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近衛文磨首相の暴支膺懲発言と上奏文 2007
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◆近衛文磨首相の暴支膺懲発言と終戦前の上奏文◇Prince Fumimaro Konoe


写真(上左):1945年,横浜空襲の被災者が集められた黄金町
;1944年11月24日の武蔵野の中島飛行機空襲以来,サイパン島やテニアン島から出撃したB29爆撃機が,連日のように本土を空襲した。1945年3月10日,米B29爆撃機340機が東京を大空襲し,死者10万人、負傷者11万人、家を失った者100万人に達した。B29爆撃機は,5月24日250機、翌25日250機が東京を再び大空襲した。戦略爆撃は,大量破壊、大量殺戮では原爆投下と同じである。つまり、大規模に無差別爆撃をしていた米軍が、原爆投下だけを慎重に扱ったとすれば,それは最新極秘兵器だったからであり、原爆投下自体の可否は問題とならない。原爆投下による大量破壊と大量殺戮は、すでにB-29による無差別爆撃で、日本全土に広まっていた。その意味で,無差別爆撃の延長線上に原爆投下がある。

◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,沖縄戦,戦艦大和についても分析しています。
【アジア太平洋戦争オリジナル】
米中接近ノモンハン事件
アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」
サイパン島玉砕:捕虜1万7千
マリアナ沖海戦:空母機動部隊壊滅
レイテ沖海戦のマッカーサー将軍
フィリピン戦の神風特別攻撃隊沖縄戦のカミカゼ特攻
沖縄戦と住民沖縄戦での集団自決靖国神社戦争画:ピカソ,藤田嗣治,丸木夫妻/文化人と戦争文学:与謝野鉄幹・晶子、斉藤茂吉


1. 近衛文磨首相は,1937年7月7日,盧溝橋事件当時の内閣総理大臣であり,降伏の玉音放送の流れた1945年8月15日のちょうど7年前,1937年8月15日,「暴支膺懲」声明によって,アジア太平洋戦争のきっかけを作った。

1937年7月7日の盧溝橋事件の混乱の中で,現地では散発的な戦闘が続くが,決定的だったのは,日本と中国がともに戦争回避を「軟弱外交」として避けて,日中双方の指導者がリーダーシップを発揮し,軍事力を準備したことだった。中国共産党の陰謀で日中戦争が始まったとする評者は,北京郊外に日本軍が駐屯し,中国軍を威圧していたという事実を過小評価している。石炭や農産物など資源が豊富で,市場としても有望な華北は,日本としては,経済的,政治的な特殊権益を認めさせたい地域だった。1936年には『昭和十一年度北支那占領地統治計画』が作られており,1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北占領地統治計画を研究していた。共産党の陰謀があろうと無かろうと,遅かれ早かれ,日中戦争は勃発する運命だった。


写真(右):上海事変で逃げ出す難民
(1937年8月11日 Peter Kengelbacher撮影):盧溝橋事件(北支事変)から1ヶ月で,戦火は華中にも広がった。数千人の難民が,日中両軍の上海市内での戦闘を逃れるために,上海の対岸である長江北岸に避難した。

現地で日中両軍の停戦合意がなった1937年7月11日の当日,日本では首相近衛文麿が華北への増援部隊出兵を閣議決定し,午後6時半に華北増派の声明を発表した。この直後、支那駐屯軍から午後8時に停戦合意した旨の報告が入電。しかし,リーダーシップ発揮に囚われた近衛首相は増援を取り消さなかった。こうして,2コ師団を現地に派遣することになる。権威を重んじる指導者は,豹変できなかった。

大兵力の中国軍に威圧され,怖気づいた日本軍という汚名をそそぐため,衝突から5日もたたない7月11日に、近衛内閣は、中国への増援部隊派遣の閣議決定をした。そして、世界に向けて、中国に対する強硬姿勢を公表した。ここでは,不拡大方針を謳ってはいるが,近衛文麿首相は「出兵を決定して、日本の強硬なる戦意を示せば、中国側は、折れて出ることは間違いないと信じ」ていた。この7月11日華北出兵声明は次のような内容である。

「関東軍と朝鮮軍(満州と朝鮮半島に駐留するに日本軍)が準備した部隊を急遽,支那駐屯軍に増援する。さらに,内地より部隊を動員して北支に急派する必要がある。東亜の和平維持は,(大日本)帝国の念願するところであり,今後とも局面不拡大・現地解決の方針を堅持して平和的折衝の望みを捨てず,支那側の謝罪および保障という目的を達したるときには,速に派兵を中止すること勿論なり」

写真(左):北京を行進する日本軍(1940年米海兵隊員撮影):1937年7月末以来,中国軍を撤退させ,圧倒的な兵力で北京を支配下に置いた。列国の権益には手を出さなかった(出せなかった)ため,増派された日本軍より兵力的に劣る列国の駐屯部隊は黙っていた。

増援決定を喜んだ現地の日本軍,すなわち支那駐屯軍は,1937年7月13日段階で、中国軍に北京からの撤退を求めた。そして,撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。つまり,政治中核都市北京から自国軍を撤退させ,日本軍が進駐するという「暴挙」を平然と中国に要求したのであって,中国やそこに利権を持つ英米列国から見ても,日本軍の侵略性は明らかであった。このあたりの事情は,1941年11月に,米国政府が,日本政府に対して,中国・インドシナからの撤兵を求めたハル・ノートと同じく,中国軍が歴史ある旧都北京(北平)から撤兵できないことを読んで,戦争になるように仕組んだ陰謀なのではないかと疑ってしまう。

無理難題を押し付けて,それを遵守しない,誠意のある回答がないとして,戦争の契機を作ることができる。但し,米国は日本の明らかな先制攻撃を望んだが,日本は中国軍が先に発砲したという理由で,という違いがある。どちらが先に発砲したかという,客観的判断が困難な契機を開戦理由としたり,中国にある中国軍が撤退要求を聞かなかったという不利尽な理由で攻撃を仕掛けたりすれば,国際的な反発を招くのは必至である。東北三省,さらに熱河省を奪った外国軍である日本皇軍が,旧都北京のすぐ郊外で,実弾装備の夜間軍事演習を実施すれば,中国軍民の反発を受けるのは必死である。

日本軍には華北占領の意図があった。根拠は,『昭和十一年度北支那占領地統治計画』の存在である。1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北の占領地支配について研究を進めていたのである。これは、日本軍の「華北占領地統治計画」であり,作成部局は支那駐屯軍司令部、文書には「昭和十一(1936)年九月十五日調整」と記されているという。
この甲案は,華北全域に作戦行動が展開される場合(現実にそうなった)であり,河北、山東、山西各省の鉄道に沿って,冀察地区(河北省、北平・天津両特別市、外長城線以南の察哈爾省、黄河以北の河南省),山東地区(山東省と青島特別市),山西地区(山西省)に侵攻し,占領地統治が実行する計画である。華北占領当地の目的は,「国防用資源ノ獲得」と「満州国並内蒙方面ニ作戦スル軍ノ背後ヲ安全」,すなわち対ソ戦争における華北方面の安全確保である。(京都大学大学院文学研究科永井和教授による)



大日本帝国首相近衛文磨公爵1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。1940年9月号 東洋文化協会発行。1940年7月22日に第二次近衛文麿内閣成立後,9月27日に日独伊三国軍事同盟が締結された。これを発表するかのような近衛首相の演説が画報の表紙を飾った。白黒写真しか普及していない時代,カラーの絵画・着色写真には,大きなインパクトがあったはずだ。10月には既成政党を解散して挙国一致の大政翼賛会の結成を図る。しかし,一党独裁は日本の国体(天皇制)に相容れないため,新党の結成には至らなかった。10月12日の大政翼賛会の発足式でも首相は「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」と放言した。その後,政党が混乱,解散する中で,軍部と官僚の主導(輔弼力?)が高まる。1941年7月28日にフランスのインドシナ半島植民地「南部仏印」に進駐(軍事占領)。米国の対日制裁が強化され,日米和平交渉も行き詰まった。9月6日御前会議で修正した『帝国国策要綱』で10月下旬の対米英蘭戦争を決意。『神戸市「戦争体験を語り継ぐ貴重な資料」所蔵引用。 「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップを確保しようとしたが,息子は米国スタンフォード大学に留学させている。

北支事変の名のもとに日中戦争になり、戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大していく。これを決定的にしたのが,蘆溝橋事件に関する近衛文麿首相による1937年8月15日「暴支膺懲」の声明である。

帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。
然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。
近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。
更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。

顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。
而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。

此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。

1937年8月15日近衛首相「暴支膺懲」声明の要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,中国南京政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」


地図(右):朝鮮・台湾・南樺太・満州を支配する大日本帝国
(1937年頃);盧溝橋事件以前に,日本は内地の本来の領土の2倍以上を勢力下においていた。しかし,さらに中国の華北・華中に占領地を拡大し,華南の沿岸部の都市も攻略した。

中国で戦火が拡大した理由を整理すると次のようになろう。
‘本軍が中国軍よりも強いことを認めさせるために,少数兵力でも,果敢に中国軍と戦闘した。日本軍は,中国軍に弱腰であるとの印象を与える行動をとらなかった。

中国軍は,日本軍よりも遥かに優勢であり,国内が団結すれば,国際的支援も受けることができ,日本軍の活動を押さえ込むことが可能であると判断した。

C羚餬海貿塰未魑覆垢襪錣韻帽圓ない日本軍は兵力を増派し続けたが,これは中国支配を意図しているとみなされた(客観的にもみなされる)。そこで,中国は,軍民一丸となって,日本軍に抵抗した。

て本は,中国の交戦意志,戦意の高さを認識できず,国民党と共産党が統一抗日軍を編成できるとは考えなかった。そこで,中国の政治経済の中枢である北京と江南地方(首都南京)を攻略すれば,日中戦争は日本の勝利に終わると誤解していた。政治経済の中枢に戦禍を拡大したことで,日本は列国からも反感を買うようになった。

ナ同僂蓮ぜ国権益の維持・拡張に関心があったから,日本の中国支配を認めるわけにはいかない。また,日本による残虐行為を伴う中国侵攻には,米英の一般市民も反感を抱く。民主主義国米英では,反日感情に支えられた世論を背景に,その後の対日圧力を強めていく。

ζ本国民も権益を確保し,居留民を保護すべきであるという愛国心が強まり,あるいは日本軍のプロパガンダに影響され,中国支配が日本の繁栄に繋がると錯覚した。

満州に隣接する華北で、日本に反抗する動きが中国国民党政府、中国軍,中国国民にあるために,満州の安定が望めない。そこで、日本は中国がアジアの安定・平和を阻害していると考えた。中国全土を支配する意図は,日本にはなかったが,満州の権益を維持するには,中国国民政府を屈服させるしかないと(誤って)判断した。

中国政府における共産党勢力が拡大しており、その共産主義の思想は、日本の国体・天皇制の護持には相反する体制である。また、蒋介石の国民党政権に対しても、日本政府は過大な和平提案しか提示できない。そこで、日本政府は、中国における新政権の建設を目指すが、これは、中国・米英の側からは、中国の分裂工作、傀儡政権化である。

満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。

写真(右):中国国民党政府総統蒋介石;満州を占領され,さらに北京も攻撃されるなか,中国軍民の反日感情は高まっていた。このまま,中国の世論を無視することは,中国の最高指導者蒋介石にはできなかった。抗日戦争を開始しなければ,中国軍の支持も失って,失脚したであろう。こうして,1937年7月17日廬山の最後の関頭の演説をして,事実上の対日宣戦布告をする。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

そして翌日7月19日、この最後の関頭の演説が公表されると,中国軍民の抗日交戦意欲がますます高まり、現地中国軍司令官と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がほとんどなくなってしまう。日中対決が日中両首相(最高級の指導者)によって決定され,世界に公表されたのであるから,自らの声明を覆す停戦申し込みは,敗北を意味する。この日中両首相の宣言は、日中全面戦争の開始と受け取られた。

日本と中国との双方の世論とも,相手を軽蔑し憎むようになっていた,あるいは仕向けられていた。愛国心に駆られた国民世論を背景にして,日中前面戦争が開始されたのであれば,日中双方は戦うべくして戦争に突入したのであって,陰謀説など取るに足らないきっかけに過ぎない。誰が発砲したかといった些細な事件を,全面戦争開始の口実みなす者は,戦争に至る全体像を,あるいは国民の敵対的世論を見失っているとしか言いようがない。

1932年の満州国成立から5年経過しており,中国政府・国民の忍耐の限度を超えて,依然として日本軍が中国に居座り、満州を奪った上に,新たに華北にも日本の軍隊を増援したことがが,戦争の原因になった。中国の領土内で、中国軍が自国の軍隊を擁しているのは、当然である。日本の駐屯軍が北京近くで夜間軍事演習を行い,兵隊が行方不明になったから,市内を夜間捜索するというのは,まさに暴虐な振る舞いである。もとをただせば,華北の中心都市北京(正式には北平)郊外に,満州を占領した日本軍が駐屯していること自体,高まってきた中国の民族意識を大いに刺激することだったのである。

「中国人としての民族意識など無かった」「中国の民衆はバラバラで砂のようにまとまりがない」と日本人が認識していたのであれば,そのこと自体,愛国心が沸き立ってきた中国人(漢民族)には許しがたい侮辱だったであろう。中国の国民意識の形成を軽視したのには,理解に苦しむ。

満州事変以降,「中国人」による日本製品排斥(ボイコット),反日活動,反日デモ,反日ストライキは,しばしば起こっていた。これは,たとえ扇動者・先導者がいたとしても,排外意識,民族意識,中国人の連帯の現れである。日本人に対する中国人の反感は,確実に高まっていた。

日本は、暴支膺懲を戦争の理由としたが、盧溝橋事件後の日本軍の強硬姿勢は、中国から見て、暴日膺懲に値する。横須賀郊外で夜間軍事演習をしていた米軍に行方不明者が出たとして、米軍が市内を夜間捜索させろと要請してきたら、日本人はどのように思うのか。日本政府はどうするのか。

盧溝橋事件に際して,先に発砲したのは誰か(中国兵,日本兵,それとも共産ゲリラ,便衣隊?)という論争が,日本では盛んだ。しかし,この発砲論争は,歴史的な動向には関係がないであろう。敵性軍隊が近くに駐屯しているのであれば,発砲事件がいつ発生してもおかしくはない。先にどちらが発砲したかなど,後づけの説明が可能である。まさに,一食触発の日中両軍が対峙していた危機的状況こそが問題だったのである。

写真(左):1938年3月出征する兵士(京都東山区);出典に「番頭さんの出征を、主家にて見送った時の記念撮影です。店の間の奥に、昭和天皇の写真(御真影)を中心に祭壇を拵えています」とある。 

しかし,「暴支膺懲=中国を罰する」ために日本軍が増援されることになれば,中国軍は,増強される前に日本軍へ反撃を計画する。もし攻撃するなら,敵が弱体なうちに叩くべきなのは軍事常識である。盧溝橋事件が、日中戦争に拡大したことを、中国の好戦的な攻勢に求めるのは、明らかに無理がある。

1937年7月25日には,北京-天津間でも新たに戦闘が始じまり,日本軍の増援部隊の到着後、7月26日には,支那駐屯軍(日本軍)が北京市内(城内)に突入しようとしたため,日中両軍が衝突した。日本軍は,北京城内に立て籠もる中国軍に鉄槌を加えて,日本軍の強さを見せつける懲罰(お仕置き)を試みる。

1937年7月28日,支那駐屯軍は,航空機の協力も得て,北京を攻撃した。しかし,中国軍は,日本の猛攻に会い,歴史ある北京の街を戦火で焼き尽くすのを避ける目的もあって,北京から撤退した。こうして,日本軍は北京を1日で制圧してしまう。
軍の撤退を敗北と同一視している日本軍は,敵中国兵力の10分の1で勝利した,中国軍の士気、戦意は低く弱いと錯覚する。「撤退=転進」であり,新たな軍事行動のための準備かもしれない,とは思わなかった。

1937年7月29日,日本人虐殺事件が通州で起こった。これは、日本に協力的なはずの中国傀儡政権「冀東防共自治政府」の保安隊(軍隊)が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260名を殺害した事件で、「通州事件」と呼ばれ,日本では大々的に報じられた。

盧溝橋事件後、親日(日本の傀儡)政権「冀東防共自治政府」に所属する保安隊は、中国国民党政府「冀察政務委員会」の第29軍(司令官宋哲元)と戦闘状態にあった。しかし,日本機が、冀東防共自治政府の保安隊を誤爆してしまう。また、7月28日には日本軍は北京周辺を占領し、中国全土で反日感情が高まり、抗日戦争も始まっていた。このような愛国的な活動の広まりに直面し,日本軍に協力すべき保安隊が,日本人を虐殺したのが通州事件といる。

冀東保安隊の第一総隊長張慶餘は,1937年7月の盧溝橋事件で第 37 師の師長馮治安(河北省主席でもある)に連絡したところ、師長馮治安は第29軍の日本軍攻撃に呼応して、通州でも決起するように言ったともいう。中国国民党政府(南京政府)は、兵力的には日本軍よりも10倍以上優位であり,7月17日の廬山における最後の関頭演説にみるように、蒋介石の抗日戦争への意思も強い。そこで、愛国的な感情の高まりも作用して、張慶餘ら通州の中国人保安隊は,国民党政府への寝返りを決意したのではにか。そこで、南京政府への忠誠を証明するために,通州で日本人を殺害したのではないか。日本人に残虐行為を犯せば、日本軍とは決別し、中国国民党の下に降るか、協力するかできると期待して。中国人保安隊(本来は日本軍の協力部隊)が,中国軍に寝返り,受け入れてもらうためには,日本人虐殺という取り返しのつかない証拠を示す必要があったといえる。

写真(右):日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機:1937年8月の上海事変で,台湾,九州から南京,上海,杭州を「渡洋爆撃」した。これは,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃である。スペイン内戦に派遣されたドイツ機がゲル二カ爆撃をした同年4月26日から4ヶ月でアジアでも戦略爆撃が開始された。

通州事件は、当時の日本で大々的取り上げられ、暴虐な支那を懲らしめよ(暴支膺懲)という世論を盛り上げた。中国軍の残虐性を訴え、日本軍の華北侵攻を正当化する反中プロパガンダも行なわれる。しかし,このような局所的な非正規軍による日本人虐殺事件を持って,中国政府と全面戦争を始めるとしたら,筋違いであろう。通州事件の報復であれば,この保安隊を攻撃殲滅するか,保安隊をかくまう組織(国民党政府?)に対して,その引渡しを要求すべきである。しかし,通州事件に対処する外交的対策は一切採用していない。日本軍の対応は、中国国民党政府への武力攻撃であった。

対中国戦争は,中国国民党政府が,通州事件の首謀者であると判断したための報復措置なのか。中国人が日本人を殺したから,日本人が中国人を殺しても良いと考えたのか。妊婦の腹をえぐり、レイプした女性の陰部を銃剣で刺し、2歳の子供を射殺する---。このような中国での日本人残虐事件に対しては,現在でも非難が続けられているが,これはアイリス・チャンIris Shun-Ru Chang(1968-2004)の南京虐殺に対する反応The Rape of Nankingと対比される。

義和団事件とそれを継承する北清事変でも同じような虐殺事件が通州で起こったが,この惨事を目撃した奥村五百子女史は、寺院で仏教の陶冶を受けていただけに、兵士が命がけの任務をこなしてくれているからこそ、日本の家庭生活の安定があると覚醒した。そして、生死をかけて戦ってくれる兵隊さんのために「私たち日本の女子にもできることをすべきである」と、帰国後,日本全国で訴えた。1901年、貴族院議長近衛篤麿(近衛文麿の父)が後援し,愛国婦人会が創立された。上流婦人のみを対象とした構成で、兵士の見送り,留守家庭や戦死者を出した軍人遺族の支援を行った。1937年には会員数380万人である。

写真(左):京都市の国防婦人会の不要品供出活動(1935-38年京都市中京区烏丸一条);張り紙には「力を合わせて愉しく生活御奉公・これまでのやうに、一軒づつバラバラの生活では、ずゐぶん無駄や間違ひが多かった。みんなが協同してやれば、まだまだ物も力も生まれて来るし、明るい愉しい気持ちで,もっとお国のお役に立つことができる。…」と書かれている。女子も戦争の一翼を担っているとしたら,それを攻撃する無差別爆撃も正当化されるのか。日本は米国に,中国は日本に無差別爆撃される。(但し,京都は爆撃されていない)

1934年には,陸軍・海軍大臣など現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督・後援を受けた国防 婦人会も結成された。1934年の会員数は750万人である。兵士・兵営を支える家族、社会も戦争に参加しているのだと、彼女は理解できた。日本軍が中国で戦っており、「戦場(軍事衝突の起きる場所)」は中国にあるが、「戦争」には戦闘に加えて、資源採掘、生産、流通、消費、輸送などの局面があり、日本国内でも戦われている。

戦争とは、銃火を交える戦闘、住民虐待行為だけではなく、兵士を送り出す家族、会社員、兵士の食料・軍服・兵器を生産する労働者、軍事費の財源を徴税する行政官、兵士を運送する輸送船乗員によっても、戦われている。戦争に参加しているのは、全国民、植民地の住民すべてである。現在も「イラクで戦争している」ということがあるが、これは戦争=戦闘という矮小化であり、事実の誤解を招く。


写真(上):1937年,第二次上海事変の大火災(1937年10月27日);中国軍は陣地撤退の際,日本軍に利用されないよう,陣地(建築物)を焼き払った。それが延焼して,大火災となった。戦渦に巻き込まれれば、人名や物資の損失は計り知れないが、それは誰の責任なのか。

1937年12月13日,中華民国の首都だった南京を日本軍が攻略した。首都を陥落させたのであるから,戦争は終わったと,日本人は勝利を確信していたが,実は日中全面戦争は始まったばかりであった。

1938年1月11日には、御前会議で支那事変処理根本方針として、対中和平交渉を検討したが,1月16日「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の近衛声明を発表してしまう。敵対する蒋介石を和平交渉の相手としないという,まさに無条件降伏要求を突きつけた。事実上、日本の傀儡政権ともいえる汪兆銘南京政府を樹立した。
1938年5月5日、支那事変解決のために、国家総動員法を成立させ、統制経済に基づく物資と兵員・労働力の動員を開始した。これは,日本の全体主義,ファシズムの表れといえる。

1938年11月3日に近衛首相は東亜新秩序声明を発表した。
「今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。
帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。

この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。

帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。---固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。

---東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。---政府は帝国不動の方針と決意とを声明す」

しかし,近衛首相は政治責任を放棄するかのように1939年1月5日に辞職する。


写真(右):上海事変で戦死した中国兵:1937年9月3日。上海では日中両群の間で4ヶ月間の市街戦が行われた。小銃,人間(3名以上)も丸焦げ。日本軍は,1937年12月までに,北京,上海,南京の三大都市を占領しているが,「支那事変」(日中戦争)は,まだ始まったばかりだった。1945年8月まで8年間も続く。

1937年7月の盧溝橋事件当時,中国軍は多いが弱いと過小評価した日本軍は,高圧的な態度で臨むことで,中国が譲歩すると錯覚していた。→日本は,駐屯権で認められている小兵力しかない。中国軍の戦意は必ずしも低くはなかった。孫文創設の黄浦軍官学校、それを引き継ぐ「国民革命軍」には、共産党も国民党も参加し、中国人としての愛国心は芽生えていた。しかし、日本では、中国は軍閥・私兵により支配され、中国軍あるいは中国人という概念はない、と誤解していた。

日本は,全面戦争や中国征服の意図はなかったが,居留民保護以上に,日本の特殊権益、満州支配を中国に強要しようとした。

C羚颪蓮す駝嬰,共産党の対立はあったが,中国の軍も世論も,英米よりも高圧的な態度で服従を強いる日本に対して反感を抱き,反日・抗日運動が激化した。しかし、日本は、中国人として団結することはありえないと錯覚していた。中国軍は、兵力が勝っている江南地方で,積極的な戦闘を仕掛けた。

っ羚颪砲ける日本の勢力範囲が拡張し,紛争が長引くにつれて,米国をはじめとする列国の権益や貿易・投資の利益が損なわれるようになった。

ッ羚颪慮鮴鑁塾呂魏畩評価していた日本は,中国の政治経済の中枢に打撃を与えれば,降伏すると錯覚した。他方,中国は,江南地方に兵力を集中し,日本軍に打撃を与えれば,和平に持ち込めると日本軍の意図(面子)を読み違えた。列国の眼前で中国軍に敗北することは,名誉ある日本軍には絶対に許されない。一戦闘で敗北すれば,報復するまでである。 

ζ本は,1929年ジュネーブ条約未批准であり,ハーグ陸戦規定は批准しても遵守しなかった。国際赤十字の活動は締め出した。徴発(現地略奪)を強行し,軍紀が紊乱(ぎんらん)していた状況で,中国人の抗日活動に報復がなされた。中国の軍民に頑強な反抗に直面して,多大の損害を被ったこと,勝利・帰国への希望が遠のき,焦燥感,危機感が日本の兵士の心を捉えてた。

反日プロパガンダやメディア活動によって,中国,米英列国には日本軍による残虐行為が誇張して喧伝された。列国市民にも,日本人への怒りが高まった。列国では、国内の反日感情を反映して、中国支持の外交政策が採用された。



図(右):米国の雑誌Collier1942年12月12日号のカバー;1941年12月7日,真珠湾に爆弾を投下しようという大元帥昭和天皇を擬した翼のある悪魔。Cover art by Arthur Szyk depicting a batlike caricature of Hirohito flying above Pearl Harbor, getting ready to drop a bomb.

中国との戦争が終わらないうちに,日本は1941年12月8日,ハワイの真珠湾を攻撃して,米国に宣戦する。これは,英国との戦いを続けながら,ソ連を侵攻したナチス・ドイツと同じ構図である。一国との戦争が終わらないのは,その敵国を支持する潜在的な敵国があるからであり,それを倒せば,戦争に勝利できる,と考えた。

しかし,日本陸海軍は,中国同様,米国にも勝利できなかった。太平洋戦争開始後,3年後の1945年にはもはや,日本の敗北は歴然としていた。しかし,連合国は,連合国首脳会談を何回も開催して,単独不講和,無条件降伏の要求を主張した。日本は,国体を護持するために最後の一兵まで戦うと,全軍特攻化,一億国民総特攻を最高戦力として決定した。

近衛文磨は,1945年になって,再び政治活動を再開する。1945年2月,昭和天皇に対して、上奏文を提出したのである。ここでは,敗戦間近の日本の軍民に共産主義が蔓延しており,このままでは国体変革に至る,共産革命が起こると訴えた。

2. 東条英機首相は、1944年7月のサイパン島陥落を口実に辞任させられた。続いた小磯邦明首相はフィリピン戦で、特攻作戦を展開した。彼を引き継いだ鈴木貫太郎首相は、沖縄戦を戦った。小磯・鈴木の両首相とも徹底抗戦を主張し続けた。本土が海上封鎖され、空襲されても、フィリピン戦・沖縄戦で敗北しても、和平交渉は、日本降伏を意味する以上、困難だった。大元帥昭和天皇は、終戦を望む気持ちがあったが、外国に敗北した初の日本元首という恥辱、皇祖への侮辱的行為を自ら決断するのは困難だった。


図(右):米国雑誌TIME(1945年5月21日号)の表紙を飾った大元帥昭和天皇
; タイム誌では「米国はドイツ降伏後の欧州から太平洋に軍を回しているが,それは現人神に対する戦いのためである。わが無敵艦隊は天皇の島を壊滅させ,航空部隊は天皇の町を焼き払った。わが陸軍は,天皇の土地の侵攻する準備をしている。To the god's worshipers this would be a sacrilege such as the desecration of a church would be to the invaders. 大半の米国人にとって,日本の現人神は,がに股の薄っぺらなちびに見える。To them this god looked like a somewhat toothy, somewhat bandy-legged, thin-chested, bespectacled little man......米国のプロパガンダは、昭和天皇を扱き下ろした。

1945年1月25日、最高戦争指導会議(1944年8月4日以降、小磯国昭内閣で設けられた)で、「決戦非常措置要綱 」が決定され,「物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」として,「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」とされた。つまり、政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席し、天皇が臨席する最高の会議である。

天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏によって最新・最高度の情報が伝達された。つまり,戦局・戦争方針について,大元帥昭和天皇は,明確な情報をもとに,裁可を下した。

「天皇は戦争の実態をしらなかった」という戦後の俗説は誤りである。軍人は,臣下として天皇に忠誠を尽くすことを本分としており,戦局の悪化も隠さず報告している。不興をかえば,進退伺いをする覚悟である。大本営発表では,国民相手に,偽りも多かったが,最高の戦略策定能力=統帥権を保持する大元帥には,戦局の実相と作戦企図もほぼ明確に伝えられた。

日本側は,米国,連合国とは,全く異なる視点から,戦争の前途を心配していた。

3.連戦連敗を背景に,軍上層部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性があった。1945年2月14日「近衛上奏文」が,国体護持のために,終戦の聖断を求めたのも,同様の趣旨からである。天皇の権威は,天孫降臨を象徴する三種の神器によっているから,米軍によって,伊勢神宮,三種の神器が鹵獲されることが危惧された。原爆投下よりも、国体護持の観点から、ソ連参戦の政治的影響が大きかった。
当時,原子爆弾は機密の最先端技術であり,日本の軍人・政治家の理解を超えていた。一夜にして、都市が破壊され、数万人が殺戮された事例は、1945年3月10日東京大空襲などいくつもあった。本土が焦土とされても徹底抗戦を主張していた指導者が、理解不能の原爆の威力に恐れおののき、降伏を決断することはありえない。
他方,ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり,ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば,日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして,米国への降伏、国体護持を請うたのが,終戦の聖断である。

写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。-----しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といったとされる。

元首相近衛文麿は,日中全面戦争を開始した首相であるが,日米開戦を回避しようとした。1945年2月14日に「近衛上奏文」で「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,次のように昭和天皇に上奏した。

----英米ノ世論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス。---敗戦ダケナラハ 国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ 敗戦ヨリモ 敗戦ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。

----ソ連ハヤガテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候。---右ノ内特ニ憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。
----勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ 滿洲事變以來 今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。----

---此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。」(「近衛上奏文」引用)

写真(右):1944年末から日本本土を連日のように爆撃したB29重爆撃機:英首相アトリーAtlee,米大統領トルーマン,ソ連首相スターリンによる日本への降伏勧告「ポツダム宣言」は、三巨頭共同宣言ではない。会談の期間中に、ソ連にかわって中国の蒋介石が宣言した。この宣言を受諾しない場合,日本は迅速かつ完全に破壊されると通告した。これは原子爆弾投下を隠喩したものだった。

中川八洋(2000)『大東亜戦争と「開戦責任」−近衛文麿と山本五十六』では,近衛は,ソ連のスターリンが望む方向に確信を持って日本を舵取りした共産主義者という。アジア太平洋戦争は,中国の共産化を促し、冷戦構造をもたらしたが,その元凶はスターリンと彼に協力した近衛文麿,尾崎秀実など日本政界・軍部の中枢にいた共産主義者であるとする。近衛上奏文は,近衛の正体を覆い隠す芝居であったと決め付けた。

しかし,「近衛日記」昭和十九年七月二日・十四日)(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)に、ひらがな表記で次のよう示されている。
 「当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しており、又第三インターは解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず。」

「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。
現段階は、まさに此の方向に歩一歩、接近しつつあるものの如し。革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。

軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。予は此の事を憂慮する余り、陛下に上奏せる外、木戸内府に対しても縷々説明せるも、二・二六以来、真崎、荒木両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍終れりとなせるも何ぞ知らん。
皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり。」(引用終わり)

昭和天皇は、上奏文を提出した近衛に,次のように御下問された。(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)
天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」
近衛「それは、陛下のお考え…。」
天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
近衛「従来、軍は永く一つの思想[統制派]によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者[皇道派]もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。----この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。賀陽宮は[皇道派による]軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないと[皇道派によって軍を立て直し終戦に持ち込むのは]なかなか話は難しいと思う。

近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

1945年2月14日の昭和天皇への上奏文によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。そして,軍部の統制派が戦争終結の障害になっているので,彼らを一掃しすれば,米英中と和平交渉ができると考えた。軍部を建直し,共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだ。しかし,戦闘での勝利によって,国体護持を認めさる和平交渉を画策した。終戦の決断はできなかったのである。

  1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。1945年6月8日の御前会議では,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,戦争完遂,本土決戦準備を決定した。

1945年7月26日,ポツダム宣言が通告されても,終戦を即断できなかった。

写真(上右):1945年、空爆で破壊された東京:マリアナ諸島から飛来した米陸軍航空隊B-29爆撃機の空襲によって焦土となった。

平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸は,宮中グループの日記や手記の次のような文書を紹介している。

岳父近衛文麿公爵秘書官細川護貞『細川日記』
1945年8月8日
「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信−内務省得意の無電も−途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、----是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----木戸[幸一]内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。

1945年8月9日
「----[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。---」と言上、十一時半荻窪に[近衛文麿]公を訪ねたる所、---ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。---宮中にては最高六人会議---を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。

侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」 

1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。---」

芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日
2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.

1945年8月8日
午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用

本土決戦兵士:特攻専用機「剣」人間魚雷「海龍」:実現しなかった一億総特攻


写真(右):1945年の川崎・横浜空襲の被災者
;焼死体が黄金町に集められた。1944年末から,マリアナ諸島のサイパン島,テニアン島に米陸軍航空隊B29戦略爆撃機が350機以上配備され,本土空襲が始まった。米軍によって,都市が次々に焦土とされ,大量殺戮が繰り返された。他方,日本の軍部も政治家も,本土決戦,一億総特攻を叫んだ。終戦=日本降伏という認識から,誰一人として,連合国と和平交渉を進言せず、鈴木貫太郎総理以下,みな徹底抗戦を主張。写真は,Air Raid against Cities引用。

木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940-1945年に内大臣を務める。

木戸幸一『木戸幸一日記』「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、------真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。(引用終わり)

4.原爆投下によって終戦の聖断が下ったという俗説は誤りである。原爆投下は、口実であり、本質は、国体を護持するためである。国体護持への危機感は、連敗続きの軍部への反感、国難を救済できない天皇への不満、共産主義国ソ連の対日参戦に由来する。民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦にあって、国民の離反が確実になる前に、終戦が決断された。近衛文磨の大元帥昭和天皇への上奏文は,当時の政治的指導者の心中を的確に映し出している。

天孫降臨の神話,三種の神器は,天皇の大権の基盤であり,象徴である。天皇が下した大日本帝国憲法によって,天皇大権が定められるのではない。万世一系の皇祖からの伝統・神勅が,国体を正当化する。三種の神器は,天皇にとって皇祖との契約でもあり,守るべき責任がある。

しかし,敵の連合国,連敗続きの国軍(日本陸海軍),困窮に陥れられた国民は,いずれも天皇の権威を認めるとはかぎらない。日本軍の統制派とソ連,中国共産党とが共謀して,国民を煽動して,共産革命を引き起こすかもしれない。昭和天皇は、国体護持に関する巨大な不安に襲われた。国体護持への不安が、大元帥昭和天皇に,終戦の聖断を下させた。  

『昭和天皇独白録』では終戦の聖断を下した理由として「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」とある。

天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、葦原中国の平定,統治のために高天原から高千穂峰に降臨した日本建国神話である。その時,王権のシンボルとして三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)が与えられ、神勅が伝えられた(『古事記』)。

1945年8月9日の御前会議:ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べた。終了後,昭和天皇は木戸幸一に次のように語った。
本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。----(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])

1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,米国務長官バーンズに降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したい希望がある」"The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, ---(日本政府は,ポツダム宣言の受諾準備よし。)

図(右):1945年9月17日発行TIMEの表紙を飾った米国務長官ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes (May 2, 1879 – April 9, 1972);米国の孤立主義から,第一次大戦の国際連盟は不参加だったが,第二次大戦後は,米国務長官バーンズが,地球儀が象徴する世界(国連)の舵取りをする。This time the method and manner would be different. Would the results be different? 国務長官バーンズは,トルーマン大統領の先輩として振る舞い,反ソ連の立場を優先し,原爆投下によって,米国の戦後の覇権を確立することを企図した。("Jimmy" Byrnes—the "Assistant President."

 1945年8月11日,米国務長官バーンズの返答
  米英ソ中を代表して,ポツダム宣言は,天皇統治権(国体)に関して言及していないが,‥傾弔全軍を降伏させるべきこと、天皇の軍隊が連合国最高司令官の下に置かれるべきこと、を要請し、暗に国体護持を認めた。
"The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration,-----
"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people. "(日本国民の自由に表明する意思によって,日本の最終的な政治体制を決定するものとす。)宮中グループは国民の国体護持への忠誠心が発揮されることを望み、かつ世論の戦争指導者への反感、国民離反、国体変革の陰謀を警戒した。

写真(右):1947年,東京裁判でA級戦犯として尋問される木戸幸一元内大臣(1889.7.18〜1977.4.6);Autographed photograph of Kido Koichi testifying at the Tokyo Trial, 1947. Collection George Picard. 木戸孝允の養子の木戸孝正の子。妻は陸軍大臣児玉源太郎の四女ツル。東京出身。近衛文麿と共に革新貴族を代表し,現状維持派の西園寺公望らと区別される。厚相・内相時代を通じ産業報国連盟顧問。1940年内大臣に就任、首相前歴者・枢密院議長からなる重臣会議を招集して、内府の責任で後継を奏請する方式を実施。近衛文麿の<新体制>を助ける。(歴史が眠る多磨霊園:木戸幸一引用)

   木戸幸一『木戸幸一日記』二〇・七・三一(「カマヤンの虚業日記」引用)
 御召により---御前〔昭和天皇〕に伺候す。大要左の如き御話ありたり。
 先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身辺に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。----宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。---

〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
 ----御文庫にて拝謁す。ソ連が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、----。首相は十時半より最高戦争会議を開催、態度を決定したしとのことにて辞去せらる。(略)
一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せりとのことなりき。(引用終わり)

1945年8月9日の御前会議の終了後,昭和天皇は木戸幸一に「忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])

図(右):TIME March 4,1940海軍大臣米内光政大将(1880年3月2日〜1948年4月20日)『タイム』1940年3月4日号 Son of a Samurai:Admiral Mitsumasa Yonai was amazed and wildly happy. He had been aloft in giddy rigging before—had climbed to power (as Admiral of the Combined Fleet, beginning in 1936) and into politics (as Navy Minister in three crucial Cabinets, 1937-39). -----Is peace likely? As long as Japanese soldiers remain on South Chinese soil, no. As long as the Japanese refuse to discuss terms with Generalissimo Chiang Kai-shek himself—not the "Chungking Government"—no. A remote chance for peace (for a time) lies in the Japanese withdrawing to the five occupied northern provinces, the Chinese conceding them.

1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。
(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

近衛文麿は、1945年2月14日、昭和天皇への上奏文によって,,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。近衛公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とするなど,宮中グループは,終戦の形式的な理由が与えられたことに思い当たった。 海軍大臣米内光政大将は,鋭い政治感覚の持ち主である。東京裁判(極東国際軍事裁判)では、被告ではなく証人席に立った。

1945年8月14日の最後の御前会議では,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。---戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下した(御前会議引用)。

敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは,広島・長崎への原爆投下を,終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

終戦の詔勅の「-----敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ノ測ルヘカラサルニ至ニ----」とあるが、大量破壊・大量殺戮は、原爆投下前の都市無差別爆撃でも同じだった。原爆投下は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化した。

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印団:前列;外相重光葵Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat),参謀総長梅津美治郎陸軍大将General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. 中列; 大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将Major General Yatsuji Nagai, Army; 終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男Katsuo Okazaki; 大本営海軍部(軍令部)第一部長富岡定俊海軍少Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; 内閣情報部第三部長加瀬俊一Toshikazu Kase; 大本営陸軍部(参謀本部)第一部長宮崎周一陸軍中将Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. 後列(左から右に): 海軍省副官横山一郎海軍少将Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; 終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎Saburo Ota; 大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐Captain Katsuo Shiba, Navy, 大本営陸軍参謀・東久邇宮総理大臣秘書官杉田一次陸軍大佐Colonel Kaziyi Sugita, Army. Naval Historical Center(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:ミズーリ号艦上の降伏調印式参照)

降伏文書調印にあたっての詔書:1945年9月2日降伏調印とともに交付された詔書「映像で見る占領期の日本」引用
朕は昭和二十年七月二十六日米英支各国政府の首班がポツダムに於て発し後にソ連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し、帝国政府及び大本営に対し連合国最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合国最高司令官の指示に基き陸海軍に対する一般命令を発すベきことを命じたり、
朕は朕が臣民に対し敵対行為を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の条項並に帝国政府及び大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
               御名御璽

Japan Surrenders


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