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近衛文磨の暴支膺懲から上奏文まで 2007
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◆近衛文磨首相の暴支膺懲声明から終戦前の上奏文まで◇Prince Fumimaro Konoe
写真(上):1937年10月,第二次上海事変の大火災(1937年10月27日);中国軍は陣地撤退の際,日本軍に利用されないよう,陣地(建築物)を焼き払った。それが延焼して,大火災となった。戦渦に巻き込まれれば、人名や物資の損失は計り知れないが、それは誰の責任なのか。

写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 ◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,沖縄戦,戦艦大和についても分析しています。
【アジア太平洋戦争オリジナル】
米中接近ノモンハン事件
アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」
サイパン島玉砕:捕虜1万7千
マリアナ沖海戦:空母機動部隊壊滅
レイテ沖海戦のマッカーサー将軍
フィリピン戦の神風特別攻撃隊沖縄戦のカミカゼ特攻
沖縄戦と住民沖縄戦での集団自決靖国神社戦争画:ピカソ,藤田嗣治,丸木夫妻/文化人と戦争文学:与謝野鉄幹・晶子、斉藤茂吉

1. 近衛文磨首相は,1937年7月7日,盧溝橋事件当時の内閣総理大臣であり,降伏の玉音放送の流れた1945年8月15日のちょうど7年前,1937年8月15日,「暴支膺懲」声明によって,アジア太平洋戦争のきっかけを作った。

近衞文麿は、摂関家筆頭で、学習院院長・貴族院議長を務めた公爵近衞篤麿の長男として、1891年10月12日に生まれた。近衞篤麿は、天皇に近い五摂家筆頭の名門、父は従一位近衞文麿で、1885年から1890年まで長期間渡欧してボン大学、ライプチヒ大学に留学した。帰国後、貴族院の公爵議員、のちに貴族院議長に就任した。藩閥政治に批判的な近衞篤麿は、1903年に伊藤博文に意見書の中で、対外硬外交を支持し、東アジアの領土保全のために、東亜同文書院を設立した。1895年に学習院長、1903年に枢密顧問官になる。

近衞文麿は、東京帝国大学・京都帝国大学で学んだ後、1916年に25歳で貴族院議員の席を得た。1918年、「英米本位の平和主義を排す」との論文を発表し、政治と外交への関心を示している。。

1918年雑誌『日本及日本人』に掲載された「英米本位の平和主義を排す」では「民主主義・人道主義目指すもので、国内的には民権自由論、国際的に見れば各国平等生存権の主張となる」「現状維持を便利とする国は平和を主張し、現状打破を便利とする国は戦争を唱えるので、平和主義は必しも正義人道に叶うわけでなく、軍国主義だからといって必しも正義人道に反するわけではないのであって、要は各国の置かれた現状に応じているだけである」と述べた。

「英米の平和主義は現状維持を便利とするものが唱える事勿れ主義であり、正義人道主義とは関係ないどころか、植民地支配を見ればわかるように、大国が経済的に小国を併呑し、後進国を永遠に先進国の後にたたせる事態をうむ恐れがある」と主張した。そして、われわれ日本人は第一大戦パリ講和会議で、英米人に非を悔いて傲慢無礼の態度を改めさせ、黄色人種に対して設けた入国制限の撤廃、差別的待遇の一切を改正させるよう、正義人道の上より主張すべきである」と米英に追従しない、日本独自の立場をとることを求めた。

近衛文麿の意見は、「来るべき講和会議は人類が正義人道に基く世界改造の事業に堪ふるや否やの一大試練なり。我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味における正義人道の本旨を貫徹して、正義の勇士として人類史上、永久にその光栄を讃えられるようになるべきだ」とした。日本人がリーダーとなる平和論の主張である。

フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt : FDR;1882-1945/4/12)民主党出身の第32代アメリカ大統領を1933年3月4日から1945年4月12日まで務めるが、これはドイツ首相となったアドルフ・ヒトラーの任期とほぼ等しい。世界恐慌の失業対策として、積極財政のニューディール政策を採用し、テネシー渓谷開発公社、公共工事局 などを設けて公共事業を拡大した。マスメディアを活用し、ラジオ演説「炉辺談話 fireside chats」を毎週放送した。1937年10月5日、世界中で行われている侵略行為を憂慮し、このような侵略国は病人と同じく隔離すべきとしたが、これはドイツ、日本を指していた。第二次大戦が始まっても中立を保ったが、1940年7月にスティムソンを陸軍長官に復帰させ、9月に選抜徴兵制を採用し動員を開始した。1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)を成立させ、イギリス、中国に大量の軍事物資を貸与した。のちに、1941年6月に独ソ戦が始まると、ソビエト連邦へも武器貸与を行った。

近衞文麿は、東京帝国大学・京都帝国大学で学んだ後、1916年に25歳で貴族院議員の席を得た。1918年には、「英米本位の平和主義を排す」との論文を発表し、政治と外交への関心を示している。1919年のパリ講和会議には、オーストリア、ドイツ、ベルギーの駐在公使を歴任し文相、外相、首相も務めた全権西園寺公望(1849-1940)に随行し、見聞を広めた。その後、1933年6月9日 - 1937年6月7日、貴族院議長を務めたが、その間、1934年5月から8月まで、近衛文麿は、西園寺公一の通訳牛場友彦(1901-1993)、東京大学教授蝋山政道(1895-1980)という後年有名になる外交官・学者を伴って、3カ月以上アメリカを訪問した。

 1931年九一八事変(満州事変)で、日本は国際連盟を脱退したが、近衞文麿は、アメリカとの外交関係を重視し、1934年訪米した。近衛文麿は、1934年5月17日 横浜港を出航、5月24日 ハワイ諸島オアフ島ホノルル到着、太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations :IRA)の晩餐会に出席。5月25日 ホノルル出航、 5 月30日、カリフォルニア州サンフランシスコ到着。6月1日、スタンフォード大学ウィルバー学長と面談、フーバー前大統領と面談、6月4日 シカゴ到着、6月5日 ニューヨーク到着。6月6日 1929-1932年のIPR中央理事会議長ジェローム・グリーンと面談、グリーンは、宣教師の家系で日本に生まれ日本語が流暢だった。

1934年6月9日、近衛文麿は、コーデル・ハル国務長官,フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)大統領とのホワイトハウスでの午餐会に出席、6月19日 ボストン着、6月20日 フォーブズ前駐日大使と面談、6月25日 グリーン主催の晩餐会に出席、6月27日 日米協会による昼食会に出席、7月2日 IPR国際事務局長エドワード・カーター(Edward C. Carter)主催の午餐会に蝋山・牛場と出席。

1934年7月12日、近衛文麿は、ニューヨーク出発、7月13日 シカゴ到着、7月17日 サンフランシスコ出航、8月1日 帰国。(高光佳絵 (2014)「1934(昭和9)年の近衛訪米をめぐる日米民間団体の協力 : 「太平洋問題調査会(IPR)」を中心に 」千葉大学人文社会科学研究 (29)引用)

 岡田啓介内閣は1934年7月8日に成立、二二六事件の責を負って1936年2月29日総辞職したが、1935年1月22日の第67回帝国議会で、広田弘毅外務大臣は、中国が「速ニ其安定ヲ恢復スル一方、 東亜ノ大局ニ覚醒シ、帝国ノ真摯ナル期待ニ合スルニ至ラムコトヲ衷心ヨリ 希望シテ」善隣外交を進めて、「東亜ノ 安定力タル地位」を確立することを望むと述べた。このような日中親善工作を進める一環として、1月21日、日本の南京総領事須磨弥吉郎と中国の行政院長・外交部長汪兆銘とが会談を持った。

写真(右):1935年5月8日、神奈川県、横浜港、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦重巡洋艦「オーガスタ」艦上、アジア艦隊司令長官フランク・ウーハン(Frank B. Upham : 1872-1939) 提督を表敬訪問した野村吉三郎提督:1932年の第一次上海事変時、中国方面の第三艦隊司令長官は、野村吉三郎だった。この時には、艦砲射撃により白川義則陸軍大将の上海派遣軍を支援した。上海事変後、1932年4月29日、上海の天長節祝賀会の最中、韓国独立活動家の尹奉吉が投げつけた爆弾で野村は右眼を失い、同席していた特命全権公使重光葵は右脚を失い、白川義則陸軍大将は重傷を負って死去した。1933年に大将昇進後、軍事参議官。1937年3月に予備役に編入後、4月に学習院長に就任。1939年9月25日から1940年1月まで阿部信行内閣の外務大臣を務める。近衛文麿首相に、ルーズベルトとの旧知の間柄を活かして、日米和平交渉にあたることが期待されて、1941年2月、駐アメリカ大使に就任。しかし、日米交渉に当たるも失敗して、開戦後の1942年8月に帰国、12月に免官。1944年5月から1946年6月まで枢密顧問官を務める。1946年8月から1952年3月まで公職追放を受ける。1953年、松下幸之助の招きにより日本ビクター株式会社の社長に就任。1954年からは参議院議員、任期途中の1964年5月8日、86歳で死去した。
Admiral Frank B. Upham, USN Caption: Admiral Frank B. Upham, USN (L) with Admiral Kichasaburo Nomura, IJN (right) on board USS AUGUSTA (CA-31) at Yokohama, Japan, on 8 May 1935. Upham was C-in-C, ASIATIC Fleet, at that time, with AUGUSTA as his Flagship. Catalog #: 80-CF-8037-1 Copyright Owner: National Archives Original Date: Wed, May 08, 1935
写真は Naval History and Heritage Command 80-CF-8037-1 Admiral Frank B. Upham, USN引用。

1935年1月22日、第67回帝国議会で、広田弘毅外務大臣は、中国が「速ニ其安定ヲ恢復スル一方、 東亜ノ大局ニ覚醒シ、帝国ノ真摯ナル期待ニ合スルニ至ラムコトヲ衷心ヨリ 希望シテ」善隣外交を進めて、「東亜ノ 安定力タル地位」を確立することを望むと述べた。このような日中親善工作を進める一環として、1月21日、日本の南京総領事須磨弥吉郎と中国の行政院長・外交部長汪兆銘とが会談を持った。

1935年1月の日中会談では、日本は満州国が勢力圏に入ったことをを前提に、
(1)排日および排日貨(日本商品ボイコット)の根絶、
(2)不逞鮮人(反日朝鮮人)の引渡と策動阻止、
(3)外国の顧問・教 官の招聘、武器購入、資本輸入の停止と日本との合作の実行、
の3点を提案した。

これに対して、中国側汪兆銘は、問題は
(1)満洲の主権・独立承認、
(2)ソ連の外蒙古・新疆方面への進出と赤化(共産主義化)、
にあるとした。汪兆銘は、 ソ連の脅威を喧伝して中国世論から日本の満州占領の問題を相対化しようと画策したが、同時に、日本との協力関係を維持するために、ソ連や中国共産党の策謀に対抗し、共産党の影響力を排除しようとする日中が連携した「共同防共」を進めようとした。

写真(右)1935年,中国国民党蒋介石(Chiang, Kai-shek, 1887-1975)総統と蒋介石夫人の宋美齢(Chiang, May-ling Soong, 1897-2003):宋美齢は、アメリカではマダム・チャン(Madame Chiang)として有名。1917年にアメリカのウェルズリー大学を卒業し、英語に堪能だった。浙江財閥の総三姉妹の末っ子であるが、1927年、30歳の時に蒋介石と結婚した。
Description: This is a postcard photograph of General and Madame Chiang Kai-shek. Date: ca. 1935 Related Collection: Frank N. Roberts Papers ARC Keywords: Armed forces officers HST Keywords: People Pictured: Chiang, May-ling Soong, 1897-2003; Chiang, Kai-shek, 1887-1975 Rights: As far as the Library is aware, this item can be used freely without further permission.
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 2017-539引用。


1933年5月31日、塘沽停戦協定で満州の主権が中国にあるか日本・満州国にあるかとの議論は顕在化しなくなったが、 満洲問題は日中間の最大の懸案事項だった。

1935年1月の有吉明公使との会談でも、汪兆銘は、柳条湖事件、満州事変後、日本による満州占領が中国人民による排日の要因となったので、日本の中国侵略停止が、日中友好・善隣友好に必要であると当然の要求をした。

中国側は、日本による中国侵略の停止を要望したのに対し、日本側の有吉明公使は、「日支間ノ関係改善ノ為ニハ支那カ排日ヲ熄ムルコトカ 先決問題ナリ」として「現在日本カ支那ニ対シ侵略ノ意図無キコトハ日本政府カ既ニ 数々世界ニ向テ声明セル処」と日本側に中国侵略の意図はないと反駁した。つまり、中国が排日行動を根絶することが先決だと主張した。(内田尚孝(2017)「1935年「華北事変」期における日中外交交渉の再検討 : 「満洲国」問題と「三原則」をめぐる日中間の対立」『同志社大学グローバル地域文化学会紀要』1号参照)

日本の外務省、陸軍省、海軍省は 1935年10月4日、岡田啓介内閣の閣議で会談し日本の対蒋介石中国外交に関して、次の三原則を打ち出した。
(1)中国は排日活動の取り締まりを徹底し、欧米依存より脱却して、善隣友好・対日親善政策を採用すること、
(2)中国は、満州国の独立を事実上黙認し、満州に接する華北・北支方面においては満州国と経済的、文化的な提携を進めること、
(3)ソ連の影響下にある外蒙よりの共産主義・赤化勢力の脅威を排除するために、日満中三国が協力すること。
 岡田啓介内閣の外・陸・海の三相が合意した政策が、この後、広田三原則の原形となる。

 1936年1月、日本は中国蒋介石政権から華北を分離する「華北五省自治」を進めていた。広田弘毅外務大臣は、1936年1月21日の第68回帝国議会において、中国への広田三原則提示し、これに中国蒋介石総統も同調しているかのような印象を与えた。しかし、中国国民政府蒋介石は、広田三原則を否定し、日本による満州占領、大陸侵略は、日中関係を険悪にすると非難した。

岡田啓介(1868年2月14日生まれ、1952年10月17日没)1889年、海軍兵学校(第15期)卒、日清戦争、日露戦争に軍艦に乗り込み第一線で活躍。第一次世界大戦でも青島攻略戦に従事。1923年、海軍次官、1924年、連合艦隊司令長官、1927年、海軍大臣。1934年、内閣総理大臣となる。1936年の二・二六事件では、首相官邸にいるところを反乱軍に襲撃された。しかし、岡田と似ていた首相秘書官・義弟の松尾伝蔵が身代りに殺害され、本人は女中部屋の押入に隠れて難を免れた。


岡田啓介内閣の時代、1936年、二・二六事件が勃発、陸軍皇道派のクーデターにより、元首相高橋是清大蔵大臣、五一五事件の処理をした元首相斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。岡田啓介は、二二六事件の責任を取って、内閣総辞職をし、3月、広田弘毅内閣が成立した。この時、駐華大使有田八郎が、帰国して外相に就任した。有田八郎外務大臣は、前任者の「広田三原則」を継承した。そこで、新任駐華大使となった川越茂大使による対中国交渉は頓挫した。

広田弘毅内閣の下で、1936年5月、二・二六事件で予備役となった高級将校を大臣としないように軍部大臣現役武官制が復活した。そして、11月、日独防共協定が締結された。

 1936年8月、日本が中国内陸の四川省成都に置いた総領事館を再開したことが契機となって、成都で中国人による反日活動が激化した。そして、1936年8月月24日、 岩井英一(総領事代理)に先行して成都に入った日本人記者が殺傷される「成都事件」が起きた。1936年9月3日には、広東省北海の商店主の日本人中野順三が、暴徒によって店舗で殺害される「北海事件」が起きた。 こうして、1936年の成都事件北海事件の解決のために、1936年9月から12月まで、南京総領事須磨弥吉郎(1892-1970)と中国国民政府外交部長張群(1889-1990)との間で予備交渉が始められた。また、1936年の成都事件、北海事件の解決のために、中国国民政府外交部長張群と日本駐華大使川越茂との交渉も行われた。

この日中交渉では、日本側は、’啼活動の取締、∨州国独立の承認、6ζ泳俵Α△箸い広田三原則を要求したが、これには国家最高レベルの会談が必要だった。そこで、1936年10月8日、日本の駐中国大使川越茂(1881-1969)と中国国民党総統・行政委員長蒋介石とが会談を持った。会談の結果、成都事件、北海事件については、中国による陳謝、責任者の処罰、被害者の損害賠償が合意され、事件は解決した。しかし、広田三原則に基づく、中国側への要求、すなわち排日活動の取締、満州国独立の承認、共同防共を、中国側は日本による中国侵略と見なし、認めなかった。

日本海軍一等巡洋艦「出雲」 :1937年8月9日、上海海軍特別陸戦隊西部派遣隊長大山勇夫中尉が斉藤与蔵一等水兵を伴い中国警備兵のいる虹橋飛行場へ突入しようとして銃殺され、この大山事件を契機に日中戦争(第二次上海事変)が勃発した。当時、上海にあった「出雲」は、1932年の第一次上海事変の以来に中国に置かれたた第三艦隊(長谷川清中将)の旗艦だった。六六艦隊計画に基づいて建造された装甲巡洋艦6隻の最終型が出雲型。姉妹艦「磐手」も1901年(明治34年)3月18日に「出雲」と同じアームストロング社エルジック工場で竣工。日露戦争では他の5隻の装甲巡洋艦と第二戦隊を編成し、第二戦隊旗艦になった。蔚山沖海戦では、ロシア海軍ウラジオストーク艦隊を、日本海海戦では、バルチック艦隊を敗退させた。
諸元:排水量:9,773トン 全長 123.0m、全幅 20.9m、吃水 7.4m、石炭専焼水管缶24基・レシプロ機関2基2軸、 最大出力1万4,000馬力、最高速力 20.8ノット、航続距離 10ノット/7,000マイル、乗員 648名、舷側装甲:178mm、上部水線帯:127mm、甲板装甲:102mm、バーベット 152mm 司令塔:356mm、兵装(新造時) 20.3センチ45口径連装砲2基、15.2センチ40口径単装砲14門。


翌1937年1月、帝国議会で議員の浜田国松と陸軍大臣寺内寿一の間で「浜田国松腹切り問答」が起きた。そこため、陸軍大臣の協力を得られなくなった広田弘毅閣内は総辞職し、宇垣一成(予備役陸軍大将)も軍部大臣現役武官制によって陸軍大臣が得られず、組閣できなかった。そこで、元朝鮮軍司令官・陸軍大臣の林銑十郎に組閣の対明が下り、1937年2月2日、林銑十郎内閣が成立した。

1937年2月、林銑十郎内閣は、佐藤尚武を外相として、外務・大蔵・陸・海四相が 対中実行策と「華北指導方策」を決定し、華北への勢力拡大を進めたが、林内閣は、5月31日に総辞職し短命に終わった。その後、1937年6月4日、天皇、軍、国民の期待を担って、近衛文麿内閣が成立し、外務大臣には再び広田弘毅が就任し、対中国外交は広田三原則が継承された。

1937年7月7日、盧溝橋事変が勃発、7月11日、日本これを「北支事件」と命名し、華北への兵力増派を決定した。そして、 8 月17日、華中で第二次上海事変が勃発し、日本は盧溝橋事変当初取り決めた不拡大方針を放棄した。9月2日、それまでの「北支事変」を「支那事変」と変更し、10月1日の四相会議では、「支那事変処理綱要」が決定された。ここでは、「日満中の融和共栄」が戦争目的とされた。(臧运祜(2011)「「広田三原則」・「近衛三原則」の創出と日汪関係の確立 」 『環日本海研究年報』 (18), pp.2-16参照)

1937年7月7日の盧溝橋事変の混乱の中で,現地では散発的な戦闘が続くが,決定的だったのは,日本と中国がともに戦争回避を「軟弱外交」として避けて,日中双方の指導者がリーダーシップを発揮し,軍事力を準備したことだった。中国共産党の陰謀で日中戦争が始まったとする評者は,北京郊外に日本軍が駐屯し,中国軍を威圧していたという事実を過小評価している。石炭や農産物など資源が豊富で,市場としても有望な華北は,日本としては,経済的,政治的な特殊権益を認めさせたい地域だった。1936年には『昭和十一年度北支那占領地統治計画』が作られており,1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北占領地統治計画を研究していた。共産党の陰謀があろうと無かろうと,遅かれ早かれ,日中戦争は勃発する運命だった。

写真(右):1937年8月の第二次上海事変の時、上海から郊外に逃げ出す中国人避難民(1937年8月11日 Peter Kengelbacher撮影):盧溝橋事件(北支事変)から1ヶ月で,戦火は華中にも広がった。数千人の難民が,日中両軍の上海市内での戦闘を逃れるために,上海の対岸である長江北岸に避難した。

現地で日中両軍の停戦合意がなった1937年7月11日の当日,日本では首相近衛文麿が華北への増援部隊出兵を閣議決定し,午後6時半に華北増派の声明を発表した。この直後、支那駐屯軍から午後8時に停戦合意した旨の報告が入電。しかし,リーダーシップ発揮に囚われた近衛首相は増援を取り消さなかった。こうして,2コ師団を現地に派遣することになる。権威を重んじる指導者は,豹変できなかった。

大兵力の中国軍に威圧され,怖気づいた日本軍という汚名をそそぐため,衝突から5日もたたない7月11日に、近衛内閣は、中国への増援部隊派遣の閣議決定をした。そして、世界に向けて、中国に対する強硬姿勢を公表した。ここでは,不拡大方針を謳ってはいるが,首相近衛文麿は「出兵を決定して、日本の強硬なる戦意を示せば、中国側は、折れて出ることは間違いないと信じ」ていた。この7月11日華北出兵声明は次のような内容である。

「関東軍と朝鮮軍(満州と朝鮮半島に駐留するに日本軍)が準備した部隊を急遽,支那駐屯軍に増援する。さらに,内地より部隊を動員して北支に急派する必要がある。東亜の和平維持は,(大日本)帝国の念願するところであり,今後とも局面不拡大・現地解決の方針を堅持して平和的折衝の望みを捨てず,支那側の謝罪および保障という目的を達したるときには,速に派兵を中止すること勿論なり」

写真(右):北京を行進する日本軍(1940年アメリカ海兵隊員の撮影):1937年7月末以来,中国軍を撤退させ,圧倒的な兵力で北京を支配下に置いた。列国の権益には手を出さなかった(出せなかった)ため,増派された日本軍より兵力的に劣る列国の駐屯部隊は黙っていた。

増援決定を喜んだ現地の日本軍,すなわち支那駐屯軍は,1937年7月13日段階で、中国軍に北京からの撤退を求めた。そして,撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。つまり,政治中核都市北京から自国軍を撤退させ,日本軍が進駐するという「暴挙」を平然と中国に要求したのであって,中国やそこに利権を持つ英米列国から見ても,日本軍の侵略性は明らかであった。このあたりの事情は,1941年11月に,米国政府が,日本政府に対して,中国・インドシナからの撤兵を求めたハル・ノートと同じく,中国軍が歴史ある旧都北京(北平)から撤兵できないことを読んで,戦争になるように仕組んだ陰謀なのではないかと疑ってしまう。

無理難題を押し付けて,それを遵守しない,誠意のある回答がないとして,戦争の契機を作ることができる。但し,米国は日本の明らかな先制攻撃を望んだが,日本は中国軍が先に発砲したという理由で,という違いがある。どちらが先に発砲したかという,客観的判断が困難な契機を開戦理由としたり,中国にある中国軍が撤退要求を聞かなかったという不利尽な理由で攻撃を仕掛けたりすれば,国際的な反発を招くのは必至である。東北三省,さらに熱河省を奪った外国軍である日本皇軍が,旧都北京のすぐ郊外で,実弾装備の夜間軍事演習を実施すれば,中国軍民の反発を受けるのは必死である。

日本軍には華北占領の意図があった。根拠は『昭和十一年度北支那占領地統治計画』の存在である。1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北の占領地支配について研究を進めていたのである。これは、日本軍の「華北占領地統治計画」であり,作成部局は支那駐屯軍司令部、文書には「昭和十一(1936)年九月十五日調整」と記されているという。
この甲案は,華北全域に作戦行動が展開される場合(現実にそうなった)であり,河北、山東、山西各省の鉄道に沿って,冀察地区(河北省、北平・天津両特別市、外長城線以南の察哈爾省、黄河以北の河南省),山東地区(山東省と青島特別市),山西地区(山西省)に侵攻し,占領地統治が実行する計画である。華北占領当地の目的は,「国防用資源ノ獲得」と「満州国並内蒙方面ニ作戦スル軍ノ背後ヲ安全」,すなわち対ソ戦争における華北方面の安全確保である。(京都大学大学院文学研究科永井和教授による)

『画報 躍進之日本』のカラー表紙を飾った大日本帝国首相近衛文磨公爵:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。1940年9月号 東洋文化協会発行。1940年7月22日に第二次近衛文麿内閣成立後,9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結された。これを発表するかのような近衛首相の演説が画報の表紙を飾った。白黒写真しか普及していない時代,カラーの絵画・着色写真には,大きなインパクトがあったはずだ。10月には既成政党を解散して挙国一致の大政翼賛会の結成を図る。しかし,一党独裁は日本の国体(天皇制)に相容れないため,新党の結成には至らなかった。10月12日の大政翼賛会の発足式でも首相は「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」と放言した。その後,政党が混乱,解散する中で,軍部と官僚の主導(輔弼力?)が高まる。1941年7月28日にフランスのインドシナ半島植民地「南部仏印」に進駐(軍事占領)。米国の対日制裁が強化され,日米和平交渉も行き詰まった。9月6日御前会議で修正した『帝国国策要綱』で10月下旬の対米英蘭戦争を決意。『神戸市「戦争体験を語り継ぐ貴重な資料」所蔵引用。 「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップを確保しようとしたが,息子は米国スタンフォード大学に留学させている。「第一次近衛声明」では「国民政府を対手とせず(帝国政府声明)」、「第二次近衛声明」では「東亜新秩序建設の声明」、「第三次近衛声明」では「日支国交調整方針に関する声明(内閣総理大臣談)」を世界に向けて発信したため、対中国強硬外交、新秩序重視の革新外交を進め、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニと並べられる状況にあった。しかし、日米開戦が東条英機首相の時期だったため、戦争犯罪者としての責任を認識していなかった。

組閣後首相近衛文麿は、「国際正義」に注目して、満州国建国、日本の大陸政策を正当化した。これは、植民地再分割を目指すのもではないという。第71帝国議会における近衛首相の施政方針演説では、国際正義とは、領土と資源の再分割にまで至るべきところだが、今日ではそれは空想にしかすぎない。そこで、実現可能な「人と物の移動の自由」を目指すべきであるとした。これは、後から世界に出てゆく持たざる国が、先に権益を確保していた持つ国にたいして、一定の権利を主張することである。この議会開会当日、7月27日のラジオ放送によれば、「 外に対しては東亜の安定勢力たるの実を挙げて、世界の平和に貢献する重大な使命を有する」としてアジアの盟主としての責任を強調した。8月15日の帝国政府声明によれば、「日満支三国間の融和提携のノ実を挙げんとする外他意なし」と北東アジアのブロック化を推奨している。

首相近衛文麿は、日中戦争に至った理由は、中国におけるの抗日運動が激化し、それに対抗する自衛措置として日本が軍事行動を起こさざるを得なかったと主張した。つまり、「国際正義」を実現するために日本は戦争を始めたと戦争を正当化したのである。 日中戦争に対して、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、10月5日、暗に日本の軍事行動を無法な侵略行為であると非難し、そのような侵略国家を国際社会は隔離する必要があるとの「隔離演説」を行った。しかし、近衛文麿首相は、日中戦争を侵略戦争とは考えず、11月3日から、ブリュッセルで開かれる中国の主権尊重・機会均等の九カ国条約会議には不参加を通告した。近衛文麿首相は、ソ連や中国共産党の共産主義を警戒しており、中国における赤化防止、国際正義の確立に熱心で、これを実現する日満、日中(親日中国傀儡政権)の連携が必要であると主張した。これは、中国への国際介入という九カ国条約を無効とし、「東亜新秩序」の構想へと発展し、「大東亜共栄圏」の建設へと膨張することになる。

この後、近衛文麿は、日中全面戦争を起こし、満州の植民地のほかに、華北・華中に傀儡政権を樹立し、東亜新秩序、新体制など革新的、強硬論的な主張を唱える。このような革新的方針は、ナチ党アドルフ・ヒトラー総統のドイツ第三帝国の革新外交を参考にしているようだ。

1934年、ドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクが死去すると,大統領選挙ではなく,いきなり首相が大統領を兼任する国民投票を強行し,総統という新職を創設し、自ら政治的最高指導者の一に着いた。そして,軍の将兵は,全員,総統アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓うように宣誓文を改変された。

ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたな総統という独裁的地位に自ら就任した。そしてドイツ国防軍の兵士は,ドイツにではなく,ヒトラー個人に忠誠を宣誓するように変更したす。この変更を,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg:1878年9月2日-1946年3月14日)が,受諾したためである。

写真(右)1936年4月20日,アドルフ・ヒトラー総統と陸軍大臣フォン・ブロンベルク元帥:ベルリンの軍事パレードに参加した海軍提督レーダー博士,ルントシュテット将軍も後方に見える。ヒトラーは,突撃隊SA幕僚長レームら幹部を粛正,国防軍に代わる軍隊を創設するつもりがないことを示し,ドイツ国防軍,陸軍大臣フロンベルクの信頼を得た。この時期,国防軍の威光は,ヒトラー総統でも十分に配慮しなければならないほど,強かった。
Geburtstag des Führers 1936. Adolf Hitler verabschiedet sich von Reichskriegsminister Generalfeldmarschall von Blomberg. [nach der Parade in Berlin]. Dahinter General-Admiral Dr. h.c. Raeder [und General von Rundstedt]. Archive title: Werner v. Blomberg und Adolf Hitler, Hände schüttelnd. dahinter General-Admiral Erich Raeder und General Gerd von Rundstedt Dating: 20. April 1936
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1934年8月2日に導入された新しいドイツ国防軍兵士の忠誠宣誓
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."

「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler! Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler.

ナチス政権奪取から2年後の1935年3月16日,ヒトラーは,ベルサイユ条約の打破の公約実行するために,再軍備を宣言。兵役の復活によって,50万人の兵力,戦車を保有し,陸軍参謀本部を正式に復活し,空軍を新設した。

1936年3月の再軍備宣言は,強大な軍事大国を一挙に目指したのではなく,周辺国への脅威とはいえない範囲にとどまっていた。だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認した。

実際は,1922年4月のソ連とのラパロ条約秘密議定書で,ドイツはソ連奥地におい軍備を整える兵器開発・訓練をしていた。また,新型火砲の開発も,スウェーデン,スイスに合弁会社を設立して行っていた。つまり,ワイマール共和国の内部で,軍隊復活の動きは着実に進んでいたが,ヒトラーは再軍備を宣言して,軍を再建したのは,すべて自分の功績であるかのように吹聴した。

ワイマール共和国の軍事組織維持の背景の中で,三軍総司令官となったヒトラー総統は,1935年3月16日,ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して,再軍備を宣言した。この時,国軍(Reichswehr)は,国防軍(Wehrmacht)に戻され,陸軍,海軍に加えて,元エースパイロットヘルマン・ゲーリング率いる空軍が新設された。

再軍備宣言から2ヵ月後,1935年5月21日に兵役法が施行され,全ドイツの男子に兵役義務が課されます。そして,国防軍の最高指揮者は,総統兼首相 (Führer und Reichskanzler)がとることとされた。

1936年3月7日のラインラント非武装地帯への武力進駐,1938年3月のオーストリア併合(Anschluß/Anschluss)は,この復活させたドイツ国防軍を使って,達成された。

 近隣諸国に軍事的脅威を与えることで,ヒトラーは,ドイツの領土を拡張する。この時ヒトラーが,隣接した地域をドイツに併合すべきだと主張した根拠は,隣接した地域にドイツ系住民(Volksdeutsche:民族ドイツ人)が住んでいる,このドイツ系住民が虐待されているということだった。ヒトラー自身,大ドイツの復活を,政権獲得前から主張していた。これは,962年の神聖ローマ帝国(1404年のオーストリア・ハプスブルク帝国に継承),1871年のドイツ帝国を継承するドイツ第三帝国Drittes Reich)の構想でである。

写真(右)1937年9月,ベルリン,ヒトラー総統,陸軍大臣フォン・ブロンベルク元帥,ヴィルヘルム・カイテル大将
Der Führer bei seinen Truppen im Manöver. Seit Sonntag [den 19.9.1937] weilt der Führer und Oberste Befehlshaber der Wehrmacht im mecklenburgischen Manövergebiet, wo er jeweils auf den Seiten der roten und der blauen Partei den Kampfhandlungen beiwohnt. Die Bevölkerung begrüßt den Führer in allen Orten , wo er im Verlauf der Gefechtshandlungen erscheint, mit grossem Jubel. UBz: den Führer zusammen mit dem Reichskriegsminister, Generalfeldmarschall von Blomberg, bei einer Besprechung der Manöveraufgaben. Scherl Bilderdienst Berlin ADN-ZB/Archiv Faschistisches Deutschland 1933 1945 Hitler bei Truppenmanövern im Mecklenburg im September 1937. - Hitler bespricht mit Reichskriegsminister Generalfeldmarschall Werner von Blomberg (Mitte) und General der Artillerie Wilhelm Keitel (rechts) Manöveraufgaben. Archive title: Mecklenburg.- Adolf Hitler, Werner v. Blomberg, Wilhelm Keitel Dating: September 1937
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1937年11月、ヒトラー総統は、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートKonstantin von Neurath)に対して,,領土拡張のための戦争計画を打ち明けた。これがホスバッハ会議Konstantin Hossbach Memorandum)で、ヒトラーの戦争方針が示された。

ヴェルナー・フォン・ブロンベルクWerner Freiherr von Fritsch)国防相とヴェルナー・フォン・フリッチュWerner von Blomberg)陸軍総司令官は,英仏との戦争を誘発する領土拡張に懸念を示した。ドイツが、英仏連合軍と戦っても、軍事的に勝ち目は無いと考えたからである。

しかし、ヒトラーは軍備を拡張して権限を強化してきた国防軍の将軍たちが、戦争を欲していないことに驚いた。二将軍は、パレード用の軍隊を整備したつもりなのかと訝(いぶか)り、将軍とは臆病な生き物だと、彼らを軽蔑し始めた。ヒトラーは、二将軍を戦争を回避しようとする弱腰だと蔑視し,戦争を始めるには、二将軍を失脚,更迭することを決意した。

ヒトラー総統は,大ドイツ「グロス・ドイッチュラント」の復興を目論み、アーリア人至上主義を掲げ,ドイツの復興を目指す。ヒトラー総統は,ドイツ系のフォルクス・ドイッチェ(民族ドイツ人)の居住する地域を,ドイツとみなした。すなわち,オーストリア,チェコのズテーテン,ポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域が,ドイツに併合されるべきだと主張する。

1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチ党首だったオーストリア人ザイス=インクワルト Arthur Seyss-Inquartを内務大臣に任命させた。

シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせるつもりだったが、選挙権を巡る国内内紛が誘発された。ヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐した。

1938年3月13日のオーストリア併合(Anschluss アンシュルス:union)は,それまで反対していたイタリア,ムッソリーニの理解を得て,武力進駐を行った。

◆1937年以降のヒトラーの革新的な独裁政治と対外膨張主義は、イタリアのファシスト党ベニート・ムッソリーニのやり方と同じく、全体主義という新体制・新秩序として注目された。近衛文麿は、アメリカに注目していたが、英米中心の旧秩序には反感を抱き、新体制・新秩序を模索していたから、ヒトラーの動向にも注目していたであろう。ヨーロッパの全体主義に刺激された近衛文麿は、日中戦争の勃発後、東亜新秩序、新体制を構築することを目指すようになる。ヒトラーのように強硬な主張をし、軍部の先手を取ることで、内閣が政治の主導権を取り戻すことができると考えた。

アドルフ・ヒトラー(:1889-1936)ドイツが困難に陥っているのは,ドイツを裏切ったユダヤ人・共産主義者のためであるという主張は,ドイツ人の誇りと名誉を傷つけずに,現在の困難を説明してくれる。自己責任を認めたくない政治家,ビジネスマンも,失業者も,低所得者も,ナチスの主張に納得した。ヒトラー総統の雄雄しい演説に,ドイツ人の名誉を取り戻したように思った。未来のドイツ復興に力づけられた。ナチスの勢力は飛躍的に伸びた。ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%から,1930年9月には18.3%で107議席を獲得,国会の第二党に躍進したのである。総選挙の得票率は,1932年7月37.4%と第一党になった。


革新的な外交方針で、ヨーロッパに進出してきたヒトラーのドイツは、ヴェルサイユ講和条約、ロカルノ平和条約など、それまでのドイツの国際協調を廃して、オーストリアの併合後も、チェコスロバキアに対して、民族ドイツ人の解放のためにズテーテンラントの割譲を要求した。この独立国への干渉に対して、イギリス、フランスは、困惑したが、ドイツへ圧力を加えて、チェコスロバキアを保全することはなかった。それどころか、ドイツとの戦争を恐れて、チェコスロバキアを説いて、領土割譲要求を認めるように迫った。これがミュンヘン会談の結果生まれた対ドイツ融和政策の頂点たるミュンヘン協定である。

 ミュンヘン協定の合意の背景には、ムッソリーニの仲介の労が大きく、ヒトラーに最大級の恩を売ったムッソリーニは、第二次大戦中もヒトラーの指示を失ったことはありません。現在では、ナチスや枢軸諸国に妥協して大失敗だったとされるミュンヘン協定ですが、1938年当時,チェコスロバキアを巡る世界大戦の再発を防止したとして、欧州各国で大歓迎された。ムッソリーニだけでなく、帰国したイギリス首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)も国民から大歓迎を受け、国王から労を報われることになりる。ミュンヘン協定を締結させて,ヒトラーに最大級の恩を売ったムッソリーニは,チロルのイタリア帰属をヒトラーから保障された。

英仏は,ミュンヘン会談で宥和政策を採用し,チェコスロバキアにズテーテンラントの割譲を認めさせた。ズテーテンラントの民族ドイツ人は,ドイツに併合,保護された。

ミュンヘン協定では,チェコスロバキアの国家主権・領土保全を保障した一方で,ドイツへのズデーテンラント割譲を認めさせる。英仏のドイツへの譲歩,すなわち対独融和政策の頂点が,ミュンヘン会談といわれるゆえんである。

写真(右)1938年9月29日,ミュンヘン会談のときの,英首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain),仏首相エドワルド・ダラディエ(Edouard Daladier),ドイツ総統ヒトラー,イタリア統領ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini),イタリア外相(ムッソリーニ娘婿)ガリアッチョ・チアノ(Galeazzo Ciano):チェコスロバキアの代表を呼ばないまま,ドイツへのステーテンランド割譲を,チェコスロバキアに要請することが決まった。チェコスロバキアは,英仏と同盟関係を結んでいたから,このドイツへの「宥和政策」は裏切りともいえる措置だった。
Zentralbild Das Münchner Abkommen vom 29.9.1938. Das am 29.9.1938 in München zwischen dem britischen Ministerpräsidenten Neville Chamberlain, dem französischen Ministerpräsidenten Edouard Daladier, dem italienischen Staatschef Benito Mussolini und Adolf Hitler geschlossene Abkommen ermächtigte das faschistische Deutschland zur Annexion tschechoslowakischen Gebietes. UBz: von links: Chamberlain, Daladier, Hitler, Mussolini, und der italienische Außenminister Graf Galeazzo Ciano. Im Hintergrund von Ribbentrop und von Weizsäcker. 12 766-38 [Scherl Bilderdienst] Dating: 29. September 1938 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


宋美齡:蒋介石的一號情報員:浙江財閥の大富豪の家庭に生まれる。孔祥熙の妻となる宋靄齢、孫文の妻となる宋慶齢の2人の姉と共に宋家三姉妹として、世界的に有名となる。1908年、アメリカ留学、 1917年、名門のウェルズリー大学卒で、英語力も抜群だった。1927年に蒋介石と結婚し、そのご国民党の要職に就く。1943年のカイロ会談に蒋介石とともに出席した。蒋介石も下で財務・外交を担当した宋子文は兄に当たる。


1937年7月、北支事変の名のもとに日中戦争になり、戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大していく。これを決定的にしたのが,蘆溝橋事件に関する近衛文麿首相による1937年8月15日「暴支膺懲」の声明である。

帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。
然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。
近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。
更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。

顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。
而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。

此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。

1937年8月15日近衛首相「暴支膺懲」声明の要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,中国南京政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」

写真(右)民国34年. 1946年6月20日,対日戦争に勝利した中国国民党政府 蒋介石総統;民国暦とは、中華民国が辛亥革命で成立した1912年を紀元とする暦法で、中華民国暦ともいう。 西暦1911年が民国元年(1年)。
Chiang Kai-Shek. Description: Formal portrait of Chiang Kai-Shek. Date: Date Unknown Related Collection: ARC Keywords: Heads of state HST Keywords: People Pictured: Chiang, Kai-shek, 1887-1975
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 58-709引用。


中国で戦火が拡大した理由を整理すると次のようになろう。
‘本軍が中国軍よりも強いことを認めさせるために,少数兵力でも,果敢に中国軍と戦闘した。日本軍は,中国軍に弱腰であるとの印象を与える行動をとらなかった。

中国軍は,日本軍よりも遥かに優勢であり,国内が団結すれば,国際的支援も受けることができ,日本軍の活動を押さえ込むことが可能であると判断した。

C羚餬海貿塰未魑覆垢襪錣韻帽圓ない日本軍は兵力を増派し続けたが,これは中国支配を意図しているとみなされた(客観的にもみなされる)。そこで,中国は,軍民一丸となって,日本軍に抵抗し、国際的な名望のある顧維鈞宋美齡(蒋介石夫人)の外交によってアメリカなど列国の中国支援を取り付けることにも成功した。

て本は,中国の交戦意志,戦意の高さを認識できず,国民党と共産党が統一抗日軍を編成できるとは考えなかった。そこで,中国の政治経済の中枢である北京と江南地方(首都南京)を攻略すれば,日中戦争は日本の勝利に終わると誤解していた。政治経済の中枢に戦禍を拡大したことで,日本は列国からも反感を買うようになった。

ナ同僂蓮ぜ国権益の維持・拡張に関心があったから,日本の中国支配を認めるわけにはいかない。また,日本による残虐行為を伴う中国侵攻には,米英の一般市民も反感を抱く。民主主義国米英では,反日感情に支えられた世論を背景に,その後の対日圧力を強めていく。

ζ本国民も権益を確保し,居留民を保護すべきであるという愛国心が強まり,あるいは日本軍のプロパガンダに影響され,中国支配が日本の繁栄に繋がると錯覚した。

満州に隣接する華北で、日本に反抗する動きが中国国民党政府、中国軍,中国国民にあるために,満州の安定が望めない。そこで、日本は中国がアジアの安定・平和を阻害していると考えた。中国全土を支配する意図は,日本にはなかったが,満州の権益を維持するには,中国国民政府を屈服させるしかないと(誤って)判断した。

中国政府における共産党勢力が拡大しており、その共産主義の思想は、日本の国体・天皇制の護持には相反する体制である。また、蒋介石の国民党政権に対しても、日本政府は過大な和平提案しか提示できない。そこで、日本政府は、中国における新政権の建設を目指すが、これは、中国・米英の側からは、中国の分裂工作、傀儡政権化である。

写真(右):中国国民党政府総統 蒋介石;前述の写真と全く同一軍装。民国34年. 1946年6月20日,対日戦争に勝利した時期に撮影したもの。日本に満州を占領され,山海関を超えて北京も攻撃されるなか,中国軍民の反日感情は高まっていた。このまま,中国の世論を無視することは,中国の最高指導者蒋介石にはできなかった。抗日戦争を開始しなければ,中国軍の支持も失って,失脚したであろう。こうして,1937年7月17日廬山の最後の関頭の演説(廬山談話)をして,事実上の対日宣戦布告をする。

1931年9月18日の満州事変(九一八事変)以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」>(廬山談話)の演説をする。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

そして翌日7月19日、この最後の関頭の演説(廬山談話)が公表されると,中国軍民の抗日交戦意欲がますます高まり、現地中国軍司令官と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がほとんどなくなってしまう。日中対決が日中両首相(最高級の指導者)によって決定され,世界に公表されたのであるから,自らの声明を覆す停戦申し込みは,敗北を意味する。この日中両首相の宣言は、日中全面戦争の開始と受け取られた。

日本と中国との双方の世論とも,相手を軽蔑し憎むようになっていた,あるいは仕向けられていた。愛国心に駆られた国民世論を背景にして,日中前面戦争が開始されたのであれば,日中双方は戦うべくして戦争に突入したのであって,陰謀説など取るに足らないきっかけに過ぎない。誰が発砲したかといった些細な事件を,全面戦争開始の口実みなす者は,戦争に至る全体像を,あるいは国民の敵対的世論を見失っているとしか言いようがない。

1932年の満州国成立から5年経過しており,中国政府・国民の忍耐の限度を超えて,依然として日本軍が中国に居座り、満州を奪った上に,新たに華北にも日本の軍隊を増援したことがが,戦争の原因になった。中国の領土内で、中国軍が自国の軍隊を擁しているのは、当然である。日本の駐屯軍が北京近くで夜間軍事演習を行い,兵隊が行方不明になったから,市内を夜間捜索するというのは,まさに暴虐な振る舞いである。もとをただせば,華北の中心都市北京(正式には北平)郊外に,満州を占領した日本軍が。

駐屯していること自体,高まってきた中国の民族意識を大いに刺激することだったのである。

地図(右):朝鮮・台湾・南樺太・満州を支配する大日本帝国(1937年頃);盧溝橋事件以前に,日本は内地の本来の領土の2倍以上を勢力下においていた。しかし,さらに中国の華北・華中に占領地を拡大し,華南の沿岸部の都市も攻略した。

「中国人としての民族意識など無かった」「中国の民衆はバラバラで砂のようにまとまりがない」と日本人が認識していたのであれば,そのこと自体,愛国心が沸き立ってきた中国人(漢民族)には許しがたい侮辱だったであろう。中国の国民意識の形成を軽視したのには,理解に苦しむ。

満州事変以降,「中国人」による日本製品排斥(ボイコット),反日活動,反日デモ,反日ストライキは,しばしば起こっていた。これは,たとえ扇動者・先導者がいたとしても,排外意識,民族意識,中国人の連帯の現れである。日本人に対する中国人の反感は,確実に高まっていた。

日本は、暴支膺懲を戦争の理由としたが、盧溝橋事件後の日本軍の強硬姿勢は、中国から見て、暴日膺懲に値する。横須賀郊外で夜間軍事演習をしていた米軍に行方不明者が出たとして、米軍が市内を夜間捜索させろと要請してきたら、日本人はどのように思うのか。日本政府はどうするのか。

盧溝橋事件に際して,先に発砲したのは誰か(中国兵,日本兵,それとも共産ゲリラ,便衣隊?)という論争が,日本では盛んだ。しかし,この発砲論争は,歴史的な動向には関係がないであろう。敵性軍隊が近くに駐屯しているのであれば,発砲事件がいつ発生してもおかしくはない。先にどちらが発砲したかなど,後づけの説明が可能である。まさに,一食触発の日中両軍が対峙していた危機的状況こそが問題だったのである。

写真(右):1938年3月、出征する兵士(京都東山区);出典に「番頭さんの出征を、主家にて見送った時の記念撮影です。店の間の奥に、昭和天皇の写真(御真影)を中心に祭壇を拵えています」とある。

 
しかし,「暴支膺懲=中国を罰する」ために日本軍が増援されることになれば,中国軍は,増強される前に日本軍へ反撃を計画する。もし攻撃するなら,敵が弱体なうちに叩くべきなのは軍事常識である。盧溝橋事件が、日中戦争に拡大したことを、中国の好戦的な攻勢に求めるのは、明らかに無理がある。

1937年7月25日には,北京-天津間でも新たに戦闘が始じまり,日本軍の増援部隊の到着後、7月26日には,支那駐屯軍(日本軍)が北京市内(城内)に突入しようとしたため,日中両軍が衝突した。日本軍は,北京城内に立て籠もる中国軍に鉄槌を加えて,日本軍の強さを見せつける懲罰(お仕置き)を試みる。

1937年7月28日,支那駐屯軍は,航空機の協力も得て,北京を攻撃した。しかし,中国軍は,日本の猛攻に会い,歴史ある北京の街を戦火で焼き尽くすのを避ける目的もあって,北京から撤退した。こうして,日本軍は北京を1日で制圧してしまう。
軍の撤退を敗北と同一視している日本軍は,敵中国兵力の10分の1で勝利した,中国軍の士気、戦意は低く弱いと錯覚する。「撤退=転進」であり,新たな軍事行動のための準備かもしれない,とは思わなかった。

1937年7月29日,日本人虐殺事件が通州で起こった。これは、日本に協力的なはずの中国傀儡政権「冀東防共自治政府」の保安隊(軍隊)が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260名を殺害した事件で、「通州事件」と呼ばれ,日本では大々的に報じられた。

盧溝橋事件後、親日(日本の傀儡)政権冀東防共自治政府」に所属する保安隊は、中国国民党政府「冀察政務委員会」の第29軍(司令官宋哲元)と戦闘状態にあった。しかし,日本機が冀東防共自治政府の保安隊を誤爆してしまう。また、7月28日には日本軍は北京周辺を占領し、中国全土で反日感情が高まり、抗日戦争も始まっていた。このような愛国的な活動の広まりに直面し,日本軍に協力すべき保安隊が,日本人を虐殺したのが通州事件といる。

日本の傀儡政権の冀東防共自治政府の下に設けられた冀東保安隊第一総隊長張慶餘は,1937年7月の盧溝橋事件で第 37 師の師長馮治安(河北省主席でもある)に連絡したところ、師長馮治安は第29軍の日本軍攻撃に呼応して、通州でも決起するように言ったともいう。中国国民党政府(南京政府)は、兵力的には日本軍よりも10倍以上優位であり,7月17日の廬山における最後の関頭演説にみるように、蒋介石の抗日戦争への意思も強い。そこで、愛国的な感情の高まりも作用して、張慶餘ら通州の中国人保安隊は,国民党政府への寝返りを決意したのではにか。そこで、南京政府への忠誠を証明するために,通州で日本人を殺害したのではないか。日本人に残虐行為を犯せば、日本軍とは決別し、中国国民党の下に降るか、協力するかできると期待して。中国人保安隊(本来は日本軍の協力部隊)が,中国軍に寝返り,受け入れてもらうためには,日本人虐殺という取り返しのつかない証拠を示す必要があったといえる。

写真(右):日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機:1937年8月の上海事変で,台湾,九州から南京,上海,杭州を「渡洋爆撃」した。これは,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃である。スペイン内戦に派遣されたドイツ機がゲル二カ爆撃をした同年4月26日から4ヶ月でアジアでも戦略爆撃が開始された。

通州事件は、当時の日本で大々的取り上げられ、暴虐な支那を懲らしめよ(暴支膺懲)という世論を盛り上げた。中国軍の残虐性を訴え、日本軍の華北侵攻を正当化する反中プロパガンダも行なわれる。しかし,このような局所的な非正規軍による日本人虐殺事件を持って,中国政府と全面戦争を始めるとしたら,筋違いであろう。通州事件の報復であれば,この保安隊を攻撃殲滅するか,保安隊をかくまう組織(国民党政府?)に対して,その引渡しを要求すべきである。しかし,通州事件に対処する外交的対策は一切採用していない。日本軍の対応は、中国国民党政府への武力攻撃であった。

対中国戦争は,中国国民党政府が,通州事件の首謀者であると判断したための報復措置なのか。中国人が日本人を殺したから,日本人が中国人を殺しても良いと考えたのか。妊婦の腹をえぐり、レイプした女性の陰部を銃剣で刺し、2歳の子供を射殺する---。このような中国での日本人残虐事件に対しては,現在でも非難が続けられているが,これはアイリス・チャンIris Shun-Ru Chang(1968-2004)の南京虐殺に対する反応The Rape of Nankingと対比される。

義和団事件とそれを継承する北清事変でも同じような虐殺事件が通州で起こったが,この惨事を目撃した奥村五百子女史は、寺院で仏教の陶冶を受けていただけに、兵士が命がけの任務をこなしてくれているからこそ、日本の家庭生活の安定があると覚醒した。そして、生死をかけて戦ってくれる兵隊さんのために「私たち日本の女子にもできることをすべきである」と、帰国後,日本全国で訴えた。1901年、貴族院議長近衛篤麿(近衛文麿の父)が後援し,愛国婦人会が創立された。上流婦人のみを対象とした構成で、兵士の見送り,留守家庭や戦死者を出した軍人遺族の支援を行った。1937年には会員数380万人である。

写真(右):京都市の国防婦人会の不要品供出活動(1935-38年京都市中京区烏丸一条);張り紙には「力を合わせて愉しく生活御奉公・これまでのやうに、一軒づつバラバラの生活では、ずゐぶん無駄や間違ひが多かった。みんなが協同してやれば、まだまだ物も力も生まれて来るし、明るい愉しい気持ちで,もっとお国のお役に立つことができる。…」と書かれている。女子も戦争の一翼を担っているとしたら,それを攻撃する無差別爆撃も正当化されるのか。日本は米国に,中国は日本に無差別爆撃される。(但し,京都は爆撃されていない)

1934年には,陸軍・海軍大臣など現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督・後援を受けた国防婦人会も結成された。1934年の会員数は750万人である。兵士・兵営を支える家族、社会も戦争に参加しているのだと、彼女は理解できた。日本軍が中国で戦っており、「戦場(軍事衝突の起きる場所)」は中国にあるが、「戦争」には戦闘に加えて、資源採掘、生産、流通、消費、輸送などの局面があり、日本国内でも戦われている。

戦争とは、銃火を交える戦闘、住民虐待行為だけではなく、兵士を送り出す家族、会社員、兵士の食料・軍服・兵器を生産する労働者、軍事費の財源を徴税する行政官、兵士を運送する輸送船乗員によっても、戦われている。戦争に参加しているのは、全国民、植民地の住民すべてである。現在も「イラクで戦争している」ということがあるが、これは戦争=戦闘という矮小化であり、事実の誤解を招く。

写真(右):1937年9月、中国、上海、抗日戦争の開戦を歓迎する中国人愛国者・ナショナリストたち: 満州事変、盧溝橋事件と、中国の北部から華中の上海にまで日本軍が侵攻してきた。愛国心の高まりの中で、中国人の中にも対日戦争を開始すべきだという世論が高まった。国民との蒋介石は、国内の中国共産主義勢力を封じ込めることを優先し、日本による中国侵攻に対しては、国際的圧力により日本の行動を抑制しようとしたが、上手くいかなかった。最後の関頭に至って、蒋介石も対日戦争を開始することを決意した。日中戦争は、中国から仕掛けられた、だから日本は悪くないというのは、戦争決意が悪であるという戦後日本の平和教育(彼らの言う洗脳教育)の成果である。反中国の立場で、戦後日本の平和教育・占領軍の洗脳教育を批判する者こそ、自らの矛盾に気づいていない。侵略者(として決めつけた敵)に対して抵抗して戦うのは英雄的行為である、というのが世界の認識となっている。対ドイツ宥和ミュンヘン協定は、イギリス・フランスの外交的失敗と見なされている。この状況が理解できないと、戦争を決意した国は悪い国だという短絡になる。
Title Shanghai, Studenten bei Kundgebung Info non-talk.svg Original caption
For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Zu dem chinesisch - japanischen Konflickt! Krieg ! Krieg !!
Chinesische Studenten in Changhai bei einer nationalen Kundgebung gegen den Einmarsch der Japaner in die Mandschurei.
Depicted place Shanghai
Date September 1931
Photographer Unknownwikidata:Q4233718
Institution German Federal Archives Link back to Institution infobox template wikidata:Q685753
Bundesarchiv Bild 144-400-05, wikidata:Q685753
Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-12321
写真は Wikimedia Commons, Category:Battle of Nanking - Chinese forces, File:Bundesarchiv Bild 102-12321, Shanghai, Studenten bei Kundgebung.jpg引用。

写真(右):1937年夏、中国、上海外灘(バンド)、長江(揚子江)支流の黄浦江に停泊する日本海軍駆逐艦「若葉」と装甲巡洋艦「出雲」 (奥の3本煙突):装甲巡洋艦「出雲」は、1898年5月14日起工、1898年9月19日進水、1900年9月25日就役。1917年、第一次世界大戦に第二特務艦隊として地中海のマルタ島に派遣された。その後、旧式となったために、練習艦としても使用された。
Title: WAKABA (Japanese destroyer, 1934)
Caption: Alongside IDZUMO, at the N.Y.K. dock, Yangtzepoo, Shanghai, China, circa summer 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77898
写真は Naval History and Heritage Command NH 77898 WAKABA (Japanese destroyer, 1934) 引用。

第二次上海事変淞滬會戰)開始時点で、装甲巡洋艦「出雲」は、長谷川清中将司令官の指揮する第三艦隊の旗艦として、上海にあった。1937年7月7日の盧溝橋事件以降、上海で戦闘が始まると、装甲巡洋艦「出雲」は8月14日、中国空軍機の空襲に遭った。

写真(右):1937年8月18日、中国、上海外灘(バンド)、長江(揚子江)支流の黄浦江に停泊する日本海軍軽巡洋艦「由良」 :船尾にカタパルトを装備し、その上に九五式水上偵察機が搭載されている。5500トン型軽巡「由良」は、1921年5月21日起工、1922年2月15日進水、1923年3月20日就役の旧式艦。
満水排水量5,570トン、全長 162.15 m、全幅 14.17 m 、吃水 4.80 m 、出力 9万馬力、最高速力 36.0ノット 、乗員 450名、兵装:50口径三年式14センチ単装砲7門、40口径三年式8センチ(76.2ミリ)単装高角砲 2門、 八年式61センチ連装魚雷発射管 4基8門、呉式二号三型射出機 1基、艦載機 九五式水上偵察機 1機


Title: Yura
Description: (Japanese Light Cruiser, 1923) Off Shanghai, China, on 18 August 1937, during hostilities between Japan and China. Note rolled hammocks placed around her forward superstructure as protection against bomb and shell splinters. Courtesy Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (Retired), 1973. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 77698
写真は Naval History and Heritage Command NH 82098 Yubari 引用。

写真(右):1939年5月末から6月初め、中国、上海バンド沖に停泊するイギリス海軍軽巡洋艦「バーミンガム」(HMS Birmingham :C19)南京、日本軍による砲撃で破壊された中華門前の橋南京:上海事変での空襲、誤爆を避けるために、砲塔の上に大きなユニオンジャックを描いて、国籍を明瞭にしている。近くには、イギリス海軍の昆虫型砲艦が見える。
1937年11月18日就役のイギリス海軍軽巡洋艦バーミンガム (HMS Birmingham, C19) の基準排水量:9,100トン、満載排水量:1万1,350トン、全長 558ft、全幅 61 ft 8 in、吃水 21 ft 6 in、タービン4基4軸7万5,000馬力、最高速力 32ノット 、乗員 748名、兵装 Mk XXIII 15.2cm50口径三連装砲4基、Mk XVII 10.2cm45口径高角砲連装4基、2ポンド4連装ポムポム砲2基、0.5インチ12.7mm四連装機銃2基、53.3cm魚雷発射管三連装2基。
Description The Royal Navy light cruiser HMS Birmingham (C19) moored in the Whangpoo (Huangpu) River, Shanghai, China, in late May or early June 1939. She has large Union Jacks painted atop her awnings and turrets to assist identification from the air, and carries a Supermarine Walrus aircraft amidships. What appears to be a British Insect-class gunboat is near shore in the center background. Date Source Official U.S. Navy photo NH 81986 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command Author USN
写真は Wikimedia Commons, Category:British Armed Forces in China, File:HMS Birmingham (C19) at Shanghai in 1939.jpg引用。

写真(右):1937年8月18日、中国、上海事変時の上海バンド、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31) :日本機・中国機の空襲・誤爆を防ぐために、大きな星条旗を前後のマスト、艦尾の旗竿の合計3カ所に掲げている。
重巡「オーガスタ」(USS Augusta: CA-31) の新造時の排水量: 9,050 トン 全長: 600 ft 3 in (182.96 m) 全幅: 66 ft 1 in (20.14 m) 吃水: 16 ft 4 in (4.98 m) 最高速力: 32.7 ノット 乗員: 735名 兵装: 8インチ(20.3僉頬9門(三連装3基)、5インチ砲4門 7.62mm機銃8基 21インチ魚雷発射管6門。
Title: USS AUGUSTA (CA-31) Caption: View taken off the Shanghai bund at Shanghai, China, being moved into position at the foot of "Man of War" row, during the Sino-Japanese hostilities there, 18 August 1937. Note American flags at fore, gaff, and flagstaff. Ship was then the flagship of Admiral H.E. Yarnell, USN, CINCAF(Commander-in-Chief). Description: Courtesy of John C. Reilly Jr., 1976 Catalog #: NH 84774 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Wed, Aug 18, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 84774 USS AUGUSTA (CA-31)引用。

アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31) は、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。アジア艦隊司令長官はヤーネル(H.E. Yarnell)提督だった。1941年8月9日、大西洋会談に際して、ニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地にルーズベルト大統領を運んだ。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官を乗せアントワープに向かった。

写真(右):1937年、中国、江南(長江南の南京、上海、杭州など経済社会の中枢)、上海、日本海軍陸戦隊司令部前、第二次上海事変に出動した日本軍兵士。:日本海軍上海特別陸戦隊ではなく、1937年8月23日に呉淞に上陸した日本陸軍第三師団の将兵のようだ。長大な三八式歩兵銃に銃剣を着剣して警戒に当たる兵士たち。
Title: Shanghai, China Caption: Japanese naval landing force troops, circa 1937. Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired) Catalog #: NH 77788 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77788 Shanghai, China引用。

1927年2月、中華民国の内戦で、国民党軍が北部の軍閥を討伐する「北伐」を実施し、上海近郊でも戦闘が始まったため、日本海軍は、上海の権益と居留民保護を名目に、陸上警備兵力として、呉鎮守府特別陸戦隊1個大隊(300人)を上海に派遣した。その後、佐世保鎮守府、横須賀鎮守府からも特別陸戦隊を各1個大隊を派遣した。1932年1月の第一次上海事変の時点では、上海海軍陸戦隊は中国十九路軍と対峙した。1937年の第二次上海事変の当初も、上海の陸戦隊は2400名程度の兵力しかなかった。

写真(右):1937年、中国、上海、日本軍の九四式装甲車(豆中戦車:Type 94 TK ):九四式装甲車TKは、イギリス陸軍のカーデン・ロイド豆戦車 Mk.VIを参考にして、1932年に陸軍技術本部原乙未生が開発を始め、翌1933年には試作車の「TK」(特殊牽引車)が完成した。そして、1934年(皇紀2594年)、九四式装甲(牽引車)として制式になった。前線で火砲や砲弾を牽引する目的の車輛だったが、中国軍には対戦車火力が乏しく、これを豆戦車(タンケッテ)として活躍した。1937年の支那事変(日中戦争)でも、上海海軍特別陸戦隊に配備されていた九四式装甲車は、八九式中戦車と並んで前線に投入された。

Caption:Type 94 TK (Japanese tankette, 1937)
Caption: View taken in Shanghai area, circa 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973. Catalog #: NH 77985
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77985 Type 94 TK (Japanese tankette, 1937) 引用。

九四式装甲車(豆中戦車:Type 94 TK )諸元
全長 3.36 m、全幅 1.62 m
全高 1.63 m、 重量 3.45t
最高速度 40 km/h
航続距離 200km
兵装:九一式車載機関銃1丁
後期型は九七式車載機関銃1丁
装甲厚 8-12 mm
発動機:空冷直列4気筒ガソリンエンジン35馬力

写真(右):1937年、中国、上海、日本軍の八九式中戦車乙(Type 89B medium tank ):上海の日本海軍陸戦隊には、軽戦車の九四式装甲車やイギリス製ビィッカース・クロスレイ装甲車も配備されていた。オリジナル解説ではこの八九式中戦車乙(Type 89B medium tank )は、日本海軍上海特別陸戦隊に装備されていたと説明している。増援部隊として派遣され、1937年8月23日に、日本陸軍第三師団が呉淞に上陸したときには、荷揚げ施設が整備されておらず、戦車のような重量のある物資の揚陸はできなかった。
Title: Type 89B medium tank (Japanese)
Caption: At Shanghai, China, circa 1937.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77926
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77926 Type 89B medium tank (Japanese) 引用。

第二次上海事変に投入された八九式中戦車は、陸軍造兵廠大阪工廠で1929年(紀元2589年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成。その後、改良を重ねて1935年になって制式された。八九式戦車は国産初の量産戦車で、当初八九式軽戦車として制式されたが、その後、改修され八九式中戦車として制式された。甲型はガソリンエンジンを搭載、その後に出現した乙型はディーゼルエンジンを搭載した。ガソリンエンジンよりもディーゼルエンジンのほうが燃費が良く、被弾にも強いが、重量が課題になる傾向にある。太平洋戦争前、映画「西住戦車長」にも登場し、大戦中には第七戦車連隊の八九式戦車がアメリカ軍とも戦った。

写真(右):1937年、中国、上海、日本人街のあった徐家匯(Xujiahui:Siccawei)、日本軍海軍陸戦隊の装備した八九式中戦車乙(Type 89B medium tank )が出動した。
Title: Shanghai, China
Caption: Moving along Siccawei Creek, in Nantao, circa Fall 1937. At Shanghai, China.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77978
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77978 Type 89 B (Japanese naval landing force medium tank) 引用。

上海の日本海軍陸戦隊は、上海国際共同租界の北側と上海北鉄道駅との間にある日本人街の防備を固めたが、守備兵力は2000名程度で、即席に建築物を遮蔽物とした陣地に小隊単位で分散配置するしかなかった。対する中国軍は、本体は10万名以上あったが、上海市内に配備されていた部隊は数千であり、戦闘の危機が迫ってきた段階で、列車などを使って、郊外から上海市内への兵員輸送を行った。それでも最前線に投入されたの中国軍兵士はたかだか1万名程度であろう。

兵員数で5倍以上あった中国軍に配備されていた兵士は、蒋介石の直系軍で指揮は高く、装備・訓練においてそれまでの中国軍閥指揮下の兵士よりも優れていた。しかし、今まで日本軍と戦った実戦経験はなく、装備・訓練に優れているというのは、他の軍閥系兵士と比較してのことである。日本軍 と比較すれば、装備も訓練も同等以下であったと考えられる。

写真(右):1937年夏後半、上海事変時の中国、上海、南島(黄浦江から北200m、日本人街東)、日本海軍陸戦隊の所属の八九式中戦車:1932年の第一次上海事変でも八九式戦車が配備され実戦参加したが、その戦車をそのまま上海に残しておき、日本海軍陸戦隊に譲渡したのではないか。1937年8月23日、第二次上海事変では、日本陸軍第三師団が上海の呉淞に増派されたが、上陸場所に12トンもある戦車を荷揚げできるクレーン設備はなく、船のデリックでも困難だった。その時に戦車揚陸がされなかったとすれば、やはり第二次上海事変の勃発前から海軍の上海特別陸戦隊が保有していたのであろう。
Title: Shanghai, China Caption: Japanese medium tanks in Nantao, the southern suburb of Shanghai, during Sino-Japanese fighting there in the late summer of 1937. Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired) Catalog #: NH 77804 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77804 Shanghai, China引用。

写真(右):1937年夏後半、上海事変時の中国、上海、日本海軍陸戦隊の所属と思われる八九式中戦車:陸軍造兵廠大阪工廠で1929年(紀元2589年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成。その後、改良を重ねて1935年になって制式された。1932年の第一次上海事変で、独立戦車第二中隊に八九式戦車が配備され実戦参加し、マスメディアでは「鉄牛部隊」として喧伝された。しかし、機動力と信頼性が低いために、不整地での行動が制限され、日本陸軍も戦車の大量配備は行わなかった。
Title: Type 89B medium tank
Caption: Moving along Siccawei Creek, in Nantao, circa Fall 1937. At Shanghai, China.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973. Catalog #: NH 77973
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77973 Type 89B medium tank引用。

八九式中戦車の諸元
全長 5.75 m、全幅 2.18 m、全高 2.56 m 、全備重量 12.7 t
懸架方式:リーフ式サスペンション
最高速度 25 km/h(整地)、8 km/h(不整地)
航続距離 140 km
主砲 18口径九〇式五糎戦車砲(携行100発)
九一式6.5ミリ車載機関銃(十一年式軽機関銃の車載型)
最大装甲 17ミリ
乗員 4名

写真(右):1937年、上海事変時期の中国、上海、日本海軍陸戦隊司令部、上海の日本軍が中国軍から鹵獲したイギリス製ビィッカース 6トン戦車(ビッカース軽戦車):ビッカース6トン戦車( ソ連のT-26軽歩兵戦車)は、イギリスのビィッカース・アームストロング社が開発した中型戦車で、1928年に開発されたが、輸出用に製造されたのみで、イギリス陸軍では制式になっていない。中華民国は1934年に ビッカース6トン戦車維克斯六頓坦克)を購入し、陸軍装甲兵団戦車営第一連に配備。そして,上海事変(淞滬會戰)初期に、日本軍に対して実戦使用した。ただし、歩兵、砲兵との協同作戦が十分にできず、構成は失敗し、3輌が撃破され、8両が損害を蒙った。その上、少なくとも2両が日本軍に鹵獲されている。過大な損失のために、上海事変後は、残ったビッカース6トン戦車維克斯六頓坦克)は陸軍200師と新編成の突突縦隊に配備され、蘭封会戦に投入された。その結果は、日本軍に3両が撃破された。その後、余剰戦車は、装甲兵学校の教育用機材として使用された。その中の1両は1950年代まで、台湾の国民政府樹立時期まで残っていたという。
Title: Shanghai, China Caption: Japanese medium tank leaves naval landing force barracks in the Japanese sector of Shanghai, circa 1937. Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973. Catalog #: NH 77915 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77915 Shanghai, China引用。

上海海軍特別陸戦隊は、上海の日本権益や在留日本人の生命財産保護のために租界防衛を任務とした海軍地上部隊。第一次上海事変後の1932年10月1日に、海軍特別陸戦隊令によって正式に上海常駐が決定した。上海特別陸戦隊司令部は、租界外の閘北の江湾路にあった。

写真(右):1937年、上海事変時期の中国、上海、日本海軍陸戦隊司令部、上海の日本軍将兵が中国軍から鹵獲したイギリス製ビィッカース 6トン戦車(ビッカース軽戦車)の砲塔後部損傷個所を検査している。
Title: Shanghai, China Caption: A Japanese soldier examines damage to a medium tank, circa 1937. A Japanese naval landing force barracks in the background. Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired) Catalog #: NH 77789 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77789 Shanghai, China引用。

1937年8月13日、上海海軍特別陸戦隊西部派遣隊長大山勇夫中尉(海軍兵学校60期卒)の中国軍の警備する虹橋飛行場正門前への突入・殺害事件があったが、これは北支事変を上海に拡大する海軍の策謀ともされる。大山大尉事件(死後昇進)を契機に、第二次上海事変が勃発、中国の経済中枢上海を含む日中全面戦争がはじまった。開戦時、上海海軍特別陸戦隊5000名が司令官大川内傳七(1886-1958)海軍少将の下、中国国民政府軍8万名の部隊と対峙することになった。しかし、日本陸軍が上海派遣軍を増派し、共同租界・フランス租界など列国の権益は保障しつつ、上海を占領した。東亜新秩序を建設するといっても、イギリス、アメリカ、フランスなど列国の権益には手を付けない、アジアの二番煎じの侵略に過ぎなかった。

写真(右):1937年の上海事変時期の中国、上海、呉淞江(ごしょうこう:ウーソンチヤン)上、小銃を構えて警備する日本軍兵士。:日本海軍上海特別陸戦隊ではなく、1937年8月23日に呉淞に上陸した日本陸軍第三師団の将兵のようだ。兵士の手にするのは、口径6.5ミリ、全長1,276mm(三十年式銃剣着剣)の三八式歩兵銃。兵士たちは、脛に脚絆(きゃはん)・ゲートルを撒いている。ゲートルは、フランス語由来で、幕末以来軍事顧問として日本軍を指導したフランス軍人が取り入れたものと思われる。
上海市中心部、外灘(バンド)北の外白渡橋近くで黄浦江に合流する呉淞江(蘇州河)は、全長120kmほどだが、その過半は上海市内を流れている。長江、運河と結ばれた呉淞江は、重要な水上輸送路をなしていた。
Title: Shanghai, China Caption: Japanese sentries at Garden Bridge, Shanghai, over Soochow Creek. Note Japanese Consulate building in right background. Circa 1937. Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973. Catalog #: NH 77839 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77839 Shanghai, China 引用。

写真(右):1937年8-11月、上海事変時の中国、上海、中国人地区を巡回する日本海軍陸戦隊の兵士たち:一見すると学生服のようだが、実は、日本の旧制中学以来の学生服は、軍服を素地にデザインされたものである。女学生のセーラー服も、文字通り、水兵の軍服のデザインを採用している。
Title: Shanghai, China Caption:Japanese Navy personnel tour the devastated Chinese sector of Shanghai in the wake of Sino-Japanese fighting there in August-November 1937. Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired) Catalog #: NH 77740 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77740 Shanghai, China引用。

上海海軍特別陸戦隊は、海軍部隊であるために、海軍艦艇により日本本土からの増援や補給を迅速に受けることができ、機動力のある部隊だった。また、装備についても、都会や港湾の警備のために、市街戦用に装甲車や軽火器など少人数ではあったが、充実した装備を誇っていた。陸軍の大隊よりも少数ではあっても、装甲車などによってそれを補うことができたのである。市街戦用に、当時の日本陸軍は装備していなかったイギリス陸軍のビィッカース・クロスレイM25 装甲車(7.7ミリ機銃2丁装備の半球形砲塔搭載)、ドイツ陸軍のMP18/28ベルグマン機関短銃(短機関銃)も配備していた。

写真(右):1937年8-11月、上海事変時期の中国、上海、中国人地区を巡回する日本海軍陸戦隊の兵士たち
Title: Shanghai, China Caption:Japanese Navy personnel tour the devastated Chinese sector of Shanghai in the wake of Sino-Japanese fighting there in August through November of 1937. Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired) Catalog #: NH 77741 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77741 Shanghai, China引用。

1937年8月、上海特別陸戦隊第一中隊長大山勇夫中尉が部下とともに虹橋飛行場正門に突入を計り、警備していた中国兵士に銃撃、殺害された大山大尉事件が勃発した。これを契機に、上海特別陸戦隊司令官大川内傳七海軍少将は、あえて優勢な中国軍に果敢に戦いを挑み、日本海軍による中国江南地方、華中への進出を開始した。

写真(右):1937年8-11月、上海事変時期の中国、上海、中国人地区を巡回する日本海軍陸戦隊の兵士たち
Title: Shanghai, China Caption:Japanese Navy personnel tour the devastated Chinese sector of Shanghai in the wake of Sino-Japanese fighting there in August-November 1937. Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired) Catalog #: NH 77744 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 77744 Shanghai, China引用。

1937年8月の大山事件を契機に、上海海軍特別陸戦隊司令官大川内傳七少将は、海軍による中国江南地方、華中への進出を開始した。日本海軍は、北京・天津を中心とした華北では経済的にも、交通的にも魅力がないと判断していたようだが、華中は経済中枢であり、河川・運河を利用した水上交通の要衝だったため、日本陸軍が江南地方に進出、勢力圏を独占するのを恐れ、中国側に攻勢をかけたとも推測できる。

写真(右):1937年秋、中国、河北省保定市淶源、中国軍兵士が日本軍から鹵獲した十一年式軽機関銃を掃射する。
大正11年制式の十一年式軽機関銃の諸元
6.5ミリ 三八式実包
銃身長 443 mm
装弾数:最大30発
ガス圧作動方式
全長 1,100 mm
重量 10.3 kg
発射速度 500発/分
砂塵が舞うような土地での給弾、作動に難点があり、実用性はあまり高くなかったが、三八式小銃と同型の三八式実包を使用することで、弾薬補給の面で口径7.7ミリの九二式重機関銃よりも有利だった。
Description English: Battle at Great Wall, Laiyuan, Hebei, autumn 1937 中文: 1937年秋沙飛在河北淶源拍撮照片:《戦斗在古長城》 Date Autumn 1937 Sha Fei (1912-1950)
写真は Wikimedia Commons, Category:Battle of Nanking - Chinese forces, File:Chinese captives in Nanking.jpg引用。

 
支那事変の勃発は、中国に利権を持つ列国を慌てさせた。そこで、中国の主権尊重・機会均等を定めた九カ国条約の署名国は、ブリュッセルで九カ国条約会議を開催することとなった。九カ国条約とは、1922年のワシントン会議において、アメリカ・ベルギー・イギリス・中国・フランス・イタリア・日本・オランダ・ポルトガルが「極東ニ於ケル事態ノ安定ヲ期シ支那ノ権利利益ヲ擁護シ且機会均等ノ基礎ノ上ニ支那ト他ノ列国トノ交通ヲ増進セムトスルノ政策ヲ採用スルコトヲ希望」して調印された。九ヶ国条約の第1条では、中国の主権・領土の尊重を定めている。

しかし、日本は、署名国ではあったが、列国の干渉を受け付けないとして、ブリュッセル会議への不参加を決定し、ドイツに日中交渉の調停を依頼した。これは、ドイツの駐華大使オスカー・トラウトマンOskar Trautmann)を介したトラウトマン工作である。しかし、日本は、支那事変で快勝し続けて、12月13日には、かつての首都南京も占領した。そこで、日本はトラウトマン工作Trautmann mediation)により厳しい条件を出した。

写真(右):1938年5月13日、アメリカ陸軍航空隊第20追撃集団のボーイング P-26(Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter)(US Air Corps 20th Pursuit Group):1931年にボーイング社がボーイング・モデル248として設計した初めての全金属性の戦闘機(追撃機)。固定脚、開放式コックピット、張線式主翼と従来の保守的構造も残している。「ピーシューター(Peashooter)」とは豆鉄砲を意味する。
Description English: Boeing P-26As of the US Air Corps 20th Pursuit Group Source: United States National Archives
Source USAF
Author USAF
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:20th-p26as.jpg引用。

中国空軍は、アメリカから輸入し訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月の第二次上海事変に実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイング P-26戦闘機8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

写真(右):1938年、アメリカ、ロングビーチ、アメリカ陸軍航空隊のマーチンB-10A爆撃機(Martin B-10):1930年にマーチン社は、自主開発で123型を試作、これは前金属製、胴体内に爆弾槽を設けた双発爆撃機だった。1932年3月にXB-907試作機が完成、最高速力317 km/hは当時としては高速だった。1933年にYB-10の名称で48機の発注がなされた。日中戦争中、1938年5月19日に中国空軍のB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)2機は、重慶を発進、で漢口と寧波を中継して九州の熊本県人吉に宣伝ビラを撒き、玉山と南昌を経由して漢口に帰還した。これが日本本土初空襲となった。
Description Martin B-10 Long Beach 1938 Date 25 July 2008, 13:24
Source Martin B-10 Long Beach 1938
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10 Long Beach 1938 (4800374631).jpg引用。

写真(右):1940年、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ東20キロ、オークランド飛行場、アメリカ陸軍航空隊第91偵察中隊のマーチン B-10BM 偵察爆撃機
Description This is a rare and unusual photo taken with two of the large GE #21 flash bulbs on a time exposure. It really shows the underwing detail and all of the rivets that you don't see in a normal daytime photo. B-10 of the 91st Observation Squadron at Oakland Airport 1940
Date 13 December 2008, 10:48
Source Martin B-10BM Night flash photo
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:対空偽装のために樹木の枝を機体の上に置いて姿を隠している。フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

ポリカルポフ I-15は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻の当日、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。
対空偽装のためにポリカルポフ I-153戦闘機の上に樹木が置かれている。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側につけている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20618引用。

ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右):1942年6月12日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻1年後、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。もとは、複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
Kuva moottoritorpedovenelaivueen toiminnasta, syvyyspommin pudottamisesta, yhteistoiminnasta lentokoneiden kanssa jne. Suomenlahti 1942.06.16
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:91680引用。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機が搭載したエンジンは、アメリカのライト R-1820サイクロン(Cyclone)をコピーしたもので信頼性が高かった。1937年の日中戦争で中国空軍が使用し、日本海軍の九六式戦闘機と戦い、1939年のノモンハン事件ではソ連空軍が使用し、日本陸軍の九七式戦闘機と戦った。格闘性能では劣ったが、高速を活かして善戦したようだ。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:全金属製の主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66678引用。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg、全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁、20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141380引用。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

中国国民政府(南京政府)蒋介石は、西安事件後、中国共産党との連携して、抗日戦争を戦う国共合作を認め、ソ連との連携も強化しようと、 1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)を締結した。

中ソ不可侵条約によって、中国はソ連から引込み脚の新鋭高速軍用機のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)、ツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)などを購入し、1937年の日中戦争で、日本陸海軍機と戦った。これらのソ連製の軍用機は、日本機と比較して性能的には遜色なかった。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A):出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていた。
Description The SB, known to Tupolev as the ANT-40, first flew in 1934. It was designed as a high speed bomber and had a maximum speed of 280mph, which was faster than fighters of the time such as the Polikarpov I-15 which could only reach 220mph. A successful machine, it was flown by ten countries and was not finally retired from Spanish service until 1950. Despite over 6,600 being built and many surviving the war, this is now the only remaining example. In 1939 it had force landed during a snow storm near the Yuzhne Muiski Mountain range in the Baikal Region. The remains were recovered in the late 1970’s and restoration was carried out by a volunteer group of Tupolev employees. It first went on display at Monino in April 1982 and after several years outside in all weathers it is now safely under cover in the new Hangar 6B, which has been built behind the main entrance building. At the time of our visit the hangar had not been officially opened to the public, but we were given special permission to access it from Hangar 6A. Central Air Force museum, Monino, Moscow Oblast, Russia. 27th August 2017
Date 27 August 2017, 09:08
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

1937年12月21日、近衛文麿首相は日中和平交渉の原則として、次の条件を出した。
1)中国は容共抗日満政策を放棄し日満両国の防共・赤化防止に参加すること。
2)要所に非武装地帯を設けそこに日本の特別権益を設定すること。
3)日満支三国間に密接な経済協定を締結すること。
4)中国は日本への戦争賠償をすること。
このような四相会議の決定より更に苛酷な条件ではあるが、四原則の前述三項は、「広田三原則」を踏襲したものであった。

1938 年1月11日、大元帥昭和天皇の臨席の御前会議で、支那事変処理根本方針が決定 された。「支那事変処理根本方針」は、政府と統帥部(軍部)の最高方針である。
支那事変処理根本方針は、日本は、満州国と中国の提携による和平を核心として世界の平和に貢献するとして、日中が互いに主権・領土を尊重しつつ次の方針を示した。
1)日満支の相互の友好、
2)日満支が連携した防共・赤化防止、
3)日満支の産業開発の連携

他方、トラウトマン工作に対して、日本は1938年1 月15日を期限としていたが、それまでに中国側の回答はなく、近衛文麿首相は、日本に対して中国は交渉する誠意がないと判断し、1月16日、「国民政府を対手にせず」との政府声明を発表した。(臧运祜(2011)「「広田三原則」・「近衛三原則」の創出と日汪関係の確立 」 『環日本海研究年報』 (18), pp.2-16参照)

写真(右):1937年12月13日、中国、華中、南京、日本軍による砲撃で破壊された中華門前の橋南京:南京の周囲にある城壁には、出入りする門があったが、門の内側にはさらに門が設けられていて、防衛を強化するために、二重、三重の門構えを形作っている。現在、南京城壁は観光化され、電動自動車が城壁の上で観光客を運んでいる他、中世の攻城器として、投石機、弩級の復元模型が並べられている。
Description English: The bridge in front of the Gate of China was destroyed by Japanese shellfire.(December 13, 1937) 日本語: 日本軍の砲撃によって破壊された中華門前の橋(昭和12年12月13日) Date 29 December 2008 Source English: Japanese photograph magazine "Sino-Japanese war photograph news #11" (Asahi Shimbun, published on Jan. 27, 1938) 日本語: 「支那事変画報」第11集 (朝日新聞、昭和13年1月27日発行) Author Sweeper tamonten (talk)
写真は Wikimedia Commons, Category:Battle of Nanking - Chinese forces, File:Chinese captives in Nanking.jpg引用。

写真(右):1938年、中国、華中、南京、日本軍による爆撃で破壊された中央病院:日本海軍の九六式陸上爆撃機は、上海事変が勃発した当初は、九州の大村基地から上海など爆撃し、後に宣戦が内陸に移動すると、中国の江南に危機を設けて、そこから首都の南京、臨時首都となった武漢や重慶を空襲した。すでに、ドイツ空軍によるゲルニカへの小規模空襲はあったが、日本海軍は世界でも初めて本格的に戦略爆撃を開始した。
Description English: The Central Hospital in Nanjing bombed by Japanese warplane Date 1938 Source 日寇暴行実録. 1938 Author Unknown
写真は Wikimedia Commons, Category:Battle of Nanking - Chinese forces, File:The Central Hospital in Nanjing bombed by Japanese warplane.JPG引用。

 
写真(左):1937年12月の日本軍による南京攻略時に捕虜となった中国人捕虜:戦意を喪失したのか、捕虜となった中国兵士たちは、日本軍におとなしく従ったようだ。日本軍側も、中国人側に捕虜処刑が行われると疑われるような行動は当面控えていたようだ。
Description English: A correspondent for Asahi Newspaper reported that on December 13 and 14, 1937, the Morozumi Unit (the 65th Infantry Regiment of the Yamada Detachment in the 13th Division of the Imperial Japanese Army) took prisoners of 14,777 Chinese soldiers in the vicinity of the artillery fort of Wulong Mountain and Mufu Mountain that lay between the northern border of Nanjing city wall and the south bank of the Yangtze River. This photo shows part of the captives accommodated by Japanese troops near Mufu Mountain. However, there had been no further follow-up report since then and for decades. In the late 1980s, Ono Kenji investigated the incident by interviewing 200 or so war veterans and gathering 24 wartime diaries and other historical materials. Ono's research made it clear that the 15,000 captives and additional 2,000 to 3,000 prisoners taken after the 14th were all massacred by military order. 日本語: 日本の部隊に収容された中国人捕虜の一部 (昭和12年12月16日) Source Date 16 December 1937 English: "ASAHI GRAPH," Japanese photograph magazine (Asahi Shimbun, published on Jan. 5, 1938) 日本語: 「アサヒグラフ」 (朝日画報:日支事変、昭和13年1月5日発行) Author 上野特派員(scanned by Sweeper tamonten (talk on December 25, 2008)
写真は Wikimedia Commons, Category:Battle of Nanking - Chinese forces, File:Chinese captives in Nanking.jpg引用。

 
写真(左):1938年1月1日、南京自治委員会の発会式に集合した中国人たち :中国民間人3 万人が集まったというが、式典に参加しなければ、占領軍からどんな目に合うかわからないので、動員に応じたと考えられる。それを自発的に日本軍を歓迎するために集まったというのは、日本側の表現である。このような感覚は、日本人も1945年からアメリカ軍の占領を受けたが、アメリカからの援助を受けることで、次第に親米感情が沸いてきた。情報操作だけでアメリカに従うように洗脳されたというのは単純すぎる。
Description English: Nanking citizens gathering at inaugural ceremony of Nanking autonomous commission(January 1, 1938) 日本語: 南京自治委員会発会式に集まった南京市民(1938年1月1日) Date 19 December 2008 Source English: "ASAHI GRAPH," Japanese photograph magazine (Asahi Shimbun, published on Jan. 26, 1938) 日本語: 「アサヒグラフ」 (朝日新聞、昭和13年1月26日発行) Author Sweeper tamonten (talk)
写真は Wikimedia Commons, Category:Nanking Autonomous Commission, File:Nanking autonomous commission inaugural ceremony01.jpg引用。

 
写真(右):1938年1月1日、南京自治委員会発会式における陶錫三会長の宣言朗読:南京市の南京紅卍字会会長だった陶錫三が、日本軍に認められて、1937年12月23日、南京自治委員会発会委員長に就任した。世界紅卍字会(World Red Swastika Society)とは、中国の宗教関連修養慈善団体で、中国では、赤十字社に準拠した援助機関と見なされており、「紅卍会」の別称で呼ばれた。南自治委員会慶祝の旗行列もこの日に実行され、中国民間人が多数動員された。
Description English: Declaration reading of Tao Hsi-shan, chairman of Nanking autonomous commission, at its inaugural ceremony(January 1, 1938) 日本語: 南京自治委員会発会式における陶錫三会長の宣言朗読(1938年1月1日) Date 19 December 2008 Source English: "ASAHI GRAPH," Japanese photograph magazine (Asahi Shimbun, published on Jan. 26, 1938) 日本語: 「アサヒグラフ」 (朝日新聞、昭和13年1月26日発行) Author Sweeper tamonten
写真は Wikimedia Commons, Category:Nanking Autonomous Commission, File:Declaration reading of Tao Hsi-shan.jpg引用。

写真(左):1938年1月1日、南京市街を進む南自治委員会慶祝の旗行列には多数の中国人が参集した。:南京市街を進む南自治委員会慶祝の旗行列には、中国民間人3 万人が集まったというが、式典に参加しなければ、占領軍からどんな目に合うかわからないので、動員に応じたと考えられる。それを自発的に日本軍を歓迎するために集まったというのは、日本側の表現である。このような感覚は、日本人も1945年からアメリカ軍の占領を受けたが、アメリカからの援助を受けることで、次第に親米感情が沸いてきた。情報操作だけでアメリカに従うように洗脳されたというのは単純すぎる。
Description English: Flag procession of the celebration for Nanking autonomous commission parading through Nanking towns on New Year's Day(January 1, 1938) 日本語: 元旦、南京市街を進む自治委員会慶祝の旗行列(1938年1月1日) Date 11 December 2008 Source English: Japanese photograph magazine "Sino-Japanese war photograph news #16" (Mainichi Newspaper, published on Jan. 21, 1938) 日本語: 「支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影」第16集 (毎日新聞、昭和13年1月21日発行) Author Sweeper tamonten
写真は Wikimedia Commons, Category:Nanking Autonomous Commission, File:Declaration reading of Tao Hsi-shan.jpg引用。

 
写真(左):1938年1月1日、南京自治委員会の発会式に歓迎の垂れ幕を掲げて行進させられる中国人たち :行列に加わって、日本軍歓迎を姿勢を示すことで、自分たちの生命・財産を保全しようとする民間人は少なくなかったであろう。占領軍の様子を窺いながら生きてゆくのは、占領された市民の常である。にもかかわらず、このような写真を、占領軍が歓迎されていた証拠だとするのは、プロパガンダであり、真実の世論や態度を示しているとは言えない。
Description English: Flag procession of citizens toward Nanking autonomous commission inaugural ceremony(January 1, 1938) 日本語: 南京自治委員会発会式に向う市民の旗行列(1938年1月1日) Date 11 December 2008 Source English: Kokusai Shashin Shimbun issue 199, a photograph newspaper of Domei News Agency, pubulished on January 20, 1938 日本語: 国際写真新聞199号、同盟通信社、昭和13年1月20日 Author Sweeper tamonten (talk)
写真は Wikimedia Commons, Category:Nanking Autonomous Commission, File:Flag procession of citizen in Nanking01.jpg引用。

 
1937年12月13日,中華民国の首都だった南京を日本軍が攻略した。首都を陥落させたのであるから,戦争は終わったと,日本人は勝利を確信していたが,実は日中全面戦争は始まったばかりであった。

1938年1月11日には、御前会議で支那事変処理根本方針として、対中和平交渉を検討したが,1月16日「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の近衛声明を発表してしまう。敵対する蒋介石を和平交渉の相手としないという,まさに無条件降伏要求を突きつけた。事実上、日本の傀儡政権ともいえる汪兆銘南京政府を樹立した。
1938年5月5日、支那事変解決のために、国家総動員法を成立させ、統制経済に基づく物資と兵員・労働力の動員を開始した。これは,日本の全体主義,ファシズムの表れといえる。

広田弘毅外務大臣は、1938年1月22日、第73回帝国議会で「東亜の新たなる秩序の建設」を望んでいると発表した。これが初の「東亜新秩序」の提示であり、日中戦争の目標ともなった。武力行使も積極的に行われ、日本軍は華中の要衝武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)、華南の要衝広州を1938年10月に占領したが、これによって、中国国民政府は、内陸に閉じ込められた地方政権となり、降伏も近いと考えられた。日本の対中国外交は、11月3日の第二次近衛声明の発表で頂点を迎えた。

1938年11月3日に近衛首相は東亜新秩序声明を発表した。これが第二次近衛声明である。
「今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。
帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。
この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。

帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。---固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。

---東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。---政府は帝国不動の方針と決意とを声明す」

中国国民政府が地方政権に転落した状況で、日本は支那事変の目標を第二次近衛声明で「東亜新秩序」の建設にある明確に提示した。東亜新秩序建設とは、「日満支三国の連携によって、政治・経済・文化の相互連関を樹立し、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済ブロックの確立を目指すというものである。第二次近衛声明の発表の背後では、中国国民政府の汪精衛(汪兆銘)の指示を受けた高宗武・梅思平という親日派が、日本側の外交官重光守・陸軍影佐禎昭・今井武夫と交渉したのである。ここでは、東亜新秩序を確立するために、「善隣友好、共同防共、経済提携」を目指すとし、第二次近衛声明を基盤とした。

1938年11月30日、大元帥昭和天皇臨席の御前会議では、日中新関係調整方針が決定された。これは、日満支は東亜における新秩序建設の下、1)善隣友好、2)共同防共、3)経済提携、を進めるとした。

他方、1938年12月6日、陸軍省・参謀本部は「昭和十三年対支処理方法」を決定した。これは、日本が占領した武漢・広州も含めて、新中国の建設を指導し、そのために興亜院を設立した。そして、1938年12月20日、中国国民党の要人、汪精衛らが蒋介石政権の重慶から、フランス領ベトナムのハノイに脱出した。これは、近衛文麿首相が、中国からの日本軍の撤兵という条件をふくむ「第三次近衛声明」を前提にした新政権樹立の試みだったが、近衛首相は中国からの日本軍の撤兵を約束しなかったために、汪精衛の親日政策に賛成する中国要人はいなくなってしまった。

1938年12月22日に発表された「第三次近衛声明」(近衛三原則)は、日満支は東亜新秩序の建設のために、善隣友好、共同防共、経済提携を進めるとしただけで、中国を新秩序建設の分担者として認めたものの、中国に侵攻した日本軍撤兵についての言及はなかった。盧溝橋事件(七七事変)前に決まった広田三原則は変更され、近衛三原則が発表されたものの、中国側には第三次近衛声明を認めることは、日本軍の侵略を容認することを意味したのである。しかし,近衛首相は政治責任を放棄するかのように1939年1月5日に辞職する。

写真(右):上海事変で戦死した中国兵:1937年9月3日。上海では日中両群の間で4ヶ月間の市街戦が行われた。小銃,人間(3名以上)も丸焦げ。日本軍は,1937年12月までに,北京,上海,南京の三大都市を占領しているが,「支那事変」(日中戦争)は,まだ始まったばかりだった。1945年8月まで8年間も続く。

1937年7月の盧溝橋事件当時,中国軍は多いが弱いと過小評価した日本軍は,高圧的な態度で臨むことで,中国が譲歩すると錯覚していた。→日本は,駐屯権で認められている小兵力しかない。中国軍の戦意は必ずしも低くはなかった。孫文創設の黄浦軍官学校、それを引き継ぐ「国民革命軍」には、共産党も国民党も参加し、中国人としての愛国心は芽生えていた。しかし、日本では、中国は軍閥・私兵により支配され、中国軍あるいは中国人という概念はない、と誤解していた。

日本は,全面戦争や中国征服の意図はなかったが,居留民保護以上に,日本の特殊権益、満州支配を中国に強要しようとした。

C羚颪蓮す駝嬰,共産党の対立はあったが,中国の軍も世論も,英米よりも高圧的な態度で服従を強いる日本に対して反感を抱き,反日・抗日運動が激化した。しかし、日本は、中国人として団結することはありえないと錯覚していた。中国軍は、兵力が勝っている江南地方で,積極的な戦闘を仕掛けた。

っ羚颪砲ける日本の勢力範囲が拡張し,紛争が長引くにつれて,米国をはじめとする列国の権益や貿易・投資の利益が損なわれるようになった。

ッ羚颪慮鮴鑁塾呂魏畩評価していた日本は,中国の政治経済の中枢に打撃を与えれば,降伏すると錯覚した。他方,中国は,江南地方に兵力を集中し,日本軍に打撃を与えれば,和平に持ち込めると日本軍の意図(面子)を読み違えた。列国の眼前で中国軍に敗北することは,名誉ある日本軍には絶対に許されない。一戦闘で敗北すれば,報復するまでである。

ζ本は,1929年ジュネーブ条約未批准であり,ハーグ陸戦規定は批准しても遵守しなかった。国際赤十字の活動は締め出した。徴発(現地略奪)を強行し,軍紀が紊乱(ぎんらん)していた状況で,中国人の抗日活動に報復がなされた。中国の軍民に頑強な反抗に直面して,多大の損害を被ったこと,勝利・帰国への希望が遠のき,焦燥感,危機感が日本の兵士の心を捉えてた。

反日プロパガンダやメディア活動によって,中国,米英列国には日本軍による残虐行為が誇張して喧伝された。列国市民にも,日本人への怒りが高まった。列国では、国内の反日感情を反映して、中国支持の外交政策が採用された。

写真(右):1939年、中国、河北省、晋察冀(しんさつき)軍区、河北省唐県の中国共産党の軍人:晋察冀軍区は、中国共産党が日本軍に対抗して華北に設けた抗日根拠地で、山西省、河北省、遼寧省、内モンゴルを統括するとされた。1938年1月10日、晋察冀辺区(しんさつきへんく)の第1回軍政民代表大会が阜平県で開催、14日に晋察冀辺区軍政民代表大会宣言を採択し、15日に晋察冀辺区行政委員会を設立。31日、晋察冀辺区政府が樹立された。この下に、晋東北行政区、冀西行政区、冀中行政区が設けられた。しかし、9月には日本軍の攻勢により敗退、阜平県は孤立した。
Description 1939年晋察冀軍区在河北唐県何家庄召開高干会的合影。前排左起王震、舒同、朱良才、対道生,王平、彭真。 Date 1939 Source 从冀東、雁北到滹沱河両岸 Author Unknown
写真は Wikimedia Commons, Category:British Armed Forces in China, File:1939jingchaji.jpg引用。

中国国民党の蒋介石は、1938年12月26日、国民党記念週において、第三次近衛声明に反駁した。日本の東亜新秩序とは、「東亜の国際秩序を転覆し、奴隷的中国を作り、太平洋の独覇を達成し、世界を分割する総名称」であるとし見なし、反論したのである。近衛首相の設置した興亜院は「中国を滅亡させる計画を実行する総機関」であり、中国各地で犯罪を行う特務機関を集大成したものと危険視した。そして、従来の広田三原則よりも、近衛三原則のほうが何倍も悪辣であると明言した。近衛首相の真意は、大陸と海洋、北進と南進を合わせて侵略政策で、中国を併呑し、国際秩序を破壊し、東亜を独占して覇権を掌握し、欧米の勢力を駆逐することにあるとした。

他方、重慶からハノイに逃亡した国民党の元要人 汪精衛は、1938年12月29日、第三次近衛声明近衛三原則)に呼応して、「国民政府は近衛三原則を根拠とし、日本政府と誠意を交換 し、和平の恢復を期する」と訴えた。この親日政策を促す汪兆銘の電文は「艶電」と呼ばれた。蒋介石は、汪兆銘を売国投敵の象徴として、1939年1月1日、汪精衛の党籍と一切の職務を剥奪した。国民党は汪兆銘(汪精衛)除名の理由として、「抗日戦の状況で、汪兆銘が国策に反する謬論を散布し、敵国首相近衛の中国滅亡の声明をに艶電を発し、中国の基礎を根底より覆そうとする日本の行為を黙認したとして、それを国民に対する裏切りとして断じて許すことはできない述べた。親日政策という反逆行為を働いた汪兆銘は、国民党から追放処分されたのである。

しかし、第三次近衛声明近衛三原則)に対する中国側の反駁が表明されて1週間も経過しない1939年1月4日、近衛内閣は総辞職し、1月5日、平沼騏一郎内閣が成立した。平沼内閣は、1938年12月の第三次近衛声明(近衛三原則)について「勿論此の帝国不動の方針に基づき」外交を進め、東亜新秩序の建設に一路邁進する、と述べた。

写真(右):1939年、中国北部、天津沖、日本海軍水上機母艦「瑞穂」の後部飛行甲板に搭載された日本海軍川西九四式二号水上偵察機(E7K2)"Alf":初期型は、広廠九一式水冷エンジンを搭載したが、後期型は、三菱空冷エンジン「瑞星」に強化された。これが、九四式二号水上偵察機(E7K2)で1938年に制式された。水上機母艦「瑞穂」の竣工は1939年2月25日、全長 192.5m、全幅20.0m、満載排水量1万2,798トン、八九式40口径12.7センチ連装高角砲3基6門、九四式水上偵察機24機搭載。
Title:MIZUHO (Japanese seaplane tender, 1938)
Caption:View taken off Tsingtao, China, circa 1939, showing a close-up of a Kawanishi E17K "Alf" running up her engine on deck. Note markings on plane, crew on deck, aircraft handling cranes, and catapult.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN (Ret), 1973.
Catalog #: NH 78058
Original Date: Mon, Sep 27, 1937
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 82455 MIZUHO (Japanese seaplane tender, 1938) 引用。

1939年9月にドイツ軍のポーランド侵攻を契機に、イギリス、フランスが参戦して、第二次大戦が勃発した。そして、翌1940年5月には、ドイツ軍はベルギー・フランス侵攻を開始、電撃戦の前に2カ月たたにフランスは降伏した。このようなフランス弱体化は、フランス領のインドシナ(印度支那)植民地、すなわち仏印に対する日本の関与が容易になったことを意味した。日本の陸海軍統帥部は、中国の抗戦能力は、外国からの軍事支援に因っており、その蒋介石援助ルート、すなわち援蒋ルートを仏印進駐で遮断する必要性を強調した。

三国同盟締結 松岡洋右(まつおか ようすけ、1880-1946)の誤算〜ぼく一生の不覚〜:山口県、廻船問屋の四男として生れ、1893年にアメリカ留学。メソジスト教会の支援を受けて、苦学しながらオレゴン大学法学部を1900年に卒業。帰国後、1904年、外交官試験に合格、外務省では中国勤務に就くも、第一次大戦後の1918年のパリ講和会議にも参加し、得意の英語を活かす。1921年、41歳で外務省を退官、満州鉄道の理事に就任。1933年2月21日、国際連盟がリットン報告書を採択した直後、日本の国際連盟脱退を表明。1935年8月、満鉄総裁に就任。1940年7月22日、第二次近衛文麿内閣が成立すると、1941年7 月18日まで外務大臣として活躍した。


 フランス領インドシナから中国南部への蒋介石援助ルートを遮断するために、1940年6月中旬、仏印への日本軍進駐を求めるようになった。しかし、近衛文麿首相は、陸海軍大臣も含む四相会議を開催し、フランスに対しては、蒋介石援助(援蒋)行為の中止を申し知れるが、ドイツの対フランスの影響力を侵害するようなフランス領インドシナへの武力行使は控えることを決定した。これは仏印に日本の国境監視団を派遣して、中国との国境を閉鎖し、援蒋ルートを遮断するものである。

 しかし、満州事変、盧溝橋事件、上海事変と、軍部の独走がここでも始まった。日本陸軍参謀本部は、仏印に派遣されることになった国境監視委員長西原一策陸軍少将に、第二十二軍への補給、仏印での日本軍隊通過、飛行場確保を指示、日本海軍も、東シナ海への進出に積極的で、軍令部の派遣した海軍側委員長柳沢蔵之助大佐は、西原一策少将に同調していた。 1940年7月5日、すでにフランスは降伏しており、その弱体化を前提に、日本の陸海軍統帥部は、フランス領インドシナ(仏印)の領土保全を約すのと引き換えに日本への軍事協力を求めることを提案した。

 1940年7月22日、第2次近衛内閣が組閣され、第38代内閣総理大臣に近衛文麿が再び任命され、1941年7月18日まで、1年間政権を担当する。外務大臣は、有田八郎に代わって、松岡洋右である。この時期、日本の外務省にも、ヨーロッパでのドイツの勝利に乗ずれば、英仏は恐れるに足らないのであり、積極的に南進、仏印進駐を実行すべきだとの主張が強まった。陸軍は「支那事変解決」を南進に求めていたが、海軍や外務省は、東亜新秩序を東南アジアを含む大東亜共栄圏にまで拡大する勢いがあった。また、首相近衛文麿にも外務大臣松岡洋右にも、対外関係を政府が主導するためには、政府自ら南進政策をより積極的、強力に進めて、仏印進駐、東亜新秩序の建設のリーダーシップを陸海軍統帥部から政府に取り戻すつもりでいた。

重光葵(しげみつ まもる、1887-1957)1930年、駐華公使、1931年9月の満州事変には軍部の暴走が、日本の対英米国際協調を破綻させると危惧したが、1932年1月の第一次上海事変では、英米と強調して中国への停戦要求を貫徹した。しかし、天長節(天皇誕生日)4月29日、上海虹口公園で開催された天長節祝賀式典で、朝鮮独立活動家・尹奉吉の投げた爆弾で重傷を負い、片足を失った。満州事変に対する国際連盟の決議を不服として、日本が国際連盟を脱退することに関しては、英米のアジア植民地主義を引き合いに出して、国際的不公正を非難し、独自外交主張する。これは、英米追随が裏切られたと感じたナショナリストの転向といえるかもしれない。


 仏印に関して、重光葵駐イギリス大使は、対ドイツ戦の準備に大わらわのイギリスは、アジアでの日本の行動を黙認すると強気の考えを示し、7月5日「支那及印度支那に於ける仏国の勢力を駆逐すること」を具申した。これは最終的には仏印を日本の保護領とすることを、重光葵が企図していたとみてよい。ハノイの鈴木六郎総領事は、7月9日、英仏の弱体化を前提に、「今日仏印の領土尊重を約するが如 は面白からざる」との意見具申をし、仏印の日本勢力圏かを当然と考えていた。

 ヨーロッパにおけるドイツの対フランス勝利、イギリスの孤立化によって、フランスもイギリスもアジアの植民地を保全、防衛できなくなり、アジアから撤退せざるを得なくなる、そこでその政治的空白をドイツやアメリカに先んじて、日本が埋めるという大東亜共栄圏の構想が、日本政府にも陸海軍統帥部(参謀本部と軍令部)にも存在したのである。こうして、日本の現地派遣軍は、仏印総督に軍隊進駐を認めさせ、1940年9月末、日本軍は仏領インドシナ北部のトンキン州に進駐を開始した。これが北部仏印進駐で、第二次近衛内閣における「東亜新秩序建設」の対外政策の第一歩ともいえる。

 第二次近衛内閣で外務大臣となった松岡洋右は、ヨーロッパの派遣をドイツが握ったと考え、三国同盟を締結し、イギリス領マレー植民地の中核シンガポールの攻略を唱えるなど対英米強硬外交を主張した。松岡洋右外相は、外交に軍部が容喙することを嫌っており、外務省の下に外交一元化しようと、軍部から外交のリーダーシップを取り戻そうと企図した。そこで、軍部以上の強硬な外交を主張したが、日本軍には、イギリス、アメリカ、そしてソ連と同時に戦う決意がないことを見越してのものだった。軍部の外交関与を排して対外政策を外務省が決定するために、松岡洋右外相は、三国同盟によってアメリカを牽制し南進を容易にしようとした。(森 茂樹 (1995)「第二次近衛内閣初期における対外政策決定過程」 『一橋論叢』 114(2), pp.410-429参照)

  松岡洋右外相は、軍から南進政策の主導権を奪回するため、三国同盟を日本軍の暴走を抑える駆け引き材料として強硬な対英米外交を進めたが、それが政府の既定路線となった以上、後戻りできないところまで進んでしまう。三国同盟を通じて日本軍もアメリカも牽制できるとの自信は、南進を実現化し、イギリス、アメリカの反日政策を強め、軍部に対して強硬な外交を実際に進めなくてはならない事態に陥った。

図(右):アメリカ雑誌Collier1942年12月12日号のカバー;1941年12月7日,真珠湾に爆弾を投下しようという東条英機首相・大元帥昭和天皇を擬した翼のある日本人悪魔。Cover art by Arthur Szyk depicting a batlike caricature of Hirohito flying above Pearl Harbor, getting ready to drop a bomb.

中国との戦争が終わらないうちに,日本は1941年12月8日,ハワイの真珠湾を攻撃して,米国に宣戦する。これは,英国との戦いを続けながら,ソ連を侵攻したナチス・ドイツと同じ構図である。一国との戦争が終わらないのは,その敵国を援助する国があるからであり,それを倒せば戦争に勝利できる,と考えた。

しかし,日本陸海軍は,中国同様,米国にも勝利できなかった。太平洋戦争開始後,東条英機首相を中心に、東亜新秩序を拡大した大東亜共栄圏の構想を打ち出した。しかし、3年後の1944年末には,日本の敗北は決定的だった。しかし,連合国は,連合国首脳会談を何回も開催して,単独不講和,無条件降伏の要求を主張した。日本は,大東亜共栄圏の建設は諦めて、国体を護持するために最後の一兵まで戦うと,全軍特攻化,一億国民総特攻を最高戦力として決定した。

1943年12月1日のカイロ宣言

ローズヴェルト大統領、蒋介石大元帥及チャーチル総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ 各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。

三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス

右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ

写真(右)1943年11月25日,エジプトの首都カイロ、カイロ会談に参加した中国国民党蒋介石(Chiang, Kai-shek, 1887-1975)総統、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、蒋介石夫人の宋美齢(Chiang, May-ling Soong, 1897-2003):対日方針を協議するため1943(昭和18)年11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。蒋は会談で、ルーズベルトの問いに答え、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。アメリカが起草した宣言案をイギリスが修正し、日本の無条件降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。
Description: Generalissimo Chiang Kai-shek, President Franklin D. Roosevelt, Prime Minister Winston Churchill, Madame Chiang Kai-shek at the Cairo Conference. Others are unidentified. From: Photos used in the 1984 Truman Centennial Exhibit. National Archives Photo No. 208-N-19665. Date: November 25, 1943 Related Collection: ARC Keywords: International relations; Meetings; Presidents; Prime ministers; Spouses; World War, 1939-1945 HST Keywords: Egypt - Cairo People Pictured: Chiang, Kai-shek, 1887-1975; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Roosevelt, Franklin D. (Franklin Delano), 1882-1945; Chiang, May-ling Soong, 1897-2003
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 2017-539引用。


写真(右):1944年9月、中国、重慶(戦時首都)、中国国民党政府総統 蒋介石大元帥とルーズベルト大統領中国派遣特使ドナルド・M・ネルソン( Donald M. Nelson:1888-1959 );パトリック・ハーリーと同じく、フランクリン・ルーズベルト大統領の信頼、個人的な顧問として活躍した。陸軍長官のヘンリースチムソンは、ネルソンをアメリカの戦時生産局長としてはふさわしくないとみて、大統領に彼をもっと有能なものに変えることを要請した。1943年2月、ルーズベルトはネルソンを更迭しようとしたものの、やはりルーズベルト大統領の個人的な顧問だったハリー・ホプキンス(Harry Hopkins)の進言を受けて、ネルソンの地位をそのままとした。1944年9月に、ネルソン戦時生産局長は、中華民国に赴き、中国の国家元首である蒋介石大元帥と会談した。
Donald M. Nelson is Received by Generalissimo Chiang Kai-shek in Chungking Description: Donald M. Nelson, Chairman of the War Production Board, is received by Generalissimo Chiang Kai-shek at his home in Chungking, China. Date: ca. September 1944 Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers ARC Keywords: Chinese; Diplomats HST Keywords: People Pictured: Chiang, Kai-shek, 1887-1975; Nelson, Donald Marr, 1888-1959
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 2009-2618引用。


1944年9月6日、パトリック・ハーリーPatrick Hurley:1883-1963)少将は、ルーズベルト大統領の個人特使として、中国の戦時首都重慶に到着し、9月24日、中国総統蒋介石大元帥は、中国在留連合軍指揮官ジョーゼフ・スティルウェル(Josepf Warren Stilwell)将軍の更迭をパトリック・ハーリーPatrick Hurley)少将に要求した。そして、9月18日、ルーズベルト大統領は、スティルウェル将軍の更迭に同意することを蒋介石に打電した。9月25日、成都を発進したアメリカ陸軍航空隊B-29 爆撃機が、長崎・佐世保を空襲した。9月29日、中国の蒋介石大元帥は、アメリカ陸軍アルバート・ウェデマイヤー(Albert Wedemeyer)将軍を中国在留連合軍謀長に任命した。

写真(右):1944年9月、中国、重慶(戦時首都)、中国国民政府総統 蒋介石大元帥とルーズベルト大統領中国派遣特使パトリック・ジェイ・ハーリー (Patrick Jay Hurley:1883-1963)少将;1913年、ジョージ・ワシントン大学で学位を取得した法律家パトリック・ハーリーPatrick Hurley)は、1929年から1933年までハーバート・フーヴァー大統領の下で陸軍長官に就任、1941年12月のアメリカ参戦後、准将として現役復帰、1942年3月、太平洋戦線に従軍、フランクリン・ルーズベルト大統領の信頼を得て、1942年4月、駐ニュージーランドアメリカ公使、その後、ソ連に大統領特使として派遣された。1944年9月に、ルーズベルト大統領の個人特使としては、中華民国に赴き、中国の国家元首である蒋介石大元帥と会談した。
Description: At his home, Generalissimo Chiang Kai Shek greets Maj. Gen. Patrick J. Hurley on Hurley's arrival in China. Date: ca. September 1944 Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers ARC Keywords: Chinese; Generals HST Keywords: People Pictured: Chiang, Kai-shek, 1887-1975; Hurley, Patrick J. (Patrick Jay), 1883-1963 Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 2009-2617引用。


写真(右):1944年9月、中国、重慶(戦時首都)、アメリカ外務省(戦時生産局長)ドナルド・ネルソン、中国国民党政府総統 蒋介石大元帥、ルーズベルト大統領中国派遣特使パトリック・ジェイ・ハーリー (11月に駐華アメリカ大使に就任);
Description: Left to Right: Donald M Nelson, Generalissimo Chiang Kai-Shek, and Major General Patrick J. Hurley sit down for a chat at the Generalissimo's residence in Chungking, China. Date: ca. September 1944 Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers ARC Keywords: Chinese; Diplomats; Generals HST Keywords: People Pictured: Chiang, Kai-shek, 1887-1975; Nelson, Donald Marr, 1888-1959; Hurley, Patrick J. (Patrick Jay), 1883-1963
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 2009-2619引用。


写真(右):1944年9月、中国、重慶(戦時首都)、中国国民政府外務大臣宋子文博士(右)、アメリカ外務省(戦時生産局長)ドナルド・ネルソン、中国国民党政府総統 蒋介石大元帥、ルーズベルト大統領中国派遣特使パトリック・ジェイ・ハーリー (11月に駐華アメリカ大使に就任);1913年、ジョージ・ワシントン大学で学位を取得した法律家パトリック・ハーリーPatrick Hurley)は、1929年から1933年までハーバート・フーヴァー大統領の下で陸軍長官に就任、1941年12月のアメリカ参戦後、准将として現役復帰、1942年3月、太平洋戦線に従軍、フランクリン・ルーズベルト大統領の信頼を得て、1942年4月、駐ニュージーランドアメリカ公使、その後、ソ連に大統領特使として派遣された。1944年9月に、ルーズベルト大統領の個人特使としては、中華民国に赴き、中国の国家元首である蒋介石大元帥と会談した。パトリック・ハーリーと同じく、フランクリン・ルーズベルト大統領の信頼、個人的な顧問として活躍した。陸軍長官のヘンリースチムソンは、ネルソンをアメリカの戦時生産局長としてはふさわしくないとみて、大統領に彼をもっと有能なものに変えることを要請した。1943年2月、ルーズベルトはネルソンを更迭しようとしたものの、やはりルーズベルト大統領の個人的な顧問だったハリー・ホプキンス(Harry Hopkins)の進言を受けて、ネルソンの地位をそのままとした。1944年9月に、ネルソン戦時生産局長は、中華民国に赴き、中国の国家元首である蒋介石大元帥と会談した。
Description: Left to Right: Dr. T.V. Soong, Minister of Foreign Affairs; Donald M.Nelson, Chairman of the War Production Board; Generalissimo Chiang Kai-shek; and Major General Patrick J. Hurley chat on the veranda of the cottage assigned to Mr. Nelson at Chiang's country estate near Chungking, China. Date: ca. September 1944 Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers ARC Keywords: Chinese; Diplomats; Generals HST Keywords: People Pictured: Chiang, Kai-shek, 1887-1975; Nelson, Donald Marr, 1888-1959; Soong, T. V. (Tzu-wen), 1894-1971; Hurley, Patrick J. (Patrick Jay), 1883-1963 Rights: As far as the Library is aware, this item can be used freely without further permission.
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 2009-2622引用。


近衛文磨は,1945年になって,再び政治活動を再開する。1945年2月,昭和天皇に対して、上奏文を提出したのである。ここでは,敗戦間近の日本の軍民に共産主義が蔓延しており,このままでは国体変革に至る共産革命が起こると訴えた。

2. 東条英機首相は、1944年7月のサイパン島陥落を口実に辞任させられた。続いた小磯邦明首相はフィリピン戦で、特攻作戦を展開した。彼を引き継いだ鈴木貫太郎首相は、沖縄戦を戦った。小磯・鈴木の両首相とも徹底抗戦を主張し続けた。本土が海上封鎖され、空襲されても、フィリピン戦・沖縄戦で敗北しても、和平交渉は、日本降伏を意味する以上、困難だった。大元帥昭和天皇は、終戦を望む気持ちがあったが、外国に敗北した初の日本元首という恥辱、皇祖への侮辱的行為を自ら決断するのは困難だった。


図(右):アメリカ雑誌TIME(1945年5月21日号)の表紙を飾った大元帥昭和天皇
; タイム誌では「米国はドイツ降伏後の欧州から太平洋に軍を回しているが,それは現人神に対する戦いのためである。わが無敵艦隊は天皇の島を壊滅させ,航空部隊は天皇の町を焼き払った。わが陸軍は,天皇の土地の侵攻する準備をしている。To the god's worshipers this would be a sacrilege such as the desecration of a church would be to the invaders. 大半の米国人にとって,日本の現人神は,がに股の薄っぺらなちびに見える。To them this god looked like a somewhat toothy, somewhat bandy-legged, thin-chested, bespectacled little man......米国のプロパガンダは、昭和天皇を扱き下ろした。

1945年1月25日、最高戦争指導会議(1944年8月4日以降、小磯国昭内閣で設けられた)で、「決戦非常措置要綱 」が決定され,「物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」として,「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」とされた。つまり、政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席し、天皇が臨席する最高の会議である。

天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏によって最新・最高度の情報が伝達された。つまり,戦局・戦争方針について,大元帥昭和天皇は,明確な情報をもとに,裁可を下した。

「天皇は戦争の実態をしらなかった」という戦後の俗説は誤りである。軍人は,臣下として天皇に忠誠を尽くすことを本分としており,戦局の悪化も隠さず報告している。不興をかえば,進退伺いをする覚悟である。大本営発表では,国民相手に,偽りも多かったが,最高の戦略策定能力=統帥権を保持する大元帥には,戦局の実相と作戦企図もほぼ明確に伝えられた。

日本側は,米国,連合国とは,全く異なる視点から,戦争の前途を心配していた。

3.アジア太平洋戦争の連戦連破を背景に,日本の軍部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性があった。1945年2月14日「近衛上奏文」において,国体護持のために,終戦の聖断を求めた背景は,共産革命への恐怖だった。天皇の権威は,天孫降臨の神話を象徴する八咫の鏡(やたのかがみ)・草薙の剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊の勾玉(やさかにのまがたま)という三種の神器によっており、アメリカ軍による伊勢神宮占領,三種の神器奪取が危惧された。原爆投下や都市の壊滅ではなく、国体護持の観点が重要であり、その意味で、ソ連参戦の政治的悪影響が懸念されていた。
当時,原子爆弾は機密の最先端技術であり,日本の軍人・政治家の理解を超えていた。一夜にして、都市が破壊され、数万人が殺戮された事例は、1945年3月10日の東京大空襲などいくつもあった。日本本土が焦土とされても徹底抗戦を主張していた指導者が、理解不能の原爆の威力に恐れおののき、降伏を決断することはありえない。
他方,ソ連は、国体・天皇制に敵対する共産主義のイデオロギーを信奉しており、ソ連が日本を占領すれば、国体は変革される。この恐怖から、アメリカへの降伏、国体護持を請うたのが大元帥昭和天皇による終戦の聖断である。

写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。-----しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といったとされる。

元首相近衛文麿は,日中全面戦争を開始し、新体制を唱え、日独伊三国軍事同盟日ソ中立条約を締結した首相である。日米開戦前に首相を辞任していたが、1945年2月14日に「近衛上奏文」で「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,次のように昭和天皇に上奏した。

----英米ノ世論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス。---敗戦ダケナラハ 国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ 敗戦ヨリモ 敗戦ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。

----ソ連ハヤガテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候。---右ノ内特ニ憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。
----勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。

戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ 滿洲事變以來 今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。

---- ---此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。」(「近衛上奏文」引用)

近衛文麿(このえ ふみまろ:1891年10月12日生まれ、1945年12月16日自殺):五摂家の筆頭・近衞家に生まれ、東京帝国大学哲学科と京都帝国大学法科大学に学び、さらに貴族院議長、内閣総理大臣、外務大臣)、拓務大臣、司法大臣を務める。1934年、アメリカを訪問、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、国務長官コーデル・ハルと会見した。1937年の日中戦争勃発時の首相、1938年11月3日には「東亜新秩序声明:第二次近衛声明」を発した。1940年7月22日に、第2次近衛内閣を組閣、松岡洋祐を外相から排除して、1941年7月18日から10月18第3次近衛内閣で、日米和平交渉を続けたが、成果を上げられず、辞任。終戦2か月後の1945年10月4日、近衞文麿は、GHQ(連合国軍総司令部)司令官ダグラス・マッカーサー元帥を訪問し、日本の赤化防止、憲法改正について話し合った。しかし、1945年12月6日、GHQからの逮捕命令が出て、近衛はA級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれることが決定すると、出頭期限の12月16日未明、荻外荘で青酸カリで服毒自殺。54歳だった。


中川八洋(2000)『大東亜戦争と「開戦責任」−近衛文麿と山本五十六』では,近衛は,ソ連のヨシフ・スターリンが望む方向に確信を持って日本を舵取りした共産主義者という。アジア太平洋戦争は,中国の共産化を促し、冷戦構造をもたらしたが,その元凶はスターリンと彼に協力した近衛文麿,尾崎秀実など日本政界・軍部の中枢にいた共産主義者であるとする。近衛上奏文は,近衛の正体を覆い隠す芝居であったと決め付けた。

しかし,「近衛日記」昭和十九年七月二日・十四日)(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)に、ひらがな表記で次のよう示されている。
 「当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しており、又第三インターは解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず。」

「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。
現段階は、まさに此の方向に歩一歩、接近しつつあるものの如し。革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。

軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。予は此の事を憂慮する余り、陛下に上奏せる外、木戸内府に対しても縷々説明せるも、二・二六以来、真崎、荒木両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍終れりとなせるも何ぞ知らん。
皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり。」(引用終わり)

昭和天皇は、上奏文を提出した近衛に,次のように御下問された。(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)

天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」
近衛「それは、陛下のお考え…。」
天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
近衛「従来、軍は永く一つの思想[統制派]によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者[皇道派]もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。----この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。賀陽宮は[皇道派による]軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないと[皇道派によって軍を立て直し終戦に持ち込むのは]なかなか話は難しいと思う。

近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

1945年2月14日、近衛文麿は,昭和天皇への上奏文によって,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明した。そして,軍部の統制派が戦争終結の障害になっているので,彼らを一掃し,米英中と和平交渉しようと考えた。軍部を建直し,共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだ。しかし,結局は、戦闘を継続し,一戦に勝利して国体護持を条件とする和平交渉を始めようとした。国体護持の確証は無く終戦の決断はできなかった。

アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29爆撃機 スーパーフォートレス: B-29爆撃機の諸元:全幅:43.1m、全長:30.2m、全高:8.5m、主翼面積:161.5m2、エンジン:R-3350 2200馬力4基、自重:33800kg、全装備重量:54400kg、最大速度:550km/h(高度7600m)、航続距離:5230km上昇限度:10250m、武装:12.7mm50口径機銃12挺(+20mm機銃1丁)、爆弾搭載量:4500kg-9100kg、乗員:11名。アメリカ軍は,1944年7月中旬、マリアナ諸島サイパン島攻略が確実になると、7月21日グアム(大宮)島、7月23日テニアン島に上陸。20日とたたない8月初旬、両島を攻略,大規模な航空基地を建設した。マリアナ諸島攻略によって,11月以降、戦略爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」大編隊による空襲で、日本の大都市は焦土と化した。このような大量破壊、大量殺戮に直面しても、日本は降伏を決断できなかった。


アメリカ軍は、1944年6月15日にサイパン島、7月23日にテニアン島に上陸し、1944年8月3日にテニアンが占領された。アメリカ軍は、テニアン島上陸直後から、海軍建設大隊によって日本軍の建設したバコイ飛行場を整備し、接収から1週間後には戦略爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」の試験的運用を開始した。

アメリカ軍は,テニアン島北飛行場を大幅に拡張して「ノースフィールド基地」として整備。ここから、戦略爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」が本土空襲に、原爆投下に飛び立った。グアム島にも海軍シービーズ建設部隊が進出,B-29爆撃機が使用可能な大型滑走路を備えた「ノースフィールド基地」を完成。11月からマリアナ諸島を飛び立ったB-29の編隊が日本本土を長距離爆撃した。しかし、途中の天候・気象条件の変化に即応することが難しく、高高度からの航空機工場などへの精密爆撃は、命中精度が低かった。

アメリカ軍による日本本土空襲による殺害率(キルレート)は、アメリカ人3000人対日本人30万〜50万人であり、100-180倍もあり、破壊家屋・工場を含めれば,B-29爆撃機500機弱の損失に比べて、大戦果をあげた。アメリカでは、対日戦争に勝利をもたらした要因を,日本本土空襲、原爆投下、無制限潜水艦作戦による交通破壊としており、日本の政治家・軍人に衝撃を与えたソ連の対日参戦、満州侵攻は完全に無視している。

写真(右):1944年末から日本本土を連日のように爆撃したB29重爆撃機:英首相アトリーAtlee,米大統領トルーマン,ソ連首相スターリンによる日本への降伏勧告「ポツダム宣言」は、三巨頭共同宣言ではない。会談の期間中に、ソ連にかわって中国の蒋介石が宣言した。この宣言を受諾しない場合,日本は迅速かつ完全に破壊されると通告した。これは原子爆弾投下を隠喩したものだった。

1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。

1945年6月8日の御前会議では,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,戦争完遂,本土決戦準備を決定した。

優柔不断な鈴木貫太郎内閣の閣僚たちは、この期に及んでも、終戦・降伏を決断できなかった。内閣輔弼の責任を放棄し、大元帥昭和天皇の聖断によって、和平か抗戦かを決めようとしていた。つまり、鈴木貫太郎は、決して終戦を目指した内閣ではない。鈴木内閣は、終戦内閣ではない。唯一大元帥昭和天皇の聖断(未だ抗戦の可能性のほうが高かった)に従うことを旨とした内閣であり、これは臣下が天皇に対して政治的決断の責任を負う「輔弼責任」を放棄したもので、無責任内閣ともいえる。

1945年7月26日,ポツダム宣言が通告されても,鈴木貫太郎内閣は、無責任・聖断盲従であり、終戦を即断できなかったのは当然である。和戦は昭和天皇の聖断に完全に依存していたのである。

写真(右):1945年、空爆で破壊された東京:マリアナ諸島から飛来した米陸軍航空隊B-29爆撃機の空襲によって焦土となった。

油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾など、投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。8万〜10万人が犠牲になり、焼失家屋は約27万8000戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方km)が焼失した。

親爆弾に子爆弾を内装する焼夷弾は,現在でいうクラスター爆弾(集束爆弾)である。焼夷弾M69には,50センチの焼夷弾筒38発が入っていて、空中で分解。縦に焼夷弾筒が落下,家屋に命中すると,木造家屋であれば,屋根を突き破って,畳に突き刺さる。そこから,パーム油を原料としたゼリー状の焼夷剤が噴出し,火災を起こす。バグウェイ実験場では,実物家屋模型を建築して,焼夷弾の実験をしている。焼夷剤の開発には,石油会社が協力した。

写真(右):1944-45年,東京の工場地帯の空襲被害状況:1945年5月23-25日、第39部隊の21/22、23回目の作戦任務で、爆撃。39th Mission #21/22 23 thru 25 May 1945Damage Photos Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association引用) 

1945年3月10日夜の東京大空襲は、低空夜間無差別爆撃(絨毯爆撃)で、第73、第313、第314の3個航空団のボーイングB-29爆撃機334 機が参加した。目標を爆撃したのは、279機で、3月11日0007初弾投下。投下された爆弾の種類は、油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などで、投下弾量は約38万発、1,700t。

8万人以上(10万人ともいわれる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8000戸に及び、東京の3分の1以上の面積(41 km²)が焼失した。
3月10日は日露戦争の奉天戦の日で、陸軍記念日。米軍の損害はB-29撃墜・墜落12機、撃破42機。

写真(右):1945年3月10日、ボーイングB-29爆撃機300機以上による東京夜間大空襲の焼死者;身元確認のためか、遺体に見入っている。当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏撮影の記録写真だが、当時このような惨く敗北的な写真は公開できなかったであろう。石川氏は、自宅の庭に穴を掘ってフイルムを隠し、写真を没収されるのを防いだという。東京写真紀行:東京大空襲引用。遺族の感情は尊重されるべきだが、現代の我々も、このような悲惨な結末にあった人々のことを記憶しておくことが必要だと思う。

1944年11月24日、B-29爆撃機による武蔵野の中島飛行機工場に対して初の空襲が行われた。それ以降、1945年1月23日、有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。

写真(右):1945年3月10日の東京大空襲の焼死者;アメリカ陸軍航空隊のB-29重爆撃機300機以上がマリアナ諸島を発進し東京を夜間空襲した。主に焼夷弾を投下して,住宅を焼き尽くす作戦である。米軍爆撃機の米国人搭乗員が殺害したのであるが,殺害者が焼死体を直接見ることもないので,罪悪感は感じない場合が多かった。それどころか、米軍兵士や中国の民衆を虐待した日本人が受けるべき報いであると考えた兵士もいた。現在は内外でしられている写真であるが、当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏撮影(東京写真紀行:東京大空襲)。

カンザスの戦いとして,昼夜分かたぬ大量生産されたB-29は,ハワイ経由でマリアナ諸島に空輸。そこで,輸送船によって運搬された焼夷弾を搭載,1機当たり1520発の焼夷弾の筒子爆弾を目標に投下することになる。都市無差別爆撃では、労働者の住宅の密集する住宅地を標的に、軍需生産を担う労働者を殺害し、その家屋を破壊する。こうして,厭戦気分を高めて、戦意を挫き、戦争指導に支障をきたすことを意図していた。

写真(右):1945年、大阪の空襲被害状況:1945年6月1日と7日、第39部隊の第24、26回目の作戦任務で爆撃。39th Mission #24 & 26マリアナ諸島グアム島「ノースフィールド基地」から日本本土を爆撃した。Damage Photos Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association引用) 。

平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸は,宮中グループの日記や手記の次のような文書を紹介している。

岳父近衛文麿公爵秘書官細川護貞『細川日記』
1945年8月8日
「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信−内務省得意の無電も−途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、----是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----木戸[幸一]内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。

1945年8月9日
「----[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。---」と言上、十一時半荻窪に[近衛文麿]公を訪ねたる所、---ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。---宮中にては最高六人会議---を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。

侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」 

1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。---」

芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日
2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.

1945年8月8日
午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用

本土決戦兵士:特攻専用機「剣」人間魚雷「海龍」:実現しなかった一億総特攻

木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940-1945年に内大臣を務める。

木戸幸一『木戸幸一日記』「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、------真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。(引用終わり)

4.原爆投下によって終戦の聖断が下ったという俗説は誤りである。原爆投下は、口実であり、本質は、国体を護持するためである。国体護持への危機感は、連敗続きの軍部への反感、国難を救済できない天皇への不満、共産主義国ソ連の対日参戦に由来する。民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦にあって、国民の離反が確実になる前に、終戦が決断された。近衛文磨の大元帥昭和天皇への上奏文は,当時の政治的指導者の心中を的確に映し出している。

天孫降臨の神話,三種の神器は,天皇の大権の基盤であり,象徴である。天皇が下した大日本帝国憲法によって,天皇大権が定められるのではない。万世一系の皇祖からの伝統・神勅が,国体を正当化する。三種の神器は,天皇にとって皇祖との契約でもあり,守るべき責任がある。

しかし,敵の連合国,連敗続きの国軍(日本陸海軍),困窮に陥れられた国民は,いずれも天皇の権威を認めるとはかぎらない。日本軍の統制派とソ連,中国共産党とが共謀して,国民を煽動して,共産革命を引き起こすかもしれない。昭和天皇は、国体護持に関する巨大な不安に襲われた。国体護持への不安が、大元帥昭和天皇に,終戦の聖断を下させた。  

『昭和天皇独白録』では終戦の聖断を下した理由として「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」とある。


天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、葦原中国の平定,統治のために高天原から高千穂峰に降臨した日本建国神話である。その時,王権のシンボルとして三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)が与えられ、神勅が伝えられた(『古事記』)。


写真(上左):1945年7月15日,ドイツ、ベルリン飛行場、ダグラスC-54四発軍用輸送機「スカイマスター」
:ポツダム会談に参加するアメリカ首脳陣は、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54輸送機に乗り、イギリス首脳陣は、アメリカが貸与したダグラスC-54に乗ってベルリンに到着した。アメリカの輸送機。ダグラスC-54は、プラット&ホイットニー空冷エンジンR-2000(1,290馬力)4基搭載、1942年から1947年までに1200機も量産された。最高速度:450 km/h 巡航速度:365 km/h 座席数:50名  航続距離:6,800 km 全長:28.6 m 全幅:35.8 m 全高:8.38 m 翼面積:135.6 平方メートル 自重:16,783 kg 全備重量:28,123 kg。Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-14引用。
写真(上右):1945年7月11日、ポツダム会談に出席するために、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)に乗艦、アメリカからベルギーに向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマンと先輩議員で国務大臣に就任したジャームズ・バーンズ:水平になるように置かれたコンパスを試している。President Harry S. Truman (right) and Secretary of State James Byrnes (left) work at taking a bearing while they are traveling on board the USS Augusta. They are headed to Germany to attend the Potsdam Conference. Date: July 11, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 64-379-02引用。


1945年8月9日の御前会議:ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べた。終了後,昭和天皇は木戸幸一に次のように語った。
本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。----(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])

写真(右):1945年8月、本州、広島、8月6日午前8時15分にアメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「エノラゲイ」の投下したウラン型原子爆弾「リトルボーイ」によって破壊された広島市中心街
Title: Hiroshima in ruins. Description: Hiroshima on Honshu Island lies in ruins as a result of August, 1945 atomic bombing that hastened Japanese capitulation. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946. Date: ca. August 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2460引用。


1945年8月6日、アメリカ陸軍第20航空軍(Twentieth Air Force)第509混成部隊(509th Composite Group)ボーイングB-29 爆撃機「エノラゲイ」は、広島にウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下、午前8時15分に原爆が炸裂した。
1945年8月8日、モスクワでソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフは、日本の駐ソ連大使佐藤尚武を呼び、「日本がポツダム宣言の降伏提案を拒否したため、連合国が申し出た戦争終結を早め、犠牲者を少なくするためにソ連の対日参戦提案を受諾し、8月9日から日本と戦争状態に入る」と対日宣戦布告をした。これは、ヤルタ密約で、ドイツ降伏後、2から3カ月で対日参戦するという期限が丁度到来した日時だった。8月9日未明、ソ連は満州に侵攻した。ソ連軍が日本領の南樺太、千島列島に侵攻するのは数日だってからである。
1945年8月9日、アメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」は、長崎にプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下、午前11時2分に原爆が炸裂した。

写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島。奥には、原爆ドームが見える。
[PostPhotograph of Hiroshima after Atomic Bomb.] National Archives Identifier: 22345671 Local Identifier: 243-HP-I-31-2 Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent) From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947 ARC Identifier: 22345671
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 540225引用。


写真(右):1945年9月、原爆を投下され焦土となった広島と立ち尽くす日本兵:広島市内には、太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが幾筋もの川が流れている。原爆ドームは平和公園とは元安川で分かれており、灯篭流しなど原爆の日に関するイベントは、元安川を中心に開催される。 東岸の土手も平和大通まで整備され、春は花見客が両岸にあふれ、夏はストリートアクターで賑わう。この中心が、元安橋の袂、東岸である。
Title: Hiroshima, Japan Caption: A Japanese soldier walks through the atomic-bomb leveled city, September 1945. Photographed by Lieutenant Wayne Miller, USNR. Catalog #: 80-G-473733 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Photograph by Lieutenant Wayne Miller, USNR.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-473733 Hiroshima, Japan引用。


原爆ドームは、建設当は広島県物産陳列館として、1915(大正4)年4月5日に竣工、建立者は広島県であるが、1953年に広島市へ譲渡された。設計者は、チェコ出身の建築家ヤン・レツル。地上3階一部5階建て、レンガと鉄筋コンクリートの構造で、モルタル仕上げ、玄関部分は石造り。広島県物産陳列館は、第1階は主に事務用、第2階・3階が陳列用の広島県物産品の販売の商業施設で、ヨーロッパ風の豪華な建物は、物産品の展示・販売だけでなく、博物館・美術館としての役割も担っていた。その後、1921年に広島県立商品陳列所、1933年に広島県産業奨励館と名称が変更されている。戦争末期1944年3月、産業奨励館の業務はなくなり、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材・日本木材広島支社などの物資統制・業界統制のための事務所として使用されていた。原爆の投下で大破、全焼し、建物にいた30名余は全員死亡と思われる。爆風が真上から作用したためか、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠も燃え残った。その形状から、占領後になって「原爆ドーム」という名称が普及した。

写真(右):1945年9月頃、原爆が投下された広島で病院に収容された被爆者。アメリカ海軍兵士の撮影になる。:1945年8月6日 朝8時15分、広島市上空でプルトニウム型原子爆弾が爆発、その爆風、火災で多数の死傷者が出た。原爆は、空襲に備えていたた医療救護体制も壊滅させた。生き残った医師、看護婦によって、救護活動がすぐに始められたが、器材も薬品も不足したために、被爆者に対しする応急措置も不十分だった。そこで、被災地から負傷者を市街に運び出すために、救援列車が運行された。市内中心部に進んだ列車は、途中で停車し、多数の負傷者を沿線の病院へ運んだ。原爆投下の夕方には、海軍病院の救護隊、夜には県下の町村ごとの警防団を動員した救援隊が長崎に入ってきた。しかし、放射能に直接被爆した住民以外に、彼らのように爆発直後に救護活動に従事した者、胎児など多数の人々が原爆による被害に苦しむことになった。この中には、日本人、朝鮮半島出身者、アメリカ人、中国人、インド人が含まれる。
Navy photographer pictures suffering and ruins that resulted from atom bomb blast in Hiroshima, Japan. Victim lies in make-shift hospital in bank building. National Archives Identifier: 520933 Local Identifier: 80-G-473739 Creator(s): Department of Defense. Department of the Navy. Naval Photographic Center. (12/1/1959 - ca. 1998) (Most Recent) From: Series: General Photographic File of the Department of Navy, 1943 - 1958 Record Group 80: General Records of the Department of the Navy, 1804 - 1983 This item was produced or created: 9/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 520933 NAIL Control Number: NWDNS-80-G-473739引用。


写真(右):1945年8月以降、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆したローマ・カトリック教会の司教。
Title: Roman Catholic Cathedral, Nagasaki. National Archives Identifier: 519386 Local Identifier: 77-AEC-52(4457) Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent) From: Series: Photographs of Atomic Bomb Damage to Hiroshima and Nagasaki, 8/1945 - 8/1945 Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999 This item was produced or created: ca. 1945 The creator compiled or maintained the series between: 8/1945 - 8/1945 General Note(s): Use War and Conflict Number 1243 when ordering a reproduction or requesting information about this image.
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 519386 NAIL Control Number: NWDNS-77-AEC-52(4457) 引用。


写真(右):1948年3月17日、長崎への原子爆弾「ファットマン」による被爆者。原爆の効果を調査する資料として撮影された。
Title: Nagasaki, Japan bomb victim after the atomic bomb detonation. Formerly restricted. Declassified 9/10/1959. Photograph taken March 17, 1948. John H. Lawrence Collection-351. [Photograph by: Unknown] Archives Identifier: 39147820 Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03716 Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent) From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014 Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007 This item was produced or created: 17/3/1948
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147820 Agency-Assigned Identifier: JHL-351 引用。


被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)
1. 直接被爆者 原子爆弾が投下された際、当時の地名で次の区域において、直接被爆した者。
<広島>
広島市内
安佐郡祇園町
安芸郡戸坂村のうち、狐爪木
安芸郡中山村のうち、中、落久保、北平原、西平原、寄田
安芸郡府中町のうち、茂陰北
<長崎>
長崎市内
西彼杵郡福田村のうち、大浦郷、小浦郷、本村郷、小江郷、小江原郷
西彼杵郡長与村のうち、高田郷、吉無田郷
2.入市者 原子爆弾が投下されてから2週間以内に、救援活動、医療活動、親族探し等のために、広島市内または長崎市内(爆心地から約2kmの区域内)に立ち入った者。
※広島にあっては昭和20年8月20日まで、長崎にあっては昭和20年8月23日まで。
3.救護、死体処理にあたった者
原子爆弾が投下された際、又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者。例えば、被災者の救護、死体の処理などをされた者。
4.胎児 上記の1から3に該当した方の胎児であった者。
※長崎にあっては、昭和21年6月3日まで、広島にあっては、昭和21年5月31日までに生まれた者。

写真(右):1946年1月21日、広島への原子爆弾「リトルボーイ」、長崎への原子爆弾「ファットマン」による被爆者。原爆の効果を調査する資料として撮影された。
Title: Studies of atom bomb effects on human. Formerly secret. Declassified 9/10/1959. Photograph taken January 21, 1946. John H. Lawrence Collection-193. [Photograph by: Unknown] National Archives Identifier: 39147814 Local Identifier: 434-LB-8-XBD201308-03713 Creator(s): Department of Energy. Lawrence Berkeley National Laboratory. Public Affairs Department. Strategic Resources Office. Photography Services. 2012- (Most Recent) From: Series: Photographs Documenting Scientists, Special Events, and Nuclear Research Facilities, Instruments, and Projects at the Berkeley Lab, 1996 - 2014 Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007 This item was produced or created: 21/1/1946
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 39147814 Agency-Assigned Identifier: JHL-193引用。


被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)は、2017年(平成29年)3月末現在、で
1号被爆者 10万2,346人
2号被爆者 3万6,962人
3号被爆者 1万8,158人
4号被爆者 7,155人
合計 16万4,621人である。
2001年(平成23年)3月31日時点の被爆者は、全国で21万9410人だった。

「被爆者」には、被爆者健康手帳が交付される。被爆者が病気やけがなどで医者にかかりたいとき、この手帳を健康保険の被保険者証とともに、都道府県知事が指定した医療機関に持参することで、無料で診察、治療、投薬、入院がうけられる。

1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズに降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したい希望がある」"The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, ---(日本政府は,ポツダム宣言の受諾準備よし。)

図(左):1945年9月17日発行TIMEの表紙を飾った米国務長官ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes (May 2, 1879 – April 9, 1972);米国の孤立主義から,第一次大戦の国際連盟は不参加だったが,第二次大戦後は,米国務長官バーンズが,地球儀が象徴する世界(国連)の舵取りをする。This time the method and manner would be different. Would the results be different? 国務長官バーンズは,トルーマン大統領の先輩として振る舞い,反ソ連の立場を優先し,原爆投下によって,米国の戦後の覇権を確立することを企図した。("Jimmy" Byrnes—the "Assistant President."

 1945年8月11日,米国務長官バーンズの返答
  米英ソ中を代表して,ポツダム宣言は,天皇統治権(国体)に関して言及していないが,‥傾弔全軍を降伏させるべきこと、天皇の軍隊が連合国最高司令官の下に置かれるべきこと、を要請し、暗に国体護持を認めた。

"The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration,-----
"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people. "(日本国民の自由に表明する意思によって,日本の最終的な政治体制を決定するものとす。)宮中グループは国民の国体護持への忠誠心が発揮されることを望み、かつ世論の戦争指導者への反感、国民離反、国体変革の陰謀を警戒した。

写真(右):1947年,東京裁判でA級戦犯として尋問される木戸幸一元内大臣(1889.7.18〜1977.4.6);Autographed photograph of Kido Koichi testifying at the Tokyo Trial, 1947. Collection George Picard. 木戸孝允の養子の木戸孝正の子。妻は陸軍大臣児玉源太郎の四女ツル。東京出身。近衛文麿と共に革新貴族を代表し,現状維持派の西園寺公望らと区別される。厚相・内相時代を通じ産業報国連盟顧問。1940年内大臣に就任、首相前歴者・枢密院議長からなる重臣会議を招集して、内府の責任で後継を奏請する方式を実施。近衛文麿の<新体制>を助ける。(歴史が眠る多磨霊園:木戸幸一引用) 

  木戸幸一『木戸幸一日記』二〇・七・三一(「カマヤンの虚業日記」引用)
 御召により---御前〔昭和天皇〕に伺候す。大要左の如き御話ありたり。
 先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身辺に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。----宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。

〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
 ----御文庫にて拝謁す。ソ連が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、----。首相は十時半より最高戦争会議を開催、態度を決定したしとのことにて辞去せらる。(略)
一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せりとのことなりき。(引用終わり)

1945年8月9日の御前会議の終了後,昭和天皇は木戸幸一に「忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])。

写真(右):2012年7月、アメリカ、バージニア州フェアファックス、スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センター、広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の復元・展示:スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センターはワシントンDC郊外にあるワシントン・ダレス国際空港に隣接しており、2003年12月15日にオープニングセレモニーが行われた。航空機や宇宙船300機が展示保管されており、世界屈指の規模を誇る。このセンターは、ハンガリー系アメリカ人スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーの寄贈した6500万ドルの基金をもとに建設された。
English: Boeing B-29 Superfortress Enola Gay. At the Steven F. Udvar-Hazy Center, Washington, D.C. Date 15 July 2012 Source Own work Author Photograph by Mike Peel (www.mikepeel.net). Permission (Reusing this file) CC-BY-SA-4.0. Please attribute as per the author line above.
写真はWikimedia Commons, Category: Enola Gay in Steven F. Udvar-Hazy Center File: Boeing B-29 Superfortress Enola Gay 5.jpg引用。


写真(右):2015年7月、アメリカ、オハイオ州デイトン郊外、ライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館、長崎に原爆「ファットマン」を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」の復元・展示:機長チャールズ・スウィーニー少佐の指揮で、第509混成部隊B-29「ボックスカー」は、テニアン島を離陸、小倉に原爆を落とす予定だったが、雲にさえぎられて有視界照準爆撃の条件を満たすことができす、長崎に目標を変更。長崎でも雲にさえぎられたが、原爆投下の栄誉を担いたかったスウィニーは少佐は、雲の切れ間を見つけたことにして、レーダー照準で長崎を爆撃。燃料不足でテニアン島ではなく沖縄に帰還した。1961年9月26日にオハイオ州デイトンの国立アメリカ空軍博物館に運ばれ、復元された「ボックスカー」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。
Description Description SONY DSC Date 25 September 2009, 11:35 Source Boeing_B-29-45MO_Superfortress_Bockscar_LFront_wide_Airpower_NMUSAF_25Sep09 Author Valder137
写真はWikimedia Commons, Category: B-29 Bockscar at National Museum USAF File: Boeing B-29-45MO Superfortress Bockscar LFront Airpower NMUSAF 25Sep09 (14599189432).jpg引用。


図(右):1940年3月4日号TIME(March 4,1940)の表紙を飾った米内光政海軍大将 March 4,1940海軍大臣米内光政大将(1880年3月2日〜1948年4月20日);1940年1月16日、第37代内閣総理大臣に就任したため、『タイム』1940年3月4日号の表紙を飾った。 Son of a Samurai:Admiral Mitsumasa Yonai was amazed and wildly happy. He had been aloft in giddy rigging before?had climbed to power (as Admiral of the Combined Fleet, beginning in 1936) and into politics (as Navy Minister in three crucial Cabinets, 1937-39). -----Is peace likely? As long as Japanese soldiers remain on South Chinese soil, no. As long as the Japanese refuse to discuss terms with Generalissimo Chiang Kai-shek himself?not the "Chungking Government"?no. A remote chance for peace (for a time) lies in the Japanese withdrawing to the five occupied northern provinces, the Chinese conceding them.

1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。
(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

近衛文麿(このえ ふみまろ:1891年10月12日生まれ、1945年12月16日自殺):息子は米国スタンフォード大学に留学させている。「第一次近衛声明」では「国民政府を対手とせず(帝国政府声明)」、「第二次近衛声明」では「東亜新秩序建設の声明」、「第三次近衛声明」では「日支国交調整方針に関する声明(内閣総理大臣談)」を世界に向けて発信したため、対中国強硬外交、新秩序重視の革新外交を進め、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニと並べられる状況にあった。しかし、日米開戦が東条英機首相の時期だったため、戦争犯罪者としての責任を認識していなかった。 太平洋戦争中、特に政府の役職はなかったが、五摂関家の筆頭として、天皇制維持・国体護持を望み、1945年2月14日、終戦を勧める近衛上奏文を大元帥昭和天皇に提出した。終戦2か月後の1945年10月4日、近衞文麿は、GHQ(連合国軍総司令部)司令官ダグラス・マッカーサー元帥を訪問し、日本の赤化防止、憲法改正について話し合った。しかし、1945年12月6日、GHQからの逮捕命令が出て、近衛はA級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれることが決定すると、出頭期限の12月16日未明、荻外荘で青酸カリで服毒自殺。54歳だった。
「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。-----しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といった。


近衛文麿は、1945年2月14日、昭和天皇への上奏文によって,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。 近衛文麿公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とするなど,宮中グループは,終戦の形式的な理由が与えられたことに思い当たった。

海軍大臣米内光政大将は,鋭い政治感覚の持ち主である。東京裁判(極東国際軍事裁判)では、被告ではなく証人席に立った。

1945年8月14日の最後の御前会議では,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。---戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下した(御前会議引用)。

敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは,広島・長崎への原爆投下を,終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

終戦の詔勅の「-----敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ノ測ルヘカラサルニ至ニ----」とあるが、大量破壊・大量殺戮は、原爆投下前の都市無差別爆撃でも同じだった。原爆投下は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化した。

降伏文書調印にあたっての詔書:1945年9月2日降伏調印とともに交付された詔書「映像で見る占領期の日本」引用
朕は昭和二十年七月二十六日米英支各国政府の首班がポツダムに於て発し後にソ連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し、帝国政府及び大本営に対し連合国最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合国最高司令官の指示に基き陸海軍に対する一般命令を発すベきことを命じたり、
朕は朕が臣民に対し敵対行為を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の条項並に帝国政府及び大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
               御名御璽

Japan Surrenders

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印団:前列;外相重光葵Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat),参謀総長梅津美治郎陸軍大将General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. 中列; 大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将Major General Yatsuji Nagai, Army; 終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男Katsuo Okazaki; 大本営海軍部(軍令部)第一部長富岡定俊海軍少Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; 内閣情報部第三部長加瀬俊一Toshikazu Kase; 大本営陸軍部(参謀本部)第一部長宮崎周一陸軍中将Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. 後列(左から右に): 海軍省副官横山一郎海軍少将Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; 終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎Saburo Ota; 大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐Captain Katsuo Shiba, Navy, 大本営陸軍参謀・東久邇宮総理大臣秘書官杉田一次陸軍大佐Colonel Kaziyi Sugita, Army. Naval Historical Center(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:ミズーリ号艦上の降伏調印式参照)。

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