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◆父 鳥飼欣一の歴史:尋常小学校から旧制中学・高校へ ◇ TORIKAI Kinichi 大正末から昭和20年まで


アルバムに残された父鳥飼欣一の写真。昭和13年12月と昭和14年12月の撮影。記載したのは祖父鳥飼恒男
1925年(大正14年)11月14日生まれの父は,1938-1939年の末には,13-14歳になっていた。

1937年の盧溝橋事変以来,日本軍は中国オ北京,天津,上海,南京を占領していたが,全面戦争はまだ続いていた。中国との戦争が終わったのは,1945年であり,そのとき父は19歳だった。

1931年の満州事変,1932年の満州国成立,日本の国際連盟脱退と,日本が中国,欧米との対立を深めていくのが,1930年代である。1937年から日中全面戦争に突入し,1941年112月からは米国とも戦火を交えた。
そして,1945年8月にアジア太平洋戦争は終戦となり,9月に日本は正式に降伏した。

Wikipedia:鳥飼恒男Wikipedia:鳥飼欣一にも写真を提供した。

写真(右):1927年春,祖父鳥飼恒夫・祖母に抱かれた鳥飼欣一(2歳)

昭和初期の戦争の時代,父鳥飼欣一は何をしていたのか,どのように暮らしていたのか。こういった問題意識から,この「父鳥飼欣一の歴史」を所蔵写真を中心に作成しました。

祖父の鳥飼恒男は,旧制中学校から陸軍士官学校に進み,陸軍大学卒業後には,中国(傀儡政府)の行政機関である江寧部隊を指揮した。これは,大学卒業生からなる,徴税,行政サービスを行う組織であり,軍隊への補給も担っていたようだ。
1944年には,ビルマからインドに侵攻する「インパール作戦」に,参加し,第138連隊の連隊長として,第31師団佐藤幸徳中将の隷下にある宮崎歩兵団長の下で戦い,コヒマを占領した。

祖父 鳥飼恒男は,インパール作戦から九死に一生をかけて生還した後,1945年の敗戦をそのまま陸軍大佐で終える。戦後復員。

Wikipedia:鳥飼恒男
Wikipedia:鳥飼欣一

写真(右):1932年4月,尋常小学校入学式当日の父鳥飼欣一と軍装の祖父鳥飼恒男;祖父の駐屯,勤務していた朝鮮で撮影。右の解説は祖父が記載したもの。

父 鳥飼欣一は1925年(大正14年)11月13日生まれで,当時の祖父は30歳であった。


★当WEBでは,現物の写真をデジタル処理をして掲載していますが,倉吉中学,松江孝行,当番兵,東京大学などの方々もそのまま掲載させていただきました。
歴史的意味のある写真を公開することで、被写体に関する情報や当時の状況について、情報共有、情報伝達を図ることができればと考え、写真をwebに掲載しました。
皆様からの情報提供をお待ち申し上げます。

外国のwebでは多数の戦前の個人写真が掲載されており,日本でも次第に個人写真が掲載されるようになっています。このサイトでも,情報提供をお願いするとともに,多くの皆さんに当時の状況をうかがえるような情報をご提示したいと考えています。

所蔵するアルバム写真は,大正14年(1925年)から始まります。昭和元年は1926年ですから,ちょうど昭和20年=20歳までの,青春時代の写真です,写真館の撮影になるもの,記念撮影が中心ですが,個人所有のカメラによる日常撮影も含まれています。記念撮影は,学校行事など集団写真に多用されたようです。

被写体,撮影時期・場所,将兵氏名,行事内容,服装,装備などにつきまして,ご存知の方がいらっしゃいましたら,些細なことでもかまいませんので,情報提供をよろしくお願いいたします。
父鳥飼欣一は,2006年4月6日0906に,千葉県柏市にて多臓器不全で逝去いたしました。享年80歳でした。4月9日前夜式を,4月10日葬式を終了いたしました。式に参列していただいた親類,原子力研究所・東京理科大学の関係者の皆様をはじめ,父を慕ってくださった全ての皆様方に感謝いたします。また,式を執り行い,あるいは東海大生など式を手伝っていただいた皆様方にも厚く御礼申し上げます。


⇒連絡先: torikai@keyaki.cc.u-tokai.ac.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目1117 東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Tokai University,1117 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Tel: 0463-50-2122, Fax: 0463-50-2078 

写真につきまして、鳥飼行博研究室では、従来パブリックドメインが主流でしたが、このサイトに限り、プライベートなものです。出版など収益を伴う活動に転載・掲載することはご遠慮ください。


<鳥飼欣一の歴史>
写真(左):生後70日の晴れ着を着た鳥飼欣一:アルバムに祖父が自ら写真解説を残している。
祖父の故郷は鳥取県東伯郡である。大正十五年,1925年4月10日,愛国婦人会山口支部長・日本赤十字社土篤志看護婦婦人会山口支会長から,第九号「選奨状」が,鳥飼欣一 生後五ヶ月 に与えられている。
選奨状
右両会主催赤ちゃん発育奨励会ニ於テ診査ノ結果発育優良ノ者ト認メ茲ニ之ヲ選奨シ其ノ前途ヲ祝福ス
        大正十五年四月十日
愛国婦人会山口支部長
日本赤十字社土篤志看護婦婦人会山口支会長 大森道子
祖父

鳥飼恒男は,敗戦にともない抑留されたが,その後,インドネシアから復員した。復員船で世話になった兵隊(当番兵?)に腕時計を渡したという。ポツダム宣言受諾に伴い,1階級昇進して,少将(将官)になるはずだったという人もいる。外地にいて,事務手続きも困難して昇進できなかったのかもしれない。戦後は,退役軍人として一般的な保険業界に就職した。

このよに階級にこだわるのは,社会的な名誉の問題とともに,戦後1950年代になって復活された軍人恩給,遺族年金の支給額に,最終階級がかかわってくるからでもある。

人間である以上,衣食住・教育というベーシック・ヒューマンニーズを確保しなくてはならず,そのための経済的な心配は,重要課題である。経済や収入を論じることは,決して不名誉なことではない。

写真(右):1926年(大正15年)4月,生後5ヶ月の優良な「赤ちゃん」として,愛国婦人会から「選奨状」が授与された。

東伯郡(とうはくぐん)は、鳥取県の中央部にある郡。人口61,409人、面積508.45km²。(2003年)郡の名称は伯耆国の東部であることに由来している。

保父や父が直接関連したわけではないが,故郷ともいえる倉吉には,鳥取県立倉吉農学校のような伝統ある学校が多い。 
明治14年 倉吉町東町大岳院を仮校舎として公立久米河村農学校を開設。(2年、全寮制)
明治23年 鳥取県立農学校と改称し、獣医科を設け、その他藍、煙草、養蚕等の専科を設ける。
明治25年 北白川宮能久親王御臨校。「進徳修業」の親書を賜る。
明治32年 鳥取県農業学校と改称
明治34年 鳥取県立農学校の校名に戻り、定員120名となる。
小松宮彰仁親王より「國本」の親書を賜る。「農」字校章を廃して「月星」校章並びに校旗を制定。
明治40年 皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)行啓、校地一帯を「錦野」改め「太子が丘」と称する。
大正02年 文部大臣奥田義人氏来校視察。
大正05年 畜産科を廃して養蚕別科(修行1年)をおく。
昭和09年 鳥取県立倉吉農学校と改称する。
昭和16年 農業拓殖科を設置する。
昭和19年 農業拓殖科を廃し、農業土木科並びに林業科を設置する。


写真(左);1927年春,祖父鳥飼恒男・祖母が抱いているのが大正14年11月13日生まれの父鳥飼欣一(1歳半)。

倉吉の歴史
明治維新当時には、現在の当市域は、その大部分が久米郡に、一部が河村郡に属していた、明治22年の町村制施行により、当時25の町を統括し実質的に一行政区画をなしていた倉吉町は、名実ともに一行政区画として、また地方自治体として発足、昭和14年に上灘村、同26年に小鴨村を合併して倉吉町の発展をみた。同28年、倉吉町・上井町・上北条村・西郷村・社村・高城村・北谷村・上小鴨村・灘手村の一部の、2町7村が合併して市制を施行。

 明治期には、群役所・中学校など公共施設は倉吉町に集中して建設され、国鉄倉吉線も開通、産業面では製糸工場の進出が相次いだ。倉吉かすり、稲扱き千刃を全国的に製造販売し、生産の町として全国に名声を高めた。さらに昭和初期には、産業組合営による厚生病院の開業・上水道を敷設するなど、次第に都市形態を備えてきた。

【大正時代に3年連続の気象災害】
●二十世紀梨は高値で販売でき、大変な期待のなかで急増し、大正中期には300ヘクタールまで拡大。しかし、黒斑病の被害に加え、大正12年の花の満開時県内全域に降雹を受けて極度の結実不良、翌年13年は日照り続きで小玉ばかり、続く14年には収穫前の大型台風でほとんど落果と3年連続の大災害により再起不能と言われるほど深刻な被害をうけた。


写真(右)2-2;1925年(大正14年)11月13日,満1歳を迎えた鳥飼欣一・背景から写真館で撮影したとわかる。倉吉の写真館で撮影したらしい。

倉吉駅
「くらよしえき」は、鳥取県倉吉市上井にある西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅。倉吉市の中心部からは離れており、1912年6月1日から1972年2月13日の間は中心市街地にあった倉吉線打吹駅が倉吉駅を名乗っていた。倉吉線は、国鉄再建法施行により第1次特定地方交通線に指定され、1985年に廃止されている。 

歴史
1903年12月20日 - 倉吉駅として開業。
1912年5月1日 - 上井駅(あげい)に改称。
1912年6月1日 - 倉吉軽便線上井〜倉吉(2代。のちの打吹)間が開業。
1922年9月2日 - 倉吉軽便線が倉吉線に改称。
1972年2月14日 - 倉吉駅に改称。(同年1月10日に倉吉線倉吉駅は打吹駅に改称)
1985年4月1日 - 倉吉線廃止。

人口統計;関金町の世帯数1,353,人口4,294。倉吉市の世帯数20,455,人口53,156。

関金温泉(ラジウムエマナチオン含有量33.47マッヘで、日本第2位のラジウム温泉)は、延暦年中(782〜805)の開発と「日本鉱泉誌」にみることができるが、天平勝宝8年(756)開基といわれる大滝山地蔵院の創建と同時代(約1250年前)からのものと伝えられている。無色透明・無味無臭の温泉として「白金の湯」の愛称で親しまれている。


写真(左);1927年11月13日,満2歳を迎えた鳥飼欣一・背景から写真館で撮影したとわかる。

倉吉市旧市街の玉川沿い400mにわたって倉吉白壁の土蔵が残る。江戸末期から明治初期の商家街で、当時は酒屋や油屋、米屋、醤油屋などが軒を連ねたという。白い漆喰塗りの土蔵には黒い焼杉の腰板が施され、屋根には赤い耐寒性の石州瓦を戴き、色のコントラストが美しい。蔵と背中合わせになった町屋側の千本格子の家並みも健在で、醤油や地酒の老舗が今も営む。

鳥飼家住宅 中部 ・倉吉市関金町
江戸時代初期から中期の建築で「合掌造り」。江戸時代の民家の様子が良くわかる建造物として、鳥取県の保護文化財に指定。
[交通]せきがね湯命館徒歩3分[TEL]関金町教育委員会0858-45-2111

東大山鳥居 
昔、大山の山岳信仰が盛んであったころ、大智明権現を祀った大山寺への東の参道の出発点は、ここ天神野丘陵から。関金町の大字大鳥居には、大山の「東の鳥居」があり、「北の鳥居」は米子市淀江町に「南の鳥居」は、岡山県真庭郡川上村にあったとされ、鳥居の跡にはそれぞれ碑が建てられている。(「西の鳥居」については、はっきりとした位置を示した記録がない。西伯郡伯耆町あるいは南部町であったともいわれている)

関金のシイ
常緑樹で四季を通じて潤いがあるシイの木で、特に安歩地内に生育しているシイの巨木は容姿亭々として広がり、鳥取県の天然記念物に指定。


<1900年代〜1931年満州事変までの中国情勢>

1904年からの日露戦争に勝利した日本は、1905年,ポーツマス条約で旅順、大連の租借権と長春-旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を清国政府の承諾を以って日本政府に移転譲渡する講和がなった。つまり,南満洲鉄道(満鉄)の警備権を,関東軍が持つことになった。


写真:1927年,満2歳を迎えた鳥飼欣一。朝鮮半島(北朝鮮)羅南にて撮影。

第一次国共合作が1924年になると,日本は奉天軍(張作霖)を,欧米は直隷派を,ソ連は中国国民党:共産党へ支援するようになり,中国での国際的な紛争が始まる。

1926年,蒋介石の率いる国民党は,北伐によって直隷派を壊滅させると,張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、自らが中華民国の主権者となると発表した。

一方,国民党は、欧米の支援を受けようと、党内の共産党員を弾圧した。1927年,上海クデーター(4・12反共白色テロ)により、共産党関係者が大量処刑され,国共合作は崩れ去った。

張作霖は,蒋介石の北伐(華北開放)に直面すると,譲歩の姿勢を見せ,北京を撤退することを決意した。国際的な支援を得た国民党軍には,奉天軍では勝ち目がないと判断したのであろう。張作霖は,華北を蒋介石に譲り,満州のみの支配を認めてもらおうとしたと考えられる。

しかし,蒋介石に譲歩するような弱腰の張作霖も,関東軍の傀儡にはなるつもりがない。そこで,日本の満州駐屯の関東軍には,満州に帰還してくる張作霖は,その独立的傾向のために,日本の満州支配にとって障害となる。そこで,1928年に張作霖爆殺事件を起こした。



写真(左);1928年8月,満3歳9ヶ月の鳥飼欣一。

東伯郡と関金町
1896年3月29日 - 河村郡・久米郡・八橋郡が合併し発足。(1町58村)
1900年3月27日 - 赤崎村が町制施行・改称し赤碕町となる。(3町55村)
1907年10月1日 - 高勢村・賀茂村・竹田村が合併し、旭村が発足。(3町52村)
1929年10月1日 - 上灘村が倉吉町に編入。(4町41村) 
1940年12月12日 - 伊勢崎村・逢束村・市勢村が合併し、浦安村が発足。(4町39村)
1942年2月11日 - 浦安村が町制施行し浦安町となる。(5町38村)
1944年7月1日 - 日下村が町制施行・改称し上井町となる。(6町37村)
1953年4月1日(9町25村)浅津村・長瀬村・橋津村・宇野村が合併し、羽合町が発足。 東郷松崎町・花見村・舎人村が合併し、東郷町が発足。山守村・矢送村・南谷村が合併し、関金町が発足。
1953年10月1日 - 倉吉町・上井町・社村・高城村・上小鴨村・上北条村・北谷村・西郷村、灘手村の一部が合併し、倉吉市が発足、郡より離脱。(7町19村)
1953年11月1日 - 三朝村・三徳村・小鹿村・旭村・竹田村が合併し、三朝町が発足。(8町14村)
1959年4月1日 - 大栄町・由良町が合併し、大栄町が発足。(8町1村)

1985年(昭和60年)4月1日に倉吉線が廃止され、駅も消滅した。関金町には,倉吉駅から倉吉線が分岐し、関金駅が最寄り駅になっていたのが,敗戦となったのである。(→関金町温泉

2004年9月1日 - 赤碕町・東伯町が合併し、琴浦町が発足。(7町1村)
2004年10月1日 - 東郷町・羽合町・泊村が合併し、湯梨浜町が発足。(6町)
2005年3月22日 - 関金町が倉吉市に編入。(5町)


写真(右):1929年,帽子,コート,ブーツで盛装した鳥飼欣一。満4歳のとき。


<満州事変>
1928年(昭和3年)6月4日、蒋介石率いる北伐軍に北京を明け渡し,満州へ帰還しようとしたた張作霖は,搭乗した特別列車ごと、奉天近郊の京奉線と満鉄線のクロス地点付近で爆破された。張作霖爆殺事件の実行犯は,鉄道警備を担当する独立守備隊の黙認の下で、朝鮮軍から関東軍に派遣されていた桐原貞寿工兵中尉である。立案者は河本大作大佐で,周到に準備していた中国人の死体を現場に放置して、この爆破が国民党による陰謀であるかのような偽装工作を行った。

日本では,田中儀一内閣が事件究明を昭和天皇に確約したが,陸軍出身の田中は,関東軍が関与していることから,陸軍内部の圧力に負け,真相究明を放棄してしまった。昭和天皇は,田中への不信感を露わにし、田中内閣を総辞職に追い込んだ。

奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良が,父殺害の真相を知って激怒したのは当然で,国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換してた。満州でも中華民国の国旗「青天白日旗」をいっせいに掲げるよう,指示したのである。つまり,1928年の張作霖爆殺事件は,中国の満州における軍閥に,国民党政府と和解への道を切り開き,日本の思惑に反して却って反日行動を激化させる結果となった。


<祖父と父の暮らした北朝鮮>

父鳥飼欣一は,1932年4月,軍服姿の祖父鳥飼恒夫に連れられて,茂山公立尋常高等小学校尋常科第一学年に入学した。
この「茂山」とは,日本の地名のように見えるが,実は,北朝鮮咸境北道の茂山(ムサン,ただし日本人はモサンと呼ぶことが多かったようだ)で,満州との国境に近い。

朝鮮咸境北道「茂山」(ムサン)は,中国との国境に近く,現在は,脱北者が集まる町として有名になったが,日本に併合されていた時期から鉱業が盛んであった。


写真(右):北朝鮮咸境北道の茂山鉱山選鉱場:「茂山」(ムサン)には日本企業も進出していた。

茂山には鉄鉱石を産出する茂山鉱山があったからである。この茂山の鉄鉱石を製鉄所に運ぶために茂山-清津(港)の間に,日本が複線の鉄道を敷設した。祖父の勤務先も,朝鮮の羅南から茂山に移ったため,父欣一も,茂山公立尋常高等小学校から羅南公立尋常高等小学校に転校した。

茂山鉱山の鉄鉱石の可採埋蔵量は13億トンと推定され,今後50年間、茂山鉄鉱開発権を中国企業(通化鉄鋼グループ、延辺天池公社、中鋼グループなど吉林省の3企業)が買収した。中鋼グループは中国最大国営鉄鉱石輸出入会社である。

茂山からの脱北者は,中朝国境の町・茂山からの物や情報を通して中国の様子を知るという。そこで,脱北者の多くが茂山を目指し,一帯を流れる豆満江から中国へ渡る脱北者が後を絶たないという。


写真:1932年4月,小学校入学式当日の父鳥飼欣一と軍装の祖父鳥飼恒男;祖父の駐屯,勤務していた朝鮮に於いて撮影。
北朝鮮の茂山公立尋常高等小学校に入学したと思われる。

<1920-30年代の朝鮮半島>
1919年には日本に併合された状況に反発した朝鮮人による朝鮮独立闘争,すなわち三・一運動が起こり,翌1920年に、中国側の間島地方では中国在住韓人による組織的な抗日闘争が激化した。そこで,日本軍の羅南(咸鏡北道)に駐屯する第十九師団長は独断で越境出兵し反日根拠地の「馬賊」を掃討しようとした。朝鮮軍司令官も大部隊による掃討作戦を指揮したので,「間島出兵」となった。

間島出兵は,中国の琿春と間島地方の日本人居留民を保護するために,「不逞鮮人」を掃討して,朝鮮の治安を確保することにあった。

  日本軍は第十九師団・第二十師団の歩兵を主力として,徹底した掃討作戦を展開した結果、500名の殺害、700名を越える逮捕者,銃器弾薬の押収、民家 学校 教会の焼却,相当数の帰順者を得た。しかし,日本軍によって発表された「出兵の効果」なる報告書にも、「彼等の壊滅的打撃を与うるに従わず、その中心的人物と目すべきものの大部は之を逸したるが如し」というほど,独立運動の根は深かったようだ。

咸鏡道民の移住は,1910年の韓日合邦後、いっそう進んだが,これは祖国光復と日本の弾圧回避が背景にあったと考えられる。

1922年,朝鮮を併合していた日本は,「朝鮮教育令」を改定して、日本語導入による同化教育を強化した。しかし,大日本帝国憲法の適用,特に参政権,財産権の上で,日本人以下の待遇しか受けられない朝鮮人にとって,「日本の善政」という認識はあまり育たなかったようだ。1929-1930年には光州抗日学生運動、元山ゼネストが発生している。

<1932年 「満洲国」建国>
1931年に満州事変がおこり,朝鮮軍(朝鮮に駐屯する日本軍)が,満州に越境,進攻した。

1932年には,第一次上海事変がおき,満州国も独立する。このような東アジアが戦乱に巻き込まれていた時期にあっても,人々の生活が営まれている。当然のように,尋常小学校の入学式も行われている。

1933年1月1日、万里の長城の東端海岸部にある山海関で,日中両軍の武力衝突が起こり,日本軍(満州を防衛することになった関東軍)が山海関を占領した。
1933年2月23日には,日本軍は西方の熱河省へ侵攻する。この翌日24日には国際連盟を脱退している。

満州国をつくり、第一次上海事変に「勝利」したといっても、実は、日本と中国との対立は、まだまだ深化し、いそう激しい戦いをむかえることになる。



写真:1933年3月25日,茂山(ムサン)尋常高等小学校の父の修業証書;修業時の校長は,川崎仲二先生,入学時の校長は池本憲雄先生だが,校長の氏名は,修業証書には記載されていない。途中で校長が変わったために,氏名を記入するのを避けたのかもしれない。修業証書が,第一号であるのに注意。

入学式の時,軍装の鳥飼恒男と欣一の記念撮影には「於朝鮮」とある。

1933年3月25日には茂山公立尋常高等小学校第一学年を修了している。
1935年3月25日には,羅南公立尋常高等小学校の第三学年「皆勤賞」を授与されている。


写真(上左):1933年3月25日,茂山尋常高等小学校から授与された「賞状」。

「品行方正」「学術優秀」な生徒に与えられた。修業証書も第一号なので,茂山尋常高等小学校第一学年の首席ということらしい。

1933年(昭和8年)3月25日,鳥飼欣一は,北朝鮮の茂山公立尋常小学校,尋常科第一学年の課程を修了し「修業証書」を,茂山公立尋常高等小学校長より授与された。その通し番号は,「第一号」で首席だったようだ。


写真:1933年3月25日,茂山尋常高等小学校の父の通信簿;表と裏だが,三つ折にし縦長の形状になる。



写真(上左):1933年3月25日,茂山尋常高等小学校の父の通信簿。国語。 写真(下左):図画,歌唱など成績。
写真(右):1933年3月25日,茂山尋常高等小学校の通信簿の「家庭への希望」。

昭和七年度
   通信簿  茂山公立尋常高等小学校

           尋常科第一学年 鳥飼欣一

克忠  克孝

校長 川崎仲二(池本憲雄)
担任 岩淵シヅノ
保護者 鳥飼恒男
校医 小松栄吉  

通信簿

「通信簿」の出席状況表によれば,四月24,五月25,七月26,八月9,九月25,十月24,十一月24,十二月24,一月3,二月23,三月21日の出席日数で,合計255日出席に欠席日数はゼロだった。寒さ暑さの厳しい北朝鮮の冬・夏に配慮してか,12月29日より1月17日まで「冬季休業」,8月1日より8月20日まで「夏季休業」である。

身体検査表によれば,身長1110.0ミリ,体重18.71キロ,胸囲55.5センチ。
発育の概評は「乙」,栄養「甲」。脊柱「正」で,視力,色神,眼疾,聴力,耳疾みは記載がない。歯牙は,上3下,其ノ他ノ異常では,扁桃腺肥大とある。

  家庭への希望
1.時々学校に来て児童の様子を見て下さい
2.自動地震のことは成る可く自動にやらせて下さい
3.時々学用品及課外読物を検査して下さい
4.児童の所持品に学年姓名を書くやうにして下さい
5.手拭と鼻紙は必ず持たせて下さい
6.成る可く弁当を持たせて下さい
7.授業料の外金銭を持たせぬやうにして下さい
8.授業三十分以内に登校さすように願ひます
9.友達や遊戯の種類に御注意下さい
10.少しでも教育上害ありと認められる事は児童に見聞せしめない様御注意下さい
11.児童の申出には折々誤がありますから疑わしい事があった場合は学校に御問合せ下さい
12.本人は勿論風国伝染性の病気の疑ある時は直に学校に通知して下さい


写真(右):1933年(昭和8年)9歳の鳥飼欣一。弟の鳥飼貞夫と妹三人。泰子,常子,正子。平壌で撮影したらしい。

1933年3月25日,鳥飼欣一は,北朝鮮の茂山公立尋常小学校,尋常科第一学年課程の「修業証書」と同じ日付けで,「品行方正」「学術優秀」を理由とした「賞状」を,茂山公立尋常高等小学校長より授与されている。

修業証書
            鳥飼欣一

尋常科第一学年ノ課程ヲ修了セシコトヲ証ス

   昭和八年三月二十五日
   茂山公立尋常高等小学校長
第一号

修業証書と並んで,同日,次のような「賞状」が授与されている。

    賞状

    尋常科第一学年 鳥飼欣一

右者品行方正学術優等ニ付賞品ヲ授与シ慈ニ之ヲ表彰ス

     昭和八年三月二十五日
     茂山公立尋常高等小学校



写真:鳥飼欣一「初めて海を知る」。欣一を抱える祖父鳥飼恒男の当番兵。アルバムには「於羅南」と記載してあるので,羅南公立尋常高等小学校時代,すなわち小学校1年か2年のときで,時代は1933-1934年の夏と思われる。祖父の駐屯,勤務していた北朝鮮に羅南の海岸に於いて撮影したのであろう。
茂山公立尋常高等小学校は,内陸なので「初めて海をしる」のであれば,茂山から羅南に転向してきた直後ということになる。

羅南は,北朝鮮の咸鏡北道(ハムギョンプクド),北朝鮮北東部に位置し,港のある清津(チョンジン)の隣である。

清津(チョンジン)は,日本海に面した北朝鮮の港で,1904年の日露戦争で日本軍の兵員・物資陸揚げ地となり、1908年日本の要求によって万国通商港として開港した。植民地時代に日本製鉄の清津製鉄所が建設されるなど工業が発達した。咸鏡北道の所在地で,現在でも北朝鮮の金属工業中心地の一つである。1941年、市に昇格(この当時、清津市はせいしんしと呼ばれていた)。平壌(ピョンヤン)から清津間では,鉄道で788kmある。


写真:1935年3月23日,羅南公立尋常高等小学校の父の賞状と皆勤賞;賞状とは,優秀な生徒に与えられる特別賞である。


写真(上):羅南公立尋常高等小学校の校舎。

戦前の羅南の写真を見ると,咸鏡北道庁,羅南警察署,羅南停車場,羅南郵便局,咸鏡北道連合組合,拓殖銀行羅南支店,羅南慈恵病院,羅南公立高等女学校,羅南憲兵隊本部,羅南神社など立派な建物が建てられているが,これらは,1910年の日韓併合の後,日本政府や日本企業が建築したものである。

そこで,朝鮮の各地の写真を比較して,日韓併合は,韓国の近代化(インフラ整備,生活向上)に大いに貢献したという識者もいる。また,併合された朝鮮は,日本となったのであり,決して植民地ではないという人もいる。しかし,朝鮮の近代化の利益を享受できたのは,元にすんでいた住民ではなく,彼らの土地,言語,財産を奪っ他のであれば,近代化の利点は回ってこない。また,大日本帝国憲法の適用,すなわち参政権,財産権,人権の保護が,日本人とは異なり,劣位に留め置かれている。したがって,日韓併合によって,日本人の下で差別的待遇を受けた朝鮮人は,日本から恩恵を受けたとはいえない状況であった。


写真(上):1930年代と思われる羅南市街地;そのすぐ隣の羅南(ラナム)は交通の要衝で,ここから列車で北上すると,朝鮮と満州の国境を流れる豆満江にいたる。ここを渡れば満州に入る。
羅南駅で売られていた駅弁の包み紙も残っている。

一橋大学 大学院社会学研究科・社会学部の小林玲子(2005)博士論文「韓国併合前後の間島問題―間島協約(1909)の適用をめぐって」によれば,間島 と呼ばれた豆満江北岸地域は,中国との国境防衛上,重要な地域であった。1909年の間島協約の調印によって、日本は間島総領事館と4領事分館を設置し、61名の領事館警察官を配置し,清国に置かれた領事館警察の中では最大規模であった。次に、統監府臨時間島派出所の撤退、韓国駐箚憲兵隊間島分隊の撤退をしたが,日本軍は豆満江対岸の咸鏡北道に憲兵隊鏡城分隊を新設し、間島との国境沿いに憲兵分遣・派遣所を増加し、配備人員も増やして、ロシア・清国領からの義兵の攻撃に対する防御、義兵や民族独立運動家への内偵をはかったという。


写真(上):羅南第十九師団司令部。第十九師団は、通称号「虎」、大正4年12月24日、北朝鮮の羅南で編成された。羅津第十九師団は,京城第二十師団とともに朝鮮軍に属していた。

田村貞雄(2004)山口県地方史研究92号,2004.11,pp.61-75「山口県内乱戦争史のデータベース(昭和期)}によれば,ともに山口県民が多く動員された部隊である。

大正期の軍縮時代を経て、昭和初期の陸軍は、17個師基幹(平時戦力23万、戦時動員34個師可能)で、関東軍・台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍と内地部隊があった。1931年9月の満洲事変直後、17個師基幹には変わりがないが、関東軍への増強が行われた。久留米第十二師団(関東軍)と羅南第十九師団(朝鮮軍)が,満州事変に出動している。羅津第十九師団は満洲事変直後に無断越境した朝鮮軍の部隊である。

ソ連との国境紛争である1938年8月張鼓峰事件にも羅南第十九師団は出動している。
1938年7月満州・朝鮮・ソビエト国境の交叉点で境線が不明確な、豆満江(トマンコウ)下流の張鼓峰付近で日ソ両軍の武力衝突がおきた。これは,対ソ戦の威力偵察として朝鮮駐屯の第十九師団と一部関東軍が大本営の制止を無視し、30日に独断で沙草峰で衝突し,ソ連軍の優勢な火力により,日本軍は甚大な被害を受けた。8月4日、モスクワでリトビノフ外相(外務人民委員)と重光大使が折衝を開始し,事実上ソ連の主張する国境を認めて停戦協定が成立した。日本軍側、死傷者1,440名。ソ連軍は実際には日本軍を上回る約4000名の被害を受けたという。


写真2-4:1938年12月,12歳の鳥飼欣一

遠い日の東アジアで > 汝が祖国わが街に次のような朝鮮志願兵と差別の話が載っている。

昭和14年(1939年)度は朝鮮民族にたいする志願兵制度が施行されて未だ二年目だった。日本政府は朝鮮民族が兵役について銃をとることに未だ信頼を置きかねていたし、総督府も時期尚早と考えていたようだった。
しかし軍部の国政にたいする勢力浸透の強まった結果、戦争の拡大と兵員増加の必要から遂に総督南次郎大将をして志撤兵制度の早期実環を決行さすに至ったのである。---

<中略> 「私は日本人に同情されていることに甘んじて居ることが我慢できなくなりました。考えの飛躍かも知れませんが、内地人と同様に日本の軍隊に入る。そして内地人とともに軍隊の訓練を受け戦場にも行く。そして自分の生命をかけて先ず国民として内地人と同じ立場に立つ。そしてたくましい兵士として精神的にも肉体的にも立派に朝鮮民族の将来を背負って立つことのできる人間となる。

 私は形としては日本帝国の兵士となるのですが、目的は先ず第一段階として、朝鮮民族が日本民族と対等の立場での国民として力を発揮できるようにしたいのです。私は朝鮮民族のためにその第一歩を志願兵として踏み出したいのです」

<中略>彼は20歳で私と同じ年頃だった。郷里全羅北道の群山の普通学校を終えて上京し南大門通りにある内地人の経営する工作機械問屋で働いていた。日本語はよく話せたし、誠実な人柄と数字に強い才能が認められて、店主からも同僚の内地人店員からも信頼されていた。語り合う機会が重なるにつれて、彼は次第に私にたいして心の底を打ち明けてくれるようになった。
彼は簿記を勉強して将来会計業務で身を立て商店の経営者になりたいとの抱負を持っていた。彼の父は群山という港湾都市でトラックの運転手をしており、彼は次男だった。


写真(右):羅南憲兵隊司令部への難波朝鮮憲兵隊司令官巡視;1933年と思われる。

 彼の勤務する機械問屋は、使用人が8名余りおり、金青年ともう一人の17歳の朝鮮籍の男のほかは、6名の店員全部が主人と同じ熊本県出身の男たちだった。主人は50代半ばの温厚で経営の才豊かな人物だった。熊本の同種の問屋で働いていたが、大正年間の初め、志を立てて京城で同郷の先輩の援助を得て店を開き、次第に仕事を発展させて現在に至っていた。商品はポンプや工作機械の部品を取扱っていた。

 日支事変が始まる2年前(1935年)、店員の一名は徴兵適令で熊本の連隊に入営し、中支戦線を経て今年の六月に上等兵で復員し店の勤務に戻っていた。28歳の店員は4月に現地召集で京城の龍山にある歩兵第七十九連隊に入隊し、現在は山西省の戦線に出征していた。金青年と同じ年齢の店員は一年後には現役で入営する可能性が強かった。35歳の番頭格の店員は戦争が長引く形勢の今日、召集がかかる可能性があった。将来主人の後継者となる予定の息子は、京城の高等工業学校の機械科を卒業後入営し、陸軍幹部候補生から予備役工兵少尉に任官し引続き召集を受けて北朝鮮の羅南の第十九師団の連隊に配属されていた。

 金青年は図書館からの帰途、コーヒーをすすりながら私に語った。
 「私は先輩の内地人の店員たちが、入営したり召集されたりして軍隊に入り戦地に赴くことを、国民の義務として割り切って仕事をしているのを見ています。割り切っているような言葉や行ないを示していても、それぞれのいろんな心の中の動きが胸に伝わって来るのです。そしてその心情にたいして同情や尊敬の想いも湧いて来ます。しかしそれとともに、私の胸の中にはこんな気持ちも湧いて来るのです。内地人たちは日本という愛する祖国があるんだ。自分たち朝鮮民族の祖国は30年余り以前に日本に併合されてしまっている。そして日本はわれわれに対して『貴方たち朝鮮民族の祖国は今や日本なんだ。朝鮮民族も日本国民となっているんだから、日本を自分の祖国として愛するようにならなければいけない』と指導する。しかし私はどうしても日本を祖国とは思えない。自分の祖国は韓国だという感情が胸の底からこみ上げて来ます」


写真(右):羅南若葉町;1933年と思われる。

 私たちは語らいながら、ある日は長谷川町から太平通りへそして南大門通りへと舗道を歩き廻ることもあった。
 「私の働いている店の主人も店員たちも、男らしいさっぱりした人たちが多く、私は不愉快な想いを殆ど味わうことなく過ごしています。それだけに外で時々体験する内地人の民族差別的態度や言葉には一層敏感になります。主人は仏教の信仰が厚く民族間の問題にも常々から細かい心くばりをなされるお方です。去年の夏こんなことがありました。中元の贈答用に店名の入った手拭を作りそれを店員たちにも配ってくれた時です。もう一人の朝鮮籍の店員の李君に配られた手拭だけが油で大きくしみが付いていました。彼は申し出て取替えてもらいましたが、それを横で見ていた主人が、『済まなかったね』と彼に言葉をかけて詫びました。そして丁度そこに居合わせた内地人の店員たちを次のように諭したのです。

 『たまたましみの付いた手拭が李君に手渡されたんだけれど、民族間の感情はこのようなことにも気をつけなければいけないよ。しみの付いた一本の手拭が他の多くの内地人の店員に渡らず李君のみに手渡されたということは、手渡す人に他意は無くても受け取った本人はこれを被差別感情として感じることにもなるんですよ。内鮮融和をはかり、更に最近は内鮮一体という目標が叫ばれているが、特に内地人は今言ったような心くばりをするよう努める必要があるんですよ』

 私も主人の諭しを一緒に聞いていました。そして主人の細かい配慮を感謝の心で受けとめていました。しかし同時に感謝とばかりは受けとめられない感情も湧き起こって来ました。
 「つまり自分たちの民族は、優越性を強く意識する日本民族に慰めてもらっていることになるんじゃぁないか。日本国民にされ国を失った朝鮮民族を憐れんでくれているのを感謝していることになるんじゃあないか。と思うと情けなくなってしまうんです」(引用終わり)


写真(右):羅南咸鏡北道庁

羅南(ラナン)区域の豊谷洞(プンゴクド)には,日本の陸軍・第十九師団の「慰安所」30棟があり,その地区への入り口には、派出所だった建物が当時のまま残るという。羅南に司令部を置く第十九師団と、京城(ソウル)の第二十師団が朝鮮全体を統括する「朝鮮軍」を編成していた。第十九師団のうちの1万人程度の将兵が羅南に常駐していたようだ。もっとも,日本国内(内地)にもこのような施設はあったし,日本に限らず,中国,米国,英国にもあった。

このような政治的,社会的な問題に関しては,個々人で意見が相違して,価値判断の際から,紛糾した議論を巻き起こしている。たしかに,日本の朝鮮半島支配のような,イデオロギーや国土防衛にも関連するような大問題は,全体として,祖父のような一軍人の,あるいは父のような一生徒の関知するところではない。多数の日本人の意識上の差別が,朝鮮人の政治的,社会的差別を許容することになったとはいえ,個々人を非難しても解決の糸口がつかめない問題であろう。

肝心なこと,事実判断として,差別的待遇を,現時点の価値基準から見て,認識し,民族やその属する集団にかかわらず人権の平等,教育の機会均等,自国文化(言語)の保存に意を尽くし,他の人々の持つその権利を侵害しないことである。

歴史的事実をどのように受け止めるかが,問われている。歴史的事実をありのままに受け入れることが,誇りを持って歴史に向き合うことにつながると考えられる。隠蔽や捏造は,歴史をプロパガンダに利用する意図を持った人物が,自らの狭い利益を重視して行う行為であろう。

村山智順所蔵写真選
「大陸・南洋へ」
近現代李朝,韓国,北朝鮮,日本の条約
総督府時代
資料:15年戦争下の朝鮮
中野文庫 植民地法令(朝鮮の部)
韓国の歴史歪曲捏造 49編収録
日本と朝鮮の因縁の歴史
韓国の捏造教科書


写真:1938年の北海道大雪山に登山した鳥飼欣一。

鳥取県の小学校
関金小学校 〒682-0411 倉吉市関金町関金宿666番地

「昔を偲んで:尋常小学校の」記載されている教育内容
国語読本に出てくる唱歌 (一部)
巻一 サルとかに
   デンデンムシムシ
巻二 夕やけこやけ
巻三 ねんねん ころりよ
巻四 いろはにほへと
   春が来た
巻五 大日本 巻六 からまつ
巻七 松風 
巻八 廣瀬中佐
巻十一 われら海の子
巻十二 明治天皇御製

「昔を偲んで:尋常小学校の」記載の「国語読本の抜粋」

 一 大日本
大日本,大日本, 神のみすゑの天皇陛下
われら國民八千萬をわが子のやうにおぼしめされる。」
大日本,大日本,われら國民八千萬は天皇陛下を神ともあふぎ,
おやともしたひてお仕へ申す。」
大日本,大日本,神代此の方一度もてきに負けたことなく,月日とともに, 國の光がかがやきまさる。」

五 金鵄勲章
「をぢさん,勲章がふえましたね。一番こつちは金鵄勲章でせう。」
「あゝ,今度の戦争でいたゞいた。」
「金の鳥がついてゐますね。」
「これは鵄(とび)だよ。それで金鵄勲章といふのだが,鵄のついてゐるわけは知つてゐるだらう。」
「いゝえ。」 「話して上げようか。」
「はい。」
「むかし神武天皇がわるものどもをごせいばつになつた時,わるものどもが強くて,おこまりに なつたことがある。其の時一天にはかにかき曇つて,ひようがひどくふり出すと,金色の鵄が 一羽とんで来て,天皇のお弓の先にとまつた。鵄の光がまるでいなびかりのやうで,わるものどもは目を明けてゐることが出来ず,おそれてみんなにげてしまつたさうだ。其のいはれで,戦争の時,大きな手がらを立てた軍人に下さる勲章に,金の鵄をおつけになつたのだ。
此の勲章には功一級から功七級まである。」
「をぢさんのは。」
「をぢさんのは功七級だ。


写真(左):1938年秋,北海道旭川市の学友たちと鳥飼欣一(右端),14歳

<日中戦争>
1937年ごろの中国に目を転じると,上海ではた米巡洋艦「オーガスタ」の米海軍兵士が、米海兵隊兵士と同様、上海租界の米国居留民保護を目的に活動していた。そこで,欧米列国こそが,中国を半植民地化した張本人であると非難する識者も多いのであるが,マクロの外交や軍事だけを見ても,歴史的な実態の一部に過ぎないことに注意すべきである。

1930年代になると,列国の侵略が始まり,国内産業が外国商品に圧迫されるなど,それまで軍閥による支配や民族的差異から,「中国人」という国民意識が薄かった中国の住民に,次第に中国人として自覚が高まってくる。これが,反英,反日の活動にもつながるのであるが,当時の写真には,上海でダンスに興じる米国駐屯軍軍人と中国民間人の楽しそうな風景も見受けられる。
単に政治的,国際関係的に物事を把握するのが学問ではない。個人レベルの生活や交流など草の根の視点も,時代の理解には不可欠であろう。


上海でダンスに興じる米国駐屯軍軍人と中国民間人
:1937年頃。米国アジア極東艦隊旗艦は軽巡洋艦「オーガスタ」で,上海に根拠地としている。その将兵たちと中国婦人との交歓。
国際親善の場ともなるダンスパーティーをみると草の根レベルので交流の重要性が窺われる。

こうして、親近感を持った米国人と中国人が,接近するようになった反面、日中は対立を深化させ,全面戦争に至る。日本人と中国人のダンスパティーや音楽会,演劇のような催しはどのくらいあったのか。



写真(左):兵庫県立柏原高等学校学制の軍事演習『兵庫県立柏原高等学校 創立百年記念誌』引用。
1937年頃。プライマリー・グライダーによる滑空演習も行った。

学制(旧制学校) 
師範学校令(1886年)、実業学校令(1899年)、中学校令(1899年)、専門学校令(1903年)、小学校令改正(1907年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなっていた。現在のように階段状に積み上げる累積型ではなく,コースごとに分離した複線型の学制であった。


写真(左):1939年(昭和14年),祖父鳥飼恒男の出張中の祖母と鳥飼欣一,弟貞夫,妹たち。泰子,常子,正子,昭子。倉吉に於いて撮影。弟は,旧制中学・高校へ,妹たちは,倉吉女学校,倉吉高校あるいは板橋高校へ進学することになる。

初等教育機関:小学校尋常科 義務教育6年制(6〜12才)→中等教育1.2.3.6.7.8.9.

中等教育機関:小学校高等科  2年制(12〜14才)→中等教育4.5./3年制(12〜15才)→高等教育1.
実業学校予科: 2年制(12〜14才)→中等教育4.
実業学校乙種: 3年制(12〜15才)→中等教育4.2年次編入
実業学校甲種: 3年制(14〜17才)→高等教育:研究補習
実業補習学校: 3年制(14〜17才)→なし
高等女学校:  4年制(12〜16才)→高等教育2.3.4.
中等学校:   5年制(12〜17才)→高等教育5.6.7.8.9.10
中等学校: 4年制(12〜16才)→高等教育10.11.13.14.
高等学校尋常科:4年制(12〜16才)→高等教育12.

高等教育機関
師範学校;4年制(15〜19才)
高女高等/専攻/補習科:3年制(16〜19才)
女子専門学校:4年制(16〜20才)→研究科 2年制(20才〜)
女子高等師範学校:4年制(16〜20才)→研究科 2年制(20才〜)
高等師範学校:4年制(17〜21才)→研究科 2年制(21才〜)
工業専門学校:3年制(17〜20才)→研究科 2年制(20才〜)
商業専門学校:3年制(17〜20才)→研究科 2年制(20才〜)
実業専門学校:3年制(17〜20才)→研究科 2年制(20才〜)
専門学校:3年制(17〜20才)→研究科 2年制(20才〜)
大学予科:2年制(17〜19才)/3年制(16〜19才)→大学1.2.3.4.5.6.7.  高等学校:3年制(16〜19才)→大学1.2.3.4.5.6.7.
高等学校高等科:3年制(16〜19才)→大学1.2.3.4.5.6.7./高校専攻科 1年制(19〜20才)
高等商業学校:3年制(16〜19才)→大学3.4.
高等工業学校:3年制(16〜19才)→大学5.6.


写真(左):1939年12月の鳥飼欣一(15歳)

 大学
帝国大学 3年制(19才〜22才)→大学院 年限不定(22才〜)
文理大学 3年制(19才〜22才) (東京.広島)
商科大学 3年制(19才〜22才) (東京.大阪)
商業大学 3年制(19才〜22才) (神戸)
工科大学 3年制(19才〜22才) (旅順)
工業大学 3年制(19才〜22才) (東京.大阪, 1933年大阪工大は大阪帝大工学部に編入)
医科大学 3年制(19才〜22才) (千葉.金沢.岡山.新潟.熊本.長崎)

学制(旧制学校)
旧制中学校とは、かつての日本で、男子に対して中等教育を行っていた学校のことである。旧制中学(きゅうせいちゅうがく)と略されることも多い。旧制とは、現在の学校教育法に基づく制度が実施される前の制度のことであり、当時は単に「中学校」と呼称した。ただし、明治時代には、尋常中学校(じんじょうちゅうがっこう)と呼称した時期もある。

旧制中学校は、日本において、明治時代から昭和時代前期にかけて学校教育法に基づく現代の中学校や高等学校に代わられるまで存在し、高等普通教育(現在の高等学校、中等教育学校の後期課程などで行われている教育に相当)を行っていた。入学資格は、尋常小学校(後に国民学校に移行)を卒業していることであり、修業年限は、元々5年であったが、後に1941年(昭和16年)に制定された中等学校令(昭和18年勅令第36号)によって4年に改められた。


写真;坊主頭の鳥飼欣一(2)。尋常小学校の制服のような服を着ているのは,弟貞夫。

旧制中学
 旧制中学校を経ると旧制高等学校、大学予科、高等師範学校や旧制専門学校に進学することが可能であった。また、旧制中学校2年生を修了すると師範学校への進学が可能であった。

旧制中学校と類似の学校には、女子に対して中等教育を行った高等女学校、小学校卒業者に職業教育を行った実業学校がある。ただし、高等女学校や実業学校からさらに上級学校に進学するには、旧制中学校より制限があった。

太平洋戦争、無条件降伏後連合国軍最高司令官総司令部の占領下、昭和21年(1946年)3月5日と7日の第一次アメリカ教育施設団の調査結果によりアメリカ教育使節団報告書に基づいた教育課程の大規模な改編が行われた。この学制改革は、学校の制度、特に学校の種別体系を改革することである。


写真(左):10代前半の鳥飼欣一
写真(右):1941年の鳥飼欣一と黒の学生服を着た井上さん(左側)

国家総動員
国家総動員法は,日中全面戦争から1年とたたない1938年4月1日公布された。法案審議の過程(衆議院)において批判も起きたが、法案説明中の陸軍省軍務課員・佐藤賢了中佐が議員の「黙れ!」と一喝した事件もあった。

総動員法によって、戦時において労務・物資・賃金・施設・事業・物価・出版など経済活動の全般について、政府が必要とする場合、帝国議会の審議をへることなく勅令等によって統制することが可能となった。

国家総動員法に引き続いて、国民微用令・国民職業能力申告令・賃金統制令・従業者移動防止令・価格等統制令・新聞紙等掲載制限令・会社利益配分および資金融通令などの私企業や国民生活の自由な活動を制限・統制するための法令が制定された。こうして,国民を戦争に動員することが可能になった。

1938年8月24日、軍需生産の労働力確保のために、学校卒業者使用制限令(勅令第599号)によって、大学院・学部工学部及工鉱業の専門学校等の卒業生を使用するには、事業主は、その使用員数について厚生大臣の認可を受けることを義務づけた。


写真(右):1941年8月,16歳の鳥飼欣一。

1938年8月24日に勅令第600号において医師、歯科医、薬剤師、看護婦の登録については、医療関係者職業能力申告令が制定されてた。

1939年1月13日には勅令第23号で船員職業能力申告令が、また同年2月4日には勅令第26号で獣医師職業能力申告令が制定された。

1939年1月7日国民職業能力申告令(勅令第5号)をもって、機械技術者、採鉱夫、鍛工、旋盤工等軍需産業や作戦用兵上最も必要と認められた134種の技術を有する者は職業紹介所に登録することとした。

  1939年7月8日には、国家総動員法第4条(「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ」)を発動して、勅令第451号で国民徴用令を制定する(7月15日施行、8月1日最初の出頭要求書送付を建築技術者に出す。この年の徴用者は850人であったが、1942年に31万人を超えた)。

戦争を遂行するには,兵士,兵器だけではなく,その運搬のための輸送機材,労働力が,生産のための工場設備,燃料,原材料,労働力がひつようであり,人員と物資の動員が行われる。国家総動員とは,戦争にあって,前線と銃後,戦線と後方,兵士と民間人,軍事目標と非軍事目標の区別ができなくなったことを意味する。


写真(左):1941年,16歳の鳥飼欣一

総力戦体制の構築は,1930年代から陸海軍で大きな課題とされ,その体制を構築できない焦りが,五・一五事件,二・二六事件のきっかけとなったほどだったが,1937年7月7日の盧溝橋事件以降,日中全面戦争に突入してゆく中で,総力戦の体制作りが強化されたのである。

1940年になると、青少年を戦争遂行のための重要産業に労働力として編入する目的で、2月1日には、国家総動員法第6条(「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ従業者ノ使用、雇入若ハ解雇又ハ賃金其他ノ労働条件ニ付必要ナル命令ヲ為スコトヲ得」)を発動して、勅令第36号で青少年雇入制限令が制定され、一般青少年(12才以上30才未満の男子と12才以上20才未満の女子)の不急産業への雇用の規制を計った。

鳥取県立倉吉中学校の歴史:現在地 〒682-0812 鳥取県倉吉市下田中町801番地
1909年4月:鳥取県立倉吉中学校を設立。
1948年4月:鳥取県立倉吉第一高等学校へ改称。定時制(夜間)普通科を設置。
1949年4月:倉吉第一高等学校・倉吉第二高等学校(現・鳥取県立倉吉西高等学校)・倉吉実業高等学校が合併し鳥取県立倉吉高等学校となる。倉吉第一高等学校は東校舎となる。同時に共学となった。


写真(右):1942年倉吉中学の鳥飼欣一。

1937年以降,日中戦争が激しくなると,動員が進む中,実学を教える「専修学校」が設立されるようになる。これは,食糧増産のための農業・畜産,製造業のための工業,簿記・会計などの商業の専門家を養成する「高等教育機関」である。現在の専門学校と類似しているが,進学率が限られている状況では,やはりエリートとして扱われた。

東郷実科専修学校 
○1942年(昭和17)年3月31日、東郷実科専修学校の設立認可が下りた。開校式は同年4月11日に行っている。校区は舎人・東郷・松崎・花見及び泊の5か村であった。当初は、東郷国民学校の校舎が使用された。兵器などの器具は、各村の旧青年学校から持ち寄って使用した。当時、県内では各村の青年学校が数か村連合の組合立に統合されている。その校名のほとんどが「○○青年学校」となっているのに対して、本校のように実科(業)専修学校と称したのは県下六六校中八校であった(昭和20年現在の公立校のみ・『鳥取県教育史』)。
○1943年5月、小鹿谷の報国農場五アールを開墾し、サツマイモと大豆を作付けした。また、川上の水田約18アールを借り入れて耕作した。この結果、サツマイモ約500キログラム(うち供出360キログラム)、米一二俵(同一一俵)を収穫した。また、同年12月には、麻畑の炭窯を使って木炭を作っている。

○1943年6月・久見字「向畑」(現・東郷中学校のある場所)の90アールに校舎を建築し、移転することになった。建物は、倉吉市の個人所有の養蚕場(瓦葺二階建て、16.4間)一棟と、トタン葺平屋建て(7×2間)の物置を買収して移築した。養蚕場が校舎に、物置が農具舎に充てられた。校地の地ならしなどの作業には、同校職員や生徒が協力した。同年9月10日の鳥取大地震以後、資材の調達が難しくなって工事が遅れたという。新校舎に移転したのは、翌1944年1月であった。しかし、教室の床板の半数以上はまだ張られていなかった。同校の「沿革又ハ重要事項録」には、「寒風容赦〈しゃ〉ナク突破ス」と記されている。
○1944年7月29日、大山までの長距離行軍を実施した。同日夜に町内を出発し、翌朝大山寺に到着した。31日に大山に登り、同日帰校した。
○1945年1月、充実課程(第二部・全日制)の生徒に、3月末までの学徒勤労動員の命令が下った。中等学校(旧制中学校や実業学校など)の生徒と同一の扱いであった。
○1945年3月、食糧増産のため、教練場6アールを掘り起こした。また、4月には、山林の伐採跡地40アール弱(場所は不明)を開墾、校庭約10アールを掘り起こし、耕作した。
○1945年12月(終戦から4ヶ月後)、銃239、剣198、軽機関銃5、擲弾筒5の教練器材を倉吉警察署に提出した。


写真(右):1941年10月倉吉中学運動会の時。軍事訓練が取り入れられ,教練と称した。

<軍事教練>
軍事教練には,小銃、銃剣、機関銃、擲弾筒などの教練器材が使われることが多い。しかし,本物の小銃射撃をすることは少なく,訓練用の小銃は使い古しの中古であり,実弾射撃の機会は,弾薬節約の方針とあいまって,ほとんどなかった。

小銃を担いでの行進,分列行進の練習であり,強行軍による鍛錬である。近代的な兵器である機関銃の訓練も合ったが,実弾射撃の不可能な訓練専用機銃である。弾を機銃に詰める装填の訓練を行った。

1938年から,軍部,政府は着実に総力戦体制を構築してゆく。これは,1937年年中に,北京,天津,上海,そして中国国民党政府の首都南京まで占領しながら,大陸での和平(蒋介石の国民政府の降伏)を達成することができず,大幅な軍事動員が不可欠になったためである。

マレー半島,ハワイ島真珠湾への同時攻撃を1941年12月に開始し,対米英戦争に突入してからは,いっそうの動員が図られる。


写真:1941年10月倉吉中学運動会の時。左端で小銃を持って座っているのが,鳥飼欣一。手前には,訓練専用の機関銃が2丁見える。学生たちのベルトには,小銃の弾丸を入れるベルト止め弾薬盒がある。

1943年6月には学徒動員が決定し,文系の大学生。専門学校。師範学校の学生には,徴兵猶予が停止された。しかし,理系学生の徴兵猶予はしばらく続き,航空など戦備拡充に不可欠な分野の学生は終戦まで,徴兵から猶予された。

父欣一も総力戦,学徒動員の流れに巻き込まれながら,中学,高校,大学時代を過ごすことになる。

戦局が悪化する1944年からは,軍事訓練よりも労働力の動員,すなわち工場や農地での勤労奉仕が大幅に取り入れられ,授業,勉強どころではなくなった。戦争末期1945年に入ると教練場にしておくにはもったいないとばかりに,農地に転用され,学との勤労奉仕を投入しての食糧増産が図られた。


写真(右):1942年1月,グライダー訓練に参加した倉吉中学の学生たち。

しかし,1941年当時,日中全面戦争のさなかとはいえ,中学校は日本の将来を担う若者たちの集う場所として,教育熱心であった。つまり,大学・士官学校への進学を希望する学生が多かった。大学進学のためには,現在の大学の教養課程に相当する「高等学校」に進学する必要がある。旧制高等学校は,全国に40校となく,概ね一県一校である。終戦の1945年までの学制では,多くの生徒は,尋常小学校卒で教育を終える。中学校に進学するのはエリートで,男女別学なのである。男子エリート中学・高校に,女子はいないが,女子のエリートは,女学校に進学する道があった。女学校卒は,教育エリートの証になった。

このようなエリートの存在は,教育・学歴の大きな格差がもたらしたものであって,その背後には勤務先や農地の保有規模による収入格差があった。現在では,経済的格差も学歴の格差も縮小しているために,エリートと呼ばれるような存在は,見当たらないようだ。つまり,本人の生まれ盛っての能力にはかかわりない格差が,エリートを生んだ側面が指摘できる。

しかし,エリートは,地域コミュニティでのみならず,日本の指導者,国民の模範を示そうとした向学心,誇り,自信も併せ持っていた。このようなエリートが,日本の草の根や政界・財界・学界の指導者に育っていくことには,メリットも多い。

教育の大衆化は,多数の市民に向学心,誇り,自信を持たせようという意図を持っているが,大衆化すればするほど,エリート意識が浅薄化し,向学心,誇り,自信が薄れてしまうという矛盾を抱えている。

大学生が激増する現在,「大学生としての自覚を持て」「しっかり学問を修めて社会に寄与できる人物になれ」と訴えても,学生から共感を得られるとは限らない。

教育の大衆化,高等教育の普及は,大学生の増加だけでなく,大学教員の増加も伴った現象である。学生ばかりでなく,教員の見識も大いに問われなくてはなるまい。


写真(右):1942年1月,プライマリー・グライダー(文部省1型初級滑空機)の訓練に参加した倉吉中学の学生たち。左端で座っているのが鳥飼欣一(17歳)。

当時,民間で使用されたグライダーは,プライマリー、セコンダリー、ソアラーの3つのクラスに大別さた。民間でグライダーが盛んになったのは,ナチスドイツのヒトラー・ユーゲントを模範にして,1938年(昭和13年)年文部省が,中学校に、滑空部(グライダークラブ)を設けることを奨励したことに由来する。軍用機パイロット養成の第一歩となると考えられたのであろう。

訓練用グライダー
1940年にはプライマリー(文部省1型初級滑空機)が発表された。霧が峰式K-14型もほぼ同系と思われる。

父の在学していた倉吉中学以外の中学でもプライマリー・グライダーの写真がweb上で公開されている。しかし,いずれもただ1機だけしか写っておらず,グライダーは各校1機の配分であったと考えられる。上空を曳航する航空機はないので,ゴム動力ですっ飛ばして,一瞬の滑空体験をしたようだ。


訓練用のプライマリー・グライダー(文部省1型初級滑空機)「明専航空班(昭和18年3月)」に次のような記事がある。
当時のグライダーはプライマリー型と言って,10数人でゴムを引っ張ってパチンコ式にグライダーを飛び出させる代物だったからです。飛んでいったグライダーは全員で又元の位置に引きずり返えすのです。そんな訳で自分が1回飛ぶためには,10数回ゴム引きとグライダー引きずりを繰り返さねばなりません。だから当時のク゛ライタ゛ーの練習は体力勝負そのものだったのです。

 初めて乗ったときは地上滑走と言って地面をかするだけですが,それでもガクンと言う衝撃と共に目の前が真っ白になって,ただただ操縦桿にしがみついたままです。それでも何回かやっていると感覚が慣れてきて,少しずつ機体が浮くようになります。
 普段は校庭のクラウンドで,せいぜい高度数メートルの練習をやっていましたが,本格的な合宿訓練は遠賀川の河川敷と福岡の元岡海軍飛行場で行いました。元岡海軍飛行場は広いので,合宿を繰り返していると機体の高度は10メートルを超え,方向変換も30度くらいができるようになりました。


訓練用のプライマリー・グライダー(文部省1型初級滑空機)にのる学生

訓練用グライダー
 ゴムパチンコと機体の運搬にくたくたになって,夜は布団に倒れ込むように潜り込んで夢も見ずに眠ってしましまい,朝になって先輩達から叩き起こされる毎日でした。それにしても今のグライダー(ソアラー)とは雲泥の相違です。

 しかし昭和19年頃には日本の敗戦色が濃厚になって,学徒出陣や学徒動員が始まり,我々明専でも各地の工場に分散配置されて,授業も一週間に一日だけになってしまいました。それにつれて航空班の活動も自然消滅したのです。(引用終わり)

 
写真(左):1942年3月,倉吉中学時代の鳥飼欣一(16歳)

旧制高校
全国には,高等学校は39学あったが,明治期に創設された旧制一高から旧制八高までは、政官界に卒業生を早く送り込んで後発の学校よりも有名であり,エリート校として,他と区別するように「ナンバースクール」と呼ばれた。

しかし,旧制高校の1学年の定員と帝国大学の定員とは戦前期を通じてほぼ一対一であったため、旧制高等学校卒であれば、どこかの帝国大学に入学できた。こうした身分保障のため、勉強とともに学生生活を謳歌した男子学生が多かったようだ。女子学生はいない。

一高をはじめとする官立の高校の多くは、3年制の高等科だけが置かれたが,尋常小学校を付属している高等学校もあった。高等学校の3年間の就業年限のうち、学生は英語、ドイツ語、フランス語のどれかを専攻し、一般教養科目も履修した。つまり,現在の大学教養課程1,2年生に相当する。

旧制高校の入学資格は、高等科では旧制中学校4年修了時、尋常科は小学校もしくは国民学校卒業時だった。ただし,高校については「飛び級」が認められていた。

明治27年の高等学校令に基づく初期の官立校はすべて3年制だったが、大正7年の新高等学校令では修業年限は尋常科4年と高等科3年をあわせて7年が基本となり、高等科のみの設置も許された。ナンバースクールは,高等科のみの3年制高等学校となり、新しい高等学校令に基づく新設校は東京高等学校を除いて私立公立ともに7年制であった。

アジア太平洋戦争が激化すると、高等科は2.5年〜2年に修業年限が短縮された。高等科は文科と理科に分けられ、さらに英・独・仏の第一外国語別に甲・乙・丙各類に分かれていた。

鳥飼欣一の進学した旧制高校は,松江高等学校(島根大学文理学部)理科である。


写真(右):1943年4月,倉吉中学を卒業し松江高校理科に入学した時期の鳥飼欣一(17歳)。

高校の自習寮とは、学生・生徒の居住する寮であり,学生寮,寄宿舎と同じである。旧制高校に設けられたが,これは旧制高校が1県に1校程度しかない当時の状況では,エリート校として,通学不可能な遠距離からも学生を集めたためである。現在のように高等学校に進学者が多い状況では,考えられないが,距離が長いなど通学困難な学生が全県,全国から集まったためにつくられたのが寮である。

自習寮には,風呂,トイレは共同で、相部屋が多い。門限が厳しいところもあり、私生活を束縛される場合もあったが,寮生同士の絆は固く結ばれる。旧制高校といえば寮生活を思い浮かべる人が多いというのも,もっともである。

1943年6月の学徒動員
学徒動員は、1943年に行われた大学・専門学校・師範学校の文系学生を対象とした徴兵である。従来は,大学令による大学・高等学校令による高等学校・専門学校令による専門学校の文科系学生が徴兵を猶予されていたが,これは高度の専門性を有するエリートとして自他共に認められた存在だったからである。

米国のような大学進学率が高い国とは異なり,日本の大毛区就学率は,同年齢人口の5%程度と少ない。したがって,米国がすぐに学徒を動員したのに日本は遅れていたという批判は当てはならない。


写真:1943年4月松江高校の鳥飼欣一。宍道湖畔にて撮影。

しかし,戦局の悪化に伴って,徴兵猶予者に対する批判が,農村や都市庶民から生まれ,戦意向上,総力戦体制強化を図るために,東条内閣は,学徒動員を決意する。

1943年(昭和18年)6月 「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定された。つまり,在学徴集延期臨時特例を公布し、それまで兵員徴集を免除されていた学生の召集を行った。

陸海軍に入隊した学生は、陸軍甲種・乙種幹部候補生や、海軍予備学生・海軍予備生徒として、不足していた下士官や下級将校の充足に当てられた。そして,全国で開催された文部省主催「学徒出陣式」が開催された。特に,東京の代々木練兵場での出陣式は,女子学生を壮行会に動員した盛大なもので,メディアによるプロパガンダに活用された。

これにより、大勢の若い男子学生が徴兵され,激戦地に投入されることとなった。

実は,学徒動員の対象は,当初は文系学生のみであり,理科系学生は、兵器開発など、戦争継続に不可欠なものとされ徴兵されなかった。しかし,次第に理科系学生も徴兵猶予が取りけられるようになり,航空学科など一部の徴兵猶予が計測されるのみになる。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%87%BA%E9%99%A3" より作成


写真:1943年4月松江高校の鳥飼欣一。宍道湖畔にて撮影。

学徒戦時動員体制確立要綱  1943年6月25日 閣議決定
第一 方針
 大東亜戦争ノ現段階ニ対処シ教育練成内容ノ一環トシテ 学徒ノ戦時動員体制ヲ確立シ 学徒ヲシテ有事即応ノ態勢タラシムルト共ニ 之ガ勤労動員ヲ強化シテ学徒尽忠ノ至誠ヲ傾ケ其ノ総力ヲ戦力増強ニ結集セシメントス

第二 要領
 一 有事即応態勢ノ確立
  学徒ヲシテ将来ノ軍務ニ備へ国防能力増強ヲ図ラシムルト共ニ 必要ニ当リテハ直接国土防衛ニ全面的ニ協力セシムルモノトシ之ガ為 概ネ左記各項ノ方途ヲ講ズ
 (一)学校報国団ノ隊組織ヲ直チニ国土防衛ニ有効ニ動員シ得ル如ク強化ス
 (二)「戦時学徒体育訓練実施要綱」ニ基ク体育訓練ヲ強化シ特ニ大学、高等専門学校、中等学校第三学年程度以上ノ男子学徒ニ付戦技訓練ヲ徹底ス
 (三)前項ノ学徒ニ付航空、海洋、機甲、馬事、通信等ノ特技訓練ノ強化ヲ図ル為学徒ノ適性登録制度ヲ確立シ本人ノ適性ニ従ヒ特技訓練ヲ実施ス
 (四)基本訓練種目、戦技訓練種目及特技訓練種目ニ付中等学校ヨリ大学ニ至ル訓練教程ヲ総合的且各学校ノ段階ニ適応スル如ク制定シ以テ訓練ノ適正ト徹底ヲ図ル
 (五)学徒全員ニ対スル防空訓練ヲ徹底スルト共ニ防空勤務補助員トシテノ訓練ヲ強化スルモノトシ特ニ特技隊及特別警備隊トシテノ訓練ヲ強化ス
 (六)中等学校以上ノ女子学徒ニ対シ看護其ノ他保健衛生ニ関スル訓練ヲ強化シ必要ニ際シ戦時救護ニ従事セシメルモノトシ之ガ為必要ナル施設ヲ整備ス


兵庫県立柏原女学校の軍事演習
:兵庫県立柏原高等学校 創立百年記念誌』引用。1943年撮影。銃後の士気を引き締めるために,女子学生も分列行進や小銃射撃訓練を行った。そして,1944年からは,徹底した勤労奉仕が求められるようになり,学業を省みる余裕がなくなってゆく。
兵庫県立柏原高等女学校沿革
明治35. 5  柏原町立崇廣尋常高等小学校内に女子補習科設置
〃 36. 4  柏原町立柏原女学校設置 12日開校式
〃 41. 4  氷上郡立柏原高等女学校と改称
大正 3. 3  氷上郡立実科高等女学校と改称
〃 11. 4  兵庫県立柏原高等女学校に設立変更
昭和19. 9  学徒勤労動員、尼崎甲陽製作所成松工場へ出動
〃 23. 4  高等学校に昇格 兵庫県立氷上高等学校と改称
〃 23. 9  柏原高等学校と合併

学徒戦時動員体制確立要綱(2) 1943年6月25日 閣議決定
二 勤労動員ノ強化
 学徒ヲシテ挺身国家緊要ノ業務ニ従事セシメ 其ノ心身ノ錬成ヲ全カラシムモノトシ 左記各項ニ依リ 食糧増産、国防施設建設、緊要物資生産、輸送力増強等ニ其ノ重点ヲ指向シ之ガ積極強力ナル動員ヲ図ル
 (一) 勤労動員ハ国民動員ノ要請ニ即応シ 学校ノ種類程度ニ応ズル作業種目ノ適正ナル選択ニ依リ 作業効率ノ向上、作業量ノ増嵩ヲ図ル
 (二)勤労動員ノ期間ハ学校ノ種類程度ト作業種目ヲ勘案ノ上国家ノ要請ニ即応セシム
 (三)作業ト学校トノ臨時且分散的ナル関係ヲ可及的改メ力メテ 之ヲ常時且集注的ナラシム
 (四)勤労作業ノ対象タル事業ノ管理者ニ対シ 学徒勤労作業ノ意義ヲ徹底セシムルト共ニ 学徒ニ対シ事業ノ性質ヲ十分理解セシメ 尚学校当事者ト事業管理者トノ緊密ナル連繋ニ依リ 作業場ニ於ケル学徒ノ取扱ヲ一層適正ナラシム
 (五)員数及期間ガ相当多数且長期ニ亘ル学徒ノ動員ニ付テハ 学校移駐ノ考ヘ方等ニ依リ之ヲ実施セシム
 (六)学徒ノ養護ニ一層周到ナル注意ヲ払ヒ作業ノ種類性質ニ即応スル学徒ノ配置ヲ行ヒ作業ニ因ル傷痍其ノ他ノ事故ノ予防救護ニ遺憾ナカラシム


写真:1943年7月倉吉中学の鳥飼欣一。東郷。

学徒戦時動員体制確立要綱(3) 1943年6月25日 閣議決定

(七)食糧増産作業ニ付テハ食糧増産応急対策(閣議決定)ニ即応シ従来実施シ来レル農科応援作業等ヲ強化スルノ外左記各項ノ方途ヲ講ズ
   (イ) 耕作廃止畑、伐戈跡地、河川敷、工場建業予定地等空閑地ニ付 極力学校直営ノ学校報国農場ヲ創設セシメ 米、麦、大豆、馬鈴薯、甘藷等ヲ栽培セシム
   (ロ) 既設ノ学校報国農場其ノ他ノ付属農園ニ付テハ米、麦、大豆、馬鈴薯、甘藷等ヲ栽培セシメ学校附属ノ農業実習地及一般学校用地ニ付テモ主要食糧及雑穀ヲ栽培セシム
   (ハ) 収穫物ノ運搬、害虫駆除、除草、緑肥刈取等ニ付学校ノ種類、程度、所在地等ヲ勘案シ特定ノ学校ヲシテ可及的一定地域ノ作業ヲ担当セシメ以テ学校ト作業地トノ緊結ヲ図ル
   (二) 可耕荒廃地、開墾可能地ノ簡易開墾、湿地埋立、排水施設ノ整備、耕地整理、牧野改良等ニ付テハ一校又ハ数校ヲ特定シテ力メテ一貫作業ヲ目途トシテ之ガ完成ニ協力セシム
(八)各種ノ工場事業場等ニ於ケル勤労動員ニ付テハ特ニ左記各項ヲ考慮シ之ガ実効ヲ収メシム
  (イ)学校ノ種類、程度及土地ノ情況ヲ勘案シ適当ナル計画ヲ得タル場合ハ通年常時循環シテ計画的ニ一定要員ヲ出動セシム
  (ロ)学徒ノ専門技能ハ力メテ之ヲ活用ス
  (ハ)学校ノ実習場等ニ於テモ工場ト連繋ヲ密ニシ其ノ委託作業ニ従事セシム
(九)女子ニ在リテハ前各項ニ依ルノ外 特ニ中等学校以上ノ学校ニ付 工場地域、農村等ニ簡易又ハ季節的幼稚園保育所及共同炊事場ヲ設置セシメ 又ハ他ノ経営スル斯種施設ニ於テ保育等ニ従事セシム

第三 措置
一、学徒動員ノ運営ヲ適正ナラシメ且其ノ効率ノ向上ヲ図ル為文部省ハ学徒動員ニ関スル機構ヲ整備スルト共ニ関係ノ各庁及諸団体ノ連絡協議会ヲ設置ス
二、学校報国団中央及地方本部ノ組織及機能ノ整備強化ヲ図ル
三、本件実施ニ要スル経費ニ付テハ既ニ成立セル予算ノ活用ヲ図ルノ外要スレバ必要ナル予算的措置ヲ講ズ


写真:1943年7月倉吉中学の鳥飼欣一。東郷。

緊急学徒勤労動員方策要網 1944年1月18日 閣議決定

 第一 方針
学徒勤労動員ニ関シテハ先ニ決定セル「学徒戦時動員体制確立要綱」及「教育ニ関スル戦時非常措置方策」ノ趣旨ヲ更ニ徹底シ勤労即教育ノ本旨ニ徴シ総合的且計画的ナル学徒勤労動員ヲ強力ニ実施シ戦力増強ニ挺身セシムルト共ニ戦局ノ現段階ニ処スベキ学徒ノ教育錬成ヲ完カラシムルモノトス

第二 要領
 一、動員学徒ヲ勤労セシムベキ工場事業場ヲ特定シ通勤距離、学校又ハ学科ノ種類、学徒ノ年齢及性別等ヲ考慮シ学校ト工場事業場トヲ緊結シ其ノ特定部署ニ対シ通年恒常循環的ニ学徒ヲ動員スル如ク計画ヲ樹立スルコト
 二、学徒ノ動員ハ学校ヲ基本トスル団体組織ニ依ルモノトシ当該学校ノ教職員ヲ中心トシテ之ヲ組織スルコト
 三、学徒ノ従事スベキ工場事業場ニ於ケル作業ハ学校又ハ学科ノ種類、学徒ノ年齢及性別ヲ勘案シテ之ヲ適正ナラシムルコト
 四、同一学徒ヲ勤労ニ動員スル期間ハ 差当リ一年ニ付概ネ四ケ月ヲ標準トシ 且継続シテ之ヲ行フヲ立前トスルコト
  尚学校又ハ学科ノ種類ニ依リテハ其ノ期間ヲ更ニ長期ナラシムルコトヲ考慮スルコト
 五、状況ニ依リ 工場事業場ヲシテ学校ノ校地、校舎内ニ設備ヲ講ジ 又ハ材料ヲ供給セシメ 学校内ニ於テ学徒ヲシテ生産ニ従事セシムルコトニ付テモ 方途ヲ講ズルコト
 六、前各項ノ外 学徒ノ動員ニ関シテハ「学徒戦時動員体制確立要綱」(昭和十八年六月二十五日閣議決定)ニ依ルコト
 七、特ニ学徒動員ノ運営ヲ円滑ニシ 且其ノ教育実践ノ完璧ヲ期スル為 文部省(又ハ地方長官)ノ推薦ニ係ル)教職員又ハ関係官吏ヲシテ軍需監理官又ハ労務監理官ヲ兼任セシムルト共ニ 関係工場事業場ニ学徒専門ノ勤労係員ヲ設置セシメ 之ヲ文部省(又ハ地方庁)ノ嘱託トシ 工場事業場ニ於ケル学徒勤労管理ノ徹底的刷新ヲ図ルコト
 八、学徒動員ノ方法其ノ他必要ナル事項ニ付更ニ国家総動員法ニ基キ法的措置ヲ講ズルコト
 九、学徒勤労管理関係者ノ識見向上ノ為 速ニ講習其ノ他ノ必要ナル措置ヲ講ズルコト

備考
 一、学徒ニ対シテハ 其ノ動員セラレテ従事シタル工場事業場ノ作業ニ即応シ短期技術教育訓練ヲ実施スルト共ニ 右教育訓練ヲ経タル学校卒業者ノ所遇ノ向上 並ニ資格検定ニ付考慮スルコト
 二、学徒勤労ニ対スル報酬方法ニ関シ別途考究スルモノトスルコト


写真(左):1943年冬の松江高校の北二寮。写真(右):1944年4月の松江高校自習寮北二寮の学友と鳥飼欣一(最前列右端)。

相模陸軍造兵廠に動員された学徒の記録からみた学徒勤労動員>
1943年(昭和18),「この頃、小さな地方都市の旧制中学4年生でしたが、勉強の傍ら毎日が陸軍配属将校による厳しい軍事教練と、農作業や重労働、過酷な開墾作業に従事しておりました。」−−盛岡市岩山開墾作業
「成績優秀で健康な学友は陸軍士官学校、甲種予科練、通信、戦車等々軍隊の学校に行きました。」

1944年(昭和19)夏,「日本国内の地方都市は、表向き平穏で静かな佇まいであったが町並みは人通りも少なく若者の姿は見あたらなかった。『撃ちてし止まん』『勝つまでは』戦争のため全てが失われ果て、多くの若者は軍隊や工場へと徴用そして動員され、故郷を後にした。」

残された生徒に課せられた次の試練は学徒勤労動員で軍需工場で働く事でした。軍需工場の優秀な熟練工も応召になり、工場の要員も足りなくなった事と兵器の増産に拍車が掛かって来たのです。

 1944年7月17日 県公会堂前で岩手県主催壮行式、分列行進を行い盛岡駅に向かいました。
出動校:県立盛岡中学 県立盛岡商業 県立盛岡工業 県立福岡中学 岩手中学 岩手商業

歓呼の声で送った同友や兄弟、親、今度は送られる立場になりました。駅頭で下級生や学校に残る者、親や親戚、そして女子生徒の盛大な見送りを受け、餞別まで貰い特別臨時列車は憧れも希望もなく粛々と上野に向かいました。-----決死の覚悟で二度と故郷に戻らない気持ちを持っておりました。京浜地区は国内の最前線です。

 時に12時3分勇躍出発した。この臨時列車は各地に停車し、今なら新幹線で4時間足らずですが20時間位掛かった記憶があります。男女生徒が1000名以上乗っておりました。上野に着きますと各単位で各工場に分散し目的工場向かいました。---
  我々の行き先は神奈川県にある陸軍の相模造兵廠です。---相模陸軍造兵廠に動員された学徒は下記の通り
岩手県関係:盛岡商業・盛岡工業・岩手高女・釜石高女挺身隊
4区工場の他府県の学校:甲府中学・平塚工業・新発田工業等々


写真(左):坊主頭の鳥飼欣一

 東北の片田舎から出てきて、国内最大級の兵器工場で数千人規模の広大な工場に驚くだけでした。完備された最も近代的な陸軍第三病院もあり新しい施設であったと思います。
私たちは徴用学徒と云われ最初はハンマーとタガネによる徹底した精神教育で、手を真っ赤な血に染まりました。工場の機械を修理する工場に配属されましたが、工場内を勝手に歩く事も出来なく詳しい事は不明です。
この工作工場は6工場ありその4区の工場で働く事になりました。機械の大半はアメリカ・ドイツ製の自動工作機械、旋盤・フライス盤・国産は大阪機工等々を使いましたが、5区工場はベルト式の古い機械を使っていました。1区工場は労働の激しい鍛造部門で体の大きい丈夫な人が配属されました。作業時間は午前7時から午後7時まで12時間拘束で、1週間毎に夜勤です。

1944(昭和19)年11月東京初空襲と記憶してますが、不思議にも相模原は大空襲に会いません。然し神奈川県下、川崎方面に配属された勤労学徒のなかに多数の犠牲者が出ました。----警戒警報、空襲警報が発令されても作業は継続し飛行機が上空に来て初めて「待避」そして自分の蛸壺防空壕に入ります。物資も極端に不足し材料も無くなり作業も中断するようになりましたが、機械から離れる事は出来ません。工員の80%は少年少女養成工と女子挺身隊そして動員学徒、6トン牽引車(軽戦車)のテスト運転も学徒がやりました。その他、風船爆弾を造っている女子挺身隊の人達や陸軍兵器学校の生徒もおりました。

太平洋戦争末期になると、中高等学校、国民学校の四年生以上の生徒も全部、共同作業隊の一員として動員された。農村へ集団疎開した学童も援農の一部隊とされた。


写真(左):1944年ストームに参加した鳥飼欣一。写真(右):1944年ストームを終えた後の,寮生の集合写真。

1945(昭和20)年3月 本来ならば卒業式で勤労動員も終了なのですが、青空の下で野外卒業式です。卒業証書は貰いましたが勤労動員は継続となり、そのまま就職と云う事です。進学する者も沢山おりましたが、文科系大学・専門校合格者は入学延期でこのまま残る事になりました。 元々昭和18年文科系学生の徴兵延期も廃止となり大学生・専門校生も出陣、所謂「学徒出陣」です。

一般の徴兵年齢も1年繰り下がりになりました。徴兵まではこの工場に残らなければなりません。空襲で倒れることを覚悟で諦めておりました。この厳しい牢獄のような工場から抜け出すには病気になるか、軍隊の学校に入るか、医学部・工学部・農学部の学校に入る方法もありましたが、この時代どう変わるか誰も期待や希望を持つ人はおりません。外地就職も優先されましたが、誰も8月の終戦は想像出来ない時代です。

1945(昭和20)年3月 幸いにも農学部に合格し、入学式の通知を先生から聞いたとき、更に証明書を持って「淵野辺駅」から盛岡迄の切符を購入した事は朧気に覚えてる程度です。現地で青空合同卒業式に出席し記憶は定かではありませんが、相模陸軍造兵廠長、原乙松陸軍中将からの表彰状と、報奨金が郵便貯金で壱百数十円を貰った記憶があります。

さて、朝お握り2個を貰いリュックを背負い相模陸軍造兵廠の寮を後にしました。 省線(JR)から見た首都東京は一面焼ヶ野原で、上野から漸く列車に乗る事が出来ました。列車の混雑は想像を絶する超満員です。

当時は(中学)卒業後の勝手な就職は出来なく動員計画に縛られ、割り当ての内容は次の通り。
総員110名:故郷県内に就職出来る者15名,代用教員割り当て16名,上級校進学(10%以内)16名,差し引き63名(ヽ庵禄⊃Α´軍隊志願 F旭工場に残る 何れかの選択)

進学者は,小樽高商・弘前高校・盛岡高農・岩手医専・岩手師範・岩手青年師範・仙台工高・福島高商・茨城滑空専・早大・慶大・美校・東洋大・大倉高商・その他官立講習所。途中軍隊学校24名 総計140名。就職先は国内を除き 満州国官吏・朝鮮銀行・満州国際運輸・満州製鉄・満州瓦斯・その他

 厳正な入学式、厳格な速成専門教育約2ヶ月で再び学徒勤労動員で、今度は「味噌醤油工場」に行く事になりました。
1944(昭和19)年徴兵適齢が1才引き下げられ,満19才となり,兵役法施行規則を改正し,満17才以上の者とすると同時に,満17才未満の志願も可能となりました。当時大学予科・専門学校1年から特別幹部候補生の募集が記憶にあります。然し、7月仮徴兵検査、甲種合格、9月仮入隊が決定したのですが!8月15日終戦となり兵役は免れました。
(→「学徒勤労動員」引用終わり)


写真(左):1944年4月松江高校。写真(右);自習寮 南二寮の寮生の集合写真。

1944年4月に桜咲く松江高校理科に入学した鳥飼欣一だったが,山根先生の下での勉強は,十分には行えなかったようだ。農村勤労奉仕と称して,学力ではなく,労働力を活用するように迫られる。食糧増産の掛け声の下に,肥料不足,労働力不足の中で,額とも勤労奉仕に動員された。


写真(上):1944年4月松江高校 自習寮 北二寮の寮生の集合写真。右端が鳥飼欣一。 

「勤労学徒動員の記」沼津中学三年/四年の体験回顧
昭和19年に補充のため大学・高等学校・専門学校と中学三・四・五年生の勤労学徒動員法が執行された。特に軍需工場の生産面に終戦まで従事した。県立沼津中学三年動員数は、疎開転入学の90名を含め約340名です。三・四・五年の動員合計約850名。

県立沼津中学校(現・沼津東高等学校)は静岡県の進学校です。救国・殉国の士たらんと、優秀な五年生は陸軍士官学校、海軍兵学校等に。三、四年生は航空予科練習生に、二年生は陸軍幼年学校などに進学しました。

県立沼津中学校三年生の動員先は、名古屋の軍需工場に内定していた。学校側の希望と努力にて、沼津海軍工廠に変更となり、終戦までの一年間、海軍工廠の環境の中、勤労学徒の一員として、 <必勝>のため、命令絶対厳守にて終戦まで頑張り抜いた。

沼津海軍工廠は対空の電波探知機、電波通信機の生産を主として居ました。昭和十九年にはいり、本土決戦関連の兵器が作られる様になり、配属された先は特殊潜水艇・回天専用のモータの作成の回転機班でした。回天専用のモータの作成であることを知らされたのは後日のことでした。 回転機班の作業員は、工廠・十五名、沼津中学・二十名、熱海女学校・二十名程度の編成と記憶しています。

・工廠員の作業はモーター組み立てと検査。
・中学生は回転子に組み込む棒状銅体の削り出し。
・女学生は固定子の六角コイルの巻き取り
所詮・中学三年生、モーターの回転するのが不思議で理解できない集団の作業。棒状銅体の削り出し六角コイルの巻き取り、極めて単純な仕事でした。削りだしは単純とはいえ力仕事でした。支持された棒状寸法に対し、廃品として回収された銅板を選び出し、幅・約15糎の万力に力限りにに固定。それから慣れない内は残酷の弐文字。鏨にハンマーの力一杯の切り出し。振り下ろしハンマが時たま外れ、左の親指と人指し指は紫に腫れて、外れが重なり、傷となり血が流れます。手拭いを巻き付け削り出し続行。

棒状仕上げが思いのほか大変な仕事。荒目・中目・細目のヤスリで削り、ノギスで測りながら仕上げます。そして提出、合否の判定を受けました。始めは合格は日に2、3本、その後5、6本になったことを記憶して居ます。帰り際の血染めの手拭いの自慢も、最早や六十年前の思い出となりました。

我々の仕事は此処まで。組み立て・検査は工廠工員の専門分野。特に高電圧の瞬時の検査は大関心事でした。仕様電圧で問題なく回転するのに。高電圧試験では大半がショートで、白い煙を出す始末。原因は耐電圧のニスの品質不良と聞かされた。何で過酷な試験を行うか聞いたところ。特殊潜水艇・回天専用のモータと知らされ納得と名誉を感じました。

-----回天のモータの製造は突如中止となり、他の配属となり、自分等の数名は本土決戦の機関銃弾製造に配属され、旋盤の簡単な手ほどき とバイトの研磨を教わり、その日から、ゲージとノギスの頼りの弾作り、想像していたより簡単な工作にして、大半が合格したことを記憶しています。簡単な工作だけに機関銃の先から弾が出るかなと心配しきり。上司から一発でも多くの命令。昼の給食そこそこで頑張り抜いた次第です。

-----疎開先の主人の提案で、ラヂオを庭に持ち出して全員で、玉音(天皇陛下の録音放送)を拝聴することにことになった。親戚も参加し、子供を含め十五人は集まりました。大人の話では、玉音は<本土決戦の訓令>と思われて居た。

正午・丁度に玉音の放送が始まった。残念にも電波が悪いのか、録音が悪いのか、雑音にて聞きずらく、大半の人は内容を聞き取ることが出来なかった。中にはポッダム宣言受託による、国民えの終戦通達だ人によっては、イヤイヤ、本土決戦の通達だと。その後の放送を聞き。終戦を確認したと記憶して居ます。
(→ 終戦六十周年記念 勤労学徒動員の記 中学三年/四年の体験回顧引用終わり)


写真:1944年4月松江高校の理科5組の鳥飼欣一。

Links
銃後
「学徒勤労動員」
学徒勤労動員と川崎航空明石工場
戦時下の盛岡中学 浅沼俊典(盛中60期)
京都師範学校 学徒動員の記録
青森県学徒勤労動員抄史
第三章 戦時経済崩壊期の労働統制
薄れゆく戦争の記憶 引き継がれる戦争の記録
学徒動員の前 専門学校(女子大)の4年生の私も動員された。
回天隊員に「血染の鉢巻」を送った広島県立呉第一高女の動員学徒たち
16歳、勤労学徒の戦争
学徒動員(新保氏のアルハ゛ム)
学徒動員で砲台陣地造り
かながわの学徒勤労動員
日詰町立日詰農学校・日詰実科高等女学校
【学徒動員】


写真:1944年4月松江高校の理科5組の鳥飼欣一。

1945年の農村での動員:『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態』1964年,編著法政大学大原社会問題研究所,東洋経済新報社

学徒の通年農業動員の強化
1944年9月に決定された「農村労力非常対策要綱」によって学徒の援農活動は画期的に強化されたのであるが、1945年3月、政府は学徒の授業停止を閣議決定し、ついで4月「国民学校児童など中等学校学徒の農繁期作業協力に関する件」、5月「農繁期学徒動員に関する件」と矢つぎばやに通牒を発し、正規の教育を放棄して青少年を食糧増産の無償労働に駆りたてた。

1944年5月21日に次官会議決定された「農業に関する学徒勤労の強化刷新に関する件」は、学徒総動員を強化し、268万に及ぶ学徒の通年動員を図るもので、その内容は次のとおり。

(1) 農村の国民学校高等科生徒、中等学校生徒は原則として農業に通年動員する。
(2) 学童疎開指定甲地域内の国民学校高等科および中等学校低学年生徒は、工場動員をのぞき必要に応じ通年動員する。
(3) 大学専門学校の学生も必要に応じ通年動員する。
(4) 工場出勤中の学徒も農繁期一ヵ月は援農に動員する。

 学徒動員はこのほか、農機具修理、甘藷畑開墾、南瓜・大豆・そば増産等の特定作業について大々的に行なわれた。農機具修理は工業学校と農業学校の生徒を旧農機具の修理作業に動員した。

工場労働者の帰農
 政府は1945年5月18日、「緊急主要食糧等確保労務対策」を決定し、「工場事業場等に於ける農業出身労務者にして農業要員たるべき者」は原則として帰農させる処置をとった。また農業出身労働者だけでなく、前年国民学校をおえて工場等に就労している農家の子弟や農家出身の女子挺身隊員までも帰農させる措置をとった。

1945年5月31日には全国工場従業者の20%削減を目標に整理を行ない、遊離した労働力を農業・燃料・運輸通信の各部門に重点的に移動させることを決めた(「工場従業者整理活用に関する件」次官会議決定)。

6月6日には農業要員の資格のあるなしにかかわらず工場従業員を「一層広汎かつ強力に」帰農させる措置を講じ(「工場従業者の帰農等に関する件」)、工場に動員されていた学徒も農業部面に振りむけられるようになった。


写真(右):1944年春,農村に勤労奉仕に動員された松江高校理科の鳥飼欣一。

1945年の農村での動員:『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態』1964年,編著法政大学大原社会問題研究所,東洋経済新報社
極限に達した農業労働力不足
 1944-45年、全国的な農業労働力数は調査集計されなかった。農商省が全国20府県20ヵ町村の標準農村について行なった調査をもとにした推計によれば、1944年2月から同年末までに、農業従事者の減少したもの88万2000人(内男子71万3000人、女子16万9000人)で、男子の減少のうち最大の原因は軍動員(73万人)であった。

1944年末の農業従事者総数は男子430万7000人、女子750万7000人、計1181万5000人である。 農商省の推計によると、1945年度の農業労働力総供給量は延22億200万人で、需要量に対し延7億人余の不足であった。これに本年度の転出見込数20万人を考慮すると、実人員で約240万人の不足と推定された。

教育ニ関スル戦時非常措置方策 1943年10月12日 閣議決定
第一 方針
 現時局ニ対処スル国内態勢強化方策ノ一環トシテ学校教育ニ関スル戦時非常措置ヲ講ジ施策ノ目標ヲ悠久ナル国運ノ発展ヲ考ヘツツ当面ノ戦争遂行力ノ増強ヲ図ルノ一事ニ集中スルモノトス

第二 措置
 一 学校教育ノ全般ニ渡リ決戦下ニ対処スヘキ行学一体ノ本義ニ徹シ教育内容ノ徹底的刷新ト能率化トヲ図リ国防訓練ノ強化勤労動員ノ積極且ツ徹底的実施ノ為学校ニ関シ左ノ措置ヲ講ス
 (一)国民学校 義務教育八年制ノ実施ハ当分ノ内之ヲ延期ス
 (二)青年学校 工場事業場ニ於テ生産ニ従事スル生徒ニ付テハ教室内ニ於ケル授業ハ極力之ヲ縮減スルト共ニ職場ノ実情ニ即シテ生産ノ増強、戦力ノ増進ニ資スル如ク刷新改善ス
 (三)中等学校
 (イ)昭和十九年ヨリ四学年修了者ニモ上級学校入学ノ資格ヲ付与シ昭和二十年三月ヨリ中等学校四年制施行期ヲ繰上ゲ実施ス
  (ロ)昭和十九年度ニ於ケル中学校及高等女学校ノ入学定員ハ全国ヲ通シ概ネ前年度ノ入学定員ヲ超エシメズ工業学校、農業学校、女子商業学校ハ之ヲ拡充ス
  (ハ)男子商業学校ニ就テハ昭和十九年度ニ於テ工業学校、農業学校、女子商業学校ニ転換スルモノヲ除キ之ヲ整理縮小ス
 (四)高等学校 (イ)高等学校ニ付テハ徴兵適齢ニ達セサル者ノ入営延期ノ措置ヲ受クル者等ニ対スル授業ハ之ヲ継続ス
  (ロ)昭和十九年度ノ入学定員ハ文科ニ在リテハ全国ヲ通シ概ネ従前ノ三分ノーヲ超エシメス、理科ニ在リテハ所要ノ拡充ヲ行フ
 (五)大学及専門学校 (イ〉大学及専門学校ニ付テハ徴兵適齢ニ達セザル者、入営延期ノ措置ヲ受クル者等ニ対スル授業ハ之ヲ継続ス
  (ロ)理科系大学及専門学校ハ之ヲ整備拡充スルト共ニ文科系大学及専門学校ノ理科系ヘノ転換ヲ図ル
  (ハ)文科系大学及専門学校ニ付テハ徴集猶予ノ停止ニ伴フ授業上ノ関係並ニ防空上ノ見地ニ基キ必要アルトキハ適当ナル箇所へ移転整理ヲ行フ私立ノ文科系大学及専門学校ニ対シテハ其ノ教育内容ノ整備改善ヲ図ルト共ニ相当数ノ大学ハ之ヲ専門学校ニ転換セシメ専門学校今後ノ入学定員ハ概ネ従前ノ二分ノ一程度タラシムルヤウ之カ統合整理ヲ行フ
  (ニ)女子専門学校ハ前項ノ整理ノ目標ノ外トシ其ノ教育内容ニ付テハ男子ノ職場ニ代ルヘキ職業教育ヲ施スカ為ニ所要ノ改正ヲ行フ

 (六)各種学校
 (イ)男子ニ付テハ専検指定学校及特ニ指定スルモノノ外 之ヲ整埋ス
  (ロ)女子ニ付テハ専検指定学校ノ外戦時国民生活確保上緊要ナルモノ及職業輔導上必要ナルモノヲ除キ之ヲ整理ス

二 教員ノ確保ヲ図ル為概ネ左ノ措置ヲ講ズ
  (イ)教員養成諸学校ニ付テハ其ノ授業ヲ継続ス
  (ロ)教員養成諸学校卒業者ニ付テハ従前別段ノ定ナキ者ニ在リテモ一定年限ノ就職義務ヲ課ス
  (ハ)現役ノ軍人及嘗テ官吏タリシ者其ノ他学識アル者ヲ教育者トシテ採用スルノ方途ヲ講ズルト共ニ技術者其ノ他実務担当者ニ付広クソノ協力ヲ得ル如ク措置ス
  (ニ)教員養成諸学校ニ所要ノ拡充ヲ図ル

三 教育実践ノ一環トシテ学徒ノ戦時勤労動員ヲ高度ニ強化シ在学期間中一年ニ付概ネ三分ノ一相当期間ニ於テ之ヲ実施ス
四 在学中徴集セラレタル者ノ卒業資格賦与ニ付テハ、特別ノ取扱ヲ考慮ス
五 在学中徴集セラレタル者ノ除隊後ノ復学ニ付テハ、特別ノ便宜ヲ図ルト共ニ統合整理セラレタル学校ノ旧在学者アル場合ニ於テハ臨時ニ必要ナル施設ヲ講ズ
六 学校ノ統合整理ニ伴フ教職員ノ措置ニ関シテハ総合的ニ之ガ再配置ヲ図リ転換スル学校其ノ他必要ナル部面ノ所要ニ充当シ特ニ大学、専門学校教職員ニ付テハ可及的其ノ研究ヲ継続シ得ル如ク措置ス
七 本要綱実施ノ為必要アルトキハ学校及学科ノ廃止、授業ノ停止、定員ノ減少、学校ノ移転等ヲ命シ得ル如ク法制上必要ナル措置ヲ講ズ
八 学校ノ整理、転換、移転等ヲ命ジタル場合ハ政府ニ於テ之ガ補助其ノ他必要ナル方途ヲ講ズ
 尚特ニ私立ノ理科系大学及専門学校ノ場合ニ在リテハ其ノ学校ノ経理上必要アリト認メタルトキハ政府ニ於テ経常費ニ付適当ナル補助ヲ為スモノトス


写真(右):1944年4月(アルバムには。S19.4とある),鳥飼欣一の在学した松江高等学校理科5組。中央前が山根薫先生,左端が鳥飼欣一。

緊急学徒動員方策要綱 1944年1月8日 閣議決定
1944年2月 「決戦非常措置要綱」閣議決定(学徒の勤労動員は原則通年動員)
1944年3月 決戦非常措置要綱ニ依ル国民学校児童学校給食、空地利用徹底等ニ関スル件
同3月 決戦非常措置要綱ニ依ル大都市国民学校児童学校給食ニ関スル件
同3月「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」閣議決定(大学・高専の学生生徒と中等学校第 3 学年以上の生徒は継続動員、農学校は食糧増産、国民学校高等科、青年学校普通科、中等学校低学年は随時動員) 

決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱年  1944年3月7日 閣議決定
決戦ノ現段階ニ即応シ 学徒ノ動員ハ原則トシテ 中等学校程度以上ニ付 今後一年常時之ヲ勤労其ノ他非常任務ニ出動セシメ得ル組織的態勢ニ置キ 左ノ要領ニ依リ必要ニ応ジ随時活発ナル動員ヲ実施ス

一 学徒ノ勤労動員ハ 其ノ受入体制ヲ整備スルト共ニ 学徒ノ受クル教育ノ種類程度ニ適応セシメ 其ノ効率ヲ発揮スルヲ旨トシ 概ネ左ニ依リ之ヲ実施ス但シ必要ニ応ジ機ニ臨ミ他ノ作業ニ従事セシム

 イ 国民学校高等科(尋常小学校を改名)
  国民学校高等科児童ノ動員ニ付テハ 土地ノ情況、心身ノ発達ヲ考慮シ 適当ナル作業種目ヲ選ビ之ヲ実施ス

 ロ 中等学校
 (一)工業学校生徒ハ概ネ軍関係其ノ他重要工場事業場ニ動員ス
 (二)商業学校ヨリ転換セル工業学校ノ生徒ガ特定工場ニ於テ現地作業ヲ行フ場合又ハ学校ヲ軍需工場化シタル場合ニハ概ネ夫々当該工場又ハ関係工場ニ動員ス
 (三)農業学校生徒ノ動員ハ食糧増産、国防建設事業等ニ重点ヲ指向ス
 (四)中学校、商業学校及高等女学校生徒ノ動員ハ 土地ノ状況、勤労需給ノ情況ヲ勘案シ 糧増産、国防建設事業 又ハ工場事業場(輸送ヲ含ム)等ノ作業ニ動員ス
    尚女子ノ動員ニ付テハ 可及的学校設備ノ工場化ニ依リ勤労ノ実ヲ挙グル如ク併セ考慮ス

    大都市ニ於ケル中学校、商業学校生徒ハ必要ニ応ジ疎開及防空建設事業ニモ之ヲ動員ス
 (五)特ニ第一、二学年生徒ノ動員ニ付テハ国民学校高等科児童ニ準ズ


写真:1944年4月,鳥飼欣一の在学した松江高等学校理科5組。中央前が山根薫先生,左端が鳥飼欣一。松江高等学校理科の卒業は1945年3月なので,最終学年の記念撮影であろう。

 ハ 大学高等専門諸学校
 (一)理科系学生生徒ニ付テハ左ニ依ル

   工学及理学
  (イ) 工学及理学関係ノ学生生徒ノ勤労動員ニ関シテハ 第三学年及第二学年ニ重点ヲ置クモ 必要ニ応シ 低学年ノ学生生徒モ 之ヲ動員ス
  (ロ) 現在ノ第三学年ノ学生生徒ハ原則トシテ其ノ履修スル学科ノ種別ニ応シ最モ適当ナル工場事業場等ニ動員シ其ノ技術的指導面ニ活用スル如ク措置ス
   第二学年学生生徒ニ付テモ可及的右ニ準ズ

   医学
  (イ) 医学関係学生生徒ノ実習勤務ハ 第四学年及第三学年ニ重点ヲ置クモ 必要ニ応シ低学年ノ学生生徒モ之ヲ動員ス
  (ロ) 現在第四学年及第三学年ノ学生生徒ハ 軍病院、学校附属病院工場事業場附属病院、其ノ他一般病院等ニ於テ 専ラ実習勤務ニ服セシム
  (ハ) 現在第四学年ノ学生生徒ハ本年七月以降現在第三学年ノ学生生徒ハ明年四月以降夫々軍務其ノ他ノ実務ニ服セシメ得ル様措置ス

       農学
   農学関係ノ学生生徒ノ勤労動員ハ原則トシテ 其ノ履修スル学科ノ種別ニ応シ 其ノ専門ヲ最モ能率的ニ発揮シ得ベキ食糧増産、工場事業場等ニ動員シ特ニ食糧増産作業等ニ付テハ其ノ指導者トシテ活用スル如ク措置ス

 (二)前項以外ノ学生生徒ニ付テハ土地ノ状況、勤労需給ノ情況等ヲ勘案シ食糧増産、国防建設事業又ハ工場事業場(輸送ヲ含ム)等ノ作業ニ動員シ力メテ特能ヲ発揮シ得ル如ク措置ス
   大都市ニ於テハ疎開及防空建設事業ニモ之ヲ動員ス

 (三)教員養成諸学校
  (イ) 工業□□実業学校教員養成所及青年師範学校ノ工業科ノ生徒ニ関シテハ(一)ニ準ズ
  (ロ) 高等師範学校、女子高等師範学校、青年師範学校(前項ノモノヲ除ク)臨時教員養成所、実業学校教員養成所及師範学校ノ生徒ニ関シテハ(二)ニ準ズ
 備考 大学高等専門諸学校理科系学徒ノ動員ニ関シテハ特ニ学校教育ト密接ニ連関セシメ且ツ可及的将来ノ就職配置トモ睨ミ合セ適正ナル計画配置ヲ考慮ス

二 学生生徒ノ勤労動員ハ当該学校ノ教職員ヲ中心トシテ学校ヲ基本トスル隊組織ニ依リ之ヲ行フ
  尚学徒ノ出動ニ際シテハ教職員ヲ多数活発ニ動員シ 其ノ指導監督ニ当ラシム
(松江高校の鳥飼欣一の恩師 山根薫先生も,軍服姿で写真に納まっているが,動員された学徒を指導監督する教職員として,やはり動員された側であった)

三 学校報国隊ノ整備強化ヲ図ル
四 学校校舎ノ軍需工場化ニ付テハ 各種学校 特ニ女子ノ学校ヲ主流シテ急速ニ之ガ具体化ヲ図ル
五 学徒ノ勤労動員ニ際シ速ニ法令上ノ措置ヲ講ズ
六 曜日ヲ変更シ日曜日ニ於テモ授業ヲ為シ得ル如ク法令上ノ措置ヲ講ズ
七 教育関係教職員等ニシテ 軍需監理官又ハ労務官ヲ兼任スル者ニ対シ 速カニ必要ナル錬成ヲ行フ
八 学徒ノ動員ニ関連シ軍幹部、技術要員、科学研究要員タルノ教育錬成トノ調整ヲ図ル
九 学徒ノ防空、防衛等ノ非常任務ニ関シ急速ニ動員体制ヲ一層整備シ之ガ演練ヲ強化実施ス
十 勤労従事中ノ学徒ニ対シテハ 当該作業場ノ勤労者ニ準ジ 食糧其ノ他ノ物資ノ配給ヲ行フ如ク考慮ス


兵庫県立柏原女学校の勤労動員
:兵庫県立柏原高等学校 創立百年記念誌』引用。1944年撮影。校庭を農地に開墾し,農作業に従事したようだ。
兵庫県立柏原高等女学校沿革

1944年7月閣議決定に基づき文部・厚生・軍需3省次官指令「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」(国民学校児童の継続動員、教育訓練時間の停止、1 日10時間の勤務、交替制深夜業の実施)
同8月「学徒勤労令」公布(学徒勤労は学校報国隊の組織をもって実施)
1945年3月 「決戦教育措置要綱」閣議決定(国民学校初等科を除きすべての学校の授業は原則停止全学徒は決戦体制下に総動員)
同5月「戦時教育令」公布(学徒隊の組織編成)
8月 終戦後、学徒勤労動員は解除されたが、食糧増産のための勤労作業はしばらく継続

学徒動員の対象中等学校以上(国民学校高等科を含む)の学生・生徒
愛知県教育史第4巻による

愛知県内の学徒勤労出動工場調教学課工場 名所 在 地動 員 学 校 名(生徒数:人)生徒数計(人)
豊川海軍工廠;豊川市豊橋二中(170)、豊橋商(430)、成章中(69)豊橋女(300)、蒲郡女(90)、国府女(222)、新城女(105)、豊川女(200)、豊橋女商政(210)、豊橋実践女(130)、鳳来寺女(54)、福江裁(100)、愛商実修(124)2,204 名古屋陸軍造兵廠熱田、高蔵 千種、鳥居松県一中(397)、名第一工(297)、熱田中(236)、小牧中(255)県一女(440)、椙山一女(430)、小牧女(30)2,085 三菱航空機 港区大江町市機械工(334)、中川中(106)、熱田中(433)、県商(437)、東海中(219)、名中(67)市二女 (473) 、市一 女 (490) 、名女商(423)、名商女(320)、淑徳女(213)3,515

三菱発動機;東区大幸町八高(1,050)、県工(180)、中川工(190)、市一工(150)、東邦商(439)、名航空工(149)2,168 三菱電気 東区矢田町一師予(155)、一師本(353)椙山女専(418)、椙山附女(380)、市三女(480)1,786

三菱金属; 大曽根町、岩塚町、枇杷島町東海中(300)、名中(420)、中川中(300)県二女(330)、愛女商(170)1,520

愛知航空機;稲永新田県高工 (200) 、名高 商 (150) 、惟信中(390)、中京商(480)、県工(40)、中川工(50)、名第一工化(100)金城女専(700)、金城附女(450)、県一高等科(80)2,640

住友金属;名古屋南区千町尾張中(390)、金城商(310)、市一工(50)、南山中(250)名二女商(320)、椙山女商(40)1,360

大同製鋼;星崎南区星崎町大同工(108)、名商(500)、享栄商(219)827

大同製鋼熱田;熱田区花表町大同工(172)、名古屋鉄道(300)、県工(25)497

豊和重工業新川西;春日井郡新川町名電気(400)、名高理工(604)1,004

愛知化学工業;熱田区熱田西前田名二女商(270)、愛女商(177)、愛商女工芸(163)、中京女(75)685

日本碍子;瑞穂区堀田町県窯業(140)、常滑工(35)中京裁(165)340

愛知時計本社;熱田区千年町船方市二商(300)、中京商(275)、名第一工(60)中京女(225)、中京専(200)1,060

神戸製鋼;西区光音寺町東邦商(200)、名一工(50)一師女本(100)350

名古屋市電気局;栄区名古屋市 享栄商(215)、一師本(145)市一女(250)610

川崎航空一宮;一宮市一宮中(558)、起工(208)一宮女(370)1,136

中島航空半田;半田市乙川半田中(383)、半田商(255)、半田女(155)、横須賀女(215)1,008

豊田自動織機;碧海郡刈谷町刈谷中(230)刈谷高女(222)452 日清紡不 明岡崎中(260)岡女(519)779
*愛知県教育史第4巻「学徒勤労出動工場調(昭 19.6.20)」による

昭和20年2月,住友金属に勤労奉仕した鳥飼欣一。

東京帝大が敗れた日」からみた勤労動員

新潟で農作業
 文系では文学部の入営率が一番低いが、勤労動員に学部単位で駆り出されていた。昭和19年3月には全員が静岡県へ土木工事など、6月から8月には3年以上が横須賀海軍工廠へ派遣された。昭和20年に入ると、1月から3月まで1年生は中島飛行機群馬県小泉工場に、2、3年生は中島飛行機三鷹研究所に動員された。5月に入ると新潟県岩船郡関谷村に送られて農作業などに従事した。また、こうした動員地から、次々と戦地に徴兵されていった。

これらの動員にあたっては身体虚弱者は免除されたが、事前の身体検査を受けない者や不参加の者には懲戒処分をくだす警告が主任教授からなされたり、勤労成績の悪いものは単位不合格となった。

「私は8月15日を勤労奉仕先の新潟県の関谷村で迎えました。20年4月に入学すると、5月の終りから6月はじめ頃にはかり出されたのです。すでに学徒出陣のニュースは何度も見ていましたので、大学入学前から学業を中断しての勤労奉仕はあるものだと覚悟していました。

  新潟へは文学部全体で行っています。当時、社会学をやっていた教室の助手が関谷村の村長の息子さんだった。そんな縁があって、関谷村へ行くことになったように聞いています」(藤岡忠美/昭和女子大学名誉教授・神戸大学名誉教授/文学部国文学科/昭和23年3月卒)


写真(右):1945年2月住友金属で働く学帽姿の鳥飼欣一(19歳)。尼崎 研究部の屋上で撮影。

「2年生の夏、新潟県の国鉄米坂線沿線にある関谷村で終戦を迎えました。勤労動員で、農作業の手伝いをしていたのです。

 その年の5月の初めに村についたときは、山かげには残雪も見られ、桃や桜が満開で、ようやく田植えの準備が始まろうとしていました。鍬を担いで連日田畑に通いましたが、その間にも召集令状が来て、仲間がひとり、またひとりと戦地に去っていきました。
 8月7日はお盆の入りで仕事が休みでした。広島で新型爆弾が使われたらしいという話が伝わってきましたが、新潟にいる我々には遠いところの出来事のように思われました。むしろ、9日のソ連参戦のニュースのほうが切実で、村の人も不安を募らせていました。

 8月15日に『甚九郎』という家に集まるようお触れがまわってきました。近くではここにしかラジオがなかったのです。村人たちと私を含めた学生3、4人が板張りの床のむしろのうえに座って、かしこまって終戦の大詔を聞きました」

ソ連軍が攻めてくる
「茫然自失とはこのことをいうのでしょうか。戦争に敗けたとはどういうことなのか、これから何が起るのか、まったく考えることができませんでした。そのうちどこからともなく、『男は殺され、女はみな暴行されるだろう』『新潟はソ連に近いから真っ先に襲われるだろう』といった噂が広がり、不安な気持ちで過ごしました。16日に大学職員が村の各集落を廻って歩きましたが、我々の見通しは立ちませんでした。

しかしその翌日、文学部長である西洋史学の今井登志喜先生がきて、村の中央にある大蔵神社で次のような話をされました。

『今、日本は有史以来かつて経験したことのない敗戦という事態に直面している。君たちは決して軽挙妄動してはならない。聞けば敵軍が上陸して日本の男を皆殺しにし、女には手当たり次第暴行を加えるという流言が乱れ飛んでいるようだが、決してそういうことはない。戦争終結の処理は軍が勝手にやるものではなく、まず相手国の代表と互いに文書に調印して初めて、それに従って敗戦国に手を着けるのである。これは国際法の定めるところであって、それ以外の勝手な暴虐はいわばリンチである。そんなことをしたら世界の世論が許さない』

 温顔をもって語る口調のなかに毅然としたものがあり、私は深く感動しました。

軍や警察などの強い者は、弱い国民に対していかなる横暴もまかり通る――それが日本の常識でした。それだけに、敵軍が法に従うなどというのは、到底考えられないことでした。また 『世界の世論』という概念も初めて耳にするもので、大変新鮮でした。

 先生の言が過たなかったことは、その後のミズーリ号上の降伏文書調印、軍隊の武装解除・施設の接収、東京裁判の開始に照らして、明らかであったと思います。
 我々は稲刈りが終るまで手伝いを続け、9月に東京に戻りました。そのときは、当初100名の仲間が50名に減っていました」(松田登/元教員/文学部国文学科/昭和23年3月卒。

父鳥飼欣一は,1945年3月に松江高等学校理科(5組)を卒業後,1945年4月に東京大学工学部航空原動機科に入学した。徴兵に猶予される大学の専門学科でもあり,難関の選抜試験があったとようだ。


写真:1948年(昭和23)3月,東京大学工学部機機科卒業。撮影は,卒業年の昭和23年1月。

しかし,1945年4月の東京大学工学部航空原動機科入学から4ヶ月,父鳥飼欣一は,8月15日の終戦を迎える。19歳の夏であった。

大学の授業は夏休みなし,日曜休みなしに続けられていたので,授業に出席するために大学にいった。しかし,授業を担当すべき教官がいつまでたっても教室に来ない。

明治維新のとき,上野の山に彰義隊が立て篭って,政府軍との戦闘になった。そのとき,すでに慶応義塾を開いていた福沢諭吉は,平然として授業を続けたという。しかし,1945年8月15日の東京大学では,戦火が収まったというの,授業がない。父は,その落差に,今回の敗戦の重大さを感じるとともに,大学の状況に,少々落胆したという。


昭和16年8月,昭和17年と祖父の文字で記入されたアルバムの1ページ:鳥飼欣一の歴史。


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1930年代の米中接近:日中戦争と枢軸国
1937年南京事件:残虐行為を再考する
1939年ノモンハン事件:国共合作・中ソ不可侵条約から中ソ接近
1940年アメリカ義勇部隊「フライング・タイガーズ」:中国におけるアメリカ合衆国による対日秘密戦争
1941年真珠湾攻撃の研究:対米英宣戦布告・騙まし討ちのテロ先制攻撃
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父鳥飼欣一は,2006年4月6日0906に,千葉県柏市にて多臓器不全で逝去いたしました。享年80歳でした。4月9日前夜式を,4月10日葬式を終了いたしました。式に参列していただいた親類,原子力研究所・東京理科大学の関係者の皆様をはじめ,父を慕ってくださった全ての皆様方に感謝いたします。また,式を執り行い,あるいは手伝っていただいた皆様方にも厚く御礼申し上げます。

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