鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
沖縄戦の神風特攻隊 1945 Kamikaze 2005
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◆沖縄戦における神風特攻隊 ◇ The Okinawa Attacked 1945/04/01


写真(左):特攻機の命中を受けた護衛空母「サンガモン」の飛行甲板;1945年5月5日撮影。1945年5月4日、夜間攻撃の命中を受けた。 写真(右):殺害された空母「サンガモン」乗員の葬儀;空母「サンガモン」は,特攻機の命中により損傷し,死者は海葬された。

『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機に及んでいる。
写真(右):日本軍特攻機に体当たりされた米艦隊空母「ハンコック」での葬儀;1945年4月撮影。

◆2011年8月13日ヤフーニュース「元隊員が語る特攻艇『震洋』」に当研究室が掲載されました。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦と戦争・平和の話を3時間うかがった。
特攻出撃一覧(1)神風特別攻撃隊 戦史
特攻出撃一覧(2)海軍航空特攻の全て
特攻出撃一覧(3)大東亜戦争から沖縄復帰まで
1945年の沖縄方面の米軍損傷艦船
USS GUEST DD472 OKINAWA CAMPAIGN
UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY:SUMMARY REPORT
U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945
沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献
衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論

1. 1944年11月24日以来、日本本土はマリアナ諸島からの米軍重爆撃機B-29の都市無差別爆撃を受け,焦土と化していった。本土空襲の状況の中,米軍は3月26日には慶良間列島に上陸した。沖縄は,日本海軍にとって,特攻による決戦の場として位置付けられた。本土決戦では,陸軍が主流で海軍は補助役だったからである。軍と政治指導部は、大元帥昭和天皇を含めて,沖縄戦で戦果を挙げてから,和平交渉を進めることが可能になると判断した。

写真(右):1945年3月10日東京大空襲の焼死者;米国陸軍航空隊のB-29重爆撃機300機以上が東京を夜間空襲した。焼夷弾を投下して,住宅を焼き市民を殺害した。しかし,殺害者の爆撃機搭乗員が焼死体を直接見ることはなく,罪悪感も感じない。焼死体を見たとしても,米軍兵士や中国の民衆を虐待した日本人が受けるべき報いである考えたかもしれない。

1944年7月、米軍はマリアナ諸島のサイパン島,テニアン島,グアム島などを占領し、航空基地を整備し重爆撃機ボーイングB-29「スーパー・フォートレス」によって、11月24日以降、本土空襲を開始した。米陸軍航空隊の戦略爆撃本部とも言える第20航空軍司令部司令官アーノルドHenry H. ‘Hap’ Arnold大将は、 第21爆撃機集団司令官にハンセルHaywood Hansell准将を任命し、彼は航空機工場など軍事目標を中心にした高高度からの精密爆撃を行った。

しかし,効果が少ないために,1945年1月20日、ハンセル准将から指揮を引き継いだカーチス・ルメイCurtis LeMay少将は、低空からの都市無差別爆撃に完全に切り替えた。 大都市が空襲によって焦土と化していく。

沖縄戦が開始されたのは,本土大空襲の時期であり,沖縄よりも本土防衛が優先された。他方、米軍は、沖縄を攻略すれば、台湾、中国沿岸、日本本土のすべてが、爆撃機の攻撃圏内に入る上に,中国・南方から日本本土への海上輸送ルートを完全に遮断できる。
沖縄に航空基地を整備すれば,日本本土を攻撃した爆撃機の不時着基地としても活用できる。

米海軍太平洋艦隊司令長官および太平洋方面総司令官のニミッツ元帥は、1945年3月に沖縄攻略計画「アイスバーグ作戦」に着手した。米軍は,日本本土に上陸・占領しなければ日本は降伏しないとの判断をした。

写真(右):沖縄攻略作戦を軍最高司令官たち説明するニミッツ提督;Admiral Chester W. Nimitz, Commander-in-Chief Central Pacific, briefs President Roosevelt, on offensive operations against the Japanese. ルーズベルトRoosevelt大統領の右の人物は、一色女史と交流もあったレーヒ提督Admiral Leahy,左隅はマッカーサー将軍General Douglas MacArthurで,当時は南西太平洋方面軍司令官Commander-in-Chief Southwest Pacificであった。

沖縄の陸軍守備隊 8万6,400名(+民間人からなる沖縄県民防衛隊・学徒隊・義勇隊22,000名)に加えて,沖縄の海軍守備隊 1万名も沖縄方面根拠地隊として司令官大田實少将の下にあった。
他方,米軍地上兵力は,上陸時の総兵力18万3,000名で 15万4,000名が7個師団に配属されていた。米軍の沖縄上陸部隊第一波は,総勢 11万6,000名である。

⇒◆沖縄地上戦「米海兵隊最後の作戦」を読む。

2.沖縄戦では、1945年3月26日の米軍の慶良間列島攻略以来、航空機による特攻と併用し、水上特攻艇を出撃させた。しかし、その一方で,沖縄本島では、持久戦を優先して、それまで建設に励んできた大飛行場群の防衛を放棄し、1945年4月1日の米軍沖縄本島上陸当日、飛行場群を占領されている。  

米軍は,沖縄本島上陸前に本島西方の慶良間列島に上陸した。日本軍は慶良間列島には米軍は上陸しないと考え,水上特攻隊(海上挺身隊)を配備し,背後から米軍艦船を特攻自爆艇で襲う計画だった。特攻自爆艇とは,木製小型モーターボートに爆薬240kgを搭載して体当たり攻撃するもので、海軍では「震洋」、陸軍では「マルレ」と呼ばれた。

米軍が慶良間列島を占領した際,350隻の水上特攻艇を破壊・鹵獲したとしているから,慶良間列島から出撃したと特攻艇は,100隻もないと思われる。既に,フィリピンのルソン島で3ヶ月前に実戦に使用しているとはいえ,効果は少なかった。

特攻兵器の開発:体当たり自爆艇「震洋」「マルレ艇」を読む。

写真(左):輸送艦「ネソーバ」;1945年3月27日、レイテ湾で第55任務部隊(the Southern Attack Force)に所属して、4月1日の夜明け前に Hagushi海岸の北方に到着した。 4月1日 0615、輸送艦「ネソーバ」からボートが降ろされ、沖縄上陸部隊第一陣第6派に参加した。Hアワー(H-hour)の後, 0830に「ネソーバ」は、輸送艦の指定地域にとどまり、夕方1653に積載貨物を降ろし始めた。「ネソーバ」は、3日間に渡って、 貨物を降ろし、搭載していた兵員を下船させた。上陸した部隊は、沖縄守備隊の反撃をほとんど受けなかった。(米国では、軍、研究所、退役軍人団体、個人がwebで戦時資料や写真を公開している。他方、日本の公的な戦史・艦艇戦歴、部隊歴のweb資料はない。これが、資金も組織も利用できる立場にもかかわらず、「愛国心をはぐくむ教育」の必要性を強調する政府のすること(しない?)ことか。) 

1945年3月23日,米艦隊が沖縄本島に艦砲射撃を開始。沖縄守備隊の第32軍は、甲号戦備(戦闘準備)を下令。本土の第10方面軍と海軍は「天一号作戦」を発動。
3月30日,沖縄本島上陸も必至となったため,米軍に使用させない目的で,沖縄守備隊は、沖縄本島西岸の北・中・南の3飛行場を自ら破壊した。しかし,爆薬不足のため,完全に破壊されたとはいえなかった。

沖縄地上戦「住民を巻き込んだ戦いと米軍による軍政」を読む。

 
写真(右):戦艦「ミズーリ」BB63
;最高速度33ノットの高速戦艦は,空母任務部隊とともに行動した。他方,第一次大戦型の旧式戦艦は14インチ砲12門を搭載していたので、最高速度21ノットの低速ながら、沖縄への上陸支援砲撃を実施。

  Pacific Chronology;This month in WWII Pacific History

1945年4月1日当日,米軍は沖縄を徹底して砲撃した。米軍による8インチ(20センチ)以上の砲弾消費は,4万4,825発,そのうち14インチ(36センチ)以上の砲弾は1800発を占める。
1945年4月2日から6月24日の期間で,米軍の8インチ以上の砲弾消費は51万3,650発,そのうち14インチ以上の砲弾消費は1万3800発に達した。ここで14インチ以上の大口径砲は,全て海上に浮かぶ戦艦、特に真珠湾で撃沈され引き揚げられた戦艦からの艦砲射撃である。 

4月1日、米軍は,中・北の2飛行場を上陸して3時間後の1130には占領した。飛行場は,米軍が新たに「嘉手納基地」「読谷基地」として,重爆撃機が離着陸できる基地へと整備された。つまり,米軍は空母任務部隊や護衛空母の艦載機に頼らなくとも,沖縄周辺の制空権を把握可能になった。

日本軍守備隊にとって,平坦なところにある飛行場を防備するのは不利であるが,それなら,飛行場を徹底的に破壊すべきであった。にもかかわらず,敵の攻撃を受ける2ヶ月前までは,飛行場を日夜整備し続けていたのであるから,とんでもない労力,物資,時間,資金を無駄にした。 

3.沖縄戦初期に特攻を主力とする天号作戦が発令され,戦艦「大和」を中心とする天一海上特攻も実施された。この特攻に関しては、殉国の情を抱いた将兵が自らの発意で敵に体当たりしたとする俗説が、流布されている。 

連合艦隊は戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊に連合艦隊司令長官(GF)電令作第六○三号を1359に発令し、天号作戦として海上特攻作戦を命令した。「第一遊撃部隊の戦艦大和、軽巡洋艦1隻、艦隊型駆逐艦8隻は,海上特攻として(4月)8日藜明沖縄島に突入を目途とし出撃を準備すべし。」

戦艦「大和」の海上特攻の真相を読む。

写真(右):1946年東京裁判にソ連側証人として出廷した元大本営参謀瀬島龍三中佐;瀬島参謀は、1944年末-45年初頭、外交特権を保持する伝書使(ク−リエ)として、ソ連モスクワの日本大使館を訪問した。ソ連の中立維持、日本の軍事情勢に関する情報を、モスクワの武官に伝える役目だったようだ。1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務、1945年7月1日、関東軍参謀,満州赴任の伝達を受けた。終戦時にソ連軍の捕虜になり、1946年9月に東京裁判に、ソ連側の証人として出廷した。「日本は対ソ侵攻計画を準備していた」との証言で、日本側弁護人に打撃を与えた。

大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は,1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務となり、2月末、連合艦隊司令部(日吉、現慶大キャンパス)に着任し、豊田副武長官、草鹿龍之介参謀長などに申告した。戦艦「大和」海上特攻を立案した先任参謀の神重徳海軍大佐とも旧知の間柄という。
自伝(1995)『幾山河−瀬島龍三 回顧録』p.167では、連合艦隊の戦力低下を指摘した後、特攻の自然発生説を主張している。 

「しかし、帝国海軍伝統の士気は極めて旺盛であった。3月17日からの九州/沖縄航空戦、次いで3月25日の慶良間列島への米軍上陸、4月1日の沖縄本島への米軍上陸などにおいて水上特攻、空中特攻(菊水)、人間魚雷(回天)、人間爆弾(桜花)など各艦隊、各部隊、第一線の将兵が自らの発意で敵に体当たりし、国に殉ずる尊い姿には、襟を正し、感涙を禁じ得ないものがあった。」 

このような「特攻自然発生説」には、次のような単純な疑問が沸く。
…召阿忙爐未戮状況にはない人間が、国に殉ずるためとはいえ、どうして体当たり特攻に出撃できたのか。残されるもの、家族のことをどのように考えたのか。
⊃祐峙雷、人間爆弾を開発,生産することが、第一線の将兵にできるのか。
B莪貔将兵の発意で体当たりをし、陛下から頂いた航空機を「無断で」自爆、破壊させてもよいのか。
し蛎發箸いΤ級組織で、第一線の将兵が「特攻作戦」を計画,組織,実行するだけの権限,人員,機材をもっているのか。


4.沖縄戦では,日本海軍による菊水作戦,陸軍による航空総攻撃が行われ,史上最大規模の特攻作戦が数次、3ヶ月にわたって展開された。 

空母を攻撃した特攻機 によれば,沖縄の特攻攻撃は次のような戦果を挙げた。
The task force took some of its heaviest casualties between March and May 1945. 1945年3月18日,空母「ヨークタウン」Yorktown, 「エンタープライズ」Enterprise,「イントレピット」Intrepidは,特攻機の命中を受けた。

1945年3月18日,第58任務部隊TF 58は,鹿児島,出水など九州南部を艦載機によって,攻撃した。3月19日の明け方,空母「フランクリン」は今まで出もっとも日本本土に「近づいた空母になったが,本州と神戸の船舶を攻撃した。突然,1機の敵機が雲に隠れて低空で接近し,2発の爆弾を投下した。爆弾は飛行甲板を突き破って爆発し,閃光が光った。艦内通信網は麻痺してしまった。

写真(右):空母「フランクリン」1945年3月18日,命中した爆弾により大損傷を受け,修理のためにニューヨクまで回航された。

空母「フランクリン」の多数の乗員は,特攻機命中による火災で殺されたり,負傷したりした。将校106名と下士官・兵 604名は,消火作業にかかったが死者 724名,負傷 265名という最大級の損害を被った。

第58任務部隊に所属していた空母「ワスプ」 Waspも, 空母「フランクリン」が被害を受けた後,数分で同じように爆弾が破裂した。空母「ワスプ」の死者は101名,負傷者269名である。 しかし,回航修理する直前まで,作戦任務についた。

1945年3月21日、日本軍は人間爆弾「桜花」を初めて使用した。「桜花」とは全長6mの翼をつけた1.2トンの小型飛行爆弾で,体当たり自爆用なので車輪など降着装置はない。母機の一式陸上攻撃機に懸吊、目標に接近してから投下される。「桜花」の搭乗員は、滑空させて目標に接近し,ロケット噴射して時速600-680kmで敵艦に体当たりする。「人間棺おけ」と呼ぶ搭乗員もいたという。 

写真(左):神雷特別攻撃隊(桜花隊)の細川八郎中尉;神雷部隊は、秘密兵器を使用する部隊として期待されており,軍令部総長及川古志郎大将が宇佐に視察にやってきたのに合わせて、「桜花」投下訓練が行われた。そのとき、上空の陸攻から切り離された「桜花」を操縦し、飛行場に胴体下のソリで見事に着地したのが、細川少尉(当時)である。次に投下された「桜花」搭乗員は、着地に失敗し殉職した。後日、連合艦隊司令長官豊田副武大将も視察に来たが、隊長は細川少尉に再度「桜花」の降下・着地訓練を模範演技として依頼した。しかし、細川少尉は「あと桜花に乗るのは死ぬときだけです」と断った。特攻隊員は、模範演技のような末節に命をかけるつもりはなく、上級者が命じたとしても断る勇気があった。細川中尉は、終戦まで生き残った。

大分県の海軍宇佐航空隊(宇佐空)の第721海軍航空隊で、人間爆弾「桜花」を装備する

神雷桜花特別攻撃隊が編成された。神雷部隊の隊員は150名いたが、予備学生(学徒兵)・予科練(少年兵)の出身者が143名と大半を占め、海軍兵学校出身者は7名に過ぎなかった。隊長は、野中五郎少佐で二・ニ六事件「叛乱部隊長」の弟であった。
人間爆弾「桜花」は横須賀で生産され、呉へ回航される大型空母(戦艦「大和」級を改造)「信濃」に50機が搭載され、九州方面に運搬予定であった.しかし、空母「信濃」は、1944年11月29日、紀伊半島沖で、米潜水艦の雷撃によって、撃沈。結局、「桜花」が宇佐空に届いたのは、1945年2月になってからという。

1945年3月21日出撃した第一次神雷攻撃隊は、桜花15機を吊るした母機の一式陸攻15機で、戦闘機50機が護衛する予定だった。しかし、戦闘機は、機体不調などの理由で30機の護衛にとどまった。神雷部隊は、多数の米戦闘機に迎撃され、敵艦艇近くの「桜花」投下地点まで到達できないうちに,攻撃隊は母機もろとも全滅する。陣頭指揮していた野中五郎少佐は戦死し、特攻隊として戦死した初めてで最後の佐官となった。(私兵特攻の宇賀機中将は除く。)

1945年3月21日、第一次神雷攻撃隊の出撃当日、宇佐空の練習航空隊は廃止され,教官(士官)・教員(下士官以下)による特攻隊が編成された。これは、指名による特攻隊への転換であり、志願による特攻隊員募集ではない。ここでは、錬度・技量の高い搭乗員は、通常攻撃部隊にまわされたようだ。(城山三郎(2001)『指揮官たちの特攻』参照。)

写真(左):米戦艦「ミズーリ」Missouri BB63の40mm四連装対空機銃に残る特攻機の残骸;1945年4月11日の被害の一部を撮影。A 40mm barrel is seen impaled by a machine gun from the kamikaze hit at Okinawa on 11 April 1945.

1945年4月7日(米国側),空母「ハンコック」Hancockが1機の特攻機の命中を受け,死者72名,負傷者82名の損害をだした。
1945年4月11日(日本側12日)多数の特攻機が攻撃してきた。これは菊水'floating chrysanthemum'作戦に出動した 185機の航空機である。空母「エンタープライズ」も特攻機の命中を受け 高速戦艦「ミズーリ」Missouriと2隻のレーダー警戒艦艇も若干の被害を受け,空母「エセックス」Essexも至近距離に特攻機が落ち,損傷。

1945年4月6日、日本海軍の連合艦隊は「菊水一号作戦」と称して、特攻機による大規模な攻撃を開始した。しかし、天号作戦の趣旨に反して,特攻は,米戦闘機と対空砲火で厳重に防御された米海軍艦艇を主要目標にしたものあり,護衛の手薄な商船は,主要攻撃目標とされることはなかった。輸送部隊は、補給という重要な任務を担っていたが、連合艦隊至上主義の日本海軍では、商船など命を犠牲にすべき目標とは考えられなかった。

特攻による米国商船の被害一覧では,フィリピン戦と沖縄戦の特攻が一部,商船にも特攻をかけていることがわかる。しかし,日本の航空機,人間魚雷による特攻は,沖縄方面で商船撃沈・全損3隻の戦果を揚げたに過ぎない。米軍の砲撃を誤って受けて被害を受けたものも含め,沖縄戦の米国の損傷商船数は,24隻で,うち死者が出た船は10隻だけである。特攻隊員も商船を目標として突入したくはなかったのであろう。 

写真(右):米軍に鹵獲された零式艦上戦闘機;日本海軍の主力戦闘機として1万機が製造された。戦争末期、パイロットの錬度不足と相俟って、F6F「ヘルキャット」など米軍戦闘機に太刀打ちできなかった。しかし、低性能にもかかわらず、護衛戦闘機あるいは爆装特攻機として多用され続けた。最高速度520kmだが、爆弾250kgを搭載した特攻「爆装」の場合、速度450km、航続距離1200km程度であろう。

第7部 戦艦大和の特攻出撃によれば、1945年4月6日の特攻隊の出撃は次の通り。
神風特攻忠誠隊:彗星3機:台湾新竹発:一飛曹 南義雄指揮官
神風特攻勇武隊:銀河4機:直掩、零戦4機:台南発:中尉 根元道雄指揮官
神風特攻第三建武隊:爆装戦闘機19機:鹿屋発:中尉 森忠司指揮官
神風特攻第一筑波隊:爆装戦闘機48機:鹿屋発:中尉 福寺薫指揮官
神風特攻第17神剣隊:中尉 松林平吉
神風特攻第一筑波隊:大尉 宮武信夫
神風特攻第三御楯252隊:爆装戦闘機20機:第一国分発:中尉 宮本十三指揮官
神風特攻第三御楯252隊:彗星24機:第一国分発:中尉 荒木武指揮官
神風特攻第三御楯601隊:中尉 百瀬甚吉指揮官
神風特攻第201彗星隊:大尉 児玉光雄指揮官
神風特攻菊水天山隊:天山16機:串良発:中尉 斉藤禄郎指揮官
神風特攻菊水天山隊:少尉 熊沢康夫指揮官
神風特攻第三御楯天山隊:少尉 吉田信太郎指揮官
神風特攻第一八幡隊:九七艦攻30機:串良発:大尉 山下博指揮官
神風特攻第一護皇白鷺隊:大尉 佐藤清指揮官
神風特攻第一正統隊:九九艦爆49機:第二国分発:大尉 桑原知指揮官
神風特攻第一八幡護皇隊:中尉 寺内博指揮官
神風特攻第一草薙隊:中尉 高橋義郎指揮官

写真(右):立川キ-36九八式直接協力機(九八直協);低速の地上偵察機だが,「誠」飛行隊の特攻機として使用された。最高速度340km。爆弾搭載量250kg。

1945年4月6日の出撃
陸軍特攻誠第36飛行隊:九八式直協10機:新田原発:中尉 住田乾太郎指揮官
陸軍特攻誠第37飛行隊:九八式直協9機:新田原発:中尉 柏木誠一指揮官
陸軍特攻誠第38飛行隊:九八式直協7機:新田原発:少尉 喜浦義雄指揮官
陸軍特攻第22振武隊:一式戦2機:知覧発:少尉 西長武指揮官
陸軍特攻第44振武隊:一式戦4機:知覧発:少尉 小原幸雄指揮官
陸軍特攻第62振武隊:九九襲5機:万世発:少尉 富沢健児指揮官
陸軍特攻第73振武隊:九九襲12機:万世発:少尉 高田鉦三指揮官
陸軍特攻第一特別振武隊:四式戦8機:都城西発:少尉 林弘指揮官


写真(右):護衛駆逐艦「ウイッター」DE-636 USS Witter;1945年4月6日に特攻機の命中により大破。Anchored off Okinawa May 1945 After being hit by "Kamikaze" on 6 April 1945. Buckley class Destroyer Escort: 排水量: 1,673 tons、全長: 306'、全幅: 36'10" 、深さ: 13'6"
速度: 23 knots、兵装:3インチ50口径砲3門、1x2 40mm, 4x1 40mm, 10× 20mm, 爆雷投射軌条2本,投射機 8基。21インチ魚雷三連装発射管1基。乗員: 15 officers, 198 enlisted Turbo-electric drive, twin screws, 1万2,000馬力。


1945年4月6日(金曜日);First heavy attack is made by Japanese suicide planes on United States ships at Okinawa, Ryukyu Islands;
1945年4月6日(金曜日)沖縄方面の米軍の沈没艦艇
沈没:駆逐艦Destroyer BUSH (DD-529), by suicide plane
沈没:駆逐艦 COLHOUN (DD-801), damaged by suicide plane, sunk by United States forces.
沈没:高速掃海艇High-speed minesweeper EMMONS (DMS-22), damaged by suicide plane, sunk by United States forces. 
沈没:戦車揚陸艦LST 447, by suicide plane


写真(右):1945年4月6日に特攻機が命中し損傷した護衛駆逐艦「ウイッター」Destroyer escort WITTER (DE-636);Built at Bethlehem Steel, San Francisco, and commissioned 29 December 1943 docked off Okinawa May 1945 After being hit by "Kamikaze" on 6 April 1945, Engineering Officer Bruno Naczkowski inspects damage


1945年4月6日(金曜日)沖縄方面の米軍損傷艦艇
戦艦 NORTH CAROLINA (BB-55), accidentally by United States naval gunfire(友軍による誤射)
軽空母SAN JACINTO (CVL-30), by suicide plane(自爆機)
軽巡洋艦PASADENA (CL-65), accidentally by United States naval gunfire
駆逐艦 MORRIS (DD-417), by suicide plane,
駆逐艦 BENNETT (DD-473), by suicide plane,
駆逐艦 HUTCHINS (DD-476), by suicide plane
駆逐艦LEUTZE (DD-481), by suicide plane,
駆逐艦 MULLANY (DD-528), by suicide plane
駆逐艦 HARRISON (DD-573), by suicide plane
駆逐艦 NEWCOMB (DD-586), by suicide plane
駆逐艦 HOWORTH (DD-592), by suicide plane
駆逐艦 HAYNESWORTH (DD-700), by suicide plane
駆逐艦 HYMAN (DD-731), by suicide plane
駆逐艦 TAUSSIG (DD-746), by horizontal bomber(水平爆撃)
護衛駆逐艦 Destroyer escort WITTER (DE-636), by suicide plane
護衛駆逐艦隊 FIEBERLING (DE-640), by suicide plane
高速掃海艦High-speed minesweeper RODMAN (DMS-21), by suicide plane
高速掃海艦 HARDING (DMS-28), by horizontal bomber
掃海艦 FACILITY (AM-133), by suicide plane
掃海艦RANSOM (AM-283), by suicide plane
掃海艦EFENSE (AM-317), by suicide plane
掃海艦DEVASTOR (AM-318), by suicide plane
掃海艇Motor minesweeper YMS 311, by suicide plane
掃海艇YMS 321, by suicide plane
潜水艦支援艦 Submarine chaser PCS-1390, accidentally by United States naval gunfire
輸送艦 Attack transport BARNETT (APA-5), accidentally by United States naval gunfire
高速輸送艦 High-speed transport DANIEL T. GRIFFIN (APD-38), by collision(衝突)
運搬艦 Attack cargo ship LEO (AKA-60),accidentally by United States naval gunfire
戦車揚陸艦 LST 241, accidentally by United States naval gunfire
戦車揚陸艦LST 1000, accidentally by United States naval gunfire


写真(左):駆逐艦「ロイツ」DD-481 USS LEUTZE
;1945年4月6日に特攻機の命中により大破。Displacement 2924 Tons (Full), Dimensions, 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max) Armament 5 x 5"/38AA, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5). Machinery, 60,000 SHP; General Electric Geared Turbines, 2 screws Speed, 38 Knots, Range 6500 NM@ 15 Knots, Crew 273.写真(右):1945年4月6日の駆逐艦「ロイツ」の損傷;Heavily damaged by Kamikaze Aircraft April 6 1945 Off Okinawa.8 of her crew were lost and remain on duty.


丸木政臣「沖縄無残なり」に次の記述がある。
4月6日。知覧の第二次特攻総攻撃の日。松田中尉が汚名挽回の出撃をしたとき。通信隊は沖縄アメリカ艦船間の無線の交信を傍受している。
通信隊情報係将校が通信用紙に「〇六四五 北西、怪物接近中、自殺機命中、火災発生、マタ爆発」「〇六五三 バーネット右舷ニ自殺機、曳キ船タノム、ケラマニ向ウ」などと書きこんでは作戦参謀に渡す。
「特攻機による被害は、艦船に対する直接的攻撃だけでなく、日本機がまっすぐ自分たちに体当たりしてくる奇想天外な作戦に、おびただしい戦闘疲労者(神経症)を出した」とも記述されている。

写真(右):米駆逐艦「ブッシュ」USS BUSH (DD 529);1945年4月6日特攻機の命中を受けた。特攻機の燃料が引火して,大火災となった。

U.S.S. BUSH(DD529)S-E-C-R-E-T ACTION REPORT(駆逐艦「ブッシュ」戦闘報告)を要約すると次のようになる。
4月6日1700, 2機の九九式艦上爆撃機"Vals"が米駆逐艦「ブッシュ」攻撃した。40mm対空機銃が火を噴いたが,特攻機は駆逐艦「ブッシュ」の3-4マイル先の「コルフン」の周囲を回ってから,「コルフン」に降下し,命中した。当時,15-20機が視界の中に見えた。1715に3機の敵機(零戦)が10マイル先で雲に入ったり,出たりして周回していた。1725に3機のうち1機が太陽を背にして「ブッシュ」に突っ込んできた。艦の前部にある40mm対空機銃で攻撃したが,ジャップの左翼が艦中部を横切って,1730に艦に命中した。大火災となり,艦はほぼ真っ二つに引き裂けそうになった。こうして艦の前後を行き来することは不可能になった。

10-15分後,3機のうち2番目の特攻機(零戦)が急降下してきて,「ブッシュ」の甲板に激突した。20mm機銃と40mm機銃で応戦し,命中弾を与えたが,そのまま突っ込んできたのである。さらに別の1機が,1745に艦の前部に命中し,いっそうの大火災となった。艦内に運ばれていた負傷者も,そのまま焼死した。


写真:4月6日に特攻機に撃沈され「殺された」駆逐艦「ブッシュ」乗員アルバート・ブロディAlbert Brody ;アルバートは、三番目の敵機が向かってきた時に、艦の前部戦闘指揮所にいた。Along with other damage, this plane demolished the forward battle-dressing station killing and injuring a number of men. The plane was filled with gasoline or other flamable liquid and a great deal of fire was spread across the forward portions of the ship. Albert was severely burned and shipmates tried to help him. こういった努力にもかかわらず、アルバートは艦と命をともにした。その艦に向かっていった最後の言葉 "Thanks for trying to help me, fellows."
写真(右):ポール・トレ−ラPaul Trella(18歳);Seaman Trella was killed in action on April 6, 1945 with the sinking of DD-529 by Japanese suicide planes during the Battle for Okinawa. 87名が駆逐艦「ブッシュ」で命を失ったが、ポールは、遺体が発見、回収された12名の一人である。

  写真(右):米駆逐艦「コルフン」USS Colhoun (DD 801);1945年4月6日沖縄沿岸で,米駆逐艦「ブッシュ」USS BUSH (DD 529)とともにカミカゼ特攻機の命中を受け、撃沈した。「ブッシュ」と「コルフン」はともに、攻撃を受けている最中に、何機かの敵日本機を撃墜した。

米軍の資料には、「これらの特攻は熟練した戦法で行われた。フィリピンのレイテ戦の時の特攻と比較して、より練度の高いパイロットを投入している。特攻機は,火災を引き起こしやすいように,余分な燃料を搭載していた」として、沖縄戦当初の特攻を高く評価している。実際には、未熟練パイロットが多かったが、攻撃目標となった艦船が多数集中していたために、米軍の戦闘機援護が不十分になり、特攻機が目標に接近しやすい状況が幸いしたようだ。

知覧特攻基地:学徒動員・勤労女学生・鳥濱トメ
1941年12月の日米開戦直後、大刀洗陸軍飛行学校の知覧分教所が開校された。ここは、1942年に陸軍の陸軍少年飛行兵10期生を受け入れて以降,学徒出身の特別操縦見習士官を含む操縦訓練学校として位置づけられていた。しかし、1945年に沖縄・台湾方面に米軍の侵攻が予想されるころには,九州最南端の航空基地として沖縄攻撃の拠点とされた。

つまり,航空機の航続距離は,1000-2500km程度が普通であるから,行動半径は,戦闘を考慮するとその三分の一,特攻攻撃でも目標までの捜索距離と重い爆弾搭載を考慮してその二分の一程度でしかない。したがって,来航する米軍を沖縄方面で迎撃するには,九州最南端に航空基地を整備する必要があった。

こうして,沖縄の米軍を攻撃する航空基地として鹿児島県に整備されたのが,陸軍の(川辺郡知覧町)知覧飛行場,(加世田市)萬世基地,海軍の鹿屋飛行場,串良飛行場など,九州南部の航空基地である。

南西諸島の徳之島・喜界島(きかいがしま)には、特攻機が機体不調,天候不良,航法未熟,中継などのさまざまな理由で,立ち寄った。徳之島飛行場は,特攻隊の正規の発進基地ではないため、忘れられているが,燃料補給、エンジンの整備だけではなく,生きて踏んで見た最後の土地として重要である。いったんは死ぬ覚悟をしたものの,その前に,中継基地に立ち寄りたくなっても不思議ではない。

写真(右):知覧の富屋食堂;特攻隊員と地元の方々との交流や悲話のあった軍指定食堂「富屋食堂」が、平成13年10月に外観は当時のままに、内部は資料館として復元された。富屋の鳥濱トメは,特攻隊員から母のように慕われた。

知覧の富屋(フヤ)食堂は,1929年(昭和4年)、鳥濱トメ27才の時に開かれた。普段は、うどん・そば・どんぶりもの、夏場は、かき氷なども出し、繁盛する。トメの気さくな性格と食堂の家庭的な雰囲気に惹かれ、後1942年に最初の少年飛行兵10期生が到着したとき、鳥浜トメは隊員たちを我が子のように面倒をみた。隊員達も「お母さん」と呼ぶようになった。だが戦況は悪化し、知覧にも、特攻と言う名の非常な作戦が遂行される様になる。

陸軍「指定食堂」だった知覧の富屋食堂には,若い特攻隊員から母のように慕われた鳥浜トメの次のような話が残っている。

写真(左):特攻隊員宮川三郎軍曹(19歳);宮川は「明日ホタルになって帰って来るよ」と言い残し出撃した。その夜富屋食堂にいたトメと娘たち、出撃前の隊員たちは一匹のホタルを見て「同期の桜」を歌い、涙を流した。

写真(右):赤羽礼子・石井宏(2001)『ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子』;宮川軍曹出撃の話がのっている。軍の指定食堂の鳥濱トメ、長女鳥濱美阿子、次女鳥濱礼子と特攻出撃する少年飛行兵との交流、戦後のアメリカ兵の母の話など、特攻の内面が伝えられる。

特攻隊員宮川三郎が蛍になって,鳥浜トメの元に戻ってくる話は,知覧飛行場近くの富屋食堂でのことある。

知覧で出撃を待つ特攻隊員は、富屋食堂に出入りし、42歳の女主人鳥浜トメ を母のように慕っていた。トメは,死に行く少年のために優しく甘えさせたようだ。1945年6月5日,宮川三郎軍曹は,20歳の誕生日をトメは心づくしの料理で誕生日を祝い,明日に控えた出撃のはなむけとした。 

途中、空襲警報が鳴り、みなで防空壕に避難し,そこから出てきたときにいった。「母さんお世話になりました。お国の為に、見事に散ってまいります。そして、私はホタルとなって、母さんのもとに帰ってまいります。ホタルを見たら私だと思ってください。」といったという。

6月6日の宵になって,特攻隊員で賑わう富屋食堂に一匹のホタルが舞いこんで来た。それを見つけたトメは「宮川さんが帰ってきた」と叫び,泣いた。(→赤羽礼子[トメの娘]石井宏(2001)『ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子』

戦死した特攻隊の若者も、体当たりされ戦死した米海軍の若者も、平和な時代であったなら、よき友人、ライバルになったかもしれない。敵国となり戦争となったために、お互いが殺しあう羽目に陥った。特攻隊員も、米国の若者を殺害するといった意識はなかったであろう。米海軍の若者も、若い特攻隊員と交歓し、話し合う機会があれば、テロリストとは感じなかったであろう。 

写真(左):知覧の富屋食堂の鳥濱トメの娘礼子と特攻隊員;鳥浜トメ・礼子らのいる軍指定食堂「富屋食堂」で,特攻隊員は,一人の若者として最後のときを過ごした。礼子さんは、2005年に亡くなった。

 鳥浜トメは,古いアルバムを持っていたが,ほとんどの写真がはがされている。これは,戦後になった知覧を訪れた特攻隊員の遺族が写真を乞うたためである。
特攻隊員は,自分の写真をもっていたり,撮ったりしたが,出撃に当たって,トメに預けたのであろう。隊員が,写真を故郷に送ることも,出撃基地も家族にも知らせること軍事秘密として禁じられていたからである。
残っている写真は韓園と台湾出身者のものが多い。遺族の手に届かない写真があることを,鳥浜トメは気にかけていたという。

1945年3月27日、知覧高等女学校の二年生(15歳前後)は、三年生の進級直前に勤労動員され、知覧基地で、特攻隊員の洗濯、裁縫、食事、宿舎の掃除をすることとなった。彼女たちの多くは、祖国・家族を命がけで守ってくれる特攻隊員を崇敬し、最善と思われる「お世話」をしようと誓っていた。その話は、 『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」、前川笙子の日記、その続きは『特攻』第28号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」、前川笙子の手記と特攻隊員の返事にでている。

「---知覧の事は自分の短い一生ですがいい思い出になります。礼子さんの贈り物は自分の最后を見届けて呉くると思います。飛行機に乗るのは一人ですが自分の心には真心を乗せて征きます。薩摩乙女の奉仕を受けて散る私たちは幸福なのかもしれません。今の私達には親兄弟の事も無く唯敵撃滅の燃えるような心のみです。
礼子さんのお手紙に依り銃後の事は安心です。戦をするものにとって銃後の事ほど心に掛かる事はないと思います。自分も安心して死ねます。
いざ征かん愛機とともに散華まで
---だが決して死を早まらんつもりです。任務を完遂するまでは断じてやります御安心ください。----
   三郎拝

西庄三郎、1945年5月4日戦死。

『特攻』第29号14頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」、鳥濱礼子の手記では、特攻兵舎を去る特攻隊員の手紙が記載されている。 

「---私たちは何時までも知覧にいたいのですが上からの命令でいたし方ありません。私達の事は死んでも忘れないで居てね。花の都の靖国神社に先に行っております。席も私達の横にちゃんと空いておりますよ。皆さんも死んだら靖国神社だね。いいなあ。敵を徹底的に撃滅するまでは死んでも死ねないからね。
皆さんたちとこの知覧で愉快に過ごしたことは一生忘れません。
吾身はたとえ此の世を去らんとも、乙女心で咲いてくれ。
---かわいいマスコット、見れば忘れはせぬよ、知覧の町。
---明日は出発です。お元気でね。皆さんたちの御健康をお祈りしています。出撃のときは知覧の上空を飛んで行きますから送ってね。私たちもいざという時は喜んで死んで行きます。---  光男より」

稲田光男(18歳)は、1945年5月10日戦死

⇒◆知覧特攻隊と学徒動員・勤労女学生・鳥濱トメ 

九州南方の特攻基地は、知覧西方の吹上浜のある加世田村にあった萬世基地である。ここには、加世田市平和祈念館(別称万世特攻平和祈念館)がある。

徳之島には「特攻・平和慰霊塔」が、陸軍徳之島飛行場跡の滑走路北端に立っている。

海軍特攻隊(狭義の神風特攻隊)の基地は,鹿屋基地で、現在、海上自衛隊鹿屋航空基地史料館がある。ただし、知覧などの陸軍特別攻撃隊は、国内外で「カミカゼ」「神風特攻隊」として海軍特攻隊に限定しない。

沖縄32軍は反撃開始を4月7日とし、その支援のため、戦艦「大和」,軽巡洋艦「矢矧」,駆逐艦8隻からなる第一遊撃隊は,伊藤整一中将に率いられて沖縄に出撃した。つまり,日本陸・海軍は,航空隊と水上艦隊の共同作戦によって、4月6日・7日と米軍の地上部隊・艦隊に総攻撃を実施したのである。

菊水一号作戦・第一次航空総攻撃(4月6日〜4月9日)
参加航空機数は,海軍391機,陸軍133機で海軍特攻215機,未帰還178機。

米軍は,空母任務部隊の空母を高速戦艦,巡洋艦,駆逐艦で援護し,さらにその沖縄と日本本土の間に,レーダー警戒網を張り巡らした。これは,駆逐艦以下の艦船のレーダー装備の艦艇を,警戒ピケを張るように配備したものである。


写真:F4U「コルセア」戦闘機:5インチロケット弾(127mm HVAR)8発あるいは454kg爆弾2発を主翼下面に装備できる。沖縄では地上攻撃に威力を発揮した。F4U「コルセア」戦闘機は逆ガル式の反った主翼のおかげで,大直径のプロペラを装備できた。


空母の艦載戦闘機は,レーダー装備の艦艇に乗船している戦闘機指揮所から指令・情報を得て,的確に任務部隊を攻撃しようと接近してくる日本機を迎撃し,確実に撃墜していった。この戦闘機の主力となったのが,グラマンF6F「ヘルキャット」とチャンスボートF4U「コルセア」である。武装は,12.7mm機銃6門で,最高速度はF6Fは595km,F4Uは640kmと日本の戦闘機よりも高速で,防弾版を装備し,撃墜されにくかった。機体の重量は,日本機よりも遥かに重かったが,大出力の2000馬力Pratt & Whitney R-2800エンジン(日本機は1100-1800馬力)を装備しているため,性能がよく,機体の信頼性も遥かに高かった。

第7部 戦艦大和の特攻出撃によれば、1945年4月7日の特攻機出撃は次の通り。 
神風特攻第四建武隊:爆装戦闘機13機:鹿屋発:中尉 日吉恒夫指揮官
神風特攻第三御楯601隊:彗星11機:第一国分発:大尉 国安昇指揮官
神風特攻第三御楯706隊:銀河12機:宮崎発:少尉 徳平宰郷指揮官
神風特攻第四銀河隊:少尉 三木光指揮官
神風特攻第三御楯252隊:爆装戦闘機18機:第一国分発:中尉 富岡崇吉指揮官

4月7日の陸軍特攻

写真:特攻機として多用された陸軍一式戦闘機「隼」;1944年末からフィリピン戦,沖縄戦で特攻に出撃した。

陸軍特攻第22振武隊:一式戦1機:喜界島発:少尉 大上弘指揮官
陸軍特攻第22振武隊:一式戦1機:知覧発:少尉 中村実指揮官
陸軍特攻第44振武隊:一式戦2機:徳之島発:少尉 甲斐玉樹指揮官
陸軍特攻第46振武隊:九九襲5機:喜界島発:少尉 小山勝実指揮官
陸軍特攻第74振武隊:九九襲7機:万世発:大尉 伊藤実指揮官
陸軍特攻第75振武隊:九九襲4機:万世発:大尉 大岩寛指揮官
陸軍特司偵振武隊:百式司偵2機:万世発:中尉 竹中隆雄指揮官


写真:1945年4月7日、特攻機が命中した空母「ハンコック」
HANCOCK (CV-19)

1945年4月7日(土曜)沖縄方面の米軍の沈没・損傷艦艇
沈没:砲艦PGM-l8, by mine, Okinawa area, 26 d. 13'N., 127 d. 55'E.
損傷:空母HANCOCK (CV-19), by suicide plane 
戦艦 MARYLAND (BB-46), by suicide plane
駆逐艦 LONGSHAW (DD-559), by suicide plane
護衛駆逐艦 WESSON (DE-184), by suicide plane
掃海艇 YMS-81, by suicide plane
掃海艇 YMS-103, by mine
掃海艇 YMS-427, by coastal defense gun
貨物運搬艦AUDRAIN (APA-59), accidentally by United States naval gunfire
戦車揚陸艦LST 698, by grounding
戦車揚陸艦 LST 890, by collision


写真:1945年4月7日、特攻機が命中した空母「ハンコック」
 

1945年4月7日の日本軍艦艇の沈没
戦艦「大和」 YAMATO, by carrier-based aircraft, East China Sea,30 40'N., 128 03'E.
軽巡洋艦「五十鈴」 ISUZU, by submarines GABILAN (SS-252) and CHARR (SS-328), off Celebes, インドネシア方面 07 d. 38'S., 118 d. 09'E.
軽巡洋艦「矢矧」YAHAGI, by carrier-based aircraft, East China Sea, 30 d. 40'N., 128 d. 03'E.
駆逐艦「朝霜」ASASHIMO, by carrier-based aircraft, 31 d. 00'N., 128 d. 00'E.
駆逐艦「浜風」HAMAKAZE, by carrier-based aircraft, 30 d. 40'N., 128 d. 03'E.
駆逐艦「磯風」ISOKAZE, by carrier-based aircraft, 30 d. 40'N., 128 d. 03'E.
駆逐艦 「霞」KASUMI, by carrier-based aircraft, 30 d. 57'N., 127 d. 57'E.


4月8日、特攻隊あいついで知覧に到着し、飛行機の誘導、擬装などで騒然となったが、そのときの様子は、丸木政臣「沖縄無残なり」次のように記されている。

  陸軍の部隊には「命令受領」という形式がある。部隊長が副官を通じて、隷下の各中隊に状勢を分析し、諸要の任務を伝達するもので、各中隊からは指揮班の責任者が本部に受領に集まってくる。知覧の基地では朝8時に基地本部で指令副官の福島中尉が命令伝達をやり、教育隊、警備隊、整備隊、保安隊、工作隊などが伝達をうける。 

8日の命令伝達は異常で、今津司令、中田作戦参謀、福島中尉が顔をそろえ、今津司令から「7日の攻撃において、第二二振武隊5機、第二九振武隊6機、第四四振武隊4機、第四六振武隊5機、第七四振武隊7機、第七五振武隊7機を出撃させたが、この34機のうち不時着3機、エンジン不調で帰還したもの8機をかぞえる。じつに三分の一が攻撃を中断している。もちろん飛行機の不良もあろうが、攻撃隊員の志気の低下もあげなければならない。臆病風にふかれて出撃以前に体の不調をあげつらうものもある状態である。沖縄の防衛のためにわれらの任務がいかに重大であるかを考え、隊員の志気を昂揚するようにつとめてほしい。福岡の第六航軍菅原中将よりも昨夜とくにこの点について注意があったことを伝えておく」という異例の話があった。 

そういえば出撃にあたって故障する特攻機がふえており、途中から引き返す機も途中から引き返す機もあって、なんとなく沖縄戦の展開と相俟って、特攻作戦そのものにかげりを感じていたところである。そうしたなかでも、4月は出撃がなかった日は5、6日で連日若者たちは死地に赴いた。私の記憶するかぎりとくに16日、28日の総攻撃はすさまじく各50機以上が出撃した。しかし実戦機が不足して、練習機や旧型機にも爆装して出撃する有様で、特攻隊員の中に「あれでは目的地までいきつけない、まるで自殺とおなじじゃないか」と語られていた。 


写真(上):1945年1月の迷彩塗装をした駆逐艦「ステラ」と1945年4月9日沖縄方面で、九九式艦上爆撃機の特攻を受けた駆逐艦「ステラ」;26 d. 47'N., 128 d. 42'E.

1945年4月1日, 駆逐艦STERETTは、レーダー警戒ピケの任務に4月9日までついていた。 当日、対空砲火にも関わらず、九九式艦上爆撃のカミカゼ攻撃を、艦橋下の舷側の水線に受けた。 STERETT に人員の損害はなかったが、慶良間列島に退避し応急修理を施した。その後、米本土のPuget Sound 海軍工廠Naval Shipyardで修理を行うために帰還した。
海軍工廠ではで、カミカゼに対処するために対空防御を強化した。これは、Mk63レーダーの装備、射撃管制装置の変換、そして魚雷発射管を撤去した後への40ミリ機銃の増設である。しかし、太平洋戦線に復帰したとき、日本が降伏した。(→History of DD-407

写真(右):艦上爆撃機「彗星」;後期の空冷1500馬力エンジンを搭載してもっぱら陸上機として特攻機としても使用された。

菊水二号作戦・第二次航空総攻撃(4月10日〜4月15日)

1945年4月11日の特攻 
神風特攻第五建武隊:爆装戦闘機16機:鹿屋発:中尉 矢口重寿指揮官
神風特攻第三御楯252隊:爆装戦闘機34機:第一国分発:指揮官 上飛曹 竹下 博
神風特攻第三御楯601隊:爆装戦闘機:第一国分発:二飛曹 平賀左門指揮官
神風特攻第210零戦隊:爆装戦闘機:第一国分発:少尉 福地貴指揮官
神風特攻第五銀河隊:銀河17:宮崎発:大尉 山本裕之指揮
神風特攻第第三御楯252隊:彗星9機:第一国分発:大尉 本田実指揮官
神風特攻第210彗星隊:第一国分発:大尉 鈴木文夫指揮官
陸軍特攻第隊22振武隊:一式戦1機:徳之島発:少尉 柴田秋歳指揮官
陸軍特攻第46振武隊:九九襲1機:喜界島発:伍長 米山和三郎指揮官
陸軍特攻第飛行第19戦隊:三式戦3機:台湾宜蘭発:少尉 大出博紹指揮官
陸軍特攻第飛行第105戦隊:三式戦2機:台湾宜蘭発:少尉 神尾幸夫指揮官
陸軍特攻第飛行第神翔攻撃隊:九九式軍偵2機::中尉 座間重信指揮官

写真(右):1945年4月11日,特攻機の攻撃を受ける米戦艦「ミズーリ」BB63:このような高速戦艦は空母の護衛任務に、低速旧式戦艦は上陸部隊への支援射撃を担当した。  

1945年4月10・11日沖縄方面の米軍の沈没・損傷艦艇 
掃海艦YMS-96, by collision(衝突)
潜水艦母艦 SC-661, by grounding
揚陸艦LST 449, by coastal defense gun
戦艦MISSOURI (BB-63), by suicide plane
空母ENTERPRISE (CV-6), by suicide plane,
空母 ESSEX (CV-9), by dive bomber
駆逐艦TRATHEN (DD-530), accidentally by United States naval gunfire
HALE (DD-642), by dive bomber
駆逐艦BULLARD (DD-660), by suicide plane
駆逐艦yer KIDD (DD-661), by suicide plane
駆逐艦HANK (DD-702), by aerial strafing
護衛駆逐艦MANLOVE (DE-36), by aerial strafing
護衛駆逐艦SAMUEL S. MILES (DE-183), by suicide plane
輸送艦 BERRIEN (APA-61), by collision(衝突)
貨物輸送LEO (AKA-60), accidentally by United States naval gunfire,
揚陸艦 LST 399, by grounding

1945年4月27日夜の米軍の対空砲火はすさまじい。レーダー誘導式の管制装置や近接信管を持つ強力な対空砲火に阻まれ,夜間であっても日本機が米軍艦船を攻撃するのは困難であった。

「飛行第十九戦隊特攻の碑」に思う
  台湾の第八飛行師団飛行第十九戦隊の三式戦は、沖縄戦で二十二名の操縦者を失い、内十七名が特攻戦死である。その一人大出博紹少尉(特操1期)の突入の模様を、直援の渡部國臣少尉(陸士57期)が大出少尉の両親に次の通り報告している。

  「4月11日勇躍多くの人に送られ基地宣蘭を発つて一路沖縄へと進攻しました。大出君は攻撃間私の僚機につき発って帰らぬ首途へ従容として居られました。進攻間僚機の位置にぴったりとつき、手を上げて笑って居られました。薄暗くなつた頃漸く敵機動部隊を発見、白い航跡をくっきり残して進んで行くのが見えました。丁度右下で、対空砲火は忽ち2機を包んでしまいました。この時私が翼を振り合図するや、大出君は私に近づき莞爾として手を振りつつ反転して最も大きな巡洋艦に真直に突入んで行かれました。瞬間黒煙天を突き、艦は真っ黒い煙の中に包まれていました。攻撃間幸いに敵戦闘機には 全然遭遇せず攻撃は成功したわけであります。私は言葉には言い表すことの出来ない淋しい気持ちでありました。我々も直ぐ後に続きます。出動も間近に迫っております。乱筆御許し下さい。」 

菊水二号作戦・第二次航空総攻撃(4月12日)

写真(右):九七式艦上攻撃機11型 1945年4月6日茨城県百里原基地から鹿児島県串良基地へ移動する。串良基地からは4月12日に出撃。
主に,陸軍は知覧基地から,海軍は串良基地,鹿屋基地から沖縄方面に特攻した。写真は蒼空の果てに「百里原航空隊」引用。


第3神風特攻神雷桜花隊:桜花8機:鹿屋:中尉 今村遉三指揮官
第3神風特攻神雷桜花隊:一式陸攻8機:鹿屋:中尉 野上祝男指揮官
海軍神風特常盤忠華隊:九七式艦攻22機:串良:大尉 西森秀夫指揮官
海軍神風特攻第2護皇白鷺隊:九七式艦攻:串良:候補生 野元純指揮官
海軍神風特攻第2八幡護皇隊艦攻隊:九七式艦攻:串良:中尉 芳井輝夫指揮官
海軍神風特攻第2八幡護皇隊艦爆隊:九九式艦爆:串良:少尉 山口正人指揮官
神風特攻第2草薙隊:九七式艦攻:串良:少尉 高橋渡指揮官
神風特攻第2至誠隊:九七式艦攻:串良:少尉 津久井正夫指揮官指揮官
神風特攻第2七生隊:爆装戦闘機19機:串良:中尉 田中指揮官指揮官

写真(左):三菱キ-51九九式襲撃機(九九襲);固定脚の地上攻撃機だが,特攻機として使用された。最高速度430km。爆弾搭載量250kg。

陸軍特攻誠第16飛行隊:一式戦1機:-:軍曹 上野勉指揮官
陸軍特攻誠第26飛行隊:一式戦3機:-:少尉 神田正友指揮官
陸軍特攻第20振武隊:一式戦3機:知覧発:少尉 穴沢利夫指揮官
陸軍特攻第43振武隊:一式戦3機:知覧発:少尉 岸誠一武指揮官
陸軍特攻第46振武隊:九九襲1機:万世発:少尉 森 光武指揮官
陸軍特攻第63振武隊:九九襲1機:万世発:少尉 滝口尚文武指揮官
陸軍特攻第69振武隊:九七式戦4機:知覧発:少尉 池田享指揮官
陸軍特攻第74振武隊:九九襲1機:万世発:伍長 橋本圭作指揮官
陸軍特攻第75振武隊:九九襲4機:万世発:軍曹 政井柾一指揮官
陸軍特攻第102振武隊:九九襲11機:万世発:少尉 天野重明指揮官
陸軍特攻第103振武隊:九九襲11機:知覧発:少尉 石切山文一指揮官
陸軍特攻第104振武隊:九九襲7機:万世発:少尉 小佐野隆広指揮官
陸軍特攻第1特別振武隊:四式戦2機:都城西発:少尉 伊藤二郎指揮官
陸軍特攻司偵振武隊:百式司偵2機:鹿屋発:少尉 東田一男指揮官

写真(右):1945年4月12日、知覧を出撃する第20振武隊のキ43一式戦 鹿児島県知覧基地には、知覧高等女学校三年生が桜の枝を振って、特攻隊の出撃を見送る。搭乗するのは第20振武隊の隊長穴沢利夫少尉(23歳)と思われる。遺書には、婚約者に宛てて「今更何を言うか、と自分でも考えるが、ちょっぴり慾を言ってみたい」として、1.読みたい本、2.観たい画、3.智恵子(婚約者)「会いたい。話したい。無性に。」とあった。(靖国神社編(1994)『いざさらば 我はみくにの 山桜』pp.67-68参照)この写真の桜の枝を取ったとき、出撃撮影の様子は、 『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」、前川笙子の日記に出ている。

写真:1945年4月12日の特攻機による損害を修理する米戦艦「テネシー」;Tennessee (BB-439に修理船 Ajax (AR-6)が横付けし修理している。甲板前方の白いカバーは、特攻機命中で殺された米水兵の棺である。1945年5月8日撮影。
写真:1945年4月12日,特攻機に撃沈された駆逐艦「マナート・アベル」USS Mannert L. Abele DD-733 (Sumner Class) ;ボストン沖で,1944年8月1日撮影。1945年4月12日に特攻機と人間爆弾「桜花」の合計2機の命中を受けて,撃沈。人間爆弾が命中して撃沈した唯一の艦船である。竣工 1944/4/13,撃沈1945/4/12. 乗員73名死亡。

写真:1945年4月1日、沖縄上陸日に艦砲射撃する戦艦「アイダホ」;1945年4月12日の菊水2号作戦の特攻機の命中を受けた。排水量 32,000トン, 全長 624' (oa) x 97' 5" x 31' 1" (Max) 主砲 12門 x 14インチ砲。

菊水二号作戦・第二次航空総攻撃(4月12日)の戦果
1945年4月12日(木曜)沖縄方面の米軍の沈没・損傷艦船
沈没:駆逐艦 MANNERT L. ABELE (DD-733), by piloted bomb,27 d. 25'N., 126 d. 59'E. 
損傷:戦艦 NEW MEXICO (BB-40), accidentally by United States naval gunfire,
戦艦IDAHO (BB-42), by suicide plane
戦艦TENNESSEE (BB-43), by suicide plane
駆逐艦STANLY (DD-478), by piloted bomb
駆逐艦PURDY (DD-734), by suicide plane
駆逐艦ZELLARS (DD-777), by suicide plane
駆逐艦CASSIN YOUNG (DD-793), by suicide plane,
護衛駆逐艦RIDDLE (DE-185), by suicide plane
護衛駆逐艦RALL (DE-304), by suicide plane
護衛駆逐艦WALTER G. WANN (DE-412), by suicide plane
護衛駆逐艦WHITEHURST (DE-634), by suicide plane
敷設艦LINDSEY (DM-32), by suicide plane
敷設艇JEFFERS (DMS-27), by suicide plane and piloted bomb(桜花),26 d. 50 N., 126 d. 35'E.
掃海艇GLADIATOR (AM-319), by suicide plane
給油艦WABASH (AOG-4), by collision(衝突)
輸送艦WYANDOT (AKA-92), by collision,
揚陸艦LST 555, by grounding

米軍は,艦艇の被害報告や戦闘詳報作成し,それらは現在webで公表されているものも多い。日本軍のこのような文書は廃棄されたり,閲覧に支障が多いが,米国での情報公開は進んでいる。公式文書から窺うことができるのは,自爆攻撃,自殺攻撃と特攻を嫌悪していた米軍であるが,特攻の被害や作戦を冷静に分析し,対策を立てていたことである。

また,ジュラルミンの軽い機体の特攻機が,600km程度の低速で艦艇に自爆しても,燃料漏出や引火による大火災を引き起こさない限り,2000トン以下の小艦艇であっても,なかなか撃沈できなかったことも判明している。日本軍が期待していたような「一機よく一艦を屠る」という事例は,ほとんどない。特攻機が複数命中しても,沈没しない艦船が多数あったのである。

特攻による米国商船の被害一覧によると,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は,6隻で,特攻を受けも沈まなかった商船のほうが多かったようだ。

Landing Ship Medium (LSM)はロケット弾搭載上陸用舟艇LSM-R(LANDING SHIP MEDIUM ROCKET)として、上陸支援を行った。

1945年4月11日,米戦艦「ミズーリ」に特攻する零式艦上戦闘機:零戦は、この後、海中に落下し、甲板に軽い損傷を受けただけですんだ。戦艦「ミズーリ」では1945年9月3日に太平洋戦争における連合軍への日本の降伏調印式が行われた。About to be hit by a Japanese A6M "Zero" Kamikaze, while operating off Okinawa on 11 April 1945. The plane hit the ship's side below the main deck, causing minor damage and no casualties on board the battleship. A 40mm quad gun mount's crew is in action in the lower foreground. The photographer has been identified as Seaman Len Schmidt. 

DD-733 Mannert L. Abele
4月11日1440、駆逐艦「マナート・アベル」は、1機撃墜し,別の1機が4000ヤード離れた海面に激突した。5インチ砲と機銃の命中にもかかわらず、煙と炎をたなびかせて、三番目のカミカゼが甲板に命中し、機関室が爆発した。At about 1440 three Zekes broke orbit and closed to attack. Mannert L. Abele drove off one and splashed another about 4,000 yards out. Despite numerous hits from 5-inch bursts and antiaircraft fire, and spewing smoke and flame, the third kamikaze crashed the starboard side and penetrated the after engineroom where it exploded.

駆逐艦「マナート・アベル」は、直ぐに艦首を下にして沈没しはじめ、機械室にも浸水した。竜骨が折れて、艦橋からの管制が不能になり、動力が利かなくなった。Immediately, Mannert L. Abele began to lose headway. The downward force of the blast, which had wiped out the after engineering spaces, broke the destroyer's keel abaft No. 2 stack. The bridge lost control and all guns and directors lost power.

写真(左):駆逐艦「マナート・アベル」USS Mannert L. Abele DD-733 ;off Boston, 1 August 1944.1945年4月12日に特攻機と人間爆弾「桜花」の合計2機の命中を受けて,撃沈。大きく連装砲塔も並んでいるので,実戦経験のない特攻機搭乗員は,大型巡洋艦あるいは戦艦と見間違えたかもしれない。

特攻機と「桜花」の2発の命中を受けて撃沈した駆逐艦「マナート・アベル」USS Mannert L. Abele DD-733 (サムナー級)のデータ
排水量3218トン,全長 376' 6"(oa) x 40' 10" x 14' 2" (Max)
武装 6門 x 5インチ/38AA (3x2), 12門 x 40mm対空機関砲, 11丁 x 20mm 対空機銃, 10門 x 21インチ魚雷発射管(2x5).
機関 60,000 SHP; General Electric Geared Turbines, 2 screws
最高速力 36.5 Knots, 航続距離 3300馬力 20 Knots, 乗員Crew 336名.
竣工 1944/4/13,撃沈1945/4/12. 乗員73名死亡。

1分ほどしてから,4月11日1446、駆逐艦「マナート・アベル」に人間爆弾「桜花」が舷側に命中した。2600ポンドの弾頭が爆発し、艦内の通信、電灯がすべて不通になった。A minute later, at about 1446, Mannert L. Abele took a second and fatal hit from a baka bomb a piloted, rocket powered, glider bomb that struck the starboard waterline abreast the forward fireroom. Its 2.600 pound warhead exploded, buckling the ship, and "cutting out all power lights, and communications." 

駆逐艦「マナート・アベル」は、直ぐに真っ二つに切断され、急速に沈みはじめた。生存者は敵機の爆撃した海域に漂うことになった。中型揚陸艦189号、190号がパーカー指揮官の下で、攻撃を受けながら、生存者救出という支援艦として黄金と同じ重量に匹敵する仕事をした。Almost immediately, Mannert L. Abele broke in two. her midship section obliterated. Her bow and stern sections sunk rapidly. As survivors clustered in the churning waters enemy planes bombed and strafed them. However LSMR-189 and LSMR-I90, praised by Comdr. Parker as "worth their weight in gold as support vessels," splashed two of the remaining attackers, repulsed further attacks, and rescued the survivors.

写真(左):人間爆弾「桜花」を搭載した一式陸上攻撃機;三菱G4Mは最高速度430kmの攻撃機(日本海軍では水平爆撃・雷撃を行う機種をさす)であるが,1トン以上ある人間の操縦する爆弾を胴体下に吊り下げて搭載したため,空気抵抗も大きくなり,速度は350km程度に低下したであろう。人間爆弾「桜花」の攻撃は数回行われ、「桜花」20機以上が出撃したが、攻撃前に母機の一式陸上攻撃機とともに撃墜されることが多く、「桜花」命中による撃沈は、駆逐艦「マーナー・アベル」Mannert L. Abeleただ1隻である。

駆逐艦「マーナート・アベル」Mannert L. Abeleは,人間爆弾「桜花」 the baka bombによって撃沈された唯一の艦艇である。沖縄方面で,レーダー警戒の任に就いている3隻が特攻機の命中を受けた。

日本軍は沖縄作戦に力を注いだが,小型艦艇によるレーダー警戒網の整備が進展していたおかげで,沖縄方面の米艦艇の防衛は成功したといってもよい。Despite the enemy's desperate efforts, the radar pickets successfully and proudly completed their mission, thus insuring the success of the campaign.


写真(左):機雷敷設艦「リンゼイ」Light Minelayer MMD-32 Lindsey;1945年4月12日の特攻機による大損害を受けた。
写真(右):4月12日に特攻機が命中し大破した機雷敷設艦「リンゼイ」;The Lindsey was hit while leading a mine sweeping unit off Okinawa by two Kamikazes on 12 April 1945. She made it back to the states and with a new bow she rejoined the fleet.


1945年4月14日,レーダー警戒艦網radar picket-lineの艦艇が,カミカゼ特攻隊の攻撃を受け,駆逐艦2隻も損傷をおった。
4月16日,空母「イントレピット」は1機の特攻機の命中を受けた。空母は大火災に陥ったが,曳航して修理することになった。

菊水三号作戦・第三次航空総攻撃(4月16日〜4月19日) 

  沖縄沖の米艦艇に対し攻撃を行った。この頃から米軍の迎撃体制も整ってき、有効な攻撃も行えなくなってきた。地上の戦闘でも日本軍は後退を始めるようになり、沖縄戦の陰りが見えてきた。この頃には航空機の不足が顕著になってきたため練習機も使用された。
参加数は,海軍415機,陸軍92機,海軍特攻176機,未帰還127機



菊水四号作戦・第四、五次航空総攻撃(4月22日〜5月1日)


昼間の攻撃では損害が大きいので攻撃は夜間や早朝に行われるようになっていった。 敵との戦闘により各地域が孤立しても作戦を行えるように陸軍の組織は本土決戦に供えて改編された。菊水4号作戦は夜間攻撃を多用し、水偵機をも特攻出撃させるに至った。
参加数は,海軍587機,海軍特攻100機,未帰還68機。

菊水五号作戦・第六次航空総攻撃(5月3日〜5月9日)
5月4日に沖縄の32軍は総攻撃を行うことにし、それに航空隊も呼応した。米軍の艦砲射撃・航空機の離発着を困難にさせた。戦闘で32軍は人員・武器弾薬共に多くを消耗し5日に作戦を中止し、従来の持久戦に作戦を戻した。
参加数は,海軍300機,陸軍136機,海軍特攻136機,未帰還65機。 

写真(右):軽巡洋艦「バーミンガム」;1945年1月21日、カリフォルニア州Mare Island海軍工廠 Navy Yardで、レイテ湾による被害を修理した。1944年10月24日、軽空母「プリンストン」Princeton (CVL-23)の救助作業中に、軽空母の爆発で損傷した。しかし、1945年5月に再び、特攻機によって損傷することになる。 

沖縄本島の戦い(5月)によれば,1945年5月3日の特攻隊は次のようのものである。
神風特攻振天隊:九九艦爆4機:新竹発:大尉 村上勝己指揮官
神風特攻振天隊:九七艦攻2機:新竹発:中尉 掘家晃指揮官
神風特攻帰一隊:天山4機:新竹発:中尉 土山忠英指揮官
陸軍特攻誠第35飛行隊:四式戦5機:台中発:少尉 遠山秀山指揮官
陸軍特攻誠第123飛行隊:二式復戦1機:台中発:伍長 西垣秀夫指揮官
陸軍特攻飛行第17戦隊:三式戦4機:花蓮港発:少尉 下山道康指揮官
陸軍特攻飛行第20戦隊:一式戦5機:竜潭発:少尉 島田治郎指揮官

写真(右):1945年5月3日、特攻機に撃沈された駆逐艦「ルース」DD-522 USS LUCE;Launched March 6 1943 and commissioned June 21 1943. CLASS - FLETCHER As Built. Displacement 2924 Tons (Full), Dimensions, 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max) Armament 5 x 5"/38AA, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5). Machinery, 60,000 SHP; General Electric Geared Turbines, 2 screws Speed, 38 Knots, Range 6500 NM@ 15 Knots, Crew 273. 150 of her crew were lost with the ship and remain on duty.  New York July 2 1943撮影

1945年5月3日(木曜)沖縄方面の米損傷艦船
沈没:駆逐艦 LUCE (DD-511), by suicide plane
沈没:駆逐艦 MORRISON (DD-560), by suicide plane
沈没:駆逐艦 LITTLE (DD-803), by suicide plane
軽巡洋艦 BIRMINGHAM (CL-62), by suicide plane
駆逐艦 BACHE (DD-470), by suicide plane
駆逐艦 INGRAHAM (DD-694), by suicide plane
駆逐艦 LOWRY (DD-770), by suicide plane
掃海艦 MACOMB (DMS-23), by suicide plane
掃海艇 SHEA (DM-30), by piloted bomb
掃海艇 AARON WARD (DM-34), by suicide plane
輸送艦 CARINA (AK-74), by suicide boat

写真(右):1945年5月3日に特攻により損傷した軽巡洋艦「バーミンガム」USS Birmingham (CL-62);5月3日に特攻機が、第二番砲塔付近に自爆し、死亡41名、負傷者81名の被害を受けた。

Dictionary of American Naval Fighting Ships, [DANFS]駆逐艦「リトル」の1945年5月3日の特攻機の攻撃。
5月3日,駆逐艦「リトル」と「アーロン・ウォード」は、日本機を警戒するピケを張っていた。1816、18-24機の航空機が雲の下から攻撃を開始した。1841には、駆逐艦「アーロン・ウォード」に第一番目の特攻機が命中した。On 3 May Little and Aaron Ward (DM-34) were again on picket duty. At 1813 18 to 24 aircraft attacked from under cloud cover. Aaron Ward took the first hit at 1841. 

その直後、駆逐艦「リトル」にも、特攻機が命中した。4分以内に、さらに3機の特攻機が「リトル」に続けざまに命中した。竜骨が切断され,1955に、乗員30名とともに「リトル」は沈没した。An instant later Little was hit on the portside. Within 4 minutes three more enemy kamikazes had hit her, breaking her keel, demolishing the amidship section, and opening all three after machinery spaces, At 1955 Little broke up and went down. Loss of 30 of her crew. 

写真(右):1945年5月3日に特攻により沈没した駆逐艦「リトル」;5月3日に特攻機4機もが自爆して撃沈。5月3-4日の2日間、駆逐艦「リトル」「ルース」「モリソン」の3隻が、沖縄方面で124機の攻撃を受けて沈没した。May 3-4, 1945 - USS Little (DD 803), USS Luce (DD 522) and the USS Morrison (DD 560) sank after a kamikaze attack of 124 planes off of Okinawa.


写真:駆逐艦「リトル」と運命をともにしたSkelton, William
;1945年5月3日に死亡した30名の乗員の一人。
写真:カリフォルニア州オークランドのホテルで寛ぐ駆逐艦「リトル」の乗員;Mario's Spanish Lounge - Hotel St. Mark(1945年5月)。特攻攻撃を生き残った150名の乗員のうち三人。Left to Right: Albert Parker, S 1/c; Andrew Felt, MoMM 3/c; Clarence Papenfuss, S 1/c

駆逐艦「リトル」戦闘詳報 U.S.S. LITTLE (DD 803) ACTION REPORT PART VIII
ここでは,艦艇将校Commanding Officerから艦隊司令長官Commander-in-Chief, U.S. Fleet宛てに次のような提言がなされている。 

1. A destroyer under a concentrated and coordinated attack, such as this attack cannot hope to escape without damage in a degree depending upon the number of enemy planes engaged.
特攻機による集中攻撃を受けた駆逐艦は,無傷で逃走することは困難で,この程度は,敵機の数に依存する。 

2. It is recommended that all destroyers in a Radar Picket station have a cmplete Fighter Direction team on board.
レーダー警戒網を担う全ての駆逐艦に,戦闘機指揮部隊を乗艦させることが望ましい。

3. Destroyers have a chance against suicide attacks only after fighters have disrupted the enemy's plan of a coordinated attack.
自殺攻撃にさらされた駆逐艦が生き残るには,見方戦闘機が敵機の組織的攻撃を妨害することが必要である。

4. It is Recommended that more fighters be placed over picket stations.
今まで以上の戦闘機をレーダー警戒網周囲に配備することが望ましい。

5. The use of high speed by the ship is valuable in that it tends to disrupt the pilot's aim, and too in that it so greatly increases the maneuverability of the ship. That a ship can hope to avoid a suicide plane through maneuvering alone is “wishful thinking".
艦艇が高速で行動することで,自爆攻撃を回避する希望が生まれてくる。

6. The use of whistles and flash lights by personnel in the water was valuable in attracting the attention of rescue vessels.
海上にある乗員を艦船に引き上げ救出するためには,各自にホイッスルとランプを持たせることが有益である。

写真:駆逐艦「リトル」のマスコット犬DD ;1945年5月3日の自爆攻撃で海上に投げ出されたが,他の150名の乗員とともに上陸用舟艇LCS(L) 14に救出され,米国本土まで帰ることができた。

7. Increase 4MM armament so that a minimum of two quadruple mounts can bear in any given angle.
砲塔の4ミリ装甲を増設し,どのような方向からでも衝撃に耐えられるようにすること。

8. It is recommended that KUME SHIMA be captured and radars be installed on that Island.
久米島を占領して,そこにレーダー基地を整備することが望ましい。

写真(左):1945年5月3日に,特攻機の攻撃を受けた敷設艦「エアロン・ワォード」Aaron Ward (DM 34)

機雷敷設艦「エアロン・ウォード」Aaron Wardのデータ
排水量 2,380 t.(lt) - 3,370 t.(fl);
全長 376' 6"; 全幅 40' 10"; 深さ 18' 10";
速度 34kts; 乗員 363人;
武装 連装38口径5インチ対艦対空両用砲3基,連装40mm対空機銃6基,単装20mm機銃7丁, 0.50口径12.7mm機銃2丁,two dct, four dcp;
ボイラー(Babcock and Wilcox)4基, タービン(General Electric)2基, 60,000shp at 36.5kts, 2軸
航続距離 3,300 nm at 20kts.

機雷敷設艦「エアロン・ウォード」Aaron Wardは,1945年5月3日に,自殺体当たり特攻機の攻撃を受けた。船体砲塔近くには命中した特攻機の三枚プロペラが残された。

In the Kerama Retto anchorage, 5 May 1945, showing damage received when she was hit by several Japanese suicide planes off Okinawa on 3 May. Note three-bladed aircraft propeller lodged in her superstructure, just forward of the after 5"/38 twin gun mount.

Damage amidships received during Kamikaze attacks off Okinawa on 3 May 1945. View looks down and aft from Aaron Ward's foremast, with her greatly distorted forward smokestack in the lower center. Photographed while the ship was in the Kerama Retto on 5 May 1945. A mine is visible at left,on the ship's starboard mine rails.

写真(右):1945年5月3日に,特攻機の攻撃によって損傷した機雷敷設艦「エアロン・ウォード」Aaron Ward (DM 34)

沖縄戦では、戦艦、空母のような大型艦船よりも、駆逐艦、掃海艇、揚陸艦など小型艦艇への特攻攻撃が多い。これは、沖縄に来航した米軍艦隊が、空母を中核とする任務部隊の周囲を、小型艦艇で幾重にも護衛したため、それをまず発見した特攻機が、攻撃したためである。

また、特攻機パイロットや航法員・偵察員たちの技量は低く、出撃・実線経験もほとんどなかったため、初めて目にした米軍小型艦艇を大型艦艇と見誤って特攻の目標としたとも考えられる。日本軍の大型艦艇を目標に攻撃訓練をするにも、燃料も不足し、技量の向上は望めなかったのである。

特攻による米国商船の被害一覧でも,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は,6隻である。
また,米軍の小型艦艇ですらも、特攻機の命中を受けて、撃沈された例は多くはなかった。損傷はしたが、鋼鉄の甲板に比べれば寄木細工のように軽く華奢なジュラルミンの航空機は、所詮、体当たりしても、艦船には必ずしも大打撃を与えることはできない。

航空機は3トン以上はあるが、決して剛体ではなく、突入速度も時速500-600km程度で、爆弾の投下速度の四分の一にも達していない。高空から自由落下する剛体の爆弾は高速であるために,急降下する飛行機に縛り付けられた爆弾よりも,衝撃力は大きくなる。

日本軍は「一機よく一艦を屠る」といい特攻作戦を正当化したが,その企図は、実は厳密な科学的な「特攻機の打撃力」を計算したものとは言えず、突撃重視の精神主義に彩られたものであった。 

写真(右):愛知E13A零式水上偵察機;特攻機と出撃するのか、胴体下に250-500kg爆弾を搭載している。塗装も日の丸の白フチを消した末期迷彩。見送りの将兵が集合している。
全幅 14,50 m、全長 11,30 m、 全備重量 3640 kg、航続距離 2100 km、最高速度 375 km/h、乗員 3名。1423機生産。

1945年5月4日の特攻出撃
第七神風特攻神雷桜花隊:桜花7機:鹿屋発:中尉 大橋進指揮官
第七神風特攻神雷攻撃隊:陸攻7機:鹿屋発:少尉 勝又武彦指揮官
神風特攻第5神剣隊:爆装戦闘機20機:鹿屋発:中尉 磯貝巌指揮官
神風特攻琴平水心隊:水偵28機:指宿発:少尉 碓本守指揮官
神風特攻第1魁隊:指宿発:少尉 宮村誠一指揮官
神風特攻第二正気隊:九七艦攻10機:串良発:中尉 五十嵐正栄指揮官
神風特攻白鷺揚武隊:串良発:候補生 中西要指揮官
神風特攻八幡揚武隊:串良発:少尉 鯉田登指揮
神風特攻振天隊:九九艦爆3機:台湾新竹発:上飛曹 清岡寛指揮官
神風特攻忠誠隊:彗星4機:新竹発:上飛曹 南純之介指揮官
神風特攻第17大義隊:爆装戦闘機21機:直掩、零戦5機:台湾宜蘭発:中尉 細川孔指揮官

写真(右):中島九七式戦闘機(九七戦);固定脚の旧式戦闘機だが,特攻機として多数使用。最高速度420km。爆弾搭載量250kg。

1945年5月4日の特攻出撃
陸軍特攻第18振武隊:一式戦1機:知覧発:軍曹 秋富末治指揮官
陸軍特攻第19振武隊:一式戦5機:知覧発:少尉 林格指揮官
陸軍特攻第20振武隊:一式戦1機:知覧発:軍曹 重政正男指揮官
陸軍特攻第24振武隊:二式復戦1機:知覧発:曹長 片柳経指揮官
陸軍特攻第42振武隊:九七戦1機:知覧発:少尉 岩崎辰雄指揮官
陸軍特攻第60振武隊:四式戦6機:都城東発:少尉 平柳芳郎指揮官
陸軍特攻第66振武隊:九七戦3機:万世発:少尉 毛利理指揮官
陸軍特攻第77振武隊:九七戦1機:知覧発:伍長 相花信夫指揮官
陸軍特攻第78振武隊:九七戦6機:知覧発:少尉 吉田節郎指揮官
陸軍特攻第105振武隊:九七戦2機:知覧発:伍長 石川正美指揮官
陸軍特攻第106振武隊:九七戦1機:知覧発:伍長 袴田治夫指揮官
陸軍特攻第109振武隊:九七戦2機:知覧発:伍長 加藤虎男指揮官
陸軍特攻誠第34飛行隊:四式戦6機:台中発:少尉 金沢宏指揮官
陸軍特攻誠第120飛行隊:四式戦3機:八塊発:少尉 畠山富雄指揮官
陸軍特攻誠第123飛行隊:二式復戦Nick1機:八塊発:伍長 三越三郎指揮官
陸軍特攻飛行第105戦隊:三式戦2機:宜蘭発:少尉 長沼不二人指揮官
陸軍特攻飛行第105戦隊:三式戦2機:宜蘭発:少尉 原仁指揮官

写真(右):四式戦闘機「疾風」;特攻機と出撃するときは,200リットルの増加タンクと250キロ爆弾を両翼に1つずつ装備した。  

1945年5月4日(金曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
護衛空母 SANGAMON (CVE-26), by suicide plane、26 d. 01'N., 127 d. 26'E.
駆逐艦 HUDSON (DD-475), by collision
駆逐艦 COWELL (DD-547), by suicide plane
敷設艦(駆逐艦改造) GWIN (DM-33), by suicide plane
高速掃海艦(駆逐艦改造) HOPKINS (DMS-13) by suicide plane
掃海艦 GAYETY (AM-239), by piloted bomb(桜花)
小型掃海艇 YMS-311, accidentally by United States naval gunfire
小型掃海艇 YMS-327, by suicide plane and accidentally by United States naval gunfire<
小型掃海艇 YMS-331, by suicide plane
砲艇Motor gunboat PGM-17, by grounding(座礁) 

写真(左):護衛空母「サンガモン」USS SANGAMON (ACV-26);1942年完成。

1945年5月4日に特攻機により大破した護衛空母「サンガモン」のデータ
基準排水量1万1,400トン,満載排水量 2万4,275トン。
飛行甲板 168.6 x 34.8 meters、装甲: なし
機関: 4×ボイラー; 2×蒸気タービン; 2軸; 1万3,500馬力
速力: 18+ knots、搭載航空機: 32機
兵装: 5インチ38口径単装砲2基,四連装40mm56口径機銃2基,連装40mm56口径機銃7基; 単装70口径20mm機銃31基
航空装備: 2×levators; 2×蒸気カタパルト hydraulic catapults
乗員: 1,080名(航空部隊を含む)

米海軍は,民間から徴発し給油船「シマロン」Cimarron級を低速小型の護衛空母として改造した。「シマロン」級給油船は12隻あったが、うち4隻が護衛空母となった。「ボーグ」級貨物船よりも大型のため、その他の護衛空母よりも若干大きく、他艦への給油装備も持っていたので船団護衛に重宝だった。しかし、カタパルトも備えた有力な護衛空母は、航空部隊さえ揃えば、最前線で上陸支援作戦の任務を全うし、正規空母を補助した。

護衛空母「サンガモン」Sangamonの同型艦は、「スワニー」Suwannee、「シェナンゴ」Chenango、「サンティー」Santeeの4隻である。

1944年10月末,特攻第一号と日本海軍が公認した関行男大尉は、神風特別攻撃隊敷島隊を率いて、護衛空母「スワニー」「サンティー」に突入している。その後、護衛空母「サンガモン」も特攻機の被害を受けた。しかし、これら4隻はみな戦列に復帰し、沖縄攻略に参加した。1945年5月4日、護衛空母「サンガモン」は特攻機により大破し、米国本土に修理のため回航されたが、全損となり、戦後にスクラップとされた。

1945年5月4日の護衛空母「サンガモン」USS SANGAMON (ACV-26)の戦闘記録Text from "The Little Giants. U.S. Escort Carriers against Japan," pages 382-390、by William T. Y'Blood © Naval Institute Press, 1987
Marine Corsairs shot down four of the planes in this raid, but the remainder kept on. At 1902 a plane identified as a Tony was seen circling left very fast to a position off the Sangamon's port quarter. Joining in were the flattop's escorts, the Dennis [DE-405] and Fullam [DD-474], as well as a passerby, the minesweeper Spear [AM-322].
Antiaircraft fire hit the kamikaze, but it wasn't stopping it. Suddenly smoke began to stream from the Tony and it rolled to the left. Only a few hundred yards from the Sangamon, the plane seemed to be upon the carrier in an instant. Luckily, considering the proximity of the explosion, only one antenna was sheared off. Three sailors, seeing the Tony seemingly about to land in their laps, dove overboard, but were soon picked up by the Spear.
The sun set at 1903, and a few minutes later two night fighters were catapulted for night CAP. Nothing was found, and the Hellcats returned to circle the ships.


写真(左):飛行甲板に大穴の開いた空母「サンガモン」
; Departing Ulithi 15 March, the carrier continued her night work in raids against Kyushu, Honshu, and shipping in the Inland Sea of Japan. Damaged lightly by an enemy bomb on 18 March, Enterprise entered Ulithi six days later for repairs.
写真(右):空母「サンガモン」の上部甲板格納庫の被害状況;Hanger deck, May 5, 1945.

1945年5月4日の護衛空母「サンガモン」USS SANGAMON (ACV-26)の戦闘記録(続き)
At 1925 the Fullam reported another bogey, also twelve miles away. Vectored out again at 2,500 feet, the two night fighters just missed the enemy plane, which had apparently come in very low. As the suicider broke through some clouds three miles away, it was taken under fire. It ducked back into a heavy black cloud aft of the Sangamon, and all firing was checked. Moments later the plane, now identified as a twin-engined Nick, plunged out of the cloud heading right at the carrier. Intense flak that lit up the darkening sky ripped into the Nick but did not knock it off its fatal course. Roaring in from astern at over 350 knots, the Nick leveled off slightly for a moment, then nosed over again in a shallower dive. Just before the Nick slammed into the carrier, it dropped a bomb that penetrated the flight deck to explode in the hangar. A fraction of a second later the kamikaze followed its bomb through the flight deck just a few yards farther on. Most of the plane, including its engines and heavily armored wing sections, wound up in the hangar.

A "tremendous, blinding, gaseous explosion" rocked the ship. Both of the Sangamon's elevators (each weighing twenty-six tons) were blown out of their wells. The after elevator was deposited, upside down, on the edge of its well, and the forward elevator was canted and thrown onto the flight deck. Between the elevators the flight deck itself was buckled upward, a hole twenty by ten feet in the center.(引用終わり)

写真(右):5月4日、人間爆弾「桜花」の攻撃を受けた米掃海艦GAYETY (AM-239)と同型艦のAM242号1945年秋、佐世保で撮影。

Admirable 級掃海艦GAYETY (AM-239)のデータ;排水量: 540 t.(lt), 795 t.(fl)、乗員: 80名、兵装: One 3"/50 cal., two twin 40mm or one twin 40mm、 one depth charge thrower (hedgehogs), four depth charge projectiles (K-guns), two depth charge tracks、速力: 14.8 knots、エンジン: 1,710馬力

  「桜花」の攻撃を受けた掃海艦GAYETY (AM-239)
On 4 May, following a kamikaze attack on nearby Hopkins, another plane made a suicide run on Gayety, coming in from starboard. Her automatic weapons riddled the plane that passed close over her fantail before crashing into the sea 30 yards off the port quarter. Later in the same day the ship was attacked by a Japanese "Baka" bomb, a 4,700-pound bomb propelled by a rocket and guided by a human pilot at speeds up to 600 miles per hour. One of these deadly weapons thundered in at an estimated 400 knots made a low altitude run on several of the smaller minesweepers Gayety was shepherding, and then turned toward Gayety for a suicide crash. The ship's gunners, unflinchingly manning their weapons, sent up an umbrella of automatic fire which blew off the Baka's cowling ring; seconds later it disintegrated rapidly, tumbling end over end through the air, and crashed into the sea 15 yards off Gayety's port bow. Shrapnel rained on her decks, knocking out the port 40mm. gun and wounding three men but the ship continued her duties undaunted.

写真(右):1945年5月4日、特攻で被害を受けた米掃海艇YMS-327号;九九式艦上爆撃機と人間爆弾「桜花」の攻撃を受け、3名死亡、2名負傷した。

掃海艇YMS-1 Class Auxiliary Motor Minesweeperのデータ:排水量 270 t、乗員 32名、兵装 1×3" AA gun、2×20mm AA (2x1)、速力 15 knots、エンジン出力2000 HP、同型艦483隻建造
 

1945年3月24日-4月2日の間、掃海艇YMS-327は、沖縄上陸地点近くで、あるかもしれない機雷除去作業(掃海)に従事した。その後、日本の自爆特攻艇攻撃suicide-boat attacksに対する警戒任務についた。On 4 May while on their way to a sweeping operation, YMS-327 and several other wooden minesweepers were attacked by a "Val" which YMS-327 splashed near Gayety (AM-239). YMS-327 was then attacked by a "Baka" suicide rocket plane dropped from an overhead "Betty." The "Baka," under fire from 20mm. and machineguns passed within 20 feet of the minesweeper's bridge when the tail assembly fell and the "Baka" splashed in a crescendo of flame smoke, and water about 200 feet from Gayety. During this action YMS-327 was hit by some 40mm. shells fired at the "Baka", by Gayety and Hopkins. The port 20mm. mount was hit, blowing the three men overboard killing one and injuring one. One 40mm. shell passed through the bulkhead near the galley and exploded in the galley injuring the cook, and a third shell passed through the wooden hull about 2 feet above the waterline and exploded in the main engine room without injuring anyone.
Following repairs at Kerama Retto, YMS-327 was placed on patrol duty 7 May near the various anchorages to lay a smokescreen in the event of air attacks.(→Dictionary of American Naval Fighting Ships YMS-327Ruff引用)

写真(右):1945年5月5日に特攻機により損傷した測量艦AGS-1「パスファインダー」 Pathfinder;排水量 2,175 t. 速力 14 kts. 乗員 158名、兵装 two 3"/50 guns, two depth charge tracks, two depth charge projectors、エンジン, 2,000shp

沖縄本島の戦い(5月)によれば,1945年5月5日の特攻隊は次のようのものである。 
陸軍特攻第49振武隊:一式戦3機:知覧発:少尉 伊奈剛次郎指揮官
陸軍特攻第51振武隊:一式戦1機:知覧発:少尉 鮫島豊指揮官
陸軍特攻第55振武隊:三式戦3機:知覧発:少尉 伊藤敏夫指揮官
陸軍特攻第56振武隊:三式戦4機:知覧発:少尉 池田元威指揮官

1945年5月5日(土曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
水上機母艦 ST. GEORGE (AV-16), by suicide plane
測量艦 PATHFINDER (AGS-1), by suicide plane

菊水六号作戦・第七次航空総攻撃(5月11日〜5月21日)
米軍の総攻撃は11日に開始され、首里の外壁を猛攻した。
参加数は,海軍345機,陸軍80機,海軍特攻86機,未帰還67機。 昭和20年5月11日 米軍は全戦線にわたって猛攻撃を加えてきた。

写真(右):人間爆弾「桜花」;特攻専用の人間爆弾「桜花」が,1944年春に海軍で計画・試作・生産されていることからも,特攻が軍上層部の主導で行われた証拠である。「桜花」は一式陸上攻撃機に搭載され,目標近くに運ばれ,人間が乗り込んでから,切り離される。

沖縄本島の戦い(5月)によれば,1945年5月11日の菊水6号作戦(第六航空軍第七次総攻撃)は次のようのものである。 
第八神風特攻神雷桜花隊:桜花4機:鹿屋発:中尉 高野次郎指揮官
第八神風特攻神雷攻撃隊:陸攻4機:鹿屋発:中尉 古谷真二指揮官
神風特攻第九銀河隊:銀河8機:宮崎発:中尉 深井良指揮官
神風特攻菊水雷桜隊:天山10機:串良発:少尉 今井金四郎指揮官
神風特攻第六神剣隊:爆装戦闘機37機:鹿屋発:少尉 牧野指揮官
神風特攻第六昭和隊:鹿屋発:少尉 根元宏指揮官
神風特攻第七昭和隊:鹿屋発:中尉 安則盛三指揮官
神風特攻第十建武隊:鹿屋発:中尉 柴田敬禧指揮官
神風特攻第五筑波隊:鹿屋発:中尉 西田高光指揮官
神風特攻第七七生隊:鹿屋発:飛長 上月寅男指揮官
神風特攻第二魁隊:水偵8機:指宿発:中尉 四方巌夫指揮官


写真(右)米艦隊空母「バンカーヒル」の艦橋。
1945年5月11日特攻機により損傷を受けた。

陸軍特攻第41振武隊:九七式戦1機:知覧発:軍曹 山田泰治指揮官
陸軍特攻第44振武隊:一式戦1機:知覧発:少尉 岡村金吾指揮官
陸軍特攻第49振武隊:一式戦2機:知覧発:伍長 小坂清一指揮官
陸軍特攻第51振武隊:一式戦7機:知覧発:少尉 荒木春雄指揮官
陸軍特攻第52振武隊:一式戦3機:知覧発:軍曹 下平正人指揮官
陸軍特攻第55振武隊:三式戦3機:知覧発:少尉 黒木国雄指揮官
陸軍特攻第56振武隊:三式戦3機:知覧発:少尉 朝倉豊指揮官
陸軍特攻第60振武隊:四式戦3機:都城東発:少尉 倉本利雄指揮官
陸軍特攻第61振武隊:四式戦3機:都城東発:少尉 橋本初由指揮官
陸軍特攻第65振武隊:九七式戦3機:知覧発:少尉 桂 正指揮官
陸軍特攻第70振武隊:二式復戦3機:知覧発:少尉 佐久田潤指揮官
陸軍特攻第76振武隊:九七戦3機:知覧発:少尉 久富基作指揮官
陸軍特攻第78振武隊:九七戦1機:知覧発:少尉 湯沢三寿指揮官

1945年5月11日(金曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
空母 BUNKER HILL (CV-17), by suicide plane,25 d. 44'N., 129 d. 28'E.
駆逐艦EVANS (DD-551), by suicide plane
駆逐艦 HUGH W. HADLEY (DD-774), by piloted bomb(桜花)

1945年5月11日、桜花の被害を受けた米駆逐艦「ハドレー」乗員の救助をロケット弾搭載上陸用舟艇LSM(R)-193が救助した。LSM(R)-193 picking up the survivors of the Hugh W. Hadley (DD-774 ), 11 May 1945. LSMR-193 had earlier received Hadley's wounded. Other ships involved in the rescue were LCS(L)-83, Wadsworth (DD-516), Barber (APD-57), Tawakoni (ATF-114), and Deliver (ARS-23). Location of the kamikazes was Radar Picket #15, northwest of Okinawa and 35 miles from Point Bolo.

5.沖縄戦での特攻作戦は,志願者を募るという形式をふむこともなく,部隊編成が進んでいったが,劣勢な状況にあって,多数の搭乗員が特攻隊員に選ばれている状況では,それを受けるしかないと多くの若者は考えていたようだ。 

1943年、旧制小樽高商を繰り上げ卒業し、一旦は民間企業に就職が決定していた菊水雷桜隊の栗村正教少尉[永末千里サイト]もこの時期に出撃している。彼は1943年9月三重航空隊に仮入隊、同年10月4日入隊式が執り行われ「第十三期飛行専修予備学生」として厳しい訓練に励むことになった。その後、無事訓練を終え、昭和19年夏に帰省を許され、家族と最後の別れの時間を過ごした。この時の様子を実妹の千恵子さんが追悼集に書き記している。

●家族との別れ
 家族は皆、帰省した理由を「最後の別れに帰された。」という一言で、分かりきる程分っていた。それでも会えた事は、うれしかった。会えた喜びと、もう飛び立って行くのだという悲しみと淋しさが微妙にからみ合って、いいようのない複雑な心境であった。 皆、表面で笑って、心で泣いていたのかも知れない。
 その後は、母の手料理で、郷里の家で過した。一夜語りつくしたのかも知れない。何時に休んだのかも覚えていない。ほんとうに限られた貴重な夜だったのである。
 母が後になって、ぽつり、ぽつりと話してくれた事だが、正教さんはその夜、母にきっぱりと言ったそうだ。
 「この戦争は、どんな事をしても、もう勝つ見込みはないんです。それでも僕は、行かねばならないんです。」

写真(右):海軍艦上攻撃機「天山」;1250機生産された海軍の後期主力雷撃機。時速450キロ,800キロ航空魚雷1本を搭載できたが,米軍戦闘機の迎撃にあえばひとたまりもなかった。しかし,夜間雷撃をだけでなく,昼間雷撃をも命じられた。特攻機として500キロ爆弾を搭載し,出撃したものもある。

会津若松日吉館の庭先にて
一時帰省したときに,必死で、ここまで育ててくださったのに、何の親孝行もできずに行く事は、つらいし、僕は戦争なんかきらいですが、でも、今の日本の現状から考えるとしかたないんです。」と。兄の目は、赤かったという。母は只、うなずいてあげるだけで何も言えなかったと言っていた。

 二泊の休暇のうち二日目はお母さんの叔父さんが経営していた旅館「日吉館」に家族で宿泊した。 ここでの記念写真は家族の大切な宝物になっている。

そしてこの日の朝は家族との永遠の別れの朝であった。千恵子さんは次のように記している。
 朝が来た。みんな静かに起き出していた。私もうつらうつらしながら、どうしようかな、と思っていた。その時、私の顔に、ポタリ、ポタリと熱い涙が落ちてきた。それは、正教さんの涙だったのだ。自分は起き、まだ起きない私の寝顔を見つめているうちに、つい涙がこぼれてしまったのだろう、と私は思った。でもほんとうは、「母を頼むよ。」と心の中で言っていたのかも知れない。 
 私は寝たふりをしながら、涙が止まるのを待った。しかし、私も悲しくなり、目頭に涙が丸くなって溜まるのを覚えた。それが、兄妹の別れだった。

  ●特攻出撃
1945年5月10日、栗村少尉に出撃の命令が下された。栗村少尉の所属していた菊水雷桜隊は5月11日5時10分串良基地より出撃し、沖縄周辺の敵艦船を攻撃すべし、という内容であった。ただし、命令には帰投予定まで記されている。つまり命令では体当たり特攻ではなかったということになる。しかし、それまでの菊水作戦で無事帰還した雷撃隊員は1名もおらず、当然それを知っていた彼らには固い決意があったに違いない。
 1945年5月11日早朝、今井全四郎少尉(予13期)を小隊長とする菊水雷桜隊は小雨の中、串良より戦友に見送られながら出撃して行った。栗村少尉機は小隊長機の2番機として、田中敏男一飛曹(操縦)、山岡智明一飛曹(電信)と雷撃機天山に搭乗、出撃していった。
 

写真(右):海軍艦上攻撃機「天山」;「特攻機」として沖縄作戦に使用された天山艦攻は39機(突入確実28機)とされる。零式戦闘機の630機,艦爆「彗星」120機に比較すれば少ないが,これは夜間・黎明薄暮に雷撃を実施していたからである。しかし,レーダー誘導の敵夜間戦闘機、対空砲火による被害 は甚大で、体当たり攻撃にも劣らぬ200機を越える未帰還機をだしたという。

菊水雷桜隊の艦上攻撃機「天山」10機のパイロット,偵察員,航法員30名の全員が還らなかった。午前8時「敵飛行機見ユ」と打電。敵戦闘機隊の防御は強力で、多くの友軍機がこの時点で撃墜され、目標の敵艦隊にたどり着くことが出来なかった。にもかかわらず栗村機は午前8時半「敵空母を雷撃ス」と打電しており、敵艦隊にたどり着いていたようだ。

しかし、決死の(体当たりでない)通常攻撃と体当たり自爆特攻を比較すると,戦術的には,前者のほうがより効果的な攻撃法ではないかと考えられる。日本の行った体当たり自爆という特攻は,多数の航空機・燃料,搭乗員と大きな犠牲を払ったが,それと比較すると,艦船に与えた損害は大きいとは言えず,効果的な作戦とは認められなかった。

地上戦でいえば,日本の体当たり自爆攻撃は,窮地に立たされ死に場所を求めた「万歳突撃」であり,米軍としては,長期的な持久戦を粘り強く戦われるよりも,御しやすかったのである。

Dictionary of American Naval Fighting Ships;Bunker Hill
1945年4月7日、空母 Bunker Hillの艦載機は、高速空母艦隊に所属し、東シナ海で、敵日本艦隊の戦艦「大和」、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻を撃沈した。
On the morning of 11 May 1945, while supporting the Okinawa invasion, Bunker Hill was hit and severely damaged by two suicide planes. Gasoline fires flamed up and several explosions took place. The ship suffered the loss of 346 men killed, 43 missing, and 264 wounded. Although badly crippled she managed to return to Bremerton via Pearl Harbor.

1945年5月11日、任務部隊旗艦空母「バンカーヒル」に特攻機2機が命中。これは、小川清少尉だった。

小川清少尉は,1922年(大正11年),末子として誕生した。長兄の松一氏(故人)によると、普通の少年で、両親から愛され、友達との争いもなかった。

早稲田大学から学徒出陣した小川少尉は、第14期海軍飛行予備学生a 14th graduate of Aviation Reserve Studentで,卒業後、海軍第721航空隊the 721st Flying Corps 306th Fighter Squadron戦闘第306飛行隊に所属し,鹿屋に赴いた。そして、同期生とともに特攻隊となった。


写真(上):1945年5月11日、特攻機が命中した空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17)
;「クリーブランド」Cleveland級の軽巡洋艦が左に近づいてきている。 特攻機2機に突入された空母「バンカーヒル」の艦橋近くの飛行甲板は、大きな損害を受けた。損傷した「ヘルダイバー」艦上爆撃機が甲板に残っていた。消火用の放水が飛行甲板下で行われていた。

1945年5月11日早朝,若い特攻機のパイロットたちが基地を離陸した。彼らは、菊水6号作戦に出撃したが,その中に神風特別攻撃隊第7昭和隊員として小川清少尉がいた。この日小川少尉は零戦に搭乗し戦友たちの写真と送られた短歌を胸に尊い命を大切な人々に捧げるべく出撃していった。(⇒神風特攻昭和隊(米空母バンカーヒル突撃戦死)小川少尉の遺品御遺族返還神風:小川清少尉とバンカーヒル) 

"The USS Bunker Hill"
1945年(昭和20年)5月11日、ミッチャー中将Rear-Admiral Mitcher率いる第58任務部隊旗艦空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV 17を中心に沖縄東方122km洋上にいた。沖縄に向け艦載機第1波25機が発進し、第2波30機、第3波48機が発艦準備をしていた。艦隊は,豊富な物資と兵器を活用し強力であった。

写真(左):空母「バンカーヒル」; 1945年5月11日,第六次菊水作戦で,第58任務部隊旗艦の「バンカーヒル」は,2機の特攻機の命中を受けた。

"Ensign Kiyoshi Ogawa"小川清少尉
第1派で発進した戦闘機のエース・スウェアSweat氏が母艦に着陸しようとしていた時、低く垂れ込めた雲から零戦が現れ、飛行甲板に突入した。その零戦は,遅延信管の500キロ爆弾を投下し,「バンカーヒル」の甲板を突き破って海上で爆発した。しかし,特攻機は,離陸待ちで燃料を満載した艦載機に火災を発生させ、甲板を通り越して海中に墜落した。

同じころ小川少尉の2機目の零戦が急降下を開始し,対空砲火をぬって、500キロ爆弾を投下し、空母艦橋部の甲板に体当りした。爆弾は飛行甲板を突き抜け大爆発を起こし、「バンカーヒル」は大火災を引き起こした。この際、小川機は爆発せず、燃えることなく残っていた。

兄の小川松一氏は「人生は良いことばかりはありません。涙することもあります。ただ、もう少し人生を味あわせてやりたかった。」と述べた。1988年の靖国神社カレンダーに小川少尉の遺書の一部が掲載されたことに触れた。小川清少尉の遺書は,1987年5月に神社で掲示されていたからである。

写真(右):1945年5月11日,空母「バンカーヒル」に体当たりした小川清少尉;1945年5月11日、海軍第721航空隊戦闘第306飛行隊「昭和隊」として特攻出撃し、沖縄で米空母「バンカーヒル」に体当り戦死。早大出身の海軍予備学生(第14期飛行 専修)の学徒兵で、当時22歳。死後二階級特進し、海軍大尉。少尉の遺品は、2001年3月27日サンフランシスコで親族に返還された。

1945年5月11日,任務部隊の旗艦だった空母「バンカーヒル」は2機の特攻機の命中を受けた。すぐに火災となり大損害を被った。戦死者・行方不明は396名に達し,負傷者は264名を数えた。空母「バンカーヒル」「フランクリン」は戦列を離れ,終戦まで戦線に復帰することはできなかった。
Bunker Hill, like Franklin, was out of action for the rest of the war.

3日後に,26機の特攻kamikazeが第58任務部隊を攻撃し,空母「エンタープライズ」が特攻機の命中を受けて大損害を被った。「エンタープライズ」はカミカゼの攻撃を受けたのは3回目であり,5回目の作戦行動中であった。

駆逐艦3隻が空母「バンカーヒル」に接近して消火作業に当たった。しかし,火災で,戦死者・行方不明396名,負傷者264名の被害を被った。ハワイの真珠湾を経由して,本土Budget Soundの海軍工廠Navy Shipyardで大修理を行った。そして,再び真珠湾に向かったが,戦争が終わるまでには鮮烈に復帰できなかった。

写真(右):1945年5月14日、特攻機による被害を受けた空母「エンタプライズ」;May 14, 1945. This shows the elevator pit after the elevator was blown out and fires were being extinguished

「日本の若者は、祖国のために自らの命を捧げようとした。カミカゼは悪魔の攻撃のように認識されてきたが、当時は英雄的行為として理解していた人たちもたくさんいた。我々はカミカゼ・パイロットが、なぜ過酷な任務に自らの命をかけたのかをよく考える必要があろう。」このように述べるサイトもある。

ロバート・ショックRobert Schockは空母「バンカーヒル」乗組員であるが,特攻後に,彼は燃えずに残った特攻機の零式艦戦闘機特を見つけ,特攻パイロットの記念とした。2000年11月17日に彼は亡くなったが,孫Dax Bergが祖父の遺品を見つけた。

1945年5月12日の出撃
神風特攻第三正気隊:九七艦攻1機(乗員3名):串良発:少尉 堀江荘次指揮官
陸軍特攻誠第120飛行隊:四式戦2機:八塊発:軍曹 萩野光雄指揮官
陸軍特攻誠第123飛行隊:二式復戦1機:八塊発:少尉 加治木利秋指揮官

写真(右):1945年5月12日、特攻機が命中した米戦艦「ニューメキシコ」USS New Mexico (BB-40) 沖縄方面で特攻機の体当たりを受けたのを、USS Wichita (CA-45)より撮影。
戦艦「ニューメキシコ」のデータ:排水量 32,000トン, 全長 624' (oa) x 97' 5" x 31' 1" (Max),主砲 12門 x 14インチ(36センチ)砲, 最高速度 21 Knots, 乗員 1084名.
 

1945年5月12日(土曜)沖縄方面の米損傷艦艇
戦艦 NEW MEXICO (BB-40), by suicide plane, 26 d. 11'N., 127 d. 43 E.
重巡洋艦 WICHITA (CA-45), accidentally by United States naval gunfire

5月12日の米海軍戦艦「ニューメキシコ」への特攻に関しては,連合艦隊司令長官豊田副武大将による布告が1945年5月21日に全軍に布告された。
  連合艦隊告示第二百六号
神風特別攻撃隊第三正気隊
百里原航空隊付 海軍少尉 堀江荘次,小田切徳一,海軍二等兵曹 村田正作
神風特別攻撃隊第三正気隊員トシテ昭和二十年五月十二日菊水第六号作戦ガ開始セラルルヤ 沖縄周辺二蟠踞セル敵艦隊群ノ攻撃二勇躍出撃、敵ノ至厳ナル哨戒網並二猛烈ナル防御砲火ヲ冒シ 敵戦艦一隻二対シ必死必中ノ体当タリ攻撃ヲ決行シ 党ク英ノ成華ヲ発揚シテ 悠久ノ大義二殉ズ 忠裂万世二燦タリ 仍テ、ココニ 其ノ殊勲ヲ認メ全軍二布告ス

連合艦隊司令長官豊田副武大将は,1885年5月22日大分生まれ, 1957年9月22日没。1944年5月3日から1945年5月29日の期間,連合艦隊司令長官を務めたので,この布告をするときには,長官を辞めることはわかっていた。重光葵・元外務大臣と同じく,県立杵築中(現・杵築高校)の出身で,母校にも日の丸を贈っている。


写真(左):1945年5月11日,桜花の命中を受けた米駆逐艦「ハードレイ」USS Hugh W. Hadley (DD774) の戦死者。座間味島の米陸軍墓地に埋葬されたLeon Wright, Fireman Second Class (WT);U.S. Armed Forces Cemetery, Zamami Shima, Okinawa. Re-interned at Bennett Cemetery,GrovetonTX. on 1 April 1949.写真(右):座間味島の米陸軍墓地に埋葬された米駆逐艦「ハードレイ」乗員EDWARD R. Cichowlas,Fireman First Class;U.S. Armed Forces Cemetery, Zamami Shima, Okinawa. Edward R. Cichowlas is the only known crew member to be re-interred at Punchbowl National Cemetery, T.H. (Now know as the National Memorial Cemetery of the Pacific).(→USS Hugh W. Hadley
 

レイテ戦における特攻第一号は,1944年10月25日,護衛空母「セントロー」を撃沈した関行男大尉(海軍兵学校出身)とされる。関大尉の特攻は,連合艦隊が告示したものだが,10月20日の特攻「敷島隊」初出撃の時、未帰還の久納好孚中尉(学徒出身)は,戦果不明のためか,特攻第一号とは認められず黙殺されてしまう。戦果の不明な特攻が第一号では,特攻を出撃させた軍上層部の面子が立たないからであろう。(久納好孚中尉の爆装零戦は、実際には、重巡洋艦「オーストラリア」に損害を与えた。)

同じように,特攻隊員の氏名が全軍に布告されるには,大戦果を挙げなくてはならない。戦場の常とはいえ,特攻出撃しても,戦果の挙げられなかったものは,連合艦隊によって黙殺される。特攻隊員が犬死であったとする反戦思想はけしからんといっている人でも,実は戦果をあげることのできなかった特攻隊,特攻隊員を事実上,黙殺してきた。犠牲的精神の発露として、「一憶総特攻」のプロパガンダに利用してきた。戦果をあげられず死んだ特攻隊員のほうが,遥かに多かったにもかかわらず,その行動は「特攻出撃により戦死」で一括された。

菊水七号作戦・第八次航空総攻撃(5月24日〜5月27日)
参加数は,海軍387機,陸軍147機,海軍特攻107機,未帰還41機。 

写真(右):日本海軍の陸上爆撃機「銀河」;最高速度560kmの高速爆撃機であるが,エンジンなど機体の信頼性は低かった。

5月24日の特攻隊は次の通り。 
神風特攻菊水白菊隊:白菊20機:鹿屋発:中尉 野田勉指揮官 
神風特攻十二航戦二座水偵隊:水偵2機:指宿発:中尉 檜和田直成指揮官  
陸軍特攻誠第71飛行隊:九九襲6機:八塊発:軍曹 渡邊正美指揮官 
 
1945年5月24日(木曜)沖縄方面の米軍損傷艦艇
護衛空母 SUWANNEE (CVE-27), by explosion(爆発)
駆逐艦GUEST (DD-472), by suicide plane
駆逐艦HEYWOOD L. EDWARDS (DD-663), accidentally by United States naval gunfire(友軍による誤射)
護衛駆逐艦O'NEILL (DE-188), by suicide plane
護衛駆逐艦 WILLIAM C. COLE (DE-641), by suicide plane
掃海艇BUTLER (DMS-29), by suicide plane
掃海艇SPECTACLE (AM-305), by suicide plane
高速輸送艦BARRY (APD-29), by suicide plane
高速輸送艦SIMS (APD-50), by suicide plane

写真(左):空母「エンタープライズ」; 1944年8月真珠湾を出航するときに撮影。The Big E shows her late-war appearance and new dazzle camouflage in this 2 August 1944 photo, taken as she departed Pearl Harbor.
写真(右):1945年5月14日に日本機の攻撃を受けた空母「エンタープライズ」;前部エレベーターが破壊され、14名死亡、34名負傷。「エンタープライズ」は、Puget Sound海軍工廠 Navy Yardに回航された。6月7日到着。Photo taken on May 14, 1945, from the USS Washington (BB-56), shows the Enterprise exploding from a bomb laden kamikaze. The ships forward elevator was blown approximately 700 feet into the air from the force of the explosion six decks below.

日本海軍四〇五飛行隊の陸上爆撃機「銀河」12機で特攻出撃した長谷川薫中尉;長谷川中尉は,1945年5月25日、沖縄東方海上の米空母任務部隊を目標に,島根県の海軍第二美保航空基地から爆撃機「銀河」で出撃した12機の指揮官で,攻撃中に撃墜され,駆逐艦「キャラハン」に救助され,米軍の捕虜となった。

 1998年5月13日読売新聞によると,状況は次のようである。

九州沖を過ぎたころから雨が激しく降りだし、他の機は引き返していったが,長谷川中尉はそれまでに二回引き返していたので「今度こそ最後まで行こう」と決心し、蒸し暑い機内で飛行帽のひもとベルトをはずし、飛び続けた。すると雲のれ目から米艦隊の姿が見え「突っ込むならば」と航空母艦に狙いをつけた。

 しかし、戦艦「ウェスト・バージニア」の対空砲火を回避したものの,真下にいた駆逐艦「キャラハン」の弾を受けて海に墜落。被弾した瞬間、目の前が真っ赤になり、きな臭いにおいが走ったという。

写真(右):米駆逐艦「キャラハン」艦長バーソルフ Capt Bethholf ;空母に特攻しようとした日本海軍陸上爆撃機「銀河」を撃墜し,その搭乗員2名を救出した。これは、出血多量で死亡した吉田飛曹長と,戦後まで生き残った長谷川中尉である。1945年6月撮影。

長谷川中尉は、気を失って海に投げ出されたが,三人の乗員のうち吉田湊飛行兵曹長が泳ぎ寄り、手を握り合ったことを一瞬覚えているという。小山秀一一等飛行兵曹の姿は見ていない。

海上で日本の搭乗員2人を発見した時、駆逐艦「キャラハン」は日本軍の情報収集のために2人を収容したいと艦隊司令部へ打電、許可を求めた。司令部の返電がないまま、艦長バーソルフ中佐は危険をかえりみず救助を決断した。 

 長谷川中尉は右足骨折などの重傷で、グアム島に送られ入院治療を受けた。救助後、亡くなった吉田湊飛行兵曹長は、ポケットに三枚の写真を入れていた。一枚は許婚の写真で、吉田飛曹長は長谷川さんに「お前は軍人ですぐ死んでしまうから結婚は待てと、親の許しが得られない」と苦悩を打ち明けていた。 

駆逐艦「キャラハン」は1945年7月28日に特攻によって沈没、47人の戦死者を出した。
1995年に長谷川氏は訪米し「キャラハン号沈没五十周年の集い」に参加し、生き残りの元米軍人らと再会した。そして、米海軍記念財団に1万ドルを平和基金として寄付した。

   最後の攻撃の数日前、鹿児島県鹿屋基地から千葉県木更津基地へ移動した。発進直前に吉田飛曹長は「三重県の上空で高度を下げて、旋回してください。許婚の家で彼女と両親が手をあげて待っていますから」と頼んだ。編隊長の長谷川中尉(指揮官機)が旋回したので、僚機3機は従った。

吉田湊飛行兵曹長の持っていた3枚の写真は、駆逐艦「キャラハン」の乗組員が保管していた。50年後の再会の時、長谷川さんに返還され、吉田飛曹長の兄に届けられた。
吉田飛曹長の遺体が翌日、駆逐艦でキャンバスに包まれ、米海軍の礼式通り水葬されたことも分かった。

御國のため若輩なれど我征かむ 永久に報國の志はかたし 

  
写真(右):陸上爆撃機「銀河」の特攻隊
;長距離特攻機としてウルシーの米海軍基地に出撃する銀河特攻隊。搭乗員は,操縦士,偵察員,電信員の3名なので,特攻隊員も3名である。


鹿児島空 第二十二分隊五班によると,攻撃四〇六飛行隊の夜間雷撃と特攻は次のようなものである。
1945年4月18日、攻撃四〇六飛行隊は訓練基地として鳥取県美保基地に移動。ここでは 空襲の心配もなく、訓練に明け暮れた。
 沖縄戦の激化にともない、九州南部の各基地はB29や艦載機による空襲が頻繁に行われるようになった。そのため、錬成訓練を続けていた攻撃四○六飛行隊に、沖縄周辺の敵艦船群に対する雷撃命令が下った。

 1945年5月17日、美保基地を離陸して一路出撃基地である宮崎へ移動。ここで燃料と魚雷を搭載し、藤一飛曹たちは、慶良間列島付近に游弋する、敵艦船群に対する夜間雷撃に発進した。この攻撃で敵夜間戦闘機からは逃れることができたものの、対空砲火にさらされ、偵察員佐藤正義一飛曹(神奈川)は機上で戦死。後藤一飛曹も負傷したが、薩摩半島沖まで帰り着き、枕崎の海岸に不時着できた。

夜間雷撃を行っていたのは、後藤義治、山村輝夫、島津一達など陸攻組であり、特攻隊に編入されたのは、江藤賢助、松木学、古小路裕など艦爆組であった。谷田部航空隊での機種選別が明暗を分けた形となった。 

写真(左):1945年3月11日、陸上爆撃機「銀河」の菊水部隊梓特攻隊;鹿児島県鹿屋基地を飛び立ち、ウルシー基地に特攻出撃する第三番隊の高久健一少尉の乗機と思われる。海軍の長距離陸上爆撃機だが,雷撃機としても使用された。最高速度560km。爆弾搭載量800kg。24機が出撃したが、半数が不時着したり,故障で引き返している。カタログ・データの上では高性能機だが、実際にはエンジンなどの故障が多発し、信頼性の低い爆撃機だったようだ。

古小路裕によると,攻撃四〇六飛行隊の特攻出撃は次のようなものである。
1945年4月27日、攻撃四〇六飛行隊は出水基地から美保基地に移動して訓練を実施することになった。これは、南九州地区がB29や艦上機による空襲を受け、飛行訓練に支障をきたしていたからである。美保基地では空襲を受けることもなく、訓練は順調に進んでいた。 

 5月10日、私はいつものように急降下爆撃の訓練を終えて指揮所で休憩していた。すると、飛行隊長の壱岐少佐が、「次に示すペアは『銀河』を夕方までに宮崎基地まで空輸せよ」との命令を出して、搭乗割が示された。私たちは単なる飛行機の空輸だと思っていたので、宮崎基地に着陸しても、なんら普段と変わらない気分で指揮所に入った。美保基地へ帰る便はどんな手配になっているのか、それとも今夜はここで一泊することになるのか、などと思いながら待機していた。すると、とんでもない命令が伝達された。 

 「翌朝四時に発進し、沖縄周辺の敵艦船に対して『体当たり攻撃』を実施せよ」。との命令である。まさに晴天の霹靂であった。「爆撃せよ」や「雷撃せよ」ならまだしも「体当たり攻撃」を実施せよとの命令である。つまり、「死ね!」という命令である。 

「壱岐の奴、俺たちを騙しやがって!」「人の命をなんだと思っているんだ!」「最初からそう言えば、心の準備だってできたのに、 俺たちを信用していないんだ!」「畜生! 今夜限りの命か!」だが、なんと言っても後の祭りである。命令には絶対に服従しなければならない。攻撃計画の打ち合わせを済ませ、遺書を書いたりしていると、もう午前二時であった。洞窟の中の木製ベッドに、シラミのわいた毛布を被って、少しウトウトとしたと思ったら番兵に起こされた。時計を見るともう三時である。 

 指揮所前で行われた出撃前のセレモニーが終わった出撃隊員は、小型三輪トラックに乗せられそれぞれの飛行機まで送り付けられた。ところが、私たちの飛行機が昨日駐機した場所からなくなっている。私たちのペア三人は最後まで残り、暗闇の中を飛行機を探して三輪トラックで駆けずり回った。そして、やっと見つけたのは昨日駐機した所とは全然違った場所であった。見ると私たちの飛行機は右エンジンのカバーを外し、大勢の整備員が作業をしている。----昨日着陸した際に、担当整備員に右エンジンが不調であることを伝え、修理を依頼していたのである。 

 ところが、修理が手間取ったらしくて、まだ出来上がっていなかった--。これで出撃は不可能となった。私たちペアの三人は、修理が終わるまで仕方なく飛行機のそばで待機した。この間に、準備のできた他の飛行機は次々に離陸して行った。その中に、同期の操縦員松木学一飛曹と偵察員山根三男一飛曹それに電信員伊藤勲一飛曹(乙飛十八期)で編成した下士官だけのペアが含まれていた。

彼らは離陸直後から二度と着陸することのできない基地にオルジス(発光信号を発信する器具)を向けて、「サヨウナラ サヨウナラ……」と、繰り返し繰り返し送信を続けながら、南の空へと消え去って行った。
--結局この出撃で「第九銀河隊」は8機が出撃し、 6機が未帰還となった。 

写真(右):5月17日、特攻機の攻撃を受けた米駆逐艦「ロイツ」;19 May, 1945, moored alongside USS Leutze DD 481, at Kerama Retto, Okinawa. Photo shows damage to Mts 51 and 52 caused by Kamikaze attack on 17 May at radar picket station #9. 7 men were killed, 2 were missing and 17 were seriously wounded.

「父さんの陸軍中野学校」中村光男
1944年11月27日教導航空軍司令官より宮崎県挺進練習部に命令下達。
第一挺進団第一連隊第4中隊(隊長奥山道郎大尉)が選ばれ、隊員126名、防諜上、特別演習参加として、12月5日駐屯地宮崎を発って埼玉県豊岡町(現在の入間市)陸軍航空士官学校に到着、B-29の実物大模型による破壊演習に取り組んだ。部隊には、中野出身者10名が特別参加した。目的は、サイパンに強行着陸後、残留諜者として潜伏し、ゲリラ戦を展開して敵飛行場機能を破壊することである。 

中野出身者10名のうち二俣分校1期生の6名の見習士官は、1944年12月1日卒業後、大本営陸軍部付となり、市ヶ谷へ向かった。----また梅津参謀総長は『大本営から初めて直接、特攻隊員を出す重大な作戦である。選ばれた貴官等は中野学校出身者である』と訓示された。私たちのときは『貴官一人一人は、一ヶ師団の戦力に勝る』と激励された。

大本営はついに奥山隊による「とび」作戦による硫黄島突入を計画し、1945年1月浜松に進出したが、3月17日硫黄島が陥落し、奥山隊は再び宮崎の原隊に戻った。 

天号作戦が発動され、沖縄方面への航空特攻が開始されたが、4月1日の米軍沖縄本島上陸早々に占領された中、北飛行場を制圧するために、義烈空挺隊の突入が計画された。これが、義号作戦であり、5月8日熊本健軍飛行場に進出した。3回目の空挺特攻作戦である。

◆義号作戦:1945年5月24日、義烈空挺隊(指揮官奥山道郎大尉)120名による沖縄飛行場への空挺特攻作戦
沖縄の北・中飛行場(読谷・嘉手納飛行場)に空挺隊を強行胴体着陸をし、一時的に両飛行場を制圧、その間に陸海軍航空特攻によって沖縄方面の敵艦艇を撃滅することを企図した。 

指揮班ほか20名の6個小隊が、機関短銃、拳銃、小銃を装備して、九七式重爆撃機12機に搭乗した。第3独立飛行隊(諏訪部忠一大尉)32名の操縦者など空中勤務者(搭乗員)で,着陸後は奥山大尉の指揮下に入って陸戦に参加する。

(→久野正信中尉の遺書
(→新聞報道「義烈空挺部隊」

1945年5月24日1850熊本健軍飛行場を出撃し、12機中北飛行場に6機、中飛行場に2機、着陸成功が報告された。4機がエンジン不調で不時着。

空挺作戦は成功したようにいわれるが、実際胴体着陸できたのは、読谷飛行場に1機だけだったようだ。

米軍の被害は、飛行機9機破壊炎上、29機損傷、燃料7万ガロン炎上、死傷者20名。義烈空挺隊の死体は69名が確認された。空挺隊員1名は、6月12日頃島尻南部の日本軍陣地に到着、軍司令部に状況報告をした。

空挺同士会沖縄支部「義烈の御霊に捧ぐ」の碑文には,義烈空挺隊について、次のように記されているという。
「秋ソレ昭和二十年五月二十四日夜既 ニ敗色濃キ沖縄戦場読谷飛行場ニ特如強行着陸セシ数機ノ爆撃機アリ
該機ヨリ踊リ出タル決死ノ将兵ハ飛行場ニ存リシ多数ノ敵機オヨビ燃料弾薬ヲ爆砕シ混乱ノ巷ト化セシメタリ
為ニ飛行場ノ機能喪失スルコト三日間ニ及ビソノ間我ガ航空特攻機ハ敵艦船ニ対シ多大ノ戦果ヲ収ムルヲ得タリ
 コレ我ガ挺進第一連隊ヨリ選出セラレタル義烈空挺隊オヨビ第三独立飛行隊ノ壮挙ニシテ両将兵百十三名全員ココニ悠久ノ大義ニ殉ゼリ
後ニ続ク者ヲ信ジ日本民族守護の礎石トナリシ将兵ノ霊ニ我等何ヲモッテ応エントスルヤ」

沖縄特攻と義烈空挺隊の解説ビデオ:沖縄特攻の解説と1945年5月24日、熊本健軍飛行場で出発前の場面を描写。

1945年5月25日の菊水7号作戦(第六航空軍第八次総攻撃)は次の通り。
神風特攻第十銀河隊:銀河21機:宮崎(美保)発:中尉 小口博造指揮官
神風特攻第十銀河隊:銀河1機:美保発:飛曹長 吉田湊指揮官
神風特攻第三正統忠誠隊:九九艦爆10機:第二国分発:上飛曹 安斎岩男指揮官
神風特攻徳島第一白菊隊:白菊29機:串良発:少尉 須田治指揮官
神風特攻菊水白菊隊:鹿屋発:一飛曹 坂本俊実指揮官
第九神風特攻神雷桜花隊:桜花12機:鹿屋発:上飛曹 秋吉武昭指揮官
第九神風特攻神雷攻撃隊:陸攻12機:鹿屋発:中尉 永吉晃指揮官;1945年3月21日に鹿屋を出撃した第一回神雷桜花特別攻撃隊(桜花15機)の名称が,5月25日になって,連合艦隊告示により全軍布告。

写真:四式戦闘機「疾風」;3400機生産された陸軍の後期主力戦闘機だが,エンジンの不調のために米軍戦闘機には対抗できなかった。特攻機として250キロ爆弾を搭載し,出撃した。

1945年5月25日の第六航空軍第八次総攻撃は次の通り。
陸軍特攻第29振武隊:一式戦2機:知覧発:伍長 益子博指揮官
陸軍特攻第49振武隊:一式戦2機:知覧発:少尉 南部吉雄指揮官
陸軍特攻第50振武隊:一式戦2機:知覧発:少尉 高橋瞳指揮官
陸軍特攻第52振武隊:一式戦5機:知覧発:少尉 中原常信指揮官
陸軍特攻第54振武隊:三式戦6機:知覧発:少尉 葛西宏指揮官
陸軍特攻第55振武隊:三式戦2機:知覧発:少尉 佐伯修指揮官
陸軍特攻第56振武隊:三式戦2機:知覧発:少尉 小沢幸夫指揮官
陸軍特攻第57振武隊:四式戦11機:都城東発:少尉 伊東喜得指揮官
陸軍特攻第58振武隊:四式戦10機:都城東発:少尉 高橋隆指揮官
陸軍特攻第60振武隊:四式戦1機:都城東発:伍長 向井忠指揮官
陸軍特攻第61振武隊:四式戦1機:都城東発:伍長 荒井武夫指揮官
陸軍特攻第66振武隊:九七戦2機:万世発:少尉 後藤光春揮官
陸軍特攻第70振武隊:一式戦3機:知覧発:伍長 朝倉岩次指揮官
陸軍特攻第78振武隊:九七戦3機:知覧発:少尉 樺島資彦指揮官
陸軍特攻第105振武隊:九七戦2機:知覧発:伍長 仲西久雄指揮官
陸軍特攻第432振武隊:二式高練2機:知覧発:伍長 増淵松男指揮官
陸軍特攻第433振武隊:二式高練5機:万世発:少尉 三瀬七郎指揮官
陸軍特攻飛行第62戦隊:四式重爆2機:太刀洗発:少尉 溝田彦二指揮官

写真(右):5月25日に沈没した高速輸送艦「ベイツ」;Burning off Ie Shima, after being struck by 3 kamikazes 25 May 45. 排水量:1,450 tons 、全長: 306フィート' 全幅: 37' 、深さ: 12'
速度: 23 knots (max); 12 knots (econ)
兵装: 1×5"/38 DP; 3x2 40mm; 6 20mm; 2 DC tracks
乗員: 15 officers, 198 enlisted 出力12,000 馬力.

1945年5月25日(金曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
沈没:高速輸送艦BATES (APD-47), by suicide plane,26 d. 41'N., 127 d. 47'E.
駆逐艦COWELL (DD-547), accidentally by United States naval gunfire(友軍による誤射)
駆逐艦STORMER (DD-780), by suicide plane
高速輸送艦ROPER (APD-20), by suicide plane

6.沖縄戦末期になると,低速の旧式機,練習機,水上機も特攻作戦に投入された。特攻隊員は,自分の棺となる特攻機を選べなかったから,このような低速の旧式中古機を割り当てられて,落胆し,憤慨したこともあったようだ。 

写真(左):機上練習機「白菊」;11型(K11W1)と21型(K11W2)を合わせて798機製造。
最高速度 143 mph (230 km/h) (1700 m); 巡航速度 109 mph (175 km/h) (1000 m)
上昇限度 (5620 m); 上昇速度 3000 m/19分35秒. 航続距離 1,094 miles (1760 km).
自量1677 kg 標準全備重量(2,640 kg) 最大全備重量 (2800 kg). 翼面過重(86.6 kg/sq m); 出力過重 (5.1kg/hp)


白菊特攻隊 特攻隊編成によると,1945年3月下旬、九〇三航空隊から大井航空隊に転属したパイロットたちが,白菊特攻隊に編成される様子が描かれている。

私は、---茶野上飛曹の指導で「白菊」による操縦訓練を行っていた。
 ある日のこと、「飛行隊の搭乗員は、総員直ちに映写講堂に集合せよ!」と伝達された。何事だろう。搭乗員だけに特別な映画でも見せるというのだろうかと思いながら、映写講堂へ急いだ。
 飛行隊長をはじめとし、各分隊長や分隊士連中が緊張した顔で集まっている。---飛行隊関係者総員が集合したところで、大井航空隊司令奈良大佐が、参謀----中佐を伴って壇上に上がった。そして、今度新たに編成された、第十航空艦隊の参謀であることを紹介した。続いて、「今から聞く話は、軍の重大な機密である。だから、決して口外してはならない、また、お互い隊員の間でも話題にしてはいけない!」と、念を押した。かたずを飲んで聞き入る搭乗員の顔面に緊張感がみなぎった。

 航空艦隊司令部から派遣された参謀の話を要約すれば、次のとおりである。「諸君もうすうす承知していると思うが、現在戦闘に参加できる航空母艦は、もう一隻も残っていない。----更に、フィリピン方面での戦況は、既に末期的な状況となっている。----この難局に際して残された手段は、諸君ら搭乗員が一機で一艦を沈める『体当たり攻撃』以外に方法はない。よって、第十航空艦隊は全保有機をもって『神風特別攻撃隊』を編成し『体当たり攻撃』を実施する」。 

写真(左):白色塗装を施した機上作業練習機「白菊」;終戦後、連合軍は,一時的に連絡飛行用の機体として日本軍に飛行機の使用を認めた。その場合,白色に塗装し、日の丸の変わりに,十字マークをつけることとされた。

南方戦線における海戦や航空戦での我が方の損害は、断片的なうわさ話によりうすうすは承知していた。また、フィリピン方面における「神風特別攻撃隊」の活躍やその戦果は、大々的に発表されていた。しかし、特攻は一部の志願者による特別な行為であって他人事としか考えていなかった。だから、自分自身が「体当たり攻撃」を実施する立場にたたされるとは夢想もしていなかったのである。 

 ところが,航空艦隊参謀の説明によれば、全保有機で「特別攻撃隊」を編成するという。これは志願者を募るのではなく、飛行隊をそのまま「特攻隊」に編成替えして「体当たり攻撃」を実施するということである。それなら、もう逃げも隠れもできない瀬戸際にたたされたことになる。


航空艦隊参謀から、「諸君が一機で一艦を沈める体当たり攻撃以外に方法がない」と、言われると、「よーし、やるぞー」と、いう気持ちになる。しかしその反面、「まだ死にたくない、他にも何らかの方法があるのではないのか……」との思いが交差する。このように、精神的な動揺をどうすることもできなかった。

 日ごろ、最も危険とされていた飛行機搭乗員の配置にありながら、われわれは自分の死についてあまり深く考えたことはなかった。それは、出撃しても自分だけは無事に生還できると信じることで、この生死の問題から故意に逃げていたにすぎない。
しかし、普通の爆撃や雷撃に出撃しても、 無事に帰還できるという保証はだれにもなかったのである。

 そのうえ、われわれ搭乗員の思惑とは関係なく、「神風特別攻撃隊」の編成は計画的に進められていたのである。大井航空隊は本来、偵察専修の搭乗員を養成するのを任務とする練習航空隊である。ところがこの時期、学生や練習生に対する教務飛行は既に中止され、練習航空隊は編制改正により、実施部隊に生まれ変わっていた---。 

各練習航空隊において偵察専修の搭乗員を訓練する練習機として、教務飛行に使われていた「白菊」はスピードも最高で120ノットと遅いうえ、燃料も満タンで480リットルしか積めないの、約600マイルの航続距離しかない。そのため、「特攻機」としての改造が行われた。 

 まず零式戦闘機用の増槽(落下燃料タンク)を胴体内に積み込んで固縛し、燃料の積載量を増やした。次に、主翼の付け根に、二十五番(250キロ爆弾)の投下器を装着した。だが、爆弾は本来飛行機に積んだままでは爆発しない。理由は、爆弾の信管には安全装置が施されていて、爆弾が機体を離れて初めて安全装置が解除される仕組みになっているからである。そのため、 爆弾を機体に装着したままこの安全装置を解除する特別な装置が着けられた。そして「白菊」は「特攻機」として生まれ代わった---。 

 各航空隊では第十航空艦隊の命令によって「神風特別攻撃隊」を編成した。菊水部隊白菊隊(高知航空隊)・徳島白菊隊(徳島航空隊)・八洲隊(大井航空隊)・若菊隊(鈴鹿航空隊)である。そして、「神風特別攻撃隊」の編成が完了すると、「体当たり攻撃」の訓練が開始された。 

 昼夜にわたる猛訓練を実施して錬度の向上を図り、夜間の出撃が可能となった時点で、鈴鹿航空隊及び大井航空隊は第三航空艦隊に、高知航空隊と徳島航空隊は、第五航空艦隊にそれぞれ配属された。

 五月二十四日の「菊水七号作戦」を皮切りとして、六月二十五日の「菊水十号作戦」までに、百三十数機の「白菊」が、沖縄周辺の敵艦船に対して、還らざる「体当たり攻撃」を敢行した。その内、五十六機が突入確実と認められ、聯合艦隊の告示によってその功績が全軍に布告された。--二百数十名の尊い命が「白菊」と運命を共にした---。(→蒼空の果てに所収「白菊特攻隊 特攻隊編成」引用終わり) 


写真:(左)1945年5月26日,特攻機の命中を受けた米駆逐艦「ブレイン」DD-630 USS BRAINE
;2機の特攻機の命中により損傷。満載排水量 2924トン,全長 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max), 武装 5門 x 5インチ38口径対空砲, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5). 機関出力, 6万馬力; General Electric Geared Turbines, 2 screws 速力, 38ノット, 航続距離 6500マイル@ 15ノット, 乗員 273名。写真(右)米駆逐艦「ブレイン」の損傷した40mm対空機銃砲塔 Close Up Of Damage After 1st Kamikaze, Port Side 40mm Mount.

写真(左):1945年5月27日に鹿児島県万世基地を出撃した陸軍特攻第72振武隊;鹿児島県萬世飛行場から旧式低速中古の九七戦9機の特攻隊として出撃した荒木幸雄(17歳2ヶ月)たち。特攻隊員は、祖国,家族を愛する純真な若者である。しかし、命を狙われる米軍から見れば、日本の特攻機を操縦し,体当たり攻撃を行う「自爆テロリスト」ということになるのか。また、若者の特攻隊員はいるが、佐官クラスの高級将校の特攻隊員はいないのはなぜか。

1945年5月27日出撃の特攻隊
神風特攻菊水白菊隊:機上作業練習機「白菊」20機:鹿屋発:中尉 川田茂指揮官
陸軍特攻第72振武隊:九七式戦闘機(九七戦:旧式固定脚の低速中古機)9機:万世発:中尉 佐藤睦男指揮官
陸軍特攻第431振武隊:九七戦5機:知覧発:伍長 紺野孝指揮官

1945年5月27日(日曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
沈没:駆逐艦 DREXLER (DD-741), by suicide plane
護衛駆逐艦GILLIGAN (DE-508), by aircraft torpedo
高速掃海艦SOUTHARD (DMS-10), by suicide plane
掃海艇GAYETY (AM-239), by horizontal bomber
高速輸送艦LOY (APD-56), by suicide plane
高速輸送艦REDNOUR (APD-102), by suicide plane;排水量 1,400 t.速力23.6 kts. 乗員200名、輸送人員162名、搭載舟艇 4 LCVP landing craft、搭載物資 6×1/4 ton trucks, 2× 1 ton trucks, 4× ammunition carts, 4 pack 榴弾砲。
輸送艦 SANDOVAL (APA-194), by suicide plane
洋上浮標 PAKANA (ATF-108), by naval gunfire
磁気消去艇YDG-10, by suicide plane

  写真(右):陸軍九七式戦闘機を装備した特攻隊;九七戦は旧式戦闘機であったが,中古機や練習機として多数が残存していたために,特攻機として使用された。

 もしも特攻隊は,自発的に志願者が現れ、その志願者から特攻隊が編成されたという「特攻自然発生説」が少しでも妥当するのであれば、なぜ将軍・大臣・皇族はもちろん、佐官クラスの中堅士官が、特攻を志願しなかったのかを説明する必要がある。

 高級将校が、航空機を操縦できないのであれば,予備学生と同じく100時間の速成訓練を受けて練習機で突っ込めばよい。
複座以上の特攻機では、電信機を降ろして、後方見張りのためにか、偵察員を乗せていた。操縦できなくとも、パイロットではなくとも、同乗者として、特攻機に乗り込むことは、経験の浅い将兵にも可能である。それであれば、操縦はもちろん航法・通信ができなくとも、将軍・大臣・皇族、佐官クラスの中堅士官でも、特攻出撃できる。自ら志願すれば、誰でも特攻、戦死できた。

しかし、特攻で戦死した佐官以上の士官は、神雷部隊「桜花」隊の野中五郎少佐1名のみで、かれは人間爆弾「桜花」を運ぶ一式陸上攻撃機に搭乗していた。つまり、結果として,志願によるか、上級指揮官からの命令によるかは問わず,航空特攻隊員は、若い最下級将校および下士官・兵からのみ編成されたのであり、未熟練な搭乗員であった。

事実上、佐官クラス以上の士官で、特攻隊に自ら志願した将校は、日本陸海軍にはまずいない。「俺も最後の一機で特攻する」といっていた高級将校,将軍もいたが。
彼ら高級将校は、特攻とは、その他に愛国の情を示す方法がない未熟練な末端の勇士が行うべきことと考えていた。軍事技術/戦術・戦略に通じた一級の軍人は、体当たり自爆という1回の任務で命を軽軽しく無駄にすべきではない。生き続けて、経験をつみ、よりよい作戦を計画、準備、実行する義務がある。死ぬよりも生きることのほうがぬ難しい。
----このように合理的に考えて、司令官や高級将校の多くは、自ら特攻出撃するのを回避しつつ、要領よく若い未熟練搭乗員を特攻に送り出した。この無責任な特攻作戦にこそ、軍国主義教育を施し,促進してきたエリート軍人たちの「愛国心」の本性・本音が現れているのではないか。

写真(右):250キロ爆弾と200リットル増加タンクを装備した特攻一式戦闘機;陸軍の代表的戦闘機も旧式化した後は爆装した特攻機として多用された。

現在の万世(現在の加治町)飛行場から,1945年5月27日に特攻した少年兵荒木幸雄仔犬を抱いた特攻少年兵」として,有名である。屈託のない幼さの残る笑顔が印象的で,体当たり攻撃を命じられた若者とは思えない。米国の若者を死の道連れにする自爆テロリストとして,認識すべきなのか。それとも,現在頻発している「自爆テロ」を行う若者たちが,テロリストではないのか。

戦争であれば,軍艦に乗る乗員であっても,軍需生産,補給物資の運搬を担うような民間人であっても,重要な戦力として,攻撃対象として当然である。自分の命をかけて,祖国,家族を守るために,敵に打撃を与える必要があり,その攻撃目標は,航空母艦・駆逐艦など敵艦艇,輸送船など敵民間商船,あるいは金融センター・道駅・国防省など敵経済・軍事中枢など様々である。効果的な攻撃目標の選定が重要となり,民間人が含まれるかどうかは問題ではないともいえる。

菊水八号作戦・第九次航空総攻撃(5月28日〜5月30日)
持久戦を続けるために首里を放棄して南部へ撤退することになり,29日から撤退開始。この時期には,水上機,練習機も含めて旧式機が特攻に投入された。
参加数は,海軍217機,陸軍71機,海軍特攻51機,未帰還46機。


写真(右):九州飛行機(元渡辺鉄鋼)練習機「白菊」
;最高速度230km/hで航法,電信、偵察を訓練する機上作業練習機。

「白菊」特攻隊を報じる徳島新聞では,次のように記述されている。

「白菊特別攻撃隊員を命ずる」。1945年4月上旬、松茂町住吉の旧日本海軍徳島航空隊。司令が搭乗員250人に告げた。海軍少尉だった田尻正人さん(82)=徳島市丈六町長尾=もその中にいた。
大阪外国語大学に進んだ。だが同年12月、日米開戦。三年生になった1943年9月、海軍飛行予備学生に志願し、茨城県土浦航空隊での基礎教育や日本占領下の台湾での飛行訓練を経て1944年10月、上海の実戦部隊で戦闘機乗りになった。そして、転属になった徳島航空隊で特攻命令。「死ぬ覚悟はできていた。別に驚きもせず、当然のことと受け止めていた」と田尻さん。
 特攻の標的は沖縄沖に展開する米海軍の大艦隊だった。1945年5月23日、白菊60機は松茂を離れ、前線基地の鹿児島県串良町へ。出発前、わら半紙に書き残した言葉は「感激 皇恩広大 祈 聖壽萬歳皇国繁栄」(皇恩の広大に感激し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈る)。「後に残るから、少し格好をつけたところもある。しかし、本当にそう思っていた」
 途中、両親が暮らす実家の上空を飛び、屋根を見ながら「今生の見納め」と心の中でひそかに別れを告げた。不思議と気持ちは穏やかだった。

 同24日夜、第一次攻撃として同僚機14機が出撃。エンジン不良で引き返したり、不時着したりした機を除き、9機18人が南海に消えた。

 田尻さんは第二次攻撃で26日朝に出撃することになった。出撃二時間前の午前3時に起床、下着を取り換えた。軍服や写真などの身の回り品は箱に詰め、実家に送り届けるよう手配した。手紙は添えなかった。整備員の「万歳」「万歳」の声に送られて白菊に乗り込み、滑走路端に移動。離陸というときになり、伝令が「攻撃中止」と叫びながら走ってきた。
 理由は「戦機を逸したため」。田尻さんは待機となり、訓練をやり直すため松茂に戻った。しかし、串良町に残った白菊隊はその後四回出撃し、計28機56人が二度と戻らなかった。再び命令を待ち、訓練に明け暮れる日々。7月24日の爆撃で松茂の基地は壊滅。白菊隊は旧市場町(現阿波市)の秘密基地へと移動した。

 そして、終戦。司令部にしていた民家の狭い庭で士官三十数人がラジオを囲み、玉音放送を聞いた。雑音が多く、意味がよく分からなかったが、司令が「無条件降伏だ」と説明した。無念との思いが強く「死なずに済んだ」とは思わなかった。「搭乗員は皆殺しにされる」とのうわさが流れ、隊員は基地を後にして散り散りに。列車を乗り継いで家にたどり着いた。戦死したと思っていた息子を見た父母の喜びように、初めて「生きていてよかった」と実感した。

『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機。

写真(左):200リットル増加タンクを装備した一式戦闘機キ-43「隼」;ソ連軍に対抗するために満州に駐屯していた部隊も南方・沖縄方面の戦いに転用,動員された。5000機生産された陸軍の主力戦闘機も,戦争後期には旧式化しており,特攻機として多数使用された。

1945年5月28日の海軍の特攻出撃
神風特攻徳島第二白菊隊:白菊11機:串良発:中尉 田中正喜指揮官
神風特攻徳島第三白菊隊:白菊5機:串良発:一飛曹 北光圓指揮官
神風特攻琴平水心隊:水偵15機:指宿発:少尉 山口平指揮官
第九神風特攻神雷攻撃隊:陸攻12機:鹿屋発:中尉 永吉晃指揮官

写真(右):川崎三式戦闘機「飛燕」;2000機生産された陸軍の後期主力戦闘機だが,ドイツのダイムラー社から製造権を購入して生産した液冷エンジンが不調で,米軍戦闘機には苦戦した。対艦船特攻機としては,主翼の片方に250キロ爆弾,もう片方に200リットル入増加タンクを搭載し,特攻出撃した。爆弾と菊水のマークがついている。対爆撃機B-29に対する特攻にも使用された。

1945年5月28日の陸軍の特攻出撃
陸軍特攻第45振武隊:二式復戦10機:知覧発:中尉 藤井一指揮官
陸軍特攻第50振武隊:一式戦1機:知覧発:伍長 磯田徳行指揮官
陸軍特攻第51振武隊:一式戦1機:知覧発:伍長 市川豊指揮官
陸軍特攻第52振武隊:一式戦3機:知覧発:少尉 横山正雄指揮官
陸軍特攻第54振武隊:三式戦3機:知覧発:少尉 中西信一指揮官
陸軍特攻第55振武隊:三式戦1機:知覧発:少尉 大岩泰雄指揮官
陸軍特攻第58振武隊:四式戦1機:都城東発:少尉 紺田博指揮官
陸軍特攻第59振武隊:四式戦3機:都城東発:少尉 大竹狼一指揮官
陸軍特攻第213振武隊:二式高練2機:知覧発:伍長 松下貞義指揮官
陸軍特攻第431振武隊:二式高練2機:知覧発:少尉 掘川義明指揮官
陸軍特攻第432振武隊:二式高練8機:万世発:少尉 船橋卓次指揮官
陸軍特攻第433振武隊:二式高練5機:万世発:少尉 石川敏夫指揮官

1945年5月28日(月曜)沖縄方面の米艦船の被害
駆逐艦 SHUBRICK (DD-639), by suicide plane
 
1945年5月26/27日(日曜)沖縄方面の米軍損傷艦船 
駆逐艦 ANTHONY (DD-515), 特攻により損傷by suicide plane
駆逐艦BRAINE (DD-630),特攻により損傷, 26 d. 25'N., 128 d. 30'E.
高速掃海艦 FORREST (DMS-24), 特攻により損傷
潜水艦母艦 PC-1603, 特攻により損傷
測量艦DUTTON (AGS-8), 特攻により損傷

1945年5月27/28日(月曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
駆逐艦 DREXLER (DD-741), 特攻により沈没
護衛駆逐艦GILLIGAN (DE-508), 雷撃機による特攻により損傷
高速掃海艦SOUTHARD (DMS-10), 特攻により損傷
掃海艇GAYETY (AM-239), by horizontal bomber
高速輸送艦LOY (APD-56), 特攻により損傷
高速輸送艦REDNOUR (APD-102), 特攻により損傷;排水量 1,400 t.速力23.6 kts. 乗員200名、輸送人員162名、搭載舟艇 4 LCVP landing craft、搭載物資 6×1/4 ton trucks, 2× 1 ton trucks, 4× ammunition carts, 4 pack 榴弾砲。
輸送艦 SANDOVAL (APA-194), 特攻により損傷
洋上浮標 PAKANA (ATF-108), by naval gunfire
磁気消去艇YDG-10,特攻により損傷

1945年5月28日、沖縄航空特攻「菊水作戦」琴平水心隊に投入された水上機は、零式水上偵察機零式観測機などで、これらの水上機は、時速370kmと米国戦闘機の600kmに比べ遥かに低速である。

写真(右):三菱F1M零式水上観測機;特攻機と出撃する際には,中央のフロート支柱を曲げで、左よりに250kg爆弾を搭載した。全幅 11.00m、全長 9.50m、自重 1930kg 、最高速度 370km/h、航続距離 1060 km、乗員2名。708機生産。

零式水上観測機は、胴体真下にフロートがついているので,支柱をまげて250kg爆弾を装備した。左右の重心バランスが左側に偏って、離水は困難になった。しかし、過重装備での訓練は断ったの1回限りだったという。
「うまく敵艦船にめぐり合ったとしても高度100mからの低速機の特攻では破壊力がない」
「軍人は最後には死ぬものと思っていたし、ああいう戦局では命令された以上---」と特攻出撃を受け入れた特攻隊員もいた。

城山三郎(2001)『指揮官たちの特攻』では,エリート軍人(海軍兵学校[陸軍でいえば士官学校]出身者)と学徒兵(予備学生出身の若者)・少年兵(予科練出身の若者)の特攻出撃を比較している。それによれば,練習機「白菊」,水上機による特攻では,次のように,兵学校出身者よりも学徒兵・少年兵が圧倒的に多い。

1945年5月24日の白菊特攻隊;練習機「白菊」20機出撃のうち、戦死した搭乗員39名戦死。戦死者は、海軍兵学校出身者1名、予備学生出身者・予科練出身者35名(うち、17歳4名、16歳1名)。
5月27日の白菊特攻隊;練習機「白菊」20機出撃。戦死者は、海軍兵学校出身者1名、残りは予備学生出身者・予科練出身者(うち、17歳3名)。
水上機特攻では、予備学生(学徒兵)出身者42名、予科練(少年兵)出身者38名が死亡している。予科練出身者は、17歳8名、16歳3名である。しかし、職業軍人のエリートである海軍兵学校出身者は一人もいない。

日本軍で特攻隊に選ばれた搭乗員(陸軍では「空中勤務者」。パイロットと偵察・航法・通信員)たちの特徴は次の3点である。
ヽし格竺惺蚕仗箸覆疋┘蝓璽反Χ鳩蛙佑肋なく、予科練習生(予科練;少年兵)出身の兵・下士官と予備学生(学徒兵)出身の最下級将校など新参者が特攻の中心である。
軍歴が浅く実戦経験のない10代から20代の若者が特攻の中心である。
上記の理由から、未熟な若い搭乗員が特攻の中心である。

軍上層部は、特攻隊の人選について、次のように冷徹に考えたようだ。 ‘湛兇気擦襪里蓮¬そ藁の軍隊経歴の浅い人間で、彼らに頼み込んだり、煽ったり、命令したりして特攻出撃させるべきである、 軍隊経験を積んだ有能な人間は(まだ先の)本土決戦に温存しておくべきである、と。

1945年5月27/28日(月曜)沖縄方面で特攻機が命中した米駆逐艦「キリガン」の戦闘経過
この時期,日本軍は,カミカゼ(航空特攻),潜水艦,潜水夫,モーターボートなどさまざまな手段で,米艦船を破壊しようとした。In spite of heavy air attacks she engaged in screening and esort duties for transports, splashed at least five attacking planes, and possibly damaged a submarine. 5月27日(米国時間?), 駆逐艦「キリガン」の幸運は途絶えた。雷撃機が魚雷を抱いたまま突入したのである。しかし,幸いにも不発だった。駆逐艦「キリガン」は,6月25日にウルシー環礁の海軍基地に帰投した。

5月27/28日には,日本軍の雷撃機は出動していないようだ。とすれば,大きなフロートをつけているために,魚雷を抱が突入したと考えられる。水上機の特攻は,鹿児島県指宿をし発進した神風特攻B>「琴平水心隊」水偵15機であり,そのうちの1機,多分フロートが1本の零式水上観測機が突入したものと思われる。

1945年5月29日の特攻出撃
神風特攻徳島第三白菊隊:白菊5機:串良発:一飛曹 北光圓指揮官
神風特攻振天隊:九七艦攻2機:新竹発:中尉 古川正崇指揮官
陸軍特攻飛行第20戦隊:一式戦5機:宜蘭発:少尉 石橋志郎指揮官
陸軍特攻誠第15飛行隊:九九双軽1機:台中発:伍長 半田金三指揮官

1945年5月29日(火曜)沖縄方面の米艦船の被害
高速輸送艦TATUM (APD-81), by suicide plane
掃海艇YMS-81, by grounding
揚陸艦LST 844, by grounding

菊水九号作戦・第十次航空総攻撃(6月1日〜6月11日)以降,特攻出撃数は大幅に減少し,特攻作戦は衰えた。牛島中将は決別電文を送信した6月19日,「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し,最後まで敢闘し,悠久の大儀に生くべし」と命令を出し,残存部隊に徹底抗戦を命じた。23日未明,司令部壕内で自決。

もちろん,特攻以外に日本軍の反撃手段はなく,1945年7月28日,神風特攻第三竜虎隊:九三式中間練習機(中練)8機は、宮古島を発進した。この複葉中古練習機は、駆逐艦「キャラハン」CALLAGHAN (DD-792)を撃沈している。このような1945年6月以降の航空特攻は、特攻作戦の崩壊に続ける。

8.特攻では,航空機2000機,搭乗員3000名を失ったが,沖縄戦の命中率は10%程度であった。大半の特攻隊員は,戦果を挙げることなく死亡した。特攻機の戦果は,艦船・商船撃沈30隻,撃破80隻程度で,戦果に比して損害が大きすぎた。  

図表:1945年における沖縄方面の日本陸海軍特攻機の出撃数

菊水作戦の時期には、1900-2200機が特攻に出撃した。
1945年4月から6月までの間、沖縄方面作戦に特攻出撃した海軍機は神風特別攻撃隊・八洲隊元隊員永末千里サイトによれば,次の通り。

零式艦上戦闘機   631機
九九式艦上爆撃機  135機
機上練習機「白菊」 130機
艦上爆撃機「彗星」 122機
陸上爆撃機「銀河」 100機
九七式艦上攻撃機   95機
水上偵察機     75機
一式陸上攻撃機(桜花)54機
艦上攻撃機「天山」  39機
九六式艦上爆撃機   12機
  合計      1393機

80日余りに及んだ沖縄戦で、米軍は,駆逐艦16隻など艦船36隻を特攻・通常攻撃などで失い,368隻が損傷(大破50隻以上)を受けた。米海軍航空隊は,航空機 763機,水兵 4,900名を失い,水兵4,800名以上が負傷した。
陸戦では,米軍兵士 7,373名が死亡し,3万2,056名が負傷した。
日本側は, 10万7,000名が殺され, 7,400名が捕虜になった。こほか 2万名が日米両軍の戦闘に巻き込まれて死亡している。
日本軍艦船の沈没は 16隻で,沖縄・台湾、九州など内地において、地上撃破も含め、航空機4,000機以上を 喪失した。

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失

沖縄戦において、日本軍は、航空機約1,900機(海軍1,000機、陸軍900機)とその搭乗員約3000名(海軍2,000名、陸軍1,000名)を特攻作戦に出動させた。
沖縄特攻の戦果は、艦船の撃沈26隻,損傷164隻で,米海軍の人的損失損害は、1945年4月から6月末で,沖縄方面の全作戦を含めて死者4,907名、負傷者4,824名に達した。


特攻による米国商船の被害一覧でも,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は6隻で,撃沈を含め損傷を受けた商船は合計23隻である。

日本軍の特攻は、空母,戦艦はもちろん,巡洋艦すら1隻も撃沈していない。特攻機が撃沈したのは,駆逐艦12隻,護衛駆逐艦1隻,高速輸送艦(駆逐艦改造)など3隻が主要軍艦であり,その他は戦車揚陸艦,掃海艇,輸送船であった。特攻機の命中率の低さと命中したときの威力不足のために,特攻の効果は大きくはなかった。 特攻の威力を見ると,艦艇1隻に1機の特攻機が命中するだけでは撃沈できることは少なく,たとえ複数の特攻機が命中しても撃沈できない場合も珍しくはない。特攻機の命中がどれほどあったのかは,不明瞭であるが,仮に撃沈した艦船に2機が命中率,損傷した艦船に1機が命中あるいは至近突入とすると撃沈した艦艇に56機命中,損傷させた艦艇に164機命中となる。そこで,日本の特攻機は沖縄戦に1900機が突入して合計216機命中したことになる。つまり,沖縄戦での特攻機の命中率は11%である。


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