鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
特攻兵器「震洋」「マルレ」艇の開発と戦歴 2007
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◆日本海軍特攻艇「震洋」水上挺進隊・陸軍「マルレ」海上挺進隊


写真(上):輸送艦「ネソーバ」NESHOBA APA 216(排水量14,833t)乗員のSwede Larson-Ray Allen(写真左)とWavrin-Ray Allen-Sullivan-Klein-Reiger(写真右)
;体当たり特攻艇「震洋」「マルレ」が撃沈しようとした米軍艦船にはこのような若者が乗り込んでいた。轟沈の響きの中で、彼らの命も失われる。日本陸軍の水上挺進隊、海軍の海上挺進隊に配属になった学徒出身者や予科練出身者は、戦果をあげたかったろうが、アメリカ人を殺戮したかったわけではないだろう。それでも日米の若者が殺しあったのはどうしてか。輸送艦「ネショーバ」は速力18ノット、貨物積載量2,900 tの大型輸送艦。1945年4月沖縄攻略に参加し、グアム、真珠湾、グアム、沖縄、サイパンと輸送任務に従事し、そこで終戦。サンフランシスコに帰還後、日本占領軍を東京湾に運搬。NESHOBA PICTURES FROM RAY ALLEN( Amphibious Forces of WWIIより許可を得て写真掲載)


回天のような本格的特攻兵器と比較して、特攻艇は粗末だった。「秘密兵器装備の特別攻撃隊」に志願・配属された将兵たちの多くは、中古エンジン付ベニヤボートに落胆した。体当たり艇を配備した海上挺進隊、水上挺進隊の写真は少ない。
横浜ヨット(本社:横浜鶴見区)は,1942年、千葉県銚子市長塚町の県立銚子商業高校に銚子工場を設立していたが,1944年半ばには,マルヨン艇「震洋」の製造を開始(銚子市の特攻艇・震洋製造工場参照)。
◆2011年8月13日ヤフーニュース「元隊員が語る特攻艇『震洋』」に当研究室が掲載された。その1日のアクセスは778人で、戦後66年たっても特攻への関心が衰えていないことに感銘を受けた。「もう、お前たちの乗る飛行機はない」。大空にあこがれて日本海軍に入った少年飛行兵に、上官は告げた。10代の少年たちを待っていたのは、小型モーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」だった。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦の兵士・民家人の話を伺った。
文部科学省2007年3月30日公表「2006年度の教科書検定」で、高校の地理歴史・公民では、沖縄戦の集団自決が「日本軍に強いられた」という内容に対し修正を求める意見が初めてついた。日本史では、沖縄戦の集団自決に関して「日本軍に強いられた」とした教科書7点が「命令したかどうかは明らかと言えない」と指摘された。

判断基準変更の理由
 峽海量仁瓩あった」とする資料と否定する資料の双方がある
慶良間諸島で自決を命じたと言われた元軍人やその遺族が2005年に名誉棄損の訴訟を起こした
自決命令の有無より住民の精神状況が重視されている
 この報道がなされた3/30-3/31の両日で本webへのアクセスは1万2600件を超えた。岩波書店大江健三郎氏は4月4日に「元少佐側の主張のみを取り上げて教科書の記述を修正させる理由としたことは誠に遺憾で、強く抗議する」との文章を伊吹文部科学相に送付した。文科省が「日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいる」などとした教科書の訂正申請を承認した12月26日には、本webへのアクセスは1万3300件を超え、沖縄戦の特攻艇部隊(整備部隊も含む)の重要性を再認識した。

沖縄ノート 集団自決を命じたとの『沖縄ノート 』(大江健三郎,岩波新書1970刊行)の記述で名誉を毀損されたの集団自決訴訟(出版差止等請求事件,謝罪広告・損害賠償も含む)をおこしていた,陸軍海上挺進隊第一戦隊長梅沢裕少佐(陸士52期),第三戦隊長赤松嘉次少佐(陸士53期)側は,2008年3月28日の大阪地方裁判所第9民事部の判決で棄却された。
これは「沖縄の座間味島および渡嘉敷島の各守備隊長であった元軍人が住民に集団自決を命じたという記述及びこれを前提とした意見,論評の記述のある書籍について,元軍人及び遺族が,同書籍を出版し又は執筆した被告らに対し,同記述は虚偽の事実を摘示したものであり,元軍人は名誉,人格的利益を侵害され,遺族は亡元軍人に対する敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を侵害されたと主張して,損害賠償及び謝罪広告の掲載を求めた事案において,上記書籍の記述どおりの元軍人の命令を認定することはできないが,同命令があったことを真実と信じるについての相当の理由があったものと認められるなどとして,上記請求が棄却された」。

◆2008年2月,集団自決訴訟の判決直前,『証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』 (謝花直美著,岩波新書)とそれに反対する立場の『沖縄戦集団自決-虚構の「軍命令」―マスコミの報道ではわからない』(明成社)が刊行された。

2008年10月31日,沖縄集団自決訴訟の第二審大阪高裁判決で、請求を退けた一審・大阪地裁判決を支持、控訴を棄却した。判決理由は,集団自決に「日本軍が深くかかわったことは否定できず、総体としての軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」と述べた。

◆沖縄戦の海上挺進隊の被害は,座間味島の第一戦隊は梅澤隊長は捕虜になったが,第一中隊長伊達達也中尉(陸士57期)・第二中隊長阿部直勝中尉(陸士57期)・第三中隊長津村一之中尉(陸士57期)名を含め戦死70名。第二戦隊は,野田義彦少佐(陸士52期)は捕虜となったが,第一中隊長大下真男中尉(陸士57期)を含め戦死41名,渡嘉敷島の第三戦隊は,赤松隊長は捕虜になったが,戦死22名。沖縄戦の捕虜まつわる歴史的背景は,重要である。

母の遺したもの 新版―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい事実 ◆1945年,沖縄本島の「学徒出陣壮行会」が,沖縄女子師範学校の女学生が参加して開催された。宮良英加の答辞。「私は,徴兵検査が繰り下げになって,19歳から入隊しなければならないということを聞かされた時,頭の先からつま先にかけて,鉄の棒を突き刺されたようで,非常に残念でたまらなかった。師範学校に入学したからには,一度は生徒を教えてみたかった。----しかし,いったん戦場に出たからには,生きのびて帰れるとは思えない。女の人は,男子より助かる機会が多いから,生き残ったら必ず伝えて欲しい。戦争は非常なものだ。どんなに勉強したくてもできない。したいことがまだまだたくさんあったのに。戦争のない時代に生まれたかったということを,のちのちの人に伝えて欲しい」(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』pp.73-75参照)。 

【アジア太平洋戦争インデックス】:鳥飼研究室の戦史一覧

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自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論

1.連合国では,日中戦争以来、日本軍のアジアへの侵略行為、残虐行為が知れ渡り、日本人への反感が高まっていた。司令官の中には、「よいジャップは、死んだジャップだけだ」として、日本兵の殺害を推奨するものがいるほどであった。日本の侵略行為・残虐行為に日本人への人種的偏見が相俟って、対日戦争では欧米流の騎士道精神は期待できなかった。日本軍の特攻作戦も、現在の自爆テロと同じく、狂信的な愚かで卑劣な行為として認識されていた。

写真(左):第3艦隊司令長官「ブル(野牛)」ハルゼー提督;1944年12月のフィリピン戦の撮影。Third Fleet was originally formed during World War II on March 15, 1943 under the command of Admiral William F. "Bull" Halsey. He opened his headquarters ashore in Pearl Harbor, territory of Hawaii, on June 15, 1944. Third Fleet planned and directed many of the decisive naval operations of World War II in the Pacific. The fleet operated in and around the Solomon Islands, the Philippines, Formosa, Okinawa and the Ryukyu Islands.

 1943年,ケネディJohn F. Kennedy海軍中尉(後の大統領)が魚雷艇指揮官としての1ヶ月以上の任務を終えて,ソロモン群島ツラギ島に帰還すると,ハルゼー提督が掲げるように命じた大きな看板が目に入った。そこには次のように書かれていた。「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ!もし任務を的確に果たそうとするなら,黄色い卑怯な野獣を殺せ。」

KILL JAPS !KILL JAPS !KILL MORE JAPS ! You will help to kill the yellow bastards if you do your job well " [From "PT 109 - The Wartime Adventures of President John F. Kennedy" by Robert J. Donovan](→Fleet Admiral William F. 'Bull' Halsey 引用)

ハルゼー提督は,敵国日本人が過酷な戦場では肉体的に優れているという米軍の恐怖心を否定することがぜひ必要であると信じていた。そこで,「'Kill Japs 日本人どもを殺せ」Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' というスローガンを掲げた。「死んだ日本人がいい日本人だ」として人種的に侮辱し,戦意を高めた。勇猛果敢な戦闘精神の権化ともいえるハルゼーは,特攻をジャップの自爆テロとして憎悪した。
He strongly believed that by denigrating the enemy he was counteracting the myth of Japanese martial superiority . . . ' "Halsey's racial slurs made him a symbol of combative leadership, a vocal Japanese-hater . . . "

「米軍兵士はカミカゼ特攻隊を恐れ,畏敬の念を抱いていた」とする日本人識者は多い。しかし,当時の米兵から見て,カミカゼ・パイロットはテロリストであり,米兵は、戦利品として,戦死した特攻隊員の遺体を皿に載せ,ジャップ・ステーキとして嘲笑したり,遺骨・特攻機の破片や残骸を戦利品として持ち帰っていた。現在でも、寄せ書きの有る日章旗や軍隊手帳が、遺族に返却される「美談」が報じられる。このような戦利品spoil of warが持ち帰られた一因には、日本兵への敵意や憎しみがあった。現在でも、「自爆テロリスト」を,愛国心のある立派な若者であるとして,尊敬するものが例外なのと同じである。米兵の中には,戦死した特攻隊の死体を艦艇上で見つけ,海葬にしてた時もあったが,これは例外である。

体当たり特攻を行うジャップは、卑劣な憎むべき敵(=自爆テロリスト)である。冷静な研究者や元軍人は別にして,カミカゼに直面していた大半の米兵たちは,戦友や自らの命を奪うカミカゼを「自爆テロ」として,憎悪,嫌悪していた。

しかし,人が死を選び,命を捧げ,投げ出すとき,容易なプロセスで,計画的な必死の作戦を遂行できるものではない。また,祖国や家族を守るための破壊行為の善悪,それを行う個人の意思を判断するのも容易ではない。

■⇒レイテ戦の神風特攻隊:特攻第一号と特攻の生みの親の神話

2.1944年10月20日,レイテ戦のときに,日本軍の航空機による特攻作戦が展開された。しかし,1944年3月には、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し,1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図した。陸軍の突撃艇(マルレ艇)は,1944年6月15日に設計を開始し,7月11日に試験演習を隅田川で行った。

「特攻第一号」関行男大尉(海軍兵学校出身)の戦死する半年以上前,1944年3月に人間魚雷「回天」の試作が,「㊅金物」(マルロクカナモノ)として命じられている。「回天」は,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kgの特攻自爆兵器である。

1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定している。
特殊奇襲兵器: 「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」 
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」「甲標的丁型蛟龍」として量産、蛟龍の実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型特殊潜水艇「海龍」として試作・量産,実戦参加なし
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器


写真(右):人間魚雷「回天」
;ホノルルにある潜水艦「ボーフィン」博物館に展示。潜水艦「ボーフィン」は,1944年に学童疎開船「対馬丸」を撃沈した。それが真珠湾で撃沈された戦艦「アリゾナ」の近くに展示してあるのは,報復・仕返しの意味があるようだ。

人間魚雷「回天」とは,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており,騒音を発し,操縦性も悪い日本の大型潜水艦が,米軍艦船を襲撃するのは,自殺行為だった。「回天」の技術的故障,三次元操縦の困難さも相まって,戦果は艦船2隻撃沈と少ない。

  1943年6月の段階で、侍従武官としてラバウル基地の戦闘を視察し、その実情を憂えた城英一郎大佐(航空専攻)は,南東方面から帰国後,1943年6月に大西瀧治郎中将に体当たり特攻必要性を提案している。その後,大西中将は軍需省に転任したが、彼も航空機材の生産・整備,搭乗員の要請・補充は困難な状況にあることを身をもって悟った。


写真(右):突撃艇「マルレ」 ;慶良間海洋文化館の展示。突撃艇の最高速力は20ノットで,駆逐艦(30ノット)を追いかけることはできないので,待ち伏せ攻撃をかけるしかない。しかし,輸送船(10ノット)に対してならば、積極的な攻撃を仕掛けることは可能である。


大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』の1944年7月11日には,次の記述がある(保坂正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.167-168引用)
「突撃艇ノ試験演習ヲ隅田川デ実施,
自重1屯(),自動機関ヲ利用,速力20節,兵装ハ爆雷2箇(1箇100瓩())航続時間五時間
右突撃艇ハ泊地ノ敵輸送船ニ対スル肉薄攻撃用トシテ先月十五日(「サイパン」上陸ノ日)設計ヲ開始シ七月八日試作ヲ完了セルモノナリ,
速力及兵装ノ点ニ於テ稍々不十分ナルモ,今後ハ斯カル着想ノ下ニ,此種兵器を大量整備スルヲ要ス」 

軍による特攻「作戦」計画は、1944年6月マリアナ沖海戦での日本海軍空母機動部隊の壊滅,大敗北が契機になった。サイパン島争奪戦で敗北した日本陸海軍は,米軍の航空機,空母任務部隊,大艦隊,輸送船団などの威力を思い知り,正攻法で,対抗することは不可能に近いと悟った。そこで,1944年7月21日大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,特攻作戦を本格的に準備し始めた。


海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。

日本海軍の統帥部は,軍令部である。「海軍軍令部」は,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。作戦について天皇を輔弼する機関であり、陸軍の参謀本部に相当する。長たる海軍の軍令部総長は,陸軍の参謀総長と対等の立場で,大元帥の天皇に直隷する。

大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。軍令部総長は海軍に対して作戦に関する指揮・指示をする。陸軍では、「指揮・指示」といわず「区処」という。大海指第431号は,海軍軍令部の出した指示で,そこに特攻作戦採用が明示された。軍隊では、命令により部隊が編成され,隊名・隊長が任命される。特攻志願者が、「自発的に」軍の管理する航空機、爆弾、燃料を使用することはできない。

2.フィリピン戦線を指導した第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が,「特攻の生みの親」であるという神話は,日本の大本営海軍部(軍令部)の特攻隊編成と特攻作戦の組織的実施を隠蔽するかのごとき表現である。1944年7月21日,大本営海軍部の「大海指第431号」でも,奇襲攻撃として特攻作戦が計画されている。「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度,攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となっている。つまり,軍上層部が神風特別攻撃隊の作戦を進めていたことがわかる。

特攻機が出撃したのは,フィリピンのルソン島の航空基地からで,1944年10月20日,21日と連日のように出撃し,見送りが盛大に行われた。しかし,連日の出撃にもかかわらず,敵艦隊を発見できずに引き返していた。日本では,10月25日出撃の関行男大尉を特攻第一号として公認し,敷島隊五名だけが全軍布告された。それ以前に未帰還だった特攻隊員は,黙殺され,特攻(第一号)の認定は受けることができなかった。戦果がない以上,当然だという立場である。

大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。 
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

1.各種作戦
ヾ霖蝋匐部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

2.奇襲作戦
ヾ饅浦鄒錣謀悗瓩襦E┫和發鯀或丙拠地において奇襲する。
∪水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
6秒牢饅永捨呂鯒枷し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。

特殊奇襲兵器=特攻兵器を推進した作戦要領)

以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特攻,特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。また,統帥権を侵犯する特攻はありえないので,大元帥が特攻作戦の発動準備をしていることを知らないでいたということもない。(特攻計画は報告されている)

生き続けてしまった,死にきれなかった軍上層部の将官や佐官以上の将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人たちもいえる。自殺など容易にできることではなく,しかたがないだろう。しかし,特攻隊を編成させた軍人の中に,参議院議員,大会社の顧問に就任して,日本の戦後復興に尽くすことができるほど,堂々としていた,している人たちがいた。軍の名誉と特攻隊・犠牲者への思いはどうなったのか。

彼らが「自発的に体当たり攻撃を始めために特攻隊が生まれた」というのは,英霊の名誉と自己犠牲の精神に共感するからではないだろう。大本営,軍上層部の要職にあった自分たちの,指揮官としての責任を認めない強弁に映ってしまう。

 戦局挽回のためには,体当たり特攻攻撃を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものであろう。
〕ダな米軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
∧瞳海鉾新發靴討癲て本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
D名鏐況發鮖迭櫃韻董て本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも,必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。

〃蛎發僚斗廚癖軸錣任△觜匐機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
5爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
て湛饗發了峇蠎圓鯤腓,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。


 
自発的な特攻や体当たり攻撃がやむをえない状況で行われのは確かであるが,それば「特攻隊」という部隊編成の形で行われた攻撃ではない。特攻「隊」は,軍の統率する部隊であり,自然発生的に生まれるれるものではない。特攻隊は,軍上層部の事実上の命令によって作られた。

「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は,1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。
このような特攻兵器を改革・量産している以上,軍が特攻作戦を推進したことは明らかであり,「特攻隊は自然発生した」とはいえない。「特攻」とは日本軍の作戦の一環であり,「特攻自然発生説」(現地部隊の発意による犠牲的精神の自発的な表現が特攻である)は成り立たない。  

特攻隊として出撃した若者たち,下級兵士,学徒には,その気落ちを思うと複雑な心境になる。たしかに,自己犠牲によって,命を家族や日本に捧げようと思ったり,捧げざるをえないと諦観に達したりしたのだと思うと,若者たちの健気さに圧倒される。現在の若者たちは,特攻隊員を犬死であると軽蔑していると一方的に決め付ける「識者」もいるが,そんなことはない。横山 秀夫(2004)『出口のない海』のレビューを呼んでも,特攻隊員の志は,尊重され,作戦には怒りが投ぜられている。問題は,個人の思惑,感情に拘泥されないで生み出された日本軍の特攻作戦の冷酷さと非人間性にあると思われる。

軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布した。つまり,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,後に続く特攻隊員の確保にも配慮した。

日本海軍は特殊任用令によって、攻撃により偉勲をたてたと認められ、全軍布告された特攻隊員について、下士官は少尉に特進させ、兵は准士官に特進させる「特別任用」を採用した。

特攻兵器(奇襲特殊兵器)の開発・量産も,一軍人のなしえることではなく,軍が主導して当然である。個々の兵士も,軍のメンバーであれば,軍が進める特攻化の中に組み込まれる。個人の意思で特攻を選択するかどうかは,最終的には問題とならない状況におかれている。

公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)で「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とあるし (p.245)、「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(同年4月1日)には「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」としている(p.199)。

 1944年10月フィリピン戦以来,特攻が作戦の主流になってきたが,戦争末期になると,全軍特攻化するしかない状況に追い詰められた。そこでは,将兵の個々の意思で特攻を志願するかどうかは,すでに問題ではない。全軍特攻化であれば,将兵は,いやおうなく特攻隊員に組み込まれる。

しかし,日本軍は,特攻隊員とその家族・遺族に配慮をした。特攻隊員が,祖国,家族を守るために特攻するのであれば,家族のことを配慮することが,隊員の士気を鼓舞することになる。このように遠謀深慮した日本軍は,特攻隊員の家族・遺族に対して,特別に年金を割り増した。

1944年11月29日,日本陸海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布し,特攻戦死した将兵で,戦効をあげた者には,特殊任用として,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにした。その遺族の年金額は,引き上げられた。家族を保護して,後に続く特攻隊員を確保したのである。
特攻で全軍布告することで,死後昇進すれば,遺族への軍人恩給(遺族年金)は倍化し,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができた。

特攻隊員たちも,残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟する。特攻による名誉の戦死は,まさに「親孝行」につながった。


特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制の結果、神風特攻隊敷島隊所属の関行男大尉以下5名は,特別任用の初めての対象となった。敷島隊の特攻作戦で,四階級特進して飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は三級特進して少尉となった。特攻で全軍布告することで,軍人恩給(遺族年金を含む)は倍化され,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができた。

  特攻隊に任命された若者は,自分を死に向かわせた状況=敗色濃い戦争を受け入れても,特攻隊を作戦として利用するが必死からは逃れうる人々=軍司令官や部隊指揮官に対して,無感動,無感情でいられたとは思えない。しかし,軍隊の中で,上官の命令を議論しても無駄であることをみな知っていた。自分の死を有意なものしなければ,特攻から逃れたくなるかもしれない。逃れられない運命であれば,愛するもの=家族・日本を守るために,命を捧げる,として自分の死と命を一つにするしかないのではないか。

3.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」としており,奇襲可能な体当たり自爆兵器の開発・作戦計画を検討し始めている。日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷,人間爆弾,人間機雷,特攻戦車など配備され,組織的に行われた。自生的,自発的に5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。純粋な犠牲的精神の発露ではあるが,事実上,出撃を強要した日本人がいた。その責任を回避するために,英霊の自生的,自発的特攻をことさら強調しているのであれば,これこそ無責任な英雄・犠牲者への侮辱である。

 特攻は最善の方法だったわけではないが,跳飛爆撃などほかの手段は,特攻隊員はもちろん,大半の軍人でも選択することは不可能であった。1944年の段階で,「特攻作戦の是非」を決めることは,大元帥,将官クラスの軍人にしか許されないことであろう。

条件付降伏の提案も考慮できないような戦争指導の中で,とにかく戦機を得て敵に大打撃を与え,和平への糸口を掴むという方針で臨んだようだ。しかし,米軍にしてみれば,損害を与えられたからといって,怖気づいて和平交渉に応じるつもりは,戦争を始めてから一度たりともなかった。戦意が旺盛な米軍は,日本を無条件降伏させるという強硬な方針を貫こうとしていた。日本は,国体,すなわち天皇制の護持を最優先事項にしており,それに気がついていた米軍の軍人もいた。しかし,ひとたび参戦した以上,米英とも無条件降伏にこだわった。したがって,たとえ特攻作戦がより大きな戦果を挙げたとしても,日本は米国と和平交渉を始めることはできなかったと考えられる。

 1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定した。これは,事実上の特攻兵器の試作決定を意味する。
「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」改良型「蛟龍」として量産、実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型潜水艇「海竜」として試作(若干の量産?)
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器



写真(左):ウルシー基地で米軍に引き揚げられた人間魚雷「回天」の後部
;1944/11/20,人間魚雷「回天」が米軍の前進根拠地を奇襲攻撃した。


 体当たり自爆兵器の一つである「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。1943年12月28に,海軍の特殊潜航艇「甲標的」第5期講習員であった黒木博司中尉、特殊潜航艇「甲標的」第6期講習員であった仁科少尉が,人間魚雷計画を海軍省へ陳情しているが,自分勝手に兵器の研究に,時間・資材・金銭を費やすことのできる軍人はいるはずがない。

海軍兵学校(海兵)・海軍機関学校(海機)出身者の場合,本人の配属希望を考慮し選考し,口頭での転勤命令(指名)による。
したがって,特殊兵器の内容は,機密事項として公表しないまま志願者を募ったり,命令によったりして,人間魚雷「回天」の搭乗員となる特攻隊員が選ばれていた。画期的な最新兵器を扱うと期待感に胸膨らませた兵士たちが,人間魚雷の実態を知ったとき,どのように感じたのか。

4.日本陸海軍は、水上特攻のための体当たり自爆用のモーターボート突撃艇を量産,配備した。そして,1945年10月から1945年2月のフィリピン戦で、水上特攻艇による自爆体当たり攻撃を、米軍艦船に対して実施した。これも, 1944年7月21日の大海指第431号で奇襲作戦をになうとされた特攻艇「震洋」あるいは,陸軍のマルレ艇である。特攻艇の発案者は伝えられていない。この特殊兵器の開発・部隊編成には,軍上層部が積極的に関与したのは当然である。

特別攻撃は特攻と呼ばれ,体当たりの自爆攻撃であるが,海軍の兵士たちの志願,自発的な希望によって開始されたと言われることがある。しかし,軍隊で勝手な個人的行動が作戦として認められたり,兵器を勝手に開発・製造することはできない。軍隊とは,現場の臨機応変な対応にしても,すべては基本的な作戦命令によって行動するところである。

陸軍の特攻兵器には,モーターボート突撃艇「マルレ」艇,海軍の特攻兵器には,モーターボート特攻艇「震洋」,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」などがあるが、これらの奇襲兵器の試作・開発・整備とその・乗員訓練・部隊編成は、軍令部の命令によっている。自由時間と資金に縁のない軍人の着想だけで,特攻兵器を生むことはなく、命令系統に従って行動する軍隊組織で、自発的な意思で特攻隊が自然発生することもありえない。

大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』の1944年7月11日には,次のようにあるという(保坂正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.167-168引用)
「突撃艇ノ試験演習ヲ隅田川デ実施,
自重1屯(),自動機関ヲ利用,速力20節,兵装ハ爆雷2箇(1箇100瓩())航続時間五時間
右突撃艇ハ泊地ノ敵輸送船ニ対スル肉薄攻撃用トシテ先月十五日(サイパン上陸ノ日)設計ヲ開始シ七月八日試作ヲ完了セルモノナリ,
速力及兵装ノ点ニ於テ稍々不十分ナルモ,今後ハ斯カル着想ノ下ニ,此種兵器を大量整備スルヲ要ス」。


「マルレ」は、緑色の[[迷彩塗装]]を施したために、隊員たちは自嘲気味に「アマガエル」と呼んでいた。機密兵器として期待して部隊に配属され,そこで目にしたのが「ベニヤのポンコツエンジンを搭載しただけの小船」であった。それこそが,自分の命と共に吹き飛ぶ特攻艇であった。あまりにも貧弱だったために,「アマガエル」と呼んだようだ。

マルレは、1945年初頭、フィリピンのルソン島に上陸してき米軍を,リンガンエン湾で迎撃した。また,沖縄戦では,事前に配備されていたマルレが実戦投入された。特に、渡嘉敷島・座間味島など慶良間列島に配備された挺進隊は,米軍に終戦まで投降することなく,山中に退避していた。その際に,現地住民との軋轢が生じている。

日本軍は,本土決戦に備えて、日本の太平洋岸の多くの海岸には、米軍上陸部隊・支援部隊を迎え撃つために、マルレ水上挺進隊の秘密基地が作られた。例えば、現在の千葉県外房海岸にも洞窟陣地が残っている。鴨川市の洞窟陣地には,ノミの後も明瞭に残っている。これらの陣地構築には、徴用された朝鮮人労働者が多数動員された。

敵艦艇の直前で搭載している爆雷を投下るというが,艦砲,機銃を備えている敵艦に,接近することが可能かどうか。接近して,爆雷攻撃した後に,無事帰還することは,まず不可能であろう。運用構想中から、奇襲,体当たりすることが前提となっていたはずだが,未だに,「体当たり兵器として開発されたものではない」とする資料もある。

日本軍内部では、開発当初から,生還の可能性は皆無に等しいような兵器を,「特殊奇襲兵器」あるいは「特殊攻撃機」としていた。これらは、事実上の体当たり特攻兵器として、開発・生産されたものである。そして、陸軍士官学校,海軍兵学校の出身者ではなく,学徒兵・少年兵出身者を中心に,その搭乗員を訓練していた。つまり、軍の作戦の一環として、特別攻撃隊を編成していた。1945年には,全軍特攻化が,そして「一億総特攻」という無謀な計画が日本軍の最高戦略となってしまう。

  写真(右):慶良間列島の水上特攻艇;日本海軍の「震洋」,陸軍の「マルレ艇」があった。 A US Army report in PT Boats, Inc.’s archives indicates that 1000 of these boats were to attack Allied Forces assaulting Okinawa. They were concealed in artificial and natural caves. These one-man boats were made of light plywood with reinforced wooden beams. Many were powered by US made Gray Marine four and six-cylinder engines. Horsepower was between 70-80. They carried two depth charges, 260 pounds each, which were released by hand or on impact with their targets. They were painted green.

沖縄戦では、1945年3月26日、米軍の慶良間列島上陸攻防戦の時以来、航空機による特攻と併用して、水上特攻艇(突撃自爆艇)を出撃させた。

 米軍は,沖縄本島に上陸する前に本島西方の慶良間列島に上陸した。慶良間は座間味村と渡嘉敷村の通称で、沖縄本島から見て手前に見える渡嘉敷村を「前慶良間」、後方の座間味村を「後慶良間」と呼んでいたところである。日本陸軍は慶良間列島には米軍は上陸しないと考え,海上挺進隊を配備し,背後から米軍艦船を水上特攻自爆艇で襲うつもりでいた。

水上特攻艇とは,木製小型モーターボートに爆薬を搭載して体当たり攻撃するものである。海軍では「震洋」水上挺進隊と陸軍では「マルレ」海上挺進隊と呼ばれた。

写真(左):長崎の特殊潜航艇「甲標的」と水上特攻艇製造工場;戦後になって米軍が撮影したもの。Nine Midget Submarines. There are nine midget submarines in various stages of completion. Reportedly these submarines were piloted by Kamikaze submariners. These submarines were to be equipped with the bare necessities to enable them to approach U.S. ships and fire a torpedo or two. In many instances the pilots would be expected to ram U.S. ships.

 
1944年3月、軍令部(陸軍の参謀本部に相当)が「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定している。これに応じて、1944年5月27日に,な軸錣了邵酊,すなわち後の「震洋」が完成している。乗員の準備は,1944年7月5日に,つ第一次要員が発令され,7月15日に講習が開始されている。

 乗員1名の特攻艇は、艇首に250圓稜薬を装備し、自動車エンジン(トヨタ自動車80馬力の中古エンジン1基)を搭載した木造合板型(ベニヤ板)の高速ボートで、敵の揚陸部隊が上陸点に侵攻してきた時、夜陰に乗じて奇襲による体当たり攻撃をするつもりでいた。

1944年8月28日に制式され「震洋」と命名された特攻艇は,1945年1月にフィリピン群島マニラ湾入り口のコレヒドール島で米軍に対して初めて使用されている。(⇒水上特攻隊のフィリピン戦での戦果

  写真(左):水上特攻艇;長崎の製造工場の埠頭にて米軍が占領後撮影。 “Special Attack” was the Japanese phrase used to describe tactics that generally involved the loss of a human operator. Laden with explosives, special attack boats were used in a suicidal fashion against American vessels in the Pacific during World War II. However, very few attacks were successful, as these boats were easily spotted and were frequently destroyed before they were deployed.

 1944年8月28日に制式され「震洋」と命名された特攻艇は,震洋特別攻撃隊を編成し,小笠原諸島,ボルネオ島,フィリピンに進出した。
フィリピンには,1944年10月26日第九震洋隊,11月1日 第八〜十一震洋隊,11月21日 第七震洋隊,12月15日 第十二震洋隊がフィリピンに向かった。

そして,1945年1月にフィリピン群島マニラ湾入り口のコレヒドール島で米軍に対して初めて使用されている。

 陸軍も同様の特攻艇を「マルレ艇」「○レ」と秘匿名称で呼び整備していたが,1945年1月9日に,フィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍に対して,陸軍海上挺身第12戦隊のマルレ艇70隻が突入し、護衛駆逐艦ホッジス、輸送艦ウォーホーク、LST2隻に損傷を与え、全滅している。

 日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々にも海上特攻艇200隻をしのばせていた。
ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸の補給基地とした。

写真:水上特攻艇「震洋」の体当たりを受けた米輸送艦AKA-67「スタール」 Starr;1945年4月9日0420に攻撃された。排水量8,635 t.(lt) 13,910 t.(fl); 速力16.5kts; 乗員 将校62名,下士官兵 333名 40mm連装対空機銃4基 16丁× 20mm対空機銃。搭載舟艇, 14隻×LCVP, 8隻×LCM; 貨物等裁量, 380,000 cu ft, (5,275 t. )

渡嘉敷島・阿波連島
△(球)海上挺進第三戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊の1個小隊
座間味島 
△(球)海上挺進第一戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊
阿嘉島・慶留間島
△(球)海上挺進第二戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊

(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍引用)

 海軍「震洋」,陸軍「マルレ艇」は,慶良間列島に配備され,沖縄本島に上陸する米軍を迎撃する予定でいた。つまり,沖縄本島の西部海岸(飛行場設営適地)に上陸しようとする敵海上部隊を,背後から突撃艇で襲撃しようと企図した。

写真:1945年4月9日0420,米輸送艦AKA-67「スタール」を攻撃後,甲板に引き上げられた水上特攻艇「マルレ艇」あるいは「震洋」の残骸;米兵4名が負傷し,船体側面に穴が開いた。突撃艇の日本兵2人は,死んだ。At 0420 on April 9, 1945, the USS Starr was hit on the starboard side by a apanese suicide boat. Four men aboard the Starr were injured and a hole was put in the side of the ship. The two Japanese occupants of the boat were killed.

慶良間列島に侵攻した米軍Seizure of the Kerama Islandsあるいは渡嘉敷村の歴史によれば,慶良間列島の沖縄戦は次のように要約できる。

米軍は,慶良間列島に艦船の停泊地,補給修理基地として活用する意図で,沖縄本島上陸に先立って,慶良間列島を攻略した。米軍の攻撃のあった1945年3月27日,慶良間。しかし,戦果が不明のまま半数が戦死した。1945年4月1日にも第22震洋隊に出撃命令が下り,米軍の中型揚陸艇LMS(R)-12,歩兵揚陸艇LCI(G)-82を撃沈したようだ。


写真(左):1945/04/04.特攻艇が沖縄沖で撃沈した中型揚陸艦LMS(R)-12
;LSM-12 beached, date and place unknown.


USS LCI(G)-82は、1945/04/04夜,中城湾で,レーダーによる警戒ピケを張っていた歩兵揚陸艦であるが,日本海軍の九七式艦上攻撃機(雷撃あるいは水平爆撃かできる)を対空射撃で撃墜した。

脱出したらしい救命艇の3名の乗員を捕虜にしようと接近したが,一人が手榴弾の紐を引いたようだったので,3名は殺された。

九七式艦上攻撃機に搭載してあった救命艇は、米軍が戦利品として,引き揚げた。敵機を撃墜して数分後,自爆艇が高速で接近し,全部に命中した。舷側から甲板まで穴が開き,二つの燃料タンクから火災が発生した。艇長は船を放棄し退艦を命じた。その際に,九七式艦上攻撃機から獲得してあった戦利品の救命艇が役に立った。(→新聞記事引用)


写真(右):中型揚陸艦LMS(R)-12
;1945年4月4日,日本の体当たり水上艇によって撃沈された。LSM-12 broached and abandoned on the coral reef off Okinawa, mid-April 1945. The ship was cannibalized for her spare parts.

 1945/04/04.水上特攻艇がLSM-12を沖縄沖で撃沈。Broached on the beach at Okinawa and broke up, 4 April 1945 Decommissioned, 24 April 1945, at Okinawa Struck from the Naval Register (date unknown) Final Disposition, hulk donated, 10 July 1957 to Government of Ryukyu Islands

1945年4月4日,特攻艇が撃沈したLSM-12のデータ
排水量 520 t.(light), 743 t. (landing) 1,095 t.(満載時)
全長 203フィート 6インチ o.a.,全幅 34' 6"
深さ light, 3' 6" forward, 7' 8" aft, fully loaded, 6' 4" forward, 8' 3" aft
速力 13.2ノット(kts.) (max.), (928 tons displacement)
Complement 5 officers, 54 enlisted
武装 one single bow mounted 40mm gun, four single 20mm gun mounts
搭載物件 Vehicle/Boat Capacity 5 medium or 3 heavy tanks, or 6 LVT's, or 9 DUKW's
乗員Troop Capacity 2 officers, 46 enlisted
装甲Armor 10-lb. STS splinter shield to gun mounts, pilot house and conning station
機関 Propulsion two Fairbanks Morse (model 38D81/8X10, reversible with hydraulic clutch) diesels. Direct drive with 1,440 BHP each @ 720rpm, twin screws,
航続距離 Endurance, 4,900 miles @ 12kts.(928 tons displacement)
1945/04/27. USS Hutchins (DD-476)が大破し終戦後も修理されず。

海上特攻隊の沖縄戦での戦果

写真(右): ロケット弾搭載揚陸艦LMS(R)-188;排水量758 t.(light), 983 t. (attack) 1,175 t.(fully loaded)。全長 203フィート6インチ,全幅34フィート。最高速力13.2 kts(ノット)。
ジェネラル・モーターズGeneral Motors のジーゼルエンジンを2基搭載,1,440馬力(720rpm),スクリュー2基。
航続距離は3,000miles @ 12kts(ノット)。


米軍が慶良間列島を占領した1945年3月27日ごろ,多数の特攻艇「震洋」「マルレ艇」を鹵獲している。そこから推測して,慶良間列島から出撃した特攻艇は,100隻もないと思われる。既に,フィリピンのルソン島で3ヶ月前に実戦に使用しているが,機密であるはずの特攻兵器を多数米軍に鹵獲されている。人間爆弾「桜花」も,1945年4月1日の米軍沖縄本島上陸日に,読谷村の北・中飛行場(現在の嘉手納基地)で鹵獲されている。

こうなると,日本陸海軍は,特殊奇襲兵器を十分に秘匿したとはとてもいえないのであって,安易な精神主義が跋扈し,冷徹な科学的,合理的な作戦計画を立案していなかったように思えてくる。

 慶良間列島には2,335名の日本軍兵士が配備されていたが,大半は水上特攻隊(海上挺身隊)Sea Raiding unitsである。彼らには,特攻艇,それに装着する爆雷だけでなく,機銃,迫撃砲も装備されていた。

慶良間列島の特攻艇は約300隻で,600名の朝鮮人労働者も作業に当たっていた。

 
写真(右):ロケット弾搭載上陸用舟艇LMS(R)-188の特攻機による被害状況
;1945年3月29日,慶良間列島をパトロール中の中型揚陸艦LSM(R)-188に日本の特攻機が命中した。特攻機が命中した主甲板の被害葉大きいが,撃沈に至らなかった。しかし、レーダー警戒任務radar picket dutyに付いていた5月4日に再度、特攻機の命中を受け、沈没。Final Disposition, hit and sunk by Japanese Kamikaze plane off Okinawa, 4 May 1945.


戦後、812隻971トンの特攻艇が中華民国に引き渡されたようだが、ベニヤ板の粗雑なつくりのボートは破損しており,すべて廃棄されたようだ。
(→中国の戦後拿捕艦艇「有"震洋"自殺艇812艘計971噸因不堪使用,全部報廢」参照)

慶良間列島には、体当たり自爆特攻艇操縦者300名とともに、朝鮮人労働者600名と基地要員100名も残っていた。慶良間列島の日本軍には、機銃や迫撃砲なども装備されていた。(There remained on the Kerama group only about 300 boat operators of the Sea Raiding Squadrons, approximately 600 Korean laborers, and about 100 base troops. The garrison was well supplied not only with the suicide boats and depth charges but also with machine guns, mortars, light arms, and ammunition.)→Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻引用 

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

写真(左):ニューベリーNewberryの魚雷艇PT Boats財団にある日本軍の水上体当たり特攻艇Japanese Suicide Demolition Boat「震洋」(とされる) ;沖縄慶良間列島では、多数の特攻艇が使用されないまま米軍第77師団に鹵獲された。船体の色はグリーンで、エンジンは70-80馬力と20%過大に見積もっている。爆雷2発260ポンド(250kg)を搭載するとしている。ただし、形態が異なるので、試作かあるいは、別種(ドイツ軍の水上特攻艇)かもしれない。全長: 19 feet 2 inches 幅: 62 inches ;J.M. “Boats” Newberry, founder of PT Boats, Inc., located this Suicide Demolition Boat in Kerama Retto, Okinawa, and arranged for its transport back to the United States. In 1972 Newberry placed the boat at Battleship Cove. The design appears to be that of a semi-submersable. Elaborate attack plans were found in the caves along with information indicating that many amphibious units had been set up in out-of-the-way coastal installations. When discovered, none of the amphibious squadrons’ personnel were located, leading G-2 of the 77th Division to call the discovery “mysterious.” On display in an original Quonset Hut, the Demolition Boat has been compared to Japanese “Shinyo” (meaning “seaquake”) boats but does not match a Shinyo’s characteristics.  

水上特攻隊のフィリピン戦での戦果 
1945/01/10. LCI(G)-365,LCI(M)-974をルソン島リンガンエン湾で撃沈
1945/01/31. PC-1129をルソン島Nasugbuで撃沈。
1945/02/16. LCS(L)-7, LCS(L)-26, LCS(L)-49をコレヒドール島Marivelesで撃沈。  

水上特攻隊の沖縄戦での戦果も,被害に比べると大きいとはいえない。

海軍の特攻兵器である自爆艇「震洋」,人間魚雷「回天」の試作・開発・乗員訓練・部隊編成は、命令によっている。一将兵には,時間も資金もなく,特攻兵器の発想があったとしても,それを具体化する開発,試作は不可能である。軍という厳格な階級では,将兵個人による特攻兵器の開発,特攻隊の編成もありえない。軍上層部の命令・許可なくして、独断で兵器の特攻仕様への改造,特攻隊の編成をすれば,命令違反の抗命罪,専権罪として,軍法会議で処罰の対象となる。


写真(右):海軍横須賀航海学校から「震洋」特攻隊に移った田英夫元議員;1923年(大正12年)6月9日東京・世田谷生まれ。1945年海軍横須賀航海学校入学、震洋特攻隊員として出征。航海学校一分隊二区隊第四班。1944年10月のある日のタ方、予備学生、生徒が突然剣道場に「総員集合」を命ぜられた。いつになくモノモノしい雰囲気で、入口には教官が立ち並び、窓はすべて閉められていた。壇上に立った田口学生隊長は、「おまえたちの中から特別攻撃隊員を募る。種類は潜水艦によるもの、魚雷によるもの、舟艇によるものである。応募者は明朝○八○○までに区隊長に申し出ろ。以上」一瞬私たちの間にピーンとした緊張感が走った。


自爆艇「震洋」は、本土決戦に向けて、日本各地にも配備された。このような部隊を編成とこの人選の経緯が、参議院外交防衛委員会(2001年5月31日)の田英夫議員の発言から窺われる。

昭和19(1944)年の10月ですか、私は横須賀の海軍航海学校というところに約400人近い予備学生と一緒に、いわゆる学徒出陣で出た同期の人と一緒に訓練を受けていた。ある日突然、総員集合、全員集まれということで、剣道場に集められました、夕方でしたが。
学生隊長というのは大佐です。その人が物々しい雰囲気の中で壇上に上がって言ったのは、おまえたちの中から特別攻撃隊員を募集すると。種類は、船舶によるもの、潜水艦によるもの、魚雷によるもの、三種類であると。希望者は明朝〇八〇〇までに当該教官に申し出ろ、以上。

 つまり一つは、船舶によるものというのは、私が行った震洋特攻隊という、小さな船で体当たりする。潜水艦というのは特殊潜航艇です。魚雷によるものというのは回天です。いわゆる人間魚雷回天です。

 夕食を食べ、最後寝てもだれも口きかない。お互いにふだんは夕食のときは楽しく談笑するんですが、その後勉強をして寝てもだれもまた一睡もしなかったと思うんです。階段ベッドで寝ているんですが、上の段の男がもう身もだえをするようにして寝返り打って寝られないでいるのが手にとるようにわかる。そのうちに、数時間たったときに、隣のベッドの上の段の戦友がベッドを出て教官室へ向かっていった。入りますと言っている。聞こえます。ああ、あいつは志願したなと思いました。ますますこっちは焦るわけですよ。と、彼は帰ってきていびきかいて寝てしまう、決断をしたから。

(航海学校一分隊二区隊第四班。寝室(居住区)では階段ベッドで私は下段、上段は松本素道君だった。すぐ隣の上段が荻野雅君、下段が蓼原一夫君だったと思う。「巡検終わり。タバコポン出せ」の号令がマイクで流れても、いつものように雑談をする者もない。一分隊二区隊第四班の私の部屋もシーンと静まりかえっていた。皆ベッドに入ってはいるが眠れない。----私の上段の松本素道君もベッドをきしませて返りをうつ。私もまったく眠れない。「走馬灯のように……という言葉のとおり、幼かつたころのこと、父母と旅行したときのこと、そして私の上段で悩みぬいていた松本素道君は「大和」で戦死してしまった。)

私はとうとう朝まで寝られませんでしたね。私の上の段の男も寝られなかった。手にとるようにわかったんですが、彼は戦艦大和で死んだんです。隣のベッドの上下志願して、やはり死にました。そのときに400人のうち40人が志願して全員死にました。そのとき志願すれば死しかないんですね。

 悶々として考えたのは、つまり自分で特攻隊を志願するということは、死を覚悟することですよ。どうせ戦況からしていつかは死ぬかもしれない状況であることは事実なんですが、やはり人間というのは、みずから決断をして特攻隊を志願するとなるとそう簡単なものじゃない。
----走馬灯のようにという言葉がありますが、本当にそうですね。-----学校の先生が国のために命をささげることは美しいことだぞと、こういうことを本当に言いましたから、我々のころは。そういうのがぽっと先生の顔と一緒に浮かんでくる。次の瞬間、家族と一緒に旅行したことがぱっと写真のようにして頭に浮かぶ。次々次々に一枚の写真のようにして変わっていく。それが結局朝まで続いたわけです。私はそのとき志願しなかったんです。それから二カ月後に、少尉に任官すると同時に特攻隊へ行きました。

 -----大和で死んだ上段の男も苦悩してそして死んだんですが、彼のことを、戦争が終わって二十年ほどたって、生き残った当時の戦友たちが集まって教官も交えて懇親会をしたら、そのときの学生隊長が、まさに募集をした学生隊長が生きておられて出てこられました。そして、懇親会の席で私に、田、おまえは次男だったなと言われたんで、そうですと言ったら、うん、おまえはだから特攻隊へ行けたんだと。君の上に寝ていた松本君というのは母一人子一人だった、だから死なしちゃいけないと思って大和に乗せたんだよ、こういう話をされました。

 そういう戦争の何というか、表に出てみんながわかる、空襲で死ぬことも含めて、あるいは、陸軍の本当に弾が飛んでくる中で死んでいくということと、そういう現象だけじゃなくて、内面的な人間の苦しみというもののひどさ、そういうことをぜひわかっていただきたいということをまず前提に申し上げておきたいと思います。(引用終わり)

写真(右):慶良間列島の水上特攻艇;米軍は体当たり特攻攻撃をかける爆薬装備のモーターボートを、Sucide Boat(自殺艇)と呼んだ。これらは米軍に鹵獲されたもの。

 日本陸軍では,特攻「マルレ艇」を配備した「海上挺身隊」を編成し,沖縄本島西方の慶良間列島に展開した。(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍参照)

渡嘉敷村の歴史によれば,慶良間諸島は、渡嘉敷島、前島、座間味島、阿嘉島、慶留間島、屋嘉比島、久場島、など大小20余の島々からなり、渡嘉敷村と座間味村に分かれている。日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に海上特攻艇200隻をしのばせていた。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、ついに3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保した。

 特攻艇の海軍「震洋」,陸軍「マルレ艇」が慶良間列島に配備され,沖縄本島に上陸する米軍を迎撃する予定だった。沖縄本島の西部海岸(飛行場設営適地)に上陸しようとする敵海上部隊を,背後から体当たり艇で奇襲し撃破しようとした。


写真(左):慶良間列島渡嘉敷島に座礁した米駆逐艦「ハリガン」 ;1945年3月26日に、渡嘉敷島沖12マイルで、機雷により大破し、沈没を免れるために渡嘉敷島に乗り上げた、と報告されている。最高速度38ノットの高速艦なので、水上特攻艇よりも早いが、排水量2900トンと大型のため、喧騒の戦場では、エンジン音を響かせて突っ込んでくる小さな自爆艇を発見できなかったのかもしれない。機雷に触れたと報告しているが、特攻艇が海上で停止して待ち伏せしたのかもしれない。


 米軍は,慶良間列島が艦船の停泊に優れており,そこを補給基地,修理泊地として活用する意図で,沖縄本島への上陸に先立って攻撃した。そこで,1945年3月27日,配備されていた第22、第42震洋隊に出撃命令がでた。

慶良間列島渡嘉敷島に座礁した米駆逐艦「ハリガン」Halliganの戦歴
Assigned to a fire support unit, she arrived off the southwestern part of Okinawa 25 March and began patrolling between Okinawa and Kerama Retto. In addition she covered minesweepers during sweep operations through waters which had been heavily mined with irregular patterns.


写真(右):渡嘉敷島に座礁した米駆逐艦「ハリガン」:手前にある爆雷に誘爆すれば,いっそうの死傷者が出たであろう。


Halligan continued her offshore patrols 26 March. At about 1835 a tremendous explosion rocked the ship, sending smoke and debris 200 feet in the air. The destroyer had hit a moored mine head on, exploding the forward magazines and blowing off the forward section of the ship including the bridge, back to the forward stack. PC 1128 and LSM-194 arrived soon after the explosion to aid survivors. Ensign R. L. Gardner, the senior surviving officer who was uninjured organized rescue parties and directed the evacuation of the living to waiting rescue vessels. Finally, he gave the order to abandon ship as the smoking hulk drifted helplessly.

The gallant Halligan, veteran of so many important operations in the Pacific, lost one-half her crew of 300 in the disaster; and only 2 of her 21 officers survived. The abandoned destroyer drifted aground on Tokashiki a small island west of Okinawa, the following day. There the hulk was further battered by pounding surf and enemy shore batteries. Her name was struck from the Navy List 28 April 1945, and in 1957 her hulk was donated to the government of the Ryukyu Islands.

1945年3月26日(日本側27日)に渡嘉敷島沖で撃沈した駆逐艦「ハリガン」DD-584 USS HALLIGAN(フレッチャー級)の撃沈については,米軍は,沖合いで機雷に触れて,島に乗り上げ座礁・沈没した。 Struck mine off Okinawa and sank March 26 1945 とする。しかし,特攻艇による戦果である可能性もある。3月29日に第42震洋隊に出撃命令がでたが,戦果が不明のまま半数が戦死してしまう。1945年4月1日にも第22震洋隊に出撃命令が下ったが,このときは,歩兵揚陸艇1隻,駆逐艦1隻を撃沈したようだ。

1945年4月4日の上陸用舟艇LCI(G)-82への水上特攻艇の体当たりについて、米軍の資料にも興味深い話が記載されている。

中型揚陸艦LMS(R)-12も1945年4月4日,日本の体当たり水上艇によって撃沈された。


写真(左):特攻艇に撃沈された可能性が高い米駆逐艦「ハリガン」
;沈没に伴い乗員162名死亡。On March 26 1945 Haligan was headed south from Okinawa for independent patrol when she stuck a mine which detonated beneath her forward magazines. PC-1128 and LSMR-94 took aboard the survivors. Halligan then drifted for 12 miles before pilling up on a reef off Tokashiki Island. This is an aerial view as she rests on the reef. A closeup of the destruction to the forward section of the Halligan.



写真(左):フレッチャーFLETCHER級駆逐艦「ハリガンリ」 ;最高速度38ノットの高速艦で、水上特攻艇よりも遥かに優速である。排水量2900トンと大型艦であり、喧騒の戦場では、エンジン音を響かせて突っ込んでくる小さな自爆艇を発見できないまま、自爆された可能性がある。優速の駆逐艦を低速ボートで追いかけても、体当たりできないので、自爆艇は海上待ち伏せ攻撃を仕掛けたのではないか。


3月26日(日本側27日)、水上特攻艇が渡嘉敷島沖で撃沈した可能性の高い駆逐艦「ハリガン」DD-584 USS HALLIGAN(フレッチャー級)のデータ。
排水量 2924 Tons (Full), 全長, 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max)
兵装 5 x 5インチ38口径対空砲, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5).
機関出力, 60,000 馬力; General Electric Geared Turbines, 2軸
速力, 38 Knots, 航続距離 6500マイル @ 15 Knots, 乗員 273名.

 『ある神話の背景』を追求するブログ 「『体当たり』兵器だったという嘘 」によれば、曽野綾子(1992)『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決』は、陸軍水上特攻艇(マルレ)に関して、ベニヤ製の舟に自動車用エンジンを搭載し、速力20ノット、120キロ爆雷2個を搭載する体当たり特攻艇として紹介しているが、実際は陸軍「マルレ」は自爆特攻艇ではないとする。

沖縄渡嘉敷島の海上挺進第三戦隊赤松嘉次大尉の副官だった知念朝睦氏は、県史への証言で、次のように言っているという。

 「----渡嘉敷、座間味、阿嘉で丸く囲んだ内海で全舟艇は二百五十キロの爆雷を抱えて、内海の中心に向って全速力で三方から押し寄せ、敵艦に三〇度の角度で接近し、舟艇の先きが、敵艦に接触したと見るや、爆雷を投棄して、六〇度万向転回をして、即ち三〇度の角度を保ちながら遁走します。その後、四秒で爆発するので搭乗員は助かる算段は、充分にあるわけです。」(『沖縄県史』10巻、1974年)

海軍の特攻艇「震洋」は、艇首のハッチ内部に爆弾を搭載するのに対して、陸軍特攻艇「マルレ」は、艇尾に爆雷を2個搭載する。したがって、海軍「震洋」は完全に自爆体当たり特攻艇であるが、陸軍「マルレ」は敵艦数十メートル以内に接近して爆雷を投下後、反転退避することが可能である。ただし、敵艦に接近している以上、帰還は困難である。

月刊雑誌『WILL』200年8月増刊号「私は集団自決など命じていない・梅澤元少佐独占手記」梅澤裕(元海上挺進第一戦隊長) 取材・構成 鴨野守 ジヤーナリスト、によれば、沖縄座間味島の海上挺進第一戦隊長梅澤裕少佐は、1945年6月初め捕えられ生き残った。そして、次の証言をしている。

「戦局が次第に厳びしくなる中で、昭和十九年一月、私は船舶兵への転科命令を受けました。そして、事態打開を図る一環として出てきたのが、船舶特攻のマルレです。

 特攻と言えば「神風」や、海軍の水中特攻「回天」などが知られていますが、陸軍が作った船舶特攻艇がマルレでした。船幅一・八メートル、艇長五・六メートルのべニア張りのボートに百二十キロの爆雷一、二個を搭載します。米軍が沖縄本島に上陸したあと、食料や戦車、武器弾薬を運んでぐる。輸送船をやっつけよう、大打撃を与えようというのが、マルレの目的でした。

 もちろん、敵の艦船に突撃すれば、乗り込んだ隊員の生還はない。だから、思慮のあるやつよりも、とにかくがむしゃらな若者を訓練して、敵にぶつかっていけというのが首脳部の考えで、十六歳から十八歳ぐらいの特別幹部候補生が選ばれたのは、そうした事情があったと見ています。

 私の海上挺進第一戦隊は、各戦隊のトップを切って昭和十九年八月上旬、小豆島そばの豊島で訓練をスタートしました。自分でいうのもなんですが、それまでの戦揚での活躍が評価され、戦隊長に選ばれたと思っています。

 秘密作戦という性質上、昼は休み、夜に舟艇の取り扱いや操縦航行に励んだ。だが、まだ二十歳にもならない若者を爆死させてよいものか悩みました。そこで、攻撃方法を工夫しました。敵艦に接近したら、直突せずに角度を持ってすり抜け、手動で爆雷を落とす。爆雷を落した四秒後には舟は二十メートル退避できるはず。十人のうち五人くらいが生還でき、次の戦いに臨むこともできると。

 宇品の司令部に行き、船舶司令官の佐伯中将に意見具申しました。佐伯中将は、多くの参謀とともに話を聞いてくださり、しばらく瞑目された後、「よし、それでゆけ」と決裁をくださった。こんな感激はなかったです。隊員の特別幹部候補生も大喜びし、訓練にも熱がこもったことは言うまでもありません。

 ただひとつ気ががりなことがあった。敵はフィリピンに来るか沖縄に来るか。沖縄に先に来たら、敵の輸送船をひっくり返してやろうと思って訓練した。だがフィリピンが先だったら、マルレの存在が敵に知られてしまうのは必至です。フィリピンに先に出撃されたらもう終わりだと思った。なぜなら、捕虜は必ず厳しく調べられる。アメリカ軍の裏をかいて、慶良間諸島でマルレが密かに待ち受けているという情報が必ずや敵に知れ渡ると覚悟した。残念ながら、この予想は的中してしまいました。」

「昭和十九年九月、私たちが座間味に入ったら、もう基地隊が待っていました。私たち特幹隊百四名はファイター、戦争する兵土です。それをバックアップして助けてくれる基地隊、これがすでに千人来ていました。村と打合せをして、私たちは小学校を宿舎にして、基地隊のメンバーは村落の中に舎営していました。

 歓迎会が行われた翌日から基地隊は、敵の襲来に傭えて陣地作りや、穴掘り、鉄条網張り、機閥銃の台座作りから、大砲を撃つ砲座まで作ってくれました。ものすごく優秀な工兵です。

 あと整備中隊が百五十人。これはエンジン専門です。我々が持っているモーターボートを整備する。エンジンを修理する、舟が傷んだら直してくれる。両方が一緒になって、我々を補助して戦えるように押し出してくれるのです。渡嘉敷海峡に面した古座間味の山腹に穴を掘る。そこに、長さ五メートルほどのマルレを三隻入れるわけです。そんな穴をたくさん掘った。

 この基地隊の指揮官は小沢という少佐でした。彼は士官学校出身の、正規の順序を踏んだ将校ではなく、下士官からものすごく努力して、曹長になり、その中から成績のいい者は一年だけ士官学校に行くことを許すという制度があり、その試験に合格して士官学校に入った将校です。少尉候補者十一期生の優秀な人ですが、年はすでに四十歳くらいでした。私は中国で六年も戦場を体験しており、彼はべテラン。良い組み合わせでした。

 マルレを隠す穴を掘るには、材木で補強する必要があります。座間味の山は密林ですから、そこから切り出さないといけない。それを村人に頼むんです。命令じゃありません。「ご苦労さんだけど、明日から何日か、材木伐採するから手伝ってください」と。そしたら村長や助役が「わかりました」と言って受けてくださる。若い人は戦争に行って島にいないから、三十過ぎから四十歳くらいの島民二、三十人を集めて、基地隊に木材を渡してくれる。下士官がそれを貰う。片一方では穴を掘ったり、村の中にいろいろ陣地を作ってくれる。そういうことをやっていた。

 九月の中旬から翌年の三月二十六日までぶっ通しで応援してくれました。私は誇りを持って言いますが、私たち部隊と、住民との関係は当時ぴか一だったと思う。道端で出会った村びとが重い荷物を担いでいたりしたら、部下が率先して手伝った。また、村びとも珍しいものが手に入ると食卓に並べて、家族同様のもてなしをしてくれたものです。戦後、慰霊のために現地を訪れた折り、我々を大歓迎してくれ、また島を離れる時は、船着き揚まで見送りをして別れを惜しんでくれた。この関係は、昔も今も変わりません。」

「敵が攻撃してきたのは忘れもしない昭和二十年三月二十三日。空襲は二十三日から四月二日まで続いた。二十五日、大艦隊が海峡に侵入し、艦砲射撃が始まりました。何とミズーリ級が一隻、インディアナポリス級が一隻、駆逐艦が二隻も攻めてきました。戦艦、巡洋艦、駆逐艦が慶慶良間諸島の沖合い一キロのところにデンと停まって攻撃してくる。

 駆逐艦の大砲は直径が十二、三センチ、巡洋艦は二十五センチ。これが至近距離に飛んできたら大変ですよ。一分に五、六発から十発くらい飛んでくる。戦艦の大砲の直径が四十センチ。もちろんこれは、戦艦相手に戦う場合に使うもので、山の壕の中の小さな舟を壊すくらいなら、二十センチから二十六センチくらいの砲弾を撃ち込みます。

 「これは大変なのが来るな」と思った。ドカーンと攻撃が始まったら、百発百中こちらの特攻挺に命中するじゃないですか。それもそのはず、後で判明したことですがスパイが撃つべきところを教えていた。潜水艦のフロッグマンがゴムボートで夜、島に来ていろいろ連絡していたのです。(これはスパイを恐れる疑心暗鬼の強さを物語る。<鳥飼研究室註>) 

   それで徹底的にぶっ壊されて、壕の中の弾薬も食糧も、壕の下にあった食糧倉庫も、全部が破壊されてしまった。我々は海で戦うつもりが結局、マルレが潰されたものですから、出撃できない。阿嘉島も渡嘉敷島もマルレはたくさん残っていたのですが、渡嘉敷島では攻撃のタイミングがずれて自沈せざるをえなかった。座間味島の場合、完全に標的とされて潰されました。(奇襲され秘密兵器を破壊されれば隊長は処分される可能性もある。謀略や兵力差を強調するのは当然である。<鳥飼研究室註>)。

 戦隊の百四人は、将校がピストルや軍刀を持っているだけ。五十七期の士官学校卒業したてで、戦争が初めてという少尉を中隊長として、そのもとに二人の工兵科の幹部候補生の予備士官学校卒業ホヤホヤの少尉が群長で三十人の部下。そのような編成が三つある。だがいくらべテランの私でも、武器がなければ戦えない。とんでもないことになったと思いました。とにかく何とか敵のものすごい攻撃を避けて山の中に隠れて持久戦に持ち込むしかない。」

めちゃくちゃにやられてしまった三月二十五日の晩に、いよいよ私は部下を集めた。部下といっても十七、十八歳の少年です。お前達はもう兵器がないんだから、とにかく明日から、山を越えた向こうの部落の方に避難してくれと。

 その頃、千人いた基地隊の兵隊が沖縄本島に七百人取られて、三百人しか残っていなかった。その三百人のうち百二十人くらいは小銃を持っていて、重機関銃も二つあった。それで俺は戦うから下がれといったら、しぶしぶ下がった。阿佐の海岸の近くまで下がって待機していました。マルレもなくなり出撃不能だから、明日二十六日は陸戦になるだろうと。基地隊と整備中隊を集めて、一番高い番所山、高月山の下にとにかく陣地を作って敵が上陸するのを迎え撃つ方針を定めた。

 すると、夜十時頃、村の幹部ら五人が来て、驚くべきことを言い出したんです。その五人とは役場の助役・宮里盛秀、収入役の宮年正次郎、小学校長・玉城政助、役場の事務員及び女子青年団長宮城初校でした。助役が代表してこう言いました。

「いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。  私たちは申し合わせが出来ているから、死ななければならない。覚悟しています。私たちは島の指導層だから、知らん顔できないから一緒に死にます。  村の忠魂碑前の広場に女子供、老人をはじめ、みんなを集めるから、敵の緒にぶつける爆薬、ドラム缶に入った百二十五キロの爆薬を、みんなが集まっている真ん中で爆発させてください。老幼婦女子が集まりますから、ふっ飛ばしてください。だめなら小銃弾をください。手榴弾をください。そうしないと、私たちは死ねと言われてもどうやって死んだらいいかわからんのです」

 今でも忘れることができません。去年昭和十九年十一月三日の、沖縄県の決起大会から決議されて指令が出ている。死ななきゃいけないんだ、と言う。戦う人達の後顧の憂いをなからしむために自決して、死にます、弾をくださいと言われて、私は愕然としました。考えたこともない、とんでもない話です。村の人達はおとなしくて純朴で親切で、本当によくやってくれた。女子青年団もよくやってくれた。日本の内地の女よりもよほど立派だと感心していたんです。

 私は玉砕の申し出に、びっくりすると同時に唖然として、強い口調でこう言いました。「我々は明日から戦おうと思っているのに、なんてことを言うのか。とにかく死んではいけない。どうして死ぬなんていうのか」と。

「我々も必死で、この後ろの山で戦う。山の後ろの方、島の東の山の中に隠れて避難してくれ。山の向うには密林があって、密林の中に壕も掘ったじゃないか、食糧も蓄えたじゃないか。それをやったのはみんな、そこで生き延びてくれと言うことだ。死んでどうなるんだ、絶対に生きなければならない。死んではいけない」

 こう強く諭すのですが、「いや、私たちは上の方から言われて、申し合わせており、どうにもなりません」と思い詰めた表情で言う。特別の空気があった。一番最初に言ったのが、村の助役をしていた宮星盛秀です。彼は、鹿児島で除隊した退役軍人です。非常に優秀な兵隊だったと思う。私はその男が非常に好きだった。私が村の人達と大事なことを話す時、いつも彼が窓口でした。だから私がこんこんと「死ぬ必要はない」と止めているのに、「覚梧は出来ています」と言って聞かない。それで私は怒鳴りつけたんですよ、「弾丸はやれない、帰れ!!」と。 (月刊雑誌『WILL』2008年8月増刊号梅澤証言引用終わり) 

事件番号 平成17(ワ)7696 事件名 出版差止等請求事件
裁判年月日 平成20年03月28日 大阪地方裁判所第9民事部
判示事項の要旨
 太平洋戦争後期に沖縄の座間味島および渡嘉敷島の各守備隊長であった元軍人が住民に集団自決を命じたという記述及びこれを前提とした意見,論評の記述のある書籍について,元軍人及び遺族が,同書籍を出版し又は執筆した被告らに対し,同記述は虚偽の事実を摘示したものであり,元軍人は名誉,人格的利益を侵害され,遺族は亡元軍人に対する敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を侵害されたと主張して,損害賠償及び謝罪広告の掲載を求めた事案において,上記書籍の記述どおりの元軍人の命令を認定することはできないが,同命令があったことを真実と信じるについての相当の理由があったものと認められるなどとして,上記請求が棄却された。 (平成20年03月28日 大阪地方裁判所第9民事部引用終わり)

主文 平成20年3月28日 大阪地方裁判所第9民事部 裁判長裁判官深見敏正

慶良間列島は,沖縄本島・那覇の約20キロメートル西方に位置する,渡嘉敷島,座間味島,阿嘉島,慶留間島などの島々の総称である。慶良間列島には,昭和19年9月,陸軍海上挺進戦隊が配備され,座間味島に原告Bが隊長を務める第一戦隊,阿嘉島・慶留間島にO隊長が隊長を務める第二戦隊,渡嘉敷島にD大尉が隊長を務める第三戦隊が駐留した。昭和20年3月の米軍進攻当時,慶良間列島に駐屯していた守備隊はこれらの戦隊のみであった。海上挺進隊は,当初,小型船艇に爆雷を装着し,敵艦隊に体当たり攻撃をして自爆することが計画されていたが,結局出撃の機会はなく,前記船艇を自沈させた後は,海上挺進隊はそれぞれ駐屯する島の守備隊となった。

慶良間列島は,後記の集団自決発生当時,米軍の空襲や艦砲射撃のため,沖縄本島など周囲の島との連絡が遮断されており,敵の包囲・攻撃があったときに警戒すべき区域として戒厳令によって区画した区域である「合囲地境」ではなかったものの,事実上そのような状況下にあったとする文献もある。合囲地境においては,行政権及び司法権の全部又は一部を軍の統制下に置くこととされ,村の幹部や後記の防衛隊による指示は,軍の命令と捉えられていた。

また,前記のとおり,後記の集団自決発生当時,慶良間列島は沖縄本島などとの連絡が遮断されていたから,食糧や武器の補給が困難な状況にあった。

慶良間列島に配備された陸軍海上挺進戦隊は,もともと特攻部隊としての役割を与えられていたことから,米軍に発見されないよう,後記の特攻船艇の管理は厳重であり,その他の武器一般の管理についても同様であった。

b 座間味村は,渡嘉敷島の西方約2キロメートルに位置する座間味島,阿嘉島,慶留間島など複数の島々で構成される離島村である。昭和15年の統計によれば,座間味村の人口は約2350人であった。座間味村では,防衛隊長兼兵事主任のP助役が,伝令役の防衛隊員であり役場職員であるVJを通じて軍の指示を住民に伝達していた。兵事主任は,徴兵事務を扱う専任の役場職員であり,軍の命令を住民に伝達する立場にあった。そのほか,住民は,Sが団長を務めた女子青年団などが中心となって,救護,炊事などで日常的に部隊に協力していた。

c 渡嘉敷村は,渡嘉敷島を中心として,その他複数の小島で構成されている。昭和19年当時,渡嘉敷村の人口は約1400人であった。渡嘉敷村では,Q村長,防衛隊長のVK,N兵事主任,M巡査らが軍の指示を住民に伝達していた。昭和19年9月9日,XL少佐を隊長とする第三基地隊と呼ばれる約1000人の兵隊が,渡嘉敷村に上陸し,上陸後直ちに陣地構築に取りかかった。渡嘉敷村の村民も,国民学校の生徒を動員するなどして陣地構築作業に従事した。

同月20日には,D大尉を隊長とする海上挺進第三戦隊104人が,渡嘉敷島に駐屯した。第三戦隊は,同年4月に海上特攻隊として編成された部隊であり,○レ(マルレ)と呼ばれる特攻船艇を約100隻保有していた。渡嘉敷村は,同年10月10日に空襲を受け,この空襲以降,慶良間列島の戦況は悪化していたが,このような状況下で,それまで徴用で陣地構築作業に従事していた男子77名が改めて召集され,兵隊と ともに国民学校に宿営することとなった。そのほか,渡嘉敷村の婦人会や女子青年団は,救護班や炊事班などに徴用され,学童に対する授業は停止した状態であった。

前記第三基地隊は,昭和20年2月中旬,特攻基地がおおむね完成に近づいたころ,勤務隊の一部と通信隊の一部とを第三戦隊の配下にして,沖縄本島に移動した。その後,第三戦隊は,同年3月20日に陣地を完成させ,特攻船艇の点検も行い,米軍を迎え撃つばかりの状況となっていた。

イ集団自決の発生

(ア) 座間味島

座間味島は,昭和20年3月23日,米軍から空襲を受け,これにより,日本軍の船舶や座間味部落の多くが被害を受けた。座間味島は,同月24日,25日も空襲を受けた。住民は壕に避難するなどしていたが,同月25日夜,伝令役のVJが,住民に対し,忠魂碑前に集合するよう伝えて回った。その後,同月26日,多数の住民が,手榴弾を使用するなどして集団で死亡した(従来,これを集団自決と呼んでいるが,後記諸文献に記載されているとおり,その実態は,親が幼児ら子を殺害し,子が年老いた 親を殺害するなど肉親等による殺害であり,自決という任意的,自発的死を意味する言葉を用いることが適切であるか否かについては議論の余地がある。

しかし,集団自決という言葉が後記諸文献で定着していると考えられるので(誤解を避ける意味でかぎ括弧付きで「集団自決」と表記しているものもあるけれども),次の渡嘉敷島での事例も含めて,本判決では,以下において,集団自決と呼称することとする。)。自決を遂げた住民の正確な数については,後記(ウ)のとおり,明らかとなっていない。

(イ) 渡嘉敷島

第三戦隊は,昭和20年3月25日,特攻船艇への爆雷の取付けやエンジンの始動も完了し,出撃命令を待っていたが,D大尉は出撃命令を出さなかった。結局,D大尉は,米軍に発見されるのを防止するためとして,特攻船艇をすべて破壊することを命じた。 同月27日午前,米軍の一部が渡嘉敷島の西部から上陸した。

D大尉は,米軍の上陸前,M巡査に対し,住民は西山陣地北方の盆地に集合するよう指示し,これを受けて,M巡査は,防衛隊員とともに,住民に対し,西山陣地の方に集合するよう促した。渡嘉敷島の住民は,同月28日,防衛隊員などから配布されていた手 榴弾を用いるなどして,集団で死亡した。死亡した住民の正確な数については,後記(ウ)のとおり,明らかとなっていない。

(ウ) 自決者の人数

沖縄戦においては,戸籍簿をはじめとして多くの行政資料が焼失したため,住民の犠牲の全貌を明らかにすることは困難とされており,現在もなお,犠牲となった住民の正確な数は明らかとなっていないが,主な公的資料等では,集団自決の犠牲者数について,次のとおり記録されている。

「鉄の暴風」では,厚生省の調査による座間味島及び渡嘉敷島の自決者の合計人数が約700人であったとされている。「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」では,作戦遂行を理由に軍から自決を強要された事例として,座間味村155人,渡嘉敷村103人の自決者があったとされている。「沖縄作戦講話録」では,援護法の戦闘協力者として昭和25年3月末までに申告された陸軍関係死没者4万8509人のうち14才未満の死没者1万1483人についてこれを死亡原因別に区分して,沖縄戦全体で「自決」313人となるとされている。また,「沖縄作戦講話録」では,渡嘉敷村329人,座間味村284人の自決者があったとされている。「沖縄県史第8巻」では,「集団自決」が613人とされている。「座間味村史上巻」では,座間味村の座間味部落だけで200人近い犠牲者がいるとされている。

(エ) 座間味島及び渡嘉敷島以外の集団自決

座間味島及び渡嘉敷島の集団自決のほか,数十人が昭和20年3月下旬に沖縄本島中部で,数十人が同月下旬に慶留間島で,約10人が同年4月上旬に沖縄本島西側美里で,100人以上が同月下旬に伊江島で,100人以上が同月下旬に読谷村で,十数人が同年4月下旬に沖縄本島東部の具志川グスクなどで,それぞれ集団自決を行った。

以上のうちの慶良間列島の慶留間島には,前記のとおり,第二戦隊が駐留していたが,第二戦隊のO隊長は,昭和20年2月8日,住民に対し,「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示し同年3月26日,米軍の上陸の際,集団自決が発生した。

以上の集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており,日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では,集団自決は発生しなかった。

 援護法は,軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し,国家補償の精神に基づき,軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的して制定された法律であり,昭和27年4月30日に公布された。

(イ) 沖縄は米軍の占領下にあり,日本法を直ちに適用することができなかったため,日本政府は,同年8月,那覇日本政府南方連絡事務所を設置した。同所と米国民政府との折衝の結果,日本政府は,昭和28年3月26日,北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に現住する者に対して援護法を適用する旨公表した。 他方,琉球政府においては,同年4月1日,社会局に援護課が設置され,援護事務を取り扱うこととされた。

(ウ) 日本軍が沖縄に駐屯を開始したのは昭和19年6月ころであったが,駐屯当初,日本軍は,公共施設や民家を宿舎として使用し,軍人と住民が同居することがあった。そのほかにも,住民は,陣地構築や炊事・救護等で,軍に協力する立場にあった。また,沖縄戦は,島々を中心に前線もないままに戦闘が行われたため,軍と住民は,軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。

このような事情により,住民を戦闘参加者と戦闘協力者に区分することは容易ではなかった。この点について,WFは,「複雑多岐な様相を帯びている沖縄戦では,戦斗協力者と有給軍属,戦斗協力者と一般軍に無関係な住民との区別を,如何なる一線で劃するか,誠に至難な問題が介在している。結局総ゆる事例について調査解明して最も明瞭なものから,逐次処理しつつ,其の範囲を縮少し,最後に左右いずれにするかの『踏み切り』をする以外にないように思われる。」としている。

戦闘参加者の範囲を決定するため,厚生省引揚援護局援護課の職員が沖縄を訪問し,沖縄戦の実態調査を行った。沖縄県の住民は,沖縄県遺族連合会が懇談会,協議会を開催するなど,集団自決について援護法が適用されるよう強く求め,琉球政府社会局を通して厚生省に陳情する運動を行った。

 以上の実態調査や要望を踏まえて,厚生省は,昭和32年7月,沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱を決定した。この要綱によれば,戦闘参加者の対象者は,ゝ鼠β癲き直接戦闘,C凸堯食糧・患者等の輸送,た愧蝋獣曄きタ羯・救護等の雑役,食糧供出,Щ融局隊への協力,┨茲猟鷆 き職域(県庁職員・報道関係者),区村長としての協力,海上脱出者の刳舟輸送,特殊技術者(鍛冶工・大工等),馬糧蒐集,飛行場破壊,集団自決,案三篤癲き瑛祁眄鏘力,殴好僖し疑による斬殺,概撈勤務,感佻奉仕作業, の20種類に区分され,軍に協力した者が広く戦闘参加者に該当することとされた。その結果,約9万4000人と推定されている沖縄戦における軍人軍属以外の一般県民の戦没者のうち,約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。

集団自決が戦闘参加者に該当するかの判断に当たっては,隊長の命令によるものか否かは,重要な考慮要素とされたものの,要件ではなく,隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定されたものもあった。
(以上主文 平成20年03月28日 大阪地方裁判所第9民事部 裁判長 深見敏正引用終わり)

『琉球新報』岩波・大江「集団自決」訴訟:軍関与認めた判決確定 「集団自決」めぐる岩波・大江訴訟 2011年4月23日
 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」などの記述をめぐって、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めた上告審で、最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は2011年4月22日、一審・二審に続き、上告を棄却した。これにより軍関与を認めた一、二審判決が確定した。同小法廷は、原告の申し立てを「上告理由にあたらない」とした。

 棄却を受けて大江氏は「自分たちの主張が正しいと認められた。訴訟で強制された集団死を多くの人が新たに証言し、勝利を得る結果になった」と述べた。  同裁判では、2008年3月の一審・大阪地裁判決で、両隊長による自決命令は推認できるが、「断定できない」と判断。大江氏が隊長による集団自決命令を事実と信じるには相当な理由があったとして名誉棄損を退けた。
 2008年10月の二審・大阪高裁判決は一審判決を支持した上で、「総体として日本軍の強制ないし命令と評価する見識もあり得る」とした。さらに、「表現の自由」に考慮し、公益目的で真実性のある書籍が新たな資料により真実性が揺らいだ場合、記述を改編せずに出版を継続しただけでは不法行為とはいえないとした。
 裁判原告の「隊長の自決命令は聞いてない」などとする陳述書が契機となり、06年度の教科書検定意見によって、高校日本史教科書の「集団自決」における軍強制の記述が削除された。記述削除に対し、「沖縄戦の実相をゆがめるもの」という反発が県内で起こり、2007年9月に県民大会が開かれるなど、沖縄戦体験の正しい継承を求める世論が高まった。

「県民の思い受け止めた」/大城県教育長
 最高裁の上告棄却を受け、大城浩県教育長は「教科書検定問題については2007年の県民大会の結果、広い意味での『日本軍の関与』の記述が回復され、高校生がこれまで同様に学習できると考える。最高裁の判決は、県民の思いを受け止めた判決」とコメントを発表した。(『琉球新報』岩波・大江「集団自決」訴訟:軍関与認めた判決確定 「集団自決」めぐる岩波・大江訴訟 2011年4月23日引用終わり) 

大江さん勝訴 軍関与認める司法判断 2011年4月23日
 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書などをめぐる出版差し止め訴訟で、最高裁は原告側の上告を退けた。これにより大江さん側勝訴の一、二審判決が確定した。
 一審、二審判決はいくつかの重要な判断を示した。まず「表現の自由」を考慮し、大江さんの記述は「公益を図るものであることは明らか」であり「公正なる論評の域を逸脱したとは認められない」としたことだ。
 次に歴史的事実の認定の問題だ。沖縄戦から60年以上経過し、当時を知る証言者はほとんど存命しない。軍命が口頭で行われ命令書の類いが廃棄されたとみられる中で、オーラル・ヒストリー(口述証言)を証拠として採用した。
「集団自決を体験したとする座間味島、渡嘉敷島の住民の供述やそうした記載をしている諸文献が重要な意味を有することは明らか」(二審)と指摘している。
 第3に、オーラル・ヒストリーを証拠とし採用する一方、原告側の新たな証拠の信ぴょう性を疑い、隊長命令が捏造されたという主張をことごとく退けた。
第4に、最新の沖縄戦研究を踏まえて判断された。沖縄戦の特徴は「軍官民共生共死の一体化」という方針にあった。住民を戦力として利用する一方、米軍への恐怖をあおりながら、軍事機密を知っている住民の投降を禁じた。

 判決は米軍資料も採用しつつ、座間味と渡嘉敷の「集団自決」について「軍官民共生共死の一体化」方針の下、日本軍の深い関与は否定できないとした。そして広い意味で「日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」(二審)と判断した。(『琉球新報』岩波・大江「集団自決」訴訟:大江さん勝訴 軍関与認める司法判断 2011年4月23日引用終わり) 

渡嘉敷島の戦闘(海上挺進第3戦隊)によれが、渡嘉敷島の海上挺進第三戦隊赤松嘉次大尉のマルレ特攻艇も、米軍の奇襲によって大半を破壊されてしまったという。

4月1日の沖縄本島上陸前、3月25日に米軍は慶良間諸島(座間味、渡嘉敷など)に上陸した。米軍の奇襲を受け、配備されていた日本軍の特攻隊も圧倒されたのか。慶良間列島上陸前の3月23日に慶良間列島は激しい空襲を受け、米軍の沖縄侵攻は予測できた。

しかし、慶良間列島に配備された特攻艇には、奇襲で壊滅したのか、ほとんど出撃の機会がなかった。もちろん正面から攻撃してくる敵艦を襲撃するのは、輸送船と違って、難しい。他方、米軍は慶良間列島を占領した際,多数の特攻艇を鹵獲した。これらは破損していたようだが、使用に耐える特攻艇はなかったのか。

 その後、4月1日、米軍は沖縄本島上陸、その直後、読谷村の北・中飛行場で人間爆弾「桜花」も鹵獲している。既に,日本軍は、フィリピンのルソン島で3ヶ月前に特攻艇を実戦に使用しているが、秘密兵器であるべき奇襲特攻兵器多数を沖縄戦の緒戦で米軍に鹵獲されてしまった。

日本陸海軍は特攻兵器を優先配備したが,体当たり特攻艇「震洋」,人間爆弾「桜花」など秘匿すべき奇襲兵器を無傷で米軍に鹵獲されている。奇襲兵器の秘匿性が暴露されるという失態のために,米軍は事前に特攻を警戒し、対策を強化できた。日本軍の特攻兵器の戦果が芳しくなかったのは,このような日本軍の作戦計画の不備にも原因がある。日本では,特攻作戦にあたっても,安易な精神主義が跋扈し,冷徹な科学的,合理的な作戦計画を立案していなかったようだ。


写真(左):隠匿された特攻艇
;奇襲秘密兵器のはずだが,人間爆弾「桜花」同様,沖縄では米軍に多数鹵獲されている。日本軍の秘密兵器の管理は,厳格ではなかったようだ。暗号も解読され,日本軍将兵には自ら捕虜になった際の権利も教えていない。米軍は,捕虜に対する尋問から,特攻兵器や戦艦「大和」に関する情報をかなり得ていた。


体当たり特攻艇は,低性能で,その存在も米軍に知れ渡っていた。敵艦艇よりも速度は遅く、エンジン音もやかましい。人間魚雷「回天」も、操縦と技術的故障の多発から、戦果は少なかった。しかし,このような操縦困難な故障頻発の特攻兵器が、1隻でも2隻でも,戦果を挙げることができたのは驚異的である。まさに,特攻隊員の勇気と修練の賜物であろう。

慶良間列島に侵攻した米軍Seizure of the Kerama Islandsでは,次のように記述している。

米海軍と航空部隊の慶良間列島への攻撃は,上陸の2日前から始まっている。1945年3月24日,第58任務部隊Task Force 58の空母と戦艦の援護の下に,掃海艇による慶良間列島周囲の機雷除去を行い,3月25日にはVice Admiral William H. Blandyの支援部隊も掃海に参加した。3月26日の午前中に米陸軍第77師団の大隊上陸部隊battalion landing teams (BLT's)が慶良間列島に上陸した。戦車揚陸艦LSTから,阿嘉,慶留間,外地,座間味の四島にも上陸が行われ,巡洋艦,駆逐艦などが海岸を5インチ砲で地ならしした。空母艦載機は,日本軍の潜水艦,航空機の攻撃を警戒して上空援護にあたった。

沖縄戦の統計:日米の兵力,米軍の砲弾発射数,損失,揚陸補給物資重量
座間味島の戦闘(海上挺進第1戦隊) 

There remained on the Kerama group only about 300 boat operators of the Sea Raiding Squadrons, approximately 600 Korean laborers, and about 100 base troops. The garrison was well supplied not only with the suicide boats and depth charges but also with machine guns, mortars, light arms, and ammunition.
(→ Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻引用)

慶良間列島座間味島(座間味村)には戦時中、特攻艇関係の陸軍部隊「陸軍船舶工兵隊」約1,500名駐屯していた。1945年3月26日、米軍が上陸した。「住民の戦闘意識は激しく、女子青年隊まで組織して戦った」と軍民一体の勇敢さを誇示するweb資料もある。また,軍に半強制的に徴用され,軍に労働力や下級の兵卒として奉仕することを強要されたともいう。

渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数は,日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人とされる。一般住民368名の犠牲ののうち,集団自決あるいは追い詰められての集団死の犠牲者329名とされる(→渡嘉敷村史資料編)。

沖縄守備軍の第三十二軍に配備された 陸軍海上挺進隊は,7個戦隊だった。1個戦隊は,隊長以下104名、マルレ100隻で,戦隊本部(戦隊長以下11名),三個中隊(中隊長以下31名)で編成,中隊は中隊本部(中隊長以下4名),三群(各9名9隻)で編成。

第三十二軍の陸軍海上挺進隊は,第一〜第三戦隊が慶良間列島(座間味島、阿嘉島、渡嘉敷島)、第二十六戦隊が糸満、真栄里、国吉,第二十七戦隊が与那原、板良敷、第二十八戦隊が港川、志竪原、第二十九戦隊が北谷村白比川に配備された。

座間味島の海上挺進第一戦隊(球16777)の指揮官は梅澤裕少佐。特設水上勤務第103中隊(球8886)は指揮官市川武雄中尉,将校・下士官・兵40名、朝鮮人軍夫(労働者)約300名。

阿嘉島の海上挺進第二戦隊(球16778)の指揮官は野田義彦少佐。

渡嘉敷島の海上挺進第3戦隊(球16779)の指揮官は,赤松嘉次大尉。特設水上勤務第104中隊(球8887)は指揮官中山忠中尉。将校・下士官・兵13名、朝鮮人軍夫210名。

陸地域の沖縄戦シリーズ 第1回与那原「与那原はいかに戦争に巻き込まれていったか(証言から)」には次の記述がある。

1941年,中城湾要塞司令部・歩兵部隊兵舎が,与那原小学校敷地・与那原町浜田区に畑をつぶして建設された。
1942年5月,中城湾警備隊が真和志に,基地建設完了後は与那原に於かれた。
1943年,馬天の海軍飛行艇,水上機を陸に揚げる桟橋、ランプ工事。建築石材は,与那原(当添),津波古の民家の石垣を壊し,運搬した。
1944年春以降,海軍陣地構築が与那原町当添でダイナマイトを仕掛けて行われた。岩石を破壊する工事,施設工事のために,棟梁が与那原署に召集された。

1.魚雷を保管する壕の建設:与那原町字板良敷入口山手の森のなか(トンネル作業)
2.トロッコ線路敷設:与那原板良敷(サンゴ礁掘削作業)
球部隊(船舶中隊),海軍の陣地壕掘りは板良敷で実施。
球第四一五二部隊重砲隊は,与那原(御殿山付近)に布陣。
海上挺進戦隊基地(暁一〇一七三「海上挺身基地第二七大隊」のマルレ特攻艇の発進基地を与那原浜御殿山近くに建設。
特攻艇の秘匿壕を,与原(運玉森の麓)・与那原テック跡の山に建設。
1945年,特攻艇の実戦訓練を防衛隊とともに実施。
1945年2月,新兵訓練を与那原で実施。

浦田挺進隊は,通信連絡が途絶したた。そこで,軍司令部勤務の浦田國夫少尉は、国頭方面の情報を収集するため、自ら挺進連絡することを計画。浦田挺身隊は与那原付近から海上挺身第27戦隊の海上特攻艇5隻(7名)により海路を突破して国頭に向かうことになった。
4月23日2000頃、軍司令部(首里)を出発、2330頃与那原に到着
4月25日2130頃、特攻艇5隻に分乗して与那原出発
4月26日0530頃に大浦湾スギンダ浜に上陸
 浦田少尉は久志岳に入り、第3遊撃隊第4中隊長竹中少尉と会い同隊に1泊。浦田少尉が海岸を出発した後、26日1000頃スキンダ海岸に米軍が上陸。特攻艇は爆破,部下は山中に待避。

小豆島ドットコム週刊ウエブマガジンによれば,浦田少尉は5月8日久志岳において伝令隊に派遣した。

一、敵情
四月下旬、東西両海岸道路の要地には相当数の兵力駐屯しありしも(名護に連 隊本部、大浦三千、金武三千、辺戸、奥、本部半島等)5月始めより続々南下 し、現在きわめてわずかの警備兵力存す。ゆえに南下せる敵を撃滅せば、敵 は、再び立つ能わざるものと判断す。
 砲兵陣地地図記入。艦船名護湾B1、Cl、T1その他艦艇数隻。敵機本日は活 溌ならざるも、連日北上する編隊音を聞く。

二、友軍状況
○宇土部隊(独立混成第四十四旅団第二歩兵隊、隊長宇土武彦大佐、川田、塩田以北の線にて遊撃戦展開。
○第一護郷団(五百)主力は名護岳。一部(竹中隊)は久志岳、海軍白石部隊(百) ○恩納岳 第二護郷隊(五百)大鹿隊(百五十)海軍(百五十)。
 その他防召兵多数山中を徘徊しあるも戦意全然なし。(これは一般県民)

> 三、住民状況。
戦闘開始と同時に全部山中に避難せるも逐日食糧欠乏により、一部は下山す。
しかれども大部分は軍の必勝を信じ、積極的に軍に協力す。殊に壮老人層士気旺盛なり。食糧の欠乏は予想以上にして、島尻疎開者において殊にはなはだし。現地住民の糧秣最大1ヵ月。経済は全く無秩序状態なり。
 

四、桜隊爾後の行動。
今後二週間通信に努むるも、なお不通なる時は、北・中飛行場の状況をつまびらかにしつつ逐次伝令す。なお通信不通なれば敵に電波妨害機あるものと思惟す。

> 五、意見具申。
1、山中遊休兵を指揮するため、指揮官を北上せしむる時は作戦上有利なり。
2、遊撃戦資材送付不能なりや。 
3、桜隊も情報収集に便ならしむるため、遊撃戦を併用す。諒承相成りたし。

「お前が証人だ」 -バターン死の行進の報復-後藤利雄著によれば,与那原の海上挺身隊(海上挺進戦隊)について,次の記述がある。

三兄は海上挺身(ていしん)[挺進]隊を志願し、予科士官学校を離れた。戦況が日毎に傾くのを座視できなかったのであろう。長年培った軍人精神を、実践にうつす決意のもとでの志願であった。そして海上挺身[挺進]第二十七戦隊に所属し、戦隊本部付となった。戦隊長は陸士五十二期の岡部少佐であり、三箇中隊で総員百四名をもって編成ぎされていた。うち九割までが下士官であったが、三兄はその最右翼に位置して、[海上挺進戦体長を補佐した。

 江田島で訓練を重ねた戦隊は、十二月末に沖縄の中城(なかぐすく)湾に入港し、与那原(よなばる)に本部をおいて作戦準備に入った。沖縄には既に第1、2、3、4の四戦隊が配置されていたが、それに新たに第26、27、28、29の四戦隊が追加配置されたものであった。四月一日、ついに米軍は沖縄に上陸を開始した。日本側の大方の予想した東側中城湾からの上陸ではなく、本島西海岸からの上陸であった。

 江田島で訓練を重ねた戦隊は、十二月末に沖縄の中城湾に入港し、与那原(よなばる)に本部をおいて作戦準備に入った。沖縄には既に第1、2、3、4の四戦隊が配置されていたが、それに新たに第26、27、28、29の四戦隊が追加配置されたものであった。四月一日、ついに米軍は沖縄に上陸を開始した。日本側の大方の予想した東側中城湾からの上陸ではなく、本島西海岸からの上陸であった。

 大艦隊をもって上陸した米軍は、攻撃をつづけ、わが軍の主陣地帯においてさえ、一日百メートルの割で前進した。そして一カ月経つころには、前線師団の兵力が半減するほどの損害をわが軍に与えていた。軍司令官牛島中将の憂愁も深刻なものがあった。このままの推移にまかせれば、戦力は次第に消耗し、やがて組織的な作戦が不可能になるであろうと判断した牛島中将は、ついに全軍攻撃を決意した。五月四日が、攻撃の予定日であった。

 じりじりしながらその日を待っていた挺身[挺進]隊員たちはふるい立った。そして攻撃の先駆として、五月三日の午後十時に、米艦船をめがけて発進した。長さ五・六メートル、幅一・八メートル、厚さ○・九ミリのベニヤ製モーターボートに、二百四十キログラムの爆雷を搭載しての玉砕肉迫攻撃であった。同時刻に発進した二十七戦隊の艇は、本部四隻九名、二中隊三隻六名、三中隊八隻十六名の、都合十五隻で隊員数は三十一名であった。三兄は戦隊長と共に本部の一艇に乗りこみ、発進して散華した。軍人精神の権化と化していた三兄にはふさわしい壮烈な最期であったと言えよう。

 そのことは、その攻撃に加わり艇故障のため海岸に泳ぎついて辛くも生還した第三中隊長の伊藤正氏(中尉、陸士57期、湯沢市在住)から、兄の三十三回忌の折に知らされた。その手紙には「阿部曹長(三兄のこと)とは幸之浦の訓練基地で初めて一緒になりましたが、予科の助教からの転属ということもあって、私たち、戦隊長、中隊長等陸士出身者にとっては、恩師として親近感があり、いろいろとお世話になりました。また人格識見共に秀で、戦隊員の中でももっとも人望のあった方でした」という文言が記されていた。それから五年経って、今回いただいた手紙にも「阿部政蔵さんには随分とお世話になりました。温厚篤実な人柄は、優れた才能とともに戦隊の要として重きをなし、予科士官学校の区隊長より転じた岡部戦隊長の片腕として信頼も厚く活躍しておりました」と、三兄を賞揚する言葉が記されていた。
 ちなみに五月三日夜から四日にかけての攻勢は、事前に敵から察知されたものか、したたかな反撃にあって、逆上陸軍も壊滅的な打撃を受け、軍も一歩も前進ができなかった。のみならず主力をあっという間に失う結果を招き大失敗であった。第二十七挺身隊も、当初は海上で集合した上、一斉攻撃に移行する予定であったが、米軍は発進地に連続して照明弾を打ち上げて集合を不可能にした。そのため単艇行動を余儀なくされたものであったが、にもかかわらず駆逐艦一隻、大型上陸用舟艇及び大型輸送船それぞれ一隻を撃沈したと、戦史は伝えている。

1945年4月29日の昭和天皇誕生日,沖縄県与那原町のマルレ部隊の壕が米軍の空襲を受け,陸軍海上挺進隊(特攻隊には,マルレに搭乗員と基地でマルレを整備する整備員・警備隊などがあった)隊員7-8名が死亡した。

三十年前から遺骨・遺品収集に取組む特定非営利活動法人 戦没者を慰霊し平和を守る会Association that Promotes Peace and Reverence for World War Casualtiesによれば,これは,陸軍のマルレ特攻艇を装備した海上挺進隊第277戦隊第3中隊第1小隊壕である。本籍がはっきりしているのは,当時の戦没者は,佐賀県,福島県,熊本県,目黒区,山梨県,栃木県出身の22歳から26歳の7名である。戦後1949年,与那原町板良敷区の住民が7人の名を刻んだ石碑「若桜之塔」を建立したが、遺骨などは未回収。沖縄戦の体験者らが長年にわたり県や町などに収集を求めていた。

2008/05/03付 西日本新聞朝刊によれば,NPO法人 戦没者を慰霊し平和を守る会は,2007年5月、寄せられた情報を元に、地権者から調査の同意を得て,2日,遺骨収集のために,メンバー9人が重機などで埋まっている防空壕跡を掘った。3日も調査を続けた。

引続き,戦没者を慰霊し平和を守る会は,2008年5月1日より5日まで、防空壕で生き埋めになったままの海上挺身隊第27戦隊所属の遺骨・遺物を求めて,重機による発掘調査を実施した。1945年4月29日,米軍の攻撃で崩壊した防空壕にいた同隊の7〜11人が生き埋めになり、戦後地域の方々が発掘を試みたが発見出来なかった。地元町長や戦友は、国や沖縄県に対して発掘を陳情していた。
 NPO法人 戦没者を慰霊し平和を守る会は「国の命令で逝かせたものは、国の責任で還す」として国や沖縄県に発掘調査を求めつつ、地主の了解を得て自ら発掘調査に踏み切った。2007年の調査では,防空壕の正確な位置を特定できなかったが,当時この壕にいた証人と連絡が取れ、場所がほぼ特定され、6月21日から再度電気探査を行った。

空襲で亡くなった特攻隊員は,部隊長の温情で,特攻戦死とされ,特別任用二階級特進・士官進級の措置を受けていたようだ。当時、勇敢な戦死が勇士にふさわしいとされていた。また,日本軍の前線優先主義では,輸送船撃沈、病気や事故による死亡などは不名誉であり,KIA=「戦って敵に殺された」ことが英雄の証のようにも認識されていた。部隊長は,空襲で戦死では遺族に申し分けないと、特攻戦死を報告したのである。当時の価値観が反映した「戦死公報」は時代の要請でもあった。

今回の掘り起こし作業で、彼らの遺骨が見つかっても、戦死の意味は決して,貶められることはない。部隊長の措置も,温情であり,非難されるいわれはない。ただし、特攻死したものと信じ、それに価値を置いた「前線優先主義」の価値観は、現代日本において、変容を迫られるであろう。無残で遺恨の残る死様、戦闘が始まるや否や、出撃もかなわず、即座に殺される、このような状況こそ、戦争の悲惨さを表していると考えられる。戦死者(KIA),特攻死のみをことさら英雄のように讃える「前線優先主義」の価値観は、戦果優先主義に繋がるだけではなく,特攻作戦を実施し,多数の若者を特攻死・事故死させた軍上層部の責任・失敗を糊塗することでもある。

とはいえ遺族の方々には日本軍の栄誉を表象するような特攻死ではなかった、ということは受け入れたくない事実であると思う。中隊長のとった虚偽の報告も、当時は武士の情けで当然の行為である。となれば,特攻死扱いなら死後二階級特進・士官昇進し、軍人恩 給(遺族への公務扶助料が増額されるような制度をつくり、多数の若者,未熟な搭乗員を中古兵器・欠陥兵器,特攻兵器の道連れにした軍最高指導部の「前線優先主義」の弊害こそ問われるべきであろう。

 2006年4月12日付 琉球新報によれば,戦没者を慰霊し平和を守る会は2006年2月11日に南城市大里の大里城跡周辺で、戦没者と思われる四体分の遺骨と「4152」と打刻された部隊の認識票,印鑑など遺品を発掘した。ここでは、約30体分の遺骨を発見している。
遺骨発見場所の生存者、島袋全裕さんは当時20歳で旧陸軍4152部隊(野戦重砲兵第七連隊)の通信兵。中城湾で米軍監視の任務についていた。「5月22日か23日に、壕が米軍の攻撃を受け、一瞬のうちに吹っ飛んだ。観測所内には4、5人、外に観測所を警護する守備隊が2、30人いたが、わたしともう一人を除き全員が戦死した」と当時の状況を語り、「南部の壕の中にはまだまだ眠っている人がいる。早く遺骨を家族の元へ返したい」と話した。

人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」「マルレ」、特攻専用機「剣」キ-115のような特攻兵器を設計、製造し、部隊編成をしていること自体、特攻が自然発生的なものでは決してなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められたことを物語っている。

  ⇒◆特殊攻撃機キ115「剣」と特別攻撃を読む。

  ⇒◆特殊潜航艇「甲標的」による特別攻撃と人間魚雷「海龍」を読む。


写真(上):米軍に鹵獲された人間爆弾「桜花」;右は戦後,横須賀で鹵獲されたと思われる海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」。右は,「桜花」後方の火薬指揮推進ロケットの部分。

1944年6月19-20日、マリアナ沖海戦で大敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を諦めた。1944年7月21日、大本営[軍令部]は「大海指第431号」によって、奇襲特攻を作戦として採用した。1944年3月にすでに人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻舟艇「震洋」と(後日になって)名づけられた特攻兵器による作戦も決定した。桜花を配備した特攻隊神雷部隊の編成も、1944年9月に開始されている。

特攻の生みの親とされた大西瀧治郎中将は、1942年3月以来、海軍の航空本部総務部長に就任しており、実戦部隊とも練成部隊とも遠ざかっていた。その大西中将が、急遽、1944年10月に、フィリピンに派遣され、そこで正式に第一航空艦隊司令官となった。彼は、海軍大学を卒業しておらず、軍令部の艦隊中心の作戦方針に反対していた反骨の人物である。軍令部としては、航空の実力を発揮して、大戦果をあげてみよと、過酷な命令を下したのであろう。

現場に着任後、やっと正規の司令官にしてもらっているのも、おかしな話である。特攻隊の編成を命じてはいるが、特攻のように兵力を激減させ、将兵の士気に衝撃を与える作戦を現地司令官大西中将が独断で採用する権限はない。

神風特攻隊の部隊名称も、軍令部において編成前から決められていた。1944年10月13日起案の「大海機密第261917番電」は、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「大和隊」等をも併せて発表すべきこととされていた。本居宣長の「しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花(はな)」を思い起こして採ったという源田の証言は俗説で、実際には1942年発行の日本文学報国会『愛国百人一首』や1943年発行の坂口利夫『愛国百人一首通釈』 をめくって、60番の本居宣長を選んだのが実際であろう。特攻隊の部隊名称が、軍令部からの指示で名づけられ、戦果発表と同時に大々的に宣伝する方針が示されていた。

写真(右):海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」の操縦パネル;降下練習は命がけで,1回しか行わなかったようだ。連合艦隊司令長官などが視察に来るというので,模範演技を依頼された隊員も,「次に桜花で降下するのは本番だけです」といって,断った。降下,着地に失敗して死亡した隊員も少なからずいる状況では,見世物としての降下訓練は,リスクが高く,部隊指揮官たちも,再降下を見せるのを諦めた。

特攻機とされた零戦に250キロ爆弾を装備したが、固定したままで爆発可能なように信管解除装置を改造している。従来の爆弾には、落下中の風圧で解除される風車式信管がついていたが、これを機上で操作できるように改造したのである。現場で大元帥から下された兵器を勝手に改修、配備することは許されないし、改造方法を研究する時間もないから、大西中将は、軍令部の指示で改造したのであろう。

軍令部が定めた特攻作戦が、現場で部隊は発意あるいは大西中将の英断を装って実施に移された。明らかに、作戦の指揮をとるべき軍令部の責任回避であろう。

特攻隊員たちは、苦悩して、それでも純真な気持ちで体当たりしようとしたのであろう。しかし、軍令部やその生き残りたちが流布した「大西中将は特攻隊員の生みの親」という俗説は、特攻隊員たちの心情を思うと、否定されるべきものとと考えられる。

日本軍は,1945年1月18日、戦争指導大綱で、本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃することを決定した。そのために,兵器開発も特攻が優先された。正攻法では,量,質の両面で連合軍に対抗できなくなっており,戦争末期,軍高官は,精神主義を振りかざして,全軍特攻化を決定し,特攻を唯一の対抗手段とした。

特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。

しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。

特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。


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