鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
アメリカ義勇部隊 American Volunteer Group 2005
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◆アメリカ義勇部隊「フライング・タイガーズ」◇ American Volunteer Group
写真(左):1937年8月第二次上海事変のとき爆撃で破壊された上海「南京路」
: 外国から多数の船が寄航した国際都市。人口300万人。江南地方の大都市上海は、米,英、日など共同租界,フランス租界があった。租界とは,中国の主権が及ばない「治外法権」の地である。8月14日の爆撃は,中国爆撃機の誤爆だったようだが,上海の飛行場を日本海軍航空隊も爆撃している。
写真(右):1942年4月のアメリカ義勇部隊AVG「フライング・タイガーズ」LIFE Magazineに掲載されたGeorge RodgerあるいはClare Boothe Luce撮影。中国空軍に所属し,日本軍と戦った。米国製カーチスP-40トマホーク戦闘機を装備し,パイロットは米国人だった。1940年夏から12月8日までの闘いは,宣戦布告なき米国の秘密戦争である。

◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
盧溝橋事件・上海事変・南京攻略:半年で北京・上海・南京を攻略した日本軍
米中接近:日中戦争と枢軸国
ノモンハン事件:国共合作・中ソ不可侵条約から中ソ接近・フィンランド冬戦争
真珠湾攻撃の研究:対米英宣戦布告・騙まし討ちのテロ先制攻撃
真珠湾攻撃の経緯:損害一覧・被害艦船リンク集
真珠湾攻撃の写真集:被害艦船・復旧写真
東京初空襲と山本五十六暗殺:真珠湾攻撃の仇討ち・報復
写真解説:米国の戦時動員:航空機産業における女子労働者
写真解説:米国の兵力動員:陸軍・海兵隊・民間防衛軍の増強
戦時ポスター:世界の動員:1940年代の連合国・枢軸国
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論

◆2017.6.30産経ニュース「稲田朋美防衛相、失言を初めて陳謝 辞任は否定
 稲田朋美防衛相は(2017年6月)30日の記者会見で、東京都議選の自民党候補に対する応援演説の際に「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と発言したことについて、「改めて『防衛省・自衛隊、防衛相』の部分は撤回し、おわびしたい」と述べ、公の場で初めて陳謝した。
 発言に関しては「演説を実施した板橋区の隣の練馬区にある練馬駐屯地など、自衛隊を受け入れている地元に感謝する趣旨を入れた演説だった」と述べた。その上で「国民の生命、身体、財産、わが国の領土、領海、領空をしっかりと守るべく、いっそうの緊張感を持って防衛相としての職責を果たしてまいりたい」とし、辞任しない考えを重ねて示した。(2017.6.30 22:25引用終わり)

 日本の「保守」であれば、伝統的な家族観を重視し、選挙戦を念頭にしている平和ボケ女性の防衛大臣など認めたくない。さらに、文民の大臣が、自衛官を政治的な投票の駒として利用すると公言したとなれば、それは公職選挙法の問題に留まらず、自衛隊を侮辱する発言である。普段から国防重視の発言をしていても、それは人気取りのポピュリズム的発想から仕組んでいるだけであり、本心は利己的な選挙戦勝利の打算が支配しているようだ。1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に至った時も現地駐屯の日本軍や陸軍省・陸軍参謀本部以上に、日本の代表的政治家が「中国叩くべし」(暴支膺懲)との強硬発言をした。これは、国民世論を煽り、リーダーシップを軍から取り返そうとした策略だったかもしれない。しかし、政治家は、和平交渉の機会を捨て去り、国際的孤立を招き、政治・外交・軍事の大失敗に繋がった。主権者国民は、似非政治家のポピュリズム的発想に振り回されず、世界を大局を概観できる能力が求められる。

◆2015年10月4日,日本テレビの放送した「NNNドキュメント:南京事件;兵士たちの遺言」について産経新聞が「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である」と批判した。残虐行為は敵中国軍の仕業だという陰謀説が繰り返される背景には「平和ボケ」が指摘できる。日中戦争当時、日本は、中国の混乱・腐敗を正し、東アジア和平をもたらすために聖戦を遂行しているのであり、聖戦で敵を殲滅(殺戮・破壊)した戦士は勇者・英雄で、その戦果は称えられた。この当時の実情を知らずにいるのが「平和ボケ」である。「殺戮は残虐行為だ」との戦後平和教育の常識は、日中戦争当時には当てはまらない。日中戦争当時も敵殺戮が残虐行為として認識されていたという誤解が「平和ボケ」である。戦時中、敵殲滅は英雄的行為として、新聞等のメディアでも国民の間でも称賛されていた。敵殺戮が悪いことだと批判する声は上がらなかった。だから、日本兵も堂々と敵を殲滅・処刑し、それを英雄的行為として誇った。中国兵を殲滅した日本軍の戦果を、捏造されたものだと否定したり、銃殺は敵中国の督戦部隊の仕業だ、捕虜が脱走しようとしたから射殺したと言い放ったりする行為は、日本軍を侮辱するに等しい。こんな侮蔑を放言する日本人は当時いなかった。戦争観・人権の歴史的変遷に無知であれば、「平和ボケ」に陥り、「日本人が敵を虐殺をするはずがない」と誤解してしまう。

遂げよ聖戦 」1938年
作詞 紫野為亥知・作曲 長津義司

皇国(みくに)を挙る総力戦に、成果着々前途の光
蒋政権が瀕死の足掻(あが)き、他国の援助何するものぞ
断乎不抜の我等が決意、遂げよ聖戦長期庸懲(おうちょう)

見よ奮い立つ都を鄙(むら)を、総動員の何も違わず
伸び行く我等の産業力は、広く亜細亜の宝庫開かん
ああ聖戦は破壊にあらず、遂げよ聖戦長期建設

挙(こぞ)れ国民心を一に、緊襷(きんこん)一番勇士を偲び
稼げ働け花を去り実に、経済戦に終わりはあらず
我は期すなり永遠の平和
遂げよ聖戦輝く東亜、遂げよ聖戦輝く東亜

◆エグゼクティブプロデューサー(总制片人)韩三平、ディレクター陆川(Chuan Lu)による《南京!南京!》City of Life And Death)が2009年4月、華々しく公開された。豪華なwebsite宣伝は商業的、芸術文化的成功作を目指しているように見えてくる。
◆2011年8月17日asahi.com「古びた従軍手帳」に関する南京事件関連記事を複写保管。
沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献

1937月7日の盧溝橋事件で北京,天津の周辺で日本軍と中国軍が戦闘したため,当初は 「北支事変」といわれた。しかし,7月に第二次上海事変が勃発し,南京爆撃を含む大規模な戦闘が起こり,支那事変(Second Sino-Japanese War,中國人民抗日戰爭)へと拡大した。事変とは,宣戦布告なく行われた戦争であるが,戦争であれば,軍需物資を中立国,特に米国から輸入することが困難になる。交戦団体の捕虜・民間人の扱いも国際条約の規範に準じて行う必要も生まれる。こういった理由から,日本では「戦争」とはみなさず,天皇による大詔も発せられなかった。

写真(左):アメリカ義勇部隊AVGのカーチス社P-40戦闘機

このサイトでは,日中戦争における米国軍の関与を,米国駐留軍,アメリカ義勇部隊「フライング・タイガーズ」の事例から検証する。

中国が抗日戦争を開始したのは,第一に,中国の軍民一体となった抗日運動,それを支えた愛国心,高い戦意が存在したためである。日本は1931年に中国東北地方に傀儡国家「偽満州国」を作り,支配下に置いた。さらに,1937年7月には北京も攻撃してきた。このような日本の中国侵攻が,中国人にとって憤慨すべきものであったのは当然である。ただし,抗日戦争には,意志だけでなく,兵力も必要である。したがって,著者は外国勢力の中国援助を過大評価するものではない。しかし,世界戦略を考慮しない国家の最高指導者はいない。

写真(右):中国で戦うアメリカ義勇部隊:1940年から本格的な航空攻撃を日本軍に対して始める。ただし,米国連邦議会による対日宣戦布告は,1941年12月8日なので,当初1年間は宣戦布告無しの戦争である。中央が,AVG創設者の指揮官シェンノート。

このサイトでは,蒋介石に率いられた国民党政府が,交戦し続けることができた,あるいは,交戦し続け,日本に勝利できると考えた背景として,米国の対中国支援,軍事援助を主に検証した。
1937年7月から1941年末の期間,「中国における米国による対日秘密戦争」を,米国,中国などの資料を交えて,検証した。要旨は次の通り。

1.米国は,日本による中国侵略に反感が高まったのは,日本軍が,中国の政治経済の中枢である江南地方に戦火を及ぼし,中国軍を駆逐し,支配したからである。日本は,中国における米国など列国の権益を直接には侵害しなかったが,日本による中国支配が,米国の中国貿易,投資を停滞させた。

2.対中国戦争では,日本軍は兵力劣っていたため,苦戦するとすぐに増援部隊を派遣し,占領地を拡大し続けた。また,中国の文民一丸となった強い抵抗に直面して,残虐行為を繰り返した。これは,反日プロパガンダもあって,米国の世論,政策担当者の反日感情を高め,日本に圧力を掛けるべきである考え始める。


3.中国は,米英に租界を取られ,治外法権を認めさせられ,駐屯軍もおかれていた。列国が中国を半植民地化したことを憤っていた。しかし,中国は,英米よりも高圧的な態度で服従を強いる日本に対して強い反感,嫌悪感,恐怖感を抱き,反日・抗日運動が激化した。日本との交戦意思,士気も高まった。米国は中国が日本に対抗できる戦力を備えていると判断した。

写真(左):日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(G3M):1937年8月の第二次上海事変で,台湾,九州から南京,上海,杭州を「渡洋爆撃」した。これは,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃。スペイン内戦に派遣されたドイツ爆撃機がゲル二カ爆撃をした同年4月26日から3ヶ月でアジアでも戦略爆撃が行われた。対中国爆撃戦では、中国空軍戦闘機によって大きな被害を受けたため、長距離護衛戦闘機を随伴させる必要性が主張されるようになった。この役割を果たしたのが、1941年から日中戦争で活躍したゼロ戦(零式艦上戦闘機)である。

4.日本は,米国の対中国支援,軍事援助に反感を持っていたが,米国の軍事力を高く評価していたため,米国との戦争は望まなかった。しかし,中国もルーズベルト大統領も,日米開戦を望んでいた。ただし,日米開戦は,米国連邦議会の宣戦布告が必要であり,戦備が充実する時期に,適切なきっかけで,突入する必要があった。

5.反日プロパガンダやメディアによって,中国国民,米英など列国には日本軍による(実際にあった)残虐行為が(誇張して)伝えられた。列国の市民も,戦禍と残虐行為自体に対する怒りが高まった。民主主義国では,この世論を背景にした反日政策を採用するようになる。


写真(左):江南地方を爆撃した三菱九六式陸上攻撃機(G3M):皇紀2496年(1936年)の下二桁の96年に制式となったばかりの新鋭「攻撃機」(日本海軍では雷撃と爆撃をする機種をこう呼ぶ)。あまり指摘されないが,この高性能爆撃機を実用化していたことが,日本・満州から遠くはなれた江南地方で戦闘を行う自信の裏づけとなっていたはずだ。なにしろ,戦闘機より高速の時速185ノット(340km)を出し,戦闘の援護は不要である(と思われていた)。
全長:16.5メートル、全幅:25.0メートル、総重量7,642キログラム、 エンジン:三菱金星(離昇出力910馬力2基)、最高速度340キロ/時、上昇限度7,480メートル、航続距離2,850キロ、爆弾搭載量800キログラム(60キロ爆弾12発or250キロ爆弾2発or500キロ又は800キロ爆弾1発オor800キロ航空空気魚雷1発)、武装ルイス式7.7mm旋回機銃3丁、乗員5名。


⇒1898年義和団事件から1937年の盧溝橋事件に至る列国の対中認識・対中政策の好転は,「米中接近とドイツの対米宣戦布告」で詳述した。

1.1937年の上海事変以降,日本軍による中国都市への無差別爆撃が開始され,激しい航空戦が戦われた。⇒航空戦の重要性が,中国大陸でも認識された。

日中が1937年7月7日の盧溝橋事件で全面戦争に突入して,戦火は北京,天津といった華北にとどまらず,すぐに,上海,南京のある渦中にも広がった。これは,全面戦争になった以上は、中国の政治経済の中枢への攻撃、占領、国民党政府を威圧することが、日本の戦略として実行に移されたためである。


写真(左):未確認の爆弾で吹き飛んだ上海のでデパート
:1937年8月14日中国空軍は上海を誤爆したといわれる。日本海軍の砲艦「出雲」を爆撃に向かった中国機が誤爆し、この場所でも死傷者400名以上。この日1で1300名が死傷し「血の土曜日」といわれた。スイス人カメラマンKarl Kengelbacher撮影。この同じ場所を,日本軍爆撃機による被害としている解説も多い。どちらが真実か。両軍とも爆撃していたのか。

中国を作戦範囲とする艦隊として、第三艦隊が編成されたのは、1932年2月の第一次上海事変のときである。第三艦隊には、艦隊だけでなく、航空戦隊、上海特別陸戦隊(3000名)も含まれていた。初代司令長官は、日米開戦の通告問題を起こした海軍中将野村吉三郎である。そして、第二次上海事変最中の1937年10月には、新しく第四艦隊(外洋作戦用の艦隊)と第五艦隊を編成し、それを第三艦隊の指揮下に入れた支那方面艦隊を新たに編成した。この艦隊で、陸軍の杭州湾上陸作戦を援護し、中国沿岸の封鎖作戦を実施したのである。

写真(右):中国でAVGの指揮官となったアメリカ陸軍クレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault:1893-1958);シェンノート将軍は、国府軍空軍参謀長に就任。AGVは米国陸軍航空隊の支援を受けていたが,形式上は中国空軍として,中国西部で日本軍と交戦した。日米戦争が勃発してもアメリカ義勇軍AVGは中国に残っていたが、1942年7月に解散し、同地に設立されたアメリカ陸軍航空部隊に再編成された。

当時の海軍大臣は、海軍中将米内光政、在任期間は1937年2月2日から1939年8月30日で、1937年4月1日には大将に昇進した。米内光政については、後年、日米開戦に反対した人物として、日本人歴史家の評価が高いようだ。しかし、第二次上海事件を起こして、中国との戦火を華中に及ぼし、翌年には華南の広東も攻略するなど、中国全土に戦禍をもたらした。米国は強いから攻撃は仕掛けてはいけないが、弱い中国には積極的攻勢を準備、実施すべきとした一流の戦略の大家である。

このように中国を蔑視した背景には,日本の中国侵攻で、米国が中国と接近し、反日政策をとることはないと読んだからである。日本は,列国の権益に手をつけない限り,中国は一国で戦うしかない。空軍力,海軍力が無力な中国軍は,航空攻撃と海上封鎖と沿岸部への機動的な上陸作戦で,翻弄することができる。このように,読んだのであろう。

しかし,米国がAVGアメリカ義勇部隊を組織し,新鋭戦闘機の供与,米国人パイロットの参戦まで乗り出したことを知ったときには,脅威に感じ始めたようだ。戦記にも,操縦の上手な敵戦闘機パイロット,戦意旺盛な敵機が出てくると,あれは米国人パイロットに違いない,とAVGの強さを暗に認めている。日本軍は,中国軍を軽蔑していた場合が多かったが,太平洋戦争開戦当初は,英米軍を新式装備の強い軍隊とみなしていた。しかし,植民地に配備されていた最新兵器は僅かであり,数的にも日本軍が優位であった。日本軍は,英米軍に勝利したことで,後に,十分な装備をした部隊に反撃されると,連敗続きとなる。

写真(左):中国でAVGの利用したジープ:1941年12月7日以前の撮影。日本軍や中国軍では,一部の将校しか自動車に乗ることはできなかったから,中国空軍に所属するAGVは米軍並みに贅沢である。

もっとも,日本海軍の最新鋭戦闘機「ゼロ戦」零式艦上戦闘機が1940年に実用化されると,実戦経験をつんだ熟練パイロットが揃っていたこともあって,中国の戦場での制空権は,日本が握ることになる。 いずれにせよ,日本軍の航空優位,艦船優位の状況を認識していた海軍の将軍たちは,中国に対しては、米国とは全く異なった対応をとった。中国の海軍は、小規模で、日本海軍とは比較できないほど劣勢であるから、この日中の海軍兵力の格差から、日本(海軍)は負ける事はないとし、中国での戦闘を拡大していく。しかし、陸軍兵力を比較すれば、日本軍の10倍以上の兵力を中国軍は擁している。これは、海軍航空隊で処理できると考えたのか、それとも、大陸戦は陸軍の領分なので、感知しないつもりだったのか、判断しかねる。

写真(右):中国AVGのエースScott:日本国旗は撃墜マーク。11機文あるが,撃墜8機,撃破3機をあらわしている。

戦艦・補助艦(巡洋艦を対象とし、航空母艦は制限外)保有制限を定めたワシントン条約とロンドン条約は、1936年12月末をもって失効したため、1937年は海軍軍拡の年でもあった。米国、英国、日本など海軍国は、揃って新型戦艦の建造に乗り出している。なにしろ、日本でも排水量3万トン級以上の戦艦は、明治から大正に掛けて建造されたものであり、大改装を施してはいたが、艦齢は最も若くても18年もたっていた。そこで、以前から、軍縮条約期限切れを睨んで、6万トン級の新型戦艦を設計、準備していたが、1937年11月に呉海軍工廠で戦艦「大和」を、1938年3月には長崎三菱造船所で戦艦「武蔵」を極秘裏に起工したのである。

中国やソ連相手に戦艦は不要である。日本は、このまま中国へ侵攻を続ければ、あるいは中国を超えて、東南アジアに侵攻すれば、いずれは米国、英国などアジアに植民地を保有する列国と戦争になる事を理解していたといえる。


写真(左):上海沖の海防艦「出雲」
(1937年):日本海軍の第3艦隊(1937年10月以降は支那方面艦隊)旗艦で,主砲は20.3cm砲 連装2基4門。上海の日本人居留民保護のために上海の中国軍を砲撃した。

1937年8月14日、日本海軍航空隊は、植民地台湾(併合とは言うが,大日本帝国憲法は適用されず、住民の人権も確立していない),朝鮮半島南の済州島から上海,杭州を爆撃した。これは、三菱九六式陸上攻撃機(中攻)による長距離戦略爆撃である。

しかし、悪天候で上海沖の航空母艦「加賀」の艦上戦闘機による護衛を受けられず、中国空軍機のカーチス・ホーク契鐺機は中攻撃墜に成功したと主張された。しかし,日本海軍は,旧式戦艦(砲艦)「出雲」などの艦艇で、上海の中国軍陣地(市街地)を砲撃した。


写真(右):中国空軍のボーイング281戦闘機
(1936年):米国から購入した戦闘機で日本軍機と戦った。米国人義勇パイロットも個人の資格で戦っていた。

日本海軍航空隊が上海の中国空軍飛行場を爆撃したのと同じ8月14日には,中国空軍のノースロップ爆撃機、カーチス・ホーク教濤濂芝撃機など40機が、上海西方200km基地から上海沖の日本艦艇、市街の日本軍陣地を爆撃に発進した。積極的な航空攻撃には、米国陸軍航空隊の退役軍人で、中国空軍の顧問となっていたシェンノートの助言があったと思われる。

写真(右):1937年上海の中国軍バリケード:上海駐留の日本軍に増援部隊が派遣され先頭になる。中国軍は市内に戦車障害物,防御用のバリケードなどを築いて,日本軍と戦った。市街戦のため,双方の誤爆がおきやすかったといえる。米国艦艇も,日本艦艇と間違えられ誤爆され,あるいは砲撃された。そこで,砲塔に星条旗を描いて,誤爆されないようにした。

空襲した8月14日を国民政府は空軍節としたほどだった。しかし、悪天候も災いして、中国機が投下した450kg爆弾は目標を逸れて、市街地で爆発した。この日は誤爆で00人以上の中国人が死傷していた。6日後には米国軽巡洋艦オーガスタへの誤爆から米水兵1名が殺されている。

日本では8月14日の中国機による爆撃を、租界の外国勢力を攻撃したものと見なしているようだ。また,中国,米国などでは,当事から日本軍による爆撃とみなし,記録写真の解説でも日本軍の殺戮振りを伝えている。現在もこのときの被害写真の絵葉書などがweb上で公開され,日本機による爆撃とされている。誤爆は日本軍にもあり,12月12日には、日本海軍の九六式爆撃機が米国砲艦パネーを撃沈し、死者2名、負傷者48名を出した。これも,日本が故意に爆撃したと論じられる場合が多い。パネー号が小型だったため,日本機は中国艦艇とみて誤爆したらしい。巡洋艦オーガスタは、撃沈されたパネー号の生存者をフィリピンのマニラに輸送している。第二次大戦直前,オーガスタ号は,上海駐屯の第4海兵隊をも,フィリピンのバターン半島に撤収した。しかし,日本軍の攻撃で降伏。

写真(左):日本の爆撃目標になった上海(1937年8月28日);日本軍は,鉄道駅を目標に大爆撃を行った。これは,鉄道を使った中国軍の増援部隊が上海に到着するのを妨害するためである。日本軍の増援部隊は,陸路ではなく,主に海上あるいは河川航路を輸送船・海軍艦艇によって派遣されていた。

真珠湾と同じように、中国軍の誤爆は格好のプロパガンダ、報復材料となる。以前から計画されていたのであろうが、翌8月15日は「渡洋爆撃」の名のもとに日本海軍航空隊が中華民国の首都南京を爆撃した。スペイン内戦に派遣されたドイツ軍「コンドル軍団」の約40機がゲル二カ爆撃をしたのは1937年4月26日。都市へのテロ無差別爆撃として、国際非難を浴びた。これから5ヶ月たたないうちに、アジアでも無差別爆撃がより長期間、大規模に行われることになる。


写真(右):1937年8月28日、日本機の空襲を受けた上海鉄道駅
:この写真はLIFEに掲載され,世界中で話題になったし,現在もwebで多数複写公開されている。(南京事件の写真とされている事例もあった)日本軍は,鉄道駅を目標に大爆撃を行った。上海沖に停泊する米国巡洋艦AUGUSTAは誤爆されないように,星条旗を放蕩に描いていた。

8月15日の長崎県大村基地からの渡洋爆撃では、基地を発進した海軍の九六式陸上攻撃機(中攻)G3M20機が、南京まで960kmを往復4時間で飛行した。爆撃機は、1機当たり60kg陸用爆弾12発を搭載、2ヶ所の飛行場を爆撃目標としていたという。しかし、周辺にそれる爆弾も多く、無差別爆撃であると非難される。海軍航空本部教育部長大西瀧治朗大佐(後の海軍特攻隊の指揮官)は、「南京に対してどの位空襲をおこなったかと申しますと空襲回数36回で飛行機の延機数は600機、投下爆弾は約300トン」と述べた(1937年11月15日経済倶楽部にて)。

写真(左):日本機に爆撃された上海鉄道駅:日本の上海攻撃は、租界を持つ英米にも経済的大打撃を与えた。

都市への爆撃は、商業施設に打撃を与え,労働者を殺傷し、軍需生産を停滞させ,生活難に市民を陥れて厭戦気分を起こさせる。こうして、戦勝につなげるというのが戦略爆撃の思想である。ここで,無差別というのは,目標を決めずとしに爆弾をばら撒くという意味ではない。どんな都市爆撃にも,工場,住宅,繁華街など爆撃目標・爆撃予定地区は,爆撃機部隊ごとにオ定められる。無差別というのは,市民がいても軍人と同等に,無差別に扱うということ,すなわち爆撃目標に市民がいても一切関知しないということである。

無差別爆撃は、「戦略爆撃」として英国のハリス、米国のルメイも強く主張し、第二次大戦では1943-44年からドイツ、日本へ数百機の規模で都市爆撃作戦を指揮することになる。それに先んじる1937年8月の南京空襲は世界初の首都への本格的戦略爆撃(スペイン内戦のマドリッド空襲は小規模)である。

写真(右):日本機に爆撃された上海鉄道駅:日本の上海駅爆撃から救出された子供。この一連の写真には,爆撃後に子供をおいた「やらせ」で悪質なプロパガンダであると攻撃する日本人もいる。それなら,大人の一緒にいる写真は残すべきではなかったというlことになる。たしかに,日本の暴虐な振る舞いを訴えるのであれば,泣いている幼子一人のほうがインパクトは強い。

日本機の爆撃は、上海,南京,杭州に繰り返される。そして,1940年には遷都した重慶に対してより大規模な首都爆撃がより大規模に行われる。この重慶爆撃も,年無差別爆撃として,多数の市民を殺戮することになった。これも,中国や米英列国の反日プロパガンダに利用された。多数の爆撃による死傷者,その原因となった日本軍の無差別爆撃,それを平然と行う暴虐な日本軍という非難である(→1940年代の歴史記録映像を見る;九六式陸上攻撃機の爆撃映像爆撃された重慶の映像)

1937年9月上旬、上海の公大飛行場が使用可能になり、日本海軍は、9月19日、艦載機による南京空襲も実施する。そして、第三国人と市民に南京から避難することを勧告する。そして、9月25日までの7日間に11回、延べ289機が南京の市街地、産業基盤の鉄道・橋などを攻撃したという。

写真(右):第二次上海事変:1937年9月19日に本国から到着した米海兵隊増援部隊(約800名)の隊長。この増援された海兵隊には,航空機,戦車は装備されていない。スイス人Karl Kengelbacher撮影。

2.1937年以降,米国など列国による日本への妨害行為,日本の中国侵略を抑制しようとする動きが始まった。

松井大将は,日本軍の兵力を増強して「江南附近一帯を掃蕩---駆逐するの必要を認め、遂に南京攻略に進展する」ことを決心する。その間、中国に権益を有する列国は、戦火を拡大する日本軍に反感を抱き、中国側に便宜を図る。列国は 「直接間接に支那軍の作戦に便宜を与へ、時には之を援助するの行動」をとった。これは民間人の多数居住する市街地の戦闘の終了を願う以上,当然だったが,日本軍は、中国軍の味方をして,敵対的行動をとる英米仏をやがて激しく憎悪するようになる。

写真(右):中国空軍の米国製戦闘機で日本軍と戦うアメリカ義勇軍AVG(1941年頃):カーチスP-40戦闘機には,シャーク・マウスが描かれている。AVGは,フライング・タイガーズとして有名になる。

日本の軍司令官が言うように、英米が日本の上海における中国軍への攻撃を快く思っておらず,日本軍に妨害まで加えてきたのは,権益を守るためでもあるが,経済的繁栄、平和な生活を望んだためでもある。上海や南京には、米,英,仏,独、伊などの租界があり、多数の外国人が暮らし,駐屯していた。地上戦、空爆、艦砲射撃によって、上海は破壊されていくが,中国地区と隣接する外国租界も大きな被害を受けた。

上海の金融,商業の中心である租界は,中国の経済中枢でもあり,その市街地破壊,交通途絶などの戦禍と並んで,紛争に伴う資本逃避,ビジジネスの衰退,行政の停滞,教育機関の閉鎖などは,中国,英米に大きな損害をもたらした
アジアビジネスの中枢でも上海は,大きな危機に直面したのである。

写真(右):フライング・タイガーズのカーチスP-40戦闘機(1940-42年頃):1940年に本格的に組織されたAVGは,フライング・タイガーズとして,太平洋戦争でも日本軍と戦闘する。

中華民国の首都は当初は南京、南京が日本軍に陥落してからは、重慶が臨時首都だった。そこで、北京は中国の首都ではなかったから、正式には北平と呼ばれていた。他方、中国の政治経済の中枢である江南地方、上海である。そこをを攻撃し,爆撃する日本軍は、中国はもちろん、英米仏の反感を買ったのは当然である。米国は8月29日にカリフォルニア州サンディエゴから輸送艦Chaumontで、海兵隊の増援部隊を上海に派遣している。これは、租界の自国居留民を保護することを第一の目的とするもので、日本軍と戦う意図をもつものではない。

写真(右):日本海軍の九六式陸上攻撃機(1937-40年頃):1937年に南京,上海,杭州を長距離飛行後に無差別爆撃した三菱の世界的傑作機。

当時の米国大統領ルーズベルトも兵士は日本軍の振る舞いは暴虐であるとして非難を隠そうとしない。中立は維持しつつも,多くは中国に好意的であった。しかし,米国連邦議会は,孤立主義による平和と繁栄を優先して,日本に宣戦布告をするつもりはなかった。上院でも下院でも,戦争で若者を殺させるような危険を冒す議員は,息子を持った父母からは指示されなくなる。大統領も,日本への戦争を議会に求めれば,好戦的な危険な人物として,世論からたたかれてしまう。米国では,大統領も議員も,対日参戦することは,世論の上からできなかったのである。

3.日本軍の残虐行為は,反日プロパガンダもあって,米国など列国による非難の的となった。

⇒1937年7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争とその背景は,盧溝橋事件・上海事変・南京攻略で詳述した。

写真(右):1937年10月26日の中国軍撤退時の上海の火災:中国軍が市街地から撤収していく際,自ら火をつけた。これは,日本軍の追撃をかわし,敵に軍事拠点を使用させないための手段である。翌日に日本軍に残されたのは全長9kmの大火災のみ。

上海でも南京でも,租界には中国人地区からあるいは郊外から戦火を逃れて多数の難民が流入してきた。そこで、市内での激しい戦闘、残酷な仕打ちが多数目撃され,映像に残され、本国のメディアにも報告された。タイム,ライフといった有名雑誌も、このような映像や記事を何回も掲載している。

日本では南京事件が有名だが、その直前の上海事変でも、陸戦だけでなく、海上の艦艇からの砲撃を加え,大型機,小型機の空爆を市街地に(中国軍の陣地があるため)行っている。そこでは、建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷した。各地で多数の死傷が外国人にも目撃され、欧米に知らされていたのである。日本軍は,上海の外国租界には介入せずに、中国地区占領を図り,11月9日、接収をほぼ完了する。

4.日本は総力戦に向けて本格的な動員を開始し,列国も日本軍の中国侵攻が一時的でないこと悟り,それに対抗しようとした。

写真(右):中国でAVGの指揮官となったシェンノート:AGVは米国陸軍航空隊の支援を受けていたが,形式上は中国空軍として,中国西部で日本軍と交戦した。

日本国内では、上海で苦戦する日本軍を支え,これを契機の戦争体制を確立しようと様々な政策が採られている。1937年12年8月24日に国民精神総動員実施要綱が定められた。これは、挙国一致、尽忠報国の精神を国民がもつために、プロパガンダを行うものである。 統制経済を強化する必要性も認識されており、1937年9月4日には北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱が閣議決定している。これは、総動員実施するために、必要な戦時法令を制定・通用するための措置を講じようというもので,資源配分の調整、精神作興、労務管理の強化、産業指導統制、貿易統制、食糧統制、運輸統制、財政金融における経費節約・増税・公債消化促進、応召軍人・軍人遺族のための社会施設充実、防疫強化の基本方針を定めたものである。つまり、日本経済は北支事変の段階で,軍備,作戦行動を支えることが重い負担となっており,その経済基盤を戦争経済に順応できるように作り変えようというのである。

写真(左):中国軍のマークをつけた米国製戦闘機:リパブリック社製P-43は輸出中止となったため,カーチス社製のP-40がAVGの主力戦闘機となった。

中国人の被害だけが問題となったのではない。米英にとって、貿易・投資,金融,商業の経済中枢である上海,南京を日本軍が占領すること、日本が中国の政治経済を牛耳ること、すななわち「日本の中国支配」は断じて認められない。世論形成という民主主義国の重視するプロセスに則って、反日、排日のプロパガンダが行われる。真珠湾テロ攻撃より前に、日本は中国においてテロ行為と見なされてもしかたのない軍事行動・残虐行為を行った。このような日本が欧州支配を目指すドイツと同盟するのであれば,世界制覇を目指す「悪の枢軸」として、断固排除しなければならない。これが、真珠湾攻撃以前の米国の対日認識である。


◆日米開戦以前のアメリカ義勇部隊による対日攻撃 ◇ American Volunteer Group

写真(左):中国軍に供与された米国製戦闘機P-35:カーチス社製P-35は米国には配備されなかった。

1931年8月に米国は,中国は航空機80機とオパイロット80名がいると推測していたが,パイロットのうち一流といえるのは,10-12名に過ぎなかった。
そこで,1932-35年に米国は非公式の空軍顧問団を派遣した。John H. Jouettたちは,カネ,一族,政治力が支配していた中国空軍の体質に改善を試みたが,不十分なままで終わっしまう。
他方,ドイツ,イタリア,英国,ソ連と米国以外にも,多数の国が,中国空軍に航空機を輸出しており,中国空軍の機体は,世界の軍用機の陳列上のようになってしまう。つまり,多数の機種を少数ずつそろえたために,機体の整備,部品の交換,操縦方法の習熟が煩雑になってしまったため,効率的な運用が困難であった。

写真(右):日本軍に向けて輸出された米国製戦闘機P-35複座型:カーチス社は,商売優先で,日中双方に同じP-35を売却した。 社は応募し,1937年7月に77機の試作とサンプル機の発注を得た。1938年8月には,76機が生産され,陸軍航空隊に引き渡されている。

このように多数の国から多類の航空機を中国が輸入したのは,各国の航空会社の激しい売り込み競争の結果である。各国の航空会社は,贈賄,赤字輸出による他社の切り崩しなど,汚い手をつかったようだ。実際,54機のセバルスキーP-35戦闘機の購入契約が,キャンセルされている。

1937年の盧溝橋事件以降,日本軍の中国への侵攻が激化してくると,空軍を再編成する必要性が,中国でも認識され,米中双方の高官が協議し,特別航空部隊を編成することが企画された。これが,AVGに繋がってゆく。

AGVには,1941年夏に米国の最新戦闘機カーチスP-40トマホーク供与された。

写真(左):米国のP-35戦闘機:セバルスキー社製のP-35は米国では制式採用されなかったが,中国,スウェーデン,日本などに輸出された。

米国では,航空製造会社大手のセバルスキー社が倒産したのを引き継いで,リパブリック社が立ち上げられた。1939年3月にセバルスキーは,AP-4戦闘機30機の発注を米陸軍から受けていただけであったが,1939年末と1940年初めに,セバルスキーを引き継いだリパブリックが,P-43戦闘機の大量発注を受けた。これは,中国にキャンセルされたのと同数の54機のP-43戦闘機の発注と,新たな80機のP-43戦闘機の発注である。1939年9月に,欧州での第二次大戦が勃発しており,これを踏まえて空軍強化には,議会も反対はしない。

しかし,1939年にセバルスキーは複座に改造したP-35を20機,日本に売却する契約を結んでいる。The company made a controversial sale to the Japanese government in 1939 of 20 SEV2PA-B3 two-seat fighters which were based on the basic P-35 design. 1941年になるとさらに125機のP-43戦闘機が発注された。これは,武器貸与法によって資金を入手した中国空軍の購入になり,実際に108機のP-43戦闘機が船積み,発送された。残り17機は,オーストラリア空軍の発注になる。

写真(左):中国軍のマークをつけた米国製戦闘機:リパブリック社製P-43は108機が日米開戦1年前に中国に貸与されている。

リパブリックP-43戦闘機は,当事最新式のターボ・スパーチャージャー(過給機),パイロット背後の防弾版,防弾燃料タンク(アジア到着当初は不調だったが)を装備していた。1939年8月には中国側もP-43の事を知っていたが,後になって,軍事機密保持のため(ターボ・スパーチャージャーのことか),P-43の輸出は米国に禁止されてしまう。しかし,1938年時点では,米国は,中国に対してよりも,仮想敵国の日本に対して,より多くの兵器を輸出していたのである。P>1939年には,中国へのライセンスは500万ドルで,日本への輸出は80万ドルとなったが。しかし,1938年の日本への兵器輸出は,1938年の10倍もあったのである。

1.日本は,アジアは自国の勢力圏内にあり,日本に従属する大東亜共栄圏の建設し,これを新秩序とするべきであると認識していた。

写真(右):南京,杭州を爆撃した日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機;1937年8-12月に,長距離無差別爆撃を行った。

1940年にフランスがドイツに降伏すると、まずフランス領北部インドシナに、ついで南部インドシナ(仏印)に日本軍は進駐する。ハル・ノートは、この時期に渡されたのであるが、それ以前の日中戦争における日本の軍事的、政治的、経済的な中国への侵略・進出を、米国は、機会均等を侵すものとして、排除したかった。さらに、日本の残虐行為・敵対的行為についても、1937年12月の南京事件(市民や兵士の死者10-20万人)、中国にあった米国砲艦パネー号への日本海軍機による爆撃(米国人2名死亡)、日本の動員法令の整備など、いずれも米国の戦略に反する動きが強まっている。

写真(左):中国におけるドイツのJu52輸送機とアメリカ義勇部隊:(1930年代末?)中国はドイツのユンカースJu52輸送機などをドイツから購入する一方で,アメリカ義勇兵(傭兵)を雇い、のちには米国陸軍航空隊の支援を受けたアメリカ義勇部隊款を空軍として向かいいれ,日本と戦った。

1937年の防共協定,1940年の三国軍事同盟などドイツと日本の接近は、米国には好ましくない。日本は、中国に対する姿勢を増長させ、1940年には、ドイツの対フランス戦勝のおこぼれとして、フランス領インドシナに進駐し、のちの「大東亜共栄圏」と言われる日本の南方生存圏を確保しようとする。これは、米国には、忍耐の度を越えた行動となった。米国は、日本との戦争も辞さないかまえで、日本の在外資産の凍結、石油・鉄屑の禁輸など、強硬な対抗手段をとる。

ルーズベルト大統領としては、中立、孤立主義の風靡する米国の世論と連邦議会とを参戦に転換したかった。ドイツとの劣勢の戦いを指導する英国首相チャーチルも、ドイツに首都モスクワも占領去れそうなソ連の指導者スターリンも、日本軍に北京・上海・広東を占領され、東北地方に傀儡「偽満州国」をつくられた、さらに首都重慶の爆撃や内陸への侵攻に苦しんでいる中国の指導者蒋介石も、同様に、米国がドイツ・日本に参戦することを心待ちにしていた。当然、米国参戦に向けて、諜報活動を含む外交を展

開していたのである。 写真(左):日本の航空隊を迎撃すべき高性能戦闘機として中国に輸出されたP-43戦闘機;1939年末にP-35は中国軍にキャンセルされたが,武器貸与法によって,米国資金で,中国空軍が108機を購入した。

米国は、中立をたもっていたが、武器貸与法によって、英国・ソ連に大量の航空機・戦車を含む軍需物資を提供していた。英国連邦の一員のカナダは参戦しているが、カナダから英国への輸送船団には、米国海軍の駆逐艦・掃海艇が護衛についていた。そして,1940年には米国の駆逐艦50隻を英国に譲渡している。中立とはいっても,ルーズベルト大統領自身が,反ファシズムを明確に宣言していた。

写真(右):中国駐屯米国空軍といえるAVGのP-40戦闘機:P-35,P-43に代わってAVG主力戦闘機となった。カラー絵葉書には「歯医者の仕事」と記されているが,これはフライングタイガーが,鮫の口を機体に描いたため。

武器貸与法では,自前で兵器を輸入し,運搬する国に,武器を譲渡するし,その資金を貸し付けるとしていたから,これは,海上制海権を握っている英国へのグ机上とを正当化する法律であった。厳正な中立国であれば,交戦国双方に武器を譲渡するのw差し控えるであろう。しかし,米国は,対ドイツ宣戦布告はしていないが,明確に英国を支援していた。そして、第二次大戦勃発以前から、中国に対し当ては、物資を提供するだけでなく、義勇軍を派遣していた。

中立の米国参戦する決め手となるのは、ドイツ・日本による対米先制攻撃あるいは宣戦布告であることは自明である。中国,英国,ソ連は、(平和を取り戻す正義の戦争を起こすために)ドイツ・日本が米国に宣戦布告をすることを待ち望んでいた。日本が対米宣戦布告をするように挑発し,誘導する外交政策、プロパガンダがこうして展開される。

⇒ソ連の対日,対中,対米関係と,ノモンハンの戦闘は,ノモンハン事件を参照のこと。

写真(左):中国空軍のソ連ポリカリョフ社I153戦闘機(1942年初頭):ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。戦闘機,爆撃機を大量に中国に売却したが,これはスペイン内戦における共和国軍への軍事支援と同じだった。つまり,コミンテルンでは,反ファシズム戦線として,ドイツと日本の侵攻を抑制すべきであると決議された。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できたのである。しかし,華北が日本の支配下に入ると,次第に米国の軍事援助がソ連にとって代わった。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。それまで、共産主義国ソ連に敵対的であった英国も,米国も対ドイツ戦争を優先して,ソ連支援を即座に決めた。英米は、大量の軍需物資を輸送船団で、北海経由あるいは中東経由で,ソ連に送り込んだ。したがって、日米開戦は、ドイツ(ルーマニア、ハンガリー、フィンランドを含む)から攻撃を受けていたソ連にも都合が良かった。

写真(右):中国空軍のリパプリックP-43戦闘機:中国駐留のアメリカ義勇軍に装備された。しかし,今日の米国では,二流として無視される場合が多い中国人パイロットによる操縦もあったらしい。

第二次大戦が1939年に勃発すると、米国は英国に武器など軍需物資を提供し、1940年には船団護衛、対潜水艦戦のための駆逐艦50隻を貸与し、さらに密かに米国海軍艦艇に、英国側にたって参戦している隣国カナダから英国への護送船団に、米国の駆逐艦などを護衛艦として派遣している。さらに、日本と中国軍が戦火を交えている中国大陸へも、軍事支援をし、日中戦争に事実上、密かに「参戦」した。

米国は,1940年以降,アメリカ義勇部隊AVG,のちのフライングタイガーズによる,中国にある日本軍への航空攻撃を繰り返していた。これは,米軍によるものではなく,あくまで,退役軍人が個人の資格で中国空軍に入隊して,傭兵として,戦闘に参加するという建前をとっていた。しかし,装備された航空機は,当事の最新鋭機であり,米国内の陸軍航空隊で,組織的な義勇軍募集リクルートが行われていたし,米陸軍航空隊は,中国空軍にAVG向けの武器供与をおこなっていた。もちろん,これは米国大統領の承認を得た秘密作戦である。

写真(左):中国空軍マークをつけたAVGのP-40戦闘機と米国人パイロット;1940年から中国で,秘密裏に対日航空戦に参加したアメリカ義勇部隊。中国は,武器貸与法による米国資金によって,中国空軍は100機を購入した。

米国が対日戦争を開始する日米開戦に必要な条件は、
1)日本の先制攻撃:先制とは、米国よりも先に攻撃すること,攻撃とは、\鏖个鮓鬚┐訐鐺、一方的な爆撃や砲撃などの武力行使撃、4和發篳式の大規模な作戦行動(移動、部隊展開、動員)、である。
2)日本の対米宣戦布告:これは必ずしも攻撃を伴わなくとも良い。しかし、明確に宣戦布告であることが、示される必要がある。
真珠湾奇襲攻撃は、日本の宣戦布告なしの一方的な武力行使による先制攻撃である。明確な宣戦布告がない以上、日本の先制攻撃なしに、米国民を戦争に引き込むことはできないが、真珠湾をテロ先制攻撃されたのであれば、宣戦布告がなくとも、9.11と同じく、戦争を始めることができる。このように、インドシナ、中国(満州国は黙認?)から日本軍が撤退しない限り、米国は日米開戦を望んでいたのである。

写真(左):米国のカーチス社航空機工場におけるP-40戦闘機の生産ライン(1940年撮影):中国空軍に所属したアメリカ義勇部隊にもP-40戦闘機は配備された。

2.米国は,1940年代から,軍備拡張・動員を行って,対日独への戦争準備をした。

1939年の米国陸軍総兵力は40万人であるが,同年9月に欧州大戦が開始されると,航空兵力の増強を中心に5億7500万ドルの陸軍予算が必要とされた。ルーズベルト大統領は現役の軍人を22万7000名に,郷土防衛軍を23万5000名に増強することを決め、1940年5月には(エンジン)四発大型戦略爆撃機B-17を含む5万機の航空機を要求した。米陸軍の予算は,1940年80億ドル,1941年260億ドルに急増した。そして,1941年6月までに150万名の兵力が動員されることになる。このよう戦備増強が日本はもちろん,米国でも行われている。戦争に備えてきたのは、日本ばかりでなく、米国もそうである。日本委任統治領の南洋諸島に大艦隊をもって侵攻する「オレンジ」作戦、すなわち後の「レインボー」計画も、周到に準備された。航空兵力の大拡充も、対ドイツ戦、英国への軍事支援が第一の目的であろうが、中国、英国植民地ビルマ(現ミャンマー)やインドに対する軍事支援にも結びつけられている。

3.米国は、自ら参戦する前から、大戦では英国を軍需物資の貸与、輸送船団護衛に関与して、経済的軍事的に支援していた。同様に.米国は,1940年代から,中国に対する軍事援助を行った。そして,米国人軍事顧問だけでなく,アメリカ義勇部隊を創設して,主に中国にいる日本軍に航空攻撃を仕掛けた。これは、アメリカ義勇部隊(AVG)による、米国の宣戦布告なき対日戦とみなすことができる。

写真(右):フライングタイガーの米国人パイロット:2nd Squadrons.”The Hell's Angels squadron”リーダーのA.E. Olson, Jr.飛行服の背中には、blood chit.これは,中国国旗の下に、不時着時の救助要請が中国語でかかれている。乗機はカーチスP-40戦闘機。

1937年8月、上海事変が始まると、中国にいた米陸軍退役軍人Claire Lee Chennaultは、「もし中国に100機のまっとうな航空機と100人の腕の立つパイロットがいれば、ジャップの航空兵力を一掃できるのに」と言った。

"Boy, if the Chinese only had 100 good pursuit planes and 100 fair pilots, they'd exterminate the Jap air force!"

シェンノート(1893 — 1958)は、1937年4月に米国陸軍航空隊を退役して、蒋介石と婦人の宋美麗(財閥出身で英国留学、英語に堪能なクリスチャン)の支援と給与を得て、中国が購入した戦闘機を操縦して、中国空軍のパイロットとなった。そして、空軍の顧問となり、自ら日本機を迎え撃った。その傍ら、米軍にも連絡を取り、義勇部隊を組織するように、パイロットと優秀な航空機を送ってくれるように要請したのである。シェンノートが、中国空軍大佐として、年1万5000ドルで雇われた。中国空軍を増強して、日本を攻撃すべきであると考えた。

写真(右):シェンノート・宋美麗・蒋介石:1941年頃。中国でAVGを編成できたのは,シェンノートの要請を承認した米国陸軍航空隊・大統領だけでなく,蒋介石とその夫人宋美麗の米国への協力姿勢も大きく影響している。

シェンノートが米国に中国支援を訴えのため,1940年11月にシェンノートの案が財務長官ヘンリー・モーゲンソーHenry Morgenthauに示され、受け入れられたという。しかし,これは現在の米国の一般的見解であって,退役軍人の意見が大きく反映されたというよりも,中国政府高官,特に宋美麗など一流の外交術を備えた中国人の支援要請も,ルーズベルト大統領や軍に大きな影響を与えたに違いない。中国への特別航空隊創設は,1940年11月30日にソーンT.V.Soong が財務省モーゲンソーに働きかけた結果,1億ドルものローンが認められ,武器貸与法による兵器購入が促された。シェンノートは、航空機500機を配備した特別航空部隊Special Air Unitを編成すれば、中国の日本軍を壊滅させるだけでなく、東京をも爆撃できるとの意見が注目されたのであろう。これが、アメリカ義勇部隊American Volunteer Groupの始まりである。

写真(右):フライングタイガーのP-40戦闘機:全長:10.1メートル、全幅:11.3メートル、全高:3.7メートル。 主翼面積:21.9平方メートル、空虚重量:2810キログラム、総重量:5160キログラム。エンジン:アリソンV-1710、出力:1200馬力、最大速度:565 キロ/時、航続距離:1740キロ、上昇限度:10,270メートル。武装:ブローニングM2エクスカリバー12.7ミリ機関銃×6門、爆弾: 500ポンド(226キログラム)。

AVGの給与は月500-700ドルで、上級指揮官ほど高い給与が設定されている。また,日本機を1機撃墜(確認要)するごとに、500ドルのボーナスがでた。これは現在の月給で1万ドル以上に相当する。米国で募集されたAVG第一陣は1941年7月10日にサンフランシスコを出発した。そして、1941年夏にはAVG、後の「空飛ぶトラ」 Flying Tigersが中国とビルマで活躍することになる。

AVGパイロットは,米国陸軍所属の航空隊パイロットで志願したものである。つまり,陸軍航空隊がリクルートしたパイロットが,同意の上で,AVGとして,中国空軍に所属して,日本軍と闘うのである。AVGに参加するには,誓約書Loyalty chitに署名しなくてはならない。その内容な次のようなものである。

写真(左):AVG誓約書:1941年7月29日ビルマの首都ラングーンで署名されたもの。日米戦争の開始は1941年12月8日であるから、その4か月前には、アメリカ人の義勇兵が参戦に馳せ参じたことになる。

署名場所
署名期日
私は,ボランティア(義勇軍)として,中国空軍に------日から---日まで勤務いたします。
この期間の間,私は中国に忠誠を誓い,指揮官の命令に服従し,さらに中国の軍法・規則に従うすることを誓います。
任務終了後は,この任務に関するいかなる軍事的事項も秘匿し洩らすことはありません。
本人署名
証人署名

この誓約書にAVGのメンバー全員が署名するように求められたしたのである。

日本の攻撃に苦しめられている中国は、中立国米国の支援を受けていたが、これはつつもフランクリン・ルーズベルト大統領を初め、多数の米国軍人市民が、日本の対アジア戦略を脅威と感じていたからである。そこで、米国は、世界の兵器庫として、中国に対しても、英国にしたのと同様、軍需物資の提供をした。日本が広東、海南島など中国南岸を占領した後は、物資の運搬は、ビルマから中国雲南省・四川省に抜ける道路(ビルマ公路)が中心になった。ビルマは英国植民地であり、英国への軍需物資といっしょに、中国にも、険しい山道をうねるようなビルマ公路によって運ばれた。そして、日米開戦後の1942年からは ハンプ(こぶ)と 呼ばれた山岳域空路も加わって、支援の手が差し伸べられたのである。

写真(左):フライングタイガーのP-40戦闘機

ルーズベルト大統領は、1940年末から1941年初頭に、リパブリックRepublic社の戦闘機P-43「ランサーLancer」108機を武器貸与Lend-Leasedし、特別部隊"Special Air Unit"創設するように指示している。そして、これらの戦闘機がアメリカ義勇部隊American Volunteer Groupに配備された。日本も英国植民地のビスマのラングーンから中国への補給路ビルマルートを遮断しようと、航空兵力による爆撃、偵察も行った。フランス領インドシナへの進駐もこの中国への援助ルート「援蒋ルート」の遮断が大きな目的である。そこで、米国も日本軍に対抗して、中国南西部とビルマで、中国と英国の協力のもとで、米国義勇部隊American Volunteer Groupが組織した。これは、米国軍人や退役軍人が、個人の資格の義勇部隊として、日本軍と戦うのであるが、歩兵であれば(スペイン内戦の国際旅団のように)ともかく、個人で戦闘機を購入、運搬、整備、燃料・弾薬補給できるわけがない。中国軍だけではなく、米軍の支援が不可欠である。

写真(右):フライングタイガーのP-40戦闘機:1942年5月28日R.T. Smith(第三飛行中隊「地獄の天使たち」Hell's Angels所属)が撮影。シャーク・マウスのマーキングがAVGとそれを引き継いだ中国駐屯アメリカ陸軍航空隊の戦闘部隊の特徴。

1941年12月2日付AVG報告書では、AVGは3コ中隊、パイロット82名、航空機79機(稼動機62機)を保有していた。 武装した航空機は60機、通信装置を装備した航空機は60機あった。トマホーク発送資料によれば、1941年1月〜3月の3ヶ月間に中国支援のために、戦闘機カーチスP-40「トマホーク」100機が送られたが、これらの機体は同年5〜7月に月々約30機ずつビルマのラングーン港に到着している。分解されて運ばれた機体はここで組み立てられ、テストされた後、AVGに引き渡された。この戦闘機組み立てには、中国南西部から航空機組み立てになれた中国人熟練労働者175名がつれてこられている。AVGの戦闘機は、ビルマ北部あるいは中国南西部の基地からビルマルートの護衛や中国の日本軍攻撃を行った。ただし、1941年11月7日付けのラングーンからの手紙には、友人が3機も友軍の飛行機を壊したことが述べられ、雇用条件、勤務管理体制が不備なことが改善点として述べられている。

写真(左):フライングタイガーのP-40戦闘機を警備する中国兵:AVGは,飛行場の設営・修復,警備などは,中国兵・中国人整備員・中国人労働者に依存していた。しかし,現在の米国では,「フライング・タイガーズ」として空中戦を戦った米国人パイロットの活躍のみが大きく取り上げられている。

AVGの米国人パイロットの操縦する米国製戦闘機は、中国空軍のマークをつけているのであって、中国南西部の主力空軍兵力となっていた。中国南西部では米国義勇戦闘機部隊によって「秘密の戦争」が開始されていたわけで、米国も宣戦布告なしに、中国の日本軍を先制攻撃していたのである。これは,ルーズベルト大統領の対日対決姿勢のあらわれであるが,中国国民党政府も米軍の関与を要請し,AVGを支援したことは重要である。米軍の中では,整備,飛行場建設,宿舎の手当て,パイロットの食事・給与について,背曲的に評価しているわけではない。しかし,航空戦は,パイロットと戦闘機だけでできるわけではない。陸上基地における広範な支援体制が不可欠である。

写真(右):AVGの中国空軍基地で飛行場補修作業をする中国人(ナシ族の女子);雲南地方の北部山間部には,ナシ族が多いが,彼らを現地で労働力として利用して,飛行場を維持している。徴用であっても,現金・薬品など手当てを支給されたとおもわれる。このような「単純労働者」に対する評価や解説は,「フフライング・タイガーズ」のサイトでは見られず,実態もはっきりしない。

AGVの活動,すなわち中国での秘密の戦争は、次のように展開する。

1.米国は陸軍を退役したシェンノートChennaultに1941年12月に義勇航空隊「空飛ぶトラ」 Flying Tigersを組織させた。AVGを引き継ぐものである。
2.義勇軍の戦闘機には、最新鋭機カーチスP-40が配備され、米軍・中国軍の支援を受けて作戦を実施した。要するに、事実上、中国で戦う米空軍部隊が創設された。
3.将軍シェーンノートの有益な政治的、軍事的情報は、米国の戦争担当者に送られた。ただし、米国植民地フィリピンには、送られなかった。
4.1940年には中国に(米国)航空機500機を配備し、それによる日本軍爆撃も計画されたが、この騙まし討ち "sneak attack"は、陸軍長官スチムソンStimson, 参謀本部の将軍マーシャルMarshallの承認を得られなかった。
5.1941年4月にルーズベルト大統領は、航空機100機とそのパイロットからなる米国義勇部隊AVGの創設し、そのために5000万ドルの供与をするように命令した。
6.将軍シェーンノートは、日米開戦後も中国にあって、第14航空軍14th AF, 後のAir Americaを組織した。このような中国への軍事援助はソ連も行っており、米国よりも早期に多数の戦闘機、爆撃機を売却している。

写真(左):フライングタイガーのP-51A戦闘機:AGVは1942年には米陸軍航空隊に再編成された。装備もより新型のノースアメリカンP-41戦闘機が第一戦闘集団に配備された。1943年ごろビルマで撮影。

真珠湾攻撃によって、なぜ米国が太平洋戦争を開始し、国民・軍人を大規模に動員することに成功したのか、という課題については、次のように整理できる。
 崟訐鑄杞陲箸い錣譴襦廛瓮奪察璽犬亮蠍鬚涼戮譟平深醢儿況發慮紊離瓮奪察璽犬猟銘痢
∪訐鑄杞陲梁里鬚覆靴討い覆い噺なされる恐れのあるメッセージを、宣戦布告として通用すると錯覚していた
J胴(と英国)の友好国の中華民国への宣戦布告なしの作戦、国際的合意なしの政治工作・軍事行動を行い、人命・人権を軽視した残酷なテロ行為を10年間も続けた(と見なせる)こと、
ぅ侫薀鵐洪¬叡呂離ぅ鵐疋轡(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)に軍隊を勝手に駐留させた、
タ深醢儷襲以前に、潜水艦の作戦行動を真珠湾口で行ったいた、
真珠湾攻撃よりも2時間前に、マレー半島の複数箇所(英国植民地マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊を上陸させている、
米国へのアジア系移民排斥にみられるような人種的偏見のひろまり、
このような背景から、日本が国際法に則って、宣戦布告をしたかどうかにかかわらず、卑怯な残虐な国とみなす風潮が、米国にはあった。


写真(右):中国・ビルマ方面の米国陸軍航空隊,第14航空軍のB-24爆撃機:AGVは陸軍航空隊に再編成され,大型戦略爆撃も配備され,1944年にはB-29によるバンコク爆撃,九州の八幡製鉄所の爆撃も行う。

ハワイ真珠湾攻撃は、米国から見れば、日本による卑怯な騙まし討ちのテロ攻撃である。真珠湾攻撃を立案した日本海軍(それを許した陸軍・天皇)、最後通牒の不適切な内容と通知の遅れなどいくつもの失策、過誤を犯した。

しかし、真珠湾以前からの日本の外交・軍事行動、特に対アジア外交と軍事行動が、真珠湾攻撃を引き起こし、それを米英から見て「騙まし討ち」に仕立てることに寄与している。米国も、英国、中国に協力する形で、密かに日本に対する軍事行動を開始しており、これが日本側に、米国には和平を求める誠意はないと認識させる(ことに成功した)。このような騙まし討ちをする残虐な日本に対して、「正義の戦争」を始めることは当然でもあるし、民主主義と自由の盟主である米国の義務でもある。このような論法で、民主主義と自由の国アメリカの太平洋戦争が正当化され、それが動員を成功させ、国民の戦争協力を可能にしたと考えられる。


写真(右):フライングタイガーのカーチスP-40 (Curtiss P-40) 戦闘機

◆正義の戦争を演じた米国ではあるが,日本に対して秘密の戦争を仕掛けていたことは、注意すべきである。日本の先制攻撃を、できれば自国の領土に仕掛けてもらうことが、米国内の孤立主義を一掃するためには必要であった。民主主義国で宣戦布告の権限を議会が握っている米国では、大統領や軍部の一存では、戦争を始められない。どうしても世論と連邦議会が戦争に協力する、参戦に同意することが必要である。このような民主主義のプロセスを重視すれば,汚い手段で相手を挑発することも辞さないのである。挑発のための秘密の戦争がこうして、日本に仕掛けられていた。

(注記)現在の米国ではAVGフライングタイガーズの人気は高い。中国における日本の侵略行為を抑えようとしたからである。しかし、対日参戦した1941年12月以前の記録は、あまり多くなく,公開された資料も少ないようだ。

写真(右):1942年から中国の米軍最高司令官となったスチルウェル将軍と蒋介石・宋美麗;AVGは米国の対日宣戦布告から4ヶ月後の1942年3月,ビルマのラングーンが陥落。蒋介石は,新しいビルマ・中国方面の米軍司令官スチルウェルと会談した。英国植民地で,米国人が連合国司令官になったのは異例のことである。AVGは,日米開戦から7ヵ月後の1942年7月まで,米軍陸軍航空隊からは独立して戦っていた。その後,スチルウェルは,AVGを米軍大14航空軍に編入する。

3.アメリカ義勇部隊はフライングタイガーズとして有名になるが,正規のAVGは1942年7月に解散しており,太平洋戦争で,大規模な航空戦を続けてきたわけでもない。しかし,シェンノートが第14航空軍の司令官になり,「フライングタイガーズ」の名称を引き続き使用したために,中国・ビルまで闘う米国空軍部隊は,「フライングタイガーズ」であるとの(過大)評価が確立した。

フライングタイガーズFlying Tigersが,太平洋戦争勃発後,初めての大規模な戦闘は,1941年12月20日,3-4機の日本爆撃機を撃墜したことである。 第3飛行中隊3rd Squadronは,ビルマの首都ラングーンの防衛に当たっていたが,1941年12月23-25日に,約90機の日本機,その多くは重爆撃機,を迎撃,撃墜したと主張している。しかし,日本軍がラングーンを陥落させると,1942年3月には,中国雲南省昆明に戻っている この時まで,115機の敵機を撃墜したという。


写真(左):フライングタイガーズを引き継いだ第23航空集団
;1942年,戦闘機P-40にシャークマウスを描き,AVGを継承する部隊と自認していた。ただし,AVGのパイロットで中国に残留したのは5名のみ。

シェンノートChennaultは,米国陸軍航空隊USAAFの将軍になり,米国陸軍航空隊第14航空軍U.S. Army's Fourteenth Air Force司令官に就任する。1942年7月14日以降,フライングタイガーズは,中国空軍任務部隊China Air Task Forceに改編され,その後,第23航空集団23rd Fighter Groupとなった。しかし,パイロットは,民間航空輸送の任務あるいは,米国に帰還し民間人に戻った。中には,再び海軍や海兵隊に入隊したパイロットもいる。AVGには100名のパイロットがいたはずであるが,中国に残ったAVGパイロットは,たった5名に過ぎない。

しかし,フライングタイガーズは,中国では,米国による対中軍事支援の象徴であり,抗日戦争を続ける中国国民党政府にとって,国際的な支持を得ていることの証でもあった。そこで,このフライングタイガーズを,大きく宣撫活動にも利用しており。そのプロパガンダに便乗するかたちで,多数の米国人パイロット,米国のメディア(新聞)は,「フライングタイガーズ」の名称を使い続けている。特に,第23航空集団は,自らも"Flying Tigers"であると名乗っている。

写真(右):フライングタイガーズのカーチスP-40 (Curtiss P-40) 戦闘機のエースPrescott;1942年以降,空中戦で5.5機撃墜。戦闘機P-40の照準器は,光像式でなく古いの照星式。

現在,web上にも,フライングタイガーズは多数掲載されている。Flying Tigers,AVGの単語を含むサイトに限定しても,1万3800件もヒットする。なかには,フライングタイガーズのレザー・ジャケット,部隊マーク,書籍,写真・映像など,商業目的のサイトも多い。これは,退役軍人や部隊などの記念サイトとは違って,若者向けにアレンジされたものである。そして,そのような商業主義が,プロパガンダと並んで,アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」の人気を煽っているとのいえる。

アメリカ義勇部隊はフライングタイガーズとして有名であるが,正規のAVGは1942年7月に解散しており,太平洋戦争の後半の大規模な航空戦とは,比較にならない程度の戦力でしかなかった。しかし,シェンノートが第14航空軍の司令官を継ぎ,部隊も「フライングタイガーズ」の名称を引き続き使用し,メディアも,フライングタイガーズの活躍を,世界に広めた。


写真(左):フライングタイガーズのカーチスP-40 (Curtiss P-40) 戦闘機
;1942年4月頃撮影。

さらに,米国人にとって重要な視点は,中国の自由と平和のために,暴虐な日本軍を食い止めるため,個人の自由意志でできる限りのことをした「英雄」という認識である。危険な戦いにために,自ら,個人の資格で,挑戦し,自由と平和を守る礎になる覚悟をした立派なアメリカ人。彼らは,一流のパイロットであり,乗り込んだ戦闘機P-40は,ゼロ戦には劣ったかもしれないが,彼らの腕はそれをカバーした。自由と平和を守り,戦意旺盛な熟練パイロット。これは,米国の歴史にあって,後世にまで引き継がれるべきものである。こうして,中国・ビルまで闘う米国空軍部隊「フライングタイガーズ」は,英雄であるとの(過大)評価が確立した。


◆東南アジアへの侵攻へ ◇ 1941/12/08

真珠湾攻撃の経緯真珠湾攻撃の意味を把握した上で、日米開戦と同時に行われた日本のアジア侵攻を検証してみましょう。米国、中国、ソ連、欧州とグローバルな視点から検証して、日本における評価とは違った側面を強調しています。

1941年11月26日に、極東と太平洋の平和に関する文書、いわゆるハル・ノートを日本に手渡した。 この最も重要と思われる部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」とある。日本が中国占領地やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則としたのである。日本からは、米国の最後通牒であると認識された。ハルノートには日本が回答すべき期限は定められていないから、最後通牒であったとしても、宣戦布告ではない。日米双方が、これは了解していた。しかし、日本に絶対にできない(可能かも?)であろうことを突きつけてきたのであり、これに対して、日本は、宣戦布告を準備した。もともと、米国としては日本が受諾する見込みのないような最後通牒としてハル・ノートを突きつけたから、その結果、日米戦争となっても、米国は驚かない。逆に、日本の対米攻撃あるいは宣戦布告は望むところであった。

日本は、太平洋・アジアを侵略し、ドイツと並んで世界制覇を企てる悪の枢軸である、と見なされた

12月7日には、真珠湾以外にも、「サンフランシスコとホノルル間の複数の米国船舶が日本の潜水艦にが雷撃を受けた。マレー、香港、グアム島、フィリピン諸島、ウェーキ島も、日本軍に攻撃された。そして、今朝はミッドウェー諸島が攻撃された。」。さらに言えば,真珠湾攻撃前に、日本の南方侵攻がはじまり、艦隊司令官が英国偵察機の撃墜を命じ、陸軍航空隊もマレー半島侵攻部隊を援護して、英軍機を撃墜している(→宣戦布告と戦闘)。

写真(左):香港上空を飛ぶ日本陸軍の九八式軽爆撃機:1941年12月25日,香港は陥落する。

・12月6日午後 インドシナ半島南端を西進する南遣艦隊は 触摂中の英哨戒偵察機に対空射撃を行っている。そして、旗艦の重巡洋艦「鳥海」に座乘する司令長官小澤治三郎中将は 無線封止を破って、南部仏印(インドシナ南部のフランス植民地)に展開中の麾下の航空部隊に撃墜を命じた。
・陸軍大将菅原道大率いる第三飛行集団の九七式戦闘機は上陸部隊を運搬する輸送船団に接近中の英国哨戒飛行艇を撃墜した。
・中国の上海では共同租界に武力進駐開始した。
・マレー半島コタバルKota Baru(現マレーシア)では南遣艦隊が上陸支援のため陸上を20センチ砲などで砲撃している。

米国もこれらの情報を英国から入手しているはずで、暗号解読の状況とあわせて、日本の攻撃が差し迫っていることは容易に予想できた。しかし、これらの攻撃は、宣戦布告以前のものであり、「騙まし討ち」である。その上、英国に対しては 宣戦布告は用意していない無通告攻撃である。日本の同盟国のタイ王国とは、開戦するつもりはなかったが、マレー半島への攻撃の意図を隠蔽するために、上陸(攻撃でなく進駐)を(事実上)事前に通告せずに行ったため,タイと日本軍との戦闘も起こっている。

騙まし討ちは、真珠湾だけではない。2時間前(但し現地時間は12月8日で1日遅れる)に、マレー半島東岸(英国植民地のマレーとタイ王国)複数箇所に日本陸軍が上陸し、シンガポール攻略作戦を開始している。

1941 年 12 月 8 日午前 3 時 20 分(東京時間)、航空母艦より飛び立った日本機は真珠湾を空襲し、碇泊中の戦艦5隻を撃沈する。しかし、それよりも以前、いやそれどころか、対米最後通牒の予定伝達時間よりもよりも 45 分も以前(午前 2 時 15 分)に、マレー半島東岸(英国領マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊が上陸している。こうなると「太平洋戦争が真珠湾攻撃ではじまった」という通説(俗説)も誤りである。当然、日本は、米国に宣戦布告はしていない---。それどころか、どの国に宣戦布告することもなく、和平交渉に熱心なふりをして、世界を騙し、突如として卑怯な攻撃を仕掛けてた(と見なされている)。


写真(右):ビルマのフライングタイガーズ
;1942年頃

ルーズベルト大統領は、1939年9月に勃発した欧州対戦には、「米国の若者を他国のために派兵し殺すようなことはしない」と公約していた。もちろん、武器を英国に貸与する、海軍部隊を英国輸送船団の護衛につかせるなどの反ドイツ的行動をとっていた。また、1940年には50隻もの駆逐艦を米国に貸与しているし、護衛中の米国艦船が(ドイツ潜水艦Uボートから英国艦と誤認され)撃沈され、米国人乗員が死亡したこともあった。それでも、欧州大戦に参戦せず中立を守ってきた米国の世論は、孤立主義というにふさわしかった。それが、1941年12月11日ドイツの対米宣戦布告で、一気に覆されてしまう。米国国民も、「日本とドイツは世界を征服しようとしている」というプロパガンダを信じてしまう。なんといっても、日本とドイツは、中立だった米国に進んで先制攻撃を仕掛けたのだから。日本はアジアに大東亜共栄圏、ドイツは欧州支配と東欧・ソ連に東方生存圏をつくるだけでも精一杯だったのに、南北アメリカ、オーストラリアを含む世界を支配しようと大戦争を仕掛けてきた、このように「連合国」の国民は信じることになり,厳しい動員にも積極的に戦争協力するのである。

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