鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
沖縄戦と住民 ◇ Battle of Okinawa 1945 2005
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◆沖縄戦と住民:太平洋戦争の軍政・集団自決・捕虜処刑 ◇ Battle of Okinawa 1945


写真:(左)日本人捕虜
;投降パンフレットを読む沖縄守備隊と民間人。民間人も玉砕を強いられた場合があったが,沖縄ではサイパン島と同じく多数の民間人が米軍に収容・保護された。OVERCOMING THE LAST RESISTANCE on Okinawa was aided by propaganda leaflets, one of which (above) is being read by a prisoner awaiting transportation to the rear. Many civilians gave up at the same time. At numerous points, however, severe fighting continued.
写真(右)米軍に保護された沖縄住民
1945年6月撮影。帽子を被っているのは僧侶。

写真(右):沖縄で物資投下する米軍艦載機「アベンジャー」;OKINAWA'S LANDSCAPE in the south is marked by fields of grain and vegetables, broken only by humps of coral, farmhouses, and villages. Navy plane flying over such terrain is shown dropping supplies to the last fast-moving American troops early in the campaign.

【アジア太平洋戦争インデックス】:鳥飼行博研究室オリジナル
沖縄戦の特攻:菊水作戦,航空総攻撃
沖縄戦の住民集団自決:捕虜の処刑
沖縄地上戦:日本軍の火力と伊江島攻略戦
沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量
◆2011年8月13日ヤフーニュース「元隊員が語る特攻艇『震洋』」に当研究室が掲載された。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦と戦争・平和の話をうかがった。

1.日本本土攻撃を攻撃し,日本と南方資源地帯・中国との交通を完全に遮断するために,沖縄は不可欠な戦略的位置にあった。そこで,1945年3月から,日米両軍が,沖縄で死闘を繰り広げることになる。 

米海軍太平洋艦隊司令長官および太平洋方面総司令官ニミッツ元帥は、1945年(昭和20年)3月に沖縄攻略計画「アイスバーグ作戦」に着手した。米軍は,日本本土に上陸・占領しなければ日本は降伏しないとの判断した。そこで,1945年4月〜10月に沖縄を攻略し,1945年10月〜1946年2月には志布志湾から九州を攻略する「オリンピック作戦」を実施し、最後に,九十九里浜から関東地方,東京を攻略する「コロネット作戦」を計画した。

米軍が沖縄を攻略できれば,
‖耋僉中国沿岸、日本本土のすべてが、攻撃機・爆撃機の攻撃圏内に入る,
中国・南方から日本本土への海上輸送ルート(シーレーン)は,完全に遮断される,
2縄を日本本土を攻撃する後方基地として港湾,飛行場,物資集積場を整備できる,
て本本土を空襲した爆撃機・艦船の不時着あるいは避難基地として活用できる。実際,九州の長崎に原爆投下をしたB29は,マリアナ諸島テニアン島を発進した後,燃料不足で,急遽,沖縄に向かい不時着している。

戦略的,戦術的利点が大きい沖縄を,米軍は攻略し,戦後60年以上が経過した現在でも,東洋最大級の軍事基地を維持している。

写真(右):1945年3月10日東京大空襲の焼死者;米国陸軍航空隊のB-29重爆撃機300機以上が東京を夜間空襲。主に焼夷弾を投下して,住宅を焼き尽くした。

日本軍上層部は,本土決戦の準備に際して,全軍特攻化,一憶総特攻を叫んだ。沖縄が連続的な空襲,艦砲射撃を被り,米軍の慶良間列島上陸が開始された1945年3月は,まさに本土大空襲の時期であり,沖縄を守るよりも本土決戦の準備が急がれていた。日本軍にとって,沖縄は,本土決戦の準備時間を稼ぐため持久戦,捨石作戦であった。

沖縄戦は,日本「本土」の唯一の地上戦である。日本は1931年の満州事変以来,中国で戦闘を続けてきたが,本土住民が直接大きな地上戦の被害を受けたのは沖縄が唯一の経験である。(マリアナ諸島,満州,樺太などは「本土」から除く)。

米軍軍政の下に1沖縄で14万人もの日本人が収容されたが,これも未曾有の経験であった。

写真(左):米軍の戦死者埋葬;1945年5月7日沖縄で戦死した息子を悼む海兵隊大佐フランシス・フェントン。日本人だけでなく,米兵も多数の死傷者を出した。悲惨な経験を米軍も忘れない。Marine Corps Colonel Francis I. Fenton (later Brigadier General) is shown kneeling at the gravesite of his son, Marine Corps Private Michael James Fenton, who was killed in action on Okinawa on 7 May 1945.

軍国主義教育,中国での戦闘や捕虜・スパイ・便衣隊の処刑の経験,徹底抗戦の教えのために,沖縄の民間人は,日本軍の言うように「軍民共生共死」を受け入れざるを得なかった。スパイ嫌疑をかけられ,日本軍に処刑された沖縄県民もいる。悲惨な戦闘は,現代の日本と米国の戦争観の一端をなしている。その意味で,沖縄戦は,日米に大きな影響を与えた事件である。

1944年6月にサイパン島などマリアナ諸島が米軍に攻略されると,日本軍は,フィリピンと沖縄の防衛を強化する。沖縄方面の陸軍としては,1944年2月設立の第32軍司令官に新たに牛島満中将を任命,第9師団・第24師団・第62師団を増強した。

こうして,沖縄に駐屯する日本将兵が増えるにつれて,沖縄の食糧,住居,軍用地が不足してくるから,戦闘に寄与できない住民は,沖縄での軍事行動に支障となる。そこで,戦闘も労働も困難なもの(学童,老人など)の疎開が行われるようになった。

1944年7月19日,沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し,学校単位で疎開を始めた。沖縄防衛のために多数の兵士が,本土,台湾,中国大陸から沖縄に移駐することになり,その食糧・用地・施設を確保するためには,沖縄住民,民間人が足手まといになるからである。1944年7月から1945年3月の最終疎開まで、沖縄から出航した疎開船は,延べ187隻,疎開者は約8万人に達する。

1944年8月22日,那覇を出航した「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され学童750名を含む1400名以上が殺害された。⇒「対馬丸」遭難事件を読む。

1944年10月10日には,米海軍空母任務部隊の艦載機によって,沖縄が大空襲された。これは,「10.10空襲」と呼ばれ,旧那覇市街の大半が焼失した。第9師団(武部隊)は1944年12月中旬より台湾に移動になった。

海軍は沖縄を最終決戦の場と見ていたが,陸軍は,本土防衛のための時間稼ぎの場と考えて作戦を計画していた。

沖縄の日本軍兵力は、正規兵5万6000名と,現地召集兵,防衛隊・学徒隊・義勇隊など沖縄住民で補充した兵約3万余、海軍の沖縄方面根拠地隊の約1万人を加えて約10万人であった。


写真(左):沖縄第32軍指令部の幹部集合写真;JAPANESE COMMANDERS on Okinawa (photographed early in February 1945). In center: (1) Admiral Minoru Ota 大田實, (2) Lt. Gen. Mitsuru Ushijima 牛島満, (3) Lt. Gen. Isamu Cho 長勇, (4) Col. Hitoshi Kanayama, (5) Col. Kikuji Hongo, and (6) Col. Hiromichi Yahara 八原博道。写真(右):沖縄第32軍指令部の牛島満司令官と長勇参謀長;沖縄に派遣されたということは,市を命ぜられたのに等しいと,司令官たちは自覚していたようだが,八原高級参謀は,米軍の捕虜になっている。合理的な考えの持ち主といわれる。しかし,自分が生き残るつもりならば,投降命令を出すように司令官に進言すべきだった。

写真(左):沖縄攻略作戦担当の米軍司令官;海軍提督スプールアンスAdmiral Raymond A. Spruance、 艦隊司令長官ニミッツFleet Admiral Chester W. Nimitz, 上陸部隊司令官少将バックナーLt. Gen. Simon B. Bucknerの三人の米軍司令官が沖縄攻略のための「アイスバーク作戦Operation ICEBERG」を担当した。ニミッツ元帥は米艦隊司令官である。

本土決戦の前哨戦としての沖縄戦の第一の特徴は、持久戦を遂行するために,戦地の住民も兵力の一端を担わされたことである。これには,軍人あるいは徴用された軍属,正規部隊の編成,召集,部隊指揮官による独断の民間人召集,非正規に軍に隷属した学徒隊・自警団・民間防衛隊など様々な形態があった。

戦前,正規の軍人軍属であれば,軍人年金・遺族年金の対象になるが,軍について避難した民間人として扱われれば,年金支給の資格はない。

沖縄の陸軍守備隊 86,400名(+民間人からなる沖縄県民防衛隊・学徒隊・義勇隊22,000名)
第32軍 司令官 牛島満中将,参謀長 長勇中将,高級参謀 八原博通大佐
第24師団長 雨宮巽中将
第62師団長 藤岡武雄中将
独立混成第44旅団長 鈴木繁二少将
第5砲兵司令官 和田孝助中将

沖縄の海軍守備隊 10,000名
沖縄方面根拠地隊 司令官 大田實少将
         先任参謀 前川親一郎大佐
南西諸島航空隊司令 棚町整大佐
第951航空隊派遣隊司令 羽田次郎大佐

写真(右):橋梁を空爆する米軍;丸いクレーターが橋の袂に5個、海中に1個あいている。橋を破壊する徹底的に攻撃されたようだ。

 他方、米軍情報部は、航空機による偵察,暗号解読,捕虜への尋問などによって,1944年から、沖縄に配備されている日本軍の守備隊の名称と兵力をほぼ正確に把握していた。
1944年12月に第九師団が、沖縄本島から台湾へ移動したことも的確に把握していた。日本軍は,暗号を解読されていることは知らなかった。暗号解読は不可能であるとの認識を最後まで改めなかった。

各地で日本軍が敗退しているのは、日本軍の行動が敵に察知されていることに一因であると日本軍は認識していた。暗号解読は不可能であることを前提としていたから,敵に情報が漏れたのは,スパイがいるからである。日本軍は,占領地の外国人はもちろん,現地の日本民間人に対しても,スパイを警戒した。このような民間人の利敵行為への疑心暗鬼が、日本軍による沖縄住民の虐殺につながった。

ところで,米軍情報部は、沖縄の日本軍配備について、1945年3月直前には、次のように予測していた。米軍の沖縄戦記録

 It was believed that the Japanese had moved four infantry divisions to the Ryukyus during 1944. These were identified as the 9th, 62d, 24th, and 28th Divisions.

Army intelligence learned that one division, perhaps the 9th, had been moved from Okinawa to Formosa in December 1944. In March 1945 American intelligence estimated that the Japanese forces on Okinawa consisted of the following troops, which included 26 battalions of infantry:

写真(右):日本軍のコンクリート壕;米軍に占領されたが,頑強な半地下式の攻略は容易ではない。

 米軍の予測した日本軍兵力
米軍が予測した日本軍地上兵力は,第24師団15,000-17,000名 ,第62師団 11,500名,第44独立混成旅団 6,000名を中核とし,戦車連隊,砲兵連隊,対空部隊5,875名,空軍地上部隊3,500名 飛行場建設部隊5,000-6,000名など総兵力は5万3,000-5万6,000名であった。これは正確な「陸軍正規兵」の配備情報である。(→米軍の予測した日本軍地上兵力

しかし,実際には,沖縄の陸軍守備隊は,現地召集兵を含めると8万6,400名,民間人からなる沖縄県民防衛隊・学徒隊・義勇隊2万2,000名で,牛島満中将の指揮する第32軍の指揮下にあった。沖縄の海軍地上部隊としては 司令官大田實少将の指揮下に1万名の「沖縄方面根拠地隊」があった。

写真(右):上陸前のロケット弾搭載揚陸艦LSM-R(LANDING SHIP MEDIUM ROCKET)による支援射撃:LSM(R)-196,LSM(R)-190,LSM(R)-199の3隻が渡嘉敷島を1945年3月に支援射撃した。

中型揚陸艦(ロケット弾搭載型)LSM-Rは,米軍地上軍の上陸する海岸を,上陸直前に20連発5インチロケット弾によって攻撃した。LSM-201は,558隻建造されたLSMの第1号艦で,Dravo社(Wilmington, オクラホマ州)で1943年12月24日に建造開始。竣工は1944年2月26日,就役は1944年4月14日(建造から就役まで, 80日間)。

LSMの乗員は,将校6名,兵下士官137名。建造隻数は,中型揚陸艦艇(LSMとLSM-R)で総計558隻である。(→ロケット弾搭載揚陸艦LSM-R(LANDING SHIP MEDIUM ROCKET)引用)このような中型揚陸艦によって、米軍は、港湾施設がなくても、大量の物資と人員を揚陸することができた。揚陸艦は,砂浜の海岸に直接乗り上げ,乗員・物資(トラック,戦車を含む)を陸揚げし,揚陸後,錨を巻き戻し,後進で沖合い海上に戻ることができる

米軍兵力は,上陸時の総兵力18万3,000名で 15万4,000名が7個師団に配属されていた。沖縄攻略の米軍地上兵力は,日本の「陸軍正規兵」の3倍,民間防衛隊を含む「総兵力」の2倍の規模である。

米軍沖縄上陸部隊の第一波:総勢 11万6,000名
第1海兵師団Marine Divisions(2万6,274名),第6海兵師団( 2万4,356名)で,2500名の建設大隊naval construction battalionが付属。
陸軍の第7師団,第77師団,第96師団:1個師団当たり平均2万2000名

U.S. Merchant Ships Participating in Pacific Theater Combat Operationsによると、沖縄戦に参加した米国商船(民間船)は176隻で、レイテ戦に参加した商船108隻を上回り、太平洋戦争では最大の規模である。

2.1945年3月26日,沖縄本島上陸に先立って,米軍は慶良間列島に上陸した。慶良間列島には,日本軍が体当たり自爆用の水上特攻艇を配備し,海上挺身隊が編成されていたが,多くは出撃することなく破壊,鹵獲されたようだ。この慶良間列島攻略戦で,沖縄住民の集団自決・集団死が始まった。 

 米軍は,沖縄本島に上陸する前に本島西方の慶良間列島(座間味村と渡嘉敷村)に上陸した。慶良間列島には飛行場適地がなく,日本軍は,米軍は上陸しないと考えていた。そこで、日本軍は水上特攻隊を配備し,背後から本島に迫る米軍艦船に攻撃するつもりでいた。

水上特攻艇とは,木製小型一人乗りモーターボート(70-80馬力エンジン装備)に合計240キロの爆薬を搭載したもので,体当たり攻撃をする。海軍では「震洋」、陸軍では「マルレ」と呼ばれた。

沖縄の水上特攻艇は,慶良間列島と沖縄本島に配備され,本島に上陸する米軍を迎撃する予定でいた。

 水上自爆特攻艇のような「奇襲特殊兵器」は,1944年3月に軍令部(陸軍の参謀本部に相当)で試作方針が決定されている。そして,1944年5月27日に,な軸錣了邵酊,すなわち後の水上自爆艇「震洋」が完成した。特攻艇乗員は,1944年7月5日,つ第一次要員が発令. 7月15日,講習開始。つまり,沖縄戦の9ヶ月前に,水上自爆特攻艇が準備されていた。米軍の侵攻を前に,「特攻」が急遽準備されたわけではない。

  ⇒水上自爆特攻艇「震洋」「マルレ艇」:開発と戦歴

運搬車に乗って記念撮影する米兵Rod Johnson;後方には祠のようなものがあるが,地下陣地の入り口なのか。小型運搬台車は,重機関銃用の運搬台あるいは民間用かもしれない。

水上特攻隊の沖縄戦での戦果:1945/04/04に上陸用舟艇LCI(G)-82を撃沈
水上特攻隊の沖縄戦での戦果◆1945/04/04.水上特攻艇がLSM-12を沖縄沖で撃沈。

水上特攻艇が撃沈したLSM-12のデータ
排水量 520 t.(light), 743 t. (landing) 1,095 t.(満載時fully loaded)
速力Speed 13.2ノット(kts.) (max.), (928 tons displacement)
搭載物件 戦車 3-5台あるいは水陸両用上陸用舟艇 LVT 6台または水陸両用トラック DUKW 9台。

「渡嘉敷村の歴史」は,次のように描写している。
  「日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に海上特攻艇200隻をしのばせていた。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、ついに3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保した。」

Seizure of the Kerama Islands「慶良間諸島侵攻」は,次のように描写する。
3月26日0804,阿嘉島に最初に上陸した第305連隊第3大隊は,200名の海上挺身隊員と朝鮮人労働者から計機関銃と迫撃砲による攻撃をかけたが,すぐに背後にある丘陵に撤退。阿嘉島では午後に米軍が日本人58名を殺した。

慶留間島には,3月26日0825,第306連隊第1大隊が上陸し,水陸両用トラックDUKWによって105mm榴弾砲を揚陸した。座間味島には0900に,第305連隊第1大隊が上陸。米軍は3月26日1700までに阿嘉島の三分の二を確保したが,まだ島の中には日本軍兵士300名,民間人400名が潜んでいた。第305連隊第1大隊は,200名以上の日本人を殺したが,米軍も7名死亡,12名負傷の損害を被った。


写真(右):水陸両用戦車で慶良間列島に上陸した米軍;慶良間列島には陸上兵力はほとんどなかった。LANDINGS IN THE KERAMAS, made by the 77th Division, met little opposition. Zamani Island (above) was taken by the 1st BLT, 305th Infantry, some soldiers of which are shown just before the started inland. Amtracks were unable to negotiate the seawall and were left at the beach.

 3月26日に上陸した慶留間島に,米軍は榴弾砲を配備した後,翌3月27日0911,第306連隊第1大隊(BLT)は,渡嘉敷島西岸に上陸した。そして,数分後に第306連隊第2大隊が第1大隊の南側に上陸した。3月28日,慶留間島の第306連隊は,500発の準備砲撃を渡嘉敷島に行い,南部から北上して島を制圧した。

大兵力が一気に上陸してきた慶良間列島では,正攻法の反撃はほとんど不可能であったから,日本軍はあわただしく山岳地域に撤退した。(→ Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻引用)
結局,応戦準備のできていない戦場では,日本兵の突撃精神は発揮できなかったが,これは持久戦のためであろう。

 
写真(左):慶良間列島の渡嘉敷島に上陸した米兵;第306連隊第1大隊が1945年3月27日に占領した。Soldier (right) seems puzzled by the absence of opposition.

●渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数
1.日本将兵 76人
2.軍人軍属 87人
3.防衛隊員 41人
4.一般住民 368人(内、集団自決による犠牲者329人)
(→ 慶良間諸島の沖縄戦/渡嘉敷村の歴史引用)

慶良間列島には2,335名の日本軍へ氏が配備されていたが,大半は水上特攻隊(海上挺身隊)Sea Raiding unitsである。彼らには,特攻艇,それに装着する爆雷だけでなく,機銃,迫撃砲も装備されていた。慶良間列島の特攻艇は約300隻で,600名の朝鮮人労働者も作業に当たっていた。

集団自決が起きた慶良間列島の戦いであるが,戦死者よりも,戦後まで生き残り,降伏できた将兵のほうが遥かに多かった。沖縄本島に配備された日本軍将兵の多くは殺害されたが、これに比べれば,慶良間列島配備の水上特攻隊と支援部隊は,少しはマシな運命だったのか。

3.沖縄戦では,友軍の日本軍兵士が,沖縄住民を集団自決に追い込んだり,虐殺したりした。この理由は,物資・兵力・地下壕の不足により,日本軍が住民を保護できなかったこと,住民による敵への情報漏えいなど利敵行為を警戒したこと,中国などでの敵性住民・捕虜への処刑の経験という日本軍の体質が指摘できる。 

写真(左):渡嘉敷島に砲撃準備をするロケット弾搭載揚陸艦;LSM(R)-196, LSM(R)-188 and LSM(R)-189's rockets set fires on Tokishi(トカシキの誤り) Shima, March 1945

    慶良間列島では,丘陵地帯に追い込まれた日本兵と民間人が,自殺を図った。この様子は,「米陸軍公式戦記」Seizure of the Kerama Islandsに次のように記載されている。

1945年3月28日夜,渡嘉敷島の北端から1マイルの地点で,第306連隊は爆発音と痛みを訴える悲鳴を耳にした。翌朝,小さな渓谷に150名以上の死体と死にかけている負傷者が打ち捨てられていおり、多くは民間人であった。父親がナイフや鎌で家族の喉を欠き切り,手榴弾で自爆したのだった。

ひとつの毛布の下に,父親,二人の子供,祖父,祖母が帯で結ばれて横たえられていた。米兵と衛生医療班はできるだけのことをした。住民は,攻めてきた敵の野蛮人が殺したり,レイプしたりすると言われていたのに,その敵が食糧や医薬品を与えるのを見て驚いた。自分の娘を殺した年老いた父親は,悔恨の念に駆られて泣いた。

少数の日本人はが自決したが,民間人の多くは,くたびれ果てて薄汚れて,米軍支配地域でばらばらになってしまった。結局,第77師団は,1195名の民間人,121名の日本兵捕虜を拘束した。26名からなる韓国人は,白旗を掲げて投降してきた。阿嘉島では,自発的に投降してきた日本陸軍中尉が「自殺するなんて意味がないことだ」といった。(→ Seizure of the Kerama Islands引用)
 
座間味村役場公式HPでは,集団自決の語句を用いず,次のように記述している。「1945年3月22日米軍は数百の艦艇で慶良間列島を囲み海空から砲爆撃を行ない、遂に1945年3月26日沖縄戦の第一歩となる上陸を印した。当時戦争の犠牲となった村民の数は村三役を含め402名に達した。米軍は座間味島に駐屯して住民は軍の保護を受けるようになり、本村、渡嘉敷村、渡名喜村の三村を統合する慶良間列島制を施行し列島長及び各部落長が軍から任命された。」
 座間味の集団自決は135名,渡嘉敷島の集団自決は352名との説もある。(→沖縄戦強制的集団死


写真(左):阿嘉島への砲撃準備をするロケット弾搭載揚陸艦LSM(R)-196;慶良間諸島の阿嘉島をロケット弾で砲撃する。1945年3月31日には,島を攻略し終わっているはずだが,散発的な抵抗は続いていたようだ。LSM(R)-196 crew members Joe Clapaftisi S1/c, at left, (note the "regulation" shoes) and Patrick Curtain RM3/c at right, loading rockets at Aka Shima, Ryukyu Islands, 31 March 1945.

米軍の空襲,砲撃を受けて,地上戦の準備不足の日本軍兵士は,丘陵に撤退している。慶良間列島では島によっては,米軍が島外に退去している。終戦まで米軍が駐留した島でも,島内の日本軍による米軍への反攻はなかった。挺身隊の渡嘉敷島の隊長赤松大尉,座間味島の梅澤少佐のように,指揮官も部下も生き残っている。

渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数は,日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人とされる。一般住民368名の犠牲のうち,守備隊長の命によるといわれることもある集団自決あるいは追い詰められての集団死の犠牲者329名とされる(→渡嘉敷村史資料編)。

「渡嘉敷村の歴史」の当時14歳の集団死生き残り証言によると,次の体験がのっている。
 アメリカが上陸するまでは、西側(部落の)壕にいたが、その夜(26日)防衛隊が「敵が上陸して危険だから移動しろ」と、いう事で、一応南側の山に避難した。シジミチ山で一晩すごしました。そこから見える慶良間海峡には、軍艦がいっぱい並んでいるのが見えて、もうそこら辺りにも敵は入りこんでいるなと思って、また、部落に降りて------その夜、北山の、今、玉砕場とよばれている処についた。


写真(右):米軍に鹵獲された日本軍の手榴弾

  三月二十七日,集団自決を体験した渡嘉敷島生まれの当時十六歳の金城重明は、軍から手榴弾が二個あらかじめ渡され(一個は敵に投げ、もう一個は自決用)ていた事実をあげて、軍によって「集団自決」への道が事前に備えられていた、とする。攻撃用あるいは自決用に手榴弾を手渡されていた住民・民間防衛隊員もいた。

渡嘉敷島の当時14歳の荘園の集団自決体験談
   「僕らは、手榴弾なんか持ってなかったけれど、隣りに座っていた人たちや他の人たちは持っている人もいた。親戚 同志で集まり座っていた。----夜が明けてから村の人たちが、どんどん避難してきた。どこから命令があったのか知らないけど、みんな集まって来るから、僕は、そこが安全な避難場所だとばかり思っていた。

 誰が音頭をとったか知らないが、”天皇陛下バンザイ”と三唱やった事を覚えている。しばらくして、母が、振子のような”カッチ、カッチ”と、いう音を聞いて同時に、あっちこっちで爆発しはじめ、僕らは、びっくりしてうつぶせになった。
------その後は、ごろごろ死んでいる人、傷を受けた人たちは、ものすごい悲鳴をあげている。ここに居たら大変だ、と怖くなって、川の下流の方に逃げていった。」

「アメリカーと最初に出会った人は、”芋掘りをしているところを捕まったが、別 に撲ったり、乱暴されたりもしなかった”という情報が入ったりしているところに、島の防衛隊が、斥候に出て、アメリカーの監視哨を突破して、部落内に入り込んで、(渡嘉敷島に収容されている)伊江島の人たちをびっくりさせたらしいが、伊江島の人たちの話では、アメリカーは、何にも危害を加えない、食糧もくれると、いう話が伝わって来た。僕らは、山にいて食べる物もない、このままだと死んでしまう、それより山を降りようと、集団で(8月)17、18日に山を降りた。

 しかし、日本兵が監視しているから、そこを突破しないと、降りられないし、芋掘りに行くんだと、嘘をついて、部落の反対側に夜おりて行ったら、アメリカーが待っていた。」

  ⇒◆沖縄戦の住民集団死・集団自決を読む。


写真(左):米軍の住民収容キャンプ;テント式のものから,民家をそのまま利用したものまであった。

戦後の1946年,GHQの命令で軍人恩給が停止されたが,サンフランシスコ講和条約後の1952年に戦傷病者戦没者遺族等援護法が成立し、1953年には元軍人とその遺族への年金が復活した。ここでは,軍属と準軍属など戦争協力に伴う戦死者も援護法の対象となったが,これは戦闘参加者とその家族救済ガ援護法の目的であるからである。沖縄では日本軍のために住民が飛行場建設,道路整備,防衛隊参加,道案内、食事・宿舎の提供などで協力したため,14歳以上の者を対象としたようだ。

集団自決者については,1962年以降,零歳の乳幼児も戦傷病者戦没者遺族等援護法の遺族年金支給対象なっているという。こうして戦後補償,社会保障を獲得するためにために,集団自決命令の説が流布されたとの主張である。

沖縄守備隊の海軍根拠地隊司令官大田實少将が海軍次官あてに出した6月13日最終報告「大田少将 決別の辞」では,次のように述べている。
沖縄戦の開始以来,陸海軍は防衛戦闘に専念していたため,県民を殆ど顧みることがなかった。しかし,県民は,青少年を全部を防衛召集に捧げ,家屋と家財を焼却させられ,残る老人幼児婦女子も軍の作戦に差し支えのない小防空壕に避難した。若き婦人も看護婦,炊事婦は元より,砲弾運び,挺身斬込み隊へ申し出るものもあった。所詮,敵来たりなば,老人子供は殺され,婦女子は後方に送られ毒牙に供せられるから,親子生き別れて,娘を軍の衛門に捨てる親もあった。
日本陸海軍部隊が沖縄に進駐して以来,勤労奉仕,物資節約を強要せられて,一部は悪評なきにしもあらざるも,日本人としてご奉公の護りを胸に抱き,沖縄島は焦土化せん。沖縄県斯く戦へり。県民に対し後世特別ご高配を賜らんことを。

沖縄の日本軍は,戦闘の時に,住民が食糧確保の障害になるだけではなく,利敵行為をすることを恐れた。これは,敵への情報提供,捕虜になり,道案内・通訳として働くこと,日本軍の配備上方をもらすこと,捕虜となり生き延びうることが日本軍将兵に知れ渡り,士気が低下すること,などである。

写真(左):首里近くの沖縄特有の亀甲墓;石やコンクリートで出来た頑丈な墓は、住民や日本兵士の避難豪として使われた。OKINAWAN CUSTOMS include the burial tomb and the veneration of ancestors. The burial tombs characteristics of the Okinawan landscape stand out clearly in this aerial view just north of Shuri.

日本軍は,「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」との考えを,住民にも警告的に流布していた。さらに,日本軍による中国やフィリピンでの捕虜・敵性住民の虐待・処刑の経験から,「鬼畜米英」によって捕虜は処刑され、女は辱めを受けると信じ込んでいた。このような認識の下で,自らの手で家族,友人とともに死ぬ集団死はせめてもの慰めとなった。これは異常な状況である。

軍による住民指導が,利敵行為につながる捕虜になってはいけない,捕虜となれば虐待・処刑されるという恐怖の心理状況に住民を追いやった。住民にしてみれば,以前からの政府・軍の「鬼畜米英」のプロパガンダと作戦指導に基づいて行動した結果,集団死を選択せざるを得なかった。
米軍に収容され逃げ出したり,保護されて生活していたりした住民が,日本軍将兵に殺される事件は,スパイ,敵性住民,卑怯者への報復であった。

集団死は,慶良間列島の渡嘉敷島では329人、座間味島171人、慶留間島53人をはじめ、伊江島100人、読谷村84人以上、喜屋武半島数百人などがある。日本軍による住民殺害は、渡嘉敷島11人、久米島20人、伊江島6人、伊是名島5人、大宜味村約30人、喜屋武半島24人、久志村約40人、今帰仁村5人とされる。

写真(左):戦艦「ウエスト・ヴァージニア」USS West Virginia ;1914年建造の旧式戦艦。14インチ砲12門搭載。最高速度21ノット。真珠湾で撃沈された戦艦5隻のうち1隻だが,引き揚げられ戦列に復帰した。1945年3月23日から陸上砲撃を開始し,4月1日にも,沖縄本島への上陸前に支援砲撃した。しかし,4月1日,神風特攻を受け,命中した。USS West Virginia at Okinawa, April 1, 1945, same day ship was hit by kamikaze Photo courtesy of Charles Haught

慶良間列島の日本軍守備軍は、慶良間列島への米軍上陸を予期しておらず,地上戦準備を怠っていた上に,死を賭けた戦いを任務として命令されていた水上特攻隊員からみて,戦意・士気の萎えた住民は足手まといになるというよりも,敵に寝返るスパイとして嫌悪されたかもしれない。食糧不足がなかったとしても、戦場から離反しようとする住民に対しては,裏切り者,スパイとして処断しようとする気持ちが出ても不思議ではない。

写真(右):米軍機による那覇港の艦船爆撃 ;1945年4月1日の上陸をL-Dayといったが、この直前に、「目標をソフトにする、すなわち覆滅する」SOFTENING UP THE TARGET was the task of the allied fleet. It stood off Okinawa to place accurate fire on known Japanese installations and to support underwater demolitions teams clearing the beaches. At the same time the fleet's air arm conducted aerial bombardment. This low-level bombing attack on L minus (below) hit enemy shipping in the mouth of the Bishi River.

慶良間諸島での戦禍は、島民の集団自決に止まったのではない。朝鮮から連行されてきた軍夫が日本軍によっていとも無雑作に殺害されるという事件も起こった。1945年4月20日,座間味村阿嘉島の海岸近くで、12人の朝鮮人軍夫が、飢えを凌ぐため付近の田んぼで摘み取った稲穂を服のポケットに隠していたのが、持ち物検査でばれ、同島守備隊員によって軍規違反だとして銃殺した。戦後54年も経ち、死体を埋めたという同僚のカン・インチャンさんは、今も死者たちの身元さえ判明しない、と証言している。(1999年6月26日付『琉球新報』) 
講演「戦後沖縄の挑戦」講師:大田昌秀・前沖縄県知事引用)


米軍陸軍のブローニング重機関銃Browning M1917 Gun .30 (7,62mm)
;1917年7月に第一次大戦に米国が参戦した時から使用され続けた米軍の代表的な重機関銃。性能は,発射速度 毎分450-600発,重量24kg,製造数5万7,000丁。M1917は,水冷式で重く,運用に難があったため空冷式に改良したM1919(A1)も開発,制式採用されている。

集団自決は、家族や壕の避難民単位で行われたが,それは日本軍の支配地域であった。本島南部、慶良間諸島、伊江島,読谷の共通点は,集団自決と日本軍配備が一致しているという事実であるという。

チビチリガマ集団自決,楚辺クラガーでの入水自決,恩納村安富祖での集団自決,クーニー山壕での集団自決などの状況は,読谷村史「戦時記録」上巻,第二章「読谷山村民の戦争体験」第三節5「集団自決」に紹介されている。

チビチリガマ集団自決
チビチリガマは、読谷村字波平の集落から西へ500mほど行った深さ10mほどのV字型の谷の底にある。集落内に源をもつ湧水が流れ込む所に位置し、川が尻切れる所といった意味から「チビチリ」(尻切れ)という名が付ようだ。米軍の上陸した海岸からは800m内陸にある。

米軍の沖縄上陸から2日目,チビチリガマでは、21家族83人(10歳以下29人)が集団自決した。発端は,1945年4月2日,一人の男がふとんや毛布などを山積みにし、火を付けたことだ。中国戦線での経験を持つその男は、日本軍が中国人を虐殺したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺されると思い込んだようだ。


集団自決のあったチビチリガマ
;洞窟への避難者約140人の内、住民83人が非業の死を遂げた。海邦国体ソフトボール会場での「日の丸焼き捨て事件」に対して、チビチリガマ「平和の像」破壊という報復行為がなされた。その後、1995年4月、像は再建され、石碑も建立された。

  ガマでは,自決を決めた人々と活路を見い出そうとする人たちが争いとなったが、燃え広がる炎と充満した煙によって人々は死に追いやられた。

  沖縄戦「チビチリガマ」での集団自決の真相を読む。

 チビチリガマでの真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。(→チビチリガマ犠牲者名簿)

4月2日の夕方、クーニー山壕も米軍に発見され、米兵は壕内探索に入って来た。--そんな中、突然日本兵の一人が銃を発射、米兵一人を射殺した。--翌日は、壕の周辺は米軍によって放火され、壕内にも放火用に使ったとみられる油の臭いがたちこめた。生存者の一人は「壕から出ると、山は全部焼かれていた」と後に証言している。
 壕内が修羅場と化したのは午前十時半ごろだったという。日本兵が「死にたいのは集まれ」と大声で叫び、十数名が集まったとたん手榴弾が爆発した。死者は住民14人(10歳以下2人)、兵士2人だったとされる。」((→クーニー山壕での「集団自決」と犠牲者名簿)


沖縄の海軍司令部地下壕 Japanese Naval Headquarters
;海軍の沖縄駐屯最高司令官大田少将の自決の場所。艦砲射撃にも耐えることのできる安全な地下司令部。近くには,小禄の飛行場があった。このような頑丈な地下壕は、兵士沖縄住民・朝鮮人を含む労働者の力で作られた。しかし、住民を避難させるための頑丈な避難豪を軍が作ったことはない。住民は、ガマと呼ばれた溶岩洞窟の小さなものや自分たちの祖先たちが眠っている亀甲墓などに隠れたが、水も食料も不足していては、いつまでも隠れることはできない。米軍からみても、このような避難所にいるのが民間人なのか、軍の兵士なのかは区別ができない。米軍も、兵士が立て篭もっている考え、攻撃することになる。その意味では、投降勧告が壕に向かってなされたのは、軍政部隊を組織していたからといえる。

  読谷村のチビチリガマ「集団自決」の思い出に,次のような記述がある。

「『もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから』彼女はそう言うと、満州で支那事変帰りの兵隊に聞いた『戦場での女の哀れ話』を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。」(引用終り)

集団自決は、日本人として捕虜になってはいけないという信じ込み,死へ追い込まれたものであるが,その背景には,捕虜になったら,処刑され,惨殺されると恐怖していた事実が指摘できる。中国戦線をはじめ,日本軍兵士は捕虜や敵性住民を処刑・斬殺していることを,沖縄住民も,帰還兵や派遣部隊の兵士から聞き及んでいて,自分たちも捕虜になれば同じ運命を辿ると危惧していた。

3月26日には,米軍は本島上陸に先立って,慶良間諸島に上陸し,3月29日には占領した。3月30日には,本島上陸も必至となったため,米軍に使用させない目的で,沖縄守備隊は、沖縄本島西岸の北・中・南の3飛行場を自ら破壊した。

しかし,爆薬不足のため,完全に破壊されたとはいえない状態であった。また,読谷村の住民の一部は,北部の国頭村へ避難していたが,未だに数千人が村に残っており,上陸時には溶岩洞窟「ガマ」や亀甲墓などに避難した。

4.1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸は,日本軍の反撃をほとんど受けず,主要飛行場もすぐに占領することができた。これは,沖縄守備隊が,米軍との長期持久戦を戦い,本土決戦のための時間稼ぎを企図したためである。 

当時婦人会長を務めていた喜名の安里※※は次のように証言している。

 日本軍が沖縄に入ってからは、行軍といってたくさんの兵隊さんが隊列を作って歩くようになりました。そんな時には役場の入口で婦人会幹部が湯茶を準備して接待したりで、軍の対応が仕事になっていました。毎日のように役場には呼ばれ、さらに日本軍に供出する鶏の卵を集めた事もありました。それも婦人会の仕事でした。鶏は各戸飼っていましたから、家々を回って集めるのです。各戸から二個ずつ集めましたがザルの一杯も集まりました。役場からは卵代としてお金もありました。あの当時、仲吉医院の奥さんは副会長で、よく二人で家々を回って集めたものです。


写真(左):八八式七糎半高射砲;アッツ島で米軍に鹵獲されたアッツ島守備隊の野戦高射砲。野戦高射砲として沖縄守備隊でも使用されたが,航空機用の照準装置と信管が時代遅れで,威力はなかった。最大射高8000m(有効射高4000m),生産数2000門。写真(右):九八式二十粍高射機関砲;アッツ島守備隊の20mm対空機関砲.読谷村の北飛行場にも配備された。Pictured are Ray Vaughn and H. D. Johnson.Allan was with the 7th Infantry Div., confirmed by his separation papers. His MOS was 915, which translates to "ARTILLERY MECHANIC/HEAVY-ANTI-AIRCRAFT." He repaired a variety of guns, including captured weapons that were taken so they could not be used by again by "the Jap's." Allan R. Moore's Attu Scrapbook

喜友名※※(座喜味)大正八年生
 イシンニーバルにいた高射砲部隊(野戦高射砲第七十九大隊)の小峰隊長(第一中隊長陸軍中尉 小峰康敏)たちが、井戸があるという事で私の家にいました。これは役場から連絡が来て、受け入れることになりました。小峰隊長は長崎の人で、二十二、三歳ぐらいで、いつも仏壇の前に座ってね。小峰隊長の他に、事務が二人、給仕係りが三人いました。ここは部隊事務所になっていたんです。昭和十九年夏頃から来て冬もいましたね。

 台所では東京からきた新兵の阿部上等兵が隊長の世話係りをしていました。一番座から台所まで、全部兵隊が使っていました。時折、彼らは慌ただしく、鐘をならしたり、ナーカヌカーに走って行ったりしていました。私たち家族八名はクチャグヮー(裏座)に入っていました。台所も兵隊に占領されていたので、食事もシンメー鍋一つに芋を炊いて食べていました。そうして、私たちの家に電話がひかれて、軍隊の連絡はここに来ていました。(→読谷村民の証言引用)


写真(左):米兵に保護された沖縄住民
;1945年5月

 沖縄戦直前における住民動員についてもその実態がわかる資料が出てきた(米海軍資料)。
1945年1月30日付の第三二軍参謀部の資料によると、2月はじめの時点における徴用労務者の部隊ごとの割当て数が記されていた。

たとえば第六二師団(石部隊)には労務者3500名、学徒255名、計3755名(島尻郡から1350名、中頭郡から2405名)、北飛行場(読谷)には労務者1400名、学徒100名、計1500名(すべて中頭郡より)、など沖縄本島と伊江島を合わせて3万9742名が徴用されることになっていた。

 また戦闘直前の3月6日におこなわれた防衛召集について第六二師団の召集者の村ごとの割当てと召集人数がわかった(米陸軍資料)。たとえば西原村では待機者461名中400名、読谷山では624名中550名が第六三歩兵旅団に配属されるよう命令されていた。第六二師団の管轄地域では待機者6940名に対して5489名を召集することとなっており、行政関係者や病人などを除くと根こそぎ動員と言ってよい。


写真(左):米軍のいう「那覇飛行場」(小禄飛行場)
;実際には当時の那覇市の隣にある小禄村にある飛行場。飛行場をいとも簡単に奪われたため,米軍の沖縄上空の制空権は,航空母艦が特攻を受け損傷しても,日本軍よりも劣勢になったことはなかった。航空兵力が勝負の分かれ目になると認識していたのに,飛行場を防備するのを放棄しているのであるから,沖縄地上戦は,本土決戦の準備時間を稼ぐための持久戦であるといってよい。

三月三十一日の空襲と艦砲射撃

 三十一日は延べ約700機が大挙来襲した。奄美大島地区約140機、宮古および石垣方面には各約50機の来襲があった。その日、九州方面にはB29約150機が来襲していた。

 米軍の艦砲射撃は北、中飛行場方面が約500発、北谷方面約100発、小禄方面420発、港川方面110発と報告された。

 守備軍の米軍上陸地点に関する判断は、主上陸地は北、中飛行場方面と予想していたが、沖縄本島南東部の港川方面においては米艦船の策動が続き,米軍の陽動作戦に欺瞞された。

 軍はその作戦構想に関して航空作戦の指導について、三十一日夜、次のように要望した。「敵が北、中飛行場方面と港川方面に同時に上陸する場合は、軍は先ず前者において持久し、後者においては決戦指導を行うので、航空攻撃の重点もこれに即応するよう指導されたい」としたのである 。読谷村史第五巻引用)

しかし、兵力、特に火力が不足し、制空権、制海権ともに、米軍に握られていたから、沖縄守備隊が米軍に勝利する見込みはまったくなかった。日本軍にとっての沖縄戦の意義は,長期間,持久戦を戦い、多数の米軍兵力を沖縄に拘束して、その間に、本土の守備を固めることであった。その意味で、沖縄戦は、日本軍にとっての遅延戦闘であり、本土決戦のための「捨石」となった。

写真(右):沖縄守備隊総司令官牛島満中将(のち大将);沖縄守備軍の総司令官として米軍と激闘を繰り広げたが,最後には徹底抗戦を命じて,自決した。

牛島満司令官の経歴
1887(明治20)年7月31日生,1945(昭和20)年6月23日没
鹿児島県出身
1908(明治41)年5月 陸軍士官学校(20期)卒 
1916(大正5)年11月 陸軍大学校(28期)卒
1918(大正7)年8月 シベリア出兵に参加
12月 陸軍大尉
1924(大正13)年3月 陸軍少佐
1932(昭和7)年8月8日 陸軍大佐 戸山学校教育部長
1933(昭和8)年3月18日 陸軍省高級副官
1936(昭和11)年3月28日 歩兵第1連隊長
1937(昭和12)年3月1日 陸軍少将 歩兵第36旅団長
1938(昭和13)年12月5日 予科士官学幹事
1939(昭和14)年3月9日 予科士官学校長兼戸山学校長
1939(昭和14)年8月1日 陸軍中将 免兼
       12月1日 第11師団長
1941(昭和16)年10月15日 公主嶺戦車学校校長
1942(昭和17)年4月1日 陸軍士官学校長
1944(昭和19)年8月8日 第32軍司令官
1945(昭和20)年6月20日 陸軍大将
       6月23日 沖縄本島南端の摩文仁巌頭で自決
自決前に決別を打電したが,あわせて沖縄の残存兵力に徹底抗戦を命じた。その駆動は,住民を戦火から救わないまま,敗軍の将の汚名を被らないようにした責任逃れであると批判される。

写真(左)サイパン島で沖縄上陸準備をする米海軍工作隊「シービーズ」第79大隊the 79th Battalion Seabees;Saipan - 1945 Preparing for Invasion of Okinawa

電報綴には「〇三四〇ヨリ電波探信ニ出現セシ敵艦船ハ〇六〇〇払暁ト共ニ當基地西方ヨリ近接〇六三〇 二八〇度乃至三一〇度間八粁ニ上陸用舟艇一七隻一五粁ニ約六〇隻(視界不良ノ為艦種不詳)其ノ他前日ト略同様ト推定セラル艦船ヲ伴ヒ低速ヲ以テ東進一部北中飛行場方面那覇沖縄方面根拠地隊司令部附近ヲ砲撃戦爆二二機ヲ以テ重爆撃(中略)

〇八三〇神山島附近ノ上陸舟艇ヲ除キ他ノ船艇ハ漸次ヨミ谷山方面ニモ進ミ主力ヲ以テ北中飛行場方面ニ一部ヲ以テ那覇小禄方面ニ上陸ノ對勢ヲトルニ至レリ〇九三〇ニ至ル迄未ダ上陸セズ我ガ方発砲セズ」とある。

 米軍の本島上陸を迎えた四月一日「一八〇〇迄座キ味・西原・中飛行場東側・桃原・北タニヲ結ブ線ニ達ス」(電報綴)(→ 読谷村史第五巻引用)

沖縄に上陸した米軍揚陸艦;the 79th Battalion Seabeesの隊員Friedrich Karl Johann Taake(1904 - 1996)撮影。

佐久川※※の証言(比謝)
 私たち一家は喜瀬武原に避難していた。しかし食料が不足気味で心配だからと、祖母と妹達を残して両親と叔母、※※のおじさん(松田※※)と私の五名で、比謝の家に食べ物を取りにいくことにした。

 三月三十一日の夕方、私達は喜瀬武原を出た。歩いて親志辺りまでくると、艦砲射撃が激しくなり、喜名からはさらにひどくなった。これ以上進むのは無理だからやめようと思ったが、喜瀬武原に残してきた祖母や妹達のことを考えると、ここまでは来ているし、いまさら引き返すわけにもいかないと、何とか進んでいった。ようやく比謝の自宅にたどりついたが、古堅国民学校辺りの兵舎をめがけていたのか、米軍の攻撃がすさまじく、身動きが取れない程の状態になっていた。これじゃもう食料どころではないと、走って持って行けるぐらいの分量の米とフシカブ(切り干し大根)を担いで、四月一日の夜明け前に隣組で掘ってあったフカサクの壕に入った。(→ 読谷村史第五巻引用)

 
写真:1945年4月1日,沖縄本島に上陸した米軍兵士。
(左)海岸「ブルー・ビーチ2」に上陸した第7海兵隊第1連隊。Assault troops of the 1st Battalion, 7th Marines, clamber over a seawall after landing on Blue Beach 2 on 1 April 1945, against no opposition at the beachhead. Department of Defense Photo (USMC) 117020 (右)兵員上陸用舟艇LCVPから下船する海兵隊。Other Marines were boated to the beachhead in LCVPs. Debarking from the Higgins boats, they waded through the quiet surf over the coral reef to reach shore. Department of Defense Photo (USMC) 116368

4月1日,米軍は,沖縄本島西岸の読谷村に上陸した。0530に艦砲射撃を開始し,0745には航空攻撃も加えた。上陸前のロケット弾搭載揚陸艦LSM-R(LANDING SHIP MEDIUM ROCKET)による支援射撃も行われた。

第二次大戦中,1051隻の LST (Landing Ship Tank) が建造された。117隻は英国海軍とギリシャ海軍に供与された。これは,武器貸与法the Lend Lease Actに基づく軍事援助である。 写真(左):米軍の沖縄上陸地点;1945年4月4日比謝川河口付近。PCS-1452 is in the lower left corner of photo U.S. Army Signal Corps photo SC 207 486

LSM-Rは,758トンの中型歩兵揚陸艦を改造した20連発5インチロケット弾を搭載するほか,40mm連装機銃2基,20mm連装機銃4基,4.2インチ迫撃砲4門装備している。乗員は,将校6名,兵下士官137名。建造隻数は,中型揚陸艦全体(LSMとLSM-R)で総計558隻。太平洋戦争中に建造されたが,朝鮮戦争でも活躍している。

沖縄戦に先立っては,水際で撃退するつもりで,陣地を構築していたが,米軍の火力・航空攻撃の威力の前には反撃が困難であるとして,内陸部での持久戦を採用した。しかし,陣地構築や兵舎の確保など,作戦の変更は,現地部隊に大きな負担を強いた。また,住民の避難が遅れたために,沖縄戦における民間人の死傷者が増加する原因にもなった。

住民は,日本軍に協力して,食事の提供,飛行場・陣地建設など労働力を提供したが,自分たちの身を護る地下壕の建設には,労力と時間をかけることは出来なかった。

1945年4月1日0800,米軍の上陸部隊が沖縄本島の陸地を目指して発進した。この上陸地点の近くには,北・中2飛行場(後の嘉手納基地)があり,飛行場警備を目的とした特設部隊が配備されていた。しかし,3月末に,飛行場警備部隊は,飛行場を米軍の手に渡さないようにと破壊命令を受ける。されども,広大な飛行場を破壊しようにも,爆薬も時間もなかった。そこで,特設第一連隊は,持久作戦に移るために,飛行場を放棄した。


写真(右):米軍上陸後,すぐに占領された嘉手納飛行場;日本軍は,飛行場防備を事実上放棄していたが,飛行場の破壊は不完全で,米軍は早速飛行場を整備し始めた。

  米軍は,沖縄上陸地点の防備を破壊しようとして,徹底した砲撃,爆撃を行ったが,実際は,上陸地点には,日本軍守備兵はほとんど配置されず,頑丈な洞窟陣地も、飛行場防備施設も構築されてはいなかった。米軍は,上陸して3時間後の4月1日1130には北・中2飛行場を占領した。飛行場は,嘉手納基地として整備されることになる。

米軍は戦車揚陸艦LST (Landing Ship, Tank)を海岸に横付けし,戦野や車両を沖縄に揚陸した。
第二次大戦中の米軍のLSTは3種類あり,LST-1 CLASS は390隻,(100隻が1942年9月16日にキャンセルされた),LST-491 CLASSが50隻,LST-542 CLASS”CHELAN COUNTY CLASS"が 612隻建造された。

LSTは排水量(重量)1,625トン,満載重量4,080トン,速力12ノット,乗員は将校16名, 兵下士官147名である。武装は,40mm連装機銃2基,40mm単装機銃4門,20mm単装機銃12門である。One Landing Craft Tank (LCT), tanks, wheeled and tracked vehicles, artillery, construction equipment and military supplies.

 ⇒沖縄戦の統計では揚陸補給物資重量も記載してある。

写真(左):沖縄を砲撃する米戦艦「コロラド」;1945年3月29日撮影。戦艦コロラドは 16"/45 (40.6 cm) Mark 5 Mod 1艦載砲を装備。この40.6センチ砲は,重量2,240 lbs. (1,016 kg)の Mark 5 APC砲弾を発射できた。1941年12月7日の真珠湾攻撃で日本海軍機の空襲で撃破されたが,1943年には戦列に復帰している。にUSS Colorado BB-45 bombarding Okinawa 29 March 1945 U.S. Naval Historical Center Photograph # 80-G-316831

那覇市の沖縄戦概説では,「沖縄戦とは?」で次のように説明している。
沖縄戦は1945年の3月下旬から8月までの戦いをいう。
1944年10月10日、沖縄戦の前哨戦 として10.10空襲があった。 このときは,台湾方面の日本軍の航空機が米軍の空母任務部隊を攻撃するために発進し,多数の空母を撃沈したという虚報(誤報)を信じ,日本陸軍はフィリピン・レイテ島に上陸してきた米軍に,決戦を仕掛けた。


写真(右):米軍のM1「ガーラント」自動小銃 ;M-1 GARAND CAL. 30-06. WW2 production. 引き金を引くだけで発射できる口径7.62mmの(半)自動小銃。ただし,機関銃のように連続発射はできない。1950年の朝鮮戦争時にも使用された。

しかし,実際には,米軍艦隊はほとんど無傷であり,対照的に10/10空襲では,旧那覇市街の90%が焼失した。旧那覇市内の養蚕試験場にあった司令部も焼け 、首里城の地下に司令部壕が掘られる事になる。その壕を掘ったのが,沖縄の学徒達であった。

写真(右):日本軍の三八式小銃;弾丸を1発ずつ装填する手動式小銃。明治38年に制式になった6.5ミリ弾小銃と,1939年に制式になった九九式小銃は7.7ミリ弾小銃を使っていたため,弾薬の補給が煩雑になった。Type 38 or Type 99 Japanese Rifles

米軍の上陸地点から首里城の司令部までを中部戦線と呼び、司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった、首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいる。 ひめゆり学徒隊の悲劇もこの南部地域で起きた。 ひめゆり学徒は何度も映画化され有名なためこの南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われている ことが多い。しかし南部戦線は米軍にとっては,掃討作戦,敗残兵狩りに等しく、 米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが日米沖縄戦の主戦場である。

写真(右):沖縄の集落の航空写真;萱葺き屋根の木造建築が農村では一般的だった。右下にカモフラージュされた日本軍のトラックがある。VILLAGES ON OKINAWA consist of small clusters of houses surrounded by vegetation- covered stone and mud walls. Note camouflaged Japanese Army trucks

米軍は上陸地点である北谷から首里城までの10キロを進むのに50日間かかっている。沖縄守備軍は この間10万人の内7万4000人(主戦力のほぼ7割)の兵力を失っている。日本兵の死者は1日あたり1000人以上になる。 

米戦艦「コロラド」などの艦砲射撃を受けた読谷村;三月二十九日の艦砲射撃 
 昨二十八日午後の100隻の大船団接近の報告により、第三十二軍は米軍の上陸に備えていたが、朝からの来襲機も少なく上陸作戦の気配は見られなかった。南部港川地区は0730ころから艦砲射撃を受けたが、北、中飛行場の西海上の米艦船は僅少であった。
 29日の本島地区への来襲機は、米機動部隊が九州方面攻撃中のためか、354機で前日に比べて少なかった。艦砲射撃は北飛行場地区約2500発、中飛行場地区約800発、北谷地区約1500発、小禄地区約1000発、港川方面が約1300発であった。
 九州地区は0630ころから終日にわたり米艦載機延べ約600機の攻撃を受け、多大な被害を蒙って、その後の沖縄作戦に支障をきたすことになった 。
 電報綴に、3月29日の米艦船数は「北飛行場那覇方面戦艦6,巡洋艦8隻,軽巡洋艦3隻,駆逐艦5隻,掃海艇18隻,小型舟艇8隻」という。

神谷※※の証言(宇座)要約
 三月二十九日、私達が移って二日後にヤーガーは大変な爆撃を受けました。一回目の爆弾がヤーガーのすぐ傍に落ち、二回目の爆撃はヤーガーを直撃しました。天井の大きな岩が崩れ落ち、モウモウと立ちこめる砂塵の中、泣き叫ぶ声にまじって、母の名を、父の名を、あるいは子の名を呼ぶ声が聞こえました。岩に押しつぶされて身動きならず「助けてくれ!」と叫ぶ声等が、ガマの暗闇に響きわたりました。

 やっとの思いで外に出ると、まだ午後四時か五時くらいで日が暮れてはいませんでした。ヤーガーを飛び出した私達の背中を追うようにして、敵機が機関銃で「パラパラッ」と撃ってきました。家族はバラバラにウージ畑に逃げ込み、日が暮れるまでそのまま隠れていました。(→ 読谷村史第五巻引用)

米軍の上陸した読谷村には,1個連隊を配置していたが,これは航空機がなくなり余剰となった航空部隊関係者で3月23日に急遽編成された「特設第一連隊」である。

特設第一連隊は,1200名あったが,装備は不十分で,形だけの飛行場防衛を担っていた。というのは,八原博通高級参謀は,持久戦を戦うというために,大本営,参謀本部の意図に反して,飛行場防衛を事実上放棄し,米軍上陸直前に飛行場の破壊を命じていた。結局,沖縄に上陸した米軍は,航空基地を直ぐに占領し,整備し,海兵隊の夜間戦闘機を含む米軍機が,沖縄本島に駐留した。

米戦艦「ウェスト・ヴァージニア」は1914年建造の旧式戦艦で,14インチ砲12門搭載。最高速度21ノット。低速のため,陸上砲撃に使われた。真珠湾で撃沈された戦艦5隻のうち1隻だが,引き揚げられ戦列に復帰した。

1945年3月23日から,米戦艦「ウェスト・ヴァージニア」は14インチ砲(36センチ砲)によって陸上砲撃を開始し,4月1日にも,沖縄本島への上陸前に支援砲撃した。しかし,4月1日,神風特攻を受け,命中した。

写真(左):洞窟陣地を攻撃する米海兵隊:All Marines sight-in on the mouth of a cave into which an explosive charge had been thrown, and wait to see if any enemy soldiers will try to escape. This is one of the many bitterly contested cave positions found in numerous ridges and hills.

在日米国海兵隊「大隊が沖縄戦を追悼}には,2005年4月1日にトリイ・ビーチで,第3役務支援群第9エンジニア支援大隊の海兵隊員と海軍兵の沖縄上陸60周年式典を開催したことを,次のように伝えた。

沖縄戦やこの戦いを記憶に留めておくことの大切さについてのスピーチが行なわれた。この戦争で同師団の役割で最大な成功を収めた水陸両用上陸を含む第1及び第6海兵師団の海兵隊員の活躍がハイライトにあがった。

支援中隊司令官トーマス・H・コロスキー大尉は、日本の司令官らが用いた戦術や米国海兵隊員が日本軍を倒した精細な方法を説明した。上陸後両師団の海兵隊員は、沖縄本島を囲む防衛陣地を設置した日本兵士を一掃し始めた---。

写真(右):火炎放射器を手にして敵を捜索・掃討する米海兵隊員;In the end, victory was achieved at Okinawa by well-trained assault troops on the ground, like this Marine flamethrower operator and his watchful rifleman.

日本軍が海岸で米軍を攻撃した時は失敗に終わったので、日本軍は首里城周辺の内陸や丘、洞窟に陣地を設置した。塹壕で防備された日本兵士を倒すために、洞窟の入り口を放火するために火炎放射器が用いられ、一方ではこん包爆薬を持った一人の海兵隊員が洞窟に爆発物を投げ入れ封鎖したとコロスキー大尉は話す。

「一人の海兵隊員が真近でこん包爆薬を放り投げて、入り口付近に生存者がいて、爆薬を外へ投げ返さないことを願ったんです」とコロスキー大尉は説明した。

上陸して首里城やその周辺で日本兵士を倒して82日後に、この戦いを終えた----。米軍は6万人以上の犠牲者が出て、日本軍の犠牲者数は10万人だったとコロスキー大尉は話す。

「私たちは毎日神聖な場所を歩いて、ここで戦い戦死した海兵隊員たちの恩恵を受け、彼らが行ったことを学ぶんです」

写真(左):戦車で後方に運搬される米海兵隊負傷兵;Tanks evacuate the wounded as men of the 29th Marines press the fight to capture Sugar Loaf. The casualties were rushed to aid stations behind the front lines.

スミス先任曹長の父親は、彼の小隊にいた9人の火炎放射器砲手で、唯一沖縄戦で生き残った一人である。「父はグラント(兵隊)で、当時は‘マッド・マリン’と呼ばれていました。西ペンシルベニアで育った年少時代、日曜日の午後になると、父が海兵隊員として沖縄にいた時の話をしてくれたことを今でも覚えています」とスミス先任曹長は話した。

この式典は、当時の海兵隊員の払った犠牲について出席者が学ぶ良い機会となったと第9エンジニア支援大隊バルク燃料担当のマイケル・S・チャーチル伍長は話す。「誰かが指摘しないと、沖縄でどのような戦いが起こったのか本当に実感することはないでしょう」(引用終わり)

米海兵隊でも,日本人の沖縄戦体験者と同様に語り継ぐ必要性を述べているが,伝えるべき事象は同じでも,その意義は日米で大きく異なるようだ。(⇒米兵の沖縄戦体験談:Oral History Project of the World War Two Years

写真(左):攻撃終了後日本軍陣地を捜索する米海兵隊員;This Marine patrol scouts out the rugged terrain and enemy positions on the reverse slope of one of the hills in the path of the 1st Division's southerly attack.

第503特設警備工兵隊隊は沖縄住民からなる防衛隊によって編成された部隊で、「防衛召集概況一覧表」(防衛研修所戦史室)によると、沖縄県下各地から民間人が防衛召集を受け,日本軍の指揮下に戦闘,伝令,物資運搬などに参加した。召集の時期は、1944年10月下旬と1945年2月中旬で,召集人数は次の通り
小禄(150人)、豊見城(130人)、南風原(80人)、真和志(100人)、首里(200人)、那覇(200人)、浦添(100人)、宜野湾(100人)、羽地(50人)。
4月1日頃、読谷山村から越来村白川付近に向かい、再び石川岳に転進したとある。

第2大隊長 第四十四飛行場大隊長 野崎眞一大尉
 第44飛行場大隊 390名
 第504特設警備工兵隊 800名
 要塞建築勤務第6中隊 300名
 誠第1整備隊
 生徒隊(尚謙少尉の指揮する県立農林学校生徒隊170名)

写真(右):荷揚げする人工港の埠頭:物資補給能力の優れた米軍は,地上兵力でも日本軍を圧倒していた。

○第504特設警備工兵隊(球18818部隊)
   読谷山村民への防衛召集は、隣接する北谷村(現嘉手納町)に駐屯していた第504特設警備工兵隊(球18818部隊)が行った。そして、1945年2月10日150人が召集を受けた。

(→読谷村史 >「戦時記録」下巻>第三章>防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦>読谷山村への日本軍部隊配備より引用)

米軍の空襲後の3月26日、第32軍は同連隊に対して、読谷山(二二〇高地)の既設陣地により北飛行場を制扼する任務を与えた。しかし,1945年3月30日には,沖縄の主要な航空基地である北・中飛行場(後の嘉手納基地)の破壊命令が出された。しかし,急遽出された命令であり,破壊のための十分な爆薬準備もしていなかったため,飛行場の破壊は不十分であり,米軍は無傷で占領できたことを喜んだ。
占領した沖縄の飛行場では,日本軍の秘密兵器だったはずの人間爆弾「桜花」も多数鹵獲されている。特攻は奇襲攻撃を旨とするはずだが,日本軍の兵器管理は杜撰だった。

各部隊は戦闘配備につき、上陸した米軍に対して主に「夜間斬り込み」「対戦車肉弾攻撃」を実施したようにいわれる。しかし,重装備の米軍に,援護射撃も航空機の支援もなく「斬り込み」に出撃するとは,どういうことか。

写真(右):米軍の上陸した読谷村の海岸;米軍兵士は「那覇ビーチ」に上陸したと記している。

軽装備の歩兵をゲリラ的に夜襲させる作戦は,サイパン島,ペリリュー島,フィリピン群島で既に試みられた。日本軍は,携帯できる対戦車兵器を保有していない。軽機関銃や擲弾筒は配備数が少なく,手動装填の三八式歩兵銃,九九式歩兵銃しかもたない歩兵が夜間「斬り込み」攻撃をしても,敵の警戒網を突破するのは困難である。

近代戦では,銃剣や刀剣による「斬り合い」はまず起こらないから,「斬り込み」=銃弾・砲弾の雨の中を軽装備で援護もなく行う突撃である。勇ましいが無力な「斬り込み」は,大半が戦果をあげることなく撃退され,あるいは殲滅された。

4月3日、飛行場守備を任じられた特設連隊は国頭へ撤退した。

日本軍の歩兵ゲリラ攻撃もなく,沖縄西岸に上陸した米軍は直ぐに沖縄東岸に達し,本島を南北に分断した。沖縄では,北部にほとんど兵力を配備していなかったために,南部の主力が包囲される形になった。北部では,取り残された日本軍部隊が個別に戦うか,掃討してくる米軍から逃げ回り,持久戦を戦うしかなかった。持久戦を戦い,逃げ回る日本軍の中には,収容されたり,投降したりした沖縄が情報提供など敵対的行為をしたとして,スパイ扱いし,処刑したこともあった。

米軍は歩兵揚陸艦や戦車揚陸艦から,トラック,M4中戦車,155mm榴弾砲「ロング・トム」などを素早く陸揚げした。機動力と火力に富んでいる上に,航空機と艦船の支援攻撃にカバーされている米軍を,火砲のない歩兵部隊が平地でくい止めることは不可能である。日本軍将兵が,陣地を出て米軍に突撃する気にならなかったとしても無理はない。

写真(左):米陸軍の155mm榴弾砲;移動するときに砲の構造を傷めないようにの木製ゲージで方針部分が覆われている。This is PFC Francis A. Yakel sitting on the Attitude Adjustment Tool! One of the 155mm guns in the 1-155MM Howitzer Battalion,USMC.

OKINAWA CAMPAIGN TO PERSONNEL OF THE FIRST 155-MM HOWITZER BATTALION には,次のような155ミリ砲による沖縄戦での戦果報告が記載されている。

部隊の発射した155ミリ榴弾3万2, 638発
破壊した火砲(口径76.2mm以上)39門,損傷させた火砲37門,沈黙させた火砲10門.
機銃陣地の破壊11門,損傷8門
トラックの破壊 44台,損傷31台
戦車の破壊1台,損傷1台
破壊した橋梁2本。破壊したトーチカ10ヶ所,損傷させたトーチカ2ヶ所。
破壊した対戦車砲2門,損傷させた砲1門。 各種ダンプの破壊29台。
破壊した機銃13門,破壊した迫撃砲2門,損傷させた迫撃砲1門,沈黙させた迫撃砲4門。 死傷させた敵2122名(確実),1245名(不確実)。

沖縄の米軍155ミリ榴弾3万2638発が挙げた戦果(破壊・損傷・殺傷)は火砲・トーチカ・人員など合計3548目標で,有効射撃砲弾数は発射数の1.1%に満たない。つまり,米軍は命中率が低いために,2万9000発以上の大量の砲弾を浪費し,物量を投入して,戦果を挙げたが,それによって人命の犠牲を最小に抑えたともといえる。


沖縄本部半島の退避壕内の日本軍八九式十五加農砲(15センチ砲)
;口径149.1mmの重砲。沖縄で玉砕した独立重砲兵第百大隊に属す。この15センチカノン砲は「戦後洞窟陣地から発掘された」ともいわれるが、実際は米軍に鹵獲されている。沖縄の米軍博物館、陸自那覇駐屯地を経て、1993年に靖國神社に奉納された。Uncovered on Motobu Peninsula, hidden in a cave, was this Japanese 150mm gun waiting to be used against 6th Marine Division troops advancing northwards. Department of Defense Photo (USMC) 122207 。

砲兵司令官和田孝助中将の球第4401部隊は,勇戦奮闘したが,逐次本島南部に撤退した。部隊の九六式十五糎榴弾砲は,糸満町真壁の陣地で全弾打ち尽くし,1945年6月22日,連隊長山根忠大佐以下砲兵隊員は敵戦車への火焔攻撃,「斬り込み」「肉弾攻撃」を敢行。

1966年以来沖縄にあった15センチ砲を保管・展示している靖國神社遊就館の解説には「739柱の将兵悉く、祖国日本の永遠の平和と繁栄を祈念しつつ、護国悠久の大義に殉じ、火砲と運命を倶にし玉砕せり」とある。

全弾撃ちつくし,砲兵は肉弾攻撃して玉砕したとのの説明は,榴弾砲がこのように完全な形で鹵獲されたことをどう説明するつもりなのか。誉れ高い皇軍では「砲即軍旗」,砲兵は砲とともに運命を共にするはずではなかったのか。最善を尽くし最後まで任務を全うしたのであれば,投降しても止むを得ないが,それを許さないのが,弾のない砲兵による斬り込み,玉砕の顕彰である。

80日余りの沖縄戦の戦死者は、米軍が1万人余に対し日本軍は約9万人で、県民は10数万人といわれる。

5月末には,日本軍兵士と,軍と共に南部へ移動した中部地区の人々が入ったため,喜屋武岬一帯の東西10丗らずの地域に,約3万人の将兵と10万人余の住民が撤退した。 ⇒沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

沖縄戦が長期持久できたのは,洞窟陣地に立てこもったこととならんで,(日本軍の戦車は,30両以下だったが)硫黄島を上回る多数の火砲を配備した。

沖縄本島には,軍直轄の第5砲兵司令部があった。これは,和田孝助中将率いる野戦重砲兵2個連隊,重砲兵1個連隊,独立重砲兵1個大隊,臼砲1個連隊,迫撃砲4個大隊,野戦高射砲4個大隊,独立速射砲3個大隊を基幹とする。

配備された火砲は,75ミリ以上の砲400門だったが,米軍と比較すれば劣勢で,保有砲弾数は米軍の1%もなかったであろう。


写真(左):九七式迫撃砲;日本軍の90ミリ迫撃砲 口径: 90.5 mm ,全長: 1.217 m 射撃仰角: +45 to +85度,弾丸重量: 5.26 kg 初速: 227 m/sec 重量: 172.5 kg,射程: 3,800 m ,製造数 : 600 写真(右):日本軍の九七式曲射歩兵砲;間接照準の81ミリ迫撃砲。スウェーデンのボフォース社の開発した81ミリ迫撃砲のコピー兵器であるが,日本独自の90.1ミリ迫撃砲よりも軽量,安価で,使いやすく有効な兵器であった。

和田中将の砲兵部隊は,日本陸軍の最高水準だったし,半地下壕やコンクリート陣地もあった。しかし,沖縄に上陸した米軍を砲撃すると,すぐに何倍,何十倍も反砲撃を受けた。米軍は,上空の制空権を握り,観測機から誘導を受けて正確な砲撃をした。海上にある戦艦,巡洋艦の主砲は,日本陸軍の最大級の火砲よりも強力だった。また,米軍航空機による機銃掃射,通常爆弾・ナパーム弾,ロケット弾による地上攻撃も熾烈だった。

米第10軍報告書Tenth Army's Action Reporによれば,日本の沖縄守備隊第32軍の防備を評して "連続した洞口陣地を構築しての戦いこそが最大の特徴であると述べた。The continued development and improvement of cave warfare was the most outstanding feature of the enemy's tactics on Okinawa."

首里城一帯の高地から南部にかけて守備を固めた牛島司令官と参謀は,二つの戦略拠点,那覇港と中城湾 ( Buckner Bay)を制圧できた。そこで,米軍は,日本軍の待ち受ける「牛島将軍の殲滅地区 Ushijima's preregistered killing zones」で,格好の標的にされてしまった。

このように,米軍の側は,沖縄の日本軍守備隊の戦闘能力を高く評価しているが,そのまま鵜呑みにすることは禁物である。米軍側が日本軍を高く評価する理由は,自分たちが打ち破った敵が強かったことを,換言すれば,強い敵を殲滅した沖縄の米地上軍が優秀であったことを示したいからである。


写真(右):米軍連絡機NE-1 / L-4 Grasshopper「グラスホッパー」
(現地の日本人は「トンボ」「偵察機」と呼称);連絡飛行や患者・医薬品の輸送にも使用された。しかし,日本軍の陣地・避難壕などを上空から観測し,米軍の砲火を誘導したため,日本人からは恐れられた。A "Grasshopper" from a Marine observation squadron flies over Naha, permitting an aerial photographer to take oblique photos which will be used by Marine artillery units to spot targets and determine the damage already done by the Allies. Department of Defense Photo (USMC) 128032 。

米軍戦記では,物量に上回る米軍が,劣勢な日本軍を破ったような,安直な描き方はしない。頑丈な洞窟陣地を構築して容易万端待ち伏せしていた日本軍を撃破できたのは,攻撃した米地上軍に,強固な意志があったからである,という勝利・名誉が誇示されている。

米軍側が日本軍の強さを強調するのは,米軍の優秀さを示すための計略・欺瞞の側面もある。これ認識せず,米軍の戦記を鵜呑みにして「日本軍は強かった,日本の将兵はよく戦った」と自画自賛するのは,計略に巧く乗せられているからで,口惜しい。

日本軍砲兵は,隠匿陣地にあったが,米観測機「グラスホッパー」に発見されれば,集中攻撃を受けた。沖縄防衛戦で、独立重砲兵第100大隊装備の九六式十五糎榴弾砲8門は、強力な長射程と火力で、2ヶ月以上に渡り抗戦を続けたようにいわれるが,砲の大半は,5月4日の日本軍の反攻時期かそれ以前に破壊されていたようだ。


写真(左):米軍司令部となった簡易かまぼこ型兵舎
;MAG33Headquarters Quonset Huts on Okinawa 1945 (Personal Archive)半分は地上に,半分は中空に浮き上がって立てられている。 “Half of it was still on the ground and half was sticking at right angles up in the air.”今日から見れば掘っ立て小屋ではあるが,当時の第一線近くにこのような兵舎を完備できる米軍の経済力は脅威である。戦場での休息も米兵には当然の権利であった。

九六式十五糎砲一門が、知念村の洞窟内から発見、戦後に在沖縄米軍博物館に展示された。15センチ砲は,1976年10月に陸上自衛隊に寄贈,その後、元重砲兵の運動もあって、1993年4月に靖国神社に移された。

米軍は上陸一日目の4月1日に北(読谷)・中(嘉手納)飛行場を占領、二日目に中城湾を見下ろす高地から普天間北方まで進撃、3日に沖縄東岸に到達し本島を南北に分断。


写真(右):米軍の兵舎
;最前線の部隊と交代しながらの攻撃で,兵士の休養にも十分配慮している。兵器よりも兵士の命を尊重した豊かな米国と,兵士の命よりの兵器を大切にした貧しい大日本帝国の戦闘の違いが大きく現れたのが,後方部隊,補給能力であった。

陣地戦では,沖縄住民は兵士や物資運搬員としても働いたが,婦女子は食糧を浪費する邪魔者在とみなされたようだ。住民を守るのではなく,陣地を死守することが使命であれば,部隊指揮官としては,用のない住民には陣地から立ち退いてもらうしかない。

5.1945年の沖縄戦では,日本軍兵士による米軍捕虜の処刑も行われたが,中国などでの捕虜への処刑の経験に加えて,特攻隊や死守部隊という切羽詰った状況が捕虜処刑という形で具現したとも言える。

  ⇒日本軍の捕虜になった連合国兵士・民間人 

写真(左):血液配給センター;兵士の命を重視したのは,経済力がある民主国家の軍隊の特徴ともいえる。写真(右):1945年5月,日本の子供を助ける米兵;Curious Okinawan children stand by as an American medical aidman takes a blood smear of a native girl at the Military Government Internment Camp, Taira, Okinawa, May 1945.

6.沖縄戦では,日本軍が航空機による大規模な特攻作戦を展開した。

1945年(昭和20年)3月23日,米艦隊が沖縄本島に艦砲射撃を開始。上陸を覚悟した日本側は,3月25日に県庁を、首里城内の軍司令部地下壕に移転,沖縄守備隊の第32軍は、甲号戦備(戦闘準備)を下令。本土の第10方面軍と海軍は,「天一号作戦」を発動。これは,日本陸軍機・海軍機と地上軍による米輸送船団と艦艇に対する迎撃戦である。
  検証:沖縄戦のカミカゼ特攻隊を読む。

7.1945年4月13日,沖縄本島に隣接する伊江島に,米軍が上陸したが,ここでも日本軍の飛行場が簡単に占領され,日本軍兵士と同数の住民が死亡している。 

  伊江島の戦闘によれば,日本軍は1943年秋ころから陸軍飛行場を建設し、1944年9月末には伊江島中飛行場、伊江島東飛行場が完成。

しかし,米軍による沖縄侵攻の1ヶ月前,1945年3月10日、第32軍は、守備不可能な島の飛行場の破壊を命じた。飛行場破壊は3月末まで目途とし、破壊終了後,飛行場大隊などは本島に移動する命令がでた。
  沖縄地上戦「米軍、伊江島に上陸」を読む。

4月16日早朝,伊江島を,米海軍第四艦隊所属の戦艦2隻,巡洋艦4隻, 駆逐艦7隻が艦砲射撃開始。0650,上陸用舟艇準備。0758,南部の飛行場近くに上陸。

三日後、斬込み(=自殺攻撃)の命令が下ったが,小銃もなく、手榴弾を二個持って出撃した防衛隊員もいる。

伊江島の日本軍の戦死者は,住民を含めて4706名,米軍の戦死者172名、負傷902名、行方不明46名、死傷者合計1120名。

8.沖縄戦では,多数の住民が死傷した。これは,日本人に敵の捕虜となれば殺されるとの強迫観念があったことが原因である。しかし,米軍は豊富な物資・人員の一部を住民保護に割り当て,1945年3月26日の慶良間列島直後から軍政布告を発した。  

那覇市の沖縄戦が異説では,「軍人よりも住民の死者が多いのか」として,次のように説明している。

沖縄戦は首里城にある沖縄守備軍の司令部壕が陥落すれば終わるものと、米軍側も、沖縄守備軍の司令官・沖縄住民も思っていたようだ。それで首里以南の南部地域には多くの住民が避難していた。ところが本土防衛の時間稼ぎのために,5月22日に南部撤退が決定される。多くの住民が避難していた所に戦争を続けるために軍が逃げてきて、壕などを強制的に徴用した。住民は砲弾のなかに追い出される事となった。(引用終わり)

写真(左):米兵に保護された沖縄住民;1945年5月。Within a short time after they came ashore, Marines encountered native Okinawans. This group of elderly civilians is escorted to the safety of a rear area by Marine PFC John F. Cassinelli, a veteran 1st Marine Division military policeman. Department of Defense Photo (USMC) 117288

 沖縄戦での住民の集団自決の背景としては、臣民として一億特攻を強要されるがごときプロパガンダが行われ、軍人・民間人・非戦闘員のすべてが,敵への降伏・投降はできないと認識があったことが指摘できる。

捕虜となることができないというのは,日本人としての誇りもあるが,同時に捕虜となっても虐殺されたり,強姦(レイプ)されたりと残虐行為を受けると,兵士も民間人も考えていたことがより大きい原因である。

写真(右):沖縄本部半島の農業地帯を進撃する米軍歩兵;八重岳には日本軍陣地があった。Marines of the 6th Division have a peaceful "walk in the sun," Ishikawa on L-plus 3. Their idyllic traipse will end soon as as they head north down the hillside approaching the town of they near Mount Yae Take and well-defended enemy positions. Department of Defense Photo (USMC) 116523 。

日中戦争の時から,中国の正規兵やゲリラを捕らえた後,斬首や刺殺の度胸試しをしており,中国の民間人へも強姦や暴行あるいは強制労働など当然のように行われていた。

悲惨な中国人捕虜。民間人の話を聞き及んでいた沖縄駐屯日本兵や,このような実態を帰還兵から聞いて知っていた沖縄の住民,兵士は,自分たちが捕虜となれば,日本軍と同じような捕虜の扱い=残虐行為を受けると確信していたのである。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の教えは,日本軍の俘虜虐待の裏返しであり,米軍も同じように日本人俘虜を取り扱うと思っても不思議ではない。

沖縄中部で,西海岸に上陸した米軍が東海岸まで侵攻し,沖縄本島の日本軍支配地域が南北に分断された。こうして、北部の国頭地区への疎開は不可能となった。

南部に残された住民は南端の島尻地区に避難したが,日本軍守備軍が島尻地区に撤退してくると,軍民の避難所の割り当てから,民間人が避難所から放逐される事態も生じた。逃げ場のない戦場で民間人の被害が増加した。

、<鉄血勤皇隊・通信隊>
 沖縄師範学校男子部、沖縄県立第一中学校、同第二中学校、同第三中学校、同工業学校、同農林学校、同水産学校、市立商業学校、私立開南中学校の九校の学徒が,14-17歳は「鉄血勤皇隊」,12-13歳は「通信隊」を編制して軍務についた。

ひめゆり学徒隊
 1945年3月24日,島尻郡玉城村港川へ米軍の艦砲射撃が始まったときに,沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人,教師18人の計240人(職員生徒297名ともいう)で構成されたのが「ひめゆり学徒隊」で,主に那覇市の南東5キロ南風原(はえばる)陸軍病院において従軍看護婦に相当する補助看護婦の任務を与えられた。米軍上陸から1ヵ月半たった1945年5月25日,撤退命令により南風原陸軍病院から南下し,第1、第2、第3の各外科壕に配属された。

6月18日に軍よりひめゆり学徒隊の解散命令が出て、翌19日に脱出の為に第3外科壕に集合している時に、米軍のガス弾攻撃を受けた。6月19日の第三外科の壕では、生き残った5名をのぞき職員生徒40名が岩に枕を並べた。そして,軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。沖縄戦で,ひめゆり学徒194人,職員を合わせて219名が生命を失なった。

ひめゆり学徒のなくなった南風原陸軍病院第三外科壕
;ひめゆりの塔が,沖縄戦末期の激しい戦闘でほぼ全滅した南風原陸軍病院第三外科壕の跡に慰霊碑として建立されている。1946年4月7日除幕。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、県立第一女子高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の標章・校誌名「白百合」とを組み合わせた造語。

1945年,沖縄本島で,八重山出身者を集めた「学徒出陣壮行会」が,沖縄女子師範学校の女学生が参加して開催された。宮良英加の答辞。「私は,徴兵検査が繰り下げになって,19歳から入隊しなければならないということを聞かされた時,頭の先からつま先にかけて,鉄の棒を突き刺されたようで,非常に残念でたまらなかった。師範学校に入学したからには,一度は生徒を教えてみたかった。年老いた両親が一枚の卒業証書を待ち焦がれているのに,それを見せることもなく,勉学の途中で入隊しなければならないというのは,非常に残念でたまらない。しかし,いったん戦場に出たからには,生きのびて帰れるとは思えない。女の人は,男子より助かる機会が多いから,生き残ったら必ず伝えて欲しい。戦争は非常なものだ。どんなに勉強したくてもできない。したいことがまだまだたくさんあったのに。戦争のない時代に生まれたかったということを,のちのちの人に伝えて欲しい」彼は,負傷して,南風原陸軍病院で右腕を切断され,ガス壊疽によって,頭を侵され,母親を呼びながら亡くなったという(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』pp.73-75参照)。

負傷者を看護した「ひめゆり学徒」は,攻撃を受けている最中でも,負傷者から,「おれたちは貴様らの沖縄を守りにきて,前線で負傷してこの壕に来たのだ。弾の中でも水を汲んでくるのが,お前等の務めだ。壕から出て,水を汲んで来い。」と要求された。
しかし,「こんな弾の中,誰が行けるもんか。無茶を言うな。」と学生を庇ってくれる兵隊もあった。
「この戦は負ける。米軍の物量には勝てない」という兵隊もあった。看護学生は「兵隊さんがそんな弱気でどうするの。-----物量より精神よ。勝利の日まで頑張ろう」と励ました。壕の中は,血や膿,大小便の臭いなどが入り混じり異様な臭気を発し,それが鼻からも口からも体に入り込んで,人々の体に深く染み込んだ。(『私のひめゆり戦記』pp.103-107参照)。

首里から撤退した後,住民は右往左往することになった。壕に入れても,子供泣くと米軍に悟られるから,出て行けと言われて,弾の飛び交うなかに,すごすごと出てゆく母親もあった。

1945年6月18日,第三外科壕の中央に集められた「ひめゆり学徒」は,宮崎婦長から「これまで生徒のみなさんは,軍に協力してきたけれど,ただ今,解散命令が出された。今後は,一人ひとり自由に行動してよろしい。本島にご苦労であった。看護婦採用試験に合格したものは,軍が責任を持つ。軍と行動を共にするかどうか,本人の意志に任せる。---」と告げられた。

沖縄最南端の島尻まで来て,敵を目前に解散命令が出たことに,いったいどこに行けというのか。国難に殉ずる気概でやってきたのに,この場になって,解散とは何事だという憤慨が,ひめゆり学徒たちに,こみ上げて来た。しかし,しばらくすると,本島北部の国頭出身の生徒たちは,親元に帰れるとの喜びの声にかわっていった。分散会が開かれ歌を歌った。
翌朝,壕の入り口で,日本人による投降勧告があった。「----出てこないとこの壕は爆破します」と言われたが,誰も出て行かったので,ガス弾が打ち込まれたのか,壕の中に白煙が立ち込めた。いざというときのために,生徒は兵隊を拝み倒して手榴弾をもらっていたが,先生から「死ぬときは皆一緒だ。死ぬときは,先生が殺してやろう」といわれ,手榴弾は先生が取り上げていた。「殺して」の声が響く,阿鼻叫喚の中,宮良ルリは意識を失った。教職員・生徒48名中,43名が死亡(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』p.139参照)。

1945年6月19日深夜,第二外科壕から脱出した第二外科診療主任目大尉以下,軍医,衛生兵,看護婦,生徒は,銃撃にさらされた。米軍砲兵を見方と誤認し接近し,砲撃された。仲村渠(なかんだかり)郁枝は,将兵三名についていったが,大尉から「これで死ぬと楽だ」と,青酸カリ1ビンを分けてもらい,感謝した。大尉はためらった後に,青酸カリを飲んだ。見習士官は,二等兵と看護婦の二人はに友軍を捜してどこまでも生きのびてゆくように諭した。見習士官も服毒したが,1ビンの半分では利かなかった。仲村渠のを半分わけてくれと頼み,服毒した。夜が明けると,ざわめく人声がした。仲村渠は,夢中で人々の群れを追っていった。

6月19日の看護隊解散後,壕を出て,国頭に脱出を図ったが,砲撃の中,負傷した喜舎場敏子は,アダンの影に横たわるしかなかった。26日,水を求めて山を下り,日本兵に助けられて,壕に入った。27日早朝,「でてこい,もし出てこなければ火炎放射器でぶっ放すぞ」と流暢な似本後の投降勧告があった。「君ら女だけ三名でてゆけ」「兵隊さん,どうぞ一緒に死なしてください」山本班長は,「今裸で出るから弾はうつな」と出ていった。喜舎場敏子は,捕虜になるより死んだほうがよい,学校の不名誉だと,同僚と手を握り合って震えた。「オーイ,出て来い」班長が呼び「おい,出てこんか」と怒鳴られた。喜舎場敏子がでると,壕の入り口には米兵30名が銃を向けていた。その一人が,彼女の腕時計をとった。(仲宗根政善(1983)『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』角川文庫 引用)

白梅学徒看護隊
1945年2月,軍から県立第二高等女学校入隊要請があった。県立第二高等女学校の四年生56名で,「白梅学徒看護隊」が編成され,八重瀬岳の第24師団第一野戦病院に補助看護婦として勤務した。要請に応じた少女たちは、わずか十八日間の看護教育を受けただけだったという。

野戦病院には、山の中腹をくりぬいた「下の壕」と、自然洞窟(ガマ)を利用した「上の壕」があったという。

5月末、首里の司令部は南部への撤退を決定し,野戦病院も解散。6月4日,野戦病院に解散命令がでたが,動けない数百人の重傷者は、青酸カリとブドウ糖による処置がされた。学徒は南部に撤退するが,22人が戦死。全員が解散後の死亡だった。

県立第三高等女学校「なごらん学徒隊」10名,県立首里高等女学校「ずいせん学徒隊」61名,私立積徳高等女学校「積徳学徒隊」65名,私立昭和高等女学校「梯梧学徒隊」17名,などもある。

  鉄血勤皇隊の出身高校と死亡率

 

総 員

死亡者

死亡率

県立師範学校男子部

386

228

59.1%

県立第一中学校

371

210

56.6%

県立第二中学校

144

127

88.2%

県立工業学校

94

85

90.4%

那覇市立商業学校

99

72

72.7%

私立海南中学校

81

70

86.4%

県立農林学校

173

41

23.7%

県立第三中学校

363

37

10.2%

県立水産学校

49

23

46.9%

県立八重山中学校

20

1

5.0%

合計

1780

890

50.0%

出所)http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/p12-2.htm#2より作成

  女子看護隊の出身高校と死亡率

学 校 名

総 員

死亡者

死亡率

沖縄師範学校女子部

122

104

85.2%

県立第一高等女学校

200

86

43.0%

県立首里高等女学校

83

50

60.2%

県立第二高等女学校

69

34

49.3%

私立昭和高等女学校

44

31

70.5%

私立積徳高等女学校

55

28

50.9%

県立第三高等女学校

10

1

10.0%

合計

581

334

57.5%

出所)http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/p12-2.htm#2より作成


沖縄における米軍による軍政計画

米軍による軍政下で物資配給を行う日本人収容者
;Many Okinawan men were given jobs carrying supplies to American troops, while others helped to distribute food supplies to displace persons.

米軍は軍政要員を編成して,住民対策を行なうこととし,10万人分の食糧や5万人分の衣料品などを準備した。

MEDICAL DEPARTMENT, UNITED STATES ARMY;CIVIL AFFAIRS/MILITARY GOVERNMENT PUBLIC HEALTH ACTIVITIES 第16章Section II. Okinawa Planning for Military Governmentによれば,米軍の軍政計画は次のようなものである。

米国陸軍第10軍the Tenth U.S. Armyのウィリアム・クリス将軍Brig. Gen. William E. Cristが1994年11月3日に軍政部Military Government Section (G-5)を管轄することになった。

1.1945年1月6日に,第10軍司令部に軍政に関する作戦命令第7号Operational Directive No. 7 for Military Government of the Commanding General Tenth Armyが発令。

2.1945年2月25日,沖縄住民を管理するために、米軍各師団・軍には形式の異なるA、B、C、Dの四つの民間政務部隊Civil Affairs units が配置された。
 Aチーム(将校4名,下士官兵11名):各師団に配置され、住民を戦闘地域から避難させて住民集結キャンプを設置すると戦闘部隊とともに移動する(4月1・2日上陸)。6チームあり。

Bチーム(将校8名,下士官兵19名):各師団と軍に配置され、Aチームの移動後住民集結キャンプを引き継ぐ(4月2・3日上陸)。3チームあり。

Cチーム(将校10名,下士官兵26名):キャンプチームとも呼ばれ、各師団を統括する二つの軍に配置される。約1万人規模のキャンプの設置、運営を任務とする(最初の上陸は4月3日)。13チームあり。

Dチーム(将校22名,下士官兵60名):地区チームとも呼ばれ、駐留のはじめに上陸する(最初の上陸は4月27日)。沖縄が軍政地区に分割されると地区内のCチームを管理する。Bチームを吸収して6万から10万人規模の民間人地区を統治する。6チームあり。
(『沖縄県史 琉球列島の軍政』26頁を紹介した読谷村史  >「戦時記録」下巻  >第四章 米軍上陸後の収容所豊田純志から一部引用)

米陸軍公刊戦史Chapter XVI Behind the Front;Military Governmentによれば,1945年4月1日の米軍沖縄上陸から,米軍による軍政下におかれる沖縄住民が急増し,4月末は,住民12万6876人が米軍軍政下に保護・収容された。そして,首里の防衛線が崩壊する5月中に,その数は増え続け,6月初めには,14万4331人にまで増加した。

The number of Okinawans under control of Military Government rose rapidly in the first month of the invasion until by the end of April it amounted to 126,876. Because of the stalemate at the Shuri lines the increase during May was gradual, the total number of civilians at the beginning of June being 144,331.


写真(上):物資をもらう沖縄婦人;Edward Schwartz撮影。米軍から食糧などの供与を受けている沖縄住民がいる一方で,日本軍と行動をともにして,摩文仁の丘に追い詰められ命を落とした住民もいる。

写真(右):沖縄避難民となった婦女子;米軍の損害;死者1万2 540名,負傷者 3万2 000名,艦艇沈没 36隻,航空機損失 763機.
日本の損害; 死者20万名 (内訳は兵士6万6 000名,軍に動員された民間人 9万名,一般民間人4万名),特攻機 1 900機,捕虜 7 400名。

MEDICAL DEPARTMENT, UNITED STATES ARMY;PREVENTIVE MEDICINE IN WORLD WAR II Volume VIII CIVIL AFFAIRS/MILITARY GOVERNMENT PUBLIC HEALTH ACTIVITIES 第16章Section II. Okinawa Planning for Military Governmentによれば,米軍の軍政と民間人保護は次のようなものである。

1944年4月30日,沖縄の住民12万5000人が米軍の軍政下にあったが,安全保障上の理由から戦場から離れた集落に集められたり,鉄条網で囲われた収容所に入れられた。3万1825人のいる囲われた収容キャンプもあった。

On 30 April (D + 29), approximately 125,000 civilians were under Military Government care. For security reasons, these civilians were made to congregate in villages well to the rear of the combat zone, or were sealed off in wire enclosures. All of this necessitated large mass movements of refugees. On the Katchin peninsula, 31,825 Okinawans were in one wire-enclosed camp. By native standards, health in these camps was good and no epidemics were encountered, but scabies and louse infestation were common.

写真:米軍作成の投降票:121-J-1. I cease resistance. Dropped over Cagayan in the Philippine Islands on 27 April 1945. 25-J-1. I cease resistance. No photograph of prisoners on the front. Instead, a hand holds a safe conduct pass on a stick. The back has text, "Your comrades in arms who are on the road to rebirth" and "Yesterday we were enemies, today we are friends." This leaflet depicts the life of Japanese prisoners of war in Allied camps.

住民に対する扱いは,
/容仕配慮・人権保護という側面と並んで,
日本軍に関する軍事情報(陣地の位置,兵力,装備など)の取得,
F本の世論把握といった情報戦の側面,
た邑△鮟纏襪靴震閏膵餡箸任△蠕亀舛寮鐐茲鮃圓辰討い襪箸いΕ廛蹈僖ンダの側面もある。
また,沖縄住民の保護を可能にした豊かな物資とそれを支える経済力も指摘しておく必要があろう。

It all started on Saipan shortly after Roosevelt died. Towards the end of April, twelve soldiers (mostly from different outfits) were chosen from Mr. Schwartz's battalion as an advance party.
They had no idea where they were going and left around 2 o’clock in the morning on an U.S. Cargo plane.
On the trip, they passed an endless Pacific Ocean while nobody said a word. Then someone spotted land and there was a lot of motion And as they got closer they saw that there was a big battle going on.

Mr. Schwartz thought That they were going to go around it but no they started to go right through the middle of The battle. He thought it would be his last trip but fortunately they landed at Kadina Air Field and they were trucked to a peninsula by Buckner Bay. The soldiers were lined up along the Beach and all around them there were ships and about every five seconds a gun would roar and the Earth would shake.


写真:米軍作成の降伏勧告ビラ :「いのちを助けるビラ」として,降伏,捕虜など日本人が嫌う表現は一切使用せず,昼間に「ゆっくり歩んできなさい」と教えている。裏には英文で,米兵に理解できるように次のことが書いてある。

LIFE SAVING LEAFLET
1. The American Forces will aid all who follow the instructions given in this leaflet.
2. Good treatment - food, clothing, tobacco, medical treatment, etc., will be accorded in conformity with International Law.
HOW TO USE THIS LEAFLET 
1. Come slowly toward the American line with your hands raised high above your head, and carry only this leaflet.
2. Come one by one. Do not come in groups.
3. Men must wear only pants or loin cloths. Sufficient clothing will be ovided. Women and children may come dressed as they are.
4. Do not approach American lines at night.
5. This leaflet may be used by anyone - Japanese, Korean, Soldier, Civilians, etc.
6. Those who do not have leaflets may advance to the American line if they follow instructions as if they had a leaflet.
This is an actual "Surrender Leaflet", (front and back), that American Forces dropped over enemy territory in the South Pacific. My dad brought it home from the war. The "TRANSLATION OF TEXT", which is written in the lower left corner of the front is as follows:

日本軍に対して,投降を促す試みとして,拡声器を使った誘導,投降勧告と投降票の撒布をした。当初は,効果がないと思われていたが,沖縄では住民,民間人に対する投降勧告と併用して実施された。軍政を敷くための要員,資材,ノウハウを準備した米軍は,日ごろ,日本兵の投降関心のない将兵にも,敵が降伏すれば,米軍将兵の命が救われると説得した。

1944年11月,日本兵100名の死者につき日本兵捕虜の比率だったが,2ヵ月後には 60:1になり,その三ヶ月後には 30:1と捕虜の比率が高まった。1945年7月までに日本兵の死者7名につき捕虜1名の比率となった。1945年初頭, フィリピン戦で捕まった捕虜の46%は,連合軍のプロパガンダ・リーフレット に影響されて投降した。

約6万枚のリーフレット(大きさは 5 x 8 インチ)が,敵に示された。 敵が実際に見た投降リーフレットは1万枚で,配布したものの15%に達したようだ。


写真(右):投降する沖縄住民
;1944年8月のサイパン戦でも,住民の玉砕が伝えられていたが,実際には生き残り,米軍に保護されたり,捕虜となった住民のほうが遥かに多かった。しかし,日本国内の報道では,住民も日本軍人とともに玉砕したと虚偽の報道が行われた。

日本軍は,沖縄住民を保護できる兵力も施設もないが,住民の米軍投降は阻止したかった。土地勘を持ち,日本軍の陣地構築や物資運搬に従事していた住民は,日本軍に関する軍事情報を持っていたからである。

また,日本軍兵士自らが行ってきた中国などでの俘虜や住民の虐待・処刑を思えば,米軍も適正住民に対して厳しい処置をとると考えられた。同じ日本人であるのに,降伏し生き延びていることを恥としないものは,処刑の危険があった。


摩文仁(ヒル89)の丘を望む海上から日本人に投降を呼びかける
;上陸用舟艇から捕虜となった日本人が,投身自殺しないように拡声器で呼びかけた。SURRENDER instructions to the enemy were broadcast by this "converted" Japanese from an LCI standing off the rocky cliff near Hill 89. Below is seen a group of prisoners who preferred capture to suicide. They are waiting to be questioned by American officers.

 日本側の死者・行方不明者は、沖縄県援護課の調査によると18万8136人で、うち12万228人が民間人(戦闘に協力した民間人を含む)。負傷者数は不明。アメリカ軍の死者・行方不明者は1万2千人で、負傷者7万2000人。ただし、日本側の死者数は戸籍の焼失などにより全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘がある。
当時の沖縄県の人口は約45万人と推計されており、少なくとも県民の4人に1人は死亡した。(→沖縄戦 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 

写真(左):米軍に捕まった日本軍捕虜;降伏することが許されないとはいっても,投降を選択する兵士もいた。沖縄戦では7000名以上の日本軍軍兵士が捕虜になっ。しかし、降伏しようにも、友軍から射撃されては悲惨である。

日本軍には、防衛隊,学徒隊、従軍看護婦など、現地で徴集した軍属が含まれていた。これらを合計して,沖縄の民間人出身の軍人軍属は2万8228人である。沖縄の民間人出身を除くと,本来の正規の日本軍兵士の戦死者6万5908人である。

また、「戦闘参加者」というのは、住民のうち援護法の適用を認められ遺族年金などが支給されている戦没者のことである。軍人,軍属,民間人からなる沖縄県出身者の戦没者は12万2228人に達する。さらに,山中や孤島でマラリア病・栄養失調で亡くなった者、乳幼児など,戦没者から抜け落ちている可能性がある。

10.日本軍は,沖縄住民のスパイ,軍への非協力など利敵行為を米軍上陸前から警戒しており,住民に対する監視を強化し,投降を含む利敵行為には厳罰で望む方針を持っていた。  

立てこもる日本兵士・住民に投降もよびかけたが、日本側には「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があり、またかつて中国戦線で日本軍が中国人に対して行った虐待行為などの経験から、捕虜になっても虐待されるという恐怖心が生まれ、敢えて投降せずに「集団死」を選ぶ壕もあった。また、投降する者は軍人・民間人を問わず射殺せよという命令が出ていたとされており、投降できずに殺されたケースもあった。(→沖縄戦『ウィキペディア(Wikipedia)』


写真(右):海を渡る沖縄住民;米軍に収容された平安座の住民が,本島に薪採取に出かける。米軍管理下にある県民は,米軍への情報提供者,スパイとして,日本軍に裏切り者として処刑されたこともあった。Edward Schwartz撮影。

 『沖縄タイムス 』2004年4月25日朝刊は,日本軍・警察による沖縄住民のスパイ活動の監視・住民虐殺について,論じている。

「警察官に住民殺害指示/旧日本軍文書の英訳資料 関東学院大・林教授入手」
 沖縄戦当時、旧日本軍が警察官に対し、米軍に協力した住民の殺害などを指示した文書の英訳資料が二十四日までに明らかになった。同文書は、旧日本軍文書とみられ今年三月、関東学院大学の林博史教授がイギリス国立公文書館で入手した。文書には、軍への協力のほか、ゲリラ戦など戦闘への参加も指示している。 

 文書は、警察官に対する七項目の指示を記載している。敵占領地域にいる住民については「秘密裏に捜査を行うべし。もし敵への協力者を発見すれば、殺すか、他の適当な処置をすべし」と米軍に協力した住民を殺害するよう指示している。

 「変装した警察官や民間人から選抜した密偵は、敵の占領地域に潜入し、状況を偵察すべし」
「敵の掌中にある国民を利用して敵の幹部を暗殺し、敵陣営を混乱に陥れよ」

 資料は米第一〇軍司令部が一九四五年六月十九日付で作成した旧日本軍文書の抜粋。米軍から情報提供を受けた英陸軍省文書の中から見つかった。日本軍文書の現物は見つかっていない。
 文書の内容などから、米軍が上陸した1945年4月から6月にかけ、旧日本軍あるいは警察組織が、北部地区を対象に出したと推定される。本島北部では、翼賛壮年団を中心とした「国士隊」が結成され、住民をスパイ視した虐殺・虐待事件との関連が指摘されている。(引用終わり)


写真(左):平安座島の沖縄の子供;子供も薪集めに出かけた。
写真(中央):薪を運ぶ妊婦;煮炊きのための薪炭を妊婦も運ぶ。
写真(右):薪などバイオマスを運ぶ沖縄住民;道の脇には住民用と思われるテントが並んでいる。1945年5月ごろにEdward Schwartz 撮影

日本陸軍参謀本部・教育総監部『島嶼守備部隊戦闘教令(案)』1943年11月15日を分析した関東学院大学経済学会研究論集『経済系』第153集[林博史研究室]によれば,住民の利用について,「第二十ニ」に次のように書かれている。

 島嶼二於ケル住民ノ利用如何ハ,戦闘ノ遂行二影響スルコト大ナリ。
故二守備隊長ハ,之ガ指導二周到ナル考慮ヲ払フト共二,関係機関トノ連絡ヲ密ニシテ,其ノ状況ヲ明カニシ,皇軍ノ威武二悦服シテ,各種ノ労役二服シ,或ハ警戒,監視ニ任ジ,或ハ現地自活二邁進シ,終ニハ直接戦闘二従事シ得ルニ至ラシムルヲ要ス。
 而シテ不通ノ分子等二対シテハ機ヲ失セズ,断乎タル処置ヲ講ジ,禍根ヲ未然二排除スル等,之ガ対策ヲ誤ラザルヲ要ス

写真(右):集合を命じられた沖縄住民;Off of Okinawa there is a little island called Hienza. It is about five kilometers from Okinawa. He was looking down into the water from high above and saw splashing in the water. Edward Schwartz 撮影

 「第二十六」では,「住民二依ル諜報亦軽視スベカラズ」とし,「第二十八」で,敵上陸後の情報を収集するうえで「住民ヲ活用スル」ことが,「第三十一」では,海岸・対空警戒にあたって「住民ヲシテ所要ノ等戒ヲ担任セシメ」ることが指示されている。

 「第三十」では守備隊長が「住民二対スル警戒」を統一すること,「第三十二」では敵の諜報・謀略機関が住民を利用するので「警戒ヲ厳ニシ住民ノ取締二注意シ要スレバ移住ヲ行ハシムル等ノ手段講ズルコト緊要ナリ」としている。

 つまり,住民を労役だけでなく,警戒・諜報活動にあたらせ,さらには直接戦闘に参加させることも含めて利用する一方で,住民に対して警戒を厳にし,「不逞ノ分子」には断乎として処置する,という考え方であった。

住民を守るというよりも,沖縄を守備するためには,住民を協力させ,利敵行為に及ぶものは断固処断するという考えは,日本国内で,社会主義者,自由主義者,反戦思想を弾圧した経緯から見て,なんら異常なことではない。

写真(右):米兵に護送される沖縄婦人の行列; Edward Schwartz looked through a telescope and he noticed that there were people running in the water. He said to the lieutenant in change and he looks through the telescope. Mr. Schwartz asked if they could go down there so he could take some photographs and he said ok and they got in the jeep and went down. He got his pictures and noticed that the people went up to a ramp and started to run back with 50lb rice sacks on their heads. The land that they used to live on was now occupied by the U.S. so they had to move to Hienza and of course they had to be fed so they had to run and get the food. About one week later Mr. Schwartz noticed this again. This time, they had to get wood to cook the rice.

 文書は、警察官に対する七項目の指示を記載している。敵占領地域にいる住民については「秘密裏に捜査を行うべし。もし敵への協力者を発見すれば、殺すか、他の適当な処置をすべし」と米軍に協力した住民を殺害するよう指示している。


写真(上):米軍に保護された沖縄住民;米軍のためにミシンを使って服を修繕した。このような行為は,祖国とそのために命を賭けて戦う日本兵士への裏切りなのか。それとも,米軍から生活物資を供与されることに対する代価なのか。Edward Schwartz 撮影

   文書は、警察官に対する七項目の指示を記載している。敵占領地域にいる住民については「秘密裏に捜査を行うべし。もし敵への協力者を発見すれば、殺すか、他の適当な処置をすべし」と米軍に協力した住民を殺害するよう指示している。

先に引用した「第二十二」の中にある「皇軍ノ威武二悦服シテ」という文言について,教育総監部『島嶼守備部隊戦闘教令(案)の説明』1944年4月,では,「南方住民の現状を見るに彼らを悦服せしむる為に特に精神的事項を重視するの要あり。蓋し船船の逼迫は物資の交易を著しく阻碍し彼等の生活は甚だしく圧迫せらるるのみならず物資及労力の提供を余儀なくする等物質的に悦楽せしむること困耗なり。特に之が指導上注意を要する所以なり。況や南方住民の怠惰安逸を習性とするに於てをや」と解説している。

大東亜戦争は民族解放戦争ではなくなったことは,南方住民を怠惰な民族と決め付け,精神的指導によって,窮乏生活に耐えさせるという方針から明らかである。民族解放よりも,日本軍による現地調達,物資徴発が優先され,そのために現地住民の貧困はますますその度合いを強めた。米軍は豊富な物資供給で,現地住民,現地軍を養ったが,日本軍の場合は現地から物資を取り上げ,労働を強要したのである。


写真(左二つ):沖縄の民家と住民;米軍に保護された住民の中には,キャンプに収容されたものもいたが,民家に引き続き居住するのを認められたものもあった。写真(右):沖縄の民家と老人;和服が一般的で,靴は履いていない。Edward Schwartz 撮影

 1944年10月「廣大ナル島嶼及大陸二於ケル沿岸要域ノ直接防禦」の教令として,参謀本部・教育総監部『上陸防禦教令(案)』が作成された。
これは,『島嶼守備部隊戦闘教令(案)』に「‘必要ナル増補,修正ヲ加フルト共二本土等二於ケル沿岸要項ノ直接防禦ノ為必要ナル事項ヲ併セ記述セルモノ」である。上陸地点としては,フィリピン,台湾,中国大陸などの外地だけにととまらず,本土における上陸防禦をも対象にした教令であり,当然,沖縄にも適用されたとみてよい。

写真(右):米兵に護送される沖縄住民;Edward Schwartz 撮影

日本陸軍参謀本部・教育総監部『上陸防禦教令(案)』1944年10月(関東学院大学経済学会研究論集『経済系』第153集[林博史研究室]からの引用)

第百八十九 住民ノ利用如何ハ戦闘遂行二影響スルコト大ナリ。故二守備隊長ハ之ガ指導二周到ナル考慮ヲ払フト共二,関係機関トノ遠路ヲ密ニシテ,其ノ状況ヲ明カニシ,各種ノ労役二服シ,或ハ警戒,監視二,或ハ現地自治二任ジ,終ニハ直接戦闘二従事シ得ルニ至ラシムルヲ要ス。

 而シテ不遣ノ分子等二対シテハ,機ヲ失セズ断乎タル処置ヲ講ジ,禍根ヲ未然二要除スル等之ガ対策ヲ誤ラザルヲ要ス。

 外地二在リテハ先ヅ皇軍ノ威武二悦服セシムルコトニ著意スルヲ要ス

「第百」敵上陸後の情報収集に「住民ヲ活用スル」こと,「第百二」「住民二依ル警戒組織ヲ利用スル」こと,などとともに「第百三」守備隊長が「住民二対スル警戒」を統−すること,「第百五」敵の諜報・謀略機関が住民を利用するので「守備隊長ハ防諜ニ関シ住民ノ取締ヲ厳ニシ要スレバ移転セシムルヲ可トスルコトアリ」としている。

住民の利用と住民に対する警戒については,『島嶼守備部隊戦闘教令(案)』の内容が,ほぼそのまま踏襲されている。

 大本営陸軍部『国内遊撃戦ノ参考』1945年1月15日は「敵戦線ノ後方及非決戦(持久)正面二於ケル我ガ遊撃行動等ヲ設想セルモノ」であり,国内が対象地域である。また時期からみて,当然沖縄も対象地域とみている。

  遊撃部隊ハ,郷土出身者ヲ主体トシテ編成セラルベキモノニシテ,隊員ハ当該地方ノ状況二通暁シ,特二民衆卜不離不可分ノ関係二在ルヲ通常トス(第十八)
  遊撃部隊ハ,為シ得ル限リ,所在民衆ヲ遊撃戦ノ基盤トシテ利導活用スルヲ要ス(第四十七)
  常二民衆ヲシテ遊撃部隊卜一心同体同生共生ノ境地二立チ,自主積極的二協カシテ活動スル如ク誘導スルコト特二緊要ナリ(第四十八)

写真(左):薪を運ぶ沖縄婦人;当時,薪炭は煮炊きをするのに不可欠だった。Edward Schwartz 撮影。They were warned about infultraders coming in at night and slitting There throats and they were also told that the civilians were enemies. So they slept with one eye opened and listening to everything around them.
The civilians had their villages up on the ridge and they would come down to the beach and he began to see that these people were not enemies they were just the unfortunates victims of the war. These people had no relations with the japanese but the japanese warned them that if they had any elationship with the Americans that they would be shot.
One day Mr. Schwartz decided to go up to these civilians village without even a knife On him, he was so sure that these people were not hostile at all and that he was just led to believe that there were hostile. He went up with the prime idea that if you go there peacefully that you would be treated peacefully, and of course he was correct.

 住民に求められる活動については,「偵諜,連絡,警戒,掩蔽,救護,補給及謀略的宣伝ハ民衆ノー般二協カシ待ル部面ナリ」(第四十九)

「敵ノ警戒深ナルニ従ヒ民衆ハ防衛隊組織ヲ再建シ又之ヲ強化シ敵後方施設ヲ破壊シ敵軍事資貯ヲ隠滅シ個人的「テロ」行為ヲ敢行シ要スレバ清野工作等ヲ実施シ得ルモノトス」(第五十一)

「郷土警備部隊竝二所在ノ民衆ハ作戦ノ推移二伴ヒ遊撃部隊二収編セラレ遊撃行動二任ズルコトアリ」(第七十六)

 つまり,住民は遊撃部隊に協力し,それを支援するだけでなく,場合によっては自らが遊撃要員となり,「テロ」行為を含む遊撃戦闘を行うことが求められた。

 住民をこうした活動に積極的に参加させるための方法として,口宣伝とビラの活用があげられている。だが,そのやり方も「現地ノ実情二通暁セル工作員ヲ潜入」させて「隠密」におこなうことが有利である(第五十四)としており,住民自身を謀略宣伝の対象とするものであった。

「民衆ノ面前二於テ,敵兵ヲ殺戮スル等ハ,民衆ヲ激励スル為有カナルー手段タリ」(第五十五)と,住民の目の前で敵兵を殺害することを戦意高揚の手段にしようとまでしている。

 住民を遊撃戦闘に利用しようとする一方で,住民に対する警戒にも注意を払っている。「第五十八」には次のように書かれてある。
  遊撃部隊ハ,絶エズ民心ノ動向ヲ審カニシ,民衆ノ内情ヲ明力ニシ,変節ノ徴候二留意シ,脱落ノ有無ヲ詳知シアルヲ要ス
 若シ不幸ニシテ変節者アルヲ知リタル時或ハ,隠密二,或ハ公然卜断チタル処置ヲ採リ,其ノ影響ヲ局限スルコト緊要ナリ
 此ノ際断乎タル処置ヲ躊躇センカ,単二民衆ヲ失フニ止ラズ,自ラノ破滅ヲ招クコトアルニ注意セザルベカラズ

「偵諜スベキ要目」として,敵情や地目なととともに「民衆ノ状況特二敵占領地区内二於ケル民心ノ動向竝二敵側ノ対策」「皇軍皇民二偽セル敵軍就中半島人,本島人,日系米国移民,売国奴及航空機二依ル諜報謀略要員(部隊)等現出スルコトアルニ注意スルヲ要ス」(第百四十)

偵察・諜報活動のためには「極力信頼シ得ル民衆ノ獲得利用二勉」め(第百十二),「偵諜組織ハ事前二之ヲ確立シアルヲ要ス」(第百四十三)

遊撃部隊によって利用される住民は,同時に「スパイ」になりかねないものとして,偵諜の対象にされている。住民の中に「変節者」や「脱落」者が出ないかどうか監視され,もし出れば時には秘密裡に処分するべきである。

朝鮮人(半島人),台湾人や日系移民も警戒の対象となる。そして,遊撃部隊が信頼できる住民を集めて,住民が住民を「スパイ」する偵諜組織を作ることも考えるべきである。
(→関東学院大学経済学会研究論集『経済系』第153集[林博史研究室]引用終わり)

実際に,国士隊のように,非国民摘発,住民の監視・風紀刷新,反米地下闘争支援を担うような準軍事的な民間人の参加する組織が作られた。中野学校のような諜報員を養成する軍校の出身者も沖縄各地に送り込まれている。

日本兵「スパイ殺害」記述/沖縄戦 住民虐殺裏付け:軍用手帳に初の文書記録には次のような記述がある.
軍隊手帳は本部半島の今帰仁村運天一帯に駐屯していた海軍中尉の所持品で,米国立公文書館に翻訳・保管されているのを、琉球大学保坂廣志教授が発見した。「手帳は、一九四五年六月十八日、今帰仁村呉我山で米軍との交戦で死亡した海軍の竹下ハジメ(漢字名不詳)中尉の所持品から回収された。米情報部は、軍用手帳や日記に作戦や虐殺、虐待の記録があると重視。中尉の手帳も、三月二十三日から六月十六日までの全文が翻訳されている。
 スパイ殺害記述があるのは四月十七日。日本軍は当日、八重岳から多野岳移動を予定し、午後六時に六百人が集合。移動命令後に、「スパイを殺害。オダさん?」との記述がある。日本軍は、防諜重視の方針で、県民を総スパイ視。地域の指導者層、島言葉を話す者、移民帰りの者にスパイ嫌疑をかけ殺害する事件が各地で多発している」。
手帳の記述:「4月17日 タニヨ岳(多野岳)へ移動を計画/18時に集合、タケトミの防空壕/600人/移動の命令/スパイを殺す 小田さん?/道路を横断/敵の地域を抜けていった/中島大佐のもとに全員集合」
「6月8日 朝、愛楽園を訪ねる。園長の早川(早田の誤記)と泉に会い、米3石と、7月までに25石を用意するように頼む/敵の軍医が嘉手納(軍政府本部)から来ている/カリフォルニア米の4回目の積み荷は、まだ愛楽園の敵側にある------園は敵の配給を受け、徐々に復興しつつある(中略)/屋我地島を我々の食糧基地として保持するために、軍隊を送る必要がある/羽地の捕虜と避難民について話す。偵察を米軍歩哨詰め所に送る。運天も久志のような状態になりそうだ。住民の報告に不快になった。敵に協力するものに躊躇はしない。私たちに協力するものとしないものを区別しなければならない」
 手帳の記述と一日違いで本部町伊豆味で、米軍上陸を日本軍に報告しに行った国民学校の校長が殺された。五月には伊豆味と今帰仁村渡喜仁の指導者らや、大宜味村渡野喜屋で中南部の避難民が集団で日本兵に殺害されている。
-----北部を守備していた国頭支隊(宇土部隊)と行動を共にした学徒隊の証言には「五、六十代の国民服姿の男性を、日本兵数人が『(照屋忠英本部国民学)校長なのに…』と小突き回していた」「両腕を後ろ手に縛られて銃剣で突き刺され苦しんでいる男性がいた」などがあり、この男性が照屋校長とみられる。」(沖縄タイムズ2005年12月28日引用終わり)

沖縄戦の絵 にも、次の記述と体験者の描いた絵がある。
1945年6月24日、沖縄南部でスパイと決めつけられた沖縄住民。このあと、スパイ容疑で皆殺しにされた。   那覇市(当時26歳)
「米軍の捕虜収容所から逃げてきた4名が煙草や洗面用具を持っていたために、スパイ容疑をかけられました。弁明する機会も与えられず、2名の男性が処刑され首をはねられました。敵は米軍だけでなく、住民を守るべき友軍の方がむしろ恐ろしかった。」国頭村(当時34歳)(引用終わり)

「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載10回目にも、次の記述と体験者の描いた絵がある。
渡嘉敷国民学校の大城徳安訓導が、島内の別の場所にいた妻にこっそり会いに行ったという理由だけで、縄でしばられて陣地に連行され、斬首された。この事件について、曽野綾子氏は、大城訓導が「招集された正規兵」(曽野氏は、防衛隊員を正規兵と解釈している)だったことをあげて、赤松の処置が「民間人」に対するものでなく、軍律により軍人に対してとられた処置(処刑)で、不当ではなかったと弁護する。
防衛隊員が「正規の軍人」であったとする解釈には同意できないが、大城訓導は、正式な防衛隊員でもなかった。防衛召集は満十七歳以上、四十五歳までの男子が対象で、武器をあたえられず、飛行場建設や陣地構築に使役され、戦場では弾丸運び、まったくの補助兵力であった。召集の時期は、昭和十九年十月から十二月までと、昭和二十年一月から三月までの二回だが、この二回の防衛召集で大城訓導は召集を受けていない。
渡嘉敷国民学校の校長だった宇久眞成氏から私が直接きいた話によると、大城訓導は、当時、教頭であり、年齢も四十九歳、防衛召集年齢の上限(四十五歳)をこえていた。(小学校教員は、普通、防衛召集の対象からはずされていた)。その大城訓導を、赤松大尉が勝手に防衛隊員にしたらしい。これは、甚だしい越権行為であった。召集は国家行為であるからである。大城訓導は、殺されるまで「民間人」であったのだ。」(引用終わり)

第二次大戦中のロシアでの掃討戦・ゲリラ戦でも、現在のイラクでの戦闘でも、同国人同士が争い、同じ国の住民を少なくとも数千人を処刑・殺害している。同国人であるからこそ、裏切り者・スパイとしてテロの対象とされてしまう。沖縄戦では、本島,久米島などで、沖縄県民50-90名が日本軍に処刑されている。

11.日本軍では,捕虜虐待が当然のように行われていたために,日本軍兵士も自らが米軍の捕虜になれば,同じように,虐待され,処刑されると思い込んでいた。住民にも,捕虜になれば,虐待されると認識が広まっていた。そのために,日本軍兵士・民間人ともに,捕虜になって生き延びるという選択の道が閉ざされていた。 

発掘―沖縄戦の新資料(林 博史)「民間人を装い奇襲攻撃―県民犠牲にした作戦命令」によれば,次のような記述がある。

 1945年4月17日、激戦の続く西原で米軍が捕獲した文書である。「西原地区における戦闘実施要領」(日付なし)と題された文書には奇襲攻撃の際の注意として次のようなことが書かれていた。
「常に2〜5名で戦闘隊を組織せよ。常に(陣地戦においても)組になって戦うこと。」

 「敵を欺け、しかし敵に欺かれるな」

「服装においても話し方においても現地住民のように見せかけることが必要。住民の服を借りてあらかじめ確保せよ(略)一案として方言を流暢に話す若い兵を各隊に一人を割当てよ。」

「敵の装備、弾薬、食糧を奪い、それらを活用せよ。攻撃の案内として現地住民を連れて行くこと。」

写真(右):武装する日本人中国居留民(1937年7月14日?);1937年7月7日の盧溝橋事件後も,多数の日本人中国居留民が中国に留まった。日本人居留民は,鹵獲したり,購入したりした小銃,機関銃で武装したようだ。初期の中国戦線では,敵の中国軍が弱体で,艦船,航空機,火砲の上で,日本軍よりも劣勢だった。中国国民革命軍(共産党軍)のなかでも,日本軍は,戦車,航空機まで備えた新式装備の軍隊であるが,精神力は中日本陸軍が沖縄住民も巻き込んで実施した遊激戦に,日本の民間人が便衣兵,ゲリラ兵として,米軍攻撃に参加すれば,捕まった際に,平服であることを理由に処刑される危険が高い。

 つまり,奇襲攻撃にあたっては民間人の服を着て言葉遣いも住民のようにふるまえということである。この命令は文書が捕獲された五日後には,英訳されて米軍の各部隊に配布された。
 日本軍が住民を利用した欺瞞作戦を知った米軍は、近づいてくる者はたとえ民間人であっても,日本軍の攻撃だと判断するしかなかっただろう。

昼間は砲爆撃のためにガマに潜んでいた住民が夜に食糧探しや移動のために外に出ていった。その時、米軍の射撃をうけて犠牲になった。日本軍は,住民を利用はしても、その保護を考慮する余裕はなかった。

中国やフィリピンでは,敵性住民を捜索,摘発,拘束,処断してきたが,沖縄住民に対しても,利敵行為を犯すものは容赦なく処罰,処刑したのである。

フィリピンのルバング島で残留諜報任務を命じられた小野田少尉も敵性住民には厳しい処置をし,物資を略奪しながら生き延びた。戦争が終わっても,人道に反する罪で処断されることは理解していたであろう。となれば,日米戦争は続いているとの虚構の世界を作り上げるしかない。

平時であれば,戦犯というよりも,強盗殺人罪で厳罰に処せられてしまう。無事に帰国するためには,あくまでも戦争が継続しており,戦闘行為の一環で敵を殺したとするしか免罪される道はない。優れた知識のある将校であれば,降伏命令を受理して投降,復員するという知恵を絞ったはずだ。
外務省の専門家たちも,戦争続いていたと彼が信じ込んでいたなどとは,よもや思ってはいまい。戦闘行為による殺傷という建前は,帰国するためには絶対に譲れない条件である。


写真(上):薪をはこぶ沖縄婦人;引き潮を利用して本島に渡ってまきを採取した。そして,米軍兵士護衛の下,まきを運ぶ。Edward Schwartz 撮影

1945年5月初めに米軍が没収したと見られる「極秘」文書に「攻撃に際して遵守すべき注意事項」と題されたものがある(米海軍資料)。
「敵(米軍)は卑怯にも、沖縄県の人々に日本軍の軍服を着させるなどして前線で利用している。敵と交戦している者は、そういう者を躊躇なく射殺せよ」「降伏するふりをして白旗をふる者がいるかもしれなので、前線の部隊はそうした者はすべて殺した方がよい」と命令していた。

米軍に捕まって協力しているような者は射殺せよと解釈できるし、後者は投降する者がいることを認めたくないので「降伏するふり」と言っているのかもしれないが、要するに白旗を掲げて投降しようとする者はみな射殺せよということである。

 日中戦争以来,中国やフィリピンの正規兵やゲリラを捕らえて,斬首や刺殺の度胸試しに使用したり,ゲリラや敵性住民を教えるように拷問したりした経験がある兵士は少なくなく,多くの日本軍の兵士はそのような体験を聞いていた。中国・朝鮮の民間人へも強姦や暴行あるいは強制労働など当然のように行われていた。

 悲惨な捕虜・民間人の末路を聞き及んでいた沖縄の日本兵士や,このような実態を帰還兵から聞いて知っていた沖縄の住民,兵士は,自分たちが捕虜となれば,米軍から残虐行為を受けると確信していた。
 捕虜は殺されるとの認識が,日本の兵士や民間人に,広まっていたために,沖縄戦にあっても,日本軍や住民の中には,自決したり,投降できずに殺害されてしまったものが多かった。

日本軍では,捕虜の処刑や虐待が頻繁に起こっていたので,日本軍の兵士や民間人も,米軍に捕まれば同様に残酷な仕打ちを受けると考えた。このような認識から,女性でも捕虜になるのを恐れ,自害するものを出た。また,捕虜とり,無残に処刑されるくらいなら,小銃で頭を打ちぬいたり,手榴弾で自爆すしたりして,自ら死を選択するほうがよいと考えた兵士も大勢いたようだ。


写真(左):駆逐艦から戦艦「テキサス」に移される捕虜の日本機搭乗員(1945年3月29日);。Arriving off southeastern Okinawa on the 25th, TEXAS began 7 days of pre-invasion bombardment. (For the next 52 days, almost every day involved gunfire support for the troops ashore and or firing at Japanese Kamikazes.) Part of the preliminary bombardment was in support of under-water-demolition work to clear obstructions from the landing beaches. On 29 March a Japanese aviator was seen in water 500 yards off the starboard bow. He was captured by the destroyer RODMAN and brought aboard TEXAS for initial identification and intelligence investigation. He was transferred to Carrier Task Force 51.15 later the same day.
写真(右):潜水艦に救助された日本軍捕虜を海兵隊が上陸させる(1945年5月);Marines unload a Japanese POW from a submarine which just returned from patrol. May, 1945. By the end of the war the U.S. held about 20,000 Japanese POWs..

しかし,米軍が,「手を上げて出て来い」と投降を呼びかけたり,日系二世兵士や捕虜となった日本軍兵士の呼びかけに応じるものが,沖縄戦では多数出た。これは,大量にばら撒いた投降パンフレットの効果も大きいであろう。


写真(右):輸送艦「オナイダ」で沖縄からホノルルに後送される日本軍捕虜;1945年6月24日に,沖縄で捕虜になった日本軍兵士POWが,収容,尋問のためにホノルルに送られた。

捕虜の日本軍兵士を後送した米海軍輸送艦APA-221 Oneidaのデータ
排水量:12,450 t. 全長: 455フィート,全幅: 62フィート,深さ: 24フィート
速力: 17.7 k.,乗員: 536名,
積載人員: 将校86名,下士官・兵 1,475名
積載貨物150,000 cu. ft, 2,900トン,舟艇 2 LCM, 12 LCVP, 3 LCPU
武装: 5インチ砲1門,40mm機銃12門
リッチモンド造船所で1944.9/30起工,10/31進水,12/4竣工。

輸送艦に乗せられた捕虜POWは,おめおめと生き残ってしまったという悔恨と同時に,生き残ったという安堵感に浸ったのではないか。しかし,運び込まれたホノルルでどのような扱いを受けるかについては,不安も残っていたであろう。そして,なによりも,まだ戦争を続けている日本軍に,捕虜となったことを知られたくはなかったであろう。

捕虜となったのは,負傷していたから,あるいは爆風などで意識不明だったから----と言い訳をしたり,失神したふりをして捕まったりした日本人もいた。もちろん捕虜となった日本軍兵士を,決して卑怯者だとは思わない。 


写真(左):沖縄を1945年6月24日に出航,7月13日にホノルルについた日本軍捕虜;上船時には服を着させられていたが,夏で船倉が蒸し暑かったのか,船内では上半身裸になっている。輸送艦「オナイダ」が捕虜POWを,後方基地に後送した。Oneida (APA-221) embarking Japanese POW's at Okinawa for transport to Pearl Harbor, 24 June 1945. Oneida moored at Pearl Harbor, disembarking Japanese POWs from Okinawa, 13 July 1945

日本軍兵の捕虜が少ないのは,日本兵が勇敢であり,天皇のためには死を厭わない忠誠心を持っていたからである,あるいは『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めをうけることなかれ」という訓令が叩き込まれていたからである,といった俗説は,日本軍兵士が捕虜になれば虐待されるとの認識をもっていたことを考慮して,修正されなくてはならない。

12.沖地上戦最終段階,本土決戦の準備をするため,あるいは敗軍の将官となる責任を回避するために,日本軍の沖縄守備隊司令官牛島満大将は,徹底抗戦の命令を出して自決した。部下や住民に降伏,投降を命じていれば,1945年8月15日の終戦後まで地上戦闘が続くことはなかったろう。  

沖縄最南端の摩文仁の丘:ここに追い詰められた日本軍・住民は,最期のときを迎えた。LAST JAPANESE COMMAND POST on Okinawa was Hill 89. The 32d Infantry, 7th Division, attacked up lower east end.

1945年6月17日までに米軍は,摩文仁岳の日本軍司令部壕まで前進してきた。18日には米軍のバックナー中将が,牛島司令官に降伏勧告状を送った。しかし,牛島司令官はこれを拒否し,第10方面軍宛に訣別電報を送る。そのバックナー中将も,真栄里部落で日本軍との砲撃戦で戦死あるいは狙撃によって戦死する。

1945年6月17日には,第3外科配属のひめゆり学徒隊(ひめゆり部隊であれば,軍属として扱うことになる)が伊原壕で最期を遂げる。1945年6月18日に,牛島満中将率いる沖縄守備隊32軍は,大本営に向け訣別電報を打つ。

牛島中将は決別電文を送信した翌19日,「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し,最後まで敢闘し,悠久の大儀に生くべし」と命令を出し,23日未明,長勇参謀長と共に,摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決した。


沖縄の日本軍の降伏式には中国大陸で日本軍と戦ったスチルウェルStillwell将軍が米軍代表として参加。
The surrender Ceremony of the Ryukyu Islands 7 September 1945, in the 10th Army Headquarter area. General Joseph Stillwell (left) Commanding General, 10th Army observes as the document of surrender is signed by a Japanese delegate.

6月23日は、沖縄守備隊司令官牛島中将が自決し、組織的抵抗を終えた日で,沖縄県は、条例で「慰霊の日」と定め、公休日としている。しかし,2日前の6月21日,米軍はニミッツ元帥の名で沖縄戦の勝利を宣言していた。

沖縄戦での日本の将兵と民間人(ただし,沖縄県民は満州事以降のアジア太平洋15年戦争の期間中)の戦没者は、1945年3月3082人,4月19456人,5月24636人,6月46833人,7月5647人,9月2617人。(→平和の礎:戦没年月別戦没者数引用)

糸満市民の戦没者は、糸満町1446人、兼城村1547人、高嶺村1521人、真壁村1979人、喜屋武村625人、摩文仁村11169の合計で8287人。当時の人口の約4割弱命を失った。(→糸満市引用)

糸満町を中心に「糸満地区(糸満市)」が設定され、名城の米軍キャンプ跡には南部区が、米須一帯には真和志村が置かれた。特に多くの住民を失った真壁・喜屋武・摩文仁の3村は、1946年4月4日に合併して三和村を形成した。
戦後いち早く学校教育も再開し、陸上競技や野球などのスポーツが荒廃した民心を引き立てるために盛んに行われた。。(→糸満市引用)


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,住民集団自決も分析しました。

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