Search the TorikaiLab Network

Googleサイト内

◆アウシュビッツ強制収容所の奴隷労働:ホロコーストの一局面


写真(上)1945年の解放後のアウシュビッツ収容所の鉄道引込み線:ソ連軍の進攻前に,ドイツ軍はアウシュビッツ収容所の囚人を本国の強制収容所に移送した。そして,収容所のガス質などを破壊し撤退した。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用
当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではありません。アーカイブに直接登録,許可を得て引用しています。引用は原則有料,他引用不許可となります。

◆2015年4月18日・26日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。番組ではナチ党、ヒトラーが取り上げられる。
中居正広『アンネの日記』から世界平和を考える」テレビドガッチが2015年2月6日(金)21時よりTBSで放映された。その日、本研究室への新規訪問者は1万1,616人、翌7日は1,508人、8日は725人に達し、アンネの生きた戦争の時代、人種民族差別への関心がSNSでも高まっていることを実感した。しかし「実際の“隠れ家”の間取り図・断面図をフリップで見せるなどして、過酷だったその生活ぶりを検証する」というが、アンネの隠れ家の条件は最上級で、収容所のユダヤ人とは比較するまでもない。それを想像できたアンネは、ほかのユダヤ人たちを心配していたほどだった。
 気になったのは、アンネの日記を検証すれば容易にわかるような番組の錯覚が散見されたことだ。再現された隠れ家に入ったゲストが「アンネは一部屋もらっていたんですね」というが、アンネは姉と同室で、直ぐに姉と別れてデュッセル氏と同室にされた。一人一室の余裕はなかった。また、「見つかることは殺されることですね」とのゲスト発言も、収容所送り=殺害かどうかをアンネたちが議論していたことを踏まえると正確ではない。隠れた当初、労働力を提供するユダヤ人をすぐ殺すはずがないとの意見が優勢だった。解説で「ドイツ秘密警察がユダヤ人を連行した」というが、オランダ人の警察や密告者がユダヤ人捜索・移送に協力していたことは、15歳の少女も心悩ませていた。他方、ユダヤ人がイエスを殺したため、その責任をとらされて虐殺されたとの「自己責任論」が、聖書を引いて説明されたが、聖書からこの説に「都合のいい」個所だけ引用するのはいかがなものか。キリスト教会は、ユダヤ人イエス殺害説を否定しているのに、その事実も、その理由も一切触れられなかった。ヒトラーやナチスは、第一次大戦の敗戦、恐慌、汚職、政治的混乱は全てユダヤ人の陰謀であり、ユダヤ人の目的は、ドイツを堕落、隷属させることであると邪推した。そうなる前に、ユダヤ人を排除、殲滅すべきだと極論した。
 TBSは、素晴らしいメッセージを発信する良質な番組を放映したが、ゲストの発言や解説の細かな点まで監督する責任がある。世界中で読み込まれ、徹底研究されている「世界記憶遺産」に関する番組が、一般視聴者向きだから、学術研究ではないから、と安易な姿勢で作成されてはならない。「日記を破る日本人の理解はこの程度だ」と世界で誤解され、番組の中から日本に「都合の悪い」個所だけフレームアップしたプロパガンダがなされるのが心配だ。番組の言うように「アンネの書いた日記をもう一度、読み直さなければならない」

「アンネの日記破損:36歳男「心神喪失状態」で不起訴処分」(毎日新聞2014年6月20日)
 東京都内の図書館などで「アンネの日記」や関連本が相次いで破られた事件で、東京地検は20日、器物損壊容疑などで逮捕された東京都小平市の無職の男(36)を不起訴処分とした。約2カ月間の鑑定留置の結果、男は事件当時、心神喪失状態で刑事責任は問えないと判断した。都内では昨年2月以降、公立図書館38カ所などで「アンネの日記」など300冊以上が破られる被害を確認。警視庁は図書館で約40冊を破ったなどとして男を3回逮捕した。地検は「起訴は困難と判断した。人種差別的な思想に基づくとは認められなかった」とした。
◆2011年7月下旬刊行『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、日本初公開のものも含め150点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
そこでは、ユダヤ人迫害、ホロコースト、アインザッツグルッペ、パルチザン掃討戦、強制収容所、絶滅収容所も解説しました。

◆2013年8月16日午前8時、2011年9月2日・9日(金)午後9時,NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」ルドルフ・ヘス及びレニ・リーフェンシュタールに出演。
◆2011年3月2日,BBC News"Sony apology over Japan boy band Kishidan's Nazi gaffe"によれば、親衛隊の制服を着用したTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、関係者すべてに深く謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。
◆2009年9月8日(火)午後8:00NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』

2009/2/5/AFP】ローマ法王ベネディクト(Benedict)16世は,アルゼンチンの放送局が放送した,スウェーデンのTV番組でガス室は存在しなかったと発言した英国リチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教の破門を約20年ぶりに解除。アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)独首相は3日、法王の行動は看過することはできないとし、バチカン当局に対し、ナチス・ドイツのホロコーストが「否定できない事実だと明確にすること」を求めた。

1.ナチス政権奪取1933年の強制収容所設置

写真(右)1942-43年,テオドール・アイケTheodor Eicke(1892/10/17-1943/2/26):ヒトラーと対立した突撃隊SA幕僚長エルンスト・レームを射殺するなど果断な行動が評価され,強制収容所看守部隊長,すなわち親衛隊髑髏部隊最高指揮官に任命。ダッハウなど収容所の運営体制を確執した。第二次大戦では,髑髏連隊を率いて前線に赴いた。1943年,ハリコフ攻防戦で,搭乗していたフィーゼラーFi156連絡機が撃墜され戦死。SS-Obergruppenführer und General der Waffen SS Theodor Eicke. Archive title: Porträt Theodor Eicke mit Ritterkreuz und Eichenlaub (verliehen am 20. April 1942) Dating: 1942/1943 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではありません。アーカイブに直接登録,許可を得て引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています (他引用不許可)。

1933年3月,ナチスは,政権獲得直後に反体制派を収監,再教育,処罰する強制収容所を開設した。

増田好純(2002)「ナチ強制収容所における囚人強制労働の形成」(2002年当時東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程)『ヨーロッパ研究』第1号では,次のようにダッハウ強制収容所の沿革を記述している。

1933 年4月2日、当時バイエルン政治補助警察指導者だったヒムラーは、ダッハウ収容所を保安警察から SS に移管させ、同年6 月にはアイケを所長に任命した。アイケは、同年10 月1 日、捕虜収容所に関する規律・懲罰規則により、拘禁をはじめ煽動者の絞首刑または反乱者の射殺まで含む囚人対象の懲罰を体系化し、歩哨及び衛兵に関する服務規定Õ によって囚人に対する SS 衛兵の行動をも一元的に監督して、収容所内でのテロルを制度化していった。規律・懲罰規則は、衛兵教育によって徹底され、殺害をも含む暴力行為に擬似合法的な根拠を与えた。

 後に KL アウシュヴィッツの所長となるヘスは、ダッハウでの衛兵教育におけるテオドール・アイケの言葉を回想している。「諸君は平時にもまた日夜、敵に、鉄条網の背後の敵どもに立ちむかっている、唯一の兵士なのである」。

規律・懲罰規則が全ての囚人に課していた労働義務は、収容所の建設・保守管理または自給を目的とする作業場などを除いて、所内の道路を延々と整地させ続ける、あるいは砂山を移動させてから元の場所に戻させるといった方法で実行され、虐待・懲罰の側面を色濃く持っていた。(引用終わり)

写真(右)1955年8月,ポーランドのアウシュビッツ強制収容所のゲート「労働は自由にする」:ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーから強制収容所に送ったが,これは収容所で労働に従事させるためと言う名目だった。強制収容所のゲートには,囚人を欺き,反乱を起こさないように,このような偽りの標語が掲げられた。三文字目のBが逆さまなのは,作らされた囚人が「働いても殺される」ことを知っていてわざとやったのだろう。Festivalteilnehmer besuchen ehemaliges KZ in Auschwitz Am 11.8.1955 besuchten Teilnehmer am Festival der Jugend in Warschau das ehemalige KZ in Auschwitz. Das Nazi-Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau (Oswiecin) UBz: Eingang zum "Stammlager" Auschwitz. Archive title: Polen, Konzentrationslager Auschwitz.- Eingangstor mit Überschrift "Arbeit macht frei" Dating: 11. August 1955 。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

オラニエンブルクOranienburg収容所ゲートには,「働けば自由になる」"Arbeit macht frei"という標語が掲げられた。1933年3月に開設されたダッハウ強制収容所(Dachau Concentration Camp)が1936年に改築されたときにも,この標語が掲げられた。

「働けば自由になれる」とは,ナチスの作った強制収容所のモットーだった。それが,生きてでることを許さないアウシュビッツ強制収容所のゲートに掲げられたのは,入所者を騙し,混乱なく収容するためである。

1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物・インテリを処置。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害。親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)は,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。占領直後,ポーランドに、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置、何万人ものユダヤ人を狭い空間に押し込めた。

1939年9月21日,開戦から3週間,SS保安警察長官ハイドリヒは,ユダヤ人のゲットー強制移送を指示。

写真(右)1939年9月,東プロイセン(現ポーランド)で集められた顎鬚のユダヤ人:ユダヤ人は登録され,ゲットーに送られ,そこから選別されて,強制収容所に移送された。労働不能なユダヤ人は,トレブリンカ,ソビブルなどドイツ占領下のポーランドに設置された絶滅収容所で殺害された。
Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), Männer mit Bart, Junge; PK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Amphlett, Eduard撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランドのリボフLvov(ドイツ語レンベルク)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。しかし,9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐,リボフもソ連軍が占領した。ソ連軍が進駐していた時期に,ソ連に協力したユダヤ人・ポーランド人もいたであろうが,ソ連はユダヤ人を信用せず,1940年春,反ソ連のユダヤ人数百名をシベリアに送った。

ドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)後の6月30日,ドイツが再び,リボフのソ連軍を攻撃,占領した。ドイツのリボフ占領時,リボフのユダヤ人口は16万人だった。

1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)

第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国の警察も,ユダヤ人迫害,ゲットー追放に協力した。ゲット−隔離前,ドイツはユダヤ人情報を収集するためにユダヤ時に登録を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだった。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。

しかし,ユダヤ人を登録させることに成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まった。

写真(右)1941年初頭,ポーランド(クラクフ、カジミェシュ地区? ) のユダヤ人警察とドイツ警察によるユダヤ人取締り:多数のユダヤ人を抱えるポーランドは,ドイツ占領下で,ゲットーが作られ,ユダヤ人が押し込められた。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーから強制収容所に送ったが,これは収容所で労働に従事させるためと言う名目だった。実際には,ドイツ側がゲットーで労働力を恒常的に調達し,有効活用することは困難だった。ゲットー内では,自由が残っていたために,ユダヤ人を,奴隷労働者として処遇すれば,警戒され集めるとはできなかった。そこで,ゲットーから強制収容所への移送が始まり,そこで,奴隷労働に突かされたり,殺害されたりした。
同盟国イタリアのユダヤ人に対しては,当初ドイツは直接介入できなかった。しかし,ムッソリーニ主導のファシスト政権が打倒されると,ドイツ軍はイタリアを占領,傀儡ムッソリーニ政権を樹立,ユダヤ人狩りを開始。
Polen, (Krakau, Stadtteil Kazimierz?).- Razzia von deutscher Ordnungspolizei und polnischen Polizisten, Kontrolle (Verhaftung?) von Juden (?); PK 666 Dating: 1941 Anfang Photographer: Iffland 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


◆反ナチスとされた下等劣等人種ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的犯罪者など危険な非国民は,ドイツの敵である。彼らを拘束し,更正させる場所として,刑務所に加えて,1933年から,強制収容所KL(ラーゲル)を設置。ラーゲルを管理し,監視したのが,親衛隊SS髑髏部隊である。

ドイツ国防軍は,一時,不名誉な一般市民虐殺を阻止しようとしたが,虐殺命令が最高位からのものと知ると,治安維持任務,軍政担当の責任を負うことを回避した。親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。これは,軍の責任回避ともいえる。

ユダヤ人虐殺の理由は、ユダヤ人が、ドイツ帝国を崩壊させ、アーリア人を滅ぼして、世界支配を企んでいるからである。その方法は、/夕鎹染、▲椒襯轡Д咼に代表される共産主義、9餾欟睛山Δ紡緝修気譴詛匐蘯腟繊↓ず能的手段としてのドイツに対する戦争、である。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人殲滅戦の遂行を公言している。
これはあくまで過激な表現のプロパガンダに過ぎない,と誤解したドイツ人,連合国指導者もいた。


2.強制収容所の拡張

写真(右)1948年,戦後のアウシュビッツ強制収容所の囚人バラック: Überblick über das gesamte Lager Im neuen Polen Brzezinki (Oswiecim), Auschwitz-Birkenau, das Nazi-KZ Foto-Illus [1948] Archive title: Polen, Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau.- Gesamtansicht des Lagers mit Baracken Dating: 1948 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである。妄想的な宿命論を信じたヒトラーは,参戦義務がないにもかかわらず,対米宣戦布告をした。いままで,宣戦布告など一切問題としなかったヒトラーだが,世界のユダヤ人相手の最終戦争は,自ら宣戦布告すべきであると判断した。この次期に,アウシュビッツ強制収容所が大拡張されることが決定した。

ナチスは,ソ連の領土は,ドイツ人・ドイツ系民族(民族ドイツ人)の殖民する領土であると認識した。したがって,占領したソ連の肥沃な大地に,ユダヤ人を追放することは考えられない。英領植民地パレスチナ,フランス植民地マダガスカル島へのユダヤ人追放は計画されたことはある。しかし,戦時中,何万名ものユダヤ人を,遠隔地に追放することは不可能である。また,早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。収容したユダヤ人の処置が緊急問題となった。

<恩義のあるユダヤ人を保護したヒトラー>

ヒトラー自身は、法を超えた存在の独裁者であるから、恩義から第一次大戦中の元上官のユダヤ人を保護した。 Jewish Voice From Germany Hitler’s Jewish Commander and Victim by Susanne Mauss|July 4, 2012時事通信「ヒトラー、元上官のユダヤ人保護=側近の書簡発見―ドイツ」2012年7月13日)配信によれば、ヒトラーが、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)へ突き進む中、かつて上官だったユダヤ人男性を迫害しないよう命じていた事実を示す文書が見つかった。この男性は第1次世界大戦中、ヒトラーが所属した中隊を指揮していたErnst Hess エルンスト・ヘス氏。ヒトラー側近のナチス親衛隊指導者ヒムラーが警察幹部に送った1940年8月19日付の書簡で、ヘス氏について「総統の希望により」保護すると明示している。

 書簡はドイツのユダヤ系紙ジューイッシュ・ボイスがノルトライン・ウェストファーレン州の公文書館で発見した。同紙によると、ナチスに判事の職を奪われたエルンスト・ヘス氏は1936年、ヒトラーに迫害対象からの除外を求める請願書を送り、「ユダヤ人と呼ばれ、周りから軽蔑されるのはある種の精神的な死だ」と訴えた。これ以降、同氏は年金を渡されるなど、他のユダヤ人とは異なる扱いを受けた。

 エルンスト・ヘス氏は、1937年、家族と共に一時イタリア北部の南チロル(ドイツ人住民が半数)に移り、ユダヤ人を示すJをつけていない旅券を発行してもらうこともできた。1939年6月、ドイツとイタリアの間に南チロルドイツ住民帰国協定が結ばれ、ドイツ人のヘス一家はドイツに帰国さざるを得なくなった。1940年6月、ヘスがアーリア化を申請にミュンヘンの事務所に行ったとき、ヒトラーによる庇護命令が、5月以降無効となったことが判明した。

このころ、ベルリン在住の妻マルガレーテ(Margarete)は、ヒトラーの第一次大戦中の上官でヒトラー副官となっていたヴィーデマン(Fritz Wiedemann)の保護を受け、年金を受けていたが、それも受けられなくなってた。ヘスは、ミュンヘン郊外の強制収容所に送られたが、妻マルガレーテ(Margarete)がユダヤ人でなかったため、建設労働を強制されるだけで済んだ。ヘスは、虐殺を免れ1983年9月に93歳で死去するまでドイツで暮らした。他方、1942年7月21日、ヘスの母エリザベスと妹ベルタ(Berta)は、チェコのテレジン強制収容所に送られ、その後、ベルタはアウシュビッツ強制収容所に再移送され、殺害された。母エリザベスは、1945年2月5日、テレジン収容所から解放され、列車でスイスに送られた。これは、親衛隊国家長官ヒムラーが、米英連合軍と和平交渉に入ろうとしたためだった。

 ヘスの娘ウルズラ(Ursula Hess;86歳)によると、ヘスはヒトラーについて、部隊に友人はなく、誰とも言葉を交わさなかったと振り返り、「全く取るに足らない男だった」と話していたという。ヒトラーは母親の治療に当たったユダヤ人医師エドゥアルト・ブロッホ氏を「高貴なユダヤ人」と呼んで保護した。

  写真(右)アウシュビッツ強制収容所で集められていた囚人のメガネ:囚人の腕時計,宝石,通貨はもちろん,衣類,靴,カバンから義足,金歯,髪の毛まで,親衛隊は資源として回収した。Vernichtung der Juden in Polen durch die Nazis Zeugen des Massenmordes: ein Berg von Augengläsern in Oswiecim [Auschwitz]. Zentralbild Archive title: Konzentrationslager Auschwitz.- zu Haufen geschichtete Brillen 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離,ユダヤ人の持つ資産を闇市や強奪によって吸い上げるとともに,ユダヤ人の自治を認めて,ユダヤ人を分割統治した。ユダヤ人評議会が,ゲットーの行政を担い,ユダヤ人警察がゲットーの治安を維持した。親衛隊は,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察を支配していたから,かれらに,ゲットーから強制収容所に移送する住民の人数を指定した。ユダヤ評議会が登録名簿から,移送者名簿を作成,ユダヤ人警察がユダヤ人を集めた。しかし,1943年になると,ゲットーを一掃する,すなわちユダヤ人全員を強制収容所に移送する命令がでるようになる。

移送列車で収容所駅に到着したユダヤ人は,その場で,労働が可能かどうかで即座に2グループに選別された。労働不可能な子連れ婦女子・子供,老人などは,ガス室で処刑されることになる。

1941年9月,チェコ保護領総督(代行)に栄転したラインハルト・ハイドリヒは,労働者の権利擁護と潜在的敵対者の排除という分断統治をし,成果を上げた。そこで,英軍は,チェコ市民がドイツ占領を許容するのを阻止するため,チェコ人暗殺特殊部隊(コマンドー)を空輸し,1942年5月27日、プラハでハイドリヒの類人猿暗殺Operation Anthropoidに成功した。ドイツ軍は,暗殺者たちを内通を得て発見し,教会の地下に追い詰めた。特殊部隊隊員たちは最後を悟り,自決した。

英軍は,ハイドリヒを暗殺すれば,ドイツがチェコを弾圧し,チェコ人とドイツ人とを離反させることができると謀略を行った。1941年6月10日,ドイツ軍は,暗殺特殊部隊(コマンド)を匿った容疑でリディツェ村を徹底的に破壊し,成人男子を虐殺,残りは強制収容所に収監した。これは,恐怖による支配を容易にするために公表された。

暗殺や諜報に優れた英軍コマンド,MI6は,ハイドリヒ暗殺よりも,それがドイツによるチェコ人弾圧・迫害を呼び起こし,チェコの治安が悪化することを狙った。ドイツ占領地で,チェコ住民がドイツと共生するのを妨害するために,ドイツとチェコとの離反を画策したのである。

◆アウシュビッツ収容所は,占領したポーランド軍兵舎を利用し,1940年に建設が始まった。4月,アウシュビッツ収容所長となるルドルフ・ヘス(副総統とは別人)が到着,囚人を使役して,第一期工事として収容所を完成させた。ガス室はなく,銃殺,懲罰房での殺戮が行われた。1940年7月,毎日70体の死体を処理できる焼却炉が設置された。
1941年3月,親衛隊国家長官ヒムラーがアウシュビッツを視察に訪れ,収容規模を1万名から3万名に増加させるように収容所の拡張を指示した。

1941年10月に,アウシュビッツの拡張工事が始まり,12月までに,ソ連軍捕虜1万名がアウシュビッツに送り込まれた。その間,1941年9月,アウシュビッツ収容所では,試験的にチクロンBを使って,ソ連軍捕虜600名,病人300名をガス殺した。

◆1941年12月7日(日本8日)の日米の太平洋戦争開始の4日後,1941年12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説において,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

We know the power behind Roosevelt. It is the same eternal Jew that believes that his hour has come to impose the same fate on us that we have all seen and experienced with horror in Soviet Russia. We have gotten to know first hand the Jewish paradise on earth. Millions of German soldiers have personally seen the land where this international Jewry has destroyed and annihilated people and property. Perhaps the President of the United States does not understand this. If so, that only speaks for his intellectual narrow-mindedness.

日独伊三国軍事同盟では,第三国から攻撃を受けた場合,共同防衛することを定めている。したがって,日本軍の攻撃で開始された太平洋戦争に,ドイツは参戦する義務はなかった。しかし,ヒトラーは,アメリカのユダヤ人の陰謀によって第二次世界大戦が開始された以上,ドイツも米国との戦争に巻き込まれるのは運命であり,世界のユダヤ人を敵として戦うべきであると果断した。

ドイツ軍は,1941年6月22日の独ソ開戦以降,ソ連赤軍に大打撃を与えたが,優秀なドイツ兵士16万名が犠牲になっている。ヒトラーは,この犠牲の責任を,ユダヤ人にとらせるつもりだった。ドイツの対米宣戦布告によって,アメリカのユダヤ人に配慮して,欧州ユダヤ人の最終解決を遅らせる必要はなくなった。ユダヤ人や敵性住民を収監する強制収容所で,最終解決の名の下に,ユダヤ人絶滅を実行すべきときがきた。

これに対して、ルーズベルト大統領の対独宣戦布告を求める演説が米議会に対して、すぐに行われた。

1941年12月13日,ナチス啓蒙宣伝省ゲッペルスJoseph Goebbelsの日記「総統Führerは、ユダヤ人問題を解決する決断を下した。彼は、ユダヤ人がもう一度世界大戦を引き起こしたら、絶滅されることになるだろうと(1939年に)と予言した。これは、空文ではない。まさしく世界戦争である(Der Weltkrieg ist da)。ユダヤ人絶滅は、当然の結果ということになる。」
With respect of the Jewish Question, the Führer has decided to make a clean sweep. He prophesied to the Jews that if they again brought about a world war, they would live to see their annihilation in it. That wasn't just a catch-word. The world war is here, and the annihilation of the Jews must be the necessary consequence. (12/12のヒトラー総統によるナチス党幹部への演説をもとにした記録)

1941年12月16日,ポーランドのクラカウ総督だったナチス党幹部ハンス・フランク Hans Frankも,ヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の命令に言及した。東方占領省ローゼンブルクRosenbergも確認している。

1941年12月18日に大本営(Wolfsschanze) でヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の口頭命令を受けて、親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日-1945年5月23日)は,国内外世論,処刑者の精神的苦痛,ユダヤ人の反抗・ゲリラ活動防止,治安維持に配慮して,密かに強制収容所を「絶滅」システムに組み込んだ。 

1941年12月18日頃のヒムラー長官のメモ
Judenfrage / als Partisanen auszurotten
英語翻訳:Jewish Question / to be exterminated like the partisans


労働可能者は,過酷な条件の下,軍需工場での奴隷労働,収容所の作業班に充当され,生きることを許される。しかし,栄養失調や病気で労働不能になれば,処刑された。収容所に到着したユダヤ人たちは,生死の選別がなされているとは気づいていない。家族が一緒のバラックで暮らすことを希望していたので,子供を離さない婦女子が多かった。
親衛隊の収容所管理者・看守は,ユダヤ人が暴動を起こさないように十分に配慮したマニュアルを作成し,ユダヤ人絶滅を細心の注意をもって,冷静に実行した。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツの原料運搬ゴンドラの下でパイプのような物を運ぶ労働者:22 Kanalarbeit [Kabelarbeit] Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ナチス政権の下で,ドイツとその占領下では敵性住民を収監する強制収容所(Konzentrationslager:KL)が設置され,ナチス親衛隊SSは囚人に労働を義務付けた。しかし,これは,保護拘禁による更正を目的としたものではなく,懲罰,迫害の手段であり,同時に戦局の悪化に伴って,奴隷労働を確保する手段となった。収容所における囚人労働の意味は,当初の懲罰から増産のための奴隷労働へと変化したのである。

囚人に対して恣意的に懲罰を与えるのではなく,生産増加に役立たせるために,親衛隊は収容所の囚人を組織化し,軍需企業に奴隷労働として「売り渡す」ようになった。食糧不足,過酷な労働条件の下で酷使し,囚人を奴隷労働として使い捨てにすることは,労働を通じた絶滅 (Vernichtung durch Arbeit)と呼ばれることもある。

アウシュビッツ=ビルケナウAuschwitz/Birkenau- Oswiecim-Brzezinka (絶滅収容所extermination camp - 51支所);設立時期は,アウシュビッツ収容所は1941年4月,ビルケナウ収容所は1941年10月,モノビッツMonowitz労働収容所は1942年5月設置。1943年11月,アウシュビッツは三分割され,アウシュビッツ第一収容所(基幹収容所),アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ),アウシュビッツ第三収容所(モノビッツ)と,管理上,3つの独立した収容所に分割された。それまで,アウシュビッツ収容所長だったルドルフ・ヘスは,収容所統監府の経済行政本部DI局長(1945/5/1付)に転出。

ガス室による大殺戮が行われたのは,アウシュビッツ第二ビルケナウ絶滅収容所で,初代所長はフルードリヒ・ハルテンシュタインSS上級大隊長だが,1944年5月から1944年12月1日まで,ヨーゼフ・クラーマー(1906-1946)SS突撃本隊長が所長を務めた。親衛隊長官ヒムラーは,1941年3月1日,IGファルベン首脳らとともに,アウシュビッツを視察,平時でも3万名の収容を可能にすること,IGファルベンの化学工場建設準備をヘス所長に命じた。1941年夏,ヘス所長は,ベルリンに呼び出され,ヒムラー長官からヨーロッパのユダヤ人の大量殺戮の命令を伝えられた。

  基幹収容所の焼却炉Crematorium I(設計図)は1940年8月15日-1943年7月まで稼動し,1日340名の処理能力があったという。 ここに試験的なガス室が作られ,1941年秋,チクロンZyklon Bを用いて,ソ連軍捕虜の殺戮を行った。その後,労働不能者やポーランド人死刑囚もここで殺害された。ビルケナウ収容所に,新たなガス室,すなわち第一ブンカー(Bunker 第二ブンカーが建設されると,ここは倉庫とされ,その後,親衛隊の防空壕に改造されたという。この時,焼却炉,煙突,壁の一部は撤去され,屋根にあったチクロンB投入口は塞がれた。(Crematoria and Gas Chambers引用)

3.強制収容所の囚人による奴隷労働  

アウシュビッツの囚人数は,1941年3月1日1万900名,1942年12月1万8,000名,1943年3月3万名,1943年末には8万名へと増加。内訳は,1万8,437名が基幹収容所, 4万9,114名がビルケナウ,1万3,288名がモノビッツ(IGファルベン化学工場)にいた。1944年1月,ビルケナウの女子囚人は2万7,000名だった。1944年8月の囚人数は10万5,168名。
 アウシュビッツに収監された総計250万名のうち,40万5,000名に囚人番号が付与された。そのうち50%がユダヤ人で,残りはポーランドなど他国だった。その中での生存者は6万5,000名だった。アウシュビッツに収監されたる囚人のうち20万名が生き残ったと推計される。

写真(右)1933-37年,ニュルンベルク帝国会場でヒトラーと打合せをするアルベルト・シュペール(右):シュペールは,建築家で,ヒトラーとも共通の関心があった。ニュルンベルクのナチ党大会では,探照灯を用いた光の神殿を大空にくくってヒトラーを喜ばせた。後に,飛行機事故で死亡したトート博士の後任として,軍需大臣になる。強制収容所の奴隷労働,東方労働者について,責任がある立場だったが,回想録では,劣悪な取り扱いは知らなかったと述べている。Nürnberg, Reichsparteitagsgelände, Vorbereitungsarbeiten.- Adolf Hitler (links) mit Albert Speer (rechts), vor 1937; aus: Hitler abseits vom Alltag Bild-Nr. 75 Dating: 1933/1937 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

増田好純(2002)「ナチ強制収容所における囚人強制労働の形成」(2002年当時東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程)『ヨーロッパ研究』第1号によれば,次のように都市建設労働者の調達のために強制収容所KLの囚人が投入される計画になっていた。

1937年1月30日,アルベルト・シュペーアは公式にヒトラーの最大の建設課題を委託されて、帝国首都建設総監GBI に就任した。------ところが、ヒトラーの建設計画を実現するに当たっては最初から問題が持ちあがった。膨大な規模に上ることが予想されていた建設資材の調達である。雇用問題を解決したヒトラー政権は、1936 年を境に、一転して労働力不足に悩まされていた。それゆえ、四ヵ年計画(1936 年4 月) による重要な原材料及び労働力の統制下にあって、ドイツの建設資材産業は、ヒトラーの建設計画に伴う大規模な追加需要に応えうる状況になかった。解決策は、KL 囚人を使役する SS 建設資材工場の設立に求められた。ヒトラー、シュペーア、ヒムラーらは、KL 囚人を建設資材生産に大規模に投入することに合意し、SS は囚人を使役する建設資材工場を設立、経営することになった。-----SS 建設資材工場を設立する任務は、SS 中将に昇進していた SS 管理局長ポールに一任された。

ヒムラーは、1940年初頭、アウシュヴィッツに KLを設置することを決定した。---アウシュヴィッツは、東部における農業試験場になるのであり、ドイツ本国では期待できないような可能性をも秘めている。それを支える労働力も十分にある。植物実験や家畜の育種もなされねばならない。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツのブナ合成化学工場:08 Übersicht Buna + Montan Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1940年1月の第1次東部総合計画は、帝国保安本部の長期計画を下敷きとして作成され、東部併合地域から全てのユダヤ人と300万〜400万に及ぶポーランド人を移送し、入れ替わりに20 万のドイツ人家族を入植させることを計画していた。

1941年7月20日、ルブリンではヒムラー、グロボクニク、ポール及びカムラーが会談して、総督府における SS・警察の基地建設計画が話し合われた。----しかし計画の内容をみたヒムラーは、1942 年1月31日----この予定総額では過少であるとして計画の改訂を命じた。また、同じ書簡でヒムラーは、戦債を抱えるであろう政府からは支出が期待できないことを指摘し、それゆえに独力で計画を実現するため、KL 囚人たちを各種の建設工に養成するべく必要な措置をとるよう命じていた。「住居及び官公庁建造物の80パーセントを私達が、自分自身の資材と労働力で建設しなければならないのです。そうでなければ、私達はきちんとした兵営も学校も仕事場ももらえないでしょうし、ドイツ本国に SS 隊員用の住居も持てないでしょう。それに私はドイツ民族性強化全権として我々 がドイツ化するべき地域での大植民を果たすことが出来ないでしょう。」

1941年9月末,ポールは、囚人動員担当課を予算建設本部から直接の監督官庁であるIKLに移管し、各収容所と囚人動員課の結びつきを強化した。現地の KLには、この変更に対応して保護拘禁収容所指導者 E [E = Einsatz] が配置された。ポールは、1941年11月7日には、KL 囚人の労働動員権限に関する一般方針を発して、もはや各収容所長ではなく保護拘禁収容所指導者 E が動員権限を持つことを知らしめた。

1941年12月5日には、KL囚人から15,000 名の建設工を養成する命令が、ハイドリヒ、ポール、グリュックス(アイケの後任)、各収容所長に宛てて発せられた。---SSはこの労働力をKL囚人から養成し、動員できるというたぐいまれな有利な状況にある。それゆえ私は、管理経済本部長官ポールSS中将に対して、平和条約が締結されるまでの間に、その後引き続いて始められる大規模建設のため,1. 少なくとも5,000 名の石工,2. 少なくとも10,000 名の左官,を養成することを委任した。ドイツ全土において戦前にはたった4,000 名の石工しかいなかった----。

都市建設計画を発端として強制労働が導入された KL機構では、これまで確認してきたようにその生産力が徐々に重視されるようになった。KLザクセンハウゼンの外部収容所として煉瓦生産に従事していたノイエンガンメは KL に格上げされ(1940年1月)、グロス・ローゼン(ニーダーシュレージエン)、ナッツヴァイラー・ストリュートフ(アルザス)もまた保安措置と資材生産の両方の観点から KL に昇格した(1941 年5 月)。しかし、開戦以来、囚人の民族上・国籍上の構成は劇的に変化を遂げ、KL 内部には国籍・人種による囚人ヒエラルキーが構築されつつあった。ユダヤ系を除く帝国ドイツ人が頂点に位置し、次いで西・北ヨーロッパ出身者、そしてスラヴ系とユダヤ人は最低辺に置かれた。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツの金属溶接工:合成ゴムなど戦略物資を強制収容所の奴隷労働を投入して増産しようと計画された。41 Schweisser Lehrlinge Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

囚人ヒエラルキーの下では、労働動員は人種主義的な差別化を伴うことになった。例えば1941/42 年冬季の KL ノイエンガンメでは、激しい寒気によって労働動員が休止された日でさえもユダヤ人だけには労働が強制された。KLグロス・ローゼンでは1941 年8 月に収容された28 名のユダヤ人のうち、1941年末から42 年初頭にかけて生存していたのは3 名に過ぎなかった。収容生活一般も、苛酷な労働や配給食糧の減少、疫病の蔓延によって悪化の一途を辿った。例えば、KL ダッハウでの囚人死亡率は4% (1938 年)から36% (1942 年)へ、KL ブーヘンヴァルトでは10% (1938 年)から19% (1941年)へと上昇した。

1942年1月-1942年3月に, 収容者17万5,000名がガス室で殺害された。 1942年8月に大型の新式ガス室建設計画が始まり,1943年3月末に一部が稼動可能になった。1943年4月- 1944年3月のビルケナウのガス室でチクロンBによる殺害は16万名。1944年3月-1944年11月には,他の収容所からも囚人に加えて,ハンガリー・ユダヤ人,ポーランドに残っていたゲットーからのユダヤ人を受け入れ,58万5,000名をガス室で殺戮したとされる。
 1945年1月27日ソ連軍により解放した時,女物衣類83万6,525点,男物衣類 34万8,820点,クツ4万3,525点が発見された。 (増田好純(2002)「ナチ強制収容所における囚人強制労働の形成」引用終わり)

写真(右)1940-44年,アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所KonzentrationslagerのIGファルベン・アウシュビッツ工場(IG-Farbenwerke Auschwitz)の化学技術労働者:42 Lehrlinge Chemiewerker Dating: 1941/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv Classification: Sachklassifikation/D {Herrschaft des Nationalsozialismus 1933-1945}/Da {Staat}/Da 200 {NSDAP}/Da 230 {Gliederungen, Verbände und Organisationen}/Da 232 {SS (Schutzstaffeln der NSDAP)}/Da 232-30 {}/Da 232-30 Au {Auschwitz}/Da 232-31 Au {} ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ベルゼクBelzec(絶滅収容所 - 1 支所);1941年11月設置,1942年3-5月に一酸化炭素を使ったガス室が設置。ユダヤ人1000名を収容所作業に使役。ポーランドのルブリン,リボフのゲットーから移送したユダヤ人8万名を処理。1942年7-12月には,クラカウからのユダヤ人13万名とリボフ地区とラドムその他のユダヤ人21.5万名を処理。1943年初期の間は,遺体を焼却,埋める作業が続けられた。閉鎖,1942年3月-1942年12月まで,絶滅収容所として機能し,30万-50万名を殺戮したといわれる。証拠隠滅のために農場に転換された。200年に発見,2001年に公開されたラインハルト(Reinhard)作戦指揮官Hermann Hoefle(Höfle)の電報Höfle Telegram によれば,43万4,508名のユダヤ人を1942年12月末までに殺戮したことを伝えている。

第三収容所ブナにあったIGファルベン社Farbenindustrieの化学工場Buna Werke: 数万人のアウシュビッツ囚人の奴隷労働の犠牲の上に建設された。奴隷労働者による軍需生産が行われた。The IG Farbenindustrie chemical concern was the unquestioned leader among industrial firms in utilizing the labor of Auschwitz Concentration Camp prisoners. ナチスの自給経済強化のために,IGファルベンは,資金,原材料,労働力,敷地などの国家による優遇・庇護を受け,1940年に上シレジアにおいて,戦略物資としての合成ゴム,石炭液化燃料の生産を担う計画が決定した。ここは,石炭,工業塩(ヴェリチカにて),水のある場所で,連合軍の空襲圏外だった。しかし,1944年後半,連合軍の爆撃を受けることになる。(ただし,収容所が空襲されたわけではない)Auschwitz-Birkenau State Museum, Poland引用。

4.ユダヤ人問題の最終解決

1941年6月6日(ドイツの対ソ侵攻直前)、ドイツ軍最高軍司令部によるボルシェビキ指導者の政治委員(コミサール)射殺命令:1941年4月以来、親衛隊SS長官ハインリヒ・ヒムラーは,ヒトラー総統から、ドイツの敵を処置する特別の使命を委ねられていると公言し,ドイツのソ連侵攻が決定的となった時点で,コミサール抹殺命令が出た。

1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を無視して,ソ連に侵攻。4個大隊3千名の特別行動部隊(アインザッツグルッペンは,治安維持とユダヤ人・共産主義指導者抹殺の目的で, 1942年4月までにソ連の住民・捕虜50万名を虐殺。命令は口頭で、文書の場合は,ユダヤ人放逐など婉曲表現を使用。

ポーランド侵攻時に既に投入されていた特別行動部隊は,反ナチスとなりうる公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,文化・国家の維持に有益な人々を処置することを命じられていた。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持していたSS大隊長(中佐)だった。SS保安警察長官ハイドリヒは,1939年9月21,ユダヤ人のゲットーへの強制移送を指示した。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツの工場施設:07 Übersicht Kraftwerk Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1941年6月22日以降の独ソ戦では,反ボルシュビキのウクライナ人,エストニア人,ラトビア人,リトアニア人などから,補助警察を編成し,虐殺に協力させた。しかし、ソ連打倒が困難なことが判明した1942年10月末、ソ連人捕虜とユダヤ人をドイツの産業・農業生産工場のために,奴隷労働者として投入した。 ドイツ軍支配地域では,ドイツ軍に協力しなければ,生きて行くのは困難だった。 

1942年1月20日,ヴァンゼー会議Wannseekonferenzでは,ハイドリヒ長官が、親衛隊,警察指導者に、1941年10月末までに53万7千名のユダヤ人を国外移住させ、残るソ連・欧州の1100万名に及ぶユダヤ人問題の最終解決を全権委任されたことを伝えた。9月から,ドイツ支配下のユダヤ人は,黄色のダビデの星印の着用が命じられ、絶滅収容所の建設が開始された。

ソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・資源不足という状況の中で、敵性住民ユダヤ人は、絶滅されることが決定した。ただし,労働に耐えうるユダヤ人は,ソ連軍捕虜,ドイツ占領下のソ連住民と同様,ど労働力として酷使された。

ドイツ軍に捕らえられたソ連軍捕虜,ドイツ占領下のソ連住民は,ドイツ軍・親衛隊によって強制連行されたり,徴用されたりして,ドイツやポーランドの工場,農場,建設現場で働かされた。これは,人権を無視した奴隷労働として,下等劣等人種を利用したということである。
⇒栗原優(1997)『ナチズムとユダヤ人絶滅政策−ホロコーストの起源と実態』ミネルヴァ書房参照。

◆1941年冬のソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・物資不足の状況で、労働力として利用できない敵性住民ユダヤ人は、排除(銃殺,処刑)されることが決定した。



◆1941年冬のソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・物資不足の状況で、労働力として利用できない敵性住民ユダヤ人は、排除(銃殺,処刑)されることが決定した。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

写真(右)1940-43年,アウシュビッツに建設中のIGファルベンの化学工場:合成ゴムなど戦略物資を強制収容所の奴隷労働を投入して増産しようと計画された。10 Kompressorenbau Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

川島祐一(2004)「第三帝国とIGファルベン―モノビッツ収容所「経営者」・私的独占企業の「犯罪」を手がかりにして」『社会思想史の窓』第135号 東京電機大学理工学部 石塚正英研究室によれば,モノビッツのIGファルベンは次のようなものであった。

    IGファルベンは戦前に二つの合成ゴム工場を、1936年にはシュコパウに38年にはヒュル スに建設していた。1940年11月2日、IGファルベン代表は経済省次官フォン・ハンネケンと会見し、合成ゴム工場建設を急ぐという点で一致した。そしてルートヴィヒスハーフェンに第三番目の工場を建設することを決定した。だが、それだけでは必要とされた生産水準には達しなかった。そこで、-----アウシュビッツに建設されることが決定した。

アウシュビッツに工場を建設するというIGファルベンの決定は、SS建設部長カムラーによって、1941年末までに1万8千人の囚人の収容施設をつくるという命令になってあらわれた。このことは、施設の拡大のみならず、多様な手段による虐殺の拡大を示している。当時の主な労働力は、ポーランド人であった。この1941年初めからの大規模な建設は、地域的に三つの組織が絶えず計画を立てていた。それは、SSの建設局と、ドイツ鉄道建設局、それからIGファルベンの建設スタッフであった。

 IGファルベンの担当者はアウシュビッツの周辺を探査した。この地は以前から、石炭と石灰が産出されていたこともあったが、工場の労働力として初めからアウシュビッツ強制収容所の囚人の安上がりな労働力をあてにしていたことがあった。さらに鉄道の接続にも魅力があった。それはブナ収容所と呼ばれたが、それはそこで生産される予定の合成ゴム(ブナ)を表現したものであった。「この施設にIGファルベンは700万ライヒスマルク投資した」。IGファルベンの収容所は、1942年10月末に開所した。この収容所が設立されたことは、SSとドイツ軍需産業コンツェルンの間の密接な利害関係を明白にしている。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツ強制収容所に隣接して建設されたIGファルベンの化学工場:写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

 1942年1月25日、ヒムラーは、強制収容所統監グリュックスに10万人の男性ユダヤ人と5万人までの女性ユダヤ人の収容を要求した。1943年1月27日、ゾンマーはヘースに言った、テレージエンシュタットから5千人のユダヤ人が送られている、と。そして彼は、そのなかの労働従事可能な者を「注意深く選ぶ」ことを要求した。というのもアウシュビッツ建設部門とIGファルベン工場が必要としたからであった。アウシュビッツに列車で送られてきた捕虜はすぐに「労働収容所に入れられず、花に囲まれた小さなプラットフォームが見える場所に来た。もちろん、彼らはその後何が待っているかはっきり理解していなかった。そこでガス室に送られるものが選別された。(強制労働にむかないとされた)老人、母と子どもは『赤レンガの建物』に案内された」。「強制労働のための囚人の選び方は、アウシュビッツ基幹収容所での登録表と左腕の身元確認番号の刺青による」。これらの労働力はモノビッツ収容所において、IGファルベンとSSとの計画的かつ長期的な共同作業によって、「無価値な生命」を葬り去る方法によって使用された。すなわち労働による絶滅が展開された。

囚人は非人間的な労働・生活条件の下で使われたが、このような状況の下では労働力の再生産を速やかに行うということは考慮されず、長期にわたって医療を与えて囚人の生命を維持するという責任はIGファルベンには負わされなかった。身体的に摩滅した労働力は、新しいのと取り替える方が簡単かつ安価であった。ユダヤ人大量連行、その一部を労働力に、その他の圧倒的な非労働力部分をガス室へと、二つの政策が合体するのは42年春以降、とくに夏以降のことだった。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツのウクライナから動員された東方OST労働者:作業服に“OST”(東方)とある。ソ連・東欧から強制連行あるいは徴用された女子労働者。ドイツの外国人労働者は、戦後の高成長時期,トルコ,旧ユーゴ,東欧から導入され,ゲスト・アルバイターと呼ばれた。しかし,ナチス政権の下では,アーリア系支配人種としてオランダ人、デンマーク人、ノルウェー人、フラマン人が最上位にあり、経済・文化水準がドイツに近い国としてイタリア人、フランス人が中位におかれた。しかし,下等劣等人種と位置づけられたスラヴ人(ポーランド人,セルビア人,ロシア人,ウクライナ人)は,「オスト」(東方)労働者として,最下層の扱いを受けた。25 Ukrainerin Drehbank Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

収容労働者の最大の雇い主はSSであった。それというのも、SSは建設プロジェクトや収容所の管理、そしてSS独自の工業・農業のために使ったからである。第二がモノビッツのIGファルベン工場であった。---- 

 「1933年の冬から最初の強制収容所と留置施設が建設され、強制労働―しばしば不適切で、屈辱的な、そして適切な装備、服、栄養を与えることなしで、また休養を与えることなしで、強制収容所統治の中心として形成された。1938年初め、ナチスは経済利益のために『国家の敵』の強制労働をますます利用し、ひどい労働力不足を満たした。この実行は1942年の春エスカレートした。例えば、ポーランドのモノビッツ収容所では、何万というユダヤ人囚人がIGファルベン合成ゴム(ブナ)収容所において強制労働をさせられた」。

「最初強制労働者は、前述したものなど、収容所や施設建設に当てられた。IGファルベンは囚人労働者を優先的に手にいれることができた。囚人は、石炭を掘り、軍備や化学用品を生産し、そして工業プラントの建設や拡張などに利用された」。当初IGファルベンは強制労働者の他に、自由市場を通じてポーランド人を雇っていた。

 ナチス国家指導部は、「東方労働者」をドイツ本国で労働させることは「民族政策上危険」であるとしてソ連市民労働者のドイツ本国での労働動員は拒否されていた。しかし、1941年10月末から11月初めに、ソ連人労働者をドイツ本国で労働動員することを決定した。

 モノビッツ収容所のIGファルベンの建設部では1942年10月中旬に、働きに応じて食糧配給量を変え、サボりを防止し、逆に労働意欲を駆り立て、高い労働能率を引き出すことをねらいとして、ソ連市民労働者の食糧配給をグループ兇鯤振囘食料配給量とし、グループIは兇25%増、グループ靴廊兇25%減の配給量を与えるように、3グループに分けた。

IGファルベンでは、1943年には、ソ連市民労働者の85%は「重・最重の肉体労働に交代制で働く労働者として」就業させられ、残り15%も特別な熟練を必要とする特殊な任務ないし、「特に人のいやがる仕事」につかされていた。(引用終わり)

写真(右)1940-44年,アウシュビッツのウクライナから動員された東方OST労働者:作業服に“OST”とある。ソ連・東欧から強制連行あるいは徴用された女子労働者。26 Ukrainerin Schweissen Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

IGファルベン とは,InteressenGemeinschaft Farbenの省略で,BASF,バイエル,ヘキストなどの複合共同体で,ドイツの化学工業の中核となる企業だった。IGファルベンはナチス政権樹立の一年前,1932年,ナチスに40万マルクの政治献金をしている。再軍備を計画したヒトラーは,火薬,化学物質を扱うIGファルベンの協力を得ることができたのである。そして,1938年のオーストリア,チェコ併合では,併合された地域の化学工業を傘下におさめ,第二次大戦後は,占領下におかれたポーランド,ノルウェー,オランダ,ベルギー,フランスの化学工業をも事実上,支配するようになる。

1941年3月,親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーは,アウシュビッツを視察したが,これにはIGファルベンの幹部も同行し,アウシュビッツに新造されるIGファルベンの化学工場の建設状況を調べた。IGファルベン幹部オットー・アンブロシュは,親衛隊SSと連携して,工場用地,電力・石炭などのエネルギー,そして安価な労働力を手に入れ,企業の経済活動を拡大させた。また,アウシュビッツ=ビルケナウ絶滅収容所で使用された毒ガスのチクロンBは,IGファルベン傘下のデゲシュが製造していた。

IGファルベンは,アウシュビッツ強制収容所の奴隷労働者を親衛隊に賃貸料を支払い,労働させたが,これは強制労働,奴隷労働に等しく,労働基本権はおろか,人権まで無視された。使い捨ての労働力として,囚人を酷使したのである。囚人は,拷問・処刑されるよりはと,過酷な労働に赴いたが,たとえ戦時ではあっても,ドイツ人,外国人一般労働者には耐えられるような現場ではなかったようだ。

IGファルベンが親衛隊に支払う賃貸料(日当)は,化学者のような専門技術家4マルク,一般技術者3マルクなどで,衣類など必要経費を負担したとしても,親衛隊は奴隷労働者数千人を派遣することで,数千マルクの収益を手にすることができた。


写真(上)1942年7月17-18日,アウシュビッツAuschwitz強制収容所を視察する親衛隊SS国家長官ヒムラーとIGファルベン首脳陣:収容所長ルドルフ・ヘスが案内し,ナチ党幹部,軍需企業IGファルベン首脳も参加した大規模で,徹底した視察だった。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。第一収容所とアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所)とならんで,合成燃料と合成ゴムの工場「ブナ」の建築現場を視察した。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。

川島祐一(2004)「第三帝国とIGファルベン―モノビッツ収容所「経営者」・私的独占企業の「犯罪」を手がかりにして」『社会思想史の窓』第135号 東京電機大学理工学部 石塚正英研究室によれば,その後のIGファルベンは次のようなものであった。

IGファルベンは自発的に第三帝国に協力し、モノビッツ収容所という700万ライヒスマルクを投資して建設した自社プラントにおいてユダヤ人・ソ連人など多くの人々に強制労働をさせ、労働力として使えない者や使えなくなった者は毒ガスにより殺害した。このような関係のなかで、IGファルベンは戦争中に、売上を急増させたのであった。ガソリン等の合成石油類は、一般的なモータリゼーションによってではなく、機械化された戦闘諸手段のエネルギー源および潤滑油等として、合成ゴム(ブナ)等の合成物質は人的物的戦闘物資の輸送手段(タイヤ類)として、軽金属は航空機(戦闘機・爆撃機)の素材等として、またチクロンB等の薬品類は戦争の大量虐殺行為の必然的随伴物としてである。

 戦後,IGファルベンは、ニュルンベルク継続裁判において、民間人、戦時捕虜、強制収容所囚人労働者に関し「人道に対する罪」で、24名の会社重役や技術者が有罪判決を受けた。これは刑法上の罪であり、民法上補償義務があるかどうかは未解決のままであった。1951年11月、モノビッツのブナ工場で2年近く強制労働をさせられた元強制収容所囚人のユダヤ人ヴォルハイムが裁判を起こした。裁判は1952年1月16日に開始された。それに影響されて、1,100人が提訴した。1953年6月、ヴォルハイムは1万マルクの損害賠償と慰謝料で勝訴した。---IGファルベンは,個別企業が責任を負う必要はないとの立場から控訴した。結局1956年から和解交渉に入り、1957年2月に和解交渉が成立した。IGファルベンが強制労働の補償として3,000万マルク(2,700万マルクを対独ユダヤ人物的請求会議へ、300万マルクを非ユダヤ人強制労働者へ)支払うことで同意した。

 IGファルベンは、第二次世界大戦の終了(つまり、1945年5月8日ベルリンにおいて、ドイツが無条件降伏文書を署名したことにより)とともに占領下で企業解体の運命に見舞われ、1953年3月23日に最終的に解体されていた。---接収されたIGファルベンの資産のうち、ドイツ領土におけるそれは、特許および商標の評価額を十分に算入しないとしても、10億ライヒスマルクにのぼっていた。IGファルベンの三大企業工場は、それぞれ異なった軍政府の管理化に置かれることとなった。旧バイエルのレーヴァクーゼン工場は、イギリス軍政府。旧BASFのルートヴィヒスハーフェン工場は、フランス軍政府。旧ヘキストのヘキスト工場は、アメリカ軍政府の管理化に置かれた。IGファルベンの監査役会、取締役会は解散させられた。幹部の一部は枢要な決定から遠ざけられ、場合によっては解雇された。ニュルンベルク軍事裁判の判決が出された直後の1948年8月5日、米英占領地区の合同管理理事会のもとに、IGファルベン合同管理課と合同占領地区IGファルベン分散パネルが設置された。それは、占領軍政府の管理機構の一部であったが、諮問委員会は、ドイツ人専門家により構成された。様々な議論の末、三分割案に落ち着いた。BASF、バイエル、ヘキストへの分割である。

 以上、第三帝国とモノビッツ強制労働収容所「経営者」・私的独占企業IGファルベンの 「犯罪」を手がかりにして、アウシュビッツの真実に少しでも近づくよう試みた。つまり第三帝国の国家政策はユダヤ人に対する迫害、再軍備政策、戦争政策、すべて「国民的」「民族的」利益の名目をもって実行された。その第三帝国が提示する大義名分を資本(大企業)が、無批判的に承認していたのであった。それが、前述したIGファルベンの第三帝国への協力に繋がったのである。(引用終わり)

1941年6月の独ソ戦では,ドイツ占領地の治安維持にあたった特別機動部隊(アインザッツグルッペ)は,共産党政治委員(コミサール),パルチザン,教員・行政官など知識人(インテリゲンツァ),敵性住民を銃殺や絞首刑にした。しかし,流血の処刑は,処刑者に精神的負担となった。処刑が知れ渡ると,ユダヤ人捕獲が困難になり,ゲリラ活動も活発化した。そこで,処刑者に負担をかけず,治安を悪化させずに,大量殺戮可能な「絶滅システム」が考えられた。これは,“織罐瀬篆優廛蹈僖ンダ,▲罐瀬篆楊告報酬,N鷦岼楞,ぐ楞者の財産収奪と有効利用,ヅ枸賚働,Εス殺・疲労死・病死,Щ狢両撞僂領れが,効率的に組織された。ガス室は,処刑者の心理的負担の軽減,大量殺戮効率化のための重要な要素で,反人間性の象徴となった。(ただし,アウシュビッツ収容所長アドルフ・へスなどは,残虐な方法ではなく,ガスで安楽死させていると考えた。


写真(上)1942年7月17-18日,アウシュビッツAuschwitz強制収容所を視察する親衛隊SS国家長官ヒムラーとIGファルベン首脳陣:これは2回目の視察で,このときには,ガス室における囚人ガス殺をも実際に視察し,ヒムラー長官自身,気分が悪くなってしまった。親衛隊髑髏部隊の任務の困難さを理解していた長官は,親衛隊に品格を保ち,恣意的な虐殺や殺害を楽しむサディステックな振る舞いを嫌悪していた。ユダヤ人の財産を国庫に没収するのは当然だとしたが,ユダヤ人から持ちもをを略奪する親衛隊員は厳罰に処すと明言していた。しかし,小市民的な発想は,ユダヤ人虐殺自体への疑念を生じさせなかった。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。第一収容所とアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所)の間に,鉄道幹線があり,そこから引込み線が,収容所入り口に延びていた。ユダヤ人絶滅における鉄道輸送と鉄道職員の役割は,大きい。ドイツ鉄道は,強制移送するユダヤ人からも料金を徴収。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。

 1942年7月17-18日,ヒムラーは,アウシュビッツ収容所を徹底的に視察し,拡張計画を検討した後,農場,家畜育種場,植物園を見た。そして,ビルケナウでは,ロシア人収容所,ジプシー支所,ユダヤ人支所を見た。看視塔から,収容所区画,建設中の給排水施設を説明させた。作業中の抑留者,宿舎,厨房,病棟も視察した。ヘス所長は,拡張計画の困難さを説明したが,ヒムラー長官は,任務遂行を命じ,「どうすべきか心を砕くのは,君であり,私じゃない」と責任を押し付けた。 

ビルケナウ視察では,到着したユダヤ人移送者の一部虐殺の過程と選別作業とを見た。その後,ブナを視察した。大管区指導者やIGファルベン首脳は,抑留者の配給切詰めを伝えた。そして晩餐会後,ヒムラー長官は,ヘス所長夫妻とともに,大管区指導者に招待され,社交の集まりを持った。

 ヒムラ−長官は,翌7月18日,アウシュビッツの基幹収容所,厨房,女子収容所,工房,厩屋,荷物倉庫「カナダ」,選別所,屠殺場,製パン所,建設部も見た。収容者の宿舎,衣食住の実地検分し,詳細な報告をさせた。

 ヒムラー長官は,視察終了後,ヘス所長の執務室で「私はこれで,アウシュビッツを隈なく視察した。欠陥も困難もこの目で見たし,君から聞いた。しかし,それについて,私は何一つ変えることはできない。今は戦時であり,戦時にふさわしい考え方をすることを学ばなくてはならない。アイヒマンのプログラムは推進され,毎月上昇してゆくだろう。ジプシー殲滅を進め,働けないユダヤ人も容赦なく抹殺されなければならない。近くの軍需工場附属の労働収容所が,働けるユダヤ人を大量に引き受けるであろう。アウシュビッツでも,所内の軍需工場が建設されなければならない。----君を,上級大隊長に進級させよう。」ヒムラー長官は,飛行機でベルリンに帰った。(ルドルフ・ヘス『アウシュビッツ収容所』425-440頁引用)


写真(上)1942年7月17-18日,アウシュビッツAuschwitz強制収容所を視察する親衛隊SS国家長官ヒムラーとIGファルベン首脳陣:収容所長ルドルフ・ヘスが案内し,ナチ党幹部,軍需企業IGファルベン首脳も参加した大規模で,徹底した視察だった。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。第一収容所とアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所)とならんで,合成燃料と合成ゴムの工場「ブナ」の建築現場を視察。United States Holocaust Memorial Museum. Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。

絶滅収容所には,大規模なガス室・焼却炉があった。しかし,ガス室を備えていない一般の強制収容所でも,栄養失調,病気,あるいは虐待によって多数の死者が出た。虐殺は,ガス室だけで行われたわけではない。

アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスRudolf Höss(1900-1947)によれば,1942年春,ユダヤ人のガス殺が開始された。ヘスは,部下がなぜ虐殺をするのかと疑問を持ったとき,「この同じ疑問を持った身でありながら,総統命令であることを理由に,彼らを説き伏せた。ユダヤ人虐殺は,ドイツを,われわれの子孫を,手ごわい敵から永遠に解放するために必要な措置であると,彼らに言わねばならなかった。」( ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,307頁 引用)

1942年6月末,消毒室の第1ブンカー,洗面所の第2ブンカーが整備された。消毒室・洗面所に見せかけたのは,殺害するユダヤ人たちが,騒ぎ反抗するのを防ぐためである。誘導には,同じユダヤ人特別作業班「ゾンダーコマンド」を使ったが,これも殺害するユダヤ人を言葉,生き証人の上で安心させるためである。ゾンダーコマンドのユダヤ人は,殺されるユダヤ人を苦しませたくなかった。また,ユダヤ人が暴れたり,到着するユダヤ人がいなくなれば,自分たちゾンダーコマンドが殺害される。彼ら作業班は,看守に協力せざるを得なかった。

1941年12月,ヘウムノ絶滅収容所で,排気ガスを使った殺戮が始まり,1943年6月,ビルケナウ絶滅収容所のチクロンB(殺虫剤が起源)を使用したガス室と焼却炉が本格的に稼動を開始した。移送列車で到着した囚人群は,労働可能な者とそうでない者の2グループに選別された,労働不能者はガス室で処刑された。労働可能な収容者の一部は,モノヴィッツMonowitz収容所「ブナ」と呼ばれた軍需工場で,奴隷労働に従事した。

写真(右)1944年5-6月,アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に到着した婦人と子供たち:1944年5月,ハンガリーから大量のユダヤ人がアウシュビッツに移送されることになった。.熟軍の侵攻を前に,後方の敵性人種を殲滅すること,▲熟軍を恐れるハンガリー政府が,ドイツの協力を得ようとユダヤ人移送に同意したこと,がハンガリーからのユダヤ人大量移送・殺戮の背景として指摘できる。この鉄道を使った移送計画を立案,実施したのがカール・アドルフ・アイヒマン(1906-1962)である。アルゼンチンに逃亡していたアイヒマンは,1960年5月,ユダヤ人諜報機関モサドに誘拐され,イスラエルで裁判にかけられ,死刑。この写真は,アイヒマン裁判のドキュメンタリー映像から,1960年6月28日複製されたもの。
Zentralbild/Repro, 28.6.1960 Dokumentarfotos zu den Verbrechen des Judenmörders Eichmann. Für das Zusammenziehen der jüdischen Bevölkerung in Ghettos auf dem Gebiet der Tschechoslowakei und für den Transport zahlloser jüdischer Männer, Frauen und Kinder verschiedner Nationalitäten in die Vernichtungslager, wie z.B. Auschwitz-Birkenau, ist Judenmörder EICHMANN an führender Stelle mitverantwortlich gewesen. Die dokumentarischen Fotos gehören zu einer Anzahl Aufnahmen, die von dem aus Nordböhmen stammenden SS-Mann Bernhard WALTER mit Eichmanns Genehmigung in Auschwitz angefertigt wurden ["Auschwitz-Album"] - Selbst vor Greisen und Kindern machten die faschistischen Verbrecher vom Schlage Eichmanns nicht Halt. Hier Kinder und eine alte Frau auf dem Wege in die Todesbaracke (Auschwitz-Birkenau). Dating: 1944 Mai - Juni Photographer: Walter, Bernhard撮影。 ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

川島祐一(2004)「第三帝国とIGファルベン―モノビッツ収容所「経営者」・私的独占企業の「犯罪」を手がかりにして」『社会思想史の窓』第135号 東京電機大学理工学部 石塚正英研究室によれば,IGファルベンのチクロンBは次のように使われた。

親衛隊SSは,チクロン(Zyklon)をIGファルベンン傘下の殺虫剤メーカー,デゲシ ュ社,テスタ社から購入した。1940年7月25日,アウシュビッツ基幹収容所にクレマトリウムIが建設され,チクロンBを実験した。それは41年9月3日のことだった。犠牲者となったのはアウシュビッツに連行されたソ連人の捕虜600人,その他300人(収容所内の病人など)であった。

チクロンBは,シアン化合物で,本来の目的は害虫を駆除するため,燻蒸剤として開発された。チクロンは缶を開け、部屋のなかへガスカプセルを投げ入れ使用できた。固形原料は純化されて使われた。チクロンは容器のなかで3ヶ月で変質するので,取り置きができなかった。

1941年秋最初の暫定的なガス室が建設された。1941年12月ソ連人大量虐殺のため、チクロンBが使用された。最初、基幹収容所第11ブロックの地下室に囚人を閉じ込め殺害した。しかし、ここには換気装置がないことから不適切とされ、次回からは、その装置のあるクレマトリウムIで行われた。

囚人は診察室で、労働に復帰しそうにないとされると、すぐにガス室行きだった。しかし、基幹収容所にはアウシュビッツ収容所の本部が置かれているため、日常業務に差し支えを起こした。このため、ガス室をビルケナウに移すこととなった。

「最初は、SSがヴィルケンヴァルトの森にあった二軒の農家をガス室に改造した。暫定的なガス室一つ目は,1942年3月に稼動した(第一ブンカー、「赤い家」)。そして、後に停止された。二つ目は、1942年6月から稼動した(第二ブンカー、「白い家」)。1944年まで使用された。

四つの大きな複合施設(クレマトリウム供Ν掘Ν検Ν后砲、1942年の9月に建設され、1943年の3月から6月の間に稼動されはじめた。それぞれ三つの要素で構成されていた。|Π瓮┘螢◆き巨大ガス室,2仭鯱Аい任△襦SSは1944年の11月までビルケナウ(ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅計画の中心的役割を担っていた)のガス室を稼動した。

ビルケナウ絶滅収容所が建設されたのは1941年から1942年であった。「四つのガス室と火葬炉をもつビルケナウ収容所が完成した後の、1943年7月末、クレマトリウム気歪篁漾その建物は貯蔵所とSSのための空襲避難所となった。その火葬炉、煙突、幾つかの壁は取り除かれそして天井の穴もふさがれ使用された」。

強制収容所における射殺による大量虐殺もチクロンBによるそれも最初の対象は,ソ連人捕虜であった。ユダヤ人のガス殺はヘウムノにおけるガス自動車によるもので、41年12月初めだった。アウシュビッツでの毒ガスによるユダヤ人虐殺が始まったのは1942年5月4日だった。

 SSによる囚人のガス室までの誘導は以下のように行われた。「すべてのドアと壁に、不快な物を取り除くまたは、シャワー室行きと刻まれていた。これは、特別処理班(彼らもまた戦争捕虜であった)によって幾つかの言語で捕虜に知らされた。囚人はすべての行動の間、補助員(SSと特別処理班)と一緒に行動をとらされた」。SSがガスカプセルを天井から投げ入れる。SSは窓から様子をみて指示をだす。5分〜7分経過するとガスは役割を完了する。15〜20分後に、SSは扉を開ける合図をだす。すると特別処理班がガスマスクをしてガス室に入り、(火葬炉に)死体を移動する。ガス室の扉が開かれる、その光景を特別処理班の生き残りが証言している。( 川島祐一(2004)「第三帝国とIGファルベン―モノビッツ収容所「経営者」・私的独占企業の「犯罪」を手がかりにして」引用終わり)

写真(右)1940-44年,アウシュビッツの工場でのヤスリ掛け作業:39 Lehrlinge Schraubstock Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

  <収容所の日常>
ブナの収容所(ラーゲル)は一辺600mで,鉄条網で二重に囲まれており,1万2000名の囚人がいた。内側の鉄条網には高圧電流が流れていた。木造バラックは60棟あり,「ブロック」と呼ばれ,レンガ工房,上位の囚人の管理する実験農場,6-8棟ごとに配置されるシャワーと便所のバラックがある。加えて,診療所と病棟,放送患者用の第24ブロック,特権的囚人(プロミネンツ)用の第7ブロック,ドイツ人政治犯・刑事犯用の第47ブロック,囚人監督カポ用の第49ブロックがあった。第12ブロックは,半分がドイツ囚人とカポ用,半分が酒保(タバコなどの配給所)である。第37ブロックは,補給事務所・労働事務所である。第29ブロックは,ポーランド女囚のいる売春小屋で,ドイツ囚人専用だった。

居住ブロックは,一棟200-250名で,二部屋ある。一方には,棟長とその取り巻きが住んでおり,イス・ベンチがあり,写真,装飾もある。他方は,寝室で,三段作りの木製簡易寝台148個がある。天井までいっぱいに,一寝台を二人以上で使用する。薄い藁布団と上掛けが二枚,通路は一人が通れるほどの空間しかない。

収容所の中央に点呼広場がある。朝,約200名で一作業班となる労働部隊を編成しカポの指揮を受ける。楽な仕事とされた電気工,金属工,溶接工,レンガ工,機械工,セメント工など技能労働者は合計でも300-400名しかいない。特殊技能者は,ドイツ人かポーランド人の監督に指揮された。労働作業振り分けは,ブナの民間人管理部と連絡を取った,労役部が決める。買収が横行していたから,うまく食料を手に入れるものが,楽な作業を手に入れることができた。

労働時間は,明るい時間帯なので,季節によって変わる。夏は630-1200,1300-1800だった。逃亡が危惧される霧の日は囚人は仕事に就けないが,暴風でも働くのが規則だった。夕方に点呼を取るために集合させられる。点呼広場の前には,花壇があり,必要なときは絞首刑台が立てられた。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツ強制収容所の機械工場:40 Lehrlinge Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

 毎朝,寝台をしわひとつなく完全に平らにし,木底のクツ・服から泥や泥のしみを落とさなくてはならない。夕方には,足が洗ってあるか,ノミがいるか,検査を受けなくてはならない。土曜日には,髪と髭を剃り,服の修繕をし,ボタン5つがついているかどうかの検査を受けなくてはならない。寝るときも,便所に行くときも,すべての財産(クツ,食器など)をみな持っている必要がある。そうでないと,持ち物は一瞬にして盗まれてしまう。(レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』28-34頁)

ブナで化学技師として働いていたプリーモ・レーヴィは,収容所では与えられる命令を実行し,配給だけで生活し,労働規律を守るだけで,よい場合でも三ヶ月で「ムーゼルマン」になり死ぬことになる,と述べている。食料,衣類,クツは必需品であるが,配給だけでは不足するので,禁止されている物資を調達し,物々交換したり,賄賂として提供しなくてはならない。タバコ,ヤスリ,ペンチ,電球,石鹸,金歯,空き缶,容器,食器,電線,ほうき,糸,手袋,物品につけるセルロイドの色つきラベル,針金(クツを縛る),ほろ着れ(足に当てる),紙(防寒用に上着の中に詰める)など,収容所で有益なものを調達し,それと交換で,食料など必需品を獲得し,カポ・収容棟長に楽な作業,まともなスープ(バケツの底で身が濃い部分),寝台を割り当ててもらうのである。

同郷者・友人など団結した囚人グループを形成し,物質的優位を確保し,組織化して物品を収容所あるいは囚人から盗み出す。こうした狡猾な組織者(オルガニザトール),結合者(コンビナトール),名士(プロミネンツ)と呼ばれたものが,過酷な収容所で生き残ることができた。単に善良で,組織化できない収容者は,生きた屍「回教徒(ムーゼルマン)」になってで死ぬ。体力が劣れば,労働収容所で,時折行われる囚人の第二次選別で,労働不能者に区分されれば,ガス室送りになることは,収容期間の長い古参囚人にとって,常識だった。大半の収容者同士は,敵対的な関係に貶められており,団結して看守やカポに立ち向かうことはできなかった。(レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』106-107,152-153,178-182頁)

5.アウシュビッツ=ビルケナウ絶滅収容所


写真(左)アウシュビッツ収容所の病院勤務者とドイツ人看護婦。写真(右)病院の落成式(1944/6/21?)の時なのか,美味しそうなベリーを配ってもらっているドイツ婦人補助部隊。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。楽しそうなアウシュビッツ強制収容所勤務のドイツ人たちの表情を見ると,決して,反ユダヤ狂信者の異常な暴力がユダヤ人虐殺を主導したのではないことに思い当たる。普通の人々でも,ユダヤ人虐殺に反対を許さない組織の中で,プロパガンダに扇動されながら,業務をこなした。虐殺を知らなかったドイツ人も含まれるのかもしれない。強制収容所のドイツ婦人部隊の女子と男子軍人たちは,後方勤務で,安全な生活を送ることもできた。これは,陰惨な東部戦線で,ソ連軍相手に死闘を繰り広げるより,いい身分を手に入れることでもある。アルバムの主カール・ヘッカーは,戦後,戦争犯罪人として裁かれたが,2000年まで生きた。そして,遺族が,2007年に,この貴重なアルバムを,米国ホロコースト記念博物館に寄贈。

写真(右)1944年,アウシュビッツAuschwitz強制収容所の管理・病院勤務のドイツ軍人の会食:ユダヤ人迫害に加担したのは,普通のドイツ人だった。決して,サディスティックナ異常者がユダヤ人虐殺を主導したのではない。ここに,民族人種差別の根の深さを見ることができる。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。病院勤務者には,ドイツ人看護婦,ドイツSS婦人補助部隊も含まれる。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。


1943年3月27日のアンネの日記:ドイツ側が「すべてのユダヤ人は7月1日まで,ドイツの全占領地から追放されねばならない」と述べ,オランダのユダヤ人も駆逐,掃討すると宣言したことを聞いている。「追い立てられ気の毒な人たちは,哀れな病気の家畜さながら,どこかに送られていくのです」と書いているので,1943年3月時点では,アンネたちは,ユダヤ人が,過酷な条件の収容所で虐殺されているとは知らなかった。絶滅収容所におけるガス室での大量殺戮が始まる直前の時期だった。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツのIGファルベン化学工業従業員の住宅:ナチス親衛隊は,アウシュビッツ強制収容所の囚人を奴隷労働者として,大企業に貸し出した。企業は,親衛隊に奴隷労働者貸出料を支払った。もちろん,奴隷労働者への報酬は,生かさされているということだけで,賃金支払いは無かった。
43 Wohnheim Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーは,親衛隊に対して 1943年10月4日ボーゼン「ユダヤ人絶滅」演説Heinrich Himmler: Posener Rede vom 04.10.1943をした。
 「一つの困難な課題について諸君にはっきりと語る」として,口にしてこなかったユダヤ人虐殺について「親衛隊の使命であり、自明の任務である。それ故に,我々親衛隊は,このことを話し合ったことがない。これが命令となり、また必要なものとなれば、みな直ちに実行するだけである。」

 「私は‘ユダヤ人排除’、すなわちユダヤ人絶滅のことを言っているのだ。 Ich meine die "Judenevakuierung": die Ausrottung des jüdischen Volkes.( I am talking about the "Jewish evacuation": the extermination of the Jewish people.) この任務は,容易なだとも受け取られている。‘ユダヤ人は一掃されるだろう’と。党員たちが諸君に言うには‘我々はユダヤ人を除去、絶滅すると公言してきた。些細なことだ,’と。そのような状態だといずれ8千万の忠実なドイツ人各人一人のユダヤ人を連れてきてこう言うであろう。‘他のユダヤ人たちは悪い奴らです。しかし、彼は優秀です。’こんなことを見過ごし、我慢することはできない。
 諸君の前に横たわる100の屍が、500の屍が、千の屍を見るとき,それが何を意味しているか,諸君は分かるであろう。この任務に耐えること、人間的な弱さとは縁を切って,屍を前に,我々は精神を強靭にして,品位を保つ。この任務は,決して言葉では表されないし、表すべきでもない。この任務によって,我々は空前の栄光を歴史を残すことになる。
これは,ヒムラー長官が,ナチ党幹部,親衛隊に,ユダヤ人絶滅を公言し,かれらもその共犯とするための演説のようだ。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツの親衛隊・婦人補助部隊あるいは企業従業員用バラックの寝室:ドイツ人のためには快適そうなツインベットルームが用意されていた。このすぐ近くにあるアウシュビッツ強制収容所の収容者とは別格の生活だった。
30 Baracke 2 Bettzimmer Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


◆親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツの災いとなるユダヤ人問題の最終解決,すなわちユダヤ人絶滅こそ,凡人の理解を超えた,親衛隊にとっての偉大な歴史的使命である,と妄想していた。このヒトラーと自分のユダヤ人絶滅の妄想が,1943年10月,ユダヤ人虐殺の口頭命令として,親衛隊に伝えられた。人種民族差別・迫害を受け入れた、あるいは命令に逆らえなかったドイツ人と非ドイツ人は、虐殺を実行し、実行させられた。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツの親衛隊・婦人補助部隊用の託児施設:ナチス親衛隊は,アウシュビッツ強制収容所を管理したが,後方勤務のために設備は良かった。危険で苦労の多い前線勤務ではなく,後方の安全な収容所勤務を好んだ親衛隊も多かった。
36 Säuglingsstation Dating: 1941/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 親衛隊SS国家長官ヒムラーは,次のように述べた。ドイツは連日のように,連合軍爆撃機の空襲を受けているが,このような祖国の危機のとき,「逃げ隠れしている扇動者のユダヤ人を,祖国に置くことがいかに困難をもたらすか、我々は知っている。もしユダヤ人がドイツ民族に寄生すれば,ドイツが(背後からの匕首の一突きで敗戦した第一次大戦の末期)1916-17年と同じ状況に陥ることになる。」

「ユダヤ人の持つ資産を奪う上で私は厳しく命令した。------我々親衛隊は,ユダヤ人資産を完全に帝国に移管する。この資産を個人的に略奪してはならない。命令に反する者は、私の言ったように‘たとえ1マルクでも略奪した者は死刑’になる。

「我々親衛隊が求めるものは,略奪ではなく、腐敗の撲滅である。我々がこの困難な任務を遂行するのはドイツ民族への愛のためであり,我々の魂の中、人格の中には、恥じるべきものは何一つないのである。」

Heinrich Himmler's Speech at Poznan (Posen)ヒムラーによる1943年10月4日ボーゼン「ユダヤ人絶滅」演説記録画像・録音

写真(右)1940-44年,アウシュビッツの親衛隊・婦人補助部隊あるいは企業従業員用の歯科治療室:ドイツ人のために病院・歯科治療室が整備されていた。カール・ヘッカーのアルバムにも,病院落成式の模様が撮影され,残っている。
アウシュビッツ強制収容所の収容者はもちろん,東部戦線のドイツ兵士でもうらやんだであろう豊かな生活である。看守たちは,このような生活をしながら,ユダヤ人など敵性人種の虐殺の任務を淡々とこなした。
34 Zahnstation Dating: 1941/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


移送列車で到着した多数のユダヤ人は,強制労働につかせる「労働可能者」と,労働に耐えられない「労働不能者」と二分された。この生死の選別は,ドイツ人の医師・親衛隊が行った。体の状態を一瞥するだけで,あるいは若干の質問をして(囚人の通訳もいた),どちらかに振り分けるのである。原則として,年少者,子供をつれた女子,老人は,働けない側に選別され,そのままガス室に送られたこともあった。

持参した多数の荷物は置くようにいわれ,囚人「カナダ」作業班が,分類,整理して,倉庫に保管した。そして,ドイツ本国の物資不足を補うのに充当された。ユダヤ人から,看守が財産・物資を掠め取ることは,厳重に禁止されていた。ただし,看守が,ユダヤ人から掠奪することは,珍しくなかったようだ。

収容所の「カナダ」作業班は,到着者たちが持参した多数の荷物を分類し,集める仕事をさせられた。ユダヤ人は,ここが絶滅収容所だとは気づかなかったが,これはドイツ側が,秩序だってユダヤ人を虐殺するために,虐殺の事実を秘匿するように勤めたからである。収容所の入り口ゲートには,「労働すれば自由になれる」(中世自由都市の格言「都市の空気は自由にする」と類似)と偽りの標語が大きくかかれていた。

Bのつづりが逆さまなのは、この標語を作らされた収容者あるいは親衛隊が、標語は偽りであることを暗示しているようでもある。

<マウトハウゼンMauthausen強制収容所>

写真(右)1941年4月,マウトハウゼン強制収容所を視察するカルテン・ブルンナー,ハインリヒ・ヒムラー:マウトハウゼンは,オーストリア・リンツ郊外にある収容所で,1938年8月,アンシュルス(ドイツへのオーストリア併合)後,リンツ郊外20kmに設立。 "Vernichtung durch arbeit" (労働による絶滅)をモットーとした強制収容所。地下トンネルの支所として,Gusen (I, II and III), Melk,Ebenseeがあった。マウトハウゼンは,オーストリアの収容所だが,小規模なガス室があり,1942年春頃まで時々使用された。現在もシャワー室に似せた小型ガス室が公開されている。
 マウトハウゼン記念館Mauthausen-Memorial公式ページによれば,「---1945年5月5日の解放に至るまでの間、20万人のヨーロッパ各国及び世界中の囚人たちが非人間的な拘留条件やナチの拷問方法の下で苦しみました。半分以上の人がこの拘留で命を落としたのです。囚人たちは過酷な労働や、最低の衛生管理を原因とした伝染病で死亡し、あるいはナチの警備班に射殺されたり、マウトハウゼンのガス室やグーゼン隣接収容所、“安楽死施設”ハルトハイムなどで毒ガスによりその命を絶たれました」とある。マウトハウゼンには隣接した花崗岩の石切り場で囚人が働かされた。
Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Himmler, Kaltenbrunner und Ziereis in Mauthausen, April 1941 Dating: April 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年,オーストリア・リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所:強制収容所を建設するのも囚人の役目だった。囚人は,奴隷労働とおして,無給で酷使された。生きるためには働くしかなかったが,「労働が自由にする」という標語は完全な偽りである。死ぬまで働かされただけだった。マウトハウゼン記念館Mauthausen-Memorial公式ページには「マウトハウゼンの主要収容所では、1943年後特に収容者を分配し、まずは軍備生産の強制労働を目的とした外部収容所の完全組織が発展しました。」とある。
1945年5月5日,米第11機甲師団がマウトハウゼン収容所を解放した時,1万5,000の死体があり,数週間のうちに,飢餓・重態にあった囚人3000名が死亡した。1939-1945年に,ここで看守を務めた親衛隊SSは1万名を超えたが,氏名が判明しているのは818名に過ぎない。1946年3月7日のダッハウ裁判では,親衛隊58名が死刑,3名が終身刑を宣告された。捕まった全ての看守が有罪だったわけではない。ただし,マウトハウゼン収容所指揮官フランツ・ザイラスFranz Ziereisは,民間人の服を着て隠れていたために,米兵によって,射殺。収容所では,推計15万名が殺害された。大規模なガス室を備えた絶滅収容所以外でも,強制労働,病気,拷問,処刑によって多数の囚人が死亡している。
Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Bau des Kommandanturgebäudes, 1941 Dating: 1941
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年10月,オーストリア・リンツ郊外のマウトハウゼン強制収容所に集合したソ連軍捕虜
マウトハウゼン記念館公式ページには,内務大臣Maria Fekterの詞が記載されている。「1945年5月5日、マウトハウゼン強制収容所は解放されました。 7年間に渡るマウトハウゼン強制収容所内で行われた悲惨事が初めてアメリカ兵によって世界に知らされたのです。この犯行の痕跡は戦争の記憶の中に刻み込まれました。しかしその責任問題は長い間触れられずに時が過ぎ去っていったのです。 この元強制収容所を保存し、ここに記念館を設立する決定がなされたのは、この記憶を残し、後世の人々にありのままを伝えていくことの使命感に対する明確な証です。この回想及びマウトハウゼンがその象徴であるナチの犯行から一線を画することが、オーストリアの新たな国民意識の重要観点となるべきなのです。 マウトハウゼン強制収容所は過去においても将来も国境を超えてヨーロッパ史の結晶点であります。マウトハウゼンはまた、ヨーロッパ内外の国民たちの運命を左右した場所でもありました。その追憶は保存されるべきものであり、共通の国際史痕跡として確定し、二度とこのようなことがおこらないように我々はすべての可能性を駆使して努力すべきなのです。」とある。
Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener im KZ Mauthausen, Oktober 1941 Dating: Oktober 1941
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941-42年,マウトハウゼン強制収容所の石切り場:マウトハウゼン収容所に隣接した花崗岩の石切り場で,ハインリヒ・ヒムラーが視察したときの撮影と思われる。石切り場の上部の左右に,囚人監視塔が見える。底には,着られた花崗岩が並べられているようで,トロッコとその軌道も確認できる。左端には,底の石切り場と上部をつなぐ,石でできた階段が見える。この石段を,囚人は重い切石を背負って,登らされた。親衛隊SSは,ドイツと占領地における主要な切石を供給する大産業を傘下においていた。
Archive title: Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Steinbruch Wiener Graben, 1941-1942 Dating: 1941/1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


  <ノルトハウゼンNordhausen強制収容所(ドーラ=ミッテンバウ収容所)>

ノルトハウゼン強制収容所は,1943年ブーヘンヴァルト強制収容所の支所として設置された。戦後の米陸軍戦争犯罪記録によれば, 1943年夏から1945年4月までに7万5千から8万名の奴隷労働者を,1日12時時間シフト,休日なしに酷使していた。そして,1944年1月から翌年4月までに,最新秘密兵器であるV-2ロケット(ミサイル)6千発も製造した。

写真(右)1942-1945年,バルト海に面したペーネミュンデ秘密実験基地のV-2号ロケット:戦後のアポロ計画に多大な寄与をしたフォン・ブラウン博士など,ドイツの最高技術が活かされているとされる弾道弾だが,その生産に当たったのは,強制収容所の囚人だった。トンネル式の地下工場が,ノルトハウゼン強制収容所の奴隷労働者によって作られ,彼らがV-2生産にも強制的に働かされた。
Archive title: Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände. Arbeiten an der aufgerichteten Rakete vom Eisenbahn-Meillerwagen aus. Dating: 1942/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドーラ=ミッテンバウ収容所を,米第104歩兵師団が,1945年4月12日に解放したとき,囚人・奴隷労働者3000名の死体が発見された。劣悪な生活条件,飢餓,殴打,処刑などによって,1万から1万5千名が死亡したとされる。

ドーラ=ミッテンバウ収容所長クルツ・アンドリー以下,1972名が起訴されたが,米軍は1,500名のドイツ人科学者,技術者をペーパー・クリップ計画の下で,アメリカに連れ去った。

月ロケット「アポロ計画」サターン5型の基本設計を担当したフォン・ブラウン Wernher von Braun(1912 -1977) 博士は,ロケット爆弾(弾道弾)のV-2ロケットを完成させたが,これを製造したのは,ノルトハウゼン=ドーラ収容所の奴隷労働者だった。ドイツ最高の軍事科学技術は,ユダヤ人などの奴隷労働者に依存して,生産を行った。

写真(右)1942-1945年,バルト海に面したペーネミュンデ秘密実験基地のV-2号ロケット:1944年後半,ノルトハウゼン=ドーラ収容所の囚人の奴隷労働によって生産されたV-2ロケットが,鉄道によって発射基地に運搬され,イギリス本土,ベルギーの港アントワープなどを目標に発射された。
Peenemünde.- Heeresversuchsanstalt, Raketen-Versuchsgelände. V2-Rakete (Aggregat 4) auf Startrampe / Abschussrampe Dating: März 1942/1945 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

 フォン ブラウンは,V2の資料を集め,それを持って米第44師団に投降することができた。「宇宙旅行」の夢を実現する有人ロケット開発はすばらしいが,同時に,ユダヤ人など奴隷労働の利用を免責してもらう条件として,ドイツの最高機密V-2の技術資料を,米軍に譲渡した。これは国家機密書類の窃盗,国家反逆罪に相当するが,同時に,米軍もユダヤ人などの奴隷労働に関して,「正義の裁き」よりロケット兵器開発,対ソ封じ込めを優先した。米軍は、V2ロケット情報と生産工具をノルトハウゼンに求め,大量のV2の部品鹵獲を優先した。米軍は,奴隷労働者の救出よりも,V2ロケットの情報収集と部品・生産工具の回収に力を注いだようだ。

親衛隊SSは,強制収容所の囚人を奴隷労働者として,軍需企業に一人一日6マルクで貸し出した。奴隷労働者を使った企業は,ナチス親衛隊(SS)に借り受け料を支払ったが,これは全て親衛隊SSの資金となった。映画で有名になった「シンドラーのリスト」でも,軍需企業の経営者シンドラーが,強制収容所のユダヤ人奴隷労働者を利用して,ドイツ軍のための物資を生産する。シンドラーの目的は,ユダヤ人を虐殺から救うことと,ユダヤ人を労働者を使用して,財産をなすことだった。また,収容所囚人の中には,ポンドやドルなどの連合軍の偽札作りを強要されたユダヤ人職人もいた。

写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する強制収容所の奴隷労働者と思われる。連合軍の空襲からUボートを守るために,港にUボートを退避させる巨大なコンクリート製防空壕(ブンカー)が建設された。連合軍のフランス侵攻後の1944年9月ごろ,ナチス親衛隊は,絶滅収容所におけるユダヤ人ガス大量殺戮を中止。これは,戦局悪化による奴隷労働力確保と,収容所のユダヤ人を米英との和平交渉の人質として使う目的があった。このときのガス殺中止を,ユダヤ人絶滅は無かった証拠だと錯覚するのは,完全な誤りである。
Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Zwangsarbeiter (KZ-Häftlinge ?) beim Positionieren eines Spannbetonbogens mit Eisenstangen Dating: 1944撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ナチス親衛隊は,軍需生産上,労働力を提供できない労働不能ユダヤ人を,ガス室などで殺害した。そして,労働可能なユダヤ人囚人は,衣食住の物資も切り詰めて,過酷な条件で,奴隷労働者として,死ぬまで働かせた。

しかし,ユダヤ人絶滅を,経済的理由だけ説明することはできない。ユダヤ人をドイツ民族を滅ぼそうとする敵,病原菌であると決め付けていたという人種民族差別の役割も大きい。敵ユダヤ人は,ドイツ民族を弱らせるペスト菌のような存在であるから,撲滅しなければならない。

 ユダヤ人が,ドイツ民族の生存を脅かす敵である以上,軍需生産・食糧生産を担う奴隷労働力として利用することと並んで,ユダヤ人を絶滅すること自体も重要な目標となる。ユダヤ人を労働力として無償利用することは,永続的目的ではなかった。これを理解できないところに,現実主義者ヒトラーが,労働力として役に立つユダヤ人を虐殺するはずがない,という誤解が生まれる。

ヒトラー総統,そのユダヤ人絶滅命令を口頭で受けた親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツ民族を滅ぼそうとする病原菌として,ユダヤ人を認識していた。この人種民族的偏見を抱く限り,ユダヤ人虐殺もユダヤ人の奴隷労働もともに,現実的な合理的行為として,実行に移された。

ユダヤ人虐殺の方法は,当初は,銃殺・縛り首などであったが,ユダヤ人に処刑が知れ渡ると,ユダヤ人を捕まえることは困難になり,同時に住民による反抗も活発になった。また,ドイツ人処刑者の中には,婦女子の処刑には精神的に耐えられないものもあった。そこで,治安を悪化させずに,処刑者に負担をかけないで,効率的に大量殺戮できるような「ユダヤ人絶滅システム」が作られた。

◆ユダヤ人絶滅システムとは,一般住民に反ユダヤ人プロパガンダを行い,ユダヤ人密告を奨励し,密告者に報酬を与え,貨車に過密なほどユダヤ人を押し込み,列車移送を軍需輸送の一環に組み込む。そして,移送者の不動産から所持品まで全財産を収奪した。囚人は,奴隷労働として死ぬまで利用するか,ガス殺し,死体を焼却して,証拠隠滅を図る。このようなユダヤ人虐殺の重要な部分は,口頭でのみ命令され,文書化することを許さない。効率的に秘密裏に組織されたのが,ユダヤ人絶滅システムである。


写真(右)1944年,ドイツ本土ブレーメン近くのドイツ潜水艦Uボート基地「ヴァレンチン」を建設する民間労働者と思われる。連合軍の空襲からUボートを守るために,港にアーチ式のやなを備えて,そこにコンクリート防御を施したUボート退避基地を建設している。
Bremen-Farge.- Bau des U-Boot-Bunkers "Valentin", Montage eines Stahlbogens mit Hilfe eines Portralkrans Dating: 1944 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

強制収容所の多くには,ガス室はなかったが,栄養失調・病気による衰弱死,奴隷労働による過労死,拷問による死亡,処刑があった。また,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカTreblinka ,ゾビブルSobibor ,マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置されたガス室を備えていた絶滅収容所は,ユダヤ人,ロマ(ジプシー),ソ連軍捕虜などを大量殺戮した。

他方,ユダヤ人の婦女子まで殺戮するドイツ人は,精神的,肉体的に負担が大きかった。殺戮者となったドイツ人の負担を軽減することには,十分配慮されていた。
つまり,効率的に殺戮を進め,資産を収奪するユダヤ人絶滅システムは,人種民族差別の上に構築されていた。ユダヤ人絶滅は,冷徹に計算された人種民族差別の極限にある非人間的な暴力である。

写真(右)ガーデレーゲン収容所の収容者焼死体: Bodies of Gardelegen massacre victims laid out in a field,Photo Credit: Bill Wilson,Scrapbookpages.com引用。1945年4月13-14日,米軍による侵攻直前,東ドイツのガーデレーゲン収容所の親衛隊は退却。その際,囚人をIsenschnibber Feldscheuneで虐殺。米軍は,ドイツ市民にソ連軍捕虜の虐殺現場を見せて,ナチスの非道を許した市民を叱責した。占領した米軍の撮影になる「ガーデレーゲン」写真アルバムが残されている。現在,Gardelegen市TimeLineは,04-13-1945:1016 concentration camp prisoners are been murdered in the field-barn "Isenschnibbe"として,ソ連軍捕虜虐殺の事実を明確に伝えている。

<絶滅収容所でのガス殺(Killing People Through Gas:In Extermination Camps引用)>
クルムホフKulmhof(チェルムノChelmno):1941年12月-1942年秋,1944年5-8月,一酸化炭素carbon monoxide gasにより,ユダヤ人15万名,ロマ5000名を殺害。

ベルゼクBelzec (ルブリンLublin): from march to December 1942年3-12月,当初3ヵ所のガス室,後に6ヶ所のガス室で,一酸化炭素によりユダヤ人60万名を殺害。

ゾビボルSobibor (ルブリンLublin):1942年4月に3ヵ所,9月に6ヶ所のガス室によって,1943年10月までに,ユダヤ人20万名を一酸化炭素で殺害。

トレブリンカTreblinka :1942年7月に3ヶ所のガス室,9月には10ヵ所のガス室で,1943年11月までに,一酸化炭素によって, 70万名のユダヤ人を殺害。

マイダネックMajdanek (ルブリン):1941年9月に収容所を解説,1942年4月-1943年11月まで,大量銃殺ユダヤ人2万4,000名を殺害。1942年10月より,当初2ヵ所のガス室,後に3ヶ所のガス室で,1944年3月までにユダヤ人5万名を殺害。使用したガスは,当初は一酸化炭素,後にチクロンB(シアン化ガスcyan hydrogen).

アウシュビッツ=ブルケナウAuschwitz-Birkenau (当初ポーランド領だったが,上シレジアに編入): 1940年5月開設,1942年1月,5ヶ所のガス室で,1943年6月からは,さらに4ヵ所の大型ガス室で,1944年11月までに,チクロンBによって,ユダヤ人100万名,ロマ4000名を殺害。

強制収容所グーゼンの日記 <強制収容所でのガス殺(Jewish Virtual Library引用)>
以下の強制収容所は,大量殺戮を目的に作られた絶滅収容所ではなく,囚人を拘束し,奴隷労働させるための強制収容所であるが,労働不能者などを処置するガス室があった。

マウトハウゼンMauthausen (オーストリア): 1941年秋に1ヶ所のガス室でチクロンBを使用。一酸化炭素を使うガス室がグーセンGusen支所にあった。併せて,4000名がガス殺された。

ノイエンガメNeuengamme (ハンブルク南東): 1942年秋から「ブンカー」"Bunker"でチクロンBを使用して,450名を殺害。

ザクセンハウゼンSachsenhausen (ベルリン北) :1943年3月から,チクロンBを使用する1ヵ所ガス室で,数千名を殺害。

ナトワイザーNatzweiler(仏語Natzwiller:ストラスブルク南東50km,エルザス): 1943年8月-1944年8月,1ヶ所のガス室で,120-200名をチクロンBで殺害。遺体はストラスブルク大学解剖学研究所ヒルトAugust Hirt博士の元に送られた。

シュツォホフStutthof (タンチヒ東34km) :1944年6月に,1ヶ所のガス室を開設,チクロンBによって1000名を殺害。

レーベンスブリュックRavensbruck (べルリン北80km):1945年1月,1ヶ所のガス室が設置され,少なくとも 2,300名を殺害。

ダッハウDachau (ミュンヘン北東):1942年に新焼却炉設置,それに隣接して ガス室を建設。医学実験のために親衛隊ライシャーRascher博士が試験的にガス殺を実施。 大規模なガス殺は実施されていない。


◎以上は,ガス室における一酸化炭素ガスあるいはチクロンBによる殺害数で,奴隷労働,食料不足による過労死,病死,餓死あるいは拷問そのたの処刑は含まない。出所の違いから,数値・記述が一致しない所がある。

ドイツは,戦局が悪化する中,戦後を見据えて,ユダヤ人を和平交渉の人質として使うことを考えた。収容所でのガス室使用が中断されると,虐殺速度は一時的に鈍った。ドイツ敗戦を見越し,うまく立ち回ろうとする看守もいた。ただし,1945年になると,囚人のドイツ本国への強制移送は,「死の行進」と呼ばれるほど,多数の死者を出し,収容者急増で,本国の収容所の居住環境が悪化,やはり多数が病気・栄養失調で死亡しているので,虐殺が終わったわけではない。

1945年5月1日,米軍が貨車内部に発見した三名の政治犯の遺体:親衛隊は,連合軍が迫ってきた強制収容所から囚人をドイツ内陸まで強制移送しようとした。しかし,米軍の進撃が迫ると,囚人を殺害,逃走した。列車内の囚人すべてが銃殺されていた。ヒトラー同等の政治的遺書にもあるように,最後の瞬間まで,ユダヤ人殲滅戦争を継続することが,ドイツ軍,親衛隊に求められた。At the doorway of this railroad car may be seen the bodies of 3 political prisoners, shot as they tried to flee massacre at Seeshaupt. All prisoners on train were killed by machine guns at the hands of SS troops. Germany, May 1, 1945. T4c. Albert Gretz. (Army) NARA FILE #: 111-SC-205480。1945年5月1日,T4C. ALBERT GRETZ撮影。Defense Visual Information Center 米国防総省ID:HD-SN-99-02775引用。

<虐殺数を示す証拠は隠滅された>
アウシュビッツ収容所長・DI局長を務めたルドルフ・ヘスは,戦後の戦犯裁判の訊問で,アウシュビッツで虐殺されたユダヤ人の数を,戦争末期にアイヒマンが伝えた数字から250万名と述べた。
ヘス元所長の証言「大規模な作戦の後,いつも虐殺数の推定の手がかりになるような証拠は,全てヒムラーの命令で焼却された。DI局長として,自分は部署の手がかりは全て,自分で始末した。他の部署でも同じことが行われた。----仮に怠惰によって,どこかの部署に,個別的な記録断片,電話,電信が残されていたとしても,虐殺総数については,手がかりにはならないはずである。私自身,総数についてはまったく知らず,それを再現できる手がかりも持っていない。今でもわずかに覚えているのは,アイヒマンやその代理から繰り返し命じられた,大規模作戦の時の数字だけである。
上シレジアと総督領-----25万名
ドイツとテレジェンシュタット----10万名
オランダ-----9万5000名
ベルギー-----2万名
フランス-----11万名
ギリシャ-----6万5000名
ハンガリー-----40万名
スロヴァキア-----9万名
私としては250万名という数字は,多く見積もりすぎていると考えている。」
(ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,399-400頁 引用)

6.ユダヤ人虐殺を知っていた連合軍首脳
英軍は,1939年9月の大戦当初からドイツの治安警察暗号を解読し,チャーチル英首相もドイツの無線暗号解読資料を解説付きで定期的に受け取った。1940年3月,ドイツ治安警察が,東部戦線で占領地のユダヤ人追放に協力していることを知り,1941年7月14日,ドイツ治安警察部隊に対する特殊任務の心構えのための映写説明会の意味を,敵性住民の処刑であると正確に理解していた。1941年8月24日,チャーチルは,ラジオ演説で,ロシアの愛国者をドイツ警察軍が文字通り何万人も処刑している,とナチスによる住民虐殺を非難した。

英軍の諜報専門家は,チャーチル首相が,ナチスのユダヤ人虐殺を具体的に非難すことによって,英国がドイツの暗号を解読していることをドイツが察知するのではないかと危惧した。そこで,リスクがある言動を,控えるように提言したのである。

しかし,ポーランドで地下活動をしていた亡命政府代表によるユダヤ人6千名の殺戮の報告が,1941年10月にロンドンに届くと,ロンドンのポーランド亡命政府は,それをマスメディアに流した。また,ドイツの最高機密を扱うエニグマ暗号電報の解読によって,1942年を通じて,アウシュビッツを含む収容所の受け入れ収容者人数を掴み,そこから出所した囚人がいないことも知っていた。

1942年11月,ポーランドのレジスタンスは,ガス室で殺されるためにユダヤ人とソ連軍の捕虜数万名がアウシュビッツに到着していることを報じている。1944年4月4日には,航空偵察によって,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所の大規模な施設も判明している。収容所の全体像の航空偵察写真撮影にも成功している。

当時,英空軍,米陸軍航空隊は,ドイツの都市や工場地帯を空爆していた。1943年に,一日に千機の爆撃機を「動員して,大空襲をかけることもあった。しかし,大量の爆撃部隊を編成,準備していた連合軍の航空隊は,ユダヤ人強制収容所・絶滅収容収容所を空爆したことは一度もなかった。それどころか,ユダヤ人代表やポーランド亡命政府が求めたように,ユダヤ人虐殺などのテロを働いたドイツ人とその協力者への法律による処罰にも言及しなかった。

写真(左)アウシュビッツ第三収容所ブナBunaの航空写真。1944年5月31日,連合軍機の撮影:Auschwitz III. Allied aerial reconnaissance photograph of May 31, 1944.現在ポーランドのオシヴェンチム(Oswiecim)に1942年に設置されたアウシュビッツ収容所支所ブナには,1944年,1万人が奴隷労働slave laborをさせられていた。アウシュビッツ収容所の連合軍の航空写真は,1944年4月4日,5月31日,8月9・12・25日,9月13日,11月29日,12月21日,1945年1月14日,2月19日に撮影されている。ビルケナウ収容所は,1944年5月31日,8月12日,11月29日,12月21日,1945年2月19日に,I.G.ファルベン(Farben)化学工場のあるブナは,1944年7月8日,12月26日,1945年1月14日の航空写真が残っている。連合軍は早くからドイツのユダヤ人虐殺を察知していたが In November 1943, the Buna sub-camp was transformed into a separate administrative unit designated Auschwitz III. It included other Auschwitz concentration camp sub-camps at industrial plants. 1945年1月18日,施設は放棄されたが,囚人たちは解放されることなく,強制移送された。1月27日,ソ連赤軍がアウシュビッツ収容所を解放。(米国立公文書館NARA .ARC: 305905 Local:263-AUSCHWITZ-19(12)引用)

連合軍が,ユダヤ人支援のための軍事行動に消極的だった理由は,次のようなものである。
.罐瀬篆猷鯤のために空爆や処罰を公言すれば,ユダヤ人が世界制覇をたくらんで英米を煽動しているというドイツのプロパガンダの信憑性が高まってしまう,
何万名もの市民が収容されていることが知れれば,人道支援をすべきであるとの声が起こり,膨大な食料・物資の提供は,連合軍の戦力を弱めてしまう。
このように深謀遠慮した連合軍は,収容所のある軍需工場を爆撃はしたが,ユダヤ人を救うための直接行動は一切起こさなかった。戦争に勝利することが,強制収容所の囚人解放につながるとの見解だった。
6爆可能圏内に達していないとの言い訳をした。しかし,イタリア降伏後は,主要な収容所は,連合軍の爆撃部隊の行動圏内に入っていた。
⇒リチャード・ブライトマン(1998)2000年川上光訳『封印されたホロコースト−ローズヴェルト,チャーチルはどこまで知っていたか』大月書店

The Associated Press 2008年1月11日に以下の記事がある。
President Bush had tears in his eyes during an hour-long tour of Israel's Holocaust memorial Friday and told Secretary of State Condoleezza Rice that the U.S. should have bombed Auschwitz to halt the killing, the memorial's chairman said. ブッシュ大統領は,目に涙を浮かべながら,イスラエルのホロコースト記念館を回り,同伴したライス国務長官に,殺戮を阻止するために,アウシュビッツを爆撃すべきだったと語った。

ブッシュ大統領が,米軍が撮影したアウシュビッツの航空写真を見たときに(これは米国立公文書館が出典!),ライス長官を呼んで,なぜアメリカ政府は,収容所を爆撃するのに反対したのかを,話し合った。

連合軍は,ポーランドのパルチザンから,戦時中,アウシュビッツに関する詳細な報告を受けていた。しかし,連合軍は,収容所の爆撃を選択しなかったし,収容所へ続く鉄道も攻撃しなかった。その上,ナチスの死の収容所をまったく爆撃していない。これに換えて,全資源・物資を,軍事作戦に集中した。

We should have bombed it," Bush said, according to Shalev.ヤドヴェシム館長によれば,ブッシュ大統領は「われわれは,収容所を爆撃すべきだった」と発言した。
ライス国務長官は,米軍が収容所を爆撃しなかった理由を語らなかったが,収容所を爆撃すべきだといったのは,米大統領としては,初めてのことだった。

もしも,ハンガリーから収容所への鉄道を攻撃すれば,多数のユダヤ人の命を救うことになったはずだ。多数の市民は,収容所の実態を明確には知らなかったが,連合国首脳は,収容所で何が起きているかを把握していたのだから。

7.連合軍ノルマンディ上陸から終戦へ

1944年2月3日のアンネの日記に「どの新聞を見ても,上陸作戦のことで持ちきりです。」とある。オランダ人ヤンは「イギリスもソ連も,プロパガンダで,間違いなく事実を誇張しているに違いありません。ドイツと同じにね。」と述べた。しかし,隠れ家のユダヤ人は「イギリスのラジオは,いつも真実を伝えているよ。かりに1割くらいは誇張していてもだね。事態は,悲惨極まりないんだ。ヤン,君だって,ポーランドやソ連で,平和を愛する人々が,何百万人も殺されたり,ガス殺されたりしていることは,否定できないだろ。」と,イギリスのラジオを通じて伝達されたユダヤ人虐殺・ガス殺の報道を信じていた。

親衛隊ヒムラー長官は,アーリア民族をドイツ人と同一視し,金髪,青い目,長身,剛健な肉体,勤勉,品位,血統を重視した。親衛隊の入隊基準を自ら満たしていると自認していたのであろうか。部下の親衛隊員は誰一人,かれに疑念を呈することができなかった。絶対服従が,親衛隊の規律だった。校長先生のような生真面目な律儀さを持っている反面,恐れることなく品位をもってユダヤ人を絶滅することが,ドイツにとって輝かしい栄光の歴史になると演説した。ユダヤ人や敵性住民・人種を大量殺戮するという常人には不可能な過酷の任務を果たすことが,もっとも高貴な仕事であると考えた。しかし,戦争末期,ヒトラー総統の命令に反して,ユダヤ人を人質として西側と和平交渉を行った。この前提として,1944年10月末,ユダヤ人のガス室での殺戮を中止させた。ただし,食糧不足,過酷な労働,病気の蔓延,処刑によって,多数の囚人が殺害され続けた。したがって,ガス殺中止後もユダヤ人大量殺戮は続いたといえる。

1944年10月末以降,ヒムラーは,ガス室での大量殺戮の命令を,事実上中断した。戦局が悪化する中,ユダヤ人を人質として和平交渉に利用するため,もうひとつは,自己の保身のためである。戦争犯罪人を処罰することは,連合国・国連宣言の中で,公言されていた。ユダヤ人虐殺を進めて,戦後に戦犯として処罰されたくはなかった。

強制収容所では,ドイツの敗色が濃くなると,食糧配給の悪化し,飢餓,病気の蔓延,虐待などで多数の囚人たちが死んでいった。他方,ヒムラーは,ヒトラーには一切知られないように,1945年3月,スウェーデン経由で和平秘密交渉を開始した。しかし,1945年4月に秘密交渉は発覚,ヒトラーは,ベルリンの大地下壕から,ヒムラーの逮捕を命じた。ヒムラーは,逃亡,一兵士に変装した。終戦後の1945年5月23日,連合軍に見つかり,服毒自殺。

ユダヤ人問題の「最終解決」は,戦前は,ユダヤ人のドイツからの追放だったが,戦時中は,強制収容所に拘束して奴隷労働に従事させ,疲弊し病気になった労働不能者を処分するという手段で,ユダヤ人を絶滅することだった。アーリア人を人種汚染し,ユダヤ人共産主義者がソ連を,ユダヤ人金融資本家・マスメディアがアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,ドイツ人に供給する食料物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域もない。このような状況で,ヨーロッパ・ユダヤ人排除とは,ユダヤ人絶滅に至ってしまう。

ヒトラーの政治的遺書(Adolf Hitler's Final Political Testament

わたしやドイツ人が,1939年に戦争を欲したというのは真実ではない。この戦争は,意図的に,ユダヤ人やユダヤ人の利益のために働く国際的政治家によって,引き起こされた。-----数世紀たてば,町や記念物の廃墟の中から、われわれを貶めたユダヤ人とその支援者たちに対して,すなわち全ての最終責任を負っている連中に対して,憎悪が蒸し返されるであろう。

----和平提案が拒否されたのは,イギリスの政治家の指導者が戦争を欲したのであり,国際的ユダヤ人international Jewryによるプロパガンダによって影響を受けている国際ビジネス界が戦争を欲したからである。

わたしは,非常に明白に,次の点を示してきた。それは、ヨーロッパの諸国民が、国際金融財政の陰謀家によって売り渡される単なる株券のように扱われるなら、このような人種民族であるユダヤ人は,殺人犯であり、責任をとらせられるべきであるということだ。さらに,疑いもないことだが,今度こそ、数百万ヨーロッパ・アーリア人の子弟が餓死し,数百万の男が死を被り,都市で数千万の婦人と子供が焼かれ空襲で殺されるのであれば,そのことは,本当に犯罪者の連中が,より人間的な手段でよってではあっても,その罪を贖うことなしには,済まされない。

------ユダヤ人によって引き起こされ、扇動された連中を喜ばすため,見世物として,敵の手中に落ちるつもりはない。-----クラウセヴィッツの教えに忠実に則って、祖国の敵との戦争を継続すること願うのは言うまでもない。-------

以上、最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。

ベルリンにて 1945年4月29日 午前4時  ADOLF HITLER

写真(右)1945年4月,ブーヘンヴァルト強制収容所:アメリカ人記者の報道は、世界を震撼させた。これが,解放後の政治犯への厳重処罰に繋がった。 ワイマールの近郊には約35の外部収容所(支所)があった。Zentralbild Das berüchtigte hitlerfaschistische Konzentrationslager Buchenwald auf dem Ettersberg nördlich von Weimar ( mit etwa 135 Außenkommandos). Am 11.4.1945 befreite die militärische Organisation des Internationalen Lagerkomitees Buchenwald von S3 - Mördern. UBz: eine Aufnahme eines amerikanischen Reporters mit Bergen von Leichen erschossener politischer Häftlinge nach der Befreiung. Dating: April 1945 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

<ユダヤ人大量殺戮否定説を拒否する>

ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。
しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。

ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。

1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。
だが、ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。

写真(右)1939年9月,東プロイセン(現ポーランド)で集められた顎鬚のユダヤ人:ユダヤ人は登録され,ゲットーに送られ,そこから選別されて,強制収容所に移送された。労働不能なユダヤ人は,トレブリンカ,ソビブルなどドイツ占領下のポーランドに設置された絶滅収容所で殺害された。
Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), Männer mit Bart, Junge; PK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Amphlett, Eduard撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。

 ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。 

 ローマ法王が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。

 ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世のローマ法王就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世は法王就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回のウィリアムソン司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。

法王は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。

ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」Nostra Aetate:DECLARATION ON THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。

◆ホロコースト否定,ユダヤ人大量殺率否定は、\治的意図をもったプロパガンダ,⇔鮖謀事実を見据える重圧に絶えられない弱さ,思考能力・知識不足,が背景にある。

ホロコースト否定論・ユダヤ人虐殺否定論の解答
1.ソ連が解放したガス室があったアウシュウィッツ絶滅収容所の画像は少なく,米英軍の解放した「ガス室のない」ベルゲンベルゼン,ブヘンワルト,オラニエンブルク収容所の画像は多い。後者では,死因は発疹チフスなど病死,餓死,拷問死などであり,ガス大量殺戮はなかった。ドイツ占領下のポーランドの絶滅収容所だけで毒ガスによる大量殺戮が行われた。

2.アウシュビッツ収容所のガス室には,天井に煙突状のチクロンB(固体)投入口がある。ここから室内に入ると,常温で気化する。シャワー部分からガスが流れる構造にはなっていない。

3.毒ガスでも,大気に混ざれば,僅かな量で人間を殺すのは難しい。サリン、タブンのような強力な毒ガスでもである。チクロンBのような殺虫剤タイプでは,ガス室に充満させても,殺害まで数十分かかった。毒ガスが充満している部屋には,換気をして,死体処理のために中に入った。この作業は,強制収容所の囚人がゾンダーコマンドとして使役された。毒ガスの強さを非化学的に過大に見積もってはならない。

4.遺体を焼却処分する焼却炉が小さすぎることはない。葬儀ではないので,炉に複数の死体を投入,次々に連続処理した。野焼きもされた。膨大な量の骨は砕き,灰とともに,川に投げ捨てられた。この作業にも,囚人ゾンダーコマンドが使役された。遺体が敬意を払われることは一切無かった。

5.アウシュビッツ絶滅収容所の囚人は、ゾンダーコマンド以外,ガス室に近づくことはできない。しかし,囚人の多くがガス殺,焼却炉のことを知っていた。だから,健康に見えるように装って,労働不能者に選別されないように気を配っていた。

写真(右)1941年5月25日,ワルシャワゲットーの死体置き場。ゲットーのユダヤ人は,隔離され,物資不足に苦しんだ。病気になっても医薬品は不足し,満足な病院も無かった。ドイツがゲットーのユダヤ人を強制収容所に移送する前から,ゲットーではたくさんの人々が亡くなっていた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Übereinandergestapelte, abgemagerte Tote aus einem Holzgestell; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


6.ヨーロッパユダヤ人迫害は、東方ソ連領内に強制移住させる事ではない。東方ソ連は,肥沃な農業地帯,鉱物資源供給地であり,ドイツとドイツ系民族(民族ドイツ人)の生存圏である。ロシア人は農奴として存続を許されたが,ユダヤ人はアーリア人を人種汚染する下等劣等人種として,抹殺されることになった。

7.ナチスのユダヤ人虐殺命令は,ドイツ市民,ドイツ国防軍兵士から,反対される恐れがあった。ユダヤ人や連合国が虐殺を知れば,ドイツに対して和平を求めるどころか,敵愾心を燃やし,士気を高めてしまう。そこで,虐殺は,口頭で命令された。ヒトラー,ヒムラーの演説で,ユダヤ人絶滅を明確に指示していた。一つの民族,一つの国家を一人の総統が支配する指導者原理の下では,ヒトラーの下した命令が全てだった。

ヒトラー総統の政治的遺書を読めば,ユダヤ人が,ドイツ人を滅ぼそうと仕掛けてきた第二次世界大戦の当然の報復として,ユダヤ人絶滅が決定されたこと,極端な人種民族差別が,大量殺戮を引き起こしたことが明確に認識できる。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
 
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスの優生学:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー総統・ナチスの独裁者・扇動者・殺戮者:Hitler
ヒトラー暗殺ワルキューレ作戦:Valkyrie
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
反ナチス・白ばら抵抗運動:White Rose resistance
NHK BS-hi 世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画:人民裁判長ローランド・フライスラー,西部方面総司令官ルントシュテット元帥,シュタウフェンベルク大佐の副官ヘフテン中尉など多数の写真を掲載。
ナチスドイツの参考文献・資料引用

2009年2月8日の開設の当研究室支所に,ご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,出所を明記するか,リンクを張ってください。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。
連絡先: torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1  
東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
free counters


Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 5000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright (C) 2009 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.