鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
タラワ・マキン島玉砕◇Tarawa 1943 2006
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◆タラワ・マキン環礁玉砕戦 ◇Tarawa 1943


衛星画像(右):キリバス諸島タラワ環礁ベティオ(Bethio)島→大きな地図で見る;北緯 1°, 東経 173°でほぼ赤道の太平洋上にある。東西に飛行場滑走路。この南タラワのベティオは,都市化し,環礁を取り巻く自動車道路が走っている。西長方形の大きな溜池。側は,環礁内部のラグーン。このタラワ環礁の南側にアバイアン(Abaiang)環礁がある。

2007年1月,日本政府は、キリバスに対して,「南タラワ水産業関連道路整備計画」(the project for Improvement of Fisheries-related Roads in South Tarawa)の実施に伴い,総額12億8,500万円を限度とする無償資金協力を行うことを決めた。これは,政府開発援助ODAの中の贈与であり,南タラワの交通・流通が活性化されることによる水産業の振興を目的として,同国ベシオ地区などの道路(合計約10キロ)の舗装補修,排水施設整備などを図るものである。貧しい北タワラではなく,南をさらに充実させ,観光客に美味しい魚を提供し,雇用吸収を図るつもりなのであろうか。
1943年11月,米軍がギルバート諸島来寇,マキン,21日タラワ環礁に上陸し,米軍海兵隊と日本海軍陸戦隊が,このサンゴ礁の島で激戦を繰り広げた。米軍は,日本軍の頑強な抵抗に驚いた。11月24-25日,マキン・タラワの日本軍守備隊は玉砕した。

『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)では,サイパン玉砕戦も分析しました。

【アジア太平洋戦争インデックス】:オリジナルwebリンク一覧
20世紀の戦争画;藤田嗣治「アッツ玉砕」「サイパン同胞忠節を全うす」
現在のキリバス諸島タラワ環礁ベチオ島
GoogleMapエニウェトク環礁・マーシャル諸島の衛星画像
GoogleMapトラックTruk諸島の衛星画像

第二次大戦中の米海軍戦死者3万6,950人、 戦闘での負傷者3万7,778人、海兵隊戦死者 1万9,733人、戦闘での負傷者 6万8,207人。
玉砕戦の本】/【戦争論・平和論の文献】/【太平洋戦争の文献
米従軍画家カー・アイビーは、ベティオ島の戦闘を描いたスケッチで有名である。 ベティオ島の米海兵隊 とならんで、ブーゲンビル島の米軍将兵のスケッチも多数残している。

1.1943年11月,ギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島,マキン島、アンガウル島の攻防戦でも,日本軍守備隊は徹底抗戦し殲滅させられた。しかし,日本軍の死者4700名に対して捕虜150名で,捕虜率は3%に達する。

南太平洋ギルバート諸島は,1916年,英国が植民地としたが,1941年,日本軍がタラワ,マキンを占領した。現在のキリバス共和国で,独立は,1979年7月12日である。領土は,800平方キロ,人口95000人,首都はタラワ(Tarawa),人口5万人である。

本来,タワラは島の名称ではなく(ベティオ島),環礁の名称だが,本webではタワラ島,マキン島との通称を用いる。


写真(右)タラワ環礁ベティオ島日本軍による英国ヴィッカース社製旧式海岸砲の配備
:戦闘中に米軍が鹵獲したカメラから現像された写真。Japanese Special Naval Landing Force troops mount a British-made, Vickers eight-inch naval cannon into its turret on Betio before the battle. This film was developed from a Japanese camera found in the ruins while the battle was still on. Marine Corps Personal Papers, Boardman Collection
図(左):ベティオ島の日本軍の九六式軽機関銃の射撃訓練 :Japanese on Betio conduct field firing exercises before the battle. The film from which this picture was developed came from a Japanese camera captured during the assault. Photo courtesy of 2d Marine Division Association



図(左):1942-43年タラワ環礁ベティオ島の日本軍守備隊:タラワ攻略後に米軍が接取した写真。水際で米軍に反撃すべく、陣地を構築した。木材、砂、コンクリート、石灰岩の陣地は、上陸前の艦砲射撃と空爆に堪えた。The Japanese garrison on Betio conducts pre-battle training. Photo courtesy of 2d Marine Division Association

1941年12月,日本軍はギルバート諸島のマキン環境,タラワTarawa環礁を占領した。

1942年8月17日、米軍は,潜水艦2隻(ノーチラス,アルゴノート)が密かに運んだ海兵隊特殊部隊220人を上陸させ,マキン環礁ブタリタリ島を奇襲攻撃した。マキン島の日本守備隊は,第62警備隊マキン派遣隊(海軍陸戦隊約70名)で,壊滅状態に陥った。

米軍の奇襲攻撃後に,日本軍は援軍を派遣したが,米軍は占領ではなく,威力偵察を目的としていたために,翌日に撤退していた。

日本軍はギルバート諸島の防備は手薄であることに気付かされ,防衛を強化することになった。1943年2月15日,ギルバート諸島に,第三特別根拠地隊が編成された。島の要塞化と滑走路を含む航空基地の整備が本格的に始まった。

マキン島米軍奇襲攻撃で大失態を演じた日本海軍は,急遽,ギルバート諸島の二環礁の防衛を強化したのである。(⇒wikipediaタラワの戦い引用)


写真(右):タラワ環礁ベティオ島で破壊された日本軍のヴィーカース社製8インチ海岸砲
:ベティオ島には全部で8インチ砲4門が配備されていた。日露戦争最中の1905年、英国から日本が購入した旧式砲である。占領当時は、シンガポールで日本軍が鹵獲した大砲だと思われていた。Destruction of one of the four Japanese eight-inch Vickers guns on Betio was caused by naval gunfire and air strikes. Department of Defense Photo (USMC) 63618


ジュリアン・C・スミス少将の率いる第2海兵師団ガダルカナル島でも戦った歴戦の部隊で,後にサイパン島、テニアン島の攻略にも参加する。ギルバード諸島攻略を目指す「ガルパニック」作戦には、上陸用装軌艇LVTを準備し、タラワ環礁の中で最大の島で、飛行場もあったベティオ島を第一目標とした。島は、東西4km、南北1kmで、サンゴ礁の平坦な島である。

1943年の作戦当時、数日以内にベティオ島攻略ができなければ,エニウェトク環礁ブラウン島などから日本海軍航空隊が反撃し、トラック諸島の日本機動部隊が出撃、攻勢をかけるかもしれない。敵の砲台や機銃座が守りを固める狭小な海岸への上陸作戦で、早期攻略が求められた。


図(左):1943年11月タラワ環礁ベティオ島に上陸した米軍;日本軍守備隊はヤシ丸太やコンクリートで頑丈な塹壕やトーチかを構築していた。艦砲射撃と空爆によって小島が煙と砂埃に覆われると,そこの日本軍守備隊は壊滅してしまったように思われた。安心して上陸してきた米軍は,日本軍の水際での反撃を受けて大損害を被った。しかし,タラワの戦い以降,米軍の上陸前の艦砲射撃と空爆は,より強化され,水際で米軍が大打撃を受けることは少なくなった。

タラワの日本軍守備隊:約4600名
第三特別根拠地隊本隊(司令・柴崎恵次 少将)902名
佐世保第7特別陸戦隊 1669名
第755航空隊基地員 30名
設営隊 約2000名

米軍のタラワ攻略部隊:第2海兵師団 約16000名(指揮・ハリー・ヒル 少将)


写真(右)タラワ環礁ベティオ島
:砲撃でヤシ林は倒された。History of U.S. Marine Corps Operations in World War II,Volume III:Central Pacific Drive by Henry I. Shaw, Jr.,Bernard C. Nalty,Edwin T. Turnbladh;Historical Branch, G-3 Division, Headquarters, U.S. Marine Corps 1966
図(左):ベティオ島で擱座した上陸用装軌艇LVT :History of U.S. Marine Corps Operations in World War II引用。


1943年11月19日(日本時間20日)、タラワ環礁ベティオ島に対して米軍の艦砲射撃が始まった。これには,真珠湾攻撃による損傷から回復した戦艦「メリーランド」など戦艦3隻も加わっている。空母艦載機も日本軍陣地への空爆を実施。砲爆撃で砂塵が舞い上がり,一見すると,小さな島の日本軍は壊滅してしまったように見えた。しかし,ヤシの丸太,珊瑚礁,コンクリートで造られていた日本軍地下陣地は何とか持ちこたえていた。


写真(右):1944年タラワTarawa環礁ベティオ島
:薄く平坦に見えるが,飛行場もあった。着陸しているのは米軍のB-25爆撃機。

1943年11月19日、米軍はギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島、マキン島に上陸した。これに対して,11月22日から29日まで,日本海軍航空隊は、マロエラップ環礁など陸上航空基地を拠点として、四次に渡り延べ100機以上で、米軍艦艇や米軍上陸部隊を空襲した。

1943年11月23日1500から12月1日1500まで、4回の大本営発表をまとめると、四次に渡る「ギルバート諸島沖航空戦」によって、タラワ環礁ベティオ島、マキン島方面で、米軍に与えた損害は,撃沈空母7隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻、撃墜36機となり、日本機の損害は27機(実際は50機以上)であり、大戦果をあげたように公表された。
しかし、実際の米軍艦艇・航空機の損害は僅かだった。


写真(右):タラワ環礁ベティオ島攻略作戦に参加した米海兵隊のジュリアン・スミス少将とホーランド・スミス中将
:MajGen Julian C. Smith, USMC, right, commanding general, 2d Marine Division, escorts MajGen Holland M. Smith, USMC, commander, V Amphibious Corps, on Betio. Department of Defense Photo (USMC) 70729


上陸用装軌艇LVT(Landing Vehicle Tracked)80両以上を含むジュリアン・C・スミス少将の率いる第2海兵師団上陸部隊が海岸に向かったとき,日本軍は,水際で反撃を開始した。しかし、奮闘むなしく,日本軍守備隊は壊滅した。

1943年12月20日1515大本営発表
「タラワ島およびマキン島守備の帝国海軍陸戦隊は-----3000の寡兵をもって5万余の敵情陸軍を邀撃---連日奮戦、我に数倍する大損害を与えつつ、敵の有力なる機動部隊を誘引して友軍の海空作戦に至大の寄与をなし、
11月25日最後の突撃を敢行,全員玉砕せり。
指揮官は海軍少将新柴崎恵次なり。
なお両島において守備部隊に終始協力奮戦せし軍属約1500名もまた全員玉砕せり」

実際のタラワ攻略戦は,第2海兵師団1万7000人と海軍艦艇乗員1400人が投入された戦いで、戦死934人、戦負傷死亡93人、負傷2292人、行方不明88人の損害を受けた。
日本軍は特別根拠地隊・海軍特別陸戦隊など陸兵2700人,設営隊2000人であったが,死者4684人,捕虜146人であったという。捕虜の多くは「朝鮮人の労務者」であり、「日本人捕虜は全員意識不明のまま」捕虜となったという。
日本軍将兵の潔さ・名誉を誇る戦記が,敗戦後も生き残り,米軍に協力した大本営参謀(日本軍高級将校)を著者としているのは興味深い。


図(上左):米従軍画家カー・アイビー1944年作「タラワ環礁に上陸する米海兵隊」
:NAVAL HISTORICAL CENTER引用。Kerr Ebyは1899年東京生まれ。アボット研究所Abbott Laboratoriesの戦場芸術家プログラムcombat artist programに参加し,1943年10月から1944年1月まで,南太平洋方面の海兵隊に配属。タラワTarawa環礁上陸作戦,ブーゲンビルBougainville島の戦場で暮らした。ブーゲンビル島では熱帯病に罹患し衰弱,帰国。カー・アイビー は1946年死亡。



図(右):米国カー・アイビー1944年作「戦争は地獄だ」(タラワ攻防戦で砲撃過敏症となった海兵隊員)War Is Hell (Shell Shock);Kerr Eby(1889-1946),Charcoal. Gift of Abbott Laboratories,NAVAL HISTORICAL CENTER引用。タラワ戦で日本軍の頑強な抵抗を受けた海兵隊。

米国の従軍画家カー・アイビーKerr Ebyは,1899年メソジスト宣教師の子息として東京に生まれる。第一次大戦時に米国陸軍に入隊。1941年の日米開戦後,入隊を志願したが,高齢のために叶わなかった。そこで,アボット研究所Abbott Laboratoriesの戦場芸術家プログラムcombat artist programに参加し,1943年10月から1944年1月まで,南太平洋方面の海兵隊に加わった。 タラワ環礁上陸作戦に参加し,3週間ブーゲンビルBougainville島の戦場で暮らした。ブーゲンビル島では熱帯病に罹患し衰弱し,帰国。1946年死亡。

米国でも第二次大戦中,100人以上の将兵・民間人が戦場画家 'combat artists'として活躍した。戦後,50年以上たって,米国でも彼らの作品12,000点以上は,大部分忘れ去られている。(⇒米国の戦場画家・従軍画家Combat Artists参照)


図(右):タラワ環礁を侵攻中の米海兵隊員;Marines of Landing Teams 2/8 and 3/8 advance forward beyond the beach. LtGen Julian C. Smith Collection;Kerr Eby(1889-1946)は、このような海兵隊員を多数スケッチしている。タラワ戦で日本軍の頑強な抵抗を排除し,日本軍将兵を殲滅したのは彼らである。

タラワ島など日米の激戦に取材し,辛苦をなめた海兵隊員たちの様子をスケッチし,それを記録に残した。ブーゲンビル島やタラワ島の戦いは,いずれも米海兵隊が勝利した戦いである。しかし,アイビーの描いた戦争画は「勝利した米軍」というよりも,戦闘,地形,気候に苦労した米軍将兵であり,彼らの汗と血,犠牲の末に得た勝利である。

国家指導者や軍上層部にとって,戦死者の名誉を称え,追悼すると同時に,残された指導者が自己の正当性を維持し,大義を確固とするために故人の遺徳を利用しているようにも感じられる。

日本の将兵は,殲滅されたが、米軍は日本軍の頑強な抵抗に予想外の苦戦をした。艦砲射撃や空爆は、ベティオ島を包み、そこの守備隊は壊滅的打撃を受けていると思い込んだのが間違いのもとだった。この戦闘以降、徹底した艦砲射撃と空爆を行ったために、米軍の被害は大きく減少した。アッツ島の戦いとタラワの戦いは、1943年に起こった初期の島嶼攻防戦であり、1944年以降の後期島嶼攻防戦とは異なると考えられる。


写真(上左):1944年6月,アッツ島玉砕の1年後,米軍はサイパン島に上陸。
図(上右):1944年6月,サイパン島で米軍海兵隊に保護された日本の婦女子:日本人1万7000人が捕虜となり,米軍の下で生き残った。しかし,「サイパン島玉砕」と喧伝された。生き残ったものは,非国民,投降した卑怯な兵士として,黙殺された。Civilians are escorted back to safety, food and medical care. Department of Defense Photo (USMC) 83013.


米軍は,1943年11月26日,タラワ・マキンを占領しギルバート作戦が終了したことをラジオで放送した。1ヵ月後,日本の大本営は,1943年12月20日,タワラ・マキンの玉砕を「タラワ島およびマキン島守備の帝国海軍陸戦隊は-----3000の寡兵をもって5万余の敵情陸軍を邀撃---我に数倍する大損害を与えつつ、敵の有力なる機動部隊を誘引して友軍の海空作戦に至大の寄与をなし、------軍属約1500名もまた全員玉砕せり」と大軍相手に敢闘し,機動部隊を誘引・撃破(虚報)にまで寄与したと,過大な評価を下した。

◆日本人には,タワラの激戦は,米海兵隊に日本軍の強さ,優秀さを見せつけた戦いとして,誇らしく思う気持ちもある。寡兵でよく装備優秀な,物量を誇る米海兵隊を苦戦させたというのである。米軍は,扁平なサンゴ礁の小島であるマキンは2日間,タワラは3日間で攻略している。苦戦したのは,72時間が限度だった。

◆米軍は,海兵隊の本格的な大活躍として,タワラ,マキンの戦いを高く評価している。敵の日本軍を,旧式火砲を装備した寡兵で,歩兵の携行兵器も旧式だった,自動小銃は1丁も無かったとして,貶めることはしていない。米軍も驚くような頑丈なトーチカを整備し,巨砲を配備して,日本軍兵士は,米軍に頑強に抵抗したと評価している。水際で迎撃する作戦も,小島では当然であり,よくも抵抗を続けられたと,日本軍将兵を激賞する場合もある。米軍は,タワラ上陸の記念切手を発行し,強襲揚陸艦の艦名に「タワラ」を選んだが,これもタワラ攻略を高く評価しているからである。

◆米軍のギルバート諸島獲得は、マーシャル諸島やトラック諸島へ進攻する準備が整った。同時に,米海兵隊は,激戦を勝ち抜いたことで,自ら戦力の大きさを実感し,士気を高めた。米陸軍が主導したアッツ島,ガダルカナル島の攻略についで,海兵隊もタワラ・マキンで日本海軍陸戦隊殲滅という初めての大戦果を挙げた。弱兵ではなく,最強を誇った大日本帝国海軍を撃破したのである。米海兵隊は,激闘に勝ち抜いて自信をつけ、士気を鼓舞された。海兵隊の大勝利に,米国民も大喝采を送った。

◆米軍が,タワラの激戦にあって日本軍守備隊の強さを認めたとしても,日本人としては,有頂天になることは絶対にできない。「強い日本軍に勝った米海兵隊こそが世界最強の軍隊になったと証明された」,これが米軍の主張,米国民の考えである。その思考パターンを考慮することなく,米軍の戦史の日本軍の評価をそのまま鵜呑みにすることは避けたほうが賢明だろう。

◆タワラの激戦を戦い死んでいった日本軍守備隊の頑強な抵抗意思は,評価に値する。しかし,日本の将兵は,よく戦ったとの評価だけで,死んでいったものへの思い,歴史の評価が終わってしまっていいわけはない。日本人としては,死んでいった同胞たちの苦悩,苦痛に思いを致すべきであろう。タワラの兵士たちは,戦いながら死を受け入れるしかなかったであろうが,自分の,家族への,いのちへの希求があったに違いない。タワラ,マキンの住民のことも忘れることはできない。



衛星画像(右):マキン環礁→大きな地図で見る

PIC国際機関太平洋諸島センターによれば,タラワ・マキンは,キリバス共和国にある。国の中心は,激戦の行われたキリバス諸島タラワ環礁ベシオ島(ベチオ島)で,ここは南タラワと呼ばれ,官公庁や銀行が集中する。北タラワは,整備された道路はなく,未だに昔ながらの雰囲気を残しているとされる。PICの観光案内には次の項目がある。

タラワの観光スポットベシオの戦跡
 War Relics 第二次世界大戦中の激戦地として知られるタラワの戦場の中心となったのがベシオである。1943年11月、旧日本軍約4,600名は、2万名もの米軍を迎え撃ち3日間の激戦の末、最後には玉砕に至るという悲劇の運命をたどった。ベシオの島の西端と東端(コーズウェイの手前)にはそれぞれ旧日本軍の砲台やトーチカが現在も残っているほか、島の北東部には旧日本軍の旧司令部の建物が昔の姿を留めているところを見ることができる。また港の近くには日本人慰霊碑や観音像も建てられている。 (引用終わり)

2.1944年6-7月のマリアナ諸島サイパン島「玉砕戦」では,日本軍4万人が死亡したが,軍人・軍属の捕虜5000人,朝鮮人(飛行場設営部隊労働者)捕虜1300人もでた。日本軍将兵(設営部隊を含む)の捕虜率は12%。日本の民間人約2万人の民間人のうち,約1万2000人が米軍によって収容され、生き残った。民間人の捕虜率は60%。

1944年6月15日,総勢7万人の米軍は、サイパン島に上陸。サイパン守備の日本軍は第43師団(斉藤義次陸軍中将)、中部太平洋方面艦隊(司令長官南雲忠一海軍中将)など4万人であるが,火力は劣っていた。6月24日には,天皇にサイパン島奪回が不可能であることが上奏された。7月6日には日本軍将官たちも自決。その後、3000名の日本軍将兵が、万歳突撃を敢行し,マッピ岬では多数の民間人が、断崖から身を躍らせ自決した。アッツ玉砕の1年後のことである。玉砕は,日本軍将兵だけではなく,日本民間人にまで及んだ。

しかし、日本軍将兵同様,サイパン島の住民も捕虜となり,無残に殺害されることを恐れていた。住民は、恐怖の表情であり,臣節をまっとうするどころではない。自分の子供たちを守りたい一心で恐怖に堪えているが、捕虜になった後、辱められ,処刑される恐れも感じている。捕虜になった民間人が,祖国への忠誠心から殉教すると人物として描かれたら、どのように感じるであろうか。

軍民ともに運命をともにし,最後の一人(一兵でなく)まで戦うという「一億総特攻」「玉砕戦」は、「戦争殉教」そのものである。しかし,実際のサイパン島の戦いでは,捕虜が多数出た。サイパン島玉砕戦というが,日本軍将兵はその12%が生き残った。日本の民間人はその60%が生き残った。

万歳突撃や投身自殺をもって,サイパン島の軍民は,名誉を守るために潔く自決し,「全員玉砕した」とするのは誤りである。サイパン島では,日本の民間人約2万人の民間人のうち,約1万2000人が米軍によって収容され、生き残った。また,軍人・軍属の捕虜5000人,朝鮮人(飛行場建設などの労働者)捕虜1300人も出ており,彼らは別々に収容され、軍人は米本土やカナダの収容所に送られた。日本軍は23811名が戦死し、921名が捕虜となった(これは設営部隊を含まないようだ。設営部隊は「朝鮮人労働者」などと呼ばれ,軍の将兵とは看做されていなかった。)
米軍は,総兵力7万人の内、死傷者1万5000人だった。


アッツ玉砕では,忠勇なる日本軍将兵が全員天皇陛下の御楯となって戦死したという神話が流布されたが,サイパン玉砕となると,日本軍将兵だけではなく,民間人も軍の邪魔にならないように,あるいは敵に捕らわれて生き恥を晒すことのないように自決したとの悲劇神話が流布された。実際には,サイパン陥落で1万5000名の日本軍将兵・民間人が生き残り,捕虜になっている。彼らは,非国民として非難されることはなかったが,これは玉砕=全員戦死=殉教戦士、とされたためである。

沖縄戦中期の1945年4月末の段階で,沖縄住民12万人以上が,米軍による軍政の下で暮らしていた。これは,日本軍上層部からみれば,敵への大量投降であり,非国民,卑怯者という謗りを免れない。当時,日本人は,捕虜となるくらいなら玉砕するという名誉を過剰に意識しており,日本軍司令官は,降伏,集団投降を認めなかった。サイパン戦,沖縄戦では,民間人の投降が多数あり,日本軍将兵も捕虜となっていたが,日本の不名誉と考えられた「捕虜としての生き残り」は,「全員玉砕」のプロパガンダの前に黙殺された。

3.アジア太平洋戦争は総力戦であり,戦闘だけではなく民間人の労働,兵器生産など銃後も含めた軍民の総力戦であった。総力戦では,前線も銃後・後方も区別がなくなり,兵士も労働者も女・子供も戦争に参加することになる。全ての国民が戦争に巻き込まれ,被害を受けるようになる。総力戦を最高度に推し進めれば,全軍特攻化,一億国民総玉砕にいたる。戦争の本質は,大量殺戮,大量破壊である。

1944年7月,サイパン島を失った日本陸海軍は,本土空襲に恐れおののき,特攻兵器の開発・生産,特攻隊の編成を本格的に進める。1945年4月末,沖縄戦の敗退が明らかになると,本土決戦を目指した全軍特攻化,「一億総特攻」を決定。死を賭して,守るべきは日本の国体である。

敗戦後,特攻作戦失敗の責任,敗戦の責任をとることは,日本軍上層部にとっては苦痛であり,結局,責任は放棄された。自らは特攻に出ず,部下に特攻を命じた司令官・参謀は,自己保身的な卑怯者のように感じて、苦しかった。特攻作戦で3000名以上の若者の命を犠牲にしたものの,敵の軍門に下った将軍は「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」の戒めを破り生き残った。その心理的負担を取り除くために,「特攻は第一線の若い将兵の発意,犠牲的精神の発露である」という特攻自然発生説を信じ込んだ。信じさせようとした。

敗戦後,仇敵の米国,占領軍総司令官マッカーサー元帥を信頼して,それに積極的に協力することで,国体護持を図った有能な政治家・元高級軍人が輩出した。彼らこそ最大級の転向者,変節漢のように見える。「君子は豹変す」なのか。それとも,戦時中から,連合軍に共鳴していた「仮面非国民」だったのか。

サイパン島玉砕戦の真実:1万名以上の捕虜を出したが「玉砕戦」と呼ばれた理由
沖縄戦の住民集団自決:日本軍による住民への自決命令はあったのか(裁判結審?)
沖縄玉砕戦の真実:14万人の捕虜がいても「玉砕戦」とされたのは、一億国民総特攻の思想から当然である。


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