鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
原爆投下と終戦◇Atomic Bombings 1945 2006
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◆広島・長崎への原爆投下と終戦の聖断◇Atomic Bombings 1945 写真(左):広島に原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」(投下直後の撮影);重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」機長兼操縦士ティベッツ大佐Col. Paul W. Tibbets, Jr.、副操縦士ルイス大尉Capt. Robert Lewis、爆撃手フェルビー少佐Maj. Thomas Ferebee、航法士ヴァンカーク大尉Capt. Theodore "Dutch" van Kirk、レーダー手ベサー中尉Lt. Jacob Beser、無線手ネルソン中尉Lt. Richard Nelson、海軍兵器専門家パーソンズ大佐Col. William "Deak" Parsons、爆撃電動システム管制手ジェプソン中尉Lt. Morris R. Jeppson、機関士デュゼンベリー少尉Sgt. Wyatt Duzenbury、補助機関手兼側方銃手シュマード少尉Sgt. Robert Shumard 、同スティブリック少尉Sgt. Joe Stiborik、尾部銃手カロン少尉Sgt. George "Bob" Caron。 B-29「スパーフォートレス」爆撃機「エノラ・ゲイ」号:機長ティベッツ大佐の母親の名前から、固有機体名称を「エノラ・ゲイEnola Gay」と名づけた。
長距離重爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」のデータ> 全幅:43.1m、全長:30.2m、全高:8.5m、主翼面積:161.5m2、エンジン:R-3350 2200馬力4基、自重:33800kg、全装備重量:54400kg、最大速度:550km/h(高度7600m)、航続距離:5230km上昇限度:10250m、武装:12.7ミリ50口径機銃12丁(+20ミリ機銃1丁)[後期の機体は尾部銃座のみ]、爆弾搭載量:4500kg-9100kg、乗員:11名。15機のみ部隊配備された原爆搭載機”Silverplate”は、燃料噴射エンジンとカーチス電動恒速プロペラを装備、爆弾倉を大型の原爆(8tまたは9t)搭載用に改造、機銃も尾部銃座(12.7ミリ機銃2丁)以外撤去した軽量型。
写真(右):1945年8月6日の原子爆弾投下後の広島);マリアナ諸島テニアン島「ノースフィールド基地」から出撃し、帰還後、戦略空軍司令官カール・スパーツ将軍から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が授与。広島の死亡者8万人-10万人。Damage Photos Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association)Air Raid against Cities引用。


写真(右):1945年8月10日正午前、ボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」から投下された原子爆弾「ファットマン」によって破壊された長崎、爆心地から1マイルの地点で、開設された救護所から握り飯を配給された原爆被災者家族
:Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007 Series: Photographs of Construction, Facilities, and Community Life at Oak Ridge and Other Manhattan Project Sites, 1943 - 1946 Item: Before noon on August 10, 1945, a mother and her son have received a boiled rice ball from an emergency relief party. One mile southeast of Ground Zero, Nagasaki, 8/10/1945 National Archives Identifier: 558580 Local Identifier: 434-OR-75(1) Creator(s): Department of Energy. Office of Public Affairs. 10/1/1977-1985 ? (Most Recent) From: Series: Photographs of Construction, Facilities, and Community Life at Oak Ridge and Other Manhattan Project Sites, 1943 - 1946 Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 558580 およびTerror of the Atomic Bomb引用。

【アジア太平洋戦争】GoogleMap広島の衛星画像
◆NHK BS 2010年8月7日(土)20:00-21:30ハイビジョン特集「二重被爆 ヒロシマ ナガサキを生き抜いた記録」に当研究室が紹介されました。

1.1944年7-8月、マリアナ諸島がアメリカ軍に占領された。サイパン戦では、日本軍4万名と日本民間人8千名が殺害されたり、自殺に追い込まれたりした。日本軍民1万5千名が捕虜になった。
 アメリカ軍は、マリアナ諸島に航空基地を整備し、サイパン島「アイスレー基地」、テニアン島「ノースフィールド基地」、グアム島「ノースフィールド基地」から長距離重爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」による日本本土空襲を開始した。1945年8月には、前後2機の原爆搭載機がテニアン島を発進した。


1944年6月19-20日、マリアナ沖海戦に大勝利したアメリカ軍は、1944年7月9日サイパン島を攻略、テニアン島には7月23日上陸、直ぐに飛行場を占領。接収から1週間後,長距離重爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」の試験的運用を開始。

写真(右):日本の委任統治領だったテニアン島をアメリカ軍が占領し、ボーイングB-29戦略爆撃機の飛行場「ノースフィールド基地」を整備した:B-29's at North Field, Tinian. Source: Giuliani, Lawrence 1944-45年撮影。サイパン島よりも二回り小さく平坦なテニアン島には、日本軍も飛行場を設定していたが、アメリカ軍はそれをはるかに上回る規模で飛行場を拡張し、コンクリートの長大な滑走路を作り上げ、テニアン島の面積の半分が航空基地となった。今日でも、この基地の跡は残っている。いざというときには、再び米軍が再使用することになるであろう。American Memorial Park引用。

アメリカ軍は,マリアナ諸島のテニアン島北飛行場を拡張し「ノースフィールド基地」とし、サイパン島「アイスレー基地」、米国領(日本占領)グアム島「ノースフィールド基地」とともに、前線基地とし旧日本軍の飛行場を拡張し、新規にも飛行場を整備した。

1944年11月から戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」は、日本本土空爆を開始,航続距離は5200km、サイパン〜東京間は2400km。

現代のグアム島「ノースフィールド」の衛星画像では滑走路と並んで、北部に整然と配備された駐機場、誘導路がみえる。
広島上空の衛星写真のような航空写真は、B-29改造偵察機によって高高度から撮影されていた。

サイパン島玉砕の真実:黙殺された1万5千名の捕虜

2.1942年6月、米国ルーズベルト大統領は「マンハッタン計画」と呼ばれることになる原爆開発計画を進めることを決定し,レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将、物理学者ロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer )博士が中心となり、米ニューメキシコ州ロス・アラモスで原爆開発に着手した。ドイツのヴェルナー・ハイゼンベルクWerner Heisenberg)らが開始した原爆開発に先んじることが、その目的だった。

写真(左):1939年8月2日、第二次大戦勃発1カ月前に書かれた、アルベルト・アインシュタインからフランクリン・ルーズベルト大統領に宛て原爆開発を促す手稿;2頁の手紙の第1頁。署名は有名なアインシュタインのみ。シラードの名はない。The Letter from Albert Einstein to President Franklin D. Roosevelt(About>Business & Finance>Inventors)引用。

1939年ドイツで核分裂現象が発見,原子爆弾が話題となった。ドイツのヴェルナー・カール・ハイゼンベルクWerner Karl Heisenberg:1901-1976;1932年ノーベル物理学賞受賞者)は,ウラン235の核分裂エネルギーが、原爆に応用できることに気づいていた。そこで、ドイツから亡命した物理学者レオ・シラードLeó Szilárd)らは、1930年代末にアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)に働きかけ、フランクリン・ルーズベルトFranklin Roosevelt )大統領にドイツよりも先に米国が原爆を開発するよう促した。

1939年8月2日、ハンガリー生まれの亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラード(Leo Szilard)が草案を書き、アインシュタインが署名したアインシュタイン・シラード原爆開発提案手稿が、アメリカ、フランクリン・ルーズベルトFranklin Roosevelt )大統領に送られたが、これはアメリカに原爆開発を促したものである。その手稿の日付は、なんと1939年8月2日、第二次大戦勃発1ヶ月前だった。

アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein:1879-1955):ドイツで初等・中等教育を受けてから、1896年、チューリッヒ工科大学に入学、1901年、スイス国籍を取得。1902年、スイス特許庁に就職。1905年、26歳で特殊相対性理論、光量子仮説、ブラウン運動の理論を提唱した。1909年、チューリッヒ大学、1910年、プラハ大学、1911年、カイザー・ヴィルヘルム物学研究所(後のマックス・プランク研究所)、1912年、チューリッヒ工科大学で教鞭をとる。世界的名声を手に入れたかれは、各国から招かれたが、1922年10月には日本を訪問し、6週間の滞在中に、大正天皇に謁見している。1933年1月30日、ドイツではナチ党ヒトラーが首相に任命され、反ユダヤ主義が国策となると、アメリカのプリンストン学術研究所に職を得て、プロイセン科学アカデミーを辞任。ナチスは、ユダヤ人がアーリア人を人種汚染し、共産主義を広め、メディアを支配して、人々を堕落させているとの反ユダヤ主義を標榜し、ユダヤ人の人権を奪った。アインシュタインは、ユダヤ人の裏切り者とされた。つまり、アインシュタインは、積極的にドイツから亡命したとはいえないが、ドイツから国家反逆罪に問われたじてんで、事実上、政治的亡命者となった。1935年、アメリカの永住権を取得。

1939年9月1日、ドイツ軍ポーランド侵攻直後,9月3日、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス、次いでフランスが、ドイツに宣戦布告した。イギリスは、対独戦勝利のために、原爆情報を全てアメリカに譲渡した。ただし、当時のアメリカは、第二次大戦に参戦していな中率国だった。

 未だ参戦していない中立国・米国では原爆開発が加速。1941年、全米科学アカデミー(National Academy of Sciences)は、ドイツでヴェルナー・ハイゼンベルクWerner Heisenberg)が始めた原爆開発に対抗すべく,全精力を傾けて(all-out effort)原爆を開発することを求めた。

 1941年10月6日、フランクリン・ルーズベルト大統領は、後に「マンハッタン計画」と呼ばれる原爆開発計画を、全力で進することを決めた。アメリカは,参戦前から原爆開発に着手し、投下目標をドイツとした。

1941年10月6日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト大統領は、原爆開発計画を進めることを決定し、1942年9月には、陸軍工兵隊レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将を原爆開発「マンハッタン計画」の指揮官とし、その下で物理学者J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer: ドイツ・ユダヤ系),シラード,イタリア人エンリコ・フェルミEnrico Fermi)など亡命科学者から、軍人、公務員など6万人を動員した。「マンハッタン計画」の予算として20億ドル(2004年換算200億ドル)を投入し原爆を完成させた。
Manhattan Project From Wikipedia引用。

イタリア人科学者エンリコ・フェルミエンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)妻のローラ(Laura Capon)はユダヤ人で、 ユダヤ人迫害を行うドイツの影響を恐れ、そのままムッソリーニの支配するファシスト・イタリアを離れ,「自由の国」アメリカ合衆国に亡命した。

1939年1月,エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)は、アメリカのコロンビア大学(Columbia University)でウラン235の核分裂連鎖反応を研究を始めた。

1941年10月,アメリカの原爆開発に参加。
1942年8月、マンハッタン計画が発足。
1942年9月23日,レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将がマンハッタン計画指揮官に就任。
1942年12月2日、シカゴ大学フェルミ博士は、核分裂連鎖反応の制御に史上初めて成功。

エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)は、イタリア、ローマ出身の物理学者で、中性子を元素に照射して人工放射性同位元素を生成し、熱中性子を発見して、その特性を明らかにし、この業績によって、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。

エンリコ・フェルミ エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)は、ノーベル賞を受賞するために、スウェーデンのストックホルムに出向いたが、その後、帰国せずにユダヤ人の妻ローラ(Laura Capon)と共に、アメリカに亡命した。事前にコロンビア大学での職をえて永住権があったとはいえ、祖国イタリアにおけるファシスト党独裁、世界戦争の危機、ユダヤ人迫害への恐怖から逃れる亡命だった。

 イタリア人亡命物理学者エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)は、ストックホルムでノーベル賞を受け取った後、帰国することなく、アメリカに亡命し、1939年に、コロンビア大学の物理学教授に就任した。そして、ドイツでの原爆開発に対抗して、テネシー州オークリッジで,原爆用の濃縮ウランを製造,ワシントン州ハンフォードにプルトニウム生産炉を建設(1944年運転開始)する作業に加わった。

1943年にマンハッタン計画の一環として、アメリカ、テネシー州にオークリッジ国立研究所が、陸軍工兵隊の手によって建設された。目的は、原爆に使用するウランとプルトニウムの分離精製で、X-10、Y-12、K-25、S-50のコードネームで呼ばれる4施設があった。

X-10 はウランからプルトニウムを生成し、Y-12はウラン235とウラン238の分離、K-25 はガス拡散法、S-50 はウラン235とウラン238の分離濃縮が行われた。1943年、エンリコ・フェルミが X-10 で世界初の実用原子炉を完成し、プルトニウムの生成が始まった。

エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)の受賞:Notable awards、 Matteucci Medal (1926)、Nobel Prize for Physics (1938)、Hughes Medal (1942)、Medal for Merit (1946)、Franklin Medal (1947)、Rumford Prize (1953)

写真(右):1942年9月、マンハッタン計画の指揮官に任命されたアメリカ陸軍工兵隊レスリー・グローブズ准将(Leslie R. Groves;1896年8月17日生まれ、1970年7月13日没)とマンハッタン計画を主導したユダヤ系物理学者ユリウス・オッペンハイマー博士(Julius Robert Oppenheimer; 1904年4月22日生まれ、1967年2月18日没);Description Groves and Oppenheimer For more information or additional images, please contact 202-586-5251. Date 18 June 2009, 10:18 Source MH34 Author U.S. Department of Energy from United States
写真はWikimedia Commons, Category:J. Robert Oppenheimer File:MH34 (35632134135).jpg引用。


1942年8月13日、アメリカ陸軍工兵隊レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将をマンハッタン管区最高司令官に、ユリウス・オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として「マンハッタン計画」が始動。

J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer: 1904年4月22日-1967年2月18日)は、ドイツ系ニューヨーク生れ、母は東欧ユダヤ人で、ハーバード大学卒業。イギリスのケンブリッジ大学留学後、キャベンディッシュ研究所で物理学や化学を修め、科学者オーゲ・ニールス・ボーア(Aage Niels Bohr)と理論物理学を研究。ゲッティンゲン大学で博士号取得。

J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)は、1942年開始された原子爆弾開発「マンハッタン計画Manhattan Project)」に参加し、1943年にはロスアラモス国立研究所(Los Alamos National Laboratory)の初代所長に就任し、原爆開発を主導した。

1942年8月13日、アメリカ陸軍工兵隊レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将がマンハッタン計画の指揮官に就任に、ユリウス・オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として原爆開発が本格的に始動した。
1944年9月19日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトFranklin Delano Roosevelt)とイギリス首相ウィンストン・チャーチルとの間のハイド・パーク協定で、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更。ニューメキシコ州アラモゴードで、世界初の核実験コードネーム「トリニティ」に成功するのは、1945年7月16日である。

レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の経歴
ワシントン大学・MITを経て、1918年陸軍士官学校 West Point卒業。陸軍工兵隊 Army Corps of Engineersに入隊。
1936年参謀大学General Staff College、1939年陸軍大学Army War College卒業、1940年陸軍大佐。
1942年9月、准将Brigadier Generalとなり、マンハッタン工兵管区(Manhattan Engineer District of the US Army Corps of Engineers)の指揮官となる。前任者は、ジェームズ・マーシャル(James Marshall)大佐。

写真(右):アメリカ、テネシー州オークリッジ、1942年9月、マンハッタン計画の指揮官となったレスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves:1896-1970)准将(左):オークリッジ国立研究所は、1943年にマンハッタン計画の一環として、原爆に使用するウランとプルトニウムの分離精製の施設として、陸軍工兵隊によって建設された。X-10、Y-12、K-25、S-50のコードネームで呼ばれる4施設があった。1943年に、エンリコ・フェルミが 主導しX-10に世界初の実用原子炉を完成させ、そこでプルトニウムの生成され、ファットマン(長崎型原爆)に使用された。
This image is a work of a United States Department of Energy (or predecessor organization) employee, taken or made as part of that person's official duties. As a work of the U.S. federal government, the image is in the public domain.
Description General Groves at Oak Ridge For more information or addiional images, please contact 202-586-5251. Date 21 March 2013, 16:29 Source HD.30.510 Author ENERGY.GOV 写真は Category:Leslie Groves File:HD.30.510 (10444231856).jpg引用。


アメリカ陸軍工兵隊レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将が、マンハッタン工兵管区司令官になった1942年9月、「マンハッタン計画Manhattan Project)」を開始。1942年中に史上初の原子核連鎖反応の実験に成功。1945年7月16日、プルトニウム239239Pu)の核爆発実験「トリニティー(TrinityTest)」に成功。

マンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ准将の下で、原爆開発のために、全米19州とカナダに計37の工場が動員された。主なサイトは、次の通り。
Site W (Hanford, ワシントン州): プルトニウム生産
Site X (Oak Ridge, テネシー州): ウラニウム濃縮とプルトニウム生産
X-10 Graphite Reactor: ウランからプルトニウムを作り出す原子生産炉
Y-12: 1943年12月建設開始、ウラン235の電気分解
K-25: 分離ウランの研究
S-50: 熱によるウラン分離
Site Y (Los Alamos, ニューメキシコ州): 原爆製造。現在のロスアラモス国立研究所(Los Alamos National Laboratory)

3.1945年6月5日以降、アメリカ陸軍第20爆撃兵団の戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」は「マッターホルン作戦」(Operation Matterhorn)の一環として,インドのベンガル州カルカッタからタイのバンコク鉄道操車場を、中華民国四川省成都から満州の鞍山製鉄所、北九州八幡製鉄所を長距離爆撃した。しかし、空輸作戦「ハンプ越え」の困難から、大規模爆撃を継続できなかった。

1944年4月4日、ヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド (Henry Harley Arnold)大将の統合参謀本部は、対日戦略爆撃を行う第20航空軍を設立。4月10日、第20爆撃兵団XX Bomber Command第58爆撃航空団が、対日爆撃計画「 マッターホルン作戦」(Operation Matterhorn)を担当。

写真(右):B-29爆撃機製造工場:1944年6月,サイパン島攻略によって、B-29が日本本土を効果的に空襲できる航空基地が整備できた。

1944年に米国は,14万機もの航空機を製造。女子労働者は,航空機工場に47万5000人,造船所に50万人もいた。(米国の航空機産業への動員参照。)

Boeing Historyによれば、B-29の初飛行は1942年9月21日(28日)、2,766機のB-29がカンザス州ウィチタWichita、ワシントン州レントンRentonなどボーイング社などで製造。 ベル航空会社Bell Aircraft Coは668機をジョージアGeorgia州で製造。グレン/マーチン社Glenn L. Martin Coはネブラスカ州Nebraskaで 536機を製造。1946年生産終了。1950年朝鮮戦争にも参戦。

 第20爆撃兵団は、「マッターホルン作戦」(Operation Matterhorn)のために1944年4月にインドに集結。1944年6月5日、中国の成都からタイの首都バンコク鉄道操車場を戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」によって初爆撃。1944年6月15日、成都からB-29爆撃機75機が出撃、47機が北九州八幡製鉄所を爆撃。

中国からの戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」による日本本土爆撃、「 マッターホルン作戦」(Operation Matterhorn)には、燃料や爆弾をインドから中国にまで空輸(ハンプ越え)しなければならず、大規模な爆撃継続は困難であった。そこで、海上輸送が容易なマリアナ諸島を6-7月に攻略、ここから1944年11月以降,日本本土空襲を開始。
B-29爆撃機による日本本土無差別爆撃参照。

4.1944-45年の戦略爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」による日本本土空襲、原爆投下の7年前、日本は中華民国の諸都市を爆撃した。特に敵首都の南京・重慶への戦略爆撃は、先見の明ある日本軍航空部隊が世界で初めて実施したものである。この日本軍による中国戦略爆撃の延長線上に,日本本土空襲,原爆投下があるともいえる。

ゲルニカ 1937年 -ピカソ-:スペインでは1936年の選挙でスペイン人民戦線が勝利し、政権の座に着いたが、スペイン植民地のモロッコでスペイン軍の一部が、フランシスコ・フランコ将軍らに率いられてファシズムを報じるファランヘ党と組んで、反乱を起こした。これがスペイン内戦である。1937年4月26日、ドイツが派遣したコンドル軍団のユンカースJu52爆撃機、ハインケルHe111爆撃機がバスク地方ゲルニカ(Guernica)を空爆した。パリでゲルニカ爆撃を聞いたスペイン人画家ピカソは、パリ万国博覧会のスペイン館展示予定の壁画を製作中だったが、急遽テーマを変更してゲルニカを題材に取り上げ完成させた。


1937年4月26日、スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)中のバスク地方ゲルニカGuernica)が、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍「コンドル軍団」 Legion Condorの爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。

 スペインでのドイツ軍によるゲルニカ空襲から4か月もたたず、1937年8月第二次上海事変の時に、上海駐留の日本海軍陸戦隊や艦隊を支援する目的で、日本海軍航空隊は第一連合航空所属の木更津航空隊を朝鮮半島南の済州島に、九州の鹿屋航空隊を台湾の台北に進出させた。そして、1937年8月14日から1週間、上海の中国軍航空基地を爆撃し、中国の首都南京や南昌を空襲した。

1937年8月の日本海軍航空隊による南京空襲は、世界初の首都への大規模戦略爆撃である。

写真(右):日本海軍の九六式陸上攻撃機(1937-40年頃):1937年に南京,上海,杭州を長距離飛行後,無差別爆撃した。航続距離の長さ、(当時の爆撃機としては)高速のために、三菱の傑作機といわれる。しかし、防弾がなく、防御用機銃も低性能だったために、迎撃にはもろかった。

1937年8月15日の長崎県大村基地からの渡洋爆撃では、日本海軍の新鋭九六式陸上攻撃機(中攻)G3M20機が、南京まで960kmを往復4時間で飛行。爆撃機は、1機当たり60kg陸用爆弾12発を搭載、2ヶ所の飛行場を爆撃。爆弾が目標以外の市街地にも落ちることは当然許容されていた。軍事目標に外れても,有効な爆撃になる空爆を「無差別爆撃」という。

都市爆撃の目的は、商業施設・住宅・交通網に打撃を与え,労働者を殺傷し、軍需生産を停滞させ,市民を生活難に陥れることである。爆撃目標近くの市民・軍人あるいは民間施設・軍事施設を無差別に空襲することを「無差別爆撃」という。そして,厭戦気分を蔓延させて,戦争を終わらせる。つまり,テロ無差別爆撃による戦争勝利・終戦・平和が目的である。このように無差別爆撃が正当化された。

◆近衛文麿首相は、1937年8月15日「暴支膺懲」の声明で,武力反抗する中国を懲らしめる目的で,戦争を開始。1944-45年に米軍が日本を空襲・原爆投下したのも、暴虐な日本を懲らしめるためであり,米国人にとって,無差別爆撃,原爆投下を非人道的行為だと反省するのは当然なことではない。


写真(右)1937年、日本軍機による上海爆撃の死者;国際都市で租界もある上海市内の南京路など繁華街が爆撃され、多数の死者がでた。この爆撃は、上海沖の日本海軍艦艇を空襲した中国爆撃機による被害かもしれない。日中双方で、敵は無差別爆撃を行い民間人を犠牲にしていると非難した。日本の上海爆撃は、租界を持つ英米にも経済的大打撃を与えた。無差別都市爆撃の非人道性は、反日プロパガンダに使用された。子供だけの写真は、米国の写真雑誌Life(1997年)に掲載され、米国人の反日感情を高めることに寄与した。日本軍は,中国軍の報復能力を低く見ていたため、(米軍による日本空襲よりはるかに小規模な)都市爆撃を行ったが,無差別爆撃は国際世論の反感をかった。列国の権益が集中していた上海など華中を戦渦に巻き込んだことで,日中戦争を取り巻く国際世論は日本軍には不利に傾いた。

太平洋戦争では,アメリカ軍は、日本民間人を殺傷する日本の都市爆撃、商船撃沈を躊躇しなかった。真珠湾攻撃の3時間後、1941年12月7日、アメリカ海軍は無制限潜水艦作戦の指令を出した。これは、日本の民間商船を軍艦と無差別に撃沈する命令である。1942年5月、ドーリットル空襲(日本への16機のB-25による東京・横浜などへの爆撃)でも、目標は都市中心部で,民間人が殺された。

◆日本は、対中国戦と対米英戦とに分けて考えていた。中国には、都市無差別爆撃、毒ガスなど化学兵器の使用をためらわなかった。米英には報復を恐れて、躊躇した。しかし、アメリカ軍は日本軍の報復を恐れなかった。日本軍が中国軍の報復能力を低く見ていたのと同じく、大都市を無差別爆撃した。

◆報復力のない敵に対しては、非人道的な大量破壊,大量殺戮を実施できた。英独航空戦では、双方とも、当初、相手国の都市への無差別爆撃を控えていたのと対照的である。
上海事変・渡洋爆撃と日中全面戦

1938年2月から1943年8月までの5年間、中国の戦時首都・重慶を218回爆撃,合計9513機出動、爆弾2万1593発を投下、市民1万2889人を殺害、1万4700人を負傷させ、家屋1万7608軒を損壊させた。これは、1944-45年の連合国の空爆と比較すれば小規模である。しかし,都市無差別爆撃の嚆矢であった。(Zero Fighters in Chongqing and Pearl Harbor:Wakamiya Yoshibumi参照)。

中国の漢口から重慶を空爆した日本機は、延べ2400機、1万5000tの爆弾を投下、2万3600人の民間人を殺害。行方不明者も含め推定3万5000人以上の損害を与えた。重慶では世界のジャーナリストが取材し、日本は国際的非難を浴びる。最後の重慶空襲は1943年8月23日。(☆重慶無差別爆撃☆引用おわり)。

◆世界初の本格的な戦略爆撃は,1937年8月、日本軍による中国への首都爆撃、都市無差別爆撃である。1940年11月から1943年8月には、中国の首都重慶への長期間の無差別爆撃を実施。米軍の日本本土空襲、原爆投下は、日本軍による中国本土空襲の延長線上にある。

◆1937-1940年の日中戦争(日華事変)の時代、中国を空爆した日本機に拍手喝采を送った日本人は、1944年から空爆される側になって、空爆の非人道性を理解できたのかもしれない。未だに大規模に空爆された経験のない米国人は、空爆された側の気持ちがわかるのか。9.11以降、理解したのか。総力戦では,市民・兵士が皆が戦争の被害者・犠牲者であった。そして、同時に、加害者として動員に協力、参戦していた。


長崎原爆資料館「C-1 日中戦争と太平洋戦争」には、1931年9月の満州事変から太平洋戦争まで、15年間の戦争を扱っている。「とりわけ日中戦争の長期化は、国内の統制経済と国民支配の強化をもたらし、さらに日本の南進政策は米英仏蘭との対立をまねき、より過酷な太平洋戦争へと国民を導いた。日本人だけでなく、アジア諸国--民衆が戦争に巻き込まれ、さまざま形で犠牲となった。」とwebにある。

5. 1941-42年、日本陸海軍は別々に原爆開発を開始した。日本の原子物理学の第一人者仁科芳雄らの技術、人材、設備、資源では原爆開発は不可能であったが、1945年まで続行された。ドイツから日本にウラン235を運搬したUボート(U-235)は、ドイツ敗戦で、米国に投降した。ウラン入手が不可能となった日本は、1945年6月に原爆開発を放棄したが,万が一、日本が原爆を開発したら,戦局挽回のために、原爆の先制使用を躊躇しなかったであろう。

日本の原爆開発
1940年、理化学研究所・仁科芳雄博士、陸軍航空技術研究安田武雄所長に,1941年4月、日本陸軍航空本部、安田武雄理化学研究所の大河内所長に原爆開発を要請。仁科芳雄研究室,ウラン濃縮研究を開始。
1943年1月、仁科芳雄博士、天然ウラン中のウランU235を熱拡散法で濃縮する計画を開始。

『新青年』大正9年7月号には,次のように核兵器原子爆弾を予測した架空戦記が載っている。
 「---ラザフォード教授-----は、原子(アトム)を分解する事に成功した。で、----或る「力」を解放するに至つた。そして人間を殆ど神様と同様の物にするか、それとも人類文明なるものを粉微塵に破壊して終ふかも、実にこの「力」の掌中に握られてゐるのである。」
 「若し右の方法が成功した場合には、----例へば日本から云へば亜米利加(アメリカ)の一市街を灰燼に帰せしめるやうな事が出来やう。」

 「原子爆弾(アトムばくだん)の威力は堂々たる大艦隊も木端微塵」:「若しこの原子力が、誤れる掌中に入つたならば何うか?/例へば前独逸皇帝の如き人が、この力の秘密を得たならば、其結果は何うであらうか?恐く彼れは、ポツダムの安楽椅子に腰を下して、軽く机上のボタンを押し、それに依つて容易に文明を灰燼に帰せしめることが出来やう…が、併しこれが有益に使用された暁には、人類を塗炭の苦しみに陥るゝ彼の戦争なるものは、永久に不可能のものとなるに相違ない。…」(『新青年』大正9年7月号/「世界の最大秘密:モリオカ三行日記」引用終わり)

ポツダム宣言、原爆投下は、この予言から26年後だった。

『新青年』(第二十五卷)七月號(1944年)米本土空襲科學小説「桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ・・立川賢 」
日本が原子爆弾を完成し、米国本土サンフランシスコ(桑港)に原爆を投下、70万人を殲滅、戦局を逆転する空想戦記。
編輯後記では「米本土空襲、爆砕の夢は吾人の抱くもののうちもっとも大いなるもの。」とある。日本人でも,民間人殺戮を一顧だにせず,戦局挽回を期待した。(→)『新青年』1944年7月号/「遅すぎた聖断」昭和天皇と日本製原爆開発計画;山崎元引用)

◆米英ソ独日の全ての軍隊が敵に勝利する最新最強の兵器を希求していた。原爆の投下は、大量破壊・大量殺戮を意味するが、それが戦勝・早期終戦と同列に語られた。原爆投下の可否が、人道的観点から議論されることはなかった。強力な新兵器を望む軍は、使用の可否ではなく、どのように使用するかを議論・研究する。ヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官は、原爆投下によって、アメリカが、ナチス・ドイツ以上の残虐行為を犯したと非難されないように配慮すべきだと考えていたが、このような慎重な意見は、アメリカの政治・軍の首脳陣の中では少数派だった。陸軍長官ヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)は、原子爆弾開発のマンハッタン計画 (Manhattan Project.)を担うレスリー・グローブズ (Leslie Groves)准将の上司であり、大統領諮問機関の原爆投下目標選定委員会をとりまとめたが、原爆開発やその投下に関して、積極的な役割を担ってはいなかった。

1945年3月24日、ドイツ海軍大型潜水艦Uボート招B(排水量1760トン)U-234は、酸化ウランUranium Oxide(U235)560kgなど機密物資260tを日本に運ぶために出航。5月8日、ドイツ無条件降伏を知り,14日,降伏。
日本軍による原爆開発:ドイツからの秘密兵器を読む。

日本陸軍の原爆開発は、1945年6月に中止、海軍の研究も1945年7月に放棄された。非人道的兵器であることを理由にではなく,原爆製造が不可能になったから、原爆開発を中止した。枢軸国の原爆開発は、連合国による原爆開発の第一番目の口実(アインシュタイン手稿)だったことが思い出される。

万が一にも,日本軍が原爆を保有したら、戦局挽回のために躊躇うことなく使用したであろう。仁科芳雄ら科学者もそれに反対することはまずなかったに違いない。アメリカ軍も、大金をかけた最新兵器を手にして,成果を検証したかった。動員をかけた政府も、原爆の効果を国内外に広く公開し、マンハッタン計画の正当性を誇示する必要があった。

6.1945年11月以降、米陸軍航空隊は、マリアナ諸島サイパン島、テニアン島、グアム島を基地として戦略爆撃機ボーイングB-29「スーパーフォートレス」によって、日本本土を空爆した。当初は、航空機工場などへの精密爆撃だったが、効果的でなかった。そこで、1945年2月以降、カーチス・ルメイ将軍の下で、都市夜間無差別爆撃が主流になった。民間人の犠牲は、労働力を減少させ,生産力・抗戦意志を弱体化させるとして、歓迎された。

米軍戦略爆撃本部に相当する第20航空軍司令部司令官ヘンリー・“ハップ”・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)大将は、 第21爆撃機集団XXI Bomber Command司令官にヘイウッド・ハンセル(Haywood Haywood Shepherd Hansell)准将を任命。 


写真(上左):テニアン島第444爆撃集団第677爆撃中隊のB-29爆撃機「レディー・イン・ウェイティング」Lady in Waiting
:機首に機体固有名称をデザインするのは、Nose Art(機首芸術)と呼ばれた。写真(上右):テニアン島第444爆撃集団第676爆撃中隊のボーイングB-29爆撃機「パシフィックプリンセス」Pacific Princess :大戦中、第20航空軍では多数のノーズ・アートをカラー撮影している。1950年12月には日本の入間市ジョンソン基地に配属されている。444th Bombing Group引用。


写真(右):1945年,東京の銀座の爆撃被害:1945年、第39部隊の作戦任務で爆撃。39th Mission #24 & 26マリアナ諸島グアム島「ノースフィールド基地」から日本本土を爆撃。Damage Photos Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association引用) 

アメリカ軍は、1944年6月にマリアナ諸島サイパン島に上陸し、そこを占領して、日本本土爆撃の航空基地を整備した。そして、ボーイングB-29爆撃機は,ハワイ諸島を経由してマリアナ諸島に集結させ、1944年11月以降、日本への戦略爆撃を開始した。航空機工場などへの精密爆撃、都市無差別爆撃、港湾・航路への機雷敷設まで、各種の戦略爆撃を実施。B-29爆撃機のの爆弾搭載量は、高高度精密爆撃では2〜3トン、都市無差別低空爆撃では5〜6トンだった。

1945年3月10日東京大空襲では、B-29爆撃機279機が焼夷弾など38万発、1,700tを投下。死者8万人以上、焼失家屋約27万戸。米軍の損害はB-29損失12機、損傷42機。

 カーチス・ルメイCurtis Emerson LeMay)将軍には1964年12月「航空自衛隊の育成に貢献した」として、日本の最高位の「勲一等旭日大綬章」が叙勲された。これは、ハワイ真珠湾奇襲の立案に加わったこともある源田實空将・国会議員の働きかけによる。

都市無差別爆撃では、労働者の住宅の密集する住宅地を標的に、軍需生産を担う労働者を殺害し、家屋を破壊する。厭戦気分を高めて、戦意を挫くことを企図した。そこで,アメリカ軍爆撃機搭乗員たちは,戦争を早く終わらせ、米国人の命を救うことができると考え、自分たちの戦略爆撃を大いに誇りにしていた。現在も、都市無差別爆撃という戦略爆撃は、テロではなく、戦争を早期に終了させた英雄的行為であるとする連合国市民が多い。

写真(右):1945年,東京の銀座の爆撃被害状況:1945年、第39部隊の作戦任務で爆撃。39th Mission #24 & 26グアム島「ノースフィールド基地」から日本本土を爆撃。カール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz)は、1944年1月、ヨーロッパ派遣アメリカ陸軍戦略航空軍の指揮官となり、ドイツに対する戦略爆撃を監督した。その後、1945年3月に大将へ昇進、太平洋戦略航空軍の指揮官として、1945年7月にグアムの本部に赴任。ここから広島、長崎への原子爆弾投下を監督した。Damage Photos Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association引用) 

長崎の原爆被爆の記録
原爆・被ばく関連資料データベース広島大学
世界遺産:原爆ドーム旧広島県産業奨励館
なぜ広島に原爆が投下されたのか平和記念館
Damaged Photos39th Bomb Group (VH) Association
平和記念資料館(東館):展示一覧
広島原爆投下当時の写真
終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳:帝都炎上 B-29の猛襲
B-29 Superfortress and Now
原爆投下目標選定委員会
日本空襲と原爆

7. 1945年8月の日本への原爆投下は、ソ連に対する威嚇、新兵器の実験という意味が大きかった。しかし、戦後、原爆投下の悲惨さが伝わると、原爆投下は終戦を早めて、若者たちの命を救ったという(戦時中は副次的だった)論理が,ヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官の名前で喧伝された。ソ連の参戦、国体維持を黙約しての和平交渉などの他の戦争終結の手段は、黙殺された。

米軍は1945年4月1日、沖縄本島に上陸したが、これは戦略爆撃(Strategic bombing)だけでは、日本を降伏させられないと考えたためだった。米軍は,日本本土に上陸・占領して初めて日本が降伏するとの判断の下に,1945年10月〜1946年2月には志布志湾から九州を攻略する「オリンピック作戦(Operation Olympic)」、九十九里に上陸して東京攻略を目指す「コロネット作戦(Operation Coronet )」を準備していた。


写真(上左):1945年テニアン島ノースフィールド基地のアメリカ陸軍航空隊第509混成部隊(The 509th Composite Group),広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」 ENOLA GAYと遠方の長崎の原爆を投下した「ボックスカー」Bockscar
:サインは、「ボックスカー」副操縦士フレド・オリーブ。Signed Photo of the Enola Gay and Bockscar (in background) - Signed by Fred Olivi, Co-Pilot of Bockscar. テニアン島を発進し、日本本土を攻撃した。原爆投下部隊は、秘匿名称「第509混成部隊」509th Composite Groupと呼ばれた。 The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc. :The Joseph Papalia Collection引用。
写真(上右):長崎に原爆を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」BOCKSCAR:最高速度: 357 mph (575 km/h)、巡航速度: 290 mph (467 km/h)、上昇時間 25,000 ft. (7620m): 43 分、上昇限度: 36,000 ft. (10,973 m)、航続距離 (10,000 ポンドの爆弾搭載): 3,250 miles (5230 km)。Warbirds Resource Group引用。


写真(右):広島に原子爆弾投下、帰還したアメリカ陸軍航空隊第509混成部隊(The 509th Composite Group),B-29「エノラ・ゲイ」尾部銃手ボブ・カーロン;B-29の尾部に12.7mm50口径機銃2丁装備。20mm機銃は扱いにくく、重量軽減のために撤去。Bob Caron at Battle Station - Tail Gunner of the Enola Gay on the Hiroshima Mission The Joseph Papalia CollectionThe Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc. 引用。

<原爆投下の理由>
1.1945年7月26日のポツダム宣言を、翌27日、日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとするポツダム宣言黙殺説
 鈴木貫太郎首相が、7月27日ポツダム宣言黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断された。そもそも鈴木首相は組閣当初から徹底抗戦を呼号していたのであるから、鈴木内閣が終戦のために組閣されたという俗説は誤りである。しかし、鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言をする以前に、アメリカは日本への原爆投下命令を題していたのであり、ポツダム宣言黙殺が原爆投下を引き起こしたという説は成り立たない。

2.アメリカ政府・アメリカ軍の公式見解といえる終戦和平説
 日本上陸作戦を実施した場合、戦後のスチムソン陸軍長官の回顧録では、100万人の死傷者が出ると過大に見積もっているが、この死傷者数に軍事的根拠はない。あくまでも、原爆投下の正当性を訴える目的で、戦後になって死傷者の存在に注目した後付けの説である。
日本本土上陸作戦の死傷者がどれくらい出るのか、原爆投下によって日本本土上陸作戦を行わなくても、直ぐに日本が降伏するのか、事前に議論を尽くしてはいない。
 他方、原爆投下されたために日本が降伏したと誤解している者も多い。最新機密兵器の原爆の技術と威力について、日本の指導者たちは認識・理解できなかった。彼らが危惧したのは、敗北続きの軍上層部・政治指導者にたいする国民や軍の一部の反感であり、それが国体を覆す革命になることを危惧していた。

フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt :1882-1945/4/12) 民主党出身の第32代アメリカ大統領を1933年3月4日から1945年4月12日まで務めるが、これはドイツ首相となったアドルフ・ヒトラーの任期とほぼ等しい。世界恐慌の失業対策として、積極財政のニューディール政策を採用し、テネシー渓谷開発公社、公共工事局 などを設けて公共事業を拡大した。マスメディアを活用し、ラジオ演説「炉辺談話 fireside chats」を毎週放送した。1937年10月5日、世界中で行われている侵略行為を憂慮し、このような侵略国は病人と同じく隔離すべきとしたが、これはドイツ、日本を指していた。第二次大戦が始まっても中立を保ったが、1940年7月にスティムソンを陸軍長官に復帰させ、9月に選抜徴兵制を採用し動員を開始した。1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)を成立させ、イギリス、中国に大量の軍事物資を貸与した。のちに、1941年6月に独ソ戦が始まると、ソビエト連邦へも武器貸与を行った。


3.終戦後のアメリカによるソ連封じ込め説(対ソ外交説)・世界覇権掌握説
 ドイツ降伏までは、ソ連は米英連合軍として共同歩調を取ってきたが、ポーランド国境などヨーロッパの戦後勢力圏を巡って、東西対立、冷戦が既に始まっていた。アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトFranklin D. Rooseveltlock outline)が死去すると、副大統領から昇格したハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領の下で、サウス・カロライナ州の先輩上院議員ジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)が国務長官として、「マンハッタン計画Manhattan Project)」への影響力を強めた。ジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)国務長官は、ソ連に対する外交を有利に運ぶための手段として、原子爆弾の投下を求めた。日本に原爆を投下し、日本を壊滅させれば、たとえソ連が参戦しても、戦後の日本占領政策に、ソ連が深入りすることはできない。原子爆弾の破壊力を世界に示し、原爆を保有する唯一の国アメリカこそ世界最強の国であることを証明すれば、対ソ外交だけでなく、イギリス、フランス、中国という国連常任理事国の中で、傑出した影響力を行使できる。つまり、原爆の威力を世界に知らしめて、アメリカによる世界の覇権掌握という高次元政治的目標が垣間見える。

4.アメリカ軍新兵器実験説・アメリカ陸軍世界最強立証説
 現在でこそ、核兵器の威力,放射能の恐怖を世界の人々が知っている。しかし、1945年8月時点では、原爆は未知の兵器であって、その威力は、極秘のトリニティ(原爆爆発の初実験)で立証されていただけであった。アメリカ陸軍は、破壊力のある革新的兵器を手にし、その威力を実戦に使用し確認したかった。そして、原爆の威力を世界に示すことで、アメリカ陸軍こそが世界最強であると証明することになる。アメリカの世論を納得させ、連邦議会上院・下院で陸軍予算を増額するためにも、原爆を実戦使用することが求められた。
 他方,アメリカ海軍も原爆を保有したかった。そこで、陸軍に対抗して、海軍は、対艦船攻撃用の原爆、潜水艦搭載の核兵器の開発を求めて、ビキニ環礁で、艦船への破壊力を示す核実験を行った。 

5.戦後の軍事予算獲得説
 原爆を開発/製造するために膨大な予算を獲得するには、原爆の威力を連邦議員たちを説得できる材料が不可欠だった。国務長官となるジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)らが20億ドルの資金をもとに、資源、科学者、労働者を動員した「マンハッタン計画Manhattan Project)」は、戦時の極秘計画だったから可能だった。しかし、終戦後は、軍事予算が大幅に減少し、各種兵器の量産は終了させられる。実際、空母・戦艦などの大型艦船、B-17爆撃機・F6F戦闘機など航空機は、戦後すぐに生産が停止されてしまった。マンハッタン計画の軍事指揮官レスリー・グローブズLeslie R. Groves)准将、国務長官に就任したジェームズ・バーンズマンハッタン計画Manhattan Project)」を主導した大物にとって、兵器生産の多くが終了する戦後世界で、原爆に多額の資金を投入し続けるには,アメリカ連邦議会と選挙民に原爆の威力を示さねければならない。原爆予算は削減できないと議会と世論に訴える必要があり、そのために原爆を実戦使用したのである。

6.連合国と枢軸国との原爆開発競争に勝ったアメリカが原爆を先制使用しただけという原爆開発競争説
 1939年のアインシュタイン・シラードのルーズベルト大統領当ての手紙では、ドイツが原爆開発を成功させる恐れがあり、それに先んじて、アメリカが原爆を開発すべきであることを訴えた。ドイツの科学力,技術力を高く評価していたからであるが、日本も1941年から科学者を動員して原爆を開発しようとした。そこで、日本が原爆を開発し、アメリカに原爆投下をするより先に、アメリカが日本に原爆投下をしただけであるとも主張されている。
 しかし、実際には、日本の科学力,技術力で原爆を開発することは不可能だったし、当時のアメリカがは、科学的根拠をもとに日本の原爆開発能力を評価したわけではない。人種的、民族的偏見から、日本人による原爆開発の可能性など信じていなかったであろう。したがって、原爆開発競争説は、日本への原爆投下の理由として、戦後になって主張された説である。ただし、ドイツの原爆開発には、連合軍は神経を尖らせていた。ノルウェーにあった重水生産工場を特殊部隊を送って破壊したほどである。

7.通常爆弾による無差別爆撃の延長線上に原爆投下があるという戦略爆撃延長説(鳥飼研究室新説):
 戦略爆撃とは、軍事施設・インフラ(運輸・エネルギー・医療・教育の基盤)・住宅・商業地区などを破壊し、労働者・市民を殺害することで、敵国の世論を反政府に向かわせ、軍事力を弱体化することで、敵の抗戦意思を粉砕することを企図している。原子爆弾も通常爆撃と同じく戦略爆撃に投入され、両者の違いは、爆弾一発の持つ破壊・殺傷能力の大小である。放射能傷害など,原子爆弾に特有の被害(原爆症)もあるが、これは、殺傷力の違いである。したがって、原爆投下は、大規模な戦略爆撃であり、大量破壊・大量殺戮をもたらす点で、両者は同じく非人道的である。無差別「通常」爆撃が許されるのであれば、原爆投下も許容される。
 1945年8月時点で、アメリカ軍の日本本土への無差別爆撃という戦略爆撃の延長線上に原爆投下があり、原爆投下だけを特別扱いする必要はなかった。原爆の保有・投下目標は最高機密であり、特別な情報管理がなされたが、原爆投下自体は、当然のように決められた。トルーマン大統領が、原爆投下の議論にほとんど加わっていないのは,カーチス・ルメイCurtis Emerson LeMay)らが主導する戦略爆撃がすでに日独に大規模に実施されていたからである。爆撃機千機相当の戦略爆撃を1機(観測機を含めて数機)で実施できるように改良したのが原爆である。この意味で、原子爆弾があれば、千機のB-29爆撃機とそれを運用する航空基地.搭乗員,整備員、航空機生産工場、資材・燃料を節約できる。原爆は、軍機ではあったが、威力のある最新兵器として戦略爆撃に利用することは、原爆開発の当初から当然のように決まっていた。

写真(右):グアム島ノースフィールド基地から発進したアメリカ陸軍航空隊第319部隊所属B-29爆撃機による爆弾投下;P-36号機乗員。Crew P-36 , Lawrence Materi's collection. the 19th Bomb Group引用。

長崎原爆資料館「C-2 原爆投下への道」では、「1938年にドイツで発見された核分裂は、原爆に応用できることが示唆された。1942年、アメリカは「マンハッタン計画Manhattan Project)」を発足させ、当時の日本の国家予算をしのぐ巨費を投じて原爆を開発した。原爆はドイツを対象に開発されたが、後に目標を日本に変更、京都など18ヶ所が候補に上がった。結局、1945年8月6日広島、同9日長崎に投下された。原爆投下の理由として、早期終戦のためと言われているが、20億ドルを投じた「マンハッタン計画Manhattan Project)」を誇示する目的もあった。また、ソ連との冷たい戦争の最初の作戦という性格も持っていた。」とする。

ポツダム会談最中、「マンハッタン計画Manhattan Project)」を実現する核実験が行われた。これが、1945年7月16日トリニティ(原爆実験)の成功である。アメリカ海軍レーヒ提督のように、日本通の軍人は、国体護持を認めれば、日本は和平に応じることを見抜いていた。しかし、ルーズベルト大統領は、1943年1月のカサブランカ会談、11月のカイロ会談(チャーチル首相・蒋介石総統)で、枢軸国に無条件降伏を求めること、単独和平はありえないこと(米国にではなく、連合国への降伏)を、世界に公言していた。次のトルーマン大統領の時期のジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)国務長官も、日本との和平交渉は弱腰であるとして、日本への原爆投下を当然のことと見なしていた。したがって、アメリカは国体護持を巡って単独で日本と和平交渉することはできなかった。

1945年2月のヤルタ協定では、ドイツ降伏(1945年5月8日)3ヶ月以内にソ連は対日戦に参戦すると確約した。アメリカ軍は、兵力が低下していた満州駐屯の関東軍の軍事力を過大評価しており、中国大陸の日本軍を壊滅するには、ソ連の軍事力が不可欠であると考えていた。そこで、アメリカ大統領ルーズベルトは、日本領千島列島だけでなく、蒋介石に、日本が有していた中国・満州での権益をソ連に譲渡させることまでして,スターリンに対日参戦を約束させた。

 しかし、暗号解読によって,日本がソ連を通じて和平交渉を求めていることを知る。(7月16日のスチムソン陸軍長官の日記:"I also received important paper in re Japanese maneuverings for peace. It seems to me that we are at the psychological moment to commence our warnings [to surrender] to Japan. ...the recent news of attempted approaches on the part of Japan to Russia impels me to urge prompt delivery of our warning. [マジックによる無線暗号解読通報the Magic Diplomatic Summariesによる日本のソ連への和平仲介依頼を察知していた])

ポツダム会談では、スターリン自らがトルーマンに8月15日に対日参戦することを告げた。(7月17日のトルーマンの日記:He'll be in the Jap War on August 15th. Fini Japs when that comes about. ----I can deal with Stalin. He is honest--but smart as hell.)トルーマンも原爆完成をスターリンに告げることを決心する。さらに、日本が和平の仲介を頼んできたことをスターリンはトルーマンに直接,直ぐに伝え、なんとその回答まで教えた。もはやソ連の対日参戦前に日本は降伏してしまうと思われた。(7月18[19]日のトルーマンの日記:Discussed Manhattan (it is a success). Decided to tell Stalin about it. Stalin had told P.M. of telegram from Jap Emperor asking for peace. Stalin also read his answer to me. It was satisfactory. Believe Japs will fold up before Russia comes in.)しかし、日本がソ連の仲介で降伏してしまえば,戦後のソ連軍が日本に進駐し、ソ連封じ込めも水泡に帰す。

最強兵器の威力を実証しないうちに大戦が終了すれば、戦後、アメリカ連邦議会は「マンハッタン計画Manhattan Project)」の意義も原爆の威力を理解できず、予算は縮小され、グローブズ、バーンズらの権限は縮小されてしまう。さらに、アメリカ軍が世界最強の軍隊であることを証明をする機会も失えば、ソ連を抑えて世界の覇権を掌握することも困難になる。
 アメリカ軍は、日本が降伏する前に,原爆を投下したかった。

元駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー国務次官、アメリカ金融界の支持を得ていたヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官らは、日本財界との米国財界をつなぐビジネスを重視して、日本への原爆投下に消極的だった。天皇制を維持できることを条件に日本に降伏を求めることを提言した。しかし、このような経済、ビジネスを重視した原爆投下反対論が、日本を敵視するブラック・プロパガンダを蔓延させてきたアメリカ国内で支持される見込みは当初よりほとんどなかった。



図(右):TIME April 23、1945:Harry S. Truman
:『タイム』1945年4月23日号の表紙を飾ったアメリカ大統領ハリー・トルーマン。ルーズベルト大統領の急死によって副大統領から昇格したが、ルーズベルトからは原爆について聞かされていなかった。門外漢だったトルーマンは、原爆の開発にも原爆の投下にも、ほとんど関与していない。
 

アメリカは、暗号解読によって、近衛の対米和平、ソ連の和平仲介を知っていた。ソ連からの日本和平交渉仲介の連絡も受けていた。そこで、ソ連が対日参戦をすれば、日本が降伏すると確信できた。ヤルタ協定に従ってソ連が対日参戦する8月15日以前に、日本に原爆を投下することが望まれた。

原爆投下の決定は、
ヽ吠殕国は当時、アメリカだけで、報復の心配はなかった、
既に都市無差別爆撃が実施されており,戦略爆撃の延長線上に原爆投下も位置付けられた、
8暁投下の可否の議論は、米国ではほとんどされず、アメリカ大統領ハリー・トルーマンは「マンハッタン計画Manhattan Project)」についても新参者で原爆投下の専門家会合に出席しなかった。
以上をふまえれば、アメリカは、第二次大戦終結後の冷戦を見越して、ソ連封じ込め(対ソ外交圧力)、世界覇権掌握、新兵器実験・軍事予算獲得を理由として、無差別爆撃の延長線上に原爆投下したといえる。


 日本本土への無差別爆撃による大量破壊,大量殺戮は、既にアメリカ軍の長距離重爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス」によって実施されており、米軍と日本軍にとって、原爆投下は、同じ範疇の無差別爆撃に過ぎなかったのである。


1945年8月6日に広島への原爆投下、8月9日に長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告があった。この危機に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「----原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(「海軍大将米内光政覚書」;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用) 

 日本の政治的指導者たちは、日本国民の政府離反、共産主義革命と国体変革の恐怖を認めて降伏することはできない。そこで、原爆という新型爆弾から、臣民の安寧を守るために終戦の聖断がなされたという大元帥昭和天皇の大御心・ご威徳を強調した終戦の詔書が出された。神国日本の降伏は、大義の敗北ではなく、技術の敗北であるとの解釈が流布された。 

戦争の大義、日本軍の兵士・国民の戦意喪失が、敗戦の原因ではない。原爆という軍事技術が,日本を降伏に追い込んだ。このよう解釈して、近衛文麿、木戸幸一、米内光政のような一流の政治家たちは、原爆投下を終戦の口実=天佑とした。これは、アメリカ政府・米軍の公式見解である「原爆投下が日本を終戦を決断させ、和平をもたらした」という原爆終戦和平説にも沿ったもので、「マンハッタン計画Manhattan Project)」が戦争終結に繋がった、ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイEnola Gay」乗員は原爆投下を成功させた英雄である、といったアメリカによる原爆投下の正当性を日本が認めたかたちになった。これでは、日本が世界唯一の被爆国として、他国の核兵器開発を非難する際、説得力を欠いてしまう。 

表1 日本本土空襲による死者数の推計(空襲死者数全国調査)

推計機関

空襲による死者総計

通常爆撃による死者

原爆による死者

死者合計

構成比

東京区部

東京以外

広島死者

長崎死者

死者合計

構成比

経済安定本部(1949)

299,485

197,583

66.0%

95,374

102,209

78,150

23,752

101,902

34.0%

建設省戦災復興史(1957)

336,738

184,575

54.8%

91,444

93,131

78,150

74,013

152,163

45.2%

戦災都市連盟(1956)

509,734

175,130

34.4%

94,225

80,905

260,000

74,604

334,604

65.6%

第一復員[陸軍]省(1957)

238,549

182,692

76.6%

93,056

89,636

42,561

13,296

55,857

23.4%

米国戦略爆撃調査団(1947)

252,769

168,096

66.5%

93,056

75,040

71,379

13,294

84,673

33.5%

東京新聞(1994)

558,863

224,635

40.2%

115,000

109,635

260,000

74,228

334,228

59.8%

出所)激しい空襲(http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub59kuushyu.htm)より作成。

本土空襲の死者数は、推計機関により大きな差異がある。これは、調査期日、推計方法、原爆による死者数(期間)などについて、正確な把握が困難なため生じたとされる。


中国新聞「死者はコンピューターの中に」によると、広島県警察部(県警本部)は1945年11月30日に県内各警察署に調査を指示、 12月中旬に次の原爆人的被害をまとめた。 
▼死者 78,150人  ▼重傷 9,428人
▼軽傷 27,997人  ▼行方不明 13,983人
▼被災者 176,987人
合計 306,545人
調査範囲は広島県内で、軍関係者は含まない。調査結果は1946年2月に連合国軍総司令部発表の形で報道された。

広島市、長崎市原爆災害誌編集委員会(1979)『広島・長崎の原爆災害』岩波書店
1944年2月政府の人口調査   34万3034人
1945年6月末の米穀配給登録者 24万5423人
●当時の人口増減を考えた一般市民居住人口 28万〜29万人
●軍関係者:米国戦略爆撃調査団に報告された広島の陸軍部隊 2万3158人
      海軍関係など推計 2万人
      合計 4万3000人
●国民義勇隊、徴用労働者として動員された朝鮮人他を含む被爆時所在人口総計推定 35万人前後
※原爆災害誌編集委員会は、この数字を基に、1945年11月初めまでに13万人前後が死亡したと推定した。

◇広島市は、1976年、原爆被害について国連に提出した資料の中で、被爆直後の急性放射線障害が一応おさまった1945年末までに約14万人(誤差±1万人)が死亡したとする推定死者数を出した。
◇広島市はその後の調査の成果をコンピュータで統合する「被爆者動態調査」を継続している。1991年の第4期調査の結果では、この時までの被爆死亡者総数は22万1407人、1945年末までの死亡者は9万 104人であった。

509th CG Pictorial Album - 1945
ENOLA GAY MEMORABILIA;The Official Website of Ret. General Paul W. Tibbets

中国−ビルマ−インド(CBI)とマリアナ基地からの作戦全般を通じてヘンリー・“ハップ”・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)指揮下の戦略爆撃部隊・第20空軍は、B-29爆撃機485機、戦闘機212機を失った。戦死または行方不明の搭乗員は3041名、戦傷332名。B-29爆撃機延べ3万3047機、戦闘機延べ6276機が日本爆撃に出撃し損害率はB29は1.5%、戦闘機は3.4%,B29搭乗員の死傷率は1%未満。(戦後刊行された『アメリカ戦略爆撃調査団報告』「B29部隊の対日戦略爆撃作戦(第20航空軍)」;本土空襲の記録引用)

連合国市民、連合軍の退役軍人協会などが、正義の戦いのための「当然の犠牲」であるとか、戦争継続によって失われるはずだった命を救ったとか、強弁するのは、死者遺族にとっては納得できない。人命の犠牲の上に、現在の平和と繁栄がある、と主張するのも、違和感が残る。殺害された市民にとって、「言い訳」は、受け入れがたい。

しかし、総力戦にあって、市民といえども、労働力,食料増産,資源燃料の節約、世論形成の面で、戦争に参加している。つまり、総力戦は,敵味方双方にとって、大量殺戮,大量破壊が戦争の形態となる。戦略家は、人々の犠牲もやむをえないことを、当然、受け入れているはずだ。彼らが、敵による民間人,市民の犠牲を非難するとき、敵愾心を煽るプロパガンダなのかもしれない。

アメリカ軍による日本本土空襲による殺害率(キルレート)は、米国人3000人対日本人30万〜50万人であり、100-180倍もあり、破壊家屋・工場を含めれば,B-29爆撃機500機弱の損失に比べて、大戦果をあげた。対日戦争に勝利をもたらした最大の要因は,米軍によれば,日本本土空襲、原爆投下、無制限潜水艦作戦による交通破壊とされ、ソ連参戦の影響を無視している。

写真(右):1942年9月、マンハッタン計画の指揮官に任命されたアメリカ陸軍工兵隊レスリー・グローブズ准将(Leslie R. Groves;1896年8月17日生まれ、1970年7月13日没)とマンハッタン計画を主導したユダヤ系物理学者ユリウス・オッペンハイマー博士(Julius Robert Oppenheimer; 1904年4月22日生まれ、1967年2月18日没);The Joseph Papalia CollectionLeslie Groves From Wikipedia引用。

1942年8月13日、アメリカ陸軍工兵隊レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将がマンハッタン計画の指揮官に就任に、ユリウス・オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として原爆開発が本格的に始動した。
1944年9月19日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトFranklin Delano Roosevelt)とイギリス首相ウィンストン・チャーチルとの間のハイド・パーク協定で、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更。
1945年4月27日、第一回の目標委員会(Target Committee)では、京都、広島、横浜、小倉の4 都市が選定。
1945年5月4日,スチムソン陸軍長官は,陸・海・国務3省および原爆科学者の幹部からなる暫定委員会を設置。
1945年5月28日、原爆の効果を正確に測定できるよう、投下目標都市に対する空襲が禁止。
1945年6月1日、ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes)国務長官(トルーマンの先輩上院議員)など暫定委員会は「日本に対してすみやかに原爆を使用すべきこと。それは,労働者の住宅に囲まれた軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきこと。原爆投下の事前の警告なしに使用するべきこと。」とした。これは、原爆の威力実証、対ソ連圧力外交としての原爆示威、早期の日本降伏を意図した結果であろう。

1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードで、世界初の核実験コードネーム「トリニティ」に成功。ポツダム会談参加のためにドイツにいたハリー・トルーマンHarry S. Truman)統領に伝えられた(「無事出産。結果は予想以上。」)。


写真(上左):1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴード、世界初の核実験コードネーム「トリニティ」が行われた。ポツダム会談の時期にアメリカはロスアラモスで開発した原子爆弾の爆発実験「トリニティ」に成功した。ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は優越感を持って、驚異的な破壊力の爆弾を開発したと告げた。
:Description: The first successful test of an atomic bomb, Alamogordo, New Mexico, July 16, 1945. Date: July 16, 1945 Related Collection: Lansing Lamont Papers ARC Keywords: Atomic bomb; Nuclear weapons testing HST Keywords: Atom bomb; New Mexico, Alamogordo 写真は、 Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 72-4148引用。
写真(上右):1945年8月9日、長崎に投下された原子爆弾が爆発して発生したキノコ雲:Description: Atomic Bomb blast over Nagasaki, Japan. Same as 58-561. Photo donated to Harry S. Truman Library by Mr. Joe Kroeger. Identification of the photographer was provided by Mr. Kroeger. Date: August 9, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Atomic bomb; Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945 HST Keywords: Atom bomb; Japan - Cities - Nagasaki 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 85-7引用。


8. 1945年7月25日、日本本土への原爆投下命令がだされた。その翌日26日、日本への降伏勧告のポツダム宣言が公表された。このポツダム宣言を黙殺したから、日本に原爆投下されたという俗説は、誤りである。原爆投下命令書に、ハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領の署名はなく、マンハッタン計画の軍事指揮官レスリー・グローブズLeslie R. Groves)准将が作成したものだった。原爆投下は、都市無差別爆撃の延長線上に、疑問の余地無く、遂行された。原爆投下の可否が議論されたのは,戦後になってからである。これは、原爆投下の非人道性が明らかになったためである。

写真(左):アメリカ陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas Handy大将(1918年10月-1970年);National Leadership Foundation.org:VirtualMuseum引用。
写真(右):アメリカ軍戦略爆撃航空団司令官カール・スパーツ(Carl "Tooey" Spaatz)大将 (1891年6月28日 – 1974年7月14日);1943年3月、欧州方面戦略爆撃空軍司令官(陸軍中将)として、対ドイツ爆撃を実施したカール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz)大将は、1945年3月11日、アメリカ陸軍航空隊太平洋方面戦略空軍司令官に就任。1945年7月にグアム島に司令部を設置。


陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas Handy)大将は、1944年2月8日,米陸軍参謀本部の難民非救援指示書:Memorandum for the Chief of Staff, February 8, 1944, on reassuring the British that military forces will not be used to rescue refugeesによって,難民を救援しないことを次のように指示していた。

欧州に戦禍が拡大し、難民が大量発生しても、彼らを救済することは、軍本来の職務である作戦行動に障害になる。そこで、イギリス軍と歩調を合わせて、ユダヤ人も含め難民を救援しないことを方針とした。Regarding the enclosed memorandum from the Office of the Chief of Staff dated 7 February 1944 on above subject, it appears highly desirable to communicate with the British Government offering assurance that military forces, units or individuals will not be used in rescuing refugees except insofar as these rescues may result from planned military operations conducted to defeat the Axis military.
米軍にとって,敵民間人への人道的配慮はもともと無かったのであり,原爆投下が終戦得和平に結びついたおかげで、米軍将兵、日本軍将兵、戦渦に巻き込まれ犠牲となる民間人の生命をも救った、との原爆終戦和平説の真偽は、この難民非救援措置を見ても明らかであろう。

1945年7月25日、陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas T. Handy)大将発・宛合衆国陸軍戦略航空団司令カール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz)大将への原爆投下の命令書ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB(スパーツ大将は、太平洋戦略航空軍の指揮官として、7月にグアムの本部に赴任中。)

1.第20航空軍第509混成部隊は1945年8月3日以降、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに原爆を投下すること。原爆効果確認のため、(レーダー爆撃ではなく)必ず目視爆撃をし、観測用航空機を随伴させること。
⇒筆者注:現地指揮官に、原爆の実戦効果を明確に記録することを指示したのは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説を裏付ける。

2.追加爆弾は準備完了後すみやかに上記目標に投下。
⇒筆者注:現地指揮官の判断で随時、原爆の連続投下が可能。米大統領や統合参謀本部は、米軍の威力を見せつける原爆連続使用を望んだ。このことは、原爆投下が、米世界覇権説、米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説を裏付ける。

3.原爆使用について、情報の配布は国防長官および合衆国大統領により留保される。この件に関するいかなる文書または情報の公表も、当該部局の許可なしには行なってはならない。すべての報道文を特別検閲のため国防省に送ること。
⇒筆者注:秘密兵器の原爆について、情報管理を行い、原爆投下方法も含め,原爆技術を秘匿し、他国への漏洩を防いだ。これは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。原爆投下の可否ではなく、原爆の技術に注目している点で、戦略爆撃延長説をも支持する。

ヘンリー・ルイス・スティムソン(Henry Stimson:1867- 1950);1906年、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt)の下でニューヨーク連邦検事に任命されて反トラスト法違反訴訟の検察官を務め、1910年にニューヨーク州知事の共和党候補として立候補したが落選。しかし、1911年にウィリアム・タフト(William Taft)大統領によって陸軍長官に任命、1913年まで務めた。1927年から1929年までフィリピン総督、1929年から1933年まで、ハーバート・フーバー(Herbert Hoover)大統領の下で国務長官を務めた。第二次大戦が始まりアメリカが中立を維持していた1940年7月、スティムソンは陸軍長官に復帰し1945年9月まで、第二次大戦参戦の全期間、任期を務めた。


4.以上は陸軍長官[ヘンリー・スティムソンHenry Stimson)]および合衆国参謀総長の指示と承認のもとに発せられたものである。本命令書の複写を、マッカーサーとニミッツの両陸海軍元帥に、貴官から手交すること。
⇒筆者注:太平洋戦線の陸海最高位の指揮官にすら、原爆投下の事前通告をしていない。原爆情報の集中管理は、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。戦後、ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)将軍が原爆投下を非人道的であるとして非難したが、これは、自分を無視して行われた原爆投下への反感からであり,人道的な配慮からではないだろう。朝鮮戦争の時、米軍・国連軍の前線指揮官として、ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)元帥は、中国への原爆投下を提案している。

署名 陸軍参謀総長代理 Thomas Handy 副署 Groves(マンハッタン計画の軍事指揮官レスリー・グローブズLeslie R. Groves)准将の副署) 

⇒筆者注:原爆投下命令書には、ハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領の署名はない。陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas T. Handy)大将の署名だけで十分だったのは、原爆投下自体、議論の末に行われたことではないことを示している。将軍の最低ランクのレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将が作成しているが、マンハッタン計画にかかわった軍事指揮官の影響力がつよければ、20億ドルを投じた原子爆弾を使用しないで済ませるはずがない。これは、原爆投下の理由が、米新兵器実験説,米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説であることを裏付ける。


原爆は当初から、どこに、どのように投下するかだけが議論されていた。投下の是非をめぐる議論はなかった。原爆の仕組みや開発の実態について、全体像を把握していた人物は限られていた。秘密兵器原爆を手中に収めていたマンハッタン計画の軍事指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将、資金や兵士の動員を担当してきたヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官、外交を担うジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)国務長官の影響力は、原爆投下準備を進めるに当たって絶大である。

1945年7月25日のハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領の日記には、女子供への被害を少なくするように、軍事目標に投下するように言ってある、との記載がある。原爆投下される日本人が被る苦しみについて、軍事に暗い大統領は、原爆被害との関連で、投下が意味することを把握できなかったようだ。大統領が原爆投下に大きな役割を果たしておらず、部下たちの提案を承認しているだけ----という印象を受ける。未知の兵器原爆について、その仕組みはもちろん,世界への影響について、米大統領も,日本の軍事的指導者,大政治家もみな理解できなかったとしても無理はない。マンハッタン計画の軍事指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将,ジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)国務長官,ヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官の原爆投下にかかわる役割が傑出しているのは,その原爆のもつ破壊力と政治的影響を理解できたからであろう。 

1945年7月25日、原爆投下命令書;ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB Handy to Spaatz, National Archives (July 25, 1945)

25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces

1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. To carry military and civilian scientific personnel from the War Department to observe and record the effects of the explosion of the bomb, additional aircraft will accompany the airplane carrying the bomb. The observing planes will stay several miles distant from the point of impact of the bomb.

2. Additional bombs will be delivered on the above targets as soon as made ready by the project staff. Further instructions will be issued concerning targets other than those listed above.

3. Discussion of any and all information concerning the use of the weapon against Japan is reserved to the Secretary of War and the President of the United States. No communiques on the subject or releases of information will be issued by Commanders in the field without specific prior authority. Any news stories will be sent to the War Department for specific clearance.

4. The foregoing directive is issued to you by direction and with the approval of the Secretary of War and of the Chief of Staff, USA. It is desired that you personally deliver one copy of this directive to General MacArthur and one copy to Admiral Nimitz for their information.

(Sgd) THOS. T. HANDY
THOS. T. HANDY
General, G.S.C.
Acting Chief of Staff
copy for General Groves ( Truman and the Bomb, a Documentary History引用。)


写真(右):広島に原子爆弾投下し帰還したB-29「エノラ・ゲイ」機長ポール・ティベッツ大佐とヴァン・カーク少佐;少佐と大佐の二人のサイン入りのカラー写真は、帰還を待ち構えていた米軍の撮影。大歓迎会を行った。Color Photo of Col. Paul Tibbets and Maj. "Dutch" Van Kirk Upon Returning From the Hiroshima MissionThe Joseph Papalia CollectionThe Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc. 引用。

1945年7月26日、ポツダム宣言。
1945年8月6日、重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」が広島に原爆投下。原爆投下の可否など公に議論されたことなどない。原爆をどこにどのように投下するかが議論され、それがハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領に報告されただけである。原爆投下の決定は、ハンディ参謀総長代理がマンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves)准将の作成した命令書で決定していた。

写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム、オープニングセッションの最中のポツダム会談:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談の始まる直前、1945年7月16日17時過ぎ、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、世界初の核実験コードネーム「トリニティ」ニューメキシコ州のアラモゴードAlamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティTHE TRINITY TEST)が成功した。この知らせは、アメリカに残ったスチムソン陸軍長官から、ポツダムのトルーマン大統領に伝えられた。トルーマンは、翌日7月18日、驚異的な破壊力を持つ爆弾を持っていることをスターリンに話した。
Opening session of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. President Harry S. Truman is seated foreground (back to camera). Soviet Prime Minister Josef Stalin is at right. British Prime Minister Winston Churchill is at left. Secretary of State James Byrnes is seated to the right of President Truman. Admiral William Leahy is seated two to the right of President Truman. British foreign minister Anthony Eden is to the left of Winston Churchill. Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov is to the left of Prime Minister Stalin. From Potsdam album, 1945. Date: July 17, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-29引用。


写真(右):1945年7月17日、ポツダム会談に参加したソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストンチャーチル。後にイギリス総選挙で勝利した労働党のクレメント・アトリー首相に交替。ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)は、1924年のレーニン死後、ソ連共産党書記長として、権力を集中して、一国社会主義を標榜しつつ、コミンテルンを通じて、世界各国に共産主義革命を起こそうとした。独ソ戦が勃発し、アメリカから武器貸与法によって軍事援助を受け入れ、国際協調が必要となると、国内向けの「書記長」の地位に加えて1953年に死亡するまで「首相」に就任。国家元首としての肩書を明確にした。
Description: Joseph Stalin, Harry S. Truman and Winston Churchill are photographed together for the first time just before the opening of the Big Three Conference at Potsdam. Same as 63-1455-26. From: Papers of Charles G. Ross; 12x18 Metal album with letters CGR. Date: July 17, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 96-21引用。


写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたメモが、この写真の裏にある。:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴードAlamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティTRINITY TEST)が成功した。
Crowded Meeting Room at The Potsdam Conference Description: Prior to start of "Big Three" conference in an elaborate estate in the Potsdam area, U. S. Army Signal Corps and Russian Army photographers record the historic moment for the world to see. In top center can be seen the "Big Three", President Harry S. Truman, Josef Stalin, and Winston Churchi1l, all with backs to camera. Inscribed on back of photo: "This is the place I told Stalin about the Atom bomb, which was exploded July 16, 1945 in New Mexico. He didn't realize what I was talking about! HST" Date: July 17, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Atomic bomb; Potsdam Conference, 1945; Presidents; Prime ministers; United States-Soviet relations; World War, 1939-1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 62-769引用。


写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたことのメモ:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴードAlamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティTHE TRINITY TEST)が成功した。
Description: On the back of the photo of President Harry S. Truman, Winston Churchill, and Joseph Stalin at the Potsdam Conference, Truman wrote the following: "This is the place I told Stalin about the Atom Bomb, which was exploded July 16, 1945 in New Mexico. He didn't realize what I was talking about! HST". Date: July 17, 1945 ARC Keywords: Atomic bomb; Autographs; Potsdam Conference, 1945 HST Keywords: Atom Bomb - Reference To; Truman - Autograph - Actual Handwriting 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 62-769a引用。


1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴード、世界初の核実験コードネームトリニティTRINITY)が行われ、爆発実験は大成功だった。ポツダム会談は、アメリカがロスアラモスで開発した原子爆弾の爆発実験「トリニティ」をまって開催されのである。アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)に優越感を抱いて、原子爆弾の爆発実験成功について、次のように告げたようだ。

"This is the place I told Stalin about the Atom Bomb, which was exploded July 16, 1945 in New Mexico. He didn't realize what I was talking about。HST”
この(ポツダムの)場で、私(トルーマン大統領)は、7月16日、ニューメキシコ州で爆発に成功した原子爆弾について、スターリン(ソ連首相)に話した。彼は、私が何について話したのか、理解できなかったようだ!ハリー・S・トルーマン。

写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えた。そのメモがこの写真の裏にある。:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴードAlamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティTRINITY TEST)が成功した。
Stalin shaking hands with Byrnes at Potsdam Conference. Description: Delegates of the Potsdam Conference in Germany prepare to leave the conference room at Cecilienhof Palace, as photographers and newsreel cameramen gather on staircase. Soviet Prime Minister Josef Stalin talks to Secretary of State James Byrnes and President Harry S. Truman (back to camera). Vyacheslav Molotov, V. N. Pavlov are also present. British Prime Minister is standing behind Stalin, partly obscured. General Harry Vaughan is standing, third from the right. See also 62-769 and 62-769A for negatives. From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-46引用。


写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたことのメモ:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴードAlamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティTHE TRINITY TEST)が成功した。
Truman's handwriting on the back of a Potsdam photograph describing telling Stalin about the atomic bomb. Description: Harry S. Truman's handwriting on the back of a photograph of the Potsdam Conference area, accession number 63-1456-46: "In which I tell Stalin we expect to drop the most powerful explosive ever made on the Japanese. He smiled and said he appreciated my telling him--but he did not know what I was talking about--the Atomic Bomb! HST". See also 62-769 and 769A for negatives." From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-46A引用。


1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴード、世界初の核実験コードネームトリニティTRINITY)が行われ、爆発実験は大成功だった。ポツダム会談は、アメリカがロスアラモスで開発した原子爆弾の爆発実験「トリニティ」を待って開催されのである。翌7月17日(この写真では19日、他の写真では17日)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)に対して、驚異的な破壊力の爆弾を開発したと、次のように優越感に震えながら告げたようだ。

"In which I tell Stalin we expect to drop the most powerful explosive ever made on the Japanese. He smiled and said he appreciated my telling him--but he did not know what I was talking about--the Atomic Bomb! HST”

この(ポツダム会場)の中で、私(トルーマン大統領)は、(7月17日)日本に対して最大級の爆発力を持つ爆弾を投下するだろうと、スターリン(ソ連首相)に話した。彼は、笑って私が隠さず言ってくれて感謝するといった------しかし彼は何について話したのか、それは原子爆弾なのだが、分からなかったようだ!ハリー・S・トルーマン。

 しかし、ソ連首相ヨシフ・スターリンは、ロスアラモスやイギリスにいたソ連のスパイから、アメリカ軍の原爆開発が完成まじかなことを知っていたし、原爆の破壊力についても聞いていた。実際、ソ連でも原爆も開発が徐々に進んでいたのである。原爆について、関心ないそぶりを見せたのは、ソ連が原爆を恐れる、アメリカの軍事力に対抗できないといった懸念を一切表に出さないためであろう。スターリンは、このトルーマンの言葉をポーカーフェイスで聞いたが、内心ではソ連も原子爆弾を早急に完成させなければならないと決意したであろう。

写真(右):1945年7月17日から8月2日、ドイツ降伏後のベルリン郊外ポツダム、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、ソビエト連邦駐アメリカ大使アンドレイ・グロムイコ(Andrei Gromyko)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov):アメリカ海軍参謀総長レーヒ(William D. Leahy)提督, イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)も参加した。サウスカロライナ州の貧しい母子家庭出身のジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)は、独学で法律を学び、上院議員に当選。インフラ整備や教育に力を入れ、州知事に当選。その後、第二次大戦が勃発すると、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、戦時動員局長に就任し、当初から原爆開発、マンハッタン計画に深く関与した。ルーズベルトの死後、弟子のハリー・トルーマンが大統領に就任すると、1945年7月には、ハルの跡を継いで、国務長官に抜擢された。外交では冷徹な反共産主義者だったが、故郷では教育や福祉に尽力していまだに高名な政治家である。
7月26日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言Potsdam Declaration)が表明された。Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945 Description: Group photograph of the Big Three heads of government at Potsdam, Germany, circa 28 July 1 August 1945. Those present are (from left to right): British Prime Minister Clement Atlee; U.S. President Harry S. Truman; Soviet Premier Joseph Stalin. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1861
写真は、 Harry S. Truman Library & Museumおよび Wikimedia Commons, Potsdam Conference Potsdam ConferencePotsdam conference 1945-4.jpg引用。


トルーマン大統領の1945年7月25日の日記Harry S. Truman, Diary, July 25, 1945
We met at 11 A.M. today. That is Stalin, Churchill, and the U.S. President. But I had a most important session with Lord Mountbatten and General Marshall before that.
We have discovered the most terrible bomb in the history of the world. It may be the fire destruction prophesied in the Euphrates Valley Era, after Noah and his fabulous Ark.(我々は歴史上最も恐ろしい爆弾を手に入れた。それは、ノアが箱舟に乗り込んだとき、ユーフラテス川流域で起きた業火のようだ。)
<中略>
This weapon is to be used against Japan between now and August 10th. I have told the Sec. of War, Mr. Stimson, to use it so that military objectives and soldiers and sailors are the target and not women and children. Even if the Japs are savages, ruthless, merciless and fanatic, we as the leader of the world for the common welfare cannot drop that terrible bomb on the old capital or the new. (この兵器は8月10日までに日本に対して使用される。ヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官には、女子供ではなく軍事目標と兵士・水兵を目標に狙えと言ってある。喩えジャップが野蛮人、無慈悲、冷酷で狂信的だったとしても、我々は世界のリーダーとして、共有すべき福利を尊ぶから、古都や東京に原爆を投下することはできない。)

He and I are in accord. The target will be a purely military one and we will issue a warning statement asking the Japs to surrender and save lives. I'm sure they will not do that, but we will have given them the chance. It is certainly a good thing for the world that Hitler's crowd or Stalin's did not discover this atomic bomb. It seems to be the most terrible thing ever discovered, but it can be made the most useful...(目標は純軍事的なものであり、日本に降伏するように勧告もしよう。彼らは降伏しないはずだが、我々は彼らに機会を与えてやったことにはなる。ヒトラーとスターリンが原爆を開発してないことは、世界にとって喜ばしい。これは、発見された中で最も悲惨なものであるが、最も役に立つものでもある-----)
(引用終わり)

写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日のビッグスリー、前列右から白軍服のソ連首相スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、左端下がイギリス新首相クレメント・アトリー。後列で指導者の後ろに立つのが、右からソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:労働党員アーネスト・ベヴィンは、イギリスの労働組合の代表でTGWUの書記長を1922年から1940年まで務めた現場のベテラン政治家。戦時内閣ではチャーチル首相の下で労働大臣に就任。ストライキを抑え戦時動員に協力した。労働党アトリー首相の下で1951年まで外務大臣を歴任。アメリカのマーシャルプランの積極的受け入れを進める一方で、インド、中東などの植民地独立を認めた。反共産産主義者として、北大西洋条約機構(NATO)の創設に加わった。
Description: Leaders of the Big Three Allied nations pose for photographers at the Potsdam Conference. Front row, seated in wicker chairs, left to right: Prime Minister Clement Attlee, President Harry S. Truman, General Joseph Stalin. Back row, left to right: Admiral William Leahy, Ernest Bevin, Secretary of State James F. Byrnes, and Vyacheslav Molotov. Date: August 1, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Bevin, Ernest, 1881-1951; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 64-398引用。


日本の俗説では、1945年7月26日ポツダム宣言(Potsdam Declaration)を大日本帝国の鈴木貫太郎(1868〜1948)首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとされる。しかし、鈴木貫太郎首相が、7月27日ポツダム宣言黙殺を世界に発表したから、原爆が投下されたとする「ポツダム宣言黙殺説」は誤りである。鈴木首相のポツダム宣言>(Potsdam Declaration)の黙殺発表は、降伏しない、徹底抗戦するという内閣組閣当初からの方針を述べただけで、鈴木貫太郎首相が終戦のために組閣されたという俗説の誤りを証明することにはなる。昭和天皇の侍従長を務めた鈴木貫太郎首相は、大元帥昭和天皇の意に沿うことのみ考え、和平(降伏)か徹底抗戦かを、天皇も決断しかねている中で自ら判断していたはずがない。

 しかし、鈴木貫太郎首相のポツダム宣言黙殺発言をする以前から、米国は日本に原爆を投下することを決定していた。それも、 ハリー・トルーマンHarry S.Truman)大統領の主導ではなく、マンハッタン計画の軍事指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の作成した命令書によってである。トルーマン大統領も、日本がポツダム宣言を受諾しないと考え、軍事目標に対して原爆を8月10日までに投下することを決めていた。対ソ戦略を有利にするために使用したのである。

写真(右):1945年8月7日、ポツダム会談が終了し、アメリカ海軍巡洋艦「オーガスタ」でワシントンDC東、チェサピーク湾に帰着したアメリカ大統領ハリー・トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ、報道官・ジャーナリストのチャールズ・ロス(Charlie Ross:1885-1950)、政治顧問・法律家ジェームズ・ワルドマン(James K. Vardaman Jr:1894-1972)海軍大尉ほかアメリカ代表団:重巡オーガスタは、1941年8月9日、大西洋会談に際して、イギリス首相チャーチルの御召艦・戦艦プリンス・オブ・ウェールズとニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地で会合。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレーOmar Nelson Bradley)中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談に向かうトルーマン大統領らを乗せて、ベルギーに向けて出航、7月14日にアントワープ港に到着。1945年8月2日、イギリス、プリマス港でポツダム会談から帰ってきたトルーマン大統領を乗せ、8月7日、アメリカ東部、ワシントンDC東のチェサピーク湾に到着。President Harry S. Truman and members of his party aboard the USS Augusta as the ship entered Chesapeke Bay, returning President Truman from the Potsdam Conference in Germany. Front row, left to right: unidentified man; two unidentified military personnel; Captain James Vardaman; Press Secretary Charles Ross; Secretary of State James Byrnes; President Truman; Admiral William D. Leahy. All others are unidentified. From the album President's trip to the Berlin Conference, vol. 2 of 2. Date: August 7, 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-48引用。

POTSDAM AND THE FINAL DECISION TO USE THE BOMB Potsdam, Germany (July 1945)は、次のように述べている。: A directive (right), written by Leslie Groves, approved by President Truman, and issued by Secretary of War Henry Stimson and General of the Army George Marshall, ordered the Army Air Force's 509th Composite Group to attack Hiroshima, Kokura, Niigata, or Nagasaki (in that order of preference) as soon after August 3 as weather permitted. No further authorization was needed for subsequent atomic attacks. Additional bombs were to be delivered as soon as they became available, against whatever Japanese cities remained on the target list.

1945年7月16日、ニューメキシコ州・アラモゴードAlamogordo)で世界初の核実験コードネーム「トリニティ」が行われた。爆弾コードネーム「ガジェット」で、長崎に投下された「ファットマン」と同じプルトニウム型原爆であった。「トリニティ」は、原爆爆発失敗という大失態を回避するために必要であったが,1945年7月16日の実験成功から、実戦配備を行ったため、原爆投下が可能な期日は、1945年8月上旬となった。配備して直ぐに原爆投下に出撃した。

1945年8月6日0245(現地時間):日本本土に向けて、第509混成部隊の重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイ」は、テニアン島ノースフィールド基地を離陸。2分間隔で、2機の観測機のB-29も後を続く。
1945年8月6日0815:31600フィートから重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイ」が原子爆弾を広島に投下。50秒後に爆発。市街の80%を破壊し、7万1,000任意上を殺戮。
1945年8月6日1458:重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」テニアン島に帰還。1時間以内に2の観測機も帰還。

写真(右):1945年4月13日、原爆を投下する前の広島。範囲内の被害効果を検証するアメリカ軍撮影の空中偵察写真:四角い堀に囲まれたや太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが識別できる。広島城には、中国軍管区司令部(防空作戦室)があった。1945年1月、広島の留守第五師団は福岡の西部軍管に組みこまれ、中国軍管区司令部と改称され、広島城の第五師団司令部は無くなっていた。しかし、戦争末期のことであり、広島県民にとって、広島城では、依然として第五師団司令部の名称で認識されている。
[Pre-attack mosaic view of Hiroshima, Japan.] National Archives Identifier: 540225 Local Identifier: 243-HP-1(3) Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent) From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947 Record Group 243: Records of the U.S. Strategic Bombing Survey, 1928 - 1947 This item was produced or created:4/13/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 540225引用。


写真(右):1945年8月11日、原爆を投下した後の広島。範囲内の被害効果を検証するアメリカ軍撮影の空中偵察写真:旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)は、原爆の爆風圧と熱線であとかたもなく消滅してしまったが、その一角の半地下式壕の防衛司令室 (通信室) は焼失をまぬがれた。この通信壕にあった情報室には当時、学徒動員の比治山高等女学校三年の生徒90人が24時間三交代制で勤務していた。ここには半地下式の防空作戦室で軍人、軍属に混じって学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆が投下され、市内の電信電話が破壊されたものの、旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)の軍事専用電話は残っており、それを使って女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。
[Post-attack mosaic view of Hiroshima, Japan.] National Archives Identifier: 540226 Local Identifier: 243-HP-1(4) Creator(s): War Department. U.S. Strategic Bombing Survey. Pacific Survey. Physical Damage Division. 9/1945-4/1946 (Most Recent)
From: Series: Photographs Used In The Report Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima, Japan, 1947 - 1947 Record Group 243: Records of the U.S. Strategic Bombing Survey, 1928 - 1947 This item was produced or created:8/11/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 540225引用。


写真(右):1945年9月、原爆を投下され焦土となった広島と立ち尽くす日本兵:広島市内には、太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが幾筋もの川が流れている。原爆ドームは平和公園とは元安川で分かれており、灯篭流しなど原爆の日に関するイベントは、元安川を中心に開催される。 東岸の土手も平和大通まで整備され、春は花見客が両岸にあふれ、夏はストリートアクターで賑わう。この中心が、元安橋の袂、東岸である。原爆ドームは、建設当は広島県物産陳列館として、1915(大正4)年4月5日に竣工、建立者は広島県であるが、1953年に広島市へ譲渡された。設計者は、チェコ出身の建築家ヤン・レツル。地上3階一部5階建て、レンガと鉄筋コンクリートの構造で、モルタル仕上げ、玄関部分は石造り。広島県物産陳列館は、第1階は主に事務用、第2階・3階が陳列用の広島県物産品の販売の商業施設で、ヨーロッパ風の豪華な建物は、物産品の展示・販売だけでなく、博物館・美術館としての役割も担っていた。その後、1921年に広島県立商品陳列所、1933年に広島県産業奨励館と名称が変更されている。戦争末期1944年3月、産業奨励館の業務はなくなり、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材・日本木材広島支社などの物資統制・業界統制のための事務所として使用されていた。原爆の投下で大破、全焼し、建物にいた30名余は全員死亡と思われる。爆風が真上から作用したためか、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠も燃え残った。その形状から、占領後になって「原爆ドーム」という名称が普及した。
Title: Hiroshima, Japan Caption: A Japanese soldier walks through the atomic-bomb leveled city, September 1945. Photographed by Lieutenant Wayne Miller, USNR. Catalog #: 80-G-473733 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Photograph by Lieutenant Wayne Miller, USNR.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-473733 Hiroshima, Japan引用。


1945年8月7日1530,大本営発表「1. 昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
2. 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」


写真(左):「原子爆弾」投下を報じる「共同新聞」(毎日・読売・朝日などが統一されたもの);投下直後に原子爆弾と判明しており、それが記事になったが、すぐに「新型爆弾」と記述するように変更された。朝日・毎日など主要新聞は統一され、紙数も少なかった。終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」引用。
新聞第一報は、新型爆弾ではなく原子爆弾として、報じているのは、日本軍も原爆開発をしていたから、容易に識別できたという証拠である。ただし、原爆が戦後冷戦にもたらす戦略y的影響には思い至っていない。なにしろ、戦後=日本降伏を正面から分析する組織は一切なかった。「全軍特攻化」「一億総特攻」への組織的取り組みに忙しかった。


終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳「原子爆弾」には、次の記述がある。
 広島に投下された原子爆弾は、かなり大きいニュースとして受け取られました。---原子爆弾」はすぐ「新型爆弾」と呼ぶように訂正されました。新聞にそう書かれ、学校からも、そんな通達が出されました。
 新聞記事(「惨禍の広島市」「原子爆弾の解剖−強烈な赤外線作用 爆弾ではない落下傘つき物体 激甚な爆風に被害甚大])を限り、新型爆弾は強い輻射熱を発するとされてあるものの、放射能については殆ど触れられていません。最後に僅かに付記されている程度です。これは、意図的に放射能の被害には言及を避けたとみるべきです。言及を避けたその事が原子爆弾の恐ろしさを物語っています。然し、当局では原子爆弾がどのような構造でいかなる性能を持った爆弾であるか、かなりの知識は持っていた事でしょう。
 対策として列記されているのは[輻射線(紫外線を主とし熱線及び可視線が伴ふ)による火傷効果が大きく爆風破壊も従来の爆弾に比し甚大であるから、特別の警戒が必要である。.....そのためには------白い服を着る。なるべくメガネをかける。曇天又は雨天の日は輻射線は減少するが晴天の日には充分注意する。中空に閃光を認めた時は伏せる。防空壕は在来のものでよい。火傷の療法は一般の火傷と全く同じだから動植物油を二倍か三倍に薄めそれを常に携帯する事。..]これですべてです。
  長崎に投下された原子爆弾(「長崎にも新型爆弾−相当数の家屋倒壊 死傷」)についての記事は、そのあまりの小さいのに改めて驚きます。当局の情報操作による作為が見え見えの大きさです。

写真(右):ウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」;原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」機長ティベッツ大佐の署名入りの写真。Signed Photo of the "Little Boy" Uranium Bomb 長距離重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」によって、1945年8月6日0815、広島に原爆を投下。ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。「リトルボーイ」は、長崎に投下された「ファットマン」(長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t)より、若干小型である。The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc.引用。

1944年7月当時の戦記小説に原爆が登場していたくらいであるから、新聞記者も「原爆投下」の事実を知ったのかもしれない。あるいは、軍が米国に自らの科学的知見を表明しておくために、原爆と表現させたのかもしれない。

 原爆かどうかを調べるために、海軍の呉鎮守府調査隊が1945年8月7日に広島入りし、未使用のエックス線フィルムが感光していたことなどから「ウラン爆弾と推定できる」と8日付で報告した。また、京都帝国大荒勝文策教授を中心とした調査団6人は海軍の要請を受け、1945年8月10日、広島に入った。そして、海軍の調査団と合流し、8月14日までに計二回、土壌調査を実施。8月15日付で海軍技術研究所に「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンケツス」の緊急電報を発信。受け取った海軍は「新爆弾ハ原子核爆弾ト判明ス」の一文を電報に書き込んだ。(⇒中国新聞'05/7/24「被爆9日後の電報」引用)

日本の軍部・政治的指導者は、原爆の威力の一端を認識したが、被害は、他の諸都市への無差別爆撃と同じく「広島市が焦土化した」に過ぎない。原爆を特別視することはなかった。連敗続きで一億特攻を呼号する軍部・政治的指導者は、日本の諸都市が焦土となることを受入れており,原爆の威力に怯えて,降伏することはありえない。

  原子爆弾は,中性子をぶつけ原子核を分裂させる原子核分裂によって、結合エネルギーを外部に大量放出する爆弾である。

重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」によって広島に投下されたウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」は、ウラン235を用いた原爆で、長さ3.05m,直径71cm,重量4.1t。爆発は,ガンバレル方式で、ウランを半球に二分して、爆弾筒の両端に設置して、投下時に起爆装置を使って片方を移動させて合体させることで、超臨界に達せさせる。

長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」は、長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。爆発はインプロージョン方式で、プルトニウムを球形に配置し、その外側に並べた火薬の爆発によって位相の揃った衝撃波を与え、プルトニウムを一瞬で均等に圧縮し超臨界にいたる。

原爆が爆発するためには、核分裂によって生まれた中性子が次の原子核に吸収され、連鎖反応を起こすことが必要で,連鎖反応が起きる核分裂物質の最小量(臨界量)は、ウランの場合は90%以上の高濃縮ウラン235が15kg、プルトニウムの場合も94%以上のプルトニウム239が5kgは必要とされる。


写真(上左):1945年,広島で原子爆弾に被爆した女子挺身隊(勤労奉仕隊):識別コード:SA152-1 陸軍船舶司令部写真班撮影
:陸軍船舶司令部は、中国大陸や南方への輸送の要であった宇品港が主活動の場であったが、宇品向かいの似島にも検疫所があった。写真(上右):1945年8月7日、似島検疫所に横たえられた被爆者:識別コード SA003-1:尾糠政美氏撮影;尾糠氏は8月7日に広島湾宇品港沖に浮かぶ似島(にのしま)検疫所に入り、軍医の指示で撮影。似島には野戦病院が開設され、8月6日午前中から次々と船で負傷者が運ばれた。応急手当とクレゾール入浴を施された。6日に運び込まれた患者は約2000人、軍医以下80人の衛生部員が救護に当たった。通常1000人の収容能力を持つ検疫所付属病院は、1日3000人から9000人の患者を扱った。このような尾糠政美氏の写真は、米軍の占領・検閲が終わり、『アサヒグラフ』1952年8月6日号に、撮影者の氏名なしに掲載されたという。広島平和記念資料館「平和データベース」引用。軍事技術の粋を集めたボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイEnola Gay」、原子爆弾、そして、優秀な科学者、訓練された搭乗員、有能な指揮官,世界情勢を考える大物政治家が、原爆を開発、投下を決断・実行した。写真は2枚とも広島平和記念資料館の許可を得て掲載。


写真(右):1945年8月6日午前11時ごろ、原爆投下から3時間後、広島爆心地2.3kmの御幸橋(みゆきばし)付近を避難する人々:連合国軍総司令部(GHQ)が新聞用紙の割り当てなどで新興紙育成を図る中「夕刊ひろしま」は1946年6月1日、中国新聞を親会社とする独立経営の夕刊紙として創刊された。当時の部数は三万部。7月6日号に御幸橋の写真を新聞に初めて掲載した。1952年9月29日発行の『ライフ』にスクープとして公開された。アメリカ軍は、戦後進駐してきてから、日本側が撮影した原爆被害の写真を探し出して没収していた。こうして、冷戦の中で、核抑止力が強調され多数の核兵器が製造されるようになる。撮影者:松重美人氏。三角襟のセーラー服の後ろ姿は、広島商業学校2年生13歳の女子学生、貯金局で勤労動員中に被爆。閃光、爆風で気を失った。その後、友達を庇って、400メートル南の御幸橋まで避難してきた。細かなガラスの破片が体に刺さっていたが、目の前の重症の友人が気がかりで痛みは感じなかった。人々は、熱線や火災でやけどを負った体に順番に食用油(足元の缶)を塗った。しかし、多数の負傷者がいたために、食用油はすぐに空になった。負傷者たちは、治療してもらえる場所を求めて彷徨った。後方には、力尽きて倒れたままの重傷者も映っている。黒こげになった赤ちゃんを抱えて声を上げる女性、「ここで死ぬ」と寂しく情けない思いで自分の名前を書いた20歳の広島工業専門学校男子学生もいた。爆心地は3000度の高温となり、熱線による原爆特有のやけど、腫れができたが、これが主な死因になった。右の女性は、服が破れたように見えるが、実は、やけどで剥がれた皮膚である。これが、皮膚の水分が一瞬で蒸発してできたフラッシュ・バーンという特殊な原爆やけどで、後日、アメリカ軍の現地調査で明らかになった。広島商業学校の女性が父親に声をかけて、腕をつかんだとき、皮膚の皮が剥がれ、父親は声を上げて「痛い、触るな」と叫んだ。フラッシュ・バーンによって、人々は痛みや渇きに苦しんでいた。皮膚が擦れると痛みがはしるので、腕が擦れないように、手を上げるようにして歩いていた。皮膚が垂れ下がっていた。やけどで苦しんだ人の中には、川の中に飛び込んだ者も少なくない。御幸橋より北の爆心地周辺は、火災のために立ち入ることはできなかった。軍のトラックがやってきて、救助活動が行われたが、負傷者が多すぎたために、労働力となる若い男性、戦争に役に立つ人材を優先して救助していたという。この写真に写っているのは、セーラー服姿の中学生が多数ある。勤労動員された13歳程度の女子・男子は、爆心地から2キロ以内にも8000人もあった。爆心地から1キロの広島第一中学校の中学生は、勤労動員中に校舎で被爆した。倒壊した建物の下敷きになった学生たちは、校歌を合唱したが、火災のため生き残りは、そのまま立ち去るしかなかった。第三国民学校(小学校)高等科2年生13歳の女子学生は、爆心地から800メートルの屋外で作業していた。大やけどを負っても歩けた者は避難を始めたが、途中で動けなくなってしまう女子学生もいた。座り込んで、水が欲しいと訴える友達に水を捜してきたが、口を自分で開けることができなかった。膨れた唇を手で開けて水を飲ませた。自分の体を引き摺って歩くのが精いっぱいの女子学生は、動けなくなった友人を、連れて行きたかった。しかし、「連絡してあげるから」と言って、置き去りにせざるを得なかった。勤労動員されていた若者8000人のうち7割が亡くなった。原爆投下の当日(8/6)の死亡者の年齢階層は、12歳が1600人、13歳が1800人で最も多い。写真に写っている同級生の少女は、原爆症で差別されることを恐れて、名乗り出ていない。生かされた人は、原爆のことを伝えるために生かされたとも考えている。20歳の時に被爆して、自らの体験を、若者に語り伝えている男性もいる。炎で焼かれて深く抉られた背中を背負って語り続けている。現在の御幸橋の袂には、この写真が展示されている。(出所は、NHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」2015年8月6日放送)中国新聞 2001被爆者の伝言引用。A-bomb sufferers who have escaped to Miyuki Bridge (about 2km. from the explosion center) 。

原子爆弾による被災によって健康に障害をもたらす原爆症が出ることが多い。これには、’線による創傷・熱戦による火傷、∧射線による急性放射線障害、J射線による晩発性障害(白血病、白内障、瘢痕性萎縮など)がある。

写真(右):プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」;1945年8月9日、第20航空軍第509構成部隊のボーイングB-29Bockscar”によって、長崎に投下された。プルトニウム239を用いた原爆で長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。プルトニウム239を用いた原爆「ファットマン」は1発で、2万トンの高性能爆薬と同じ破壊力を持っている。B-29爆撃機の爆弾搭載量は、最大10トン程度であるから、B-29爆撃機1機が搭載する原爆1発の威力は、B-29 爆撃機2000機が搭載する爆弾の総量に匹敵するといえる。Raymond L Martin;Tinian Island 引用。

史跡探訪:長崎原爆資料館チャールズ W.スゥイーニー(1997)黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(原書房)
「午前2時56分(現地時間)、ボックスカーは十三名の乗員を乗せテニアン島A滑走路を離陸した。7時45分、屋久島上空9000mで随伴機一機と会合し、先発した気象観測機から第一目標の 北九州・小倉は快晴が期待できるとの報告を得て、予定通り小倉に原爆を投下することとした。ところが爆撃行程に入って、小倉上空には前夜の八幡攻撃で発生した大量の煙が流れ込んで目標を視認できなかった。ボックスカーは 爆撃行程を3回繰り返したが目視攻撃ができず、その上高射砲や戦闘機の迎撃が激しくなったので、あきらめて第二目標の長崎に向かった。」
長崎には高度9000mで北西方向から進入。1800〜2500mの間が80〜90%積雲に覆われていた。レーダー爆撃を決心したが、投下寸前に雲の隙間から地上が現れたので、11時1分、原爆を投下。予定照準点から3km北の地点であった。投下後、直ちに急降下しつつ左へ急旋回し、北東へ向け全力で離脱。爆発の衝撃波を避けた後、旋回しつつ観測を続け、沖縄に向け南下。

写真(右):長崎に原爆を投下したB-29「ボックスカー」Bockscar(戦後の復元)搭乗員は機長チャールズ・スウィニーCharles W. Sweeney:Pilot)、J. Koharek、A. Dehart、E. Buckley、K. Beahan、R. Gallagher、J. van Pelt、C. Albury、A. Spitzer。

重さ4.5トンのプルトニウム爆弾「ファットマン」は高度580mで確実に炸裂するよう四種類の信管各二個が取り付けていた。時限信管は投下四十三秒後、気圧信管は気圧高度五百八十メートルで、近接信管は地上580mからのレーダーエコーで、着発信管は地上に衝突したときに作動するよう設定されていた。その作動性を確認する投下試験に出発の僅か24時間前に成功するという綱渡りを続けてきた。
巨大な爆弾(パンプキン)をB-29の弾倉から投下し急旋回して離脱する訓練をしたあと、実際に爆薬入りのパンプキン(1万ポンド爆弾)を日本の諸都市に投下する経験を積んで本番に備えた。」(チャールズ W.スゥイーニー(1997)黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(原書房)引用おわり)。

写真(右):長崎に原子爆弾投下し帰還したボーイングB-29爆撃機「ボックスカー」(Bockscar)機長チャールズ・スウィニー少佐(Maj. Charles Sweeney, Pilot of Bockscar) ;サイン入りのカラー写真。テニアン島では、原爆投下を成功させたボックスカー帰還を待ち構えていたが、「ボックスカー」は燃料不足のため、テニアン島基地には戻らず、予定を変更して、沖縄本島の読谷飛行場に着陸した。
長距離重爆撃機ボーイングB-29Bockscar”機長チャールズ・スウィニーCharles W. Sweeney)少佐がナガサキ上空で雲の切れ目を見つけ、原爆を目視投下したとの虚言を使ったのは、レーダー爆撃では命令違反となってしまうためだった。原爆投下という至高の命令を実施するために小倉上空まで飛び、雲で目標視認できず、長崎に向かった。ここでも、目標は視認できず、燃料不足から、沖縄に向かうしかない状況だった。このまま原爆を投下せずに帰投すれば、この次の投下命令は、違う搭乗員に命じられる。したがって、自分が英雄になるためには、何としても原爆を投下するしかなかった。そのために、雲の切れ目が見つかり、すかさず投下したと嘘をついた。 雲の切れ間に目標を発見したとして、すかさず原爆を投下できるわけがない。投下には進路・速度・高度などを割り出す必要があるり、雲の切れ目が目標に最適な投下地点だったという僥倖だったとしても、このことはすぐにはわからないのだから。自分たちクルーが英雄になることに比較すれば、レーダー爆撃は許される方便だった。
戦後退役軍人会を主導し、戦後50年(1995年) スミソニアン航空宇宙博物館The Joseph Papalia CollectionThe Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc. 引用。


写真(右):1945年8月9日に原爆を投下された長崎で、路面電車の石畳を通って避難する人々
[Survivors moving along the road after the atomic bombing of Nagasaki, Japan.] National Archives Identifier: 558581 Local Identifier: 434-OR-75(2) Creator(s): Department of Energy. Office of Public Affairs. 10/1/1977-1985 ? (Most Recent) From: Series: Photographs of Construction, Facilities, and Community Life at Oak Ridge and Other Manhattan Project Sites, 1943 - 1946 Record Group 434: General Records of the Department of Energy, 1915 - 2007 This item was produced or created: 8/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 558581 NAIL Control Number: NWDNS-434-OR-75(2) 引用。


1945年8月9日1102:長距離重爆撃機ボーイングB-29Bockscar”によって長崎市に原子爆弾「ファットマン」が投下されたのは広島の3日後。第一目標が八幡製鉄所に近い小倉市、第二目標が長崎市、そのほか福岡市、佐世保市のいずれかであった。しかし、福岡と佐世保は1945年6月に爆撃済みで、第一発目の大成功を聞き及んでいた長距離重爆撃機ボーイングB-29Bockscar”機長スウィニー(Charles Sweeney)少佐は、なんとしても今回、原爆を投下し、第一級の選定目標を壊滅させたかった。当時、長崎市の人口は24万人と推定されており、即死は推定3万5千名、負傷6万名。投下後の負傷者の死亡を含めると死者7万名以上。

写真(右):1945年9月24日、九州、長崎、8月9日、アメリカ陸軍第509混成部隊のボーイングB-29 爆撃機「ボックスカー」により投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」で被爆した石仏坐像、右遠方に山王神社の二の鳥居(一本柱鳥居)、左遠方に長崎大学付属病院のコンクリート製ビル:石仏は、国際墓地にななかったようなので、この地点は、浦上駅から200メートルの地点の善教寺かと思われる。2016年10月3日、山王神社二の鳥居を含む長崎原爆遺跡は、国の史跡に指定された。
Title: Battered religious figures stand watch on a hill above a tattered valley. Nagasaki, Japan. National Archives Identifier: 532564 Local Identifier: 127-N-136176 Creator(s): Department of Defense. Department of the Navy. U.S. Marine Corps. 9/18/1947- (Most Recent) This item was produced or created: 9/24/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG ARC Identifier: 532564 NAIL Control Number: NWDNS-127-N-136176引用。


1945年8月、遠距離重爆撃機ボーイングB-29ボックスカー」は、第一目標は、小倉(北九州)だったが、目視爆撃できなかったため第2目標の長崎に向かった。ここで、雲の切れ目があり原爆を投下したことになっているが、実際に目視爆撃したのかどうか疑わしい。目視爆撃という「不適切な行動」を認めるわけにはいかないので,運良く雲の切れ目が見つかったとの報告が受け入れられた。マイクロ波レーダー搭載の爆撃機は、海岸線にある長崎を明瞭に捉えており,目視爆撃でなくとも原爆投下可能だった。しかし、原爆を抱えたまま、沖縄に不時着するという失点を犯したくなかった重爆撃機ボーイングB-29Bockscar」搭乗員が、雲の上からレーダー爆撃したのかもしれない。不名誉な「目標を視認できず」は黙殺され,米軍内部でも不問に付された。

長崎市内の医療機関は、原爆により壊滅状態であったが、8月9日当日は、4本の救援列車が運行された。救援列車により市外の医療機関に運ばれた人もいたという。放射能汚染や二次被爆について知らなかった当時の人々は、通常爆撃の場合と同じく、被災者たちの救援に当たった。しかし、その人道的な行動によって、自らも原爆症に苦しむことになる。

写真(右):1945年8月9日,長崎で原子爆弾に被爆した14歳の少女:She was just a junior high school girl, only 14 years old....Terror of the Atomic Bomb引用。体の皮がはげてしまった少女。大村海軍病院にて。1945年10月。 撮影:大村海軍病院。A-Bomb WWW Projectに同じ写真がある。

長崎原爆資料館:原爆被災資料には、原爆炸裂の瞬間、11時2分を指して止まっている時計などが展示されている。
広島平和記念資料館:市民が描いた原爆の絵には、原爆投下時の様子が描かれている。
中国新聞社/松重美人撮影ヒロシマの記録 原爆・平和写真データベース化

被爆者の悲惨な写真は、アメリカの公的な展示会には、出品されないものである。その理由は、戦争の「被害者と加害者の取り違え」の誤解を避けるためとも言われる。アメリカ連邦議会も、スミソニアン航空宇宙博物館「1995年原爆投下50周年記念事業」で、被爆者写真の展示を許さなかった。展示では、長距離重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイ」の機首が誇らしげに置かれた。現在は完全に復元展示中。

他方、原爆投下の実態を視覚的に伝えるwebとしてHiroshima A-bomb Photo Museumがある。そこには、アメリカ軍がカラーで撮影した被災地や被爆 者の悲惨な写真も掲載されている。

広島平和記念資料館平和データベーズでは、原爆、平和関連の証言・写真・動画・被爆資料などをデータベース化し展示している。

写真(右):原子爆弾の被爆者;広島,長崎は、熱線による被害,爆風による被害、火災による被害,放射線による被害を被った。そこに居合わせた人々もその犠牲になった。長距離重爆撃機ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」のもたらしたものが終戦和平であり,それによって100万人もの人命が救われたというのであれば、原爆の被害者はそれに引き合う損害として許容しなければならないのであろうか。このような悲惨な写真は,原爆を投下した米国が加害者であり,日本が犠牲者であるような錯覚を与える、として米国のスミソニアン航空宇宙博物館Terror of the Atomic Bomb-Hiroshima-Nagasaki)引用。

広島平和記念資料館の企画展平成13年度「サダコと折り鶴:時を超えた生命の伝言」、平成14年度「原爆の絵:市民の手によるヒロシマの記録」、平成15年度「似島(にのしま)が伝える原爆被害:犠牲者たちの眠った島」、平成18年度「託された過去と未来」などが紹介されている。
平和記念館西館では、「原子爆弾の爆発の瞬間、 空中に発生した火球は、 0.3秒後には直径200メートルを超える大きさとなり、その表面温度は、7,000度にも達しました。」としてwebで熱線による被害の映像を流している。
また、爆発の瞬間、爆発点 には数十万気圧という超高圧がつくられ、まわりの空気 が大きく膨張して強烈な爆風が発生しました。 その圧力は、爆心から500メートルの所でさえ、1平方メートルあたり19トンに達するという強大なものでした。このため、ほとんどすべての建物が 押しつぶされ、人々も吹き飛ばされ大きな被害をうけました。」として爆風による被害の映像を配信している。
広島に建物疎開命令が出され、中学校、高等女学校、国民学校高等科1・2年生等を対象に建物疎開作業の学徒動員がされ、1945年8月6日も、8000人以上の学徒が出勤し、うち約6,300人が死亡。

アメリカ軍は原子爆弾による症状に関心を持ち、ABC委員会Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)を中心に標本採取、写真撮影を含む調査・研究を行った。日本人の中には治療機関と錯覚させられたり、後世のために積極的に情報提供したりした人もいた。しかし、ABC委員会Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)の被爆情報収集は、被爆した人々の治療ではなく、原爆の威力を高め、防衛方法を考察するための軍事研究であった。

日本政府は、原爆症への対策をとってきたが、被爆者は健康の不安には、「被爆者として原爆症の認定」の壁が残っている。
原爆症の認定とは、厚生労働大臣の下の審査機関が、
仝暁放射線によるものである(起因性)
医療を必要とする状態にあるもの(要治療性)
の条件を満たすかどうか審査し「原爆症」と認定されると「医療特別手当」が支給される仕組みである。
 しかし、原爆症認定は非常に厳しい。厚生労働省の認定率は、2000年67.4%、2001年22.5%、2002年19.5%、2003年24.0%であり、認定基準が同じでも、申請者がその基準を満たしていることを証明するのは困難になってきていることが窺われる。

原因確率論(入市被爆と2km以遠の人は影響ない)で切り捨てた結果、近距離での直接被爆以外は、救護や肉親を探すため跡から中心地に入った人はほとんど却下されており、認定されている被爆者は全被爆者(約28万人)の0.7%(約2000人)に過ぎないとされる。原爆被害者たちによる集団訴訟も起きた。

写真(右):原子爆弾「ファットマン」の投下された長崎の被害;1945年8月9日、テニアン島を出発した重爆撃機ボーイングB-29ボックスカー:Bockscar」は、第一目標の小倉上空に達したが、雲のため目視爆撃できず投下を断念。(指令書にはレーダー爆撃ではなく、効果を視認・撮影できるように目視爆撃を要請。)目標を第二目標の長崎に変更。長崎市の中心部は、雲のため投下できなかったが、北部の浦上地区、松山町上空の雲の切れ間から(といわれる)、高度9600mで投下。
VC-98 水上艦載機のボートOS2Uキングフィッシャー(Kingfisher)搭乗員が撮影し寄贈した写真。
Title: UA 563.07 Emilie Marvil Collection Caption: Collection Photo: UA 563.07.01 Damage from the atomic bomb at Nagasaki, Japan. Description: Photographs of atomic bomb damage at Nagasaki, Japan taken by Frederick L. Marvil, United States Navy. Additional photographs show men of VC-98 and a OS2U Kingfisher landing.
Accession #: UA 563 Catalog #: UA 563.07 Tags: NHHC_Tags:conflicts-and-wars/world-war-ii-wwii, atomic_bomb Donor: Emilie Marvil Copyright Owner: NHHC
写真はNaval History and Heritage Command UA 563.07 Emilie Marvil Collection 引用。


井伏鱒二『黒い雨』などで、放射能に汚染された塵の恐ろしさが描かれているとも言われる。原爆投下直後に救援に出向く人々は、黒い雨の恐ろしさを知らない。放射能汚染された地域に立ち入って、救難活動をした人たちが受けるであろう原爆症のことを思うと、放射能の恐ろしさを感じる。

他方,原爆により,殺戮され、苦しんだ人々を知らないかのように、原爆が終戦と和平をもたらし,それによって100万人もの日米の人命が救われたという議論にも,また別の恐ろしさを感じる。

長崎に原爆を投下機した長距離重爆撃機ボーイングB-29Bockscar」パイロットのスウィニー少佐は、戦後、退役軍人教会の会長、1995年のスミソニアン航空宇宙博物館(The Smithsonian's National Air and Space Museum)での原爆50周年展示計画について、原爆投下に疑問を抱かせることを容赦しなかった。アメリカ連邦議会も、原爆投下した米国が加害者であるとの「誤解」を認めなかった。

1995年の原爆投下50周年特別展では、広島原爆投下機ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイEnola Gay」の機首部分が復元され展示された。1998年に展示終了後、「エノラ・ゲイ」の完全復元作業が開始。2003年12月15日、ワシントン国際空港Washington Dulles International Airportのスミソニアン航空宇宙博物館Steven F. Udvar-Hazy Center:Exhibition Gallery 103で完全復元展示。

写真(右):2003年、ワシントンDC、スミソニアン航空宇宙博物館ウドヴァール・ヘージーセンター、ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を広島に投下したアメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」(2003年復元):2003年12月15日、ワシントンDCのスミソニアンにある航空宇宙博物館別館ウドヴァール・ヘージーセンターにてエノラ・ゲイ展のオープニングセレモニーが開催された。そのオープンセレモニーの時の撮影。1995年の戦勝50周年エノラ・ゲイ展では、博物館側は、エノラ・ゲイとその投下した原子爆弾の威力だけでなく、原爆被害も同時に展示しようとしたため、退役軍人から大きな反対を受け、議会からも圧力がかかり、被害展示はなされなかった。2003年12月15日、ワシントンDCのスミソニアンにある航空宇宙博物館別館ウドヴァール・ヘージーセンターにてエノラ・ゲイ展のオープニングセレモニーが開催された。完全に復元された「エノラ・ゲイ」は、正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったかのように展示される。

スミソニアン航空宇宙博物館ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」の解説は次の通り。
展示説明:Boeing B-29 Superfortress Enola Gay

スミソニアン航空宇宙博物館ウドヴァール・ヘージーセンター(展示103)原爆投下第一号機「エノラ・ゲイ」解説(Statement on Exhibition:Boeing B-29 Superfortress Enola Gay)は、次のように述べている。
 ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(Boeing B-29 Superfortress)は、第二次世界大戦中の巧妙なプロペラ推進の爆撃機である。爆撃機として初めて与圧室を備え、高高度飛行での上院の活動を容易にしている。もともとヨーロッパ戦線に投入する計画だったが、実際にはB-29は、地球の反対側に出現した。太平洋でB-29は航空兵器として戦いに加わり、通常爆弾、焼夷弾、機雷、そして2発の原子爆弾を投下した。
1945年8月6日、マーチン社で製造されたこのB-29-45-MO(エノラゲイ)は、日本の広島に対して、世界で初めて原子爆弾を投下した。3日後には、「ボックスカー」Bockscar (オハイオ州、デイトン近くのアメリカ空軍博物館に展示)が二発目の原子爆弾を、日本の長崎に対して投下した。三期目のB-29「グレートアーチスト」Great Artisteは、両方の作戦に観測機として同行した。

B-29 「エノラ・ゲイ」の諸元
全幅: 43 m 、全長: 30.2 m 、全高: 9 m
空虚重量: 32,580 kg 、総重量: 63,504 kg
最高速度: 546 km/h (339 mph)
エンジン: ライトR-3350-57サイクロン・ターボ過給機( 2,200 hp)4基
武装: 12.7ミリ .50口径機関銃2丁、 原子爆弾 "Little Boy"
製造: ネブラスカ州オマハ、マーチン(Martin)社、1945年
A19500100000、乗員: 12 人

広島平和記念資料館所蔵写真集:Photos provided by Hiroshima institute for Peace Education長崎原爆資料館や、長崎浦上天主堂の被爆したマリア像("Bombed" Mary, a Marian Statue in Urakami)のような有名な被害写真がある。原爆症といえるような乳児の写真(Mathilda´s Page )もある。

JAPAN - A second atomic bomb is dropped on Japan. A B-29 from the 509th CG leaves North Field, Tinian at 0230 hours; The B-29 is followed by 2 observation B-29's. The primary target, Kokura, is obscured by bad weather; the attack is made against the secondary target, Nagasaki. The bomb, dropped from 28,900 feet at 1058 hours (local), explodes one minute after release. Japanese report 24,000 killed. The attacking B-29's refuel on Okinawa, and return to Tinian by 2339 hours.

1945年8月9日1045、長崎の原爆投下に関して,西部軍管区司令部発表「---敵は口に正義人道を唱えつつ,無辜の市民を爆殺する暴挙にで出ている----。この新型爆弾を使用することによって,戦争の短期終結を急ぐ焦慮ぶりを、いよいよあらわしていると見るべきである。----今回の新型爆弾に対しても着々として対策が講じられるであろう。-----」
陸軍大臣阿南惟幾の訓示「死中活あるを信ず。---全軍将兵宜しく一人も残さず楠公精神を具現すべし,而して又時宗の精神を再現して醜敵撃拭に邁進すべし」

イギリス海軍護衛空母(アメリカ建造)「スピーカー」乗員(Mathilda´s Page :NavSource Naval History;History of H.M.S. Speaker)は、1945年9月21-23日の被爆1ヵ月後の長崎のことを記載している。 
NAGASAKI (21st to 23rd Sept.).
It is hard to grasp, without seeing it, the appalling desolation wrought by one small (12lb.) bomb on a busy factory area. Everything was either blown to bits or twisted and thrust sideways by the blast of the explosive. For six square miles there was nothing one could shelter under in a shower of rain. Then we heard how the ‘gamma’ rays, which extend beyond the blast, can play hell with people’s health, and many of them die during the few following weeks. Another war would be hard to visualise at all.
Before we sailed Admiral Fahrion sent over a fine aerial photograph of Nagasaki anchorage with the inscription: —

9.マリアナ諸島には、日本を敵として戦った米軍の退役軍人なども訪れ、戦争と自分・戦友・敵の経験を見つめなおしている。

米英など連合国では、レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の「マンハッタン計画Manhattan Project)」が終戦をもたらした平和計画のように評価され、原爆終戦和平説が信じられ、原爆の非人道性を問題視する人々は、少数派である。1995年の スミソニアン航空宇宙博物館ボーイングB-29エノラ・ゲイEnola Gay」の機種部分が復元展示されたが「原爆投下に対する反省」は一切許されなかった。しかし、着実に増えてきているようだ(⇒TheWE.cc website.


写真(右):テニアン島の原子爆弾「リトルボーイ」の入ったピット(左)とB-29「エノラ・ゲイ」;原子爆弾をB-29に搭載するには、胴体下と滑走路との間(クリアランス)が狭いので,穴(ピット)に原子爆弾を入れ,そこから持ち上げてB-29の胴体に搭載した。これとは別に、2発目のプルトニウム型原子爆弾「ファトマン」用のピットもある。2004年6月のサイパン攻略50周年・原爆49周年セレモニーは、このピットの近くで開催された。

2004年6月、サイパン侵攻を記念して第二次世界大戦60周年記念式典が15日にサイパンのガラパン市アメリカン記念公園、16日テニアン旧北飛行場で挙行。テニアンでは、埋め戻されていた二個の原爆搭載ピットを掘り返して公開。以下は,式典に参加した唯一の日本人研究者の史跡訪問「テニアン島周遊」の引用である。

2004年6月の式典では、最後に原爆投下第一号ボーイングB-29エノラ・ゲイ」機長だったティベッツ大尉が車椅子から立ち上って演説した。89歳になる彼はパイロットか航空技術者らしい実直な話し振りで広島に原爆を投下した当時を時には笑いも交えて克明に語った。原爆を投下したがために、日本本土上陸作戦を行わずして日本を降伏させることができたというくだりも淡々と語った。広島長崎の市民が多数犠牲になったとしても、上陸作戦で失われたであろう数十万人の米軍兵士の命に代え難い、というのがティベッツを始め退役軍人達の意見であり広く米国人の間に受け入れられている。

2004年6月、原爆投下記念碑、原爆部品を揚陸後、日本海軍伊号潜水艦に撃沈された重巡「インデイアナポリス」追悼碑、広島に原爆投下したティベッツ以下三名の元B29乗員テニアン来島記念碑、そして、ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイEnola Gay」が使った広島原爆ピット(Pit No.1)と「ボックスカー」の使った長崎原爆ピット(Pit No.2)の除幕が行われた。
ピットのガラス屋根を覆っていた白布が取り除かれ、ピット内部が公開された。両ピットとも土砂が取り除かれ底まで完全に観察出来る。中央に錆びた鉄製の昇降用油圧リフトがある。屋根の一部は開閉できるガラス戸になっており、昇降梯子を伝って内部へ降りることが出来る。両ピットとも構造は全く同じである。ユタ州ウエンドーバ航空基地にも同じピットが保存されている。

中国新聞「悲しみの島 テニアン 玉砕と原爆と (2006.7.21〜7.23)」未来のために
2005年8月テニアン市や議会などが催した「もう一つの」平和記念式典が開催された。被爆六十年で、式典実行委は初めて被爆者を招いた。広島からは「ひろしまを語り継ぐ教師の会」事務局長、梶矢文昭さん(67)と同会会長の松島圭次郎さん(77)が参列。
 式典は島の平和記念公園であった。時差は一時間。八月六日午前九時十五分が近づくと、どこからか島民が集まった。やがて人垣ができた。消防車が一斉にサイレンを鳴らす。「黙とう」―。米自治領の島では「原爆投下が終戦を早めた、多くの命を救った」という考え方は島にも浸透している。だからこそテニアンの式典実行委は被爆者を招いた。被爆体験の証言も求めた。子どもたちに、被爆者の目線でも戦争を見つめさせたいと。「税金の無駄遣いだ」。米の退役軍人やメディアの批判を浴びた。でも押し切った。
 「島そのものが戦争の残骸(ざんがい)です」。(中国新聞「悲しみの島 テニアン 玉砕と原爆と (2006.7.21〜7.23)」未来のために引用終わり)

GUY GABALDON A 1998 INTERVIEW AND DISCUSSION
名誉勲章受賞者:MEDAL OF HONOR RECIPIENTS 1944;US Navy (7), Naval Aviation (2, including 1 flying boat squadron), US Marine Corps (23), US Army Air Corps (1)
Benjamin Franklin Edwards


10.戦争末期,日本軍・鈴木貫太郎内閣は,全軍特攻化,一億国民総特攻が唱えた。本土決戦で連合軍に一撃を与えて,和平の契機を得る計画だった。1945年7月26日のポツダム宣言黙殺を公言したから、原爆が投されたという俗説は、原爆投下の公式命令が1945年7月25日(ポツダム宣言の公表前日)であることから、否定される。

1945年1月25日、最高戦争指導会議(政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席し、天皇が臨席する最高の会議)で、「決戦非常措置要綱 」が決定,「国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」,「作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス」とされた。

図(右):アメリカ雑誌TIME(1945年5月21日号)の表紙を飾った大元帥昭和天皇; タイム誌では「米国はドイツ降伏後の欧州から太平洋に軍を回しているが,それは現人神に対する戦いのためである。わが無敵艦隊は天皇の島を壊滅させ,航空部隊は天皇の町を焼き払った。わが陸軍は,天皇の土地の侵攻する準備をしている。To the god's worshipers this would be a sacrilege such as the desecration of a church would be to the invaders. 大半の米国人にとって,日本の現人神は,がに股の薄っぺらなちびに見える。To them this god looked like a somewhat toothy, somewhat bandy-legged, thin-chested, bespectacled little man......米国のプロパガンダは、昭和天皇をこき下ろした。

◆昭和天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏によって最新・最高度の情報が伝達された。国軍には不忠者の指揮官はおらず,戦局・戦争方針について,大元帥昭和天皇は,明確な情報をもとに,裁可を下した。

1945年7月17日,ドイツ・ベルリン郊外のポツダムで,アメリカ合衆国大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman)(4月12日就任),イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)(後日は新首相アトリーに変更)、スターリン書記長の三巨頭は,ドイツ敗北後の欧州戦後処理を話しあった。そのポツダム会談前日,1945年7月16日、アメリカはニューメキシコ州で初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆破実験「トリニティ」に成功。トルーマン大統領は,バーンズ国務長官の強硬論に賛同しソ連に対して強硬な態度をとり,日本に対する降伏勧告から国体護持を認める可能性も排除した。

写真(右):1945年7月28-8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three":英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee; アメリカ大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman); ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin。後方は,米海軍参謀長レーヒ提督(Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff:日本軍兵士の心理研究書を執筆し,在日時代には日本人ガールフレンド一色女史もいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。); 英外相ベヴィンBritish Foreign Minister Ernest Bevin; 後列、右から二人目は、コーデル・ハルの後任の米国務長官ジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)(対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治的先輩); ソ連外相モロトフSoviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov(独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結)。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。NAVAL HISTORICAL CENTER引用。

第33代アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman: 33rd President of the United States):1884年生まれ―1972年没;1934年にミズーリ州選出の上院議員として、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持した。1944年の大統領選には、トルーマンは副大統領候補となり、ルーズベルトが先例のない4選を果たすと、トルーマンは副大統領に就任した。しかし、体調を崩していたルーズベルトは、ヤルタ会談に参加したものの、1945年4月12日に急死し、トルーマンが大統領に昇格した。トルーマンには外交経験がなかった上に、ルーズベルト大統領とのコミュニケーションにも疎いままだったため、原子爆弾についても知らないままだった。そこで、上院議員の先輩ジェームズ・バーンズの指導を受けることになり、5月のドイツ降伏後には、ヨーロッパの戦後処理と並んで、太平洋戦争勝利後のアジアの戦後処理が、ソ連との関連で問題になった。1945年7月のポツダム会談で、そのことが話し合われた。


「ポツダム宣言」は,アメリカ大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman)、イギリス首相クレメント・アトリー(Clement Atlee),中国元首蒋介石が署名した(とされた)。

日本軍の無条件降伏(13),軍国主義者の排除(4),占領地・植民地(朝鮮・台湾など)放棄・本土への領土限定(8),戦争犯罪人の処罰(10)を求めた降伏勧告がなされた。(⇒「ポツダム宣言」参照)

ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)は,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman)61歳が、4月12日に第33代大統領に就任。イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Leonard Spencer-Churchill)も、総選挙で一時帰国している最中,選挙で敗北。7月27日にイギリス新首相アトリー(1951年10月26日まで在籍)へ政権交代し,ポツダムには戻らなかった。他方,ポツダム会談に加わったヨシフ・スターリンJoseph Stalin)は,ポツダム宣言には参加していない。欠席した中国の蒋介石は,ポツダム宣言の提唱者のひとりとなった。  

アメリカ海軍参謀長ウィリアム・ダニエル・レーヒWilliam Daniel Leahy)提督や陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソンHenry Lewis Stimson)のように,天皇制の維持,すなわち国体護持を条件とすれば,本土の都市空襲と無制限潜水艦作戦による物資供給の途絶によって戦争遂行能力の低下した日本と講和できると考えた軍の戦略家もいた。しかし,大政治家は,日本の無条件降伏に拘泥しつつ,日本への原爆投下を決定していた。

第二次大戦中,30回の連合国首脳会談が開催され,出席回数はチャーチル14回,ルーズベルト12回,スターリン 5回。
会談は,枢軸国への無条件降伏の要求が1943年1月カサブランカ会談から主張され,対ドイツが優先された。大戦中の連合国首脳会議20回のうち,中国代表が率先して参加したのは,国連関連を除き,1943年カイロ会談だけで,日本と対日戦争が明示的に取り上げられた会談も5回に過ぎない。これは,対日戦争、アジアは,米国主導下に置くことを連合国に合意されていたことの反映である。

戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,ポツダム宣言の文言よりも、米国が暗黙裡に国体護持を認めていることに注目した。終戦後,米軍に積極的に協力することによって,国体が護持できると考えた。つまり,日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。


主戦国アメリカ合衆国は,連合国のリーダーとして日本への無条件降伏の要求を取り下げることはできない。日本が特攻作戦を大規模に展開して,日本本土上陸作戦で多数のアメリカ軍死傷者が見込まれるとしても,無条件降伏の要求は変更できない。アメリカは,日本を無条件降伏させるためには,手段を選ばなかった。原爆の破壊力が大きいのであれば,当然使用された。

戦後,原爆投下の惨状が明らかになると,アメリカ軍の死傷者を少なく抑えるために,日本へ原爆を投下したと,ハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領,ヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官は弁明した。しかし、1945年前半のアメリカの戦略において,味方の死傷者推計数は,本土上陸作戦には問題とはなっていなかった。

◆アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。

写真(左):沖縄戦当時の首相鈴木貫太郎大将;慶応3年(1867)12月24日〜1948年4月17日。大阪生まれ。海軍軍人。明治20年(1887)海軍兵学校卒業。日清戦争に従軍。1898年海軍大学校卒業。日本海海戦に参加。海軍省人事局長、第2次大隈内閣海軍次官、海軍兵学校校長、連合艦隊司令長官を歴任。1925年海軍軍令部長。1929年侍従長兼枢密顧問官に就任。鈴木貫太郎は侍従長在任中の1936年、2・26事件で重傷,引責辞職。1944年枢密院議長、1945年4月7日という沖縄戦の最中に組閣の大命を受け、77歳で内閣総理大臣。戦後,組閣とともに終戦に奔走したとの俗説がある。実際は,条件付き和平交渉を切り出すために,沖縄戦での大戦果を期待していた。ポツダム宣言受諾後、130日で総辞職。

日本政府は、1945年7月27日、ポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に新聞紙上で「笑止」「聖戦飽くまで完遂」と報道。鈴木貫太郎首相は、記者会見で「共同声明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争戰争完遂に邁進する」と述べ、1945年7月29日朝日新聞で「政府は黙殺」と報道された。ポツダム宣言「黙殺」発言は、日本の代表的通信社の同盟通信社では"ignore it entirely"、ロイターとAP通信では"Reject"と翻訳され世界に伝わった(ポツダム宣言wikipedia)。 

日本の昭和天皇を中心とする宮中の側近は、沖縄戦で決定的な一戦を交え、有効な交渉手段を手に入れてから和平交渉を進めようと画策していた。しかし、1945年5月になると、沖縄戦の敗北は明らかだった。残る挽回の手段は、本土決戦だけとなった。このような状況で、1945年7月26日ポツダム宣言Potsdam Declaration)が出されたが、それを受諾することは考えられい。

鈴木貫太郎首相のポツダム宣言Potsdam Declaration)黙殺発言について,鈴木貫太郎自身は,戦後一年経ってから「この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり…」と後悔した。しかし,鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言について、高木惣吉海軍少将は、米内光政海軍大将に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内は沈黙したままで、鈴木貫太郎首相のみが責をとった形となった。米内大臣を始め閣僚・重臣はみな徹底抗戦やむなしと考えていた。

日本は,アメリカや連合国とは,全く異なる視点、すなわち国体(天皇制)を思い戦争の前途を心配していた。鈴木貫太郎も、無条件降伏という歴史的大敗北、日本と皇祖への最大の恥辱を大元帥昭和天皇の治世の時代に決断することはできなかった。

11.アジア太平洋戦争の連戦連破を背景に,日本の軍部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性があった。1945年2月14日「近衛上奏文」において,国体を護持する目的で,終戦の聖断を求めた背景は,共産革命への恐怖だった。天皇の権威は,天孫降臨の神話を象徴する三種の神器によっており、アメリカ軍による伊勢神宮占領,三種の神奪取が危惧された。原爆投下や都市の壊滅ではなく、国体護持の観点が重要であり、その意味で、ソ連参戦の政治的悪影響が懸念されていた。
当時,原子爆弾は機密の最先端技術であり,日本の軍人・政治家の理解を超えていた。一夜にして、都市が破壊され、数万人が殺戮された事例は、1945年3月10日東京大空襲などいくつもあった。本土が焦土とされても徹底抗戦を主張していた指導者が、理解不能の原爆の威力に恐れおののき、降伏を決断することはありえない。
他方,ソ連は、国体・天皇制に敵対する共産主義のイデオロギーを信奉しており、ソ連が日本を占領すれば、国体は変革される。この恐怖から、アメリカへの降伏、国体護持を請うたのが大元帥昭和天皇による終戦の聖断である。


近衛文麿(このえ ふみまろ:1891年10月12日生まれ、1945年12月16日自殺):五摂家の筆頭・近衞家に生まれ、東京帝国大学哲学科と京都帝国大学法科大学に学び、さらに貴族院議長、内閣総理大臣、外務大臣)、拓務大臣、司法大臣を務める。1934年、アメリカを訪問、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、国務長官コーデル・ハルと会見した。1937年の日中戦争勃発時の首相、1938年11月3日には「東亜新秩序声明:第二次近衛声明」を発した。1940年7月22日に、第2次近衛内閣を組閣、松岡洋祐を外相から排除して、1941年7月18日から10月18第3次近衛内閣で、日米和平交渉を続けたが、成果を上げられず、辞任。終戦2か月後の1945年10月4日、近衞文麿は、GHQ(連合国軍総司令部)司令官ダグラス・マッカーサー元帥を訪問し、日本の赤化防止、憲法改正について話し合った。しかし、1945年12月6日、GHQからの逮捕命令が出て、近衛はA級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれることが決定すると、出頭起源の12月16日未明、荻外荘で青酸カリを服毒して54歳で自決。


近衛文麿は、1937年第1次近衛内閣を組閣,1937年7月に日中全面戦争を開始し、1938年1月16日、蒋介石の「国民政府を対手(あいて)とせず」の発言と宣言して、戦争を泥沼に引き入れた。近衛は三次にわたり首相を務め、政権を担っことになるが、1937年7月の日中全面戦争の開始、1938年11月3日の東亜新秩序建設・新体制の提唱、1940年9月23日の北部仏印進駐、1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟の締結、1941年4月13日の日ソ中立条約、1941年7月の関特演と東軍南部仏印進駐、1941年9月6日の帝国国策遂行要領(対米要求が10月上旬までに貫徹できなければ対米英蘭の開戦)の決定、など重要な国策が決まったのは、近衛文麿政権での出来事である。

  「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。-----しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といった。

元首相近衛文麿の上奏文(1945年2月14日)
「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,英米は国体の変革をしないこと、日本陸軍内部の統制派がソ連と組んで共産主義革命を起こしかねないこと、国体護持のためには戦争を終結すべきことを、大元帥昭和天皇に訴えた。
「勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。」

天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。--」
近衛「---グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
---近衛「従来、軍は永く一つの思想[統制派]によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者[皇道派]もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。----この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。賀陽宮は[皇道派による]軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」

天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないと[皇道派によって軍を立て直し終戦に持ち込むのは]なかなか話は難しいと思う。

近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)

◆1945年2月14日、近衛文麿は,昭和天皇への上奏文によって,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明した。そして,軍部の統制派が戦争終結の障害になっているので,彼らを一掃し,米英中と和平交渉しようと考えた。軍部を建直し,共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだ。しかし,国体護持の確証は無く終戦の決断はできなかった。

1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。1945年6月8日の御前会議では「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,戦争完遂,本土決戦準備を決定した。1945年7月26日,ポツダム宣言が通告されても,終戦を決断できなかった。 

平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸は,宮中グループの日記や手記の次のような文書を紹介している。

岳父近衛文麿公爵秘書官細川護貞『細川日記』
1945年8月8日
「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信−内務省得意の無電も−途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、----是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----木戸[幸一]内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。

1945年8月9日
「----[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。---」と言上、十一時半荻窪に[近衛文麿]公を訪ねたる所、---ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。
---宮中にては最高六人会議---を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。

侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」 

1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。---」

大規模に無差別爆撃をしていた米軍が、原爆投下だけを慎重に扱ったとすれば,それは最新極秘兵器だったからであり、原爆投下自体の可否は問題とならなかった。 都市が次々に焦土とされ,大量殺戮が繰り返された。他方,日本の軍部も政治家も,本土決戦,一億総特攻を叫んだ。終戦=日本降伏という認識から,誰一人として,連合国と和平交渉を進言せず、鈴木貫太郎総理以下,みな徹底抗戦を主張。連合国はポツダム宣言を受諾しない場合,日本は迅速かつ完全に破壊されると通告した。これは原子爆弾投下の隠喩だった。

芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日:2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.
1945年8月8日:午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用

本土決戦兵器:特攻機「剣」人間魚雷「海龍」:実現しなかった一億総特攻

木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940-1945年に内大臣を務める。

木戸幸一『木戸幸一日記』「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
 真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。(引用終わり)

12.原爆投下によって終戦の聖断が下ったという俗説は誤りである。原爆投下は、口実であり、本質は、国体を護持するためである。国体護持への危機感は、連敗続きの軍部への反感、国難を救済できない天皇への不満、共産主義国ソ連の対日参戦に由来する。民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦にあって、国民の離反が確実になる前に、終戦が決断された。日本の大多数の政治家・軍部は、核兵器と核戦略を認識していなかった。国民に被害状況のわからない原爆投下は、終戦決定=聖断に大きな影響力をもっていない。

天孫降臨の神話、三種の神器は,天皇の大権の基盤であり,象徴である。天皇が下した大日本帝国憲法によって,天皇大権が定められるのではない。万世一系の皇祖からの伝統・神勅が,国体を正当化する。三種の神器は,皇祖の象徴で,守るべき責任がある。

しかし,敵の連合国,連敗続きの国軍(日本陸海軍),困窮に陥れられた国民は,いずれも天皇の権威を認めるとはかぎらない。日本軍の統制派とソ連,中国共産党とが共謀して,国民を煽動して,共産革命を引き起こすかもしれない。国体護持への不安は、大元帥昭和天皇に,終戦の聖断を下させた。  

『昭和天皇独白録』では終戦の聖断を下した理由として「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」とある。
 

天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天照大神(アマテラス)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、葦原中国の平定,統治のために高天原から高千穂峰に降臨した日本建国神話である。その時,王権のシンボルとして三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)が与えられ、神勅が伝えられた(『古事記』)。 

1945年8月9日の御前会議:ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べた。終了後,昭和天皇は木戸幸一に次のように語った。
本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。----(『木戸幸一日記』[御前会議 引用]) 

図(右):1945年9月17日発行TIMEの表紙を飾ったアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James Francis Byrnes:May 2, 1879 - April 9, 1972);アメリカの孤立主義から,第一次大戦の国際連盟は不参加だった。第二次大戦時の国務長官はコーデル・ハルだったが、ルーズベルト大統領の死去により、第二次大戦末期に,アメリカ国務長官バーンズが,地球儀が象徴する世界(国連)の舵取りをすることになった。This time the method and manner would be different. Would the results be different? 国務長官ジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)は,ハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領の先輩として振る舞い,反ソ連の立場を優先し,原爆投下によって,米国の戦後の覇権を確立することを企図した。("Jimmy" Byrnes—the "Assistant President."

1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズスイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したい希望がある」"The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, ---(日本政府は,ポツダム宣言の受諾準備よし。) 

写真(右):1945年8月12日、ワシントンDC,日本のポツダム宣言への問い合があり、日本降伏の期待からホワイトハウスに集まってきたアメリカ人:1945年8月6日、広島に、8月9日、長崎に原爆投下、同日、ソ連軍が日本・満州を攻撃、8月10日、ポツダム宣言につき日本から、中立国スイスを通じた問い合わせがあり、8月12日に、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズが「日本の政体は日本国民の意思により決定される。統治権は、連合国軍最高司令官の制約下に置かれる」と回答した。このニュースが世界に伝えられると、対日戦争がすぐにも勝利で終わるのでと考えられた。日本の無条件降伏が濃厚となったため、メディアもその確報に懸命となった。
Description: A crowd of people outside the White House around 7:09 P.M., the time President Harry S. Truman was sworn into office. Date: April 12, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Crowds; Presidential residences HST Keywords: Roosevelt, Franklin D. - Ref. To; White House - Exterior
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-1913引用。


1945年8月9日、長崎に原爆が投下された日に、ソビエト連軍が日本・満州を攻撃、8月10日、ポツダム宣言につき国体護持の条件を照会、8月12日、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズより回答、「日本の政体は日本国民の意思による。統治権は、連合国軍最高司令官の下に置かれる」。8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達。このときが実際の日本の無条件降伏で、そのニュースが世界に伝えられた。8月15日、ラジオの玉音放送で日本の降伏が国民に知らされたが、これは国際的には丸一日以上の遅れである。

 1945年8月11日,アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズの返答
  米英ソ中を代表して,ポツダム宣言は,天皇統治権(国体)に関して言及していないが,‥傾弔全軍を降伏させるべきこと、天皇の軍隊が連合国最高司令官の下に置かれるべきこと、を要請し、暗に国体護持を認めた。
"The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people. "(日本国民の自由に表明する意思によって,日本の最終的な政治体制を決定するものとす。)宮中グループは国民の国体護持への忠誠心が発揮されることを望み、かつ世論の戦争指導者への反感、国民離反、国体変革の陰謀を警戒した。 

写真(右):1947年,東京裁判でA級戦犯として尋問される木戸幸一元内大臣(1889.7.18〜1977.4.6);Autographed photograph of Kido Koichi testifying at the Tokyo Trial, 1947. Collection George Picard. 木戸孝允の養子の木戸孝正の子。妻は陸軍大臣児玉源太郎の四女ツル。東京出身。近衛文麿と共に革新貴族を代表し,現状維持派の西園寺公望らと区別される。厚相・内相時代を通じ産業報国連盟顧問。1940年内大臣に就任、首相前歴者・枢密院議長からなる重臣会議を招集して、内府の責任で後継を奏請する方式を実施。近衛文麿の<新体制>を助ける。(歴史が眠る多磨霊園:木戸幸一引用) 

  木戸幸一『木戸幸一日記』二〇・七・三一(「カマヤンの虚業日記」引用)
 御召により---御前〔昭和天皇〕に伺候す。---伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身辺に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。----宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。

〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
 ----御文庫にて拝謁す。ソ連が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、----。首相は十時半より最高戦争会議を開催、態度を決定したしとのことにて辞去せらる。(略)
一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せりとのことなりき。

1945年8月9日の御前会議の終了後,昭和天皇は木戸幸一に「忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])

図(右):1940年3月4日号 TIME(March 4,1940)の表紙を飾った米内光政海軍大将(1880年3月2日〜1948年4月20日):1940年1月16日、第37代内閣総理大臣に就任したため、『タイム』1940年3月4日号の表紙を飾った。 Son of a Samurai:Admiral Mitsumasa Yonai

米内光政海軍大臣と阿南惟幾陸軍大臣:生き残った海軍大将と自決した陸軍大将

1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。

1945年8月12日 海軍大臣米内光政大将の発言:「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。
(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

近衛文麿は、1945年2月14日、天皇への上奏文で,敗戦が日本に共産革命,国体変革を引き起こすとの危惧を表明した。近衛公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とした。宮中グループは,終戦の名目が与えられたことに思い当たった。 海軍大臣米内光政大将は,鋭い政治感覚の持ち主で、同じ才覚は久間防衛相(「原爆投下、しょうがない」2007年6月30日)にも引き継がれている。

東京裁判のA級戦争犯罪人:国体護持

久間章生(きゅうま ふみお、1940年12月4日 - )防衛相(衆院長崎2区)は2007年06月30日、千葉県柏市の麗沢大学の講演で、1945年8月に米軍によって日本に「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べた。 

久間章生防衛相は「我が国の防衛について」と題した講演で、東西冷戦下で米国と安全保障条約締結を選択した日本の防衛政策の正当性を説明する際、原爆投下に言及した。

久間防衛大臣は「米国を恨むつもりはないが、勝ち戦と分かっていながら、原爆まで使う必要があったのかという思いが今でもしている」としつつ、「国際情勢とか戦後の占領状態からいくと、そういうこと(原爆投下)も選択肢としてはありうる」と語った。

 防衛大臣は講演後、--「核兵器の使用は許せないし、米国の原爆投下は今でも残念だということが発言の大前提だ。ただ日本が早く戦争を終わらせていれば、こうした悲劇が起こらなかったことも事実で、為政者がいかに賢明な判断をすることが大切かということを強調したかった」と説明。 

 安倍晋三総理大臣は---久間発言に関して「自分としては忸怩(じくじ)たるものがあるとの被爆地としての考え方も披瀝(ひれき)されたと聞いている。核を廃絶することが日本の使命だ」と述べた。

【久間章生防衛大臣の発言要旨】
 日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
 幸いに8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
 米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。(asahi.com引用終わり)

2007年7月3日、米国のロバート・ジョゼフ核不拡散問題担当特使(前国務次官)も、ワシントンでの記者会見で、第二次大戦末期の広島と長崎への原爆投下について「文字通り何百万もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかった戦争を終わらせたということに、ほとんどの歴史家は同意すると思う」と、原爆投下を正当化する米国側の認識をあらためて示したのである。

 塩崎恭久官房長官は7月4日の会見で、政府として真意を確認する意向を示し、「それぞれ、いろいろな考え方がある。どういう発言をしたか外務省を通じて情報を取ってみたい」と原爆投下肯定発言に反論しなかった。安倍晋三首相は同日夜、記者団に「まずは発言をよく、私自身見なければいけない」と原爆投下肯定発言に反論しなかった。(中国新聞参照)

◆2007年6月末の内閣総理大臣・防衛大臣(自衛隊の最高級司令官)が、原爆投下の経緯と投下理由を,戦争を終わらせるためであると認識・理解していることが明らかになった。「占領軍によって、誤った大東亜戦争史観を植えつけられた」日本の政治リーダーたちは、米内光政ら宮中グループと同じく、米国による原爆投下プロパガンダを信じている。日本の主導的保守政治家がレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の「マンハッタン計画Manhattan Project)」が、世界を平和に導いたと考えているのである。

1945年8月14日,最後の御前会議で,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。---戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下した(御前会議引用)。

ポツダム宣言を受諾したことで、日本の無条件降伏が決まった。これを国ではなく軍隊の降伏だ、国体護持の条件は認められたから条件付講和だというのは、屁理屈で本質を見失っている。当時の人々は、そんなことを考えなかったし、理屈屋が反論をしても負け惜しみだと嘲笑された。萬世一系昭和天皇の終戦の宣言は、建国神話以来初めての降伏、日本の敗戦であると考えられた。だからこそ昭和天皇も皇祖に申し訳ない、建国神話に汚点を残したと苦悩した。まさに日本そのものの降伏、敗北であると悲しんだのである。天皇の終戦の聖断に逆らう者は、反逆者と見なされ、実際、終戦を妨害しようとする試みは、反逆と同様に扱われた。なにより天皇への忠誠心あるいは罰せられる恐怖で、大半の軍人・政治家、そして国民は反論せず、日本の聖断に従った。日本の主権は、統治権者昭和天皇の降伏の申出によって、完全に敵の手にゆだねられた。一億総懺悔が唱えられた。大戦争における敗北の末路は悲惨である。戦争に負ける苦渋を日本国民は噛みしめ、耐えがたきを耐えたのである。

◆原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは,広島・長崎への原爆投下を,終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

終戦の詔勅の「-----敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ノ測ルヘカラサルニ至ニ----」とあるが、大量破壊・大量殺戮は、原爆投下前の都市無差別爆撃でも同じだった。原爆投下は,軍の主戦派に対して,国民をこれ以上の苦しみから救うという理由を正当化するのに用いられた。

◆原爆は、日本の軍人・政治家にとって理解を超えた機密兵器であり,1945年8月の時点では,核兵器が戦後世界や世界覇権を左右するとは、日本軍指導者たちは思い当たらなかった。日本の諸都市が破壊され、数十万人が殺戮されても、徹底抗戦を主張してきた指導者たちにとって、原爆の威力(大量破壊,大量殺戮)が降伏の決断に結びつくはずがない。

国体・大元帥昭和天皇を敵視するソビエト連邦の軍事力、共産主義こそ最大の脅威である。国体変革という脅威を前に,米国への降伏、国体護持を企図したのが,終戦の聖断である。

原爆投下によって終戦・和平がもたらされたという「原爆終戦和平論」は、事実ではない。
原爆終戦和平論は、核兵器の保有・使用を正当化してきた。
総力戦の本質は、大量破壊、大量殺戮であり、戦略爆撃思想の延長線上に原爆が投下された。


 ⇒大元帥所昭和天皇の終戦の聖断:かくて国体は護持された。

『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(青弓社,368頁,2100円)では「戦争は政治の延長である」との戦争論を見直しました。
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