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疎開船対馬丸撃沈と無制限潜水艦作戦 2005
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◆学童疎開船「対馬丸」撃沈と無制限潜水艦作戦:The Tsushimamaru Sunk


写真(上左):後方から見た米潜水艦「ワフー」USS Wahoo (SS-238)
;1943年7月13日カリフォルニア州海軍工廠Mare Island Navy Yardで撮影。甲板に砲撃用の対艦艇用砲を装備している。
潜水艦「ワフー」USS Wahoo (SS-238)に撃沈された日本船「日通丸」1943年3月23日黄海で撮影。Sinking in the Yellow Sea, off China, on 23 March 1943. Periscope photograph, taken from USS Wahoo (SS-238), which had torpedoed her.
『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、沖縄作戦における米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機に及んでいる。

写真(右):米潜水艦「カブリラ」USS Cabrilla (SS-288)の戦闘旗;Reproduction of the submarine's World War II battle flag, made by the Carleton Company.旭日旗が日本軍艦の4隻撃沈,日章旗が日本商船の12隻撃沈を意味する勝利の旗である。双眼鏡で敵を探す。日本船が真っ二つに折れて海没する有様が誇らしい。当然,多数の民間人を殺害していることを意味する。左の帆船は,浮上して砲撃撃沈した日本の機帆船(2隻)。右のパラシュートは,海上に降下し不時着した米人搭乗員を救助した証。 

◆2011年7月の一カ月間で、3949人のアクセスがあり、戦後66年たっても対馬丸への関心が衰えていないことに感銘を受けた。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦と疎開の話を伺った。
「硝煙の海」陸・海軍徴用船乗組員の記録
「続・硝煙の海」:菊池金雄氏公開

☆菊池金雄氏は,1941年12月7日,東京湾浦賀水道で航行中の船舶からSOSの遭難信号を受信しました。港湾防備のための機雷敷設は1941年11月頃から開始されているようで,その事故ではないか,しかし触雷事故は「開戦前夜という軍極秘日なので所在艦艇も 即封印措置を厳命」されたと推測されております。当時の状況について,ご存知の方があれば,ご連絡いただければ幸いに存じます。

徴用船に関する新聞雑誌掲載記事:船員・海防艦などの体験談
日本商船写真集:船舶と乗員
大同海運船舶写真集
アジア太平洋戦争インデックス:鳥飼行博研究室の戦史一覧
米国商船の被害一覧:特攻の戦果
沖縄戦におけるカミカゼ特攻:菊水作戦
沖縄戦での住民自決:慶良間列島・チビチリガマ
沖縄攻略作戦:地上戦の展開
沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,揚陸物資
写真解説:米国の戦時動員:航空機産業の女子労働者


1.日本は、海軍、陸軍とも軍用輸送船の配分を重視し、民間船の徴用計画も立てていた。しかし、米海軍の無制限潜水艦作戦、空母を中核とする任務部隊の艦載機による空襲がはげしくなった1943年には、輸送船は不足し、作戦のみか、日本の経済活動を制約するようになった。そこで、規格化した戦時標準船の量産、木造船の大量生産を図ったが、米軍の攻勢の前に、日本の輸送船保有トン数は減少を続けた。  

無能なり! 船舶喪失と海上護衛総司令部作戦参謀」には、次のようにある。

昭和16年(1941)4月、艦政本部は海軍省軍務局から非公式に次のような要請を受けた。
「戦争遂行のために輸送船を建造する必要があると考えられるが、戦争一年目に40万総トン、二年目に60万総トン、三年目に80万総トン、四年目以降は戦争の推移より決定する。」すなわち、これだけの船舶が建造可能なのかという問いかけであった。

 日本政府は既存の民間造船所における建造能力を把握しきれず、手っ取り早く軍艦建造を行っていた艦政本部に問うたのであった。艦政本部は「特別の努力を行えば、軍務局の要求数量の建造は可能と答えた。」

これも鉄鉱石などの資源が船舶によって確実に日本に届けられたとしての話である。船腹量が企画院が必要と思っていた300万総トンが確保されたことは開戦以来一度もなかったのでそのスタートから戦争継続の大前提が崩れていた。

船舶建造計画・実績・喪失   単位:t(総トン)
   年     目標    建造     喪失
1942年  400,000   265,918  1,069,975総トン
1943年  600,000   769,085  1,793,469総トン
1944年  800,000  1,699,193  3,781,377総トン
合計   1,800,000  2,734,196  6,644,821総トン

軍令部は日米開戦のために増産できる船腹量の裏付けを得た。この数字はその後成立した東条内閣の各省庁連絡会議で提出され、最終的に1941年11月5日の御前会議で輸送用の民需用船舶保有量を常に300万総トンを維持すれば例え戦いが長期になろうとも国力維持は可能で開戦に踏み切るべしと鈴木貞一企画院総裁は大見得を切った。

実態は戦争による輸送船の損失がどの程度になるのか、海軍のどの部局も本気で研究せず、船団護衛の必要性を全く認識していなかった。その後策定された軍備拡張計画も船舶建造ばかり優先し、船団護衛はなおざりにされた。(引用終わり)

一般財団法人山縣記念財団「終戦後60年記念特集:太平洋戦争で失われた「商船」とその乗組員」には、次のようにある。
 太平洋戦争において、わが国はその商船隊の大半を喪失する壊滅的打撃を受け、同時に数多くの優秀な船員を失いました。

太平洋戦争で失われた船(除・軍用船):7,240隻
内官・民一般汽船:3,575隻
機帆船:2,070隻
漁船 :1,595隻
死亡した 「乗組員」(船員):60,601名(「戦没した船と海員の資料館」より引用)

これらを通して、大戦中 わが国の商船とその乗組員の払った多大な犠牲を憶い、亡くなられた人々を偲びたいと思います。(引用終わり)

『太平洋戦争:喪われた日本船舶の記録』宮本三夫著・序文;財団法人日本殉職船員顕彰会 会長相浦紀一郎には次のようにある。

先の大戦で我が国は物量の点で米国に敗れたといわれていますが、前線への補給輸送作戦及び南方から本土向けの原材料や燃料の輸送作戦でも米国に負けたことは確かです。この補給輸送の担い手であった日本商船隊及び前線での接続輸送や監視活動に徴傭された多数の漁船・機帆船等の被害は、当会の調査によれば船舶は約 7,000隻、戦没船員は60,609名に達しています。

戦時における被害の全体像を把握するための基礎資料を収集することは、それらが極秘扱いで所在が限定されていたこと、空爆による焼失及び終戦時における焼却処分等もあり、多くの原簿が散逸してしまいましたので、大変困難な作業になりますが、100総トン以上の大型汽船に関しては、戦時の海運統制機関であった船舶運営会の資料及び大手船会社が編纂した社史・船史等に基づいた数種の資料が公刊されています。また、輸送船団については情報蒐集に努力した個人により、大部分の記録が発刊されています。漁船・機帆船等については戦後60年近くを経た2004年に至り、海軍の徴傭船舶原簿の記載内容をまとめた資料が民間研究団体から発表されましたので、海軍徴傭船に関する限り、ある程度の小型船情報を入手できることになりました。

しかし、陸軍の徴傭船舶原簿が現存しないことが確認されていますので、今後これ以上の被害に関する資料を入手することは残念ながら期待できない状況にあります。
財団法人日本殉職船員顕彰会  会長相浦紀一郎より引用) 

海運統制国策要綱 昭和15年9月27日 閣議決定

高度国防国家建設ノ要請ニ備ヘンガ為左記方針ニ依リ海運ノ統制ヲ強化シ海運企業組織ノ合理化ヲ促スト共ニ船腹ノ徹底セル拡充計画ヲ実施セントス


一 政府ハ輸送計画ヲ樹立シ配船ヲ管理決定シ及運賃傭船料ヲ公定ス
二 右ヲ実施スル為政府機構ヲ整備拡充ス
三 政府監督ノ下ニ全運航業者ヲ以テ法人組織ノ輸送組合ヲ結成セシメ政府ノ指令ニ基キ物資輸送ノ共同引受ヲ為シ輸送ノ責ヲ負ハシム
四 政府ハ統制ノ徹底ヲ図ル為右組合内ニ於テ運航ヲ適当ナル数ブロックニ集約ス
五 統制ノ円滑ヲ図ル為必要ナル共同計算ヲ行ハシメ且其ノ他ノ積立ヲ行ハシム

海運統制国策要綱 昭和15年9月27日 閣議決定引用終わり

対南方発展施策ニ関スル件(南方海運対策要綱) 昭和15年11月5日 閣議決定

南方諸地域ニ於ケル我国海運態勢ヲ整備強化スル為左ノ方策ヲ講ズルモノトス

一、南方諸地域ニ於テ一方的ニ左ノ権益ノ確保ヲ図ル為適切ナル措置ヲ講ズルコトトシ特ニ仏印支、蘭印ニ於テハ速ニ其ノ実現ヲ期スルモノトス

1 沿岸貿易及不開港入港ニ関スル制限ノ撤廃
2 埠頭、倉庫、船渠等港湾関係諸施設ノ運営権ノ確保
3 航路標識ノ建設及管理権ノ確保

二、南方航路ノ拡充ハ概ネ別紙ニ依ルモノトス
尚南方航路ニ関スル海運協定特ニ日蘭海運協定ニ関シテハ能フ限リ我ガ方ニ有利ナラシムルヤウ速ニ改定ニ関スル措置ヲ講ズルモノトス

三、航路拡充計画ハ差当リ政府ノ統制指導ノ下ニ既存ノ南方航路経営会社ヲシテ当ラシムルモ将来情勢ノ発展ニ即応シ関係諸航路ヲ統合調整スルコトトシ必要ニ応ジ南方航路ノ一元的統制運営並ニ港湾関係諸施設ノ運営ヲ併セ行フベキ有力ナル海運会社ノ設立ヲ考慮スルモノトス
尚南方諸地域沿岸局地航路ノ経営ニ関シテハ必要ニ応ジ現在ノ特殊事情等ニ基ク特別ノ考慮ヲ為スモノトス

四、南方ニ対スル不定期配船ニ関シテハ配船増加、計画輸送ノ徹底等速ニ適切ナル措置ヲ講ジ南方物資輸送ノ確保ニ遺憾ナキヲ期スルモノトス

五、南方諸地域特ニ蘭印ニ於ケル既存ノ海運企業ニ対シテハ其ノ経営ニ参加シ本邦側ノ指導権ヲ把握スルガ如ク適切ナル措置ヲ講ズルモノトス
尚南方諸地域所属ノ船舶ニ対シ速ニ買収等ノ措置ヲ講ズルモノトス

六、本方策遂行ニ当リテハ現下船舶不足ノ状況ニ鑑ミ其ノ必要船舶ノ充足ニ遺憾ナキヲ期スルヤウ特ニ船舶ノ積極的拡充ヲ考慮スルモノトス

別紙

南方諸地域ニ対スル航路ノ拡充ハ概ネ左ニ依ルコトトシ一ノ(イ)、(ロ)、二及五ノ内蘭印及仏印支沿岸航路ニ関シテハ速ニ強化又ハ開設ヲ考慮スルモノトス

一、本邦対南方諸地域幹線航路ノ拡充強化

(イ)内地―((台湾―内南洋―比島―英領ボルネオ))―蘭印航路
(ロ)内地―支那(上海)―香港―仏印支―泰航路
(ハ)内地―内南洋―ラバール―ニューカレドニヤ―新西蘭又ハ濠洲航路

二、華僑連絡航路ノ拡充強化

(イ)南洋一周東廻航路
((内地))―台湾―支那(厦門)―比島―英領ボルネオ―蘭印―英領馬来―泰―仏印支―支那(海口、広東、汕頭)―台湾
(ロ)同西廻航路
東廻航路ノ逆航トス

三、蘭印印度航路ノ開設
蘭印―英領馬来―ビルマ―印度航路

四、香港濠洲航路ノ開設
香港―仏印支―英領馬来―蘭印―濠洲航路

五、南方諸地域沿岸航路ノ開設

対南方発展施策ニ関スル件(南方海運対策要綱)引用終わり

戦時海運管理要綱 昭和16年8月19日 閣議決定

第一 方針
戦時海上輸送ノ完遂ヲ期シ本邦全船舶ノ一元的運航、船員ノ臨戦態勢ノ確立及船腹ノ急速且大量拡充ヲ図ル為船舶、船員及造船ハ戦時中国家ニ於テ之ヲ管理ス

第二 要領
一 船舶管理
(一)政府ハ戦時海上輸送完遂ノ為船舶ヲ徴傭ス
(二)政府ハ輸送計画及配船計画ヲ樹立決定シ特別法人ヲシテ輸送ノ実施ニ当ラシム
(三)政府ハ徴傭船舶ヲ特別法人ニ貸下ゲ之ガ運航ヲ為サシム
(四)特別法人ハ船主ニ対シ政府ノ決定スル船舶徴傭料金ヲ支払ヒ荷主ヨリ政府ノ決定スル運賃ヲ収受ス
(五)政府ハ船舶ノ建造及保有ニ関シ助成並ニ強制ノ方途ヲ講ズ
(六)政府ニ船舶管理ニ因リ生ズル損失ヲ補償ス
(七)船舶管理ニ即応シ主要港ニ於ケル港湾荷役ハ一元的ニ運営セシム

二 船員管理
(一)船員ハ政府ニ之ヲ徴用ス但シ之ニ依リ従来ノ雇傭関係ノ継続ヲ妨ゲズ
(二)政府ハ徴用船員ノ給与及配乗ヲ決定シ特別法人ヲシテ給与ノ支給及配乗ノ実施ニ当ラシム
(三)政府ハ船員ノ公務死、公務傷病死及公務傷病ニ対スル扶助ヲ行フ
(四)政府ハ船員ノ短期養成施設ヲ急速ニ拡充整備シ必要ニ応ジ商船学校ノ修業年限ヲ短縮ス
(五)政府ハ特別法人ヲシテ船員ノ福利施設ヲ整備シ之ガ運営ニ当ラシム

三 造船管理
(一)政府ハ主要ナル造船所及船舶用機関、部分品等ノ製造工場ヲ管理ス
(二)政府ハ船舶ノ建造及修繕計画ヲ樹立決定シ注文者及造船所ヲ指定シテ之ヲ実施セシム
(三)政府ハ造船又ハ船舶用機関、部分品等製造施設ノ拡充計画ヲ樹立シ関係業者ヲシテ之ヲ実施セシム
右ニ関シテハ必要ニ応ジ助成ノ方途ヲ講ズ
(四)政府ハ必要ナル資材、労力及動力ヲ確保シ資材ノ計画的配給ヲ為ス
(五)船舶ノ建造価格及修繕料ハ政府之ヲ決定ス

四 特別法人
(一)特別法人ハ国家総動員法第十八条ニ基ク法人トス
(二)特別法人ハ船舶所有者又ハ其ノ団体ヲ以テ構成ス
(三)特別法人ノ役員及主タル職員ハ関係官吏及学識経験アル者ヨリ政府之ヲ任命ス
(四)政府ハ特別法人ニ対シ必要ナル補助金ヲ交付ス

五 法令整備
(一)国家管理ノ為国家総動員法ニ依ル勅令ヲ制定ス

六 政府機構
(一)政府機構ヲ概ネ別冊ノ如ク整備ス
七 漁船及漁船々員ハ本要綱ノ適用外トス
(別冊省略)
戦時海運管理要綱 昭和16年8月19日 閣議決定引用終わり

計画造船大綱  昭和17年5月12日 閣議決定

 第一 方針
標準型船舶ノ計画数量ヲ一定期間内ニ確保スルコトハ戦争遂行上絶対的要件ナルヲ以テコノ目的ヲ達成スルタメ産業設備営団ヲシテ政府ノ強力ナル援助ノ下ニ標準型船舶ノ建造ノ註文並ニ造船、造機施設ノ拡充ノ実施ニ当ラシムルモノトス

 第二 要領
一、産業設備営団ハ本件ニ関シ政府ノ樹立セル計画ニ基キ概ネ其ノ事業ヲ営ムモノトス。
 イ 標準型船舶ノ建造及ビコレガ処理
 ロ 造船、造機施設ノ新設拡充及ビ之ガ処理

二 標準型船舶ノ建造又ハ譲渡ニ関スル基準価格ハ政府ニ於テ之ヲ決定シ其ノ細目及ビ実行ニ関スル事項ハ関係庁協議シテ之ヲ定ムルモノトス

三 標準型船舶ノ建造ノタメ産業設備営団ガ蒙ル損失ニ就テハ政府ニ於テ之ヲ補償シ所要資金ノ調達ニ関シテハ政府ハ全面的ニ援助スルモノトス

四 産業設備営団ガ本件実施ノタメニ船舶又ハ造機施設ニ関シ登記ヲ受クル場合ニ於テハ之ニ対スル登録税ヲ減免スルモノトス

五 産業設備営団ハ本件ノ実施ニ関シテハ別個ノ経理ヲナスモノトス産業設備営団ハ本件実施ニ関シ逓信大臣ノ監督ヲ受クルモノトス尚産業設備営団ノ監督ニ関スル細目ハ関係庁協議シテ之ヲ定ムルモノトス

六 本件実施ニ関シ必要ナル関係法律ノ改正案及予算案ハ今次臨時議会ニ提出スルモノトス

計画造船大綱  昭和17年5月12日 閣議決定引用終わり

甲造船促進上緊急措置スベキ要項ニ関スル件 昭和18年1月20日 閣議決定

甲造船ノ一元的運営ヲ強化促進シ之ガ飛躍的増産ヲ期センガ為差当リ緊急措置トシテ左記事項ヲ実行シ爾余ノ対策ニ関シテハ実績ニ応ジ更ニ所要ノ措置ヲ講ズルモノトス

一、甲造船関係ノ資材、労務及動力等確保ニ関シ左ノ通措置ス

(一)甲造船用資材及成品ハ生産、運輸及配給ノ関係ニ於テ之ヲ軍需品ト同様ノ扱トスルコト

(二)右生産並ニ甲造船関係工場ニ於テ必要ナル動力、燃料、酸素、労務要員及労務用物資等ハ極力甲造船計画遂行上ノ要求(数量及時期)ヲ充足スル如ク関係各官庁ニ於テ措置スルコト

(三)計画造船用鋼材ノ売渡、割当証明、譲渡及譲受ニ関シテハ鉄鋼統制規則第三条(鉄鋼販買統制会社トノ契約ヲ製鉄鋼会社トノ直接契約トスル件)、第九条(鉄鋼割当証明書省略ノ件)及第十五条(造船所間ノ鋼材ノ彼此融通ヲ認ムル件)ノ但書ヲ適用スルモノトスルコト

(四)甲造船用鋼材ノ価格決定ニ関シ海軍省及主務官庁間ニ於テ別途協議ノ上之ガ簡易化ヲ行フコト

(五)甲造船関係工場ニ関シ海軍大臣ノ要望アル場合関係大臣ハ速ニ工場事業場管理令ニ基ク海軍管理ヲ認ムルコト

二、甲造船関係工場ニ関シテハ関係法令中左ノ通措置スルコト

(一)海軍ノ示達ニ基キ建設スル甲造船関係工場ニ対スル左ノ省令ニ依ル地方長官ノ職権ハ海軍官吏之ヲ行フ如ク措置スルコト

(イ)防空建築規則中

第二十条(一時ノ用途ニ供スル建築物ノ建築許可権)

(ロ)防空法施行規則中

第一条(空襲危害増大ノ虞アル建築物ノ新築、増築、改築移転ノ許可権)
第二条(危険物ヲ製造スル建築物ノ防空上必要ナル措置権)
第三条(一定工場ノ建築許可ノ件)
第四条(防空上必要ナル空地ニ於ケル建築物新築等ノ許可権)
(ハ)鉄鋼工作物築造許可規則中
第一条(鉄鋼工作物築造許可権)
(ニ)木造建物建築統制規則中
第一条(木造建築物新築許可権)
(ホ)市街地建築物法施行規則中
第百四十三条(一定ノ建築物ノ新築、増築、改築又ハ移転ニ対スル認可権)

(二) 海軍ノ示達ニ基キ建設スル甲造船関係工場ニ対スル左ノ勅令ニ依ル行政官庁ノ職権ハ海軍官吏之ヲ行フ如ク措置スルコト

臨時農地等管理令中 第三条及第五条ニ依ル地方長官ノ職権(農地ノ耕作以外ノ目的ニ対スル使用、購買、賃借等ノ許可権)

(三)重要事業場労務管理令ニ基キ厚生大臣ノ行フ就業時間及給与ニ関スル職権ニシテ労務官ヲシテ行ハシムル職権ハ甲造船関係工場ニ於テハ海軍官吏之ヲ行フ如ク措置スルコト

甲造船促進上緊急措置スベキ要項ニ関スル件 昭和18年1月20日 閣議決定引用終わり

木船建造確保ニ関スル措置要領 昭和18年4月16日 閣議決定

昭和十八年二月十九日閣議決定ニ依ル木船七〇万総噸(内地四〇万総噸)ノ建造ヲ確保スル為速ニ左ノ措置ヲ講ズルモノトス

一、労務ニ関スル事項
戦時標準型木船ノ船体機関又ハ艤装品ニ付政府ヨリ製造ノ命令又ハ指示ヲ受クベキ工場(以下乙造船工場ト称ス)ニ付速ニ左ノ如ク措置スルモノトス
(イ)国民動員計画ニ依ル第一種工場及労務調整令ニ依ル指定工場ト為スコト
(ロ)所要労務者ヲ確保スルモノトシ、之ガ工場別割当ハ逓信大臣ノ要求ニ基キ速ニ之ヲ充足スル如ク措置スルコト
(ハ)乙造船工場労務者ノ賃金ニ付テハ地方的事情ニ応ジ特例ヲ設クルコト
(ニ)乙造船工場労務者ニ付テハ工場就業時間ノ期限ヲ緩和スルコト

二、資材ニ関スル事項
(イ)木船建造用及乙造船工場設備新設拡張用資材ハ優先確保スルコト
(ロ)木船建造用資材及成品ハ生産、運輸及配給ニ関シ軍需品ト同様ニ取扱フコト
(ハ)木材ニ関シテハ期別、樹種別所要数量ノ絶対確保ヲ期スル為極力国有木材ニ依リ供給スル如ク措置スルト共ニ此際木材供給運動ニ依ル民有林材ノ供出ヲ促進シ当面ノ需要ヲ充当スル如ク措置スルコト
尚所要材入手ノ円滑迅速ヲ期スル為必要ニ応ジ木材統制機関ヲ通ゼズ産業設備営団又ハ造船業者ニ於テ直接買入契約又ハ素材伐採搬出ヲ為シ得ル途ヲ拓キ置クコト

(ニ)鋼材、鍛鋼、釘針金、鉄線等各種資材ノ生産ニ関シテハ逓信大臣ハ予メ商工大臣ト協議ノ上直接関係者間ニ契約ヲ為サシムルノ途ヲ拓クコト
尚右資材ニ付テハ割当量ノ範囲内ニ於テ屑鉄ヲモ利用スルコト

三、乙造船工場設備ニ関スル事項
乙造船工場設備ノ新設、拡張ヲ円滑迅速ニ行ハシムル為法令ニ基ク制限ノ緩和、手続ノ省略等ニ付適切ナル措置ヲ講ズルコト
木船建造確保ニ関スル措置要領 昭和18年4月16日 閣議決定引用終わり

財団法人 日本殉職船員顕彰会によれば、次のようにある。
「開戦時の日本商船は世界第三位の船腹だったが、米英と比較すれば八分の一に過ぎなかった。これらの船舶は戦時海運管理令によって、陸軍徴用(A)、海軍徴用(B)、民間船舶運営(C)に区別された。太平洋戦争における船員の損耗率は43%と推定され、陸軍の20%、海軍の16%を大きく上回っている。

こののような大きな犠牲の背景には、日本海軍が大艦巨砲主義による艦隊決戦を作戦の中心と し、輸送船団の護衛や敵輸送船団への攻撃には殆ど目を向けなかったという事実がある。」(日本殉職船員顕彰会引用)

日米開戦前、日本の商船保有総トン数は600万総トンで、世界第3位の海運国であった。そして、太平洋戦争中に400万総トンを建造した。しかし、戦争によって、次のように船舶を喪失していった。

   喪失隻数  喪失トン数
1941年    9隻    5万総トン
1942年  204隻   89万総トン
1943年  426隻  167万総トン
1944年 1,009隻  369万総トン
1945年   746隻  172万総トン
合計   2,394隻  802万総トン

喪失した船舶の総数は、このほか小型船、漁船や機帆船など木造船舶を加えると、7,000隻に達したという。戦没船員は6万名である。(太平洋戦争と海上輸送図録太平洋戦争における喪失商船と戦没船員数の推移引用)

船舶数の基準は昭和17年4月に設立した船舶運営会では100総トン以上の汽船とし、機 帆船は150総トン以上としている。100総トン未満の汽船、150総トン未満の機帆船につい ては何隻建造され、何隻戦没したか確実な隻数は未だに不明である。

 就役した船舶のうち陸海軍に徴傭された船舶数については、陸軍徴傭船行動調書および海軍徴傭船行動調書によればそれぞれ665隻、1,368隻合計2,033隻である。この中には内地で書類を交換して徴傭された漁船もあれば、外地で口頭による徴傭もあったように聞いている。また船主船長の船では殆ど親族関係者で乗組員が構成され、一家全滅といったことも発生していることから、具体的な状況が把握出来ないままとなっている。この場合戦没者名簿には氏名はあるが、船名が不明、戦没海域が空白となっている。

船舶喪失数
 史料名               航空機 潜水艦  触雷  砲撃  不明   合計
戦時船舶史                941  1,178   270   37     7   2,433隻
日本商船隊戦時遭難史        902  1,153   250     9    80   2,394隻
太平洋戦争戦没者遺骨蒐集大鑑  1,078  1,263   304   24    85   2,754隻
船舶運営会喪失艦船一覧        902  1,153   250   9     80  2,394隻
海上護衛戦                750  1,150.5  210   16.5   16   2,143隻
(小数点があるのは潜水艦が攻撃していることには違いがないが、史料では雷撃か砲撃か定かでないとして半々としている)
砲撃には各種艦艇・陸上からも含む。
航空魚雷の被害は航空機からの攻撃に含む。
駆逐艦・魚雷艇等水上艦艇からの魚雷攻撃による被害は数隻あるが潜水艦からの攻撃とした。
「日本商船隊戦時遭難史」は船舶運営会の記録を元に集計されていることから数値は同じである。
「太平洋戦争戦没者遺骨蒐集大鑑」では多く、「海上護衛戦」では少なくなっているが、これは「太平洋戦争戦没者遺骨蒐集大鑑」では重複している船舶があり、「海上護衛戦」では総トン数を500総トン以上としているためである。
戦中・戦後における喪失商船 大井田 孝 (戦没した船と海員の資料館 研究員)引用

2.米空母任務部隊は,1945年3月,沖縄攻略の前段階として,沖縄,九州,本州を艦載機で攻撃した。日本陸軍は沖縄を持久戦の場として,本土決戦の時間稼ぎあるいは「捨石」として位置づけた。しかし、日本政府は、沖縄の民間人ODAことを配慮していて、前年から避難計画を進めていた。1944年7月中旬,沖縄では学童疎開,一般疎開によって,住民8万人を日本本土へ,2万人を台湾へ疎開させる計画があった。1944年8月22日,那覇を出航し長崎に向かった対馬丸も,疎開船の一隻である。  

米海軍太平洋艦隊司令長官および太平洋方面総司令官のニミッツ元帥は、1945年(昭和20年)3月に沖縄攻略計画「アイスバーグ作戦」に着手した。米軍は,日本本土に上陸・占領しなければ日本は降伏しないとの判断の下に,1945年4月〜10月に沖縄を攻略し,1945年10月〜1946年2月には志布志湾から九州を攻略する「オリンピック作戦」を実施する計画だった。最後に,九十九里浜から関東地方,東京を攻略する「コロネット作戦」まで計画していたのである。

 米軍が沖縄を攻略できれば,台湾、中国沿岸、日本本土のすべてが、爆撃機の攻撃圏内に入る上に,中国・南方から日本本土への交通線,特に海上輸送ルート(シーレーン)は,完全に遮断される。また,沖縄に航空基地を整備すれば,日本本土を攻撃した爆撃機の不時着基地としても活用できる。

対馬丸撃沈事件:対馬丸記念館   


写真(右):対馬丸(排水量6754トン);大正初期の1914年12月に英国で建造された貨客船で,1944年当時は11ノットの旧式低速船であった。


7月7日にサイパン島が陥落し,次は本土,沖縄方面に来襲すると考えた日本軍は,政府に本土(北海道,本州,四国,九州),沖縄で疎開を進めるように要請した。家族ごとに疎開する「一般疎開」、学校ごとに生徒・教員が疎開する「学童疎開」があったが,予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人と大量であった。このような疎開は,沖縄住民を戦火から守るといった配慮のほかに,隠された意図があった。(→対馬丸遭難:沖縄関係資料閲覧室) 

7月18日、政府の方針にもとづいて発表れた大阪府の「学童疎開並びに避難要項」によれば,その方針は次のようなものである。

1.学童の疎開は縁故疎開によるを原則とする。
2.縁故疎開困難な場合,強度の勧奨による集団疎開とする。
3.疎開できないものは必要に応じて集団避難を実施する。
4.疎開・避難側も、受け入れ側も、ともに共同防衛の精神であたる。

疎開とは,戦力維持・陣地構築のために,戦力化できない住民・子供,余分な食糧や施設が必要になる住民を,戦闘区域あるいは戦闘予想区域から引き離すことである。こうした疎開の実態は,学童疎開600日の記録,全国疎開学童連絡協議会の語り継ぐ学童疎開に詳しい。

1944年7月19日,沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し,学校単位で疎開事務を推進し始めた。これは,沖縄防衛のために多数の兵士が,本土,台湾,中国大陸から沖縄に移駐することになり,その食糧・用地・施設を確保するためには,沖縄住民,民間人が足手まといになるからである。特に,学童は,労働力,食糧生産にも寄与できない従属人口であるから,沖縄の防衛強化のためには,学童を少なくする必要があった。こうして,1944年7月から1945年3月の最終疎開まで、沖縄から出航した疎開船は,延べ187隻,疎開者は約8万人に達する。

1944年8月21日,対馬丸(排水量6754トン)は大正初期1914年12月に日本郵船が貨物船陣の刷新を図るため、プロトタイプとして英国に発注した船である。太平洋戦争当時は,既に二線級の旧式船だったが、開戦当初から陸軍軍隊輸送船として行動していた。


写真(上左):対馬丸など5隻の日本船団の配置と進水した写真(上右):米潜水艦「ボーフィン」USS Bowfin (SS-287) ;日米開戦の一週間後,1941年12月15日に建造か開始された米潜水艦「ボーフィン」。1942年12月7日,真珠湾攻撃から1年後に竣工。「真珠湾の復習者」"Pearl Harbor Avenger." と名づけられた。1944年8月22日に,「ボーフィン」が対馬丸を撃沈し,学童775名を含む1788名が殺された。米潜水艦は,漂流する民間人の救助は行っていないが,5人の子供が日本側に救助され,ひっそりと沖縄に戻されてきたという。


日本郵船は,大正2年(1913)欧州航路臨時船として徳島丸を更に改良した7,500総トン級、速力11ノットの貨物船6隻の建造を決定した。うち英国で建造されたのが對馬丸と高田丸であり,国内では豐岡丸と富山丸が三菱長崎造船所、豐橋丸と徳山丸が川崎造船所で建造された。

対馬丸は,1944年8月22日,疎開者、乗員、船舶砲兵隊員の合計1788名を乗せ、同じく疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸,暁空(ぎょうくう)丸という2隻の商船と護衛の砲艦「宇治」と旧式駆逐艦「蓮」の合計5隻で那覇港を出航し,長崎へ向かった。

対馬丸に乗っていた学童・一般疎開者は1,661名,乗員と船舶砲兵を含め,乗船者は合計1,788名であった。

小学校(国民学校)やその両親・保護者の中には、沖縄からの疎開に消極的なものが多かった。当時、日本軍が大敗走していることは、日本国民、沖縄住民には知らされていなかった。沖縄に危険が迫っていると怯えていた住民は少なかった。そこで、小学校(国民学校)担任教師は、生徒の家庭に疎開に応じるように説得に回った。


写真(上):米潜水艦「ボーフィン」
;オーストラリア西部フリーマントールで叙勲される乗員たち。Bowfin's (SS-287) crew receiving the Presidential Unit Citation from Admiral Christie upon return from the second War Patrol. Bowfin is moored alongside Orion (AS-18) in Freemantle, Austraila.1971年12月から,USS Bowfin潜水艦博物館に展示されている。真珠湾の戦艦「アリゾナ」記念館(アリゾナメモリアル)入り口隣にある。敗北と勝利が隣り合っているが,1995年当時,潜水艦博物館への訪問者は僅かだった。Redesignated Miscellaneous Submarine (IXSS-287) in 1971; Struck from the Naval Register, 1 December 1971; Final Disposition, on permanent display as a memorial at the USS Bowfin Submarine Museum & Park, Pearl Harbor, Hawaii.

3.1944年8月23日,那覇を出航し長崎に向かった学童疎開船対馬丸は,米潜水艦「ボーフィン」に撃沈され,学童疎開者755名を含む1700名以上が殺された。 

国民学校令第一条 「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」に基づいて教育を受けた沖縄の小学生たちが、対馬丸で九州に疎開しようとした。しかし、アメリカ軍は、日本軍の暗号解読に成功しており、航行する日本の船舶(民間船)、艦船(軍艦)を効果的に待ち伏せていた。アメリカ軍は、対馬丸の航行についても、日本側の無電を傍受し解読翻訳していた。

アメリカ軍は、対馬丸ほか3隻の船舶が、護衛艦2隻のエスコートされ、「8月16日16時に上海から那覇へ向けて出航する、那覇には19日13時到着の予定」との情報を確認していた。対馬丸は、那覇から九州鹿児島に向かう途上、哨戒中のアメリカ海軍潜水艦「ボーフィン」に待ち伏せ、撃沈された。

1944(昭和19)年8月22日22時すぎ、疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人を乗せた学童疎開船対馬丸は、鹿児島県の悪石島の北西10劼涼賄世如▲▲瓮螢海軍潜水艦「ボーフィン」は魚雷3発を発射、対馬丸は、11分後に沈没した。対馬丸の死者は、学童約 800人を含む1,400人以上である。

1944年8月22日2223,鹿児島県悪石島の北西10kmで対馬丸撃沈を成し遂げたのは米潜水艦「ボーンフィッシュ」である。死亡した疎開者の内訳は,7才から14才の学童疎開者775名(引率者を含め804名),一般疎開者569名である。

死亡した学童の在籍国民学校(小学校)は,那覇207名、甲辰103名 垣花100名などとなっている。死亡した一般疎開者の出身地域は,那覇市 143名,名護市108名,読谷村 53名と本島中南部が多いが,最北部の国頭村22名,離島の座喜味村2名,粟国村 3名なども判明している。対馬丸乗員(船員)の死者24名,船舶砲兵の死者21名を含め,対馬丸撃沈に伴う犠牲者は合計1,418名で,学童が775名と過半数を占めた。救助されたのは59名。

救助され鹿児島に連れてこられた子供たちは、上陸すると憲兵隊によって対馬丸遭難のことを口外しないよう、箝口令がしかれた。

対馬丸は,沖縄から九州あるいは台湾に向けて住民を運搬した疎開船の一隻であるが、国民学校(1941年3月以前の小学校)の学童が過半を占めた。学童だけの疎開船ではないのは当然だが、乗客・使者に学童の比率が他の撃沈船舶よりも圧倒的に高い。したがって、「沖縄県民が「学童」とつけるとより悲劇的に聞こえるだろう」とか「事実を誇張・歪曲し報道している」というのは誤認である。対馬丸撃沈は、親と離れた子供たちが、疎開途上で無残にも殺されたという「学童の悲劇」を伝えるものである。

貨物船「対馬丸」の遭難者データについて,政府は対馬記念館と異なる犠牲者数を上げている。
竣工年 :大正3年12月22日(1914年)
沈没年 :昭和19年8月22日(1944年)
総トン数:6,754トン
主  機:レシプロ 2基
長  さ:135.64m,幅:17.68m,深さ:10.36m
航海速力:12ノット(最大13.72ノット)
建造所 :英国ラッセル会社(RUSSEL&CO.)
遭難の状況
(1) 沖縄学童疎開のため、学童、教師、付添人等1,661名を乗せ、那覇より長崎へ向け航海中、米国潜水艦の攻撃を受け沈没。
(2) 沈没年月日及び場所:1944年8月22日午後10時23分頃,鹿児島県大島郡十島村悪石島西北沖
(3) 死亡者数:1,484名(うち学童738名)


写真(左):1943年5月13日ポーツマスをし出航する米潜水艦「ボーフィン」;Bowfin (SS-287) leaving Portsmouth, NH., on 13 May 1943 for her first diving operation & trials.

SS-287 USS Bowfin潜水艦ボーフィンのデータ 
排水量: 1,526 tons(浮上時), 2,424 tons(潜水時)全長: 311フィート,全幅: 27'3",
速度: 20 knots(海上), 9 knots(海中),
武装: 1 5"/25, 4 20mm AA, 2 20mm, 6 bow and 4 stern torpedo tubes, 24本の21インチ魚雷,
乗員: 80名 ディーゼルエンジン, 電動モーター; twin screws; 6,500馬力(海上)/2,750 馬力(海中)
ポーツマス海軍工廠Portsmouth Navy Yardで建造, 1943年5月1日竣工。

対馬丸撃沈は国民には秘匿され,撃沈を知る人々には箝口令がしかれた。そのため,対馬丸撃沈に伴う犠牲者や生存者に関する調査は行われないままで,沖縄に残された家族にも安否が伝わることはなかった。また,2ヶ月と経過していない10月10日には,米空母任務部隊艦載機が沖縄を大空襲した。これは,「10・10空襲」と呼ばれるほど激しいものであった。

4.米海軍潜水艦部隊は,太平洋戦争開始直後から,軍艦だけではなく、民間人も乗り込んでいる商船・輸送船も無警告に攻撃する「無制限潜水艦作戦」を発令した。日本の潜水艦部隊が,航空母艦や戦艦など大型軍艦を主要攻撃目標としていたのに対して,米国潜水艦部隊は,日本の海上輸送,交通戦を破壊することを主眼とした。当初は、魚雷の不備で戦果は少なかった。しかし、魚雷信管が改善され、1943年には、多数の輸送船を撃沈するようになり、日本の海上輸送は危うくなっていた。  

日本は石炭以外,国内資源が乏しく,海外の石油,鉄鉱石に依存した工業であった。つまり,海上輸送による原材料の供給が日本本土になされることで,日本の工業生産が持続できるのであり,この商船による海上輸送が断たれ,原材料の在庫がそこを就いてしまえば,工場は稼動できなくなる。


写真(左):1944年8月,米潜水艦「ケイト」USS Kete (SS-369)の艦橋:潜望鏡のほかに,探照灯,無線塔,SJレーダーが並んでいる。


そこで,米軍は戦前からこの弱点に目をつけ,対日戦争が開始されれば,海上交通は破壊,商船攻撃のために,潜水艦を活用する作戦であった。1941年12月7日(米国時間)、真珠湾奇襲攻撃の3時間後には、準備してあった51隻の潜水艦を西太平洋に出撃準備させたが,同時に、敵側の物資を運搬する枢軸国・中立国の民間船,商船を無警告で攻撃する「無制限潜水艦作戦」を発動した。 

1944年には,太平洋,インド洋方面に配備された米国潜水艦は,約200隻であり,大型商船だけではなく,漁船,機帆船など小型舟艇も浮上して艦砲射撃し撃沈した。

しかし,日本海軍は、開戦以前から,艦隊決戦に潜水艦を準備しており,潜水艦によって連合国の補給路,海上交通を破壊しようとする作戦は,ごく補助的なものとされた。米潜水艦による海上輸送への攻撃にも,十分対策を考慮していなかった。つまり,日本の輸送船を敵潜水艦攻撃から護衛する準備に不足していた。駆逐艦は,軍艦護衛用であり,商船護衛用の艦艇は,旧式の小型駆逐艦,水雷艇,掃海艇,漁業保護目的の海防艦などしかなかった。


写真(上):潜水艦「バラオ」USS Balao (SS-285)
;写真(左)はメア島海軍工廠Mare Island Navy Yardで1944年10月25日撮影。写真(右)は,哨戒任務からグアム帰投したところで,1945年撮影。Returns to a Pacific base following a successful war patrol, circa early 1945. The location is probably Guam. 米軍の潜水艦攻撃と空襲を受け,海上交通は麻痺していた。制海権,制空権を奪われた海域では,輸送船団はもちろん,艦隊であっても航行は困難である。



写真(上):B25爆撃機に攻撃され日本の艦船;米陸軍航空隊所属の双発陸上爆撃機は低空からの「反跳爆撃」で多数の日本の艦船を撃沈した。左写真は,爆撃された日本海軍駆潜艇。左写真は,1943年ブーゲンビル島付近で撮影された沈む日本輸送船。輸送船を護衛すべき船団護衛艦艇を日本軍は軽視し,資源,人員,技術を試みなかった。敵艦船の撃滅のために,連合艦隊は大型駆逐艦以上の艦艇を重視した。


開戦当初の日本陸海軍の上陸作戦には,徴用された民間船を海軍の駆逐艦,掃海艇などの艦船が護衛したが,資源の輸送に当たった民需用の商船の護衛はなかったし,船団を組まない単独航行が多かった。対潜護衛を強化するどころか,本土周辺の局地警備の部隊は,前線に艦船や人員を送り出すようになる。

1943年になると商船の撃沈が増加し,輸送力が減少してきたために、民需用の商船も船団を組ませ,護衛艦艇を少数配備するようになった。

民間船の護衛は,当初は,旧式の小型駆逐艦,水雷艇,掃海艇など雑多な余剰艦艇をかき集めただけであったが,1944年からは,対空戦闘,対潜水艦戦闘を念頭に置いた新型の海防艦の建造が軌道に乗った。急造の海防艦は,レーダーやソナーを備えてはいたが,性能が不十分だった。米海軍の電波兵器と日本海軍の望遠鏡とでは,探知・射撃管制能力に差がありすぎた。

日本海軍の,対潜水艦兵器は,ドラム缶形の爆雷,それを改良して沈下速度を向上させた涙滴型爆雷が作られたが,連合国の護衛艦が搭載していた前方投射型の小型爆雷「ヘッジボッグ」を実用化できず,対潜攻撃力が劣っていた。機雷原も日本や占領地の港湾・海峡などを中心に設定されたが,機雷を積極的な対潜水艦攻撃に使うことはできない。逆に1945年になると,B-29爆撃機による空中からの機雷投下・敷設が行われ,日本各地の海峡は閉塞されてしまう。

まれに日本軍が米潜水艦を洋上で撃沈することもあった。1945年1月12日,潜水艦「ソードフィッシュ」USS SWORDFISH (SS-193)は,沖縄方面で行方不明になり,89名が戦死した。これは,日本軍の仕掛けた機雷かあるいは航空機から投下された爆弾によると考えられている。


写真(左):1943年1月26日,潜水艦「ワフー」USS Wahoo (SS-238)に撃沈される輸送船「ブヨウ丸」
;ニューギニア北岸で撮影。
写真(右):1942年秋,潜水艦「シーウルフ」USS Seawolf (SS-197)に撃沈される輸送船
;1943年以降,海上交通は危機に瀕していた。日本の輸送船を護衛する海防艦が装備している12センチ砲は、対空射撃が可能ではあるが、弾込め(装弾)は手動なので、高射姿勢のまま、連続発射は困難である。また、射撃装置は、目視により、レーダー管制ではない(全ての日本の軍艦に当てはまるが)。25ミリ機銃は、有効であったようだが、射撃管制装置がついていないので、命中率は低かった。Naval Historical Center


決定的に出遅れたのは,航空機による対潜哨戒である。航空機による対潜哨戒は,戦前は準備しておらず,航空機不足から,旧式の単発機や水上機の一部を充当しただけであった。1944年後半からは,双発の大型対潜哨戒機が配備されたが,レーダー搭載機は少ない上に,搭載されたレーダーの性能は低く、故障も多かった。そこで,対潜哨戒の大半は,目視による敵潜水艦発見に頼っていた。これでは,夜間浮上している潜水艦を発見するのは困難である。


写真(上):1943年4月23日,潜水艦「シーウルフ」USS Seawolf (SS-197)に撃沈される哨戒艇第39号;;Sinking after being torpedoed by USS Seawolf (SS-197) on 23 April 1943. Photographed through Seawolf's periscope.艦隊決戦を行う連合艦隊だけを重視し、船団護衛を軽視した。日本海軍は、対中国戦争における癖が抜けきらず、日米開戦当初、物資輸送船団の護衛をせず,船団護衛艦艇をほとんど準備していなかった。連合艦隊至上主義で,戦艦,空母の護衛は考慮しても,民間船の護衛はしたがらなかった。 Naval Historical Center


対馬丸メモリアルデー:SS-287 USS Bowfinの行動 
潜水艦ボーフィン号で魚雷発射任務に就いていた米海軍下士官アーサー・カーター元二等兵曹(現在84歳)は、琉球新報インタビュー「子供乗船『知らなかった』対馬丸攻撃の米潜水艦乗員が証言」でこう答えている。 

どのような命令を受けていたのか。
 「日本の艦船を沈めるのが私たちの任務だった。商船のように見せ掛けて軍艦かもしれないし、(商船が)燃料など軍事物資を積んでいることもある。真珠湾攻撃の後、米海軍の総司令官は米大統領と米議会の同意の下、日本、ドイツ、イタリアに対し、潜水艦による無制限の戦いを命じた。太平洋や大西洋、そのほかの指定された戦闘地域を航海しているこれら3カ国の船であれば、種類を問わず撃沈させるという意味だ。軍需物資や原料の輸送を防ぐためだった」

対馬丸に子どもたちが乗船していたことを知っていたか。
 「戦後35年ほどたってから、誰かが書いた本で知った。罪のない子どもたちが巻き込まれたことは、かわいそうなことだと思う」
知っていたらどうしたか。
 「答えるのがとても難しい質問だ。潜水艦の命令を出せるのは、たった1人の人間(艦長)で、彼の責任は重大かつストレスが重くのしかかっている。普通の人間であれば、戦争中であれ、無実の人々を殺そうと思う人はいない。私には何とも言い難い。もし、私が知っていたなら、(魚雷を)撃たなかったと思う」


写真(右):米潜水艦「ボーフィン」の戦闘旗
;日の丸は商船撃沈,赤枠白丸は商船撃破。海軍旭日旗は,軍艦撃沈。海軍白丸旗は軍艦撃破をあらわしている。フランス国旗は,ドイツ協力派ヴィシーフランスの商船撃沈。

 だが、カーター元二等兵曹の証言は正しいのだろうか。「ボーフィン号航海日誌」(米国立公文書館)の調査を行った保坂広志琉大法文学部教授は琉球新報「対馬丸出港前から攻撃目標にで次のように発表している。
 1944年8月18日 鳥島南西海上で哨戒。
 8月19日 粟国島北東海上を哨戒。
 午前6時 煙発見。
 午前6時38分 三隻の船団発見。2隻に接近。中型輸送船2隻、小型輸送船1隻。駆逐艦3隻。
 午前7時7分 潜望鏡で見る。目標は4000ヤード。船団は那覇港へ向け基本航路を進み続けている。追跡を続ける。しかし接近に失敗。本艦は進行角度を変更し1時間ほど作戦を続行。予想航路を計算し損ねたようだ。引き続き追跡。スクリーンには船団の存在が確認されている。再び本艦が進行角度を変更。深度のコントロールを誤る。目標の船団が進路変更。魚雷発射が不可能になる。一時は目標を撃沈する位置につけていながら、絶好の機会を逃してしまった。残念極まりない失敗。
 8月20日 伊江島西方海上を哨戒。
 8月21日 久米島北西を哨戒。
 8月22日 鳥島南海上を哨戒。
 午前4時10分 船団発見。
 (中略)  午後8時21分 悪石島を攻撃場所と決める。
 午後9時15分 アグニ丸(対馬丸)を目標に定める。
 午後10時11分 対馬丸に魚雷命中。
 午後10時21分 対馬丸が姿を消す。ボイラーが爆発したようなこもった激しい爆発音が三度聞こえる。火災が消え、レーダーにも映らない。

 別途戦時遭難船舶遺族会が入手した米軍の無線傍受記録によれば、対馬丸含む輸送船団が中国を出発して那覇に向かっていることを米軍は事前に知っていた。那覇で民間人の大量乗船が行われたことは知り得なかっただろうか。また、記録中、対馬丸が「アグニ丸」とされているが、米側のコード名なのか不明だ。(→対馬丸メモリアルデー:SS-287 USS Bowfinの行動引用)


写真(左)米潜水艦「レッドフィン」USS Redfin (SS-272),:排水量: 1,526 t 全備排水量: 2,424 t.; 速力 海上20.25 kts, 海中 8.75 kts; 乗員 将校6名,下士官・兵54名, 潜水限度 300 ft; 哨戒日数75日; 航続距離 11,000 miles/10 kts; 武装 21インチ魚雷24本 魚雷発射管 前方6門,航法4門。1944-44年撮影。
写真(右):1942年秋,潜水艦「シーウルフ」に撃沈される日本商船;米海軍は,資源,人員,兵器を運搬する輸送船を攻撃し,日本を海上封鎖した。日本の潜水艦は,敵歓待の空母や戦艦の攻撃・偵察を主目標として出撃したが,米軍潜水艦は,日本の船舶の撃沈を優先した。


5.日本では,多数の学童の命を奪った対馬丸の悲劇が強調され,遺骨収集の要請がなされた。そして,深海探査用の潜水艇を使用して、大規模な対馬丸沈没位置確認調査が実施された。  

「対馬丸」製作:対馬丸製作委員会・協力:対馬丸遺族会
「老巧船だからスピードが出ない。ジグザグコースを走って潜水艦攻撃を避けるべきだ」「しかし、それでは到着が遅れる」輸送指揮官が船長を制して、船はほぼ直線に進んだ。 
「今夜さえ無事なら、明日は本土につく。眠らないで警戒しよう」教師たちは、万一を考えて、なるべく子供たちは、甲板に眠らせた。
しかし、半数も甲板に上げれば、もう横になる場所もないのだった。昨夜騒ぎすぎた子供たちは、その疲れか、早くからぐっすりと眠り込んでいた。
22日夜10時12分  「ドーン」  第一弾命中、つづいて第二段、第三弾。三発の魚雷を受けた対馬丸は天に届くような火災を発生して11分後に沈没。
船艙内は大混乱だった。目を覚まさない子供たちを教師は投げとばして起す。人の頭をふみながら縄梯子に殺到する子供たち。
甲板では、船員や高学年の子供が、舷側を越えられない子供たちを海に投げた。親子で、子供たちどうしで、手をとりあって海に飛び込む。しかし、大半の子供たちは船とともに沈んだ。
浮遊物やイカダにつかまった子供たちを、台風の高波が襲う。フカが襲う。運が良い者は翌日漁船に救われる。6日目に島に流れついた子もいる。8日目に助かった者もいる。約一ヵ月後、5人の子供たちがひっそりと沖縄に戻されてきた。絶対に沈没の秘密を守るようにといわれて。(→「対馬丸」製作:対馬丸製作委員会・協力:対馬丸遺族会引用)


写真(右):1943年4月24日の米潜水艦「ボーフィン」の歓迎パーティー;潜水艦乗員の親類・友人たちは,息子・夫・恋人が日本人を殺害するのを奨励していたのか。それとも,船舶・艦船の撃沈して,彼らが無事帰還することを願ったのか。Her commissioning party was held on 24 April 1943 at the Pannaway Club in New London, followed a week later by her formal Commissioning Ceremony held on her main deck on the first of May.


米潜水艦「ボーフィン」は,商船15隻,護衛艦1隻の合計6万8,032トンを撃沈した。この殊勲の潜水艦を記念し保存するために,1971年にSS-287 USS Bowfin潜水艦博物館がハワイの真珠湾に設立された。潜水艦ボーフィン戦友会も活動している。


写真(右):1943年の米潜水艦「デース」USS Dace (SS-247);1944年10月、レイテ湾突入を図る栗田艦隊を発見、攻撃した。僚艦「ダーター」SS-227は、重巡洋艦「愛宕」を、「デース」SS-247は重巡「摩耶」を撃沈した。1941-42年に73隻就役したガトー級潜水艦を改良したのが、「デース」の属するバラオ級潜水艦で、潜航可能深度が向上している。1943-47年に132隻が就役。


1987年2月4日に喜屋武眞榮が参議院議長藤田正明に出した「疎開船「対馬丸」に関する質問主意書」
 「先の大戦末期における沖縄から九州への学童疎開船「対馬丸」遭難に関しては、大別すれば、(1)遭難者及びその遺族に対する措置、(2)遭難者の遺骨の収集・引上げの二つの問題があり、関係者の積年にわたる努力により、(1)については不十分ながらも事態の打開がはかられ、遺族に対する援護等の措置が行われたところである。しかし、(2)については、----依然として前向きの対処がなされていないのは誠に遺憾である。
 我が国においては、遺骨に対する感情は特別なものがあり、祖先崇拝の念厚い沖縄においてはさらに格別である。また、いたいけな学童を主体とする遭難である本件の場合、特別の配慮を要するものであることは論をまたない。このようなことから、昨年五月十五日の疎開船対馬丸遭難者遺族会総会においても対馬丸沈没地点の確認について決議がなされ、また本年一月の同遺族会においても同様の要請が行われた。かかる事態を踏まえて質問を行う。
 政府においても、今日の我が国の繁栄の人柱として南海の海原に消えた幼い死者と老いたる遺族の心情に思いをいたし、深情ある心こもつた答弁を行われたい。」


写真(上):米潜水艦「ボーフィン」に撃沈された学童疎開船「對馬丸」
;1997年12月12日海底で確認された對馬丸の船名。北緯29度31.93分、東経129度32.90分,水深871m。USS Bowfinに沈められた「対馬丸」の船首部分1997年12月12日撮影の映像。平成9年12月16日海洋科学技術センターの発表。

日本も対馬丸撃沈を追悼・記念する対馬丸記念館を作っているし,科学技術の粋をいかして沈没した対馬丸調査を行い,平成9年12月,支援母船「なつしま」と深海探査機「ドルフィン3K」を投入し、物体をカメラにより確認するための調査船体の撮影をした。

1997年12月の無人探査機により870メートルの海底に対馬丸の船体が確認された後,厚生省は1998年3月7日に,確認された船体の洋上において対馬丸慰霊式を行った。海上慰霊式には,遺族関係者309名,厚生大臣,沖縄開発庁長官,沖縄県知事など計421名が参加。参加者は,3月6日夜,沖縄県那覇新港より乗船,翌7日午前8時30分に対馬丸沈没海域に到着し,船上における慰霊式の後,甲板から海に生花などを投げ入れ,心ゆくまで亡くなった方々への慰霊を行ったという。

6.1944年には,日本の海上交通は,米軍潜水艦,空母任務部隊,航空機の攻撃にさらされ,麻痺状態になってしまった。しかし,米軍は,フィリピン攻略,沖縄攻略と,日本と東南アジア・中国との海上輸送を完全に遮断し,あわせて本土侵攻を準備した。  

天皇臨席の下に開かれる,1944年8月19日の最高戦争指導会議で,「世界情勢判断および戦争指導大網」を下し、本土空襲と海上交通破壊を取り上げ,戦争継続・遂行を決定した。

戦争指導ノ大綱
 帝国ハ,---米英必死ノ反攻ニ対シ戦争目的ノ完遂ニ邁進シ---世界情勢ノ推移ニ鑑ミ,----昭和19年末頃ヲ目途トスル情勢ノ推移ヲ観察シ,戦争指導ノ方策確立ニ資セントス

     敵ハ,帝国ニ対シ短期終戦ヲ目途トシ各方面相策応シツツ組織的総攻勢ヲ続行スへク,特ニ本土空襲及ヒ本土卜南方地域トノ分断ヲ目的トシ太平洋及ヒ大陸方面ヨリスル攻勢作戦ニ依リ戦局ノ急速ナル進展ヲ企図スへシ,又右戦局ニ伴ヒ本土上陸ノ機ヲモ窺フコトアルへシ尚敵ハ,其ノ武力攻勢ニ策応シ政謀略ヲ益々激化シテ我カ戦意ノ喪失ヲ企図スルト共ニ大東亜諸国家諸民族ノ対日離間ヲ激化スへシ

1.本土空襲
 帝国本土ノ生産設備,交通施設及ヒ主要都市ノ徹底破壊ヲ以テ我カ戦意ノ喪失,国力ノ低下,国民生活ノ混乱ヲ企図シ併セテ本土上陸作戦ノ機ヲ作為セントスル敵ノ空襲企図ハ,支那及ヒ太平洋基地ノ整備卜機動部隊ノ活動トニ依リ概ネ8月以降逐次連続執拗且ツ大規模ニ実施セラレ,其ノ空襲被害ノ帝国戦争遂行力ニ及ホス影響ハ軽視ヲ許ササルモノアルへシ

2.海上交通破壊
 今後敵ノ我カ海上交通破壊作戦ハ,在支航空部隊ノ活動卜相俟ソテ南西諸島,比島方面ニ対スル潜水艦ノ集結使用,機動部隊ノ挺身行動等ニヨリ益々活発化シ船舶ノ被害ノ、増加スへキモ,比島及ヒ南西諸島方面ニ対スル敵航空基地獲得ノ企図達成セラレサル限リ本土卜南方地域トノ海上交通ノ、概ネ維持シ得へシ

写真(右):1942年11月3日,潜水艦「シーウルフ」に狙われる相模丸
;フィリピン南部ミンダナオ島ダバオ沖で撮影。

1944年10月にも,台湾・沖縄方面を艦載機で空襲した米海軍任務部隊(日本で言う空母機動部隊)であるが,1945年1月21日1152,再び沖縄方面の飛行場を攻撃した。このとき,特攻隊が,台湾南部とフィリピン北部の飛行場から出撃した。
1945年1月22日0650-1940:南西諸島に航空機約780機による波状攻撃をかける。
1945年3月1日:米空母任務部隊艦載機,沖縄本島を空襲。港湾,航空基地を中心に波状攻撃650機。

天号作戦指導要領
1,1945年3月末を目途に航空作戦準備を完成し,来攻部隊を撃破する。 
2,航空作戦の主要目標は輸送船団。
3,米空母任務部隊の撃滅のために,空母部隊が本土に来攻した場合,本土配置の特攻兵力の全力を使用する。また,南西諸島方面に来攻した場合,特攻兵力の一部を使用する。
4,航空基地を整備し,地上部隊による確保にも配慮する。

南西諸島とは、九州南方から台湾東方にかけて点在する諸島で、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島などがあるが,本webでは沖縄方面という語句を使用する。


写真(上):潜水艦「フライヤー」USS Flier (SS-250) ;1944年4月,海軍工廠で竣工時に撮影。艦橋にはSJレーダーを装備している。前甲板 には4インチ砲1門を装備。



写真(左):1944年9月18日、スマトラ島沖で、英国潜水艦に撃沈された巡洋丸; 氏名のわかっているオランダ軍捕虜1382名、米軍捕虜8名、オーストラリア軍捕虜3名の連合軍捕虜と4000名とジャワ島労務者の合計5620人が乗船していたが、英国海軍潜水艦「トレード・ウェンド」に雷撃され撃沈。捕虜も大半が溺死した。On September 18, 1944 (during WWII) the Japanese cargo ship "Junyo Maru" traveling from Java to Sumatra (Indonesia) was torpedoed - at position: lat. 02 degs. 52 mins. S. & long. 101 degs. 12 mins. E. in the Indian Ocean, West off Sumatra near Mukomuko - by the British submarine H.M.S Tradewind.


太平洋戦争とその後をめぐる日蘭対話の集い(2006年ウーフストヘースト)から引用した密林の中の死の鉄道:ヘンク・ホヴィンガ Henk Hovingaの証言引用(巡洋丸で遭難した捕虜たちの同僚)
食べ物はお粥と鼠でした。疲労、マラリア、赤痢、脚気その他の熱帯病が彼らの命を奪いました。だが、日本が休戦を宣言し、---1945年8月15日のまさにその日、ムアラまでの死の鉄道、パカンバル線は完工した。
   スマトラ中部の密林をぬって敷設された全長220kmの線路の工事に狩り出された、骨と皮ばかりに痩せ細った生存者達は日本の降服については知らず、北と南とから同時に建設された線が連結される式に列席を許されなかった。わずかに数人だけが遠くからこの儀式を目撃し、どら声の日本語による命令、来賓による祝辞、そして最後に熱狂的な万歳の声を聞いた。1945年8月15日のことである。
日本の占領軍の命により、オランダ人、英国人、豪州人の捕虜ならびに強制的に狩り出されたジャワ人労務者によってスマトラの熱帯林をぬって建設されたこの鉄道は700人の白人と混血の現地人、ならびに少なくとも8万人のジャワ人の死者を出した。この数字には、これもパカンバル線建設現場へ輸送中、スマトラの東岸並びに西岸で英軍潜水艦によって撃沈されたヴァンワールワイク号と巡洋丸にのっていて犠牲となったおよそ1800人の捕虜は入っていない。
   ジャワ島で狩り出された労務者の正確な数は不明。この悲劇についての詳しい情報を含んだ書類の多くが、セマランで終戦直後の独立運動のどさくさの中で消失した。しかし、日本人にとっても、またその配下にあった朝鮮人にとっても、ジャワ人の命は白人よりずっと軽かった。労務者には、土堤を築いて線路を敷設するという一番つらい工区が割り当てられましたが、食料もお粗末、医薬品もゼロに等しい状態だった。狩り出された何万人もの、無名のジャワ人労務者の遺体の断片が鉄道がもとあったところに転がっていることは確実であろう。1945年の9月以来、この路線を一台の貨車も走ったことはない。-----
   総数30万にも達するインドネシア人労務者は、パカンバル鉄道建設のみならず、当時日本の占領下にあった東南アジアから太平洋諸島まで、港湾、飛行場、防空壕建設等に従事した。悪名高い泰緬鉄道の建設にも狩り出され、無数の犠牲者を出している。

パカンバルでの強制労働に向かう途中撃沈された艦船に乗船していた捕虜と労務者
ヴァン・ワールワイク 1944年6月26日:溺死者、176名
巡洋丸 1944年9月18日:溺死者、5620名(うち労務者4000名)
溺死者合計 5796名(引用終わり)

特攻による米国商船の被害一覧によれば,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は6隻。
沖縄で被害を受けた米国の商船は,特攻,爆撃,魚雷,機雷,友軍の誤射など合計24隻,撃沈は4隻。

空母を攻撃した特攻機 によれば,米軍は東京とサイパン島の中間にある硫黄島に上陸してきたが,特攻攻撃で空母「フランクリン」などを撃破した。

1945年3月23日:南西諸島全域に空襲。沖縄本島に艦載機355機来襲。
1945年3月24日:沖縄本島に米艦載機約600機来襲,南部を米艦艇が艦砲射撃。 
1945年3月25日:沖縄本島に来襲、延べ515機。米艦艇が艦砲射撃。糸満西方海域を掃海。
1945年3月26日:米艦艇が沖縄本島,伊江島、久米島への艦砲射撃。米陸軍第77師団の大隊上陸部隊が,慶良間列島渡嘉敷島に上陸。艦載機が沖縄本島713機、宮古島79機、大東島94機、奄美120機来襲。九州にB-29約150機が来襲。

7.米軍は,無制限潜水艦作戦により民間商船を無差別に撃沈しただけでなく,重爆撃機による都市無差別爆撃によって,多数の日本民間人を殺戮した。  


写真(上):1945年3月10日東京大空襲の焼死者;米国陸軍航空隊のB-29重爆撃機300機以上が東京を夜間空襲した。主に焼夷弾を投下して,住宅を焼き尽くす作戦である。米軍爆撃機の米国人搭乗員が殺害したのであるが,殺害者が焼死体を直接見ることもないので,罪悪感は感じない。焼死体を見たとしても,米軍兵士や中国の民衆を虐待した日本人が受けるべき報いであるとして,同情すらしないかもしれない。

日本本土も,1944年7月に占領されたマリアナ諸島のサイパン島,テニアン島,グアム島などから飛来する大型爆撃機ボーイングB-29「スーパー・フォートレス」の空襲を受けていた。当初は,航空機工場など軍事目標を中心にした精密爆撃であったが,効果が薄いために,都市無差別爆撃に切り替えられた。日本に対する本土空襲による死者数は,26万から55万名と推計されている。大半の大都市が空襲を受け,市街地は焦土と化していた。本土決戦が現実味を持って,本土の国民にも感じられていた。

サイパン島玉砕

B-29爆撃機による日本本土空襲

軍の上層部も,本土決戦の準備をしたが,これは全軍特攻化,一憶総特攻の掛け声で行われた。沖縄戦が開始されたのは,まさに本土が大空襲を受けている時期であり,沖縄を守るよりも本土の危機が叫ばれていた。沖縄戦は,本土決戦の準備時間を稼ぐための持久戦,捨石作戦であるとも言われるが,これは本土空襲の激化が第一の要因として挙げられる。本土防空すらおぼつかなくなっていた日本軍上層部にとって,沖縄で決戦するために航空兵力を投入しつくしてしまうことはできない。本土防衛,本土決戦のために航空兵力を温存する必要があった。

やはり,沖縄決戦はあきらめて,より航空基地が整備され,兵力が整っている本土で決戦するほうがよいと考えられていた。

写真(左):戦車揚陸艦LST-649;1945年3月26日慶良間諸島Kerama-Retto上陸時のLST. AMTRACS scurry around unloading troops and equipment and LCT 1409 has yet to be unloaded from the LSTs main deck and put into operation. This was LST-649's first day participating in the Invasion of Okinawa, 26 March 1945. 戦車揚陸艦LSTのデータ
排水量 1,625 t.(lt), 4,080 t.(fl),全長 328フィート,全幅 50フィート
速力12 kts. (maximum),航続距離 24,000 miles @ 9kts.
乗員 7 officers, 104 enlisted
兵員搭載能力16 officers, 147 enlisted
搭載舟艇 2 LCVP,貨物積載能力 1600-1900 tons
武装 40MM連装機関砲2基(Mk. 51指揮装置付き),40MM機関砲4門,20MM機銃12丁。
General Motors 12-567ディーゼルエンジン, 900馬力2基。

慶良間列島に侵攻した米軍Seizure of the Kerama Islands

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

  8.日本軍は,沖縄の民間人を徴用し,労働力として使役し,食糧調達,宿泊所提供にも協力させた。  

当時婦人会長を務めていた喜名の安里※※は次のように証言している。
 日本軍が沖縄に入ってからは、行軍といってたくさんの兵隊さんが隊列を作って歩くようになりました。そんな時には役場の入口で婦人会幹部が湯茶を準備して接待したりで、軍の対応が仕事になっていました。毎日のように役場には呼ばれ、さらに日本軍に供出する鶏の卵を集めた事もありました。それも婦人会の仕事でした。
鶏は各戸飼っていましたから、家々を回って集めるのです。各戸から二個ずつ集めましたがザルの一杯も集まりました。役場からは卵代としてお金もありました。あの当時、仲吉医院の奥さんは副会長で、よく二人で家々を回って集めたものです。


日本軍陣地を攻撃する戦場の様子
;砲爆撃で焼き尽くされていく。焦土とされた。

日本軍将兵の宿舎は,沖縄住民の住居が割り当てられていたが,住民は将兵へを受け入れたために,主人の座を譲り,脇で生活していた。しかし,日本軍将兵を信頼していたのか,住居の一部を供出しても,表立った不平,不満は出てこなかった。それどころか,住民は,徴用されたわけではなくとも,衣食住の側面で積極的に日本軍に協力したようだ。

喜友名※※(座喜味)大正八年生

 イシンニーバルにいた高射砲部隊(野戦高射砲第七十九大隊)の小峰隊長(第一中隊長陸軍中尉 小峰康敏)たちが、井戸があるという事で私の家にいました。これは役場から連絡が来て、受け入れることになりました。小峰隊長は長崎の人で、二十二、三歳ぐらいで、いつも仏壇の前に座ってね。小峰隊長の他に、事務が二人、給仕係りが三人いました。ここは部隊事務所になっていたんです。昭和十九年夏頃から来て冬もいましたね。

 台所では東京からきた新兵の阿部上等兵が隊長の世話係りをしていました。一番座から台所まで、全部兵隊が使っていました。時折、彼らは慌ただしく、鐘をならしたり、ナーカヌカーに走って行ったりしていました。私たち家族八名はクチャグヮー(裏座)に入っていました。台所も兵隊に占領されていたので、食事もシンメー鍋一つに芋を炊いて食べていました。そうして、私たちの家に電話がひかれて、軍隊の連絡はここに来ていました。(→読谷村民の証言引用)


写真(左):米兵に保護された沖縄住民
;1945年5月

 沖縄戦直前における住民動員についても,その実態がわかる資料が出てきた(米海軍資料)。
1945年1月30日付の第三二軍参謀部の資料によると、2月はじめの時点における徴用労務者の部隊ごとの割当て数が記されていた。
たとえば第六二師団(石部隊)には労務者3500名、学徒255名、計3755名(島尻郡から1350名、中頭郡から2405名)、北飛行場(読谷)には労務者1400名、学徒100名、計1500名(すべて中頭郡より)、など沖縄本島と伊江島を合わせて3万9742名が徴用されることになっていた。

 また戦闘直前の3月6日におこなわれた防衛召集について第六二師団の召集者の村ごとの割当てと召集人数がわかった(米陸軍資料)。たとえば西原村では待機者461名中400名、読谷山では624名中550名が第六三歩兵旅団に配属されるよう命令されていた。第六二師団の管轄地域では待機者6940名に対して5489名を召集することとなっており、行政関係者や病人などを除くと根こそぎ動員と言ってよいだろう。

9.沖縄戦以前から,日本陸海軍上層部は,特攻兵器を開発・生産し,特攻隊を編成していたが,沖縄戦でも,その後に準備していた本土決戦でも,主要攻撃手段は,特攻であり,全軍特攻化が進んでいた。国民を巻き込んだ「一憶総特攻」が叫ばれると,住民の生命財産の保全は,無視された。

  1945年1月20日、大本営の帝国陸海軍作戦計画大綱を決めたが、「皇土特ニ帝国本土ヲ確保スル」目的をもって沖縄を縦深作戦遂行上の前縁として,本土防衛の準備をすることとした。また,沖縄・硫黄島などに敵の上陸を見る場合においても、極力敵の出血消耗を図り、且つ敵航空基盤造成を妨害するという持久戦の方針を確認した。
こうして,海軍は「天号作戦」を、陸軍は「決号作戦」を策定し、その対応にあたった。沖縄守備軍第32軍は、住民に対して「軍民の共生共死」を強調した。

写真(左):雨水で水浸しになった米軍のキャンプ:米軍の生活水準から見て,沖縄は蛮地であった。

1945年1月25日には、最高戦争指導会議で「決戦非常措置要綱 」を決定し,次のように戦争方針をのべた。
第一条 帝国今後ノ国内施策ハ速カニ物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スルニ在リ 之力為具体的施策ヲ更ニ強化徹底シテ近代戦完遂ニ必要ナル国力並国力ノ維持増強ニ遺憾ナキヲ期ス

第二条 国力並戦力造成要綱:当面ノ情勢ニ鑑ミ国力並戦力造成上ノ基本方針左ノ如シ
 一 作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス
 二 国力ノ造出ハ日、満、支資源ヲ基盤トシ自給不能ナル南方資源ヲ充足シ其ノ総合的運営ノ下ニ近代戦争遂行能力ノ確立ヲ主眼トシ併セテ各地域毎ノ攻戦略態勢ノ強化ヲ図ル 全軍特攻の方針が実施されることになった。

特最高戦争指導会議とは,1944年8月4日以降小磯国昭内閣で設けられたが,それ以前の東条英機内閣のときの特大本営政府連絡会議のことである。
最高戦争会議の出席者は,政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席した。蔵相ほか閣僚や参謀次長・軍令部次長などが列席する。天皇も臨席する。

天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏など,さまざまなルートで最新の情報が伝達されていた。それに対して,天皇からの御下問があれば,それに答えていた。戦局や戦争方針について,統帥権をもつ大元帥昭和天皇は,明確な情報をもとに,判断を下していた。 写真(右):沖縄の丘陵地帯;海岸段丘にまで農地が広がっている。戦場になって,焦土となった地域もあった。

当時の大日本帝国の版図にある人口は,大日本帝国憲法の庇護を受けない台湾人・韓国人を除くと,8000万人であるが,大日本帝国では,国民が全員,特攻精神で米英に対決するとして,「一億総特攻」を叫んでいた。

つまり,一億総特攻のためには,国民一人一人の生命や財産はもはや保全の対象とはなり得ない。敵撃滅が最優先され,全軍特攻化,一億総特攻によって,死をとして,守るべきは日本の国であり,国体である。

米軍でも,日本軍兵士は,狂信的で,死ぬまで戦い続けるケダモノ,特攻は自殺攻撃=自爆テロ,特攻隊員=テロリスト,いいジャップは死んだジャップだけだと謳っていた。特攻隊員を尊敬していた連合軍兵士は,確かにいたが,少数派である。   ⇒沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

沖縄戦では、特攻、地上戦が展開され、日本軍・米軍の双方に大きな損害、死傷者がでた。特攻の戦果は、確かに大きかったが、その損失は戦果を上回った。つまるところ、損害とはいっても、人間の命を奪いあう殺害である。住民の集団死・集団自決、捕虜の処刑は、悲惨な出来事であるが、沖縄戦では、日米双方の多数の人命が奪われた。しかし、戦車・航空機よりも攻撃が容易で、より高価な(傷害治療・埋葬費・遺族年金の負担がかかる)人間を攻撃するテロは,効果的な戦術である。民間人も、兵士の予備軍であり、軍需生産、食糧生産、世論の支持という総力戦を担っているという状況では、前線・戦場と後方・銃後は異なるといった発想は通用しなくなる。戦争の本質は、殺し合い,テロリズムにあるのかもしれない。 

沖縄戦における日米の物的・人的損失(1945/04/01-1945/06/30)
Comparative American and Enemy Major Losses in the Ryukyus Campaign
損失要因 Nature of Loss 米国 American 日本 Enemy

人的被害 PERSONNEL

   
死者合計 Killed, Total 12,281 a 110,071
陸軍 Army 4,582 n. a.
海兵隊 Marine 2,792 n. a.
海軍 Navy 4,907 n. a.
捕虜 Captured n. a. 7,401

航空機 AIRCRAFT

   
航空機喪失合計 Planes Lost, Total 763 7,830
戦闘による損失 Combat 458 4,155
作戦に伴う損失 Operational 305 2,655
地上撃破 Destroyed on Ground (f) 1,020

艦船 SHIPS

   

撃沈 Sunk

36 16
損傷 Damaged 368 4
出所: United States Strategic Bombing Survey, The Campaigns of the Pacific War, Ch. XIV, Appendix 99, p. 331 except as otherwise indicated.
米軍艦艇の損害は沈没27隻、損傷160隻であったという。

沖縄戦において、日本軍は、航空機約1,900機(海軍1,000機、陸軍900機)とその搭乗員約3000名(海軍2,000名、陸軍1,000名)を特攻作戦に出動させた。
 沖縄特攻の戦果は、艦船の撃沈26隻,損傷164隻であり,米海軍の人的損失損害は、1945年4月から6月末で,沖縄方面の全作戦を含めて死者4,907名、負傷者4,824名に達した。

U.S. Merchant Ships Participating in Pacific Theater Combat Operationsによれば、沖縄戦に参加した米国商船(民間船)は176隻であり、レイテ戦に参加した商船108隻をはるかに上回り、太平洋戦争では最大規模である。

 米国商船の被害一覧によれば,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈された米国の商船は6隻。沖縄方面で被害を受けた米国の商船は,特攻,爆撃,魚雷,機雷,友軍の誤射など合計24隻,撃沈は4隻である。

沖縄では,住民によるゲリラ戦,投降を装った敵対行為,スパイ活動,破壊工作はほとんど行われなかった。バクダットなど,現在の中東におけるゲリラ的な「テロ活動」と比較すると,米軍による軍政が,沖縄の住民に徹底抗戦を放棄させたといえる。 

■ 沖縄戦による戦没者数 200,656名

  (日本側 188,136名) 
  ・他都道府県出身(軍人軍属) 65,908名
  ・沖縄県出身(軍人軍属)   28,228名
  ・沖縄県出身(戦闘参加者)  56,861名
  ・一般沖縄県民(推計)    37,139名

  (米軍側  12,520名)


写真(左):ロケット弾搭載揚陸艦LSM(R)-194
;座間味島海岸の洞窟を4月1日に砲撃したとあるが,3月中に占領された後でも抵抗が続いていたのか。LSM(R)-194 underway, date and place unknown.LSM(R)-194 in the distance with an unidentified LCI(R) in the foreground firing into caves on the beach at Zamai Shima, 1 April 1945.

 特攻による米国商船の被害一覧でも,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は6隻。沖縄方面で被害を受けた米国の商船は,特攻,爆撃,魚雷,機雷,友軍の誤射など合計24隻,撃沈は4隻。

 ⇒沖縄地上戦と住民:戦闘経緯と米軍による沖縄軍政

 ⇒沖縄戦と住民:ひめゆり学徒隊,集団死,軍政
 


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