鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
魯迅の日本留学・戦争・革命 2007

Search the TorikaiLab Network

◆魯迅の日本留学・戦争・革命・処刑

絵葉書(右)日露戦争の日本軍がロシア巨人を「旅順港」の釜茹でにしようとしている風刺絵はがき:MIT Visualizing Cultures引用。色つきの斬新なデザインの安価な絵葉書が出回ったことで,浮世絵戦争版画は徐々に駆逐された。日露戦争後,完全に絵葉書に取って代った。1891年5月11日,ロシア皇帝ニコライ2世が皇太子時代に来日し,その警護官の滋賀県警巡査・津田三蔵が暗殺しようとした大津事件が起こった。ロシア皇太子を守った人力車車夫・向畑治三郎と北賀市市太郎は、ロシアから勲章と報奨金・年金が与えられ,日本政府からも勲八等と年金が給与された。しかし,13年後の1904年の日露戦争時には,ロシア軍スパイ容疑者(露探)の嫌疑を受けた。戦場となった満州でも,露探とされた中国人,韓国人は,処断された。魯迅も,日本留学中に,日露戦争における中国人露探の処刑のスライドを,東北大学医学部(当時の仙台医学専門学校)で見ている。

日本の文化人と戦争:戦争賛美と反戦
藤田嗣治の戦争画:アッツ島玉砕戦・サイパン島玉砕戦の虚構
与謝野晶子を巡る戦争文学:日露戦争「君死にたもうことなかれ」
石川啄木の社会主義:与謝野晶子・芥川龍之介・小林多喜二
青空文庫:著作権の消滅した作品の無料図書館

マサチューセッツ工科大学美ビジュアリング:MIT Visualizing Cultures

国立国会図書館デジタルライブラリー
鲁迅wikipedia
作家別作品リスト 魯迅
論文情報ナビゲータ:国立情報学研究所Title「魯迅」Full-textPDF
松岡正剛:魯迅『阿Q正伝』千夜千冊
魯迅先生東北大学留学100周年記念事業
藤野厳九郎と魯迅〜出会いは都市の友好へと進化した:芦原町総務課
国際シンポジウム:魯迅の起点
魯迅の後から 沈凱東さん
魯迅と西村真琴 事績年表 :豊中市日中友好協会 石原忠一編
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,日中戦争も詳述しました。ここでは,帝国主義,世界大戦,国際テロ戦争のほか日露戦争,日中戦争も分析しました。
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
魯迅日本留学中の恩師『藤野先生』北京で胸像除幕式
魯迅公園内の魯迅像と魯迅先生之墓
阿Q正伝・薬
魯迅の日本留学―東京・仙台・東京― 生涯学習センター公開学術講演要旨
魯迅の仙台留学ー魯迅の見た露探処刑「幻灯」に関する資料と解説
魯迅Q&A
【魯迅Link】
◆日清戦争から日中戦争前までの日本と中国の交流・対立の枠組みの中で魯迅を検討しました。
2007年11月以来の訪問者数Counter

1.日清戦争の発端は,朝鮮半島を巡る日本と中国清朝の対立だった。日清戦争に勝利した日本は,台湾,澎湖諸島を領有し,朝鮮半島を勢力圏に置いた。日本も帝国主義諸国の仲間入りを果たした。このような時代に,周樹人は,中国の官費留学生として日本にやってきた。後の魯迅その人である。

日清戦争の浮世絵木版画(右)「明治27年5月1日,我軍九里島虎山九連城ヲ占領,我兵ノ勇猛ヲ世界ニ誇ルニ足ル」MIT Visualizing Cultures引用。1894年5月1日,中国の九連城を攻略した日本軍。

朝鮮半島の李氏朝鮮は1392年に建国し500年以上続いた由緒ある王朝だった。李成桂は1393年に中国明朝から「権知朝鮮国事」として朝鮮王に封ぜられて国号を朝鮮と定めた。これは,朝鮮半島が,中国に服属する冊封体制に入ったことを意味した。

1592年の文禄の役では,豊臣秀吉の派遣した日本軍に国土を制圧された。しかし,占領地では,義兵による抗日武装闘争がおこった。さらに,明の遠征軍が朝鮮半島に派遣され,日本と明は休戦した。
1597年、日本は再び朝鮮半島へ出兵して,慶長の役が起こったが,秀吉の死去に伴って,日本軍は撤兵した。朝鮮半島に外国軍が出現するのは,1845-46年英仏海軍が来朝したときである。

1894年5月、東学党と呼ばれたナショナリストたちが,攘夷を唱え,民生を安定することを求め,甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発した。李王朝は反乱鎮圧のため清国に派兵を要請した。清朝は日本に朝鮮派兵を通知した。日本も,公使館と在留邦人保護を理由に派兵した。

日清露戦争の浮世絵(右)「奉天府遠望 日軍露営ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。日清戦争の戦場は,当初の朝鮮半島から,中国東北地方(満州)に移った。

李王朝は,甲午農民戦争の鎮圧後,日清両軍の撤兵を要請したが、日清両軍とも駐屯を続けた。日本は、自国の安全を保つために、朝鮮の中立を望むと主張した。そして,李王朝は、官僚腐敗と国土の荒廃、清国・ロシアの脅威で国家主権の保持は危ういと決め付けて,もはや国家の独立を維持するだけの国力を保持していないと,日本の勢力圏の下におくことを正当化した。こうして,日本と清朝の間のバランスをとった外交を展開していた李氏朝鮮は,窮地に立たされた。

閔妃は,日本の勢力をけん制するためにロシアに接近したが,1895年,日本人浪士と朝鮮の親日派はテロによって閔妃が殺害した。王の高宗は,1896年、ロシア領事館に亡命したが,この臆病な行動によって,王朝の権威は失墜し、外国勢力の内政干渉が激化した。

日本は朝鮮半島を清朝の勢力を排除しようとして,軍事力を背景に、李氏朝鮮に親日政府を組織させた。清朝の李氏朝鮮への影響力排除を,朝鮮半島の中立・独立を大義名分に,推し進めようとしたのである。清は,李王朝の宗主国として,日本の介入を許さず,日中の対立が激化した。

日清露戦争の浮世絵(右)「清国旗艦沈没」MIT Visualizing Cultures引用。日本海軍旗を掲げた小型の水雷艇が肉薄し,清国戦艦を撃沈。1894年9月16日,日本海軍の連合艦隊は,豊島沖を出港、翌17日,海洋島に煤煙をあげる清国艦隊を発見。連合艦隊旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊旗艦「定遠」以下14隻と交戦した。これが,日清戦争の最大の海戦「黄海の海戦」である。日本艦は損傷4隻,清国艦隊は撃沈5隻,損傷6隻だった。

1894年7月,日清戦争が勃発,宣戦布告は9月だった。日本陸軍は,9月中に平壌を攻略、黄海海戦で清朝艦隊を撃滅した。連合艦隊司令長官伊藤祐亨中将率いる旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊は丁女昌提督率いる旗艦「定遠」以下14隻と黄海の海戦を戦った。日本艦は損傷4隻で,清国艦5隻を撃沈,6隻を破損させ勝利した。

日本軍は,朝鮮半島を超えて,11月,中国の遼東半島の旅順・大連を攻略した。1895年3月には,下関講和中だったにもかかわらず,日本軍は、澎湖諸島を占領し,台湾領有の足がかりを作った。

日清戦争の浮世絵木版画(右)「樺山軍令部長 西京丸ヲモッテ敵艦ニ当タル」MIT Visualizing Cultures引用。1894年10月。オークションでは1万6500円。黄海海戦では,樺山軍令部長は西京丸に乗っていた。Adachi Ginkô Fukuda Kumajirô Kabayama, the Head of the Naval Commanding Staff, onboard Seikyômaru, Attacks Enemy Ships (Kabayama gunreibuchô Seikyômaru o motte tekikan ni ataru) Ukiyo-e print 1894 (Meiji 27), October

1895年4月,日本は,日清戦争に勝利し、朝鮮半島での清朝(中国)に対する優越的地位を獲得した。そして,下関条約では,清国は朝鮮の独立を確認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲、賠償金2億両(3億円)、沙市・重慶・蘇州・杭州の開港を認めた。遼東半島の割譲は,即座に独仏露の三国干渉を呼び起こした。5月,日本は,外圧を恐れて,遼東半島を中国に返還した。

ロシアは,日清戦争後の1898年3月,旅順,大連の租借権,ハルピン・旅順間の鉄道敷設権を獲得した。首相伊藤博文は,4月,外相西徳二郎にロシア外相のRoman Rosen ロマン・ローゼンと西ローゼン協定を結ばせ,大韓帝国の内政不干渉、大韓帝国の軍事・財政顧問派遣につき事前承認に合意した。日本に放棄させた遼東半島を奪い取ったとして,日本国民はロシアを恨んだ。

日清戦争後の1895年下関条約によって,清は,朝鮮が独立国であることを認めた。清は,李氏朝鮮からの貢・献上・典礼等を廃止。しかし,李氏朝鮮では,清の冊封体制から離脱した以上,李氏朝鮮を称することは望ましくないと考えられた。1896年,グレゴリオ暦へ改暦し元号を「建陽」と改元し,1897年,国号を大韓と改め、李氏王朝の王・高宗は,皇帝に即位。清の冊封体制にあることを示す清朝皇帝施設の「迎恩門」「大清皇帝功徳碑」を撤去,「独立門」を作った。

日清露戦争の浮世絵木版画(右)「日清両国ノ大官,公命ヲ全フシテ能ク平和ノ局を結ブ」MIT Visualizing Cultures引用。下関条約によって,日本は賠償金のほかに,台湾,遼東半島を領土とし,朝鮮半島を勢力化に組み込んだ。Ogata Gekkô Japanese and Chinese Dignitaries Accomplish Their Missions in Successfully Concluding a Peace Treaty (Nisshin ryôkoku no taikan kômei o mattoshite yoku heiwa no kyoku o musubu) Ukiyo-e print 1895 (Meiji 28) Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych Museum of Fine Arts, Bostonボストン美術館所蔵。

1900年,義和団事件では,日本は八カ国連合軍の主力として,陸軍部隊を中国に派遣し,義和団を制圧した。この時,ロシアは,敗残兵掃討,租借地・鉄道防衛のために満州に派兵。1901年9月の北京議定書にもとづいて,各国は,北京占領後,敗残兵掃討を名目に満州に派兵,租借地,鉄道防衛のために,軍を常時駐屯させた。しかし,ロシア軍の満州駐屯は,米国務長官ジョン・ヘイのOpen Door Policy門戸開放宣言(1899年)に反する行動とみなされた。そこで,英米日は,ロシアに撤兵を要求し,元首相伊藤博文は、12月,日露協定の交渉に入ったが,合意はならなかった。

他方,ロシアは、日本の大韓帝国への投資を妨害しないこと、日本は,ロシアが満州を勢力範囲に置くことを認めた。日露両国は,極東の勢力範囲を,その住民や主権者にお構いなく,分割した。

1902年1月,日本は,日英同盟を結び,独仏によるロシアへの軍事支援を抑止した。そして,1903年8月,イギリスの諒解を得て,日本が朝鮮半島を、ロシアが満州を勢力範囲とする日露交渉をした。ロシアは,10年来蔵相を務めた不戦派セルゲイ・ウィッテを辞職させ,10月,北緯39度以北を中立地帯とする南北朝鮮分割案を日本に提起。

大陸と朝鮮半島において,帝国主義にのっとった行動をとるようになった列国・大日本帝国の戦略は,中国清朝からの官費留学生の魯迅にとって,同調できないものだった。魯迅は,明治維新以来の日本の戦略よりも,科学・文学・思想研究と,日本の庶民との交友に,日本留学の意義を見出した。政治的には,ナショナリズムに喚起されたのである。

2.日本は,日露戦争で,朝鮮半島を勢力圏に組み込もうとした。これは,朝鮮の独立維持という名目の下の軍事行動である。日露戦争の当時は、ロシアを敵視していた歌人石川啄木(いしかわたくぼく)は、ロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論を読み,戦争の原因となる欲望の醜さ、経済的要因、戦争プロパガンダを的確に読み取るようになった。


日露戦争の浮世絵(右)「大日本帝国海軍大勝利」MIT Visualizing Cultures引用。沈没寸前のロシア艦上の将兵。ボストン美術館所蔵。

日本は、ロシア動員前に攻撃をしようと,1904年2月4日、明治天皇臨席の御前会議で開戦を決定,6日,外相小村寿太郎はロシア駐日公使ローゼンに国交断絶を宣告した。

1904年2月8日,日本陸軍は,朝鮮半島仁川に上陸,海軍は付近のロシア艦と交戦した後,9日,明治天皇の宣戦詔勅が渙発された。大韓帝国での日本軍の自由行動を定めた日韓議定書(明治37年2月23日)が調印され,翌日,日銀副総裁高橋是清が,戦費調達の外債募集のため,ロンドンに派遣された。
大韓民国は,日露交渉に一切参加を許されず,開戦後,日本軍の自由行動を認めさせられた。日本は,ロシアの東アジア侵略の野望を阻止するためというよりも,満州からロシアを排除し,朝鮮半島を勢力範囲とするために戦ったといえる。

⇒国立公文書館アジア資料センター(http://www.jacar.go.jp)「日露戦争特別展」参照。

啄木勉強ノートによれば、石川啄木は1902年(明治35年)10月31日、十七歳で上京、英語翻訳で生活費を得ようとした。しかし、職を得ることはできず、1903年2月26日帰郷。

啄木日記
 1902年(明治35年)11月12日
快晴、故山の友への手紙かき初む。
 一日英語研究に費す、読みしはラムのセークスピーヤにてロメオエンドジュリエットなり。 トルストイを読む

日露戦争の浮世絵(右)「日露戦争 大日本赤十字野戦病院 負傷者救療ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。囲み絵の露西亜(ロシア)野蛮兵と対比。日清戦争にあって,中国の清朝兵士を過酷に処断した日本軍は,日露戦争ではロシア兵士の恤兵に配慮した。日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人という文明の衝突ではないという証明のためである。
対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなされれば,処刑された。東北大学医学部に留学していた魯迅も,日露戦争で「第7金州城門破壊の決死工作 第8吉田小隊長石田一等卒敵兵13人を生け捕り」のスライド,ロシア側スパイ(露探)中国人処刑のスライドを,教室で見た。 


素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』
 日露戦争の開戦時、日本が旅順を攻撃したことを渋民村で知った石川啄木は、戦果を喜んでだ。岩手日報「戦雲余録」(1904年年3月3日−19日)では、世界には永遠の理想があり、一時の文明や平和には安んずることができないから、文明平和の廃道を救うには、ただ革命と戦争の2つがあるのみだと言い切った。
「今の世には社会主義者などと云ふ、非戦論客があって、戦争が罪業だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある…」と書き、幸徳秋水らを与謝野晶子同様、批判した。

 石川啄木は「露国は我百年の怨敵であるから、日本人にとって彼程憎い国はない」と書いたが、「露西亜ほど哀れな国も無い」ともした。
⇒(素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』引用終わり)

日露戦争は、満州に対する日本の権利を確保する戦いであると考えていた日本人の中に,魯迅たち中国人留学生がいた。中国東北地方・満州は中国領であるが、ロシアと日本の領土争いは,現地の中国人にお構いなく,戦われた。

1904年(明治37)年6月27日Times掲載のトルストイの非戦の日露への訴えは、幸徳秋水・堺利彦らの『平民新聞』8月7日の第39号に「日露戦争論」として紹介された。トルストイの訴えは,石川啄木,日本留学中の魯迅も感銘を受けた非戦論である。

石川啄木『日露戦争論(トルストイ)』
 「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドンタイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。

 「-----戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。----実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」

 「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論ただ論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった。そうして到る処に星のごとく輝いている直截、峻烈、大胆の言葉に対して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を円くして驚いたに過ぎなかった。『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。

 その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。

 しかし予は今なお決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に対して、今もなお『偉い。しかし行なわれない。』という外はない。ただしそれは、八年前とは全く違った意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であった。」
『日露戦争論(トルストイ)』電子図書館引用)

3.日本は,日露戦争に際して,朝鮮半島,中国東北地方に派兵した。歌人與謝野晶子の実弟・鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)は,大阪の歩兵第八聯隊に入隊,第三軍第四師団の一員として旅順攻略に参加した。晶子は弟の武運長久を願って「君死にたもうことなかれ」と詠った。

日露戦争の絵葉書写真(右)「乃木希典大将」MIT Visualizing Cultures引用。満州軍総司令官大山巌元帥隷下の乃木大将は,旅順攻略を命じられた。しかし,機関銃を配備した堅固な洋裁を攻略するのに大損害を出した。配下の日本軍兵士は,「なにをのぎのぎしていやる」と自嘲した。

君死にたまうことなかれ旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば   親のなさけは まさりしも
 親はやいばをにぎらせて  人を殺せと をしへ教えしや
 人を殺して死ねよとて  二十四までを そだてしや

 堺の街の あきびとの  旧家をほこる あるじにて
 親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ
 君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ、 すめらみこと皇尊は、戦ひに
 おほみづからは出でまさね  かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこころの深ければ もとよりいかでおぼされむ

 ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に いたましく わが子を召され、家をり、
 安しときける大御代も  母のしらは まさりぬる。

 暖簾のれんのかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を
 君わするるや、思へるや 十月とつきも添はで わかれたる
 少女をとめごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
 ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ。

写真(右):『みだれ髪』を残した歌人与謝野晶子;(1878〜1942)明治11年、堺の和菓子屋駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を生きた。11人の子どもたちの母。「人間性の解放と女性の自由の獲得をめざして、その豊かな才能を詩歌に結実した情熱のひと」と評価する。1915年1-2月,雑誌『太陽』で「あなたがたは選挙権ある男子の母であり、娘であり、妻であり、姉妹である位地から、選挙人の相談相手、顧問、忠告者、監視者となって、優良な新候補者を選挙人に推薦すると共に、情実に迷いやすい選挙人の良心を擁護することが出来る。---合理的の選挙を日本の政界に実現せしめる熱心さを示されることをひたすら熱望する。」と述べた。当時,夫与謝野鉄幹が衆議院選に立候補した。(寛、衆議院議員選挙立候補引用)

◆与謝野晶子は,男女の恋愛を激しく歌ったが,同時に,天皇を敬い,日本の伝統を愛し,誇りにしていた「日本女性」だった。晶子の国体尊重,天皇崇拝の認識の下で,晶子の弟・鳳籌三郎ちゅうざぶろうと妻セイを思って「君死にたもうこと勿れ」と歌わせたのであれば,それは家族への思慕の情,武運長久(戦争で手柄を立てて凱旋する)の願いであろう。

◆満州軍総司令官大山巌元帥児と軍総参謀長児玉源太郎陸軍中将の下で,第三軍司令官乃木希典陸軍大将は、8月19日、遼東半島の旅順を総攻撃した。しかし、11月までの三次に渡る総攻撃はすべて失敗した。

第一師団軍医部長の日誌には、日本軍兵士は戦傷、脚気、伝染病で「26日来入院総数千4百名、現在77名(うち7名内科)、帰隊230、自傷80」とある。戦意を喪失し、戦場離脱のために自傷行為、発狂が現れた。冬の寒さは甚だしく、兵は「なにをのぎのぎしていやる」と作戦指導の無能さを非難し、兵士と将校の離反が問題となった。

児玉軍総参謀長の督戦到来前、決死の第四次総攻撃で12月5日、203高地を占領した。ステッセル将軍は、食糧不足、負傷者の増大に対処できず、1905年1月1日、降伏軍師を送った。(→大濱徹也(2003)『庶民のみた日清・日露戦争−帝国への歩み』刀水書房 参照)

日露戦争の浮世絵木版凹版画(右)MIT Visualizing Cultures引用。ロシア軍コサック騎兵を撃破する日本陸軍騎兵部隊。ボストン美術館所蔵。

(⇒与謝野晶子の戦争文学参照)

◆1999年6月、中国遼寧省大連市の遼寧師範大学外国語学院の中庭に、与謝野晶子の母校泉陽高校の寺田英夫校長と遼寧師範大学附属高校の曲維副校長の力によって晶子「君死にたまふことなかれ」の詩碑が建立された。日本語と裏面の中国語訳の「君死にたまふことなかれ」の全詩が彫られた銅板が、中国産花崗岩石にはめ込まれた。(朝日新聞1999年5月24日)

◆与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が発表されると,文芸評論家の大町桂月は,1904年『太陽』十月号で,「君死にたまふこと勿れ」を危険思想と論じた。「戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の『君死にたまふこと勿れ』の一篇、是也。草莽の一女子、『義勇公に奉ずべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉也。」

日露戦争の絵はがき写真(右)「東郷海軍大将」MIT Visualizing Cultures引用。旅順港閉塞作戦に殉じた軍神広瀬中佐は有名であるが,作戦自体は完全な失敗であった。しかし,旅順港は,日本軍の重砲射程範囲に入った時点で,港湾機能は麻痺し,港内のロシア軍艦は砲撃された。連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は,日本海海戦では,ロシア海軍バルチック艦隊を殲滅して名を上げた。

与謝野晶子は,『明星』十一月号で,死ねよと簡単に言う事、忠君愛国の文字、教育御勅語を引用して論ずる流行の方か,かえって危険であると反論した。王朝の御世にも,人に死ねとか,畏おほく勿体きことを書き散らす文章は見当たらない。歌詠みなら、「まことの心を歌うべき」で,そうでない歌には値打ちがない、そうでない人には「何の見どころもない」と言い切った。

ひらきぶみ  与謝野晶子:「明星」新詩社 1904(明治37)年11月号

この国に生れ候私は、私らは、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺の街にて亡き父ほど天子様を思ひ、御上(おかみ)の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。----王朝の御代なつかしく、下様(しもざま)の下司(げす)ばり候ことのみ綴(つづ)り候今時(いまどき)の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。御国のために止むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。------私の、私どものこの国びととしての務(つとめ)は、精一杯致しをり候つもり、----。

 -----当節のやうに死ねよ/\と申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。

 ---新橋渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。

日露戦争の絵葉書写真(左)日露戦争出征兵士の凱旋通り:MIT Visualizing Cultures引用。将軍を先頭に凱旋する日本軍出征兵士を迎える。日露戦争は,国家的大スペクタクル,劇場国家の端緒だった。日露戦争の烏森宿泊所における搬送負傷兵の絵はがき(MIT Visualizing Cultures引用)にあるように,帰還した負傷者には看護婦だけではなく,市民も恤兵(じゆつぺい)に資金,労力を提供した。
 しかし,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とさみなされれば,中国人は処刑され,日本人であれば逮捕された。ロシア人は,外見からロシア人として警戒されたから,スパイ嫌疑で即刻捕まえることができたが,中国人は敵味方の識別が困難だった。戦争に関する物資や言論の統制も,後年ほどには厳しくなかったが,日露戦争反対を公然と唱えたのは,一部の文化人,平民新聞くらいだった。


駅頭で軍隊出立を見送る親類友達が、行く子の手を握って、「無事で帰れ、気を附けよ」「万歳」と言っている。日本の各階層の市民がみな武運長久を願っている。与謝野晶子のいう「まことの心をまことの声」とは武運長久であって,戦争反対ではない。

◆兵士を出征させ,戦争に協力する市民はみな日本が勝利し,兵士が凱旋,帰郷すること,すなわち武運長久を祈った。これは,戦争遂行,祖国の勝利の枠組みの中で,家族の無事を優先する庶民的願望である。敵のロシア人や戦場となった中国人への配慮,戦争目的,国際情勢は二の次であった。戦争の大儀,大日本帝国の国益よりも,武運長久を優先した。文化人晶子は,戦争への動員を受け入れ,銃後の女子として,祖国の助けになりたいと考えた。しかし,戦争プロパガンダの全てを受け入れたわけではない。資金,労力,兵士として戦争協力しないまま,忠君愛国,教育勅語を楯にする口先だけの文化人を,非国民だと非難した。

明治の元勲が政治と軍事を握っていた明治時代,列国に範をとった富国強兵を進めていたから,神がかりな皇室中心主義は,明治の元勲たちに支持されなかった。しかし,魯迅のような中国人留学生たちも,国体護持を目的とする教育勅語の下に,日本での教育を受けていた。

教育勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ 此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日  御名御璽

4.石川啄木は,1907年,北海道の函館,札幌,小樽,釧路と各地の新聞社を転々とした。魯迅の日本留学終了直前の1910年,啄木は『一握の砂』を刊行したが,この時期,日本は韓国(大韓帝国)を日本の植民地とし,それに反対する義兵闘争,独立運動を弾圧した。これは,魯迅にとって,中国における革命弾圧と同様に感じたかもしれない。

写真(右):石川啄木;(1886年2月20日 - 1912年4月13日)日本の歌人・詩人・評論家。本名 石川一(はじめ)。岩手県玉山村生まれ。盛岡高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名)入学。1902年盛岡中学を放校・退学。1905年1月5日、新詩社の新年会に参加。5月、第一詩集『あこがれ』を自費出版(上田敏序詩、与謝野鉄幹跋文)。1909年『スバル』創刊、『東京朝日新聞』校正係となる。ローマ字日記をつけ始める。1910年,第一歌集『一握の砂』刊行。1912年,第二歌集『悲しき玩具』を死後刊行。『ウィキペディア(Wikipedia)』石川啄木参照。

石川啄木の経歴

1902年(明治35)10月『明星』に「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」掲載。上京し与謝野鉄幹・晶子夫妻を知る。翌年渋民村に帰郷。「岩手日報」に評論掲載。啄木の名で「明星」に詩「愁調」掲載。

1905年詩集『あこがれ』刊行。堀合節子と結婚。
1906年渋民尋常高等小学校の代用教員。小説『雲は天才である』執筆。長女・京子誕生。
1907年函館市弥生尋常小学校代用教員。函館日日新聞社の遊軍記者。函館大火で失職。札幌の北門新報、小樽日報社に転職。
1908年釧路新聞社勤務。4月単身上京。1909年『スバル』創刊号発行。3月東京朝日新聞社の校正に採用。6月、妻・子・母を迎える。

1910年幸徳秋水等の「陰謀事件」を読み、『所謂今度の事』執筆。

日清戦争の浮世絵(右)「平壌大捷 清将三捕ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。朝鮮半島の平壌を陥落させ,清朝の将軍を捕虜とした日本軍。

1908年1月4日「啄木メモ」には,「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。」とある。6月赤旗事件。
1909年4月12日の啄木日記には「---予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。---予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。---」とある。

石川啄木「時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」  

かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余(もてあま)しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌(ないこう)的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。

 ---我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。---

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。----

かの早くから我々の間に竄入(ざんにゅう)している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。---  

 かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒(しゅんきょ)して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

b>文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚(さま)してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

   (青空文庫:底本「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社 1967年 引用)


写真(上):朝鮮の反日活動参加者の処刑
:1907年。出典には「日本軍は,朝鮮抗日運動の闘士を鎮圧した。Japanese troops are used to combat the Korean resistance movement fighter.」とある。石川啄木の指摘した「時代閉塞の現状」には,日本の対外政策,特に朝鮮半島,中国大陸への勢力拡大が背景にあるように思われる。

列国では,中国人の残虐性,中国は人権に配慮しない「野蛮な国」であるという悪評,軽蔑が当時広まっていた。その野蛮な国を平和な文明国に作り変えるのが,列国,欧米人の役割,キリスト者の義務であるという,(思い上がった)気持ちも生まれた。日本も,アジアから抜け出て米英列国の仲間入りを目指す。民間人・教育者を貫いた福沢諭吉も「脱亜論」(亜細亜を脱して,列国に仲間入り)を国是とすべきと考えていた。

写真(右):朝鮮の反日運動容疑者の処刑:1907年撮影。出典には「日本軍は,抵抗運動の容疑者をしばしばテロの対象にした。Japanese occupation troops frequently engage in terror tactics, executing anyone suspected of being involved with the resistance. 」とある。

ロシア・中国の影響力排除を目的に,日本は朝鮮半島を勢力範囲下に置こうとした。しかし,韓国人の立場に配慮しない日本の半島進出は,韓国人の抵抗運動に直面する。そこで,日本は日露戦争後,ロシアに遠慮なく駐留していた日本軍を使って,併合に障害になる朝鮮軍を無力化しようとした。これは,朝鮮軍の武装解除・解体であるが,朝鮮軍は名誉を重んじ,義兵闘争を戦った。1907年には民衆も巻き込んで大規模な反乱が起こった。

日本軍は,反乱者は反社会的な重罪人として,処刑し,斬首や銃殺刑が行われた。もちろん,大規模な反乱鎮圧に当たって,反乱容疑者の裁判が適切に行われた形跡はない。日露戦争までは,国際法に基づいて捕虜を待遇したように言われるが,併合しようとした朝鮮での反日活動の弾圧・鎮圧は凄まじい。三一朝鮮独立運動の参加者の処刑(1919年3月1日)に参加した朝鮮人1万8000名が1919年10月までに投獄された。

併合された朝鮮は日本領であり,「植民地でなく,日本と同じである」とも抗弁される。しかし,韓国人に(朝鮮在住の日本人には適用される)大日本帝国憲法の規定は適用されない。帝国議会への韓国人参政権もない。憲法における兵役,教育から,会社法,不動産法規,株取引,商店経営でも,韓国人の権利は日本人より劣位に置かれた。

1910年の朝鮮併合の後,朝鮮語の使用禁止,創氏改名など朝鮮文化の否定,民族アイデンティティ粉砕が行われ,朝鮮王族には必ずしも支持をしてこなかった人々までも,朝鮮独立運動を支持するようになる。王党派,民族主義者から社会主義者まで,広い階層に支持を得た独立運動,義兵闘争がおこった。日本軍は,反乱が二度とおきないように,抵抗運動の撲滅,反日活動家の殲滅を図る。敵対者や潜在的敵対者を,公開処刑したのである。魯迅は,このような朝鮮独立運動とそれへの日本官憲・軍による弾圧を知っていたに違いない。

独立運動の弾圧は,民族主義の熱にうかされて反乱という熱病が広まらないようにする予防戦争ともなった。つまり,反乱の参加者だけではなく,反乱に参加しそうな人物,反日適人物まで,処罰する事前の反乱予防措置である。
こうして中国,朝鮮,日本では人権に配慮しない残虐行為が横行した。こうして,列国は,ますますアジアを軽蔑し,野蛮なアジアに平和な文明をもららすのが,列国,欧米人の役割,キリスト者の義務であるという(思い上がった)気持ちも強まった。中国人として,庶民の社会的無関心,傍観者的態度を批判した魯迅だったが,欧米列国の大儀「文明の衝突」を信じたわけではなかった。

5.日本では,1910年に社会主義者による天皇暗殺未遂事件,いわゆる「大逆事件」が起こった。国体を脅かす危険思想は取り締まり・弾圧の対象とされた。その筆頭が社会主義者だった。石川啄木は,「所謂今度の事」で,思想統制に反発し,社会主義者に同調したが,魯迅も社会改革を目指す社会主義思想には無関心ではなかった。

日清戦争時期の浮世絵(右)明治天皇ご一行。MIT Visualizing Cultures引用。日本陸海軍の最高司令官は,大元帥明治天皇である。最上級の軍装を着用した司令部要員。ボストン美術館所蔵。

石川啄木『所謂今度の事』
二 ----無政府主義という思想、無政府党という結社のある事、及びその党員が時々凶暴なる行為をあえてする事は、書籍により、新聞によって早くから我々も知っていた。----しかしそれは洋を隔てた遥か遠くの欧米の事であった。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間にその主義を信じ、その党を結んでいる者のある事を知った機会はついに二回しかない。

 その一つは往年の赤旗事件である。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して、警吏の為に捕われた者の中には、数名の若き婦人もあった。----婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。

  三 そうして第二は言うまでもなく今度の事である。
 今度の事とは言うものの、実は我々はその事件の内容を何れだけも知っているのではない。秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に、検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。----

 しかしながら、警察の成功は警察の成功である。そして決してそれ以上ではない。日本の政府がその隷属する所の警察機関のあらゆる可能力を利用して、過去数年の間、彼等を監視し、拘束し、ただにその主義の宣伝ないし実行を防遏したのみでなく、時にはその生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加えたに拘わらず、彼等の一人といえどもその主義を捨てた者はなかった。主義を捨てなかったばかりでなく、かえってその覚悟を堅めて、ついに今度の様な凶暴なる計画を企て、それを半ばまで遂行するに至った。今度の事件は、一面警察の成功であると共に、また一面、警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。

 五 ----凡そ思想というものは、その思想所有者の性格、経験、教育、生理的特質及び境遇の総計である。而して個人の性格の奥底には、その個人の属する民族ないし国民の性格の横たわっているのは無論である。-----ある民族ないし国民とある個人の思想との交渉は、第一、その民族的、国民的性格に於てし、第二、その国民的境遇(政治的、社会的状態)に於てする。----  (→(青空文庫 石川啄木『所謂今度の事』引用終わり)

所謂今度の事「大逆事件」では,幸徳秋水伝次郎を首領とする無政府主義者Anarchistの一団が、天皇暗殺を企て,密かに爆弾を製造していたが、その一団と通じていた無政府主義者も検挙された。その事を何人も知らぬ間に、検事局は新聞記事差止の命令を発した。つまり,警察ないし法律の力は、人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを証明した。このように,石川啄木は,言論の自由とそれを抑圧する政府の弊害を痛烈に批判した。石川啄木の批判精神と社会批判の文芸は,魯迅と共通している。

6.日本では,資本主義の発達とともに,労働者の不満も高まっていた。これが,赤旗事件のような,公然たる社会主義的示威活動を引き起こした。芥川龍之介などの日本の代表的な文化人は,社会主義者に同調していた。しかし,社会主義は,危険思想であり,日本でも中国でも弾圧された。この時代閉塞の現状に,批判を続けたのが,魯迅だった。

赤旗事件の回顧   堺利彦

 神田錦町の錦輝館(きんきかん)の二階の広間、正面の舞台には伊藤痴遊君が着席して、明智光秀の本能寺襲撃か何かの講演をやってる。それに聞きほれたり、拍手したり、喝采したり、まぜかえしたり、あるいは身につまされた感激の掛け声を送ったりしている者が、婦人や子供をまじえて五、六十人、それが当時の社会主義運動の常連であった。

 ----会はだいたい面白く無事に終わって、散会が宣告された。皆がそろそろ立ちかけた。するとたちまち一群の青年の間に、赤い、大きな、旗がひるがえされた。彼らはその二つの旗を打ち振りつつ、例の○○歌か何か歌いながら、階段を降りて、玄関の方に出て行った。----

 ----しかし騒ぎはそれで止まらなかった。巻いた旗が再び自然にほぐれた。巡査らはまたそれに飛びかかった。あちらにも、こちらにも、激しいもみあいが続いた。錦輝館の前通りから一ツ橋通りにかけて、まっ黒な人だかりになった。その中に二つの赤旗がおりおり高くひるがえされたり、すぐにまた引きずりおろされたりした。目の血ばしった青年、片そでのちぎれた若者、振りみだした髪を背になびかせて走っている少女などが、みな口々にワメキ叫んでいた。そして巡査らがいちいちそれを追いまわしたり、引っつかまえたり、ネジふせたりしていた。 (昭和2年6月『太陽』臨時号所載)
(⇒青空文庫:底本「堺利彦全集 第三巻」法律文化社, 1970年発行 引用)

写真(右)日露戦争の従軍看護婦:MIT Visualizing Cultures引用

与謝野晶子 「電車の中」 大正十二年 1923年の社会主義・労働者に関連する歌

生暖かい三月半の或夜あるよ
東京駅の一つの乗場プラツトホーム
人の群で黒くなつてゐる。
停電であるらしい、
久しく電車が来ない。
乗客は刻一刻に殖えるばかり、
皆、家庭へ下宿へと
急ぐ人々だ。
誰れも自制してはゐるが、
心のなかでは呟いてゐる、
或はいらいらとしてゐる、
唸り出したい気分になつてゐる者もある。
じつとしては居られないで、
線路を覗く人、
有楽町の方を眺める人、
頻りに煙草たばこを強く吹かす人、
人込みを縫つて右往左往する人もある。
誰れの心もじれつたさに
なんとなく一寸険悪になる。
其中に女の私もゐる


おほよそ廿分ののちに、
やつと一台の電車が来た。
人々は押合ひながら
乗ることが出来た。
ああ救はれた、
電車は動き出した。

けれど、私の車の中には
鳥打帽をかぶつた、
汚れたビロオド服の大の男が
五人分の席を占めて、
ふんぞり反つて寝てゐる。
この満員の中で
その労働者は傍若無人のていである。
酔つてゐるのか

恐らくさうでは無からう。
乗客は其男の前に密集しながら、
誰も喚び起さうとする者はない。
男達は皆其男と大差のない
プロレタリアでありながら、
仕へてゐる主人の真似をして
ブルジヨア風の服装みなりをしてゐるために、
其男に気兼し、
其男を怒らせることを恐れてゐる。

電車は走つて行く。
其男は呑気にふんぞり反つて寝てゐる。
乗客は窮屈な中に
忍耐の修行をして立ち、
わざと其男の方を見ない振をしてゐる。
その中に女の私もゐる


一人で五人分の席を押領する……
人人がこんなに込合つて
息も出来ないほど困つてゐる中で……
あゝ一体、人間相互の生活は
かう云ふ風でよいものか知ら……
私は眉を顰めながら、
反動時代の醜さと怖ろしさを思ひ
我々プロレタリアの階級に
よい指導者の要ることを思つてみた


併しまた、私は思つた、
なんだ、一人の、酔つぱらつた、
疲れた、行儀のない、
心の荒んだ、
汚れたビロオド服の労働者が
五人分の席に寝そべることなんかは。
昔も、今も、
少数の、狡猾な、遊惰な、
暴力と財力とを持つ人面獣が、
おのおの万人分の席を占めて、
どれ位われわれを飢させ、
病ませ、苦めてゐるか知れない。
電車の中の五人分の席は
吹けば飛ぶ塵ほどの事だ


かう思つて更に見ると、
大勢の乗客は皆、
自分達と同じ弱者の仲間の
一人の兄弟の不作法を、
反抗的な不作法を、
その傍に立塞がつて
庇護かばつてゐるやうに見える。
その中に女の私もゐる。


平民新聞,その支持する社会主義について,与謝野晶子は「ひらきぶみ」で「下様(しもざま)の下司(げす)」「今時(いまどき)の」「あさまし」い読み物には「身震いがする」といって嫌悪感をあらわにた。他方,石川啄木,芥川龍之介は,当時の社会主義の持つリベラルな側面,現実批判精神,理想主義の側面に多大な関心を示した。魯迅は,当初は清王朝に,後に社会改革を目指す革命に身を投じたり,革命に便乗したりした中国人の作品を書いた。魯迅には,石川啄木「時代閉塞の現状」や芥川龍之介或社会主義者」に同調する部分が見て取れる。天皇を中核とする国体の精華を歌った与謝野晶子とは異質なものが見えてくる。

与謝野晶子 〔無題〕 1927年の祖国大日本帝国と統治者天皇陛下を讃える歌

粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
涙未だ乾かざれども、
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる下に、
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語

   ×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。

世は変る、変る、
偏すること無く変る
愛と正義の中に変る

   ×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の内外うちと
   ×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、何処いづこぞや、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ

世界は如何に動くべき、
国民くにたみは何を望める、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
   ×
我等は陛下の赤子せきし
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心みこゝろに集まる

陛下は地上の太陽、
唯だ光もておほひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
   ×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界をるるに慣れたれば。
我等は日本人、
生生せいせいとして常に春なり、
まして今、
華やかに若き陛下まします

   ×
争ひは無し、今日の心に、
事に勤労いそしむ者は
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
   ×
眠りつるは覚めよ、
たゆみつるは引き緊まれ、
乱れつるは正せ、
れつるは本にかへれ。
ひとの国にはひとの振、
己が国には己が振。
改まるべき日は来る、
は明けんとす、ひんがしに。
   ×
我等が行くべき方は
陛下今指さし給ふ。止めよ、財の争ひ、
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/2558_15785.html)より底本「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社,1980年および「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社,1980年を引用掲載

日清戦争の浮世絵(右)「日本万歳 百撰百笑」(百戦百勝)MIT Visualizing Cultures引用。悪夢を見る辮髪の中国清朝の要人(李鴻章?)。青軍服の清朝兵士は劣勢で,白軍服の日本軍兵士によって砲撃され,放火される。骸骨の悪魔がすぐそこに迫ってきた。

7.日清戦争後の中国人の日本留学生・郭沫若,魯迅は,ともに医学から方向転換して,文学の道を志した。それは,日本の朝鮮半島・中国大陸への進出の時期,中国におけるナショナリズムが高揚した時期であった。

郭沫若と市川(中山文化村自主管理事業運営委員会 浅賀徹也)によれば,郭沫若に先立つこと9年前の1904年、魯迅は,医学を学ぶため仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に留学。しかしそこで見せられた中国人スパイ容疑者の処刑と取り巻く傍観的な中国人を撮影した実写幻灯に衝撃を受け、医学を断念、文学・社会活動の道を進む。郭沫若も九州帝国大学医学部を卒業したが,文学・歴史・政治活動家として活躍した。魯迅と郭沫若の二人の日本留学生には共通点がある。

魯迅の日本観:日本留学を通しての日本認識 孫長虹によれば,「藤野先生」を書き7年間の日本留学経験をもつ魯迅が有名である。1881年,中国浙江省紹興城に生まれた魯迅は,1902年4月に20歳で両江総督劉坤一によって、官費による日本留学生となった。1909年8月まで7年間以上,日本に滞在した。
1894 年の日清戦争に敗れた中国は、明治維新に成功した日本をモデルとし、1896 年最初の日本への中国人留学生を 13 名派遣したが,魯迅留学の年には600名,1906 年には1万2,000名の中国人留学生がいた。しかし,弁髪は「チャンチャン坊主」といって差別された。

◆清国留学生魯迅が1902年5月から1904年9月まで在籍していた弘文学院の留学生の半数以上は、首都の北京警務学堂から派遣された「北京官費生」である。大部分が八旗(満州族)出身で、長江流域の各地からやってきた総督派遣の留学生にくらべて、上位の身分だった。また、弘文学院校長の嘉納治五郎は、支那人種(漢族)が満州人種(満州族)に臣服しているとしたから、魯迅など弘文学院の漢民族留学生は奴隷教育を受けているように感じた。
他方,漢人にとって屈辱の象徴とも言える弁髪を残して、無頓着な振る舞いをする中国人留学生は、江南出身者魯迅にとって異質であり、日本で漢民族の弊害を強く認識し,「立人(人間の確立)」という思想理念を打ち立てる契機になった。魯迅は,満州族からの漢民族の自立と同時に、日本人の視点から、中国を眺めることが可能になった。

写真(右):魯迅(1881〜1936):本名は周樹人。字は予才。号を魯迅、中国の代表的な文学者。浙江省紹興の人。1902年、日本へ留学、1904年仙台医学専門学校に入学 後、国民性改造のため文学を志向し東京にもどる。1909年帰国し教員となる。1918年、狂人日記、孔乙己、阿Q世伝を発表。教育者として北京大学など教壇に立った魯迅は又、北洋軍閥の文化弾圧と衝突した学生運動三・一八事件により北京を脱出。中山大学等で教壇に立った。民族主義文学に徹し反封建主義、反帝国主義の文学が基調。(★魯迅詩集★近代中国詩家絶句選(4)引用)答客誚(1931年)
無情未必真豪傑,憐子如何不丈夫? 知否興風狂嘯者, 回眸時看小於菟。
魯迅書簡補遺》有這首詩,末題“未年之冬戲作,?請坪井先生哂正,魯迅。”坪井是上海的日本筱崎醫院的醫生,曾給魯迅的兒子海嬰治痢疾。 (新華通訊社網絡中心,新華網引用)


◆魯迅は,1904年9月から1906年3月まで,日露戦争の時期に,東北地方仙台で医学を学んだ。仙台では,日露戦争の出征兵士壮行会や祝捷会が行われていたが,これは町内会組織を使って運営されていた。下宿主人の佐藤喜東治氏は祝捷行列係員だった。仙台医学専門学校(現東北大学医学部)解剖学講座講師藤野厳九郎先生から日本人の仕事や学問に対する熱心さと勤勉さを感じ取り、後に日中戦争の険悪な状況の中においても、魯迅は「日本の全部を排斥しても、真面目という薬だけは買わねばならぬ」と言った。
東北大学片平キャンパスには,魯迅の胸像がある。

魯迅の日本留学中、日清戦争後の日本の中国に対する蔑視を魯迅は肌で感じたと同時に、日本の一般の人々とのかかわりを通して日本人の素朴さも感じとったと思われる。魯迅は休みに、水戸で、1665年,水戸徳川家2代藩主光圀に招かれ古今儀礼を伝授した朱舜水の遺跡「楠公碑陰記」を訪れた。泊まった旅館で、中国からの留学生だと知り、手厚い待遇をうけた。また、ある日東京から仙台に戻る列車の中で、老婦人に席をゆずったことをきっかけに、魯迅は老婦人と雑談し、煎餅とお茶の差し入れをもらった。このように、日本人との日常生活における素朴な触れ合いに関する記録は、異国における魯迅の生活を物語る。それは魯迅にとって、忘れられない経験であり、魯迅の日本観の一部を形づくった。

日清露戦争の浮世絵/錦絵凹版木版画(右)「暴行清兵ヲ斬首スル図」MIT Visualizing Cultures引用。1894年(明治27年)10月。「我軍隊は正義慈仁」だが,中国清朝兵士は,「病院に闖入し自由ならざる負傷・病者を殺害するが如き」暴虐の限りを尽くした。そこで,捕虜とした後,「暴兵を引き出し止むを得ず三十八名を」(面前に?)斬首処刑した。生き残ることを許された「俘虜は感涙して我帝国軍隊の仁義慈愛に心服せしめた」。Utagawa Kokunimasa (Ryûa) Fukuda Hatsujirô,Illustration of the Decapitation of Violent Chinese Soldiers (Bôkô shihei o zanshu suru zu) Ukiyo-e print,1894 (Meiji 27), October Woodblock print (nishiki-e);35.5 x 72.3 cm ボストン美術館所蔵。

東北大学に魯迅が留学中「幻灯事件」がおきた。魯迅『吶喊』によれば,細菌学の教授が授業時間に、日露戦争のスライドを見せ,日本軍兵士が,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなした中国人の処刑(銃殺あるいは斬首)をする場面があった。中国人が取り囲んで傍観していたのに衝撃を受けた魯迅は,中国人の治療には,医学よりも、精神の再構築が不可欠だと文学を志すようになった。


◆魯迅『阿Q正伝』には、革命党員の嫌疑をかけられ捕まった阿Qが、斬首されると思いきや、銃殺されたことが書かれている。これは、魯迅が仙台留学中に見た中国人スパイ容疑者の処刑とその中国人見物人の傍観者的様子の心象風景である。
阿Qは,節操なく革命家を気取った盗人であり,立身出世を目指した革命の謀反人であった。魯迅は,阿Qのようなエセ革命家が,今後の中国に出現することを危惧していた。革命の謀反人によって,革命家は犠牲にされ,一般市民も革命を劇場国家の一部として傍観する立場に終わってしまう。こうして,革命が失敗し,中国が混乱することを,魯迅は心配していた。


日清戦争の浮世絵木版画(右)「我義軍清賤奴 捕虜ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。ボストン美術館所蔵。Museum of Fine Arts, Boston。日露戦争では,日本軍はロシア人捕虜を人道的に処遇したが,日清戦争のときは,中国人捕虜を過酷に処遇した。

魯迅「阿Q正伝」の末尾

挙人老爺は贓品(ぞうひん)の追徴が何よりも肝腎だと言った、少尉殿はまず第一に見せしめをすべしと言った。少尉殿は近頃一向挙人老爺を眼中に置かなかった。卓(つくえ)を叩き腰掛を打って彼は説いた。
「一人を槍玉に上げれば百人が注意する。ねえ君! わたしが革命党を組織してからまだ二十日にもならないのに、掠奪事件が十何件もあってまるきり挙らない。わたしの顔がどこに立つ? 罪人が挙っても君はまだ愚図々々している。これが旨く行かんと乃公の責任になるんだよ
 挙人老爺は大に窮したが、なお頑固に前説を固持して贓品の追徴をしなければ、彼は即刻民政の職務を辞任すると言った。けれど少尉殿はびくともせず、「どうぞ御随意になさいませ」と言った。

 そこで挙人老爺はその晩とうとうまんじりともしなかったが、翌日は幸い辞職もしなかった。  阿Qが三度目に丸太格子から抓み出された時には、すなわち挙人老爺が寝つかれない晩の翌日の午前であった。彼が大広間に来ると上席にはいつもの通り、くりくり坊主の親爺が坐っていた。阿Qもまたいつもの通り膝を突いて下にいた。親爺はいとも懇(ねんご)ろに尋ねた。「お前はまだほかに何か言うことがあるかね」
 阿Qはちょっと考えたが別に言うこともないので、「ありません」と答えた。

 長い著物を著た人と短い著物を著た人が大勢いて、たちまち彼に白金巾(しろかたきん)の袖無しを著せた。上に字が書いてあった。阿Qははなはだ心苦しく思った。それは葬式の著物のようで、葬式の著物を著るのは縁喜(えんき)が好くないからだ。しかしそう思うまもなく彼は両手を縛られて、ずんずんお役所の外へ引きずり出された。

 阿Qは屋根無しの車の上に舁(かつ)ぎあげられ、短い著物の人が幾人も彼と同座して一緒にいた。
 この車は立ちどころに動き始めた。前には鉄砲をかついだ兵隊と自衛団が歩いていた。両側には大勢の見物人が口を開け放して見ていた。後ろはどうなっているか、阿Qには見えなかった。しかし突然感じたのは、こいつはいけねえ、首を斬られるんじゃねえか。
 彼はそう思うと心が顛倒して二つの眼が暗くなり、耳朶の中がガーンとした。気絶をしたようでもあったが、しかし全く気を失ったわけではない。ある時は慌てたが、ある時はまたかえって落著(おちつ)いた。彼は考えているうちに、人間の世の中はもともとこんなもんで、時に依ると首を斬られなければならないこともあるかもしれない、と感じたらしかった。


 彼はまた見覚えのある路を見た。そこで少々変に思った。なぜお仕置に行かないのか。彼は自分が引廻しになって皆に見せしめられているのを知らなかった。しかし知らしめたも同然だった。彼はただ人間世界はもともと大抵こんなもんで、時に依ると引廻しになって皆に見せしめなければならないものであるかもしれない、と思ったかもしれない。

戦記雑誌『実記』博文館(徳冨蘇峰)第108編(1905年12月13日号)「露探とされた中国人の処刑 Panishment to the Russian spys in Manchurian」:「満州軍中の露探の斬首」「魯迅の仙台留学ー魯迅の見た露探処刑「幻灯」に関する資料と解説」引用。「満州土人中、数しば露軍の間諜と為て我軍の運動を敵に通ずる者あり。捉はるる毎に斬に処す。本図は其一なり。」魯迅は,日露戦争中にロシアスパイ(露探)とされた中国人の処刑のスライドを東北大の教室で見た。

 彼は覚醒した。これはまわり道してお仕置場にゆく路だ。これはきっとずばりと首を刎(は)ねられるんだ。彼はガッカリしてあたりを見ると、まるで蟻のように人が附いて来た。そうして図らずも人ごみの中に一人の呉媽を発見した。ずいぶんしばらくだった。彼女は城内で仕事をしていたのだ。彼はたちまち非常な羞恥を感じて我れながら気が滅入ってしまった。つまりあの芝居の歌を唱(うた)う勇気がないのだ。彼の思想はさながら旋風のように、頭の中を一まわりした。「若寡婦(わかごけ)の墓参り」も立派な歌ではない。「竜虎図」の「後悔するには及ばぬ」も余りつまらな過ぎた。やっぱり「手に鉄鞭(てつべん)を執ってキサマを打つぞ」なんだろう。そう思うと彼は手を挙げたくなったが、考えてみるとその手は縛られていたのだ。そこで「手に鉄鞭を執り」さえも唱(とな)えなかった。
「二十年過ぎればこれもまた一つのものだ……」阿Qはゴタゴタの中で、今まで言ったことのないこの言葉を「師匠も無しに」半分ほどひり出した。

「好!!!」と人ごみの中から狼の吠声のような声が出た。  
車は停まらずに進んだ。阿Qは喝采の中に眼玉を動して呉媽を見ると、彼女は一向彼に眼を止めた様子もなくただ熱心に兵隊の背の上にある鉄砲を見ていた。
 そこで、阿Qはもう一度喝采の人を見た。
 この刹那、彼の思想はさながら旋風のように脳裏を一廻りした。四年前(ぜん)に彼は一度山下で狼に出遇(であ)った。狼は附かず離れず跟いて来て彼の肉を食(くら)おうと思った。彼はその時全く生きている空は無かった。幸い一つの薪割を持っていたので、ようやく元気を引起し、未荘まで持ちこたえて来た。これこそ永久に忘られぬ狼の眼だ。臆病でいながら鋭く、鬼火のようにキラめく二つの眼は、遠くの方から彼の皮肉を刺し通すようでもあった。ところが彼は今まで見た事もない恐ろしい眼付を更に発見した。鈍くもあるが鋭くもあった。すでに彼の話を咀嚼したのみならず、彼の皮肉以上の代物を噛みしめて、附かず離れずとこしえに彼の跡にくっついて来る。これ等の眼玉は一つに繋がって、もうどこかそこらで彼の霊魂に咬みついているようでもあった。
「助けてくれ」
 阿Qは口に出して言わないが、その時もう二つの眼が暗くなって、耳朶の中がガアンとして、全身が木端微塵に飛び散ったように覚えた。


 当時の影響からいうと最も大影響を受けたのは、かえって挙人老爺であった。それは盗られた物を取返すことが出来ないで、家(うち)じゅうの者が泣き叫んだからだ。その次に影響を受けたのは趙家であった。秀才は城内へ行って訴え出ると、革命党の不良分子に辮子を剪られた上、二万文の懸賞金を損したので家じゅうで泣き叫んだ。その日から彼等の間にだんだん遺老気質が発生した。 
 輿論の方面からいうと未荘では異議が無かった。むろん阿Qが悪いと皆言った。ぴしゃりと殺されたのは阿Qが悪い証拠だ。悪くなければ銃殺されるはずが無い! しかし城内の輿論はかえって好くなかった。彼等の大多数は不満足であった。銃殺するのは首を斬るより見ごたえがない。その上なぜあんなに意気地のない死刑犯人だったろう。あんなに長い引廻しの中(うち)に歌の一つも唱わないで、せっかく跡に跟いて見たことが無駄骨になった。 
     (一九二一年十二月)
(⇒青空図書館「阿Q正伝」底本:「魯迅全集」改造社、1932年11月引用)


「魯迅の解剖学ノートの驚嘆すべき綿密さと、添削の多さを眺めると、こと勉学では幼い頃から貫き通してきた魯迅の完璧主義者ぶりと、「田舎の鈍才」的な藤野先生の基礎学に対する強烈な迫力のようなものを、門外ではあるがひしひしと感じさせられて、まさに身の引き締まる思いがするのである。」(魯迅と医学の道阿部兼也/東北大学名誉教授引用)

日露戦争の絵葉書(右)「旅順白玉山南端ノ巨砲」MIT Visualizing Cultures引用。右手前に写真撮影者の影が映っている。日露戦争で,欧州ロシアに勝利した日本は,脱亜論の上から見て,列国の仲間入りをした一等国となった。日本人が自信とと慢心を示し始めた時期,魯迅は,日本に留学していた。

魯迅「藤野先生」

藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであつた。 
 解剖実習がはじまつてたしか一週間目ごろ、彼はまた私を呼んで、上機嫌で、例の抑揚のひどい口調でこう言つた──
「ぼくは、中国人は霊魂を敬うときいていたので、君が屍体の解剖をいやがりはしないかと思つて、ずいぶん心配したよ。まずまず安心さ、そんなことがなくてね」
 しかし彼は、たまに私を困らせることもあつた。彼は、中国の女は纏足(てんそく)しているそうだが、くわしいことがわからない、と言つて、どんな風に纏足するのか、足の骨はどんな工合に畸形になるか、などと私にただし、それから嘆息して言つた。「どうしても一度見ないと、わからないね、いったい、どんな風になるものか」

 ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は── 「汝悔い改めよ」
 これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、、トルストイによつて引用されたものだ。当時はちようど日露戦争のころであつた。ト翁は、ロシアと日本の皇帝にあてて書簡を寄せ、冒頭にこの一句を使つた。日本の新聞は彼の不遜をなじり、愛国青年はいきり立つた。しかし、実際は知らぬ間に彼の影響は早くから受けていたのである。この文句の次には、前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけてくれたので、私にはあらかじめわかつていた、だから、こんないい成績が取れたのだ、という意味のことが書いてあつた。そして終りは、匿名だつた。
 それで思い出したのは、二、三日前にこんな事件があつた。クラス会を開くというので、幹事が黒板に通知を書いたが、最後の一句は「全員漏レナク出席サレタシ」とあつて、その「漏」の字の横に圏点がつけてあつた。圏点はおかしいと、そのとき感じたが、別に気にもとめなかつた。その字が、私へのあてこすりであること、つまり、私が教員から問題を漏らしてもらつたことを諷していたのだと、いまはじめて気がついた。

 私は、そのことをすぐに藤野先生に知らせた。私と仲のよかつた数人の同級生も、憤慨して、いつしよに幹事のところへ行つて、口実を設けてノートを検査した無礼を問責し、あわせて検査の結果を発表すべく要求した。結局、この流言は立消えになつた。すると、幹事は八方奔走して、例の匿名の手紙を回牧しようと試みた。最後に、私からこのトルストイ式の手紙を彼らの手へ戻して、ケリがついた。

写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)「露探の斬首」:「1905年3月20日、満州開原城外」「開原は瀋陽の北、約90キロの町。写真は出所不明と説明つきで、太田進「資料一束―《大衆文芸》第1巻、《洪水》第3巻、《藤野先生》から」(中国文学研究誌「野草」第31号、1983年6月)が紹介(王保林「『幻灯事件』に密接な関係をもつ一枚の写真紹介」、「魯迅研究動態」1989年9月号)。同じような処刑写真は、仙台市内で何回か開かれている日露戦争報道写真展で魯迅の目にも触れた可能性がある。写真週刊誌「ファーカス」通巻762号にも同じ写真が掲載(1996年11月6日)。日清戦争では,清国兵士を過酷に扱った日本軍だが,日露戦争ではロシア人負傷者・捕虜を人道的に処遇した。日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人の戦争ではないという弁明のためである。対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)として処刑される危険があった。仙台に留学中の魯迅も,ロシア側スパイ(露探)中国人処刑の日露戦争スライドを教室で見た。東北大学医学部細菌学教室から日露戦争幻灯スライド15枚と幻灯器が発見されたが,その中に処刑のスライドはなかった。

魯迅「藤野先生」続き

 中国は弱国である。したがつて中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑つたのは、無理なかつたかもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺[『吶喊・自序』では斬首]を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺[『吶喊・自序』では斬首]される場面であつた。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。

「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変つたのだ。

第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。
「私は生物学を習うつもりです。先生の教えてくださつた学問は、やはり役に立ちます」実は私は、生物学を習う気などなかつたのだが、彼がガッカリしているらしいので、慰めるつもりで嘘を言つたのである。
「医学のために教えた解剖学の類(たぐい)は、生物学には大して役に立つまい」彼は嘆息して言つた。
 出発の二、三日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚くれた。裏には「惜別」と二字書かれていた。そして、私の写真もくれるようにと希望した。あいにく私は、そのとき写真をとつたのがなかった。彼は、後日写したら送るように、また、時おり便りを書いて以後の状況を知らせるように、としきりに懇望した。

 仙台を去つて後、私は多年写真をうつさなかつた。それに状況も思わしくなく、通知すれば彼を失望させるだけだと思うと、手紙を書く気にもなれなかつた。年月が過ぎるにつれて、今さら改まつて書きにくくなり、そのため、たまに書きたいと思うことはあつても、容易に筆がとれなかつた。こうして、そのまま現在まで、ついに一通の手紙、一枚の写真も送らずにしまつた。彼の方から見れば、去つてのち杳(よう)として消息がなかつたわけである。

 だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもつとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦(う)まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。

 彼が手を入れてくれたノートを、私は三冊の厚い本に綴じ、永久の記念にするつもりで、大切にしまつておいた。不幸にして七年前、引越しのときに、途中で本箱を一つこわし、そのなかの書籍を半数失つた。あいにくこのノートも、失われたなかにあつた。運送屋を督促して探させたが、返事もよこさなかつた。ただ彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで燈火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。

        (魯迅「藤野先生」引用終わり)

写真(右):1933年初夏、上海の魯迅と内山完造:1917年、内山完造は上海に渡り、内山書店を開業。書店は,左翼作家書籍のな販売店で、進歩的文化人が集まるサロン的存在だった。内山書店では書籍を陳列し、読者は読みたい本を自由に読むことができた。1927年10月5日、魯迅が内山書店を訪れたことを契機に、内山完造と魯迅は親交を深め,魯迅は内山に四度もかくまってもらった経験がある。郭沫若、陶行知など左翼文化人も官憲の追及を逃れるため、内山書店に身を寄せた。1932年から、内山書店は魯迅の著作の発行代理店になった。魯迅は「三閑書店」の名義で出版し、内山書店が代理で販売した。1936年に魯迅が逝去すると、内山完造は「魯迅文学賞」を創設、《魯迅全集》編集顧問。1935年、内山完造の弟の内山嘉吉が東京で内山書店を開店。入り口の扁額は、郭沫若の書。(チャイナネット2007年3月「内山書店と魯迅」引用)

◆1906年仙台医学専門学校を中退して仙台を去るときに魯迅は、恩師藤野厳九郎先生に医学をやめる旨を伝えた。魯迅は,社会改革を目指す批評の道を志そうとしていた。帰国後,魯迅は,中国の代表的文化人になり,辛亥革命後の翌年の1912年、孫文の主導する中華民国臨時政府の教育部員となった。1927年の蒋介石による共産主義者弾圧,上海白色クデター以後は,中国国民党政府を批判するような論調から,発禁処分の対象にもなった。魯迅は,古い因習・制度・権威を打破し,新しい社会を形成したいとする欲求があり,それが,社会主義的な左翼文学に結びついた。

8.20世紀初頭,アジアの内紛,残虐行為の頻発のため,列国はアジアを軽蔑し,あるいは指導する地位にあると考えた。アジアの平和と繁栄のためにも,列国の介入は当然であるとして,行動した。

1937年7月7日の盧溝橋Marco Polo bridge事件は,北京(首都でないので正式には北平)の郊外に駐屯していた日本軍と中国軍の一時的な武力紛争である。きっかけは,日中両軍接近している中で夜間演習中に日本兵1名が行方不明になり(後日帰還),その捜索のために,日本軍が北京市内(城内)に突入しようとしたためである。

北京郊外に日本軍がいたのは,義和団事件後に国際的に認められた軍隊駐屯権があったためである。1898年の義和団の乱に便乗して,外国勢力を排撃しようとした清朝は,日,米,英,仏,独,露,伊,墺の列強八カ国に宣戦,北京の大使館を攻撃,包囲する。しかし,日本軍1万3000名など7万名の八カ国連合軍の攻撃を受け,清朝は降伏。この戦争は,日本では北清事変とも呼ばれる。


20世紀初頭の中国の絵葉書(上):満州における罪人の処刑。
:大きな足枷をし,首を刎ねる。「残虐行為」の記念絵葉書が多数残っているのには驚かされる。現在でも,1枚50-150ドルで販売されているが,町並みの絵葉書の2-5倍の価格である。英文の解説付き葉書は,外国人向けなようだ。1901年に清朝は列国に降伏したが,国内的には人権蹂躙,残虐行為を平然と行っている(ように思われた)。

義和団事件・北清事変において清朝を敗北させた列国八カ国は,4憶5千万両を関税、塩税を担保として39年間で受け取るほか,公使館区域を定め、その防衛のために外国軍隊を常駐させるという駐屯権を獲得した。このとき,地理的にも近かった日本は,列国の中で派兵数も多かったが,国際協調(=列国への追随)を行っていたため,批判されるどころか,小国なのに多大な国際貢献をしたと評価された。日本の歴史学者でも,中国に派兵した日本は軍紀厳正で,よく任務を全うした,列国からもお褒めの言葉を賜った--ことを持ち上げる方がいるほどだ。


写真(上):1901-1901年義和団事件の容疑者処刑
;北京1900-1901年撮影。米,英,日など列国は,中国は野蛮な国であり,人権の概念がないと考えていた。しかし,自ら処刑したり,中国官憲の処刑を見物したりして楽しんでいた。

1900-1901年の北清事変では,八カ国連合軍が,北京を始め,中国各地を占領した。そして,中国の地方政府や官憲の協力を得て,義和団加盟者や共和主義者など反政府的人物を処刑し,治安を安定化しようとした。これは,江南地方の中国の財閥や欧米資本が,社会主義思想を徐々に警戒し始めた頃の話である。まだロシア革命も起こっておらず,反共白色テロではないが,中国や朝鮮の排外主義者,民族主義者を邪教崇拝者あるいは皇族への反乱者として処刑した。


写真(左):義和団事件の首謀者処刑
:1900年。Execution of Boxer Leader, China, 1900 (courtesy of Keystone-Mast Photographic Archive)

中国では,皇帝に対する犯罪は重罪であり,公開の場で,残虐な処刑をされていた。これは,目を覆っても気分が悪くなるような処刑である。例えば,1905年5月25日の皇族殺害事件の容疑者は,身体を切断したり,生皮をはいで肋骨を露出させたり,ゆっくりと切り刻んで殺害したりする,とても目視できないような残虐な方法で処刑された。出典にも”A man committed a crime for murdering a royal family member. He was first sentenced to death by "lighten the heavenly torch" (burn to death), but the emperor thought it would be more "human" to just cut him to death. This cruel penalty was called "Ling-Chi", the person would be cut live then slowly die, the executioner had to avoid the primary blood vessels so the poor guy would not die too quickly from bleeding (if the man died too quickly the executioner might receive a death penalty too!). The record showed some of this penalty might last 20 days before the person punished died ."とある。

処刑執行者も好き好んで残虐な殺害をするものばかりではないであろうが,制度,組織の中で,そのような残虐な処刑を執行するように言い渡されれば逆らえない。1900-1901年の義和団加盟者も,中国官憲に残虐な処刑を執行されている。清朝は,八カ国連合軍に対して宣戦布告したのを後悔し,列国にへつらうかのように,義和団関係者に過酷な処置をとった。捕らえられた容疑者は,裁判手続きもなく,公衆の面前で,罪状を書いた大きな札を背負わされ,見世物にされ,処刑された。


絵葉書(左):首枷を付けさらされる罪人
(上海,撮影は1901年頃か)(右):1911年辛亥革命の惨禍;「12月3日夜半,街において叛徒に虐殺された」と日本語の解説が下についている。差出印は天津。米,英,日など列国は,中国は野蛮な国であり,人権の概念がないと考えていた。忌むべき風流が蔓延していると。

中国では,外国人が行政権と警察権を握っていた地域,すなわち租界がアヘン戦争以来,大都市,開港場各地に設けられた。これは,治外法権の当てはまる地域である。また,中国から鉄道敷設権を得た国は,鉄道付属地を租界と同じようにみなしていた。そこで,列強は中国に圧力をかけ,公使館の護衛,租界の治安維持,鉄道付属地の警備などの名目で,1地域につき400-1000名程度の小規模な警備兵力を,駐屯権の枠組みで認めさせた。

9.魯迅は,『阿Q正伝』と同じく,革命にかかわった人物を『薬』で描いている。反清朝の革命家・夏家の倅は「罪人」として斬首されたが,その首から流れる血を薬にして,肺病の息子のために,家に持ち帰る父親がいた。しかし,食べた息子は,死んで土饅頭の墓に埋められた。処刑された夏家の伜の墓には,花が咲いた。革命家は,社会主義者であることが明示され,魯迅の革命,社会改革の希望が表明された。

写真(右):中国南端ベトナム国境ラオカイにおける公開処刑:1900年頃撮影。フランス語の解説がついている。フランス植民地のインドシナ発信の絵葉書。CHINA - Hokeou : Chinese criminel crucified on the border with Vietnam (Canceled to order Postcard). $80.00

魯迅『薬』:一九一九年四月

栓は喫驚びっくりして眼をみはった時、すぐ鼻の先きを通って行く者があった。そのうちの一人は振向いて彼を見た。かたちははなはだハッキリしないが、永く物に餓えた人が食物たべものを見つけたように、つかみ掛って来そうな光がその人の眼から出た。老栓は提灯を覗いて見るともう火が消えていた。念のため衣套をおさえてみると塊りはまだそこにあった。老栓はかしらを挙げて両側を見た。気味の悪い人間が幾つも立っていた。三つ二つ、三つ二つと鬼のような者がそこらじゅうにうろついていた。じっと瞳をえてもう一度見ると別に何の不思議もなかった。
 まもなく幾人か兵隊が来た。向うの方にいる時から、著物の前と後ろに白い円い物が見えた。遠くでもハッキリ見えたが、近寄って来ると、その白い円いものは法被はっぴの上の染め抜きで、暗紅色あんこうしょくのふちぬいの中にあることを知った。
一時足音がざくざくして、兵隊は一大群衆に囲まれつつたちまち眼の前を過ぎ去った。あすこの三つ二つ、三つ二つは今しも大きな塊りとなってうしおのように前に押寄せ、丁字街の口もとまで行くと、突然立ち停まって半円状にむらがった。
 老栓は注意して見ると、一群の人は鴨の群れのように、あとから、あとからくびを延ばして、さながら無形の手が彼等の頭を引張っているようでもあった。暫時静かであった。ふと何か、音がしたようでもあった。すると彼等はたちまち騒ぎ出してがやがやと老栓の立っている処まで散らばった。老栓はあぶなく突き飛ばされそうになった。
「さあ、銭と品物の引換えだ」
 身体じゅう真黒な人が老栓の前に突立って、その二つの眼玉から抜剣ぬきみのような鋭い光を浴びせかけた時、老栓はいつもの半分ほどに縮こまった。
 その人は老栓の方に大きな手をひろげ、片ッぽの手に赤い饅頭まんじゅうつまんでいたが、赤い汁は饅頭の上からぼたぼた落ちていた。
 老栓は慌てて銀貨を突き出しガタガタ顫えていると、その人はじれったがって
「なぜ受取らんか、こわいことがあるもんか」
 と怒鳴った。

 老栓はなおも躊躇ちゅうちょしていると、黒い人は提灯を引ッたくってほろを下げ、その中へ饅頭を詰めて老栓の手に渡し、同時に銀貨を引掴ひっつかんで
「この老耄おいぼれめ」
 と口の中でぼやきながら立去った。
「お前さん、それで誰の病気をなおすんだね」
 と老栓は誰かにきかれたようであったが、返辞もしなかった。彼の精神は、今はただ一つのパオ(饅頭)の上に集って、さながら十世単伝じっせたんでん一人子ひとりごいだいているようなものであった。彼は今このパオの中の新しい生命を彼の家に移し植えて、多くの幸福を収めたいのであった。
太陽も出て来た。彼のめのまえには一条の大道だいどうが現われて、まっすぐに彼の家まで続いていた。

老栓は歩いて我家わがやに来た。店の支度はもうちゃんと出来ていた。茶卓は一つ一つ拭き込んで、てらてらに光っていたが、客はまだ一人も見えなかった。小栓は店の隅の卓子テーブルに向って飯を食っていた。見ると額の上から大粒の汗がころげ落ち、左右の肩骨が近頃めっきり高くなって、背中にピタリとついている夾襖あわせの上に、八字の皺が浮紋うきもんのように飛び出していた。老栓はのびていた眉宇まゆがしらを思わずしかめた。華大媽はかまどの下から出て来て脣を顫わせながら
「取れましたか」
 ときいた。
「取れたよ」
 と老栓は答えた。
 二人は一緒に竈の下へ行って何か相談したが、まもなく華大媽は外へ出て一枚の蓮の葉を持ってかえりテーブルの上に置いた。老栓は提灯の中から赤い饅頭を出して蓮の葉に包んだ。
 飯を済まして小栓は立上ると華大媽は慌てて声を掛け
「小栓や、お前はそこにすわっておいで。こっちへ来ちゃいけないよ」
 と吩咐いいつけながら竈の火を按排した。そのそばで老栓は一つの青いつつみと、一つの紅白の破れ提灯を一緒にして竈の中に突込むと、赤黒いほのおが渦を巻き起し、一種異様な薫りが店の方へ流れ出した。
「いい匂いだね。お前達は何を食べているんだえ。朝ッぱらから」
 駝背せむし五少爺ごだんなが言った。

老栓はいそいそ出て来て、彼にお茶を出した。
「小栓、こっちへおいで」
 と華大媽は倅をび込んだ。奥の間のまんなかには細長い腰掛が一つ置いてあった。小栓はそこへ来て腰を掛けると母親は真黒まっくろな円いものを皿の上へ載せて出した。
「さあお食べ――これを食べると病気がなおるよ」
 この黒い物を撮み上げた小栓はしばらく眺めているうちに自分の命を持って来たような、いうにいわれぬ奇怪な感じがして、恐る恐る二つに割ってみると、黒焦げの皮の中から白い湯気ゆげが立ち、湯気が散ってしまうと、半分ずつの白い饅頭に違いなかった。――


「老栓は急がしいのだよ。倅のためにね……」
 駝背の五少爺がもっと何か言おうとした時、顔じゅうこぶだらけの男がいきなり入って来た。真黒まっくろの木綿著物――胸の釦をはずして幅広の黒帯をだらしなく腰のまわりにくくりつけ、入口へ来るとすぐに老栓に向ってどなった。
「食べたかね。好くなったかね。老栓、お前は運気がいい」
 老栓は片ッ方の手を薬鑵に掛け、片ッぽの手を恭々うやうやしく前に垂れて聴いていた。華大媽もまた眼のふちを黒くしていたが、この時にこにこして茶碗と茶の葉を持って来て、茶碗の中に橄欖かんらんの実を撮み込んだ。老栓はすぐにその中に湯をさした。
「あのパオは上等だ、ほかのものとは違う。ねえそうだろう。熱いうちに持って来て、熱いうちに食べたからな」
 と瘤の男は大きな声を出した。
「本当にねえ、こうおじさんのお蔭で旨く行きましたよ」
 華大媽はしんから嬉しそうにお礼を述べた。
「いいパオだ。全くいい包だ。ああいう熱い奴を食べれば、ああいう血饅頭はどんな癆症ろうしょうにもきく」
 華大媽は「癆症」といわれて少し顔色を変え、いくらか不快であるらしかったが、すぐにまた笑い出した。そうとは知らず康おじさんはがねのような声を出して喋りつづけた。あまり声が大きいので奥に寝ていた小栓は眼を覚ましてさかんに咳嗽はじめた。
「お前のうちの小栓が、こういう運気に当ってみれば、あの病気はきっと全快するにちがいない、道理で老栓はきょうはにこにこしているぜ」
 と胡麻塩ひげは言った。彼は康おじさんの前に言って小声になって訊いた。
「康おじさん、きょう死刑になった人は夏家かけの息子だそうだが、誰の生んだ子だえ。一体なにをしたのだえ
「誰って、きまってまさ。夏四かしナイナイの子さ。あの餓鬼め」
 康おじさんはみんなが耳朶みみたぶを引立てているのを見て、おおいに得意になって瘤のかたまりがハチ切れそうな声を出した。
あの小わッぱめ。命が惜しくねえのだ。命が惜しくねえのはどうでもいいが、乃公おれは今度ちっともいいことはねえ。正直のところ、引ッがした著物まで、赤眼の阿義あぎにやってしまった。まあそれも仕方がねえや。第一は栓じいさんの運気を取逃がさねえためだ。第二は夏三爺かだんなから出る二十五両の雪白々々シュパシュパの銀をそっくり乃公おれ巾著きんちゃくの中に納めて一文もつかわねえ算段だ」
 小栓はしずしずと小部屋の中から歩き出し、両手を以て胸を抑えてみたが、なかなか咳嗽がとまりそうもない。そこで竈の下へ行ってお碗に冷飯ひやめしを盛り、熱い湯をかけてべた。
 華大媽はそばへ来てこっそり訊ねた。
「小栓、少しは楽になったかえ。やッぱりおなかが空くのかえ」
「いいパオだ。いいパオだ」
 と康おじさんは小栓をちらりと見て皆の方に顔を向け
「夏三爺はすばしッこいね。もし前に訴え出がなければ今頃はどんな風になるのだろう。一家一門は皆殺されているぜ。お金!――あの小わッぱめ。本当に大それた奴だ。牢に入れられても監守に向ってやっぱり謀叛むほんを勧めていやがる

「おやおや、そんなことまでもしたのかね」
 後ろの方の座席にいた二十にじゅう余りの男は憤慨の色を現わした。
「まあ聴きなさい。赤眼の阿義が訊問にゆくとね。あいつはいい気になって釣り込もうとしやがる。あいつの話では、この大清だいしんの天下はわれわれの物、すなわちみなの物だというのだ。ねえ君、これが人間の言葉と思えるかね。

西関外せいかんがいの城の根元にる地面はもとからの官有地で、まんなかに一つゆがんだはすかけの細道がある。これは近道を貪る人が靴の底で踏み固めたものであるが、自然の区切りとなり、道を境に左は死刑人と行倒ゆきだうれの人をうずめ、右は貧乏人の塚を集め、両方ともそれからそれへと段々に土を盛り上げ、さながら富家ふけの祝いの饅頭を見るようである。


「あれ御覧なさい。これはどういうわけでしょうかね」
 華大媽は老女のゆびさした方に眼を向けて前の墓を見ると、墓の草はまだ生え揃わないで黄いろい土がところ禿げしてはなはだ醜いものであるが、もう一度、上の方を見ると思わず喫驚びっくりした。――紅白の花がハッキリと輪形わがたになって墓の上の丸い頂きをかこんでいる。
 二人とも、もういい年配で眼はちらついているが、この紅白の花だけはかえってなかなかハッキリ見えた。花はそんなにも多くもなくまた活気もないが、丸々と一つの輪をなして、いかにも綺麗にキチンとしている。華大媽は彼女の倅の墓と他人の墓をせわしなく見較べて、倅の方には青白い小花がポツポツ咲いていたので、心の中では何か物足りなく感じたが、そのわけを突き止めたくはなかった。すると老女は二足三足、前へ進んで仔細に眼をとおして独言ひとりごとを言った。
「これは根が無いから、ここで咲いたものではありません――こんなところへ誰がきましょうか? 子供は遊びに来ることが出来ません。親戚も本家も来るはずはありません――これはまた、何としたことでしょうか」
 老女はしばらく考えていたが、たちまち涙を流して大声上げて言った。
ちゃん、あいつ等はお前にみな罪をなすりつけました。お前はさぞ残念だろう。わたしは悲しくて悲しくて堪りません。きょうこそここで霊験をわたしに見せてくれたんだね
 老女はあたりを見廻すと、一羽のからす枯木かれぎの枝に止まっていた。そこでまた喋り始めた。
「わたしは承知しております。――瑜ちゃんや、可憐かわいそうにお前はあいつ等の陥穽かんせいに掛ったのだ。天道様てんとうさまが御承知です、あいつ等にもいずれきっと報いが来ます。お前は静かにねむるがいい。――お前ははたして、しんじつ果してここにいるならば、わたしの今の話を聴取ることが出来るだろう――今ちょっとあの鴉をお前の墓の上へ飛ばせて御覧
 そよ風はもうんだ。枯草かれくさはついついと立っている。銅線のようなものもある。一本が顫え声を出すと、空気の中に顫えて行ってだんだん細くなる。細くなって消え失せると、あたりが死んだように静かになる。二人は枯草の中に立って仰向いて鴉を見ると、鴉は切立きったての樹の枝に頭を縮めて鉄の鋳物いもののように立っている。
 だいぶ時間がたった。お墓参りの人がだんだん増して来た。老人も子供もつかの間に出没した。
 華大媽は何か知らん、重荷を卸したようになって歩き出そうとした。そうして老女に勧めて
「わたしどもはもう帰りましょうよ」
 老女は溜息いて不承々々に供物を片づけ、しばらくためらっていたが、遂にぶらぶら歩き出した。
「これはまた、何としたことでしょうか」
 口の中でつぶやいた。二人は歩いて二三十歩も行かぬうちにたちまち後ろの方で
「かあ」
 と一声いっせい叫んだ。
 二人はぞっとして振返って見ると、鴉は二つのはねをひろげ、ちょっと身を落して、すぐにまた、遠方の空に向ってのように飛び去った。

(⇒青空文庫魯迅『薬』:一九一九年四月:底本「魯迅全集」改造社,1932年11月 引用)

魯迅『薬』で斬首される罪人は,秋瑾クイジン(1875-1907)で,魯迅と同じく,浙江省紹興府出身の女性革命家(父の赴任していた福建省廈門の生れ)。1904年(明治37年)、日本留学。魯迅と同じく、弘文学院で日本語を習い、後に青山実践女学校で教育・工芸・看護学・武術を学ぶ。1905年9月、孫文が主導する中国同盟会に加わり,反清朝の革命を志す。

革命を警戒した清朝は,日本政府に、留学中の中国人による革命運動取締りを求めた。これが,1905年11月の清国留学生取締規定で,これに反発した中国人日本留学生は,授業ボイコットをし,一斉退学の示威行動を計画された。

日本留学中の秋瑾は,短刀を示し、一斉退学を促したが,実際に中国へ帰国した留学生はそれほど多くはなかったようだ。しかし,革命を志す秋瑾は、1905年12月,帰国し浙江省紹興で,光復会による革命運動を指導した。秋瑾は,大通学堂で,革命党光復会の革命家を育成し、軍事訓練,革命軍の組織化を行った。
1907年5月、革命党光復会による主導の革命武装蜂起が実行に移されたが,失敗し,秋瑾は7月に斬首された。

反清朝の革命家・夏家の倅は罪人として斬首されたが,その犠牲を利己的に利用とした庶民は,自らの死ぬ運命を避けることはできなかった。社会改革を志した革命家に対する魯迅のの同調の背後には,革命の必要性を理解せず,その犠牲を食い物にしようとする無理解,社会の無関心さ,庶民の傍観的態度,無知蒙昧への魯迅の焦燥感が感じられる。

◆魯迅『薬』では,革命家の志を理解できない者は,土饅頭の墓に埋められるだけだが,革命家の墓には,花が咲いた。これは,魯迅が,革命家の志と行動力を高く評価していると同時に,革命・社会主義に希望を持ち続けていることの現れでもある。魯迅は『故郷』(1921年)の末尾を「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。」と結んだ。


写真(左):上海白色テロ:1930年。中国国民党が,共産党系の容疑者を政権から排除し,労働組合運動を煽動するものも同じく処刑した。

1927年の上海反共クーデターあるいは白色テロでは,国民党が共産主義者や反国民党的な人物を,上海で処刑し,政権から中国共産党の影響を排除しようとした。これは,江南地方の中国の財閥や欧米資本が,ロシア革命以来影響力を持ち始めた社会主義思想を警戒するようになったため,中国国民党も,政権強化と中国財閥,外国資本の支援・支持を期待して,反共クーデターに及んだと推測される。

上海白色テロでも,市内で,多数の共産容疑者や労働組合のオルグ,社会主義の煽動家(メディア関係者)が捕らえられ,処刑されている。適切な裁判手続きもなく,公衆の面前で,罪状を書いた大きな札を背負わされ,見世物にされた後に,銃殺刑に処せられた。1930年代では,1900年代初期と思われるの絵葉書から,罪人に対するものとはいえ,残虐行為と映るものが残っている。革命もやはり惨禍を招くものとして認識されていた。

写真(右):上海白色テロでの処刑者:1930年。罪状を記した板を背負わされたまま銃殺され,見せしめとして放置される。中国人同士がこのような殺害をしていた。

罪人に対する処刑も残虐であったが,革命家や民族主義者も反社会的で,惨禍を招く犯罪者として認識されており,残虐な刑罰も正当化された。換言すれば,人権意識がなく,人権が擁護されていなかった時期には,犯罪者に対して厳罰を持って書して当然であるとの意識があった。

残虐な処刑は,日本も同様である。国内では,明治時期に,「さらし首」「斬首」など残忍な刑罰を廃止したが,士族の叛乱を鎮圧した後には,江藤新平など多数の謀反人が,さらし首に処せられている。日本も,当時はこのような刑罰は,権力や国家に反抗する謀反人には当然であると考えた。あるいは残忍な処刑をしないと,政府の権力保持が困難になると思案したのである。犯罪者の矯正にはほとんど関心が向けられていない。犯罪者の厳罰主義が横行していた。

10.中国でのアヘン吸引、ヘロイン常用の悪習は、列国からは軽蔑されたが、財政上、日本も含めた列国の収入源となっていた。したがって、列国が中国におけるアヘン・ヘロインの悪習を蔓延させたともいえる。

写真(左):アヘン吸引変:上海のアヘン吸引者。



1858年天津条約は,第二次アロー号戦争後に結ばれ,アヘン貿易が公認され,台湾が外国貿易に開放された。1864年までに,高雄に外国人居住区ができ,貿易やアヘン生産も本格化した。英国は,インド産アヘンを中国に輸出・売却し、中国においてアヘン吸引の悪習が蔓延した。アヘン売却で、英国は膨大な銀を獲得し、貿易の利益をあげた。

台湾でも、19世紀末までに20万人ものアヘン吸引者opium-smokersが存在した。1900年の台湾人口は300万人以下と推計されるから,アヘン吸引者の成人比率は20%以上であったと考えられる。1894年の日清戦争後,1895年の下関条約で台湾は日本領となり,日本は,アヘン産地を手に入れた。

写真(右):上層階層のアヘン吸引者(1930年代):

1900年までに,後藤新平の台湾政府には,16万5,752の公認アヘン吸引所が登録されている。 そして,そこに通っているのは人口の6%であり,アヘン吸引者における女子の比率は5%であった。1900年では,台湾では438,812lbs,すなわち200トンが販売され,460万円の売り上げであった。この額は,台湾の政府支出の20%に相当する額である。1920年に,日本は2,000kg以上のコカインcocaineを生産し,1922年には2倍の4,000kgのコカインを生産している。
日本の植民地台湾の財政基盤は,アヘン売買に依存し,間接的にアヘンの害毒を中国人に広めることに寄与していたのである。

写真(左):台湾台北の公認アヘン取引所(1910年頃):アヘンの塊が山積された倉庫。台湾の重要な財政収入源となった。Unpacking opium cases at the Government Opium Factory in Taihoku (Taipei)

1918年以前,上海のアヘンは英国によって取引されていたが,第一次世界大戦後は,フランスと通じた中国のギャング緑衣社Green Gangがアヘンを取り仕切るようになった。1920年代,フランス租界から共同租界International Settlement間で,ギャングの抗争を勝ち抜いて,巨大なシンジゲートsyndicateを作っている。年間10トンもヘロインheroinを西洋から輸入するようになった。

労働組合や共産党の勢力が強まることを恐れた国民党の蒋介石は,1927年4月12日,上海反共クーデターを起す。Tuと緑衣社は,国民党に接近し,労働組合員や共産党員など国民党に敵対的な勢力の排除に協力する。ギャングは,公開処刑も含む白色テロの実働部隊として活躍した。 Tuは,中国全土でのアヘンやヘロインの取引を仕切るようになった

。このような中国におけるアヘン取引・吸引という悪習蔓延を,魯迅は批判したはずだ。

11.辛亥革命によって中華民国が成立し、孫文の黄浦軍官学校とそれを引き継ぐ「国民革命軍」には、共産党も国民党も参加し、中国の国民意識は着実に成長した。しかし、日本では、中国は軍閥・私兵により支配され中国人といった国民概念は存在しない、と誤って認識していた。しかし、民衆の国民意識も高まっており、中国人と外国人の交歓と交友が拡大していった。中国での高等教育の普及と相まって,相互理解が進み,米国,英国では対中国感情,中国の対米英感情は好転した。経済取引関係,友人関係も確立されていった。魯迅も,ナショナリズムと国際的連帯の双方の視座で,中国を眺めていた。

中国の列国駐留軍は,警備任務と外交的儀礼のための式典など儀仗兵的任務を重視した。そこで,現地住民と友好関係を築くための交歓も行った。これには,ダンスパーティー,コンサート,スポーツ競技会,市中パレードが含まれる。

写真(右):北京のカトリック大学における米第4海兵隊のコンサート:1940年7月。1937年7月7日に北京郊外で盧溝橋事件がおき,日本軍が北京を支配しても,列国の駐屯部隊はそのままとどまった。列国は中立を維持していたから。

米英の中国駐屯軍の兵力は,1200-1400名で,中国の権益を守る目的が第一だが,中国軍と直接戦闘するための軍隊ではない。あくまで,抑止力として,毅然とした態度で,敵軍に臨めばよく,本格的戦闘に耐えられる装備もなく,陣地構築もしていない。そこで,現地との友好関係を築くことで,居留民,権益の保護を図ろうとした。これは,強圧的態度で外交を展開しようとした日本軍とは大きく異なる点である。

当時のバーの運用規定や,トイレ入口の英語と中国語の看板を見ても,米国が中国人に友好的に振舞っていたことが窺われる。

中国に駐屯した日本軍の兵士たち(支那駐屯軍)は,個人的にはともかく,組織だって日中友好を促進した形跡が見られない。魯迅を保護し,支持したのも,内山書店のような日本民間人・文化人に限られた。

このような楽しく有意義な地域コミュニケーションから,列国の対中国感情は好転して行った。居留民もビジネスで,中国人ビジネスマン,政治化との交流があり,友好的関係,取引関係が樹立された。

写真(右):上海におけるフランスのカトリック系学校:1917年撮影。中国人の生徒と中国人の修道女教師(右)。カトリック系学校にあって,言語の問題もあって,中国人の教師も配備されていた。教員養成も行われていたのであろう。日本人のいた共同租界では,中国人教育も不振だったから,中国人教師の養成にも手は回っていないであろう。人を使うだけで,育てないものが,積極的に擁護されることはない。

教育機関や人材育成の成果も大きい。 アヘン戦争以前から,キリスト教の宣教師,牧師が中国に派遣されていたが,租界では,布教の自由が保障されただけでなく,不動産の取得や教会・学校の経営も認められた。そこで,多数のミッション系教育機関が作られている。フランスもカトリック教会学校をフランス租界に建設した。教育対象者,フランス人のほかに,中国上流家庭にも開放されたクラスがあった。

他方,日本人のいた共同租界では,日本人学校として,現地の中国人への教育は不振だっ。また,中国人教師の養成を進めたわけでもない。中国人は,メイド,家政婦,ガードマン,雑用係,掃除人,料理人としては雇われたであろう。これは,中国人と日本人は対等ではないという認識が広まっていたことの現われである。例外もあったであろうが,上海で英国人教師から英語を教わった日本人子弟は多いが,中国人教師から中国語を教わった日本人は少数派だったであろう。

1931年の満州国建国自体,偽りがあった。満州に移民した日本人は,終生日本人であり,「満州人」にはならなかった。日本語の生活圏を形成し,その中で中国人,朝鮮人,満州人を使った。租界や満州で,日本人は,公務員採用・昇進,会社設立,不動産取得,住居,教育,医療で優遇されていた。この日本人の優遇措置が,日本人の優越感の支えとなった。しかし,日本人の中には,それが優遇によっているというよりも,民族的優秀性に依存していると考え,非日本人に対する差別意識を増長させたものが少なからずあった。

魯迅は,日本人庶民の親切さ,技術の高さを認識していたから,日本人をひとまとめにして,ステレオタイプの認識の下に批判することはなかった。反日プロパガンダの煽動も理解していたであろう。しかし,日本の大陸政策を支持することはなかった。

日本政府の大陸政策と中国の日本居留民は,中国人を使うだけで,交友しながら育てることをしなかった。だから,1931年満州事変以来,中国国民党政府や共産党が,反日プロパガンダ,抗日活動,日貨排斥を進めたとき,現地の中国人は,反対しなかった。日本人は,中国人に命令はするが,家族ぐるみのコミュニケーションをとっていない場合が多く,積極的に日本人を擁護する中国人はほとんどいない。魯迅は,日本人と交友を持ち続けた中国人として,日本の庶民の善良さを理解していたが,日本政府と日本軍の対中国政策には反対した。

写真(右)::1928年。香港大学の学生によるアート・プレー。満州事変以前から,このようなモダンな文化を中国人大学生が吸収していた。

欧米列国はミッション系の大学,高等教育機関に力をいれ,現地中国人への教養,技術を磨き,自国に親近感を抱かせた。このような優秀な人材はエリート教育の典型であり,大学に入学するにも資力,家柄が大いに関連していたかもしれない。しかし,学生(と保護者)の経済力・能力と相まって,中国の政治,経済,文化,技術,軍事を指導するような位置についていく。

男尊女卑の中国にあって,列国の高等教育機関は,中国の女子教育にも力を注いだ点で注目される。香港大学の初の女子卒業生は,1925年卒のMiss Irene Ho Tung (B.A.)である。フランス租界にもフランス系教育機関があり,フランス人だけではなく,中国人の上流師弟も教育を受けた。女子もモダンな服装でめかして,写真スタジオで記念撮影をした。

蒋介石は,日本の陸軍士官学校で学び,当初は,抗日戦争よりも,中国国内の共産党に対する包囲戦を優先した。しかし,1937年,華北の北京・天津だけでなく,華中の上海にまで,勢力を拡張しようとする日本軍の前に,抗日戦争を決意した。日本の思想や日本人に好感を持っていた魯迅は,社会主義に基づく社会改革を支持していたために,蒋介石による共産党員弾圧,反共戦争に反対し,国民党の南京政府からは逮捕状も出された。

写真(左):1888年香港医科大学Hongkong College of Medicine 卒業生孫文:Alice Memorial Hospitalの2階で撮影。香港医科大学,1888年。

芸術,科学の分野でも,中国における高等教育が盛んになった。1888年に中国革命家・孫文(Dr. Sun Yat-sen)は,初の香港大学卒業生だったが,当事の卒業生は2名だった。しかし,順調に卒業生を各界に送り続け,1908年,香港大学医学部に再編された。香港大学は,1910年代初頭に,キャンパスを整備,モダンな巨大校舎を次々新築した。列国の中国への進出は,教育・科学,衛生・医療さらには産業,交通などの改善を伴ったとして,現在でも列国の中国進出を肯定する人があるのは,このような側面を過大評価してのことである。

中国租界における欧米趣味と欧米優先は,日本の脱亜論と同じく,アジア相互の草の根の連帯を阻害することにもなった。中国は,米英を味方に取り込もうとした。日本も,中国の半植民地化を阻止しようと大陸に進出したわけではなく,帝国主義者の米英に逆らわなかった。1937年12月,米国砲艦「パネー」を誤爆した日本は,迅速に謝罪し,賠償金を支払った。日本の「対列国事なかれ主義」は,1941年12月の太平洋戦争開戦まで,方向転換されることはなかった。

◆中国人の中には,日本人への理解者や日本留学経験者は,ごく少数派であった。しかし,日本で学び,日本に滞在した中国人ですら,日本の大陸政策に反対し,日本への服従・従属を拒否した。となれば,中国人にとって,日本の主張する東アジアの平和達成や,政情が不安な中国の安定化・治安回復といった大儀は信じることができなかった。こうして,大日本帝国は,中国人にとって侵略国となり,抗日活動は激化した。

写真(左):1927年上海の写真スタジオの大学生たち:租界とは、治外法権や行政権、警察権を有した外人居留地。黄浦江沿いの外灘(バンド)に並ぶ洋館やビル建築は,中国でありながら、欧州のような外観を呈していた。バンドは,堤防・土手であるが,港湾のウォーターフロントのことである。外灘は、外人の沿岸であり,1842年アヘン戦争後の南京条約によって認められた開港五都市で,列国へ門戸を開いていた開港区・開放区のことである。現在も夜はライトアップされ、上海観光の中心となっている。
当時は,上海フランス租界でも,フランス流の高等教育を受けた中国人女子が誕生していた。共同租界の日本の高等教育機関では,教員には米英出身者もいた。しかし,学生は日本人で,中国人はいなかったようだ。

高等教育を終えた女子の社会進出は,都市におけるビジネスや行政,教育などに限られていたかもしれない。その意味で,農村女性やそこでのジェンダー不平等については,社会問題が根強く残っていたであろう。しかし,彼女たちのエリート意識は,卒業後の社会活動に誇りと自信を与えたに違いない。蒋介石夫人の宋美麗と同じように,キャリアウーマンとして活躍したのではないか。

写真(右):悪の権化フー・マンチュウ:1935年頃。1930年代に米国・メキシコで有名だった魔術師フー・マンチュウ(芸名)。その名前は,悪役(犯罪王,悪の権化)として,コミックや映画で搭乗した。「満州」は野蛮な悪人で,スコットランドヤードの英国人に悪巧みを阻止される。The Blood of Fu Manchu, Vintage Poster Dimensions: 27x41 inches (69x104cm) approx. Price :£75.00

中国人や「満州」が,米国や英国で好意的に受け入れられたわけではない。フー・マンチュウFu Manchuは,1904年英国生まれの魔術師である。しかし,サックス・ローマーSax Romerは悪の博士The Devil Doctor,あらゆる犯罪を陰で操る悪の権化ともいえる中国人というキャラクターであるフー・マンチュウFu Manchuを作り上げた。フー・マンチュウは, スコットランドヤード(英国警察)の警部Scotland Yard Inspectorであるネーランド・スミスNayland Smithによって追われる悪役中国人である。米国でも,コミックで悪役として登場し,1938年にはSF映画「フラッシュ・ゴードン火星への旅」"Flash Gordon's Trip to Mars" で悪の帝王としても登場させている。「満州」は世界制覇をたくらむ悪役,犯罪者と決め付けられてるいた。1966年になっても,英国では「フー・マンチュウの花嫁」The Brides of Fu Manchuというオドロオドロシイカラー映画(91分)が作成されている。

写真(右):映画の中の悪役フー・マンチュウ(左):1938年SFコミックを映画化したSF映画"Flash Gordon's Trip to Mars" Larry "Buster" Crabbe Universal(1938年)の悪の帝王としても出演している。「満州」は宇宙制覇をたくらむ(中国人風の)悪役宇宙人と決め付けられた。フラッシュ・ゴードンは,金髪青い目の白人。もちろん,米国に金髪青い目の白人はほとんどいないのであるが。

フー・マンチュウは,日本が建国した満州国と直接は関連しないが,満州のイメージが,教養抜きに「犯罪者の中国人」という偏見に依存し,そのような偏見を助長していることは間違いない。民族差別,人種差別が当たり前であった時代,遠くはなれた異郷に対する認識は,必ずしも好意的ではなかったのである。

◆中国に居住する米国人,英国人,屯軍兵士は,実際の中国人に接する機会が多かった。彼らの対中国感情は,高等教育を受けた中国人や,親しみやすい庶民に接するうちに,義和団事件のときの野蛮な中国という意識は低下し,文明開花しつつあるという(驕りはあるが)良好な感情に変わっていく。このような教育,文化の好ましい点も,現地の情報として,大使館・領事館といった外交ルート,軍のルート,市民のルートで米英の政府・市民は吸収していく。そこで,親中国的な世論も踏まえて,米英の対中国政策は好転していったと考えられる。

居留民もこのような大学卒業生には,対等に接してくれる。中国人卒業生も誇りを持つと同時に,教育を受けた英国,米国に対して,親近感を強めていく。ビジネス,文化教育で,各国国民の交流が深まり,友好的関係,取引関係が確立したてきたといえよう。

写真(左):1937年香港大学協会上海支部:中国の政治経済の中枢の上海でも,欧米流の高等教育を受けた中国人が活躍していた。日本への中国人留学生はどうだったのか。日本軍が樹立した地方分離政権・傀儡政権に参画した中国人留学生はあったが,その処遇はどうだったのか。

日本人居留民は,米国ビジネスマンとは違って,中国人ではなく,同じ日本の居留民を対象とした商売をしていたようだ。価格競争では,きつい労働を厭わない中国人に負けてしまうからである。さらに,日本の駐屯軍は,現地住民とのコミュニケーション以上に,軍事演習な内務班勤務に時間を費やしていた。筆談など,中国語ができない兵士でも意思疎通が可能であったから,現地住民との友好関係も多々あったようだ。しかし,日本の軍事作戦が進展するにつれて,個人的感情が入り込む余地はなくなってゆく。

12.魯迅は,『狂人日記』によって,狂人が怯える人食いこそ,現代の中国の状況であることを表現した。同胞を食らうことは,中国の庶民を犠牲として自己の利益を図る謀反人である。しかし,この中国人同士の争いを恐れ,批判する魯迅を弾圧するのもまた同じ中国人である。魯迅は,将来世代に平等な平和な世界が築かれることを希求した。魯迅による社会改革の希望表明である。

魯迅『狂人日記』 (1918年4月)

某君兄弟数人はいずれもわたしの中学時代の友達で、久しく別れているうち便りも途絶えがちになった。先頃ふと大病たいびょうかかった者があると聞いて、故郷に帰る途中立寄ってみるとわずかに一人に会った。病気に罹ったのはその人の弟で、君がせっかく訪ねて来てくれたが、本人はもうスッカリ全快して官吏候補となり某地へ赴任したと語り、大笑いして二冊の日記を出した。


        二

  ---二十年前、古久こきゅう先生の古帳面を踏み潰したことがある。あの時古久先生は大層不機嫌であったが、趙貴翁と彼とは識合しりあいでないから、定めてあの話を聞伝えて不平を引受け、往来の人までも乃公に怨みを抱くようになったのだろう。だが子供等は一体どういうわけだえ。あの時分にはまだ生れているはずがないのに、何だって変な目付でじろじろ見るのだろう。乃公を恐れているらしい。乃公をやっつけようと思っているらしい。本当に恐ろしいことだ。本当に痛ましいことだ。
 
        三

 四五日前に狼村おおかみむらの小作人が不況を告げに来た。彼はわたしのおおアニキと話をしていた。村に一人の大悪人だいあくにんがあって寄ってたかって打殺うちころしてしまったが、中には彼の心臓をえぐり出し、油煎あぶらいりにして食べた者がある。そうすると肝が太くなるという話だ。わたしは一言ひとこと差出口さしでぐちをすると、小作人と大アニキはじろりとわたしを見た。その目付がきのう逢った人達の目付に寸分違いのないことを今知った。
 想い出してもぞっとする。彼等は人間を食いれているのだからわたしを食わないとも限らない。
 
 何に限らず研究すればだんだんわかって来るもので、昔から人は人をしょっちゅう食べている。わたしもそれを知らないのじゃないがハッキリ覚えていないので歴史を開けてみると、その歴史には年代がなく曲り歪んで、どの紙の上にも「仁道義徳」というような文字が書いてあった。ずっとねむらずに夜中まで見詰めていると、文字の間からようやく文字が見え出して来た。本一ぱいに書き詰めてあるのが「食人」の二字。
 ----わたしもやっぱり人間だ。彼等はわたしを食いたいと思っている。


        四

 ----実際わたしはこの親爺が首斬くびきり役であるのを知らずにいるものか。脈を見るのをつけたりにして肉付を量り、その手柄で一分の肉の分配にあずかろうというのだ。乃公はもう恐れはしない。肉こそ食わぬが、胆魂きもたまはお前達よりよっぽど太いぞ。二つの拳固を差出して彼がどんな風に仕事をするか見てやろう。親爺は坐っていながら眼を閉じて、しばらくはさすってみたり、またぽかんと眺めてみたり、そうして鬼の眼玉を剥き出し
「あんまりいろんな事を考えちゃいけません。静かにしているとじきに好くなります」
 ---この大勢の人達は人を食おうと思ってかげになりひなたになり、小盾になるべき方法を考えて、なかなか手取早く片附けてしまわない----。自分はよく知っている。この笑声の中には義勇と正気がある。親爺とアニキは顔色を失った。乃公の勇気と正気のために鎮圧されたんだ。
 だがこの勇気があるために彼等はますます乃公を食いたく思う。つまり勇気にあやかりたいのだ。親爺は門を跨いで出ると遠くも行かぬうちに「早く食べてしまいましょう」と小声で言った。アニキは合点した。さてはお前が元なんだ。この一大発見は意外のようだが決して意外ではない。仲間を集めて乃公を食おうとするのは、とりもなおさず乃公のアニキだ。
 人を食うのは乃公のアニキだ!
 乃公は人食ひとくいの兄弟だ!
 乃公自身は人に食われるのだが、それでもやっぱり人食の兄弟だ!

        五

 たといあの親爺が首斬役でなく、本当の医者であってもやはり人食人間だ。----先日狼村ろうそんの小作人が来て、肝を食べた話をすると、彼は格別驚きもせずに絶えず首を揺りうごしていた。そら見たことか、おお根が残酷だ。「へてしかしてくらふ」がよいことなら、どんなものでも皆えられる。どんな人でも皆食い得られる。わたしは彼の講義を迂濶に聞いていたが、今あの時のことを考えてみると、彼の口端には人間の脂がついていて、腹の中には人を食いたいと思う心がハチ切れるばかりだ。

        七

 ---彼等は死肉を食べつつある!――中にも気の毒なのは乃公のアニキだ。彼だって人間だ。恐ろしい事とも思わずに何ゆえ仲間を集めて乃公を食うのだろう。やっぱり永年のしきたりで悪い事とは思っていないのだろう。それとも良心を喪失してしまって、知っていながらことさら犯しているのだろう。
 わたしは食人者を呪う。まず彼から発起して食人の人達を勧誘し、また彼から先手をつける。

        八

 ---わたしは訊いてみた。
人食いの仕事は旨く行ったかね
 彼はやっぱり笑いながら話した。
「餓饉年じゃあるまいし、人を食うことなど出来やしません」
 わたしは彼が仲間であることにすぐに気がついた。人を食うのを喜ぶのだろうと思うと、勇気百倍して無理にも訊いてやろうと思う。
「うまく行ったかえ」
「そんなことを訊いてどうするんだ。お前は本統ほんとうにわかるのかね。冗当を言っているんじゃないかな。きょうは大層いい天気だよ」
 天気もいいし月も明るい。だが乃公はお前に訊くつもりだ。
「うまく行ったかえ」
 彼はいけないと思っているのだろう。あいまいの返辞をした。
「いけ……」
「いけない? あいつ等はもう食ってしまったんだろう」
「ありもしないこと」
「ありもしないこと? 狼村ろうそんでは現在食べているし、本にもちゃんと書いてある。出来立てのほやほやだ」
 彼は顔色を変えて鉄のように青くなり目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって言った。
「あるかもしれないが、まあそんなものさ……」
「まあそんなものだ。じゃ旨く行ったんだね」
「わたしはお前とそんな話をするのはいやだ。どうしてもお前は間違っている。話をすればするほど間違って来る」
 わたしは跳び上って眼を開けると、体じゅうが汗びっしょりになり、その人の姿は見えない。年頃はわたしのアニキよりもずっと若いがこいつはテッキリ仲間の一人に違いない。きっと彼等の親達が彼に教えて、そうしてまた彼の子供に伝えるのだろう。だから小さな子供等が皆憎らしげにわたしを見る。

        九

 自分で人を食えば、人から食われる恐れがあるので、皆疑い深い目付をして顔と顔と覗き合う。この心さえ除き去れば安心して仕事が出来、道を歩いても飯を食っても睡眠しても、何と朗らかなものであろう。

        一〇

---兄さん、大抵初めの野蛮人は皆人を食っていた。後になると心の持方が違って来て、中には人を食わぬ者もあり、その人達はたちのいい方で人間に成り変り、真の人間に成り変った。またある者は虫ケラ同様にいつまでも人を食っていた。またある者は魚鳥や猿に変化し、それから人間に成り変った。またある者は善いことをしようとは思わず、今でもやはり虫ケラだ。この人を食う人達は人を食わぬ人達に比べてみると、いかにも忌わしいずべき者ではないか。おそらく虫ケラが猿に劣るよりももっと甚だしい。
 易牙えきがが彼の子供を蒸して桀紂けっちゅうに食わせたのはずっと昔のことで誰だってよくわからぬが、盤古が天地を開闢かいびゃくしてから、ずっと易牙の時代まで子供を食い続け、易牙の子からずっと徐錫林じょしゃくりんまで、徐錫林から狼村で捉まった男までずっと食い続けて来たのかもしれない。去年も城内で犯人が殺されると、癆症ろうしょう病みの人が彼の血を饅頭にひたして食った。
 あの人達がわたしを食おうとすれば、全くあなた一人では法返しがつくまい。しかし何も向うへ行って仲間入をしなければならぬということはあるまい。あの人達がわたしを食えばあなたもまた食われる。結局仲間同志の食い合いだ。けれどちょっと方針を変えてこの場ですぐに改めれば、人々は太平無事で、たとい今までの仕来しきたりがどうあろうとも、わたしどもは今日こんにち特別の改良をすることが出来る。なに、出来ないと被仰おっしゃるるのか。兄さん、あなたがやればきっと出来ると思う。こないだ小作人が減租を要求した時、あなたが出来ないと撥ねつけたように」
 ---その一種は昔からの仕来りで人を食っても構わないと思っている者で、他の一種は人を食ってはいけないと知りながら、やはり食いたいと思っている者である。彼等は他人に説破されることを恐れているのでわたしの話を聞くとますます腹を立て口を尖らせて冷笑している。
 この時アニキはたちまち兇相を現わし、大喝一声した。
「皆出て行け、気狂きちがいを見て何が面白い」
 同時にわたしは彼等の巧妙な手段を悟った。彼等は改心しないばかりか、すでに用心深く手配して気狂という名をわたしにかぶせ、いずれわたしを食べる時に無事に辻褄を合せるつもりだ。みなが一人の悪人を食った小作人の話もまさにこの方法で、これこそ彼等の常用手段だ。
 陳老五は憤々ぷんぷんしながらやって来た。どんなにわたしの口を抑えようが、わたしはどこまでも言ってやる。
「お前達は改心せよ。真心から改心せよ。ウン、解ったか。人を食う人は将来世の中に容れられず、生きてゆかれるはずがない。お前達が改心せずにいれば、自分もまた食い尽されてしまう。仲間がえれば殖えるほど本当の人間に依って滅亡されてしまう。猟師が、狼を狩り尽すように――虫ケラ同様に」
 彼等は皆陳老五に追払われてしまった。陳老五はわたしに勧めて部屋に帰らせた。部屋の中は真暗で横梁よこはり椽木たるきが頭の上で震えていた。しばらく震えているうちに、おおいに持上ってわたしの身体の上に堆積した。
 何という重みだろう。撥ね返すことも出来ない。彼等の考は、わたしが死ねばいいと思っているのだ。わたしはこの重みがうそであることを知っているから、押除おしのけると、身体中の汗が出た。しかしどこまでも言ってやる。
お前はすぐに改心しろ、真心から改心しろ、ウン解ったか。人を食う奴は将来容れられるはずがない

        一一

  そこで想い出したが、わたしが四五歳の時、堂前に涼んでいるとアニキが言った。親の病には、子たる者は自ら一片ひときれの肉を切取ってそれを煮て、親に食わせるのがき人というべきだ。母もそうしちゃいけないとは言わなかった。一片食えばだんだんどっさり食うものだ。けれどあの日の泣き方は今想い出しても、人の悲しみを催す。これはまったく奇妙なことだ。

        一二

 想像することも出来ない。
 四千年来、時々人を食う地方が今ようやくわかった。わたしも永年ながねんその中に交っていたのだ。アニキが家政のキリモリしていた時に、ちょうど妹が死んだ。彼はそっとお菜の中に交ぜて、わたしどもに食わせた事がないとも限らん。
 わたしは知らぬままに何ほどか妹の肉を食わない事がないとも限らん。現在いよいよ乃公の番が来たんだ……
 四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。真の人間は見出し難い。

        一三

 人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。
 救えよ救え。子供……
(一九一八年四月)

   青空文庫:魯迅『狂人日記』 (1918年4月)引用終わり

『鋳剣』のあらすじ
愚鈍な16歳の子供,眉間尺に改心し,母親が刀鍛冶の父親の仇を討ってもらいたいと話す場面から始まる。大王のために名刀を作り上げた父は,大王に勝る剣を作ることができないように,刀を持っていった父を殺害する。これを予期した父は,息子が成人したら,大王の首を斬らせるように名刀を準備した。この刀を寝台の下の土の中に埋めて隠しておいたのである。刀を掘り出した眉間尺に,母親は「お前の優柔な性質を改め,この剣で仇を討ちに行け」と命じた。
翌朝,眉間尺は城市に行き,大王の列を待ったが暗殺に失敗した。不思議な色黒の男は,剣とお前の首をくれれば,仇を討ってやるといった。色黒の男は「おれの魂には、それほど多くの傷がある。人が加えた傷と、自分が加えた傷とが。おれはすでにおれ自身を憎んでいるのだ。」といった。
眉間尺は首を自らはね落とし,剣は男に渡した。大王は,退屈しのぎのこの男に会った。男は,金鼎に水を入れ火をかけ,首を入れた。これを覗いた大王の首を,色黒の男が斬り落とした。鼎の中で,眉間尺の首と大王の首は格闘した。色黒の男も自ら首を落とし,眉間尺に加勢して,大王の息の根を止めた。家臣が柄杓で頭蓋骨を掬い上げたが,三つあるので,どれが大王の頭蓋骨かわからなかった。三つまとめて棺に入れ,王として葬儀を行った。

◆魯迅は,『阿Q正伝』『狂人日記』『藤野先生』『思い出すことあれこれ』『薬』『鋳剣』で,斬首処刑にかかわる不気味な無駄のない記述をしている。これは,〇村鷭莊困鯊梢融とにか思わない社会病理あるいは人命感覚・人権意識の麻痺への批判,革命の果実を奪おうとする革命の謀反人や革命家気取りの大人物は「人肉の宴会」を準備するものであり,開会すべきであるという警句,という二つの面があるように思われる。魯迅が,社会病理現象にも革命気取りの陰謀にも気を許さなかった証拠であろう。

後者の「革命悪徳大商人」「革命小売人」「革命人夫頭」は,革命家を煽動して,立身出世を企てる利己的な野心家であり,革命家の犠牲の上に自己の財産を増殖する略奪者であると考えた。魯迅は,「左右に動いて闘う」批判的立場を堅持した。これは,社会主義に同調した社会批判文学を志した,石川啄木と類似している。

写真(左):上海の米海兵隊第4連隊バンドメンバーと中国人女性:1935年頃。与謝野晶子が,戦争のために,魯迅など中国文化人との交流ができなくなったことを嘆いていた時期,この中国人女性たちは,米国人とデートしていた。どちらが親近感を持っていたのか。

与謝野晶子 〔無題〕 昭和七年 1932年第一次上海事変の時期

魯迅と郭沫若と、
胡適と周作人と、
彼等とわたしの間に
塹壕は無いのだけれど、
重砲が聾にしてしまふ。


◆魯迅は,隷属と抑圧からの開放を目指した真の知識人になろうとしたが,これは社会に対する批判者の立場を貫くことである。1927年の上海反クーデタ後の国民党一党独裁に反対し,農民と労働者の主導する革命を運動を進めた中国共産党の社会主義に同調したのもそのためである。

◆魯迅は,社会主義的な革命を支持し,社会改革を志した。しかし,同時に「人肉の宴会」を開くエセ革命家を嫌悪し,革命を煽動するプロパガンダに,天下を取るための野心を感じ取った。革命家の犠牲の上に権威と財産を築くことを許さなかった。魯迅は,「左右に動いて闘う」真の知識人として,自由に社会を批判することを旨とした。

(⇒魯迅 : 中国「真の知識階級」の歴史的運命(<特集>21世紀初頭・東アジアで魯迅を語る : ソウル国際学会報告)銭理群・代田智明PDF引用。現代化モデルにおける東西の差異と魯迅思想の超越 : 魯迅における個人主義と集団主義についての一考察(<特集>21世紀初頭・東アジアで魯迅を語る : ソウル国際学会報告)厳家炎/日原きよみPDF,魯迅とその時代 東京大学文学部教授 丸山 昇PDFも参照。)

与謝野晶子も,中国の庶民への温かい眼差しを持っていて,日本軍に殺害された少年兵に哀悼の意をささげた。魯迅の文学を理解していたであろう。しかし,中国の対日政策を反日,侮日として非難した。魯迅は,日中全面戦争の前年の1936年10月死去。 


ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
連絡先:torikai@tokai-u.ac.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目1117 
東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,1117 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
free counters
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 3000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright (C) 2007 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.