鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
石川啄木を巡る戦争と社会主義 2007

Search the TorikaiLab Network

◆石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件

絵葉書(右)日露戦争の日本軍がロシア巨人に馬乗りになった風刺絵はがき:MIT Visualizing Cultures引用。色つきの斬新なデザインの安価な絵葉書が出回ったことで,浮世絵戦争版画は徐々に駆逐された。日露戦争後,完全に絵葉書に取って代った。

日本の文化人と戦争:戦争賛美と反戦
戦争記録画と藤田嗣治:玉砕戦の神話
魯迅の日本留学と戦争:日清戦争と日露戦争
与謝野晶子の反戦?:君死にたまふことなかれ
青空文庫:著者没後50年で著作権の消滅した昭和初期までの作品
マサチューセッツ工科大学美ビジュアリング:MIT Visualizing Cultures
国立国会図書館デジタルライブラリー
与謝野晶子を巡る戦争文学
革命文芸雑考3 明日への考察 啄木の遺産<1>甲斐与志夫
石川啄木 クロニクル
石川啄木:詩集・経歴
石川啄木と大逆事件 後藤捨助
石川啄木の風景:北海道新聞
石川啄木論 ―「うたごころ」で読む短歌―01E1103019G 橋本恵美
秋山清著『啄木と私』に関するメモ
第9章 啄木と多喜二
石川啄木 エッセイ・その他(発表年順)
啄木の息トップページ
啄木勉強ノート
【石川啄木Link】
◆本webは,石川啄木・芥川龍之介の文学評価ではありません。日露戦争から日中戦争までの日本の戦争の枠組みで,文人たちの戦争感を比較,検討したものです。
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,日中戦争も詳述しました。ここでは,帝国主義,日露戦争も分析しました。
【戦争文学Link】【与謝野晶子Link】/【中国共産党の本】/【魯迅Link】/【沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献】/【太平洋戦争の文献


1.日清戦争の発端は,朝鮮半島を巡る日本と中国清朝の対立だった。日清戦争に勝利した日本は,台湾,澎湖諸島を領有し,朝鮮半島を勢力圏に置いた。日本も帝国主義諸国の仲間入りを果たした。

日清戦争の浮世絵木版画(右)「大日本帝国万々歳 平壌激戦大勝利」MIT Visualizing Cultures引用。1894年9月,水野としたか,秋山武衛門作。Mizuno Toshikata Akiyama Buemon Ban Banzai for Great Imperial Japan: a Great Victory at Pyongyang after a Hard Fight (Dai Nippon Teikoku ban-banzai, Heijô gekisen daishô no zu) Ukiyo-e print 1894 (Meiji 27), September Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych; 36 x 74 cm (14 3/16 x 29 1/8 in.)夜間攻撃(夜襲)をかける日本陸軍の歩兵部隊は,黒タスキをかけて目印にしたのか。

朝鮮半島の李氏朝鮮は1392年に建国し500年以上続いた由緒ある王朝だった。李成桂は1393年に中国明朝から「権知朝鮮国事」として朝鮮王に封ぜられて国号を朝鮮と定めた。これは,朝鮮半島が,中国に服属する冊封体制に入ったことを意味した。

1592年の文禄の役では,豊臣秀吉の派遣した日本軍に国土を制圧された。しかし,占領地では抗日活動が起こり,義兵による武装抵抗がおこった。さらに,明の遠征軍が朝鮮半島に派遣され,日本と明は休戦した。
1597年、日本は再び朝鮮半島へ出兵して,慶長の役が起こったが,秀吉の死去に伴って,日本軍は撤兵した。朝鮮半島に画帰国軍隊が出現するのは,1845-46年英仏海軍が来朝したときである。

1894年5月、東学党と呼ばれたナショナリストたちが,攘夷を唱え,民生を安定することを求め,甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発した。李王朝は反乱鎮圧のため清国に派兵を要請した。清朝は日本に朝鮮派兵を通知した。日本も,公使館と在留邦人保護を理由に派兵した。

日清露戦争の浮世絵(右)「平壌夜戦我兵大勝利」MIT Visualizing Cultures引用。1894年9月。日清戦争の主な戦場は,朝鮮半島だった。Kobayashi Toshimitsu Fukuda Kumajirô Our Army's Great Victory at the Night Battle of Pyongyang (Heijô yasen wagahei daishôri) Ukiyo-e print 1894 (Meiji 27), September Woodblock print (nishiki-e); ink, color and silver on paper Vertical ôban triptych; 37.1 x 74.3 cm (14 5/8 x 29 1/4 in.)

李王朝は,甲午農民戦争の鎮圧後,日清両軍の撤兵を要請したが、日清両軍とも駐屯を続けた。日本は、自国の安全を保つために、朝鮮の中立を望むと主張した。そして,李王朝は、官僚腐敗と国土の荒廃、清国・ロシアの脅威で国家主権の保持は危ういと決め付けて,もはや国家の独立を維持するだけの国力を保持していないと,日本の勢力圏の下におくことを正当化した。こうして,日本と清朝の間のバランスをとった外交を展開していた李氏朝鮮は,窮地に立たされた。

閔妃は,日本の勢力を牽制するためにロシアに接近した。しかし、朝鮮にいた日本人の三浦梧楼公使は、宮廷の反日勢力を排除するため,王妃殺害を計画し,1895年,日本人浪士・警察官などを使って、朝鮮の親日派の協力の下で、テロによって閔妃が殺害した。王の高宗は,1896年、日本軍と組んだ宮廷の親日派勢力を恐れて、ロシア領事館に亡命した。しかし,国王のこの臆病ともいえる行動によって,王朝の権威は失墜し、外国勢力の内政干渉が激化した。 

日本は朝鮮半島を清朝の勢力を排除しようとして,軍事力を背景に、李氏朝鮮に親日政府を組織させた。清朝の李氏朝鮮への影響力排除を,朝鮮半島の中立・独立を大義名分に,推し進めようとしたのである。清は,李王朝の宗主国として,日本の介入を許さず,日中の対立が激化した。 

日清露戦争の浮世絵(右)「海洋島沖日艦大勝利」MIT Visualizing Cultures引用。1894年10月1日,中村しゅこう,関口まさじろう作。9月16日,日本海軍の連合艦隊は,豊島沖を出港、翌17日,海洋島に煤煙をあげる清国艦隊を発見。連合艦隊旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊旗艦「定遠」以下14隻と交戦した。これが,日清戦争の最大の海戦「黄海の海戦」である。日本艦は損傷4隻,清国艦隊は撃沈5隻,損傷6隻だった。Nakamura Shûkô Sekiguchi Masajirô Great Japanese Naval Victory off Haiyang Island (Kaiyôtô oki nikkan dai-shôri) Ukiyo-e print 1894 (Meiji 27), October 1 Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych; 35.5 x 72.3 cm

1894年7月,日清戦争が勃発,宣戦布告は9月だった。日本陸軍は,9月中に平壌を攻略、黄海海戦で清朝艦隊を撃滅した。連合艦隊司令長官伊藤祐亨中将率いる旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊は丁女昌提督率いる旗艦「定遠」以下14隻と黄海の海戦を戦った。日本艦は損傷4隻で,清国艦5隻を撃沈,6隻を破損させ勝利した。
制海権を握った日本は,朝鮮半島だけではなく,中国大陸にも陸軍兵力を輸送船で運搬することが可能になった。 

日本軍は,朝鮮半島を超えて,11月,中国の遼東半島の旅順・大連を攻略した。1895年3月には,下関講和中だったにもかかわらず,日本軍は、澎湖諸島を占領し,台湾領有の足がかりを作った。

日清露戦争の浮世絵/錦絵凹版木版画(右)「暴行清兵ヲ斬首スル図」MIT Visualizing Cultures引用。1894年(明治27年)10月。「我軍隊は正義慈仁」だが,中国清朝兵士は「病院に闖入し自由ならざる負傷・病者を殺害するが如き」暴虐の限りを尽くした。そこで,捕虜とした後,「暴兵を引き出し止むを得ず三十八名を」(面前に?)斬首処刑した。生き残ることを許された「俘虜は感涙して我帝国軍隊の仁義慈愛に心服せしめた」。Utagawa Kokunimasa (Ryûa) Fukuda Hatsujirô,Illustration of the Decapitation of Violent Chinese Soldiers (Bôkô shihei o zanshu suru zu) Ukiyo-e print,1894 (Meiji 27), October Woodblock print (nishiki-e);35.5 x 72.3 cm ボストン美術館所蔵。

日清戦争における日本軍による清朝兵士捕虜の扱いは過酷だった。日露戦争では,ロシア兵士捕虜は厚遇されたがロシア軍スパイ容疑者(露探)とみされた中国人・韓国人は処刑された。

日清戦争の浮世絵木版画(右)「我義軍清賤奴 捕虜ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。ボストン美術館所蔵。Museum of Fine Arts, Boston。日露戦争では,日本軍はロシア人捕虜を人道的に処遇したが,日清戦争のときは,中国人捕虜を過酷に処遇した。

日清戦争最中,日本軍は負傷者を襲うような暴虐な清朝兵士を捕虜にした場合,斬首のような厳罰に処した。しかし,戦闘中に降伏した清朝兵士も,その場で「成敗」されることがあった。当時の浮世絵・錦絵には,敵兵を成敗する勇敢な日本軍兵士が,緻密に描かれている。江戸時代には、切腹,斬首,打ち首,磔刑,さらし首が当然のようにおこなわれ、明治時代になっても、これなの処刑が残っていた。そのような人権軽視の時代を生きていた当時の人々にとって、敵兵・捕虜の処刑は,やはり当然のことだったようだ。処刑や敵成敗の浮世絵・錦絵は,現在の感覚では,血潮が飛びちり,日本軍将兵の残虐さが伝わってくる。しかし,当時は,刀で切り合いをすることを尊ぶ武士の世の中の余韻が残っていた時代だった。国際平和も人権尊重の概念もいきわたっていたわけでもなかった。したがって、「勇ましい兵士の活躍」の錦絵に,敵を殲滅する勇敢な日本軍兵士、大活躍する立派な勇士の姿を見ていた。

1895年4月,日本は,日清戦争に勝利し、朝鮮半島での清朝(中国)に対する優越的地位を獲得した。そして,下関条約では,清国は朝鮮の独立を確認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲、賠償金2億両(3億円)、沙市・重慶・蘇州・杭州の開港を認めた。遼東半島の割譲は,即座に独仏露の三国干渉を呼び起こした。5月,日本は,外圧を恐れて,遼東半島を中国に返還した。

ロシアは,日清戦争後の1898年3月,旅順,大連の租借権,ハルピン・旅順間の鉄道敷設権を獲得した。首相伊藤博文は,4月,外相西徳二郎にロシア外相のRoman Rosen ロマン・ローゼンと西ローゼン協定を結ばせ,大韓帝国の内政不干渉、大韓帝国の軍事・財政顧問派遣につき事前承認に合意した。日本に放棄させた遼東半島を奪い取ったとして,日本国民はロシアを恨んだ。

日清露戦争の浮世絵木版画(右)「日清両国ノ大官,公命ヲ全フシテ能ク平和ノ局ヲ結ブ」MIT Visualizing Cultures引用。下関条約によって,日本は賠償金のほかに,台湾,遼東半島を領土とし,朝鮮半島を勢力化に組み込んだ。Ogata Gekkô Japanese and Chinese Dignitaries Accomplish Their Missions in Successfully Concluding a Peace Treaty (Nisshin ryôkoku no taikan kômei o mattoshite yoku heiwa no kyoku o musubu) Ukiyo-e print 1895 (Meiji 28) Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych Museum of Fine Arts, Bostonボストン美術館所蔵。

日清戦争後の1895年下関条約によって,清は,朝鮮が独立国であることを認めた。清は,李氏朝鮮からの貢・献上・典礼等を廃止した。これは、当時の朝鮮半島を日本の勢力化におこうと画策した日本外交の成果だった。しかし,李氏朝鮮では,清の冊封体制から離脱した以上,李氏朝鮮を称することは望ましくないと考えられた。1896年,グレゴリオ暦へ改暦し元号を「建陽」と改元した。1897年には,国号を大韓と改め、李氏王朝の王・高宗は,皇帝に即位した。元号は,清の冊封体制にあることを示す清朝皇帝施設の「迎恩門」「大清皇帝功徳碑」を撤去し,「独立門」を作った。

1900年,義和団事件では,日本は八カ国連合軍の主力として,陸軍部隊を中国に派遣し,義和団を制圧した。この義和団事件で,ロシアは,敗残兵掃討,租借地・鉄道防衛のために満州に派兵した。1901年9月の北京議定書にもとづいて,各国は,北京占領後,敗残兵掃討を名目に満州に派兵,租借地,鉄道防衛のために,軍を常時駐屯させた。しかし,ロシア軍の満州駐屯は,米国務長官ジョン・ヘイのOpen Door Policy門戸開放宣言(1899年)に反する行動とみなされた。そこで,英米日は,ロシアに撤兵を要求し,元首相伊藤博文は、12月,日露協定の交渉に入ったが,合意はならなかった。

他方,ロシアは、日本の大韓帝国への投資を妨害しないこと、日本は,ロシアが満州を勢力範囲に置くことを認めた。日露両国は,極東の勢力範囲を,その住民や主権者にお構いなく,分割したのである。

1902年1月,日本は,ロシアに対峙するイギリスと日英同盟を結び,独仏を牽制し,ロシアへの軍事支援を抑止した。そして,1903年8月,イギリスの諒解を得て,日本が朝鮮半島を、ロシアが満州を勢力範囲とする日露交渉をしたが,ロシアは,10年来蔵相を務めた不戦派Витте, Сергей Юльевич セルゲイ・ウィッテを辞職させた。10月,ロシアは,北緯39度以北を中立地帯とする南北朝鮮分割案を日本に提起した。

2.日本は,日露戦争で,朝鮮半島を勢力圏に組み込もうとした。これは,朝鮮の独立維持という名目の下の軍事行動である。日露戦争の当時は、ロシアを敵視していた歌人石川啄木は、ロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論を読み,戦争の原因となる欲望の醜さ、経済的要因、戦争プロパガンダを的確に読み取るようになった。

日露戦争の浮世絵(右)「日露戦争交戦紀聞」MIT Visualizing Cultures引用。「第四回 旅順外 我駆逐艦勇敵艦フ襲撃ス」Migita Toshihide Akiyama Buemon News of Russo-Japanese Battles: For the Fourth Time Our Destroyers Bravely Attack Enemy Ships Outside the Harbor of Port Arthur (Nichiro kôsen kibun: Dai yonkai Ryojunkô gaiiki kuchikukan yû tekikan o shûgeki su) Ukiyo-e print 1904 (Meiji 37), March Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych; 35.8 x 70.2 cm。ボストン美術館所蔵。 朝鮮半島全土を支配する企図のあった日本は、ロシア動員前に開戦しようと,1904年2月4日、明治天皇臨席の御前会議で開戦を決定,6日,外相小村寿太郎はロシア駐日公使ローゼンに国交断絶を宣告した。

1904年2月8日,日本陸軍は,朝鮮半島仁川に上陸,海軍は付近のロシア艦と交戦した後,9日,明治天皇の宣戦詔勅が渙発された。大韓帝国での日本軍の自由行動を定めた日韓議定書(明治37年2月23日)が調印され,翌日,日銀副総裁高橋是清が,戦費調達の外債募集のため,ロンドンに派遣された。

大韓民国は,1938年ミュンヘン会談のチェコスロバキア同様、日露交渉に一切参加を許されず,開戦後,日本軍の自由行動を認めさせられた。日本は,ロシアの東アジア侵略の野望を阻止するためというよりも,満州からロシアを排除し,朝鮮半島を勢力範囲とするために戦ったといえる。

⇒国立公文書館アジア資料センター(http://www.jacar.go.jp)「日露戦争特別展」参照。

啄木勉強ノートによれば、石川啄木は1902年(明治35年)10月31日、十七歳で上京し、英語翻訳で生活費を得ようとした。11月11日、啄木の姉トラの夫から生活費の送金を受けた。そして、古書店で英語詩集などを買い求めた。しかし、職を得ることはできず、1903年2月26日帰郷。

啄木日記
 1902年(明治35年)11月12日
快晴、故山の友への手紙かき初む。
 一日英語研究に費す、読みしはラムのセークスピーヤにてロメオエンドジュリエットなり。 トルストイを読む
1902年(明治35年)11月13日
快晴、 午前英語。午時より番町なる大橋図書館に行き宏大なる白壁の閲覧室にて、トルストイの我懺悔読み連用求覧券求めて四時かへる。
 猪川箕人兄の文杜陵より来る、人間の健康を説き文学宗教を論じ、更に欝然たる友情を展く。げにさなりき、初夏の丑みつ時の寂寥を破りて兄と中津川畔のベンチに道徳を論じニイチエを説きし日もありきよ、その夜の月今も尚輝れり、あゝ吾のみ百四十里の南にさすらひて、政友とはなるゝこの悲愁!!! まこと今は天の賜ひし貴重なる時也、さなり、思ひのまゝに勉めんかな。友よさらば安かれ。
Shakespeare's "Coriolanus" 求む。 
夜ぞふかき空のこなたの旅仮寝さてもかくての夢ならん世か。
落つる葉の身の夕枯やからなりや旅なる窓の小さき袂や。
つみて掩ふてはなたざるべき白百合のみ胸秋なる吾袖めすや。
夕星の瞬き高き雲井より落ちし光と吾恋ひむる。
 (二首十四日せつ子さまへ)
 
写真(左)記念艦「三笠」:日露戦争の日本海海戦の連合艦隊旗艦となった,1902年(明治35年)、日本海軍がイギリスに88万ポンド(880万円)で発注したヴィッカース社建造の戦艦。排水量1万5千トン、全長132メートル、全幅23メートル、30サンチ砲4門、15サンチ砲14門、8サンチ砲20門、45cm魚雷発射管4門搭載。最高速力18ノット,乗員860名。1922年のワシントン軍縮会議で戦艦「三笠」は廃棄対象となった。1923年に除籍後,横須賀港で記念艦として保存が認められた。太平洋戦争敗戦後,大砲、マスト、艦橋を撤去,鉄屑扱いにすることで残された。1960年,財団法人三笠保存会の下で,再び記念艦として復元,展示された。

素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』
 日露戦争の開戦時、日本が旅順を攻撃したことを渋民村で知った石川啄木は、戦果を喜んでだ。岩手日報「戦雲余録」(1904年年3月3日−19日)では、世界には永遠の理想があり、一時の文明や平和には安んずることができないから、文明平和の廃道を救うには、ただ革命と戦争の2つがあるのみだと言い切った。
「今の世には社会主義者などと云ふ、非戦論客があって、戦争が罪業だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある…」と書き、幸徳秋水らを与謝野晶子同様、批判した。

 石川啄木は「露国は我百年の怨敵であるから、日本人にとって彼程憎い国はない」と書いたが、「露西亜ほど哀れな国も無い」ともした。

日露戦争は、満州に対する日本の権利を確保する戦いであると同時に、東洋や世界の平和のために必要であったと考え、ロシアを光明の中に復活させたいと熱望する自由と平和の義戦であると考えていた。

日露戦争は、1905年9月のポーツマス講和によって集結した。日露戦争終結の翌年、1906年4月21日、沼宮内町で徴兵検査を受けた。筋骨薄弱のために、最上位の甲種に次ぐ、丙種合格となった。しかし、平時であるために、多くの徴兵合格者同様、徴集免除となっている。
徴兵検査日の啄木日記:「検査が午後一時頃になって、身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸やく安心した。自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却って頗る鎖沈して居た。新気運の動いているのは、此辺にも現れて居る。四里の夜路を徒歩で帰った」

石川啄木は、父一禎の宝徳寺住職の再任問題と、啄木自身の渋民尋常高等小学校代用教員辞令を受けていた。
⇒(素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』引用終わり)

1904年(明治37)年6月27日Times掲載のトルストイの非戦の日露への訴えは、幸徳秋水・堺利彦らの『平民新聞』8月7日の第39号に「日露戦争論」として紹介された。

石川啄木『日露戦争論(トルストイ)』
 「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドンタイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。

 「-----戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。----実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」

 「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論ただ論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった。そうして到る処に星のごとく輝いている直截、峻烈、大胆の言葉に対して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を円くして驚いたに過ぎなかった。『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。

 その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。

 しかし予は今なお決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に対して、今もなお『偉い。しかし行なわれない。』という外はない。ただしそれは、八年前とは全く違った意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であった。」
『日露戦争論(トルストイ)』電子図書館引用) 

日露戦争の浮世絵(右)「日露交戦紀聞」MIT Visualizing Cultures引用。ひそかに渡河して,ロシア軍陣地に潜入した裸の日本軍兵士。音を立てないように,銃の台尻で敵を撲殺している。

3.歌人石川啄木が感銘を受けたロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論には,日本の仙台で医学を学んでいた中国の官費留学生・魯迅も注目していた。魯迅も,文学による社会批評を重視し,社会改革を志した。中国に帰国してしばらくすると,社会主義思想に同調するようになった。これらは,石川啄木との共通点である。

 ◆魯迅の日本観:日本留学を通しての日本認識 孫長虹によれば,「藤野先生」を書き7年間の日本留学経験をもつ魯迅が有名である。1881年,中国浙江省紹興城に生まれた魯迅は,1902年4月に20歳で両江総督劉坤一によって、官費による日本留学生となった。1909年8月まで7年間以上,日本に滞在した。
1894 年の日清戦争に敗れた中国は、明治維新に成功した日本をモデルとし、1896 年最初の日本への中国人留学生を 13 名派遣したが,魯迅留学の年には600名,1906 年には1万2,000名の中国人留学生がいた。しかし,弁髪は「チャンチャン坊主」といって差別された。

写真(右):1933年初夏、上海の魯迅と内山完造:1917年、内山完造は上海に渡り、内山書店を開業。書店は,左翼作家書籍のな販売店で、進歩的文化人が集まるサロン的存在だった。魯迅(1881〜1936)の本名は周樹人。字は予才。号を魯迅、中国の代表的な文学者。浙江省紹興の人。1902年、日本へ留学、1904年仙台医学専門学校に入学 後、国民性改造のため文学を志向し東京にもどる。1909年帰国し教員となる。1918年、狂人日記、孔乙己、阿Q世伝を発表。教育者として北京大学など教壇に立った魯迅は又、北洋軍閥の文化弾圧と衝突した学生運動三・一八事件により北京を脱出。中山大学等で教壇に立った。民族主義文学に徹し反封建主義、反帝国主義の文学が基調。(★魯迅詩集★近代中国詩家絶句選(4)引用)
1927年10月5日、魯迅は内山書店を訪れた。これを契機に、内山完造と親交を深め,魯迅は内山に四度もかくまってもらった。郭沫若、陶行知など左翼文化人も国民党政府の追及を逃れるため、内山書店に身を寄せた。1932年から、内山書店は魯迅の著作の発行代理店になった。1936年に魯迅が逝去すると、内山完造は「魯迅文学賞」を創設、《魯迅全集》編集顧問にも選ばれた。1935年、内山完造の弟の内山嘉吉が東京で内山書店を開店。入り口の扁額は、郭沫若が書いた。(チャイナネット2007年3月「内山書店と魯迅」引用)
 

◆清国留学生魯迅が1902年5月から1904年9月まで在籍していた弘文学院の留学生の半数以上は、首都の北京警務学堂から派遣された「北京官費生」である。1904年9月から1906年3月まで,日露戦争の時期,魯迅は,仙台で医学を学んだ。留学先の仙台医学専門学校(現東北大学医学部)解剖学講座講師藤野厳九郎先生から日本人の仕事や学問に対する熱心さと勤勉さを感じ取り、後に日中戦争の険悪な状況の中においても、魯迅は「日本の全部を排斥しても、真面目という薬だけは買わねばならぬ」と言った。

魯迅の日本留学中、日清戦争後の日本の中国に対する蔑視を魯迅は肌で感じたと同時に、日本の一般の人々とのかかわりを通して日本人の素朴さも感じとったと思われる。魯迅は休みに、水戸で、1665年,水戸徳川家2代藩主光圀に招かれ古今儀礼を伝授した朱舜水の遺跡「楠公碑陰記」を訪れた。泊まった旅館で、中国からの留学生だと知り、手厚い待遇をうけた。また、ある日東京から仙台に戻る列車の中で、老婦人に席をゆずったことをきっかけに、魯迅は老婦人と雑談し、さらにせんべいとお茶の差し入れをもらった。このように、日本人との日常生活における素朴な触れ合いに関する残された記録は、忘れられない経験であり、魯迅の日本観の一部を形づくった。

魯迅「藤野先生」には,日露戦争に関するトルストイの論文に関する以下の記述がある。

藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであつた。---
 ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は── 「汝悔い改めよ」
 これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、、トルストイによって引用されたものだ。当時はちようど日露戦争のころであつた。ト翁は、ロシアと日本の皇帝にあてて書簡を寄せ、冒頭にこの一句を使つた。日本の新聞は彼の不遜をなじり、愛国青年はいきり立つた。しかし、実際は知らぬ間に彼の影響は早くから受けていたのである。この文句の次には、前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけてくれたので、私にはあらかじめわかつていた、だから、こんないい成績が取れたのだ、という意味のことが書いてあつた。そして終りは、匿名だつた。

写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)写真「露探の斬首」:「1905年3月20日、満州開原城外」「開原は瀋陽の北、約90キロの町。写真は出所不明と説明つきで、太田進「資料一束―《大衆文芸》第1巻、《洪水》第3巻、《藤野先生》から」(中国文学研究誌「野草」第31号、1983年6月)が紹介。写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)におさめらた。(王保林「『幻灯事件』に密接な関係をもつ一枚の写真紹介」、「魯迅研究動態」1989年9月号)。同じような写真は、仙台市内で何回か開かれている日露戦争報道写真展で魯迅の目に触れた可能性がある。写真週刊誌「ファーカス」通巻762号にも同じ写真が掲載(1996年11月6日)。東北大学医学部細菌学教室から日露戦争幻灯スライド15枚と幻灯器が発見されたが,その中に処刑のスライドはなかった。日清戦争では,清国兵士を過酷に扱った日本軍だが,日露戦争ではロシア人負傷者・捕虜を人道的に処遇した。日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人の戦争ではないという弁明のためである。対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とされれば,処刑される危険があった。仙台に留学中の魯迅も,ロシア側スパイ(露探)中国人処刑もある日露戦争スライドを教室で見た。

◆東北大学に魯迅が留学中「幻灯事件」がおきた。魯迅『吶喊』によれば,細菌学の教授が授業時間に、日露戦争のスライドを見せ,日本軍兵士が,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなした中国人の処刑(銃殺あるいは斬首)をする場面があった。中国人が取り囲んで傍観していたのに衝撃を受けた魯迅は,中国人の治療には,医学よりも、精神の再構築が不可欠だと文学を志すようになった。

◆魯迅魯迅「阿Q正伝」の末尾には、革命党員の嫌疑をかけられ捕まった阿Qが、斬首されると思いきや、銃殺されたことが書かれている。これは、魯迅が留学中に見た中国人スパイ容疑者の処刑とその中国人見物人の様子を映す心象風景である。

魯迅「藤野先生」続き

 中国は弱国である。したがつて中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑つたのは、無理なかつたかもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺[『吶喊・自序』では斬首]を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺[『吶喊・自序』では斬首]される場面であつた。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。
「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変つたのだ。

第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。---

 だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもつとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦(う)まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。
   (魯迅「藤野先生」引用終わり)

魯迅の日本留学と戦争

◆1906年仙台医学専門学校を中退して仙台を去るときに魯迅は、社会改革を目指す批評の道を志そうとしていた。魯迅は,石川啄木も感銘を受けたトルストイの非戦論を呼んでいた。帰国した魯迅は,中国の代表的文化人になり,辛亥革命後の翌年の1912年、孫文の主導する中華民国臨時政府の教育部員となった。1927年の蒋介石による共産主義者弾圧,上海白色クデター以後は,中国国民党政府を批判するような論調から,発禁処分の対象にもなった。魯迅は,古い因習・制度・権威を打破し,新しい社会を形成したいとする欲求があり,それが,社会主義的な文学に結びついた。魯迅と石川啄木は,その思想の根源において類似した部分が多い。

写真(右):『みだれ髪』を残した歌人与謝野晶子;(1878〜1942)明治11年、堺の和菓子屋駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を生きた。11人の子どもたちの母。「人間性の解放と女性の自由の獲得をめざして、その豊かな才能を詩歌に結実した情熱のひと」と評価する。1915年1-2月,雑誌『太陽』で「あなたがたは選挙権ある男子の母であり、娘であり、妻であり、姉妹である位地から、選挙人の相談相手、顧問、忠告者、監視者となって、優良な新候補者を選挙人に推薦すると共に、情実に迷いやすい選挙人の良心を擁護することが出来る。---合理的の選挙を日本の政界に実現せしめる熱心さを示されることをひたすら熱望する。」と述べた。当時,夫与謝野鉄幹が衆議院選に立候補した。(寛、衆議院議員選挙立候補引用)愛の旅人によれば,二人の間には,葛藤もあったようだ。1939年9月 『新新訳源氏物語』完成。1940年5月 脳溢血で倒れ、以後右半身不随の病床生活。

4.日本は,日露戦争に際して,朝鮮半島,中国東北地方に派兵した。この出征兵士のなかにいた歌人與謝野晶子の実弟・鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)は,大阪の歩兵第八聯隊に入隊,第三軍第四師団の一員として旅順攻略に参加した。晶子は弟を思って「君死にたもうことなかれ」を詠った。

与謝野晶子が、日露戦争に出征した晶子の弟・鳳籌三郎ちゅうざぶろうを思って詠んだ「君死にたまふことなかれ」は有名である。一般的には、戦争に反対する平和の歌であると紹介される。しかし、反戦の歌か、それとも弟の無事を案じた個人の歌なのか議論がある。

日露戦争の絵葉書写真(右)「満州軍総司令官 大山巌元帥」MIT Visualizing Cultures引用。大山元帥は,乃木大将に旅順攻略を命じた。しかし,機関銃を配備した堅固な洋裁を攻略するのに大損害を出し,作戦は進展しなかった。部下の日本軍兵士は,「なにをのぎのぎしていやる」(何をもたもたしてやがる)と嘲笑した。

君死にたまうことなかれ旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば   親のなさけは まさりしも
 親はやいばをにぎらせて  人を殺せと をしへ教えしや
 人を殺して死ねよとて  二十四までを そだてしや

 堺の街の あきびとの  旧家をほこる あるじにて
 親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ
 君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ、 すめらみこと皇尊は、戦ひに
 おほみづからは出でまさね  かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこころの深ければ もとよりいかでおぼされむ

 ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に いたましく わが子を召され、家をり、
 安しときける大御代も  母のしらは まさりぬる。

 暖簾のれんのかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を
 君わするるや、思へるや 十月とつきも添はで わかれたる
 少女をとめごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
 ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ。

◆古語「すめら」は接頭語で,天皇を表彰する語につけた。与謝野晶子は,男女の恋愛を激しく歌ったが,同時に,天皇を敬い,日本の伝統を愛し,誇りにしていた「日本女性」だった。晶子の国体尊重,天皇崇拝の認識の下で,晶子の弟・鳳籌三郎ちゅうざぶろうと妻セイを思って「君死にたもうこと勿れ」と歌わせたのであれば,それは家族への思慕の情,武運長久(戦争で手柄を立てて凱旋する)の願いが表現されたと見るべきであろう。

日露戦争の絵はがき写真(右)「敗残ノ露国巡洋艦パルラダ号」MIT Visualizing Cultures引用。ロシア軍要塞の旅順港は,日本軍の重砲射程範囲に入った時点で,港湾機能は麻痺した。港を見下ろす高地から,日本軍は港内のロシア軍艦を砲撃した。



◆満州軍総司令官大山巌元帥児と軍総参謀長児玉源太郎陸軍中将の下で,第三軍司令官乃木希典陸軍大将は、8月19日、遼東半島の旅順を総攻撃した。しかし、11月までの三次に渡る総攻撃はみな失敗し、多数の死傷者を出した。

第一師団軍医部長の日誌には、日本軍兵士は戦傷、脚気、伝染病で「26日来入院総数千4百名、現在77名(うち7名内科)、帰隊230、自傷80」とある。戦意を喪失し、戦場離脱のために自傷行為、発狂が現れた。冬の寒さは甚だしく、兵は「なにをのぎのぎしていやる」と作戦指導の無能さを非難し、兵士と将校の離反が問題となった。

児玉軍総参謀長の督戦到来前、決死の第四次総攻撃で12月5日、203高地を占領した。旅順の司令官ステッセル将軍は、1905年1月1日、降伏軍師を送った。

日本軍の明治30年制式の30年式歩兵銃(口径6.5ミリ)19万丁は、2週間の奉天戦で,銃弾2127万発を消耗,火砲744門が弾丸28万5千発を発射し、3月10日、奉天を占領した。会戦による日本軍死傷者は7万2千名で、チフス、天然痘も伝染していた。出征兵士は、物資不足,激戦・行軍に疲労困憊し,戦意も必ずしも高いとはいえなかった。 (→大濱徹也(2003)『庶民のみた日清・日露戦争−帝国への歩み』刀水書房 参照)

日露戦争の浮世絵木版凹版画(右)「日露旅順港攻撃戦」MIT Visualizing Cultures引用。ロシア軍の砲台を銃剣突撃によって占領する日本軍将兵。追い詰められたロシア将兵が手を上げて降伏している。砲台付近には,戦死したロシア兵の遺体が山積みになっている。日章旗は,海軍の旭日旗のようにデザインされている。ボストン美術館所蔵。

「小さな資料室」資料62 謝野晶子「君死にたまふことなかれ」によれば,与謝野晶子の父・宗七(善六)は、1847年(弘化4年)9月24日生まれ、大阪堺市の和菓子商駿河屋の二代目、日露戦争前年の1903年9月14日死亡。与謝野(旧姓鳳)晶子の実弟・籌三郎(ちゅうざぶろう)は、1903年8月、24歳(数え年,今の23歳)で、堺せいと結婚した。 

しかし,鳳は,1905年(明治37年)の日露戦争に大阪の歩兵第八連隊に召集された。鳳籌三郎(24歳)は、第三軍の乃木希典のぎ まれすけ司令官の下の第四師団第八連隊に所属,旅順攻略戦に参加した。
与謝野晶子の弟・鳳籌三郎ちゅうざぶろうは字が書ける「特技」で、戦闘には参加せず、将官の書記役を務めた。「何と、字の知らん兵隊が如何に多いのやろう」が籌三郎の感想だったという。

籌三郎は1900年ごろ晶子に先んじて浪華(なにわ)青年文学会堺支部に入会し、文学少女晶子のよき理解者であった。父の死、弟の堺の和菓子屋襲名、留守の母と義妹への愛情が,歌の背景にあった。晶子が「二十四までをそだてしや」と歌った時、籌三郎は数えで25歳,満24歳。籌三郎は,無事に帰国し、1944年2月25日、63歳でなくなった。 (→「小さな資料室」資料62 謝野晶子「君死にたまふことなかれ」引用)

◆与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が発表されると,文芸評論家の大町桂月は,1904年『太陽』十月号で,「君死にたまふこと勿れ」を危険思想と論じた。「戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の『君死にたまふこと勿れ』の一篇、是也。草莽の一女子、『義勇公に奉ずべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉也。」

日露戦争の浮世絵木版画(右)博愛と大日本赤十字社衛生隊:MIT Visualizing Cultures引用。日清戦争の浮世絵とは異なって,敵兵を処断する勇士だけではなく,救助,負傷者手当てをする日本軍将兵の活躍を描いた浮世絵が何枚も出版された。ただし,日露戦争中は,在日ロシア人や正教徒の日本人も,露探とされ,収監された。ロシア皇帝ニコライ2世が皇太子時代に来日し,その警護官の滋賀県警巡査・津田三蔵が暗殺しようとした大津事件では,皇太子を守った人力車車夫・向畑治三郎と北賀市市太郎は、ロシアから勲章と報奨金・年金が与えられ,日本政府からも勲八等と年金が給与された。しかし,日露戦争時には,ロシア軍スパイ容疑者(露探)の嫌疑を受けた。戦場となった満州でも,露探とされた中国人,韓国人は,処断された。

与謝野晶子は,『明星』十一月号で,死ねよと簡単に言う事、忠君愛国の文字、教育御勅語を引用して論ずる流行の方か,かえって危険であると反論した。王朝の御世にも,人に死ねとか,畏おほく勿体きことを書き散らす文章は見当たらない。歌詠みなら、「まことの心を歌うべき」で,そうでない歌には値打ちがない、そうでない人には「何の見どころもない」と言い切った。

ひらきぶみ  与謝野晶子:「明星」新詩社 1904(明治37)年11月号

絵葉書(右)日露戦争の日本陸軍歩兵:MIT Visualizing Cultures引用。色つきの斬新なデザインの安価な絵葉書が出回ったことで,浮世絵戦争版画は徐々に駆逐されることになった。日露戦争後,完全に絵葉書に取って代った。

  私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれば悪ろく候にや。あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺の街にて亡き父ほど天子様を思ひ、御上(おかみ)の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。弟が宅(うち)へは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。まして九つより『栄華』や『源氏』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもます/\王朝の御代なつかしく、下様(しもざま)の下司(げす)ばり候ことのみ綴(つづ)り候今時(いまどき)の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。御国のために止むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。提灯行列のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉(いずみ)の家の恤兵(じゆつぺい)の百金にも当り候はずや。馬車きらびやかに御者馬丁に先き追はせて、赤十字社への路に、うちの末が致してもよきほどの手わざ、聞えはおどろしき繃帯巻(ほうたいまき)を、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似(まね)は、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務(つとめ)は、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐(ぎえん)などいふ事に冷(ひやや)かなりと候ひし嘲りは、私ひそかにわれらに係はりなきやうの心地致しても聞きをり候ひき。 

 君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、万一の時の後の事などもけなげに申して行き候。この頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑なき勇士にて候べし。さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげ/\妻のこと母のこと身ごもり候児(こ)のこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。
 私が「君死にたまふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ/\と申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿体(もつたい)なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。

日露戦争の絵葉書写真(右)日露戦争出征兵士の凱旋通り:MIT Visualizing Cultures引用。将軍を先頭に凱旋する日本軍出征兵士を迎える。日露戦争は,国家的大スペクタクル,劇場国家の端緒だった。戦争に関する物資や言論の統制も,後年ほどには厳しくなかったが,日露戦争反対を公然と唱えたのは,一部の文化人,平民新聞くらいだった。

 歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き/\年月の後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月様お許し下されたく候。桂月様は弟御(おとうとご)様おありなさらぬかも存ぜず候へど、弟御様はなくとも、新橋渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。

日露戦争の絵葉書(右)「旅順港陥落記念 壕外ニ陳列セル戦利火砲」:MIT Visualizing Cultures引用。母と子を配置して、平和と並んで戦利品の大きさを強調した。

駅頭で軍隊出立を見送る親類友達が、行く子の手を握って、「無事で帰れ、気を附けよ」「万歳」と言っている。日本の各階層の市民がみな武運長久を願っている。これは「君死にたまふこと勿れ」と同じ「まことの声」である。与謝野晶子は,「まことの心をまことの声に出だし」歌をよみたいと述べた。

◆兵士を出征させ,戦争に協力する市民はみな日本が勝利し,兵士が凱旋,帰郷すること,すなわち武運長久を祈った。これは,戦争遂行,祖国の勝利の枠組みの中で,家族の無事を優先する庶民的願望である。敵のロシア人や戦場となった中国人への配慮,戦争目的,国際情勢は二の次であった。戦争の大儀,大日本帝国の国益よりも,武運長久を優先した。

立派な新体詩を作る桂月様は博士、夫に教えて頂き新体詩まがいを試みる私は幼稚園の生徒と卑下しつつ、汽車で大阪についた。あす天気が良ければ、長男の光に堺の浜みせてやれと母は言って寝てしまった,と旅行作家の先輩にあった顛末をつた。

●大町桂月は,1905年『太陽』一月号「詩歌の真髄」で,ふたたび「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と再度,晶子の歌を非難した。しかし,晶子の夫,国粋主義の与謝野鉄幹のとりなしで,論戦は終息した。明治の元勲が政治と軍事を握っていた明治時代,列国に範をとった富国強兵を進めていたから,神がかりな皇室中心主義は,明治の元勲たちにも人気はなかった。

日露戦争の絵葉書(右)「旅順開城ニ際シ我軍総司令官乃木将軍及ビステッセル将軍ノ会見。中央右ハステッセル,左ハ乃木将軍,最右ハ伊知地参謀,最左ハレース参謀,其他ハ幕僚ノ将校及ビ通訳官ナリ」MIT Visualizing Cultures引用

教育勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ 此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
> 明治二十三年十月三十日  御名御璽

5.石川啄木は,東京で若くして文学作品を作成,公開していた。しかし,1907年,北海道に渡り,函館,札幌,小樽,釧路と新聞社を転々とした。その間に,後の歌集の原型となるような歌を作った。

写真(右):石川啄木;(1886年2月20日 - 1912年4月13日)日本の歌人・詩人・評論家。本名 石川一(はじめ)。岩手県玉山村生まれ。盛岡高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名)入学。1902年盛岡中学を放校・退学。1905年1月5日、新詩社の新年会に参加。5月、第一詩集『あこがれ』を自費出版(上田敏序詩、与謝野鉄幹跋文)。1909年『スバル』創刊、『東京朝日新聞』校正係となる。ローマ字日記をつけ始める。1910年,第一歌集『一握の砂』刊行。1912年,第二歌集『悲しき玩具』を死後刊行。『ウィキペディア(Wikipedia)』石川啄木参照。

石川啄木の経歴

1902年(明治35)10月『明星』に「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」 を白蘋の筆名で掲載。盛岡尋常中学校。上京,与謝野鉄幹・晶子夫妻を知る。翌年渋民村に帰郷。「岩手日報」で石川白蘋の名で評論「ワグネルの思想」を掲載。啄木の名で「明星」に詩「愁調」掲載。

1904年日露戦争勃発。『岩手日報』に「戦雲余禄』連載。翌年詩集『あこがれ』刊行。堀合節子と結婚。文芸誌『小天地』刊行。
1906年渋民尋常高等小学校の代用教員。小説『雲は天才である』執筆。小説『葬列』を『明星』に掲載。長女・京子誕生。
1907年函館市弥生尋常小学校代用教員。函館日日新聞社の遊軍記者。函館大火で失職。札幌の北門新報、小樽日報社に転職。
1908年釧路新聞社勤務。4月単身上京。11月『東京毎日新聞』に「鳥影」連載開始。翌年『スバル』創刊号発行。3月東京朝日新聞社の校正に採用。6月、妻・子・母を迎える。

1910年幸徳秋水等の「陰謀事件」を読み、『所謂今度の事』執筆。



日露戦争の浮世絵(右)「日本軍 義州占領 露兵鵯越江北岸逃避の図」MIT Visualizing Cultures引用。中国・韓国国境の義州のロシア軍に攻撃をかける日本軍歩兵部隊。突撃ラッパを吹き鳴らラッパ手に続く黒い軍服の歩兵。

文学者として与謝野晶子を高く評価していた。1910年に,「時代閉塞の現状」を執筆した石川啄木は,1902年(明治35)初めて与謝野家を訪門し,1908年から与謝野家に滞在した。1908年5月 啄木の日記には,「与謝野氏外出。晶子夫人と色々な事を語る。明星は其昔寛氏が社会に向って自己を発表し、且つ社会と戦う唯一の城壁であつた。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編集長に雇はれて居るようなものだ!」 「小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、(与謝野鉄幹)氏は頻りに漱石を激賞して″先生″と呼んで居た。」とある。
啄木は与謝野晶子『みだれ髪』を愛読していたから,「晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。」(blog 漱石サロン ランデエヴウ 引用)

 石川啄木は,1907年に教職を辞し,北海道へ引っ越し,1907年5月 5日〜9月13日まで132日間,函館で生活した。来道前、函館に創設された文学者団体苜蓿社ぼくしゅくしゃの雑誌『紅苜蓿』(れつどくろばあ:Red Clover)に「公孫樹」など3編を発表したのが縁で,雑誌編集を任された。また,函館商業会議所臨時職員や弥生尋常小学校臨時教員として働いた。その後,夏には奥さんと子供、母、妹を函館に呼ぶと,一家5人を養うために、8月18日に『函館日日新聞』の遊軍記者になった。しかし、尋常小学校,苜蓿社,『函館日日新聞』は、8月25日の函館大火で消失した。
北門新報』の校正子に転じた石川啄木は,1907年9月14日,札幌に下宿した。しかし,北門新報も三週間程度と短期間だった。
1907年9月27日,石川啄木は,小樽の『小樽日報』の記者となったが、仕事内容は、新聞の割付けと記事作成であった,取材ではない。12月16日に仕事をやめた。
1908年 1月21日21:30,釧路駅に到着。『釧路新聞』の記者になったが,啄木自身の証言がないために、啄木の記事を部分的にしか特定できていない。しかし,釧路新聞は現物が保存されているから,啄木が書いたであろう記事は残っていることになる。啄木は,22歳の三面主任(月給25円)として,釧路に76日間滞在した。

日露戦争の浮世絵(右)「沙河奮戦」MIT Visualizing Cultures引用。戦死したロシア将兵を脇に攻撃を続ける日本軍。降伏したロシア兵は,抵抗するつもりがないので,捕らえることなく放置しているようだ。右端には,日本軍兵士の遺体。

啄木散華 ―北海同時代の回顧録―沢田 信太郎(入力:新谷保人2006年12月24日公開)には,次のようにある。

啄木が好んで口にする題目に婦人解放論と個性尊重論とがあった。彼が着任早々一月の末に催された愛国婦人会釧路支部の新年互礼会に招待され、其席上で「現代の婦人に就て」と題して即席演説をやった。彼の最も得意とする婦人問題丈けに、平生の主張を其のまゝ骨子にして、滔々と捲くし立てた。それが可なり好評を博したので、社に帰ってから更に、「新時代の婦人」と題目を改めて新聞に発表した。こんな事から広くもない釧路の町では啄木の名が婦人社会にまで喧伝され、忽ちにして彼は有名の人物となって了った。其後釧路新聞の新社屋落成祝賀会の時に、其の余興として彼の書き下した脚本「無冠の帝王」で文士劇をやり、而も彼自ら其劇中の主役に扮すると云ふ熱狂ぶりを示めしたので、非常な評判となり、面白い石川さんから、偉らい石川さんに飛躍して行った。茲らは彼の釧路時代に於けるクライマックスではなかったかと思ふ。----

二月の半頃からしやも虎の酒に親しむ機会が多くなり、初めは、ぽんた、小蝶などを相手にしてゐたが、段々鹿嶋屋の方に足が向き、此家の市子と清子が彼にとって一日も欠くべからざる必要品となって了った。特に市子は容貌も美しく、芸才もあり、それに齢は十八とあって、若さを誇る啄木には最も適はしい遊び相手であった。其頃寄せた私への短信に市子の写真を添へて、左のやうに書いてあった。

午前十時頃起きて飯を食ひ乍ら新聞を読み、出社して立つづけに毎日三百行位書くなり。夕刻帰宿して郵書一束と名刺を閲し、返事を出すべきには返事を出して、飄然門を出づるや其行く所を知らず、宇宙は畢寛盃裡に在り焉、浅酌低唱の趣味真に掬すべし。妹共、よろしくと申居侯、就中シヤモ虎の小奴と鹿嶋屋の市ちゃんがよろしくと申居候。草々
   二月十六日夜
                       釧路洲崎町一の三十二 関方
                               啄 木 生
 小樽花園町十四
   沢田信太郎様

札幌『北門新報』の発行部数は6千部,『小樽日報』は1907年創刊,『釧路新聞』も1902年の創刊の地方の零細新聞屋で,発行部数は1,200部程度だったようだ。つまり,石川啄木の文芸活動は,北海道では,多くの読者を得られずに,無名の時代だった。

しかし,北海道時代に発表された歌は,後年有名となる『一握の砂』,『悲しき玩具』の元となるような秀逸な単価だった。

  北の海 白きなみ寄るあらいその 紅うれし浜茄子の花 (明40・10・15『小樽日報』)

  潮かをる北の浜辺の 砂山のかの花薔薇はまなすよ 今年も咲けるや (『一握の砂』初出)

  冬の磯 氷れる砂をふみゆけば 千鳥なくなり 月落つる時 (明41・3・10『釧路新聞』)

  さらさらと氷の屑が 波に鳴る 磯の月夜のゆきかへりかな (明43・11・1『スバル』初出)

  につたふ 涙のごはぬ君を見て 我が魂は洪水に浮く (明41・3『釧路新聞』)

  頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず (明41・6・23〜24作)

 石川啄木は,北海道の四つの新聞社を転々として10ヶ月を過ごし,1908年(明治41)4月、東京に戻った。『一握の砂』の刊行は、1910年12月である。
 (⇒小樽啄木忌の集い 講演「小樽のかたみ」のおもしろさ:新谷 保人北海道雑学百科:北海道生まれの文学・石川啄木,および〈亀井秀雄の発言〉文学館の見え方(○啄木の現実)引用)

6.石川啄木は,資本主義の発展の中で,学生,知識人が無気力感、虚無主義(ニヒリズム)に苛まれている状況を,「時代閉塞の現状」で吐露した。

1908年1月4日「啄木メモ」には,「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。」とある。6月赤旗事件。
1909年4月12日の啄木日記には「---予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。---予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。---」とある。

石川啄木「時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」  

新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格(かんかく)があるだろうか。淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。

かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余(もてあま)しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌(ないこう)的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。

 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。

 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享(う)ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。

 我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦(わがくに)において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。

「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰(いわ)く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」

 かの早くから我々の間に竄入(ざんにゅう)している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。

けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤(せんしょう)として一部の間に認められているごとく、樗牛(ちょぎゅう)の個人主義がすなわちその第一声であった。(そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている)

 樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的(日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく)であった。そうしてその思想が魔語のごとく(彼がニイチェを評した言葉を借りていえば)当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。

 この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新に建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその跳梁に堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは正鵠を得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐(きゅうこう)の天に飛翔することを許さなかったのである。

 第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」

 かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒(しゅんきょ)して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

 さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。

 文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚(さま)してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

   (青空文庫:底本「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社 1967年 引用)

日露戦争時期の浮世絵(右)「陸海大演習 御栄の図」MIT Visualizing Cultures引用。天皇親率の日本陸海軍では,御前の大演習は最大級の軍事式典であり,最上級の軍装を着用する。ボストン美術館所蔵。

7.日本では,1910年に社会主義者による天皇暗殺未遂事件,いわゆる「大逆事件」が起こった。国体を脅かす危険思想は取り締まり・弾圧の対象とされた。その筆頭が社会主義者,社会主義思想だった。しかし,石川啄木は,「所謂今度の事」で,思想統制に反発し,社会主義者に同調した。

石川啄木『所謂今度の事』
やがて彼等はまた語り出した。それは「今度の事」についてであった。今度の事の何たるかはもとより私の知らぬ所、また知ろうとする気も初めは無かった。すると、ふと手にしている夕刊のある一処に停まったまま、私の眼は動かなくなった。「今度の事はしかし警察で早く探知したからよかったさ。焼討とか赤旗位ならまだいいが、あんな事を実行されちゃそれこそ物騒極まるからねえ。」そう言う言葉が私の耳に入って来た。「僕は変な事を聞いたよ。首無事件や五人殺しで警察が去年からさんざん味噌を付けてるもんだから、今度の事はそれ程でも無いのをわざとあんなに新聞で吹聴させたんだって噂もあるぜ。」そう言う言葉も聞えた。「しかし僕等は安心して可なりだね。今度のような事がいくら出て来たって、殺される当人が僕等でないだけは確かだよ。」そう言って笑う声も聞えた。私は身体中を耳にした。今度の事と言うのは、実に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈弾事件の事だったのである。

 ---三人の紳士が、日本開闢以来の新事実たる意味深き事件を、ただ単に「今度の事」と言った。これもまた等しく言語活用の妙で無ければならぬ。「何と巧い言い方だろう!」私は快く冷々するコップを握ったまま、一人幽かに微笑んで見た。

 間もなく私もそこを出た。そうして両側の街灯の美しく輝き始めた街に静かな歩を運びながら、私はまた第二の興味に襲われた。それは我々日本人のある性情、二千六百年の長き歴史に養われて来たある特殊の性情についてであった。--この性情は蓋し我々が今日までに考えたよりも、なお一層深く、かつ広いものである。かの偏えにこの性情に固執している保守的思想家自身の値踏みしているよりも、もっともっと深くかつ広いものである。--そして、千九百余年前のユダヤ人が耶蘇キリストの名をあからさまに言うを避けてただ「ナザレ人」と言った様に、ちょうどそれと同じ様に、かの三人の紳士をして、無政府主義という言葉を口にするを躊躇してただ「今度の事」と言わしめた、それもまた恐らくはこの日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。

二 蓋し無政府主義という語の我々日本人の耳に最も直接に響いた機会は、今日までの所、前後二回しかない。無政府主義という思想、無政府党という結社のある事、及びその党員が時々凶暴なる行為をあえてする事は、書籍により、新聞によって早くから我々も知っていた。中には特にその思想、運動の経過を研究して、邦文の著述をなした人すらある。しかしそれは洋を隔てた遥か遠くの欧米の事であった。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間にその主義を信じ、その党を結んでいる者のある事を知った機会はついに二回しかない。

 その一つは往年の赤旗事件である。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して、警吏の為に捕われた者の中には、数名の若き婦人もあった。その婦人等--日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、よろづに控え目であるべきはずの婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。

 ---少数の識者があって、多少芝居の筋を理解して、翌る日の新聞に劇評を書いた。「社会主義者諸君、諸君が今にしてそんな軽率な挙動をするのは、決して諸君のためではあるまい。そんな事をするのは、ようやく出来かかった国民の同情を諸君自ら破るものではないか。」と。---今日になってみれば、そのいわゆる識者の理解なるものも、決して徹底したものであったとは思えない。「我は無政府主義者なり。」と言う者を「社会主義者諸君。」と呼んだ事が、取りも直さずそれを証明しているではないか。

日清戦争の浮世絵(右)「日本万歳 百撰百笑」(百戦百勝)MIT Visualizing Cultures引用。カンナで削り取る野と同じく,清朝中国人の身を削る日本軍兵士。

三 そうして第二は言うまでもなく今度の事である。
 今度の事とは言うものの、実は我々はその事件の内容を何れだけも知っているのではない。秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に、検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。----新聞も、ただ叙上の事実と、及び彼等被検挙者の平生について多少の報道をなす外にしかたがなかった。--そしてかく言う私のこの事件に関する知識も、ついに今日までに都下の各新聞の伝えた所以上に何物をももっていない。

 もしも単に日本の警察の成績という点のみを論ずるならば、今度の事件のごときは蓋し空前の成功と言ってもよかろうと思う。ただに迅速に、かつ遺漏なく犯罪者を逮捕したというばかりでなく、事を未然に防いだという意味において特にそうである。過去数年の間、当局は彼等いわゆる不穏の徒のために、ただに少なからざる機密費を使ったばかりでなく、専任の巡査数十名を、ただ彼等を監視させるために養って置いた。かくのごとき心労と犠牲とを払っていて、それで万一今度の様な事を未然に防ぐことが出来なかったなら、それこそ日本の警察がその存在の理由を問われてもしかたのない処であった。幸いに彼等の心労と犠牲とは今日の功を収めた。
 それに対しては、私も心から当局に感謝するものである。蓋し私は、---極端なる行動というものは真に真理を愛する者、確実なる理解をもった者の執るべき方法で無いと信じているからである。正しい判断を失った、過激な、極端な行動は、例えば導火力の最も高い手擲弾のごときものである。未だ敵に向って投げざるに、早く已に自己の手中にあって爆発する。---私は、たとえその動機が善であるにしろ、悪であるにしろ、観劇的興味を外にしては、我々の社会の安寧を乱さんとする何者に対しても、それを許すべき何等の理由をもっていない。もしも今後再び今度の様な計画をする者があるとするならば、私はあらかじめ当局に対して、今度以上の熱心をもってそれを警戒することを希望して置かねばならぬ。

 しかしながら、警察の成功は警察の成功である。そして決してそれ以上ではない。日本の政府がその隷属する所の警察機関のあらゆる可能力を利用して、過去数年の間、彼等を監視し、拘束し、ただにその主義の宣伝ないし実行を防遏したのみでなく、時にはその生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加えたに拘わらず、彼等の一人といえどもその主義を捨てた者はなかった。主義を捨てなかったばかりでなく、かえってその覚悟を堅めて、ついに今度の様な凶暴なる計画を企て、それを半ばまで遂行するに至った。今度の事件は、一面警察の成功であると共に、また一面、警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。

四 ヨーロッパにおける無政府主義の発達及びその運動に多少の注意を払う者の、まず最初に気の付く事が二つある。一つは無政府主義と言わるる者の今日までなした行為は凡て過激、極端、凶暴であるに拘わらず、その理論においては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると、共産的たるとを問わず、ほとんど何等の危険な要素を含んでいない事である。----も一つは、それら無政府主義者の言論、行為の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の関係を保っている事である。--これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの様な有名な地理学者があるからという洒落ではない。

 前者については、私は何もここに言うべき必要を感じない。必要を感じないばかりでなく、今の様な物騒な世の中で、万一無政府主義者の所説を紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうける様な事があっては、迷惑至極な話である。そしてまた、結局私は彼等の主張を誤りなく伝える程に無政府主義の内容を研究した学者でもないのである。--が、もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人があって、その人が他日かの無政府主義者等の所説を調べてみるとするならば、きっと入口を間違えて別の家に入って来たような驚きを経験するだろうと私は思う。彼等のある者にあっては、無政府主義というのはつまり、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで発達した状態に対する、熱烈なる憧憬に過ぎない。またある者にあっては、相互扶助の感情の円満なる発現を遂げる状態を呼んで無政府の状態と言ってるに過ぎない。私慾を絶滅した完全なる個人と言い、相互扶助の感情と言うがごときは、いかに固陋なる保守道徳家にとっても左まで耳遠い言葉であるはずがない。もしこれらの点のみを彼等の所説から引離して見るならば、世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている、無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。人類の未来に関する我々の理想は蓋し一である--洋の東西、時の古今を問わず、畢竟一である。ただ一般教育家および倫理学者は、現在の生活状態のままでその理想の幾分を各人の犠牲的精神の上に現わそうとする。個人主義者は他人の如何に拘わらずまず自己一人の生涯にその理想を体現しようとする。社会主義者にあっては、人間の現在の生活がすこぶるその理想と遠きを見て、因を社会組織の欠陥に帰し、主としてその改革を計ろうとする。而してかの無政府主義者に至っては、実に、社会組織の改革と人間各自の進歩とを一挙にして成し遂げようとする者である。--以上は余り不謹慎な比較ではあるが、しかしもしこのような相違があるとするならば、無政府主義者とは畢竟「最も性急なる理想家」の謂でなければならぬ。既に性急である、故に彼等に、その理論の堂々として而して何等危険なる要素を含んでいないに拘わらず、未だ調理されざる肉を喰らうがごとき粗暴の態と、小児をして成人の業に就かしめ、その能わざるを見て怒ってこれを蹴るがごとき無謀の挙あるは敢えて怪しむに足るのである。

 五 ----地理的分布--言う意味は、無政府主義とヨーロッパに於ける各国民との関係という事である。
 凡そ思想というものは、その思想所有者の性格、経験、教育、生理的特質及び境遇の総計である。而して個人の性格の奥底には、その個人の属する民族ないし国民の性格の横たわっているのは無論である。-----ある民族ないし国民とある個人の思想との交渉は、第一、その民族的、国民的性格に於てし、第二、その国民的境遇(政治的、社会的状態)に於てする。そして今ここ無政府主義に於ては、第一は主としてその理論的方面に、第二はその実行的方面に関係した。

 第一の関係は、我々がスチルネル、プルウドンクロポトキン三者の無政府主義の相違を考える時に、直ぐ気の付く所である。蓋しスチルネルの所説の哲学的個人主義的なるプルウドンの理論のすこぶる鋭敏な直観的傾向を有して、而して時に感情にはしらんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的な色彩を有する、それらは皆、彼等の各々の属する国民--ドイツ人、フランス人、ロシア人--という広漠たる背景を考うることなしには、我々の正しく理解する能わざる所である。

 そして第二の関係--その国の政治的、社会的状態と無政府主義の関係は、第一の関係よりもなお一層明白である。  (→(青空文庫 石川啄木『所謂今度の事』引用終わり)

所謂今度の事「大逆事件」では,幸徳秋水伝次郎を首領とする無政府主義者Anarchistの一団が、天皇暗殺を企て,密かに爆弾を製造していたが、その一団と通じていた無政府主義者も検挙された。その事を何人も知らぬ間に、検事局は新聞記事差止の命令を発した。つまり,警察ないし法律の力は、人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを証明した。このように,石川啄木は,言論の自由とそれを抑圧する政府の弊害を痛烈に批判した。

8.日本では,資本主義の発達とともに,労働者の不満も高まっていた。これが,赤旗事件のような,公然たる社会主義的示威活動を引き起こした。芥川龍之介などの日本の代表的な文化人は,社会主義者に同調していた。しかし,社会主義は,国体に反する危険思想であり,弾圧された。この時代閉塞の状況に,不安を感じていた芥川龍之介は,自ら命を絶った。

赤旗事件の回顧   堺利彦

回顧すれば、すでにほとんど二〇年の昔である。----
 神田錦町の錦輝館(きんきかん)の二階の広間、正面の舞台には伊藤痴遊君が着席して、明智光秀の本能寺襲撃か何かの講演をやってる。それに聞きほれたり、拍手したり、喝采したり、まぜかえしたり、あるいは身につまされた感激の掛け声を送ったりしている者が、婦人や子供をまじえて五、六十人、それが当時の社会主義運動の常連であった。

 この集会は、山口孤剣(やまぐちこけん・義三)君の出獄歓迎会であった。当時の社会主義運動には「分派」の争いが激しく、憎悪、反感、罵詈(ばり)、嘲笑、批難、攻撃が、ずいぶんきたならしく両派の間に交換されていた。しかし山口君は、その前年皆が大合同で日刊平民新聞をやっていたころから、いくばくも立たないうちに入獄したので、この憎悪、反感の的からはずれていた。そこで彼の出獄を歓迎する集会には、両派の代表者らしい者がほとんどみな出席していた。時は明治41年6月22日、わたしは紺がすりのひとえを着ていたことを覚えている。

 久しぶり両派の人々がこうした因縁で一堂に会したのだから、自然そこに一脈の和気も生じたわけだが、しかし一面にはやはり、どうしても、対抗の気分、にらみあいの気味があった。けれども会はだいたい面白く無事に終わって、散会が宣告された。皆がそろそろ立ちかけた。するとたちまち一群の青年の間に、赤い、大きな、旗がひるがえされた。彼らはその二つの旗を打ち振りつつ、例の○○歌か何か歌いながら、階段を降りて、玄関の方に出て行った。会衆の一部はそれに続き、一部はあとに残っていた。玄関口の方がだいぶん騒がしいので、わたしも急いで降りてみると、赤旗連中はもう表の通りに出て、そこで何か警察官ともみあいをやっていた。わたしが表に飛び出した時には、一人の巡査がだれかの持っている赤旗を無理やり取りあげようとしていた。多くの男女はそれを取られまいとして争っていた。わたしはすぐその間に飛び込んで、そんな乱暴なまねをしないでもいいだろうという調子で、いろいろ巡査をなだめたところ、それでは旗を巻いて行け、よろしいということになり、それでそこは一トかたついた。錦輝館の二階を見あげると、そこにはあとに残った人たちがみな縁側に出て来て見物していた。

 しかしわたしはすぐ別の方面に目を引かれた。少し離れた向こうの通りに、そこでもまた、赤旗を中心に、一群の男女と二、三人の巡査が盛んにもみあっていた。わたしはまた飛んで行って、その巡査をなだめた。あちらでも旗を巻いて行くことに話ができたのだからと、ヤットのことで彼らを説きふせた。しかし騒ぎはそれで止まらなかった。巻いた旗が再び自然にほぐれた。巡査らはまたそれに飛びかかった。あちらにも、こちらにも、激しいもみあいが続いた。錦輝館の前通りから一ツ橋通りにかけて、まっ黒な人だかりになった。その中に二つの赤旗がおりおり高くひるがえされたり、すぐにまた引きずりおろされたりした。目の血ばしった青年、片そでのちぎれた若者、振りみだした髪を背になびかせて走っている少女などが、みな口々にワメキ叫んでいた。そして巡査らがいちいちそれを追いまわしたり、引っつかまえたり、ネジふせたりしていた。わたしは最後に一ツ橋の通りで、また巡査をいろいろになだめすかし、一つの赤旗を巻いて若い二人の婦人にあずけ、決して再びそれをほぐらかさぬこと、そしてまた決してそれを他の男に渡さず、おとなしく持って帰ることという堅い約束をして、それでヤット始末をつけた。その時、今一つの赤旗はすでに、それを取られまいと守っていた数人の青年と一緒に、巡査に引きずられて行ってしまった。

 -------イタズラの張本人は大杉君で、荒畑寒村君なども参謀の一人だったろう。山川君も顧問くらいの地位に居たかしれない。赤旗というのは、二尺に三尺くらいの赤いカナキンを、短い太い竹ざおにゆわえつけたもので、一つには○○○(無政府)、一つには○○○○○(無政府共産)と白い布を切ってこしらえた五つの文字が張りつけられてあった。
 当時の「分派」を言えば、その前年(明治40年)いわゆる大合同の日刊平民新聞が倒れてから以後、一方には片山潜、西川光二郎、田添鉄二らを代表とする議会政策派があり、一方には幸徳秋水、山川、大杉らを代表者とする直接行動派があった。そして前者は東京で社会新聞(一時は週刊)を出だし、後者は大阪で(森近運平の経営で)大阪平民新聞(月刊、後に日本平民新聞)を出だし、さらに前者は後分裂して西川の東京社会新聞を現出した。

  ---- しかしわたしとしては、幸徳君とは毎日毎晩、会えば必ず議論するというほどで、決して友情のために主義主張を曖昧にしてはいなかった。ただわたしとしては、できるだけ純真な○○的態度を維持せねばならぬと考え、それにはできるだけアナキストと提携を続けねばならぬと考え、議会政策に反対する理由はあっても、直接行動に反対する理由はないと考えていた。-----社会主義はどこまでも無政府主義を包容していくべきだと考えていた。当時、直接行動派の元気な青年の中には、堺のおやじをなぐってしまえなどという者もあったそうだが、実際上、多くの人たちは社会主義と無政府主義の合いの子であった。-----

 そこで再び赤旗事件当日のことに立ちもどる。わたしは山川君とふたり、錦町の警察に連れて行かれてみると、そこの留置場にはすでに大杉、荒畑、森岡、百瀬、村木、宇都宮、佐藤などの猛者が来ており、外に神川、管野、小暮、大須賀などの婦人連も来ていた。留置場は三室あって、それが廊下を中心にして向かい合っていた。わたしの室にはわたしと外にだれか一人、隣の室には婦人連、そして向かい側の大部屋にはその他の大勢という割当てであったが、その大部屋はまるで動物園のおりよろしくで、皆が鉄ごうしにつかまって怒鳴る、わめく、笑いくずれるの大騒ぎであった。巡査の態度があんまりむちゃなので、みなとうとうこうしの中からつばを吐きかけることをもって唯一の戦闘手段とした。-----
皆はこうしの中から声を限りにののしりわめいた。○○○! ○○○! ○○! ○○!。巡査らはようやく少し態度を改めて大杉君を室内に入れた。皆が極度に興奮していたが、ことに荒畑君の興奮は容易に鎮静しなかった。巡査らは荒畑君をわたしの室に入れて、そして水を持って来た。わたしは荒畑君の頭を水で冷やした。向いの室では、小便に行くから戸をあけろあけろと怒鳴るが、巡査らは寄りつきもしなかった。そこでとうとう小便のはずんだ人たちは、こうしの中から廊下に向かってジャアジャアとやり出した。廊下は小便の池になってしまった。

 それから皆は警視庁に移され、東京監獄(今の市ケ谷=いちがや)に移され、そして青鬼とあだ名された河島判事の予審に付せられた。罪名は官吏抗拒、および治安警察法違犯であった。公判の結果は、たかだが二カ月以上四カ月くらいなものだという見当だった。あんな何でもない、つまらん事件だもの、それ以上になりっこはないという、被告らの輿論だった。ところが意外にも、判決申し渡しは一年、一年半、二年の三種だった。それを聞いた時、わたしはほんとに「オヤ!」と思った。多くの被告は「無政府主義万歳!」を唱えて退廷した。婦人連のうち、二人は免訴となり、二人は執行猶予となった。
 わたしは監獄に帰ってから考えた。二年ということになっちゃ、これはチョット冗談でない。俺はおまけに新聞紙法違犯で別に二カ月の刑をしょわされてる。これから二年二カ月! だいぶんシッカリしないと、やりきれないぞ。そう考えると、妙なもので、気分がスット引きしまってきた。勇気が出た。というよりはむしろ、落ちつきが出てきた。翌日からはモウ存外平気で、皆が申し合わせて控訴などいっさいやらぬことにし、そしてすぐに赤になって、「すずめおどりを見るような編みがさ姿」で千葉監獄に護送された。

 ここに一つエピソードがある。我々が前記の錦町署の留置場を出たあとで、そこの板壁にある落書きの中に、何か知らんが「不敬」な文字が発見されたそうだ。そしてそれが佐藤君に対する嫌疑となった。彼はそれがため、別に不敬罪として起訴された。我々はそのことを市ケ谷の未決監で聞いて大いに心配した。心配したのは、佐藤君の刑期が二つ重なってたいへん永くなるということばかりでなく、実際その責任者が佐藤君であるかどうかが不分明であったからである。----しかし裁判は決定して、佐藤君は不敬罪の方でも有罪となり、我々はみな一緒に千葉に送られた。ところで我々の問題が起こった。佐藤君は冤罪を着ているのではないか。もしそうだとすれば、今一人の男がけしからぬ。我々の多数はついに今一人の男を有罪と認め、それに絶交を申し渡した。我々はみな独房であったけれども、それが隣り合ったり、向かいあったりしているので、それにまた、運動や入浴の時など一緒に出されるので、ちょいちょい内証話をすることはできたのである。その時、わたしとしては、やはり今一人の男を疑ってはいたのだけれども、充分確かな証拠があるわけではなし、それを獄中で絶交するのはあまりひどいと考え、わたしだけはその絶交に加わらなかった。

 この赤旗事件の時、幸徳君は郷里(土佐中村)に帰っていた。彼はほどなく上京してあとの運動を収拾しようとした。しかし形勢は大いに変化していた。同年七月、西園寺内閣が倒れて桂内閣がそれに代わった。西園寺内閣の倒れた原因の一つは、社会主義を寛容し過ぎて、ついに赤旗事件まで起こさせたという非難であったという。したがって桂新内閣の反動ぶりは盛んなものであった。そこで一方には赤旗事件で金曜会の連中が一掃され、一方にはまた、電車問題の凶徒聚衆事件が確定して、西川、山口等、多くの同志が投獄され、その他の人々は手も足も出しようがなく、運動は全く頓挫の姿を呈した。幸徳君はこの形成の下にあって、ますますその無政府主義的態度を鮮明にし、ますます極端に走って行った。そして明治四三年九月、わたしが出獄した時にはすでにいわゆる大逆事件が起こっていた。  (昭和2年6月『太陽』臨時号所載)
(⇒青空文庫:底本「堺利彦全集 第三巻」法律文化社, 1970年発行 引用)

写真(右)日露戦争の従軍看護婦:MIT Visualizing Cultures引用

与謝野晶子 「衆議院の解散」 大正九年 1920年の議会制民主主義への懐疑の歌

衆議院解散の
号外を手にした刹那、
わたしは座を立つて
思はず叫んだ。
原敬の白髪頭
何と云ふ善い智慧を出したのだ
自暴自棄と云ふ事ほど
最上の自滅法はありません。
民衆の敵、
社会の敵、
自由の敵、
政友会よ、
もうお前は亡霊だ
。」


与謝野晶子 「電車の中」 大正十二年 1923年の社会主義・労働者に関連する歌

生暖かい三月半の或夜あるよ
東京駅の一つの乗場プラツトホーム
人の群で黒くなつてゐる。
停電であるらしい、
久しく電車が来ない。
乗客は刻一刻に殖えるばかり、
皆、家庭へ下宿へと
急ぐ人々だ。
誰れも自制してはゐるが、
心のなかでは呟いてゐる、
或はいらいらとしてゐる、
唸り出したい気分になつてゐる者もある。
じつとしては居られないで、
線路を覗く人、
有楽町の方を眺める人、
頻りに煙草たばこを強く吹かす人、
人込みを縫つて右往左往する人もある。
誰れの心もじれつたさに
なんとなく一寸険悪になる。
其中に女の私もゐる


おほよそ廿分ののちに、
やつと一台の電車が来た。
人々は押合ひながら
乗ることが出来た。
ああ救はれた、
電車は動き出した。

けれど、私の車の中には
鳥打帽をかぶつた、
汚れたビロオド服の大の男が
五人分の席を占めて、
ふんぞり反つて寝てゐる。
この満員の中で
その労働者は傍若無人のていである。
酔つてゐるのか

恐らくさうでは無からう。
乗客は其男の前に密集しながら、
誰も喚び起さうとする者はない。
男達は皆其男と大差のない
プロレタリアでありながら、
仕へてゐる主人の真似をして
ブルジヨア風の服装みなりをしてゐるために、
其男に気兼し、
其男を怒らせることを恐れてゐる。

電車は走つて行く。
其男は呑気にふんぞり反つて寝てゐる。
乗客は窮屈な中に
忍耐の修行をして立ち、
わざと其男の方を見ない振をしてゐる。
その中に女の私もゐる


一人で五人分の席を押領する……
人人がこんなに込合つて
息も出来ないほど困つてゐる中で……
あゝ一体、人間相互の生活は
かう云ふ風でよいものか知ら……
私は眉を顰めながら、
反動時代の醜さと怖ろしさを思ひ
我々プロレタリアの階級に
よい指導者の要ることを思つてみた


併しまた、私は思つた、
なんだ、一人の、酔つぱらつた、
疲れた、行儀のない、
心の荒んだ、
汚れたビロオド服の労働者が
五人分の席に寝そべることなんかは。
昔も、今も、
少数の、狡猾な、遊惰な、
暴力と財力とを持つ人面獣が、
おのおの万人分の席を占めて、
どれ位われわれを飢させ、
病ませ、苦めてゐるか知れない。
電車の中の五人分の席は
吹けば飛ぶ塵ほどの事だ


かう思つて更に見ると、
大勢の乗客は皆、
自分達と同じ弱者の仲間の
一人の兄弟の不作法を、
反抗的な不作法を、
その傍に立塞がつて
庇護かばつてゐるやうに見える。
その中に女の私もゐる。

◆平民新聞,その支持する社会主義,無政府主義について,与謝野晶子は「ひらきぶみ」で「下様(しもざま)の下司(げす)」「今時(いまどき)の」「あさまし」い読み物には「身震いがする」といって嫌悪感をあらわにた。他方,石川啄木,芥川龍之介は,当時の社会主義の持つリベラルな側面,現実批判精神,理想主義の側面に多大な関心を示した。与謝野晶子の議会制民主主義,労働者や社会主義に関連する歌は,石川啄木,芥川龍之介の思いに反する部分と同調する部分が混在している。

或社会主義者  芥川龍之介 1926年/大正15年

彼は若い社会主義者だつた。或小官吏だつた彼の父はそのためにかれを勘当しようとした。が、彼は屈しなかつた。それは彼の情熱が烈しかつたためでもあり、又一つには彼の友だちが彼を激励したためでもあつた。
 彼等は或団体をつくり、十ペエジばかりのパンフレツトを出したり、演説会を開いたりしてゐた。彼も勿論彼等の会合へ絶えず顔を出した上、時々そのパンフレツトへ彼の論文を発表した。彼の論文は彼等以外に誰も余り読まないらしかつた。しかし彼はその中の一篇、――「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇に多少の自信を抱いてゐた。それは緻密ちみつな思索はないにしても、詩的な情熱に富んだものだつた。
 そのうちに彼は学校を出、或雑誌社へ勤めることになつた。けれども彼等の会合へ顔を出すことは怠らなかつた。------

彼の家は実際小さかつた。が、彼は不満どころか、可なり幸福に感じてゐた。妻、小犬、庭先のポプラア、――それ等は彼の生活に何か今まで感じなかつた或親しみを与へたのだつた。
 彼は家庭を持つたために、一つには又寸刻を争ふ勤め先の仕事に追はれたために、いつか彼等の会合へ顔を出すのを怠るやうになつた。しかし彼の情熱は決して衰へたわけではなかつた。少くとも彼は現在の彼も決して数年以前の彼と変らないことを信じてゐた。が、彼等は――彼の同志は彼自身のやうには考へなかつた。殊に彼等の団体へ新にはひつて来た青年たちは彼の怠惰を非難するのに少しも遠慮を加へなかつた。
 ----そこへ彼は父親になり、いよいよ家庭に親しみ出した。けれども彼の情熱はやはり社会主義に向つてゐた。彼は夜更の電燈の下に彼の勉強を怠らなかつた。同時に又彼が以前書いた十何篇かの論文には、――就中なかんづく「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇にはだんだん物足らなさを感じ出した。
 ----が、実は彼自身もいつかただ俗人の平和に満足してゐたのに違ひなかつた。

 それから何年かたつた後、彼は或会社に勤め、重役たちの信用を得るやうになつた。従つて今では以前よりも兎角大きい家に住み、何人かの子供を育てるやうになつた。しかし彼の情熱は、――そのどこにあるかといふことは神の知るばかりかも知れなかつた。彼は時々籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出した。それは妙に彼の心を憂鬱にすることもない>訣ではなかつた。けれども東洋の「あきらめ」はいつも彼を救ひ出すのだつた。
 彼は確に落伍者だつた。が、彼の「リイプクネヒトを憶ふ」は或青年を動かしてゐた。
それは株に手を出した挙句、親譲りの財産を失つた大阪の或青年だつた。その青年は彼の論文を読み、それを機縁に社会主義者になつた。が、勿論そんなことは彼には全然わからなかつた。彼は今でも籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出してゐる、人間的に、恐らくは余りに人間的に。
        (大正15年12月10日)
(⇒青空文庫:芥川龍之介「或社会主義者」引用。底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房 1971年発行 引用)

9.日本は,1925年に治安維持法を制定し,国体の変革,反戦を唱えるような危険思想も弾圧の対象とした。プロレタリア文学作家の小林多喜二は,1933年,特高に逮捕,死亡した。社会主義思想を放棄して,日本軍や国体を賛美する「転向」が進むと,自由主義思想も弾圧されるようになった。石川啄木の指摘した思想弾圧に下の「時代閉塞の状況」が日本全土を覆った。

プロレタリア文学は,1917年のロシア革命以降,社会主義的,共産主義的思想が広まる中で,それが文学に影響して生まれた。プロレタリア文学は,政治体制を批判したり,社会問題を論じたりと,社会主義思想の影響を色濃く受けていた。雑誌『種蒔く人』は,1921-23年に秋田県で発行され,「反戦平和」「被抑圧階級の解放」を謳った。このようなプロレタリア文学や社会主義思想は,普通選挙の要求の高まりとあいまって,日本の国体(天皇制)の変革に結びつくことが,大いに危惧された。

1925年に治安維持法は,国体の変革,私有財産制の否定を企てるものを処罰する法律である。普通選挙甫と同時に施工された治安維持法を担う組織が,特高警察(特高)である。1911年に警視庁(東京)に特別高等警察課が設置され,1928年には全国に設置された。特高は、1922年創設の日本共産党,労働組合,社会主義者,さらには自由主義者,民主主義者まで反政府的であるとみなされた人物を取り締まるようになる。そして,拷問,密偵・密告などによる思想弾圧を行った。

与謝野晶子 〔無題〕 1927年の祖国大日本帝国と統治者天皇陛下を讃える歌

粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
いまだ乾かざれども、
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる下に、
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語

   ×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。

世は変る、変る、
偏すること無く変る
愛と正義の中に変る

   ×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の内外うちと
   ×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、何処いづこぞや、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ

世界は如何に動くべき、
国民くにたみは何を望める、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
   ×
我等は陛下の赤子せきし
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心みこゝろに集まる

陛下は地上の太陽、
唯だ光もておほひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
   ×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界をるるに慣れたれば。
我等は日本人、
生生せいせいとして常に春なり、
まして今、
華やかに若き陛下まします

   ×
争ひは無し、今日の心に、
事に勤労いそしむ者は
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
   ×
眠りつるは覚めよ、
たゆみつるは引き緊まれ、
乱れつるは正せ、
れつるは本にかへれ。
ひとの国にはひとの振、
己が国には己が振。
改まるべき日は来る、
は明けんとす、ひんがしに。
   ×
我等が行くべき方は
陛下今指さし給ふ。
めよ、財の争ひ、
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/2558_15785.html)より底本「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社,1980年および「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社,1980年を引用掲載

◆天皇中心の国家形態,すなわち国体を賛美した与謝野晶子の歌を,社会主義に同調し社会改革を志していた石川啄木が聞いたなら,どのように反応するであろうか。晶子を姉として慕い続けるのであろうか。

写真(右):1933年2月20日特高により拷問死したプロレタリア文学作家小林多喜二:1925年治安維持法が成立し,1928年には全国に特高が組織される。小林多喜二は小説『1928年3月15日』の中で、特高の拷問の凄まじさを描写したことから特高の逆恨みを買っていたらしい。共産党員1932年3月以来、潜伏していたが,1933年2月20日に逮捕され,即日拷問死亡。

プロレタリア文学作家は,社会主義を突き詰めて,労働者・農民を主体とした革命を追求するようになる。小林多喜二は,『蟹工船』冒頭で「『おい地獄さ行ぐんだで!』二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。」と書いた。オホーツク海で創業する漁船の雇用労働者を描き,その過酷な労働環境と資本家による搾取・収奪を社会悪として描いたのである。

「手前(てめ)え、何んだ。あまり威張ったことを云わねえ方がええんだで。漁に出たとき、俺達四、五人でお前えを海の中さタタキ落す位朝飯前だんだ。――それッ切りだべよ。カムサツカだど。お前えがどうやって死んだって、誰が分るッて!」
 そうは云ったものはいない。それをガラガラな大声でどなり立ててしまった。誰も何も云わない。今まで話していた外のことも、そこでプッつり切れてしまった。
 然(しか)し、こういうようなことは、調子よく跳(は)ね上った空元気(からげんき)だけの言葉ではなかった。それは今まで「屈従」しか知らなかった漁夫を、全く思いがけずに背から、とてつもない力で突きのめした。突きのめされて、漁夫は初め戸惑いしたようにウロウロした。それが知られずにいた自分の力だ、ということを知らずに。
 ――そんなことが「俺達に」出来るんだろうか? 然し成る程出来るんだ。 
 そう分ると、今度は不思議な魅力になって、反抗的な気持が皆の心に喰い込んで行った。今まで、残酷極まる労働で搾(しぼ)り抜かれていた事が、かえってその為にはこの上ない良い地盤だった。――こうなれば、監督も糞もあったものでない! 皆愉快がった。一旦この気持をつかむと、不意に、懐中電燈を差しつけられたように、自分達の蛆虫(うじむし)そのままの生活がアリアリと見えてきた。

吃りの漁夫が、一寸(ちょっと)高い処に上った。皆は手を拍(たた)いた。
「諸君、とうとう来た! 長い間、長い間俺達は待っていた。俺達は半殺しにされながらも、待っていた。今に見ろ、と。しかし、とうとう来た。
「諸君、まず第一に、俺達は力を合わせることだ。俺達は何があろうと、仲間を裏切らないことだ。これだけさえ、しっかりつかんでいれば、彼奴等如きをモミつぶすは、虫ケラより容易(たやす)いことだ。――そんならば、第二には何か。諸君、第二にも力を合わせることだ。落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏切者、一人の寝がえり者を出さないということだ。たった一人の寝がえりものは、三百人の命を殺すということを知らなければならない。一人の寝がえり……(「分った、分った」「大丈夫だ」「心配しないで、やってくれ」)……
「俺達の交渉が彼奴等をタタキのめせるか、その職分を完全につくせるかどうかは、一に諸君の団結の力に依るのだ」
   (⇒青空文庫:底本「蟹工船・党生活者」新潮社 1953年 引用終わり)

小林多喜二は,1931年にに合法の日本共産党に入党し,1932年2月20日に特高に捕らえられ、築地警察で拷問された。監獄内で倒れた小林多喜二は,目を半分むいて痙攣したため、築地署裏にある前田病院に担ぎ込まれたが,同日死亡(享年30歳)。家族に引き取られた遺体には、首筋やこめかみに5,6ヶ所の裂傷があり、首には縄で絞めたような痕が深く残っていた。下半身には内出血が広がり、大腿部には15〜16箇所ほど釘を刺されたように裂けていたという。

小林多喜二の死の真相を報道した新聞はない。毛利特高課長の「拷問した事実はない。心臓に急変をきたしたものだ」という談話、友人の江口渙の「顔面の打撲裂傷、首の縄の跡、腰下の出血がひどく、たんなる心臓マヒとは思えません」という談話(都新聞)、家族や友人が「むごくも変わりはてた姿に死の対面をした」(読売新聞)といった表現で、真相を匂わせた。

小林多喜二への拷問にみられるように,日本人の治安維持法違反(罪人)への処遇も厳しいのであるから,1931年の満州事変における「匪賊」「敵兵」に対する容赦ない処刑は,残虐なものとは考えられていない。1932年の第一次上海事変でも,暴戻なる敵中国軍の兵士や日本に反旗を翻す中国人叛徒(「便衣隊」ゲリラ兵・民兵,反日活動家)に対しては,情け容赦のない処置がとられた。

1925年の治安維持法,特高警察による社会主義・共産主義的思想弾圧によって,プロレタリア文学は徐々に衰退した。その過程で、林房雄のようにプロレタリア文学の立場自体を放棄する「転向」が盛んになった。日本プロレタリア作家同盟(戦旗派)は,1934年2月22日,解体声明を出し,社会主義思想も,公然と支持されることはなくなった。

思想弾圧の時代は,1931年の満州事変、1932年の第一次上海事変を経て国家総動員の総力戦の時代へと繋がった。まさに石川啄木の指摘した「時代閉塞の現状」の完成である。


写真(上):1932年第一次上海事変における日本海軍陸戦隊のヴィッカース社(Vickers)クロスレー(Crossley)装甲車。日本海軍の旭日旗のマークを描いている。右は、ガスマスクをかぶった日本海軍陸戦隊。写真(中):左は、砲身後座式の四一式山砲(口径75ミリ、射程6千メートル)で射撃する日本軍。1932年から配備され「連隊砲」とも呼ばれた。右は、対空機関銃を構える中国軍兵。写真(下):左は、四一式山砲、右は、上海市内でバリケードを築いて射撃する中国兵士。


連絡先: torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
free counters
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 3000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright (C) 2007 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.