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◆反ナチス・レジスタンス:ワルシャワゲットー蜂起・ハンナセネシュ

写真(上):1944年8月,ワルシャワ蜂起でドイツ軍の捕虜となったポーランド人:武装親衛隊によって駆逐された捕虜だったが,戦局悪化の中,戦後の捕虜虐待の処罰を恐れて,ポーランド人捕虜への虐殺は一部にとどまった。
Polen, Warschau.- Warschauer Aufstand.- Verhaftete polnische Zivilisten, hauptsächlich Männer mit z.T. erhobenen Händen, beim Verlassen der Stadt vor Ruinen zerstörter Gebäude, Soldaten der Waffen-SS im Hintergrund; PK KBZ HG Mitte Dating: August 1944 Photographer: Gutermann撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土)13時,9月15日(火)14時,12月15日(火)20時,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。

◆「誰がため(Flammen & Citronen)」(2008年度デンマーク・アカデミー賞受賞作品)では、第二次世界大戦末期のデンマークのパルチザン、フラメンとシトロンによるゲシュタポやドイツ協力者暗殺を描いている。デンマーク人同士の殺戮が「売国奴」の名の下に行われた背景が分かる。

1.ユダヤ人迫害への抵抗:一人の命を救うものは全世界を救う(タルムードの教え)

(1)1943年1月,ワルシャワ・ゲットー蜂起 Warsaw Ghetto Uprising

1939年9月1日,ドイツは,ポーランドに侵攻,主力をフォン・ルントシュテット将軍率いる南方軍集団におき,ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将(1880-1958)の第十軍が中央に位置しワルシャワに向かった。

写真(右):1939年2月,ポーランド,ドイツからロンドンに亡命したユダヤ人一家:第二次大戦前からドイツの国土回復運動を進めていたがが,ラインラント,オーストリア,チェコスロバキア(ステーテンランド)と続いて,ポーランドに対して,領土要求,民族ドイツ人への迫害中止を訴えた。
Großbritannien: Kinder polnischer Juden aus dem Gebiet zwischen Deutschland und Polen bei Ihrer Ankunft mit der "Warschau" in London. Aufn. Februar 1939 Dating: Februar 1939
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,狭羸鐚(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

新型の傾羸鐚(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)と弦羸鐚(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)は少なかった。

また,ヨハネス・ブラスコヴィッツ大将の第八軍がウッチに,ヴィルヘルム・リスト大将の第十四軍がクラクフに進撃した。3個軍の兵力は34個師団である。

写真(右):1939年9月,ポーランドを占領したドイツ軍幹部将校たち:ポーランドに降伏勧告をして拒否されたドイツ軍は,9月25日にワルシャワを,爆撃機400機によって空襲、通常爆弾560トン,焼夷弾72トンを投下した。二日後日,ポーランドは降伏した。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入された。

アインザッツグルッペの任務は,現在ドイツに敵対あるいは将来敵対する恐れのある公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置することである。

1939年9月21日,開戦から3週間,SS保安警察長官ハイドリヒは,ドイツ陸軍総司令部(OKH)の了解を得て,ポーランド・ユダヤ人の強制移送を,アインザッツグルッペ(特別行動部隊)に指示。これが,後のゲットーへのユダヤ人囲いこみに繋がる。

写真(右):1939年9-10月,占領直後のワルシャワにドイツ軍宣伝隊が自動車で進出,支援物資を配給した。ドイツ軍が大規模に戦火に見舞われたポーランド人を支援したとは思われず,あくまで宣伝用の写真を撮るプロパガンダに過ぎないであろう。
Polen, Warschau.- Verteilung von Propagandamaterial. Auto mit deutschen Soldaten umringt von Bewohnern; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Rieger, Alfons撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人は,ポーランド各地のゲットーの狭い区画の中に隔離,囲い込まれた。ウーチでは,6万2000人のユダヤ人が住んでいた地区がゲットーとされ,近郊から10万人のユダヤ人が押し込まれた。市内交通確保のため,路面電車の通りは柵と鉄条網によって,ゲットーと仕切られた。

ラドム,ヘウムノなどのゲットーは,当初は,ポーランド人の出入りは自由で,ユダヤ人もゲットーの外に出ることが可能だったが,その後,出ることはできなくなった。

ポーランド降伏から1年後,1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを作る法令が出された。

写真(右):1941年,ポーランド,ラドム・ゲットーでのユダヤ教沐浴儀式(ミクウ゛ェ/ Mikwe):占領下ポーランドのゲットーでも,沐浴の習慣を維持できたユダヤ人もあった。
Polen, Distrikt Radom.- Juden beim rituellen Baden in einer Mikwe; PK 666 Dating: 1941 Anfang Photographer: Brenner撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツが占領したポーランドで警戒したのは,ポーランドの指導できるようなインテリである。すなわち,将校,高級官僚,高級警察官,教員,マスメディア関係者,精神的指導者でもある宗教関係だった。そして,パルチザンの予備軍であるユダヤ人だった。

ドイツ秘密警察ゲシュタポGestapoは,クラコウのモンテルピフMontelupich Prisonに,刑務所を設置した。そして,政治犯,英軍・ソ連軍捕虜,刑罰を受けた親衛隊SS,国家保安本部の隊員(SD),武装親衛隊Waffen-SS,国防軍兵士を収監した。
ここモンテルピフには,第二次大戦後は,ソ連内務人民委員NKVDによって,反共産主義のポーランド国内軍Home Armyの兵士などが収監された。現在のポーランドでも,クラコウのモンテルピフMontelupich刑務所は,使われている。

写真(右):1939年10月5日,ポーランド占領後,戦勝パレードを閲兵するアドルフ・ヒトラー総統:自動車化された精鋭部隊が行進しているが,馬車,馬匹を用いていた部隊も少なくなかった。ヒトラーも参謀本部も,英仏連合軍には線ry区的に劣っていることを認識していた。しかし,ヒトラーは,東部のポーランド侵攻中,英仏が西部戦線で攻勢をかけてくることはないと確信していた。
Der Vorbeimarsch der siegreichen Truppen vor dem Führer und Obersten Befehlshaber in Warschau. Okt. 1939 PK-Scherl-Bilderdienst Zentralbild II.Weltkrieg 1939 - 1945 Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf Polen am 1.9.1939 UBz.: Nach der Besetzung Warschaus am 27.9. 1939 inspiziert Adolf Hitler am 5.10. die Stadt und nimmt die Parade der bei den Kämpfen um Warschau beteiligten Truppen ab. 12158-39
Archive title: Polen, Warschau.- "Führerparade", Parade der Wehrmacht vor Adolf Hitler und Generälen, Vorbeifahrt von aufgesessener Infanterie auf LKW vor Ehrentribüne Dating: 5. Oktober 1939
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツは占領直後,ポーランドに、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置、何万人ものユダヤ人を狭い空間に押し込めた。ドイツ本国のユダヤ人も追放された。1940年には,降伏させたフランス領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討された。

ユダヤ人迫害の理由は,ヨーロッパ・ユダヤ人が,ドイツに敵対する下等劣等人種であり,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与すると考えたためである。

ワルシャワでは,ゲットー設置命令以降,1940年10月第3・4週だけで,ポーランド人キリスト教徒11万3000人が立退かされ,13万8000人のユダヤ人が流入した。ワルシャワの2.4%の区域のゲットーに,ワルシャワ人口の30%を占めるユダヤ人が押し込められた。その結果,1家族が住んでいたアパートに2-3家族が暮らすことになった。

1940年11月16日,ゲットーは封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーから出ることはできなくなった。

写真(右)1939-1941年,ポーランドで移住を強いられるユダヤ人と思われる。ドイツ占領下のポーランドでは,ユダヤ人は,原則,ゲットーに住むことを共用された。ゲットーは,周囲は壁で囲まれていたため,物資が極端に不足した。市場での売り買いは,自分の持ち物(中古)を取引した。ドイツ軍は,ゲットー内部をの共食いのような状況におき,ユダヤ人が団結することを阻んだ。ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察も,地位を確保しようと思えば,同胞を犠牲にして,ドイツに協力するしかなかった。
このような悲惨な状況にユダヤ人が置かれたのは,ドイツ民族の敵,ドイツ人を人種汚染する劣等民族,下等民族とした差別があったからである。優秀なアーリア民族は,冷徹な使命感を持って,このようなユダヤ人を排除しなければならず,かわいそうだなどと同情するのは,弱さのしるしとして,軽蔑された。
こうして,エセ科学で粉飾された人種差別観が,特定人種民族に対する迫害,虐殺に繋がっていった。
Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ軍はモスクワ前面で敗退したが,これは決して,ロシアの厳寒「冬将軍」のためではない。.熟軍が厖大な予備兵力を擁していたこと,
極東方面の第一線部隊をモスクワ前面に移送・配置したこと
ソ連侵攻中の虐殺事件にドイツ軍将兵の中に殲滅戦争継続への疑問がうまれたこと
が指摘できる。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

ヒトラーの対米宣戦布告の国会演説の翌日、12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした。

ゲットーGhetto内部の物資は不足し,配給も少なかったために,餓死や病死が増え,1941年には,ワルシャワゲットー人口の10%以上の4万3000人が死亡した。

ポーランドに設置された最大のゲットーであるワルシャワ・ゲットーには,40万人が押し込まれたが,食糧不足,非衛生的な環境,強制労働によって,病死者が多かった。加えて,1942年夏には,ワルシャワゲットーのユダヤ人30万人が,トレブリンカなど絶滅収容所に再移送され,殺害された。

東方ソ連は生存圏として,ドイツ人や民族ドイツ人が移住すべき場所であり,現地住民はその下僕として,処遇される。ユダヤ人を入植させる余地はない。ポーランド侵攻,ソ連侵攻には,すでにアインザッツグルッペのような特別部隊が編成され,ゲリラだけでなく,ユダヤ人,インテリなど敵性住民を虐殺していた。それを思えば,ゲットー・収容所に集めたユダヤ人を,再び分散して,ウラル山脈の東方に追放する可能性はない。

1943年中ごろまで,ゲットーのユダヤ人には,再移送が死を意味するとは思えなかった。親衛隊の下で,ゲットーの自治的管理を負かされたユダヤ人評議会は,ドイツに協力することで,ユダヤ人が生き残ることができると考えた。そこで,親衛隊から再移送者の人数が指定されると,隷下のユダヤ人警察(自警団)に命じて,子弟の人数だけゲットーのユダヤ人を集めさせた。ユダヤ人評議会が,仲間のユダヤ人を殺害の場に送るとは信じられなかったのである。

写真(右)1939-40年,ポーランドでは,民族ドイツ人が優遇される反面,ポーランドの知識人・ユダヤ人は抑圧された。ユダヤ人は,居住地を追い立てられゲットーに移り住むことを共用された。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
 

ゲットーから絶滅収容所への再移送Deportationは,東方への移住,労働キャンプにおける労働従事という名目で行われていたが,ゲットーに,収容所では殺害されるという情報がもたらされ,移送されれば殺されるとの噂が広まった。

ヘウムノゾビボルから脱走したユダヤ人が,ゲットーに虐殺の情報をもたらし,それが地下秘密新聞で流されてた。それでも,ユダヤ人の中には,虐殺を信じないものも多かった。

再移送が死を意味すると悟った若いユダヤ人男性を中心に,ゲットーからの再移送に反対するグループができた。これが, 23歳のユダヤ人Mordecai Anielewiczが指導するZ.O.B. (ポーランド語:Zydowska Organizacja Bojowa),すなわち「ユダヤ人戦闘組織」である。

写真(右)1939年9月,ポーランド人に虐殺されたドイツ系ポーランド人(民族ドイツ人):教会に遺体に追悼にやってきた婦人。ヒトラーの人種民族差別が,迫害,殺戮を扇動した。
Die Massenmorde von Bromberg - die Folgen Englands Blankovollmacht an Polen. Über Bromberg steht der Schatten des Todes. In den Straßen, Parks , Anlagen in Gräben und Hauseingängen, zwischen Hecken und Büschen liegen die Opfer polnischer Grausamkeit, die Leichen vieler hunderter von Volksdeutschen, mit deren Ermordung die Polen ihre Drohung nur zu schrecklich wahr gemacht haben, vor dem Einzug der Deutschen noch Rache zu nehmen. Widerliche bestialische für Menschen kaum denkbare Grausamkeiten sind, bevor die Opfer unter den Bajonetten und Gewehrläufen ihr Leben für Deutschlands Ehre und des Reiches Größe hingaben, an diesen Toten verübt worden. Weinend suchen die Angehörigen ihre Vermißten. Die schmerzgebeugten Frauen selbst hatten für ihre hingeschlachteten Männer und Söhne die Massengräber zu schaufeln begonnen, bis ihnen die einmarschierenden deutschen Soldaten diesen letzten Dienst für die unschuldigen Opfer des Polenhasses abnahmen. Die Geiselmorde von Bromberg, eine Folge der leichtfertigen englischen Blankovollmacht, wird allzeit ein Schandfleck in der Geschichte der polnischen Nation sein. 8.9.1939 Archive title: Polen.- Leichen getöteter Volksdeutscher (Opfer des "Bromberger Blutsonntag") Dating: September 1939
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。




写真(右)1939年9月,トラックで進駐してきたドイツ軍に食料を配るポーランドの民族ドイツ人の婦人:東欧各地に住んでいた少数派の民族ドイツ人の住む地域を,ヒトラーはドイツに復帰・統合するという「大ドイツ主義」を掲げた。そして,各国政府が少数派の民族ドイツ人を迫害しているとして,各国を恫喝し,侵略を開始した。
他方,ヒトラー,ナチスのアーリア人優先主義に反発した東欧の人々は,時刻の少数派の民族ドイツ人を迫害し,人種民族間の憎悪を深めた。憎悪が報復の連鎖へとつながり,戦争が開始された。戦争によって,いっそう人種民族間の対立が激化した。
Der Vormarsch unserer Truppen im Osten. Die befreite volksdeutsche Bevölkerung begrüßt unsere Truppen überall auf das freundigste und hilft ihnen, wo sie nur kann. UBz.: eine Volksdeutsche , die ein großes Tablett belegter Brote an die Soldaten verteilt, die kräftig zugreifen, denn die Fahrt in der frischen Morgenlust hat ihnen Appetit gemacht. Hs. [Hans Sönnke ?] [Herausgabedatum] 4.9.1939 Archive title: Polen.- Frau mit Tablett bei der Verpflegung von Luftwaffensoldaten der Nachrichtentruppen, in einem LKW sitzend Dating: September 1939
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1939-40年,ポーランドで農村復興事業に携わるドイツ人ボランティア学生:200人以上の学生が復興事業に参加した。ポーランドをアーリア化するために,ドイツ系民族(民族ドイツ人:フォルクス・ドイッチェ)に対する支援が行われた。また,穀物など食糧増産のためにポーランドの農業・農村の振興が図られた。これは,農民のためではなく,食料供出など,ドイツの戦力を維持・向上する目的が優先された。
ユダヤ人を含めて,アールア化に障害となる人種民族の敵に対しては,同情することなく,強靭な精神をもって弾圧することが美徳となされた。敵への同情は,反社会的な行動をもたらすのであって,軽蔑,嫌悪された。
ヒトラーの妄想的な人種民族史観が,人種民族差別を正当化し,ユダヤ人を排除することがドイツの反映に不可欠であるとの「夢遊病者の確信」に繋がっていった。
Wartheland. Studenteneinsatz Wohnhaus u. Stallungen werden instandgesetzt. Das ist oft dringend notwendig, "die polnische Wirtschaft" ist auch hier nicht spurlos vorübergegangen. Über 200 Studenten der technischen Hoch- u. Fachschulen leiten hier den Einsatz. Jedem von ihnen unterstehen 30 bis 50 polnische Arbeiter u. in kurzer Zeit sind die dringensten Arbeiten auf dem Hof des Rückwanderers fertiggestellt. Archive title: Polen.- Instandsetzung eines ehemals von Polen bewohnten Bauernhauses für deutschstämmige Umsiedler. Dating: 1939/1940 ca. Photographer: Senckpiehl, Joachim撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1939年9-10月,ポーランド・ワルシャワの避難民と彼らを整理する警察:ユダヤ人迫害の第二段階として,ゲットーが設置され,ユダヤ人は従来からすんでいた居住区を追われて,狭いゲットーに強制的に移住させられた。
Polen, Warschau.- Zivilbevölkerung und Polizei; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Rutkowski, Heinz撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ワルシャワなどのゲットーの居住環境は劣悪であり,多数の餓死者,病死が出ていたにもかかわらず,ゲットーのユダヤ人たちは,死に絶えなかった。この時期,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所は拡張建設中だったが,トレブリンカ,ベウゼッツ,ゾビブルに絶滅収容所が建設され,ゲットーのユダヤ人は,順次,絶滅収容所に再移送された。名目は,東方への移住,労働収容所への移送だった。もちろん,移送されるユダヤ人の反抗,逃亡を防ぐための偽りだった。

写真(右)1941年6-7月,対ソ侵攻バルバロッサ作戦のときの東部戦線南部における掃討戦:二人のドイツ軍兵士がモーゼルKar98k騎兵小銃を手にして,隠れている敵を捜索している。人種民族差別が,このような市街戦のときに,敵性人種民族の殺戮に繋がることがあった。
ソ連では,ドイツ軍の侵攻を受けた直後から,ソ連国民に抵抗を呼びかけ,住民と正規軍(赤軍)の協力によって,パルチザンを組織した。パルチザンは,ゲリラとなって,ドイツ軍の補給部隊や警備隊を襲撃し,対独協力者(ソ連人)を威嚇・処刑した。戦線の後方を撹乱するパルチザンに対して,ドイツ軍は,協力者を含めて,厳重な処罰を加えた。
モーゼルKar98は,1898年制式,口径7.92mm、5発装填ボルトアクション式ライフルで,旧式構造だったが,堅牢で終戦まで量産された。
Sowjetunion-Süd, "Unternehmen Barbarossa".- Zwei deutsche Infanteristen in Deckung an einer Hauswand am Rand einer Ortschaft; PK 637 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Harschneck Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ワルシャワゲットーから強制収容所への移送が続いた後の1943年初頭,ユダヤ人6万名が住んでいた。1943年1月19日,ドイツの命令で,ワルシャワゲットーのユダヤ人の中から,8000名を収容所に移送することになった。

ユダヤ人戦闘組織が保有していた火器は僅かで,密かに外部からもちこまれたり,ポーランド人のレジスタンス国内軍から至急を受けたりしたものだった。ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人は,若干の火器しか入手できなかった。

しかし,ゲットーからの再移送が死を意味すると悟ったユダヤ人が,1943年1月,ドイツ軍に対して発砲する事件が起こった。ユダヤ人評議会もユダヤ人警察も,再移送を遅らせようとしたり,非協力的な振る舞いを見せるようになった。

1943年4月19日,ワルシャワ・ゲットーに,ドイツ軍が入ってきて,残っているユダヤ人を再移送しようとした。その時,750人にユダヤ人戦闘組織のメンバーが,武装蜂起した。ナチスに対して,強制収容所への移送命令を拒否して,反乱を起こしたのである。

写真(右)1943年4-5月,ワルシャワゲットー蜂起で,ユダヤ人を捕まえた武装親衛隊員:ワルシャワゲットー蜂起では,反乱を起こしたユダヤ人5万人が死亡または行方不明あるい絶滅収容所に送られた。ゲットーは破壊され,もとっていた住民は絶滅収容所へ輸送された。親衛隊SS少将シュトロープの作成した写真つき報告書に含まれている有名な写真。ポーランド、ワルシャワゲットー蜂起,暴動を鎮圧したのは武装親衛隊Waffen - SSだった。小銃を構えているのは2VR隊長ヨーゼフ・ブレッシュ (1912 - 1969)。かれは,1961年に戦犯裁判にかけられた。手を挙げている少年はヘンデン・ナスバウム,左の女性はハンカ・ラメHanka Lamet,その近くにマチルダ。
Aufstand im Warschauer Ghetto vom 19.4.-16.5.1943 Während der Unterdrückung des Aufstandes und der Vernichtung des Ghettos wurden über 50.000 Menschen getötet oder in Vernichtungslager verschleppt. UBz: Abtransport zum Vernichtungslager. (Aufnahme aus dem Bericht des mit der Unterdrückung des Aufstandes beauftragten SS-Führers Jürgen Stroop). Archive title: Polen, Ghetto Warschau.- Warschauer Aufstand, Niederschlagung des Aufstands, Festnahme von Frauen und Kindern durch Soldaten der Waffen-SS (2 vr SS-Rottenführer Josef Blösche), Junge mit erhobenen Händen (Zvi Nussbaum?), Mädchen ganz links Hanka Lamet neben ihrer Mutter, Matylda Lamet Goldfinger, Junge mit Sack (Leo Kartuzinsky), Frau im Vordergrund: Chana Zeilinwarger Dating: 1943 April - Mai 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ワルシャワ・ゲットーの蜂起は,ポーランド国内軍(組織化されたゲリラ祖国軍)による支援をほとんど受けていない,ユダヤ人にようる武力抵抗だった。ワルシャワ・ゲットー蜂起は,ポーランド人の支援を,ほとんど得られなかった。ポーランド国内軍の中には,共産主義パルチザングループを実力排除する動きもあった。切迫していた状況にあっても,政治的思惑に動かされていた人は少なくなかった。

写真(右)1944年8月,ワルシャワ蜂起鎮圧を指揮するドイツ軍幹部:後方の市電は,ドイツ軍前線指揮官たちの宿舎になっているのであろうか。ワルシャワの前面にソ連軍が迫る中,後方のワルシャワで蜂起したポーランド人,ポーランド国内軍は,ソ連軍の支援を当てにしていたが,ソ連軍は蜂起を支援できなかった。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1943年4月19日,ワルシャワ・ゲットーに,親衛隊将官ユーゲン・シュトロープ率いる武装親衛隊など1万3000名が攻撃した。蜂起したユダヤ人は,乏しい武器で地下道を使って抵抗したが,5月8日には,ユダヤ人戦闘部隊司令部地下壕が陥落,幹部は殺害された。

ワルシャワゲットー蜂起によるユダヤ人逮捕者は5万6065名,そのうち7千名が射殺,2万2000名がトレブリンカとルブリン(マイダネク)絶滅収容所に送られた。残りは,強制収容所に移送された。ワルシャワゲットー蜂起に伴うドイツ側の死者は16名,負傷者85名だった。

5万6,000人のユダヤ人が,親衛隊に逮捕され,約7,000人が戦闘,処刑によって殺された。残りのユダヤ人は,絶滅収容所に送られたり,強制収容所に収監されたりした。

1943年5月,ワルシャワ・ゲットー蜂起が鎮圧された後,廃墟となったゲットーの一角に隠れ住んだのが「戦場のピアニスト」」のウワディスワフ・シュピルマン(1911-2000)である。

ポーランド敗戦によって,ウワディスワフ・シュピルマンはゲットーに隔離され,ゲットー内のカフェでピアノ弾きの職を得た。しかし、やがてユダヤ人は,収容所へと再移送されてゆく。

再移送のために列車に乗せられようとしたシュピルマンを,ユダヤ人警察の友人が,列からシュピルマンを外してくれた。トレブリンカ絶滅収容所で殺害されることに気付いていたからだった。

1944年夏には,ポーランド人によるワルシャワ蜂起が起こったが,これもゲットー蜂起と同じく,ドイツ軍によって鎮圧された。しかし,シュピルマンは,ワルシャワの廃墟で,ドイツ軍将校の温情のおかげで生き残ることができた。ピアノが演奏できる状態にあったことで,戦争が終わるまで生き延びたのかもしれない。ロマン・ポランスキーRoman Polanski監督「戦場のピアニスト」(The Pianist)は,2002年カンヌ映画祭最高賞であるパルムドールを受賞した。

写真(右)1944年7月,ワルシャワ蜂起鎮圧に出動したドイツ軍将兵:ドイツ兵は装甲車の無線装置を操作しているが,蜂起軍には満足な平気,通信装置はなかった。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


「ワルシャワ・ゲットー蜂起62周年 ポーランド」( 「人民網日本語版」2005年4月20日)は,次のようにゲットー蜂起を記述している。

ポーランドの首都ワルシャワ市は19日、ゲットー(ユダヤ人隔離地域)に暮らすユダヤ人による反ナチス蜂起から62周年を迎え、ユダヤ人犠牲者を追悼するさまざまな行事が行われた。

ワルシャワのゲットーは、ファシズム体制下のドイツが1940年に設立。同ゲットーに暮らしたユダヤ人は最も多い時で45万人に上り、正義や道理のない暗黒の社会での生活を強いられた。

我慢の限界に達したユダヤ人は1943年4月19日、同ゲットーで蜂起した。しかし、ナチスにより無残に鎮圧され、多数のユダヤ人が犠牲となった。ゲットーもヒトラー指揮下の軍により破壊された。(編集NK)

ヒトラー総統や親衛隊にとって,ユダヤ人絶滅は与えられた宿命だったが,その障害は大きい。現在でも,その障害の大きさ故に,ユダヤ人絶滅が実施されたはずがないと誤解する者もいる。これは,当時のドイツやドイツ占領の一般市民,連合国の一般市民についても当てはまる。一般常識に即して考えれば,ユダヤ人絶滅に資源・国力を投入することは,無駄である。ヒトラーやヒムラーは,ユダヤ人絶滅を公言しているが,それは誇張されたプロパガンダだ,いくらなんでもユダヤ人絶滅を実施するはずがない,このように考えるのは,当時の常識だった。

◆ヒトラー総統の政治的遺書には,ドイツ人を抹殺しようと戦争を仕掛けてきたユダヤ人を殲滅すべきであるとの人種民族差別が示されている。ヒトラーは,1939年1月の国会演説,1914年12月の対米宣戦布告の国会演説でも,ユダヤ人の共産主義者と国際金融資本が,ソ連と米英政治家を操ってユダヤ人世界支配のための戦争をドイツに仕掛けている,よってユダヤ人を殲滅するために世界戦争を戦うと公言している。1945年4月のヒトラーの政治的遺書でも,戦争に責任があるユダヤ人に対する絶滅戦争を継続するように指示して,自決した。

ドイツの市民も連合国の市民は,人間性を無視する忌むべきユダヤ人絶滅が行われているかどうか,知りたいとは思わなかった。知りたいのは,戦いに勝っているかどうかだった。ドイツ人は,ユダヤ人絶滅について,知りたくはなかった。知っていれば処罰されることも,予測できたから,知らないふりをした。当時の日本人は,ユダヤ人絶滅が同盟国で行われているとは,思いもしなかった。日本軍による虐殺も,噂話や敵のプロパガンダであって,決して知りたい情報ではなかった。

ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官の一部は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。多数の将兵も,虐殺の噂を聞いていたし,自ら後方治安維持作戦を支援したこともあった。

 多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。確かなことはわからないと,虐殺の責任を回避した。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と現実肯定の無力なニヒリズムに陥っていた。ワルシャワゲットー蜂起は,鎮圧されたが,このことを私たちに気付かせてくれる。

虐殺という忌むべき情報は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。しかし,知りたくない事実を認めることで,忌まわしい過去を克服できる。忌まわしい過去を恐れる必要がなくなる。

ワルシャワ・ゲットー写真解説Warsaw Ghettoを読む。


(2)1944年7月,ワルシャワ蜂起 Warsaw Rising

英国にあったポーランド亡命政権では,事故死したシコルスキ将軍から首班を受け継いだスタニスワフ・ミコワイチクStanislaw Mikolajczyk(1901-1966)が,ワルシャワ解放を計画していた。

チェンバレン首相は,1939年9月にポーランドに進駐したソ連に宣戦布告しなかったし,チャーチル首相は,独ソ戦が勃発すると,即座に米英によるソ連の軍事支援を申し出て,モスクワに使節を派遣した。

写真(右):1944年8月,ワルシャワ蜂起軍を砲撃するドイツ陸軍モーゼル「カール」Karl60センチ自走臼砲:1937年から開発されたカール自走臼砲は,要塞攻撃用の攻城砲として,1940-41年6両生産された。6両には,「アダム」「エーファ」「ロキ」「ツィウ」「トール」「オーディン」との固有名称がつけられた。1942年のセヴァストポリ要塞攻略戦,1944年のワルシャワ蜂起に投入された。カール自走臼砲は溶接構造の車体中央に砲架を設置し、車体前部に自走用のエンジンを搭載、車体後部は射撃姿勢の時には車体を接地し発射反動を受けるようにサスペンションの上下駆動装置があった。自走用の発動機はV型12気筒液冷MB503Aガソリン・エンジン、排気量44リットルだが、自走臼砲の重量が120t以上もあり、整地でなければ自走できなかった。全長11.2メートル、全幅4.2メートル、全高4.4メートル、航続距離40キロメートル、最大時速10キロメートル。操作員20名以上。
Polen, Warschau.- Warschauer Aufstand.- Einsatz des 60-cm Mörser "Karl" (Gerät 040 "Ziu"); PK KBZ HG Mitte Dating: August 1944 Photographer: Leher撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランド亡命政権の指揮下にあるポーランド国内軍は,ポーランド国内で反ドイツのレジスタンスを行っていたパルチザンである。その兵力は,民兵を中心に30万人を擁していた。

1944年6月22日,ソ連軍は,バグラチオン作戦を開始,ベラルーシ正面を守備するドイツ軍の中央軍集団に大規模攻勢をかけ,6月28日にモギリョフ,7月2日にベラルーシの首都ミンスクを奪回,7月13日にリトアニアの首都ヴィルニスを奪回した。

ドイツ軍の中央軍集団は,ソ連軍のバグラチオン作戦の前に,随所で大損害を受け,ソ連領からポーランドにまで駆逐された。

7月29日,モスクワ放送は,ポーランド人への蜂起の呼びかけを放送したが,これは,ドイツ軍の後方を撹乱するために,ポーランド共産党からレジスタンスを要請したものである。
ソ連は,国内において,独ソ戦勃発直後から,ソ連国民に対してパルチザン活動をすることを命令していたから,これはドイツ軍に対するゲリラ戦を要請したものといえる。

1944年7月末,ソ連の第1白ロシア方面軍90万人は,ヴィスラ川東岸に進出,ワルシャワの解放が近づいたように思われた。ポーランド亡命政府も,ソ連軍がワルシャワを占領する前に,指揮下にある国内軍が,ワルシャワを解放し,ポーランド復興を,自ら主導して,政権の座に返り咲くことを期待した。

写真(右)1944年8月,ワルシャワ蜂起鎮圧に出動したモーゼル「カール」Karl60センチ自走臼砲に砲弾を込めるドイツ陸軍兵士:このラインメタルRheinmetall社の設計・製造になる新式臼砲の最大仰角は70度、左右4度、射程は2.1tの重量弾で4300メートル、1.7tの軽量弾6400メートル、発射速度10分に1発。「カール」Karl60センチ自走臼砲の砲弾を運搬する弾薬輸送車、砲弾を装填する装填車両も設計、生産された。
ドイツ陸軍は,その近代的な優れた兵器で有名である。しかし,1941年,ドイツは,労働に耐えられないユダヤ人を一掃する方針を打ち出していた。外界やゲットー内部で,強制労働をさせたが,それに耐えられない老人,子供には,食料などの配給が途絶えるようになった。当初,ユダヤ人評議会が無料食堂などを運営していたが,その資金,食料が底をつくと,老人,子供が真っ先に犠牲になった。兵器のメカニカルな美しさと対照的に,兵器は大量破壊,大量殺戮を目的としたナチスドイツの力の源泉でもあった。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右):1944年8-9月,ワルシャワ蜂起軍に向かって発射されるドイツ軍の28/32センチロケット弾:木製枠組みのランチャーから発射され,弾頭には火薬,あるいは焼夷剤が詰まっている。右後方には,発射後に放棄された木製枠組みのランチャーが山積になっている。
Abschuß deutscher 28 cm-Wurfkörper Archive title: Polen.- Warschauer Aufstand, Abfeuern eines Raketenwerfers (schweres Wurfgerät 41) mit 28-cm-Wurf-Körper-Spreng, Wurfkörper im Flug; KBZ HG Mitte Dating: 1944 August - September Photographer: Leher 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ワルシャワの蜂起軍は,民兵,婦女子などの戦闘員・伝令・補給係なども含めて,4万8000人だった。ワルシャワ国内軍司令官タデウシュ・コモロフスキ Tadeusz Komorowski少将は,国内軍によってワルシャワを解放して,国内軍の威光を高めようとした。
ポーランド亡命政府も,ワルシャワ解放を期待して,ポーランド国内軍に蜂起を促した。

1944年8月1日1700,ワルシャワの一般市民が蜂起した。これは,1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド占領から5年後,ワルシャワゲットー蜂起から1年以上たった時期だった。

ソ連領を奪回したソ連軍がポーランド中部に突出して進撃,ヴィスワ川東岸に達した時,ワルシャワの市民と国内軍がドイツに反乱を起こした。ワルシャワ市民蜂起といわれるのは,国内軍の兵士だけでなく,少年も婦女子も武器を取り,自由のために戦ったからである。

写真(右):1944年8-9月,ワルシャワで物資を運搬する蜂起鎮圧中のドイツ軍兵士:Polen, Warschau.- Warschauer-Aufstand, drei Soldaten der Waffen-SS beim Schieben eines Fahrrads mit Transportfläche (Transportrischka) mit Waffen und Ausrüstungsgegenständen; PK KBZ HG Mitte Dating: 1944 August - September Photographer: Leher撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ワルシャワの国内軍Home Armyの兵力は,4万5000人だった。この国内軍Home Armyは,ロンドンにあった亡命政府が,ドイツ占領下のポーランド解放のために,1942年2月,編成した軍隊である。

国内軍のほかにも,1942年9月に編成された反共産主義のポーランド国軍National Armed Forces, 国内評議会軍Internal Security Corps, ポーランド人民軍Polish People’s Army人民軍People’s Army,そしてポーランド人や連合国の航空部隊で救助された兵士など,合計22500人もワルシャワ蜂起に加わった。

ポーランド共産党はコミンテルンの指導で解散したが,1942年1月,労働党として結成され,英国には人民軍が編成された。1943年末,ロンドン亡命政権に対立する国内評議会も結成された。1943年7月には,ソ連国内で結成された共産主義者の国民解放委員会が作られている。これらの諸勢力の兵力は,2500人だった。武器は連合軍から空中補給されたもの,敵からの戦利品である。

他方,ドイツ軍は2万5000人だった。

ソ連軍の支援を見込んだワルシャワ蜂起は,奇襲的効果もあって,当初はポーランド蜂起軍に有利に展開した。ドイツ軍は,ヴィスワ川東岸にあるっソ連軍に対峙していたからである。しかし,ワルシャワ近くに突出する形でソ連軍は進撃してきていたが,ドイツ軍の抵抗,広報からの補給困難のために,ワルシャワ蜂起に呼応して,ワルシャワを解放することはできなかった。

写真(右):1944年8-9月,ワルシャワ蜂起軍の鎮圧に向かうドイツ武装親衛隊第36擲弾兵師団の将兵:MP40短機関銃を持つ将兵たちだが,捕虜の虐殺,略奪など蛮行が顕著だったという。しかし, 師団長オスカール・ディルレヴァンガー(1895-1945/6/7)は,パルチザン鎮圧の功績が評価され,1944年9月30日,騎士十字章を受賞。
ヒトラーは1941年11月11日次のように述べていた。「私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。」虐殺を躊躇しない粗暴な司令官は,ヒトラーの好みだった。
Zentralbild. II.Weltkrieg 1939-1945. Warschauer Aufstand im August 1944. Mit entmenschten SS-Banditen und aufgeputschten Soldaten der faschistischen deutschen Wehrmacht (unser Foto) wurde am 2.10.1944 der Warschauer Aufstand endgültig niedergeschlagen. Dabei wurde Warschau zu 80 % zerstört. (SS-PK Schremmer) Archive title: Warschau.- Angehörige der Waffen-SS, darunter Mitglieder einer Sondereinheit, im Orts- und Häuserkampf mit Stabgranate, Maschinenpistole MP40 und Gewehren. Dating: August 1944 ca. Photographer: Schremmer 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


戦後の東西対立を見据えて,ワルシャワ解放が,ポーランド国内軍によって達成されることを嫌い,親英米派の国内軍の弱体化を狙ったともいわれる。ソ連は,反共産主義の蜂起軍を自滅させるという政治的な思惑のために,ヴィスワ川目前で進軍を止めたとの評価もある。ドイツ軍によって,国内軍が壊滅的打撃を受ければ,ワルシャワ解放はソ連軍だけの功績であり,ポーランドの政権樹立に,ソ連の影響力を行使しやすいからである。

写真(右)1944年8-9月,ワルシャワ蜂起を鎮圧するドイツ軍兵士:後方には破壊された市電(路面電車)の車両が焼け爛れている。
独ソ戦末期には,ポーランドに迫ったソ連軍の支援を期待して,ポーランド人が半ナチス蜂起をした。しかし,ソ連軍は,補給ルートが伸びきったため,あるいは新英派・英国亡命ポーランド政府を抑えポーランド人による独力の政府樹立の動きを弱体化させるために,ワルシャワ蜂起を支援する軍事行動をとらなかった。他方,ドイツ人が多数死傷している状況で,ヒトラーは,後方のポーランド人による反乱を容赦することなく鎮圧する命令を出した。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1944年10月,ドイツ軍はワルシャワ全市を徹底的に破壊,ワルシャワ蜂起軍は10月2日に20万人の死傷者・捕虜を出して降伏した。

「西部戦線」のソ連軍は1944年末にポーランド国境に押し寄せ,1945年1月12日,ヴィスラ川を越えて,ワルシャワに進撃した。ドイツ軍は,蜂起の起こったワルシャワで市街戦を戦うことなく,撤退。ソ連軍は1945年1月17日,焦土となったワルシャワを占領した。


(3)ユダヤ人特殊部隊の少女ハンナ・セネシュ
 

ユダヤ人団体は,1942年にユダヤ人救出のための軍事行動を要請していた。そして,1943年,英軍は,ユダヤ人を加えた小規模な作戦を計画し,実施に移した。これは,ハンガリーにユダヤ人を含むパルチザン(ゲリラ)を潜入させ,諜報・破壊工作を行うものである。

ハンナ・セネシュ は,兄ジョルジュ誕生の翌年,1921年7月17日ハンガリーのブダペストに生まれユダヤ人で,父ベラ・セネシュは劇作家であった。ハンナは,アンネと同じく資産家出身で,13歳ときから日記をつけはじめた。15歳のとき「崇高な精神の持ち主になりたい。神様が許しをえて。」と書いた。16歳には,「人間には、信じ、全霊を持って捧げることができる何かが必要だ。そして,人生は意味がある、自らが世界に必要とされている,と感じることが重要だ。(パレスチナにユダヤ人の祖国を建国する)シオニズムがそれだ。」と使命感を高めている。そして,高等学校卒業後,1939年9月,第二次大戦勃発直後,アライヤット青年団Aliyat ha-Noarを通じて,家族ではただ一人英領パレスチナに向かった。

 ハンナは,パレスチナで農業を学びながらキブツ集団農場)で働いた。1943年1月8日,「突然, ハンガリーに行かなくてはという考えに取りつかれた。そして,----果敢な行動を起こすために立ち上がるべきだと決心した。」ユダヤ人団体は約250名のユダヤ人コマンド志願者を用意できると提案したが,英軍は,ユダヤ人110名を選んで,特殊部隊"Baker Street Irregulars"に訓練した。目的は,敵地に不時着した連合軍将兵の救出ルートの確保,諜報工作,反ナチ活動・パルチザン・ユダヤ人の支援である。パラシュート降下して各国に潜入しユダヤ人と接触するという特務があったのである。訓練を受けたユダヤ人特殊部隊110名のうち,実際に37名がユーゴ,北イタリアなど敵地にパラシュート降下などの方法で潜入した。

1944年3月15日,ハンナを含むユダヤ人特殊部隊3名はユーゴにパラシュート降下し,パルチザンとの連絡に成功した。1944年5月13日,パルチザンとともにハンガリーに潜入したハンナ・セネシュHannah Seneshは,捕らえられ,ドイツ占領後下のブダペストに拘禁,拷問された。ハンガリー在住の母親も呼び出され,ハンナは暗号,活動家など,反ナチ活動に関する情報の自白を求められた。1944年11月7日,処刑。23歳だった。ドイツ側は,潜行してきたユダヤ人特殊部隊37人のうち,12人を捕らえ,7人を処刑した。

ユダヤ人空挺部隊Palestinian Jewish Parachutistsの進退:
ハンナ・セネシュ Hannah Szenes:J1944年6月7日, ハンガリーに越境しようとして,ハンガリー警察によって逮捕され,11月7日,ハンガリーで銃殺処刑。
ヨエル・パルギ Yoel Palgi:ハンガリーに潜入,パレスチナに帰還。
Rafi Reiss:スロバキアで逮捕,殺害。
Abba Berdiczew:スロバキアで逮捕,オーストリアのマウトハウゼンMauthausen強制収容所に送られ死亡。
Zvi Ben Yaakov:スロバキアで逮捕され,殺害。
Ephra Dafni:
Peretz Goldstein:ユーゴスラビアにパラシュート降下,逮捕されオラニエンブルクOranienburg強制収容所に送られ死亡。
Reuven Dafni:
Eli Zohar :
Arieh Lupesko:ルーマニアで逮捕された後,解放され,パレスチナに帰還。
Uriel Kanar :
氏名不詳1名:

情報漏洩やイギリス人優位のためか,現在の英軍では,ハンナなどユダヤ人特殊部隊をそれほど評価していない。しかし,イスラエルでは,勇敢にナチスと戦ったユダヤ人戦士として,顕彰された。1946年には彼女の日記が公刊され,彼女のいたキブツには記念館も設立された。

ナチス・ドイツを相手にユダヤ人空挺部隊(Palestinian Jewish Parachutists) 闘った実在したパルチザン女戦士ハンナ・セネシュの半生として,1988年にアメリカ映画「ハンナ・セネシュ 」が製作された。
原題: HANNA's WAR:THE ASSISI UNDERGROUND 1988年(CD:1992/06/03)146分

原作:ヨエル・パルギYoel Palgi ,監督:メナハム・ゴーランMenahem Golan
ストーリー:
ハンガリーの著名なユダヤ人作家の娘として、ハンナ・セネシュ(マルーシュカ・デートメルスMaruschka Detmers)は自分も父のような作家になることを夢見ていたが、ヒトラーの台頭による反ユダヤ主義がハンガリーにも襲い始め、彼女は母のカタリン(エレン・バースティン)に別れを告げ、パレスチナの農業学校に入学する。やがて第2次大戦の戦火は広がり、ハンナのもとに同じハンガリー出身の英国軍人ヨエル・バルギYoel Palgi(ヴィンセンツォ・リコッタ)が現われる。彼からハンガリーに戻るには英国空軍に入隊するのがいい、と告げられ、自殺行為と知りつつも入隊する。

  折しもユーゴスラヴィアに降下したハンナたちは,ナチによるハンガリー占領を知り、国境越えのパルチザンに志願する。そして激しい銃撃戦を乗り越え、国境を越えたハンナは、ブダペストまでもう一歩というところでドイツ軍人に逮捕され、刑務所に留置される。

ハンナはローザ大尉(ドナルド・プレザンス)の拷問にも口を割らなかったが、母を恐喝の手段にされ絶望する。しかしロシア軍の進行により、刑務所に収容されていた人々が解放されようとする時、ハンナはサイモン大尉(デイヴィッド・ワーナー)の告白により反逆罪で死刑を宣告される。こうしてハンナは銃撃隊に射殺され、その短い一生を閉じる。(MSNムービー引用終わり)


(4)漁船を使ってユダヤ人7220名をスウェーデンに脱出させたデンマーク

ポスター(右):1944年8月,ベルギー,アーリア人とされたワロン人に対する武装親衛隊の募兵ポスター:武装親衛隊は,当初はドイツ人のみの部隊だったが,大戦勃発によって,ドイツ占領下のアーリア人,民族ドイツ人あるいは捕虜とした兵士から募兵した。大ドイツ主義への共鳴,祖国の自治拡大,反共産主義などさまざまな理由から,武装親衛隊に加わった外国人がいた。
Viens â nous! Dating: 1944. ポスターはドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 幸いなことにドイツ人は,デンマーク人を北方アーリア人に区分しており,1940年のドイツ占領後でも大幅な自治が認められていた。そこで,人権を重視するデンマーク政府は,少数派だったユダヤ人を迫害することはなかった。

1943年9月17日,デンマーク・ユダヤ人の登録リストが,ユダヤ教徒コミュニティから没収され,9月28日,ドイツ大使館付きデンマーク海軍武官が,ユダヤ人移送の近いことを,デンマーク社会民主党党首に告げた。そこで,ユダヤ人は,都市から離れ,海岸沿いの民家,農家,病院に身をかくまってもらった。

デンマーク・ユダヤ人7220名は,1943年10月の1ヶ月間で,デンマーク漁船で,中立国スウェーデンに脱出した。デンマーク警察は,ユダヤ人脱出を助ける人々に協力した。船代金は,漁船1隻に付き1000〜1万クローネと,年収に相当した。こうして,ユダヤ人を脱出させるのに60万ドル相当が費やされた。

デンマークからチェコのテレジエンシュタット収容所へ送られたユダヤ人464名については,デンマーク政府がデンマーク国籍者(ユダヤ人)の調査を要求し,生活物資も送った。ドイツも1944年,赤十字社に収容所の視察を許可した。移送されたデンマーク・ユダヤ人の死亡は,51名だった。


(5)5000名のユダヤ人を庇護した南仏シャボン・スル・リニュン村

写真(右):1941年8月,パリにおけるフランス官憲によるユダヤ人拘束写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

 1940年6月,フランスが降伏すると,北フランスは独軍占領下におかれたが,南仏は一時期,親ドイツのヴィシー政府の管轄となった。

キリスト教ユグノー派Huguenotの多いシャボン村では,牧師アンドレ・トロクメが,中心となって,匿っている村人のネットワークを作り,協力し合った。

 オランダのニーウラントでも,1942-1944年に数百名のユダヤ人に避難所を提供したという。


  (6)ユダヤ人虐殺を抑えたイタリア

 ベニート・ムッソリーニBenito Amilcare Andrea Mussolini統領(ドゥーチェIl Duce:1883-1945)率いるファシスト党は,枢軸国として連合軍と戦ったが,戦時中,ムッソリーニが権力をにっぎている間,ユダヤ人迫害は行わなかった。イタリアのユダヤ人口は,0.1%と少なかったが,ドイツによるフランス占領後,多数のユダヤ難民がイタリアに流入してきた。

イタリア軍が占領したフランス,クロアチア(すぐ独立しイタリア人の国王を形式的に樹立),ギリシャの地域では,ユダヤ人は迫害されなかった。イタリア支配下では,ユダヤ人に黄色のダビデの星をつけることもしなかった。

ファシスト党のムッソリーニは,外国籍あるいは無国籍のユダヤ難民をフェラモンティと,カンパーニャの抑留者収容所に送った。しかし,イタリア・ユダヤ人には,自宅軟禁の措置しか取らなかった。実際,イタリアでは,ドイツのような似非科学によるユダヤ人の定義・厳格な住民登録はなく,規則の運用に注意が払われていなかった。

 ムッソリーニは,尊大な自尊心,ローマ帝国以来の偉大なイタリアで,ユダヤ人迫害のような品位に悖る行為を犯したくなかったのかもしれない。あるいは,イタリア国民の統合,カトリック総本山のバチカン(ラテラーノ宗教協約)との関連から,宗教的な紛糾を避け,国民の団結を重視したとも考えられる。

一般合理性に基づけば,ユダヤ人を排除・絶滅するという行為が,国力や軍事力を高めることはないことは,明白だった。ユダヤ人が,人種汚染している,ユダヤ人が共産主義,金融資本家,マスメディアを操って,戦争を仕掛けてくる,とでも妄想しなければ,ナチスのユダヤ人排除論を実行に移す理由はないのである。

 ヒトラー総統は,1933年のドイツ再軍備宣言直後,英仏伊のストレーザ戦線(再軍備宣言したドイツへの対抗)を脅威に感じ,イタリア統領(ドゥーチェ)ムッソリーニとの協力関係を重視した。領土要求の中では,唯一完全に譲歩して,民族ドイツ人の住んでいたチロル領有を放棄し,イタリア領とすることに合意した。ユダヤ人問題についても,ムッソリーニの意向を無視することはできなかったのである。

 しかし,1943年,連合軍のシチリア上陸以降,ファシストの内部分裂,パルチザン活動の活発化の中,イタリア国民の厭戦は高まっていた。1943年7月25日,イタリアのファシスト評議会は,ムッソリーニ統領を解任・逮捕し,ピエトロ・バドーリオPietro Badoglio元帥(1871〜1956)が国王とともに主導する政権が誕生した。国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世の支持を得たバドリオ政権は、1943年9月8日に連合国に降伏した。

写真(右)1943年9月12日,イタリア降伏後,パルチザンによってグラン・サッソ山荘に幽閉されていたムッソリーニをオットー・スコルッツェニー中佐指揮の降下猟兵特殊部隊が救出した。イタリア政府を代表していたバドリオ将軍は,連合軍に降伏し,ドイツを裏切った。そこで,ヒトラーは,捕らわれていたムッソリーニを救出,北イタリアにサロ政権(傀儡イタリア社会共和国)をたてた。
解放され喜んでいいはずのムッソリーニだが,アーカイブに保管してあるどの写真を見ても,浮かない顔をしている。ムッソリーニは,ヒトラーの傀儡となれば,イタリア国民の信望も過去の栄光も全てを失うと理解していたに違いない。イタリアでは、ムッソリーニ失脚・傀儡復権後に,ユダヤ人迫害が始まった。ムッソリーニは、1945年4月、パルチザンに再び捉えられ,処刑された。遺体は,ミラノのスタンダードオイルの鉄塔に,愛人とともに晒された。ヒトラーはこれを知り,自決後,自分の死体を,ガソリンをかけて完全焼却することを命じた。
Gran Sasso, Befreiung von Mussolini.- Benito Mussolini vor Hotel Campo Imperatore mit deutschen Fallschirmjägern und italienischen Soldaten. links neben Mussolini Otto Skorzeny (helle Uniform, Fernglas) und Major Harald-Otto Mors. Rechts Karl Radl (mit Stahlhelm); Fs AOK Dating: 12. September 1943 Photographer: Schneiders, Toni撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。


バドリオ政権の反ドイツ,枢軸国離脱は明らかだったので,ドイツ軍は,イタリアが降伏する前に、即座にイタリアに侵攻した。1943年9月8日,イタリアが連合国と休戦すると同時に,ドイツ軍はイタリアを占領し,イタリア軍を武装解除し,軍政を敷いた。

ムッソリーニは、グラン・サッソ山荘に監禁されていたが、9月12日、ヒトラーが派遣した親衛隊オットー・スコルツェニー中佐率いる降下猟兵(空挺部隊)によって、救出された。救出されたムッソリーニは親独傀儡サロ政権(イタリア社会共和国)首班に据えられた。

ムッソリーニ逮捕・救出後に樹立されたイタリア社会共和国の下で、親独イタリア軍は、ドイツ軍に協力して、ユダヤ人狩りを行った。

 1943年秋から1944年にかけて,イタリア・ユダヤ人の一斉検挙,強制移送が始まった。イタリア警察も謙虚に動員されたが,必ずしも親衛隊に協力的ではなかった。4万名のイタリア・ユダヤ人のうち,殺害されたのは,8000名だった。

写真(右):1941年冬,ルーマニア,集合を命じられ移送される直前のルーマニア・ユダヤ人:枢軸国のルーマニアは,ドイツの影響を強く受け,1941年6月の独ソ戦勃発後に,領土内のユダヤ人を大規模に排除していった。
他方,同じ枢軸国ハンガリー政府は,領土内に多数のユダヤ人が済んでいたため,その影響力に配慮して,1944年前半まで,ユダヤ人を排除しなかった。しかし,1944年中ごろには,アイヒマンの指導の下,ユダヤ人を大規模に排除し,アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に送った。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

しかし,ユダヤ人の逃亡を見逃したり,助けたりしたイタリア人は少なくなかった。この理由は,.ぅ織螢型のユダヤ人強制移送が開始されたのが,1944年後半で,ドイツの敗色が濃くなっていたので,戦後の世罰を恐れた
▲ぅ織螢△砲ける親衛隊の操作能力が低く,イタリア人がドイツに反感を高めていた
イタリアにおけるアンチセミニズムは強くはなく,ユダヤ人虐殺が実行されているの情報が共有される中,人間の品格を失わせる行為に加担しなかった
ということが考えられる。一部の識者は,ヒトラー総統同様に,イタリア軍は弱い,イタリア人には規律がないと非難するが,ユダヤ人迫害を押しとどめようとした点で,イタリア人の勇気と良識には感服する。その反骨精神,人生謳歌には,同感できる。


1945年5月4日,米第82空挺師団によって占領されたヴォベッリン強制収容所から,救出された囚人たちが,病院に搬送されるところ。:Wobbelin Concentration Camp, recently captured by troops of the 82nd Airborne Division. Many prisoners were found nearly starved to death. Here former prisoners are being taken to a hospital for medical attention. Germany, May 4, 1945. Pvt. Ralph Forney. (Army) NARA FILE #: 111-SC-206379 。Defense Visual Information Center 米国防総省引用。

2.ドイツ人によるユダヤ人救済・反戦運動(Resistance)

(1)ユダヤ人配偶者1500名を救ったドイツ婦人の勇気
 1943年2月末,ベルリンでユダヤ人配偶者(工場労働に徴用)1500名が逮捕されたとき,ドイツ婦人や親類数百名が,夫の収監されたローゼン通りで静かに抗議した。スターリングラード敗北,ベルリン空襲の状況で,首都のドイツ人への弾圧は,士気を乱す。親衛隊による武装排除はできなかった。1943年3月6日のゲッベルス宣伝省の日記に「このような危機的状況で,ユダヤ人移送を強行することはできない。私は,その旨指示した。」とある。混血結婚したユダヤ人は釈放された。

ヒトラー総統は「背後からの匕首の一突き」を信じていたから,ドイツの世論が反ナチス,ユダヤ人迫害反対に変化する兆候に敏感になっていた。1942年に,知的障害者安楽死(T4)を中断したのも,子供を殺された両親の発言を恐れたからである。ドイツ一般市民が従順である,世論が反対しないと確信できた場合にのみ,大量殺戮のような非人間的な犯罪を実行することができた。

(2)親衛隊を処罰したドイツ人コンラート・モルゲン博士の勇気
親衛隊・どくろ部隊隊員でも,ユダヤ人を恣意的な裁量で個人的に虐待したり,ユダヤ人の資産を強奪したりすれば,厳重に処罰された。1933年ダッハウ強制収容所長ウェッケレは,抑留者を虐殺した新鋭隊員を擁護したために,解任された。後任は,テオドール・アイケTheodor Eickeだった。

1937-1941年のブーヘンワルト収容所長カール・オットー・コッホKarl Otto Koch (1897-1945)SS連隊長は,残虐なテロを行ったとして,1941年12月にSS親衛隊に逮捕された。その後釈放され,ルブリン収容所長になったが,再び,私腹を肥やし,不正を犯した。1943年,国家刑事警察本部SS判事補コンラート・モルゲンKonrad Morgen(1910-)博士は,SS警察法廷と協力し,ブーヘンワルト収容所の汚職(食料など物資横流し)と無許可殺人を捜査した。強制収容所の司法最高責任者(SS経済管理本部局長)オズワルド・ポ−ルSS上級師団長の管轄下にあり,SS警察法廷は収容所勤務者に手出しできなかったため,SS判事補モルゲンに協力を要請したのである。

1938年のクリスタル・ナハト以降,コッホは,収監したユダヤ人資産家を恐喝して財産を掠め取り,自分の口座に公金を着服した。その証拠を握る囚人少なくとも2名を恣意的に殺害した。ヒムラー長官は,コッホ所長たちの取調べを許し,モルゲン博士は謀殺,公金横領,軍事的損害を与えたことが明らかにした。

モルゲンGeorg Konrad Morgen博士の活躍によって,SS法廷では,コッホ所長,妻イルゼ,収容所医師など4名の共犯者も捕らえられた。コッホ元所長は,SS法廷で1943年10月死刑判決,1945年初頭処刑された。モルゲン博士によって,ルブリン収容所長ヘルマン・フロルシュテットは殺人により死刑,ルブリン保護拘禁担当ヘルマン・ハックマンは死刑判決(懲役刑に減刑),ダッハウ収容所長アレクセル・ピオルコースキーは殺人により死刑求刑(未決),フロッセンブルク収容所長カール・キュンストラーは飲酒放蕩により罷免,アウシュビッツ収容所政治部長マキシミリアン・グラープナーは殺人により死刑求刑(未決)に追い込まれた。そして,アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスも尋問されることとなった。

 強制収容所関係者を処罰したモルゲン博士は,たしかに,SSの規律の中で行動しただけであって,職務を尽くしたに過ぎないと見ることも可能である。しかし,SS親衛隊の上級者を犯罪者とすることは,自分への報復,昇進の影響,左遷による処罰の危険があった。その危険をあえて冒して,強制収容所関係者の犯罪を立件しようとしたのは,強制収容所で行われていたユダヤ人虐殺に気づき,それに嫌悪感を抱いていたためとも考えられる。

ナチスへの反感を表に出せば,自分が政治犯として強制収容所送りになってしまうから,自分のできる範囲の精一杯の行動として,収容所関係者の起訴に力を注いだのではないかと推測できる。


 しかし,1944年4月中旬,ヒムラー長官は,モルゲン博士に捜査対象は,コッホ所長事件飲みに限定することをことを命じた。

アウシュビッツ収容所長ヘスは,ビルケナウ収容所の拡張,ガス室・焼却炉の建設・稼動に尽力しており,アウシュビッツ収容所が三つの収容所に独立する際,所長からDI局に配置換えになるだけで済んだ。(ヘーネ(1981)『髑髏の結社 SSの歴史』373-377頁参照)

(3)ドイツの若者による白ばら抵抗運動 Die weisse Rose

白ばら抵抗運動 Die weisse Roseを読む。

3.プロパガンダとメディアリテラシー

ドイツのクラウゼビッツの著作『戦争論』は高く評価されているが,戦争を目標達成の手段として認識する立場では、特定時点において、一方の当事者の利益に配慮することになる。国家目的の追求に、戦争は有効な手段である。政府や軍あるいは軍需産業がスポンサーとなった戦争研究が肥大化する中で、学術的にも政治の延長としての戦争の価値が認められている。社会主義の階級闘争理論では、国家間の戦争を階級間の戦争に転化して、社会主義革命につなげることが関心ごとだった。しかし、政治家や革命家の意図にもかかわらず、人種民族差別が行われつつ,戦闘員も非戦闘員も、大量破壊、大量殺戮の被害を受けた。国際テロ戦争も,人種民族差別の延長線上に,文明の衝突を「させられた」結果のように思われる。

平和研究に欠陥があるとすれば、それは、惨禍を及ぼした戦争を戦いながらも、依然として、人類が虐殺や戦争を回避する方法を見出せない,人種民族差別が克服できないでいることである。だれも戦争を望まないが、それでも戦争が起こるのが現実である、という現実主義、ニヒリズムが成り立っていることである。人種民族が平和に共生することはできない,戦争は繰り返されるものだ,文明は衝突を繰り返してきた,このような世界観、すなわち戦争必然説が払拭できないでいる。そこで,平和を望むといいながら,軍需生産・国防予算の維持、人種民族差別のプロパガンダが経常化し、戦争を準備し、人種民族的偏見を助長し,戦争を戦う社会が常態化してしまった。

人種民族差別を社会の不安はけ口として利用し,戦争を目的追及の政治の延長と見なしている政治家・軍人がいる限り、迫害や戦争を根絶することはできない。人類を卑下して,迫害や戦争を繰り返す愚かな生き物だとする戦争必然説が信奉される限り、迫害や戦争をなくすことはできない。

人種民族差別を仕方がないとするニヒリズムに陥りやすいのが,自己責任を認めたくない,人間である。そして,人種民族差別に陥るようなプロパガンダも盛んに行われる。体制側の強力な戦争プロパガンダは,洗脳,心理戦,情報戦の名の下に,人々の心と脳に,特定の思考を植え込んだ。

メディアリテラシーとは、マスメディア(TV・新聞・雑誌、インターネットなど)が提供する情報に対する、受け手側の判断や判断能力、という意味で使われる。情報を媒介する手段とその管理者の意図を推し量って、情報は事実とは必ずしも一致しないことを踏まえ、情報を批判的に検討することでもある。

社会、個人のメディアリテラシーに対峙するのが、プロパガンダである。戦争プロパガンダは、政府・軍あるいはメディアが、思考・世論を誘導する戦争情報の管理であり、第二次大戦では,人種民族差別を推し進める目的でも使われた。戦争を政治の延長と捉えて、特定目標を達成する手段として戦争を遂行しようとする者は、プロパガンダにより,人種民族差別を巧みに煽動する。

『アンネの日記』を読むと、彼女の澄んだ瞳,明晰な頭脳が,早くも戦後,平和な世の中をどのように構築するかを考えていたことがわかる。アンネは,十五歳にして,ユダヤ人であるという人種民族の特性を保持しながら,いかにして世界の人々とともに暮らすことができるのかを模索し,「人種民族の共生」を考えていた。

『アンネの日記』の行間・余白を埋める試みを通じて、平和の大切さが身にしみてわかってきた。十五歳の少女でも,平和のために行きたいと願っていたことに感銘を受ける。それを思えば,政府,メディア,学会を通じた人種民族差別,大量破壊・大量殺戮を伴う戦争を助長することはできない。人種民族差別を煽動,利用したり,政治の延長として戦争を公然と賛美したりすることも,許せないと思う。

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を繰り返し,戦争を戦い続けることはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているといえる。


アンネ・フランクは,隠れ家生活を通じて,差別と戦争の悲惨さと愚かさを実感していた。人種民族に基づく差別が,いかに不条理で,人間を貶めた存在にするかを理解していた。もう一度『アンネの日記』を読み直して,少女の考えたことを,自分の中で,反芻してみたい。

1944年5月3日のアンネ・フランクの日記:「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」→戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈している。<
 「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」と,戦争に協力している一般人の重要性,総力戦の現実を認識しつつ,「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いている。

 しかし,アンネは絶望してはいない。同じ日の日記の末尾に「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。                        じゃあまたね,アンネ・M・フランク」

人種民族差別と戦争がもたらした惨状に向き合うことなく、戦争の大義,人種民族の優秀性,祖国の栄光を説いても,平和の本質はつかめない。人種民族的イデオロギー,まがい国益,利権の前に,俗説を捏造したり,人種民族差別を煽動したりする者もいる。しかし,第二次大戦中でも,人間性を保とうと,ユダヤ人を支援した人々がいた。迫害に怯えながらも,懸命に生きようとした少女は,レスキュアーに感謝して,人種民族が共生できる平和を夢見ていた。そのような記録を読めば,戦争が、大義やイデオロギーの当否,あるいは人種民族にかかわらず、大量破壊、大量殺戮をもたらすだけであり,平和人権の確立がいかに大切かが,暖かい心持で,冷静に理解できる。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,日中戦争も詳述しました。ここでは,日露戦争,スペイン内戦,国際テロ戦争のほか第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
 
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ベック将軍とエルザーの反逆:George Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー総統・ナチスの独裁者・扇動者・殺戮者:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
反ナチス・白ばら抵抗運動:White Rose resistance
ワルキューレ作戦:Valkyrie;July 20 plot ヒトラー暗殺未遂事件
NHK BS-hi 世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画:人民裁判長ローランド・フライスラー,西部方面総司令官ルントシュテット元帥,シュタウフェンベルク大佐の副官ヘフテン中尉など多数の写真を掲載。
ナチスドイツの参考文献・資料引用

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