鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
特攻艇「震洋」「マルレ」の開発と戦歴 2007
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◆日本海軍特攻艇「震洋」水上挺進隊・陸軍「マルレ」海上挺進隊
写真(右):1945年9月、横須賀海軍基地、鹵獲した日本海軍の自爆艇「震洋」と特殊潜航艇「海龍」を検分するオーストラリア海軍N級駆逐艦( N class)「ネーピア」(HMAS Napier)の乗員。
:「震洋」は㊃ 艇の秘匿名称で呼ばれた。船首上面に半月状250キロ爆薬を搭載する収納スペースがある。この艇は、舳先の左舷・右舷に対照的に人面(翁?)が描かれている。秘匿名称「SS金物」で呼ばれた特殊潜航艇「海龍」は、1944年3月、日本海軍の軍令部が,戦局の挽回を図るために決定した「特殊奇襲兵器」の試作方針で開発が決定した。ここでが、 1から9の「兵器特殊緊急実験」として、「マルイチ金物」の特殊潜航艇「甲標的丁型蛟龍」、「マルサン金物」の 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)の「海龍」があった。「海龍」は、横須賀の海軍工廠で生産された。水中翼を使って、海中を飛行機のように上昇・下降できるだけの操縦性を与えようとした。当初は、魚雷を胴体両側に懸架して雷撃する予定だったが、魚雷を搭載・攻撃できるだけの速力・機動力が確保できず、魚雷自体も不足した。そして、人間魚雷「回天」と同じく、体当たり命中させる特攻兵器として生産された。
Description Yokosuka Naval Base, Japan. September 1945. Australian naval ratings from HMAS Napier inspecting a Japanese Shinyo suicide launch and a midget submarine alongside each other in the Yokosuka Naval Base. They are, (on launch) Able Seaman (AB) Kevin Sorrenson of Coorparoo, Qld; AB Led Coad of Ballarat, Vic, AB Ian Cox of South Yarra, Vic, and (on submarine) Petty Officer Alan Mole of Mitcham, SA; AB Myer White of Prahran, Vic, and AB Max Dillon of Sygnet, Tas. Note the face painted on the bows of the launch. This is the insignia of the Japanese suicide squad.
Accession Number 019162 Collection type Photograph Object type Black & white, Landscape Physical description Black & white, Landscape Date made September 1945 Conflict Second World War Copyright Item copyright: Copyright expired - public domain
写真は、オーストラリア海軍に1943年入隊、1964年退役したポール・メリック・デクスター(Paul Merrick Dexter)中尉が寄託したコレクリョンの一枚で、Australian War Memorial 019162 引用。

海軍水上特攻隊震洋 人間魚雷「回天」、特殊潜航艇「海龍」のような本格的特攻兵器と比較して、特攻自爆艇は粗末だった。「秘密兵器装備の特別攻撃隊」に志願・配属された将兵たちの多くは、中古エンジン搭載ベニヤ・ボートに落胆した。体当たり艇を配備した海上挺進戦隊・震洋隊の写真は少ない。
横浜ヨット(本社:横浜鶴見区)は,1942年、千葉県銚子市長塚町の県立銚子商業高校に銚子工場を設立していたが,1944年半ばには,マルヨン艇「震洋」の製造を開始(銚子市の特攻艇・震洋製造工場参照)。
◆2011年8月13日ヤフーニュース「元隊員が語る特攻艇『震洋』」に当研究室が掲載された。その1日のアクセスは778人で、戦後66年たっても特攻への関心が衰えていないことに感銘を受けた。「もう、お前たちの乗る飛行機はない」。大空にあこがれて日本海軍に入った少年飛行兵に、上官は告げた。10代の少年たちを待っていたのは、小型モーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻艇震洋」だった。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦の兵士・民家人の話を伺った。
文部科学省2007年3月30日公表「2006年度の教科書検定」で、高校の地理歴史・公民では、沖縄戦の集団自決が「日本軍に強いられた」という内容に対し修正を求める意見が初めてついた。日本史では、沖縄戦の集団自決に関して「日本軍に強いられた」とした教科書7点が「命令したかどうかは明らかと言えない」と指摘された。

【時事ドットコム】日本軍「強制」は修正=沖縄戦集団自決に初の意見−高校教科書の検定結果・文科省(時事通信)2007/03/30に次の記事がある。
「日本軍「強制」は修正=沖縄戦集団自決に初の意見−高校教科書の検定結果・文科省」
 文部科学省は30日、主に高校2年生以上が来春から使用する教科書の検定結果を発表した。日本史で、太平洋戦争末期の沖縄戦の際、日本軍による強制で住民が集団自決したとする記述すべてに初めて検定意見が付き、各教科書会社は「日本軍により」という部分を削ったり、「自決した住民もいた」という表現などに修正したりした。理科や数学では、学習指導要領の範囲を超える「発展的内容」が倍増した。
 沖縄戦の集団自決を扱ったのは6社8点。うち5社7点に「実態について誤解するおそれのある表現」と意見が付き、「日本軍に集団自決を強制された人もいた」が「集団自決に追い込まれた人々もいた」(清水書院)などに改められた。(時事ドットコム引用終わり)

判断基準変更の理由
 峽海量仁瓩あった」とする資料と否定する資料の双方がある
慶良間諸島で自決を命じたと言われた元軍人やその遺族が2005年に名誉棄損の訴訟を起こした
自決命令の有無より住民の精神状況が重視されている。

 教科書の訂正申請報道がなされた3/30-3/31の両日で本webへのアクセスは1万2600件を超えた。

【琉球新報】軍が「死」強要 各地で悲劇(2007年9月29日)に次の記事がある。

【県内自治体の決議】全41議会が抗議 県議会は初の2度可決
 教科書検定に関する意見撤回要求は、豊見城市議会が5月14日に全会一致で意見書を可決したのを皮切りに各市町村で決議が相次ぎ、6月28日までに全市町村が可決した。読谷村議会は1人が反対したが、それ以外の40市町村は全会一致だった。
 県議会と市町村議会の決議文は、「沖縄戦の『集団自決』が日本軍による命令・強制・誘導なしに起こりえなかったことは紛れもない事実。それをゆがめられることは地上戦を体験し、犠牲を強いられてきた沖縄県民にとって、到底容認できない」と強く訴えている。また「係争中の裁判を理由にし、かつ一方の当事者の主張のみを取り上げている」と指摘し、検定の正当性に疑問を投げ掛けている。
 「集団自決」の現場となった自治体を中心に踏み込んだ記述も目立った。伊江村議会は「アハシャガマ、サンダタ壕では日本兵による命令・誘導等により筆舌しがたいほど悲惨な『集団自決』などで多数の住民が死に追い込まれ」と惨劇をつづった。
 読谷村議会は「85人が命を絶った我が読谷村で起こったチビチリガマ『集団自決』においても、当時の母親たちは日本軍がすべてを支配する戦時状況の中で教育され、誘導してきたことを涙ながらに証言している」と記した。
 座間味村と渡嘉敷村議会は「教育とは真実を伝えるもの」と書き出し、「沖縄戦の歴史を正しく伝え、悲惨な戦争が再び起こることがないように」検定意見撤回を求めた。
 糸満市議会は「平和の発信地である本市は、多くの修学旅行生も訪れ、平和学習の場ともなっており、戦争の真実と平和の尊さを伝える役割を担っている。だからこそ、歴史の真実を伝えることは重要」と訴えている。
 県議会でも6月22日に意見書を全会一致で可決した。全市町村の可決を踏まえ、7月4日に県議会、市長会、市議長会、町村会、町村議長会の各代表者による要請団が上京したが、伊吹文明文部科学相(当時)には会えず、対応した布村幸彦審議官は検定意見の撤回を拒否した。  これを受けて県議会は同11日、「文部科学省の回答は到底容認できない」と要請に対する同省の姿勢を厳しく批判し、検定意見撤回を再び可決した。同一定例会中に同様の趣旨の意見書を2度可決するのは初めてで、検定意見の撤回を求める県議会の強い意志をあらためて示した。(琉球新報引用終わり)

岩波書店大江健三郎氏は4月4日に「元少佐側の主張のみを取り上げて教科書の記述を修正させる理由としたことは誠に遺憾で、強く抗議する」との文章を伊吹文部科学相に送付した。文科省が「日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいる」などとした教科書の訂正申請を承認した12月26日、本webへのアクセスは1万3300件を超え、沖縄戦の特攻艇部隊(整備部隊も含む)の重要性を再認識した。

沖縄ノート集団自決を命じたとの『沖縄ノート 』(大江健三郎,岩波新書1970刊行)の記述で名誉を毀損されたの集団自決訴訟(出版差止等請求事件,謝罪広告・損害賠償も含む)をおこしていた,特攻艇マルレ艇」を配備した陸軍海上挺進戦隊第一戦隊長梅沢裕少佐(陸士52期),第三戦隊長赤松嘉次少佐(陸士53期)側は,2008年3月28日の大阪地方裁判所第9民事部の判決で棄却された。
これは「沖縄の座間味島および渡嘉敷島の各守備隊長であった元軍人が住民に集団自決を命じたという記述及びこれを前提とした意見,論評の記述のある書籍について,元軍人及び遺族が,同書籍を出版し又は執筆した被告らに対し,同記述は虚偽の事実を摘示したものであり,元軍人は名誉,人格的利益を侵害され,遺族は亡元軍人に対する敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を侵害されたと主張して,損害賠償及び謝罪広告の掲載を求めた事案において,上記書籍の記述どおりの元軍人の命令を認定することはできないが,同命令があったことを真実と信じるについての相当の理由があったものと認められるなどとして,上記請求が棄却された」。

◆2008年2月,集団自決訴訟の判決直前,証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』 (謝花直美著,岩波新書)とそれに反対する立場の『沖縄戦集団自決-虚構の「軍命令」―マスコミの報道ではわからない』(明成社)が刊行された。

2008年10月31日,沖縄集団自決訴訟の第二審大阪高裁判決で、請求を退けた一審・大阪地裁判決を支持、控訴を棄却した。判決理由は,集団自決に「日本軍が深くかかわったことは否定できず、総体としての軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」と述べた。

特攻艇マルレ艇」を配備し沖縄戦に参加した海上挺進隊の被害は,座間味島の第一戦隊は梅澤隊長は捕虜になったが,第一中隊長伊達達也中尉(陸士57期)・第二中隊長阿部直勝中尉(陸士57期)・第三中隊長津村一之中尉(陸士57期)名を含め戦死70名。第二戦隊は,野田義彦少佐(陸士52期)は捕虜となったが,第一中隊長大下真男中尉(陸士57期)を含め戦死41名,渡嘉敷島の第三戦隊は,赤松隊長は捕虜になったが,戦死22名。沖縄戦の捕虜まつわる歴史的背景は,重要である。

母の遺したもの 新版―沖縄・座間味島「集団自決」 ◆1945年,沖縄本島の「学徒出陣壮行会」が,沖縄女子師範学校の女学生が参加して開催された。宮良英加の答辞。「私は,徴兵検査が繰り下げになって,19歳から入隊しなければならないということを聞かされた時,頭の先からつま先にかけて,鉄の棒を突き刺されたようで,非常に残念でたまらなかった。師範学校に入学したからには,一度は生徒を教えてみたかった。----しかし,いったん戦場に出たからには,生きのびて帰れるとは思えない。女の人は,男子より助かる機会が多いから,生き残ったら必ず伝えて欲しい。戦争は非常なものだ。どんなに勉強したくてもできない。したいことがまだまだたくさんあったのに。戦争のない時代に生まれたかったということを,のちのちの人に伝えて欲しい」(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』pp.73-75参照)。 

【アジア太平洋戦争インデックス】:鳥飼研究室の戦史一覧/【沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献】/ 自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論

1.連合国では,日中戦争以来、日本軍のアジアへの侵略行為、残虐行為が知れ渡り、日本人への反感が高まっていた。司令官の中には、「よいジャップは、死んだジャップだけだ」として、日本兵の殺害を推奨するものがいるほどであった。日本の侵略行為・残虐行為に日本人への人種的偏見が相俟って、対日戦争では欧米流の騎士道精神は期待できなかった。日本軍の特攻作戦も、現在の自爆テロと同じく、狂信的な愚かで卑劣な行為として認識されていた。

写真(右):1942年8月20日、アメリカ、バージニア州、ノーフォーク海軍工廠(Norfolk Navy Yard)で船積みされ、南太平洋方面に進出するアメリカ海軍哨戒魚雷艇USS PT-109
Admiral ジョン・F・ケネディ中尉の哨戒魚雷艇PT 109は、満載排水量: 56 tons、全長Length: 80 ft (24 m)、ビーム Beam: 20 ft 8 in (6.30 m)、吃水Draft: 3 ft 6 in (1.07 m) 、機関Propulsion: 12気筒パッカード(Packard)ガソリンエンジン 1500 hp 3基3軸、最高速度: 41 knots (76 km/h; 47 mph) 、航続時間Endurance: 12 時間, 高速で6時間、乗員Complement: 士官3名,兵・下士官14名、兵装Armament: 21インチ魚雷発射管 4門(Mark 8魚雷4本), 後部に20 mm機関銃1門, (12.7 mmM2 .50 cal .5"連装機銃2基4丁)、前部に37 mm対戦車砲。
日本海軍は、ソロモン諸島でアメリカ海軍の魚雷艇の活躍に悩まされ、後に同じような魚雷艇を開発しようとした。抵抗の少ない船体の設計はできたが、搭載するエンジンに信頼性の高いものがなく、自動車用エンジンを載せたが、出力不足、故障続出で最後まで信頼性の高い高速魚雷艇を量産することはできなかった。
Title: USS PT-109 Description: Stowed on board the Liberty Ship Joseph Stanton, at the Norfolk Navy Yard, Virginia, 20 August 1942. Note heavy bracing at the PT boat's stern and on her deck, to prevent movement as she is transported to the Pacific. Also note her torpedo tubes, engine mufflers and 20mm gun mount, with 109 painted on it. Photograph from the Bureau of Ships Collection in the U.S. National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 19-N-33167 引用。


 のちのアメリカ大統領ジョン・F・ケネディJohn F. Kennedy)海軍中尉(後の大統領)が哨戒魚雷艇Patrol Torpedo boat)PT-109指揮官としての1ヶ月以上の任務を終えて,1943年,ソロモン群島ツラギ島に帰還すると, ウィリアム・ハルゼー提督Admiral William F. "Bull" Halsey)が掲げるように命じた大きな看板が目に入った。そこには次のように書かれていた。「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ!もし任務を的確に果たそうとするなら,黄色い卑怯な野獣を殺せ。」

KILL JAPS !KILL JAPS !KILL MORE JAPS ! You will help to kill the yellow bastards if you do your job well " [From "PT 109 - The Wartime Adventures of President John F. Kennedy" by Robert J. Donovan](→Fleet Admiral William F. 'Bull' Halsey 引用)

写真(右):1943年、 南太平洋、ソロモン諸島、アメリカ海軍哨戒魚雷艇USS PT-109とジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)海軍中尉(右端)ら乗員たち。
"Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' His 'bloodthirstiness' was not just a put-on to gain headlines.
Admiral ジョン・F・ケネディ中尉の哨戒魚雷艇PT 109は、1943年8月1日、ソロモン諸島ニュージョージア島方面に出撃した魚雷艇10隻以上は、日本軍艦船を発見できないまま、帰還することになったが、8月2日午前2時過ぎ、突如、PT109は日本海軍の駆逐艦「天霧」に衝角攻撃され撃沈された。ケネディは負傷したが、救援を求めに出発した乗員が沿岸監視に当たっていたオーストラリア軍との連絡に成功し、乗組員全員が帰還することができた。ケネディ中尉は、救出後半年、1944年1月に本国に帰還したが、父ジョセフは、駐英アメリカ大使の大物だったため、ジョンは、自分の進路を切り開く目的もあって、軍役を勇敢にこなし、早めに危険な戦場から離れたものと考えられる。1944年6月17日『ニューヨーカー』誌で、戦後ヒロシマ報告を書いて有名になる記者ジョン・ハーシーに、ケネディ中尉の勇戦を称える記事が掲載され、ケネディは、父と同じく、全米に知られるようになった。後にケネディは、下院に立候補した。
Title: Lieutenant John F. Kennedy, USNR Description: (standing at right) With other crewmen on board USS PT-109, 1943. This photograph has been retouched. Photograph from the Collections of the U.S. National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 306-ST-649-9引用。


写真(右):1944年1月、海軍勲二等殊勲章を授与されたウィリアム・ハルゼー(William Halsey)提督(右)とそれを祝う海軍長官(Secretary of the Navy)フランク・ノックス(Frank Knox:中央)、海軍作戦部長アーネスト・キング(Ernest J. King)提督;1944年1月、ウルシー環礁の基地から、休暇でアメリカ本土に帰国。"Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' His 'bloodthirstiness' was not just a put-on to gain headlines.
ウィリアム・ハルゼー提督Admiral William F. "Bull" Halsey)の階級;February 2, 1906海軍少尉、February 2, 1909海軍中尉、February 2, 1909海軍大尉、August 29, 1916海軍少佐、February 1, 1918海軍中佐、February 10, 1927、海軍大佐、March 1, 1938海軍少将、June 13, 1940海軍中将、November 18, 1942海軍大将、December 11, 1945海軍元帥。提督は海軍元帥に相当するが、少将以上であれば陸軍で将軍と見做すのと同様、海軍は提督と呼称することもある。
Description: With Secretary of the Navy Frank Knox (center) and Admiral Ernest J. King at the Navy Department, Washington, D.C., in January 1944. He had just been presented with a gold star in lieu of a second Distinguished Service Medal. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-13716引用。


ハルゼー提督は,敵国日本人が過酷な戦場では肉体的に優れているという米軍の恐怖心を否定することがぜひ必要であると信じていた。そこで,「'Kill Japs 日本人どもを殺せ」Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' というスローガンを掲げた。「死んだ日本人がいい日本人だ」として人種的に侮辱し,戦意を高めた。勇猛果敢な戦闘精神の権化ともいえるハルゼーは,特攻をジャップの自爆テロとして憎悪した。
He strongly believed that by denigrating the enemy he was counteracting the myth of Japanese martial superiority . . . ' "Halsey's racial slurs made him a symbol of combative leadership, a vocal Japanese-hater . . . "

「米軍兵士はカミカゼ特攻隊を恐れ,畏敬の念を抱いていた」とする日本人識者は多い。しかし,当時の米兵から見て,カミカゼ・パイロットはテロリストであり,米兵は、戦利品として,戦死した特攻隊員の遺体を皿に載せ,ジャップ・ステーキとして嘲笑したり,遺骨・特攻機の破片や残骸を戦利品として持ち帰っていた。現在でも、寄せ書きの有る日章旗や軍隊手帳が、遺族に返却される「美談」が報じられる。このような戦利品spoil of warが持ち帰られた一因には、日本兵への敵意や憎しみがあった。現在でも、「自爆テロリスト」を,愛国心のある立派な若者であるとして,尊敬するものが例外なのと同じである。米兵の中には,戦死した特攻隊の死体を艦艇上で見つけ,海葬にしてた時もあったが,これは例外である。

体当たり特攻を行うジャップは、卑劣な憎むべき敵(=自爆テロリスト)である。冷静な研究者や元軍人は別にして,カミカゼに直面していた大半の米兵たちは,戦友や自らの命を奪うカミカゼを「自爆テロ」として,憎悪,嫌悪していた。

しかし,人が死を選び,命を捧げ,投げ出すとき,容易なプロセスで,計画的な必死の作戦を遂行できるものではない。また,祖国や家族を守るための破壊行為の善悪,それを行う個人の意思を判断するのも容易ではない。

■⇒レイテ戦の神風特攻隊:特攻第一号と特攻の生みの親大西中将の神話

2.1944年10月20日,レイテ戦の捷一号作戦で,日本軍の航空機による特攻作戦が展開された。しかし,1944年3月には、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し,1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図した。陸軍の突撃艇(マルレ艇)は,1944年6月15日に設計を開始し,7月11日に試験演習を隅田川で行った。

捷一号作戦の最中、1944年10月、第一航空艦隊司令官大西瀧治郎海軍中将の指揮下、「特攻第一号」関行男大尉(海軍兵学校出身)が、250キロ爆弾搭載のゼロ戦で敵に体当たり、戦死した。しかし、その半年以上も前,1944年3月に人間魚雷「回天」の試作が,「㊅金物」(マルロクカナモノ)として命じられている。「回天」は,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kgの特攻自爆兵器である。

1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定している。
特殊奇襲兵器: 「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」 
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」「甲標的丁型蛟龍」として量産、蛟龍の実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型特殊潜水艇「海龍」として試作・量産,実戦参加なし
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器



写真(右):人間魚雷「回天」
;ホノルルにある潜水艦「ボーフィン」博物館に展示。潜水艦「ボーフィン」は,1944年に学童疎開船「対馬丸」を撃沈した。それが真珠湾で撃沈された戦艦「アリゾナ」の近くに展示してあるのは,報復・仕返しの意味があるようだ。

人間魚雷「回天」とは,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており,騒音を発し,操縦性も悪い日本の大型潜水艦が,米軍艦船を襲撃するのは,自殺行為だった。「回天」の技術的故障,三次元操縦の困難さも相まって,戦果は艦船2隻撃沈と少ない。

  1943年6月の段階で、侍従武官としてラバウル基地の戦闘を視察し、その実情を憂えた城英一郎大佐(航空専攻)は,南東方面から帰国後,1943年6月に大西瀧治郎中将に体当たり特攻必要性を提案している。その後,大西瀧治郎中将は軍需省に転任したが、彼も航空機材の生産・整備,搭乗員の要請・補充は困難な状況にあることを身をもって悟った。


写真(右):突撃艇「マルレ」 ;慶良間海洋文化館の展示。突撃艇の最高速力は20ノットで,駆逐艦(30ノット)を追いかけることはできないので,待ち伏せ攻撃をかけるしかない。しかし,輸送船(10ノット)に対してならば、積極的な攻撃を仕掛けることは可能である。


大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』の1944年7月11日には,次の記述がある(保坂正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.167-168引用)
「突撃艇ノ試験演習ヲ隅田川デ実施,
自重1屯(),自動機関ヲ利用,速力20節,兵装ハ爆雷2箇(1箇100瓩())航続時間五時間
右突撃艇ハ泊地ノ敵輸送船ニ対スル肉薄攻撃用トシテ先月十五日(「サイパン」上陸ノ日)設計ヲ開始シ七月八日試作ヲ完了セルモノナリ,
速力及兵装ノ点ニ於テ稍々不十分ナルモ,今後ハ斯カル着想ノ下ニ,此種兵器を大量整備スルヲ要ス」 

宮内庁(2018)『昭和天皇実録』第九によれば、1944年8月2日(水曜)、陸軍大臣杉山元元帥は、大元帥昭和天皇に謁見し、「肉薄攻撃艇による敵艦船攻撃法」につき奏上している。これは、7月の突撃艇の実験成功を受けて、特攻艇として大量生産、特攻隊の部隊編成が決定されたことを意味する。

 特攻艇は、海軍でも㊃ 「震洋」として進んでおり、1944年5月27日に㊃ 兵器の試作艇,すなわち後の「震洋」が完成している。乗員の準備は,1944年7月5日に㊃ 艇第一次要員が発令され,7月15日に講習が開始されている。


軍による特攻「作戦」計画は、1944年6月マリアナ沖海戦での日本海軍空母機動部隊の壊滅,大敗北が契機になった。サイパン島争奪戦で敗北した日本陸海軍は,米軍の航空機,空母任務部隊,大艦隊,輸送船団などの威力を思い知り,正攻法で,対抗することは不可能に近いと悟った。そこで,1944年7月21日大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,特攻作戦を本格的に準備し始めた。


海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。

日本海軍の統帥部は,軍令部である。「海軍軍令部」は,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。作戦について天皇を輔弼する機関であり、陸軍の参謀本部に相当する。長たる海軍の軍令部総長は,陸軍の参謀総長と対等の立場で,大元帥の天皇に直隷する。

大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。軍令部総長は海軍に対して作戦に関する指揮・指示をする。陸軍参謀本部では、「指揮・指示」といわず「区処」という。大海指第431号は,海軍軍令部の出した指示で,そこに特攻作戦採用が明示された。軍隊では、命令により部隊が編成され,隊名・隊長が任命される。特攻志願者が、「自発的に」軍の管理する航空機、爆弾、燃料を使用することはできない。

3.フィリピン戦線を指導した第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が,「特攻の生みの親」であるという神話は,日本の大本営海軍部(軍令部)の特攻隊編成と特攻作戦の組織的実施を隠蔽するかのごとき表現である。1944年7月21日,大本営海軍部の「大海指第431号」でも,奇襲攻撃として特攻作戦が計画されている。「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度、「敷島隊」「朝日隊」の部隊名をも併せて発表すべきこと」となっている。つまり,軍上層部が、250キロ爆弾を搭載したゼロ戦特攻機から編成された神風特別攻撃隊の作戦を進めていた。

特攻ゼロ戦250キロ爆弾を搭載して出撃したのは,フィリピンのルソン島の航空基地からで,1944年10月20日,21日と連日のように出撃し,見送りが盛大に行われた。しかし,連日の出撃にもかかわらず,敵艦隊を発見できずに引き返していた。日本では,10月25日出撃の関行男大尉を特攻第一号として公認し,本居宣長の和歌に因んだ敷島隊五名だけが全軍布告された。それ以前に未帰還だったゼロ戦特攻隊員は,黙殺され,特攻(第一号)の認定は受けることができなかった。戦果がない以上,当然だという立場である。

大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。 
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

1.各種作戦
ヾ霖蝋匐部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

2.奇襲作戦
ヾ饅浦鄒錣謀悗瓩襦E┫和發鯀或丙拠地において奇襲する。
∪水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
6秒牢饅永捨呂鯒枷し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。

特殊奇襲兵器=特攻兵器を推進した作戦要領)

関行男 以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前の1944年7月21日、大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特攻,特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,国学者本居宣長の和歌に因んだ特攻隊名をつけた神風特攻隊を編成した。また,統帥権を侵犯する特攻はありえない。大元帥昭和天皇に特攻作戦の準備を知らせないままにしていたということもない。(特攻計画は報告されている)

生き続けてしまった,死にきれなかった軍上層部の将官や佐官以上の将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人たちもいえる。自殺など容易にできることではなく,しかたがないだろう。しかし,特攻隊を編成させた軍人の中に,参議院議員,大会社の顧問に就任して,日本の戦後復興に尽くすことができるほど,堂々としていた,している人たちがいた。軍の名誉と特攻隊・犠牲者への思いはどうなったのか。

彼らが「自発的に体当たり攻撃を始めために特攻隊が生まれた」というのは,英霊の名誉と自己犠牲の精神に共感するからではないだろう。大本営,軍上層部の要職にあった自分たちの,指揮官としての責任を認めない強弁に映ってしまう。

 戦局挽回のためには,体当たり特攻攻撃を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものであろう。
〕ダなアメリカ軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
∧瞳海鉾新發靴討癲て本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
D名鏐況發鮖迭櫃韻董て本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも,必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。

〃蛎發僚斗廚癖軸錣任△觜匐機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
5爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
て湛饗發了峇蠎圓鯤腓,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。


自発的な特攻や体当たり攻撃がやむをえない状況で行われのは確かであるが,それば「特攻隊」という部隊編成の形で行われた攻撃ではない。特攻「隊」は,軍の統率する部隊であり,自然発生的に生まれるれるものではない。特攻隊は,軍上層部の事実上の命令によって作られた。

「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は,1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。特攻艇マルレ艇」もサイパン戦の時期に試作が完成している。
このような特攻兵器を改革・量産している以上,軍が特攻作戦を推進したことは明らかであり,「特攻隊は自然発生した」とはいえない。「特攻」とは日本軍の作戦の一環であり,「特攻自然発生説」(現地部隊の発意による犠牲的精神の自発的な表現が特攻である)は成り立たない。  

特攻隊として出撃した若者たち,下級兵士,学徒には,その気落ちを思うと複雑な心境になる。たしかに,自己犠牲によって,命を家族や日本に捧げようと思ったり,捧げざるをえないと諦観に達したりしたのだと思うと,若者たちの健気さに圧倒される。現在の若者たちは,特攻隊員を犬死であると軽蔑していると一方的に決め付ける「識者」もいるが,そんなことはない。横山 秀夫(2004)『出口のない海』のレビューを呼んでも,特攻隊員の志は,尊重され,作戦には怒りが投ぜられている。問題は,個人の思惑,感情に拘泥されないで生み出された日本軍の特攻作戦の冷酷さと非人間性にあると思われる。

軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布した。つまり,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,後に続く特攻隊員の確保にも配慮した。

日本海軍は特殊任用令によって、攻撃により偉勲をたてたと認められ、全軍布告された特攻隊員について、下士官は少尉に特進させ、兵は准士官に特進させる「特別任用」を採用した。

 他方、特攻兵器(奇襲特殊兵器)の開発・量産も,一軍人のなしえることではなく,軍が主導して当然である。個々の兵士も,軍のメンバーであれば,軍が進める特攻化の中に組み込まれる。個人の意思で特攻を選択するかどうかは,最終的には問題とならない状況におかれている。

公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)で「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とあるし (p.245)、「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(同年4月1日)には「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」としている(p.199)。

 1944年10月フィリピン戦以来,日本軍は特攻作戦を正式に採用したが、戦争末期になると,全軍特攻化するしかない状況に追い詰められた。そこでは,将兵の個々の意思で特攻を志願するかどうかは,すでに問題ではない。全軍特攻化であれば,将兵は,いやおうなく特攻隊員に組み込まれる。

しかし,日本軍は,特攻隊員とその家族・遺族に配慮をした。特攻隊員が,祖国,家族を守るために特攻するのであれば,家族のことを配慮することが,隊員の士気を鼓舞することになる。このように遠謀深慮した日本軍は,特攻隊員の家族・遺族に対して,特別に年金を割り増した。

1944年11月29日,日本陸海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布し,特攻戦死した将兵で,戦効をあげた者には,特殊任用として,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにした。その軍人恩給戦没者遺族年金)の年金給付額は,引き上げられた。家族を保護して,後に続く特攻隊員を確保したのである。

特攻で全軍布告することで,遺族への軍人軍属の恩給戦没者遺族年金)は倍化した。全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,軍人軍属の恩給戦没者遺族年金)など経済的な保障を得ることができた。

 特攻隊員たちも,残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟する。特攻による名誉の戦死は,まさに「親孝行」につながった。


特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制の結果、神風特攻隊敷島隊所属の関行男大尉以下5名は,特別任用の初めての対象となった。敷島隊の特攻作戦で,四階級特進して飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は三級特進して少尉となった。特攻で全軍布告することで,軍人恩給(遺族年金を含む)は倍化され,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができた。

  特攻隊に任命された若者は,自分を死に向かわせた状況=敗色濃い戦争を受け入れても,特攻隊を作戦として利用するが必死からは逃れうる人々=軍司令官や部隊指揮官に対して,無感動,無感情でいられたとは思えない。しかし,軍隊の中で,上官の命令を議論しても無駄であることをみな知っていた。自分の死を有意なものしなければ,特攻から逃れたくなるかもしれない。逃れられない運命であれば,愛するもの=家族・日本を守るために,命を捧げる,として自分の死と命を一つにするしかないのではないか。

4.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として、体当たり自爆兵器の開発・作戦を開始した。こうして、自爆用の特攻艇マルレ艇」、㊃金物「震洋」のほか,人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾MXY-7「桜花」など特攻兵器が量産され,それに乗り込む特攻隊員も集められた。自生的,自発的に5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。純粋な犠牲的精神の発露ではあるが,事実上,出撃を強要した指揮官がいた。その責任を回避するために,兵士たちの中から特攻が自然発生したと強調すれなら、これは特攻隊員の人生や命を軽視することである。

 特攻は最善の方法だったわけではないが,跳飛爆撃などほかの手段は,特攻隊員はもちろん,大半の軍人でも選択することは不可能であった。1944年の段階で,「特攻作戦の是非」を決めることは,大元帥,将官クラスの軍人にしか許されないことであろう。

条件付降伏の提案も考慮できないような戦争指導の中で,とにかく戦機を得て敵に大打撃を与え,和平への糸口を掴むという方針で臨んだようだ。しかし,米軍にしてみれば,損害を与えられたからといって,怖気づいて和平交渉に応じるつもりは,戦争を始めてから一度たりともなかった。戦意が旺盛な米軍は,日本を無条件降伏させるという強硬な方針を貫こうとしていた。日本は,国体,すなわち天皇制の護持を最優先事項にしており,それに気がついていた米軍の軍人もいた。しかし,ひとたび参戦した以上,米英とも無条件降伏にこだわった。したがって,たとえ特攻作戦がより大きな戦果を挙げたとしても,日本は米国と和平交渉を始めることはできなかったと考えられる。

 1944年3月、日本海軍軍令部は,戦局の挽回を図る「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」を決定し、㊀金物 潜航艇(特殊潜航艇甲標的」改良型「蛟龍」)、㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS:小型潜水艇「海竜」)、㊃金物 船外機付き衝撃艇「震洋」、㊅金物(人間魚雷 「回天」)など特攻兵器の開発が開始された。

写真(右):1945年9月7日、神奈川県横須賀海軍基地、日本海軍の特攻舟艇「震洋」の残骸の中に嚮導用舟艇がある。横須賀基地を検分したアメリカ軍が撮影。オリジナルの説明では、 Japanese "Shinyo" Type Explosive Motorboat 、すなわち「震洋」爆破モーターボートとされる。:横須賀には、横須賀海軍鎮守府があり、その隷下の第七特攻戦隊に特攻艇「震洋」が配備された。写真の舟艇には、艦首に爆薬収納庫がなく、船体中部に大型の観測室(?)が設けられている。特攻艇を率いる2人乗り嚮導用舟艇かもしれない。
Title: Japanese "Shinyo" Type Explosive Motorboat Caption: At the Yokosuka Naval Base, Japan, 7 September 1945. Copyright Owner: National Archives Original Date: Fri, Sep 07, 1945 Original Medium: BW Photo
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-339836 Japanese "Shinyo" Type Explosive Motorboat 引用。


 体当たり自爆兵器の一つである「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。1943年12月28に,海軍の特殊潜航艇「甲標的」第5期講習員であった黒木博司中尉、特殊潜航艇「甲標的」第6期講習員であった仁科関夫少尉が,人間魚雷の計画を海軍省へ陳情しているが,自分勝手に兵器の研究に,時間・資材・金銭を費やすことのできる軍人はいるはずがない。

兵学校(海兵)・機関学校(海機)出身者の場合,本人の配属希望を考慮し選考し,口頭での転勤命令(指名)による。
したがって,特殊兵器の内容は,機密事項として公表しないまま志願者を募ったり,命令によったりして,特攻艇マルレ艇」「震洋」や人間魚雷「回天」の搭乗員となる特攻隊員が選ばれていた。画期的な最新兵器を扱うと期待感に胸膨らませた兵士たちが,人間魚雷の実態を知ったとき,どのように感じたのか。

5.日本陸海軍は、水上特攻のための体当たり自爆用のモーター突撃艇マルレ艇」、㊃「震洋」を量産,配備した。そして,1945年10月から1945年2月のフィリピン戦で、水上特攻艇による自爆体当たり攻撃を、米軍艦船に対して実施した。これも, 1944年7月21日の大海指第431号で奇襲作戦をになうとされた特攻艇「震洋」あるいは,陸軍のマルレ艇である。特攻艇の発案者は伝えられていない。この特殊兵器の開発・部隊編成には,軍上層部が積極的に関与したのは当然である。

特別攻撃は特攻と呼ばれ,体当たりの自爆攻撃であるが,海軍の兵士たちの志願,自発的な希望によって開始されたと言われることがある。しかし,軍隊で勝手な個人的行動が作戦として認められたり,兵器を勝手に開発・製造することはできない。軍隊とは,現場の臨機応変な対応にしても,すべては基本的な作戦命令によって行動するところである。

写真(右):1945年9月、日本降伏後、オランダ領東インド(蘭印:現在インドネシア)、セレベス島西岸マッカッサル、オーストラリア軍の鹵獲した日本海軍の自爆艇「震洋」改一型(Japanese suicide launch, Shinyo Improved Type 1)とある。:「震洋」は、ベニア船体に、1929年型シボレー直列6気筒自動車エンジン(Chevrolet straight-6 engine)を搭載したモーターボート。シボレー(Chevrolet)とは、アメリカのゼネラルモーターズ (GM) が製造・販売する自動車のブランドである。
Description : Macassar, Celebes, 1945-09. A Japanese suicide launch, Shinyo Improved Type 1, on a slipway in a cradle ready to be launched. The boats were designed as a one man suicide craft and were fitted with a large TNT charge in the bows or two depth charges mounted on the foredeck. This particular boat had two depth charges mounted on the foredeck, which have now been removed, and was powered by a 1929 Chevrolet six cylinder car engine. Standing in front of the boat is Paymaster Lieutenant D.J.M. Wyles RANR(S) from HMAS Warrego. (Donor J. Betty)
Accession Number P02305.067 Collection type Photograph Object type Black & white - Film copy negative Maker Betty, John Conflict Second World War Copyright Item copyright: Copyright expired - public domain
写真はAustralian War Memorial P02305.067引用。


「海の墓標は特攻艇「震洋」か - 戦跡 薄れる記憶 」 NHK2017/08/16 放送によれば、高部博氏(東京都立川市在住)は、14歳で志願して予科練習生(海軍少年兵)となり、1945年4月、16歳の時、配属されたのは航空部隊ではなく、千葉県館山市波左間(はさま)の第59震洋隊だった。 「こんなもので走ってもたかがしれている」と疑問もあったが、「これしかない」と覚悟を決めた。戦局打開に命を投げ出して当然という時代であり、予科練生徒の多くは、特攻を受け入れていた。 館山市波左間第59震洋隊の元隊員高部博氏は「これが最善の選択だと純粋に受け止めて『死ぬ訓練』に没頭していた」「めちゃくちゃな時代だった。志願もしていないのに、意志の確認もないまま、おまえたちはこれから特攻隊だから遺書を書けって言うんだから…」という。終戦後、高部博氏は館山波左間沖に第59震洋隊の「震洋」を海没処分した。

写真(右):1945年9月、終戦後、ボルネオ島(現在、カリマンタン島:マレーシアのサバ州)北西岸、サンダカンに配備された日本海軍の自爆艇「震洋」改1型がオーストラリア海軍グリムスビー級スループ(Grimsby class sloop)「ワレーゴ」(HMAS Warrego )に接近してきた。降伏後の話し合いを持つためである。:「震洋」が搭載した1929年型シボレー直列6気筒ガソリンエンジン(Chevrolet straight-6 engine)は、ゼネラルモーターズ社 (GM:General Motors Corporation)が開発、製造。シリンダー・ボア84 mm、ピストン・ストローク95 mm、排気量は 3.2 L、3.0 L、3.4 Lの各種があり、1929年から1936年まで製造。1927年、日本ゼネラル・モータースが、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、大阪で自動車生産(組立)を開始し、全国で販売した。しかし、1941年、日米関係が悪化すると、撤退した。日本はその自動車生産技術を咀嚼し自動車生産を行った。シボレー(Chevrolet)は、ゼネラルモーターズ (GM)のブランド名である。
Description : Sandakan, Borneo, 1945-10-14. The envoy from the Commander of the Japanese forces at Sandakan in a Japanese Shinyo suicide launch comming alongside HMAS Warrego for a meeting with Warrego's captain, Commander Hunt OBE RAN, to receive instructions on the transition to allied control and an inspection of Japanese facilites by Commander Hunt. (Donor J. Betty)
Accession Number P02305.073 Collection type Photograph Object type Black & white - Film copy negative Maker Betty, John
写真はAustralian War Memorial P02305.073 引用。


「海の墓標は特攻艇「震洋」か - 戦跡 薄れる記憶 」 NHK2017/08/16 放送によれば、伏島誠氏(相模原市在住)は、14歳で予科練に入り、ある日、名前を呼ばれて整列し、川棚魚雷艇訓練所に移動した。そこで、初めて「震洋」を見て「なんてちっぽけな船なんだ」と感じ、簡素な造りに驚いたという。「震洋」は、川棚魚雷艇訓練所での訓練中も、浸水や沈没が頻発し、死と隣り合わせだった。1945年7月、館山波左間の隊員数176人からなる第59震洋隊に配属、終戦。「これでお袋のところに帰れる」と安堵したという。元館山第59震洋隊員の伏島誠氏は、戦後、記憶を頼って震洋の模型を作成したが。「震洋」の爆薬の容器には信管3基が繋がっていた。
「海の墓標は特攻艇「震洋」か - 戦跡 薄れる記憶 」 NHK2017/08/16 放送引用終わり)

写真(右):1945年9月、日本敗戦後、ボルネオ島(現在、カリマンタン島:マレーシアのサバ州)北西岸、サンダカンに配備された日本海軍の自爆艇「震洋」がオーストラリア海軍グリムスビー級スループ(Grimsby class sloop)「ワレーゴ」(HMAS Warrego )に接岸した。: 「震洋」船体中央部に、1929年型シボレー直列6気筒ガソリンエンジン(Chevrolet straight-6 engine)が見える。1930年10月、ロンドン軍縮条約London Naval Treaty)で、重巡洋艦を備砲6.1インチを超え8インチ以下で排水量1万トン以下、軽巡洋艦は備砲5.1インチを超え6.1インチ以下で排水量1万トン以下、駆逐艦は備砲5.1インチ以下で排水量は600トンを超え1850トン以下と区分し、各国の保有量を決めた。この制限に捉われないような小艦艇として、フリゲート(Frigate:巡洋護衛艦)、スループ(Sloope:中型護衛艦)、コルベット(corvette:小型護衛艦)が建造された。
Description : Sandakan, Borneo, 1945-10-14. The envoy from the Commander of the Japanese forces at Sandakan climbing down the ladder from HMAS Warrego to board the Japanese Shinyo suicide launch alongside Warrego. Warrego's captain, Commander Hunt OBE RAN, ordered the meeting to deliver instructions to the Japanese Commander, Colonel Otsaka, on the transition to allied control and an inspection of Japanese facilities by Commander Hunt. (Donor J. Betty)
Accession Number P02305.072 Collection type Photograph Object type Black & white - Film copy negative Maker Betty, John
写真はAustralian War Memorial P02305.072引用。


オーストラリア軍は、日本降伏後、日本軍が占領しているボルネオ島北岸に進駐した。日本軍を武装解除するためである。その時、サンダカンでは、特攻艇「震洋」24隻を発見した。そのうち6隻は稼働状態にあった。

 日本海軍の㊃「震洋」が搭載したエンジンは、1929年型シボレー直列6気筒自動車エンジン(Chevrolet straight-6 engine)で、ゼネラルモーターズ社 (GM:General Motors Corporation)が開発、製造したガソリンエンジンである。シリンダー・ボア(Cylinder bore)3.3125 インチ (84 mm)、ピストン・ストローク(Piston stroke)3.75インチ (95 mm)、排気量は 194立方インチ (3.2 L)、181立方インチ (3.0 L)、 207立方インチ (3.4 L)の各種があり、本社では1929年から1936年まで製造された。日本には、1927年、日本ゼネラル・モータースが設立され自動車生産を始めたが、これは部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、大阪に組立工場が設立された。日本、朝鮮半島、台湾、満洲でも販売されたが、悪化する日米関係の影響で、1941年に操業中止となる。ただし、日本はそれまでに自動車生産技術を吸収し、模倣できるようになりつつあった。シボレー(Chevrolet)とは、アメリカのゼネラルモーターズ (GM) が製造・販売する自動車のブランドである。

写真(右):1945年9月、ボルネオ島(現在、カリマンタン島:マレーシアのサバ州)北西岸、サンダカンに配備された日本海軍の自爆艇「震洋」に試乗するオーストラリア海軍バサースト級コルベット(Bathurst-class corvette)「デロレーヌ」(HMAS Deloraine)の乗員。:オーストラリア軍が検分した「震洋」は、1929年型シボレー直列6気筒自動車エンジン(Chevrolet straight-6 engine)を搭載していた。1930年のロンドン軍縮条約London Naval Treaty)では、巡洋艦(備砲5.1インチを超え8インチ以下、排水量1万トン以下)、駆逐艦(備砲5.1インチ以下で排水量は1850トン以下)の各国保有トン数を制限した。そこで、保有制限外の小艦艇として、フリゲート(Frigate:巡洋護衛艦)、スループ(Sloope:中型護衛艦)、コルベット(corvette:小型護衛艦)の名称が復活した。
Description : A Japanese Shinyo suicide launch which was captured by the crew of HMAS Deloraine, brought back to Australia and presented to the Australian War Memorial. Six of the 24 captured boats were in operational readiness. This image is from the collection of Lieutenant Paul Merrick (Mick) Dexter, who enlisted in the Royal Australian Naval Volunteer Reserve (RANV) in 1943, and was a watchkeeper and anti-submarine specialist on Corvettes between 1944 and 1946. He continued to serve in the RANV after the Second World War, resigning his commission in 1964.
Unit Royal Australian Naval Volunteer Reserve Accession Number P08424.021 Collection type Photograph Object type Black & white - Digital file TIFF Maker Unknown Place made Borneo: North Borneo, Sandakan Date made c September 1945
写真は、オーストラリア海軍に1943年入隊、1964年退役したポール・メリック・デクスター(Paul Merrick Dexter)中尉が寄託したコレクリョンの一枚で、Australian War Memorial P08424.021 引用。


写真(右):1945年9月、ボルネオ島(現在、カリマンタン島:マレーシアのサバ州)北西岸、サンダカンに配備された日本海軍の自爆艇「震洋」に試乗するオーストラリア海軍バサースト級コルベット(Bathurst-class corvette)「デロレーヌ」(HMAS Deloraine)の乗員。:サンダカンでは、特攻艇「震洋」24隻を発見した。そのうち6隻は稼働状態にあった。1930年ロンドン軍縮条約London Naval Treaty)では、重巡洋艦を備砲6.1インチを超え8インチ以下で排水量1万トン以下、軽巡洋艦は備砲5.1インチを超え6.1インチ以下で排水量1万トン以下、駆逐艦は備砲5.1インチ以下で排水量は600トンを超え1850トン以下と区分し、各国の保有量を決めた。この制限に捉われないような小艦艇として、フリゲート(Frigate:巡洋護衛艦)、スループ(Sloope:中型護衛艦)、コルベット(corvette:小型護衛艦)が建造された。
Description : A Japanese suicide launch which was captured by the crew of HMAS Deloraine, brought back to Australia and presented to the Australian War Memorial. Six of the 24 captured boats were in operational readiness. This image is from the collection of Lieutenant Paul Merrick (Mick) Dexter, who enlisted in the Royal Australian Naval Volunteer Reserve (RANV) in 1943, and was a watchkeeper and anti-submarine specialist on Corvettes between 1944 and 1946. He continued to serve in the RANV after the Second World War, resigning his commission in 1964.
Unit Royal Australian Naval Volunteer Reserve Accession Number P08424.022 Collection type Photograph Object type Black & white - Digital file TIFF Maker Unknown Place made Borneo: North Borneo, Sandakan Date made c September 1945
写真は、オーストラリア海軍に1943年入隊、1964年退役したポール・メリック・デクスター(Paul Merrick Dexter)中尉が寄託したコレクリョンの一枚で、Australian War Memorial P08424.022引用。


写真(右):1945年10月14日、イギリス領ボルネオ島(現在、カリマンタン島:マレーシアのサバ州)北西岸、サンダカンで引き渡された日本海軍の自爆艇「震洋」に試乗し遊ぶオーストラリア海軍グリムスビー級スループ(Grimsby class sloop)「ワレーゴ」(HMAS Warrego )の乗員
Description :Sandakan, Borneo, 1945-10-14. A Japanese Shinyo suicide launch carrying an envoy from the Commander of the Japanese forces at Sandakan approaching HMAS Warrego to receive instructions from Warrego's captain, Commander Hunt OBE RAN. (Donor J. Betty)TRUCK.
Accession Number P02305.070 Collection type Photograph Object type Black & white - Film copy negative Maker Betty, John
写真はAustralian War Memorial Accession Number 120477 引用。


英領マレーのボルネオ島サンダカンは、日本海軍が占領していたが、そこには戦争末期、震洋隊が配備された。終戦後、オーストラリア軍がサンダカンに進駐、日本軍指揮官は、特攻艇「震洋」を引き渡たした。引き渡した特攻艇「震洋」24隻のうち6隻は稼働状態にあった。この中の1隻がオーストラリアに海路輸送され、現在もオーストラリア戦争記念館に室内展示されている。特攻艇「震洋」の600ポンド(250圈貿薬を船首に設けられた半月型格納庫に搭載する体当たり自爆艇である。

写真(右):1945年10月23日、イギリス領ボルネオ島(現在、カリマンタン島:マレーシアのサバ州)北西岸、サンダカンで引き渡された日本海軍カミカゼ艇(JAPANESE KAMIKAZE BOATS) 「震洋」に試乗し遊ぶオーストラリア軍兵士たち:特攻艇「震洋」は1人乗りだが、操縦者と指揮官の2名乗せる指揮艇も開発された。また、船首には600ポンド(250圈砲鯏觝椶靴覆韻譴弌△修海3人乗せて走行可能だった。写真では、合計5名が乗船して遊んでいる。
Description :SANDAKAN 1945-10-23. NORTH EAST BORNEO FORCE. ROYAL NAVY PERSONNEL TRYING OUT JAPANESE KAMIKAZE BOATS IN SANDAKAN HARBOUR. THE BOATS CARRIED A 600 LB EXPLOSIVE CHARGE IN THE BOW.
Accession Number 120425 Collection type Photograph Object type Black & white Physical description Black & white Maker Burke, Frank Albert Charles, Burke, Frank Albert Charles
写真はAustralian War Memorial Accession Number 120425 引用。


特攻艇「震洋」は本来、乗員1名だが、指揮艇として、操縦者と指揮官の2名を乗員とする特攻艇も開発された。しかし、船首には600ポンド(250圈貿薬を装備できるため、それを積まなければ、乗員を3名は追加して乗せることができた。

写真(右):1945年10月24日、ボルネオ島(現在カリマンタン島)北西岸、サンダカンに配備された日本海軍の自爆艇「震洋」用600ポンド(250圈貿薬を格納庫から桟橋に運搬に、海上投棄処分に駆り出される日本軍の捕虜。:オーストラリア軍の指示で、特攻艇「震洋」の600ポンド(250圈貿薬は、集めてから小舟で沖合に運ばれ、海中投棄処分された。火薬の海洋投棄でも不安が残るが、ガス弾・毒ガスなど化学兵器であれば、後年までその危険性は減じないため、21世紀になっても、第二次大戦に関わる遺棄化学兵器が問題となっている。
Description :SANDAKAN 1945-10-24. NORTH EAST BORNEO FORCE. JAPANESE LOADING 600 LB EXPLOSIVE CHARGES TAKEN FROM CAPTURED KAMIKAZE SUICIDE BOATS INTO A SMALL TRUCK.
Place Asia: Borneo, North Borneo, Sandakan Accession Number 120477 Collection type Photograph Object type Black & white Physical description Black & white Maker Burke, Frank Albert Charles, Burke, Frank Albert Charles Place made Borneo: North Borneo, Sandakan Date made 24 October 1945
写真はAustralian War Memorial Accession Number 120477 引用。


写真(右):1945年10月24日、ボルネオ島(現在カリマンタン島)北西岸、サンダカンに配備された日本海軍の自爆艇「震洋」用600ポンド(250圈貿薬を小型トラックに載せて、格納庫から桟橋に運搬しようとする日本軍の捕虜。:日本は、1997年4月「化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約(化学兵器禁止条約)が発効したのを受けて、主に中国における遺棄化学兵器を廃棄処理を実施するとした。そこで、遺棄化学兵器処理問題の縦割り行政の弊害を少しでも減じようと、内閣官房内閣外政審議室に遺棄化学兵器処理対策室を設置した。しかし、遺棄化学兵器の廃棄処理を実行するには、官僚機構の責任体制も問題となるため、1999年4月には、総理府(現内閣府)に遺棄化学兵器処理担当室を設置した。さらに、2015年4月からは、この対策室はやめて、内閣府遺棄化学兵器処理担当室が一元管理することになった。こうした変遷を一瞥しただけで、日本の政治・行政の消極性、責任回避が迅速な遺棄化学兵器問題の解決を遅らせているように思えてくる。
Description :SANDAKAN 1945-10-24. NORTH EAST BORNEO FORCE. JAPANESE LOADING 600 LB EXPLOSIVE CHARGES TAKEN FROM CAPTURED KAMIKAZE SUICIDE BOATS INTO A SMALL TRUCK.
Place Asia: Borneo, North Borneo, Sandakan Accession Number 120478 Collection type Photograph Object type Black & white Physical description Black & white Maker Burke, Frank Albert Charles, Burke, Frank Albert Charles Place made Borneo: North Borneo, Sandakan Date made 24 October 1945
写真はAustralian War Memorial Accession Number 120478引用。


写真(右):1945年10月25日、ボルネオ島(現在カリマンタン島)北西岸、サンダカン、日本海軍の自爆艇「震洋」搭載用600ポンド(250圈貿薬を並べている日本軍の捕虜:600ポンド(250圈貿薬を収めた金属ケースは、特攻艇の船首形状・収納庫形状に合わせて曲線加工されている。しかし、各々の爆薬を比較すると、形状が若干異なっているのが分かる。金属を工員が焼き切ったり削ったり手作業で加工したために、量産された爆薬の形状が不揃いになったと考えられる。日本の製造工場には、学徒動員、女子挺身隊など未熟練労働者が多かったためであろう。これらの600ポンド爆薬は、沖合に投棄処分された。1945年7月、館山の第59震洋隊に配属された伏島誠氏(相模原市在住)氏によれば、終戦を迎えて「これでお袋のところに帰れる」と安堵したという。伏島誠氏の証言によれば、この爆薬の容器には信管3基が繋がっていた。
Description : SANDAKAN, NORTH BORNEO 1945-10-25. JAPANESE PRISONERS LIFTING 600 LB CHARGES, TAKEN FROM KAMIKAZE (SUICIDE) BOATS, ONTO THE WHARF PRIOR TO THEIR BEING LOADED ONTO BARGES AND DUMPED AT SEA..
Unit Royal Australian Naval Volunteer Reserve Place Asia: Borneo, North Borneo, Sandakan Accession Number 120479 Collection type Photograph Object type Black & white Physical description Black & white Maker Burke, Frank Albert Charles, Burke, Frank Albert Charles Place made Borneo: North Borneo, Sandakan Date made 24 October 1945
写真はAustralian War Memorial Accession Number 120479引用。


日本陸軍の突撃艇マルレは、船尾にドラム缶上の爆薬を搭載するが、日本海軍マル四「震洋」は、船首に半月状の爆薬収納庫がついており、そこに金属ケースに入れた600ポンド(250圈貿薬ケースを収める。この「震洋」の搭載する爆薬ケースは、特攻艇の船首形状・収納庫形状に合わせて曲線加工されている。しかし、残った写真から、各々の爆薬を比較すると、形状が若干異なっているのが分かる。金属を工員が焼き切ったり削ったりと手作業で加工したために、量産された爆薬の形状が不揃いになったと考えられる。日本の製造工場には、学徒動員、女子挺身隊など未熟練労働者が多かったためであろう。

日本軍は,本土決戦に備えて、日本の太平洋岸の多くの海岸には、米軍上陸部隊・支援部隊を迎え撃つために、突撃艇マルレ艇」「震洋」の秘密基地が作られた。例えば、現在の千葉県外房海岸にも洞窟陣地が残っている。鴨川市の洞窟陣地には,ノミの後も明瞭に残っている。これらの陣地構築には、徴用された朝鮮人労働者が多数動員された。

陸軍の特攻兵器には,突撃艇「マルレ」艇,特殊攻撃機キ115「剣」、海軍の特攻兵器には,モーターボート特攻艇「震洋」,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」などがあるが、これらの奇襲兵器の試作・開発・整備とその・乗員訓練・部隊編成は、軍令部の命令によっている。自由時間と資金に縁のない軍人の着想だけで,特攻兵器を生むことはなく、命令系統に従って行動する軍隊組織で、自発的な意思で特攻隊が自然発生することもありえない。

大本営陸軍部は、泊地の敵輸送船に対する肉薄攻撃用突撃艇の試験演習を1944年6月15日(サイパン上陸の日)に設計開始、7月8日に試作完了、7月11日に隅田川で実施。速力と兵装が不十分だが、今後は同様の考えで、特攻兵器を大量整備することが必要であるとした。つまり、不完全な特攻兵器を大量生産し、それに搭乗員を充てる計画が大急ぎで実行に移されたのである。

 陸軍の突撃艇と同じく、海軍のマル四(ぁ吠軸錣盪邵酊が、1944年5月27日に完成してた。海軍のマル四(ぁ吠軸錙文紊震洋)の搭乗員は,1944年7月5日に「マル四艇第一次要員」が発令,特攻要員の動員が開始、7月15日には、要員の講習が始まった。

1944年3月、軍令部(陸軍の参謀本部に相当)が「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定、乗員1名の特攻艇は、艇首に250圓稜薬を装備し、自動車エンジン(トヨタ自動車80馬力の中古エンジン1基)を搭載した木造合板(ベニヤ)の高速ボートで、敵の揚陸部隊が上陸点に侵攻してきた時、夜陰に乗じて奇襲による体当たり攻撃をするつもりでいた。

日本軍は陸海軍別々に特攻舟艇を開発、別々に量産するといった非効率なことをした。海軍の「震洋」は、船首に半月形の収納庫を設け、そこに爆薬を搭載する。陸軍の「マルレ艇」は、全長5.6メートル、全幅1.8メートルのベニヤ製船体に自動車エンジンを搭載した最高速力時速20ノット(35km)船尾外側に爆雷を懸架・固縛する方式だった。部隊名称も、日本海軍は、マル四「震洋」水上特攻隊、陸軍は「マルレ艇」海上挺進戦隊と呼んだ。しかし、アメリカ人には、そんな陸海軍の対立した事情を無視して、特攻艇=「シンヨウ」と見なしていたようだ。陸軍の特攻艇「マルレ」の秘匿名称は、わかりにくかったこともあろう。連合軍専門家が、特攻艇を「シンヨウ」と識別したため、現在でもその名称が通用している。これは、特攻=「カミカゼ」と呼称されるのと同じ理屈である。

 日本軍は、南太平洋ソロモン諸島でアメリカ海軍の魚雷艇の活躍に悩まされ、後に同じような魚雷艇を開発しようとした。抵抗の少ない船体の設計はできたが、搭載するエンジンに信頼性の高いものがなく、自動車用のエンジンを載せたが、出力不足、故障続出で最後まで信頼性の高い高速魚雷艇を量産することはできなかった。特攻艇の機関も様々な種類の中古自動車エンジンを搭載したため、整備もしにくく、信頼性は低かった。そのうえ、燃料不足で特攻艇を動かしての訓練もあまり行っていない。

写真(右):フィリピン、ルソン島リンガンエン湾に臨むパンガシナン州ダグパン(Dagupan)でアメリカ軍が捕獲した日本陸軍の「自殺艇」(sucide boat):四式突撃艇「マルレ」;1945年1月6日、アメリカ軍はルソン島北岸のリンガンエン湾に上陸、パンガシナン州を南下し、マニラに向かった。ルソン島には日本陸軍第14方面軍があり、司令官山下奉文大将が守備していたが、マニラは、海軍部隊が死守していた。3月、アメリカ軍はマニラを占領したが、ルソン島北部山岳地、現在のカリンガ州、アパヤオ州には日本軍が撤退し、抵抗を続けていた。

 日本海軍は、1944年8月28日、制式した特攻兵器マル四艇を「震洋」と命名し、震洋特別攻撃隊を編成した。そして,多少の訓練を施した上で、小笠原諸島、ボルネオ島(カリマンタン島)北西岸のサンダカン、東岸のバリクパパン、フィリピン群島ルソン島のリンガンエン湾に進出させた。フィリピンには、1944年10月26日に第九震洋隊,11月1日 第八・九・十・十一震洋隊,11月21日に第七震洋隊,12月15日に第十二震洋隊が派遣された。  

マル四「震洋」は,1945年1月、フィリピン群島ルソン島マニラ湾入り口のコレヒドール島でアメリカ軍に対して初めて実戦投入されている。

日本陸海軍の特攻自爆艇は、全長6メートル、全幅2メートル以下の小型艇で、耐波性能は低い。また、機関は自動車エンジンで、器工構造は単純なはずだが、部品の規格が厳格でなく、女子挺身隊、学徒勤労動員など未熟練労働者が(熱心とはいえ)慣れない作業をしたため、機関故障が頻発し、船体の漏水もしばしばだった。つまり、粗雑な特攻マルレ艇は、稼働率が悪く、実用性も低かった。さらに日本軍の監視システムは、レーダーが未熟で、通信機も故障しがちであり、お粗末だった。そこで、敵部隊の来寇した初動で的確な攻撃を仕掛けることはできなかった。こうした条件を考えると、海上挺進戦隊の士気が高かったとしても、大きな戦果を上げることはできなかった。逆説的だが、このような困難な状況を克服して、特攻マルレ艇が戦果を挙げることができたのは、マルレ搭乗員の士気の高さの反映であろう。(⇒水上特攻隊のフィリピン戦での戦果

 陸軍は「震洋」同様の特攻艇を「マルレ」「〇レ」と秘匿名称で呼び整備していたが,1945年1月9日に,フィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍に対して,陸軍海上挺進第12戦隊のマルレ艇70隻が突入し、護衛駆逐艦ホッジス、輸送艦ウォーホーク、LST2隻に損傷を与え、全滅している。

水上特攻隊のフィリピン戦での戦果 
1945/01/10. LCI(G)-365,LCI(M)-974をルソン島リンガンエン湾で撃沈
1945/01/31. PC-1129をルソン島Nasugbuで撃沈。
1945/02/16. LCS(L)-7, LCS(L)-26, LCS(L)-49をコレヒドール島Marivelesで撃沈。  

水上特攻隊の沖縄戦での戦果も,被害に比べると大きいとはいえない。

写真(右):1945年初頭、アメリカ軍がルソン島北岸リンガンエン湾で鹵獲した日本陸軍の特攻舟艇「マルレ艇」。全長5.6メートル、全幅1.8メートル、ベニヤ製で、機関は自動車エンジンで、器工構造は単純なはずだが、部品の規格が厳格でなく、勤労動員など未熟練労働者が製造したため、稼働率は低かったようだ。オリジナルの説明では、Shinyo Explosive Motorboat、すなわち爆破モーターボート「震洋」とされる。:日本軍は陸海軍別々に特攻舟艇を開発、別々に量産しているとの非効率なことをした。海軍の「震洋」は、船首に半月形の収納場を設け、そこに爆薬を搭載する。陸軍の「マルレ艇」は、船尾外側に爆雷を懸架・固縛する方式だった。部隊名称も、日本海軍は、「震洋」水上特攻隊、陸軍は「マルレ艇」海上挺進隊と呼んだ。しかし、アメリカ人はそんな陸海軍の対立した事情を無視して、特攻艇=「シンヨウ」と見なしていたようだ。陸軍の特攻艇「マルレ」の秘匿名称は、わかりにくかったこともあろう。連合軍の専門家が、特攻艇を「シンヨウ」と識別したため、現在でもその名称が通用している。これは、特攻=「カミカゼ」と呼称されるのと同じ理屈である。
日本軍は、ソロモン諸島でアメリカ海軍の魚雷艇の活躍に悩まされ、後に同じような魚雷艇を開発しようとした。抵抗の少ない船体の設計はできたが、搭載するエンジンに信頼性の高いものがなく、自動車用のエンジンを載せたが、出力不足、故障続出で最後まで信頼性の高い高速魚雷艇を量産することはできなかった。特攻艇の機関も様々な種類の中古自動車エンジンを搭載したため、整備もしにくく、信頼性は低かった。そのうえ、燃料不足で特攻艇を動かしての訓練もあまり行っていないようだ。
突撃艇の最高速力は20ノットで,駆逐艦(30ノット以上)を追いかけることはできないので,待ち伏せ攻撃をかけるしかない。しかし,輸送船(10ノット)に対してならば、波が静かな時に積極的な攻撃を仕掛けることは可能である。
Title: Japanese Shinyo Explosive Motorboat Caption: On the beach at Lingayen Gulf Philippine Islands, circa early 1945. PT boats destroyed many of these "suicide" boats during the Philippines campaign. Description: Published in At Close Quarters, page 421 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 44316 Japanese Shinyo Explosive Motorboat引用。

マルレは、1945年初頭、フィリピンのルソン島に上陸してき米軍を,リンガンエン湾で迎撃した。また,沖縄戦では,事前に配備されていたマルレが実戦投入された。特に、渡嘉敷島・座間味島など慶良間列島に配備された挺進隊は,米軍に終戦まで投降することなく,山中に退避していた。その際に,現地住民との軋轢が生じている。

「マルレ」は、緑色の迷彩塗装を施したために、隊員たちは自嘲気味に「アマガエル」と呼んでいた。機密兵器として期待して部隊に配属され,そこで目にしたのが「ベニヤのポンコツエンジンを搭載しただけの小船」であった。それこそが,自分の命と共に吹き飛ぶ特攻艇であった。あまりにも貧弱だったために,「アマガエル」と呼んだようだ。

突撃艇マルレ艇」は、敵艦艇の直前で搭載している爆雷を投下るというが,艦砲,機銃を備えている敵艦に,接近することが可能かどうか。接近して,爆雷攻撃した後に,無事帰還することは,まず不可能であろう。運用構想中から、奇襲,体当たりすることが前提となっていたはずだが,未だに,「体当たり兵器として開発されたものではない」と強弁するものもある。

日本軍内部では、開発当初から,生還の可能性は皆無に等しいような兵器を,「特殊奇襲兵器」あるいは「特殊攻撃機」としていた。これらは、事実上の体当たり特攻兵器として、開発・生産されたものである。そして、陸軍士官学校,海軍兵学校の出身者ではなく,学徒兵・少年兵出身者を中心に,その搭乗員を訓練していた。つまり、軍の作戦の一環として、特別攻撃隊を編成していた。1945年には,全軍特攻化が,そして「一億総特攻」という無謀な計画が日本軍の最高戦略となってしまう。

  写真(右):1945年3月、アメリカ軍が沖縄の慶良間列島に上陸。その時、島内で日本海軍の水上特攻艇「震洋」を発見した。;㊃金物「震洋」の船首には、半月形の収納庫があり、そこに炸薬を詰めた容器を搭載する。沖縄方面には、日本海軍の「震洋」水上特攻隊、陸軍の「マルレ艇」海上挺進隊が置かれていた。陸軍「マルレ艇」は船尾外側に懸架を設け、そこに爆雷を固縛する方式だった。
A US Army report in PT Boats, Inc.’s archives indicates that 1000 of these boats were to attack Allied Forces assaulting Okinawa. They were concealed in artificial and natural caves. These one-man boats were made of light plywood with reinforced wooden beams. Many were powered by US made Gray Marine four and six-cylinder engines. Horsepower was between 70-80. They carried two depth charges, 260 pounds each, which were released by hand or on impact with their targets. They were painted green.


沖縄戦では、1945年3月26日、アメリカ軍が沖縄本島侵攻の基地・泊地を得るために、慶良間諸島に上陸した。慶良間列島には、沖縄本島防衛のために密かに特攻艇部隊が置かれていた。そこで、沖縄戦では、航空機による特攻と併用して、水上特攻艇(突撃自爆艇)が攻撃に加わった。

 米軍は,沖縄本島に上陸する前に本島西方、慶良間諸島に上陸した。慶良間は座間味村と渡嘉敷村の通称で、沖縄本島から見て手前に見える渡嘉敷村を「前慶良間」、後方の座間味村を「後慶良間」と呼んでいたところである。日本陸軍は慶良間列島には米軍は上陸しないと考え、海上挺進戦隊を配備し,背後から米軍艦船を水上特攻自爆艇で襲うつもりでいた。

水上特攻艇とは,木製小型モーターボートに爆薬を搭載して体当たり攻撃するものである。海軍では震洋隊と陸軍では「マルレ」海上挺進戦隊と呼ばれた。

写真(右):長崎の特殊潜航艇「甲標的」と水上特攻艇製造工場;戦後になって、三菱重工長崎造船所に進駐してきたアメリカ占領軍が撮影した。長崎造船所(本工場)は、1857年(安政4年)徳川家の江戸幕府が設立した長崎鎔鉄所に起源をもつ。戦艦「武蔵」を建造した船台、30万トンドックがあった。Nine Midget Submarines. There are nine midget submarines in various stages of completion. Reportedly these submarines were piloted by Kamikaze submariners. These submarines were to be equipped with the bare necessities to enable them to approach U.S. ships and fire a torpedo or two. In many instances the pilots would be expected to ram U.S. ships.

1944年4月4日、マリアナ沖海戦の勃発の2カ月以上も前、軍令部二部黒島亀人部長は、戦局挽回の秘策として、特攻艇(後の震洋)など特攻奇襲兵器の開発を主張していた。これを契機に、軍令部、海軍省は、正式に奇襲特攻兵器を開発することを結成した。

特攻艇(後の震洋)、魚雷艇と同様、艦政本部が開発を担当し、魚雷艇を踏襲したV型船底、木製船体を採用し、自動車エンジンを搭載した簡易量産型とすることになった。トヨタ自動車工業の自動車エンジンを採用し、30ノットの高速を目指したが、エンジンの信頼性は低く、船体を量産した小規模造船所・ヨット工場では、部品や材料の品質が低く、特攻艇は性能がぐ安定で、高速を発揮できなかった。

特攻艇の爆装方式は、小型の船体に搭載し、機動力を維持するために250キロの爆薬とし、船体前部に収納庫を設けて、ここに搭載することになった。つまり、当初から海軍の特攻艇は体当たりを前提にした設計だった。体当たり直前、乗員は操縦室後方から海中に脱出することは容易だった。そこで、舵輪固定装置を作動させ、救命胴衣を着用して脱出できる設計だったといわれることもある。

 しかし、‖療たりした特攻艇の爆発に巻き込まれること、海中に脱出後の僚艇による救出は困難だったこと、J疥困砲覆襯螢好が高く奇襲特攻艇の情報が漏洩すること、を考慮すれば、搭乗員は体当たりして自爆することが当初から前提になっていたのである。舵輪固定装置は、搭乗員が負傷して操縦困難になった場合、敵艦船に迷わず一直線に体当たりするための装置である。これは、ハワイ真珠湾への「特別攻撃」をかけた特殊潜航「甲標的」に脱出装置もなくく、脱出・救出訓練を一度も実施していないのと同じである。脱出可能ということと、脱出することは別であり、奇襲特攻兵器の場合、冷酷にも「脱出はしない」、事実上「脱出させない」ことが暗黙の了解だった。

写真(右):1945年、敗戦後の長崎、三菱工場の埠頭に放置された日本海軍の水上特攻艇「震洋」;三菱長崎造船所の埠頭にて、戦後進駐してきたアメリカ占領軍が撮影した。長崎造船所(本工場)は、1857年(安政4年)江戸幕府が設立した長崎鎔鉄所が契機となるが、1898年(明治31年)7月には三菱合資会社三菱造船所に併設して煉瓦造りの木型場が建設された。これは、三菱重工業株式会社発祥の長崎造船所に現存する最も古い工場建屋で、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」(2015年登録)の構成施設の1つである。 “Special Attack” was the Japanese phrase used to describe tactics that generally involved the loss of a human operator. Laden with explosives, special attack boats were used in a suicidal fashion against American vessels in the Pacific during World War II. However, very few attacks were successful, as these boats were easily spotted and were frequently destroyed before they were deployed.

日本海軍の特攻艇は、1944年5月27日の海軍記念日に試作艇が完成したが、小型でエンジン出力も低いために、外洋での機動性、耐波性が不足しており満足な兵器とは言えなかったが、使い捨ての特攻艇に資材や資金をつぎ込むことも、悪化する県曲を早期に挽回するためにも、改造するのに時間はもはやなかった。性能や信頼性は不完全ではあったが、早期に量産に入るために、1944年8月28日に、海軍特攻艇は採用され、士気を高める意味で「震洋」という勇ましい名称がつけられた。また、モーターボートは操縦しながら他の特攻艇を指揮するととはできなかったため、乗員のほかに指揮官を搭乗させた2人乗り「震洋」五型艇も開発された。

写真(右):1945年9月22日、千葉県北部の香取郡東庄町「笹川」秘匿基地に格納されていた日本海軍第68震洋特別攻撃隊の特攻舟艇「震洋」をアメリカ軍兵士が検分している。オリジナルの説明では、アメリカ海軍ボルチモア級重巡洋艦ボストン (USS Boston, CA-69)の乗員が発見した日本の爆破モーターボート「しんよう」(Japanese "Shinyo" type explosive motorboat)とされる。:「笹川」秘匿基地は、千葉県と茨城県の境を流れる利根川河口の銚子から上流15キロの支流黒部川に面していた。第68震洋隊指揮官は佐藤武彦中尉、1945年7月25日に笹川に開設、河川近くの土手に秘匿壕を掘ってそこに特攻艇を収容した。千葉県の九十九里は、アメリカ軍の本土上陸の予測地点だったため、海軍の特攻艇基地として、第55震洋隊が勝浦鵜原、第58震洋隊が銚子外川、第59震洋隊が館山州崎、第129震洋隊が勝浦、第135震洋隊が安房小湊に開設された。
Title: Japanese "Shinyo" type explosive motorboat. Caption: In its cave at Sasagawa Chiba, Japan, 22 September 1945. Photograph by US BOSTON (CA-69). Copyright Owner: National Archives Original Creator: Photograph by US BOSTON (CA-69) Original Date: Mon, Sep 22, 2014 Original Medium: BW Photo
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-379177 Japanese "Shinyo" type explosive motorboat.引用。


写真(右):1945年9月22日、千葉県香取郡「笹川」日本海軍第68震洋特別攻撃隊の塹壕式格納庫と木製運搬台車。検分するのはをアメリカ海軍ボルチモア級重巡洋艦ボストン (USS Boston, CA-69)の乗員。オリジナルの説明には「日本の爆破モーターボート震洋」(Japanese "Shinyo" type explosive motorboat)とある。:「震洋」は、ベニア船体に、各種自動車用ガソリンエンジン(67hp)を搭載したモーターボートで、排水量1t、全長5.1m、全幅1.7m、吃水 0.6m、最高速力20-23ノット、船首の半月形格納室に爆薬(250kg)を搭載、体当たり自爆する。威嚇用・攻撃用に噴進弾(ロケット弾)を搭載する計画もあった。
Title: Officers from USS BOSTON (CA-69) Caption: Inspect a Japanese coastal defense emplacement at Sasagawa Chiba, Japan, 22 September 1945. Note Shinyo suicide motor boars, which this emplacement appears to have been designed to house and launch. Description: Catalog #: 80-G-379159 Copyright Owner: National Archives Original Date: Mon, Sep 22, 2014 Original Medium: BW Photo
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-379159 Officers from USS BOSTON (CA-69) 引用。


写真(右):1945年9月、横須賀海軍基地、鹵獲した日本海軍の自爆艇「震洋」を検分するオーストラリア海軍N級駆逐艦( N class)「ネーピア」(HMAS Napier)の乗員。:「震洋」の船首には半月状の爆薬収納庫、左舷には切れ込み損傷跡がある。1940年就役のN級駆逐艦( N class)「ネーピア」(HMAS Napier)は、基準排水量Displacement1,801 t、満載排水量2,422 t、全長Length: 108.7 m、ビームBeam: 10.9 m、吃水Draught: 3.8 m、搭載機関Installed power: 40,000 shp (30,000 kW)、蒸気タービン2軸、最高速力Speed: 36 knots (67 km/h; 41 mph) 、航続距離Range: 5,500 マイル (10,200 km)/ 15 knots、乗員Complement: 183名、射撃用Type 285レーダー、 見張り用Type 286レーダー、兵装Armament: 4.7インチQF 4.7-inch (120 mm) Mk XII 連装砲塔3基4インチ QF 4-inch Mk V (102 mm)対空砲1基、 20 mm エリコン(Oerlikon)対空機銃(AA gun)4基、12.7ミリQF 0.5-inch (12.7 mm) Mk III連装機銃2基、五連装21-inch (533 mm) 魚雷発射管(torpedo tube)1基。
Description : Yokosuka Naval Base, Japan. September 1945. Able Seaman (AB) Les Coad of Ballarat, Vic; AB Ian Cox of South Yarra, Vic, and AB Kevin Sorrenson of Coorparoo, Qld, all RAN and members of the crew of HMAS Napier, inspecting a Japanese suicide launch (boat) surrendered in the Yokosuka Naval Base. A similar boat is in the collection of the Australian War Memorial.
Accession Number 019161 Collection type Photograph Object type Black & white - Film copy negative acetate Date made September 1945
写真は、オーストラリア海軍に1943年入隊、1964年退役したポール・メリック・デクスター(Paul Merrick Dexter)中尉が寄託したコレクリョンの一枚で、Australian War Memorial P08424.022引用。



写真(右):1945年9月、横須賀海軍基地、鹵獲した日本海軍の自爆艇「震洋」(左:正面向き) と特殊潜航艇「海龍」(右:後ろ向き)を検分するオーストラリア海軍N級駆逐艦( N class)「ネーピア」(HMAS Napier)の乗員。
:「震洋」の船首には半月形の爆薬収納庫、船首には、左舷・右舷に対照的に人面が描かれている。秘匿名称「SS金物」で呼ばれた特殊潜航艇「海龍」は、1944年3月、日本海軍の軍令部が,戦局の挽回を図るために決定した「特殊奇襲兵器」の試作方針で開発が決定した。海軍は,らの「兵器特殊緊急実験」として、「マルイチ金物」の特殊潜航艇「甲標的丁型蛟龍」、「マルサン金物」の 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)の「海龍」があった。SS「海龍」は、水中翼を使って、海中を飛行機のように上昇・下降できる操縦性を与える計画だった。当初は、胴体両側に魚雷を各1本懸架し雷撃する予定だったが、魚雷を搭載・攻撃できるだけの速力・機動力が確保できず、魚雷自体も不足した。そこで、人間魚雷「回天」と同じく、体当たり命中させる特攻兵器として生産された。
Description Yokosuka Naval Base, Japan. September 1945. Australian naval ratings from HMAS Napier inspecting a Japanese Shinyo suicide launch and a midget submarine alongside each other in the Yokosuka Naval Base. They are, (on launch) Able Seaman (AB) Kevin Sorrenson of Coorparoo, Qld; AB Led Coad of Ballarat, Vic, AB Ian Cox of South Yarra, Vic, and (on submarine) Petty Officer Alan Mole of Mitcham, SA; AB Myer White of Prahran, Vic, and AB Max Dillon of Sygnet, Tas. Note the face painted on the bows of the launch. This is the insignia of the Japanese suicide squad.
Accession Number 019162 Collection type Photograph Object type Black & white, Landscape Physical description Black & white, Landscape Date made September 1945 Conflict Second World War Copyright Item copyright: Copyright expired - public domain
写真はオーストラリア海軍に1943年入隊、1964年退役したポール・メリック・デクスター(Paul Merrick Dexter)中尉が寄託したコレクリョンの一枚で、Australian War Memorial 019162 引用。


写真(右):1945年11月11日、ボルネオ島(現在、カリマンタン島:マレーシアのサバ州)南岸、バリクパパンから鹵獲した日本海軍の自爆艇「震洋」を輸送するオーストラリア海軍「インプラカブル」 (HMS Implacable):サンダカンでは、特攻艇「震洋」24隻を発見した。そのうち6隻は稼働状態にあった。サンダカンでオーストラリア軍が鹵獲した特攻艇「震洋」は、オーストラリアまで海上輸送され、現在は、首都キャンベラにあるオーストラリア戦争記念館Australian War Memorial)で緑色に塗装され、室内で展示されている。1930年ロンドン軍縮条約London Naval Treaty)では、巡洋艦(備砲5.1インチを超え8インチ以下、排水量1万トン以下)、駆逐艦(備砲5.1インチ以下で排水量は1850トン以下)の各国保有トン数制限にかからないように、制限外の小艦艇として、フリゲート(Frigate:巡洋護衛艦)、スループ(Sloope:中型護衛艦)、コルベット(corvette:小型護衛艦)が復活した。
Description : BALIKPAPAN. BORNEO. 1945-11-11. HMS "IMPLACABLE" TAKES ABOARD A JAPANESE SUICIDE LAUNCH SALVAGED BY LIEUTENANT H.K. HULME OF 11 SMALL SHIPS COMPANY, ROYAL AUSTRALIAN ENGINEERS.
Place Asia: Borneo, Balikpapan Accession Number 040925 Collection type Photograph Object type Black & white Physical description Black & white Conflict Second World War Copyright Item copyright: Copyright expired - public domain
写真はAustralian War Memorial 040925 引用。


 オーストラリア海軍は、日本降伏後の1945年9月、ボルネオ島北岸サンダカン(現在、マレーシアのカリマンタン島サバ州)に進駐した。その時、進駐したオーストラリア軍は、日本軍現地指揮官から特攻艇「震洋」24隻を引き渡された。戦利品となった特攻艇「震洋」のうち、25%の6隻が稼働可能な状態だった。オーストラリア軍は、特攻艇「震洋」を本国まで海上輸送した。技術的には、学ぶべきところはなかったであろうが、自爆特攻艇という発想、それを実行した特攻兵器に関心があったはずだ。現在、首都キャンベラにあるオーストラリア戦争記念館Australian War Memorial)に1945年9月にサンダカンで鹵獲した特攻艇「震洋」1隻が保管されている。

写真(右):オーストラリア、首都キャンベラ、オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial)に保管されている日本海軍の自爆艇「震洋」:終戦後の1945年9月、オーストラリア軍は、旧英領マレー、ボルネオ島サンダカンに進駐した。そこで、日本海軍の特攻艇「震洋」を多数鹵獲し、その中の1隻をオーストラリアに運んだ。それが、現在オーストラリア戦争記念館に保管されている。
特攻艇「震洋」の諸元:
全長5.1m
全幅1.67m
全高0.8m
排水量1.2トン
機関60馬力
最高速力20ノット(持続15ノット)
航続距離100マイル/16ノット
兵装:爆装250キロ
乗員1名
Japanese Shinyo: Posted 4 Sep 2015, 8:28pm ; Japanese Shinyo was designed to be packed with explosives, and driven at allied ships. ABC News: Craig Allen
写真はABC News:Massive military memorabilia on display as part of rare look inside Australian War Memorial's warehouse collection By Craig Allen Posted 5 Sep 2015, 7:28am 引用。


 日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々にも海上特攻艇200隻をしのばせていた。しかし、アメリカ海軍の哨戒魚雷艇とは異なり、日本には、大出力で信頼性ある小型エンジンがなく、特攻舟艇は高速艇とは言えなかった。30ノットも出せないような低速特攻艇は、アメリカ海軍の駆逐艦以上の大型艦艇よりも速度が遅く、敵艦艇への体当たり攻撃は困難だった。そこで、特攻舟艇は、主に低速の輸送船・輸送艦、揚陸艦に体当たりすることになっていた。

 沖縄方面の特攻艇の作戦では、沖縄本島に来航したアメリカ軍輸送船団、上陸部隊を運ぶ揚陸艦を、慶良間列島から出撃して、背後から体当たり攻撃する計画だった。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、1945年3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸の補給基地とした。沖縄本島へのアメリカ軍上陸は、1945年4月1日で、この時は、慶良間列島に配備されていた日本軍の特攻舟艇は、もはや攻撃できる状態にはなかった。

図(右):C.W. スミス(C.W. Smith)の描いた「慶良間列島」 "Kerama Retto" :1945年3-4月、琉球諸島、慶良間列島でアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ウィリアム・ポーター」(USS William D. Porter (DD-579))が複数の日本軍の「自爆艇」(suicide boat)に砲火を浴びせている状況を描いたようだ。
フレッチャー級駆逐艦「ウィリアム・ポーター」(USS William D. Porter (DD-579))諸元
1942年5月7日起工、1942年9月27日竣工、 1945年6月10日特攻機により撃沈
基準排水量2,050トン
全長Length: 376 ft 6 in (114.7 m)
ビームBeam: 39 ft 8 in (12.1 m)
乾舷Draft: 17 ft 9 in (5.4 m)
機関Propulsion: 60,000 shp (45 MW); 2 軸
最高速力: 35 knots (65 km/h)
航続距離Range: 6500マイル (12,000 km) @15 kt
乗員Complement: 273名
兵装Armament: 5 × 5 in./38 guns (127 mm)
4 × 40ミリ対空機関砲、4 × 20ミリ対空機銃
10 × 21インチ (533mm) 魚雷発射管(torpedo tube)
6 × 爆雷投射機(depth charge projector),2 × 爆雷軌条(depth charge track)
Title: "Kerama Retto" Caption: Painting by C.W. Smith, 1945. It depicts a destroyer (perhaps WILLIAM F. PORTER, DD-579 ??) firing on what may be "suicide boats" in the roadstead. Description: Catalog #: NH 92591-KN Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Creator: Painting by C.W. Smith.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 92591-KN "Kerama Retto" 引用。


南西諸島慶良間列島の日本陸軍四式肉薄突撃艇「マルレ」部隊
座間味島 
△(球)海上挺進第一戦隊(戦隊長 梅澤裕)陸軍少佐)、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊

阿嘉島・慶留間島
△(球)海上挺進第二戦隊(戦隊長野田義彦陸軍少佐、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊

渡嘉敷島・阿波連島
△(球)海上挺進第三戦隊(戦隊長赤松嘉次陸軍大尉)、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊の1個小隊

(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍引用)

写真(右):アメリカ軍の ロケット弾搭載揚陸艦LMS(R)-188;排水量758 t.(light), 983 t. (attack) 1,175 t.(fully loaded)。全長 203フィート6インチ,全幅34フィート。最高速力13.2 kts(ノット)。
ジェネラル・モーターズGeneral Motors のジーゼルエンジンを2基搭載,1,440馬力(720rpm),スクリュー2基。
航続距離は3,000miles @ 12kts(ノット)。


アメリカ軍が,慶良間列島を占領した1945年3月27日ごろ,多数の特攻艇「震洋」「マルレ艇」を鹵獲している。そこから推測して,慶良間列島から出撃した特攻艇は,100隻もないと思われる。既に,フィリピンのルソン島で3ヶ月前に実戦に使用しているが,機密であるはずの特攻兵器を多数米軍に鹵獲されている。人間爆弾「桜花」も,1945年4月1日の米軍沖縄本島上陸日に,読谷村の陸軍沖縄北飛行場で鹵獲されている。

こうなると,日本陸海軍は,特殊奇襲兵器を十分に秘匿したとはとてもいえないのであって,安易な精神主義が跋扈し,冷徹な科学的,合理的な作戦計画を立案していなかったように思えてくる。

沖縄西方慶良間列島には2,335名の日本軍兵士が配備されていたが,大半は水上特攻隊(海上挺身隊)Sea Raiding unitsである。彼らには,特攻艇,それに装着する爆雷だけでなく,機銃,迫撃砲も装備されていた。

慶良間列島の特攻艇は約300隻で,600名の朝鮮人労働者も作業に当たっていた。

  日本陸軍では,自爆特攻「マルレ艇」を配備した海上挺進隊を編成,沖縄本島西方の慶良間列島に展開。座間味、阿嘉、渡嘉敷には「球」の秘匿名称の海上挺進第一、第二、三戦隊があり,その下に特設水上勤務中隊があった。(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍引用)

写真(右):琉球諸島、慶良間群島、渡嘉敷島、渡嘉志久海岸、海上挺進第三戦隊所属と思われる特攻「マルレ艇」;日本陸海軍は,特攻艇のほか,人間爆弾「桜花」など秘匿すべき奇襲兵器を,簡単に米軍に鹵獲されていた。日本軍の特攻兵器の戦果が芳しくなかったのは,日本軍の作戦準備の不十分さにも要因がある。特攻艇は,薄いベニヤで,木製船体で,出力70-80馬力。爆雷depth charges2発,合計260ポンドを搭載。爆雷は,手動投下するか,体当たりの衝撃で爆発。艇は緑色に塗装。米軍は体当たり特攻攻撃をかける爆薬装備のモーターボートを、Sucide Boat(自殺艇)と呼んだ。これらは米軍に鹵獲されたもの。

1945年3月27日、アメリカ軍は渡嘉敷島西岸の阿波連海岸渡嘉志久海岸に上陸を開始。この渡嘉敷島のアメリカ軍の上陸した海岸には、海上挺進第3戦隊(戦隊長赤松嘉次大尉)の「マルレ」を秘匿する壕があった。海上挺進第3戦隊第一中隊は南の阿波連海岸に、海上挺進第3戦隊第二・三中隊は中部の渡嘉志久海岸に「マルレ」を引き上げ、隠していた。

 慶良間群島、渡嘉敷島では、「マルレ」秘匿場所の正面海岸にるアメリカ軍が上陸してきたが、本来なら、このアメリカ軍艦船、上陸用舟艇は、特攻マルレ艇の恰好の攻撃目標である。しかし、アメリカ軍の事前の艦砲射撃、空爆でマルレ艇は破壊されてしまったのか、海上挺進第三戦隊が油断していて敵奇襲を許し攻撃機会を失ってしまったのか、それとも敵の大軍に殲滅されるのを恐れをなし戦術的後退を図ったのか。いずれにせよ、赤松嘉次大尉の海上挺進第三戦隊のマルレ特攻艇は、上陸してくるアメリカ船舶を集中攻撃できずに終わってしまった。もともの、沖縄、慶良間諸島には200-300隻もの特攻艇を隠匿できる壕はなかったが、日本軍上層部(大本営陸軍部・参謀本部)に、沖縄本島から離れた慶良間列島にはアメリカ軍は来ないとの甘い認識があったことがこのような失策を招いたともいえる。

渡嘉敷村の歴史によれば,沖縄本島に上陸する米軍の背後を奇襲しようと、慶良間列島に特攻艇200隻を配備。

Seizure of the Kerama Islands(慶良間諸島侵攻)によれば、慶良間列島には、海上挺進隊Sea Raiding unitsなど2,335名の日本軍兵士,特攻艇約300隻,600名の朝鮮人労働者が配備。海上挺進隊は、特攻艇用の爆雷,機銃,迫撃砲も保有。

渡嘉敷村の歴史は、慶良間列島の戦いは、次のように描写している。

日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後を奇襲しようと、慶良間の島々に海上特攻艇200隻を配備。
米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、3月26日には座間味の島々に、3月27日には渡嘉敷島に上陸。沖縄本島上陸作戦の補給基地として攻略。 

3月26日午前,米陸軍第77師団の大隊上陸部隊battalion landing teams (BLT's)は、慶良間列島に上陸。LSTを使い,阿嘉,慶留間,外地,座間味の四島にも上陸。巡洋艦,駆逐艦などが海岸を5インチ砲で地ならし。空母艦載機は,日本軍の潜水艦,航空機の攻撃を警戒して上空援護。米軍は日本軍を撤退させ,慶良間列島を占領。(引用終わり)

慶良間諸島の日本軍守備部隊は、上陸した米軍に、水際で大きな抵抗をせず、内陸の山岳地に撤退し、兵力温存、潜伏を図った。アメリカ軍にゲリラ攻撃をして撹乱しようとすれば、アメリカ軍の猛反撃を受け、掃討作戦が始まってしまう。そうなれば、兵力に劣る日本軍守備隊は全滅するしかない。そうならないために、慶良間諸島の生き残りの日本軍兵士は、ひっそりと生き延びることを優先し、戦闘を回避した。慶良間諸島は、小さい島だが山が険しいために、日本軍は終戦まで、降伏することなく生き延びることができた。アメリカ軍も、逃げ出した日本軍を追い詰めて、必死の抵抗を続けさせるより、逃げたまま潜伏させ、日本軍を無害化するという選択をした。その意味で、慶良間諸島の日本軍守備隊の戦意は低かった。

写真(右):1945年3月26日(月曜)、沖縄、慶良間諸島、慶留間(げるま)島にゴム製ボートで上陸したアメリカ軍の海中障害物破壊D-19隊:後方には水陸両用装軌式トラクター(LVT9、上陸用舟艇も見えているので、海中障害物破壊D-19隊はすでに目的を達して、上陸。海岸で、迎えに来る部隊を待っているのであろう。慶留間島は、沖縄本島那覇から西方に40キロ、面積1.2平方キロメートル、最高峰157メートル、阿嘉島のすぐ隣にある。1945年3月25日、沖縄本島上陸に先立って、アメリカ軍は、慶良間諸島に艦砲射撃と艦上機による空襲を行った。これは、翌3月26日の上陸準備射撃である。同じ慶良間列島の座間味島(面積6.7平方キロ)、渡嘉敷島には、自特攻艇「マルレ艇」四式肉薄攻撃艇が配備されていた。この特攻艇は、ベニヤで作った小型モーターボートで、艦尾に250キロ爆薬を搭載し、敵艦船に体当たりする計画だった。
Title: Capture of the Kerama Retto, March 1945 Caption: Underwater demolition squadron D-19 arriving on a beach of Geruma Shima, Kerama Retto, in a rubber assault boat circa 26 March 1945. Several LVTs and landing craft are already ashore. Photographed by USS CHILTON (APA-38). Catalog #: 80-G-310635 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Mon, Mar 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-310635 Capture of the Kerama Retto, March 1945引用。


慶良間諸島は、渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島、慶留間島、前島の5島を中心に、慶伊瀬島、ナガンヌ島、神山島、クエフ島、儀志布島、黒島、ウン島、中島、ハテ島、外地島(ふかじじま)、安室島(あむろじま)、嘉比島(がひじま)、など多数の孤島から成る。しかし、日本軍は、兵力不足もあって、守備隊・海上挺進隊を配置したのは、渡嘉敷島、座間味島だけだった。そして、1945年3月25日に慶良間列島にアメリカ艦隊が接近し、艦砲射撃を加えると、日本軍兵士も住民も内陸の丘陵に逃げ込み隠れていた。翌3月26日に慶良間諸島に上陸したアメリカ軍は、泊地確保が目的だったため、日本軍が反撃してこなければ、無害化するだけで、積極的には内陸部を掃討をしなかった。海上挺進隊には、特攻艇で出撃して未帰還の搭乗員も多いが、同時に、部隊指揮官、特攻艇の整備員はほとんどが生き残った。慶良間列島の日本人は,特攻戦死、集団自決もあったが、実は大半が戦後まで生き残った。

 慶良間諸島水上特攻艇の幹部、搭乗員、整備員は,丘陵に避難し,玉砕をさけた。低性能の特攻艇で自爆するより,地上で持久戦を戦うことを選択したのか。

写真(右):ロケット弾搭載上陸用舟艇LMS(R)-188の特攻機による被害状況;1945年3月29日,慶良間列島をパトロール中の中型揚陸艦LSM(R)-188に日本の特攻機が命中した。特攻機が命中した主甲板の被害葉大きいが,撃沈に至らなかった。しかし、レーダー警戒任務radar picket dutyに付いていた5月4日に再度、特攻機の命中を受け、沈没。Final Disposition, hit and sunk by Japanese Kamikaze plane off Okinawa, 4 May 1945.

戦後、812隻971トンの特攻艇が中華民国に引き渡されたようだが、ベニヤ板の粗雑なつくりのボートは破損しており,すべて廃棄されたようだ。
(→中国の戦後拿捕艦艇「有"震洋"自殺艇812艘計971噸因不堪使用,全部報廢」参照)

慶良間列島には、体当たり自爆特攻艇操縦者300名とともに、朝鮮人労働者600名と基地要員100名も残っていた。慶良間列島の日本軍には、機銃や迫撃砲なども装備されていた。(There remained on the Kerama group only about 300 boat operators of the Sea Raiding Squadrons, approximately 600 Korean laborers, and about 100 base troops. The garrison was well supplied not only with the suicide boats and depth charges but also with machine guns, mortars, light arms, and ammunition.)→Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻引用 

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

写真:水上特攻艇「震洋」の体当たりを受けた米輸送艦AKA-67「スタール」 Starr;1945年4月9日0420に攻撃された。
輸送艦AKA-67「スタール」(USS Starr (AKA-67))諸元
1944年6月13日起工、 1944年8月18日竣工、1944年9月29日就役の新鋭艦。
基準排水量: 8,774 t
満載排水量14,133 t
全長: 459 ft 2 in (139.95 m) ,ビーム: 63 ft (19 m) ,乾舷: 26 ft 4 in (8.03 m)
機関: GE ギアードタービン1軸, 6,000 hp (4.5 MW)
最高速力: 16.5 knots (30.6 km/h; 19.0 mph)
搭載舟艇: 14隻 × LCVP、8隻 × LCM
搭載量: 380,000 立方フィート (11000立方メートル), 5,275トン


 海軍「震洋」,陸軍「マルレ艇」は,慶良間列島に配備され,沖縄本島に上陸するアメリカ軍を迎撃する予定でいた。つまり,沖縄本島の西部海岸(飛行場設営適地)に上陸しようとする敵海上部隊を,背後から突撃艇で襲撃しようと企図した。

写真:1945年4月9日0420,アメリカ海軍輸送艦AKA-67「スタール」(USS Starr :AKA-67)を攻撃後,甲板に引き上げられた水上特攻艇「マルレ艇」あるいは「震洋」の残骸;「スタール」のアメリカ兵4名が負傷し,船体側面に穴が開いた。突撃艇の日本兵2人は死んだ。輸送艦AKA-67「スタール」は、排水量8,635 t.(lt) 13,910 t.(fl); 速力16.5kts; 乗員 将校62名,下士官兵 333名 40mm連装対空機銃4基 16丁× 20mm対空機銃。搭載舟艇, 14隻×LCVP, 8隻×LCM; 貨物搭載量, 380,000 cu ft, (5,275 t. )
At 0420 on April 9, 1945, the USS Starr was hit on the starboard side by a apanese suicide boat. Four men aboard the Starr were injured and a hole was put in the side of the ship. The two Japanese occupants of the boat were killed.


慶良間列島に侵攻した米軍Seizure of the Kerama Islandsあるいは渡嘉敷村の歴史によれば,慶良間列島の沖縄戦は次のように要約できる。

米軍は,慶良間列島に艦船の停泊地,補給修理基地として活用する意図で,沖縄本島上陸に先立って,慶良間列島を攻略した。米軍の攻撃のあった1945年3月27日,慶良間。しかし,戦果が不明のまま半数が戦死した。1945年4月1日にも第22震洋隊に出撃命令が下り,米軍の中型揚陸艇LMS(R)-12,歩兵揚陸艇LCI(G)-82を撃沈したようだ。


写真(右):1945/04/04.特攻艇が沖縄沖で撃沈したアメリカ軍の中型揚陸艦LMS(R)-12
(Landing Ship Medium (Rocket) );基準排水量783t、全長 62 m 、全幅 10.5 m、ディーゼルエンジン2基 (2,880馬力) 2軸、最高速力 13.2 kt、航続距離 4,900 マイル /12ノット、 LSM-12 beached, date and place unknown.


USS LCI(G)-82は、1945/04/04夜,中城湾で,レーダーによる警戒ピケを張っていた歩兵揚陸艦であるが,日本海軍の九七式艦上攻撃機(雷撃あるいは水平爆撃かできる)を対空射撃で撃墜した。

脱出したらしい救命艇の3名の乗員を捕虜にしようと接近したが,一人が手榴弾の紐を引いたようだったので,3名は殺された。

九七式艦上攻撃機に搭載してあった救命艇は、米軍が戦利品として,引き揚げた。敵機を撃墜して数分後,自爆艇が高速で接近し,全部に命中した。舷側から甲板まで穴が開き,二つの燃料タンクから火災が発生した。艇長は船を放棄し退艦を命じた。その際に,九七式艦上攻撃機から獲得してあった戦利品の救命艇が役に立った。(→新聞記事引用)


写真(右):アメリカ軍の中型揚陸艦LMS(R)-12
;1945年4月4日,日本の体当たり水上艇によって撃沈された。LSM-12 broached and abandoned on the coral reef off Okinawa, mid-April 1945. The ship was cannibalized for her spare parts.

 1945/04/04.水上特攻艇がLSM-12を沖縄沖で撃沈。Broached on the beach at Okinawa and broke up, 4 April 1945 Decommissioned, 24 April 1945, at Okinawa Struck from the Naval Register (date unknown) Final Disposition, hulk donated, 10 July 1957 to Government of Ryukyu Islands

1945年4月4日,特攻艇が撃沈したLSM-12のデータ
排水量 520 t.(light), 743 t. (landing) 1,095 t.(満載時)
全長 203フィート 6インチ o.a.,全幅 34' 6"
深さ light, 3' 6" forward, 7' 8" aft, fully loaded, 6' 4" forward, 8' 3" aft
速力 13.2ノット(kts.) (max.), (928 tons displacement)
Complement 5 officers, 54 enlisted
武装 one single bow mounted 40mm gun, four single 20mm gun mounts
搭載物件 Vehicle/Boat Capacity 5 medium or 3 heavy tanks, or 6 LVT's, or 9 DUKW's
乗員Troop Capacity 2 officers, 46 enlisted
装甲Armor 10-lb. STS splinter shield to gun mounts, pilot house and conning station
機関 Propulsion two Fairbanks Morse (model 38D81/8X10, reversible with hydraulic clutch) diesels. Direct drive with 1,440 BHP each @ 720rpm, twin screws,
航続距離 Endurance, 4,900 miles @ 12kts.(928 tons displacement)
1945/04/27. USS Hutchins (DD-476)が大破し終戦後も修理されず。

海上特攻隊の沖縄戦での戦果

海軍の特攻兵器である自爆艇「震洋」,人間魚雷「回天」の試作・開発・乗員訓練・部隊編成は、命令によっている。一将兵には,時間も資金もなく,特攻兵器の発想があったとしても,それを具体化する開発,試作は不可能である。軍という厳格な階級では,将兵個人による特攻兵器の開発,特攻隊の編成もありえない。軍上層部の命令・許可なくして、独断で兵器の特攻仕様への改造,特攻隊の編成をすれば,命令違反の抗命罪,専権罪として,軍法会議で処罰の対象となる。


写真(右):海軍横須賀航海学校から「震洋」特攻隊に移った田英夫元議員;1923年(大正12年)6月9日東京・世田谷生まれ。1945年海軍横須賀航海学校入学、震洋特攻隊員として出征。航海学校一分隊二区隊第四班。1944年10月のある日のタ方、予備学生、生徒が突然剣道場に「総員集合」を命ぜられた。いつになくモノモノしい雰囲気で、入口には教官が立ち並び、窓はすべて閉められていた。壇上に立った田口学生隊長は、「おまえたちの中から特別攻撃隊員を募る。種類は潜水艦によるもの、魚雷によるもの、舟艇によるものである。応募者は明朝○八○○までに区隊長に申し出ろ。以上」一瞬私たちの間にピーンとした緊張感が走った。


自爆艇「震洋」は、本土決戦に向けて、日本各地にも配備された。このような部隊を編成とこの人選の経緯が、参議院外交防衛委員会(2001年5月31日)の田英夫議員の発言から窺われる。

昭和19(1944)年の10月ですか、私は横須賀の海軍航海学校というところに約400人近い予備学生と一緒に、いわゆる学徒出陣で出た同期の人と一緒に訓練を受けていた。ある日突然、総員集合、全員集まれということで、剣道場に集められました、夕方でしたが。
学生隊長というのは大佐です。その人が物々しい雰囲気の中で壇上に上がって言ったのは、おまえたちの中から特別攻撃隊員を募集すると。種類は、船舶によるもの、潜水艦によるもの、魚雷によるもの、三種類であると。希望者は明朝〇八〇〇までに当該教官に申し出ろ、以上。

 つまり一つは、船舶によるものというのは、私が行った震洋特攻隊という、小さな船で体当たりする。潜水艦というのは特殊潜航艇です。魚雷によるものというのは回天です。いわゆる人間魚雷回天です。

 夕食を食べ、最後寝てもだれも口きかない。お互いにふだんは夕食のときは楽しく談笑するんですが、その後勉強をして寝てもだれもまた一睡もしなかったと思うんです。階段ベッドで寝ているんですが、上の段の男がもう身もだえをするようにして寝返り打って寝られないでいるのが手にとるようにわかる。そのうちに、数時間たったときに、隣のベッドの上の段の戦友がベッドを出て教官室へ向かっていった。入りますと言っている。聞こえます。ああ、あいつは志願したなと思いました。ますますこっちは焦るわけですよ。と、彼は帰ってきていびきかいて寝てしまう、決断をしたから。

(航海学校一分隊二区隊第四班。寝室(居住区)では階段ベッドで私は下段、上段は松本素道君だった。すぐ隣の上段が荻野雅君、下段が蓼原一夫君だったと思う。「巡検終わり。タバコポン出せ」の号令がマイクで流れても、いつものように雑談をする者もない。一分隊二区隊第四班の私の部屋もシーンと静まりかえっていた。皆ベッドに入ってはいるが眠れない。----私の上段の松本素道君もベッドをきしませて返りをうつ。私もまったく眠れない。「走馬灯のように……という言葉のとおり、幼かつたころのこと、父母と旅行したときのこと、そして私の上段で悩みぬいていた松本素道君は「大和」で戦死してしまった。)

森山 私はとうとう朝まで寝られませんでしたね。私の上の段の男も寝られなかった。手にとるようにわかったんですが、彼は戦艦大和で死んだんです。隣のベッドの上下志願して、やはり死にました。そのときに400人のうち40人が志願して全員死にました。そのとき志願すれば死しかないんですね。

 悶々として考えたのは、つまり自分で特攻隊を志願するということは、死を覚悟することですよ。どうせ戦況からしていつかは死ぬかもしれない状況であることは事実なんですが、やはり人間というのは、みずから決断をして特攻隊を志願するとなるとそう簡単なものじゃない。
----走馬灯のようにという言葉がありますが、本当にそうですね。-----学校の先生が国のために命をささげることは美しいことだぞと、こういうことを本当に言いましたから、我々のころは。そういうのがぽっと先生の顔と一緒に浮かんでくる。次の瞬間、家族と一緒に旅行したことがぱっと写真のようにして頭に浮かぶ。次々次々に一枚の写真のようにして変わっていく。それが結局朝まで続いたわけです。私はそのとき志願しなかったんです。それから二カ月後に、少尉に任官すると同時に特攻隊へ行きました。

 -----大和で死んだ上段の男も苦悩してそして死んだんですが、彼のことを、戦争が終わって二十年ほどたって、生き残った当時の戦友たちが集まって教官も交えて懇親会をしたら、そのときの学生隊長が、まさに募集をした学生隊長が生きておられて出てこられました。そして、懇親会の席で私に、田、おまえは次男だったなと言われたんで、そうですと言ったら、うん、おまえはだから特攻隊へ行けたんだと。君の上に寝ていた松本君というのは母一人子一人だった、だから死なしちゃいけないと思って大和に乗せたんだよ、こういう話をされました。

 そういう戦争の何というか、表に出てみんながわかる、空襲で死ぬことも含めて、あるいは、陸軍の本当に弾が飛んでくる中で死んでいくということと、そういう現象だけじゃなくて、内面的な人間の苦しみというもののひどさ、そういうことをぜひわかっていただきたいということをまず前提に申し上げておきたいと思います。(引用終わり)

 日本陸軍では,特攻「マルレ艇」を配備した「海上挺進隊」を編成し,沖縄本島西方の慶良間列島に展開した。(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍参照)

渡嘉敷村の歴史によれば,慶良間諸島は、渡嘉敷島、前島、座間味島、阿嘉島、慶留間島、屋嘉比島、久場島、など大小20余の島々からなり、渡嘉敷村と座間味村に分かれている。日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に海上特攻艇200隻をしのばせていた。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、ついに3月26日には座間味の島々へ、3月27日には、渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保した。

写真(右):1945年3-4月、沖縄諸島、慶良間列島渡嘉敷島に座礁したアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ハリガン」USS Halligan (DD-584) (中央);1945年3月26日、渡嘉敷島沖12マイルで、機雷により大破し、沈没を免れるために渡嘉敷島に乗り上げた、と報告されている。最高速度38ノットの高速艦なので、水上特攻艇よりも早いが、排水量2900トンと大型のため、喧騒の戦場では、エンジン音を響かせて突っ込んでくる小さな自爆艇を発見できなかったのかもしれない。機雷に触れたと報告しているが、自爆艇が海上で停止して待ち伏せしたのかもしれない。

 特攻艇の海軍「震洋」,陸軍「マルレ艇」が慶良間列島に配備され,沖縄本島に上陸する米軍を迎撃する予定だった。沖縄本島の西部海岸(飛行場設営適地)に上陸しようとする敵海上部隊を,背後から体当たり艇で奇襲し撃破しようとした。

 他方、アメリカ軍は,慶良間列島が艦船の停泊に優れており,そこを補給基地,修理泊地として活用する意図で,沖縄本島への上陸に先立って攻撃した。そこで,1945年3月27日,配備されていた第22、第42震洋隊に出撃命令がでた。

写真(右):琉球諸島、慶良間列島、渡嘉敷島に座礁したアメリカ海軍フレッチャー(Fletcher)級駆逐艦「ハリガン」USS Halligan (DD-584) :手前にある爆雷(潜水している潜水艦を攻撃する海中爆弾)に誘爆すれば,いっそうの死傷者が出たであろう。

<慶良間列島渡嘉敷島沖に座礁したアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ハリガン」USS Halligan (DD-584) の戦歴
Assigned to a fire support unit, she arrived off the southwestern part of Okinawa 25 March and began patrolling between Okinawa and Kerama Retto. In addition she covered minesweepers during sweep operations through waters which had been heavily mined with irregular patterns.

Halligan continued her offshore patrols 26 March. At about 1835 a tremendous explosion rocked the ship, sending smoke and debris 200 feet in the air. The destroyer had hit a moored mine head on, exploding the forward magazines and blowing off the forward section of the ship including the bridge, back to the forward stack. PC 1128 and LSM-194 arrived soon after the explosion to aid survivors. Ensign R. L. Gardner, the senior surviving officer who was uninjured organized rescue parties and directed the evacuation of the living to waiting rescue vessels. Finally, he gave the order to abandon ship as the smoking hulk drifted helplessly.

The gallant Halligan, veteran of so many important operations in the Pacific, lost one-half her crew of 300 in the disaster; and only 2 of her 21 officers survived. The abandoned destroyer drifted aground on Tokashiki a small island west of Okinawa, the following day. There the hulk was further battered by pounding surf and enemy shore batteries. Her name was struck from the Navy List 28 April 1945, and in 1957 her hulk was donated to the government of the Ryukyu Islands.


写真(左):海上挺進隊の「マルレ」特攻艇に撃沈された可能性が高いアメリカ海軍フレッチャー(Fletcher)級駆逐艦駆逐艦「ハリガン」USS HALLIGAN (DD-584)
;沈没に伴い乗員162名死亡。On March 26 1945 Haligan was headed south from Okinawa for independent patrol when she stuck a mine which detonated beneath her forward magazines. PC-1128 and LSMR-94 took aboard the survivors. Halligan then drifted for 12 miles before pilling up on a reef off Tokashiki Island. This is an aerial view as she rests on the reef. A closeup of the destruction to the forward section of the Halligan.


写真(右):1945年5月26日、琉球列島、慶良間諸島、渡嘉敷島沖合12マイルで破損、島に座礁し放棄されたアメリカ海軍フレッチャー(Fletcher)級駆逐艦「ハリガン」USS HALLIGAN (DD-584) の艦尾 :日本軍の機雷に接触、爆発したようにも言われるが、慶良間諸島にまで日本軍が機雷を敷設する兵器の余裕はなく、日本陸軍海上挺進戦隊の突撃特攻艇「マルレ」が密かに特攻攻撃をかけたのではないか。
Title: Okinawa Campaign, 1945. Caption: Stern of USS HALLIGAN (DD-584) aground off Tokashiki Island, Near Okinawa, 26 March 1945. She had been wrecked by about twelve miles away on the same day, and drifted ashore after being abandoned. Photograph by USS ROWE (DD-564) according to original caption. Catalog #: 80-G-324178 Copyright Owner: National Archives Original Date: Sat, May 26, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-324178 Okinawa Campaign, 1945. 引用。


1945年3月26日(日本側27日)、渡嘉敷島沖で座礁・放棄されたアメリカ海軍フレッチャー(Fletcher)級駆逐艦「ハリガン」 USS Halligan (DD-584)だが、アメリカ軍によれば,沖合いで機雷に触れて,島に乗り上げ座礁・沈没した。 Struck mine off Okinawa and sank March 26 1945 とする。しかし,特攻艇による戦果である可能性もある。3月29日に第42震洋隊に出撃命令がでたが,戦果が不明のまま半数が戦死してしまう。1945年4月1日にも第22震洋隊に出撃命令が下ったが,このときは,歩兵揚陸艇1隻,駆逐艦1隻を撃沈したようだ。

1945年4月4日の上陸用舟艇LCI(G)-82への水上特攻艇の体当たりについて、米軍の資料にも興味深い話が記載されている。
中型揚陸艦LMS(R)-12も1945年4月4日,日本の体当たり水上艇によって撃沈された。

写真(右):フレッチャーFLETCHER級駆逐艦「ハリガン」 ;1945年3月1日、硫黄島侵攻時の撮影。迷彩方法(Camouflage Measure)32, デザイン(Design)1Dで塗装されている。最高速度38ノットの高速艦で、水上特攻艇よりも遥かに優速である。排水量2900トンと大型艦であり、喧騒の戦場では、エンジン音を響かせて突っ込んでくる小さな自爆艇を発見できないまま、自爆された可能性がある。優速の駆逐艦を低速ボートで追いかけても、体当たりできないので、自爆艇は海上待ち伏せ攻撃を仕掛けたのではないか。
Description: (DD-584) Pulling away after delivering mail to USS Sargent Bay (CVE-83) on 1 March 1945, during the Iwo Jima Operation. Photographer: PH3 John M. Andrews. Halligan is painted in Camouflage Measure 32, Design 1D. For drawings of this design, see Photo # 80-G-158589 (starboard side) and Photo # 80-G-158590 (port side). Official U.S. Navy P hotograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-264061
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-264061 USS Halligan引用。


1945年3月26日(日本側27日)、日本陸軍海上挺進隊の突撃艇「マルレ」が、慶良間諸島の渡嘉敷島沖で撃沈した可能性の高い駆逐艦「ハリガン」DD-584 USS HALLIGAN(フレッチャーFletcher級)のデータ。
排水量 2924 Tons (Full), 全長, 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max)
兵装 5 x 5インチ38口径対空砲, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5).
機関出力, 60,000 馬力; General Electric Geared Turbines, 2軸
速力, 38 Knots, 航続距離 6500マイル @ 15 Knots, 乗員 273名.

写真(右):フレッチャーFLETCHER級駆逐艦の施した迷彩方法(Camouflage Measure)32, デザイン(Design)1D;同級の駆逐艦「ハリガン」 USS Halligan (DD-584)は、1945年3月26日(日本側27日)、琉球列島、慶良間諸島、渡嘉敷島沖12マイルで、日本陸軍の特攻ボート「マルレ艇」の攻撃を受け損傷したようだ。その後、渡嘉敷島に座礁し放棄された。
Title: Camouflage Measure 31-32-33 Series, Design 1D Description: Drawing prepared by the Bureau of Ships for a camouflage scheme intended for destroyers of the Fletcher (DD-445) class, circa 1943. This plan shows the ship's port side, stern, and superstructure ends. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-158590
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-158590 Camouflage Measure 31-32-33 Series, Design 1D引用。


 『ある神話の背景』を追求するブログ 「『体当たり』兵器だったという嘘 」によれば、曽野綾子(1992)『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決』は、陸軍水上特攻艇(マルレ)に関して、ベニヤ製の舟に自動車用エンジンを搭載し、速力20ノット、120キロ爆雷2個を搭載する体当たり特攻艇として紹介しているが、実際は陸軍「マルレ」は自爆特攻艇ではないとする。
沖縄、渡嘉敷島の海上挺進第三戦隊赤松嘉次大尉の副官だった知念朝睦氏は、県史への証言で、次のように言っている。
 「----渡嘉敷島、座間味、阿嘉で丸く囲んだ内海で全舟艇は二百五十キロの爆雷を抱えて、内海の中心に向って全速力で三方から押し寄せ、敵艦に三〇度の角度で接近し、舟艇の先きが、敵艦に接触したと見るや、爆雷を投棄して、六〇度万向転回をして、即ち三〇度の角度を保ちながら遁走します。その後、四秒で爆発するので搭乗員は助かる算段は、充分にあるわけです。」(『沖縄県史』10巻、1974年)

写真(右):1945年3-4月、沖縄、慶良間諸島、阿嘉島の海岸に星条旗を立てたアメリカ陸軍と沿岸警備隊の兵士たち。歩兵上陸用舟艇(Landing ship-medium LSM)の艦橋に兵士が集まっているようにみえる。後方には、水陸両用装軌式トラクターLVT(A)-4(Landing Vehicle Tracked)「ウォーター・バッファロー」は、揚陸だけでなく、火力支援にも使えるように、短砲身75ミリ砲を砲塔式に搭載し、0.3インチ(7.62弌M1919機関銃あるいは0.5インチ(12.7mm)M2機関銃を後部の砲架上に装備している。:阿嘉島は、面積3.80平方キロ、最高峰187mの大岳(おおたけ)。阿嘉島には、日本陸軍の特攻艇「マルレ艇」が配備されていた。これは、「マルレ」の秘匿名称で呼ばれているが、250キロ爆薬を搭載したベニヤモーターボートで、体当たり自爆によって敵艦船を撃沈しようという特攻兵器である。全長5.6メートル、自動車用ガソリンエンジンを搭載し、最大速力は20ノット以下だったので、30ノット以上を出す艦艇への攻撃は事実上できず、揚陸艦や輸送船を狙うしかなかった。
Title: Okinawa Operation, March-April 1945 Caption: U.S. Army and Coast Guard forces raise the flag over Aka Shima near Okinawa, after landing there on 26 March 1945. Description: Courtesy of Robert O. Baumrucker, 1978 Catalog #: NH 89372 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 89372 Okinawa Operation, March-April 1945引用。


月刊雑誌『WILL』200年8月増刊号「私は集団自決など命じていない・梅澤元少佐独占手記」梅澤裕(元海上挺進第一戦隊長) 取材・構成 鴨野守 ジヤーナリスト、によれば、沖縄座間味島の海上挺進第一戦隊長梅澤裕少佐は、1945年6月初め捕えられ生き残った。そして、次の証言をしている。

「戦局が次第に厳びしくなる中で、昭和十九年一月、私は船舶兵への転科命令を受けました。そして、事態打開を図る一環として出てきたのが、船舶特攻のマルレです。

 特攻と言えば「神風」や、海軍の水中特攻「回天」などが知られていますが、陸軍が作った船舶特攻艇がマルレでした。船幅一・八メートル、艇長五・六メートルのべニア張りのボートに百二十キロの爆雷一、二個を搭載します。米軍が沖縄本島に上陸したあと、食料や戦車、武器弾薬を運んでぐる。輸送船をやっつけよう、大打撃を与えようというのが、マルレの目的でした。

 もちろん、敵の艦船に突撃すれば、乗り込んだ隊員の生還はない。だから、思慮のあるやつよりも、とにかくがむしゃらな若者を訓練して、敵にぶつかっていけというのが首脳部の考えで、十六歳から十八歳ぐらいの特別幹部候補生が選ばれたのは、そうした事情があったと見ています。

   私の海上挺進第一戦隊は、各戦隊のトップを切って昭和十九年八月上旬、小豆島そばの豊島で訓練をスタートしました。自分でいうのもなんですが、それまでの戦揚での活躍が評価され、戦隊長に選ばれたと思っています。

 秘密作戦という性質上、昼は休み、夜に舟艇の取り扱いや操縦航行に励んだ。だが、まだ二十歳にもならない若者を爆死させてよいものか悩みました。そこで、攻撃方法を工夫しました。敵艦に接近したら、直突せずに角度を持ってすり抜け、手動で爆雷を落とす。爆雷を落した四秒後には舟は二十メートル退避できるはず。十人のうち五人くらいが生還でき、次の戦いに臨むこともできると。

 宇品の司令部に行き、船舶司令官の佐伯中将に意見具申しました。佐伯中将は、多くの参謀とともに話を聞いてくださり、しばらく瞑目された後、「よし、それでゆけ」と決裁をくださった。こんな感激はなかったです。隊員の特別幹部候補生も大喜びし、訓練にも熱がこもったことは言うまでもありません。

 ただひとつ気ががりなことがあった。敵はフィリピンに来るか沖縄に来るか。沖縄に先に来たら、敵の輸送船をひっくり返してやろうと思って訓練した。だがフィリピンが先だったら、マルレの存在が敵に知られてしまうのは必至です。フィリピンに先に出撃されたらもう終わりだと思った。なぜなら、捕虜は必ず厳しく調べられる。アメリカ軍の裏をかいて、慶良間諸島で「マルレ」が密かに待ち受けているという情報が必ずや敵に知れ渡ると覚悟した。残念ながら、この予想は的中してしまいました。」

「昭和十九年九月、私たちが座間味に入ったら、もう基地隊が待っていました。私たち特幹隊百四名はファイター、戦争する兵土です。それをバックアップして助けてくれる基地隊、これがすでに千人来ていました。村と打合せをして、私たちは小学校を宿舎にして、基地隊のメンバーは村落の中に舎営していました。

 歓迎会が行われた翌日から基地隊は、敵の襲来に傭えて陣地作りや、穴掘り、鉄条網張り、機閥銃の台座作りから、大砲を撃つ砲座まで作ってくれました。ものすごく優秀な工兵です。

 あと整備中隊が百五十人。これはエンジン専門です。我々が持っているモーターボートを整備する。エンジンを修理する、舟が傷んだら直してくれる。両方が一緒になって、我々を補助して戦えるように押し出してくれるのです。渡嘉敷海峡に面した古座間味の山腹に穴を掘る。そこに、長さ五メートルほどのマルレを三隻入れるわけです。そんな穴をたくさん掘った。

 この基地隊の指揮官は小沢という少佐でした。彼は士官学校出身の、正規の順序を踏んだ将校ではなく、下士官からものすごく努力して、曹長になり、その中から成績のいい者は一年だけ士官学校に行くことを許すという制度があり、その試験に合格して士官学校に入った将校です。少尉候補者十一期生の優秀な人ですが、年はすでに四十歳くらいでした。私は中国で六年も戦場を体験しており、彼はべテラン。良い組み合わせでした。

沖縄戦  マルレ」を隠す穴を掘るには、材木で補強する必要があります。座間味の山は密林ですから、そこから切り出さないといけない。それを村人に頼むんです。命令じゃありません。「ご苦労さんだけど、明日から何日か、材木伐採するから手伝ってください」と。そしたら村長や助役が「わかりました」と言って受けてくださる。若い人は戦争に行って島にいないから、三十過ぎから四十歳くらいの島民二、三十人を集めて、基地隊に木材を渡してくれる。下士官がそれを貰う。片一方では穴を掘ったり、村の中にいろいろ陣地を作ってくれる。そういうことをやっていた。

 九月の中旬から翌年の三月二十六日までぶっ通しで応援してくれました。私は誇りを持って言いますが、私たち部隊と、住民との関係は当時ぴか一だったと思う。道端で出会った村びとが重い荷物を担いでいたりしたら、部下が率先して手伝った。また、村びとも珍しいものが手に入ると食卓に並べて、家族同様のもてなしをしてくれたものです。戦後、慰霊のために現地を訪れた折り、我々を大歓迎してくれ、また島を離れる時は、船着き揚まで見送りをして別れを惜しんでくれた。この関係は、昔も今も変わりません。」

「敵が攻撃してきたのは忘れもしない昭和二十年三月二十三日。空襲は二十三日から四月二日まで続いた。二十五日、大艦隊が海峡に侵入し、艦砲射撃が始まりました。何とミズーリ級が一隻、インディアナポリス級が一隻、駆逐艦が二隻も攻めてきました。戦艦、巡洋艦、駆逐艦が慶慶良間諸島の沖合い一キロのところにデンと停まって攻撃してくる。

 駆逐艦の大砲は直径が十二、三センチ、巡洋艦は二十五センチ。これが至近距離に飛んできたら大変ですよ。一分に五、六発から十発くらい飛んでくる。戦艦の大砲の直径が四十センチ。もちろんこれは、戦艦相手に戦う場合に使うもので、山の壕の中の小さな舟を壊すくらいなら、二十センチから二十六センチくらいの砲弾を撃ち込みます。

 「これは大変なのが来るな」と思った。ドカーンと攻撃が始まったら、百発百中こちらの特攻挺に命中するじゃないですか。それもそのはず、後で判明したことですがスパイが撃つべきところを教えていた。潜水艦のフロッグマンがゴムボートで夜、島に来ていろいろ連絡していたのです。(これは機雷など海中障害物破壊部隊だったが、日本兵はスパイを極度に恐れる疑心暗鬼に陥っていたこと物語る。<鳥飼研究室註>) 

最後の震洋特攻  それで徹底的にぶっ壊されて、壕の中の弾薬も食糧も、壕の下にあった食糧倉庫も、全部が破壊されてしまった。我々は海で戦うつもりが結局、マルレが潰されたものですから、出撃できない。阿嘉島渡嘉敷島マルレがはたくさん残っていたのですが、渡嘉敷島では攻撃のタイミングがずれて自沈せざるをえなかった。座間味島の場合、完全に標的とされて潰されました。(奇襲され秘密兵器を破壊されれば隊長は処分される可能性もある。謀略や兵力差を強調するのは当然である。<鳥飼研究室註>)。

 戦隊の百四人は、将校がピストルや軍刀を持っているだけ。五十七期の士官学校卒業したてで、戦争が初めてという少尉を中隊長として、そのもとに二人の工兵科の幹部候補生の予備士官学校卒業ホヤホヤの少尉が群長で三十人の部下。そのような編成が三つある。だがいくらべテランの私でも、武器がなければ戦えない。とんでもないことになったと思いました。とにかく何とか敵のものすごい攻撃を避けて山の中に隠れて持久戦に持ち込むしかない。」

めちゃくちゃにやられてしまった三月二十五日の晩に、いよいよ私は部下を集めた。部下といっても十七、十八歳の少年です。お前達はもう兵器がないんだから、とにかく明日から、山を越えた向こうの部落の方に避難してくれと。

 その頃、千人いた基地隊の兵隊が沖縄本島に七百人取られて、三百人しか残っていなかった。その三百人のうち百二十人くらいは小銃を持っていて、重機関銃も二つあった。それで俺は戦うから下がれといったら、しぶしぶ下がった。阿佐の海岸の近くまで下がって待機していました。マルレもなくなり出撃不能だから、明日二十六日は陸戦になるだろうと。基地隊と整備中隊を集めて、一番高い番所山、高月山の下にとにかく陣地を作って敵が上陸するのを迎え撃つ方針を定めた。

 すると、夜十時頃、村の幹部ら五人が来て、驚くべきことを言い出したんです。その五人とは役場の助役・宮里盛秀、収入役の宮年正次郎、小学校長・玉城政助、役場の事務員及び女子青年団長宮城初校でした。助役が代表してこう言いました。

「いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。  私たちは申し合わせが出来ているから、死ななければならない。覚悟しています。私たちは島の指導層だから、知らん顔できないから一緒に死にます。  村の忠魂碑前の広場に女子供、老人をはじめ、みんなを集めるから、敵の緒にぶつける爆薬、ドラム缶に入った百二十五キロの爆薬を、みんなが集まっている真ん中で爆発させてください。老幼婦女子が集まりますから、ふっ飛ばしてください。だめなら小銃弾をください。手榴弾をください。そうしないと、私たちは死ねと言われてもどうやって死んだらいいかわからんのです」

 今でも忘れることができません。去年昭和十九年十一月三日の、沖縄県の決起大会から決議されて指令が出ている。死ななきゃいけないんだ、と言う。戦う人達の後顧の憂いをなからしむために自決して、死にます、弾をくださいと言われて、私は愕然としました。考えたこともない、とんでもない話です。村の人達はおとなしくて純朴で親切で、本当によくやってくれた。女子青年団もよくやってくれた。日本の内地の女よりもよほど立派だと感心していたんです。

 私は玉砕の申し出に、びっくりすると同時に唖然として、強い口調でこう言いました。「我々は明日から戦おうと思っているのに、なんてことを言うのか。とにかく死んではいけない。どうして死ぬなんていうのか」と。

「我々も必死で、この後ろの山で戦う。山の後ろの方、島の東の山の中に隠れて避難してくれ。山の向うには密林があって、密林の中に壕も掘ったじゃないか、食糧も蓄えたじゃないか。それをやったのはみんな、そこで生き延びてくれと言うことだ。死んでどうなるんだ、絶対に生きなければならない。死んではいけない」

 こう強く諭すのですが、「いや、私たちは上の方から言われて、申し合わせており、どうにもなりません」と思い詰めた表情で言う。特別の空気があった。一番最初に言ったのが、村の助役をしていた宮星盛秀です。彼は、鹿児島で除隊した退役軍人です。非常に優秀な兵隊だったと思う。私はその男が非常に好きだった。私が村の人達と大事なことを話す時、いつも彼が窓口でした。だから私がこんこんと「死ぬ必要はない」と止めているのに、「覚梧は出来ています」と言って聞かない。それで私は怒鳴りつけたんですよ、「弾丸はやれない、帰れ!!」と。 (月刊雑誌『WILL』2008年8月増刊号梅澤証言引用終わり) 

写真(右):1945年5月、沖縄地方、慶良間諸島、座間味島の稲作地帯、アメリカ軍のキャンプ(駐屯地)がここに設けられた。: 座間味島は沖縄本島那覇から西方に40キロ、面積6.7平方キロ、最高峰は160 mの大岳(うふだき)。1945年3月25日、座間味島には、アメリカ軍による艦砲射撃と艦上機による空襲が浴びせられた。そして、翌3月26日、沖縄戦の端緒で、アメリカ軍は座間味島に上陸した(本島上陸は4月1日で6日後)。慶良間諸島(渡嘉敷島も含む)には、日本陸軍第32軍の守備範囲だったが、ここへのアメリカ軍上陸は想定していなかった。日本軍はここにベニヤで作った小型モーターボートに250キロ爆薬を搭載した体当たり自特攻艇「マルレ」四式肉薄攻撃艇を配備した。この慶良間列島では、アメリカ軍の上陸の危機に恐れおののき、捕虜となれば暴行、虐殺されるとの恐怖から、住民の集団自決が起きた。
Title: U.S. troops encamped in a rice paddy during the Okinawa Campaign, circa May 1945 Caption: Jamami Island, Kerama Retto, Ryukyu Islands. U.S. troops encamped in a rice paddy on the island, during the Okinawa Campaign, circa May 1945. Photo by USS MAKIN ISLAND (CVE-93), received 14 July 1945. Description: color Catalog #: 80-G-K-5712. Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5712 U.S. troops encamped in a rice paddy during the Okinawa Campaign, circa May 1945引用。


<沖縄諸島の特攻自爆「マルレ艇」部隊>
座間味島
 海上挺進第一戦隊(戦隊長 梅澤裕)陸軍少佐)
阿嘉島・慶留間島
 海上挺進第二戦隊(戦隊長野田義彦陸軍少佐)
渡嘉敷島阿波連島
 海上挺進第三戦隊(戦隊長赤松嘉次陸軍大尉)

慶良間諸島に配備された海上挺進隊戦隊の隊長他幹部の証言は貴重であるが、彼ら挺進戦隊幹部は、突撃艇の搭乗員ではない。海上挺進戦隊の指揮官は、特攻艇「マルレ」に搭乗し出撃することはない。一人乗りの突撃艇は、速度も30ノットが最高で、無線も搭載しておらず、中古自動車エンジンの騒音を考えれば、隠密行動も難しい。海上にいったん出てしまえば、指揮官が部下を率いて作戦行動を指揮することは不可能である。したがって、海上挺進戦隊の指揮官は、基地に待機、指揮している。さらに、部隊では、海上に脱出した「マルレ」搭乗員の救出作戦も救出訓練も一切ない。つまり、特攻艇の搭乗員が脱出したり、生還したりすることは全く想定されていなかった。

海軍の特攻艇「震洋」は、艇首のハッチ内部に爆弾を搭載するのに対して、陸軍海上挺進隊「マルレ」は、艇尾に爆雷を2個搭載する。したがって、海軍「震洋」は完全に自爆体当たり特攻艇であるが、陸軍「マルレ」は敵艦数十メートル以内に接近して爆雷を投下後、反転退避することが可能である。ただし、敵艦に数十メートルも接近したのであれば、攻撃を受ける中で、敵前回頭は事実上は困難で、撃沈される。特攻艇を捨て脱出しても、銃撃で殺されるか、捕虜となって惨殺されるかの違いでしかない。このように海上挺進戦隊の特攻隊艇員は考えた。だから、突撃艇の搭乗員は、特攻隊員と自ら認め、自爆体当たりする覚悟で出撃した。

他方、海上挺進戦隊の指揮官は、出撃命令を出し、その後も基地に残っているので、突撃艇の搭乗員は生還可能との詭弁を弄するかもしれない。部下を死地に追いやり、自分だけ生き残るのは恥である。自己防衛本能、保身の上からも、特攻隊員の部下にも生き残るチャンスがあると、自分を納得させたいのはもっともだ。海上挺進戦隊の隊員が、みな特攻隊員ではない。基地で作戦指導をする指揮官、整備をする整備員は、実際に爆雷を持って突撃する特攻隊員とは、特攻艇について、搭乗員が生き残る算段は十分にある、と現実的にはまず不可能な認識を自分のものとした。そうでなければ、自分は生き、部下だけ死なせるという冷酷な作戦指導などできるはずがない。


写真(右):1945年4月中旬、琉球諸島、艦隊タグボート(曳航艦)によって、慶良間諸島の泊地に曳航されてきたアメリカ海軍水上機母艦「ソーントン」(USS Thornton, DD-270/AVD-11)。:1919年7月15日に就役したクレムソン級旧式駆逐艦「ソートン」は、損傷したのを契機に、1944年2月17日から10カ月かけてメア・アイランド海軍工廠で水上機母艦に改造された。基準排水量 1,215トン。1945年4月5日、アメリカ海軍の補給艦「アシュタビュラ」USS Ashtabula (AO-51) と補給艦「エスカランテ」」USS Escalante (AO-70)と衝突し、右舷に大きな穴の開く損傷を蒙った。4月14日に曳航されて慶良間諸島の泊地に到着。そこで、艦隊タグボート(曳航艦)で曳航され、この慶良間諸島泊地で応急修理をする予定だったが、損傷が激しいために、4月29日、「ソーントン」の修理は中止、放棄することになった。
Title: USS Thornton Description: (AVD-11), at left Is towed into Kerama Retto harbor, Ryukyu Islands, by a fleet tug (ATF), circa 14 April 1945. Thornton had been heavily damaged on 5 April 1945 in a collision with USS Ashtabula (AO-51) and USS Escalante (AO-70). Note the deep vertical gash in her starboard side, amidships. LCT-1409 is passing by in the foreground. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-328478
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #:80-G-328478 USS Thornton 引用。


写真(右):1945年4月1日(?)、沖縄、慶良間諸島に上陸するアメリカ海軍の戦車揚陸艦(LST:Landing Ship, Tank)885号ほか:迷彩塗装を施しているが、これは戦争後期のアメリカ軍艦艇に普及していた塗装方法だった。
戦車揚陸艦LST-885諸元:
1944年10月26日就役
全長Length: 327' 9"' 、ビームBeam: 50'
搭載量Displacement: 1,625 (軽量時);
 4,080 (満載時 2,100 トン)
動力Propulsion: 2 x General Motors 12-567 ディーゼル2軸
航続距離 Range: 24,000マイル @ 9 ノット(knots)
最高速力Top Speed: 11.6 knots
乗員Complement: 111名、兵員Troops: 163名
兵装 Armament: 7 x 40ミリ単装機関砲
 6 x 20ミリ機関銃
2 x 12.7ミリ機関銃(.50caliber mg)
4 x 12.7ミリ機銃(.30-caliber mg)。
LSM(Landing ship-medium)は同じシップ(ship)でも1,000トンとLSTより小さいために「艇」とし、LSTはそれよりは大きいく総トン数5000トンあるので「艦」と訳す。船倉前部には揚陸する戦車・トラックなど戦闘車輛や火砲、弾薬、燃料など様々な物資を搭載することができる。艦首ががたくさん積み込まれているようだ。アメリカ軍は慶良間諸島を艦隊や補給船舶の泊地として利用した。
Title: USS LST -647 Caption: Moves in toward the beach at Kerama Retto. In background is LST-885. Photographed from USS WEST VIRGINIA (BB-480) Description: Catalog #: 80-G-K-3821 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Original Date: Sun, Apr 01, 1945
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-3821 USS LST -647 引用。


写真(右):1945年4月、沖縄、慶良間諸島に停泊している輸送船舶から、燃料と思われるドラム缶を揚陸しているアメリカ軍。慶良間諸島は、艦隊や補給船舶の泊地となり、沖縄振興のための前線補給基地として機能していた。:1945年3月26日、沖縄本島上陸に先んじて、アメリカ軍は慶良間列島に上陸した。慶良間列島の住民は、アメリカ軍の侵攻に恐慌をきたし、捕虜となれば暴行、虐殺されるとの恐怖から、家族で自ら死を選んだ。これが、住民の集団自決である。
Title: Escort Carrier Crewmen Caption: Handling suppliers on their ship's forward flight deck, in Kerama Retto Anchorage, near Okinawa, April 1945. Another escort carrier CVE-55 Class- is in the background. Description: Catalog #: 80-G-K-4928 Copyright Owner: NARA
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-4928 Escort Carrier Crewmen引用。


事件番号 平成17(ワ)7696 事件名 出版差止等請求事件
裁判年月日 平成20年03月28日 大阪地方裁判所第9民事部
判示事項の要旨
 太平洋戦争後期に沖縄の座間味島および渡嘉敷島の各守備隊長であった元軍人が住民に集団自決を命じたという記述及びこれを前提とした意見,論評の記述のある書籍について,元軍人及び遺族が,同書籍を出版し又は執筆した被告らに対し,同記述は虚偽の事実を摘示したものであり,元軍人は名誉,人格的利益を侵害され,遺族は亡元軍人に対する敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を侵害されたと主張して,損害賠償及び謝罪広告の掲載を求めた事案において,上記書籍の記述どおりの元軍人の命令を認定することはできないが,同命令があったことを真実と信じるについての相当の理由があったものと認められるなどとして,上記請求が棄却された。 (平成20年03月28日 大阪地方裁判所第9民事部引用終わり)

主文 平成20年3月28日 大阪地方裁判所第9民事部 裁判長裁判官深見敏正

林博史 慶良間列島は,沖縄本島・那覇の約20キロメートル西方に位置する,渡嘉敷島,座間味島,阿嘉島,慶留間島などの島々の総称である。慶良間列島には,昭和19年9月,陸軍海上挺進戦隊が配備され,座間味島に原告Bが隊長を務める第一戦隊,阿嘉島・慶留間島にO隊長が隊長を務める第二戦隊,渡嘉敷島にD大尉が隊長を務める第三戦隊が駐留した。昭和20年3月の米軍進攻当時,慶良間列島に駐屯していた守備隊はこれらの戦隊のみであった。海上挺進隊は,当初,小型船艇に爆雷を装着し,敵艦隊に体当たり攻撃をして自爆することが計画されていたが,結局出撃の機会はなく,前記船艇を自沈させた後は,海上挺進隊はそれぞれ駐屯する島の守備隊となった。

慶良間列島は,後記の集団自決発生当時,米軍の空襲や艦砲射撃のため,沖縄本島など周囲の島との連絡が遮断されており,敵の包囲・攻撃があったときに警戒すべき区域として戒厳令によって区画した区域である「合囲地境」ではなかったものの,事実上そのような状況下にあったとする文献もある。合囲地境においては,行政権及び司法権の全部又は一部を軍の統制下に置くこととされ,村の幹部や後記の防衛隊による指示は,軍の命令と捉えられていた。

また,前記のとおり,後記の集団自決生当時,慶良間列島は沖縄本島などとの連絡が遮断されていたから,食糧や武器の補給が困難な状況にあった。

慶良間列島に配備された陸軍海上挺進戦隊は,もともと特攻部隊としての役割を与えられていたことから,米軍に発見されないよう,後記の特攻船艇の管理は厳重であり,その他の武器一般の管理についても同様であった。

座間味村は,渡嘉敷島の西方約2キロメートルに位置する座間味島、阿嘉島,慶留間島など複数の島々で構成される離島村である。昭和15年の統計によれば,座間味村の人口は約2350人であった。座間味村では,防衛隊長兼兵事主任のP助役が,伝令役の防衛隊員であり役場職員であるVJを通じて軍の指示を住民に伝達していた。兵事主任は,徴兵事務を扱う専任の役場職員であり,軍の命令を住民に伝達する立場にあった。そのほか,住民は,Sが団長を務めた女子青年団などが中心となって,救護,炊事などで日常的に部隊に協力していた。

渡嘉敷村は,渡嘉敷島を中心として,その他複数の小島で構成されている。昭和19年当時,渡嘉敷村の人口は約1400人であった。渡嘉敷村では,Q村長,防衛隊長のVK,N兵事主任,M巡査らが軍の指示を住民に伝達していた。昭和19年9月9日,XL少佐を隊長とする第三基地隊と呼ばれる約1000人の兵隊が,渡嘉敷村に上陸し,上陸後直ちに陣地構築に取りかかった。渡嘉敷村の村民も,国民学校の生徒を動員するなどして陣地構築作業に従事した。

同月20日には,D大尉を隊長とする海上挺進第三戦隊104人が,渡嘉敷島をに駐屯した。第三戦隊は,同年4月に海上特攻隊として編成された部隊であり,○レ(マルレ)と呼ばれる特攻船艇を約100隻保有していた。渡嘉敷村は,同年10月10日に空襲を受け,この空襲以降,慶良間列島の戦況は悪化していたが,このような状況下で,それまで徴用で陣地構築作業に従事していた男子77名が改めて召集され,兵隊と ともに国民学校に宿営することとなった。そのほか,渡嘉敷村の婦人会や女子青年団は,救護班や炊事班などに徴用され,学童に対する授業は停止した状態であった。

前記第三基地隊は,昭和20年2月中旬,特攻基地がおおむね完成に近づいたころ,勤務隊の一部と通信隊の一部とを第三戦隊の配下にして,沖縄本島に移動した。その後,第三戦隊は,同年3月20日に陣地を完成させ,特攻船艇の点検も行い,米軍を迎え撃つばかりの状況となっていた。

イ 集団自決の発生

(ア) 座間味島

座間味島は,昭和20年3月23日,米軍から空襲を受け,これにより,日本軍の船舶や座間味部落の多くが被害を受けた。座間味島は,同月24日,25日も空襲を受けた。住民は壕に避難するなどしていたが,同月25日夜,伝令役のVJが,住民に対し,忠魂碑前に集合するよう伝えて回った。その後,同月26日,多数の住民が,手榴弾を使用するなどして集団で死亡した(従来,これを集団自決と呼んでいるが,後記諸文献に記載されているとおり,その実態は,親が幼児ら子を殺害し,子が年老いた 親を殺害するなど肉親等による殺害であり,自決という任意的,自発的死を意味する言葉を用いることが適切であるか否かについては議論の余地がある。

しかし,集団自決という言葉が後記諸文献で定着していると考えられるので(誤解を避ける意味でかぎ括弧付きで「集団自決」と表記しているものもあるけれども),次の渡嘉敷島での事例も含めて,本判決では,以下において,集団自決と呼称することとする。)。自決を遂げた住民の正確な数については,後記(ウ)のとおり,明らかとなっていない。

(イ) 渡嘉敷島

第三戦隊は,昭和20年3月25日,特攻船艇への爆雷の取付けやエンジンの始動も完了し,出撃命令を待っていたが,D大尉は出撃命令を出さなかった。結局,D大尉は,米軍に発見されるのを防止するためとして,特攻船艇をすべて破壊することを命じた。 同月27日午前,米軍の一部が渡嘉敷島の西部から上陸した。

D大尉は,米軍の上陸前,M巡査に対し,住民は西山陣地北方の盆地に集合するよう指示し,これを受けて,M巡査は,防衛隊員とともに,住民に対し,西山陣地の方に集合するよう促した。渡嘉敷島の住民は,同月28日,防衛隊員などから配布されていた手 榴弾を用いるなどして,集団で死亡した。死亡した住民の正確な数については,後記(ウ)のとおり,明らかとなっていない。

(ウ) 自決者の人数

沖縄戦においては,戸籍簿をはじめとして多くの行政資料が焼失したため,住民の犠牲の全貌を明らかにすることは困難とされており,現在もなお,犠牲となった住民の正確な数は明らかとなっていないが,主な公的資料等では,集団自決の犠牲者数について,次のとおり記録されている。

「鉄の暴風」では,厚生省の調査によると座間味島及び渡嘉敷島の自決者の合計人数が約700人であったとされている。「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」では,作戦遂行を理由に軍から自決を強要された事例として,座間味村155人,渡嘉敷村103人の自決者があったとされている。「沖縄作戦講話録」では,援護法の戦闘協力者として昭和25年3月末までに申告された陸軍関係死没者4万8509人のうち14才未満の死没者1万1483人についてこれを死亡原因別に区分して,沖縄戦全体で「自決」313人となるとされている。また,「沖縄作戦講話録」では,渡嘉敷村329人,座間味村284人の自決者があったとされている。「沖縄県史第8巻」では,「集団自決」が613人とされている。「座間味村史上巻」では,座間味村の座間味部落だけで200人近い犠牲者がいるとされている。

(エ) 座間味島及び渡嘉敷島以外の集団自決

座間味島及び渡嘉敷島の集団自決のほか,数十人が昭和20年3月下旬に沖縄本島中部で,数十人が同月下旬に慶留間島で,約10人が同年4月上旬に沖縄本島西側美里で,100人以上が同月下旬に伊江島で,100人以上が同月下旬に読谷村で,十数人が同年4月下旬に沖縄本島東部の具志川グスクなどで,それぞれ集団自決を行った。

以上のうちの慶良間列島の慶留間島には,前記のとおり,第二戦隊が駐留していたが,第二戦隊のO隊長は,昭和20年2月8日,住民に対し,「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示し同年3月26日,米軍の上陸の際,集団自決が発生した。

以上の集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており,日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では,集団自決は発生しなかった。

戦傷病者戦没者遺族等援護法は,軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し,国家補償の精神に基づき,軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的して制定された法律であり,昭和27年4月30日に公布された。

(イ) 沖縄は米軍の占領下にあり,日本法を直ちに適用することができなかったため,日本政府は,同年8月,那覇日本政府南方連絡事務所を設置した。同所と米国民政府との折衝の結果,日本政府は,昭和28年3月26日,北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に現住する者に対して 戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用する旨公表した。 他方,琉球政府においては,同年4月1日,社会局に援護課が設置され,援護事務を取り扱うこととされた。

(ウ) 日本軍が沖縄に駐屯を開始したのは昭和19年6月ころであったが,駐屯当初,日本軍は,公共施設や民家を宿舎として使用し,軍人と住民が同居することがあった。そのほかにも,住民は,陣地構築や炊事・救護等で,軍に協力する立場にあった。また,沖縄戦は,島々を中心に前線もないままに戦闘が行われたため,軍と住民は,軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。

このような事情により,住民を戦闘参加者と戦闘協力者に区分することは容易ではなかった。この点について,WFは,「複雑多岐な様相を帯びている沖縄戦では,戦斗協力者と有給軍属,戦斗協力者と一般軍に無関係な住民との区別を,如何なる一線で劃するか,誠に至難な問題が介在している。結局総ゆる事例について調査解明して最も明瞭なものから,逐次処理しつつ,其の範囲を縮少し,最後に左右いずれにするかの『踏み切り』をする以外にないように思われる。」としている。

戦傷病者戦没者遺族等援護法による救済対象となる戦闘参加者の範囲を決定するため,厚生省引揚援護局援護課の職員が沖縄を訪問し,沖縄戦の実態調査を行った。沖縄県の住民は,沖縄県遺族連合会が懇談会,協議会を開催するなど,集団自決について援護法が適用されるよう強く求め,琉球政府社会局を通して厚生省に陳情する運動を行った。

 以上の実態調査や要望を踏まえて,厚生省は,昭和32年7月,沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱を決定した。この要綱によれば,戦闘参加者の対象者は,ゝ鼠β癲き直接戦闘,C凸堯食糧・患者等の輸送,た愧蝋獣曄きタ羯・救護等の雑役,食糧供出,Щ融局隊への協力,┨茲猟鷆 き職域(県庁職員・報道関係者),区村長としての協力,海上脱出者の刳舟輸送,特殊技術者(鍛冶工・大工等),馬糧蒐集,飛行場破壊,集団自決,案三篤癲き瑛祁眄鏘力,殴好僖し疑による斬殺,概撈勤務,感佻奉仕作業, の20種類に区分され,軍に協力した者が広く戦闘参加者に該当することとされた。その結果,約9万4000人と推定されている沖縄戦における軍人軍属以外の一般県民の戦没者のうち,約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。

集団自決が戦闘参加者に該当するかの判断に当たっては,隊長の命令によるものか否かは,重要な考慮要素とされたものの,要件ではなく,隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定されたものもあった。
(以上主文 平成20年03月28日 大阪地方裁判所第9民事部 裁判長 深見敏正引用終わり)

『琉球新報』岩波・大江「集団自決」訴訟:軍関与認めた判決確定 「集団自決」めぐる岩波・大江訴訟 2011年4月23日
 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」などの記述をめぐって、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めた上告審で、最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は2011年4月22日、一審・二審に続き、上告を棄却した。これにより軍関与を認めた一、二審判決が確定した。同小法廷は、原告の申し立てを「上告理由にあたらない」とした。

 棄却を受けて大江氏は「自分たちの主張が正しいと認められた。訴訟で強制された集団死を多くの人が新たに証言し、勝利を得る結果になった」と述べた。  同裁判では、2008年3月の一審・大阪地裁判決で、両隊長による自決命令は推認できるが、「断定できない」と判断。大江氏が隊長による集団自決命令を事実と信じるには相当な理由があったとして名誉棄損を退けた。
 2008年10月の二審・大阪高裁判決は一審判決を支持した上で、「総体として日本軍の強制ないし命令と評価する見識もあり得る」とした。さらに、「表現の自由」に考慮し、公益目的で真実性のある書籍が新たな資料により真実性が揺らいだ場合、記述を改編せずに出版を継続しただけでは不法行為とはいえないとした。
 裁判原告の「隊長の自決命令は聞いてない」などとする陳述書が契機となり、06年度の教科書検定意見によって、高校日本史教科書の「集団自決」における軍強制の記述が削除された。記述削除に対し、「沖縄戦の実相をゆがめるもの」という反発が県内で起こり、2007年9月に県民大会が開かれるなど、沖縄戦体験の正しい継承を求める世論が高まった。

「県民の思い受け止めた」/大城県教育長
 最高裁の上告棄却を受け、大城浩県教育長は「教科書検定問題については2007年の県民大会の結果、広い意味での『日本軍の関与』の記述が回復され、高校生がこれまで同様に学習できると考える。最高裁の判決は、県民の思いを受け止めた判決」とコメントを発表した。(『琉球新報』岩波・大江「集団自決」訴訟:軍関与認めた判決確定 「集団自決」めぐる岩波・大江訴訟 2011年4月23日引用終わり) 

大江さん勝訴 軍関与認める司法判断 2011年4月23日
 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書などをめぐる出版差し止め訴訟で、最高裁は原告側の上告を退けた。これにより大江さん側勝訴の一、二審判決が確定した。
 一審、二審判決はいくつかの重要な判断を示した。まず「表現の自由」を考慮し、大江さんの記述は「公益を図るものであることは明らか」であり「公正なる論評の域を逸脱したとは認められない」としたことだ。
 次に歴史的事実の認定の問題だ。沖縄戦から60年以上経過し、当時を知る証言者はほとんど存命しない。軍命が口頭で行われ命令書の類いが廃棄されたとみられる中で、オーラル・ヒストリー(口述証言)を証拠として採用した。
「集団自決を体験したとする座間味島、渡嘉敷島の住民の供述やそうした記載をしている諸文献が重要な意味を有することは明らか」(二審)と指摘している。
 第3に、オーラル・ヒストリーを証拠とし採用する一方、原告側の新たな証拠の信ぴょう性を疑い、隊長命令が捏造されたという主張をことごとく退けた。
第4に、最新の沖縄戦研究を踏まえて判断された。沖縄戦の特徴は「軍官民共生共死の一体化」という方針にあった。住民を戦力として利用する一方、米軍への恐怖をあおりながら、軍事機密を知っている住民の投降を禁じた。

 判決は米軍資料も採用しつつ、座間味と渡嘉敷の「集団自決」について「軍官民共生共死の一体化」方針の下、日本軍の深い関与は否定できないとした。そして広い意味で「日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」(二審)と判断した。(『琉球新報』岩波・大江「集団自決」訴訟:大江さん勝訴 軍関与認める司法判断 2011年4月23日引用終わり) 

渡嘉敷島の戦闘(海上挺進第3戦隊)によれが、渡嘉敷島の海上挺進第三戦隊赤松嘉次大尉のマルレ特攻艇も、米軍の奇襲によって大半を破壊されてしまったという。

4月1日の沖縄本島上陸前、3月25日に米軍は慶良間諸島(座間味、渡嘉敷、阿嘉島など)に上陸した。米軍の奇襲を受け、配備されていた日本軍の特攻隊も圧倒されたのか。慶良間列島上陸前の3月23日に慶良間列島は激しい空襲を受け、米軍の沖縄侵攻は予測できた。

しかし、慶良間列島に配備された特攻艇には、奇襲で壊滅したのか、ほとんど出撃の機会がなかった。もちろん正面から攻撃してくる敵艦を襲撃するのは、輸送船と違って、難しい。他方、米軍は慶良間列島を占領した際,多数の特攻艇を鹵獲した。これらは破損していたようだが、使用に耐える特攻艇はなかったのか。

 その後、4月1日、米軍は沖縄本島上陸、その直後、読谷村の北・中飛行場で人間爆弾「桜花」も鹵獲している。既に,日本軍は、フィリピンのルソン島で3ヶ月前に特攻艇を実戦に使用しているが、秘密兵器であるべき奇襲特攻兵器多数を沖縄戦の緒戦で米軍に鹵獲されてしまった。

日本陸海軍は特攻兵器を優先配備したが,体当たり特攻艇「震洋」,人間爆弾「桜花」など秘匿すべき奇襲兵器を無傷で米軍に鹵獲されている。奇襲兵器の秘匿性が暴露されるという失態のために,米軍は事前に特攻を警戒し、対策を強化できた。日本軍の特攻兵器の戦果が芳しくなかったのは,このような日本軍の作戦計画の不備にも原因がある。日本では,特攻作戦にあたっても,安易な精神主義が跋扈し,冷徹な科学的,合理的な作戦計画を立案していなかったようだ。

写真(右):沖縄(?)、隠匿された特攻「マルレ艇」;奇襲秘密兵器のはずだが,人間爆弾「桜花」同様,沖縄では米軍に多数鹵獲されている。日本軍の秘密兵器の管理は,厳格ではなかったようだ。暗号も解読され,日本軍将兵には自ら捕虜になった際の権利も教えていない。米軍は,捕虜に対する尋問から,特攻兵器や戦艦「大和」に関する情報をかなり得ていた。

体当たり特攻艇は,低性能で,その存在も米軍に知れ渡っていた。敵艦艇よりも速度は遅く、エンジン音もやかましい。人間魚雷「回天」も、操縦と技術的故障の多発から、戦果は少なかった。しかし,このような操縦困難な故障頻発の特攻兵器が、1隻でも2隻でも,戦果を挙げることができたのは驚異的である。まさに,特攻隊員の勇気と修練の賜物であろう。

慶良間列島に侵攻した米軍Seizure of the Kerama Islandsでは,次のように記述している。

米海軍と航空部隊の慶良間列島への攻撃は,上陸の2日前から始まっている。1945年3月24日,第58任務部隊Task Force 58の空母と戦艦の援護の下に,掃海艇による慶良間列島周囲の機雷除去を行い,3月25日にはVice Admiral William H. Blandyの支援部隊も掃海に参加した。3月26日の午前中に米陸軍第77師団の大隊上陸部隊battalion landing teams (BLT's)が慶良間列島に上陸した。戦車揚陸艦LSTから、阿嘉島、慶留間,外地,座間味の四島にも上陸が行われ,巡洋艦,駆逐艦などが海岸を5インチ砲で地ならしした。空母艦載機は,日本軍の潜水艦,航空機の攻撃を警戒して上空援護にあたった。

沖縄戦の統計:日米の兵力,米軍の砲弾発射数,損失,揚陸補給物資重量
座間味島の戦闘(海上挺進第1戦隊) 

There remained on the Kerama group only about 300 boat operators of the Sea Raiding Squadrons, approximately 600 Korean laborers, and about 100 base troops. The garrison was well supplied not only with the suicide boats and depth charges but also with machine guns, mortars, light arms, and ammunition.
(→ Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻引用)

慶良間列島、座間味島(座間味村)には戦時中、特攻艇関係の陸軍部隊「陸軍船舶工兵隊」約1,500名駐屯していた。1945年3月26日、米軍が上陸した。「住民の戦闘意識は激しく、女子青年隊まで組織して戦った」と軍民一体の勇敢さを誇示するweb資料もある。また,軍に半強制的に徴用され,軍に労働力や下級の兵卒として奉仕することを強要されたともいう。

渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数は,日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人とされる。一般住民368名の犠牲ののうち,集団自決あるいは追い詰められての集団死の犠牲者329名とされる(→渡嘉敷村史資料編)。

魚雷艇 沖縄守備軍の第三十二軍に配備された 陸軍海上挺進隊は,7個戦隊だった。1個戦隊は,隊長以下104名、マルレ100隻で,戦隊本部(戦隊長以下11名),三個中隊(中隊長以下31名)で編成,中隊は中隊本部(中隊長以下4名),三群(各9名9隻)で編成。

第三十二軍の陸軍海上挺進隊は,第一〜第三戦隊が慶良間列島(座間味島阿嘉島渡嘉敷島)、第二十六戦隊が糸満、真栄里、国吉,第二十七戦隊が与那原、板良敷、第二十八戦隊が港川、志竪原、第二十九戦隊が北谷村白比川に配備された。

座間味島の海上挺進第一戦隊(球16777)の指揮官は,梅澤裕少佐。特設水上勤務第103中隊(球8886)は指揮官市川武雄中尉,将校・下士官・兵40名、朝鮮人軍夫(労働者)約300名。

阿嘉島の海上挺進第二戦隊(球16778)の指揮官は野田義彦少佐。

渡嘉敷島の海上挺進第3戦隊(球16779)の指揮官は,赤松嘉次大尉。特設水上勤務第104中隊(球8887)は指揮官中山忠中尉。将校・下士官・兵13名、朝鮮人軍夫210名。

陸地域の沖縄戦シリーズ 第1回与那原「与那原はいかに戦争に巻き込まれていったか(証言から)」には次の記述がある。

1941年,中城湾要塞司令部・歩兵部隊兵舎が,与那原小学校敷地・与那原町浜田区に畑をつぶして建設された。
1942年5月,中城湾警備隊が真和志に,基地建設完了後は与那原に於かれた。
1943年,馬天の海軍飛行艇,水上機を陸に揚げる桟橋、ランプ工事。建築石材は,与那原(当添),津波古の民家の石垣を壊し,運搬した。
1944年春以降,海軍陣地構築が与那原町当添でダイナマイトを仕掛けて行われた。岩石を破壊する工事,施設工事のために,棟梁が与那原署に召集された。

1.魚雷を保管する壕の建設:与那原町字板良敷入口山手の森のなか(トンネル作業)
2.トロッコ線路敷設:与那原板良敷(サンゴ礁掘削作業)
球部隊(船舶中隊),海軍の陣地壕掘りは板良敷で実施。
球第四一五二部隊重砲隊は,与那原(御殿山付近)に布陣。
海上挺進戦隊基地(暁一〇一七三「海上挺進基地第二七大隊」のマルレ特攻艇の発進基地を与那原浜御殿山近くに建設。
特攻艇の秘匿壕を,与原(運玉森の麓)・与那原テック跡の山に建設。
1945年,特攻艇の実戦訓練を防衛隊とともに実施。
1945年2月,新兵訓練を与那原で実施。

浦田挺進隊は,通信連絡が途絶したた。そこで,軍司令部勤務の浦田國夫少尉は、国頭方面の情報を収集するため、自ら挺進連絡することを計画。浦田挺進隊は与那原付近から海上挺進第27戦隊の海上特攻艇5隻(7名)により海路を突破して国頭に向かうことになった。
4月23日2000頃、軍司令部(首里)を出発、2330頃与那原に到着
4月25日2130頃、特攻艇5隻に分乗して与那原出発
4月26日0530頃に大浦湾スギンダ浜に上陸
 浦田少尉は久志岳に入り、第3遊撃隊第4中隊長竹中少尉と会い同隊に1泊。浦田少尉が海岸を出発した後、26日1000頃スキンダ海岸に米軍が上陸。特攻艇は爆破,部下は山中に待避。

小豆島ドットコム週刊ウエブマガジンによれば,浦田少尉は5月8日久志岳において伝令隊に派遣した。

一、敵情
四月下旬、東西両海岸道路の要地には相当数の兵力駐屯しありしも(名護に連 隊本部、大浦三千、金武三千、辺戸、奥、本部半島等)5月始めより続々南下 し、現在きわめてわずかの警備兵力存す。ゆえに南下せる敵を撃滅せば、敵 は、再び立つ能わざるものと判断す。
 砲兵陣地地図記入。艦船名護湾B1、Cl、T1その他艦艇数隻。敵機本日は活 溌ならざるも、連日北上する編隊音を聞く。

二、友軍状況
○宇土部隊(独立混成第四十四旅団第二歩兵隊、隊長宇土武彦大佐、川田、塩田以北の線にて遊撃戦展開。
○第一護郷団(五百)主力は名護岳。一部(竹中隊)は久志岳、海軍白石部隊(百) ○恩納岳 第二護郷隊(五百)大鹿隊(百五十)海軍(百五十)。
 その他防召兵多数山中を徘徊しあるも戦意全然なし。(これは一般県民)

三、住民状況。
戦闘開始と同時に全部山中に避難せるも逐日食糧欠乏により、一部は下山す。
しかれども大部分は軍の必勝を信じ、積極的に軍に協力す。殊に壮老人層士気旺盛なり。食糧の欠乏は予想以上にして、島尻疎開者において殊にはなはだし。現地住民の糧秣最大1ヵ月。経済は全く無秩序状態なり。
 

四、桜隊爾後の行動。
今後二週間通信に努むるも、なお不通なる時は、北・中飛行場の状況をつまびらかにしつつ逐次伝令す。なお通信不通なれば敵に電波妨害機あるものと思惟す。

五、意見具申。
1、山中遊休兵を指揮するため、指揮官を北上せしむる時は作戦上有利なり。
2、遊撃戦資材送付不能なりや。 
3、桜隊も情報収集に便ならしむるため、遊撃戦を併用す。諒承相成りたし。

「お前が証人だ」-バターン死の行進の報復-後藤利雄著によれば,与那原の海上挺進隊について,次の記述がある。

三兄は海上挺身(ていしん)[挺進]隊を志願し、予科士官学校を離れた。戦況が日毎に傾くのを座視できなかったのであろう。長年培った軍人精神を、実践にうつす決意のもとでの志願であった。そして海上挺進第二十七戦隊に所属し、戦隊本部付となった。戦隊長は陸士五十二期の岡部少佐であり、三箇中隊で総員百四名をもって編成ぎされていた。うち九割までが下士官であったが、三兄はその最右翼に位置して、海上挺進戦体長を補佐した。

 江田島で訓練を重ねた戦隊は、十二月末に沖縄の中城(なかぐすく)湾に入港し、与那原(よなばる)に本部をおいて作戦準備に入った。沖縄には既に第1、2、3、4の四戦隊が配置されていたが、それに新たに第26、27、28、29の四戦隊が追加配置されたものであった。四月一日、ついに米軍は沖縄に上陸を開始した。日本側の大方の予想した東側中城湾からの上陸ではなく、本島西海岸からの上陸であった。

 江田島で訓練を重ねた戦隊は、十二月末に沖縄の中城湾に入港し、与那原(よなばる)に本部をおいて作戦準備に入った。沖縄には既に第1、2、3、4の四戦隊が配置されていたが、それに新たに第26、27、28、29の四戦隊が追加配置されたものであった。四月一日、ついに米軍は沖縄に上陸を開始した。日本側の大方の予想した東側中城湾からの上陸ではなく、本島西海岸からの上陸であった。

 大艦隊をもって上陸した米軍は、攻撃をつづけ、わが軍の主陣地帯においてさえ、一日百メートルの割で前進した。そして一カ月経つころには、前線師団の兵力が半減するほどの損害をわが軍に与えていた。軍司令官牛島中将の憂愁も深刻なものがあった。このままの推移にまかせれば、戦力は次第に消耗し、やがて組織的な作戦が不可能になるであろうと判断した牛島中将は、ついに全軍攻撃を決意した。五月四日が、攻撃の予定日であった。

 じりじりしながらその日を待っていた挺身[挺進]隊員たちはふるい立った。そして攻撃の先駆として、五月三日の午後十時に、米艦船をめがけて発進した。長さ五・六メートル、幅一・八メートル、厚さ○・九ミリのベニヤ製モーターボートに、二百四十キログラムの爆雷を搭載しての玉砕肉迫攻撃であった。同時刻に発進した二十七戦隊の艇は、本部四隻九名、二中隊三隻六名、三中隊八隻十六名の、都合十五隻で隊員数は三十一名であった。三兄は戦隊長と共に本部の一艇に乗りこみ、発進して散華した。軍人精神の権化と化していた三兄にはふさわしい壮烈な最期であったと言えよう。

 そのことは、その攻撃に加わり艇故障のため海岸に泳ぎついて辛くも生還した第三中隊長の伊藤正氏(中尉、陸士57期、湯沢市在住)から、兄の三十三回忌の折に知らされた。その手紙には「阿部曹長(三兄のこと)とは幸之浦の訓練基地で初めて一緒になりましたが、予科の助教からの転属ということもあって、私たち、戦隊長、中隊長等陸士出身者にとっては、恩師として親近感があり、いろいろとお世話になりました。また人格識見共に秀で、戦隊員の中でももっとも人望のあった方でした」という文言が記されていた。それから五年経って、今回いただいた手紙にも「阿部政蔵さんには随分とお世話になりました。温厚篤実な人柄は、優れた才能とともに戦隊の要として重きをなし、予科士官学校の区隊長より転じた岡部戦隊長の片腕として信頼も厚く活躍しておりました」と、三兄を賞揚する言葉が記されていた。

 ちなみに五月三日夜から四日にかけての攻勢は、事前に敵から察知されたものか、したたかな反撃にあって、逆上陸軍も壊滅的な打撃を受け、軍も一歩も前進ができなかった。のみならず主力をあっという間に失う結果を招き大失敗であった。第二十七挺進隊も、当初は海上で集合した上、一斉攻撃に移行する予定であったが、米軍は発進地に連続して照明弾を打ち上げて集合を不可能にした。そのため単艇行動を余儀なくされたものであったが、にもかかわらず駆逐艦一隻、大型上陸用舟艇及び大型輸送船それぞれ一隻を撃沈したと、戦史は伝えている。

1945年4月29日の昭和天皇誕生日,沖縄県与那原町のマルレ部隊の壕が米軍の空襲を受け,陸軍海上挺進隊(特攻隊には,マルレに搭乗員と基地でマルレを整備する整備員・警備隊などがあった)隊員7-8名が死亡した。

三十年前から遺骨・遺品収集に取組む特定非営利活動法人 戦没者を慰霊し平和を守る会Association that Promotes Peace and Reverence for World War Casualtiesによれば,これは,陸軍のマルレ特攻艇を装備した海上挺進隊第277戦隊第3中隊第1小隊壕である。本籍がはっきりしているのは,当時の戦没者は,佐賀県,福島県,熊本県,目黒区,山梨県,栃木県出身の22歳から26歳の7名である。戦後1949年,与那原町板良敷区の住民が7人の名を刻んだ石碑「若桜之塔」を建立したが、遺骨などは未回収。沖縄戦の体験者らが長年にわたり県や町などに収集を求めていた。

2008/05/03付 西日本新聞朝刊によれば,NPO法人 戦没者を慰霊し平和を守る会は,2007年5月、寄せられた情報を元に、地権者から調査の同意を得て,2日,遺骨収集のために,メンバー9人が重機などで埋まっている防空壕跡を掘った。3日も調査を続けた。

引続き,戦没者を慰霊し平和を守る会は,2008年5月1日より5日まで、防空壕で生き埋めになったままの海上挺進隊第27戦隊所属の遺骨・遺物を求めて,重機による発掘調査を実施した。1945年4月29日,米軍の攻撃で崩壊した防空壕にいた同隊の7〜11人が生き埋めになり、戦後地域の方々が発掘を試みたが発見出来なかった。地元町長や戦友は、国や沖縄県に対して発掘を陳情していた。
 NPO法人 戦没者を慰霊し平和を守る会は「国の命令で逝かせたものは、国の責任で還す」として国や沖縄県に発掘調査を求めつつ、地主の了解を得て自ら発掘調査に踏み切った。2007年の調査では,防空壕の正確な位置を特定できなかったが,当時この壕にいた証人と連絡が取れ、場所がほぼ特定され、6月21日から再度電気探査を行った。

空襲で亡くなった特攻隊員、挺進隊員は,部隊長の温情で,特攻戦死とされ,特別任用二階級特進・士官進級の措置を受けていたようだ。当時、勇敢な戦死が勇士にふさわしいとされていた。また,日本軍の前線優先主義では,輸送船撃沈、病気や事故による死亡などは不名誉であり,KIA=「戦って敵に殺された」ことが英雄の証のようにも認識されていた。部隊長は,空襲で戦死では遺族に申し分けないと、特攻戦死を報告したのである。当時の価値観が反映した「戦死公報」は時代の要請でもあった。

戦艦大和 今回の掘り起こし作業で、彼らの遺骨が見つかっても、戦死の意味は決して,貶められることはない。部隊長の措置も,温情であり,非難されるいわれはない。ただし、特攻死したものと信じ、それに価値を置いた「前線優先主義」の価値観は、現代日本において、変容を迫られるであろう。無残で遺恨の残る死様、戦闘が始まるや否や、出撃もかなわず、即座に殺される、このような状況こそ、戦争の悲惨さを表していると考えられる。戦死者(KIA),特攻死のみをことさら英雄のように讃える「前線優先主義」の価値観は、戦果優先主義に繋がるだけではなく,特攻作戦を実施し,多数の若者を特攻死・事故死させた軍上層部の責任・失敗を糊塗することでもある。

とはいえ遺族の方々には日本軍の栄誉を表象するような特攻死ではなかった、ということは受け入れたくない事実であると思う。中隊長のとった虚偽の報告も、当時は武士の情けで当然の行為である。となれば,特攻死扱いなら死後二階級特進・士官昇進し、軍人恩 給(遺族への公務扶助料が増額されるような制度をつくり、多数の若者,未熟な搭乗員を中古兵器・欠陥兵器,特攻兵器の道連れにした軍最高指導部の「前線優先主義」の弊害こそ問われるべきであろう。

 2006年4月12日付 琉球新報によれば,戦没者を慰霊し平和を守る会は2006年2月11日に南城市大里の大里城跡周辺で、戦没者と思われる四体分の遺骨と「4152」と打刻された部隊の認識票,印鑑など遺品を発掘した。ここでは、約30体分の遺骨を発見している。
遺骨発見場所の生存者、島袋全裕さんは当時20歳で旧陸軍4152部隊(野戦重砲兵第七連隊)の通信兵。中城湾で米軍監視の任務についていた。「5月22日か23日に、壕が米軍の攻撃を受け、一瞬のうちに吹っ飛んだ。観測所内には4、5人、外に観測所を警護する守備隊が2、30人いたが、わたしともう一人を除き全員が戦死した」と当時の状況を語り、「南部の壕の中にはまだまだ眠っている人がいる。早く遺骨を家族の元へ返したい」と話した。

マルレを焼いた日 少年兵たちの「本土決戦」<上> 特幹の島  中國新聞2011年8月18日

座学・小銃…「勝てるのか」
 「夜は少し派手な食事が出たかな」。1945(昭和20)年8月15日。広島市佐伯区海老園の元喫茶店主、勝矢雅治(84)は九州・唐津湾の白砂青松の浜、現在の福岡県糸島市二丈にいた。 19歳の陸軍船舶兵。船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)の2期生で、当時は海上挺進(ていしん)隊特設52戦隊に配属。「本土決戦」に備えた水上特攻艇、秘匿名「四式連絡艇マルレ」の要員だった。

玉音放送聞けず
 玉音放送を聞いたが、ラジオの調子が悪い。なお一層軍務に励むべしと皆が受け止め、その夜は気勢を上げた。翌日、司令部から終戦の通達があったが、上官は「敵艦が来たらわれわれは戦う」と息巻いた。「?に一応爆雷を装着し、出撃準備をしたんですが…」

 数日後、武装解除。駐屯していた国民学校の校庭で爆雷やエンジンを外して並べ、約50隻の船体は海上で焼いて沈めた。「船体はベニヤ板で、すぐ燃えましたね。ほっとした気持ち、情けない気持ち、両方でした」。命令で私物も焼き捨てた。持ち帰ったのは、郷里の広島で寄せ書きしてもらった日の丸や軍隊手帳などわずかな品だった。

 船舶特幹―。それは太平洋戦争末期、「本土決戦」に備えて旧陸軍が募集した15歳から20歳までの少年兵たち。彼ら約8千人は1944年と1945年、4期にわたって試験で採用され、香川県小豆島などで訓練を受けた。

 広島市西区井口鈴が台の元警察官植村重利(85)は堺市で生まれて警察官住宅で育ち、四条畷中学(現大阪府立四条畷高)在学中の1944年9月、2期生で入隊。「恥ずかしながら、早く軍隊に入れば早く階級が上がると思い…」。警察官も次々召集される時代だった。

 宇野港(玉野市)から輸送船で小豆島の兵営へ。神社の玉砂利の上の正座はつらかったが、配属された区隊の区隊長や班長は温情家だった。「差し入れが禁じられていた面会日、たまたま母が持参した巻きずしを懐からぽろりと落とした。班長は見て見ないふり。班の全員で食べたよ」

 呉市阿賀中央の元会社社長長(ちょう)成連(85)の印象は少し違う。府中中学(現広島県立府中高)から同じ1944年9月、2期生で入隊。真冬に大発(上陸用舟艇)を浜から下ろす訓練に震え、船底にたまった水を毎朝くみ出す作業で手が腫れ上がった。「つらい思い出ばかり」

慕われた上官も
 軍人たちは年端もいかない少年たちに「貴様らは…」と訓示し、戦地でもないのに「カエルを食え」と叫ぶ。「もっとも別の区隊では分隊長が夜、寝ている隊員の口におはぎを入れて歩いた、なんて話もあります。戦後も慕われた上官はいたね」。お遍路の土地柄だけに町の人からにぎり飯の差し入れもあった。

 勝矢は広島二中(現観音高)から2期生で入隊。同じように精神訓話を聞かされたが、マルレはエンジンの座学だけで、武器も25人の班で明治以来の三八式歩兵銃が10丁ほど。二中の軍事教練以下だった。「これで勝てるのだろうか」。むろん口にはできなかった。

 兵舎があった小豆島の東洋紡渕崎工場(土庄町)は今は更地で、木造の東洋紡記念館と特幹の別名「若潮部隊」にちなんだ跡地の碑が残るだけ。近くの富丘八幡神社の石段の上には「若潮の塔」、傍らに海中でさび付いた?のエンジンが墓標のようにたたずんでいた。

 かつてこの国の指導者はベニヤ板の船の「特攻」に若者を駆り立て、フィリピンや沖縄の激戦地で多大な犠牲を強いた。敗色濃くなると「本土決戦」にも投じたが、出撃の日は来なかった。瀬戸内海から九州へ、陸軍水上特攻艇の要員として終戦を迎えた元少年たちの証言―。=文中敬称略(佐田尾信作)
    (2011年8月16日朝刊掲載引用終わり)

マルレを焼いた日 少年兵たちの「本土決戦」<中> 仮想標的 中國新聞2011年8月17日朝刊掲載

脱出訓練「とても帰れん」
 旧海軍は1944(昭和19)年、水上特攻艇「震洋」を開発し、激戦地に送った。「震洋」は作家島尾敏雄の自伝的小説「魚雷艇学生」などで知られる。一方で旧陸軍も同年6月、ほぼ同型の水上特攻艇「四式連絡艇(マルレ)」の設計に着手。7月に早くも試運転を行う。

敵艦に体当たり
 その2カ月後、船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)の2期生の少年たちは香川県小豆島の兵舎に入営。翌年、江田島・幸ノ浦(江田島市)の船舶練習部第10教育隊で実戦訓練を受け、海上挺進(ていしん)隊として九州などに配属される。そして終戦―。わずか1年足らずのことだった。

 マルレは別名四式肉薄攻撃艇」。全長5.6メートルで自動車エンジンを搭載。船首が標的に当たると、船尾の爆雷が落下する仕組みだった。「敵艦に体当たりして戻る理屈ですが、果たして投下した爆雷の爆発までに脱出できるやら。下手すりゃ沈没です」
 こう思い起こす船舶特幹2期生の勝矢雅治(84)=広島市佐伯区海老園=は小豆島から1945年1月、鯛尾(広島県坂町)の船舶整備教育隊へ転属。さらに幸ノ浦で沖合の輸送船を敵艦に見立てたマルレの訓練に従った。

 植村重利(85)=2期生、広島市西区井口鈴が台=は和歌山市の船舶工兵第9連隊(船工)を経て1945年4月、幸ノ浦へ。最初のうちはオールをこいで進んでペダル操作で爆雷投下し、その後エンジンを掛けて脱出する訓練をした記憶がある。「必ずしも死ぬんじゃないと教えられたけどね」

 元会社員吉見義明(83)=2期生、西区東観音町=は、船腹に向かって旋回し加速して戻れ、と指示された。「ところがエンジンをふかすと、よく止まる。とてもじゃない、生きて帰れんと思いました」。広島一中(現国泰寺高)在学中に入隊し、植村と同じ船工を経て幸ノ浦にいた。

 また、長(ちょう)成連(85)=2期生、呉市阿賀中央=は1945年1月、小豆島から櫛ケ浜(周南市)の機動輸送補充隊に配属。本来は戦車輸送揚陸舟艇の部隊だが、基地自体は静かで、士官たちは紳士的だった。同年5月、幸ノ浦への転属命令が出た直後、隣の徳山の市街地は海軍燃料廠(しょう)を標的にした大空襲を受けた。
 長は「マルレは船尾の爆雷を落とした途端、船体のバランスが崩れ、エンジンが止まることもあったようだ」と証言。「実際に乗ったのは3、4回。それで命がけの戦いに駆り出されるんだから…

1期生多く戦死
 太平洋戦争末期、「本土決戦」に備えて陸軍が募集した15歳から20歳までの船舶特幹は1期生が44年4月に入隊した。同じマルレの要員だった2期生はわずか5カ月遅れ[神風特攻隊編成前]の入隊だったが、それが運命の分かれ目だった。

 陸軍水上特攻隊ルソン戦記 知られざる千百四十名の最期(光人社)の著者で船舶特幹1期生、儀同保の調査によると、1期生は海上挺進隊に編成された1691人のうち1140人が沖縄やフィリピンなどで戦死。その悲劇の全貌が世に知られるのは、儀同らの尽力による「マルレの戦史」(若潮会編、1972年初版)を待たなければならなかった。

 幸ノ浦には、甲種幹部候補生(甲幹)の見習士官も集結。元島根県職員森山正治(88)=雲南市大東町西阿用=は甲幹[甲種幹部候補生]卒業を控えた1945年4月、「近く特別な任務に当たるので外泊を許可する」と指示された。「自分もうわさのマルレ要員かと思うと、飯が喉を通りませんでした」。森山はその後、海上挺進隊34戦隊の小隊長として北九州に向かう。=文中敬称略(佐田尾信作)
    (中國新聞2011年8月17日朝刊掲載)

マルレを焼いた日 少年兵たちの「本土決戦」<下> 軍用列車、西へ  中國新聞2011年8月18日朝刊掲載

「死ぬはずが…」 出撃せず
 1945(昭和20)年7月、宇品線宇品駅(広島市南区)。陸軍船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)2期の勝矢雅治(84)=同市佐伯区海老園=は両親の無言の見送りを受け、行き先不明の軍用列車に乗る。「実家の米穀店の得意先に船舶司令部の将校がいて、両親に教えてくれた。内緒です。行進してホームへ入る間に顔を合わせただけ」

松原の穴に隠す
 勝矢は幸ノ浦(江田島市)で海上挺進(ていしん)隊特設52戦隊に編入され、福岡県深江村(糸島市)に移駐した。水上特攻艇「四式連絡艇(マルレ)」も同じ列車に積載され、村では大入の松原に穴を掘って隠した。玄界灘を望む砂浜は今も松原が残り、民俗行事「大入盆綱引き」が毎年8月15日、住民総出で行われる土地柄だ。

 糸島市二丈福井の農業鬼嶋(きしま)武司(78)は「船の上げ下げ」の訓練、「立ったように船が走る」訓練を記憶する。当時は国民学校児童。講堂や裁縫室が兵舎に使われ、「兵隊さんは憧れだったなあ」。しかし敗戦後、マルレは焼かれた。自暴自棄になった将兵が軍刀で松に斬りつける姿も見た。

 福岡市早良区賀茂の元教員青山(旧姓庄嶋)順子(72)は実家が深江村。小隊長と船舶特幹2期の二人を当時泊めた。「戦後50年の年に再会し、お二人は『死ぬはずが生きて帰れた』と喜んでいた。私が六つの時、お二人は16歳か17歳でした」

 1945年7月以降、海上挺進隊は九州各地に10戦隊、和歌山県と高知県に各1戦隊配備された。いよいよ「本土決戦」へ、その編成は急だった。
 海上挺進隊34戦隊の兵員は宇品駅から軍用列車で移動し、福岡県折尾町(北九州市八幡西区)の折尾駅に降り立つ。近くの国民学校で仮泊し、玄界灘の脇田(わいた)海岸に駐屯した。同駅は大正期の洋風建築が現存し、高架橋はれんがアーチ。町を流れる堀川運河は工都北九州の深奥部・洞海湾から若松港につながる。

 船舶特幹2期生の元教員長原誠(82)=呉市上長迫町=は「特攻隊だと分かると空襲で狙われるので『特別漁労班』と自称しましたね」と証言。実際に魚を釣ったり、サザエを採ったりしたという。

自決覚悟し帰隊
 同じ2期生の元防衛事務官門田聰(82)=浜田市日脚町=は「マルレは十数隻あったようだが、よく故障し、整備が仕事でした」と回想。見習士官の森山正治(88)=雲南市大東町西阿用=は洞海湾から脇田へマルレを回航中に故障し、海軍掃海艇に曳航された記憶がある。
 森山はその後、出撃に備えて同湾で秘匿場所を探索中、八幡大空襲に遭い、危うく難を逃れた。そして終戦。「全員自決か…」と覚悟して外泊先から脇田に帰隊したが、何事もなかった。「あとは折尾で『兵隊さん遊ぼう』と寄ってくる子どもの相手ですわ」と笑う。マルレは焼却・海没処分の運命をたどったのだろう。それは見届けていない。

 特設52戦隊の勝矢は9月復員。連合国軍への書類の作成など船舶司令部の残務整理を終え、宇品から舟入川口町(広島市中区)の実家に帰る。両親は無事だったが、兄ら親族4人が原爆の犠牲になっていた。戦後は食糧営団の仕事を経て、好きな喫茶店を長く営んだ。

 34戦隊の吉見義明(83)=西区東観音町=は母親を原爆で失う。戦後は父親を手伝い、家業の石材業をこつこつ営んだ。 「死ぬはずの者が今も生きて、そうでない者が…」。取材中、一瞬、陽気な勝矢が言葉に詰まる。焙煎(ばいせん)コーヒーの残り香は平穏な今の日々の証しだった。=文中敬称略(佐田尾信作)
    (中國新聞2011年8月18日朝刊掲載引用終わり)

故宣仁親王高松宮は、明治38年1月3日,大正天皇の第3皇男子、大元帥昭和天皇の弟として、東京・青山の東宮御所で誕生。御名を宣仁(のぶひと),称号を光宮(てるのみや)。海軍に勤務していた。その『高松宮日記』第8巻の1945年1月以降の話題でも、特攻艇「震洋」など話題には事欠かない。海軍中央でも、1945年になると、大型艦艇よりも特攻兵器のほうが重視され、本土決戦に備えた陸戦の準備も始まっていた。

1月5日、「葉山砲台砲台普練(高等科)教程射撃。館航[館山航空隊]機モヤありて出発おくれ、発動後も射程外を飛んだりして、1300漸く終る。練習生の気力足らぬ感あり。----1500よりつ機銃装備射撃実験の経過報告。」
横須賀鎮守府で三浦半島の防衛方針の一つとして「熱海・三浦半島に、マル四・魚雷艇基地」の件を審議。
1945年1月6日、水雷学校教頭荒木傳少将が来て談話し「川棚[臨時魚雷艇訓練所]に砲術指導教官欲しいと言うこと等」となり、特攻艇のロケット弾装備や陣地の防衛の射撃練習が進んでいることがうかがわれる。
1月9日、横須賀鎮守府で三浦半島の防衛方針の一つとして「熱海・三浦半島に、マル四・魚雷艇基地」の件を審議。
1月31日、「0830荒崎8cm機銃[高角砲?]、予備生徒射撃見にゆく。」

2月4日、「機銃対魚雷射撃実験事前委員会」、2月8日、機銃対魚雷射撃実験、2月10日、「機銃対魚雷射撃委員会」
2月6日、「矢牧[章]少将より独国の情勢も迫ってきたし、カイロ米英ソ三国会談に関連し、作戦部で考えている2月下旬のマル大[桜花]による戦略攻勢がおそいのではないか、国内一致の態勢も急速に立てる要あり等きく。」

3月8日、横須賀鎮守府で「特攻兵器に関する図演(図上演習)---図演(実は、震洋、回天SS[金物][特殊潜航艇「海龍」]、甲標的[蛟龍]の使い方につき質疑応答、説明)---続いて、特攻基地を何処にするか打合せ。」
3月15日、前日連夜で品川から佐世保線の早岐着、自動車で「川棚訓練所へ(現在は第三特攻戦隊となっている)1615着。説明を聞いたり構内見て、1815発、[1942年1月,佐世保海軍工廠分工廠として設置された]川棚工廠の地下工場、半地下工場を見て集会所へ。」特攻隊司令部へ行き、「2230出発の局地防衛研究演習の震洋隊出発視察。」
3月17日、「0330起床、演習、マル四[ざ睚]夜間襲撃、松島沖に於ける特攻基地と上陸部隊との攻防演習及び特攻基地予定地(廃炭鉱トンネル利用)視察。----再び松島沖に入港。途中マル四(ぁ紡發涼覺崕鰻發よび噴進砲[ロケット弾]射撃。雷艇[低速魚雷艇型砲艇]にて佐世保へ。」

4月14日、「久里浜工機校にて水際戦闘用軽便潜水衣[伏龍]の実験あり。A金物[特殊潜航艇「海龍」]を見て」
4月30日、三浦半島「油壷の十一突撃隊居住施設の関係上、航海学校の普練をやめた余地を使って、泊湾に甲標的(蛟龍)を繋ぎ練習を開始せるも、やっと数隻繋留した。どうも特攻特攻も掛け声で内容おくれの例に洩れず。」

5月16日、「2230横鎮[横須賀鎮守府]特攻演習視察。2430震洋隊発動泛水。艦載水雷艇にて随動視察。漁網でマゴマゴしているうちに震洋隊を見失い、視界霧にて悪くなりアッチコッチして夜明け頃。江の島附近らしい崖が視えたが、目標隊はおらず。海龍1隻と出会う。これを監視艇はぐれておらぬのでついてゆく。波あり、大いに気持ち悪くなり、やっと今度は城ケ島を見つけて油壷に入港。」
5月28日、「明日、岩島[二三大佐]部員、空技廠にてK1号(神龍)委員会ありとて来校宿泊。夜話きく。」
5月29日、「0900K1号兵器(神龍)打合せ行こうとしたら空襲警報にて止めた。---1500空技廠の神龍打合せ。やはり専門家に言わすと、中々むつかしい点もある(離陸直後の上昇、グライディング間の低速、命中するため操縦等)。」

6月13日、「工廠、甲標的第一隻明日船おろしする由([舞鶴工廠特殊潜航艇製造]雁又工場)」
6月17日、「供覧兵器。軍令部の人もきて心細き兵器を見て、ほんとに兵隊と兵器とをむすびつけたる教育せる部隊の必要を知ったにちがいない。 之でもわからねば兵学校出た士官ではない。
0720校発。茅ヶ崎、機銃陣地に対する火焔放射実験を行いしも、距離遠く火焔とどかず、無効。-----江の島砲台を一巡して陸戦兵器供覧(杉山[元第一]総軍司令官等)、実験、不発続出、機銃連発せず、丁度よい加減の見せものなりき。農耕隊のじゃが芋、むして出した、この方が成績良好にちがいなかった。1703辻堂発、帰京。」

 日本軍は、戦争末期には本土を空襲され、海上交通も遮断されていたため、資材不足、製造工場の不足に悩んでいた。そこで、簡易構造で設計された特攻艇であっても、―艇製造の経験のない民間軍需工場でも委託生産された、中古も含めてエンジン・動力関連装置の精度・品質が低かった、M入途絶と熟練工の不足で材料・部品の品質が低下した、ために、量産された特攻艇には不良品も多かった。1944年後半から量産が軌道に乗り、1945年に入ると特攻艇の製造数は月数百隻に達しており、終戦までに特攻艇6,000隻が量産されたという。たしかに特攻艇を技術的に見れば、軽量高性能であり、満足できる設計だったかもしれないが、量産された特攻艇は、部隊配備するに欠陥・故障・不具合が続出した。

 これらの特攻兵器は、低品質の素材、安易な技術を用いた使い捨て兵器だが、これは特攻隊員たちも同じく使い捨てするといういのち軽視の戦術的発想であろう。

高松宮(大元帥昭和天皇の弟)『高松宮日記 』第8巻 1945年7月3日「特攻兵器は技術院としも乗り出す様な話であったから、それは良いが、人が乗ってゆくから安モノ兵器でよいと言うような考えがあるが、全く技術者としてけしからぬことで、犬死にならぬように、特攻なればこそ精巧なものを作るべきなりと語っておいた。」

 日本軍の特攻艇「マルレ」「震洋」が急遽設計、粗製乱造された使い捨て兵器だったのに対して、イタリア海軍の爆破高速艇MTMは、搭乗員の救助を前提としたもので、勇敢に戦って、生還する希望があった。少なくとも、自爆したり、自決したり強いられた死はなかったため、士気が高かった。アメリカ海軍は、イタリア海軍のMAS魚雷艇より遥かに遅れて第二次大戦の勃発前後から開発された。しかし、アメリカは、高速の哨戒魚雷艇PTボートを急速に実現し、大量生産して、前線に投入した。哨戒魚雷艇PTボートは、強力な魚雷を搭載しており、駆逐艦、巡洋艦など大艦を撃沈することもできた。実戦では、日本海軍艦艇を翻弄し、輸送船・小型舟艇の撃沈、哨戒・偵察に大活躍している。

写真(右):1915年10月15日、アメリカ、ニューヨーク港で押収されたドイツのスパイ爆破艇。船尾にはドラム缶状の爆薬が装着されている。:この興味深い「スパイ艇」は、ニューヨークでワルター・ショルツ(Walter L. Scholz) が爆薬を用意して運搬し、親類のワルター・フェィ(Walter Fay)が、アメリカ船舶を攻撃するのに使用したといわれた。しかし、アメリカが対ドイツの第一世界大戦に参戦したのは、1917年4月6日で、それ以前、ドイツ側が、アメリカの参戦を誘発するような破壊活動を起こしていたとは考えにくい。アメリカの早期参戦を企図するグループによる対ドイツのフレームアップだったのかもしれない。
Title: German Spy Boat Caption: Arrest of German spy by federal authorities revealed startling plot to blow up ammunition ships leaving port off New York. This motor boat was said to be used by Walter Fay, the alleged German spy arrested with his brother in law Walter L. Scholz as bomb plotters in carrying the bombs to the ships picked out for destruction. The bombs were then allegedly tied to the screws of the vessel. Description: Catalog #: NH 114801 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Mon, Oct 25, 1915.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 114801 German Spy Boat引用。


 第二次世界大戦中、1942年8月から10月にかけて、イギリス軍の特殊部隊が、北フランスの港に停泊しているドイツ側船舶を襲撃するときに使ったカヌーである。イギリス軍特殊部隊は、二人乗りカヌーに爆雷を積み込み、密かに敵船舶に接近してそれを装着、脱出した。カヌーは、モター魚雷艇(MTB)を母船にして搭載して、港湾の沖合まで運搬され、そこでカヌーに乗り換えた。帰還は、このモター魚雷艇による。
他方、イタリアの爆破高速艇MTM、ドイツ海軍リンゼイであるが、これらの特攻艇は30ノットの高速を発揮した。しかし、日本の特攻艇「震洋」「マルレ艇」は最高速力20ノット程度で低速である。


写真(上左):第一次世界大戦後半の1917年から1926年まで就役していたイタリア海軍MAS(Motoscafo Armato Silurante)99
;MAS(Motoscafo Anti Sommergibile)とは、イタリア海軍の魚雷艇の総称で、排水量20トン、魚雷1-2本を搭載して、大型艦艇に対しても果敢に接近して魚雷攻撃を行い、撃沈することがあった。
Title: MAS 99 (Italian Motor Torpedo Boat) Caption: In commission from 1917 to 1926. Photographed soon after completion. Catalog #: NH 47661 写真はNaval History and Heritage Command NH 47661 MAS 99 (Italian Motor Torpedo Boat) 引用。
写真(上右):1938年、イタリア海軍MAS;日本海軍は、魚雷艇の開発に際して、イタリア軍が開発し50ノット近くの高速航行可能なMASを輸入し、参考にした。これは、船体だけでなく、重要なエンジンについても同じである。MASのエンジンは、イソッタ・フラスキーニ(Isotta-Fraschini)18気筒水冷ガソリンエンジン2基である。1940年代に完成する日本海軍の一号型魚雷艇が、MASを参考に開発されたが、量産はされなかった。
Title: Italy - PT Torpedo Boat in Italian waters. Circa 1938 Caption: Italy - PT Torpedo Boat in Italian waters. Circa 1938. Description: Italian Ships: Torpedo Boats Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Creator: Luce 写真はNaval History and Heritage Command NH 111507 Italy - PT Torpedo Boat in Italian waters. Circa 1938 引用。


写真(右):1944年10月2日、北イタリア、サンレモ、アメリカ海軍第八艦隊所属のグリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTM:アメリカ海軍第八艦隊(Eighth Fleet)は、1943年3月15日に設立された地中海方面Mediterranean Sea に展開する艦隊で、主に水陸両用作戦(amphibious warfare)に従事した。ここで鹵獲された爆破高速艇にアメリカ第八艦隊は大いに興味をそそられた様だ。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. U.S. Navy bomb disposal unit personnel aboard the boat in the Golfo de Juan, France, on 3 October 1944, making a preliminary inspection of the boat and its explosive mechanisms. "Morgan Bomb Disposal Unit, Toulan." Note crash boat standing by in the background. Description: Copied from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See reverse of NH 77000 for copy of this report..
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77007 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。


写真(右):1944年10月2日、北イタリア、サンレモ、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTM:イタリア北西部、フランスのニース東30キロのサンレモで鹵獲された爆破高速艇MTM(意大利M.T.M爆破艇)は、より詳しく検分するために、フランスのマルゲリッタ島にまで曳航された。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. The boat at Isle St. Marguerite, France, where it was towed for further study of its explosive mechanisms, about 3 October 1944. Personnel on dock are from U.S. Navy Bomb Disposal Unit. Description: Copied from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See reverse of NH 77000 for copy of this report. .
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77007 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。


写真(右):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲し、ブルックリン級軽巡洋艦「フィラデルフィア」(USS Philadelphia, CL-41) の後甲板に搭載されたイタリア海軍の爆破高速艇MTM:爆破高速艇の後方には、軽巡洋艦「フィラデルフィア」の水上艦載機を射出するカタパルトが見える。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. Overall view of the boat, showing position of the operator in the cockpit, taken aboard USS PHILADELPHIA (CL-41) shortly after its capture. Note PHILADELPHIA's catapult in background. Description: Photo from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See NH 77000 for copy of this report. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Mon, Oct 02, 1944 .
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77016 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。


写真(右):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)がイタリア海軍の爆破高速艇MTMを鹵獲した直後に制作されたそのスケッチ:搭載した爆薬とその作動装置・信管について特に詳しく描いている。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. Sketch plan of the boat, showing location of explosive charges and related devices, made soon after the boat's capture. Description: Photo from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See NH 77000 for copy of this report. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Mon, Oct 02, 1944 .
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77016 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。


イタリア海軍MTM(Motoscafo Anti Sommergibile)は、炸薬を搭載した高速小型艇を体当たりさせて敵艦船を撃破する特攻艇。しかし、搭乗員(1名)は、体当たり直前に船体後方から海面に脱出する。アルファロメオ(Alfa Romeo)6気筒排気量2300婢眄能エンジンを搭載し、30ノット以上の高速巡航が可能だった。
排水量:1.2トン、全長:6.15 m、全幅:1.7 m、最高速度:31ノット、航続距離:85マイル/31ノット、兵装:爆薬 300/350キログラム。他方、MASは排水量20トン、魚雷1-2本を搭載して、大型艦艇も雷撃する魚雷艇。

写真(右):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTMの機関室:搭載したエンジンは、アルファロメオ(Alfa Romeo)が開発したもの。飛行機用のエンジンとして、イタリア空軍は、ドイツのダイムラー・ベンツDB601液冷エンジンをライセンス生産したが、これを担当したのがアルファロメオ(Alfa Romeo)社だった。このアルファロメオ製造のエンジンは、マッキMacchi M.C.202戦闘機 Folgoreに搭載され、1943年のイタリア降伏まで1500機生産され大活躍した。他方、日本も同じドイツのダイムラー・ベンツDB601液冷エンジンを陸軍と海軍が別途にライセンスを取得、愛知と川崎が量産したが、部品精度、品質管理がうまくゆかず、量産はできたものの、信頼性のないエンジンとなってしまった。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. View of the boat's engine, taken shortly after its capture. Description: Photo from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Mon, Oct 02, 1944
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77010 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。


写真(右):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTMの艦首。ブルックリン級軽巡洋艦「フィラデルフィア」(USS Philadelphia, CL-41) の後甲板に搭載された直後の撮影。:搭載した爆薬とその作動装置・信管について写真に書き込みがある。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. Bow view of the boat, showing bow trigger mechanism in armed position, taken aboard USS PHILADELPHIA (CL-41) shortly after its capture. Description: Photo from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See NH 77000 for copy of this report. Catalog #: NH 77015 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Mon, Oct 02, 1944
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77015 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。


写真(右):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTMの艦首部分に搭載された爆薬。:搭載した爆薬とその作動装置・信管について、アメリカ軍は特に注意を払っている。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. View of the explosive compartment, showing the depth charge used as the boat's main explosive charge, taken shortly after its capture. Description: Photo from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See NH 77000 for copy of this report. Catalog #: NH 77012 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Creator: Original Date: Mon, Oct 02, 1944
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77012 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。


写真(右):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTMの操縦室:操舵ハンドルの上には進路を定めるジャイロコンパス(羅針盤)が搭載されている。爆破高速艇MTMを鹵獲したアメリカ軍は、爆薬とその作動装置・信管について、特に注意を払っている。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. View inside the cockpit, showing the control panel, taken shortly after its capture. Description: Photo from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. Catalog #: NH 77009 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Creator: Original Date: Mon, Oct 02, 1944 Original Medium: BW Photo
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77009 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。



写真(上左):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTM操縦室
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. View of boat's cockpit, taken shortly after its capture. Description: Copied from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See reverse of NH 77000 for copy of this report. 写真はWikimedia Commons,:NH 77008 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。
写真(上右):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTMに搭載された搭乗員の脱出用救命具収納箱;イタリア、ベネチアカ海事博物館に展示してあるMTM(Motoscafo Anti Sommergibile)は、炸薬を搭載した高速小型艇を体当たりさせて敵艦船を撃破する特攻艇。しかし、搭乗員(1名)は、体当たり直前に船体後方から海面に脱出する。アルファロメオ(Alfa Romeo)6気筒排気量2300婢眄能エンジンを搭載し、30ノット以上の高速巡航が可能だった。
排水量:1.2トン、全長:6.15 m、全幅:1.7 m、最高速度:31ノット、航続距離:85マイル/31ノット、兵装:爆薬 300/350キログラム。他方、MASは排水量20トン、魚雷1-2本を搭載して、大型艦艇も雷撃する魚雷艇。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. Boat operator's safety raft, in folded position, used by the operator upon abandoning the boat once it has been aimed at its target. Photographed aboard USS PHILADELPHIA (CL-41), shortly after its capture. Description: Photo from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See NH 77000 for copy of this report. 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77018 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。


写真(右):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTMで使用された救命筏:ブルックリン級軽巡洋艦「フィラデルフィア」(USS Philadelphia, CL-41) 艦上で撮影。日本の特攻舟艇は、脱出可能な構造ではあったが、救命胴衣も救命筏も用意されておらず、搭乗員の脱出、退去は、事実上認められていなかった。出撃して体当たりするということは、日本軍将兵にとっては自爆攻撃に等しかった。しかし、イタリアの爆破高速艇MTMやそれを模したドイツ海軍の特攻艇「リンゼイ」は、より強力で信頼性あるエンジンを搭載し、搭乗員の脱出、救出が計画的に準備されていた。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. Boat operator's safety raft and inflatable rubber life suit, as used following abandonment of the craft once it has been armed and aimed at its target. Photographed aboard USS PHILADELPHIA (CL-41), shortly after its capture. Description: Photo from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See NH 77000 for copy of this report. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Mon, Oct 02, 1944
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77019 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。


写真(右):1944年10月2日、イタリア、サンレモ沖、アメリカ海軍第8艦隊グリーブス級駆逐艦「グリーブス」(USS Gleaves :DD-423)が鹵獲したイタリア海軍の爆破高速艇MTMで使用されたゴム製の救命胴衣:ブルックリン級軽巡洋艦「フィラデルフィア」(USS Philadelphia, CL-41) 艦上で撮影。日本の特攻舟艇では、航空兵用の救命胴衣が準備されたように言うが、長時間、海面場にとどまっていることはできない。やはり海中に体を浸さないですむ救命筏が必要となる。当初、日本海軍艦上機は、単発ではあっても、救命筏を搭載できるようになっていた。しかし、これは訓練に時間と資金のかかる航空操縦士や電信通信員などに配慮したためであって、特攻艇の乗員は航空機搭乗員よりもはるかに低い扱いしか受けることはできなかった。他方、イタリアの爆破高速艇MTMやそれを模したドイツ海軍の特攻艇「リンゼイ」は、搭乗員の脱出後、ともに出撃した僚艦が救出するように作戦計画を立てていた。
Title: Italian "MTM" Explosive Motor Boat Caption: Captured by USS GLEAVES (DD-423) off San Remo, Italy, 2 October 1944. Inflatable rubber life suit worn by the boat's operator. Photo taken aboard USS PHILADELPHIA (CL-41) shortly after its capture. Description: Photo from 8th Fleet action report of 19 October 1944, serial 001204. See NH 77000 for copy of this report. Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Mon, Oct 02, 1944
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 77020 Italian "MTM" Explosive Motor Boat 引用。



写真(上左):第二次世界大戦、1941年3月から実戦使用されたイタリア海軍の爆破高速艇MTM(Motoscafo Anti Sommergibile)
;イタリア、ベネチア海事博物館が展示するMTMは、炸薬を搭載した小型特攻艇で、体当たりで敵艦船を撃破する。ただし、搭乗員(1名)は、体当たり直前に船体後方から海面に脱出する。アルファロメオ(Alfa Romeo)6気筒排気量2300婢眄能エンジンを搭載し、30ノット以上の高速巡航が可能だった。
排水量:1.2トン、全長:6.15 m、全幅:1.7 m、最高速度:31ノット、航続距離:85マイル/31ノット、兵装:爆薬 300/350キログラム。他方、MASは排水量20トン、魚雷1-2本を搭載して、大型艦艇も雷撃する魚雷艇。
Description English: MTM or Explosive Speedboat. Designed by Admiral Aimone di Sovoia Aosta. Used in WWII at Suda Bay (26 March 1941) and at Malta (26 July 1941). The boat was towed by a destroyer or MTB, launched at night it would make its way slowly towards an enemy base, then it was propelled at full speed towards its target. At a distance of about 200 m the rudder was locked and the pilot jettisoned. A 300 kg charge exploded on contact. Extant example in the Naval Museum (Museo storico navale), Venice. Date 12 March 2014, 11:50:02 Source Own work Author Gaius Cornelius 写真はNaval History and Heritage Command File:MTM Attack Boat, WWII, Italian.JPG引用。
写真(上右):1948年、イスラエル海軍が独立戦争の際に使用した爆破高速艇;イスラエル、ハイファ、イスラエル移住・海軍博物館(Clandestine Immigration and Naval Museum)に展示。イスラエルは、バルフォア宣言、シオニズム、ホロコーストを経て、1948年5月14日に、国連で建国が承認されたが、すぐに周辺のアラブ諸国との中東戦争が始まった。イタリア海軍の開発したMTMをイスラエル軍も採用したようだ。すでに、ドイツ海軍も1944年10月には同様の爆破高速艇「"LINSEN"」採用している。
Description Explosive motor boat of the type used by the Israeli Navy in the Independence War, in the Clandestine Immigration and Naval Museum, Haifa, Israel. Possibly an Italian MTM (Motoscafo da Turismo Modificato). Date November 2006 Source Own work Author User:Bukvoed. 写真はWikimedia Commons,File:HN-explosive-boat-1.jpg引用。



写真(上):輸送艦「ネソーバ」NESHOBA APA 216(排水量14,833t)乗員のSwede Larson-Ray Allen(写真左)とWavrin-Ray Allen-Sullivan-Klein-Reiger(写真右)
;体当たり特攻艇「震洋」「マルレ」が撃沈しようとした米軍艦船にはこのような若者が乗り込んでいた。轟沈の響きの中で、彼らの命も失われる。日本陸軍の水上挺進隊、海軍の海上挺進隊に配属になった学徒出身者や予科練出身者は、戦果をあげたかったろうが、アメリカ人を殺戮したかったわけではないだろう。それでも日米の若者が殺しあったのはどうしてか。輸送艦「ネショーバ」は速力18ノット、貨物積載量2,900 tの大型輸送艦。1945年4月沖縄攻略に参加し、グアム、真珠湾、グアム、沖縄、サイパンと輸送任務に従事し、そこで終戦。サンフランシスコに帰還後、日本占領軍を東京湾に運搬。NESHOBA PICTURES FROM RAY ALLEN( Amphibious Forces of WWIIより許可を得て写真掲載)

写真(右):1941年中頃日、アメリカ海軍の哨戒魚雷艇USS PT-9:
Title: USS PT - 9 Caption: Making a high speed run, circa late 1940 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 44450 引用。


アメリカ海軍は、中庭・裏庭と考えていたカリブ海、植民地のフィリピン群島などの防衛を担う高速小型艇の配備を考えていたが、本格的な小型魚雷艇の開発は、第二次大戦勃発直前の1939年からだった。これが哨戒魚雷艇(PTボート)であるが、当初のPTボートの試作型PT-1からPT-8までは、十分な性能を発揮できなかった。そこで、イギリス軍がドイツ軍の高速魚雷艇に対抗すべく試作したPV-70を参考にしようと、これを取り寄せた。そして、エルコ(ELCO:Electric Boat Company)社は、このイギリス軍高速艇PV-70を活かして哨戒魚雷艇PT-9を試作した。これが、アメリカ海軍の哨戒魚雷艇PTボートの原型となる。1941年、アメリカ海軍は、エルコ社の77フィート艇、ヒギンズ社の78フィート艇を哨戒魚雷艇PTボートとして採用した。

写真(右):1940年12月-1941年1月、アメリカ、ワシントン海軍工廠のアメリカ海軍の哨戒魚雷艇USS PT-9(奥の桟橋から2番目)とモーター魚雷艇第2戦隊(MTBRon 2)のエルコ(ELCO:Electric Boat Company)社70フィート魚雷艇(Seventy-foot Elcos):1940年に試作した哨戒魚雷艇PT-9は、搭載している機銃座が若干小型で操縦席も低く抑えられている。哨戒魚雷艇USS PT-9の経験を活かして、後続のPTボートが開発、量産された。
Title: Navy PT Boats of Motor Torpedo Boat Squadron Two Caption: Departing the Washington Navy Yard DC circa December 1940 or January 1941. These boats are of the PT 9-19 series. Docked beyond the PT boats are USS POTOMAC (AG-25) and CUYAHOGA (AG-26). Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 44949 引用。


日本軍は、第一次大戦中のイタリアの魚雷艇MASに注目していたが、大艦巨砲主義の中で、このような小型艇の開発は行わなかった。そして、1941年になって第一号魚雷艇(乙型)20トンを試作したが、これも継続も、進展もしないままだった。しかし、1942年後半から、ソロモン諸島において、アメリカ海軍の哨戒魚雷艇PTボートに悩まされ、同種の高速魚雷艇を急遽、開発しようとした。しかし、信頼性あるエンジンを準備することができず、戦局悪化の中で、高速魚雷艇の開発は事実上取りやめとなり、特攻舟艇、突撃艇の開発に移っていった。

写真(右):1941年中頃日、アメリカ海軍の哨戒魚雷艇USS PT-14はイギリス海軍に貸与されモーター魚雷艇HMS MTB-263 (British Motor Torpedo Boat)となった。
Title: HMS MTB-263 (British Motor Torpedo Boat, 1940, ex-USS PT-14) Ready for delivery to The Royal Navy, circa Mid-1941 Caption: HMS MTB-263 (British Motor Torpedo Boat, 1940, ex-USS PT-14) Ready for delivery to The Royal Navy, circa Mid-1941. She has been modified to British specifications, with R.N. Type 21" Torpedo Tubes, a 20mm machine cannon and other changes. Description: Original glass slide is in S-127-C Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 100911 引用。


アメリカ海軍の哨戒魚雷艇PTボート(Patrol Torpedo boat)は、第二次世界大戦中にアメリカ海軍が開発した高速で魚雷攻撃をする小型艦艇である。排水量は50トン、木製船体で、航空機用ガソリン・エンジンを搭載しており、大出力を発揮、最高速度は40ノット(時速70km)に達する。兵装は、魚雷以外にも機関銃、対戦車砲を搭載でき、船団攻撃から船団護衛、哨戒、偵察など多用途で使用された。戦時中、760隻が量産された。

アメリカは、1941年武器貸与法(Lend-Lease Act (1941))によって、第二次大戦に参戦する前から、イギリスに軍事物資を送っている。哨戒魚雷艇(Patrol Torpedo boat)もイギリス海軍に90隻が貸与され、モーター魚雷艇(MTボート)と呼称された。
1939年以降に就役したイギリス軍の主なモーター魚雷艇は、Vosper 70 feet-type (28隻) 1939 - 1942、White 73 feet-type (39隻) 1940 - 1944、Vosper 72 feet-type (144隻) 1941 - 1944、 Fairmile D (150隻) 1942 - 1945、BPB 72 feet-type (76隻) 1942 - 1946、Vosper 73 feet-type (29隻) 1944 - 1948、Fairmile D (Modified) (28隻) 1944 - 1945がある。

写真(右):1943年10月19日、アメリカ海軍の哨戒魚雷艇USS PT-285
Title: PT boat No. 285 Caption: Underway, 19 October 1943. Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-85754引用。


 PTボート(Patrol Torpedo boat)には、魚雷発射管を4基、Mk8魚雷4本を搭載した。のちにMk13魚雷Mark 13 Torpedo )も搭載された。これは、日本海軍の艦艇兵力が撃破されていたため、会敵機会が減少し、PTボート(Patrol Torpedo boat)による艦艇攻撃が少なくなったためである。艦艇攻撃に代わって、船団護衛、沿岸哨戒、そして、日本軍の特攻突撃舟艇「震洋」「マルレ艇」の撃破などが重視されるようになった。

航空用Mk13魚雷Mark 13 Torpedo )は、全長161in (4.09m)、直径22.5in (572mm) 、重量2,216lbs (1トン)、弾頭重量600lbs (272kg) Torpex、巡行速度33.5kn (時速62km)、射程 6,300yd (5,761m)。Mk13魚雷は、信頼性が高く、量産しやすい構造で、1万7000本も生産されている。

写真(右):1943年10月19日、アメリカ海軍の哨戒魚雷艇(Patrol Torpedo boat)USS PT-337:USS PT-337(Type Motor torpedo boat)の諸元 Class ELCO 80'
建造:Electric Launch Company Ltd. (Elco), (Bayonne, New Jersey, U.S.A.)
発注:Ordered 6 Aug 1942
起工:17 Feb 1943、進水 24 Apr 1943
就役 commissioned:14 May 1943
喪失 7 Mar 1944(ニューギニア沖で日本軍の砲撃により撃沈)

Title: PT boat No. 337 Caption: Underway, 19 October 1943. Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Oct 19, 1943
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-85757 引用。


 アメリカ海軍の哨戒魚雷艇(Patrol Torpedo boat) PTボートは、排水量 56トン、全長80フィート、ビーム21フィート、1,500馬力のパッカード W-14 M2500ガソリンエンジン3基を搭載,スクリュー3軸で、最高速度 41ノットと特攻艇の2倍の速度を誇る。兵装も、40ミリ機関砲1門, 21インチ魚雷4本、 12.7ミリ連装機銃2基4門と協力で、駆逐艦や巡洋艦も攻撃可能。実際、1944年10月のレイテ沖海戦では、哨戒魚雷艇は、第二戦隊/西村艦隊を威力偵察し、スリガオ海峡に突入した戦艦「山城」「扶桑」、重巡「最上」、軽巡「多摩」、駆逐艦「山雲」「満潮」「朝雲」を襲撃した。西村艦隊の必死の反撃のため、魚雷艇が放った魚雷は命中しなかったようだが、西村艦隊を撹乱させ、艦隊としての統一行動はとれなくなっていた。そのため、アメリカ駆逐艦隊に雷撃のチャンスを与え、第7艦隊の戦艦、巡洋艦によるT字攻撃を成功させた。西村艦隊は、PTボート(Patrol Torpedo boat)に撹乱され、アメリカ艦隊に有効な反撃を行うことができないまま、壊滅した。

写真(右):1943年8月20日、アメリカ、ニューヨーク沖、アメリカ海軍モーター魚雷艇第24戦隊(Motor Torpedo Boat Squadron 24 )の哨戒魚雷艇USS PT-332(80-foot ELCO type motor torpedo boat)訓練風景:エルコ社80フィートMTB。モーター魚雷艇第24戦隊(Motor Torpedo Boat Squadron 24 )は、1944年12月にフィリピン戦線に派遣され、12月28日にレイテ島からミンドロ島へ進出する最中、PT-332は近くの弾薬輸送船が特攻機の体当たりによって爆発した際に損傷を受けた。In December 1944 MTB 'Ron 24 moved up to the Philippines. While en route from Leyte Gulf to Mindoro on 28 December, PT-332 was damaged when the ammunition-filled "Liberty" ship John Burke blew up after being hit by a suicide plane. She later operated in the southern Philippines and off Borneo, where on the night of 29-30 April she sank one enemy lugger and damaged several others with rockets and gunfire. After Japan's surrender, the war-weary PT-332 was no longer needed, and not worth the effort to transport back to the United States. She was placed out of service, stripped and destroyed in November 1945.
Title: USS PT-332 Description: USS PT-332 Operating at high speed off New York, New York, 20 August 1943, during the training period of Motor Torpedo Boat Squadron 24. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-3911引用。


写真(右):ニューベリー(Newberry)魚雷艇PT Boats財団にある日本軍の「自殺破壊艇」Japanese Suicide Demolition Boat「マルレ艇」(?) ;オリジナル解説では、慶良間列島で鹵獲した自殺破壊艇「シンヨウ」とされる。しかし、「震洋」であれば、船首に半月型の爆薬収納庫があるので、これは陸軍の突撃自爆特攻艇「マルレ」のようだ。沖縄慶良間列島では、多数の特攻艇が使用されないままアメリカ軍第77師団に鹵獲された。オリジナル解説では、全長: 19 feet 2 inches =5.84m、全幅: 62 inches=1.57m、船体の色はグリーンで、爆雷2発260ポンド(250kg)を搭載するとしている。エンジンは70-80馬力と20%過大に見積もっている。しかし、この特攻艇は、マルレ艇とは若干形状が異なる上に、船体に金属・リベットを使用しているようだ。そうであれば、現地改造型のマルレ艇か、それとも新型試作・改良型かもしれない。
PT BOAT MUSEUMは、アメリカ、マサチューセッツ州フォール・リバー(Fall River)にあり、370平方メートルの敷地で2隻のPTボートが復元展示されている。すなわち、PT 796(78 foot Higgins), PT 617(Elco 80 foot)の2隻である。野外には、アメリカ戦艦「マサチューセッツ」USS Massachusettsが展示されている。
J.M. “Boats” Newberry, founder of PT Boats, Inc., located this Suicide Demolition Boat in Kerama Retto, Okinawa, and arranged for its transport back to the United States. In 1972 Newberry placed the boat at Battleship Cove. The design appears to be that of a semi-submersable. Elaborate attack plans were found in the caves along with information indicating that many amphibious units had been set up in out-of-the-way coastal installations. When discovered, none of the amphibious squadrons’ personnel were located, leading G-2 of the 77th Division to call the discovery “mysterious.” On display in an original Quonset Hut, the Demolition Boat has been compared to Japanese “Shinyo” (meaning “seaquake”) boats but does not match a Shinyo’s characteristics.
 

◆日本陸海軍は、人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機中島キ115「剣」のような特攻兵器を設計、製造し、部隊編成をしている。このような資金、資源、設備、技術、労力が必要な特攻兵器を開発、整備したこと自体、特攻が自然発生的なものでは決してなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められたことを物語っている。

  ⇒◆特殊攻撃機キ115「剣」と特別攻撃を読む。

  ⇒◆特殊潜航艇「甲標的」による特別攻撃と人間魚雷「海龍」を読む。

写真(右):1945年4-5月、沖縄本島中南部、読谷飛行場、アメリカ軍が鹵獲した人間爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 OHKA ("BAKA")I-18を警備する憲兵:1945年4月1日、沖縄の読谷飛行場(日本陸軍の沖縄北飛行場)でアメリカ海兵隊が鹵獲した「桜花」I-18で1945年6月26日撮影。
人間爆弾は、沖縄攻防戦の航空戦が始まった1945年3月21が初の実戦投入だった。その当時は、映像のみでアメリカ軍にもその実態はよくわからなかった。しかし、沖縄本島に上陸した1945年4月1日、すぐに重要な読谷飛行場を占領し、そこに放置してあった奇襲特攻兵器の人間爆弾「桜花」を複数鹵獲した。日本軍は、奇襲を重んじていたが、秘密兵器に限らず、末端の兵士に至る兵器の管理システムに欠陥があったようだ。秘匿や破壊を厳命すれば、それが自動的に実行されるとでも思っていたのであろうか。軍指揮官も、補給にも、兵器の管理など輜重には不熱心だったが、これはアメリカ軍とは対照的だった。能吏とは、日常業務を滞りなく実施する官吏のことであるが、これは個人的な能力だけでなく、管理システムにも依拠している。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 -OHKA Model 11 -BAKA Bomb suicide attack weapon. Caption: Guarded by an MP at Yonatan Airfield, Okinawa, circa April-May 1945. Description: Catalog #: 80-G-K-4930 Copyright Owner: NARA
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-4930 Japanese YOKOSUKA MXY7 -OHKA Model 11 -BAKA Bomb suicide attack weapon引用。


海軍伏龍特攻隊  日本軍は,1945年1月18日、戦争指導大綱で、本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃することを決定した。そのために,兵器開発も特攻が優先された。正攻法では,量,質の両面で連合軍に対抗できなくなっており,戦争末期,軍高官は,精神主義を振りかざして,全軍特攻化を決定し,特攻を唯一の対抗手段とした。

 大本営海軍部・軍令部、大本営陸軍部・参謀本部など日本軍上層部は、数量。質の格差から、正攻法が通じなくなった状況で、戦局打開のために頼ることのできるのは、精神主義と士気の高い下級兵士だけだった。そこで、特攻兵器として、人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機中島キ115「剣」,このほかにも潜水艦搭載の特殊攻撃機「晴嵐」,体当たり自爆改造戦車,対戦車爆雷を抱いたまま突っ込む肉弾兵,爆薬を持って海中に潜み自爆する「伏龍」などを開発し、若者の命をそれに供した。

 このような特攻兵器は、戦術的にも戦略的にも劣勢であり、軍指揮官の能力の低さの証明ともなる。それを採用する軍指揮官は、統率の外道として恥をかく。そこで、特攻兵器は、犠牲的精神を有する将兵の発意で作られたという俗説が流布された。兵器の開発,生産はもちろん、特攻隊の編成,運用は個人で行うことはできず,軍上層部の主導、命令が不可欠である。特攻は、現地の将兵の自発的な攻撃ではなく、特攻作戦として軍上層部が策定した軍事行動である。軍事行動である以上、戦果と損失・コストが問題となるから,特攻に向かった将兵の心情・苦悩は、二義的になり、あくまでも特攻,突入、敵艦撃沈が優先される。


 特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。

◆連合国では,ウィリアム・ハルゼー提督のように「よいジャップは、死んだジャップだけだ」と言って、日本兵の殺害を推奨した指揮官もいた。戦争と日本人への人種的偏見が相俟って、太平洋戦争では、欧米の騎士道精神は期待できなかった。アメリカ人は,日本軍の特攻作を現在の自爆テロと同じく、狂信的で卑劣な行為として認識していた。2001年の9.11同時テロに対しても、アメリカでは、真珠湾の騙し討ちの再来であり、カミカゼ特攻と同じ自爆テロであると見做して憎悪が沸き起こった。日本人は、「特攻は自爆テロは違う」と信じているが、世界の人々は必ずしもそう思ってはいない。この認識の乖離を踏まえて、特攻とは何か、を考えれば、差別・憎悪を拡散して人々を煽動し、政府や軍を操ろうとする人間が、戦争を引き起こし、続けていることに思い当たる。 思い当たる。

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
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