鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
戦艦「大和」天一海上特攻の真相 2005
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◆沖縄戦の戦艦「大和」天一海上特攻 ◇The Yamato Sunk 1945/4/7/1422


写真(左);1941年10月20日,豊後水道で公試中の戦艦「大和」
;日中全面戦争の始まった1937年11月仮称「第一号艦」として呉海軍工廠で起工。1940年8月8日,極秘進水。日米開戦後,1941年12月16日竣工。満載排水量 7万2800トン。最大速力 27.4ノット,航続距離 7500マイル/16ノット1942年5月のミッドウエー島攻略作戦に初出撃。満載排水量 7万2800トン,全長 263m,全幅 38.9m,最大速力 27.4ノット,航続距離 7500マイル/16ノット 写真(右):1941年12月公試中の「大和」;主砲 9門 x 18インチ砲(46センチ砲)。いずれの写真も,戦後、占領軍に押収されたもの。大和の46センチ三連装主砲塔とそのバーヘッド;広島県呉の海軍工廠で艤装した。46糎砲は,砲身長20m、砲弾長2m、砲弾重量1.5t、砲弾初速780m/s,射程42km。砲塔は、直径13m、重量2700t.Pictures by Naval Historical Center引用
*海里は「カイリ」ともいうが、海軍では「マイル」と読んだ。

写真(右):海底の戦艦「大和」46サンチ砲弾;撃沈44年後に発見。実用化された最大の艦砲。しかし、80cm砲も実戦使用されており「世界最大口径の火砲」ではない。1999年8月撮影。Wreck of "YAMATO" as found in August引用。

◆2011年8月13日ヤフーニュース「元隊員が語る特攻艇『震洋』」に当研究室が掲載された。
◆2009年7月2日,大和海上特攻で戦死された方の一言を祖父・海軍そして大和に関連した遺族からお伝えいただいた。「こんなとこさぁいたぐねぇべさ」。本サイトで,「特攻」の名の下に行われた作戦だが,戦死者に二階級特進はなかった,と指摘した。が,これは,何十年も前から遺族の間では常識だった。こんなことにやっと気付かされた。
◆2009年1月22日「大和引き揚げで準備委発足=数年内の実現目指す−広島・呉」では,広島県呉市で、地元商工会議所などが中心となり「戦艦大和引き揚げ準備委員会」の初会合が開催。数年以内の引き揚げを目指したいとした。
◆徳山工高専の工藤洋三徳山高専教授は「特攻出撃5時間前の大和の写真」を探し出した。写真は1945年4月6日1000,米軍偵察機RB29が高度9300mで撮影,説明に「戦艦『大和』級1、重巡[軽巡矢矧]1、駆逐艦6」 しかし,新聞は,呉市海事歴史科学館の依頼を受けて探し出したと誤報(2006/7/03)。この写真を掲載した工藤(2006)『写真が語る山口県の空襲』 刊行直前の誤謬だった。
◆本サイトへの1日当たりアクセス数は,新写真公開直後の2006年7月4日に1750件,大和引き揚げの公表後2009年1月22日に3万9000件と大和への関心の高まりを感じた。が,大和にかかわった人々の思いに至らない「まちおこし」や経済効果重視で「明るい話題 提供したい」というのが、大和の写真公開や大和引き揚げ意義というのであれば、悲しい。何のための活動か,伝えるべきことは何か。
【アジア太平洋戦争オリジナル】

序. 1944年7月にサイパン島などマリアナ諸島が陥落すると,日本本土空襲が予期された。そこで,沖縄からも九州などへ疎開船が運航された。  

写真(左):米軍太平洋方面艦隊司令官ニミッツ提督
;1885-1966年。1941年12月16日に解任されたキンメル提督の後任。1944年12月,海軍に新たに創設された「元帥」に任命。1945年3月26日 米海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)を沖縄に公布。(→写真の出所
第8艦隊司令長官ミッチャー中将:1939年海軍省航空局次長,1941年10月空母「ホーネット」艦長を経て,1944年1月第58任務部隊司令官。1944年10月台湾・沖縄空襲,レイテ沖海戦、1945年硫黄島・沖縄攻略に参加。


日本は,1937年の盧溝橋事件以来、国際都市上海の支配、南京虐殺など米国への敵対的行動を中国大陸でとった。
1941年12月7日「真珠湾を騙まし討ち」、フィリピンでの米軍捕虜「死の行進」など一連の日本軍の非道な行為は、米国人の間に,「残虐で卑怯なジャップ」に報復せよとの反日感情を高めた。米国は,世界征服を企む「悪の枢軸」に対して、自由を守る正義の戦いを遂行している,とした。

米海軍太平洋艦隊司令長官・太平洋方面総司令官ニミッツ元帥は、1945年3月,沖縄攻略「アイスバーグ作戦」に着手。1945年10月〜1946年2月 志布志湾から九州攻略「オリンピック作戦」,九十九里浜・相模湾から東京を攻略する「コロネット作戦」を準備。
 沖縄攻略によって,中国・南方から日本本土への海上輸送ルート(シーレーン)を,完全に遮断できる。
日本本土空襲後、爆撃機の不時着基地とも,日本本土侵攻の前進基地ともなる。


写真(上):1945年9月戦後の横浜;1944/11/16就役の米海軍輸送艦APA-216 Neshoba乗員Bob Glindewellの提供。米陸軍航空隊B-29重爆撃機によって,市街が焦土と化した。搭乗員たちは、多数の日本の民間人を殺害したが,焼死体を見ることも,ヒトの焼ける臭いをかぐこともない。右の写真は,横浜で撮影された日本婦人。APA-216「ネショーバ」は,4月1日(Philippine time)の沖縄上陸に向けて. 第13及び第14輸送部隊Transport Squadronとともにレイテ湾Leyte Gulfを1945年3月27日に出撃。排水量 6,873 t.(lt) 14,837 t.(fl),速力 19 kts. 乗員 将校5名+下士官兵480名. 搭載人員 将校86名+下士官兵1,475名. 貨物等裁量 2,900 tons, 舟艇 2×LCM, 12×LCVP, 3×LCPU. 兵装 1× 5"/38口径両用砲, 4×40mm二連装機関砲, 10× 20mm機銃. 機関出力8,500馬力. Crew Pictures from Bob Glidewell

1944年7月サイパン島陥落直後、日本海軍は,本土空襲の危機が切迫する中,機動部隊再建を諦め,特攻作戦を決定。1944年10月20日,フィリピン戦で神風特攻隊開始


写真(左)1945年1月21日,台湾沖で特攻機の命中を受けた空母「タイコンデロガ」;排水量 2万7,100トン , 兵争 12 x 5"(インチ)/38AA, 32 x 40mm, 46 x 20mm, 搭載機 82機. 装甲 4" (インチ)舷側, 2 1/2" 格納庫甲板, 1 1/2" 甲板, 1 1/2" 艦橋. 機関出力, 15万馬力; Westinghouse Geared Turbines, 4軸 速力, 33 knots, 乗員 3448名.

1944年7月:米軍サイパン島攻略後、航空基地を整備し、1944年11月から,B29爆撃機による日本本土空襲を開始。

1945年1月21日1152,米任務部隊は再度沖縄方面を攻撃。迎え撃つ日本海軍特攻機17機が出撃。
第一航空艦隊:爆装戦闘機2機+直掩(直接援護戦闘機)零戦3機:台南発:堀口吉秀少尉
神風特攻第3新高隊:爆装戦闘機7機+直掩零戦6機:フィリピン北部ツゲガラオ発:川添実大尉
神風特攻第3新高隊:彗星8機+直掩零戦5機:台南発:西田幸三中尉
大損害:正規空母「タイコンデロガ」大破
損 害:軽空母「ラングレー」、駆逐艦「マドックス」


写真(上):特攻された空母「タイコンデロガ」USS TICONDEROGA(CV-14)艦橋付近の被害;1945年1月21日,特攻機によって損傷。


1945年2月3日:日本軍の航空作戦に関する陸海軍中央協定:陸海軍航空戦力を統合し、東シナ海周辺に来攻する敵に対する特攻と本土防衛の強化策を決定。主攻撃目標は,海軍が空母部隊、陸軍が輸送船団。しかし、3月以上の特攻作戦では,輸送船攻撃約束した陸軍も、士気の衰えを憂慮し、空母など大型艦艇を特攻目標とた。

日本軍は,1944年7月7日、1944年7月サイパン島陥落後,次は本土空襲,沖縄来襲と予測し,都市や沖縄で,戦備や労働に必要ない学童などを安全な農村や本土に避難させる疎開を促した。疎開には,移駐してくる日本軍の食糧・住居の確保,労働力の調達を進め,作戦行動に支障をきたす民間人を退去させる目的もあった。 

沖縄には,延べ170隻以上の疎開船が運行され,7万名が九州などに疎開。しかし,1944年8月23日,学童疎開船「對馬丸」は,米潜「ボーフィン」に撃沈。学童700名以上を含む1400名以上が死亡。

1.1945年1月,日本の最高戦争指導会議は、本土防衛を優先,全軍特攻化を決定。日本は沖縄を持久戦の場,本土決戦の時間稼ぎ,「捨石」として位置づけた。  

1945年1月20日, レイテ沖海戦に敗れた後の日本は,海上決戦の見込みは立たず,帝国陸海軍作戦計画大綱を決定。
「皇土特ニ帝国本土ヲ確保スル」目的をもって沖縄を縦深作戦遂行上の前縁として,本土防衛を準備する。
沖縄・硫黄島などに敵の上陸を見る場合、極力敵の出血消耗を図り、且つ敵航空基盤造成を妨害する持久戦方針を確認。沖縄守備軍第32軍は「軍民の共生共死」を強調。
1945年1月25日:最高戦争指導会議「決戦非常措置要綱 」によって、一億総特攻の方針を決定。
第一条 帝国今後ノ国内施策ハ速カニ物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スルニ在リ

第二条 国力並戦力造成要綱
 一 作戦上ノ中核戦力トシテ、依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス
 二 国力ノ造出ハ日、満、支資源ヲ基盤トシ自給不能ナル南方資源ヲ充足シ,其ノ総合的運営ノ下ニ近代戦争遂行能力ノ確立ヲ主眼トシ併セテ各地域毎ノ攻戦略態勢ノ強化ヲ図ル

 *最高戦争指導とは,1944年8月4日以降小磯内閣で設けられた従前の大本営政府連絡会議。総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣,陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席。蔵相、参謀次長、軍令部次長も列席。天皇が臨席する。

天号作戦指導要領
1.1945年3月末を目途に航空作戦準備を完成,来攻部隊を撃破する。 
2.航空作戦の主要目標は輸送船団。
3.米空母任務部隊の撃滅のために,空母部隊が本土に来攻した場合,本土配置の特攻兵力の全力を使用する。また,南西諸島方面に来攻した場合,特攻兵力の一部を使用する。
4,航空基地を整備し,地上部隊による確保にも配慮
南西諸島は、九州南方から台湾東方にある奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島。

1945年3月,米空母第58任務部隊Task Force 58 は,沖縄上陸準備として,沖縄,九州,東京を空襲。

写真(右):正規空母「フランクリン」1945年3月18日,硫黄島近海で、千葉県木更津より飛来した日本海軍機「銀河」投下の爆弾により大破。ニューヨクに回航、修理。戦線復帰はできなかった。戦争全期間を通じて,特攻機が撃沈した正規空母、戦艦、巡洋艦は1隻もない。

1945年3月1日:米艦載機600機,沖縄の港湾,航空基地に波状攻撃。米軍,硫黄島に上陸。特攻機によって、1945年3月10日、空母「ランドルフ」Randolph損傷。ミッチャー提督Adm. Mitscherは,任務部隊旗艦を空母「バンカーヒル」Bunker Hillに移譲。
1945年3月18日:空母「ヨークタウン」Yorktown, 「エンタープライズ」Enterprise,「イントレピット」Intrepidに特攻機命中。
1945年3月18日:第58任務部隊(TF 58)は,九州南部を艦載機で空襲。3月19日明け方,空母「フランクリン」に,1機の日本機(銀河)が雲に隠れて低空で接近,爆弾2発を投下。将校106名,下士官・兵 604名など死者724名,負傷265名の大損害を与えた。
空母「ワスプ」Waspも(第58任務部隊)にも爆弾が命中。死者101名,負傷者269名。しかし,回航修理直前まで,任務を続行。

History Learning Siteの沖縄戦に、次の記述がある。

1945年3月18日,九州を攻撃した米空母「ヨークタウン」「エンタープライズ」「イントレピッド」は,「自殺攻撃」suicide attacksによって,軽微な損傷を受けた。同日,日本の選りすぐりのパイロットを集め,新鋭「紫電改」をもって編成された源田指揮下の343空は,グラマン「ヘルキャット」に犠牲を強いた。しかし,米軍機は,小型空母「龍鳳」,新鋭空母「天城」,戦艦「大和」に損害を与えた。  

3月19日,日本の爆撃機と戦闘機の反撃によって,米空母「ワスプ」「フランクリン」が損傷,900名以上が戦死。 

米軍は,神風特攻隊を空母に近づけないように,レーダー搭載駆逐艦による警戒ピケを張った。日本機は,レーダー警戒網を避けるように低空進入し,警戒駆逐艦も攻撃。

写真(右):米空母「エセックス」USS Essex (CV-9)艦載機の攻撃を受ける日本海軍の空母「天城」あるいは「葛城」と特設空母「海鷹」;1945年3月19日呉港撮影。SB2C "Helldiver" が右上に見える。U.S. Naval Historical Center Photograph

「大和」の海上特攻実施3週間前、航空特攻は本土南方で米正規空母6隻に損害を与える大戦果をあげたが,それでも米軍による沖縄侵攻を阻止できなかった。つまり,戦艦「大和」など第二艦隊による作戦では,沖縄の米軍撃滅は不可能であった。

1945年3月23日:南西諸島全域に空襲。沖縄本島に艦載機355機来襲。
1945年3月24日:沖縄本島に米艦載機約600機来襲,南部を米艦が砲撃。 
1945年3月25日:沖縄本島に来襲、延べ515機。米艦が艦砲射撃。糸満西方海域を掃海。
1945年3月26日:米艦艇が沖縄本島,伊江島、久米島への艦砲射撃。米陸軍第77師団の上陸部隊,慶良間列島渡嘉敷島に上陸。
米艦載機,沖縄本島713機、宮古島79機、大東島94機、奄美120機来襲。九州にB-29約150機が来襲。
1945年3月27日:英国海軍第57任務部隊British Task Force 57は,沖縄で米軍任務部隊と合流し,沖縄方面飛行場を攻撃。

自殺航空機「桜花」Okha suicide jet aircraftの実戦初投入(1945/03/21)
1945年3月21日,大分県宇佐海軍基地の第721海軍航空隊「第一回神雷桜花特別攻撃隊」は,「桜花」15基を運ぶ一式陸攻15機,護衛戦闘機30機で出撃、全滅。これは「大和」海上特攻2週間前だった。


写真(右):米軍に鹵獲された沖縄の人間爆弾「桜花」;「桜花」は1.2トンの滑空人間爆弾。一式陸攻に懸吊、目標に接近し投下、搭乗員が操縦し敵艦に体当たりする。


神雷部隊(150名)のうち予備学生(学徒兵)・予科練(少年兵)の出身者は143名、海軍兵学校出身者は7名。隊長 野中五郎少佐は二・ニ六事件「叛乱部隊長」の弟。神雷部隊の野中五郎少佐は,特攻隊を陣頭指揮し戦死した佐官以上の高級将校の数少ない事例。海軍兵学校出身将校は,ほとんど特攻出撃していない。特攻隊の人選は、未熟練な予科練の学徒兵と少年兵に集中していた。「特攻は自然発生的な志願」であれば、なぜ(死後昇進ではなく)出撃時に佐官以上の高級将校,海軍兵学校出身者は,ほとんど特攻しなかったのか。 


写真(上):戦艦「ミズーリ」BB63 ;「アイオワ」級は、主砲に16インチ(40センチ)三連装砲塔3基を備えた最高速度33ノットの高速戦艦。空母任務部隊と行動を共にした。排水量6万8000トンの大和より小さく,4万5000トン。しかし、速力は33ノットと6ノットも速い。竣工は1944年1月29日で大和より3年新しい。近接信管付き4インチ(12.7センチ)対空砲、レーダー連動の射撃装置など大和にない技術を採用。大和がアイオワ級よりも優れているのは、46センチ(18インチ)砲三連装砲塔3基という大口径の利点だけかもしれない。NavSource Online: Battleship Photo Archive引用.


1945年3月26日:米軍の慶良間列島上陸により,米軍の沖縄上陸を確信した連合艦隊司令長官豊田大将は「天一号作戦」を発動。
日本軍は,体当たり航空特攻を開始。米軍は任務部隊に高速戦艦を配備し,空母を護衛させたり,陸上の日本軍陣地への艦砲射撃を行うなど、旧式低速戦艦を有効活用した。しかし,制空権を失った日本の戦艦大和に活躍の場はなかった。 


写真(上):1944年8月の米戦艦「ミズーリ」BB63
;写真は,左より,40センチ主砲の基部,居住区にある飲料水飲み場,戦艦を訪問した海軍婦人部隊WAVEs。排水量 45,000t, 全長 887' 3" (oa) x 108' 2" x 37' 9" (Max),主砲 9 x 16"/50 対空砲 20 x 5"/38AA, 対空機関砲 80 x 40mm 対空機銃 49 x 20mm, 装甲 12 1/8" (水線部), 17" (主砲塔), 1 1/2" +6" +5/8" (甲板), 17 1/4" (司令艦橋). 出力 212,000馬力; G.E. Turbines, 4 screws,速力 33ノット,乗員 1921名。WAVES(海軍婦人予備隊)もこの艦を訪問。アメリカ海軍歴史センター引用。


Battle of Okinawa/Wikipedia によれば,沖縄戦の参加兵力は次のとおり。
米軍兵力は作戦当初15万名から最終的には30万名まで増加した。
 米軍地上侵攻兵力:第24師団1万5,000-1万7,000名 ,第62師団 1万1,500名,第44独立混成旅団 6,000名を中核とし,戦車連隊,砲兵連隊,対空部隊5,875名,空軍地上部隊3,500名 飛行場建設部隊5,000-6,000名など総兵力は5万3,000-5万6,000名。

 沖縄の日本陸軍守備隊:8万6,400名(+民間人からなる沖縄県民防衛隊・学徒隊・義勇隊2万2,000名)で,日本陸軍は,本土防衛の時間稼ぎ、捨石として持久戦を計画した。他方,海軍は沖縄を最終決戦の場と見ていた。
沖縄攻略「アイスバーグ作戦」;沖縄住民と軍政

2.米軍は沖縄を,空爆,艦砲射撃したが,迫地・補給基地を整備するために,1945年3月26日に慶良間列島に上陸。この時,水上特攻自爆艇「震洋」「マルレ」と特攻機による特攻が行われた。

 日本軍は、慶良間列島には米軍は上陸しないと考え,特攻艇「震洋」「マルレ」による海上挺進隊,水上特攻隊を配備,沖縄に来寇する艦船を水上特攻する計画だった。


写真(左):慶良間列島の水上特攻艇;日本海軍の緑色の「震洋」,陸軍「マルレ艇」が右奥の洞窟陣地に隠されている。米軍はエンジン(70馬力)は米国製コピーと指摘。特攻艇は,海上係留あるいは海岸に引き上げ隠匿された。しかし、多数が鹵獲された。


1944年3月:海軍軍令部(陸軍の参謀本部に相当)が「特殊奇襲兵器」試作方針を決定。1944年5月27日:な軸錣了邵酊(後の「マルレ」が完成。
1944年7月5日:つ第一次要員が発令,7月15日に講習開始。

 乗員1名の特攻つは、艇首に250塲薬を装備し、自動車エンジン(トヨタ自動車80馬力の中古エンジン1基)を搭載した木造合板型(ベニヤ)の特攻艇。海上特攻(水上特攻)の海軍「震洋」、陸軍「マルレ」は,木製小型モーターボートに爆薬を搭載したもので,敵船舶への体当たりを企図した。

特攻兵器の開発・量産は、マリアナ諸島サイパン島陥落・テニアン島陥落を契機に,本格化した。米軍B29による日本本土空襲の危機が切迫してきた時期に開始された。

現地部隊から自然発生的に特攻隊が誕生したとする俗説がある。しかし、特攻兵器(人間爆弾「桜花」,人間魚雷「回天」,特殊攻撃機キ115「剣」,自爆艇「震洋」)の試作・開発・乗員訓練・部隊編成は、軍の命令で1944年7月には始まっている。命令・許可なくして、技師・整備員が独断で兵器を改造し,特攻志願者を自発的に集めることは,命令違反の抗命罪,専権罪である。つまり、「特攻作戦」は,軍の命令・指揮の下にあった。

特攻艇や人間爆弾「桜花」は、奇襲秘密兵器のはずだが,米軍に多数鹵獲された。日本軍の兵器管理は,厳格ではなかった。暗号も解読され,日本軍将兵は捕虜になった際の権利も教えられなかった。捕虜は,特攻兵器や戦艦大和に関する情報を米軍に話した。日本軍では、命がけの特攻を米軍は真似できないから、特攻兵器の秘密保持はいらないと考えたのか。


写真(右):中型揚陸艦(ロケット砲搭載艦)LSM(R)-188 Class Landing Ship Medium (Rocket): ;脆弱な輸送艦でも,MK30ロケット弾を多数装備することで,上陸支援砲撃の任務をこなすことができた。LSM(R)-188 crew loading outboard MK 30 rocket launchers off Charleston, S.C., 3 December 1944.


  渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数:日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人。一般住民のうち,集団自決/集団死の犠牲者は329人。( 「渡嘉敷村の歴史」の当時14歳の集団死生き残り証言
当時12歳の渡嘉敷島の体験:「村長が『生きていても、みんなウランダー(外国人)に目を抜かれたり、鼻をもぎ取られたりして残酷な殺され方をする、いさぎよくこの場で死んでしまおう』と叫びました。A巡査が、全員に手榴弾を配り、「天皇陛下万歳」と3回繰り返して信管を抜くとバーン、バーン」と弾が爆発しました。手足を失い、うめき苦しむ人、バラバラになった死体、頭の吹き飛んだ人など、まさに地獄絵図でした。」

◆沖縄戦での住民集団自決・集団死の真相(渡嘉敷島,チビチリガマでの惨劇)
特攻艇「震洋」「マルレ」特攻・整備部隊の隊員は、戦意の萎えた住民、戦場から離反する住民を,非国民,裏切り者,スパイとした。米国も憎悪を煽る反日プロパガンダを展開した。

沖縄住民は、日本軍の陣地構築や飛行場整備を手伝い、食料や住居を提供していた。防衛召集をかけられ、軍の補助員としての役割も与えられた。つまり、沖縄住民は、日本軍に関する情報を保有していた。沖縄の日本軍は,住民が食糧確保の障害になるだけではなく,利敵行為をすることを警戒した。捕虜になった住民が,敵への情報提供し,道案内・通訳として働くこと,捕虜となれば生き延びうることが日本軍将兵に知れ渡ること,これらは,士気阻喪、戦闘への障害となる。

沖縄住民も日本軍将兵も、日本軍に捕虜となった敵兵の処遇を知っていたから,米軍の捕虜となったら同様に残虐に扱われ,処刑されると恐怖した。⇒「中国戦線での捕虜・民間人の処刑」

写真(左):1944年11月25日,空母「エセックス」に突入する艦爆「彗星」;Photographed by Lt. Comdr. Earl Colgrove, USNR. U. S. Navy Photo. 「彗星」は爆弾搭載量500キロで、全備重量4.5トンの急降下爆撃機。大和の46センチ砲弾は1.5トンで、2倍の重量がある。しかし、飛行機の機体は、衝撃にもろく、艦船に衝突した場合、壊れてしまう。以前のフィリピン戦でも,特攻機が命中しても艦船撃沈は少ない。航空機の構造が脆弱で、衝突速度も650km/h以下(砲弾は2800km/h)と遅く威力不足だった。搭載燃料引火の以外,航空機特攻の破壊力は大きくはない。

沖縄戦では、大型艦船よりも、駆逐艦、掃海艇など小型艦艇への特攻が多い。米軍の空母任務部隊の周囲は、小型艦艇で幾重にも護衛されており、それを最初に発見した特攻機は,身近な艦船を攻撃した。特攻機パイロットは未熟練で、初めて目にした米軍小型艦艇を大型艦艇と見誤って特攻したようだ。特攻隊の世話をした知覧高等女学校勤労女子学生の日記には、特攻機の故障、不調の話が何回も出てくる。


写真(右):戦艦「大和」の46センチ砲弾
;重量1.46トン、炸薬は330kg、砲弾初速2,800km/h(秒速780m)。特攻機は、爆弾250--500kgを含めて、重量は3.5〜4.5トンと大和主砲の2倍の重量だが、剛体ではなく、艦船命中効果は小さい。460 mm shells at the Headquarters of the Commander in Chief of the U.S. Pacific Fleet in Hawaii.

航空機は3トン以上あるが、剛体ではなく、突入速度も時速500-680km程度にすぎない。高空から自由落下する剛体の爆弾や砲弾は高速であるが、急降下する飛行機に縛り付けられた爆弾は低速で、衝撃力は小さい。
特攻機が命中した米艦艇が、沈没することは少なかった。軽く華奢なジュラルミン構造の航空機は、体当たりしても、鋼鉄の艦船に大打撃とならなかった。

戦艦「大和」の46センチ砲弾は、砲弾1発の重量は1.45トン、炸薬は330キロ、砲弾初速2,800km/h(秒速780m)であるのに対して、特攻機1機は、爆弾250-500キロ、全備重量3.1〜4.5トンと大和主砲の2倍の重量がある。しかし、特攻機の突入速度は600キロ程度と遅く,機体は剛体でないため、体当たりした瞬間に壊れてしまい、衝撃力は小さかった。戦艦大和の46センチ主砲弾よりも大きく重い特攻機が艦船に命中しても、大和主砲や投下爆弾によるよりも、破壊力は小さかったのである。

日本軍は「一機よく一艦を屠る」として特攻を正当化したが,それは科学的な打撃力を計算したものではなかった。特攻機(搭載する爆弾)の破壊力は、投下した爆弾、砲弾よりも遥かに小さい。精神主義が、特攻に赴くほどの勇気と気概を持った若者たちの命を犠牲にした。


写真(左):日本機に体当たりされた米艦隊空母「ハンコック」での葬儀
;1945年4月撮影。空母「ハンコック」は,1ヵ月後の5月,特攻機により,再度、大被害を受ける。Copyrigh:Scott Dyben


 ⇒沖縄戦での神風特別攻撃隊(菊水作戦,航空総攻撃)

第三十二軍は,沖縄の飛行場を,米軍から防衛することは不可能であると決心変更,飛行場群の防衛を放棄。しかし、飛行場の破壊は不完全で,米軍は上陸後すぐに「嘉手納基地」「読谷基地」として使用。

3.1945年3月末,沖縄攻略のために,米軍は艦艇500隻,商船170隻以上を集結させ,これを迎撃した日本軍との間で,激しい航空戦・海戦が戦われた。しかし,6月末までに,米軍は5インチ以上の艦砲60万発を発射,物資200万トンを揚陸できた。 

写真(右):米海軍輸送艦「ネショーバ」THE USS NESHOBA APA 216;竣工1944年10月7日。満載排水量1万4833トン; 全長 455'(フィート); 全幅 62'; 深さ 28'1"; 武装 5インチ砲1門; 12 40mm. 最高速力19ノット。フィリピン時間の1945年3月27日, 第13隊,第14隊輸送部隊Transport Squadronは,レイテ湾を出航し,4日後に沖縄に到着。輸送艦「ネショーバ」は,上陸部隊第1波に舟艇を送り出した。上陸部隊は反撃を受けず,死傷者もなかった。ターナーTurner提督からの命令で,真珠湾に帰還。USS NESHOBAより承諾を得て引用。

沖縄戦には、米国商船176隻、空母、戦艦、駆逐艦、掃海艇、揚陸艦、輸送艦が参加した。船団は,沖縄に米地上軍を運び,人員,艦艇,航空機に燃料,弾薬,食糧など補給物資を運搬していた。つまり,防衛手薄な民間船,商船など補給路攻撃は,日本軍にとって有利な作戦であった。天号作戦における日本陸海軍協定でも,主目標は,敵輸送船団としていた。U.S. Merchant Ships Participating in Pacific Theater Combat Operationsによれば、沖縄戦に参加した米国商船(民間船)は176隻で、レイテ戦に参加した商船108隻をはるかに上回る太平洋戦争最大の規模である。この大船団を攻撃するのが本来の作戦といえる。

しかし,米空母任務部隊の威力を見せつけられた日本海軍は,敵の弱点に兵力を集中して攻撃するという戦略の基本を忘れ,米空母,戦艦など防御の硬い大型艦艇を主な攻撃目標とした。特攻機の大半は、目標にたどり着く前に撃墜。


写真(上):米戦艦「ミズーリ」のパン製造部と歯科部
;アップルパイが焼きあがった。16インチ砲の攻撃力と並んで,乗員の居住性、食糧、医療へも配慮されているのが,戦時中の日本艦艇とは異なる。敵艦撃沈とはいうが、艦艇にはヒトが乗り込んでいる。艦船乗員から見れば、特攻は,自分を殺しにくる自爆テロである。


1945年3月23日,米艦隊が沖縄本島に艦砲射撃開始。上陸を覚悟した沖縄守備隊は、甲号戦備(戦闘準備)を下令。本土の第10方面軍と海軍は,「天一号作戦」を発動。


写真(上左):米戦艦「ウェスト・バージニア」USS West Virginiaと上陸用舟艇
;1945年4月1日、沖縄本島上陸攻撃の時に撮影。沖縄を砲撃した艦船主力は、米軍の旧式戦艦。戦艦ウェスト・ヴァージニア は1914年建造と艦齢30年以上,14インチ(36センチ)砲12門搭載。最高速度21ノットの低速艦。空母任務部隊に随伴できない。
写真(上右):米戦艦「インディアナ」艦上のカトリック祈祷;1945年4月1日、沖縄上陸直前に、安全を祈ってカトリックのミサが執り行われた。「ウェストヴァージニア」は、1941年12月真珠湾で撃沈された戦艦5隻のうち1隻。引き揚げられ戦列復帰。


  3月26日,米軍は慶良間諸島に上陸,3月29日に占領。3月30日,米軍の沖縄本島上陸が必至となった。米軍に使用させない目的で,日本軍守備隊は、沖縄本島西岸の北・中・南の3飛行場を自ら爆破。しかし,爆薬不足のため,米軍はすぐに復旧。

飛行場のある読谷村の住民の一部は,北部の国頭村へ避難したが,数千人が村に残っていた。米軍は、1945年3月23日から沖縄を艦砲射撃。艦砲射撃と空襲を避けるために、住民は溶岩洞窟「ガマ」や亀甲墓などに避難。
米軍は,沖縄本島に上陸した4月1日以前に5インチ以上の大口径砲弾を 4万1,543発消費し,そのうち14インチ(36センチ)上の砲弾だけでも4800発を発射。

BATTLESHIP TEXAS BB35 - HISTORY:INVASION OF OKINAWA, JAPAN 25 MARCH to 14 MAY 1945 によれば,4月1日D-Day,戦艦テキサスは沖縄本島南東部海岸を艦砲射撃。伊江島砲撃。4月13日,14日には海底の障害物を除去する砲撃。16日,伊江島に上陸する第77師団の支援射撃。 欧州戦勝記念日 "V-E" Day(1945年5月8日)、10門の14インチ砲と3門の5インチ砲が火を噴いた。


写真(上):米戦艦テキサスの14インチ砲弾と砲塔内部
;砲塔外部の薬筒と内部の栓。(→米戦艦テキサスの14インチ砲塔の見取り図を見る。Charles Moore, Battleship TEXAS Volunteer引用。


写真(左):沖縄方面で砲弾補給を受ける米戦艦「インディアナ」1945年4月撮影。

沖縄の砲撃戦は,戦艦「テキサス」の戦歴でもっとも活躍したときで, 2,019発の14インチ砲弾,2,640発の5インチ砲弾を発射。その間,慶良間列島で弾薬・火薬を3回補給。

沖縄本島に米軍が上陸した1945年4月1日だけで、米軍の8インチ以上の砲弾消費は,4万4,825発,そのうち14インチ(36センチ)以上の砲弾は1800発。4月2日から6月24日に米軍の8インチ以上の砲弾消費は51万3,650発,14インチ以上の砲弾は1万3800発。14インチ以上の大口径砲は,全て海上の戦艦による艦砲射撃。

1945年4月1日:米軍は,沖縄本島西岸の読谷村に上陸。0530に艦砲射撃開始,0745に航空攻撃。上陸前,ロケット弾搭載揚陸艦LSM-R(LANDING SHIP MEDIUM ROCKET)による支援射撃も行われた。

第二次大戦中の米軍は、大小様々な揚陸艦、揚陸艇、水陸両用車両を多数建造。
戦車揚陸艦LST:3種類あり,LST-1 CLASS は390隻,(100隻が1942年9月16日にキャンセルされた),LST-491 CLASSが50隻,LST-542 CLASS”CHELAN COUNTY CLASS"が 612隻建造。 

写真(右):米海軍戦車揚陸艦LST-1号;1943年12月撮影。LSTは、米国が参戦後に整備。艦首に観音開きの扉があり,砂浜に接岸し物資を揚陸。港湾設備や艀がなくとも、物資を陸揚げできた。

戦車揚陸艦LST:排水量(重量)1,625トン,満載重量4,080トン,速力12ノット,乗員は将校16名, 兵下士官147名。武装 40mm連装機銃2基,40mm単装機銃4門,20mm単装機銃12門。水陸両用戦車Landing Craft Tank (LCT), トラック,など自動車,火砲、建設資材を搭載。

中型揚陸艦LSM:排水量758トン(LSTの半分の大きさ) 任務はLSTと同じ。
ロケット弾搭載揚陸艦LSM-R:中型揚陸艦を改造し20連発5インチロケット弾を搭載。40mm連装機銃2基,20mm連装機銃4基,4.2インチ迫撃砲4門装備。乗員;将校6名,兵下士官137名。建造隻数;中型揚陸艦全体(LSMとLSM-R)で総計558隻。

4月1日0800:米軍上陸部隊が沖縄本島南部西岸に向け発進。北(読谷)・中(嘉手納)の2大飛行場には,飛行場警備特設部隊が配備されていたが,持久作戦に移るために,事実上飛行場防衛を放棄。

◆米軍は,上陸3時間後の1130、北・中2飛行場を占領し「読谷基地」「嘉手納基地」として整備。つまり,米軍は空母に頼らずとも沖縄周辺の制空権を把握できた。

4.沖縄戦の初動,戦艦「大和」を中心とする第二艦隊に沖縄突入作戦(「天一号海上特攻」準備)が発令。海軍軍令部・連合艦隊の立案した沖縄突入には,艦隊司令官,艦長など艦隊の側が反対したが,連合艦隊参謀長の草鹿龍之介中将が,「特攻のさきがけ」になってもらいたいと真意を打ち明けると,第二艦隊司令長官伊藤整一中将も承諾した、との説がある。 


写真(右):1941年12月,日米開戦直後に完成した巨大戦艦「大和」
;46cm三連装砲塔3基を備えた世界最大の戦艦。敵水上艦艇への砲撃は、レイテ沖海戦のときのみだが、日本の戦記とは異なり、敵艦への命中弾はないようだ。
1945年10月22日ボルネオ島ブルネイ出撃,10月23日巡洋艦「愛宕」沈没により第二艦隊旗艦(司令長官栗田健男中将)になる。10月24日シブヤン海海戦。米機の投下した爆弾が命中。主砲斉射31。10月25日サマール沖海戦。米護衛空母群に主砲斉射124発。10月26日米機の投下した爆弾命中。主砲斉射18発。


軍艦「大和」
起工 1937年11月4日,進水1940年8月8日,竣工1941年12月16日。
基準排水量 6万5,000トン,満載排水量 7万2,808トン。
全長 263.0m,全幅 38.9m,深さ(吃水) 10.58m
速度 27.4ノット,機関出力 15万3,000馬力 (軸数4),乗員3300名。
46センチ三連装砲塔3基,15.5センチ三連装砲塔 2基,12.7センチ連装高角砲 12基。
ワシントン条約満了後に完成した列国の新鋭戦艦の中で、最大級の主砲を搭載している反面、30ノットに達しない鈍足である。1937年の日中戦争開始時点で建造開始,日米開戦直後に竣工したのは興味深い。

南方の油田地帯と日本との交通網が破壊され,燃料が枯渇,艦船運行,艦船乗員訓練もままならない。1944年後半から、燃料消費量の多い大型艦艇は、シンガポール方面で訓練、待機した。停泊時,蒸気タービン,発電機を作動させる燃料が必要な戦艦「大和」を温存するだけで,燃料が無駄になる。特殊潜航艇「甲標的丁型」「海龍」が量産される中、大型艦艇は無用になった。

 連合艦隊では,米軍航空機の攻撃で撃沈されるよりは,大和に「死に花を咲かせる」「有終の美を飾らせる」のがよいとの暴論もあったようだ。大和の海上特攻を,艦隊司令長官伊藤整一中将に説得した(という)連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将は,「一憶総特攻のさきがけ」として,大和の海上特攻を企図したと戦後に証言をした。「特攻さきがけ説」は大和乗員が、かろうじて納得できる出撃理由だった。

伝統と栄光ある日本海軍が、大和を残したまま,戦争に負けたら、天皇陛下にも国民にも申し開きができないという俗説があるが,申し開きするために、戦後まで生き延びるつもりだったとでもいうのであろうか。沖縄戦初期1945年4月の段階で「海軍有終の美を飾る」といった「戦争に負ける」想定はありえない。 

第五航空艦隊(当時日本軍最強の航空部隊)司令長官宇垣纏中将の日記『戦藻録』には、昭和天皇の「海軍にはもう艦はないのか」とのご下問が、戦艦大和出撃の決め手になったとある。

連合艦隊は、大艦巨砲主義の艦隊決戦を念頭において編成、整備された。「百発百中の砲1門は、百発一中の砲百門に優る」という東郷平八郎元帥のお言葉が尊重された。しかし,発射速度が同じであれば、第一回目の射撃で、百発百中の砲は、敵1門を破壊し、百発一中の砲も敵1門を破壊する。後に残る砲は、ゼロ対99門で、百発一中の砲の側が勝つ。日本の海軍大学でも,確率論上の誤りは常識だったようだが,精神論を重んじる日本軍では,東郷元帥の「百発百中の砲1門は、百発一中の砲百門に優る」を批判することは許されなかった。

日本でいう大艦巨砲主義は,1906年の英海軍ドレッドノート級(弩級)戦艦建造以降に有力となった艦隊砲撃決戦思想である。両舷に向けられるように艦体中心線に巨砲を配備し,高速の機動力を駆使する新鋭戦艦が,1906年竣工のドレッドノート級(弩級)戦艦である。主砲は大型化し攻撃力を増し,舷側装甲は厚みを増して防御力を向上させ,主機の馬力を高めて機動力を向上した。こうして,戦艦の主砲の大型化,装甲強化,高速化が進み,建艦競争が始まった。

工業生産能力に劣る日本の戦力強化は,訓練にありと,一週間を土日抜きで「月月火水木金金」の訓練をするというのである。「百発百中の砲1門は、百発一中の砲百門に優る」を取り入れて、少数の精巧な巨大砲を整備して,それによって敵戦艦に優位に立つという「少数大艦巨砲主義」が採用され,戦艦大和級三隻の建造が決まった。日中戦争の始まった1937年のことである。

大和級戦艦は,1943年以降,レーダーを備えるようになってが,対水上レーダー射撃の精度は低かった。1944年10月25日,レイテ沖海戦では,日本艦隊は,米護衛空母(1万トン,18ノット)を米正規空母(3万トン,33ノット)と誤認し,フレッチャー級駆逐艦を巡洋艦と誤認しており,観測は不正確だった。米駆逐艦の煙幕に遮られて視界は不良だった上,上空からの米艦載機の攻撃を回避なければならず,視界不良の中,10-20マイルの距離を射撃しても「百発一中」(主砲射撃数は約百発)すら実現できなかったようだ。戦艦大和の対水上艦艇砲撃は,これが唯一の機会だった。

軍令部総長及川古志郎大将、連衡艦隊司令長官豊田副武は,連合艦隊至上主義者で、1944年10月レイテ沖海戦に全艦艇を投入し、大敗北を喫した。水上艦の大半が撃沈され、艦隊決戦は不可能となったはずだった。

日本海軍は戦艦同士の艦隊決戦、後には空母機動部隊決戦を念頭に置いた連合艦隊至上主義を、最後まで脱却できなかった。連合艦隊至上主義のために、基地航空兵力、輸送船団護衛は軽視された。
戦艦大和級は,1942年のミッドウェー海戦,1944年6月のマリアナ沖海戦に出撃したが,ほとんど活躍の機会はなかった。事実,27ノットの低速戦艦大和級は,空母護衛には不向きであり,巨砲の有効な使い道は,開戦当初から,事実上,なかったのである。これは,戦艦大和というよりも,大艦巨砲主義の失敗だった。

連合艦隊至上主義の影響で、駆逐艦は,空母機動部隊・戦艦部隊の護衛に充当されていまい,海上護衛部隊は、専門的な艦船の不足(中古艦艇を割り当てられた)、訓練不足、電子兵器不備から、米潜水艦との戦いに苦戦した。1944年以降,多数の海防艦(排水量750トン、12センチ砲2-3門、対潜水艦爆雷120発搭載、速力17ノット)が奮闘したが、輸送船を守ることはできなかった。


写真(左)米潜水艦「レッドフィン」USS Redfin (SS-272):排水量: 1,526 t 全備排水量: 2,424 t.; 速力 海上20.25 kts, 海中 8.75 kts; 乗員 将校6名,下士官・兵54名, 潜水限度 300 ft; 哨戒日数75日; 航続距離 11,000 miles/10 kts; 武装 21インチ魚雷24本 魚雷発射管 前方6門,後方4門。1944-44年撮影。
写真(右):商船を護衛した日本海軍の海防艦第17号;1944年4月13日横浜で撮影。1945年6月18日,米潜水艦「ボーンフィシュ」Bonefish (SS-223)を撃沈した。 米海軍潜水艦は,資源,人員,兵器を運搬する輸送船を攻撃し,日本を海上封鎖。日本の潜水艦は,敵艦隊の空母や戦艦の攻撃・偵察を主目標として出撃したが,米軍潜水艦は,日本の輸送船、それを護衛する艦艇の撃沈を優先した。


海上護衛隊を率いて,輸送船団護衛に奔走した大井篤大佐は、残った巡洋艦以上の大型艦艇を部隊運用するよりも,駆逐艦以下の護衛艦艇の充実とその人員・資源・燃料の確保が重要とした。海軍の任務を、艦隊決戦から海上護衛戦に移すことを1943年初頭から主張したが、空母艦隊決戦に囚われた連合艦隊は,その卓見を理解できなかった。


写真(左):1943年5月10日,米潜水艦「プランガー」に撃沈された日本商船
:Japanese Cargo Ship sinking, as photographed through a periscope by Plunger (SS-179). This ship is probably the MS Kinai Maru , sunk by Plunger on 10 May 1943, during her sixth war patrol.NavSource Online: Submarine Photo Archive引用.

海運統制も徹底された。1945年1月25日,船員徴用令などの五法令を統合した「船員動員令」と「船員待遇職員令」が施行。「船員動員令」は、船員徴用の強化、徴用範囲の拡大、その他船員の充足を目指した。「船員待遇職員令」は、応徴船員を海技免状の種類及び履歴等に応じた待遇官吏に任用。船舶運営会による船員の一元管理がされた。

大井篤大佐は、海上特攻用の重油があれば、南方・大陸を含む国内外の海上輸送に活用すべきと考えた。

1945年時点で、連合艦隊の残存補助艦艇(駆逐艦、掃海艇、水雷艇など)を、海上護衛部隊として活用するには、兵力不足、燃料不足、人材不足、訓練不足であった。

他方、米国商船の被害一覧によれば,被害を受けた米国の商船は,特攻,爆撃,魚雷,機雷,友軍の誤射など合計23隻,撃沈は11隻に過ぎない。フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は6隻のみ。米国は太平洋・大西洋上に長大な海上交通戦を維持しなければならず、その護衛には膨大な数の水上艦艇と航空機が必要である。しかし、日本海軍が、米国の海上交通破壊に投入した兵力は僅かだった。

5.沖縄に来航する米軍艦艇・船舶を,日本軍が航空機・艦艇によって撃滅しようとして,1945年3月24日,戦艦「大和」以下に出撃準備命令がでた。米軍が慶良間列島に上陸した3月26日、沖縄,南西諸島方面に来寇する米軍を邀撃する「天一号作戦」が発動された。  

1945年3月24日:戦艦「大和」以下に出撃準備命令。
1945年3月26日:「天一号作戦」発動。この天一号作戦は、元来,沖縄,南西諸島方面に進撃してくる米軍を迎撃する作戦で,連合艦隊では,米海軍空母任務部隊を九州付近に引き付けて,航空攻撃をかけることを企図した。そこで,戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦12隻からなる第一遊撃部隊を囮(オトリ)にした。これは,作戦参謀長の三上作夫中佐の発案といわれる。

天一号作戦のための第一遊撃部隊燃料補給は、徳山海軍燃料廠で行われた。ポンプでタンクの底から吸い出して燃料を積み出した。「大和」3000トン、「矢矧」1000トン、駆逐艦は満載。

1945年3月27日:米艦艇の沖縄本島南部への艦砲射撃。艦載機が沖縄本島500機、奄美300機来襲。九州には昼夜B-29約200機が来襲,関門海峡に機雷投下。 
1945年3月27日:米艦艇の沖縄本島南部への艦砲射撃。艦載機が沖縄本島500機、奄美300機来襲。九州には昼夜B-29約200機が来襲,関門海峡に機雷投下。 

1945年3月28日:沖縄本島へ艦載機約550機来襲。艦砲射撃。九州航空基地に,艦載機200機来襲。
 米任務部隊は,日本が九州,本州方面に温存している航空機を沖縄攻略軍への脅威と考え,早急に撃滅したかった。米軍が警戒したのは,航空兵力であり,水上艦艇は運用できる空母がなく,無力化された。 

1945年3月28日1730:佐世保軍港で囮として待機するために,呉を出港,豊後水道に向かった。出航30分前から米任務部隊が,南西諸島に来襲。そこで、第一遊撃部隊の囮出撃は不要となったといわれる。岩国東方沖の兜島に仮泊。 

◆1945年1月22日,沖縄方面に米機約780機が波状攻撃。その後、3月1日に艦載機650機が来襲。沖縄本島への攻撃は、3月23日に艦載機355機、3月24日に艦載機約600機、艦砲射撃、3月25日に艦載機515機、艦砲射撃、掃海開始、3月26日に艦載機700機、艦砲射撃、慶良間列島渡嘉敷島に米軍上陸と続く。九州もB-29爆撃機約150機に空襲された。
1945年3月28日に囮作戦を発動したとすれば、奄美方面を空襲で「大和」以下第一遊撃部隊を引き揚げさせたことになる。水上部隊を米軍牽制のために運用している証拠とする「作戦」だった。

写真(右):レイテ沖海戦の時の連合艦隊司令長官豊田副武大将;1885年(明治18)5月22日大分生まれ - 1957年9月22日没)1944年(昭和19年)5月3日 - 1945年5月29日の期間,連合艦隊司令長官を務め,天一号海上特攻作戦を発令。重光葵・元外務大臣と同じく,県立杵築中(現・杵築高校)の出身。豊田長官は,母校に日の丸を贈り,在校生たちは、毎日、同級生の吹くラッパの音とともに国旗を掲揚していた。銃の掃除や撃ち方を練習し、火薬工場で真っ黒になって火薬を作った。英語の教科書の表紙には、英国王の王冠が描かれていたので、杵築中学校の教員は「敵国の王の象徴」の表紙を破って捨てさせた。
しかし,敗戦後、同じ教員が「これまで軍国主義の教育をしていたが、誤りだった。これからは民主主義。英語をしっかり習得し、民主主義を学んでもらわなくてはならない」といったという。及川古志郎は,1940年9月5日から海軍大臣を1941年10月18日まで務め,1944年8月2日から軍令部総長。及川大将は,盛岡中学校の出身で,後輩には板垣征四郎陸軍大臣,石川啄木,同窓には金田一京助,先輩には米内光政海軍大臣がいる。志願制の海軍では、旧制中学校出身が最高位にまで出世した。自決した陸軍将官とは対照的に、二人は終戦後も東京裁判に(被告人ではなく)証人として出廷。日中戦争を率先指導した。海軍大臣として、特攻作戦を主張した将官の人事に取り組んだ。「原爆は天佑」として、降伏理由のできたことを喜んだ。


米空母任務部隊が継続して沖縄空襲したのは、1945年3月23日からだった。米空母任務部隊は、沖縄攻略を企図し、日本軍の航空兵力撃滅のために、南西諸島、九州、本州方面にも空襲をかけている。こうした状況で、戦艦大和が呉を出航、佐世保に停泊したとしても、米軍には脅威ではなく、大和は囮とはなりえない。3月28日の「出撃」命令は、囮作戦発動ではない。作戦中止というよりも、佐世保回航取りやめだけである。戦艦大和を有効に使用しているという証拠となるように、名目だけの作戦が計画された。もはや、戦艦の有効活用の場など、無かったのであるが、それを認めれば、大型艦艇に乗り組んでいた人員は、特攻隊、陸戦隊にまわされてしまう。米任務部隊を、九州近くにおびき寄せる(迎撃させる)には、戦艦大和を沖縄方面に出撃させる必要があった。 

写真(左):米戦艦「アイオワ」BB-61 USS IOWA ;。1944年6月撮影。基準排水量4万5,000トン,兵装 9門 x 16インチ/45口径, 20門 x 5インチ/38口径対空砲。機関出力21万2,000馬力; G.E. Geared Turbines, 速力 33 Knots, 乗員 1921名. 主砲配置,艦の形状は,戦艦「大和」と似ている。

米軍の空母任務部隊は,1944年10月末にフィリピン方面で,日本の連合艦隊の主力部隊を壊滅,残存艦艇を撤退(「反転」)させた。米軍は、残存艦艇と航空兵力を攻撃するために、九州以北、本州まで艦載機空襲した。しかし、九州・中国地方にある戦艦大和一隻を撃沈するために、沖縄の地上兵力,海上兵力護衛を放棄して、日本軍の攻撃を受ける危険は冒さない。つまり、本土に退避している無力な戦艦大和を、米空母任務部隊が攻撃する必然性はない。日本本土にある戦艦「大和」(とその主砲)は,米軍には無力であり、出撃中の潜水艦1隻、航空機1機にも値しない。

1944年10月24日フィリピン・シブヤン海の栗田健男艦隊は,レイテ湾突入とそれを囮として支援するエンガノ岬海戦で,空母「瑞鶴」,戦艦「武蔵」「山城」「扶桑」など,巡洋艦,駆逐艦多数を失い,連合艦隊は事実上壊滅。当時,有力な囮は,戦艦大和,長門のみ。 

呉周辺は、戦前から日本最大級の軍港、泊地だった。日本海軍は,米軍の偵察と空襲が激しくなるのを予想して、艦艇を呉軍港から離した。これが、「佐世保待機の囮作戦」の真相であろう。 

1945年3月29日0330:山口県の三田尻に向け第二艦隊出航。これは米艦載機の空襲を避ける行動のようだ。同じ29日、沖縄本島へ艦載機約350機来襲。飛行場を主要目標とした艦砲射撃。九州に艦載機600機来襲。 

6.大元帥昭和天皇に、海軍軍令部総長及川古志郎大将が,航空機の特攻による沖縄方面の反撃について説明した際、大元帥から「海軍にもう艦艇はないのか」とのご下問があった。輔弼者の総長は、天皇の意向に応えるために,戦艦大和を中心とする第二艦隊に沖縄突入(天一海上特攻)が発令された。


写真(右):1944年12月8日(開戦記念日)新聞「大元帥陛下 精強御統帥−畏し 御繁忙の御日常」
:軍令部総長,連合艦隊司令長官も臣下としてその統帥権の下に直属させた日本陸海軍の最高司令官。海軍の制服を着用。
 写真引用先小学生のときに作った終戦前後2年間の新聞切り抜き帳には「12月8日は開戦記念日です。12月8日のみならず、毎月8の日は「大詔奉戴日」(たいしょうほうたいび)と云って、天皇より開戦の詔書を頂いた有り難い日、ということで学校では校長先生より長々しいハシを聞くようになっていました。然し、12月8日は特別の日なので新聞の一面には、このような天皇陛下の立派な写真が掲載されるのが通例でした。この陛下が載った新聞の取り扱いが問題で、破いたり、鼻をかんだり、モノを乗せたり、そんな事をしたら大変な事になります。もしかしたらそれで死刑!!!になった大人もいたかも知れません---そんな話がジョークとは受け取られない程に子供ながらも結構 窮屈な時代でしたね。」とある。
 大元帥のご威光・ご意向を踏まえれば,「海軍にはもう艦がないのか?海上部隊はもうないのか?」と軍令部長にご下問が下れば,大和を出撃させるのは当然である。天皇の権威は至高のものと誰もが認識していた。

大元帥昭和天皇は、軍令部総長,連合艦隊司令長官も臣下としてその統帥権の下に直属させている日本陸海軍の最高司令官である。米国では陸海軍最高司令官は大統領だが,陸海軍にも各々最高司令官がいた。しかし,日本には、統帥権から、陸軍最高司令官と海軍最高司令官というラインを担う人物は大元帥ただ一人である。陸軍では最高スタッフの参謀総長が,海軍では最高スタッフの軍令部総長が天皇以外の人物のつくことの出来る最高位軍職である。(写真は「海軍大将77人」引用)

【加瀬俊一氏談】(NHKスペシャル「御前会議」引用)
「御前会議っていうものは、大本営政府連絡会議が決定したものを、それでは御前会議で正式の国策にいたしましょうということになると、何月何日御前会議を開きたいという。そして陛下のお許しを得て開く。
その連絡会議の決定というものは、その直前ぐらいに宮中に回るんですね。連絡会議の決定だけでは、それだけの権威は持っていないわけですね。政府と軍部の関係大臣が集まって、一つの決定をしたという。やっぱり陛下が親臨された場でね、可決されれば、これはもう不動の国策になったという形ですね。」(引用終わり)

第二艦隊が三田尻に出航した1945年3月29日,軍令部総長及川古志郎大将は,参内して南西諸島方面における戦局を奏上した。その際、大元帥昭和天皇から「天一号作戦は、帝国安危の決することであり、挙軍奮闘もって目標達成に遺憾なきように」とあり,及川大将は「航空機による特攻攻撃を出来る限り激しくやります」と答えが,大元帥は「海軍にはもう艦がないのか?海上部隊はもうないのか?」とご下問された。 

軍令部総長及川古志郎大将は,恐縮して辞したが,大元帥の意向を察して、海軍艦艇による作戦を再考すべく,連合艦隊司令長官豊田副武大将に艦隊の活用を考えるように伝えた。

本土決戦を前に、戦艦「大和」の海上特攻には、軍令部次長 小沢治三郎中将,大前敏一参謀も反対しなかった。軍人は、赤心をもって、大元帥天皇に忠誠を尽くすのみ。

1945年3月29日、軍令部総長及川古志郎大将は,参内して天号作戦に関する航空特攻を奏上した際、大元帥昭和天皇から「海軍にはもう艦がないのか?海上部隊はもうないのか?」とご下問された。及川大将はその次第を、連合艦隊司令長官豊田副武大将に伝えたが、豊田長官は同日1922 GF電「畏れ多き言葉を拝し、恐縮に堪えず。臣副武以下全将兵殊死奮戦、誓って聖慮を安じ奉り、あくまで天一号作戦を完遂を期すべし」という緊急電文を天一号作戦部隊に発した。

 日本陸海軍の統帥権を握る最高司令官大元帥昭和天皇のお言葉は,掣肘されることのない至高の命令である。天皇の臣下(判任官以上)は,海上特攻を指示されたも同然の大元帥のお言葉、御下問に接して,それを実施する具体的計画を急遽策定した。
 天一海上特攻の作戦計画は、準備不足なまま、急遽立案されたようだ。

1945年2月から,沖縄,九州を米空母任務部隊の艦載機に断続的に空襲され,3月24日以降、沖縄は米軍による艦砲射撃を続けて受けている。それなのに,3月29日になって,大元帥の一言をもって,急遽,戦艦「大和」以下の第二艦隊の新たな利用方法を検討し始めた。---としたら、軍令部や連合艦隊の存在意義は何なのか。 

及川軍令部総長と天皇のやり取りから,「特攻のさきがけ論」の疑問を解明した論文に,藤中正義(1991)「特攻作戦の人間学:戦艦大和の場合」『岡山大学文学部紀要』16,pp.218-234.がある。
「(及川総長,豊田長官たちは)天皇という究極的権威への親近性による優越意識と,そうした権威の精神的重みをひしひしと感じている“小心な臣下”にすぎない。専門軍人の立場から最良と信じる戦略を「陛下に堂々と披瀝する習性」など,期待するのが無理なのだ。だから天皇の“御下問”は彼らにとっては単なる質問ではありえない。“御下問”に含まれるすべての潜在的意味を吟味し,“御下問”の真意を把握し,適切な対応をしなければならない。」

及川軍令部総長と海軍首脳部は『海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?』という(大元帥昭和天皇の)“御下問”を深読みし,「あるなら使ってはどうか?」という〈間接的・暗示的な命令〉を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。
天皇に対しても,特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は「あるのになぜ使わないのか!」という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。」
「海軍首脳部の職業的優越意識は,天皇という究極的権威への接近によって成立している。」(引用終わり) 

藤中正義(1991)「特攻作戦の人間学:戦艦大和の場合」の海上特攻の分析は卓見である。内閣ではなく,大元帥昭和天皇に直属する軍令部や連合艦隊の存在意義は,天皇を輔弼することである。大元帥による「海軍にはもう艦がないのか?海上部隊はもうないのか?」とご下問一言で及川軍令部総長,豊田連合艦隊指令長官が大和の海上特攻を決意する。これは、臣下として当然である。

大和に死に場所を与え,「一憶総特攻のさきがけ」となるように、海軍軍令部・連合艦隊が出撃を命令し、第二艦隊も,戦艦大和特攻,撃沈(自爆)自体が出撃の目的である、といわれると,海上特攻の命令を乗員ともども承服するしかない。この大和の沖縄出撃「特攻さきがけ」説は、大元帥昭和天皇統帥を黙殺している。

出撃に際して、命令の意図や効果が、部下に十分に説明されることはまれである。部下が、命令の意味を吟味して、命令を実行するかどうか議論することもまれである。軍人は、命令の適否を論じることなく、赤心をもって、大元帥天皇に忠誠を尽くすのみ。出撃命令に、元来、理由は不要である。とってつけた「特攻さきがけ説」がなければ、海上特攻の命令を現地指揮官の伊藤中将が拒んだというつもりなのであろうか。 命令に従うように説得したとの話が事実であれば、軍紀紊乱の証拠となる。

写真(右):大和海上特攻時の軍令部総長・及川古志郎海軍大将人名事典「おいかわ,こしろう」(1883(明治16)年2月8日-1958年5月9日)によれば、1939年11月15日海軍大将、軍令部出仕、1940年5月1日横須賀鎮守府司令官、1940年9月5日〜1941年10月18日海軍大臣(近衞文麿内閣)、1942年10月10日軍事参議官兼海軍大学校校長、1943年11月15日海上護衛総隊司令長官(初代)、1944年8月2日軍令部総長、1945年5月29日軍事参議官。

軍令部総長
永野修身大将 1941/4/9
嶋田繁太郎大将 1944/2/21 海軍大臣兼任
及川古志郎大将 1944/8/2
豊田副武大将 1945/5/29 

軍令部次長
伊藤整一少将 1941/9/1
塚原二四三中将 1944/3/1 兼任
小沢冶三郎中将 1945/11/18
大西滝治郎中将 1945/5/19
高柳儀八中将 1945/8/20

連合艦隊司令長官
山本五十六大将 1941/8/11
古賀峯一大将 1943/4/21
豊田副武大将 1944/5/03
小沢治三郎中将 1945/5/29

海軍大臣
及川古志郎大将 1940/9/05
嶋田繁太郎大将 1941/10/18
野村直邦大将 1944/7/17
米内光政大将 1944/7/22

1945年8月15日に昭和天皇のポツダム宣言受諾の聖断が下された。その降伏軍使として,マニラに飛んだのは,陸軍参謀本部河辺を長とする使節団で,9月3日の戦艦「ミズーリ」での日本降伏調印式に,敗戦の責任を取って出席したのは,陸軍参謀総長梅津であり,陸軍大臣阿南大将,元参謀総長杉山元元帥は自決していた。しかし,忠勇な敗戦責任を取った陸軍高官と比較して,名誉あるはすの日本海軍高官は,降伏後に無責任とも思える行動をとる。降伏軍使や降伏調印式に出席した海軍高官は,一人もいない。軍令部総長、海軍大臣など降伏調印式に出席した海軍最高司令部のスタッフはいない。東京裁判でも戦争責任を問われることは無く、軍事裁判で処断された海軍高官は,一人もいない。

海軍大臣米内光政大将極東軍事裁判に被告ではなく,堂々と証人として東京裁判に出廷した。
元海軍大臣及川古志郎大将,軍令部総長豊田副武大将,連合艦隊司令長官小沢治三郎,海軍航空特攻の推進者軍令部の源田実大佐など,海軍の特攻作戦推進者たちは,戦後復興のためか,敗戦後も生き残る。自決したり,処刑されたりした軍高官とは全く異なる。戦争の全責任を引き受け、大元帥天皇に命懸けで謝罪するのが真の帝国軍人である。

7.1944年から,日本陸海軍上層部は,特攻奇襲兵器を開発・生産し,特攻隊を編成していた。1945年1月の最高戦争会議では、沖縄戦を前にして,主要反撃手段は,特攻であり,全軍特攻化の方針が決定された。日本の軍人は、戦争の全責任を引き受け、大元帥天皇に忠義を尽くすことを決めた。

 
1943年5月アリューシャン列島アッツ島玉砕以来,日本軍は守備隊全滅の大敗北が続く。全て「玉砕」として,勇猛果敢な忠臣が,降伏することなく戦い抜いたと賞賛された。マリアナ沖海戦の大敗北、それに続く1944年7月サイパン島の陥落によって、B29による日本本土無差別爆撃が開始される。本土決戦に直面して,玉砕の延長上に、特殊奇襲兵器と特攻作戦が、正式に採用される。特攻は軍上層部が率先して計画,実施した。特攻兵器の開発・生産,特攻隊の編成も着実に進めていた。 

1944年12月の海軍特殊任用令により、特攻攻撃により偉勲をたて、全軍布告の対象となったものについて、特に下士官については少尉に、兵は准士官に特別任用することとなった。特攻隊員に名誉を与え、その家族には軍人恩給などを(死後昇進で)増額して、後の煩いをなくすためである。

1945年1月、最高戦争会議は、沖縄戦を前に,全軍特攻化の方針を決定した。全軍人は、戦争の全責任を引き受け、大元帥天皇に忠義を尽し、国体を護持するために、命懸けで特攻することになった。 

1945年5月1日,軍令部総長及川古志郎大将は, 大海令第三十六号を奉勅命令として,連合艦隊司令長官と各方面の司令官に伝えた。これは,連合艦隊司令長官が作戦にニ関し,支那方面艦隊、海上護衛総司令部部隊、各鎮守府部隊、各警備府部隊を指揮すべしとした,作戦の一括士気の命令である。そして,大海令第三十九号(1945年4月25日)で連合艦隊司令長官(豊田大将)の任務を継承する「海軍総司令長官」に再び豊田大将を任じた。

及川海軍大将は、軍令部総長として降伏調印式に出席すべきであるが、遁辞し続け逃げた。戦争犯罪者を裁く東京裁判でも、戦争責任を問われなかった。

8.沖縄戦直前,日本海軍最強の第二艦隊では,主要艦艇を軍港に繋留して浮砲台とし、兵器・弾薬・人員は陸揚げして陸上の防衛に充当するという「艦隊解散論」が議論されていた。これは,本土決戦を意識しているが,艦隊出撃を取りやめて,兵器,燃料,人員を温存するは生き残り策といえる。


写真(右):日本の戦艦「長門」
基準排水量 35,000トン, 兵装 8門 x 40センチ(16インチ)砲, 12門 x 12.7センチ高角砲。最高速力21ノット。三浦半島横須賀近くに係留され,相模湾などを防衛するつもりでいた。空から発見されるのを防ぐために,マストを切断し,艦上に樹木を載せたりして偽装した。米戦艦「メリーランド」BB-46 USS MARYLANDなど「ウェストバージニア」級の対抗艦。


1945年4月3日1500、第二艦隊の第二水雷戦隊(護衛の駆逐艦部隊)司令官古村啓蔵少将は,軽巡洋艦「矢矧」に各駆逐艦長らを集め、第二艦隊の有効活用法について討論したが、第二艦隊は、航空兵力の援護ない現状では,出撃しても効果はないと判断。

古村啓蔵少将は,第二艦隊司令部参謀長森下信衛少将、先任参謀山本祐二大佐に「戦艦大和と二水戦は軍港に繋留して浮砲台とし、兵器・弾薬・人員は陸揚げして陸上の防衛にまわし、本土決戦にそなえるべきだ。第二艦隊は解散もやむをえない」と告げた。参謀から話を聞いた第二艦隊司令長官伊藤整一中将も第二艦隊の解散に賛成。


写真(右):偽装を施した戦艦「長門」
:燃料不足,速力不足,威力不足の戦艦だったため横須賀の「長門」は海上特攻には出されなかった。横須賀に係留されているだけで,乗員も次々と退艦し,特別陸戦隊に転勤した。相模湾などを防衛するつもりでいたから,1945年4月には弾着観測所も大磯に作られた。空から発見されるのを防ぐために,マストを切断し,艦上に樹木を載せ偽装した。1945年7月18日,爆撃により,艦長以下35名が死亡。戦後,ビキニ環礁水爆実験で撃沈。

戦艦の主砲を用いて砲台としても、上空から発見されれば、爆弾を避けることもできないまま空爆で破壊されてしまう。

大和が浮砲台あるいは海岸固定の砲台になっても、主砲の射程範囲の敵艦船や陸上部隊を砲撃する戦闘は起こりえない。古くからある海岸砲台・要塞と敵艦船との砲撃戦も起こったことが無い。これは、船団や上陸舞台が、接岸するのは、空爆によって砲台が沈黙させられてしまうからである。

欧州戦線でも、1944年6月6日の連合軍ノルマンディー上陸で、防備に当たったドイツ軍砲台は、事前に空襲を受け、活躍できなかった。


写真(右)ドイツ海軍の戦艦「ティルピッツ」
ノルウェーのフィヨルドに係留されているところを1944年英軍の偵察機が上空からの撮影。砲塔上面に対空機銃が増加装備されている。周囲には、防雷網が張られている。

ドイツ戦艦「ティルピッツ」は、特殊潜航艇や航空攻撃で大きな損傷を受け、燃料も不足していた。そこで、ノルウェー海岸に固定する砲台として活用しようとした。

1944年4月3日、タングステン作戦として、英海軍空母6隻は、艦載機約120機でノルウェーのフィヨルドで対空砲と防雷網に守られた独戦艦「ティルピッツ」を空襲し大きな損傷を与えた。その後、4月24日、4月15日、5月28日、7月17日、8月22日、8月24日、8月29日と8回のも攻撃を「ティルピッツ」に仕掛けている。そして、9月22日、英海軍特殊潜航艇(X艇)が「ティルピッツ」の船体下に爆雷を仕掛け、大破させ,11月12日、英空軍「ランカスター」重爆撃機の投下した大型爆弾によって「ティルピッツ」は撃沈された。

戦艦「ティルピッツ」は損傷していたが、大型戦艦が脅威であると感じた英軍によって、執拗に攻撃された。しかし、これは、ドイツから見れば貴重な連合国の空母と艦載機を「ティルピック」ひきつけ、牽制したことになる。ドイツ本土空襲に投入すべき爆撃機を吸収した囮が,独戦艦「ティルピッツ」である。

 
写真(左):1944年戦艦「ティルピッツ」
;カェーフィヨルドで停泊する。このような狭隘な海面で、周囲が絶壁に囲まれていれば、低空で航空攻撃をかけるのは地形的に難しいであろう。 

1隻の戦艦でも、北米大陸・英国からソ連への物資補給戦上にあれば、船団にとって戦艦の存在は大いに脅威である。戦艦「ティルピッツ」は,補給船団の航路上に停泊しているだけで、「現存艦隊」として、威力を発揮できた。 

しかし、戦艦大和が、呉や佐世保にあっても、米軍の海上補給路、進撃路には当たらず、なんら脅威ではない。したがって、戦艦、巡洋艦などを日本が内海で砲台としても、米軍にとっては、積極的攻撃を仕掛けるには及ばない。当時、連合艦隊(元旗艦)戦艦「長門」は、40センチ砲8門を配備した日本海軍の生き残りであり、戦艦砲台として三浦半島横須賀で活用する準備をしていた。しかし,対空砲、機銃を陸揚げし、防備を固めるとともに、相模湾に上陸すると予想された米軍を艦砲射撃しようとした。しかし、米軍上陸の際には、事前に戦艦砲台を攻撃し,主砲の威力が発揮できる機会はなかったであろう。第一、主砲を動かすには重油ボイラーを焚いて蒸気を蒸気を供給しなくてはらないが、そのような燃料はもはや残っていなかった。空から発見されるのを防ぐために,マストを切断,艦上に樹木を載せて偽装した。しかし、1945年7月18日1530,戦艦長門は,米軍艦載機に発見,攻撃され,爆弾が命中。艦長,副長を含め,35名が戦死した。(阿川弘之(1975)『戦艦長門の生涯』下巻pp.313-326参照。) 

9.大元帥昭和天皇のご意向だけでなく,連合艦隊司令長官豊田副武大将,首席参謀神徳重大佐のように,艦隊殴り込みを過去にも計画,実施し,沖縄突入成功の採算が,僅かでもあれば,戦艦大和に出撃させるべきだといういう意見が根強くあった。勇ましい海上特攻の主張に対して、司令官たちは,反対の意志を表明できず,消極的賛成にまわった。これは,戦術専門家の責任を放棄しているようでもある。

1945年4月4日:鹿児島県鹿屋基地にある第五航空艦隊司令部に航空作戦指導のため,連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将、作戦甲参謀の三上作夫中佐、航空甲参謀淵田美津夫大佐が滞在。
 三上中佐が連絡のため、連合艦隊先任参謀神重徳大佐に電話をかけた際、連合艦隊先任参謀神重徳大佐は「軍令部総長及川大将が米軍沖縄攻略部隊に対して航空総攻撃を行うことを奉上した際、陛下から航空部隊だけの総攻撃かとご下問があったから,第二艦隊の沖縄突入が計画されることになろう」と伝えた。

1942年ミッドウェー攻略作戦も,1942年4月18日にドーリットルDoolittle中佐指揮のB25爆撃機による日本本土空襲,帝都空襲が契機になって実施された。当時の連合艦隊司令長官山本五十六大将(死後元帥)は,陛下に申し訳ないとして,空母艦載機による日本本土空襲の前哨警戒基地となるミッドウェー島攻略を急遽決めた。軍令部,連合艦隊が,大元帥昭和天皇に忠誠を尽くすため,海上特攻を命令したのは、当然である。戦争遂行目的は、国体護持だった。
大元帥の聖断に、敗戦と戦争犯罪者を処罰・処刑した東京裁判では、国体を護持に成功した。しかし、それに戦艦大和の海上特攻が寄与したわけではないようだ。

写真(左):神重徳海軍少将;1932年海軍大学校を主席で卒業。天皇陛下より恩賜の長剣を拝受し、御前講演の栄誉に浴した。1935年大使館付武官としてドイツ駐在(2年間)後、海軍省に入り海軍中佐に進級、各種作戦に従軍して1939年軍司令部大本営参謀。三国協定の功により、イタリア及びドイツ政府等から勲章を贈られ、1940年には、金鵄勲章功四級並びに勲三等旭日中綬章を授与。1941年従五位海軍大佐に任命後、各種参謀を歴任し1944年7月連合艦隊首席参謀,1945年6月20日に霞ヶ浦第十航空艦隊参謀長。9月15日,終戦処理のさなか三沢沖で飛行機事故により殉職(45歳)。海軍少将。

連合艦隊首席参謀神重徳大佐は,海兵48期出身で卒業成績172人中1番)海軍大学甲種(31期)優等卒。1939年軍令部第一部第一課勤務、1940年11月15日軍令部作戦班長となった。1942年7月14日に第八艦隊首席参謀となり,第一次ソロモン海戦を殴り込みで成功している。1944年10月の捷一号作戦と同様,沖縄戦でも艦隊殴りこみ作戦を主張する。

連合艦隊首席参謀神重徳大佐は,1945年4月5日、連合艦隊司令部作戦会議にて「日本海軍は今、練習中の搭乗員や練習機を特攻攻撃に使用しているのに、何故大和だけが特攻に参加しないのか。成功の可能性はわずかしかないが、我々は沖縄に出撃し、連合艦隊の最後の死所を得なければならない。断じて行えば鬼神もこれを退く。天佑は我にあり」と熱弁した。

マリアナ海戦の後,旧式の低速戦艦部隊をサイパン島に突入させ艦砲射撃する案(却下)、捷一号作戦のレイテ湾の栗田・西村・志摩艦隊の突入など,神重徳大佐は“神さん神がかり”と揶揄されるような無謀な作戦を立てた。
(⇒大和特攻について・経緯編から引用)

連合艦隊首席参謀神重徳大佐だけを海上特攻の責任者に仕立てることは,正当ではない。軍令部総長,次長,その他の部員,連合艦隊司令長官,参謀長,参謀,その部員たちの中には、海上特攻に反対したり,取りやめるように進言したものは皆無だった。海上特攻が無謀なことは分かっていたのであれば,知能,能力,権限を持った提督,司令官、参謀が,海上特攻に反対すべきであったが、それをしないのは,責任回避か、命令への服従かのどちらかである。

写真(右):1944年レイテ突入作戦時の戦艦「大和」; 主砲塔がばらばらに別の位置に向いているが、これは艦橋にある主砲射撃盤で統一運用されているのではなく、各砲塔が別個に目標を探して射撃していることを意味する。砲塔側の観測器具の個別射撃では、満足な射撃は不可能で,命中率は最低である。米駆逐艦・護衛特設空母を「大和」が撃沈したともいうが、実際の命中弾は別の艦艇(戦艦金剛など)によると思われる。レイテ湾突入作戦も,沖縄への天一号海上特攻と同じく、連合艦隊先任参謀神重徳大佐が考案した。

しかし,連合艦隊司令部では,沖縄戦には第二艦隊,大和を使用しないと考えていたから,作戦乙参謀千早正隆中佐は,補給参謀関政一中佐に使用できる燃料を尋ねた。残量は3000トンで,第二艦隊の沖縄突入作戦の燃料には不足した。

しかし,関政一中佐は会議後、呉に出張している小林儀作中佐に,徳山燃料廠にある燃料の分量を調べるように依頼し,帳簿外の燃料が1万3000トン残っていることが判明した。徳山燃料廠に、帳簿外の燃料があることを知った連合艦隊首席参謀神重徳大佐は、連合艦隊参謀長草鹿中将、第二艦隊伊藤中将に相談せずに、連合艦隊司令長官豊田大将から海上特攻作戦の承認を得てしまう。
(⇒大和特攻について・経緯編引用) 

連合艦隊は、第二艦隊が燃料不足で,沖縄に出撃できないことを警戒していたが,燃料廠に帳簿外の燃料があることを調べ,それをもとに、沖縄攻撃が可能であると判断した。片道燃料で沖縄に向かうはずの「大和」以下の第二艦隊の心意気に感動した燃料廠関係者が、密かに往復分の燃料を供給し「生きて帰って来い」と激励したという。
個人的感情からそのように行動した男気ある燃料廠関係者はすばらしい。しかし,連合艦隊は、帳簿外の燃料補給を前提にして,大和海上特攻を計画した。第二艦隊は燃料不足を理由に出撃不可能を申し出ることはできないし、燃料廠関係者の抱く個人的感情を考慮する余裕も必要も軍上層部にはない。 

連合艦隊司令長官豊田副武大将は,戦後、「私は、成功率は50%はないだろう、成功の算、絶無だとは考えないが上手くいったら奇跡だと判断した。けれども、急迫した戦局に置いてまだ働けるものを残しておき、現地の将兵を見殺しにすることは、どうしても忍び得ない。多少でも成功の算があれば、できることは何でもしなければならぬという気持ちで決断した。」と弁明している。


豊田長官は,敗戦時、軍令部総長として降伏調印式に出席すべきであるが、遁辞し続け逃げた。つづく戦争犯罪者を裁く東京裁判でも、海軍高官は一人も戦争責任を問われることは無かった。(永野修身提督は病死)

連合艦隊が、大和の沖縄突入成功の確率を50%近くあると考えていたのであれば、戦艦大和の沖縄突入作戦の企図は,帝国海軍の有終の美を飾る「一億総特攻のさきがけ」ではない。「海上特攻」の目的は、航空特攻のための囮作戦であり、突入できれば、沖縄海上にある米輸送船団(運良くば米任務部隊)の砲撃・撃滅である。

神重徳大佐は、次に軍令部第一部長の富岡定俊少将に会い、第二艦隊の沖縄突入を承認させにきたが、「もとより海軍は、沖縄を最終決戦にして、注ぎ込めるものは、一兵もあまさず注ぎこむ。だが、貴官の案には断じて不同意である。大和を九州南方海面に陽動させて敵機動部隊をつり上げ、それを基地航空隊で叩くなら賛成だが・・・」富岡少将に拒絶され説得するのを諦めた神大佐は、次に軍令部次長の小沢治三郎中将の説得に向かった。 

軍令部次長小沢治三郎中将に連合艦隊参謀の神大佐が海上特攻作戦について話したところ、「それは成算の乏しい自殺的作戦になるのではないか。やめたほうが良いと思う。」と述べたが、神大佐は「燃料は片道分で結構です。最後は沖縄にのし上げ砲撃し、弾丸がつきたら斬り込みます」と述べた。すると小沢中将は「GF長官(連合艦隊司令長官)がそうされたいと決意されたのなら、いいでしょう」と承諾した。軍令部次長小沢中将と同室していた軍令部総長及川大将は、終始無言で通し、黙認したという。

小沢中将は戦後、「多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任があり」と語っている。
(⇒大和特攻について・経緯編引用) 

戦後,淵田大佐は「神参謀が発案し、直接長官に進言して決裁を得たものである。連合艦隊参謀長も不同意であったし、第五航空艦隊も非常に迷惑がっていた」と述べている。

写真(右):1945年3-4月,戦艦「大和」艦上の第二艦隊司令部;艦長有賀大佐以下司令部要員の記念写真。 この撮影時には、「大和」海上特攻が命じられるとは誰も思っていなかったであろう。

軍令部作戦課部員土肥一夫中佐は戦後「海上特攻作戦は、作戦の担当者としてこんなに辛いことはなかった。命令する立場として『お前死んでこい』と平然と申しわたすにはよほどの修養を積む必要があった。ところが、作戦課の周囲にいる人たち、みずから特攻に行くわけでもなく、また特攻を命令する立場でない人たちが、さかんに『一億総特攻』と言い始めた。これが印象に残っている」と述べている。これもまぎれもない事実であり、忘れてはならない。
(⇒大和特攻について・経緯編引用) 

本来、軍隊とは命令で動く階層的組織であり,軍令部総長、連合艦隊司令長官から沖縄突入を命じられた第二艦隊司令部は、納得するか否かにかかわらず、海上特攻するしかない。特攻の命令には従うしかない。しかし、連合艦隊参謀長が、艦隊司令長官の所に飛来し、説得して海上特攻してもらったとの説が流布している。これが本当であれば、敗北続きの戦局で海軍の軍紀が紊乱していたことになる。

10.1945年4月5日,連合艦隊司令長官は,GF電令作第六○七号によって,戦艦大和以下の第二艦隊第一遊撃部隊に,沖縄突入を命じた。天一号海上特攻の目的は,敵水上艦艇と輸送船団を撃滅することである。

1945年4月5日1359:連合艦隊は戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊に連合艦隊司令長官(GF)電令作第六○三号を発令。天号作戦として海上特攻作戦を命令。その内容は次の通り。
第一遊撃部隊「大和、信濃、第二水雷隊」(戦艦「大和」、軽巡洋艦1隻、艦隊型駆逐艦8隻)は海上特攻として8日藜明沖縄島に突入を目途とし急速出撃を準備すべし

第二艦隊(二F):戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8隻からなる沖縄突入部隊
第三十一戦隊(三一S):低速護衛駆逐艦3隻からなる対空対潜掃蕩隊

1945年4月5日1500:連合艦隊司令長官(GF)電令作第607号発令
1,帝国海軍部隊および第6航空軍は6日以降全力をあげて沖縄周辺敵艦船を攻撃せんとす。
2,陸軍第8飛行師団は協力攻撃を実施、第32軍は7日より総攻撃を開始し、敵上陸部隊の掃滅を企図す。
3,海上特攻隊は7日黎明時豊後水道出撃、8日黎明時沖縄西方海面に突入、敵水上艦艇ならびに輸送船団を攻撃撃滅すべし。

GF電令作607号は,海上特攻を実施する旨の関係海軍部隊、陸軍沖縄部隊、並びに航空部隊に対し作戦目的、出撃時期などを知らせた命令である。

沖縄守備隊第32軍指令部返電:ご厚志は感謝するが、時期尚早と考察するので、海上特攻の出撃は取止められたし


写真(左):戦艦「大和」を護衛し出撃した駆逐艦「雪風」
:上図は戦争初期,下図は戦争末期の装備で,大改装されている。レーダーなど艦橋の拡充と2番砲塔を撤去し25mm対空機銃に変換した。陽炎型八番艦として佐世保工廠で1938年8月に起工、1940年1月20日竣工。排水量2000トン、全長119メートル、幅11メートル。機関出力5万2000馬力、最高速力35ノット、航続距離18ノットで5000マイル。武装12.7cm連装砲3基、25mm連装機銃2基、61cm魚雷四連装発射管2基。1945年4月の天号「海上特攻作戦」では帰還し、終戦まで沈没せず。戦後は中華民国に引き渡された。

 二F側の軍議では参集した駆逐艦長全員が反対意見を述べたようだ。航空支援の無い裸の艦隊が、数百機以上の敵艦載機と交戦しつつ沖縄まで行ける可能性はない。しかし,草鹿参謀長は,伊藤整一長官に対し、「一億総特攻のさきがけ」になってもらいたいと説得したという。鳥飼研究室では,天一号作戦は「一憶総特攻のさきがけ」であるという説には,賛同できないが,その理由を述べる。

11.戦艦「大和」を中心とする海上特攻は,海軍最大の軍艦に死に場所を与え「一憶総特攻のさきがけ」として実施されたとの説,帝国海軍の「有終の美を飾る」の美意識がなせる作戦というのは、次の例証から誤りと考える。
\鏨和舅造老概,任△蝓い修梁減澆蝋駝韻砲眛本軍将兵にも知られていない,
一憶総特攻のさきがけにふさわしい日本の軍事的,政治的指導者は特攻していない(特攻は兵器ではなく人がする),
戦艦大和撃沈後,第一遊撃部隊の残存艦艇は退却・生還しており自爆特攻にはなっていない,
は合艦隊が第二艦隊残存艦に沖縄突入中止を命じている(特攻の生き残りを認めた)
ダ鏨和舅造鮓遽劼靴討い紳萋鷽緲訐鐶盪蔑甦姥殿七実⊂将、軽巡洋艦「矢矧」艦長原為一大佐は、乗艦が撃沈されても生還している、
Α崑舅臓彡惜弩紂1945年4月8日1700大本営発表では、我航空部隊・水上部隊が沖縄本島周辺の敵艦船・機動部隊を攻撃し、特設空母2隻、戦艦1隻、艦種不詳6隻、逐艦1隻、輸送船5隻を撃沈と過大に公表しているが、「我方の損害 沈没戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻」と(正確に)告げた「右攻撃に参加せる航空部隊ならびに水上部隊はいずれも特別攻撃隊」発表したが、戦艦「大和」の名前は無かった。
以上のことから、戦艦「大和」の海上特攻は、「一億総特攻のさきがけ」として実施された自爆作戦ではない。


戦争末期の新聞掲載写真(左):「敵艦艇に突入する『海の特攻』水雷戦隊」:1945年4月6日の駆逐艦8隻を含む第二艦隊の海上特攻を暗示させる(正確な掲載日時は不詳)。戦艦でなく,護衛した水雷戦隊が公開されている。戦艦「大和」の存在は秘密であり,国民には公表できなかったからであろう。新聞切り抜き帳(14)引用。

当時から新聞記事を切り抜いて保管していた戦争体験者斎藤彰氏のwebに「この場合の特攻作戦とは、撃沈される事を覚悟で近寄って魚雷を発射する方法を取ったということだろうと思います。それにしても、艦船の写真がこの時期新聞に載るのは珍しい事でした。」(終戦前後2年間の新聞切り抜き帳「戦争写真-4」引用)とある。

これは,戦艦大和,軽巡洋艦1,駆逐艦8隻の第二艦隊による海上特攻の指摘であろう。戦艦大和ばかりが注目されてしまうが,当時国民にとって存在の明かされていなかった「大和」ではなく,水雷戦隊による海の特攻が新聞記事として公開されていたのには驚かされる。

新聞切り抜き帳(14)で斉藤氏は,「終戦から一ヶ月あまりたった9月29日の新聞を見て、日本は「大和」という巨艦を持っていた事を知りました。驚きました。戦艦と云ったら「陸奥」「長門」、これが馴染みでした。航空母艦は「赤城」「加賀」、これでオワリです。いずれも子供の目から見ても随分と古臭い形の軍艦でした。それが実際はそうではなく、秘密になっていた「大和」「武蔵」とか凄いのがいた---それが驚きでした。然し、そんなに凄いのがいても勝てなかったのは何故か、いろいろ考えても分かりませんでした。大艦巨砲主義に誤りがあったのだ、と、それが分かったのはかなり後のことだったような気がしますが。」と述べている。

戦後1945年9月29日新聞掲載(右):「わが戦艦大和の最期」;戦時中,戦艦「大和」の存在は秘密であり,国民には公表できなかったが,戦後1ヶ月以上たって,戦艦大和の存在が新聞紙上で公表された。それまで,戦艦大和は無名であった。新聞切り抜き帳引用。

戦後1945年9月29日新聞紙上で公開された大和の沖縄突入では,総特攻のさきがけとしてではなく,「沖縄救援の途上」「米機の巨(大爆)弾」を受けて「海上砲台の猛威を果たさず」撃沈された,としている。「沖縄へ最期の逆襲」をする無謀な敵泊地,上陸地点への突入は失敗し,「この世の終わりかと」悲惨な末路を記事にしている。 

◆戦時中,大和は軍事機密であり,国民はもちろん,日本軍将兵の大多数はその存在を知らされていなかった。したがって,名誉を尊ぶ日本海軍にあっても,無名の軍艦「大和」が一億総特攻のさきがけとして海上特攻すべきであるという議論は説得力を持たない。総特攻のさきがけとなるのであれば,日本の政治的,軍事的指導者が知名度と責任の点でふさわしい。

「一憶総特攻のさきがけ」になるのであれば,連合艦隊司令長官,海軍大臣,軍令部総長,連合艦隊参謀など最高位の海軍高級軍人か、海軍に籍を置く最高級の宮様が進んで、特攻,それも水上自爆艇「震洋」に自ら乗り込んで特攻,体当たり攻撃を仕掛けるべきである。そうなれば、日本軍の下級兵卒も国民も感服したであろう。
 大和という無名艦よりも,戦争指導者の特攻のほうがインパクトが大きい。特攻して体当たりに失敗したとしても,「国体を護持しようとした勇者」は軍神として尊敬され,天皇を守る御楯としての大儀名分も成り立つ。

戦後になって、戦艦「大和」という誇りを持って語ることのできる軍艦が有名になった。そこで,「優れた技術の大和を無謀な作戦で撃沈された」のでは,日本海軍の名誉が保てないと考えた人々が、「一億国民総特攻のさきがけ」として、桜のように散った大和の悲劇の叙事詩・伝説を信奉、流布したようだ。

◆現在、書籍、映画、アニメ、ミュージアムと、大和は大人気だ。戦略、戦術の視点から無謀な海上特攻を考察しても,評価できる優れた点はあまりない。それより「男の美学」で、大和を讃えるほうが、気分がよい,愛国心も育つ。これが,大和の海上特攻が「一億国民総特攻のさきがけ」説が流布した理由であろう。 

写真(左):海上特攻の第一遊撃部隊を率いた伊藤整一中将;戦艦「大和」とともに,1945年4月7日に戦死した。死後,大将に昇進。しかし、次席の第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、軽巡洋艦矢矧艦長原為一大佐は、乗艦が沈没してが、生還している。航空特攻とは、航空機というより、特攻隊員が行うものである。航空機で敵艦に必殺の爆撃をこなし生還しても「特攻」ではない。生還が認められる「特攻ののさきがけ」はありえない。

1945年4月6日1000,「特攻出撃5時間前の大和の写真」には,米軍偵察機RB29が高度9300m,徳山沖約30km地点(北緯33.57、東経13.45)撮影,「戦艦『大和』級1、重巡洋艦(実際は軽巡)1、駆逐艦6」とある。

撮影直後に第二艦隊所属の各艦艦長は「大和」に集合。作戦の最終打合せ後,同1520、沖縄に向け出撃。 

1945年4月6日 豊田副武連合艦隊司令長官からの訓示
帝国海軍部隊は陸軍と協力空海陸の全力をあげて沖縄島周辺の敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。 皇国の興廃はまさに此の一挙にあり 
ここに海上特攻隊を編成壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚するとともに、此の光栄を後に伝えんとするに外ならず。 各隊はその特攻隊たると否とを問わず愈々殊死奮戦敵艦隊を随所に殲滅しもって皇国無窮の礎を確立すべし。」(→第7部 戦艦大和の特攻出撃引用)

連合艦隊の指揮下にある全部隊に発せられた訓辞であるが,第一遊撃部隊という海上特攻隊は,それに呼応した神風特攻隊とは異なって,自爆することが目的の突入部隊ではない。作戦企図として、敵艦隊撃滅が強調されている。 

戦艦大和の沖縄出撃後,海軍は残った小型特殊潜水艦,航空部隊を,本土決戦のために(特攻)予備軍として温存している。となれば,第一遊撃部隊や菊水作戦の神風特別攻撃隊の出撃は,本土決戦の準備をする時間かせぎに過ぎないといえる。公式なレベルで「一憶総特攻のさきがけ」になれとの指令はない。連合艦隊司令長官の訓示にもあるように,海上特攻の企図は,敵艦隊・輸送船団の殲滅である。
遊撃部隊(YB)命令作第三号

12.戦艦「大和」を中心とする海上特攻は,片道燃料で沖縄突入をを命じられたが,海軍内部の同情的な士官によって,海上特攻部隊には,往復して余りある燃料が補給された。これは,重油タンクにある帳簿以外のタンクの残りなど,帳簿以外の燃料を供給したためである。命令違反を日本海軍が黙認したこと自体、自爆特攻作戦とはいえない証拠である。「武士の情け」としたら、血の一滴にも等しい重油を、必死に本土に輸送してきた船団や撃沈され、殺された船員と護衛艦乗員をどのように考えたのか。やはり、戦艦大和こそが日本海軍なのか。 

第一遊撃部隊ハ電令作六〇七号ニ基キ 海上特攻隊トシテ友軍航空部隊及沖縄方面所在部隊ト協力シ Y日(四月八日)黎明時 沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅セントス

ここでは、「昼夜戦ヲ問ハズ 全軍結束 急速敵ニ肉迫 必死必殺ノ特攻々撃」として、海上特攻の本旨を明示していた。

しかし、天号作戦の時、沖縄までの片道分の燃料2000トン以下という命令を守ったわけではなく、4000トンの重油を搭載された。戦艦「大和」の満載搭載量 は6300 トンで、戦闘航海を考慮しても、沖縄往復は可能な十分すぎる重油を搭載していた。これは、現場指揮官たちの判断で、重油タンクの底にある帳簿外の重油使用が、海軍中央部に黙認されたためである。


写真(左):1945年3月米軍機の攻撃を受ける戦艦「大和」
:軍艦「大和」の満載搭載量6万6400t。46センチ三連装砲塔3基(9門),副砲15.5センチ三連装砲塔2基(6門), 高角砲 12.7センチ連装12基(24門)を装備していた。

連合艦隊参謀小林儀作大佐の手記によれば、第二艦隊機関参謀松岡茂大佐の了解のもと、呉鎮守府機関参謀今井和夫中佐から、帳簿外の重油を入手したことが、次のように記述されている。
1 各艦に往復燃料を補給する。然し聯合艦隊命令で重油は片道分のみ補給と命令されているので、片道分は帳簿外燃料より補給す。(タンクの底の重油は在庫として報告してない。之等を手押しポンプで集めれば、沢山となる。これが帳簿外重油)
2 補給船には往復燃料を搭載する様に命令する。上司報告(求められた時のみ)には片道分の重油搭載を発令したが、積み過ぎて余分を逆に吸い取らしたが、出撃に間に合わないのでその様にした

依って直ぐ今井参謀と一緒に上司である呉鎮守府先任参謀井上憲一大佐、参謀副長小山敏明大佐、参謀長橋本少将に報告して承認を得る。-----今井参謀は直ちに呉海軍軍需部長に命令を出し、各艦に重油搭載を命ず。

重油搭載は呉及び徳山(駆逐艦の大部)で行われたが、各艦の重油搭載量は次の通り。
旗艦「大和」4000トン、軽巡洋艦「矢矧」1300トン、駆逐艦「雪風」、駆逐艦「磯風」駆逐艦「朝霜」以下満載、合計1万1500トン

写真(左):駆逐艦「磯風」:1945年の海上特攻で、戦艦大和を護衛し出撃。駆逐艦「磯風」は戦死20名で、大破・自沈、負傷者54名。「朝霜」は326名全員が死亡し生存者はいない。 

本作戦に於いて駆逐艦が4隻生還している。駆逐艦は航続距離も短いが、生還している。沖縄への途中までしか進出できなかったとはいえ,佐世保に戻ってきた。片道分の重油では生還困難で、往復燃料を搭載したことの何よりの証拠である。

写真(右):軽巡洋艦「矢矧」;起工1941年11月11日,進水1942年10月25日 竣工1943年12月29日。 

 
軽巡洋艦「矢矧」のデータ
排水量 基準 6652t, 満載 8534t
長さ 垂線間長 162m, 水線長 172m, 全長 174.1m 全幅 15.2m
機関 4軸タービン, 6缶, 100,000shp 燃料 重油 1405t,速力 35ノット
武装 15.2cm/50口径砲 連装3基 6門, 7.6cm/65口径対空砲 連装2基 4門, 25mm 対空機銃 32丁, 61cm魚雷発射管 四連装2基 8門, 航空機 2機,乗員 730名

当時,南方からの石油補給は断たれており,燃料不足の状況にあった。しかし,沖縄本島に上陸後、陸戦用の小銃を準備しており、暗黙の了解で,往復燃料を搭載することを許していることは,決して特攻,自爆だけを考えていたわけでないことの所作である。命令でも,米空母任務部隊と遭遇した場合,空母を攻撃目標に転換できる余地を残している。

現在の視点でみれば,敵の制空権の下を,航空機による護衛もなく沖縄本島や敵空母への主砲射程圏内に到達できない。それでも,連合艦隊や軍令部の司令官,部員たちが,海上特攻を命じているのは、戦艦大和に施した重防御が威力を発揮して,沖縄突入が成功するという期待を,僅かでも抱いていたからであろう。

13.戦艦「大和」は,国民がその存在を知らされていない軍機の軍艦「大和」を出撃させても,国民にインパクトはない。一憶総特攻の先駆けであるならば,海軍大臣,軍令部部員,連合艦隊司令長官・参謀などが,自ら特攻,自爆すれば済む。また、戦艦「大和」以下に片道燃料での沖縄突入を命じたのに,連合艦隊は,第二艦隊が沖縄を往復して余りある燃料を搭載することを黙認したが、その真意は、敵艦隊、敵船団撃滅のために、敵機の攻撃回避のために余分な燃料が必要であることを認めたからではないか。 

 
当時の日本の人口は,大日本帝国憲法の庇護を受けない台湾人・韓国人を除くと,8000万人であるが,大日本帝国では,国民が全員,特攻精神で米英に対決するとして,「一億総特攻」を叫んでいた。そこで,戦艦「大和」の沖縄への出撃は,国民を兵員として総動員し一億総特攻のさきがけとするためであり,巨大な戦艦をそのまま温存しておくのは,一億特攻とは矛盾していると説明された。つまり,一億総特攻の先駆けとなるためには,大和を水上特攻として出撃させ,沈没させるべきであるというのである。

しかし,流布している大和以下の海上特攻=一億総特攻のさきがけ、という天一号作戦の企図に関する戦後の説明は,疑問が多すぎる。当時,戦艦「大和」は極秘(軍機)扱いで,国民も兵士も多くはその存在や威力を知らなかった。日本海軍の将兵は,大和は不沈艦であり,沖縄に突入できるかもしれないと期待していた。 


写真(右):米軍艦上急降下爆撃機SB2C「ヘルダイバー」」
;1945年4月1日,空母「エセックス」搭載のSB2C。レーダーポッドを主翼下に装備し,夜間攻撃も可能である。Steve Whitby提供。

「一憶総特攻のさきがけ」になるべき連合艦隊司令長官,海軍大臣,軍令部・連合艦隊の参謀など最高位の海軍高級軍人、軍に関を置く最高級の宮様が進んで水上自爆艇「震洋」に自ら乗り込んで特攻,体当たり攻撃を仕掛ければ、日本海軍の下級兵卒まで、感服したであろう。
しかし,そんな大それた計画は微塵も検討されていない。とすれば,「一憶総特攻のさきがけ」として海上特攻を行うとの説は,戦艦大和の沖縄突入失敗を覆い隠す大義名分である。第一遊撃部隊の沖縄突入は,十分に別の意味=作戦上の戦術的意義、があったと考えられる。

戦後、戦艦大和という日本の誇りを無謀な作戦で喪失させた失敗弁明が始まる。栄光ある日本海軍は,一億総特攻のさきがけとして、自らを犠牲にして,率先して国体を護持しようとした。桜のように散った大和の悲劇は,ヤマト心と家族愛をもって語るべきである。このように遠謀深慮した賢い人物が,大和の伝説を流布したのであろう。

現在でも、書籍「戦艦大和の最期」、映画・小説「男たちの大和」、ヤマトミュージアムと、戦艦「大和」をだせば経済収益につながる。戦略、戦術の視点で、海上特攻を考察しても、評価できる優れた点はあまりない。「日本の工業技術の優秀性」「日本を支えた将兵たち」「男の美学」で、大和特攻を賛美するのは当然かもしれない。気分がよく,誇りをもてるようになるから。


写真(右):戦艦「ウェストヴァージニア」と沖縄に物資を陸揚げする上陸用舟艇LCS;特攻Kamikazeと戦艦大和を揚陸艦に向ければ,戦果を拡大できた可能性はある。しかし,輸送船団が目標ではつまらない。日本海軍の栄光を保持するために,家族を守るために「特攻」した----と考えたい。
 

海上特攻の航路は,自爆が目的であれば沖縄にまっすぐに向かえばいいものを,西方に大きく迂回した。米軍に目標針路を悟らせないというより、沖縄北方におびき寄せるように行動した。連合艦隊や軍令部は,第二艦隊司令長官伊藤整一中将の指揮下にある戦艦「大和」,軽巡洋艦「矢矧」などを,囮として利用しようと考えたのであろう。

第二艦隊4000名を囮として米軍航空部隊をひきつけ,日本陸海軍機による体当たり自爆攻撃の戦果を拡大しようとした。「大和」が沖縄に突入できれば,迎撃してくる米艦隊と艦隊決戦,あるいは米輸送船団と陸揚げ物資を艦砲射撃する。最期には座礁して海岸砲台となり,沖縄の米軍を46センチ砲で吹っ飛ばす。こんな夢想のような常軌を逸した作戦であった。

14.戦艦「大和」,軽巡洋艦以下の水雷戦隊による海上特攻は,菊水作戦,航空総攻撃という,航空機による特攻作戦を側面支援することであり、囮艦隊の出撃である。戦艦「大和」が出撃すれば,米空母任務部隊と航空兵力がおびき寄せられ,その分だけ,日本の特攻機が,米軍機に狙われにくくなる。

1945年4月5日1403:三田尻沖に待機していた第二艦隊(2F)と第三十一戦隊(31S)に対し、連合艦隊司令長官GF電令作第六〇五号が発せられた。
 「遊撃部隊(YB)指揮官は31Sの駆逐艦約四隻をもって掃蕩隊を編成し九州南方海面まで、海上特攻隊の対空対潜警戒に任ぜしむべし」

1945年4月5日1500:GF電令作六〇七号,海上特攻を実施するように,関連海軍部隊、沖縄の陸軍部隊、航空部隊に対し,作戦目的、出撃時期などを述べた作戦命令が通電。
1.帝国海軍部隊および第六航空軍は,4月6日以降,全力をあげて沖縄周辺敵艦船を攻撃。
2.陸軍第八飛行師団は協力攻撃を実施、沖縄守備隊の第三二軍は4月7日より総攻撃を開始。敵上陸部隊を掃滅する。
3.海上特攻隊は,4月7日黎明,豊後水道を出撃し、8日黎明時に沖縄西方海面に突入し,敵水上艦艇ならびに輸送船団を攻撃撃滅すべし。
こうして,2Fの「大和」「矢矧」、駆逐艦8隻は沖縄に突入、31Sの駆逐艦3隻は,先行し、2F前路の対空対潜掃蕩を行うことが知らされた。

工藤洋三徳山高専教授が,2006年3月探し出した「特攻出撃5時間前の大和の写真」には,1945年4月6日1000,米軍偵察機RB29が高度9300m,徳山沖約30km地点(北緯33.57、東経13.45)撮影,「戦艦『大和』級1、重巡洋艦(実際は軽巡)1、駆逐艦6」とある。 


写真(左):航空魚雷を投下するグラマンTBM「アベンジャー」雷撃機
;ライトR-2600/1700馬力、最大速度420km/h、航続距離1955km。武装:固定12.7mm×1、上方旋回機銃12.7mm×1、下方旋回機銃7.62mm×1、Mk.13またはMk.18航空魚雷×1あるいは454kg爆弾×1または227kg爆弾×4。「大和」に航空魚雷10本以上命中させた。魚雷は胴体内部に搭載する。TBFはグラマン社製、TBMはジェネラルモーターズの生産。
 

米軍に制空権,制海権を奪われている状況では,沖縄突入は困難であり,艦船と人命をかけた海上特攻には,第一遊撃部隊司令官伊藤整一中将,その指揮下にある水雷戦隊司令,駆逐艦艦長たちも,不同意であった。

4月5日には,東京から水上機で説明に来た連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が第二艦隊に沖縄突入作戦を説明に来ていたが,艦隊側が海上特攻の採算がないことを理由に反対しているために,ついにやむにやまれぬ心情を吐露した。
「第二艦隊には,一億総特攻のさきがけになってもらいたい」
この軍事常識はずれの感情的な参謀長の説得に,第二艦隊司令長官伊藤中将は,なぜか海上特攻の実施を承諾したといわれる。(→児島襄『戦艦大和』参照)こんな理由を,第二艦隊の水雷戦隊司令,軽巡洋艦や駆逐艦の艦長たちが納得したのか。それなら,大和が撃沈されてから,残存した駆逐艦4隻が引き返したのはなぜか。大和を護衛していた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、軽巡洋艦矢矧艦長原為一大佐は、乗艦が沈没して生還したのはなぜか。

沖縄戦での日本軍の反撃手段は,航空特攻であり,海軍の「菊水作戦」,陸軍の「航空総攻撃」こそが,沖縄戦での打撃力の中核をなす。したがって,航空特攻を容易にする囮として、戦艦「大和」以下の海上特攻が行われた。海上特攻は、特攻機の突入確率を引き上げるため,敵の航空機,艦艇をおびき寄せる囮艦隊の出撃を意味する。 

写真(右):戦艦「大和」; 水雷戦隊の護衛の駆逐艦が、大和に寄り添うように援護している。 

当時の攻撃主力は,航空部隊であり,水上艦隊ではない。戦艦は,米軍にとって魅力のある獲物である。したがって,日本軍が戦艦を出動させれば,米軍は航空機,艦船をもって攻撃を集中してくると予測できた。そうなれば,航空機による特攻隊が出撃した際に,敵の防御力が弱体化し,敵空母を攻撃しやすくなる。

空母機動部隊を囮として利用する作戦は,既にフィリピンのレイテ攻防戦で,日本海軍が採用しているから,前例がある。第一遊撃部隊の艦隊乗員たちに,「貴様らは囮として死ね」とはいえないために,水上特攻「第一遊撃部隊」の名称を与え,「一憶総特攻のさきがけ」になってくれと,感動的な要請をした。これは、当時,納得しうる言動だった。

第二艦隊大和の出撃は「一億総特攻のさきがけ」ではない。航空機の特攻作戦の囮という決死的だが合理的な理由のために,第二艦隊司令長官伊藤中将以下,水雷戦隊司令,軽巡洋艦や駆逐艦の艦長たちも「海上特攻」を承諾した。大和撃沈後,囮はなくなった。そこで,軽巡洋艦矢矧座乗の第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、艦長原為一大佐は、ともに生還した。 残存駆逐艦も,生存者救助をせず特攻すべきところを,生存者を救助し,九州に引き返した。残存艦隊の撤退は、大和とともに沈んだ伊藤司令官の独断を根拠に,あるいは第二艦隊の陣頭指揮を引き継いだ先任将校の判断で行ったと考えられる。

沖縄戦における航空特攻作戦:「特攻作戦の崩壊」 

15.戦艦「大和」以下の第二艦隊はよく戦ったが,人員3500名の命を失い,戦艦1隻,巡洋艦1隻,駆逐艦4隻が撃沈され壊滅した。大和を護衛した第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、軽巡洋艦矢矧艦長原為一大佐は、乗艦が沈没したが、生還できた。米軍機の損失は、航空機撃墜15機程度である。 

 
1945年4月6日1520:徳山沖出撃
第二艦隊司令長官伊藤整一中将の指揮の下,第一遊撃部隊の戦艦「大和」(艦隊旗艦)(艦長・有賀幸作大佐)
第2水雷戦隊(司令官・古村啓蔵少将)の軽巡「矢矧」(水雷戦隊旗艦)(原為一大佐)
第41駆逐隊の防空駆逐艦「冬月」「涼月」
第17駆逐隊の艦隊方駆逐艦「磯風」「浜風」「雪風」
第21駆逐隊の艦隊型駆逐艦「朝霜」「霞」「初霜」の合計10隻と,前路掃蕩隊の第三十一戦隊の防空駆逐艦「花月」(東日出夫中佐)
第43駆逐隊の護衛駆逐艦「桐」「槇」 の合計3隻が,山口県徳山沖を出撃。 


写真(左):艦隊型駆逐艦「初霜」:第21駆逐隊として,戦艦「大和」の護衛に当たった。12.7センチ連装高角砲3基を装備した排水量2000トンの駆逐艦。写真(右):松型護衛駆逐艦第43駆逐隊として,戦艦「大和」の護衛に当たった。12.7センチ連装高角砲3門を装備した排水量1270トンの小型低速駆逐艦。27.8ノットの低速のために,当初の対戦警戒のみ随伴した。全長:100メートル、全幅:9.35メートル、航続距離:18ノットで3500マイル、乗員:211名 。1945年終戦後、洋上で米艦船からの撮影。 

1620:前路掃蕩隊の第31戦隊(花月、榧、槙)を分離解列、待機部隊とする命令。

米軍は4月1日に沖縄本島に上陸していたが,「大和」乗員が沖縄本島への海上特攻であることを覚悟したのは,出航後、初めて艦内放送で,海上特攻であることが伝えられたときである。「大和」の速力は20ノット,第二艦隊司令長官伊藤整一中将から各艦に訓示が信号された。
 「神機、将ニ動カントス。皇国ノ隆替懸リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦敢闘、全敵ヲ必滅シ、以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」 

先導の3隻,護衛隊の防空駆逐艦「花月」、護衛駆逐艦「榧(カヤ)」「槙(マキ)」は豊後水道まで,随伴した後,呉に引き返すように命令を受けた。

米潜水艦「バーブ」は、米国の代表的な潜水艦で、排水量: 1,526 t 全備排水量: 2,424 t. 速力 海上20.25 kts, 海中 8.75 kts; 乗員 将校6名,下士官・兵54名, 潜水限度 300 ft; 哨戒日数75日; 航続距離 11,000 miles/10 kts; 武装 21インチ魚雷24本 魚雷発射管 前方6門,航法4門。潜水艦「スカルピン」Sculpin (SS-191) 同様に、潜望鏡,3インチ50口径砲のほかにも,SDおよびSJレーダー,通信マストなど,電子兵器を装備

>   北陸中日新聞「出航後知った水上特攻」に次の記事がある。
 6日2030ごろ,「大和」前方を索敵哨戒していた駆逐艦「朝霜」から,「大和」にたいして,「ワレ、センスイカンノ、ムデンヲキク」との連絡が入った。その後間もなく米潜水艦の発する無線電話の傍受音がスピーカーから流れた。英語で「ヤマト」の単語を数回いっているのが聞き取れたという。しかし,伊藤整一司令長官,有賀幸作艦長ともに,敵の目を逃れることはできないことを知っていたので,落ち着いていた。

1945年4月の米軍の沖縄上陸までに,正規空母2隻,補助空母数隻,戦艦1隻,駆逐艦多数など,商船だけではなく,主要艦艇まで次々に米潜水艦に撃沈されていた。戦艦「大和」など第二艦隊の出撃に当たっても,米潜水艦の脅威を感じていたに違いない。日本の駆逐艦は,国際水準の対艦レーダーを搭載しておらず,対潜攻撃兵器も爆雷だけで,連合国艦艇に比べると対潜水艦能力は低かった。 


写真(左):米軍艦上急降下爆撃機SB2C「ヘルダイバー」
;1945年3月,空母「エセックス」搭載の急降下爆撃機「ヘルダイバー」。ヘルダイバー」は,全幅15.16m、全長11.20m。最大速度452km/h、爆弾227〜726kg×1、Mk.18航空魚雷×1、20mm×2、7.62mm×1. 油圧で自動的に翼を折りたたむ。日本機は翼を折りたたむのは,全て人力だった。NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive引用。

1945年4月の海上特攻でも,対空兵器は,12.7センチ高角砲,10.5センチ高角砲,25mm機銃,13.2mm機銃,ロケット弾であった。対空兵器の数は多かったが,射撃装置は,レーダー誘導は実用化できず,信管も時限式であり,高速の米軍機に対して命中率は著しく低い。米軍は航空機の近くで自動的に弾丸が爆発する「近接TV信管」を実用化し,5インチ砲以上の対空砲に,1944年6月から大規模に使用。

唯一,対空ロケット弾を実用化し,戦艦大和に装備したことだけが,進歩であった。多数の25mm機銃を増加装備し,対空能力を強化したが,航空機の護衛がなければ,沖縄近海にたどりつくのは不可能である。

1945年4月7日,米艦載機の戦闘機F6F,急降下爆撃機SC2B,雷撃機TBF/TBMによる攻撃が開始。雲が低く垂れ込めており,視界が悪い中,艦載機はレーダーと無線で誘導されて,戦艦「大和」に攻撃を集中。各機とも,前方に12.7mm機銃を備え,機銃掃射を仕掛けた。

米軍機は,大和の左舷に攻撃を集中。これは,艦船を転覆させるには,片舷浸水させ,船体を不安定にさせればよいからである。攻撃を片舷集中することで,大和の対空機銃,高角砲を沈黙させ,攻撃もしやすくなる。 


米空母「エセックス」の格納庫のTBM「アベンジャー」雷撃機;TBF/TBM「アベンジャー」雷撃機など米艦載機は,主翼を反転して折りたたむことができた。1トン航空魚雷を大和に12本命中させた撃沈の功労者である。エンジン=ライトR-2600/1700馬力、最大速度420km/h、航続距離1955km。武装=固定12.7mm×1、旋回銃・上12.7mm×1、旋回銃・下7.62mm×1、Mk.13またはMk.18航空魚雷×1あるいは454kg爆弾×1または227爆弾×4。TBFはグラマン社製、TBMはジェネラルモーターズ社製。総生産数9800機。四分の三はジェネラルモーターズGM製造。
 

米任務部隊は,「アベンジャー」などを発進させ,戦艦「大和」を中心に,第一遊撃部隊の艦船を攻撃。日本艦隊の航空機による上空援護は,出航した当初のみで,米軍機は,日本の戦闘機の妨害を一切受けることなく,対艦攻撃に専念した。


写真(左):Mk13航空魚雷・水上艦艇用魚雷
;1930年に製造が開始され,MK14,Mk15と改良された。直径: 569mm 重量: 1005 kg 全長: 4089 mm 最大射程: 5760 m / 6300 yards at 33.5kts 炸薬量: 262 kg / 600 lbs.


米国の魚雷torpedoesは,第二次大戦中,64,000本生産。
米軍の主要な航空魚雷Mk 13 Air-Dropped, Surface-Launched Anti-Surface Torpedoは,航空機,水上艦艇のいずれでも使用できた。製造開始は1930年であるが順次改造された。直径Bore: 569mm,重量: 1005 kg / 2216 lbs,全長: 4089 mm / 13ft 5in,最大射程Max. Range: 5760 m / 6300 yards at 33.5kts,炸薬量Explosive Charge: 262 kg / 600 lbsである。

当初は速度110 knotsで,投下高度は50フィートとされたが,改良され,1944年には高速で,投下高度1000フィートで発射された。頑丈な航空魚雷である。Mk-13/-14/-15 の三種は類似したシリーズである。
第二次大戦中,161本が戦艦,航空母艦に命中し,56本が駆逐艦に, 182本が輸送船に命中した。 合計で1287回の雷撃で40%の命中率とされる。1945年4月7日,沖縄方面に出撃した大和を撃沈し乗員2740名を殺害するのに寄与。大和の生存者は276名。


写真(右):戦艦「大和」を護衛した水雷戦隊旗艦「矢矧」の最期
:阿賀野型軽巡洋艦の第四番艦として1943年12月竣工。マリアナ沖海戦、フィリピン沖海戦で奮戦。排水量8500トン、最高速力35ノット。武装15.2cm連装砲3基、76.2mm連装高角砲2基、61cm魚雷四連装発射管2基。1945年4月「海上特攻」で大和に先立って撃沈。ただし、乗艦していた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、矢矧艦長原為一大佐は、ともに生還。

「矢矧」主砲は50口径四一式十五センチ連装砲だが,自動装填ではない。主砲は55度まで仰角を取り対空戦も可能というが,この仰角では次の弾丸を装填できない旧式砲。高角砲は,最新式の60口径八センチ連装高角砲(76.2ミリ)だが両舷1基ずつで少ないうえに,射撃装置にはレーダー誘導はない。魚雷は六一センチ四連装発射管2基と重装備であるが,対空戦闘には役に立たない上に,誘爆する危険がある。4月7日、米艦載機の攻撃で、魚雷数本をうけ航行不能、炎上。魚雷4発、爆弾12発を受けたともいう。乗員約950名のうち戦死446名。大和より僅かに早く撃沈されたが,大和ほど詳しい状況は伝えられていない。

読売新聞>宮崎に次の「矢矧」生還者の記事がある。
「誓いは果たしたぞ。安心してくれ。安らかに眠ってくれ」そう書かれた西創一郎さん(883)(えびの市向江)の手紙が、海に吸い込まれていった。
宮崎師範学校(いまの宮崎大学)を卒業。都城市で教員をしていた1943年4月、徴兵で海軍に入隊した。同年12月、長崎県・海軍佐世保工廠(こうしょう)で完工した矢矧に乗り組んだ。
 「矢矧とは完成してから沈むまで一緒でした」航海科の見張りとして迎えた45年4月。恩賜のたばこと酒が配られた。「いよいよ特攻か」と悟った。甲板でたばこを1本だけ吸い、残りは古里の家族に送った。
 その晩あたりだったと記憶している。師範学校の同窓で、同じ矢矧に乗っていた「黒岩くん」が「お前とおれとどっちが先に死ぬか。生き残ったら、おれの分までやってくれ」と言ってきた。どちらかが子供たちの教育に尽くそうというのだ。

6日。矢矧を含む第2艦隊は、山口県の徳山沖を出発。豊後水道を南下し、日向灘を抜けた。鹿児島沖で、7日の朝が明けた。配置は艦橋左下の見張り所。
 「敵が来んうちにと握り飯を食べていたらブザーが鳴ったんです。『対空戦闘配置に着け』です」午後0時半ごろ。左の雲の切れ間から、ウンカのような敵機の編隊が見えた。約200機。急降下してくる。
 見張りは、敵がどこから来るのか伝声管で艦橋に伝えるのが役目だ。「左舷、敵機襲来。単機襲来」「雷撃機3機、左60度。水平線すれすれに」と叫び続けた。
 だが、次から次で、十字砲火のような状態だった。海中からは白い航跡を引いた魚雷も走ってきた。「左何十度に魚雷」とまた叫ぶ。激しい砲火。しばらくしてズシンと振動を感じた。艦に爆弾が当たったのだ。爆弾が当たれば上下振動、横揺れは魚雷。やがて「総員退艦」の命令が下り海に飛び込んだ。矢矧は沈んだ。
 必死で泳いでいると、遠くで大爆発があった。戦艦大和が撃沈され、キノコ雲が上がっていた。駆逐艦に助けられて生還した。(引用終わり)


写真(右):沖縄で米艦載機の攻撃を受ける戦艦「大和」
;艦中央部には,12.7センチ高角砲と25ミリ三連装機銃が連なり,前甲板にも,25ミリ三連装機銃3基を配備。1945年4月7日14時22分沈没。

北陸中日新聞「出航後知った水上特攻」には次の記事がある。
 1941年の初春だった。大阪の家具店で働いていた二十歳の若者が、志願兵募集の張り紙を目にして日本海軍に命運を託した。志願のことは大阪で別々に暮らす母には知らせなかった。国のために戦争に行くことが当然とされた時代。戦艦「大和」の元乗組員、川潟光勇さん(84)=石川県加賀市山代温泉=も「大義の戦い」を信じた若者の一人だった。
 神奈川県横須賀の海軍航海学校を卒業後、掃海艇の任務を経て、四三年五月に見張科の信号兵として大和に乗艦した。艦橋の最上部にある防空指揮所で双眼鏡をのぞき、艦長の目となった。

米軍の波状攻撃が始まったのは翌七日昼ごろ。低く垂れ込めた雲から艦載機が次々に現れ、機銃掃射を仕掛けてきた。それを双眼鏡で凝視。レンズを通して見ていると、なぜか恐怖を感じなかった。
「チューン、チューン」。弾丸が鉄板をはじく音が耳に鋭く飛び込んだ。下士官が艦橋をかすめて飛び去る敵機を指さし、目をむいて「突っ込んでくる! 突っ込んでくる!」と絶叫していた。既に正気を失っていた。

 突然、隣にいた兵士が被弾し、無言でひざから崩れ落ちた。一瞬で絶命。鉄かぶとごと頭を打ち抜かれた死体も見た。左の眼球が飛び出していた。甲板には無数の薬莢(やっきょう)と一緒に死体や肉片がごろごろ転がっていた。想像もしなかった死に方が目の前で繰り広げられていた。

大和は米軍の航空戦力の前になすすべがなかった。腹の底に響く爆弾の衝撃。魚雷は左舷ばかりを執拗に狙い、艦は左へ大きく傾いた。ついに総員退避の命令が下った。「国のために生きろ」。防空指揮所にいた有賀艦長は兵士らに声を掛けると軍刀を下げて艦長室に入っていった。(→ 北陸中日新聞「出航後知った水上特攻」川潟光勇さん引用)


写真(左):米空母「ヨークタウン」が撮影した戦艦「大和」の最期
;1945年4月7日,「大和」は14時23分沈没。Vice Admiral Marc Mitcher in his carrier Task Force at 1000 ( 10AM ) on the 7th. of June launched air strikes, and planes from USS Bennington claimed the first hits upon Yamato. Aircraft from USS San Jacinto with both bombs and torpedoes accounted for the Japanese destroyer Hamakaze, the light cruiser Yahagi, stopped dead in the water by bombs.

北陸中日新聞「油の海 生への欲求」川潟光勇さんには,次の記事がある。
 乗組員の一人、川潟光勇さん(84)も渦にもまれていた。閃光が分厚い海水と閉じたまぶたを貫き、まぶしい。「苦しい」。水圧で胸が締め付けられ、ちくちく痛んだ。「おかあさん、ここで立派に死んでいきます」。恐怖はなかった。たまらず海水を飲み込んだその時、全身に浮力を感じた。本能的に手足をばたつかせていると海面に出た。「ああ助かった! 空気がうまい」。一転、生への欲求が強烈になった。

 海面は重油でぎらぎらと黒光りしていた。うねりの中で首だけ出している自分。大勢が漂いながらもがいていた。深手を負い、力尽き、なすすべもなく沈んでいく者もいた。突然、体が海中に引っ張り込まれた。重油をがぶ飲みした。誰かが、脚にすがってきたのだった。「すまん」。無理やり振り払った。二度、三度と続いた。非情と思ったが、もうおぼれたくなかった。死にたくはなかった−。偽らざる真実だった。

 「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)、山行かば草むす屍」。どこからともなく歌声が聞こえた。どれだけ漂流しただろう。気がつけば、周りで浮かんでいた者がかなり少なくなっていた。四月の海の冷たさに力を奪われ、何度も気を失いかけた。その時、駆逐艦「雪風」が近づいてきた。投げ込まれた縄ばしごに我先に取り付こうとする生存者たち。約百メートルを無我夢中で泳いだ。米軍の攻撃を警戒し、雪風は完全には止まってくれなかった。それぞれが生を求めるほどに、現場は凄惨さを増した。

 縄ばしごに腕をかけた。体は鉛がへばり付いたように重く、動けなかった。「おれの背中を使って上がれ」。何人かを先に行かせた。別の乗組員が「次はお前だ」と言ってくれた。懸命に上った。だが、あと少しのところではしごの縄が二本ともぷっつり切れ、再び海中へ。それでも、艦の後部に架けられたはしごに運良く救われた。海上に取り残されたまま漂う者。甲板までたどり着きながら命を使い果たして息絶えた者。日没が迫った。雪風は数少ない生存者を乗せて長崎県の佐世保軍港へ向かった。

その後、川潟さんは終戦までを広島県・呉の海兵団で過ごした。大和が建造された街だ。沈没の事実は軍機として秘密にされた。生死を分けた乗組員の母や妻が、安否を気遣い海軍の集会所をたびたび訪ねてきた。窮乏する生活の中、無理をした手料理を携えていた。でも、身内に会えないまま「みなさんでどうぞ」と、置いて帰るのだった。( 北陸中日新聞富山支局引用終わり)


写真(右):戦艦「大和」の最期
;1945年4月7日,戦艦「大和」は14時22分沈没。Sunk after being hit by 9 to 13 torpedoes, 6 bombs and internal explosion from planes of TF 58: Belleau Wood, Bennington, Bunker Hill, Cabot, Cowpens, Essex, Hancock, Hornet, Intrepid, Langley, San Jacinto, Wasp, Yorktown.

大和艦橋にいた学徒兵吉田満(22歳)の『戦艦大和の最期』に次の記述がある。
「コレヨリ敵地ニ入ル 右ニ九州 左ニ四国 シカモ制海制空権ヲ占メラル」
死ハスデニ間近シ 遮ルモノナシ 死ニ面接セヨ 死コソ真実ニ堪ウルモノ コノ時ヲ逸シテ 己ガ半生 二十二年ノ生涯ヲ総決算スベキ折ナシ

1232;敵機100機、雲の合間から急降下爆撃。 
1245:雷撃機の魚雷1本、左舷に命中。
1334:雷撃機の魚雷3本,左舷に命中。
1344:雷撃機の魚雷2本,左舷に命中。大和は左に傾いたが、左舷を排水し,右舷に注水することで,傾斜を復旧。雷撃機の投下した魚雷3本,左舷に命中。再び傾く。
1417:雷撃機の魚雷1本,左舷に命中。
1420:伊藤長官は、総員最上甲板,退去,さらに特攻作戦中止を命令し(たとされ)、艦橋に残った。
1422:大和は横転、弾薬庫爆発。
戦艦大和の最期(米側資料による)「軍艦大和戦闘詳報」(日本側資料)を参照。

水雷戦隊は,「大和」沈没前に巡洋艦「矢矧」,駆逐艦2隻が撃沈され,大破し「大和」沈没後も浮いていた駆逐艦2隻は自軍に処分された。駆逐艦「冬月」「雪風」「初霜」「涼月」の4隻は,小破以下の損害で,生存者を一部救出して,翌日8日に佐世保に帰投。

艦載機攻撃から撃沈を免れられたとしても,米戦艦群と巡洋艦,駆逐艦が,損傷していた戦艦「大和」を迎撃した。大和主砲の46センチ砲弾は世界最強の威力を誇ってはいるが,主砲の命中率は低い。これは,レーダー射撃ができないためで,1944年のサマール島沖海戦で実証済み。既に航空機による空襲によって,主砲の射撃盤が振動,破損し,船体が傾斜していれば,射撃の命中率はさらに下がる。 

写真(右):1945年8月20日,戦艦「アイオワ」級「ミズーリ」と「アイオワ」;戦艦大和の第二艦隊が沖縄に突入しても,両艦を含む米艦隊との海上砲雷撃戦によって,戦果を挙げることなく日本艦隊は壊滅していたであろう。

大和が世界最強の戦艦であるという説も正しいとはいえない。
米戦艦「アイオワ」級
は、排水量4万5000トン,40センチ50口径三連装砲塔3基を装備し, 21.2万馬力33ノットの快速を誇った。大和の主砲よりも口径は小さいが、レーダー照準装置を実用化していることを考慮すると、主砲の威力は大和の46センチ砲と同等以上の威力がある。大和は、16万馬力27ノットに過ぎないから、はるかに速力も速い。 20門 x 5インチ38口径対空砲, 80丁 x 40mm機銃、 49丁 x 20mm機銃という対空兵装は、大和を上回る。

米軍水上部隊は,新式戦艦だけでも4隻以上あり,巡洋艦,駆逐艦,潜水艦による雷撃も準備できた。また,観測機の誘導、レーダー射撃によって,米艦艇の艦砲の命中率は「大和」よりも遥かに高い。

万が一、戦艦「大和」が砲撃戦となれば世界最大の艦砲で戦果をあげたと思いたい。しかし、実際には、ガダルカナル島沖の戦艦霧島,レイテ沖の戦艦山城のように、撃沈されたはずだ。米軍艦艇との対決前に損傷していた「大和」は、たとえ砲撃戦になったとしても,戦果を上げられないまま、瞬時に沈められたであろう。

大和は、1945年4月7日1422,主砲の弾薬庫が爆発し,吹き飛んだ。鹿児島県坊ノ岬沖90マイルで、米軍艦載機の攻撃により撃沈された。戦死2,498名、救助276名。

東京新聞「重油の海『生』への切望」から引用した大和撃沈後の記録
出撃時に17歳の少年兵八杉康夫さんは,沈没の直前、戦闘配置された艦橋最上部で砲弾の照準を定める測的所を脱出した。レーダーの網につかまり、足元に迫る海中に飛び込んだ。巨大な渦の中に巻き込まれ、オレンジ色の閃光が濃緑色の水を通してゆっくりと広がるのが見えた。「主砲の火薬庫が大爆発したんだな」と後で思った。爆発の衝撃で海面まで体が持ち上げられたのか、気付くと海に浮いていた。

 上空で何かがキラキラと光った。爆発で生じた金属の破片だ。高熱で真っ赤に焼けた破片はものすごい勢いで落下し、命からがら脱出した将兵の体を容赦なく切り裂く。

  重油の海を漂流中、多くの仲間が力尽きて沈んでいった。16歳の少年兵は気持ちよさそうな表情で眠ったまま沈んだ。5時間ぐらいたっただろうか。駆逐艦「雪風」が救助に近づいたが、八杉さんはそこで、戦闘以上の地獄を見る。 

投げ込まれたロープに兵たちは先を争って群がった。先にロープをつかんだ兵の足にしがみつき、引きずり降ろす者も。順番をめぐって争いが起きた。「これが鍛えられた帝国海軍の姿なのかと見苦しかった」 まだ多くの兵が助けを求めて叫んでいた。が、接近してきた米軍機から逃れるため、「雪風」は急発進する。救助された最後の一人が、八杉さんだった。 

引き上げてくれた乗組員が「貴様、よかったな」と、泣きながら八杉さんを何度も殴りつけた。救助されると、ほっとして死んでしまう者がいるからだ。殴られてうれしかったのは初めてだった。胃の中の重油を吐き出すと、死んだように眠った。翌朝、「雪風」は長崎県の佐世保軍港に帰還。前日とは違って雲一つない青空が広がった。(→東京新聞「重油の海『生』への切望」引用終わり)

大和から生還した吉田満著「戦艦大和ノ最期」の真実と虚構で「原文に無くて、再版本に加筆された虚偽の過ち」とも指摘されている箇所
 「初霜」救助艇ニ拾ハレタル砲術士、洩ラシテ言フ
 救助艇忽チニ漂流者を満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危険状態ニ陥ル 更ニ拾集セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ藻屑トナラン、シカモ船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク、艇ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル、ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト 斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス セメテ、スデニ救助艇ニアル者ヲ救ハントノ苦肉ノ策ナルモ、斬ラルルヤ 敢ヘナク ノケゾッテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン、剣ヲ揮フ身モ、顔面蒼白、脂汗滴リ、喘ギツツ船ベリヲ走リ廻ル 今生ノ地獄絵ナリ


写真(右):1945年4月7日14時22分沈没した戦艦「大和」
;Wreck of "YAMATO" as found in August 1999引用.左は,副砲の15.5センチ三連装(あるいは主砲46センチ三連装)砲塔,右は乗員の遺品となった履物。 

朝日京新聞:沈む戦艦大和「もう、あかん」野々田省吾さん(2005年06月28日)から引用した大和撃沈の記録
和歌山県白浜町に住む野々田省吾さん(83)は戦艦大和の元乗組員。3番主砲の砲塔内で、標的までの距離を測る測距儀を操作する旋回手だった。1943年4月に師範徴兵として召集され、6月から大和に乗り組んだ。 

1945年の4月6日夕刻。沖縄に上陸した米軍を攻撃するため、大和は山口・徳山沖を出航。敵を引きつける囮で、野々田さんは「とうてい沖縄までは行けまい」と思った。砲塔に「総員、死に方用意」と書いてあった。 

 翌7日。握り飯にたくあんの昼食の頃、敵機の波状攻撃が始まった。測距儀の部屋からは海中を走る魚雷の影が見えた。衝撃が数回あり、艦は次第に傾いた。「最後やな。酒を酌み交わそう」。同僚らとおちょこで回し飲みした。伝声管から「露天甲板に上がれ」と指令があった。甲板に出ると横転寸前。左舷側はすでに海水に洗われていた。せり上がった右舷側に多くの乗組員がしがみつき、「天皇陛下万歳」と叫んでいた。傾いた甲板を死体がごろごろ転がり、海へ落ちていった。

 「これまで」と意を決して靴を脱ぎ、左舷側から海に入った。転覆する大和の下敷きにならないよう、とにかく泳いだ。突然、海中に引きずり込まれた。大和が沈没したのだ。「もう、あかん」。母の顔が現れた瞬間、爆発が起き、下から押し上げられた。顔を出すと海面は重油で真っ黒。山のように大きな大和はもうなかった。曇天の空にはまだ敵機が残り、低空飛行で海上を機銃掃射してきた。潜って逃げた。浮いていた丸太にすがっていた夕闇迫る頃、駆逐艦「冬月」に救助された。

甲板で、どろどろになった着衣を全部脱ぎ、渡された毛布1枚にくるまった。しかし、寒さで震えが止まらない。重油を飲んでいて、何度も吐き気をもよおした。 (→asahi.comトップ > 関西 > 語りつぐ戦争 引用終わり)

写真(左):海底の戦艦「大和」艦首菊花紋章;直径1.8m(6フィート)の天皇家紋章。巡洋艦以上が「軍艦」とされ御紋章がつけられた。1999年8月撮影。

「戦艦大和」乗員の妻/北林みさをさん
18歳の少女は恥ずかしさのあまり、別の部屋に隠れていた。「こっちにおいで」。上官に呼ばれて入った部屋で青年が笑って待っていた。
 1943年の終わり,愛知県豊川市の海軍工廠で女子挺身隊として勤務していた北林みさをさん(80歳)は、上官の紹介で医務部で働いていた久信さん(当時24歳)と出会った。こっそりと散歩を重ね、愛を深めた。翌年5月に結婚。住まいは官舎だった。1944年12月、久信さんに広島県呉市への転勤命令が出た。配属先は「戦艦大和」。妊娠していたみさをさんは「離れたくない」と泣いた。久信さんも泣きながら言った。
 「戦艦大和は絶対に沈まない。沈む時は日本が戦争に負ける時だから」
 袖浦村(現磐田市)の実家に戻ったみさをさんの元に、久信さんから頻繁に手紙が届いた。「お菓子の配給があってもお前とけんかができないから寂しい」「生まれる子どもの(性別を)当てっこをしようか」。

 「最後の上陸かもしれない。お母さんとおいで」。1945年3月、実母と呉に出向いた。久信さんは昼は仕事だったが、3泊4日の滞在中、寝る間も惜しんで話し込んだ。子どものこと、将来の生活のこと……。母は言った。「お前は幸せだ。私だってお父さんとあんなに話したことはない。一生かかっても連れ合いとあんなに話すことはないよ」。再び一緒に暮らしたいと願って別れた。それが最後だった。 

 翌4月、大和は沖縄に向けて出撃したが、米軍機の猛攻を受け、鹿児島沖で海に沈んだ。久信さんは沈没する前、負傷した仲間を助けようと甲板に出て撃たれたらしい。亡くなった詳しい日にちは今もわからない。出産間近のみさをさんにショックを与えまいと、家族が久信さんの死を隠すなか、5月30日に男の子を無事出産した。「そろそろ帰ってくる頃かも」。毎夕、赤ちゃんを抱き、玄関先に出た。うれしそうな姿を見て、家族は胸がつぶれる思いだった。 

 ある朝、母が意を決して告げた。「久信は戦死したんだよ」。信じられなかった。「『大和は沈まない』と言っていたのに……」終戦の日。悔しさでいっぱいだった。「なんでもっと早く終わらせられなかったの」。手元には、呉などから送られてきた妻を気遣う愛情いっぱいの18通の手紙が残された。(→ asahi.comトップ > マイタウン > 静岡引用終わり)

赤坂プリンスホテルにて映画 『男たちの大和』 企画発表は,名文で語られた。
「40年後、辺見じゅん氏が6年の歳月と熱い取材行脚を重ね、生存者と遺族の重い口から語られた言葉をもとに、『大和』の3年半の戦いと乗組員たちの人間ドラマを、あくまで兵士たちの目線で、壮絶な記録文学として著された。第3回新田次郎賞を受賞した『男たちの大和』である。歳月を経て語られた真実の重みと、戦争犠牲者への鎮魂でありたいと願う原作者の想いは大きな力となり、同年の『大和』発見へと導いて行った。
そして今、防人たちの墓標として海底に瞑る「大和」と兵士たちの魂を映像でスクリーンに浮上させ、短い人生を生き切った若者たちの、断ち切られた"想い"と命懸けの"愛"を甦らせ語り継ぎたい。日本人としての決断を迫られている今だからこそ、彼等の魂の声を各々の心で聞くことは必要ではないだろうか。
<死ニ方用意>と戦艦大和に書かれゐき島山とほく櫻けぶりて」(→2005年『男たちの大和 / YAMATO』遂に発進引用終わり)

1943年5月アッツ島玉砕は,玉砕命令によっていた。1944年7月サイパン「玉砕」では,1万7000人の日本人捕虜があった。戦場は本土,玉砕の延長線上に「特攻」があった。

16.沖縄突入を命じられた第一遊撃部隊は,戦艦「大和」を1422に失った後,佐世保に帰還した。沈没直前の「大和」から伊藤整一長官が沖縄突入中止の命令があったのか,出せたのか。それとも,1639にGF電命作第六一六号で,沖縄突入の中止が下令されたからか。「大和」撃沈で,天一号作戦の海上特攻が終わりになるのではない。沖縄突入を命じられた第一遊撃部隊(残存駆逐艦)が反転・撤退し,佐世保に帰還したのは,天一号海上特攻作戦が「一憶総特攻のさきがけ」ではないことを示している。第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、軽巡洋艦矢矧艦長原為一大佐は、乗艦撃沈後、「特攻」せず生還したが、咎められなかった。そのもそも,「海軍の有終の美を飾る」作戦に,海軍大臣,軍令部総長,連合艦隊司令長官は参加しなかった。彼らは誰一人死して最期を迎えるつもりはなかったのである。 

日本の戦記や資料は,大和の海上特攻のいきさつ,経緯には詳しいが,なぜ,第二艦隊の「海上特攻」が中止され,残存艦艇の生還を命じたのか,「海上特攻」で戦死した乗員が,なぜ二階級特進していないのか,に触れた資料はない。軍艦「大和」撃沈で作戦が終了したかのごとく,記述が終わってしまう。

2009年7月2日,戦後,遺族の間では,特攻なら二階級特進するはず,との思いがあったことを遺族がもらしていたことを知らされた。

  戦艦「大和」の撃沈(1422)以降も,第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将)以下,第一遊撃部隊の全残存艦艇には,沖縄に特攻する義務がある。仮に「一憶総特攻のさきがけ」になるというのであれば,残存した駆逐艦4隻が佐世保に帰還する「撤退」や乗艦を撃沈された第二水雷戦隊司令官(古村啓蔵少将)や軽巡洋艦矢矧艦長(原為一大佐)の生き残りを認めるはずがない。特攻の生還、特攻中止では、「特攻のさきがけ」にならない。

航空機や人間魚雷「回天」の特攻は,たとえ目標が見つからず帰投しても,再び特攻出撃を命じられた。特攻専用機キ-115「剣」にいたっては,出撃後,離陸用の車輪を投下,帰還は想定されなかった。特攻隊に志願・任命されて,取り消しが認められたことはなかった。(例外は,終戦で取りやめになったウルシーへの晴嵐による神龍特攻隊。)

戦艦「大和」撃沈後、残存する第二艦隊第一遊撃部隊艦艇の帰還が認められる,あるいは命じられたのであれば,これは生き残ることを許す出撃でありる。帝国海軍の最後を飾るというのであれば、軍令部総長,連合艦隊司令長官も特攻すべきだった。「海上特攻」の真の作戦の企図が「特攻のさきがけ」になる事ではない例証である。 

沈没直前の「大和」で,伊藤整一長官の総員退去の命令があったとしても,これは口頭,伝令によるものであろう。また,「沖縄突入中止」という専権的ともいえる(連合艦隊の指令を取り消す)命令を下す余裕と勇気が沈没直前の戦艦大和艦橋の伊藤長官にあったのか。命令しても,攻撃を受けている他の駆逐艦6隻(2隻は大破)に伝える手段はなかったのではないか。つまり、第二艦隊司令長官伊藤中将の命令で,残存艦艇が沖縄突入を中止したとは考えにくい。生き残った第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、あるいは軽巡洋艦矢矧艦長原為一大佐が、独断で(あるいは指揮権を継承して)特攻中止を命じたのであろうか。
(生還した指揮官たちは撤退を命じたとは証言していないが、それなら、大破した大和から大声で撤退命令が伝達されたのか。「沖縄突入中止を誰が最初に命じたのか」(最終的には連合艦隊司令長官が中止命令を出すがそれは大和撃沈後2時間以上たった1639である。) 


写真(左):防空駆逐艦「冬月」:第41駆逐隊として,戦艦「大和」を護衛した,10.5センチ連装高角砲4基を装備した排水量2700トンの防空用大型駆逐艦。「冬月」は1944年5月25日舞鶴工廠で竣工。全長134メートル、幅11.6メートル、出力5万2000馬力、速力33ノット、25ミリ三連装機銃5基、61センチ魚雷四連装発射管1基装備。乗員260名。 

駆逐艦「冬月」乗員武田威雄大尉の体験 
  七日十二時三十二分、海戦が始まった。「戦闘が始まると、主計長たる武田大尉は、艦橋で戦闘記録をとるのが任務である。第四十一駆逐隊司令・吉田正義大佐、駆逐艦長・山名寛雄中佐、航海長・中田隆保中尉らが居並ぶ少し後ろに立って、戦闘の推移を見守っていた」

  「つぎつぎと来襲する敵戦闘機の機銃掃射が『冬月』の艦橋をも直撃した。機銃弾は武田大尉のすぐ目の前で、航海長・中田中尉の両手首をあっというまに吹き飛ばした。血しぶきが武田大尉の軍服を赤く染めた。 一瞬の出来事だった。武田大尉は『不覚にも膝がガクガクして』金縛りにあったように動けなくなってしまった」

  私は気を取り直し中田航海長を抱きかかえ応急治療室へ運んだ。ところがそこはすでに手や足を失った負傷者たちでいっぱい、辺り一面が血の海と化していた。「大型爆弾が至近距離で炸裂し、その爆風で艦側がメリメリッと破れるような大きな音をたてた。驚いてその場を離れた。何もしないよりは、少しでも体を動かして戦闘任務についたほうが、気が紛れる。そう思った武田大尉は、撃ちおわった10センチ高角砲の空薬莢を海に投棄する作業を手伝った。

  しかし、そこでも敵機の銃撃を受け、機銃弾が空薬莢の山に飛び込んでカランカランと音をたてて弾ける。危険きわまりない。さきほどの艦橋での出来事といい、今度といい、ほんの少し機銃弾がそれていたら自分に命中していたはずだ。」

「『冬月』にはいくつかの幸運が重なった。戦闘詳報によると十二時四十八分に『冬月、ロケット爆弾二発命中』『前部発令所二罐室盲弾』と記されている。ロケット爆弾は比較的遠距離からの射撃でも命中確度が高かったが、『冬月』に命中した二発は、いずれも不発弾であった。一発は、艦橋下の甲板を貫いて発令所に突っ込み、二名を戦死させ、火薬庫の入ロまでころがって いった。そして、二発目は罐室に命中した。もし一発でも爆発していたら『冬月』は致命的ともいえる大被害を被っていたに違いない。

  戦闘詳報十三時五分には、『魚雷一冬月艦底通過』とある。これは吃水三メートル下を魚雷が通過した記録である。(中略)まともに命中していたら『冬月』は大破または沈没していたであろう」 奇跡としか言いようがない。艦内には冬月神社が設けられていたが、そのご加護だと思っている。

  「十四時十七分『大和』は大音響とともに大爆発した」私は、大爆発の際、乗組員が『大和』の破片とともに上空高く吹き上げられ、重油が広がる海面に四方へ次々に落下していくのを、五○○メートルばかり離れたところから見つめていた。

武田大尉は、このような状況でまだ戦わなければならないのかと思ったが、すぐその後(実際は2時間後)、連合艦隊司令部から『作戦中止』の命令が届き、『冬月』は佐世保に向かった。」(⇒武田威雄のページ引用)

1945年4月7日14時22分沈没した戦艦「大和」のスクリューがWreck of "YAMATO" as found in August 1999.に掲載

4月7日1639(1637):GF電命作第六一六号は,沖縄突入中止を下令。これは、大和撃沈の2時間17分後。
1.第一遊撃部隊の沖縄突入を中止す
2.第一遊撃部隊指揮官は,乗員を救助し佐世保に帰投すべし
しかし,「大和」を護衛していた駆逐艦「冬月「雪風」「初霜」「涼月」は,1445に「大和」生存者を救助していた。
1657「霞」航行不能により砲撃処分。2240「磯風」航行不能により砲撃処分。
4月8日0845-1500:駆逐艦4隻「冬月」「雪風」「初霜」「涼月」が佐世保に帰還

駆逐艦「涼月」
4月7日1200;「左30度、100キロ、大編隊らしい。北上接近する」との電探情報を全軍に発信。
1230頃;敵機攻撃開始。之字運動をやめ24ノットに増速。涼月は大和の左斜め後方に位置。大和の射撃の後、砲撃開始。最大戦速に上げる。
左前方からSB2C「ヘルダイバー」が急降下爆撃。爆弾2発投下。うち一発が艦首前部甲板に命中、艦内火災。全艦停電、艦首に長さ8m幅4mの大破口。
艦首は切断寸前の状態。後進をしながら北上、生き残った四隻の駆逐艦のうち最後に佐世保に到着し入渠した。

写真(右):天号作戦で撃沈された軽巡洋艦「矢矧」;戦艦「大和」を護衛する駆逐艦を率いたが,米軍艦載機に撃沈された。戦死446名、戦傷133名。ポーランドの艦船webwarship.get.net.pl引用。第二水雷戦隊司令官の古村啓蔵少将と矢矧艦長の原為一大佐は、矢矧に座乗していたが、ともに生還。

海上特攻の損害
戦艦「大和」 2740名 沈没、生存者276名、うち負傷者117名
軽巡洋艦「矢矧」 446名 沈没、生存者503名(第2水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、艦長原為一大佐を含む)、うち負傷者133名
駆逐艦「磯風」 20名 大破・自沈、負傷者54名
駆逐艦「浜風」 100名 沈没、負傷者45名
駆逐艦「雪風」 3名 被害なし、負傷者15名
駆逐艦「朝霜 」326名 沈没、全員戦死
駆逐艦「初霜」 0名 負傷者2名のほかは被害なし
駆逐艦「霞」 17名 大破・自沈、生存者285名、うち負傷者47名
駆逐艦「冬月」 12名 小破、負傷者12名
駆逐艦「涼月」 57名 大破、負傷者34名

連合艦隊司令長官GF電命作第六一六号で,沖縄突入中止が命令されているなら,残存艦艇は反転,撤退すべきである。しかし,残存艦艇は,敵機,敵潜水艦の攻撃を警戒しながら,沈没した「大和」生存者を救助し,その後,途中で打ち切った。「一億総特攻のさきがけ」として海上特攻で死ぬのであれば,生存者救助の意味はなにか。戦艦大和が撃沈、生存者救助は,もはや沖縄突入は無意味であると水雷戦隊司令,駆逐艦長に悟らせた。そこで,連合艦隊司令長官からの命令がないうちに,撤退したのか。それとも,無駄に命を落とすことを拒否したのか。

写真(左):海底の戦艦大和のディオラマ;1999年8月海底探査の資料をもとに作成。

4月7日1420戦艦大和沈没後の1639(1637)にGF電命作第六一六号で,沖縄突入の中止が下令されるた。しかし,それ以前に、残存する第一遊撃部隊駆逐艦が、撤退し始めたのであれば、戦死した第二艦隊司令長官伊藤整一中将が,大和艦上で沖縄突入中止を命じたという話が流布されている理由も納得がゆく。

 戦艦大和は沈没寸前であり、通信系統麻痺の中,どのように大和の伊藤長官が沖縄突入中止を命じたのか,どのように残存駆逐艦長たちが,中止命令を知ったのか。命令のないままに撤退すれば、指揮官は、軍法会議で処断される。軍人の名誉にかけて敵前逃亡ともいえる無断撤退はできない。
 

戦艦大和を詳細に扱った資料、戦記でも,海上特攻の中止命令と実際の撤退開始との間の齟齬について言及していない。 

「一憶総特攻のさきがけ」というのであれば,途中で特攻を中止し生還を認めるという温情を,連合艦隊が示したのか。特攻隊を出撃させて引き返させたことは,悪天候を除けば,終戦のときだけである。伊号潜水艦搭載の特殊攻撃機「清嵐」によるウルシー攻撃の取りやめに限られる。

1944年10月25日、レイテ突入作戦では,戦艦大和は、連合艦隊の「全軍突撃セヨ」の命令にもかかわらず、レイテ湾近くで反転、撤退した。臆病の謗りをうけるのか,部下を救った勇敢な決断とされるのか。二つの突入作戦を考案したのは,連合艦隊先任参謀神重徳大佐だった。 

海上特攻を中止し反転(=撤退)を開始した残存の第一遊撃部隊(第二艦隊)駆逐艦から状況を知った連合艦隊では、残存部隊の行動を追認した。そこで、連合艦隊司令長官は、GF電命作第六一六号を発して,沖縄突入を命じたのではないか。連合艦隊からの命令があれば,必要がないであろう伊藤司令官の「沖縄突入中止」の命令という存在が,第一遊撃部隊の独自の判断(専権?)での反転=撤退を裏付けているようにみえる。

「特攻のさきがけ」であれば、撤退し生き残ることは許されない,特攻戦死に対する二階級特進の措置もとったはずだ。しかし,軍上層部では大和の海上特攻は,一般の「特攻」とは違った認識だった。連合艦隊が海上特攻の企図は、挫折したと判断したとき,残存艦艇に撤退命令が出た。これは,戦艦大和が撃沈後の駆逐艦だけの突入は,囮の意味がないためである。海上特攻には,大々的な大本営・新聞発表も,死後の二階級特進もなかった。

レイテ沖海戦では,レイテ湾に突入,米輸送船を砲撃するのを躊躇した大和以下の栗田艦隊に,連合艦隊司令長官豊田副武大将は「全軍突撃セヨ」を命令,初めて「神風特別攻撃隊」が編成され,組織的な体当たり攻撃を行った。このときは、レイテ湾への艦隊突入が主目的で,航空特攻は、艦隊突入を助けるための副次的な作戦だった。しかし,戦艦大和を含む遊撃部隊は、レイテ湾突入を果たさないまま、撤退。

戦没者追悼と靖国神社:国家神道と合祀された軍神たち

天一号海上特攻では、レイテ沖で撤退した戦艦大和が、司令官たちの念頭にあった。こんどこそ、最後まで突進しなくてはならない。結果として、沖縄に突入できれば良いが、撃沈されても本望である。

このような発想は、戦略でも戦術でもなく、軍の名誉の問題である。切羽詰った状態で、自分の名誉を汚すことになる撤退命令を伊藤長官が、部下の命を救うために出したのか。

写真(左):軽巡洋艦「矢矧」艦長原為一大佐:1942年2月27日0100のジャワ沖海戦Battle Of Java Sea で駆逐艦「天津風」艦長として活躍。第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将)と同じく、海上特攻では生還。矢矧の戦死者446、戦傷者133名。

鳥飼行博研究室は,レイテ沖海戦で旧制水戸中学出身栗田長官が「反転」したことも、沖縄海上特攻の第一遊撃部隊残存駆逐艦の撤退も,非難するものではない。

無謀な囮作戦の犠牲を十分に支払った勇敢な第一遊撃部隊の艦艇乗員たちは,賞賛に値する。撤退するには,上官の命令が必要であるという,軍隊の鉄則に即したように行動したことを責めることはできない。

第一遊撃部隊の沖縄突入中止,帰還が「大和」生き残り276名を最終的に救った。もっとも、それなら初めから海上特攻をせず、大和以下の第二艦隊を解散し、海上砲台,陸上防備のために軍艦とその兵器、乗員をあてればよかった。そうすれば、生きて 終戦(降伏調印式)を迎えられた。

降伏調印式から東京裁判への過程で,戦後の皇軍司令官・外交官は,特攻作戦失敗の責任,敗戦責任を説明することなく,国体を護持してくれた米軍に追従的態度をとった。

17.天一海上特攻に意味があるとすれば,沖縄への航空特攻を妨害する米軍の航空機と艦艇を引き付ける囮としてである。日本海軍「菊水作戦」,陸軍「航空総攻撃」の特攻機2000が出撃した。 

連合艦隊は、大和出撃と同日の1945年4月6日神風特別攻撃隊による菊水作戦と陸軍特攻機による航空総攻撃を開始

写真(左):米戦艦「ノースカロライナ」BB-55 USS NORTH CAROLINA;1943年11月撮影。「ワシントン」の姉妹艦。基準排水量35,000トン,大きさ 728' 9" (oa) x 108' 4" x 35' 6" (Max),兵装 9門 x 16インチ(40センチ)砲/45口径, 20門 x 5インチ/38口径対空砲。大和と同時代に就役した米国の新鋭戦艦。戦時中は,空母任務部隊に所属して,空母を護衛する任務についた。米海軍は,ノースカロライナを大型高速化した「アイオワ」級をも就役させた。したがって,米国海軍は,日本海軍以上に艦隊決戦を重視していたともいえる。

戦艦大和の出撃日1945年4月6日の特攻出撃は次の通り

神風特攻忠誠隊:彗星3機:新竹発
神風特攻勇武隊:銀河4機:直掩、零戦4機:台南発
神風特攻第三建武隊・第一筑波隊:爆装戦闘機67機:鹿屋発
神風特攻第三御楯252隊:爆装戦闘機20機:第一国分発
神風特攻第三御楯252隊:彗星24機:第一国分発
神風特攻菊水天山隊:天山16機:串良発
神風特攻第一八幡隊:九七式艦攻30機:串良発
神風特攻第一正統隊:九九式艦爆49機:第二国分発


陸軍特攻誠第36,37,38飛行隊:九八式直協26機:新田原発
陸軍特攻第22,44振武隊:一式戦6機:知覧発
陸軍特攻第62,73振武隊:九九襲17機:万世発
陸軍特攻第一特別振武隊:四式戦8機:都城西発



4月6日特攻機が命中した米駆逐艦「ブッシュ」USS BUSH (DD 529)で「殺された」:David Davey
; Davey helped improve the chances the gig could rescue wounded shipmates. Shipmates that might not be able to make it to a life raft or floater net. Those still alive had to contend with exploding ammo from the BUSH, enemy strafing, long hours in the water, and the darkness of night. David S. Davey did not survive.
Albert Brody
Paul Trella(18歳)


日本側の特攻隊と学徒動員(知覧高等女学校勤労女子学生など) と対比すると悲しい殺し合いである。

U.S.S. BUSH(DD529)S-E-C-R-E-T ACTION REPORT(駆逐艦「ブッシュ」戦闘報告)
4月6日1700, 2機の九九式艦上爆撃機"Vals"が米駆逐艦「ブッシュ」攻撃。40mm対空機銃が火を噴いたが,特攻機は駆逐艦「ブッシュ」の3-4マイル先の「コルフン」の周囲を回ってから,「コルフン」に降下し,命中。当時,15-20機が視界の中に見えた。1715に3機の敵機(零戦)が10マイル先で雲に出入りし周回した。1725に3機のうち1機が太陽を背にして「ブッシュ」に突入。艦前部40mm対空機銃で攻撃したが,ジャップの左翼が艦中部を横切って,1730命中。大火災,艦は二つに引き裂けそうになった。 

10-15分後,3機のうち2番目の特攻機(零戦)が急降下してきて,「ブッシュ」甲板に激突。20mm機銃と40mm機銃で応戦し,命中弾を与えたが,そのまま突っ込んできたのである。さらに別の1機が,1745に艦の前部に命中し,火災が激しくなった。艦内に運ばれていた負傷者も焼死。


写真(右):1945年10月8日,戦後に残骸をさらす日本海軍戦艦「榛名」(1915年建造)
;呉基地で戦争中に大破し。樹木を載せて偽装した。1945年7月28日に空襲により大破,着底。Official U.S. Navy Photograph 

1945年4月6日(金曜日);沖縄方面での米軍沈没艦艇
駆逐艦Destroyer BUSH (DD-529), by suicide plane特攻により損傷
駆逐艦 COLHOUN (DD-801),特攻により損傷後, 友軍が処分・撃沈
高速掃海艦 EMMONS (DMS-22), 特攻により損傷後, 友軍が処分・撃沈
戦車揚陸艦LST 447, 特攻により損傷

1945年4月6日沖縄方面での米海軍の損傷艦艇
戦艦 NORTH CAROLINA (BB-55), accidentally by United States naval gunfire友軍による誤射で損傷
軽空母Light carrier SAN JACINTO (CVL-30), 特攻により損傷
軽巡洋艦 PASADENA (CL-65), 友軍による誤射で損傷
駆逐艦 MORRIS (DD-417),特攻により損傷
駆逐艦 BENNETT (DD-473), 特攻により損傷,
駆逐艦 HUTCHINS (DD-476),特攻により損傷
駆逐艦LEUTZE (DD-481), 特攻により損傷
駆逐艦 MULLANY (DD-528), 特攻により損傷
駆逐艦 HARRISON (DD-573), 特攻により損傷
駆逐艦 NEWCOMB (DD-586), 特攻により損傷
駆逐艦 HOWORTH (DD-592), 特攻により損傷
駆逐艦 HAYNESWORTH (DD-700), 特攻により損傷
駆逐艦 HYMAN (DD-731), 特攻により損傷
駆逐艦 TAUSSIG (DD-746), 水平爆撃により損傷
護衛駆逐艦WITTER (DE-636), 特攻により損傷
護衛駆逐艦 FIEBERLING (DE-640), 特攻により損傷
高速掃海艦 RODMAN (DMS-21), 特攻により損傷
高速掃海艇 HARDING (DMS-28), 水平爆撃で損傷
掃海艇 FACILITY (AM-133), 特攻により損傷
掃海艇RANSOM (AM-283), 特攻により損傷
掃海艦 DEFENSE (AM-317), 特攻により損傷
掃海艇DEVASTOR (AM-318), 特攻により損傷
掃海艇 Motor minesweeper YMS 311, 特攻により損傷
掃海特務艇YMS 321, 特攻により損傷
潜水艦支援艦 PCS-1390, 友軍の誤射で損傷
輸送艦 Attack transport BARNETT (APA-5), 友軍の誤射により損傷
高速輸送艦 DANIEL T. GRIFFIN (APD-38), 衝突により損傷
運搬艦 Attack cargo ship LEO (AKA-60),友軍による誤射で損傷
戦車揚陸艦 LST 241, 友軍による誤射で損傷
戦車揚陸艦LST 1000, 友軍による誤射で損傷

『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、1945年4月1日-6月30日の沖縄戦で,米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機。戦果は,日本軍の航空機破壊 7,830機、内訳は戦闘で4,155機、作戦に伴う破壊2,655機、地上撃破1,020機

1945年4月6日〜6月22日の海軍「菊水作戦」と陸軍「航空総攻撃」では、4月6-7日に出撃した特攻機が約350機と、出撃数の四分の一を占める。航空特攻が戦艦「大和」出撃と同期日に集中していることは,大和の海上特攻が、航空特攻に呼応して行われた囮作戦という証拠である。

沖縄戦の日本軍は、航空機約1,900機(海軍1,000機、陸軍900機)とその搭乗員約3000名(海軍2,000名、陸軍1,000名)を特攻出動。 

沖縄特攻の戦果は、艦船の撃沈27隻,損傷164隻。特攻と水平攻撃・友軍による誤射・座礁など全ての原因による沖縄戦での米艦艇の撃沈は32隻,損傷は368隻。米海軍の人的損失損害は、1945年4月から6月末で,沖縄方面の全作戦を含めて死者4,907名、負傷者4,824名。 

知覧特攻隊と学徒動員・知覧高女勤労女学生なでしこ隊・鳥濱トメ 
特攻作戦の崩壊「複葉練習機の特攻」「特攻の総決算」

沖縄守備隊司令官牛島中将は1945年6月19日,「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し,最後まで敢闘し,悠久の大儀に生くべし」と命令を出し,23日未明,自決

米軍資料
米軍の損害:死者1万8,900名,負傷者3万8,000名,戦闘以外の負傷者non combat wounded 3万3,096名 , 航空機763機喪失。 日本軍の損害:兵士の死者7万6,000名以上,民間兵士(動員された住民)死者2万7,000名, 投降・捕虜7,455名 surrendered/captured (日本人2,300名), 民間人死者10万名以上。


◆『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円) 7月下旬刊行
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,沖縄戦,戦艦大和も分析しています。
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