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ビルマ撤退戦◇Battle of Burma2009
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◆ビルマ撤退:インパール作戦失敗後の敗走◇The Battle of Burma 1944-45


写真(上左):1945年3月9-10日,マンダレーで戦った第19インド師団のM3リー中戦車
:PHOTOGRAPHER: Taylor R E (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit TITLE:THE BRITISH ARMY IN BURMA 1945 COLLECTION NUMBER:4700-64 PERIOD:Second World War DATE:9-10 March 1945 ACCESS:Unrestricted COLOUR / BLACK & WHITE:Black and white TYPE:Official photograph DESCRIPTION:Infantry of 19th Indian Division take cover behind a Lee tank during street fighting in Mandalay, 9-10 March 1945. 引用。
写真(上右):1945年3月20日,プロムの駅で,第20インド師団の英インド軍兵士が日本兵を掃討する。日本側に立ってインドの自由と独立を求めて戦ったインド国民軍INAの100倍近いインド人が英インド軍に従軍していた。PHOTOGRAPHER: Watson R (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit DATE:3 May 1945 Official photograph DESCRIPTION:Indian troops of the 20th Division search for Japanese at the badly damaged station in Prome, 3 May 1945.帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

写真(右):1945年3月20日,ビルマ中部マンダレー南部を進撃する英軍M3リー中戦車:日本軍兵士の私物の日章旗を戦利品として鹵獲し,誇示している。M3リー中戦車は,欧州戦線ではシシリー島上陸作戦以降は,旧式化し使用されなかった。しかし,太平洋戦線,CBI戦区では日本軍の対戦車戦闘能力が低かったため,大戦末期まで使用された。PHOTOGRAPHER:Taylor E A (Capt) No 9 Army Film & Photographic Unit TITLE:THE BRITISH ARMY IN BURMA 1945 COLLECTION NUMBER:4700-64 PERIOD:Second World War DATE:20 March 1945 ACCESS:Unrestricted COLOUR / BLACK & WHITE:Black and white TYPE:Official photograph DESCRIPTION:The crew of a Lee tank pose with a captured Japanese flag during the advance south of Mandalay, 20 March 1945. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

【アジア太平洋戦争インデックス】:オリジナルwebリンク一覧
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Chindits:A Walk on the Wild Side, A Step into the Unknown,A tale that includes the longest successful,large scale, Airborne Operation of World War II. By F. E. Gerrard - formerly 84 Column - 2nd Battalion The York and Lancaster Regt
BURMA STAR ASSOCIATION: War Against Japan - Burma Campaign
HG Lambert - a soldier with the The Chindits of Burma:47 Column - 7th Battalion, Leicestershire Regiment
BURMA STAR ASSOCIATION: War Against Japan - Burma Campaign
鎮魂のパゴタ:烈 第百三十八連隊の戦友・遺族によってバコダを建立
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1.1944年2月,日本陸軍のウ号作戦(インパール作戦)開始直前,英軍は,雲南省からビルマに侵攻し,さらにウィンゲート少将率いるチンディッツ特殊部隊に,ビルマ北部の交通・通信網を破壊することを命じた。日本軍のインパール作戦を暗号解読によって察知していた英軍は,インパールと離れた日本軍の後方に対して,果敢な挺進攻撃を展開した。

写真(右):1943年2月,ビルマ北部にチンディッツ特殊部隊を率いて侵攻したオード・ウィンゲート准将:チンディッツとは,1942年に第77インド歩兵旅団に設立された挺進特殊部隊で,1943年初めにビルマ北部の日本軍占領地に侵攻,後方撹乱作戦を実施した。グライダー・パラシュートを使い敵地に侵入する空挺部隊も配備されたが,主力は挺進部隊だった。Brigade and in 1943 Indian 3rd Infantry Division) were a British Indian Army "Special Force" that served in Burma and India from 1942 until 1945 Description: Brigadier Orde Wingate after returning from operations in Japanese-occupied Burma with the Chindits in 1943. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

英軍は1944年2月4日,英第14軍British Fourteenth Army司令官スリムSlim中将 と米陸軍航空隊USAAFジョージ・ストレイトメイヤーGeorge Stratemeyer将軍は,ウィンゲート准将と第1航空軍フィリップ・コーチャンPhilip Cochran大佐に, インドウIndawに向かい,ビルマ北部ミートキーナの日本軍の交通通信網を破壊すること,雲南省怒江(サルウィン川)を渡河しビルマ北部に侵攻することを命じた。

雲南省は、チベット高原を発する三つの川、金沙江(長江上流部)、瀾滄江(メコン川上流部)、怒江(サルウィン川上流部)が流れている。その三江併流(さんこうへいりゅう)の地域は,現在,迪慶(ディーチン)蔵族(チョンツー)自治州,怒江リス族自治州を含み、ナシ族、イ族など多数の少数民族が居住している。

三江併流地域は、中華人民共和国雲南省の北部で現在、デチェン蔵族自治州、怒江リス族自治州がある。この地域はインド大陸が移動してユーラシア大陸に衝突した場所で、ヒマラヤから続く褶曲山脈が南北に走っている。この褶曲山脈の間の渓谷に、西から怒江(サルウィン川上流部),瀾滄江(メコン川上流部),金沙江(長江上流部)が流れている。標高は4000-6000mで、峡谷も1000mから2000mの深さがある。


ビルマ中国雲南省怒江方面の衛星画像

渓谷と山脈に隔離された三江併流地域には、現在でも独自の言語を持つ10以上の少数民族が暮らしているが、当時、西側のビルマ(現在のミャンマー)との間の交通路は限られた山道しかなく、隔絶した地域だった。しかし、ビルマと中国を結ぶ陸路として、インド方面から中国に、アメリカ、イギリスの援助物資が、この蒋介石援助ルート(援蒋ルート)を通って流入していた。そこで、日本軍は、三江併流地域を占領し、インド・ビルマから中国を隔離し、中国に援助物資が流入するのを阻止しようとした。

雲南省怒江方面で戦闘が本格化したのは,1944年5月,インパール作戦の失敗が明らかになってからである。米英中の連合軍が,ビルマ北部,雲南省怒江方面から攻撃を開始したのは,1944年5月11日だった。ミイトキーナには飛行場があり,重慶に伸びるレド公路がイラワジ川を渡河し雲南省に入る地点で,そこが中国の騰越である。

騰越からイラワジ川の東に,怒江(サルウィン川),その更に東が瀾滄江(メコン川上流部)である。その東が,雲南省の州都昆明(クンミン)である。つまり,北ビルマ・雲南省の日中両軍は,この三江併流地域で,戦線を接していた。

英軍を主力とする連合軍がミートキーナを占領したのは,1944年8月3日である。雲南省怒江方面の要衝である拉孟は9月8日、騰越は9月14日に連合軍が陥落させた。つまり,インパール作戦の帰趨が決するまでは,ビルマ北部・雲南省怒江方面の日本軍は,持ちこたえていた。


写真(左):1944年ミートキーナの日本軍陣地の1500ヤード地点に弾薬と食料をパラシュート投下するC-47輸送機(米軍仕様のDC−3輸送機)
:Photographer: US official photographer Title: THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 Collection No.: 4700-06 Description: Logistics: A C 47 aircraft releases parachutes with ammunition and rations for American troops in the field about 1500 yards from the Japanese line on the Myitkyina front.
写真(右):ビルマ北部でパラシュート投下された物資補給を受ける中国軍・米軍:Photographer: US official photographer Title: THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 Collection No.: 4700-06 Description: Logistics: Chinese and American troops pick up supplies dropped by parachute in Northern Burma. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。



写真(左):1944年3月,チンディツ特殊部隊の兵員・物資を空輸するグライダー
:TITLE:THE CHINDITS DATE:March 1944 TYPE:Official photograph DESCRIPTION:Operation 'Thursday' - March 1944: One of the gliders after landing at an airstrip code-named 'Broadway'. The men are waiting for daylight to begin work on the airstrip..
写真(右):1944年3月,ビルマ北部進攻「木曜日作戦」に参加するチンディッツ「西アフリカ部隊」:日本ではウィンゲート空挺部隊と言われるが,兵士がパラシュート降下するのではなく、輸送機を使って迅速に兵員・物資を空輸運搬あるいはパラシュート降下させる挺進部隊である。PHOTOGRAPHER: No 9 Army Film & Photographic Unit TITLE:THE CHINDITS DATE:March 1944 TYPE:Official photograph DESCRIPTION:Operation 'Thursday' - March 1944: West African troops board an aircraft before Operation 'Thursday'.帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


1944年2-3月,日本軍がインパール作戦を開始する直前を狙って,ビルマ北部・雲南省怒江方面で,チンディッツなど連合軍による日本軍への反攻が開始された。日本軍はこの後方撹乱を「陽動」「威力偵察」と考えたようで,深刻な大反攻とは認識していなかった。しかし,これは,連合軍による本格的なビルマ奪回作戦の一環で,インパール作戦へ別方向からの妨害行為である。

写真(右):北ビルまで休憩中の米軍メリル襲撃隊(ジャングル挺進隊):メリル准将が1943年に編成した第5307複合ユニット。メリル襲撃隊は,1944年2月,3コ大隊を配備し,ビルマに侵攻した。Marauders rest during a break along a jungle trail near Nhpum Ga. (DA photograph) India-Burma:The U.S. Army Campaigns of World War II引用。

1944年2月9日,ファーグソン将軍Fergussonの第16旅団はレドを出発,残りの部隊は,輸送機で空輸された飛行場の周囲に陣地を構築。ウィンゲート将軍のチンディッツChindits特殊部隊は,1943年2月8日に「ロングクロス」作戦に,1944年2-3月には,「木曜日」作戦(Operation Thursday)に出動した。これは,チンディッツChindits特殊部隊,英連邦の将兵など2万名に参加した。

ウインゲート准将にとっては,1944年2月は第二次チンディッツ作戦であり,二回目のビルマ侵攻となった。「木曜日」作戦では,輸送機とグライダーを利用,大規模な空挺作戦を展開。3月24日,ウィンゲート少将(Maj-Gen O.C.Wingate)が飛行機事故で死亡すると,チンディッツ指揮官には,ランタイン少将(Maj-Gen W.D.A.Lentaigne)が就任。

1944年初頭,チンディッツの第三インド歩兵師団3rd Indian Infantry Division (Special Force) (2nd Chindit Expedition)の隷下には,第3西アフリカ旅団(3rd West African Brigade),第14英歩兵旅団(14th British Infantry Brigade),第16英歩兵旅団,第23英歩兵旅団,第77インド歩兵旅団(77th Indian Infantry Brigade),第111英歩兵旅団,モリス支隊(モリス中佐)に,砲兵隊,第160野戦連隊(160th Field Regiment),第69軽対空連隊(69th Light Anti-Aircraft Regiment)などが付随。ただし,予備軍も含んでいるので,全部隊がビルマに侵攻したわけではない。
 
チンディッツの特徴は,ゞ輸部隊fly-in of troops,負傷者の後送evacuation of casualties,J箋詈資の空輸supplies by air,ぬ接な航空支援close air support,ダ空権の確保air superiorityである。ウィンゲート准将は,敵地での精力的な後方撹乱は90日が限度と想定していた。

写真(右):1944年3月「木曜日」作戦で空輸を待つチンディッツ特殊部隊:英軍将兵,西アフリカ軍(ケニア,タンザニアなど)将兵,グルカ兵が,搭乗するC-47スカイトレイン/ダコダ(軍用型DC−3)輸送機を待っている。Title: THE CHINDITS Collection No.: 4700-06 Description: Operation 'Thursday' - March 1944: British, West African and Gurkha soldiers waiting at an airfield in India before Operation 'Thursday'.帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

チンディッツ直接支援航空隊は 523人で,次の348機を保有。
ワコCG-4Aグライダー 150
連絡機・小型偵察機(L-1/L-5) 100
ノースアメリカンP-51A、ムスタング 戦闘機 30
訓練用グライダー 25
ダグラスC-47双発輸送機 13
UC-64小型輸送機 12
ノースアメリカンB-25H双発爆撃機 12
YR-4ヘリコプタ 6

 日本軍はインパール作戦の準備中で,後方撹乱に対して掃討は進まず,サルウィン川方面でも,持久戦に努めるて,攻勢には出なかった。乾坤一擲のインパール作戦に全力を注ぎたかったのである。

日本軍は,1944年3月8日,インパール作戦開始のちょうどそのとき,ビルマ中部に空てい部隊が侵入したことを知った。その兵力は不明だったが,3月14日,ビルマ方面軍は,インパール作戦に支障をきたさないように,ビルマ東南ベンガル湾海岸を守備していた独立混成第24旅団を第十五軍の指揮下に入れ,第二十八軍第二師団をもって,反撃させた。

写真(右):1944年3月「木曜日」作戦中のチンディッツ特殊部隊:C47スカイトレイン/ダコダ輸送機とグライダーによってビルマ北部に侵入,日本軍の後方撹乱を行った。THE CHINDITS Collection No.: 4700-38 Description: Chindit Operations - General: Chindits making tea at their jungle bivouac. .帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

侵入した英軍兵力は,2個旅団9000人の大兵力で,マンダレー,ミートキーナの交通路を結ぶモールを占領した。ウィンゲート准将率いるチンディッツChindits特殊部隊は,「木曜日」作戦(Operation Thursday)に投入,パラシュート,グライダー,輸送機による空中補給を受けながら,後方を撹乱しモールを攻略,日本軍の補給路を断った。

インパール攻撃発動直前の日本軍は,機を制せられ,ラングーンからミートキーナへの補給に支障が生じた。レド東正面のフーコン谷地の第十八師団「菊」は完全に補給路を遮断された。ファーグソン将軍Fergussonの第16旅団は,陸路で,第十八師団「菊」を攻撃した。雲南省怒江方面を守備していた第五十六師団「龍」も孤立する恐れがでてきた。

2.1944年3月,英軍チャンディッツ特殊部隊のビルマ北部侵入の最中,日本陸軍はウ号作戦(インパール作戦)を開始,4月,第三十一師団「烈」はコヒマの一角を確保し,持久戦に入った。しかし,現地の第三十一師団佐藤中将は,糧食・弾薬の補給が得られず,1944年6月1日,第十五軍のコヒマ死守命令を無視して,独断で退却を開始した。7月9日,撤退を続ける第三十一師団長・佐藤幸徳中将に,第十五軍牟田口廉也中将から,ビルマ方面軍司令部付きに命ず,速やかにラングーンに「赴任」せよとの解任電報が届いた。その後,第三十一師団は宮崎少将が師団代理として指揮を継承。 1944年3月7日,牟田口廉也第十五軍司令官は,3個師団を使った「ウ号作戦」を発動,3月15日2100,佐藤幸徳中将の第31師団の三つの突進隊は,チンドウィン河渡河を開始。

1944年5月20日,第三十一師団佐藤幸徳師団長は,ビルマ方面軍司令官宛に「作戦開始以来,すでに6旬(60日)を過ぎ,この間,分からは一物の補給も無く,いまや糧食,弾薬ことごとく尽き果て,遺憾ながら予は,補給無くては部下を統率するをえず。」と電報を打った。第十五軍「林」は,ミートキーナに連合軍による攻撃を受ける中,西方の第三十一師団「烈」にコヒマ死守を命令する。しかし,補給は届けることはできなかった。

1944年5月末,第十五軍「林」久野村参謀長は「烈」に対して,現態勢の確保を再び命じたが,「烈」佐藤師団長は,「独断で処理することを承知されたい」との電報を打った。

1944年6月1日,佐藤中将は牟田口中将のコヒマ死守命令に逆らって,補給を受けられる地点まで撤退を開始する。これが「抵命事件」である。
佐藤中将は,牟田口司令官に電報を打ち,1944年6月1日にコヒマを撤退し、補給を受けられる地点まで移動すると,第十五軍「林」に通告した。第十五軍はコヒマ死守を命じ,さらにインパール攻撃を指示してきたが,佐藤中将は,そのまま撤退を続けた。

⇒◆インド侵攻インパール作戦(ウ号作戦)を読む。

写真(上左):雲南省方面で戦ったカモフラージュを施した中国軍:Chinese soldiers poorly armed, snuggled close to the land as their camouflaged caps indicate. ARC Identifier 196520アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。
写真(上右):1943年6月,雲南省怒江(サルウィン川)近くで「5万人の日本軍」に攻撃をかける中国軍:5万人というが,正面の日本軍は1個師団(2万人弱)だった。1944年5月まで,雲南省怒江方面の日本軍は,戦線を維持し続けた。これは中国軍が本格的な攻撃をかけなかったためである。インパール作戦が失敗に終わると,中国軍も大攻勢を開始。Camouflaged and poorly equipped Chinese soldiers repell a charge of 50,000 Japanese along the Salween River near Burma.: ca. 06/1943 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。


3.インパール作戦の失敗直後,1944年5月から,中国雲南省怒江方面およびビルマ北部への中国軍の攻撃が本格化した。拉孟・騰越の日本軍は,寡兵よく陣地を死守したが,全滅した。中国軍は,ビルマ北部に侵入した。

写真(右):1944年3月-7月コヒマ戦の第19インド師団による3インチ迫撃砲攻撃:The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: British 3-inch mortar detachments support the 19th Indian Division's advance along the Mawchi Road, east of Toungoo, Burma. The mortar proved the most effective weapon in jungle warfare. No 9 Army Film & Photographic Unit 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

1944年5月17日,ビルマ北部で,連合軍の挺進隊(メリル襲撃部隊とウィンゲートの育てたチンディッツ)がミートキーナを攻撃,飛行場を占領した。これを迎え撃つために第三十三軍は,第五十六師団「龍」の師団長松山祐三中将に反撃を命じた。

しかし,雲南遠征軍の攻撃を受けていた松山祐三中将の龍兵団は,歩兵一小隊,砲兵1中隊(山砲2門)の約150人を援軍として,歩兵団長水上源蔵少将に指揮させ,ミートキーナに向かわせることができただけだった。

写真(右):1944-45年,ビルマ北部ミイトキーナ周辺の日本軍陣地を砲撃する中国軍:ミートキーナからイラワジ河を越え,雲南省に入り,そこで怒江を越えて昆明(クンミン)に入る。このような山岳地帯の自動車道路は,建設・維持が困難であり,補給力も大きいとはいえなかった。しかし,連合軍は,中国の蒋介石を支援するために,多大な兵力,物資を投入した。戦略的には山岳地域への大兵力投入は稚拙だが、政略が優先された。The Campaign in North and Central Burma February 1944 - August 1945: Chinese artillerymen fire on Japanese positions around Myitkyina which only fell to Allied troops after a fierce eleven week siege. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

ミートキーナ守備隊の第十八師団「菊」は,歩兵2個大隊,山砲4門,野砲2門,兵力2000人となった。1944年7月10日に第三十三軍高級参謀となった辻政信参謀は,水上源蔵少将はミートキーナを死守すべし」と命令した。第三十三軍の他の参謀はと,ミートキーナ守備隊とすべきであると反論したが,辻高級参謀は,頑として水上少将に死守を命じた。ノモンハン事件のときに,死守を命じられた部隊から徹底したものがいて,その処置に困ったからだという。優勢な敵を前に,ミートキーナ守備隊長水上源蔵少将は,1944年8月3日,自決した。

ミートキーナは陥落したが,第十八師団「菊」の第114連隊長丸山房安大佐は,水上少将の出した退却命令に従って,バーモに撤退できた。

写真(右)1944年3月-7月、中国・ビルマ・インド(CBI)戦線、インパール北部で渡河するイギリス第9軍のアメリカ製M3リー中戦車(M3 Lee ):日本軍の対戦車砲、戦車、RPGなど対戦車兵器は弱体だったため、ヨーロッパ方面では使用されなくなった旧式のM3リー中戦車でも十分に戦力となると判断され、インド防衛コヒマ・インパール攻防戦に投入されている。
Catalogue number: IND 3468, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War
Alternative Names: object category: Black and white, Creator: No 9 Army Film & Photographic Unit
Object description: The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: An M3 Lee tank crosses a river north of Imphal to meet the Japanese advance. Label: A British Lee tank crosses a river north of Imphal to meet the Japanese advance in Burma, 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (IND 3468)


写真(右)1944年3月-7月、中国・ビルマ・インド(CBI)戦線、インパール=コヒマ道路を前進する、イギリス第9軍のアメリカ製M3リー中戦車(M3 Lee )、ウェストヨークシャ連隊と第10グルカ歩兵連隊。インド・ネパールの山岳民族のグルカは、勇猛果敢なことで知られる。山村での農業を営んでいるが、大英帝国のインド植民地で、植民地兵として徴用され、傭兵ともなった。
Catalogue number: IND 3469, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War
Alternative Names: object category: Black and white, Creator: No 9 Army Film & Photographic Unit
Object description: The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: Men of the West Yorkshire Regiment and 10th Gurkha Rifles advance along the Imphal-Kohima road behind Lee-Grant tanks.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (IND 3469)


 1944年(昭和19年)3月、ビルマの日本陸軍第15軍は、インパール攻略「ウ号作戦」を発動し、インドに侵攻して、イギリス植民地を混乱に陥れ、合わせて西側連合軍から中国への補給路「援蒋ルート」を遮断しようとした。第15軍司令官牟田口廉也中将の隷下、3個師団4万人以上、その他補給部隊(輜重)など3万人、合計8万人が攻勢に投入された。

 攻勢に出た日本軍は、一時、インパール西方、コヒマを占領し、インド本土からのインパールへの陸路を遮断することに成功した。しかし、航空機、戦車・火砲の攻撃力に勝るイギリス軍は、インパールを固守し、補給が滞った日本軍の攻勢は完全に頓挫した。

1943年末,中国軍による雲南省怒江方面,ビルマ北部への攻撃は停滞していた。中国の蒋介石は、米国援助物資を使って養った米式装備の中国軍を,イギリスの英領ビルマ奪回のために提供するつもりはなかったのである。しかし,ルーズベルト米大統領は,チャーチル英首相の意を汲んで,中国軍の攻勢を強く要請。

1944年5月11日,中国雲南遠征軍は,司令官衛立煌大将に率いられて怒江(サルウィン川)を越えて,拉孟・騰越の日本軍を攻撃に向かった。日本軍の第五十六師団(龍兵団)拉孟守備隊は劣勢だったが,陣地を死守した。

写真(右):1944年2月-1945年8月,中国第2師団がイラワジ河から南方に進撃:The Campaign in North and Central Burma February 1944 - August 1945: Men of the Chinese 22 Division in the jungle during the southward push from the Irrawaddy River. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

参謀辻政信大佐は,1944年7月,インパール作戦敗退後になって,雲南方面での反撃作戦を計画。これは,拉孟、騰越さらに龍陵、芒市を守備して,印支(インド-中国)連絡路を遮断するという目的があった。しかし,龍陵、拉孟・騰越の守備隊は,はるかに優勢な中国軍の攻勢の前に敗れた。

中国軍は,騰越を、1944年6月に攻撃,抵抗を受けたが,9月14日に占領。龍陵は,7月から攻撃、11月に占領。ビルマに展開していた中国軍第38師団,第22師団は,7-8月,米軍第475連隊,第124騎兵連隊とともに、ビルマ北部のミイトキーナに侵攻した。

 1945年1月,ビルマと雲南遠征軍の二つの中国軍が出会い,レド公路が連合軍の支配下に入った。中国軍は,ミイトキーナからマンダレーへと進撃した。


写真(右):1944年,ビルマ北部のレド公路の架橋作業をする中国軍工兵部隊
:DATE: 1944 Official photograph DESCRIPTION: The Campaign in North and Central Burma February 1944 - August 1945: Chinese Army engineers construct a bridge on the 'Ledo Road'.
写真(左):1945年5月2日,ラングーン南から25ポンド野砲(88ミリ砲)を揚陸艇から上陸させる第15インド軍:「ドラキュラ作戦」では海上からビルマの首都ラングーンに奇襲上陸。中国からビルマを通ってインドと結ぶ中国援助ルートのレド公路を整備した。しかし,このような陸上補給路の整備に人員,物資を費やすよりも,海上輸送を使ったほうが,効果的に軍を進めることができた。PHOTOGRAPHER: Wackett F (Sgt)No 9 Army Film & Photographic Unit TITLE:THE BRITISH ARMY IN BURMA 1945 DATE:2 May 1945 Official photograph DESCRIPTION:Men of the 15th Indian Corps help to bring ashore a 25-pdr field gun from a landing craft at Elephant Point, south of Rangoon at the beginning of operation 'Dracula', 2 May 1945帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


4.インパール作戦の失敗後,1944年後半から,第三十一師団将兵は英インド軍に追われて敗走を続けた。イラワジ河で反撃を試みたが,これも失敗に終わった。敗残兵たちは,ビルマから,陸路タイへ撤退した。この間も,多数の日本軍将兵が殺害され,飢え・病気・事故で倒れた。ビルマ人に多大な被害を蒙った。

クンユアム旧日本軍博物館The World War 2 Japanese Military Museum of Khun Yuamの紹介する井上朝義著『彷徨ビルマ戦線−陸軍獣医大尉の従軍手記』には次のようにある。
患者中継所の近くの木立の中には、あのビルマの戦いで生き残り、せっかくタイまで落ちのびたのについに力尽きて死んだ兵の遺体があって腐臭を放っていた。患者のたまり場で、手投げ弾を自爆させて自殺した兵の死体もみた。本人だけでなく、近くにいた何人かが道づれになったという。-----

 (二十年七月はじめごろ)インパールの悲劇を繰り返さないために、働ける者は一人でも多く、一日でも早く後退させねばならなかった。三々五々、歩ける者のみが生きられるここでは、少々無理をしてでもと、出発した患者もあった。しかし、途中で発症し、水に餓え、食に餓えて、白骨となった者が、あちらの木の下こちらの川のほとりにとしかばねをさらしていたが、だれもどうすることもできなかった。-----

 死者の氏名は、よほどのことがない限り衣服や持ち物(認識票)などから普通は分かるはずだ。しかし、タイへの逃避行路ではそれが明確にできなかったケースも多々ある。なぜか。理由の一端を知ってもらうために、ほんとうは書きたくないことだが、私の見たことを記しておこう。----その兵は、熱を出して倒れてはいたがまだたしかに生きていた。その時、数人の兵が通りかかった。その中の一人は靴が、いま一人は上衣が破れていた。と、その二人は倒れた兵に近寄った。何をするのかと見ている私の目の前で、一人が倒れている兵の靴を、もう一人が上衣をはぎ取った。そこにはもう、あの厳しい日本の軍隊の軍紀、軍律はなかった。いうなれば飢餓の集団だ。-----(The World War 2 Japanese Military Museum of Khun Yuam―井上朝義著『彷徨ビルマ戦線−陸軍獣医大尉の従軍手記』引用)


写真(左):1945年3月,C-47ダコダ輸送機(英軍仕様のダグラスDC-3輸送機)で占領した飛行場に向かう第2598空挺部隊
:Photographer: Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945 Collection No.: 4700-15 Description: Airmen of No. 2598 LAA Squadron RAF Regiment board a Douglas Dakota for deployment to a newly-captured airfield.
写真(右):1945年4月,ビルマの前線から傷病兵を輸送したバルティー・スチンソン小型輸送機:英空軍第194飛行中隊所属。このような患者救難空輸に小型機を多用することで,前線の将兵の士気を維持することができた。Photographer: Royal Air Force official photographer Collection No.: 4700-15 Description: A casualty being loaded into a Vultee Stinson Sentinel Mark II of No. 194 Squadron RAF for evacuation from a forward air strip in Burma. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


写真(右):イラワジ川を動力舟艇を連結した筏で渡河する米軍:A barge, powered by outboard motors, crosses the Irrawaddy River near Tigyiang, Burma. The men, their truck and ammunition all make the crossing at once in this way.: 12/30/1944 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

クニヤムからたどり着いたメーホーソンのことである。タイの西北に在る同地は、県庁もある小都市で裁判所や刑務所もあって、時には鎖のついた鉄の塊をひきずって歩く囚人も見た。
 ここにも第105兵站病院の患者中継所が寺の建物の中にできていて、二人は世話に なった。そこには、わずかばかりの医薬品を背嚢に入れて撤退したわずかな人数の衛生兵と軍医がいた。しかし、傷病兵が次から次に現れて手が回らず、実際は処置なしだった。「少しでも歩ける者は、早く後退してくれ。弱りきっている者は、早く苦しまずに死んでくれ」というのが彼らの偽りのない気持ちだったろう。----

-----優勢な戦車群と航空機を主力に連合軍は、空陸一体作戦で友軍をけ散らし、(イラワジ)河を突破するや、息もつかせずメイクテーラとマンダレーを陥し入れた。-----大多数の将兵が死んだ部隊もかなりあって部隊間の連絡がほとんどとれない。他の兵団の動静も分からない。結局、友軍は散を乱してそれぞれ思い思いの方向に敵中突破の南進を始めた。------昼間は敵に見つかり集中攻撃を受けるので、もっぱら夜の行軍。方角もよく分からないので星が頼り。もはや兵団の司令部がどこに在るのかも分からぬ有り様。十日ほど歩いてメイクテーラの近くまで退がった。

写真(右):1945年3月20日,マンダレーから南下する英軍のM3リー中戦車:第二次大戦勃発後の1940年8月に開発指示がだされたM3は,車体右側に75ミリ砲を,砲塔に37ミリ砲を搭載した中戦車だった。砲塔上に、7.62ミリM1919機銃を装備した。1941年4月から量産され,米国の自動車工場で、6千両が製造された。そのうち、英軍に2,653両、ソ連に1,386両が供与されたという。全長5.6m,全幅2.7m,全高3.1m,全備重量28.6t。 Photographer: Taylor E A (Capt)No 9 Army Film & Photographic Unit Title: THE BRITISH ARMY IN BURMA 1945 Collection No.: 4700-64 Description: A Lee tank during the advance south from Mandalay, 20 March 1945. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

 -----丸一日、何も食わぬと、人間は目に見えて気力が衰えてくる。その飢えと、疲れと、かわきで兵はもうモノをいう元気も失せている。行軍は、できるだけ身軽にということで、途中、兵器、弾薬を捨てた。だから身につけているのは、小火器と少量の弾薬。もはや、組織として戦う力を備えた軍隊ではない。だから昼間は、せまい地割れにまるでシラミのように、身をひそませて時の過ぎるのを待ち、日暮れとともに行動を起こした。そんな将兵のすぐそばを敵の戦車群が地響きをたてて何度も通り過ぎた。

もし見つかって銃砲弾を浴びせられたら、戦う力のない友軍にとっては、それが最後の時となった。兵は身を硬くして息をひそめ、ただ戦車の通過を神に祈るしかなかった。

写真(右):1945年1月14日,日本兵に銃剣で虐待された12歳のビルマ人少年:生き埋めにされていたが,英軍のパトロール部隊によって発見,救出されたという。A 12-year old Burmese boy beaten by the Japanese with shovels and rifle butts, suffers from bayonet wounds. He was buried alive in a shallow grave, but crawled out. He was found by a patrol of the 1st Royal Scots Fusiliers. Burma.: 01/14/1945 ARC Identifier 531338 / Local Identifier 111-SC-256688 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。当初は,日本軍を歓迎していたビルマ人たちも,支配が長引き,物資不足に陥ると,日本軍に協力しなくなった。日本軍に対する物資補給は停滞していたから,日本軍将兵は,住民から物資を徴発するしかなかった。反抗する住民には威嚇するしかなかった。こうした戦局悪化の状況で,日本人とビルマ人との友好関係は,崩れていったと考えられる。

 連合軍のビルマ中北部の征圧とほぼ時を同じくして、現地人の反日行動が各地で起こった。敗走する友軍ははじめそれに気づかず、「現地の人は友好的」と信じ込んでいた将兵は、現地人の部落に助けを求めて近寄り、そこで不意打ちに遭って命を落とした者も多数いた。日本軍が優勢な時には、少なくとも好意的で、協力の姿勢を見せていた現地人も、戦局が一変するや、もはや味方ではなくなったのである。

 ラングーンに通じる街道は、夜ともなると、昼間どこかにひそんでいた友軍が現れ、ひしめきあった。どの部隊も、すでに大半が傷つき、疲れ切って重い足を引きずっていた。
そんな時「首都ラングーンもすでに敵の手中」といううわさが飛び交っていた。(The World War 2 Japanese Military Museum of Khun Yuam―井上朝義著『彷徨ビルマ戦線−陸軍獣医大尉の従軍手記』引用終わり)


写真(左):1945年,ラングーン郊外で戦車揚陸舟艇LCT1332号から20ミリ機関砲を揚陸する英空軍将兵
:1945年になると,英軍はビルマ北部とベンガル湾沿岸部からビルマに侵攻したが,インパール作戦・断作戦で敗退した日本軍には,陸・海・空から押し寄せてくる英軍を押し戻す戦略は無く,タイ方面に撤退した。ラングーン(Rangoon,1989年ヤンゴン(Yangon)と改称)は,1942年3月8日に日本軍に占領されていたが,三年ぶりに奪還された。 Photographer: Royal Navy official photographer Title: LCT 1332 Collection No.: 8308-29 Description: RAF Regiment unloading 20mm guns from LCT 1332 during landings at Rangoon. Bow of LCT only visible. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

写真(右):1944年-45年,米軍将兵に率いられたビルマ人ゲリラ部隊:The Campaign in North and Central Burma February 1944 - August 1945: A well armed patrol of American led Burmese guerillas crossing a river in central Burma. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

日本に亡命中,ビルマ独立運動を担ってきたアウンサン将軍が指揮するビルマ国軍は,日本軍と協力してきた。しかし,1945年3月には反乱を起こした。日本軍は退却中だったために,これを討伐できず,4月,英軍がメイクテーラを突破。


ビルマ(現在ミャンマー)マンダレー、メイクテーラ周辺

1944年8月,インパール作戦が失敗し,ビルマに英軍が侵攻すると,アウンサン将軍は,英軍との連携を模索,ビルマ共産党、人民革命党とも協力し,反ファシスト活動を開始。

1945年3月、ビルマ中部が英軍に占領されると,ビルマ国軍は北部で叛乱を起こし,3月下旬、アウンサンの下で,ラングーンのビルマ国軍も、蜂起,全面的な反乱が勃発。

写真(右):1945年2-3月,マンダレーのダフェリン要塞の城門を開ける英インド軍マドラス兵士The Campaign in Mandalay February - March 1945: Men of the Madras Sappers stand before the gates of Fort Dufferin after the Japanese had fled. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

1945年4月23日,ビルマ方面軍木村司令官は、ラングーンから撤退,ビルマ主席のバーモー博士らと空路モールメンに脱出。日本大使館も、在留邦人を集めて、鉄道か残っていたペグーまで出発していた。ラングーンでは、ビルマ人が脱出して無人となった日本人邸宅,商社を略奪し,暴徒となっていた。
米英軍と連携したビルマ国軍の反乱,抗日運動も各地に起こり,1945年5月,ラングーン「解放」


インパール作戦〜父が語る戦争体験記〜によれば,窪田孝之助氏の部隊がラングーンへ到着したのは,出発6ヵ月後で,10月にマンダレーで、第31師団「烈」工兵隊と合流した。つまり,インパール作戦のための補充部隊のはずが,作戦失敗後,敗走中の「烈」に配属された。工兵隊は、寺院を宿舎として、本来200人の1個中隊は、50人くらいの編成だった。

窪田孝之助氏は,「戦局は次第に苦しくなり、さらに食糧、弾薬といった必要物資の供給がストップしてしまい、このままでは師団の全滅はまぬがれない状態となってしまった。それでも軍の司令官はコヒマ死守を命令するのだった。烈師団長佐藤中将は部下の無駄死を避けるべく、敢えて軍の命令に背いてコヒマを撤退し、マンダレーへと逃れたのである。」と,佐藤中将の抗命を擁護している。(インパール作戦〜父が語る戦争体験記〜イラワジ河畔戦:父が若き日にビルマ(現ミャンマー)にて戦ったインパール作戦を語る、生の太平洋戦争体験談 引用) 

写真(右):1945年2-5月,メーテクーラを攻撃する英軍の迫撃砲The Campaign in Mandalay February - March 1945: British mortars in action during the fighting for Meiktila. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

間もなく出陣命令があり、大河イラワジを渡り北へ北へと汽車で進む。マンダレーから約200kmのカンバル部落へ到着し第3中隊の陣地を構築。私たち第1小隊はさらに北方5kmのレイツへ小隊長以下10数名、天然の洞穴に身を隠し待機した。-----10mほど前方の薮の中を大勢のイギリス兵が横断しているではないか。私はじっと草叢に潜んでやり過ごすしかなかった。キャタビラの音も聞こえたので戦車か装甲車もいたと思う。私が初めて目にした英軍兵士は、洗面器のような浅い鉄帽を阿弥陀に被っていた。

古年兵が私を呼びに来た。「小隊はとっくに撤退した。お前も早く撤退しろ。洞穴に小隊長が背嚢を忘れたのでいっしょに持って逃げろ。」と言うのだ。私も歩哨の役を成さなかったわけだが、小隊も私を置き去りにして逃げてしまったわけだ。-----

昼間は敵の戦闘機が頭上を飛び交っているのでジャングルの中を行軍し、夜は道路を進んだ。やがてキヌーという町まで後退したところで昭和20年の元旦を迎えた。部隊から餅が支給されて、そうとわかった。

-----シュエボまでさがった所でなんとか汽車に乗ることができたが、途中で敵機の爆撃を受け、急遽汽車から退避しなければならなかった。負傷者はいなかったが汽車は中央部分の一両が炎上してしまった。(インパール作戦〜父が語る戦争体験記〜イラワジ河畔戦引用)

写真(右)1945年3月20日、中国・ビルマ・インド(CBI)戦線、ビルマ中部、マンダレー南を前進するイギリス第9軍のアメリカ製M3リー中戦車(M3 Lee )。乗員たちは、日本軍兵士が出征祝いとして大切にしていた日章旗を戦利品として略奪した。車体前面にはキャタピラを置い補助装甲板としている。木の板が束ねてあるが、キャタピラと同じ幅なので、軟弱地盤に足をとられた場合に敷く足場にするのかもしれない。
Catalogue number: SE 3497, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War
Alternative Names: object category: Black and white, Creator: No 9 Army Film & Photographic Unit Taylor E A (Capt),
Object description: The crew of a Lee tank pose with a captured Japanese flag during the advance south of Mandalay, 20 March 1945.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (SE 3497)


写真(右):1945年5月8日,ラングーン政府庁舎前の英第十四軍総司令官ウィリアム・スリム中将,英空軍ビンセント少将,チェンバーズ少将:THE BRITISH ARMY IN BURMA 1945 Collection No.: 4700-64 Description: Lieutenant General Sir William Slim (GOC-in-Chief 14th Army), Air Vice Marshal Vincent (AOC 221 Group South East Asia Air Forces) and Major General H M Chambers at Government House in Rangoon, 8 May 1945. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

(1945年)1月下旬、英軍はイラワジ北岸に終結を終え渡河作戦を準備していた。イラワジ南岸のカズン部落に工兵第3中隊の主力が防衛命令を受け-----部落へ着くと同時に陣地を構築し、北側の河岸に地雷を仕掛けたりした。壕は蛸壺とも呼ばれ、直径60cm深さ1mほどの縦穴で、大人一人が身を屈めて収まる程度の壕であった。----

(1945年)2月27日、朝から竹トンボのような飛行機が低空飛行で旋回していた。英軍が日本軍の陣地を偵察していたのだろう。やがて、ものすごい砲撃が始まった。敵は私たちの陣地右側300mにあるヤシ林にねらいを定めたようだ。鬱蒼としたヤシ林の中に日本軍が潜んでいるとにらんだのだろう、地上からも上空からも盲滅法に爆撃をし、ヤシの木が一本も残らず黒こげになり倒れてしまうほどの激しさだった。インパール作戦〜父が語る戦争体験記〜イラワジ河畔戦引用)


写真(左):1944年11月,ビルマのサルン基地の英空軍第17飛行中隊スピットファイア戦闘機Mark VIII
:スピットファイアは,本来,制空戦闘機だが,ビルマ戦線では対地上攻撃にも多用された。両翼にイスパノ20ミリ機銃を装備。後方に対空機銃座がある。Photographer: Breeze (P/O)Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-15 Description: Fitters servicing the engine of Supermarine Spitfire LF Mark VIII, 'YB-M', of No. 17 Squadron RAF, under the protection of a mobile anti-aircraft gun at Sapam, Burma.
写真(右):1944年12月,英空軍第134飛行中隊の米国製リパブリックP-47サンダーボルト戦闘機Mark II :クリスマスメッセージを書き込んだ500ポンド(225kg)爆弾に両翼に搭載。ビルマのラトナ飛行で英空軍公認カメラマンが撮影。排気タービン装備のP-47は,本来,航空制空戦闘機だったが,枢軸国の戦闘機戦力が弱い戦線では,対地上攻撃機としても使用された。Photographer: Royal Air Force official photographer Collection No.: 4700-15 Description: Four ground crew of No. 134 Squadron RAF load a 500-lb GP bomb, - inscribed with a Christmas message for the enemy, - beneath the wing of "Jungle Queen", a Republic Thunderbolt Mark II, at Ratnap, Burma. The airmen are (left to right): Leading Aircraftman James Rich of Glasgow, Aircraftman Cecil Cox of Ironbridge, Shropshire, Leading Aircraftman Richard Dunning and Aircraftman Edward Price of Tonypandy. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


写真(右):1945年2-3月,マンダレーで英インド軍シーク兵士が日本軍の蛸壺に突撃した:マンダレーは,ラングーン(現ヤンゴン)北方700キロの古都で、鉄道,自動車が通っていた。そこで,日中戦争当時,中国の蒋介石を支援するビルマルートの要衝となっていた。蒋介石への援助物資は、ラングーン,マンダレー、ラシオから雲南省に入り昆明から重慶に通っていた。太平洋戦争開戦後,日本軍はビルマを攻撃、1942年5月にマンダレーを占領している。それから3年後に,連合軍がマンダレーを奪回した。マンダレーの王宮は1945年の戦闘で焼失したが,現在は再建されて観光名所になっている。The Campaign in Mandalay February - March 1945: Men of a Sikh regiment clear a Japanese foxhole at Mandalay with machine gun fire after throwing in a phosphorus grenade. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

午後1時頃、敵兵7〜8名が私たちの陣地のある方へ近づいてきた。やがて、私の左隣にいた古年兵が発見され、火炎放射器で焼殺された。----別の英兵7〜8名が私たちの方へ進んできた。私は蛸壺から目だけを出して、彼等の行動を注視していた。ついに、小隊長の蛸壺へ5〜6mのところまで接近したので、私はおもわず小銃の引き金に指をかけ、先頭を行く敵兵を撃った。仰向けになって倒れたので、命中したことを確認した。敵も驚き、あわてて地面に伏してしまった。私はそこをめがけて銃を撃ち続けた。----

写真(右):1945年3月15日,トーハ=メークテラ間の英機甲第116連隊のM4シャーマン中戦車:M3リー中戦車の車体利用して砲塔に75ミリ砲を搭載したM4中戦車は,1941年10月に制式,1942年2月から量産開始,M3中戦車と同じく,GM,フォード,クライスラーなど自動車工場で大量生産された。主砲の75ミリ砲は,欧州戦線のドイツ軍重戦車には見劣りがしたが,太平洋戦線では最大級の威力を誇った。エンジンは,空冷9気筒の航空機用発動機だった。車内空間に余裕があり,居住性がよかったから,熱帯の太平洋戦線では,使いやすかったと思われる。終戦までに5万輌を増産。全長 5.9m,全幅2.6m,全高 2.7m,全備重量31.6t。Photographer: Stubbs A (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit Title: THE BRITISH ARMY IN BURMA 1945 Collection No.: 4700-64 Description: Crew members of 'Cairngorm', a Sherman tank of 116th Regiment, Royal Armoured Corps, between Taungtha and Meiktila, 15 March 1945.帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

----私の壕は約30分の間、集中砲火を浴びた。それが終ると、ついに、轟々たる地響きをたてて重戦車(M4戦車?)が近づいてきた。絶体絶命だ。私は戦車攻撃用に5kg爆薬を用意してあったので、もう少し戦車が近づいてきたらこれに点火して体ごと戦車に飛び込む決意をした。私の生命もこれまでだと覚悟を決めた時、故郷の両親の顔が瞼に浮かんだ。村の氏神様に心からお祈りした。

戦車は私の手前50mでピタリと止まり、私をめがけて戦車砲・機関銃を乱射してきた。蛸壺の中に身を潜めているので、私の体には弾はとどかないが、壕の渕に弾が落ちるのでもうもうたる土煙と硝煙の臭いとで呼吸困難にみまわれた。戦車の機関銃を最下角度に向けて撃った場合、弾は50m先に落ちる。ということは50mよりも近い距離は戦車の死視角にあたり弾が撃てないということだ。この時戦車が50m以上に近づいてこなかったのはそういう理由と、日本兵の肉弾攻撃を恐れていたものと思われる。(インパール作戦〜父が語る戦争体験記〜イラワジ河畔戦引用)

写真(右):1945年3月19日,マンダレー郊外を南下する第19インド師団のM3スチュアート軽戦車:太平洋戦争開戦時,フィリピンの米軍にM3軽戦車100輌が配備,ビルマの英陸軍にM3軽戦車100輌が配備されていた。M3の長砲身37ミリ砲の貫通力は高く,日本軍の九七式中戦車の短砲身57ミリ砲,九五式軽戦車の37ミリ砲よりも優勢だった。フィリピンで鹵獲された米軍のM3軽戦車は、日本軍にも使用され、ビルマにも送られた。もしかすると、日英両軍がM3戦車を使用した戦車戦が起こる可能性があった。日本軍の対戦車兵器は,乏しく,性能も低かったため,欧州戦線の対戦車戦では使用できなくなったスチュアート軽戦車でもCBI(中国ビルマインド戦線)では有効に使用された。Taylor E A (Capt),Watson R (Sgt)撮影,第九軍映像写真班(No 9 Army Film & Photographic Unit)収集番号No.4700-64.説明:A Stuart tank, crewed by members of the 19th Indian Division, passes a destroyed jeep on the outskirts of Mandalay shortly after the fall of Fort Dufferin, 19 March 1945. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

やがて戦車のキャタビラの音が聞こえてきた。いよいよ壕から飛び出す時だと、思い切って頭を上げた。するとどうだ。戦車は方向転換をしているではないか!私の祈りが村の鎮守様に届いたのだろうか。
私は思わず「あぁ、助かった!」と感激の声を上げ、胸をなで下ろした。
まさに九死に一生を得たのである。戦車はそのまま180度回転して去って行った。(インパール作戦〜父が語る戦争体験記引用)

写真(右):1945年ビルマ方面で日本軍兵に虐待されたというビルマ人:Japanese atrocities. Phillippines, China, Burma, Japan: 1945 ARC Identifier 292599 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。 制空権を奪われる中,敗走する日本軍将兵は,親日的だったビルマ国軍の反乱に直面した。住民や民兵,ゲリラによる反日活動も激化していた。日本軍は,ビルマ独立を支援したのに,恩を仇で返したとビルマ人を怨んだり,「植民地根性に成り下がっている」「戦友を殺害した」として,処断したりした日本人もいたであろう。

いつものように壕を掘っていると、ビルマの若い娘が、モウ(大福餅のような食べ物)を売りにやって来た。私は持っていた腕時計を代金代りに娘に渡し、腹いっぱいモウを食べた。-----しかし小隊長の言うには、陣地をうろつく物売りはスパイの可能性が大きいから気を付けるべしとのことだった。しばらく兵隊たちの間をうろついていた彼女を小隊長は追い払った。果たして、それから間もなく敵の砲撃が始まった。そしてお決まりのように砲撃の後には戦車攻撃が続く。----

敵の激しい攻撃に(工兵)連隊は私たちを置き去りにして撤退してしまった。-----戻って小隊長にその旨を告げると、小隊長は「他所の部隊へ入ってよそ者扱いされるのも癪だから、このまま3人で山を越えてタイ領チェンマイに逃げてしまおう」との意向であった。そのつもりでその行動を開始して間もなく、たまたま工兵連隊の下士官にバッタリと出会った。-----

----中隊とはいえ、兵員はわずか40名くらいにすぎなかった。息つく暇もなく、連隊長から2中隊に鉄橋爆破の命令が下った。鉄橋は、そこから20km離れたパンラン河に架かるもので、イギリス植民地時代にイギリスが作った頑丈な橋だった。中隊は飛行機用の50kg爆弾を2個、荷車に積んで出発した。30mある橋の中央部分の両橋桁に1個づつ爆弾を固定した。点火手には古年兵の伍長と私とが選ばれた。夜中、二人で爆弾の所へ行った。「1,2,3」の合図で同時に導火索に点火。素早く退避。100mほど走って地に伏したら、すぐに爆発した。爆破は成功、橋が2つに割れて落ちていくのを確認した。

写真(右):1945年5月25日,破壊されたビルマのラングーン駅舎:Rangoon Railway station, Rangoon, Burma. Repair Shed, 10 feet in height at West end.: 05/25/1945 ARC ID 540058 / Local ID 226-FPK-45(497) アメリカ公文書館National Archives引用。

鉄橋爆破の使命を終え、連隊本部への帰路につく。その途中、激しい爆撃で黒焦げに焼けてしまった部落があった。部落の中央に井戸があったので、私たちはそこで喉を潤すことにした。井戸の周辺には大勢のビルマ青年がたむろしているので、私たちは水を汲んで飲むにもずっとを手放さなかった。しかしある古年兵は、うっかり井戸のそばの木に銃を立てかけて水を飲んだため、その隙に一人の青年がその銃を抱えて脱兎のごとく駆け出し森の中へ消えていった。

当時イギリス軍はビルマ人に対し「日本兵一人殺せばいくら、銃を奪えばいくら」という懸賞金をだしていたのだ。ビルマ独立の父と仰がれたアウン・サン将軍(スーチー女史の父)は、開戦当時から日本軍に協力していたのだが、この戦況では日本の敗北は確実であり、日本が完全に敗れてしまえば英軍が自分達を処刑するだろうと予側して、昭和20年3月下旬頃から日本軍に反旗を翻すようになった。
インパール作戦〜父が語る戦争体験記〜鉄橋爆破引用)

◆日本軍将兵も,将官から兵卒まで,軍紀紊乱,軍規違反は,許されなかった。そこで撤退命令・降伏命令がない以上,徹底抗戦・死守することを選択した。独断撤退・抗命すれば,軍律法廷で処罰,処刑されることを覚悟しなければならなかった。独断撤退するには,相応の覚悟あるいは事前の戦果が必要だった。


写真(左):1945年4月16日,マウント・ポサで日本軍の私物の日章旗を鹵獲した第7ウースター連隊
: Photographer: Watson R (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit Title: THE BRITISH ARMY IN BURMA 1945 Collection No.: 4700-64 Description: Men of the 7th Worcester Regiment display a Japanese flag captured on Mount Popa, 16 April 1945.
写真(右):1945年8月8日,降伏した日本軍将兵から情報を収集する統合サービス尋問センター将校:第38船舶工隊小川ミツオ曹長とシッタンにあった第55師団の村上ショウイチ伍長勤務上等兵。Photographer: Titmuss A D (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit Collection No.: 4700-64 Description: An officer of the Combined Services Detailed Interrogation Centre (CSDIC) interrogates Sergeant Major Ogawa Mitsuo of the Japanese 38th Sea Duty Company and Lance Corporal Murakami Shoichi of the Japanese 55th Division in the Sittang area, 8 August 1945. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


(1945年)8月半ば、それまでは毎日英軍機が爆撃していたのに、飛行機が来ないようになった。不思議だなぁと思っていたら、8月18日頃、終戦を知った。近くにいた通信隊から終戦の知らせを聞いたのだ。これで無事日本に帰れると思うと嬉しくてたまらなかった。負けたことはくやしかったが喜びの方がずっと大きかった。-----

パアンにある貨物廠が、英軍に没収される前にということで、たくさんの衣服や糧秣を支給してくれた。お蔭様で物々交換でビルマ人から欲しいものを何でも入手でき、贅沢三昧の暮らしができた。住民が好意を寄せていたのも、案外日本軍の物資に魅力があったのかもしれない。(インパール作戦〜父が語る戦争体験記〜終戦引用終わり)


写真(左):1945年8月8日,降伏した日本軍将兵がラングーンで整列させられた
:Photographer: Titmuss (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit Title: THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 Collection No.: 4700-64 Description: Japanese Prisoners of War: Japanese prisoners line up for roll call at Rangoon.
写真(右):1945年8月8日,捕まった日本陸軍慰安婦がラングーンの収容所で尋問されている:Photographer: Titmuss (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit Collection No.: 4700-64 Description: Japanese Prisoners of War: A Chinese girl from one of the Japanese Army's 'comfort battalions' awaits interrogation at a camp in Rangoon. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


 1945年4月22日,英軍戦車はトングーに迫った。この時のビルマ方面軍のラングーン撤退は,悲惨を極め,生き残りのエゴイズムを露呈させた。方面軍幹部が早急にラングーンを撤退したため,連合軍の急進撃を前に,方面軍の統帥崩壊,日本軍の敗走,部隊の混乱が生じた。「方面軍司令部は司令部自身の撤退に気をとられて,それ以外の必要な措置をとることをわすれていたようである」と丸山静雄は『インド国民軍』のなかで述懐している。

 1945年4月23日,ビルマ方面軍司令官・木村兵太郎中将(1944/9/12河辺大将の後任)ら幹部は,飛行機でモルメーンに脱出,チャンドラボースも自動車でラングーンを離れた。インド国民軍幹部は,4月30日から5月2日夜にモルメーンに到着した。

 ビルマ方面軍参謀長・田中新一中将(1944/9/22中永太郎中将の後任)だけがラングーンにとどまって指導をした。しかし,集積した物資はラングーン港に放置。舟艇は,方面軍参謀作戦課長直轄の慰安婦を乗せて撤退。重症患者も自動車輸送さず,見捨てられた。

 大混乱にもかかわらず,南方軍はビルマ方面軍にラングーン放棄を遺憾とし,ラングーン奪回を命じた。

写真(右):ビルマ方面で日本軍から解放された連合軍捕虜:Japanese atrocities. Phillippines, China, Burma, Japan: 1945 ARC Identifier 292600 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

ステージ風発の「朝日新聞記者がみたビルマの慰安婦ーー月の夜に」が紹介する『月と慰安婦たち』 (沢山勇三著の「白旗をかかげて」)に次の文章がある。
 青い青い月だった。私とも一人大尉は、コンクリートの人道に腰を下して、アスファルトの車道に長々と足を投げ出していた。 

向かいあって、四、五人の朝鮮出身の慰安婦がしゃがみ込んでいた。はじめ慰安婦たちは、我々に泊まってゆけとしつこくすすめたのである。「お金なんかどうでもいいんだよ。淋しいから泊っていきなさい」と彼女らは言った。 

明日、軍司令部が撤退するというのに、彼女らは何も知らないのである。ただ何か異様な雰囲気だけは感じていたことに間違いはない。客がさっぱりなかった。-----

 私の方がどれだけ淋しかったか知れない。慰安所に隣り合って、日本映画社と日本映画配給社の両支局があった。映配の方には、沢山の映画のフィルムがあった。英軍に見付けられて利用されるといけないという報道部長の考えで、これを処分することを支局長に命令してあったが、これを確認するために、われわれ二人が夜中近くになって行ったのだった。フィルムは壕の中へ投げこんで水浸しにしてあった。そして両支局ともさっぱりと片付けてあった。まずこれでよし-----そして帰りがけの駄賃の彼女らとの雑談であった。

----あの時、危いから早くラングーンを逃出すようになぜ話してやらなかったか----私はジャングルの月に向って自問自答して見た。そうだ。あのころまでは、私はまだ軍人だった。軍紀がこわかった。----これから俺は人間に返る。(引用終わり)


写真(左):1945年10月10日,英領マラヤ,ペネンで慰安婦にされていたマレー人・中国人が英軍によって解放された
:ペナンには,日本陸海軍の基地が整備されていたが,終戦まで日本軍支配下にあった。PHOTOGRAPHER: No 9 Army Film & Photographic Unit Lemon A E (Sergeant) TITLE:THE ALLIED REOCCUPATION OF THE ANDAMAN ISLANDS, 1945 DATE:10 October 1945 Official photograph DESCRIPTION:Chinese and Malayan girls forcibly taken from Penang by the Japanese to work as 'comfort girls' for the troops.
写真(右):1946年2月22日,捕虜収容所で囲碁に興じる第三十三軍本田中将(右),古場少将(中央),林中将:北ビルマ担任した第三十三軍本田軍司令官は、フーコン渓谷から進攻してきた米軍装備の中国軍、雲南省の中国軍の攻撃を受けた。1944年6月,ビルマ方面軍は北ビルマを放棄することとし,第五十三師団,第十八師団を撤退させることにした。ミートキーナの第五十六師団に派遣された水上少将には死守命令がでていたので,8月2日,水上少将自決後,部隊は撤退した。生き残った将官たちは,暇をもてあましているかのようである。PHOTOGRAPHER:Morris W A (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit 22 February 1946 Official photograph DESCRIPTION:Japanese Personalities: Lieutenant General Honda Masaki, Commander of the XXXIII Army and one of the most tenacious and determined Japanese commanders. The photograph shows Honda (right) with Lieutenant General Hayashi (left) and Major General Koba (centre) playing a game called 'Go' in a British prisoner of war camp. 写真はともに帝国戦争博物館IWM引用。


◆軍の命令・軍紀は絶対であり,降伏命令なければ,捕虜になることは許されなかった。軍司令官・指揮官が隷下の部隊に降伏・投降を命令することはなかった。しかし,大元帥昭和天皇の下した終戦の聖断によって,全ての日本軍に降伏命令が出た。そのために多数の将兵,民間人が命を助かったが,それまでに犠牲になった人々,負傷した人々にとって,戦争はどのような意味を持ったのか。その後の生活をどのように考えたのか。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,サイパン玉砕戦も分析しました。
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東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
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