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鈴木内閣とポツダム宣言黙殺・原子爆弾投下・終戦 2007
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◆鈴木貫太郎内閣とポツダム宣言黙殺・原子爆弾投下・終戦


写真(上左):1945年テニアン島ノースフィールド基地の第509混成部隊The 509th Composite Group,広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」 ENOLA GAYと遠方の長崎の原爆を投下した「ボックスカー」Bockscar
:サインは、「ボックスカー」副操縦士フレド・オリーブのもの。Signed Photo of the Enola Gay and Bockscar (in background) - Signed by Fred Olivi, Co-Pilot of Bockscar. テニアン島を発進し、日本本土を攻撃した。原爆投下部隊は、秘匿名称「第509混成部隊」509th Composite Groupと呼ばれた。 The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc. :The Joseph Papalia Collection引用。

写真(上右):長崎に原爆を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」BOCKSCAR:最高速度: 357 mph (575 km/h)、巡航速度: 290 mph (467 km/h)、上昇時間 25,000 ft. (7620m): 43 分、上昇限度: 36,000 ft. (10,973 m)、航続距離 (10,000 ポンドの爆弾搭載): 3,250 miles (5230 km)。Warbirds Resource Group引用。

◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月青弓社刊行,368頁,2100円)が紹介されました。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、聖断を下し降伏した昭和天皇の否定、民主主義を否定しての独裁政治という本音のようだ。
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1.1945年11月以降、米陸軍航空隊は、マリアナ諸島サイパン島、テニアン島、グアム島を基地として戦略爆撃機B-29「スーパーフォートレス」によって、日本本土を空爆した。当初は、航空機工場などの精密爆撃であったが、効果的でなかったために、1945年2月以降、カーチス・ルメイ将軍の下で、都市夜間無差別爆撃が主流になった。民間人の犠牲は、労働力を減少させ,生産力・抗戦意志を弱体化させるとして、歓迎された。

1944年11月以降、第21爆撃兵団XXI Bomber Commandを設置し,B-29爆撃機は、ハワイ諸島を経由してマリアナ諸島に終結し、日本本土に対する戦略爆撃を開始した。航空機工場などへの精密爆撃、都市無差別爆撃、日本各地の港湾・航路への機雷敷設まで、各種の戦略爆撃が行われた。B-29の爆弾搭載量は、長距離出撃のために、高高度精密爆撃では2〜3トン、都市無差別低空爆撃では5〜6トンである。


写真(左):1945年,東京の銀座の爆撃被害状況
:1945年、第39部隊の作戦任務で爆撃。39th Mission #24 & 26マリアナ諸島グアム島「ノースフィールド基地」から日本本土を爆撃した。Damage Photos Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association引用) 

1944年7月に占領されたマリアナ諸島から,ボーイングB-29「スーパー・フォートレス」が飛来し,日本の都市爆撃を行ったのは,1944年11月からである。

米陸軍航空隊の戦略爆撃本部に相当する第20航空軍司令部司令官アーノルドHenry H. ‘Hap’ Arnold大将は、 第21爆撃機集団司令官にハンセルHaywood Hansell准将を任命した。彼は航空機工場など軍事目標を中心にした高高度からの精密爆撃を行ったが、当時の重爆撃機の性能と命中精度では、精密爆撃も都市爆撃もあまり違いは無いようだ。

その後、第21爆撃兵団にルメイCurtis LeMay司令官が就任すると、「戦争を早期終結させ、有意な米国の若者の命を救うために」都市無差別爆撃に拍車がかかった。

1945年3月10日東京大空襲では、B-29爆撃機279機が焼夷弾など38万発、1,700tを投下。この低空夜間絨毯爆撃による死者は8万人以上、焼失家屋約27万戸。米軍の損害はB-29損失12機、損傷42機。東京大空襲の3日後、1945年3月13日から翌未明に最初の大阪大空襲が行なわれ、3987名の死者と678名の行方不明者が出た。

2. 1945年8月の日本への原爆投下は、ソ連に対する威嚇、新兵器の実験という意味が大きかった。しかし、戦後、原爆投下の悲惨さが伝わると、原爆投下は終戦を早めて、有意な若者たちの命を救ったという(戦時中は副次的だった)論理が喧伝された。ソ連の参戦、国体維持を黙約しての和平交渉などの他の戦争終結の手段は、黙殺された。その中で,鈴木勘太郎首相がポツダム宣言を黙殺する発言を世界に発表したことが原爆投下をもたらしたとの俗説も生まれた。

1944年11月24日以来、日本本土はマリアナ諸島からの米軍B-29による爆撃を受け,焦土と化した。米軍は1945年4月1日、沖縄本島に上陸したが、これは戦略爆撃だけでは、日本を降伏させられないと考えたためだった。米軍は,日本本土に上陸・占領しなければ日本は降伏しないとの判断の下に,1945年10月〜1946年2月には志布志湾から九州を攻略する「オリンピック作戦」し、ついで九十九里に上陸して東京攻略を目指す「コロネット作戦」を計画していた。

鈴木貫太郎首相のポツダム宣言黙殺発言が原爆投下をもたらしたとする説=1945年7月26日のポツダム宣言を、翌27日、日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとするポツダム宣言黙殺説
 鈴木貫太郎首相が、7月27日ポツダム宣言黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断された。しかし、鈴木首相は当初から和平交渉を拒否し、徹底抗戦すると公言していた。この徹底抗戦という組閣当初からの方針を述べただけである。鈴木首相は、世界に向かって降伏の呼びかけを拒否したのであるから、鈴木内閣が終戦のために組閣されたという俗説は、これで誤りであると証明される。しかし、鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言をする以前に、米国は日本への原爆投下を決定していた。(後述するが)これは、マンハッタン計画指揮官のグローブズ准将の作成した原爆投下命令書によってである。したがって、ポツダム宣言黙殺説は成り立たない。

ポツダム宣言黙殺説に対応する米国の主張する俗説=米政府・米軍の公式見解といえる終戦和平説
 日本上陸作戦を実施した場合、戦後のスチムソン陸軍長官の回顧録では、100万人の死傷者がでると、過大に見積もっている。これには、軍事的根拠はないが、原爆投下の正当性を訴える目的で、戦後になって死傷者の存在に注目した後付けの説である。
これが本当であれば,日本上陸作戦の死傷者がどれくらい出るのか、原爆投下によって日本本土上陸作戦を行わなくても、直ぐに日本が降伏するのか、事前に何回も検討していたはずである。しかし、そのようなことはほとんど議論されていない。
 原爆投下されたために日本が降伏したと誤解している識者も多い。最新機密兵器である原爆の技術と威力について、日本の指導者たちは認識・理解できなかった。彼らが危惧したのは、日本国民、日本軍の一部が、すでに敗北続きの軍上層部・政治指導者に反感を持っていたことである。このままでは、国体を覆す革命が起きてしまうと危惧していたのである。

<原爆投下の真の理由>
1.米終戦後のソ連封じ込め説(対ソ外交説)・世界覇権掌握説
 ドイツ降伏までは、連合軍として共同歩調を取ってきたソ連であるが、ポーランド復活をはじめ、欧州の戦後処理では、すでに英国と激しく対立した。冷戦は既に始まっていたのである。米国でも、ルーズベルト大統領が死去すると、トルーマン大統領の先輩議員である国務長官バーンズは、原爆をソ連に対する外交を有利に運ぶための手段として、使用することを強く求めた。米国の同盟国のソ連に事前に通知することなく、日本に原爆を投下し、日本を壊滅させることで、たとえソ連の参戦があっても、戦後の日本占領政策に、ソ連が深入りすることはできない。そのためには、原子爆弾が巨大な破壊力を持つことを世界に示し,原爆を保有する唯一の国家米国こそが、世界最強の軍事大国であることを証明することが有利である。よく、対ソ外交を有利に展開する手段として、原爆を投下したといわれるが、英国,フランス、中国も含めて,国連常任理事国の中で,傑出した兵器を持っていることを実際に使用して,世界に示す=世界の覇権掌握こそが、より高次元の原爆投下の理由であったと考えられる。

2.米軍新兵器実験説・米陸軍世界最強立証説
 現在でこそ、核兵器の威力を世界の人々が知っているが、1945年8月以前、原爆は未知の兵器で,その威力は、極秘のうちにトリニティ(原爆爆発の初実験)で立証されていただけであった。破壊力のある革新的兵器を手にした米陸軍は、その威力を実戦に使用して、確認したかった。また、威力を世界に示すことで、米陸軍こそが世界最強であるとの証明にもなる。米海軍との対抗して、米議会で多額の予算を獲得するにも、原爆の威力を見せつけることは有利である。米海軍も原爆を保有したかった。そこで、米陸軍に対抗して、海軍は、対艦船攻撃用の原爆、潜水艦搭載の核兵器の開発を早急に進めることになる。ビキニ環礁の原爆実験は、艦船への破壊力を観察することにあった。)

3.戦後の軍事予算獲得説
 原爆を開発/製造するために膨大な予算を獲得するには、原爆の威力を議員たちにも納得してもらう必要があった。既に20億ドルが投じられたのは、戦時の極秘計画だったからで、終戦後は、各種兵器の増産は終了させられる。実際、空母などの大型艦船、B-17爆撃機など航空機は、量産が停止させられた。兵器生産の多くが終了すると考えられる戦後世界で、原爆に多額の資金を投入し続けるには,米議会と選挙民に原爆の威力を示す必要があった。原爆予算だけは削減できないものであると議会と世論に訴える必要があった。

4.連合国と枢軸国との原爆開発競争に勝った米国が原爆を先制使用しただけという原爆開発競争説
 1939年のアインシュタイン・シラードのルーズベルト大統領当ての手紙では、ドイツが原爆開発を成功させる恐れがあり、それに先んじて、米国が原爆を開発すべきであることを訴えた。ドイツの科学力,技術力を高く評価していたからである。日本軍も1941年から優秀な科学者を動員して原爆を開発しようとした。そこで、日本が原爆を開発し、米国に原爆投下をするより先に、米国が日本に原爆投下をしただけであると主張される。
 しかし、実際には、日本の化学力,技術力で原爆を開発することは不可能であった。当時の米国は、科学的根拠をもとに日本の原爆開発能力を評価したわけではなかったようだ。しかし、人種的,民族的偏見から、日本人による原爆開発の可能性を信じていなかったと考えられる。したがって、原爆開発競争説は、日本への原爆投下の理由として、戦後になって主張された説である。ただし、ドイツの原爆開発には、連合軍は神経を尖らせていた。ノルウェーにあった重水生産工場を特殊部隊を送って破壊したほどである。

5.通常爆弾による無差別爆撃の延長線上に原爆投下があるという戦略爆撃延長説(鳥飼研究室新説):
 戦略爆撃とは、軍事施設・インフラ(運輸・エネルギー・医療・教育の基盤)・住宅・商業地区などを破壊し、労働者・市民を殺害することで、敵国の世論を反政府に向かわせ、軍事力を弱体化することで、敵の抗戦意思を粉砕することを企図している。原子爆弾も通常爆撃と同じく戦略爆撃に投入され、両者の違いは、爆弾一発の持つ破壊・殺傷能力の大小である。放射能傷害など,原子爆弾に特有の被害(原爆症)もあるが、これは、殺傷力の違いである。したがって、原爆投下は、大規模な戦略爆撃であり、実際の効果、すなわち大量破壊・大量殺戮の上で,同じように非人道的である。大量破壊・大量殺戮を伴う無差別「通常」爆撃が許されるのであれば、原爆投下も許容される。
 つまり、1945年8月時点では、米軍の日本本土への無差別爆撃という戦略爆撃の延長線上に原爆投下があるのであって,原爆投下だけを特別扱いする必要はなかった。原爆の保有・投下目標は最高度の軍事機密であり、特別な情報管理がなされたが、原爆投下自体は、容易に決断されている。トルーマン大統領が、原爆投下の議論にほとんど加わっていないのは,戦略爆撃がすでにドイツと日本に大規模に実施されていたからといえる。爆撃機千機相当の戦略爆撃をたった1機(観測機を含めて数機)で実施できるように改良したのが原爆投下である。この意味で、原子爆弾があれば、数百機の爆撃機とそれを運用する航空基地.搭乗員,整備員、航空機生産工場、資材・燃料を節約できる。原爆は、軍機であるが、威力のある最新兵器として戦略爆撃に利用することは、原爆開発の当初から決まっていたのである。


写真(右):1945年,横浜空襲の被災者が集められた黄金町
;1944年11月24日の武蔵野の中島飛行機空襲以来,サイパン島やテニアン島から出撃したB29爆撃機が,連日のように本土を空襲した。1945年3月10日,米B29爆撃機340機が東京を大空襲し,死者10万人、負傷者11万人、家を失った者100万人に達した。B29爆撃機は,5月24日250機、翌25日250機が東京を再び大空襲した。戦略爆撃は,大量破壊、大量殺戮では原爆投下と同じである。つまり、大規模に無差別爆撃をしていた米軍が、原爆投下だけを慎重に扱ったとすれば,それは最新極秘兵器だったからであり、原爆投下自体の可否は問題とならないはずである。

長崎原爆資料館「C-2 原爆投下への道」では、「1938年にドイツで発見された核分裂は、原爆に応用できることが示唆された。1942年、アメリカはマンハッタン計画を発足させ、当時の日本の国家予算をしのぐ巨費を投じて原爆を開発した。原爆はドイツを対象に開発されたが、後に目標を日本に変更、京都など18ヶ所が候補に上がった。結局、1945年8月6日広島、同9日長崎に投下された。原爆投下の理由として、早期終戦のためと言われているが、20億ドルを投じたマンハッタン計画を誇示する目的もあった。また、ソ連との冷たい戦争の最初の作戦という性格も持っていた。」とする。

写真(右):1945年、空爆で破壊された東京:原爆投下による大量破壊と大量殺戮は、すでにB-29による無差別爆撃で、日本全土に広まっていた。その意味で,無差別爆撃の延長線上に原爆投下がある。

ポツダム会談最中、1945年7月16日トリニティ(原爆実験)が成功した。米海軍レーヒ提督のように、日本通の軍人は、国体護持を認めれば、日本は和平に応じることを見抜いていた。しかし、ルーズベルト大統領は、1943年1月のカサブランカ会談、11月のカイロ会談(チャーチル首相・蒋介石総統)で、枢軸国に無条件降伏を求めること、単独和平はありえないこと(米国にではなく、連合国への降伏)を、世界に公言していた。米国は国体護持を巡って単独で日本と和平交渉することはできなかった。

1945年2月のヤルタ協定では、ドイツ降伏(1945年5月8日)3ヶ月以内にソ連は対日戦に参戦すると確約した。米軍は、兵力が低下していた満州駐屯の関東軍の軍事力を過大評価しており、中国大陸の日本軍を壊滅するには、ソ連の軍事力が不可欠であると考えていた。そこで、日本領千島列島だけでなく、蒋介石に、日本が有していた中国・満州での権益をソ連に譲渡させることまでして,スターリンに対日参戦を約束させた。

 しかし、暗号解読によって,日本がソ連を通じて和平交渉を求めていることを知る。(7月16日のスチムソン陸軍長官の日記:"I also received important paper in re Japanese maneuverings for peace. It seems to me that we are at the psychological moment to commence our warnings [to surrender] to Japan. ...the recent news of attempted approaches on the part of Japan to Russia impels me to urge prompt delivery of our warning. [マジックによる無線暗号解読通報the Magic Diplomatic Summariesによる日本のソ連への和平仲介依頼を察知していた])

ポツダム会談では、スターリン自らがトルーマンに8月15日に対日参戦することを告げた。(7月17日のトルーマンの日記:He'll be in the Jap War on August 15th. Fini Japs when that comes about. ----I can deal with Stalin. He is honest--but smart as hell.)トルーマンも原爆完成をスターリンに告げることを決心する。さらに、日本が和平の仲介を頼んできたことをスターリンはトルーマンに直接,直ぐに伝え、なんとその回答まで教えた。もはやソ連の対日参戦前に日本は降伏してしまうと思われた。(7月18[19]日のトルーマンの日記:Discussed Manhattan (it is a success). Decided to tell Stalin about it. Stalin had told P.M. of telegram from Jap Emperor asking for peace. Stalin also read his answer to me. It was satisfactory. Believe Japs will fold up before Russia comes in. )しかし、日本がソ連の仲介で降伏してしまえば,戦後のソ連軍が日本に進駐し、ソ連封じ込めも水泡に帰す。

最強兵器の威力を実証しないうちに大戦が終了すれば、戦後、米議会は原爆の威力を理解できず、予算を縮小するであろう。さらに、世界最強の軍隊であることを証明をする機会も失えば、ソ連を抑えて世界の覇権を掌握することも困難になる。
 米軍は、日本が降伏する前に,原爆を投下したかった。


図(左):TIME April 23、1945:Harry S. Truman
:『タイム』1945年4月23日号の表紙を飾った米大統領ハリー・トルーマン。ルーズベルト大統領の急死によって副大統領から昇格したために、原爆の開発・投下にはほとんど関与していない。

米国は、暗号解読によって、近衛の対米和平、ソ連の和平仲介を知っていた。ソ連からの日本和平交渉仲介の連絡も受けていた。そこで、ソ連が対日参戦をすれば、日本が降伏すると確信できた。ヤルタ協定に従ってソ連が対日参戦する8月15日以前に、日本に原爆を投下することが望まれた。

原爆投下の決定は、
ヽ吠殕国は当時、米国だけで、報復の心配はなかった、
既に都市無差別爆撃が実施されており,戦略爆撃の延長線上に原爆投下も位置付けられた、
8暁投下の可否の議論は、米国ではほとんどされず、米大統領ハリートルーマンは原爆投下の専門家会合に出席しなかった
以上をふまえれば、第二次大戦終結後の冷戦を見越して、ソ連封じ込め(対ソ外交圧力)、世界覇権掌握、新兵器実験・軍事予算獲得を理由として、無差別爆撃の延長線上に原爆投下がされたといえる。

 日本本土への無差別爆撃による大量破壊,大量殺戮は、既に米軍のB-29爆撃機によって実施されており、米軍と日本軍にとって、原爆投下は、同じ範疇の無差別爆撃に過ぎなかったのである。

<写真(右):グアム島ノースフィールド基地は離陸した第319部隊所属B-29爆撃機の爆弾投下;P-36号機乗員。Crew P-36 , Lawrence Materi's collection. the 19th Bomb Group引用。

1945年8月6日に広島への原爆投下、8月9日に長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告があった。この危機に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「----原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(「海軍大将米内光政覚書」;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

 日本の政治的指導者たちは、日本国民の政府離反、共産主義革命と国体変革の恐怖を認めて降伏することはできない。そこで、原爆という新型爆弾から、臣民の安寧を守るために終戦の聖断がなされたという大元帥昭和天皇の大御心・ご威徳を強調した終戦の詔書が出された。神国日本の降伏は、大義の敗北ではなく、技術の敗北であるとの解釈が流布された。

戦争の大義、日本軍の兵士・国民の戦意喪失が、敗戦の原因ではない。原爆という軍事技術が,日本を降伏に追い込んだ。このよう解釈して、近衛文麿、木戸幸一、米内光政のような一流の政治家たちは、原爆投下を終戦の口実=天佑とした。これは、米政府・米軍の公式見解である「原爆投下が日本を終戦を決断させ、和平をもたらした」という原爆終戦和平説にも沿ったもので、米国の原爆投下の正当性を日本が認めたかたちになった。これでは、日本が世界唯一の被爆国として、他国の核兵器開発を非難する際、説得力を欠いてしまう。


写真(右):マンハッタン計画の指揮官グローブズ准将とオッペンハイマー博士;The Joseph Papalia CollectionLeslie Groves From Wikipedia引用。

1942年8月13日、レスリー・グローブズ准将をマンハッタン管区最高司令官に、オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として「マンハッタン計画」が始動。
1944年9月19日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間のハイド・パーク協定で、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更。
1945年4月27日、第一回の目標委員会(Target Committee)では、京都、広島、横浜、小倉の4 都市が選定。
1945年5月4日,スチムソン陸軍長官は,陸・海・国務3省および原爆科学者の幹部からなる暫定委員会を設置。
1945年5月28日、原爆の効果を正確に測定できるよう、投下目標都市に対する空襲が禁止。
1945年6月1日、ジェームズ・バーンズ国務長官(トルーマンの先輩上院議員)など暫定委員会は「日本に対してすみやかに原爆を使用すべきこと。それは,労働者の住宅に囲まれた軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきこと。原爆投下の事前の警告なしに使用するべきこと。」とした。これは、原爆の威力実証、対ソ連圧力外交としての原爆示威、早期の日本降伏を意図した結果であろう。
1945年7月16日、ニューメキシコ州で初の原爆実験「トリニティ」成功。ポツダム会談参加のためにドイツに出向いていたトルーマン統領に伝えられる(「無事出産。結果は予想以上。」)。

3. 1945年7月25日、日本本土への原爆投下命令がだされた。その翌日26日、日本への降伏勧告のポツダム宣言が公表された。このポツダム宣言を黙殺したから、日本に原爆投下されたという俗説は、誤りである。原爆投下命令書に大統領の署名はなく、マンハッタン計画の指揮官のグローブズ准将が作成したものだった。原爆投下は、都市無差別爆撃の延長線上に、疑問の余地無く、遂行された。原爆投下の可否が議論されたのは,戦後になってからのことである。これは、原爆投下の非人道性が明らかになったためである。

写真(左):陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas Handy大将(1918年10月-1970年);National Leadership Foundation.org:VirtualMuseum引用。 写真(右):米軍戦略爆撃航空団司令官カール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz大将 (1891年6月28日 – 1974年7月14日);1943年3月欧州方面戦略爆撃空軍司令官(陸軍中将)として、対ドイツ爆撃を実施。1945年3月11日、米陸軍航空隊太平洋方面戦略空軍司令官に就任。1945年7月にグアム島に司令部を設置。

陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ大将は、1944年2月8日,米陸軍参謀本部の難民非救援指示書:Memorandum for the Chief of Staff, February 8, 1944, on reassuring the British that military forces will not be used to rescue refugeesによって,難民を救援しないことを次のように指示していた。

欧州戦で難民が大量発生しても、軍本来の職務である作戦行動に障害をあたえないように,英軍と歩調を合わせて、難民を救援しない方針を採用した。
米軍にとって,敵民間人への人道的配慮はもともと無かった。原爆投下が終戦得和平に結びついたおかげで、米国将兵、日本将兵、戦渦に巻き込まれ犠牲となる民間人の生命をも救った、との原爆終戦和平説の真偽は、この難民非救援措置を見ても明らかであろう。

1945年7月25日、陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas Handy大将発・宛合衆国陸軍戦略航空団司令カール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz大将へ原爆投下の命令書ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB(スパーツ大将は、太平洋戦略航空軍の指揮官として、7月にグアムの本部に赴任中。)

1.第20航空軍第509混成部隊は1945年8月3日以降、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに原爆を投下すること。原爆効果確認のため、(レーダー爆撃ではなく)必ず目視爆撃をし、観測用航空機を随伴させること。
⇒筆者注:現地指揮官に、原爆の実戦効果を明確に記録することを指示したのは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説を裏付ける。

2.追加爆弾は準備完了後すみやかに上記目標に投下。
⇒筆者注:現地指揮官の判断で随時、原爆の連続投下が可能。米大統領や統合参謀本部は、米軍の威力を見せつける原爆連続使用を望んだ。このことは、原爆投下が、米世界覇権説、米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説を裏付ける。

3.原爆使用について、情報の配布は国防長官および合衆国大統領により留保される。この件に関するいかなる文書または情報の公表も、当該部局の許可なしには行なってはならない。すべての報道文を特別検閲のため国防省に送ること。
⇒筆者注:秘密兵器の原爆について、情報管理を行い、原爆投下方法も含め,原爆技術を秘匿し、他国への漏洩を防いだ。これは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。原爆投下の可否ではなく、原爆の技術に注目している点で、戦略爆撃延長説をも支持する。

4.以上は陸軍長官および合衆国参謀総長の指示と承認のもとに発せられたものである。本命令書の複写を、マッカーサーとニミッツの両陸海軍元帥に、貴官から手交すること。
⇒筆者注:太平洋戦線の陸海最高位の指揮官にすら、原爆投下の事前通告をしていない。原爆情報の集中管理は、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。戦後、マッカーサー将軍が原爆投下を非人道的であるとして非難したが、これは、自分を無視して行われた原爆投下への反感からであり,人道的な配慮からではないだろう。朝鮮戦争の時、米軍・国連軍の前線指揮官としてマッカーサー元帥は、中国への原爆投下を提案している。


署名 陸軍参謀総長代理 Thomas Handy 副署 Groves 

⇒筆者注:原爆投下命令書には、トルーマン大統領の署名はない。参謀総長代理ハンディ大将の署名だけで十分だったのは、原爆投下自体、議論の末に行われたことではないことを示している。将軍の最低ランクのグローブズLeslie R. Groves准将が作成しているが、マンハッタン計画にかかわった軍事指揮官の影響力がつよければ、20億ドルを投じた原子爆弾を使用しないで済ませるはずがない。これは、原爆投下の理由が、米新兵器実験説,米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説であることを裏付ける。

原爆は当初から、どこに、どのように投下するかだけが議論されていたが、投下の是非をめぐる議論はなかった。原爆の仕組みや開発の実態について、全体像を把握していた人物は限られていた。秘密兵器原爆を手中に収めていたマンハッタン計画の指揮官グローブズ将軍の影響力は、原爆投下準備を進めるに当たって絶大である。

1945年7月25日のトルーマン大統領の日記には、女子供への被害を少なくするように、軍事目標に投下するように言ってある、との記載がある。原爆投下される日本人が被る苦しみについて、軍事に暗い大統領は、原爆被害との関連で、投下が意味することを把握できなかったようだ。大統領が原爆投下に大きな役割を果たして折らず、部下たちの提案を承認しているだけ----」というような印象を受ける。未知の兵器原爆について、その仕組みはもちろん,世界への影響について、理解し切れなかったとしても無理はない。 

1945年7月25日、原爆投下命令書;ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB Handy to Spaatz, National Archives (July 25, 1945)

25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces

1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. To carry military and civilian scientific personnel from the War Department to observe and record the effects of the explosion of the bomb, additional aircraft will accompany the airplane carrying the bomb. The observing planes will stay several miles distant from the point of impact of the bomb.

2. Additional bombs will be delivered on the above targets as soon as made ready by the project staff. Further instructions will be issued concerning targets other than those listed above.

3. Discussion of any and all information concerning the use of the weapon against Japan is reserved to the Secretary of War and the President of the United States. No communiques on the subject or releases of information will be issued by Commanders in the field without specific prior authority. Any news stories will be sent to the War Department for specific clearance.

4. The foregoing directive is issued to you by direction and with the approval of the Secretary of War and of the Chief of Staff, USA. It is desired that you personally deliver one copy of this directive to General MacArthur and one copy to Admiral Nimitz for their information.

(Sgd) THOS. T. HANDY
THOS. T. HANDY
General, G.S.C.
Acting Chief of Staff
copy for General Groves ( atomic bomb: decision引用。)


写真(右):広島に原子爆弾投下し帰還したB-29「エノラ・ゲイ」機長ポール・ティベッツ大佐とヴァン・カーク少佐;少佐と大佐の二人のサイン入りのカラー写真は、帰還を待ち構えていた米軍の撮影。大歓迎会を行った。Color Photo of Col. Paul Tibbets and Maj. "Dutch" Van Kirk Upon Returning From the Hiroshima MissionThe Joseph Papalia CollectionThe Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc. 引用。

1945年7月26日、ポツダム宣言。
1945年8月6日、広島に原爆投下。原爆投下の可否など公に議論されたことなどない。原爆をどこにどのように投下するかが議論され、それがトルーマン大統領に報告されただけである。原爆投下の決定は、ハンディ参謀総長代理がマンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズLeslie Richard Groves准将の作成した命令書で決定していた。

トルーマン大統領の1945年7月25日の日記Harry S. Truman, Diary, July 25, 1945
We met at 11 A.M. today. That is Stalin, Churchill, and the U.S. President. But I had a most important session with Lord Mountbatten and General Marshall before that.
We have discovered the most terrible bomb in the history of the world. It may be the fire destruction prophesied in the Euphrates Valley Era, after Noah and his fabulous Ark.(我々は歴史上最も恐ろしい爆弾を手に入れた。それは、ノアが箱舟に乗り込んだとき、ユーフラテス川流域で起きた業火のようだ。)
<中略>
This weapon is to be used against Japan between now and August 10th. I have told the Sec. of War, Mr. Stimson, to use it so that military objectives and soldiers and sailors are the target and not women and children. Even if the Japs are savages, ruthless, merciless and fanatic, we as the leader of the world for the common welfare cannot drop that terrible bomb on the old capital or the new. (この兵器は8月10日までに日本に対して使用される。スチムソン陸軍長官には、女子供ではなく軍事目標と兵士・水兵を目標に狙えと言ってある。喩えジャップが野蛮人、無慈悲、冷酷で狂信的だったとしても、我々は世界のリーダーとして、共有すべき福利を尊ぶから、古都や東京に原爆を投下することはできない。)

He and I are in accord. The target will be a purely military one and we will issue a warning statement asking the Japs to surrender and save lives. I'm sure they will not do that, but we will have given them the chance. It is certainly a good thing for the world that Hitler's crowd or Stalin's did not discover this atomic bomb. It seems to be the most terrible thing ever discovered, but it can be made the most useful...(目標は純軍事的なものであり、日本に降伏するように勧告もしよう。彼らは降伏しないはずだが、我々は彼らに機会を与えてやったことにはなる。ヒトラーとスターリンが原爆を開発してないことは、世界にとって喜ばしい。これは、発見された中で最も悲惨なものであるが、最も役に立つものでもある-----)(引用終わり)

日本の俗説では、1945年7月26日ポツダム宣言を日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとされる。しかし、鈴木貫太郎首相が、7月27日ポツダム宣言黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断されたから、原爆投下がなされたとする「ポツダム宣言黙殺説」は誤りである。鈴木首相のポツダム宣言の黙殺発表は、降伏しない、徹底抗戦するという内閣組閣当初からの方針を述べただけで、鈴木首相が終戦のために組閣されたという俗説の誤りを証明することにはなる。しかし、鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言をする以前から、米国は日本に原爆を投下することを決定していた。それも、トルーマン大統領の主導ではなく、マンハッタン計画指揮官のグローブズ准将の作成した命令書によってである。トルーマン大統領も、日本がポツダム宣言を受諾しないと考え、軍事目標に対して原爆を8月10日までに投下することを決めていた。対ソ戦略を有利にするために使用したのである。

写真(右):米軍陸軍航空隊U.S. Army Air Forces司令官ヘンリー・ハップ・アーノルドHenry Harold "Hap" Arnold元帥(1886年7月25日 – 1950年1月15日)1938年陸軍少将、1941年7月、新編成された陸軍航空軍の司令官に着任。1943年3月19日陸軍大将、1944年12月21日史上5番目の陸軍元帥 General of the Army。National Leadership Foundation.org:VirtualMuseum引用。

1945年7月16日、ニューメキシコ州・アラモゴードで世界初の核実験コードネーム「トリニティ」が行われた。爆弾コードネーム「ガジェット」で、長崎に投下された「ファットマン」と同じプルトニウム型原爆であった。「トリニティ」は、原爆爆発失敗という大失態を回避するために必要であったが,1945年7月16日の実験成功から、実戦配備を行ったため、原爆投下が可能な期日は、1945年8月上旬となった。配備して直ぐに原爆投下に出撃した。

1945年8月6日0245(現地時間):日本本土に向けて、第509混成部隊のB-29「エノラ・ゲイ」は、テニアン島ノースフィールド基地を離陸。2分間隔で、2機の観測機のB-29も後を続く。
1945年8月6日0815:31600フィートから原子爆弾を広島に投下。50秒後に爆発。市街の80%を破壊し、7万1,000任意上を殺戮。
1945年8月6日1458:B-29「エノラ・ゲイ」テニアン島に帰還。1時間以内に2の観測機も帰還。

1945年8月7日1530,大本営発表「1. 昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
2. 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」


写真(右):「原子爆弾」投下を報じる「共同新聞」(毎日・読売・朝日などが統一されたもの);投下直後に原子爆弾と判明しており、それが記事になったが、すぐに「新型爆弾」と記述するように変更された。朝日・毎日など主要新聞は統一され、紙数も少なかった。終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」引用。
新聞第一報は、新型爆弾ではなく原子爆弾として、報じているのは、日本軍も原爆開発をしていたから、容易に識別できたという証拠である。ただし、原爆が戦後冷戦にもたらす戦略y的影響には思い至っていない。なにしろ、戦後=日本降伏を正面から分析する組織は一切なかった。「全軍特攻化」「一億総特攻」への組織的取り組みに忙しかった。

終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」には、次の記述がある。
 広島に投下された原子爆弾は、かなり大きいニュースとして受け取られました。---原子爆弾」はすぐ「新型爆弾」と呼ぶように訂正されました。新聞にそう書かれ、学校からも、そんな通達が出されました。
 新聞記事(「惨禍の広島市」「原子爆弾の解剖−強烈な赤外線作用 爆弾ではない落下傘つき物体 激甚な爆風に被害甚大])を限り、新型爆弾は強い輻射熱を発するとされてあるものの、放射能については殆ど触れられていません。最後に僅かに付記されている程度です。これは、意図的に放射能の被害には言及を避けたとみるべきです。言及を避けたその事が原子爆弾の恐ろしさを物語っています。然し、当局では原子爆弾がどのような構造でいかなる性能を持った爆弾であるか、かなりの知識は持っていた事でしょう。
 対策として列記されているのは[輻射線(紫外線を主とし熱線及び可視線が伴ふ)による火傷効果が大きく爆風破壊も従来の爆弾に比し甚大であるから、特別の警戒が必要である。.....そのためには------白い服を着る。なるべくメガネをかける。曇天又は雨天の日は輻射線は減少するが晴天の日には充分注意する。中空に閃光を認めた時は伏せる。防空壕は在来のものでよい。火傷の療法は一般の火傷と全く同じだから動植物油を二倍か三倍に薄めそれを常に携帯する事。....]これですべてです。
  長崎に投下された原子爆弾(「長崎にも新型爆弾−相当数の家屋倒壊 死傷」)についての記事は、そのあまりの小さいのに改めて驚きます。当局の情報操作による作為が見え見えの大きさです。

終戦近くになっても新聞は間違いなしに配達されていました。郵便や小包み等も極度な被災地を別にしたら、全国的に届いていた筈です。汽車は本数も少なく、時間にも乱れはありましたがこれも間違いなく走っていました。東北のこの地では電気も、水道、郵便局、配給システム、等々、生活に必要な環境は最低限保たれていた気がします。空襲によって直撃を受けない限り、生活が出来ない状況でもなかったのです。学校は市内では終戦ギリギリになって閉鎖されましたが、郡部ではそんな事はありませんでした。この方もちゃんと機能していたのです。物資はすべて配給制で、これもギリギリではあってもなんとか手に入りました。


写真(右):ウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」;原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」機長ティベッツ大佐の署名入りの写真。Signed Photo of the "Little Boy" Uranium Bomb B-29「エノラ・ゲイ」によって、1945年8月6日0815、広島に原爆を投下。ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。「リトルボーイ」は、長崎に投下された「ファットマン」(長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t)より、若干小型である。The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc.引用。

1944年7月当時の戦記小説に原爆が登場していたくらいであるから、新聞記者も「原爆投下」の事実を知ったのかもしれない。あるいは、軍が米国に自らの科学的知見を表明しておくために、原爆と表現させたのかもしれない。

 原爆かどうかを調べるために、海軍の呉鎮守府調査隊が8月7日に広島入りし、未使用のエックス線フィルムが感光していたことなどから「ウラン爆弾と推定できる」と8日付で報告した。また、京都帝国大荒勝文策教授を中心とした調査団6人は海軍の要請を受け、1945年8月10日、広島に入った。そして、海軍の調査団と合流し、8月14日までに計二回、土壌調査を実施。8月15日付で海軍技術研究所に「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンケツス」の緊急電報を発信。受け取った海軍は「新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス」の一文を電報に書き込んだ。(⇒中国新聞'05/7/24「被爆9日後の電報」引用)

日本の軍部・政治的指導者は、原爆の威力を認識したが、被害については、他の諸都市への無差別爆撃と同じく「広島市が焦土化した」に過ぎない。原爆だから大変だ、という意識はなかった。軍部・政治的指導者たちは、日本の諸都市が焦土と化していることに慣れてしまっていた。原爆の威力を恐れて降伏しようとするものはなかった。

  原子爆弾は,中性子をぶつけ原子核を分裂させる原子核分裂によって、結合エネルギーを外部に大量放出する爆弾である。

広島に投下されたウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」は、ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。爆発は,ガンバレル方式で、ウランを半球に二分して、爆弾筒の両端に設置して、投下時に起爆装置を使って片方を移動させて合体させることで、超臨界に達せさせる。

長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」は、長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。爆発はインプロージョン方式で、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬の爆発によって位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し超臨界にいたる。


写真(右):プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」;1945年8月9日、B-29「ボックスカー」によって、長崎に投下された。プルトニウム239を用いた原爆で長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。Raymond L Martin;Tinian Island 引用。

1945年8月9日1102:B-29「ボックスカー」によって長崎市に原子爆弾「ファットマン」が投下されたのは広島の3日後。第一目標が八幡製鉄所に近い小倉市、第二目標が長崎市、そのほか福岡市、佐世保市のいずれかであった。しかし、福岡と佐世保は1945年6月に爆撃済みであり、第一発目の大成功を聞き及んでいたスウィニー少佐は、なんとしても今回、原爆を投下し、所定の第一級の選定目標を壊滅させたかったに違いない。当時、長崎市の人口は24万人と推定されており、即死は推定3万5千名、負傷6万名。投下後の負傷者の死亡を含めると死者7万名以上。

4.戦争末期,日本軍・鈴木貫太郎内閣は,全軍特攻化,一億国民総特攻が唱えた。本土決戦で連合軍に一撃を与えて,和平の契機を得る計画だった。1945年7月26日のポツダム宣言黙殺を公言したから、原爆が投されたという俗説は、原爆投下の公式命令が1945年7月25日(ポツダム宣言の公表前日)であることから、否定される。


写真(左):沖縄戦当時の首相鈴木貫太郎大将;慶応3年(1867)12月24日〜1948年4月17日。大阪生まれ。海軍軍人。明治20年(1887)海軍兵学校卒業。日清戦争に従軍。1898年海軍大学校卒業。日本海海戦に参加。海軍省人事局長、第2次大隈内閣海軍次官、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官を歴任。1925年海軍軍令部長。1929年侍従長兼枢密顧問官に就任。侍従長在任中の1936年、2・26事件の襲撃を受け、生き残るも引責辞職。1944年枢密院議長、1945年4月7日という沖縄戦の最中に組閣の大命を受け、77歳で内閣総理大臣。戦後,組閣とともに終戦に奔走したようにいわれるが,有利な条件で和平交渉を切り出すために,沖縄戦での大戦果を期待していた。ポツダム宣言受諾後、130日で総辞職。
写真(右):小磯国昭;1930年軍務局長。陸軍次官、関東軍参謀長、第5師団長、朝鮮軍司令官を歴任し、1937年大将となる。1939年平沼内閣の拓務相、1942年朝鮮総督。1944年東条内閣辞任のあとを受けて首相に就任した。しかし,米軍の沖縄本島上陸から1週間もたたないうちに辞任。戦後,A級戦犯として、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けるが服役中に病没。

1945年1月25日、最高戦争指導会議(1944年8月4日以降、小磯国昭内閣で設けられた)で、「決戦非常措置要綱 」が決定され,「物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」として,「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」とされた。つまり、政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席し、天皇が臨席する最高の会議である。

天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏によって最新・最高度の情報が伝達された。つまり,戦局・戦争方針について,大元帥昭和天皇は,明確な情報をもとに,裁可を下した。


図(右):米国雑誌TIME(1945年5月21日号)の表紙を飾った大元帥昭和天皇
; タイム誌では「米国はドイツ降伏後の欧州から太平洋に軍を回しているが,それは現人神に対する戦いのためである。わが無敵艦隊は天皇の島を壊滅させ,航空部隊は天皇の町を焼き払った。わが陸軍は,天皇の土地の侵攻する準備をしている。To the god's worshipers this would be a sacrilege such as the desecration of a church would be to the invaders. 大半の米国人にとって,日本の現人神は,がに股の薄っぺらなちびに見える。To them this god looked like a somewhat toothy, somewhat bandy-legged, thin-chested, bespectacled little man......米国のプロパガンダは、昭和天皇を扱き下ろした。

「天皇は戦争の実態をしらなかった」という戦後の俗説は誤りである。軍人は,臣下として天皇に忠誠を尽くすことを本分としており,戦局の悪化も隠さず報告している。不興をかえば,進退伺いをする覚悟である。大本営発表では,国民相手に,偽りも多かったが,最高の戦略策定能力=統帥権を保持する大元帥には,戦局の実相と作戦企図もほぼ明確に伝えられた。

1945年7月17日,ドイツ・ベルリン郊外のポツダム会談において、米大統領ハリー・トルーマン(4月12日就任),英首相チャーチル(後日は新首相アトリーに変更)、ソ連首相スターリンの三巨頭は,ドイツ敗北後の欧州戦後処理を話しあった。その際,日本に対する降伏勧告も検討された。ポツダム会談前日,1945年7月16日、米ニューメキシコ州で初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆破実験に成功した。米国は,ソ連に対して強硬な態度に出た。日本に対する降伏勧告から国体護持を認める可能性は、一切排除された。

「ポツダム宣言」は,米大統領ハリー・S・トルーマン,英首相チャーチル,中国主席蒋介石が署名した(とされた),日本への無条件降伏勧告であり,概略は次の通り。 

1 米大統領、中華民国政府主席,英首相ハ 数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上,日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フル---。

2 米英中ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ 数倍ノ増強ヲ受ケ 日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ。

3 世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ 日本国国民ニ対スル先例ヲ明白ニ示スモノナリ。---吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ 日本国軍隊ノ不可避 且完全ナル壊滅ヲ意味スベク 必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ。

4 日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル 我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国ガ引続キ統御セラルベキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履(ふ)ムベキカヲ 日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ。
5 吾等ノ条件ハ以下ノ如シ。右ニ代ル条件存在セズ。遅延ヲ認ムルヲ得ズ。

6 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ 平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルヲ以テ 日本国国民ヲ欺瞞シ 之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ 永久ニ除去セラレザルベカラズ。
There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

7 新秩序ガ建設セラレ 且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ 連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ --占領セラルベシ。

8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。(1943年11月27日のカイロ宣言では,日本は,第一次世界大戦で奪った太平洋諸島の放棄、中国から奪った満州・台湾・占領地の中国返還、朝鮮独立など「大西洋憲章」領土不拡大の原則が引き継がれた。)

9 日本国軍隊ハ 完全ニ武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ 平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ。
The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.

10 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ 奴隷化セントシ 又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ 厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル 民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ。
We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

11 日本国ハ 経済ヲ支持シ 実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ 許サルベシ。但シ 日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ 此ノ限ニ在ラズ。右目的ノ為原料ノ入手ヲ許可サルベシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ。
Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese, participation in world trade relations shall be permitted.

12 前記目的ガ達成セラレ 日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ 平和的傾向ヲ有シ 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ 連合国ノ占領軍ハ 直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ。

13 日本国政府ガ 直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ 政府ノ誠意ニ付 保障ヲ提供センコトヲ 同政府ニ対シ要求ス。 右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。
We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

(⇒「ポツダム宣言」(米英中三国宣言)およびUCLA Asia Institute;Potsdam Declaration引用)

写真(右):1945年7月28-8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three":英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee; 米大統領トルーマンU.S. President Harry S. Truman; ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin。後方は,米海軍参謀長レーヒ提督Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff(日本軍兵士の心理研究書を執筆し,日本人ガールフレンドもいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。); 英外相ベヴィンBritish Foreign Minister Ernest Bevin; 後列、右から二人目は、米国務長官バーンズU.S. Secretary of State James F. Byrnes(対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治的先輩); ソ連外相モロトフSoviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov(独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結)。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。NAVAL HISTORICAL CENTER引用。

ポツダム宣言を要約すれば,日本軍の無条件降伏(13),軍国主義者の排除(4),占領地・植民地(朝鮮・台湾など)放棄・本土への領土限定(8),戦争犯罪人の処罰(10)を求めた降伏勧告がなされたといえる。

ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。米大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltは,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman(61歳)が、4月12日に第33代大統領に就任。英首相チャーチルも、総選挙で一時帰国している最中,選挙で敗北。7月27日に英国新首相アトリー(1951年10月26日まで在籍)へ政権交代し,ポツダムには戻らなかった。他方,ポツダム会談に加わったスターリンは,ポツダム宣言には参加していない。欠席した中国の蒋介石は,ポツダム宣言の提唱者のひとりとなった。
 連合国の枢軸国への強硬政策が基本方針とされていたために,ポツダム会談では各国首脳陣の入れ替わりや複雑な事情によても,ポツダム宣言における無条件降伏の勧告は,全く変更されなかった。

米海軍参謀長レーヒ提督や陸軍長官スチムソンのように,天皇制の維持,すなわち国体護持を条件とすれば,本土の都市空襲と無制限潜水艦作戦による物資供給の途絶によって戦争遂行能力の低下した日本と講和できると考えた軍の戦略家もいた。

表 第二次大戦中の主な連合国首脳会議

名 称
(コードネーム)
期 日 参加首脳 内 容
大西洋会談
Atlantic Conference

アルゼンチアNewfoundland Argentia
1941/8/9-12 Winston Churchill, Franklin Roosevelt 大西洋憲章 Atlantic Charter
アルカディア会談
Arcadia Conference

ワシントン

1941/12/22-42/1/14

チャーチル,ルーズベルト 欧州戦線優先Europe first, 連合国共同宣言
カサブランカ会談
Casablanca Conference

(SYMBOL & ANFA)
1943/1/14-24 チャーチル,ルーズベルト, ドゴール, ジロードGiraud イタリア侵攻計画, 1944年の大陸侵攻計画, 枢軸国の無条件降伏unconditional surrender要求,ロンドン亡命仏政府とアルジェリア仏政府の統合
ケベック会談
Quebec Conference

(QUADRANT)
1943/8/17-24 チャーチル,ルーズベルト, カナダ首相Mackenzie King 大陸侵攻上陸日 D-Dayを1944年と決定。 東南アジア司令部設置,ケベック秘密協定:核兵器情報の秘匿
カイロ会談
Cairo Conference

(SEXTANT)
1943/11/23-26 チャーチル,ルーズベルト,蒋介石 戦後アジアに関するカイロ宣言Cairo Declaration
テヘラン会談
Tehran Conference
(EUREKA)
1943/11/28-12/1 チャーチル,ルーズベルト,スターリンJoseph Stalin 米英ソ3巨頭初会談, ドイツに対する最終戦略と大陸侵攻Operation Overlordの日程決定
ブレトンウッズ会談
Bretton Woods conference
1944/1/1-15 44カ国代表 国際通貨基金IMF,世界銀行 IBRDの創設合意
ダンバートンオーク会談Dumbarton Oaks Conference 1944/8/21-29 39カ国代表, 米国務長官Edward Stettinius, 英外務次官Alexander Cadogan, ソ連駐米大使グロムイコAndrei Gromyko 国連United Nations創設の合意
ヤルタ会談
Yalta Conference
(ARGONAUT & MAGNETO)
1945/2/4-11 チャーチル,ルーズベルト,スターリン ドイツ敗戦後の計画,戦後欧州計画,国連総会準備,ソ連の対日戦の条件
サンフランシスコ国連会議 UN Conference on International Organization 1945/4/25-6/26 50カ国代表 国連憲章 United Nations Charter
ポツダム会談
Potsdam Conference
(TERMINAL)
1945/7/17-8/2 チャーチル, スターリン, 米大統領トルーマンHarry S. Truman,英新首相アトリーClement Attlee1945/7/27就任 ポツダム宣言 (日本への無条件降伏勧告),戦後ドイツ占領に関するポツダム合意 Potsdam Agreement
出所)Wikipedia/ http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_conferencesよリ作成。

30回の連合国首脳会談が開催され,出席回数はチャーチル14回,ルーズベルト12回,スターリン 5回。
会談は,枢軸国への無条件降伏の要求が1943年1月カサブランカ会談から主張され,対ドイツが優先された。大戦中の連合国首脳会議20回のうち,中国代表が率先して参加したのは,国連関連を除き,1943年カイロ会談だけで,日本と対日戦争が明示的に取り上げられた会談も5回に過ぎない。これは,対日戦争、アジアは,米国主導下に置くことを連合国に合意されていたことの反映である。
戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,ポツダム宣言の文言よりも、米国が暗黙裡に国体護持を認めていることに注目した。終戦後,米軍に積極的に協力することによって,国体が護持できると考えた。つまり,日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。

主戦国アメリカ合衆国は,連合国のリーダーとして日本への無条件降伏の要求を取り下げることはできない。日本が特攻作戦を大規模に展開して,日本本土上陸作戦で多数の米軍死傷者が見込まれるとしても,無条件降伏の要求は変更できない。米国は,日本を無条件降伏させるためには,手段を選ばなかった。原爆の破壊力が大きいのであれば,当然使用された。
戦後,原爆投下の惨状が明らかになると,米軍の死傷者を少なく抑えるために,日本へ原爆を投下したと,トルーマン大統領,スチムソン陸軍長官は弁明した。しかし、1945年前半の米国の戦略において,味方の死傷者推計数は,本土上陸作戦には問題とはなっていなかった。

写真(右):1944年末から日本本土を連日のように爆撃したB29重爆撃機:英首相アトリーAtlee,米大統領トルーマン,ソ連首相スターリンによる日本への降伏勧告「ポツダム宣言」は、三巨頭共同宣言ではない。会談の期間中に、ソ連にかわって中国の蒋介石が宣言した。この宣言を受諾しない場合,日本は迅速かつ完全に破壊されると通告した。これは原子爆弾投下を隠喩したものだった。

枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の抗戦意志を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。米軍は、日本本土上陸作戦を実施し、日本を無条件降伏させる準備をしていた。

日本政府は、1945年7月27日、ポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に新聞紙上で「笑止」「聖戦飽くまで完遂」と報道。鈴木貫太郎首相は、記者会見で「共同声明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争戰争完遂に邁進する」と述べ、1945年7月29日朝日新聞で「政府は黙殺」と報道された。ポツダム宣言「黙殺」発言は、日本の代表的通信社の同盟通信社では"ignore it entirely"、ロイターとAP通信では"Reject"と翻訳され世界に伝わった(ポツダム宣言wikipedia)。

鈴木貫太郎首相のポツダム宣言黙殺発言について,鈴木貫太郎自身は,戦後一年経ってから「この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり…」と後悔した。しかし,鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言について、高木惣吉海軍少将が米内光政大将に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内自らは沈黙したままで、鈴木首相のみが責をとった形となった。米内大臣も、徹底抗戦やむなしと考えていたのであろう。

日本側は,米国,連合国とは,全く異なる視点から,戦争の前途を心配していた。

5.アジア太平洋戦争の連戦連破を背景に,軍上層部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性があった。1945年2月14日「近衛上奏文」が,国体護持のために,終戦の聖断を求めたのも,同様の趣旨からである。天皇の権威は,天孫降臨を象徴する三種の神器によっているから,米軍によって,伊勢神宮,三種の神器が鹵獲されることが危惧された。原爆投下よりも、国体護持の観点から、ソ連参戦の政治的影響が大きかった。
当時,原子爆弾は機密の最先端技術であり,日本の軍人・政治家の理解を超えていた。一夜にして、都市が破壊され、数万人が殺戮された事例は、1945年3月10日東京大空襲などいくつもあった。本土が焦土とされても徹底抗戦を主張していた指導者が、理解不能の原爆の威力に恐れおののき、降伏を決断することはありえない。
他方,ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり,ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば,日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして,米国への降伏、国体護持を請うたのが,終戦の聖断である。

写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。-----しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といったとされる。

元首相近衛文麿は,日中全面戦争を開始した首相であるが,日米開戦を回避しようとした。1945年2月14日に「近衛上奏文」で「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,次のように昭和天皇に上奏した。

----英米ノ世論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス。---敗戦ダケナラハ 国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ 敗戦ヨリモ 敗戦ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。

----ソ連ハヤガテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候。---右ノ内特ニ憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。
----勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ 滿洲事變以來 今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。----

---此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。」(「近衛上奏文」引用)

写真(右):長崎に原爆を投下したB-29「ボックスカー」(戦後の復元)搭乗員はCharles Sweeney (Pilot)、J. Koharek、A. Dehart、E. Buckley、K. Beahan、R. Gallagher、J. van Pelt、C. Albury、A. Spitzer。 昭和天皇は、上奏文を提出した近衛に,次のように御下問された。(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)
天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」
近衛「それは、陛下のお考え…。」
天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
近衛「従来、軍は永く一つの思想[統制派]によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者[皇道派]もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。----この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。賀陽宮は[皇道派による]軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないと[皇道派によって軍を立て直し終戦に持ち込むのは]なかなか話は難しいと思う。

近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

1945年2月14日の昭和天皇への上奏文によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。そして,軍部の統制派が戦争終結の障害になっているので,彼らを一掃しすれば,米英中と和平交渉ができると考えた。軍部を建直し,共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだ。しかし,戦闘での勝利によって,国体護持を認めさる和平交渉を画策した。終戦の決断はできなかったのである。

  1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。1945年6月8日の御前会議では,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,戦争完遂,本土決戦準備を決定した。

1945年7月26日,ポツダム宣言が通告されても,終戦を即断できなかった。


写真(右):1945年,広島で原子爆弾に被爆した女子逓信隊:識別コード:SA152-1 陸軍船舶司令部写真班撮影
:陸軍船舶司令部は、中国大陸や南方への輸送の要であった宇品港が主活動の場であったが、宇品向かいの似島にも検疫所があった。広島平和記念資料館の許可を得て掲載。

平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸は,宮中グループの日記や手記の次のような文書を紹介している。

岳父近衛文麿公爵秘書官細川護貞『細川日記』
1945年8月8日
「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信−内務省得意の無電も−途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、----是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----木戸[幸一]内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。

1945年8月9日
「----[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。---」と言上、十一時半荻窪に[近衛文麿]公を訪ねたる所、---ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。---宮中にては最高六人会議---を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。

侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」 

1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。---」

写真(右):1945年8月7日、似島検疫所に横たえられた被爆者:識別コード SA003-1:尾糠政美氏撮影;尾糠氏は8月7日に広島湾宇品港沖に浮かぶ似島(にのしま)検疫所に入り、軍医の指示で撮影。ここには野戦病院が開設され、8月6日午前中から次々と船で負傷者が運ばれた。応急手当とクレゾール入浴を施された。6日に運び込まれた患者は約2000人、軍医以下80人の衛生部員が救護に当たった。通常1000人の収容能力を持つ検疫所付属病院は、1日3000人から9000人の患者を扱った。このような尾糠政美氏の写真は、米軍の占領・検閲が終わり、『アサヒグラフ』1952年8月6日号に、撮影者の氏名なしに掲載されたという。広島平和記念資料館「平和データベース」引用。軍事技術の粋を集めたB-29爆撃機、原子爆弾、そして、優秀な科学者、訓練された搭乗員、有能な指揮官,世界情勢を考える大物政治家が、原爆を開発、投下を決断・実行した。広島平和記念資料館の許可を得て掲載。

芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日
2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.

1945年8月8日
午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用

本土決戦兵士:特攻専用機「剣」人間魚雷「海龍」:実現しなかった一億総特攻

木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940-1945年に内大臣を務める。

木戸幸一『木戸幸一日記』「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、------真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。(引用終わり)


写真(右):1945年の川崎・横浜空襲の被災者
;焼死体が黄金町に集められた。1944年末から,マリアナ諸島のサイパン島,テニアン島に米陸軍航空隊B29戦略爆撃機が350機以上配備され,本土空襲が始まった。米軍によって,都市が次々に焦土とされ,大量殺戮が繰り返された。他方,日本の軍部も政治家も,本土決戦,一億総特攻を叫んだ。終戦=日本降伏という認識から,誰一人として,連合国と和平交渉を進言せず、鈴木貫太郎総理以下,みな徹底抗戦を主張。写真は,Air Raid against Cities引用。

6.原爆投下によって終戦の聖断が下ったという俗説は誤りである。原爆投下は、口実であり、本質は、国体を護持するためである。国体護持への危機感は、連敗続きの軍部への反感、国難を救済できない天皇への不満、共産主義国ソ連の対日参戦に由来する。民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦にあって、国民の離反が確実になる前に、終戦が決断された。日本の大多数の政治家・軍部は、核兵器と核戦略を認識していなかった。国民に被害状況のわからない原爆投下は、終戦決定=聖断に大きな影響力をもっていない。

天孫降臨の神話,三種の神器は,天皇の大権の基盤であり,象徴である。天皇が下した大日本帝国憲法によって,天皇大権が定められるのではない。万世一系の皇祖からの伝統・神勅が,国体を正当化する。三種の神器は,天皇にとって皇祖との契約でもあり,守るべき責任がある。

しかし,敵の連合国,連敗続きの国軍(日本陸海軍),困窮に陥れられた国民は,いずれも天皇の権威を認めるとはかぎらない。日本軍の統制派とソ連,中国共産党とが共謀して,国民を煽動して,共産革命を引き起こすかもしれない。昭和天皇は、国体護持に関する巨大な不安に襲われた。国体護持への不安が、大元帥昭和天皇に,終戦の聖断を下させた。  

『昭和天皇独白録』では終戦の聖断を下した理由として「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」とある。

天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、葦原中国の平定,統治のために高天原から高千穂峰に降臨した日本建国神話である。その時,王権のシンボルとして三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)が与えられ、神勅が伝えられた(『古事記』)。

1945年8月9日の御前会議:ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べた。終了後,昭和天皇は木戸幸一に次のように語った。
本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。----(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])

1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,米国務長官バーンズに降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したい希望がある」"The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, ---(日本政府は,ポツダム宣言の受諾準備よし。)

図(右):1945年9月17日発行TIMEの表紙を飾った米国務長官ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes (May 2, 1879 – April 9, 1972);米国の孤立主義から,第一次大戦の国際連盟は不参加だったが,第二次大戦後は,米国務長官バーンズが,地球儀が象徴する世界(国連)の舵取りをする。This time the method and manner would be different. Would the results be different? 国務長官バーンズは,トルーマン大統領の先輩として振る舞い,反ソ連の立場を優先し,原爆投下によって,米国の戦後の覇権を確立することを企図した。("Jimmy" Byrnes—the "Assistant President."

 1945年8月11日,米国務長官バーンズの返答
  米英ソ中を代表して,ポツダム宣言は,天皇統治権(国体)に関して言及していないが,‥傾弔全軍を降伏させるべきこと、天皇の軍隊が連合国最高司令官の下に置かれるべきこと、を要請し、暗に国体護持を認めた。
"The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration,-----
"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people. "(日本国民の自由に表明する意思によって,日本の最終的な政治体制を決定するものとす。)宮中グループは国民の国体護持への忠誠心が発揮されることを望み、かつ世論の戦争指導者への反感、国民離反、国体変革の陰謀を警戒した。

写真(右):1947年,東京裁判でA級戦犯として尋問される木戸幸一元内大臣(1889.7.18〜1977.4.6);Autographed photograph of Kido Koichi testifying at the Tokyo Trial, 1947. Collection George Picard. 木戸孝允の養子の木戸孝正の子。妻は陸軍大臣児玉源太郎の四女ツル。東京出身。近衛文麿と共に革新貴族を代表し,現状維持派の西園寺公望らと区別される。厚相・内相時代を通じ産業報国連盟顧問。1940年内大臣に就任、首相前歴者・枢密院議長からなる重臣会議を招集して、内府の責任で後継を奏請する方式を実施。近衛文麿の<新体制>を助ける。(歴史が眠る多磨霊園:木戸幸一引用)

   木戸幸一『木戸幸一日記』二〇・七・三一(「カマヤンの虚業日記」引用)
 御召により---御前〔昭和天皇〕に伺候す。大要左の如き御話ありたり。
 先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身辺に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。----宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。---

〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
 ----御文庫にて拝謁す。ソ連が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、----。首相は十時半より最高戦争会議を開催、態度を決定したしとのことにて辞去せらる。(略)
一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せりとのことなりき。(引用終わり)

1945年8月9日の御前会議の終了後,昭和天皇は木戸幸一に「忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])

図(右):TIME March 4,1940海軍大臣米内光政大将(1880年3月2日〜1948年4月20日)『タイム』1940年3月4日号 Son of a Samurai:Admiral Mitsumasa Yonai was amazed and wildly happy. He had been aloft in giddy rigging before—had climbed to power (as Admiral of the Combined Fleet, beginning in 1936) and into politics (as Navy Minister in three crucial Cabinets, 1937-39).

1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。
(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

近衛文麿は、1945年2月14日、昭和天皇への上奏文によって,,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。近衛公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とするなど,宮中グループは,終戦の形式的な理由が与えられたことに思い当たった。 海軍大臣米内光政大将は,鋭い政治感覚の持ち主である。東京裁判(極東国際軍事裁判)では、被告ではなく証人席に立った。

1945年8月14日の最後の御前会議では,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。---戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下した(御前会議引用)。

原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたとすることはできない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは,広島・長崎への原爆投下を,終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

終戦の詔勅の「-----敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ノ測ルヘカラサルニ至ニ----」とあるが、大量破壊・大量殺戮は、原爆投下前の都市無差別爆撃でも同じだった。原爆投下は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化するのに用いられた。

原爆は、日本の軍人・政治家にとって理解を超えた機密兵器であり,1945年8月の時点では,核兵器が戦後世界や世界覇権を左右するとは、日本軍指導者たちは思い当たらなかった。日本の諸都市が破壊され、数十万人が殺戮されても、徹底抗戦を主張してきた指導者たちにとって、原爆の威力(大量破壊,大量殺戮)が降伏の決断に結びつくはずがない。

国体・大元帥昭和天皇を敵視する共産主義国ソビエト連邦の軍事力、政治思想こそ最大の脅威である。国体変革という脅威を前に,米国への降伏、国体護持を企図したのが,終戦の聖断である。原爆投下によって終戦・和平がもたらされたという「原爆終戦和平論」は、事実ではない。

原爆終戦和平論は、核兵器の保有・使用を正当化してきた。
総力戦の本質は、大量破壊、大量殺戮であり、戦略爆撃思想の延長線上に原爆が投下された。


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