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人間爆弾「桜花」:海軍航空技術廠 MXY-7 2005
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◆人間爆弾「桜花」海軍航空技術廠 MXY-7:開発と戦歴


写真(上):米軍に鹵獲された人間爆弾「桜花」;右は沖縄の読谷飛行場で鹵獲された「桜花」。右は「桜花」の弾頭部分を点検する米軍。1.2トンの爆弾を搭載している自爆体当たり滑空機である。 

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1.連合国では,日中戦争以来、日本軍のアジアへの侵略行為、残虐行為が知れ渡り、日本人への反感が高まっていた。ハルゼー提督のように「よいジャップは、死んだジャップだけだ」として、日本兵の殺害を推奨するものがいるほどであった。日本の侵略行為・残虐行為に日本人への人種的偏見が相俟って、対日戦争では欧米流の騎士道精神は期待できなかった。当時の米国人には,日本軍の特攻作戦は、現在の自爆テロと同じく、狂信的な愚かで卑劣な行為として認識されていた。

写真(左):第3艦隊司令長官「ブル(野牛)」ハルゼー提督;1944年12月のフィリピン戦の撮影。Third Fleet was originally formed during World War II on March 15, 1943 under the command of Admiral William F. "Bull" Halsey. He opened his headquarters ashore in Pearl Harbor, territory of Hawaii, on June 15, 1944. Third Fleet planned and directed many of the decisive naval operations of World War II in the Pacific. The fleet operated in and around the Solomon Islands, the Philippines, Formosa, Okinawa and the Ryukyu Islands.

 1943年,ケネディJohn F. Kennedy海軍中尉(後の大統領)が魚雷艇指揮官としての1ヶ月以上の任務を終えて,ソロモン群島ツラギ島に帰還すると,ハルゼー提督が掲げるように命じた大きな看板が目に入った。そこには次のように書かれていた。「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ!もし任務を的確に果たそうとするなら,黄色い卑怯な野獣を殺せ。」

KILL JAPS !KILL JAPS !KILL MORE JAPS ! You will help to kill the yellow bastards if you do your job well " [From "PT 109 - The Wartime Adventures of President John F. Kennedy" by Robert J. Donovan](→Fleet Admiral William F. 'Bull' Halsey 引用)

ハルゼー提督は,敵国日本人が過酷な戦場では肉体的に優れているという米軍の恐怖心を否定することがぜひ必要であると信じていた。そこで,「'Kill Japs 日本人どもを殺せ」Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' というスローガンを掲げた。「死んだ日本人がいい日本人だ」として人種的に侮辱し,戦意を高めた。勇猛果敢な戦闘精神の権化ともいえるハルゼーは,特攻をジャップの自爆テロとして憎悪した。
He strongly believed that by denigrating the enemy he was counteracting the myth of Japanese martial superiority . . . ' "Halsey's racial slurs made him a symbol of combative leadership, a vocal Japanese-hater . . . "

「米軍兵士はカミカゼ特攻隊を恐れ,畏敬の念を抱いていた」とする日本人識者は多い。しかし,当時,カミカゼ・パイロットはテロリストであり,米兵は、戦利品として,戦死した特攻隊員の遺体を皿に載せ,ジャップ・ステーキとして嘲笑したり,遺骨・特攻機の破片や残骸を戦利品として持ち帰っていた。現在でも、寄せ書きの有る日章旗や軍隊手帳が、遺族に返却される「美談」が報じられる。このような戦利品spoil of warが持ち帰られた一因には、日本兵への敵意や憎しみがあった。

人間爆弾「桜花」は米軍から「バカ」と呼ばれた。現在でも、米国人や日本人で,「自爆テロリスト」は祖国を蹂躙した外国軍に立ち向かう愛国心のある立派な若者である,として敬意を払う人物は少ない。自爆者を送り出す側では,英雄,戦士であっても,自爆攻撃の対象とされる側では,正反対のテロリストとして嫌悪される。当時の米兵の中にも,戦死した特攻隊の死体を艦艇上で見つけ,海葬にしてた時もあった。連合国で,被害(日本の戦果)を受けず終わったシドニー港を攻撃した特殊潜航艇乗員の埋葬などの例もある。しかし,これは,例外である。

体当たり特攻爆弾「桜花」には,卑劣な憎むべき敵(=自爆テロリスト)が乗っている。冷静な研究者や元軍人は別にして,カミカゼ,「バカ」に直面してた大半の米兵たちは,戦友や自らの命を奪うカミカゼを「自爆テロ」として,憎悪,嫌悪した。ハルゼー提督は,日本人狩り(Japanese-hater)を辞さない。日本人を貶め,嫌悪すすことで,米兵たちに敵愾心を起こさせ,士気を高めようとした。

日本兵が立派な戦士であると持ち上げるときは,それを打ち倒した米兵は。日本兵を上回り,さらに優秀で立派な兵士だという,自画自賛である。米軍の自画自賛を,「日本兵は強かった,と米軍も言っている」と持ち上げるほど愚かしいことはない。このような考え方を認識しないと,人間爆弾「桜花」がなぜ「バカ」と呼ばれたのかわからなくなる。

しかし,人が死を選び,命を捧げ,投げ出すとき,計画的な必死の作戦を遂行するとき,やはり困難が付きまとう。祖国や家族を守るための破壊行為の善悪,それを行う個人の意思を判断するのも容易ではない。
レイテ戦の神風特攻隊:特攻第一号と特攻の生みの親の神話

2.1944年10月20日,フィリピンのレイテ戦をのとき,日本軍の航空機による特攻作戦がはじめて開始された。しかし,1944年3月には、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し,1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図した。1944年8月16日には海軍航空本部が「マルダイ部品」の秘匿名称で、人間爆弾「桜花」を改正試作するように航空技術廠に下令した。つまり1944年3月以降,日本軍は,特攻兵器を開発するなど,特攻作戦を組織的に計画,準備していた。  

「十死零生」の体当たり自爆攻撃という特攻を軍が立案し,作戦として用いたのは,1944年10月20日以降のレイテ湾の戦い(レイテ島攻防戦)からといわれる。日本海軍機による「神風(しんぷう)特別攻撃」が編成され,連合軍艦艇に自爆体当たり攻撃を実施したのが,このときで,特攻第一号は,敷島隊関行男大尉とされる。しかし,特攻隊員が自ら体当たり自爆攻撃を志願したとして,数少ない航空機を勝手に消耗品(特攻機)として使用する裁量が与えられたのだろうか。 


写真(左):1944年1月,マーシャル諸島を攻撃する第58任務部隊インディペンディンス級軽空母「クーペンス」USS Cowpens (CVL-25)
;Naval Historical Center引用。米海軍戦闘機F6F「ヘルキャット」"Hellcat"は、特攻機の最大の撃墜者である。クリーヴランド級軽巡洋艦の船体を流用し1942年戦時緊急計画で建造が開始されたインディペンディンス級軽空母は、排水量1万1,000t、全長165.8m、速度32kt、搭載機45機、乗員1560名。同型艦は9隻。同級軽空母「プリンストン」 (USS Princeton, CV-23/CVL-23)は、フィリピン戦で通常攻撃により撃沈。このような空母艦載機の航空兵力を集中運用した任務部隊(機動部隊)は,日本海軍の発案になるが,1944年6月のマリアナ沖海戦敗北を契機に,日本海軍は,機動部隊の再建を事実上諦めた。そして,特攻を中核とした戦備を充実するよう,方向転換した。

特攻第一号と宣伝された関行男大尉(海軍兵学校出身)の戦死する半年以上前,1944年3月に人間魚雷「回天」の試作が,「㊅金物」(マルロクカナモノ)として命じられている。1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定した。これは,事実上の特攻兵器を試作を命じるものである。

特殊奇襲兵器: 「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」 
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」「甲標的丁型蛟龍」として量産、蛟龍の実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型特殊潜水艇「海龍」として試作・量産,実戦参加なし
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器


写真(右):人間魚雷「回天」
;ホノルルにある潜水艦「ボーフィン」博物館に展示。潜水艦「ボーフィン」は,1944年に学童疎開船「対馬丸」を撃沈した。それが真珠湾で撃沈された戦艦「アリゾナ」の近くに展示してあるのは,報復・仕返しの意味があるようだ。

人間魚雷「回天」とは,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており,騒音を発し,操縦性も悪い日本の大型潜水艦が,米軍艦船を襲撃するのは,自殺行為だった。「回天」の技術的故障,三次元操縦の困難さも相まって,戦果は艦船2隻撃沈と少ない。

  1943年6月の段階で、侍従武官としてラバウル基地の戦闘を視察し、その実情を憂えた城英一郎大佐(航空専攻)は,南東方面から帰国後,1943年6月に大西瀧治郎中将に体当たり特攻必要性を提案している。その後,大西中将は軍需省に転任したが、彼も航空機材の生産・整備,搭乗員の要請・補充は困難な状況にあることを身をもって悟った。 

軍による特攻「作戦」計画は、1944年6月マリアナ沖海戦での日本海軍空母機動部隊の壊滅,大敗北が契機になった。サイパン島争奪戦で敗北した日本陸海軍は,米軍の航空機,空母任務部隊,大艦隊,輸送船団などの威力を思い知り,正攻法で,対抗することは不可能に近いと悟った。そこで,1944年7月21日大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,特攻作戦を本格的に準備し始めた。

海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。

日本海軍の統帥部は,軍令部である。「海軍軍令部」は,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。作戦について天皇を輔弼する機関であり、陸軍の参謀本部に相当する。長たる海軍の軍令部総長は,陸軍の参謀総長と対等の立場で,大元帥の天皇に直隷する。

大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。軍令部総長は海軍に対して作戦に関する指揮・指示をする。陸軍では、「指揮・指示」といわず「区処」という。大海指第431号は,海軍軍令部の出した指示で,そこに特攻作戦採用が明示された。軍隊では、命令により部隊が編成され,隊名・隊長が任命される。特攻志願者が、「自発的に」軍の管理する航空機、爆弾、燃料を使用することはできない。

3.フィリピン戦を指導した第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が,「特攻の生みの親」であるという神話は,日本の大本営海軍部(軍令部)の特攻隊編成と特攻作戦の組織的実施を隠蔽するかのごとき表現である。1944年7月21日,大本営海軍部の「大海指第431号」でも,奇襲攻撃として特攻作戦が計画されている。「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度,攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となってた。軍上層部が神風特別攻撃隊の作戦を進めていたのである。

海軍の初の組織的な特攻攻撃は,「神風特別攻撃隊」として,国学者本居宣長の歌から,敷島隊,山桜隊など4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男(23才)を特攻隊指揮官に任命した。フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,海軍中将大西瀧治郎で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられた。

大西長官は,特攻隊を「統率の外道」であるが,必要悪として認め,作戦として実施すべきと考えていた。一説には,大戦果を挙げて,日米和平の契機を作ることを真の目的にしていたとまことしやかに語らえている。連合国は、戦局の悪かった1943年1月のカサブランカ会談で既に日独に無条件降伏を要求していたにも拘わらず、それを空母数隻の戦果で覆すことができると錯覚したのか。 
しかも、大西中将は,神風特攻隊を発案したわけでもないし,特攻を時間をかけて編成・準備したわけでもない。

特攻機が出撃したのは,フィリピンのルソン島の航空基地からで,1944年10月20日,21日と連日のように出撃し,見送りが盛大に行われた。しかし,連日の出撃にもかかわらず,敵艦隊を発見できずに引き返していた。日本側の資料では,特攻隊は10月25日に初めて,明確な戦果をあげ,関行男大尉が特攻第一号として公認され,敷島隊の五名だけが全軍布告された。それ以前に未帰還だった特攻隊員は,特攻(第一号)の認定は受けることができなかった。戦果を挙げなかった特攻隊員たちは黙殺された。

戦後になって,特攻隊を犬死だというのは許さないという元軍指揮官もいる。しかし,かれらは,戦果を挙げなかった特攻隊を,戦時中も戦後も黙殺している。軍事的に当然だとか,出撃は秘密だったと抗弁するが,終戦後になっても,特攻第一号は関行男大尉と戦果を上げた兵学校出身者のみを公認し続けている。

大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。 
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

1.各種作戦
ヾ霖蝋匐部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

2.奇襲作戦
ヾ饅浦鄒錣謀悗瓩襦E┫和發鯀或丙拠地において奇襲する。
∪水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
6秒牢饅永捨呂鯒枷し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。

特殊奇襲兵器=特攻兵器を推進した作戦要領)

以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特攻,特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。また,統帥権を侵犯する特攻はありえないので,大元帥が特攻作戦の発動準備をしていることを知らないでいたということもない。(特攻計画は報告されている)

軍の統帥権を持つ大元帥昭和天皇に,特攻作戦を知らせないままに済ましていたのであれば,天皇の赤子である有意な兵士を勝手にしに至らしめ,天皇の軍隊を私兵として勝手に運用したことになる。これは軍法違反(専権罪・叛乱罪)であり,軍令部総長,参謀総長,その下にある参謀たちは,処罰されるべきである。

生き続けてしまった,死にきれなかった軍上層部の将官や佐官以上の将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人たちもいる。自決など容易にできることではない。しかし,特攻隊を編成させた軍人の中に,参議院議員,大会社の顧問に就任して,日本の戦後復興に尽くすほど堂々としていた,している人たちがいた。軍の名誉と特攻隊・犠牲者への思いはどうなったのか。

彼らが「自発的に体当たり攻撃を始めために特攻隊が生まれた」というのは,英霊の名誉と自己犠牲の精神に共感するからではない。大本営,軍上層部の要職にあった自分たちの,指揮官としての責任を認めない強弁に映ってしまう。

戦局挽回のためには,体当たり特攻攻撃を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものであろう。
〕ダな米軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
∧瞳海鉾新發靴討癲て本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
D名鏐況發鮖迭櫃韻董て本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも,必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。

〃蛎發僚斗廚癖軸錣任△觜匐機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
5爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
て湛饗發了峇蠎圓鯤腓,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。


  自発的な特攻や体当たり攻撃がやむをえない状況で行われのは確かであるが,それば「特攻隊」という部隊編成の形ではない。特攻「隊」は,軍の統率する部隊であり,自然発生的に生まれるれるものではい。特攻隊は,軍上層部の命令によって作られた。、担任が募集され、訓練され、特攻用の兵器が準備された。


写真(右):人間爆弾「桜花」;米陸軍航空隊第9爆撃軍団のB-29搭乗員が,沖縄の基地に不時着したとき撮影。9th Bomb Group Photo

軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布した。つまり,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,後に続く特攻隊員の確保にも配慮した。

日本海軍は特殊任用令によって、攻撃により偉勲をたてたと認められ、全軍布告された特攻隊員について、下士官は少尉に特進させ、兵は准士官に特進させる「特別任用」を採用した。

特攻兵器(奇襲特殊兵器)の開発・量産も,一軍人のなしえることではなく,軍が主導して当然である。個々の兵士も,軍のメンバーであれば,軍が進める特攻化の中に組み込まれる。個人の意思で特攻を選択するかどうかは,最終的には問題とならない状況におかれている。

  公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)で「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とあるし (p.245)、「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(同年4月1日)には「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」としている(p.199)。

 日本軍は,特攻隊員とその家族・遺族に配慮をした。特攻隊員が,祖国,家族を守るために特攻するのであれば,家族のことを配慮することが,隊員の士気を鼓舞することになる。このように遠謀深慮した日本軍は,特攻隊員の家族・遺族に対して,特別に年金を割り増した。

1944年11月29日,日本陸海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布し,特攻戦死した将兵で,戦効をあげた者には,特殊任用として,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにした。その遺族の年金額は,引き上げられた。家族を保護して,後に続く特攻隊員を確保したのである。
特攻で全軍布告することで,死後昇進すれば,遺族への軍人恩給(遺族年金)は倍化し,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができた。

特攻隊員たちも,残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟する。特攻による名誉の戦死は,まさに「親孝行」につながった。

特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制の結果、神風特攻隊敷島隊所属の関行男大尉以下5名は,特別任用の初めての対象となった。敷島隊の特攻作戦で,四階級特進して飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は三級特進して少尉となった。特攻で全軍布告することで,軍人恩給(遺族年金を含む)は倍化され,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができた。

 作戦自体を描写するよりも,作戦の意図やそれに関与し,巻き込まれた人々の立場や真意を推し量るのは重要だが,困難なことでもある。遺書には,残された家族に迷惑をかけることは一切かかれるはずがないが,その書かれなかった行間に,憂慮,苦悶,怒り,生命が隠されているのではないか。

特攻隊に任命された若者は,自分を死に向かわせた状況=敗色濃い戦争を受け入れても,特攻隊を作戦として利用するが必死からは逃れうる人々=軍司令官や部隊指揮官に対して,無感動,無感情でいられたとは思えない。しかし,軍隊の中で,上官の命令を議論しても無駄であることをみな知っていた。自分の死を有意なものしなければ,特攻から逃れたくなるかもしれない。逃れられない運命であれば,愛するもの=家族・日本を守るために,命を捧げる,として自分の死と命を一つにするしかないのではないか。

特攻に散った若者たちには,感服する。エンジンを故意に不調にさせたり,故意に不時着したりして,命を永らえたもの,特攻隊に入らないように,練習教程で手を抜いていたものに対しても,共感は持てる。特攻を拒否して,通常攻撃をかけたものには,納得できる。決して,特攻死したから犬死である、逃避したから弱虫の卑怯者であると軽蔑することはできない。

4.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」としており,奇襲可能な体当たり自爆兵器の開発・作戦計画を検討し始めている。日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷,人間爆弾,人間機雷,特攻戦車など配備され,組織的に行われた。自生的,自発的に5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。若者たちに犠牲的精神はあったが,事実上,出撃を強要した日本人もいた。その責任を回避するために,英霊の自然発生的な特攻をことさら強調している。これこそ英雄・犠牲者への無責任であり侮辱である。

 特攻は最善の方法だったわけではないが,跳飛爆撃などほかの手段は,特攻隊員はもちろん,大半の軍人でも選択することは不可能であった。1944年の段階で,「特攻作戦の是非」を決めることは,大元帥,将官クラスの軍人にしか許されない。

条件付降伏の提案も考慮できない戦争指導の中で,とにかく戦機を得て敵に大打撃を与え,和平への糸口を掴むという方針で臨んだようだ。しかし,米軍にしてみれば,損害を与えられたからといって,怖気づいて和平交渉に応じるつもりは,戦争を始めてから一度たりともなかった。戦意が旺盛な米軍は,日本を無条件降伏させるという強硬な方針を貫いた。

日本は,国体,すなわち天皇制の護持を最優先事項にしており,それに気がついていた米軍の軍人もいた。しかし,ひとたび参戦した以上,米英とも無条件降伏にこだわった。したがって,たとえ特攻作戦が大きな戦果を挙げたとしても,米国は日本との和平交渉には応じないのである。「特攻で戦機をつかんで和平交渉することが軍の真意だった」との俗説もある。しかし,カサブランカ会談、カイロ会談,ヤルタ会談と1年以上前から繰り返し打ち出されていた連合軍の最高政略を知らない日本軍上層部の将官たちがいたというのであろうか。


写真(上):米空母「ホーネット」USS HORNET(CV-12)
;艦載機82機を搭載できる高速大型航空母艦である。1945年3月27日沖縄近海で撮影。NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive引用。大和に魚雷を命中させた「アベンジャー」雷撃機:TBFはグラマン社製、TBMはジェネラルモーターズ社製。総生産数9800機。四分の三はジェネラルモーターズGM製造。


5.1944年4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は,読谷飛行場(嘉手納基地)で人間爆弾を鹵獲し,これをBaka(バカ)と名づけた。人間爆弾とは, 1944年7月21日の大海指第431号で奇襲作戦をになうとされた海軍航空技術廠 (空技廠)MXY-7「桜花」のことである。人間爆弾の発案者は太田少尉とされるが,このような特殊兵器の開発・部隊編成は,軍上層部が積極的に関与しない限り不可能である。ドイツでは,無人誘導爆弾,飛行爆弾が実用化され実戦に投入されていたが,それだけの技術力のない日本軍は有人爆弾を開発し,体当たり自爆攻撃を行った。

写真(右):ドイツ空軍のV1飛行爆弾Fieseler Fi 103;カタパルトによって地上から,あるいは爆撃機によって空中から発射できる無人飛行爆弾で,1944年後半に実戦で使用された。安価な兵器であり,米軍も実物を入手して,そっくり複製したコピー兵器を生産した。着想と技術の優位を敵も認めたのである。

V1飛行爆弾V-1 Flying Bomb (Doodle Bug)は,カタパルトによって地上から,あるいは爆撃機によって空中から発射できる無人飛行爆弾で,1944年後半に実戦で使用された。1944年後半から1945年までに1万発前後がロンドンなど英国に発射された。艦船など小型目標に命中させる精度はないが,都市爆撃に効果を挙げた。

P>ドイツ空軍のパルスジェット無人飛行爆弾V-1は,大量配備し,実戦に使用されたが,英軍の戦闘機や対空砲火に撃墜され,故障で目標を失したり墜落したりと,命中率が低かった。そこで,有人飛行爆弾をも試作された。これには,飛行特性を研究するとともに,命中率向上のために有人で飛行爆弾を誘導することも含まれたようだ。しかし,有人飛行爆弾は,量産されてはいないし,実戦にも投入されなかった。


写真(左):ドイツ空軍のヘンシェルHs293誘導爆弾;500 kg爆弾を装備した無線誘導爆弾。RAF museum at Cosford.後方は,ラムジェット推進の無人飛行爆弾V1号で,1944年後半に英国に1万発前後発射されて大きな被害を与えた。写真(右):ドイツ空軍のフリッツX誘導爆弾;1.4トン爆弾PC 1400を改造した誘導爆弾。全備重量1,650 kgで,イタリア戦艦「ローマ」を撃沈した。

 ドイツ空軍では1940年に無線誘導爆弾ヘンシェルHs293を試作し,1943年には1400 FX "Fritz X" Guided Bomb 「フリッツX」も実用化し,敵に寝返ったイタリア海軍の戦艦を撃沈している。フリッツX、Hs293は、いずれも爆撃機に搭載され,目標に投下される。そして,その爆撃機が爆弾投下後,目視による無線誘導を行う。誘導員は爆弾の尾部に取り付けられた発光体を追い,爆弾を誘導する。命中精度は誘導員の熟練度に依存するが,目標が視認できる距離内まで爆撃機を接近させる必要がある。また、無線誘導のために,妨害電波を発射され,誘導ができないなどの難点があった。

しかし,ドイツ軍のような無人誘導兵器を実用化できなかった日本軍としては,人間が搭乗して誘導する「有人爆弾」を作成するしかなかった。技術の未熟を人間の精神力で補おうとしたため,結果として,命を粗末にし,若者の命を奪うことになった。

1944年7月21日の大海指第431号では「奇襲作戦」を重視し,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」とし,「奇襲戦=特攻」を作戦として企図していた。

航空機による自爆攻撃という必死の特攻隊が,軍上層部の命令,許可によって部隊として編成されたことは,(→人間爆弾「桜花」を配備された神雷部隊引用)の編成をみれば容易に理解できる。

 神雷部隊は、1944年10月1日新編成された第721空の別称で、戦局を挽回するために,米軍からはBakaと名づけられた人間爆弾「桜花」を配備した特攻隊である。
Over 800 Baka Bombs were built before the end of the war, but only 50 were used. Nonetheless, the weapon had its successes: in April 1945 the U.S.S. Mannert L. Abele, a destroyer, was sunk by a Baka.


写真(右):空技廠 MXY-7「桜花」
;沖縄で鹵獲された人間爆弾。

海軍航空技術廠Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom") の桜花11型のデータ;
乗員1名,全長 6.10 m (20 ft 0 in),全幅 5.10 m (16 ft 8 in),全高 1.20 m (3 ft 11 in)
主翼面積 6 m² (65 ft²),重量 2,140 kg (4,708 lb)
ロケットエンジン 3基×800kg, 推力7.8 kN (1,760 lbf)
最高速度 630 km/h (394 mph),航続距離 36 km (23 miles)
翼面荷重 356 kg/m² (72 lb/ft²)。爆弾1,200 kg (2,640lb)

横須賀Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom")
海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」は,大田正一少尉が考案したとの俗説があるが,一下級士官が新兵器の試作を,暇な時間に自主的に行うことなど,軍隊という組織では考えられない。

桜花は,増速用ロケット推進装置をつけた飛行爆弾で、全長6辰曚匹瞭溝里防5辰曚匹両さな翼をつけた。体当たり自爆用なので,帰還するための脚や車輪など降着装置はない。胴体の頭部が 1.2鼎梁膩診弾、中央部がパイロットの座席、後部に推進用火薬ロケットが収納されている。全重量約2邸

 母機の一式陸上攻撃機に懸吊(ちょう)して運ばれ、敵艦に接近して投下される。その後は滑空を主に、ときにはロケットを噴射し、パイロットもろとも敵艦に突入する。

6.1944年10月のフィリピンレイテ決戦で、「神風特攻隊」が編成されるより前に、桜花を使用する目的で、第721海軍航空隊「神雷部隊」が編成され、隊員が集められ、海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」、それを運ぶ母機の陸攻隊、援護戦闘機隊の3隊が編成された。

写真(左):空技廠 MXY-7「桜花」と外された弾頭;1945年4月1日,沖縄本島の飛行場で米軍に検分されている。先端にある1.2トンの弾頭がむき出しになっている。

神雷部隊(第721海軍航空隊)[龍巻部隊]の編成
 第721海軍航空隊「神雷部隊」は、海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」、それを運ぶ母機の陸攻隊、援護戦闘機隊の3隊から構成される。
海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」特攻隊員の募集は最初、1944年8月中旬、全国航空隊から,隠密裏に行われた。9月15日、桜花を基幹とする特攻専門部隊の編成準備に当たる正副委員長が決まり、10月1日、百里原(茨城)に第721海軍航空隊が編成され、横須賀鎮守府に編入された。「桜花」特攻隊の編成準備は,レイテ戦の神風特別攻撃隊の編成(1944年10月中旬)よりも2ヶ月も早く組織的に進められていたのであり,特攻は将兵の犠牲的精神の発露,自発的行為という俗説の誤りを例証している。

1944年11月1日、神ノ池基地(茨城)に移転、「海軍神雷部隊」の門札が掲げられた。721空に「神雷部隊」の名称がついた期日は,フィリピンで神風特攻隊「敷島隊」が空母撃沈の大戦果を挙げた10月25日から,1週間後である。
「桜花」による特別攻撃の応募者の中から約 200名が1944年10月から11月にかけて721空に着任し,11月末には4個分隊が編成された。母機の一式陸上攻撃機は,「桜花」1基を胴体下に搭載し,これを2個戦闘飛行隊で援護することになっていた。
1944年11月19日,軍令部総長及川古志郎大将が「桜花」計画について大元帥昭和店天皇へ上奏した。大元帥の統帥権を踏まえた厳格な軍紀が,日本軍司令部では維持されていた。  


写真(右):海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」
;沖縄で米軍に鹵獲された多数の桜花。着陸用の橇がついている練習型。Lt. Reichwald's Photos
沖縄戦では,米軍直前になって急遽,読谷飛行場,嘉手納飛行場(当時は北・中飛行場と呼称)を破壊放棄した。しかし,あわただしく準備不十分だったために,飛行場は小破壊しただけで,多数(10-20基以上)の「桜花」がほとんど無傷で米軍に鹵獲された。米軍は、人間爆弾を"Baka"と呼んだ。奇襲秘密兵器といっても,多数を米軍に捕獲されているようでは,「桜花」搭乗員も「桜花」を運搬した一式陸攻搭乗員も浮かばれない。


海軍航空技術廠 MXY-7桜花の訓練:
『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』 によれば,「桜花」のように、重い機体に小さな翼をつけた機体は、高速でなければ失速する。しかし、高速では着陸できないので,訓練用に、爆弾・ロケットを外した軽い「桜花練習機」を作り、操縦感覚を体得することにした。しかし、着陸時は,高速になるので,陸攻から投下後、エンジンなしで飛行場に着陸することは危険で至難の技であった。

そこで、まず事前訓練として零戦を使い、エンジンを「桜花練習機」の着陸最終パスなみの 110ノットで滑空、ねらった場所に着陸する練習を重ねた。また,別に、零戦でフルパワーの高速緩降下突撃訓練を行い、「桜花」突進時の感覚を養った。

 投下訓練は、投下後まず実機の最良滑空速度 260ノットで飛び、舵の効き具合いを試して実機の感触をつかむ。次に速度を激減し、最後はフラップを下ろし 110ノットでパスに乗る。目の高さ地上1辰曚匹膿緤身行に移ると、間もなく橇(そり)が設地する。

写真(左):人間爆弾「桜花」を搭載した一式陸上攻撃機;三菱G4Mは最高速度430kmの攻撃機(日本海軍では水平爆撃・雷撃を行う機種をさす)であるが,1トン以上ある「桜花」を胴体下に吊り下げてたため,空気抵抗も大きくなり,速度は350km程度に低下したであろう。「桜花」の攻撃は数回行われ、「桜花」20機以上が出撃したが、攻撃前に母機の一式陸上攻撃機とともに撃墜されることが多く、「桜花」命中による撃沈は、駆逐艦「マナート・アベル」Mannert L. Abeleただ1隻である。

 神之池基地 特攻機・桜花の乗員養成(茨城新聞)によれば,「桜花」は「本来は着陸する必要がないから車輪は付いてなかった。訓練用は機体の下にソリを付け、着陸できるようにしていた。爆弾の代わりに水や砂を積んで、一人一回ずつ訓練した」。神雷部隊は1944年10月、戦局を一気に挽回する狙いから、人間爆弾「桜花」を主戦兵器に組織された。

神之池基地には南北と東西二本の大きな滑走路が整備されたが,隣接する内閣中央航空研究所鹿島実験場実験場には、広い砂地の野原に、南北に長さ2km以上の砂地の滑走路が造られていた。車輪を持たない桜花にとって、この滑走路が着陸するのに好都合だった。桜花隊の元分隊長(81)=神奈川県座間市=は、「ソリで着陸するのに、コンクリートの滑走路では摩擦熱で機体が炎上しかねなかった」と説明する。訓練は、母機が神之池基地内の飛行場を離陸し、上空で放たれた桜花は、同実験場内の滑走路に着陸する方法で行われた。

部隊の大部分は翌年1月、鹿児島県・鹿屋基地に移され、新たに桜花搭乗員の養成を行う竜巻部隊が組織された。

 桜花搭乗員に求められたのは、敵艦に向かって降下する技術で、着陸技術ではなかった。投下訓練を一回終了した隊員は、あらゆる状況で作戦可能とされる練度「A」の判定を受け、前線の特攻基地に送られた。

神雷部隊編成に至る経緯:戦友会編『海軍神雷部隊』による

1944年5月1日;1081空分隊長大田正一少尉、隊司令菅原英雄中佐に「人間爆弾」の構想を明かす。大型爆弾に翼をつけ、投下後は人間が操縦して敵艦に突入する「必死・必中・必殺」の新兵器。

1944年5-6月;大田少尉、菅原中佐の推薦により、構想を航空技術廠長和田操中将に提案。中将は航空本部に進達。航本の伊東裕満中佐と軍令部源田実中佐が協議して研究を進める。

1944年6月20日頃;筑波航空隊で、戦闘機操縦教官7〜8名に対し、次の諮問があった。−どうにもならぬ戦局に対し、生還は絶対不可能であるが、成功すれば戦艦でも正規空母でも確実に撃沈できる「新兵器」の提案があった。
上層部は「非人道的」なるが故に採用をためらい、まず搭乗員の意見を聴取することになった。諸官のうち、この「新兵器」搭乗希望者が2名以上あれば研究開発を進め、1名以下の場合は廃案にするという。諸官は「新兵器」搭乗を希望するか否か、と。(抄)

1944年6月27日;岡村基春大佐(341空司令)、軍需省に航空兵器局総務局長大西瀧治郎中将を訪れ、体当たり戦法の重要性を強調し、(特攻用)航空機の開発を要望。

写真(右):海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」など特攻兵器を推奨した源田実参謀(1904-1989);真珠湾奇襲作戦、ミッドウェー作戦、南太平洋海戦、マリアナ戦、未遂の「雄」作戦などの海軍作戦に関わった有能な軍人であるから、特攻作戦にも関与していたであろう。

1944年8月初旬;大田少尉、民間技術者(東京大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所)の協力を得て「人間爆弾の私案」を航空本部に提出。
1944年8月16日; 航空本部、大田私案に「マルダイ部品」(○に大の字)の秘匿名称をつけ、航空技術廠に改正試作を下令。試作番号「MXY7」。
1944年8月中旬; 第一線部隊を除く全国航空隊で、秘密裡に特攻兵器の搭乗員希望を募る。航空技術廠が「MXY7」の単座練習機「K1」の試作を開始。
1944年8月18日; 軍令部第2部長黒島少将、軍令部会議で「マルダイ兵器」を発表。
1944年8月28日;軍令部源田部員、マルダイの性能、用法、兵力について軍令部打ち合わせ会議で発言。
1944年8月下旬; 航空本部がマルダイ兵器を「桜花」と命名。
1944年9月15日; 「桜花」部隊の編成準備のため、準備委員長岡村基春大佐(341空司令)などを横浜航空隊付に発令。

(→『海軍神雷部隊』戦友会編を掲載した神雷部隊と新兵器「桜花」引用)より)

帝国海軍の逸材といわれる参謀源田実中佐が,神風特別攻撃隊に関与していなかったとは考えられない。真珠湾攻撃,ミッドウェー海戦,マリアナ沖海戦と作戦を企画してきた参謀が,フィリピン戦について寄与していないはずがない。

参謀源田実中佐(戦後は参議院議員)の名著『海軍航空隊始末記』でも、フィリピン戦や沖縄戦での特攻作戦について記述がない。にもかかわらず、1945年の日本海軍航空隊最後の花道とされる四国松山の戦闘機隊343空司令として大活躍,大戦果には詳しい。日本海軍航空隊の撃墜王を集めて編成された新鋭戦闘機「紫電改」で編成された戦闘機部隊には,新鋭偵察機「彩雲」も配備され,人材と機材を完備した。

沖縄戦のころの特攻隊は,中古戦闘機,練習機,水上偵察機など旧式な航空機の寄せ集め部隊が多く,搭乗員も実戦経験のない未熟練新米パイロットが大半であった。戦闘機隊343空司令は,特攻隊,特に人間爆弾「桜花」の開発・部隊編成に関与したにもかかわらず,戦後は特攻について語らなかった。特攻隊とは雲泥の差がある最新戦闘機「紫電改」装備のエリート部隊343空を率いてたことを誇りにしていた。

鈴木英男氏(第721海軍航空隊)証言
あの訓練と申しましてもね。やはり、実用機は、体当たりする訳ですから、体当たりのための訓練ですよね。ですから、パス120ロットの飛行機ですからね。桜花は。だから、これを、こなすには、まず、冷静になってね。ゼロ戦に乗って、その滑空訓練。エンジンをね、高度のを取って、エンジンを絞って、滑空することから始まりましてね。後はね、結局、突撃のための訓練。だから訓練は、そんな難しい訓練じゃなかったです。だから桜花に乗れるための訓練ですから。桜花に乗るまでは、皆、誰も心配しないでおったと思います。

本当、訓練は簡単なんですよ。いわゆるエンジン絞って、先ほども言うように、滑空訓練して。それで、地上1メートルぐらいで、いわゆる、行き足が無くなるまで飛んで、行き足が無くなったら、そこで着地する。という形で訓練をしてましたからね。だから、訓練は、そんな難しい訓練じゃありません。まして、皆、あの200人は最初集まった連中はね。まあ、水上機に乗った人たちは、ある程度、陸上機とちょっと感覚が違いましたから、慣れるまでは、大変だったと思いますけどね。皆、乗りこなしておりましたからね。

あれはね。11月半ばぐらいですかね。いよいよ、わたしの番が回ってきた。もう、皆は終わった連中も結構多い訳だから。それぞれ、皆成功してね。やってきて、話を聞けば、「いい飛行機だよ」ということもあるから。これが、終わりさえすればいつでも、いわゆる、桜花隊員になれる。今までが、桜花に体験はないけれど、これからは使われるって。位置に入るなと思ってますから。わたしは、非常に、飛行機に乗る形は喜んで乗り移りましたけどね。だから、親機に乗せてもらって離陸する訳ですから、それで、投下地点まで来る間に、乗り移りましてね。それで固縛装置があるんですよね。あの、色々な操縦装置を縛ってある。それをまず解いて、用意ができたところで、上に向かって連絡をして、「トトトツートン」という終わりマークというね。あの形でうたれて、離されるという事を聞いてましたから。それに対して、早いとこ、いわゆるその固縛装置を取ろう、と思いましてね。ところがね、わたしね、いっつも手が冷たくなっちゃう方でね。なかなか、固縛装置が取れないで焦りましたよ。その前にね。第2飛行場へ降りるわけだから、こうやってみるとね、第2飛行場が、どこにあるか見えないんですよ。というのは、もう、ごくわずかの段差も中に入っちゃってるから、あの、下がよく見えなくって。遠景だけしか見えないんですよ。これ、落とされて、どこへ降りたらいいのか。

それが心配になりまして、しかし、「見えないものは、見えねえんだからしょうがない」。「落とされた瞬間にね、すぐ見ればいいや。いいとこへ落としてくれんだろうから」と思って。それは、それなりにしといた。だから、縄は解けないもんだから、親機の方もなんと思ったか知らんけれども、もう一回りしてくれたんですよ。それで、わたしとしては、随分ゆとりを持ってね、あの体制に入れた。こういう風に思ってますね。ですから、他の人は、固縛装置を取って、すぐ忙しい中ですぐ落ちる。いうことで、忙しかったんじゃないか、と思うんで。わたしの場合には、割合、ゆっくりできたです。これが、かえってわたしにとっては良かったことかなと、思いますね。ですから、落とされた瞬間を言いますとね。マイナスのGがかかりますから、ほこりが「グーッ」と来るんですよ。

ま、それもちろん、メガネをやってるから。ひょっと見ると、すごいスピードがついちゃってるんですよ。「ククーッ」と慌ててかじを上に引きましてね。それで、まず、飛行場探しました。この飛行場はね、感覚的にはすぐ分かりました。だから。どう持ってくるかが大事なことでして。どこで、最後のパスに入るか。ま、自分なりに考えながらやってたんだ。わたし、ちょっと高めに持ってきちゃったんですよ。高めに。ちょっと高めだから。これ心配だなと思って、で、横すべりこうやってすれば。飛行機がこう下げるんですよ。桜花はそれがきかないよ、と言われてたから、困ったなと思ったんですが、「ちょっと、やってみよう」と思ってね。横滑りしたか、しないか分からないけど。横滑りのサインして、すぐ、やめちゃいましたけどね。あとはまあ、上手く入ってくれるだろうって。それで、地上1メートルのとこまで、無事、入ったんです。そうしたら、やっぱりそこではものすごい早いですよ。前にね、式場が見え、あったんです、式場の建物。これはだいぶ遠くに見えたんですがね。だんだんだんだん近づいてきちゃって。「おれ、式場まで行っちゃうかな」と思って、心配したんですがね。式場のそうですね、50メートルぐらいのとこまで行きましたかね。「ガリガリッ」と、そりですからね。で、「ガリガリッ」と急速に止まりましてね。式場の50メートルぐらいのとこで止まったんで。

鈴木英男氏(第721海軍航空隊)証言
(1944年)11月の末になってね、分隊編成があったんですよ。それまではね、梁山泊じゃないけれど、皆、集まって、「おまえも来たか。お前も来たか」でもって、やってた。分隊が決まってなかったんです。それが11月の28、9日なってね。分隊編成ができたんです。それで、4か分隊編成が出来たんですよ。ところがね。一個分隊はね。1分隊。2分隊、3分隊、4分隊。約、一個分隊が54、5名でしたかね、分隊長入れてね。(引用終わり)

7.特攻兵器「桜花」の初の実戦使用は、1945年3月21日の神雷部隊の初出撃で野中少佐が率いる攻撃隊一式陸攻15機とその搭載する桜花15機だったが、戦果なく、全滅した。桜花作戦は10回にわたるが、4月12日、桜花がアメリカ海軍駆逐艦「アナートアベル」を撃沈した。桜花特攻で撃沈した敵艦艇はこの1隻のみで、出撃機の大半は目標にたどり着く前に撃墜された。桜花特攻で、戦死したのは、運搬機の搭乗員も含めて、430人に上った。


写真(上):米軍に鹵獲された空技廠MXY-7「桜花」;右は戦後,横須賀で鹵獲されたと思われる「桜花」で濃緑色の迷彩塗装を施してある。右は,練習複座型「桜花」で,後方は四式重爆撃機。

鈴木英男氏(第721海軍航空隊)証言
我々の飛行機が(鹿児島の鹿屋基地)着いて、飛行場の沿道で、芝生で、座りこんじゃって。「いや、ついに来たな」という思いでおった。ときに、「即時出撃だ」っていう。「準備をしろ」という。命令が下ったんですよ。そうしましたらね。「えっ。即時、出撃する。待機してろ」と言うのかよと。ということは「すぐ死じゃねえか」「死んじゃうんじゃねえか」というのは、やっぱり、すぐ、思い至るんです。それを考えたときにね。わたしはね、バケツ一杯の冷水を、背中からぶっかけられたような気持になりました。ということは、わたしは、自分の顔色見て見えないけれども、真っ青になったんじゃないかと思いますよ。だから、あとから考えたら、恥ずかしい思いなんですね。いきなりついた途端に、「まあ、これからどうなるか」「いつ、我々の、出番があるか」と思ってた途端に、出番どころじゃない、いきなり「出ろ」ということだからね。だから、わたしは、いっぺんに、真っ青になったと思いますよ。それはまあね。今まで、1分隊残って、後から来た連中の、教官になって。あれだ、これだと思って教えて。それでようやくもう出番が来ると、いう中でね。やっぱり気分的なゆるみが、長い間に、しみ込んでたんじゃないかと。

1945年4月11日1440、沖縄近海で 米海軍駆逐艦「マナート・アベル」DD-733 Mannert L. Abele は、日本機1機を撃墜したが,別の1機が4000ヤード離れた海面に激突した。5インチ砲と機銃の命中にもかかわらず、煙と炎をたなびかせて、三番目のカミカゼが甲板に命中し、機関室が爆発した。At about 1440 three Zekes broke orbit and closed to attack. Mannert L. Abele drove off one and splashed another about 4,000 yards out. Despite numerous hits from 5-inch bursts and antiaircraft fire, and spewing smoke and flame, the third kamikaze crashed the starboard side and penetrated the after engineroom where it exploded.

駆逐艦「マナート・アベル」は、直ぐに艦首を下にして沈没しはじめ、機械室にも浸水した。竜骨が折れて、艦橋からの管制が不能になり、動力が利かなくなった。Immediately, Mannert L. Abele began to lose headway. The downward force of the blast, which had wiped out the after engineering spaces, broke the destroyer's keel abaft No. 2 stack. The bridge lost control and all guns and directors lost power.

写真(左):駆逐艦「マナート・アベル」USS Mannert L. Abele DD-733 ;off Boston, 1 August 1944.1945年4月12日に特攻機と人間爆弾「桜花」の合計2機の命中を受けて,撃沈。大きく連装砲塔も並んでいるので,実戦経験のない特攻機搭乗員は,大型巡洋艦あるいは戦艦と見間違えたかもしれない。

特攻機と「桜花」の2発の命中を受けて撃沈した駆逐艦「マナート・アベル」USS Mannert L. Abele DD-733 (サムナー級)のデータ
排水量3218トン,全長 376' 6"(oa) x 40' 10" x 14' 2" (Max)
武装 6門 x 5インチ/38AA (3x2), 12門 x 40mm対空機関砲, 11丁 x 20mm 対空機銃, 10門 x 21インチ魚雷発射管(2x5).
機関 60,000 SHP; General Electric Geared Turbines, 2 screws
最高速力 36.5 Knots, 航続距離 3300馬力 20 Knots, 乗員Crew 336名.
竣工 1944/4/13,撃沈1945/4/12. 乗員73名死亡。

1分ほどしてから,4月11日1446、駆逐艦「マナート・アベル」に人間爆弾「桜花」が舷側に命中した。2600ポンドの弾頭が爆発し、艦内の通信、電灯がすべて不通になった。A minute later, at about 1446, Mannert L. Abele took a second and fatal hit from a baka bomb a piloted, rocket powered, glider bomb that struck the starboard waterline abreast the forward fireroom. Its 2.600 pound warhead exploded, buckling the ship, and "cutting out all power lights, and communications."


駆逐艦「マナート・アベル」は、直ぐに真っ二つに切断され、急速に沈みはじめた。生存者は敵機の爆撃した海域に漂うことになった。中型揚陸艦189号、190号がパーカー指揮官の下で、攻撃を受けながら、生存者救出という支援艦として黄金と同じ重量に匹敵する仕事をした。Almost immediately, Mannert L. Abele broke in two. her midship section obliterated. Her bow and stern sections sunk rapidly. As survivors clustered in the churning waters enemy planes bombed and strafed them. However LSMR-189 and LSMR-I90, praised by Comdr. Parker as "worth their weight in gold as support vessels," splashed two of the remaining attackers, repulsed further attacks, and rescued the survivors.

駆逐艦「マナート・アベル」Mannert L. Abeleは,人間爆弾「桜花」 the baka bombによって撃沈された唯一の艦艇である。沖縄方面で,レーダー警戒の任に就いている3隻が特攻機の命中を受けた。

日本軍は沖縄作戦に力を注いだが,小型艦艇によるレーダー警戒網の整備が進展していたおかげで,沖縄方面の米艦艇の防衛は成功したといってもよい。Despite the enemy's desperate efforts, the radar pickets successfully and proudly completed their mission, thus insuring the success of the campaign.

8.本土決戦に備えて、特攻兵器「桜花」を陸上基地のカタパルトから発進させる計画が実施に移された。ジェットエンジンを装備する新型「桜花」の計画があり、それを配備する秘密基地が高台に建設された。ただし、新型「桜花」は、実機が完成する前に終戦となった。

写真(左):滋賀県琵琶湖湖畔の比叡山の山頂付近に建設された桜花のカタパルト発射台

◆一式陸上攻撃機など双発爆撃機に特攻「桜花」を搭載して攻撃する方法は、目標とする敵空母などに近づくことができず、失敗に終わった。しかし、海軍は、桜花を陸上基地から発信させ、崩土周辺に来航する敵艦あるいは敵船舶に体当たり攻撃させようとした。双発爆撃機に搭載して発信することはあきらめざるを得なかったため、陸上基地から特攻「桜花」を発進させようと、標高の高い山や丘陵地に桜花発進基地を建設した。
特攻「桜花」は火薬式の補助ロケットを搭載するであるから、この従来型では、飛行機に搭載して上空で切り離さないと発進できないうえに航続距離が短すぎる。そこで、軍は、桜花の胴体後方にジェットエンジンを搭載する改造型を考えた。ジェットエンジンは、ジェット戦闘機、のちに特殊攻撃(特攻機)「橘花」と同じもので、試作品しかない状況である。このジェットエンジンを搭載したのが、特攻「桜花」43型と呼ばれる。もちろん、ジェットエンジンもそろっていない状況で実機が完成したことはない。飛行事件をしたというが、エンジンなしの発射テストであろう。

写真(左):滋賀県琵琶湖湖畔の比叡山の山頂付近に建設された桜花の回転台とカタパルト発射台に運搬するレール。

〆花43型はジェットエンジンを装備予定だったが、上昇することは困難だと予想された
⊂絛から容易に識別できる飛行場は連合軍上陸前の空襲で壊滅されると予測された
上記の理由で、桜花43型の発進は、山上あるいは丘陵の上などに、カタパルトを装備した秘匿基地を建設することになった。現在でも、滋賀県の比叡山山頂近く、千葉県旧安房郡三芳村(現在の南房総市)の丘陵に、カタパルト台を備えた秘匿基地跡が残っている 。

◆産経ニュース2013.7.24 「特攻兵器「桜花」 本土決戦に備えた秘密基地が比叡山にあった 写真・スケッチ見つかる」に次の記事がある。
先の大戦末期、本土決戦を想定して比叡山(848メートル)の山頂付近に、極秘裏に建設された特攻兵器「桜花」発射基地の様子を克明に伝える写真やスケッチが、大津市内の古書店で見つかった。旧制京都三中の生徒が戦後に撮影したとみられる。戦後間もなく米軍に壊され、公的な資料も存在しない「幻の基地」。

写真(左):比叡山登山鉄道のケーブルカー;比叡山頂に特攻「桜花」カタパルト発進基地を建設するために、山頂に建設物資・軍需物資を運ぶ。積載に便利なように、列車は開放式荷台となっている。本来は、比叡山巡礼・観光に使用されていたが、急遽、桜花秘密基地建設に利用されることになった。

写真は、京都三中(現京都府立山城高校)の生徒が比叡山に登って撮影したとみられ、アルバムに10枚収められていた。写真のそばに「昭和21年9月1日」と記され、この日に撮影したとみられる。大津市内の古書店で県内在住の郷土史家が見つけた。
 幻の桜花発射基地は、戦況悪化で本土決戦が叫ばれる中、大阪湾に襲来する敵艦を特攻専用機の桜花で迎撃するため、20年5月に海軍が建設を始めたとされる。桜花は自力で発進できず、カタパルト(発射装置)を使って機体を空中に飛ばした後、ジェットエンジンやロケットエンジンで飛行する仕組み。基地には発射用レールや、機体を方向転換させる回転台などを設置したとみられ、見つかった写真には、琵琶湖に向かって敷設されたレールや桜花を載せる台車に取り付ける噴射装置などが写っていた。
 さらに1枚の写真の裏面には、基地全体の配置を克明に記したスケッチも描かれていた。レールや回転台の位置、特攻隊員が宿泊した施設やカタパルトの部材を隠した場所まで詳細に書き込まれていた。

写真(左):滋賀県琵琶湖湖畔の比叡山山頂付近に建設された桜花の秘匿発進基地の見取り図 

基地は8月15日完成予定だったが、日本がこの日終戦を迎えたため、桜花が配備されることはなかった。また施設は戦後間もなく米軍に破壊され、研究者によると、基地の存在を示す資料としてカタパルトの遠景や回転台の一部を写した写真2枚と、特攻隊員の記憶を頼りにしたメモなどが残るだけだった。また同様の発射基地は、比叡山のほか生駒山や六甲山にも計画されたが、断念された。
 大津市歴史博物館は、終戦記念日に合わせ、8月中にも見つかった写真などを館内で公開する予定で、担当者は「『特攻』がどのようなものだったか、戦後世代の人たちに、戦争の実態を考えてもらういい機会になる」と話している。(引用終わり)

写真(左):特攻「桜花」の複座型練習機;エンジンは装備していないので、飛行機に搭載して投下し、滑空訓練を行うためのもの。カタパルト発射が可能になれば、射出訓練、飛行訓練にも使用できるかもしれないが、ジェットエンジンが装備されなくては、無理である。

◆2013.7.24 「桜花」カタパルト発射台 を装備する比叡山(848m)山頂付近の秘密基地の写真が見つかった。旧制中学の京都三中の生徒が戦後に撮影したとみられる。しかし、カタパルト発射可能な桜花43型は胴体後部にジェットエンジン装備で試作中ではあったが、エンジンすら実用化できていない。「幻の基地」というより幻の兵器の実用化を前提に軍が建設を強行したものである。 「桜花カタパルト発射基地は、アメリカ側の記事にも出ているが、当時の写真は見つかっていなかった。

浅野昭典氏(第721海軍航空隊)証言
8月始めには、わたし、宿坊で寝泊りして、(下の)その飛行場まで(零戦の飛行)訓練に行ったでしょ。それで、日にちはよくわかりませんが、5日から、10日までの間だったんじゃないかな。カタパルトが完成してるんです。それはまぁ、今で言う、建設省かなあ。海軍じゃないんだ。建設省なんです。たぶんね。そこでもって出来たぞ」で、15日に引渡しだけど、「一遍、発射実験をやるから、皆さんね、パイロットの人は、ご覧になりませんか」っていうことで、見せてくれたわけ。それで、台車の発射実験をやって、火薬使ってね。で、それ1回だけじゃないのかな。実験っていうのは。

Q.それは、どんな風な実験だったんですか。
いや、ちゃんとほら、カタパルトができているでしょ。こっち側に飛行機を継ぐ台車っていうのがあんだ。それで、飛行機は来てませんけど、台車だけ。そこにもって、科学のロケットついて、それを噴かしていくわけだ。すると、カタパルトの前にワイヤーが張ってあって、その台車にワイヤーがぶつかる。ぶつかると台車がパタンと倒れる。それで、飛行機が浮くわけですね。それで、後は(桜花の実機があったとすれば)自分の力でもって、エンジンついてますから、それで飛ぶわけ。 
Q.その発射実験、ご覧になって、どうですか?今までの訓練と、また違ってましたか。
違うっていうか、ゼロから、ここへ来て、60メーターぐらいしかないんですから、スピードがね、それだけ出るのかなと思ったけど、やっぱり、火薬でもって噴かすから、スピードが出て、これでいった時から、(まだ見てもいないが)飛行機の方にもエンジンがついてるわけだから、これである程度飛ぶのかなあと。まぁ、そんなことしかないなあ。
(終戦の玉音放送の流れた)8月15日はね、今の根本中堂の石碑があんでしょう。あの前へ整列して、まぁ、重大発表っていうから、なんだろうな。なんかね、そういうあれがあるから、全員整列。それで、さっきいった、五味さんが通信長でね、準備しろと、前の日から言われた。で、準備したが「ガーガー、ガーガー」で、声、聞こえなかった。わかんなかった。(引用終わり)

9.特攻兵器「桜花」(マルダイ)は秘密はずだったが、管理不十分だったためか、戦時中から多数がアメリカ軍など連合軍に鹵獲されている。しかし、現在でも「桜花」実機が世界各地に残っている。

海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」の胴体後方には速力増加の火薬燃料式ロケットが装備され,敵艦めがけて突入することになっていた。しかし,出撃した数よりも,米軍に鹵獲された数のほうが多いようだ(敗戦後ではなく戦時中に)。沖縄戦では,日本軍守備隊は、米軍上陸直前に急遽,読谷飛行場,嘉手納飛行場(当時は北・中飛行場と呼称)を破壊放棄した。しかし,準備不足のために,飛行場の破壊は不十分で,格納庫も破壊していない。そして、多数(10-30基)の人間爆弾「桜花」がほぼ無傷で米軍に鹵獲されている。奇襲秘密兵器といっても,その程度の㊙扱いしか受けていなかった。これでは,「桜花」搭乗員も,運搬する神雷部隊の陸上攻撃機搭乗員も浮かばれない。

写真(右):人間爆弾「桜花」;後方には速力増加の火薬燃料式ロケットが装備されている。

桜花は約850機製造され,その大半は11型である。

現在,海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」を保存・展示しているのは,次の場所である。

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Leyte:The U.S. Army Campaigns of World War II ;米国陸軍レイテ戦記

神雷部隊と作家たち
 山岡荘八・川端康成の両氏は1945年4月末から終戦まで、ずっと桜花隊と一緒に生活し、神雷部隊とはもっとも馴染みの深い作家だった。
 山岡はセッセと隊員の間を回って話しかけ、誰がどこで何をしているか、戦友仲間よりもよく知っていた。終戦後、鹿児島県鹿屋における体験をもとに新聞に「最後の従軍」を寄せたり、かなりまとまった一冊を書いた。「特攻隊員の心を心として、恒久平和を願って徳川家康を書いた」とも後に語っている。
 川端は山岡のように隊員とは付き合うことはしなかったが、顔を伏せ、あの深淵のような金壷眼の奥から、いつもじっと隊員の挙措を見つめていた。終戦後、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と鳥居達也候補生(要務士)に約束した。だが川端は特攻隊について一字も書いていない。(→異説あり)
 三島由紀夫は自殺(1970年11月25日)の1カ月前、江田島(広島)の海上自衛隊第一術科学校教育参考館で一通の遺書を読み、声をあげて泣いたという。その名文の主は第8桜花攻撃隊陸攻隊指揮官として出撃(戦死)した古谷真二中尉である。(引用終わり)

Web上に三島由紀夫と特攻隊に関して,次の記事がある。
「私の修業時代」で三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続けた。
「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」(「愛の渇き」)

昭和天皇は、二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員を裏切ってしまった。特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまうではないか、と三島は言う。

三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。

写真:1972年自衛隊市谷駐屯地に乱入した三島由紀夫;自衛隊に決起を促したが,反応を得られず,部下とともに割腹自殺。特攻隊員は神である天皇のために。祖国を守るために死んだとし,それを至高の存在と捕らえ,自らの目標としたようだ。

彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。そこで彼はこう解説するのである。
「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」

彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。
「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」

自衛隊の決起を促すために自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し,撒いたビラの末尾には,「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と書かれていた。(引用終わり)

三島由紀夫は,特攻隊員の心情を独自の解釈で無効性に徹することによる有効性と捕らえたが,何のために特攻隊員の死が有効だったのか。生命尊重以上の価値の所在はどこにあるのか。

写真(左):「バカ」と呼ばれた海軍航空技術廠 MXY-7人間爆弾「桜花」;1945年4月1日,沖縄本島の飛行場で米軍に多数鹵獲されている。

1943年9月の早慶卒業式(戦局悪化から卒業が6カ月早まった)
 翌朝の朝日新聞の記事は大きく三色旗に送られて校門を出る我々を写していた。
 午前十時から1400の新卒業生を送る卒業式は父兄、卒業生だけを講堂に集めて厳粛に開式、特に卒業生のために教育勅語をこの式場に奉讀した小泉塾長は,次のように述べた。
 「吾々は諸君とともに遠く上海、南京、徐州、漢口の捷報を聞き共に宣戦の大詔を拝し、共に陸海将兵の壮烈なる功業に泣き、いまは国家存亡の機の正に目前に在るを見る、諸君は父兄よりも更にこの機を知っている、すでに幾多の諸君の学友は軍務に服し、けふ三田の丘で卒業式行はるゝを想いつゝ猛烈なる訓練をやってゐるのである」
 「今後ももっとも激烈、困難、危険にしてもっとも信頼すべき人物を必要とする場合にはそこに慶応義塾の者が在らねばならぬ、慶応の数箇年の教育は諸君をかかる人物に育成した筈である、国家百年の士を養ふはたゞこの一日のみ、今日の一日の用をなさしめんがためであった」

この日慶応義塾卒業の前に古谷君は次のような遺書をのこしている。
 「御両親はもとより小生が大なる武勇をなすより、身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんことを、朝な夕なに神仏に懇願すべきは之親子の情にして当然なり。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。大君に対し奉り忠義の誠を致さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干伐を執るらんの覚悟なり。」

1945年5月11日「第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」隊員として、一式陸上攻撃隊に搭乗、鹿屋基地を出撃、南西諸島で戦死した海軍少佐古谷真二君の遺書。決起を呼びかけて割腹自殺した三島由紀夫がその一カ月前これを読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と、声を出して泣いたという(三田評論10/94丸博君の記事による)。この遺書は靖国神社遊就館に展示され,三島の逸話も紹介されている。

写真:1945年4月海軍報道班員として人間爆弾「桜花」を装備した神雷部隊を取材した川端康成(1899-1972);川端康成年表:終戦の翌年「婦人文庫」に発表した小説「生命の樹」では,鹿屋基地にある海軍将校の親ぼく団体「水交社」で働く啓子と、思いを寄せる特攻隊員植木らの日々を描いた。1945年4月、海軍報道班員として、鹿児島県鹿屋の基地に行く。五月、鎌倉在住の文士の蔵書を基に貸本屋鎌倉文庫が開店。終戦後、大同製紙の申入れがあって、鎌倉文庫は出版社として発足し、その重役の一人となり、老大家たちの原稿依頼に歩く。 1972年、交遊の深かった三島由紀夫の割腹自殺と同じ1972年にガス自殺。遺書はなかった。

物語の中のふるさと − 九州発によれば,川端康成は終戦間際の1945年4月、報道班員として鹿屋海軍航空基地を訪れ、特攻隊員と接した。戦後に著したのが「生命(いのち)の樹」である。
 埼玉県在住で、鹿屋海軍航空隊の神雷部隊桜花(おうか)隊大尉だった林冨士夫さん(82)は、川端をよく覚えている。
「背が小さくてやせ、スポーツ選手でもないのに色黒だった。無口。じっと隊員を上目遣いで観察するように見つめていました。とてもこちらから話しかける気分にはなれなかった」と電話の向こうで話してくれた。
 士官たちに「いつか必ず特攻隊の物語を書きます」と約束した川端。それは「生命の樹」で果たされた。

 〈「これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」(中略)植木さんには、ほんたうにそれが、星の見納めだつた。植木さんはその明くる朝、沖縄の海に出撃なさつた。(我、米艦ヲ見ズ)そして間もなく、(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)ニ度の無電で、消息は絶えた〉

 鹿屋海軍航空基地初の特攻は「菊水部隊梓特別攻撃隊」が1945年3月11日、ウルシー環礁に出撃した陸上爆撃機「銀河」による「第2次丹作戦」で,それから終戦まで、16〜35歳の隊員908人が出撃した。

 神雷部隊桜花隊員は、基地の西側すぐ近くにあった野里小に寝泊まりしていた。川端のほかにも山岡荘八、新田潤らの作家が報道班員として付近に分宿していた。川端が隊員と距離を置いていたのと対照的に、山岡は積極的に隊員に話しかけ交流を深めたそうだ。川端と山岡は、終戦まで桜花隊と行動を共にした。

 「桜花」の悲惨な攻撃とは裏腹に「作家の人たちは、鹿屋の特攻隊員には悲壮感が全くないと話していた」と林さんは言う。
 「桜花隊は1944年8月中旬に志願してから出撃までに時間があったため、全員が生死を超越していたのですよ」

 司令から命じられ特攻出撃者を選ぶ林さんは苦しさから逃れようと、何度も自分の名前を名簿の筆頭に書いた。だがすべて却下され、出撃の度に隠れて泣いたという。「桜花」による特攻作戦のほとんどは、戦果をあげることはなかった。

 〈あの基地は、特攻隊員が長くとどまつておいでになるところではなかつた。(中略)新しい隊員と飛行機とが到着しまた出撃する。補給と消耗との烈しい流れ、昨日の隊員は今日基地から消え、今日の隊員は明日見られないといふのが、原則だつた〉(引用終わり)


写真(上):沖縄で米軍に鹵獲された海軍航空技術廠 MXY-7人間爆弾「桜花」;米軍は自殺爆弾を卑下してBaka(馬鹿)と呼んだ。

山岡荘八『最後の従軍』昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」
あのころ――沖縄を失うまでは、まだ国民のほとんどは勝つかも知れないと思っていた。少なくとも負けるだろうなどと、あっさりあきらめられる立場にはだれもおかれていなかった。何等かの形でみんな直接戦争に繋がれている。といって、楽に勝つであろうなどと考えている者も一人もなかった。

そんな時……昭和二十年四月二十三日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった。

<中略>私たちが、野里村(現鹿屋)にはじめて行ったのは、日記によると四月二十九日、天長節の日であった。----その途中でも二度、サイレンが鳴っているが、その時の私は、敵機などより数倍おそろしい妄想を描いて震えあがっていた。他でもない。これから行く「神雷部隊――」そのものが恐ろしかったのだ。私は、戦争では、あらゆる種類の戦争を見せられている。陸戦も海戦も空中戦も潜水戦も。そして何度か、自分でもよく助かったと思う経験も持っている。しかし、まだ必ず死ぬと決定している部隊や人の中に身をおいたことはない。報道班員はある意味では、兵隊と故郷をつなぐ慰問使的な面も持っている。とりわけ「ライター班」はそうだった。 それが、こんどは必ず死ぬと決まっている人々の中へ身をおくのだ。従来の決死隊ではない……と、考えると、それだけで、私は彼らに何といって最初のあいさつをしてよいのか……その一事だけで、のどもとをしめあげられるような苦しさを感じた。(昭和三十七年八月六日)

私は、最初の特攻隊としてフィリピンから飛び立った関大尉や中野、谷、永峰、大黒などの敷島隊員の記事が報道(昭和十九年十月二十九日)されたとき、その心事をしのんで茫然としたものだった。その時の関大尉のマフラーをつけて屹然と空をにらんで立った姿は、いかなる仏像より も荘厳な忿怒像として目に残っている。清純な若者たちをこのように怒らせてよいものであろうか。そして、そのきびしい犠牲の陰でなければ生きられないのかと思うと、自分の生存までがいとわしかった。

ところが、その必死隊に、いよいよ私は入ってゆかなければならない。むろん彼等には慰めの言葉などは通用すまいし、といって、話しかける術も知らず質問もなし得なければ、いったいどうして居ればよいというのか……。

<中略>だれも明るく親切で、のびのびしている。どこにも陰鬱な死のかげなどはない……そう書くことは出来ても「そんなはずはない」と反問されると、私にはそれを更に説得するだけの力はない。これは今の私が性急に割切って書こうとしてはならないことだ。それよりも、こうして底抜けの明るさを私に見せている人々が、最後にどのような心境で出撃してゆくか?出来るだけ自然にその筆跡を残したい……そう思って私は不案内な鹿屋の町の文房具店で、ようやく一冊、ほこりにまみれてあったわとじの署名帳を捜し出して戻って来た。……

秋風と共に去った男 時岡鶴夫
人生恩に感ず 大木偉央
大き夢に生きん 本田耕一
一念 吉田信
今死を知らんとす亦楽しからずや 町田道教
敢闘精神 石丸進一
南無阿弥陀仏 高野(次郎)中尉 等々

和歌を書いたり、大義、撃沈、無、必中など書いて飛立った人々もあれば、きちんと官姓名だけを書き残していった人もある。-----無阿弥陀仏と書いていった高野次郎中尉は、台湾生れの小林常信中尉と同室していて、彼らはどちらも童貞のままでいった。高野中尉は温和なエンジニア、小林中尉は絶えずみんなを民謡や踊りで笑わせるユーモリストで、彼等は自分たちの部屋に戦災孤児のアキオという少年をとめていた。六つか七つのこの迷い子がひどくいたずらで、よく小林中尉に裸にされては洗われていたが、部隊からの連絡で叔父が熊本から迎えにくると、中尉たちと一緒に飛行機で戦いに行くのだとダダをこねて困らせた。そして「帰らないと連れていってアメリカの上に落としてやる」。 そういわれると、ようやく納得し、新しい大人のダブダブのシャツを着せられ、中尉たちの集めてくれた彼にとっては大金をポケットに納め,ようかんを背負わされてベソをかきながら叔父に連れ去られた。

その小林中尉は高野中尉と一緒に出てゆく前にせっせと麦刈りを手伝っていたが「さて、あちらで結婚式場の用意がよろしいそうで」私の肩を軽くたたいて出撃していった。

こうした思い出を書いてゆくときりがない。私はいつかアキオと同じように、この必死部隊の、明るさ親切さに魅せられ、川端さんや新田氏とわかれ、そのままここを離れ得ない迷い子になってしまっていた……
(昭和三十七年八月八日)(→山岡荘八「最後の従軍」昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」引用)

  ⇒◆特殊攻撃機キ115「剣」と特別攻撃を読む。

  ⇒◆特殊潜航艇「甲標的」による特別攻撃と人間魚雷「海龍」を読む。


写真(上):米軍に鹵獲された人間爆弾「桜花」;右は戦後,横須賀で鹵獲されたと思われる海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」。右は,「桜花」後方の火薬指揮推進ロケットの部分。

1944年6月19-20日、マリアナ沖海戦で大敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を諦めた。1944年7月21日、大本営[軍令部]は「大海指第431号」によって、奇襲特攻を作戦として採用した。1944年3月にすでに人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻舟艇「震洋」と(後日になって)名づけられた特攻兵器による作戦も決定した。桜花を配備した特攻隊神雷部隊の編成も、1944年9月に開始されている。

特攻の生みの親とされた大西瀧治郎中将は、1942年3月以来、海軍の航空本部総務部長に就任しており、実戦部隊とも練成部隊とも遠ざかっていた。その大西中将が、急遽、1944年10月に、フィリピンに派遣され、そこで正式に第一航空艦隊司令官となった。彼は、海軍大学を卒業しておらず、軍令部の艦隊中心の作戦方針に反対していた反骨の人物である。軍令部としては、航空の実力を発揮して、大戦果をあげてみよと、過酷な命令を下したのであろう。

現場に着任後、やっと正規の司令官にしてもらっているのも、おかしな話である。特攻隊の編成を命じてはいるが、特攻のように兵力を激減させ、将兵の士気に衝撃を与える作戦を現地司令官大西中将が独断で採用する権限はない。

神風特攻隊の部隊名称も、軍令部において編成前から決められていた。1944年10月13日起案の「大海機密第261917番電」は、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「大和隊」等をも併せて発表すべきこととされていた。本居宣長の「しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花(はな)」を思い起こして採ったとの俗説もあるが、実際には1942年発行の日本文学報国会『愛国百人一首』や1943年発行の坂口利夫『愛国百人一首通釈』 をめくって、60番の本居宣長を選んだだけであろう。特攻隊の部隊名称が、軍令部からの指示で名づけられ、戦果発表と同時に大々的に宣伝する方針が示されていた。

写真(右):海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」の操縦パネル;降下練習は命がけで,1回しか行わなかったようだ。連合艦隊司令長官などが視察に来るというので,模範演技を依頼された隊員も,「次に桜花で降下するのは本番だけです」といって,断った。降下,着地に失敗して死亡した隊員も少なからずいる状況では,見世物としての降下訓練は,リスクが高く,部隊指揮官たちも,再降下を見せるのを諦めた。

特攻機とされた零戦に250キロ爆弾を装備したが、固定したままで爆発可能なように信管解除装置を改造している。従来の爆弾には、落下中の風圧で解除される風車式信管がついていたが、これを機上で操作できるように改造したのである。現場で大元帥から下された兵器を勝手に改修、配備することは許されないし、改造方法を研究する時間もないから、大西中将は、軍令部の指示で改造したのであろう。

軍令部が定めた特攻作戦が、現場で部隊は発意あるいは大西中将の英断を装って実施に移された。明らかに、作戦の指揮をとるべき軍令部の責任回避であろう。

特攻隊員たちは、苦悩して、それでも純真な気持ちで体当たりしようとしたのであろう。しかし、軍令部やその生き残りたちが流布した「大西中将は特攻隊員の生みの親」という俗説は、特攻隊員たちの心情を思うと、否定されるべきものとと考えられる。


「父さんの陸軍中野学校」中村光男の記す義烈空挺特攻隊
1944年11月27日教導航空軍司令官より宮崎県挺進練習部に命令下達。
第一挺進団第一連隊第4中隊が選ばれ、隊員126名は、12月5日宮崎を発って埼玉県豊岡町(現入間市)陸軍航空士官学校に到着、B-29の実物大模型による破壊演習に取り組んだ。硫黄島攻撃には間に合わず,1945年3月1日,沖縄方面での迎撃作戦である天号作戦が決定された。

◆義号作戦:義烈空挺隊(指揮官奥山道郎大尉)150名による飛行場への空挺特攻
1945年5月8日,義烈空挺部隊は熊本健軍飛行場に進出。ここから,隊員120名は,九七式重爆撃機12機に搭乗し,沖縄の飛行場に着陸し,飛行場を制圧する。その間,航空特攻によって沖縄方面の敵艦艇を撃滅する作戦である。(→新聞報道「義烈空挺部隊」

義烈空挺隊は,1945年5月24日1850健軍飛行場を出撃、12機中北飛行場に6機、中飛行場に2機、着陸成功が報告され、4機がエンジン不調で不時着したという。しかし、実際胴体着陸できたのは、読谷飛行場に1機だけだったようだ。
米軍の被害は、飛行機9機破壊炎上、29機損傷、燃料7万ガロン炎上、死傷者20名。義烈空挺隊の死体は69名が確認された。

沖縄特攻と義烈空挺隊の解説ビデオ:健軍飛行場で出発前の場面を描写。

義烈空挺部隊150名(爆撃機搭乗員を含む)の勇気と自己犠牲にはうたれる。しかし、敵飛行場に強行着陸し,歩兵が広い飛行場を走り回って、駐機している敵機を破壊して回ることが、効果的な作戦といえるのか。飛行場に強行着陸できるくらいなら、航空機による銃爆撃によって、地上の敵機を破壊したほうが早いのではないか。


日本軍は,1945年1月18日、戦争指導大綱で、本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃することを決定した。そのために,兵器開発も特攻が優先された。正攻法では,量,質の両面で連合軍に対抗できなくなっており,戦争末期,軍高官は,精神主義を振りかざして,全軍特攻化を決定し,特攻を唯一の対抗手段とした。

特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。

しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。

特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との古い戦争論・政治学を見直して、国家総動員の下で、憎悪を煽動するプロパガンダ・世論形成、大量破壊・大量殺戮こそが戦争の本質であることを訴えたいと思います。

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