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◆ホロコースト Holocaust(Shoah):アウシュビッツ強制収容所


写真(左)1945年4月12日,オールドルフ(Ohrdruf)収容所で虐殺死体を見るアイゼンハワー(Dwight Eisenhower)将軍,ブラッドリー将軍,パットン将軍
ドイツ軍撤退時に,親衛隊は残っているユダヤ人や捕虜を虐殺。オールドルフは,作曲家バッハゆかりの地であるが,ブーヘンワルト強制収容所の支所があった。収容所では,食糧不足,栄養失調,病気(チフスなど),拷問,処刑によって,多数の囚人が殺戮された。1945年4月4日,オールドルフは米第三軍第四機甲師団(4th Armored Division)が解放した。そして,第82師団が到着し,死体の山を発見した。PHOTO ARCHIVES ONLINE CATALOG:United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)[Photograph #04649]引用。
写真(右)は,アウシュビッツ収容所に隣接した山荘Solahuette(太陽ヒュッテ)で寛ぐ親衛隊SS将校カール・ヘッカー(Karl Hoecker:写真提供者)と婦人補助部隊。View Karl Höcker's photo album in the Photo Archives:Auschwitz through the lens of the SS [Photograph #34584]引用。米国ホロコースト記念博物館は,1993年にワシントンDC中心部に建設。現在までに2500万人が来訪し,そのWebサイトには2006年だけで1500万人が来訪している。

◆2015年4月18日・26日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。番組ではナチ党、ヒトラーが取り上げられる。
中居正広『アンネの日記』から世界平和を考える」テレビドガッチが2015年2月6日(金)21時よりTBSで放映された。その日、本研究室への新規訪問者は1万1,616人、翌7日は1,508人、8日は725人に達し、アンネの生きた戦争の時代、人種民族差別への関心がSNSでも高まっていることを実感した。しかし「実際の“隠れ家”の間取り図・断面図をフリップで見せるなどして、過酷だったその生活ぶりを検証する」というが、アンネの隠れ家の条件は最上級で、収容所のユダヤ人とは比較するまでもない。それを想像できたアンネは、ほかのユダヤ人たちを心配していたほどだった。
 気になったのは、アンネの日記を検証すれば容易にわかるような番組の錯覚が散見されたことだ。再現された隠れ家に入ったゲストが「アンネは一部屋もらっていたんですね」というが、アンネは姉と同室で、直ぐに姉と別れてデュッセル氏と同室にされた。一人一室の余裕はなかった。また、「見つかることは殺されることですね」とのゲスト発言も、収容所送り=殺害かどうかをアンネたちが議論していたことを踏まえると正確ではない。隠れた当初、労働力を提供するユダヤ人をすぐ殺すはずがないとの意見が優勢だった。解説で「ドイツ秘密警察がユダヤ人を連行した」というが、オランダ人の警察や密告者がユダヤ人捜索・移送に協力していたことは、15歳の少女も心悩ませていた。他方、ユダヤ人がイエスを殺したため、その責任をとらされて虐殺されたとの「自己責任論」が、聖書を引いて説明されたが、聖書からこの説に「都合のいい」個所だけ引用するのはいかがなものか。キリスト教会は、ユダヤ人イエス殺害説を否定しているのに、その事実も、その理由も一切触れられなかった。ヒトラーやナチスは、第一次大戦の敗戦、恐慌、汚職、政治的混乱は全てユダヤ人の陰謀であり、ユダヤ人の目的は、ドイツを堕落、隷属させることであると邪推した。そうなる前に、ユダヤ人を排除、殲滅すべきだと極論した。
 TBSは、素晴らしいメッセージを発信する良質な番組を放映したが、ゲストの発言や解説の細かな点まで監督する責任がある。世界中で読み込まれ、徹底研究されている「世界記憶遺産」に関する番組が、一般視聴者向きだから、学術研究ではないから、と安易な姿勢で作成されてはならない。「日記を破る日本人の理解はこの程度だ」と世界で誤解され、番組の中から日本に「都合の悪い」個所だけフレームアップしたプロパガンダがなされるのが心配だ。番組の言うように「アンネの書いた日記をもう一度、読み直さなければならない」

読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力・粛清の肯定、異民族・非国民の排除、批判者を弾圧しての独裁政治の開始という本音のようだ。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時,NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」ルドルフ・ヘス及びレニ・リーフェンシュタールに出演。
◆2011年3月2日,BBC News"Sony apology over Japan boy band Kishidan's Nazi gaffe"によれば、親衛隊の制服を着用したTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、関係者すべてに深く謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。

◆2011年7月下旬刊行『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、日本初公開のものも含め150点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
そこでは、ユダヤ人迫害、ホロコースト、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。

◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。

序 ナチ党の政権獲得

1933年2月,ヒトラーの首相任命1ヵ月後,国会放火事件を契機に、人権を制限する大統領緊急令が発布。3月,暴力・威嚇を駆使して,全権委任法によって、ナチス独裁が開始。

◆ドイツの反ユダヤ主義Antisemitismは,ナチス政権によって,人種民族的偏見から,ユダヤ人に対する基本的人権の侵害へと高まった。ナチ党は,突撃隊・親衛隊の暴力を行使し,警察を支配して,人種民族差別・迫害を行った。しかし,ユダヤ迫害は,人々の間にアンチ・セミティズムAnti-Semitismがあったことで,可能になった。ユダヤ人が追放されることで,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の多くも,ユダヤ人差別を許容した。

◆ユダヤ人差別として,1933年4月,公職追放,5月,焚書,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止,1934年,医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々と出された。1938年4月,財産の登録義務を課し、登録料を徴収。11月,ゲッペルス宣伝相は,ユダヤ人商店の破壊(クリスタルナハトKristallnacht)を煽動。

◆反ナチスとされた下等劣等人種ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的犯罪者など危険な非国民は,ドイツの敵である。彼らを拘束し,更正させる場所として,刑務所に加えて,1933年から,強制収容所KL(ラーゲル)を設置。ラーゲルを管理し,監視したのが,親衛隊SS髑髏部隊である。

ナチスの時代,言論の自由がない状況で、ドイツ市民は,ユダヤ人差別と迫害は仕方がないと考え,自分の無力さを前提にニヒリズム(虚無主義),現実主義に陥ったのか。

ナチ党独裁政権・ナチスの人種民族差別:ホロコーストの序章


1.ナチスの欧州支配
 

1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物・インテリを処置。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。

1939年9月21日,開戦から3週間,SS保安警察長官ハイドリヒは,ユダヤ人のゲットー強制移送を指示。

ナチスは,ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離する前に,ユダヤ人住民の情報を集める登録作業を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだったようだ。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。しかし,ユダヤ人を登録させることに成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まった。

第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに強制移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国,オランダ,フランスの一部の警察・住民は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。

ドイツ国防軍は,一時,不名誉な一般市民虐殺を阻止しようとしたが,虐殺命令が最高位からのものと知ると,治安維持任務,軍政担当の責任を負うことを回避した。親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。これは,軍の責任回避ともいえる。

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害。親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)は,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。占領直後,ポーランドに、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置、何万人ものユダヤ人を狭い空間に押し込めた。仏領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討された。

写真(右)第三帝国の国会におけるアドルフ・ヒトラー総統の演説:演壇に立つヒトラー総統の後方には,ヘルマンゲーリング議長の席がある。写真は,World War 2 in color引用。

ドイツ軍の攻撃の前に,5月17日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏、6月10日、ノルウェー降伏,6月22日フランス降伏。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人殲滅戦の遂行を公言している。
これはあくまで過激な表現のプロパガンダに過ぎない,と誤解したドイツ人,連合国指導者もいた。


◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである。妄想的な宿命論を信じたヒトラーは,参戦義務がないにもかかわらず,対米宣戦布告をした。いままで,宣戦布告など一切問題としなかったヒトラーだが,世界のユダヤ人相手の最終戦争は,自ら宣戦布告すべきであると判断した。

◆ドイツのソ連侵攻に伴って,共産党からソ連軍に派遣された政治委員(政治将校),ソ連軍ユダヤ人兵士など敵性下等劣等人種とされた人間が,銃殺された。治安対策の意味もあったが,このような虐殺が,共産党に反対していた親独ロシア人・ウクライナ人にまで,ドイツ抵抗運動,パルチザン(ゲリラ)に向かわせた。

1941年6月22日以降のドイツのソ連侵攻は,ユダヤ人など下等劣等人種殲滅戦争の第二段階だった。開戦当初,ソ連に侵攻したドイツ軍を共産党スターリンの圧制からの解放と考え,ドイツ軍を歓迎する住民もいた。しかし,ナチスの世界秩序の中で,下等劣等民族のロシア人,ウクライナ人に対する物資徴発,強制労働が行われた。ドイツ国防軍のの中には,住民と協力関係を樹立し,反共勢力に育成するとの構想もあった。

しかし,ユダヤ人など下等劣等人種に対する殲滅戦争を開始,住民の家畜,食料を徴発し,住民を追放した。過酷な扱いを続けたドイツに対して,占領下の住民は,パルチザンとなり,武器を取って,ドイツ占領軍を襲撃し,ドイツに協力する現地の住民にも報復した。

写真(右)1941年9月,ソ連北部でパルチザン容疑者を銃殺する直前のドイツ国防軍兵士。兵器テクノロジー,作戦,国際関係だけではなく,総力戦の大量破壊,大量殺戮も無視しないドイツ連邦アーカイブは,ドイツ国防軍のこのような写真でも,隠すことなく公開している。Sowjetunion-Nord.- Erschießung von Männern ("Partisanen"), Marsch auf Straße unter Bewachung durch deutsche Soldaten; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツ占領地のパルチザンは,ゲリラと同じく非正規兵士だったが,ドイツ軍やドイツ協力者を攻撃した。ソ連軍は,ドイツ占領下の住民にパルチザンとして,武器を取って戦うように命じた。そして,パルチザンを後方撹乱を行うゲリラ部隊として組織しようと,連絡員や諜報員を送り込んだ。

ナチスは,パルチザンを掃討し,反ドイツ抵抗運動を鎮圧するために,住民に対して容赦ない措置をとった。また,占領下住民から物資を徴発し,強制労働を課した。「オスト」東方労働者として,ドイツ本国やポーランドの工場,強制収容所付属工場に強制連行された住民もあった。このような治安維持,強制動員が占領地住民の反ドイツ感情を高めた。ドイツ軍をスターリン支配からの解放者としてたたえる住民はいなくなった。

写真(右)1943年1月,ソ連側住民・パルチザンの絞首刑:背景には、ドイツ軍兵士だけでなく民間人が見えるが,これは見せしめのためであろう。パルチザン(ゲリラ)の処刑(銃殺,縛り首)がドイツ連邦アーカイブに何枚も保管されている。
Sowjetunion.- erhängte Partisanen (nach dem 21.1.1943). Im Hintergrund deutsche Soldaten und Zivilbevölkerung; PK 666 Dating: Januar 1943 Photographer: Koch撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ナチスは,ソ連の領土は,ドイツ人・ドイツ系民族(民族ドイツ人)の殖民する領土であると認識した。したがって,占領したソ連の肥沃な大地に,ユダヤ人を追放することは考えられない。英領植民地パレスチナ,フランス植民地マダガスカル島へのユダヤ人追放は計画されたことはある。しかし,戦時中,何万名ものユダヤ人を,遠隔地に追放することは不可能である。また,早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。収容したユダヤ人の処置が緊急問題となった。

写真(右)1944年5月,アウシュビッツ収容所に到着したハンガリー・ユダヤ人A transport of Jews from Hungary arrives at Auschwitz-Birkenau. Poland, May 1944.:移送列車で収容所駅に到着したユダヤ人は,その場で,労働が可能かどうかで即座に2グループに選別された。労働不可能な子連れ婦女子・子供,老人などは,ガス室で処刑されることになる。写真は,ワシントンDCにあるUnited States Holocaust Memorial Museum引用。


強制収容所の到着時に選別された労働可能者は,過酷な条件の下,軍需工場での奴隷労働,収容所の作業班に充当され,生きることを許される。しかし,栄養失調や病気で労働不能になれば,処刑された。収容所に到着したユダヤ人たちは,生死の選別がなされているとは気づいていない。家族が一緒のバラックで暮らすことを希望していたので,子供を離さない婦女子が多かった。

親衛隊の収容所管理者・看守は,ユダヤ人が暴動を起こさないように十分に配慮したマニュアルを作成し,ユダヤ人絶滅を細心の注意をもって,冷静に実行した。
ユダヤ人虐殺は,反ユダヤ狂信者の異常行動ではない。普通のドイツ人でも,移送列車運行などユダヤ人虐殺システムの運営に参加した。

写真(右)アウシュビッツ収容所への入所:労働不能者として選別された婦女子は,手荷物を持って,収容所に入る。しかし,その居住区画は,ガス室に入れられるまでの一時的な控えの場所に過ぎなかった。Yad Vashem :The Auschwitz Album引用。


2.強制収容所 Concentration Camp


ドイツ本国 Germany

  • ベルゲン=ベルゼン Bergen-Belsen;1940年,ハノーバーから60kmに連合軍の戦時捕虜POW (Prisoner of War),イギリス・アメリカ国籍あるいは中立国保護証明書を保有するユダヤ人など人質交換に有用な囚人を収監する収容所として開設。1944年2月,囚人200名が英軍のドイツ人捕虜と交換にパレスチナに向かうことを認めた。さらに,1,500名のハンガリー・ユダヤ人が身代金目的でスイスへの出国を許された。1944年7月までに4,000名のユダヤ人を釈放した。親衛隊国家長官ヒムラーは,米英と和平交渉を画策していたのである。1944年後半まで,ここのユダヤ囚人数は1万5000名,収容環境も比較的よかったという。
     1944年10月末,ヒムラー長官は,アウシュビッツ=ビルケナウなど絶滅収容所のガス室による大量殺戮を中断させ,収容者をドイツの収容所に強制移送させた。これがアービングが発見したヒムラー長官による「ガス殺禁止命令」だが,それ以前はガス殺していた証明でもある。戦後の処罰回避,和平交渉の人質として,ヒムラーは1944年10月にガス大量殺戮を中止したのである。
     ベルゲン=ベルゼンにガス室はないが,ユダヤ人が虐殺された。1945年2月,2万2,000名の囚人は,アウシュビッツ,ザクセン・ハウゼンなど収容所の撤収することになった。本国ベルゲン=ベルゼン強制移送される囚人は急増,1945年4月15日までに6万50000名を収容した。劣悪な環境で,食料不足,チフスなど病気蔓延し,1945年の初めの数ヶ月で,1万-3.5万名が死亡したという。その中には,アンネ・フランクも含まれる。1944年12月1日,最後の所長がヨーゼフ・クラーマー。1945年4月15日,英軍により解放。
  • ベルゲモールBörgermoor
  • ブーヘンワルトBuchenwald(174支所);1937年,ゲーテのふるさとワイマールに設立。収監している囚人数は,大戦勃発の1939年9月1日5,382名,1943年12月3万7,319名,1944年12月 6万3,084名,1945年3月8万436名と増加した。1944年後半から,東方ポーランドの収容所から,ドイツ本国に強制移送された囚人が増加したためである。5万6000名が殺害され,そのほか1万3000名がアウシュビッツなど絶滅収容所に移送。
     2005年4月,シュレーダー首相は,収容所解放60周年記念式典で「ナチスの戦争犯罪を繰り返させない」「事実を将来世代に伝える」と表明した。

  • ダッハウDachau(123 支所);1933年3月,親衛隊ヒムラー長官が,警察長官も兼ねた時期,ナチスが設立した最初の強制収容所のひとつで,ミュンヘン郊外15kmに設置。当初は,反ナチス,共産主義者など政治犯が収容。1934年7月,所長は,直ぐに収容所総監となるテオドール・アイケ(1892.10.17-1943.2.26戦死)SS連隊長。彼は,1934年6月のレーム粛清の功で,7月SS師団長となり,配下の髑髏部隊にたいして,平時にも,日夜,鉄条網の背後にいる敵に立ち向かっている,唯一の兵士であるとして,命令への絶対服従を求めた。収容所囚人の労働は,犯罪的行為から離れるための教化手段であり,囚人の間に規律を行き渡らせる。持続的に勤勉に好作業成績をあげた抑留者は釈放するというアイケ総監の方針は,収容所入り口の「労働は自由にする」の標語である。しかし,その意図も戦争で無為になったと,元アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスは戦後語った。(『アウシュビッツ収容所』講談社,152-183頁)
    アイケの部下で,後にアウシュビッツ収容所長となるルドルフ・ヘスSS曹長(班長)は,ダッハウ収容所のブロック長,資材管理官を務めた。1935年3月-1938年8月まで,囚人に対する医学人体実験が行われた。1945年4月26日の解放直前,政治犯4万3,350名,ユダヤ人 2万2,100名など合計6万7,665名が収監されていた。1933-1945年の収監者総計は18万8,000名以上で,1940年1月-1945年5月までに殺害された囚人は少なくとも2万8,000名いる。解放までに3万-4万名が殺害されたと推測される。
    1945年4月29日,米軍はダッハウ収容所を解放し,翌30日Sidney Blauがガス室の写真を撮影。これは,バラックBaracke Xにある4つの鉄の扉の一つで,白文字で「ガス時間"Gaszeit"」(ガス消毒時間)と書かれ,具体的な時間が書き込めるようになっていた。アイゼンハワー司令官もダッハウを自ら視察し,すぐに米議会のメンバーにも視察要請がなされた。バラックX内部の脱衣場からガス室への入り口となる壁(ドアの上)には,黒文字で「シャワーBrausebad」と書いてある。ガス室の隣が死体置き場,次が焼却炉である。

    写真(右)大戦直前1938年7月20日,ダッハウ強制収容所の拡充作業を強要される囚人:1937年,親衛隊は,囚人労働を酷使して保護拘禁を大規模拡充,建造物を新築した。翌1938年夏の終わり,第二次大戦1年前,収容所整備がなった。ダッハウ収容所には,キリスト教聖書研究会など,ナチスに忠誠を誓わないキリスト教徒も収監された。ウィーン大学でフロイトの下で精神医学を研究したヴィクトール・フランクル(1905-1997)は『夜と霧』の中で,ダッハウ強制収容所の病棟勤務をしていた。運命,神を呪い,自暴自棄になっては,収容所を生き残ることができない。彼は,「否定的で暗い感情の虜になる」のではなく,「精神のあり方を選択できる自由をつかみ、この絶望的状況下でもなお自分の人生の主人公であり得る」と信じて生き延びた。1945年4月27日,米軍がダッハウを解放。Konzentrationslager / Schutzhaftlager Dachau.- Häftlinge bei Zwangsarbeit, Schieben von Loren Dating: 20. Juli 1938 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

     ダッハウのガス室に関して,マルティン・ブローシャトは,1960年8月「ツァイト」紙上では,稼働していなかったと述べた。しかし,戦後,ニュルンベルク裁判で,チェコの医師フランツ・ブラーハFranz Blahaは,ガス室は1944年に完成し、ドイツ人医師ラッシャーSigmund Rascher博士の指示で,8-9名が入れられ3名が生きていたこと,焼却炉に運ばれた遺体から金歯を検査したと宣誓供述書で述べている。ラッシャー博士は1942年8月9日、ヒムラーに宛て「ダッハウ強制収容所には、リンツ(障害者殺害施設かマウトハウゼン収容所のガス室のこと)と同じ設備が建設されているが,そのガス室で戦闘用ガス(サリン,タブンなど)の人体実験したい」と要望した。ガス室,虐殺は,親衛隊の機密事項であり,施設改変や証拠隠滅もなされている。(Harry W. Mazal OBE:The Dachau Gas Chambersダッハウのガス室と「定説」#1221/1770研究室「パンドラの箱」引用)
  • ディブルクDieburg
  • エステルウェーゲンEsterwegen(1支所);1923年に設置されていた収容所を,1933年に政治犯用に転換。1941年には,ベルギー,フランスなどの連合軍捕虜を収容。 フロッセンブルクFlossenburg (94 支所)
  • グンデイスハインGundelsheim
  • ノイエンガメNeuengamme(96支所);1938年12月,ハンブルク郊外エルベ川沿いに設置,5万6000名が殺害。1940年,収容所囚人は 2,000名で,その80%はドイツ人だった。1940-1945年,9万5,000名の囚人が収容された。1945年4月10日,囚人数は1万3,500名で,男子2,000名,女子1万300名が支所で奴隷労働に就いていた。当時,ドイツ囚人の比率は10%に低下していた。96支所のうち20支所は女子用だった。1945年春,囚人4万5,000名以上が奴隷労働に従事しており,その三分の一が女子労働者だった。当時のノイエンガメ市の人口は1万3,500名だったから,収容所は明らかに囚人過剰の過密状態にあった。ノイエンgハメ収容所の支社は5万6000名と推測される。1945年5月3日1500,ここに強制移送される囚人を乗せたドイツ客船「カップ・アルコナ」など3隻が,バルト海で英空軍タイフーン戦闘爆撃機に攻撃され,撃沈。囚人7500名が死亡,生存者は500名。
  • パペンブルクPapenburg
  • レーベンスブリュックRavensbruck(31支所);1938年設立,9万2000名が殺害。女子・子供が多数収容された。
  • ザクセンハウゼンSachsenhausen(44 支所);1936夏ベルリン郊外35km,オラニエンブルク近くに設立, 1938年「水晶の夜」"Crystal Night"の後,ユダヤ人1,800名が投獄,殺害された。当時の収容所長はヘルマン・バラノフスキーSS連隊長,収容所事務長(副所長)は後にアウシュビッツ収容所長となるルドルフ・ヘス。大戦勃発直後の1939年9月末の囚人数は8,384名。1942年1月末"Station Z"という銃殺処刑場が整備。1943年3月には,ガス室がここに追加されたというが,焼却炉かもしれない。ソ連軍の侵攻が迫った1945年4月20-21日,囚人3万3,000名が西方ドイツに強制移送されたが,死の行進と呼ばれ,行軍の遅れた多数の囚人が射殺された。ソ連軍の解放時には30000名の囚人がいて,そのうち1400名は女子だった。3万-3.5万名が殺害。

    写真(右)ザクセンハウゼン強制収容所(1936-44年撮影):1936-1945年の間に, 20万人以上が収監された。当初は,共産主義者など政治犯だったが,1939年以降は,劣等人種と差別された人々も収容されるようになった。ADN-ZB Konzentrationslager Sachsenhausen Im Juli 1936 errichteten die Faschisten nördlich von Oranienburg das berüchtigte Konzentrationslager Sachsenhausen, daß mit seinen über 50 Außenlagern besonders während des II. Weltkrieges die Rüstungsbetriebe Norddeutschlands mit billigesten Arbeitssklaven versorgte. UBz: die zum Zählappell auf dem Lagerplatz angetretenen Häftlinge. Dating: 1936/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
  • ザクセンブルクSachsenburg

オーストリア Austria(1938年ドイツに併合)

  • マウトハウゼンMauthausen(49 支所);1938年8月,アンシュルス(ドイツへのオーストリア併合)後,リンツ郊外20kmに設立。 "Vernichtung durch arbeit" (労働による絶滅)をモットーとした強制収容所。地下トンネルの支所として,Gusen (I, II and III), Melk,Ebenseeがあった。
     マウトハウゼンは,オーストリアの収容所だが,小規模なガス室があり,1942年春頃まで時々使用された。現在もシャワー室に似せた小型ガス室が公開されている。
     Mauthausen-Memorial公式ページによれば,「---1945年5月5日の解放に至るまでの間、20万人のヨーロッパ各国及び世界中の囚人たちが非人間的な拘留条件やナチの拷問方法の下で苦しみました。半分以上の人がこの拘留で命を落としたのです。囚人たちは過酷な労働や、最低の衛生管理を原因とした伝染病で死亡し、あるいはナチの警備班に射殺されたり、マウトハウゼンのガス室やグーゼン隣接収容所、“安楽死施設”ハルトハイムなどで毒ガスによりその命を絶たれました。」
     「マウトハウゼンの主要収容所では、1943年後特に収容者を分配し、まずは軍備生産の強制労働を目的とした外部収容所の完全組織が発展しました。----終戦間際の数ヶ月間は、このマウトハウゼン強制収容所の定員人数をはるかに上回る囚人の収容や日に日に悪化する食料不足などにより、収容所の状態は悲惨なものとなりました。多くの囚人たちが解放後拘留中に損なった健康がもとで野戦病院で亡くなり、収容所を生き延びた人たちも、その後彼らの人生の大きな部分を失ったことに対していまだに癒えない心の傷と戦っているのです。」とある。
      1945年5月5日,米第11機甲師団がマウトハウゼン収容所を解放した時,1万5,000の死体があり,数週間のうちに,飢餓・重態にあった囚人3000名が死亡した。1939-1945年に,ここで看守を務めた親衛隊SSは1万名を超えたが,氏名が判明しているのは818名に過ぎない。1946年3月7日のダッハウ裁判では,親衛隊58名が死刑,3名が終身刑を宣告された。捕まった全ての看守が有罪だったわけではない。ただし,マウトハウゼン収容所指揮官フランツ・ザイラスFranz Ziereisは,民間人の服を着て隠れていたために,米兵によって,射殺。収容所では,推計15万名が殺害。

    写真(右)オーストリアのリンツ郊外マウトハウゼン強制収容所(1936-44年撮影):腕立て伏せのような体罰を受けさせられている。Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Häftlinge bei Sportübungen auf dem Appellplatz des KZ Mauthausen写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
    オーストリア内務大臣Günther Platterは「この元強制収容所を保存し、記念館設立が決定したのは、この記憶を残し、後世の人々にありのままを伝えていくことの使命感に対する明確な証です。この回想及びマウトハウゼンがその象徴であるナチの犯行から一線を画することが、オーストリアの新たな国民意識の重要観点となるべきです。マウトハウゼン強制収容所は過去においても将来も国境を超えてヨーロッパ史の結晶点です。マウトハウゼンは、ヨーロッパ内外の国民たちの運命を左右した場所でもありました。その追憶は保存されるべきであり、共通の国際史痕跡として確定し、二度とこのようなことがおこらないように我々はさまざまに検討し努力すべきです。」と述べた。

ベルギー Belgium:

  • ブレンドックBreendonck ;ベルギー軍要塞を,占領したドイツが1940年9月から政治犯とユダヤ人用の収容所として使用。3600名の収容者中,600名が殺害。

チェコスロバキア Czechoslovakia

エストニア Estonia: 

  • ヴィヴァラVivara;エストニア全土でドイツ占領下収容者3.1万名が殺害。ソ連占領下でも粛清があった。

フィンランド Finland:

フランス France:

  • Argeles
  • Aurigny
  • BrensDrancy :スペインからの難民を受け入れる庇護施設として,フランスが開設。ドイツ管理下で3000名が殺害。
  • Gurs
  • Les Milles
  • Le Vernet
  • Natzweiler-Struthof(70 支所);1941年5月ストラスブール郊外に設置。反ナチスのレジスタンス(フランス,オランダ,ベルギー,ノルウェーなど)を4万名を収容。1万-1.2万名を殺害。
  • Noé
  • Récébédou
  • Rieucros
  • Rivesaltes
  • Suresnes
  • Thill

    ヴィシー政府下のモロッコおよびアルジェリア Vichy in Maroco and Algeria

  • Abadla
  • Ain el Ourak
  • Bechar
  • Berguent
  • Bogari
  • Bouarfa
  • Djelf
  • Kenadsa
  • Meridja
  • Missoua
  • Tendrara
    ◎数千名のユダヤ人を収容 
オランダ Holland
  • アメルスフォルトAmersfoort :オランダ中南部に設置。1941年,市内にユダヤ人820名が住んでおり,彼らが収監された。1941年8月-1943年3月に,9,000名が収監された。1941年9月27日,ソ連軍捕虜101名が到着,市内を行進させられ,ボルシュビキの敗北を市民に見せ付けた。1942年4月9日,ソ連軍捕虜77名が銃殺された。1943年4月22日,アメルスフォルト収容所の囚人はフブト収容所に移送された。
      1943年6月-1945年4月19日に,2万8,000名以上が収監され,2万名が他のナチスの収容所に強制移送された。
  • オーメンOmmen :オランダ中部に1941年6月13日より建設,オーメン収容所の最初の囚人は1月19日に到着。公式な設置は1942年6月22日(独ソ開戦)。
  • ブフトVught(12 支所):オランダの政治犯収容所を,1942年末,親衛隊がヘルチョーヘンブッシュ強制収容所(KL Herzogenbuschとして利用。マウトハウゼン=グーセン収容所から転出したカール・チェメレスキーKarl Chmielewskiが初代司令官で,グーセン収容所からカポ(刑事犯の囚人長)80名を導入した。敷地は,500mx200 m, 居住バラック36棟,労働作業バラック23棟があった。
     最初の囚人は,1943年1月13日にアメルスホルト収容所から到着。ユダヤ人は,1月16日に到着。 開設されていた1943年1月-1944年9月の18ヶ月間で、合計で3万1,000名が収容された。内訳は,ユダヤ人1万2,000名のほか,政治犯、レジスタンス、 ジプシー、エホバの証人、同性愛者、ホームレスなどである。
     1944年Dデイ(6/6)以降,撤収準備が始まり,女子収容者はレーベンスブリュック収容所に強制移送された。1944年9月5-6日,収容所閉鎖。1944年7-9月,329名の反ナチ・レジスタンスが射殺。1944年9月6日,解放後,親独派だったオランダ人,対独協力者が収監された。また,ドイツ人強制送還者 6000名も一時収容された。 1944年10月26日解放。
     1990年4月,ベアトリクッス女王によって,ブフト収容所国立メモリアルが開設され,収容所での死者は,749名で,多くは処刑者だった。収容所の近くの森‘Fusilladeplaats’が銃殺場所だった。
      BBC2004/10/10によると,オランダ・ユダヤ人女子高生ヘルハ・デーン Helga Deen(18歳)がケース・ヴァンデンベルフ(Kees van den Berg)に宛てたヘルハの日記(学校ノート代用) が公開された。1943年4月,オランダ南部ティルブルフの Tilburgで家族とともに逮捕,ヴフト収容所に収監された。日記は収監後 6月1日からのもので,7 月の移送決定も記載されている。7月にゾビボル Sobibor 絶滅収容所に移送され,7月16日に殺害。ヘルハの日記はヴァンデンベルフ子息コンラート (Conrad)が預かっていたものが公開された。

  • ヴェステンボルクWesterbork (通過収容所transit camp);1939年9月,ドイツからのユダヤ人難民庇護施設として,オランダ政府が北部に設置。1942年7月,ドイツ親衛隊・オランダ警察部隊の支配下に入り,反ナチス,ユダヤ人の収容施設となる。
      Westerbork:United States Holocaust Memorial Museumによれば,1942年7月-1944年9月3日までに,9万7,776名のユダヤ人が強制移送された。ウェステンボルクからは,アウシュビッツに 5万4,930名(移送68回),ゾビブルに 3万4,313名(移送19回),テレジェンシュタット・ゲゲットーに4,771名(移送7回),ベルゲン=ベルゼンに3,762名(移送9回)である。1943/4/30ユダヤ人移送列車記録が残されている。1944年9月3日のWesterbork - Auschwitzのサインボードのついた移送列車が最後の移送列車で,その中には,オットー・フランクやアンネなど隠れ家の8名も含まれる。1945年4月12日にカナダ軍が解放した時には囚人876名がとどまっていた。
     Westerbork todayには,エントランス,司令官宿舎,鉄道乗降場,監視塔,鉄条網,ジャガイモ貯蔵庫などが残っている。Monumentsには,ここから移送されて二度と生きて戻れなかったユダヤ人10万2,000名を記念する同数のイスラエル産の石が並べてある。

イタリア Italy:

  • Bolzano
  • Fossoli
  • Risiera di San Sabba

ラトビア Lattvia

写真(右)1941-42年,ロシア・ラトビアのサライスピル強制収容所:ヤド・ヴェシム・イスラエルホロコースト博物館によって,この写真がラトビアの強制収容所のものであると認定された。独ソ戦勃発当時,ラトビアはソ連に併合されていたが,ドイツ軍の占領とともに,反共産主義,反ボリシェビキ勢力が台頭し,武装親衛隊や親衛隊が編成された。そして,ユダヤ人,ソ連捕虜などを強制収容所で監視する任務にも投入された。Rußland, Lettland 1941/42, KZ Salaspils [Die Identifizierung des KZ Salaspils erfolgte durch Yad Vashem] Dating: 1941/1942 Winter Photographer: Dürr撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

  • Riga
  • Riga-Kaiserwald
  • Dundaga
  • Eleje-Meitenes
  • Jungfernhof
  • Lenta
  • Spilwe
  • Lithuania
  • Kaunas
  • Aleksotaskowno
  • Palemonas
  • Pravieniskè
  • Volary
  • Salaspils

ノルウェー Norway

  • Baerum
  • Berg
  • Bredtvew
  • Falstadt
  • Tromsdalen
写真(右)アウシュビッツ第一収容所のガス室・焼却炉(Gas chamber and crematorium I)の設計図:労働不能者として選別したものをガス室で殺害。1940年8月15日-1943年7月に稼動。その後の,大量殺戮は,ビルナウ絶滅収容所に新設されたガス室・焼却炉によって遂行された。この施設は,倉庫,そして親衛隊用の防空壕に改造されたという。ユダヤ人死体処理場を,親衛隊の避難所として利用する感覚は理解できない。しかし,ここが空襲されたことは一度もなかった。現在の博物館の「ガス室」は破壊されていた防空壕を,再びガス室仕様に復元したもの。ここからチクロンBの痕跡が検出されるとは思えない。Auschwitz-Birkenau State Museum引用。

ポーランド Poland
  • アウシュビッツ=ビルケナウAuschwitz/Birkenau- Oswiecim-Brzezinka (絶滅収容所extermination camp - 51支所);設立時期は,アウシュビッツ収容所は1941年4月,ビルケナウ収容所は1941年10月,モノビッツMonowitz労働収容所は1942年5月設置。1943年11月,アウシュビッツは三分割され,アウシュビッツ第一収容所(基幹収容所),アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ),アウシュビッツ第三収容所(モノビッツ)と,管理上,3つの独立した収容所に分割された。それまで,アウシュビッツ収容所長だったルドルフ・ヘスは,収容所統監府の経済行政本部DI局長(1945/5/1付)に転出。
    ガス室による大殺戮が行われたのは,アウシュビッツ第二ビルケナウ絶滅収容所で,初代所長はフルードリヒ・ハルテンシュタインSS上級大隊長だが,1944年5月から1944年12月1日まで,ヨーゼフ・クラーマー(1906-1946)SS突撃本隊長が所長を務めた。親衛隊長官ヒムラーは,1941年3月1日,IGファルベン首脳らとともに,アウシュビッツを視察,平時でも3万名の収容を可能にすること,IGファルベンの化学工場建設準備をヘス所長に命じた。1941年夏,ヘス所長は,ベルリンに呼び出され,ヒムラー長官からヨーロッパのユダヤ人の大量殺戮の命令を伝えられた。
     基幹収容所の焼却炉Crematorium I(設計図)は1940年8月15日-1943年7月まで稼動し,1日340名の処理能力があったという。 ここに試験的なガス室が作られ,1941年秋,チクロンZyklon Bを用いて,ソ連軍捕虜の殺戮を行った。その後,労働不能者やポーランド人死刑囚もここで殺害された。ビルケナウ収容所に,新たなガス室,すなわち第一ブンカー(Bunker 第二ブンカーが建設されると,ここは倉庫とされ,その後,親衛隊の防空壕に改造されたという。この時,焼却炉,煙突,壁の一部は撤去され,屋根にあったチクロンB投入口は塞がれた。(Crematoria and Gas Chambers引用)
     アウシュビッツの囚人数は,1941年3月1日1万900名,1942年12月1万8,000名,1943年3月3万名,1943年末には8万名へと増加。内訳は,1万8,437名が基幹収容所, 4万9,114名がビルケナウ,1万3,288名がモノビッツ(IGファルベン化学工場)にいた。1944年1月,ビルケナウの女子囚人は2万7,000名だった。1944年8月の囚人数は10万5,168名。
     アウシュビッツに収監された総計250万名のうち,40万5,000名に囚人番号が付与された。そのうち50%がユダヤ人で,残りはポーランドなど他国だった。その中での生存者は6万5,000名だった。アウシュビッツに収監されたる囚人のうち20万名が生き残ったと推計される。
      1942年1月-1942年3月に, 収容者17万5,000名がガス室で殺害された。 1942年8月に大型の新式ガス室建設計画が始まり,1943年3月末に一部が稼動可能になった。1943年4月- 1944年3月のビルケナウのガス室でチクロンBによる殺害は16万名。1944年3月-1944年11月には,他の収容所からも囚人に加えて,ハンガリー・ユダヤ人,ポーランドに残っていたゲットーからのユダヤ人を受け入れ,58万5,000名をガス室で殺戮したとされる。
     1945年1月27日ソ連軍により解放した時,女物衣類83万6,525点,男物衣類 34万8,820点,靴(クツ)4万3,525点が発見された。

    写真(右)1944年,アウシュビッツAuschwitz強制収容所の管理・病院勤務の親衛隊とSS婦人補助部隊:"Auschwitz 21.6.1944" 親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバムAuschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp(2007年1月,アメリカのホロコースト記念博物館に寄贈
     
  • ベルゼクBelzec(絶滅収容所 - 1 支所);1941年11月設置,1942年3-5月に一酸化炭素を使ったガス室が設置。ユダヤ人1000名を収容所作業に使役。ポーランドのルブリン,リボフのゲットーから移送したユダヤ人8万名を処理。1942年7-12月には,クラカウからのユダヤ人13万名とリボフ地区とラドムその他のユダヤ人21.5万名を処理。1943年初期の間は,遺体を焼却,埋める作業が続けられた。閉鎖,1942年3月-1942年12月まで,絶滅収容所として機能し,30万-50万名を殺戮したといわれる。証拠隠滅のために農場に転換された。200年に発見,2001年に公開されたラインハルト(Reinhard)作戦指揮官Hermann Hoefle(Höfle)の電報Höfle Telegram によれば,43万4,508名のユダヤ人を1942年12月末までに殺戮したことを伝えている。
  • Bierznow
  • Biesiadka
  • Dzierzazna & Litzmannstadt ( "Jugenverwahrlage", 児童収容所。レーベンスボルン Lebensborn(生命の泉)計画で使用)
  • グロス=ローゼンGross-Rosen- Rogoznica (77 支所)1940年ザクセン=ハウゼン腫瘍所支所として開設,1941年5月以降,抑留者1.5万名の強制収容所となる。12万名が収容され,4万名が殺害。1944年秋以降,アウシュビッツから強制移送された囚人を受け入れる予定だったが,1945年3月21日に,グロス=ロ−ゼン収容所自体が撤収。1945年5月5日,解放。
  • ウタ=コマロウスカHuta-Komarowska
  • ヤノブスカJanowska
  • クラカウKrakow
  • クルムホフ=チェルノムKulmhof - Chelmno絶滅収容所;1941年11月設立。15.2万名以上が殺害。オーストリアからの移送者の死者数 は不明。
  • ルブリンLublin ;1941年10月設立。すぐ隣りに,マイダネック収容所がある。
  • ロヴォフLwow レンベルク(Lemberg)
  • Czwartaki
  • Lemberg
  • マイダネックMajdanek(絶滅収容所 - 3 支所) ;1941年10月,ソ連軍捕虜収容所として,ルブリン郊外4kmに設置。1942年4月-1944年7月,チクロンBZyklon Bを使ったガス室によって 大量殺戮。
     Majdanek Death Statisticsによれば,マイダネックでの殺害数は,ニュルンベルク軍事裁判ではソ連軍が150万名,1948年のポーランド・ナチ犯罪操作委員会の報告では36万名,1998年のマイダネック博物館ガイドブックでは,約23万4,000名,2005年12月のルブンリンの研究者Tomasz Kranzによれば,7万8,000名である。
  • Pawiak
  • プラスゾウPlaszow(労働収容所。後にマイダネック収容所支所)
  • ポニャトヴァPoniatowa
  • プスカウPustkow (労働収容所)
  • ラドゴツRadogosz (刑務所)
  • ラドクRadom
  • シュモルツSchmolz
  • ソッケンSchokken
  • ゾビブルSobibor絶滅収容所;1942年3月設立。1942年4月-1943年10月まで開設。1942年5月-7月までユダヤ人10万名が殺害。1942年10月-1943年春,7万-8万名のガリシア・ユダヤ人, 14.5万-15万の総督領の「ユダヤ人,2万5,000名のスロバキア・ユダヤ人が殺害。1943年3月には,フランス・ユダヤ人が始めて到着し,1943年3月-7月に,オランダ・ユダヤ人3万5,000名が到着。ロシアのヴィルナVilna, ミンスクMinsk,そしてリダLidaゲットーのユダヤ人も殺害された。推計で総計25万名が殺害。
     ソ連赤軍のユダヤ人将校アレクサンダー・ペチェルスキーAlexander Pecherskyは,1943年9月にゾビブル収容所に収監されたが,10月14日に親衛隊11名と親独ウクライナ人看守を殺害し,囚人300名を脱走させた。多数がその場で銃殺,殺害されたが,50名が終戦まで生き残った。1943年10月に,収容所は閉鎖され,農場に見せかけられた。
  • スツッホフStutthof- Sztutowo (40支所)
  • トレブリンカTreblinka絶滅収容所;1941年,ワルシャワ Warsaw北東80kmに設置。1942年7月-9月,ワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人強制居住地区)の26万5,000名のユダヤ人が殺害。そのほか,ユダヤ人は,ラドムから33万7,000名,ルブリンから3万5,000名,ビアールストック Bialystokから10万7,000名がトレブリンカに移送された。ポーランド以外からは,スロバキアから7.000名,テレジエンシュタットTheresienstadt収容所から8000名,ギリシャから4,000名,マケドニア(ブルガリア)から7,000名のユダヤ人が移送されている。
      1943年8月2日,囚人が反乱を起こし,ゲートに殺到した。多数の囚人が射殺されたが,300名以上が脱走した。そのうち三分の二は,逮捕,殺害された。捕らえられた囚人は拷問され,殺された。
     1942年7月-1943年11月に,トレブリンカ第二(絶滅)収容所Treblinka IIでは,87万-92.5万名が殺害されたとも言われる。トレブリンカ第一収容所Treblinka Iは強制労働キャンプthe forced-labor campで,1944年7月まで,機能していた。1944年7月,ソ連軍が近づいたとき,看守は囚人300-700名を射殺後,撤退した。
     200年に発見されたラインハルト作戦に関するHöfle Telegramによれば,1942年に移送されたユダヤ人は,トレブリンカTreblinka, 7万1,355名;ベルゼク Belzec, 43万4,500名; ゾビブルSobibor, 10万1,370名; マイダネックMajdanek, 2万4,733名である。ただし,ナチスの統計官リッカート・コルヘRichard Korherr博士は,国家長官ヒムラーに,1943年4月の報告書で「ヨーロッパユダヤ人の最終解決」"The Final Solution of the European Jewish Problem"の人数として,トレブリンカ,ボビブル,ベルゼク,マイダネックで収集した記録に基づいて,1942年末までに,127万4,166名としている。したがって,総計 127万4,166名のユダヤ人が移送"evacuated"されたというKorherr Reportによれば,トレブリンカの処理した人数は,7万1355名は,71万3,555名の誤記と考えられる。
  • ベリチカWieliczka
  • ワピヴォコZabiwoko労働収容所
  • ザコパネZakopane

ロシア・ソ連 Russia:

  • Akmétchetke
  • Balanowka
  • Bar
  • Bisjumujsje
  • Bogdanovka
  • "Citadelle" (収容所の名称は不詳。リボフLvov近くに設置。数千名のソ連軍捕虜が殺害。)
  • Czwartaki
  • Daugavpils
  • Domanievka
  • Edineti
  • or Kelbassino
  • Khorol
  • Klooga
  • Lemberg
  • Mezjapark
  • Ponary
  • Rawa-Russkaja
  • Salapils
  • Strazdumujsj>
  • Yanowsk
  • Vertugen
    ◎ロシア・ソ連に設置された収容所の正確な数は不明で,主要な収容所のみ記載。AkmétchetkaやBogdanovka)のようなルーマニアの管理下にある収容所では,1941年12月,5万4000名が殺害されたという。

ユーゴスラビア Yougoslavia:

  • Banjica
  • Brocice
  • Chabaz
  • Danica
  • Dakovo
  • Gornja rekaGradiska
  • Jadovno
  • Jasenovac
  • Jastrebarsko
  • Kragujevac
  • Krapje
  • Kruscica
  • Lepoglave
  • Loborgrad
  • Sajmite
  • Sisak
  • Slano
  • Slavonska-Pozega
  • Stara-Gradiska
  • Tasmajdan
  • Zemun

3.ユダヤ人問題の最終解決
Die Endlösung der Judenfrage


1941年6月6日(ドイツの対ソ侵攻直前)、ドイツ軍最高軍司令部によるボルシェビキ指導者の政治委員(コミサール)射殺命令:1941年4月以来、親衛隊SS長官ハインリヒ・ヒムラーは,ヒトラー総統から、ドイツの敵を処置する特別の使命を委ねられていると公言し,ドイツのソ連侵攻が決定的となった時点で,コミサール抹殺命令が出た。

1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を無視して,ソ連に侵攻。4個大隊3千名の特別行動部隊(アインザッツグルッペンは,治安維持とユダヤ人・共産主義指導者抹殺の目的で, 1942年4月までにソ連の住民・捕虜50万名を虐殺。命令は口頭で、文書の場合は,ユダヤ人放逐など婉曲表現を使用。

ポーランド侵攻時に既に投入されていた特別行動部隊は,反ナチスとなりうる公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,文化・国家の維持に有益な人々を処置することを命じられていた。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持していたSS大隊長(中佐)だった。SS保安警察長官ハイドリヒは,1939年9月21,ユダヤ人のゲットーへの強制移送を指示した。

写真(右)1941年10月,オーストリアのマウトハウゼン強制収容所に到着したソ連軍捕虜。独ソ戦開始の1941年6月22日以降,数ヶ月で数十万名のソ連軍捕虜を獲得したドイツ軍は,捕虜の後方への輸送,食糧,収容施設に限界を感じていた。多数の捕虜の生活に対する物資割当は,極限にまで減らされていたから,ソ連軍捕虜は過酷な扱いを受けた。マウトハウゼンに到着した捕虜は,まだ体力に余裕が残っていたようだ。しかし,ヒムラーは,このような生き残りの頑強な劣等人種こそ,殲滅すべき敵であると認識していた。1年と経過しないうちに,多数のソ連軍捕虜が栄養失調,病気,処刑によって死亡した。Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener im KZ Mauthausen, Oktober 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1941年6月22日以降の独ソ戦では,反ボルシュビキのウクライナ人,エストニア人,ラトビア人,リトアニア人などから,補助警察を編成し,虐殺に協力させた。しかし、ソ連打倒が困難なことが判明した1942年10月末、ソ連人捕虜とユダヤ人をドイツの産業・農業生産工場のために,奴隷労働者として投入した。 ドイツ軍支配地域では,ドイツ軍に協力しなければ,生きて行くのは困難だった。 

1942年1月20日,ヴァンゼー会議Wannseekonferenzでは,ハイドリヒ長官が、親衛隊,警察指導者に、1941年10月末までに53万7千名のユダヤ人を国外移住させ、残るソ連・欧州の1100万名に及ぶユダヤ人問題の最終解決を全権委任されたことを伝えた。9月から,ドイツ支配下のユダヤ人は,黄色のダビデの星印の着用が命じられ、絶滅収容所の建設が開始された。

ソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・資源不足という状況の中で、労働力として利用できない敵性住民ユダヤ人は、絶滅されることが決定した。
⇒栗原優(1997)『ナチズムとユダヤ人絶滅政策−ホロコーストの起源と実態』ミネルヴァ書房参照

◆1941年冬のソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・物資不足の状況で、労働力として利用できない敵性住民ユダヤ人は、排除(銃殺,処刑)されることが決定した。


写真(上)1942年7月17-18日,アウシュビッツAuschwitz強制収容所を視察する親衛隊SS国家長官ヒムラーとIGファルベン首脳陣:これは2回目の視察で,このときには,ガス室における囚人ガス殺をも実際に視察し,ヒムラー長官自身,気分が悪くなってしまった。親衛隊髑髏部隊の任務の困難さを理解していた長官は,親衛隊に品格を保ち,恣意的な虐殺や殺害を楽しむサディステックな振る舞いを嫌悪していた。ユダヤ人の財産を国庫に没収するのは当然だとしたが,ユダヤ人から持ちもをを略奪する親衛隊員は厳罰に処すと明言していた。しかし,小市民的な発想は,ユダヤ人虐殺自体への疑念を生じさせなかった。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。第一収容所とアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所)の間に,鉄道幹線があり,そこから引込み線が,収容所入り口に延びていた。ユダヤ人絶滅における鉄道輸送と鉄道職員の役割は,大きい。ドイツ鉄道は,強制移送するユダヤ人からも料金を徴収。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。

 1942年7月17-18日,ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を徹底的に視察し,拡張計画を検討した後,農場,家畜育種場,植物園を見た。そして,ビルケナウでは,ロシア人収容所,ジプシー支所,ユダヤ人支所を見た。看視塔から,収容所区画,建設中の給排水施設を説明させた。作業中の抑留者,宿舎,厨房,病棟も視察した。ヘス所長は,拡張計画の困難さを説明したが,ヒムラー長官は,任務遂行を命じ,「どうすべきか心を砕くのは,君であり,私じゃない」と責任を押し付けた。 

 ビルケナウ視察では,到着したユダヤ人移送者の一部虐殺の過程と選別作業とを見た。その後,ブナを視察した。大管区指導者やIGファルベン首脳は,抑留者の配給切詰めを伝えた。そして晩餐会後,ヒムラー長官は,ヘス所長夫妻とともに,大管区指導者に招待され,社交の集まりを持った。

 ヒムラ−長官は,翌7月18日,アウシュビッツの基幹収容所,厨房,女子収容所,工房,厩屋,荷物倉庫「カナダ」,選別所,屠殺場,製パン所,建設部も見た。収容者の宿舎,衣食住の実地検分し,詳細な報告をさせた。

 ヒムラー長官は,視察終了後,ヘス所長の執務室で「私はこれで,アウシュビッツを隈なく視察した。欠陥も困難もこの目で見たし,君から聞いた。しかし,それについて,私は何一つ変えることはできない。今は戦時であり,戦時にふさわしい考え方をすることを学ばなくてはならない。アイヒマンのプログラムは推進され,毎月上昇してゆくだろう。ジプシー殲滅を進め,働けないユダヤ人も容赦なく抹殺されなければならない。近くの軍需工場附属の労働収容所が,働けるユダヤ人を大量に引き受けるであろう。アウシュビッツでも,所内の軍需工場が建設されなければならない。----君を,上級大隊長に進級させよう。」ヒムラー長官は,飛行機でベルリンに帰った。(ルドルフ・ヘス『アウシュビッツ収容所』425-440頁引用)


写真(上)1942年7月17-18日,アウシュビッツAuschwitz強制収容所を視察する親衛隊SS国家長官ヒムラーとIGファルベン首脳陣:収容所長ルドルフ・ヘスが案内し,ナチ党幹部,軍需企業IGファルベン首脳も参加した大規模で,徹底した視察だった。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。第一収容所とアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所)とならんで,合成燃料と合成ゴムの工場「ブナ」の建築現場を視察。United States Holocaust Memorial Museum. Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。

 <ホロコーストの理由>
1.中世以来,非キリスト教徒として,市民権を持っていないユダヤ人が多く,土地所有権・貸借権もなかった。そこで,ユダヤ農民は少なく,都市の商業・教育・医療・金融などに就業せざるをえなかった。参政権もなく,基本的人権が制限されている人種民族は,困難な状況を克服しようとする。これが「マージナルマンの論理」である。(アメリカ大陸で日系人が成功したのも,ユダヤ人と同じく,困難な状況を乗り越える努力の結果だった。)ヒトラーは,特定少数派の人種民族の成功を卑怯な行為であるとして,人種民族的差別に利用した。

2.不況や敗戦などの国家的困難は,政治的,軍事的指導者の責任・無能さ・失敗になる場合も多い。事業の失敗は,事業者の自己責任でもある。しかし,中には,失敗の責任を,他の人種民族に転嫁する者がいる。ヒトラーは,第一次大戦の敗北をユダヤ人の陰謀のせいにした。これは,弱い(人権が制限されている)人種民族を選んで,責任を転嫁する「スケープ・ゴート(生贄のヤギ)の論理」である。

3.第一次大戦で,第一級鉄十字賞を授与されたヒトラー上等兵は,前線のドイツ軍兵士が勇戦していたにもかかわらず,後方のユダヤ人政治家や共産主義者が反乱・革命を起こして,ドイツを敗戦に陥れたと考えた。ヒトラーは,ドイツ敗北のトラウマから逃れるために,ユダヤ人・共産主義者による「背後からの匕首(アイクチ)の一突き」という陰謀説を信じた。

4.ヒトラーは,自分が属すると思い込んだヨーロッパ・アーリア人を至高の人種民族族と妄想し,人種汚染を引き起こすユダヤ人や知的障害者は,迫害した。ドイツ人,アーリア人の覇道を,下等な人種民族が妨害するのであれば,障害となる人種民族を排除し,絶滅するしかないという極論に行き着いた。これが「アーリア人優位説」の裏返しとなる「下等人種民族(ウンターメンシュ)排除説」である。

5.ヒトラーは,ユダヤ人は,〕ソ┐淵疋ぅ通餌欧鮨夕鎹染し,共産主義を広めて革命の混乱に落としいれ,ソ連・アメリカ・イギリスを操って,反ドイツの戦争を起こそうとしていると考えた。その目的は,ユダヤ人による世界支配である。共産主義者としてソ連を動かし,金融資本家・メディア経営者として民主主義=衆愚政治の米英を操っているユダヤ人は,ドイツを人種汚染し,破壊する永遠の敵である。東方のソ連・ロシアも,ドイツの生存圏とする予定であり,そこにユダヤ人を受け入れる余地はない。ユダヤ人は,ヨーロッパからは排除しなくてならない。精神障害者・知的障害者の安楽死計画「T4作戦」も,劣等遺伝子による人種汚染からドイツ人を守るための措置だった。ヒトラーは,ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書は残っていないが,1939年の開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,ユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

6.ユダヤ人の共産主義者・金融資本家・マスメディアが,ドイツに戦争を仕掛けてくるのであれば,第一次大戦のように「背後の裏切り」によってドイツが敗北しないように,ヨーロッパのユダヤ人を抹殺するべきである,というのがヒトラーの本心だった。当初は,パレスチナやマダガスカル島にユダヤ人を追放する計画もあった。しかし,独ソ戦の戦局悪化,日米戦争の勃発で,アメリカ・ユダヤ人がドイツ人に戦争を仕掛けてくるのは必定である。アメリカ・ユダヤ人に(対米)宣戦布告をし,対ユダヤ殲滅世界戦争を戦うことが,ヒトラーの自覚した神の摂理だった。ヒトラーは,三国軍事同盟には参戦義務がないにもかかわらず,国会で対米宣戦布告をし,ユダヤ人殲滅の世界戦争戦を宣言した。対ポーランド戦,対ソ戦の宣戦布告はしていない。しかし,ユダヤ人殲滅の世界戦争は,ヒトラーに課せられた宿命として,自ら宣戦布告した。

7.現実主義者のヒトラーは,ユダヤ人絶滅の崇高な使命を,善良なキリスト教徒のドイツ人が理解できるとは思わなかった。また,ユダヤ人絶滅が実行されているとソ連・米英が察知すれば,各国は全力を上げて,ドイツに抵抗するに違いない。したがって,ユダヤ人絶滅を公言はしても,実際に絶滅を開始したことは,一切秘密にした。ドイツのキリスト教徒の団結を維持し,敵連合国・ユダヤ人の必死の反撃を受けないように,ユダヤ人絶滅は,秘匿されなければならなかった。ユダヤ人絶滅は,(ドイツ国防軍ではなく)キリスト教に縛られない忠誠無比な親衛隊SSに口頭命令された。

8.ユダヤ人絶滅は,人種汚染を防ぎ,優秀なドイツ人の血を維持する目的があるが,労働力としてユダヤ人を活用することも,総力戦では重要だった。親衛隊・ナチスの幹部,軍需産業を担うビジネスマンは,安上がりな労働力を必要としていた。そこで,ドイツ支配下のフランス・オランダあるいは東方のソ連・ポーランドなどから,労働者を徴用・強制連行した。連合軍捕虜を使い,ソ連軍捕虜を酷使した。ユダヤ人を奴隷労働に従事させた。強制収容所の多くには,支所として,労働収容所が付属しており,奴隷労働者は,病死・過労死・虐待死するまで働かされた。労働収容所にガス室はなかったが,ユダヤ人奴隷労働者は,死ぬことが予定されていた。(人質交換や和平交渉のための釈放はあった。)つまり,ユダヤ囚人による奴隷労働も,究極目的は,軍需生産への労働力供給よりもユダヤ人絶滅を優先したものだった。

9.女子供まで殺害するユダヤ人虐殺は,治安維持の任務を超えており,名誉あるドイツ国防軍の任務ではない,あるいはキリスト教徒として信義を守るべきであるとの反論や反抗が,ドイツ国防軍の将官,兵士の中に起こった。1939年ポーランド侵攻前夜,ポーランド指導者根絶をヒトラー総統から聞かされたフォン・ボック上級大将は「本件に関して,同意を与える立場になく,絶滅計画遂行に煩わされる立場にない。遂行の責任は親衛隊SSにある」と回想した。1942年9月5日,陸軍参謀総長カイテル将軍がユダヤ人労働者を全てポーランド人労働者に転換するとの命令を出した。このとき,ポーランド総督領軍司令官クルト・フォン・ギーナント大将は,ユダヤ人排除はドイツの戦力を大幅に低下させるとして,工場労働に従事するユダヤ人の排除猶予を要請した。10月2日,ヒムラー長官は,「内心はユダヤ人と自分の事業を守りたいがために,軍需産業への影響を引き合す連中には断固たる態度で臨む」と述べ,カイテル参謀総長はギーナント大将を即時罷免した。それ以後,ドイツ国防軍は,ユダヤ人絶滅に異を唱えなかった。(ただし,1944年7月20日,ヒトラー暗殺未遂事件が起きた。)ドイツ国防軍,警察,官僚,政治家など有力なドイツ人によるユダヤ人虐殺反対運動は弱かった。ユダヤ人大量殺戮は,国家の命ずる崇高な任務となり,品位をもって遂行されるべきものとなってしまった。

10.1943年2月末,ベルリンでユダヤ人配偶者(工場労働に徴用)1500名が逮捕されたとき,ドイツ婦人や親類数百名が,夫の収監されたローゼン通りで静かに抗議した。スターリングラード敗北,ベルリン空襲の状況で,首都のドイツ人への弾圧は,士気を乱す。ヒトラーにも,婦人たちを武力排除できなかった。1943年3月6日のゲッベルス宣伝省の日記に「このような危機的状況で,ユダヤ人移送を強行することはできない。私は,その旨指示した。」とある。混血結婚したユダヤ人は釈放されたのである。ヒトラーは「背後からの匕首の一突き」を信じていたから,ドイツの世論が反ナチス,ユダヤ人迫害反対に変化することを恐れた。1942年に,精神障害者障害者安楽死(T4)を中断したのも,子供を殺された親類・宗教関係者の発言・世論を恐れたためだった。ドイツ一般市民が従順で,世論の反対がない場合,ユダヤ人大量殺戮は着実に遂行された。

写真(上)アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所のクレマトリウム供淵ス室・焼却炉)
:The gas chamber and crematorium II - the furnaces. SS photograph, 1943. 1943/3-1944/11まで稼動し,数十万人のユダヤ人が,ガス室で殺害され,焼却された。24時間で1440名を処理できたという。At the end of the war, in connection with the operation intended to remove the evidence of their crimes, the camp authorities ordered the demolition of the furnaces and crematorium building in November 1944. On January 20, 1945, the SS blew up whatever had not been removed. Auschwitz-Birkenau State Museum, Polandポーランド国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館 )引用。

<ガス室Gas Chamberについの誤解と真相>


1.ユダヤ人などをガス室で虐殺したのは,少数のポーランドにあった「絶滅」収容所で,それも1941年以降である。大半の強制収容所は,移送までの一時的収容,奴隷労働,捕虜・敵性住民の収監・更正・永続的拘束を目的とした施設だった。ただし,ドイツ人知的障害者安楽死(T4計画)のための一酸化炭素を利用したガス殺はドイツのコブレンツ近郊ハダマルHadamar病院,オーストリア・リンツ近郊ハルテンハイムHartheim研究所で行われ,7万名がガス殺,2万名が餓死したと推測される。

2.各地の強制収容所では,食料・衣類など物資の絶対的不足,病気蔓延,過酷な奴隷労働,栄養失調などで多数の囚人が死亡,殺害され,拷問や処刑も行われた。つまり,強制収容所では,ガス室に拠らない虐殺もあった。この意味で,強制収容所は,ユダヤ人などの絶滅施設であった,というのは誤りではない。銃殺,ゲットーへの収容・奴隷労働によって,ユダヤ人を絶滅することは不可能だったため,効率的な大量殺戮の方法としてガス殺が採用された。

3.ガス殺は,1939-1941年当時,ドイツ・オーストリア国内で,知的障害者安楽死(T4計画)では一酸化炭素が利用され,ソ連軍捕虜の処刑に移動式排気ガス室を用いたこともある。1941年,ドイツ占領下ポーランド・ボーゼン西方ヘルムノ強制収容所に,試作的なガス室が作られた。1941年9月,アウシュビッツ収容所にもガス室が設けられ,ソ連軍捕虜が,試験的にチクロンBによってガス殺された。1942年3月ベルゼク,4月ゾビブル,7月トレブリンカと排気ガス・一酸化炭素を利用したガス室が作られた。1942年7月19日,ヒムラーは,「ポーランド総督領の全ユダヤ人の移送を1942年12月末までに完了すべし」とゲットー在住ユダヤ人の絶滅を指令。その後,ビルケナ強制収容所に,「消毒室・洗面所」に見せかけたガス室が増設,1943年3月-6月,換気装置つき大型ガス室・焼却炉群が完成,チクロンBによる大量殺戮が本格化した。

4.1941年6月の独ソ戦では,ドイツ占領地の治安維持にあたった特別機動部隊(アインザッツグルッペ)は,共産党政治委員(コミサール),パルチザン,教員・行政官など知識人(インテリゲンツァ),敵性住民を銃殺や絞首刑にした。しかし,流血の処刑は,処刑者に精神的負担となった。処刑が知れ渡ると,ユダヤ人捕獲が困難になり,ゲリラ活動も活発化した。そこで,処刑者に負担をかけず,治安を悪化させずに,大量殺戮可能な「絶滅システム」が考えられた。これは,“織罐瀬篆優廛蹈僖ンダ,▲罐瀬篆楊告報酬,N鷦岼楞,ぐ楞者の財産収奪と有効利用,ヅ枸賚働,Εス殺・疲労死・病死,Щ狢両撞僂領れが,効率的に組織された。ガス室は,処刑者の心理的負担の軽減,大量殺戮効率化のための重要な要素で,反人間性の象徴となった。(ただし,アウシュビッツ収容所長アドルフ・へスなどは,残虐な方法ではなく,ガスで安楽死させていると考えた。)

5.ユダヤ人を収監した施設は,「強制収容所」と呼称し,「絶滅収容所」とは言わない場合が多い。ガス室Gas Chamberでの大量殺戮を実行した絶滅収容所は,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置された。アウシュビッツ強制収容所だけでも,1940-1945年に百万十万から百五十万名が,ガス殺,栄養失調,病気放置,拷問,奴隷労働などによって,虐殺されたと考えられる。オーストリアのマウトハウゼン収容所にあるシャワー室に似せたガス室では,3500名が殺戮されたと推測される。ミュンヘン郊外ダッハウ収容所にも,1943年以降,ガス室・焼却炉が建設されたが,使用されていないようだ。

6.1943年秋に14万人を収容したアウシュビッツ強制収容所は,1943年11月,三分割され,アウシュビッツ第一収容所(基幹収容所),アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ),アウシュビッツ第三収容所(モノビッツ)となった。しかし,一つの収容所群としてアウシュビッツと呼ぶ場合も多い。ガス室での大殺戮は,アウシュビッツ第二(ビルケナウ絶滅収容所(1944/5-1944/12/1所長ヨーゼフ・クラーマー)で行われた。このガス室は,親衛隊撤退時に破壊,現在は残骸が残っている。アウシュビッツ基幹(第一)収容所のガス室は,他の防空壕に転用後,1944年末に破壊された。現在の第一収容所「ガス室」は復元であり,そこで大殺戮があったわけではない。収容所の変遷を知らない者は「アウシュビッツのガス室は捏造,大量殺戮はなかった」と誤解しやすい。

  7.ドイツ本国の強制収容所ではユダヤ人ガス大量殺戮はなかったが、これはドイツを,現ドイツ共和国の領土に限定した議論である。地域限定性を無視すると,ドイツの強制収容所にガス室はなかった,大量殺戮はなかったと誤解する。ドイツ占領下ポーランドに,ガス室付の絶滅収容所があった。ただし,戦後の処罰回避,和平交渉の人質として,ヒムラーは1944年10月にはガス大量殺戮を中止している。だから,アンネとマルゴは,アウシュビッツでは殺されなかった。オットーは生き残った。

写真(上)1944年,ポーランドのアウシュビッツ第二強制収容所(ビルケナウ絶滅収容所)の第三ガス室・焼却炉とその設計図。1943年6月-1944年11月まで稼動。24時間で1440名の死体を処理できたという。ドイツの敗北が決定的になった1944年10月末,戦犯裁判を恐れた親衛隊長官ヒムラーは,ガス室による大量殺戮を中止し,1945年1月20日,ガス室を破壊した。写真は,Auschwitz-Birkenau State Museum, Poland. (ポーランド国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館)引用。

◆アウシュビッツ収容所は,占領したポーランド軍兵舎を利用し,1940年に建設が始まった。4月,アウシュビッツ収容所長となるルドルフ・ヘス(副総統とは別人)が到着,囚人を使役して,第一期工事として収容所を完成させた。ガス室はなく,銃殺,懲罰房での殺戮が行われた。1940年7月,毎日70体の死体を処理できる焼却炉が設置された。
1941年3月,親衛隊国家長官ヒムラーがアウシュビッツを視察に訪れ,収容規模を1万名から3万名に増加させるように収容所の拡張を指示した。

1941年10月に,アウシュビッツの拡張工事が始まり,12月までに,ソ連軍捕虜1万名がアウシュビッツに送り込まれた。その間,1941年9月,アウシュビッツ収容所では,試験的にチクロンBを使って,ソ連軍捕虜600名,病人300名をガス殺した。

1941年9月,チェコ保護領総督(代行)に栄転したラインハルト・ハイドリヒは,労働者の権利擁護と潜在的敵対者の排除という分断統治をし,成果を上げた。そこで,英軍は,チェコ市民がドイツ占領を許容するのを阻止するため,チェコ人暗殺特殊部隊(コマンドー)を空輸し,1942年5月27日、プラハでハイドリヒの類人猿暗殺Operation Anthropoidに成功した。ドイツ軍は,暗殺者たちを内通を得て発見し,教会の地下に追い詰めた。特殊部隊隊員たちは最後を悟り,自決した。

英軍は,ハイドリヒを暗殺すれば,ドイツがチェコを弾圧し,チェコ人とドイツ人とを離反させることができると謀略を行った。1941年6月10日,ドイツ軍は,暗殺特殊部隊(コマンド)を匿った容疑でリディツェ村を徹底的に破壊し,成人男子を虐殺,残りは強制収容所に収監した。これは,恐怖による支配を容易にするために公表された。

暗殺や諜報に優れた英軍コマンド,MI6は,ハイドリヒ暗殺よりも,それがドイツによるチェコ人弾圧・迫害を呼び起こし,チェコの治安が悪化することを狙った。ドイツ占領地で,チェコ住民がドイツと共生するのを妨害するために,ドイツとチェコとの離反を画策した。

1941年12月7日(日本8日)の日米の太平洋戦争開始の4日後,1941年12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説において,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

We know the power behind Roosevelt. It is the same eternal Jew that believes that his hour has come to impose the same fate on us that we have all seen and experienced with horror in Soviet Russia. We have gotten to know first hand the Jewish paradise on earth. Millions of German soldiers have personally seen the land where this international Jewry has destroyed and annihilated people and property. Perhaps the President of the United States does not understand this. If so, that only speaks for his intellectual narrow-mindedness.

日独伊三国軍事同盟では,第三国から攻撃を受けた場合,共同防衛することを定めている。したがって,日本軍の攻撃で開始された太平洋戦争に,ドイツは参戦する義務はなかった。しかし,ヒトラーは,アメリカのユダヤ人の陰謀によって第二次世界大戦が開始された以上,ドイツも米国との戦争に巻き込まれるのは運命であり,世界のユダヤ人を敵として戦うべきであると果断した。
ドイツ軍は,1941年6月22日の独ソ開戦以降,ソ連赤軍に大打撃を与えたが,優秀なドイツ兵士16万名が犠牲になっている。ヒトラーは,この犠牲の責任を,ユダヤ人にとらせるつもりだった。ドイツの対米宣戦布告によって,アメリカのユダヤ人に配慮して,欧州ユダヤ人の最終解決を遅らせる必要はなくなった。ユダヤ人や敵性住民を収監する強制収容所で,最終解決の名の下に,ユダヤ人絶滅を実行すべきときがきた。

これに対して、ルーズベルト大統領の対独宣戦布告を求める演説が米議会に対して、すぐに行われた。

1941年12月13日,宣伝大臣ゲッペルスJoseph Goebbelsの日記「総統Führerは、ユダヤ人問題を解決する決断を下した。彼は、ユダヤ人がもう一度世界大戦を引き起こしたら、絶滅されることになるだろうと(1939年に)と予言した。これは、空文ではない。まさしく世界戦争である(Der Weltkrieg ist da)。ユダヤ人絶滅は、当然の結果ということになる。」
With respect of the Jewish Question, the Führer has decided to make a clean sweep. He prophesied to the Jews that if they again brought about a world war, they would live to see their annihilation in it. That wasn't just a catch-word. The world war is here, and the annihilation of the Jews must be the necessary consequence. (12/12のヒトラー総統によるナチ党幹部への演説をもとにした記録)

1941年12月16日,占領地ポーランド総督(首都クラカウ)のナチ党幹部ハンス・フランク Hans Frankも,ヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の命令に言及した。東方占領省ローゼンブルクRosenbergも確認している。

1941年12月18日に大本営(Wolfsschanze) でヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の口頭命令を受けて、親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日-1945年5月23日)は,国内外世論,処刑者の精神的苦痛,ユダヤ人の反抗・ゲリラ活動防止,治安維持に配慮して,密かに強制収容所を「絶滅」システムに組み込んだ。 

1941年12月18日頃のヒムラー長官のメモ
Judenfrage / als Partisanen auszurotten
英語翻訳:Jewish Question / to be exterminated like the partisans


絶滅収容所には,大規模なガス室・焼却炉があった。しかし,ガス室を備えていない一般の強制収容所でも,栄養失調,病気,あるいは虐待によって多数の死者が出た。虐殺は,ガス室だけで行われたわけではない。

アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスRudolf Höss(1900-1947)によれば,1942年春,ユダヤ人のガス殺が開始された。ヘスは,部下がなぜ虐殺をするのかと疑問を持ったとき,「この同じ疑問を持った身でありながら,総統命令であることを理由に,彼らを説き伏せた。ユダヤ人虐殺は,ドイツを,われわれの子孫を,手ごわい敵から永遠に解放するために必要な措置であると,彼らに言わねばならなかった。」( ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,307頁 引用)

1942年6月末,消毒室の第1ブンカー,洗面所の第2ブンカーが整備された。消毒室・洗面所に見せかけたのは,殺害するユダヤ人たちが,騒ぎ反抗するのを防ぐためである。誘導には,同じユダヤ人特別作業班「ゾンダーコマンド」を使ったが,これも殺害するユダヤ人を言葉,生き証人の上で安心させるためである。ゾンダーコマンドのユダヤ人は,殺されるユダヤ人を苦しませたくなかった。また,ユダヤ人が暴れたり,到着するユダヤ人がいなくなれば,自分たちゾンダーコマンドが殺害される。彼ら作業班は,看守に協力せざるを得なかった。

1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。ヒムラーは,覗き穴から中を見ているうちに気分が悪くなり,ガス室の裏で嘔吐したとの,ユダヤ人ゾンダーコマンドの証言がある。ビルケナウ絶滅収容所も,1942年秋以降,ガス室が稼動する。ただし,このガス室には換気扇がなく,扉を開放して,換気した。しかし,ガス室の室温が低くなる冬季には,チクロンBが気化できなくなるという問題が生じた。

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人: 男女別に行列させられ,労働可能者と不能者に選別された。労働不能者は,ガス室に送られた。労働可能者は,奴隷労働者として酷使された。しかし,収容所を出所することはできず,食糧不足,病気の蔓延,虐待によって,いずれは殺される運命だった。博物館引用。 

1941年12月,ヘウムノ絶滅収容所で,排気ガスを使った殺戮が始まり,1943年6月,ビルケナウ絶滅収容所のチクロンB(殺虫剤が起源)を使用したガス室と焼却炉が本格的に稼動を開始した。移送列車で到着した囚人群は,労働可能な者とそうでない者の2グループに選別された,労働不能者はガス室で処刑された。労働可能な収容者の一部は,モノヴィッツMonowitz収容所「ブナ」と呼ばれた軍需工場で,奴隷労働に従事した。

ポーランドでは,1940年秋までに,ルブリン,ワルシャワなど次々にゲットーが作られ,狭い空間にユダヤ人を押し込んだ。そして,ユダヤ人の持つ資産を闇市や強奪によって吸い上げるとともに,ユダヤ人の自治を認めて,ユダヤ人を分割統治した。ユダヤ人評議会が,ゲットーの行政を担い,ユダヤ人警察がゲットーの治安を維持した。

親衛隊SSは,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察を支配していたから,かれらに,ゲットーからトレブリンカなど(絶滅)収容所に移送する住民の人数を指定した。ユダヤ評議会が登録名簿から,移送者名簿を作成,ユダヤ人警察が移送者を集めた。しかし,1943年になると,ゲットーを一掃する,すなわちユダヤ人全員をトレブリンカなど(絶滅)収容所に移送する命令がでる。

1943年4月9日,ワルシャワ・ゲットーに,親衛隊将官ユーゲン・シュトロープ率いる武装親衛隊など1万3000名が侵攻。蜂起したユダヤ人は,乏しい武器で地下道を使って抵抗したが,5月には,蜂起は鎮圧された。
逮捕者5万6065名のうち,7千名が射殺,2万2000名がトレブリンカとルブリン(マイダネク)絶滅収容所に送られ,残りは強制収容所に移送された。ドイツ側の死者は16名,負傷者85名。

1943年5月16日,シュトロープ将軍は「ワルシャワ・ゲットーはもはや存在しない」と報告,写真53枚を添えた戦果報告書を提出した。各地のゲットーは閉鎖され,住んでいたユダヤ人は強制収容所に移送された。

  <収容所の日常>
ブナの収容所(ラーゲル)は一辺600mで,鉄条網で二重に囲まれており,1万2000名の囚人がいた。内側の鉄条網には高圧電流が流れていた。木造バラックは60棟あり,「ブロック」と呼ばれ,レンガ工房,上位の囚人の管理する実験農場,6-8棟ごとに配置されるシャワーと便所のバラックがある。加えて,診療所と病棟,放送患者用の第24ブロック,特権的囚人(プロミネンツ)用の第7ブロック,ドイツ人政治犯・刑事犯用の第47ブロック,囚人監督カポ用の第49ブロックがあった。第12ブロックは,半分がドイツ囚人とカポ用,半分が酒保(タバコなどの配給所)である。第37ブロックは,補給事務所・労働事務所である。第29ブロックは,ポーランド女囚のいる売春小屋で,ドイツ囚人専用だった。

居住ブロックは,一棟200-250名で,二部屋ある。一方には,棟長とその取り巻きが住んでおり,イス・ベンチがあり,写真,装飾もある。他方は,寝室で,三段作りの木製簡易寝台148個がある。天井までいっぱいに,一寝台を二人以上で使用する。薄い藁布団と上掛けが二枚,通路は一人が通れるほどの空間しかない。

写真(右)1944年5月,ハンガリーからアウシュビッツ収容所に到着し髪を刈られた女子の点呼:髪の毛は1943年8月以降,靴下,ロープ,マットレスの詰め物,爆弾の点火装置に利用されたという。ユダヤ人作業班が髪の毛からヘアピンなどを取り除き,手ですき,袋詰めした。アウシュビッツ駅から1回1.5トンの髪が輸送されていたという。看守,事務員,女子補助部隊も収容所に勤務していたので,親衛隊員のための病院もあった。広大な敷地の一角には,1943年からガス室が設置され,ユダヤ人やロマ(ジプシー)などが,1944年11月までチクロンBによって大量殺戮された。ユダヤ人絶滅システムは,反ユダヤ主義の狂信的な異常者も加担したが,普通のドイツ人でも,ユダヤ人虐殺に反対することなく,従わざるを得なかった。

収容所の中央に点呼広場がある。朝,約200名で一作業班となる労働部隊を編成しカポの指揮を受ける。楽な仕事とされた電気工,金属工,溶接工,レンガ工,機械工,セメント工など技能労働者は合計でも300-400名しかいない。特殊技能者は,ドイツ人かポーランド人の監督に指揮された。労働作業振り分けは,ブナの民間人管理部と連絡を取った,労役部が決める。買収が横行していたから,うまく食料を手に入れるものが,楽な作業を手に入れることができた。

労働時間は,明るい時間帯なので,季節によって変わる。夏は630-1200,1300-1800だった。逃亡が危惧される霧の日は囚人は仕事に就けないが,暴風でも働くのが規則だった。夕方に点呼を取るために集合させられる。点呼広場の前には,花壇があり,必要なときは絞首刑台が立てられた。

 毎朝,寝台をしわひとつなく完全に平らにし,木底のクツ・服から泥や泥のしみを落とさなくてはならない。夕方には,足が洗ってあるか,ノミがいるか,検査を受けなくてはならない。土曜日には,髪と髭を剃り,服の修繕をし,ボタン5つがついているかどうかの検査を受けなくてはならない。寝るときも,便所に行くときも,すべての財産(クツ,食器など)をみな持っている必要がある。そうでないと,持ち物は一瞬にして盗まれてしまう。(レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』28-34頁)

ブナで化学技師として働いていたプリーモ・レーヴィは,収容所では与えられる命令を実行し,配給だけで生活し,労働規律を守るだけで,よい場合でも三ヶ月で「ムーゼルマン」になり死ぬことになる,と述べている。食料,衣類,クツは必需品であるが,配給だけでは不足するので,禁止されている物資を調達し,物々交換したり,賄賂として提供しなくてはならない。タバコ,ヤスリ,ペンチ,電球,石鹸,金歯,空き缶,容器,食器,電線,ほうき,糸,手袋,物品につけるセルロイドの色つきラベル,針金(クツを縛る),ほろ着れ(足に当てる),紙(防寒用に上着の中に詰める)など,収容所で有益なものを調達し,それと交換で,食料など必需品を獲得し,カポ・収容棟長に楽な作業,まともなスープ(バケツの底で身が濃い部分),寝台を割り当ててもらうのである。

同郷者・友人など団結した囚人グループを形成し,物質的優位を確保し,組織化して物品を収容所あるいは囚人から盗み出す。こうした狡猾な組織者(オルガニザトール),結合者(コンビナトール),名士(プロミネンツ)と呼ばれたものが,過酷な収容所で生き残ることができた。単に善良で,組織化できない収容者は,生きた屍「回教徒(ムーゼルマン)」になってで死ぬ。体力が劣れば,労働収容所で,時折行われる囚人の第二次選別で,労働不能者に区分されれば,ガス室送りになることは,収容期間の長い古参囚人にとって,常識だった。大半の収容者同士は,敵対的な関係に貶められており,団結して看守やカポに立ち向かうことはできなかった。(レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』106-107,152-153,178-182頁)

写真(左)アウシュビッツ収容所の労働可能なユダヤ人囚人:囚人たちも,軍需工場の奴隷労働に使用された。工場は,ブナと呼ばれたが,強制収容所から離れた場所にある場合,収容所支所に収監された。Yad Vashem :The Auschwitz Album引用。

収容所には,刑事犯,政治犯,ユダヤ人の三種類あり,みな縞の囚人服を着る。しかし,刑事犯の上着には,緑色の三角マーク,政治犯は赤三角,ユダヤ人赤三角と黄色三角を合わせたダビデの星をつけいている。親衛隊看守は,収容所の外にいるので,見かけることは少ない。


4.強制収容所と絶滅収容所


1943年3月27日のアンネの日記:ドイツ側が「すべてのユダヤ人は7月1日まで,ドイツの全占領地から追放されねばならない」と述べ,オランダのユダヤ人も駆逐,掃討すると宣言したことを聞いている。「追い立てられ気の毒な人たちは,哀れな病気の家畜さながら,どこかに送られていくのです」と書いているので,1943年3月時点では,アンネたちは,ユダヤ人が,過酷な条件の収容所で虐殺されているとは知らなかった。絶滅収容所におけるガス室での大量殺戮が始まる直前の時期だった。

強制収容所の運営は,親衛隊(SS)髑髏部隊だけでなく,ウクライナ人などの補助警察も導入された。非ユダヤ人も含め、囚人から監督役の「カポ」を任命し、収容者の誘導,手荷物整理,死体処理を行う作業班を管理させた。

 ナチスは,ユダヤ人を分割して,団結させないようにした。その上で,囚人に,いっそう弱い立場の新人の収容者を管理させた。

 オランダのアムステルダムに潜んでいたユダヤ人のアンネ・フランクの一家も,ユダヤ人密告報酬につられたのか,反ユダヤ人的なオランダ人によって,密告された。そして,親衛隊SSとそれに協力するオランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)が逮捕した。卑劣なやり方は,効果的だったので,アンチセミティズムという人種民族差別に蝕まれた人々は,ユダヤ人の人権を尊重しなかった。
 ⇒永岑三千輝『ホロコーストの力学−独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法』青木書店 参照。

ドイツ占領下では,総力戦を遂行するために,市民,住民もドイツのために戦争協力することが求められた。軍需工場への徴用,農作業への強制動員も行われた。 1943年5月18日のアンネの日記:オランダの「大学生で,学位を取得したいものは,みんな強制的に,ドイツに全面的に共鳴し,新体制を承認するという文書に署名させられています」

写真(上)アウシュビッツ強制収容所に収監されたユダヤ人少年の囚人登録写真:Identification pictures of a female inmate of the Auschwitz camp. Poland, between 1942 and 1945:ドイツ国内やドイツ占領地のフランス・オランダなどにあった強制収容所(concentration camp,独語Konzentrationslager:KZラーゲル)は,Auschwitzとは異なり,ガス室はない。しかし,収容所では,栄養失調,病気,処刑によって,ユダヤ人が殺された。ガス室のあるヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネックなど絶滅収容所は,ドイツ占領下ポーランドに設置されていた。また,1941年から試作的なガス殺はあったが小規模であった。大規模なガス殺は,1943年以降,ガス室を整備して,絶滅収容所で行われた。1944年,15歳でアウシュビッツに送られたアンネ・フランクは,ベルゲン=ベルゼン(Bergen-Belsen)収容所(ガス室はない)に強制移送され,病気(チフス?)で衰弱,1945年3月ごろ死亡した。
アウシュビッツでの死者(ガス殺,病死,処刑など)は,ユダヤ人110万名,ポーランド人7万名,ロマ(ジプシー) 2万1,000名,ソ連軍捕虜1万5,000名とされる。写真は,Photo Archives: United States Holocaust Memorial Museum(米国ホロコースト記念博物館)引用。


写真(右)親衛隊ハインリヒ・ヒムラー長官とアドルフ・ヒトラー総統:1940年ごろ,ヒトラーの山荘ベルクホーフにて撮影。親衛隊長官ヒムラーは,ユダヤ人大量殺戮(ホロコースト)を,ヒトラーに命じられた。特別行動部隊による後方治安任務としての敵性住民の虐殺,ゲットー・強制収容所への収容,強制収容所における奴隷労働・殺害が組織的に行われた。ホロコーストは,冷徹に考えられた大量殺戮のシステムに則って遂行された。写真は,World War 2 in color引用。

親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーは,親衛隊に対して 1943年10月4日ボーゼン「ユダヤ人絶滅」演説Heinrich Himmler: Posener Rede vom 04.10.1943をした。
 「一つの困難な課題について諸君にはっきりと語る」として,口にしてこなかったユダヤ人虐殺について「親衛隊の使命であり、自明の任務である。それ故に,我々親衛隊は,このことを話し合ったことがない。これが命令となり、また必要なものとなれば、みな直ちに実行するだけである。」

 「私は‘ユダヤ人排除’、すなわちユダヤ人絶滅のことを言っているのだ。 Ich meine die "Judenevakuierung": die Ausrottung des jüdischen Volkes.( I am talking about the "Jewish evacuation": the extermination of the Jewish people.) この任務は,容易なだとも受け取られている。‘ユダヤ人は一掃されるだろう’と。党員たちが諸君に言うには‘我々はユダヤ人を除去、絶滅すると公言してきた。些細なことだ,’と。そのような状態だといずれ8千万の忠実なドイツ人各人一人のユダヤ人を連れてきてこう言うであろう。‘他のユダヤ人たちは悪い奴らです。しかし、彼は優秀です。’こんなことを見過ごし、我慢することはできない。
 諸君の前に横たわる100の屍を、500の屍を、1000の屍を見るとき,それが何を意味しているか,諸君は分かるであろう。この任務に耐えること、人間的な弱さとは縁を切って,屍を前に,我々は精神を強靭にして,品位を保つ。この任務は,決して言葉では表されないし、表すべきでもない。この任務によって,我々は空前の栄光を歴史を残すことになる。
これは,ヒムラー長官が,ナチ党幹部,親衛隊に,ユダヤ人絶滅を公言し,かれらもその共犯とするための演説のようだ。

◆親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツの災いとなるユダヤ人問題の最終解決,すなわちユダヤ人絶滅こそ,凡人の理解を超えた,親衛隊にとっての偉大な歴史的使命である,と妄想していた。このヒトラーと自分のユダヤ人絶滅の妄想が,1943年10月,ユダヤ人虐殺の口頭命令として,親衛隊に伝えられた。人種民族差別・迫害を受け入れた、あるいは命令に逆らえなかったドイツ人と非ドイツ人は、虐殺を実行し、実行させられた。

  ドイツは連日のように,連合国爆撃機の空襲を受けているが,このような祖国の危機のとき,「逃げ隠れしている扇動者のユダヤ人を,祖国に置くことがいかに困難をもたらすか、我々は知っている。もしユダヤ人がドイツ民族に寄生すれば,ドイツが(背後からの匕首の一突きで敗戦した第一次大戦の末期)1916-17年と同じ状況に陥ることになる。」

「ユダヤ人の持つ資産を奪う上で私は厳しく命令した。------我々親衛隊は,ユダヤ人資産を完全に帝国に移管する。この資産を個人的に略奪してはならない。命令に反する者は、私の言ったように‘たとえ1マルクでも略奪した者は死刑’になる。

「我々親衛隊が求めるものは,略奪ではなく、腐敗の撲滅である。我々がこの困難な任務を遂行するのはドイツ民族への愛のためであり,我々の魂の中、人格の中には、恥じるべきものは何一つないのである。」

Heinrich Himmler's Speech at Poznan (Posen)ヒムラーによる1943年10月4日ボーゼン「ユダヤ人絶滅」演説記録画像・録音

写真(左)1944年9月1日(?),アウシュビッツAuschwitz収容所の親衛隊SS病院落成式。親衛隊医師Dr. LollingがDr. Eduard Wirthsと握手している。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)[Photograph #34745]引用。写真(右)病院の落成式(1944年)に集まる親衛隊将校たち。後方にはアウシュビッツSS病院勤務のドイツ人看護婦。ドイツ婦人補助部隊 SS Helferinnen (female auxiliaries) も参加。Pictured in the center is Commandant Richard Baer. To his right is former Commandant Rudolf Hoess. In the second row is Schwarz (far left) and next to him [possibly Maria Mandel]. At the very back next to the nurses may be Dr. Hans Muench. United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)[Photograph #34813]引用。米英カナダ軍ノルマンディ上陸は1944年6月6日,ドイツ本土アーヘンも1944年10月21日に連合軍に占領。が,アウシュビッツの親衛隊病院落成式の出席者は,みな楽しそうである。収容所勤務とは,場合によっては家族と同居することも可能で,婦人部隊もいる。東部戦線のソ連軍に対峙する武装親衛隊より,安全な後方勤務である。アルバム持ち主SSカール・ヘッカーは,戦後,戦犯とされたが,2000年88歳まで天寿を全うした。

親衛隊・ドクロ部隊隊員でも,ユダヤ人を恣意的な裁量で個人的に虐待したり,ユダヤ人の資産を強奪したりすれば,厳重に処罰された。例えば,共産主義者に温情を示したために逃亡されたSS隊長は,その適切な勤務振りが当時ザクセンハウゼン収容所拘禁所長ルドルフ・ヘスにも評価されていたにもかかわらず,戦時銃殺第一号とされ,部下は重禁固に書せられた。
1933年ダッハウ強制収容所長ウェッケレは,抑留者を虐殺した新鋭隊員を擁護したために,解任された。後任が,すぐに収容所総監に栄転するテオドール・アイケである。1937-1941年のブーヘンワルト収容所長カール・オットー・コッホKarl Otto Koch (1897-1945)SS連隊長は,残虐なテロを行ったとして,1941年12月にSS親衛隊に逮捕された。その後釈放され,ルブリン収容所長になったが,再び,私腹を肥やし,不正を犯した。1943年,国家刑事警察本部コンラート・モルゲンKonrad Morgen(1910-)博士は,SS警察法廷と協力し,ブーヘンワルト収容所の汚職と無許可殺人を捜査した。強制収容所の司法最高責任者(SS経済管理本部局長)オズワルド・ポ−ルSS上級師団長に管轄であったため,SS警察法廷は収容所勤務者に手出しできなかったのである。1938年のクリスタル・ナハト以降,コッホは,収監したユダヤ人資産家を恐喝して財産を着服し,その証拠を握る囚人少なくとも2名を恣意的に殺害した。ヒムラー長官は,コッホ所長たちの取調べを許し,モルゲン博士は謀殺,公金横領,軍事的損害を与えたことが明らかにした。

モルゲンGeorg Konrad Morgen博士の活躍によって,SS法廷では,コッホ所長,妻イルゼ,収容所医師など4名の共犯者も捕らえられた。コッホ元所長は,SS法廷で1943年10月死刑判決,1945年初頭処刑された。モルゲン博士によって,ルブリン収容所長ヘルマン・フロルシュテットは殺人により死刑,ルブリン保護拘禁担当ヘルマン・ハックマンは死刑判決(懲役刑に減刑),ダッハウ収容所長アレクセル・ピオルコースキーは殺人により死刑求刑(未決),フロッセンブルク収容所長カール・キュンストラーは飲酒放蕩により罷免,アウシュビッツ収容所政治部長マキシミリアン・グラープナーは殺人により死刑求刑(未決)に追い込まれた。そして,アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスも尋問されることとなった。

 しかし,1944年4月中旬,ヒムラー長官は,モルゲン博士に捜査対象は,コッホ所長事件に限定することをことを命じた。

アウシュビッツ収容所長ヘスは,ビルケナウ収容所の拡張,ガス室・焼却炉の建設・稼動に尽力しており,アウシュビッツ収容所が三つの収容所に独立する際,所長からDI局に配置換えになるだけで済んだ。(ヘーネ(1981)『髑髏の結社 SSの歴史』373-377頁参照)


写真(左)アウシュビッツ収容所の病院勤務者とドイツ人看護婦。写真(右)病院の落成式(1944/6/21?)の時なのか,美味しそうなベリーを配ってもらっているドイツ婦人補助部隊。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。楽しそうなアウシュビッツ強制収容所勤務のドイツ人たちの表情を見ると,決して,反ユダヤ狂信者の異常な暴力がユダヤ人虐殺を主導したのではないことに思い当たる。普通の人々でも,ユダヤ人虐殺に反対を許さない組織の中で,プロパガンダに扇動されながら,業務をこなした。虐殺を知らなかったドイツ人も含まれるのかもしれない。強制収容所のドイツ婦人部隊の女子と男子軍人たちは,後方勤務で,安全な生活を送ることもできた。これは,陰惨な東部戦線で,ソ連赤軍相手の死闘より,楽な仕事である。アルバムの主カール・ヘッカーは,戦後,戦争犯罪人として裁かれたが,2000年まで生きた。そして,遺族が,2007年に,この貴重なアルバムを,米国ホロコースト記念博物館に寄贈。

親衛隊SSは鉄の規律を維持しようと,命令に違反した親衛隊員を,見せしめに厳罰に処した。(上官の取りなしで,処罰を免れた隊員も少なくないようだが。)「ユダヤ人を虐待した親衛隊員が処罰された」ことをもって,ユダヤ人虐殺がなかったと勘違いしている識者が散見される。親衛隊員の処罰は,「命令に違反して,恣意的に,個人的な裁量で」ユダヤ人を虐殺し,財産を掠奪したからである。命令違反が処罰の理由であって,ユダヤ人の虐殺・財産掠奪が禁止されていたのではない。

移送列車で到着した多数のユダヤ人は,強制労働につかせる「労働可能者」と,労働に耐えられない「労働不能者」と二分された。この生死の選別は,ドイツ人の医師・親衛隊が行った。体の状態を一瞥するだけで,あるいは若干の質問をして(囚人の通訳もいた),どちらかに振り分けるのである。原則として,年少者,子供をつれた女子,老人は,働けない側に選別され,そのままガス室に送られたこともあった。持参した多数の荷物は置くようにいわれ,囚人「カナダ」作業班が,分類,整理して,倉庫に保管した。そして,ドイツ本国の物資不足を補うのに充当された。ユダヤ人から,看守が財産・物資を掠め取ることは,厳重に禁止されていた。ただし,看守が,ユダヤ人から掠奪することは,珍しくなかったようだ。

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人の選別:軍服を着た親衛隊が,選別を行っている。縦縞の囚人服を着た囚人作業班が,通訳や補助員として,親衛隊の選別を手伝っている(手伝わされている)。選別するドイツ人は,拳銃を腰に下げているようだが,多数のユダヤ人がドイツ人の支持を受けて,選別されるがままになっているのには,驚かされる。ユダヤ人たちは,選別を意味をまったく理解しておらず,収容所施設の割り当てだと思い込まされていた。貨物列車などに満載され,食料・水が不足していたユダヤ人たちは,アウシュビッツにつくころには,疲労困憊していた。そこで,一刻も早く,収容所に入所して休みたかった。ユダヤ人虐殺の仕組みは巧妙であり,決して一部の狂信的なユダヤ人差別主義者によるサディスティックな行為だけではない。組織的な虐殺のメカニズムが動いていたのである。Yad Vashem :The Auschwitz Album引用。

収容所の「カナダ」作業班は,到着者たちが持参した多数の荷物を分類し,集める仕事をさせられた。ユダヤ人は,ここが絶滅収容所だとは気づかなかったが,これはドイツ側が,秩序だってユダヤ人を虐殺するために,虐殺の事実を秘匿するように勤めたからである。収容所の入り口ゲートには,「労働すれば自由になれる」(中世自由都市の格言「都市の空気は自由にする」と類似)と偽りの標語が大きくかかれていた。

親衛隊SSは,強制収容所の囚人を奴隷労働者として,軍需企業に一人一日6マルクで貸し出した。奴隷労働者を使った企業は,ナチス親衛隊(SS)に借り受け料を支払ったが,これは全て親衛隊SSの資金となった。映画で有名になった「シンドラーのリスト」でも,軍需企業の経営者シンドラーが,強制収容所のユダヤ人奴隷労働者を利用して,ドイツ軍のための物資を生産する。シンドラーの目的は,ユダヤ人を虐殺から救うことと,ユダヤ人を労働者を使用して,財産をなすことだった。また,収容所囚人の中には,ポンドやドルなどの連合軍の偽札作りを強要されたユダヤ人技士もいた。

ナチス親衛隊は,軍需生産上,労働力を提供できない労働不能ユダヤ人を,ガス室などで殺害した。そして,労働可能なユダヤ人囚人は,衣食住の物資も切り詰めて,過酷な条件で,奴隷労働者として,死ぬまで働かせた。

しかし,ユダヤ人絶滅を,経済的理由だけ説明することはできない。ユダヤ人をドイツ民族を滅ぼそうとする敵,病原菌であると決め付けていたという人種民族差別の役割も大きい。敵ユダヤ人は,ドイツ民族を弱らせるペスト菌のような存在であるから,撲滅しなければならない。

 ユダヤ人が,ドイツ民族の生存を脅かす敵である以上,軍需生産・食糧生産を担う奴隷労働力として利用することと並んで,ユダヤ人を絶滅すること自体も重要な目標となる。ユダヤ人を労働力として無償利用することは,永続的目的ではなかった。これを理解できないところに,現実主義者ヒトラーが,労働力として役に立つユダヤ人を虐殺するはずがない,という誤解が生まれる。

ヒトラー総統,親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツ民族を滅ぼそうとする病原菌として,ユダヤ人を認識していた。この人種民族的偏見を抱く限り,ユダヤ人虐殺もユダヤ人の奴隷労働もともに,現実的な合理的行為として,実行に移された。

ユダヤ人虐殺の方法は,当初は,銃殺・縛り首などであったが,ユダヤ人に処刑が知れ渡ると,ユダヤ人を捕まえることは困難になり,同時に住民による反抗も活発になった。また,ドイツ人処刑者の中には,婦女子の処刑には精神的に耐えられないものもあった。そこで,治安を悪化させずに,処刑者に負担をかけないで,効率的に大量殺戮できるような「ユダヤ人絶滅システム」が作られた。

◆ユダヤ人絶滅システムとは,一般住民に反ユダヤ人プロパガンダを行い,ユダヤ人密告を奨励し,密告者に報酬を与え,貨車に過密なほどユダヤ人を押し込み,列車移送を軍需輸送の一環に組み込む。そして,移送者の不動産から所持品まで全財産を収奪した。囚人は,奴隷労働として死ぬまで利用するか,ガス殺し,死体を焼却して,証拠隠滅を図る。このようなユダヤ人虐殺の重要な部分は,口頭でのみ命令され,文書化することを許さない。効率的に秘密裏に組織されたのが,ユダヤ人絶滅システムである。

強制収容所の多くには,ガス室はなかったが,栄養失調・病気による衰弱死,奴隷労働による過労死,拷問による死亡,処刑があった。また,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカTreblinka ,ゾビブルSobibor ,マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置されたガス室を備えていた絶滅収容所は,ユダヤ人,ロマ(ジプシー),ソ連軍捕虜などを大量殺戮した。

他方,ユダヤ人の婦女子まで殺戮するドイツ人は,精神的,肉体的に負担が大きかった。殺戮者となったドイツ人の負担を軽減することには,十分配慮されていた。
つまり,効率的に殺戮を進め,資産を収奪するユダヤ人絶滅システムは,人種民族差別の上に構築されていた。ユダヤ人絶滅は,冷徹に計算された人種民族差別の極限にある暴力である。



写真(左)アウシュビッツ収容所近くの炭鉱を見学した収容所の親衛隊:A large group of SS officers visit a coal mine near Auschwitz. [Photograph #34827]。アルバムのオリジナル説明文は,"Besichtigung eines Kohlenbergwerks." (炭鉱訪問)。
写真(右)アウシュビッツ収容所の親衛隊の病院落成式:東方(ポーランド)のガス室を備えた絶滅(強制)収容所(アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネック)でも,看守,事務に当たるドイツ人は,囚人とは別格の生活水準を保っていた。写真は,United States Holocaust Memorial Museum. "Photo Archives." (米国ホロコースト記念博物館)引用。


<絶滅収容所でのガス殺(Killing People Through Gas:In Extermination Camps引用)>
クルムホフKulmhof(チェルムノChelmno):1941年12月-1942年秋,1944年5-8月,一酸化炭素により,ユダヤ人15万名,ロマ5000名を殺害。

ベルゼクBelzec (ルブリンLublin): 1942年3-12月,当初3ヵ所のガス室,後に6ヶ所のガス室で,一酸化炭素によりユダヤ人60万名を殺害。

ゾビボルSobibor (ルブリン):1942年4月に3ヵ所,9月に6ヶ所のガス室によって,1943年10月までに,ユダヤ人20万名を一酸化炭素で殺害。

トレブリンカTreblinka :1942年7月に3ヶ所のガス室,9月には10ヵ所のガス室で,1943年11月までに,一酸化炭素によって, 70万名のユダヤ人を殺害。

マイダネックMajdanek (ルブリン):1941年9月に収容所を解説,1942年4月-1943年11月まで,大量銃殺ユダヤ人2万4,000名を殺害。1942年10月より,当初2ヵ所のガス室,後に3ヶ所のガス室で,1944年3月までにユダヤ人5万名を殺害。使用したガスは,当初は一酸化炭素,後にチクロンB(シアン化ガスcyan hydrogen).

アウシュビッツ=ビルケナウAuschwitz-Birkenau (当初ポーランド領だったが,上シレジアに編入): 1940年5月開設,1942年1月,5ヶ所のガス室で,1943年6月からは,さらに4ヵ所の大型ガス室で,1944年11月までに,チクロンBによって,ユダヤ人100万名,ロマ4000名を殺害。

<強制収容所でのガス殺(Jewish Virtual Library引用)>
以下の強制収容所は,大量殺戮を目的に作られた絶滅収容所ではなく,囚人を拘束し,奴隷労働させるための強制収容所であるが,労働不能者などを処置するガス室があった。

マウトハウゼンMauthausen (オーストリア): 1941年秋に1ヶ所のガス室でチクロンBを使用。一酸化炭素を使うガス室がグーセンGusen支所にあった。併せて,4000名がガス殺された。

ノイエンガメNeuengamme (ハンブルク南東): 1942年秋から「ブンカー」"Bunker"でチクロンBを使用して,450名を殺害。

ザクセンハウゼンSachsenhausen (ベルリン北) :1943年3月から,チクロンBを使用する1ヵ所ガス室で,数千名を殺害。

ナトワイザーNatzweiler(仏語Natzwiller:ストラスブルク南東50km,エルザス): 1943年8月-1944年8月,1ヶ所のガス室で,120-200名をチクロンBで殺害。遺体はストラスブルク大学解剖学研究所ヒルトAugust Hirt博士の元に送られた。

シュツォホフStutthof (タンチヒ東34km) :1944年6月に,1ヶ所のガス室を開設,チクロンBによって1000名を殺害。

レーベンスブリュックRavensbruck (べルリン北80km):1945年1月,1ヶ所のガス室が設置され,少なくとも 2,300名を殺害。

ダッハウDachau (ミュンヘン北東):1942年に新焼却炉設置,それに隣接して ガス室を建設。医学実験のために親衛隊ライシャーRascher博士が試験的にガス殺を実施。 大規模なガス殺は実施されていない。

◎以上は,ガス室における一酸化炭素ガスあるいはチクロンBによる殺害数で,奴隷労働,食料不足による過労死,病死,餓死あるいは拷問そのたの処刑は含まない。出所の違いから,数値・記述が一致しない所がある。

アウシュビッツ第一強制収容所ゲート「働けば自由になる」"Arbeit macht frei"の検問所:Auschwitz I. The gate with the inscription "Arbeit Macht Frei." Stanislaw Luczkoが戦後1945年に撮影。ゲート左にはポーランド民間人らしき人物が,ゲート奥には車両が見える。Auschwitz-Birkenau State Museum, Poland引用。1933年3月,ナチスは,反体制派を収監,再教育あるいは処罰する強制収容所をの開設した。
収容所ゲートに掲げられた鉄製の「働けば自由になる」"Arbeit macht frei"という標語は,オラニエンブルクOranienburg収容所に掲げられたという。1933年3月に開設されたダッハウ強制収容所(Dachau Concentration Camp)が1936年に改築されたとき,この標語が掲げられた。つまり,「働けば自由になれる」とは,ナチスの作った強制収容所のモットーだった。それが,出所を許さないアウシュビッツ強制収容所のゲートに掲げられた。入所者を騙し,混乱なく収容するためである。



5.収容所囚人による奴隷労働


1942年4月30日,SS経済管理本部オズワルド・ポール長官は,軍備増強のために,囚人動員をヒムラー長官に訴え,強制収容所を経済的使命を遂行する組織に転換する政策を要望した。ヒムラー長官も,「囚人に対して,食事と被服を改善すること」を命じた。

ヒムラー長官が,囚人の衣食住に配慮する命令を出したことを,ユダヤ人絶滅は無かった証拠と誤断する者もいる。これは労働力として利用するユダヤ人について,恣意的な虐待を禁じた命令である。人道的配慮ではなく,奴隷労働としてユダヤ人を有効に消耗し,廃棄する冷酷な指令である。

ソ連の抵抗力の強さが判明した1942年,ヒムラーは,ユダヤ人を殺戮する絶滅一辺倒から,奴隷労働として利用した後に,死亡するにまかせるようにした。軍需拡大のために,奴隷労働を絶滅と並存させた。ユダヤ人釈放も,食料供給増加も認めず,SS経済管理本部は,囚人奴隷労働を酷使した。他方,SS国家公安本部は,人種汚染防止と治安維持のためにユダヤ人殺戮を優先した。この両者の重点は違うが,ユダヤ人の絶滅という最高指令が破棄されたわけではない。

収容者の強制労働は,収容所の敷地内に限られたものではない。外部労働隊が組織され,徒歩あるいはトラック・列車で,工場,鉱山に送られた。また,外部収容所に収監され,そこから陣地構築,工場疎開,工場労働を強制された。ダッハウ収容所は50,アウシュビッツは40,ブーヘンヴァルトは70の外部収容所があった。

奴隷労働者への賃金支払われるはなかったが,奴隷労働者を派遣した親衛隊には,軍需企業から借り受け料(一人日当4-8マルク)が支払われた。この意味で,強制収容所は,奴隷奴隷商人,タコ部屋管理者の立場だった。

写真(右)1945年1月27日,アウシュビッツ収容所駅に散乱するユダヤ人からの略奪品:1945年1月,ソ連軍侵攻前に親衛隊は,アウシュビッツから撤退したが,ソ連軍は,ドイツ本国に送還できなかったユダヤ人からの略奪品を発見した。ユダヤ人の荷物は分類され,ドイツのために有効利用された。コートなど衣類,ブーツから毛布などから,宝石,時計など貴金属,紙幣などすべてが,ドイツに供されてしまう。しかし,ユダヤ人たちは後で回収できるとの親衛隊の偽りを信じていた。殺戮は,秘密裏に行われた。写真は,United States Holocaust Memorial Museum引用。

ここでは,ハインリヒ・ヒムラーの下にある親衛隊SSは,企業からの労働者派遣の申請を審議し,奴隷労働者を派遣したが,企業は,一人の一般労働者につき日当4マルク,専門技術者につき日当6から8マルクを収容所に支払う必要があった。

親衛隊から主人を借り受けた工場事業所の奴隷労働者受け入れ人数は,シュリーベン弾薬工場1468名,グストロフ大砲工場1453名,ユンカース航空機工場1240名,フロッセンベルク金属工場(携帯対戦車砲)1185名,BMWエンジン工場226名,BMW地下工場建設720名,オーアドルーフ建設指導部(地下道建設)9943名など多数の奴隷労働が,外国人労働者とともに酷使された。

写真(右)アウシュビッツ第三収容所ブナにあったIGファルベン社Farbenindustrieの化学工場Buna Werke. 数万人のアウシュビッツ囚人の奴隷労働の犠牲の上に建設された。自給経済強化のために,IGファルベンは,資金,原材料,労働力,敷地などの国家による優遇・庇護を受け,1940年に上シレジアにおいて,戦略物資としての合成ゴム,石炭液化燃料の生産を担う計画が決定した。ここは,石炭,工業塩(ヴェリチカにて),水のある場所で,連合軍の空襲圏外だった。しかし,1944年後半,連合軍の爆撃を受けることになる。(ただし,収容所が空襲されたわけではない)Auschwitz-Birkenau State Museum, Poland引用。

奴隷労働のことは,当然,軍需大臣アルベルト・シュペーアAlbert Speerも知っていた。彼は,自伝でユダヤ人虐殺については戦後まで知らなかったと書いた。戦後ニュルンベルク軍事裁判では,奴隷労働者の管理主な責任は,フリッツ・ザウケル Fritz Sauckel(1894-1946)が負い,シュペーアの責任は軽減された。

ノルトハウゼン収容所のドーラ外部収容所は,1943年12月から1944年5月まで,毎月1500名以上が死亡した。ドーラは,1944年10月から強制収容所になった。これは,奴隷労働の需要が大きかったためである。また,強制収容所自体は爆撃を受けなかったが,奴隷労働者の働く軍需工場は爆撃対象となった。1944年8月24日,ブーヘンヴァルトのグストロフ大砲工場は空爆によって破壊された。

アウシュビッツ=ビルケナウ収容所では、労働不能者をガス室で絶滅する一方で、1943年12月末、収容所勤務に男子5千5百名、女子3千名、ブナ、モノヴィッツと呼ばれた軍需工場に男子1万9百名、女子5百名、建設業に男子8千4百名、女子5百名、農業に男子2千5百名、女子千4百名など、男子2万2千名、女子8千名が勤務についていた。収容所の奴隷労働者を管理するのが、カポやブロック長など看守の手先となった監督役囚人、プロミネンテと呼ばれる食糧配給・労務管理などの役付囚人だった。
⇒オイゲン・コーゴン(1974)2001年林功三訳『SS国家−ドイツ強制収容所のシステム』ミネルヴァ書房,参照。

写真(右)1945年4月,ノルトハウゼン(Nordhausen)強制収容所で解放された奴隷労働者:1945年4月11日,米第一機甲師団が解放した。撤退する独軍が破壊。多数の死体の中,生存者二名を救出。(トルーマン大統領図書館,Accession #: 72-3274 引用)。

1938年8月設立のマウトハウゼン強制収容所は,オーストリア・リンツ郊外にあり,伊仏,ユーゴの敵対者,チェコスロバキアやオランダから連行されたユダヤ人,オーストリアのジプシー,ポーランド・ソ連軍捕虜などを収容した。囚人は奴隷労働者として,花崗岩砕石場,軍需工場などで働かされた。1945年5月5日の解放までに,収容者合計20万名のうち11万名が死亡。

ノルトハウゼンNordhausen強制収容所(ドーラ=ミッテンバウ収容所)は,1943年ブーヘンヴァルト強制収容所の支所として設置。戦後の米陸軍戦争犯罪記録によれば, 1943年夏から1945年4月までに7万5千から8万名の奴隷労働者を,1日12時間シフト,休日なしに酷使した。1944年1月から翌年4月までに,V-2ロケット(ミサイル)6千発製造した。

ドーラ=ミッテンバウ収容所を,米第104歩兵師団が,1945年4月12日に解放したとき,囚人・奴隷労働者3000名の死体が発見された。劣悪な生活条件,飢餓,殴打,処刑などによって,1万から1万5千名が死亡したとされる。

ドーラ=ミッテンバウ収容所長クルツ・アンドリー以下,1972名が起訴されたが,米軍は1,500名のドイツ人科学者,技術者をペーパー・クリップ計画の下で,アメリカに連れ去った。
月ロケット「アポロ計画」サターン5型の基本設計を担当したフォン・ブラウン Wernher von Braun(1912 -1977) 博士は,ロケット爆弾(弾道弾)のV-2ロケットを完成させたが,これを製造したのは,ノルトハウゼン=ドーラ収容所の奴隷労働者だった。ドイツ最高の兵器生産は,ユダヤ人などの奴隷労働者に依存していた。

 フォン ブラウンは,V2の資料を集め,それを持って米第44師団に投降することができた。「宇宙旅行」の夢を実現する有人ロケット開発はすばらしいが,同時に,ユダヤ人など奴隷労働の利用を免責してもらう条件として,ドイツの最高機密V-2の技術資料を,米軍に譲渡した。これは国家機密書類の窃盗,国家反逆罪に相当するが,同時に,米軍もユダヤ人などの奴隷労働に関して,「正義の裁き」よりロケット兵器開発,対ソ封じ込めを優先した。米軍は、V2ロケット情報と生産工具をノルトハウゼンに求め,大量のV2の部品鹵獲を優先した。米軍は,奴隷労働者の救出よりも,V2ロケットの情報収集と部品・生産工具の回収に力を注いだようだ。

1939年9月から1942年までは,主要な収容所16カ所(各々2万名収容),収容所支所50カ所(各々千五百名収容)であったが,1943年頃から増設され,収容者も増え,主要収容所20カ所(各々2万5千名収容),収容所支所65カ所程度になった。1940年から1945年まで強制収容所の収容者総数は214万名,新規入所者119万名,飢餓、病気などの死者は111万名と推計されている。

写真(右)ガルデレーゲン収容所のソ連軍捕虜焼死体:Burned bodies piled up inside the barn at Gardelegen. Gardelegen Massacre, 13 April 1945. Copyright 2002 Scrapbookpages.com 引用。1945年4月13日,連合侵攻直前,ドイツ軍は退却する際に,ソ連軍捕虜など囚人をバラックに閉じ込め,火をかけた。1016名が焼かれた。虐殺行為の証拠隠滅を図ったが,かえって,非人道的な扱いを示すことになった。しかし,」現在のGardelegen市歴史ページは,囚人のIsenschnibber Feldscheune虐殺の事実を明確に伝えている。ここには,大戦末期1945年,ドーラ収容所などから囚人が強制移送された。

絶滅収容所とは異なり,一般の強制収容所では,ガス室での大量殺戮はないが,食料・物資の不足,栄養失調,病気の蔓延によって,死亡したものが多かったが,これも虐殺に加えられる。このほか,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所など絶滅収容所でのカス殺等を合わせて、総計550万名が虐殺されたと推計している。

ドイツは,戦局が悪化する中,戦後を見据えて,ユダヤ人を和平交渉の人質として使うことを考えた。収容所でのガス室使用が中断されると,虐殺速度は一時的に鈍った。ドイツ敗戦を見越し,うまく立ち回ろうとする看守もいた。ただし,1945年になると,囚人のドイツ本国への強制移送は,「死の行進」と呼ばれるほど,多数の死者を出し,収容者急増で,本国の収容所の居住環境が悪化,やはり多数が病気・栄養失調で死亡しているので,虐殺が終わったわけではない。

<虐殺数を示す証拠は隠滅された>
アウシュビッツ収容所長・DI局長を務めたルドルフ・ヘスは,戦後の戦犯裁判の訊問で,アウシュビッツで虐殺されたユダヤ人の数を,戦争末期にアイヒマンが伝えた数字から250万名と述べた。
ヘス元所長の証言「大規模な作戦の後,いつも虐殺数の推定の手がかりになるような証拠は,全てヒムラーの命令で焼却された。DI局長として,自分は部署の手がかりは全て,自分で始末した。他の部署でも同じことが行われた。----仮に怠惰によって,どこかの部署に,個別的な記録断片,電話,電信が残されていたとしても,虐殺総数については,手がかりにはならないはずである。私自身,総数についてはまったく知らず,それを再現できる手がかりも持っていない。今でもわずかに覚えているのは,アイヒマンやその代理から繰り返し命じられた,大規模作戦の時の数字だけである。
上シレジアと総督領-----25万名
ドイツとテレジェンシュタット----10万名
オランダ-----9万5000名
ベルギー-----2万名
フランス-----11万名
ギリシャ-----6万5000名
ハンガリー-----40万名
スロヴァキア-----9万名
私としては250万名という数字は,多く見積もりすぎていると考えている。」
(ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,399-400頁 引用)


写真(右)ガルデレーゲン収容所の収容者焼死体を追悼させられるドイツ人行政官
:米軍は,ドイツ市民にソ連軍捕虜の虐殺現場を見せて,ナチスの非道を許した市民を叱責した。写真(左)ガルデレーゲン収容所の収容者焼死体埋葬Copyright 2002 Scrapbookpages.com 引用。占領した米軍の撮影になる「ガーデレーゲン」写真アルバムが残されている。1945年4月13-14日,退却するドイツ軍が殺害した囚人を埋葬させられるドイツ人住民。Gardelegen市歴史ページは,囚人虐殺の事実を明確に伝え,現在の記念碑の写真も公開している。ガルデレーゲン収容所には,大戦末期1945年,ドーラ収容所などから囚人が強制移送されてきた。


6.ユダヤ人虐殺を知っていた連合軍首脳


英軍は,1939年9月の大戦当初からドイツの治安警察暗号を解読し,チャーチル英首相もドイツの無線暗号解読資料を解説付きで定期的に受け取った。1940年3月,ドイツ治安警察が,東部戦線で占領地のユダヤ人追放に協力していることを知り,1941年7月14日,ドイツ治安警察部隊に対する特殊任務の心構えのための映写説明会の意味を,敵性住民の処刑であると正確に理解していた。1941年8月24日,チャーチルは,ラジオ演説で,ロシアの愛国者をドイツ警察軍が文字通り何万人も処刑している,とナチスによる住民虐殺を非難した。

英軍の諜報専門家は,チャーチル首相が,ナチスのユダヤ人虐殺を具体的に非難すことによって,英国がドイツの暗号を解読していることをドイツが察知するのではないかと危惧した。そこで,リスクがある言動を,控えるように提言したのである。

しかし,ポーランドで地下活動をしていた亡命政府代表によるユダヤ人6千名の殺戮の報告が,1941年10月にロンドンに届くと,ロンドンのポーランド亡命政府は,それをマスメディアに流した。また,ドイツの最高機密を扱うエニグマ暗号電報の解読によって,1942年を通じて,アウシュビッツを含む収容所の受け入れ収容者人数を掴み,そこから出所した囚人がいないことも知っていた。

1942年11月,ポーランドのレジスタンスは,ガス室で殺されるためにユダヤ人とソ連軍の捕虜数万名がアウシュビッツに到着していることを報じている。1944年4月4日には,航空偵察によって,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所の大規模な施設も判明している。収容所の全体像の航空偵察写真撮影にも成功している。

当時,英空軍,米陸軍航空隊は,ドイツの都市や工場地帯を空爆していた。1943年に,一日に千機の爆撃機を「動員して,大空襲をかけることもあった。しかし,大量の爆撃部隊を編成,準備していた連合軍の航空隊は,ユダヤ人強制収容所・絶滅収容収容所を空爆したことは一度もなかった。それどころか,ユダヤ人代表やポーランド亡命政府が求めたように,ユダヤ人虐殺などのテロを働いたドイツ人とその協力者への法律による処罰にも言及しなかった。

写真(左)アウシュビッツ第三収容所ブナBunaの航空写真。1944年5月31日,連合軍機の撮影:Auschwitz III. Allied aerial reconnaissance photograph of May 31, 1944.現在ポーランドのオシヴェンチム(Oswiecim)に1942年に設置されたアウシュビッツ収容所支所ブナには,1944年,1万人が奴隷労働slave laborをさせられていた。アウシュビッツ収容所の連合軍の航空写真は,1944年4月4日,5月31日,8月9・12・25日,9月13日,11月29日,12月21日,1945年1月14日,2月19日に撮影されている。ビルケナウ収容所は,1944年5月31日,8月12日,11月29日,12月21日,1945年2月19日に,I.G.ファルベン(Farben)化学工場のあるブナは,1944年7月8日,12月26日,1945年1月14日の航空写真が残っている。連合軍は早くからドイツのユダヤ人虐殺を察知していたが In November 1943, the Buna sub-camp was transformed into a separate administrative unit designated Auschwitz III. It included other Auschwitz concentration camp sub-camps at industrial plants. 1945年1月18日,施設は放棄されたが,囚人たちは解放されることなく,強制移送された。1月27日,ソ連赤軍がアウシュビッツ収容所を解放。(米国立公文書館NARA .ARC: 305905 Local:263-AUSCHWITZ-19(12)引用)

連合軍が,ユダヤ人支援のための軍事行動に消極的だった理由は,次のようなものである。
.罐瀬篆猷鯤のために空爆や処罰を公言すれば,ユダヤ人が世界制覇をたくらんで英米を煽動しているというドイツのプロパガンダの信憑性が高まってしまう,
何万名もの市民が収容されていることが知れれば,人道支援をすべきであるとの声が起こり,膨大な食料・物資の提供は,連合軍の戦力を弱めてしまう。
このように深謀遠慮した連合軍は,収容所のある軍需工場を爆撃はしたが,ユダヤ人を救うための直接行動は一切起こさなかった。戦争に勝利することが,強制収容所の囚人解放につながるとの見解だった。
6爆可能圏内に達していないとの言い訳をした。しかし,イタリア降伏後は,主要な収容所は,連合軍の爆撃部隊の行動圏内に入っていた。
⇒リチャード・ブライトマン(1998)2000年川上光訳『封印されたホロコースト−ローズヴェルト,チャーチルはどこまで知っていたか』大月書店

The Associated Press 2008年1月11日に以下の記事がある。
President Bush had tears in his eyes during an hour-long tour of Israel's Holocaust memorial Friday and told Secretary of State Condoleezza Rice that the U.S. should have bombed Auschwitz to halt the killing, the memorial's chairman said. ブッシュ大統領は,目に涙を浮かべながら,イスラエルのホロコースト記念館を回り,同伴したライス国務長官に,殺戮を阻止するために,アウシュビッツを爆撃すべきだったと語った。

ブッシュ大統領が,米軍が撮影したアウシュビッツの航空写真を見たときに(これは米国立公文書館が出典!),ライス長官を呼んで,なぜアメリカ政府は,収容所を爆撃するのに反対したのかを,話し合った。

連合軍は,ポーランドのパルチザンから,戦時中,アウシュビッツに関する詳細な報告を受けていた。しかし,連合軍は,収容所の爆撃を選択しなかったし,収容所へ続く鉄道も攻撃しなかった。その上,ナチスの死の収容所をまったく爆撃していない。これに換えて,全資源・物資を,軍事作戦に集中した。

We should have bombed it," Bush said, according to Shalev.ヤドヴェシム館長によれば,ブッシュ大統領は「われわれは,収容所を爆撃すべきだった」と発言した。
ライス国務長官は,米軍が収容所を爆撃しなかった理由を語らなかったが,収容所を爆撃すべきだといったのは,米大統領としては,初めてのことだった。

もしも,ハンガリーから収容所への鉄道を攻撃すれば,多数のユダヤ人の命を救うことになったはずだ。多数の市民は,収容所の実態を明確には知らなかったが,連合国首脳は,収容所で何が起きているかを把握していたのだから。

1943年,英軍は,ユダヤ人戦闘部隊を投入した秘密作戦を実施。これは,ハンガリーにユダヤ人を潜入させる諜報・破壊工作だった。⇒ ハンナ・セネシュ


7.連合軍ノルマンディ上陸から終戦へ



1944年2月3日のアンネの日記に「どの新聞を見ても,上陸作戦のことで持ちきりです。」とある。オランダ人ヤンは「イギリスもソ連も,プロパガンダで,間違いなく事実を誇張しているに違いありません。ドイツと同じにね。」と述べた。しかし,隠れ家のユダヤ人は「イギリスのラジオは,いつも真実を伝えているよ。かりに1割くらいは誇張していてもだね。事態は,悲惨極まりないんだ。ヤン,君だって,ポーランドやソ連で,平和を愛する人々が,何百万人も殺されたり,ガス殺されたりしていることは,否定できないだろ。」と,イギリスのラジオを通じて伝達されたユダヤ人虐殺・ガス殺の報道を信じていた。

写真(右)親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーHeinrich Himmler:アーリア民族をドイツ人と同一視し,金髪,青い目,長身,剛健な肉体,勤勉,品位,血統を重視した。親衛隊の入隊基準を自ら満たしていると自認していたのであろうか。部下の親衛隊員は誰一人,かれに疑念を呈するkとができなかった。絶対服従が,親衛隊の規律だった。校長先生のような生真面目な律儀さを持っている反面,恐れることなく品位をもってユダヤ人を絶滅することが,ドイツにとって輝かしい栄光の歴史になると演説した。ユダヤ人や敵性住民・人種を大量殺戮するという常人には不可能な過酷の任務を果たすことが,もっとも高貴な仕事であると考えた。しかし,戦争末期,ヒトラー総統の命令に反して,ユダヤ人を人質として西側と和平交渉を行った。この前提として,1944年10月末,ユダヤ人のガス室での殺戮を中止させた。ただし,食糧不足,過酷な労働,病気の蔓延,処刑によって,多数の囚人が殺害され続けた。したがって,ガス殺中止後もユダヤ人大量殺戮は続いたといえる。World War 2 in color引用。

1944年10月末以降,ヒムラーは,ガス室での大量殺戮の命令を,事実上中断した。戦局が悪化する中,ユダヤ人を人質として和平交渉に利用するため,もうひとつは,自己の保身のためである。戦争犯罪人を処罰することは,連合国・国連宣言の中で,公言されていた。ユダヤ人虐殺を進めて,戦後に戦犯として処罰されたくはなかった。

強制収容所では,ドイツの敗色が濃くなると,食糧配給の悪化し,飢餓,病気の蔓延,虐待などで多数の囚人たちが死んでいった。他方,ヒムラーは,ヒトラーには一切知られないように,1945年3月,スウェーデン経由で和平秘密交渉を開始した。しかし,1945年4月に秘密交渉は発覚,ヒトラーは,ベルリンの大地下壕から,ヒムラーの逮捕を命じた。ヒムラーは,逃亡,一兵士に変装した。終戦後の1945年5月23日,連合軍に見つかり,服毒自殺。

ユダヤ人問題の「最終解決」は,戦前は,ユダヤ人のドイツからの追放だったが,戦時中は,強制収容所に拘束して奴隷労働に従事させ,疲弊し病気になった労働不能者を処分するという手段で,ユダヤ人を絶滅することだった。アーリア人を人種汚染し,ユダヤ人共産主義者がソ連を,ユダヤ人金融資本家・マスメディアがアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,ドイツ人に供給する食料物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域もない。このような状況で,ヨーロッパ・ユダヤ人排除とは,ユダヤ人絶滅に至ってしまう。

写真(右)1945年4月16日の解放後,ブーヘンワルト(Buchenwald)強制収容所のソ連兵捕虜虐殺死体を見学させられるドイツ市民:1945年4月16日,米第80師団が解放したブーヘンワルト強制収容所にはガス室はないが,奴隷労働,食糧不足,医薬品欠乏,劣悪な生活環境,病気の蔓延によって,多数の囚人が死んだ。これは,死ぬことを前提とした虐待であり,事実上の虐殺である。(The U.S. National Archives and Records Administration : Local Identifier: 208-AA-206K(31)引用)

ヒトラーの政治的遺書

わたしやドイツ人が,1939年に戦争を欲したというのは真実ではない。この戦争は,意図的に,ユダヤ人やユダヤ人の利益のために働く国際的政治家によって,引き起こされた。------和平提案が拒否されたのは,イギリスの政治家の指導者が戦争を欲したのであり,国際的ユダヤ人international Jewryによるプロパガンダによって影響を受けている国際ビジネス界が戦争を欲したからである。

わたしは,非常に明白に,次の点を示してきた。それは、ヨーロッパの諸国民が、国際金融財政の陰謀家によって売り渡される単なる株券のように扱われるなら、このような人種民族であるユダヤ人は,殺人犯であり、責任をとらせられるべきであるということだ。さらに,疑いもないことだが,今度こそ、数百万ヨーロッパ・アーリア人の子弟が餓死し,数百万の男が死を被り,都市で数千万の婦人と子供が焼かれ空襲で殺されるのであれば,そのことは,本当に犯罪者の連中が,より人間的な手段でよってではあっても,その罪を贖うことなしには,済まされない。

-----祖国の敵との戦争を継続すること願うのは言うまでもない。------

以上、最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。

ベルリンにて 1945年4月29日 午前4時  ADOLF HITLER

【ヒトラーの最期】The Last Days of Hitlerを見る。


8.ユダヤ人大量殺戮否定説を拒否する>

ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。
しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。

ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。

1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。
だが、ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。

写真(右):1939年9月,ポーランド(東プロイセン)に侵攻したドイツ軍の前に整列させられた顎鬚のポーランドの民間人(ユダヤ人?):ポーランド占領当初,ナチスドイツは,ユダヤ人に戦禍の後片付けをさせたり,道路掃除をさせたり使役を命じた。これは,掃除道具を与えられず,自分の衣類を雑巾代わりにして掃除を命じるといった辱めだった。農村部では,アーリア人(ポーランド人や民族ドイツ人を含む)の農場で農作業を命じられた。
ユダヤ人はドイツ人から命じられた使役をこなさなければ,罰金や体罰を受けたので仕方なく服従した。また,ユダヤ人は,使役の登録名簿に記載することを命じられた。自分の家族の安全を確保するためにユダヤ人は使役に参加し,名簿に家族のことも登録した。
しかし,ナチスは,こうして把握したユダヤ人をゲットーに囲い込んで,その自由を奪い,強制労働につかせ,虐待し人権を蹂躙した。そして,それでも生き残っている「屈強なユダヤ人」は危険分子として,絶滅収容所に移送し殺害した。
Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?); Dating: September 1939 Photographer: Amphlett, Eduard撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。

 ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。 

 ローマ法王が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。

 ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世のローマ法王就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世は法王就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回のウィリアムソン司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。

法王は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。

ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」Nostra Aetate:DECLARATION ON THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。


◆ホロコースト否定,ユダヤ人大量殺率否定は、\治的意図をもったプロパガンダ,⇔鮖謀事実を見据える重圧に絶えられない弱さ,思考能力・知識不足,が背景にある。

ホロコースト否定論・ユダヤ人虐殺否定論の解答
1.ソ連が解放したガス室があったアウシュウィッツ絶滅収容所の画像は少なく,米英軍の解放した「ガス室のない」ベルゲンベルゼン,ブヘンワルト,オラニエンブルク収容所の画像は多い。後者では,死因は発疹チフスなど病死,餓死,拷問死などであり,ガス大量殺戮はなかった。ドイツ占領下のポーランドの絶滅収容所だけで毒ガスによる大量殺戮が行われた。

2.アウシュビッツ収容所のガス室には,天井に煙突状のチクロンB(固体)投入口がある。ここから室内に入ると,常温で気化する。シャワー部分からガスが流れる構造にはなっていない。

3.毒ガスでも,大気に混ざれば,僅かな量で人間を殺すのは難しい。サリン、タブンのような強力な毒ガスでもである。チクロンBのような殺虫剤タイプでは,ガス室に充満させても,殺害まで数十分かかった。毒ガスが充満している部屋には,換気をして,死体処理のために中に入った。この作業は,強制収容所の囚人がゾンダーコマンドとして使役された。毒ガスの強さを非化学的に過大に見積もってはならない。

4.遺体を焼却処分する焼却炉が小さすぎることはない。葬儀ではないので,炉に複数の死体を投入,次々に連続処理した。野焼きもされた。膨大な量の骨は砕き,灰とともに,川に投げ捨てられた。この作業にも,囚人ゾンダーコマンドが使役された。遺体が敬意を払われることは一切無かった。

5.アウシュビッツ絶滅収容所の囚人は、ゾンダーコマンド以外,ガス室に近づくことはできない。しかし,囚人の多くがガス殺,焼却炉のことを知っていた。だから,健康に見えるように装って,労働不能者に選別されないように気を配っていた。

写真(右)1941年5月25日,ワルシャワゲットーの死体置き場:腕章を巻いたユダヤ人が,奥の死体置き場で記録をとっている。
カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』 The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan (1941/10/9)
「確かに,ゲットーの外とされたプラガへ続く道は,フェンスに囲いもまれている。しかし,ゲンシャ街のユダヤ人共同墓地とアーリア人畜との間には,実質的な境界は存在しない。------
ゲットーでは,死が大きな利益をもたらす大産業になっている。平和な時代には,ユダヤ人共同体の手によって葬儀が行われた,-----しかし,今ではそうではない。どこを向いても葬儀屋の事務所があり,店先には黒塗りの荷車が置かれている。これは,飢えとチフスによって死んだ者への緊急援助であり,そのような死者は,今では数万にも及んでいる。

死者が出ると,会葬者は葬儀屋に商品(遺体)を引渡し,葬儀屋がその子を取り仕切る。こうして,馬が引くあるいは,葬儀屋に雇われた者が人力車のように引く黒塗りの荷車が,遺体を次々と受け取って,積めるだけ積み込み,山となった遺体を墓地へ運んで行く。-----

この死の行列に心を動かすものは一人もいない。死は,ジョイント(米国援助団体)のスープ給食所やパンの配給カード,ドイツ兵に向かって帽子を脱ぐことと同様,日常的な出来事になってしまったからである。---」
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Zwei Männer (Juden) mit Armbinden mit Judenstern vor Leichen in einer Halle; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


6.ヨーロッパユダヤ人迫害は、東方ソ連領内に強制移住させる事ではない。東方ソ連は,肥沃な農業地帯,鉱物資源供給地であり,ドイツとドイツ系民族(民族ドイツ人)の生存圏である。ロシア人は農奴として存続を許されたが,ユダヤ人はアーリア人を人種汚染する下等劣等人種として,抹殺されることになった。

7.ナチスのユダヤ人虐殺命令は,ドイツ市民,ドイツ国防軍兵士から,反対される恐れがあった。ユダヤ人や連合国が虐殺を知れば,ドイツに対して和平を求めるどころか,敵愾心を燃やし,士気を高めてしまう。そこで,虐殺は,口頭で命令された。ヒトラー,ヒムラーの演説で,ユダヤ人絶滅を明確に指示していた。一つの民族,一つの国家を一人の総統が支配する指導者原理の下では,ヒトラーの下した命令が全てだった。

ヒトラー総統の政治的遺書を読めば,ユダヤ人が,ドイツ人を滅ぼそうと仕掛けてきた第二次世界大戦の当然の報復として,ユダヤ人絶滅が決定されたこと,極端な人種民族差別が,大量殺戮を引き起こしたことが明確に認識できる。

終章 差別と迫害を繰り返さないために

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を繰り返し,戦争を戦い続けることはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているといえる。

1944年5月3日のアンネ・フランクの日記:「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」→戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈している。
「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」と,戦争に協力している一般人の重要性,総力戦の現実を認識しつつ,「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いている。

 しかし,アンネは絶望してはいない。同じ日の日記の末尾に「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。
                       じゃあまたね,アンネ・M・フランク」



◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスの優生学:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー総統・ナチスの独裁者・扇動者・殺戮者:Hitler
ヒトラー暗殺ワルキューレ作戦:Valkyrie
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
反ナチス・白ばら抵抗運動:White Rose resistance
NHK BS-hi 世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画:人民裁判長ローランド・フライスラー,西部方面総司令官ルントシュテット元帥,シュタウフェンベルク大佐の副官ヘフテン中尉など多数の写真を掲載。
ナチスドイツの参考文献・資料引用
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