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三星堆遺跡

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<三星堆遺跡:蜀の長江文明>

ここでは,成都通過の際に訪れた三星堆遺跡を解説します。世界の四大文明の一つとして、中国の黄河中流・下流域の中原に栄えた「黄河文明」があげられますが、これは三十年以上前の説です。現在では、長江(揚子江)流域にも「長江文明」があったことが明らかになっています。ここでは、その中で三星堆文化について、博物館所蔵品を中心に解説します。
当研究室へのご訪問ありがとうございます。当サイトには,2007年4月16日以来,Counter名の訪問者があります。
写真などを引用する際は,URLなど出所を明記するかリンクしてください。
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◆三星堆遺跡:青銅器時代における四川省成都平原「蜀」の長江文明

1.中国四川省成都北東30kmの広漢市に紀元前1600年頃の長江文明三星堆遺跡があり、大規模な博物館には、多数の青銅器、玉器、金製品などが展示されている。

写真上左:成都北東40kmにある広漢(广汉)市(人口58万人)。中央広場前には、城壁が復元されている。成都からバスで10元(170円)。ここから博物館まではタクシーで23元。ただし、成都発で遺跡前を通るバスもある。
写真上右:三星堆博物館は、遺跡の一角に建設された大規模な史跡公園である。1992年8月起工、1997年10月竣工、敷地面積20ha、館面積7000平方m。『古城古国古蜀文化陳列』を主題とし、三星堆遺跡及び2つの大型祭祀遺跡から出土した陶器、玉器、骨器、金器、青銅器などの千点以上の貴重な文物を展示。(『人民中国』引用)
博物館入場料は大人82元、小人42元。中国の大規模な博物館の入場料は、50元以上が普通で、小さな博物館でも10元(160円)する。しかし、私学新任教員の月給2000元+、農民の日当50元と比較すると高額である。

2.「三星堆遺跡」は、1986年に二つの祭祀坑から金杖、人頭像、立人像、神樹、玉器、象牙などが出土し、長江文明の遺跡として、世界的注目を浴びた。つまり、20世紀の末の新発見であったために、一般には余り知られていない。しかし、2001年には、あらたに成都南部「金沙遺跡」が発見され、三星堆文化が継承されていたことが明らかになった。

写真右:三星堆遺跡の玉器出土状況。

1929年春,現地の農民燕青保と兄弟三人が自宅近くで水路整備をしている最中、精巧な玉石器を発見した。このことが周囲に伝わって、古美術商・骨董品屋もやってきた。

1931年春、広漢で宣教していた英国牧師が玉石器を見て,すぐに華西(华西)大学博物館の戴谦和教授に贈った。

1934年3月15日,華西大学葉博物館長のアメリカ人と副館長林名均教授が考古発掘をすることを決めた。月亮湾で発掘を開始したが、これが中国川西平原の考古学的序幕といえる。しかし、日本との戦争、国共内戦もあり、三星堆が重要な遺跡であると考え、本格的な発掘調査が行われるのは、戦後、それも中華人民共和国が成立後である。


地図右:三星堆遺跡の地図。三星堆遺跡からは、多数の玉製祭礼用武器が出土した。1929年に初めて玉器が発見されたが、出土状況によっては、まとまって隠されたかごとく埋設されている。儀式に使用して埋めたのではなく、一時的に隠匿しようとして土に埋めておいたのではないか。

1953年、西南博物院長冯汉骥氏等が三星堆一带は古代文化遺跡である可能性があるとして、発掘を再開する報告を行った。

1970年より,三星堆と月亮湾一带にレンガ瓦工場が建設され、古代文化遺跡は破壊の機器に陥った。

1960年、四川大学歴史系考古研究組が全面発掘を行った。

1980年5月、四川省考古隊が三星堆遺跡発掘保存調査をし,龍山(龙山)時代の3000年—4000年前の家屋跡18基,墓葬4基,数百件の陶器、石器、玉器文物と数万片の陶片を採集した。

1982年、中国国家文物局が三星堆を考古発掘することを決定。

1986年、四川省考古所の陳(陈)安隊長、陈显丹带副隊長の下で、三星堆の大規模発掘調査が開始された。商代の大型祭祀坑から大量文物が出土した。その中に,奇怪な青銅面具、精巧な玉器など世界的な宝物があり,発掘調査は世界を震撼させた。 (三星堆遗址>发掘的历程引用)

1986年に大量の大型青銅器と象牙が出土した三星堆の蜀文化遺跡は、等身大の人物彫像10余件があり、貴族や奴隷もいたようである。三星堆の栄えた時代は、紀元前1600年から紀元前1046年の商(殷)時代とされる。

3.従来の定説では、中国の黄河中流・下流域、すなわち中原黄河文明がさかえ、それが現在の中国文明の発祥の地とされてきた。しかし、三星堆遺跡の出土品や都市遺跡など、長江文明の存在が、近年、注目され、多様な文化・民族の交流・対立の中から、中国文明が起こってきたことが明らかになった。


地図左:三星堆のある四川省の位置。「広島県と四川省の友好の窓」引用

西側に広がるチベット高原が平原に変わる成都周辺は、河川(長江上流に相当)も流れ込んでおり、肥沃な土地で「四川盆地」を形成する。四川盆地の西部が「成都平原」で、内陸部ではあるが、肥沃な土地である。そこに青銅器時代の三星堆遺跡が位置する。

四川省は中国の西部に位置し、青海・チベット高原、横断山脈、雲南・貴州高原、秦巴山地、四川盆地にまたがり、地形は西部が高く、東部が低くなっている。四川省は中国の西南部に位置し、四川盆地のほとんど全部を占め、周囲は山で、温暖・湿潤な気候である。総面積は48.5万平方km。東側は四川盆地と山地で、西側は高い山、高原である。(中国の地方概況:四川省参照)

1984年9月17日。「日本国広島県と中華人民共和国四川省との友好提携の締結に関する協定書」署名
1.日本国広島県と中華人民共和国四川省は,日中政府共同声明と日中平和友好条約の精神及び平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定の四原則にのっとり,両県省の友好協力関係の発展と両県省民の相互理解と友好の増進のために,公式に県省友好提携を締結する。
2.双方は,この県省友好提携の成立を新たな出発点として,平等互恵の原則に基づいて,農業・工業・通商貿易・科学技術・文化・教育・観光などの広範な分野にわたり,積極的に多様な形態で交流と協力を行い,両県省の繁栄と両国民の友好協力関係の発展を促進するために共に努力する。
3.両県省の行政及び各界各層の代表は,必要に応じて両県省の友好交流と協力事項について,具体的に協議を行う。

この協定は、産業と行政だけでなく、日本への中国人留学生受け入れによる大学興隆を企図している点が、教育県ひろしまの主張とともに興味深い。広島県立美術館が中国文明展覧の一環として「三星堆」の文物を展示したのは、1998年である。
当時、朝日新聞、テレビ朝日、中国国家文物局、四川省文化庁などが加わり、平成10年(1998)年に日本の四美術館で『三星堆 中国5000年の謎−驚異の仮面王国展』が開催されている。世田谷美術館(4月25日から7月20日)、京都市美術館(7月28日から9月6日)、福岡市美術館(9月12日から10月18日)、広島県立美術館(10月27日から12月6日)である。


地図右:中国三国時代の蜀、魏、呉の位置;蜀漢(蜀)は『三国志演義』の劉備が建国し、諸葛亮、関羽、張飛がいることで名高い。蜀漢は221年 - 263年の間栄えた。
三星堆は、三国時代の蜀漢よりも1200年以上古く、紀元前1600年-紀元前1046年の商(殷)時代に栄えたと思われる。これが、古代蜀で、蚕叢・柏灌・魚鳧・杜宇・鼈霊などの王名が伝わる。紀元前316年、秦の将軍司馬錯に滅ぼされた。つまり、蜀とは四川盆地に位置する国や部族を、黄河流域の中原に起こった「中華」王朝から見た総称である。

成都平原は、山岳部と平原部の境目に当たり、さまざまな民族が交易していたようだ。蜀の時代、治水と農業が結びついて、経済的に反映している。

川西平原と青海・チベット高原の縁辺、中国西部の山岳地帯を発した長江の支流岷江は、しばしば氾濫していた。

紀元前277年、秦の国は、六国(斉、楚、燕、韓、趙、魏)統一を目指し、蜀の豊かな資源を動員しようとした。秦の昭王(始皇帝の曽祖父)は、李氷を蜀郡の太守に任じ、8年がかりで紀元前256年、岷江の分水と治水、土砂排出のために、都江堰水利工程を建設させた。四川省・都江堰、青城山:最古の水利施設と道教の故郷引用)

4.商(殷)時代の蜀にあった。長江文明「三星堆文化」の特徴は、仮面・人像・神樹などの大型青銅器が出土したことであるが、玉製品や土器も多数出土している。これらは、黄河中流・下流域の中原の黄河文明あるいは近郊の長江(揚子江)流域の出土品と類似している。四川盆地にあった古代の蜀は、周囲から孤立した文化ではなく、交易によって文物を吸収・輸出していたようだ。また、治水事業によって、天賦の水と土をいかした肥沃な大地に立脚し、「天府之国」と呼ばれるようになった。

蜀は「天府の国」といわれる。諸葛孔明の“隆中对”で『三国志·諸葛亮伝』では“益州険塞,沃野千里,天府之土,高祖因之以成帝業。”とある。

開けた四川盆地には、西部山岳地帯から長江が流れ下ってくる成都平原からはじまる。そこに、都江堰水利工程がある。2200年前、李冰Li Bing)・李二郎の親子は、長江上流の岷江の治水を行った。李冰は、戦国時代の著名な水利工程技術専門家で、秦昭王51年(前256年)頃蜀郡守に就任した。子息とともに成都北部の都江堰に水利施設を設計した。これによって、長江支流の岷江の洪水を防ぎ、灌漑用水に用いようとしたのである。成都平原が「天府之国」と呼ばれるようになったのは、このような治水事業による土地の肥沃化・農業生産の拡大によるところが大きい。


写真右:都江堰(人民網引用);都江堰市街地西方の岷江中流にある。成都から西北に57kmに位置する。四川盆地が、天府の国といわれるのは、治水に成功して、水利を確保した肥沃な土地に恵まれたからである。これは、今から2200年前に始まった水利工事である。

1974年、都江堰市岷江(外江)で東漢時代の建宁元年(168年)の碑銘が入った李冰石像が発見された。当時、李氷親子を記念する「崇徳祠」が建設された。宋代に李氷が、元代に李氷の息子・二郎が「王」と崇められるようになると、崇徳祠は「二王廟」と改名された。二王廟は、後に道教の李氷の治水経験をまとめた六字訣「深淘灘、低作堰」(灘を深く淘い、堰を低く作る)が刻まれており20世紀になって、小平が「造福万代」と、江沢民が「創科学治水之先例」と賛を贈ったという。

 岷江は、氾濫し洪水を引き起こしていたが、李冰父子は川の流れを外江と内江に二分した。外江は長江に合流させて、水量調節し、内江は四川盆地へ、水を引く。このように、岷江を二分して、四川盆地へ内江を通すために、山を穿ち、外江に堰を造成したのは、青銅器時代である。治水技術を生かしたインフラ整備によって、四川盆地西部に位置する成都平原の開発が促された。蜀への旅参照)


写真左:都江堰水利工程(www.dujiangyan.org 引用);天府の国といわれるのは、治水に成功して、水利を確保した肥沃な土地に恵まれたからである。これは、今から2200年前に始まった水利工事である。

四川省都江堰は、2200年以上の歴史を持つ治水史跡で、長江上流で最大の水量を有する岷江の中流に位置する。頭首工は、昔の姿を残しており水量調整、農業灌漑、土砂排出など機能を発揮している。都江堰頭首工は、魚嘴、宝瓶口、飛沙堰の三つの主要施設により構成され、水流の自然の力と地形を巧に利用して、洪水調節、灌漑、土砂排出の役割を数千年にわたって機能していることである。1982年に全国重点文物保护单位に、2000年11月に世界文化遺産に登録された。中国・都江堰―世界最古の治水利水施設が直面するダム建設問題参照)

魚嘴(分水堤)は、岷江中流の最高点にあり、岷江を内江と外江に分ける。内江の河床は外江より低いことから、渇水時には岷江の水を6割耕地に引き入れ、増水時には4割しか引き入れない仕組みである。曲がった魚嘴によって、砂の少ない表面の水が内江に、砂の多い底の水が外江に流れる。

飛沙堰(ひしゃえん)は、内江の河床より2.15メートル高く、内江の水位を維持する役割を果たす。名前どおり飛沙堰は砂や石などを外江に飛ばし、内江が滞りなく流れるようにする。また、大洪水に見舞われた場合、飛沙堰は自動的に崩れ、大量の水を岷江に流れ戻すことが可能になる。

 宝瓶口は、玉塁山で切り開かれた山峡で、幅20m。内江から流れてくる水は、宝瓶口に流れ込むが、増水時には、飛沙堰に水量調節され、水位を一定の水準に維持する。(china radio international:都江堰参照)

5.長江文明「三星堆遺跡」の特徴は、大型青銅器であるが、日常生活は、石器、土器が多用されていた。また、大量の玉器が出土したが、これは大規模な祭祀が行われていたことを示唆している。神権政治の側面の強い国だったようだ。


写真上:三星堆遺跡出土の石器と石製の皿。


写真上:三星堆遺跡出土の土器。

成都平原は、四川盆地に位置する海抜400〜750メートルの沖積・洪積平原である。この平原は中亜熱帯に属し、温暖かつ湿潤な気候にめぐまれた肥沃な大地である。この地域が蜀と呼ばれるのは商代に始まり、その名は甲骨文に見える。紀元前12世紀ごろから現在の成都周辺は蜀の中心として繁栄していたと思われる。

しかし当該地は度重なる大洪水にみまわれ、したがって、発見された先秦時代の遺跡数は少なく、日本と同じ密度で土器編年を樹立することは困難である。しかも各文化を代表する標式遺跡の調査はまだ部分的で、公表された土器型式の内容も不十分である。(大脇潔「成都平原における先秦時代の土器編年と実年代」引用、早稲田大学総合研究機構:長江流域文化研究所所収))


写真上:三星堆博物館に展示されている日常生活用の土器。青銅器は、祭祀道具であり、日常生活は土器・石器製品が普及していた。

三星堆博物館は、四川省広漢市(成都市から約40km)の三星堆遺跡にある。遺跡総面積は12平方kmで、1998年、国務院より「全国重点文物保護単位」に指定。世界文化遺産にもリストアップされている。(:中青旅四川:三星堆博物館引用)


写真右:足の三足陶製容器。三足陶器の表面飾りの目図案は黄河中流流域の中原に栄えた二里頭文化と同じ、発生年代は二里頭文化の方が早い。そこで、三星堆文化は、黄河中原にあった二里頭文化を継承したのではないかと考えられている。


成都平原の先秦時代の文化は、古い順に宝墩文化・三星堆文化・十二橋文化・上汪家拐遺存の四段階に分類することができる。宝墩文化は、上限 4500年前で、中原の竜山文化期に相当する。成都平原では現段階で最古の文化で、新石器時代晩期に属する。当時の人々は定住して農業を営むほか、採集・漁労も行っていた。住居は木を骨組とし、それに泥を塗って焼き固め、壁としていた。また、土を突き固めて築いた城壁も出土している。生産工具は主に磨製石器であった。このような宝墩文化は中原の文化にも影響をもたらしている。

次の三星堆文化は、青銅時代に属する。上限は3700年前で、黄河中原の二里頭文化の第四期ないし殷墟の第二期に相当する。三星堆文化には二里頭文化の影響も見られる。

三星堆文化の典型的な遺跡である三星堆遺址からは、銅・金・玉・石などを材料とする礼器・神器などが出土した。規模の大きな城壁も発掘されている。

三星堆文化に続いて、中原でいう殷墟第三期、つまり殷末周初には、成都平原では十二橋文化が栄えた。この時代の特徴は、卜甲が多数出土していることで、これは中原の商周文化の影響による。(王毅・蒋成「成都平原先秦文化初探」引用、早稲田大学総合研究機構:長江流域文化研究所所収)


写真上:三星堆遺跡出土の玉製首飾。

「三星堆」の名称は、三箇所の土盛りが3つ星のように並んでいたからで、風水の上でも重要な場所となっている。1986年に発見された一号坑は商(殷)代中期に、二号坑は商(殷)代後期に属するといわれるが、商の前の未確認王朝「」までさかのぼるかもしれない。



写真上:玉製の棒。祭祀に使用したと思われる。

三星堆遺跡では城壁跡もみつかっており、南北約2km、東西約1.6〜2.1kmの城壁は、土を下からつきかためる版築(はんちく)によって築かれていた。この城壁は後期文化に属し、前期文化層からは確認されていない。(三星堆遺跡引用)


写真上:三星堆出土の玉刀。刃先が二股に分かれている。


写真右:三星堆遺跡出土の祭祀用玉製武器。

長江下流に栄えた良渚文化((紀元前3300?〜紀元前2200?)は、1936年、浙江省余杭市良渚(りょうしょ)鎮で、400近い遺跡が発見されたことから名づけられた。玉器が特色で、絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造が行われていた。稲・豆・ゴマ・落花生などの穀物も発見されてる。(長江文明:中国まるごと百科事典引用)

良渚文化(5000年前)の玉器の種類は,玉、玉壁、玉佩、三叉形玉及び刺し連ねた玉ネックレースなどがある。紅山文化(5000年前)は、方形玉器は少なく、動物形玉器と円形玉器が特色である。器としては、玉竜、玉獣形飾り、玉箍形器などがある。良渚、紅山古玉の大部分が大中型墓穴から出来るが、この事から新石器時代玉器は祭典と亡骸に捧げられた除いて,玉には、又邪気を打ち消し,権利、財産、貴賎を象徴するなどの功能があったようだ。


写真右:三星堆遺跡出土の玉刀。

河南省鄭州の商城は、商王朝の初期の都城といわれ、下七垣文化は二里頭文化の特徴である青銅器や玉器や儀礼にかかわる土器などを吸収した。王朝の都城である「偃師商城」は、商王朝が中原の文化(夏王朝?)を駆逐して作ったものである。

下七垣文化は青銅器、玉器ともに未発達だったが、二里岡文化は高度な青銅器・玉器をもっています。その後、下七垣文化が二里頭文化を吸収したが、これは族的な結びつきで形成された技術者の集団があって、彼らが強制的に王朝間を移動させられたと考えられている。BC1384、18代王の般庚は安陽に遷都する。これが殷墟で、甲骨が出土した。これにより、殷墟後の商王朝が詳細までわかるようになった。(遺跡に見る商史引用)

三星堆文化(紀元前2800?〜紀元前850?)は、1986年、四川省広漢市三星堆で遺跡が発見されたが、約2km四方の城壁都市を築いていた。金器・青銅器・玉器・象牙・子安貝など文物が出土し、遺物には大鋸や青銅器、人の像が多く特異である。古代の四川盆地では、蚕叢・柏灌・魚鳧・杜宇・鼈霊(開明)の王朝が出現し、太陽神を祀っていたとされる。抗争のために紀元前850年ごろに滅び、新たにこの地方に拠点を作った勢力が「蜀」、「巴」という氏族国家の始まりともされる。(長江文明:中国まるごと百科事典引用)


写真上:三星堆遺跡出土の玉刀。

三星堆遺跡から出土した青銅器、玉器、土器は、中原や長江中・下流域に類似しており、これらの地域と関連があったと考えられる。特異な出土品は、青銅の人像の顔に被せられた黄金面や2.6mの大型立身像などで、ここに注目が集まるが、玉器など祭礼道具は、黄河流域の中原など他地域と類似している。
中国玉器参照


写真上:玉戈は槍の穂先であるが、玉製の祭祀用具。二つは同型だが、玉石の材質が異なる。矛は、木の棒を差し込むが、戈は身の棒を割って、ビスで留める。

紀元前3000年代は、黄河中・下流域の龍山文化のほかに、黄河上流域の斉家文化、長江中流域の屈家嶺・石家河文化、(長江下流域の良渚文化が並存し、それぞれ自立的な発展をたどりながら、地域間の交流が行われた。こうして、地域をこえた共通性が現れるようになり、広域文化として、これを北京大学の厳文明氏は「龍山時代」と称した。


写真上:三星堆遺跡出土の玉棒と玉斧。再使用に使用したものと考えられる。

夏王朝を生み出したと思われる二里頭文化の文物は各地で発掘されている。飲酒用の土器、儀礼用の大型有刃玉器など非日常的な儀礼器が大半を占めるが、二里頭の儀礼もこれらの土器・玉器とともに各地に伝わったと考えられてる。

逆に他の地域から二里頭にはタカラガイや銅の原料などが伝わっている。遠くは遼寧・山東・南海から、はるか離れた二里頭まで伝わっているのであって、古代にあっても、遠隔交易が盛んに行われていたといえる。

他方、山東・湖北で産する豆形土器は、中国西北部の山西龍山文化に伝わり、良渚文化で産する玉・玉璧も山西龍山文化に、さらに陝西龍山文化・斉家文化に達している。山東龍山文化で産する玉璋・玉斧・玉刀も山西龍山文化に伝わっている。その一方で、西北部から河南・山東地域には、鬲形土器や羊の飼育、卜骨の風習が伝わっている。 (⇒古代中国地域間交流引用)


写真右:三星堆遺跡から出土した玉斧。祭祀用
中国では斧は武器であると同時に、斬首を執行する刑具でもあった。そのため斧は将軍の権威の象徴ともなった。斧で敵を討ち、味方でも反逆者を処刑できるという意味で、生命与奪の権威を示した。大型の斧を、特に鉞といった。(玉製品参照)

言い伝えでは、夏王朝時代、山東省の二里岡文化圏辺りに夏王朝に支配されていた「有メイ氏」部落があり、夏王の暴政から逃げるために揚子江を遡り、三峡を通り、今の四川省三星堆辺りに亡命したという。周囲の部落と連合して三星堆で地域国家を形成し、三星堆文化を想像したとも考えられる。(:中青旅四川:三星堆博物館引用)

商王朝の文化は、BC2000年頃、中原の龍山文化の後を受けて河北省に発展した下七垣文化に始まる。そこで、下七垣文化は、先商文化とも言われる。黄河流域の中原に夏王朝と考えられる二里頭文化が発展した時代も、河北省一帯は下七垣文化が続き、両者は共存の関係にあったようだ。

紀元前16世紀頃になると二里岡文化が中原に起こり、二里頭文化に取って代わる。二里岡文化が初期商王朝となった。二里岡文化と二里頭文化は系統的に異なるもので、中原において文化の交替が行われたことが窺われる。(遺跡に見る商史引用)

玉製品は、斧、刀、矛など武器もあるが、貴重な玉製品なので、祭礼用のものであろう。古城壁遺跡の確認、宮殿遺跡の発掘、数え切れない文物の出土なども重要だが、特に、1986年に2つの殷(商)代の大型祭祀遺跡が発見され、千を超える貴重な文物が出土した。


7000年前、南方の河姆渡文化の先住民は石を選んで器を造る過程で、意識的に拾った美石を飾り物に作製して中国玉文化の序幕を開いた。4000-5000年前の新石器時代中末期、遼河流域、黄河上下、長江南北で、中国玉文化が花開いた。

青銅器の出現時期は、メソポタミアが最も早く紀元前4000-3000年頃で、錫鉱石が全く産出しないエジプトの青銅器出現は紀元前2000年頃であった。インダス文明は、紀元前2500年、黄河文明は、商(殷)代の紀元前1600頃に青銅器が出現している。


写真上:玉石の原石。金属のようなもので切り取った後が明確に残っている。翠玉は輝玉類(きぎょく)に属するナトリウムとアルミニウムの珪酸塩で、雲南省からミャンマーの産地で産出する。純度の高いものは白色だが、クロームが含まれると、美しい翠緑色を呈する。これを「翠」と呼ぶ。(→中国の玉器


写真左:三星堆遺跡から出土した磨かれた玉石。

三星堆は、古代の蜀の国とも推測されている。『史記』でも蜀の国は詳しくは記されていないが、秦の恵文王の紀元前316年、司馬錯によって滅ぼされて、秦の版図に入ったという。(長江文明引用)

商代(約前2000年〜前1066年)は中国で初めて文字が使用された時代である。商代早期は玉器の発見が少なく,礼器、儀仗、道具、生活用品、飾り物と雑器6種類に使途が分かれていた。(中国の玉器引用)

中国の正史では、四川成都平原にあった蜀は、春秋戦国時代に中原とかかわった。それ以前、中原の夏・商(殷)・[西]周時代の蜀の歴史は不明である。夏・殷時代に相当する三星堆は、中原と四川の文明の交流を示すようだ。


写真上:三星堆遺跡から出土した玉製の腕輪

紀元前1600-1000年頃の商時代の三星堆遺跡は、古代蜀国の遺跡とされる。第一期は成都平原の龍山時代から夏王朝までの遺跡群で宝墩文化と呼ばれる。第二期は商王朝時代の大規模な城都と青銅器に代表される時期、第三期は商王朝末期から周代初期の成都の十二橋文化の時代である。三星堆遺跡があった古代蜀国は「氏族部落よりも発達した、安定的で独立的な政治体制」を持っており、古代中国の中心であった中原(黄河中流域)からは離れている長江流域であるが、古代国家の一つであった。三星堆文明は、長江上流の古代文明を代表するものであり、多元的一体化が中国を形成したといえる。(歴史を歩く:仮面王国三星堆参照)


三星堆遺跡から出土した玉製の腕輪

漢代許慎《説文解字》によれば、玉,石の美が五者にあるという。五とは,玉の持つ五つの特性である。古人の注目は玉であるが,真玉(角閃石)以外にも蛇紋石、緑松石、孔雀石、瑪瑙(メノウ)、水晶、琥珀、紅緑宝石など彩石玉がある。

長江下流域の良渚文化の玉器は種類が多く,典型器としては、玉、玉璧、三叉形玉器などがある。良渚玉器と比較して,紅山文化は、方形玉器であるが,動物形玉器と円形玉器が特色である。典型器としては、玉龍、玉兽形飾、玉櫛形器がある。紅山文化の玉技術は巧妙で、"神似"が紅山古玉の最大的特色である。(千姿百态 中国玉赏引用)


写真上:三星堆遺跡出土の青銅製腕輪(左)と巨大な玉壁(右);日本にも国宝「穀壁」がある。周漢代の玉器のうち、皇帝が諸侯に与えたものが「穀壁」で、日本列島で出土した唯一の玉壁である。硬玉製で直径33.3僉―杜1.6圈9掌融代に串間市王ノ山で出土した。(西都原考古博物館/自遊人引用)
河南博物院にも、三星堆遺跡出土と類似した玉壁、青銅器、陶器が展示されている。(河南博物院 6参照)
現代でも古玉製品の人気は高く、骨董品店のwebで販売されている。前漢時代の双鳳凰耳玉壁佩( 高さ5,2cm×横 7,3cm)は 13万円である。(玉製品参照)

伝説上の夏代玉器としては,良渚文化、龍山文化、紅山文化の玉器があり、殷商玉器に引き継がれた。河南から二里头遺跡で出土した七孔玉刀がその例である。
商代文明では重厚な青銅器が有名で,商代早期の玉器は多くはない。商代晚期の玉器は、安陽の殷墟妇好墓から出土した。ここからは、玉器755件,用途は礼器、儀仗、工具、生活用具、装飾品、楽器の六種である。商代には、青銅彞器のような碧玉簋、青玉簋などの実用器皿が出現した。動物、人物、玉龍、玉鸚鵡などもある。(千姿百态 中国玉赏引用)

蜀王本紀(前漢時代)と華陽国志(東晋時代)によれば、蚕叢(さんそう)、柏灌(はっかん)、魚鳧(ぎょふ)、杜宇(とう)、鼈霊(べつれい)が、秦による征服まで蜀国の王として交替していたとされる。(三星堆引用)

6.長江文明「三星堆文化」の特徴である、大型青銅器は、二つの祭祀坑殻出土した。小さな穴に切断して投げ入れ埋設した状況には、」様々な仮説が唱えられ照りう。第一は、敵対勢力による破壊の跡であるとの説。第二には、祭祀を行い、呪術のために祭器を埋設したという説。しかし、鳥飼研究室では、敵対勢力による略奪を恐れた三星堆の支配者たちが、持ち運ぶことのできない宝物を、急遽、地中に埋設し隠匿したと考える。


写真上:三星堆の象牙埋没坑(一号坑)の復元。
穴の中から大量の象牙が出土した。南方と交易して象牙を入手していたようだが、なぜ一箇所にまとめて埋没したのか。敵から宝物を隠すために一時的に土野中に埋めて隠したようだ。祭祀の一環として、生の象牙をまとめて埋めるとは考えにくい。



写真右:三星堆出土の青銅製の頂尊人像:人物像の高さ15mm。 人物像の下にある座は山形。人物像上半身は裸で、下半身はスカートを穿いて、帯で留めている。頭上の尊には、酒が盛られ、神前に捧げるかのようである。

黄河文明とされた仰韶・竜山文化では、農耕や狩猟を中心として村落が形成された。仰韶文化では彩色された土器が、竜山文化では高温で焼かれた黒い土器が使用された。稲作が中心であった長江文明の最盛期として、屈家嶺文化、良渚文化が挙げられる。玉器の多量な出土があり、黄河文明との交流も見られた。時代が確定していないが、四川省の三星堆遺跡はこの頃に成立し、独自の文化を持っていた。日本は縄文時代中期で、東北地方、北海道南部で大規模集落が形成されていた。

紀元前3300年前のエジプト王ツタンカーメンは黄金のマスクと棺で有名です。大量の金を使った王の棺が4000年前に作られている事実から、意識的に金が集められたことがわかります。金や銅は酸化されにくいので自然界に単体で存在できる。黄金色の金属粒子は目を引き、それが高温で熔けて、冷えて固まることは土器を作る過程で発見されたと思われる。火で焼いた土器が出現したのと同時に銅器が使用されている。

金は天然にはほとんど存在しないので、人類が利用した最初の金属は銅であったと考えられる。自然銅は火山などでできた硫酸銅が水に溶け、それが微生物などの働きで還元され、川の砂などに混じっていたようだ。この銅を掬い取って分別し、炉で溶かして銅のインゴットを作ることができる。(金属・・・硬さと柔軟性引用)。


写真上:三星堆遺跡出土の青銅神樹基盤とそのクローズアップ。

殷(商)代では祭祀として、西周では礼器あるは楽器として用いられ。「饕餮文」(とうてつもん)という造形的に優れた固有の文様とともに、「龍文」「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が編み出されたのもこの時期である。(中国美術−青銅器参照)


写真左:青銅器「尊」。高さ44.5cm、口径41.8cmの青銅の3頭の牛、6羽の鳥をかたどっている。酒を入れた容器。三星堆遺跡から出土した青銅器や玉器、土器に非常に類似したものは、中原や長江中・下流域に多くみつけることができる。 つまり、三星堆と周辺地域との交流も後にいくほど多く見られている。

その例として、三星堆の尊(口頸部がラッパ状に開いた器)に類似のものが河南省安陽市出土の尊や、長江下流の安徽省阜南市出土の尊にある。尊はもともと二里崗・殷墟期の中原に発達したものである。三星堆の龍虎尊は、安徽省阜南市の尊がいっそう変形したものと考えられ、長江下流域から三星堆に伝わったと考えられる。

器形では、阜南市の尊が二里崗期の特徴を示しているのに対して、三星堆の尊では口頸部の開きぐあいがにぶくなり、圏足部が高く変化している。どちらも虎が人の頭を食べている図が描かれているが、安徽省阜南市の尊では人の頭の一部が食われているのに、三星堆のものでは頭が完全に飲み込まれている。三星堆の尊の模様はくずされていて解説文を読まないと、何を表現しているかわからなかった。阜南市の方は写実的である。(三星堆(さんせいたい)引用)

神前に酒を捧げる際に、青銅器の尊が使用されたと考えられる。


写真右:青銅器「尊」。酒を入れた容器らしい。

<青銅器の種類>(中華本舗:吉祥獣参照))
1.器としての青銅器
鼎(かなえ):大型の器で、3本あるいは4本の足で支える蓋のない器。果実や肉などを盛り付ける容器と考えられる。『鼎の軽重を問う』として、国家の威信を示す存在でもある。

猷(ユウ):縦に細長く、もち手と蓋がついた器。液体を運ぶものと考えられる。

爵(シャク):3本の足で支え、上部に注ぎ口と紐を括る突起がある器。酒を注ぐ、暖めるために用いられたと考えられる。

豆(トウ):広い面積を持つ薄い板から垂直に一本の足を伸ばし、その上に蓋のついた器。食物を運び、捧げるのに用いたと考えられる。漢字「豆」はこの器をかたどった象形文字。

尊(ソン):酒を入れる容器で、円錐型や動物(犀、虎、牛など)型がある。

このほか、敦(トン)、盂(ウ)など多くの種類が存在する。

2.楽器としての青銅器
編鐘:大小多数の鐘を支持枠につるして、数オクターブの演奏ができる。

銅鉦(鐃):ガラガラのように開いた口を上に向けて使用。

3.武器としての青銅器
戈、矛、剣など。


写真上左:三星堆遺跡出土の青銅製の壺。 写真上右:祭礼用青銅器(青铜人身形器)。高さ44.6cm。用途は不詳だが、祭礼用と思われる。


写真上:三星堆遺跡出土の青銅製の鈴。


写真上:三星堆遺跡から出土した青銅製の鈴。右のような鷲型の鈴も出土した。

写真右:三星堆遺跡から出土した実用的な青銅製鏃。

中国の青銅器時代は紀元前2,000年ごろに始まり、夏(か)、商、周(しゅう)の三代を経て、紀元前3世紀(戦国時代後期)まで続く。商・周時代の青銅容器は彝器(いき)とよばれ、世界の青銅器文化の中で最も発達したものと評価されてる。
 商(殷)代の彝器は主に祖先神を祭る宗廟の器で、それは祭器であり、礼器でもあった。しかし、周代に入ると祖先祭祀が形骸化し、代わって諸侯、卿大夫、士という身分秩序の象徴として所有する礼器の数が重要視され、また儀式用の音楽を奏するために楽器も発達した。(奈良国立博物館「中国古代青銅器」引用)

四川省の中央には四川盆地が位置するが、その西側には青蔵高原東部の山岳地帯がひろがっている。先秦時代の四川盆地には巴蜀文化が展開するが、隣接する青蔵高原東部にはこれとは異なった文化が分布している。両者は異なった文化ではあるが、明らかに交流も存在しており、巴蜀文化の実態を明らかにするめには青蔵高原東部の古代文化を把握することが不可欠である。青蔵高原東部の古代文化研究については文献資料がほとんど無いこともあり、考古学による検討に頼らざるをえない。(小澤正人「四川省西部雅長江流域における古代文化の編年」引用、早稲田大学総合研究機構:長江流域文化研究所所収))


写真上:小さな座人像(三星堆跪坐人像)。高さ14.6cm。右の膝をついた像は、歯を食いしばっている。逆立つ髪から必死の形相の奴隷ようにみえる。

青銅は、銅 に約10%のスズ をまぜた合金で、銅にスズを加えると硬さがまし,熱で溶け安くなる。つまり、鋳型(いがた)に流しこんで青銅器をつくるのである。青銅器製造の技術は紀元前3000年頃メソポタミアで発明された。中国の青銅器は,紀元前2500-2000年頃に二里頭文化時代には制作されている。(青銅器-wikipedia参照)。

台湾大学電子学位論文服務胡川安 Chuan-An Hu(1995)「由成都平原看中國古代從多元走向一統的過程--一個社會史的分析」要旨
商末周初の時代、中原には読むことのできる文字があったために歴史が把握しやすいが,考古学的発掘の成果に配慮すれば,甲骨文字のいう「蜀」は成都平原ではない。しかし,考古学的材料からは、商末周初の時代、中国北方政治権力が成都方面に移転し同時に,成都平原が北方に影響を与えたといえる。つまり、不同的変化があった。
成都平原の文化は,特殊性と普遍性があり,成都平原は、「多元走向一統的過程」にあった。中国古代文明の形成は、成都平原も一翼を担っており、「中原中心」の従来型理解だけでは不十分である。「中國」の秦漢定刻の形成過程で成都平原の関連を閉める材料は豐富であるが、考古学的材料としては不完全である。「中国化」の過程の一環として。成都平原の地域研究を進めることで,古代中国の多元的現象をより深く理解できると思われる。(論文引用終わり)


写真右:三星堆遺跡の一号坑。(北京环球文苑资讯科技有限公司引用):一号坑からは、金製仮面・金杖など金製品4点、青銅器178点、玉器や琥珀製品129点、象牙13本、子安貝63個など計420が出土した。三星堆文化の三星堆祭祀坑は紀元前1900年-紀元前1250年頃と推測される。(web東奥:古代蜀の謎/よみがえる四川文明展参照)

三星堆遺跡で、最初に発見された「一号祭祀坑」は、縦4.5m、横3.5m、深さ1.5mで、青銅製人頭像、黄金仮面、金杖、象牙など多数が埋められていた。そこから30mの「二号祭祀坑」では、青銅製神樹、大型の青銅立人像、巨大な青銅仮面が出土した。

二箇所の坑に、宝物が埋められていた理由については、「祭祀儀礼の場面で用いられたと考えられ、黄河文明に匹敵する高度な文明だったことがわかる。出土した器物のほとんどが一度焼かれ、破壊されていることなど、多くの謎に包まれており、現在研究が進められている。」

その後、約2km四方の巨大な城壁も発見され、多くの人々が集った、古代蜀の時代の一大都市であったことが明らかになっている。(よみがえる中国四川文明参照)

出土品は、破壊されているが、徹底した遺棄ではない。また、焼かれているというが、原型が判読できる。したがって、三星堆を攻撃、占領した敵軍が、これらの宝物を墓石、遺棄したとは考えにくい。そもそも、青銅も象牙も貴重な宝物であり、それを一箇所に埋めて遺棄するというのは不思議である。そこで、学者にも、魔力を持った敵の祭祀用の文物を、忌み嫌って、破壊したと考えるものもいる。

しかし、破壊し、埋めてしまえば、青銅製の祭祀用文物の持つ魔力は、消えてしまうのであろうか。魔力を打ち消す柔術を施してから、青銅や象牙を戦利品とすればよいのではないかとの疑問がわく。

三星堆の人々の祭祀が、ここで行われ、その一環として、青銅製の仮面などを埋めたという考えもある。しかし、祭祀の一環として、生の象牙を埋めたり、貴重な青銅器や金を大量に破壊し、埋めたとは、考えられない。祭祀であれば、年に1回であっても、継続して行われるはずである。ただ一度の埋設祭祀ということは無いであろう。


写真左:三星堆遺跡の二号坑。(福島民報社引用):二号坑は、縦2.5m、横5m、深さ1.6mの小さな穴で、ここから、縦目仮面・立人像・金面をつけた人頭像・神樹など青銅器735点、金器61点、玉器486点、トルコ石3点、象牙67本、象牙製品124点、子安貝約4600個が出土した。(web東奥:古代蜀の謎/よみがえる四川文明展参照)

鳥飼行博研究室の見解は、敵に急襲された三星堆の支配者たちが、宝物を穴を掘って、生めて隠匿したという説である。巨大な穴を掘る暇は無いので、最小限にとどめ、そこに様々な形状の青銅器を原形をとどめたまま埋設することは困難である。そこで、修復可能な範囲で小さく分断して、穴に投げ入れていった。その慌しい埋設過程で、青銅器などが破壊された。

二箇所の坑は、「祭祀坑」名づけているが、隠し場所だったと思われる。場所も、城都の居住区や手工業区のある河側ではなく、人目につきにくい山側である。人力で運搬できる数十キロに分断して、青銅器を運んだが、ひそかに隠すためには、安置してある場所から近く、人目につきにくい場所に埋設、隠匿したであろう。

二つの「祭祀坑」からの出土品には、商中期と後期と時代適才があるといわれている。しかし、これは二つの坑が異なる時代に掘られたことを意味しない。隣接する地域に二つの穴を同時に彫ったのであって、埋設したものを二分したために、宝物の作成年代が、異なったためと思われる。貴重な宝物は、一つの文化にあって長らく継承されており、様々な年代に作られた青銅器や陶器があっても不思議ではない。それら宝物を地中に隠す際に、種類ごと、あるいは安置書ごとに、二つの埋設坑を彫って、埋めたと考えられる。

祭祀説の言うように、百年以上はなれたと時期に別々に祭祀坑が掘られたと考える必要は無いであろう。何十年もたってしまえば、どこに何を埋めたのかは判読しにくくなってくる。祭祀用の穴であれば、その上に、目印となる建造物が建っていたはずであるが、それが無い。「ただの穴」で、祭祀用の宝物を埋設する「祭祀」が行われたとするには無理がある。やはり、二つの坑は、祭祀用の坑ではない。貴重な宝物を地中に埋める祭祀坑であれば、埋めた後に、坑の上に記念建造物を立てるはずである。

埋められた祭祀用宝物を自ら焼いた理由は、魔力という神格をもつ文物を土に埋めるという非礼を犯さないため、魔力を開放したためであろう。これなら、万が一敵に戦利品とされても、宝物の魔力を奪われない。完全に溶かしてしまうのではなく、魔力を抜く程度に火にかけたと考えられる。

三星堆の支配者たちは、ひそかに宝物を坑に埋設し、隠匿したが、彼らが埋められた祭祀用の宝物を奪還することはできなかった。そこで、宝物は、埋設、隠匿されたまま3000年が経過してしまった。

青銅神樹(青铜神树)


写真左:大型の一号青銅神樹(青铜神树)
;基盤には龍が控えていて、枝には鷲のような鳥が祖先崇拝トーテムのように飾られている。三星堆に埋設され、破損していた神樹を組み立て復元することができた。

三星堆から合計6本の青銅神樹を出土、しかし埋蔵前に破壊されており復元されたのは大小2本のみ。青銅神樹は高さ396cm 、上部の部品があれば高さ500cmに達してたと考えられる。

青銅神樹が三段に分かれ、毎段から各3本の枝が伸び合計9本の枝となる。各枝の先端にそれぞれ花の蕾が一つ彫られており、蕾の上に鳥が一羽ずつ立っている。合計9個の枝と9羽の鳥が止まっている。青銅神樹の茎に沿って下っている一匹の龍も彫られている。(三星堆博物館参照)

神樹は大型の一号神樹と中型の二号神樹に分けられる。大型神樹は樹幹,樹の底辺と樹の側の飛龍の3つの部分からなり,高さは最大で3,96m,樹幹の長さは3,84m,中国の上古神話では,最も影響のある神木は建木,扶桑と若木とされている。
《淮南子・地形訓》都広は天地の中にあり,建木が都広にあり,天梯子の作用を持つ,西方の宇宙樹に似ている。“若木の端に十の陽があり,形は蓮華のようで,華は光で,光は天地を照らす”

《山海経・海内南経》によれば、神樹で建木の形状を“その形は牛のようで,引くと皮あり,纓のようで,黄蛇”。その葉は大きく果実は硬く,名を建木と言う,《山海経・海外東経》には,“湯谷の上に扶桑あり,10個の日に浴び,黒歯の北にあり,水中に居,大木あり,九個の日が下枝にあり,一個の日が上の枝にある”と描述している。(中国歴史紀行★三星堆遺跡★ 引用)


写真右:青銅神樹の基盤に控える龍

大型神樹と中型神樹との間の違い:中型神樹では、神と使者としての鳥と人とによって構成されていたと言ってよい。これに対して、大型神樹では神と鳥とのほかに、桃形果実の精が働き、人に代って獣性をもった竜が守護の役割りを担うようになり、人は神樹の場からは退場している。(伊藤道治(2003)三星堆」『関西外国語大学研究論集』第77号所収引用)

中国清朝の宮殿には、恐竜の化石が何体かあったようで、自然史博物館にも、古くから所蔵されてきた完全な海竜の骨格標本が展示してある。古代の中国人の中には、巨大な恐竜化石を目にした事のある人もあり、なかには、王族へ恐竜の化石を献上した人物もあったであろう。本物の竜の骨を目にした人々は、目には見えないが、生きている竜が実在すると信じたと思われる。


写真上:三星堆遺跡出土の青銅製神樹の一部分

三星堆遺跡代二号坑からは、神樹8本分相当の青銅器破片が出土したが、壊れたり、焼かれたりしていた。


写真上:三星堆出土の中型の青銅神樹:鷲のような猛禽が祖先崇拝トーテムのように飾られている。破損していた神樹を組み立て復元することができた。


写真右:三星堆二号坑出土の神樹上立鳥:猛禽の用でもあるが、サイチョウのような南方の鳥ように見える。

 注意すべきものは、大型神樹上の鳥である。同型式の鳥は少くとも9件が確認されている。体形は猛禽と同じであるが、眼は完全な円眼であり、鳥の表情は、三角眼の猛禽よりはるかに穏やかなものにしている。これらの鳥は一般に神と人間との間を結ぶ使者と考えられている。単なる使者と言うより、人との間により強い関係が考えられていたのかもしれない。

大型神樹の鳥は、桃形果実の精をうけていたが、飾り羽根や冠羽がない。鳥の高さは20cm、翼が破壊されているが、残部の形から飛翔の形をしていたと考えらる。より高くより早く飛ぶことによって神に近づくものと考えられる。その際、果実の精をうけていたことが神を誘うことを効果的にしたと考えるべきであろう。

一方、中型神樹の鳥はひらいた2枚の葉のうちの上の葉に立ち、直接果実には接していない。自ら果実の精をつけて神に近寄ったと言うより、人から托された願いの言葉を神に告げ、神の降臨を誘ったものであろう。この場合、鳴き声によって神に語りかけたものであり、人と同じように言葉に重点がおかれていたと考えられる。下顎骨や下階の骨の強調は、人や鳥の力の誇示でもあった。

大型神樹の鳥は、三星堆文化のなかで桃形の果実に対する宗教的な意識が人びとの間に形成されるようになった時期のもので、桃の精の力が有力になって来たために、言葉そのものの重要性が薄れて来たのかもしれない。(伊藤道治(2003)三星堆」『関西外国語大学研究論集』第77号所収引用)


写真右:三星堆近郊で後の時代に作られた青銅製神樹。鳳鳥文(寧郷県黄材出土)。神樹を引き継いでいると考えられる。後の時代になって、神樹と同様の青銅製樹木が作られていることは、文化は伝承されたことを意味していよう。 

 中国の古書『呂氏春秋』類別篇に「金柔錫柔。合両柔則為剛」と記述されている。の金とは銅のことであり、「銅は柔かく、錫も柔かいが、この二つの柔かい金属を混ぜれば、固い金属となる」という意味である。つまり、銅と錫の合金である青銅が硬度の高い合金であることを正確に理解していたのである。

 青銅器は、武器、祭器、工芸品として使用されて、青銅器時代を現出した。しかし、銅鉱石に比べて錫鉱石の産地が限定されていたために、青銅製品は高価で貴重なものであった。支配者層は、祭器・武器・装飾品として使用できたが、一般庶民は木製品、石器、土器を、農業や日常生活に用いる場合が多かった。(銅・青銅−前編引用)

羌(きょう、チャン)は中国西北部のチベット系民族でタングート、蔵人、番子などとも呼ばれる。羌は古代より中国北西部の青海で遊牧生活を営んでいた。その「羌」字の象形は、牧羊する人を指していると言われる。周の文王に協力して殷打倒に大功を上げた姜族は、羌族の中の一部族であるとも言われる。(引用)


写真右:三星堆近郊で後の時代に作られた青銅製樹木。神樹を引き継いでいると考えられる。

蜀族がもともと蜀山、即ち現在の岷江上流の岷山山脈及び??山脈一帯に居たことを示している。この地区は先秦時期以来、羌系の民族(チベット・ビルマ語諸族)の集住地となった。蜀族の来源は羌系民族と関係がある。

三星堆の考古文化から推論すれば、蜀族は、新石器時代晩期までにはすでに成都平原に遷っていたものと思われる。蜀族が成都平原に遷った後、次第に新たな族集団を形成していった。

伝説中の蜀王である蚕叢の事跡は岷江上流一帯に多く存する。漢代に設置された蚕陵県、即ち現在の阿?州茂県北部の?渓はまさに歴史の伝承と追憶につながる。三星堆の祭祀坑から出土した青銅製の人頭像には眼球の突出したものが多数あり、これはおそらく「蠶叢縦目」の反映であろう。また、三星堆遺址から出土した巨大な青銅製の鳥や黄金杖の魚や鳧の紋様、及び陶器の魚の紋様、鳥頭像などはみな伝説中の王である魚鳧と関係があるのであろう。これはまた、?羌系より出た蜀族がすでに三星堆文明の主要な創造者となっていたことを示している。

蜀の境域は広くなったけれども、その中心はなお四川省西部一帯にあった。蜀国境内には、なお他の民族が存していた。?・僚・?・?はその中でも人口の比較的多い民族であった。この他に青衣・?・?・冉・輊などの民族が存した。研究によれば、上述した民族は基本的に二つの大族系統に分けられるが、これらの中で、?・僚・?・?等の諸族は古代の濮越系民族、即ち現在のチワン・タイ語系諸族に属し、?・青衣・?・冉・輊などの諸族は古代の?羌系民族、即ち現在のチベット・ビルマ語系諸族に属する。中国先秦時期の蜀族及び蜀国の王室は?羌系民族の出自であり、蜀国統治下の多くの民族のなかには?羌系民族のほかに濮越系民族が存する。(李紹明「中国先秦の蜀と羌の関係を論ず」引用、早稲田大学総合研究機構:長江流域文化研究所所収)

7.「三星堆文化」の大型青銅器のなかでも、人頭像、立人像、仮面は、祭祀者、支配者、奴隷などを表現しているらしい。大型の青銅器は、多数の人々に見せて、権威を示す、呪術の力を誇示する役割があったと考えられる。


坊主頭の青銅製人頭像。
頭蓋の丸い形を残したもので冑を付けたのではないかと考えられている。頭髪をどのように始末していたかは不明であるが、後頭部で可成り大きな髪飾りを管で髪にとめているので、頭頂・髪から後部の髪を後頭部で髭にしていたかもしれない。顔には面をつけていたとする説もあるが、面の縁と考えられる線は、側頭部の髪を剃りあげた時の生え際の線とも考えられる。頬は痩せ、頬骨の摺曲の線も鋭角的に尖った線となり、眼尻はあがり大きく見張る。鼻頭は三角で高く、口は固く閉じ、下顎は強く張る。首も太く、胸も厚く、がっしりした肩であったろう。眉・眼の縁には黒色を塗り、耳孔・鼻孔・閉じた上下の口唇の間には朱砂を塗る。左右の耳の上から後頭部にかけて冑の後部と思われるものが残る。以上のような造型から見て、武人の像であり、数は1件なので、権力者か大神官の侍衛であったとすべきであろう。(伊藤道治(2003)三星堆」『関西外国語大学研究論集』第77号所収引用)

分段鋳造技術、溶接技術などの最高青銅鋳造技術も巧みに用いて青銅樹や青銅大立人の製造に使っている。三星堆青銅器の成分は、錫と鉛の成分が中原地区の青銅器より多く、青銅の流動性が高くて、中原青銅器より多種多彩な異形の青銅器が製造できた。(三星堆博物館参照)


髷を結った人物頭部の像。4800年から2800年の間に「黄河文明」と同時に「長江上流文明」が存在し高度な青銅器文明が栄えていたことが明らかになった。従来の古代中国の青銅器は、鼎(てい)・尊(そん)・爵(しゃく)などの祭祀用儀礼容器、戈(か)・剣・矛(ほこ)などの武器、鐘(しょう)・鐸(たく)など楽器であったが、神や人の姿を立体的に鋳造することはなかった。三星堆は、人物像も多く、青銅器文明としては異質であるとも言える。(やっぴらんど≫楽しい世界史≫中国史≫三星堆─中国5000年の謎・驚異の仮面王国引用)。


写真上:三星堆遺跡二号抗出土の右は坊主だが、左は冠を被った人頭像。

中国先秦時期の長江上流域に当たる南西部には、蜀と羌という2つの族集団あるいは国が分布していた。国家建設を繰り返した蜀は、四川盆地を中心に、巴と併せて巴蜀と称された。羌は蜀よりも更に広範に分布し、西南から西北地方に分布していた。蜀・羌と、黄河流域の中原にある殷・周王朝は、相互に影響しあっていたようだ。

蜀国の中核民族の蜀族は、蜀王を輩出した。史書には、蚕叢(さんそう)、柏灌、魚鳧、杜宇、開明という五王が記されている。黄帝の子である昌意が蜀山氏の女子を娶り、その後に繁栄して蜀族が興隆したという。


写真上:三星堆遺跡第二号抗出土の冠を被った人頭像。
三星堆文化の人びとの祖神か天神を象徴するような人頭像。回字文をつけた平頂の冠をいたいただく。後頭の髪は耳の中程の高さで切り揃え、編髪はない。回字文の冠の上にさらに大きな変形獣型の冠を載せる。大立人像にも回字文冠が使用されているので、人頭像は大立人像と同じく最高位の人物に近侍する地位にあったと言われている。人頭像の眼は大きく開かれているが、眼尻が上に切れあがった立眼ではなく、鼻梁は短く横に張って、鼻頭も横に拡がった低い形で、下顎と上顎が幾らか前にせり出ている。顔の下半は寸づまりである。これに対して、大立人像は、鼻頭も高く大きな三角形で、顔の下半もゆったりしている。顔面の高さも18cmあるのに比べ、この人頭像は12cmしかなく、大立人像の嚴粛雄大な風貌には及ばない。(伊藤道治(2003)三星堆」『関西外国語大学研究論集』第77号所収引用)



同一の仮面が、複数発見されている。ちょうど人の顔と同じくらいの大きさである。死者にかぶせたような仮面である。


写真上:三星堆遺跡から出土した死者のような仮面。

三星堆文明は、前2千年紀の四川盆地西部の成都平原に生まれた初期国家であり、周辺・遠隔地域との交流のや、山間部に隣接した盆地的な平原に位置するという地理的生態的環境の側面、水利の便利さをいかした文明だったようだ。(南山大学人文学部人類文化学科 西江清高 ( ニシエ キヨタカ)引用)

現在、成都(せいと、Chéngdū: チョントゥー)は、中華人民共和国四川省の省都で、副省級市。面積12,300平方キロ、総人口1059.7万人、市区人口601.56万人。西部の子山岳地域から河の流れ込む豊かな成都平原にあり、古くから「天府の国」と呼ばれてきた。

歴史時代には三国蜀漢の都となり、五代十国時代には前蜀、後蜀の都となった。唐代から蜀錦を産出するため錦城の別称を持ち、芙蓉の花を市花とするところから蓉城の別称ももつ。成都市区から30キロの広漢市では数千年前の謎の仮面王国三星堆遺跡が発掘されている。

宋代に成都の商業が発展し、以後四川あるいは西南中国の中心地となる。明代には四川布政使が駐在し、清代の1654年、四川布政使司が四川省に改称され、正式に四川省が成立した。


写真上:三星堆遺跡二号坑から出土した祭祀用と思われる仮面。表裏の凹凸が対照的である。


写真右:三星堆遺跡二号坑から出土した青銅仮面:今から約3000〜5000年前ごろの遺跡とされる四川省・三星堆遺跡で発掘された青銅製の大型仮面が2005年4月、1年にわたる修復作業を終えた。この仮面は、青銅製仮面としては世界最大とされる。メーデー連休に一般公開される予定だ。仮面の発掘は1986年で、高さ約80センチ、幅138センチ、重さ約100キロ。(「人民網日本語版」2005年4月14日 引用)


<青銅器の誕生>
銅鉱石の融点である摂氏1083度以上の高温を保つには、炉、鞴(ふいご)が必要で、溶けた銅を精錬する技術が不可欠である。銅製品は、石器に比べて欠けにくく、破損した場合には、溶かして何度でも再利用可能であった。耐久性、可塑性、利便性に富み、再生可能な金属の特性を生かして、様々な青銅器が製造された。

銅が石器に比べても劣る点は、硬度が低いことであった。そこで、銅鉱石に他の鉱石を混ぜたり、溶けた銅にいろいろな物質を混合したりして、錫(すず)鉱石を混ぜるとはるかに硬度が高まることに気づいた。こうして、青銅器製の道具・武器が製造されるようになったと思われる。銅は錫を混ぜることによって銅のみよりも硬度を増す。さらに融点が低くなるので溶かして加工しやすくなる。(青銅器-神々の紋様と変遷引用)

 人類がつくり出した最初の人口金属である青銅は、銅と錫の合金で、混合比は、錫10%程度で好ましい。しかし、青銅時代の製品の錫含有量は、3〜33%程度で必ずしも一定していない。青銅という名は銅が錆びると緑を呈することから名づけられ、出土品の青銅器の多くは、鈍い緑色である。 しかし、完成したばかりの青銅器は、金色で、磨き上げられた青銅器は、眩く光り、人々に畏敬の念を起こさせたことであろう。これが、青銅器の祭器が多い理由である。(青銅器-神々の紋様と変遷引用)

8.「三星堆文化」の大型青銅器である縦目仮面は、『山海経』『華陽国志』に登場する「直目正乗」の養蚕の神、蜀侯「蚕叢」(さんそう)と考えられている。

三星堆遺跡第二号抗出土の青銅縦目仮面(青铜纵目面具)

写真上:三星堆遺跡第二号抗出土の青銅縦目仮面(青铜纵目面具)

写真右:青銅縦目仮面の裏側;突出した目の裏側は、深く窪んでいる。裏から見ることも視野に入れて製造したようである。

三星堆関連文献考証には、次の記述がある。
『山海経』大荒北経には、「有山名曰齊州之山、君山、(上夫夫下鬲)山、鮮野山、魚山。有人一目,當面中生。一曰是威姓,少昊之子,食黍。有繼無民,繼無民任姓,無骨子,食氣、魚。
西北海外,流沙之東,有國曰中䡢,顓頊之子,食黍。有國名曰魑屐M犬戎國。有神,人面獸身,名曰犬戎。
西北海之外,赤水之北,有章尾山。有神,人面蛇身而赤,直目正乗,其暝乃晦,其視乃明,不食不寢不息,風雨是謁。是燭九陰,是謂燭龍。 」
最後の文章:「西北の海外、赤水の北に、章尾山(鐘山)有り。この山には神が居り、顔は人、体は蛇、全身は真っ赤、その目は「直目正乗」である。この神が目を閉じている間は世界は闇となり、目を開けば昼となる。この神は食べず、寝ず、息をせず、ただ風雨を操り、九陰を照らし出すので、これを燭龍という。」

「直目正乗」とは、東晋の郭璞によれば「直目とは縦目のこと」、畢元は「乗の字は恐らく音が同じ朕の字の意」で目を縫い合わせて縦1本にした様子、と解釈しているという。


写真右:三星堆遺跡第二号抗出土の青銅縦目仮面(青铜纵目面具)。飛び出た目は千里眼、大きな耳は順風耳を表現。仮面の高さ65cm,幅138cm,飛び出した目玉の直径13.5cm,目玉の長さ16.5cm,大きい左右の長耳にイヤリング付ける穴がある。

『華陽国志』蜀志には、「有蜀侯蠶(蚕)叢其目縦始稱王死作石棺石槨国人従之故俗以石棺槨為縦目人冢」とある。「蜀侯である蚕叢の目は「縦」であり、王の死に石棺石槨をつくり、人々はこれに倣うようになり、それ故に石棺石槨を「縦目人塚」という。」

蚕叢(さんそう)とは、古代蜀国の(伝説上の)王名であり、更に柏灌(はっかん)、魚鳧(ぎょふ)、杜宇(とう)、鼈霊(べつれい)と続きます。この「蚕叢其目縦」の解釈は、古代蜀の国であると思われる三星堆から「出目」の「青銅縦目仮面」が発掘されたことでで、目が前に飛び出している様子を表している、との説が出されるようになった。(三星堆関連文献考証引用終わり)


写真右:三星堆遺跡第二号抗出土の帯冠縦目仮面(たてめかめん)ただし、撮影時に本物はシンガポールに貸し出し中なので模造品。

『華陽国志』(東晋時代)によれば、古代の蜀(四川周辺にあった国)には、「蚕叢(さんそう)」「柏潅(はっかん)」「魚鳧(ぎょふ)」といった王がいたとされ、たとえば「蚕叢」については、「その目縦なり」とあり、「大型縦目仮面」はこの蚕叢を表現したと考えられる。


三星堆文化の人びとに敵対し征服された人達の土地神の璽を表現したものであり、そうしたものまで採り入れて一つの宗教的な世界を構成していたと考えるべきであろう。そしてこの神壇においてはじめて神と人との間に「性」が顕在化したと言える。そして、降臨した太陽神の霊に酒食を供応し、さらには夜伽などをもし、太陽神の精霊を身に受けると考えられる女性は別に存在していたと思う。例えば女性像ではないかと言われる一号坑の人頭像が象徴する人物である。この人頭像の頭頂は、冠か頭髪をつけたと考えられるが、一号坑出土の人頭像のうち顔面の大きなものであり、重要な人物であった可能性が強い。伊勢内宮に仕えた斎内親王に近いような性格の人物であったのかもしれない。 このK1からは飲酒器と考えられる尖底蓋が出土していることも、その人物の性格と相応ずると言えよう。二号坑からは出土していない。もしこの考えが認められるならば、K1は女性祭祖者を中心とした坑であり、この坑出土の金杖(K1:1)は、太陽神の霊を象徴するものであり、これを捧持したであろう女性の祭杞者の神聖な立場も示したと考えられる。これに対して大立人像が出土した二号坑は、男の神官や奉仕者たちのものであったのではなかろうか。このように考えて来ると、当時の太陽神に対する祭祖は、女性による秘儀としての祭儀と、男性による公開の祭儀とに分かれ、後者は社会全体の禍福に関する政治的な意味をもつようになったと考えられる。 (伊藤道治(2003)三星堆」『関西外国語大学研究論集』第77号所収引用)


写真上:三星堆遺跡出土の龍ついた青銅器。竜柱形器の高さは41mm。上ある竜の頭には、羊のような丸まった角がついていおり、頭には耳がある。長い髭があるのはヤギによく似ている。神羊あるいは神山羊のようにみえるのは、成都西部の山間部では、牧羊が行われていたからか。と呼んでいる。細長い体が蜥蜴に似ている。体には菱形紋様、鱗がある。 (三星堆ミステリー:文物の紹介3.青銅竜、蛇引用)。

9.三星堆遺跡の二つの埋設坑からは、祭祀用と思われる様々な形状の大小青銅器が出土した。


写真上:三星堆出土の青銅円盤(青铜太阳轮);銅太陽輪は、自然崇拝やアニミズムと関連があるとされる。しかし、太陽を示しているという確証は無い。円形自体が美的感覚を呼び起こしたのかもしれない。


写真上:三星堆遺跡第二号祀坑出土の青銅大立人像(青铜立人像);青銅器製で全高262cm、青銅大立人の高さは172cm 、台の高さ80cm 、冠高10cm。


写真上:青銅立人像:身体は空洞で、重さ500kg。商代末期と推測される。人像の高さ172cm。底座高さ90cm。全体の高さ261cm。1986年四川省広漢市三星堆遺跡二号祭祀坑から出土。

青銅大立人は鼻が高い、眉毛が太い、耳が大きい、左右の耳にはほかの仮面と違ってイヤリングの穴はあいていないが、穴のような窪みがある。腕には湾曲したものを持っていた。祭祀長や王のような高貴な人物を写した青銅器と考えられる。


写真右:青銅立人像
三星堆出土の青銅製の立人像は、大中あるが、二号坑出土の大立人像は高さ約70cm余の台座の上に、身長180cm(冠を含む)の直立した人像である。胴体は細長く、腰や足は太く、脚も大きく、跣である。左右の腕・手は大きく誇張され、両腕で何かを抱くような姿勢である。手は親指とその他の4本指で円筒をつくり、指の筒の内に何かの祭祀用具を握っていたのではないかと考えられている。左右両手の円筒はずれているので、両手で一つのものを持つのではなく、それぞれ別個の器具をもったかもしれない。(湾曲したものを持っていたのかもしれない。)

眼は大きく見開き、眉も太く、鼻梁は眉間から真っ直ぐに通り、鼻頭は大きな三角形で高い。耳も大きく、雲雷文をつけ、左右の耳たぶには耳飾をつける孔が一つずつある。口は一文字に引きしめられ、左右両端は下に折れ、下顎の骨格は前にせり出し、顔面に緊張感を漂わせている。

頭上には回字文冠をつけ、その上に変形させた獣面をつけ、獣面の眉間上部には円形の太陽を象徴するハロの形の文様をつける。後頭部の生え際は耳の中段下にあり、回字文冠の下の毛髪のあった部分に、斜めに管をつけていた孔が残るので、後頭部で髪を束ねていたと見られている。衣服は、一番上側に片袖衣をつける。中間の半袖の短衣は、袖口、柾口が見えるに過ぎない。内衣は最も長く、文様は裾に簡略化した獣面がある。上衣の左前・后の身頃に2対4件の変形竜文が上下2段に配されている。この竜は口から長い紐状の舌を垂らし、その先端は幾らか上に巻き、足の爪は球形に表現されている。右の身頃には、横に倒した獣面がある。

裸足であるが、足首上部に3介の錫をつけてもいるので、高位の人物であることには間違いない。 頭像・人面・立人像の瞼は、上下いずれの瞼も眼球に接する所、即ち瞼の縁が薄い皮膚のようになっている。実際の人間の瞼は、縁の内側に捷毛が生えていることもあって、幾らかふくらみをもっている。下顎を前方に突き出し、上下の歯を食いしばるようにすれば、下顎に力がはいり、骨が目立つ。このような表情には、何か特別の意識が働いていた筈である。(伊藤道治(2003)三星堆」『関西外国語大学研究論集』第77号所収引用)


写真上:銅象頭冠人像は数十センチの小型の立像。星堆遺跡から出土した大型の立人像と銅象頭冠人像の二つを並べると、同一の人物のようにも見えるが、冠は若干異なっている。

漢代司馬遷は<史記・西南夷列伝>の中で言う,“西南夷”の中の髪を,お下げにする者と髪を上げる者は,その民族は“氏”に帰属,これが巴蜀西南の外蛮夷である。巫祝又は国王兼祭司の上層人物は冠帽子を被る。これが蜀族の形象である。髪を上げる,髪を下げる者は蜀族以外の夷人である。

中原の華夏族から見ると蜀族は西南辺境地帯に居住していた早くから夏,商の時期から蜀と中原王朝は交流があった甲古文の記載によれば商王朝が蜀に射手を3000人派遣して,武丁時期に商王は軍隊を征調して蜀を討伐したとある。(中国旅行:三星堆遺跡引用)

10.「三星堆文化」の金面人頭像、金杖のような金製品は中原の遺跡からはほとんど出土していない。呪術を行う際に、光り輝く金を効果的に使用したと考えられている。


金面人頭像

三星堆出土青銅器管見金面人頭像三星堆出土品のなかに金製品が数多くあったことは、この遺跡の大きな特色であった。一号坑からは、金製の面1件と木製の杖を巻くようにして貼った金の薄板の装飾が注目を集め、二号坑からは4件の金面を貼った青銅製の人頭像のほか、玉器の璋や魚の形をした金の極く薄い板状の装飾品や面などが出土した。装飾品には多くに小孔があり、何かに吊り下げたと考えられる。

殷周時代の文化の中心とされる黄河中流域(中原)では、金製品は少数しか発見されていない。殷の都であった安陽地域でさえ、小さな金箔片が少数発見されたにすぎない。他の古代文明では金がよく使用されているので、金が殆ど使用されなかったことが中国古代文明の特色であるとさえ考えられていた。(伊藤道治(2003)三星堆」『関西外国語大学研究論集』第77号所収引用)。

殷晩期の時代の三星堆遺跡から、人面をはじめ金製品が出土したことは、世界の注目を浴びた。また、このことで、黄河流域の中原中心の中国観が修正され、長江上流域も中国古代文化の重要な一翼を担っていたことが認識されるようになった。


写真右:三星堆遺跡第二号抗出土の金面銅人頭像(黄金面罩)

人頭像4件に金面を貼ったの目的はなんであろうか。頭像群の中の地位の高さを表現したとする考えもあるが、円頭の人頭像は1件だけで、金面人頭像の2件を上位者とすることは必ずしもできない。もし上位者に金面をつけたとすれば、大立人像や回字文冠の人頭像などにも金面をつけた痕跡があってもよい。

金面人頭像は夜間に使用したものではなかったかとも考えられる。暗夜にゆれ動く治火の光によって顔面の様相は変化し、且つ眼は暗く沈んで虚空のような感じになり、両眼の焦点が合っていない。これを見る者は虚空に引き込まれ、呪師か巫が唱える神のお告げを聞いたのかもしれない。古代社会では、巫や呪師などは特異な存在であったが、人頭像に金面を貼ったのは、地位を示すよりも、宗教的な機能を考えたためともいえる。(伊藤道治(2003)三星堆」『関西外国語大学研究論集』第77号所収引用)


写真右:三星堆遺跡出土の金箔仮面。青銅仮面に付着させたものかもしれないし、独立した仮面かもしれない。


四川文明 B2800?〜B316
 1986年、四川省広漢市の三星堆遺跡から巨大な都城址が発見されたことから唱えられるようになった中国第三の文明。三星堆文化を中心とするためしばしば三星堆文明とも称される。中国における考古学調査が本格化したのは1950年代の資陽人発見からで、それまでは旧石器人の存在すら否定されていた。四川盆地ではB3000年頃までは頻繁な大水害のために平野部に文化が定着せず、遺跡の殆どが盆地周縁部から出土している。新石器時代の四川文化の系統は、東部峡谷地区と川西山地地区、北部台地地区に大別され、東部文化は大渓文化の類型的なもので、川西文化は遊牧色の強い定住文化であり、北部文化がのちの四川農耕文化に最も強く影響を与えたと考えられている。(東アジア史データ:四川文明引用)

▲ 三星堆文化 B2600?〜B850?  三星堆に城壁都市が出現したのはB2600年ころと思われるが、直接の三星堆文化は巨大都城が築かれたB16世紀頃から成都方面に政治的中心が移ったB850年頃までを指し、城邑の出現から秦に征服されるまでの文明は四川文明の呼称がより事実に合致する。  龍馬古城と同時期に城壁都市が現れた三星堆では、B16世紀頃には2000mX1800mの巨大城壁が出現し、その青銅製品の鋳造技術は同時代最高水準でありながら初期的な金属器が発見されていないことから、中原からの職人の組織的な移動によって従来の文化造形が一挙に青銅文化に転じたものと考えられる。また出土した金製品の純度86%は、当時としては驚異的な数値とされる。祭祀坑からの出土品は金器・青銅器・玉器・象牙・子安貝などが多く、埋蔵坑が一号坑と二号坑のほかにも複数発見されている現在では、それぞれの埋蔵年代も異なることから、征服勢力による廃棄坑説から祭祀坑説が再び有力になりつつある。  三星堆文化の精神面は中原や長江中・下流域に比べて自然崇拝的な要素がより強く、“立人像”“神樹”“縦目仮面”などに代表される青銅器製品は従来の中国文化とはまったく異質の文化系統を示している。(東アジア史データ:三星堆文化引用)



写真右:三星堆遺跡出土の黄金製の杖(金杖)
;木製の杖の周りを覆っていた金製の外側部分。金杖の長さ1.42m、紋飾、向かい合っている二羽の鳥、向かい合っている魚、魚の頭部や鳥のくびのところに矢のようなものが刻まれている。笑う人頭像も刻まれている。


三星堆文化
 BC3000年頃から水害の沈静化とともに平野部に進出し、屈家嶺・石家河文化の影響を受けてBC2800年頃には新津龍馬古城と広漢三星堆を中心とする二大集団に統合されるとともに都城文化が出現した。現在、四川省各地で10万〜30万峙模の城邑址が出土している。龍馬古城遺跡の都城址は炭素放射測定によればBC2800年以前のものとされ、規模は1000mX600m、城壁基底部の幅は30mあり、中央部からはB1200年頃の基壇址も出土しているが、本格的な発掘調査は行なわれていない。

 次第に三星堆方面に政治的重心が集まってBC16世紀ころには大都城が造営され、B10世紀ころから冶金技術が導入されて特異な青銅器文化を開花させ、名実ともに文明と呼ばれるべき水準に達した。長江流域各地の集積文化を文明と定義するにあたって、ゴードン=チャイルドが定義した文明論のうち、文字の存在が最大の障碍となっている。

 BC14〜BC13世紀頃から尖底土器を特徴とする文化集団が成都方面に抬頭し、三星堆文化を滅ぼして十二橋文化を展開した。十二橋文化は後期に東方の巴系文化が流入したことで名実ともに四川文化と呼ばれるべきものに発展し、独自の表記系統を有する非漢字系の文字文化も現れたが、BC316年に司馬錯の指揮する秦軍によって征服され、大規模な植民による文化同化が断続的に行なわれた。(東アジア史データ:三星堆文化引用)  

11.「三星堆文化」の青銅器には鳥のモチーフが多いが、これは祖先礼拝のトーテムや神の使いとしての鳥を念頭に置いているためと思われる。龍や蛇についても同じような意味があると考えられる。


写真上:三星堆遺跡出土の青銅製の蛇の頭と全体像。


写真上:青銅鶏と鶏のような首


写真上:三星堆遺跡二号坑出土の青銅鳥。


写真左:鳥をかたどった青銅製の鳥型鈴。三星堆遺跡の二号坑出土。

三星堆の人々は、祖先信仰として、あるいは信仰対象として鳥を重視していたようだ。神樹だけではなく、大小さまざまな鷲のような鳥を模った青銅器が出土している。鳥を祖先信仰トーテムとするのは、黄河流域の中原に栄えた二里頭文化と同じである。三星堆でのトーテム鳥は、中原の二里頭文化の人々と同じであり、両者の関連が深いことが窺われる。

蜀の人は、鳥と緊密な関係を持っていた。蜀の王の名前はすべて鳥の名前である。三星堆遺跡からは、鳥をかたどった青銅器など百種類以上が出土したという。二つ坑から出土した青銅の鳥には、大型のものもある。鳥モチーフは、青銅神木の枝、青銅壷の装飾用としても使用されている。鷲鷹の猛禽類のようであるが、オウムあるいは東南アジアに生息するサイチョウにも似ている。(三星堆ミステリー:文物の紹介2.青銅鳥と鳥装飾引用)


写真右:青銅製の鳥頭の模造品(青铜大鸟头)。高さ40.3cm。自然崇拝アニミズム的な青銅祭礼器と思われる。本物はシンガポールに貸し出し中。

三星堆二号坑出土の大鳥頭は、高さ40.3cm、幅38.8cmある大型のものである。眼も大きく、虹彩の部分は円角方形で、幾らか球状に盛りあがる。後部に三角形に近い肉腫のようなものが虹彩から独立して付いている。頭の前額部には方円の孔が前方に向って開いており、階の水平部分の先端上部には三角形の孔がある。この二つの孔には、鶏冠か飾羽のようなものを挿入したと考えられている。一号坑出土の金杖には、4羽の同型の鳥が描かれているが、この大鳥頭ほどに鋭角的な屈曲ではない。大型神樹につけられた鳥、青銅製の鳥型鈴も、この三つの特徴を備えている。

直階と円眼をもった鳥は、二号坑出土の円尊の肩部にある稜としても作られている。頸にはいずれも魚鱗状羽文で、いずれも冠羽がないので、一見した所では水鳥のようにも見えるが、冠羽を省略したものと考えるべきものである。ほかには、青銅器の文様として描かれた鳥もある。このような鳳鳥型の鳥は、三星堆以外では、陳西省岐山県賀家村で発見された青銅製の畢の左右の柱の上に立体形の飾りとして付けられている。(伊藤道治(2003)三星堆」『関西外国語大学研究論集』第77号所収引用)

12.三星堆遺跡出土という青銅器・玉器などが、売買対象になっている。本物の遺物に類似しているが、盗掘品なのか、模造品なのかは、出土状況が不明で判断できない。文物の保存と普及は、公有と私物化という相反する側面が対立することがある。


写真上:三星堆遺跡からの盗掘品とされる玉製立人像(高さ14.5cm×横 3.5cm×奥行3.3cm)と縦目仮面。
:「青銅立人像は祭りのポーズをとる姿といわれるが、本品は胸前で両手を合わせている。人物が素足で立つ台座は四頭のばんちにも似た怪物の角が支える。----両腕部分の模様は服の模様であるのか、或いは刺青であるのか。顔の形は冠を被ったものと考えられ釣りあがった眼・硬く閉じ、---そして耳には耳飾の穴が開けられ精悍な顔立ちをしている。良質新疆ホータン製白玉で製作され全体白濁化している。---成都玉収蔵家より数年がかりの懇願で入手。一期一会というが一瞬の出会いは生涯の運命に関わる一大事を託する機会である」とある(玉製品引用)。

古美術品は、「特殊ルート」による本物であることを前提にしているが、本物かどうかは確証はもてない。しかし、骨董屋は、古くからの盗掘品を売買していると称している。本物の青銅製立人像の耳には耳飾の穴はないが、玉製立人像のような精巧な商品であれば、「問い合わせ」て交渉、購入する人物がいるのも頷ける。


写真右:販売中の三星堆出土という青銅人頭像:高さ 11cmと小さい。持ち出しやすい大きさであるが、小さいく出土状況も不明では真偽の検証はできない。

鍍金青銅人頭像も販売しており、そこには「1929年以来三星堆近辺においては玉器を中心として地元民により数々の発掘品が知られており度々盗掘されてきた。----4000年余前の遺物が愛玩できる幸福感は何物にも変え難い古美術愛好家だけが知る至福であって、古代中国文明の内容の豊かさには、改めて感嘆せざるを得ない。」とある(玉製品引用)。

小さい玉製品が多いが、小さいほど古代の技術では加工が困難である。大きな玉製の斧や腕輪が多数出土し、玉石も残っていた三星堆遺跡で、小型の精巧な玉製人形像を手間をかけて作ったのであろうか。三星堆遺跡の発掘調査では玉製人物像は出土していないのに、盗掘品では存在するのはなぜか。本物なら理由がある。


写真右:販売中の三星堆出土という青銅立人像:高さ 49.5cm×横 8cmと大きいのは、本物も高さ262cm、重量180kgと大型であるから、それにあわせたのであろう。国外に持ち出しにくい大きさである。「左右の掌は指を丸く結び、一見すると上下斜めに何か棒状のものを握っているようだが、穴の位置は平行でなくずれており指で輪を結ぶ動作は祭祀の時の舞踏のポーズと考えられている。----着物を左前にまとい、長い髪を後に垂らしているところは「蜀王本紀」に書かれた古蜀人の装束そのもの。----成都の著名三星堆文物収蔵家旧蔵品であり、数年がかりの懇請により玉製立人像(高さ14.5cm)と共に入手。」とある。たしかに、本物や史書に符号したほうが、本物と判断しやすい。

貴重な歴史的遺物は、国外持ち出しや商品としての売買は許されないが、盗掘品の売買は古くから行われてきた。博物館が購入している場合もある。また、略奪のように遺跡を破壊して、持ち去ってしまうこともある。古美術商は「特殊ルート」で輸入したという。人類共通の宝として、あった場所で保存できればそれでよいと思うが、個人の所有物としたい人物が少なくない。古くから、その人物をターゲットにした古美術品売買が行われ、歴史調査や文化財保存に支障がでてきた。21世紀以降も博物館、現地、書籍、webで眺める「人類の宝」以上の感覚を求めて、排他的所有、商売が連綿と続くのであろうか。

13.「三星堆遺跡」と類似した青銅器、玉器などが、2001年2月8日,成都近郊金沙村で発見された。大規模な発掘をしたところ、遺跡からは金製品、玉器、石器、青銅器、象牙製品など200点以上が発見され、三星堆遺跡と類似している。時代的には、大部分の出土品が殷代末期から西周初期にかけてのものであると考えられている。建築遺構、一般住居跡も発掘された。三星堆文化は、この金紗遺跡に引き継がれていると考えられる。


写真右:四川省の金沙遺跡新華社四川(成都2007年3月25日)によると、殷・周時代の金沙先住民の大型墓地が発掘され、副葬品であろう大量の青銅器も発見された。成都文物考古学研究所の考古学者が発表した。

「人民網日本語版」2001年4月5日によれば、2001年2月8日,成都近郊金沙村で土管工事の最中、青銅器、石器などが発見された。そこで、考古学者が大規模な発掘をしたところ、金器、玉器、青銅器、象牙が出土した。遺跡の面積は5平方kmで、大型の宫殿式建築遺構、一般住居跡、大型祭祀場所、墓地などが発見された。出土したのは、金器、青銅器、玉器、石器、漆木器、象牙、陶器など希少な宝物である。つまり、金冠帯、金人面具太陽神鳥鸟、金飾、鳥首魚身紋金帯带、金盒形器、金喇叭形器、金球拍形器、金蛙形器、金魚形器、金蝉形器、青銅立人像、小人青銅彫、青銅立鳥、青銅牛首、青銅虎、青銅曲刃戈形器、青銅璧形器、青銅方孔器、玉、玉璧、玉环、玉璋、玉圭、玉戈、玉矛、玉斧、神人玉彫像、玉貝形佩飾、>、石跪坐人像、石虎、石蛇等が出土した。古蜀国最高統治者に関連した遺跡であり、金沙遺跡は三星堆文明が衰退した後、成都平原に起こった一つの政治的、経済的、文化的中心であると考えられる。これは、商代晚期から西周時期であり、古代蜀国の都市であったと推測される。金沙遺跡は、四川地区で三星堆の後発見された最も重要な考古学的発見である。(成都金沙遗址出土"太阳神鸟"金饰的说明/图参照)


写真右:金沙遺跡出土の金面。

金沙遺跡で発見された大型建築遺構は,5基あり、面積は2000平方m近い。これは、現在までに発見されている西南地区同時代の最大級の木製建築遺構である。5000平方m以上の祭祀遺跡は、商周時代のもので保存状態は良好である。祭祀遺跡とその遺物も豊富である。金沙遺跡から出土した金器は200余件,工芸は精巧である。出土した玉器は2000余件,制作精細である。漆木器,紋飾は精美で保存状態は良い。数トンある百本の象牙も出土している。(成都金沙遗址出土"太阳神鸟"金饰的说明/图参照)

四川省成都市青草区蘇坡郷金沙村の金沙遺跡では、金30・玉400・銅400・石170・象牙1トンなど1000件の文物が発見されたが、金の仮面は三星堆遺跡のものと類似しており、玉(琥珀色と翡翠色の2件)は長江下流の良渚遺跡出土のものと類似している。(よみがえる四川文明〜三星堆と金沙遺跡の秘宝展〜参照)。

14.「三星堆遺跡」を含む長江文明は、稲作の起源、森林と農地の関連、呪術と宗教、少数民族の文化に関連して、現代文明を考察するときに、大きな手がかりを与えてくれる。

河姆渡遺跡・講演『長江文明と少数民族文化』岡部隆志2005.3.29には、次のような記述がある。

 河姆渡遺跡は寧波の近くにある古代水田稲作址の遺跡で、ここから炭化した米が出土した。炭化米を使った炭素同位体の年代測定によると、約7000年前のものだということがわかった。つまり、世界の稲作の起源は、長江州域に会ったとも考えられる。米は日本に自生してはいなかったから、いつどこから伝わったのかが議論されてきた。最初、日本の研究者は、最初の栽培地は雲南省ではないかと考えていたが、これは雲南省で稲の野生種(原種)がいくつか発見されたからである。しかし、雲南省の遺跡から発見された米の年代測定はたかだか4000年前のものであった。


写真(右)中国雲南省の白族の祭祀:剣川県農村の仏教儀式
(2004年9月筆者撮影):長江文明を引き継いだのが雲南省少数民族かもしれないが、数千年の歴史の流れは、山地でも仏教など外来文化の流入、発展をうながした。自然とのつながりは、宗教というよりも、身近な資源エネルギー・材料を活用する社会経済の仕組みに影響を見ることができると考える。その意味で、引用した岡部隆志の論文と鳥飼研究室の見解には、違いもある。

 河姆渡遺跡の稲は7000年前(紀元前5000年)であり、長江中流のホウトウ山遺跡から約9000年前(紀元前7000年)の稲が発見された。この発見によって、稲作の起源は長江中流であるということが現在の定説になっている。

 最初、稲は雑草と同じように湿地帯に生えた野生種であったが、人間がそれを栽培して生産するようになった。これが栽培種である。長江の中流では、1万4000年前から、野生種の稲を食料にしていたと言われているが、栽培種の誕生が9000年前のようである。つまり、稲作を背景に、長江中下流では、約1万年前から農耕文明が栄えていたと考えられる。これが「長江文明」である。

 日本最古の米は、今から約6000年前のもので、その米は、ホウトウ山遺跡や河姆渡遺跡で栽培されていた米と同じ遺伝子を持つ。つまり、6000年前に長江下流から日本に米が伝わったといえる。長江下流から、海流に流され二日くらいで日本に漂着するようであるが、河姆渡の人たちが漁の最中に日本に漂着下のかもしれない。

 日本で本格的に稲作が開始されるのは、約2300年前の弥生時代であるが、それまでの日本の稲作は、焼畑稲作だった。水田稲作が広まるのは、紀元前3世紀になってからで、水田稲作技術を伝えたのが、長江流域の民族ではないかと言われている。


写真(右)中国雲南省の白族のタバコ生産
>(2004年9月筆者撮影):山間部では、灌漑が困難なので畑作が主流で、商品作物のタバコが主な産物である。山地少数民族でも自給自足の農業を営んでいるとは限らない。古来から、山岳部の民ほど交易を必要としていたと考えられる。

 4000年前から3000年前にかけて、気候変動による地球の寒冷化が進み、黄河流域の人々が南下して、長江文明の人々を圧迫していったようだ。そこで、長江流域の民族は、各地に移動し、その一部が四川盆地成都平原へ、一部が日本に渡り、稲作技術を伝えたのかもしれない。2300年前当時の中国は春秋戦国時代で、戦乱を避けて長江流域の人々が各地に移住したのではないかと考えられる。

 長江文明は、世界でもっとも古い文明であるにもかかわらず、今まであまり評価されてこなかった。中国の歴史は、黄河流域の中原に栄えた黄河文明が中心であったと言われてきたからである。世界四大文明とは、メソポタミア、エジプト、インダス、そして黄河文明であるが、紀元前2000年に成立した黄河文明より早い時期、紀元前8000年のシュメール文明(メソポタミア文明)と同時期に、長江流域に稲作を中核とした長江文明があった。

 黄河流域の文明は、稲作ではなく粟や小麦栽培を中心にした畑作、牧畜・遊牧などをに支えられた文明と言われているが、世界四大文明は全て畑作、基本的には小麦栽培である。


写真(右)中国雲南省剣川県の白族の牧畜
>(2004年9月筆者撮影):自由に草を食ますことのできる共有地を活用することで、人工飼料に依存せず、自然を生かした牧畜となる。古代長江文明を山村部も包含するものとすれば、稲作だけではなく、牧畜も重要な産業である。

 畑作を中心とした黄河文明と稲作中心の長江文明とでは、ものの考え方、文化が違ってくることもある。例えば、畑作は、適度に雨が降れば作物を作れるが、稲作では、水田を作り、水の管理が不可欠である。そこで、稲作文化では、水・土と人間との結びつきが濃厚になるが、畑作文化では、稲作ほど土地に縛られることはない。草原地域の移動性も高い。畑作では多様な作物がとれるために、遊牧民との交易も盛んであったろう。4000年前に地球が寒冷化したとき、長江文明が衰退し、黄河文明が生き残って長江文明を圧倒していったのは、自然に依存する仕方の違いかもしれない。

 長江文明では、自然との結びつきが強く、呪術的な宗教が発達した。例えば、雨乞い儀礼が発達し、三星堆の青銅仮面・人像が生み出された。古代の世界では、自然を神そのものと捉えていたから、自然宗教、アニミズムが栄えた。他方、黄河文明は、人間中心の精神文化の中で、呪術的な宗教は否定され、人間の行動規範を説く儒教が生まれた。黄河文明は文字を発明したが、長江文明は文字を持たなかった。そこで、文字を持たず、自然との結びつきを強めた、呪術的な宗教を持つ長江文明は、黄河文明よりも下位に置かれた。現在の中国の精神性は、黄河文明を受け継いでいるといえる。


写真(右)貴州省トン族の薪採取とバイオマスエネルギー
(2006年9月筆者撮影):ローカル・コモンズの里山から少量の薪炭を採取し、民生エネルギーとする。薪採取は柴刈りであり、樹木を根元から伐採するわけではない。持続可能な森林利用と再生可能エネルギーの利用が両立できる。

 しかし、近年、環境悪化が問題となっている。1998年の長江大洪水は、長江流域の森林を伐採したために起こった。こうして、環境保全が注目される中、長江文明が再評価されている。長江文明は、稲作と同時に、自然である神への依存度が高い文明であった。中国政府は、森林を伐採して畑・山々に木を植えて、森林を回復しようとする「退耕還林」を実施している。これは、長江文明的な考え方の再評価のように思われる。

 自然との結びつきの強い長江文明は、黄河流域の文明に圧倒され、歴史の表面からは消えた。しかし、貴州省、雲南省の少数民族は、長江文明を担った民族の生き残りであると言われている。これら少数民族の文化は、自然との結びつきの強い文化で、自然宗教とともに、自然の文物を効果的に利用する術に長けている。長江文明は、少数民族の文化に受け継がれ、この文化や社会経済のあり方を検証すべきき時代が来ている。長江文明、少数民族の文化・社会経済は、人間と自然とが共存していくための知恵を含んでおり、その知恵を学ぶことは、中国、日本、世界にとって重要なことである。

 
写真(右)貴州省の苗族による肥やしの撒布
(2006年9月筆者撮影):家畜や人の糞を肥料とするには、労力がかかる。しかし、化学肥料を購入する資力の無い農家にとっては重要な肥料である。

少数民族には恋歌の文化がある。歌だと普段恥ずかしくて言えないことが言える。歌というのは、もともと、神と会話し、神の言葉を告げるときの言葉だった。つまり、歌を通して、人々は、神の世界、非日常の世界に入ることができる。歌の力というのは、われわれを、この世ではない、別の世界へ連れて行ってしまう力である。歌はみんなを違う世界へ連れて行ってしまう、という歌の力を信じている社会では、歌を通して様々なコミュニケーションが行われ、あるいはもめ事の解決が図られたりしている。歌の力は、歌の場を神聖な場に変え、神聖な場所とする。そこで、嘘をついたり、約束をやぶったりは出来ないと皆が信じている。

歌の力が信じられていた社会というのは、人間が自然と共存していた、あるいは自然を神としてその神の力に依存していた社会であった。その意味では、歌の力が信じられている社会というのは、コミュニケーション文化において、アニミズム的な文化をまだ持ち続けている。歌の力を通して人と人とがコミュニケーションをとるとき、人はこの世で、直接他人と向き合わなくてすむ。いったん、歌を通して、非日常の世界で相手と向き合う。そこは、人と人とが競争し、騙し、傷つけ合う世界ではなく、安心して歌を歌い、聞くことができる世界である。

長江文明では、歌が盛んに歌われ、祭壇址で神・人間のコミュニケーションが盛んに行われていた。長江文明は、黄河文明と違って、文字を持たなかったからこそ、歌の力は大きかったと思われる。少数民族の多くは文字を持っていない。そこで、歌の力をずっと失わずに持ち続けたのだと思われる。歌の力だけではなく、自然と共存していた古い文化や社会経済のあり方が生きている。そのような文化には、現代のわれわれが学ぶべき豊かな知恵が含まれている。
⇒(河姆渡遺跡・講演『長江文明と少数民族文化』岡部隆志2005.3.29引用)。
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