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日本の原爆開発◇Japan's Atomic Bomb 2006
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◆日本の原爆開発:核兵器使用の可能性◇Japan's Atomic Bomb


写真(上左)日本海軍の九六式陸上攻撃機による都市無差別爆撃の画像
:(1937-40年頃):1937年の日中戦争の勃発(支那事変)直後,南京,上海,杭州を長距離飛行後,無差別爆撃した。航続距離の長さ、(出現当初の爆撃機としては)高速のために、三菱の世界的傑作機といわれる。 写真(上右):1945年8月、原爆投下後、路面電車の石畳を避難する人々の画像:Survivors moving along the road after the atomic bombing of Nagasaki, Japan. (August 1945) 写真はともに20th century history:The New York Times Company引用。


1938年6月5日,日本機の重慶爆撃に「十八梯防空壕入り口」で窒息死した市民の画像;重慶空襲後の防空壕の入口に横たわる700余体の女性と子供の死体。人民網日本語版2005年6月6日によれば、「6月5日は、『6・5重慶防空壕大爆撃』から64周年目にあたる。1941年6月5日、旧日本軍が重慶の防空壕を爆撃し、防空壕に避難していた2500人が死亡し、世界を驚愕させた。旧日本軍は重慶で1938年から5年間にわたる空爆を行ったが、それは『重慶大爆撃』と呼ばれている」とある。重慶爆撃の画像で、避難民が混乱で圧死したともいうが、防空壕内で窒息して亡くなった人々を外の階段引き出したのかもしれない。空爆のもたらす虐殺、大量殺戮、大量破壊は「空からは見えにくい」が、地上での死傷者、犠牲者の視点も忘れられない。
Casualties of a mass panic; during Japanese air raid, 4,000 people were trampled or suffocated to death trying to return to shelters. Chungking, China, June 5, 1941. The U.S. National Archives and Records Administration(アメリカ公文書館). Local ID: 208-AA-132N(4)
Creator: Office for Emergency Management. Office of War Information. Overseas Operations Branch. New York Office. News and Features Bureau.


読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、核兵器保有、軍備強化、独裁政権獲得という本音のようだ。
【アジア太平洋戦争インデックス】/重庆大轰炸Chongqing: Bombing Days - Episode 1 重庆大轰炸Chongqing: Bombing Days - Episode 2 重庆大轰炸Chongqing: Bombing Days - Episode 3Imperial Japanese Army/Navy Air ForceChinese Army vs Japanese Army 1937
サイパン島・テニアン島玉砕戦日本本土空襲
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1.1939年8月2日、第二次大戦勃発1ヶ月前,アインシュタインは,ナチスからの亡命科学者シラードの勧めで,ルーズベルト米大統領に,ナチスより先にアメリカが原爆を開発するように促した。その後,太平洋戦争勃発半年後の1942年6月になって、ルーズベルト大統領は、ドイツの原爆開発に対抗して「マンハッタン計画」と呼ばれることになる原爆開発を推進することを決めた。つまり,原爆開発の契機は,枢軸国が原爆を開発しているので,それに対抗するために,原爆を開発し,先制使用することだった。原爆開発競争が開始された当初,原爆投下の是非は,全く問題にはならなかった。

写真(左):アインシュタイン博士から米ルーズベルト大統領に宛てた原爆開発を促す手紙;2ページある手紙の第1ページ目。手紙署名はアインシュタインのみで、シラードの名はない。The Letter from Albert Einstein to President Franklin D. Roosevelt(About>Business & Finance>Inventors)引用。

1939年ドイツで核分裂現象が発見されると、原子爆弾の開発可能性が話題となった。ドイツのアイゼンバーグ Werner Karl Heisenberg(1901-1976:1932年ノーベル物理学賞受賞)は,ウラン235の核分裂のエネルギーが、原子爆弾に応用できることに気づいていた。そこで、ナチスに対抗するために,ドイツから亡命したシラードLeó Szilárdらは、当時から世界的な著名人であったアインシュタインAlbert Einstein に働きかけ、米ルーズベルトFranklin Roosevelt大統領に米国がドイツよりも先に原爆を開発するように促した。このアインシュタイン・シラード原爆開発提案手稿が書かれたのは、1939年8月2日、第二次大戦が始まる1ヶ月前のことであった。

1939年9月1日、ドイツ軍ポーランド侵攻。英国は、直ぐにドイツに宣戦布告。米国による原子爆弾開発を望み、原爆開発に関する情報を全て米国に譲渡する。

参戦していない中立国とはいっても、米国の原爆開発は、徐々に加速された。1941年、全米科学アカデミーNational Academy of Sciencesは、ドイツに対抗すべく原子爆弾を全精力を傾けてall-out effort 開発することを求め、1941年10月6日、米国ルーズベルト大統領は、「マンハッタン計画」と呼ばれることになる原爆開発を、全精力を傾けて推進することを決めた。米国は参戦していないうちに、原爆開発を開始したが、投下目標は枢軸国ドイツであった。

J・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer, 1904年4月22日-1967年2月18日)は、ドイツ系ニューヨーク生れ、母は東欧ユダヤ人で、ハーバード大学卒業。イギリスのケンブリッジ大学留学後、キャベンディッシュ研究所で物理学や化学を修め、科学者ニールス・ボーアと理論物理学を研究。ゲッティンゲン大学で博士号取得。

オッペンハイマーは、1942年開始された原子爆弾開発「マンハッタン計画」に参加し、1943年にはロスアラモス研究所の初代所長に就任し、原爆開発を主導した。

イタリア人エンリコ・フェルミEnrico Fermiは、1938年ストックホルムでノーベル賞物理学を受賞、受賞理由は、中性子衝撃による新放射性元素の発見と熱中性子による原子核反応の発見である。しかし、妻のローラLaura Caponはユダヤ人であり、 ユダヤ人迫害を行うドイツの影響を恐れ、そのままファシスト・イタリアを離れ,米国に亡命。1939年1月,コロンビア大学Columbia Universityでウラン235の核分裂連鎖反応を研究に参加し、1941年10月,米国での原爆開発に加わった。

1942年8月,マンハッタン計画が発足,1942年9月23日に、グローブズ准将がマンハッタン計画指揮官に就任。フェルミは、1942年12月2日、シカゴ大学で世界初の核分裂連鎖反応の制御に史上初めて成功。テネシー州オークリッジでは,原爆用の濃縮ウランを製造,ワシントン州ハンフォードにプルトニウム生産炉を建設,1944年運転開始。


写真(右):マンハッタン計画の指揮官グローブズ准将;Leslie Groves From Wikipedia引用。


レスリー・グローブズ准将Leslie Richard Groves (1896年8月17日 - 1970年7月13日)
ワシントン大学・MITを経て、1918年陸軍士官学校 West Point卒業。陸軍工兵隊 Army Corps of Engineersに入隊。
1936年参謀大学General Staff College、1939年陸軍大学Army War College卒業、1940年陸軍大佐。
1942年9月、准将Brigadier Generalとなり、マンハッタン工兵管区Manhattan Engineer District of the US Army Corps of Engineersの指揮官となる。前任者は、ジェームズ・マーシャルJames Marshall大佐。

陸軍工兵隊Army Corps of EngineersグローブスLeslie R. Groves准将が、マンハッタン工兵管区司令官になった1942年9月、「マンハッタン計画」The Manhattan Project と呼ばれる原爆の開発計画が本格的に開始。1942年中に史上初の原子核連鎖反応の実験に成功、1945年7月16日、プルトニウム239の核爆発実験「トリニティー」大成功。

原爆開発のために、全米19州とカナダに計37の工場が動員された。ワシントン州でプルトニウム生産,テネシー州でウラニウム濃縮とプルトニウム生産などに支えられ,Los Alamos(ニューメキシコ州)で原爆製造計画が始動した。原爆開発には 科学者、軍人、公務員など6万人が参加、予算20億ドル(2004年換算200億ドル)が投入された。(⇒B-29爆撃機による日本本土無差別爆撃(1944年6月-1945年8月)参照。)

2.1944-45年の日本本土空襲、原爆投下によって数十万人の日本人が殺戮された。しかし、その7年前、日本も中国の諸都市を無差別爆撃していた。大規模な都市無差別爆撃、特に敵首都への戦略爆撃は、世界で初めてだった。米軍では,ミッチェルらが航空機による対艦船攻撃を主張していたが,四発エンジンの大型爆撃機の開発が開始された。1934年,米軍は、四発重爆撃機の開発を計画したが,本格的な量産開始は,1939年の第二次大戦のころからだった。1937年当時の日本軍は,戦略爆撃を始めて長期間実施した先見の明ある航空隊をもっていた。

1937年4月26日、スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)中のバスク地方ゲルニカGuernicaが、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍「コンドル軍団」 Legion Condorの爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。
1937年8月第二次上海事変後、上海駐留の日本海軍陸戦隊や艦隊を支援する目的で、第一連合航空所属の木更津航空隊を朝鮮半島南の済州島に、九州の鹿屋航空隊を台湾の台北に進出させた。そして、1937年8月14日から1週間、上海の中国軍航空基地を爆撃し、中国の首都南京や南昌を空襲した。 1937年8月の日本海軍航空隊による南京空襲こそ、世界初の首都への戦略爆撃である。日本軍は、先見の明があった。

写真(右):日本海軍の九六式陸上攻撃機(1937-40年頃):1937年に南京,上海,杭州を長距離飛行後,無差別爆撃した。航続距離の長さ、(当時の爆撃機としては)高速のために、三菱の世界的傑作機といわれる。しかし、防弾がなく、防御機銃が低性能だったために、迎撃にはもろかった。

1937年8月15日の長崎県大村基地からの渡洋爆撃では、日本海軍の新鋭九六式陸上攻撃機(中攻)G3M20機が、南京まで960kmを往復4時間で飛行。爆撃機は、1機当たり60kg陸用爆弾12発を搭載、2ヶ所の飛行場を爆撃目標とした。爆弾が目標以外の市街地にも落ちることは当然許容されていた。これが、無差別爆撃ということである。(そうでないなら、目標を逸脱した爆撃失敗の責任が生じる)

海軍航空本部教育部長大西瀧治郎大佐(後の特攻隊司令官)は、1937年11月15日経済倶楽部にて「南京に対してどの位空襲をおこなったかと申しますと空襲回数36回で飛行機の延機数は600機、投下爆弾は約300トン」と述べた。

都市への無差別爆撃の目的は、商業施設・住宅・交通網に打撃を与え,労働者を殺傷し、軍需生産を停滞させ,生活難に市民を陥れて厭戦気分を起こさせることである。工場、住宅,繁華街など爆撃目標は,爆撃機部隊ごとに定められている。無差別爆撃は,市民も軍人と同等に無差別に扱い,爆撃目標にいる市民に一切関知しないということである。

写真(左):日本機に爆撃された上海鉄道駅:日本の上海爆撃は、租界を持つ英米にも経済的大打撃を与えた。無差別都市爆撃の非人道性は、反日プロパガンダとして盛んに宣伝された。子供だけの写真は、米国の写真雑誌Life(1937年)に掲載され、米国人の反日感情を高めることに寄与した。日本軍が中国軍の報復能力を低く見ていたため、(米軍による日本空襲よりはるかに小規模な)都市爆撃を行ったが、「無差別爆撃」として世論の反感を盛り上げた。第二次上海事変、続く日中戦争を取り巻く国際世論は日本軍には不利に傾いていった。

近衛文麿首相は、1937年8月15日「暴支膺懲」の声明を発表した。日本は、武力反抗する暴虐な民として、中国を懲らしめようとした。1944-45年に米軍が日本を空襲、原爆を投下したのも、抵抗を続ける日本を懲らしめるためである。米国人が、日本本土空襲を非人道的行為だと反省するはずがない。

後の米軍は、日本の民間人を殺傷する日本の都市爆撃、商船撃沈を躊躇しなかった。真珠湾攻撃の3時間後、1941年12月7日、米軍は無制限潜水艦作戦の指令を出し、日本の民間商船を軍艦と無差別に撃沈することとした。1942年5月、ドーリットル空襲(日本への16機のB-25による東京・横浜などへの爆撃)でも、目標は都市中心部である。

日本は、大元帥昭和天皇以下、軍上層部は、対中国戦と対米英戦とに分けて考えていた。中国には、都市無差別爆撃、毒ガスなど化学兵器の使用をためらわなかった。米英には報復を恐れて、躊躇した。しかし、米軍は日本軍の報復を恐れなかった。日本軍が中国軍の報復能力を低く見ていたのと同じく、大都市を躊躇なく無差別爆撃した。

報復力のない敵に対しては、非人道的な大量破壊,大量殺戮を実施できたという点で、日米両軍は共通している。英独航空戦では、双方とも、当初、相手国の都市への無差別爆撃を控えていたのと対照的である。

上海事変・渡洋爆撃と日中全面戦争参照。


写真(左):日本機に爆撃された上海
:上海爆撃は、租界を持つ英米に経済的打撃を与えた。このような無差別都市爆撃を行う日本に対して抗議した米国だったが、太平洋戦争では、民間人を殺傷する日本への都市爆撃を全く躊躇しなかった。日本軍が中国軍の報復能力を低く見ていたのと同じく、米軍は日本軍の報復(米国への無差別爆撃)能力を低く見ていたといえる。1937年9月3日、日本機の空襲を受けた上海バンド(埠頭近くの中心街):長江(揚子江)は,三峡手前の中流まで,大型船が航行できる。大型船を横付けできる港湾,埠頭もあった。上海のバンドに停泊するのは米国海軍巡洋艦「オーガスタ」AUGUSTA

日本の雑誌「少年クラブ」(1940年)には「重慶を爆撃に!!」の見出しで、「X月X日 快晴。すばらしい爆撃日和」の記事がある(「快晴、素晴らしい爆撃日和。重慶を爆撃に!!」..??引用)。

1938年2月から1943年8月までの5年間、中国の戦時首都・重慶を218回爆撃,合計9513機出動、爆弾2万1593発を投下、市民1万2889人を殺害、1万4700人を負傷させ、家屋1万7608軒を損壊させた。これは、1945年の米B-29爆撃機の日本本土空襲1〜10回分に相当する程度で、1944-45年の連合国の空爆と比較すれば小規模である。しかし,都市無差別爆撃の嚆矢であった。

1940年8月から重慶空襲に零戦が出撃している。零戦の実戦デビューは、中国無差別爆撃の護衛戦闘機としてである。1940年9月13日、零戦13機が中国機13-27機を撃墜した。(Zero Fighters in Chongqing and Pearl Harbor:Wakamiya Yoshibumiおよび中華人民共和国駐日本国大使館 重慶2005/08/06発新華社参照)。


写真(右)1937年上海爆撃の死者;国際都市で租界もある上海市内の南京路など繁華街が爆撃され、多数の死者がでた。この爆撃は、上海沖の日本海軍艦艇を空襲した中国爆撃機による被害かもしれない。日中双方で、敵は都市無差別爆撃を行い民間人を犠牲にしていると非難した。

☆重慶無差別爆撃☆によれば、1938年2月19日「東京日日新聞(現、毎日新聞)」は、1面で「長駆、重慶初空襲」「重慶市民狼狽」の見出しで報じた。1941年6月24日-29日までの6日間には記録的な連続爆撃が行われ、1941年8月20日、日本海軍陸攻90機、日本陸軍重爆18機、合わせて108機による大空襲をかけた。

中国の漢口から重慶を空爆した日本機は、延べ2400機、1万5000tの爆弾を投下、2万3600人の民間人を殺害。行方不明者も含め推定3万5000人以上の損害を与えた。重慶では世界各国のジャーナリストが取材し、日本は国際的非難を浴びた。最後の重慶空襲は1943年8月23日。(☆重慶無差別爆撃☆引用おわり)。


写真(右):日本陸軍航空隊の川崎三式戦闘機キ61「飛燕」
:1944年12月、B-29を撃墜すべく、無武装、軽量化した体当たり専用機が準備された。日本本土空襲を受けると、爆撃部隊ではなく、防空戦闘機部隊が戦争英雄となった。Rod's WarBirds:Ki-61引用。


世界初の本格的な戦略爆撃は,1937年8月、日本軍による中国への首都爆撃、都市無差別爆撃である。1940年11月から1943年8月には、中国の首都重慶への長期間の無差別爆撃が実施された。戦略爆撃の嚆矢となった日本は、1944年11月以降、より大規模に戦略爆撃を受ける。米軍の日本本土空襲は、中国本土空襲への報復という負の遺産ともいえる。日本人は中国人が空爆の下でどのような体験をしたか、空襲の悲劇はどのようなものかを知った。

1937-1940年の日中戦争(日華事変)の時代、中国を空爆した日本機に拍手喝采を送った日本人は、1944年から空爆される側になって、初めて、空爆の非人道性を理解できたのかもしれない。未だに大規模に空爆された経験のない米国人は、どのようにして空爆された側の気持ちがわかるのか。それとも9.11以降、理解したのか。


長崎原爆資料館「C-1 日中戦争と太平洋戦争」は、1931年9月の満州事変から太平洋戦争まで、15年間の戦争を扱っている。「とりわけ日中戦争の長期化は、国内の統制経済と国民支配の強化をもたらし、さらに日本の南進政策は米英仏蘭との対立をまねき、より過酷な太平洋戦争へと国民を導いた。日本人だけでなく、アジア諸国の多くの民衆が戦争に巻き込まれ、さまざまな形で犠牲となった。」とwebにある。

原爆に関して世界平和を論ずる場合、総力戦にあって、市民・兵士全てが、戦争の被害者・犠牲者であったが、同時に、加害者として動員に協力し、参戦していたことは認識しておくべきであろう。

3. 1941-42年、日本陸海軍は別々に原爆開発を開始した。日本の技術、人材、設備、資源では原爆開発は不可能であったが、日本の原爆開発は1945年まで継続された。ドイツからウラン235を譲渡されることになったが、日本派遣潜水艦U-234は、ドイツの敗戦で、米国に降伏。ウラン入手が不可能となった日本は、1945年6月に原爆開発を放棄した。万が一、日本が原爆を開発したら,戦局挽回のために、原爆の先制使用を躊躇しなかったであろう。

仁科芳雄 原子物理学の父 日本の原爆開発wikipediaによれば、1940年、理化学研究所の仁科芳雄博士が、陸軍航空技術研究安田武雄所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれる。それを受けてか,1941年4月、日本陸軍航空本部は、安田武雄理化学研究所の大河内所長に原爆開発を要請し、仁科芳雄研究室が「ニ号研究」(「ニ」はニシナの頭文字)が受託し、ウラン濃縮研究を開始した。

1943年1月、理化学研究所の仁科芳雄 博士を中心に、天然ウラン中のウランU235を熱拡散法で濃縮する計画がはじまり、1944年3月、理研に熱拡散塔が完成した。他方、日本海軍も1942年に核物理応用研究委員会を設け、原子爆弾の可能性を検討しはじめた。

日本軍が具体的に原子爆弾の開発を開始する以前に、科学評論や戦記小説の中で、書くエネルギーの軍事利用が注目されていた。第一大戦直後、『新青年』大正9年7月号「将に開かれんとする世界の最大秘密の扉」では次のように原爆を語った。
 「バーミンガム大学のアーネスト・ラザフオード教授-----は、原子(アトム)を分解する事に成功した。で、----或る「力」を解放するに至つた。そして人間を殆ど神様と同様の物にするか、それとも人類文明なるものを粉微塵に破壊して終ふかも、実にこの「力」の掌中に握られてゐるのである。」
 「日本に居て米国の市街を灰燼に帰せしめる力」:「若し右の方法が成功した場合には、恰も今日無電が大洋を越える事が出来るやうに、吾々は原子力を放つて、この大地を透過させ、地球の反対の面、例へば日本から云へば亜米利加の一市街を灰燼に帰せしめるやうな事が出来やう。

 「原子爆弾(アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」:「若しこの原子力が、誤れる掌中に入つたならば何うか?/例へば前独逸皇帝の如き人が、この力の秘密を得たならば、其結果は何うであらうか?恐く彼れは、ポツダムの安楽椅子に腰を下して、軽く机上のボタンを押し、それに依つて容易に文明を灰燼に帰せしめることが出来やう…が、併しこれが有益に使用された暁には、人類を塗炭の苦しみに陥るゝ彼の戦争なるものは、永久に不可能のものとなるに相違ない。何となればこの原子爆弾の威力に対しては、如何なる強国と雖も対抗できぬからである。…」(『新青年』大正9年7月号/「世界の最大秘密:モリオカ三行日記」引用終わり)

ポツダム宣言、原爆投下、ビキニ環礁の対艦船核実験は、この予言的評論から26年後のことである。

写真(右):1945年、空爆で破壊された東京:原爆投下による大量破壊と大量殺戮は、すでにB-29による無差別爆撃で、日本全土に広まっていた。その意味で,無差別爆撃の延長線上に原爆投下がある。

『新青年』(第二十五卷)七月號(1944年)米本土空襲科學小説「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ・・立川賢 」は、戦争末期の空想科学的な戦記小説である。内容は、日本が原子爆弾を完成し、原子力エンジン搭載の爆撃機で、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下し、ビルを壊滅させ,70万人を殲滅して、戦局を逆転するというものである。
編輯後記では「米本土空襲、爆砕の夢は吾人の抱くもののうちもっとも大いなるもの。本号では立川賢氏が科学的見地に立っていち早くそれを実現してくれた。夢を夢とするは痴人である。戦うものにとっては、あらゆる夢は現実でなければならない。ワシントン城下の誓いに拍車をかけよう。」と記した。民間人殺戮という非人道性を一顧だにしない点で、戦局挽回の市民的願望がこもっている。(→)『新青年』1944年7月号/「遅すぎた聖断」昭和天皇と日本製原爆開発計画;山崎元引用)  

「新青年の世界」によれば、『新青年』には次の読み物が掲載された。
1944年の『新青年』第二十五卷八月号「具足一領(武士道小説)・・横溝正史」「狂人ルーズベルト・・大島謙」
第二十五卷九月号「最後の一人最後の一銭まで・・陸軍中將本間雅晴」「讀切長篇冒險小説 無限爆彈・・守友恒」
第二十五卷十月号「爲武士者・・吉川英治」「平熱・・大佛次郎」「軍人援護の強化・・軍事保護院總裁 本庄繁」
第二十五卷十二月号「竹槍・・横溝正史」

■米英ソ独日の全ての軍隊が敵に勝利する最新最強の兵器を希求していた。原爆の投下は、大量破壊・大量殺戮を意味するが、それが戦勝・早期終戦と同列に語られた。原爆投下の可否が、人道的観点から議論されることはなかった。強力な新兵器を望む軍は、使用の可否ではなく、どのように使用するかを議論・研究する。


写真(右):日本に向かう途中、米軍に降伏・拿捕されたドイツ潜水艦U-234;1945年5月14日、米軍に降伏し、酸化ウラン(U235)を入手できなくなった日本は、原爆開発を翌6月には中止した。艦橋には、37ミリ対空機関砲(右)1門と、20ミリ連装機銃2基が、降伏の印に真上に向けられている。PORTSMOUTH NAVAL SHIPYARD PHOTOGRAPHS引用。


1945年3月24日、ドイツ海軍は、アジア派遣潜水艦"Monsun Boats"モンスーン・ボートの1隻として、機雷敷設Uボート招B(排水量1760トン)U-234を選んだ。U-234は、酸化ウランUranium Oxide(U235)560kg、ジェット戦闘機Me262やジェットエンジンの部品・設計図など機密物資260tを運搬し、日本海軍庄司元三技術中佐と友永英夫技術中佐、ドイツ空軍ウーリッヒ・ケスラー大将、海軍士官4名、ドイツ人技術者2人などを日本に送り届ける任務をうけてキール軍港を出港した。

しかし、1945年5月8日、日本に向かうU-234は、大西洋上でドイツ無条件降伏の打電を受ける。Uボート乗員たちは討議の末、日本人士官二人を監禁し、洋上で米軍に降伏することを決める。


写真(右):ドイツ潜水艦U-234を拿捕した米海軍将校(右端と左二人目)と捕虜となったドイツ海軍将校;米護衛駆逐艦「サットン」乗員がU-234に乗艦し、ポーツマス基地まで監視・誘導した。American and German officers relax aboard U-234Photos and Articles of Seaman Harry O'Brien引用。日本人将校2名は既に自決していた。降伏、投降していれば、原爆開発について厳しい尋問を受けたはずだ。しかし、戦後、日本に帰国できたであろう。

1945年5月14日、UボートU-235は、米護衛駆逐艦「サットン」SUTTON (DE 771)に降伏した。「サットン」は,基準排水量1240t、速力21ノット、3インチ砲3門装備の護衛駆逐艦である。Uボート乗員の負傷者はゼロ、米軍側拿捕要員が小火器の誤射で負傷、ドイツ軍医師も緊急手術に協力したが、1週間後、死亡。(US Coast Guard Combat:U-234引用)

Uボート拿捕前、日本人海軍士官2名は服毒自殺。
Uボート拿捕、米国回航のニュースは、一般公開され、ドイツ軍将官の乗艦も確認された。南米に脱出するヒトラーが乗艦しているとの噂も流れた。
1945年5月19日、日本に原爆用ウランU235を運搬しようとしたUボートU-234は、米国ポーツマスPORTSMOUTH基地に抑留された。搭載物資は、揚陸され、米軍の管理下に置かれた。少量のウラン235よりも、ジェット戦闘機、誘導爆弾、魚雷などの実物と設計図のほうが米軍には価値があった。U-234は1947年11月20日に魚雷で海没処分された。

写真(右):ポーツマス基地で酸化ウランなど搭載物資を揚陸するドイツ潜水艦U-234(右);日本軍に譲渡するジェットエンジン,誘導爆弾など260tの秘密物資を搭載していた。原爆開発研究用に酸化ウラン560kgも含まれる。Cargo included three crated Messerschmidt aircraft (two Me-262 jet fighters, ME-163 rocket-propelled fighter), Henschel HS-293 glider-bomb, extra Junkers jet engines, 10 canisters of uranium oxide, a ton of diplomatic mail, and over 3 tons of technical drawings, plus other technology, torpedo, fuses, armour piercing shells, etc.(U-234引用) 写真はU-Boats in the Far East:German Transport Boats引用。拿捕された2隻のUボートが写っている。

ドイツから日本へ派遣されたUボート酬BのU-234搭載のU235酸化ウラン560kgは、日本の原爆開発用であった。しかし、これは濃縮ウラン3.5kg相当に過ぎず、原爆に必要な50kgに到底及ばない。そこで、ウラン搭載を過小評価し、日本の原爆開発などとるに足りないとする日本人識者が多い。しかし,日本も原爆開発をして、米国を攻撃するつもりだったのであれば、日本に原爆が投下されたのは、原爆開発競争に負けた結果だったとされてしまう。

酸化ウランU235は、放射能兵器として利用できた。米国本土空襲のためには、運搬手段として風船爆弾が利用できた。U-234搭載の酸化ウランU235を、オッペンハイマー博士が検視した。

ドイツ潜水艦U-234の搭載していたウラン235は、1945年5月14日に米軍の手に落ち、日本には届かなかった。そのため、日本は、1945年6-7月、原爆開発研究を中止した。ただし、中止の名目は、連合軍でも原爆開発は不可能であるということである。

1945年6月18日、軍用材料、火薬化学工業の研究開発をする。

陸軍第八技術研究所から、上級の陸軍兵器行政本部に一通の報告書が届けられた。
『アクチノウラン』(U235)研究現状 昭和二十年六月十八日 第八陸軍技術研究所
 一、理研仁科研究室ニ於ケル熱拡散法ニヨル「アクチノウラン」分離ノ研究ハ、数回ノ実験ノ結果不可能ナルコト判明シ、「アクチノウラン」ノ原子核「エネルギー」ノ研究ハ中止スルコトトナレリ。
二、「アクチノウラン」分離ハ目下殆ド不可能ナルコトヲ以テ、敵国側ニ於テモ「アクチノウラン」ノ「エネルギー」利用ハ当分為シ得ザルモノト判明セルヲ以テ、研究ノ中止モ不可ナラズト考ヘラレアリ。
三、京都帝国大学理学部荒勝教授ハ別ニ遠心分離法ニヨル「アクチノウラン」分離ニ就キ研究中ノ由ナリ。(此研究ハ海軍関係ト連絡研究中ノモノナリ。)
付記 一、「アクチノウラン」利用ノ研究ニ関シ軍需省ハ「ウラン含有鉱物」ヲ奨励鉱物トシソノ産出ヲ助長シアルヲ以テ、「アクチノウラン」利用ニ関スル研究中止ニヨリ陸軍省トシテ「ウラン含有鉱物」ヲ必要トセザル場合ニハ、至急非鉄金属局鉱山第二課長ニ連絡スベキコト。(→「遅すぎた聖断」昭和天皇と日本製原爆開発計画;山崎元引用)

 ウラン235を用いた日本陸軍の原爆開発は、1945年6月に中止された。そして、海軍の研究も1945年7月に放棄された。連合国の原爆開発は不可能であるというのがその理由であるが、ドイツからのウラン235入手が不可能になったことが影響していよう。原爆が非人道的兵器であるといった今日的理由は、一切配慮されていない。枢軸国の原爆開発こそが、連合国による原爆開発の第一番目の口実(アインシュタインの手紙)であったことが思い起こされる。

現在でも、Robert K. Wilcox(1995)Japan's Secret War: Japan's Race Against Time to Build Its Own Atomic Bomb は、日本の原爆開発を過大評価しているようである。日本が原爆を開発し、米国に原爆投下をするより先に、米国が日本に原爆投下をした。このような原爆開発競争論は、日本の原爆開発を、米国の原爆投下を正当化する口実とした。

米国は人種的,民族的偏見もあって、日本人による原爆開発は不可能であると決めてかかっていたのであろう。日本軍による米国への原爆投下に先んじて、米国が日本に原爆を投下した、とするのは、戦後の俗説である。

もしも日本が原爆開発に成功していても、5トン以上の原爆を運搬するには、艦船しかなかった。本土決戦用に、沖合いに終結した連合国輸送船団の真っ只中で、特攻自爆するのに使用できたかもしれない。日本軍が原爆を保有していたら、戦局挽回のために当然使用したはずだ。所詮、軍隊とは、最新最強の兵器を使用したがるものだ。


写真(上左):テニアン島赤十字部隊とのキャンティーン(食事交歓会)
:1944-45年、婦人も含む赤十字と楽しいひと時を過ごすテニアン島航空部隊の隊員たち。写真(上右):グアム島第20航空軍B-29爆撃部隊第319部隊の宿舎:1944年8月に米軍が占領したグアム島の「ノースフィールド基地」。The 20th Air Force's five wings were divided into 20 Bomb Groups. This is the history of one of those Groups. The 39th - stationed on Guam, the southernmost island in the Marianas. The combat missions they flew against Japan ultimately brought them two prestigious Distinguished Unit Citations. to Keith Materi for the use of these photos from his father, Lawrence Materi's collection. His Father was with the 19th Bomb Group.39th Bomb Group Photos引用。


4. 日本への原爆投下の理由は,最新兵器の実験,戦略爆撃の延長としてであり,戦後も原爆の開発予算を獲得するという軍事的視点が重要である。対ソ外交を有利に運ぶために原爆を投下したというのは,政治家の視点である。

<原爆投下の理由>
1.1945年7月26日のポツダム宣言を、翌27日、日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとするポツダム宣言黙殺説
 鈴木貫太郎首相が、7月27日ポツダム宣言黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断された。しかし、鈴木首相は当初から和平交渉を拒否し、徹底抗戦すると公言していた。この徹底抗戦という組閣当初からの方針を述べただけである。鈴木首相は、世界に向かって降伏の呼びかけを拒否したのであるから、鈴木内閣が終戦のために組閣されたという俗説は、これで誤りであると証明される。しかし、鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言をする以前に、米国は日本への原爆投下を決定していた。これは、マンハッタン計画指揮官のグローブズ准将の作成した原爆投下命令書によってである。したがって、ポツダム宣言黙殺説は成り立たない。

2.米政府・米軍の公式見解といえる終戦和平説
 日本上陸作戦を実施した場合、戦後のスチムソン陸軍長官の回顧録では、100万人の死傷者がでると、過大に見積もっている。これには、軍事的根拠はないが、原爆投下の正当性を訴える目的で、戦後になって死傷者の存在に注目した後付けの説である。
これが本当であれば,日本上陸作戦の死傷者がどれくらい出るのか、原爆投下によって日本本土上陸作戦を行わなくても、直ぐに日本が降伏するのか、事前に何回も検討していたはずである。しかし、そのようなことはほとんど議論されていない。
 原爆投下されたために日本が降伏したと誤解している識者も多い。最新機密兵器である原爆の技術と威力について、日本の指導者たちは認識・理解できなかった。彼らが危惧したのは、日本国民、日本軍の一部が、すでに敗北続きの軍上層部・政治指導者に反感を持っていたことである。このままでは、国体を覆す革命が起きてしまうと危惧していたのである。

3.米終戦後のソ連封じ込め説(対ソ外交説)・世界覇権掌握説
 ドイツ降伏までは、連合軍として共同歩調を取ってきたソ連であるが、ポーランド復活をはじめ、欧州の戦後処理では、すでに英国と激しく対立した。冷戦は既に始まっていたのである。米国でも、ルーズベルト大統領が死去すると、トルーマン大統領の先輩議員である国務長官バーンズは、原爆をソ連に対する外交を有利に運ぶための手段として、使用することを強く求めた。米国の同盟国のソ連に事前に通知することなく、日本に原爆を投下し、日本を壊滅させることで、たとえソ連の参戦があっても、戦後の日本占領政策に、ソ連が深入りすることはできない。そのためには、原子爆弾が巨大な破壊力を持つことを世界に示し,原爆を保有する唯一の国家米国こそが、世界最強の軍事大国であることを証明することが有利である。よく、対ソ外交を有利に展開する手段として、原爆を投下したといわれるが、英国,フランス、中国も含めて,国連常任理事国の中で,傑出した兵器を持っていることを実際に使用して,世界に示す=世界の覇権掌握こそが、より高次元の原爆投下の理由であったと考えられる。

4.米軍新兵器実験説・米陸軍世界最強立証説
 現在でこそ、核兵器の威力を世界の人々が知っているが、1945年8月以前、原爆は未知の兵器で,その威力は、極秘のうちにトリニティ(原爆爆発の初実験)で立証されていただけであった。破壊力のある革新的兵器を手にした米陸軍は、その威力を実戦に使用して、確認したかった。また、威力を世界に示すことで、米陸軍こそが世界最強であるとの証明にもなる。米海軍との対抗して、米議会で多額の予算を獲得するにも、原爆の威力を見せつけることは有利である。米海軍も原爆を保有したかった。そこで、米陸軍に対抗して、海軍は、対艦船攻撃用の原爆、潜水艦搭載の核兵器の開発を早急に進めることになる。ビキニ環礁の原爆実験は、艦船への破壊力を観察することにあった。

5.戦後の軍事予算獲得説
 原爆を開発/製造するために膨大な予算を獲得するには、原爆の威力を議員たちにも納得してもらう必要があった。既に20億ドルが投じられたのは、戦時の極秘計画だったからで、終戦後は、各種兵器の増産は終了させられる。実際、空母などの大型艦船、B-17爆撃機など航空機は、量産が停止させられた。兵器生産の多くが終了すると考えられる戦後世界で、原爆に多額の資金を投入し続けるには,米議会と選挙民に原爆の威力を示す必要があった。原爆予算だけは削減できないものであると議会と世論に訴える必要があった。

6.連合国と枢軸国との原爆開発競争に勝った米国が原爆を先制使用しただけという原爆開発競争説
 1939年のアインシュタイン・シラードのルーズベルト大統領当ての手紙では、ドイツが原爆開発を成功させる恐れがあり、それに先んじて、米国が原爆を開発すべきであることを訴えた。ドイツの科学力,技術力を高く評価していたからである。日本軍も1941年から優秀な科学者を動員して原爆を開発しようとした。そこで、日本が原爆を開発し、米国に原爆投下をするより先に、米国が日本に原爆投下をしただけであると主張される。
 しかし、実際には、日本の化学力,技術力で原爆を開発することは不可能であった。当時の米国は、科学的根拠をもとに日本の原爆開発能力を評価したわけではなかったようだ。しかし、人種的,民族的偏見から、日本人による原爆開発の可能性を信じていなかったと考えられる。したがって、原爆開発競争説は、日本への原爆投下の理由として、戦後になって主張された説である。ただし、ドイツの原爆開発には、連合軍は神経を尖らせていた。ノルウェーにあった重水生産工場を特殊部隊を送って破壊したほどである。

7.通常爆弾による無差別爆撃の延長線上に原爆投下があるという戦略爆撃延長説(鳥飼研究室新説):
 戦略爆撃とは、軍事施設・インフラ(運輸・エネルギー・医療・教育の基盤)・住宅・商業地区などを破壊し、労働者・市民を殺害することで、敵国の世論を反政府に向かわせ、軍事力を弱体化することで、敵の抗戦意思を粉砕することを企図している。原子爆弾も通常爆撃と同じく戦略爆撃に投入され、両者の違いは、爆弾一発の持つ破壊・殺傷能力の大小である。放射能傷害など,原子爆弾に特有の被害(原爆症)もあるが、これは、殺傷力の違いである。したがって、原爆投下は、大規模な戦略爆撃であり、実際の効果、すなわち大量破壊・大量殺戮の上で,同じように非人道的である。大量破壊・大量殺戮を伴う無差別「通常」爆撃が許されるのであれば、原爆投下も許容される。
 つまり、1945年8月時点では、米軍の日本本土への無差別爆撃という戦略爆撃の延長線上に原爆投下があるのであって,原爆投下だけを特別扱いする必要はなかった。原爆の保有・投下目標は最高度の軍事機密であり、特別な情報管理がなされたが、原爆投下自体は、容易に決断されている。トルーマン大統領が、原爆投下の議論にほとんど加わっていないのは,戦略爆撃がすでにドイツと日本に大規模に実施されていたからといえる。爆撃機千機相当の戦略爆撃をたった1機(観測機を含めて数機)で実施できるように改良したのが原爆投下である。この意味で、原子爆弾があれば、数百機の爆撃機とそれを運用する航空基地.搭乗員,整備員、航空機生産工場、資材・燃料を節約できる。原爆は、軍機であるが、威力のある最新兵器として戦略爆撃に利用することは、原爆開発の当初から決まっていた。


写真(右):1945年,横浜空襲の被災者が集められた黄金町
;1944年11月24日の武蔵野の中島飛行機空襲以来,サイパン島やテニアン島から出撃したB29爆撃機が,連日のように本土を空襲した。1945年3月10日,米B29爆撃機340機が東京を大空襲し,死者10万人、負傷者11万人、家を失った者100万人に達した。B29爆撃機は,5月24日250機、翌25日250機が東京を再び大空襲した。戦略爆撃は,大量破壊、大量殺戮では原爆投下と同じである。つまり、大規模に無差別爆撃をしていた米軍が、原爆投下だけを慎重に扱ったとすれば,それは最新極秘兵器だったからであり、原爆投下自体の可否は問題とならないはずである。


長崎原爆資料館「C-2 原爆投下への道」では、「1938年にドイツで発見された核分裂は、原爆に応用できることが示唆された。1942年、アメリカはマンハッタン計画を発足させ、当時の日本の国家予算をしのぐ巨費を投じて原爆を開発した。原爆はドイツを対象に開発されたが、後に目標を日本に変更、京都など18ヶ所が候補に上がった。結局、1945年8月6日広島、同9日長崎に投下された。原爆投下の理由として、早期終戦のためと言われているが、20億ドルを投じたマンハッタン計画を誇示する目的もあった。また、ソ連との冷たい戦争の最初の作戦という性格も持っていた。」とする。

連合国市民、連合軍の退役軍人協会などが、正義の戦いのための「当然の犠牲」であるとか、戦争継続によって失われるはずだった命を救ったとか、強弁するのは、死者遺族にとっては納得できないであろう。人命の犠牲の上に、現在の平和と繁栄がある、と主張するのも、違和感が残る。殺害された市民にとって、「言い訳」は、受け入れがたい。

しかし、総力戦にあって、市民といえども、労働力,食料増産,資源燃料の節約、世論形成の面で、戦争に参加している。つまり、総力戦は,敵味方双方にとって、大量殺戮,大量破壊が戦争の形態となる。戦略家は、人々の犠牲もやむをえないことを、当然、受け入れているはずだ。彼らが、敵による民間人,市民の犠牲を非難するとき、敵愾心を煽るプロパガンダなのかもしれない。

米軍による日本本土空襲による殺害率(キルレート)は、米国人3000人対日本人30万〜50万人であり、100-180倍もあり、破壊家屋・工場を含めれば,B-29爆撃機500機弱の損失に比べて、大戦果をあげた。対日戦争に勝利をもたらした最大の要因は,米軍によれば,日本本土空襲、原爆投下、無制限潜水艦作戦による交通破壊とされ、日本の政治家・軍人に衝撃を与えたソ連の対日参戦、満州侵攻は無視している。


写真(右):マンハッタン計画の指揮官グローブズ准将とオッペンハイマー博士;The Joseph Papalia CollectionLeslie Groves From Wikipedia引用。


1942年8月13日、レスリー・グローブズ准将をマンハッタン管区最高司令官に、オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として「マンハッタン計画」が始動。
1944年9月19日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間のハイド・パーク協定で、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更。
1945年4月27日、第一回の目標委員会(Target Committee)では、京都、広島、横浜、小倉の4 都市が選定。
1945年5月4日,スチムソン陸軍長官は,陸・海・国務3省および原爆科学者の幹部からなる暫定委員会を設置。
1945年5月28日、原爆の効果を正確に測定できるよう、投下目標都市に対する空襲が禁止。
1945年6月1日、ジェームズ・バーンズ国務長官(トルーマンの先輩上院議員)など暫定委員会は「日本に対してすみやかに原爆を使用すべきこと。それは,労働者の住宅に囲まれた軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきこと。原爆投下の事前の警告なしに使用するべきこと。」とした。これは、原爆の威力実証、対ソ連圧力外交としての原爆示威、早期の日本降伏を意図した結果であろう。
1945年7月16日、ニューメキシコ州で初の原爆実験「トリニティ」成功。ポツダム会談参加のためにドイツに出向いていたトルーマン大統領に伝えられる(「無事出産。結果は予想以上。」)。

5. 1945年7月25日、日本本土への原爆投下命令がだされた。その翌日26日、日本への降伏勧告のポツダム宣言が公表された。このポツダム宣言を黙殺したから、日本に原爆投下されたという俗説は、誤りである。原爆投下命令書に大統領の署名はなく、マンハッタン計画の指揮官のグローブズ准将が作成したものだった。原爆投下は、都市無差別爆撃の延長線上に、疑問の余地無く、遂行された。原爆投下の可否が議論されたのは,戦後になってからのことである。これは、原爆投下の非人道性が明らかになったためである。

写真(左):陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas Handy大将(1918年10月-1970年);National Leadership Foundation.org:VirtualMuseum引用。 写真(右):米軍戦略爆撃航空団司令官カール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz大将 (1891年6月28日 – 1974年7月14日);1943年3月欧州方面戦略爆撃空軍司令官(陸軍中将)として、対ドイツ爆撃を実施。1945年3月11日、米陸軍航空隊太平洋方面戦略空軍司令官に就任。1945年7月にグアム島に司令部を設置。

陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディ大将は、1944年2月8日,米陸軍参謀本部の難民非救援指示書:Memorandum for the Chief of Staff, February 8, 1944, on reassuring the British that military forces will not be used to rescue refugeesによって,難民を救援しないことを次のように指示していた。

欧州に戦禍が拡大し、難民が大量発生しても、彼らを救済することは、軍本来の職務である作戦行動に障害になる。そこで、英国軍と歩調を合わせて、難民を救援しないことを方針とした。Regarding the enclosed memorandum from the Office of the Chief of Staff dated 7 February 1944 on above subject, it appears highly desirable to communicate with the British Government offering assurance that military forces, units or individuals will not be used in rescuing refugees except insofar as these rescues may result from planned military operations conducted to defeat the Axis military.
米軍にとって,敵民間人への人道的配慮はもともと無かったのであり,原爆投下が終戦得和平に結びついたおかげで、米国将兵、日本将兵、戦渦に巻き込まれ犠牲となる民間人の生命をも救った、との原爆終戦和平説の真偽は、この難民非救援措置を見ても明らかであろう。

1945年7月25日、陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas Handy大将発・宛合衆国陸軍戦略航空団司令カール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz大将へ原爆投下の命令書ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB(スパーツ大将は、太平洋戦略航空軍の指揮官として、7月にグアムの本部に赴任中)。

1.第20航空軍第509混成部隊は1945年8月3日以降、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに原爆を投下すること。原爆効果確認のため、(レーダー爆撃ではなく)必ず目視爆撃をし、観測用航空機を随伴させること。
⇒筆者注:現地指揮官に、原爆の実戦効果を明確に記録することを指示したのは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説を裏付ける。

2.追加爆弾は準備完了後すみやかに上記目標に投下。
⇒筆者注:現地指揮官の判断で随時、原爆の連続投下が可能。米大統領や統合参謀本部は、米軍の威力を見せつける原爆連続使用を望んだ。このことは、原爆投下が、米世界覇権説、米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説を裏付ける。

3.原爆使用について、情報の配布は国防長官および合衆国大統領により留保される。この件に関するいかなる文書または情報の公表も、当該部局の許可なしには行なってはならない。すべての報道文を特別検閲のため国防省に送ること。
⇒筆者注:秘密兵器の原爆について、情報管理を行い、原爆投下方法も含め,原爆技術を秘匿し、他国への漏洩を防いだ。これは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。原爆投下の可否ではなく、原爆の技術に注目している点で、戦略爆撃延長説をも支持する。

4.以上は陸軍長官および合衆国参謀総長の指示と承認のもとに発せられたものである。本命令書の複写を、マッカーサーとニミッツの両陸海軍元帥に、貴官から手交すること。
⇒筆者注:太平洋戦線の陸海最高位の指揮官にすら、原爆投下の事前通告をしていない。原爆情報の集中管理は、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。戦後、マッカーサー将軍が原爆投下を非人道的であるとして非難したが、これは、自分を無視して行われた原爆投下への反感からであり,人道的な配慮からではないだろう。朝鮮戦争の時、米軍・国連軍の前線指揮官としてマッカーサー元帥は、中国への原爆投下を提案している。


署名 陸軍参謀総長代理 Thomas Handy 副署 Groves 

⇒筆者注:原爆投下命令書には、トルーマン大統領の署名はない。参謀総長代理ハンディ大将の署名だけで十分だったのは、原爆投下自体、議論の末に行われたことではないことを示している。将軍の最低ランクのグローブズLeslie R. Groves准将が作成しているが、マンハッタン計画にかかわった軍事指揮官の影響力がつよければ、20億ドルを投じた原子爆弾を使用しないで済ませるはずがない。これは、原爆投下の理由が、米新兵器実験説,米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説であることを裏付ける。


原爆は当初から、どこに、どのように投下するかだけが議論されていたが、投下の是非をめぐる議論はなかった。原爆の仕組みや開発の実態について、全体像を把握していた人物は限られていた。秘密兵器原爆を手中に収めていたマンハッタン計画の指揮官グローブズ将軍の影響力は、原爆投下準備を進めるに当たって絶大である。

1945年7月25日のトルーマン大統領の日記には、女子供への被害を少なくするように、軍事目標に投下するように言ってある、との記載がある。原爆投下される日本人が被る苦しみについて、軍事に暗い大統領は、原爆被害との関連で、投下が意味することを把握できなかったようだ。大統領が原爆投下に大きな役割を果たして折らず、部下たちの提案を承認しているだけ----」というような印象を受ける。未知の兵器原爆について、その仕組みはもちろん,世界への影響について、理解し切れなかったとしても無理はない。 

1945年7月25日、原爆投下命令書;ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB Handy to Spaatz, National Archives (July 25, 1945)

25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces

1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. To carry military and civilian scientific personnel from the War Department to observe and record the effects of the explosion of the bomb, additional aircraft will accompany the airplane carrying the bomb. The observing planes will stay several miles distant from the point of impact of the bomb.

2. Additional bombs will be delivered on the above targets as soon as made ready by the project staff. Further instructions will be issued concerning targets other than those listed above.

3. Discussion of any and all information concerning the use of the weapon against Japan is reserved to the Secretary of War and the President of the United States. No communiques on the subject or releases of information will be issued by Commanders in the field without specific prior authority. Any news stories will be sent to the War Department for specific clearance.

4. The foregoing directive is issued to you by direction and with the approval of the Secretary of War and of the Chief of Staff, USA. It is desired that you personally deliver one copy of this directive to General MacArthur and one copy to Admiral Nimitz for their information.

(Sgd) THOS. T. HANDY
THOS. T. HANDY
General, G.S.C.
Acting Chief of Staff
copy for General Groves ( atomic bomb: decision引用。)



写真(右):広島に原子爆弾投下し帰還したB-29「エノラ・ゲイ」機長ポール・ティベッツ大佐とヴァン・カーク少佐;少佐と大佐の二人のサイン入りのカラー写真は、帰還を待ち構えていた米軍の撮影。大歓迎会を行った。Color Photo of Col. Paul Tibbets and Maj. "Dutch" Van Kirk Upon Returning From the Hiroshima MissionThe Joseph Papalia CollectionThe Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc. 引用。


1945年7月26日、ポツダム宣言。
1945年8月6日、広島に原爆投下。原爆投下の可否など公に議論されたことなどない。原爆をどこにどのように投下するかが議論され、それがトルーマン大統領に報告されただけである。原爆投下の決定は、ハンディ参謀総長代理がマンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズLeslie Richard Groves准将の作成した命令書で決定していた。

トルーマン大統領の1945年7月25日の日記Harry S. Truman, Diary, July 25, 1945
This weapon is to be used against Japan between now and August 10th. I have told the Sec. of War, Mr. Stimson, to use it so that military objectives and soldiers and sailors are the target and not women and children. Even if the Japs are savages, ruthless, merciless and fanatic, we as the leader of the world for the common welfare cannot drop that terrible bomb on the old capital or the new. (この兵器は8月10日までに日本に対して使用される。スチムソン陸軍長官には、女子供ではなく軍事目標と兵士・水兵を目標に狙えと言ってある。喩えジャップが野蛮人、無慈悲、冷酷で狂信的だったとしても、我々は世界のリーダーとして、共有すべき福利を尊ぶから、古都や東京に原爆を投下することはできない。)

He and I are in accord. The target will be a purely military one and we will issue a warning statement asking the Japs to surrender and save lives. I'm sure they will not do that, but we will have given them the chance. It is certainly a good thing for the world that Hitler's crowd or Stalin's did not discover this atomic bomb. It seems to be the most terrible thing ever discovered, but it can be made the most useful...(目標は純軍事的なものであり、日本に降伏するように勧告もしよう。彼らは降伏しないはずだが、我々は彼らに機会を与えてやったことにはなる。ヒトラーとスターリンが原爆を開発してないことは、世界にとって喜ばしい。これは、発見された中で最も悲惨なものであるが、最も役に立つものでもある-----)
(引用終わり)

日本の俗説では、1945年7月26日ポツダム宣言を日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとされる。しかし、鈴木貫太郎首相が、7月27日ポツダム宣言黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断されたから、原爆投下がなされたとする「ポツダム宣言黙殺説」は誤りである。鈴木首相のポツダム宣言の黙殺発表は、降伏しない、徹底抗戦するという内閣組閣当初からの方針を述べただけで、鈴木首相が終戦のために組閣されたという俗説の誤りを証明することにはなる。しかし、鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言をする以前から、米国は日本に原爆を投下することを決定していた。それも、トルーマン大統領の主導ではなく、マンハッタン計画指揮官のグローブズ准将の作成した命令書によってである。トルーマン大統領も、日本がポツダム宣言を受諾しないと考え、軍事目標に対して原爆を8月10日までに投下することを決めていた。対ソ戦略を有利にするために使用したのである。
1945年8月6日0815:31600フィートから原子爆弾を広島に投下。50秒後に爆発。市街の80%を破壊し、7万1,000任意上を殺戮。
1945年8月6日1458:B-29「エノラ・ゲイ」テニアン島に帰還。1時間以内に2の観測機も帰還。

1945年8月7日1530,大本営発表「1. 昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
2. 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」

5. 日本は原爆を投下された直後から,それまで原爆開発していたことは棚に上げて,原爆の悲惨さ,非人道性を攻撃した。対照的に,米国では,原爆終戦和平説が常識化しており,原爆投下部隊は平和と勝利をもたらした英雄である。


写真(右):「原子爆弾」投下を報じる「共同新聞」(毎日・読売・朝日などが統一されたもの);投下直後に原子爆弾と判明しており、それが記事になったが、すぐに「新型爆弾」と記述するように変更された。朝日・毎日など主要新聞は統一され、紙数も少なかった。終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」引用。
新聞第一報は、新型爆弾ではなく原子爆弾として、報じているのは、日本軍も原爆開発をしていたから、容易に識別できたという証拠である。ただし、原爆が戦後冷戦にもたらす戦略y的影響には思い至っていない。なにしろ、戦後=日本降伏を正面から分析する組織は一切なかった。「全軍特攻化」「一億総特攻」への組織的取り組みに忙しかった。


終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」には、次の記述がある。
 広島に投下された原子爆弾は、かなり大きいニュースとして受け取られました。---原子爆弾」はすぐ「新型爆弾」と呼ぶように訂正されました。新聞にそう書かれ、学校からも、そんな通達が出されました。
 新聞記事(「惨禍の広島市」「原子爆弾の解剖−強烈な赤外線作用 爆弾ではない落下傘つき物体 激甚な爆風に被害甚大])を限り、新型爆弾は強い輻射熱を発するとされてあるものの、放射能については殆ど触れられていません。最後に僅かに付記されている程度です。これは、意図的に放射能の被害には言及を避けたとみるべきです。言及を避けたその事が原子爆弾の恐ろしさを物語っています。然し、当局では原子爆弾がどのような構造でいかなる性能を持った爆弾であるか、かなりの知識は持っていた事でしょう。
 対策として列記されているのは[輻射線(紫外線を主とし熱線及び可視線が伴ふ)による火傷効果が大きく爆風破壊も従来の爆弾に比し甚大であるから、特別の警戒が必要である。.....そのためには------白い服を着る。なるべくメガネをかける。曇天又は雨天の日は輻射線は減少するが晴天の日には充分注意する。中空に閃光を認めた時は伏せる。防空壕は在来のものでよい。火傷の療法は一般の火傷と全く同じだから動植物油を二倍か三倍に薄めそれを常に携帯する事。....]これですべてです。
  長崎に投下された原子爆弾(「長崎にも新型爆弾−相当数の家屋倒壊 死傷」)についての記事は、そのあまりの小さいのに改めて驚きます。当局の情報操作による作為が見え見えの大きさです。

終戦近くになっても新聞は間違いなしに配達されていました。郵便や小包み等も極度な被災地を別にしたら、全国的に届いていた筈です。汽車は本数も少なく、時間にも乱れはありましたがこれも間違いなく走っていました。東北のこの地では電気も、水道、郵便局、配給システム、等々、生活に必要な環境は最低限保たれていた気がします。空襲によって直撃を受けない限り、生活が出来ない状況でもなかったのです。学校は市内では終戦ギリギリになって閉鎖されましたが、郡部ではそんな事はありませんでした。この方もちゃんと機能していたのです。物資はすべて配給制で、これもギリギリではあってもなんとか手に入りました

写真(右):ウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」;原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」機長ティベッツ大佐の署名入りの写真。Signed Photo of the "Little Boy" Uranium Bomb B-29「エノラ・ゲイ」によって、1945年8月6日0815、広島に原爆を投下。ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。「リトルボーイ」は、長崎に投下された「ファットマン」(長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t)より、若干小型である。The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc.引用。

1944年7月当時の戦記小説に原爆が登場していたくらいであるから、新聞記者も「原爆投下」の事実を知ったのかもしれない。あるいは、軍が米国に自らの科学的知見を表明しておくために、原爆と表現させたのかもしれない。

 原爆かどうかを調べるために、海軍の呉鎮守府調査隊が8月7日に広島入りし、未使用のエックス線フィルムが感光していたことなどから「ウラン爆弾と推定できる」と8日付で報告した。また、京都帝国大荒勝文策教授を中心とした調査団6人は海軍の要請を受け、1945年8月10日、広島に入った。そして、海軍の調査団と合流し、8月14日までに計二回、土壌調査を実施。8月15日付で海軍技術研究所に「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンケツス」の緊急電報を発信。受け取った海軍は「新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス」の一文を電報に書き込んだ。(⇒中国新聞'05/7/24「被爆9日後の電報」引用)

日本の軍部・政治的指導者は、原爆の威力を認識したが、被害については、他の諸都市への無差別爆撃と同じく「広島市が焦土化した」に過ぎない。原爆だから大変だ、という意識はなかった。軍部・政治的指導者たちは、日本の諸都市が焦土と化していることに慣れてしまっていた。原爆の威力を恐れて降伏しようとするものはなかった。


写真(右):1945年,原子爆弾に被爆した少年
:背中に大火傷を負った。少年は爆心地から約2.0kmのところで熱線にさらされた。1946年2月。 撮影:アメリカ軍 A-Bomb WWW Projectに同じ写真が掲載されている。


  原子爆弾は,中性子をぶつけ原子核を分裂させる原子核分裂によって、結合エネルギーを外部に大量放出する爆弾である。

広島に投下されたウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」は、ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。爆発は,ガンバレル方式で、ウランを半球に二分して、爆弾筒の両端に設置して、投下時に起爆装置を使って片方を移動させて合体させることで、超臨界に達せさせる。

長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」は、長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。爆発はインプロージョン方式で、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬の爆発によって位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し超臨界にいたる。

原爆が爆発するためには、核分裂によって生まれた中性子が次の原子核に吸収され、連鎖反応を起こすことが必要で,連鎖反応が起きる核分裂物質の最小量(臨界量)は、ウランの場合は90%以上の高濃縮ウラン235が15kg、プルトニウムの場合も94%以上のプルトニウム239が5kgは必要とされる。


写真(上左):1945年,広島で原子爆弾に被爆した女子逓信隊:識別コード:SA152-1 陸軍船舶司令部写真班撮影
:陸軍船舶司令部は、中国大陸や南方への輸送の要であった宇品港が主活動の場であったが、宇品向かいの似島にも検疫所があった。写真(上右):1945年8月7日、似島検疫所に横たえられた被爆者:識別コード SA003-1:尾糠政美氏撮影;尾糠氏は8月7日に広島湾宇品港沖に浮かぶ似島(にのしま)検疫所に入り、軍医の指示で撮影。ここには野戦病院が開設され、8月6日午前中から次々と船で負傷者が運ばれた。応急手当とクレゾール入浴を施された。6日に運び込まれた患者は約2000人、軍医以下80人の衛生部員が救護に当たった。通常1000人の収容能力を持つ検疫所付属病院は、1日3000人から9000人の患者を扱った。このような尾糠政美氏の写真は、米軍の占領・検閲が終わり、『アサヒグラフ』1952年8月6日号に、撮影者の氏名なしに掲載されたという。広島平和記念資料館「平和データベース」引用。軍事技術の粋を集めたB-29爆撃機、原子爆弾、そして、優秀な科学者、訓練された搭乗員、有能な指揮官,世界情勢を考える大物政治家が、原爆を開発、投下を決断・実行した。写真は2枚とも広島平和記念資料館の許可を得て掲載。



写真(上左):1945年8月6日、広島爆心地2kmの御幸橋付近を避難する人々
:連合国軍総司令部(GHQ)が新聞用紙の割り当てなどで新興紙育成を図る中「夕刊ひろしま」は1946年6月1日、中国新聞を親会社とする独立経営の夕刊紙として創刊された。当時の部数は三万部。7月6日号に御幸橋の写真を新聞に初めて掲載した。撮影者:松重美人氏。中国新聞 2001被爆者の伝言引用。A-bomb sufferers who have escaped to Miyuki Bridge (about 2km. from the explosion center).
写真(上右):1945年,原子爆弾投下後の長崎の手当て避難所
:写真は、20th century history:The New York Times Company引用 。


原子爆弾による被災によって健康に障害をもたらす原爆症が出ることが多い。これには、’線による創傷・熱戦による火傷、∧射線による急性放射線障害、J射線による晩発性障害(白血病、白内障、瘢痕性萎縮など)がある。


写真(右):プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」;1945年8月9日、B-29「ボックスカー」によって、長崎に投下された。プルトニウム239を用いた原爆で長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。Raymond L Martin;Tinian Island 引用。


被爆者の悲惨な写真は、米国の公的な展示会には、出品されないものである。その理由は、戦争の「被害者と加害者の取り違え」の誤解を避けるためとも言われる。米国議会も、スミソニアン航空宇宙博物館「1995年原爆投下50周年記念事業」で、被爆者写真の展示を許さなかった。展示では、B-29「エノラ・ゲイ」の機首が誇らしげに置かれた。現在は完全に復元された。

他方、原爆投下の実態を視覚的に伝えるwebとしてHiroshima A-bomb Photo Museumがある。そこには、米軍がカラーで撮影した被災地や被爆 者の悲惨な写真も掲載されている。

広島平和記念資料館平和データベーズでは、原爆、平和関連の証言・写真・動画・被爆資料などをデータベース化し展示している。

米軍は原子爆弾による症状に関心を持ち、ABC委員会を中心に標本採取、写真撮影を含む調査・研究を行った。日本人の中には治療機関と錯覚させられたり、後世のために積極的に情報提供したりした人もいた。しかし、ABC委員会の被爆情報収集は、被爆した人々の治療ではなく、原爆の威力を高め、防衛方法を考察するための軍事研究であった。


写真(右):原子爆弾の被爆者;広島,長崎は、熱線による被害,爆風による被害、火災による被害,放射線による被害を被った。そこに居合わせた人々もその犠牲になった。B-29「エノラ・ゲイ」のもたらしたものが終戦和平であり,それによって100万人もの人命が救われたというのであれば、原爆の被害者はそれに引き合う損害として許容しなければならないのであろうか。このような悲惨な写真は,原爆を投下した米国が加害者であり,日本が犠牲者であるような錯覚を与える、として米国のスミソニアン航空宇宙博物館の1995年原爆投下50周年記念事業では展示が許されなかった。Terror of the Atomic Bomb-Hiroshima-Nagasaki引用。

日本政府は、原爆症への対策をとってきたが、被爆者は健康の不安には、「被爆者として原爆症の認定」の壁が残っている。
原爆症の認定とは、厚生労働大臣の下の審査機関が、
仝暁放射線によるものである(起因性)
医療を必要とする状態にあるもの(要治療性)
の条件を満たすかどうか審査し「原爆症」と認定されると「医療特別手当」が支給される仕組みである。
 しかし、原爆症認定は非常に厳しい。厚生労働省の認定率は、2000年67.4%、2001年22.5%、2002年19.5%、2003年24.0%であり、認定基準が同じでも、申請者がその基準を満たしていることを証明するのは困難になってきていることが窺われる。

原因確率論(いわゆる入市被爆と2km以遠の人は影響ない)で切り捨てた結果、近距離での直接被爆以外は、救護や肉親を探すため跡から中心地に入った人はほとんど却下されており、認定されている被爆者は全被爆者(約28万人)の0.7%(約2000人)に過ぎないとされる。原爆被害者たちによる集団訴訟もおきている。


写真(右):原子爆弾「ファットマン」の投下された長崎の被害;1945年8月9日、テニアン島を出発したB-29「ボックスカー」は、第一目標の小倉上空に達したが、雲のため目視爆撃できず投下を断念。(指令書にはレーダー爆撃ではなく、効果を視認・撮影できるように目視爆撃を要請。)目標を第二目標の長崎に変更。長崎市の中心部は、雲のため投 下できなかったが、北部の浦上地区、松山町上空の雲の切れ間から(といわれる)、高度9600mで投下。Damage Photos Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association)Air Raid against Cities引用。

長崎原爆投下機「ボックスカー」Bockscarパイロットのスウィニー少佐は、戦後、退役軍人教会の会長にもなり、1995年のスミソニアン航空宇宙博物館The Smithsonian's National Air and Space Museumでの原爆50周年展示計画について、原爆投下に疑問を抱かせることを容赦しなかった。米国議会も、原爆投下の正当性を主張し、投下した米国が加害者であるとの「誤解」を認めなかった。

1995年の原爆投下50周年特別展では、広島原爆投下機「エノラ・ゲイ」Enola Gayの機首のみが展示された。1998年にこの展示は終了して、「エノラ・ゲイ」の完全復元作業が開始された。2003年12月15日、ワシントン国際空港Washington Dulles International Airportのスミソニアン航空宇宙博物館の別館ウドヴァール・ヘージーセンター(展示103)Steven F. Udvar-Hazy Center:Exhibition Gallery 103で完全復元展示されている。

写真(右):広島に原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」(2003年復元)2003年12月のオープンセレモニーの時の撮影。完全に復元され、正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったかのように展示される。

スミソニアン航空宇宙博物館ウドヴァール・ヘージーセンター(展示103)原爆投下第一号機「エノラ・ゲイ」の解説は、次の通り。
Statement on Exhibition:Boeing B-29 Superfortress Enola Gay Boeing's B-29 Superfortress was the most sophisticated propeller-driven bomber of World War II, and the first bomber to house its crew in pressurized compartments. Although designed to fight in the European theater, the B-29 found its niche on the other side of the globe. In the Pacific, B-29s delivered a variety of aerial weapons: conventional bombs, incendiary bombs, mines, and two nuclear weapons. 
On August 6, 1945, this Martin-built B-29-45-MO dropped the first atomic weapon used in combat on Hiroshima, Japan. Three days later, Bockscar (on display at the U.S. Air Force Museum near Dayton, Ohio) dropped a second atomic bomb on Nagasaki, Japan. Enola Gay flew as the advance weather reconnaissance aircraft that day. A third B-29, The Great Artiste, flew as an observation aircraft on both missions.
Transferred from the U.S. Air Force
Wingspan: 43 m (141 ft 3 in)
Length: 30.2 m (99 ft)
Height: 9 m (27 ft 9 in)
Weight, empty: 32,580 kg (71,826 lb)
Weight, gross: 63,504 kg (140,000 lb)
Top speed: 546 km/h (339 mph)
Engines: 4 Wright R-3350-57 Cyclone turbo-supercharged radials, 2,200 hp
Crew: 12 (Hiroshima mission)
Armament: two .50 caliber machine guns
Ordnance: "Little Boy" atomic bomb
Manufacturer: Martin Co., Omaha, Nebr., 1945
A19500100000

広島平和記念資料館所蔵写真集:Photos provided by Hiroshima institute for Peace Education長崎原爆資料館のほかにも、長崎浦上天主堂の被爆したマリア像("Bombed" Mary, a Marian Statue in Urakami)のような有名な被害写真がある。


写真(左):米軍が航空機から撒いたビラ
;日本の生産力は、海外の資源に依存しており、海上輸送の途絶によって、もはや工業生産は不可能になったことを暗示する。日本の警察通達では、ビラを拾った者は、警察にビラを届けることになっていた。

1945年8月9日1045、長崎の原爆投下に関して,西部軍管区司令部発表「---敵は口に正義人道を唱えつつ,無辜の市民を爆殺する暴挙にで出ている----。この新型爆弾を使用することによって,戦争の短期終結を急ぐ焦慮ぶりを、いよいよあらわしていると見るべきである。----今回の新型爆弾に対しても着々として対策が講じられるであろう。-----」
陸軍大臣阿南惟幾の訓示「死中活あるを信ず。---全軍将兵宜しく一人も残さず楠公精神を具現すべし,而して又時宗の精神を再現して醜敵撃拭に邁進すべし」。

6.マリアナ諸島には、日本を敵として戦った米軍の退役軍人なども訪れ、戦争と自分・戦友・敵の経験を見つめなおしている。

米英など連合国では、原爆終戦和平説が信じられ、原爆の非人道性を問題視する人々は、少数派である。しかし、着実に増えてきているようだ(⇒TheWE.cc website.)。


写真(右):テニアン島の原子爆弾「リトルボーイ」の入ったピット(左)とB-29「エノラ・ゲイ」;原子爆弾をB-29に搭載するには、胴体下と滑走路との間(クリアランス)が狭いので,穴(ピット)に原子爆弾を入れ,そこから持ち上げてB-29の胴体に搭載した。これとは別に、2発目のプルトニウム型原子爆弾「ファトマン」用のピットもある。2004年6月のサイパン攻略50周年・原爆49周年セレモニーは、このピットの近くで開催された。

2004年6月15日、サイパン侵攻を記念して第二次世界大戦60周年記念式典が挙行された。行事は15日にまずサイパンのガラパン市アメリカン記念公園、16日にテニアン旧北飛行場で挙行された。テニアンでは、埋め戻されていた二個の原爆搭載ピットを掘り返して公開された。以下は,式典に参加した唯一の日本人研究者の史跡訪問「テニアン島周遊」の引用である。

2004年6月の式典では、最後に原爆投下第一号B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」機長だったティベッツ大尉が車椅子から立ち上って演説した。89歳になる彼はパイロットか航空技術者らしい実直な話し振りで広島に原爆を投下した当時を時には笑いも交えて克明に語った。原爆を投下したがために、日本本土上陸作戦を行わずして日本を降伏させることができたというくだりも淡々と語った。広島長崎の市民が多数犠牲になったとしても、上陸作戦で失われたであろう数十万人の米軍兵士の命に代え難い、というのがティベッツを始め退役軍人達の意見であり広く米国人の間に受け入れられている。

原爆の図 2004年6月、原爆投下記念碑、原爆部品を揚陸後日本潜水艦に撃沈された重巡「インデイアナポリス」追悼碑、広島に原爆投下したティベッツ以下三名の元B29乗員テニアン来島記念碑、そして、広島原爆ピット(Pit No.1)と長崎原爆ピット(Pit No.2)の除幕が行われた。
ピットのガラス屋根を覆っていた白布が取り除かれ、ピット内部が公開された。両ピットとも土砂が取り除かれ底まで完全に観察出来る。中央に錆びた鉄製の昇降用油圧リフトがある。屋根の一部は開閉できるガラス戸になっており、昇降梯子を伝って内部へ降りることが出来る。両ピットとも構造は全く同じである。ユタ州ウエンドーバ航空基地にも同じピットが保存されている。

中国新聞「悲しみの島 テニアン 玉砕と原爆と (2006.7.21〜7.23)」未来のために
2005年8月テニアン市や議会などが催した「もう一つの」平和記念式典が開催された。被爆六十年で、式典実行委は初めて被爆者を招いた。広島からは「ひろしまを語り継ぐ教師の会」事務局長、梶矢文昭さん(67)と同会会長の松島圭次郎さん(77)が参列。

 式典は島の平和記念公園であった。時差は一時間。八月六日午前九時十五分が近づくと、どこからか島民が集まった。やがて人垣ができた。消防車が一斉にサイレンを鳴らす。「黙とう」―。米自治領の島では「原爆投下が終戦を早めた、多くの命を救った」という考え方は島にも浸透している。だからこそテニアンの式典実行委は被爆者を招いた。被爆体験の証言も求めた。子どもたちに、被爆者の目線でも戦争を見つめさせたいと。「税金の無駄遣いだ」。米の退役軍人やメディアの批判を浴びた。でも押し切った。
 「島そのものが戦争の残骸(ざんがい)です」。(中国新聞「悲しみの島 テニアン 玉砕と原爆と (2006.7.21〜7.23)」未来のために引用終わり)。

夏服の少女 GUY GABALDON A 1998 INTERVIEW AND DISCUSSION
名誉勲章受賞者:MEDAL OF HONOR RECIPIENTS 1944;US Navy (7), Naval Aviation (2, including 1 flying boat squadron), US Marine Corps (23), US Army Air Corps (1)
Benjamin Franklin Edwards
枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の抗戦意志を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。米軍は、日本本土上陸作戦を実施し、日本を無条件降伏させる準備をしていた。

原爆投下によって終戦の聖断が下ったという俗説は誤りである。原爆投下は、口実であり、本質は、国体を護持するためである。国体護持への危機感は、連敗続きの軍部への反感、国難を救済できない天皇への不満、共産主義国ソ連の対日参戦に由来する。民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦にあって、国民の離反が確実になる前に、終戦が決断された。日本の大多数の政治家・軍部は、核兵器と核戦略を認識していなかった。国民に被害状況のわからない原爆投下は、終戦決定=聖断に大きな影響力をもっていない。

広島の原爆 終戦の詔勅の「-----敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ノ測ルヘカラサルニ至ニ----」とあるが、大量破壊・大量殺戮は、原爆投下前の都市無差別爆撃でも同じだった。原爆投下は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化するのに用いられた。

原爆終戦和平論は、核兵器の保有・使用を正当化してきた。しかし,日本も都市無差別爆撃を実施し,原爆開発をしていたのであって,一方的に空襲と原爆の被害者であると主張しても,その主張は,中国や米国など連合国だった軍人・市民には,受け入れがたいものであった。また,日本の原爆開発は未熟すぎてお話にならないというのは,軍事技術だけに注目した過小評価である。原爆を開発,保有しようとした軍事的意図こそ議論されるべきであろう。21世紀の軍事技術の水準で言えば,近隣国が未熟な核兵器を少量もっていること簡単に粉砕できるから,そのような核兵器開発は無視できる----とは思えない。そうであれば,日本による原爆開発も無視してはいけないのであろう。

総力戦の本質は、大量破壊、大量殺戮であり、戦略爆撃思想の延長線上に「勝利と平和のための」核兵器の開発・使用がある。

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