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日本の原爆開発◇Japan's Atomic Bomb 2006
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◆日本の原爆開発:核兵器使用の可能性◇Japan's Atomic Bomb
写真(上左)日本海軍の九六式陸上攻撃機による都市無差別爆撃の画像
:(1937-40年頃):1937年の日中戦争の勃発(支那事変)直後,南京,上海,杭州を長距離飛行後,無差別爆撃した。航続距離の長さ、(出現当初の爆撃機としては)高速のために、三菱の世界的傑作機といわれる。 写真(上右):1945年8月、原爆投下後、路面電車の石畳を避難する人々の画像:Survivors moving along the road after the atomic bombing of Nagasaki, Japan. (August 1945) 写真はともに20th century history:The New York Times Company引用。

1938年6月5日,日本機の重慶爆撃に「十八梯防空壕入り口」で窒息死した市民の画像:重慶空襲後の防空壕の入口に横たわる700余体の女性と子供の死体。人民網日本語版2005年6月6日によれば、「6月5日は、『6・5重慶防空壕大爆撃』から64周年目にあたる。1941年6月5日、旧日本軍が重慶の防空壕を爆撃し、防空壕に避難していた2500人が死亡し、世界を驚愕させた。旧日本軍は重慶で1938年から5年間にわたる空爆を行ったが、それは『重慶大爆撃』と呼ばれている」とある。重慶爆撃の画像で、避難民が混乱で圧死したともいうが、防空壕内で窒息して亡くなった人々を外の階段引き出したのかもしれない。空爆のもたらす虐殺、大量殺戮、大量破壊は「空からは見えにくい」が、地上での死傷者、犠牲者の視点も忘れられない。
Casualties of a mass panic; during Japanese air raid, 4,000 people were trampled or suffocated to death trying to return to shelters. Chungking, China, June 5, 1941. The U.S. National Archives and Records Administration(アメリカ公文書館). Local ID: 208-AA-132N(4)
Creator: Office for Emergency Management. Office of War Information. Overseas Operations Branch. New York Office. News and Features Bureau.

読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、核兵器保有、軍備強化、独裁政権獲得という本音のようだ。
【アジア太平洋戦争インデックス】/重庆大轰炸Chongqing: Bombing Days - Episode 1 重庆大轰炸Chongqing: Bombing Days - Episode 2 重庆大轰炸Chongqing: Bombing Days - Episode 3Imperial Japanese Army/Navy Air ForceChinese Army vs Japanese Army 1937
サイパン島・テニアン島玉砕戦日本本土空襲
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1.1939年8月2日、第二次大戦勃発1ヶ月前,アインシュタインは,ナチスからの亡命科学者シラードの勧めで,ルーズベルト米大統領に,ナチスより先にアメリカが原爆を開発するように促した。その後,太平洋戦争勃発半年後の1942年6月になって、ルーズベルト大統領は、ドイツの原爆開発に対抗して「マンハッタン計画Manhattan Project)」と呼ばれることになる原爆開発を推進することを決めた。つまり,原爆開発の契機は,枢軸国が原爆を開発しているので,それに対抗するために,原爆を開発し,先制使用することだった。原爆開発競争が開始された当初,原爆投下の是非は,全く問題にはならなかった。

写真(左):アインシュタイン博士から米ルーズベルト大統領に宛てた原爆開発を促す手紙;2ページある手紙の第1ページ目。手紙署名はアインシュタインのみで、シラードの名はない。The Letter from Albert Einstein to President Franklin D. Roosevelt(About>Business & Finance>Inventors)引用。

1939年ドイツで核分裂現象が発見されると、原子爆弾の開発可能性が話題となった。ドイツのアイゼンバーグ Werner Karl Heisenberg(1901-1976:1932年ノーベル物理学賞受賞)は,ウラン235の核分裂のエネルギーが、原子爆弾に応用できることに気づいていた。そこで、ナチスに対抗するために,ドイツから亡命したシラードLeó Szilárdらは、当時から世界的な著名人であったアインシュタインAlbert Einstein に働きかけ、米ルーズベルトFranklin Roosevelt大統領に米国がドイツよりも先に原爆を開発するように促した。このアインシュタイン・シラード原爆開発提案手稿が書かれたのは、1939年8月2日、第二次大戦が始まる1ヶ月前のことであった。

1939年9月1日、ドイツ軍ポーランド侵攻。英国は、直ぐにドイツに宣戦布告。米国による原子爆弾開発を望み、原爆開発に関する情報を全て米国に譲渡する。

参戦していない中立国とはいっても、米国の原爆開発は、徐々に加速された。1941年、全米科学アカデミーNational Academy of Sciencesは、ドイツに対抗すべく原子爆弾を全精力を傾けてall-out effort 開発することを求めたが、これはドイツのヴェルナー・ハイゼンベルクWerner Heisenberg)らが開始した原爆開発に先んじることが、その目的だった。1941年10月6日、米国のフランクリン・ルーズベルトFranklin Delano Roosevelt)大統領は、「マンハッタン計画」と呼ばれることになる原爆開発を、レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の下で全精力を傾けて推進することを決めた。米国は参戦していないうちに、原爆開発を開始したが、当時は長距離重爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」は完成しておらず、運搬手段も未確定なままだった。しかし、原爆投下目標を枢軸国ドイツとして、大急ぎで開発が始まったのである。

J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer: 1904年4月22日-1967年2月18日)は、ドイツ系ニューヨーク生れ、母は東欧ユダヤ人で、ハーバード大学卒業。イギリスのケンブリッジ大学留学後、キャベンディッシュ研究所で物理学や化学を修め、科学者オーゲ・ニールス・ボーア(Aage Niels Bohr)と理論物理学を研究。ゲッティンゲン大学で博士号取得。

J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)は、1942年開始された原子爆弾開発「マンハッタン計画Manhattan Project)」に参加し、1943年にはロスアラモス研究所の初代所長に就任し、原爆開発を主導した。

イタリア人エンリコ・フェルミEnrico Fermi)は、1938年ストックホルムでノーベル賞物理学を受賞、受賞理由は、中性子衝撃による新放射性元素の発見と熱中性子による原子核反応の発見である。しかし、妻のローラLaura Caponはユダヤ人であり、 ユダヤ人迫害を行うドイツの影響を恐れ、そのままファシスト・イタリアを離れ,米国に亡命。1939年1月,エンリコ・フェルミEnrico Fermi)は、コロンビア大学Columbia Universityでウラン235の核分裂連鎖反応を研究に参加し、1941年10月,米国での原爆開発に加わった。

1942年8月,「マッターホルン作戦」(Operation Matterhorn)が発足,1942年9月23日にの軍事指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将が、マンハッタン計画指揮官に就任。エンリコ・フェルミEnrico Fermi)は、1942年12月2日、シカゴ大学で世界初の核分裂連鎖反応の制御に史上初めて成功。テネシー州オークリッジでは,原爆用の濃縮ウランを製造,ワシントン州ハンフォードにプルトニウム生産炉を建設,1944年運転開始。


写真(右):マンハッタン計画の指揮官グローブズ准将;Leslie Groves From Wikipedia引用。


陸軍工兵隊レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将 (1896年8月17日 - 1970年7月13日)
ワシントン大学・MITを経て、1918年陸軍士官学校 West Point卒業。陸軍工兵隊 Army Corps of Engineersに入隊。
1936年参謀大学General Staff College、1939年陸軍大学Army War College卒業、1940年陸軍大佐。
1942年9月、准将Brigadier Generalとなり、マンハッタン工兵管区(Manhattan Engineer District of the US Army Corps of Engineers)、すなわち原爆開発「マンハッタン計画Manhattan Project )の指揮官となる。前任者は、ジェームズ・マーシャルJames Marshall大佐。

陸軍工兵隊Army Corps of Engineersレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves准将が、マンハッタン工兵管区司令官になった1942年9月、マンハッタン計画 (Manhattan Project.)と呼ばれる原爆の開発計画が本格的に開始。1942年中に史上初の原子核連鎖反応の実験に成功、1945年7月16日、プルトニウム239の核爆発実験「トリニティー」大成功。

原爆開発のために、全米19州とカナダに計37の工場が動員された。ワシントン州でプルトニウム生産,テネシー州でウラニウム濃縮とプルトニウム生産などに支えられ,Los Alamos(ニューメキシコ州)で原爆製造計画が始動した。原爆開発には 科学者、軍人、公務員など6万人が参加、予算20億ドル(2004年換算200億ドル)が投入された。(⇒B-29爆撃機による日本本土無差別爆撃(1944年6月-1945年8月)参照。)

2.1944-45年の日本本土空襲、原爆投下によって数十万人の日本人が殺戮された。しかし、その7年前、日本も中国の諸都市を無差別爆撃していた。大規模な都市無差別爆撃、特に敵首都への戦略爆撃は、世界で初めてだった。米軍では,ミッチェルらが航空機による対艦船攻撃を主張していたが,四発エンジンの大型爆撃機の開発が開始された。1934年,米軍は、四発重爆撃機の開発を計画したが,本格的な量産開始は,1939年の第二次大戦のころからだった。1937年当時の日本軍は,戦略爆撃を始めて長期間実施した先見の明ある航空隊をもっていた。

1937年4月26日、スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)中のバスク地方ゲルニカGuernicaが、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍「コンドル軍団」 Legion Condorの爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。
1937年8月第二次上海事変後、上海駐留の日本海軍陸戦隊や艦隊を支援する目的で、第一連合航空所属の木更津航空隊を朝鮮半島南の済州島に、九州の鹿屋航空隊を台湾の台北に進出させた。そして、1937年8月14日から1週間、上海の中国軍航空基地を爆撃し、中国の首都南京や南昌を空襲した。 1937年8月の日本海軍航空隊による南京空襲こそ、世界初の首都への戦略爆撃である。日本軍は、先見の明があった。

写真(右):日本海軍の九六式陸上攻撃機(1937-40年頃):1937年に南京,上海,杭州を長距離飛行後,無差別爆撃した。航続距離の長さ、(当時の爆撃機としては)高速のために、三菱の世界的傑作機といわれる。しかし、防弾がなく、防御機銃が低性能だったために、迎撃にはもろかった。

1937年8月15日の長崎県大村基地からの渡洋爆撃では、日本海軍の新鋭九六式陸上攻撃機(中攻)G3M20機が、南京まで960kmを往復4時間で飛行。爆撃機は、1機当たり60kg陸用爆弾12発を搭載、2ヶ所の飛行場を爆撃目標とした。爆弾が目標以外の市街地にも落ちることは当然許容されていた。これが、無差別爆撃ということである。(そうでないなら、目標を逸脱した爆撃失敗の責任が生じる)

海軍航空本部教育部長大西瀧治郎大佐(後の特攻隊司令官)は、1937年11月15日経済倶楽部にて「南京に対してどの位空襲をおこなったかと申しますと空襲回数36回で飛行機の延機数は600機、投下爆弾は約300トン」と述べた。

都市への無差別爆撃の目的は、商業施設・住宅・交通網に打撃を与え,労働者を殺傷し、軍需生産を停滞させ,生活難に市民を陥れて厭戦気分を起こさせることである。工場、住宅,繁華街など爆撃目標は,爆撃機部隊ごとに定められている。無差別爆撃は,市民も軍人と同等に無差別に扱い,爆撃目標にいる市民に一切関知しないということである。

写真(左):日本機に爆撃された上海鉄道駅:日本の上海爆撃は、租界を持つ英米にも経済的大打撃を与えた。無差別都市爆撃の非人道性は、反日プロパガンダとして盛んに宣伝された。子供だけの写真は、米国の写真雑誌Life(1937年)に掲載され、米国人の反日感情を高めることに寄与した。日本軍が中国軍の報復能力を低く見ていたため、(米軍による日本空襲よりはるかに小規模な)都市爆撃を行ったが、「無差別爆撃」として世論の反感を盛り上げた。第二次上海事変、続く日中戦争を取り巻く国際世論は日本軍には不利に傾いていった。

近衛文麿首相は、1937年8月15日「暴支膺懲」の声明を発表した。日本は、武力反抗する暴虐な民として、中国を懲らしめようとした。1944-45年に米軍が日本を空襲、原爆を投下したのも、抵抗を続ける日本を懲らしめるためである。米国人が、日本本土空襲を非人道的行為だと反省するはずがない。

後の米軍は、日本の民間人を殺傷する日本の都市爆撃、商船撃沈を躊躇しなかった。真珠湾攻撃の3時間後、1941年12月7日、米軍は無制限潜水艦作戦の指令を出し、日本の民間商船を軍艦と無差別に撃沈することとした。1942年5月、ドーリットル空襲(日本への16機のB-25による東京・横浜などへの爆撃)でも、目標は都市中心部である。

日本は、大元帥昭和天皇以下、軍上層部は、対中国戦と対米英戦とに分けて考えていた。中国には、都市無差別爆撃、毒ガスなど化学兵器の使用をためらわなかった。米英には報復を恐れて、躊躇した。しかし、米軍は日本軍の報復を恐れなかった。日本軍が中国軍の報復能力を低く見ていたのと同じく、大都市を躊躇なく無差別爆撃した。

報復力のない敵に対しては、非人道的な大量破壊,大量殺戮を実施できたという点で、日米両軍は共通している。英独航空戦では、双方とも、当初、相手国の都市への無差別爆撃を控えていたのと対照的である。

上海事変・渡洋爆撃と日中全面戦争参照。


写真(左):日本機に爆撃された上海
:上海爆撃は、租界を持つ英米に経済的打撃を与えた。このような無差別都市爆撃を行う日本に対して抗議した米国だったが、太平洋戦争では、民間人を殺傷する日本への都市爆撃を全く躊躇しなかった。日本軍が中国軍の報復能力を低く見ていたのと同じく、米軍は日本軍の報復(米国への無差別爆撃)能力を低く見ていたといえる。1937年9月3日、日本機の空襲を受けた上海バンド(埠頭近くの中心街):長江(揚子江)は,三峡手前の中流まで,大型船が航行できる。大型船を横付けできる港湾,埠頭もあった。上海のバンドに停泊するのは米国海軍巡洋艦「オーガスタ」AUGUSTA

日本の雑誌「少年クラブ」(1940年)には「重慶を爆撃に!!」の見出しで、「X月X日 快晴。すばらしい爆撃日和」の記事がある(「快晴、素晴らしい爆撃日和。重慶を爆撃に!!」..??引用)。

1938年2月から1943年8月までの5年間、中国の戦時首都・重慶を218回爆撃,合計9513機出動、爆弾2万1593発を投下、市民1万2889人を殺害、1万4700人を負傷させ、家屋1万7608軒を損壊させた。これは、1945年の米B-29爆撃機の日本本土空襲1〜10回分に相当する程度で、1944-45年の連合国の空爆と比較すれば小規模である。しかし,都市無差別爆撃の嚆矢であった。

1940年8月から重慶空襲に零戦が出撃している。零戦の実戦デビューは、中国無差別爆撃の護衛戦闘機としてである。1940年9月13日、零戦13機が中国機13-27機を撃墜した。(Zero Fighters in Chongqing and Pearl Harbor:Wakamiya Yoshibumiおよび中華人民共和国駐日本国大使館 重慶2005/08/06発新華社参照)。


写真(右)1937年上海爆撃の死者;国際都市で租界もある上海市内の南京路など繁華街が爆撃され、多数の死者がでた。この爆撃は、上海沖の日本海軍艦艇を空襲した中国爆撃機による被害かもしれない。日中双方で、敵は都市無差別爆撃を行い民間人を犠牲にしていると非難した。

☆重慶無差別爆撃☆によれば、1938年2月19日「東京日日新聞(現、毎日新聞)」は、1面で「長駆、重慶初空襲」「重慶市民狼狽」の見出しで報じた。1941年6月24日-29日までの6日間には記録的な連続爆撃が行われ、1941年8月20日、日本海軍陸攻90機、日本陸軍重爆18機、合わせて108機による大空襲をかけた。

中国の漢口から重慶を空爆した日本機は、延べ2400機、1万5000tの爆弾を投下、2万3600人の民間人を殺害。行方不明者も含め推定3万5000人以上の損害を与えた。重慶では世界各国のジャーナリストが取材し、日本は国際的非難を浴びた。最後の重慶空襲は1943年8月23日。(☆重慶無差別爆撃☆引用おわり)。


写真(右):日本陸軍航空隊の川崎三式戦闘機キ61「飛燕」
:1944年12月、B-29を撃墜すべく、無武装、軽量化した体当たり専用機が準備された。日本本土空襲を受けると、爆撃部隊ではなく、防空戦闘機部隊が戦争英雄となった。Rod's WarBirds:Ki-61引用。


世界初の本格的な戦略爆撃は,1937年8月、日本軍による中国への首都爆撃、都市無差別爆撃である。1940年11月から1943年8月には、中国の首都重慶への長期間の無差別爆撃が実施された。戦略爆撃の嚆矢となった日本は、1944年11月以降、より大規模に戦略爆撃を受ける。米軍の日本本土空襲は、中国本土空襲への報復という負の遺産ともいえる。日本人は中国人が空爆の下でどのような体験をしたか、空襲の悲劇はどのようなものかを知った。

1937-1940年の日中戦争(日華事変)の時代、中国を空爆した日本機に拍手喝采を送った日本人は、1944年から空爆される側になって、初めて、空爆の非人道性を理解できたのかもしれない。未だに大規模に空爆された経験のない米国人は、どのようにして空爆された側の気持ちがわかるのか。それとも9.11以降、理解したのか。


長崎原爆資料館「C-1 日中戦争と太平洋戦争」は、1931年9月の満州事変から太平洋戦争まで、15年間の戦争を扱っている。「とりわけ日中戦争の長期化は、国内の統制経済と国民支配の強化をもたらし、さらに日本の南進政策は米英仏蘭との対立をまねき、より過酷な太平洋戦争へと国民を導いた。日本人だけでなく、アジア諸国の多くの民衆が戦争に巻き込まれ、さまざまな形で犠牲となった。」とwebにある。

原爆に関して世界平和を論ずる場合、総力戦にあって、市民・兵士全てが、戦争の被害者・犠牲者であったが、同時に、加害者として動員に協力し、参戦していたことは認識しておくべきであろう。

3. 1941-42年、日本陸海軍は別々に原爆開発を開始した。日本の技術、人材、設備、資源では原爆開発は不可能であったが、日本の原爆開発は、仁科芳雄らによって1945年まで継続された。ドイツからウラン235を譲渡されることになったが、日本派遣潜水艦U-234は、ドイツの敗戦で、米国に降伏。ウラン入手が不可能となった日本は、1945年6月に原爆開発を放棄した。万が一、日本が原爆を開発したら,戦局挽回のために、原爆の先制使用を躊躇しなかったであろう。

仁科芳雄 原子物理学の父 日本の原爆開発wikipediaによれば、1940年、理化学研究所の仁科芳雄博士が、陸軍航空技術研究安田武雄所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれる。それを受けてか,1941年4月、日本陸軍航空本部は、安田武雄理化学研究所の大河内所長に原爆開発を要請し、仁科芳雄研究室が「ニ号研究」(「ニ」はニシナの頭文字)が受託し、ウラン濃縮研究を開始した。

1943年1月、理化学研究所の仁科芳雄 博士を中心に、天然ウラン中のウランU235を熱拡散法で濃縮する計画がはじまり、1944年3月、理研に熱拡散塔が完成した。他方、日本海軍も1942年に核物理応用研究委員会を設け、原子爆弾の可能性を検討しはじめた。

日本軍が具体的に原子爆弾の開発を開始する以前に、科学評論や戦記小説の中で、書くエネルギーの軍事利用が注目されていた。第一大戦直後、『新青年』大正9年7月号「将に開かれんとする世界の最大秘密の扉」では次のように原爆を語った。
 「バーミンガム大学のアーネスト・ラザフオード教授-----は、原子(アトム)を分解する事に成功した。で、----或る「力」を解放するに至つた。そして人間を殆ど神様と同様の物にするか、それとも人類文明なるものを粉微塵に破壊して終ふかも、実にこの「力」の掌中に握られてゐるのである。」
 「日本に居て米国の市街を灰燼に帰せしめる力」:「若し右の方法が成功した場合には、恰も今日無電が大洋を越える事が出来るやうに、吾々は原子力を放つて、この大地を透過させ、地球の反対の面、例へば日本から云へば亜米利加の一市街を灰燼に帰せしめるやうな事が出来やう。

 「原子爆弾(アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」:「若しこの原子力が、誤れる掌中に入つたならば何うか?/例へば前独逸皇帝の如き人が、この力の秘密を得たならば、其結果は何うであらうか?恐く彼れは、ポツダムの安楽椅子に腰を下して、軽く机上のボタンを押し、それに依つて容易に文明を灰燼に帰せしめることが出来やう…が、併しこれが有益に使用された暁には、人類を塗炭の苦しみに陥るゝ彼の戦争なるものは、永久に不可能のものとなるに相違ない。何となればこの原子爆弾の威力に対しては、如何なる強国と雖も対抗できぬからである。…」(『新青年』大正9年7月号/「世界の最大秘密:モリオカ三行日記」引用終わり)

ポツダム宣言、原爆投下、ビキニ環礁の対艦船核実験は、この予言的評論から26年後のことである。

写真(右):1945年、空爆で破壊された東京:原爆投下による大量破壊と大量殺戮は、すでに戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」による無差別爆撃で、日本全土に広まっていた。その意味で,無差別爆撃の延長線上に原爆投下がある。

『新青年』(第二十五卷)七月號(1944年)米本土空襲科學小説「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ・・立川賢 」は、戦争末期の空想科学的な戦記小説である。内容は、日本が原子爆弾を完成し、原子力エンジン搭載の爆撃機で、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下し、ビルを壊滅させ,70万人を殲滅して、戦局を逆転するというものである。
編輯後記では「米本土空襲、爆砕の夢は吾人の抱くもののうちもっとも大いなるもの。本号では立川賢氏が科学的見地に立っていち早くそれを実現してくれた。夢を夢とするは痴人である。戦うものにとっては、あらゆる夢は現実でなければならない。ワシントン城下の誓いに拍車をかけよう。」と記した。民間人殺戮という非人道性を一顧だにしない点で、戦局挽回の市民的願望がこもっている。(→)『新青年』1944年7月号/「遅すぎた聖断」昭和天皇と日本製原爆開発計画;山崎元引用)  

「新青年の世界」によれば、『新青年』には次の読み物が掲載された。
1944年の『新青年』第二十五卷八月号「具足一領(武士道小説)・・横溝正史」「狂人ルーズベルト・・大島謙」
第二十五卷九月号「最後の一人最後の一銭まで・・陸軍中將本間雅晴」「讀切長篇冒險小説 無限爆彈・・守友恒」
第二十五卷十月号「爲武士者・・吉川英治」「平熱・・大佛次郎」「軍人援護の強化・・軍事保護院總裁 本庄繁」
第二十五卷十二月号「竹槍・・横溝正史」

■米英ソ独日の全ての軍隊が敵に勝利する最新最強の兵器を希求していた。原爆の投下は、大量破壊・大量殺戮を意味するが、それが戦勝・早期終戦と同列に語られた。原爆投下の可否が、人道的観点から議論されることはなかった。強力な新兵器を望む軍は、使用の可否ではなく、どのように使用するかを議論・研究する。


写真(右):日本に向かう途中、米軍に降伏・拿捕されたドイツ潜水艦U-234;1945年5月14日、米軍に降伏し、酸化ウラン(U235)を入手できなくなった日本は、原爆開発を翌6月には中止した。艦橋には、37ミリ対空機関砲(右)1門と、20ミリ連装機銃2基が、降伏の印に真上に向けられている。PORTSMOUTH NAVAL SHIPYARD PHOTOGRAPHS引用。


1945年3月24日、ドイツ海軍は、アジア派遣潜水艦"Monsun Boats"モンスーン・ボートの1隻として、機雷敷設Uボート招B(排水量1760トン)U-234を選んだ。U-234は、酸化ウランUranium Oxide(U235)560kg、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262ターボジェットエンジンの部品・設計図など機密物資260tを運搬し、日本海軍庄司元三技術中佐と友永英夫技術中佐、ドイツ空軍ウーリッヒ・ケスラー大将、海軍士官4名、ドイツ人技術者2人などを日本に送り届ける任務をうけてキール軍港を出港した。

しかし、1945年5月8日、日本に向かうドイツ海軍大型潜水艦Uボート招BU-234は、大西洋上でドイツ無条件降伏の打電を受ける。Uボート招Bの乗員たちは討議の末、日本人士官二人を監禁し、洋上で米軍に降伏することを決める。


写真(右):ドイツ潜水艦U-234を拿捕した米海軍将校(右端と左二人目)と捕虜となったドイツ海軍将校;米護衛駆逐艦「サットン」乗員がU-234に乗艦し、ポーツマス基地まで監視・誘導した。American and German officers relax aboard U-234Photos and Articles of Seaman Harry O'Brien引用。日本人将校2名は既に自決していた。降伏、投降していれば、原爆開発について厳しい尋問を受けたはずだ。しかし、戦後、日本に帰国できたであろう。

1945年5月14日、UボートU-235は、米護衛駆逐艦「サットン」SUTTON (DE 771)に降伏した。「サットン」は,基準排水量1240t、速力21ノット、3インチ砲3門装備の護衛駆逐艦である。Uボート乗員の負傷者はゼロ、米軍側拿捕要員が小火器の誤射で負傷、ドイツ軍医師も緊急手術に協力したが、1週間後、死亡。(US Coast Guard Combat:U-234引用)

Uボート拿捕前、日本人海軍士官2名は服毒自殺。
Uボート拿捕、米国回航のニュースは、一般公開され、ドイツ軍将官の乗艦も確認された。南米に脱出するヒトラーが乗艦しているとの噂も流れた。
1945年5月19日、日本に原爆用ウランU235を運搬しようとしたUボートU-234は、米国ポーツマスPORTSMOUTH基地に抑留された。搭載物資は、揚陸され、米軍の管理下に置かれた。少量のウラン235よりも、ジェット戦闘機、誘導爆弾、魚雷などの実物と設計図のほうが米軍には価値があった。U-234は1947年11月20日に魚雷で海没処分された。

写真(右):ポーツマス基地で酸化ウランなど搭載物資を揚陸するドイツ潜水艦U-234(右);日本軍に譲渡するジェットエンジン,誘導爆弾など260tの秘密物資を搭載していた。原爆開発研究用に酸化ウラン560kgも含まれる。Cargo included three crated Messerschmidt aircraft (two Me-262 jet fighters, ME-163 rocket-propelled fighter), Henschel HS-293 glider-bomb, extra Junkers jet engines, 10 canisters of uranium oxide, a ton of diplomatic mail, and over 3 tons of technical drawings, plus other technology, torpedo, fuses, armour piercing shells, etc.(U-234引用) 写真はU-Boats in the Far East:German Transport Boats引用。拿捕された2隻のUボートが写っている。

ドイツから日本へ派遣されたUボート酬BのU-234搭載のU235酸化ウラン560kgは、日本の原爆開発用であった。しかし、これは濃縮ウラン3.5kg相当に過ぎず、原爆に必要な50kgに到底及ばない。そこで、ウラン搭載を過小評価し、日本の原爆開発などとるに足りないとする日本人識者が多い。しかし,日本も仁科芳雄らが原爆開発をして、米国を攻撃するつもりだったのであれば、日本に原爆が投下されたのは、原爆開発競争に負けた結果だったとされてしまう。

酸化ウランU235は、放射能兵器として利用できた。米国本土空襲のためには、運搬手段として風船爆弾が利用できた。ドイツ海軍大型潜水艦Uボート招B(排水量1760トン)U-234が搭していたのU-234は、酸化ウランUranium Oxide(U235)を、オッペンハイマー博士が検視した。

ドイツ潜水艦U-234の搭載していたウラン235は、1945年5月14日に米軍の手に落ち、日本には届かなかった。そのため、日本は、1945年6-7月、原爆開発研究を中止した。ただし、中止の名目は、連合軍でも原爆開発は不可能であるということである。

1945年6月18日、軍用材料、火薬化学工業の研究開発をする。

陸軍第八技術研究所から、上級の陸軍兵器行政本部に一通の報告書が届けられた。
『アクチノウラン』(U235)研究現状 昭和二十年六月十八日 第八陸軍技術研究所
 一、理研仁科研究室ニ於ケル熱拡散法ニヨル「アクチノウラン」分離ノ研究ハ、数回ノ実験ノ結果不可能ナルコト判明シ、「アクチノウラン」ノ原子核「エネルギー」ノ研究ハ中止スルコトトナレリ。
二、「アクチノウラン」分離ハ目下殆ド不可能ナルコトヲ以テ、敵国側ニ於テモ「アクチノウラン」ノ「エネルギー」利用ハ当分為シ得ザルモノト判明セルヲ以テ、研究ノ中止モ不可ナラズト考ヘラレアリ。
三、京都帝国大学理学部荒勝教授ハ別ニ遠心分離法ニヨル「アクチノウラン」分離ニ就キ研究中ノ由ナリ。(此研究ハ海軍関係ト連絡研究中ノモノナリ。)
付記 一、「アクチノウラン」利用ノ研究ニ関シ軍需省ハ「ウラン含有鉱物」ヲ奨励鉱物トシソノ産出ヲ助長シアルヲ以テ、「アクチノウラン」利用ニ関スル研究中止ニヨリ陸軍省トシテ「ウラン含有鉱物」ヲ必要トセザル場合ニハ、至急非鉄金属局鉱山第二課長ニ連絡スベキコト。(→「遅すぎた聖断」昭和天皇と日本製原爆開発計画;山崎元引用)

 ウラン235を用いた日本陸軍の原爆開発は、1945年6月に中止された。そして、海軍の研究も1945年7月に放棄された。連合国の原爆開発は不可能であるというのがその理由であるが、ドイツからのウラン235入手が不可能になったことが影響していよう。原爆が非人道的兵器であるといった今日的理由は、一切配慮されていない。枢軸国の原爆開発こそが、連合国による原爆開発の第一番目の口実(アインシュタインの手紙)であったことが思い起こされる。

現在でも、Robert K. Wilcox(1995)Japan's Secret War: Japan's Race Against Time to Build Its Own Atomic Bomb は、日本の原爆開発を過大評価しているようである。日本が原爆を開発し、米国に原爆投下をするより先に、米国が日本に原爆投下をした。このような原爆開発競争論は、日本の原爆開発を、米国の原爆投下を正当化する口実とした。

米国は人種的,民族的偏見もあって、日本人による原爆開発は不可能であると決めてかかっていたのであろう。日本軍による米国への原爆投下に先んじて、米国が日本に原爆を投下した、とするのは、戦後の俗説である。

もしも日本が原爆開発に成功していても、5トン以上の原爆を運搬するには、艦船しかなかった。本土決戦用に、沖合いに終結した連合国輸送船団の真っ只中で、特攻自爆するのに使用できたかもしれない。日本軍が原爆を保有していたら、戦局挽回のために当然使用したはずだ。所詮、軍隊とは、最新最強の兵器を使用したがるものだ。


写真(上左):テニアン島赤十字部隊とのキャンティーン(食事交歓会)
:1944-45年、婦人も含む赤十字と楽しいひと時を過ごすテニアン島航空部隊の隊員たち。写真(上右):グアム島第20航空軍B-29爆撃部隊第319部隊の宿舎:1944年8月に米軍が占領したグアム島の「ノースフィールド基地」。The 20th Air Force's five wings were divided into 20 Bomb Groups. This is the history of one of those Groups. The 39th - stationed on Guam, the southernmost island in the Marianas. The combat missions they flew against Japan ultimately brought them two prestigious Distinguished Unit Citations. to Keith Materi for the use of these photos from his father, Lawrence Materi's collection. His Father was with the 19th Bomb Group.39th Bomb Group Photos引用。


4. 日本への原爆投下の理由は,最新兵器の実験,戦略爆撃の延長としてであり,戦後も原爆の開発予算を獲得するという軍事的視点が重要である。対ソ外交を有利に運ぶために原爆を投下したというのは,政治家の視点である。

<原爆投下の理由>
1.1945年7月26日のポツダム宣言を、翌27日、日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとするポツダム宣言黙殺説
 鈴木貫太郎首相が、1945年7月27日ポツダム宣言Potsdam Declaration)黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断された。しかし、鈴木首相は当初から和平交渉を拒否し、徹底抗戦すると公言していた。この徹底抗戦という組閣当初からの方針を述べただけである。鈴木貫太郎首相は、世界に向かって降伏の呼びかけを拒否したのであるから、鈴木内閣が終戦のために組閣されたという俗説は、これで誤りであると証明される。しかし、内閣総理大臣鈴木貫太郎がポツダム宣言黙殺発言をする以前に、米国は日本への原爆投下を決定していた。これは、マンハッタン計画指揮官のグローブズ准将の作成した原爆投下命令書によってである。したがって、ポツダム宣言黙殺説は成り立たない。

2.米政府・米軍の公式見解といえる終戦和平説
 日本上陸作戦を実施した場合、戦後のスチムソン陸軍長官の回顧録では、100万人の死傷者がでると、過大に見積もっている。これには、軍事的根拠はないが、原爆投下の正当性を訴える目的で、戦後になって死傷者の存在に注目した後付けの説である。
これが本当であれば,日本上陸作戦の死傷者がどれくらい出るのか、原爆投下によって日本本土上陸作戦を行わなくても、直ぐに日本が降伏するのか、事前に何回も検討していたはずである。しかし、そのようなことはほとんど議論されていない。
 原爆投下されたために日本が降伏したと誤解している識者も多い。最新機密兵器である原爆の技術と威力について、日本の指導者たちは認識・理解できなかった。彼らが危惧したのは、日本国民、日本軍の一部が、すでに敗北続きの軍上層部・政治指導者に反感を持っていたことである。このままでは、国体を覆す革命が起きてしまうと危惧していたのである。

3.米終戦後のソ連封じ込め説(対ソ外交説)・世界覇権掌握説
 ドイツ降伏までは、連合軍として共同歩調を取ってきたソ連であるが、ポーランド復活をはじめ、欧州の戦後処理では、すでに英国と激しく対立した。冷戦は既に始まっていたのである。米国でも、ルーズベルト大統領が死去すると、トルーマン大統領の先輩議員である外交を担うジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)国務長官は、原爆をソ連に対する外交を有利に運ぶための手段として、使用することを強く求めた。米国の同盟国のソ連に事前に通知することなく、日本に原爆を投下し、日本を壊滅させることで、たとえソ連の参戦があっても、戦後の日本占領政策に、ソ連が深入りすることはできない。そのためには、原子爆弾が巨大な破壊力を持つことを世界に示し,原爆を保有する唯一の国家米国こそが、世界最強の軍事大国であることを証明することが有利である。よく、対ソ外交を有利に展開する手段として、原爆を投下したといわれるが、英国,フランス、中国も含めて,国連常任理事国の中で,傑出した兵器を持っていることを実際に使用して,世界に示す=世界の覇権掌握こそが、より高次元の原爆投下の理由であったと考えられる。

4.米軍新兵器実験説・米陸軍世界最強立証説
 現在でこそ、核兵器の威力を世界の人々が知っているが、1945年8月以前、原爆は未知の兵器で,その威力は、極秘のうちにトリニティ(原爆爆発の初実験)で立証されていただけであった。破壊力のある革新的兵器を手にした米陸軍は、その威力を実戦に使用して、確認したかった。また、威力を世界に示すことで、米陸軍こそが世界最強であるとの証明にもなる。米海軍との対抗して、米議会で多額の予算を獲得するにも、原爆の威力を見せつけることは有利である。米海軍も原爆を保有したかった。そこで、米陸軍に対抗して、海軍は、対艦船攻撃用の原爆、潜水艦搭載の核兵器の開発を早急に進めることになる。ビキニ環礁の原爆実験は、艦船への破壊力を観察することにあった。

5.戦後の軍事予算獲得説
 原爆を開発/製造するために膨大な予算を獲得するには、原爆の威力を議員たちにも納得してもらう必要があった。既に20億ドルが投じられたのは、戦時の極秘計画だったからで、終戦後は、各種兵器の増産は終了させられる。実際、空母などの大型艦船、B-17爆撃機など航空機は、量産が停止させられた。兵器生産の多くが終了すると考えられる戦後世界で、原爆に多額の資金を投入し続けるには,米議会と選挙民に原爆の威力を示す必要があった。原爆予算だけは削減できないものであると議会と世論に訴える必要があった。

6.連合国と枢軸国との原爆開発競争に勝った米国が原爆を先制使用しただけという原爆開発競争説
 1939年のアインシュタイン・シラードのルーズベルト大統領当ての手紙では、ドイツが原爆開発を成功させる恐れがあり、それに先んじて、米国が原爆を開発すべきであることを訴えた。ドイツの科学力,技術力を高く評価していたからである。日本軍も1941年から優秀な科学者を動員して原爆を開発しようとした。そこで、日本が原爆を開発し、米国に原爆投下をするより先に、米国が日本に原爆投下をしただけであると主張される。
 しかし、実際には、日本の化学力,技術力で原爆を開発することは不可能であった。当時の米国は、科学的根拠をもとに日本の原爆開発能力を評価したわけではなかったようだ。しかし、人種的,民族的偏見から、日本人による原爆開発の可能性を信じていなかったと考えられる。したがって、原爆開発競争説は、日本への原爆投下の理由として、戦後になって主張された説である。ただし、ドイツの原爆開発には、連合軍は神経を尖らせていた。ノルウェーにあった重水生産工場を特殊部隊を送って破壊したほどである。

7.通常爆弾による無差別爆撃の延長線上に原爆投下があるという戦略爆撃延長説(鳥飼研究室新説):
 戦略爆撃とは、軍事施設・インフラ(運輸・エネルギー・医療・教育の基盤)・住宅・商業地区などを破壊し、労働者・市民を殺害することで、敵国の世論を反政府に向かわせ、軍事力を弱体化することで、敵の抗戦意思を粉砕することを企図している。原子爆弾も通常爆撃と同じく戦略爆撃に投入され、両者の違いは、爆弾一発の持つ破壊・殺傷能力の大小である。放射能傷害など,原子爆弾に特有の被害(原爆症)もあるが、これは、殺傷力の違いである。したがって、原爆投下は、大規模な戦略爆撃であり、実際の効果、すなわち大量破壊・大量殺戮の上で,同じように非人道的である。大量破壊・大量殺戮を伴う無差別「通常」爆撃が許されるのであれば、原爆投下も許容される。
 つまり、1945年8月時点では、米軍の日本本土への無差別爆撃という戦略爆撃の延長線上に原爆投下があるのであって,原爆投下だけを特別扱いする必要はなかった。原爆の保有・投下目標は最高度の軍事機密であり、特別な情報管理がなされたが、原爆投下自体は、容易に決断されている。 フランクリン・ルーズベルトFranklin Delano Roosevelt)が進めていた原爆開発やその後の原爆投下の議論に、トルーマンが副大統領としても、大統領としても、ほとんど加わっていないのは,戦略爆撃がすでにドイツと日本に大規模に実施されていたからといえる。爆撃機千機相当の戦略爆撃をたった1機(観測機を含めても数機)で実施できるように改良したのが原爆投下である。この意味で、原子爆弾があれば、数百機の爆撃機とそれを運用する航空基地.搭乗員,整備員、航空機生産工場、資材・燃料を節約できる。原爆は、軍機であるが、威力のある最新兵器として戦略爆撃に利用することは、原爆開発の当初から決まっていた。


写真(右):1945年,横浜空襲の被災者が集められた黄金町
;1944年11月24日の武蔵野の中島飛行機空襲以来,サイパン島やテニアン島から出撃したB29爆撃機が,連日のように本土を空襲した。1945年3月10日,米B29爆撃機340機が東京を大空襲し,死者10万人、負傷者11万人、家を失った者100万人に達した。B29爆撃機は,5月24日250機、翌25日250機が東京を再び大空襲した。戦略爆撃は,大量破壊、大量殺戮では原爆投下と同じである。つまり、大規模に無差別爆撃をしていた米軍が、原爆投下だけを慎重に扱ったとすれば,それは最新極秘兵器だったからであり、原爆投下自体の可否は問題とならないはずである。


長崎原爆資料館「C-2 原爆投下への道」では、「1938年にドイツで発見された核分裂は、原爆に応用できることが示唆された。1942年、アメリカはマンハッタン計画Manhattan Project)をレスリー・グローブズLeslie R. Groves)准将の下に発足させ、当時の日本の国家予算をしのぐ巨費を投じて原爆を開発した。原爆はドイツを対象に開発されたが、後に目標を日本に変更、京都など18ヶ所が候補に上がった。結局、1945年8月6日広島、同9日長崎に投下された。原爆投下の理由として、早期終戦のためと言われているが、20億ドルを投じたマンハッタン計画を誇示する目的もあった。また、ソ連との冷たい戦争の最初の作戦という性格も持っていた。」とする。

写真(右):1945年7月3日、アメリカ大統領ハリートルーマンによって、国務長官に任命されたジェームズ・バーンズが聖書に手を置き宣誓した。:中央の夫人は、ミセス・バーンズ、その右後方はルーズベルト元大統領の顧問で前国務長官のエドワード・ステティニアス(Edward Stettinius)、左後方の夫人は、ミセス・ヴァージニア・アンダーソン、夫は農務長官クリントン・アンダーソン(トルーマンの後方)
Description: President Harry S. Truman (right) stands with others as James Byrnes (center, holding Bible) is sworn in as Secretary of State. Visible in the background are outgoing Secretary of State Edward Stettinius (between Mr. and Mrs. Byrnes), and Secretary of Agriculture Clinton Anderson (to the left of Mr. Truman). All others are unidentified. Date: July 3, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972; Anderson, Clinton Presba, 1895-1975; Stettinius, Edward R. (Edward Reilly), 1900-1949 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-18引用。


連合国市民、連合軍の退役軍人協会などが、正義の戦いのための「当然の犠牲」であるとか、戦争継続によって失われるはずだった命を救ったとか、強弁するのは、死者遺族にとっては納得できないであろう。人命の犠牲の上に、現在の平和と繁栄がある、と主張するのも、違和感が残る。殺害された市民にとって、「言い訳」は、受け入れがたい。

しかし、総力戦にあって、市民といえども、労働力,食料増産,資源燃料の節約、世論形成の面で、戦争に参加している。つまり、総力戦は,敵味方双方にとって、大量殺戮,大量破壊が戦争の形態となる。戦略家は、人々の犠牲もやむをえないことを、当然、受け入れているはずだ。ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes)国務長官のように国民を選挙民として常に意識していた老齢な政治家は、敵による民間人,市民の犠牲を非難し、敵愾心を煽るプロパガンダを展開しつつ、残された家族には、遺族年金、勲章・功労賞、慰めの言葉を贈る必要性を十分認識し、戦争と外交を展開していた。

米軍による日本本土空襲による殺害率(キルレート)は、米国人3000人対日本人30万〜50万人であり、100-180倍もあり、破壊家屋・工場を含めれば,B-29爆撃機500機弱の損失に比べて、大戦果をあげた。対日戦争に勝利をもたらした最大の要因は,米軍によれば,日本本土空襲、原爆投下、無制限潜水艦作戦による交通破壊とされ、日本の政治家・軍人に衝撃を与えたソ連の対日参戦、満州侵攻は無視している。


写真(右):マンハッタン計画の指揮官グローブズ准将とオッペンハイマー博士;The Joseph Papalia CollectionLeslie Groves From Wikipedia引用。


1942年8月13日、レスリー・グローブズ准将をマンハッタン管区最高司令官に、オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として「マンハッタン計画Manhattan Project)」が始動。
1944年9月19日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間のハイド・パーク協定で、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更。
1945年4月27日、第一回の目標委員会(Target Committee)では、京都、広島、横浜、小倉の4 都市が選定。
1945年5月4日,スチムソン陸軍長官は,陸・海・国務3省および原爆科学者の幹部からなる暫定委員会を設置。
1945年5月28日、原爆の効果を正確に測定できるよう、投下目標都市に対する空襲が禁止。
1945年6月1日、ジェームズ・バーンズ国務長官(トルーマンの先輩上院議員)など暫定委員会は「日本に対してすみやかに原爆を使用すべきこと。それは,労働者の住宅に囲まれた軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきこと。原爆投下の事前の警告なしに使用するべきこと。」とした。これは、原爆の威力実証、対ソ連圧力外交としての原爆示威、早期の日本降伏を意図した結果であろう。
1945年7月16日、ニューメキシコ州、アラモゴードで、世界初の原子爆弾の爆発実験「トリニティ」に成功。ポツダム会談参加のためにドイツに出向いていたトルーマン大統領に伝えられる(「無事出産。結果は予想以上。」)。


写真(上左):1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、世界初の核実験コードネーム「トリニティ」が行われた。ポツダム会談の時期にアメリカはロスアラモスで開発した原子爆弾の爆発実験「トリニティ」に成功した。ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は優越感を持って、驚異的な破壊力の爆弾を開発したと告げた。
:Description: The first successful test of an atomic bomb, Alamogordo, New Mexico, July 16, 1945. Date: July 16, 1945 Related Collection: Lansing Lamont Papers ARC Keywords: Atomic bomb; Nuclear weapons testing HST Keywords: Atom bomb; New Mexico, Alamogordo 写真は、 Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 72-4148引用。
写真(上右):1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、原子爆弾の爆発実験「トリニティ」:Atom Bomb Explosion, Test at Alamagordo, New Mexico. Date: ca. 1945 Related Collection: Robert A. Lovett Papers ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945 HST Keywords: Atom Bomb 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 61-53引用。


5. 1945年7月25日、日本本土への原爆投下命令がだされた。その翌日26日、日本への降伏勧告のポツダム宣言が公表された。このポツダム宣言を黙殺したから、日本に原爆投下されたという俗説は、誤りである。原爆投下命令書に大統領の署名はなく、マンハッタン計画の指揮官のグローブズ准将が作成したものでハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領の署名はなかった。原爆投下は、都市無差別爆撃の延長線上に、疑問の余地無く、遂行された。原爆投下の可否が議論されたのは,戦後になってからのことである。これは、原爆投下の非人道性が明らかになったためである。

写真(左):陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas Handy大将(1918年10月-1970年);National Leadership Foundation.org:VirtualMuseum引用。 写真(右):米軍戦略爆撃航空団司令官カール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz大将 (1891年6月28日 – 1974年7月14日);1943年3月、欧州方面戦略爆撃空軍司令官(陸軍中将)として対ドイツ爆撃を実施したカール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz)は、1945年3月11日、米陸軍航空隊太平洋方面戦略空軍司令官に就任。1945年7月にグアム島に司令部を設置。

陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas T. Handy)大将は、1944年2月8日,米陸軍参謀本部の難民非救援指示書:Memorandum for the Chief of Staff, February 8, 1944, on reassuring the British that military forces will not be used to rescue refugeesによって,難民を救援しないことを次のように指示していた。

欧州に戦禍が拡大し、難民が大量発生しても、彼らを救済することは、軍本来の職務である作戦行動に障害になる。そこで、英国軍と歩調を合わせて、難民を救援しないことを方針とした。Regarding the enclosed memorandum from the Office of the Chief of Staff dated 7 February 1944 on above subject, it appears highly desirable to communicate with the British Government offering assurance that military forces, units or individuals will not be used in rescuing refugees except insofar as these rescues may result from planned military operations conducted to defeat the Axis military.
米軍にとって,敵民間人への人道的配慮はもともと無かったのであり,原爆投下が終戦得和平に結びついたおかげで、米国将兵、日本将兵、戦渦に巻き込まれ犠牲となる民間人の生命をも救った、との原爆終戦和平説の真偽は、この難民非救援措置を見ても明らかであろう。

1945年7月25日、陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas Handy)大将発・宛合衆国陸軍戦略航空団司令カール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz)大将への原爆投下の命令書ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB(スパーツ大将は、太平洋戦略航空軍の指揮官として、7月にグアムの本部に赴任中)。

1.第20航空軍第509混成部隊は1945年8月3日以降、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに原爆を投下すること。原爆効果確認のため、(レーダー爆撃ではなく)必ず目視爆撃をし、観測用航空機を随伴させること。
⇒筆者注:現地指揮官に、原爆の実戦効果を明確に記録することを指示したのは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説を裏付ける。

2.追加爆弾は準備完了後すみやかに上記目標に投下。
⇒筆者注:現地指揮官の判断で随時、原爆の連続投下が可能。米大統領や統合参謀本部は、米軍の威力を見せつける原爆連続使用を望んだ。このことは、原爆投下が、米世界覇権説、米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説を裏付ける。

3.原爆使用について、情報の配布は国防長官および合衆国大統領により留保される。この件に関するいかなる文書または情報の公表も、当該部局の許可なしには行なってはならない。すべての報道文を特別検閲のため国防省に送ること。
⇒筆者注:秘密兵器の原爆について、情報管理を行い、原爆投下方法も含め,原爆技術を秘匿し、他国への漏洩を防いだ。これは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。原爆投下の可否ではなく、原爆の技術に注目している点で、戦略爆撃延長説をも支持する。

4.以上は陸軍長官および合衆国参謀総長の指示と承認のもとに発せられたものである。本命令書の複写を、マッカーサーとニミッツの両陸海軍元帥に、貴官から手交すること。
⇒筆者注:太平洋戦線の陸海最高位の指揮官にすら、原爆投下の事前通告をしていない。原爆情報の集中管理は、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。戦後、ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)元帥が原爆投下を非人道的であるとして非難したが、これは、自分を無視して行われたマンハッタン計画と原爆投下への反感からであり,人道的な配慮からではないだろう。朝鮮戦争の時、米軍・国連軍の前線指揮官として、ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)元帥は、中国への原爆投下を提案している。


署名 陸軍参謀総長代理 Thomas Handy 副署 Groves 

⇒筆者注:原爆投下命令書には、ハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領の署名はない。陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas T. Handy)大将の署名だけで十分だったのは、原爆投下自体、議論の末に行われたことではないことを示している。将軍の最低ランクのレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将が作成しているが、マンハッタン計画にかかわった軍事指揮官の影響力がつよければ、20億ドルを投じた原子爆弾を使用しないで済ませるはずがない。これは、原爆投下の理由が、米新兵器実験説,米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説であることを裏付ける。


原爆は当初から、どこに、どのように投下するかだけが議論されていたが、投下の是非をめぐる議論はなかった。原爆の仕組みや開発の実態について、全体像を把握していた人物は限られていた。秘密兵器原爆を手中に収めていた「マンハッタン計画Manhattan Project)」の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の影響力は、原爆投下準備を進めるに当たって絶大である。

1945年7月25日のハリー・トルーマンHarry S.Truman)大統領の日記には、女子供への被害を少なくするように、軍事目標に投下するように,ヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官には言ってある、との記載がある。原爆投下される日本人が被る苦しみについて、軍事に暗い大統領は、原爆被害との関連で、投下が意味することを把握できなかったようだ。大統領が「マンハッタン計画Manhattan Project)」にも原爆投下にも大きな役割を果たして折らず、部下たちの提案を承認しているだけ----というような印象を受ける。未知の兵器原爆について、その仕組みはもちろん,世界への影響について、理解し切れなかったとしても無理はない。 

1945年7月25日、原爆投下命令書;ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB Handy to Spaatz, National Archives (July 25, 1945)

25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces

1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. To carry military and civilian scientific personnel from the War Department to observe and record the effects of the explosion of the bomb, additional aircraft will accompany the airplane carrying the bomb. The observing planes will stay several miles distant from the point of impact of the bomb.

2. Additional bombs will be delivered on the above targets as soon as made ready by the project staff. Further instructions will be issued concerning targets other than those listed above.

3. Discussion of any and all information concerning the use of the weapon against Japan is reserved to the Secretary of War and the President of the United States. No communiques on the subject or releases of information will be issued by Commanders in the field without specific prior authority. Any news stories will be sent to the War Department for specific clearance.

4. The foregoing directive is issued to you by direction and with the approval of the Secretary of War and of the Chief of Staff, USA. It is desired that you personally deliver one copy of this directive to General MacArthur and one copy to Admiral Nimitz for their information.

(Sgd) THOS. T. HANDY
THOS. T. HANDY
General, G.S.C.
Acting Chief of Staff
copy for General Groves ( atomic bomb: decision引用。)



写真(右):広島に原子爆弾投下し帰還したB-29「エノラ・ゲイ」機長ポール・ティベッツ大佐とヴァン・カーク少佐;少佐と大佐の二人のサイン入りのカラー写真は、帰還を待ち構えていた米軍の撮影。大歓迎会を行った。Color Photo of Col. Paul Tibbets and Maj. "Dutch" Van Kirk Upon Returning From the Hiroshima MissionThe Joseph Papalia CollectionThe Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc. 引用。


1945年7月26日,ポツダム宣言(Potsdam Declaration)。
1945年8月6日、広島に原爆投下。原爆投下の可否など公に議論されたことなどない。原爆をどこにどのように投下するかが議論され、それがトルーマン大統領に報告されただけである。原爆投下の決定は、ハンディ参謀総長代理がマンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves)准将の作成した命令書で決定していた。

トルーマン大統領の1945年7月25日の日記Harry S. Truman, Diary, July 25, 1945
This weapon is to be used against Japan between now and August 10th. I have told the Sec. of War, Mr. Stimson, to use it so that military objectives and soldiers and sailors are the target and not women and children. Even if the Japs are savages, ruthless, merciless and fanatic, we as the leader of the world for the common welfare cannot drop that terrible bomb on the old capital or the new. (この兵器は8月10日までに日本に対して使用される。ヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官には、女子供ではなく軍事目標と兵士・水兵を目標に狙えと言ってある。喩えジャップが野蛮人、無慈悲、冷酷で狂信的だったとしても、我々は世界のリーダーとして、共有すべき福利を尊ぶから、古都や東京に原爆を投下することはできない。)

He and I are in accord. The target will be a purely military one and we will issue a warning statement asking the Japs to surrender and save lives. I'm sure they will not do that, but we will have given them the chance. It is certainly a good thing for the world that Hitler's crowd or Stalin's did not discover this atomic bomb. It seems to be the most terrible thing ever discovered, but it can be made the most useful...(目標は純軍事的なものであり、日本に降伏するように勧告もしよう。彼らは降伏しないはずだが、我々は彼らに機会を与えてやったことにはなる。ヒトラーとスターリンが原爆を開発してないことは、世界にとって喜ばしい。これは、発見された中で最も悲惨なものであるが、最も役に立つものでもある-----)
(引用終わり)

写真(右):1945年7月11日、ドイツ、ポツダム会談出席のためにベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」艦首のアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):説明しているのはアメリカ海軍ジェームズ・フォスケット大尉(1898-1961)アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動し、ベルリンに向かった。
Description: Left to right: Captain James Foskett spins a yarn to Secretary of State James Byrnes and President Harry S. Truman on the U. S. S. Augusta as they travel to the Potsdam Conference. From the album: President's Trip to the Berlin Conference. Date: July 11, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Cabinet officers; Naval officers; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Ships HST Keywords: Potsdam - U. S. S. Augusta; Ships - Augusta - Truman aboard; Truman - Potsdam - U. S. S. Augusta; Truman - Ships - Augusta (aboard) People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; Truman, Harry S., 1884-1972 1950 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-08引用。


写真(右):1945年7月11日、ポツダム会談に出席するのためにベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」艦首のアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):写真と動画の撮影をし、アメリカ国内外でのプロパガンダに活用した。これらの映像を見ると、トルーマン大統領が、先輩の上院議員バーンズ国務長官に遠慮しすぎている、あるいはバーンズが先輩風を吹かせているように見えてくる。たしかに、日本へのポツダム宣言での国体護持条項を削り、日本絵の原爆投下を率先して主導したのは、バーンズ国務長官であり、ルーズベルト大統領の急死で急遽大統領に就任したトルーマンでは、情報も政治的力量も不足であると感じられた。
Description: President Harry S. Truman (left) and Secretary of State James Byrnes (right) pose for two unidentified press photographers on board the USS Augusta. They are on board the USS Augusta to travel to the Potsdam Conference in Germany. Date: July 11, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Cabinet officers; Photographers; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Ships 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-04引用。


写真(右):1945年7月、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」食堂で水兵と一緒に食事をとるアメリカ大統領ハリー・トルーマン(中央):ドイツ、ポツダム会談に出席するため、アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動。
Description: President Harry S. Truman at mess with enlisted personnel and officers aboard the U. S. S. Augusta on his voyage to attend the Potsdam Conference in Germany, July 1945. Date: ca. July 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 70-5875引用。


写真(右):1945年7月12日、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」食堂で乗員と一緒に食事をとるアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):サウスカロライナ州の貧しい母子家庭出身のバーンズは、独学で法律を学び、上院議員に当選。インフラ整備や教育に力を入れ、州知事に当選。その後、第二次大戦が勃発すると、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、戦時動員局長に就任し、当初から原爆開発、マンハッタン計画に深く関与した。ルーズベルトの死後、弟子のハリー・トルーマンが大統領に就任すると、1945年7月には、ハルの跡を継いで、国務長官に抜擢された。外交では冷徹な反共産主義者だったが、故郷では教育や福祉に尽力していまだに高名な政治家である。
Description: Secretary of State James Byrnes (center) at lunch with the crew of the U. S. S. Augusta as he accompanies President Harry Truman to the Potsdam Conference in Germany.Others are unidentified. From the album, "The President's Trip to Potsdam, album number 1." Date: July 12, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1454-18引用。


写真(右):1945年7月15日、ベルギー、アントワープに到着したアメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」艦上、手前に座っている報道官(Press Secretary)チャールズ・ロス(Charles Ross)、 アメリカ大統領ハリー・トルーマン、後方中央に立つ国務大臣ジェームズ・バーンズ、右にアメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:これから空路ベルリンを経由してポツダム会談に出席する。オーガスタは、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ルーズベルト大統領の「御召艦」としての任務が加わり、近代化改装工事が行われる。1941年8月9日、大西洋会談に際して、イギリス首相チャーチルの御召艦・戦艦プリンス・オブ・ウェールズとニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地で会合。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官、海軍参謀総長ウィリアム・リーヒ元帥を乗せアントワープに向かった。President Harry S. Truman (seated, left) and Press Secretary Charles Ross (seated, right) are looking out over a river while on a boat approaching Antwerp, Belgium. President Truman is en route to the Potsdam Conference. Standing behind President Truman, from left to right, is Captain James Vardaman, Secretary of State James Byrnes, and Admiral William D. Leahy. Others are unidentified. Date: July 15, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Truman, Harry S., 1884-1972; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number:64-390引用。

写真(右):1945年7月14日、アメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」からアントワープに上陸するアメリカ大統領トルーマン:1945年7月、ポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領らが乗艦しているが、もはやドイツは降伏しており、攻撃される心配はほとんど全くなかった。しかし、イギリスの戦勝を助けた同盟国として最大限の経緯を払って、艦隊を護衛に差し向けた。
Description: President Harry S. Truman receives a salute from the officers and men of the U. S. S. Augusta as he debarks at the port of Antwerp. He is en route to the Potsdam Conference in Germany. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-16引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したアメリカのヘンリー・スチムソン陸軍長官とアメリカ陸軍フロイド・パークス中将(前列右端):フロイド・パークス中将は、 イェール大学、 米国陸軍戦略大学で学び、9月からはベルリン地区の軍政長官に就任する。
Description: Secretary of War Henry L. Stimson (foreground, second from right) walks with General Floyd L. Parks at Gatow Airport in Berlin, Germany where Mr. Stimson has just arrived to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Parks, Floyd Lavinius, 1896-1959; Stimson, Henry Lewis, 1867-1950 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-12引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したアメリカのヘンリー・スチムソン陸軍長官とアメリカ国務大臣ジェームズ・バーンズ(前列右端):フロイド・パークス中将は、 イェール大学、 米国陸軍戦略大学で学び、9月からはベルリン地区の軍政長官に就任する。
Description: Secretary of War Henry L. Stimson (foreground, left) talks with Secretary of State James F. Byrnes (right), upon their arrival at Gatow airport, Berlin, Germany, to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945 Date: July 15, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Stimson, Henry Lewis, 1867-1950 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-1引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場にアメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874-1965)が出迎えのガトー空港警備部隊のイギリス陸海空軍将兵を閲兵している。 :後方のアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」は1942年に開発され1947年までに1200機生産された。
ダグラスC-54Douglas C-54 Skymaster)諸元
プラット&ホイットニー空冷ラジアルエンジンR-2000(1,290馬力)4基
最高速度:450 km/h、巡航速度:365 km/h
座席数:50名
航続距離:6,800 km
全長:28.6 m、全幅:35.8 m
全高:8.38 m
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg。
Description: British Prime Minister Winston Churchill reviews an honor guard of the Royal Navy, Canadians, Royal Air Force, and a battalion of Grenadier guards at Gatow Airport in Berlin, Germany where he has just arrived to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Military ceremonies, honors, and salutes; Potsdam Conference, 1945; Prime ministers; Soldiers HST Keywords: Airports - Gatow; Potsdam - Military reviews; Truman - Potsdam - Military reviews 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-22引用。


写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿、イギリス代表団の宿舎に割り当てられた一角:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設され、ポツダム宮殿とも呼ばれた。1990年、ツェツィーリエンホーフ宮殿と庭園が「ポツダム・ベルリン宮殿・公園群」の一角としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。
The members of the British delegation occupy this section of the Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. Date: July 13, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Historic buildings; Palaces; Potsdam Conference, 1945 HST Keywords: Cecilienhof Palace; Potsdam - Conference area; Truman - Potsdam - Conference area
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-64引用。


写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿の正面:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設され、ポツダム宮殿とも呼ばれた。:ツェツィーリエンホーフ宮殿は、第一次大戦中の1917年、当時のドイツ帝国皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために、皇帝ヴィルヘルム2世が建設した。宮殿の名前は、皇太子妃ツェツィーリエに因んでいる。しかし、第一次世界大戦末期、戦局悪化の名で、1918年、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命・退位した。1945年、ソ連軍に占領され、ここでアメリカ・イギリス・ソ連の首脳ビッグスリー一堂に会したポツダム会談が開かれた。宮殿の様式は、イギリスの別荘のようなスタイルで、豪華絢爛ではかく、落ち着いたただ住まいである。
General scene showing activity in front of the Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. From Potsdam album, 1945. Date: July 18, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Potsdam Conference, 1945; Soldiers
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-15引用。


写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談でアメリカ軍司令部となった「リトル・ホワイトハウス」で電話機を操作するテストする女性陸軍部隊(WAC)アルマ・ブラッドレー伍長:女性陸軍部隊は、それまでの従軍看護婦とはことなり、アメリカ陸軍の補助部隊として1942年5月に創設された。初代指揮官オヴィータ・カルプ・ホビーは、テキサス州の政治家夫人で法律家、ジャーナリスト。第2次世界大戦中に、女性陸軍部隊や女性陸軍補助部隊には合計15万名が任務に就いた。第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談(Potsdam Conference)開催の前、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトは死去、副大統領ハリー・トルーマンが継いだ。開催最中、イギリス総選挙で保守党がまさかの敗北、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは地位を失い、労働党クレメント・アトリーが後を継いだ。ソ連のヨシフ・スターリンだけが戦前から一貫して権力を握っている。
Description: Women's Army Corps Corporal Alma Bradley operates switchboard at the Little White House, President Truman's residence during the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 13, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Potsdam Conference, 1945; Presidential residences; Women soldiers HST Keywords: Potsdam - General file; Truman - Potsdam - Conference area; White House - Little White House - Germany, Potsdam People Pictured: Bradley, Alma
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number:63-1455-59引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム、アメリカ軍司令部に接続された電話交換機を調整するロバート・スコット曹長とグラディス・ベロン一等兵:7月26日に発せられたポツダム宣言(Potsdam Declaration)では、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: Private First Class Gladys Bellon and Sergeant Robert Scott test phone lines in the frame room of the switchboard at the U. S. headquarters at the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Bellon, Gladys; Scott, Robert, U.S. Army sergeant 写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-80引用。

写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリンがアメリカ代表団の宿舎「リトル・ホワイトハウス」を訪問しアメリカ大統領ハリー・トルーマンが出迎えた。左からソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフとアメリカ国務大臣ジェームズバーンズ:Description: First visit of Soviet Prime Minister Josef Stalin with President Harry S. Truman during the Potsdam Conference. They are at the "Little White House," the residence of President Truman during the conference. Foreground, left to right: Soviet Foreign Minister Vyascheslav Molotov; Secretary of State James F. Byrnes; Charles Bohlen, President Truman's interpreter; President Truman; Admiral William D. Leahy; V. N. Pavlov, Stalin's interpreter (partly obscured by Stalin); Prime Minister Stalin. In the background, at the top of the stairs are Major General Harry Vaughan (left), Press Secretary Charles Ross (third from left), and Captain James Vardaman (right). Others are unidentified. From Potsdam Album, 1945 Date: July 17, 1945 People Pictured: Bohlen, Charles E. (Charles Eustis), 1904-1974; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-30引用。

写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ポツダム会談の開催時期、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(左端)の宿舎を訪問したアメリカ大統領ハリー・トルーマン。ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフ(右端)と腕を組むアメリカ国務大臣ジェームズバーンズ。中央奥は、アメリカ駐在ソ連大使アンドレイ・グロムイコ(Andrei Gromyko):Left to right: General Harry Vaughan, Soviet Prime Minister Josef Stalin, President Harry S. Truman, Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko, Secretary of State James Byrnes, and Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov during Truman's visit at Premier Stalin's residence during the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 18, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-52引用。

写真(右):1945年7月19日,ポツダム会談で、ソ連首相ヨシフ・スターリンがアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、アメリカ大統領ハリー・トルーマンに話しかけている。ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフも見えている。:英首相ウィンストン・チャーチル、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、新イギリス首相アトリーに交替した。Description: Delegates of the Potsdam Conference in Germany prepare to leave the conference room at Cecilienhof Palace, as photographers and newsreel cameramen gather on staircase. Soviet Prime Minister Josef Stalin talks to Secretary of State James Byrnes and President Harry S. Truman (back to camera). Vyacheslav Molotov, V. N. Pavlov are also present. British Prime Minister is standing behind Stalin, partly obscured. General Harry Vaughan is standing, third from the right. See also 62-769 and 62-769A for negatives. From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真は Naval History and Heritage Command Accession Number: 80-133引用。

写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、正面奥にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、国務長官ジェームズ・バーンズ、海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督、右端にイギリス首相ウィンストン・チャーチル、左端にソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、中央手前クレメント・アトリー(Clement Attlee)、:7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)で、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: Delegates gathered around the conference table at the Potsdam Conference in Germany. Soviet Prime Minister Josef Stalin is on the left, seated opposite the Soviet flag on the table; Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov is on Stalin's right. British Prime Minister Winston Churchill is seated on the right, opposite the the British flag on the table; Clement Attlee is seated two to the left of Churchill. President Harry S. Truman is near the center, opposite the United States flag, wearing a bow tie and gesturing with his hand. Secretary of State James Byrnes is on the left of Truman; Admiral William D. Leahy is to the left of Byrnes. Interpreter Charles Bohlen is to the right of Truman. Seated behind Bohlen is Captain James Vardaman. Averell Harriman is seated to the right of Vardaman (partly obscured). General Harry Vaughan is standing, fifth from the right. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Bohlen, Charles E. (Charles Eustis), 1904-1974; Harriman, W. Averell (William Averell), 1891-1986; Vardaman, James K. 写真は Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1456-45引用。

写真(右):1945年7月19日,ポツダム、チャーチル、トルーマン、スターリンの三巨頭 "Big Three"のポツダム会談:1945年7月26日,ポツダム宣言で、米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置が公表された。1945年7月26日、原爆投下命令の出た翌日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言(Potsdam Declaration)が発せられた。ここでは、2)合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の聯合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。---吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。----この「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」が原爆投下を暗示すると解釈することもある。Description: Delegates seated for Potsdam Conference at the conference table at Cecilienhof Palace. President Harry S. Truman, left foreground (facing the American flag on the table), James F. Byrnes and Admiral William Leahy to his right; British Prime Minister Winston Churchill, upper left (facing the British flag on the table) with Clement Attlee two to the right of Mr. Churchill. Premier Josef Stalin (facing the Russian flag on the table, gesturing with his right arm) and Vyascheslav Molotov at right. Averell Harriman at extreme left. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Harriman, W. Averell (William Averell), 1891-1986; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は Naval History and Heritage Command Accession Number: 63-1456-42引用。

ポツダム宣言 千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言 (千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)

一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ

二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ

四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ

五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ 吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス

六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス

七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ

八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ

十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ

十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

出所)国立国会図書館>憲法条文・重要文書>ポツダム宣言:外務省編(1966)『日本外交年表並主要文書』下巻 原書房 の転載

写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日、中央の白軍服がソ連首相スターリン、右にアメリカ駐在ソ連大使グロムイコ、スターリンが話しているのはソ連外相モロトフ、右端アメリカ大統領ハリー・トルーマン、その右にコーデル・ハルから変わった新国務長官ジェームズ・バーンズ、アメリカ海軍参謀総長レーヒ提督、左端下がイギリス新首相アトリー、その右にイギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin:1881-1951):Description: Last meeting of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. President Harry S. Truman is on the right, opposite the United States flag on the table. Seated to the right of President Truman are Secretary of Stats James Byrnes, Admiral William Leahy, and and Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko. Soviet Prime Minister Josef Stalin is at the top, in the white uniform. Seated on the left of Stalin is Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. British Prime Minister Clement Attlee is seated in the left corner, opposite the British flag on the table. British Foreign Minister Ernest Bevin is seated on the right of Attlee. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945. Date: August 1, 1945 People Pictured: Bevin, Ernest, 1881-1951; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1378-03引用。

写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日のビッグスリー、前列右から白軍服のソ連首相スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、左端下がイギリス新首相クレメント・アトリー。後列で指導者の後ろに立つのが、右からソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:労働党員アーネスト・ベヴィンは、イギリスの労働組合の代表でTGWUの書記長を1922年から1940年まで務めた現場のベテラン政治家。戦時内閣ではチャーチル首相の下で労働大臣に就任。ストライキを抑え戦時動員に協力した。労働党アトリー首相の下で1951年まで外務大臣を歴任。アメリカのマーシャルプランの積極的受け入れを進める一方で、インド、中東などの植民地独立を認めた。反共産産主義者として、北大西洋条約機構(NATO)の創設に加わった。
The "Big Three" and their foreign ministers gather in the garden of Cecilienhof Palace during the last day of the Potsdam Conference. Seated, left to right: British Prime Minister Clement Attlee, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin. Standing, left to right: Admiral William Leahy, British Foreign Minister Ernest Bevin, Secretary of State James Byrnes, and Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. From Potsdam album, 1945. Date: August 1, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Bevin, Ernest, 1881-1951 写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-23引用。


写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談終了後、飛行機でイギリス南西ハロービアー飛行場(Harrowbeer Airport)に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ:周囲にいる女性隊員は、アメリカ軍の女性補助空軍(WAAF) のメンバー。President Harry S. Truman and Secretary of State James Byrnes stand with members of the Women's Auxiliary Air Force (WAAF) at Harrowbeer Airport in Plymouth, England. From left to right: Section Officer Eira Buckland-Jones, President Truman, Corporal Clarice Turner, Secretary of State Byrnes, and Leading Aircraft Woman Audley Bartlett. Others in the background are unidentified. From the album "President's Trip to the Berlin Conference Vol. 2 of 2." Date: August 2, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972; Bartlett, Audley; Buckland-Jones, Eira; Turner, Clarice 写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1378-03引用。

写真(右):1945年8月、イギリス、プリマス港(?)、ポツダムを発ったアメリカ大統領ハリー・トルーマンを出迎え、アメリカに帰国するアメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」諸元
排水水量: 9,050 トン
全長: 600 ft 3 in (182.96 m)
全幅: 66 ft 1 in (20.14 m)
吃水: 16 ft 4 in (4.98 m)
最高速力: 32.7 ノット
乗員: 735名
兵装: 55口径8インチ(20.3僉頬9門(三連装3基)Mark 9 、砲弾重量98 kg、仰角41度で射程29,100m、俯角10度、発射速度3発/分
対空用25口径5インチ(12.7センチ)高角砲8門(当初4門)、砲弾重量24kg、仰角85度で高度8,350m、仰角45度で射程13,250m
ボフォース40ミリ四連装機関砲6基24門(改装後)
エリコン20ミリ機銃28丁(当初7.62mm機銃8丁)
21インチ魚雷発射管6門
View of the USS Augusta at sea as the ship returns to the United States after the Potsdam Conference. Date: ca. August 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Potsdam Conference, 1945; Ships HST Keywords: Ships - U.S.S. Augusta People Pictured: Rights: As far as the Library is aware,
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-52引用。


写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談の終了後、イギリス南部プリマス港でアメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」艦上でアメリカ大統領ハリー・トルーマンが、行幸してきたイギリス国王ジョージ6世を出迎える。:President Harry S. Truman (foreground, left) is welcoming King George VI of England on board the USS Augusta. He visited President Harry S. Truman on the Augusta as President Truman prepared to return to the United States after the Potsdam Conference. On the left is the background is Captain James K. Vardaman. All others are unidentified. From the album President's trip to the Berlin Conference, vol. 2 of 2. Date: August 2, 1945 People Pictured: George VI, King of Great Britain, 1895-1952; Truman, Harry S., 1884-1972; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-32引用。

写真(右):1945年8月2日、イギリス、プリマス港、アメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」の艦上でアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズが行幸してきたイギリス国王ジョージ6世と握手する。中央は、トルーマン大統領。:Secretary of State James F. Byrnes (left) and King George VI (right) shake hands during the King's visit aboard the USS Augusta. Also present are President Harry S. Truman (background, center) and Captain James Foskett (second from right, slightly behind Truman). All others are unidentified. King George VI visited the Augusta before it left to return to the United States from the Potsdam Conference. Date: August 2, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; George VI, King of Great Britain, 1895-1952; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1382-66引用。

写真(上右):1945年8月7日、プリマス港からチョサピーク湾に到着したアメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」55口径8インチ(20.3センチ)三連装砲塔、アメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ、報道官・ジャーナリストのチャールズ・ロス(Charlie Ross:1885-1950)、政治顧問・法律家ジェームズ・ワルドマン(James K. Vardaman Jr:1894-1972)海軍大尉ほかアメリカ代表団:1945年7月、オーガスタはポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官、海軍参謀総長ウィリアム・リーヒ元帥の乗艦として、アメリカからベルギー、アントワープに出航、7月14日に到着。1945年8月2日、イギリス、プリマス港でポツダム会談から帰ってきたトルーマン大統領を乗せ、8月7日、アメリカ、ニューポートに到着。President Truman and members of his party aboard the U. S. S. Augusta as the ship entered Chesapeke Bay, returning President Truman from the Potsdam Conference in Germany. Captain James Vardaman is sixth from the left; to his left is Press Secretary Charles Ross; to his left is Secretary of State James Byrnes; to his left is President Truman; and to his left is Adm. William Leahy. Others are unidentified. From the album, Number 2: "President Truman's Trip to Potsdam." Date: August 7, 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1453-49引用。

日本の俗説では、1945年7月26日ポツダム宣言を日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとされる。しかし、鈴木貫太郎首相が、7月27日ポツダム宣言黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断されたから、原爆投下がなされたとする「ポツダム宣言黙殺説」は誤りである。鈴木首相のポツダム宣言の黙殺発表は、降伏しない、徹底抗戦するという内閣組閣当初からの方針を述べただけで、鈴木首相が終戦のために組閣されたという俗説の誤りを証明することにはなる。しかし、鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言をする以前から、米国は日本に原爆を投下することを決定していた。それも、トルーマン大統領の主導ではなく、「マンハッタン計画Manhattan Project)」指揮官のレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の作成した命令書によってである。ハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領も、日本が,ジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)国務長官の作成したポツダム宣言を受諾しないと考え、軍事目標に対して原爆を8月10日までに投下することを決めていた。対ソ戦略を有利にするために使用したのである。

写真(右):1945年8月頃、原爆を投下する広島の爆心地を中心に同心円を描き、範囲内の被害効果を検証するアメリカ軍の空中偵察写真。四角い堀に囲まれた広島城(師団司令部)や太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが識別できる。
Description: Area of devastation by the atomic bombing of Hiroshima, Japan. Date: ca. 1945 Related Collection: Robert A. Lovett Papers ARC Keywords: Aerial photographs; Atomic bomb; World War, 1939-1945; Hiroshima-shi (Japan) bombardment, 1945 HST Keywords: Atomic Bomb- Hiroshima People Pictured: Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission. 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 61-54引用。


写真(右):1945年8月、原爆を投下された直後の広島。ロバート・ヘイガン(Robert Emmet Hannegan :1903-1949) は、アメリカのミズーリ州の政治家で1943年10月から1944年1月まで国内徴税の担当で、1944年から1947年には民主党国務委員会、郵政長官として活躍した。戦後の1946年7月、彼は東京にあったアメリカ陸軍司令部を訪問した。その時にこの写真スクラップが、彼に手渡された。

Description: Hiroshima on Honshu Island lies in ruins as a result of August, 1945 atomic bombing that hastened Japanese capitulation. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946. Date: ca. August 1945 Related Collection: ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945; Hiroshima-shi (Japan) bombardment, 1945 HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Hiroshima 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2460引用。


写真(右):1945年8月、原爆を投下された直後の広島。
Description: Another view of Hiroshima, showing devastation caused by first atomic bomb dropped on Japan in August, 1945. This includes a duplicate photo and negative. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946. Date: ca. August 1945 Related Collection: ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2461引用。


写真(右):1945年8月、原爆を投下された直後の広島。広島市内には、太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが幾筋もの川が流れている。
Description:Aerial view of Hiroshima depicts the terrific destructive force of the atomic bomb. This includes a duplicate photo and negative. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946. Date: ca. August 1945 Related Collection: ARC Keywords: Aerial photographs; Atomic bomb; World War, 1939-1945 HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Hiroshima 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2459引用。


1945年8月6日0815:第509混成部隊の重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」が31600フィートから原子爆弾を広島に投下。50秒後に爆発。市街の80%を破壊し、7万1,000任意上を殺戮。

1945年8月6日1458:重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイ」テニアン島に帰還。1時間以内に2の観測機も帰還。

1945年8月7日1530,大本営発表「1. 昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
2. 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」

5. 日本は原爆を投下された直後から,それまで原爆開発していたことは棚に上げて,原爆の悲惨さ,非人道性を攻撃した。対照的に,米国では,原爆終戦和平説が常識化しており,原爆投下部隊は平和と勝利をもたらした英雄である。


写真(右):「原子爆弾」投下を報じる「共同新聞」(毎日・読売・朝日などが統一されたもの);投下直後に原子爆弾と判明しており、それが記事になったが、すぐに「新型爆弾」と記述するように変更された。朝日・毎日など主要新聞は統一され、紙数も少なかった。終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」引用。
新聞第一報は、新型爆弾ではなく原子爆弾として、報じているのは、日本軍も原爆開発をしていたから、容易に識別できたという証拠である。ただし、原爆が戦後冷戦にもたらす戦略y的影響には思い至っていない。なにしろ、戦後=日本降伏を正面から分析する組織は一切なかった。「全軍特攻化」「一億総特攻」への組織的取り組みに忙しかった。


終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」には、次の記述がある。
 広島に投下された原子爆弾は、かなり大きいニュースとして受け取られました。---原子爆弾」はすぐ「新型爆弾」と呼ぶように訂正されました。新聞にそう書かれ、学校からも、そんな通達が出されました。
 新聞記事(「惨禍の広島市」「原子爆弾の解剖−強烈な赤外線作用 爆弾ではない落下傘つき物体 激甚な爆風に被害甚大])を限り、新型爆弾は強い輻射熱を発するとされてあるものの、放射能については殆ど触れられていません。最後に僅かに付記されている程度です。これは、意図的に放射能の被害には言及を避けたとみるべきです。言及を避けたその事が原子爆弾の恐ろしさを物語っています。然し、当局では原子爆弾がどのような構造でいかなる性能を持った爆弾であるか、かなりの知識は持っていた事でしょう。
 対策として列記されているのは[輻射線(紫外線を主とし熱線及び可視線が伴ふ)による火傷効果が大きく爆風破壊も従来の爆弾に比し甚大であるから、特別の警戒が必要である。.....そのためには------白い服を着る。なるべくメガネをかける。曇天又は雨天の日は輻射線は減少するが晴天の日には充分注意する。中空に閃光を認めた時は伏せる。防空壕は在来のものでよい。火傷の療法は一般の火傷と全く同じだから動植物油を二倍か三倍に薄めそれを常に携帯する事。....]これですべてです。
  長崎に投下された原子爆弾(「長崎にも新型爆弾−相当数の家屋倒壊 死傷」)についての記事は、そのあまりの小さいのに改めて驚きます。当局の情報操作による作為が見え見えの大きさです。

終戦近くになっても新聞は間違いなしに配達されていました。郵便や小包み等も極度な被災地を別にしたら、全国的に届いていた筈です。汽車は本数も少なく、時間にも乱れはありましたがこれも間違いなく走っていました。東北のこの地では電気も、水道、郵便局、配給システム、等々、生活に必要な環境は最低限保たれていた気がします。空襲によって直撃を受けない限り、生活が出来ない状況でもなかったのです。学校は市内では終戦ギリギリになって閉鎖されましたが、郡部ではそんな事はありませんでした。この方もちゃんと機能していたのです。物資はすべて配給制で、これもギリギリではあってもなんとか手に入りました

写真(右):ウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」;原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」機長ティベッツ大佐の署名入りの写真。Signed Photo of the "Little Boy" Uranium Bomb 重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」によって、1945年8月6日0815、広島に原爆を投下。ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。「リトルボーイ」は、長崎に投下された「ファットマン」(長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t)より、若干小型である。The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc.引用。

1944年7月当時の戦記小説に原爆が登場していたくらいであるから、新聞記者も「原爆投下」の事実を知ったのかもしれない。あるいは、軍が米国に自らの科学的知見を表明しておくために、原爆と表現させたのかもしれない。

 原爆かどうかを調べるために、海軍の呉鎮守府調査隊が8月7日に広島入りし、未使用のエックス線フィルムが感光していたことなどから「ウラン爆弾と推定できる」と8日付で報告した。また、京都帝国大荒勝文策教授を中心とした調査団6人は海軍の要請を受け、1945年8月10日、広島に入った。そして、海軍の調査団と合流し、8月14日までに計二回、土壌調査を実施。8月15日付で海軍技術研究所に「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンケツス」の緊急電報を発信。受け取った海軍は「新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス」の一文を電報に書き込んだ。(⇒中国新聞'05/7/24「被爆9日後の電報」引用)

日本の軍部・政治的指導者は、原爆の威力を認識したが、被害については、他の諸都市への無差別爆撃と同じく「広島市が焦土化した」に過ぎない。原爆だから大変だ、という意識はなかった。軍部・政治的指導者たちは、日本の諸都市が焦土と化していることに慣れてしまっていた。原爆の威力を恐れて降伏しようとするものはなかった。

写真(右):1945年8月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎の三菱魚雷製造工場:ロバート・ヘイガン(Robert Emmet Hannegan :June 30, 1903-October 6, 1949) は、アメリカのミズーリ州の政治家で1943年10月から1944年1月まで国内徴税の担当で、1944年から1947年には民主党国務委員会、郵政長官として活躍した。戦後の1946年7月、彼は東京にあったアメリカ陸軍司令部を訪問した。その時にこの写真スクラップが、彼に手渡された。
Description: Nagasaki's Mitsubishi Torpedo Plant, said to be the world's largest, following the atomic bomb explosion. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquaters U.S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946 Date: ca. September 1945 Related Collection: ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2463引用。


写真(右):1945年9月、1945年8月9日午前11時2分に原爆を投下され破壊された長崎の三菱魚雷製造工場:原爆投下直前、長崎の浦上では、戦闘帽、巻脚はん、防空頭巾を肩にした女子挺身隊、動員学徒の群れが汽車、電車に乗車し続々と集結していたが、そこに空襲警報が発令された。しかし、B-29 の飛行は市民から「定期便」と呼ばれるほど一般化しており、揶揄して「時報」ともみなさる場合もあった。警報解除となり、防空壕などに退避していた工場従業員が職場に戻り、女たちも家事に取り掛かったころ、ラジオで“B29,島原半島上空を北進中”が伝えられた。香焼島(爆心地から南10キロ)の高射砲隊は、B29補足し、金比羅山(爆心地から南東1.7キロ)高射砲隊も射撃準備をしものの、装備していた90式測高機によるとB-29 の飛行高度は、9500〜10000メートルで射程圏外だった。「戦闘態勢乙」と警戒度が下げられたが、落下傘(測定器が吊るしてあった)を目にした人々も少なくなかった。午前11時2分、閃光が走り、すさまじい爆風が来襲し、ごう音、衝撃波、熱線が照射され、火事嵐となった。
Description: Photograph taken in Nagasaki, Japan after the atomic bombing on August 9, 1945. The image shows only a few structures standing surrounded by rubble. Date: ca. September 1945 Related Collection: ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3122引用。


写真(右):1945年9月、原爆を投下され破壊された長崎の三菱魚雷製造工場:上の写真と同じ工場と思われる。工場を支えていた鉄骨が残っている。
B-29 原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9,600メートルの上空からプルトニウム型原爆を長崎に投下した。チャールス・スウィーニー少佐によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市小倉と同じく雲におおわれていた。スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。沖縄基地に緊急着陸する燃料しかなく、目視するまで爆撃航路を伸ばすことはもはや不可能だった。そこで彼は、原爆投下の栄誉を得るために、あるいは重い原爆を持ち帰って燃料不足や事故のリスクを冒さないために、公式的には目視爆撃したと称したが、レーダー爆撃で原爆を投下した。
Description: Photograph of a destroyed building's interior caused by the dropping of the atomic bomb in Nagasaki, Japan on August 9, 1945. Rubble covers the floor of the building and metal beams from the roof still hang over the walls. Date: ca. September 1945 Related Collection: ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3117引用。


写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎に残った建築物。蔵とキリスト教会が見えるが、後者は戦後復旧したものであろう。爆発と同時に空中の一点に摂氏数千万度の火球が発生、爆発から一万分の一秒で、直径は約30メートル、温度は摂氏30万度に上昇、その後、火球は一秒の間に直径100〜280メートルに達した。火球からの放射熱線は、爆発から3秒間続き、人体に熱傷を与えた。原爆の直下では恐らく3,000〜4,000度にも達したと推定されている。爆発で生じた気圧変化は、衝撃波となって広がり、建物を破壊し、押し潰し、同時に爆風で大きな被害が発生した。
Description: Seven unidentified Japanese survivors walk down a street in Nagasaki, Japan after the atomic bomb was dropped on August 9, 1945. In the background are rubble and the remains of two buildings. Two of the women in the photograph are carrying children on their backs. Date: ca. September 1945 Related Collection: ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3116引用。


写真(右):1945年、原爆を投下された長崎で暮らす被災者の避難所。爆心地よりの距離による被害状況は、1キロ以内の区域では人畜は爆発圧力および熱気によってほとんど即死、家屋その他の建物、木柱は紛砕、爆心付近は同時に焼失、他はほとんど同時に各所より火災が発生。墓石倒壊。草木は爆風の方向へ薙ぎ倒され、幹枝も切断、炎上した。2キロ以内の区域では人畜は強力な爆風および熱気によって一部は即死し、大部分は重軽傷を負った。家屋その他の建物、木柱は約80パーセント倒壊、各所より次第に火災を発生し大部分が焼失。コンクリート柱、鉄柱は倒壊しなかった。草木は一部炎上枯死。
Description: Japanese family camps in ruins of Nagasaki, having built temporary shelter from bits of metal and wood debris on the terraced hill that was once row on row of houses. From scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters, U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July, 1946. Date: ca. 1945 Related Collection: ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; World War, 1939-1945 HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Nagasaki 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2462引用。


写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎。橋にはアメリカ軍兵士がもたれている。後方のサークルはアメリカ軍の設置した通信用のアンテナ。
爆心より放出した爆風は放射状に地上の物体を傾け倒し、爆心より1キロまでは立木はことごとく爆風の方向へ薙ぎ倒され、2キロの鉄筋コンクリート建物は屈曲した。 Description: Photograph of a man pulling a car loaded with items across a bridge that was damaged during the bombing of Nagasaki, Japan on August 9, 1945. American soldiers stand and sit along the sides of the bridge during the occupation period. In the background, two large cylinder forms appear along with electrical wire poles. All people are unidentified. Date: ca. September 1945 Related Collection: ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Soldiers; World War, 1939-1945; War damage 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3118引用。


写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎。左側にはアメリカ軍の設置した通信用の電柱と電線が写っている。
長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の長崎原爆の被害状況は、死者 73,884人、重軽傷者 74,909人、合計 148,793人 、罹災人員 120,820人 (半径4キロ以内の全焼全壊家屋の世帯員数)、罹災戸数 18,409戸 (半径4キロ以内の全戸数。市内総戸数の約36%)。 全焼 11,574戸 (半径4キロ以内。市内の約3分の1に当る)、全壊 1,326戸 (半径1キロ以内を全壊と見なしたもの) 、半壊 5,509戸 (全焼全壊を除く半径4キロ以内を半壊と見なしたもの)
Description: Steam from a train can be seen as it goes by the destruction of Nagasaki, Japan with mountains in the background. In the photograph, new wire poles have been erected along the damaged brick road. . Date: ca. September 1945 Related Collection: ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Soldiers; World War, 1939-1945; War damage 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3114引用。


写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎に残った神社の鳥居と石灯籠。昭和20年(1945)9月1日現在の長崎県知事の報告書(第11報)には、屍体検視済のもの19,743人とある。検視はほとんどが原爆直後の混乱期に、被災地現場でなされたため、即死状態の氏名不詳、性別不詳など身元不明の死体も約2,000体に及んでいる。行方不明として届出のあった者は1,927名あり、何れも死亡したものと思われる。
Description: A Japanese Torii gate survives the atomic bombing of Nagasaki, Japan. Surrounding the torii is destruction. Two unidentified people can been seen walking under the torii. Date: ca. September 1945 Related Collection: ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3113引用。


写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎の焼け野原長崎消防署の『原子爆弾記録』に「閃光に次いで物体の破壊音と共に砂ぼこりを巻き上げ夕やみのようになった」とある。砂ぼこりは「黒ぼこり」ともいわれ瞬間燃焼の黒い灰、紙片、布切れなどの多様な微軽量物も含まれる。落下紙片――三菱兵器製作所大橋工場の文書と三菱製鋼所の伝票――から推すると、その範囲は、爆心地から半径1,500メートルに及ぶ。地上約500メートルの空中で炸裂した原爆は、直径3,000メートルに及ぶ巨大な竜巻を現出した。
Description: A scene of destruction in the aftermath of the atomic bomb that was dropped on Nagasaki, Japan on August 9, 1945. Date: ca. September 1945 Related Collection: ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3111引用。



写真(右):1945年,長崎への原子爆弾投下に際して被爆した少年
:背中に大火傷を負ってケロイドが残った。少年は爆心地から約2.0kmのところで熱線にさらされたという。1946年2月。 撮影:アメリカ軍 A-Bomb WWW Projectに同じ写真が掲載されている。この少年は、原爆被害の生き証人として語り続ける谷口稜曄(すみてる)長崎原爆被災者協議会長。16歳の時、郵便配達中に爆心地から1.8 キロで被爆し、瀕死の重傷を負った。日本原水爆被害者団体協議会の代表委員も務める。長崎市在住で2016年1月26日に米寿88歳を迎えた。2016年12月、長崎市で開催された国連軍縮会議の開会式では、原爆の熱線で背中一面を焼かれた被爆直後の自身の写真を掲げ「原爆は悪魔の兵器だ」とスピーチをした。


  原子爆弾は,中性子を衝突させ原子核を分裂させる原子核分裂によって、結合エネルギーを外部に大量放出する爆弾である。

ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイEnola Gayが広島に投下したウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」は、ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。爆発は,ガンバレル方式で、ウランを半球に二分して、爆弾筒の両端に設置して、投下時に起爆装置を使って片方を移動させて合体させることで、超臨界に達せさせる。

長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」は、長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。爆発はインプロージョン方式で、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬の爆発によって位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し超臨界にいたる。

原爆が爆発するためには、核分裂によって生まれた中性子が次の原子核に吸収され、連鎖反応を起こすことが必要で,連鎖反応が起きる核分裂物質の最小量(臨界量)は、ウランの場合は90%以上の高濃縮ウラン235が15kg、プルトニウムの場合も94%以上のプルトニウム239が5kgは必要とされる。


写真(上左):1945年,広島で原子爆弾に被爆した女子逓信隊:識別コード:SA152-1 陸軍船舶司令部写真班撮影
:陸軍船舶司令部は、中国大陸や南方への輸送の要であった宇品港が主活動の場であったが、宇品向かいの似島にも検疫所があった。写真(上右):1945年8月7日、似島検疫所に横たえられた被爆者:識別コード SA003-1:尾糠政美氏撮影;尾糠氏は8月7日に広島湾宇品港沖に浮かぶ似島(にのしま)検疫所に入り、軍医の指示で撮影。ここには野戦病院が開設され、8月6日午前中から次々と船で負傷者が運ばれた。応急手当とクレゾール入浴を施された。6日に運び込まれた患者は約2000人、軍医以下80人の衛生部員が救護に当たった。通常1000人の収容能力を持つ検疫所付属病院は、1日3000人から9000人の患者を扱った。このような尾糠政美氏の写真は、米軍の占領・検閲が終わり、『アサヒグラフ』1952年8月6日号に、撮影者の氏名なしに掲載されたという。広島平和記念資料館「平和データベース」引用。軍事技術の粋を集めたB-29爆撃機、原子爆弾、そして、優秀な科学者、訓練された搭乗員、有能な指揮官,世界情勢を考える大物政治家が、原爆を開発、投下を決断・実行した。写真は2枚とも広島平和記念資料館の許可を得て掲載。



写真(上左):1945年8月6日、広島爆心地2kmの御幸橋付近を避難する人々
:連合国軍総司令部(GHQ)が新聞用紙の割り当てなどで新興紙育成を図る中「夕刊ひろしま」は1946年6月1日、中国新聞を親会社とする独立経営の夕刊紙として創刊された。当時の部数は三万部。7月6日号に御幸橋の写真を新聞に初めて掲載した。撮影者:松重美人氏。中国新聞 2001被爆者の伝言引用。A-bomb sufferers who have escaped to Miyuki Bridge (about 2km. from the explosion center).
写真(上右):1945年,原子爆弾投下後の長崎の手当て避難所
:写真は、20th century history:The New York Times Company引用 。


原子爆弾による被災によって健康に障害をもたらす原爆症が出ることが多い。これには、’線による創傷・熱戦による火傷、∧射線による急性放射線障害、J射線による晩発性障害(白血病、白内障、瘢痕性萎縮など)がある。


写真(右):プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」;1945年8月9日、ボーイングB-29爆撃機「ボックスカー」によって、長崎に投下された。プルトニウム239を用いた原爆で長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。Raymond L Martin;Tinian Island 引用。


被爆者の悲惨な写真は、米国の公的な展示会には、出品されないものである。その理由は、戦争の「被害者と加害者の取り違え」の誤解を避けるためとも言われる。米国議会も、スミソニアン航空宇宙博物館「1995年原爆投下50周年記念事業」で、被爆者写真の展示を許さなかった。展示では、長距離重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」の機首が誇らしげに置かれた。現在は完全に復元された。

他方、原爆投下の実態を視覚的に伝えるwebとしてHiroshima A-bomb Photo Museumがある。そこには、米軍がカラーで撮影した被災地や被爆 者の悲惨な写真も掲載されている。

広島平和記念資料館平和データベーズでは、原爆、平和関連の証言・写真・動画・被爆資料などをデータベース化し展示している。

米軍は原子爆弾による症状に関心を持ち、ABC委員会を中心に標本採取、写真撮影を含む調査・研究を行った。日本人の中には治療機関と錯覚させられたり、後世のために積極的に情報提供したりした人もいた。しかし、ABC委員会の被爆情報収集は、被爆した人々の治療ではなく、原爆の威力を高め、防衛方法を考察するための軍事研究であった。


写真(右):原子爆弾の被爆者;広島,長崎は、熱線による被害,爆風による被害、火災による被害,放射線による被害を被った。そこに居合わせた人々もその犠牲になった。重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」のもたらしたものが終戦和平であり,それによって100万人もの人命が救われたというのであれば、原爆の被害者はそれに引き合う損害として許容しなければならないのであろうか。このような悲惨な写真は,原爆を投下した米国が加害者であり,日本が犠牲者であるような錯覚を与える、として米国のスミソニアン航空宇宙博物館Terror of the Atomic Bomb-Hiroshima-Nagasaki引用。

日本政府は、原爆症への対策をとってきたが、被爆者は健康の不安には、「被爆者として原爆症の認定」の壁が残っている。
原爆症の認定とは、厚生労働大臣の下の審査機関が、
仝暁放射線によるものである(起因性)
医療を必要とする状態にあるもの(要治療性)
の条件を満たすかどうか審査し「原爆症」と認定されると「医療特別手当」が支給される仕組みである。
 しかし、原爆症認定は非常に厳しい。厚生労働省の認定率は、2000年67.4%、2001年22.5%、2002年19.5%、2003年24.0%であり、認定基準が同じでも、申請者がその基準を満たしていることを証明するのは困難になってきていることが窺われる。

原因確率論(いわゆる入市被爆と2km以遠の人は影響ない)で切り捨てた結果、近距離での直接被爆以外は、救護や肉親を探すため跡から中心地に入った人はほとんど却下されており、認定されている被爆者は全被爆者(約28万人)の0.7%(約2000人)に過ぎないとされる。原爆被害者たちによる集団訴訟もおきている。


写真(右):原子爆弾「ファットマン」の投下された長崎の被害;1945年8月9日、テニアン島を出発した長距離重爆撃機ボーイングB-29Bockscar”は、第一目標の小倉上空に達したが、雲のため目視爆撃できず投下を断念。(指令書にはレーダー爆撃ではなく、効果を視認・撮影できるように目視爆撃を要請。)目標を第二目標の長崎に変更。長崎市の中心部は、雲のため投 下できなかったが、北部の浦上地区、松山町上空の雲の切れ間から(といわれる)、高度9600mで投下。Damage Photos Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association)Air Raid against Cities引用。

1945年8月9日、長崎に原爆を投下した重爆撃機ボーイングB-29Bockscar”の機長チャールズ・スウィニー(Charles Sweeney)少佐は、戦後、退役軍人教会の会長にもなり、1995年のスミソニアン航空宇宙博物館The Smithsonian's National Air and Space Museumでの原爆50周年展示計画について、原爆投下に疑問を抱かせることを容赦しなかった。米国議会も、原爆投下の正当性を主張し、投下した米国が加害者であるとの「誤解」を認めなかった。

1995年の原爆投下50周年特別展では、広島原爆投下機ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイEnola Gay」の機首のみが展示された。1998年にこの展示は終了して、「エノラ・ゲイ」の完全復元作業が開始された。2003年12月15日、ワシントン国際空港Washington Dulles International Airportのスミソニアン航空宇宙博物館の別館ウドヴァール・ヘージーセンター(展示103)Steven F. Udvar-Hazy Center:Exhibition Gallery 103で完全復元展示されている。

写真(右):広島に原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」(2003年復元)2003年12月のオープンセレモニーの時の撮影。完全に復元され、正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったかのように展示される。

スミソニアン航空宇宙博物館ウドヴァール・ヘージーセンター(展示103)原爆投下第一号機「エノラ・ゲイ」の解説は、次の通り。
Statement on Exhibition:Boeing B-29 Superfortress Enola Gay Boeing's B-29 Superfortress was the most sophisticated propeller-driven bomber of World War II, and the first bomber to house its crew in pressurized compartments. Although designed to fight in the European theater, the B-29 found its niche on the other side of the globe. In the Pacific, B-29s delivered a variety of aerial weapons: conventional bombs, incendiary bombs, mines, and two nuclear weapons. 
On August 6, 1945, this Martin-built B-29-45-MO dropped the first atomic weapon used in combat on Hiroshima, Japan. Three days later, Bockscar (on display at the U.S. Air Force Museum near Dayton, Ohio) dropped a second atomic bomb on Nagasaki, Japan. Enola Gay flew as the advance weather reconnaissance aircraft that day. A third B-29, The Great Artiste, flew as an observation aircraft on both missions.
Transferred from the U.S. Air Force
Wingspan: 43 m (141 ft 3 in)
Length: 30.2 m (99 ft)
Height: 9 m (27 ft 9 in)
Weight, empty: 32,580 kg (71,826 lb)
Weight, gross: 63,504 kg (140,000 lb)
Top speed: 546 km/h (339 mph)
Engines: 4 Wright R-3350-57 Cyclone turbo-supercharged radials, 2,200 hp
Crew: 12 (Hiroshima mission)
Armament: two .50 caliber machine guns
Ordnance: "Little Boy" atomic bomb
Manufacturer: Martin Co., Omaha, Nebr., 1945
A19500100000

広島平和記念資料館所蔵写真集:Photos provided by Hiroshima institute for Peace Education長崎原爆資料館のほかにも、長崎浦上天主堂の被爆したマリア像("Bombed" Mary, a Marian Statue in Urakami)のような有名な被害写真がある。


写真(左):米軍が航空機から撒いたビラ
;日本の生産力は、海外の資源に依存しており、海上輸送の途絶によって、もはや工業生産は不可能になったことを暗示する。日本の警察通達では、ビラを拾った者は、警察にビラを届けることになっていた。

1945年8月9日1045、長崎の原爆投下に関して,西部軍管区司令部発表「---敵は口に正義人道を唱えつつ,無辜の市民を爆殺する暴挙にで出ている----。この新型爆弾を使用することによって,戦争の短期終結を急ぐ焦慮ぶりを、いよいよあらわしていると見るべきである。----今回の新型爆弾に対しても着々として対策が講じられるであろう。-----」
陸軍大臣阿南惟幾の訓示「死中活あるを信ず。---全軍将兵宜しく一人も残さず楠公精神を具現すべし,而して又時宗の精神を再現して醜敵撃拭に邁進すべし」。

写真(右):1945年8月13日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンが国務大臣ジェームズ・バーンズに陸軍最高功労勲章(Distinguished Service Medal:陸軍傑出服役勲章)を授与する。隣の女性はバーンズ国務長官夫人(Maude Byrnes)。左からアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥、陸軍航空隊ハップ・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)将軍:この叙勲は、事実上、対日戦争勝利に向けた功績を称えるものだった。しかし、後にバーンズ国務長官はトルーマン大統領から煙たがられ、マーシャル元帥が後任の国務長官となる。
President Harry S. Truman awarding Secretary of State James F. Byrnes the Distinguished Service Medal in the Rose Garden at the White House. From left to right are: General George Marshall, General Henry Arnold, President Truman, Secretary Byrnes, Mrs. Maude Byrnes, John Snyder, and General Harry Vaughan. Date: August 13, 1945 People Pictured: Arnold, Henry Harley, 1886-1950; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Snyder, John W. (John Wesley), 1895-1985; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Byrnes, Maude, 1882-1976 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2028引用。


写真(右):1945年8月13日、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(右端)が国務大臣ジェームズ・バーンズに陸軍最高功労勲章(Distinguished Service Medal)を授与し握手する。バーンズの左にアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥、右に陸軍航空隊ハップ・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)将軍:1945年9月17日発行”TIME”の表紙を飾ったジェームズ・バーンズ国務長官は,ハリー・トルーマンHarry S.Truman)大統領の先輩上院議員として振る舞い,反ソ連、反共産主義の立場を優先し,原爆投下により戦後アメリカの覇権確立を企図した。
From left to right: President Harry S. Truman, General George C. Marshall, Secretary of State James F. Byrnes, and General Henry "Hap" Arnold after President Truman awarded Byrnes a Distinguished Service Medal. Date: August 13, 1945 People Pictured: Arnold, Henry Harley, 1886-1950; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2026引用。


6.マリアナ諸島には、日本を敵として戦った米軍の退役軍人なども訪れ、戦争と自分・戦友・敵の経験を見つめなおしている。

米英など連合国では、原爆終戦和平説が信じられ、原爆の非人道性を問題視する人々は、少数派である。しかし、着実に増えてきているようだ(⇒TheWE.cc website.)。


写真(右):テニアン島の原子爆弾「リトルボーイ」の入ったピット(左)とB-29「エノラ・ゲイ」;原子爆弾をB-29に搭載するには、胴体下と滑走路との間(クリアランス)が狭いので,穴(ピット)に原子爆弾を入れ,そこから持ち上げてB-29の胴体に搭載した。これとは別に、2発目のプルトニウム型原子爆弾「ファトマン」用のピットもある。2004年6月のサイパン攻略50周年・原爆49周年セレモニーは、このピットの近くで開催された。

2004年6月15日、サイパン侵攻を記念して第二次世界大戦60周年記念式典が挙行された。行事は15日にまずサイパンのガラパン市アメリカン記念公園、16日にテニアン旧北飛行場で挙行された。テニアンでは、埋め戻されていた二個の原爆搭載ピットを掘り返して公開された。以下は,式典に参加した唯一の日本人研究者の史跡訪問「テニアン島周遊」の引用である。

2004年6月の式典では、最後に原爆投下第一号B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」機長だったティベッツ大尉が車椅子から立ち上って演説した。89歳になる彼はパイロットか航空技術者らしい実直な話し振りで広島に原爆を投下した当時を時には笑いも交えて克明に語った。原爆を投下したがために、日本本土上陸作戦を行わずして日本を降伏させることができたというくだりも淡々と語った。広島長崎の市民が多数犠牲になったとしても、上陸作戦で失われたであろう数十万人の米軍兵士の命に代え難い、というのがティベッツを始め退役軍人達の意見であり広く米国人の間に受け入れられている。

原爆の図 2004年6月、原爆投下記念碑、原爆部品を揚陸後日本潜水艦に撃沈された重巡「インデイアナポリス」追悼碑、広島に原爆投下したティベッツ以下三名の元B29乗員テニアン来島記念碑、そして、広島原爆ピット(Pit No.1)と長崎原爆ピット(Pit No.2)の除幕が行われた。
ピットのガラス屋根を覆っていた白布が取り除かれ、ピット内部が公開された。両ピットとも土砂が取り除かれ底まで完全に観察出来る。中央に錆びた鉄製の昇降用油圧リフトがある。屋根の一部は開閉できるガラス戸になっており、昇降梯子を伝って内部へ降りることが出来る。両ピットとも構造は全く同じである。ユタ州ウエンドーバ航空基地にも同じピットが保存されている。

中国新聞「悲しみの島 テニアン 玉砕と原爆と (2006.7.21〜7.23)」未来のために
2005年8月テニアン市や議会などが催した「もう一つの」平和記念式典が開催された。被爆六十年で、式典実行委は初めて被爆者を招いた。広島からは「ひろしまを語り継ぐ教師の会」事務局長、梶矢文昭さん(67)と同会会長の松島圭次郎さん(77)が参列。

 式典は島の平和記念公園であった。時差は一時間。八月六日午前九時十五分が近づくと、どこからか島民が集まった。やがて人垣ができた。消防車が一斉にサイレンを鳴らす。「黙とう」―。米自治領の島では「原爆投下が終戦を早めた、多くの命を救った」という考え方は島にも浸透している。だからこそテニアンの式典実行委は被爆者を招いた。被爆体験の証言も求めた。子どもたちに、被爆者の目線でも戦争を見つめさせたいと。「税金の無駄遣いだ」。米の退役軍人やメディアの批判を浴びた。でも押し切った。
 「島そのものが戦争の残骸(ざんがい)です」。(中国新聞「悲しみの島 テニアン 玉砕と原爆と (2006.7.21〜7.23)」未来のために引用終わり)。

夏服の少女 GUY GABALDON A 1998 INTERVIEW AND DISCUSSION
名誉勲章受賞者:MEDAL OF HONOR RECIPIENTS 1944;US Navy (7), Naval Aviation (2, including 1 flying boat squadron), US Marine Corps (23), US Army Air Corps (1)
Benjamin Franklin Edwards
枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の抗戦意志を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。米軍は、日本本土上陸作戦を実施し、日本を無条件降伏させる準備をしていた。

原爆投下によって終戦の聖断が下ったという俗説は誤りである。原爆投下は、口実であり、本質は、国体を護持するためである。国体護持への危機感は、連敗続きの軍部への反感、国難を救済できない天皇への不満、共産主義国ソ連の対日参戦に由来する。民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦にあって、国民の離反が確実になる前に、終戦が決断された。日本の大多数の政治家・軍部は、核兵器と核戦略を認識していなかった。国民に被害状況のわからない原爆投下は、終戦決定=聖断に大きな影響力をもっていない。

広島の原爆 終戦の詔勅の「-----敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ノ測ルヘカラサルニ至ニ----」とあるが、大量破壊・大量殺戮は、原爆投下前の都市無差別爆撃でも同じだった。原爆投下は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化するのに用いられた。

原爆終戦和平論は、核兵器の保有・使用を正当化してきた。しかし,日本も都市無差別爆撃を実施し,原爆開発をしていたのであって,一方的に空襲と原爆の被害者であると主張しても,その主張は,中国や米国など連合国だった軍人・市民には,受け入れがたいものであった。また,日本の原爆開発は未熟すぎてお話にならないというのは,軍事技術だけに注目した過小評価である。原爆を開発,保有しようとした軍事的意図こそ議論されるべきであろう。21世紀の軍事技術の水準で言えば,近隣国が未熟な核兵器を少量もっていること簡単に粉砕できるから,そのような核兵器開発は無視できる----とは思えない。そうであれば,日本による原爆開発も無視してはいけないのであろう。

総力戦の本質は、大量破壊、大量殺戮であり、戦略爆撃思想の延長線上に「勝利と平和のための」核兵器の開発・使用がある。

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