鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
サイパン・テニアン島の玉砕戦2006
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◆サイパン玉砕戦の真実 ◇黙殺された捕虜1万4000名 Battle of Saipan


写真(上左):1944年6月,アッツ島玉砕の1年後,米軍はサイパン島に上陸。
写真(上右):1944年6月,サイパン島で米軍海兵隊に保護された日本の婦女子:日本軍は「サイパン島玉砕」と報道したが、日本人1万4000人が捕虜となり,米軍の下で生き残った。生き残った住民や兵士は,非国民,投降した卑怯者・裏切り者として黙殺された。Civilians are escorted back to safety, food and medical care. Department of Defense Photo (USMC) 83013.

写真(右):1941年4月,サイパン島の「まなご あきら」氏のガラパン小学校入学記念写真:1941年12月8日の日米開戦前に、姉「ひさこ」女史とともに初通学した。日中戦争はすで4年を経過していたが、島の住民たちは直接戦火に巻き込まれるとは予想だにしていなかった。サイパンアメリカ記念公園のwebsiteには、Manago氏提供の写真があり、本webでも引用させていただいた。Akira Manago and his sister, Hisako, in the garden of their South Garapan, Saipan home in April 1941, when Akira entered the Japanese Elementary School of Saipan. In December 1941 the Pacific War began.

【アジア太平洋戦争インデックス】:オリジナルwebリンク一覧
20世紀の戦争画;藤田嗣治「アッツ玉砕」「サイパン同胞忠節を全うす」
GoogleMapサイパン島南部アスリート(アイスレー)飛行場
GoogleMapテニアン島ノースフィールド基地の衛星画像
GoogleMapエニウェトク環礁・マーシャル諸島の衛星画像
GoogleMapトラックTruk諸島の衛星画像

第二次大戦中の米海軍戦死者3万6,950人、 戦闘での負傷者3万7,778人、海兵隊戦死者 1万9,733人、戦闘での負傷者 6万8,207人。
玉砕戦の本】/【戦争論・平和論の文献

◆サイパン戦を生き残った 栗原茂夫さんの「 ドキュメント 少年の戦争体験」を「とうよこ沿線」主催者の 岩田忠利さんが作成された。サイパンでの 生活、米軍上陸前の 空襲、逃避行、米兵による連行 ススペ捕虜収容所抑留から帰還後の 慰霊まで体験記が綴られている。

1.1943年5月末,米国本土アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が全滅した。死者2500人に対して、生き残った捕虜は29人。捕虜率1%。日本の大本営は,この大失策敗北を「玉砕」と公表した。決して降伏を許さない、捕虜にならないという「アッツ島玉砕」の喧伝の意味は,次の通り。
.▲奪津膤諒櫃鷲垈椎修任△辰燭,撤退判断が遅れで,撤退不可能になった責任を回避する。▲▲奪津臺棄を判断した時点(5月23日)で,玉砕命令を出した責任を隠蔽する。山崎保代部隊長以下,日本軍守備隊が勇戦し,部隊長が降伏命令をださなかったことを賞賛する。1943年2月初めのガダルカナル島「転進」の報道は、退却・敗走と国民に受け取られた。これに対して、威信回復の必要を感じた陸軍・参謀本部は、アッツ島守備隊を「玉砕」として顕彰を企図した。

⇒◇アッツ島玉砕「山崎保代大佐への玉砕命令」参照


1943年5月Attu Battlefield and U.S. Army and Navy Airfields on Attuからみたアッツ島での日米攻防戦の経緯
1942年6月7日,キスカKiskaとアッツAttuの両島を日本軍が占領したが,米軍も占領された固有の領土アリューシャン列島を手放すわけには行かない。日本軍への反撃を開始する。

写真(右):1943年5月,アッツ島攻略に参加した米海軍駆逐艦「フロガット」 :1943年12月撮影。

米軍のアッツ攻撃は1943年5月7日の予定であった。キンケード提督(少将)R. Adm. Thomas C. Kinkaid(北太平洋方面軍North Pacific Force)は, 第7師団に上陸地点確保を命じた。戦艦3隻(Pennsylvania, Idaho,Nevada)が支援艦砲射撃。

悪天候が続いたために1943年5月11日まで上陸は延期されたが,北部海岸への上陸は計画通り実施された。ホルツ海岸Holtz Bay 北西のRed Beachには,アラスカ部隊の一部と歩兵第17連隊があり, 歩兵第32連隊とともに日本軍陣地のあるホルツ海岸に向けて南下。

虐殺海岸は濃霧のために南部軍(歩兵第17連隊の2個大隊から編成)の上陸が遅れた。日本軍は虐殺渓谷 上部に陣取っており,濃霧を利用して隠れていた。しかし,夕方に日本軍は反撃を開始し,5月13日まで抵抗は続いたが,第32連隊の残りの部隊,歩兵第4連隊が虐殺海岸に上陸。
日本軍は頑強な抵抗を続けたが,徐々にシカゴウ湾Chichagof Harborとその周囲の崖に方向に撤退した。さらに2週間戦った後,米軍は峠を占領しシンカゴウ港への道を開いた。


写真(左):1943年5月26日,アッツ島,即製陣地で応戦する米第7師団将兵
:Alaska's Digital Archives 引用。アッツ島守備隊は,友軍の増援,救援を心待ちにしながら戦っていた。他方、米軍兵士も死にたくなかったから、必死で応戦した。


日本軍2500名のうち生存者は29名。米軍1万5000名のうち死者550名,負傷者1500名。さらにアッツ島の悪天候のために1200名の負傷者があった。これは不適切な軍靴と外套のためである。日本の大本営は将兵は全員玉砕と報じた。29名の捕虜は不名誉な存在として黙殺された。皇軍将兵たるもの戦陣にあっては「生きて虜囚の辱めを受けず」であり,降伏することは許されない。死ぬまで戦い降伏を拒否することは,日本軍が頑強に戦うことにつながる。火力,航空兵力の絶対的不足を,精神力,士気の高さで補おうとした。

1943年「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」が波平暁男/伊藤武雄/伊藤久男によって歌われた。作詞 裏巽久信,作曲 山田耕筰

藤田嗣治は,1943年5月29日、アラスカのアリューシャン列島西端での『アッツ島玉砕』を描き、悲劇の英雄叙事詩、戦争殉教画のように抑揚をきかせて賛美した。
アッツ攻防戦は,米軍の戦死550名に対して日本軍の戦死は2,638名という殲滅戦であるが,大本営は翌日,「玉砕」と呼んで,国民の士気を高めようとした。守備隊長山崎保代(やすよ)陸軍大佐は「軍神」とされ,死後,中将に二階級特進した。

「玉砕」の出典は,北斉書元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(人間は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」とされるが,最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊のほぼ全員2400-2600名が戦死した時である。「全滅」では,日本軍敗退が明らかになってしまうから,敗退の責任を回避するために「玉の如くに清く砕け散った」と喧伝した。

米軍の戦死者は,1943年Attu, Aleutian Islands, Alaska WW-II KIAは墓地ごとに全て記載されている。しかし,日本側にはアッツ玉砕を喧伝しても,戦死や名簿は公開されていない。山崎部隊長以外、戦死した個々の勇士・氏名には全く無頓着である。個々人とその思いに無関心なままに,玉砕を賞賛しているかのようだ。

アッツ島日本軍医将校の日記:DIARY OF NEBU TATSUGURI, M.G.(ネブ=念夫(?) タツグリ=辰口?)Medical Officer, North Pacific, Defense Field Hospital Attu Island

5/12:空母艦載機の空襲。艦砲射撃の轟音。戦闘準備。
5/13:対空機関砲は予期せぬ米軍の攻撃で破壊され,部隊は撤退した。夜,10丁の敵の優秀な小銃を鹵獲。丘で負傷した15人の患者を野戦病院に収容。
5/28: 塹壕からの迫撃砲と対空機銃の音が聞こえる。負傷者を殺すために400本のモルヒネが配られたようだ。
5/29:本日2000,司令部に集合。野戦病院班も集合。最期の突撃をかけなくてはならない。患者全員が自決させられた。33名が生き残ったが,私も死ぬであろう。最期の突撃は1000人を少し上回る程度。敵砲兵陣地を攻撃する予定。(概要記述終わり)

日本軍ある指揮官の日記DIARY OF AN UNKNOWN JAPANESE N.C.O.HEADQUARTERS LANDING FORCE Attu Islandの記述
5/12:1000まで敵偵察機が上空を旋回。1030,15隻の敵船が接近してきた。第一中隊は敵の攻撃準備ができていない。引き続き,27隻の敵船が上陸中との情報を得る。私達は睡眠なしで火砲に弾薬を運んだ。
5/13:我が軍の希望は,輸送船団と航空機の救援である。 我々は夕食後で弾薬を再度運び始めた。
5/14:濃霧。 0200の朝食、そして高射砲のための砲弾運搬。 0500から再度艦砲射撃を聞く。我々は東部で銃座の守備任務に当たる。 戦いは継続中。
5/17:攻撃準備をしたが,火砲は故障して発砲できず。これは我が軍の最後の1門だ。
5/24:敵艦が海上をパトロールしている。北鎮山は雪に覆われている。2隻の日本駆逐艦が救援に来ることは不可能になった。我が軍の希望は増援部隊だけであるのに。(筆者注:参謀本部は、アッツ救援放棄を決定しているので,これらはアッツ守備隊将兵で広まっていた希望的観測、噂である)
5/25:火曜日。晴れ。敵11機が爆弾投下。空腹であるが,もはや配給はない。おにぎり3個を受け取ったのみ。
5/26:水上機(海軍機?)が爆撃にやってきた。輸送船団が来航すというニュースを聞いた。(最後の最後まで、アッツ救援を待ち望んでいたが、日記はこれで終わる)

アッツ島の日本軍守備隊は,アッツ島が放棄され,玉砕命令が出ているとは知らない。それどころか,日本軍の反撃が開始され(実際に5月22・23日に日本海軍機がアッツ島を爆撃した),5月26日になって,輸送船団が来航して増援部隊が救援に来るとの噂が流れた。誰も突撃して戦死するか,自決するかという選択を迫られるとは,最期の数日まで予期できなかったのである。


写真(上左):1943年5月27日、アッツ島日本軍守備隊の組織的抵抗の終了を伝える米軍の拡声器
:まだ日本軍将兵は残っていたが、有力は反撃手段はもはや無く、逃げ道もふさがれていた。John Keller's Attu Scrapbook 1943-1944引用。図(上右):アッツ島で米軍将兵に奪取された日章旗George Bishop, Stan Dayo and Jim Picken at Attu with captured Japanese flag.:日本の将兵は個人の私物としてお守りのような日章旗を戦地に持っていった。日章旗に「武運長久」など書入れをしたものも多い。このような日章旗は、米軍将兵の最大級の戦利品である。 These three trappers served in Alaska Scouts. Bishop who was from Colorado, he trapped in the east fork Kuskokwim and Salcha rivers from 1925 to 1945. Picken was from Washinton and Dayo was from Wisconsin". Subject.TGM: Trappers


GUARDING THE UNITED STATES AND ITS OUTPOSTS by Stetson Conn,Rose C. Engelman,Byron Fairchild:Clearing the Aleutiansによれば,アッツ攻防戦では,米軍は上陸部隊に1万5,000人以上を投入し,死者549人,戦傷者 1,148人,病気・戦闘以外の負傷者2,100人であった。悪天候と低温に起因する負傷が多かった。 ブーツは不完全なものであった。日本軍は,死者2,350人,捕虜29人であった。

松岡正剛の千夜千冊第八百三十二夜【0832】03年08月06日村上兵衛『国破レテ』1983・1996 サイマル出版会,には次のような正鵠を得た見解が述べられている。
「日本兵が最後まで戦ったのは、日本の武人の伝統ではない。昔の武士は投降を必ずしも恥辱とは思わなかった。それが「生きて虜囚の辱めを受けず」というふうになったのは、おそらく昭和国家主義の時代になってからである。そこには捕虜は帰れないという間違った伝達も縛りになっていた。」(引用終わり)

日本軍が,降伏を認めないのは,兵器・兵力の上で劣勢な日本軍の唯一の武器は,精神力であるからだ。死ぬまで戦うという敵愾心,熱狂がなければ,到底,装備優秀な米軍に抵抗することはできない。兵力を比較して対戦したら,撤退するか,降伏するしかない。降伏>投降>捕虜を許さないという鉄の規律があってこそ,最期まで将兵を戦わせることができる。

死ねば軍神として最大級の賞賛を送られ,追悼される。しかし,降伏して捕虜となり生き残れば非国民として黙殺する。(生き残ったことを誹謗することはしない。全員玉砕している建前になっているのであるから。捕虜となれば生きられることを教えはしない。)

1943年5月以降,守備隊殲滅という日本軍敗退は,1943年11月22日タラワ環礁(ベティオ島),1944年2月5日クェゼリン環礁,7月3日ビアク島,7月7日サイパン島,11月24日ペリリュー島,1945年3月17日硫黄島,1945年6月23日沖縄と続く。

アッツ島玉砕「山崎保代大佐への玉砕命令」を読む。

アッツ島の戦いを戦術的に見ると,日本軍による「アッツ島玉砕」の喧伝には,次のような「大敗北の恐怖」が感ぜられる。
.▲奪津膽虍隊撤退判断が遅れで,撤退不可能になっるという咲く戦場の誤りが露呈する恐怖。(無能な作戦指導をする陸軍参謀本部,という現地部隊からの批判,大元帥からのお叱り)
▲▲張津膽虍隊が壊滅すると大本営自らが「大敗北の恐怖」を感じた。(不敗の日本軍という神話の崩壊)
山崎保代部隊長以下,日本軍守備隊が勇戦し,部隊長が降伏命令を出せば,日本軍全体の鉄の規律「死ぬまで戦う(降伏して捕虜にならない)」が崩壊することを恐れた。(作戦指導への信頼欠如,軍紀紊乱,厭戦気分の萌芽)
 

5月29日1052発大本営宛て「北海守備第二隊地区隊最後ノ決意並処置大要」(web大本営発表引用 )

一、二十五日以来ノ敵陸海空ノ猛攻ヲ受ケ、第一線両大隊ハ殆ド潰滅 全線ヲ通シ残存兵力約150名---
二、----本二十九日夜攻撃ノ重点ヲ大沼谷地方面ヨリ---急襲、敵ニ最後ノ鉄槌ヲ下シ之ヲ殲滅シ皇軍ノ真価ヲ発揮セントス
三、野戦病院ニ収容中ノ傷病者 其ノ場ニ於テ軽傷者ハ身自ラヲ処理セシメ、重傷者ハ軍医ヲシテ処理セシム。非戦闘員タル軍属ハヨク......ヲ取リ、陸海員トモ一隊ヲ編成、攻撃隊ノ後方ヲ前進セシメ、共ニ生キテ虜囚ノ恥カシメヲ受ケザル様覚悟セシメタリ
四、---無線電信機ヲ破壊、暗号書ヲ焼却ス
六、---最早補給ノ道ナク、且狭隘ナル地域ナルヲ以テ長期ノ持久ハ望ミ得ザレバ之ヲ放棄ス

1943年5月30日大本営発表「アッツ島玉砕」
一、アッツ島守備部隊は5月12日以来、極めて困難なる状況下寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ、同29日夜敵主力部隊に対し最後の鐵槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く杜絶全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは之に先ち悉く自決せり
我が守備部隊2千数百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり
敵は特殊優秀装備の約二万にして5月28日までに与えたる損害6千を下らず
二、キスカ島はこれを確保しあり(引用終わり)

当時の北海道新聞の見出しには「アッツ島我守備部隊玉砕」「壮烈無比!皇軍の真髄世界に顕示」「傷病者は悉く自決」「最後の猛突撃敢行」「ああ、神兵 山崎部隊」「キスカ島は確保」とある。 

『写真週報』情報局編集 昭和18年6月16日発行第276号は,「断じて仇を討たん」と伝えた。民間人の次の声も載っている
・町会長「一億一丸です。それには先ず一町一丸が先決だ。アッツの感憤をもって、今こそいざこざを一掃して国債の消化に、貯金に、職域を通じて米英へ「火の玉」体当たりを敢行すべきときです。」
・早稲田大学生「これが血みどろな戦争の本質だと感じた。ペンを銃に持ち換えて、祖国の決戦に立つ秋が来た。われわれはいわゆる「学校教練」をかなぐり捨てて,銃剣の突撃を学ばねばならぬ。躊躇なく敵を突き刺すことが勝ちの絶対だ。


日本の報道によれば,山崎保代部隊長が1943年5月29日万歳突撃を敢行,5月30日には玉砕したようにみえる。しかし,5月23日、軍は山崎隊長に「玉砕」するように命じていた。
大本営1943年5月23日発電「最後に到らば潔く玉砕し、皇国軍人の精華を発揮するの覚悟あるを望む」
山崎保代部隊長返電「その期至らば、在島将兵全員喜んで一丸となって死地につき、魂魄は永く祖国を守るものと信ず」


山崎保代大佐は忠勇なる武将であり,部下も勇敢であった。しかし,アッツ島日本軍守備隊は,自ら発意して喜んで玉砕したのではない。日本軍将兵は、友軍の増援、救援を待ち望みつつ戦った。大本営が輸送も支援も困難な遠隔地へ部隊を配備するという失策のために、「玉砕」させられた。

米軍は特殊装備だったが,冬季用の軍靴や外套は不適切であった。陸上への支援艦砲射撃も,後年の島嶼攻防戦と比較すると手ぬるかった。航空支援も悪天候のために不十分であった。結果として,日本軍は,地形と濃霧を利用して,敵の火力を緩和し、頑強な抵抗を継続できた。しかし、大本営発表では頑強な抵抗は、ひとえに日本軍の犠牲的精神のためとされ,精神力だけが賞賛された。


写真(右):アッツ島で集団自決MASS SUICIDEした日本軍将兵の遺体
: "Attu -- Every one a bloody, gruesome corpse with a part of his body torn away, these Japs [ Japanese ] died by their own hand in a mass suicide on Attu, in the Aleutians. Most of the Nips [ Nipponese ] died when they held hand grenades to their chests. The smoke in background rises from an American supply dump left burning by the Japs [ Japanese ]. LF 717149 WP Full DJH Credit line--WP--(Acme) 3/17/44 (RK)"


日本軍による「アッツ島玉砕」喧伝の意味:
.▲奪津腓覆疋▲螢紂璽轡礇麥鹽腓鯑本軍が確保するのは不可能であり,守備隊は撤退させるべきだが,その判断がおくれて,撤退不可能になった責任を回避する。
▲▲張津臉錣壊滅すると大本営が判断した時点(5月23日)で,玉砕命令を出したことを隠蔽する。(大本営発電「最後に到らば潔く玉砕し、皇国軍人の精華を発揮するの覚悟あるを望む」)
山崎保代部隊長以下,日本軍守備隊が勇戦し,降伏することなく,国体の精華を発揮して殉死した。これを賞賛する。(山崎部隊長返電「その期至らば、在島将兵全員喜んで一丸となって死地につき、魂魄は永く祖国を守るものと信ず」)


アッツ島の日本軍守備隊は,救援を待ちわびていた。山崎保代大佐は,玉砕命令をうけて,従容として死に赴く覚悟を決めたであろうが,部下に玉砕命令を伝えてはいない。残された日記,生き残った日本軍将兵の証言には,日本軍の救援を頼みに抵抗する姿が記されている。孤島で2週間も6倍以上の敵に抵抗できたのは,玉砕精神があったからではない。日本軍の援軍が来てくれると信じていたからである。増援は間に合わない(実際には救援放棄)と悟ったとき,追い詰められた将兵たちは,万歳突撃、手榴弾自決した。

日本軍将兵は,米軍の捕虜になれば,無残に殺害されると考えた。日本軍が,中国、フィリピンで行った捕虜虐待を思い起こせば,その報復として,自分たちも,虐待され,処刑されると信じる理由があった。無残に殺されるなら,潔く自決したほうがいいと当時の日本人は考えた。

アッツ守備隊玉砕を賞賛することで,参謀本部も免責された。「アッツ守備隊は賞賛に値する玉砕を遂げたのであり、誤った作戦指導の犠牲ではない」と強弁された。

大本営は,見殺しにしたアッツ守備隊の玉砕のおかげで,大敗北の責任を取らずに住んだ。敗北責任を参謀本部にとらせれば,山崎部隊の栄光ある玉砕に「敗北」の傷をつけてしまう。これを避けるために,参謀本部の責任は不問に付された。

アッツ島玉砕の真実:山崎大佐への玉砕命令参照。

2.1943年までは、マリアナ諸島サイパン島などは、製糖業が興隆しており、戦線後方ということもあって、敵上陸など夢想だにしていなかった。陣地構築や守備隊編成など、本格的な陸戦の準備もまったくしていなかった。民間人も将兵もつかの間の平和を楽しんでいたように見える。

1914年、第一次世界大戦勃発後、日本連合国側にたって参戦し、ドイツ領南洋群島を占領
1915年、南洋群島占領諸島施政方針制定。南洋群島伝染病予防規定及び傷病者救療規定を制定。南洋群島税則制定。
1917年、西村惣四郎一族が出資してサイパン島に西村製糖所を設置。1915年設立の南洋企業組合を南洋拓殖株式会社とする。


写真(上左):1936年,サイパン島高等小学校(旧制中学相当)の弁論大会
:Speech contest in Saipan High School, pre-war.Source: Akira Manago. 写真(上右):1938年3月、サイパン島ガラパン市高等小学校(旧制中学相当)の卒業式:Pre-war, Japanese senior high school graduation, Saipan, March 1938. Graduating students are standing. Teachers are seated, left-to-right: 1) Mr. Horiuchi-Agriculture; 2) Mr. Kimura-Commerce; 3) Mr. Manago-Japanese and Chinese Literature; 4) (unknown); 5) Mr. Nishioka-Principal; 6) Mr. Tazima-English; 7) Mr. Uchida-Agriculture; 8) (unknown); 9) Mr. Hori-Military Training.Original Author: Bill Bezzant:Volunteer Saipan, Northern Mariana Islands. Source: Akira Manago

1920年第一回島勢調査実施(群島人口総数 5万2222人 ;日本人3671人、島民4万8505人、外国人46人)
1923年、南洋興発株式会社に砂糖製造業を開始。原料採取地域はサイパン島一円。1928年、南洋興発株式会社、テニアン島に製糖工場設置。
1935年第四回島勢調査実施(群島人口総数 10万2537人;日本人5万1861人(朝鮮人、台湾人含)、 島民5万5733人、外国人103人 )(→南洋群島・日本関係略年表(琉球大学HP)引用)

南東方面への補給中継基地であり、日本本土への貴重な砂糖の供給地だったことから、1943年までは、日本郵船の本土定期便も就航していた。ガラパンの町は、南洋興発の企業城下町といえるほど、栄えていたようだ。1943年からは、サイパン島、テニアン島からの学童疎開が行われたが、これは徹底したものではなく、島に残った子供たちも多かった。まだ、サイパン島守備隊は増強されていなかった。日本軍将兵が少ないために、戦場には、当分ならないようにもみえた。現在の視点から見れば、米軍が大挙してサイパン島に侵攻してくるのを前に、島の人々は戦火を恐れていたように思えるが、当時は、戦局が正確に知らされたわけではなく、サイパン島の陣地構築も進んでいなかった。サイパン島の民間人も、連合艦隊の海軍力、航空戦力を信じていたのである。(南洋興発関係者鈴木氏への2006年11月の聞き取りより)


写真(上左):1936年,サイパン島ガラパン町大運動会に参加した児童
:Saipan kindergarten nursery school, boys and girls attending the day of "Dai-Undohkai" which was held on "Garapan-Dai-Undohjyo" in 1936. Source: Akira Manago 写真(上右):サイパン島の日本陸軍将兵:1930年代か1940年代初頭と思われる。Members of the Japanese garrison on Saipan pose for a photograph during a more peaceful time before the Marine landing. From: Breaching The Marianas: The Battle For Saipan. Marines In World War II Commemorative Series. By Captain John C. Chapin, U.S. Marine Corps Reserve (Ret.). Published by History and Museums Division, Headquarters, U.S. Marine Corps, Washington, D.C. as part of the U.S. Department of Defense observance of the 50th anniversary of victory in that war.


3.1944年6-7月のマリアナ諸島サイパン島では、日米航空戦、空母決戦が行われた。日本軍は、基地航空隊と空母機動部隊を編成して、米軍の空母任務部隊を迎撃したが、大敗北に終わった。これが、マリアナ沖海戦(フィリピン海の戦い)である。

1914年10月、第一次世界大戦に連合国として参戦した日本は,赤道以北のドイツ領南洋諸島全体を占領した。1920年には国際連盟の委任統治領となり、サイパン島には南洋庁サイパン支庁が置かれた。1943年8月の時点で,人口は日本人(台湾人、朝鮮人含む)2万9348人、チャモロ人、カナカ人3926人、外国人11人という。

日本陸軍は1943年2月25日,サイパン島に司令部を置く第三十一軍(軍司令官:小畑秀良中将)を編成し,これを海軍の中部太平洋方面艦隊司令部の指揮下に置いた。


写真(右):日本海軍航空隊の「天山」艦上攻撃機;雷撃機あるいは哨戒機として活躍したが、サイパン島の戦いでは戦果を挙げられなかったようだ。レーダーや通信機器の不備、エンジンなど期待の不調、搭乗員の戦域不慣れなどもあるが、航空兵力で圧倒的に優位な米海軍の空母任務部隊を攻撃することは、自滅消耗戦であった。米軍第7航空軍ジャック・フラナガンが1944年6月21日(上陸6日目)に鹵獲したネガを現像して入手した写真。Some of these images are from Japanese 35mm undeveloped film found at Aslito airfield on D-Day+6 (June 21, 1944) by Jack Flannagan, 318th Fighter Group, 7th AAF.

サイパン島,テニアン島,グアム島,ロタ島,ヤップ諸島,パラオ諸島などには,基地航空隊が配備され,洋上で来寇する米空母任務部隊を迎撃する計画を立てた。そのために,第五基地航空部隊 (第一航空艦隊)を編成して、司令長官 角田覚治海軍中将,参謀長 三輪義勇大佐の下に 第六一航空戦隊9個航空隊、定数696機を配備した。

ここには、最新鋭の急降下爆撃機「銀河」、「彗星」のほか、制式前の偵察機「彩雲」も配備された。八幡部隊として、生き残った歴戦の搭乗員を集めた精鋭部隊を編成し、雷撃や爆撃によって、米海軍の空母を撃沈する機会を窺っていた。


写真(上左):1944年,サイパン島「アスリート」(米軍命名)飛行場で鹵獲された日本海軍の零式艦上戦闘機
:米国で飛行可能に修復整備された機体。2004/07/01 by David_Aiken引用。写真(上右):米軍のサイパン島アスリート飛行場偵察写真の日本海軍零式戦闘機:saipan-aerial_03.bmp 投稿者 : David_Aiken、日付 : 2004/07/01引用。これらの機体のうち零戦13機と九七式艦上攻撃機(Kate)B5N2の1機が、1944年7月、米海軍護衛空母「コパイ」Copahee CVE-12によってサイパン島ガラパン港から米国に13機運搬された。損傷して使用不能の機体もあり、日本軍は、囮(デコイ)としても利用したようだ。


マリアナ諸島、トラック諸島などの基地航空隊は、日本海軍の空母機動部隊と共同して有効な邀撃をするはずだった。しかし、米海軍空母任務部隊によって、各個撃破され、空母艦隊決戦「マリアナ沖海戦」の時には無力化されていた。遠距離移動を伴う兵力の逐次投入は,基地の整備不良,搭乗員の練度低下,機材の故障などのために,大損害を被った。

米任務部隊がサイパン島を攻撃、米軍が上陸したとき,もはやテニアン島,グアム島,ロタ島など近隣の島々に展開していた第一航空艦隊は,壊滅的な状態だったようだ。

1944年6月20日1600大本営発表「サイパンに来襲せる敵は6月15日午後同島の一角に地歩を占むるに至り、午後逐次兵力増強中にして、我が守備隊は之を邀撃し、多大の損害を与えつつあり
-----我が航空部隊は、連日右の敵機動部隊に対し攻撃を加えたり。
6月20日以降本日まで判明せる戦果左の如し
撃沈 戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻、潜水艦1隻
撃破 航空母艦4隻以上、戦艦2隻、巡洋艦4隻、輸送船6隻、艦種未詳1隻
撃墜 300機以上」

マリアナ沖海戦(米軍側のフィリピン海の戦い)とは、米軍の第38空母任務部隊所属の航空母艦15、戦艦7、重巡洋艦8、軽巡洋艦12に対して、日本の第一機動部隊は、航空母艦9、戦艦5、重巡洋艦11、軽巡洋艦3が、邀撃した海空の戦いである。

写真(右):1944年6月19日,マリアナ沖海戦で日本機の攻撃を受ける米護衛空母「キトカン・ベイ」USS KALININ BAY (CVE 68);フィリピン海の戦いで日本機を撃墜したが,この4ヵ月後に,レイテ島沖で特攻機に突入されることになる。

日本軍は、海軍の基地航空隊が大戦果をあげたとの報道を行ったが、実際にはほとんど戦果はあげられなかった。 米軍の記録World War II Resources:The Pearl Harbor Working Group ;Index of /pha/chr June 1944「フィリピン海の戦い」 Battle of the Philippine Sea
06/19 Mon. Battle of the Philippine Sea (19-20 June):日本海軍艦載機が、米海軍第5艦隊Fifth Fleet (スプールアンス提督[大将]Adm. R. A. Spruance)を攻撃.
米海軍 戦艦2隻, 空母2隻,重巡洋艦1隻が被害を受ける。
日本側は、航空機300機以上を失い、空母2隻が米海軍潜水艦によって撃沈。
日本艦の撃沈:空母「翔鶴」 by submarine CAVALLA (SS-244
空母「大鳳」 by submarine ALBACORE (SS-218)
米艦載機により空母「飛鷹」撃沈

1944年6月23日1530大本営発表「我が連合艦隊の一部は、6月19日マリアナ諸島西方海面において---敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行い---敵航空母艦5席、戦艦1隻以上を撃沈破、敵機100機以上を撃墜せるも決定的打撃を与ふるに至らず。我が方航空母艦1隻、付属油槽船2隻および飛行機50機を失えり」

マリアナ沖海戦(フィリピン海の戦い)で、日本海軍の正規空母3隻、特設空母6隻、艦載機360機を中核とする第一機動部隊は、正規空母2隻、特設空母1隻を撃沈され、航空機300機を失った。大敗北である。サイパン島救援は絶望的で、もはや玉砕を待つだけとなった。しかし、サイパン島やテニアン島にいた日本の将兵・民間人は、連合艦隊が壊滅したことは知らない。日本艦隊がサイパン島を救援が来るものと期待していた。

マリアナ沖海戦;空母決戦での大敗北「本土空襲と特攻の契機」を参照。

4.1944年6-7月のマリアナ諸島サイパン島「玉砕戦」では,日本軍将兵・民間人約3万7000人が死亡し、守備隊は殲滅された。しかし,軍人・軍属の捕虜、朝鮮人労務者(飛行場設営部隊)捕虜について、軍は言及しなかった。他方、日本の民間人約2万人の民間人のうち,約8000人が米軍によって殺害されたり、自殺に追い込まれたりした。

テニアン島野戦いは、テニアン侵攻(Don A. Farrell著Tinian(Micronesian Productions,CNMI) )、The Effort at Tinian the Northern Mariana Islands and WW2、HyperWar:The U.S. Army Campaigns of World War II;Western Pacific 、Tinian Mariana Islands を参照。


写真(上左):1944年7月15日,サイパン島に上陸用舟艇で上陸した海兵隊員
:"U.S. Marines land on Saipan Beach,15 June 1944." Photograph courtesy of the CNMI Historic Preservation Office.写真(上右):サイパン島の難民を収容所で保護する米第27師団将兵:"Men of the 27th Army Infantry Division keep guard over the refugees in their camp.Each of the three combat units involved in the invasion of Saipan guarded its own camp during the battle for Saipan. After the battle they were consolidated." Photograph and caption from Farrell (1991).


 サイパン島には第43師団(師団長:斎藤義次中将),独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐)があったが,第43師団の火砲の輸送は遅れ、師団主力の到着は米軍の上陸の20日前であった。簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しかなかった。
第三十一軍司令官小畑中将は、5月28日からパラオ環礁出張中であったが,その出張中の6月15日,米軍の攻勢が始まった。小畑軍司令官は,サイパン島に帰還できず,隣のグアム島から指揮を執ることになった。

1944年6月15日0700、米軍はサイパン島に上陸開始。9時ごろまでに300両以上の上陸用装軌車LVT(Landing Vehicle Tracked)が海兵隊8000名を運搬した。その夜、日本軍は,戦車を含み反撃したが,夜襲は失敗した。
6月16日、第27歩兵師団が上陸し,アスリート飛行場に向け進撃し,翌日には飛行場を占領した。


写真(左):サイパン島に配備された日本海軍航空隊の零式艦上戦闘機;1944年6月、上陸した米軍が鹵獲した写真。護衛空母によって,本国に持ち帰られた機体も多い。玉砕戦というには,多数の日本軍機が無傷で鹵獲されているのには,驚かされる。機密保持は,旧式機体とわかっていたために,行わなかったのか。キスカ島の特殊潜航艇,沖縄の人間爆弾「桜花」,特攻艇マルレを米軍の手に渡してしまっているが,これと同じく,情報戦の備えがないようにみえる。

1944年6月16日1700大本営発表「マリアナ諸島に来襲せる敵は、15日朝に至りサイパンに上陸を企図せしも前後2回之を水際に撃退せり。敵は同日正午頃3度来襲し今なお激戦中なり」

マリアナ諸島のサイパン,テニアン,グアム,ロタの4島には,日本軍の飛行場があり,この陸上基地を整備して「不沈空母」として,侵攻してくる米空母任務部隊を叩こうとした。これが「あ号」作戦(Z計画)である。しかし,この作戦企画書は,フィリピンに不時着した参謀の書類としてフィリピンのゲリラに鹵獲されていた。計画は,米軍に知られていたのです。基地航空隊は,満足な戦果を挙げられないうちに壊滅してしまった。残る戦力は日本海軍の第一機動部隊である。日本海軍の連合艦隊司令長官豊田副武大将は,6月15日、あ号作戦を発動。これが,マリアナ沖海戦(フィリピン海の海戦)である。
機動部隊司令官小沢治三郎中将は,遠距離攻撃「アウトレンジ戦法」を採用したが,日本の搭乗員は未熟であり,レーダー・無線に誘導された米軍戦闘機による迎撃,近接TV信管の威力の前に攻撃は大失敗に終わった。米軍は「マリアナの七面鳥撃ち」と嘲笑した。


写真(上左):1944年7月,サイパン島に上陸した水陸両用装軌艇LTV
:キャタピラ装備の水陸両用貨物/人員運搬装軌車。写真(上右):サイパン島の水陸両用トラックDUCKと砲弾:車輪を装備した水陸両用トラック。手前にあるのは、運搬してきた砲弾。


図(上左):1944年7月15日,米軍のサイパン島上陸当日,夜襲をかけ壊滅した日本陸軍九七式中戦車
:サイパン市までもテニアン島でも、騒音を撒き散らす軽装甲の戦車は、火砲の威力不足もあって、戦果をかくだいできないまま、殲滅させられた。米軍は最後まで37ミリ対戦車砲を装備していたが、このような小口径の速射砲でも、日本軍に対する効果は大きかった。"U.S. Marines land on Saipan Beach,15 June 1944." Photograph courtesy of the CNMI Historic Preservation Office.図(上右):サイパン島の米軍将兵


サイパン島の日本軍守備隊は,中部山岳地タポチョ山(標高250m)に後退し,地下陣地を中心に抗戦した。6月24日、戦意不足として,米軍の第27師団長ラルフ・スミス少将が更迭。その後,米軍の攻勢の前に,7月6日深夜から翌7日、斉藤義次陸軍中将は残存部隊約3000名に総攻撃「万歳突撃」を命じた後、司令部要人は自決した。中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一海軍中将、海軍第五特別根拠地隊・辻村海軍少将など海軍司令部も自決した。7日「万歳突撃」を敢行した日本軍は玉砕した。7月9日、北部のマッピ岬(バンザイクリフ)やタポチョ山の断崖(スーサイドクリフ)に避難してきた日本民間人は、投身自殺した。この日、米軍はサイパン島の占領を宣言。 (⇒wikipediaサイパンの戦いおよびサイパン島玉砕参照)


写真(右)サイパン島最大の町ガラパンU.S. Marine Corps Artist,U.S. Marine Corps Museum所蔵, Washington, D.C. 廃墟になったが、完全に倒壊した家屋ばかりではない。

サイパン在住の民間日本人は、第一次大戦中、日本がドイツ領だったこの地を占領,統治するようになって、急増した。1920年第一回島勢調査実施(群島人口総数 52,222人 ;日本人3,671人、島民48,505人)から、1935年第四回島勢調査実施(群島人口総数 102,537人;日本人51,861人(朝鮮人、台湾人含)、 島民50,573人)に2倍増になっている。(南洋群島・日本関係略年表(琉球大学HP))
開戦当時、サイパン島には製糖業で栄えた「南洋興発」関係者ら約2万人の日本人が在住し、うち約1万2000人が死亡したとされる。バンザイクリフ、スーサイドクリフでの自殺者の数は不詳だが、1000人以上ともいわれる。
のちに、サイパン陥落を伝える大本営発表は「在留邦人は終始軍に協力し、およそ戦い得るものは敢然戦闘に参加し、おおむね将兵と運命を共にせるもののごとし」とした。


図(右):グアム島からサイパン島に飛来し,鹵獲された零式艦上戦闘機;米軍上陸後,米軍は直ぐに日本軍の飛行場を占領した。しかし,それを知らなかったらしい日本軍の戦闘機が,1944年7月17日,グアム島から飛来し,サイパン島に着陸し鹵獲された。あるいは,機体が故障しての不時着,サイパン島とグアム島の飛行場を錯覚した,投降とも考えられる。The airfield was recaptured by the 27th Infantry Division on the night on June 16-17, 1944. A6M Zero Fighters were captured intact at the airfield after the American attack. During the recapture, a Zero actually landed at Aslito from Guam. The pilot was unaware that the field had fallen to the Americans. As it landed it was fired upon and it crashed at the end of the strip. The pilot survived and the plane was captured.

1944年6月11日,米軍はサイパン島を空襲し,13日からは艦砲射撃を行った。そして,6月15日,総勢7万人の米軍は,マリアナ諸島の日本軍壊滅のための第一段作戦として,サイパン島に上陸開始。サイパン守備の日本軍は第43師団(斉藤義次陸軍中将)、中部太平洋方面艦隊(司令長官南雲忠一海軍中将)など4万人であるが,火力は劣っていた。日本海軍は結成以来最大の空母機動部隊を編成して「あ号作戦」を開始した。しかし,マリアナ沖海戦で米海軍任務部隊に大敗し,6月24日には,天皇にサイパン島奪回が不可能であることが上奏された。7月6日には日本軍将官たちも自決した。その後、3000名の日本軍将兵が、万歳突撃を敢行し,マッピ岬では多数の民間人が、断崖から身を躍らせ自決した。アッツ玉砕の1年後のことである。玉砕は,日本軍将兵だけではなく,日本民間人にまで及んだ。


図(右):サイパン島に配備された日本軍の三年式14サンチ砲:海岸防備用に砲を砲架と砲身と分解・軽便鉄道輸送の途中、貨車ごと米軍に鹵獲されたものと思われる。;1944年7月に上陸した米軍が鹵獲。この写真は、以前の説明では、米軍に捕獲された日本軍の列車砲としたが、海岸砲として配備する途中だった三年式14cm砲とのご指摘を宮崎の稲田様よりいただいた。それに基づき修正。

サイパン陥落 命捨てるの間違い、語り継がねば引用
海岸沿いの洞窟から、君が代が聞こえてきた。「軍の玉砕命令が出た。これから参加する」という日本兵の合唱だった。その傍らで、兵士に「うるさい」と怒られた男の子を父親が海に放り込んだ。「父ちゃんも後で行く」と叫びながら。
 さらに北へ。行き止まりのマッピ岬は、大勢の日本人でごった返していた。海から投降を促す米軍の呼び掛けが聞こえてきたが、高等女学生だった佐藤多津さんは「捕虜になるなら、持参した青酸カリで自殺した方がまし」と思った。「戦陣訓」の教えは兵士だけのものではなかった。
 父は「八月八日ごろ、連合艦隊がやってくる。日本がサイパンを見捨てるはずがない」と言った。次にたどり着いたスーサイドクリフの断崖。そこで見たものは「天皇陛下万歳」と叫びながら飛び降りる日本兵の姿だった。
 日本軍の敗北を知らないまま、佐藤さんの逃避行は三カ月に及ぶ。八月には母を、九月には父を米軍の銃撃で亡くした。九月中旬、二十人もの米兵に包囲され、あれほど拒んだ捕虜になったことで、佐藤さんは生き延びた。(東京新聞2005年6月20日引用)

写真(右):1944年7月サイパン島で日本軍を砲撃する米軍の4.5インチロケット砲搭載車Provisional Rocket Companies' truck-mounted 4.5-inch rocket.同じ車両はテニアン島でも活躍している。(leegallery引用)

南雲忠一中将は,第一航空艦隊司令長官として,1941年12月 8日の真珠湾攻撃を準備し,指揮した。その後,1942年6月5日にミッドウェイ海戦で敗北した。しかし,1941年3月から中部太平洋方面艦隊司令長官として,サイパン島にあった。7月6-7日に自決。7日の万歳突撃には参加していない。

1944年6月15日 米軍サイパン島上陸
1944年6月19-20日 マリアナ沖海戦(フィリピン海の戦い)。日本海軍の第一機動部隊と基地航空部隊の壊滅。
1944年7月6日 サイパン島日本軍守備隊、大本営へ訣別電を発信。
1944年7月7日 サイパン島陥落。日本軍守備隊殲滅。
1944年7月7日 米軍グアム島に上陸
1944年7月24日 米軍テニアン島に上陸
1944年8月2日 テニアン島陥落。日本軍殲滅。
1944年8月11日 グアム島陥落。日本軍殲滅

5.1944年6-7月のマリアナ諸島サイパン島などでの「玉砕」には、玉砕命令、鬼畜米英のプロパガンダ、捕虜となった場合の処刑の恐怖が、戦陣訓の捕虜となり、投降を戒める教え、国体への忠義殉死の思想、熱狂的な愛国心と一体となった結果であると考えられる。

<南雲忠一中将 最期の訓示>サイパン島玉砕引用
サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵および軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり。

然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず。人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る。無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり。サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず。
今や、止まるも死、進むも死、死生命あり。須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す。余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。
戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。
(引用終わり)

米兵に殺され,米兵の足元に転がったまま、仰向けになった日本の死体は、藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を完うす」が鑑賞者に与える印象とは全く異なる。殺された日本へ兵は晒し者にされたようで、哀れで悲惨である。あんなにはなりたくないと思わせる。捕虜になれば処刑される,辱めを受ける,このような戦争プロパガンダによって,日本は敵将兵への恐怖を植え付け,徹底抗戦させ,降伏して捕虜となる逃げ道を断った。サイパン島の日本軍将兵も民間人も,本土防衛の捨石となる覚悟ではあったが,捕虜となり処刑され,辱められることを思うと,恐怖を感じた。臣節をまっとうしたといわれるが,実際の自決・集団死の心理は,粛然たる死、殉教とは異なり,苦悶に満ちたものだったと考えられる。それを,国体殉教美談としてのみ喧伝するのであれば,祖国日本,国体,家族を思って死んでいったものたちの心情を伝えることはできるのであろうか。

写真(左):1944年7月サイパン島で日本軍万歳突撃を迎え撃つ米兵Eugene Smith/Following Japanese Suicide Charge_Saipan_1944.(Eugene Smith引用)

玉砕という死に方―サイパン島玉砕50年に思う引用

7月1日「サイパンのその後の模様非常に悪し。艦隊および飛行機の喪失量多く、このままでは戦争の継続もできない程度であると。婦人が銃をとっていることを盛んに宣伝している。」
7月5日「サイパンは日本人のいる東北方面へ進出し『紛戦中』とある。玉砕かも知れぬ。」
7月12日「まだサイパンが敵手に落ちたことを発表していない」「外国からの電報はすでに太平洋の制空権、制海権が敵手に落ちたことを伝えている。米国はサイパンが6日に落ちたと放送」
7月16日「発見した屍体一万何千、それからインターンされたもの九千人とある由。九千人は婦女子だろう。」(米軍報道)
7月18日「太平洋諸島に何十万、支那に百万近くの軍隊あらん。この人々の運命こそ気遣わん」
7月29日「せめて普通人にそこに居残ること」「しかしこうしたことは絶対に論議できないのだ」
8月1日「少年も死に、黒髪の婦人も死ぬ。『この自殺は何のためか。〔アメリカ人は野獣だ。誰もかれも殺戮する〕ということを信じたためであろう』と反間している。サイパンの十万に近い軍人と非戦闘員は、こうして死んでいったのである。それは封建的イデオロギーの犠牲である。軍人指導者に必随する行為である。ああ」「アッツと同じだ。こうした無意味な、凄惨な最後をして、願わくは大東亜戦争を以て最後ならしめよ。」
8月20日(女子の自殺を)「百、千倍の勇気湧く、光芒燦たり、史上に絶無」とする識者を「封建主義〜浪花節の影響〜飛行機時代に、ハラキリの絶賛」。
8月24日「サイパンの最後について、各新聞共に、外国がこれに非常に感心しているように書いている。幕末の志士が、あの服装をして海外に赴き、外人が感心したと書いているのと同じ心理だ」(玉砕という死に方―サイパン島玉砕50年に思う引用終わり)


藤田嗣治1944年作『サイパン島同胞臣節を全うす』:1944年7月初め、マリアナ諸島サイパン島の日本軍守備隊玉砕を描いた作品。米軍の死傷者1万5000名に対して日本軍将兵2万300名,民間人1万名が死亡している。軍民が一体となって防戦したが、衆寡敵せず,捕虜を出さずに潔く全員玉砕したといわれた。この作品は,軍民一体となった徹底抗戦,最後の全員玉砕を悲劇的に表現した英雄譚、国体に忠義を尽くした赤子の殉教画をのように感じられる。

「サイパン島玉砕」は,次のように述べる。
清沢洌『暗黒日記』
1944年7月19日「米英が鬼畜であるとの宣伝が行き渡っている。浦河から苫小牧までの汽車で挺身隊が乗った。その隊長が曰く『大西洋憲章というものをチャーチルとルーズベルトが作ったが日本人を皆殺しにすると決議した。男も女も殺してしまうのだと声明した。きゃつ等に殺されてなるものか」、これが汽車中の演説である。また日本人に子を生ませないように、睾丸をとるとか、或は孤島に追いやるとかいうことも、一般人の間には信じられている」
」 また清沢は、この時期の新聞記事をたくさん日記に添付しているが、それらの記事のほとんどが、米国が日本人の抹殺を企図しているという内容を扇情的に記しているものなのである。それに『毎日新聞』なぞは、「社会欄に大きく、『殺せ、米鬼を』と特別活字で書いている」(1944年3月13日)

 菅野静子「サイパン島の最期」;降伏を勧めるビラをみて、兵士は「こんなのにつられてウカウカでていこうものなら、男はみんな戦車の下敷きさ」と語る。そのことばを聞いて菅野は、「そんな場合、女の運命はわかりきっている。もしそうなったら、私はりっぱに自決しよう‥・と心にちかった。」と。----そしてこの意識は、日本軍が中国など各地で捕虜・民間人を問わず、虐殺や強姦、掠奪等を行ってきたことの裏返しである。(「サイパン島玉砕」引用終わり)

米軍兵士が死ぬまで勇敢に戦った日本兵を尊敬していたようにいう日本の識者も少なくないが,このような認識は例外である。自分や戦友を命がけで殺しに来る日本兵,万歳と叫んで死ぬのを承知で突撃してくる日本兵は,狂信的なテロリストであり,けだものであり,人間とは看做さない。そんな米兵が多かったようだ。

写真(右):サイパン島で米軍に鹵獲された日章旗:米軍にとって最大級の戦利品が、軍刀と日章旗・旭日旗(海軍旗)である。

戦闘が静まれば,戦死した日本兵の兵器は回収されたが,身に着けていた手帳や日記は,貴重な情報源として,探索の対象となった。しかし,日本兵の軍刀,寄せ書きの日章旗・旭日旗,軍帽,ベルト,手紙・写真などは,米軍将兵の個人的な戦利品Spoil of warとして剥ぎ取られた。中には,歯,骨,頭蓋骨まで戦利品とした米兵もいた。苦難の戦いを勝ち向いた証として,敵兵の身に着けていたものを,記念品として故国に持ち帰りたかったのである。このような土産物は,米軍将兵の間で売買されることも珍しくなかった。軍刀は100ドル,日本兵の歯は,1ドルだったという。

勇敢に戦死した日本へも辱められていた。戦友を殺し,あるいは負傷させた日本兵であれば,容赦なく殺したであろうし,戦利品・土産物漁りも当然である。現在美談のように報道される「日本兵の遺品の返還」にしても,なぜ米国の退役軍人やその遺族が日本兵の遺品を自宅に持っていたのかに思いを馳せると,素直には喜べないのである。

6.1944年6-7月のマリアナ諸島サイパン島などでの「全員壮烈なる戦死を遂げた」玉砕と公表され、軍人・軍属の死者は約2万9000人あった。しかし、多数の捕虜が出ている。サイパン島では、軍人・軍属の捕虜2300人(日本軍将兵1000人、朝鮮労務者(飛行場設営部隊)捕虜1300人)があった。日本軍将兵(設営部隊を含む)の捕虜率は8%。日本の民間人約2万人の民間人(朝鮮人労務者を含む?)のうち,約1万2000人が米軍によって収容され、生き残った。民間人の捕虜率は60%。玉砕した日本の軍民は少なくなかったが、生き残った日本の軍民捕虜・投降者を黙殺することはできない。サイパン「玉砕戦」は日本軍指導者の賞賛と責任回避の表現であり、われわれが受け入れるのは不適切なのかもしれない。


写真(右):1944年6月21日サイパン島で米海兵隊兵士に発見された日本婦人と四人の子供A Marine patrol on Saipan found this Japanese family hiding in a hillside cave. The mother, four children and a dog had taken shelter from the fierce fighting in that area. June 21, 1944.(The History Place引用)


日本軍将兵同様,サイパン島の住民も捕虜となり,無残に殺害されることを恐れていた。身を潜めて、自決できないまま生き残った日本の民間人に、銃を持った米軍が近づいてきた。米兵は「保護」するつもりかもしれないが,捕まったサイパン島住民は、恐怖の表情であり,臣節をまっとうするどころではない。自分の子供たちを守りたい一心で恐怖に堪えているが、捕虜になった後、辱められ,処刑される恐れも感じている。子供を思うとそう簡単に自殺もできない。

このような殺されたり,自決したり,捕虜になったりした民間人が,祖国への忠誠心から殉教すると人物として描かれたら、どのように感じるであろうか。私のリアリズムからは、「サイパン島同胞臣節を完うす」が戦争殉教画として描かれたのであれば,藤田嗣治の戦争観に共感はできない。絵画は,十分芸術的かもしれないが。

サイパン玉砕戦では,民間人の死者は8000人もあったが,生き残って捕虜となった民間人が1万2000人あった。彼らは,どのように遇されるべきなのであろうか。卑怯な非国民か,自決できない臆病者か,生き残って祖国再建に尽くそうとした義人か,悲劇の人か,普通の庶民か。

写真(右):1944年7月サイパン島で米軍の捕虜となった日本婦人たち:後方のテントに収容されているようだ。サイパン島では民間人約2万人のうち,約1万2000人が米軍によって収容され、生き残った。また,軍人・軍属の捕虜1000人,朝鮮人(飛行場建設などの労働者)捕虜1300人があった。引用)

サイパン陥落 玉砕より『生きたい』引用
仲間たちは「玉砕」を唱えた。<生きて虜囚の辱めを受けず>。「戦陣訓」の教えは浸透していた。だが、山内さんは「欧州では捕虜は保護される」ことを知っていた。「捕虜になりたい」という生への希求だけが強かった。たどり着いた海岸は日本兵の屍で覆われていた。逃げ込んだ洞窟は、日本兵の命令で、母親たちに殺された幼子の死臭が漂っていた。
 七月十四日、決意を固めた。夜明け前に洞窟をそっと出て、米軍の投降の呼びかけを待つ。 「ニホンノヘイタイサン、デテキナサイ…」。日本兵の死体が横たわる山の斜面を、声に向かって歩きだした。その時、肩からかけていた兵の証しを捨てた。----山内さんはハワイや米本土での収容所生活を経て、終戦後の四六年に帰国する。故郷には墓ができていた。約四千人の一三六連隊の生存率はわずか3%だった。(東京新聞2005年6月19日引用)

サイパン戦を生き残った 栗原茂夫さんの手記「 ドキュメント 少年の戦争体験」( 岩田忠利さん作成)には、隠れていた洞窟に米軍兵士が迫ってきた状況を次のように述べている。

 3〜4名の米兵が間近くまで降りてきた。
 「デテコイ デテコイ ミソアリマス   デテコイ」  日本兵がいないものと判断したのだろうか。今度はわたしたちに向かって呼びかけてきた。 

 「デテコイ デテコイ ミソアリマス デテコイ」
 2メートルほどの距離から上官と思われる兵がピストルを向けてきた。----「デテコイ  デテコイ・・・」はいつまでも絶え間なく続いた。実に辛抱強くいつまでもいつまでも続いた。その間わたしたちにむけられたピストルの筒先はピクリとも動かなかった。-----

突如ピストルを構えていた上官が、左手を伸ばした。利夫を抱え込むと、すばやく入口に向かって連れ去ったのである。瞬間、わたしは石を拾い、背後から夢中で投げた。-----

 「利夫が連れて行かれたのだから、もう諦めて出て行こうか?」
 深刻な悩みのさなかにあった母が呟いた。

 「兄ちゃん、これ! 」
 利夫がニコニコしながら米兵とともに洞窟の斜面を降りて来るのを見た。----両方の掌に持ちきれないほど色とりどりのキャンディーを手にしていた。暗い洞窟のなかでそれがやけにあざやかに輝いて見えた。飢えと渇きに苦しんでいたぶん、いっそう魅惑的なものに思えた。口にしたかった。が、母の言葉は厳しかった。
 「食べるんじゃないよ」

「デテコイ デテコイ ミソ(ミズ)アリマス デテコイ」
 再び呼びかけが始まった。物理的な時間がどのくらい経過したのか。とにかく心理的な時間はとてつもなく長かった。その間、母と叔母は一家の柱が戻ってくるのを「まだか、まだか」とひたすら待っていたのだった。----

 「利夫、さっき上で水を飲んだの?」「いっぱい飲んだ」
 このとき母は、米兵たちの呼びかけに応ずる決心をした。敵からのキャンディーや水は必ず毒が入っているものと確信していた。戦時下における国民教化の成果であった。

 「死ぬときは一緒に死のうね」
 母はそうつぶやくと、みんなを促し入口へ向かった。
足が不自由な祖母には米兵が手を貸した。わたしは輝夫を負ぶった。洞窟の外に出た。澄んだ空気が流れ、かすかに海の匂いもするようだった。父と伯父はとうとう戻らなかった。----

 外には10名前後の米兵が思い思いにたむろしていた。が、わたしたちが洞窟から現れると、民間捕虜を取り囲む体制で一斉に集まってきた。米兵はみな友好的に見えた。敵国のわたしたちに向ける表情は意外にも柔らかかった。「鬼畜米英」を刷り込まれたバリバリの少国民はちょっととまどっていた。

 「負ぶってやる」
 並んで歩く米兵がジェスチャーまじりに手を差し出したので、一瞬わたしの気がゆるみかかった。母がにらむような怖い顔で制止した。
 「渡すんじゃないよ」
 思わず輝夫の尻にかけていた手に力を込めた。別の兵が水筒を差し出した。欲しかった。飲みたかった。羨ましいほど大きな水筒だった。
 「飲むんじゃないよ」
 (きょうの母ちゃんは、なんだかとても怖いな)とちょっと恨めしかった。

   ジャングルを抜ける間、米兵はやたら親切だった。わたしたちの猜疑心、警戒心はそれでも消えなかった。あくまでも帝国婦人として、少国民として振る舞った。----

 「戦車はいつ来るのだろうか」
 いま来るか、いま来るか、と待った。「捕虜になれば戦車に轢かれて殺される」と、聞かされて育ったからだ。それが大日本の国民に刷り込まれた常識だった。
中途半端な状態から早く逃れたかった。

 やがて箱車付きのジープがやってきた。(戦車のある所まで運ばれるのだな)11人は箱車の中央に身を寄せ合っていた。
 気がついたらジープはチャランカノアの町を走っていた。(栗原茂夫さんの手記「少年の戦争体験 運命の日!ついに米兵に連行される引用終わり)

軍民ともに運命をともにし,最後の一人(一兵でなく)まで戦うという「一億総特攻」「玉砕戦」は、「戦争殉教」そのものである。したがって、戦争殉教という戦争観が、戦争協力となる側面も指摘できる。「悲惨な末路を描いた戦争殉教画であるから,戦争協力画ではない」との見方には賛同できない。捕虜も多数出た。サイパン島玉砕戦というが,日本軍将兵はその12%が生き残った。日本の民間人はその60%が生き残った。

写真(左):1944年6月サイパン島で米沿岸警備隊兵士に保護された日本の子供COAST GUARD "Jap Youngster gets Piggy-Back Ride", Saipan 1944, silver print, ca. 1944.(Lee Gallery 引用)このような写真は庇護者たる米軍の印象を観るものに与えるが、やはりそれも戦争の一面を伝えるに過ぎない。米兵がサイパン島で殺した日本人は3万5000名以上,収容した日本人(内地からの移住者,将兵・軍属),沖縄人,朝鮮人は1万7000名。このような生き残りの事実を戦時中の日本の芸術家は知らされなかった。そこで,サイパン島全員玉砕の軍の報道を信じて藤田嗣治『サイパン島同胞臣節を全うす』のような絵画が制作されたとも考えられる。現在でも,サイパン島では軍民全員玉砕したという俗説を疑わない人が多い。

1944年7月7日、サイパン守備隊・民間人3000人は、「バンザイ突撃」を敢行した。サイパン島の北端マッピ岬に追いつめられた民間人5000人の中には、断崖から身を投じたたり,わが子を殺して自決した人もいた。この断崖は,バンザイクリフ(Bánzai Clíff)とも呼ばれ,海抜80メートルある。自殺者が多かったために,suicide cliffと呼ばれた。9日,組織的戦闘は終わった。

現在でも観光をかねた案内webには次のようにある。「真っ青な太平洋に切り立った絶壁。戦争の悲劇を物語るような壮絶な景観のバンザイクリフBanzai Cliff は、サイパン最北端のマッピロードの終点にあります。第2次世界大戦の末期に、アメリカ兵に追い詰められて逃げ場を失った日本兵や民間人が、「バンザイ」と叫びながら海に身を投げたことから、バンザイクリフという名前がつきました。」

1998年3月の日本人旅行記によれば, Banzai Cliffは太平洋戦争末期、米軍に追いつめられた日本人市民が”万歳” と叫びながら身を投げた、悲劇の断崖であり,20年前に来た時は何もない原っぱだったのが、今は多くの慰霊碑が建つ巡礼地に変貌しているという。

Battle of Saipan 1944では、David Moore 個人所蔵の1944年サイパン戦の写真とならんで、1996年に訪問したサイパンの写真Battle of Saipan Photos of the island taken in 1996が展示されている。後者は、何気ない風景写真のようにも見えるが、David Mooreの52年ぶりの戦場訪問と分かれば、山も海も深く心に刻まれていて、そこに昔の姿、戦いを思い起こして再び撮影したのではないかと思われてくる。
The following pictures were obtained by David Moore during the battle of Saipan from a military photographer whose darkroom was near his bivouac on the beach. David Moore returned to the beaches and battlefields of Saipan in 1996 to visit the same places he had seen fifty-two years before.

写真(右):サイパン島で米軍の捕虜になった民間人:マリアと幼子イエスの像を持っている。

サイパン島で1500人の日本人を投降させた海兵隊員:A Lone-Wolf Marine By Guy Gabaldon;How One Man Captured 1,500 Japanese on Saipan

 ガイ・ガバルドンGuy Gabaldonは、第2海兵師団に所属した18歳の青年であった。ロスアンゼルス住まいヒスパニック米国人 American Hispanicだが日系人の里親に育てられ、日本語も教わっていた。サイパン島の戦いでは,一匹狼“lone-wolf”パトロールによって、日本将兵や民間人の隠れている洞窟に接近し, 流暢な日本語を使用して、約1,500人の日本人を降伏させた。日本人捕虜は、Schwabe大尉、High中尉に引き渡し,情報報告に書き入れられた。

<玉砕命令の噂>
1944年7月7日早朝、日本軍の最後の組織的なバンザイ突撃Banzai attackがあり、数千人のジャップが、その日、死んだ。彼らは,米軍勝てないことを承知していたが、民間人も加わって,最後の攻撃を仕掛けた。万歳突撃が行われたのは、これは司令官の斎藤中将が、名誉の戦死“Die in Honor”を意味する玉砕“Gyokusai”攻撃命令を出したからである
七生報国(七度生れて、国体に報いる)とは、kill no less than seven Americans each(7人の米国人を殺すまで死ぬな)を意味した。斎藤中将は,天皇から個人的な命令として、玉砕攻撃を命じられたといい,その命令は前夜に、日本機から投下されたと言われていたが、それは偽りである。(筆者注:玉砕命令が出た、だから万歳突撃をしたというのは,サイパン島の日本人の間でも確認されている)

<万歳突撃に参加した民間人・労務者>
日本の斬り込み隊員たちは,自殺の道連れに米国人をしようとしたのである。七生報国“Seven lives for the Emperor.”を奉じて、日本の民間人たちにも最後の突撃に参加した。The Japanese civilian laborers joined the attacking forces and fought with great determination to kill seven “American devils” to one Jap. That shows the extreme danger when taking Jap civilian prisoners. The women as well as the men harbored a hatred that drove them to desire death in exchange for an “American devil.” All Japanese, civilians as well as military, were committed to the final destruction of the “American devils.” General Saito ordered that any survivors of the Gyokusai Banzai attack must commit suicide.
I saw the Japanese begin to assemble around dusk. The preparations were at a fever pitch; the Nips were eager to kill the enemy. The civilians seemed especially proud to be considered members of the military even though they knew that they would die on the following day. Many seemed to be high on Sake. They had drunk more on this occasion than they do during the ceremonial suicide toast. When marching to their death they formed a column of four that stretched out more than two miles.

<万歳突撃の死者と生き残り>
The official figure for enemy killed in this final attack is 4,500, but many wounded Japs threw themselves into the ocean which would have brought the count up considerably. Most of the Banzai survivors took refuge in the caves along the cliffs. I saw many of them retreat to the bottom of “Banzai Cliffs” near my hiding place. I didn’t realize it then but these fanatics were to become my prisoners. The “impossible” was about to take place.
It was in the morning of 8 July that I took two prisoners on top of the Banzai Cliffs. I talked with them at length trying to convince them that to continue fighting would amount to sure death for them. I told them that if they continued fighting our flame throwers would roast them alive.

<武士道とは何か>
I pointed to the many ships we had lying off shore waiting to blast them in their caves. “Why die when you have a chance to surrender under honorable conditions? You are taking civilians to their death which is not part of your Bushido military code.” I understood that their Bushido Code called for death before surrender, and that to surrender was to be considered a coward.
I knew that there were hundreds of die-hard enemy at the bottom of the cliffs and if they rushed me I would probably kill two or three before they ate me alive.
I finally talked one of my two prisoners to return to the bottom of the cliffs and to try to convince his fellow Gyokusai Banzai survivors that they would be treated with dignity if they surrendered.

<武装した日本兵に囲まれる>
I kept the other one with me, not as a hostage, but because he said that if he went to the caves with my message and they did not buy it, off with the head. I couldn’t help agreeing with him. The one that descended the cliff either had lots of guts or he was going to double-cross me and come back with his troops firing away. Who was the prisoner, me or the Japs?
Here he comes with twelve more military personnel, each with a rifle. This is it! This time I can’t tell them to drop their weapons, I can’t tell them they are surrounded. I am now a prisoner of the fanatical Manchurian Campaign veterans.
They don’t say a word. They just stand there in front of me waiting for the next move. They’re not pointing their weapons at me, but on the other hand, they don’t have to. If I go to fire they would have the drop on me. They’d chop me down before I fire a round. “Dozo o suwari nasai! (Please sit down.)” I must make them feel that I have everything under control. This is the first time that I think of being too young to demonstrate authority, but what else can I do?
“Tabako hoshi desu ka? (I offer them cigarettes.)” Okay, let’s get down to serious business. I’m building up courage within myself. “Heitai san! (Fellow soldiers!) I am here to bring you a message from General Holland ‘Mad’ Smith, the Shogun in charge of the Marianas Operation.

<「将軍」の名前の重さ>
“General Smith admires your valor and has ordered our troops to offer a safe haven to all the survivors of your intrepid Gyokusai attack yesterday. Such a glorious and courageous military action will go down in history. The General assures you that you will be taken to Hawaii where you will be kept together in comfortable quarters until the end of the war. The General’s word is honorable. It is his desire that there be no more useless bloodshed.”
The Japs didn’t know General Smith from General Pancho Villa. But they respected the word “Shogun.” “Heitai san, Amerika no Kaigun no Kampo de anata tachi minna korusu koto ga dekimas. (The American Navy with its firepower can kill all of you.)” I point to the hundreds of ships off shore. I am making headway. I know the Japanese mind. I know how impressed they are with names of people in authority.
The one in charge is a Chuii (First Looey). He reaches over and accepts a cigarette. A break. They’re coming around. I try something else, the Japanese adage I learned in East L.A. “Warera Nihonjin toshite hazukashii koto o shitara ikemasen.” They smile, probably at my poor pronunciation. They know I am not Japanese. I look like a typical Chicano.

<医療と食料>
The Chuii asks me if we have a well-equipped hospital at our headquarters. Madre mia, they are going to buy my proposition. I tell him, “Tabemono, nomimono, chiryo o agemasho, Amerika Oisha takusan orimasu. Anata no heitai ga kegashita ka? (We have fine, well equipped doctors – do you have many wounded?)”
The Chuii gazes at the ships just a few hundred feet off the cliffs. He has to know that to resist is sure death for all, me included. I can see that this guy does not want to die or he would have done himself in last night during the Gyokusai attack.

<日本兵の捕虜になる>
“So da yo! Horyo ni naru! (So be it! I become your prisoner!)” My thought was, “Guy, you short-ass bastard, you did it!”The Chuii leaves four men with me and takes the rest of his troops over the cliffs. It looks good, but until I see it I won’t believe it.
If I can pull this off it will be the first time in World War II that a lone Marine Private captures half a Japanese regiment by himself. We wait and wait. In the meantime I carry on a conversation with “my prisoners.”
We talk of their families, where they are from, and so on. I tell them about having lived with Japanese Americans in California and my love for my foster family. I tell them my belief that we, the common soldiers, obey orders and in reality have nothing to do with starting wars. They agree. They like my American cigarettes and the chow in my Krations.
In less than an hour we have visitors. The Chuii and over fifty men come up over the cliffs. My heart is in my throat.He wants water and medicine, right now, for those in dire need. your people here I will make contact with my troops.”
They start coming up. The lines up the trails seem endless. My God, how many are there? I might as well throw my carbine and sidearm away. If they rush me, sayonara!
But they seem to know that they are surrendering. They all look for someone in authority. Perhaps they thought that there would be hundreds of American troops here. I begin giving orders, separating the civilians from the military and getting the wounded in one area.
多数の負傷者がいたが、中にはいまだに戦意旺盛な若い軍人もいた。彼らは戦いたがったが、私との約束もあり、早急に重傷者を救護する必要があった。さもなくば、再びこの一段と戦火を交えなくてはならくなる。
The situation is getting somewhat shaky. The enemy is getting nervous. They want food and water and medical care. If it is not forthcoming it is a sure thing that they will kill me and go back to their caves.

<1日で800人の捕虜を獲得、情報戦に寄与する>
One of the Japanese soldiers calls me, “Heitai-san, Minasai. Asoko ni Amerika heitai ga imasu. (Marine- San, look at the American soldiers!)” A few Marines on a hill have seen us. They seem to be bewildered at this scenario. I have one of my “prisoners” wave a skivie shirt on a stick. They see it and I can see them getting in their Jeep. Other Marines on foot come running down the hill.
I tell them: “Get some of the seriously wounded, take to sick-bay, and get me some help immediately, or we’re gonna have these guys rebelling.” grabbed a K-ration, devoured it, laid down on a blanket and passed out. Man, did I ever sleep what was left of that night.
Lt. High says, “Guy you did it! Over 800, and there are hundreds of Marine witnesses! Can you imagine the intelligence info we’ll get from this bunch? It will certainly help us in the coming Tinian Campaign.”

<朝鮮人慰安婦>
At Marpi Point we see a bunch of Marines off to the right, near the Banadero Trail side, but we take off towards the ocean cliffs. We park the jeep and walk about a half-mile to the edge of the cliffs. “Hey, look at what’s coming up the cliff. Two gals. What do you make of it, Guy?” The women see us and begin waving. I tell them to continue coming up.
“Watch these gals, Hurley. I don’t trust any of these people! You know what those women did at Tanapag a couple of days ago. These gals are just as dangerous as the men. Keep your seeing eyeballs on them. If you spot any grenades tied to their belts, shoot them.” As they reach the edge of the cliffs one of them shouts, “Chosen saram! Chosen saram!”
“They are speaking in Korean. They’ll do that to impress you that they are not Japanese. Grab one and I’ll get the other. Lets pull them over the cliff, but be ready for a fast move.” I know that all the Koreans speak Japanese so I ask, “Anata wa Chosenjin ka? (Are you Korean?)” “Hai, hai. So desu.”She says: “Tasukete kudasia. Nihonjin ja nai desu. Futari Chosenjin.” I tell Hurley: “She says that they’re both Korean. Yeah, they look it.” We get them over the edge and take them about fifty feet from the cliff.
I immediately commence interrogating them. Her name is Cheuni and friend is Pokushini. Korean names, and very pretty gals. “How many more are there down there? Are there any military personnel?” She tells us that there are about one hundred people in two caves. Military and civilian mixed.
“Please help the Koreans. Help us,” she begs. I tell her: “Sure, you are Korean, but how about the soldiers down there? Are they going to come out fighting? You go back and tell ‘em that the prisoners I took yesterday are now safe and sound. Tell ‘em we don’t mistreat prisoners.”Pokushini stays with me and Hurley while Cheuni goes back down the cliff. Either she’s got guts or it’s a ruse to get us off guard. “C’mon Hurley, let’s get behind these rocks till they come over the cliff.” We wait about twenty minutes when here they come.

<朝鮮人にまぎれた日本軍兵士>
“See those young guys. They’re military. You can tell by their demeanor. They stand out among the civilians. You go around behind the group and I’ll be at a right angle to you.” I call Cheuni-san, “Cheuni-san, koko ni kinasai.” I call Cheuni and tell her that I want the Koreans and Japanese in two groups. She’s real gung-ho, running all around the place telling the people what to do, as if she is my assistant. There are forty-three in all. She stays near the older guy I had pegged as a soldier. He seems to be in his early thirties. She tells me that he is her husband and that he is also Korean. I smile. She is obviously afraid that I will kill him if I know that he is a soldier. I tell him, “Anata wa Chosenjin ja nai, ne? Nippon heitai desho! (You’re not Korean. You’re a Japanese soldier!)”
“Hai, Nippon heitai desu! (Yes I’m a Japanese soldier)” he said, proudly. “No problem. Never fear! You will be treated with dignity.” Cheuni was scared to death that I was going to shoot her stud.
I see the old man’s hand reach out from behind the rocks. He’s about to get a grenade. He’s about to commit murder suicide.
“Don’t do it. I assure you that you will not be harmed. We will not mistreat you or your wife. Please do not do anything rash!” He pulls his arm back behind the rock and I hear the “click” peculiar to the Japanese grenades, when they hit the detonators against a rock. “Damn, he’s done it. Too late to help him now.” The grenade goes off right between the old man and his wife and blows their guts all over the coral rocks. Blood and tripe everywhere. “Why wouldn’t he listen to me? Why do they believe the b.s. propaganda they’re fed? Two old people who probably didn’t even know who started the war, nor why.”

<日本民間人の投身自殺と子殺し>
We join a group of Marines firing down at some die-hard soldiers where the cliffs round out and give a view of the entrance to the caves. Suddenly a woman jumps up from the high grass and starts to run for the cliff. I shout at her, begging her not to kill herself and the baby in her arms. I’m pleading, trying to assure her, but she is determined. She does not slow down one iota so I lift my carbine and aim for her legs. “Don’t do it, Guy,” shouts Major Owens. “We can’t kill a defenseless woman.”
“Sir, please let me shoot her in the legs. She’s gonna kill that baby.” Too late! She tosses the baby off, then she looks at me and jumps down to the rocks. The sorry part of all this is that they do not die immediately. They lay there, bodies broken, moaning in the hot tropical sun. What a waste!
It is always amazing to me to see myself as an eighteen-year-old Marine actually killing the enemy in combat, under fire. The scene shows me tossing a grenade into a Jap infested cave. It shows me pulling the pin and tossing the grenade. When looking close at this film you can see my watch fly off my left wrist as I pull the pin. Good thing I had more Jap watches.
Many Japs, both military and civilians, committed suicide in the next few days. It was sad to see children struggling with their parents pleading not to be thrown off the cliffs – “Please father, do not kill me! I do not want to die!”
These parents were dangerous, desperate people who wanted nothing more than to kill the “American savages” who they thought would roast and eat their children. “Hurley, look at all those people lined up at the edge of the cliff! They’re jumping off by the numbers. My God, man, we’ve got to stop them. Let’s go.” This particular group was about two hundred yards away from us. I shouted at them as we ran.
“Tomare, tomare – seppuku shinade. Komodo korosanaide. Dozo, korosanaide!” I’m begging them to stop killing their children. But I can see that as we approach they jump off in greater numbers. “Hurley stop. If we get any closer they’ll all jump off. I’ll try talking to them again.” A lone Jap had just climbed up over the cliff. He obviously had been right behind Waters and me. If we had not killed that Jap soldier we would be laying down there full of holes.

<逃亡捕虜の射殺>
[日本将兵とのやり取りの最中]突然,捕まって座っていた二人の日本兵捕虜が、崖のほうめがけて駆け出した。私は大声で命令した。“Tomare, korosanaida! (Halt, I don’t want to have to kill you! Stop, you’ll never make it!” 崖のフチに付くより先に、私は射撃し、愚かなやつらstupid bastardsに15発の弾丸を打ち込んだ。それで、OKだった。もはや誰も彼らを傷つけることはできなくなった。ススペ収容所の柵に埋葬され,戦争の終わりまで彼らはゆっくり休むことができる。彼らは、勇敢な戦死者が迎えられるヴァルハラValhallaに旅立った。 (A Lone-Wolf Marine By Guy Gabaldon;How One Man Captured 1,500 Japanese on Saipan引用終わり)

サイパン殉国の歌

作詞 大木惇夫 作曲 山田耕作


泣け怒れ奮えよ撃てよ 夕映えの茜の雲や 血に咽ぶサイパンの島 皇国を死して護ると つわもの等玉と砕けぬ

泣け怒れ讃えよ褒めよ 皇軍に力協せて 同胞はよくぞ起ちたり 勇ましや老いも若きも 義に燃えて国に殉じぬ

泣け怒れ讃えよ褒めよ 武器執りて起ち得る者は 武器執りて皆戦えり 後には大和撫子 紅に咲きて匂いぬ

泣け怒れ讃えよ褒めよ 代々享けし忠武の血もて 旗印高く揚げたり 仰ぎ見て同じ心に 戦いに我等続かん

泣け怒れ奮えよ撃てよ 千万の敵と言うとも 皇御民何か恐れん 天津日の照る日の本ぞ 日をおいて国を護らん

一億総進撃の歌

作詞 佐藤春夫 作曲 草川信


ああサイパンの防人よ 君が恨みを晴らすべき 君が同胞一億の 心構えを誰か知る

神人共に許さざる 仇よ驕りて寄せ来れ 雲と群がる敵ゆえに 大和島根の揺るがんや

義に勇むなり我等皆 職場持場の城により 汗と血潮を国土に 捧げ注がん今日この日

我が大君の統べ給う 三千年の皇国なり 御民の一人ある限り などか鬼畜に許すべき

矢頃は近し今正に  手中の匕首を研ぎ澄まし 道義を知らぬ獣の 胸刺し貫す時至る

万歳突撃や投身自殺をもって,サイパン島の軍民は,名誉を守るために潔く自決し,「全員玉砕した」とするのは誤りである。サイパン島では,日本の民間人約2万人のうち,約1万2000人が米軍によって収容され、生き残った。また,軍人1000人,朝鮮人(飛行場建設などの労働者)捕虜1300人も出ており,彼らは別々に収容され、軍人は米本土やカナダの収容所に送られた。日本軍は2万3811名が戦死し、921名が捕虜となった(これは設営部隊を含まないようだ。設営部隊は「朝鮮人労働者」などと呼ばれ,軍の将兵とは看做されていなかった。)
内外のwebでも、日本民間人civilianの死者を2万2000人としている場合が多い。All but 1,000 of the Japanese military units were dead, along with 22,000 civilians. これは、軍民共死という喧伝が、そのま信じられたこと、スーサイドクリフやバンザイクリフでの投身自殺が、映像を含めて、流布しており、大半の民間人も自殺・玉砕したと錯覚されたからである。

米軍は,総兵力7万人の内、死傷者1万5000人。 
米軍サイパン島上陸部隊の第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団の人員損失合計は、USMC Saipan Appendix III Casualtiesによれば、戦死者KIA 2,949人、負傷者WIA 1万364人 行方不明MIA 786人 合計死傷者 1万3,438人。


 サイパン戦で死亡した日本人(軍民)は,3万3000人で,生き残って捕虜となったのは約1万7000人である。つまり,サイパン島攻防戦での「軍民全員玉砕」は,事実ではなく,捕虜を出さないことになっている日本軍の名誉を守る建前である。もしも,玉砕戦として,アッツ,タラワ,サイパンの戦いを認めるのであれば,結果として,日本の軍部の意図と名誉を十分に斟酌したことになる。

アッツ玉砕では,忠勇なる日本軍将兵が全員天皇陛下の御楯となって戦死したという神話が流布されたが,サイパン玉砕となると,日本軍将兵だけではなく,民間人も軍の邪魔にならないように,あるいは敵に捕らわれて生き恥を晒すことのないように自決したとの悲劇神話が流布された。実際には,サイパン陥落で1万4000名の日本軍将兵・民間人が生き残り,捕虜になっている。生き残った1万4000人の捕虜たちが,非国民として非難されることはなかったが,これは玉砕=全員戦死(殉死した戦士)、とされ黙殺されたためである。


写真(上):サイパン島ススペに米軍が設置した収容所
(日本人区画と思われる):Pacific Worlds & Associates(写真は CNMI Historic Preservation Office) 引用。左写真はチャランカノアChalan Kanoaの収容所. このほかススペSusupeにも収容所があった。収容所は,日本人,沖縄人,朝鮮人の民間人は,日本軍将兵とは隔離されていた。将兵は尋問する必要があったからである。本来の現地民であるチャモロ人とカロリン人は別の場所に隔離された。現地民にも外出の自由はなかったが,トイレつきの居住施設が作られ,食料と水とが配給された。Noel says. “All the people who were captured were taken to Chalan Kanoa and Susupe. But the Chamorro and Carolinians were in one area. Japanese civilians, Okinawans, Koreans were in another; and then Japanese soldiers were in different areas, because they were being interrogated.”Photograph from the CNMI Museum. “The life in camp is more or less a kind of hand-out,” Jesus explains. “You got food, and you just stayed in the camp. They brought in raw food, like rice and raw meat, and they cooked it themselves. In the camp, we were not allowed to go outside. The Military Police would keep us inside. "But mostly what we did there was clean the camp, cook the food, and help the American military—whatever they asked us to do to help them. Our life was good, because the Americans assisted us. We had food, water, and toilet. We were living in a house, not a tent. It was comfortable. We really had a good life then, when the Americans came in.”


7.1945年7月、マリアナ諸島のテニアン島、グアム(大宮)島でも、大多数の日本軍将兵は殲滅され、多数の日本民間人も犠牲になった。1944年9月30日大本営発表で、テニアン島とグアム島日本軍守備隊は「一兵に到るまで、勇敢力闘したる後、遂に9月27日までに全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む」「両島在住同胞また終始軍の作戦に協力し全員輪が将兵と運命を共にせるもの如し」。


写真(上):テニアン島の製糖工場
:米軍の攻撃によって、廃墟と化した。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW-Japanese 引用。


1914年、第一次世界大戦勃発後、日本連合国側にたって参戦し、ドイツ領南洋群島を占領
1915年、南洋群島占領諸島施政方針制定。南洋群島伝染病予防規定及び傷病者救療規定を制定。南洋群島税則制定。
1917年、西村惣四郎一族が出資してサイパン島に西村製糖所を設置。1915年設立の南洋企業組合を南洋拓殖株式会社とする。

1920年第一回島勢調査実施(群島人口総数 52,222人 ;日本人3,671人、島民48,505人、外国人46人)
1923年、南洋興発株式会社に砂糖製造業を開始。原料採取地域はサイパン島一円。1928年、南洋興発株式会社、テニアン島に製糖工場設置。
1935年第四回島勢調査実施(群島人口総数 102,537人;日本人51,861人(朝鮮人、台湾人含)、 島民50,573人、外国人103人 )(→南洋群島・日本関係略年表(琉球大学HP)引用)

テニアン島は、ドイツ領だったために、第一次大戦に日本が占領、その後、サトウキビ栽培と製糖工場により栄え、1940年には約1万5000人の日本人が住んでいた。多くは仕事を求めて渡った沖縄県出身者である。


写真(上):テニアン島に水陸両用装軌車LVTで上陸する米軍将兵
1944年8月:Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW-US Invasion 引用。



写真(右):破壊されたテニアン島の日本軍九五式軽戦車
:7月24-25に地の夜襲に使用された。On the night of 24-25 July, a Japanese counterattack accompanied by tanks failed completely with heavy losses. Here a Marine inspects the enemy dead near a destroyed tank. Note the placement of the bullet holes in the helmets in the ditch. Department of Defense Photo (USMC) 91047 (The Marine Landing on Tinian;by Richard Harwood引用)


テニアン島日本海軍
 第一航空艦隊:司令長官角田覚治中将、参謀長三和義勇大佐
 第1021航空隊司令官粟野原仁志大佐、第121航空隊司令岩尾正次中佐 設営部隊を含め3000人
 第56警備隊司令大家吾一大佐 1400人
12.7糎高角砲14門、25粍機銃24丁、14糎海岸砲9門、3年式12糎砲4門

テニアン島日本陸軍
 第五十連隊長緒方敬志大佐、歩兵4個大隊、砲兵1個大隊、九五式軽戦車9両など合計4000人(→戦史 中部太平洋作戦「テニアン島作戦ほか」引用)


写真(上):米軍に破壊されたテニアン島の日本軍陣地
:十年式12糎砲と25粍機関砲が米軍の上陸前の支援艦砲射撃と空爆によって破壊された。左:Even enemy weapons, such as this Japanese 120mm type 10 Naval dual-purpose gun located not-too-far inland from the invasion beaches, was put out of action, but not before it, and two 6-inch guns, hit the battleship Colorado (BB 45) and destroyer Norman Scott (DD 690) causing casualties before being destroyed. Department of Defense Photo (USMC) 91349
右:By the time the assault waves landed, most, if not all, Japanese beach defense weapons had been destroyed by the preinvasion bombardments. This Japanese navy-type 25mm machine cannon was knocked out before it could disrupt the landings. Department of Defense Photo (USMC) 87701A CLOSE ENCOUNTER: (The Marine Landing on Tinian;by Richard Harwood引用)

1944年7月テニアン町は、上陸前に艦砲射撃を受けた。砲撃は、 5インチから16インチまでの艦砲3000発で、これは戦艦Colorado, Tennessee, California, 巡洋艦 Cleveland, 駆逐艦7隻(Ramey, Wadleigh, Norman Scott, Monssen, Waller, Pringle、Philip)が放った。戦艦「コロラド」Coloradoは、60発の 16インチ砲弾で日本軍の6インチ海岸砲2門を撃破した。

さらに、米軍の航空機350機が参加して、対地支援銃爆撃を行い、 爆弾500発、ロケット弾200発、 クラスター集束爆弾42発、ナパームnapalm 弾34発を、日本軍の陣地に叩き込んだ。(→ CLOSE ENCOUNTER: The Marine Landing on Tinian;by Richard Harwood引用)


写真(上):米軍に破壊されたテニアン町
:Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW-US Invasion 引用。


写真(上):テニアン島を砲撃した戦艦「コロラド」Colorado (BB-45)
:1944年4月、改装後の撮影。カゴマストを艦橋構造に改装した。排水量 32,600t、兵装 8 x 16インチ45口径、 14 x 5インチ51口径, 4 x 3インチ50口径対空砲、 2 x 21インチ魚雷発射管.装甲, 水線13.5インチ, 砲塔18インチ、 甲板3.5インチ + 1.5インチ, 司令塔16インチ。機関出力 28,900 SHP; 速力 21 Knots, 乗員 1080名. NavSource Naval History引用。写真(上右):1944年7月24日,テニアン島艦砲射撃の最中に日本軍の6インチ砲の命中を受けた戦艦「コロラド」舷側:1945年9月7日、プーゲット・サウンド海軍工廠で撮影。Colorado (BB-45) in Puget Sound on 7 September 1944. Damage in action of 24 July, 1944 at Saipan. Hit #1 at frame 61 (starboard) 3 below top of blister Hole in blister plating. NavSource Naval History引用。


写真(左):テニアン島の日本軍6インチ海岸砲
:2002年撮影。付近に3門の6インチ砲があり,1944年7月24日、戦艦「コロラド」、駆逐艦「モーマン・スコット」に26発を発射し、命中弾を与えた。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW-US Invasion 引用。

1944年7月24日 0820、米軍はFORAGER作戦のPhase III(Phases Iはサイパン攻略、 IIはグアム解放)として、既にガダルカナル、タラワ、サイパンで戦った歴戦の第2海兵師団を主力とする上陸部隊をテニアン港前方に一斉に前進させ陽動作戦を展開した。これは、LVT40両、LCI(歩兵揚陸艇)30隻であり、日本軍は水際反撃を加えて,撃退したと喜んだ。実際、日本軍の6インチ海岸砲は米海軍戦艦コロラド、駆逐艦ノーマン・スコットに26発を発射して、命中弾を与え、損傷させた。

0700、米軍第4海兵師団はLVT(水陸両用装軌車)など上陸用舟艇約150隻で、北西部のチューロ海岸に上陸した。水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃で全滅。第2海兵師団は、サイパン島の戦いで負傷者5,000人、戦死者1,300人を出していたが、テニアン島での損失は軽微だった。 (→ CLOSE ENCOUNTER: The Marine Landing on Tinian;by Richard Harwood引用))

平坦なテニアン島全体が、米軍の大規模航空基地に生まれ変わった。平坦な島は、航空基地の島となり、日本本土空襲を行うB-29「スパーフォートレス」重爆撃機の発進基地となった。原子爆弾を投下した二機のB-29もテニアン島北飛行場を飛び立っている。


写真(上):日本軍民の遺体
:最後の突撃では,海岸近くに殺到したことが報告されている。塩水でもいいから飲みたかったのか。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW-US Invasion 引用。


1944年7月24日深夜、日本軍の夜襲は失敗し、3名のが戦死した。米軍は翌25日、残りの第2海兵師団を上陸させ、南下進撃した。
日本軍は新防衛線を構築するとともに、民間人の中から16歳から45歳までの男子、約3500名を集め民間義勇隊6個中隊を編制し、戦闘に協力させた。
7月30日までに米軍はテニアン町を占領する。

中国新聞「悲しみの島 テニアン 玉砕砕と原爆と(2006.7.21〜7.23)」
テニアン島の唯一の水源地マルポ井戸が米軍に占領され、日本軍の緒方連隊長は、グアム島にいる第31軍司令官小畑英良中将に対し、最後となる戦闘報告を打電。
8月1日夜、日本海軍の栗原大佐、設営隊長林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死。
8月2日、緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊約1,000名が、米軍に突撃敢行、緒方連隊長も戦死。基地航空隊司令官の角田中将も攻撃に参加したのか行方不明、第56警備隊司令大家大佐も戦死。三和参謀長以下海軍幕僚は自決。テニアン島における組織的戦闘は8月3日の夜明けに終結(→戦史 中部太平洋作戦「テニアン島作戦ほか」引用)

日本軍の戦死者 約8100名、軍将兵捕虜 313名、設営部隊約2500名、テニアン島在島住民1万3000-1万5000名中3500-4000名が死亡。
米軍の戦死者 389名、負傷者 1816名


写真(右):日本軍民の遺体
:爆発で上半身だけとなった死体の脇に、爆風で吹き飛ばされたのか,ちぎれた木の枝が骨のように見える。後方には,うつ伏せになった,黒焦げの死体がある。このような日本人の姿をどのような思いで撮影したのであろうか。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW-US Invasion 引用。


中国新聞「悲しみの島 テニアン 玉砕砕と原爆と(2006.7.21〜7.23)」
 1944年6月半ばから、テニアン町は空襲と艦砲射撃を受けた。大畦正喜(おおうね・まさき)さん(84)は、妻と母、そして近所の二家族と逃げた。三つの家族で一つ、手りゅう弾を持っていた。追い詰められたら、帯で全員を一くくりにして死のうと。妻は臨月だった。いつお産があるか分からない。速く走れず足手まといになるからと、途中で二家族と分かれた。
六月下旬、民家の軒下で妻は女の子を産んだ。
 娘を抱き、妻と母と四人でやみくもに逃げた。四つ角ごとに死体が重なる。どちらへ進もうか、立ち止まったところに砲弾を受けたらしい。雨のように降る銃弾。逃げては伏せを繰り返した。爆音が響くたび、娘はびくりと震えた。やがてぐったりし、乳を飲まなくなった。
娘は腕の中で死んでしまった。わずか40日の命だった。亡きがらを抱いたまま逃げた。隠れた洞窟に異臭が漂う。娘を毛布にくるみ、洞窟の外のがけのくぼみに置いた。父ちゃんもすぐに追っていくよと、手を合わせた。
 二カ月は、そこにいただろうか。「デテコーイ」と、投降を呼び掛ける米兵の声が聞こえる。飢えよりものどの渇きにもうだめだと思った。死のう。一杯だけ、水を飲んでから―。そう決し、はうように洞窟を出た。
戦闘は終わっていた。米軍兵に捕まり、捕虜になる。島の収容所で終戦を迎えた。1946年2月、引き揚げ船で妻の実家がある広島へ帰り着いた。(中国新聞引用終わり)


写真(上):テニアン島の日本人捕虜
;米軍兵士による日本軍捕虜への尋問。右は、米兵にキャンディをもらう子供たち。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW-Post Invasion 引用。


写真(上):<テニアン島日本民間人収容所
With the Japanese being the enemy, all civilians one the island fell into that category as well. Therefore, all were considered Prisoners or War, and were held in interment camps. However, because we signed the Geneva Convention Pact, our treatment of POWs was more humane then that of our enemies. Below are some pictures from the POW camps. Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW-Post Invasion 引用。

テニアン島でも、日本の民間人は将兵と共に運命を共にし、大半が戦死したとして、戦争殉教,玉砕が喧伝された。しかし、日本軍将兵8500人中、捕虜250-313人(捕虜率3〜4%)をだし、民間人捕虜1万5000人(朝鮮人労務者2700人を含める)のうち、1万人は収容所に入ったようだ。このような生き残りは、暗黙のうちに、降伏した非国民とみなされ、黙殺された。

現在、米軍管理地はテニアン島北部と中央部一帯など全島の三分の二を占める。管理地は米軍基地ではなく、飛行場跡地である。米軍が軍事演習に来ていない時は、出入りは自由であるが、管理地の開墾、建物の設置などは、許されない。米軍基地準備用地あるいは戦跡記念として、リザーブされていると思われる。

現在でも、テニアン島の米軍上陸海岸White 2には、日本軍のトーチカpillboxがあり、ウシ岬飛行場Ushi Point Fieldには、海軍航空隊作戦司令部、防空壕が残っている。また、北飛行場North Field には、B-29用の滑走路と誘導路が残っている。

捕虜収容所を思い起こさせるものは、webでも言及されておらず見当たらない。


8.1945年7月、マリアナ諸島を陥落させた米軍は,ここに大規模な航空基地を整備し、B-29「スーパーフォートレス」によって日本を空襲した。B-29による対日戦略爆撃は当初は、中国四川省成都からのものだったが、遠距離で補給も困難であったため、1944年11月以降は、マリアナ諸島を基地とした本格的な本土爆撃が行われた。

第二次大戦中、米国陸海軍の統合参謀本部(幕僚会議)Joint Chiefs of Staffは、1944年 4月、直轄部隊として第20航空軍(Twentieth Air Force)を設置し、アーノルド Henry H. (Hap) Arnold司令官の下、B-29重爆撃機部隊によって、ビルマ/中国戦線から、日本本土を空襲しようとした。


写真(右):B-29爆撃機の編隊飛行
:銀色なのは、塗装による重量増加を節約するためと、空気抵抗を減らして速力/航続距離を向上させるためである。全幅:43.1m、全長:30.2m、全高:8.5m、主翼面積:161.5m2、エンジン:R-3350 2200馬力4基、自重:33800kg、全装備重量:54400kg、最大速度:550km/h(高度7600m)、航続距離:5230km上昇限度:10250m、武装:12.7mm機銃12挺、爆弾搭載量:4500kg-9100kg、乗員:11名。日本本土爆撃を行ったB-29は、昼間であれば高度9000m、あるいは夜間に日本に来たために、肉眼で飛行するのを見ても、小さな粒にしか見えないであろう。しかし、巨大な機体を、論理的に認識した人々は多い。


B-29爆撃機を基幹とする第20爆撃兵団XX Bomber Commandは、対日戦略爆撃のために、1944年4月にモロッコ経由でインドに集結し、1944年6月5日、成都からバンコクに対して最初の爆撃を行った。1944年6月15日には、成都を飛び立ったB-29爆撃機75機のうちの47機が北九州の八幡製鉄所を爆撃した。しかし、長距離出撃に要する燃料や爆弾をインドから中国にまで空輸しなければならず、爆撃機を大量配備することは困難であった。この兵站空輸は、ヒマラヤ越え(ハンプ越え)と呼ばれ困難であった。そこで、より、日本本土に接近しており,海上輸送も容易なマリアナ諸島が攻略されることになった。


写真(右)B-29爆撃機「ちょっと待って」号 " Chotto Matte" (ちょっと待って) は、この機体の固有名詞で、搭乗員たちは、思い思いに固有の名前を付けて、機首に描いた。夜間爆撃用に、機体の下面を黒く塗っている。The crew L to R standing: Capt Walter Leach- AC (deceased) Lt Richard Gill - co-pilot, Lt. Norman Schuler - Nav, Lt Stanley Koropsak - Radar Operator, Capt Pomas Fasules - Bombardier (deceased) Front row L to R: M/Sgt Thomas Lumsden- Flight Engineer Pfc F.Hudson - Radio Operator, Pfc Charles Nance - CFC Gunner, (deceased), Sgt Howard Revie - Left gunner, Sgt Everett Daugherty - Rt.Gunner, Sgt Leigh Sherman - Tail gunner(B-29 Scrapbook引用)

1944年11月以降、第21爆撃兵団XXI Bomber Commandを設置し,B-29爆撃機は、カリフォルニア州、ハワイ諸島を経由してマリアナ諸島サイパン島に終結し、日本本土に対する戦略爆撃を開始した。航空機工場などへの精密爆撃、都市無差別爆撃、日本各地の港湾・航路への機雷敷設まで、各種の戦略爆撃が行われた。日本本土空襲は、長距離出撃のために、高高度精密爆撃では2〜3トン、都市無差別低空爆撃では5〜6トンである。

日本爆撃を実施した第21爆撃兵団にルメイCurtis LeMay司令官が就任すると、「戦争を早期終結させ、有意な米国の若者の命を救うために」都市無差別爆撃に拍車がかかった。1945年8月には、広島・長崎への原子爆弾投下の任務も完遂した。B-29爆撃機は大戦中の1943年9月から、ボーイング社、マーチン社などで、約2400機製造された。


写真(右)東京大空襲の焼死体サイパン島,テニアン島からの米陸軍航空隊の夜間都市無差別爆撃の犠牲者。「川崎・横浜大空襲の記録写真集」引用

1945年3月10日深夜の東京大空襲は、低空夜間無差別爆撃(絨毯爆撃)で、B-29爆撃機279機が11日0007に初弾投下。投下された爆弾の種類は、油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などで、投下弾量は約38万発、1,700t。

8万人以上(10万人とも)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8000戸、東京の3分の1以上の面積(41 km²)が焼失。
3月10日は日露戦争の奉天戦の日で、陸軍記念日。米軍の損害はB-29撃墜・墜落12機、撃破42機。

空襲に明け暮れた日々1945年の主な被災地

日本列島爆撃
終戦前後2年間の新聞の切り抜き帳:帝都炎上 B-29の猛襲
B-29 Superfortress and Now
川崎/横浜大空襲の記録:萩野谷敏明

長崎に原爆を投下した「ボックスカー」のスウィニー機長は、戦後、退役軍人協会会長にもなり、1995年のスミソニアン航空宇宙博物館での原爆50周年展で、被爆者の写真を展示するなど、原爆投下が犯罪であるかのごとき企画を容赦しなかった。米国議会も、原爆投下の正当性を主張したため、原爆を投下した「エノラ・ゲイ」Enola Gayの機首のみが展示されることになった。1998年、展示は終了し、「エノラ・ゲイ」完全復元作業が開始された。2003年12月15日、ワシントン国際空港スミソニアン航空宇宙博物館別館ウドヴァール・ヘージーセンター(展示103)Steven F. Udvar-Hazy Center:Exhibition Gallery 103で、「エノラ・ゲイ」は完全復元展示されている。

⇒詳しくはB-29爆撃機による本土空襲:都市無差別爆撃および広島・長崎への原子爆弾投下:新兵器の威力誇示と戦後外交、を参照。

表 日本本土空襲による死者数の推計(空襲死者数全国調査)

推計機関

空襲による死者総計

通常爆撃による死者

原爆による死者

死者合計

構成比

東京区部

東京以外

広島死者

長崎死者

死者合計

構成比

経済安定本部(1949)

299,485

197,583

66.0%

95,374

102,209

78,150

23,752

101,902

34.0%

建設省戦災復興史(1957)

336,738

184,575

54.8%

91,444

93,131

78,150

74,013

152,163

45.2%

戦災都市連盟(1956)

509,734

175,130

34.4%

94,225

80,905

260,000

74,604

334,604

65.6%

第一復員[陸軍]省(1957)

238,549

182,692

76.6%

93,056

89,636

42,561

13,296

55,857

23.4%

米国戦略爆撃調査団(1947)

252,769

168,096

66.5%

93,056

75,040

71,379

13,294

84,673

33.5%

東京新聞(1994)

558,863

224,635

40.2%

115,000

109,635

260,000

74,228

334,228

59.8%

出所)激しい空襲(http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub59kuushyu.htm)より作成。

本土空襲の死者数は、推計機関により大きな差異がある。これは、調査期日、推計方法、原爆による死者数などについて、正確な把握が困難なため生じたものと指摘されている。


写真(右):日本本土を空襲したB-29爆撃機
;B29's in Formation Over Japan:(The Manhattan Project Heritage Preservation Association, Inc.:The Joseph Papalia Collection;The 509th Composite Group引用)

509th CG Pictorial Album - 1945
ENOLA GAY MEMORABILIA;The Official Website of Ret. General Paul W. Tibbets

中国−ビルマ−インドとマリアナ基地からの作戦全般を通じて第20空軍は、あらゆる原因によるものを含め、B-29爆撃機485機、戦闘機212機を失った。この間、戦死または行方不明となった搭乗員は合計3041名に達し、攻撃行動中の戦傷者は332名。他方、B-29爆撃機延べ33047機、戦闘機延べ6276機が日本爆撃に出撃した。損害率は、B29は1.5%、戦闘機は3.4%であるが,B29搭乗員の死傷率は1%にも達しなかった。(戦後刊行された『アメリカ戦略爆撃調査団報告第66号』「B29部隊の対日戦略爆撃作戦(第20航空軍)」;本土空襲の記録引用)

写真(左):B-29爆撃機の投弾:東京空襲の写真とされる。後期には,大型爆弾よりも、小型の焼夷弾を多用した。画像:B-29s dropping bombs.jpg (Wikipedia)引用。

もし連合国市民、連合軍の退役軍人協会などが、正義の戦いのための「当然の犠牲」であるとか、戦争継続によって失われるはずだった命を救ったとか、強弁するのは、死者遺族にとっては納得できないであろう。日本の市民が、彼らの犠牲の上に、現在の平和と繁栄がある、と主張するのも、違和感が残る。殺害された市民にとって、「言い訳」は、受け入れがたいであろう。

しかし、総力戦にあって、市民といえども、労働力,食料増産,資源燃料の節約、世論形成などの局面で、戦争に参加している。つまり、総力戦にあっては,敵味方双方にとって、大量殺戮,大量破壊が戦争の形態となる。戦略家は、人々の犠牲もやむをえないことを、当然、受け入れている。彼らが、敵による民間人,市民の犠牲を非難するとき、敵愾心を煽るプロパガンダなのかもしれない。米軍による日本本土空襲による殺害率(キルレート)は、米国人3000人対日本人30万〜50万人であり、100-180倍もあり、破壊家屋・工場を含めれば,B-29爆撃機500機弱の損失に比べて、大戦果をあげた。対日戦争に勝利をもたらした最大の要因は,米軍によれば,日本本土空襲、原爆投下、無制限潜水艦作戦による交通破壊とされる。

⇒詳しくは日本本土空襲「B-29による都市無差別爆撃」を参照。

8.2005年6月、マリアナ諸島サイパン島に、日本の国家元首今上天皇と皇后が訪問し、戦争により亡くなられた人々を慰霊し,平和を祈念した。遺族の方も訪れている。日本を敵として戦った米軍の退役軍人なども訪れ、戦争と自分・戦友・敵の経験を見つめなおしている。

 ☆サイパン (バンザイクリフ)☆では、天皇訪問を「次のように伝えている。
北マリアナ諸島サイパン島を訪れた天皇と皇后両陛下は、2005年6年28日午前(日本時間同)、サイパン島北部にある1974年3月に日本政府が太平洋諸島信託統治地域政府(当時)と合同で建立した「中部太平洋戦没者の碑」に日本から運んだ白菊を献花した。

写真(右):2006年6月、サイパン島バンザイクリフを訪問された今上天皇Photo: AFP:日本の民間人が多数投身自殺した場所で、黙祷された。Photo:AFP

日本人が投身自殺したマッピ山の断崖「スーサイドクリフ」では、断崖の突端まで進んで、黙祷し、眼下に点在する慰霊碑に一礼した。サイパン島北端海岸サバネタ岬にある「バンザイクリフ」では、海に向かって黙とうした。

バンザイクリフからホテルへ向かう途中、両陛下は車を降り、公表されていた日程表にはない(当時の在留邦人のうち6割近くを占めた沖縄県民が建立した)「おきなわの塔」と(韓国政府が建立した韓国出身者の)「韓国平和記念塔」に立ち寄って黙礼した。

2005年6年28日正午、米軍上陸50周年の1994年6月に設立された隣接するテニアン島も含め、死亡した米軍将兵5024人を追悼する「第2次世界大戦慰霊碑」、マリアナ諸島のチャモロ人ら死亡した現地住民933人の名を刻んだ「マリアナ記念碑」があるガラパン市アメリカメモリアルパークを訪ね、花輪をささげた。


写真(右):1945年8月11日、那須の疎開先の皇太子明仁(今上天皇)「撃剣ますます御上達」
:「輝く天稟の御麗質拝す」とある。子供ながらに、国体護持と聖戦完遂を第一に疎開生活をおくられていたのであろう。略帽(学帽?)、黒の制服に、ハイソックス、革靴のお召し物。体練はどのようなことをされたのであろうか。作文も書かれている。疎開した生徒生たちは、1週間しないうちに敗戦をむかえるとは思っていなかったであろう。「終戦前後の2年間の新聞切り抜き帳」引用

The Age Company Ltd.:Emperor pays homage at suicide cliff: Deborah Cameron、Tokyo、June 29, 2005
Emperor Akihito and Empress Michiko at Banzai Cliff on Saipan.
At Banzai Cliff, on the tiny Pacific Island of Saipan, on which defeated Japanese jumped to their deaths screaming a final salute to their emperor, there was silence and a bowed head yesterday from Emperor Akihito.And speaking in Tokyo before the trip to Saipan with his wife, Empress Michiko, the son of the wartime regent had said: "Our hearts ache when we think of those people who fought at a place where there was no food, no water and no medical treatment for the wounded."
The visit by the emperor and empress was their first overseas trip to commemorate war dead. The emperor, 71, was a 10-year-old when 55,000 Japanese, including 12,000 civilians, along with 3500 US soldiers, died in a three-week battle for the island of Saipan, which was an air base.
An unknown number of Japanese threw themselves off Banzai Cliff, so named because they shouted "tenno heika, banzai" (long live the emperor) when they jumped. Death, they had been told, was better than surrender. In a tightly choreographed program, which ended yesterday, the Saipan visit has included one surprise: a visit to a memorial for about 10,000 Koreans, forced into hard labour on the island by the Japanese.

 天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国自治領北マリアナ諸島サイパン島御訪問について:2005年4月26日閣議決定
 戦後60年に当たり,戦争により亡くなられた人々を慰霊し,平和を祈念するため,天皇皇后両陛下に,アメリカ合衆国自治領北マリアナ諸島サイパン島を御訪問願うことといたしたい。 なお,アメリカ合衆国政府及び同国自治領北マリアナ諸島政府からは両陛下の御訪問を歓迎する旨の申出があった。御日程については,6月27日東京御出発,サイパン 御着(アメリカ合衆国自治領北マリアナ諸島) ,翌28日御帰国になる予定である。

2005年6月27日(月) サイパン島ご訪問ご出発にあたっての天皇陛下のおことば(宮内庁発表) 
 終戦60年に当たり,サイパン島を訪問いたします。
 サイパン島は第一次世界大戦後,国際連盟の下で,日本の委任統治領になり,沖縄県民を始めとする多くの人々が島に渡り,島民と共にさとうきび栽培や製糖業に携わるなど,豊かな暮らしを目指して発展してきました。しかし先の大戦によりこの平和な島の姿は大きく変わりました。昭和19年6月15日には米軍が上陸し,孤立していた日本軍との間に,20日以上にわたり戦闘が続きました。61年前の今日も,島では壮絶な戦いが続けられていました。食料や水もなく,負傷に対する手当てもない所で戦った人々のことを思うとき,心が痛みます。亡くなった日本人は5万5千人に及び,その中には子供を含む1万2千人の一般の人々がありました。同時に,この戦いにおいて,米軍も3500人近くの戦死者を出したこと,また,いたいけな幼児を含む9百人を超える島民が戦闘の犠牲となったことも決して忘れてはならないと思います。
 私どもは10年前,終戦50年に当たり先の大戦で特に大きな災禍を受けた東京,広島,長崎,沖縄の慰霊の施設を巡拝し,戦没者をしのび,尽きることのない悲しみと共に過ごしてきた遺族に思いを致しました。また,その前年には小笠原を訪れ,硫黄島において厳しい戦闘の果てに玉砕した人々をしのびました。
 この度,海外の地において,改めて,先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し,遺族の歩んできた苦難の道をしのび,世界の平和を祈りたいと思います。
 私ども皆が,今日の我が国が,このような多くの人々の犠牲の上に築かれていることを,これからも常に心して歩んでいきたいものと思います。
 終わりに,この訪問に当たり,尽力された内閣総理大臣始め我が国の関係者,また,この度の私どもの訪問を受け入れるべく力を尽くされた米国並びに北マリアナ諸島の関係者に深く感謝いたします。(引用終わり)


写真(左):サイパン島に残されている日本陸軍の九五式軽戦車:靖国神社の戦争博物館「遊就館」には,篤志の持ち帰った九七式戦車がある。以前は,さびだらけでボロボロだったが,新館開設とともに,修繕して生まれ変わった。

天皇皇后両陛下のサイパン御訪問についての内閣官房長官談話:2005年6月29日
 戦後60年に当たり、天皇皇后両陛下には、去る6月27日から28日にかけて、戦争により亡くなられた人々を慰霊し、平和を祈念されるため、サイパン島を御訪問になり、つつがなく御帰国になりました。
 サイパン島において、両陛下は先の大戦において亡くなられた人々をしのび、平和への思いを込めて、日本政府により建立された慰霊碑並びにアメリカ合衆国政府及び同国自治領北マリアナ諸島政府が建立した記念碑に御供花になり、また、沖縄の碑及び韓国の碑に慰霊の気持ちを表されました。これらに先立ち、遺族会及び戦友会の代表を始めとする方々とお会いになりました。誠に有意義な御訪問であったと思います。
 今次御訪問に際し、様々な協力を行っていただいた米国及び北マリアナ諸島政府、並びに温かく歓迎していただいたサイパン市民に政府として感謝いたします。(引用終わり)

何が有意義なのか不明瞭にするのが政治家や外交官では常識なのであろう。

写真(右):1945年(?)、サイパン島と思われる米軍のカマボコ型宿舎Somewhere in the Pacific; 1945;Copyright : Pat Gideon, owner.

US Todayにおける天皇のサイパン訪問記事Japan's emperor makes first visit to overseas WWII site;USATODAY.com  
Akihito, accompanied by Empress Michiko, offered prayers and flowers at several memorials around the rugged northern side of this sun-drenched island, honoring not only the Japanese who died but also American soldiers, local islanders and Koreans forced to fight for Japan.
It was the first trip by a Japanese monarch to a World War II battlefield abroad, though Akihito has paid tribute at similar memorials in Japan, and comes amid rising anger in Asia over the way Japan has handled its militarist past.
The fierce offensive by American troops on Saipan marked the beginning of the end for Japan's war machine in the Pacific. Figures vary, but as many as 55,000 Japanese died in the three-week "Operation Forager," which began on June 15, 1944.
More than 5,000 Americans were killed, about half of them Marines, along with about 1,000 islanders.
Akihito, in a dramatic gesture, offered prayers Tuesday at "Banzai Cliff," which owes its name to the shouts of "banzai" — a cheer wishing long life to the emperor — by Japanese who plunged to their deaths rather than face capture by the American troops.
The royal couple later visited monuments to the American troops. (サイパンの米軍基地訪問について,日本では報じられていない。)
In a surprise stop, he also paid his respects at the Korean war dead memorial. A small minority of Koreans living here threatened to stage protests because the imperial couple was not initially scheduled to pay their respects at the memorial.
A senior palace official said the visit had been approved days before the emperor left Japan, but had been kept secret from the media until the last minute because of concerns it might be "compromised."
(宮内庁派遣のものが事前に秘密裏に韓国人慰霊塔訪問の調査をした。)
The royal visit comes amid growing anger in China and the Koreas over what many there see as Japan's failure to make amends for its brutal past. Prime Minister Junichiro Koizumi has also stirred up emotions with his repeated visits to a war shrine in Tokyo that is a powerful symbol of Japan's pre-1945 militarism. (中国,韓国にすれば,残酷な過去を償うことをしないことから,天皇のサイパン訪問は,怒りを呼び起こした。小泉純一郎総理大臣は,日本の戦前の軍国主義の象徴である東京の戦争神社に繰り返し参拝しており,それも複雑な感情を沸き立たせた。)
Akihito, 11 years old when the war ended, has been to China and has expressed remorse for the past during visits to Japan by South Korean leaders. But he has never made a trip to offer condolences at a battlefield overseas.
"This time on soil beyond our shores, we will once again mourn and pay tribute to all those who lost their lives in the war and we will remember the difficult path the bereaved families had to follow," he said in a statement before his arrival for the two-day trip.
The royal couple was to leave Saipan Tuesday evening. Saipan has become a popular destination for Japanese tourists, honeymooners and golfers, and the royal couple received a warm welcome.
Today, about 50,000 people live on Saipan, the capital of the Commonwealth of the Northern Mariana Islands, a U.S. territory. The island is about 1,400 miles southeast of Tokyo.
The invasion of Saipan has been called the D-Day of the Pacific. Its fall allowed American B-29 bombers to pound Japan's cities, and the neighboring island of Tinian was used as the launch point for the planes carrying the atomic weapons dropped on Hiroshima and Nagasaki in early August, 1945.
Akihito's father, the late Emperor Hirohito, announced Japan's defeat on Aug. 15 that year.

Trip to Saipan:The THEN and NOW photos of the two Camphor trees present a lesson for us in our lives.
Immediately after the bomb the two trees appear critically damaged. It appeared they could never live.
However---
The two trees Never Gave Up
They Hung in There
They Survived
When we have problems or are tested in life we can learn much from those two Trees - We should never quit trying; we should never give up. ------ not necessary for you to revise - only a thought.
Guy Gabaldon, 80, Hero of Battle of Saipan, Dies (captured more than 1,000 Japanese prisoners)
Gallery: WAPA Gallery Album: Guam .:A hero in the family. Tony Duenas, the only Guam native to win the Silver Star in this war, poses with his wife and their four children after he had been presented with the decoration by Major General Henry L. Larson, USMC, Island Commander of Guam.

中国新聞「悲しみの島 テニアン 玉砕と原爆と (2006.7.21〜7.23)」未来のために

GUY GABALDON A 1998 INTERVIEW AND DISCUSSION
名誉勲章受賞者:MEDAL OF HONOR RECIPIENTS 1944;US Navy (7), Naval Aviation (2, including 1 flying boat squadron), US Marine Corps (23), US Army Air Corps (1)
Benjamin Franklin Edwards

読売新聞:戦後60年への旅路>(2)「玉砕の島」に父の遺品 (2005年8月15日)に次の記事がある。

慰霊碑を前に、鈴木由郎さんは2004年6月、父に語りかけた。「お父さんの遺品が見つかりましたよ」
会津若松出身の一家がサイパンに移り住んだのは、日中戦争が始まった1937年。父の千代治さんが、同郷の偉人・松江春次が興した南洋開発会社「南洋興発」に就職、軍隊の酒保(売店)の責任者として赴任したため、鈴木さんも現地の小学校に通うようになった。
 砂糖工場を中心に社宅や学校、病院などが立ち並ぶ企業城下町は、好調な業績を反映し、活気に満ちていた。郊外にはサトウキビ畑が広がり、松江社長に引き寄せられるように海を渡った多くの“会津人”が農業を営んでいた。
 だが、太平洋戦争が始まり、ガダルカナルでの激戦が伝えられると、子ども心にも戦火が迫りつつあるのを感じるようになる。1942年、鈴木さんは母親らと東京の叔父の家に引き揚げることに。しかし、父だけは家族を東京まで送り届けながら、「仕事のため」とサイパンに戻った。「行って来ます」「しっかり勉強するんだぞ」――。登校時の何気ないあいさつが、最後の会話となった。

 何か月かに1度送られてきた手紙がいつしか途切れ、1944年7月に新聞が「玉砕の報」を伝えても、母は食事の際、陰膳を据えることをやめようとしなかった。空襲に遭い、焼け出された一家は会津に戻ったが、街を火の海にした米軍機がサイパンから出撃していたことは知る由もなかった。

軍属になった父が、いつどこで亡くなったのかも分からぬまま、長い歳月が流れた。死を信じられない思いで過ごしてきた鈴木さんは母が他界して数か月後の1999年正月、市の広報誌で玉砕の手記を目にし、居ても立ってもいられなくなって、筆者の菅野栄子さんを訪ねた。
 菅野さんに南洋興発の社員や遺族らで作る「南興会」の存在を知らされ、父のことを何か知りたいという思いで入会。すると半年後、今度は鈴木さんが会報に投稿した文章を目にした菅野さんから連絡が入った。「鈴木さんのお父様は千代治さんだったんですね。ご遺品をお預かりしています」
 父が若松商業学校(現・若松商高)在籍中に使っていたと見られる生徒手帳には、名前や住所のほか、身長や体重、成績まで記されていた。米兵が拾い、戦後、南興会に送ってきたため、同郷の菅野さんが保管して持ち主を探していたのだった。「唯一の遺品を手にして、父の半分が帰ってきたような気がしました」

長男として家族を支えるため、夏休み、同級生に見られないかビクビクしながら弟を連れてアイスキャンデーを売り歩いた。結婚後は子どもを大学に進学させるため、旅館で必死に働いた。そんな戦後の労をねぎらうかのように父から55年ぶりに届いた贈り物。慰霊碑の前に立った鈴木さんは、父が好きだった会津の酒と水を供え、静かに手を合わせた。(引用終わり)

9.アジア太平洋戦争は,前線での戦闘だけではなく民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦であった。1944年7月,サイパン島を失った日本陸海軍は,本土空襲に恐れおののき,特攻兵器の開発・生産,特攻隊の編成を本格的に進めた。1945年,フィリピン戦、沖縄戦では、再び「玉砕戦」が繰り返された。敗れた日本軍は,全軍特攻化,「一億総特攻」を決定した。死を賭して,守るべきは日本の国体である。

1945年1月25日、最高戦争指導会議で決定された「決戦非常措置要綱 」では、「物心一切ヲ結集シテ国家総動員----必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」とした。そして「作戦上ノ中核戦力トシテ--航空機並限定セル特攻」とした。

日本軍は,降伏・投降することを禁じていた。火力,航空兵力ともに米軍よりも遥かに劣っており,兵員数でも劣勢な日本軍は,「最後の一兵まで戦う」という鉄の規律を維持しなければ,優勢な敵に対して消極的になってしまう。捕虜になって生き残り,戦後の日本復興に尽くす道がある,ということは,降伏・投降を許すことであり,それは戦意を低下させ,軍を崩壊させる。つまり,捕虜となることは許されない。
最後の一兵,民間人も兵士となり最後の一人まで戦い続ける「一億総特攻」が日本の最高戦略となったのは,戦力の劣勢を精神主義,白兵主義で補うしか連合軍に対抗する手段がなかったからであろう。

日本軍上層部にとって,生き残った捕虜は臆病者であり,降伏した非国民であるが、それを非難しないで,捕虜を黙殺した理由は,日本軍民は全員玉砕という建前を自ら崩してしまうためである。捕虜はあってはならないのであり,全員玉砕するまで戦ったとされた。
戦争殉教は,一億総特攻とも繋がる。全員玉砕の神話は日本軍部が創作したのであって,生き残り,捕虜になった日本人を辱め,冒涜するかのごときである。玉砕への鎮魂あるいは玉砕した勇者への英雄譚は、当時、戦争協力に繋がっており,軍部の意に適っていた。


民間人は軍と運命をともにすべきである(軍民共生共死),軍に民間防衛隊・看護部隊として協力すべきである(総力戦)。生きて捕虜となることは,情報を敵に渡し,敵に労力を提供することにもつながる。したがって,捕虜となるより自決すべきである。まさに,戦争殉教が民間人,軍人の区別なく求めらるなかで,「一億総特攻」も現実味を帯びてくる。


写真(右):電話線を踏んだとして日本兵に捕まった中国人少年2人(1937年);Look 1938年11月22日号掲載。「大きな少年は電話線を踏んづけたという理由で処刑された。しかし、小さな少年の命はとらなかった。食糧の節約のために、刑場で多くの捕虜が処刑された。日本人の顔も中国人の顔も西洋人を驚かす冷静さである。」 日本軍としては敵性住民に断固たる処置を取り治安維持を図ったと考え,「残虐行為」とは認識していない。沖縄戦の日本軍民一体の抵抗は,米軍に処罰されると考えた。


松井石根大将の日記によれば,1937年の南京攻略に際して「支那官民は蒋介石多年の抗日侮日の精神相当に徹底せるにや、到る処我軍に対し強き敵愾心を抱き、直接間接居留民か敵軍の為めに我軍に不利なる諸般の行動に出てたるのみならす、婦女子すらも自ら義勇軍員となり又は密偵的任務に当れるものあり」であった。つまり,「軍民一体の抵抗」は,愛国心あふれる抗戦であるが,敵から見れば処罰,処刑の対象である。

沖縄住民の集団死・集団自決は,「崇高な犠牲的な精神の発露」であり,差別されていた沖縄県民が臣民としての忠誠を尽くした証拠とみる俗説がある。しかし,当時の住民は,日本軍による中国やフィリピンでの捕虜・敵性住民の虐待・処刑の経験から,「鬼畜米英」も日本人捕虜を処刑し、女は辱めると信じた。捕虜となることも禁じられていた。殺されるくらいなら,自決したほうがよいと,恐怖に支配されて死を選んだ。

沖縄守備隊の海軍根拠地隊司令官大田實少将に出した6月13日「決別の辞」:「若き婦人も看護婦,炊事婦は元より,砲弾運び,挺身斬込み隊へ申し出るものもあった。所詮,敵来たりなば,老人子供は殺され,婦女子は後方に送られ毒牙に供せられるから,親子生き別れて,娘を軍の衛門に捨てる親もあった。

⇒沖縄での玉砕戦は、沖縄戦の集団自決の真相および沖縄戦の住民と軍政参照。

第一次大戦時の捕虜の取り扱いは、白爺の独り言:第九が演奏されるきっかけをつくった南洋興発の松江春次を参照。


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◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,サイパン玉砕戦も分析しました。
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