述べる。
 「戦時中、当時の日本の画家達が、総動員で戦争画を描き国家奉仕を行いました。上の絵はその時の一枚。全国持ち回りで展覧会が開かれ、学校行事として、全員連れられて見学したのは多分昭和20年の春頃だったと思います。但し、上のサイパン島玉砕の図を始め、何枚かの絵は児童生徒には残酷過ぎる、という理由で、別室展示になり見る事は許されずに終わりました。----「ニューギニア戦線で玉砕した山田部隊の死闘の図」---これも残酷な絵で、彼の後年の絵「天国と地獄」にその残酷さが続いているような気がします。」(引用終わり)

写真(右):『藤田嗣治 ―「異邦人」の生涯』近藤史人著,講談社¥ 2,100 BEMOD書評にこうある。「この本の核となる「藤田嗣治自身の書き込み」は、夏堀全弘さんというアマチュアの研究者が長年かけて研究した文章を、藤田嗣治さんに送り、その文章に藤田さんが書き込みしたものだ。夏堀さんは原稿を世に出す前に亡くなられたそうな。----調べてみると、夏堀全弘さんの奥さんが2004年に自費出版で『 藤田嗣治芸術試論−藤田嗣治直話− 』夏堀全弘/三好企画)という本を出版されているようだ。

夏堀全弘(2004)『 藤田嗣治芸術試論−藤田嗣治直話− 』三好企画に対する「BEMODブログ:藤田嗣治芸術試論」には,次の記述がある。
戦争記録画はパリ帰りの洋画家たちを巻き込み、多くの画家たちによって描かれた。当時の日本の画壇は悪く言えば西洋の猿真似の域を出ることができず脆弱だった。そこへ藤田嗣治が止めを刺した。軍部の圧力ももちろん忘れてはいけないが、夏堀さんの「西欧的な様式の翻訳趣味に多く依存していた日本洋画壇の根底の浅さが原因だったのではあるまいかとも思われるが、この日本洋画壇における根底の浅さが、藤田などの戦争記録画に容易に主導権を取られた一つの原因となってしまった。」という指摘は、戦後美術の悲しみを見ているとなかなか的を得ているようにも思える。
---夏堀さんは言う。「すぐれた戦争画は、軍の戦争完遂の目的のためという戦争画の倫理的な枠を、その自己の芸術性の自律性によって打ちこわしてゆくという、皮肉にも軍部の戦争完遂の意向とは正に正反対の路線をとるに至った。」
----この本には何度も何度も似たような話が繰り返される。それは藤田さん自身書き込みの中で繰り返しが多いことを指摘している。----最終的に僕が作者から得た思いというのは以下の言葉にある。「私は藤田の絵から、絵を描くということは、深く愛することと同意義なることを学ぶであろう。何を描くかという以前に、何を最も愛するかが問題なのだ。そして、その愛を無限に深めてゆくことなのだ。タゴールの言うごとく、『吾々は愛の中に全世界を実感しなければならぬのだ。なぜなら、愛が全世界を生み、それを育て、それを自分の懐へと帰すのだからだ。』」
本書のあとがきに以下の言葉を見つけた。「本書の出版の前に知らないうちに一部が公表されたことは、夏堀もきっと悲しかったと思います。」(BEMODブログ:藤田嗣治芸術試論引用終わり)


図(右):米国ロバート・ベネー Robert Benny1944(?)作「酔っ払い突撃後の朝」 The Morning After the Saki Run The Beach at Tanapag Harbor, Saipan, July 7, 1944;1944年7月7日,米第27師団は,サイパン島で日本軍守備隊の万歳突撃を受けた。日本人は,酒を飲んで酔っ払い、タナパグ海岸を目指して無謀な自殺的攻撃をかけた。This is the scene that greeted the survivors of the 27th division after the famous "big Banzai" when the Japanese unsuccessfully attempted to push our men back to the original landing point at Charan Kanoa. That night the cries of American wounded were heard when the saki-mad Japanese over-ran our perimeter aid stations and showed no mercy to the defenseless wounded.

戦争絵画をみれば,戦争の悲惨さを訴える悲壮な絵画,愛国心や歴史ロマンを掻き立てる戦争賛美的(?)な絵画は,現在でも芸術として評価可能である。学問は,真善美の追求を目的とするが,私見によれば芸術表現は,心地よさ,カタルシスを求めがちになる。栄枯やロマン,苦悩や悲惨さを表現することはできるが,論理的な戦略,戦争責任などの戦争認識を芸術として表現することは,難しい。

  戦争芸術は,政府や軍の動員といった受動的要因だけではなく,芸術家の名誉欲や自己表現への熱情が引き起こす自発的要因からも制作される。そこでは,芸術作品の表現力とならんで,表現する心情・思想が問われ,芸術家の戦争認識が,作品に大きく影響するであろう。しかし,現在の日本では,大戦中の芸術家の戦争認識を問題にすることなく,作品すら封印してしまった。これでは,芸術作品だけではなく,芸術家の評価はできない。

⇒▼サイパン玉砕戦の真実

米兵がサイパン島で殺した日本人は2万名以上,収容した日本人(内地からの移住者,将兵・軍属),沖縄人,朝鮮人は1万7000名。この生き残りの事実を戦時中の日本の芸術家は知らされなかった。そこで,サイパン島全員玉砕の軍の報道を信じて藤田嗣治『サイパン島同胞臣節を全うす』のような絵画が制作された。現在でも,サイパン島では軍民全員玉砕したという伝説を疑わない日本人が多い。

 芸術家の表現したかった心情は,過去の作品を無視して評価することができないにもかかわらず,現在の作品が全てを物語るというのは,芸術至上主義である。戦争は,特異な思想・心情を兼ね備えた事象であり,戦争にかかわる芸術は,作品だけではなく,芸術家のもつ心情・思想を抜きに語ることはできないはずだ。芸術家の,戦争認識も作品に影響するはずだ。

日本画壇の重鎮で文化功労者にして世界的な文化遺産の保護者平山郁夫は,広島市修道中学3年15歳のとき、勤労奉仕に出ていて被爆した体験を持つ。しかし,彼の描いた原爆の絵は「広島生変図」の1枚だけである。これは,原爆ドームの小さな影と全体を覆う朱色の絵画だが,私見によれば感銘を受けるほどの印象を残せない。平山画伯は,ユネスコ親善大使で世界文化遺産担当特別顧問でもあるが,「私(平山郁夫)は、60年前の惨状は昨日のことのように忘れないが、創作は、それを乗り越え浄化して美しいものを描くことだと考え日々描いている」と述べている。このようなカタルシスを重視した芸術創作活動では,暗澹たる迫力ある戦争画は,最高峰の技量を持ってしても,描くことができないように思われる。


図(右)テオ・ハイオス Theo Hios作「サイパンでの待ち伏せ攻撃」Ambush at SaipanU.S. Marine Corps Artist,U.S. Marine Corps Museum所蔵, Washington, D.C. 青い服の米海兵隊を軍刀を持って襲撃する日本兵。海兵隊の銃剣は,万歳突撃をしてきた日本民間人も刺殺した。苦戦する味方将兵が,敵兵を気力で撃退するという構図が。芸術家の創作意欲からうまれたようだ。戦意高揚絵画は,米国にも多いが,これは国策のなせる業か,それとも芸術家の業か。

1944年7月7日、サイパン守備隊・民間人3000人は、「バンザイ突撃」を敢行した。サイパン島の北端マッピ岬に追いつめられた民間人5000人の中には、断崖から身を投じたたり,わが子を殺して自決した人もいた。この断崖は,バンザイクリフ(Bánzai Clíff)とも呼ばれ,海抜80メートルある。自殺者が多かったために,suicide cliffと呼ばれた。9日,組織的戦闘は終わった。

藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を完うす」の描写は、左に小銃を射撃しようとする歩兵、中央に自決前の民間人、右にマッピ岬で投身自殺する民間人を描いており,玉砕戦を表象した歴史的事実の物語のように見える。しかし、これが事実と認められるとしても、米軍からみて別の歴史的事実がサイパン戦として、描かれていることを知るべきである。テオ・ハイオス Theo Hios「サイパンでの待ち伏せ攻撃」ロバート・ベネー「サイパン島の米軍野戦病院」「酔っ払い突撃後の朝」など、無謀な攻撃や陰惨な末路を表象した戦争画は、米軍将兵の感じたところであったろう。

サイパン島で日本軍万歳突撃を迎え撃つ米兵の写真を見ると,米兵に殺され,米兵の足元に転がったまま、仰向けになった日本の死体は、藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を完うす」が鑑賞者に与える印象とは全く異なる。殺された日本へ兵は晒し者にされたようで、哀れで悲惨である。あんなにはなりたくないと思わせる。臣節をまっとうしたといわれるような粛然たる死、殉教画とは異なる。

米軍兵士が死ぬまで勇敢に戦った日本兵を尊敬していたようにいう日本の識者も少なくないが,このような認識は例外である。自分や戦友を命がけで殺しに来る日本兵,万歳と叫んで死ぬのを承知で突撃してくる日本兵は,狂信的なテロリストであり,けだものであり,人間とは看做さない。そんな米兵が多かったようだ。

戦闘が静まれば,戦死した日本兵の身に着けていた軍刀,寄せ書きの日章旗,ベルト,手紙・写真などが,戦利品Spoil of warとして剥ぎ取られる。中には,軍帽,ベルト,歯,骨まで戦利品とした米兵もいた。勇敢に戦死した日本へも辱められていた。戦友を殺し,あるいは負傷させた日本兵であれば,容赦なく殺したであろうし,戦利品漁りも当然である。現在美談のように報道される「日本兵の遺品の返還」にしても,なぜ米国の退役軍人やその遺族が日本兵の遺品を自宅に持っていたのかに思いを馳せると,素直には喜べないのである。


写真(右):1944年6月21日サイパン島で米海兵隊兵士に発見された日本婦人と四人の子供The History Place引用)

日本軍将兵同様,サイパン島の住民も捕虜となり,無残に殺害されることを恐れていた。身を潜めて、自決できないまま生き残った日本の民間人に、銃を持った米軍が近づいてきた。米兵は「保護」するつもりかもしれないが,捕まったサイパン島住民は、恐怖の表情であり,臣節をまっとうするどころではない。自分の子供たちを守りたい一心で恐怖に堪えているが、捕虜になった後、辱められ,処刑される恐れも感じている。子供を思うと自殺もできない。このような捕虜になったりした民間人が,祖国への忠誠心から殉教すると人物として描かれたら、どのように感じるであろうか。私のリアリズムからは、「サイパン島同胞臣節を完うす」が戦争殉教画として描かれたのであれば,藤田嗣治の戦争観に共感はできない。絵画は,十分芸術的かもしれないが。

 万歳突撃や投身自殺をもって,サイパン島の軍民は,名誉を守るために潔く自決し,「全員玉砕した」とするのは誤りである。サイパン島では,日本の民間人約2万人の民間人のうち,約1万2000人が米軍によって収容され、生き残った。また,軍人・軍属の捕虜5000人,朝鮮人(飛行場建設などの労働者)捕虜1300人も出ており,彼らは別々に収容され、軍人は米本土やカナダの収容所に送られた。日本軍は23811名が戦死し、921名が捕虜となった(これは設営部隊を含まないようだ。設営部隊は「朝鮮人労働者」などと呼ばれ,軍の将兵とは看做されていなかった。)
米軍は,総兵力7万人の内、死傷者1万5000人だった。


写真(右):サイパン島ススペに米軍が設置した収容所
(日本人区画と思われる):Pacific Worlds & Associates(写真は CNMI Historic Preservation Office) 引用。チャランカノアChalan Kanoaにも収容所があった。収容所は,日本人,沖縄人,朝鮮人の民間人は,日本軍将兵とは隔離されていた。将兵は尋問する必要があったからである。本来の現地民であるチャモロ人とカロリン人は別の場所に隔離された。現地民にも外出の自由はなかったが,トイレつきの居住施設が作られ,食料と水とが配給された。

 サイパン戦で「玉砕」した日本軍民は,3万3000人で,生き残って捕虜となったのは約1万7000人。つまり,サイパン島攻防戦での「軍民全員玉砕」は,事実ではなく,捕虜を出さないことになっている日本軍の名誉を守る建前である。もしも,藤田嗣治「アッツ玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」は,日本軍民玉砕を表現した殉教画であるとすれば,それは軍部の意図を十分に反映した戦争協力画に仕上がったということである。


米国ウィリアム・ドラッパー1944年作「炎上」サイパン島のサトウキビ農家Inferno:William F. Draper ,Oil on canvas, October 29, 1944,34 1/4h" x 44 1/4w" ドラッパーはアリューシャン列島と南太平洋の戦闘に参加した。In the village of Charou Kanan, Saipan, the sugar mill became an inferno on D-Day. As the flames leap to the sky, Marines stealthily creep forward. Enemy mortar fire falls over the beachhead causing many casualties to the men and supplies.

 アッツ玉砕では,忠勇なる日本軍将兵が全員天皇陛下の御楯となって戦死したという神話が流布されたが,サイパン玉砕となると,日本軍将兵だけではなく,民間人も軍の邪魔にならないように,あるいは敵に捕らわれて生き恥を晒すことのないように自決したとの悲劇神話が流布された。実際には,サイパン陥落で1万5000名の日本軍将兵・民間人が生き残り,捕虜になっている。彼らは,非国民として非難されることはなかったが,これは玉砕=全員戦士したことにされ黙殺されたためである。

1945年の沖縄戦では,軍民共生共死が唱えられ,民間防衛隊が組織されるとともに,民間人の投降は事実上禁じられる。藤田嗣治「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」が殉教画であるとすることは,軍民共生共死という日本軍の理念を芸術的に体感したことの証である。民間人に決死的な軍への協力を要請する精神的根拠として,一億総特攻の理念として,戦争殉教画の理念は軍部にとって有用である。

8.アジア太平洋戦争は総力戦であり,戦闘だけではなく民間人の労働,兵器生産など銃後も含めた軍民の戦いであった。その戦争を一幅に収めた戦争画の評価には,芸術的感性だけではなく,作者の戦争観を分析することが必要なように思われる。

美術研究家、芸術家が、玉砕戦の実態を理解していたとしても、戦争画として表現できるのは戦争のごく一部分である。最も自分にインパクトを与えた事象や国民や鑑賞者に訴えたい感情を表現するのが芸術に関わるものの宿命であるとすれば、戦争はもちろん、戦闘であっても一枚の絵画で表現するには、十分な空間を与えることができない。文章で表現するとしても,やはり表現し尽くせない。とすれば、戦争を全て表現することができない以上,表現された感情がどのようなものか、どのような事実を反映したものなのか、それとも、事実歪曲のプロパガンダだったのか、を把握する姿勢が鑑賞者にとって重要になると考えられる。

 しかし、人によっては、戦争の大義に殉じた立派な人物、戦争という激流に飲み込まれた遭難者、祖国・大義あるいは運命を背負わされた殉教者、このような視点から戦争画を描く芸術家、戦争画を評価する評論家がいる。戦争とは良くも悪くも荘厳なものであるとの視点である。戦争で起こった出来事を、客観的に眺めて、そこから創作者が感じるもの取り込んで表現する場合、何を取り出すかという問題のほかに、どのように、どこから取り出すのかという問題がある。取り出したものは、実は影である。何かによって映し出された影であれば、どのように照らしたかが、問題である。光は、どこから射してきたのか。

 芸術家や評論家の中には、戦争の総力戦,動員,大量破壊,大量殺戮という実態を捨象したような(自称)「リアリズム」が残っているようだ。これはプロパガンダ、物語、絵空事なのであるが、当の本人たちは、リアリズムに基づいた戦争画として、芸術的な評価をしてしまう。戦争=戦闘=政治の延長、と矮小化した戦争観では、そこに動員され、被害を受けたり,殺害したりする人間が見えなくなってしまう。これは、当然だが、戦争の中の人間を見ているといっても難しい問題が控えている。

 戦争で見えてくる人間とは、多くの場合、硝煙の影としての兵士・民間人、新聞・ラジオ・TV・webなどメディアを「媒介」してくる人間である。創作者に届く戦争の情報は、媒介されているという意味で、影である。つまり、光の当て方で、スクリーンの張り方で、いくらでもディフォルメできる。映し出された当の兵士/民間人は全く別の感情を抱いているかもしれない。その感情を汲み取ることが重要であるが、兵士/民間人の影しか見えない以上、何らかの媒介情報によって、その影をリアリズムの下に表現しなくてはならない。

 媒介されて接取される戦争情報に、偏向が生れる。マスメディア、為政者には、重力があるから,光も曲がってしまう。途中に鏡を置かれれば、左右対称になってしまう。それに、気が付かないままの戦争画は、どんなに技巧を凝らしていても,芸術的に美しくとも,「曲がった事実と感情」の表現、あるいは「作者の感性・感情」かもしれない。

 リアリズムに基づく戦争画とはいっても、客体である人間の感情を反映したものですらないかもしれない。媒介された戦争情報を鵜呑みにした戦争画は、芸術家の才能によって美術的には高く評価できるかもしれないが、それを通じて戦争を観ることは、「曲がった戦争」あるいは「曲げられた戦争」を観ることだ。芸術を観るのであればよいが、そこから「戦争を観る」のは不適切な絵画である。端的に言えば,芸術家の感性は評価できるが、戦争観には賛同できない。戦争の殉教画があるとすれば、戦争に大義があるはずだ。大量破壊と大量殺戮を正当化する大義があるのか。大義があることを公言するのが、戦争殉教画である。戦争賛美画、戦争殉教画は感動的、芸術的であっても、そこに表現されている戦争観に共鳴できないものが多い。

藤田嗣治の回顧展が,東京上野で開催されているが,webや紙上では戦争画「サイパン島同胞臣節を完うす」が藤田の傑作であるとの賛辞が散見される。たしかに芸術的絵画かもしれない。しかし,「サイパン島同胞臣節を完うす」は,一部の勇敢なしかし哀れな民間人にのみ焦点を当てた絵画であるという意味で主題表現には納得できない。自決よりも生き残った捕虜のほうが多かった事実を知らないままに,絵画を評価しているとしたら,これは戦争画のもたらす「曲がった事実」である。そう思うと,この絵を賛美する評論家が,サイパン戦の実情を知らないままでいることが残念である。戦争画が鑑賞者にもたらす影響を見ると、(作者の意図とは必ずしもいえないのだが)「曲がった事実」を伝えることもある。


図(右):ジョセフ・ヒルシュ1943年作「敵ですらも医療介護」Even the Enemy Gets Medical Attention,Joseph Hirsch #19,Oil on canvas, circa 1943,Gift of Abbott Laboratories;海兵隊員が真珠湾の海軍病院でマラリアの日本軍捕虜を医療介護している。Although a Marine guard is stationed at the door, this Japanese prisoner with malaria is accorded the same civil, careful treatment given our own sick men. Aiea Naval Hospital, Pearl Harbor.哀れな日本人に温情ある米軍を喧伝するかのごとくでもあるが,このように救われた捕虜がいたことも事実である。

日本軍は戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けす」として,降伏・投降することを禁じていた。火力,航空兵力,兵員数ともに米軍よりも遥かに劣っている日本軍は,「最後の一兵まで戦う」という鉄の規律を維持しなければ,優勢な敵に対して消極的になってしまう。捕虜になって生き残り,戦後の日本復興に尽くす道がある,ということは,降伏・投降を許すことであり,それは戦意を低下させ,軍を崩壊させる。つまり,捕虜となることは許されないのである。最後の一兵,民間人も兵士となり最後の一人まで戦い続ける「一億総特攻」が日本の最高戦略となったのは,戦力の劣勢を精神主義,白兵主義で補うしか連合軍に対抗する手段がなかったからであろう。

日本軍上層部にとって,生き残った捕虜は臆病者であり,降伏した非国民である。彼らを非難しないで,捕虜を黙殺した理由は,日本軍民は全員玉砕という建前を自ら崩してしまうためである。捕虜はあってはならないのであり,全員玉砕するまで戦ったとされた。
戦争殉教は,一億総特攻とも繋がる。全員玉砕の神話は日本軍部が創作したのであって,生き残り,捕虜になった日本人を辱め,冒涜するかのごときである。戦争殉教画が,玉砕への鎮魂あるいは玉砕した勇者への英雄譚を意味したのであれば,それは戦争協力に繋がっており,軍部の意に適っていると考えられる。
有能な芸術家も,気づかないうちに,資金,組織。権限のあるパトロンに利用されたのであろうか。

大東亜戦争美術展の戦争画は、私見では、次のようにいえる。
・「真珠湾空襲と特殊潜航艇の特攻によって大戦果をあげ米軍は壊滅したような戦争賛美画」(→撃沈された戦艦でも引き揚げられたものを除くと戦艦損失2隻で、空母・港湾設備の被害なし。騙し討ちとされ,米国の参戦を決定付け,戦時動員を容易にした「大失策」は無視された。特殊潜航艇による戦果はなし。九軍神は勇敢だったが、生き残った捕虜もいた。それを軍は知っていて、隠した。)

・「シンガポールで山下将軍に英印軍は降伏し、日本がアジアから米英を駆逐したような戦争賛美画」(→インド方面の英印軍およびインド洋の英国海軍制海権も健在だった。中国の蒋介石・国民革命軍を降伏させることはできず、大陸の大半は敵の領土だった。戦争は始まったばかりだったが、すでに勝利したような慢心を生み出した。)

・「山崎部隊はアッツ島で勇戦玉砕し、日本軍の忠誠心と勇猛さを遺憾なく発揮したような戦争殉教画」(→将兵2400名を見捨て惨敗した日本軍上層部は、現地部隊を「玉砕」させたが、作戦失敗の責任は問題にされなかった。日本軍は、指揮官の降伏、将兵の投降を許さなかったが、それを自発的な死の許容、犠牲的精神の発露としての万歳突撃賛美へともっていった。万歳突撃は、持久戦を放棄し、早期決着(日本の敗北)をつけてしまう。精神力だけで戦闘に勝つことはできないにもかかわらず、精神力重視の戦闘を賛美し続けるという戦術上の誤りを助長した。)

・「サイパン島で軍民揃って潔く玉砕したような戦争殉教画」(→サイパン島では日本軍民併せて1万4000名以上が生き残ったが、捕虜はありえない建前から黙殺された。物事がわからない子供には、恐怖や苦痛はあっても、殉教といえる状況にはなかった。玉砕というよりも死体を晒され、戦利品収集のために辱められた遺体もあった。このように粛然たる死に方をしなかった戦没者も、生き残った捕虜とともに、藤田嗣治の戦争殉教画に登場することなく、忘れられた。

民間人は軍と運命をともにすべきである(軍民共生共死),軍に民間防衛隊・看護部隊として協力すべきである(総力戦)。生きて捕虜となることは,情報を敵に渡し,敵に労力を提供することにもつながる。したがって,捕虜となるより自決すべきである。まさに,戦争殉教が民間人,軍人の区別なく求めらるなかで,「一億総特攻」も現実味を帯びてくる。

 このような戦争賛美画・殉教画の理解は、芸術評価にはふさわしくなく、また当時の状況にはそぐわないかもしれない。しかし,芸術作品から「戦争を観る」場合には、このような(従来は無視された)戦争の実態を踏まえた視点が有益であると思われる。芸術至上主義は尊重するが,芸術・絵画から「戦争を観る」と,それは事実とはいえない出来事や曲がった戦争が表現されていることがある。

 他方、戦争体験を描いた戦争画、出陣する将兵の描いた戦争画は、「戦争を観る」光と影に共感できる。「戦争記録画」として遥かに優れている。戦争画が表現していることは、戦争賛美画も戦争殉教画も「曲がった事実」「作者の感性・感情」である場合が多く、芸術とはいえても、戦争を観ることにはならないと考える。

図(右):沖縄戦最中の「野戦病院」「東風平村にあった壕内の野戦病院。壕内は湿気と死臭が鼻をついた。」(戦争体験者による「沖縄戦の絵」引用)

Ground Zero 1945: Drawings by Atomic Bomb Survirors MIT/広島平和記念資料館所蔵の原爆被災者による戦争画
連合国の戦争画
沖縄戦の絵
沖縄戦の絵(打ち砕かれしうるま島):沖縄戦を体験した人から生きた証言
市民の描いた原爆の絵
原爆の絵 解説・インデックス
被爆者の描いた絵を街角に返す会
被爆者の絵「市民が描いた原爆の絵」
The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki原爆の絵
The War through My Eyes1900-2000年、世界の子供の見た戦争
Painting for the children of Iraqイラク戦争の絵
Drawings by Children after World War I第一次大戦後の米国の子供

図(右):スペイン内戦の時の都市爆撃から逃げ出す市民(12歳のヴァスケス君の戦争画)Cuando sonaban las sirenas yo corria a los refugios. Manolo Vazquez, 12 años [When the sirens sounded I ran for the shelters. Manolo Vazquez, age 12. Mandeville Special Collections Library University of California, San Diego引用

Spanish Civil War children's drawings子供の見たスペイン内戦
Children's drawings in the subway!韓国の子供の反日画
スペイン内戦の子供の戦争画Mandeville Special Collections Library University of California, San Diego
4年生の時の絵
石坂准尉の戦争絵画:栄光と悲劇に包まれた帝国陸軍の世界
神田日勝記念館開館10周年記念 戦没画学生「いのちの詩絵」展
戦没画学生慰霊美術館「無言館」
第34回美術鑑賞 戦後60年「無言館」展に光明
無言館 遺された絵画展:戦争中、画家になることを夢み、生きて帰って絵を描きたいと叫びながら死んでいった一群の画学生たちの絵。
佐喜眞美術館:国連出版の「世界の平和博物館」にも収録。テーマは「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」。
「父の名において」"In The Name of The Father" は、フィリピンの Otilano, Johnny ESJ.の作品。スペイン,米国,日本に支配されたフィリピンの惨禍。In the Name of the Father depicts the domination by all three nations Spain, United States and Japan. 骸骨はスペインの,鷲は40年間にわたる米国支配,刀剣は第二次大戦中の日本による占領の象徴。 The snake symbolized the Filipino people that betrayed their own country for their own purposes.

9.アジア太平洋戦争を描いた画家たちの心中は,戦争画だけ見ていてもわからないところが多い。画家たちの戦後の生き方を見ると,違った側面が見えてくるようだ。

小川原脩は、1911年北海道倶知安町生まれ。道立倶知安中学卒業後、1935年東京美術学校卒業。1939年 個展(銀座・資生堂ギャラリー)開催,美術文化協会創立に参加。1944年に陸軍作戦記録画「成都爆撃」の制作を委嘱され、報道班員として中国へ従軍。戦後は故郷の北海道に戻る。2002年に没(91歳)。

小川原脩記念美術館の常設展(1930-1995)企画展(1933-1996)の作品をみる限り、戦争画は展示されていない。

彼の戦争画は、1970年米国接取戦争画153点の無期限貸与一覧(東京国立近代美術館)に乗っている。2002年7月2日−8月4日東京京近代美術館で小川原脩「アッツ爆撃」、宮本三郎「海軍落下傘部隊メナド奇襲」(1943)、川端龍子「洛陽攻略(大同石仏)」(1944)とともに展示された。

NHK2003/08/16「さまよえる戦争画―従軍画家と遺族たちの証言」自らの戦争責任に真摯に向き合う元従軍画家・小川原脩 「群れに囲まれながらも自分であるためには・・」を問い続けて―には次のように述べている。
小川原脩は、1941年召集後満州へ、1942年病気除隊後、大学の先輩である山内一郎陸軍大尉から誘われ,戦争画を描き始めた。「正式に命令されたわけではないが、正直にいえばお国のために軍に協力しようという、そういう考えも自分の中にあった」(「美術評論」1995,8)とインタビューでのべたという。「バターン上空に於ける小川部隊の記録」(1943)、「アッツ島爆撃」(1944)、「成都爆撃」(1945)という航空戦を描いた。

戦争画をめぐる責任論争が、敗戦後起こるが、これには、次の三つがあるという(戦争責任に真摯に向き合う元従軍画家・小川原脩 引用)。

 (1)従軍画家は「うまい汁を吸った茶坊主画家」であると糾弾し、「その娼婦的行動は美術家全体の面汚し」と断じた。

 (2)藤田嗣治のように「一億国民はことごとく戦争に協力し、画家の多数のものも国民的義務を遂行したに過ぎない」として、一億総懺悔はするが、個人の戦争責任を認めない立場である。

 (3)従軍画家も戦争画を描かなかったものも、「今はわずかな問題の利害や相違ににかかずらわっているときではない」として「戦争画問題など早くきれいすっぱりゲームセットといきたいものである」として、戦争責任そのものが問題にならないとする。

しかし、戦争責任の問題は、芸術の審美眼や芸術的才能というよりも、画家の戦争認識にかかわる問題である。芸術家は、作品こそ命というかもしれない。この場合、作品の技巧以上に、芸術家の作品に込めた心情が、人々の共感を呼ぶと考えられる。技巧の評価、解釈はいかようにもできる。

アッツ玉砕、サイパンの住民集団死を、「殉教画」に仕立ててたのは、戦時中の陸軍と国民だった。戦後になっても、事実とはかなり異なるアッツ玉砕、サイパンの住民集団死を同じく「戦争記録画的な殉教画」として、戦争画を超えていると評価する識者がある。援軍を待ちわびて殺害された日本軍将兵、恐怖で自決した住民を、「戦争殉教者」に仕立てたのは,彼らの戦争観である。画家の心情を描いたものが作品に反映するのであれば,問われるものは、物質からなる作品という無機物ではない。画家の戦争観そのもの、それがこもっている有機体的な芸術作品であろう。

画家としての戦争画の記録一切を燃やしてしまった従軍画家伊原宇三郎、その次男であり画家である伊原乙彰は、「戦争画の全面公開は年月を経て戦争画が芸術作品として観られる時期まで待つべき。50年、100年封印しておいていい。そのときに初めて戦争画は絵として観てもらえる」といったという。そうであれば、これこそ「心の(わから)無い無機物としての芸術作品」を評価することであろう。

「戦後の小川原―自らの戦争責任から逃げない真摯な姿勢
 「戦争画を描いた責任を感じた小川原は、戦後すぐに故郷の北海道倶知安町に引きこもり、土着の画家となった。そこで2002年に亡くなるまでずっと中央画壇と接触することなく孤独の中で創作を続けた。
 北海道に戻った小川原に届いたのは、所属していた「美術文化協会」からの除名通知であった。後になってこのときの思いを小川原自身次のように語っている。「戦時中、僕一人がうまい汁を吸ったと見られたんでしょうかね。たしかに陸軍大臣賞をもらったり(1943年決戦美術展で陸軍大臣賞受賞)、報道班員として従軍したり、当時の僕は目立っていたと思う。その意味では自責の念もある。だから、東京のほうを向かずに、何十年も北海道でひとりでやってきたんです」(「芸術新潮」1995/08)
ただし、小川原脩記念美術館の小笠原脩経歴には、1947年美術文化協会脱退とある。

 戦後倶知安町で小川原自身が描き続けてきたものは人間ではなく動物、自然、風景であった。「みんなおっかない物に触らないようにしている。しかし戦争画はある。今実在している。その実在の責任は自分にある。それに尽きる。戦争画の問題はこれからもずっと継承としてつながっていく。責任を私がもたないと一体誰がもつのかという気持ちです」。(戦後の小川原引用)

山田新一(1899年台北生まれ,1991年死去)
略歴
:藤島武二に師事。京城第二高等普通学校講師を経て
1938年(盧溝橋事件の翌年)陸軍美術協会会員となり朝鮮軍報道部嘱託(美術班長)に就任。
代表的な戦争画としては「天津南海大学付近払暁野砲戦闘図」や1943年の「俘虜二人」がある。
1945年引き上げ前に朝鮮での展覧会のために集められていた戦争記録画を軍からの処分依託に従わず秘匿し朝鮮の知人等に預ける。
1946年京都に定住。5月5日ころから6月8日ころに掛けて、GHQの命により、秘匿された「戦争記録画」の回収に携わる。
1955年から日展審査員を務め,日展会員,日展評議員,京都工芸繊維大学教授にも就任。
青木画廊「郷土画家山田新一作品一覧」

 山田新一は、東京美術学校を卒業後、朝鮮に渡り、単なる画家としてでなく政治的な意味でも朝鮮画壇の中心的人物となった。「朝鮮美術展(鮮展)」を主宰し、朝鮮の占領政策にも荷担した。戦後は、京都に居を構え、その最初の仕事としてGHQの命により敗戦軍の焼却処分から免れた「戦争記録画」の回収に携わった。そのため、戦時中の軍部に協力し、戦犯として裁かれることを怖れた画家達からは、「仲間を売る気か・・・。」といった非難や中傷を受けたらしい。この仕事は最初、藤田嗣治に依頼があったのだが、藤田嗣治は足にギプスをして骨折を装って、その任を免れたそうである。(「山田新一と戦争記録画」引用)

「山田新一の知られざる顔」引用
 終戦直後、多くの中傷、誹謗を浴びながら山田新一は百五十一点の戦争記録画を集めた。 当時、戦争記録画を描いた多くの画家たちが、終戦と同時に戦争犯罪者として告発されるとの風評が濁流の如く流れ、多くの戦争記録画が焼却、破棄されていた時期である。終戦時、数千点といわれていた戦争記録画は、現在二百数十点しか存在しないが,山田新一が蒐集した作品は百五十一点もあり,日本美術史と戦争研究に貴重な資料となっている。画家仲間たちの軋轢に飲み込まれることがなかったといえる。

藤田米春氏から次のような貴重なお話を提供していただいたので,ここに一部字句を改めて転載する。
山田新一は,戦時中「この戦争は負ける」と私(藤田米春)の母には言っていたようで,これは当時としてはとんでもない発言である。また、「英国人俘虜二人」における微妙な細工や「朝鮮志願兵」における最初の描画とその後の修正など、軍に対してもかなりの疑問と反発を感じていたらしい。
山田新一自身が、戦後、戦争記録画収集後に書いた記事には以下のようなも のがある。(Live & Review 「戦争が資料拾遺5 戦争画の戦後処理」笹木繁男)
 「戦争中、戦争画制作に参加しなかった幾人かの第一線級画家を挙げることができる。」<中略>「しかしそれらの大家たちといえども、愛国者であったと思う。それらの中のある人は、当時の日本の国威や軍威を巧妙に利用していたことを知っている(多分これは横山大観:藤田米春注)。記録画制作の画家たちが、軽率に軍部に利用されたことも残念であり、 恥ずかしいことにちがいないが、巧妙に軍威を逃れた画家たちを、名誉・権威よばわりするのはおかしい。
「現在、過去の悪夢の象徴としか考えられない、軍国日本の戦争記録画の中の作品、傑作呼ばわりするのは、なにか笑えぬ悲劇としか思えないのは当然として、私の一画家としての立場から考えてみたい。(以下原文を整理して記載)
‘本の美術水準は、他の文化の水準に接近していたとはいえ、その研究に跛行的な面が多かった
∪鐐莎録画制作に選ばれた百数十名におよぶ著名画家たちは、これまでの美術界では、あまり顧みられなかった大作を多数手掛けた
A択の余地のない与えられた表題による制作であった
じ詰茱▲デミックな素描的修練に欠けていた美術家が、素描力を最も必要とする戦争画に没頭した
ゼ娘妥仕事は、油絵に比べ日本画は困難視されていたにも拘らず、技術技巧あるいは材料選択など、幾多の特殊な効果をねらい、美術研究上の成果に結実した
以上のことを考え合わせると、画題が悲しむべき戦争に限られたのは残念だが、その中から幾多の傑作を拾ってゆくのは許されるべきである。」

 「我々が猛反省させられたのは、戦中に我が国の事情は勿論、友軍戦線の実相に至るまでことごとく目隠しされ、耳をふたがれて協力の一本槍でいたことだ。-----軍がでたらめな戦況や材料を与え、大きな罪悪を重ねたが、画家たちもまた、名ばかりの派手な報道班員の名に酔っていた。実際には画題の戦線には寄り付くこともできないで、画室の中の乏しい空想を、唯一の頼りに文字通り安手にデッチあげた大画幅こそ、今更ながら一番恥ずかしいものに成り下がったと言わねばならない。
*この部分は自省も含んでいるようである。例えば、山田新一「天津南海大学附近払暁野砲戦闘図」にしても、私(藤田米春)の母によれば、実際の戦場に赴いて描いたのではなく、野砲をアトリエに曳いて来させて、兵隊に演技?させて描いたものとのことという。2006年9月2日,藤田米春氏が宮崎の青木画廊で「戦争記録画と戦争被害者・山田新一」展覧会で青木脩氏(山田新一日記を譲られている)から聞いたところよると、山田新一「天津南海大学付近払暁野砲戦闘図」は、実際に現場に行って描いたと山田新一が言っていたという。ただし、現場に行ったのは既に戦闘が終った後、野砲の薬莢が集められて山積みになっていた状態だった。それで、薬莢を改めて戦闘時のように戻して、スケッチしたとのこと。このスケッチを踏まえて,最終的な仕上げは、野砲をアトリエに引いて来させて描いたと考えられる。山田本人は、この絵が実際の戦闘時を見て描かれたものでないので、作り物との意識から、つまらない絵と考えていたようである。(藤田米春氏からの引用)

 戦争画を山田新一がどういう気持ちで描いたかについては、少なくとも、戦争中は、その時代に画家などの芸術家が「お国のために役に立たない」と評価されたことから、山田もなんとかしてその評価を変えたいと考えていたので、「これで評価を変えることができる」という気持ちがかなりあったらしい(青木脩氏と藤田米春氏の話で判明)。ただし、軍の方針に従うこと絵の内容そのものについて、乖離があったことは、「俘虜二人」や「朝鮮志願兵」などの作品から伺える。(⇒以上は藤田米春氏からのメールに基づいているが,「山田新一と戦争記録画」にも公開されている)
 「戦後、戦争画を描いたことについての責任を感じたか、ということについては、ある部分は責任を感じていたし、ある部分では、仕方がなかった、という思いの両面があったように思います。そのジレンマに自分自身でも苛立っていたのではないかと思います。それと、戦争画収集に携わったことによる、かって仲間であった画家達からの非難や中傷に対するの苛立ちは、2ヶ月ほど(伯父の)山田家に居候をしたときに感じました。」(藤田米春氏提供資料引用おわり)

「俘虜二人」については京城の俘虜収容所で描いたことがわかっている。山田新一は英語と仏語が出来たので,捕虜に話をしながら描いたという。捕虜と同じくクリスチャンであった山田新一に「私たちが立派に日本で生きていた証として後世に残るよう描いてください」と言ったそうである。「戦争記録画とは戦意高揚や戦争に勝つことだけを意図したものでは無かったから、戦争記録画を蒐集したが、多くの画家仲間たちには理解してもらうことが出来なかった。」という。(⇒青木画廊・郷土画家山田新一」参照)

2004年の神戸新聞に記載された4人の画家浅原清隆,井上長三郎,鈴木清一,小磯良平の生き方は興味深い。

10.1945年3-6月の沖縄戦における「住民集団自決」は,日本軍の名誉を汚す解釈がなされているとの批判がある。沖縄住民の集団死は,祖国を守る日本軍に後の憂いを残さないように,潔く身を処置した結果であると考えたためである。しかし,このような住民の集団自決には、捕虜になること,残虐行為と死への恐怖が、第一の要因としてあげられよう。

沖縄戦における住民集団自決は,玉砕であり,悲劇的な美談として理解すべきであるという文化人もいる。軍民一体の徹底抗戦を強調する文化人は,日本軍守備隊の足手まといにならないように自決した,あるいは敢闘したあと,捕虜となること不名誉なので,潔く自決したとの軍国神話を信じている,あるいは流布している。

写真(右):渡嘉敷島の住民集団自決;1944年9月8日 鰹漁船乗組員130人軍需部漁労班に徴用。村営航路船嘉進丸、軍船舶隊に徴用。日本軍基地隊、鈴本少佐以下1,000有余人駐屯部落内民家、小学校々舎を隊員宿舎に駐屯。9月20日 赤松嘉次大尉を隊長とする特幹船舶隊130人入村、渡嘉敷、渡嘉志久、阿波連に駐屯。 10月 防衛隊員79名現地徴集。1945年1月 青年会、婦人会に徴用令。学童6年生以上軍に協力。朝鮮人軍夫220人入村。3月27日米軍渡嘉敷島上陸、翌3月28日の住民集団自決で329人死亡。渡嘉敷村全戦没者日本兵76人、軍属87人,防衛隊41人、住民368人。(→渡嘉敷村の沿革(1/3))

米国陸軍公式戦史『沖縄−最後の戦い』Seizure of the Kerama Islandsに,慶良間列島での住民集団自決の目撃談が記載されている。

 渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数は,日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人(こうち,集団自決の犠牲者329名)。(→渡嘉敷村史資料編

図(右):丸木位里・丸木俊「沖縄線の図」;1984年。4m×8m。佐喜眞美術館(沖縄・宜野湾)所蔵。 2004/03/22神戸新聞「基地の島から見た戦争」によると,佐喜眞道夫氏は、丸木位里・俊夫妻の「沖縄戦の図」を展示するため、1994年、沖縄の米軍普天間飛行場の隣接地に、私費で美術館を開設した。米軍用地だった佐喜眞氏の土地からは、米軍から借用地代が入る。「全部好きな絵画に代えようと決心した。収集の中心は戦争をテーマにした作家たちの作品。軍の金を純化する喜びだった」という。

財団法人原爆の図丸木美術館には,丸木夫妻が「沖縄戦の図」作成に関して,次のようにある。
庭にシートを敷き、その上に毛布を10枚ほど広げて大型の和紙を4枚並べると、4mに8mの大きな画面が出来ました。紙の上に座って描きはじめる。ひざの下から沖縄のさんご礁の岩。石灰岩の破片の凹凸が痛い。----ここに命を落とした人人の思いがしみて石からひざへと伝わってくるのでしょうか。はるばるここに来て、ここに座って描かねばならないのです。空、風、水、土、草、鳥、みんなが黙ってわたしたちの筆を動かしてくれるのです。
紺碧の海の色はどうしても描きたい。エメラルドをオレンジに染めて、さんご礁に沈んだ娘たち。紅は、朱は、若ものの血潮か。逃げまどう人人を追う炎か。(引用終わり)

防衛研究所戦史室の戦史では、次の俗説を述べる。「集団自決は、当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮が、きわめて強かったことがその根本的理由であろう。…小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた。」

沖縄の住民は,日本の政府と軍のプロパガンダを信じ,大陸での戦場と同じく,勝者による敗者・捕虜の処刑が行われると感じていた。住民は,日本軍守備隊が頼りにならないとわかったとき,捕虜となる恐怖を感じた。鬼畜の米軍兵士によって残酷に処刑されるよりは,自ら死を選ぶほうがよいと考えた。

日本軍や政府は,日本人が不名誉な捕虜となることを戒めている。日本軍は,住民が食糧確保の障害になるだけではなく,敵への情報提供,捕虜になり,道案内・通訳として働くこと,日本軍の情報をもらすことを危惧した。捕虜となり生き延びうることが日本軍将兵に知れ渡り,士気が低下することを恐怖した。日本軍は,「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」との考えを,住民にも警告的に流布していた。

図(右):沖縄戦での「集団自決」「鮮血に染まった母親。娘の名を3度呼んで、やがて息絶えた。」(戦争体験者による「沖縄戦の絵」引用)

沖縄住民の集団死・集団自決は,「崇高な犠牲的な精神の発露」であり,差別されていた沖縄県民が臣民としての忠誠を尽くした証拠とみる俗説がある。しかし,当時の住民は,日本軍による中国やフィリピンでの捕虜・敵性住民の虐待・処刑の経験から,「鬼畜米英」も日本人捕虜を処刑し、女は辱めると信じた。捕虜となることも禁じられていた。殺されるくらいなら,自決したほうがよいと,恐怖に支配されて死を選んだ。

沖縄守備隊の海軍根拠地隊司令官大田實少将が海軍次官あてに出した6月13日最終報告「大田少将 決別の辞」
沖縄戦の開始以来,---県民は,青少年を全部を防衛召集に捧げ,---若き婦人も看護婦,炊事婦は元より,砲弾運び,挺身斬込み隊へ申し出るものもあった。所詮,敵来たりなば,老人子供は殺され,婦女子は後方に送られ毒牙に供せられるから,親子生き別れて,娘を軍の衛門に捨てる親もあった。

沖縄県民が日本軍将兵とともに戦ったのであれば、ゲリラ兵であり、捕虜になれば米軍に処刑されると認識していたはずだ。日本軍は、敵に協力した民間人を容赦なく処刑したのだから。

慶良間列島では,自殺した日本人は数百人に達するが,米陸軍第77師団は,日本民間人1,195名と軍人121名を捕虜とした。26名の朝鮮人の集団は,座間味島で白旗を掲げて投降した。
阿嘉島では,日本軍中尉が自発的に投降した。彼が言うには,自殺することなど意味ないことだからである。1945年5月後半,座間味島の米軍パトロール隊に,日本軍少佐が捕虜となり,慶良間列島に残っている日本人を降伏させることに協力した。


写真(右):沖縄戦で米軍に収容された沖縄の子供たち
:玉砕戦といわれ日本軍民多数が殺害され,自決した沖縄戦であるが,生き残り笑顔を見せてくれた子供たちには救われる。サイパン玉砕戦でも1万7000人,沖縄戦では14万人の日本人生存者がいた。彼らを「非国民」として非難することなどできないが,当時の日本政府・日本軍は彼らの存在を抹殺した。

沖縄戦中期の1945年4月末の段階で,沖縄住民12万人以上が,米軍による軍政の下で暮らしていた。これは,日本軍上層部からみれば,敵への大量投降であり,非国民,卑怯者という謗りを免れない。当時,日本人は,捕虜となるくらいなら玉砕するという名誉を過剰に意識しており,日本軍司令官は,降伏,集団投降を認めなかった。サイパン戦,沖縄戦では,民間人の投降が多数あり,日本軍将兵も捕虜となっていたが,日本の不名誉と考えられた「捕虜としての生き残り」は,「全員玉砕」のプロパガンダの前に黙殺された。

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