鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
人間爆弾「桜花」海軍航空技術廠 MXY-7 2005
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◆人間爆弾「桜花」海軍航空技術廠 MXY-7:開発と戦歴
写真(上):米軍に鹵獲された人間爆弾「桜花」;写真(左)は,1945年4月1日、沖縄本島、読谷飛行場(日本陸軍の沖縄北飛行場)を占領したアメリカ軍が鹵獲した「桜花」11型I-18。捷号作戦に関する陸海軍中央協定に基づいて、陸軍の飛行場で海軍の「桜花」を使用するつもりだったようだ。
写真(右)は、「桜花」I-18の弾頭を点検するアメリカ軍兵士。1.2トンの爆薬を搭載しており、体当たり自爆して敵艦船を破壊する。

【アジア太平洋戦争インデックス】:鳥飼研究室の戦史一覧
2016年3月19日(土)23時から0時、ETV特集「名前を失くした父〜人間爆弾“桜花”発案者の素顔」が放送された。本研究室には、放送の当日3月19日454人、翌3月20日121人の新規来訪者があった。「名前を失くした父〜人間爆弾“桜花”発案者の素顔」の再放送は、3月26日(土)午前0時から1時。 再放送の3月25日は196人、翌27日は78人の新規来訪者だった。

戦後偽名で暮らした「桜花」発案者、大田正一、その息子大屋隆司氏(63)が父の本当の名前を知ったのは中学生の時、子煩悩で優しい父と、非情な兵器を発案した父との乖離から、それ以上詳しい話を聞くことはできなかったという。戦争末期、神之池航空隊「神雷部隊」の大田正一海軍中尉は、軍やマスメディアで犠牲的精神を厭わない「桜花」発案者として讃えられた。終戦直後、ゼロ戦で飛び立ち海上に自爆を図るも救出され生き延びた。一下級将校を「桜花」発案者として讃えたのは、日本海軍が部下に死を強要することになる特攻作戦を大々的に推進したいためだった。海軍の軍令部を頂点とする上級将校は、特攻作戦の責任をとろうとせず、結果として、責任を一介の下級将校に押し付けた形になった。大田正一氏はその責任を一人で背負うことになった。

沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献】 
1.連合国では,日中戦争以来、日本軍のアジアへの侵略行為、残虐行為が知れ渡り、日本人への反感が高まっていた。ハルゼー提督のように「よいジャップは、死んだジャップだけだ」として、日本兵の殺害を推奨していた。日本の侵略行為・残虐行為に日本人への人種的偏見が相俟って、対日戦争では欧米流の騎士道精神は期待できなかった。当時の米国人には,日本軍の特攻作戦は、現在の自爆テロと同じく、狂信的な愚かで卑劣な行為として認識されていた。2001年の9.11同時テロに対しても、アメリカでは、真珠湾の騙し討ちの再来であり、カミカゼ特攻と同じく卑劣な自爆テロであるとみなされ、避難され、憎悪が沸き起こった。日本人として、特攻は自爆テロは違うと信じるが、世界の人々は必ずしもそう思ってはいない。

写真(左): 1944年12月、フィリピン戦の時期、第三艦隊旗艦「ニュージャージー」艦上で撮影された「ブル(野牛)」ハルゼー提督;1940年6月13日,海軍中将、1942年11月18日、海軍大将、1945年12月11日,海軍元帥に昇進。提督は海軍元帥に相当する。しかし、少将以上であれば陸軍で将軍と見做すのと同様、海軍は提督と呼称することもある。Third Fleet was originally formed during World War II on March 15, 1943 under the command of Admiral William F. "Bull" Halsey. He opened his headquarters ashore in Pearl Harbor, territory of Hawaii, on June 15, 1944. Third Fleet planned and directed many of the decisive naval operations of World War II in the Pacific. The fleet operated in and around the Solomon Islands, the Philippines, Formosa, Okinawa and the Ryukyu Islands.
Title: Admiral William F. Halsey, USN Description: Commander, Third Fleet On the bridge of his flagship, USS New Jersey (BB-62), while en route to carry out raids on the Philippines, December 1944. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-471108 引用。


 1943年,のちのアメリカ大統領ジョン・F・ケネディJohn F. Kennedy)海軍中尉(後の大統領)が哨戒魚雷艇Patrol Torpedo boat)PT-109指揮官としての1ヶ月以上の任務を終えて,ソロモン群島ツラギ島に帰還すると,ハルゼー提督が掲げるように命じた大きな看板が目に入った。そこには次のように書かれていた。「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ!もし任務を的確に果たそうとするなら,黄色い卑怯な野獣を殺せ。」

KILL JAPS !KILL JAPS !KILL MORE JAPS ! You will help to kill the yellow bastards if you do your job well " [From "PT-109- The Wartime Adventures of President John F. Kennedy" by Robert J. Donovan](→Fleet Admiral William F. 'Bull' Halsey 引用)

ウィリアム・ハルゼー提督Admiral William F. "Bull" Halsey)は,敵国日本人が過酷な戦場では肉体的に優れているという米軍の恐怖心を否定することがぜひ必要であると信じていた。そこで,「'Kill Japs 日本人どもを殺せ」Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' というスローガンを掲げた。「死んだ日本人がいい日本人だ」として人種的に侮辱し,戦意を高めた。勇猛果敢な戦闘精神の権化ともいえるハルゼーは,特攻をジャップの自爆テロとして憎悪した。
He strongly believed that by denigrating the enemy he was counteracting the myth of Japanese martial superiority . . . ' "Halsey's racial slurs made him a symbol of combative leadership, a vocal Japanese-hater . . . "

「米軍兵士はカミカゼ特攻隊を恐れ,畏敬の念を抱いていた」とする日本人識者は多い。しかし,当時,カミカゼ・パイロットはテロリストであり,米兵は、戦利品として,戦死した特攻隊員の遺体を皿に載せ,ジャップ・ステーキとして嘲笑したり,遺骨・特攻機の破片や残骸を戦利品として持ち帰っていた。現在でも、寄せ書きの有る日章旗や軍隊手帳が、遺族に返却される「美談」が報じられる。このような戦利品spoil of warが持ち帰られた一因には、日本兵への敵意や憎しみがあった。

人間爆弾「桜花」は米軍から「バカ爆弾」と呼ばれた。現在でも、米国人や日本人で,「自爆テロリスト」は祖国を蹂躙した外国軍に立ち向かう愛国心のある立派な若者である,として敬意を払う人物は少ない。自爆者を送り出す側では,英雄,戦士であっても,自爆攻撃の対象とされる側では,正反対のテロリストとして嫌悪される。当時の米兵の中にも,戦死した特攻隊の死体を艦艇上で見つけ,海葬にしてた時もあった。連合国で,被害(日本の戦果)を受けず終わったシドニー港を攻撃した特殊潜航艇乗員の埋葬などの例もある。しかし,これは,例外である。

体当たり特攻爆弾「桜花」には,卑劣な憎むべき敵(=自爆テロリスト)が乗っている。冷静な研究者や元軍人は別にして,カミカゼ,「バカ爆弾」に直面してた大半の米兵たちは,戦友や自らの命を奪うカミカゼを「自爆テロ」として,憎悪,嫌悪した。アメリカ海軍高速空母任務部隊を率いたウィリアム・ハルゼー提督も,キル・ジャップと叫び日本人狩り(Japanese-hater)を辞さない。日本人を貶め,嫌悪すすことで,米兵たちに敵愾心を起こさせ,士気を高めようとした。

日本兵が立派な戦士であると持ち上げるときは,それを打ち倒した米兵は。日本兵を上回り,さらに優秀で立派な兵士だという,自画自賛である。米軍の自画自賛を,「日本兵は強かった,と米軍も言っている」と持ち上げるほど愚かしいことはない。このような考え方を認識しないと,人間爆弾「桜花」がなぜ「バカ爆弾」と呼ばれたのかわからなくなる。

しかし,人が死を選び,命を捧げ,投げ出すとき,計画的な必死の作戦を遂行するとき,やはり困難が付きまとう。祖国や家族を守るための破壊行為の善悪,それを行う個人の意思を判断するのも容易ではない。
レイテ戦の神風特攻隊:特攻第一号と特攻の生みの親の神話

2.1944年10月20日、捷一号作戦最中のフィリピンのレイテ戦をのとき,日本軍の航空機による特攻作戦がはじめて開始された。しかし,1944年3月には、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し,1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図した。1944年8月16日には海軍航空本部が「マルダイ部品」の秘匿名称で、人間爆弾「桜花」を改正試作するように横須賀の航空技術廠に下令した。つまり1944年3月以降,日本軍は,特攻兵器を開発するなど,特攻作戦を組織的に計画,準備していた。

写真(右):1943-1944年、太平洋方面、アメリカ海軍第106哨戒爆撃戦隊所属の長距離哨戒機PB4Y-1(B-24 「リベレーター」爆撃機の海軍版)に攻撃され海面上に退避する一式陸上攻撃機11型G4M「ベティー」("Betty"):日本海軍は陸上攻撃機(雷撃機)をGの記号で呼んだ。G4は、攻撃機(G)の4番目の試作機体。Mは三菱を意味する。「ベティー」("Betty") とは、連合軍側が機体識別のためにつけたコードネーム。
Title: Japanese Navy G4M ("Betty") Bomber Caption: Skims the waves while under attack by a PB4Y-1 Patrol Bomber of U.S. Navy Squadron 106 (VB-106), in the South pacific area, 1943-1944. Description: Courtesy of Vice Admiral John T. Hayward (Ret.) Catalog #: NH 74771 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 74771 Japanese Navy G4M ("Betty") Bomber 引用。


写真(右):1943-1944年、太平洋方面、アメリカ海軍第106哨戒爆撃戦隊所属の長距離哨戒機PB4Y-1(B-24海軍版)に攻撃され海面上を退避する一式陸上攻撃機11型G4M「ベティー」("Betty"):主翼に茶色の迷彩塗装を施し、胴体両側に機銃座ブリュスターが突出している。開戦劈頭、フィリピンのアメリカ軍航空基地を爆撃し、イギリス戦艦2隻を雷撃・爆撃で撃沈した日本海軍の陸上攻撃機も、1943年後半からは、低速、燃料タンク・乗員への防弾板の欠如、防御火器の非力、熟練搭乗員の不足から、大きな戦果を挙げることができなくなった。特に、艦上戦闘機や護衛艦艇によって厳重に防備されているアメリカ空母を攻撃することは困難になった。そこで、日本軍統帥部は「桜花」のような奇襲特攻兵器を開発することを決めた。
Title: Bombing Squadron 106 (VB-106) Caption: Japanese Navy G4M ("Betty") bomber skims the waves while under attack by one of VB-106's PB4Y-1 patrol bombers, in the South Pacific area, 1943-1944. Description: Courtesy of Vice Admiral John T. Hayward (Ret.) Catalog #: NH 74770 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 74770 Bombing Squadron 106 (VB-106) 引用。


写真(右):1943-1944年、南太平洋、ソロモン群島ガダルカナル島方面、アメリカ海軍・オーストラリア海軍の駆逐艦部隊が撮影した撃墜された一式陸上攻撃機11型G4M「ベティー」("Betty"):胴体両側に機銃座ブリュスターが突出している。オリジナル解説では、これをA6Mゼロ戦としている。1943年に入ると、アメリカ軍の戦闘機迎撃管制、護衛艦の対空砲火が充実し、ベテラン熟練搭乗員の飛行機でも、敵艦船や基地を攻撃することは困難になっていた。日本海軍機は、大きな損害を蒙りつつも、敵に大きな損害を与えたと判断していたが、これは戦果誤認で、実際の戦果は、報告された戦果の半分どころか三分の一にも満たない場合が多かった。
Title: UA 536.19 John Lynch Collection Caption: Collection Photo # UA 536.19.01 Japanese Mitsubishi A6M Zero after a battle Description: Photographs related to the invasion of Guadalcanal and subsequent Japanese air attacks. US Ships shown include: USS Mugsford (DD-389); USS Colhoun (DD-85), and HMAS Hobart. Accession #: UA 536 Catalog #: UA 536.19 Tags: NHHC_Tags:conflicts-and-wars/world-war-ii-wwii, guadalcanal, NHHC_Tags:epublishing_tags/japanese_empire Donor: John Lynch Copyright Owner: NHHC
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: UA 536.19 John Lynch Collection 引用。


「十死零生」の体当たり自爆攻撃という特攻を軍が立案し,作戦として用いたのは,1944年10月20日以降、捷一号作戦におけるレイテ湾の戦い(レイテ島攻防戦)からといわれる。第一航空艦隊司令官大西瀧治郎海軍中将の下に日本海軍機による「神風(しんぷう)特別攻撃」が編成され,連合軍艦艇に自爆体当たり攻撃を実施したのが,このときで,特攻第一号は,敷島隊関行男大尉とされる。しかし,特攻隊員が自ら体当たり自爆攻撃を志願したとして,数少ない航空機を勝手に消耗品(特攻機)として使用する裁量が与えられたのだろうか。 


写真(左):1944年1月,マーシャル諸島を攻撃する第58任務部隊インディペンディンス級軽空母「クーペンス」USS Cowpens (CVL-25)
;Naval Historical Center引用。米海軍戦闘機F6F「ヘルキャット」"Hellcat"は、特攻機の最大の撃墜者である。クリーヴランド級軽巡洋艦の船体を流用し1942年戦時緊急計画で建造が開始されたインディペンディンス級軽空母は、排水量1万1,000t、全長165.8m、速度32kt、搭載機45機、乗員1560名。同型艦は9隻。同級軽空母「プリンストン」 (USS Princeton, CV-23/CVL-23)は、フィリピン戦で通常攻撃により撃沈。このような空母艦載機の航空兵力を集中運用した任務部隊(機動部隊)は,日本海軍の発案になるが,1944年6月のマリアナ沖海戦敗北を契機に,日本海軍は,機動部隊の再建を事実上諦めた。そして,特攻を中核とした戦備を充実するよう,方向転換した。

特攻第一号と宣伝された関行男大尉(海軍兵学校出身)の戦死する半年以上前,1944年3月に人間魚雷「回天」の試作が,「㊅金物」(マルロクカナモノ)として命じられている。人間魚雷「回天」とは,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており,騒音を発し,操縦性も悪い日本の大型潜水艦が,米軍艦船を襲撃するのは,自殺行為だった。「回天」の技術的故障,三次元操縦の困難さも相まって,戦果は艦船2隻撃沈と少ない。

1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定した。これは,事実上の特攻兵器を試作を命じるものである。

特殊奇襲兵器: 「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」 
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」「甲標的丁型蛟龍」として量産、蛟龍の実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型特殊潜水艇「海龍」として試作・量産,実戦参加なし
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器

写真(右):靖国神社「遊就館」に展示されている人間魚雷「回天」一型後部の縦舵・推進器( スクリュー):本体は、アメリカ軍が鹵獲し、ハワイで保管していたものを日本に返還した。頭部は炸薬を充填する実用頭部ではなく、訓練用の駆水頭部。再使用するためにフックが付いている。尾部や内部装置は当初からかけていたが復元されている。魚雷のスクリューは、2個あり、右回転と左回転の二重反転として、トクルを打ち消し安定走行を図っている。「回天」の尾部や内部装置は返還当初から欠落していたので、現在の尾部は、日本で復元したもの。艦船のスクリューは、サンドダイキャスト(鋳型)で作る場合、融点が低く溶けやすく、鋳込んだ後に切削、研磨しやすいように、アルミニウムと銅の合金が普及していた。これは、鋼よりも海水の腐蝕に強く、長期使用する上で耐久性があり、フジツボなど付着物もイオンの関係で付きにくい。他方、魚雷のスクリューは、鋼を材料として鍛造し、研磨したものを使用する。これは、一回限りの使い捨て兵器に、真鍮や銅合金のスクリューでは、高価で経費が掛かりすぎるからであろう。スクリューの形状も、魚雷ではブレードが直線的で、羽子板のようになっており、艦船のように、先端の尖った曲線状ではない。
1961年4月より靖国会館2階を改修して「靖国神社宝物遺品館」とし、宝物遺品の陳列展示を再開。2002年7月13日、「靖国神社宝物遺品館」は、全面改装され、展示手法・展示内容も一新された。映像ホールも新設され、ガラス張りの大展示室には、零戦、野砲、蒸気機関車などが収納された。

写真(右):1945年6月26日、沖縄、アメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13:桜花のマークはオリジナルで、その脇の「I-13」は、胴体両側にあり、日本軍が記入したようだ。ただし、鹵獲したアメリカ軍が機体整理のために記入した可能性もある。「桜花」I-13は、良好な状態なためか、たくさんの写真が残っている。ゴムタイヤの付いた運搬車に乗せられているが、この運搬車は日本軍が開発した「桜花」運搬車ではなく。アメリカ軍の大型爆弾運搬車のようだ。「桜花」が実戦使用されたのは、1945年3月21日だったが、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した1945年4月1日、読谷飛行場を占領した時に、この「桜花」の実機がアメリカ軍に無傷で複数鹵獲されている。この特攻兵器は「奇襲」を旨としていたはずだが、あっさりと秘密兵器を鹵獲され、その飛行性能、航続距離、操縦方法、運搬方法、推進力、弾頭の炸薬量などが知られてしまった。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945 Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval District. Description: color Catalog #: 80-G-K-5887 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Original Date: Tue, Jun 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5887 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945引用。


写真(右):1945年10月、アメリカ、ワシントンDC、ペンシルベニア通り、チェスター・ニミッツ提督が日本から凱旋帰国した時、トラックに載せて見世物になった人間爆弾「桜花」"BAKA" BOMB(バカ爆弾):胴体に桜花のマークがついている。「桜花」は命がけの特攻兵器として恐れられたというより、命を無駄に捨てる幼稚な技術の爆弾としてバカにされた。特攻をかけてきた日本人を尊敬したアメリカ人は、ほとんどいなかったことが分かる。これは、自爆テロを仕掛けてきた人物に対して、その勇気を称賛する声が沸かないのと同じ理屈である。攻撃側では、彼らの自爆攻撃は英雄的な行為として称えられている。「桜花」の実機降下練習は、危険だったため、命懸けであり、1回しか実施しなかった。連合艦隊司令長官らの視察があった時、「桜花」による模範降下を求められた隊員は,「次に桜花で降下するのは本番だけです」といって断ったほどだった。これほどの真剣さをあざ笑うかように、戦利品「桜花」が見世物として、アメリカ人の前で引きまわされた。
Title: A Captured Japanese Suicide Baka Bomb Caption: Fleet Admiral Chester W. Nimitz, USN, returns triumphant to Washington, D.C. at the end of World War II, for a parade in his honor, October 1945, down Pennsylvania Avenue. Here, a captured Japanese Suicide Baka Bomb is shown to the crowds. Description: Courtesy of Fleet Admiral Nimitz Catalog #: NH 62556 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 62556 A Captured Japanese Suicide Baka Bomb 引用。


  1943年6月の段階で、侍従武官としてラバウル基地の戦闘を視察し、その実情を憂えた城英一郎大佐(航空専攻)は,南東方面から帰国後,1943年6月に大西瀧治郎中将に体当たり特攻必要性を提案している。その後,大西中将は軍需省に転任したが、彼も航空機材の生産・整備,搭乗員の要請・補充は困難な状況にあることを身をもって悟った。 

航空母艦 大鳳 1944年6月のマリアナ沖海戦において、日本海軍は、空母「大鳳」「翔鶴」以下、多数の艦船、航空機、搭乗員を失い、空母機動部隊は壊滅した。この大敗北を契機になって、特攻作戦が本格的に指導し始めた。サイパン島争奪戦で敗北した日本陸海軍は,米軍の航空機,空母任務部隊,大艦隊,輸送船団などの威力を思い知り,正攻法で,対抗することは不可能に近いと悟った。そこで,1944年7月21日大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,特攻作戦を本格的に準備し始めたのである。

海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。

特別攻撃機 桜花一一型 日本海軍の統帥部は,軍令部である。「海軍軍令部」は,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。作戦について天皇を輔弼する機関であり、陸軍の参謀本部に相当する。長たる海軍の軍令部総長は,陸軍の参謀総長と対等の立場で,大元帥の天皇に直隷する。

大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。軍令部総長は海軍に対して作戦に関する指揮・指示をする。陸軍では、「指揮・指示」といわず「区処」という。大海指第431号は,海軍軍令部の出した指示で,そこに特攻作戦採用が明示された。軍隊では、命令により部隊が編成され,隊名・隊長が任命される。特攻志願者が、「自発的に」軍の管理する航空機、爆弾、燃料を使用することはできない。

3.フィリピン戦を指導した第一航空艦隊司令官大西瀧治郎海軍中将が,「特攻の生みの親」であるという神話は,日本の大本営海軍部(軍令部)の特攻隊編成と特攻作戦の組織的実施を隠蔽するかのごとき表現である。1944年7月21日,大本営海軍部の「大海指第431号」でも,奇襲攻撃として特攻作戦が計画されている。「大海機密第261917番電」は,海軍中将大西瀧治郎のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度,攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となってた。軍上層部が神風特別攻撃隊の作戦を進めていたのである。

特攻長官大西瀧治郎 海軍の初の組織的な特攻攻撃は,「神風特別攻撃隊」として,国学者本居宣長の歌から,敷島隊,山桜隊など250キロ爆弾搭載のゼロ戦を特攻機とした4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男(23才)を特攻隊指揮官に任命した。フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,海軍中将大西瀧治郎で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられた。

大西長官は,特攻隊を「統率の外道」であるが,必要悪として認め,作戦として実施すべきと考えていた。一説には,大戦果を挙げて,日米和平の契機を作ることを真の目的にしていたとまことしやかに語らえている。連合国は、戦局の悪かった1943年1月のカサブランカ会談で既に日独に無条件降伏を要求していたにも拘わらず、それを空母数隻の戦果で覆すことができると錯覚したのか。 
しかも、大西瀧治郎中将は,神風特攻隊を発案したわけでもないし,特攻を時間をかけて編成・準備したわけでもない。国学者本居宣長の歌から部隊名称を命名できた源田実のような幹部が、軍令部の了解を得て特攻隊編成の実務を担っていた。

250キロ爆弾を搭載したゼロ戦特攻機が出撃したのは,フィリピンのルソン島の航空基地からで,1944年10月20日,21日と連日のように出撃し,見送りが盛大に行われた。しかし,連日の出撃にもかかわらず,敵艦隊を発見できずに引き返していた。日本側の資料では,特攻隊は10月25日に初めて,明確な戦果をあげ、250キロ爆弾を搭載したゼロ戦に乗って突入した関行男大尉が特攻第一号として公認され,敷島隊の五名だけが全軍布告された。それ以前に未帰還だった特攻隊員は,特攻(第一号)の認定は受けることができなかった。戦果を挙げなかった特攻隊員たちは黙殺された。

  戦後になって,特攻隊を犬死だというのは許さないという元軍指揮官もいる。しかし,かれらは,戦果を挙げなかった特攻隊を,戦時中も戦後も黙殺している。軍事的に当然だとか,出撃は秘密だったと抗弁するが,終戦後になっても,特攻第一号は第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長関行男大尉と戦果を上げた兵学校出身者のみを公認し続けている。

大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。 
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

1.各種作戦
ヾ霖蝋匐部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

2.奇襲作戦
ヾ饅浦鄒錣謀悗瓩襦E┫和發鯀或丙拠地において奇襲する。
∪水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
6秒牢饅永捨呂鯒枷し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。

特殊奇襲兵器=特攻兵器を推進した作戦要領)

昭和天皇の戦争 以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上のゼロ戦による体当たり特攻,特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。また,統帥権を侵犯する特攻はありえないので,大元帥が特攻作戦の発動準備をしていることを知らないでいたということもない。(特攻計画は報告されている)

軍の統帥権を持つ大元帥昭和天皇に,特攻作戦を知らせないままに済ましていたのであれば,天皇の赤子である有意な兵士を勝手にしに至らしめ,天皇の軍隊を私兵として勝手に運用したことになる。これは軍法違反(専権罪・叛乱罪)であり,軍令部総長,参謀総長,その下にある参謀たちは,処罰されるべきである。

生き続けてしまった,死にきれなかった軍上層部の将官や佐官以上の将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人たちもいる。自決など容易にできることではない。しかし,特攻隊を編成させた軍人の中に,参議院議員,大会社の顧問に就任して,日本の戦後復興に尽くすほど堂々としていた,している人たちがいた。軍の名誉と特攻隊・犠牲者への思いはどうなったのか。

彼らが「自発的に体当たり攻撃を始めために特攻隊が生まれた」というのは,英霊の名誉と自己犠牲の精神に共感するからではない。大本営,軍上層部の要職にあった自分たちの,指揮官としての責任を認めない強弁に映ってしまう。

戦局挽回のためには,体当たり特攻攻撃を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものであろう。
〕ダな米軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
∧瞳海鉾新發靴討癲て本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
D名鏐況發鮖迭櫃韻董て本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも、250キロ爆弾を抱いたまま必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。

〃蛎發僚斗廚癖軸錣任△觜匐機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
5爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
て湛饗發了峇蠎圓鯤腓,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。


  自発的な特攻や体当たり攻撃がやむをえない状況で行われのは確かであるが,それば「特攻隊」という部隊編成の形ではない。特攻「隊」は,軍の統率する部隊であり,自然発生的に生まれるれるものではい。特攻隊は,軍上層部の命令によって作られた。、担任が募集され、訓練され、特攻用の兵器が準備された。

写真(右):人間爆弾「桜花」(バカ爆弾);1945年4月、アメリカ軍が沖縄、読谷の日本陸軍沖縄北飛行場で鹵獲した日本海軍航空技術廠(空技廠)MXY-7「桜花」をアメリカ陸軍航空隊第9爆撃軍団のB-29搭乗員が,沖縄の基地に不時着したとき撮影。この桜花を保管するコンクリート製小型掩体壕(シェルター)が、1944年6月から1945年3月の間に、嘉手納、読谷、那覇に30カ所も建設された。今でも、これらの掩体壕の一部が残っている。直撃以外いかなる衝撃にも耐えられる構造である。9th Bomb Group Photo

軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布した。つまり,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,後に続く特攻隊員の確保にも配慮した。

日本海軍は特殊任用令によって、攻撃により偉勲をたてたと認められ、全軍布告された特攻隊員について、下士官は少尉に特進させ、兵は准士官に特進させる「特別任用」を採用した。

特攻兵器(奇襲特殊兵器)の開発・量産も,一軍人のなしえることではなく,軍が主導して当然である。個々の兵士も,軍のメンバーであれば,軍が進める特攻化の中に組み込まれる。個人の意思で特攻を選択するかどうかは,最終的には問題とならない状況におかれている。

写真(右):2016年、アメリカ、カリフォルニア州チノ、飛行機名声博物館(Planes of Fame Museum)に展示してある人間爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7-11 Ohka )I-18:「桜花」I-18は、1945年4月上旬、沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷の陸軍北飛行場で鹵獲した機体の一つ。チノの飛行機名声博物館には、メッサーシュミットMe-109G-10/U4、メッサーシュミットMe 163ロケット戦闘機、ハインケルHe 100D-1、ハインケルHe 162A-1ジェット戦闘機、三菱ゼロ戦A6M5、三菱「雷電」J2M3、「秋水」J8M1ロケット機、愛知九九式艦上爆撃機D3A2 Val,ノースアメリカン P-51A、ボーイング B-17G、ヤコブレフYak-18など第二次大戦中の飛行機を含めて150基が展示されている。
Description c/n 1049. On display in the ‘Foreign’ hangar at the Planes of Fame Museum, Chino, California, USA. 28-2-2016 Date 28 February 2016, 13:18 Source Yokosuka MXY7-11 Ohka ‘1049 / 1-18’ Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons File: Yokosuka MXY7-11 Ohka ‘1049 - 1-18’ (26667225420).jpg引用。


公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)で「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とあるし (p.245)、「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(同年4月1日)には「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」としている(p.199)。

写真(右):アメリカ軍に鹵獲された空技廠MXY-7「桜花」;戦後,横須賀で鹵獲されたと思われる「桜花」で濃緑色の迷彩塗装あるいは橙色の訓練塗装を施してある。

 日本軍は,特攻隊員とその家族・遺族に配慮をした。特攻隊員が,祖国,家族を守るために特攻するのであれば,家族のこと、軍人恩給に配慮することが,隊員の士気を鼓舞することになる。このように遠謀深慮した日本軍は,特攻隊員の家族・遺族に対して,特別に軍人恩給廃止を割り増した。

1944年11月29日,日本陸海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布し,特攻戦死した将兵で,戦効をあげた者には,特殊任用として,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにした。その軍人恩給戦没者遺族年金)の年金給付額は,引き上げられた。家族を保護して,後に続く特攻隊員を確保したのである。
特攻で全軍布告することで,死後昇進すれば,遺族への軍人軍属の恩給戦没者遺族年金)は倍化し,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障、特に軍人軍属の恩給戦没者遺族年金)を得ることができた。

特攻隊員たちも,残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟する。特攻による名誉の戦死は,まさに「親孝行」につながった。


特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制の結果、神風特攻隊敷島隊所属の関行男大尉以下5名は,特別任用の初めての対象となった。敷島隊の特攻作戦で,四階級特進して飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は三級特進して少尉となった。特攻で全軍布告することで,軍人恩給(遺族年金を含む)は倍化され,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができた。

 作戦自体を描写するよりも,作戦の意図やそれに関与し,巻き込まれた人々の立場や真意を推し量るのは重要だが,困難なことでもある。遺書には,残された家族に迷惑をかけることは一切かかれるはずがないが,その書かれなかった行間に,憂慮,苦悶,怒り,生命が隠されているのではないか。

特攻隊に任命された若者は,自分を死に向かわせた状況=敗色濃い戦争を受け入れても,特攻隊を作戦として利用するが必死からは逃れうる人々=軍司令官や部隊指揮官に対して,無感動,無感情でいられたとは思えない。しかし,軍隊の中で,上官の命令を議論しても無駄であることをみな知っていた。自分の死を有意なものしなければ,特攻から逃れたくなるかもしれない。逃れられない運命であれば,愛するもの=家族・日本を守るために,命を捧げる,として自分の死と命を一つにするしかないのではないか。

三菱 G4M2E 一式陸上攻撃機 24型  /桜花 11型 特攻に散った若者たちには,感服する。エンジンを故意に不調にさせたり,故意に不時着したりして,命を永らえたもの,特攻隊に入らないように,練習教程で手を抜いていたものに対しても,共感は持てる。特攻を拒否して,通常攻撃をかけたものには,納得できる。決して,特攻死したから犬死である、逃避したから弱虫の卑怯者であると軽蔑することはできない。

4.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」としており,奇襲可能な体当たり自爆兵器の開発・作戦計画を検討し始めている。日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷,人間爆弾,人間機雷,特攻戦車など配備され,組織的に行われた。自生的,自発的に5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。若者たちに犠牲的精神はあったが,事実上,出撃を強要した日本人もいた。その責任を回避するために,英霊の自然発生的な特攻をことさら強調している。これこそ英雄・犠牲者への無責任であり侮辱である。

ゼロ戦  特攻は最善の方法だったわけではないが,鉾田陸軍飛行学校が研究した跳飛爆撃などほかの手段は,特攻隊員はもちろん,大半の軍人でも選択することは不可能であった。1944年の段階で,「特攻作戦の是非」を決めることは,大元帥,将官クラスの軍人にしか許されない。

条件付降伏の提案も考慮できない戦争指導の中で,とにかく戦機を得て敵に大打撃を与え,和平への糸口を掴むという方針で臨んだようだ。しかし,米軍にしてみれば,損害を与えられたからといって,怖気づいて和平交渉に応じるつもりは,戦争を始めてから一度たりともなかった。戦意が旺盛な米軍は,日本を無条件降伏させるという強硬な方針を貫いた。

日本は,国体,すなわち天皇制の護持を最優先事項にしており,それに気がついていた米軍の軍人もいた。しかし,ひとたび参戦した以上,米英とも無条件降伏にこだわった。したがって,たとえ特攻作戦が大きな戦果を挙げたとしても,米国は日本との和平交渉には応じないのである。「特攻で戦機をつかんで和平交渉することが軍の真意だった」との俗説もある。しかし,カサブランカ会談、カイロ会談,ヤルタ会談と1年以上前から繰り返し打ち出されていた連合軍の最高政略を知らない日本軍上層部の将官たちがいたというのであろうか。


写真(上):米空母「ホーネット」USS HORNET(CV-12)
;艦載機82機を搭載できる高速大型航空母艦である。1945年3月27日沖縄近海で撮影。NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive引用。大和に魚雷を命中させた「アベンジャー」雷撃機:TBFはグラマン社製、TBMはジェネラルモーターズ社製。総生産数9800機。四分の三はジェネラルモーターズGM製造。


故宣仁親王高松宮は、明治38年1月3日,大正天皇の第3皇男子、大元帥昭和天皇の弟として、東京・青山の東宮御所で誕生。御名を宣仁(のぶひと),称号を光宮(てるのみや)。海軍に勤務していた。その『高松宮日記』第8巻の1945年1月以降の話題でも、特攻艇「震洋」など話題には事欠かない。海軍中央でも、1945年になると、大型艦艇よりも特攻兵器のほうが重視され、本土決戦に備えた陸戦の準備も始まっていた。

1月5日、「葉山砲台砲台普練(高等科)教程射撃。館航[館山航空隊]機モヤありて出発おくれ、発動後も射程外を飛んだりして、1300漸く終る。練習生の気力足らぬ感あり。----1500よりつ機銃装備射撃実験の経過報告。」
横須賀鎮守府で三浦半島の防衛方針の一つとして「熱海・三浦半島に、マル四・魚雷艇基地」の件を審議。
1945年1月6日、水雷学校教頭荒木傳少将が来て談話し「川棚[臨時魚雷艇訓練所]に砲術指導教官欲しいと言うこと等」となり、特攻艇のロケット弾装備や陣地の防衛の射撃練習が進んでいることがうかがわれる。
1月9日、横須賀鎮守府で三浦半島の防衛方針の一つとして「熱海・三浦半島に、マル四・魚雷艇基地」の件を審議。
1月31日、「0830荒崎8cm機銃[高角砲?]、予備生徒射撃見にゆく。」

桜花特攻隊 2月4日、「機銃対魚雷射撃実験事前委員会」、2月8日、機銃対魚雷射撃実験、2月10日、「機銃対魚雷射撃委員会」
2月6日、「矢牧[章]少将より独国の情勢も迫ってきたし、カイロ米英ソ三国会談に関連し、作戦部で考えている2月下旬のマル大[桜花]による戦略攻勢がおそいのではないか、国内一致の態勢も急速に立てる要あり等きく。」

3月8日、横須賀鎮守府で「特攻兵器に関する図演(図上演習)---図演(実は、震洋、回天SS[金物][特殊潜航艇「海龍」]、甲標的[蛟龍]の使い方につき質疑応答、説明)---続いて、特攻基地を何処にするか打合せ。」
3月15日、前日連夜で品川から佐世保線の早岐着、自動車で「川棚訓練所へ(現在は第三特攻戦隊となっている)1615着。説明を聞いたり構内見て、1815発、[1942年1月,佐世保海軍工廠分工廠として設置された]川棚工廠の地下工場、半地下工場を見て集会所へ。」特攻隊司令部へ行き、「2230出発の局地防衛研究演習の震洋隊出発視察。」
3月17日、「0330起床、演習、マル四[ざ睚]夜間襲撃、松島沖に於ける特攻基地と上陸部隊との攻防演習及び特攻基地予定地(廃炭鉱トンネル利用)視察。----再び松島沖に入港。途中マル四(ぁ紡發涼覺崕鰻發よび噴進砲[ロケット弾]射撃。雷艇[低速魚雷艇型砲艇]にて佐世保へ。」

4月14日、「久里浜工機校にて水際戦闘用軽便潜水衣[伏龍]の実験あり。A金物[特殊潜航艇「海龍」]を見て」
4月30日、三浦半島「油壷の十一突撃隊居住施設の関係上、航海学校の普練をやめた余地を使って、泊湾に甲標的(蛟龍)を繋ぎ練習を開始せるも、やっと数隻繋留した。どうも特攻特攻も掛け声で内容おくれの例に洩れず。」

5月16日、「2230横鎮(横須賀鎮守府)特攻演習視察。2430震洋隊発動泛水。艦載水雷艇にて随動視察。漁網でマゴマゴしているうちに震洋隊を見失い、視界霧にて悪くなりアッチコッチして夜明け頃。江の島附近らしい崖が視えたが、目標隊はおらず。海龍1隻と出会う。これを監視艇はぐれておらぬのでついてゆく。波あり、大いに気持ち悪くなり、やっと今度は城ケ島を見つけて油壷に入港。」
5月28日、「明日、岩島[二三大佐]部員、空技廠にてK1号(神龍)委員会ありとて来校宿泊。夜話きく。」
5月29日、「0900K1号兵器(神龍)打合せ行こうとしたら空襲警報にて止めた。---1500空技廠の神龍打合せ。やはり専門家に言わすと、中々むつかしい点もある(離陸直後の上昇、グライディング間の低速、命中するため操縦等)。」

二階級特進の甲標的 6月13日、「工廠、甲標的第一隻明日船おろしする由([舞鶴工廠特殊潜航艇製造]雁又工場)」
6月17日、「供覧兵器。軍令部の人もきて心細き兵器を見て、ほんとに兵隊と兵器とをむすびつけたる教育せる部隊の必要を知ったにちがいない。 之でもわからねば兵学校出た士官ではない。
0720校発。茅ヶ崎、機銃陣地に対する火焔放射実験を行いしも、距離遠く火焔とどかず、無効。-----江の島砲台を一巡して陸戦兵器供覧(杉山[元第一]総軍司令官等)、実験、不発続出、機銃連発せず、丁度よい加減の見せものなりき。農耕隊のじゃが芋、むして出した、この方が成績良好にちがいなかった。1703辻堂発、帰京。」

高松宮(大元帥昭和天皇の弟)『高松宮日記 』第8巻 1945年7月3日「特攻兵器は技術院としも乗り出す様な話であったから、それは良いが、人が乗ってゆくから安モノ兵器でよいと言うような考えがあるが、全く技術者としてけしからぬことで、犬死にならぬように、特攻なればこそ精巧なものを作るべきなりと語っておいた。」

5.1944年4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は,読谷飛行場(陸軍の沖縄北飛行場)で人間爆弾を鹵獲し,これをBaka(バカ)と名づけた。人間爆弾とは, 1944年7月21日の大海指第431号で奇襲作戦をになうとされた海軍航空技術廠(空技廠)MXY-7「桜花」のことである。人間爆弾の発案者は太田少尉とされるが,このような特殊兵器の開発・部隊編成は,軍上層部が積極的に関与しない限り不可能である。ドイツでは,無人誘導爆弾,飛行爆弾が実用化され実戦に投入されていたが,それだけの技術力のない日本軍は有人爆弾を開発し,体当たり自爆攻撃を行った。カタパルト発射式の「桜花」43型は試作したものの、エンジンの信頼性が低く、失敗に終わっている。

写真(右):ドイツ空軍のV1飛行爆弾(Fieseler Fi 103);カタパルトによって地上から,あるいは爆撃機によって空中から発射できる無人飛行爆弾で,1944年後半に実戦で使用された。安価な兵器であり,米軍も実物を入手して,そっくり複製したコピー兵器を生産した。着想と技術の優位を敵も認めたのである。

V1飛行爆弾V-1 Flying Bomb (Doodle Bug)は,カタパルトによって地上から,あるいは爆撃機によって空中から発射できる無人飛行爆弾で,1944年後半に実戦で使用された。1944年後半から1945年までに1万発前後がロンドンなど英国に発射された。艦船など小型目標に命中させる精度はないが,都市爆撃に効果を挙げた。

ドイツ空軍のパルスジェット無人飛行爆弾V-1は,大量配備し,実戦に使用されたが,英軍の戦闘機や対空砲火に撃墜され,故障で目標を失したり墜落したりと,命中率が低かった。そこで,有人飛行爆弾をも試作された。これには,飛行特性を研究するとともに,命中率向上のために有人で飛行爆弾を誘導することも含まれたようだ。しかし,有人飛行爆弾は,量産されてはいないし,実戦にも投入されなかった。


写真(左):ドイツ空軍のヘンシェルHs293誘導爆弾;500 kg爆弾を装備した無線誘導爆弾。全長3.8m、直径47cm、重量1045kg 翼幅3.1m、無線誘導、液体燃料ロケット推進、弾頭295kg、射程16km。RAF museum at Cosford.後方は,ラムジェット推進の無人飛行爆弾V1号で,1944年後半に英国に1万発前後発射されて大きな被害を与えた。写真(右):ドイツ空軍のフリッツX誘導爆弾;1.4トン爆弾PC 1400を改造した誘導爆弾。全備重量1,650 kgで,イタリア戦艦「ローマ」(Roma)を撃沈した。


写真(右):2008年、ドイツ、コブレンツの軍事技術博物館(Wehrtechnische Studiensammlung Koblenz)に展示されているドイツ空軍の誘導爆弾ヘンシェルHs293試作型(Henschel Hs 293 V4)
誘導爆弾ヘンシェルHs293(Henschel Hs 293)の諸元
重量:1570 kg 、全長: 3,82 m
直径: 562 mm、全幅: 3,10 m
航続距離:2.2 km (高度4000m)、4km(高度5500m)
最高速度:950km/h
重量:975 kg
弾頭重量:660 kg(炸薬300 kg)
Description Henschel Hs 293 V4 Date 15 December 2012, 13:48:25 Source Own work Author Alf van Beem
写真はWikimedia Commons Category: Henschel Hs 293引用。


ドイツ空軍は、1939年に遠隔操作によって艦船に爆弾を命中させる誘導弾の開発を始め、1941年にはグライダー式有翼誘導弾の試作を行った。その後、ロケット式の推進器を搭載し、無線誘導実験を行い、1940年、無線誘導爆弾ヘンシェルHs293を試作し,1943年には1400 FX "Fritz X" Guided BombフリッツX」も実用化した。

写真(右):チェコ共和国プラハ、クベリ航空博物館(Prague Aviation Museum, Kbely )に展示されているドイツ空軍の誘導爆弾ヘンシェル(Henschel)Hs 293 A:ここには、戦後独立したチェコスロバキア空軍機として、アビアS.199戦闘機、すなわちドイツ空軍メッサーシュミットBf109G戦闘機の戦後改良型、IL-10、すなわちソ連空軍IL-2地上襲撃機の戦後改良型も展示してある。
Description Henschel Hs 293A with HWK 109-507 rocket engine. Photograph taken without a tripod (was not allowed!) Date 23 June 2012, 11:39:11 Source Own work Author AlfvanBeem
写真はWikimedia Commons Henschel Hs 293A with HWK 109-507 rocket engine pic1.JPG引用。


ドイツ空軍は、ヘンシェルHs293以外にも、貫通性能が高い1.4トンの大型徹甲弾PC 1400をベースに、誘導爆弾「フリッツX」(Fritz X )を開発した。母機の双発爆撃機に搭載して、高度5,000mから6,000mから投下、母機のオペレーターが目視でフリッツXの尾部のランプを見ながらを無線誘導した。誘導爆弾「フリッツX」には、ジャイロスコープだけでなく、無線操縦用ソレノイド(電磁コイル)式スポイラーが搭載されており、母機から無線で操縦できた。

写真(右):2008年、イギリス、ロンドンのイギリス空軍博物館(RAF Museum)に展示されているドイツ空軍の誘導爆弾「フリッツX」( PC1400X 'FRITZ X' ):誘導爆弾「フリッツX」( PC1400X)の諸元
重量:1570 kg、全長: 3262 mm
直径: 562 mm、全幅: 1352 mm
航続距離5 km (3.1 マイル)
最高速度:秒速343 m (1,235 km/h)
弾頭重量:320 kg徹甲弾
The Fritz X was a further development of the PC 1400 (Panzersprengbomb English: PC1400X 'FRITZ X' guided bomb at the RAF Museum London Date 18 August 2008, 14:30:04 Source Own work Author Oxyman
写真はWikimedia Commons Category: Fritz X at RAF Museum London引用。


写真(右):2010年、イギリス、バーミンガム西30キロ、コスフォードのイギリス空軍博物館(Royal Air Force Museum Cosford)に展示されているドイツ空軍の誘導爆弾「フリッツX」( PC1400X 'FRITZ X' )コスフォード・イギリス空軍博物館</a>(Royal Air Force Museum Cosford)誘導爆弾「フリッツX」( PC1400X)の諸元
スパーマリーン(Supermarine Spitfire I)戦闘機、ホーカーハリケーン(Hawker Hurricane IIc)戦闘機、グロスターミティア(Gloster Meteor F9/40)ジェット戦闘機、モスキート(de Havilland Mosquito B35)高速爆撃機、川崎キ‐100五式戦闘機、三菱キ-46 'Dinah'百式司令部偵察機、海軍航空技術廠・人間爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 Ohka)メッサーシュミット(Messerschmitt BF109G-2/Trop)戦闘機、フォッケウルフ(Focke Wulf FW190A-8/R6)戦闘機、メッサーシュミットMe 262A-2a ジェット戦闘爆撃機、 ユンカース(Junkers Ju88R-1)夜間戦闘機など70機が保管展示されている。
Description Fritz-X German air-launched anti-ship missile. Photo taken at the RAF Museum Cosford, Shropshire, England. Date 16 August 2010 Source Own work Author Rept0n1x
写真はWikimedia Commons Category: Fritz X at RAF Museum London引用。


ヘンシェルHs293フリッツXは、いずれも爆撃機に搭載され,目標に投下される。そして,その爆撃機が爆弾投下後,目視による無線誘導を行う。誘導員は爆弾の尾部に取り付けられた発光体を追い,爆弾を誘導する。命中精度は誘導員の熟練度に依存するが,目標が視認できる距離内まで爆撃機を接近させる必要がある。また、無線誘導のために,妨害電波を発射され,誘導ができないなどの難点があった。

写真(右):1943年9月11日、イタリア南部、サレルノに上陸したアメリカ陸軍を支援していたアメリカ海軍のブルックリン級軽巡洋艦サバンナ(USS Savannah :CL-42)にドイツ空軍機が投下した誘導爆弾が命中、3基の機銃座を破壊した。:イタリア本土進攻のために、1943年9月11日、ブルックリン級軽巡洋艦サバンナUSS Savannah :CL-42)は、サレルノの上陸海岸に艦砲射撃をした。そこに、ドイツ空軍ドルニエDo 217 K-2双発爆撃機が飛来した。この爆撃機は、主翼内側と胴体の間に1発のフリッツXを高度5,700 mから投下した。フリッツXは、軽巡サバンナの第三砲塔近くに命中し、爆発した。アメリカ海軍ブルックリン級軽巡洋艦サバンナUSS Savannah :CL-42)は、基準排水量 9,475 トン、全長 608 ft (185 m)、全幅 69 ft (21.0 m)、吃水 19 ft 2 in (5.8 m)、ボイラー8基 10万馬力4基4軸、最高速度 32ノット (59 km/h)、乗員 868名、兵装 6インチ三連装砲塔5基15門、5インチ砲8門、艦載機 4機。
Title: USS Savannah (CL-42) Description: Afire and beginning to settle by the bow, very soon after she was hit by a German guided bomb during the Salerno operation, 11 September 1943. The bomb penetrated the top of the ship's number three 6/47 gun turret, which is in the center of this photograph with smoke over it. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: SC 364342
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: SC 364342 USS Savannah (CL-42) 引用。


 1943年8月、ヘンシェルHs 293が部隊配備された。ヘンシェルHs 293は、双発爆撃機に1発搭載することができ、1943年8月25日に初実戦に投入され、イギリス輸送船団を攻撃した。1943年9月11日、イタリア本土進攻のために、サレルノ沖合から上陸部隊を支援したアメリカ海軍ブルックリン級軽巡洋艦サバンナUSS Savannah :CL-42)に、ドイツ空軍ドルニエDo217爆撃機の投下した1発の誘導爆弾フリッツX(PC1400X)が命中し、中破させた。1943年9月14日には、ドルニエDo217爆撃機は、連合国軍に投降したイタリア戦艦「ローマ」(Roma)にフリッツXを投下して命中させ、弾薬庫を爆発させ、撃沈した。生産数1,000基。

写真(右):1945年、太平洋方面で、アメリカ海軍が実戦使用したレーダー誘導爆弾「バット」(MK 9/ASM-N-2 Bat)。アベンジャー雷撃機なら胴体下に1発、哨戒機PB4Y-1(B-24 爆撃機の海軍版)なら両翼に各1発合計2発搭載可能。:1942年から開発された誘導爆弾「バット」(コウモリ)は、頭部に設置したレーダーによる自動誘導で目標に向かう自動追尾システムを備えていた。
名称は似ているが、全く異なる「コウモリ爆弾(Bat bomb)」もアメリカは開発した。これは、時限式焼夷弾を蝙蝠につけて、敵地に蝙蝠をケースに入れて投下し、ケースから飛び出した蝙蝠が、付近の家屋や軍事施設をねぐらにしてとまる時を見計らって、爆発させるものである。1943年に実用化が可能とされたコウモリ爆弾は、実戦に使用されたという。
Title: "Bat" air-to-surface guided missile Caption: On a servicing cart, during tests. Photograph released 16 October 1946. "Bat" had a radar guidance system in its nose and carried up to a 1000-pound bomb in its fuselage. Catalog #: 80-G-703163 Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-703163 "Bat" air-to-surface guided missile 引用。


写真(右):1945-1946年、試射する前に、アメリカの技術員・技術将校がレーダー誘導爆弾「バット」(MK 9/ASM-N-2 Bat)の電子装置の点検作業をしている。:1942年から開発された誘導爆弾「バット」(コウモリ)は、頭部に設置したレーダーによる自動誘導で目標に向かう自動追尾システムを備えていた。
Title:"Bat" air-to-surface guided missile Caption: Is given a pre-flight checkup, using specially designed electronic test equipment. Note use of a bomb cart to support the missile and its bomb "warhead." Photograph released 16 October 1946. Catalog #: 80-G-703165 Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-703165 "Bat" air-to-surface guided missile 引用。


アメリカ軍も、テレビ誘導やレーダー誘導を取り入れた誘導爆弾、有翼飛行爆弾を実験していた。レーダー誘導爆弾「バット」(蝙蝠)MK 9/ASM-N-2 Bat)は、1942年に開発され、母機から標的を捉え、誘導爆弾を発射し、レーダーによる自動誘導で標的に向かうものである。誘導爆弾「バット」(BAT)(蝙蝠)機首に装備したレーダーを放射、その反射波を辿って目標に命中する自動追尾システムを備えていた。この点、母機から無線誘導して標的を目指すドイツ空軍の誘導爆弾とは異なっている。

写真(右):1945年、太平洋方面で、アメリカ海軍哨戒機PB4Y-2B "Privateer"両翼に搭載されたレーダー誘導爆弾「バット」(MK 9/ASM-N-2 Bat)。アベンジャー雷撃機なら胴体下に1発搭載可能。:アメリカ軍は、レーダー誘導弾の完成を秘匿しており、誘導爆弾「バット」の写真が公開されたのは戦後1946年10月16日だった。初の実戦参加となる1945年4月23日、アメリカ海軍の第109長距離哨戒戦隊(VPB-109)PB4Y-2B(B-24 爆撃機の海軍版)が、ボルネオ島のバリクパパン油田近くで、日本輸送船に誘導爆弾「バット」を投下した。
Title: Consolidated PB4Y-2B "Privateer" Caption: In flight with a Mark 9 "Special weapons ordnance device," (nicknamed "BAT") later redesignated ASM-N-2) under each wing. The "BAT" was an anti-shipping, radar-guided glide bomb. Note heavily weathered color scheme. Catalog #: NH 92485 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 92485 Consolidated PB4Y-2B "Privateer" 引用。


レーダー誘導爆弾「バット」(蝙蝠)MK 9/ASM-N-2 Bat)の初の実戦参加は、1945年4月23日である。この日、アメリカ海軍の第109長距離哨戒戦隊(VPB-109)のPB4Y-2B(B-24 爆撃機の海軍版)が、ボルネオ島の油田のあるバリクパパン港に停泊中の日本輸送船に対して、2発の「バット」(BAT)を投下した。アメリカ軍は、レーダー誘導弾の完成を秘匿しており、誘導爆弾「バット」(BAT)(蝙蝠)の写真が公開されたのは戦後1946年10月16日だった。

日本軍は、ドイツ軍のヘンシェルHs293フリッツXのような無人誘導兵器を実用化できなかった。アメリカ軍のレーダー誘導爆弾「バット」(蝙蝠)MK 9/ASM-N-2 Bat)のような自動誘導爆弾も、技術の未熟な日本では不可能だった。日本軍としては,人間が搭乗して誘導する「有人爆弾」桜花Yokosuka MXY7 Ohka)のような特攻兵器を作成するしかなかった。技術の未熟を人間の精神力で補おうとしたため,結果として,ひとの命を粗末にし,若者の命を奪うことになった。

写真(右):「バカ」と呼ばれた海軍航空技術廠 MXY-7人間爆弾「桜花」I-13;1945年4月1日,沖縄本島の読谷の陸軍北飛行場では、アメリカ軍に少なくとも4機以上の「桜花」が鹵獲されている。

1944年7月21日の大海指第431号では「奇襲作戦」を重視し,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」とし,「奇襲戦=特攻」を作戦として企図していた。

航空機による自爆攻撃という必死の特攻隊が,軍上層部の命令,許可によって部隊として編成されたことは,(→人間爆弾「桜花」を配備された神雷部隊引用)の編成をみれば容易に理解できる。

 桜花を配備した神雷部隊は、1944年10月1日新編成された第七二一海軍航空隊(721空)の別称で、戦局を挽回するために,米軍からはBakaと名づけられた人間爆弾「桜花」を配備した特攻隊である。
Over 800 Baka Bombs were built before the end of the war, but only 50 were used. Nonetheless, the weapon had its successes: in April 1945 the U.S.S. Mannert L. Abele, a destroyer, was sunk by a Baka.


写真(右):空技廠 MXY-7「桜花」I-13
;「桜花」I-13は、1945年4月上旬、沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷の陸軍北飛行場(読谷飛行場)で鹵獲した機体の一つ。陸軍沖縄北飛行場(読谷)に海軍の「桜花」が置かれたが、これは捷号作戦に関する陸海軍中央協定のためである。捷号作戦を進める上で、陸海軍の航空戦力の統一指揮が急務となり、1944年7月24日、陸海軍中央協定が結ばれた。ここでは、陸海軍航空部隊の指揮一元化のために、沖縄・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が陸軍の第八飛行師団を指揮するとしたのである。沖縄で鹵獲された人間爆弾「桜花」Yokosuka MXY7 Ohka)の桜花のマークは、オリジナル。その後の「I-13」は、丁寧に描かれており、日本軍が記入したオリジナルのようだ。ただし、鹵獲したアメリカ軍が整理のために記入した記号かもしれない。桜花I-13は、状態が良かったためか、たくさんの写真が残っている。

海軍航空技術廠 Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom") の桜花11型のデータ;
乗員1名,全長 6.10 m (20 ft 0 in),全幅 5.10 m (16 ft 8 in),全高 1.20 m (3 ft 11 in)
主翼面積 6 m² (65 ft²),重量 2,140 kg (4,708 lb)
ロケットエンジン 3基×800kg, 推力7.8 kN (1,760 lbf)
最高速度 630 km/h (394 mph),航続距離 36 km (23 miles)
翼面荷重 356 kg/m² (72 lb/ft²)。爆弾1,200 kg (2,640lb)

写真(右):1945年4月、沖縄本島、読谷飛行場でアメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")I-13をトラックを使って曳航している。 :陸軍沖縄北飛行場(読谷)における海軍「桜花」の鹵獲には、1944年7月24日、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が関連している。アメリカ空母任務部隊に対抗するには、陸海軍の航空戦力の統一指揮が必要であり、そのために、1944年7月24日、陸海軍中央協定が結ばれた。そして、南西諸島・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が司令部となって、陸軍の第八飛行師団を指揮するとなった。
Title: "Baka" bomb Caption: Being towed behind a truck after its capture, circa April 1945. Note insignia and coding, I-13. Description: Catalog #: 80-G-192463 Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Jun 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-192463 "Baka" bomb引用。


「桜花」I-13の固有名称は、日本軍が記入したと思われる。このI-13とI-18 は状態は良好だったためか、同じ機体の写真が多数残っている。桜花マークの先に「I-10」と記入されているが、これは、日本軍が記入したオリジナルのようで、現在保管されている「桜花」にも同じ形式の記号が付けられている。しかし、疑問も残る。第一に、日本軍が、英語(アイ)か日本語(イあるいは1)か判読しにくい「I」を記入したのか。「II」の記入はないのか。アメリカ軍は、日本の伊号潜水艦のイ(伊)を「I」で代用したが、これを踏まえると、日本側がI-10、I-13、I-18といった記号を付けたのではないかもしれない。第二に、日本海軍は、空母「雲竜」や空母「信濃」に「桜花」を乗せて、前線近くの航空基地に運搬しようと試みた。この2空母は「桜花」輸送途上、撃沈されたが、沖縄には「桜花」が到着した。沖縄到着時、すでに記号がついていたのか、それとも鹵獲後、アメリカ軍が記入したのか。沖縄で「桜花」が見つかったのは、海軍の小禄飛行場ではなく、陸軍の沖縄北飛行場(読谷)だった。ここに海軍部隊が駐留していなければ、陸軍部隊が、海軍の兵器にI-10、I-13などと勝手に記入するはずがない。

写真(右):1945年6月、沖縄、読谷の陸軍北飛行場で鹵獲した「短距離飛行爆弾カミカゼ自殺機("kamikaze (suicide) plane")"BAKA"BOMB(バカ爆弾)」I-10:タイヤの付いた運搬用台車の上に「桜花」を乗せて、ヘルメットを被った兵士が牽引している。後方には、不安定な「桜花」を支える兵士が垂直尾翼を手で押さえている。桜花マークの先に「I-10」と記入されているが、これは、日本軍が記入したオリジナルのようで、現在保管されている「桜花」にも同じ形式の記号が付けられている。
Okinawa, Japan. 1945-06. A piloted short range flying bomb, known as a "kamikaze (suicide) plane" captured on Okinawa is pushed along a road or airfield on a trolley. On 1945-04-06 the Japanese Kamikaze Corps sent 350 suicide aircraft in a mass attack against the US Navy in which thirty US ships were sunk or damaged.Accession Number P02018.393 Collection type Photograph Object type Black & white - Film copy negative Maker US War V Japan Conflict Second World War
写真はAustralian War Memorial P02018.393 引用。


陸軍沖縄北飛行場(読谷)に海軍の「桜花」が置かれた理由は、1944年7月24日、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が締結されたことと関連している。アメリカ空母任務部隊を迎撃する捷号作戦を進める上で、陸海軍の航空戦力の統一的指揮が急務となり、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が結ばれた。ここでは、航空部隊の指揮一元化のために、沖縄・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が司令部となって、陸軍の第八飛行師団を指揮するとしたのである。

写真(右):1945年6月(?)、沖縄、嘉手納基地の司令部前に展示された、鹵獲した自殺攻撃機「桜花」"BAKA" BOMB(バカ爆弾)I-18:胴体後方に円筒型のロケット推進機(噴進装置)が識別できる。桜花のマークの先に「I-18」と記入されている。ほかにI-13と記入された機体もある。これは、一見、日本軍が記入したオリジナルようで、現在保管されている「桜花」にも同じ記号を付けて展示している。しかし、第一に、日本軍が、英語か日本語かわかりにくい「I」を記入した点に疑問が残る。「II」の記入はないのか。アメリカ軍は、日本の伊号潜水艦のイ(伊)を「I」で代用したのを踏まえると、I-13、I-18といった記号は釈然としない。第二に、日本海軍は、空母「雲竜」や空母「信濃」に「桜花」を乗せて、前線近くの航空基地に運搬しようと試みた。この2隻の空母は「桜花」輸送途上で、ともにアメリカ潜水艦に撃沈されてしまったが。沖縄に送られた「桜花」も運搬されてきたものだが、アメリカ軍が鹵獲した基地は海軍の小禄飛行場ではなく、陸軍の沖縄北飛行場(読谷)だった。ここに海軍部隊はいなかったと思われるが、それでもI-13、I-18と陸軍兵士が記入したとは思えない。自分たちが搭乗しない「桜花」に手を入れることはしないはずだ。
Title: YOKOSUKA MXY "OHKA" Suicide Attack Aircraft, 1945 Caption: YOKOSUKA MXY "OHKA" Suicide Attack Aircraft on display in front of Eighth Air Force Headquarters, Kadena Air Base, Okinawa, Japan in 1945. Description: Catalog #: NH 101690 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 101690 YOKOSUKA MXY "OHKA" Suicide Attack Aircraft, 1945 引用。


横須賀Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom")
海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」は,大田正一少尉が考案したとの俗説があるが,一下級士官が新兵器の試作を,暇な時間に自主的に行うことなど,軍隊という組織では考えられない。

横須賀の海軍航空技術廠の開発したMXY-7「桜花」は,増速用ロケット推進装置をつけた飛行爆弾で、全長6辰曚匹瞭溝里防5辰曚匹両さな翼をつけた。体当たり自爆用なので,帰還するための脚や車輪など降着装置はない。「桜花」胴体の頭部が 1.2鼎梁膩診弾、中央部がパイロットの座席、後部に推進用火薬ロケットが収納されている。全重量約2邸

 母機の一式陸上攻撃機に懸吊(ちょう)して運ばれ、敵艦に接近して投下された人間爆弾「桜花」Yokosuka MXY7 Ohka)は滑空を主に、ときにはロケットを噴射し、パイロットもろとも敵艦に突入する。

6.1944年10月のフィリピンレイテ決戦で、「神風特攻隊」が編成されるより前に、桜花を使用する目的で、第721海軍航空隊「神雷部隊」が編成され、隊員が集められ、海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」、それを運ぶ母機の陸攻隊、援護戦闘機隊の3隊が編成された。

一式陸攻 神雷部隊(第721海軍航空隊)[龍巻部隊]編成
 第七二一海軍航空隊(721空)「神雷部隊」は、海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」[龍巻部隊]の編成、それを運ぶ母機の陸攻隊、援護戦闘機隊の3隊から構成される。
海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」特攻隊員の募集は最初、1944年8月中旬、全国航空隊から,隠密裏に行われた。9月15日、桜花を基幹とする特攻専門部隊の編成準備に当たる正副委員長が決まり、10月1日、百里原(茨城)に第721海軍航空隊(721空)「神雷部隊」が編成され、横須賀鎮守府に編入された。MXY-7「桜花」特攻隊の編成準備は,レイテ戦の神風特別攻撃隊の編成(1944年10月中旬)よりも2ヶ月も早く組織的に進められていたのであり,特攻は将兵の犠牲的精神の発露,自発的行為という俗説の誤りを例証している。

三菱 A6M5c 零式艦上戦闘機 52型丙 神雷部隊 1944年11月1日、神ノ池基地(茨城)に移転、「海軍神雷部隊」の門札が掲げられた。第七二一海軍航空隊(721空)に「神雷部隊」の名称がついた期日は,フィリピンで神風特攻隊「敷島隊」が空母撃沈の大戦果を挙げた10月25日から,1週間後である。
海軍航空技術廠の開発した人間爆弾「桜花」Yokosuka MXY7 Ohka)による特別攻撃の応募者の中から約 200名が1944年10月から11月にかけて721空に着任し,11月末には4個分隊が編成された。母機の一式陸上攻撃機は,「桜花」1基を胴体下に搭載し,これを2個戦闘飛行隊で援護することになっていた。

1944年11月19日,軍令部総長及川古志郎大将が「桜花」計画について大元帥昭和天皇へ上奏した。大元帥の統帥権を踏まえた厳格な軍紀が,日本軍司令部では維持されていた。  


写真(右):海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」
;沖縄も読谷飛行場(Yonton)で鹵獲した「バカ爆弾」と記されているが、巨大なドーム式格納庫の鉄骨から判断して、戦後、横須賀での撮影と思われる。米軍に鹵獲された多数の桜花。着陸用の橇がついている練習型。Lt. Reichwald's Photos
沖縄戦では,米軍直前になって急遽,読谷飛行場,嘉手納飛行場(当時は北・中飛行場と呼称)を破壊放棄した。しかし,あわただしく準備不十分だったために,飛行場は小破壊しただけで,多数(10-20基以上)のYokosuka MXY7-K1 Ohkaがほとんど無傷で米軍に鹵獲された。アメリカ軍は、海軍航空技術廠の開発した人間爆弾をYokosuka MXY7-K1 Ohkaあるいは"Baka"と呼んだ。奇襲秘密兵器といっても,多数を米軍に捕獲されているようでは,「桜花」搭乗員も「桜花」を運搬した一式陸攻搭乗員も浮かばれない。


海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」[龍巻部隊]の訓練:
『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』によれば、MXY-7「桜花」Yokosuka MXY7 Ohka)のように、重い機体に小さな翼をつけた機体は、高速でなければ失速する。しかし、高速では着陸できないので,訓練用に、爆弾・ロケットを外した軽い「桜花練習機」を作り、操縦感覚を体得することにした。しかし、有人爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 Ohka)は着陸時には,高速になるので,陸攻から投下後、エンジンなしで飛行場に着陸することは危険で至難の技であった。

 そこで、まず事前訓練として零戦を使い、エンジンを「桜花練習機」の着陸最終パスなみの 110ノットで滑空、ねらった場所に着陸する練習を重ねた。また,別に、零戦でフルパワーの高速緩降下突撃訓練を行い、MXY-7「桜花」突進時の感覚を養った。

 投下訓練は、投下後まず実機の最良滑空速度 260ノットで飛び、舵の効き具合いを試して実機の感触をつかむ。次に速度を激減し、最後はフラップを下ろし 110ノットでパスに乗る。目の高さ地上1辰曚匹膿緤身行に移ると、間もなく橇(そり)が設地する。

写真(左):人間爆弾「桜花」を搭載した一式陸上攻撃機;三菱G4Mは最高速度430kmの攻撃機(日本海軍では水平爆撃・雷撃を行う機種をさす)であるが,1トン半ある「桜花」を胴体下に吊り下げてたため,重量過大で、空気抵抗も大きく,速度は350km程度に低下した。「桜花」の攻撃は数回行われ、「桜花」20機以上が出撃したが、攻撃前に母機の一式陸上攻撃機とともに撃墜されることが多く、「桜花」命中による撃沈は、駆逐艦「マナート・アベル」Mannert L. Abeleただ1隻である。

写真(右):1944年9月25日、太平洋方面、アメリカ軍が鹵獲した日本海軍の零式艦上戦闘機A6M5「ゼロ戦」52型:日本海軍は艦上戦闘機をAの記号で呼んだA6零戦は、艦戦の6番目の試作機体。Mは三菱を意味する。「ジーク」("Zeke,") とは、連合軍側が機体識別のためにつけた固有名称だが、実際には、日本軍と同じく「ゼロ」と呼んだ。1944年になると、速度、兵装、空戦性能の上で秋tらかに性能が、対峙したアメリカ軍戦闘にに劣っていた。その上に、熟練パイロット(操縦員)が多数戦死したために、未熟なパイロットが最前線で戦うことになった。数的にも質的にも劣っていた日本軍の戦闘機部隊は、爆撃機も人間爆弾「マルダイ」を搭載した一式陸攻も十分に護衛することは不可能になった。死ぬ覚悟のある特攻隊員は集まったが、彼らが敵艦船に体当たりできるように護衛する戦闘機はなくなっていた。
Title: Japanese Mitsubishi A6M5 zero-sen Caption: Photographed 25 September 1944. The A6M5, an improved version of the earlier A6M2 and A6M3, had a reduced wing span and exhaust stacks in place of the cowl flaps of the earlier models. During World War II the Zero was officially referred to by the allied code name Zeke, but the name zero had so caught the public mind that it was also widely used. It was Japanese practice to use the last digits of the year of adoption to identify airplane types; since the Zeke was first produced in 1940 (the year 2600 in the Japanese calendar), it was known as the zero-sen (zero fighter). This plane had been painted with U.S. insignia which have, in turn, been painted out before the photograph was taken; the white star shows conspicuously through the red paint. It seems to retain its original Japanese paint scheme; dark olive green on sides and upper surfaces, and on the entire cowling, with light gray underneath. Copyright Owner: National Archives Original Date: Mon, Sep 25, 1944
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #:80-G-248975 Japanese Mitsubishi A6M5 zero-sen引用。


神雷部隊始末記  神之池基地 特攻機・桜花の乗員養成(茨城新聞)によれば,「桜花」は「本来は着陸する必要がないから車輪は付いてなかった。訓練用は機体の下にソリを付け、着陸できるようにしていた。爆弾の代わりに水や砂を積んで、一人一回ずつ訓練した」。第七二一海軍航空隊(721空)別名「神雷部隊」は1944年10月、戦局を一気に挽回する狙いから、人間爆弾「桜花」を主戦兵器に組織された。

神之池基地には南北と東西二本の大きな滑走路が整備されたが,隣接する内閣中央航空研究所鹿島実験場実験場には、広い砂地の野原に、南北に長さ2km以上の砂地の滑走路が造られていた。車輪を持たない桜花にとって、この滑走路が着陸するのに好都合だった。桜花隊の元分隊長(81)=神奈川県座間市=は、「ソリで着陸するのに、コンクリートの滑走路では摩擦熱で機体が炎上しかねなかった」と説明する。訓練は、母機が神之池基地内の飛行場を離陸し、上空で放たれた桜花は、同実験場内の滑走路に着陸する方法で行われた。

第七二一海軍航空隊(721空)「神雷部隊」の大部分は翌年1月、鹿児島県・鹿屋基地に移され、新たに桜花搭乗員の養成を行う竜巻部隊が組織された。

 桜花搭乗員に求められたのは、敵艦に向かって降下する技術で、着陸技術ではなかった。投下訓練を一回終了した隊員は、あらゆる状況で作戦可能とされる練度「A」の判定を受け、前線の特攻基地に送られた。

神雷部隊編成に至る経緯:戦友会編『海軍神雷部隊』による

1944年5月1日;1081空分隊長大田正一少尉、隊司令菅原英雄中佐に「人間爆弾」の構想を明かす。大型爆弾に翼をつけ、投下後は人間が操縦して敵艦に突入する「必死・必中・必殺」の新兵器。

1944年5-6月;大田正一少尉、菅原英雄中佐の推薦により、有人爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 Ohka)の構想を航空技術廠長和田操中将に提案。中将は航空本部に進達。航本の伊東裕満中佐と軍令部源田実中佐が協議して研究を進める。

1944年6月20日頃;筑波航空隊で、戦闘機操縦教官7〜8名に対し、次の諮問があった。−どうにもならぬ戦局に対し、生還は絶対不可能であるが、成功すれば戦艦でも正規空母でも確実に撃沈できる「新兵器」の提案があった。

上層部は「非人道的」なるが故に採用をためらい、まず搭乗員の意見を聴取することになった。諸官のうち、この「新兵器」搭乗希望者が2名以上あれば研究開発を進め、1名以下の場合は廃案にするという。諸官は「新兵器」搭乗を希望するか否か、と。(抄)

1944年6月27日;岡村基春大佐(341空司令)、軍需省に航空兵器局総務局長大西瀧治郎中将を訪れ、体当たり戦法の重要性を強調し、(特攻用)航空機の開発を要望。

写真(右):海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」など特攻兵器を推奨した源田実参謀(1904-1989);真珠湾奇襲作戦、ミッドウェー作戦、南太平洋海戦、マリアナ戦、未遂の「雄」作戦などの海軍作戦に関わった有能な軍人であるから、特攻作戦にも関与していたであろう。

1944年8月初旬;大田正一少尉、民間技術者(東京大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所)の協力を得て「人間爆弾の私案」を航空本部に提出。
1944年8月16日; 航空本部、大田私案に「マルダイ部品」(○に大の字)の秘匿名称をつけ、航空技術廠に改正試作を下令。試作番号「MXY7」。
1944年8月中旬; 第一線部隊を除く全国航空隊で、秘密裡に特攻兵器の搭乗員希望を募る。航空技術廠が「MXY7」の単座練習機「K1」の試作を開始。
1944年8月18日; 軍令部第2部長黒島亀人少将(海兵44期)、軍令部会議で「マルダイ兵器」を発表。
1944年8月28日;軍令部部員源田実中佐、マルダイの性能、用法、兵力について軍令部打ち合わせ会議で発言。
1944年8月下旬; 航空本部がマルダイ兵器を「桜花」と命名。
1944年9月15日; 「桜花」部隊の編成準備のため、準備委員長岡村基春大佐(341空司令)などを横浜航空隊付に発令。

(→『海軍神雷部隊』戦友会編を掲載した神雷部隊と新兵器「桜花」引用)より)

帝国海軍の逸材といわれ、連合艦隊司令長官山本五十六大将から重用された黒島亀人少将、源田実中佐が,神風特別攻撃隊に関与していなかったとは考えられない。真珠湾攻撃,ミッドウェー海戦,マリアナ沖海戦と作戦を企画してきた参謀が,フィリピン戦について寄与していないはずがない。

参謀源田実中佐(戦後は参議院議員)の名著『海軍航空隊始末記』でも、フィリピン戦や沖縄戦での特攻作戦について記述がない。にもかかわらず、1945年の日本海軍航空隊最後の花道とされる四国松山の戦闘機隊343空司令として大活躍,大戦果には詳しい。源田実中佐の下に日本海軍航空隊の撃墜王も集めて編成された新鋭戦闘機「紫電改」で編成された戦闘機部隊には,新鋭偵察機「彩雲」も配備され,人材と機材を完備した。

沖縄戦のころの特攻隊は,中古戦闘機,練習機,水上偵察機など旧式な航空機の寄せ集め部隊が多く,搭乗員も実戦経験のない未熟練新米パイロットが大半であった。戦闘機隊343空司令は,特攻隊,特に有人爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 Ohka)の開発・部隊編成に関与したにもかかわらず,戦後は特攻について語らなかった。特攻隊とは雲泥の差がある最新戦闘機「紫電改」装備のエリート部隊343空を率いてたことを誇りにしていた。

写真(右):1945年6月26日、沖縄、人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")I-13 :「桜花」I-13は、1945年4月1日に沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷飛行場(陸軍の沖縄北飛行場)で鹵獲した機体。
1945年3月21日、初出撃した「神雷部隊」の一式陸攻18機(桜花搭載機16機)は、アメリカ軍戦闘機に襲撃され、全機撃墜された。アメリカ軍艦艇は、一隻も撃沈できなかった。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945 Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval Description: color Catalog #: 80-G-K-5886 Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Jun 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5886 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945 引用。


写真(右):1945年4月1日、沖縄でアメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13:「桜花」I-13は、I-18 と同じく、1945年4月1日、沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷村に1944年に建設された陸軍北飛行場で鹵獲した機体。1945年6月26日に撮影。1944年7月24日捷号作戦に関する陸海軍中央協定が締結され、捷号作戦を進める上で、陸海軍の航空戦力の統一指揮が図られた。つまり、航空部隊の指揮一元化を目的に、沖縄・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が司令部となって、陸軍の第八飛行師団を指揮するとしたのである。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945 Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval District Description: color Catalog #: 80-G-K-5888 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Original Date: Tue, Jun 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5888 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945引用。


鈴木英男氏(第721海軍航空隊)証言
あの訓練と申しましてもね。やはり、実用機は、体当たりする訳ですから、体当たりのための訓練ですよね。ですから、パス120ロットの飛行機ですからね。桜花は。だから、これを、こなすには、まず、冷静になってね。ゼロ戦に乗って、その滑空訓練。エンジンをね、高度のを取って、エンジンを絞って、滑空することから始まりましてね。後はね、結局、突撃のための訓練。だから訓練は、そんな難しい訓練じゃなかったです。だから桜花に乗れるための訓練ですから。桜花に乗るまでは、皆、誰も心配しないでおったと思います。

本当、訓練は簡単なんですよ。いわゆるエンジン絞って、先ほども言うように、滑空訓練して。それで、地上1メートルぐらいで、いわゆる、行き足が無くなるまで飛んで、行き足が無くなったら、そこで着地する。という形で訓練をしてましたからね。だから、訓練は、そんな難しい訓練じゃありません。まして、皆、あの200人は最初集まった連中はね。まあ、水上機に乗った人たちは、ある程度、陸上機とちょっと感覚が違いましたから、慣れるまでは、大変だったと思いますけどね。皆、乗りこなしておりましたからね。

写真(右):1945年6月26日、沖縄、沖縄本島でアメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13:「桜花」I-13は、I-18 と同じく、1945年4月1日に沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷飛行場(陸軍の沖縄北飛行場)で鹵獲した機体。陸軍沖縄北飛行場(読谷)における海軍「桜花」の鹵獲には、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が関連している。アメリカ空母任務部隊に対抗するには、陸海軍の航空戦力の統一指揮が必要であり、そのために、1944年7月24日、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が結ばれた。そして、南西諸島・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が司令部となって、陸軍の第八飛行師団を指揮するとなった。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945 Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval Description: color Catalog #: 80-G-K-5885 Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Jun 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5885 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945引用。


あれはね。11月半ばぐらいですかね。いよいよ、わたしの番が回ってきた。もう、皆は終わった連中も結構多い訳だから。それぞれ、皆成功してね。やってきて、話を聞けば、「いい飛行機だよ」ということもあるから。これが、終わりさえすればいつでも、いわゆる、桜花隊員になれる。今までが、桜花に体験はないけれど、これからは使われるって。位置に入るなと思ってますから。わたしは、非常に、飛行機に乗る形は喜んで乗り移りましたけどね。だから、親機に乗せてもらって離陸する訳ですから、それで、投下地点まで来る間に、乗り移りましてね。それで固縛装置があるんですよね。あの、色々な操縦装置を縛ってある。それをまず解いて、用意ができたところで、上に向かって連絡をして、「トトトツートン」という終わりマークというね。あの形でうたれて、離されるという事を聞いてましたから。それに対して、早いとこ、いわゆるその固縛装置を取ろう、と思いましてね。ところがね、わたしね、いっつも手が冷たくなっちゃう方でね。なかなか、固縛装置が取れないで焦りましたよ。その前にね。第2飛行場へ降りるわけだから、こうやってみるとね、第2飛行場が、どこにあるか見えないんですよ。というのは、もう、ごくわずかの段差も中に入っちゃってるから、あの、下がよく見えなくって。遠景だけしか見えないんですよ。これ、落とされて、どこへ降りたらいいのか。

写真(右):1945年4月1日、沖縄の読谷飛行場(日本陸軍の沖縄北飛行場)でアメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13の正面。:1945年6月26日撮影。陸軍沖縄北飛行場(読谷)で海軍の「桜花」が鹵獲された理由としては、1944年7月24日、捷号作戦に関する陸海軍中央協定があげられる。アメリカ空母任務部隊に対抗するために、陸海軍の航空戦力の指揮一元化が求められ、1944年7月24日、陸海軍中央協定が結ばれた。この結果、沖縄・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊の隷下に、陸軍の第八飛行師団が編入されることになった。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945 Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval Description: color Catalog #: 80-G-K-5885 Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Jun 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5882 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured on Okinawa, 26 June 1945引用。


それが心配になりまして、しかし、「見えないものは、見えねえんだからしょうがない」。「落とされた瞬間にね、すぐ見ればいいや。いいとこへ落としてくれんだろうから」と思って。それは、それなりにしといた。だから、縄は解けないもんだから、親機の方もなんと思ったか知らんけれども、もう一回りしてくれたんですよ。それで、わたしとしては、随分ゆとりを持ってね、あの体制に入れた。こういう風に思ってますね。ですから、他の人は、固縛装置を取って、すぐ忙しい中ですぐ落ちる。いうことで、忙しかったんじゃないか、と思うんで。わたしの場合には、割合、ゆっくりできたです。これが、かえってわたしにとっては良かったことかなと、思いますね。ですから、落とされた瞬間を言いますとね。マイナスのGがかかりますから、ほこりが「グーッ」と来るんですよ。

ま、それもちろん、メガネをやってるから。ひょっと見ると、すごいスピードがついちゃってるんですよ。「ククーッ」と慌ててかじを上に引きましてね。それで、まず、飛行場探しました。この飛行場はね、感覚的にはすぐ分かりました。だから。どう持ってくるかが大事なことでして。どこで、最後のパスに入るか。
ま、自分なりに考えながらやってたんだ。わたし、ちょっと高めに持ってきちゃったんですよ。高めに。ちょっと高めだから。これ心配だなと思って、で、横すべりこうやってすれば。飛行機がこう下げるんですよ。桜花はそれがきかないよ、と言われてたから、困ったなと思ったんですが、「ちょっと、やってみよう」と思ってね。横滑りしたか、しないか分からないけど。横滑りのサインして、すぐ、やめちゃいましたけどね。あとはまあ、上手く入ってくれるだろうって。それで、地上1メートルのとこまで、無事、入ったんです。そうしたら、やっぱりそこではものすごい早いですよ。前にね、式場が見え、あったんです、式場の建物。これはだいぶ遠くに見えたんですがね。だんだんだんだん近づいてきちゃって。「おれ、式場まで行っちゃうかな」と思って、心配したんですがね。式場のそうですね、50メートルぐらいのとこまで行きましたかね。「ガリガリッ」と、そりですからね。で、「ガリガリッ」と急速に止まりましてね。式場の50メートルぐらいのとこで止まったんで。

写真(右):1945年4-5月、沖縄本島中南部、読谷飛行場、アメリカ軍が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")I-18を警備する憲兵:1945年4月1日、沖縄の読谷飛行場(日本陸軍の沖縄北飛行場)でアメリカ海兵隊が鹵獲した「桜花」で1945年6月26日撮影。
人間爆弾は、沖縄攻防戦の航空戦が始まった1945年3月21が初の実戦投入だった。その当時は、映像のみでアメリカ軍にもその実態はよくわからなかった。しかし、沖縄本島に上陸した1945年4月1日、すぐに重要な読谷飛行場を占領し、そこに放置してあった奇襲特攻兵器の人間爆弾「桜花」を複数鹵獲した。日本軍は、奇襲を重んじていたが、秘密兵器に限らず、末端の兵士に至る兵器の管理システムに欠陥があったようだ。秘匿や破壊を厳命すれば、それが自動的に実行されるとでも思っていたのであろうか。軍指揮官も、補給にも、兵器の管理など輜重には不熱心だったが、これはアメリカ軍とは対照的だった。能吏とは、日常業務を滞りなく実施する官吏のことであるが、これは個人的な能力だけでなく、管理システムにも依拠している。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 -OHKA Model 11 -BAKA Bomb suicide attack weapon. Caption: Guarded by an MP at Yonatan Airfield, Okinawa, circa April-May 1945. Description: Catalog #: 80-G-K-4930 Copyright Owner: NARA
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-4930 Japanese YOKOSUKA MXY7 -OHKA Model 11 -BAKA Bomb suicide attack weapon引用。


鈴木英男氏(第721海軍航空隊)証言
(1944年)11月の末になってね、分隊編成があったんですよ。それまではね、梁山泊じゃないけれど、皆、集まって、「おまえも来たか。お前も来たか」でもって、やってた。分隊が決まってなかったんです。それが11月の28、9日なってね。分隊編成ができたんです。それで、4か分隊編成が出来たんですよ。ところがね。一個分隊はね。1分隊。2分隊、3分隊、4分隊。約、一個分隊が54、5名でしたかね、分隊長入れてね。(引用終わり)

写真(右):着陸用の橇(そり)を装着した人間爆弾「桜花」複座訓練型(Yokosuka MXY7 Ohka ):着陸用の橇(そり)を装着した人間爆弾「桜花」訓練型( Yokosuka MXY7-K1 Ohka ):一式陸攻の胴体下に搭載して、投下し、滑空訓練を行うためのもの。カタパルト発射が可能になり、射出訓練、飛行訓練にも使用するには、ジェットエンジンが装備されなくては、無理である。

千葉日報オンラインTOP TOP > 県内ニュース > 社会家族のためと迷わず志願 人間ロケット「桜花」の壮絶訓練 特攻要員の体験語る 斉藤豊吉さん(87)=市原市(2013年8月14日 15:13 | 無料公開)に貴重な証言がある。

太平洋戦争中、敵艦に体当たりする、いわゆる特攻作戦のため旧日本海軍が開発した人間ロケット「桜花」の要員だった斉藤豊吉さん(87)=市原市=が市内のイベントで、その体験を語った。自らの命、そして家族を思いながら志願。命がけの訓練の中での、仲間や上官らとの心の交流も明かした。

 斉藤さんは、同市の五井会館で開かれた「原爆の絵展」に招かれた。市内・神代神社所蔵の旧日本海軍機プロペラが、昨年の同展で一般公開された際に来場したのが縁で実現した。斉藤さんは同市五所出身。小学校を卒業し、私塾「南総学校」在学中に開戦を迎えた。兄3人は従軍し、自分は農家でも−と思っていた矢先。「困ったな。これで兵隊に行かなければならなくなった」というのが本音だった。「どうせ徴用で引っ張られるなら」と、「重い背嚢(のう)を背負う」陸軍ではなく、映画館で海軍機の編隊を見て「飛行機乗りはいいなあ」と15歳で海軍を志願した。

写真(右):横須賀の飛行機格納庫で鹵獲されたと思われる日本海軍の有人自爆兵器・「桜花」( Yokosuka MXY7 Mark 11 K-1 OHKA 'Baka')操縦訓練用単座型。:胴体上面には、一人用座席があり複座ではない。胴体下面には、着陸用の橇(そり)を装着している。「桜花」の胴体を乗せている台車は、日本軍の制作したもので、ゴムタイヤではなく、木製滑車を使っており、加工精度も低い粗雑なつくりである。
Object description: Air Launched Weapons: A Yokosuka MXY7 Mark 11 K-1 OHKA 'Baka' piloted suicide weapon. This rocket powered flying bomb was slung underneath a bomber and released over the target. The pilot of the 'Baka' then guided the machine to destruction Catalogue number:NYP 77198 Department Photographs Part of AMERICAN (US) EMBASSY SECOND WORLD WAR PHOTOGRAPH LIBRARY: CLASSIFIED PRINT COLLECTION
写真はImperial War MuseumCatalogue number:NYP 77198引用。


写真(右):アメリカ、ワシントンDC、アメリカ海軍記念博物館に展示されていた戦利品の操縦訓練用単座型グライダー「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA )。:1972年3月下旬、撮影。胴体上面には、一座席が設けてあり、複座ではない。胴体下面には、実機にはない着陸用の橇(そり)を装着している。橇の支柱は、緩衝装置がついているようだ。主翼の補助翼(エルロン:Ailerron)下げた状態にしてあるが、水平尾翼の昇降舵(エレベーター: elevator)と垂直尾翼の方向舵(ラダー:rudder)は、作動させていない。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY-7 OHKA Caption: Piloted bomb training glider. Photographed at the U.S. Navy Memorial Museum in Washington, D.C., late March 1972. Description: Catalog #: NH 75680 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Creator: Lieutenant Junior Grade Thomas Pozarycki, USNR-R, photographer
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 75680 Japanese YOKOSUKA MXY-7 OHKA 引用。


早く卒業し階級も上がる甲種「予科練」ではなく、「命が大事。長生きした方がいい」と乙種「予科練」 を志願したが、短期養成へ半年卒業の「特乙「予科練」」に選抜された。毎日9時間の授業と飛行訓練を積み、予科練800人中わずか20人の「戦闘機乗り」に。夜間飛行訓練が始まると天気図書きや測量、暗号も学ぶ。訓練が終わるのは深夜12時。寝る間はなく、風呂も週1度。「それでも人間は死ななかった」と笑う。

 特攻志願の意思を問われたのはこのころ。上官から希望者は職員室に−と言われ「4男坊だから」と迷わず一番に職員室へ。書類にある「希望」「熱望」「最熱望」のいずれかを選ぶよう言われ、「最熱望」に二重丸を付けた。死に直結する任務も志願の心境は「さっぱりした。家族を大事に思った」結果だった。

写真(右):アメリカ、ワシントンDC、アメリカ海軍記念博物館に展示されていた戦利品の操縦訓練用単座型グライダー「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA )。:1972年3月下旬、撮影。練習用の機体で、胴体下面に着陸用の橇(そり)を装着している。橇の支柱は、緩衝装置がついているようだ。訓練生と教員の二座席を設置した「桜花」複座型練習機もあるが、翌面積の小さな小型グライダーに二人ものって、滑空降下するのは危険である。一人乗りの桜花の降下実験でさえ一回限りの危険な訓練とされていたのに、教官が後方に座して、何回も危険な降下訓練を繰り返すとは思えない。また、複座といっても座席相互が離れており、これは機体の重心バランスをとるためかもしれないが、高速降下する短時間の間、教員と訓練生が伝声管を使ってやり取りできるとは思えない。複座練習型「桜花」の訓練では、練習生二人を乗せたて降下で、一回の飛行・燃料で二人を降下させる時間・燃料節約型の簡易訓練ではないか。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY-7 OHKA Caption: Piloted bomb training glider. Photographed at the U.S. Navy Memorial Museum in Washington, D.C., late March 1972. Description: Catalog #: NH 75681 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Creator: Lieutenant Junior Grade Thomas Pozarycki, USNR-R, photographer
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 75681 Japanese YOKOSUKA MXY-7 OHKA 引用。


 1945(昭和20)年1月10日、「神之池海軍飛行場」(現在の茨城県鹿嶋市)への転勤命令が下る。行くと門柱に「海軍神雷部隊」とあった。「何かなあと思った」。「桜花」の特攻部隊の通称だった。訓練は命がけ。高度3500メートルで「投下用意」の号令とともに、運搬する航空機の床から翼にぶら下がる「桜花」へ乗り移る。切り離され数秒で高度500メートルに急降下。水平飛行を保ち草むらに着地する。特攻機なので、車輪代わりにソリが着いていた。

写真(右):2016年、アメリカ、オハイオ州ライト・パターソン空軍基地、国立アメリカ空軍博物館(National Museum of the United States Air Force)、着陸用の橇(そり)を装着した人間爆弾「桜花」単座型訓練機( Yokosuka MXY7-K1 Ohka ):国立アメリカ空軍博物館には、第二次大戦中の日本軍機としては、川西 N1K2-J 紫電改、三菱 A6M2 零式艦戦、横須賀 桜花練習機が展示されている。
Description : Yokosuka MXY7-K1 Ohka Date 3 July 2016, 15:09 Source Yokosuka MXY7-K1 Ohka Author Clemens Vasters from Viersen, Germany, Germany
写真はWikimedia Commons,Category: Aircraft at the National Museum of the United States Air Force Yokosuka MXY7-K1 Ohka (27789607790).jpg引用。


日本海軍 桜花練習滑空機 K1 千葉日報オンラインTOP > 県内ニュース > 社会家族のためと迷わず志願 人間ロケット「桜花」の壮絶訓練 特攻要員の体験語る 斉藤豊吉さん(87)=市原市(2013年8月14日 15:13 | 無料公開)に貴重な証言(続き)がある。

 大学野球の投手だった仲間は松の木にぶつかり「桜花」は真っ二つ。普通なら即死だが鍛えた体の持ち主は顔をたたくと起き、「やったな」と言うと「うん」。帰隊し「訓練終わりました。桜花一機大破。その他異状なし」と届け出ると、上官は「おまえは桜花より丈夫か」。皆で笑った。死と隣り合わせの現場にも心の交流はあった。ある日、上官に呼ばれ盃に一升瓶で酒をつがれたが、飲めずにむせた。タバコも吸わないと、上官は「なにっ、酒もタバコもやらない?家に帰って母ちゃんのお乳でも飲んでろ。一緒に死んでやらねえ」。「一生懸命に習います」と謝ると、翌日から酒、タバコがたくさん配給された。困った揚げ句、整備兵にあげると喜ばれ、いつも飛行機の中を雑巾がけしてくれるので「いつもきれいな飛行機に乗っていた」。

 危険な空中戦は経験したが、数えきれぬほど仲間が散った九州・沖縄方面への出撃はないまま終戦。「特攻隊員でなく、特攻要員だった」。戦後は測量、天気読みの技術が仕事で大いに役立った。若者には「ムダなことはなにもない。何ごとも勉強と思い習ってほしい」と訴える。多くの青春が散った飛行場は[桜花]公園となり、追悼と平和のため作家・山岡荘八の碑文を刻む石碑がある。斉藤さんは「もし鹿嶋に行くことがあったら、ぜひ訪れて」。静かに呼びかけた。(斉藤豊吉さんの証言引用終わり)

写真(右):2009年、アメリカ、オハイオ州ライト・パターソン空軍基地、国立アメリカ空軍博物館(National Museum of the United States Air Force)に展示されている着陸用の橇(ソリ)を装備した人間爆弾「桜花」( Yokosuka MXY7-K1 Ohka )単座訓練型:国立アメリカ空軍博物館には、第二次大戦中のアメリカ機としては、戦闘機ベル P-39Q エアラコブラ、カーチス P-40E ウォーホーク、ノースアメリカン P-51D ムスタング、リパブリック P-47D サンダーボルト、ノースロップ P-61C ブラックウィドウ、攻撃機ノースロップ A-20G ハヴォック、爆撃機ボーイング B-17G フライングフォートレス、コンソリデーテッド B-24D リベレーター、ノースアメリカン B-25B ミッチェル、マーチン B-26G マローダー、艦上爆撃機ダグラス SBD ドーントレスが展示されている。
Description SONY DSC Date 25 September 2009, 14:49 Source Yokosuka_MXV7-K1_Trainer_LSide_Airpower_NMUSAF_25Sep09 Author Valder137
写真はWikimedia Commons,Yokosuka MXY 7 Ohka museum aircraft Yokosuka MXV7-K1 Trainer LSide Airpower NMUSAF 25Sep09 (14413184308).jpg引用。


7.特攻兵器「桜花」の初の実戦使用は、1945年3月21日の神雷部隊の初出撃で野中少佐が率いる攻撃隊一式陸攻15機とその搭載する桜花15機だったが、戦果なく、全滅した。桜花作戦は10回にわたるが、4月12日、桜花がアメリカ海軍駆逐艦「アナートアベル」を撃沈した。桜花特攻で撃沈した敵艦艇はこの1隻のみで、出撃機の大半は目標にたどり着く前に撃墜された。桜花特攻で、戦死したのは、運搬機の搭乗員も含めて、430人に上った。

戦藻録―宇垣纒日記  1945年2月、日本本土近海の防衛を考えた日本海軍は,九州方面に海軍の生成航空部隊を集めて、第五航空艦隊を設立した。ここに神雷部隊が配属され、戦うことになる。その経緯を、宇垣纒中将『戦藻録』から再現してみよう。

 レイテ沖海戦の敗北から日本に帰っていた宇垣纒中将は、
1945年1月19日「保健第一として此の際 熱海方面に保養する事と決意し、1115自宅発 猟銃を肩に横浜より大垣行き列車に乗る。三等車に飛び込んだ儘身動きならず。立った儘にて熱海伊豆山水光荘に辿りつき」
2月9日、酒を楽しんでいると警察より電話で帰京を促してきた。海軍省人事局によれば、明日、天皇による親補式があることが判明。「最後の御奉公の時と覚悟す」。

1945年2月10日、熱海から帰宅、空襲警報で親補式は取り止めになり、新設の第五航空艦隊司令長官に補任された。1630「官邸に於ける大臣総長の招宴に赴く」
2月12日「吹上御苑内の防空殿に於いて拝謁」「此度は御苦労である の御言葉を拝するの光栄に浴す。恐縮感激の至りなり。終わって賢所参拝あり 任務達成を神前に誓ふ。」
2月14日1330厚木基地初、輸送機で1750鹿屋基地着。「疎開新建のバラック庁舎に入り将旗を掲ぐ。」

最後の特攻宇垣纒 連合艦隊参謀長 宇垣纒中将の五航艦(第五航空艦隊)は、次のような部隊を指揮下に置いた。
第203航空隊(零戦)
第343航空隊(戦闘機「紫電」)
第171航空隊(偵察機「彩雲」)
第801航空隊(二式大型飛行艇、元の横浜航空隊)
第701航空隊(艦上爆撃機「彗星」、艦上攻撃機「天山」)
第762航空隊(一式陸攻、陸上爆撃機「銀河」、陸軍四式重爆「飛龍」
第721航空隊(桜花特攻神雷部隊

1945年2月16日,「敵機動部隊は、本早朝より関東方面、北は原町より南は硫黄島、西は浜松方面まで艦載機を以って三次に亘り我が航空基地・軍事施設・艦船を攻撃せえり」連合艦隊司令長官は、台湾、南西諸島、九州での決戦を企図した捷三号作戦警戒基地航空部隊発動を下令したが、「遂に関東方面を奇襲せられ、陸海飛行機の地上損失150機に及ぶ。其の他、施設艦隊の被害も相当なるべし。」
2月17日,敵空母機動部隊がウルシー基地に帰投後に特攻をかける丹作戦が第五航空艦隊に下令された。
2月19日,「本朝8時、敵は硫黄島に遂に南岸より上陸を開始せり。-----南飛行場はあっ気なく悲鳴を万歳三唱に挙げ、敵は西岸に擂鉢山に向かう報ず。陸軍の自信ならばあてにはならざるも、海軍自体にて相当堅固を以って任じたる同島が此の仕末とは全くあきれ返らざるを得ず」連合艦隊司令長官「GFはアッサリかんと---指揮官の捷三号作戦部隊の指揮を解き」攻撃は尻切れトンボとなったが、宇垣長官は「戦力増強」戦力温存に努めた。
2月21日,「鹿屋のすき焼き屋あみ屋で司令部の夕食会を催す。----肉と酒に不足なし。」
2月27日2000前、「雷鳴の如き異常の音響に続いて爆弾の炸裂音を聞く。」これは九州南部へのB-29爆撃機による高高度偵察爆撃の始まりだった。
3月5日「0000、第一回総合訓練を開始し、目標隊たる第十七駆逐艦隊の2艦、大分より出航、土佐沖に進出。此れに対し飛行機の索敵接触を行ふ。」
3月6日,「哨戒には60機の哨戒機と多量の燃料を必要とし、此れ亦行きづまりなり。情けなき哉。
3月8日,「夜半、桜花の装備を実視し又夜明後、神雷隊出発、敵機の来襲被害措置等を現場につき視察す。」

中島艦上偵察機 彩雲 1945年3月9日,「第一回総合訓練の研究会を行ふ。本教練明らかに失敗し----各部隊擦り合わせ完からず、技量も亦甚だ稚拙なるに起因」の状況だった。しかし「彩雲」偵察機によるウルシー偵察の結果、正規空母6、特設空母9、さらに入港する空母4ほかを発見との報告があり、「明朝第二次丹作戦決行と決意す。」
3月11日、第二次丹作戦決行、0800二式大型飛行艇1機、0820機械不調で遅れた二式大型飛行艇1機が誘導に先行出発、0900陸上爆撃機「銀河」24機が離陸した。ウルシー日没の1852になっても、エンジン故障の不時着電のほかなかった。「1858に到り、我奇襲に成功、1900全軍必中突撃せよ、1903我正規空母に命中せんとす、1905正規空母に命中、1906我突入せんとす、1908我奇襲に成功などの電文を傍受した。第二航空軍「神[重徳]参謀連絡の為来隊、丹作戦の最後の幕を作戦室に聞き喜ぶ。」

空技廠 陸上爆撃機 銀河 1945年3月12日、第二次丹作戦に出撃した陸上爆撃機「銀河」の「不時着機の報告次々と入電」鹿屋、沖縄、宮古に各1機、南大東島4機、ヤップ島4機、途中不時着2機、発動機故障1機。出撃した銀河24機中14機と58.3%が目標に自爆できずに、不時着したり墜落したりした。「ミストありて視界不良艦型識別不能なりしに因る。」また「」の不調・故障、航続距離の不足、攻撃時間が日没1時間以上となりこの遅延による目標発見の困難が指摘された。

1945年3月13日、丹作戦で3月11日に出撃、不時着していた陸爆「銀河」の「南大東島より輸送機にて搭乗員が帰着。----偵察写真の判読の詳細を電報し来る戦果皆無なるが如し。不時着による銀河10機分の搭乗員を残したるはせめてもの幸福なり。」

天山艦上攻撃機 1945年3月17日、陸軍の第六航空軍司令官菅原道大中将が来訪。菅原道大中将は、1944年12月26日から終戦まで第六航空軍司令官で、この日の午後、鹿児島の海軍基地を視察をする予定だったが、敵機動部隊が14日ウルシーを出撃北上中の中央の判断がなされ、取りやめになった。そこで、菅原道大中将の部下が福岡より鹿屋に飛来し、通信施設の状況調査を行った。「将来提携を密にする必要あり相手として打合せを為す。」この記述から見れば、1945年3月の沖縄方面の危機が迫っている状況でも、九州の陸海軍航空部隊の通信連絡は不十分であり、陸海軍機の作戦連携など全く基盤ができていないことが分かる。
「2230頃より逐次、九州南東海上に敵の三群を探知するに至りる。之より壕内作戦室に入り、敵機動部隊迎撃戦に入る。」
連合艦隊司令部の置かれた「日吉よりの電話連絡は、中央にて機動部隊に対する方針を協議中にして中々決せず、大勢は、[戦力]温存主義に傾きたり。

二式大型飛行艇 1945年3月18日、連合艦隊の電令作第564A号では、南西諸島(沖縄方面)に敵が上陸企図を持っており、「敵攻略部隊南西諸島方面に来攻せば、陸軍部隊と緊密なる協同を以ってGF全力を挙げて之を撃滅、南西諸島を確保せんとす。----本作戦を天一号作戦と呼称」とされた。
しかし、同時に連合艦隊の電令作第564B号では、「当分の間、敵攻略部隊来攻の時迄、敵機動部隊に対する航空作戦は左に準拠すべし。」
1.敵機動部隊が関東方面に来襲した場合、「積極作戦を避け沈着温存に努む。
2.「九州方面来攻の場合は、前項に準じ兵力の温存に努む。但し南西諸島攻略部隊、確実に至らば断固之が撃滅に努む。」

艦上爆撃機 彗星 このような曖昧な作戦指導に対して、第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将は「東京の腹が定まらざる裡の準備にて数々苦心し判然たる攻撃準備命令を出し得ざりしなり。---敵の四群は遠慮なく進攻し来る、兵力を温存せんとして温存し得るの状況にあらず。地上に於いて喰われるに忍びず、加ふるに南勢方面に対する攻略の前提ならずと誰が判定し得ん。慎重考慮の結果、成否に対し全責任を負い、0205全力攻撃を決意、第一戦法発動を下令す。
第一戦法とは、艦上攻撃機「天山」、陸軍四式重爆「キ67飛龍」による夜間雷撃攻撃、続いて陸上爆撃機「銀河」による雷撃・急降下爆撃の黎明攻撃、艦爆「彗星」や250キロ爆弾を搭載したゼロ戦特攻機による昼間全力強襲という波状攻撃である。

四式重爆撃機 飛龍 「敵機は0540より0950迄に連続来襲、其の数南九州に於いて375機に達せり。然れども其の来襲状初期に於いては極めて低調不揃いにして我が夜間攻撃の結果なりと認められたり。---敵の第一波攻撃を受けて以来、予期の如く各基地の通信系(陸上架線)切断し連絡不良、且つ各基地共数次の波状攻撃を受け履く爆攻撃不能となり夜間攻撃実施に転ず。神雷(桜花)部隊も使用の機を認め、攻撃準備を下令するも、配備機基地分散しあり、命令遅達と敵機の制圧の為、準備間に合わず。夜間及び黎明攻撃に備え飛行艇5機を以って夜間索敵を下令す。」

1945年3月20日、「夜間索敵は2300頃より敵を捕捉、0010及び0530頃、火柱1、炎上中のもの2、爆発1を認めるも、攻撃隊よりの報告なく、詳細不明なり。」「朝来、自軍飛行機状況不明にして、攻撃後、退避基地等に分散攻撃続行に不安あり。迅速に根拠基地作戦基地に帰投、兵力の整頓整備に全力を盡すべきを下令せるも、動きは極めて緩慢にして作戦可動数激減せり。」
「夜間索敵不能の為、動静不明---彩雲の黎明偵察により1030頃、都井岬東方120マイルを南下中の敵は6,4,1の空母を含む3群なる事判明」「一段二段三段の索敵に続き夜間陸攻4機は南下中の敵4群を探知し接触を持続したり。----その速力10−12ノットなるに鑑み、神雷攻撃の好機至るべく、準備を下令したり。」

一式陸攻神雷部隊桜花 1945年3月21日、「天山銀河20機を以って早朝攻撃ーー巡1に雷撃、他に2機突撃を報ぜるも、効果不明なり。早朝索敵の結果、都井岬145度320マイル付近に2群空母を発見す。敵は相当大なる損害を蒙りたるものの如く、上空警戒も少し、加ふるに天候快晴視界30マイル、距離稍遠くなるも神雷には問題たらず。18日以来、特攻兵力の使用の機を窺い続け、何とかして本法に声明を与えんとしたり。今にして機を逸せば再び遠くウルシー梓隊[銀河]の遠征を余儀なくせられ、而も成功の算大ならず。如かず今、神雷攻撃を行ふにはと決意し、待機中の桜花隊に決行を命ず。」

神雷部隊は陸攻18(桜花搭載16)1135鹿屋基地を進発せり。桜花隊員の白鉢巻、滑走中の1機に瞭然と眼に入る。成功して呉れと祈る。然るに55も出る筈の援護戦闘機は整備完からずして30機に過ぎず---」「壕内作戦室に於いて敵発見、桜花部隊の電波を耳をそばだてて待つこと久しきも、杳として声無し。今や燃料を心配し来し「敵を見ざれば南大東島へ行け」と令したるも、此れ亦何等応答する無し。其の内、援護戦闘機の一部帰着し悲痛なる報告を到せり。即ち、1420頃、敵艦隊との推定50、60マイルに於いて敵グラマン約50機の迎撃を受け、空戦、撃墜数機なりしも、我も離散し、陸攻は桜花を捨て僅々10数分にて全滅の悲運に会せりと。嗚呼。

写真(右):1945年3月21日(?)、九州の鹿屋基地、沖縄攻防戦に投入された神雷部隊は、一式陸上攻撃機に人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")を搭載する特攻部隊だった。初出撃は、1945年3月21日の南西諸島での戦いである。一式陸攻が編隊を組んで、ゼロ戦の援護の下に出撃した。しかし、敵空母艦上戦闘機に攻撃され、一式陸攻は「桜花」もろとも、あるいは桜花を投棄し遁走したが、全機撃墜された。
Title: Japanese bomber crews relax. Caption: Japanese standby bomber crews relax on an airfield in Japan, 1945. The "BETTY" bomber in the background is carrying an "OHKA" (BAKA) piloted bomb beneath its fuselage. Catalog #: NH 73100 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 73100 Japanese bomber crews relax. 引用。


人間爆弾「桜花」は、奇襲特殊兵器「マルロク」の人無名称で呼ばれ、1944年3月、すなわちゼロ戦に250キロ爆弾を搭載して体当たりする神風特攻隊がフィリピンで活動する半年前から、日本海軍が開発していた。「桜花」は機首に1.2トンの弾頭を搭載し、滑空、敵艦船に体当たり自爆する人間爆弾である。自らの動力で飛行することはできないため、一式陸上攻撃機の胴体に吊るされ、目標近くまで運搬、そこから搭乗員が「桜花」に乗り、切り離す。陸攻から投下された人間爆弾「桜花」は、目標まで搭乗員が操縦し、目標まで操縦、突入するのである。

人間爆弾「桜花」を装備した初めての部隊が、神雷部隊である。神雷部隊150名のうち予備学生(学徒兵)・予科練(少年兵)の出身者は143名、海軍兵学校出身者は7名。隊長 野中五郎少佐は、二・ニ六事件「叛乱部隊長」の弟である。

人間爆弾「桜花」を搭載した神雷部隊の野中五郎少佐は,特攻隊を陣頭指揮し戦死した佐官以上の高級将校の数少ない事例となった。海軍兵学校出身将校は,ほとんど特攻出撃しておらず、特攻隊の自爆要員は、未熟練な予科練の学徒兵と少年兵から集中して人選されている。「特攻は自然発生的な志願」であれば、なぜ(死後昇進ではなく)出撃時に佐官以上の高級将校,海軍兵学校出身のエリート士官は,ほとんど特攻しなかったのか。 

写真(右):1945年3月21日、九州の鹿屋基地、沖縄攻防戦に投入される神雷部隊。一式陸上攻撃機に人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")を搭載する特攻部隊だった。初出撃に登場する人間爆弾「桜花」の搭乗員と思われる。「非理法権天」の旗は、「非は道理に劣り、道理は法に劣り、法は権威(権)に劣り、権威は天に劣る」すなわち価値観の順位を定めたものだが、軍国主義の日本では、「非理法権天」は、絶対天皇制、皇国史観を体現するものとして、特別攻撃隊が旗として使った。 :
Title: "OHKA" (Baka) bombers. Caption: Scene at Kanoya Airfield, Japan, Just prior to the departure of Lieutenant Commander Goro Nonaka's "OHKA" (Baka) bomb carrying bomber groups on a mission to attack U.S. Navy carrier forces operating off Japan, on 21 March 1945. Virtually all of these bombers were shot down by defending U.S. Navy fighters, and no "OHKA" hits were scored. Note the unit's distinctive "HI RI HO KEN TEN" banner. Catalog #: NH 73101 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 73101 "OHKA" (Baka) bombers. 引用。


写真(右):1945年3月21日、沖縄方面に初出撃した「桜花」特攻隊・神雷部隊の一式陸攻が撃墜される場面を移したガンカメラの静止画像。一式陸攻は胴体下部に、人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")を搭載している。
Title: Gun camera photographs Caption: Of a Japanese Mitsubishi G4M "Betty" bomber carrying a "Baka" piloted bomb. Catalog #: 80-G-185585 Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-185585 Gun camera photographs引用。


 1945年3月21日、「桜花」特攻隊員は一式陸攻に乗機し、ゼロ戦の援護の下に出撃し、敵発見後に母機から「桜花」に乗り移ることになっていた。初出撃した一式陸攻搭載の「桜花」特攻隊・神雷部隊は、編隊を組んで、ゼロ戦の援護の下に出撃した。しかし、敵目標を発見する前に、レーダーと無線通信で誘導された敵空母任務部隊の艦上戦闘機に襲撃された。多数の艦上戦闘機に攻撃されたため、一式陸攻での目標到達は不可能と判断、身軽になって退避し、再起を図るしかなかった。しかし、アメリカ海軍艦上戦闘機の攻撃は執拗であり、「桜花」部隊は全滅の憂き目に遭った。

 しかし、1945年3月17日から21日まで連続5日間の「九州沖海戦」では、第五航空艦隊は、日本本土、九州東方に接近したアメリカ海軍空母任務部隊を攻撃し、大きな被害を受けつつも、それに見合った大損害を敵に与えたと考えた。宇垣纒中将『戦藻録』によれば、1945年3月17日から21日までの5日間の九州沖海戦の「総合戦果、
(イ)搭乗員が確認せるもの:空母5.戦艦2、大巡[大型巡洋艦]1、巡洋艦2、不詳1、轟撃沈。
(ロ)3月21日の全猊下偵察により残存:空母7(内1巡改[巡洋艦改造高速空母])、戦艦8、駆[逐艦]35、計61隻
以上に「吾空母に突入す」を報じたる昼間特攻撃多数ある点より判断し、空母8隻は少なくとも戦列を離脱し沈没の損害を受け、確認以前、尚相当の損傷あるを疑わず。
作戦装軌数
(イ)攻撃193
(ロ)索敵偵察53
損害 161(地上損害を含まず)
以上を総合し本戦闘は及第点を取り得たりと信ず。」と楽観視していた。
第五航空艦隊は、5日間の九州沖海戦で、航空機出撃244機のうち161機の損害、すなわち損傷率65.4%という壊滅的被害を受けたものの、空母8隻以上を撃沈あるい大破させたのは確実であると考えた。

1945年3月18日,アメリカ海軍第58空母任務部隊(TF 58)は,鹿児島,出水など九州南部を艦上機によって,攻撃したが、同時に日本機による攻撃も受けることになった。空母を攻撃した特攻機によれば,九州沖海戦で、沖縄方面への航空攻撃(特攻だけでなく通常の攻撃も含む)は、正規空母に対しても、次のような戦果を挙げた。
1945年3月18日1507,正規空母「ヨークタウン」USS Yorktown:CV-10)は、艦爆「彗星」投下の爆撃が艦橋下の至近弾となり、戦死3名、負傷18名の 損害を与えた。
3月18日、正規空母「エンタープライズ」Enterprise:CV-6)は、艦爆「彗星」投下の爆撃したが250キロ爆弾で艦橋が小破、エレベータ近くに小火災が発生した。3月20日1613、艦爆「彗星」の投下した爆弾が左舷50フィート(16m)至近弾となり、1626別の日本機からも右舷至近弾を受けた。この際、対空砲火の破片により、空母のF6F艦上戦闘機の燃料に引火し、火災が発生した。
3月18日、正規空母「イントレピット」Intrepid:CV-11) は、特攻機が至近距離に命中した。この被害は小さかったが、僚艦の巡洋艦からの誤射で負傷者が出た。

1945年3月19日明け方,正規空母「フランクリン」USS Franklin:CV13)は今まで出もっとも日本本土に「近づいた空母になったが,本州と神戸の船舶を攻撃した。突然,1機の敵機が雲に隠れて低空で接近し,2発の爆弾を投下した。爆弾は飛行甲板を突き破って爆発し,閃光が光った。艦内通信網は麻痺してしまった。空母「フランクリン」の多数の乗員は,特攻機命中による火災で殺されたり,負傷したりした。将校106名と下士官・兵 604名は,消火作業にかかったが死者 724名,負傷 265名という最大級の損害を被った。搭載していた戦闘機F4Uコルセアなど艦上機15機も完全に破壊された。
3月19日、空母「ワスプ」 Waspも, 空母「フランクリン」が被害を受けた後,数分で同じように爆弾が破裂した。正規空母「ワスプ」USS Wasp:CV-18) は、日本機の250キロ爆弾が命中、飛行甲板(木製)を貫通し装甲のある上甲板で破裂した。空母「ワスプ」の死者は101名,負傷者269名である。 しかし,回航修理する直前まで,作戦任務についていた。
3月19日、正規空母「エセックス」USS Wasp:CV-9)の右舷に特攻機が突入、甲板の艦上機が破壊された。

3月20日、再び正規空母「イントレピット」Intrepid:CV-11) が損傷した。

1945年3月24日、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、宇垣中将の第五艦隊を基幹とする第一機動基地航空部隊感状を授与し、敵機動部隊に対し3月18日より「4日間昼夜に亘り機略強靭なる作戦を以って殊死奮闘し敵正規空母5隻その他数隻を撃破せるは其の功績顕著なり」と讃えた。

実際、アメリカ艦隊では、3月18日、正規空母「ヨークタウン」USS Yorktown:CV-10)、正規空母「エンタープライズ」Enterprise:CV-6)、正規空母「イントレピット」Intrepid:CV-11) が損傷した。

3月19日、正規空母「フランクリン」USS Franklin:CV13)が大破した。正規空母「ワスプ」USS Wasp:CV-18) が特攻機で中破した。正規空母「エセックス」USS Wasp:CV-9)が特攻機で大破した。

3月20日、正規空母「イントレピット」Intrepid:CV-11) が損傷した。

◆1945年3月18日から20日までに、アメリカ正規空母の被害は、1隻の空母が複数回、複数日にうけた重複を含めて、3月18日に3隻、3月19日に3隻、3月20日に1隻と延べ7隻に達した。したがって、連合艦隊の「敵正規空母5隻その他数隻を撃破」という判定は概ね正確であり、1944年10月の台湾沖航空戦の虚報が、九州沖海戦で繰り返されたわけではない。しかし、アメリカ正規空母の上甲板(飛行格納庫下面)の装甲、格納庫側壁の開放性(爆風を逃がす)は、空母の防御力を高めていた。そして、乗員や僚艦による適切なダメージコントロールによる損傷回復によって、中破程度の被害なら、戦場にとどまった。日本軍は、アメリカ正規空母の強靭性がそこまで高いとは想像できなかったため、空母に爆弾・特攻機が命中、炎上・煙を上げるのを見て、撃沈確実と報告した。

戦争末期、日本軍の搭乗員は、実戦経験が乏しく、誤報、過大な戦果報告もあったが、それを非難するのは酷である。日本軍上層部・技術者が、アメリカ空母の強靭性に思い至らなかったのも、当時の状況ではやむをえない。アメリカ側の防御力に配慮した技術・訓練・戦略方針が、日本軍の殊死奮闘、特攻作戦を下したということであろう。決して、アメリカの物量だけがアメリカの勝因ではない。

1945年3月25日、レイモンド・スプルーアンスRaymond Spruance)提督指揮のアメリカ海軍第五艦隊US Fifth Fleet)は、戦闘用艦船300隻以上、補助艦艇・輸送船1000隻以上の大艦隊で、沖縄方面に来寇、艦上機による空襲、艦砲射撃、那覇その他の沖合の機雷掃海を行い、慶良間列島には上陸作戦を敢行した。

鈴木英男氏(第721海軍航空隊)証言
我々の飛行機が(鹿児島の鹿屋基地)着いて、飛行場の沿道で、芝生で、座りこんじゃって。「いや、ついに来たな」という思いでおった。ときに、「即時出撃だ」っていう。「準備をしろ」という。命令が下ったんですよ。そうしましたらね。「えっ。即時、出撃する。待機してろ」と言うのかよと。ということは「すぐ死じゃねえか」「死んじゃうんじゃねえか」というのは、やっぱり、すぐ、思い至るんです。それを考えたときにね。わたしはね、バケツ一杯の冷水を、背中からぶっかけられたような気持になりました。ということは、わたしは、自分の顔色見て見えないけれども、真っ青になったんじゃないかと思いますよ。だから、あとから考えたら、恥ずかしい思いなんですね。いきなりついた途端に、「まあ、これからどうなるか」「いつ、我々の、出番があるか」と思ってた途端に、出番どころじゃない、いきなり「出ろ」ということだからね。だから、わたしは、いっぺんに、真っ青になったと思いますよ。それはまあね。今まで、1分隊残って、後から来た連中の、教官になって。あれだ、これだと思って教えて。それでようやくもう出番が来ると、いう中でね。やっぱり気分的なゆるみが、長い間に、しみ込んでたんじゃないかと。

1945年4月11日1440、沖縄近海で米海軍駆逐艦 「マナート・アベル」Mannert L. Abele DD-733)は、日本機1機を撃墜したが,別の1機が4000ヤード離れた海面に激突した。5インチ砲と機銃の命中にもかかわらず、煙と炎をたなびかせて、三番目のカミカゼが甲板に命中し、機関室が爆発した。
At about 1440 three Zekes broke orbit and closed to attack. USS Mannert L. Abele drove off one and splashed another about 4,000 yards out. Despite numerous hits from 5-inch bursts and antiaircraft fire, and spewing smoke and flame, the third kamikaze crashed the starboard side and penetrated the after engineroom where it exploded.

アメリカ海軍サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」(USS Mannert L. Abele D-733)は、直ぐに艦首を下にして沈没しはじめ、機械室にも浸水した。竜骨が折れて、艦橋からの管制が不能になり、動力が利かなくなった。
Immediately, USS Mannert L. Abele began to lose headway. The downward force of the blast, which had wiped out the after engineering spaces, broke the destroyer's keel abaft No. 2 stack. The bridge lost control and all guns and directors lost power.

写真(右):アメリカ海軍サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」USS Mannert L. Abele DD-733 ;off Boston, 1 August 1944.1945年4月12日に特攻機と人間爆弾「桜花」の合計2機の命中を受けて,撃沈。大きく連装砲塔も並んでいるので,実戦経験のない特攻機搭乗員は,大型巡洋艦あるいは戦艦と見間違えたかもしれない。

特攻機と「桜花」の2発の命中を受けて撃沈したアメリカ海軍サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」(USS Mannert L. Abele D-733)のデータ
排水量3218トン,全長 376' 6"(oa) x 40' 10" x 14' 2" (Max)
武装 6門 x 5インチ/38AA (3x2), 12門 x 40ミリ対空機関砲, 11丁 x 20ミリ対空機銃, 10門 x 21インチ魚雷発射管(2x5).
機関 60,000 SHP; General Electric Geared Turbines, 2 screws
最高速力 36.5 Knots, 航続距離 3300馬力 20 Knots, 乗員Crew 336名.
竣工 1944/4/13,撃沈1945/4/12. 乗員73名死亡。

1分ほどしてから、4月11日1446、サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」(USS Mannert L. Abele D-733)に人間爆弾「桜花」が舷側に命中した。2600ポンドの弾頭が爆発し、艦内の通信、電灯がすべて不通になった。A minute later, at about 1446, USS Mannert L. Abele took a second and fatal hit from a baka bomb a piloted, rocket powered, glider bomb that struck the starboard waterline abreast the forward fireroom. Its 2.600 pound warhead exploded, buckling the ship, and "cutting out all power lights, and communications."

サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」(USS Mannert L. Abele D-733)は、直ぐに真っ二つに切断され、急速に沈みはじめた。生存者は敵機の爆撃した海域に漂うことになった。中型揚陸艦189号、190号がパーカー指揮官の下で、攻撃を受けながら、生存者救出という支援艦として黄金と同じ重量に匹敵する仕事をした。Almost immediately, USS Mannert L. Abele broke in two. her midship section obliterated. Her bow and stern sections sunk rapidly. As survivors clustered in the churning waters enemy planes bombed and strafed them. However LSMR-189 and LSMR-I90, praised by Comdr. Parker as "worth their weight in gold as support vessels," splashed two of the remaining attackers, repulsed further attacks, and rescued the survivors.

サムナー級駆逐艦「マナート・アベル」(USS Mannert L. Abele D-733)は、人間爆弾「桜花」 the baka bombによって撃沈された唯一の艦艇である。沖縄方面で,レーダー警戒の任に就いている3隻が特攻機の命中を受けた。

日本軍は沖縄作戦に力を注いだが,小型艦艇によるレーダー警戒網の整備が進展していたおかげで,沖縄方面の米艦艇の防衛は成功したといってもよい。Despite the enemy's desperate efforts, the radar pickets successfully and proudly completed their mission, thus insuring the success of the campaign.

8.1945年、本土決戦に備えて、特攻兵器「桜花」を陸上基地のカタパルトから発進させる計画が実施に移された。ジェットエンジンを装備する新型「桜花」の計画があり、それを配備する秘密基地が高台に建設された。ただし、新型「桜花」は、実機が完成する前に終戦となった。

写真(左):滋賀県琵琶湖湖畔の比叡山の山頂付近に建設された桜花のカタパルト発射台

第721海軍航空隊(721空)「神雷部隊」一式陸上攻撃機など双発爆撃機に特攻「桜花」を搭載して攻撃する方法は、目標とする敵空母などに近づくことができず、失敗に終わった。しかし、海軍は、桜花を陸上基地から発信させ、崩土周辺に来航する敵艦あるいは敵船舶に体当たり攻撃させようとした。双発爆撃機に搭載して発信することはあきらめざるを得なかったため、陸上基地から特攻「桜花」を発進させようと、標高の高い山や丘陵地に桜花発進基地を建設した。
特攻「桜花」は火薬式の補助ロケットを搭載するであるから、この従来型では、飛行機に搭載して上空で切り離さないと発進できないうえに航続距離が短すぎる。そこで、軍は「桜花」の胴体後方に、海軍航空技術廠(空技廠)が開発した燃焼噴射推進器(ジェットエンジン)ネ20を搭載する改造型を考えた。燃焼噴射推進器(ジェットエンジン)ネ20は、ジェット戦闘機、のちに特殊攻撃(特攻機)「橘花」と同じもので、試作品しかない状況である。この燃焼噴射推進器(ジェットエンジン)ネ20を搭載したのが、有翼人間爆弾「桜花43型」と呼ばれる。もちろん、ジェットエンジンもそろっていない状況で実機が完成したことはない。飛行事件をしたというが、エンジンなしの発射テストであろう。

写真(左):滋賀県琵琶湖湖畔の比叡山の山頂付近に建設された桜花の回転台とカタパルト発射台に運搬するレール。

 桜花43型」は燃焼噴射推進器(ジェットエンジン)ネ20を装備予定だったが、上昇することは困難だと予想された
⊂絛から容易に識別できる飛行場は連合軍上陸前の空襲で壊滅されると予測された
上記の理由で、「桜花43型」の発進は、山上あるいは丘陵の上などに、カタパルトを装備した秘匿基地を建設することになった。現在でも、滋賀県の比叡山山頂近く、千葉県旧安房郡三芳村(現在の南房総市)の丘陵に、カタパルト台を備えた秘匿基地跡が残っている。

◆産経ニュース2013.7.24 「特攻兵器「桜花」 本土決戦に備えた秘密基地が比叡山にあった 写真・スケッチ見つかる」に次の記事がある。
先の大戦末期、本土決戦を想定して比叡山(848メートル)の山頂付近に、極秘裏に建設された特攻兵器「桜花43型」発射基地の様子を克明に伝える写真やスケッチが、大津市内の古書店で見つかった。旧制京都三中の生徒が戦後に撮影したとみられる。戦後間もなく米軍に壊され、公的な資料も存在しない「幻の基地」。

写真(左):比叡山登山鉄道のケーブルカー;比叡山頂に特攻「桜花」カタパルト発進基地を建設するために、山頂に建設物資・軍需物資を運ぶ。積載に便利なように、列車は開放式荷台となっている。本来は、比叡山巡礼・観光に使用されていたが、急遽、桜花秘密基地建設に利用されることになった。

写真は、京都三中(現京都府立山城高校)の生徒が比叡山に登って撮影したとみられ、アルバムに10枚収められていた。写真のそばに「昭和21年9月1日」と記され、この日に撮影したとみられる。大津市内の古書店で県内在住の郷土史家が見つけた。

 比叡山(848m)の幻の桜花発射基地は、戦況悪化で本土決戦が叫ばれる中、大阪湾に襲来する敵艦を特攻専用機の桜花で迎撃するため、20年5月に海軍が建設を始めたとされる。桜花は自力で発進できず、カタパルト(発射装置)を使って機体を空中に飛ばした後、ジェットエンジンやロケットエンジンで飛行する仕組み。基地には発射用レールや、機体を方向転換させる回転台などを設置したとみられ、見つかった写真には、琵琶湖に向かって敷設されたレールや桜花を載せる台車に取り付ける噴射装置などが写っていた。

 さらに1枚の写真の裏面には、基地全体の配置を克明に記したスケッチも描かれていた。レールや回転台の位置、特攻隊員が宿泊した施設やカタパルトの部材を隠した場所まで詳細に書き込まれていた。

写真(左):滋賀県琵琶湖湖畔の比叡山山頂付近に建設された特攻兵器「桜花43型」の秘匿発進基地の見取り図 

基地は8月15日完成予定だったが、日本がこの日終戦を迎えたため、特攻兵器「桜花43型」が配備されることはなかった。また施設は戦後間もなく米軍に破壊され、研究者によると、基地の存在を示す資料としてカタパルトの遠景や回転台の一部を写した写真2枚と、特攻隊員の記憶を頼りにしたメモなどが残るだけだった。また同様の発射基地は、比叡山のほか生駒山や六甲山にも計画されたが、断念された。

 大津市歴史博物館は、終戦記念日に合わせ、8月中にも見つかった写真などを館内で公開する予定で、担当者は「『特攻』がどのようなものだったか、戦後世代の人たちに、戦争の実態を考えてもらういい機会になる」と話している。(引用終わり)

◆2013.7.24 「桜花」カタパルト発射台 を装備する比叡山(848m)山頂付近の「桜花43型」を射出する秘密基地の写真が見つかった。旧制中学の京都三中の生徒が戦後に撮影したとみられる。しかし、カタパルト発射可能な桜花43型は胴体後部にジェットエンジン装備で試作中ではあったが、エンジンすら実用化できていない。「幻の基地」というより幻の兵器の実用化を前提に軍が建設を強行したものである。 「桜花カタパルト発射基地」は、アメリカ側の記事にも出ているが、当時の写真は見つかっていなかった。

◆2013.7.24 を装備する比叡山(848m)山頂付近の秘密基地の写真が見つかった。旧制中学の京都三中の生徒が戦後に撮影したとみられる。しかし、カタパルト発射可能な桜花43型は胴体後部にジェットエンジン装備で試作中ではあったが、エンジンすら実用化できていない。「幻の基地」というより幻の兵器の実用化を前提に軍が建設を強行したものである。 桜花カタパルト発射基地は、アメリカ側の記事にも出ているが、当時の写真は見つかっていなかった。

浅野昭典氏(第721海軍航空隊)証言
8月始めには、わたし、宿坊で寝泊りして、(下の)その飛行場まで(零戦の飛行)訓練に行ったでしょ。それで、日にちはよくわかりませんが、5日から、10日までの間だったんじゃないかな。カタパルトが完成してるんです。それはまぁ、今で言う、建設省かなあ。海軍じゃないんだ。建設省なんです。たぶんね。そこでもって出来たぞ」で、15日に引渡しだけど、「一遍、発射実験をやるから、皆さんね、パイロットの人は、ご覧になりませんか」っていうことで、見せてくれたわけ。それで、台車の発射実験をやって、火薬使ってね。で、それ1回だけじゃないのかな。実験っていうのは。

Q.それは、どんな風な実験だったんですか。
いや、ちゃんとほら、カタパルトができているでしょ。こっち側に飛行機を継ぐ台車っていうのがあんだ。それで、飛行機は来てませんけど、台車だけ。そこにもって、科学のロケットついて、それを噴かしていくわけだ。すると、カタパルトの前にワイヤーが張ってあって、その台車にワイヤーがぶつかる。ぶつかると台車がパタンと倒れる。それで、飛行機が浮くわけですね。それで、後は(桜花の実機があったとすれば)自分の力でもって、エンジンついてますから、それで飛ぶわけ。 

Q.その発射実験、ご覧になって、どうですか?今までの訓練と、また違ってましたか。
違うっていうか、ゼロから、ここへ来て、60メーターぐらいしかないんですから、スピードがね、それだけ出るのかなと思ったけど、やっぱり、火薬でもって噴かすから、スピードが出て、これでいった時から、(まだ見てもいないが)飛行機の方にもエンジンがついてるわけだから、これである程度飛ぶのかなあと。まぁ、そんなことしかないなあ。(引用終わり)


写真(上左):敗戦後、進駐してきたアメリカ軍に横須賀で鹵獲された人間爆弾「桜花」22型。胴体後方に「ツ11」モータージェットを搭載するために、胴体後方の左右に、平たい形状の空気取り入れ口が開いている。:空気取り入れ口がこのように胴体に長く切欠きをつくる形状では、気流層を乱してしまい、速度の低下、操縦性の低下を招くと思われる。もしも境界層の上に空気取り入れ口を突出させれば、機体から離れた気流から、高速・高圧力で空気を取り入れることができ、効果的だった。鈍足な一式陸攻を母機に出撃しても、「桜花」は、目標手前で撃墜されてしまう。そこで、一式陸攻よりも時速で100キロ近く飛ぶことのできる陸上爆撃機「銀河」に「桜花」を搭載することになった。
写真(上右)戦後,横須賀で鹵獲された海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」22型に搭載された「ツ11」。「桜花」22型は、航続距離を延ばす目的で、「桜花」11型の火薬ロケット4号1式噴進機に代えて、推進力の大きい「ツ11」モータージェットを搭載した。モータージェットは、普通の航空機用エンジンによりコンプレッサーを駆動、燃焼室内に燃料噴射して推力を得る。エンジン変換によって、増加する重量は、爆弾搭載量を従来の1200キロから600キロに半減して相殺した。また、「銀河」は一式陸攻よりも小型だったため、「桜花」の形状も若干小型化さている。これが、人間爆弾「桜花」22型である。


写真(右):1945年8月以降、日本降伏後、進駐してきたアメリカ占領軍が検分した格納庫の人間爆弾「桜花」22型( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")
Title: Japanese "Ohka" suicide bomb Caption: Photographed in Japan after the end of World War II. This version, called the "Baka 22" by U.S. intelligence was an improved version of the earlier, smaller, "Baka 11". Catalog #: 80-G-193444 Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-193444 Japanese "Ohka" suicide bomb 引用。


 鈍足な一式陸攻を母機にした出撃では、目標到達までに撃墜される可能性が高いことが明らかになった。そこで、一式陸攻よりも時速で100キロ近く早い陸上爆撃機「銀河」を桜花の母機とすることが決まった。また、「桜花」の航続距離を延長するために、「桜花」11型が搭載した火薬ロケット4号1式噴進機を「ツ11」(モータージェット)に変更した。これは、普通の航空機用エンジンでコンプレッサーを駆動し、燃焼室内に燃料噴射するイタリアのカンピーニ型ロケットである。これによって増加する重量を相殺するために、爆弾の搭載量を従来の1200キロから600キロに半減した。また「銀河」は一式陸攻よりも小型だったため、「桜花」の形状も若干小型化さている。これが、人間爆弾「桜花」22型である。

しかし、人間爆弾「桜花」22型に搭載予定の「ツ11」は試作段階に過ぎず、実際の飛行試験も失敗、テストパイロット長野一敏少尉は死亡している。結局、カタパルトから発射することを想定した「桜花」43型と同様、人間爆弾「桜花」22型の実機が量産されることはなかった。

写真(右):2009年、アメリカ、スミソニアン国立航空宇宙博物館スティーブン F. ユードバー=ハジー・センター(National Museum of the United States Air Force)に展示されている人間爆弾「桜花」( Yokosuka MXY 7 Ohk )22型:胴体後方に、それまでの火薬燃焼式のロケットに代えて、モータージェット「ツ11」を搭載し、航続距離をそれまでの30キロから120キロに延長しようとした。しかし、「ツ11」エンジンの生産が間に合わず、実際にエンジンを搭載した「桜花」22型は部隊配備されていない。スミソニアン国立航空宇宙博物館スティーブン F. ユードバー=ハジーセンター(Steven F. Udvar-Hazy Center)は、航空機リース会社の経営者で富豪のハンガリー系アメリカ人スティーブン F. ユードバー=ハジーが、ワシントンDC ダレス空港の近くに設置した巨大なホールで、初飛行機「ライトフライヤー」からアポロ11号月司令船、スペースシャトル「ディスカバリー」、エールフランス「コンコルド」、高高度高速偵察機SR-71「ブラックバード」、広島に原爆を投下した復元ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」、ジェット戦闘機Me262まで展示している。
Description English: Yokosuka MXY 7 Ohka flying bomb, picture taken at Steven F. Udvar-Hazy Center The NASM Ohka is a rare Model 22, powered by an early type of jet engine, which unlike the rocket engine of the Model 11, gave it much greater range- an important feature since Model 11's needed to be launched within 20 miles of target by slow moving mother ships which were easy prey for fighters. According to the Smithsonian this Ohka was taken from Japan to Alameda, Ca in late 1945, with the first photo taken in December 1945. Then to the Smithsonian in 1948, where it was on display at Smithsonian Arts and Industries Building until it was moved in the early 1970s for storage at Paul E. Garber Facility in Suitland, Maryland facility. It was restored there in 1993. It is unlikely this was captured anywhere else besides the Yokosuka research hangers, since Aichi was unable to perform any assembly on Model 22s, Yokosuka built all Model 22s, and all the research for the troublesome Tsu-11 engine integration were conducted at Yokosuka. Date 22 August 2009 Source Own work Author Jarek Tuszyński
写真はWikimedia Commons,Category: Yokosuka MXY 7 Ohka in the Steven F. Udvar-Hazy Center Yokosuka MXY7-K1 Ohka (27789607790).jpg引用。


海軍航空技術廠では「桜花」11型に続いて、航続距離を延長した「桜花」22型を開発した。これは、「桜花」胴体後方に「ツ11」モータージェットを搭載するもので、動力化した「桜花」である。海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」22型に搭載された「ツ11」。「桜花」22型は、航続距離を延ばす目的で、「桜花」11型の火薬ロケット4号1式噴進機に代えて、推進力の大きい「ツ11」モータージェットを搭載した。モータージェットは、普通の航空機用エンジンによりコンプレッサーを駆動、燃焼室内に燃料噴射して推力を得る。エンジン変換によって、増加する重量は、爆弾搭載量を従来の1200キロから600キロに半減して相殺した。

 「桜花」22型の「ツ11」ジェットエンジンに必要な空気は、胴体後方の左右に、平たい形状の空気取り入れ口を設けて、そこから吸入することになっていた。しかし、空気取り入れ口が、胴体に沿って長く切欠きをつくる形状であるため、機体側面を流れる気流の境界層を乱してしまい、速度の低下、操縦性の低下を招くような構造になっている。もしも境界層の上に空気取り入れ口を突出させれば、機体から離れ独立した気流から、高速・高圧力で空気を取り入れることができ、効果的だったであろう。

「桜花」22型のもう一つの改良は、「桜花」11型が、鈍足な一式陸攻を母機に搭載されており、出撃しても「桜花」が目標手前で撃墜されてしまう危険を減じることである。つまり、母機を一式陸攻よりも時速で100キロ近く飛ぶことのできる陸上爆撃機「銀河」に変更したことである。「銀河」は一式陸攻よりも小型な機体に、より強力な小型エンジン「誉」を搭載し、一式陸攻よりも100/h近く有職だった。この「銀河」に「桜花」を搭載するために、「桜花」22型の形状は、11型よりも若干小型化さている。
特攻機「桜花」43型は、ジェットエンジンを搭載し、陸上に設置されたカタパルトから射出される。1945年6月27日 桜花43(エンジンなし)型の射出試験を武山で行い、7月1日、実機が揃わない前に(神雷部隊同様)滋賀県比叡山(標高800m)に第725海軍航空隊を開隊した。1945年8月7日、桜花43型ジェットエンジンのテストを実施、8月13日、桜花43型のカタパルト射出実験に成功と言われる。

 しかし、「ツ11」は特殊攻撃機「橘花」の飛行実験で使用したものの、信頼性はなく、それを着陸が困難な「桜花」の有人飛行で試したとは思えない。無人飛行であれば、機体も貴重なジェットエンジンも破壊してしまう。パラシュートを着けて回収したとも思われない。つまり、桜花43型がジェットエンジンを装備して完成したかどうかも疑わしい。ジェットエンジン装備の桜花43型は、カタパルト射出されたことも、飛行試験をしたこともないと考えるのが妥当である。

9.特攻兵器「桜花」(マルダイ)は、人間爆弾といわれているが、実際の突入速度は、高高度からの水平爆撃のような音速に近いものではなく、急降下爆撃で投下されtた爆弾と同じ程度の落下速度が出ればよいほうだった。「桜花」弾頭に1.2トン徹甲爆弾を搭載したというが、海軍が開戦当初から実用化していた800キロ爆弾(徹甲爆弾)の水平爆撃よりも、目標に対する破壊効果ははるかに小さかったようだ。アメリカ海軍の駆逐艦が「桜花」1発の命中では撃沈できなかったのは、この「桜花」の突入速度の低さにあったと考えられる。「桜花」の高速化は、操縦を困難にし、命中率を引き下げるために、実際は不可能だったのであろう。

写真(右):イギリス領インド、ベンガル州カルカッタ(2001年からコルカタ)、イギリス軍の戦利品、日本海軍自殺機「桜花」11型( YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 ):日本から、インド経由で、イギリスに海上輸送する途中。
Description: CALCUTTA, INDIA, 1946. JAPANESE NAVY SUICIDE AIRCRAFT YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 BEING HOISTED ON THE DOCKS AT NO. 54 EMBARKATION UNIT RAF. (DONOR M. WOOD)
Unit Royal Air Force Place Asia: India Accession Number P01018.001
写真は, Australian War Memorial CALCUTTA, INDIA, 1946. JAPANESE NAVY SUICIDE AIRCRAFT YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 BEING HOISTED ON THE DOCKS AT NO. 54 EMBARKATION UNIT RAF. (DONOR M. WOOD)引用。


写真(右):1946年、イギリス領インド、ベンガル州カルカッタ(2001年からコルカタ)、イギリス軍の戦利品、日本海軍自殺機「桜花」11型( YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 ):日本から、インド経由で、イギリスに海上輸送する途中。インド独立は1947年。
CALCUTTA, INDIA, 1946. JAPANESE NAVY SUICIDE AIRCRAFT YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 BEING HOISTED ON THE DOCKS AT NO. 54 EMBARKATION UNIT RAF. (DONOR M. WOOD)
Unit Royal Air Force Place Asia: India Accession Number P01018.002
写真は, Australian War Memorial CALCUTTA, INDIA, 1946. JAPANESE NAVY SUICIDE AIRCRAFT YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 BEING HOISTED ON THE DOCKS AT NO. 54 EMBARKATION UNIT RAF. (DONOR M. WOOD)引用。


 人間爆弾「桜花」は、空虚重量440kg、全備重量2270kgで、機体は軽い簡易構造であが、胴体先端の弾頭には1200kg「徹甲爆弾」を搭載したとも言われてい。しかし、この「徹甲爆弾」という指摘は、巨大な砲弾形状の爆薬からのイメージが先行したようでもあり、実際に「桜花」に徹甲弾を積んでも効果は低かったはずだ。

 日本海軍は、対艦船攻撃(輸送船舶でなく)を主目標としたため、「通常爆弾」とは弾体の頑丈な対艦爆弾である。日本陸軍は、太平洋戦争が勃発する以前、対艦船攻撃用の爆弾はなく、兵舎や飛行場のような軍事施設、輸送機関など陸上の目標をもっぱら爆撃した。日本海軍も、これらの目標を爆撃する「陸用爆弾」をもっていた。しかし、これらの陸上目標を爆撃する爆弾の多くは、弾体は安価で簡易的な構造で、爆弾が強固なコンクリートや装甲板に激突すると壊れてしまい、爆風や弾の破片による人員殺傷や火災発生の効果はあっても、貫通力は小さかった。

写真(右):1946年、イギリス領インド、ベンガル州カルカッタ(2001年からコルカタ)、イギリス軍の戦利品、日本海軍自殺機「桜花」11型( YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 ):日本から、インド経由で、イギリスに海上輸送する途中。胴体先頭の弾頭部分は、ぶつけて損傷したのか、下面が凹んでいる。
Description: CALCUTTA, INDIA, 1946. JAPANESE NAVY SUICIDE AIRCRAFT YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 BEING HOISTED ON THE DOCKS AT NO. 54 EMBARKATION UNIT RAF. (DONOR M. WOOD)
Unit Royal Air Force Place Asia: India Accession Number P01018.003
写真は, Australian War Memorial CALCUTTA, INDIA, 1946. JAPANESE NAVY SUICIDE AIRCRAFT YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 BEING HOISTED ON THE DOCKS AT NO. 54 EMBARKATION UNIT RAF. (DONOR M. WOOD)引用。


「陸奥」級戦艦は、40センチ砲を搭載し、この徹甲弾を流用・改造した九九式八十番五号爆弾(通常爆弾)は、事実上、800キロ徹甲爆弾として1941年12月のハワイ真珠湾の時に使用された。九九式八十番五号爆弾はすなわち800キロ爆弾(海軍では通常爆弾だが、陸軍的には徹甲爆弾)は、水平爆撃によって投下速度を時速1000キロ近くまで高めて、大きな衝撃力を持たせ、戦艦の装甲を貫通、内部で爆発させることを狙っていた。
 他方、人間爆弾「桜花」の突入速度は、計算上最終的には500ノット(950km/h)に達すると、兵器の威力を誇示するような数値が挙げられているが、推進力が弱く、垂直落下でもない点を考慮し、さらに目標に命中させる操作性まで確保しようとすれば、時速800km/hでも出すのは困難であろう。

 したがって、桜花の突入速度が、たかだか時速700km/hと急降下爆撃の時の爆弾の投下速度と同程度となり、弾体強度を強固に高めた徹甲爆弾であっても、落下速度が遅いために、弾頭質量は大きくても衝撃力は小さく、貫通能力も低い。実戦で桜花が1機命中した程度では、駆逐艦は撃沈できなかったし、敵艦轟沈の実績も挙げられなかったのは、桜花の突入速度が遅いためであろう。炸薬量の少ない徹甲弾よりも爆薬を多くして火災効果を狙ったほうが、敵艦船の被害は大きいと思われる。

写真(右):1946年、インド、カルカッタ、イギリス軍の戦利品、日本海軍自殺機「桜花」11型( YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 ):日本から、インド経由で、イギリスの海上輸送する途中。
Description: CALCUTTA, INDIA, 1946. JAPANESE NAVY SUICIDE AIRCRAFT YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 BEING HOISTED ON THE DOCKS AT NO. 54 EMBARKATION UNIT RAF. (DONOR M. WOOD)
Unit Royal Air Force Place Asia: India Accession Number P01018.004
写真は, Australian War Memorial CALCUTTA, INDIA, 1946. JAPANESE NAVY SUICIDE AIRCRAFT YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 BEING HOISTED ON THE DOCKS AT NO. 54 EMBARKATION UNIT RAF. (DONOR M. WOOD)引用。


10.特攻兵器「桜花」(マルダイ)は秘密はずだったが、管理不十分だったためか、戦時中から多数がアメリカ軍など連合軍に鹵獲されている。しかし、現在でも「桜花」実機が世界各地に残っている。

海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」の胴体後方には速力増加の火薬燃料式ロケットが装備され,敵艦めがけて突入することになっていた。しかし,出撃した数よりも,米軍に鹵獲された数のほうが多いようだ(敗戦後ではなく戦時中に)。沖縄戦では,日本軍守備隊は、米軍上陸直前に急遽,読谷飛行場,嘉手納飛行場(当時は北・中飛行場と呼称)を破壊放棄した。しかし,準備不足のために,飛行場の破壊は不十分で,格納庫も破壊していない。そして、多数(10-30基)の海軍航空技術廠の開発した人間爆弾 MXY-7「桜花」がほぼ無傷で米軍に鹵獲されている。奇襲秘密兵器といっても,その程度の㊙扱いしか受けていなかった。これでは,「桜花」搭乗員も,運搬する神雷部隊の陸上攻撃機搭乗員も浮かばれない。

写真(右):人間爆弾「桜花」;後方には速力増加の火薬燃料式ロケットが装備されている。

桜花は約850機製造され,その大半は11型である。

現在,海軍航空技術廠の開発した MXY-7「桜花」を保存・展示しているのは,Preserved Axis Aircraft によれば次の場所である。


写真(右):1945年11月21日、アメリカ海軍ボーグ級護衛空母「コア」 (USS Core, CVE-13) の飛行甲板に乗せられアメリカに送られる人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA"):後方には、陸軍重爆撃機三菱キ67「飛竜」が写っている。ボーグ級護衛空母「コア」 (USS Core, CVE-13) は、1942年12月10日に就役して以来、主に、大西洋海域での対潜水艦戦、船団護衛に従事していた。そして、ドイツが降伏すした直後、1945年5月11日、ニューヨークに帰還し、修理と補給を受ける。その後、対日戦に参加するために、1945年6月25日、太平洋岸のサンディエゴ軍港に到着、航空機と搭乗員をハワイ真珠湾、フィリピンサマール島に運搬する任務に就いたが、日本は降伏し、8月30日に帰国した。その後、アメリカ軍の太平洋方面派遣兵士の帰国のために「魔法の絨毯」作戦に従事、帰還兵をアメリカに輸送した。1945年10月20日から1946年1月18日までに、護衛空母「コア」は、横須賀からの輸送任務に就き、その際に、アメリカ軍が日本内外で鹵獲した兵器、航空機のアメリカ本国運搬にも従事した。
Title: Japanese "Baka" flying bomb Caption: On the deck of USS CORE (CVE-13) as part of a shipment of Japanese warplanes being loaded in Japan, 21 November 1945. Note that this is a two seat training glider version of the "Baka". Plane in background is a Mitsubishi Ki-67 "Peggy" army bomber. Catalog #: 80-G-269248
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-269249 Japanese "Baka" flying bomb 引用。


写真(右):1945年11月21日、アメリカ海軍のボーグ級護衛空母「コア」 (USS Core, CVE-13) の飛行甲板に乗せられアメリカに送られる操縦練習用複座型「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA):ボーグ級護衛空母は、基準排水量 7,800トン 満載排水量 1万5,400トン、全長 151.1m、飛行甲板 137m×26.8m、全幅 21.2m、吃水 7.2m、重油専焼ボイラー・タービン(8500馬力)1軸、最高速力 18.5ノット 、搭載機 24機。 護衛空母「コア」は、起工 1942年1月、進水 1942年5月、就役 1942年12月、退役 1946年10月。
Title: Japanese "Baka" flying bomb Caption: On the deck of USS CORE (CVE-13) as part of a shipment of Japanese warplanes being loaded in Japan, 21 November 1945. Catalog #: 80-G-269249 Copyright Owner: National Archives Original Date: Wed, Nov 21, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-269248 Japanese "Baka" flying bomb 引用。

2016年3月19日(土)23時から0時、ETV特集「名前を失くした父〜人間爆弾“桜花”発案者の素顔」が放送された。再放送は、3月26日(土)午前0時から1時まで。

 「名前を失くした父〜人間爆弾“桜花”発案者の素顔」によれば、大田正一は、戦後偽名「横山道雄」として暮らし、出身地も生年月日も偽っていた。戸籍もなかった。「桜花」発案者大田正一の息子大屋隆司氏(63)が父の本当の名前を知ったのは中学生の時、子煩悩で優しい父と、非情な兵器を発案した父との乖離から、それ以上詳しい話を聞くことはできなかったという。妻も大田正一が戸籍がなく、過去を引き摺っていたことを良く知らないまだった。大田正一は、日本海を望む三段壁で自殺を図ったが果たせず、保護された。その時、家族は大田正一の耐えがたい過去を知った。彼の墓には「父」と記された。

戦争末期、茨城県鹿嶋の1400mの大滑走路をもつ海軍神之池航空隊「神雷部隊」の大田正一中尉は、軍やマスメディアで犠牲的精神を厭わない「桜花」発案者として讃えられた。終戦直後、ゼロ戦で飛び立ち海上に自爆を図るも救出され生き延びた。一下級将校を「桜花」発案者として讃えたのは、日本海軍が部下に死を強要することになる特攻作戦を大々的に推進したいためだった。海軍の軍令部を頂点とする上級将校は、特攻作戦の責任をとろうとせず、結果として、責任を一介の下級将校に押し付けた形になった。大田正一は、その責任を一人で背負うことになった。

大田正一氏は、戦後、大阪市に住んだ。人間爆弾で犠牲になった若者を忘れることなく、苦悩しながら、妻が語るには、謝罪したいと思い、遺族を訪問したこともあったようだ。大田正一少尉の息子は母親姓の大屋を名乗っていたが、父の思いを知ろうと、神雷部隊の元隊員らを訪問した。元隊員植木氏は、神之池隊で下士官と士官が激しく対立し、下士官が士官室に殴り込みに行き抜刀したとき、大田正一が立ちはだかって「自分を斬れ。俺を始末してから行け」と叫んだという。

特攻隊の若者は、大田正一氏が人間爆弾の責任を負う人物だとは考えていなかった。同じ特攻隊にいながら、生き延びてしまったことに苦渋の思いをした元端員たちは、戦後、危険人物、チンピラとして、就職もままならなかったという。元隊員は、大田正一の苦渋も理解していたのだった。

写真(右):2010年8月、イギリス、バーミンガ西方、コスフォード、イギリス空軍博物館の日本海軍横須賀空技廠・飛行爆弾「桜花」(Yokosuka MXY 7 Ohka kamikaze flying bomb):1946年、イギリス軍が戦利品として、イギリス領インド、ベンガル州カルカッタ(2001年からコルカタ)から本国に運搬した「桜花」11型( YOKOSUKA MXY7 OHKA (CHERRY BLOSSOM) MODEL 11 )と思われる。
Description Photo of a Japanese Yokosuka MXY 7 Ohka kamikaze flying bomb, taken at the RAF Museum Cosford, Shropshire, England. Date 16 August 2010 Source Own work Author Rept0n1x
写真は, Aircraft at RAF Museum Cosford File:RAF Museum Cosford - DSC08383.JPG)引用。


神雷部隊と作家たち
 山岡荘八川端康成の両氏は1945年4月末から終戦まで、ずっと桜花隊と一緒に生活し、神雷部隊とはもっとも馴染みの深い作家だった。
 山岡はセッセと隊員の間を回って話しかけ、誰がどこで何をしているか、戦友仲間よりもよく知っていた。終戦後、鹿児島県鹿屋における体験をもとに新聞に「最後の従軍」を寄せたり、かなりまとまった一冊を書いた。「特攻隊員の心を心として、恒久平和を願って徳川家康を書いた」とも後に語っている。
 川端は山岡のように隊員とは付き合うことはしなかったが、顔を伏せ、あの深淵のような金壷眼の奥から、いつもじっと隊員の挙措を見つめていた。終戦後、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と鳥居達也候補生(要務士)に約束した。だが川端は特攻隊について一字も書いていない。(→異説あり)
 三島由紀夫は自殺(1970年11月25日)の1カ月前、江田島(広島)の海上自衛隊第一術科学校教育参考館で一通の遺書を読み、声をあげて泣いたという。その名文の主は第8桜花攻撃隊陸攻隊指揮官として出撃(戦死)した古谷真二中尉である。(引用終わり)

写真:1972年自衛隊市谷駐屯地に乱入した三島由紀夫;自衛隊に決起を促したが,反応を得られず,部下とともに割腹自殺。特攻隊員は神である天皇のために。祖国を守るために死んだとし,それを至高の存在と捕らえ,自らの目標としたようだ。しかし、三島が「桜花」など特攻隊員の死を決した覚悟をするまでの苦悩、無責任な軍上層部への苛立ちなど苦悩や悩みに思い至れば、彼が命を捨て国を守る行動に出たからと言って、特攻隊員たちを「神」のごとく崇めることはなかったであろう。特攻隊員たちの気持ちになれば、自衛隊司令部に乱入し、人質を取って煽動し、決起を求めることはなかったであろう。彼の抱いた思想は、二・二六事件の青年将校と酷似しており、その意味で、一人死んだ---となれば世界の三島は文士としてより広い共感を得たであろう。

Web上に三島由紀夫と特攻隊に関して,次の記事がある。
「私の修業時代」で三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続けた。
「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」(「愛の渇き」)

昭和天皇は、二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員を裏切ってしまった。特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまうではないか、と三島は言う。

三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。

彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。そこで彼はこう解説するのである。
「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」

彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。
「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」

自衛隊の決起を促すために自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し,撒いたビラの末尾には,「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と書かれていた。(引用終わり)

三島由紀夫は、作家として有名であるが、同時に愛国心、益荒男ぶり、力強い男を好んだ。日本の栄光ある歴史を自分が背負っていると考えていたようだ。自分は小さきものだが、何かしなければならない。自分のためにではなく、日本のためにである。

1972年11月25日、作家三島由紀夫は、自衛隊市谷駐屯地に民間防衛隊「楯の会」4名を率いて乱入した。日本人を堕落させ、政治的謀略でつくられた日本国憲法の下で、自衛隊は違憲である、1968年10.21国際反戦デー闘争の衝撃は、日本を脅かすものであると主張した。そして、自衛隊は、武士であるから、日本再起、憲法改正のために決起すべきだと促し、天皇中心の国家を作れと訴えた。

 しかし、集まった自衛官は、市ケ谷駐屯地東部方面総監室を不法に占拠し、大上段から勝手に演説するた文士三島由紀夫を下ろそうとした。三島由紀夫らが、東部方面総監室益田兼利総監(陸士46・陸大54首席)の身柄を拘束した無礼・無法を許さなかった。

 自衛官は、三島たち非合法の暴挙を鎮圧しようと、総監室ドアのバリケードを体当たりで破った。三島の部下は、第8代東部方面総監益田兼利陸将を縛り上げ、胸元に短刀をあて人質とした。しかし、踏み込んだ自衛官は、勇敢に隙を見て飛びかかり、押さえ込んだ。自衛官は、火器を所持せず押し入り、刀を振るう三島由紀夫らと格闘し、9人が負傷、自衛隊中央病院に搬送、うち6人が入院した。観念した三島由紀夫(45歳)と愛弟子。森田必勝(25歳)は、割腹自決した。三島由紀夫は、特攻隊員は神である天皇のために,祖国を守るために死んだとし,それを至高の存在と捕らえ,自らの目標としていた。益田兼利陸将は、12月22日、三島事件の責を取り辞任した。

三島由紀夫は,特攻隊員の心情を独自の解釈で無効性に徹することによる有効性と捕らえたが,何のために特攻隊員の死が有効だったのか。生命尊重以上の価値の所在はどこにあるのか。

靖国神社 1943年9月の早慶卒業式(戦局悪化から卒業が6カ月早まった)
 翌朝の朝日新聞の記事は大きく三色旗に送られて校門を出る我々を写していた。
 午前十時から1400の新卒業生を送る卒業式は父兄、卒業生だけを講堂に集めて厳粛に開式、特に卒業生のために教育勅語をこの式場に奉讀した小泉塾長は,次のように述べた。
 「吾々は諸君とともに遠く上海、南京、徐州、漢口の捷報を聞き共に宣戦の大詔を拝し、共に陸海将兵の壮烈なる功業に泣き、いまは国家存亡の機の正に目前に在るを見る、諸君は父兄よりも更にこの機を知っている、すでに幾多の諸君の学友は軍務に服し、けふ三田の丘で卒業式行はるゝを想いつゝ猛烈なる訓練をやってゐるのである」
 「今後ももっとも激烈、困難、危険にしてもっとも信頼すべき人物を必要とする場合にはそこに慶応義塾の者が在らねばならぬ、慶応の数箇年の教育は諸君をかかる人物に育成した筈である、国家百年の士を養ふはたゞこの一日のみ、今日の一日の用をなさしめんがためであった」。

この日慶応義塾卒業の前に古谷君は次のような遺書をのこしている。
 「御両親はもとより小生が大なる武勇をなすより、身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんことを、朝な夕なに神仏に懇願すべきは之親子の情にして当然なり。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。大君に対し奉り忠義の誠を致さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干伐を執るらんの覚悟なり。」。

1945年5月11日「第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」隊員として、一式陸上攻撃隊に搭乗、鹿屋海軍航空基地を出撃、南西諸島で戦死した海軍少佐古谷真二君の遺書。決起を呼びかけて割腹自殺した三島由紀夫がその一カ月前これを読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と、声を出して泣いたという(三田評論10/94丸博君の記事による)。この遺書は靖国神社遊就館に展示され,三島の逸話も紹介されている。

1945年4月、海軍報道班員として人間爆弾「桜花」神雷部隊を取材した川端康成(1899-1972);川端康成年表によれば、終戦の翌年「婦人文庫」に発表した小説「生命の樹」では,鹿屋海軍航空基地にある海軍将校の親睦団体「水交社」で働く啓子と、思いを寄せる特攻隊員植木らの日々を描いた。1945年4月、海軍報道班員として、鹿児島県の鹿屋海軍航空基地に行く。五月、鎌倉在住の文士の蔵書を基に貸本屋鎌倉文庫が開店。終戦後、大同製紙の申入れがあって、鎌倉文庫は出版社として発足し、その重役の一人となり、老大家たちの原稿依頼に歩いたという。こうして、機械を得た川は、1967年にノーベル文学賞を受賞した。しかし、1972年、交遊の深かった三島由紀夫の割腹自殺と同じ1972年にガス自殺。遺書はなかった。

物語の中のふるさと − 九州発によれば,川端康成は終戦間際の1945年4月、報道班員として鹿屋海軍航空基地を訪れ、特攻隊員と接した。戦後に著したのが「生命(いのち)の樹」である。
 埼玉県在住で、鹿屋海軍航空隊神雷部隊桜花(おうか)隊大尉だった林冨士夫さん(82)は、川端をよく覚えている。
「背が小さくてやせ、スポーツ選手でもないのに色黒だった。無口。じっと隊員を上目遣いで観察するように見つめていました。とてもこちらから話しかける気分にはなれなかった」と電話の向こうで話してくれた。
 士官たちに「いつか必ず特攻隊の物語を書きます」と約束した川端。それは「生命の樹」で果たされた。

 〈「これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」(中略)植木さんには、ほんたうにそれが、星の見納めだつた。植木さんはその明くる朝、沖縄の海に出撃なさつた。(我、米艦ヲ見ズ)そして間もなく、(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)ニ度の無電で、消息は絶えた〉

梓特別攻撃隊銀河  鹿屋海軍航空基地初の特攻は「菊水部隊梓特別攻撃隊」が1945年3月11日、ウルシー環礁に出撃した陸上爆撃機「銀河」による「第2次丹作戦」で,それから終戦まで、16〜35歳の隊員908人が出撃した。

 神雷部隊桜花隊員は、基地の西側すぐ近くにあった野里小に寝泊まりしていた。川端のほかにも山岡荘八、新田潤らの作家が報道班員として付近に分宿していた。川端が隊員と距離を置いていたのと対照的に、山岡は積極的に隊員に話しかけ交流を深めたそうだ。川端と山岡は、終戦まで桜花隊と行動を共にした。

 「桜花」の悲惨な攻撃とは裏腹に「作家の人たちは、鹿屋の特攻隊員には悲壮感が全くないと話していた」と林さんは言う。
 「桜花隊は1944年8月中旬に志願してから出撃までに時間があったため、全員が生死を超越していたのですよ」

 司令から命じられ特攻出撃者を選ぶ林さんは苦しさから逃れようと、何度も自分の名前を名簿の筆頭に書いた。だがすべて却下され、出撃の度に隠れて泣いたという。「桜花」による特攻作戦のほとんどは、戦果をあげることはなかった。

 〈あの基地は、特攻隊員が長くとどまつておいでになるところではなかつた。(中略)新しい隊員と飛行機とが到着しまた出撃する。補給と消耗との烈しい流れ、昨日の隊員は今日基地から消え、今日の隊員は明日見られないといふのが、原則だつた〉(林冨士夫氏の記事引用終わり)

鹿嶋市桜花公園の石碑
神雷竜巻・櫻花隊員 練成之地
  櫻花  山岡荘八

 櫻花石碑の碑側 献歌
  練成の名残りとどめぬ 鹿島灘
      いまだただよう 戦友のおもかげ
            小城久作

櫻花石碑の碑裏
 太平洋戦争も一段と熾烈を極めた昭和十九年十月一日祖国日本の興廃をその一身に背負おうと志願して来た紅顔の若者達は海軍百里原航空隊で特別攻撃隊櫻花隊を結成同年十一月七日この神之池に訓練基地の設置を見たやがて神之池基地で至難な訓練を受けた若者たちは九州最南端の鹿屋の野里村に移り鹿屋を特攻基地として祖国の国難に殉じて行ったのである。云わば神之池は特別攻撃隊発祥の地として,わが日本国民として忘れてはならない,祖国の存立を護った尊い大和魂の故里である。
            撰文 山岡荘八
  昭和五十三年三月吉日
      建立者 元櫻花隊員小城久作
               妻 泰子

鹿嶋市桜花公園に残る神之池海軍航空隊の掩体壕(えんたいごう)の説明版
昭和19年4月 神之池海軍航空隊がこの場所(現在の住友金属工業(株)鹿島製鉄所敷地となっている所)に開設され、ここで予科練や予備学生出身の将兵達が訓練していました。 戦争が激しくなるにつれ、721航空隊と改称され神雷部隊として特攻機「桜花」の訓練基地となりました。
この飛行場には、一式陸攻という双発機や零戦という戦闘機等が配備され、それらの飛行機を敵の襲撃から守るため格納庫から「掩体壕」に移しました。 この掩体壕は上部を土で覆い、草や木を植えて敵機からわからないようにしたものです。 このような掩体壕は飛行場周辺に十数箇所ありましたが現在ではこの掩体壕だけが残っています。

掩体壕概要
主要寸法:高さ 4.4m  間口 15.3m  奥行 13.0m
構造:コンクリート構造  コンクリート厚 25〜70cm
工法: 土で造った山の上に金網を敷きその上にコンクリートを流し、固まったあと、内部の土を掻き出して造られた、アーチ式構造で当時としては大規模なものである。


写真(上左):人間爆弾「桜花」I-13は、1945年4月1日、沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷の陸軍の沖縄北飛行場でアメリカ軍が鹵獲した機体。写真(上右):人間爆弾「桜花」I-18は、I-13と同じく、読谷の陸軍北飛行場で鹵獲された機体。海軍航空技術廠 MXY-7人間爆弾「桜花」のことを、アメリカ軍は自殺爆弾・自爆を卑下してBaka(馬鹿)爆弾と呼んだ。

小説太平洋戦争(6) 山岡荘八山岡荘八『最後の従軍』昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」
あのころ――沖縄を失うまでは、まだ国民のほとんどは勝つかも知れないと思っていた。少なくとも負けるだろうなどと、あっさりあきらめられる立場にはだれもおかれていなかった。何等かの形でみんな直接戦争に繋がれている。といって、楽に勝つであろうなどと考えている者も一人もなかった。

そんな時……昭和二十年四月二十三日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった。

<中略>私たちが、野里村(現鹿屋)にはじめて行ったのは、日記によると四月二十九日、天長節の日であった。----その途中でも二度、サイレンが鳴っているが、その時の私は、敵機などより数倍おそろしい妄想を描いて震えあがっていた。他でもない。これから行く「神雷部隊――」そのものが恐ろしかったのだ。私は、戦争では、あらゆる種類の戦争を見せられている。陸戦も海戦も空中戦も潜水戦も。そして何度か、自分でもよく助かったと思う経験も持っている。しかし、まだ必ず死ぬと決定している部隊や人の中に身をおいたことはない。報道班員はある意味では、兵隊と故郷をつなぐ慰問使的な面も持っている。とりわけ「ライター班」はそうだった。

それが、こんどは必ず死ぬと決まっている人々の中へ身をおくのだ。従来の決死隊ではない……と、考えると、それだけで、私は彼らに何といって最初のあいさつをしてよいのか……その一事だけで、のどもとをしめあげられるような苦しさを感じた。(昭和三十七年八月六日)

報道班員従軍記―カメラマンのマレー・千島戦記 石井 幸之助 私は、最初の特攻隊としてフィリピンから飛び立った関大尉や中野、谷、永峰、大黒などの敷島隊員の記事が報道(昭和十九年十月二十九日)されたとき、その心事をしのんで茫然としたものだった。その時の関大尉のマフラーをつけて屹然と空をにらんで立った姿は、いかなる仏像よりも荘厳な忿怒像として目に残っている。清純な若者たちをこのように怒らせてよいものであろうか。そして、そのきびしい犠牲の陰でなければ生きられないのかと思うと、自分の生存までがいとわしかった。

ところが、その必死隊に、いよいよ私は入ってゆかなければならない。むろん彼等には慰めの言葉などは通用すまいし、といって、話しかける術も知らず質問もなし得なければ、いったいどうして居ればよいというのか……。

<中略>だれも明るく親切で、のびのびしている。どこにも陰鬱な死のかげなどはない……そう書くことは出来ても「そんなはずはない」と反問されると、私にはそれを更に説得するだけの力はない。これは今の私が性急に割切って書こうとしてはならないことだ。それよりも、こうして底抜けの明るさを私に見せている人々が、最後にどのような心境で出撃してゆくか?出来るだけ自然にその筆跡を残したい……そう思って私は不案内な鹿屋の町の文房具店で、ようやく一冊、ほこりにまみれてあったわとじの署名帳を捜し出して戻って来た。……

陸軍最後の特攻基地・万世 秋風と共に去った男 時岡鶴夫
人生恩に感ず 大木偉央
大き夢に生きん 本田耕一
一念 吉田信
今死を知らんとす亦楽しからずや 町田道教
敢闘精神 石丸進一
南無阿弥陀仏 高野(次郎)中尉 等々

和歌を書いたり、大義、撃沈、無、必中など書いて飛立った人々もあれば、きちんと官姓名だけを書き残していった人もある。-----無阿弥陀仏と書いていった高野次郎中尉は、台湾生れの小林常信中尉と同室していて、彼らはどちらも童貞のままでいった。高野中尉は温和なエンジニア、小林中尉は絶えずみんなを民謡や踊りで笑わせるユーモリストで、彼等は自分たちの部屋に戦災孤児のアキオという少年をとめていた。六つか七つのこの迷い子がひどくいたずらで、よく小林中尉に裸にされては洗われていたが、部隊からの連絡で叔父が熊本から迎えにくると、中尉たちと一緒に飛行機で戦いに行くのだとダダをこねて困らせた。そして「帰らないと連れていってアメリカの上に落としてやる」。

そういわれると、ようやく納得し、新しい大人のダブダブのシャツを着せられ、中尉たちの集めてくれた彼にとっては大金をポケットに納め,ようかんを背負わされてベソをかきながら叔父に連れ去られた。

その小林中尉は高野中尉と一緒に出てゆく前にせっせと麦刈りを手伝っていたが「さて、あちらで結婚式場の用意がよろしいそうで」私の肩を軽くたたいて出撃していった。

こうした思い出を書いてゆくときりがない。私はいつかアキオと同じように、この必死部隊の、明るさ親切さに魅せられ、川端さんや新田氏とわかれ、そのままここを離れ得ない迷い子になってしまっていた……
(昭和三十七年八月八日)(→山岡荘八「最後の従軍」昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」引用)

⇒◆特殊攻撃機キ115「剣」と特別攻撃を読む。
⇒◆特殊潜航艇「甲標的」による特別攻撃と人間魚雷「海龍」を読む。

1944年6月19-20日、マリアナ沖海戦で大敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を諦めた。1944年7月21日、大本営[軍令部]は大海指第431号によって、奇襲特攻を作戦として採用した。1944年3月にすでに人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻舟艇「震洋」と(後日になって)名づけられた特攻兵器による作戦も決定した。桜花を配備した特攻隊の第721海軍航空隊(721空)「神雷部隊」の編成も、1944年9月に開始されている。

特攻の生みの親とされた大西瀧治郎中将は、1942年3月以来、海軍の航空本部総務部長に就任しており、実戦部隊とも練成部隊とも遠ざかっていた。その大西中将が、急遽、1944年10月に、フィリピンに派遣され、そこで正式に第一航空艦隊司令官となった。彼は、海軍大学を卒業しておらず、軍令部の艦隊中心の作戦方針に反対していた反骨の人物である。軍令部としては、航空の実力を発揮して、大戦果をあげてみよと、過酷な命令を下したのであろう。

現場に着任後、やっと正規の司令官にしてもらっているのも、おかしな話である。特攻隊の編成を命じてはいるが、特攻のように兵力を激減させ、将兵の士気に衝撃を与える作戦を現地司令官大西瀧治郎中将が独断で採用する権限はない。

神風特攻隊の部隊名称も、軍令部において編成前から決められていた。1944年10月13日起案の「大海機密第261917番電」は、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「大和隊」等をも併せて発表すべきこととされていた。本居宣長の「しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花(はな)」を思い起こして採ったとの俗説もあるが、実際には1942年発行の日本文学報国会『愛国百人一首』や1943年発行の坂口利夫『愛国百人一首通釈』 をめくって、60番の本居宣長を選んだだけであろう。特攻隊の部隊名称が、軍令部からの指示で名づけられ、戦果発表と同時に大々的に宣伝する方針が示されていた。

写真(右):海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」の操縦パネル;降下練習は命がけで,1回しか行わなかったようだ。連合艦隊司令長官などが視察に来るというので,模範演技を依頼された隊員も,「次に桜花で降下するのは本番だけです」といって,断った。降下,着地に失敗して死亡した隊員も少なからずいる状況では,見世物としての降下訓練は,リスクが高く,部隊指揮官たちも,再降下を見せるのを諦めた。

特攻機とされた零戦に250キロ爆弾を装備したが、固定したままで爆発可能なように信管解除装置を改造している。従来の爆弾には、落下中の風圧で解除される風車式信管がついていたが、これを機上で操作できるように改造したのである。現場で大元帥から下された兵器を勝手に改修、配備することは許されないし、改造方法を研究する時間もないから、大西中将は、軍令部の指示で改造したのであろう。

写真(右):1945年4月、沖縄で鹵獲した人間爆弾「桜花」11型( "Baka" bomb")の操縦パネル。:弾頭に1トンを超える爆薬を積み込んだ人間爆弾「桜花」は、一式陸上攻撃機の腹部に搭載され、目標手前で投下、ロケット噴射し、搭乗員が操縦して敵に体当たりした。訓練基地は、鹿嶋と神栖にまたがる航空基地で行われた。鹿嶋市光の桜花公園には、地上の航空機を空襲から避難させる掩体壕(えんたいごう)が現存し、その中に全長6メートルの「桜花」復元模型が置かれている。
Title: "Baka" bomb Caption: Cockpit instruments, circa April 1945. Catalog #: 80-G-192464 Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-192464 "Baka" bomb 引用。


軍令部が定めた特攻作戦が、現場で部隊は発意あるいは「特攻の生みの親」大西瀧治郎中将の英断を装って実施に移された。明らかに、作戦の指揮をとるべき軍令部の責任回避であろう。

特攻隊員たちは、苦悩して、それでも純真な気持ちで体当たりしようとしたのであろう。しかし、軍令部やその生き残りたちが流布した「特攻の生みの親大西瀧治郎」という俗説は、特攻隊員たちの心情を思うと、否定されるべきものとと考えられる。

「父さんの陸軍中野学校」中村光男の記す義烈空挺特攻隊
1944年11月27日教導航空軍司令官より宮崎県挺進練習部に命令下達。
第一挺進団第一連隊第4中隊が選ばれ、隊員126名は、12月5日宮崎を発って埼玉県豊岡町(現入間市)陸軍航空士官学校に到着、B-29の実物大模型による破壊演習に取り組んだ。硫黄島攻撃には間に合わず,1945年3月1日,沖縄方面での迎撃作戦である天号作戦が決定された。

◆義号作戦:義烈空挺隊(指揮官奥山道郎大尉)150名による飛行場への空挺特攻
1945年5月8日,義烈空挺部隊は熊本健軍飛行場に進出。ここから,隊員120名は,九七式重爆撃機12機に搭乗し,沖縄の飛行場に着陸し,飛行場を制圧する。その間,航空特攻によって沖縄方面の敵艦艇を撃滅する作戦である。(→新聞報道「義烈空挺部隊」

義烈空挺隊は,1945年5月24日1850,健軍飛行場を出撃、12機中北飛行場に6機、中飛行場に2機、着陸成功が報告され、4機がエンジン不調で不時着したという。しかし、実際胴体着陸できたのは、読谷飛行場に1機だけだったようだ。
米軍の被害は、飛行機9機破壊炎上、29機損傷、燃料7万ガロン炎上、死傷者20名。義烈空挺隊の死体は69名が確認された。

沖縄特攻と義烈空挺隊の解説ビデオ:健軍飛行場で出発前の場面を描写。

義烈空挺部隊150名(爆撃機搭乗員を含む)の勇気と自己犠牲にはうたれる。しかし、敵飛行場に強行着陸し,歩兵が広い飛行場を走り回って、駐機している敵機を破壊して回ることが、効果的な作戦といえるのか。飛行場に強行着陸できるくらいなら、航空機による銃爆撃によって、地上の敵機を破壊したほうが早いのではないか。

10.特攻兵器「桜花」(マルダイ)は、どのような兵器だったのか、それを使った搭乗員たちは何を思ったのか。他方、この特攻兵器を開発、準備させた海軍軍令部は、その将校たちは、何を思っていたのか。

 日本軍は,1945年1月18日、戦争指導大綱で、本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃することを決定した。そのために,兵器開発も特攻が優先された。正攻法では,量,質の両面で連合軍に対抗できなくなっており,戦争末期,軍高官は,精神主義を振りかざして,全軍特攻化を決定し,特攻を唯一の対抗手段とした。

 大本営海軍部・軍令部、大本営陸軍部・参謀本部など日本軍上層部は、数量。質の格差から、正攻法が通じなくなった状況で、戦局打開のために頼ることのできるのは、精神主義と士気の高い下級兵士だけだった。そこで、特攻兵器として、人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機中島キ115「剣」,このほかにも潜水艦搭載の特殊攻撃機「晴嵐」,体当たり自爆改造戦車,対戦車爆雷を抱いたまま突っ込む肉弾兵,爆薬を持って海中に潜み自爆する「伏龍」などを開発し、若者の命をそれに供した。

 このような特攻兵器は、戦術的にも戦略的にも劣勢であり、軍指揮官の能力の低さの証明ともなる。それを採用する軍指揮官は、統率の外道として恥をかく。そこで、特攻兵器は、犠牲的精神を有する将兵の発意で作られたという俗説が流布された。兵器の開発,生産はもちろん、特攻隊の編成,運用は個人で行うことはできず,軍上層部の主導、命令が不可欠である。特攻は、現地の将兵の自発的な攻撃ではなく、特攻作戦として軍上層部が策定した軍事行動である。軍事行動である以上、戦果と損失・コストが問題となるから,特攻に向かった将兵の心情・苦悩は、二義的になり、あくまでも特攻,突入、敵艦撃沈が優先される。


 しかし、特攻兵器を技術的に見れば、信頼性の欠如、操作困難など、部隊配備する中で、欠陥・故障・不具合が続出した。特攻兵器は、低品質の素材、安易な技術を用いた使い捨て兵器だが、これは特攻隊員たちも同じく使い捨てするといういのち軽視の戦術的発想であろう。

 高松宮(大元帥昭和天皇の弟)『高松宮日記 』第8巻 1945年7月3日「特攻兵器は技術院としも乗り出す様な話であったから、それは良いが、人が乗ってゆくから安モノ兵器でよいと言うような考えがあるが、全く技術者としてけしからぬことで、犬死にならぬように、特攻なればこそ精巧なものを作るべきなりと語っておいた。」

 特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。

◆連合国では,ウィリアム・ハルゼー提督のように「よいジャップは、死んだジャップだけだ」と言って、日本兵の殺害を推奨した指揮官もいた。戦争と日本人への人種的偏見が相俟って、太平洋戦争では、欧米の騎士道精神は期待できなかった。アメリカ人は,日本軍の特攻作を現在の自爆テロと同じく、狂信的で卑劣な行為として認識していた。2001年の9.11同時テロに対しても、アメリカでは、真珠湾の騙し討ちの再来であり、カミカゼ特攻と同じ自爆テロであると見做して憎悪が沸き起こった。日本人なら「特攻は自爆テロは違う」と信じるが、世界の人々は必ずしもそう思ってはいない。この認識の乖離を踏まえて「特攻をとは何か」を考え直すと、差別・憎悪を拡散して人々を煽動し、政府や軍を操ろうとする人間が、戦争を引き起こし、続けていることに思い当たる。

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との古い戦争論・政治学を見直して、国家総動員の下で、憎悪を煽動するプロパガンダ・世論形成、大量破壊・大量殺戮こそが戦争の本質であることを訴えたいと思います。

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