鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
与謝野晶子を巡る戦争文学 2007

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◆歌人与謝野晶子を巡る戦争文学:日露戦争から日中戦争へ

写真(右)日露戦争の従軍看護婦:MIT Visualizing Cultures引用

日本の文化人の戦争観:戦争協力と反戦
芸術家の戦争絵画:藤田嗣治の玉砕戦
魯迅の日本留学と戦争:日清戦争と日露戦争
石川啄木の社会主義:与謝野晶子・芥川龍之介・小林多喜二
青空文庫:著者没後50年で著作権の消滅した昭和初期までの作品/インターネット無料図書館
マサチューセッツ工科大学美ビジュアリング:MIT Visualizing Cultures
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あの人の人生を知ろう〜与謝野晶子編
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与謝野晶子・鉄幹の貴重な自筆資料初公開!
与謝野晶子『短歌三百講』
堺市蔵 ・ 与謝野晶子自筆原稿から見えてくるもの
鳳晶子『みだれ髪』 画像
与謝野晶子『人間徃来』 画像
与謝野晶子自筆原稿『新新訳源氏物語』「若菜上」画像
与謝野晶子『火の鳥講』 画像
与謝野晶子 自筆画像一覧
【与謝野晶子Link】【与謝野鉄幹Link】

◆本webは,日露戦争から日中戦争,太平洋戦争開戦までの日本の戦争の枠組みで,与謝野晶子の戦争感を,石川啄木,芥川龍之介,幸徳秋水,小林多喜二,魯迅などと比較,検討したものです。

◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,帝国主義,日露戦争,日中戦争も分析しました。
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論【日露戦争Link】

序章.日露戦争の発端は,中国東北地方(満州)と朝鮮半島をめぐる日本とロシアの対立だった。

満州・朝鮮半島における日露対立

1895年4月,日本は,日清戦争に勝利し、朝鮮半島での清朝(中国)に対する優越的地位を獲得した。そして,下関条約では,遼東半島も割譲させることに成功したが,即座に独仏露の三国干渉がなされた。5月,日本は,外圧を恐れて,遼東半島を中国に返還した。しかし,ロシアは,日清戦争後の1898年3月,旅順,大連の租借権,ハルピン・旅順間の鉄道敷設権を獲得した。首相伊藤博文は,4月,外相西徳二郎にロシア外相のRoman Rosen ロマン・ローゼンと西ローゼン協定を結ばせ,大韓帝国の内政不干渉、大韓帝国の軍事・財政顧問派遣につき事前承認に合意した。日本に放棄させた遼東半島を奪い取ったとして,日本国民はロシアを恨んだ。

1900年,義和団事件では,日本は八カ国連合軍の主力として,陸軍部隊を中国に派遣し,義和団を制圧した。

日露戦争の浮世絵木製凹版画(右)日露陸海軍将兵の軍装:MIT Visualizing Cultures引用。左にロシア軍の将兵,右に日本軍の将兵の軍装。威信ある陸軍軍人たちの晴れ姿を描いた錦絵。戦争とは,兵士が勇ましい戦いを広げる華麗な絵巻である。1904年(明治37年)2月,渡辺よしかつ・かつき かつき作。ボストン美術館所蔵。Illustration of Russian and Japanese Army and Navy Officers (Nichiro rikukaigunjin gakai) Ukiyo-e print 1904 (Meiji 37), February Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych; 34.5 x 71.5 cm (13 9/16 x 28 1/8 in.)Museum of Fine Arts, Boston

1900年の義和団事件で,ロシアは,敗残兵掃討,租借地・鉄道防衛のために満州に派兵した。1901年9月の北京議定書にもとづいて,各国は,北京占領後,敗残兵掃討を名目に満州に派兵,租借地,鉄道防衛のために,軍を常時駐屯させた。しかし,ロシア軍の満州駐屯は,米国務長官ジョン・ヘイのOpen Door Policy門戸開放宣言(1899年)に反する行動とみなされた。そこで,英米日は,ロシアに撤兵を要求し,元首相伊藤博文は、12月,日露協定の交渉に入ったが,合意はならなかった。

他方,ロシアは、日本の大韓帝国への投資を妨害しないこと、日本は,ロシアが満州を勢力範囲に置くことを認めた。日露両国は,極東の勢力範囲を,その住民や主権者にお構いなく,分割したのである。

◆与謝野晶子の代表作『みだれ髪』は、1901年(明治34年)8月15日、東京の伊藤文学館より刊行。139頁、定価35銭、著者名は、鉄幹と結婚前だったので、鳳晶子。最初と最終の歌は、次のもの。

 夜の帳に ささめき盡きし 星の今を 下界の人の髪のほつれよ

 そと秘めし 春のゆふべの ちさき夢 はぐれさせつる 十三絃よ      (十三絃は琴(箏)のこと)

日露戦争の絵葉書(右)日露戦争の日本軍前線:MIT Visualizing Cultures引用

1902年1月,日本は,ロシアに対峙するイギリスと日英同盟を結び,独仏を牽制し,ロシアへの軍事支援を抑止した。そして,1903年8月,イギリスの諒解を得て,日本が朝鮮半島を、ロシアが満州を勢力範囲とする日露交渉をしたが,ロシアは,10年来蔵相を務めた不戦派Витте, Сергей Юльевич セルゲイ・ウィッテを辞職させた。10月,ロシアは,北緯39度以北を中立地帯とする南北朝鮮分割案を日本に提起した。

朝鮮半島全土を支配する企図のあった日本は、ロシア動員前に開戦しようと,1904年2月4日、明治天皇臨席の御前会議で開戦を決定,6日,外相小村寿太郎はロシア駐日公使ローゼンに国交断絶を宣告した。

1904年2月8日,日本陸軍は,朝鮮半島仁川に上陸,海軍は付近のロシア艦と交戦した後,9日,明治天皇の宣戦詔勅が渙発された。大韓帝国での日本軍の自由行動を定めた日韓議定書(明治37年2月23日)が調印され,翌日,日銀副総裁高橋是清が,戦費調達の外債募集のため,ロンドンに派遣された。

大韓民国は,1938年ミュンヘン会談のチェコスロバキア同様、日露交渉に一切参加を許されず,開戦後,日本軍の自由行動を認めさせられた。日本は,ロシアの東アジア侵略の野望を阻止するためというよりも,満州からロシアを排除し,朝鮮半島を勢力範囲とするために戦ったといえる。

⇒国立公文書館アジア資料センター(http://www.jacar.go.jp)「日露戦争特別展」参照。

1.日本は,1904-05年の日露戦争で,朝鮮半島を勢力圏に組み込もうとした。これは,朝鮮の独立維持という名目の下の軍事行動である。日露戦争の当時石川啄木(いしかわたくぼく)は、ロシアを敵と見ていたが、1910年には、ロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論を再読し,戦争の原因となる欲望の醜さ、経済的要因、戦争プロパガンダを的確に読み取った。

石川啄木『日露戦争論(トルストイ)』
 「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドンタイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。

 「-----戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。----実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」

----- 『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。

 その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。----」
『日露戦争論(トルストイ)』電子図書館引用)

写真(右):『みだれ髪』を残した歌人与謝野晶子;(1878〜1942)明治11年、堺の和菓子屋駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を生きた。11人の子どもたちの母。「人間性の解放と女性の自由の獲得をめざして、その豊かな才能を詩歌に結実した情熱のひと」と評価する。1915年1-2月,雑誌『太陽』で「あなたがたは選挙権ある男子の母であり、娘であり、妻であり、姉妹である位地から、選挙人の相談相手、顧問、忠告者、監視者となって、優良な新候補者を選挙人に推薦すると共に、情実に迷いやすい選挙人の良心を擁護することが出来る。---合理的の選挙を日本の政界に実現せしめる熱心さを示されることをひたすら熱望する。」と述べた。当時,夫与謝野鉄幹が衆議院選に立候補した。(寛、衆議院議員選挙立候補引用)愛の旅人によれば,二人の間には,葛藤もあったようだ。1939年9月 『新新訳源氏物語』完成。1940年5月 脳溢血で倒れ、以後右半身不随の病床生活。

2.日本は,日露戦争に際して,朝鮮半島,中国東北地方に派兵した。この出征兵士のなかに,歌人與謝野晶子(よさの あきこ)の実弟・鳳籌三郎がいた。鳳籌三郎は,大阪の歩兵第八聯隊に入隊,第三軍第四師団の一員として旅順攻略に参加した。晶子は弟を思って「君死にたもうことなかれ」と詠った。

与謝野晶子が、日露戦争に出征した晶子の弟・鳳籌三郎ちゅうざぶろうを思って詠んだ「君死にたまふことなかれ」は有名である。一般的には、戦争に反対する平和の歌であると紹介される。しかし、反戦の歌か、それとも弟の無事を案じた個人の歌なのか議論がある。

日露戦争の絵葉書写真(右)日本陸軍将兵:MIT Visualizing Cultures引用。有坂小銃を手にした日本陸軍兵士。歌人與謝野晶子の実弟・鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)も歩兵第八連隊に入隊,中国に出征。

君死にたまふことなかれ旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば   親のなさけは まさりしも
 親はやいばをにぎらせて  人を殺せと をしへ教えしや
 人を殺して死ねよとて  二十四までを そだてしや

 堺の街の あきびとの  旧家をほこる あるじにて
 親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ
 君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ、 すめらみこと皇尊は、戦ひに
 おほみづからは出でまさね  かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこころの深ければ もとよりいかでおぼされむ

 ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に いたましく わが子を召され、家をり、
 安しときける大御代も  母のしらは まさりぬる。

 暖簾のれんのかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を
 君わするるや、思へるや 十月とつきも添はで わかれたる
 少女をとめごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
 ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ。

◆古語「すめら」は接頭語で,天皇を表彰する語につけた。与謝野晶子は,男女の恋愛を激しく歌ったが,同時に,天皇を敬い,日本の伝統を愛し,誇りにしていた「日本女性」だった。晶子の国体尊重,天皇崇拝の認識の下で,晶子の弟・鳳籌三郎ちゅうざぶろうと妻セイを思って「君死にたもふこと勿れ」と歌わせたのであれば,それは家族への思慕の情,武運長久(戦争で武功をあげて凱旋)の願いが表現されたと見るべきであろう。

日露戦争の浮世絵木製凹版画(右)「大激戦203高地占領」MIT Visualizing Cultures引用。戦死者続出の中,堡塁を登る日本軍歩兵突撃隊。右枠には1905年1月1日,降伏会見するロシア軍ステッセル将軍を向かえる日本軍将兵。1905年(明治38年),小林清親作。ボストン美術館所蔵。Great Battle for the Occupation of the 203-meter Hill (Dai gekisen nihyakusan kôchi senryô) Ukiyo-e print 1905 (Meiji 38)Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych; 35.4 x 71 cm,Museum of Fine Arts,Boston

◆満州軍総司令官大山巌元帥と軍総参謀長児玉源太郎陸軍中将の下で,第三軍司令官乃木希典陸軍大将は、1904年8月19日、遼東半島先端の旅順を総攻撃した。しかし,11月までの三次に渡る総攻撃はみな失敗し、多数の死傷者を出した。

第一師団軍医部長の日誌には、日本軍兵士は戦傷、脚気、伝染病で「26日来入院総数千4百名、現在77名(うち7名内科)、帰隊230、自傷80」とある。戦意を喪失し、戦場離脱のために自傷行為、発狂者が出た。冬の寒さは甚だしく、兵は「なにをのぎのぎしていやる」と作戦指導の無能さを非難し、兵士と将校の離反が問題となった。

児玉軍総参謀長の督戦到来前、決死の第四次総攻撃によって12月5日、203高地を占領した。旅順要塞司令官ステッセルは、食糧不足、負傷者の増大に対処できず、1905年1月1日、降伏軍師を送った。

2週間の奉天戦では,日本軍の明治30年制式の30年式歩兵銃(口径6.5ミリ)19万丁が,銃弾2127万発を消耗,火砲744門が弾丸28万5千発を発射。1905年3月10日、奉天占領。会戦による日本軍死傷者は,7万2千名で、チフス、天然痘も蔓延した。出征兵士は、物資不足,激戦・行軍に疲労困憊し,戦意も必ずしも高いとはいえなかった。 (→大濱徹也(2003)『庶民のみた日清・日露戦争−帝国への歩み』刀水書房 参照)

日露戦争の浮世絵木版凹版画(右)「日露旅順港攻撃戦」MIT Visualizing Cultures引用。ロシア軍の砲台を銃剣突撃によって占領する日本軍将兵。追い詰められたロシア将兵が手を上げて降伏している。砲台付近には,戦死したロシア兵の遺体が山積みになっている。日章旗は,海軍の旭日旗のようにデザインされている。ボストン美術館所蔵。

「小さな資料室」資料62 謝野晶子「君死にたまふことなかれ」によれば,与謝野晶子の父・宗七(善六)は、1847年(弘化4年)9月24日生まれ、大阪堺市の和菓子商駿河屋の二代目、日露戦争前年の1903年9月14日死亡。与謝野(旧姓鳳)晶子の実弟・籌三郎(ちゅうざぶろう)は、1903年8月、24歳(数え年,今の23歳)で、堺せいと結婚した。

しかし,鳳は,1905年(明治37年)の日露戦争に大阪の歩兵第八連隊に召集された。鳳籌三郎(24歳)は、第三軍の乃木希典のぎ まれすけ司令官の下の第四師団第八連隊に所属,旅順攻略戦に参加した。
与謝野晶子の弟・鳳籌三郎ちゅうざぶろうは字が書ける「特技」で、戦闘には参加せず、将官の書記役を務めた。「何と、字の知らん兵隊が如何に多いのやろう」が籌三郎の感想だったという。

鳳籌三郎の妻のせいは当時妊娠中で、翌1905年8月、長女夏子が生まれた。籌三郎は男兄弟では末であったが,妹は二人あった。「籌三郎は1900年ごろ晶子に先んじて浪華(なにわ)青年文学会堺支部に入会し、文学少女晶子のよき理解者であった。父の死、弟の堺の和菓子屋襲名、留守の母と義妹への愛情が,歌の背景にあった。堺の町人の反骨の伝統から生まれた作という評価もある。

与謝野晶子が「二十四までをそだてしや」と歌った時、籌三郎は数えで25歳,満24歳だった。籌三郎は,無事に帰国し、1944年2月25日、63歳でなくなった。 (→「小さな資料室」資料62 謝野晶子「君死にたまふことなかれ」引用)

◆1999年6月、中国遼寧省大連市の遼寧師範大学外国語学院の中庭に、与謝野晶子の母校泉陽高校の寺田英夫校長と遼寧師範大学附属高校の曲維副校長の力によって晶子「君死にたまふことなかれ」の詩碑が建立された。日本語と裏面の中国語訳の「君死にたまふことなかれ」の全詩が彫られた銅板が、中国産花崗岩石にはめ込まれた。(朝日新聞1999年5月24日)

日露戦争の絵葉書写真(右)旅順要塞の重要拠点203高地の惨状:MIT Visualizing Cultures引用。203高地とは海抜203メートルの旅順港を見下ろす高地。遺体は,塹壕の端に集め処理しようとしたのかもしれない。腐敗が進む死骸をいつまでも陣地目前に放置しておくことはできない。

◆与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が発表されると,文芸評論家の大町桂月は,1904年『太陽』十月号で,「君死にたまふこと勿れ」を危険思想と論じた。「戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の『君死にたまふこと勿れ』の一篇、是也。草莽の一女子、『義勇公に奉ずべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉也。」

与謝野晶子は,『明星』十一月号で,死ねよと簡単に言う事、忠君愛国の文字、教育御勅語を引用して論ずる流行の方か,かえって危険であると反論した。王朝の御世にも,人に死ねとか,畏おほく勿体きことを書き散らす文章は見当たらない。歌詠みなら、「まことの心を歌うべき」で,そうでない歌には値打ちがない、そうでない人には「何の見どころもない」と言い切った。

ひらきぶみ  与謝野晶子:「明星」新詩社 1904(明治37)年11月号


 事なく着きし電報はすぐ打たせ候ひしかど、この文は二日おくれ候。ひかるおばあ様を見覚えをり候はずなく、あたり皆顔知らぬ人々のみなれば、私の膝はなれず、ともすればおとうさんおとうさんと申して帰りたがりむづかり候に、わが里ながら父なくなりて弟留守にては気をおかれ、筆親したしみ難かりしをおゆるし下されたく候。
 こちら母思ひしよりはやつれ居給(いたま)はず、君がかく帰し給ひしみなさけを大喜び致し、皆の者に誇りをり候。おせいさんは少しならず思ひくづをれ候すがたしるく、わかき人をおきて出でし旅順の弟の、たび/\帰りて慰めくれと申しこし候は、母よりも第一にこの新妻の上と、私見るから涙さしぐみ候。弟、私へはあのやうにしげ/\申し参りしに、宅へはこの人へも母へも余り文おくらぬ様子に候。思へば弟の心ひとしほあはれに候て。
 おん礼を忘れ候。あの晩あの雨に品川まで送らせまつり、お帰りの時刻には吹きぶり一層加り候やうなりしに、殊にうすら寒き夜を、どうして渋谷まで着き給ひし事かと案じ/\致し候ひし。窓にお顔見せてプラツトホームに立ち居給ひし父様の俄(にわか)に見えず成り給ひしに、光不安な不思議な顔して外のみ眺め、気を替へさせむと末さま/″\すかし候へど、金ととの話も水ぐるまの唱歌も耳にとめず、この小き児ちいさきこの胸知らぬ汽車はまたたくく内にひらむまへ着き候時、そこの人ごみの中にも父さま居給ふやと、ガラス戸あけよと指さしして戸に頭つけ候に、そとに立ち居し西洋婦人の若きが認めて、帽に花多き顔つと映し、物いひかけてそやし候思ひがけなさに、危く下に落つるばかりに泣きころげ来り候。そのおどろきに父さまの事は忘れたらしく候へば、箱根へかかり候まで泣きいぢれて、よう寐てをり候秀しげるを起しなど致し候へば、また去年の旅のやうに虫を出だし候てはと、呑まさぬはずの私の乳啣ふくませ、やつとの事に寐かせ候ひしに、近江のはづれまで不覚に眠り候て、案ぜしよりは二人の児は楽に候ひしが、私は末と三人を護りて少しもまどろまれず、大阪に着きて迎への者の姿見てほつと安心致し候時、身も心も海に流れ候人のやうに疲れを一時に覚え候。

絵葉書写真(右)日露戦争の烏森宿泊所における搬送負傷兵:MIT Visualizing Cultures引用。帰還した負傷者には,看護婦だけではなく,市民も恤兵(じゆつぺい)に資金,労力を提供した。赤十字社、繃帯巻(ほうたいまき)に参加する立派な令夫人もあった。他方,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とさみなされれば,中国人は処刑され,日本人であれば逮捕された。ロシア人は,外見からロシア人として警戒されたから,スパイ嫌疑で即刻捕まえることができたが,中国人は敵味方の識別が困難だった。

 車中にて何心なく『太陽』を読み候に、君はもう今頃御知りなされしなるべし、桂月様の御評のりをり候に驚き候。私風情(ふぜい)のなま/\に作り候物にまでお眼お通し下され候こと、忝(かたじけな)きよりは先づ恥しさに顔紅(あか)くなり候。勿体(もつたい)なきことに存じ候。さはいへ出征致し候弟、一人の弟の留守見舞に百三十里を帰りて、母なだめたし弟の嫁ちからづけたしとのみに都を離れ候身には、この御評一も二もなく服しかね候。

 私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれば悪ろく候にや。あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺の街にて亡き父ほど天子様を思ひ、御上(おかみ)の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。弟が宅(うち)へは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。まして九つより『栄華』や『源氏』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもます/\王朝の御代なつかしく、下様(しもざま)の下司(げす)ばり候ことのみ綴(つづ)り候今時(いまどき)の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。御国のために止むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。提灯行列のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉(いずみ)の家の恤兵(じゆつぺい)の百金にも当り候はずや。馬車きらびやかに御者馬丁に先き追はせて、赤十字社への路に、うちの末が致してもよきほどの手わざ、聞えはおどろしき繃帯巻(ほうたいまき)を、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似(まね)は、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務(つとめ)は、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐(ぎえん)などいふ事に冷(ひやや)かなりと候ひし嘲りは、私ひそかにわれらに係はりなきやうの心地致しても聞きをり候ひき。

 君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、万一の時の後の事などもけなげに申して行き候。この頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑なき勇士にて候べし。さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげ/\妻のこと母のこと身ごもり候児(こ)のこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。
 私が「君死にたまふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ/\と申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿体(もつたい)なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。

日露戦争の絵葉書写真(右)満州軍総司令官(日本軍)東京出発:MIT Visualizing Cultures引用。将軍を先頭に出征する日本軍を見送る市民。日露戦争は,国家的大スペクタクル,劇場国家の端緒だった。当時は,総司令官の出征といえども,日傘をさしてかまわなかった。戦争に関する物資や言論の統制も,後年ほどには厳しくなかった。日露戦争反対を公然と唱えたのは,一部の文化人,平民新聞くらいだった。

 歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き/\年月の後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月様お許し下されたく候。桂月様は弟御(おとうとご)様おありなさらぬかも存ぜず候へど、弟御様はなくとも、新橋渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。

 私十一ばかりにて鴎外様の『しがらみ草紙』、星川様と申す方の何やら評論など分らずながら読みならひ、十三、四にて『めざまし草』、『文学界』など買はせをり候頃、兄もまだ大学を出でぬ頃にて、兄より『帝国文学』といふ雑誌新たに出でたりとて、折々送つてもらひ候うちに、雨江(うこう)様桂月様今お一人の新体詩その雑誌に出ではじめ、初めて私藤村様の外に詩をなされ候方(かた)沢山日本におありと知りしに候。その頃からの詩人にておはし候桂月様、なにとて曾孫のやうなる私すらおぼろげに知り候歌と眼の前の事との区別を、桂月様どう遊ばし候にや。日頃年頃桂月様をおぢい様のやうに敬ひ候私、これはちと不思議に存じ候。

 なほ桂月様私の新体詩まがひのものを、つたなし/\、柄になきことすなと御深切(しんせつ)にお叱り下され候ことかたじけなく思ひ候。これは私のとがにあらず、君のいつも/\長きもの作れと勧め給ふよりの事に候。しかしまた私考へ候に、私の作り候ものの見苦しきは仰せられずとものこと、桂月様をおぢい様、私を曾孫と致し候へば、御立派な新体詩のお出来なされ候桂月様は博士、やう/\この頃君に教へて頂きて新体詩まがひを試み候私は幼稚園の生徒にて候。幼稚園にてかたなりのままに止め候はむこと、心外なやうにも思ひ候。

 かやうなること思ひつづけて、東海道の汽車は大阪まで乗り通し候ひき。光今夜はよく眠り候へば、うつかり長きこと書きつらね候かな、時計は朝の壱時を打ち候に。君も今頃は筆おき給ふ頃、坊たちがをらで静なる夜に何の夢か見給ふらむ。今日父の墓へまゐり候。去年のこの頃しのび候て、お寺の廊の柱にしばらく泣き申し候。
 光は末が負ひて竹村の姉の許(もと)へ、天神様の鳩(はと)を見になど行き候。かしこに猿もあり、猿は行儀わろきもの故(ゆえ)見すなといひきかせ候。おばあ様は秀(しげる)を頬ずりし給ひ、もう今から、帰つたあとでこの児が一番心にかかるべしと申され候。光は少しもここの人たちに馴れず、またしては父さんへのん/\と申し、末と大道へのみ出たがり候。

日露戦争の浮世絵(右)「日露戦争 大日本赤十字野戦病院 負傷者救療ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。囲み絵の露西亜(ロシア)野蛮兵と対比している。日清戦争にあって,中国の清朝兵士を過酷に処断した日本軍は,日露戦争ではロシア兵士の恤兵に配慮した。この理由は,日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人という文明の衝突ではないという証明のためだった。
対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなされれば,処刑された。東北大学医学部に留学していた魯迅も,日露戦争で「第7金州城門破壊の決死工作 第8吉田小隊長石田一等卒敵兵13人を生け捕り」のスライド,ロシア側スパイ(露探)とされた中国人処刑のスライドを,教室で見た。 

 汽車中にてまた新版の藤村様御集、久しぶりに彼君(かのきみ)のお作読み候。初のかたは大抵そらにも覚えをり候へば、読みゆく嬉しさ、今日ここにて昔の箏(こと)の師匠に逢(あ)ひしと同じここちに候ひし。宅の土蔵の虫はみし版本のみ読みならひて、仮名づかひなど、さやうのことどうでもよしと気にかけず、また和文家と申すもの大嫌ひにて、学校にてもかかるあさはかにものいふたぐひの人にわれ習はじとて、その時間に顔出さざりしひがみ今に残り候私なれど、この御集のちがひやう私にも目につき候は、さはいへあやしき襟かけし少女をくちをしと見る思に候。

 天眠様精様京の光子様お逢ひしたき人多けれど、かう児どもつれてはいかが致すべき。
 帰る日まで申さじと思ひ候ひしが、胸せまりて書き添へまほしくなり候。そはやはりふるさとは詩歌の国ならず、あさましきこと憂きこと、きのふの夕より知りそめしに候。

日露戦争の絵葉書(右)日章旗の子供がロシア国旗の子供を追い立てる図:MIT Visualizing Cultures引用。後方の中立地帯では,日章旗と星条旗を掲げた子供が,日本を応援している。与謝野晶子の長男・光も,日章旗の下にある赤ちゃんだった。

 竹村の姉がり訪ひしに、私は聞かでもよきこと、姉は語らではあられぬこと耳に致し、人の子に否とこたへしわが名、もとよりなりと何も/\思ひすてをり候ものを、をみななり、今更に悲しう、父あらぬ身をわびしと思ひ知り候。母も宅の者誰もその事しらず候へど、姉より聞けば、むかひ側の家今は人の家なれば、私帰るともそこへは一歩もふむをゆるすなと、はる/″\英国より△△まで。――君おしはかり給へ。――それにその人、私の着くとやがて来て、ちと来よなど、さりとは知らぬおとしあな、おそろしの世と知り候。かなたの湯殿に母も弟の思へる人も入りに行けど、さらばわれは踏むまじく、東京のせん湯に入りつけてはと母には申して、子らつれておあし持ちて横町の湯へまゐれば、見知れるらしき人ありて眼をそばだて候。椿の葉にて私のをさなき時に乳母がせしやう光に草履つくりてやりたくと、彼の家の庭をあやにくや見たうも/\思へど、私はゆかず候。かしこの土蔵には弟どう思ひてか出立の前に、私のちひさき時よりの本と自分のと別々にしらべてまとめおき候よし、さ聞きて俄(にわ)かにその本こひしく、お祖母(ばあ)様の手垢父の手垢のうへに私の手垢つきしかず/\、また妹と朱など加へし『柵草紙(しがらみそうし)』のたぐひ、都へも引きとらまほしく、母ゆるさば、父のいつもおもかげうつし給ひし大きな姿見もろとも、蒲団になとくるませて通運に出さすべく候。
 母ます/\文学狂になり候て、よべも歌の話いろ/\と致し、君の祭見る日の下加茂の橋はつまらずと申し、大井川濃き緋(ひ)の帯のいくたりの鼓拍子に船は離れぬは、かしこの景色すきなるものから、それはよしと喜びていくたびも口ずさみ候。また松田などや申し候ひけむ、山の人とはきつとおえらき人なるべし、物言ひのてきはきして心の奥にかげなきは、江戸のお生れの人かと申し候ゆゑ、あれは緑雨様や宅のお友達、数学の天才にて、こちらの朝日の角田様も古く知り給ふ方、当節は文学を専門になさる人たちよりも、かやうな学問のちがひし人様の方々に、まことのおえらき人あるなりと申し候へば、いつの世でも大抵はさうと、母たいさう知つたかぶりな顔を致し候。
 庭のコスモス咲き出で候はば、私帰るまであまりお摘みなされずにお残し下されたく、軒の朝顔かれ/″\の見ぐるしきも、何卒帰る日まで苅りとらせずにお置きねがひあげ候。
 あす天気よろしくば、光にの浜みせてやれと母申して寐たまひ候。
   (『明星』1904年11月引用終わり)

日露戦争の浮世絵木版画(右)「博愛なると大日本赤十字衛生隊 日露戦闘中 負傷者救助の図」MIT Visualizing Cultures引用。1904年3月16日印刷20日発行。Gakyôjin Naraha Sannosuke The Humane Great Japanese Red Cross Medical Corps Tending to the Injured in the Russo-Japanese War (Hakuai naru dai Nihon Sekijûji eiseitai Nichiro sentôchû fushôsha kyûgo no zu) Ukiyo-e print 1904 (Meiji 37), printed March 16, published March 20 Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych; 35.4 x 69.7 cm (13 15/16 x 27 7/16 in.)日清戦争の浮世絵とは異なって,敵兵を処断する勇士だけではなく,救助,負傷者手当てをする日本赤十字の活躍を描いた浮世絵が何枚も出版された。日露戦争中,在日ロシア人や正教徒の日本人は,露探(ロシアスパイ)とされ,収監された。ロシア皇帝ニコライ2世が皇太子時代に来日し,その警護官の滋賀県警巡査・津田三蔵が暗殺しようとした大津事件では,皇太子を守った人力車車夫・向畑治三郎と北賀市市太郎は、ロシアから勲章と報奨金・年金が与えられ,日本政府からも勲八等と年金が給与された。しかし,日露戦争時には,ロシア軍スパイ容疑者(露探)の嫌疑を受けた。戦場となった満州でも,露探とされた中国人,韓国人は,処断された。

駅頭で軍隊出立を見送る親類友達が、行く子の手を握って、「無事で帰れ、気を附けよ」「万歳」と言っている。日本の各階層の市民がみな武運長久を願っている。これは「君死にたまふこと勿れ」と同じ「まことの声」である。与謝野晶子は,「まことの心をまことの声に出だし」歌を詠みたいと述べた。

日露戦争の浮世絵版画の口絵(右)恋人を置いて出征した兵士の末路:MIT Visualizing Cultures引用。1904年夏,鈴木かそん作。Suzuki Kason Torn Between Two Lovers Kuchi-e 1904 (Meiji 37), Sunmer Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper 21.5 x 27 cm ボストン美術館所蔵。Museum of Fine Arts, Boston。武運長久は,無事に凱旋帰郷することを願う庶民的願望だった。待っている家族や恋人がいるからこそ,祖国,故郷を守り,家族のために戦おうとする戦意が生まれる。武運長久を否定することは,皇室中心思想の持ち主にもできなかった。

◆兵士を出征させ,戦争に協力する市民はみな日本が勝利し,兵士が凱旋,帰郷すること,すなわち武運長久を祈った。これは,戦争遂行,祖国の勝利の枠組みの中で,家族の無事を優先する庶民的願望である。敵のロシア人や戦場となった中国人への配慮,戦争目的,国際情勢は二の次であった。戦争の大儀,大日本帝国の国益よりも,武運長久を優先した。文化人晶子は,戦争への動員を受け入れ,銃後の女子として,祖国の助けになりたいと考えた。しかし,戦争プロパガンダの全てを受け入れたわけではなかった。資金,労力,兵士として戦争協力しないまま,忠君愛国,教育勅語を楯にする口先だけの文化人を,非国民だと非難した。

立派な新体詩を作る桂月様は博士、夫に教えて頂き新体詩まがいを試みる私は幼稚園の生徒と卑下しつつ、汽車で大阪についた。あす天気が良ければ、長男の光に堺の浜みせてやれと母は言って寝てしまった,と旅行作家の先輩にあった顛末をつた。

「ひらきぶみ」に登場する小林天眠は,商都市大阪で、明治から昭和に活躍した実業家で与謝野夫妻のスポンサー。与謝野晶子の長男・光は,慶応大医学部卒業後,東京都衛生局長を経て,1970年まで東京医科大学理事。晶子の二男・秀(しげる)は,外務省入省,エジプト・スペイン・イタリア大使を歴任。秀の長男・馨は,自由民主党の政治家で通商産業省を歴任。祖父の与謝野鉄幹が衆議院議員選挙に落選して果たせなかった政治家になった。

●大町桂月は,1905年『太陽』一月号「詩歌の真髄」で,ふたたび「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と再度,晶子の歌を非難した。しかし,晶子の夫,国粋主義の与謝野鉄幹のとりなしで,論戦は終息した。明治の元勲が政治と軍事を握っていた明治時代,列国に範をとった富国強兵を進めていたから,神がかりな皇室中心主義は,明治の元勲たちにも人気はなかった。

日露戦争の絵葉書(右)日露両国の明暗対比:MIT Visualizing Cultures引用。日論の日本が,黒熊ロシアを威圧し,アジアに光をもたらした。熊どもは,あわてて逃げてゆく。すべてが日本によって明るく照らし出される。

教育勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ 此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日  御名御璽

3.与謝野晶子の歌を、皇室中心主義に反すると批判した大町桂月は、日本各地、中国を旅行した。旅行作家として文章も残した。「秋の筑波山」を詠むと、自然を愛する日本人の感性が,芸術的に表現されている。

秋の筑波山    大町桂月

 一 関城の趾
東京の人士、若(も)し土曜日より泊りがけにて山に上らむとならば、余は先づ筑波登山を提出せむとする也。
 上野より水戸線に由りて、土浦まで汽車にて二時間半、土浦より北条まで四里、馬車にて二時間、北条より筑波町まで一里、徒歩して一時間、都合六時間以内の行程、これ東京よりの順路なるが、上野発が午後二時二十分なれば、途中にて日が暮るべし。山に上らうといふ者は、それくらゐの事は辛捧(しんぼう)せざるべからず。筑波山麓麓より筑波町まで、ほんの五六町の坂路也。筑波町に着きさへすれば、旅館四つ五つあり。その夜一泊して、翌朝山に上るべし。往復五時間あれば十分也。筑波町にて午食して、昨日の路を帰るとすれば、土浦まで歩きても、その日の中には、東京に帰らるゝ也。

 ことしの九月二十四日と二十五日と、休日が二日つゞきければ、三児を伴ひ、桃葉をあはせて同行五人、上野より日光線に由り、小山にて乗りかへて下館に下る。下館より。筑波町まで五里、大島までは馬車通ず。されど、我等は下妻さして行くこと二里、梶内より右折して関城の趾を探り、若柳、中上野、東石田、沼田を経て、一時間ばかりは闇中を歩きて、筑波町に宿りぬ。全二日の行程なれば、筑波登山の外、関城趾の覧古(らんこ)を兼ねたる也。

日露戦争の浮世絵木版凹版画(右)「日露激戦画図」MIT Visualizing Cultures引用

 日本歴史に趣味を有する者は、何人も北畠親房の関城書といふ者を知れるなるべし。其(その)書、群書類従の中に収めらる。これ当年親房が結城親朝に与へたる手紙をひとまとめにしたるもの也。親房は言ふまでもなく、南朝の柱石也。親朝も、もとは南朝の忠臣なりき。其父宗広は、建武中興に与(あずか)つて大いに功ありて、勤王に始終したりき。-----然(しか)るに、南風競はず、北朝の勢、益々隆んなるに及び、父の遺言を反古にし、半生の忠節に泥を塗りて、終(つい)に賊に附したり。関城書は、親房が関城に孤立せし際、親朝がまだ形勢を観望せるに当り、大義を説きて、その心を飜(ひるが)へさむとせしもの也。辞意痛切、所謂懦夫(だふ)を起たしむるの概あり。然れども、親朝の腐れたる心には、馬耳に東風、城陥りて、親房の雄志終に伸びず。名文空しく万古に存す。

 当年の関城主は誰ぞや。関宗祐、宗政父子也。-----宗祐は無二の忠臣也。親房を奉じて忠節を尽せり。当時、関東は幾(ほと)んどすべて賊に附して、真結城親朝さへ心を飜しぬ。唯々宗祐の関城を根拠として、伊佐城主の伊達行親、真壁城主の真壁幹重、大宝城主の下妻政泰、駒城主の中御門実寛だけが南朝に属せしが、興国四年十一月、高師冬大挙して来り攻むるに及び、大宝城陥りて政泰討死し、関城も陥りて宗祐父子討死し、親房は吉野に走れり。これより関東全く北朝に帰するに至りぬ。

 大宝沼の北端、三方水に囲まれたる丘上は、これ関城の趾也。沼に臨みて宗祐父子の墓あり。関城の碑も立てり。大宝沼は城趾の両側を挟さんで、遠く南に延び、その尽くる処を知らず、東の方二三里を隔てて、筑波の積翠(せきすい)を天半に仰ぐ。風光の美、既に人をして去る能はざらしむるに、忠魂長く留まれる処、山河更に威霊を添ふるを覚ゆ。茫々五百年、恩讐両(ふた)つながら存せず。苦節ひとり万古にかをる。明治の世になりて、宗祐は正四位を贈られ、宗政は従四位を贈らる。地下の枯骨、茲(ここ)に聖恩に沽(か)へる也。

 二 筑波登山
路傍の草中に、蛙の悲鳴するを聞く。蛇が蛙を呑み居るならん。助けてやれとて、石をなぐれば、蛙をくはへたる蛇あらはれて逃げゆく。木の枝を折り取りて蛇を打てば、蛇弱りて、蛙飛び去る。今一打を蛇の頭上に加ふれば、頭つぶれて死す。子供ども、快哉と呼ぶ。日暮れたる後、また蛙の悲鳴を聞く。小石を二つ三つなぐれど、なほ悲鳴を聞く。大なる石をなげつくれば、悲鳴は聞えずなりぬ。蛇死して蛙のがれたるか、蛇蛙共に死したるか、それとも蛇命を全うして蛙を呑み了りたるか、闇中の事なれば、知るに由なし。これ筑波の途上、親子が興じあひたるいたづら也。

 沼田村より山路にさしかゝる。林間の一路、闇さは闇し、家は無し。十六をかしらに、末の子が十一、何も見えざるに、足の疲れを覚えけむ、筑波町はまだですか、まだですか。もうぢきだ、ぢきだ、男だ。辛捧せよと呼びかはして行く程に、灯光路に当る。これが筑波町かと思ひの外、山中の一軒家也。まだ何町あるかと聞けば、もう二三町也。この闇きに、提灯なきは危し。提灯つけて送らせんといふ。田舎にうれしきは、人の深切(しんせつ)也。それには及ばずと断りて、なほ闇をさぐり、筑波町に達して宿りぬ。

 筑波に遊ぶこと、これで三度目也。在来の書物には、筑波町より頂上まで一里卅二町とあれどこの頃新しく処々に立てられたる木標の示す所によれば、男体山まで廿一町廿三間、男体山より女体山まで八町、女体山より廿五町半、往復都合凡そ五十五町也。それを朝七時に宿を出て、十二時に戻り来りぬ。茶店の路を要するもの、男体の途に三つ、女体の途に二つ、頂上に三つ。下からわざわざ上つて来て居ります。やすんでいらつしやれと強ひられて、素通りも出来ず。一軒に五分づゝ休むとしても、都合四十分かゝる。蘭を採つたり、つくばねの実を採つたり、山毛欅茸を採つたり、路草くふことも多かりしかば、斯(か)く五時間も長くかゝりたる也。
 男体山へ上る途の名所は、小町桜と、水無川の、水源と也。小町桜のある処は、むかし日本武尊(やまとたけるのみこと)の休憩あらせられし処と称す。水無川は、百人一首にある陽成院の『筑波根の峯より落つる水無川恋ぞつもりて淵となりぬる』にて、有名なるもの也。女体の途の名所には、弁慶七戻あり、一種の石門也。上に横はれる大石、落ちんとして落ちず、さすがの弁慶も、過ぐるをはゞかりたりとは、とんだ引合に出されたるもの也。
 頂上には、男体女体の二尖峯相並びて突起し、南に離れて連歌岳あり、東につらなりて宝珠岳あり。なほ女体よりの下り路に、北斗石、紫雲石、高天原、側面大黒石、背面大黒石、出船入船などの奇巌、峯上に突起す。就中(なかんずく)女体峯頭が最も高く、且(か)つ眺望最もすぐれたれど、この日は濃霧濛々として眺望少しも開けざりき。男体山には伊弉諾尊(いざなきのみこと)を祀り、女体山には伊弉冊尊(いざなみのみこと)を祀る。其外、頂上に摂社頗(すこぶ)る多し。男体の一角に測候所あり。これ明治三十五年に故山階宮菊磨王殿下の設立し給へる所、筑波山新たに光彩を添へぬ。然るに、殿下今や亡し。測候所は文部省が引継げりと聞く。金枝玉葉の御身を以て、斯かる山上に測候所を設立し給ひし御志の程、世にも尊く仰がるゝ哉。殿下御在世の時、同妃殿下、登山せさせ給ひて、
筑波根の峯に建てたるやぐらにも
 あらはれにけり君がいさをは

 三 小田城と太田三楽

筑波山は山しげ山しげけれど
 思ひ入るにはさはらざりけり
 げに、古より樹木しげかりけむ。筑波山の高さは僅に三千尺ぐらゐなれど、関東平野の中に孤立せるを以て、関東にては、何処からも見ゆ。随(したが)つて、筑波山上よりは、関東を残らず見渡すを得べし。関城趾方面よりは、男体のみが見えて、女体は見えず。右に豊凶山をひかへ、左に葦穂、加波、雨引の三山をひかへて、勢、秀抜也。-----唯々筑波山のみは樹木鬱蒼として、関東の単調を破る。
 午後一時、筑波町を発足して帰路に就く。北条まで歩きて馬車に乗る。小田村の路傍、「これより南三町小田城趾」としるせる木標の立てるを見る。これ当年北畠親房が一時たてこもりたる処也。<以下略>

日露戦争時期の浮世絵(右)「観兵式」MIT Visualizing Cultures引用。天皇親率の日本陸海軍では,御前の観兵式は最大級の華麗な祭典であり,最上級の軍装で望む。 堺利彦らの赤旗事件がおきたのは,1908年の日露戦争後である。ボストン美術館所蔵。

4.日本では,1910年に社会主義者による天皇暗殺未遂事件,いわゆる「大逆事件」が起こった。国体を脅かす危険思想は取り締まり・弾圧の対象とされた。その筆頭が社会主義者,社会主義思想だった。しかし,石川啄木,芥川龍之介などの日本の代表的な文化人は,社会主義者に同情,同調していた。20年後には,反共産主義の自由主義者も,国体に反する危険思想とみなされ,弾圧された。

石川啄木の経歴 1902年(明治35)10月『明星』に「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」 を白蘋の筆名で掲載。盛岡尋常中学校。上京,与謝野鉄幹・晶子夫妻を知る。翌年渋民村に帰郷。「岩手日報」で石川白蘋の名で評論「ワグネルの思想」を掲載。啄木の名で「明星」に詩「愁調」掲載。

1904年勃発。『岩手日報』に「戦雲余禄』連載。翌年詩集『あこがれ』刊行。堀合節子と結婚。文芸誌『小天地』刊行。
1906年渋民尋常高等小学校の代用教員。小説『雲は天才である』執筆。小説『葬列』を『明星』に掲載。長女・京子誕生。翌年函館市弥生尋常小学校代用教員。函館日日新聞社の遊軍記者。函館大火で失職。札幌の北門新報、小樽日報社に転職。
1908年釧路新聞社勤務。4月単身上京。11月『東京毎日新聞』に「鳥影」連載開始。翌年『スバル』創刊号発行。3月東京朝日新聞社の校正に採用。6月、妻・子・母を迎える。

1910年幸徳秋水等の「陰謀事件」を読み、『所謂今度の事』執筆。

文学者として与謝野晶子を高く評価していた。1910年に,「時代閉塞の現状」を執筆した石川啄木は,1902年(明治35)初めて与謝野家を訪門し,1908年から与謝野家に滞在した。1908年5月 啄木の日記には,「与謝野氏外出。晶子夫人と色々な事を語る。明星は其昔寛氏が社会に向って自己を発表し、且つ社会と戦う唯一の城壁であつた。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編集長に雇はれて居るようなものだ!」 「小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、(与謝野鉄幹)氏は頻りに漱石を激賞して″先生″と呼んで居た。」とある。
啄木は与謝野晶子『みだれ髪』を愛読していたから,「晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。」(blog 漱石サロン ランデエヴウ 引用)

日露戦争の浮世絵(右)「日本軍 義州占領 露兵鵯越江北岸逃避の図」MIT Visualizing Cultures引用。中国・韓国国境の義州のロシア軍に攻撃をかける日本軍歩兵部隊。突撃ラッパを吹き鳴らラッパ手に続く黒い軍服の歩兵。

1908年1月4日「啄木メモ」には,「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。」とある。6月赤旗事件。
1909年4月12日の啄木日記には「---予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。---予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。---」とある。


石川啄木「時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」  

かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。----

 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。---

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。

 ----哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。-------

 文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚(さま)してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

   (青空文庫:底本「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社 1967年 引用)


石川啄木『所謂今度の事』
---今度の事と言うのは、実に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈弾事件の事だったのである。

 ----私はまた第二の興味に襲われた。それは我々日本人のある性情、二千六百年の長き歴史に養われて来たある特殊の性情についてであった。----かの三人の紳士をして、無政府主義という言葉を口にするを躊躇してただ「今度の事」と言わしめた----

二 蓋し無政府主義という語の我々日本人の耳に最も直接に響いた機会は、今日までの所、前後二回しかない。--- その一つは往年の赤旗事件である。-----

  三 そうして第二は言うまでもなく今度の事である。
 ----秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に、検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。---
 もしも単に日本の警察の成績という点のみを論ずるならば、今度の事件のごときは蓋し空前の成功と言ってもよかろうと思う。---

 今度の事件は、---警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。  (→(青空文庫 石川啄木『所謂今度の事』引用終わり)

所謂今度の事「大逆事件」では,幸徳秋水伝次郎を首領とする無政府主義者Anarchistの一団が、天皇暗殺を企てたとされたが、検事局は新聞記事差止の命令を発した。つまり,警察ないし法律の力は、人間の思想的行為にむかって無能なものであることを証明したとして,石川啄木は,言論の自由とそれを抑圧する政府の弊害を痛烈に批判した。

与謝野晶子 「覇王樹と戦争」 大正三年(1914年第一次世界大戦勃発)

シヤボテンの樹を眺むれば、
芽が出ようとも思はれぬ
意外な辺が裂け出して、
そして不思議な葉の上へ
新しい葉が伸びてゆく。

ああ戦争も芽である、
突発の芽である、
古い人間を破る
新しい人間の芽である。


シヤボテンの樹を眺むれば、
生血に餓ゑた怖ろしい
刺(はり)の陣をば張つて居る。
傷つけ合ふが樹の意志か、
いいえ、あくまで生きる為。

ああ今、欧洲の戦争で、
白人の悲壮な血から
自由と美の新芽が
ずつとまた伸びようとして居る。

それから、
ここに日本人と戦つて居る、
日本人の生む芽は何だ。
ここに日本人も戦つて居る。


与謝野晶子 「一九一八年よ」 大正七年(1918年第一次大戦終結)

暗い、血なまぐさい世界に
まばゆい、聖い夜明が近づく。
おお、そなたである、
一千九百十八年よ、
わたしが全身を投げ掛けながら
ある限りの熱情と期待を捧げて
この諸手をさし伸べるのは。

そなたは、――絶大の救世主よ――
世界の方向を
幾十万年目に
今はじめて一転させ、
人を野獣から救ひ出して、
我等が直立して歩む所以ゆゑんの使命を
今やうやく覚らしめる。


そなたのもたらすものは
太陽よりも、春よりも、
花よりも、――おお人道主義の年よ――
白金はくきんの愛と黄金の叡智である。
狂暴な現在の戦争を
世界の悪の最後とするものは
必定、そなたである。

わたしは三たび
そなたに礼拝を捧げる。
人間の善の歴史は
そなたの手から書かれるであらう、
なぜなら、――ああ恵まれたる年よ、――
過去の路は暗く塞がり、
唯だ、そなたの前のみ輝いて居る


与謝野晶子 「衆議院の解散」 大正九年 1920年の議会制民主主義への懐疑の歌

衆議院解散の
号外を手にした刹那、
わたしは座を立つて
思はず叫んだ。
原敬の白髪頭
何と云ふ善い智慧を出したのだ
自暴自棄と云ふ事ほど
最上の自滅法はありません。
民衆の敵、
社会の敵、
自由の敵、
政友会よ、
もうお前は亡霊だ
。」

与謝野晶子 「電車の中」 大正十二年 1923年の社会主義・労働者に関連する歌

生暖かい三月半の或夜、
東京駅の一つの乗場プラツトホーム
人の群で黒くなつてゐる。
停電であるらしい、
久しく電車が来ない。
乗客は刻一刻に殖えるばかり、
皆、家庭へ下宿へと
急ぐ人々だ。
誰れも自制してはゐるが、
心のなかでは呟いてゐる、
或はいらいらとしてゐる、
唸り出したい気分になつてゐる者もある。
じつとしては居られないで、
線路を覗く人、
有楽町の方を眺める人、
頻りに煙草を強く吹かす人、
人込みを縫つて右往左往する人もある。
誰れの心もじれつたさに
なんとなく一寸険悪になる。
其中に女の私もゐる


凡そ廿分ののちに、
やつと一台の電車が来た。
人々は押合ひながら
乗ることが出来た。
ああ救はれた、
電車は動き出した。

けれど、私の車の中には
鳥打帽をかぶつた、
汚れたビロオド服の大の男が
五人分の席を占めて、
ふんぞり反つて寝てゐる。
この満員の中で
その労働者は傍若無人のていである。
酔つてゐるのか

恐らくさうでは無からう。
乗客は其男の前に密集しながら、
誰も喚び起さうとする者はない。
男達は皆其男と大差のない
プロレタリアでありながら、
仕へてゐる主人の真似をして
ブルジヨア風の服装みなりをしてゐるために、
其男に気兼し、
其男を怒らせることを恐れてゐる。

電車は走つて行く。
其男は呑気にふんぞり反つて寝てゐる。
乗客は窮屈な中に
忍耐の修行をして立ち、
わざと其男の方を見ない振をしてゐる。
その中に女の私もゐる


一人で五人分の席を押領する……
人人がこんなに込合つて
息も出来ないほど困つてゐる中で……
あゝ一体、人間相互の生活は
かう云ふ風でよいものか知ら……
私は眉を顰めながら、
反動時代の醜さと怖ろしさを思ひ
我々プロレタリアの階級に
よい指導者の要ることを思つてみた


併しまた、私は思つた、
なんだ、一人の、酔つぱらつた、
疲れた、行儀のない、
心の荒んだ、
汚れたビロオド服の労働者が
五人分の席に寝そべることなんかは。
昔も、今も、
少数の、狡猾な、遊惰な、
暴力と財力とを持つ人面獣が、
おのおの万人分の席を占めて、
どれ位われわれを飢させ、
病ませ、苦めてゐるか知れない。
電車の中の五人分の席は
吹けば飛ぶ塵ほどの事だ


かう思つて更に見ると、
大勢の乗客は皆、
自分達と同じ弱者の仲間の
一人の兄弟の不作法を、
反抗的な不作法を、
その傍に立塞がつて
庇護かばつてゐるやうに見える。
その中に女の私もゐる。

◆平民新聞の社会主義,無政府主義について,与謝野晶子は「ひらきぶみ」で「下様(しもざま)の下司(げす)」「今時(いまどき)の」「あさまし」い読み物には「身震いがする」といって嫌悪感をあらわにた。他方,石川啄木,芥川龍之介は,当時の社会主義の持つリベラルな側面,現実批判精神,理想主義の側面に多大な関心を示した。与謝野晶子の議会制民主主義,労働者や社会主義に関連する歌は,石川啄木,芥川龍之介の思いに反する部分と同調する部分が混在している。

日露戦争の絵葉書(右)「日露海戦水中の図」MIT Visualizing Cultures引用。大ダコがロシア国旗を掲げた軍艦をつかんでいる。

或社会主義者  芥川龍之介 1926年/大正15年

彼は若い社会主義者だつた。或小官吏だつた彼の父はそのためにかれを勘当しようとした。が、彼は屈しなかつた。それは彼の情熱が烈しかつたためでもあり、又一つには彼の友だちが彼を激励したためでもあつた。
 彼等は或団体をつくり、十ペエジばかりのパンフレツトを出したり、演説会を開いたりしてゐた。
---彼は父親になり、いよいよ家庭に親しみ出した。けれども彼の情熱はやはり社会主義に向つてゐた。----

 ----彼の「リイプクネヒトを憶ふ」は或青年を動かしてゐた。----彼は今でも籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出してゐる、人間的に、恐らくは余りに人間的に。
        (大正15年12月10日)
(⇒青空文庫:芥川龍之介「或社会主義者」引用)

与謝野晶子 「母の歌」 大正十三年 1924年

ふたおやの愛の心は
等しくて差別なけれど、
その愛の姿のうへに
おのづから母ぞ異る。

女にて母とならずば
如何ばかり淋しからまし。
女なる身の幸ひは
母となり初めて知りぬ。

生むことは聖なるわざぞ、
母ひとり之をなすのみ。
神の子と云はるる人も
母の血を浴びて生れき。

男らはいくさに出でて
人斬りし道なき世にも、
をさな児に乳房を与へ、
かきいだき歌ひしは母。


母なくば人は絶えけん、
母ありて、人の生命いのち
つぎつぎに新たになりぬ、
美くしくやさしくなりぬ。

今の世も男ごころは
おしなべて荒く硬かり。
正しきに導くものは
母ならで誰かくせん。


願はくは母の名に由り、
地の上の人を浄めん、
富む者の欲を制せん、
戦ひをまたくとどめん

5.日本は,1925年に治安維持法を制定し,反戦を唱えるような危険思想も弾圧の対象とした。プロレタリア文学作家の小林多喜二は,1933年,特高に逮捕され,死亡した。そのなかで,社会主義思想を放棄して,日本軍や国体を賛美する「転向」が進んだ。

プロレタリア文学は,1917年のロシア革命以降,社会主義的,共産主義的思想が広まる中で,それが文学に影響して生まれた。プロレタリア文学は,政治体制を批判したり,社会問題を論じたりと,社会主義思想の影響を色濃く受けていた。プロレタリア文学や社会主義思想は,普通選挙の要求の高まりとあいまって,日本の国体(天皇制)の変革に結びつくことが危惧された。

1925年に治安維持法は,国体の変革,私有財産制の否定を企てるものを処罰する法律である。普通選挙甫と同時に施工された治安維持法を担う組織が,特高警察(特高)である。1911年に警視庁(東京)に特別高等警察課が設置され,1928年には全国に設置された。特高は、1922年創設の日本共産党,労働組合,社会主義者,さらには自由主義者,民主主義者も反政府的であるとして取り締まるようになる。そして,拷問,密偵・密告などによる思想弾圧を行った。

与謝野晶子 〔無題〕 1927年の祖国大日本帝国と統治者天皇陛下を讃える歌

粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
いまだ乾かざれども、
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる下に、
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語

   ×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。

世は変る、変る、
偏すること無く変る
愛と正義の中に変る

   ×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の内外うちと
   ×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、何処いづこぞや、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ

世界は如何に動くべき、
国民くにたみは何を望める、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
   ×
我等は陛下の赤子せきし
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心みこゝろに集まる

陛下は地上の太陽、
唯だ光もておほひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
   ×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界をるるに慣れたれば。
我等は日本人、
生生せいせいとして常に春なり、
まして今、
華やかに若き陛下まします

   ×
争ひは無し、今日の心に、
事に勤労いそしむ者は
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
   ×
眠りつるは覚めよ、
たゆみつるは引き緊まれ、
乱れつるは正せ、
れつるは本にかへれ。
ひとの国にはひとの振、
己が国には己が振。
改まるべき日は来る、
は明けんとす、ひんがしに。
   ×
我等が行くべき方は
陛下今指さし給ふ。
めよ、財の争ひ、
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。

小林多喜二への拷問にみられるように,日本人の治安維持法違反(罪人)への処遇も厳しいのであるから,1931年の満州事変における「匪賊」「敵兵」に対する容赦ない処刑は,残虐なものとは考えられていない。1932年の第一次上海事変でも,暴戻なる敵中国軍の兵士や日本に反旗を翻す中国人叛徒(「便衣隊」ゲリラ兵・民兵,反日活動家)に対しては,情け容赦のない処置をとった。 

1925年の治安維持法,特高警察による社会主義・共産主義的思想弾圧によって,プロレタリア文学は徐々に衰退した。日本プロレタリア作家同盟(戦旗派)は,1934年2月22日,解体声明を出した。

(⇒近代日本文学概説2─昭和初期引用)

6.1931年の満州事変,1932年第一次上海事変では,戦争の大義や日本の権益拡充に結びつく戦争に協力すべきであると考えた文化人も多かった。1932年第一次上海事変の「爆弾三勇士」の伝説は,晶子と再婚した与謝野鉄幹によって,歌唱になった。

1932年1月に勃発した第一次上海事変で,日本陸軍「爆弾三勇士」という美談となった。1932年2月22日,日本陸軍第24旅団(久留米)が中国軍十九路軍蔡廷鍇の陣地を攻撃した際,陣地前面にある鉄条網を破壊する破壊筒(4mの筒に爆薬20キロを装填)を運搬した兵士たちの突撃が,犠牲的精神の発露であるとされた。

長崎県出身の北川丞一等兵,佐賀県出身の江下武次一等兵、長崎県出身の作江伊之助一等兵は,第24旅団の下級兵士であり,名前はそれほど人口に膾炙したわけではないが,三軍神あるいは三勇士と讃えられた。

写真(右):靖国神社大灯篭基盤のレリーフ「爆弾三勇士」;第二鳥居と神門の参道両脇に,日本陸軍と日本海軍の物語を彫った大燈籠(富国生命保険の寄進)がある。灯篭の基壇に,戦争の名場面の青銅レリーフがある。太平洋戦争時,大鳥居は金属供出されたが,このレリーフは供出されずに,残された。

1932年2月27日『大阪朝日』社説「日本精神の極致 三勇士の忠烈」
 「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
 内憂にせよ、外患にせよ、国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」 (『大阪毎日』引用)

◆1932年2月22日,第一次上海事変で,中国軍陣地の鉄条網を爆破するために,破壊筒をもって突撃した「爆弾三勇士」の行動は,犠牲的精神の発露であるとされた。北川丞一等兵,江下武次一等兵、作江伊之助一等兵という下級兵士は,『爆弾三勇士』として,荒木貞夫陸相、鳩山一郎文相、薄田泣董など有名人からも絶賛された。そして,三名の一等兵は,三軍神と賞賛され,新聞、雑誌,教科書,軍歌で頻繁に取り上げられた。

写真(左):「爆弾三勇士」の歌を作詞し,歌人晶子を三番目の妻とした与謝野鉄幹;(1873年2月26日 - 1935年3月26日)京都府岡崎の生まれ。山口県徳山女学校で国語教師を4年間勤めるも女生徒と問題を起こし、退職。20歳で上京。1899年「東京新詩社」を創立し、翌年「明星」を創刊した。3度目の妻の与謝野晶子と浪漫主義運動を展開。1908年1月3日の啄木日記に「----三十四年に、随分世の中を騒がしてから例の鳳晶子、乃ち現在の与謝野氏夫人が故郷の堺を逃げ出して鉄幹氏の許へやつて来た。与謝野氏には其時法律上の手続だけは踏んで居なかったが、立派な妻君があつて子供まであった。水野(葉舟)は、建つた事はないが好男子でよく女と関係つける男なさうだ。そこで何とかした張合で晶子女史は水野と稍おかしな様になつた。鉄幹氏はこれを見付けて、随分壮士芝居式な活劇迄やらかして、遂々妻君を追出し、晶子と公然結婚して三十五年一月の明星で与謝野晶子なる名を御披露に及んだのであつた----」と記した。1915年2月,大隈重信の与党の一人として衆議院選挙に立候補。選挙区は京都府18郡,候補者11人、定員5人である。1600票が当選ラインとされたが,与謝野寛(鉄幹)は99票で落選。国粋主義者三宅雪嶺(1860-1945)は「与謝野も以前朝鮮事件で幾らか政治騒ぎをやり、馬場とても政治の事などを口にして満更の素人ではないかと思はれるが、併し代議士といふものにならねば、自己平常の主義なり理想なりを行ふことが出来ぬとあつては柳か心細い次第と思ふ。それを行ふといふ自信さへあるならば必ずしも代議士にならずとも出来さうなものだと思ふ。代議士に為らねば自分の考へが行はれぬといふ様な人ならば、代議士に為つた所で何事も仕出来さぬものであらう」と評した。(寛、衆議院議員選挙立候補引用)

「三勇士の歌」は,『朝日新聞』『毎日新聞』が公募し,三勇士の突撃から1ヵ月後の1932年3月25日に入選作が発表された。『毎日』の「爆弾三勇士の歌」には、総数8万4177編の応募があり、この中から与謝鉄幹の作品が選ばれた。

「爆弾三勇士」与謝野寛作詞・辻順治作曲
 一、廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣 われの友隊すでに攻む 折から凍る二月(きさらぎ)の 二十二日の午前五時
 二、命令下る正面に 開け歩兵の突撃路 待ちかねたりと工兵の 誰か後れをとるべきや
 三、中にも進む一組の 江下北川作江たち 凛たる心かねてより 思うことこそ一つなれ
 四、我らが上に載くは 天皇陛下の大御稜戚(おおみいつ) うしろに負うは国民(くにたみ)の 意志に代われる重き任
 五、いざ此の時ぞ堂々と 父祖の歴史に鍛えたる 鉄より剛(かた)き「忠勇」の 日本男子を顕すは
 六、大地を蹴りて走り行く 顔に決死の微笑あり 他の戦友にのこせるも 軽く「さらば」と唯一語
 七、時なきままに点火して 抱き合いたる破壊筒 鉄条網に到り着き 我が身もろとも前に投ぐ
 十、 忠魂清き香を伝え 長く天下を励ましむ 壮烈無比の三勇士 光る名誉の三勇士

与謝野鉄幹は当選歌を発表後、(三)の「答えて『ハイ』と工兵の」の文句が「これでは上官が命令したことになり、事実と相違する」と軍から指摘され、修正したといわれる。 (→静岡県立大学前坂俊之教授http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/maesaka/maesaka.html引用)
月収40円があれば家族五人が生活できる時代に、新聞社が爆弾三勇士の歌を募集し、賞金500円を与謝野鉄幹に贈呈したようだ。芸術など戦争の前には動員されるに過ぎない存在なのか,戦争など芸術に資金と活動の場を提供する存在に過ぎないのか。

晶子の夫として有名な與謝野鉄幹は,1894年日清戦争を契機に朝鮮に渡る。招かれて漢城(現ソウル)の「乙未義塾」日本教員として赴任。詩歌草新運動を唱えて1894年「亡国の音」を発表、『二六新報』に国民士気鼓舞の詩歌をしきりに掲載。「韓山(からやま)に秋かぜ立つや太刀なでて われ思うこと無きにしもあらず」1895年10月8日に三浦梧楼ら日本官憲・右翼壮士とともに朝鮮王妃の閔妃暗殺に関与したとされる。朝鮮をロシア,清国の傀儡となるのを避ける日本に必要な国防上の措置と考えたようだ。護送されて帰国する。

鉄幹の妻で,歌人としての評価が高い与謝野晶子は,『君死にたまふことなかれ』によって反戦歌人とされる。しかし,1932年『支那の近き将来』では「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」と,『日支国民の親和』では「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」と述べた。夫鉄幹が,第一次上海事変「爆弾三勇士の歌」をつくったのは,同じ1932年である。芸術家,文人とは,その作品に宿る心情を本質としており,実生活の行動はもちろん戦争観には拘泥しなくてもいいのかもしれない。ドラマチックな戦争が,芸術家の才能をきらめかせ,プロパガンダが芸術家に活躍の場を提供することが多い。

1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致―三勇士の忠烈」
 「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
 内憂にせよ、外患にせよ、国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(『大阪毎日』引用)

第五期国定教科書「アサヒ読本」初等科国語二の二十一に「三勇士」が記載されるようになり,次の美談が子供たちにも広められた。(津久井郡郷土資料館引用)
 敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。そこで班長は、まづ破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
 作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりとかかへ、鉄条網めがけて突進しました。-----すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人はぐっとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただ、その間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
 北川は、決死の勇気をふるって、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやうに、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
 三人の心は、持った破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
 もう死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れていました。「作江、よくやったな。いい残すことはないか。」作江は答えました。「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ、作江を向かせながら、「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」とさけびました。
「天皇陛下万歳。」作江はこういって、静かに目をつぶりました。

7.1931年の満州事変,1932年の第一次上海事変,1937年7月7日の盧溝橋事件,8月13日の第二次上海事変,それに続く日中戦争では、ナショナリズムが強調され、日中双方で文化人が戦争協力した。与謝野晶子も、壮大な戦争、戦争の大儀、敵中国国民革命軍第十九路軍司令官蔡廷鍇の無知蒙昧を文学で表現した。

与謝野晶子 〔無題〕 昭和七年(1932年第一次上海事変

一人の兵士が斃れた、
前から来た弾丸(たま)のために。
しかし、兵士自身は知つてゐる、
背嚢が重過ぎたのだ、
後ろの重味に斃れたのだ。

与謝野晶子 〔無題〕 昭和七年(1932年第一次上海事変[爆弾三勇士])

ところが、繋がつてゐるのです、
一つを切ると
一つが死ぬのです、
いや、皆が死ぬのです、
人間と草木とはちがひます。

写真(右):南寧の軍事訓練中学校の女子(2) (1937年1月17日):Six girls and wall posters, (2). ;The Harrison Brown Collection引用。 中国国民党は,民間人や学生を動員して,兵士として促成訓練して前線に送った。女子でも軍属として戦線後方任務に従事したようだ。日中戦争では,中国の女性兵士,女子スパイ,女子ゲリラ兵士(便衣隊)を捕虜とした日本の新聞記事が何回か登場している。

与謝野晶子 「紅顔の死」 1932年第一次上海事変の犠牲となった中国青年への同情と排日活動を煽動した中国指導者への非難の歌

江湾鎮の西のかた
かの塹壕に何を見る。
行けど行けども敵の死屍、
折れ重なれる敵の死屍。

中に一きは哀しきは
学生隊の二百人。
十七八の若さなり、
二十歳はたちを出たる顔も無し。


彼等、やさしき母あらん、
その母如何に是れを見ん。
支那の習ひに、美くしき
許嫁いひなづけさへあるならん。

彼等すこしく書を読めり、
世界の事も知りたらん。
国の和平をねがひたる
孫中山そんちゆうざんの名も知らん。

誰れぞ、彼等を欺きて、
そのうら若き純情に、
善き隣なる日本をば
侮るべしと教へしは。

誰れぞ、彼等をそそのかし、
筆をつるぎに代へしめて、
若き命を、此春の
梅に先だち散らせるは。

十九路軍の総司令
蔡廷鍇さいていかいの愚かさよ、
今日のうちにも亡ぶべき
己れの軍を知らざりき。


江湾鎮の西の方
かの塹壕に何を見る。
泥と血を浴び斃れたる
紅顔の子の二百人。

(右、読売新聞記者安藤覺氏の上海通信を読み感動して作る。)

◆1937年11月4日中支那方面軍司令官(兼上海派遣軍司令官)に任命された松井石根大将の日記によれば,「支那官民は蒋介石多年の抗日侮日の精神相当に徹底せるにや、到る処我軍に対し強き敵愾心を抱き、直接間接居留民か敵軍の為めに我軍に不利なる諸般の行動に出てたるのみならす、婦女子すらも自ら義勇軍員となり又は密偵的任務に当れるものあり」というほど,中国の抗日意識は高かった。そして,抗日活動(中国側からみれば,愛国心溢れるレジスタンス)は,「自然作戦地域は極めて一般に不安なる状勢に陥り、我作戦の進捗を阻害」したと述べた。1931年の満州事変,1932年の第一次上海事変でも,中国側の「抗日侮日の精神」は高かった。

◆日本陸軍は,第一次上海事変「爆弾三勇士」を美談として喧伝した。
1932年2月22日,日本陸軍第24旅団(久留米)が蔡廷鍇(Cai Tingkai)率いる国民革命軍十九路の陣地を攻撃した際,敵陣の鉄条網を破壊する破壊筒(爆薬20kg装填の4m円筒)を運搬した兵士の突撃が,賞賛された。この爆弾三勇士の懸賞歌を作詞(入選)したのが,晶子の夫・与謝野鉄幹である。妻晶子が「紅顔の死」の歌で,第十九路軍司令官蔡廷鍇(1892-1968)を,中国を戦乱に巻き込んだ愚かな将軍と非難したのは,夫の立場を踏まえれば,当然のことだった。

◆中国人は軍民一体となって,抗日活動に従事した。晶子が哀れに思った紅顔の学生隊二百人は,中国の勇士の一員として,出陣したが,与謝野晶子は,学生隊は,中国人指導者に煽動され,誤った戦争に投入され,無残に殺されたと同情した。もしも,戦争でなければ,学生隊に参加した中国の若者と爆弾三勇士として突撃した日本の青年は,よき友人になれたかもしれない。


写真(左):朝日新聞1937年2月4日号外「三日午前十時工部局射撃場に陣地を敷いたわが砲兵隊は野砲数門をもって猛烈に陸戦隊裏側済路踏切付近敵正規兵陣地を砲撃した。」「装甲車を先頭に駆ける勇敢なる姿が見える,続いて大西部隊の一部突撃隊が踏切を超え左前方三百メートルの密集した家屋に拠る敵に突撃した」

「今更いうまでもないが,日本兵の勇敢さには,ただ感激のほかにはない。敵弾に身を曝し鉄条網を刎ねのけつつ君国に捧げた命の如何に軽きかを知って奮戦している有様を目のありに見て感激した。
わが軍は綱を取り退け土嚢を積んだ敵陣を踊り越えて家屋の密集した道路を塩のように攻めかかる。これに隠れていては新聞記者の恥だ,たとえ一人でもわが忠勇なる将士の死線に臨んで国民に伝えるべきだと思って再び駆け出した。」

第一次上海事変
1932年1月21日 在上海日本総領事が呉上海市長に対し抗議文書を手交した。
抗議では,
〇堋垢猟勅奸
加害者の逮捕処罰,
H鏗下圓紡个垢覦帷肝措N堵馼蘆粥
と親団体の解散,
を要求した。

その一方で,第一次上海事変では,1932年1月23日,軽巡洋艦「大井」,第十五駆逐隊および呉特別陸戦隊450名が上海に到着,翌24日 水上機母艦「能登呂」が上海到着。

1932年1月の時点では,日本側は,上海海軍特別陸戦隊と佐世保・呉鎮守府からの陸戦隊増援部隊の上海の海軍陸戦隊は合計1800名、中国側は第十九路軍3万名である。上海で中国蔡廷鍇率いる国民革命軍十九路軍と市街戦を戦った日本海軍特別陸戦隊は,劣勢のために危機に陥った。
海軍陸戦隊救援のために,1000名が増派されたが,日本政府は,上海への陸軍部隊の派兵を決定した。1932年2月2日,久留米の第二十四旅団、金沢の第九師団に動員令。増援部隊の第二十四旅団は、2月7日に上海到着、第九師団各部隊は2月18日上陸。2月後半までに、日本陸軍は,歩兵3個師団、独立混成1個旅団を上海に派遣した。 

<欧米人の見た第一次上海事変>

写真(最上左):中国第19路軍の兵士。
第19路軍司令官蔡廷鍇は,中国大陸に戦乱をもたらしたとして,与謝野晶子の歌で非難されている。
写真(最上右):日本海軍陸戦隊の射撃。
写真(中左):電話線を準備する日本海軍特別陸戦隊。写真(中右):中国軍のヴィッカース重機関銃。
写真(最下左):57ミリ砲を装備した八九式中戦車。日本軍最初の国産戦車で、重量12トン、時速25キロ。約400両生産。写真(最下右):呉松らしい中国軍砲台を占領した日本軍。


The Shanghai War, 1932

In January 1932, five Japanese monks, started singing Japanese patriotic songs in a Chinese factory in Shanghai to celebrate Japan's successes in taking over Manchuria the northeast of the Chinese capital. This provoked a riot during which one of the monks was lynched.

In reprisal, the Japanese landed 1,200 marines and ordered the Chinese Nationalist garrison commander, General Cai Tingkai, to withdraw his Nineteenth Route Army. He refused, and the Japanese attacked. For 34 days the Chinese resisted bravely and only retreated when the Japanese brought in an extra 55,000 reinforcements.

In the fighting, 18,000 civilians were killed or missing and 240,000 people lost their homes. Shanghai was a city under siege. The foreign-controlled areas, the International Settlement and the French Concession, were packed with Chinese refugees trying to escape the Japanese.


写真(上左):1937年1月30日、中国第19路軍の砲撃で炎上する北四川路オデオン座と日本海軍陸戦隊のヴィッカース・クロスレーVickers Crossley装甲車。日本海軍は、イギリスから10台以上を購入、装備していたようだ。写真(中左):同時期の上海北停車場付近で土嚢を積んだバリケードに立て篭もる日本海軍陸戦隊。陸戦隊の兵力は3000名程度で、中国軍よりも遥かに劣勢だった。写真(中右):建物を警護する米国海兵隊。写真(下左)旧式の中国軍の臼砲。右は、壕に立て篭もる中国軍兵士。

第一次上海事変の謀略
1932年1月28日、第一水雷戦隊および佐世保特別陸戦隊470名が上海に到着。
第一遣外艦隊司令官声明後,2130 上海の日本海軍艦艇に搭乗していた陸戦隊を揚陸し,中国軍と戦闘開始。

1月30日 軽巡洋艦「龍田」第二十六駆逐隊および佐世保特別陸戦隊1個大隊上海到着。

中国軍は,国民政府の国民革命軍十九路軍3個師団(3万人)で,共同租界の境界線付近に集結した。上海総領事村井倉松は,上海市長に撤退を約束させた。しかし,日本海軍陸戦隊は,優勢な中国軍に怯えていると見下されるわけにはいかず,陸軍に対する面子もあった。戦闘開始後、植松少将が上海陸戦隊司令官となった。


写真(右):上海沖の海防艦「出雲」
(1937年撮影):日本海軍の第三艦隊(1937年10月以降は支那方面艦隊)旗艦で,排水量1万トン、主砲は20.3cm連装砲2基4門の旧式艦。上海の日本人居留民保護を目的に上海の中国軍を砲撃した。

<1932年の第一次上海事変の戦闘>
第一次上海事変では,第一遺外艦隊より編成された艦船陸戦隊が増派されたが,結局は,圧倒的に不利な日本軍は,1932年2月には上海派遣軍(司令官は陸軍大将白川義則)を編成,石川県金沢より第九師団(師団長植田謙吉中将)を派遣。

2月8日 第三艦隊旗艦海防艦「出雲」上海到着。11日 「長崎丸」下江中呉淞付近にて敵の機銃射撃を受ける。2月20日0730 第九師団総攻撃開始。海軍航空隊も協力し,巡洋戦隊は駆逐艦と共に陸軍と策応し,長江を遡江し,中国軍砲台を艦砲砲撃

上海派遣軍の第九師団は,2月20日に中国軍と大規模な戦闘に突入。2月22日,アメリカ人義勇兵の中国空軍軍戦闘機ボーイングP218が,日本のは空母「加賀」三菱十三式艦上攻撃機1機を撃墜。他方,日本の中島三式艦上戦闘機3機が,ボーイングP218に反撃,撃墜した。これは,最初の空中戦による戦果だった。

1932年2月20日朝、総攻撃が開始。しかし、中国第十九路軍の抵抗のため、第24旅団は廟行鎮を突破できなかった。中国軍は陣地正面に鉄条網を張り、壕を設けて屈強に抵抗した。

1932年2月22日、工兵第二中隊から36名の決死隊が選ばれ、爆薬を装填した破壊筒をかかえに突撃した。この時、作江伊之助、北川丞、江下武二の三兵士は、銃撃の中を破壊筒を鉄条網に突入し、自らは戦死しながらも鉄条網の破壊に成功した。ここに爆弾を持って突撃する陸軍の「肉弾三勇士」の伝説が生れた。銅像と墓が、東京の青松寺に造られた。

1932年3月1日 陸軍第十一師団七了口敵前上陸。海軍軽巡洋艦も支援。陸軍第三次総攻撃。同日,日本は満州国を建国,独立宣言。満州国の元首は,執政の愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝宣統帝)で,1911年辛亥革命で退位していたのを,満州駐屯日本軍の関東軍が擁立した。1934年に溥儀は,満州帝国皇帝に就任。
3月2日 中国軍撤退,3日 呉淞砲台占領。1400 戦闘中止命令。⇒第一次上海事変引用

中国軍は撤退し戦闘は終結。日本軍の戦死者は769名。地上戦闘の終結後、5月5日に停戦協定が成立した。この停戦交渉中の4月29日に、上海において尹奉吉による日本軍に対する爆弾テロ事件が起きた。

日本上海史研究会「上海日本人居留民略史」
虹口Hongkewは第一次上海事変以前は中国人街であった。虹口では、日本語をだけを使って日本様式の生活が可能であったが,同時に中国人で小商売を営むものも多数いた。しかし,虹口の中国人は第一次・第二次上海事変で,排除されていった。その結果、虹口では急激な日本化が進展し、景観の上でも日本人街となった。

上海事件に於ける第十一師団戦記(各種情報資料・満洲及支那事変ニ関スル新聞発表)レファレンスコード:A03023773100
 作成者: 内閣
 作成年月日: 1932年4月8日
 内容: 一、本編は第十一師団司令部の編集にかかり上海派遣軍司令部より発表せるものである。
  二、部余号(戦略輩位を除く)、上陸地点期日、上陸効程及其状況を新聞雑誌等に掲載することを禁す。
  第十一師団司令部編集 先遣梯団の揚子江口到着より七了口敵前上陸
  皇軍の武威を知らずして同胞播護の正当なる我が国の要求を容れず、而も曩に上海附近に於て我が海軍陸戦隊己むなく其挑戦に応じ、
   次に急派せられた混成旅団並第九師団に対して頑強なる抵抗を持続すると共に益々其力を増大し、明に積極的敵対行為を露はし江南の事態日を遂ふて険悪と化した。

   我国は極力平和裏の解決に進まんとしたが----

1932年2月24日善通寺第十一師団に出動命令
2月25日応召者を見送る人達が高松駅にあふれた。高松尋常高等小学校等,各地で壮行会。
2月27・29日第十一師団 詫間港等から上海に向かう。
3月1日揚子江 七了口に上陸、総攻撃開始。
3月3日停戦
3月26〜30日第十一師団 高松港に凱旋。

第一次上海事変の1932年2月22日,日本陸軍第24旅団(久留米)が中国十九路軍の陣地を攻撃した際,敵陣鉄条網を破壊する破壊筒を運搬・戦死した爆弾三勇士が激賞された。爆弾三勇士の歌を作詞したのが,晶子の夫・与謝野鉄幹である。妻晶子は,中国第十九路軍司令官蔡廷鍇(1892-1968)を非難し,夫鉄幹への援護射撃した日本女性だった。

写真(左)胡適(こてき)(1891年12月17日 - 1962年2月24日):1917年(民国6年)、米国留学から帰国。『新青年』で白話文学を提唱、北京大学蔡元培に招かれて帰国。北京大学教授に就任。1919年『新青年』が共産主義へ傾斜すると袂を分かち、1922年『努力週報』を創刊し改良主義を主張。蒋介石に接近し、1938年駐米大使。1942年帰国、1946年北京大学学校長に就任。1949年米国亡命、1958年台湾に移住。(Wikipedia参照)但開風氣不為師引用。

胡適は、上海の梅渓学堂、中国公学などで学び、1910年官費留学生試験に合格して、米コーネル・コロンビア両大学へ留学。1917年にはコロンビア大学に転校、教育学者デューイに師事。
1917年『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、口語文学を主張。1918年に「建設的文学革命論」を書いて「国語の文学・文学の国語」を主張し、言語・文字・文体改革の理論を展開。五四運動以降は李大鞘らの左派と対立、文学運動から身を引く。
1920年『水滸伝考証』、1921年『紅楼夢考証』、1928年『白話文学史』。1930年代以降は儒教批判も薄れ、次第に国民党の文化政策の代弁者となる。1938年駐米大使、1942年行政院最高政治顧問、1946年北京大学学長に就任。
中国における国共内戦,中華人民共和国建国の中で,1949年米国亡命、1958年台湾に移住。

与謝野晶子 〔無題〕 昭和七年 1932年第一次上海事変の時期

魯迅と郭沫若と、
胡適と周作人と、
彼等とわたしの間に
塹壕は無いのだけれど、
重砲が聾にしてしまふ。


郭沫若は,1914年日本に留学し,1917年に佐藤をとみと結婚。1918年九州帝大医学部入学。上海反響クデター後の1928年に日本に亡命,千葉県市川市に居を構えた。しかし,1937年盧溝橋事件後,ひとり家族と離れ中国に帰国。1978年死亡。

郭沫若と市川(中山文化村自主管理事業運営委員会浅賀徹也)によれば,郭沫若に先立つこと9年前の1904年、魯迅は,医学を学ぶため仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に留学。しかしそこで見せられた中国人ロシア側スパイの処刑を撮影した幻灯に衝撃を受け、文学・社会活動の道に進む。郭沫若も九州帝国大学医学部を卒業したが,文学・歴史・政治活動家として活躍した。魯迅と郭沫若の二人の日本留学生に共通点がある。

魯迅の日本観:日本留学を通しての日本認識 孫長虹によれば,7年間の日本留学経験をもつ魯迅が有名である。1881年,中国浙江省紹興城に生まれた魯迅は,1902年4月に20歳で官費日本留学生となった。1909年8月まで7年間以上,滞在。
1894 年の日清戦争に敗れた中国は、日本をモデルとし、1896年最初の日本への中国人留学生13 名派遣。魯迅留学の1902年は600名,1906 年は1万2000名の中国人留学生がいた。しかし,弁髪は「チャンチャン坊主」といって差別された。

◆清国留学生の魯迅は,1904年9月から1906年3月まで,日露戦争の時期に,東北地方仙台で医学を学んだ。仙台医学専門学校(現東北大学医学部藤野厳九郎先生から日本人の仕事や学問に対する熱心さと勤勉さを感じ取り、後に日中戦争の険悪な状況の中においても、魯迅は「日本の全部を排斥しても、真面目という薬だけは買わねばならぬ」と言った。

写真(右):魯迅(1881〜1936):本名は周樹人。字は予才。号を魯迅、中国の代表的な文学者。浙江省紹興の人。1902年、日本へ留学、1904年仙台医学専門学校に入学 後、国民性改造のため文学を志向し東京にもどる。1909年帰国し教員となる。1918年、狂人日記、孔乙己、阿Q世伝を発表。教育者として北京大学など教壇に立った魯迅は又、北洋軍閥の文化弾圧と衝突した学生運動三・一八事件により北京を脱出。中山大学等で教壇に立った。民族主義文学に徹し反封建主義、反帝国主義の文学が基調。(★魯迅詩集★近代中国詩家絶句選(4)引用)答客誚(1931年)
無情未必真豪傑,憐子如何不丈夫? 知否興風狂嘯者, 回眸時看小於菟。
魯迅書簡補遺》有這首詩,末題“未年之冬戲作,?請坪井先生哂正,魯迅。”坪井是上海的日本筱崎醫院的醫生,曾給魯迅的兒子海嬰治痢疾。 (新華通訊社網絡中心,新華網引用)


魯迅の日本留学中、日清戦争後の日本の中国に対する蔑視を魯迅は肌で感じたと同時に、日本の一般の人々とのかかわりを通して日本人の素朴さも感じとった。

◆1931年満州事変、1932年第一次上海事変により、中国の抗日活動が激化し、日本製品に対するボイコットも行われた。しかし,その最中、魯迅は日本のものを好み使っていた。7年間の日本留学生活は、魯迅に日本に対する差別感を抑制し,日本への愛着を起こさせていたようだ。魯迅は、日中の相互理解の難しさを認識しつつ、市民生活レベルで、上海の虹口にあった内山書店店主内山完造のような日本人との交友を続けた。1931年1月,左翼作家虐殺の危機的状況で内山完造は,魯迅を庇護した。内山完造の紹介で魯迅と面識をえた日本人は、長谷川如是閑、金子光晴、室伏高信、鈴木大拙、横光利一、林芙美子、武者小路実篤、岩波茂雄ら多数にある。1932年1月の第一次上海事変では,魯迅親子・周建人夫妻を庇護した。

◆魯迅は,小林多喜二の死を悼む文章では、「日本と中国との大衆はもとより兄弟である。」と述べた。「排日の声の最中にあって、私はあえて断固として中国の青年に忠告を一つさしあげたい。それは、日本人は私たちがみならうだけの価値があるものをいっぱい持っているということだ」

(⇒魯迅の日本留学参照)

日清露戦争の浮世絵/錦絵凹版木版画(右)「暴行清兵ヲ斬首スル図」MIT Visualizing Cultures引用。1894年(明治27年)10月。「我軍隊は正義慈仁」だが,中国清朝兵士は,「病院に闖入し自由ならざる負傷・病者を殺害するが如き」暴虐の限りを尽くした。そこで,捕虜とした後,「暴兵を引き出し止むを得ず三十八名を」(面前に?)斬首処刑した。生き残ることを許された「俘虜は感涙して我帝国軍隊の仁義慈愛に心服せしめた」。Utagawa Kokunimasa (Ryûa) Fukuda Hatsujirô,Illustration of the Decapitation of Violent Chinese Soldiers (Bôkô shihei o zanshu suru zu) Ukiyo-e print,1894 (Meiji 27), October Woodblock print (nishiki-e);35.5 x 72.3 cm ボストン美術館所蔵。

◆東北大学に魯迅が留学中「幻灯事件」がおきた。魯迅『吶喊』によれば,細菌学の教授が授業時間に、日露戦争のスライドを見せ,日本軍兵士が,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなした中国人の処刑(銃殺あるいは斬首)をする場面があった。中国人が傍観していたのに衝撃を受けた魯迅は,中国人の精神の再構築が不可欠だと文学を志すようになった。


◆魯迅魯迅「阿Q正伝」の末尾には、革命党員の嫌疑をかけられ捕まった阿Qが、斬首されると思いきや、銃殺されたことが書かれている。これは、魯迅が仙台留学中に見た中国人スパイ容疑者の処刑とその中国人見物人の様子の心象風景である。

魯迅「藤野先生」

藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであつた。 
 ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は── 「汝悔い改めよ」
 これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、トルストイによつて引用されたものだ。当時はちようど日露戦争のころであつた。ト翁は、ロシアと日本の皇帝にあてて書簡を寄せ、冒頭にこの一句を使つた。日本の新聞は彼の不遜をなじり、愛国青年はいきり立つた。---

戦記雑誌『実記』博文館(徳冨蘇峰)第108編(1905年12月13日号、最終号)のグラビア写真「露探とされた中国人の処刑 Panishment to the Russian spys in Manchurian」:「満州軍中の露探の斬首」「魯迅の仙台留学ー魯迅の見た露探処刑「幻灯」に関する資料と解説」引用。「満州土人中、数しば露軍の間諜と為て我軍の運動を敵に通ずる者あり。捉はるる毎に斬に処す。本図は其一なり。」東北大学医学部細菌学教室から日露戦争幻灯スライド15枚と幻灯器が発見されたが,その中に処刑のスライドはなかった。日清戦争では,清国兵士を過酷に扱った日本軍だが,日露戦争ではロシア人負傷者・捕虜を人道的に処遇した。日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人の戦争ではないという弁明のためである。対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とされれば,処刑される危険があった。仙台に留学中の魯迅も,ロシア側スパイ(露探)中国人処刑もある日露戦争スライドを教室で見た。

魯迅「藤野先生」続き

 中国は弱国である。したがつて中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑つたのは、無理なかつたかもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺[『吶喊・自序』では斬首]を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺[『吶喊・自序』では斬首]される場面であつた。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。
「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変つたのだ。

第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。----
 (魯迅「藤野先生」引用終わり)

与謝野晶子 「日本国民 朝の歌」 昭和七年 1932年第一次上海事変の日本人の忠義と正義を歌った

ああ大御代の凜凜しさよ、
人の心は目醒めたり。
責任感に燃ゆる世ぞ、
「誠」一つに励む世ぞ。

空疎の議論こゑを絶ち、
妥協、惰弱の夢破る。
正しきかたに行くを知り、
百の苦難に突撃す。

身は一兵士、しかれども、
破壊筒をば抱く時は、
鉄条網に躍り入り、
実にその身を粉と成せり。


身は一少佐、しかれども、
敵のなさけに安んぜず、
花より清く身を散らし、
武士の名誉を生かせたり。


其等の人に限らんや、
同じ心の烈士たち、
わが皇軍の行く所、
北と南に奮ひ起つ。


わづかに是れはいつの例。
われら銃後の民もまた、
おのおの励むわざの為め、
自己の勇気を幾倍す。

武人にあらぬ国民も、
尖る心に血を流し、
命を断えず小刻みに
国に尽すは変り無し。

たとへば我れの此歌も、
破壊筒をば抱きながら
鉄条網にわしり寄り
投ぐる心に通へかし。

無力の女われさへも
かくの如くに思ふなり。
況やすべて秀でたる
父祖の美風を継げる民。

ああ大御代の凜凜しさよ、
人の心は目醒めたり。
責任感に燃ゆる世ぞ、
「誠」一つに励む世ぞ。


写真(左):京都市の国防婦人会の不要品供出活動(1935-38年京都市中京区烏丸一条);張り紙には「力を合わせて愉しく生活御奉公・これまでのやうに、一軒づつバラバラの生活では、ずゐぶん無駄や間違ひが多かった。みんなが協同してやれば、まだまだ物も力も生まれて来るし、明るい愉しい気持ちで,もっとお国のお役に立つことができる。…」と書かれている。

1934年,陸軍・海軍大臣など現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督・後援を受けた国防婦人会が結成された。1934年の会員数は750万人。兵士・兵営を支える家族、社会も戦争に参加しているのだと、彼女は理解できた。日本軍が中国で戦っており、「戦場(軍事衝突の起きる場所)」は中国にあるが、「戦争」には戦闘に加えて、資源採掘、生産、流通、消費、輸送などの局面があり、日本国内でも戦われている。

戦争とは、銃火を交える戦闘、住民虐待行為だけではなく、兵士を送り出す家族、会社員、兵士の食料・軍服・兵器を生産する労働者、軍事費の財源を徴税する行政官、兵士を運送する輸送船乗員によっても、戦われている。戦争に参加しているのは、全国民、植民地の住民すべてである。

 与謝野晶子 「日本新女性の歌」  昭和七年 1932年第一次上海事変に際して国防の母を歌った

東の国に美くしく
天の恵める海と山、
比べよ、其れに適はしき
我等日本の女子あるを。

中にも特にすぐれたる
瀬戸の内海うちうみ、富士の雪、
その優しさと気高さは
やがて我等の理想なり。

我等はいだく、朗らかに
常に夜明の喜びを。
心の奥に光るもの
春の日に似る愛なれば。

日本の女子は誇らねど、
深くたのめる力あり。
軽佻浮華のほかに立ち、
真の文化に生きんとす。

技術と学の一切を
今ぞおのおの身に修む。
斯くして立つは新しき
御代の男子の協力者。

聡明にして優雅なり、
慎ましくして勇気あり。

匂へる処女(をとめ)、清き妻、
智慧と慈悲とを満たす母。

固より女子の働くは
遠き祖先の遺風なり。
男子と同じ務めにも
共に奮ひて進み出づ。

桜と梅のひと重、八重、
開く姿は異なれど、
御国うへに美くしく
すべて香れる人の華。

:中国国民党政府総統蒋介石(中山):満州を占領され,さらに北京も攻撃されるなか,中国軍民の反日感情は高まっていた。このまま,中国の世論を無視することは,中国の最高指導者蒋介石にはできなかった。抗日戦争を開始しなければ,中国軍・国民の支持を失って,失脚したであろう。こうして,1937年7月17日廬山の最後の関頭の演説をして,事実上の対日宣戦布告をする。「満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

与謝野晶子 〔無題〕 昭和七年 1932年第一次上海事変

蒋介石に手紙を出したが、
届いたと云ふことを聞かぬ。
聞違つてゐた、
わたしは唐韻の詩で書いた、
商用華語を知らないので。



日本と中国との双方の世論とも,相手を軽蔑し憎むようになっていた,あるいは仕向けられていた。愛国心に駆られた国民世論を背景にして,日中戦争が開始。

◆2014年6月21日、布村健氏から次のようなメールと晶子の自筆の扇子の画像をお送りいただいた。
これは、「上海事件勃発の折、農林省勅任技官で会った父(明治24生まれ)がたまたま歌人の同僚と横浜港にいったおり、大桟橋あたりで偶然、[与謝野晶子に]出会い、持ち合わせの扇子にかいてもらったものです。」 


写真(右):第二次上海事変当時、扇子に記した与謝野晶子の歌
1937年7月7日の盧溝橋事変に続いて、8月初旬、第二次上海事変が勃発した。その最中の8月12・13日、布村健氏ご尊父が歌人と同行中、横浜港で、与謝野晶子に偶然会い、手持ちの扇子(せんす)に書いてもらった歌。
「秋風や戦は 初まり 港なる ただの船さえ 見て悲しけれ」。
この歌を、万葉集第一巻
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 
にぎたつに ふなのりせむと つきまてば しほもかなひぬ いまはこぎいでな 額田王/斉名天皇
と対比するとどうであろう。661年、斉明天皇は、朝鮮半島の百済からの援軍派兵の要請に応え、伊予国の熟田津で朝鮮半島派兵軍を見送った。四国から九州を経て朝鮮遠征に向かう勇壮な出撃の歌である。


   秋風や戦は 初まり(ママ) 港なる
           ただの船さえ 見て悲しけれ

 布村健氏によれば、「そのとき上海事変の拡大を伝える号外がくばられていたそうです。当然発表不可の歌です。人間は誰でも、その時の政治情勢、社会環境でブレる存在ですが、晶子の本質は不変であったと思います。」

  ◆1932年の満州国成立から5年経過し,中国政府・国民には,日本が中国に居座り、満州を奪った上に,新たに華北にも日本の軍隊を派兵してきたと感じた。まさに,中国が侵略されると考えたであろう。1937年7月7日の華北の中心都市北京(正式には北平)郊外での盧溝橋事件(七・七事変)は,中国のナショナリズムを大いに刺激した事件だった。「中国人としての民族意識など無かった」と日本人が認識していたのであれば,そのこと自体,愛国心が沸き立ってきた中国人(漢民族)には許しがたい侮辱だった。 

  ◆満州事変以降,「中国人」による日本製品排斥(ボイコット),反日デモ,反日ストライキは,しばしば起こっていて、それが日本人の中国人への反感を高めた。与謝野晶子が,「蒋介石に手紙を出したが、届いたと云ふことを聞かぬ。聞違つてゐた、わたしは唐韻の詩で書いた、商用華語を知らないので」といったのは,排日ボイコットが念頭にあった。

 
写真(上):上海の中国軍将兵。写真(中左)撃墜された日本機を見る中国軍兵士たち。写真(中右)土嚢を積み上げ防戦する日本海軍陸戦隊。写真(下2枚)日本海軍陸戦隊の将兵。左は、渡河作業。   

  与謝野晶子 〔無題〕 昭和七年 1932年無政府主義が倒され国家秩序が回復したことを歌った

煙突男が消えたあと、
銀座の柳が溺れたあと、
流行の洪水に
ノアの箱舟が一艘
陸軍旗を立てて来る。


与謝野晶子 「或人に」 昭和八年 1933年祖国を超えて世界に躍進する日本の大儀を歌った

わたしには問はないで下さい、
「あなたの心の故郷は」なんて
クリスチヤンじみたことを。
誰れが故郷を持つてゐると云ふのです。
みんな漂泊者である日に、
みんな新世界を探してゐる日に、
過去から離れて、みんな
蒙昧を開拓しようとしてゐる日に。
それよりも見せて下さい、
あなたに鶴嘴を上げる力があるか、
一尺の灌漑用の水でも
あなたの足元の沙から出るか。


与謝野晶子 〔無題〕

ちび筆に線を引きて
半紙に木瓜の枝を写生し、
赤インクにて花を描(か)く。
末の娘、見て笑ふ、
母の木瓜には刺無し。


与謝野晶子 〔無題〕 昭和七年 1932年祖国の役に立たない退職者を中国軍便衣隊(ゲリラ兵・民兵)に喩えた歌

同じ免官者でも
急に言葉が荒くなり、
知事や将校は便衣隊に見える。
校長たちの気の毒さ、
番茶で棋を打つてゐる。


 
南京で便衣隊・敗残兵を捜索する日本兵
;1937年12月撮影。便衣隊とは,平服を着たゲリラ兵・民兵のこと。中国の首都南京を占領する際,入城式典を安全に挙行するためにも、便衣隊狩りをした。捕虜が釈放されることはまずなかった。Japanese troops intensively searched for stragglers and plain-clothes soldiers. A scene from Nanking.

  ◆敵軍を殲滅し,屍の山を築くような内容の記事でも,当時は残虐行為とはみなされなかった。現在からみれば「残虐行為」の斬首や公開処刑も,当時の日本軍・日本国民は,日本軍兵士の強さ・勇敢さあるいは敵愾心・戦意を示すものとして,高く評価した。新聞社・記者も,軍の情報開示,紙配給(物資統制で資源は配給・割り当て制度の下にあった)を有利にしてもらえるように,軍に媚を売った記事を書いた。

  当時,白兵戦で(降伏してきたり捕まえたりした)敵兵を斬り殺すこと,便衣隊討伐は,勇敢な兵士・敵を憎む臣民の証であり,賞賛に値する。暴虐な敵兵,日本に反抗した重罪人,大御心を及ぼす天皇に逆らう謀反人は、厳罰に処した。敵を処罰、処刑する浮世絵・錦絵、絵葉書、新聞記事は,検閲にかからずに刊行できた

 写真(右):1938年武漢防衛戦を前に抗日献金を呼びかける児童:武漢の防衛戦に中国の児童までが参加している。しかし,華北・華中の主要大学教員・学生は,中国南西部に移転していた。移動できるだけの資力があった教員・学生は,兵士として戦うよりも、学徒の勤めを果たして長期持久戦を戦い抜こうとした。(广州少年儿童???引用)

  日本では,重罪人を打ち首,斬首してきた。大日本帝国への叛乱,天皇陛下への謀反は,極刑,斬殺に処して当然であると考えた。日中戦争で,敵兵斬殺,刺殺,殲滅の新聞記事が,検閲にかからずに何回も掲載されていたのは,「暴虐な中国を懲らしめる」こと(戦争目的)だったからである。敵殲滅(=殺害)を,日本軍兵士・日本陸軍の検閲官は削除しない。

  『浅羽町史近現代資料編』掲載の第三師団第二陸上輸卒隊の兵士が1937年に書いた軍事郵便でも[毎日、保定永定河近くに自動車にて残兵狩に出ています。今いる自分等のところから近いので、自分等の夜も安心するように毎日出ていくのです。毎日五人や十人くらい殺して帰ります。中には良人も殺しますが、何分気が立っているので、いる者は皆殺しす。哀れな者さ、支那人なんて全く虫だね。]との記述が検閲なしに家族に届けられている(→「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」南京大虐殺と軍事郵便:小池善之 参照)。

  しかし,1938年以降,米英列国から,日本軍が中国人の斬殺・民間人殺害のような残虐行為をしていると非難されると,反日プロパガンダを警戒して,斬殺の手柄話の記事は取り締まられてしまう。

  与謝野晶子 「吉本米子夫人に」 昭和七年 1932年満州に渡った女史

日木は伸びたり、
滿洲の荒野も今は
大君の御旗のもと。


よきかな、我友吉本夫人、
かかる世に雄雄しくも
海こえて行き給ふ。

願はくは君に由りて、
その親しさを加へよ、
日満の民。

夫人こそ東の
我等女子に代る
平和の使節。


君の過ぎ給ふところ、
如何に愛と微笑の
美くしき花咲かん。

しとやかにつつましき夫人は
語らざれども、その徳
おのづから人に及ばん。

ああ旅順にして、日露の役に
死して還らぬ夫君ふくんの霊、
茲に君を招き給ふか。

行き給へ、吉本夫人、
生きて平和に尽すも
ひとへに大御代の為めなり。


まして君は歌びと、
新しき滿洲の感激に
みこころ如何に躍らん。

我れは祝ふ、吉本夫人、
非常時は君を起たしむ、
非常時は君を送る。



 
地図(左):朝鮮・台湾・南樺太・満州を支配,勢力下に置いた大日本帝国
(1937年頃);盧溝橋事件以前に,日本は内地の本来の領土の2倍以上を勢力圏とした。朝鮮半島の韓国人,台湾の中国人・台湾人に,参政権はなく,会社設立や民族語教育の面で,日本人とは差別された。大日本帝国憲法の認めた基本的人権や兵役の義務は,認められなかった。このため,本国に併合された,日本領になったといっても,事実上の植民地だった。国家予算の編成に際しても,「殖民地予算特別会計」が組まれていた。日中戦争が始まると,半年で中国の華北を占領し,華中の要衝を手中にした。占領地拡大にともなって,軍事負担が大きくなり,資金,労働力も含めて,国民すべての戦争協力が求められた。これが,国家総動員法の制定,総力戦の開始の契機となった。

  1937年7月23日の通州事件は、日本で大々的取り上げられ、暴虐な支那を懲らしめよ(暴支膺懲)という世論を盛り上げた。中国軍の残虐性を訴え、日本軍の華北侵攻を正当化する反中プロパガンダが行なわれた。義和団事件とそれを継承する北清事変でも同じような虐殺事件が通州で起こった。

北清事変の惨事を目撃した奥村五百子女史は、寺院で仏教の陶冶を受けていただけに、兵士が命がけの任務をこなしてくれているからこそ、日本の家庭生活の安定があると覚醒した。そして、生死をかけて戦ってくれる兵隊さんのために「私たち日本の女子にもできることをすべきである」と、帰国後,日本全国で訴えた。1901年、貴族院議長近衛篤麿(近衛文麿の父)が後援し,愛国婦人会が創立された。上流婦人のみを対象とした構成で、兵士の見送り,留守家庭や戦死者を出した軍人遺族の支援を行った。1937年には会員数380万人である。

与謝野晶子「愛国者」 昭和九年 1934年の海軍大将斉藤實首相・7月以降海軍大将岡田啓介首相・廣田弘毅外相

小田原より東京へ
むし暑き日の二時間、
我れは二人の愛国者と乗合せぬ、
二人は論じ且つ論ず。

その対象となる固有名詞は
すべて大臣大将なれど、
その末に敬称を附せざるは
二人の自負のより高きが為めならん。

満員の列車、
避くべき席も無し。
我れは久しく斯かる英雄に遇はず、
されば謹みて猶聴きぬ。

日米のこと、日露のこと
政党弾圧のこと、
首相を要せず、外務大臣を要せず、
天下は二人ありて決するが如し。

大船駅停車の二分に
我れは今日の夕刊を買ひぬ。
新聞には「昭和九年」とあれど、
我れの前の二人は明治型の国士なり。

新聞を開きて、我れは現代に返る。
一面の隅に如是閑先生の文章あり。
偶然にも取上げたる新聞は
英雄たちと我れの間に幕となりぬ。

◆東京新聞(2014・6・16)「晶子の未発表歌2首 愛知の料理店で発見」と朝日新聞(2014・6・17)「与謝野晶子の未発表作発見 直筆2首、愛知で書き残す」に次のような記事がでた。

 与謝野晶子の直筆短歌五首が愛知県津島市の山田晴宣(はるのぶ)さん(67)方で、今年4月、仏間の収納棚を整理していたところ、紙箱の中から、短歌が記された短冊十数枚を見つかった。短冊を発見。「晶子」と書かれた文字が確認できた。

一九三五年十月、晶子は、津島高等女学校(現・愛知県立津島高校)の創立20周年記念の講演会を行い、講演後に津島神社に参拝。山田さん方は当時、同神社前で旅館「まのや」を経営しており、昼食に立ち寄った際、先々代の当主の頼みで短歌を書いたらしい。与謝野晶子文芸と日本文芸学会常任理事入江春行氏(86)によると、五首のうち二首は未発表作品。

くれなゐの 牡丹咲く日は 大空も地に従へる ここちこそすれ

春の夜の 波も月ある 大空も ともに銀絲(糸)の 織れるところは(あるいは「ところぞ」)

 当時旅館だった「まのや」は昭和初期に洋食のフルコースも出すようになった。女将の山田美代さん(67)によると、講演に来た晶子が「スープが飲みたい」と言い、まのやを訪問。晶子は「おいしい」と機嫌が良く、気さくに短歌を書いてくれたという。山田さんは約四十年前にこうした経緯を学校関係者から聞いていたが、家族はこの話を知らず、見つからずじまいだった。

 発見された紙の箱には、晶子だけでなく柳原白蓮(びゃくれん)の次のような直筆短歌七首も入っていた。

朝化粧 五月となれは 京紅の あをき光も なつかしきかな

かねの音に むかしの ひゝき 聞ゆなり 忘れしことを 思ひいてよと

晶子の短歌と同時に保存されていた柳原白蓮(びゃくれん)の直筆短歌七首の保管の経緯や、未発表かどうかは不明。東京都内に住む白蓮の長女・宮崎蕗苳(ふき)さん(88)は「母の字です。間違いない」と述べた。長男の戦死をきっかけに始めた平和運動で全国を回った際に書き残した作品とみている。

柳原白蓮(びゃくれん)は、筑豊の炭鉱王の伊藤伝右衛門と再婚。弁護士で社会運動家でもあった宮崎龍介と恋愛で絶縁状を公開して世間を騒がせた。龍介と結婚後、小説や歌集などを残し、文人として名声を得た。白蓮の長女・蕗苳さんは「文筆で自分の才能を発揮できたのだから、生きがいはあった。母は思う存分生きることができた」と心情をくみとる。

晶子は、太平洋戦争の始まった翌年、一九四二年63歳で死去した。白蓮は、長男を一九四三年に学徒出陣させている。しかし、一九四五年八月、太平洋戦争の終戦の詔の出る四日前に、長男は戦死し「(戦死の)電報が来たときの姿が忘れられない。悲しみでぼう然としていた」という。

 戦後は戦争で子を亡くした母親らの団体を結成、全国を回り平和運動に力を入れた。蕗苳さんは歌が残された経緯について「講演旅行に行った際に書いたのではないか」と推測し、「(短歌は)各地を歩いた証し」と懐かしんだ。(新聞記事引用終わり)

◆大日本帝国首相近衛文麿は,1937年第1次近衛内閣を組閣し日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「英米本位の平和主義を排す」として,アジアの盟主を目指した。息子は米国スタンフォード大学に留学、ソ連抑留で死亡。

北支事変の名のもとに日中戦争になり、戦闘が華北,華中に戦火拡大。これを決定的にしたのが,蘆溝橋事件に関する近衛文麿首相による1937年8月15日「暴支膺懲」の声明である。

帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。
然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。
近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。
更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。

顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。
而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。

此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。

与謝野晶子「防空演習の夜」 昭和九年 1934年信濃毎日新聞コラム「関東防空大演習を嗤う」で,「関東に敵機を迎え撃つということは敗北そのものである」と書いた桐生悠々が主筆の座を追われた年。

今日は九月一日、
誰れか震災を回顧する遑(いとま)あらん。
敵機の襲来を仮想して、
全市の人、防空に力(つと)む。

午後六時、
サイレンは鳴りわたる。
子らよ、灯を皆消せるか、
戸をすべて鎖しつるか。

良人と、我れと、
泊り合せたる是山(ぜざん)ぬしと、
暗き廊を折れ曲りて
采花荘(さいくわさう)の書斎に入る。

手探りに電灯をひねれば、
被(おほ)ひたる黒き布長く垂れて、
下二尺
わづかにも円(まろ)く光りぬ。

雨、雨、俄かなる雨、
風さへも荒く添へり。
サイレンに交りて
砲声遠く起る。

防護団の若き人人、
今、敏活の動作いかなるべき。
いざ、斯かる夜に歌詠まん、
屋外の任務に就かぬ我等は。

この即興の言葉に、
是山ぬし先づ微笑み、
良人はうなづきて
煙草に火を附けぬ。

黙して紙に向へば、
サイレンと、暴雨と、砲声と、
是れ、我等を励ますなり、
我等の気は揚がる。


但だ、筆を執る姿は
軒昂たること難し、
俯向ける三人の背に
全市の闇を負へり。

少時(しばし)して、突然、
地震なり、
板戸、硝子戸、鳴りとどろき、
家三たび荒く揺れぬ。

子の一人馳せ来て告ぐ、
横浜なる防空本部のラヂオ
今云ひぬ、
「この松屋の屋上も揺れつつあり」と。

人は敵機の空襲に備へて、
震災記念日を忘れたれど、
大地は忘れずして
我等を驚かしつるならん。

砲声は更に加はる、
敵機、市の空に入れるか。
驚異と惶惑の夜、
我等は猶筆を執る。



 与謝野晶子 〔無題〕 昭和十年 1935年日本軍が梅津・何応欽協定により河北省に冀東防共自治政府を樹立

しら布に覆へる小箱、
三等車より下(お)り来たる。
黙黙として抱だきたるは
羽織袴の青年。
名誉の死者の弟か。

知らぬ他国の我れなれど、
この駅に来合せて、
人人の後ろより、
手を合せつつ見送れば
涙先づ落つ。

駅のそとには
一すぢの旗動き、
兵士、友人、縁者の一群
粛然と遺骨の箱に従ふ。
「万歳」の声も無し。

我れは思ふ、
などか此の尊き戦死者の霊を
此のふるさとに送るに
一等車を以てせざりしや。

我が涙また落つ。


 与謝野晶子 〔無題〕 昭和十年 1935年中国共産党『抗日救国八一宣言』で国共内戦停止と一致抗日が提唱された時期

師走の初め、都にも
今年は寒く雪ふりぬ。
出羽奥州の凶作地
如何に真冬のつらからん。

陛下の御代の臣(おみたちよ、
人飢ゑしむること勿れ。
国には米の余れるに
恵みて分つすべ無きか。

市人(いちびと)たちよ、重ねたる
衣の一つを脱ぎたまへ。
飢ゑ凍えたる父母に
その少女らを売らしむな。

彼等の子なる兵士らは
出でて御国を護れども、
ああ、その心、ふるさとの
家を思はば悲まん。

ともに陛下の御民なり。

是れよそごとか、ただごとか。
いざ、もろともに分けて負へ、
彼等の難は己が難。


 与謝野晶子「川内幼稚園園歌」 昭和十七年 1942年太平洋戦争開戦直後

西の薩摩の城いくつ
廻ぐりめぐりて大海へ
川内川の出でてゆく
姿を下にのぞむ山
神代の樟の群立(むらだちの
影いと深く清らなる
御垣の内を許されて
我れ等は学び我れ等は遊ぶ
戦(いくさ)の後に大事なは
愛の心と人も知る
愛(え)の御社の大神よ
深き教を垂れ賜ひ
大き興亜の御業に
我れ等も与らしめ給へ。


青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/2558_15785.html)より底本「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社,1980年および「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社,1980年を引用掲載


THE SHIKOKU SHIMBUN 香川ニュース 与謝野晶子が香川県人にあてた書簡3通を発見(2007/02/16 09:46)は、次のように報じた。

歌人の与謝野晶子が、1930年から1937年にかけて明善高等女学校(現英明高校)の教諭だった椎名六郎に送った書簡三通が、このほど千葉県内の民家で見つかった。うち一通では緊迫する中国情勢に触れ、「軍閥が始めしことながら、かくなれば国民全体の責任」などと、軍部に気を遣ったような表現が見られ、反戦歌人として知られる晶子の意外な一面をのぞかせている。

 手紙はいずれも巻紙に墨で書かれており、封筒にはそれぞれ1930年2月5日、1931年十11月21日、1932年2月1日の消印がある。英明高校の田山泰三教諭が、千葉県東金市に住む椎名の長男、重胤(しげたね)さん(83)の自宅で椎名の遺品の中から見つけた。

 晶子は当時、歌人でもあった椎名と親交があり、1931年には椎名たちの招きで夫の鉄幹と初めて香川を訪れている。

 中国情勢について触れた記述があるのは、昭和七年の手紙。「日支事件のため国運の未来が刻々に案ぜられ申し候。軍閥が始めしことながら、かくなれば国民全体の責任を辞し難く候。何とぞ禍(わざわい)を転じて福に致したく候」と、前年の満州事変など中国における日本の軍事行動を案じながらも、もはや「国民全体の責任」としたためている。

 晶子について多くの著書を持つ日本文芸学会常任理事の入江春行さんは、「当時は、反戦を唱える文人が弾圧された時代。この手紙の三年前に出した全集には、『君死にたまふことなかれ』を入れていることから、決して翻意したわけではなく、現実的に物事を考えて、用心を重ねていたのだろう。筆一本で一家を支えていた晶子の苦しいスタンスが分かる一文」と話している。

与謝野晶子の書簡公開−図書館学会の研究発表会 2007/02/17 19:53)では、続いて、次のように報じた。

 香川県図書館学会の研究発表会が十七日、高松市昭和町の市中央図書館で行われ、先ごろ千葉県内で発見された与謝野晶子の県人あての書簡が公開された。

 書簡は一九三〇年から三二年にかけて書かれた計三通。うち昭和七年二月一日の消印がある手紙では満州事変に触れ、「軍閥が始めしことながら、かくなれば国民全体の責任」などと、軍部に気を遣った表現を用い、反戦歌人らしからぬ一面をのぞかせている。

 これについて田山教諭は、「現実路線への転換をにおわせる一文だが、『君死にたまふことなかれ』のころからの信念を曲げたわけではなく、戦争の影が濃くなる東京の情勢を受け、『四国の人も気を付けた方がいい』というある種の警戒を込めたのではないか」と持論を披露した。(引用終わり)

与謝野晶子が手紙で「日支事件のため国運の未来が刻々に案ぜられ」るが、満州事変、第一次上海事変戦争は、日本の「軍閥が始めしことながら、かくなれば国民全体の責任を辞し難く」、「何とぞ禍(わざわい)を転じて福に致した」いと述べた。これは、中国の戦争責任を非難するのではなく、軍閥と日本国民の戦争責任をも認めている。1930年代に公開された与謝野晶子の歌は、中国の好戦的態度と、蒋介石など中国指導層の利己的な振る舞いを批判し、日本の大陸における使命を肯定したかのような歌であった。晶子は日中の戦争に必ずしも賛意を示していなかった資料として意外であり、興味深い。

太平洋戦争海戦1ヵ月後の『短歌研究』1942年1月号、『婦人公論』1942年4月号に発表した晶子最晩年の短歌。

 水軍の大尉となりてわが四郎みいくさに往く猛く戦へ

与謝野晶子の四男(四郎)・いくは,東京帝国大学工学部を経て海軍に入隊。日本海軍の大尉となって出征して猛々しく戦えと歌った。内心は,息子を激励した武運長久(無事凱旋帰郷)を祈る歌だったのであろう。

 いくさある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く

 満洲の野山を開くますらをも桜咲く日は見に帰へれかし

◆大東亜戦争徹底抗戦を最後に叫んだ大日本帝国首相鈴木貫太郎は,1867年(慶応3)4月7日和泉国(堺市)の生まれだが,当時,泉州の久世村伏見は,関宿藩(現在の千葉県野田市西端)の飛地だった。1887年海兵卒。1894年日清戦争で旅順攻略に参加。1904年日露戦争で、軍艦「春日」乗員,1905年第四駆逐艦隊司令として参戦。1945年沖縄戦の時期に首相に就任。8月になって,ポツダム宣言黙殺を世界に向かって公言した。忠義の臣下の鈴木貫太郎は,大元帥昭和天皇の聖断には,どんなものでも命がけで従ったであろう。決して自ら終戦を言い出したことはないし,終戦内閣としての「腹芸」などする策士ではない。  


連絡先: torikai@tokai-u.jp
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東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
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