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特攻作戦の崩壊:全軍特攻化と一億総特攻 2006
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◆特攻作戦の崩壊 ◇ The Kamikaze :全軍特攻化と一億総特攻


写真:(左)空母「レキシントン」の戦闘機F6Fの搭乗員
;1944年11-12月の「ヘルキャット」戦闘機のパイロットたち。これから1年後には多数の特攻機を撃墜することになる。
写真(右):九九式襲撃機で特攻出撃する陸軍搭乗員たち
;固定脚(離着陸用車輪が引き込まない)の低速430km/hの機体に、爆弾250kgを搭載して体当たり自爆する。パイロット(操縦手)のほか,後席には偵察員も搭乗する。日本陸軍では、パイロットや偵察員などの飛行機乗りを「空中勤務者」と、海軍では「搭乗員」と呼んだ。1945年内地での撮影と思われる。
写真(右):空母「ベニントン」USS Bennington(CV-20)のF6F-5 "Hellcat"戦闘機;1945年5月撮影。 空母「ベニントン」は2万7,100トンのエセックスEssex級空母10隻中の1隻で、15万馬力、33ノット、搭載機90機(38×F6F戦闘機、4×F6F夜戦, 27×SB2C急降下爆撃機, 18×TBM雷撃機)。正規空母「ベニントン」は1945年2月硫黄島攻略戦、3-4月に沖縄攻略戦に参加。 米軍では基礎飛行を700-1000時間はこなしたが、日本軍では総飛行時間100-200時間で、実戦に配備された速成パイロットが多かった。
【アジア太平洋戦争インデックス】戦史一覧
自爆テロと特攻:特攻隊員は9.11同時テロリストと同じか?/ 特攻兵器(1):人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」「マルレ」/特攻兵器(2):特殊潜航艇「海龍」・特殊攻撃機キ115「剣」
USS GUEST DD472 OKINAWA CAMPAIGN UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY:SUMMARY REPORTU.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945


1.日本軍による航空特攻作戦は,1944年10月20日のフィリピン レイテ戦で採用され,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将の指揮下で、10月25日に戦死した神風特攻隊「敷島隊」関行男海軍大尉が「特攻第一号」であるという「神話」(というより俗説)が流布されてきた。連合艦隊も、関行男大尉の特攻第一号を公認、全軍告示した。しかし、関大尉戦死の4日前、10月21日、神風特攻隊「大和隊」久納好孚中尉(法政大学出身)が、特攻出撃、戦死した。海軍上層部は、戦果が無かった(と思われた)久納中尉を、特攻第一号とは認めず、黙殺した。

1944年6月のマリアナ沖海戦(フィリピン海の戦い)では,日本海軍は正規空母3隻,軽空母6隻を中核とする第一機動部隊と基地航空隊を準備し,サイパン島に侵攻した米任務部隊を迎撃。しかし,戦果をあげることなく,正規空母2隻,軽空母1隻が撃沈,艦載機350機を喪失。以後,日本軍が正攻法で米空母任務部隊を撃滅することは,不可能と判断された。サイパン島「玉砕」は、東條英機首相を辞任させた。こうした危機的状況で,特攻作戦が採用された。

写真(右):1944年6月,マリアナ沖海戦で日本機の攻撃を受ける米護衛空母「キトカン・ベイ」USS KALININ BAY (CVE 68);フィリピン海の戦いで日本機を撃墜したが,4ヵ月後,レイテ島沖で特攻機に突入される。

特攻作戦の命令系統,戦闘序列の問題:特攻作戦を軍上層部が計画し、実行すれば、指揮官の権限を明確にし、訓練も充実できる。しかし、特攻という必ず死ぬ作戦を命じた指揮官は、その責任を取る必要に迫られる。「勝利か、死か」、作戦が失敗すれば、部下を無駄死にさせた責任を負わなくてはならない。赤子を死地に送り出したことで、大元帥の代わりに、将官が切腹してお詫びしなければならない。
将官、佐官クラスの高級将校など軍上層部にとって、「命令による特攻」を行えば、自ら責任の所在が明らかになる。部下・赤子を死地に送り出した責任をとる覚悟がなければ、特攻は命令できない。 

指揮官が特攻作戦の責任を回避するには、部下の将兵が自ら発意して、犠牲的精神を発揮してもらうのがよい。第一線の将兵が、国土・国体を護持し、家族を守るために、自発的に体当たり自爆を志願してくれるのが望ましい。この場合、上官が特攻を命令する必要はなく,部下の熱意に「頼む」と承諾を与えるだけである。「特攻に部下を送り出した」(非情な)司令官にならない細工ともいえる。

 特攻作戦を企図した軍上層部は、第一線将兵が、自発的に志願し、体当たり特攻したとの建前をとった。殉国志士が,やむにやまれない心情から特攻した、だから司令官は特攻を命じたわけではなく、特攻の責任もないというのであろうか。

 海軍の初の航空特攻「神風特別攻撃隊」は,『愛国百人一首』から,敷島隊,山桜隊など4隊を命名・組織し,海軍兵学校出身の艦上爆撃機パイロット関行男(23才)大尉を指揮官に任命。特攻第一号は,1944年10月25日,フィリピンで護衛空母「セントロー」撃沈した関行男大尉であると公認,全軍布告された。

写真(右):1944年10月20日から特攻出撃した神風特攻隊「敷島隊」隊長関行男大尉;10月25日に空母に突入、撃沈したとして、28日に全軍布告。二階級特進し海軍中佐、軍神として崇められる。元は艦上爆撃機パイロットで、フィリピン赴任後直後、爆装零戦の特攻隊長に志願しないかと持ちかけられた。楢本神社の関行男大尉碑文(源田実中佐)には「憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意志に基づいて、絶対に生きて還ることのない攻撃に赴いた事実は、真にわが武士道の精髄であり、忠烈万世に燦たるものがある。」とある。この表現では、特攻作戦への源田中佐の関与が隠蔽されているようでもある。海軍航空隊エリート源田中佐は、特攻作戦を計画した責任をどのように受け止めていたのか。

10月21日の特攻「敷島隊」初出撃では,突入せず,引き返したが,同1日、「大和隊」久納好孚中尉(学徒出身)は,未帰還になった。しかし、法政大学出身の久納中尉は,特攻第一号とは認められず黙殺された。(戦果が無いので当然という者もいるが)戦果不明の特攻を特攻第一号としては,軍上層部の面子が立たないからである。

 関行男大尉が1944年10月25日特攻戦死すると,10月28日,連合艦隊司令長官豊田副武大将は、関行男大尉を特攻第一号と公認,ほか敷島隊5名とともに全軍布告した。特攻に出撃した「大和隊」久納好孚中尉は,現在でも黙殺されたままである。軍上層部の生き残りたちは、戦後になっても、戦果をあげない特攻隊員など価値がないといわんばかりの扱いをしてきた。名誉回復のための証言もしていない。

敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 愛国心を尊重する(かのようにみえる)元軍司令官や参謀は,第一線の将兵の犠牲的精神を評価しているわけではなく,戦果第一だった。
神風特攻隊の部隊名称「敷島」「大和」などの命名も、本居宣長の古い歌を知っていたのではなく,1942年発行『愛国百人一首』から孫引きである。
(⇒文化人と戦争「戦争文学」参照)

「特攻は第一線の将兵の犠牲的精神の発露として、自らの発意で行われた」との特攻自然発生説を唱える指揮官や識者は,愛国者のように見える。しかし、彼らは、戦果をあげなかった法政大学出身の特攻隊・久納好孚中尉を特攻第一号とはしなかった、これは、戦果優先,海軍兵学校優先という教条的な軍事思考が蔓延していたためであり、愛国心とは相容れない。
しかし、1944年10月21日、神風特攻隊「大和隊」久納好孚中尉の爆装零戦は、重巡洋艦「オーストラリア」に損害を与えた可能性がある。(時刻違いの問題は残る。)

写真(右):1944年10月21日,フィリピンで特攻機(「大和隊」久納中尉?)による被害を受けたオーストラリア海軍重巡洋艦「オーストラリア」HMAS Australia (排水量 9850トン,英ケントKent級重巡洋艦);Six officers and 23 ratings were killed and her Commanding Officer (CAPT E. F. V. Dechaineaux, DSC) later died of wounds. Nine officers, 52 ratings and one AIF soldier were wounded.
Damage to the ship's forward superstructure, caused by a Japanese "Betty" bomber which crashed into her foremast on 21 October 1944, during the invasion of Leyte.ここではBetty(一式陸上攻撃機)によって 重巡「オーストラリア」損傷の原因としているが、Val(九九式艦上爆撃機)とする資料もある。混乱した早朝の戦場では、どの機が損害を与えたのかの判別は困難である。


First Kamikaze? Attack on HMAS Australia - October 21 st, 1944 or Crash at Biak - May 27 th, 1944;By Richard L. Dunn © 2002, 2005の記述:
 1944年10月21日0600、オーストラリア海軍のHMAS Shropshireは、対空砲火によって付近の艦船を攻撃してきた敵機 を攻撃した。しかし、その機体は薄明かりの中に消えた。0605,“Val”(九九式艦上爆撃機)がダイブしてきたため,40ミリ機銃と,20ミリ機銃で応戦,命中弾を与えた。日本機は,前部マストに激突し,ガソリンに引火,火災発生。The attack on Australia took place more than twelve hours before Lt. (j.g.) Kuno took off on the first organized Kamikaze mission. (引用終わり)「大和隊」久納好孚中尉の爆装零戦出撃時間の12時間前に、巡洋艦「オーストラリア」が被害を受けたとすれば、攻撃したのはいったいどの(特攻)隊なのか。

日本海軍にとって、久納好孚中尉機の戦果は不明瞭なままで、戦果不明、行方不明の特攻隊は、全軍布告するには及ばない。攻撃に失敗した特攻隊員を特攻第一号に認定するわけにはいかない。特攻に出撃して帰らない行方不明=戦死であるにもかかわらず、戦果不明の久納好孚中尉ではなく,空母撃沈とされた関行男大尉を大々的に公表し、連合艦隊による全軍布告という最高の栄誉を与えた。軍は、特攻に志願する犠牲的精神を高く評価したわけでは決してない。戦果優先であり、命や精神の評価は二の次であった。

日本海軍は、久納中尉機が戦果をあげていたとしても,特攻第一号とは認定しなかったかもしれない。予備学生(法政大学)出身の速成将兵が特攻第一号では,職業軍人のエリートの海軍兵学校の将兵は何をしていたのかと,批判されかねない。やはり,海軍の中心的存在の海軍兵学校(海兵)出身者が「特攻のさきがけ」としてふさわしい,と軍上層部は判断したであろう。海軍兵学校出身の若手士官の純心とは,関係なく,「海兵」が尊重されたということかもしれない。

1944年10月25日,神風特別攻撃隊の朝日隊,山桜隊,菊水隊はミンダナオ島ダバオ基地を0630に出撃。敷島隊のルソン島マバラカット基地出撃の0725より,1時間近く早い。また,出撃基地からレイテ島近海の目標までの距離も近い「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」の特攻隊のほうが,「敷島隊」よりも,突入,戦死の時間も早い。(→特別攻撃戦果一覧 参照)。しかし,敷島隊以外の諸隊は,特攻第一号とは認められることなく,事実上,黙殺された。海軍上層部は、護衛空母撃沈を,直援機の報告を下に,海軍兵学校出身の関行男大尉以下「敷島隊」の戦果と断定した。

敷島隊指揮官(海軍兵学校出身)関行男大尉が特攻第一号となることは,既定の方針だった。エリートの海軍兵学校出身の指揮官が自発的に特攻隊を志願し,自ら部下を率いて体当たり,大戦果をあげる。下級将校・下士・兵も軍神関大尉に続け。しかし、終戦までの特攻隊員の中に、兵学校出身者は数十名と全体の10%未満である。特攻隊員の多くは学徒兵や少年兵など甲・乙の予科練出身者だった。

1945年10月28日,連合艦隊司令長官豊田副武大将から関行男大尉ほか敷島隊5名だけが全軍布告され、関大尉は二階級特進で中佐となった。敷島隊の大黒繁男上等飛行兵は、五階級特進して飛行兵曹長に、永峰肇飛行兵長は四階級特進して飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は三階級特進して少尉となる栄誉を受けた。
昇進した隊員の軍人遺族恩給も引き上げられたが,戦果を確認できず行方不明になった特攻隊員は,軍上層部に黙殺された。

敷島隊「五軍神」の全軍布告は,真珠湾への特殊潜航艇による特別攻撃を実施した「九軍神」と全く同じ扱いである。

2.1944年10月20日,フィリピン レイテ戦で第一航空艦隊の「神風特攻」が実施されたが,この作戦の採用を巡っては,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が「特攻の生みの親」であるとの神話(俗説)が流布されている。しかし、神風特攻隊初出撃の3ヶ月前、1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,特殊奇襲攻撃として各種の特攻兵器を開発し,特攻作戦を展開する計画を立てていた。また,「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,特攻隊戦果を確認した10月26日発信で,特攻の発表は,戦意高揚のため,攻撃隊名称も併せて発表すべきことを指示していた。これらは,海軍上層部が,特攻を組織的,計画的に進めていた証拠である。大西瀧治郎中将は、神風特攻隊の上級司令官であるが、特攻作戦を計画・準備した「特攻隊生みの親」ではない。しかし、大西瀧治郎中将は「特攻隊生みの親」と祭り上げられ,事実上,特攻を行った軍人の責任を全て背負うことになった。

大西瀧治郎は、兵庫県氷上郡に生れ、日露戦争の旅順港閉塞隊の軍神広瀬武夫中佐に憧れて海軍を志し、柏原中学校卒業後、海軍兵学校へ入学。海兵40期。1916年4月横須賀航空隊勤務、1918年大尉に昇進後、英国留学。帰国後、1924年10月霞ヶ浦航空隊に赴任した。(同年12月に山本五十六大佐も副長兼教頭で霞ヶ浦航空隊に赴任。)1928年の空母「鳳翔」飛行長から、佐世保航空隊司令、横須賀航空隊副長をへて、1935年、海軍航空本部長山本から教育部長に指名。1937年初の戦略長距離爆撃「渡洋爆撃」を実施。1940年、海軍少将として第一連合航空隊司令官に就任。日米戦後の1942年3月 海軍航空本部総務部長となり航空機増産に尽力。1943年中将として11月に軍需省航空兵器総務局長。第一航空艦隊司令官としてフィリピンに赴任したのは、1944年年10月。

写真(右):大西瀧治郎中将;第一航空艦隊司令長官として神風特攻隊をフィリピンのルソン島から出撃させ,レイテ島周辺の連合軍艦艇に体当たり攻撃を命じた。青年経営者協議会の情報 [2002/05/02]大西瀧冶郎の21世紀への遺言に次のようにある。「特攻という戦慄の作戦の生みの親は大西瀧次郎(おおにし たきじろう)中将です。---彼が最後まで全力を尽くし戦い抜く責任と、部下一人ひとりの生命の重さを誠に知っていた卓越した指揮官だったことは以外と知られていません。---終戦の2年前から海軍には、体当りを目的とした特殊航空隊などの特攻思想があり、後に大西中将がマニラに着任した時には、既に海軍内では特攻を行う為の様々な特攻兵器が開発中で、大西中将は、元々、『搭乗員が100%死亡する攻撃方法は採用する時期ではない』と退けるなど、海軍内でも、特攻思想とは一番距離を置く人物でした。特攻作戦が開始されても、『統帥の外道』で、本来あってはならない作戦と自ら言い、海軍内では大東亜戦争の終盤まで、航空機増産に一番尽力していました。大西中将は特攻隊の生みの親と信じられていますが、特攻という暗部を、一言も弁明せず自分一人で墓場まで背負って行くのが日本海軍史にとって最良の方法であることを直感していたのでしょう。」1945年8月16日、渋谷の軍令部次長官舎で割腹自殺。

大西瀧治郎 - Wikipediaによれば、次の記述がある。

 神風特攻隊を指揮したことで「特攻の父」「特攻生みの親」とされる。---しかし、1944年6月のマリアナ沖海戦での連合艦隊の一方的な敗北以降、---従来の航空攻撃では連合軍艦船に対してほとんど打撃を与えられなくなった状況で特攻戦法の導入を主唱したのは、ほかならぬ当時第1航空艦隊司令長官であった大西であった。(引用終わり)

特別攻撃隊 - Wikipedia「カミカゼの生みの親・大西瀧治郎」の記述
大日本帝国陸海軍以前にも、特攻というべき攻撃がなされたことはあったが、組織的な特攻としては大日本帝国陸海軍がはじめてであった。海軍として最初の組織的な航空機特攻作戦は、大西瀧治郎海軍中将により提唱された。これは1944年10月の台湾沖航空戦の敗北の結果、組織的戦闘が不可能になっていた航空戦力活用のためである。この作戦は、その直後発令された捷一号作戦において敵空母部隊撃滅を目標に初めて実戦で行われることとなった。(引用終わり)⇒大西中将の提唱になる「神風特攻隊の創始」は,実は誤った俗説だった。

財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会(名誉会長 瀬島龍三)の会報第45号には、大西瀧治郎の思想を承けてとして、次の記述がある。
 命令によって初めて航空特攻を出したのは、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎である。彼が神風特攻隊を発進させた目的は、捷一号作戦の要をなす栗田艦隊レイテ湾突入を成功させる為、敵空母の甲板を使用不能にしようとするにあった。零戦に250キロ爆弾を載んで体当たりしたとて、空母を撃沈できる筈はない。一時的に飛行甲板を使用不能にするのが狙いだった。極めて合理的な考である。しかし、栗田艦隊の突入断念反転によって、この特攻作戦は無為に終るのであるが、それはさておき、その後も敵艦に対する体当たり特攻を続行した。(引用終わり)

海軍兵学校人物伝10 豪放磊落 大西瀧治郎によれば、「カミカゼの生みの親・大西瀧治郎」として、次の記述がある。
1942年3月、大西は海軍航空本部総務部長にに転出し、太平洋戦争終盤まで、航空機増産に尽力する。昭和19年10月、第1航空艦隊司令長官になる。マニラに赴任した大西は、わずか可動約40機の航空兵力を前に愕然とする。大西は、日本本土と資源地帯の南方との連絡線をなんとしても死守するために、零戦に250素弾を搭載し、隊員もろとも米艦に体当たり攻撃をする「特攻隊」をすぐさま編成する。----大西は、「特攻隊生みの親」として、戦後「暴将」「愚将」の汚名を着せられたりもしている。---しかし、特攻は大西がマニラに着任する前から、海軍内で検討されてきており、様々な特攻兵器も開発され、大西が発案者ではない。しかし、武人・大西瀧治郎中将は、一切の責任を一身に負い、1945年8月16日未明、渋谷区南平台の軍令部次長官舎において、介錯なしで割腹自決をする。(引用終わり)

写真(左):1944年10月30日、特攻機により損傷した空母「フランクリン」USS Franklin (CV-13)(右)と軽空母「ベローウッド」USS Belleau Wood (CVL-24);空母「フランクリン」は、排水量27,100トンのエセックスEssex級空母。第三艦隊の空母としてフィリピン攻略に参加し、10月15日に通常攻撃で軽微な損傷を受けた。10月30日、特攻機1機が体当たりし、乗員56名が戦死。修理のため米本土に回航。1945年3月に戦列に復帰したが、3月19日に再び特攻機の体当たりを受け乗員724名が戦死。パナマ運河を越えてニューヨークに回航され、そのまま終戦。1966年まで現役にあった。 Naval Historical Center

大西瀧治郎中将(1891年6月2日 - 1945年8月16日)は,1937年に中華民国の首都南京などへの「渡洋爆撃」を実施した航空専門家だった。しかし、内地から第一線のフィリピンに来たばかりであり,それ以前は部隊を率いていない。大西中将は,神風特攻隊を発案したわけでも,特攻隊を時間をかけて編成したわけでもない。

フィリピンの特攻作戦開始より3ヶ月前,1944年7月21日,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」を整備することが海軍上層部で決定している。特攻兵器の開発が,「神風特攻隊」出撃以前から進展していたのであれば、1944年10月下旬になって,急遽,第一航空艦隊司令官に就任した大西中将が、航空特攻を発案したとは考えられない。


海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部で,国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。軍令部も参謀本部も天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。

戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。陸軍参謀総長、海軍軍令部総長は,天皇によって中将か大将から任命(親補)される勅任官で,次長は総長を補佐する。ともに,御前会議の構成員となる。

日本海軍の統帥部は,軍令部で,作戦について天皇を輔弼する。軍令部総長は、天皇の命令を各部隊に伝達する任務を帯びているが,実際には命令は軍令部総長(および軍令部)が立案する。

軍隊の特徴として、部隊が編成され,隊名・隊長が任命され,正規の作戦が採用される。志願者の集まる自然発生的な部隊,統帥が及ばない部隊には、指揮官任命,訓練,昇進など人事に関する統率権もないのであって、実際にはこんな「部隊」は存在しない。したがって、自然現地部隊が自ら発意して特攻隊を編成することはありえない。兵器も燃料も命令系統も全て部隊として統率されているからである。

特攻作戦を命じる指令は、軍上層部から発せられたが、「体当たり自爆せよ、自殺攻撃をかけよ」といった直截的表現はない。しかし、「奇襲」の名の下に、特攻作戦を展開しようとする意図が読み取れる。1944年7月21日、神風特別攻撃隊敷島隊、大和隊などが編成される3ヶ月前に、日本海軍の軍令部は、大海指第431号を発して、特攻作戦の準備を正式に開始していた。
大西瀧治郎中将が特攻作戦を個人的に発意,発案しても、人材、兵器、燃料を準備することは絶対にできない。軍の組織的,計画的な取り組みが不可欠である。

写真(右):軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);1944/10/24,USS Princeton on fire east of Luzon, 24 October 1944。通常攻撃による撃沈であったため,翌日の関行男大尉たちの神風特攻の(護衛)空母「セントロー」撃沈という戦果の影に隠され,取り上げられていない。「大西中将の第一航空艦隊は特攻で大戦果を揚げたが,福留中将の第二航空艦隊は通常攻撃を行ったため,戦果を揚げられなかった」とも酷評される。

1944年6月19-20日,マリアナ沖海戦大敗北、7-8月マリアナ諸島陥落と、マリアナ諸島の航空基地からB-29戦略爆撃機による日本本土空襲が危惧された。日本軍は,至急、米空母任務部隊に打撃を与え、敵が日本本土に接近するのを食い止めなくてはならない。

1944年7月21日大海指第431号
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

要領は次の通り。
1.各種作戦
ヾ霖蝋匐部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
潜水艦作戦;主力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

2.奇襲作戦
ヾ饅浦鄒錣謀悗瓩襦E┫和發鯀或丙拠地において奇襲する。
∪水艦、飛行機、奇襲特殊兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
6秒牢饅永捨呂鯒枷し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。

◆フィリピン方面の捷一号作戦(カミカゼ特攻)が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲作戦、奇襲特殊兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特攻作戦を採用している。つまり,日本海軍上層部の軍令部(大本営海軍部)が特攻作戦を企画,編成した。
大元帥昭和天皇が奇襲作戦を命じたという形式はとっていないが,統帥権を侵犯する作戦はありえない。日本軍(国軍)最高司令官の大元帥には,特攻作戦とその大戦果が知らされた。


1945年10月25日,軍令部総長及川古志郎大将が,本日,関行男大尉らがフィリピン戦で特攻し,護衛空母「セントロー」撃沈など大戦果を上奏したとき,大元帥昭和天皇は「そのようにまでせねばならなかったが。しかしよくやった。」とお言葉を発した。保阪正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.51-52の引用する侍従武官吉橋の日記によれば,体当たり機のことについて上奏を受けた大元帥昭和天皇は,最敬礼され,戦果を賞賛されたという。
軍の統帥権を持つ大元帥昭和天皇に,特攻作戦を知らせないままに済ましていたのであれば,天皇の赤子である兵士を勝手に死に至らしめ,天皇の軍隊を私兵として勝手に運用したという軍法違反(専権罪・叛乱罪)を犯したことになる。そうなれば,軍令部総長,参謀総長,その下にある部員は,処罰される。そうならないのは,特攻が大元帥に上奏されていた「作戦」だからである。

特攻を採用した軍司令官たちは,自害するなり何なり勝手になすべく,責任をとることができたが、少数の例外を除いて、自決できず、戦後も生き残った。

1944年10月15日、台湾沖航空戦の際に、有馬正文少将は、一式陸上攻撃機に自ら搭乗して、陣頭指揮をとって戦死。有馬少将の場合,特攻ではないであろうが,特攻作戦が発動されていることを知って,自ら決死攻撃の陣頭指揮した。軍司令官の模範を示したのである。ただし,それに続いた将官はなかった。

写真(右):特攻隊員に訓示する第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将;1944年10月20日の初出撃から訓示や見送りが行われている。しかし,特攻隊員は3回出撃,帰還した。

1945年10月20日以降,連日のように神風特攻隊に出撃を命じた第一航空艦隊司令官大西瀧次郎中将は,「特攻は外道の統率」であると認識し,出陣に当たって次の挨拶をした。

「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、重臣でも大臣でも軍令部総長でもない。むろん自分のような長官でもない。それは諸氏の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。
従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。皆の成功を祈る。皆は既に神であるから、世俗的な欲望は無いだろうが、もし有るとすれば、それは自分の体当りが成功したかどうかであろう。皆は永い眠りにつくのであるから、それを知ることは出来ないであろう。我々もその結果を皆に知らせることは出来ない。
自分は皆の努力を最後まで見届けて、(大元帥の)上聞に達するようにしよう。この点については皆安心してくれ。しっかり頼む。」

大西中将は,大元帥承認済み(事後承認?)の作戦として「特攻作戦」を実施することを公言している。特攻作戦の責任をとって,1945年8月16日,天皇の終戦宣言ラジオ放送の翌日,割腹自決(55歳)。遺書は次のようだった。

「特攻隊の英霊にもうす。善く戦ひたり深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
然れども,其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾,死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青少年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ 奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふなかれ。諸子は国の宝なり。平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の為 最善を尽くせよ。」

写真(左):1944年10月25日神風特攻隊敷島隊に突入された護衛空母「セントロー」;空母艦載機用爆弾に引火,誘爆、大爆発を起こした。つまり,誘爆による撃沈であり,特攻機とその搭載爆弾によってのみ撃沈したわけではない。しかし,このような(護衛)空母撃沈という非常に稀な現象が,体当たり特攻の一般的な効果であると誤認された。特攻には大きな効果があると判断され,最終的には全軍特攻化へと進んでしまう。

宇垣纒中将も,部下を道連れにする私兵特攻という罪を重ねて,艦爆「彗星」を道連れに,終戦の玉音放送直後、沖縄に自爆。

将官の特攻死を認めれば、模範を示すべき多数の将官も特攻出撃することが望ましい。日本海軍は、必見攻撃を重視し、陸軍は,白兵戦、肉弾戦をする突撃主義を信条としていた。逆説的にいえば、有馬正文中将(死後一階級昇進)のように、特攻のさきがけとして陣頭指揮をして機上戦死した将官が、軍上層部の鑑(かがみ),特攻のさきがけとして公認されなかったのは当然であろう。自ら特攻死できる将官はまずいない。(→保阪正康(2005)『「特攻」と日本人』参照)

中部太平洋艦隊第二六航空戦隊司令官の有馬正文海軍少将(49歳)は,死後に一階級昇進して中将になった。率先垂範、一式陸攻に搭乗し、米第三八任務部隊を攻撃したが,これは特攻とは認められず,一階級昇進させただけで,全軍布告もされていない。そもそも一式陸上攻撃機によって,特攻がなされたのは,人間爆弾「桜花」の運搬用としてであり,それ以外は,特攻に使用されていない。航空兵器に疎い参謀はいないから,鈍重,低速で燃えやすい「ワンショット・ライター」を特攻させることは,最後までなかったのである。突入,散華した有馬少将は,決して「特攻」とは公認されなかった。遺書で「自分、自ら必殺の特攻となってその範を示す。願わくば心ある後輩、我に続き、この危急存亡にあたり護国の大任を果たされんことを望む」といった。しかし,後続する将官はなかった。

軍令部からフィリピンの第一航空艦隊長官(寺岡謹平中将から10月20日に大西中将が引継ぎ)宛(→「大海機密第261917番電」は,1944年10月13日起案,10月26日発信である。電文は「神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」となっていて,現地ではなく,軍中央上層部が神風特別攻撃隊を編成、部隊名称を策定したのである。

電信「大海機密第261917番電」は軍令部作戦課(第一課)の航空担当源田実中佐(海兵52期)が10月13日起案し、上司の承認を得て発信している。(→戦史のウソ引用)

「大海機密第261917番電」で指示した神風特別攻撃隊の部隊名称は,本居宣長『鈴屋集』の「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」から採ったのではない。源田實が、和歌を諳んじていたのではない。神風特攻隊「敷島」「大和」などの部隊命名は、1942年11月20日発表『愛国百人一首』の孫引きである。『愛国百人一首』選定顧問は、内閣情報局第五部長、大政翼賛会実践局長、文部省社会教育局長、陸海軍省報道部長(平出英夫など)、日本放送協会業務局長、東京帝国大学教授(平泉澄など)、日本文学報国会会長徳富蘇峰、日本文学報国会理事など。

『愛国百人一首』に、本居宣長『鈴屋集』「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」が選ばれている。神風特攻隊の部隊名称は、この歌の敷島,大和、朝日、山桜が使用された。源田實中佐は、「愛国百人一首」をめくって,特攻隊の部隊名称を決め、電報で指定した。つまり,軍令部が部隊名を事前に指定、戦果公表の仕方まで決めたのであって,神風特攻隊は,現地部隊から自然発生したのではない。(⇒文化人の戦争・特攻参照)

写真(左):1944年10月25日神風特攻隊敷島隊に突入された護衛空母「スワニー」USS SUWANNEE (ACV-27) ;飛行甲板に特攻機が突入し,損傷を受けた。 NavSource Naval History

軍令部からフィリピンの第一航空艦隊長官(寺岡謹平中将から10月20日に大西中将が引継ぎ)宛(→「大海機密第261917番電」は,1944年10月13日起案,10月26日発信である。電文は「神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」となっていて,現地ではなく,軍中央上層部で神風特別攻撃隊の編成や部隊名称が策定された。

 神風特攻隊の出撃は,1944年10月20日にルソン島マバラカット基地の予定が,悪天候のため,出撃しなかった。特攻出撃は10月21日からで連日のように飛び立った。しかし敵艦隊を発見できずに引き返したり,他の飛行場に不時着したり,行方不明になっていたのである。日本側の資料では,特攻隊は10月25日に初戦果をあげた。しかし,10月21日に未帰還の久納好孚中尉,24日に未帰還の佐藤馨上飛曹は,戦果不明のため黙殺された。

特攻隊を犬死とするのはけしからぬ,と主張するなら,戦果にかかわらず,特攻隊を処遇すべきである。「神風特攻隊関行男大尉が特攻第一号」「特攻は自然発生的に行われた」「特攻隊の生みの親は大西中将」という俗説は,海軍兵学校出身のエリート士官重視,特攻隊を編成した軍上層部の責任逃れ,戦果重視の驕りのようにみえる。(靖国神社では,海軍兵学校出の関行男中佐(死後二階級特進)を特攻第一号とし,4日前に特攻戦死した学徒出身久納中尉を特攻第ゼロ号として小さく紹介。)

写真(左):1944年10月30日,特攻機を被害を受けた軽空母「ベローウッド」:フィリピンのレイテ島攻防戦から,大規模な航空特攻が開始された。

 体当たり特攻隊は,日本陸軍航空隊で海軍に先立って編成していたことは,あまり知られていない。陸軍は,九九式双発軽爆撃機キ-48や百式重爆撃機キ-49「呑龍」,四式重爆撃機キ67「飛龍」を専用特攻機として改造。これは、起爆信管の追加,大型爆弾を搭載できるような改装などで、陸軍の専門的な部隊が研究,改造した。決して、部隊が独自に特攻したり、個人が自発的に特攻したのではない。軍隊では、兵器を勝手に改装し、勝手に使用することは軍規違反であり、許されない。

3.1944年10月20日 レイテ戦の日本海軍航空隊による神風特攻隊大戦果、大喧伝の陰に隠れているが、日本陸軍航空隊も特別攻撃隊を編成している。陸軍初の特攻隊は,内地(日本本土)の茨城県鉾田陸軍飛行学校で編成されており、陸軍も特攻作戦を組織的,計画的に進めていた。1944年10月、捷一号作戦発動に伴い,岩本益臣陸軍大尉以下24名は、フィリピンの第四航空軍(軍司令官富永中将)の陸軍特攻隊「万朶(ばんだ)隊」として出動した。陸軍の特攻は,1944年11月7日のフィリピン戦であり,海軍の特攻に2週間遅れたうえに,空母撃沈のような華々しい戦果があげられなかった。そこで,日本軍初の特攻隊「万朶隊」は黙殺されてしまう。(戦果がないから当然だという軍の判断である。)

日本陸軍航空隊の特攻隊は,鉾田陸軍飛行学校で編成されている。この学校は、1940年12月に茨城県鹿島郡鉾田に設置された軽爆撃機,襲撃機の幹部養成と研究を行う航空学校である。1944年6月には鉾田教導飛行師団に改称され、航空要員の養成と実戦指導に当たることになった。1945年7月には,教育活動を行うだけの要員も燃料も不足したために,実戦部隊の第26飛行師団に改編された。

鉾田教導飛行師団で,九九式軽爆撃機を特攻用に改装する研究と作業が行われ,特攻要員の訓練が実施された。つまり,陸軍特攻隊は,命令によって,鉾田教導飛行師団で編成されたのである。陸軍初の特攻隊は「万朶隊」(ばんだたい)であり,海軍の神風特攻隊(敷島隊など4隊)よりも2ヶ月ほど早く,日本初の特攻隊として(命令により)部隊編成されていた。

陸軍特攻隊「万朶隊」を率いたのは,鉾田飛行学校の教官岩本益臣(ますみ)大尉(1917-1944)である。彼は米軍が既に実施していた「跳飛爆撃」,すなわち超低空飛行で爆弾を海面に水切り反跳させ,敵艦船に命中させる艦船攻撃を,日本陸軍航空隊に導入しようと尽力していた。

写真(左):特攻出撃前に書をしたためる陸軍「萬朶隊」(ばんだたい)の隊員;1944年11月。Life掲載写真。特攻隊の見送りは,盛大に行われた。Life掲載写真。しかし,戦時中,戦後とも,戦果を揚げられなかった陸軍特攻第一号 「万朶隊」は,大戦果を揚げたカミカゼ特攻の影に隠されてしまった。カミカゼの関行男大尉は有名で,軍神扱いされたが日本軍初の特攻「万朶隊」隊長岩本益臣(ますみ)大尉は黙殺された。しかし、特攻隊員たちの心情を思えば,陸軍特攻隊のことも忘れるわけにはいかない。

陸軍特攻隊「万朶隊」隊長岩本益臣(ますみ)大尉(1917-1944)のプロフィールは次の通り。
1943年結婚、新婚生活は10ヶ月半。
1944年8月、台湾の基隆港で九九式双発軽爆撃機によりで跳飛爆撃を行い最高の命中率をあげる。

1944年10月、捷一号作戦発動に伴い,岩本大尉以下24名は第四航空軍(軍司令官富永中将)の陸軍特攻隊「万朶(ばんだ)隊」として出動。鉾田教導飛行師団では,鉄心隊、勤皇隊、皇魂隊、振武隊4隊、神鷲隊12隊など合計24の特攻隊が編成された。陸軍「万朶隊」は日本で最初に編成された特攻隊である。

日本軍初編成の陸軍特攻隊「万朶隊」は、出撃が1944年11月7日のフィリピン戦と,海軍の神風特攻隊に2週間遅れた上に,空母撃沈のような華々しい戦果に恵まれなかった。そこで,日本軍初編成の特攻隊「万朶隊」は黙殺された。陸軍は,1944年11月7日〜1945年1月13日までに,特攻突入148機,未帰還170機、自爆24機を出したともいう。

九九双軽による陸軍「万朶隊」は,日本軍の公式特攻隊第一号といえるが,戦果をあげることができなかった。海軍は,2週間前に空母撃沈の大戦果を上げ家イルからである。そこで,特攻編成第一号の「万朶隊」は,事実上,戦史からも黙殺されてしまった。特攻=カミカゼ(本来は海軍の航空特攻)との認識が広まったのも,陸軍特攻がフィリピン戦で不振だったことに起因する。生き残った(戦闘経過を知っている)上級司令官は,特攻が大戦果をあげたと公言し,戦果のない特攻隊を黙殺する傾向がある。
 戦果の有無で特攻隊を差別するのは,戦死した特攻隊員を追悼する者としてはふさわしくない。戦果優先のの指揮官が生き残って,知覧基地を陸軍特攻の聖地として呼び,「特攻で死んだ人たちがいるからこそ,今の日本がある」というのは,どのような了見からであろうか。


写真(左):川崎九九式双発軽爆撃機(九九双軽);機首,後上方,下方の3ヶ所に7.7mm機銃を装備しただけの軽防備で,燃料ダンクの防弾装置もなかった。「万朶隊」が特攻出撃したときには,防御兵器などはすべて撤去して,重い500kg爆弾を搭載した。

 1944年後半には,戦局挽回を図るため,陸軍航空技術研究所長正木博少将は,特攻によって,一機で一艦を屠るべきである主張した。「跳飛爆撃」のような艦艇撃沈にふさわしい戦法にかわって,旺盛な突撃精神を発揮しての特攻(体当たり自爆)作戦が採用された。1944年初頭から,陸軍大臣,参謀総長も兼ねていたむ総理大臣東条英機陸軍大将は,「物には限りがあるが精神力は無限である」「敵に打ち勝つには精神力が重要だ」としきりに国民と軍に訴えていた。突撃精神が優先される状況では,命を懸けた特攻に,軍事的,科学的な疑問を呈することはできなくなった。保阪正康(2005)『「特攻」と日本人』では,特攻を容認する下地を準備した内閣総理大臣東條英機陸軍大将の役割を指摘したが,卓見である。特攻という多数の人命を犠牲にする大作戦を実施するには,政府・軍の最高幹部が承諾していることが必要であり,一部の将校の発意で実施できる作戦ではない。にもかかわらず,現地将兵のやむにやまれない心情から,自発的に特攻が実施されたという「特攻自然発生説」が元幹部を中心に流布されてきた。

体当たり自爆攻撃は,航空機が軽いジュラルミンで作られており,突入速度も600kmと爆弾よりも遅く打撃力は小さい。高速で突入する特攻機を操って,目標に肉弾突撃する熟練搭乗員も少なく,訓練用の燃料が不足してた。岩本大尉のような陸軍初の特攻隊指揮官となった有能な士官も,技術的理由から特攻の成果はあまり上がらないと考えていた。

 第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将自身が「統率の外道」にもかかわらず特攻を命じた。軍上層部の強い意向を承諾し、命令に従ったからである。(第一航空艦隊司令に就任したくないといっても命令を断るのは不可能である。)

特攻隊員の命を犠牲にして任務を遂行することは,人命軽視な上に,勇気ある搭乗員の命を1回限りで使い捨てる、犠牲が多く効果の少ない作戦である。しかし,当時の状況では,それを公言できる人物はほとんどいなかった。言った人物もあったが黙殺された。


陸軍重爆撃機キ-67「飛龍」;左写真は通常の爆撃型,右写真が特攻専用機。1944年10月の台湾沖航空戦では,雷撃機として活躍したが,フィリピン戦では特攻機として使用された。機種先端には,爆弾を破裂させる長い棒状の信管がついている。特攻用に機首の爆撃観測用のガラス窓が金属で覆われている。後上方20mm機銃も取り外されている。特攻専用なので,爆撃用装備も機銃装備も一切不要なためである。搭乗員は全員一蓮托生として,同乗する必要が必ずしもない爆撃主,偵察員なども特攻した。搭乗員たちの一体感がさせたのか。

日本陸軍は,当初,川崎キ48九九式双発軽爆撃機と三菱キ67「飛龍」重爆撃機を体当たり自爆攻撃機に改造して特攻を準備した。九九双軽は,胴体下方爆弾倉に通常は100kg爆弾4発,最大で500kg1発を搭載する。それを特攻では,500kg2発装備できるように改造した。

重爆撃機キ67「飛龍」は,最大爆弾等裁量800kgのところ,自爆用に800kg爆弾2発を搭載。特殊装備なので,爆弾は投棄できない。キ67編成の特攻隊は「富嶽隊」と呼ばれた。「一機よく一艦を屠る」とされたが,鈍重な爆撃機が,多数の敵戦闘機,護衛艦艇に守られている空母や戦艦に体当たりするのは至難の業であった。機体が大きいゆえに,レーダーにも察知されやすかった。突入速度も遅く,爆弾の爆発力だけでは打撃力は多くはなかった。

 軽量化した骨組みの日本軍機は,急降下しても時速600kmのスピードしか出せない。また,航空機の機体は,剛体(鉄の塊)ではないから,爆弾よりもはるかにもろい。したがって,特攻機の衝撃は,投下された爆弾よりも遥かに小さい。唯一の利点は,搭載燃料が引火しやすいことだけである。

 軍事作戦の上からは,優秀な兵士は何回も出撃させるが,休養をとらせる。これが,効果的な戦闘を継続する要件なためである。肉薄し爆弾を投下するなら,命中率がよくなる。特攻に志願できる勇気があれば,「敵兵の白目が見えるまで」肉薄攻撃を行うほうが,士気も戦果もあがったであろう。
(夜戦「芙蓉部隊」のように)

4.1944年10月-11月 フィリピン戦での日本陸海軍航空隊による特攻作戦は,軍上層部が組織的,計画的に行った「作戦」である。しかし、特攻は,第一線の将兵が戦局挽回のために、犠牲的精神の発露として、自ら発意、志願して実施したという「特攻自然発生説」が唱えられた。「特攻自然発生説」を信じ、特攻隊員の自己責任を強調したの理由は、軍上層部の特攻作戦の責任回避、特攻隊を送り出し自らは生き残ってしまった悔恨のため、と考えられる。

特殊奇襲兵器によれば、次のように軍の関与が明白である。
1944年6月19日,341空司令岡村大佐は,連合艦隊参謀福留繁中将に「体当り機300機をもって特殊部隊を編成されたい」と意見具申。
1944年6月25日、サイパン島奪回の会議の席上、元帥伏見宮博恭王が「特殊兵器の使用を考慮しなければならない」と発言。

1945年6月19・20日,最後の空母決戦であるマリアナ沖海戦で日本軍は艦載機350機以上を失い,熟練搭乗員,大型空母も壊滅。正攻法による攻撃では勝ち目がないことを悟った日本海軍は,特攻「作戦」の採用を決定。1944年7月、戦備考査部会議で「特殊兵器緊急整備計画」が策定され海軍水雷学校長大森中将の指揮する特殊兵器整備促進班を設置。

写真(右):1944年10月16日,台湾沖海戦で雷撃された米海軍軽巡洋艦「ヒューストン」USS Houston (CL-81);10月14日にも魚雷を受け死傷者を出している。台湾沖航空戦では,日本海軍はT攻撃隊という精鋭部隊を投入した。部隊は,新鋭機「銀河」「飛龍」や一式陸上攻撃機を用いて,雷撃,爆撃を行った。その戦果は,軽巡洋艦「ヒューストン」に10月14日,10月16日に各々魚雷1本命中,中破,重巡洋艦「キャンベラ」に10月13日夕刻に魚雷1本命中,中破である。しかし,日本軍は空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻などを撃沈する大戦果をあげたと(当初)考えた。

1944年10月の台湾沖航空戦の戦果誤認の訂正電報を大本営で受けた瀬島龍三参謀は,過大な戦果(空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻などを撃沈)が既に大元帥昭和天皇の上聞に達していたという理由で,この修正電報を握りつぶした。陸軍は,この誤った過大戦果報告をもとに,作戦方針を,ルソン島持久戦からレイテ島決戦に急遽変更してしまう。(→「山下奉文大将終焉の地 慰霊碑修復計画」に異議あり引用)

日米開戦時に陸軍省人事局長だった富永恭次中将は,瀬島龍三参謀の庇護者である。フィリピン方面の陸軍航空隊(特攻隊を含む)の総元締めである第四航空軍司令官でもある。
富永恭次中将は,捷一号作戦でフィリピンの日本陸軍航空隊,第四航空軍司令官として活躍。「最後の1機に乗って特攻に加わる」といって,華々しく特攻隊を送り出した。軍司令官として最前線の飛行場で,部下に接した。(神様扱いの将軍が,下級将校,下士官・兵と語り合うのは稀で,感激した将兵が多かった。)しかし,フィリピン戦末期,富永中将は,撤退命令のこないうちに,台湾に逃げた。これは,部下も置き去りにしただけでなく,「敵前逃亡」(軍法では最高死刑)に等しい軍紀違反である。

朝鮮半島の元山空は,零式練習戦闘機(練戦)を配備していた。訓練に使われたのは、古いものばかりだったようだが,教員・教官も,練習生も「飛べれば結構」と、新旧はあまり問題にしていない。しかし,特攻機としても練習機・搭乗員を送り出している。青木司令は,司令会議で博多に出張しているが,そのときにも練戦を使用した。
NPO九州アジア記者クラブによれば,青木司令も、1945年8月11日、朝鮮元山の海軍基地から家族ぐるみで日本に逃亡したとされる。
菅原道大(1888年11月28日生〜1983年12月29日没)
1939年10月 中将昇進,航空総監部附,1939年12月 下志津飛行校長
1940年8月 第一飛行集団長,1941年9月 第三飛行集団長(のちにマレー戦・蘭印戦参加)
1942年7月 第三航空軍司令官,1943年5月 埼玉県の陸軍航空士官学校校長
1944年7月 航空総監・航空本部長,8月 (兼務)教導航空軍司令官
1944年12月 第六航空軍司令官(沖縄方面の特攻指導)
陸軍航空部隊の頂点に立った菅原道大陸軍大将は,特攻を主導し,「最後の1機で特攻出撃する」といって部下を特攻に送り出した。しかし,大元帥から軽挙妄動を慎むように指示がなされたたため,戦後処理の大任を引き受けた。

ウォナー夫妻(1982)『神風 (下)』によれば,海軍の宇垣纒中将が特攻出撃,戦死した報が伝わると,陸軍にも死ぬ機会をあたえてほしいと要望する隊員が出た。第六航空軍高級参謀鈴木京大佐は,重爆1機を用意した。そして,菅原司令官に「一機用意いたしました。鈴木もおともします」と言った。この申し出に、菅原大将は「宇垣が死ねことにきめたとしても、自分にとってはこれからの後始末が大事だと答えて、『死ぬばかりが責任を果たすことにならない。それよりは後の始末をするほうがよい』と語った」

菅原司令官は,戦後,特攻の慰霊碑事業を指導した。1952年特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会をやはり戦後も生き残った及川古志郎海軍大臣,寺岡謹平司令官たちと立ち上げた。特攻作戦の推進者たちは、戦後になって生き残り、特攻命令を下した部下たちの慰霊に努めた。これは、責任を墓場認める勇気ある行為かもしれない。

軍上層部は,明確に「自爆体当たり攻撃をせよ」との命令を下したわけではなく,米軍の言う「自殺攻撃」のかわりに「特別攻撃=特攻」という言葉を作り出した。「特別攻撃」の語は,1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃に際して,特殊潜航艇による湾内突入雷撃計画にも使用されていた。明確な自爆体当たり命令をださない理由は「自発的な志願者による犠牲的精神の発露として,特攻が行われる」との俗説を流布させるためかもしれない。(戦後の警察予備隊では、戦車を特車、砲兵を特火といった。)

犠牲的精神を要求した上官の責任を一切認めようとしない態度は,特攻隊員に対する欺瞞にも思える。事実上の命令で特攻隊員に任命され,特攻隊が編成された。若者に犠牲的精神を求め,その命を要求した責任は,命令者たる上官がとらなくてはならない。


写真(上):護衛空母「サンガモン」USS Sangamon(CVE-26)
;基準排水量1万1,400トン,速力18ノット,搭載機32機の低速小型空母。1944年10月末,神風特別攻撃隊敷島隊は、護衛空母「スワニー」「サンティー」に突入した,その後、護衛空母「サンガモン」も特攻機の被害を受けた。しかし、これらはみな戦列に復帰し、沖縄攻略に参加した。1945年5月4日1900、沖縄近海で「サンガモン」は特攻機に艦橋の通信アンテナをもぎ取られた。その33分後,特攻機が命中し大破。米国本土に修理のため回航。しかし,全損となり、戦後にスクラップにされた。

5.日本陸海軍航空隊による特攻作戦は,大きな被害を連合軍艦艇に与えた。しかし、その犠牲となった特攻隊員、特攻機、その支援部隊の損害と比較すると、作戦に伴う犠牲が大きすぎた。航空機による体当たり自爆という攻撃方法は、敵撃滅にはあまり効果的な方法ではなかった。にもかかわらず、全軍特攻化を日本軍の国防方針としたのは、精神主義、愛国心しか頼るものが無かったからであろう。

 軍事作戦の上からは,劣勢にあっても,兵士は長期間,何回も出撃し練度を向上し,休養をとって体力を温存するのが,本来の効果的な作戦である。「敵兵の白目がみえるまで」接近することができれば,命中率は向上する。時速600kmという低速で剛体ではない特攻機(爆弾搭載)よりも,投下された剛体の爆弾の衝撃力のほうが大きいのである。

 沖縄戦では、戦艦、空母のような大型艦船よりも、駆逐艦、掃海艇、揚陸艦など小艦艇への特攻が多い。これは、沖縄に来航した米軍艦隊が、空母の周囲を、小艦艇で幾重にも護衛した輪陣形を形成し、周囲の小艦艇をまず発見した特攻機が、それを攻撃したためである。
また、特攻機パイロットや航法員・偵察員たちの技量は低く、出撃・実線経験もほとんどなかった。初めて目にした米軍小艦艇を大型艦艇と見誤って特攻の目標としたとも考えられる。敵戦闘機に追い回され,目標を選定している余裕もない。日本軍は,艦艇を目標に攻撃訓練をしていなかったし、燃料も不足し、飛行時間100時間程度に制限されたから,搭乗員の技量向上も望めなかった。使い捨てにせざるをえない特攻隊員に,貴重な航空燃料や新型機材をあてがうこともしなかった。

特攻による米国商船の被害一覧からみても,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は,6隻である。小艦艇ですらも、損傷はしたが、撃沈することは困難であった。鋼鉄の船体に比べれば寄木細工のように軽く華奢なジュラルミンの航空機は、体当たりしても、必ずしも大打撃力は大きくない。

航空機は3トン以上あるが、剛体ではなく、突入速度も時速500-600km程度で、爆弾の投下速度の四分の一にも達していない。自由落下する剛体の爆弾は高速で,急降下する飛行機に縛り付けられた爆弾よりも,衝撃力は大きくなる。

写真(右):零式艦上戦闘機;250キロ爆弾を搭載して特攻に多用された。知覧特攻平和館に展示されている機体で,九州西部の甑島沖合水深約35メートルに沈んでいた機体を,1980年に引き揚げたもの。腐食が進んでいるが,軽量のジュラルミンの機体は,剛体ではなく寄せ木細工のような構造である。体当たりしても,頑丈な鋼鉄の船体には大きな被害を与えることは困難である。

日本軍は「一機よく一艦を屠る」といい特攻作戦を正当化した。しかし,軽量のジュラルミンの航空機は,剛体ではなく,体当たりしても,頑丈な鋼鉄の船体には被害を与えることは困難である。特攻作戦は、厳密な科学的な「特攻機の打撃力」を計算した結果採用されたとはいえず、無謀な突撃重視の精神主義に彩られたものであった。

6.戦争終盤,沖縄戦における特攻作戦では,志願者を募るという形式をふむこともなく,部隊が編成された場合も多かった。戦局が悪化する中,多数の搭乗員が特攻隊員に選ばれている。若者は,特攻を引き受けるしかないと諦観したようだ。


写真(右):陸上爆撃機「銀河」の特攻隊
;長距離特攻機としてウルシー環礁の米海軍基地に出撃する銀河特攻隊。搭乗員は,操縦士,偵察員,電信員の3名なので,特攻隊員も3名である。途中で引き返したり,不時着したりした機体が多かった。


古小路裕によると,最新鋭の急降下爆撃機「銀河」の特攻出撃は次のように命じられた。
1945年4月27日、攻撃406飛行隊は出水基地から美保基地に移動して訓練を実施することになった。---5月10日、--急降下爆撃の訓練を終えて指揮所で休憩していた。すると、飛行隊長の壱岐少佐が、「次に示すペアは『銀河』を夕方までに宮崎基地まで空輸せよ」との命令を出して、搭乗割が示された。私たちは単なる飛行機の空輸だと思っていたので、宮崎基地に着陸しても、なんら普段と変わらない気分で指揮所に入った。美保基地へ帰る便はどんな手配になっているのか、それとも今夜はここで1泊することになるのか、などと思いながら待機していた。すると、とんでもない命令が伝達された。「翌朝4時に発進し、沖縄周辺の敵艦船に対して『体当たり攻撃』を実施せよ」。との命令である。---「爆撃せよ」や「雷撃せよ」ならまだしも「体当たり攻撃」---つまり、「死ね!」という命令である。指揮所前で行われた出撃前のセレモニーが終わった出撃隊員は、小型三輪トラックに乗せられそれぞれの飛行機まで送り付けられた。(上記引用)


沖縄戦末期になると,低速の旧式機,練習機,水上機,複葉機も特攻作戦に投入された。特攻隊員は,自分の棺となる特攻機を選べなかったから,このような低速の旧式中古機を割り当てられて,落胆し,憤慨したこともあった。

写真(右):空母「エンタープライズ」USS Enterprise(CV-6);排水量1万9,800トンのヨークタウン級空母で、1938年5月に就役してから1958年まで30年間も在籍した。1945年3月13日に通常攻撃によって損傷、4月11日に特攻機により損傷、 5月14日に特攻機により大破。米本土に回航され修理された。特攻機が1万9000トン以上の正規空母を撃沈したことは一度も無い。戦後1945年10月撮影。

白菊特攻隊 特攻隊編成によると,1945年3月下旬、九〇三航空隊から大井航空隊に転属したパイロットたちが,「白菊」特攻隊に編成される様子が描かれている。

ある日のこと、「飛行隊の搭乗員は、総員直ちに映写講堂に集合せよ!」と伝達された。----飛行隊関係者総員が集合したところで、大井航空隊司令奈良大佐が、参謀××中佐を伴って壇上に上がった。「今から聞く話は、軍の重大な機密である。だから、決して口外してはならない、また、お互い隊員の間でも話題にしてはいけない!」と、念を押した。 

---参謀の話を要約すれば「---フィリピン方面での戦況は、既に末期的な状況となっている。----この難局に際して残された手段は、諸君ら搭乗員が一機で一艦を沈める『体当たり攻撃』以外に方法はない。よって、第十航空艦隊は全保有機をもって『神風特別攻撃隊』を編成し『体当たり攻撃』を実施する」。

特攻は一部の志願者による特別な行為であって他人事としか考えていなかった。だから、自分自身が「体当たり攻撃」を実施する立場にたたされるとは夢想もしていなかった---。ところが,航空艦隊参謀の説明によれば、全保有機で「特別攻撃隊」を編成するという。これは志願者を募るのではなく、飛行隊をそのまま「特攻隊」に編成替えして「体当たり攻撃」を実施するということである。それなら、もう逃げも隠れもできない瀬戸際にたたされたことになる。(上記引用) 


写真(左):機上練習機「白菊」
;11型(K11W1)と21型(K11W2)を合わせて798機製造。
最高速度 143 mph (230 km/h) (1700 m); 巡航速度 109 mph (175 km/h) (1000 m)
上昇限度 (5620 m); 上昇速度 3000 m/19分35秒. 航続距離 1,094 miles (1760 km).
自量1677 kg 標準全備重量(2,640 kg) 最大全備重量 (2800 kg). 翼面過重(86.6 kg/sq m); 出力過重 (5.1kg/hp)


航空艦隊参謀から「諸君が一機で一艦を沈める体当たり攻撃以外に方法がない」と言われると「よーし、やるぞー」という気持ちになる。しかしその反面、「まだ死にたくない、他にも何らかの方法があるのではないのか……」との思いが交差する。このように、精神的な動揺をどうすることもできなかった。----われわれ搭乗員の思惑とは関係なく、「神風特別攻撃隊」の編成は計画的に進められていたのである。---この時期、学生や練習生に対する教務飛行は既に中止され、練習航空隊は編制改正により、実施部隊に生まれ変わっていた--。 

練習機として、教務飛行に使われていた「白菊」はスピードも最高で120ノットと遅いうえ、燃料も満タンで480リットルしか積めない、約600マイルの航続距離しかない。そのため、「特攻機」としての改造が行われた。
零式戦闘機用の増槽(落下燃料タンク)を胴体内に積み込んで固縛し、燃料の積載量を増やした。次に、主翼の付け根に、二十五番(250キロ爆弾)の投下器を装着した。--- 爆弾を機体に装着したまま安全装置を解除する特別装置が着けられた。
 各航空隊では第十航空艦隊の命令によって「神風特別攻撃隊」を編成した。---神風特別攻撃隊の編成が完了すると、「体当たり攻撃」の訓練が開始された。

 昼夜にわたる猛訓練を実施して錬度の向上を図り、夜間の出撃が可能となった時点で、鈴鹿航空隊及び大井航空隊は第三航空艦隊に、高知航空隊と徳島航空隊は、第五航空艦隊にそれぞれ配属された。5月24日以降、6月25日までに、130数機の「白菊」が、沖縄方面に「体当たり攻撃」を敢行した。その内、56機が突入確実と認められ、連合艦隊告示によって、その功績が全軍に布告された。--200数十名が「白菊」と運命を共にした。(→白菊特攻隊 特攻隊編成引用)

写真(左):1945年5月27日に鹿児島県万世基地を出撃した陸軍特攻第72振武隊;鹿児島県萬世飛行場から旧式低速中古の九七戦9機の特攻隊として出撃した荒木幸雄(17歳2ヶ月)たち。米駆逐艦「ブレイン」を撃破し(乗員を殺し)たのは彼らかもしれない。こう考えると,戦争の本質は,殺戮に命を掛け合うことなのかと思えてくる。それとも,かれらの国家や家族への愛情の前で,米国の若者の人生など考えてはならないのか。

現在の万世(現在の加治町)飛行場から,1945年5月27日に特攻した少年兵荒木幸雄仔犬を抱いた特攻少年兵」として,有名である。屈託のない幼さの残る笑顔が印象的で,体当たり攻撃を命じられた若者とは思えない。特攻隊員は、祖国,家族を愛する純真な若者である。しかし、命を狙われる米軍から見れば特攻機を操縦し,体当たりしてくる「自爆テロリスト」なのか。それとも,現在頻発している「自殺攻撃」を行う若者たちが,テロリストではないのか。また、若者の特攻隊員はいるが、将官はもちろん、佐官クラスの高級将校の特攻隊員はいない。なぜ高級将校たちは、特攻に誰一人志願しなかったのか。

1945年5月27日の特攻出撃
神風特攻菊水白菊隊:機上作業練習機「白菊」20機:鹿屋発:中尉 川田茂指揮官
陸軍特攻第72振武隊:九七式戦闘機(九七戦:旧式固定脚の低速中古機)9機:万世発:中尉 佐藤睦男指揮官
陸軍特攻第431振武隊:九七戦5機:知覧発:伍長 紺野孝指揮官

1945年5月26/27日(日曜)沖縄方面の米軍損傷艦船 
駆逐艦 ANTHONY (DD-515), 特攻により損傷by suicide plane
駆逐艦BRAINE (DD-630),特攻により損傷, 26 d. 25'N., 128 d. 30'E.
高速掃海艦 FORREST (DMS-24), 特攻により損傷
潜水艦母艦 PC-1603, 特攻により損傷
測量艦DUTTON (AGS-8), 特攻により損傷

写真(左):陸軍九七式戦闘機を装備した特攻隊;九七戦は旧式戦闘機であったが,中古機や練習機として多数が残存していたために,特攻機として使用された。

1945年5月27日(日曜)沖縄方面で特攻の被害を受けた駆逐艦「ブレイン」の戦闘経過OKINAWA;“A Fiery Sunday Morning”引用翻訳
1905年5月27日は,東郷平八郎元帥がロシア艦隊を対馬沖で撃破してた40年記念日にあたるが,この日曜に連合艦隊司令長官豊田副武大将は,航空機175機による沖縄の米軍上陸地点とレーダー警戒艦艇への攻撃を命じた。
0745,駆逐艦 BRAINEの上空援護はなかったが,突然カミカゼ特攻機が現れた。それは,九九式艦上爆撃機(パル“Vals”)のようだった(実際は,同じ固定脚の九七式戦闘機)。一番機は,僚艦「アンソニー」ANTHONYとの対空砲火で撃墜された。二番機は,火災を起こし 僚艦「アンソニー」の脇に落下したが,落ちてきたパイロットによって若干の損傷を受けた。三番機は,火災を起こして僚艦「アンソニー」上空を飛び去った。
“この特攻機は我々をかすめた。 そして,旋回して上昇し,再び駆逐艦「ブレイン」に向かって急降下してきた。(Commander C.J. Van Arsdallの証言)

駆逐艦「ブレイン」は最大戦速で航行した。特攻機が,甲板真上に現れた。It sheered off a wing on the No. 1 gun and crashed into the No. 2 Handling Room, which exploded and killed the men on that gun. 前方40mm対空機銃の乗員たちは,殺されるか,海に投げ出された。駆逐艦「ブレイン」に突入した特攻機はThe 1発の550ポンド爆弾を抱えていたが, すぐには爆発せず,士官室を通り抜けて,戦闘情報センターCombat Information Centerで破裂した。


1945年5月27日,特攻機の命中を受けた米駆逐艦「ブレイン」DD-630 USS BRAINE;2機の特攻機の命中により損傷。満載排水量 2924トン,全長 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max), 武装 5門 x 5インチ38口径対空砲, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5). 機関出力, 6万馬力; General Electric Geared Turbines, 2 screws 速力, 38ノット, 航続距離 6500マイル@ 15ノット, 乗員 273名。
写真(右)米駆逐艦「ブレイン」の損傷した40mm対空機銃砲塔;カミカゼ1番機の被害の様子。1945年3月27日,2期の特攻機に突入された。The first hit forward seriously damaging the bridge and the second hit amidships blowing number two funnel overboard and demolishing the amidships superstructure. 「ブレイン」は慶良間列島に応急修理のために向かった。そして,6月19日にそこを発って,米本土に7月19日に到着した。


Within seconds the fourth plane close on the tail of the first, approached the BRAINE sharp on the starboard bow. It sheered one of its wings on the starboard boat davit and crashed in flames into the deck amidships, and buried itself into the sick bay and supply office. The bombs it was carrying exploded in the uptakes of the No. 2 stack, blowing the stack and the fighter directors into the sea.

艦橋との連絡は全く取れなくなった。延焼を制御することはできなくなった。Their fury was fed by the spilled gasoline and they ignited the shells and ammunition of all four 40mm clipping rooms. The torpedoes were torn loose from their mountings.(→OKINAWA;“A Fiery Sunday Morning”引用翻訳)

 もしも特攻隊は,自発的に志願者が現れ、その志願者から特攻隊が編成されたという「特攻自然発生説」が妥当するのであれば、なぜ将軍・大臣・皇族はもちろん、佐官クラスの中堅士官が、特攻を志願しなかったのかを説明する必要がある。

 高級将校が、航空機を操縦できないのであれば,予備学生と同じく100時間の速成訓練を受けて練習機で突っ込めた。複座以上の特攻機では、電信機を降ろして、後方見張りのためにか、偵察員を乗せていた。操縦するパイロットではなくとも、同乗者として、特攻機に乗り込むことは、経験の浅い将兵にも可能だった。航法・通信すらできなくとも、将軍・大臣・皇族、佐官クラスの士官でも、特攻出撃できた。自ら志願すれば、誰でも特攻、戦死できたのである。海軍大学,陸軍大学卒業者の多くは,将官にまで昇進できたから,予備役を含め,将官クラスの特攻出撃は,決して荒唐無稽ではなかった。

しかし、特攻で戦死した佐官以上の士官は、神雷部隊「桜花」隊の野中五郎少佐(二・二六事件首謀者の実弟)一名程度である。野中少佐は、人間爆弾「桜花」を運ぶ一式陸上攻撃機に搭乗していた。つまり、結果として,志願によるか、上級指揮官からの命令によるかは問わず,航空特攻隊員は、若い最下級将校および下士官・兵からのみ編成され、多くが未熟練な搭乗員であった。

陸軍第三独立飛行隊の久野正信少佐(29歳)は,数少ない佐官特攻ともいわれる。死後中佐に一階級昇進した。

尉官最上階級の大尉は,海軍では分隊長相当で、学徒を充当した少尉中尉と予科練出身の下士官が,特攻隊の中核となった。航空機を操縦できる将官はまずいない。佐官クラスでも航空機操縦は限られた人物しかできなかった。したがって,特攻パイロットに,佐官以上の上級将校がほとんどいないのは,一見当然のようにも思える。また,航空戦を熟知している,航空機の操縦もできる源田実参謀のような有能な士官は、貴重な存在である。彼らが,自ら最前線で戦うことも,特攻に出ることもありえないと考えられる。結果として,未熟な学徒出身の下級将校,彼らに率いられた予科練出身の兵士が,特攻の主力を担うことになった。こう考えると,特攻を志願しなかった軍上層部の将官や佐官以上の高級将校を,むやみに批判することはできない。軍人でも自決,自殺など容易にできることではない。

事実上、佐官クラス以上の士官で、特攻隊に自ら志願した将校は、日本陸海軍にはほとんどいない。「俺も最後の一機で特攻する」といっていた高級将校,将軍は、そのまま,戦後復興に尽くすことを新たに任務とした。関行男大尉と兵学校同期生中津留達雄大尉の「彗星」に乗って出撃した宇垣纏中将は,降伏を知っている以上,特攻による戦果の目的ではなく,特攻自決だった。大西瀧治郎中将は,割腹自殺した。しかし,特攻指揮官のほとんどは,戦後も生き残った。中には,有能さを発揮して、政界,財界で大活躍した陸海軍の参謀もあった。

軍上層部は、特攻とは、愛国の情を示す方法が特攻以外にない未熟練な末端の将兵が行うべきことと冷静に考えた。軍事技術/戦術・戦略に通じた一級の軍人は、体当たり自爆という1回の任務で命を軽軽しく無駄にすべきではない。生き続けて、経験をつみ、よりよい作戦を計画、準備、実行する義務がある。死ぬよりも生きることのほうがぬ難しい。
特攻で死ぬのは未熟な搭乗員と旧式・中古機がふさわしく,熟練搭乗員と高級将校は,本土決戦のために戦力温存すべきである。 このように合理的に考えて、司令官や高級将校の多くは、自ら特攻出撃するのを回避しつつ、苦しみながら,若い未熟練搭乗員を特攻に送り出した。この無責任だが冷徹な戦術が,日本軍による特攻作戦である。軍国主義教育を施し,促進してきたエリート軍人の能力とそれに従う純真な学徒出身者・少年兵出身者のどちらかが欠ければ,特攻作戦は実施できなかったであろう。

死ねなかった軍上層部の将官や佐官以上の高級将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人たちもいる。自決,自殺など容易にできることではない。指揮官,司令官が終戦に際して自決しないからといって非難することはできない。しかし,特攻隊を編成した軍人が,参議院議員,大会社の幹部、政治顧問に就任し,威風堂々としていたら面食らう。「特攻隊自然発生説」を流布した彼らの軍人精神、愛国心、信義,そして特攻隊員や犠牲家族への思いはどうなったのか。

「自発的に体当たり攻撃を始めた」と軍上層部司令官・参謀たちが唱えるのは,特攻隊員の名誉と自己犠牲の精神に共感するためだけではない。軍上層部の要職にあった自分たちが,特攻しか有効な作戦を提供できないという,戦術的・戦略的な無力さ(無能さ)を認めないからである。特攻を作戦として採用した責任をも回避している。

1945年5月27/28日(月曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
駆逐艦 DREXLER (DD-741), 特攻により沈没
護衛駆逐艦GILLIGAN (DE-508), 雷撃機(実際はフロートのある水上機)の特攻により損傷
高速掃海艦SOUTHARD (DMS-10), 特攻により損傷
掃海艇GAYETY (AM-239), 水平爆撃により損傷by horizontal bomber
高速輸送艦LOY (APD-56), 特攻により損傷
高速輸送艦REDNOUR (APD-102), 特攻により損傷;排水量 1,400 t.速力23.6 kts. 乗員200名、輸送人員162名、搭載舟艇 4 LCVP landing craft、搭載物資 6×1/4 ton trucks, 2× 1 ton trucks, 4× ammunition carts, 4 pack 榴弾砲。
輸送艦 SANDOVAL (APA-194), 特攻により損傷
洋上浮標 PAKANA (ATF-108), by naval gunfire
磁気消去艇YDG-10,特攻により損傷

特攻により損傷には、撃墜された期待の破片が降ってきたものもあり、すべてが特攻機に突入されたわけではない。

米軍も,ジャップのひどい攻撃を受けた,こんな苦しい状況を乗り切ったと,被害を(戦果も)過大に報告していると思われる。特攻で,精神的にまいって戦闘に耐えられなくなったとして,生き残ろうとした将兵もいたのかもしれない。彼らの言動だけを根拠に,特攻が米兵を恐怖に陥れたとするのは危険である。

写真(右):1945年5月28日沖縄方面で特攻機により撃沈した駆逐艦「ドレクラー」 Drexler(DD-741);後部の第三砲塔付近に特攻機が命中して,爆発,大火災が発生した。USS Shubrick Photos引用

1945年5月28日駆逐艦「ドレクルラー」の撃沈経緯United States Military Surface Ships: DD 741 (DREXLER)引用
駆逐艦「ドレクラー」Drexler(DD-741)は,1945年3月27日にウルシーUlithi環礁の基地を出撃し,3月27日に沖縄攻略作戦に参加し,危険な任務であるレーダー警戒ピケradar picket stationに就いた。On 28 May at 0700 two suicide planes attacked Drexler and Lowry (DD-770). The first was downed by the combined fire of the two destroyers and planes from the combat air patrol. The second tried to crash Lowry and failing, stumbled into Drexler, cutting off all power and starting large gasoline fires. 「ドレクラー」は大損害にもかかわらず,発砲を続け, 攻撃してきた敵機3機を,叩き落した。At 0703 yet another suicider crashed in flames into Drexler's superstructure. 巨大な爆発が起こり,艦は横倒しになって急速に沈没した。それは,二番目の特攻機命中から1分とかからなかった。A tremendous explosion followed and the destroyer rolled on her starboard side and sank stern first in 27° 06' N., 127° 38' E., less than a minute after the second hit. 急速に沈没したために,死傷者casualtiesは甚大であった。死者168名,負傷52名で,司令官も含まれる。

菊水八号作戦・第九次航空総攻撃(5月28日〜5月30日)
持久戦を続けるために首里を放棄して南部へ撤退することになり,29日から撤退開始。この時期には,水上機,練習機も含めて旧式機が特攻に投入された。
参加数は,海軍217機,陸軍71機,海軍特攻51機,未帰還46機

写真(右):1945年5月29日深夜に特攻機に突入された駆逐艦「スーブリック」の火器管制官Fire Control Gangたち;練習機「白菊」など特攻機の攻撃を受けた駆逐艦「スーブリック」。約4000名の航空特攻隊員たちが撃沈しようとした米艦船には,このような米国人の若者が乗船していた。日本の特攻隊員の愛国心,家族愛のために出撃するしかないという心情にはうたれる。しかし,彼らの人生を,米国の若者の殺害ではなく,もっと有意義に使うことはできなかったのか。それとも,戦争とは所詮大量殺戮を伴うもので,人の死に心を動かされていては,戦争(指導)などできないのか。USS Shubrick Photos

「白菊」特攻隊を報じる徳島新聞では,次のように記述されている。

「白菊特別攻撃隊員を命ずる」。1945年4月上旬、日本海軍徳島航空隊司令が搭乗員250人に告げた。海軍少尉だった田尻正人さん(82)もその中にいた。
1943年9月、海軍飛行予備学生に志願し、---1944年10月、上海の実戦部隊で戦闘機乗りになった。そして、転属になった徳島航空隊で特攻命令。「死ぬ覚悟はできていた。別に驚きもせず、当然のことと受け止めていた」と田尻さん。

 1945年5月23日、白菊60機は松茂を離れ、前線基地の鹿児島県串良町へ。出発前、わら半紙に書き残した言葉は「感激 皇恩広大 祈 聖壽萬歳皇国繁栄」(皇恩の広大に感激し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈る)。同24日夜、第一次攻撃として同僚機14機が(串良を)出撃。エンジン不良で引き返したり、不時着したりした機を除き、9機18人が南海に消えた。

 田尻さんは第二次攻撃で26日朝に出撃することになった。出撃二時間前の午前3時に起床、下着を取り換えた。軍服や写真などの身の回り品は箱に詰め、実家に送り届けるよう手配した。手紙は添えなかった。整備員の「万歳」「万歳」の声に送られて白菊に乗り込み、滑走路端に移動。離陸というときになり、伝令が「攻撃中止」と叫びながら走ってきた。
 理由は「戦機を逸したため」。田尻さんは待機となり、訓練をやり直すため松茂に戻った。しかし、串良町に残った白菊隊はその後四回出撃し、計28機56人が二度と戻らなかった。再び命令を待ち、訓練に明け暮れる日々。---

 そして、終戦。---玉音放送を聞いた。雑音が多く、意味がよく分からなかったが、司令が「無条件降伏だ」と説明した。----「搭乗員は皆殺しにされる」とのうわさが流れ、隊員は基地を後にして散り散りに。列車を乗り継いで家にたどり着いた。戦死したと思っていた息子を見た父母の喜びように、初めて「生きていてよかった」と実感した。(引用終わり)

1945年5月28日の海軍特攻出撃
神風特攻徳島第二白菊隊:白菊11機:串良発:中尉 田中正喜指揮官
神風特攻徳島第三白菊隊:白菊5機:串良発:一飛曹 北光圓指揮官
神風特攻琴平水心隊:水偵15機:指宿発:少尉 山口平指揮官
第九神風特攻神雷攻撃隊:陸攻12機:鹿屋発:中尉 永吉晃指揮官

写真(右):1945年5月29日0013,沖縄方面で特攻機に突入された駆逐艦「スーブリック」の砲塔要員たち;5月28日夜に発進した特攻機は,深夜に後甲板の第3番砲塔に命中し,大損害を与えた。特攻機の命中は,日本にとっては喜ばしい戦果であるが,同時に若者を殺害することでもある。しかし,この殺戮の実態は戦争プロパガンダには出てこないで,「敵撃滅」「敵艦撃沈」「轟沈」といったモノの戦果だけが強調される。

1945年5月28日の陸軍特攻出撃
陸軍特攻第45振武隊:二式復戦10機:知覧発:中尉 藤井一指揮官
陸軍特攻第50,51,52振武隊:一式戦5機:知覧発
陸軍特攻第54,55振武隊:三式戦34機:知覧発:
陸軍特攻第58,59振武隊:四式戦4機:都城東発:
陸軍特攻第213,431,432,433振武隊:二式高等練習機17機:知覧/万世発:

1945年5月28/29日(水曜)沖縄方面の米艦船の被害
駆逐艦 SHUBRICK (DD-639), 特攻機により損傷

*下記の戦闘経過報告からも窺われるように,特攻機の出撃と戦果(被害)を照合するのは,困難である。その理由は次のとおり。
―亰盪間,攻撃時間がずれる。出撃時間が夕方,夜間であれば,攻撃が当日の深夜になることも多い。
⊇亰發靴燭發里痢っ羞儡霖呂卜ち寄ったり,不時着したり,さらに故障・敵が発見できないなどの理由で引き返す機体がある。こうして,特攻機の当直時間,日時の特定が困難になる。
9況發鮗けた米艦船での目撃者は少なく,攻撃で死亡している場合もある。したがって,どのような機種が特攻,突入したのか不明瞭である。突然,爆音が響いたという状況で,どのような敵機がどのように攻撃したたかは,重要でなく,救助,消火作業,脱出が優先される。損傷原因が不明瞭なまま,あやまった推定がなされる余地がある。
だ鐺経過報告の誤記,誤植,その引用の誤り,さらに日本時間と米国時間の記載過誤などのために,日時や損傷原因の特定が困難になる。


写真(右):1945年5月29日沖縄方面で特攻機により損傷した駆逐艦「スーブリック」 SHUBRICK (DD-639)後部の第三砲塔付近に特攻機が命中して,爆発,大火災が発生した。USS Shubrick Photos引用

駆逐艦「スーブリック」SHUBRICK (DD-639)乗員の日記:Personal War Diary of George T. Morley 
May 28, 1945; 0125 General Quarters 甲板部署
0205 Secured from General Quarters甲板部署から解放
0430 General Quarters
0500 Secured from General Quarters. Saw a Jap plane bite the dust.薄暗がりにジャップ機を発見
0815 甲板部署
0915 甲板部署から解放. 甲板部署の最中は,甲板で対空警備に出た。Went out on AA Screening during general quarters and stayed there.
2030 レーダー警戒ピケ16番に向かうように命令を受ける。Got word we were heading for Radar Picket #16. The Hot one.
2300 甲板部署に出る
May 28, 1945; 2330 甲板部署から解放

写真(右):1945年5月29日損傷した駆逐艦「スーブリック」DD-639の後部;左には,40mm連装対空機銃が破壊されている。爆発,大火災の後が生々しい。USS Shubrick Photos引用

May 29, 1945; 0005 甲板部署
0013 「スーブリック」40mm対空機銃で自殺機1機を撃墜。The Shubrick took a Suicide Plane on the 40 mm. 自殺機は墜落前に,爆弾を投下。The plane dropped a bomb just an instant before she crashed. 爆弾は甲板を直撃し大火災が発生。The bomb hit the deck spreading fire all over.爆発は40度のラム酒のようにひどく,爆雷が火災で誘爆しないことを願った。 The Explosion set off the 40 rum Clip Shock and I believe set off the depth charge that blew out the fire. 後部罐室,機関室,201室は浸水で海水が溢れ,202室も50cmほど浸水した。The after fire room and engine room and 201 were flooded and about 1 ½ feet of water in 202. 第3番砲塔操作室員の一人は殺され,全員が負傷した。二人が緊急無線で死亡したと伝えられた。In the handling room of No.3 Mount. Thoen was killed, all were injured but Corple, Hookey and Frazier were killed in emergency radio. 三人が第三弾薬庫に閉じ込められた。Grube, Harris and Hardcastle were trapped in No 3 Magazine. We got the wounded and put them on the fantail. The Van Valkinburg came along side and took the wounded and all unnecessary personnel off the ship. 救助隊員と志願者を除いて,退艦した。 At about 0600 we started to get towed to Kerionia Island. 2200,残りの乗員は弾薬庫を離れた。

写真(右):1945年5月29日損傷した駆逐艦「スーブビック」DD-639の後部;被害部署の後片付けであるが,破損部署の応急修理として,水中で浸水部分へ鉄板を張る作業も行った。遺体の回収もなされた。USS Shubrick Photos引用

May 30, 1945 0230 Went to sleep
0930 Woke up.
June 1, 1945 今日,残りの乗員たちが艦に帰ってきた。Gee but it sure seemed good to see their faces. Worked on the Ship.
June 8, 1945 依然として,艦の修理を続行するも,機関室からすべての遺体を回収できたわけではない。Still fixing the ship and not yet got all the bodies out of the engine room. We now have a patch on our side and have pumped all the water out.
June 18, 1945 Had a beer party on the beach of one of the islands in Wiseman’s Cove. Got some Jap books from a Cove.

1945年5月29日の特攻出撃
神風特攻振天隊:九七艦攻2機:新竹発:中尉 古川正崇指揮官
陸軍特攻飛行第20戦隊:一式戦5機:宜蘭発:少尉 石橋志郎指揮官
陸軍特攻誠第15飛行隊:九九双軽1機:台中発:伍長 半田金三指揮官

1945年5月29/30日(木曜)沖縄方面の米艦船の被害
高速輸送艦TATUM (APD-81), 特攻機により損傷
掃海艇YMS-81, 座礁by grounding
揚陸艦LST 844, 座礁

菊水九号作戦・第十次航空総攻撃(6月1日〜6月11日)
沖縄では戦線が崩壊し、大本営では沖縄を放棄し本土決戦の準備に全力を注ぐことに決した。
参加数は,海軍367機,陸軍71機,海軍特攻23機,未帰還20機。

写真(右):1945年3月末から米軍に占領された慶良間列島で開設された商店;Kerema Retto Trade Stores慶良間列島商店 阿真支店とある。家のなかの店員(少なくとも3名)は日本人である。特攻が激化していたときにも,日本人と米国人の交流があったが,米軍の軍政に服して生活した沖縄県民は,敗北主義者の非国民なのか。とすれば,終戦後,米軍に協力した元軍人たちは,国賊,変節漢,裏切り者か。沖縄戦のさなか慶良間列島に停泊していた駆逐艦「スーブリック」乗員の撮影。USS Shubrick Photos

1945年6月3日(菊水9号作戦)の特攻出撃
神風特攻第四正統隊:九九艦爆6機:第二国分発:中尉 関島進指揮官
陸軍特攻第44振武隊:一式戦1機:知覧発:軍曹 伊藤俊治指揮官
陸軍特攻第48振武隊:一式戦4機:知覧発:中尉 掘恒治指揮官
陸軍特攻第111振武隊:九七戦3機:知覧発:少尉 鈴木泰治指揮官
陸軍特攻第112振武隊:九七戦9機:知覧発:少尉 西崎重雄指揮官
陸軍特攻第214振武隊:九七戦4機:知覧発:伍長 谷口積雄指揮官
陸軍特攻第431振武隊:九七戦1機:知覧発:伍長 岡沢実指揮官

1945年6月3日(日曜)沖縄方面の米艦船の被害
貨物船 ALLEGAN (AK-225), by suicide plane
 

1945年6月5日(火曜)沖縄方面の米艦艇は台風により甚大な損害を被った。
台風による損傷艦は 戦艦 INDIANA (BB-58),戦艦MASSACHUSETTS (BB-59), 戦艦 ALABAMA (BB-60), 戦艦 MISSOURI (BB-63), 空母HORNET (CV-12), 空母 BENNINGTON (CV-20)、軽空母 BELLEAU WOOD (CVL-24), 軽空母SAN JACINTO (CVL-30), 護衛空母WINDHAM BAY (CVE-92), 護衛空母 SALAMAUA (CVE-96), 護衛空母 BOUGAINVILLE (CVE-100), 護衛空母 ATTU (CVE-102) など。

1945年6月6日の特攻出撃
陸軍特攻飛行第20戦隊:一式戦4機:宜蘭発:少尉 及川真輔指揮官
陸軍特攻飛行第29戦隊・誠第33飛行隊:四式戦4機:台中発:
陸軍特攻第54振武隊:三式戦1機:知覧発:少尉 岡本一利指揮官
陸軍特攻第104振武隊:九九襲1機:知覧発:軍曹 宮川三郎指揮官
陸軍特攻第113振武隊:九七戦10機:知覧発:少尉 高野正治指揮官
陸軍特攻第159,160,165振武隊:三式戦10機:知覧発:

1945年6月6日(水曜)沖縄方面の米艦船の被害
護衛空母 NATOMA BAY (CVE-61), 特攻機により損傷
駆逐艦BEALE,(DD-471), 衝突により損傷
掃海艦REQUISITE (AM-109), 衝突により損傷
掃海艦SPEAR (AM-322), 衝突により損傷
敷設艇 HARRY F. BAUER (DM-16), 特攻機により損傷
敷設艇J. WILLIAM DITTER (DM-31), 特攻機により損傷
航空燃料艦YAHARA (AOG-37), 衝突により損傷


写真(左):1945年6月10日に特攻機により撃沈した駆逐艦「ウィリアム・ポーター」DD-579 USS WILLIAM D. PORTER フレッチャー級
;満水排水量 2924 トン, 全長 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max) 武装 5 x 5"/38AA, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5). 機関出力 60,000馬力; General Electric Geared Turbines, 2 screws 速力, 38 Knots, 航続距離 6500 NM@ 15 Knots, 乗員 273名. 竣工1942年9月27日,就役 1943年7月6日. Fate Sunk by a Japanese Kamikaze Aircraft off Okinawa June 10 1945.写真(右):沈み行く駆逐艦「ウィリアム・ポーター」を救助する上陸用舟艇LSC-122;USS William D. Porter (DD-579) sinking after she was near-missed by a "Kamikaze" suicide aircraft off Okinawa, 10 June 1945. USS LCS-122 is standing by. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.

菊水十号作戦・第十一次航空総攻撃(6月15日〜6月22日) 
6月18日に32軍は大本営に向け訣別電報を打つ。23日,牛島軍司令官は自決。
水偵機,練習機白菊を特攻の主体とした参加数は,海軍271機,海軍特攻67機,未帰還56機。

6月21日の特攻出撃
神風特攻菊水第二白菊隊:白菊8機:鹿島発:中尉 古賀一義指揮官
神風特攻徳島第四白菊隊:白菊8機:串良発:中尉 井上国平指揮官
神風特攻第12航水偵隊:水偵8機:指宿発:中尉 野路井正造指揮官
陸軍特攻第26振武隊:四式戦8機:都城東発:中尉 相良釟郎指揮官

1945年6月21日(木曜)沖縄方面の米艦船の被害
護衛駆逐艦HALLORAN (DE-305), 特攻機により損傷
水上機母艦CURTISS (AV-4),特攻機により損傷
水上機母艦KENNETH WHITING (AV-14), 特攻機により損傷

写真(右):愛知E13A零式水上偵察機;特攻機として出撃するのか、胴体下に250-500kg爆弾を搭載している。塗装も日の丸の白フチを消した末期迷彩。見送りの将兵が集合している。
全幅 14,50 m、全長 11,30 m、 全備重量 3640 kg、航続距離 2100 km、最高速度 375 km/h、乗員 3名。1423機生産。


水上機をつかった特攻部隊でも,機体の重量を軽くし,250kg爆弾を搭載するために,基地との通信を行う電信機は原則降ろしてしまう。しかし,各隊の1番機(指揮官機)には,電信機を搭載している。ただし、ト連送(突撃せよという電報、これがとぎれれば撃墜されたか自爆したかである)はたったの1回しか受けていないという。
特攻出撃しても、レーダーで警戒している米軍に探知されれば、旧式、低速の水上機では、瞬く間に米戦闘機に撃墜されてしまう。これが分かっていれば、有能な軍人は、自ら水上機で特攻を仕掛けることはしないであろう。
それでも,水上機特攻隊員は「うまく敵艦船にめぐり合ったとしても高度100mからの低速機の特攻では破壊力がない」「軍人は最後には死ぬものと思っていたし、ああいう戦局では命令された以上---」と出撃を受け入れた。

城山三郎(2001)『指揮官たちの特攻 幸福は花びらのごとく』では,エリート軍人(海軍兵学校[陸軍の士官学校に相当]出身者)と学徒兵(予備学生出身の若者)・少年兵(予科練出身の若者)の特攻出撃を比較している。それによれば,練習機「白菊」,水上機による特攻では,兵学校出よりも学徒兵・少年兵が圧倒的に多い。

1945年5月24日の白菊特攻隊;練習機「白菊」20機出撃のうち、戦死した搭乗員39名戦死。戦死者は、海軍兵学校出身者1名、予備学生出身者・予科練出身者35名(うち、17歳4名、16歳1名)。
5月27日の白菊特攻隊;練習機「白菊」20機出撃。戦死者は、海軍兵学校出身者1名、残りは予備学生出身者・予科練出身者(うち、17歳3名)。
水上機特攻では、予備学生(学徒兵)出身者42名、予科練(少年兵)出身者38名が死亡している。予科練出身者は、17歳8名、16歳3名である。しかし、職業軍人のエリートである海軍兵学校出身者は一人もいない。

日本軍で特攻隊に選ばれた搭乗員の特徴は次の3点である。
ヽし格竺惺蚕仗箸覆疋┘蝓璽反Χ鳩蛙佑肋なく、予科練習生(予科練;少年兵)出身の兵・下士官と予備学生(学徒兵)出身の最下級将校など新参者(未熟練者)が特攻の主力とされた。
軍歴が浅く実戦経験のない10代から20代の若者が特攻の中心である。
上記の理由から、未熟な若い搭乗員が特攻の中心である。

軍上層部は、特攻隊の人選について、次のように冷徹に考えたようだ。
‘湛兇気擦襪里蓮¬そ藁の軍隊経歴の浅い人間で、彼らに頼み込んだり、煽ったり、命令したりして特攻出撃させるべきである、
軍隊経験を積んだ有能な人間は(まだ先の)本土決戦に温存しておくべきである、と。

このように,戦術的に見て特攻を継続的な全面作戦とすることは,総合戦力の低下を招くことは,有能な軍人たちも理解していた。しかし,未熟な搭乗員を旧式な中古機で特攻させるのであれば,有能な軍人たち,優秀な兵器が温存でき,総合戦力の維持が可能である。このように邪推すれば,やはり,特攻は冷徹な軍事作戦なのか。


写真(右):1945年7月28日(米軍側)に特攻機により撃沈した駆逐艦「キャラハン」USS Callaghan DD 792フレッチャー級 ; 1944年にウルシー環礁基地で撮影。満水排水量 2924 トン, 全長 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max) 武装 5 x 5"/38AA, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5). 機関出力 60,000馬力; General Electric Geared Turbines, 2 screws 速力, 38 Knots, 航続距離 6500 NM@ 15 Knots, 乗員 273名. 竣工1943年8月1日,就役 1943年11月27日. Sunk by Japanese Aircraft off Okinawa July 28 1945.駆逐艦「キャラハン」は,1945年7月28日(米軍側)に,九三式中間練習機の特攻により沈没。死者47名。

6月22日の特攻出撃(菊水10号作戦)
第十神風特攻神雷桜花隊:桜花6機:鹿屋発:中尉 藤崎俊英指揮官
第十神風特攻神雷桜花隊:桜花を運搬する一式陸上攻撃機(陸攻)6機:鹿屋発:中尉 伊藤正一指揮官
神風特攻第一神雷爆撃隊:爆装戦闘機8機:鹿屋発:中尉 川口光男指揮官
陸軍特攻第27振武隊:四式戦6機:都城東発:中尉 川村勝指揮官
陸軍特攻第179振武隊:四式戦5機:都城東発:中尉 金丸享指揮官

1945年6月22日(金曜)沖縄方面の米損傷艦艇
高速掃海艦 ELLYSON (DMS-19), by suicide plane
掃海艇 YMS-10, by coastal defense gun

1945年7月29日の特攻出撃は次の通り。
神風特攻第三竜虎隊:九三式中間練習機(中練)8機:宮古島:上飛曹 三村弘指揮官

特攻出撃一覧神風特別攻撃隊 戦史
特攻出撃一覧海軍航空特攻の全て
特攻出撃一覧大東亜戦争から沖縄復帰まで

1945年7月28日(土曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
駆逐艦CALLAGHAN (DD-792),特攻機により撃沈,25 d. 43'N., 126 d.
駆逐艦PRICHETT (DD-561), 特攻機により損傷

写真(右):1945年7月29日,九三式中間練習機は特攻により駆逐艦「キャラハン」CALLAGHANを撃沈;最高速度110ノット(200km)の中間練習機。練習機の時代には,目立つようにオレンジ色に塗られたことから,「赤とんぼ」と呼ばれた。特攻のときは迷彩色だった。

九三式中間練習機(K5Y)は,340馬力という低出力エンジンを装備した110ノット(200km)の低速複葉機で,機体も布張りであったが,1933-1945年に5,770機も生産されており,操縦もやさしかったために,特攻機として使用された。中間練習機としては,目立つオレンジ色に塗られたが,特攻に際しては濃緑色に迷彩された。

旧式低速練習機の特攻に,特攻隊員は不満をもっていたが、軍の攻撃命令に逆らって,性能の良い特攻機を用意して欲しいとは誰も言うことができなかった。旧式練習機による特攻は、軍の編成・命令によっているのであって,本人の志願ではないのであるから。

On 9 July 1945, CALLAGHAN took station on the embattled radar picket line, where on 28 July she drove off a biplane intent on suicide with well-directed fire, but the plane, skimming low and undetected, returned to strike CALLAGHAN on the starboard side. It exploded and one of the plane's bombs penetrated the after engine room. 艦は浸水し,搭載していた対空砲弾・弾薬が延焼,爆発していたために,僚艦は救助に近づくことができなかった。「キャラハン」は,1945年7月28日0235に沈没し,47名が戦死。


写真(右):特攻機を迎撃したグラマンF6F艦上戦闘機
:1944年11月空母「タイコンデロガ」の艦上にて撮影,左翼にレーダーを装備した夜間戦闘機型。最高速度595kmであったが,防弾,武装,信頼性に優れていた。NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive引用.

中間練習機は,羽布張りで,金属製外板でなく,複葉低速であったが,低空をゆっくり飛ぶ練習機は,米軍のレーダー警戒網や戦闘機の哨戒を潜り抜けた。そして,駆逐艦「キャラハン」に体当たり命中した。中古複葉機のほうが,レーダーや近接信管の威力を半減させ,特攻に成功しているのは,皮肉であるが,搭乗員となった特攻隊員は,低性能機を割り当てた司令官に絶望的な気持ちだったであろう。

本来,爆弾等裁量は30キロに過ぎないが,特攻のときは250キロ爆弾を装備したようだ。航続距離は380-550マイルであるが,過重な爆弾装備では遥かに短かったであろう。

 →引用菊水作戦発動および菊水作戦・航空総攻撃について

写真(右):1945年5月沖縄の海兵隊夜間戦闘機中隊「ナイト・ホーク」Marine Night Fighter Squadron "Night Hawks";テントで食事をとる(陸上基地)夜間戦闘機部隊のメンバー。Lt. Frank Sherwin, pilot with the VMF(N)543 serving his country from Okinawa in May 1945.

 沖縄方面に夜間来襲する日本機に対して,米軍は,夜間戦闘機部隊を配備して迎撃した。夜間戦闘機は,陸上基地あるいは空母から発進した。安全に離着陸できる大滑走路のある嘉手納基地など沖縄の飛行場に多数の夜間戦闘機が配備された。

米軍の主力夜間戦闘機は,グラマンF6F-N夜間戦闘機で,右翼にレーダーを装備していた。武装は,20mm機銃2門,12,7mm機銃4門。最高速度590km。F6Fは,初飛行が1942年6月,1943年には部隊編成,実戦参加と急遽実用化された。総生産数1万2272機。1942年に初の海兵隊夜間戦闘機部隊が編成された。このほか,F4U「コルセア」夜間戦闘機や高速大型の夜戦P-61「ブラック・ウィドウ」も配備された。

7.沖縄特攻では,航空機2000機,搭乗員3000名を失ったが,沖縄戦の命中率は10%程度であった。大半の特攻隊員は,戦果を挙げることなく死亡した。特攻機の戦果は,艦船・商船撃沈30隻,撃破80隻程度で,戦果に比して損害が大きすぎた。  

図表:1945年における沖縄方面の日本陸海軍特攻機の出撃数

菊水作戦の時期には、1900-2200機が特攻に出撃した。
1945年4月から6月までの間、沖縄方面作戦に特攻出撃した海軍機は神風特別攻撃隊・八洲隊元隊員永末千里サイトによれば,次の通り。

零式艦上戦闘機   631機
九九式艦上爆撃機 135機
機上練習機「白菊」 130機
艦上爆撃機「彗星」 122機
陸上爆撃機「銀河」 100機
九七式艦上攻撃機  95機
水上偵察機      75機
一式陸攻(桜花)   54機
艦上攻撃機「天山」 39機
九六式艦上爆撃機  12機
  合計       1393機

米軍艦艇の損害は沈没26隻、損傷160隻という。


写真(左):米戦艦「ニュージャージー」
;1944-45年に太平洋戦線で撮影。米軍は特攻を「神風」Kamikazeと総称し恐れたと伝える日本側戦記は多いが,特攻による正規空母,戦艦,巡洋艦の撃沈は1隻もない。

U.S. Merchant Ships Participating in Pacific Theater Combat Operationsによれば、沖縄戦に参加した米国商船(民間船)は176隻で、レイテ戦に参加した商船108隻を上回り、太平洋戦争では最大の規模である。

米国の標準船「リバティー船」Liberty Dry Cargo Ship, EC2-5-C1 Type;大戦中, "Oregonship" 造船所では リバティー船を合計322隻建造した。巡航速度10.5 knots,積載能力 10,800トンである。1943年, Oregon Shipbuilding Companyは新たに「ビクトリー船」 Victory class shipsを建造したが,これは,同じ積載能力で,より速い15 knotsの速力がでた。

沖縄戦において、日本軍は、航空機約1,900機(海軍1,000機、陸軍900機)とその搭乗員約3000名(海軍2,000名、陸軍1,000名)を特攻作戦に出動させた。
沖縄特攻の戦果は、艦船の撃沈26隻,損傷164隻で,米海軍の人的損失損害は、1945年4月から6月末で,沖縄方面の全作戦を含めて死者4,907名、負傷者4,824名。

特攻による米国商船の被害一覧でも,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は6隻で,撃沈を含め損傷を受けた商船は合計23隻。

英国軍の参加もあった沖縄攻略戦で、米軍は,駆逐艦16隻など艦船36隻を特攻,通常攻撃などで失い,368隻が損傷(大破50隻以上)を受けた。米海軍航空隊は,航空機 763機,水兵 4,900名を失い,水兵4,800名以上が負傷。
陸戦では,米軍兵士 7,373名が死亡し,3万2,056名が負傷した。
日本側は, 10万7,000名が殺され, 7,400名が捕虜になった。このほか 2万名が日米両軍の戦闘に巻き込まれて死亡。
日本軍艦船の沈没は 16隻,航空機4,000機以上を喪失。

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

写真(右):1945年3月19日神風攻撃で負傷した米空母「フランクリン」の乗員:瀕死の負傷者を看取る。

特攻作戦では,空母,戦艦,巡洋艦を1隻も撃沈できなかった。特攻機による撃沈は,艦隊型駆逐艦12隻,護衛駆逐艦1隻,高速輸送艦(駆逐艦改造)3隻であり,その他は戦車揚陸艦,上陸用舟艇,掃海艇,輸送船であった。特攻機の命中率は56%とする資料は、米軍の視野に入った特攻機のうち米艦船に損傷を与えた比率である。特攻機は剛体でななく、砲弾や爆弾のような威力はなかった。

輸送艦「ネショーバ」USS Neshoba (APK-219)の乗員たちも沖縄戦に参加した。「ネショーバ」は,満載排水量1万2000トンの輸送艦で,1944年11月に就役した。1945年3月に沖縄攻略作戦に参加した。日本の特攻機が狙った艦船あるいは輸送船には,このような米国の若者たちが乗っている。特攻機命中とは,彼らの戦死に直結する。特攻隊員が命を捨てて撃沈破しようとした「敵」艦艇に同じような若者が乗艦していたことを忘れることはできない。

特攻の威力を見ると,艦艇1隻に1機の特攻機が命中しても撃沈できることは少なく,たとえ複数の特攻機が命中しても撃沈できない場合も珍しくはない。特攻機の命中がどれほどあったのかは,不明瞭であるが,仮に撃沈した艦船に2機が命中率,損傷した艦船に1機が命中あるいは至近突入とすると撃沈した艦艇に56機命中,損傷させた艦艇に164機命中となる。そこで,日本の特攻機は沖縄戦に1900機が突入して合計216機命中したことになる。つまり,沖縄戦での特攻機の命中率は11%である。

2006年に発見された米軍の資料から「特攻機の命中率50%」という俗説は,目標に到達し米軍が目視で数えることのできた敵機のうち,艦船に被害を与えた特攻機が半数あったことを誇大解釈した誤りである。

他方,これらの航空機を「自爆体当たり」ではない特攻に使用していたらどうであろうか。たしかに,戦闘機や爆撃機の正規攻撃は,生還率が低いが,利点も多い。

第一に,通常攻撃では,出撃した搭乗員が,途中で攻撃をあきらめたり,攻撃後に無事生還できる確率は,「自爆体当たり」「自殺攻撃」よりも遥かに高まる。これによって,搭乗員の士気も高まる。

第二に,攻撃経験を積むことで,熟練した搭乗員が増える。これは,同じ航空機数ではあっても,攻撃力を高めることになる。自爆特攻が,攻撃力を急速に低下させるのは,航空機と並んで,搭乗員の熟練がまったく期待できないからである。

第三に,爆弾を投下することで,投下速度が速くなり,機体に拘束した同じ爆弾よりも遥かに大きな効果が期待できる。自爆機の燃料が引火するという効果はなくなるが,高速で落下する爆弾の威力は,目に見える速度で急降下する体当たり機よりも遥かに大きい。

第四に,航空機は,反復使用に耐えることを前提に生産しているのであって,それを1回限りの体当たりで自爆させてしまうのは,資源の浪費であり,動員された工場,労働者の努力を無駄にしてしまう。練成に時間と経費のかかる航空機搭乗員を複数回の攻撃につかせることで攻撃力を維持できる。
つまり,通常攻撃であれば,体当たり攻撃に伴う資源,労力,技術,経費,時間,人員の消耗を,抑えることができる。

牛島中将は決別電文を送信した6月19日,「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し,最後まで敢闘し,悠久の大儀に生くべし」と命令を出し,23日未明,長勇参謀長と共に,摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決。これは,残存部隊に徹底抗戦を命じたものである。

<特攻に関する統計>
日本海軍の特攻機(1944年10月から沖縄戦まで) 1
特攻機と掩護機の数  

 

出撃数 2,314
帰還数 1,086
損失 1,228
 
米海軍艦艇の特攻による被害2

撃沈Sunk

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

損傷Damaged

 

艦種

隻数

艦種

隻数

護衛空母CVE

  3

正規空母CV

  16

駆逐艦DD

13

軽空母CVL

    3

護衛駆逐艦DE

  1

護衛空母CVE

  17

高速掃海艦DMS

  2

戦艦BB

  15

潜水艦母艦SC

  1

重巡洋艦CA

    5

掃海艇AM

  1

軽巡洋艦CL

  10

高速輸送艦APD

  3

駆逐艦DD

  87

戦車揚陸艦LST

  5

護衛駆逐艦DE

  24

海洋タグ船ATO

  1

潜水艦SS

    1

雑役艦Auxiliary 

  1

機雷敷設艇DM

  13

潜水母艦/魚雷艇PC/PT

  3

高速掃海艦DMS

  15

合計

34

魚雷艇母艦AGP/AGS

    3

 

 

 

 

病院船AH

    1

貨物輸送艦AK/AKA/AKN

    6

掃海艇AM

  10

タンカーAO

    2

輸送艦APA/APD/APH

  30

修理艦ARL

    2

艦隊タグ船ATF

    1

水上機母艦AV/AVP

    4

機雷敷設艦CM

    1

戦車揚陸艦LST

  11

潜水母艦/魚雷艇PC/PT

    3

YDG/YMS

    7

合計

288

Kamikaze Damage to US and British Carriers by Tony DiGiulian (http://www.navweaps.com/index_tech/tech-042.htm)より作成。
注1. 日本陸軍航空隊の特攻機と掩護機を含まない。US Strategic Bombing Survey reporでは、 2,550機の特攻機・掩護機が出撃したと推計している。しかし、これには掩護機が含まれていないと思われる。約475機、すなわち18.6%が敵艦に命中したかあるいは至近距離に突入し被害を加えた。ただし、英国艦への突入も合算されているかどうかは明記されていない。含まれていないようだ。 
注2. 特攻とそれ以外の要因が複合した損傷も含むが、特攻でない損傷は含まない。USS Ticonderoga、USS Franklinはともに2機特攻され、USS Intrepidは5機の特攻を受けている。複数回数の命中しても1回と数えている。主な米海軍艦艇への延べ特攻命中機数は、正規空母 9機、軽空母 2機、護衛空母 16機、戦艦 15機に達する。
注3. 降伏時、日本軍は本土に 9,000機を保有。5,000機以上が実際に特攻用に準備されていた。

『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、沖縄戦における米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機に及んでいる。
The Naval Technical Board

出撃した特攻機は、敵戦闘機に迎撃され,対空砲火に砲撃され、目標を冷静に選択する余裕はなかった。
正規空母を攻撃したかったが、そこまで辿り着くのは困難であるようだ。空母の位置も不明。敵戦闘機も迎撃してくれば、撃墜前に、発見した敵艦艇に突入するのが、精一杯である。

特攻機の隊員は、本来は自らの命と引き換えで、敵正規空母を轟沈したかった。しかし、米海軍空母任務部隊は、中心の正規空母2隻,軽空母2隻を、巡洋艦4隻、外側を駆逐艦16隻で護衛する輪陣形を組んでいる。中心部の空母に辿り着くまでには、熾烈な対空砲火を浴びた。
空母からは、F6F「ヘルキャット」、F4U「コルセア」など戦闘機がレーダー誘導されて、遥か100km手前から特攻機を迎撃した。任務部隊のさらに外側には、駆逐艦、護衛駆逐艦、掃海艦、敷設艦、揚陸艦が、レーダー・ピケ(警戒網)を張っている。米国のレーダーは、200km以上先の敵機(単機でも)捉えることができる。進行方向、高度も把握していたから、特攻機が発見されることなく、空母に接近することは困難であった。

特攻機が撃沈した正規空母,軽空母,戦艦,巡洋艦は1隻すらもない。


特攻機が損傷させた米海軍空母(延べ隻数)は、正規空母16隻、軽空母3隻で、合計18隻で、損傷艦の7%に過ぎない。小型の護衛空母17隻を含めても、13%である。他方、空母を護衛する駆逐艦は87隻で31%、護衛駆逐艦も24隻、9%もある。機雷敷設艦、高速掃海艦はともに駆逐艦を改造したもので,駆逐艦同様、レーダー警戒網を形成していたから,空母の護衛艦艇とレーダー警戒艦艇が、特攻による被害艦艇の半数以上を占めていることになる。ただし、上陸部隊や艦艇への補給を任務とする輸送艦は、40隻、14%とあまり多くはない。本来は、警戒が手薄で、上陸部隊や艦艇の生命線ともいえる輸送艦・輸送船を目標にした攻撃が行われるべきであった。しかし、特攻隊員も。艦隊至上主義の影響を受けていたから、輸送艦を体当たり目標にふさわしいとは考えなかった。結局、米輸送船団を通常攻撃しなかったのは、特攻隊を編成し、米軍艦艇に目を奪われた特攻作戦を展開した日本軍の失敗であった。

特攻隊員とそれを送り出した指揮官たちの問題とも関連するが,日本軍は、攻撃目標の選定について、軍事科学的な検討を十分にせず、戦術的にも誤った「正規空母」という目標を第一優先した。これも、特攻作戦を失敗させる=特攻という大きな犠牲に見合った戦果をあげられなかった大きな要因であろう。

8. 1945年3月には、日本軍は沖縄戦で持久戦を戦い、本土決戦の準備時間を稼ごうとし「全軍特攻化」「一億総特攻」を進めていた。特攻専用の片道攻撃機キ115「剣」も開発,量産された。にもかかわらず,特攻は第一線将兵の発意で実施されたとする「特攻自然発生説」が,1932年の第一次上海事変での日本陸軍「爆弾三勇士」賛美から流布されていた。

1941年12月7日,真珠湾への特殊潜航艇による「特別攻撃」も,部下の志願による犠牲的精神の発露であったとする見解が流布された。1944年10月の神風特攻隊の神話と全く同じく、軍が命じたのではなく、やむを得ざる状況で、部下が自発的に特攻を申し出て、上層部がその熱意にほだされて、特攻を認めた---。こういうありえない理由で、真珠湾への特攻が説明されている。現在でも「特攻隊自然発生説」が流布されているが,これは1941年末の日米開戦当初から,あるいは1932年第一次上海事変における「爆弾三勇士」以来,軍の方針となった。

写真(右):靖国神社大灯篭基盤のレリーフ「爆弾三勇士」;第二鳥居と神門の参道両脇に,日本陸軍と日本海軍の物語を彫った燈籠がある。戦時下でも,ここの金属は供出されずに,残されたようだ。

1932年2月22日,第一次上海事変での日本陸軍「爆弾三勇士」の行動も,犠牲的精神の発露であるとされ,三軍神と称えられていた。

1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致―三勇士の忠烈」
 「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
 ---国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(『大阪毎日』引用)

長崎県出身の北川丞一等兵,佐賀県出身の江下武次一等兵、長崎県出身の作江伊之助一等兵という『爆弾三勇士』絶讃の声は,荒木貞夫陸相、鳩山一郎文相、薄田泣董の言葉にも現れているという。歌人与謝野鉄幹は、1932年に朝日新聞の募集に応じて「爆弾三勇士」の歌を作詞し,入選している。
文化人とは,その作品に宿る心情を本質としており,ドラマチックな戦争が,才能ある文化人に,活躍の場を提供する。(⇒文化人の戦争観・特攻観参照。)

猪口力平・中島正(初版1952)『神風特攻隊』は,特攻隊指揮官の著作として名高いが,そこでは着任した関行男大尉が,即日特攻任務を引き受けたこと,特攻隊に全員が志願したことが述べられている。第一線の将兵たちは,祖国に殉じる覚悟ができていた純真な若者であるとの前提で,特攻隊員の生への執着,家族への心残りなど苦悩を捨象してしいる。特攻は自発的な犠牲的精神の発露であるという「特攻自然発生説」を暗に主張し,指揮官たちも純真な若者たちに感激し,特攻を命ずる者と特攻を命じられる者に、気持ちのズレが無く,一体化したとする。特攻の叙事詩は,祖国愛に殉じる勇士の活躍を謳い,特攻を命じた司令官の責任には触れない。

  楢本神社の神風特攻隊「敷島隊」隊長関行男大尉慰霊碑文は、大本営参謀だった源田実中佐の手になるが、次のように特攻作戦を記している。
 人類六千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。「壮烈鬼神を哭かしむ」とはまさにこのことである。この種の攻撃を行ったものは、わが日本民族を除いては見当たらないし、日本民族の歴史においても、組織的な特攻攻撃は国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意志に基づいて、絶対に生きて還ることのない攻撃に赴いた事実は、真にわが武士道の精髄であり、忠烈万世に燦たるものがある。
 昭和十九年十月二十日神風特別攻撃隊第一陣は、第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将(終戦時自決)の命により、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊をもって編成、その指揮官が海軍大尉関行男であった。この攻撃隊十八機(うち半数は直掩隊)は、十月二十五日出撃し、六機は護衛空母に命中し、三機は至近弾となって敵艦を損傷した。中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(一万四〇〇屯)に命中、同艦は火薬庫の誘爆を起し、解体二つに折れて轟沈するという偉功を奏した。 (⇒「戦後の終焉と冷戦後責任:歴史認識とアイデンティティー」川島高峰(1999)明治大学『政経論叢』第68巻第2・3号参照)

  大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は,1911年12月9日富山県小矢部市生まれ,1932年陸軍士官学校、1938年陸軍大学を首席で卒業。1939年1月から11月まで,第四師団参謀,第五軍(軍司令官土居原賢二中将)参謀として満州で活躍した。その後、1939年11月に陸軍参謀本部の部員(大本営陸軍部幕僚付)に栄転し,太平洋戦争初期の大作戦を成功裡に指導した。1944年10月、台湾沖航空戦も指導したが,そのとき,過大な戦果報告修正の打電があったにもかかわらず、それを上層部に伝えることをしなかったという。そのため、誤報に基づいて、日本陸軍はレイテ決戦を発案し、ルソン島から兵員、物資を抽出し、特攻作戦を展開する。

写真(右):1939年関東軍司令部勤務時代の瀬島龍三参謀;1939年1月15日に第四師団参謀として満州赴任。5月15日には第五軍(軍司令官土居原賢二中将)参謀、11月22日に参謀本部部員(大本営陸軍部幕僚付)と栄転。太平洋戦争初期の作戦を成功に導いたという。1944年10月、台湾沖航空戦の過大な戦果報告修正をせず、その過大戦果(誤報)に基づいて、日本陸軍はレイテ決戦を決定、ルソン島から兵員、物資を抽出。

大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は,1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務となり、2月末、連合艦隊司令部(日吉、現慶大)に着任し、豊田副武長官、草鹿龍之介参謀長などに申告した。戦艦「大和」による沖縄海上特攻を立案した先任参謀の神重徳海軍大佐とも旧知の間柄という。

自伝(1995)『幾山河−瀬島龍三 回顧録』p.167では、連合艦隊の戦力低下を指摘した後、次のように特攻の自然発生説を主張している。

「しかし、帝国海軍伝統の士気は極めて旺盛であった。3月17日からの九州/沖縄航空戦、次いで3月25日の慶良間列島への米軍上陸、4月1日の沖縄本島への米軍上陸などにおいて水上特攻、空中特攻(菊水)、人間魚雷(回天)、人間爆弾(桜花)など各艦隊、各部隊、第一線の将兵が自らの発意で敵に体当たりし、国に殉ずる尊い姿には、襟を正し、感涙を禁じ得ないものがあった。
こうして特攻が自生的に行われたとする大本営参謀瀬島龍三中佐は,捷一号作戦(フィリピン作戦)を担当し、沖縄戦でも特攻隊を送り出した第五航空軍の作戦にあたった。

入江相政侍従長からの伝聞を記した『田中清玄自伝』1933年は、昭和天皇の言葉として、で台湾沖海戦の誤報上聞を訂正しなかった瀬島龍三参謀について次のように述べた。

「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ

大本営参謀瀬島龍三中佐は、戦後,シベリア抑留から帰国後,伊藤忠商事に入社、戦後賠償に関わる援助ビジネスに関与し、伊藤忠会長にまで昇りつめた。退社後,中曽根首相の臨時教育審議会委員や臨時行政改革推進審議会会長も引き受けた。「特攻は自然発生的なもの」で,特攻作戦に関する上官の責任など,一切ありえないというのが彼の特攻隊認識であった。(戦死した特攻隊員の総数には,沖縄への戦艦「大和」以下の海上特攻での戦死者も加えている。)

「特攻自然発生説」には、次のような疑問が沸く。
…召阿忙爐未戮状況にはない人間が、国に殉ずるためとはいえ、どうして体当たり特攻に出撃できたのか。残されるもの、家族のことをどのように考えたのか。
⊃祐峙雷、人間爆弾を開発,生産することが、第一線の将兵にできるのか。
B莪貔将兵の発意で体当たりをし、陛下から頂いた航空機を「無断で」自爆、破壊させてもよいのか。
し蛎發箸いΤ級組織で、第一線の将兵が「特攻作戦」を計画,組織,実行するだけの権限,人員,機材をもっているのか。

しかし,日本海軍は,1944年中に人間爆弾「桜花」,人間魚雷「回天」,特攻艇「震洋」を開発し,陸軍も特攻艇「マルレ」を配備した。そして,1945年になって陸軍は,特攻専用の航空機キ-115「剣(つるぎ)」を試作,量産した。


写真(上):キ-115「剣」;栃木県の中島飛行機太田工場量産ラインのキ115。戦後の撮影なので,飛べないようにプロペラが外されている。1945年3月の東京大空襲など本土空襲が激化したことから、政府は航空機の生産維持のために、中島飛行機をはじめとする航空機工業の国営化方針を決定。4月第一軍需工廠に選定され国民徴用令に基づく徴用工や学徒、女子挺身隊を含む従業員25万人は軍の直接管理。

1945年1月20日「特殊攻撃機」キ-115「剣」の試作命令,1号機は1945年2月末頃完成。使い捨て機は、搭乗員も使い捨てにしてしまったであろう。


写真:(左)沖縄で米軍に鹵獲された人間爆弾「桜花」
;陸上(発進の)攻撃機の胴体下に吊るされ,敵艦近くまで運ばれる。目標を発見したなら,「桜花」に搭乗員が乗って,目標まで操縦,体当たりする。1945年4月沖縄で米軍に大量に鹵獲され,大きさを計測するテープが張られている。実戦投入は,1945年3月21日,15機が出撃したが,全滅した。「桜花」は,大本営海軍部(軍令部)が1944年7月21日「大海指第431号」で開発を決定し,部隊編成を進めつつ製造した。1944年6月のマリアナ沖海戦で大敗北した海軍は,挽回のための奇襲特殊兵器として体当たり自爆兵器を開発。川端康成ら文壇有名人が取材したのも,桜花装備「神雷部隊」。軍令部総長や連合艦隊司令長官も視察した。しかし,米軍は自殺爆弾Baka(馬鹿)と呼んだ。特攻兵器「桜花」が「太田少尉の発意によって作られた」との俗説は,軍上層部が特攻という部下に死を命じた責任を回避する。特攻第一号と全軍布告された関行男大尉の突入は1944年10月25日。神雷部隊「桜花」隊の編成よりも3ヶ月も後であった。神雷桜花特別攻撃隊の初出撃は1945年3月21日。桜花15機搭載の一式陸上攻撃機15機は全滅、戦果なし。
写真(右):水上自爆艇「震洋」あるいは「マルレ艇」 1945年3-4月,沖縄慶良間列島,沖縄本島に300隻の特攻艇を配備していた。米軍が鹵獲したものを試運転中の撮影。爆雷220キロを搭載して,敵の艦船に体当たりする。実戦でも若干の戦果を揚げた。体当たり自爆艇は本土決戦用に数百隻が量産,部隊配備されている。Marine Corps Historical Center


  ⇒◆人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」自爆艇「震洋」「マルレ」を読む。


水中翼潜航艇「海龍」
は、魚雷2本を胴体下に装備できるように設計されていたが,低性能であり,魚雷の不足もあって,体当たり自爆の人間魚雷として量産され,部隊が編成された。実戦には使用されていない。

人間魚雷「回天」「海龍」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」「マルレ艇」、特攻専用機キ-115「剣」のような特攻兵器は,軍が設計、製造し、部隊編成をしている。特攻が自然発生的なものではなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められた「作戦」であることは明らかである。

  ⇒◆特殊潜航艇「甲標的」「海龍」特殊攻撃機「剣」を読む。

9.最後特攻として,第五航空艦隊司令長官宇垣纏(まとめ)中将の命令で玉音放送後に出撃した特攻隊があった。これは,特攻作戦の責任をとった潔い行動ではあるが、中津留達雄大尉以下11機22名もの部下を道連れにした「私兵特攻」ともいえる。 

中津留大尉(兵71)は,レイテ戦の関行男大尉と同期である。

最高位の軍官の戦後の特攻をした宇垣纏中将は,日本の敗戦を知りながら,敗戦を伝えられていない若者を特攻の道連れにした。この私兵特攻は、若者に高貴な将軍との殉死の機会を与え,戦後の国民に誇りをもたせるための行為だったのか。

写真(右):1942年呉海軍工廠竹添氏に贈った宇垣纏中将の書(1942年):将官として軍職を全うするにあたりその決意や心境が率直に書かれている。呉海軍工廠において設計の仕事に携わった竹添氏の寄書き帖には、高柳儀八海軍中将(戦艦大和初代艦長)、砂川兼雄海軍中将(呉海軍工廠長)、宮里秀徳海軍中将(呉鎮守府人事長)、板垣 盛海軍少将(呉海兵団長)、佐藤 勉海軍少将(呉海兵団長)、松田千秋海軍少将(戦艦大和二代目艦長)も書をしたためている。この寄書きからは、竹添氏が、当時どのような人とのかかわりを持っていたのかの一端が窺われる。ご家族、ご遺族、海軍兵学校の関係者等で、寄書きに関心のある方は、ご連絡をお願いいたします。竹添家のご承諾を得て書を掲載。

特攻を命じている最中、部下に「後に続く」として「散る桜残る桜も散る桜」を実践した将官はほとんどいない。終戦後に日本再建に尽くすという名目、大元帥の命令を最も尊ぶとしても、多数の若者を死に追いやった、死なせてしまう作戦しか実行できなかった責任は残る。宇垣中将は潔く責任を取ったが、これは自分の戦争責任を自覚していたからであろう。

戦の最中に平常心を保てば、死ぬことが受け入れられるかもしれないが、平和な時、逃げる時の平常心は、命を惜しむ気持ちである。終戦を冷静に考えれば、とても自決できなくなる。そんな時、特攻死した将官が宇垣中将である。残された書からは、力強い司令官の平常心がうかがわれる。

  ⇒◆宇垣纒長官の最後の特攻

10.日本軍は,本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃するつもりでいた。特攻には,それを実行する兵士が必要不可欠である。犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。そして,彼らの犠牲を前提とした非道な作戦が立てられた。このような状況は、現在の自爆テロにも共通している。

正攻法では,量,質の両面で連合軍に太刀打ちできなくなっており,このことを戦争末期になって認識した軍高官は,精神主義を振りかざして,特攻を唯一の対抗手段とした。
特攻兵器は、犠牲的精神を有する将兵の発意で作られたとの俗説が流布されているが、兵器の開発,生産、特攻隊の編成,運用を個人が命令なくして行うことはできない。特攻は、現地将兵の自発的攻撃ではなく、特攻作戦として軍上層部が策定した軍事行動である。軍事行動である以上、戦果と損失・コストが課題となる。特攻に向かった将兵の心情・苦悩は、二義的になり、戦果が最優先される。

 特攻には,犠牲的精神を発揮して,命を投げ出す若者が求められた。兵士は、祖国への忠誠,家族愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんだ。このような心情とは裏腹に,特攻兵器は計画的に開発,量産された。兵器にあわせて作戦を進めれば,特攻隊員個人の自由や選択の余地は、命もろとも押しつぶされる。特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれた。

 特攻隊の心情を理解し、それに共感できる日本人は、特攻隊を「自爆テロリスト」と同一視することはできない、したくない。しかし、静かな笑顔で、愛機と共に堂々粛々出撃し、突入散華できた特攻隊員があれば,同じことをする人々が現在いても不思議ではない。攻撃対象が一般市民であるとか,戦争中の行為ではないとかは,「攻撃成果」という軍事的観点からは問題ではなくなってしまう。


自爆テロと特攻を再考する

自爆テロの語は,日本で広く使用されるが,自殺テロSuicide Terror,自殺攻撃Suicide Attack,自爆Suicide Bombingといった英訳が当てられる。これらは,善悪の価値観をも含んだ言葉であるが本webページでは,煩雑さを避けるために,慣用となった「自爆テロ」という語句を使用する。

日本軍の特攻作戦を、特攻隊員の心情から当時の戦局,軍の組織などから、総合的に考える必要があるのと同様、本来は自爆テロについても同様に,敵の側を分析することが求められる。

自爆テロ(Suicide Terror)とは、自らの命を犠牲にした爆破行為,すなわち自爆によって,物理的,心理的,社会的恐怖心を引き起こし,所与の目的を達成しようとするこういであり,目的とは,戦果をあげること,政治的主張,家族を守ること,祖国を防衛すること,民族自立を図ることなど,さまざまである。いずれにせよ,自己の生命をもって,他人の生命・財産・平和人権を破壊する行為である。しかし,攻撃者からみれば,その行為は,悪のテロではなく,純粋な防衛あるいは攻撃であり,愛国心,殉教,新世界の形成,伝統の維持,宗教的使命,家族愛など積極的な意味を持っているのかもしれない。


写真:(左)1941年12月7日(日本時間8日),ハワイ真珠湾奇襲攻撃で炎上、着底し傾いた戦艦「アリゾナ」USS Arizona
;1914年建造の旧式戦艦。14インチ砲12門搭載。最高速度21ノット。撃沈された戦艦5隻のうち1隻。2隻(アリゾナ,オクラホマ)は撃沈,廃棄されたが、残りの沈没戦艦3隻は,引揚げ、修理の後、戦列に復帰した。米国では,真珠湾騙まし討ちとして卑劣極まりない行為として,反日感情が爆発した。2001年の9.11同時多発テロのときに,真珠湾以来のテロを受けたとして,マスメディア,大統領もその憤慨を公言している。日本人が,真珠湾奇襲攻撃はテロではない,特攻隊は自爆テロとは次元が違うといっても,じつは世界の多くの人々は,両者の類似点を強く感じている。


日本軍の将兵について、連合国の市民や将兵は、「日本人は天皇を守るためには死をも厭わない狂信者である」「日本人は死ぬまで戦い続ける好戦的な侍の精神を持っている」「日本人は捕虜・敵国民間人など敗者を情け容赦なく処刑する」と認識していた。それを引き継いで,世界の多数の人々に,日本の特攻隊は,自爆テロ/殉教と同じように認識されているようだ。つまり,狂信的な天皇への忠誠心があり,国体護持のためには自らの生命も犠牲にしても惜しくはない。天皇陛下万歳といって体当たり自爆すると。

日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連合国にとって、攻撃・反抗という破壊的行為を行ういう日本人は「テロリスト」と判断される。判断しなくてはならない。特攻隊は自爆テロリスト集団・自爆テロとみなされてしまい,殲滅の対象となってしまう。


1944年、海軍婦人部隊WAVEsとダブル・デートする米海軍水兵。花びら占い。「彼女は愛してる,愛してない,愛してる」と花びらを取って占う。パラシュート1等整備士Jackie Welshが2等信号士のHarold Howeyと見つめる。証人は左のパラシュート3等整備士(妹?)Anna Welshと2等航空整備士Evalyne Olsenである。体当たり攻撃をする若者から見て,軟弱者とされるのか,羨ましいと感じられるのか。

What was needed for America to dominate much of humanity and the world's resources, it said, was "some catastrophic and catalysing event - like a new Pearl Harbor". The attacks of 11 September 2001 provided the "new Pearl Harbor", described as "the opportunity of ages". テロ攻撃を知っていて見逃したという大統領陰謀説とあいまって,「9.11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃である」と現在の日本の同盟国指導者・アメリカ大統領は公言している。(→A New Pearl HarborGeorge W Bush said what America needed was "a new Pearl Harbor"A Second Pearl Harbor?The Bush administration and September 11

On September 11, 2001, the topic of kamikaze hijackings suddenly became MUCH more interesting to everyone, as two airplanes smashed into the World Trade Center towers and utterly obliterated them, and a third crashed into the Pentagon.自爆テロとカミカゼ特攻は同じとも言われる。(→Kamikaze Jet HijackingWar on Terror Masks Bush's Grand Strategy

War Okinawa and Us:New York Sun Editorial;April 27, 2007
The district attorney of New York County, Robert Morgenthau, called the other day to say that he'd appreciated the editorial about the Copperheads. It wasn't just the substance of the editorial that had caught his eye, he said, but the historical tone, and he suggested we take a similar look at the battle of Okinawa.

We perked up because Mr. Morgenthau is an old salt himself, having had a destroyer torpedoed out from under him and sunk in the Mediterranean and then, in the Pacific, had another destroyer torpedoed, but not sunk, and later, when he was still on it, hit by a Kamikaze plane.

"There were 1,900 kamikaze pilots that attacked us at Okinawa," he said. He said he didn't want to belittle the significance of the suicide attacks that our side has been taking in Iraq. But neither did he want to forget the scale of the suicide bombers in World War II — not only their scale but their fanaticism.

----The Japanese had a string of successes after Pearl Harbor but, as Wikipedia puts it, they were "checked" at the Coral Sea in May of 1942, "defeated" in June at Midway, and "lost their momentum at Guadalcanal." Our planes outnumbered and outclassed them, particularly the Hellcat and the F4U Corsair.

It was sometime after the battle of the Philippine Sea, where the Japanese lost more than 400 carrier-based aircraft and pilots, that Vice Admiral Onishi decided to form the Kamikaze Special Attack Force composed of suicide bombers. Mr. Morgenthau wired us some excerpts from Ronald H. Spector's book "At War At Sea: Sailors and Naval Combat in the Twentieth Century," in which the scale of these attacks is sketched.

The Japanese, Mr. Spector reports, had expended about 1,900 suicide planes at Okinawa alone, sinking 57 of our warships and damaging more than 100 so extensively as to take them out of the war for extended periods. Another 300 ships had some damage. It's illuminating perspective. Mr. Spector's report puts at 5,000 the number of our sailors killed, with another 5,000 wounded, in the Okinawa campaign.

They were the heaviest losses of any naval campaign of the war, he notes, and about 30% greater than those at Pearl Harbor. Mr. Spector quotes a postwar analysis as showing that at Okinawa, an astounding 32% of all kamikazes that were able to leave their bases succeeded in hitting one of our vessels, which was what Mr. Spector called seven to 10 times the success rate of conventional sorties. He then offers this paragraph:

"It is ironic that the last and greatest naval encounter of World War II should have become not a contest of technology but a contest of wills. Admiral Onishi and other Japanese leaders believed that Allied fighting men would be shocked and disheartened by the Kamikazes' determination and disdain for death. Americans were shocked and fearful of the new weapon, but they were not discouraged. One ship followed another on the radar picket stations. The Allies never considered abandoning their conquest of Okinawa or their plans for the subsequent invasion of Japan."

What we take to be Mr. Morgenthau's message in bringing all this to our attention is be not afraid. The current war is not the first in which we have been met with a wave of the most barbaric kind of suicide attacks. The current attacks being launched against us by our Islamist foes are greater than the kamikazes in neither scale nor barbarity, save for the fact that the Islamist enemy has so often aimed not only at uniformed military personnel but at women and children.

The Japanese were every bit as extremist and crazed as the suicide bombers of today seem to us. Yet we eventually fought off and defeated the suicide bombers of World War II. And even, we don't mind pointing out, went on to have a peaceful and productive relationship with a democratic Japan, while Americans came to enjoy sushi and haiku and Toyotas and the Sony Playstation.

ニューヨーク・サン2007年4月27日「沖縄と我々」では、イラク戦の自爆攻撃を沖縄戦の日本軍の特攻にたとえ、再び撃退しようと訴えた。ニューヨーク郡検事ロバート・モーゲンソー氏が「沖縄で1900機のカミカゼが猛攻した」「特攻によって米国の艦船57隻が沈められ、100隻以上が戦闘不能、300隻以上が損傷」「米海軍兵の死者、負傷者はそれぞれ5000人に上った」と過大な評価を紹介した。そして、「特攻機の命中率は32%、米国側の被害規模は真珠湾攻撃より30%大きい」と実際以上の戦果を挙げたように述べた。そして、神経戦を挑んだ大西中将たちを撃退し、「日本人がイラクの自爆攻撃よりも熱狂的だったが、最終的に勝利を収め、民主化後の日本と同盟関係を結んで寿司、俳句、トヨタの自動車、ソニープレイステーションを楽しんでいる」と結んだ。 NewsDaily2007年04月30日(http://www.usfl.com/Daily/News/07/04/0430_016.asp?id=53395)参照。

自爆テロと,特攻および真珠湾攻撃と同じであるという含意には,〕輯しえない卑劣な対米攻撃,奇襲攻撃とみなし、攻撃を狂信的テロと同一視し,攻撃者を狂信的な,理解しがたいテロリストとみなす点がある。

特攻=究極の天皇崇拝の狂信・軍国主義がもたらした自殺攻撃・自爆テロ(米軍の視点)
特攻=家族と国家を守り,(天皇の)大御心(おおみごころ)に沿うため,当時の戦局悪化の中でやむにやまずに行われた必殺体当たり攻撃であり,若者たちの犠牲的精神の発露あるいは軍上層部の強要に近い無慈悲な命令(日本の視点)
⇒自爆テロ/殉教と特攻は同じか?
自爆テロ/特攻=狂信と洗脳が生み出したもの(多国籍軍=連合国軍の視点)
自爆テロ/特攻=殉教精神・祖国愛・家族愛が生み出したもの(反米過激派・日本軍の視点)
自爆テロ/特攻=若者の持つ殉教精神・祖国愛・家族愛に依存した,あるいはそれらを利用した非情な非人間的な軍事作戦(当研究室の視点) 

当事者の片方の立場から分析すれば,特攻も自爆テロも善悪の価値観や正当性の観念から,対極的に論じられてしまう。これが現状である。愛国心や敵愾心をむき出しにすれば,当事者双方とも傷つけあう結果に陥ってしまう。

◆祖国,民族のためであれば,テロも許されるのか。民族自立,国家独立,反植民地,暴政打倒,民主主義の確立,家族の保護,財産の保全,国防のためであれば,市民を含む敵の命を奪う大量殺戮,軍事目標・経済基盤の大量破壊は,正当化されるのか。総力戦が開始されて以降,軍事目標と民間人は区別すべきだという思想は,プロパガンダとしてしか意味をもたなくなった。「軍事目標だから戦闘行為だ」「民間人も殺した犯罪行為だ」という正当化や非難は,戦術・戦略の専門家たちは内心では信じていないはずだ。

祖国防衛の英雄,独立の闘志,レジスタンス,ゲリラは英雄・立派な人物として,その敵殺害,敵財産の破壊も賞賛されるべきなのか。 自爆テロと特攻の問題は,結局,戦争の本質である大量殺戮,大量破壊を肯定し,正当化できる大義があるのか,という問題に行き着く。

写真(左):20歳のナタリー(Natalie Nickerson)は、ニューギニア戦線の米海軍中尉から戦利品の日本兵の骸骨を贈られた。海岸で見つけた髑髏に「トージョー(東條英機首相)」サインし、フェニックス市に住む恋人ナタリー(20歳)に贈ったという。ナタリーは、日本兵の髑髏を楽しげに眺めながら,返事のラブレターを書く。これは、人種的偏見か、テロリストを殲滅した勇士への思慕か。Life掲載写真。戦時中の日本では、この残酷な写真が新聞掲載され鬼畜米英の反米プロパガンダに用いられた。

自爆テロと日本の特攻の異なる点として、
ー爆テロは無辜の民間人を標的にする卑劣な行為が、特攻は軍事目標に行われた英雄的行為である、
⊆爆テロは狂信的な宗教的妄信が生み出したが、特攻は祖国愛・家族愛が生み出した、
自爆テロは世界を混乱させる平和を乱す行為であるが、特攻は祖国と家族を守る平和のための行為である、
と主張されることもある。しかし、自分の命を犠牲にしてまで、叩き潰したい敵愾心・怨念ががあったのであろうか。あるいは、敵愾心・怨念ではなく、直面させられた状況の中で、民族や家族を守るための冷静な判断の下に、あるいは自分が特攻自爆するのを納得するための悠久の大儀を認識して、自己犠牲的に行われる破壊行為でなのであろうか。

特攻について、世界ではさまざまに解釈されるのと同じく、日本人が現代の自爆攻撃を理解するのは難しい。自爆攻撃した「敵」の文化、言語、歴史、国際関係、現在の生活を的確に把握できていないからである。自爆攻撃をテロと呼んでいるが、テロが怨念の一時で行われたという解釈には疑問の余地がある。「自爆の巻き添えにされる善良な市民」という理解は、他者にとっては異なるかもしれない。現代のテロについて、「怨念を晴らすための非道な行動である」「民族を救おうとする考えはない」と、断定できるだけの判断材料は持ち合わせていない。
要するに、我々が現代の自爆攻撃=テロ=悪としているのであれば、攻撃を受けた側では、常に特攻=体当たり攻撃=テロ、と解釈されてしまう。特攻=家族・民族を守る捨て身の攻撃、というのであれば、現代の自爆攻撃も同様のものと主張する「テロリスト」の主張をプロパガンダであると切り捨てることはできない。

民間人も、食糧生産、兵器生産、補給、労働力として戦争に協力しており、無差別攻撃は軍事的にも、効果的である。また、敵愾心とは狂信的な一時的なものでなく、冷徹な論理一貫した怨念である。しかし、その発するところは、家族を殺害されれ、民族を迫害されたものの経験かもしれない。

敵に対して、怨念がないのに特攻をするのであれば、家族・民族を守るために特攻するということであり、自分を特攻、納得させる出撃させる崇高な大儀なのかも知れない。

2002年5月20日に開催されたカミカゼ特攻の生存者の会Kamikaze Reunion では「大戦中のカミカゼ生き残り歓迎。悲哀・勇気・名誉」とある。駆逐艦「スーブリック」USS Shubrick は1945年5月29日0013に沖縄方面で特攻機の命中を受け損傷したが、生き残った乗員たちの特攻作戦と特攻隊員への感情は複雑である。

「テロとの戦い」は決して短期でも決戦でもない。長期間、経済社会基盤(生産、流通、金融、輸送、エネルギー、水供給)を巻き込み、世論を誘導して戦われる総力戦である。総力戦では,一般市民も世論の支持による戦争継続,ビジネス,納税・国債購入による軍資金提供,労働力,個人消費節約による軍需への資源の移転など,戦争協力している。こうなればみんなが戦争協力者であり「無辜の市民」はありえない。

総力戦にあっては攻撃目標が、軍艦か輸送船か、兵士か民間人かは、問題とされない。敵の戦力,経済力,世論,生産基盤、金融、通貨の信用力などに、効果的な打撃を与えられるかどうかが、攻撃目標選定の基準となる。

写真(右):小月飛行場にいた特攻隊員と女子学生Life掲載写真。山口県下関市の小月飛行場には、1944年7月、第十二飛行師団司令部が置かれ、西部地区防衛を担当。女子学生は、挺身隊として将兵の身の回りの世話(洗濯,裁縫,宿舎の掃除)や飛行機の整備、出撃の見送りに動員された。勤労動員された若者は、祖国と国民を愛し、犠牲的精神で特攻隊に志願した若者を尊敬し、英雄と見なしていた。純真な乙女と若者であったと思う。しかし、米軍から見れば、特攻隊員は、卑劣な自爆テロリストであり、勤労学徒は、それを助けるテロシンパとされてしまう。そうでないという主張が,旧連合国軍(多国籍軍)に受け入れられているのは,年月がたったことと,現在の日本の親米的立場が原因かもしれない。

総力戦であれば,軍艦乗員であっても,軍需生産,補給物資の運搬を担う労働者であっても,重要な戦力として,攻撃対象となる。自分の命をかけて,祖国,家族を守るために,敵に打撃を与える必要があり,攻撃目標は,航空母艦など敵艦艇,輸送船,あるいは金融センター・国防省など敵経済・軍事中枢などである。効果的な攻撃目標の選定が重要となり,民間人が含まれるかどうかは問題ではない。排水量2万7000トン,速力33ノット,搭載機80機のエセックス級航空母艦は,エセックス,フランクリン,レキシントン ,バンカーヒルなど12隻が建造された。空母が何隻か撃沈されても,米軍は日本と講和するつもりはなかった。無条件降伏を求める方針は3年も前から決まっていて,世界に公言されていた。

一般市民がテロの標的にならないように,防御するのであれば,膨大なコストを負担しなくてはならない。テロとその恐怖は,市民を守ろうとする政府や軍隊に,多大な負担をかける。敵に負担を強要するには,一般市民を標的にして,殺害するテロが効果的である。トラック,戦車はいくらでも生産できるし,軍艦の代わりもあるが,殺された人間の代わりはいないという意味で,テロの被害は大きい。

軍艦,軍用機,軍人を攻撃しようとしても,防備が固く、警戒しているため、攻撃しても戦果を揚げるのは困難である。軍事施設,戦車に自爆テロを仕掛けても、多くは事前に発見,阻止されてしまう。
「人の命の値段」=遺体捜索・運搬費用,葬儀費用,国家補償,生命保険,遺族年金などの負担は,高所得で人権を重視している先進国では,非常に重い。負傷者の医療や看護の費用も政府や家族が負担する必要がある。「人命は地球より重い」。人命が高価な敵に対しては,特攻による攻撃も人を対象にすることが,もっとも費用対効果が大きいといえる。

1944年後半の米軍に対する特攻も,空母や戦艦ではなく,大量殺戮を目的に、輸送艦、商船を攻撃するほうが,米国の負担も大きかったであろう。兵器の損害は回復できるが、失った兵士の命は取り戻せない。日本本土侵攻作戦に際しても,自国の若者の死傷者を如何に少なくするかが問題となっていた。
米国に大損害を与えるためには、米軍将兵,米国市民を効率的に殺害すればよい。味方の物資,人員,資金を節約しつつ、効果的に敵を大量殺戮することが、戦争の目標となる。戦争の本質とは,大量殺戮,大量破壊である。大戦以降,戦争は決して外交の延長手段などではない。

中には、特攻隊を使い捨てのごとく扱った厚顔無恥な司令官や参謀も若干いたようだが,自爆攻撃を計画し、特攻隊員を訓練し、特攻隊を編成する司令は,心中穏やかではいられないだろう。自分は死なないのに、若者に死を前提に特攻を命じる司令官,高級将校の心のうちは苦しかったはずだ。だからこそ、特攻を命ずる指揮官は,自らの心理的負担を軽くするため、自らの心理操作をする。心理的負担のかかる事実(=不協和)を受け入れるために認識を改める「認知的不協和の理論」である。これが「特攻自然発生説」を信じ込んでいる理由である。
自分は意思が弱くて特攻に出撃できないが、若者は自己犠牲を厭わず、愛国心を持って大御心に自ら殉じようとしている。特攻は、若者の発意で志願によって行われた。特攻を命じた指揮官たちには,「特攻の自然発生説」が心理的負担が小さく,受け入れやすい。
こういった「認知的不協和の理論」が当てはまる心理状態から,特攻を命じた指揮官たちは,事実ではない「特攻自然発生説」を信じ込んでいったのであろう。 

写真(右):飛行場で別れの杯を交わす特攻隊員と指揮官;Life掲載写真。航空機を隠す掩護覆いのついた格納庫が整っているので内地の飛行場であろう。出撃の見送りをする指揮官は、大きな戦果を揚げてくれることを期待すると同時に、特攻隊員を目の前にして、死に行く若者を立派であると感じていた。特攻に出撃する部下が、送り出す指揮官よりも、精神的にはるかに上位にあるはずだ。しかし、特攻に出すもの,出されるもの苦衷は、彼らの顔からは読み取れない。特攻に出されるものは,この期に及んで恥をさらすわけにはいかず、同僚たちと同じく、にっこり笑って死ぬしかない。

他方,特攻隊・テロ実行犯として指名されたり、志願を強要されたりした若者は、運命を受け入れて、祖国、民族、家族、神の栄光のためと思って、死ぬことを自分に納得させる以外の道はない。
死から逃走、逃亡しようと思えば,特攻/自爆をやめて、同僚・周囲から非難され,家族を窮地に陥れ、さらに自分も抹殺されることを覚悟しなくてはならない。これが分かっている特攻隊員は、苦しんだ末、やはり特攻出撃するしかないのではないか。認知的不協和の理論からいって,自分の特攻死に意味がないとは,犬死だとは認める分けにはいかない。祖国のため,家族のために何か役に立てると信じ,あるいは残された者に期待できたからここそ,諦観し,特攻に出撃したのであろう。

 北アフリカや南米で郵便飛行の仕事をし,大戦中,偵察機パイロットとして地中海で活躍したアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exuperyは,1943年の『星の王子様Le Petit Prince』で有名なフランスの作家であるが, “War is not an adventure. It is a disease. It is like typhus.”「---戦争はチフスのようなもの」とも述べている。1944年7月31日戦死した彼の部屋には,General X宛ての手紙が残されていた。
"I do not care if I die in the war or if I get in a rage because of these flying torpedo's which have nothing to do with actual flying, and which change the pilot into an accountant by means of indicators and switches. But if I come back alive from this ungrateful but necessary "job", there will be only one question for me: What can one say to mankind? What does one have to say to mankind?"
「私は,戦争で死んでも,憤怒に陥っても,かまわない。戦争の道具として飛ぶことは,実際の飛行とは比べ物にならないのだから。それは,パイロットを計器とスイッチの一部にしてしまった。しかし,もし,この不快なしかし必要な任務から生きて帰れたなら,ひとつの問題が生まれるだろう。人は人類になんということができるのか,なんというべきなのか。」 

特攻やテロ行為は,戦争と同じく正当化することはできない。もし,特攻や自爆テロを,そして戦争が正当化できる大義があるのであれば,無防備な市民を効果的な攻撃目標として認めることになる。特攻,自爆テロ,戦争を許せば,平和は遠のいてしまう。

しかし,最も非難され、追及されるべき人物は、特攻隊員・自爆者ではないし,特攻隊員・自爆者の抱く犠牲的精神、祖国愛、殉教精神ではないであろう。
非難されるべき人物・行為とは次のようなものであろう。
‘湛饗癲自爆者(殉教者)を平然と送り出している司令官・参謀(テロ首謀者)たち、彼らこそ無防備な市民を殺害し,悲しみと報復を招来し,防衛措置をしいて,社会に余分な負担を負わせる。
特攻隊・殉教者を送り出したにもかかわらず「特攻・殉教は自然発生的に行われた」として特攻/自爆テロ作戦の責任を回避しようとする「特攻/自爆しない」司令官・参謀たち、彼らこそが特攻/自爆テロの現実的果実を不当に独占する。(特攻隊員・自殺攻撃者は死んでいる)
F湛供自爆のもつ「大義に殉じ、家族を守ろうとする犠牲的精神の発露」という一面を英雄的行為として過大に賛美し、プロパガンダを展開して、純真な若者に特攻(自爆テロ)を志願させ、愛国者,殉教者の名のもとにテロリストを育成、編成する行為、それを画策する政治的指導者・軍司令官(テロ首謀者)たち、彼らこそ,エセ大義のもとに社会から平和を奪う扇動者である。
彼らやその行為こそ憎むべきものである。特攻隊員の抱いた忠誠心・祖国愛・家族愛だけではなく,彼らの苦衷と特攻/自爆テロを展開した司令官への憤怒を心に留めることが,現代の我々には必要なのではないか。

知覧特攻隊と学徒動員・勤労女学生・鳥濱トメ
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靖国神社:戦没者追悼と軍神


『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)では「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との戦争論を見直したと思います。
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