鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
アメリカ義勇部隊 American Volunteer Group 2005
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◆アメリカ義勇部隊「フライング・タイガーズ」◇ American Volunteer Group
写真(左):1937年8月、第二次上海事変のとき爆撃で破壊された上海国際共同租界の南京路
: 外国から多数の船が寄航した国際都市。人口300万人。江南地方の大都市上海は、米,英、日など共同租界,フランス租界があった。租界とは,中国の主権が及ばない「治外法権」の地である。8月14日の爆撃は,中国爆撃機の誤爆だったようだが,上海の飛行場を日本海軍航空隊も爆撃している。
写真(右):1942年4月のアメリカ義勇部隊AVG「フライング・タイガーズ」LIFE Magazineに掲載されたGeorge RodgerあるいはClare Boothe Luce撮影。中国空軍に所属し,日本軍と戦った。米国製カーチスP-40トマホーク戦闘機を装備し,パイロットは米国人だった。1940年夏から12月8日までの闘いは,宣戦布告なき米国の秘密戦争である。

◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
盧溝橋事件・上海事変・南京攻略:半年で北京・上海・南京を攻略した日本軍
米中接近:日中戦争と枢軸国
ノモンハン事件:国共合作・中ソ不可侵条約から中ソ接近・フィンランド冬戦争
真珠湾攻撃の研究:対米英宣戦布告・騙まし討ちのテロ先制攻撃
東京初空襲と山本五十六暗殺:真珠湾攻撃の仇討ち・報復
写真解説:米国の戦時動員:航空機産業における女子労働者
写真解説:米国の兵力動員:陸軍・海兵隊・民間防衛軍の増強
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論

◆2015年10月4日,日本テレビの放送した「NNNドキュメント:南京事件;兵士たちの遺言」について産経新聞が「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である」と批判した。残虐行為は敵中国軍の仕業だという陰謀説が繰り返される背景には「平和ボケ」が指摘できる。日中戦争当時、日本は、中国の混乱・腐敗を正し、東アジア和平をもたらすために聖戦を遂行しているのであり、聖戦で敵を殲滅(殺戮・破壊)した戦士は勇者・英雄で、その戦果は称えられた。この当時の実情を知らずにいるのが「平和ボケ」である。「殺戮は残虐行為だ」との戦後平和教育の常識は、日中戦争当時には当てはまらない。日中戦争当時も敵殺戮が残虐行為として認識されていたという誤解が「平和ボケ」である。戦時中、敵殲滅は英雄的行為として、新聞等のメディアでも国民の間でも称賛されていた。敵殺戮が悪いことだと批判する声は上がらなかった。だから、日本兵も堂々と敵を殲滅・処刑し、それを英雄的行為として誇った。中国兵を殲滅した日本軍の戦果を、捏造されたものだと否定したり、中国の督戦隊の活躍や捕虜の脱走を認めたりするような日本軍に対する侮蔑は、当時の日本では許されなかった。戦争観・人権の歴史的変遷に無知であれば、「平和ボケ」に陥り、「敵の大量殺戮は悪いことだ」という誤解に落ちてしまう。

◆2011年8月17日asahi.com「古びた従軍手帳」に関する南京事件関連記事を複写保管。



アメリカ義勇隊AVGの支援を得た中国空軍が、日中戦争の初期に大活躍する中国映画、蕭鋒(Feng Xiao)(2018)『 大轟炸:大爆撃』が公開間近となった。この戦争ナショナリズム映画は、1937年8月の第二次上海事事変後、日本海軍が実施した渡洋爆撃から、南京・重慶への戦略爆撃が実施される日中戦争を背景に、中国人の抗日戦への民衆の士気の高まり、それに協力するアメリカの軍事顧問と祈りを投げたして戦う優秀な中国人ン戦闘機パイロットの物語である。製作費3億元(60億円)以上、配給・宣伝にも1億元(20億円)をかけているという。蕭鋒(Feng Xiao)は中国人の監督だが、アメリカ人から成るAGV「フライングタイガー」の実話も取り入れられており、メル・ギブソンが美術監督、俳優ブルース・ウィリスが、中国空軍の顧問のクレア・リー・シェンノート(シェノート)将軍を務める、国際映画である。



蕭鋒(Feng Xiao)(2018)『 大轟炸:大爆撃』は、アメリカ人が、中国人を軍事援助するが、日中戦で日本軍と戦ったのはあくまで中国人兵士であることを強調している。現在の国際関係で、反日・米中協力を訴える映画だ批判するのは見当違いだ。中国ナショナリズム重視の映画は、南京事件を扱った張芸謀(チャン・イーモウ)監督(2011)『金陵十三釵』(The Flowers Of War)でも同じである。そこに起用された俳優クリスチャン・ベールは、勇敢な中国人少女・少年の引き立て役である。『金陵十三釵』でも『大轟炸:大爆撃』でも、外国人が演じる役は、決して主題ではない。あくまで中国の正当な戦いが国際的にも認知されていたことを表現するために外国人が使わているだけである。映画では、中国人が勇敢に人民を守るというナショナリズムが強調されている。

1937月7日の盧溝橋事件で北京,天津の周辺で日本軍と中国軍が戦闘したため,当初は 「北支事変」といわれた。しかし,7月に第二次上海事変が勃発し,南京爆撃を含む大規模な戦闘が起こり,支那事変(Second Sino-Japanese War,中國人民抗日戰爭)へと拡大した。事変とは,宣戦布告なく行われた戦争であるが,戦争であれば,軍需物資を中立国,特に米国から輸入することが困難になる。交戦団体の捕虜・民間人の扱いも国際条約の規範に準じて行う必要も生まれる。こういった理由から,日本では「戦争」とはみなさず,天皇による大詔も発せられなかった。

写真(右):アメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)カーチス社P-40C戦闘機:カーチスP-40Cは、発動機にアリソンV-1710-33水冷エンジン1040馬力を搭載し機首にブローニング12.7ミリM2機関銃2丁、主翼内に7.62ミリ機銃を各2丁合計4丁装備している。

このサイトでは,1937年7月に勃発した日中戦争から1941年12月に勃発した艇併用戦争までの、中国ににおけるアメリカ航空部隊の活躍を,アメリカ航空部隊「フライング・タイガーズ」を中心検証する。

中国が抗日戦争を開始したのは,第一に,中国の軍民一体となった抗日運動,それを支えた愛国心,高い戦意が存在したためである。日本は1931年に中国東北地方に傀儡国家「偽満州国」を作り,支配下に置いた。さらに,1937年7月には北京も攻撃してきた。このような日本の中国侵攻が,中国人にとって憤慨すべきものであったのは当然である。ただし,抗日戦争には,意志だけでなく,兵力も必要である。したがって,著者は外国勢力の中国援助を過大評価するものではない。しかし,世界戦略を考慮しない国家の最高指導者はいない。

写真(右):1942-1944年、中国で戦うアメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)の戦闘機パイロットに囲まれた、中央のAVG指揮官クレア・シェンノート

1937年7月に勃発した日中戦争で、少数のアメリカ人義勇パイロットが、中国で日本軍機を相手に戦闘に入った。アメリカ連邦議会による対日宣戦布告は,1941年12月8日なので,当初4年間近く、宣戦布告無しの戦争だったが、アメリカ義勇隊の戦闘機100機近くがビルマに揃ったのは、1941年後半だった。ビルマでの実地訓練が終了したのは、1941年末で、ほとんど太平洋戦争勃発直前だった。

当サイトでは,蒋介石に率いられた中国国民党政府が,交戦し続けることができた,あるいは,交戦し続け,日本に勝利できると考えた背景として,アメリカによる軍事援助を受けていたこと、特にアメリカ義勇隊(AVG)の戦闘機部隊、それを引き継いだアメリカ陸軍航空隊「フライングタイガーズ」の働きを主に検証したい。

1937年7月から1941年末の期間,「中国における米国による対日秘密戦争」を,米国,中国などの資料を交えて,検証した。要旨は次の通り。

1.アメリカは,日本による中国侵略に反感が高まったのは,日本軍が,中国の政治経済の中枢である江南(長江南岸の南京、上海、杭州)に戦火を及ぼし,中国軍を駆逐し,支配したからである。日本は,中国における米国など列国の権益を直接には侵害しなかったが,日本による中国支配が,米国の中国貿易,投資を停滞させた。

2.対中国戦争では,日本軍は兵力劣っていたため,苦戦するとすぐに増援部隊を派遣し,占領地を拡大し続けた。また,中国の文民一丸となった強い抵抗に直面して,残虐行為を繰り返した。これは,反日プロパガンダもあって,米国の世論,政策担当者の反日感情を高め,日本に圧力を掛けるべきである考え始める。


3.中国は,米英に租界を取られ,治外法権を認めさせられ,駐屯軍もおかれていた。列国が中国を半植民地化したことを憤っていた。しかし,中国は,英米よりも高圧的な態度で服従を強いる日本に対して強い反感,嫌悪感,恐怖感を抱き,反日・抗日運動が激化した。日本との交戦意思,士気も高まった。米国は中国が日本に対抗できる戦力を備えていると判断した。

写真(右):日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(G3M):1937年8月の第二次上海事変で,台湾,九州から南京,上海,杭州を「渡洋爆撃」した。これは,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃。スペイン内戦に派遣されたドイツ爆撃機がゲル二カ爆撃をした同年4月26日から3ヶ月でアジアでも戦略爆撃が行われた。対中国爆撃戦では、中国空軍戦闘機によって大きな被害を受けたため、長距離護衛戦闘機を随伴させる必要性が主張されるようになった。この役割を果たしたのが、1941年から日中戦争で活躍したゼロ戦(零式艦上戦闘機)である。

4.日本は,米国の対中国支援,軍事援助に反感を持っていたが,米国の軍事力を高く評価していたため,米国との戦争は望まなかった。しかし,中国もルーズベルト大統領も,日米開戦を望んでいた。ただし,日米開戦は,米国連邦議会の宣戦布告が必要であり,戦備が充実する時期に,適切なきっかけで,突入する必要があった。

5.反日プロパガンダやメディアによって,中国国民,米英など列国には日本軍による(実際にあった)残虐行為が(誇張して)伝えられた。列国の市民も,戦禍と残虐行為自体に対する怒りが高まった。民主主義国では,この世論を背景にした反日政策を採用するようになる。


写真(左):江南地方を爆撃した三菱九六式陸上攻撃機(G3M):皇紀2496年(1936年)の下二桁の96年に制式となったばかりの新鋭「攻撃機」(日本海軍では雷撃と爆撃をする機種をこう呼ぶ)。あまり指摘されないが,この高性能爆撃機を実用化していたことが,日本・満州から遠くはなれた江南地方で戦闘を行う自信の裏づけとなっていたはずだ。なにしろ,戦闘機より高速の時速185ノット(340km)を出し,戦闘の援護は不要である(と思われていた)。
全長:16.5メートル、全幅:25.0メートル、総重量7,642キログラム、 エンジン:三菱金星(離昇出力910馬力2基)、最高速度340キロ/時、上昇限度7,480メートル、航続距離2,850キロ、爆弾搭載量800キログラム(60キロ爆弾12発or250キロ爆弾2発or500キロ又は800キロ爆弾1発オor800キロ航空空気魚雷1発)、武装はルイス式7.7mm旋回機銃3丁、乗員5名。


⇒1898年義和団事件から1937年の盧溝橋事件に至る列国の対中認識・対中政策の好転は,「米中接近とドイツの対米宣戦布告」で詳述した。

1.1937年の上海事変以降,日本軍による中国都市への無差別爆撃が開始され,激しい航空戦が戦われた。⇒航空戦の重要性が,中国大陸でも認識された。

日中が1937年7月7日の盧溝橋事件で全面戦争に突入して,戦火は北京,天津といった華北にとどまらず,すぐに,上海,南京のある渦中にも広がった。これは,全面戦争になった以上は、中国の政治経済の中枢への攻撃、占領、国民党政府を威圧することが、日本の戦略として実行に移されたためである。

写真(右):未確認の爆弾で吹き飛んだ上海のでデパート:1937年8月14日中国空軍は上海を誤爆したといわれる。日本海軍の砲艦「出雲」を爆撃に向かった中国機が誤爆し、この場所でも死傷者400名以上。この日1で1300名が死傷し「血の土曜日」といわれた。スイス人カメラマンKarl Kengelbacher撮影。この同じ場所を,日本軍爆撃機による被害としている解説も多い。どちらが真実か。両軍とも爆撃していたのか。

中国を作戦範囲とする艦隊として、第三艦隊が編成されたのは、1932年2月の第一次上海事変のときである。第三艦隊には、艦隊だけでなく、航空戦隊、上海特別陸戦隊(3000名)も含まれていた。初代司令長官は、日米開戦の通告問題を起こした海軍中将野村吉三郎である。そして、第二次上海事変最中の1937年10月には、新しく第四艦隊(外洋作戦用の艦隊)と第五艦隊を編成し、それを第三艦隊の指揮下に入れた支那方面艦隊を新たに編成した。この艦隊で、陸軍の杭州湾上陸作戦を援護し、中国沿岸の封鎖作戦を実施したのである。

写真(右):太平洋戦争勃発前、中国でアメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)指揮官となったアメリカ陸軍クレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault:1893-1958);シェンノート将軍は、国府軍空軍参謀長に就任。AGVは米国陸軍航空隊の支援を受けていたが,形式上は中国空軍として,中国西部で日本軍と交戦した。日米戦争が勃発してもアメリカ義勇軍(AVG)は中国に残っていたが、1942年7月に解散し、同地に設立されたアメリカ陸軍航空部隊に再編成された。

当時の日本海軍大臣は、米内光政海軍中将、在任期間は1937年2月2日から1939年8月30日で、1937年4月1日には大将に昇進した。米内光政については、後年、日米開戦に反対した人物として、日本人歴史家の評価が高いようだ。しかし、第二次上海事件を起こして、中国との戦火を華中に及ぼし、翌年には華南の広東も攻略するなど、中国全土に戦禍をもたらした。米国は強いから攻撃は仕掛けてはいけないが、弱い中国には積極的攻勢を準備、実施すべきとした一流の戦略の大家である。

このように中国を蔑視した背景には,日本の中国侵攻で、米国が中国と接近し、反日政策をとることはないと読んだからである。日本は,列国の権益に手をつけない限り,中国は一国で戦うしかない。空軍力,海軍力が無力な中国軍は,航空攻撃と海上封鎖と沿岸部への機動的な上陸作戦で,翻弄することができる。このように,読んだのであろう。

中華民国空軍(中国空軍)の創設は、1932年で,ほとんどの機体は、諸外国から輸入したものだった。中国における飛行機の軍用利用は、中国国民党軍による軍閥の討伐、いわゆる「北伐」の時期だったが、空軍として戦争に加わったのは、1932年の上海事変の時だった。1930年代初頭、中国空軍は、イタリアから飛行機を輸入し、訓練を依頼しながら成長していったが、機材は少なく、部品も滞りがちで、稼働率も信頼性も低く、人材にも不足した。したがって、強大な日本の航空兵力に対抗するのは困難だった。そこで、宋美齡Soong Mei-ling)は蒋介石に自ら空軍の育成に乗り出したいとする意見を出した。そして、中国空軍を改善して、敵に勝つことのできる有效な武器を準備したいと希望を述べた。蒋介石はこれに同意し、こうして中国空軍の揺籃期が始まったのである。

1935年,宋美齡が督促したことで、中国はアメリカからの武器と飛行機を大規模に取り入れることが決まった。1937年,1936年,蒋介石夫人の宋美齡は、「軍事委員会航空秘書長」に就任したが、これは事実上、中国国民党空軍司令長官の地位と同じだった。この時期、宋美齡が掌握した空軍に彼女が招聘したアメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault陳納徳)将軍が中国にやってきて、中国空軍を育成することになった。

1937年8月13日,第二次上海事変が勃発すると、中国航空委員会は、「空軍作戦第一号令」を出し、1938年5月20日には、中国空軍の双発爆撃機マーチン139WC(B-10の中国輸出仕様)爆撃機(両架轟炸機)によって、日本本土に飛来し、上空で伝単(ビラ)を散布することを命じた。

 宋美齡Soong Mei-ling)に従う副官だった夏公権の回想では、居所の客間には、抗日戦争初期、南京大校飛行場で、空軍飛行兵に論功行賞をしている巨大な写真が掲げてあったという。宋美齡は、1937年3月12日,「航空の統一」の一文を発表し文、その中で「中国統一を新展開し促進するために、飛行機の果たすべき役割が大きい」とした。


写真(右):1942年頃、中国、雲南省昆明飛行場(?)、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」所属のカーチスP-40C「トマホーク」戦闘機
:P-40C戦闘機の機首には、0.50口径12.7ミリM2ブローニング機関銃2丁(携行弾数470発)、主翼左右に7.62ミリM1919ブローニング機関銃各2丁(携行弾数1960発)を装備している。12.7ミリ機関銃は、弾丸が重く、低伸道性があり弾道・貫通力に優れていたため、第二次大戦後にも広く使われた。

1938年春, 宋美齡Soong Mei-ling)は、健康上の理由で航空委員会秘書長の職務から離れ、兄の宋子文に任務を任せた。しかし、宋美齡は始終、空軍の人事に対して影響力を奮い、訓練、作戦などの大権を保持していた。宋美齡は、中国航空委員会秘会長として、当時の中国空軍の組織編制に尽力し,日後、空軍から栄誉をもって“中国空軍之母”と呼ばれるようになった。宋美齡による中国空軍への卓抜な功績に鑑み、青天白日勲章を授与されたが,これは女性では唯一の受賞である。

宋美齡Soong Mei-ling)は、空軍へのアメリカからの軍事援助に関わっており、英語も堪能でアメリカの軍事顧問とも交流を図っていたから、空軍の作戦を独自の見解で進める気概を持ち、それを誇りにしていたようだ。その後も長い間、胸に空軍飛行徽章を飾っていた。そして、自分が空軍の母であると考え、それを愛し、国民党空軍を「我的空軍」と呼んでいた。

写真(右):アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」所属のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機(1941-42年頃):機首には、0.50口径12.7ミリM2ブローニング機関銃2丁(携行弾数470発)、主翼左右に7.62ミリM1919ブローニング機関銃各2丁(携行弾数1960発)を装備している。1940年に本格的に組織されたアメリカ義勇隊(AVG)は「フライングタイガー」として,太平洋戦争勃発前から、ビルマのラングーン港にアメリカ製のカーチスP-40C戦闘機を分解して輸送し、そこにアメリカ義勇兵パイロットを送っていた。そして、ビルマ、ラングーン北西350キロのトングー基地で訓練にあたっていた。太平洋戦争の勃発後、1942年12月後半から、中国雲南省の昆明航空基地に進出し、日本軍と戦闘に入った。

中国軍相手に、日本軍は苦戦することがしばしばあった。爆撃機による攻撃が、中国軍戦闘機の迎撃や悪天候で大きな被害を出していたのである。さらにアメリカが、AVG(アメリカ義勇部隊)を組織し,中国に新鋭戦闘機の供与,アメリカ陸海軍のパイロットの参戦まで乗り出したことを知ったとき,大きな脅威を感じたようだ。戦記でも,中国大陸の空中戦で、操縦の上手な敵戦闘機パイロット,戦意旺盛な敵機が出てくると,あれはアメリカ人パイロットに違いない,とAVGの強さを暗に認めている。日本軍は,中国軍を軽蔑していたが,中国軍戦闘機から大きな被害を受けていた。また、太平洋戦争開戦当初は,英米軍を新式装備の強い軍隊とみなしていた。

写真(右):中国あるいはビルマで、アメリカ義勇隊(AVG)のパイロットが利用したジープ:1941年12月7日の太平洋戦争勃発以前から、ビルマに進出し、訓練にあたっていた。日本軍や中国軍では,一部の将校しか自動車に乗ることはできなかったから,中国空軍に所属するAGVはアメリカ軍並みに贅沢である。アメリカ軍用のジープは、1940年にアメリカ陸軍の要求に応じてバンタム社が試作した四輪駆動の自動車で、1940年9月に試作車が陸軍に引き渡され試験された。この基本設計が認められ、増加試作車が、バンタム社に加えてフォード社に要求され、自重2,160ポンド(980kg)の増加試作1,500台が発注された。前線に四輪駆動のジープが配属に張ったのは、太平洋戦争開戦前の1941年中旬、イギリスで、独ソ戦が1941年6月に始まるとロシアにも武器貸与法に基づいて送られ、太平洋方面にもアメリカ領フィリピンに配備された。

しかし,米英の植民地に配備されていた最新兵器は僅かであり,数的にも日本軍が優位であった。また、日本軍は,日中戦争で実戦経験を積んでおり、日本海軍は、最新鋭戦闘機「ゼロ戦」零式艦上戦闘機を太平洋戦争の勃発前の1940年(紀元2600年)に制式した。また、日本軍の航空兵力には、実戦経験が豊富な熟練パイロットが揃っており、これと数的優勢とが相まって、日中戦争の初期には、中国の戦場で日本軍が制空権の上で優位にあった。

いずれにせよ,日本軍の航空優位,艦船優位の状況を認識していた日本海軍の将軍たちは,中国に対しては、アメリカとは全く異なった対応をとった。中国の海軍は、小規模で、日本海軍とは比較できないほど劣勢であるから、この日中の海軍兵力の格差から、日本(海軍)は負ける事はないとし、中国での戦闘を積極的に拡大した。しかし、陸軍兵力を比較すれば、日本軍の10倍以上の兵力を中国軍は擁している。日本海軍は、陸軍との共同作戦を部分的に実施してはいるが、国家予算、兵器、軍事資源の配分に至るまで、陸海軍の対立は解消されることがなかった。中国での戦争も、日本海軍は、航空隊で処理できると考えたのか、それとも、大陸戦は陸軍の領分なので、感知しないつもりだったのか、判断しかねる。

写真(右):1942年頃、中国雲南省の昆明飛行場(?)、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」、カーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機のエース、R.T.スコット(Scott)。日本国旗は撃墜破マーク11機分のマークが描かれている。撃墜8機,撃破3機をあらわしている。(1942年頃):機首には、0.50口径12.7ミリM2ブローニング機関銃2丁(携行弾数470発)、主翼左右に7.62ミリM1919ブローニング機関銃各2丁(携行弾数1960発)を装備している。1940年に本格的に組織されたアメリカ義勇隊(AVG)は「フライングタイガー」として,太平洋戦争勃発前から、ビルマのラングーン港にアメリカ製のカーチスP-40C戦闘機を分解して輸送し、そこにアメリカ義勇兵パイロットを送っていた。そして、ビルマ、ラングーン北西350キロのトングー基地で訓練にあたっていた。太平洋戦争の勃発後、1942年12月後半から、中国雲南省の昆明航空基地に進出し、日本軍と戦闘に入った。

戦艦・補助艦(巡洋艦を対象とし、航空母艦は制限外)保有制限を定めたワシントン条約とロンドン条約は、1936年12月末をもって失効したため、1937年は海軍軍拡の年でもあった。米国、英国、日本など海軍国は、揃って新型戦艦の建造に乗り出している。なにしろ、日本でも排水量3万トン級以上の戦艦は、明治から大正に掛けて建造されたものであり、大改装を施してはいたが、艦齢は最も若くても18年もたっていた。そこで、以前から、軍縮条約期限切れを睨んで、6万トン級の新型戦艦を設計、準備していたが、1937年11月に呉海軍工廠で戦艦「大和」を、1938年3月には長崎三菱造船所で戦艦「武蔵」を極秘裏に起工したのである。

中国やソ連相手に戦艦は不要である。日本は、このまま中国へ侵攻を続ければ、あるいは中国を超えて、東南アジアに侵攻すれば、いずれは米国、英国などアジアに植民地を保有する列国と戦争になる事を理解していたといえる。

写真(右):1937年、中国、江南、上海外灘(ワイタン)沖に停泊する日本海軍装甲巡洋艦(海防艦)「出雲」:装甲巡洋艦「出雲」は、日本海軍の第三艦隊(1937年10月以降は支那方面艦隊)旗艦で,主砲は20.3センチ(8インチ)連装2基4門。上海の日本人居留民保護のために上海の中国軍を砲撃した。

1937年8月14日、日本海軍航空隊は、植民地(併合とは言うが,大日本帝国憲法は適用されず、現地住民の人権も確立していない)の台湾と朝鮮半島沖の済州島から上海,杭州を空襲した。これは、三菱九六式陸上攻撃機(中攻)による長距離戦略爆撃である。

しかし、悪天候で上海沖の航空母艦「加賀」の艦上戦闘機による護衛を受けられず、中国空軍機のカーチス・ホーク契鐺機は中攻撃墜に成功したと主張された。しかし,日本海軍は,旧式戦艦(砲艦)「出雲」などの艦艇で、上海の中国軍陣地(市街地)を砲撃した。


写真(右):中国空軍のボーイング281戦闘機P-26
(1936年):アメリカから購入した戦闘機で日本軍機と戦った。AVG(アメリカ義勇部隊)のアメリカ人パイロットも個人の資格で戦っていた。

日本海軍航空隊が上海の中国空軍飛行場を爆撃したのと同じ1937年8月14日,中国空軍のノースロップ爆撃機、カーチス・ホーク教濤濂芝撃機など40機が、上海西方200km基地から上海沖の日本艦艇、市街の日本軍陣地を爆撃に発進した。積極的な航空攻撃には、米国陸軍航空隊の退役軍人で、中国空軍の顧問となっていたクレア・シェンノートの助言があったと思われる。

写真(右):1937年上海の中国軍バリケード:上海駐留の日本軍に増援部隊が派遣され先頭になる。中国軍は市内に戦車障害物,防御用のバリケードなどを築いて,日本軍と戦った。市街戦のため,双方の誤爆がおきやすかったといえる。米国艦艇も,日本艦艇と間違えられ誤爆され,あるいは砲撃された。そこで,砲塔に星条旗を描いて,誤爆されないようにした。

日本軍を空襲した8月14日を、中国国民政府は「空軍節」に指定して祝った。しかし、8月14日の爆撃は、練度不足と悪天候も災いして、中国機が投下した450kg爆弾は目標を逸れて、市街地で爆発した。この日は誤爆で00人以上の中国人が死傷していた。6日後には米国軽巡洋艦オーガスタへの誤爆から米水兵1名が殺されている。

日本では1937年8月14日の中国機による爆撃を、租界の外国勢力を攻撃したものと見なしているようだ。また,中国,米国などでは,当事から日本軍による爆撃とみなし,記録写真の解説でも日本軍の殺戮振りを伝えている。現在もこのときの被害写真の絵葉書などがweb上で公開され,日本機による爆撃とされている。誤爆は日本軍にもあり,12月12日には、日本海軍の九六式爆撃機が米国砲艦パネーを撃沈し、死者2名、負傷者48名を出した。これも,日本が故意に爆撃したと論じられる場合が多い。パネー号が小型だったため,日本機は中国艦艇とみて誤爆したらしい。巡洋艦オーガスタは、撃沈されたパネー号の生存者をフィリピンのマニラに輸送している。第二次大戦直前,オーガスタ号は,上海駐屯の第4海兵隊をも,フィリピンのバターン半島に撤収した。しかし,日本軍の攻撃で降伏。

写真(右):日本の爆撃目標になった上海(1937年8月28日);日本軍は,鉄道駅を目標に大爆撃を行った。これは,鉄道を使った中国軍の増援部隊が上海に到着するのを妨害するためである。日本軍の増援部隊は,陸路ではなく,主に海上あるいは河川航路を輸送船・海軍艦艇によって派遣されていた。

真珠湾と同じように、中国軍の誤爆は格好のプロパガンダ、報復材料となる。以前から計画されていたのであろうが、翌8月15日は「渡洋爆撃」の名のもとに日本海軍航空隊が中華民国の首都南京を爆撃した。スペイン内戦に派遣されたドイツ軍「コンドル軍団」の約40機がゲル二カ爆撃をしたのは1937年4月26日。都市へのテロ無差別爆撃として、国際非難を浴びた。これから5ヶ月たたないうちに、アジアでも無差別爆撃がより長期間、大規模に行われることになる。

写真(右):1937年8月28日、日本機の空襲を受けた上海鉄道駅:この写真はLIFEに掲載され,世界中で話題になったし,現在もwebで多数複写公開されている(南京事件の写真とされている事例もあった)。生き残った子供は、腕を失うほどの重傷で痛々しい。日本軍は,鉄道駅を目標に大爆撃を行った。上海沖に停泊する米国巡洋艦AUGUSTAは誤爆されないように,星条旗を放蕩に描いていた。

8月15日の長崎県大村基地からの渡洋爆撃では、基地を発進した海軍の九六式陸上攻撃機(中攻)G3M20機が、南京まで960kmを往復4時間で飛行した。爆撃機は、1機当たり60kg陸用爆弾12発を搭載、2ヶ所の飛行場を爆撃目標としていたという。しかし、周辺にそれる爆弾も多く、無差別爆撃であると非難される。海軍航空本部教育部長大西瀧治朗大佐(後の海軍特攻隊の指揮官)は、「南京に対してどの位空襲をおこなったかと申しますと空襲回数36回で飛行機の延機数は600機、投下爆弾は約300トン」と述べた(1937年11月15日経済倶楽部にて)。

写真(右):日本機に爆撃された上海鉄道駅で、生き残った子供たちが中国人に助け出された。日本の上海攻撃は、租界を持つ英米にも経済的大打撃を与えたが、なにより現地の住民を負傷させ、家屋を破壊するなど中国に戦乱をもたらした。

都市への爆撃は、商業施設に打撃を与え,労働者を殺傷し、軍需生産を停滞させ,生活難に市民を陥れて厭戦気分を起こさせる。こうして、戦勝につなげるというのが都市無差別戦略爆撃の思想である。このような戦略爆撃は、イタリアのジュリオ・ドゥーエGiulio Douhet:1869-1930)陸軍少将が第一次大戦後の1921年に提唱したもので、空襲によって敵の大都市を無差別攻撃すれば、産業・交通・住居の上で混乱が生じ、テロ爆撃に怯える敵国民の間に戦争中止の要求が沸き上がり、戦争に勝利できるとする。したがって、最小限の被害で戦争を終わらせることができるというのである。

ここで,無差別というのは,目標を決めずとしに爆弾をばら撒くという意味ではない。どんな都市爆撃にも,工場,住宅,繁華街など爆撃目標・爆撃予定地区は,爆撃機部隊ごとに定められる。無差別というのは,市民がいても軍人と同等に,無差別に扱うということ,すなわち爆撃目標に市民、民間人、非戦闘員がいても一切関知しないという意味である。

写真(右):日本機に爆撃された上海鉄道駅:日本の上海駅爆撃から救出された子供。この一連の写真には,爆撃後に子供をおいた「やらせ」で悪質なプロパガンダであると攻撃する日本人もいるが、それなら,大人の一緒にいる写真は残すべきではなかった。生き残った子供は、腕を失うほどの重傷で痛々しい。

都市無差別爆撃は、「戦略爆撃」として英国のハリス、米国のルメイも強く主張し、第二次大戦では1943-44年からドイツ、日本へ数百機の規模で都市爆撃作戦を指揮することになる。それに先んじる1937年8月の南京空襲は世界初の首都への本格的戦略爆撃(スペイン内戦のマドリッド空襲は小規模)である。

日本機の戦略爆撃は、1937年8月の日中戦争の勃発当初は、九州大村基地、済州島からの渡洋爆撃を何回か実施しただけだった。しかし、8月上旬に、上海の公大飛行場を占領すると、9月16日から10日間連続で南京空襲を実施するなど、大規模な空襲を始めた。そして,1940年には遷都した重慶に対してより大規模な首都爆撃が行われる。この重慶爆撃も,都市無差別爆撃として,多数の市民を殺戮することになり、中国による反日プロパガンダに利用され、英米で中国への軍事支援を求める声が強くなった。多数の爆撃による死傷者,その原因となった日本軍の無差別爆撃,それを平然と行う暴虐な日本軍という非難である(→1940年代の歴史記録映像を見る;九六式陸上攻撃機の爆撃映像爆撃された重慶の映像)

1937年9月上旬、上海の公大飛行場が使用可能になり、日本海軍は、9月19日、艦載機による南京空襲も実施する。そして、第三国人と市民に南京から避難することを勧告する。そして、9月25日までの7日間に11回、延べ289機が南京の市街地、産業基盤の鉄道・橋などを攻撃したという。

写真(右):第二次上海事変:1937年9月19日に本国から到着した米海兵隊増援部隊(約800名)の隊長。この増援された海兵隊には,航空機,戦車は装備されていない。スイス人Karl Kengelbacher撮影。

2.1937年の日中戦争の勃発以降,中国だけでなく、アメリカをはじめとする列国による日本への妨害行為,日本の中国侵略を抑制しようとする動きが始まった。

松井大将は,日本軍の兵力を増強して「江南附近一帯を掃蕩---駆逐するの必要を認め、遂に南京攻略に進展する」ことを決心する。その間、中国に権益を有する列国は、戦火を拡大する日本軍に反感を抱き、中国側に便宜を図る。列国は 「直接間接に支那軍の作戦に便宜を与へ、時には之を援助するの行動」をとった。これは民間人の多数居住する市街地の戦闘の終了を願う以上,当然だったが,日本軍は、中国軍の味方をして,敵対的行動をとる英米仏をやがて激しく憎悪するようになる。

写真(右):1941-1942年、中国、雲南省、昆明(?)、アメリカ製カーチスP-40C「トマホーク」戦闘機に搭乗して日本軍と戦ったアメリカ義勇部隊(AVG)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)パイロット:カーチスP-40C戦闘機の機首上面には、0.50口径(12.7ミリ)ブローニングM2機関銃2丁が搭載されているが、その銃口が1門見えている。P-40C戦闘機の機首には、0.50口径12.7ミリM2ブローニング機関銃2丁(携行弾数470発)、主翼に7.62ミリM1919ブローニング機関銃4丁(携行弾数1960発)を装備している。AGVの戦闘機は、液冷エンジンで先端がとがっていたので、シャーク・マウスが描かれている。AVGは,フライング・タイガーズとして有名になり、その名称は、AVGが1942年7月に解散してからも、中国駐留のアメリカ航空部隊に引き継がれた。

英米が日本の上海における中国軍への攻撃を快く思っておらず,日本軍に妨害まで加えてきたのは,権益を守るためでもあるが,経済的繁栄、平和な生活を望んだためでもある。上海や南京には、アメリカ・イギリスの共同租界、フランス租界があり、日本人居留区(日本人街だが日本租界とも呼ばれた)もあって、多数の外国人が暮らしていた。そして現地の行政、税務、警察の権利を有しており、治安維持のための各国の軍隊も駐屯していた。

中国の金融,商業、貿易の中心地は上海であり、そのなかでも最も栄えた共同租界は,中国の経済中枢といってもよい。その市街地破壊,交通途絶という戦禍を及ぼし、紛争に伴う資本逃避,ビジジネスの衰退,行政の停滞,教育機関の閉鎖といった混乱は、中国だけでなく,上海を拠点にしていたアメリカ、イギリスに大きな被害をもたらした。アジアビジネスの中枢、上海に被害をもたらした日本が国際的に非難されたのは当然だった。反日勢力が台頭してきた理由は、中国国民党、共産党、ソ連ボルシェビキによるプロパガンダの力というより、中国でのビジネスや生活を脅かす戦争、それを引き起こした日本の侵略、それに対抗しようとする中国ナショナリズムにあった。

中華民国の首都は当初は南京だった。そこで、北京という名称は、公式的には一時「北平」と改められていた。こうして、北京は中国の首都ではなかったから、正式には北平と呼ばれたが、この名称は人気がなく、相変わらず「北京」が使用された。しかし、日中1937年7月に日中戦争が勃発し、1937年のうちに、北京も南京も日本軍によって陥落されてしまう。

 日本軍の侵攻によって内陸部に撤退した中国国民政府は、臨時に武漢に政府機能を移転し、それから重慶を戦時首都とした。日本は、中国の政治経済の中枢である江南(長江の南岸に当たる南京、上海、杭州)に攻撃を仕掛け、そこに破壊と混乱をもたらしたため、中国はもちろん、英米仏の反感を買った。また、上海の治安維持や現地居留民の生命・財産の保全が緊急課題となり、アメリカは、1937年8月29日、カリフォルニア州サンディエゴからアメリカ海軍輸送艦「ショーモン」(Chaumont)を使って、アメリカ海兵隊の増援部隊を上海に派遣した。これは、共同租界の居留民・財産を保護することを第一の目的とする派兵であり、日本軍と戦う意図をもつものではないが、。

写真(右):日本海軍の九六式陸上攻撃機(1937-40年頃):1937年に南京,上海,杭州を長距離飛行後に無差別爆撃した三菱の世界的傑作機。

当時の米国大統領ルーズベルトも兵士は日本軍の振る舞いは暴虐であるとして非難を隠そうとしない。中立は維持しつつも,多くは中国に好意的であった。しかし,米国連邦議会は,孤立主義による平和と繁栄を優先して,日本に宣戦布告をするつもりはなかった。上院でも下院でも,戦争で若者を殺させるような危険を冒す議員は,息子を持った父母からは指示されなくなる。大統領も,日本への戦争を議会に求めれば,好戦的な危険な人物として,世論からたたかれてしまう。米国では,大統領も議員も,対日参戦することは,世論の上からできなかったのである。

3.日本軍の残虐行為は,反日プロパガンダもあって,米国など列国による非難の的となった。

⇒1937年7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争とその背景は,盧溝橋事件・上海事変・南京攻略で詳述した。

写真(右):1937年10月26日の中国軍撤退時の上海の火災:中国軍が市街地から撤収していく際,自ら火をつけた。これは,日本軍の追撃をかわし,敵に軍事拠点を使用させないための手段である。翌日に日本軍に残されたのは全長9kmの大火災のみ。

上海でも南京でも,租界には中国人地区からあるいは郊外から戦火を逃れて多数の難民が流入してきた。そこで、市内での激しい戦闘、残酷な仕打ちが多数目撃され,映像に残され、本国のメディアにも報告された。タイム,ライフといった有名雑誌も、このような映像や記事を何回も掲載している。

日本では南京事件が有名だが、その直前の上海事変でも、陸戦だけでなく、海上の艦艇からの砲撃を加え,大型機,小型機の空爆を市街地に(中国軍の陣地があるため)行っている。そこでは、建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷した。各地で多数の死傷が外国人にも目撃され、欧米に知らされていたのである。日本軍は,上海の外国租界には介入せずに、中国地区占領を図り,11月9日、接収をほぼ完了する。

4.日本は総力戦に向けて本格的な動員を開始し,列国も日本軍の中国侵攻が一時的でないこと悟り,それに対抗しようとした。

写真(右):中国でアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」指揮官となったアメリカ軍人クレア・シェンノート:AGVは米国陸軍航空隊の支援を受けていたが,形式上は中国空軍として,中国西部、ビルマで日本軍と交戦した。

日本国内では、上海で苦戦する日本軍を支え,これを契機の戦争体制を確立しようと様々な政策が採られている。1937年12年8月24日に国民精神総動員実施要綱が定められた。これは、挙国一致、尽忠報国の精神を国民がもつために、プロパガンダを行うものである。 統制経済を強化する必要性も認識されており、1937年9月4日には北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱が閣議決定している。これは、総動員実施するために、必要な戦時法令を制定・通用するための措置を講じようというもので,資源配分の調整、精神作興、労務管理の強化、産業指導統制、貿易統制、食糧統制、運輸統制、財政金融における経費節約・増税・公債消化促進、応召軍人・軍人遺族のための社会施設充実、防疫強化の基本方針を定めたものである。つまり、日本経済は北支事変の段階で,軍備,作戦行動を支えることが重い負担となっており,その経済基盤を戦争経済に順応できるように作り変えようというのである。

写真(右):1942年頃、中国空軍の青天白日マークをつけたアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガース」(Flying Tigers)のカーチス(Curtiss)P-40C「トマホーク」戦闘機:兵装は、機首に12.7ミリ0.50(インチ)口径M2ブローニング機関銃2丁(携行弾数 470発)、主翼に 7.62ミリM1919ブローニング機関銃4丁(携行弾数1960発)を搭載。リパブリック社製P-43は輸出中止となったため,カーチス社製P-40がAVGの主力戦闘機となった。

中国人の被害だけが問題となったのではない。米英にとって、貿易・投資,金融,商業の経済中枢である上海,南京を日本軍が占領すること、日本が中国の政治経済を牛耳ること、すななわち「日本の中国支配」は断じて認められない。世論形成という民主主義国の重視するプロセスに則って、反日、排日のプロパガンダが行われる。真珠湾テロ攻撃より前に、日本は中国においてテロ行為と見なされてもしかたのない軍事行動・残虐行為を行った。このような日本が欧州支配を目指すドイツと同盟するのであれば,世界制覇を目指す「悪の枢軸」として、断固排除しなければならない。これが、真珠湾攻撃以前の米国の対日認識である。


抗日珍稀影像:飛虎隊伝奇之父輩的天空


◆日米開戦以前のアメリカ義勇部隊による対日攻撃 ◇ American Volunteer Group

写真(右):中国軍に供与された米国製戦闘機P-35:カーチス社製P-35は米国には配備されなかった。

1931年8月に米国は,中国は航空機80機とオパイロット80名がいると推測していたが,パイロットのうち一流といえるのは,10-12名に過ぎなかった。
そこで,1932-35年に米国は非公式の空軍顧問団を派遣した。John H. Jouettたちは,カネ,一族,政治力が支配していた中国空軍の体質に改善を試みたが,不十分なままで終わっしまう。
他方,ドイツ,イタリア,英国,ソ連と米国以外にも,多数の国が,中国空軍に航空機を輸出しており,中国空軍の機体は,世界の軍用機の陳列上のようになってしまう。つまり,多数の機種を少数ずつそろえたために,機体の整備,部品の交換,操縦方法の習熟が煩雑になってしまったため,効率的な運用が困難であった。

写真(右):日本軍に向けて輸出されたアメリカ製カーチス戦闘機P-35複座型:カーチス社は,商売優先で,日中双方に同じP-35を売却した。

1937年の盧溝橋事件以降,日本軍の中国への侵攻が激化してくると,空軍を再編成する必要性が,中国でも認識され,米中双方の高官が協議し,特別航空部隊を編成することが企画された。これが,AVGに繋がってゆく。

AGVには,1941年夏に米国の最新戦闘機カーチスP-40トマホーク供与された。

写真(右):米国のP-35戦闘機:セバルスキー社製のP-35は米国では制式採用されなかったが,中国,スウェーデン,日本などに輸出された。

米国では,航空製造会社大手のセバルスキー社が倒産したのを引き継いで,リパブリック社が立ち上げられた。1939年3月にセバルスキーは,AP-4戦闘機30機の発注を米陸軍から受けていただけであったが,1939年末と1940年初めに,セバルスキーを引き継いだリパブリックが,P-43戦闘機の大量発注を受けた。これは,中国にキャンセルされたのと同数の54機のP-43戦闘機の発注と,新たな80機のP-43戦闘機の発注である。1939年9月に,欧州での第二次大戦が勃発しており,これを踏まえて空軍強化には,議会も反対はしない。

しかし,1939年にセバルスキーは複座に改造したP-35を20機,日本に売却する契約を結んでいる。The company made a controversial sale to the Japanese government in 1939 of 20 SEV2PA-B3 two-seat fighters which were based on the basic P-35 design. 1941年になるとさらに125機のP-43戦闘機が発注された。これは,武器貸与法によって資金を入手した中国空軍の購入になり,実際に108機のP-43戦闘機が船積み,発送された。残り17機は,オーストラリア空軍の発注になる。

写真(右):中国軍のマークをつけたアメリカ製戦闘機:リパブリック社製P-43は108機が日米開戦1年前に中国に貸与されている。

リパブリックP-43戦闘機は,当事最新式のターボ・スパーチャージャー(過給機),パイロット背後の防弾版,防弾燃料タンク(アジア到着当初は不調だったが)を装備していた。1939年8月には中国側もP-43の事を知っていたが,後になって,軍事機密保持のため(ターボ・スパーチャージャーのことか),P-43の輸出は米国に禁止されてしまう。しかし,1938年時点では,米国は,中国に対してよりも,仮想敵国の日本に対して,より多くの兵器を輸出していたのである。1939年には,中国へのライセンスは500万ドルで,日本への輸出は80万ドルとなったが。しかし,1938年の日本への兵器輸出は,1938年の10倍もあったのである。

1.日本は,アジアは自国の勢力圏内にあり,日本に従属する大東亜共栄圏の建設し,これを新秩序とするべきであると認識していた。

写真(右):南京,杭州を爆撃した日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機;1937年8-12月に,長距離無差別爆撃を行った。

1940年にフランスがドイツに降伏すると、まずフランス領北部インドシナに、ついで南部インドシナ(仏印)に日本軍は進駐する。ハル・ノートは、この時期に渡されたのであるが、それ以前の日中戦争における日本の軍事的、政治的、経済的な中国への侵略・進出を、米国は、機会均等を侵すものとして、排除したかった。さらに、日本の残虐行為・敵対的行為についても、1937年12月の南京事件(市民や兵士の死者10-20万人)、中国にあった米国砲艦パネー号への日本海軍機による爆撃(米国人2名死亡)、日本の動員法令の整備など、いずれも米国の戦略に反する動きが強まっている。

写真(右):中国におけるドイツのJu52輸送機とアメリカ義勇部隊:(1930年代末?)中国はドイツのユンカースJu52輸送機などをドイツから購入する一方で,アメリカ義勇兵(傭兵)を雇い、のちには米国陸軍航空隊の支援を受けたアメリカ義勇部隊款を空軍として受け入れて,日本と戦った。

1937年の防共協定,1940年の三国軍事同盟などドイツと日本の接近は、米国には好ましくない。日本は、中国に対する姿勢を増長させ、1940年には、ドイツの対フランス戦勝のおこぼれとして、フランス領インドシナに進駐し、のちの「大東亜共栄圏」と言われる日本の南方生存圏を確保しようとする。これは、米国には、忍耐の度を越えた行動となった。米国は、日本との戦争も辞さないかまえで、日本の在外資産の凍結、石油・鉄屑の禁輸など、強硬な対抗手段をとる。

1928年にボーイング社が自主開発したP-12戦闘機は、B、C、D、E、Fの四段階で順次発展していった。初期B型はアルミ製チューブ骨組み・ボルト構造、羽布張りだったが、後期のE型とF型は、金属製モノコックの胴体に変更になった。しかし、全金属製の機体にまでは進歩できなかった。ボーイング社は、合計366機の P-12戦闘機をアメリカ陸軍のために生産したが,そのうち P-12E戦闘機が110機を占めている。P-12E戦闘機は、1930年代にハワイの第6追撃機飛行隊に配備されたが、1940年にはアメリカ陸軍では退役となった。

写真(右):1934-1936年頃、ボーイング(Boeing)P-12F戦闘機:ボーイング(Boeing) P-12 戦闘機は、1928年にボーイング社がボーイング・モデル99として自社負担、自主設計・開発に着手した複葉・固定脚の戦闘機。搭載した発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340空冷星形「ワスプ(Wasp)」エンジンで、このエンジンR-1340が、プラット&ホイットニー社を一流の航空機用エンジンメーカーとする端緒となった。アメリカ陸軍は1929年2月にP-12を 1932年5月にP-12Fを受領した。他方、アメリカ海軍は艦上戦闘機として、1929年5月に試作機XF4Bを審査し制式となった。ボーイング製複葉戦闘機の成功作として、戦闘機だけでなく、主翼下面に爆弾を搭載して地上攻撃機、対艦船攻撃も可能だったが、これは後年の戦闘爆撃機の奔りといえる。
PictionID:41899368 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000803 Boeing P-12F Hensley Field AAC 151282 - Filename:16_000803 Boeing P-12F Hensley Field AAC 151282.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41899368 引用。

ボーイング(Boeing)P-12E戦闘機の諸元
全長:6.19 m、全幅:9.12 m、全高:2.95 m
全備重量:1,401 kg
発動機:P&W R-1340D 空冷星型9気筒エンジン 出力500hp
最高速力:189 mph (304 km/h)、巡航速力: 160 mph (257 km/h)
航続距離: 570 miles (917 km)
上昇限度: 8,020 m (26,300 ft)
兵装:.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)
または .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)
爆弾搭載量: 244 lb (111 kg)
航続距離:1,131 km
乗員:1名

アメリカ陸軍のボーイング(Boeing) P-12 複葉戦闘機の兵装は、当初は.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)と第一次大戦時の戦闘機と同水準の火力に過ぎなかったが、後期型では .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)と大口径機関銃を1丁とはいえ装備しており、他の戦闘機よりも強力な火力を誇っていた。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk)
Curtiss : BF2C : Goshawk
Manufacturer: Curtiss
Designation: BF2C
Official Nickname: Goshawk
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00011628引用。

1932年2月、第一次上海事変に際して、日本海軍の航空母艦「加賀」から日本海軍十三式三号艦上攻撃機3機、三式艦上戦闘機3機が江南で、中国軍のボーイングP-12E戦闘機と空中戦を行った。ボーイングP-12E戦闘機の操縦士は、アメリカ義勇部隊のロバート・ショート(Robert Short)で、日本の三式艦攻搭乗員を死傷させたものの、三式艦戦によって撃墜された。

Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、カーチス複葉艦上機シリーズの最終型で、それ以前のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展型で、車輪を胴体中央部側面に引き込むために、手動油圧ポンプを備えている。そのため、エンジンはライト空冷星形サイクロンエンジンで馬力数はあまり変わらないが、空気抵抗が減少して最高速力は、カーチスF11Cよりも30kmほど向上した。主翼はカーチスホークの原型以来のテーパー翼で、兵装は、ブローニング機関銃2丁、小型爆弾架である。訓練用航空母艦「レンジャー」でも艦上機の発艦・着艦訓練をした。

写真(右):1935-1937年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用されたカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk):操縦席前方の筒型照準眼鏡は、オイジー(O.G.)式照準器とも呼ばれるが、1940年代からは、光学式照準器が普及した。1931年に開発された固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)を引込み脚に改修したカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、同じ複葉機で、搭載した発動機もライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだった。しかし、引込み脚として空力的に洗練させたために性能は向上した。
Piction ID:43099438 - Title:Curtiss BF2C-1 first flight Sept. 13, 1934 - Catalog:16_003749 - Filename:16_003749.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:4309943引用。

カーチス社のアメリカ海軍艦上戦闘機の最後を飾ったのがカーチスホークII戦闘機だった。カーチス社は、1933年から固定脚だったF11C戦闘機の改修を始め、カーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)では、車輪を手動油圧ポンプで引き込むようにし、最高速力を30Km向上させた。

1933年、アメリカのカーチス社がアメリカ海軍艦上機として開発したホーク戦闘機シリーズの最後の機体がホークIII(BF2C-1)艦上戦闘機で、試作機は、1934年9月13日に初飛行。主翼が二枚ある複葉機ではあるが、引込み脚を採用して空気抵抗を減らし、速力や空戦性能を向上させた艦上戦闘機、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用された。

主翼が二枚あり、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きな複葉機カーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の固定脚だった車輪を、胴体の付け根に引込みむことのできるように改良したのが、カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。この引込み脚のおかげで、空気抵抗を減少させて、最高速力や旋回性能などを固定脚よりも改良できた。中国空軍は、カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)をホークIII戦闘機(鷹三型戦轟)として採用したが、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、輸入機と見なすことができる。中国空軍の主力戦闘機になった。

写真(右):1937年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)第四大隊高志航大隊長のカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk):1934年9月13日に試作機が初飛行、その後中国が購入、輸入し中国空軍に主力戦闘機として配備した。
English: 1930s Hawk III of China Air Force.
中文: 本機為第四大隊大隊長高志航鷹三型戰轟機。鷹三型戦轟機為抗日戦争初期,中国国空軍主力戦機,又稱霍克三 (Hawk III)。第一次公開在国人面前是在民国二十五年十月卅日,為慶祝蒋公五十歳生日,由第四大隊大隊長高志航少校率卅五架霍克三,在南京市明故宮機場上空編成「中正」二字的空中分列式。並在民国26年8月14日筧橋空戦時,曾創下撃落日機3架的紀録!
Date 1930s
Source http://lov.vac.gov.tw/
Author ROC government
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:1930s Hawk III of China Air Force.jpg引用。

1931年に開発した固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展がカーチス(Curtiss)ホークIII(BF2C-1)戦闘機だった。同じ複葉機で、エンジンも同じライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだったが、ホークIII(BF2C-1)戦闘機の主輪は引込み式になった。BF2C-1の試作機は、1934年9月13日に初飛行した。 引込み脚として空力的に洗練され、エンジン出力も若干強力になったため、性能は向上した。アメリカ海軍の艦上戦闘機としても開発された。

中国空軍では、アメリカのカーチス社のアメリカ海軍ホーク艦上戦闘機を輸入し、アメリカ人軍事顧問の下で空軍要員の訓練を行ていた。これらの飛行機は、分解されアメリカから中国に船積みされ、中国で組み立てられた。ノックダウン方式なので、実質的には中国で生産されたわけではない。日本は軍用機の自国生産・国産に拘ったが、中国は輸入機で空軍を構成したため、種類が多く、それでも更新したり、新型機種に改編するのは容易だった。しかし、部品の交換や技術の習得という面では自国生産しないことは不利だった。

写真(右):1938年5月13日、アメリカ陸軍航空隊第20追撃集団のボーイング P-26A (Boeing P-26)No 101 ピーシューター(Peashooter)(US Air Corps 17th Pursuit Group):ボーイング社は、現在世界最大の旅客機メーカーになっているが、第二次大戦世界大戦前後、B-17、B-29 など大型爆撃機の大量生産で成長したが、1920年代は、ボーイングは戦闘機メーカーだった。
Description P-26A No 101 assigned to headquarters, 17th Pursuit Group
Date 15 March 2009, 16:21
Source P-26Ano101
Author Bill Larkins
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:P-26Ano101 (4526389411).jpg引用。

中国空軍は、アメリカから輸入し、戦闘機部隊で訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月の第二次上海事変の時、実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイング P-26戦闘機8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

ボーイング社は、複葉機全盛の時代の1930年代初頭に、単葉、スパッツ付き固定脚で、斬新な設計のP-26(Boeing P-26)戦闘機の原型を開発した。1933年から100機以上の発注を受け量産され、中国も、ボーイング P-26を輸入し、1937年の日中戦争で実戦投入した。ただし、 P-26配備機数は少なく、主力戦闘機はカーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。1940年代には旧式化していたものの、アメリカ軍は、アメリカ領フィリピンに配備していた。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、全金属製・単葉の斬新な設計のガンマ2A(Gamma 2A)の発展型である。ガンマ2C(Gamma 2C :YA-13)は、ノースロップが自主企画の攻撃機で、カーチス(Curtiss)A-12 シュリンク(Shrike)の対抗馬となった。兵装は、7.62ミリ(0.30 cal)機関銃4丁を主翼に装備、後方に7.62ミリ(0.30 cal)機関銃1丁を防備用の旋回機銃として装備した。爆弾搭載量は、最大で 1,100ポンドlb (500 kg) で主翼下面に搭載する。1933年にアメリカ陸軍航空隊(USAAC)で試験された。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、その前のガンマ2C(Gamma 2C )の爆弾搭載量1,600 ポンド (727 kg)とした輸出軍用仕様で、1938年まで中国空軍で使用された。また1933年に1機(K5053)がイギリス航空機兵装装備実験施設(British Aeroplane & Armament Experimental Establishment)に、2機が日本海軍航空隊(Imperial Japanese Navy Air Service)にノースロップ(Northrop)BXNとして輸出、試験された。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):全金属製・単葉は斬新な機体で、垂直尾翼の後半は、赤と白のストライプで塗装されている。これは、星条旗を示す国籍記章だった。1937年当時の中国空軍の初力爆撃機として、第二次上海事変では、1937年8月13日・14日と上海の日本軍部隊や上海バンドの日本海軍艦艇を爆撃した。中国空軍軽爆撃機の主力として45機を購入した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646367 - Catalog:16_006939 - Title:Northrop 2E - Filename:16_006939.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646367引用。

ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体だった。当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かったが、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。中国空軍もソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機に関心を示し、中国空軍軽爆撃機の主力として45機を購入した。アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2A軽爆撃機(Northrop Gamma 2A )は、カーチス社ライト空冷星形エンジン 785馬力 (585 kW)を搭載、全金属製・単葉は斬新な機体で、胴体には斬新な矢印のマーキングがある。ノースロップ・ガンマ2A(Gamma 2A)は、最初の生産型で、テキサコ(Texaco)に売却されて、飛行家フランク・ホークス(Fank Hawks)、別名スカイチーフ"Sky Chief"によって飛行した。カーチス社ライト空冷星形エンジン 785馬力 (585 kW)装備。この後のガンマ2BT(Gamma 2BT)は複座仕様(二人席)で操縦装置もタンデム式だった。プラット・ホイットニー (Pratt & Whitney)ワスプ(Wasp)空冷星形エンジン 500馬力 (373 kW)装備。

写真(右):1934年、中国、アメリカのノースロップ社から胴体・主翼・エンジンなどを分解・輸入して、中国国内の組み立て工場でノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機を完成させた。ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、アメリカ陸軍に加えて中国・イギリス・ソビエト連邦への輸出販売を企図して開発された。
Northrops in Factory
SDASM.CATALOG: Arnold_00032
SDASM.TITLE: Northrops in Factory
SDASM.DATE: 1934
SDASM.LOCATION: Shien Chiao China
SDASM.ADDITIONAL INFORMATION: pencil on back: ""Northrops in [illegible] 1934"
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069775引用。

写真(右):1935年3月14日、アメリカ製ノースロップ社から胴体・主翼・エンジンなどを分解・輸入して、中国国内の組み立て工場でノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E)を完成させる。全金属製・単葉は斬新な機体で、垂直尾翼の後半は、赤と白のストライプで塗装されている。これは、星条旗を示す国籍記章だった。1937年当時の中国空軍の初力爆撃機として、第二次上海事変では、1937年8月13日・14日と上海の日本軍部隊や上海バンドの日本海軍艦艇を爆撃した。
Northrop Being Assembled in Factory
SDASM.CATALOG: Arnold_00033
SDASM.TITLE: Northrop Being Assembled in Factory
SDASM.DATE: 3/14/1935
SDASM.LOCATION: Shien Chiao China
SDASM.ADDITIONAL INFORMATION: pencil on back: ""Bulb-[illegible]"" ""25ft"" ""f:8"" ""3-14-35"" ""60""
SDASM.COLLECTION: George Arnold Collection
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646367引用。

中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の軽爆撃機の主力として45機を購入した。主翼、胴体、エンジンを分解したまま船積み輸入し、中国に組み立て工場でそれらの部品から実機を完成させた。これは、部品輸入に依存したノックダウン方式である。

写真(右):1935-36年頃、ソビエト連邦に輸出するために撮影されたアメリカ製ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体だった。当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かったが、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。しかし、無粋な感じの車輪収納用スパッツは巨大であり、主翼下面の空気の流れを乱し、空力的には問題が多いように思われる。また、膠着装置の整備の簡易性から言っても、巨大なスパッツは不便である。中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の主力爆撃機として採用し、45機を輸入した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45646404 - Catalog:16_006942 - Title:Northrop 2E for the USSR Northrop photo - Filename:16_006942.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646404引用。

写真(右):1935-1936年頃、中国空軍がアメリカから購入したノースロップ社製造のノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):胴体後方と主翼下面両端には「青天白日」の中華人民共和国の記章が描かれている。前金属製、単葉の新型爆撃機は、国防空軍力の急速な増強を図っていた中国、イギリス、ソビエト連邦に輸出、売却された。ノースロップ爆撃機前期シリーズの特徴となる主翼下面の車輪収納用の巨大なスパッツが物々しく、これではかえって空気抵抗が増えたり、空中機動性が低下しないかと心配になる。このようなスパッツは、整備する上でも、タイヤ交換や点検に不便である。
Ray Wagner Collection Image
Northrop : 2E : Gamma Catalog #: 00069781
Manufacturer: Northrop
Official Nickname: Gamma
Designation: 2E
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
SDASM Archives By: SDASM Archives Follow Friend Family
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069781引用。

ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機 の発展型が、ノースロップ社のBT爆撃機である。ノースロップ BT爆撃機 (BT‐2ができた時点でBT-1)は、全金属製・単葉・引込脚で、当時の新しい攻撃方法である「急降下爆撃」を取り入れた。開発の契機は、アメリカ軍が国内各社に急降下爆撃機の開発を要求したことである。ノースロップ社の開発した試作機は1935年8月に初飛行に成功し、アメリカ海軍に感情急降下爆撃機として採用された。その後、アメリカ海軍が改良型の開発を指示したのがXBT-2である。ノースロップ社はダグラス社に吸収され、改良型XBT-2は、SBDドーントレスの原型機として完成した。

写真(右):1937-1942年頃、アメリカのノースロップ2EC軽爆撃機(Northrop 2EC Light Bomber)とフランス製ブレゲー(Breguet)27-5 偵察爆撃機(左):ブレゲー 27は、フランス軍が1928年の仕様書を出し試作を要請した戦闘機で、ブレゲーは、全金属製の一葉半(セスキプラン)、複座の戦闘機を試作した。胴体は短く、重量軽減を図り、胴体後方にブームを伸ばしてその先に尾翼を付けた。1930年、フランス軍はブレゲー 27偵察爆撃機を85機、1932年に45機を発注した。 中国は6機のブレゲー27偵察爆撃機を購入した。
Ray Wagner Collection Image
Breguet 27-5 Bomber and Northrop 2EC Light Bomber
Catalog #: 0223
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Breguet 27-5 Bomber and Northrop 2EC Light Bomber
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646342引用。

ブレゲー(Breguet)27偵察爆撃機
乗員:2名(操縦士・偵察員)
全長:9.76 m、全幅:17.01 m、全高:3.55 m
翼面積:50.0平方メートル
自重:1,756 kg、全備重量:2,393 kg
発動機:イスパノ・スイザ 12Hb1基500馬力
最高速度:236 km/h
航続距離:1,000 km
実用上昇限:7,900 m
兵装:前方固定:7.7 mm(.303 in)ヴィッカース機銃1丁
後方旋回:7.7 mm(.303 in)ルイス機銃2丁
爆弾:120 kg

アメリカ陸軍航空隊のマーチンB-10A爆撃機(Martin B-10)は、1930年にマーチン社は、自主開発で123型を試作、これは前金属製、胴体内に爆弾槽を設けた双発爆撃機だった。1932年3月にXB-907試作機が完成、最高速力317 km/hは当時としては高速だった。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、YB-10の名称で48機の発注がなされた。

1930年代初め、アメリカのマーチン社は、後にマーチンB-10爆撃機となる原型をマーチン・モデル123(Martin Model 123)として開発したが、これは全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機だった。そして、マーチン社は1932年2月に原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。これは当時としては高速で、当時のアメリカ戦闘機よりも早かったため、高速爆撃機として注目を浴びた。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aが、YB-10の名称で、アメリカ陸軍により、48機が発注された。

写真(右):1932-1935年頃、アメリカ、飛行中のマーチン(Martin)B-10B爆撃機:マーチンB-10爆撃機の初めての量産型が、B-10B爆撃機で,これは試作テストしたYB-10とほど同じだった。全長44 feet 9 inches (13.640 m)、全幅(wingspan)70 feet 6 inches (21.488 m)、全高 15 feet 5 inches (4.670 m)で、空虚重量 9,681 pounds (4,391 )。搭載発動機はライト・サイクロン(Wright Cyclone) SGR-1820-F3 (R-1820-33)で海面上で700馬力、毎分1,950回転、B-10Bの巡航速度(cruising speed)は、時速193 miles(311 km)、最高速力 213 miles (343 km)/10,000 feet (3,048 m)だった。
AL61A-460 Martin B-10B
Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives AL61A-460 引用。

後にマーチンB-10爆撃機となるモデル123(Martin Model 123)爆撃型として、機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、アメリカ陸軍から1933年に48機の発注を受けた。これがアメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機として制式になる。アメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機の量産は、1934年からで、陸上用車輪式降着装置を撤去して、双フロート(浮舟)を装着した水上爆撃型も試作された。

1931年1月から、アメリカ陸軍は、アメリカ本土防衛のために海岸線を防衛する任務も担っている。そこで、アメリカ陸軍は、海上哨戒や着水が可能になるように、B-12Aを改造して、巨大な双フロート(float)を付けて、水上で離発着できるB-12A水上機を試作し、1935年8月24日に完成させている。

マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

1933年1月17日、アメリカ陸軍は48機の マーチン・モデル(Martin Model)139単葉爆撃機(monoplane bomber)を発注し、この中で合計32機がYB-12とB-12A(7機がYB-12、25機がB-12A)である。この両機の差異は、搭載エンジンの種類で、YB-10の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)R-1690-11空冷星形エンジン「ホーネット」(Hornet)で、B-10爆撃機は、ライト(Wright)社の空冷星形エンジン「サイクロン」(Cyclones)である。

最初のYB-12試作機は、1934年4月に完成し、ホーネットエンジンの出力が高かったために、YB-12の最高速力は、B-10Bよりも時速5マイル(8km)程度早かった。しかし、新モデルB-12は、B-10とほとんど変わるところがなかった。形状の上では、B-12は、B-10と異なってエンジンナセルの側面に、潤滑油冷却器空気取入れ口(oil cooler intake)がついているので識別できる。B-12Aは、胴体下部の爆弾槽(bomb bay)に256米ガロン(960L)の追加燃料タンク(extra fuel tank)を設けて、通常の燃料搭載量よりも、226米ガロン(850L)追加増量できるので、それだけ航続距離を伸ばすことができた。

 アメリカ陸軍で初めての全金属製単葉双発爆撃機としてマーチンB-10を制式したが、オランダ、中国、アルゼンチン、トルコへの輸出仕様マーチン139Wが生産された。オランダ向けは、マーチン139WH、中国向けはマーチン139WCと区別し、いかにも購入国に配慮したような名称と、上手な売り込みを図っている。なんといっても、アメリカ陸軍航空隊が採用しているのであるから、その爆撃機は優秀であるに違いない。

写真(右):1937年2月(?)、中国に到着した分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機(胴体後方が見えている)とその前に勢ぞろいした中国人とアメリカ人のスタッフ: つなぎ作業服を着こんだ技師・整備士8人(3人は略帽)、軍帽の中国軍将兵4人は黒の革靴を履いている。右端に黒の長靴を履いて帽子を被ったアメリカ軍人が勢揃いしている。同時期と思われる組み立ての終ったマーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
Martin : 139
Catalog #: 00068838
Manufacturer: Martin
Designation: 139
Notes: In China, as B-10
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068838引用。

しかし、アメリカ陸軍としては、各国の軍隊がアメリカ軍と同じ優秀な飛行機を装備する事には警戒心が強かった。そこで、友好国のみに輸出するとして、居改正を取っている。オランダ、中国はこの許可を得ることができ、トルコなどマーチンB-10爆撃機は輸出されている。マーチンB-10 爆撃機の初の実戦参加は、1937年8月、第二次上海事変・日中戦争の時、中国空軍に配備されていたマーチン139WC爆撃機が日本軍を攻撃したときである。その後、オランダ空軍が蘭印(インドネシア)に配備したマーチン139WH爆撃機も日本軍を攻撃している。

写真(右):1937年2月(?)、中国、上海、分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機の組み立て作業小屋:主翼の断面(左)、半球形機銃座の付いた機首(中央)が、棕櫚製ゴザと竹棒で囲まれた臨時組み立て作業場の中に見える。中国の技師とアメリカの軍人が立っているのが見える。マーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01082
Manufacturer: Martin
Designation: 139
Notes: In China, as B-10
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01082引用。

中国に船積みされた輸出仕様マーチン(Martin)139WC爆撃機は、上海に到着し、大型木製箱に梱包されたまま、上海、虹橋飛行場で組み立てられたようだ。飛行場の片隅に、現地で調達した棕櫚ゴザ・筵、竹で囲い込み式、屋根を葺いた作業用の小屋が作られたが、これは臨時の大きな掘立小屋である。一つの作業小屋での組み立て作業は、つなぎ作業服を着た中国人技師・整備士8人以上で、ここに、中国軍将兵やアメリカ軍人も随時、参加、協力したようだ。主翼を取り付けると、作業小屋には入らなくなるの、臨時の掘立小屋を撤去して、マーチン(Martin)139WC爆撃機の最終組み立てを行ったと考えられる。

写真(右):1937年2月(?)、中国、上海、分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機の組み立て作業小屋:風雨をしのぐ、敵(日本)の目から隠す目的で、棕櫚製ゴザで覆われた簡易小屋の中で、アメリカと中国の技師が、主翼、胴体、膠着装置、エンジンなどを取り付け組み立てる。 中国の技師とアメリカの軍人が立っているのが見える。マーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01082
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068838引用。

1930年代初期に実用化されたマーチン(Martin)B-10爆撃機は、革新的なデザインの全金属製、単葉(主翼1枚)、引込み式脚の設計だった。胴体が太く、風貌や銃座の張出も無粋で空力学的に洗練されているとはいいがたいが、当時の世界各国の実用化されていた戦闘機よりも高速だった。1936年にマーチン社は、許可を得て二国に対する輸出型の販売を行った。これはオランダ向けのマーチン139WHと中国向けのマーチン139WCである。139の後のWは世界、Hはオランダ、Cは中国を示している。

写真(右):1937年2月(?)、中国、分解されていた機体の最終組み立て作業中のアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: 技師・整備士が機体の胴体上に乗り点検作業をしている。同時期と思われる組み立ての終ったマーチン(Martin)139WC爆撃機の写真から推測して、飛行場の場所は中国、上海、虹橋飛行場と思われる。飛行場の使用頻度も、繋留飛行機数も少ないために、飛行場滑走路は転圧のみで舗装はされていない。
Martin : 139
Catalog #: 00068834
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068834引用。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。輸出仕様のマーチン139W爆撃機は、合計200機が生産されたが、中国にも引き続き販売され、中国だけでも数十機のマーチン爆撃機を中国空軍に部隊配備したものと考えられる。

写真(右):1937年2月、中国で組み立てられたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機: マーチン139WC爆撃機の前に、中国人の飛行搭乗員とアメリカ陸軍航空隊の搭乗員が揃って記念写真を撮影した。サンジエゴ航空宇宙博物館アーカイブ(San Diego Air and Space Museum Archive)には、これと同じ写真が、トリミングを変えて3枚、所蔵、公開されている。
Ray Wagner Collection Image
Catalog #: 00068836
Manufacturer: Martin Designation: 139 Official
Notes: In China, as B-10 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。マーチン139WC爆撃機は、1936年から1939年にかけて、中国に向けて合計数十機が輸出されたようだ。1937年の中国空軍における配備部隊は、第14志願飛行隊(14th Volunteer squadron)、第10爆撃戦隊などである。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)B-10B爆撃機: マーチン139WC爆撃機は、金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
AL61A-459 Martin B-10B
Catalog #: 00068795
Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068795引用。

マーチンB-10爆撃機は、増加試作まで当初ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン(675hp)を搭載していたが、量産型のマーチンB-10B爆撃機は、カーチスR-1820-33エンジン(775hp)と若干馬力を強化して、100機以上生産された。ライトR-1820サイクロンのR1820とは、エンジン排気量(シリンダー容積:Displacement)が 1,823立方インチ (29.88 L)であることからきている。ただし、YB-12として、エンジンをライト社ではなく、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)社のR-1690「ホーネット」空冷星形エンジン(775hp)に換装した機体も30機程度若干生産されている。これがB-12A偵察爆撃機で、爆撃型YB-12の胴体下面の爆弾倉を追加燃料タンクとして、航続距離を延長した。

写真(右):1937年以降、中国空軍に配備されたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機:手前には250キロ級の爆弾が専用運搬台車に載せられて待機している。雨でぬれた未舗装の滑走路、自転車で飛行機の周りに集まっている飛行兵や整備員。分解されアメリカから運ばれてきたマーチン(Martin)139WC爆撃機の胴体、主翼などを上海の飛行場で組み立てたようだ。場所は中国、上海、虹橋飛行場と思われる。
Martin : 139
Catalog #: 00068833
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。

中国が輸入したマーチン139WC爆撃機6機は、1937年2月に上海虹橋飛行場に到着した。この上海中心部近くにある虹橋飛行場は、1937年8月9日、日本海軍の中国駐屯警備隊である上海特別陸戦隊大山勇夫中尉と斎藤與蔵一等水兵が自動車で突入しようとして惨殺された場所である。この大山事件を契機に、8月13日、第二次上海事変が勃発し、華北の北支事変は、華中、江南を含む支那事変に拡大してしまった。マーチン139WCは、創設間もない中国空軍第30爆撃戦隊に配備され、第二次上海事変では上海に駐留していた日本海軍部隊、第三艦隊を攻撃することになる。

写真(右):1937年以降、中国空軍に配備されたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機:胴体下面の爆弾槽に設けられた爆弾懸架に250キロ級の爆弾を搭載している。マーチン(Martin)139WC爆撃機の爆弾槽が開いているが、扉は軽量化と堅牢さを兼ねるように、波板構造となっている。爆弾は、木製台に車輪を付けた荷台で、爆弾を置く場所を木片で調整している。専用の爆弾懸架用運搬車は使われていないようだ。作業場所は、コンクリートで舗装されているように見える。
Martin : B-10
Catalog #: 00005688
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005688引用。

マーチン B-139爆撃機の機首下面には、爆撃照準器の装着される爆撃手窓がる。機首上面に7.62ミリ0.30口径旋回機銃の銃塔銃の銃塔がある。胴体下方に爆弾槽があり、爆弾を搭載していても空気抵抗が増えない。その爆弾槽扉が開いている状態で展示されている。アルゼンチン空軍が使用していた機体を1970年にアメリカに贈与した機体。右上の複葉機は、ダグラス(Douglas) O-38F偵察機で、アメリカ陸軍航空隊のために、1931年から1934年にかけてダグラス社が156機を生産し、8機がO-38Fだった。太平洋戦争勃発時点でも、南紀課は部隊配備されていた。

日中戦争中、1938年5月19日に中国空軍のB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)2機は、重慶を発進、で漢口と寧波を中継して九州の熊本県人吉に宣伝ビラを撒き、玉山と南昌を経由して漢口に帰還した。これが日本本土初空襲となった。

写真(右):1937年以降、中国空軍の爆撃機に用意された模造(?)250キロ級の爆弾と飛行帽・飛行眼鏡を着用した中国空軍の将兵:250キロ級の爆弾は、人間一人で持ち上げることはできない重量があるが、写真では将兵が1個ずつの爆弾を抱えている。爆弾を吊り下げる検潮用金具の輪が、爆弾1個につき2個ついているが、このことからも爆弾が本物ではないことが分かる。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01030
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01030引用。

現在、マーチンB-10爆撃機は、オハイオ州、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に世界中でただ1機のみ展示されている。このマーチン爆撃機はB-10輸出仕様の139Wで、1938年にアルゼンチンに売却された機体の1機である。アルゼンチン政府はアメリカからの要請に応じ、親睦のために、1970年にマーチン139W爆撃機をアメリカ空軍国立博物館に展示用にアメリカ政府に贈与した。この機体は、テキサス州の第96修理中隊(96th Maintenance Squadron)で1973-1976年の間、修復、復元され、現在はオハイオ州デートン(Dayton)市スパーツ(Spaatz)通りにあるライト・パターソン空軍基地(Wright-Patterson Air Force Base)のアメリカ空軍国立博物館の格納庫の一角に展示されている。

ポリカルポフ I-15は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

中国空軍は、1937年後半からソ連機を輸入したが、当初はポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)複葉戦闘機で、固定脚だった。その後、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊もポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機、I-16 戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:中国空軍は、1937年後半から輸入したポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機を使用し、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊もポリカルポフ I-153戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。カラー写真は、ノースアメリカン社から中国に派遣された技術指導員ジャック・カナリー(Jack Canary)の撮影になる一連のシリーズの一つ。中国に譲渡されて4-5年以上は経過しているが、1944年になっても、複葉戦闘機が残されていたのは驚きである。歴戦の機体を保存していたのであろうか。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P.7250, China a Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01358引用。

ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:中国空軍にのソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は1937年11月、日中戦争の華中上空の航空戦に参戦している。
フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機が搭載したエンジンは、アメリカのライト R-1820サイクロン(Cyclone)をコピーしたもので信頼性が高かった。

1937年の日中戦争で中国空軍が使用し、日本海軍の九六式戦闘機と戦い、1939年のノモンハン事件ではソ連空軍が使用し、日本陸軍の九七式戦闘機と戦った。格闘性能では劣ったが、高速を活かして善戦したようだ。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66679引用。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg、全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)、航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m、上昇力:高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁、20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141380引用。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

中国国民政府(南京政府)蒋介石は、西安事件後、中国共産党との連携して、抗日戦争を戦う国共合作を認め、ソ連との連携も強化しようと、 1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)を締結した。

中ソ不可侵条約によって、中国はソ連から引込み脚の新鋭高速軍用機のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)、ツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)などを購入し、1937年の日中戦争で、日本陸海軍機と戦った。これらのソ連製の軍用機は、日本機と比較して性能的には遜色なかった。

写真(右):日本の航空隊を迎撃すべき高性能戦闘機として中国に輸出されたP-43戦闘機;1939年末にP-35は中国軍にキャンセルされたが,武器貸与法によって,米国資金で,中国空軍が108機を購入した。

アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領としては、中立、孤立主義の風靡する米国の世論と連邦議会とを参戦に転換したかった。ドイツとの劣勢の戦いを指導する英国首相チャーチルも、ドイツに首都モスクワも占領去れそうなソ連の指導者スターリンも、日本軍に北京・上海・広東を占領され、東北地方に傀儡「偽満州国」をつくられた、さらに首都重慶の爆撃や内陸への侵攻に苦しんでいる中国の指導者蒋介石も、同様に、米国がドイツ・日本に参戦することを心待ちにしていた。当然、米国参戦に向けて、諜報活動を含む外交を展開していたのである。

米国は、中立をたもっていたが、武器貸与法によって、英国・ソ連に大量の航空機・戦車を含む軍需物資を提供していた。英国連邦の一員のカナダは参戦しているが、カナダから英国への輸送船団には、米国海軍の駆逐艦・掃海艇が護衛についていた。そして,1940年には米国の駆逐艦50隻を英国に譲渡している。中立とはいっても,ルーズベルト大統領自身が,反ファシズムを明確に宣言していた。

写真(右):1942年頃、中国雲南省の昆明飛行場(?)、中国駐屯アメリカ義勇空軍といえるアメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機:カーチスP-40C戦闘機の機首には、50口径12.7ミリM2ブローニング機関銃2丁(携行弾数470発)、主翼左右に7.62ミリM1919ブローニング機関銃各2丁(携行弾数1960発)を装備している。P-35,P-43に代わってAVG主力戦闘機となった。カラー絵葉書には「歯医者の仕事」と記されているが,これはフライングタイガーが,鮫の口を機体に描いたため。

武器貸与法では,自前で兵器を輸入し,運搬する国に,武器を譲渡するし,その資金を貸し付けるとしていたから,これは,海上制海権を握っている英国へのグ机上とを正当化する法律であった。厳正な中立国であれば,交戦国双方に武器を譲渡するのw差し控えるであろう。しかし,米国は,対ドイツ宣戦布告はしていないが,明確に英国を支援していた。そして、第二次大戦勃発以前から、中国に対し当ては、物資を提供するだけでなく、義勇軍を派遣していた。

中立の米国参戦する決め手となるのは、ドイツ・日本による対米先制攻撃あるいは宣戦布告であることは自明である。中国,英国,ソ連は、(平和を取り戻す正義の戦争を起こすために)ドイツ・日本が米国に宣戦布告をすることを待ち望んでいた。日本が対米宣戦布告をするように挑発し,誘導する外交政策、プロパガンダがこうして展開される。

⇒ソ連の対日,対中,対米関係と,ノモンハンの戦闘は,ノモンハン事件を参照のこと。

写真(右):中国空軍のソ連製ポリカリョフI-153複葉戦闘機(1942年初頭):ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。戦闘機,爆撃機を大量に中国に売却したが,これはスペイン内戦における共和国軍への軍事支援と同じだった。つまり,コミンテルンでは,反ファシズム戦線として,ドイツと日本の侵攻を抑制すべきであると決議された。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できたのである。しかし,華北が日本の支配下に入ると,次第に米国の軍事援助がソ連にとって代わった。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。それまで、共産主義国ソ連に敵対的であった英国も,米国も対ドイツ戦争を優先して,ソ連支援を即座に決めた。英米は、大量の軍需物資を輸送船団で、北海経由あるいは中東経由で,ソ連に送り込んだ。したがって、日米開戦は、ドイツ(ルーマニア、ハンガリー、フィンランドを含む)から攻撃を受けていたソ連にも都合が良かった。

写真(右):中国空軍のリパプリックP-43戦闘機:中国駐留のアメリカ義勇軍に装備された。しかし,今日の米国では,二流として無視される場合が多い中国人パイロットによる操縦もあったらしい。

第二次大戦が1939年に勃発すると、米国は英国に武器など軍需物資を提供し、1940年には船団護衛、対潜水艦戦のための駆逐艦50隻を貸与し、さらに密かに米国海軍艦艇に、英国側にたって参戦している隣国カナダから英国への護送船団に、米国の駆逐艦などを護衛艦として派遣している。さらに、日本と中国軍が戦火を交えている中国大陸へも、軍事支援をし、日中戦争に事実上、密かに「参戦」した。

米国は,1940年以降,アメリカ義勇部隊(AGB),のちのフライングタイガーズによる,中国にある日本軍への航空攻撃を繰り返していた。これは,米軍によるものではなく,あくまで,退役軍人が個人の資格で中国空軍に入隊して,傭兵として,戦闘に参加するという建前をとっていた。しかし,装備された航空機は,当事の最新鋭機であり,アメリカ国内の陸軍航空隊で,組織的な義勇軍募集リクルートが行われていたし,米陸軍航空隊は,中国空軍にAVG向けの武器供与をおこなっていた。もちろん,これは米国大統領の承認を得た秘密作戦である。

写真(右):1942年頃、中国空軍の青天白日マークをつけたアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガース」(Flying Tigers:飛虎隊)のカーチス(Curtiss)P-40E「トマホーク」戦闘機とアメリカ人義勇兵パイロット:カーチスP-40C戦闘機の兵装は、機首に12.7ミリ0.50(インチ)口径M2ブローニング機関銃2丁(携行弾数 470発)、主翼に7.62ミリM1919ブローニング機関銃4丁(携行弾数1960発)を搭載。カーチスP-40E戦闘機では、兵装が強化され、主翼に12.7ミリ0.50(インチ)口径M2ブローニング機関銃6丁を搭載した。1940年から中国で,秘密裏に対日航空戦に参加したアメリカ義勇部隊。中国は,武器貸与法による米国資金によって,中国空軍は100機を購入した。

米国が対日戦争を開始する日米開戦に必要な条件は、
1)日本の先制攻撃:先制とは、米国よりも先に攻撃すること,攻撃とは、\鏖个鮓鬚┐訐鐺、一方的な爆撃や砲撃などの武力行使撃、4和發篳式の大規模な作戦行動(移動、部隊展開、動員)、である。
2)日本の対米宣戦布告:これは必ずしも攻撃を伴わなくとも良い。しかし、明確に宣戦布告であることが、示される必要がある。
真珠湾奇襲攻撃は、日本の宣戦布告なしの一方的な武力行使による先制攻撃である。明確な宣戦布告がない以上、日本の先制攻撃なしに、米国民を戦争に引き込むことはできないが、真珠湾をテロ先制攻撃されたのであれば、宣戦布告がなくとも、9.11と同じく、戦争を始めることができる。このように、インドシナ、中国(満州国は黙認?)から日本軍が撤退しない限り、米国は日米開戦を望んでいたのである。

写真(右):1941年頃、アメリカ、カーチス社航空機工場におけるP-40戦闘機の生産ライン(1940年撮影):中国空軍に所属したアメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)にもP-40戦闘機は配備された。

2.米国は,1940年代から,軍備拡張・動員を行って,対日独への戦争準備をした。

1939年の米国陸軍総兵力は40万人であるが,同年9月に欧州大戦が開始されると,航空兵力の増強を中心に5億7500万ドルの陸軍予算が必要とされた。ルーズベルト大統領は現役の軍人を22万7000名に,郷土防衛軍を23万5000名に増強することを決め、1940年5月には(エンジン)四発大型戦略爆撃機B-17を含む5万機の航空機を要求した。米陸軍の予算は,1940年80億ドル,1941年260億ドルに急増した。そして,1941年6月までに150万名の兵力が動員されることになる。このよう戦備増強が日本はもちろん,米国でも行われている。戦争に備えてきたのは、日本ばかりでなく、米国もそうである。日本委任統治領の南洋諸島に大艦隊をもって侵攻する「オレンジ」作戦、すなわち後の「レインボー」計画も、周到に準備された。航空兵力の大拡充も、対ドイツ戦、英国への軍事支援が第一の目的であろうが、中国、英国植民地ビルマ(現ミャンマー)やインドに対する軍事支援にも結びつけられている。

3.アメリカは、第二次世界大戦に自ら参戦する以前から、イギリスへの輸送船団を護衛し、軍需物資を貸与していた。そして、1941年から,本格的に中国に対する軍事援助も開始した。アメリカ人の軍事顧問を派遣し、アメリカ義勇部隊(AVG)を創設して,中国側の空軍として、主に中国駐留の日本軍に対して航空攻撃を仕掛けた。これは、アメリカ義勇部隊(AVG)やフライングタイガーズによる、アメリカの宣戦布告なき対日戦とみなすこともできる。

写真(右):アメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)所属のアメリカ義勇兵パイロット:2nd Squadrons.”The Hell's Angels squadron”リーダーのA.E. Olson, Jr.飛行服の背中には、blood chit.これは,中国国旗の下に、不時着時の救助要請が中国語でかかれている。乗機はカーチスP-40戦闘機。

1937年8月、上海事変が始まると、中国にいた米陸軍退役軍人Claire Lee Chennaultは、「もし中国に100機のまっとうな航空機と100人の腕の立つパイロットがいれば、ジャップの航空兵力を一掃できるのに」と言った。

"Boy, if the Chinese only had 100 good pursuit planes and 100 fair pilots, they'd exterminate the Jap air force!"

写真(右):クレア・シェンノート・宋美麗・蒋介石:1941年頃。中国でAVGを編成できたのは,クレア・リー・シェンノートの要請を承認した米国陸軍航空隊・大統領だけでなく,蒋介石とその夫人宋美麗の米国への協力姿勢も大きく影響している。

クレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault :1893-1958)は、1937年4月にアメリカ陸軍航空隊を退役して、蒋介石とその夫人・宋美麗(浙江財閥出身でアメリカ留学、英語に堪能なクリスチャン)の支援と給与を得て、中国が購入した戦闘機を操縦して、中国空軍パイロットとなった。そして、中国空軍の顧問となり、自ら日本機を迎え撃った。その傍ら、アメリカ軍にも連絡を取り、義勇部隊を組織するように、パイロットと優秀な航空機を送ってくれるように要請したのである。クレア・リー・シェンノート(Claire Chennault)は、中国空軍大佐として、年1万5000ドルで雇われた。中国空軍を増強して、日本を攻撃すべきであると考えた。

クレア・シェンノート(Claire Chennault)がアメリカに中国支援を訴えのため,1940年11月にシェンノートの案が財務長官ヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)に示され、受け入れられたという。しかし,これは現在の米国の一般的見解であって,退役軍人の意見が大きく反映されたというよりも,中国政府高官,特に宋美麗など一流の外交術を備えた中国人の支援要請も,ルーズベルト大統領や軍に大きな影響を与えたに違いない。中国への特別航空隊創設は,1940年11月30日に宋子文(T.V.Soong) が財務省モーゲンソーに働きかけた結果,1億ドルものローンが認められ,武器貸与法による兵器購入が促された。シェンノートは、航空機500機を配備した特別航空部隊Special Air Unitを編成すれば、中国の日本軍を壊滅させるだけでなく、東京をも爆撃できるとの意見が注目されたのであろう。これが、アメリカ義勇部隊American Volunteer Groupの始まりである。

写真(右):1942年頃、中国空軍のアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガース」(Flying Tigers:飛虎隊)のカーチス(Curtiss)P-40E「トマホーク」戦闘機:胴体後方側面「フライングタイガー:空飛ぶトラ」を描いている。 :全長:10.1メートル、全幅:11.3メートル、全高:3.7メートル。 主翼面積:21.9平方メートル、空虚重量:2810キログラム、総重量:5160キログラム。エンジン:アリソンV-1710、出力:1200馬力、最大速度:565 キロ/時、航続距離:1740キロ、上昇限度:10,270メートル。武装:ブローニングM2エクスカリバー0.50(インチ)口径12.7ミリ機関銃6門、爆弾: 500ポンド(226キログラム)1発。

アメリカ義勇隊(AVG)の給与は月500ドル-700ドルで、上級指揮官ほど高い給与が設定されている。また,日本機を1機撃墜(確認要)するごとに、500ドルの報奨金(ボーナス)がでた。二人で1基を共同撃墜した場合は、半分で各々250ドルずつの報奨金が出た。これは現在の月給で1万ドル以上に相当する。米国で募集されたAVG第一陣は1941年7月10日にサンフランシスコを出発した。そして、1941年夏にはAVG、後の「空飛ぶトラ」 Flying Tigersが中国とビルマで活躍することになる。

アメリカ義勇隊(AVG)パイロットは,アメリカ陸軍航空隊や海軍航空隊所属の戦闘機・艦上爆撃機などの単発機パイロットの志願者である。つまり,アメリカ軍航空隊からリクルートしたパイロットが,同意の上で,AVGとして,中国空軍に所属して,日本軍と闘うのである。AVGに参加するには,誓約書Loyalty chitに署名しなくてはならない。その内容な次のようなものである。

写真(右):アメリカ義勇隊(AVG)誓約書:1941年7月29日、ビルマの首都ラングーンで署名されたもの。日米戦争の開始は、1941年12月8日であるから、その4か月前には、アメリカ人の義勇兵が参戦に馳せ参じたことになる。

署名場所
署名期日
私は,ボランティア(義勇軍)として,中国空軍に------日から---日まで勤務いたします。
この期間の間,私は中国に忠誠を誓い,指揮官の命令に服従し,さらに中国の軍法・規則に従うすることを誓います。
任務終了後は,この任務に関するいかなる軍事的事項も秘匿し洩らすことはありません。
本人署名
証人署名

この誓約書にAVGのメンバー全員が署名するように求められたしたのである。

日本の攻撃に苦しめられている中国は、中立国米国の支援を受けていたが、これはつつもフランクリン・ルーズベルト大統領を初め、多数の米国軍人市民が、日本の対アジア戦略を脅威と感じていたからである。そこで、アメリカは、世界の兵器庫として、中国に対しても、イギリスにしたのと同様、軍需物資の提供をした。日本が広東、海南島など中国南岸を占領した後は、物資の運搬は、ビルマから中国雲南省・四川省に抜ける道路(ビルマ公路)が中心になった。ビルマはイギリス植民地であり、英国への軍需物資といっしょに、中国にも、険しい山道をうねるようなビルマ公路によって運ばれた。そして、日米開戦後の1942年からは ハンプ(こぶ)と 呼ばれた山岳域空路も加わって、支援の手が差し伸べられたのである。

写真(右):主翼に中国空軍の青天白日の国籍マークを付けたアメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)のカーチスP-40C「トマホーク」戦闘機:機首上面に12.7ミリ0.50(インチ)口径M2ブローニング機関銃2丁(携行弾数 470発)、主翼左右に7.62ミリM1919ブローニング機関銃4丁(携行弾数1960発)を搭載。当時は、胴体後方側面には、国籍マークを付けていなかったので、AVGはそこに羽根の生えている空飛ぶ虎の絵を描いている。

アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、1940年末から1941年初頭に、リパブリックRepublic社の戦闘機P-43「ランサーLancer」108機を武器貸与(Lend-Leased)し、特別部隊"Special Air Unit"創設するように指示している。そして、これらの戦闘機がアメリカ義勇部隊American Volunteer Groupに配備された。日本も英国植民地のビスマのラングーンから中国への補給路ビルマルートを遮断しようと、航空兵力による爆撃、偵察も行った。フランス領インドシナへの進駐もこの中国への援助ルート「援蒋ルート」の遮断が大きな目的である。そこで、米国も日本軍に対抗して、中国南西部とビルマで、中国と英国の協力のもとで、アメリカ義勇部隊American Volunteer Groupが組織した。これは、アメリカ軍人や退役軍人が、個人の資格の義勇部隊として、日本軍と戦うのであるが、歩兵であれば(スペイン内戦の国際旅団のように)ともかく、個人で戦闘機を購入、運搬、整備、燃料・弾薬補給できるわけがない。中国軍だけではなく、米軍の支援が不可欠である。

写真(右):1941-1942年頃、中国空軍の青天白日マークをつけたアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガース」(Flying Tigers:飛虎隊)のカーチス(Curtiss)P-40C「トマホーク」戦闘機:1942年5月28日R.T. Smith(第三飛行中隊「地獄の天使たち」Hell's Angels所属)が撮影。シャーク・マウスのマーキングがAVGとそれを引き継いだ中国駐屯アメリカ陸軍航空隊の戦闘部隊の特徴。

1941年12月2日付AVG報告書では、AVGは3コ中隊(飛行隊)、パイロット82名、航空機79機(稼動機62機)を保有していた。 武装した航空機は60機、通信装置を装備した航空機は60機あった。トマホーク発送資料によれば、1941年1月〜3月の3ヶ月間に中国支援のために、戦闘機カーチスP-40「トマホーク」100機が送られたが、これらの機体は同年5〜7月に月々約30機ずつビルマのラングーン港に到着している。分解されて運ばれた機体はここで組み立てられ、テストされた後、AVGに引き渡された。この戦闘機組み立てには、中国南西部から航空機組み立てになれた中国人熟練労働者175名がつれてこられている。AVGの戦闘機は、ビルマ北部あるいは中国南西部の基地からビルマルートの護衛や中国の日本軍攻撃を行った。ただし、1941年11月7日付けのラングーンからの手紙には、友人が3機も友軍の飛行機を壊したことが述べられ、雇用条件、勤務管理体制が不備なことが改善点として述べられている。

写真(右):1942-1944年頃、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガース」(Flying Tigers:飛虎隊)を引き継いだアメリカ陸軍航空隊のカーチス(Curtiss)P-40E「キティホーク」戦闘機を警備する中国兵:AVGは,飛行場の設営・修復,警備などは,中国兵・中国人整備員・中国人労働者に依存していた。しかし,現在の米国では,「フライング・タイガーズ」として空中戦を戦った米国人パイロットの活躍のみが大きく取り上げられている。

アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガース」(Flying Tigers:飛虎隊)の米国人パイロットの操縦する米国製戦闘機は、中国空軍のマークをつけているのであって、中国南西部の主力空軍兵力となっていた。中国南西部では米国義勇戦闘機部隊によって「秘密の戦争」が開始されていたわけで、米国も宣戦布告なしに、中国の日本軍を先制攻撃していたのである。これは,ルーズベルト大統領の対日対決姿勢のあらわれであるが,中国国民党政府も米軍の関与を要請し,AVGを支援したことは重要である。米軍の中では,整備,飛行場建設,宿舎の手当て,パイロットの食事・給与について,背曲的に評価しているわけではない。しかし,航空戦は,パイロットと戦闘機だけでできるわけではない。陸上基地における広範な支援体制が不可欠である。

写真(右):1942年頃、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガース」(Flying Tigers:飛虎隊)の中国空軍基地(雲南省)昆明飛行場の整備・造成作業をする中国人(ナシ族の女子)労働者;雲南地方の北部山間部には,ナシ族が多いが,彼らを現地で労働力として利用して,飛行場を維持している。徴用であっても,現金・薬品など手当てを支給されたとおもわれる。このような「単純労働者」に対する評価や解説は,「フフライング・タイガーズ」のサイトでは見られず,実態もはっきりしない。

AGVの活動,すなわち中国での秘密の戦争は、次のように展開する。

1.アメリカは陸軍を退役したクレア・シェンノート(Claire Chennault: 1893‐1958)に1941年12月にアメリカ義勇隊(AVG)「空飛ぶトラ」 Flying Tigersを組織させた。AVGを引き継ぐものである。
2.アメリカ義勇隊(AVG)「の戦闘機には、最新鋭機カーチスP-40Cが配備され、米軍・中国軍の支援を受けて作戦を実施した。要するに、事実上、中国で戦うアメリカ義勇空軍部隊が創設された。
3.クレア・シェンノート司令官の有益な政治的情報、日本軍航空兵力の軍事的情報は、アメリカの軍事指導者・政治家に送られた。ただし、彼らは日本軍の航空戦力を過小評価したままであった上に、この貴重な情報はアメリカ領フィリピンには送られなかった。
4.1940年には中国に(米国)航空機500機を配備し、それによる日本軍爆撃も計画されたが、この騙まし討ち "sneak attack"は、陸軍長官スチムソンStimson, 参謀本部の将軍マーシャルMarshallの承認を得られなかった。
5.1941年4月にルーズベルト大統領は、航空機100機とそのパイロットからなる米国義勇部隊AVGの創設し、そのために5000万ドルの供与をするように命令した。
6.クレア・シェンノート司令官は、日米開戦後も中国にあって、第14航空軍14th AF, 後のAir Americaを組織した。このような中国への軍事援助はソ連も行っており、米国よりも早期に多数の戦闘機、爆撃機を売却している。

写真(右):アメリカ義勇部隊(AVG)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)のP-51A戦闘機:AGVは1942年には米陸軍航空隊に再編成された。装備もより新型のノースアメリカンP-41戦闘機が第一戦闘集団に配備された。1943年ごろビルマで撮影。

真珠湾攻撃によって、なぜ米国が太平洋戦争を開始し、国民・軍人を大規模に動員することに成功したのか、という課題については、次のように整理できる。
 崟訐鑄杞陲箸い錣譴襦廛瓮奪察璽犬亮蠍鬚涼戮譟平深醢儿況發慮紊離瓮奪察璽犬猟銘痢
∪訐鑄杞陲梁里鬚覆靴討い覆い噺なされる恐れのあるメッセージを、宣戦布告として通用すると錯覚していた
J胴(と英国)の友好国の中華民国への宣戦布告なしの作戦、国際的合意なしの政治工作・軍事行動を行い、人命・人権を軽視した残酷なテロ行為を10年間も続けた(と見なせる)こと、
ぅ侫薀鵐洪¬叡呂離ぅ鵐疋轡(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)に軍隊を勝手に駐留させた、
タ深醢儷襲以前に、潜水艦の作戦行動を真珠湾口で行ったいた、
真珠湾攻撃よりも2時間前に、マレー半島の複数箇所(英国植民地マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊を上陸させている、
米国へのアジア系移民排斥にみられるような人種的偏見のひろまり、
このような背景から、日本が国際法に則って、宣戦布告をしたかどうかにかかわらず、卑怯な残虐な国とみなす風潮が、米国にはあった。

写真(右):中国・ビルマ方面のアメリカ陸軍航空隊,第14航空軍B-24爆撃機:アメリカ義勇部隊(AVG)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)は陸軍航空隊に再編成され,大型戦略爆撃も配備され,1944年にはB-29によるバンコク爆撃,九州の八幡製鉄所の爆撃も行う。

ハワイ真珠湾攻撃は、米国から見れば、日本による卑怯な騙まし討ちのテロ攻撃である。真珠湾攻撃を立案した日本海軍(それを許した陸軍・天皇)、最後通牒の不適切な内容と通知の遅れなどいくつもの失策、過誤を犯した。

しかし、真珠湾以前からの日本の外交・軍事行動、特に対アジア外交と軍事行動が、真珠湾攻撃を引き起こし、それを米英から見て「騙まし討ち」に仕立てることに寄与している。米国も、英国、中国に協力する形で、密かに日本に対する軍事行動を開始しており、これが日本側に、米国には和平を求める誠意はないと認識させる(ことに成功した)。このような騙まし討ちをする残虐な日本に対して、「正義の戦争」を始めることは当然でもあるし、民主主義と自由の盟主である米国の義務でもある。このような論法で、民主主義と自由の国アメリカの太平洋戦争が正当化され、それが動員を成功させ、国民の戦争協力を可能にしたと考えられる。

写真(右):1942年頃、中国空軍の青天白日の記章を翼につけたアメリカ義勇部隊(AVG)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」戦闘機:胴体後方側面には「翼のはえた飛ぶ虎」のマークがある。

◆正義の戦争を演じた米国ではあるが,日本に対して秘密の戦争を仕掛けていたことは、注意すべきである。日本の先制攻撃を、できれば自国の領土に仕掛けてもらうことが、米国内の孤立主義を一掃するためには必要であった。民主主義国で宣戦布告の権限を議会が握っている米国では、大統領や軍部の一存では、戦争を始められない。どうしても世論と連邦議会が戦争に協力する、参戦に同意することが必要である。このような民主主義のプロセスを重視すれば,汚い手段で相手を挑発することも辞さないのである。挑発のための秘密の戦争がこうして、日本に仕掛けられていた。

(注記)現在の米国ではAVGフライングタイガーズの人気は高い。中国における日本の侵略行為を抑えようとしたからである。しかし、対日参戦した1941年12月以前の記録は、あまり多くなく,公開された資料も少ないようだ。

写真(右):1942年から中国の米軍最高司令官となったスチルウェル将軍と蒋介石・宋美麗;AVGは米国の対日宣戦布告から4ヶ月後の1942年3月,ビルマのラングーンが陥落。蒋介石は,新しいビルマ・中国方面の米軍司令官スチルウェルと会談した。英国植民地で,米国人が連合国司令官になったのは異例のことである。AVGは,日米開戦から7ヵ月後の1942年7月まで,米軍陸軍航空隊からは独立して戦っていた。その後,スチルウェルは,AVGを米軍第14航空軍に編入する。

3.アメリカ義勇部隊はフライングタイガーズとして有名になるが,正規のAVGは1942年7月に解散しており,太平洋戦争で,大規模な航空戦を続けてきたわけでもない。しかし,AGVを率いていたクレア・リー・シェンノートが第14航空軍司令官に就任し「フライングタイガーズ」(飛虎隊)の名称を引き続き使用した。こうして,CBI(中国・ビルマ・インド)戦線という辺境の地で民主主義のために戦うアメリカ空軍部隊を総称して「フライングタイガーズ」(飛虎隊)であるとの(過大)評価が確立した。

フライングタイガーズ(Flying Tigers)が,太平洋戦争勃発後,初めての大規模な戦闘は,太平洋戦争勃発2週間後の1941年12月20日,3-4機の日本爆撃機を撃墜したことである。 第3飛行中隊(第3飛行隊:3rd Squadron)「ヘルズエンジェルズ」は,ビルマの首都ラングーンの防衛に当たっていたが,1941年12月23-25日に,約90機の日本機,その多くは重爆撃機,を迎撃,撃墜したと主張している。しかし,日本軍がラングーンを陥落させると,1942年3月には,中国雲南省昆明に戻っている。フライングタイガーズ(Flying Tigers)は、この時までに,敵機115機を撃墜したという。

写真(右):アメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)を引き継いだ第23戦闘集団;1942年,戦闘機P-40C「トマホーク」にシャークマウスを描き,AVGを継承する部隊と自認していた。ただし,AVGのパイロットで中国に残留したのは5名のみ。

1942年7月、クレア・リー・シェンノートシェンノートChennaultは,アメリカ陸軍航空隊USAAFの将軍になり,アメリカ陸軍航空隊第14航空軍(U.S. Army's Fourteenth Air Force)司令官に就任する。そして、1942年7月14日以降,アメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)は,中国空軍任務部隊(China Air Task Force:CATF)に改編され,その後,第23戦闘集団(23rd Fighter Group)となった。しかし,パイロットは,民間航空輸送の任務あるいは,米国に帰還し民間人に戻った。中には,再び海軍や海兵隊に入隊したパイロットもいる。AVGには100名のパイロットがいたはずであるが,中国に残ったAVGパイロットは,たった5名に過ぎない。

しかし,フライングタイガーズは,中国では,米国による対中軍事支援の象徴であり,抗日戦争を続ける中国国民党政府にとって,国際的な支持を得ていることの証でもあった。そこで,このフライングタイガーズを,大きく宣撫活動にも利用しており。そのプロパガンダに便乗するかたちで,多数の米国人パイロット,アメリカのメディア(新聞)は,「フライングタイガーズ」の名称を使い続けている。特に,第23航空集団は,自らも"Flying Tigers"であると名乗っている。

写真(右):フライングタイガーズのカーチスP-40C (Curtiss P-40C) 戦闘機のエース・プレスコット(Prescott);1942年以降,空中戦で5.5機撃墜。戦闘機P-40の照準器は,光像式でなく古いの照星式も残っていた。

現在,web上にも,フライングタイガーズは多数掲載されている。Flying Tigers,AVGの単語を含むサイトに限定しても,1万3800件もヒットする。なかには,フライングタイガーズのレザー・ジャケット,部隊マーク,書籍,写真・映像など,商業目的のサイトも多い。これは,退役軍人や部隊などの記念サイトとは違って,若者向けにアレンジされたものである。そして,そのような商業主義が,プロパガンダと並んで,アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」の人気を煽っているとのいえる。

アメリカ義勇部隊(AGB)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)はフライングタイガーズとして有名であるが,正規のAVGは1942年7月に解散しており,太平洋戦争の後半の大規模な航空戦とは,比較にならない程度の戦力でしかなかった。しかし,シェンノートが第14航空軍の司令官を継ぎ,部隊も「フライングタイガーズ」の名称を引き続き使用し,メディアも,フライングタイガーズの活躍を,世界に広めた。


写真(右):フライングタイガーズのカーチスP-40C (Curtiss P-40C) 戦闘機
;1942年4月頃撮影。

さらに,米国人にとって重要な視点は,中国の自由と平和のために,暴虐な日本軍を食い止めるため,個人の自由意志でできる限りのことをした「英雄」という認識である。危険な戦いにために,自ら,個人の資格で,挑戦し,自由と平和を守る礎になる覚悟をした立派なアメリカ人。彼らは,一流のパイロットであり,乗り込んだ戦闘機P-40は,ゼロ戦には劣ったかもしれないが,彼らの腕はそれをカバーした。自由と平和を守り,戦意旺盛な熟練パイロット。これは,米国の歴史にあって,後世にまで引き継がれるべきものである。こうして,中国・ビルまで闘う米国空軍部隊「フライングタイガーズ」は,英雄であるとの(過大)評価が確立した。

写真(右):1941-1942年、ビルマ、ラングーン港、「飛虎隊」(フライングタイガー)のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の主翼梱包木箱:分解された機体は、ビルマ、ラングーン港から内陸のミンガラドン飛行場までトラックで運ばれ、そこで組み立てられた。
Repair P-40.
Catalog #: 0315
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0315引用。

アメリカ義勇軍(AVG)「飛虎隊」(フライングタイガー)メンバーとなるアメリカ義勇兵パイロットは、も1941年7月28日に、イギリス植民地ビルマ(限ミャンマー)の首都のラングーン(現ヤンゴン)の港に到着した。ラングーンから北西350キロの鉄道でトングー(Toungup:洞鴿鎮)の航空基地に移動した。トングー(Toungup:洞鴿鎮)は、現在タウングプと呼ばれているが、ベンガル湾に面した町で、コンクリート舗装の1200m滑走路が整備され、アメリカ義勇軍(AVG)「フライングタイガー」の訓練基地となった。

アメリカ義勇軍(AVG)「飛虎隊」(フライングタイガー)の使用するカーチスP-40C「トマホーク」は、アメリカから船便で1941年6月頃にはラングーン港に到着した。これはカーチスP-40C戦闘機100機分の胴体・主翼・部品など分解された機体である。P-40戦闘機ぼ部品は、ラングーン港で船から降ろされ、トラックに積み替えられて、ラングーン北郊外ミンガラドン飛行場に運ばれた。

イギリス領ビルマの首都ラングーン北郊外ミンガラドン飛行場に、分解して運ばれてきたカーチスP-40C「トマホーク」は、胴体に主翼を取り付け、エンジンを装備するなどして組み立てられ、試験飛行された。そして、8月以降にミンガラドン飛行場からトングー基地に空輸された。

写真(右):1941-1942年、ビルマ、ラングーン港から内陸ミンガラドン飛行場に送るために、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の主翼梱包木箱をトラックに積み込む作業:ミンガラドン飛行場に作られた組み立て作業小屋で、機体が組み立てられる。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路と空路を使って飛行機を輸送して、中国南部での戦闘に投入した。
P-40 Assembly.
Catalog #: 0313
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0313引用。

写真(右):1941-1942年、ビルマ、ラングーン港から内陸のミンガラドン飛行場までトラックで運搬されるアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」のカーチスP-40「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の主翼梱包木箱:ラングーン郊外の飛行場に作られた組み立て作業小屋で、組み立てられた戦闘機は、中国空軍のアメリカ義勇隊に配備された。
Repair P-40.
Catalog #: 0295
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0295引用。

写真(右):1941-1942年、ビルマ、ラングーン港から内陸のミンガラドン飛行場へトラック輸送の途上と思われるカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の主翼梱包木箱:アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」所属の戦闘機は、分解してビルマのラングーンに船舶輸送され、荷揚げしたのち、ラングーン郊外のミンガランド飛行場にトラックで運ばれた。そして、ミンガランド基地に作られた組み立て作業小屋で、組み立てられた。蒋介石援助ルートを使って、中国、雲南省まで送られた。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路と空路を使って飛行機を輸送して、中国南部にまで運搬した。
P-40 Assembly.
Catalog #: 0291
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0291引用。

写真(右):1941-1942年、ビルマ、ラングーン港から内陸のミンガラドン飛行場に送られるアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」所属のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の主翼。鉄橋を渡る際に、鉄橋の高さが低く、主翼をトラックから降ろして、一時的に水平に積みなおして、鉄橋を横断した。:雲南省の飛行場に作られた組み立て作業小屋で、組み立てられる。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路飛行機を輸送して、中国南部にまで運搬した。
Transporting P-40.
Catalog #: 0298
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0298引用。

写真(右):1941-1942年、イギリス領ビルマ、ラングーン港から、10キロ内陸のミンガラドン航空基地に運搬されるアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機:ビルマ首都ラングーン郊外の飛行場に作られた組み立て作業小屋で、組み立てられた、トングー基地で訓練してから、雲南省の中国空軍アメリカ義勇隊(AVG)「飛虎隊」に配備された。
Transporting P-40.
Catalog #: 0292
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0292引用。

写真(右):1941-1942年、イギリス領ビルマ、ラングーン港から、10キロ内陸のミンガラドン航空基地に運搬されるアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の主翼。鉄橋を渡る際に、鉄橋の高さが低く、主翼をトラックから降ろして、一時的に水平に積みなおして、鉄橋を横断した。:ミンガランド飛行場に作られた組み立て作業小屋で、組み立てられ、完成した機体は、そこから北西350キロのトングー基地に空輸され、訓練、慣熟飛行に使われた。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からビルマのラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路と空路で飛行機を輸送して、中国南部雲南省にまで運搬した。
Transporting P-40.
Catalog #: 0293
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0293引用。

写真(右):1941-1942年、イギリス領ビルマ、ラングーン郊外ミンガランド基地、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガー」のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の胴体と主翼(木箱に固定されている):「飛虎隊」(フライングタイガー)のカーチスP-40C戦闘機は、ビルマのラングーン郊外ミンガランド基地に胴体と主翼(木箱に固定されている)が分解されて到着した。:ここの組み立て作業小屋で、組み立てられビルマを経由して中国の蒋介石援助ルートの終点、中国、雲南省の昆明飛行場に送られる。
Repair Building.
Catalog #: 00558
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00558引用。

写真(右):1941-1942年、イギリス領ビルマ、ラングーン郊外ミンガラドン航空基地、「飛虎隊」(フライングタイガー)のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の組み立て作業場:胴体と主翼(木箱に固定されている):ビルマ・中国の蒋介石援助ルートを使って、中国、雲南省の飛行場に送られる。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路と空路で飛行機を輸送して、中国南部にまで運搬した。
P-40 Assembly.
Catalog #: 0319
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0319引用。

写真(右):1941-1942年、イギリス領ビルマ、ラングーン郊外ミンガラドン飛行場、中国の蒋介石の軍事援助のために、組み立てられる「フライングタイガー」所属のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機組み立て作業工場。胴体と主翼が別々に並んでいる。:雲南省の飛行場に作られた組み立て格納庫で、カーチスP-40 を組み立てる。組み立て作業工場の柱には「世界の正義と和平の達成の為に」という中国語の標語がある。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路で飛行機をトラック輸送して、中国南部にまで運搬した。
"P-40 Assembly. Post reads ""Working for Righteousness and Peace""".
Catalog #: 0154
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0154引用。

写真(右):1941-1942年、イギリス領ビルマ、ラングーン郊外ミンガラドン基地あるいはラングーン北西350キロのトングー訓練基地、蒋介石援助ルートを中国雲南省の昆明飛行場にまでつなげるためにビルマに陸揚げされた軍事物資、ここでは航空燃料用の揮発油の詰まったドラム缶を運搬する徴用されたビルマ人労働者。「飛虎隊」(フライングタイガー)のカーチスP-40「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機は、このような現地住民の労力にも支えされていた。:雲南省の飛行場に作られた組み立て作業小屋で、組み立てられる。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路飛行機を輸送して、中国南部にまで運搬した。
Title: Burma.
Catalog #: 01439
Subject: The Flying Tigers - China
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01439引用。

写真(右):1941-1942年、ビルマ、ラングーン北郊外にあるミンガラドン基地にトラックで運ばれたと思われる「フライングタイガー」のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の主翼梱包木箱と組み立てられた機体:ミンガランド飛行場にトラック輸送され、そこの組み立て作業小屋で、組み立てられる。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路・空路飛行機を輸送して、中国南部にまで運搬した。
Repair P-40.
Catalog #: 01571
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01571引用。

写真(右):1941-1942年、イギリス領ビルマ、ラングーン郊外ミンガラドン地、「飛虎隊」(フライングタイガー)のカーチスP-40C「ホーク」(Hawk 81A-2)戦闘機への給油車からの給油作業:ミンガランドの飛行場に仮小屋を設けて、そこで分解されていた機体を組み立てた。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路と空路で飛行機を輸送して、中国南部の雲南省まで送り届けた。
Fueling P-40 (Hawk 81A-2)
Catalog #: 0355
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0355引用。

写真(右):1941-1942年、イギリス領ビルマ、トングー基地あるいはラングーン北郊外ミンガラドン基地あるいはトングー基地で破損したカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機。他の機体と衝突したのか、主翼を大きく破損し、プロペラも曲がってしまった「飛虎隊」(フライングタイガー)のカーチスP-40「ホーク」戦闘機:カーチスP-40Cは、発動機にアリソンV-1710-33水冷エンジン1040馬力を搭載し機首にブローニング12.7ミリM2機関銃2丁、主翼内に7.62ミリ機銃を各1丁増設し、主翼には合計計4丁を装備した。P-40D戦闘機は、エンジンをアリソンV-1710-33水冷エンジン1150-馬力に向上し、武装も主翼の12.7ミリ機関銃を4丁と強化し、胴体下に懸架を設けて増槽あるいは500ポンド(225圈貿弾を搭載できた。
P-40 with wing damage
Catalog #: 0067
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0067引用。

写真(右):1942年頃、ビルマ、ラングーン郊外 ミンガラドン基地(?)で組み立ての終了したアメリカ義勇兵パイロット「飛虎隊」(フライングタイガー)のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機とアメリカ人軍事顧問夫妻と思われる。アメリカ義勇軍は、正規軍ではないので、整備員や技術指導員には、夫人を同伴しての物見遊山の気分もあったのであろうか。:「飛虎隊」(フライングタイガー)のカーチスP-40「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機は、ビルマ、ラングーン北西350キロのトングー基地に送られ、そこでアメリカ義勇隊のパイロットの慣熟訓練が行われた。太平洋戦争勃発後の1941年12月中旬に雲南省の昆明飛行場に派遣された。
P-40s.
Catalog #: 0144
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0144引用。

写真(右):1941-1942年頃、ビルマ、ラングーン郊外 ミンガラドン基地(?)、中国空軍のアメリカ義勇兵パイロット「飛虎隊」(フライングタイガー)の使用するカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機が、組み立て作業小屋で、組み立てられる。このP-40戦闘機は、中国国民政府蒋介石への軍事援助のために、援助ルートを使って、ビルマから中国雲南省の飛行場に派遣され、日本軍と戦った。中国空軍、アメリカ義勇隊は、飛行機をアメリカ本土からラングーン、のちにインドに海路運搬し、そこから陸路飛行機を輸送して、中国南部にまで運搬した。
P-40.
Catalog #: 0079
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0079引用。

1941年12月7日、太平洋戦争に入ったアメリカは、日本軍による東南アジア、マレー侵攻、シンガポール陥落、さらにビルマのラングーン陥落に直面し、中国で戦うアメリカ義勇隊「フライングタイガーズ」への支援を続けるのは困難になった。アメリカもイギリスも、中国への軍事援助をするだけでなく、自国領や植民地の防衛にも本格的に取り組まなくてはならなかった。太平洋戦争では、日本軍主力を撃破するには主反攻は、南東太平洋、ガダルカナル方面だった。ビルマから北上する援蒋ルート(蒋介石への軍事補給路)は日本軍に遮断され、最下位の見込みはなかった。そこで、中国への軍事援助は、イギリス領インドからヒマラヤ山脈を空路でこえる「ハンプ(瘤)越え」となり、補給は容易ではなくなった。

写真(右):1941-1942年頃、ビルマ、トングー基地(?)、蒋介石援助ルートを使って、中国、雲南省の飛行場に送られ「飛虎隊」(フライングタイガー)カーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機の傍らに立つアメリカ人パイロットのジョニー・ファーレル(Johnny Farrell):雲南省の飛行場で組み立てが終了した機体が並べられた状態。サンジエゴ航空宇宙博物館は、多数の写真を保管公開しているが、写真の撮影時期や撮影場所などの情報が不完全なものが多く、残念ながら正確な識別困難である。
Johnny Farrell by P-40.
Catalog #: 00771
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Johnny Farrell by P-40
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00771引用。

日本に宣戦布告したアメリカは、中国空軍の下で戦闘するアメリカ義勇軍の指揮系統をアメリカ軍に統合しようとした。軍補給の面でもそのほうが都合がいい。アメリカの正規軍として、中国を援助するために、アメリカは、アメリカ義勇軍(AVG)のアメリカ人(大半が戦闘機パイロット)を中国駐留アメリカ軍に再編成しようとしたのである。しかし、アメリカ義勇軍(AVG)は、蒋介石直轄群として、優遇されており、給与も良く、撃墜に応じたボーナスもあった。しかし、このような優遇条件は、アメリカ陸軍航空隊に組み込まれれば、霧散する。つまり、アメリカ義勇軍(AVG)のアメリカ人たちは、待遇悪化を快しとせず、大半が正規軍への編入を希望せず、帰国を選択した。

写真(右):1941-1942年頃、ビルマ、トングー基地(?)、蒋介石援助ルートを使って、中国雲南省の飛行場に送られた「飛虎隊」(フライングタイガー)カーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機とジープに乗るアメリカ人パイロットたち:カーチスP-40「トマホーク」戦闘機の発動機は、アリソンV-1710エンジンで、シリンダー容積は1,710立方インチ。同じアリソンV-1710エンジンをロッキード P-38ライトニング双発戦闘機、ベル P-39エアコブラ戦闘機、P-51ムスタング戦闘機(初期型)も搭載していた。
Pilots and P-40.
Catalog #: 0132
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Johnny Farrell by P-40
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0132引用。

太平洋戦争で、日本軍が占領地を広げるなか、1942年7月3日、アメリカ義勇軍(AVG)が解散された。クレア・シェンノートは、中国に残って戦うアメリカ義勇兵をアメリカ陸軍航空隊に編入し、第10航空軍隷下の中国航空任務部隊(China Air Task Force:CATF)を設けた。しかし、シェンノートとともに、アメリカ義勇軍(AVG)から、中国航空任務部隊(China Air Task Force:CATF)に編入したアメリカ義勇兵は、僅か5名だった。アメリカ義勇軍(AVG)「飛虎隊」フライングタイガーズは、中国空軍の青天白日の国籍マークではなく、星とストライプのアメリカ軍の国籍マークを付けて中国で戦うことになった。

写真(右):1941-1942年頃、ビルマから蒋介石援助ルートを使って、中国の雲南省の昆明飛行場に送られたアメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」のカーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機カーチスP-40E「キティホーク」戦闘機。シャークマウスと目が描かれている:機首の操縦席の前右寄りに、射撃照準環が設けられている。P-40DはアリソンV-1710-39エンジンのためのラジエーター(冷却器)が大型化され、空気取入れ口も大きくなったために、機首下面が延長された。P-40E戦闘機は、次の型のP-40Kと同じく機首下面のラジエーター・空気取入れ口が大型化したので、それ以前の型との識別は容易である。P-40E型は兵装もブローニング0.50口径12.7ミリM2機銃6挺に強化、燃料タンクの防弾強化を施した。イギリス空軍(RAF)での機体名称は、P-40 C型までが「トマホーク」、エンジンをV-1710-39に装換、ラジエーターを大型化し、機首を延長したD型以降は「キティホーク」である。
P-40.
Catalog #: 0080
Subject: The Flying Tigers - China
Title: P-40
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #:0080引用。

太平洋戦争が1941年12月に勃発し、日本軍が東南アジア、マレーを占領し、シンガポールを陥落させ、さらにビルマのラングーンを落とすと、中国駐留のアメリカ義勇隊「フライングタイガーズ」への補給が問題となった。アメリカもイギリスも、中国支援よりも、自国領土や植民地を防衛する事、太平洋海域での日本軍主力を撃破することが課題となった。ビルマから北上する援蒋ルート(蒋介石への軍事補給路)も処断され、中国への軍事援助は、イギリス領インドからヒマラヤ山脈を空路でこえる「ハンプ(瘤)越え」となり、補給はますます困難になった。

写真(右):1942年5月、中国、雲南省、昆明飛行場、「飛虎隊」(フライングタイガー)第3飛行戦隊カーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機は、機体番号は白75、白96、白47、白22、白35など5機が駐留している。:雲南省でも有数の昆明飛行場にして、未舗装で運用しやすい状況にあるとはいいがたいが、中国空軍、アメリカ義勇隊は、このような基地に駐留して、日本軍と戦った。カラー写真の左下端には、自らの署名サインが入っている。
AVG Third Squadron P-40 Tomahawks #75, #96, #47, #22 and #35 parked at Kunming in May 1942.
R.T. Smith Autographed AVG
Catalog #: 01358
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01358引用。

アメリカ義勇軍(AVG)「フライングタイガー」指揮官シェンノートは、戦闘機部隊を、次の3飛行中隊に分けた。
第一飛行中隊(1st Squadron )「アダム&イヴ(Adam & Eves)」
第二飛行中隊(2nd Squadron)「パンダ・ベアーズ(1st Squadron Panda Bears)」
第三飛行t流体(3rd Squadron)「地獄の天使達(Hell's Angels)」

写真(右):1942年5月23日、中国、雲南省、昆明航空基地、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」所属R.T.スミスのカーチスP-40C「ウォーホーク」(Warhawk)戦闘機:機体には大きな「飛虎」(フライングタイガー)の記章が描かれている。カラー写真の下には、自らの署名サインが入っている。
R.T. Smith next to Chuck Older’s P-40 Tomahawk #68 in Kunming, China on May 23, 1942
R.T. Smith Autographed AVG
Catalog #: 01350
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01350引用。

アメリカ陸軍航空隊カーチス (Curtiss)P-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機は、アメリカのカーチス社製の全金属製・単葉の信頼性ある戦闘機だった。1939年9月に、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、アメリカはイギリスを支援するために、イギリスにカーチスP-40戦闘機を供与した。P-40C型を受け取ったイギリス空軍は、アメリカインディアンを連想する「トマホーク」と、機首下方のラジエーターを大型化したP-40D型・E型を「キティホーク」の名称で使用した。発動機は、アリソンV1700で、高出力で低高度では威力を発揮した。初の大規模戦闘は、北アフリカ戦線でのドイツ空軍との戦いで、地上支援にも投入された。

写真(右):1942年5月23日、中国、雲南省、昆明飛行場、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」所属R.T.スミスのカーチスP-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機:機体には大きな「飛虎」(フライングタイガー)の記章が描かれている。カラー写真の下端には、自らの署名サインが入っている。
R.T. Smith next to Chuck Older’s P-40 Tomahawk #68 in Kunming, China on May 23, 1942
R.T. Smith Autographed AVG
Catalog #: 01360
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01350引用。

アメリカ陸軍は、1935年に全金属製・単葉・引込み脚の新型戦闘機の試作を国内航空機メーカーに要請した。これに対して、カーチスが試作したのが、カーチス75を試作し、P-36 ホークを完成させた。また、ドイツのナチ党、ヒトラーによる再軍備が進展し、ドイツが周辺諸国に対する領土要求からヨーロッパに戦争の暗雲に包まれれた。アメリカ陸軍は、戦争の危機を意識し、1938年1月、新鋭戦闘機の試作をメーカーに求め、セバスキーはXP-41とXP-43、ロッキードはXP-38、ベルはXP-39を試作した。それに対して、名門カーチスは既存のP-36を活かして、その搭載していた空冷星型エンジンを液冷エンジンのアリソンV-1710に換装したXP-40を試作した。これらの戦闘機は、戦争の危機の中、みなアメリカ陸軍ンに制式戦闘機として採用され、各々 P-43 ランサー戦闘機、P-38ライトニング戦闘機、P-39エアコブラ戦闘機、P-40キティホーク戦闘機となる。

写真(右):1942年6月6日、中国、雲南省、昆明飛行場、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」所属のカーチスP-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機とクラウド・バナー第5等勲章 (雲摩勲章) とスター・メタルを受賞したチューク・オルダーとR.T.スミス、:機体には大きな「飛虎」(フライングタイガー)の記章が描かれている。カラー写真の下端には、自らの署名サインが入っている。
Chuck Older and R.T. Smith after being decorated with the Fifth Class Order of the Cloud and Banner and the Star-Wing Metal in front of a P-40 Tomahawk at Yunnanyi, China. The photograph was taken on June 6, 1942.
R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
R.T. Smith Autographed AVG
Catalog #: 01359
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01359引用。

カーチスのXP-40試作機は、1938年10月に初飛行に成功し、1939年1月には、アメリカ陸軍航空隊での実用審査が行われたが、その他の会社の試作機は、支障が出ており、制式は遅れた。量産型のP-40戦闘機は、12.7ミリ.50口径機関銃2丁を装備したが、これは当時の兵装は、7.7ミリ級だったので、強力な兵装だった。ドイツの侵攻に備えるため、フランス軍はカーチスP-40 戦闘機を採用することを決めたが、既に1940年5月、ドイツの侵攻を受けたフランスは、6月22日には降伏してしまった。そこで、アメリカはフランス軍に供与する予定だったP-40キティホーク戦闘機を孤軍奮闘するイギリスに供与した。

写真(右):1942年5月23日、中国、雲南省、昆明飛行場、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」R.T.スミスのカーチスP-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機:戦闘機の前に揃ったのは、左からR.T.スミス(Smith),ケン・ヘルステッド(Ken Jernstedt),ボブ・プレスコット(Bob Prescott),リンク・ラフリング(Link Laughlin)、ビル・リード(Bill Reed) 。
Refueling stop at Yunnan-yi, China on May 28, 1942. Seated from left to right are R.T. Smith, Ken Jernstedt, Bob Prescott, Link Laughlin and Bill Reed. The person standing on the left is Tom Hayward. Arvid Olson, standing on the right, flew P-40 Tomahawk #68 (in the background) on this mission. Erik Shilling took the photograph.
R.T. Smith Autographed AVG
Catalog #: 01353
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01353引用。

蕭鋒(Feng Xiao)(2018)『 大轟炸:大爆撃』は、アメリカ人が、中国人を助けて日中戦で日本軍と戦ったことで、現在の国際関係で、米中協力を訴える映画ともなっている。しかし、この発想は、南京事件を扱った。張芸謀(チャン・イーモウ)監督(2011)『金陵十三釵』(The Flowers Of War)で俳優クリスチャン・ベールが準主役となったのと同じである。『金陵十三釵』でも『大轟炸:大爆撃』でも、外国人は、決して主演ではない。あくまで正当な中国の戦いが国際的にも認知されていたことを表現するために一流外国人俳優が脇役に使われている。映画の主題は、勇敢な中国人が国を防衛するために命を懸けたという熱いナショナリズムである。

写真(右):1942年5月28日、中国、雲南省、昆明の飛行場、アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」第3追撃機飛行隊のカーチスP-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機、機体番号「白47」はR.T.スミスの乗機:機体には大きな「飛虎」(フライングタイガー)の記章が描かれている。カラー写真の下端には、自らの署名サインが入っている。
The photograph P-40 Tomahawk #47 flown by R.T. Smith of the Third Pursuit Squadron -- Hell's Angels -- of the American Volunteer Group was probably taken on May 28, 1942 near the Salween River Gorge on the China-Burma border.
R.T. Smith Autographed AVG
Catalog #: 01351
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01359引用。

写真(右):1942年5月28日、中国、雲南省、フライングタイガーズ「飛虎隊」トム・ヘイワード(Tom Hayward)の操縦する第3追撃機飛行隊カーチスP-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機:機体番号は白49、シャークマウスを描き、目玉もついている。カラー写真の上端には、自らの署名サインが入っている。
The photograph P-40 Tomahawk #49 flown by Tom Hayward of the Third Pursuit Squadron -- Hell's Angels -- of the American Volunteer Group was probably taken from aircraft #47 on May 28, 1942 near the Salween River Gorge on the China-Burma border.
Subject: The Flying Tigers - China
Catalog #: 01352
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01359引用。

写真(右):1942年5月28日、中国、雲南省、フライングタイガーズ「飛虎隊」トム・ヘイワード(Tom Hayward)の操縦する第3追撃機飛行隊カーチスP-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機:P-40の機体番号「白47」に搭乗するR.T. スミス(Smith)が撮影した。機体番号は白49、シャークマウスを描き、目玉もついている。
The photograph of the Third Pursuit Squadron -- Hell's Angels -- of the American Volunteer Group was probably taken from aircraft #47 on May 28, 1942 near the Salween River Gorge on the China-Burma border. The shot of P-40 Tomahawks includes #68 flown by Arvid Olson, #46 flown by Bob Prescott, #49 flown by Tom Hayward, #24 flown by Ken Jernstedt, and #74 flown by Bill Reed..
Subject: The Flying Tigers - China
Catalog #: 01357
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01359引用。

写真(右):1942年5月28日、中国、雲南省、昆明の飛行場、トム・ヘイワード(Tom Hayward)、フライングタイガーズ「飛虎隊」第3追撃機飛行隊カーチスP-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機:P-40の機体番号「白47」に搭乗するR.T. スミス(Smith)が撮影。シャークマウスを描き、目玉もついている。カラー写真の上端には、自らの署名サインが入っている。カーチスP-40Cは、発動機にアリソンV-1710-33水冷エンジン1040馬力を搭載、機首にブローニング12.7ミリM2機関銃2丁、主翼内に7.62ミリ機銃を左右各2丁、合計4丁を装備。胴体下面には懸架がなく、爆弾を搭載することはできない。
The photograph of 3rd Squadron Hell's Angels of the American Volunteer Group was taken by R.T. Smith, probably from #47, on May 28, 1942 as they headed northeast toward Pao Shan near the Salween River Gorge. The shot includes #68 flown by Arvid Olson, #46 flown by Bob Prescott, #49 flown by Tom Hayward, #24 flown by Ken Jernstedt, and #74 flown by Link Laughlin. R.T. Smith remembered Bill Reed flying #74, but Ken Jernstedt, the only pilot associated with the shot still living in 2010, says Bill Reed was not in the area at the time. However, there are two photographs taken on the same date during a refueling stop at Yunnan-yi, one taken by Erik Schilling, the other taken by Tom Haywood, that include both Link Laughlin and Bill Reed as well as Ken Jernstedt, Bob Prescott and Arvid Olson.
R.T. Smith told how the photograph was taken in a letter to Terrill Clements, author of American Volunteer Group Colours and Markings. R.T. seldom took his camera on combat missions, he explained, because "there was no place to stow it in the cramped space of a cockpit, which meant having to carry it on my lap secured only by a leather strap around my neck. Obviously the last thing a fighter pilot needs while frantically maneuvering in a combat situation is a camera flying around in the cockpit....
"It was a beautiful spring day, with a layer of strato-cumulus just above the mountain tops at about ten thousand feet off to our right. We were headed northeast near the Salween River which marked the China-Burma border, and although the air was relatively smooth I soon learned that taking a picture of this type was no easy task. It required trying to fly my plane on a steady course by holding the control stick between my knees, twisting back to my right while holding the camera with both hands, and waiting impatiently for the guys to stop the inevitable 'yo-yo'ing and get into proper echelon formation. There was the added requirement, most important of all, of scanning the surrounding sky every few seconds to make sure no Jap fighters were about to ambush us. The resulting exposure, as I recall, was made about f8 at a 200th of a second." .
R.T. Smith Autographed AVG
Catalog #: 1606
Title: R.T. Smith Autographed AVG
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01359引用。

写真(右):1943-1944年、中国、ノースアメリカン社の技術指導員だったジャック・カナリー(Jack D. Canary)の撮影になるカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)戦闘機:中国駐留アメリカ陸軍航空隊のカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)には、胴体後方側面にアメリカの国章を付けるようになった。機体番号がついていないので、部隊配備前の機体の試験飛行かもしれない。
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title:Curtiss P-40E, 41-5664 b
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Curtiss P-40E, 41-5664 b引用。

カーチスP-40C「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機は、アメリカ陸軍航空隊、イギリス空軍のほか、中国空軍のアメリカ義勇隊「フライングタイガース」でも使用されていた。この中国駐留する派遣部隊は、1943年3月10日には、アメリカ陸軍航空隊第14航空軍(Fourteenth Air Force)に統合された。カーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)は、登場した時点では、イギリス、ドイツの戦闘機と比較して性能的には劣っていたが、信頼性、量産性、耐久性に優れていたために、対戦闘機戦闘が不利になった1943年後半になっても、対地上支援に使用されていた。

写真(右):1943年3月10日に設立されたアメリカ陸軍航空隊の第14航空軍(Fourteenth Air Force)中国駐屯部隊所属と思われるカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)戦闘機:ノースアメリカン社の技術指導員だったジャック・カナリー(Jack D. Canary)の撮影。中国駐留アメリカ陸軍航空隊のカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)には、胴体後方側面にアメリカの国章を付けるようになった。
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title:Curtiss P-40E, 41-5664 c
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Curtiss P-40E, 41-5664 c引用。

カーチスP-40E「トマホーク」(Tomahawk)戦闘機は、太平洋戦争勃発3カ月前、1941年8月に初飛行した初期量産型で、2300機が生産された。試作機よりも、性能低下を覚悟して、防御力、攻撃力を強化している。

太平洋戦争の勃発した1941年12月、アメリカ領フィリピンには、アメリカ陸軍航空隊第24追撃飛行隊があり、P-40E戦闘機72機があった。

写真(右):1943-1944年、中国、ノースアメリカン社の技術指導員だったジャック・カナリー(Jack D. Canary)の撮影になるカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)戦闘機:中国駐留アメリカ陸軍航空隊のカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)には、胴体後方側面にアメリカの国章を付けるようになった。
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title:Curtiss P-40E, 41-5664d
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Curtiss P-40E, 41-5664d引用。

日本と戦争状態に入ったアメリカにとって、中国空軍の下で戦闘するアメリカ義勇軍は、指揮系統の上でも、軍事補給の上でも問題となった。本来、アメリカの正規軍として、中国を援助すべきであり、アメリカは、アメリカ義勇軍(AVG)のアメリカ人(大半が戦闘機パイロット)を中国駐留アメリカ軍に再編成しようとした。

しかし、それまでアメリカ義勇軍(AVG)は、蒋介石の直系として、給与も良く、撃墜に応じたボーナスも受けていた。このような好条件の待遇は、アメリカ陸軍航空隊の指揮系統に組み込まれれば、期待することはできない。待遇悪化、優遇廃止が必至なために、アメリカ義勇軍(AVG)のアメリカ人たちは、大半が正規軍への編入を希望しなかった。義勇兵たちは、帰国の選択をしたようだ。

写真(右):1943-1944年、中国、ノースアメリカン社の技術指導員だったジャック・カナリー(Jack D. Canary)の撮影になるカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)戦闘機:中国駐留アメリカ陸軍航空隊のカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)には、胴体後方側面にアメリカの国章を付けるようになった。
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title:Curtiss P-40E, 41-5664 e
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Curtiss P-40E, 41-5664 e引用。

1942年7月、クレア・リー・シェンノートシェンノート(Chennault)は,アメリカ陸軍航空隊(USAAF)の将軍になり,アメリカ陸軍航空隊第14航空軍(U.S. Army's Fourteenth Air Force)司令官に就任する。そして、1942年7月14日以降,アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)は解散になり、残っていたアメリカ人義勇パイロットは、新設された中国空軍任務部隊(China Air Task Force:CATF)に編入され,その後,第23戦闘集団(23rd Fighter Group)となった。しかし,大半のアメリカ人義勇パイロットは,民間航空輸送の任務あるいは,アメリカに帰国し民間人に戻った。中には,再び海軍や海兵隊に入隊したパイロットもいる。アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)には100名のアメリカ人義勇隊(AGV)パイロットがいたはずであるが,中国に残ったAVGパイロットは,たった5名に過ぎない。

しかし,アメリカ義勇隊(AVG)「フライングタイガーズ」(飛虎隊)は,中国では,アメリカによる対中軍事援助の象徴として、抗日戦争を続ける中国国民党政府、蒋介石、夫人の宋美齢にとって,国際的支援を得た戦という政治的な意味を持っていた。そこで,このフライングタイガーズの活動を、大きく宣撫活動にも利用しており。そのプロパガンダに便乗するかたちで,多数のアメリカ人パイロット,アメリカのメディア(新聞)は,「フライングタイガーズ」の名称を使い続けている。特に,第23航空集団は,自らも"Flying Tigers"であると名乗っている。

写真(右):1943-1944年、中国、ノースアメリカン社の技術指導員だったジャック・カナリー(Jack D. Canary)の撮影になるカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)戦闘機:中国駐留アメリカ陸軍航空隊のカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)には、胴体後方側面にアメリカの国章を付けるようになった。
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Curtiss P-40E, 41-5664 f
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Curtiss P-40E, 41-5664 f引用。

中国がアメリカ義勇隊「フライングタイガー」の支援を得て、日中戦争の空中戦を戦った中国映画、蕭鋒(Feng Xiao)(2018)『 大轟炸:大爆撃』が制作されている。これは、第二次上海事事変後、日本海軍が実施した重慶爆撃とそれに対抗するtっ優語句人戦闘機パイロットを描いた抗日戦争の物語で、製作費3億元(60億円)以上で、配給・宣伝にも1億元(20億円)をかけているという。監督は中国の蕭鋒(Feng Xiao)だが、美術監督はメル・ギブソン、中国空軍の育成、アメリカ義勇隊の指揮に活躍したクレア・リー・シェンノート(シェノート)将軍を俳優ブルース・ウィリスが務める。このほか、韓国人を戦闘機操縦士に抜擢して、国際映画として話題性に富ませている。

写真(右):1943年3月10日に設立されたアメリカ陸軍航空隊の第14航空軍(Fourteenth Air Force)中国駐屯部隊所属と思われるカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)戦闘機:ノースアメリカン社の技術指導員だったジャック・カナリー(Jack D. Canary)の撮影。
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Curtiss P-40E, 41-5664 g
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Curtiss P-40E, 41-5664 g引用。

P-40D/E型戦闘機は、アリソンV-1710-39エンジンのためのラジエーター(冷却器)が大型化され、空気取入れ口も大きくなり、機首下面が延長された。P-40D型の戦闘機は、機首下面のラジエーター・空気取入れ口が小型なので、それ以後のD/E/N型との識別は容易である。

P-40E型の兵装は、ブローニング0.50口径12.7ミリM2機銃6挺に強化され、燃料タンクの防弾強化も施された。イギリス空軍(RAF)での機体名称は、P-40 C型までが「トマホーク」、エンジンをV-1710-39に装換、ラジエーターを大型化し、機首を延長したD型以降は「キティホーク」と呼ばれた。

写真(右):1943-1945年、中国あるいはビルマ、アメリカ陸軍航空隊第80飛行戦隊第85戦闘飛行隊のカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)戦闘機:中国駐留アメリカ陸軍航空隊のカーチスP-40E「キティホーク」(Kittyhawk)には、胴体後方側面にアメリカの国章を付けるようになった。:戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Curtiss P-40N, 80th FG, 85th FS, Burma or China, 1944-45, 194404340012引用。

太平洋戦争で、日本軍への本格的攻勢が求められる状況で、アメリカは、1942年7月3日、アメリカ義勇軍(AVG)を解散させ、指揮官のクレア・シェンノートは、残って戦うアメリカ義勇兵をアメリカ陸軍航空隊に編入し、第10航空軍隷下の中国航空任務部隊(China Air Task Force:CATF)を設けて、そこに編入させた。シェンノートとともに、アメリカ義勇軍(AVG)から、中国航空任務部隊(China Air Task Force:CATF)に編入したアメリカ義勇兵は、僅か5名だった。アメリカ義勇軍(AVG)「飛虎隊」フライングタイガーズは、蒋介石夫人宋美齢から賛辞を受け解散を惜しまれた。今後は、中国空軍の青天白日の国章ではなく、星とストライプのアメリカ航空部隊の国章を付けて、中国駐留のアメリカ軍機は飛ぶことになったのである。

写真(右):1944年、中国、アメリカ陸軍航空隊第51飛行戦隊第26飛行中隊、シャークマウスを描いたノースアメリカンP-51B「ムスタング」(Mustang)戦闘機は、アメリカ義勇隊(AVG)カーチスP-40戦闘機のデザインをそのまま継承している。中国駐留アメリカ陸軍航空隊は、胴体後方側面にアメリカの国章を付けるようになった。:戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
North American P-51B, 43-7058, 51st FG, 26th FS, China 1944.
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American P-51B, 43-7058, 51st FG, 26th FS, China 1944引用。

写真(右):1944年、中国、アメリカ陸軍航空隊第51飛行戦隊第26飛行中隊、シャークマウスを描いたノースアメリカンP-51B「ムスタング」(Mustang)戦闘機は、アメリカ義勇隊(AVG)カーチスP-40戦闘機のデザインをそのまま継承している。中国駐留アメリカ陸軍航空隊は、胴体後方側面にアメリカの国章を付けるようになった。:戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
North American P-51C, 51st FG, 16th FS, China, 1944-45 04340029.
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American P-51C, 51st FG, 16th FS, China, 1944-45 04340029引用。

写真(右):1944年、中国、アメリカ陸軍航空隊第51飛行戦隊第26飛行中隊、シャークマウスを描いたノースアメリカンP-51C「ムスタング」(Mustang)戦闘機は、アメリカ義勇隊(AVG)カーチスP-40戦闘機のデザインをそのまま継承している。中国駐留アメリカ陸軍航空隊は、胴体後方側面にアメリカの国章を付けるようになった。:戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
North American P-51C, 51st FG, 16th FS, China, 1944-45 04340028.
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American P-51C, 51st FG, 16th FS, China, 1944-45 04340028引用。

写真(右):1944年、中国、胴体着陸で不時着したアメリカ陸軍航空隊第51飛行戦隊第26飛行中隊、ノースアメリカンP-51B「ムスタング」(Mustang)戦闘機:胴体中央下面に冷却器(ラジエーター)を装備しているので、大破しているようだ。:戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
North American P-51B, 43-6724.
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American P-51B, 43-6724引用。

写真(右):1944年、中国、アメリカ陸軍航空隊第51飛行戦隊126飛行中隊、ノースアメリカンP-51B「ムスタング」(Mustang)戦闘機:胴体中央下面に冷却器(ラジエーター)を装備している。戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
North American P-51C, 51st FG, 16th FS, China, 1944-45 04340031.
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American P-51B, 43-6724引用。

写真(右):1944年9月、中国、桂林飛行場、アメリカ陸軍航空隊第23飛行戦隊第118戦術偵察中隊、ノースアメリカンF-6C「ムスタング」(Mustang)戦闘偵察機。P-51C「ムスタング」戦闘機に写真機を搭載し、主翼下面に増槽を搭載して長距離飛行を可能にした偵察型。:戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
F-6C reconnaissance version of the P-51C serving with the 118th TRS, 23rd FG in Kweilin, China, September 1944.
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American F-6C, 42-103506 04340005引用。

写真(右):1944-1945年、中国、桂林飛行場(?)、アメリカ陸軍航空隊第23飛行戦隊118戦術偵察中隊中隊(118th Tactical Reconnaissance Squadron)のノースアメリカンP-51C「ムスタング」(Mustang)戦闘偵察機闘:胴体中央下面に冷却器(ラジエーター)を装備しているので、大破しているようだ。:戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
North American P-51C, 118th TRS, China, 1944-45 04340004.
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American P-51C, 118th TRS, China, 1944-45 04340004引用。

写真(右):1944-1945年、中国、着陸態勢に入ったアメリカ陸軍航空隊第23飛行戦隊118戦術偵察中隊中隊(118th Tactical Reconnaissance Squadron)のノースアメリカンP-51C「ムスタング」(Mustang)戦闘偵察機闘:胴体中央下面に冷却器(ラジエーター)を装備しているので、大破しているようだ。:戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
North American P-51C, 118th TRS 23rd FG, China, 1944-45 04340010.
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American P-51C, 118th TRS, China, 1944-45 04340004引用。

写真(右):1944年末-1945年初期、インド、着陸態勢に入ったアメリカ陸軍航空隊第2戦闘飛行戦隊(2nd ACG:Air Combat Group)のノースアメリカンP-51D「ムスタング」(Mustang)戦闘機:胴体中央下面に冷却器(ラジエーター)を装備しているので、大破しているようだ。:戦闘飛行隊(戦闘機中隊)は12機から24機の戦闘機から成る戦闘単位で、2-4個の飛行隊(中隊)が集まって、飛行戦隊(航空群)となる。つまり、アメリカ空軍の戦闘単位は、上位から、1)航空軍(Air Force)、2)飛行師団 (Air Division)、 3)飛行団 (Wing)、4)飛行戦隊(Group)、5)飛行隊・飛行中隊(Squadron)となる。
Jack D. Canary Special Collection Photo
North American P-51D, 2nd ACG, India, late44-early45, Jack Canary 5.
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American P-51D, 2nd ACG, India, late44-early45, Jack Canary 5引用。

写真(右):1944-1945年、中国、ノースアメリカン(North American)B-25Gミッチェル(Mitchell)爆撃機:機首に砲を搭載した地上攻撃型。ただし、発射速度が遅いために、命中精度が低く、爆撃機搭乗員には不評だった。大砲よりも多数のブローニング0.50口径12.7ミリ機関銃による地上機銃掃射のほうが好まれた。1940年代にノースアメリカン社の技術指導員として中国に派遣されたジャック・カナリー(Jack D. Canary)が撮影した多数のカラー写真がサンジエゴ航空宇宙博物館に寄贈、保管、公開されている。
North American B-25G, China, 1944-45 04340039
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25G, China, 1944-45 04340039引用。

1938年1月、アメリカ陸軍からノースアメリカン社は中型爆撃機の試作依頼を受けて、NA-40を開発したが、審査では採用されずに終わった。そこで、その改良型の開発に着手し、NA-62を完成させ、第二次大戦勃発直前の1939年8月、アメリカ陸軍航空隊にノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機として制式された。当初、ノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機は、中高度からの水平爆撃を行うために、爆撃手の視界を確保できるガラス透明風防で覆われた機首「グラスノーズ」を採用していたが、低空からの地上攻撃が主流になると、機首の透明風防をやめて、密閉式として、そこに機関銃や火砲を装備するようになった。

写真(右):1944-1945年、中国、ノースアメリカン(North American)B-25Hミッチェル(Mitchell)爆撃機:B-25Gは火砲による艦船襲撃・地上機銃掃射型だったが、その機銃掃射力を向上したのがH型。G型は、機首に12.7ミリ機関銃4丁、75ミリT13E1砲1門だったが、機首側面に合計4丁の12.7ミリ機関銃を張出型に搭載した。また、後上方の12.7ミリ機関銃2丁装備の銃塔(ターレット)は、機体後上方から機体前上方に移動し、重量軽減のために機体後下方の銃塔は撤去され、機体側方に手動旋回式の12.7ミリ機左右各1丁が装備された。1943年5月にB-25H型試作機が初飛行している。
North American B-25H, China, 1944-45 04340037
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25G, China, 1944-45 04340039引用。

写真(右):1944-1945年、中国、ノースアメリカン(North American)B-25Hミッチェル(Mitchell)爆撃機:胴体側面に星条旗からとったアメリカの星記章を描いている。1940年代にノースアメリカン社の技術指導員として中国に派遣されたジャック・カナリー(Jack D. Canary)が撮影した多数のカラー写真がサンジエゴ航空宇宙博物館に寄贈、保管、公開されている。
North American B-25H, 43-4805, China, 1944-45 04340023
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25H, 43-4805, China, 1944-45 04340023引用。

ノースアメリカン(North American)B-25H爆撃機はミッチェル(Mitchell)と呼称されたが、こはアメリカ陸軍航空隊で艦船攻撃の有用性を唱えたウィリアム・ミッチェル准将に因む命名である。B-25の生産機数は1万機で双発爆撃機の中では最多である。B-25爆撃機の原型は、1938年から開始が始まり、試作機の初飛行は1939年1月29日だった。前金属製、引込み脚、中翼翼式、ライト空冷星形エンジン2基、爆弾倉は開閉扉付きで、双垂直尾翼の斬新な機体だった。

写真(右):1944-1945年、中国、ノースアメリカン技術指導員ジャック・カナリー(Jack D. Canary)撮影のノースアメリカン(North American)B-25Hミッチェル(Mitchell)爆撃機:胴体側面に星条旗からとったアメリカの星記章を描いている。
North American B-25H, China, 1944-45 04340026
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25H, China, 1944-45 04340026引用。

B-25が配備されたのは、アメリカ陸軍だけでなく、アメリカ海軍にも配備されている。その他、イギリス空軍、オーストラリア空軍などイギリス連邦、中華民国、オランダ、ソビエトも採用している。B-25爆撃機は、1942年4月、アメリカ海軍空母「ホーネット」飛行甲板に搭載され、空母「エンタープライズ」他の援護の下に、日本の本州沖に接近、B-25 陸上爆撃機16機による日本本土空襲を実施した。これが、1942年4月18日のドーリットル空襲である。

写真(右):1944-1945年、中国空軍の「青天白日」の国家記章を胴体側面に描いノースアメリカン(North American)B-25J型ミッチェル(Mitchell Mk. III)爆撃機:発射速度が遅く命中精度が低い機首の75ミリ砲を撤去して、発射速度が速い12.7ミリ機関銃ガンポッドを張り出した装備して、機銃捜査の威力を向上した。機種は、透明ガラス風防型とソリッド機銃装備型の選択が可能だった。爆撃機搭乗員には大砲よりも多数のブローニング0.50口径12.7ミリ機関銃による地上機銃掃射のほうが好まれた。
B-25J
Catalog #: 00818
B-25J 'Strafer' of 3rd Bombardment Squadron, Chinese American Composite Wing.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00818引用。

写真(右):1944-1945年、中国、ノースアメリカン(North American)B-25J型ミッチェル(Mitchell)爆撃機:1940年代にノースアメリカン社の技術指導員として中国に派遣されたジャック・カナリー(Jack D. Canary)が撮影した多数のカラー写真がサンジエゴ航空宇宙博物館に寄贈、保管、公開されている。
North American B-25J, China, 1944-45 04340038
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25J, China, 1944-45 04340038引用。

写真(右):1944年、中国、ノースアメリカン技術指導員ジャック・カナリー(Jack D. Canary)撮影のノースアメリカン(North American)B-25Jミッチェル(Mitchell)爆撃機の操縦桿(ハンドル)を握るパイロット:操縦席前に、光像式射撃照準器と予備のための照門が取り付けられている。
North American B-25J, pilot in flight over China, 1944
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25J, pilot in flight over China, 1944引用。

写真(右):1944年、中国、ノースアメリカン(North American)B-25Jミッチェル(Mitchell)爆撃機の操縦席からのエンジンナセルと大河:ノースアメリカン社の技術指導員として中国に派遣されたジャック・カナリー(Jack D. Canary)撮影の。操縦席右側の窓からの撮影。発動機は,ライト R-2600-92「サイクロン」空冷星形9気筒1700馬力エンジン2基で、ボア・ストロークは155.6 mm × 160.2 mm、排気量42.7 L、全長:1,576 mm、直径:1,397 mm、空虚重量:930 kg、出力: 1,750 hp/2,600 rpm/950m、1,450 hp/2,600 rpm/4600m。ソ連は、既に原型のライトR-1820空冷星形エンジンをシュベツォフ M-25としてライセンス生産していたが、ライトR-2600空冷星形エンジンも、シュベツォフ ASh-82として生産している。しかし、中国空軍は、エンジン国内生産はできなかったため、輸入に頼っていた。
North American B-25J, in flight over China, 1944 2
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25J, in flight over China, 1944 2引用。

写真(右):1944-1945年、中国、ノースアメリカン(North American)B-25J型ミッチェル(Mitchell)爆撃機:1940年代にノースアメリカン社の技術指導員として中国に派遣されたジャック・カナリー(Jack D. Canary)が撮影した多数のカラー写真がサンジエゴ航空宇宙博物館に寄贈、保管、公開されている。
North American B-25J, China, 1944-45 04340003
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25J, China, 1944-45 04340003引用。

ノースアメリカンB-25Jミッチェル(Mitchell)爆撃機は、爆撃手の視界を確保できるように、透明風防で覆われた機首「グラスノーズ」を採用、胴体下面の爆弾倉は、開閉扉がついている。機首前方左右側面には、ブローニング0.50口径12.7ミリ機関銃を張出式に左右各2丁ガンパックとして装備できる。機体は堅牢で、信頼性があるために、中国やニューギニアなどの未整備な飛行場でも十分に運用ができた。B-25 J型は、後期型で1943年12月より生産が開始された。

写真(右):1944-1945年、中国、ノースアメリカン(North American)B-25J型ミッチェル(Mitchell)爆撃機:1940年代にノースアメリカン社の技術指導員として中国に派遣されたジャック・カナリー(Jack D. Canary)が撮影した多数のカラー写真がサンジエゴ航空宇宙博物館に寄贈、保管、公開されている。
North North American B-25J, China, 1944-45 04340027
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25J, China, 1944-45 04340027引用。

写真(右):1944-1945年、中国、ノースアメリカン(North American)B-25J型ミッチェル(Mitchell)爆撃機:1940年代にノースアメリカン社の技術指導員として中国に派遣されたジャック・カナリー(Jack D. Canary)が撮影した多数のカラー写真がサンジエゴ航空宇宙博物館に寄贈、保管、公開されている。
North American B-25J, 43-3968, China, 1944-45 04340025
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives North American B-25J, 43-3968, China, 1944-45 04340025引用。

写真(右):1944-1945年、中国、雲南省、昆明の北東50キロ、養開航空基地(Yangkai Airfield)のアメリカ陸軍航空隊第491爆撃飛行隊(爆撃大隊)と思われるソリッド機首のノースアメリカン(North American)B-25H型ミッチェル(Mitchell)双発爆撃機:撮影者のタッシャーは、中国雲南省、昆明の北東50キロの養開航空基地(Yangkai Airfield)をベースに、アメリカ陸軍航空隊第491爆撃飛行隊(爆撃大隊)第341爆撃群の様々なタイプのノースアメリカン(North American)B-25爆撃機に乗って、日本軍と戦った。
Tascher_00117
William Tascher Special Collection
Tascher went to SDSU and learned to fly at Speer Flying School in San Diego. In December 1944 he was assigned to the 341st Bomb Group, 491st Bomb Squadron at Yangkai air base in China, flying combat missions against the Japanese in various models of the B-25 Mitchell and earning a DSC and Purple Heart for his service.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Tascher_00117引用。

写真(右):1944-1945年、中国、雲南省、昆明の北東50キロ、養開航空基地(Yangkai Airfield)のアメリカ陸軍航空隊第491爆撃飛行隊(爆撃大隊)第341爆撃群と思われるノースアメリカン(North American)B-25J型ミッチェル(Mitchell)爆撃機:撮影者のタッシャーは、中国雲南省、昆明の北東50キロの養開航空基地(Yangkai Airfield)をベースに、アメリカ陸軍航空隊第491爆撃飛行隊(爆撃大隊)第341爆撃群の様々なタイプのノースアメリカン(North American)B-25爆撃機に乗って、日本軍と戦った。
Tascher_00116
William Tascher Special Collection
Tascher went to SDSU and learned to fly at Speer Flying School in San Diego. In December 1944 he was assigned to the 341st Bomb Group, 491st Bomb Squadron at Yangkai air base in China, flying combat missions against the Japanese in various models of the B-25 Mitchell and earning a DSC and Purple Heart for his service.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Tascher_00116引用。

写真(右):1944-1945年、中国、雲南省、昆明の北東50キロ、養開航空基地(Yangkai Airfield)のアメリカ陸軍航空隊第491爆撃飛行隊(爆撃大隊)第341爆撃群と思われるノースアメリカン(North American)B-25J型ミッチェル(Mitchell)爆撃機:撮影者のタッシャーは、中国雲南省、昆明の北東50キロの養開航空基地(Yangkai Airfield)をベースに、アメリカ陸軍航空隊第491爆撃飛行隊(爆撃大隊)第341爆撃群の様々なタイプのノースアメリカン(North American)B-25爆撃機に乗って、日本軍と戦った。
Tascher_00115
William Tascher Special Collection
Tascher went to SDSU and learned to fly at Speer Flying School in San Diego. In December 1944 he was assigned to the 341st Bomb Group, 491st Bomb Squadron at Yangkai air base in China, flying combat missions against the Japanese in various models of the B-25 Mitchell and earning a DSC and Purple Heart for his service.
Subject: The Flying Tigers - China
Title: R.T. Smith Autographed AVG (rt) with Charles Older
COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Tascher_00115引用。

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