鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
ナチス・ドイツのプロパガンダポスター 2004
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◆ナチスドイツのプロパガンダ:独裁者・扇動者・殺戮者のポスター


反ユダヤ主義のプロパガンダ・ポスター:Nazi Posters: 1933-1945;the German Propaganda Archive引用。左から:^賢いユダヤ人は,星条旗の背後にいて,アメリカ大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltを操る。1940年の映画「永遠のユダヤ人」;ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染するとして,ユダヤ人の悪行を喧伝する映画。ドイツに戦争を仕掛けたのは,ユダヤ人だ。(1943年) "One eats the other and the Jew devours them all..." The cartoon promotes the Nazi claim that the Jews were behind World War II, having orchestrated it to destroy Nazi Germany. 金満ユダヤ人は,共産主義を吐き出し,それがアンクルサム Uncle Sam(アメリカの象徴)を吐き出し,さらにそこからライオン(イギリスの象徴)を吐き出される。世界大戦は,ユダヤ人金融資本家が仕組んだ陰謀である。1941-42年の雑誌。ぁ屮罐瀬篆諭だ鐐茲硫佗佞洩髻だ鐐茲琉き伸ばし役」戦争の背後にいる悪の黒幕は,ユダヤ人だ,とユダヤ人迫害を正当化した。1943-1944年のポスター


写真(左)1945年5月4日,米第9軍に解放されたヴォッベリンWobbelin強制収容所の囚人。これから,米軍によって病院に搬送されると知り,泣いて喜んでいる。:Pvt. Ralph Forney. (Army) NARA FILE #: 111-SC-206391。写真(右)1945年5月7日,米第71歩兵師団によって解放されたオーストリアのランバッハLambach収容所のユダヤ人の子供たち。飢餓などの原因で,毎日200-300名が死亡していたという。:Sgt. Robert Holliway. (Army) NARA FILE #: 111-SC-266491 。Defense Visual Information Center 米国防総省引用。

『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。
『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日青弓社刊行,368頁,2100円)では,日露戦争・シベリア出兵の浮世絵,スペイン内戦の反共ポスター,1938年1月の南京陥落直後,松井石根大将が米アジア艦隊司令長官ヤーネル提督を訪問している写真,アンネフランクが埋められたと思われるベルゲン=ベルゼン収容所の遺体埋葬地,2000年に特攻艇に爆破された米駆逐艦コールの写真など,日本ではほとんど紹介されていない図版も収めました。

大規模なパレードなど,映像にも残されれているナチスのプロパガンダは,革新的だとイメージされている。しかし,大規模なプロパガンダは,国家として,資源,施設,資源,人材,技術が動員できる状態になって,初めて可能になった。手法は,ラジオ,新聞,演説会,パレード,党大会などアメリカの大統領選挙に相当するものだった。黒服の親衛隊の儀式も,カトリック,イエズス会などの模倣である。ナチスのプロパガンダは,決してナチス独自の方法によるのではない。米英ソの文化人やメディア関係者は,ナチスのプロパガンダに対抗する必要上,敵を過大評価し,プロパガンダの予算を獲得したかった。そこで,ナチスのプロパガンダを過大評価し,情報戦の重要性を浮き立たせようとした。(「ナチ宣伝」という神話参照)プロパガンダが効果的だった理由は,攻撃開始から2ヶ月としないうちに,強国フランスを降伏させたという,ドイツ軍の実績によるところが大きい。戦争・戦闘での勝利ほど,効果的な戦争プロパガンダはないのである。しかし,プロパガンダの裏で実行されていたのは,ユダヤ人・ロマなどの「人種汚染をする下等人種」の大量殺戮だった。

◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


1.ファシズム・ナチスの台頭

(1)共産主義の労兵評議会(レーテ)と国粋主義のフライコール

1918年,ドイツ敗戦を契機に,ドイツ社会民主党臨時政府が樹立された。しかし,1919年1月,社会主義思想家カール・リープクネヒトローザ・ルクセンブルクらが設立したスパルタクス団Spartakusbund(1918年12月ドイツ共産党)による武装蜂起が起きた。これは,共産主義政権を樹立しようと,ロシア革命のソビエト・ボルシュビキを模範した労兵評議会(革命支持の労働者と兵士の評議会:レーテ)を組織した。

ミュンヘンでは武装蜂起は成功し,ドイツ共産党が指導するレーテ共和国ができた。

ドイツ敗戦を陸軍病院で迎えた陸軍上等兵伍長勤務アドルフ・ヒトラーは,退院後,ミュンヘンの所属連隊に復職の申請を出した。1919年2月,労兵評議会(レーテ)の代議員に選出されたヒトラーは,共産主義自治政府ミュンヘン・レーテ共和国の労兵評議会の宣伝部で,啓蒙活動と指令読み上げの任にあたった。

バイエルン革命政府首相の独立社会民主党クルト・アイスナー(ユダヤ人)は,1918年11月8日、バイエルン王の退位を要求し、共和国の成立を宣言。アイスナー首相は,バイエルンの独立,自らの軍,警察,行政を求めたが,1919年,暗殺されてしまう。しかし,ミュンヘンでは共産主義者の反撃によって,レーテ独裁が開始された。

◆1919年4月,革命政府の下で,ミュンヘンの全労兵レーテが臨時会議に招集され,評議会議員の選挙が行われた。4月16日,アドルフ・ヒトラー上等兵は,大隊評議会議員に選出,共産主義政権に仕える身となった。ヒトラーが共産主義政権に加わっていた事実は,1922年3月24日『ミュンヒナー・ポスト』に掲載され,ナチ党のヒトラー党首の日和見主義を批判していた。その後のナチス政権下では,ヒトラーが共産主義政権の片棒を担いでいたことは,一切封印された。


1919年1月,ドイツ共産党が起こした武装蜂起を,ドイツ社会民主党フリードリヒ・エーベルトFriedrich Ebert(1871-1925)首相は,元軍人からなる義勇兵組織フライコール(Freicorps)によって,鎮圧した。1919年5月初め,政府軍がミュンヘンを制圧し,共産主義者のレーテ共和国は倒されたのである。こうして,フライコールは,政府に黙認された準軍事組織として維持されることになった。

1919年5月末,バイエルン第四軍団司令部の啓蒙・宣伝部長に反共・反ユダヤのカール・マイル大尉が就任し,レーテ代議員から転向したヒトラーは,政治教育を受け,自らもプロパガンダを担当した。1919年9月のヒトラーの手紙には,理性に基づく反ユダヤ主義からの帰結として,「最終目標は断固として全ユダヤ人の排除でなければならない」との見解が記されている。

1919年10月16日,ドイツ労働党(1920年2月,国家社会主義ドイツ労働者党に改称)の初の公式会合で,約100名の聴衆を前に,諸国民の敵ユダヤ人に対抗せよと激昂した演説をしたのが,アドルフ・ヒトラーである。ヒトラーは,反政府勢力の監視にスパイとして派遣されたが,そのままドイツ労働者党の宣伝要員に収まった。彼の演説は魅力的で,党に300マルクの寄付が集まったのである。1921年7月,ヒトラーは,ナチ党首に選出され,24年間,自決するまでその職にあった。

◆第一次大戦後,義勇軍のフライコールは,政府の影の軍隊あるいはドイツ参謀本部の予備軍として,維持された。敗戦で解散させられたドイツ軍将兵の就職先としてもフライコールは重要だった。地方自治政府も,在郷軍人会・退役軍人会として,義勇軍を黙認し,財政支援を行った。政府が統括する軍隊とは別に,私兵的なフライコールが暴力装置として存続し,ナチスの突撃隊,親衛隊へと受け継がれた。

(2)ミュンヘン一揆 BEER HALL PUTSCH

1923年11月8日- 9日,アドルフ・ヒトラーは,ミュンヘンで政権奪取の一揆(武力行使)を起こした。これが,ミュンヘン一揆(ビアホール・プッチ)である。

ビアホール「ビュールゲルブロイケラー」に集まったバイエルン州自治政府首脳(首相カールなど三名)を人質にとって,バイエルン自治政府首脳に協力させ,ナチ党突撃隊が,国防軍・警察を率いてベルリンに進軍、第一次世界大戦の参謀総長エーリッヒ・ルーデンドルフ将軍を首班とする新政権を樹立する計画だった。これは,1922年10月,ファシスト党ムッソリーニによるローマ進軍'March on Rome'と同じである。ビアホール一揆で,ヒトラーは「国民革命は開始された。臨時政府が樹立される。」と大見得を切った。

ルーテンドルフ将軍は,バイエルン政府首脳三名の解放要求に,独断で応じ,三名を解放してしまうという大失策を犯した。これは,政府要人を監禁するという犯罪行為の責任を,ルるデンドルフ将軍が,回避しようとしたためである。解放されたバイエルン自治政府首脳三名は,監禁・脅迫した一揆の連中を,軍・警察によって鎮圧することを決めた。(カール首相らは,1938年「長いナイフの夜」に,ナチス親衛隊によって殺害。)

1923年11月9日,ヒトラーは,国防軍・警察の信頼が厚い(と錯覚していた)ルーデンドルフ将軍を伴って,占拠中の陸軍省までナチ党突撃隊によるデモ行進した。国防軍・警察がルーデンドルフ将軍に服従すれば,形勢を一挙に逆転できるからである。

デモ隊が将軍廟前にくると,対峙していた警察隊は,デモ鎮圧のために銃撃を開始した。突撃隊は10名以上の死者を出し,逃走した。ルーテンドルフ将軍は,その場で投降し,逮捕された。駐屯軍司令部占拠部隊エルンスト・レームも,投降した。ルーデンドルフも,レームも将校待遇を受け,身の安全が保障された。ヒトラー上等兵は逃げたが,二日後,逮捕。

写真(右)1923年11月8-9日のミュンヘン一揆Beer Hall Putsch失敗後,裁判を待つルーデンドルフErich Ludendorff将軍・ナチ党ヒトラー党首:左から,Heinz Pernet, Friedrich Weber, Wilhelm Frick, Hermann Kriebel, Erich Ludendorff, Adolf Hitler, Wilhelm Brückner, Ernst Röhm, Robert Wagner.1922年10月,ファシスト党ムッソリーニのローマ進軍'March on Rome'を模倣して,ヒトラー党首は,政権奪取を図った。しかし,期待していたルーデンドルフ将軍などドイツ軍からの参加者は,積極性に欠けていた。上等兵だったヒトラーが仕掛けた一揆で,首尾よく政権の座に着くことを期待していたが,警察に反撃に即座に,抵抗することなく投降してしまった。有名な将軍は,捕まっても礼儀正しく将校待遇された。駐屯軍司令部を占拠していた突撃隊レームErnst Röhm指揮官も投降,逮捕された。突撃隊は「ならず者」「反逆者」とされる可能性もあり,上等兵だったヒトラー党首は逃走,二日後に逮捕。


ルーデンドルフ将軍は,副官とともに,堂々と警察に行進し逮捕されたとの俗説がある。実際は,有名な将軍は,銃撃が始まる中,警察に身の安全の保護を求めた。命惜しさに投降したというのは不当かもしれないが,ルーデンドルフ将軍は,ミュンヘン一揆に利用されただけだと責任逃れをした。将軍の無責任さは,ヒトラー党首が,裁判で熱烈な愛国者として,一揆の全責任を認めたのとは対照的だった。
ルーデンドルフ将軍など,栄光あるドイツ参謀本部出身者たちにとって,ミュンヘン一揆は,終わりの始まりだった。犯罪には加担していない,利用されただけだ,命令に従っただけだ,同じ遁辞を25年後にニュルンベルク裁判に被告として出廷した将軍・政治家たちから聞かされることになる。

ミュンヘン一揆失敗後,ヒトラーは裁判をプロパガンダに利用した。法廷で,ヒトラーは、脆弱なワイマール共和国を,第一次大戦で降伏し,祖国を裏切った11月の犯罪者がつくった政府として非難した。そして,ヒトラーは,ドイツ復興の障害となるベルサイユ条約の呪縛からドイツを解放することが,自らの使命であると主張,一揆の全責任を認めた。

正々堂々とベルサイユ体制と混乱・腐敗した政府を非難したヒトラーは,ドイツに身を捧げた熱烈な愛国者,ドイツへの殉教者として振る舞い,大いに人気を博した。劇場国家のはしりだった。

バイエルン州政府司長官フランツ・ギュルトナーFranz Gürtner (1881-1941)は,保守主義者で,ヒトラーの国家主義に同調していた。判決は,禁固5年,実際は9ヶ月のランツベルグ刑務所での軟禁生活だった。後の強制収容所とはまったく異なる厚遇だった。

ヒトラーに温情を示したギュルトナー博士は,1933年のナチス政権で栄転,司法大臣に任命され,新たに民族法廷を設置した。民族裁判とは,弁護・再審・公開審理,時間をかけた慎重な審議という公正な手続きによらないナチス指導下の裁判だった。

(3)『わが闘争』 Mein Kampf

ヒトラーは,後の副総統
ルドルフ・へスRudolf Heß(1894-1987)に口述筆記させ,1925年『わが闘争』を刊行した。ここに名言されている通り,ユダヤ人が共産主義と結びつき,ドイツの勢力拡大を阻止しているとヒトラーは信じていた。ユダヤ人が操る共産主義とソ連,ユダヤ金融資本・ユダヤ人メディアに踊らされている堕落した物質文明アメリカは,ナチスドイツの敵であった。

ヒトラーとナチス党にとって,ユダヤ人はドイツの敵であり,ユダヤ人排除は,ドイツのために必要な措置であった。ユダヤ人共産主義者がソ連を支配し,ユダヤ人金融資本がアメリカと大英帝国を操って,ドイツに戦争を仕掛けてくる。となれば,ドイツを発展させるためには,敵対者ユダヤ人の連合国と世界戦争を戦う準備をしなくてはならない。ドイツのユダヤ人は排除しなくてはならない。ヒトラー総統も,自己の野望達成のためには,公約を覆し豹変した。敵視していた共産主義ソ連と独ソ不可侵条約を締結した。中国国民党に派遣していた軍事顧問団を引き上げて,反英米に向かわせるために日本軍に融和的態度を示した。この現実主義を誤解した結果,ヒトラー総統が労働力として使えるユダヤ人の絶滅を命じるはずがないという誤認が生まれた。

◆ヒトラー総統は,目的達成のためには手段を選ばない。ユダヤ人に対する差別・迫害自体が,ヒトラー総統の目標だったのであり,ヨーロッパ・アーリア人を人種汚染し,敵対して勢力を拡大する非ヨーロッパ人種民族を排除あるいは絶滅するという目標は,変更されることがなかった。目標の実行時期,目標の言い回し,目標達成の手段,目標の遂行者は変化したが,人種差別の目標を変更したことはなかった。ヒトラー総統は,自らは手を血で汚すことなく,忠実な親衛隊あるいは使い勝手のいい者を煽動し,差別,迫害,排除を実行させることになる。

(4)ナチ党主ヒトラーのプロパガンダ

写真(右)1931年のバット・ハルツブルクBad Harzburgにおけるナチス突撃隊。ドイツ中部の観光地Bad Harzburgで,1931年10月、ナチスは,共闘していた右翼の国家人民党,準軍事団体「鉄兜団」と警察予備隊に相当する準軍事組織を創設。この「ハルツブルク戦線」(国民戦線)によって,財界、軍と提携を深める機会を獲得できた。ナチ党政権獲得前は,大規模な集会とはことなり,あふれかえるばかりの突撃隊・親衛隊・ヒトラーユーゲントや大群衆を動員できたわけではない。おどろおどろしい旗・紋章,血染めの旗の洗礼儀式など,似非宗教的な様式を考え出した。突撃隊の儀式をより宗教的にモチーフしたのが,親衛隊ヒムラー長官である。写真右から二人目。ナチスは政権獲得前から,共産主義・ボリシェビキを敵視した。しかし,ヒトラー自身,第一次大戦直後には,労兵評議会レーテの一員として,共産主義運動に参加していた。


国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党・ナチス)は,ヒトラー党首の雄雄しい演説,プロパガンダによって,ソ連のような共産主義を嫌悪しつつ,ワイマール政府の無能ぶり,ベルサイユ体制の打破を主張する革新政党だった。1929年以降の世界大恐慌によって,ドイツ国内の資本化・労働者・生活者の不満はたかまっており,現状を打破できる革新政党が求められていた。大恐慌時代のドイツで,ナチ党は,庶民の不満をプロパガンダで吸い上げ,急速に支持を高めていった。野党の革新政党として,何一つ経済・政治の実績はなかった。しかし,ワイマール政府の腐敗,大恐慌,ベルサイユ条約の頚城から自由になることを,ドイツの有権者は期待した。ドイツ復興の希望を,革新政党ナチ党に見出したように思った。

大不況の中、失業者や労働争議が頻発し,さらに地方自治政府に支持された退役軍人会・政党・労働組合がフライコールに類似した準軍事的組織を結成し,暴力抗争、街頭騒擾が頻発していた。左右のイデオロギー対立は激化し,暴力沙汰が,頻発したのである。

兵役不合格で,兵営の入隊経験がない小柄な一人の男が,1924年1月,『ベルリン日報』に,履歴書を添えて,求職の手紙を郵送したが,就職できなかった。そこで,『民族の自由』という週刊誌の編集係りに雇われた。直ぐに彼「パウル・J・ゲッペルス博士」は,週刊誌編集長となり「政治的日記」の連載記事を書き始めた。
1925年1月1日の「政治的日記」:「アドルフ・ヒトラー!われわれはあなたに敬意を表する。指導者にして英雄よ。----戦いに叫ぶ人よ,ドイツの信念と熱情の再生のための旗手よ。----ドイツの若者は再び指導者を持つ。」

1925年1月17日号で『民族の自由』は打ち切りとなった。1925年2月27日,刑期を終えたヒトラー出獄を待って,新たにナチ党が構成され,ゲッベルス博士も参加した。彼は,ナチ党機関紙『国家社会主義通信』編集の任に当たった。

1926年2月15日のゲッベルスの日記には,ヒトラーとナチ党幹部の演説をきいて,驚き啞然とし,ヒトラーを信頼できなくなったことが帰されている。ナチ党の演説では,イタリアとイギリスは,ドイツの宿命的な盟邦である,ボリシェビキ(ソ連型共産主義)粉砕がナチ党の課題である,ボリシェビキはユダヤ人の作り物である,と主張された。博士の学位を持つ社会主義者ゲッベルスにとって,ナチ党幹部が国際関係と社会主義思想を理解しているとはとても思えなかった。ナチ党幹部の無教養さ,無理解に失望した。

1925年4月13日には,ゲッペルス博士は,ミュンヘンに豪華にな接待され,車でビュルガーブロイに連れて行ってもらって,2時間半の演説をした。演説終了後,ヒトラーに抱擁され「僕は幸福そのものだ。列している群集の間を通って,車へ。ハイル!の叫び声。ヒトラーがホテルで一人で待っていてくれた。僕らは一緒に夕食を摂った。彼が招待してくれたのだ。そのときの彼のなんとすばらしいことか。」と日記に書いた。

ポスター(右):1933年,国家社会主義ドイツ労働社党(ナチスNSDA)プロパガンダ・ドキュメンタリー映画「信仰の勝利」Sieg des Glaubens:「信仰の勝利」(Victory of Faith)は,1933年8-9月のナチ党ニュルンベルク大会を題材とした記録映画だが,力強いナチス的精神を充満させる目的をもった視覚的プロパガンダだった。 レニ・リーフェンシュタールがナチスから依頼された第一作だった。
ナチ党は,国家予算を党経費として潤沢に使用してから,大規模なプロパガンダを展開できた。ユダヤ人の芸術を否定して,代わりの秩序・規律。力を重んじる古典的な芸術をドイツの芸術とするために,国家予算を投入した。その事例が,「(ナチス)信仰の勝利」であり,リーフェンシュタールの意図にかかわらず,この映画は,ナチスのプロパガンダとして,大金を投じられて作成され,国家的興行によって,「成功」をおさめた。
創世記 12:1-3の「あなたは生まれ故郷父の家を離れて,わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし,あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように,あなたを祝福する人をわたしは祝福し,あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて,あなたによって祝福に入る。」レニの映画には,愛を髣髴とさせるものはなく,力強い支配の意図が感じられる。
Publisher: Franz Lück, Berlin刊行。 Editor: レニ・リーフェンシュタールLeni Riefenstahl編集。 ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用(他引用不許可)。


◆アドルフ・ヒトラーも,ヨーゼフ・ゲッペルスも,ともに若いときには,右翼の国家主義,左翼の社会主義の間を揺れ動いていた根無し草だった。ヒトラーは共産主義の労兵評議会(レーテ)の代議員だったし,ゲッペルスもボリシェビキ・ユダヤ人を結びつけるヒトラーの演説に失望した文学博士のインテリ社会主義者だった。しかし,」二人のナチ党指導者に共通しているのは,国家主義,社会主義などイデオロギーの問題を「超克」し,権力掌握を第一優先した演説・プロパガンダ・行動だった。世論の支持・大衆の煽動だった。そのためには,新機軸として,党大会の演出,ラジオ・新聞・ポスターなどマスメディアの活用,突撃隊・親衛隊・ヒトラーユーゲントのような行動的な団体を組織した。
 ヒトラー総統,ゲッベルス宣伝相は,出世主義,権威主義,権力掌握を第一とする俗物であり,イデオロギーの論理ではなく,個人崇拝を基盤にした。ヒトラー支配下のナチ党は,権力掌握の野望,生存圏を確立した大ドイツ建国という目的のためには,手段を選ばなかった。

現在,暴力と陰謀が,ナチスの代名詞となっているが,当時の状況では,必ずしもそうは思われていなかった。

ナチスは,煽動,プロパガンダによって,突撃隊に選挙干渉,ユダヤ人迫害,示威行進させた。今から思うと,圧倒的に力強く,衝撃的な映像がそれを記録しているかのごとくみえる。しかし,初期のナチスのプロパガンダは,演説会,突撃隊による行進,党機関紙の発行,若干のポスターの配布程度であり,1933年の政権獲得後に,大スタジアムを建設し,自らの施設とすることができた。大観衆を動員できたのも,一般市民の中に(ナチ党だけではなく)国家的行事に参加しないわけには行かないという集団心理が働いた。パレードに声援を送り,党大会に出席しなければ,反ナチスとみなされ,政府機関や就職先企業でも不利益を被る恐れが出てきた。党レベルでは難しい大規模な飛行機,探照灯,消防・軍用車両あるいは,警察・軍隊の利用も,政権につくことで可能になった。映画・ラジオ・発行部数の多い新聞・雑誌で宣伝できたのも,国家予算を投入したからであり,ナチ党の独自資金では困難だった。ナチスのプロパガンダが,政権獲得前から,効果的だったかどうかは,非常に疑わしい。

1932年1月22日(第一党だったが政権奪取していない時)のゲッペルスの日記「総統(当時はナチ党主の公式的地位)と将来のことを話し合った。特に私の将来の役職と権限の輪郭を詳しく描いた。考えられているのは,国民教育相で,映画,ラジオ,当たらし教育施設,芸術,文化,宣伝を総括するものだ。革命的な役職で,中央から指導され,とりわけ帝国(ライヒ)の思想を最優先で代表するものだ。まったく偉大な計画で,こうしたやり方は世界中窓どこにもなかったものだ。私は,この省の木曽を入念に研究し始めた。われわれの政権の精神的基盤を作り,政府機関だけではなく,ドイツ人すべてを獲得することに役立てたい」

ナチ党政権獲得前,プロパガンダは,マスメディアの利用,資金,組織,宣伝対象の上で,限定されたものであって,大規模なプロパガンダは,ナチ党政権獲得後になって,国家資金,政府機関を通して初めて可能になった。

ヒトラーユーゲントも,大きな組織となったのは,ナチス政権下で,他の青少年団体が解散させられ,全ドイツの青少年の加盟が義務付けれて以降である。カトリックがナチ党加入を公認したのも,政権獲得以降である。ニュルンベルク大スタジアムの大式典も政権獲得以降である。飛行機・軍用車両を利用したパレードも,ヒトラー総統が軍最高司令官に就任して以降である。

1930年初頭まで,ナチ党プロパガンダは,突撃隊による行進・暴力,頻繁な演説会,党機関の発行など,決して独創的なものでも,洗練されたものでもなく,影響力も限られていた。
 ナチ党政権獲得には,当時のワイマール共和国(ドイツ)の保守政治家・議会政党人の権謀術数の弊害,大恐慌による生活悪化,ベルサイユ体制への批判,社会主義・共産主義勢力の拡大を恐れる資本家・米英など外部要因の影響も,大きいと考えられる。ただし,それらの要素を取り込むことができたのは,ナチスの運動と計略が功を奏したということである。


フライコールは,義勇軍だったが,第一次敗戦後も、ドイツ参謀本部の隠蔽工作と,敗戦後解散させられたドイツ軍将兵の就職先として,維持された。地方自治政府も,在郷軍人会・退役軍人会などの義勇軍を半ば黙認していた。ナチ党も,元将兵を取り込んだ突撃隊Sturmabteilung(SA)を組織して,労働者のデモを鎮圧し,選挙の対立候補を襲撃し,街頭を示威行進した。軍隊のように隊列を組んだ武装集団が,ドイツの街頭を行進していたのである。後の宣伝相ゲッベル博士は,「街頭は,現代の政治の縮図であり,街頭を支配したものが、大衆を征服できる。大衆を制したものが国家を征服する。」と考えたほどだった。

オスヴァルト シュペングラー Oswald Spengler(1918)『西洋の没落』は,第一次大戦末期,世界史上唯一完成しようとしている文明は,ヨーロッパ・アメリカ文明(西洋文明)だけだとした。しかし,その文明が、成熟を過ぎ,歴史的過程の終焉途上にあると主張した。ヨーロッパ・アメリカ文明は,その進んだ技術・政治形態にかかわらず、活力が衰微し、未来への発展は望めない。文明の根幹である都市は,自由ではあるが,母なる大地から完全に遮断され人工空間に成下がった。ここでの支配者は,通貨であり,金融である。土を忘れた虚弱なインテリは不妊のものであり,人口減少から衰退する。堕落した民主主義,腐敗した政治家の下で,金銭亡者が増殖し,無差別の殺戮戦争が起こり,ヨーロッパ・アメリカ文明は没落するというのである。
『西洋の没落』は,警鐘的な意味であり,文明を維持させるような救世主,新たな血と土に基づく生命力・繁殖力,強い力による規律と剛健な肉体が,ヨーロッパ・アメリカ文明の再生のために必要だという意味で,ナチスが待望されていたようにも読める。

ヒトラーによれば,ユダヤ人が金融資本・マスメディアによって操っている堕落したアメリカは,ヨーロッパとは別世界である。したがって,ヨーロッパ文明の問題は,ユダヤ人による人種汚染,アジア有色人種が旺盛な生殖力によるヨーロッパ文明の没落ということになる。これを救うのが規律ある剛健なナチ党であり,ドイツ人をひとつにまとめ,強いドイツを復興する。そのために,ヒトラー総統に従うべきである。

2.1933年ナチスの政権獲得:ヒトラー首相の誕生

(1)1932年総選挙で第一党となったナチ党
ドイツが困難に陥っているのは,ドイツを裏切ったユダヤ人・共産主義者のためであるという主張は,ドイツ人の誇りと名誉を傷つけずに,現在の困難を説明してくれる。自己責任を認めたくない政治家,ビジネスマンも,失業者も,低所得者も,ナチスの主張に納得した。ヒトラー総統の雄雄しい演説に,ドイツ人の名誉を取り戻したように思った。未来のドイツ復興に力づけられた。

ナチスの勢力は飛躍的に伸びた。ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%から,1930年9月には18.3%で107議席を獲得,国会の第二党に躍進したのである。総選挙の得票率は,1932年7月37.4%と第一党になった。

第一党となったナチ党首アドルフ・ヒトラーは,1932年,大統領選挙に出馬した。1932年の大統領選挙には,1925年以来の現職パウル・フォン・ヒンデンブルクPaul von Hindenburg元帥に、共産党首エルンスト・テールマンErnst Thaelmann、国家人民党(国家主義政党)ディスターベルクが立候補し,彼らと得票を競った。得票数は,第一回目に,第一位のヒンデンブルグ1865万票、第二位のヒトラー1339万票,第二回の決選投票では,ヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票で,ヒトラー党首は37%得票率だった。

ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%,1930年9月18.3%,1932年7月37.4%と支持を伸ばした。第一党の党首ヒトラーは,カトリックを基盤とする中央党のパーペンに首相の座を明け渡すように要求し,ナチ党のヘルマン・ゲーリングは,国会議長に選出された。
 国会では,ゲーリング議長がパーペン首相の所信表明演説を遮って,ドイツ共産党が提出した内閣不信任決議を採択,議決さた。不信任決議が可決されると,パーペン首相は,選出されたばかりの議会を解散してしまった。1932年11月に再び投票が行われた総選挙で,ナチスは議席を減らしたものの、第一党にとどまった。

1932年11月の総選挙で,ナチ党は躍進を期待していたが,ナチ党の得票率は32.2%に低下してしまった。これは,他政党との連携ができず,突撃隊による暴力的な選挙妨害や示威行動が,一般市民の全面的支持を得るに至らなかったこと,社会民主党共産党など他政党の支持も根強かったことがある。ヒトラー党首とナチ党幹部は,国民の支持率の低迷に衝撃を受けた。

写真(右)パーペンFranz von Papen副首相Vice-Chancellor ・ヒトラー首相・ゲッペルスGoebbels博士:1932年12月1日にヒンデンブルク大統領との協力に熱心だったパーペン首相は,国防相シュライヒャー将軍の策謀によって,退陣させられ,軍人内閣としてシュライヒャー将軍自らが後継首相におさまった。


ナチ党は1932年11月選挙で後退する中,パーペン首相は,権力基盤を固めるためにヒンデンブルク大統領による独裁を画策し,国防相シュライヒャーに協力を要請した。パーペン首相の大統領独裁案は,ヒンデンブルク大統領に、国防軍を出動させて議会を半停止、その間に改憲して大統領権限を強化し,独裁政権を樹立,ドイツの政局安定化を狙うものだった。ヒンデンブルク大統領は乗り気だったが,国防大臣シュライヒャーが、自らドイツ首相になる機会を手放すわけはなかった。シュライヒャー国防相は,ナチ党議員を取り込んだ連立内閣を主張し,国防軍も将軍による軍事内閣を望んでいるとして,ヒンデンブルク大統領に自らを首相にするように圧力をかけた。人気,権威はあっても,軍の実権がないヒンデンブルクは,大統領独裁をあきらめ,新首相にシュライヒャーを任命した。大統領には,部下に裏切られたような苦渋の選択だったであろう。

シュライヒャー首相は,第一党のナチ党を分裂させるために,ナチ党議員シュトラッサー(翌年のレーム事件で粛清)を懐柔,軍部独裁を計画した。これは,現役将軍による軍部独裁の計画である。しかし,ヒトラー党首は、シュトラッサーの内閣協力を拒否し,ナチ党員シュトラッサーは辞任させられてしまう。シュトラッサーは,ヒトラー党首の意に反して入閣しようとした裏切り行為により,翌年,レーム粛清(長いナイフの夜)で殺害された。

ナチ党は,得票率を落として,危機意識を高めた反面,社会主義(ドイツ社会民主党)・共産主義(ドイツ共産党)の勢力拡大,地方政府とドイツ国防軍の離反を恐れたフランツ・フォン・パーペンFranz von Papen(1879-1969),クルト・フォン・シュライヒャーKurt von Schleicher(1882~1934),ヒンデンブルク大統領などワイマール共和国保守党政治家は内部対立していた。保守的政治家だけでなく,社会民主党の政治家も,政治家実務のないナチス(ナチ党員)とヒトラー党首は,プロパガンダによって体制批判,ユダヤ人差別をするポピュリスト(人気取り)で,実務担当能力は低いと見下していたのは間違いない。 

写真(右)ヒンデンブルク大統領とともに行進するヒトラー首相:第一党のナチ党首は,パーペン元首相の働きかけで,首相に任命された。ヒンデンブルク元元帥は,ヒトラー元上等兵伍長勤務と同席している。首相経験もある熟練した保守政治家パーペン副首相は,政治実務経験のまったくないヒトラー首相を操ろうとしていた。

◆首相の座をシュライヒャー将軍に奪われたパーペンは、ナチ党ヒトラー党首に打診しつつ,ヒンデンブルク大統領にヒトラーを首相にするように働きかけた。ヒンデンブルク大統領は,大統領独裁の機会を国防大臣時代のシュライヒャーに潰されており,シュライヒャー首相・将軍による軍部独裁となり,大統領の権力が低下するのを恐れた。ヒンデンブルク大統領は,シュライヒャー首相を嫌悪していたに違いなく,パーペンの勧めで,首相の座をシュライヒャーから外し,扱いやすい(と誤解した)ヒトラーを据えることを決める。

政治家として経験を積んでいたパーペン元首相は,ヒトラーを首相に据え,自らは副首相として,ヒトラー首相を操るシナリオを考えた。しかし,操られたのはヒトラーではなく,逆に保守政治家,大統領,議会政党人だった。


◆ワイマール共和国の保守政治家たちは,自己の権力安定・拡大を優先して,権謀術数に明け暮れていた。議会の社会民主党・共産党など政党政治家も,反動・保守の大統領の権限が強く,保守政治家に対抗できなかった。このような時代閉塞の混乱した状況を打ち破るのは,革新的な行動力あるナチ党しかない----と思われた。

(2)大統領緊急命令・全権委任法によるナチ党独裁

◆1933年2月27日夜、ベルリンで国会放火事件が起こった。現行犯でオランダ人ルッベMarinus van der Lubbeが逮捕され,共産主義者とされた。
ヒトラー首相は、ドイツ国会放火という暴力革命・反乱を主導したとして,敵対する共産主義勢力を弾圧する機会を,見逃さなかった。

ワイマール憲法第48条の大統領緊急令は, 「公共の秩序・安定が危機にあり,国家が憲法の義務を履行できない場合」,大統領は軍の支援を得て,身体の自由、住居不可侵、通信の秘密、言論の自由、集会結社の 自由、私有財産の保護という規定を停止することができるというものである。

ドイツ国会放火事件の翌日,1933年2月28日内務大臣ヴィルヘルム・フリックWilhelm Frick(1877-1946)が草案を書いた「民族・国家防衛のための大統領緊急命令」に,ヒンデンブルク大統領は署名した。これによって,ワイマール憲法における人権規定は効力が停止された。つまり,民族・国家防衛のための大統領緊急命令によって,ワイマール憲法が保障していた言論・集会の自由、令状によらない逮捕の禁止など基本的人権は停止され,ワイマール憲法崩壊・警察国家の下地が準備された。

1933年1月30日成立のヒトラー政権の下,ドイツの過半(ベルリンを含む)を占めるプロシャ,すなわちプロイセンPreußen州(自治政府Freistaat)内相に,ヘルマン・ゲーリングが就任した。ゲーリングは,警察権を手中に収め,国会放火事件直後,ドイツ共産党本部から国会放火計画にかかわる書類を押収し,さらに全国規模で公共施設や政治家へのテロを企てていたと発表した。プロイセン内相ゲーリングは,治安警察・刑事警察を緊急出動させ,ドイツ共産党の支所を閉鎖し,共産党国会議員を逮捕させた。

ドイツ全国での大規模テロの陰謀に加担したとして,反ナチスの共産党や労働組合活動家ばかりでなく,潜在的なナチス敵対者も含め,数千名が逮捕された。拘束された者は,強制収容所に拘禁されるなど,人権は完全に無視された。1933年12月23日,国会放火事件の判決が言い渡され,放火および反逆罪の咎でルッペは断頭台に送られた。

1933年3月5日,総選挙が,ナチス対立候補に対する選挙妨害の中で行われた。しかし,ナチスの暴力や人権無視は,ドイツ一般市民にも嫌悪感をもたれていた。3月5日の総選挙では,ナチ党は得票率43.9%、288議席を得た。しかし,徹底的な選挙妨害にもかかわらず,過半数には届かなかったのは,投票者のバランス感覚のためだった。弾圧されていたドイツ社会民主党は125議席,ドイツ共産党は81議席を獲得した。このような干渉選挙によって過半数を獲得できないことに衝撃を受けたヒトラー首相やナチ党幹部は,もはや通常の民主的手続きによって,政権を維持できないことを悟った。彼らは,人気とり迎合主義のポピュリストだったがゆえに,世論の離反を恐れていた。

こうして,国会放火事件の中,大統領緊急命令がだされ,それに基づく犯罪調査の結果,ナチ党以外の議員は,予防拘禁されたり,議席を失ったりした。また,迫害を恐れた議員のなかには,亡命するものもあった。

1933年3月5日の総選挙で,ナチ党が288議席を獲得する中,ドイツ国会における反ナチス対抗勢力を衰微させて,ナチ党独裁を認めさせる法案が提出された。

1933年3月23日、「民族・国家の危機除去のための法律(独語Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich,英語Law to Remedy the Distress of the People and the Nation),すなわち全権委任法Ermächtigungsgesetz(Enabling Act of 1933),別名「授権法」が議会で成立した。賛成441票で,反対は社会民主党議員の94票だった。ただし,出席できない社民党議員,議席喪失の共産党員(全81議席)は投票していない。全権委任法は、ナチ党による一党独裁を法的に認めたもので,議場の議員には,圧力がかけられ,反対するのは困難だったようだ。それでも,社会民主党の一部は,ナチス独裁に反対したが,突撃隊,親衛隊によって反対派(民主派)幹部は一斉検挙された。

◆ナチ党は,暴力を用いることによって,半年も経たずに,「一見合法的な一党独裁政権」を成立させた。ナチス政権は,決して民主的手続きの上に成立したものではなく,暴力による選挙妨害,人権を無視した不当な逮捕という弾圧・迫害によって,成立した。

3.焚書・思想弾圧

1933年5月,ベルリンにおける焚書(右):ベルリンのウンターデンリンデン通り沿いにあるバーベル広場Bebel Platzでも、たいまつ行列が行われ,悪書2万冊が山積にされて燃やされた。現在も広場一角の穴のガラス戸の中に白い本棚が置かれている。焚書の歴史を記憶する記念碑である。ユダヤ人や退廃文学・芸術は,発禁処分になった。図書館に収蔵されていた発禁処分の蔵書は,燃やされた。「本を焼くものは,人をも焼くようになる」とハイネは述べたが,これはナチスのユダヤ人虐殺に当てはまった。

 1933年1月にヒトラーは首相に任命されると,思想統制を図るために,言論の自由を封じた。ヒトラー総統の唱えるドイツ民族の優越性,ユダヤ人の邪悪性に反する思想や言論は、弾圧の対象となった。

1933年5月,ユダヤ人の著作を焼く焚書が行われた。これは,図書館や学校にあるユダヤ人の著作や社会主義的文献を廃棄するもので,見せしめに,本を焼いた

フランクフルトでは,ショパン「葬送行進曲」の中,荷車で運ばれた薪の火の中に,本が投げ込まれた。ミュンヘン大学でも,政府要人,大学関係者,学生が集まって、焚書の祭典が行われた。民族の誇りを取り戻し,強いドイツを作る「国民革命」という位置づけであった。暗くなってから,市内中心部のケーニヒ広場に向けて松明行列が企画された。広場に集められた堕落作家の著作に火がかけられた。多くはユダヤ人作家だった。

アメリカでは,ユダヤ人会議が,ヒトラーの首相就任に警戒心を強めていたが,焚書を契機に,世界に向けて,ナチスの人種民族差別,思想統制を警告した。そして,ドイツ商品ボイコットを組織的にはじめ,1936年のベルリンオリンピックもボイコットするように訴えた。

言論の自由は守られなくなり,反ナチス行動,反政府的な言論・思想は弾圧された。1933年5月,反ナチスの反逆裁判のための新たな民族法廷が開設された。ミュンヘン一揆当時,バイエルン州政府司長官だったフランツ・ギュルトナーFranz Gürtner は,ナチスへの共感から,一揆首謀者ヒトラーを9ヶ月の軟禁状態においただけで釈放した。彼が,内閣に司法長官として迎え入られ,新たに民族法廷を開設した。民族法廷の審理は非公開で,上告は事実上できなかった。

裁判を公開して,「犯罪者」が思想・言論の自由を訴え,メディアが報道すれば,「犯罪者」は「英雄」になってしまうからである。

ミュンヘン一揆の後に開かれたヒトラー裁判で,ヒトラーは,裁判を使って自分の主張をドイツ全土に伝え,責任を取って,収監された。これが,ヒトラーを殉教者,英雄とする過大評価を生んだ。それを熟知しているナチ党指導者は,民族法廷で秘密裏に迅速に裁くことで,反政府的人物を,闇の中で摩擦,処分しようとした。

写真(右)NSDAP:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(国家社会主義ドイツ労働者党)のカギ十字の旗を掲げて行進するドイツ軍:国防軍総司令官のヒトラー総統は,ナチ党首であり,ドイツは一党独裁国家だったから,ナチスはドイツであり,ドイツ軍はナチス軍のようにも扱われた。しかし,ナチス独裁は,暴力・脅迫を用いた選挙干渉,授権法(全権委任法)によるところが大きく,ドイツ国民の大多数が,自由な選挙で,圧倒的な支持を与えたわけではない。政権獲得前,最高の得票率だったのは1932年7月の37%であり,ナチ党は第一党だったが、議席は196議席(全584議席)で、単独過半数には達していなかった。写真はWorld War 2 in Color 

思想言論弾圧は,反ナチスの犯罪者を拘禁する強制収容所を作らせることになった。強制収容所は,事実上,裁判無しに潜在的敵対者を拘束し,罰し,転向させる,あるいは終生拘禁するか処分する場所である。1933年5-6月,ナチス以外の政党は解散に追い込まれ,1933年7月14日(アメリカ独立記念日),ドイツにおける唯一の政党は,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)だけとなった。この時点で,強制収容所に保護拘禁された囚人は,2万6789名に達していたという。
ドイツは一党独裁となり,党は総統が指導したから,ヒトラー総統による独裁国家が誕生したのである。

宣伝相(国民啓蒙宣伝省大臣)ヨーゼフ・ゲッペルス博士は,反ナチスの新聞,ユダヤ人が編集者となっている新聞を弾圧し,発行停止・廃刊に追い込んだ。国民受信機の名の下に安価なラジオを売り出し,国営放送を聞かせた。外国放送の受信を禁止した。

4.ユダヤ人迫害

1933年4月,ドイツ各地でユダヤ人商店やユダヤ人企業の商品の排斥,ボイコットが始まった。突撃隊がユダヤ人商店の前に立ち,ユダヤ人の商品を買うことを威圧した。ポスターや看板が掲げられ,ナチスによる組織的なボイコットが行われたのである。警察には,ボイコットを妨害してはならない旨,通達が出された。

ドイツの反ユダヤの挿絵(右):金満家の好色なユダヤ人の男が,可憐なドイツ娘を誘惑する。後ろでは,ドイツ人の子供たちが不安そうに見つめている。ユダヤ人を公職で傲慢な人種民族として認識させようとするドイツのアンチ・セミティズムAnti-Semitismブラックプロパガンダ。しかし,ユダヤ人をメガネで出っ歯,目の細い小さい男に変えると,反日プロパガンダとなる。

ファシズムの軍備拡張、領土拡張が進むにつれて、世界秩序の再編成を唱えるようになり、ファシズムは、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。ヒトラー総統は、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを著作1925年の『わが闘争』で公言していた。そして,ドイツ民族を弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者であり,ペストのようなものであるとのアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,ユダヤ人への憎悪を公言していた。アジア人も野蛮人とされ,ロシア人にも文明が及んでいないとした。
このような人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ高貴な優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきであると訴えた。

当時,日本も中国大陸を勢力圏とする東亜新秩序を唱えた。日独は共に米英仏との戦争は望まないとしたが、勢力均衡を破綻させる軍事力,勢力圏獲得という覇権主義は、列国の既得権益を侵すものであり,脅威だった。ヒトラー総統は,ロシア人はアジア人と青味で,非文明人と公言していた。ヒトラー著『わが闘争』日本語版では,アジアの野蛮性に関する偏見の記述は削除された。アジアはイギリス人が支配すべきであり,日本人の東南アジア支配を嫌悪していた。アジアの日本人が,ヒトラー総統に心酔して日独伊三国軍事同盟に加わったのは皮肉である。

識者の中には,ミュンヘン一揆の後,裁判で頭角を現した犯罪者ヒトラーをまね,ホロコースト否定論を裁判を使い喧伝するものもある。インド人,中国人のようなアジア人が,真のヨーロッパ人を人種汚染すると移民排除を唱え,さらにソ連,イラン,日本人を対ユダヤ人・イスラエル戦,対米ユダヤ戦,モンゴロイド黄色人種内紛に向けて煽動している。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,アンネ・フランク何人かという国籍ですら,マザー・テレサと同じように,厳格に規定し合意することはできない。
人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,身長,肌の色,目の色,鼻の形,髪の毛の質・色,肢体のバランス,足の形まで,個人差は著しく大きい。

 アーリア人の特徴は,アドルフ・ヒトラー総統のように金髪で,ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相のように長身で,親衛隊ハインリヒ・ヒムラー長官のように青く裸眼視力1.0以上の目をもち,空軍大臣ヘルマン・ゲーリング国家元帥のように質素で勤勉で,武装親衛隊ヨーゼフ[ゼップ]・ディートリッヒ親衛隊大将のように教養があり,突撃隊指揮官エルンスト・レームのように国防軍への忠誠心に溢れ,官房長官マルティン・ボルマンのように公明正大で権謀術数を用いない。この冗談から,優秀民族アーリア人なる定義が似非科学に基づいていること,ナチ党指導者たちが「純粋なアーリア人」でないことは明白である。ナチスの人種民俗学では,インド・ヨーロッパ語族のインド人は,肌の色から非アーリア人とされた。セルビア人は,ロシア系なので排除され,モスレム人は,イスラム教でも,武装親衛隊に入隊できた。その一方で,ドイツ国籍を持ち,第一次大戦に参加した退役将校でも,アンネの父オットーフランクのように,迫害対象になった。天才とされたアインシュタイン,フロイトも,ドイツ人ではなく,ユダヤ人とされ,迫害された。

肌の色,鼻の形,顔面の角度,目の色・形,体臭,さらにDNAによって,人種を区分しても,境界は恣意的である。言語や宗教によって,民族を区分しても,人種概念が入り込み,やはりその区分は恣意的にならざるをえない。つまり,人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われているのであり,似非科学な偏見,錯覚,プロパガンダに基づいている。

◆ユダヤ人は,宗教の問題だと単純に言うことはできない。キリスト教徒に改宗しても,ユダヤ人とされ迫害対象となったからである。宗教差別と人種民族差別の境界は,曖昧であり,恣意的ですらある。元来,厳格に区分することが不可能な人種・民族を為政者は都合よく定義し,特定の人種民族を差別,迫害した。


1934年9月,ニュルンベルク党大会でヒトラー総統を祝福するドイツの宗教家。カトリックのシャレナー司教(左)とプロテスタントのミュラー牧師(右):Nuremberg Rally for Unity and Strength: Hitler Greets Protestant Reichs Bishop Ludwig Müller (right) and Catholic Abbott Schachleitner at the Tribune of Honor. 当初,ドイツのカトリックはナチ党への加盟を認めなかった。ドイツ中央党はカトリックを堅持し,党首フランツ・フォン・パーペンは首相にもなったほど勢力があったのである。しかし,1933年にナチス政権下で、パーペンが副首相に就任すると、ローマ教皇ピウス11世は,カトリック教徒にナチ党への加盟を認めた。見返りとして,ナチスは,1933年7月,ローマ教皇との政教条約を締結し,カトリック教徒の宗教的権利を庇護することを約束した。ナチスが,共産主義に反対していたこと,イタリアのファシスト党が宗教協約を締結して,カトリックと良好な関係を築いたことが,和解の理由である。また,政権に協力的態度をとることで,カトリック教徒をナチスの迫害から庇護することも重要な課題だった。写真は,German Historical Institute引用。

ユダヤ人差別には,看板をぶら下げて市内を引き回す辱めやユダヤ人商店の打ち壊しもあるが,法律。規則の上でも,ユダヤ人の人権が制限され,迫害が行われた。反ユダヤ法としては,1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の結婚制限)制定,11月,ユダヤ人選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。


写真(上)ナチス・ドイツのユダヤ人迫害
:写真左は,1933年ミュンヘンのユダヤ人への辱め。首から「警察には一切逆らいません」看板をぶら下げて,市内を引き回された。非ユダヤ人の反政府行動も当然弾圧するという威嚇だった。写真中央は,1938年オルデンブルクOldenburgにおいて逮捕されたユダヤ人が市内を連行されているところ。ユダヤ人への迫害は,ドイツ一般市民の目の前で行われたが,ナチスへの抗議は,ほとんどなかった。ユダヤ人追放とは言っても,難民としてユダヤ人を庇護する国は少なかった。ただし,ユダヤ人でも子供たちの難民は,イギリスなどが,若干受け入れた。写真右は,イギリスに庇護されたドイツ・ユダヤ人の子供たち。The Wiener Library Institute of Contemporary History引用。

ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止した。ユダヤ人が定義されたことで,ユダヤ人を差別・迫害しやすくなった。

1936年のベルリンオリンピックは,偉大なドイツの祭典として,聖火リレー,大スタジアムでの壮麗な開会式など優れた演出が取り入れられた。アメリカオリンピック委員会会長エイブリー・ブランデージAvery Brundage:戦後もオリンピッック組織の大指導者)は,ドイツを訪問して「ドイツで反ユダヤ主義は見られない」と声明を出した。オリンピック期間前後は,アンチセミニズムを訴えるポスターや宣伝は行われず,公園など公共施設へのユダヤ人立ち入り禁止の看板もはずされていた。

アメリカでは,ユダヤ人迫害を行うドイツでのベルリンオリンピックをボイコットすべきであるとの意見も出された。しかし,アメリカのオリンピック委員たちは,ドイツの反ユダヤ主義は,口先だけのプロパガンダだとみなした。アメリカにも黒人差別,ユダヤ人への偏見,アジア人の移民排除という人種民族差別があった。人種民族の平等という理念をもって,オリンピックをボイコットすれば,アメリカ国内の人種民族差別にも批判が向けられてしまう。オリンピックボイコットは,アメリカの国内事情から,実行できなかった。

ナチス指導者にとって,米英仏など列国の人権問題での介入は,貿易,投資の上でも,軍事上も最大の脅威である。そこで,ドイツのアンチセミニズムは,あくまでプロパガンダの問題であって,実際の人権差別・迫害とは異なるとの印象を,列国に持たせようとした。ユダヤ人迫害が実際に行われているとは,列国には知られたくなかった。この秘匿性は,ユダヤ人虐殺ホロコーストも同じである。ユダヤ人絶滅指令は,口頭で行われ,文書記録では,排除・最終解決といった隠語が使われた。実は,ホロコーストの8年前,ユダヤ人迫害ですら,ナチスは秘匿しようと深謀遠慮した。米英列国の合理的な現実主義者(政治家,ビジネスマン,知識人)たちは,ユダヤ人迫害を過激な人気取りのプロパガンダであって,本当に実行するはずがないと,思い込んでいた。


写真(左)党大会におけるナチ党幹部:左から,ヒトラーHitler総統,ゲーリングGoering空軍大臣,ゲッペルスGoebbels宣伝大臣,ルドルフ・ヘスHess副総統。ゲッペルスの主導するナチスのプロパガンダは,イエズス会以来のキリスト教の伝道,ソビエト社会主義のプロパガンダ,アメリカの大統領選挙(予備選挙)とラジオ放送・自動車・航空機の活用,名作映画の映像,古典的絵画などを応用した臨機応変なものだった。メディアや多数の党員・ヒトラーユーゲントを動員した行進・大会・式典も,1933年の政権奪取後に,大規模に展開されている。国家として,資源,施設,資源,人材,技術が動員できる状態になって,効果的になったともいえる。米英ソの文化人やメディア関係者は,ナチスのプロパガンダに対抗する必要上,敵を過大評価し,プロパガンダの予算を獲得したかった。そこで,ナチスのプロパガンダを過大評価し,情報戦の重要性を浮き立たせようとしたのではないか。(「ナチ宣伝」という神話参照)
写真(右)ゲッペルスPaul Joseph Goebbels博士一家:ゲッペルスは,離婚暦のあるマグダMagda(1901年11月1日生まれ)と1931年結婚,6人の子供に恵まれた。長女ヘルガHelga (1932年9月1日),次女ヒルデHilde (1934年4月13日),長男ヘルムートHelmut(1935年10月2日),三女ヘッダHedda (1937年2月19日),四女ホルデHolde(1938年5月1日),五女ハイデHeide (1940年10月20日)。一家は,1945年5月1日,ヒトラー自決直後,総統大本営地下壕で服毒自殺。後方の空軍将兵はマグダ先夫クヴァントの間に生まれた長男ハラルトHarald Quandt(1921年11月1日生まれ)。彼のみ生き残り,富豪となる。

 オリンピックが終わると,ユダヤ人の基本的人権を制限する法律・規則は次々出され,1938年4月,財産の登録義務を課し、登録証を徴収するようになった。強制収容所も増設された。1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が設置された。1938年6月15日,ついにユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。

反ユダヤ主義は,ナチス政権成立によって,人種民族差別の偏見という意識の問題から,ユダヤ人に対する基本的人権の侵害,迫害へと移っていった。これは,ナチス党が,突撃隊・親衛隊,さらに警察も支配し,権力と暴力を行使したからである。しかし,ナチス党の反ユダヤのプロパガンダは,人々の間にアンチ・セミティズムAnti-Semitismに訴え,それを増幅した側面にも注意したい。

ユダヤ人の人権を制限する迫害が始まった時,それに反対する人権・民主主義確保の動きは,大きくなることができなかった。ユダヤ人が迫害され,追放されることで,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の中には,ユダヤ人の人権制限を許容した人たちもいた。

5.ヒトラー総統の「偉業」(?)

  
ヒトラーユーゲントのポスター(右)Chris Crawford引用。ヒトラーユゲント(Hitler-Jugend)Der Zweite Weltkrieg 引用。1932年1月,街頭での社会主義者との闘争に巻き込まれて死亡した少年ノルクスは,ナチ党青少年の英雄とされ,創設にもなった。政権獲得後は,映画化された。ヒトラー総統は,「私は,若者から始める。われわれ大人は疲れ果てている。----ドイツの大人は,屈辱的な過去(第一次大戦の敗戦)の重荷を背負わされている。---しかし,青少年たちは,実にすばらしい。この世に,これほどのものたちはいない。若者や少年を見よ。なんという逸材だろう。彼らがいれば,新しい世界を作ることができる。ユダヤ人は,下等人種とされた反面,ドイツ人青少年は高く評価された。ヒトラー党首が子供好きというのは,プロパガンダであり,側近相手の卓上談話で子供の話が出たことはほとんどない。ドイツ青少年は,あくまでひとつのドイツを構成する要素であり,一人の総統に服従すべき対象だった。ヒトラー総統と子供といっしょの写真が多いことをもって,ヒトラーが子供好きの好々爺だったというのは,単純すぎる。彼は,ずば抜けた英雄からは無能の子供しか生まれない,権力者の子供は甘やかされだめになる,とシュペールやエヴァ嬢など側近に忌憚なく語っていた。

1934年8月2日,ヒンデンブルク大統領が死去すると,ヒトラー首相は、ドイツ大統領も兼ねる総統(Führer)の職に就いた。党の指導者「総統(フューラー)」は、新たな独裁者の称号となった。ヒトラー総統は、ドイツ国防軍の司令官を召集し、兵士をすべて総統個人に対して忠誠を誓わせることとした。
 つまり,総統は,陸海空三軍の総司令官を兼ねることになった。国防相ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)は,社会主義勢力に対抗し,強いドイツ軍を再興するために,ナチスを利用しようと考えた。全軍に対して,ヒトラーに忠誠の宣誓させることを承諾した。彼が,反ヒトラー派の人物となったのは,不名誉なブロンベルク国防相スキャンダル罷免の後である。

ヒトラー総統の「偉業」の第一は,既存の政党,労働組合,企業団体,青少年団体,キリスト教団体を,ナチスの思想に即して抑圧,解散,再編成し,指導者原理に則った規律を持ち新秩序「ナチ化」し,強いドイツを再興したことである。

<復興したドイツ帝国>

ひとつの国民,ひとつの帝国,一人の総統のための,ニュルンベルクにおけるナチス党大会。復興したドイツでゲルマン風の祭典が模様された。

ポスター(左)1938年ニュルンベルク大会のドイツ処女団Bund Deutscher Mädelのポスター:「信仰と美」など青年男女のヒトラーユーゲントが作られたが,1936年にドイツ人の10-18歳の女子全員に加盟を義務付けた。ハーケンクロイツ(カギ十字)の紋章をそのまま,ドイツ国旗としたナチスドイツは,軍隊規律に基づく秩序を確立し,大ドイツ帝国建国を理想とした。ニュルンベルクで,毎年党大会を開催,ショースペクタクルを見せ付けた。しかし,このような女子の強制大動員は,ナチ党の政権獲得後であって,ナチスが当初より女子を運動に参加させようとしていたわけではない。ヒトラーはフェミニストであり,女子に配慮した政策を取ったとする見解も,女子を利用するだけであり,女子の自立はまったく考慮されなかった。女子の役割が変化してきたのは,大戦勃発により,労働力増強,資源節約が重要な課題になったあとである。ナチスは女子の戦争動員は,米英ソに比べて大幅に遅れていた。男らしさを強調する中,多数の女子を着飾った花を添えるように利用しただけだった。これは,フェミニストの立場ではない。

ヒトラー総統は,「私は,若者から始める。われわれ大人は疲れ果てている。----ドイツの大人は,屈辱的な過去(第一次大戦の敗戦)の重荷を背負わされている。---しかし,青少年たちは,実にすばらしい。この世に,これほどのものたちはいない。若者や少年を見よ。なんという逸材だろう。彼らがいれば,新しい世界を作ることができる。ユダヤ人は,下等人種とされた反面,ドイツ人青少年は高く評価された。ヒトラー党首が子供好きというのは,プロパガンダであり,側近相手の卓上談話で子供の話が出たことはほとんどない。ドイツ青少年は,あくまでひとつのドイツを構成する要素であり,一人の総統に服従すべき対象だった。


ヒトラーユーゲントのポスター(右)Chris Crawford引用。ヒトラーユゲント(Hitler-Jugend)Der Zweite Weltkrieg 引用。青少年は,ヒトラーユーゲントで,鍛えることになった。1932年1月,街頭での社会主義者との闘争に巻き込まれて死亡した少年ノルクスは,ナチ党青少年の英雄とされ,小説にもなった。政権獲得後は,映画化された。ヒトラー総統と子供といっしょの写真が多いことをもって,ヒトラーが子供好きの好々爺だったというのは,単純すぎる。彼は,英雄からは無能の子供しか生まれない,権力者の子供は甘やかされだめになる,とシュペールやエヴァ嬢など側近に忌憚なく語っていた。女性を男性の引き立て役、補助役として位置づけたのは、女性の能力、特に政治力やリーダーシップを認めていなかったからである。

ヒトラー総統は,ヒトラーユーゲントによる青年少年団体の統合と青少年への勤労奉仕,軍事訓練,人種民族教育の復興を目指した。子供は国の宝であるが,あくまで一つのドイツ,一つのドイツ人,一人の総統に尽くすべき存在であり,個人の人格形成,個人的な夢の実現など個人主義はエゴイズムの思い上がりとして排除され,集団としての規律・統一が求められた。ヒトラーユーゲントでは,規律と服従が優先された。

ヒトラー総統の「偉業」は,第一に,全国に規律を行き渡らせたことである。労働者のストライキやデモは鎮圧され,労使協調が図られた。1933年5月に,労働組合の幹部を逮捕,組合本部を占拠して,労働組合を解散に追い込んだ。そして、ロベルト・ライ(Robert Ley)を指導者とする御用組合「ドイツ労働戦線」(Deutsche Arbeitsfront:DAF)に統合し、独自の労働運動、労働者の個性を排して、全体主義の下に置き操作しようとした。

ヒトラーユーゲントHitler Jugendは1922年設立。1932年の団員数は5万5000名に過ぎなかった。1933年にナチス政権が成立すると,団員数は1933年末に56万8000名に増加する。その後,キリスト教団体,社会民主党・共産党主導のドイツ少年少女団体は,圧迫され,解散に追い込まれる。


アーリア人のヒトラーユーゲントは美しい。規律正しく勤労奉仕に参加する。ヒトラーユーゲントの少年は明日のドイツ軍将校だ。

1936年,解散させた団体メンバーを取り込み,ヒトラーユーゲントHitlerjugendの団員数は543万7000名に急増した。ヒトラーユーゲントは,1936年ヒトラーユーゲント法The Hitler Youth Lawによって,全ドイツ青年が加盟を義務付けた。ローマ教皇Benedictus XVIになるドイツ人Joseph Alois Ratzingerも1941年,14歳で加盟,1943年,16歳でミュンヘンのBMW工場を守備する高射砲部隊に配属された。

ヒトラーユーゲントHitlerjugend,は,ハイキング,サイクリング,行軍演習などの娯楽的活動を通じて,規律と団体行動を身につた。そして,ナチス思想教育を施し,街頭宣伝活動に従事させた。農村での勤労奉仕,軍事訓練(小銃射撃,通信訓練,バイク運転,グライダー訓練,看護訓練など)も行った。


ドイツの母。アーリア人を生み育てるのが女子の役割。勇敢なドイツ。オーストリアもアーリア人として連帯する(1941年作)。This is part of a painting by Rudolf Hermann Eisenmemger titled "Austria Comes Home." It depicts an Austria freed from chains marching alongside the swastika flag. The event protrayed is the Anschluß with Austria in 1938.

ナチスは,煽動,プロパガンダを使い,突撃隊に選挙干渉,ユダヤ人迫害,示威行進させた。初期のナチスのプロパガンダは,演説会,突撃隊による行進,党機関紙の発行,若干のポスターの配布程度に過ぎない。1933年の政権獲得後に,大スタジアムを建設し,大観衆を動員し,飛行機,探照灯,軍も投入し,それを映画・ラジオ・大量発行した新聞・雑誌で宣伝したものとは異なっていた。

ナチス党の団結を示すポスター(左):ハーケンクロイツ(カギ十字)をもつ突撃隊に,工場労働者も事務員も団結する。敵と戦うためである。突撃隊は,暴力やアジによって,ナチスに対抗する候補者の選挙妨害をしたり,ユダヤ人への暴行を行ったりした。しかし,突撃隊指導者エルンスト・レームは,国民革命,ドイツ国防軍に取って代わる新軍・国民軍の創設を夢見ていたため,ヒトラーの命を受けた親衛隊SSに殺害された。この1934年レーム粛清事件以降,ナチスでは,突撃隊に,親衛隊SSが取って代わった。親衛隊は,ヒトラー総統の警護となどヒトラーに直属するエリートになった。兵役不合格だったゲッペルス博士は,体力でする破壊行為は苦手だったので,突撃隊には加わっていない。

◆ナチスのプロパガンダが,当初から効果的だったかどうかは,疑わしい。突撃隊を活用した選挙妨害・労働者の争議やデモの鎮圧・ユダヤ人迫害は,ナチ党の「プロパガンダ」にとどまらない「暴力」だった。ヒトラーユーゲントも,立法化され,加盟が義務付けられてから,全国的な大組織になった。

ヒトラー総統の「偉業」の第二は,大規模な公共事業である。高速道路アウトバーンAutobahnは,1938年までに2000キロも建設された。

ナチ党首アドルフ・ヒトラーは,元来自動車好きであり,早くから,馬・鉄道ではなく,自動車が輸送の中核をなすべきだと考えた。そこで,アウトバーンを計画し,その建設総監にフリッツ・トートFritz Todt 博士(1981-1942)を任命した。トート博士は,組織作りにも優れ,企業,資材,勤労奉仕,労働力,技術を的確に組み合わせて,道路や橋梁の建設に邁進した。公共事業の拡大によって,労働者の雇用機会を拡充した側面もあるが,実は,アウトバーン建設労働には,ヒトラーユーゲントをはじめ,無償労働の勤労奉仕(Reichsarbeitsdienst) が義務付けられていた。ドイツ復興のためには,優秀なアーリア人は率先して,奉仕すべきであると,祖国愛(愛国心)と総統への忠誠心が試された。無償の勤労奉仕が敵性人種民族に向けられれば,それは奴隷労働となる。


アウトバーン(高速道路)。そこを疾走するフォルクスワーゲン。ともにヒトラー総統の成果だ。建設に従事するドイツの若者。ドイツ復興はナチスの成果だ。

写真(右)建設総監フリッツ・トートFritz Todt博士が,ヒトラーにアウトバーンの橋梁の模型を説明する。:1922年にナチ党に入党したトート博士は,政権獲得前からの古参党員の建築家として,(日和見主義者でないとして)尊敬されていた。1933年のナチ党政権の下で,建設総監に就任。1940年に軍需大臣,兵器生産に加えて,大西洋に面したフランス港湾に,ドイツ潜水艦Uボート用のコンクリート製の巨大掩体壕(ブンカー)の建設も行った。1942年2月、航空機事故死。後任の軍需大臣は,建築家のアルバート・シュペール。写真は,Wiener Library Institute of Contemporary History引用。

このような高速道路の整備は,軍隊の機動力を高めることにも配慮されていた。ドイツ国防軍は,トラックからオートバイまで,機械化された歩兵を増強した。装甲師団の主力となる戦車は,道路走行すると,道路を傷めてしまうために,鉄道輸送が主流だった。しかし,歩兵,軽砲兵,輸送部隊は,道路を利用した自動車輸送を重視した。

写真(左)ニュルンベルク党大会のヒトラー総統(党首の意味で):1936年にドイツ人の10-18歳の女子全員に加盟を義務付けた。ハーケンクロイツ(カギ十字)の紋章をそのまま,ドイツ国旗としたナチスドイツは,軍隊規律に基づく秩序を確立し,大ドイツ帝国建国を理想とした。ニュルンベルクで,毎年党大会を開催。しかし,大動員は,ナチ党の政権獲得後。ヒトラー総統はフェミニストであり,女子に配慮した政策を取ったとする見解は誤解である。ナチ党は、女子を利用したが、女子の自立にはまったく考慮しなかった。女子の役割が変化してきたのは,大戦勃発により,労働力増強,資源節約が重要な課題になったあとである。ナチスは女子の戦争動員は,米英ソに比べて大幅に遅れていた。男らしさを強調する中,多数の女子を着飾った花を添えるように利用しただけだった。

 巨大で威圧的なナチス様式とも言える官庁街をベルリンのヴィルヘルムシュトラーセ(大通り)周辺に建築させた。ニュルンベルクでは,毎年ナチス党大会を開催し,ここに大規模なスタジアムを作らせた。当時45歳だったヒトラー総統は,スタジアムの設計を,アルベルト・シュペーア(28歳)に依頼した。また,芸術・文化も一新しようとして,思想統制とともに,プロパガンダを展開した。

女流監督レニ・リーフェンシュタール(32歳)に1934年の第6回ニュルンベルク党大会の映画を撮影させた。これが,1935年「意志の勝利」である。

写真(右)1938年アンシュルスAnschluß(オーストリア併合)を宣言したドイツ国会のアドルフ・ヒトラー総統:"Hitler accepts the ovation of the Reichstag after announcing the `peaceful' acquisition of Austria. It set the stage to annex the Czechoslovakian Sudetenland, largely inhabited by a German- speaking population." Berlin, March 1938. 1937年11月、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートに対して,ヒトラー総統は,領土拡張のための戦争計画を打ち明けた。これが,ホスバッハ会議である。ブロンベルクとフリッチュは,英仏との戦争を誘発するような領土拡張に反対した。そこで,二人はスキャンダル技研をフレームアップされ,失脚,更迭されてしまう。1938年2月、ヒトラー総統はオーストリアのシュシュニク首相とベルヒテス・ガーデンで会談し,オーストリア・ナチ党首ザイス・インクワルトを内相に任命するよう強要した。シュシュニク首相は,ドイツ合併を国民投票にかけようとしたが,ドイツは武力攻撃すると脅迫し,1938年3月,インクワルトを首相とし,ドイツ軍の進駐を要請した。ヒトラー総統は,3月10日、ドイツ軍のオーストリア進駐を命じた。3月12日,アンシュルスが宣言された。NARA( National Archives and Records Administration): 208-N-39843.引用。

ヒトラー総統の「偉業」の第三は,偉大なドイツ「グロス・ドイッチュラント」の復興である。ドイツ人至上主義を掲げ,ドイツの復興を目指すヒトラー総統は,ドイツ系のフォルクス・ドイッチェ(民族ドイツ人)の居住する地域を,ドイツとみなした。すなわち,オーストリア,チェコのズテーテン,ポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域である。これらの地域はドイツ人の住む地域であり,ドイツに併合されるべきだと領土要求を行った。

1938年3月13日のオーストリア併合,すなわちAnschluss アンシュルス(union)は,それまで反対していたイタリア,ムッソリーニの理解を得て,武力進駐を実施し,大成功した。周辺国のチェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー。ルーマニア、ユーゴスラビアはもちろん、ソ連、フランス、イギリス、アメリカといった大国も苦情を申し立てなかった。

1938年3月13日,オーストリア併合とヒトラー総統を讃えるポスター(右)「1938年3月13日,ひとつの民族,ひとつの国家,一人の総統」Dave Tylcoat引用。ウィーンまでドイツに組み込んだ。オーストリアのブラウナウで生まれ,リンツに育ったアドルフ・ヒトラーにとって,オーストリア併合(Anschluss:union アンシュルス)は悲願だった。アンシュルス後も,チェコ,ポーランドへ領土要求がなされる。

1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニク(Kurt von Schuschnigg)墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチスのオーストリア人ザイス=インクワルト (Arthur Seyss-Inquart)を内務大臣に任命させた。シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせるつもりだったが,選挙権を巡る国内内紛がおきた。ヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐した。

クルト・シュシュニック(Kurt Schuschnigg)首相は亡命し、代わりに首相となった内相ザイス=インクワルト(Arthur Seyss-Inquart)は、翌3月13日,ドイツ・オーストリア再統合法を出した。皮肉なことに,オーストリアを亡命することになるシュシュニク(Kurt von Schuschnigg)は,TimeMar. 21, 1938のカバーを飾っている。

◆ヒトラー総統,ナチ党のDas Dritte Reich(ライヒ),「第三帝国」と訳すのは適切ではないとの見解もある。由緒正しき皇帝・皇族が世襲するのが帝国であれば,党首が大統領・軍総司令を兼ねても「独裁国家」に過ぎず,帝国ではないとの意見である。しかし,歴史的使命感を妄信するヒトラー総統は,共和国ではなく,神聖ローマ帝国,ハプスブルク王朝を引き継ぐ正統な「第三の帝国」Das Dritte Reichにこだわった。

1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」であり,そのために140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章である皇帝の王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣をニュルンベルクに運んだ。
これは,「四種のハプスブルク皇帝標章(四種の神器)」は,1848年,二月革命の最中,フランクフルト国民議会で廃止されたものである。神聖ローマ帝国を引き継ぐ皇帝の象徴は,剣、宝珠、笏、王冠であり,それをつけた「双頭の鷲」が,ハプスブルク帝国の国章だった。ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地のニュルンベルクに永遠に留まると誓約した。

オーストリアを併合したヒトラー総統の国会演説,ニュルンベルク党大会の演説は,ナチスの下での大ドイツ帝国再興を成就したとするプロパガンダだった。これが,「今後千年間、ドイツは二度と革命を経験することはない」との大演説で,ドイツ第三帝国Das Dritte Reich は千年続くと予言した(実際は約10年)。



ナチスのニュルンベルク党大会
:ポスター(左)1933年ニュルンベルクでヒトラー総統のゲルマン民族復興を記念し,偉大な第三帝国Das Dritte Reichを讃える民族の祭典が開かれた。絵画(右)1938年ニュルンベルク党大会。祭壇のような基壇で大演説をし,カリスマを演じる「祭祀長」ヒトラー総統。

ニュルンベルク党大会の闇夜の集会では,シュペーアの演出によって,サーチライトの光の波がはるか上空まで何十本もドイツの天空を照らし出した。ヒトラー総統は,ドイツの栄光を回復するまで軍服を脱がず,総統の地位にとどまると公言したが,実際,1945年に自決するまでその職にあった。

1938年3月,ドイツ総統ヒトラーのウィーン入城パレードの絵葉書(右):オーストリア合併まで,ヒトラーによるドイツ民族の祖国失地回復は広範な支持を受けていたようだ。しかし,パレードは,観客を動員したプロパガンダである。

1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
「オーストリアの独立という戯言は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルク(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」  

チェコスロバキアは,多民族国家で,民族ドイツ人300万名が居住していた。ヒトラーは,民族ドイツ人の多いズデーテンラントSudetenlandは,ドイツ領に編入されるべきことを主張した。1938年9月のミュンヘン会談では、英仏伊三国の同意を取り付け,列国は,チェコスロバキアの頭越しに,ヒトラーの領土要求が認められた。英仏は,戦争の危険を冒してまで,チェコスロバキアのズテーテンランドを保障するつもりはなかったのである。

1938年10月,チェコスロバキアのズデーテン地方は,ドイツに割譲され,ヒトラー総統の権威はいっそう高まった。こうして,1938年10月1日 ドイツがズデーテンラントをドイツに併合した。しかし,残された地域では,1939年3月15日,スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に,組み入れられた。チェコスロバキアは,ナチスドイツによって,解体されてしまったのである。

ヒトラー総統の第四の「偉業」は,ドイツからユダヤ人の害悪を排除したことである。ユダヤ人は優秀なアーリア人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくるとして,ドイツからユダヤ人の影響力を排除する方針を打ち出したのである。

写真(右)1938年アンシュルス後のウィーン市街で道路清掃させられるユダヤ人:ナチの支配下に入ると,直ぐにユダヤ人への迫害が開始された。当初は,ユダヤ人を捕まえて,道路掃除を強要したり,中傷文を書いた看板を首からぶら下げさせ市外を引き回したりする辱めが行われた。オールとリアでもアンチセミニズムが残っていたから,ユダヤ人に対する迫害に表立った抵抗はなかった。これは,後年のオランダ,ベルギー,フランスとは異なる。戦前から大戦初期のナチスは,ポピュリストとして人気取りをしていたから,世論に敏感であり,市民の表立った反発を買うような行動をいきなり採用することはまずなかった。計画的に段階を踏んで,ユダヤ人に対する差別を強化し,迫害,追放,殺戮へと追いやっていった。洗脳という側面だけでなく,人々の抵抗を受けないように巧妙に段階的にひそかに迫害を強めていった。人権が重視されない国家主義のファシズム体制では,次第に強化される統制の中で,自由な言論は抑えられた。批判的言動は,強制収容所送りになった。

ユダヤ人は狡賢い,貪欲な資本家だ,共産主義者で暴力革命を起こそうとしている,という反ユダヤの人種民族的偏見,すなわちアンチ・セミティズムAnti-Semitismも,プロパガンダで広められた。自動車のフォード社を創設したフォードも,反ユダヤ主義の見解を表明していた。反ユダヤ主義のような人種民族差別は,決してナチスドイツによるものばかりではなかった。古くから,ロシア,ポーランド,オーストリア=ハンガリー帝国はもちろんのこと,スペインでも,フランスでも,アンチ・セミティズムAnti-Semitismの偏見は,一部の人々に根強く残っていた。20世紀になっても,一流のビジネスマン,政治家も,普通の市民も,意識しないうちに,人種民族差別の偏見を抱いていた。

1938年11月7日、パリでドイツ大使館書記官のエルンスト・ファン・ラート暗殺事件が,17歳のユダヤ人青年により起こされた。11月9日,ミュンヘン一揆記念祝賀において,宣伝省ヨーゼフ・ゲッペルス Joseph Goebbels 博士(1897-1945)は,反ユダヤではあるが,新興勢力の親衛隊SSに不満を持つ突撃隊 Sturm Abteilungを煽動して,ユダヤ人商店を破壊させた。


反ユダヤ主義のプロパガンダ・ポスター:Nazi Posters: 1933-1945;the German Propaganda Archive引用。左から:.罐瀬篆誘産主義者悪カール・マルクスが,ドイツ人を崖に呼び込んで,突き落とす。▲罐瀬篆佑琉巧み。6睛算駛棆箸箸靴道簓を肥やすユダヤ人と労働者に共産主義・暴力革命を喧伝するユダヤ人は,表裏一体の存在である。1934 The Soviet Paradise引用。「ソビエトのパラダイス」An Exhibition of the Nazi Party Central Propaganda Office 共産圏は,無能な変質者の国。(1934年)

1938年11月7日、パリでドイツ大使館書記官が,ユダヤ人青年により殺害された。宣伝省ヨーゼフ・ゲッペルスJoseph Goebbels(1897-1945)は,突撃隊 Sturm Abteilungを煽動,ユダヤ人商店を破壊させた。商店のガラスが飛び散った破壊の夜を「クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜」と呼ぶ。

◆開戦前1939年1月30日の国会演説で、ヒトラー総統は、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅であることを予言した。

◆反ナチスとみなされたユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的犯罪者など危険な非国民は,ドイツの敵である。彼らを拘束し,更正させる場所として,刑務所に加えて,強制収容所KL(ラーゲル)が設置された。ラーゲルを管理し,監視したのが,親衛隊SS髑髏部隊である。

ナチスの時代,ユダヤ人に対する偏見・差別を批判すれば,自らが困難な状況に陥る。言論の自由がない状況で、ドイツ一般市民は,ユダヤ人差別と迫害は仕方がないと考えた。自分の無力さを前提にしたニヒリズム(虚無主義),現実主義に陥っていたようだ。

 ナチ党独裁政権・ナチスの人種民族差別:ホロコーストの序章

ユダヤ人商店のガラスが飛び散った破壊の夜を,「クリスタルナハトKristallnacht:水晶の夜」(Novemberpogrome 1938 )と呼んだ。ナチス党のドイツ政府が人種民族差別を行い,被差別少数派に暴力を振るったのである。

TO ALL REGIONAL AND SUB-REGIONAL GESTAPO OFFICES sent at 1:20AM, November 8, 1938,SUBJECT: MEASURES AGAINST THE JEWS THIS NIGHT :1938年11月8日ハイドリッヒReinhard Heydrichからからゲシュタポ長官ヘルマン・ゲーリング宛ての水晶の夜に関する報告書
 ユダヤ教会シナゴーグの破壊は周辺のドイツ人財産に被害を与えない範囲。手段にとどめるべきである。ユダヤ人のビジネスと居住には,大きな損害を与えることができるが,根絶やしにすることはできない。街頭での破壊行為には周到な配慮が不可欠である。非ユダヤ人のビジネスは周囲の混乱から保護すべきである。シナゴーグとユダヤ人コミュニティの歴史的価値ある資料を収集すべきで,それを親衛隊SSに提供すべきである。シナゴーグは崩れ去り,ナチスとしては,ユダヤ人の記録を収集管理することが望ましい。送球に多数のできるだけ裕福なユダヤ人を逮捕すべきである。年配者ではなく,若くて健康なユダヤ人男性を捕まえること。

写真(右)1938年11月9-10日のクリスタルナハトKristallnacht"Night of Crystal" で破壊されたユダヤ人商店:ドイツ各都市でユダヤ教会が焼かれ、数千件のユダヤ人の商店が破壊された。数千名のユダヤ人が不当に連行され・逮捕され,強制収容所送りになったり,暴行・虐待を受けたりした。

◆ドイツ人を人種汚染し,ドイツに敵対するユダヤ人のなかで,特に,資産家,若者が危険であるというのが親衛隊保安部長官ラインハルト・ハイドリヒの認識である。ゲシュタポ長官だったプロイセン内務大臣へルマン・ゲーリングは,資本家との付き合いも多く,ユダヤ人の商店破壊が,ドイツ人にも被害を与えることを心配していた。特に,火事延焼だけではなく,資本家,資産家に対する貧困者・突撃隊員の反感には,気を配っていたのである。貧困者の反感は,ドイツの資本家ではなく,悪賢いユダヤ人資産化に向けようとした。ドイツの労働者・貧困者の不満をそらすためために,ユダヤ人をスケープゴート(生け贄)としたのである。

1936年7月17日、スペイン領モロッコのスペイン軍駐屯地で、人民戦線内閣に対する叛乱がおこった。そして,フランシスコ・フランコ将軍
(1982-1975)率いる叛乱軍に対抗しようとした市民、アナキスト(無政府主義者)は、武器を取って戦い,マドリード、バルセロナ、バレンシアなど主要都市の叛乱を鎮圧した。叛乱軍のフランコ将軍は、7月、独伊に軍事援助を求め、ヒトラー総統はJu52輸送機20機、ムッソリーニ統領はサボイアSM-81爆撃機12機を第一陣として派遣した。

ヒトラー総統は,スペイン人民戦線内閣は,ソ連共産党の指導下のコミンテルン共産主義者に主導されているとし,その黒幕は,ユダヤ人だと考えた。

スペイン市民戦争は,第二次大戦の前哨戦,新兵器の実験場と言われるが,ファシズム対社会主義というイデオロギーの戦いでもあった。ユダヤ人虐殺は,人種民族差別,財産収奪という経済的欲望,敵性住民に対する予防戦争の局面が指摘できるが,同時に,ユダヤ人が世界をユダヤ人支配の下におく「共産主義革命」を目指していると妄想しているアドルフ・ヒトラー総統,ナチスの幹部にとっては,対ユダヤ人戦争(ユダヤ人虐殺)は,イデオロギーの戦いとしても正当化されたのである。


1940年代初期,フランス・ヴィシー政権の反ユダヤ主義プロパガンダ:Nazi Posters: 1933-1945;the German Propaganda Archive引用。悪賢い金持ちのユダヤ人は,星条旗とソビエト共産党旗の背後にいて,アメリカ大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltや共産主義者を操って,世界戦争を仕掛けている。国際金融界を牛耳るユダヤ人は,アンクルサム Uncle Sam(アメリカの象徴)を金で,ロシア人をイデオロギーで操って,対ドイツ戦争を仕掛けようとしている。フランスのドイツ協力派閥であるペタン主席のヴェィシー・フランスも,世界大戦は,ユダヤ人金融資本家が仕組んだ陰謀であると主張した。フランス国内でもユダヤ人狩りが行われた。

ナチスの時代,第二次大戦前であっても、ユダヤ人に対する温情を示すことは,反政府活動,違法行為になりかねなかった。ユダヤ人に対する偏見が差別を生む出したが,偏見・差別を改めようとしたり,批判したりすれば,自らが困難な状況に陥る。言論の自由が確保されていな状況で、政府批判は,大きな不利益となることを覚悟しなくてはならなかった。第二次大戦直前には,ドイツの一般市民も,ユダヤ人に対する差別は仕方がないと諦めていたのかもしれない。第二次大戦中は,フランス,オランダなどでもユダヤ人への迫害が行われた。

6.戦争を躊躇する将軍たちの罷免

陸軍参謀長ルートヴィヒ・ベックLudwig Beck上級大将は戦前,ドイツ参謀本部の長として,ナチスの軍備拡充に尽力したが,英仏相手の戦争には反対だった。平和愛好というより,英仏相手の勝ち目がない戦いと予測したためである。そして,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク将軍(1878-1946)がスキャンダルで更迭された後,戦争責任を回避するためか,大戦前年の1938年8月に参謀長職を辞職,10月に退役した。1938年9月のミュンヘン会談で,英仏がヒトラー総統に譲歩したから,ベック将軍の予測は外れたことになる。ヒトラー総統は,将軍ほど交戦意思の弱い生き物はいないと,将軍たちの戦略的思考の過誤を指摘し,伝統的あるドイツ参謀本部は尊敬に値しないと確信するようになった。

陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch 将軍は,1933年,ヒンデンブルク大統領により陸軍最高位の総司令官に任命されたが,同時期の国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクとともに,上等兵上がりのヒトラー首相を軽蔑していた。ナチス政権当初,伝統的な参謀本部出身者たちは、ナチスに政治的権力を独占されることを恐れ,従来の脆弱な政治基盤しかない政党を牽制し操りながら勢力維持を図ったのである。しかし,ヒトラーが総統になり,再軍備宣言をすると,ヒトラー総統を利用して,軍の勢力を伸ばそうと画策した。

1937年11月5日、ヒトラー総統は,ドイツ国防軍首脳にヨーロッパの戦争計画を打診し,東方に新たに生存圏を拡大する必要があるとした。ドイツ軍が一新された今こそ,戦争を開始すべきであるとした。ドイツがオーストリア,チェコスロバキアに侵攻しても,英仏は救援には駆けつけないとの判断を下した。根拠は,民主国家は,戦争を開始するには堕落しきっており,資本家は,他国の利益のために行動することはないというものだった。将来西側(英仏,ベルギー,オランダ,デンマーク)に対する軍事作戦を実施するためには,ドイツの側面,すなわちオーストリア,チェコスロバキアの脅威を取り除いておく必要があるとした。

国防大臣ブロンベルクBlomberg 将軍は,陸軍総司令官フィリッチュ上級大将と同じく,ヒトラー総統の戦争計画に不同意であり,ドイツ軍は英仏相手に戦うことはできない,フランス軍だけでもドイツ軍よりも兵力が勝っている,チェコスロバキアは,ドイツ軍の侵攻に備えて防備を固めている一方,フランス軍の攻撃を食い止めるにはドイツの要塞(ジークフリート線)は不十分であるとした。つまり,ドイツ軍最高権威の二将軍は,ヒトラー総統の東方に対する戦争に反対した。

ヒトラー総統は,最高司令官として,指揮官に議論ではなく服従を求めていたのであり,軍専門家に期待したのは,戦争計画の具体的な立案であった。総統に対する反抗的態度は,二将軍を失職,追放の目にあわせることになった。

1937年当時,ヒトラー総統は,まだドイツ参謀本部が戦略の専門家であると信頼していた。再軍備宣言以来,勇ましさ言葉を口にしていた将軍たちは,戦争開始となるととたんに怯え始め,慎重論を説くようになった。参謀本部の将軍たちは,戦略家を気取っていたが,戦争を時期尚早として異議を唱えた。これを,ヒトラー総統は,戦争に怯えた弱腰の将軍と感じるようになった。総統が期待していたのは,旺盛な戦意のある勇敢な戦士であり,的確に戦争開始・遂行する戦略顧問となる将軍だった。

戦争を開始できない弱腰の陸軍総司令官フリッチュ将軍,国防大臣ブロンベルクBlomberg 将軍は,ともに1938年に現役から追われることになった。フリッチュ将軍は,同性愛の嫌疑をかけられ,名誉を失った。裁判では,有罪にはならなかったが,恥辱を受けた陸軍総司令官は追放された。フィリッチュ将軍は,1939年9月のポーランド侵攻に加わり、戦死。事実上,名誉を守るための自決的突撃だったようだ。ポーランドに侵攻したドイツ軍は,彼が育て上げたものだった。

陸軍大臣ブロンベルクWerner von Blomberg元帥は,いかがわしい評判の女性と結婚していたことが問題とされた。ヒトラー総統自身,結婚式に出席していたのだが,戦争計画に反対する将軍は排除されなくてはならない。ヒトラー総統は,陸軍大臣を解任した。

これらの失職した将軍たちの多くが,1944年7月のヒトラー暗殺事件に関与した。しかし,誰一人として,ヒトラー総統に自ら銃を向けたり,対面したりして,正々堂々と反乱を起こしたものはいなかった。将軍たちは,ヒトラー暗殺には直接手を下さず,暗殺後の政治的・軍事的指導者の地位を手に入れようとした。

7.ユダヤ人との世界戦争

警察を支配した親衛隊国家指導者ヒムラーは、親衛隊の中に髑髏部隊を作り、収容所を運営させ、さらに,軍と同様の装備をもつ武装親衛隊を編成した。後に,親衛隊と警察が、ユダヤ人虐殺の中核となった。

1939年1月30日の国会演説で、ヒトラー総統は、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅であることを予言した。

ナチ党独裁の下では,反ナチスはドイツの敵である。これが,ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的(根っからの)犯罪者,叛乱者など「危険な非国民」である。彼らを拘束し,更正させる場所が,強制収容所KL(ラーゲル)や刑務所である。ラーゲルを管理し,監視したのが親衛隊SSどくろ部隊である。

 特定の人種・民族の人権弾圧などの差別の思想として,アンチ・セミティズムAnti-Semitismが,ユダヤ人虐殺の根幹にあった。


反ユダヤ主義のプロパガンダ・ポスター:Nazi Posters: 1933-1945;the German Propaganda Archive引用。左から:.罐瀬篆佑ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相を操ってドイツに戦争を仕掛けている。1942年。国際金融界を支配するユダヤ人のドルに操られるアメリカの政治家が反ドイツを唱える。1943年。パレスチナ,ソ連,東欧,西欧を席巻するユダヤ人の毒蛇を退治する。ぅ侫薀鵐昂獲段爾旅人兵士は,伝統あるヨーロッパ文化・建築を理解できない。キリスト教会の聖堂を指して,おかしな工場だ,打ち壊してやれ。(大戦初期の風刺)"Hey Bimbo, look at the funny factories they have here in Europe!" There was a flurry of cartoons on this theme. The Americans were sending ignorant black soldiers to destroy the cultured lands of Europe (led by Germany). This was a throwback to earlier Nazi propaganda against French colonial troops from Africa.

◎ヒトラー総統の偉業は,適材適所,大規模な財政資金投入,勤労動員などによっている。ユダヤ人への人種民族差別を軽視した歴史家は,「偉業」としている。しかし,究極の目標は,ドイツ人に豊かな生活をさせることではない。

『わが闘争』や国会演説でも,明言しているとおり,ドイツ人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくる共産主義者あるいは国際金融資本家のユダヤ人のヨーロッパ排除である。したがって,もしヒトラー総統が,戦争を起こさなかったなら,ドイツ人から高い評価を得たはずだという議論は,成り立たない。ユダヤ人が仕掛けてくるであろう戦争に準備し,機会あれば,ユダヤ人が戦争を仕掛ける前に,対ユダヤ人戦争を始めるつもりだった。ドイツを再興し,軍備を整え,ドイツ経済を復活したのは,戦争の準備のためである。ドイツのヨーロッパ支配,東方ソ連を占領し,生存圏(支配地)に組み込むためである。一つの大ドイツとは,ドイツ人を民族ドイツ人の住む領域と一つにまとめ,一人の総統の下に統一することである。

◆大ドイツにとっての基盤は,英仏のようなアジア・アフリカ植民地ではなく,東方ソ連の生存圏を確保することであって,東方の生存圏の現地住民(ロシア人など)はドイツ人の支配下の劣等民族へと貶められる。ヨーロッパ・ユダヤ人を,マダガスカル島,中東・パレスチナへの移住は,検討され,一部はシオニズムとも結びつき,実施された。しかし,東方移住させる予定は,当初からなく,第二次大戦が開始され,ドイツにとって戦局が悪化すると,ユダヤ人の追放・排除とは,ユダヤ人絶滅になった。

◆ヒトラー総統は,一つの民族,一つのドイツ,一つの総統を理念とし,ドイツを復興させた。東方ソ連という生存圏を獲得し,ドイツ人を人種汚染し,共産主義と金融資本家・政治家を操ってソ連・米英を煽動し戦争を仕掛けてくるユダヤ人を排除する戦いも必要である。したがって,ヒトラー総統の国内経済政策を偉業としたり,ヒトラー総統が第二次大戦を起こさなかったら,今日でも高く評価された政治家になったという仮定は,完全に否定される。
 ヒトラー総統の人種民族差別は,ユダヤ人,知的障害者,ロマ(ジプシー)をヨーロッパから排除・絶滅するという過激なものだった。人権を無視した人種民族差別に対して,経済政策にだけ注目して,高い評価を与えることはできない。


ナチス指導者,一般市民は,収容所に送り込まれたユダヤ人の運命を察することができた。しかし,誰もその「責任を取りたくなかった。誰もユダヤ人がどうなったのかを知りたくなかった。これが,「仕方がない」という無責任なニヒリズムである。ユダヤ人絶滅は,国会演説,ラジオ放送でも公言されていたが,これは過激なプロパガンダに過ぎないと考えたドイツ人,占領下の住民,ユダヤ人が多かった。しかし,ナチス指導者の中には,東方の強制収容所に移送されたユダヤ人が殺戮されていることを知っているものもいたが,知っているものは,知らないふりをした。

ポーランド総督になったハンス・フランクは,自分自身を含めて「何も知らないということを信用してはいけない。われわれは,詳細は知らないまでも,このシステムは尋常ではないと,誰もが感じていた。要するにわれわれは,知りたくなかったのだ。システムに従って生活し,家族を養い,それが正しいことであると信じているほうが気楽だった。」(トーランド『アドルフ・ヒトラー 4』122-123頁)

写真(右)ドイツ国防軍を閲兵する総司令官アドルフ・ヒトラー総統:ニュルンベルク大スタジアムで,ドイツ国防軍の砲兵部隊が,牽引車で大型火砲を運搬している。下の演壇にはヒトラー総統。軍事パレードには,上から見下ろすような高い位置をとらず,兵士の目線で閲兵している。ヒトラー総統は,第一次大戦で上等兵伍長勤務の第一線兵士として勇戦した。このとき授与された第一級鉄十字勲章を誇りとした。公式の席では,突撃隊褐色の制服に身を包み,鉄十字勲章を提げた。World War 2 in color引用。

8.第二次世界大戦の勃発

1)ナチスの欧州支配
1939年9月1日、ドイツは,ポーランドに侵攻した。ドイツの対英宣戦布告・攻撃はなかったが,9月3日、ポーランドとの相互同盟条約に基づいて,ネヴィル・チェンバレン英首相は対独宣戦布告した。独軍は,機械化部隊からなる装甲師団,地上支援航空部隊,空挺部隊が連携をとって,兵力を迅速に集中し,攻撃する電撃戦を行った。

ポーランド侵攻時には,特別行動部隊アインザッツグルッペが組織,投入された。任務は,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物・インテリを処分することである。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。 

SS保安警察長官ハイドリヒは,開戦から3週間の1939年9月21日,ユダヤ人をゲットーに強制移送することを指示した。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国,オランダ,フランスの一部の警察・住民は,ユダヤ人迫害,財産強奪に加わった。ドイツ国防軍は,当初,不名誉な一般市民虐殺を阻止しようとしたが,虐殺命令が最高位からのものと知ると,治安維持任務,軍政担当の責任を回避した。親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。軍は,ユダヤ人問題の責任を回避した。

写真(右)ブーヘンワルト収容所の囚人:ドイツの敵に対しては,子供であろうとも容赦しなかった。イデオロギーや職業にかかわらない子供を虐殺したことは,ユダヤ人絶滅の目的が,ユダヤ人が金融資本家・悪徳商人・共産主義者であるという理由が主眼ではないことを意味している。ユダヤ人は,ドイツ民族を堕落させ,滅ぼそうとする劣等人種であるという偏見,それに基づく迫害が,ユダヤ人絶滅を実行させた。

1939年9月1日,ドイツ軍のポーランド侵攻に,保安警察特務部隊が投入され,ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人などを殺害した。武装親衛隊は,前線任務が主だった。他方,アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)は,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。ポーランドには、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置、何十万名ものユダヤ人をそこに押し込めた。仏領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討された。

1941年5月,ドイツ軍は,ベルギー,アルデンヌ経由で,フランス侵攻開始。5月17日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏、6月5日ダンケルク占領。連合軍兵士34万名は,英本土に脱出できたが,6月10日、ノルウェー降伏,6月22日フランス降伏。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人殲滅戦の遂行を公言している。

写真(右)ヒトラー総統と空軍大臣へルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring元帥(1893-1946):ゲーリングは,第一次大戦の空軍エースで,1918年6月,最高位のプール・ル・メリット勲章を授与。外国の要人や財界とも交流があり,戦前,米英では穏健派と目されていた。プロイセン内相として警察行政や経済計画を任され,空軍部隊も指揮した。しかし,バトルオブブリテンの失敗,スターリングラード空輸の失敗,本土防空戦の失敗と権威は凋落した。1945年4月,ヒトラー総統がベルリンを死守して軍の指揮を取れなくなると危惧して,ヒトラー総統に識見を譲渡するように要請。これに,ヒトラー総統は激怒に,すべての役職を解かれた。戦後,監禁されモルヒネ中毒から立ち直ったのか,ニュルンベルク軍事裁判の論戦で注目を浴びた。死刑判決を受けたが,毒物で自決。毒物の入手経路は不明。 World War 2 in color引用。

◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカを資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラー総統は考えた)。となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存権確立を求める世界戦争を戦うべきである。妄想的な宿命論を信じたヒトラー総統は,参戦義務がないにもかかわらず,対米宣戦布告を行った。いままで,宣戦布告の通牒など問題にしていなかったヒトラー総統だったが,世界のユダヤ人相手の最終戦争は,自ら宣戦布告すべきであると考えた。

ソ連の領土は,ドイツ人・ドイツ系民族(民族ドイツ人)の殖民する領土であり,そこにユダヤ人を追放することは考えられない。英領植民地パレスチナ,フランス植民地マダガスカル島へのユダヤ人追放は計画された。しかし,戦時,何万名ものユダヤ人を,遠隔地に追放することは不可能である。早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。緊急課題として,収容したユダヤ人の処置が問題となった。

写真(右)アウシュビッツ収容所への入所:労働不能者として選別された婦女子は,手荷物を持って,収容所に入る。しかし,その居住区画は,ガス室に入れられるまでの一時的な控えの場所に過ぎなかった。労働可能者は,過酷な条件の下,軍需工場での奴隷労働,収容所の作業班に充当され,生きることを許される。しかし,栄養失調や病気で労働不能になれば,処刑された。収容所に到着したユダヤ人たちは,生死の選別がなされているとは気づいていない。家族が一緒のバラックで暮らすことを希望していたので,子供を離さない婦女子が多かった。
親衛隊の収容所管理者・看守は,ユダヤ人が暴動を起こさないように十分に配慮したマニュアルを作成し,ユダヤ人絶滅を細心の注意をもって,冷静に実行した。
ユダヤ人虐殺は,反ユダヤ狂信者の異常行動ではない。普通のドイツ人でも,移送列車運行などユダヤ人虐殺システムの運営に参加した。Yad Vashem :The Auschwitz Album引用。


 ⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺
 ⇒反ナチス抵抗運動・ヒトラー暗殺未遂事件
 ⇒ユダヤ人絶滅・強制収容所:ホロコーストの経緯
 ⇒ヒトラー総統:独裁者・扇動者・殺戮者

ナチスドイツのプロパガンダ
1939年に始まった第二次大戦。しかし,1933年にナチスが政権を奪取して以降,広範なプロパガンダが政府によって行われている。目的は,反共産主義,反ユダヤ主義,英国・米国はユダヤ人共産主義者に操られているといった敵対的な宣伝と誇りある強いドイツを訴えるものが多い。ナチスドイツのポスターからプロパガンを検証します。前半の絵画,ポスターは,CALVINのNazi and East German Propaganda Guide Pageからの引用です。後半は,知られざるドイツへの戦争協力をロシアのGenstab.RuのMilitary Posters of 20th Centuryのポスターから分析しました。
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<強い日本軍>

同盟国の日本の強い兵士とともに戦おう。ルーズベルトの喉には,サムライの剣が刺さっている。英国の誇るシンガポール要塞は,日本軍によって孤立してしまった。

<弱い英米軍>

左:とうへん僕の米軍兵士は弱い。中央:だらしない米軍捕虜。右:「君はどこで沈められたの」「魚雷にやられてね」海底で沈められた連合国の船舶が話している。


チャーチルは,ドイツが航空機を増産しても意に介さない間抜け。血と涙で乾杯する困惑した英国の獅子(1942年)。 "This cocktail doesn't seem to agree with him." Winston Churchill has just served a mixture of blood and tears (toil and sweat seem to have been skipped) to a scrawny and unhappy looking British lion. ドイツ爆撃で破壊されたロンドンで乾杯する間抜けな楽観主義の英国国王(1941年)。"Optimism: 'Victory is ours! The King has found another four-leaf clover!'" When Allied bombing later did similar things to German cities, Lustige Blätter joined the propaganda campaign claiming that Germany was the victim of "terror bombing." アメリカは嘘のアベコベ情報を流す駄目な国(1943年)。

<敵愾心を煽る>

サルのようなフランス植民地の黒人兵(下等人種)が,ヨーロッパ文化を「変な工場だ」と小ばかにする(1944年)。"Hey Bimbo, look at the funny factories they have here in Europe!" There was a flurry of cartoons on this theme. The Americans were sending ignorant black soldiers to destroy the cultured lands of Europe (led by Germany). This was a throwback to earlier Nazi propaganda against French colonial troops from Africa. ドイツの町を空襲で破壊して,婦女子を殺す連合軍。文化の破壊者のアメリカ。死神に取り付かれたチャーチル英国首相。

<市民の戦争協力>

家族揃ってナチスの包装を真剣に聞き入る聴衆。冬物衣料を集めて前線に送るドイツ市民。「ドイツでヨーロッパのために働こう。」ドイツ人は兵士に召集されたため労働者不足に陥ったた。そこで,ナチ高官のザウケルは,500万人の外国人労働者をドイツの産業のために利用した。強制労働や徴用が大半だが,ボランティアとして自発的に労働しているように装った。The Nazis faced a critical labor shortage as World War II went on. Hitler appointed the Nazi Gauleiter (party regional leader) Fritz Sauckel on 21 March 1942 to organize the importation of labor from German-occupied Europe. Sauckel was executed by the Nuremberg Tribunal in 1946 for crimes against humanity. The tribunal found evidence of dreadful treatment of large numbers of these foreign workers. As Sauckel himself said in 1944. "Of the five million foreign workers who came to Germany, less than two hundred thousand came voluntarily." In the spring of 1943, however, the Nazis published an illustrated book titled Europe at Work in Germany: Sauckel Mobilizes the Labor Reserves. The book was published in a mass edition. The copy I am working from brought the number in print to 400,000.


前線の兵士に思いを馳せて農業に励もう。市民生活を脅かす連合軍の爆撃機。前線の兵士同様に生産に従事する。決して降伏しない(1945年)。

<反共主義と反ユダヤ主義の結びつき>

アンチセミニズムのプロパガンダ映画
「永遠なるユダヤ人」鎌とハンマーの共産主義は悪賢いユダヤ人の思想。ルーズベルトのアメリカを操るユダヤ人。
ナチスの鍵十時に押しつぶされるダビデの星のユダヤ人。さっさと出て行け。悪事を支える金の出所はユダヤ人に決まっている。


凶暴な共産主義者ソ連と組んでいる英国は哀れ犠牲になる(1942年)。 "You have to trust him, Britannia. He only wants to protect you!" Winston Churchill tries to reassure England that an alliance with Soviet Russia is a good idea. 赤の共産主義スターリンはドイツの鉄帽を噛み砕くことはできない(1942年)。 "The results of his winter offensive. He has bitten steel!" The cartoon minimizes the results of Soviet offensives over the winter of 1941-42. In truth, the Nazis had been unpleasantly surprised by the force of that offensive.


コミュニズムの怪獣を倒すためのドイツの正義の戦い。チャーチル,ルーズベルトを操るユダヤ人がヒトラー総統を陥れる。世界を征服しようとする蛇のようなユダヤ人,これを刺すのがナチスだ。

<戦争後半のドイツ苦戦時期のポスター>

"Information from the USA." Uncle Sam broadcasts, while truth stands on her head. スターリングラドの敗北の恨みを晴らすことを誓う。太平洋防壁は完全なので,英米軍のヨーロッパ侵攻は不可能。秘密兵器V1で破壊されるロンドン(1944年)。

<兵士の動員>

勇敢なドイツのUボートの戦士に応募しよう。巡洋戦艦の戦士に応募しよう。空軍の女子兵士(滞空監視,避難誘導,連絡手など)に応募しよう。

<雑誌表紙:勇敢なドイツ軍の活躍>

勇敢なドイツの魚雷艇PTボート。ソ連戦車を破壊するドイツ急降下爆撃機。英国のコンベントリーを破壊したドイツ爆撃機。


船団を攻撃するドイツの哨戒爆撃機。海の支配者Uボート。大西洋に出撃するドイツ戦艦。ドイツの青年が乗船している。


次々撃墜されるアメリカの重爆撃機。ブリテンは沈みゆく船。


<ヨーロッパ全土でのドイツへの動員:兵士の募集>
敗戦国ノルウェー,フランス,ベルギー,オランダでも国民を動員するため,さまざまなポスターや雑誌が作成されました。多くは「反共産主義」「反ソ連」を訴え,新生ヨーロッパをドイツに協力しながら作っていくという思想です。ここでは,その知られざるナチスドイツへの戦争協力をロシアのGenstab.RuのMilitary Posters of 20th Centuryのポスターから引用,解説をつけました。

<フランスでの動員>


鎌とハンマーに象徴されるボルシュビキ,共産主義は,労働者の首枷であり,苦しめる存在である。米英,ソ連の背後には(ユダヤの星を下げた)ユダヤ人がいて戦争で労働者を苦しめている。

ナポレオン戦争のときと同様に,フランスも軍団を組織して対ソ連戦争に参加しよう。フランスでもドイツ軍の指揮下で戦う武装親衛隊志願が求められた。

<ハンガリーでのナチスの動員>


ハンガリーもドイツとともに1941年6月に対ソ連戦争に突入した。枢軸国として1945年までドイツと闘った。25th Waffen Grenadier Division Der SS( Hunyadi ungarische 1st Division ) 15000名の武装親衛隊のマークのついた盾。

<降伏後のイタリアでのナチスの動員>



ドイツ軍とともに闘うイタリアの武装親衛隊。1943年にイタリアが連合国に降伏した。しかし,その後もムッソリーニ,ドイツとともに連合国と闘ったイタリア共和国の兵士や武装親衛隊の兵士がある。

<ユーゴスラビアでのナチスの動員>


ユーゴスラビア兵士でも武装親衛隊が組織された。ボスニアのクロアチア人も,ムスリムも武装親衛隊に志願した。彼らは主にバルカン半島でチトー軍やセルビア人のパルチザン部隊と闘う治安戦に投入された。これがユーゴ内戦の火種ともなるが,同じ国民による内戦の様相を呈していた。

<ノルウェーでのナチスの動員>


アーリア人の代表とされたノルウェーでは,ナチスとともに闘う兵士(武装親衛隊)としてノルウェー人が武装親衛隊志願を求められた。


ノルウェー人に武装親衛隊への志願を求めるポスター。ノルウェー部隊とあり,国旗の腕章もつけているが,武装親衛隊はドイツ軍の指揮下でソ連軍と闘う。ナチスドイツとともに自由のための戦争に参加しよう。

<デンマークでのナチスの動員>


デンマークの国防を担う兵士へ志願せよ。デンマーク人も武装親衛隊に参加して東部戦線で共産主義者と戦おう。ヴィーキングの伝統を引き継ぎデンマークを守る武装親衛隊。

<ベルギーでのナチスの動員>


ベルギーでも,ドイツ系のフラマン人に対して武装親衛隊へ強い圧力がかかった。/同じベルギーでもフランス系のワロン人への戦争協力は消極的。武装親衛隊は東部戦線でドイツ軍の指揮の下に戦った。

<オランダでのナチスの動員>


右は,オランダ人への武装親衛隊入隊勧誘。描かれているのは対ロシア戦争を始めた神聖ローマ帝国(ドイツ,オランダを含む)の皇帝「赤ひげ」か。"For your honor and conscience! Against Bolshevism. The Waffen-SS calls you!"

<ヨーロッパの守護者ドイツ軍>


イタリアを守る愛国的なドイツ軍。フランスの子供たちを保護するドイツ兵。/イタリア,イギリスもドイツとともに進む。反共産主義のソ連に対抗しヨーロッパを守る戦いに。反共産主義のために対ソ連戦争に参加した武装親衛隊のイギリス人もいる。/ドイツに併合されたアルザスから,フランス語やフランス文化などを吐き出してしまえ。本来のドイツ人はアーリア人化される。アルザスはドイツのものだ。

<ドイツによる反共産主義,ソ連向けポスター>


ドイツによるソ連侵攻が始まった1941年6月22日は,鎌とハンマーで象徴される共産主義の崩壊した日。/スターリンの圧政に苦しんだ人々にとって,先進国ドイツによる解放と移るように,ロシア語,ウクライナ語などで反ソプロパガンダが行われた。進撃するドイツ戦車は力強い。共産主義の復活を心配する必要はない。/放火魔の共産主義者,ユダヤ人をつまみ出せ。

共産主義のソ連の旗を引きちぎれ。解放戦争だ。/ウクライナ人,ロシア人も武装親衛隊に入隊し,スターリンと戦おう。/元ソ連軍のコサック兵士もドイツ軍とともに共産主義と戦い,勲章(黒い鉄十字賞)を拝受している。現在のコーカサス,カザフスタン,キルギスタン,トルクメニスタンなど中央アジアのソ連地域は独立の動きが当時からあった。

<切手の図案>

資源を節約しつつも,切手の図案はナチスを賛美するものが作られた。

<ポーランドの捕虜>

1939年にポーランドに侵攻したナチスドイツは,捕虜を戦勝写真として活用した。ナチス党大会やベルリンオリンピックでヒトラーの下で映画を作製したレニ・リーフェンシュタール。


【大戦中の反日のアメリカポスター】

【大戦中の世界のポスターリンク集】

【大戦中の米国のポスター】

【大戦中の反日ポスター】

【大戦中の戦争協力ポスター】

【WW1・WW2の英国ポスター】

【ナチスのプロパガンダのポスター】

【大戦中の世界のポスターリンク】ポスター販売を目的にしたロシアのサイト/ソ連に加えて,ドイツと共に戦った枢軸国のポスターも掲載されている。

【大戦中の武装SSのポスター】

【第三帝国のポスター】

◆ポスター販売など営利目的のサイトも含まれていますので,引用には注意してください。


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