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◆特殊潜航艇「甲標的」九軍神による日米開戦劈頭の特別攻撃「蛟龍」「海龍」


写真(左):1941年12月7日真珠湾攻撃に失敗した特殊潜航艇「甲標的甲型」;右側が艦首で、魚雷2本が搭載できる。オアフOahu島東海岸に乗り上げ,米軍によって鹵獲された。体当たり自爆特攻ではないが,決死の「特別攻撃隊」として編成された。
写真(右):甲標的丁型「蛟龍」:呉海軍工廠で量産された特殊潜航艇。1945年10月19日に米軍が撮影。呉のほか,横須賀でも量産されていて,米軍撮影の写真が残っている。魚雷2本を搭載するのは,甲標的甲型と同じだが,魚雷の生産,準備が間に合わず,爆薬を搭載して体当たりする「人間魚雷」として使用される予定もあった。100基以上量産されたが,実戦投入はされていないようだ。


写真(右):真珠湾を攻撃し湾口で撃沈された甲標的;水深400mの深海で61年ぶりに,発見された。写真は艦尾のスクリューから前方を見たものと,潜望鏡の突出した艦橋部分。2002年8月28日12.20 p.m. ハワイ海底探査研究所Hawai‘i Undersea Research Laboratory (HURL)のJohn C. Wiltshire, Ph.D.たちが潜水艇を発見,撮影した。 (HURL,School of Ocean and Earth Sciences and Technology,University of Hawai‘i, Honolulu撮影)


◆2015年12月12日(土)午前11時30分〜午前11時54分、NHK 目撃!日本列島「九軍神〜残された家族の空白〜」が放映され、九軍神の言葉が残された家族の人生に暗い影を落とし続け、軍神ゆえに明らかにされない事実、隠された過去があることが報道された。この放送に伴い、本研究室の新規アクセスが1日で4,545件に達した。
◆2013年8月13日、History Channel「川南造船所では特殊潜航艇が製造されていた〜消える戦争遺講 学徒の証言」が放送され、14日と両日で本ページへのアクセスは667件に達した。
◆2011年12月10日、土曜ドラマスペシャル「真珠湾からの帰還〜軍神と捕虜第一号」が放送された。1941(昭和16)年、酒巻和男少尉( 青木崇高)ら10人は5基の「甲標的」に搭乗しハワイ攻撃に参加。「9人が戦死。大本営は戦死者9人を「九軍神」とたたえ、ただ一人生き残って太平洋戦争での捕虜第1号となった酒巻の存在を隠そうとする。米国内で捕虜生活を続ける酒巻は、なぜ自分だけが生き残ったのか、生かされた自分は何をすべきなのかを考えていく…という物語」という。番組放送日と翌日の2日間で当サイトへのアクセスは3317件に達した。
◆2011年8月13日ヤフーニュース「元隊員が語る特攻艇『震洋』」に当研究室が掲載されました。
◆2007年12月21日(金曜)テレビ朝日「スーパーモーニング」において,東京裁判法廷の巨大地図にハワイ諸島が掲載されていない点につき,謎解きがありました。出演して,駆逐艦ウォードの4インチ砲射撃が,ハワイ第一弾(太平洋戦争第一弾はマレー方面での九七戦の英哨戒機撃墜)だったことを隠蔽する目的があったととを述べました。米国が日本の暗号を解読していて,戦争警報を発令していたことを隠蔽したかった点は,扱われませんでした。


1.日本海軍は、特殊潜航艇「甲標的」(甲標的甲型)を開発,量産し1941年12月の真珠湾攻撃で初めて実戦に使用した。甲標的は,直径45センチの九七式魚雷を2本搭載する二人乗り潜航艇で,航続距離は短く,操縦性も悪い。また、電池を使い切ってしまえば動けない。つまり,開戦劈頭の甲標的は,帰還を期待できない文字通りの「特別攻撃」だった。出撃した甲標的5隻の搭乗員10名のうち戦死した9名は軍神として崇められ,捕虜となった士官は黙殺された。


写真(左):グアム島に展示してある甲標的;グアム島アプラ港にも防御用に配備されていたようだ。甲型ではなく丙型か(?)。

2002年8月28日、真珠湾口で、特殊潜航艇「甲標的」が発見された。
1941年12月7日の日本海軍機動部隊による真珠湾空襲より前の0645に真珠湾入り口で,米海軍の旧式駆逐艦「ウォード」USS Ward の乗員が国籍不明の潜水艦を発見し,4インチ砲で攻撃し,司令塔に命中させ撃沈していたことが、61年ぶりに確認された。ただし、この駆逐艦「ウォード」の通報は,ハワイの海軍司令部に無視されたために,みすみす日本海軍艦載機のハワイ空襲を許すことになった。

1941年11月22日,択捉島単冠(ヒトカップ)湾に,南雲忠一中将率いる第一航空艦隊(空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」他),すなわち機動部隊が集結した。機動部隊の単冠湾出撃日1941年11月26日は、攻撃行動開始を意味する。つまり、機動部隊出撃が戦争開始とみなすこともできる。12月2日「ニイタカヤマノボレ1208( ヒトフタマルハチ )」電文発信以前の敵対(準備)行為がされた。暗号「ニイタカヤマノボレ1208 」は,台湾の最高峰3,952mの玉山に登ることだが,X日,すなわち日米開戦を12月8日午前0時とする開戦決定の暗号である。陸軍の開戦暗号は「ヒノデハヤマガタトス」。

1941年12月2日1730,「新高山登れ1208」は、東京通信隊が発信、出撃中の機動部隊はこれを受信,ハワイ空襲の最終決定となった。第二航空戦隊(司令山口多聞少将)の空母「飛龍」「蒼龍」を護衛した重巡洋艦「筑摩」の無線士も,この電報を生々しく記憶している。

1941年12月6日(日本時間12/7)、オアフ島南側に接近した伊号潜水艦隊から特殊潜航艇「甲標的」5隻が真珠湾に向けて発進した。これは,完全な戦争開始である。米国海軍駆逐艦「ウォード」による発砲は12月7日0645,日米太平洋戦争の戦死第一号は,甲標的の搭乗員2名だった。駆逐艦「ウォード」は、きっかり3年後の1944年12月7日,フィリピン方面で特攻機により撃沈。 初めて日本軍の「特別攻撃」を防いだ軍艦が,3年後の開戦記念日に日本機の特攻により沈められた。


写真(右):ハワイ諸島オアフ島に座礁した甲標的(甲型);1941年12月7日に真珠湾の米軍艦艇を雷撃するために湾内に侵入しようとしたが果たせなかった。ハワイ空襲の翌日、米軍により,半分埋もれた船体が引き揚げられた。


日本海軍は1938年7月25日,1万トン級水上機母艦「千歳」を,12月25日同型水上機母艦「千代田」を完成させた。これは,水上偵察機を搭載する艦艇だが,実は甲標的母艦としての利用も計画されていた。甲標的は,1940年前後に試作,開発され、魚雷を搭載する特殊潜航艇だが,「A標的」「TB模型」あるいは単に「的」と秘匿名称で呼ばれた。制式後、「甲標的」と命名。甲標的の完成後の1940年7月、水上機母艦「千代田」を甲標的母艦へ改造した。1942年2月27日,甲標的(水上機)母艦「日進」も竣工した。 

「日進」昭和12年度計画で第一状態を高速敷設艦として計画。本来は千歳級と同じく甲標的母艦であり、進水後に第一状態を水上機母艦に変更、その後第二状態の甲標的母艦に再変更して竣工した。この変更は、36隻の甲標的を3隻の母艦で運用するためである。

甲標的は,電池を使いきってしまえば,自分では充電できない。しかし,水中速力19ノットは、当時の潜水艦の2倍以上高速だった。

水上機母艦や潜水艦に搭載され,「特型格納庫」と呼ばれたこともある。艦隊決戦に際して,決戦海面に特殊潜航艇を敷設,敵艦を待ち伏せ迎撃する。

全長:24m ,全幅:1.85m ,最大速度:水中 19kt ,水中航続距離:148km(80マイル/6kt ,兵装:45cm魚雷発射菅×2、魚雷×2


写真(右):真珠湾を攻撃し撃沈された甲標的5隻のうち1隻;甲標的は,搭乗員2名で,5隻出撃した。2002年8月28日12.20 p.m. ハワイ海底探査研究所Hawai‘i Undersea Research Laboratory (HURL)のJohn C. Wiltshire, Ph.D.たちが潜水艇を使用し,水深400m地点で発見し撮影。 (HURL,School of Ocean and Earth Sciences and Technology,University of Hawai‘i, Honolulu撮影)


特殊潜航艇「甲標的」の実戦での初使用は,1941年12月7日の真珠湾奇襲攻撃である。真珠湾の湾口に待機していた伊号潜水艦5隻から各1隻,合計5隻が発進。1941年12月7日(現地時間)のことである。


写真(右):真珠湾を攻撃し戦死した甲標的5隻の搭乗員は九軍神となった。;甲標的は,搭乗員2名で,出撃した5隻の10名の搭乗員のうち,戦死したのは9名。捕虜となった酒巻少尉は,日本海軍の恥部として,軍神からはずされ,闇に葬られた。中央に描かれているのは真珠湾に浮かぶフォード島Ford Island で,ヒッカム飛行場がある。作者不詳。


特別攻撃隊(司令佐々木大佐)の編成 
甲標的(伊22搭載 岩佐直治大尉 佐々木直吉一曹)
甲標的(伊16搭載 横山正治中尉 上田定二曹)
甲標的(伊18搭載 古野繁実中尉 横山薫範一曹)
甲標的(伊20搭載 広尾彰少尉  片山義雄二曹)
甲標的(伊24搭載 酒巻和男少尉 稲垣清二曹)

空母機動部隊の艦載機による空襲以前に,特殊潜航艇が,米軍哨戒機に発見され,米海軍駆逐艦に攻撃されている。撃沈確実と思われる。甲標的は1-2隻が真珠湾内に突入するのに成功、魚雷を発射したようだが,戦果はなかった。

日本では,開戦劈頭の大戦果として,特殊潜航艇も米艦船撃沈を成し遂げたように戦果が公表された。決死の覚悟で出撃した甲標的の搭乗員10名は賞賛された。しかし,酒巻和男少尉は捕虜となったため,1名少ない9名のみが「軍神」としてたたえられた。


写真(左):米軍が特殊潜航艇から鹵獲した海図;1942年に甲標的甲型「HA-19」から発見された。ハ19号とは,1941年12月8日に米軍がオアフ島東海岸で鹵獲した特殊潜航艇につけた固有名称。戦艦など目標はいくつかの不正確な推定値が記されている。


酒巻少尉と稲垣ニ曹の甲標的は,ジャイロ(羅針儀)が故障していたが,千才一遇の好機を逃したくないと強行発進した。真珠湾への突入に失敗し,座礁と離礁を繰り返すうちに魚雷発射管が故障。母艦が待つ収容地点へ向かうが再度座礁。 自爆装置に点火して稲垣清二等兵曹と共に艇から脱出し,米軍の捕虜となる(太平洋戦争での日本人捕虜第1号)。

稲垣清ニ曹は自決したらしく,行方不明。海軍二等兵曹から二階級特進し兵曹長になり,軍神として讃えられる。1943(昭和18)年4月8日 合同海軍葬。日比谷公園斎場 葬儀管理者は海軍大臣嶋田繁太郎が勤めた。

決死攻撃に際して捕虜という汚名を被ることは,末代までの恥である。投降したり,捕虜になったりした日本の将兵は,日本軍隊内では,決してあってはならない。決死の出撃をしても,捕虜になってはすべてが無駄になる。したがって,出撃後に攻撃の成否にかかわらず,帰還できない以上は,自決するしか道は残されていない。換言すれば,甲標的による決死攻撃は,1944年10月からの特攻とほとんど変わることがない。

真珠湾への特殊潜航艇による「特別攻撃」が、必死の特攻だったことに加えて、その特攻が部下の志願による犠牲的精神の発露であったとする見解が流布されたが、これは1944年10月以降の神風特攻隊の神話と全く同じである。軍が命じたのではなく、やむを得ざる状況で、部下が自発的に特攻を申し出て、上層部がその熱意にほだされて、特攻を認めた----。こういったありえないような理由で、1941年12月の真珠湾への特攻が説明されている。



燃える戦艦群
右では戦艦「アリゾナ」Arizonaが炎上し、戦艦「ウェストヴァージニア」West Virginiaの甲板が波に洗われている。戦艦「テネシー」Tennesseeが両艦に挟まれた。


昭和17(1942)年4月発行 月刊誌『画報躍進之日本』記載の殉忠特別攻撃隊九軍神の逸話

「寡い力を以て強大な敵に当たるには、この方法よりほかにありません」
「気持ちはよく判る、だが岩佐大尉、死ぬのを急いではいかん、無理をするな」
「お言葉ではありますが」

特殊潜航艇は岩佐大尉が幾度か上官に懇願し無暴にも近いこの特別攻撃実施に当たっては、これを許す上官達としてまた骨身を削る熟慮を重ね、検討に、検討が加へられそして最後に沈黙の提督山本司令官の「断」となったのだ、
成功の確算もさる事ながら、志願勇士の烈々たる熱意に深く打たれての「断」であったに違ひない。


それから血の精進が續けられた、部下はまた特に志願者を募ることなく、平素から上官と生死を共にすると誓った部下達から選ばれたどれも絶対に信頼の置ける至寳の部下ばかり、九勇士は素より技術家、工員に至るまで不眠不休で製造實験或ひは準備訓練と心血を注ぎ、大東亜戦争開始直前に見事完成したのある。

親兄弟にも秘密海軍部内にも極秘で、訓練は人の寝静まった深夜にばかり行はれた、収容方法に萬全を期したとは云え真珠湾の狭隘なる水道を通過し、且猛烈な反撃を潜り抜けて帰還することは困難だ。数ケ月後に来る「死」のために、猛訓練を續ける心は何といふ崇高な心情だらうか。

時は遂に来た、十二月八日真珠湾攻撃「果たして自分等の微力がよく敵の艨艟を沈める事が出来るか、たゞ大君の御為に醜の御楯となればよいのだ」まことに貴い精神力と云ふよりほかはない「死よりも強し」とは此の事を云ふのだらう
勇士達は、襦袢から袴下まで新しいものに着更へ上官に最後の申告を行った「岩佐大尉以下九名は只今より行きます」勇士達は「行って参ります」とは云はなかった、生還を期さないからだ---

昼間の攻撃の時は、敵艦隊で之れを発見したものもあったが、その奇怪な姿は何物だか判らなかったと云ふ、----全艦覆滅を期して凝っと水中に潜んでゐたのである。

----、まがう方なき「アリゾナ型」戦艦である。それを見かけて一隻の特殊潜航艇が、海豹の如く進んで行った、瞬くうちに、遥か真珠湾内に一大爆発が起こり火焔天に沖し、灼熱した鉄片が花火のやうに高く舞ひあがった、---時に十二月八日午後四時三十一分、月の出二分後であった、同日午後六時十一分、特殊潜航艇から「襲撃に成功す」の無電放送があった。

あゝ遂にその偉業は成ったのである、勇士の感慨如何ばかりのものがあったらうか――――寮艦では早く帰ることを待ってゐた、だが何時まで経っても特殊潜航艇は還ってこなかった。午後七時十四分を最後として放送も杜絶、五隻の特殊潜航艇は永遠に還らなかったのだ、ああ此の盡忠無比なる特殊潜航艇こそ、帝国海軍、わけても佐久間艇長以来四十年に亘る潜水艦乗組員の伝統を遺憾なく発揮したものであった。(引用終わり)

前橋文天周辺地域生活情報サイト「郷土出身の偉人たち」に記載された軍神 岩佐直治海軍中佐>

写真(右):甲標的で特攻した軍神岩佐直治海軍中佐


1915年(大正)年5月6日   群馬県前橋市天川原出身 
1927年3月30日 前橋市立城南尋常小学校卒業
1930年3月30日 群馬県立前橋中学校卒業
1938年3月16日 海軍兵学校卒業(65期)練習艦「磐手」乗り組み
1938年6月19日 巡洋艦「熊野」乗り組み、その後、戦艦「比叡」、巡洋艦「鹿島」乗り組み
1940年11月15日 特殊潜航艇搭乗員として水上機母艦「千代田乗り組み
1941年1月 特殊潜航艇の投下訓練を倉橋島、三机湾で開始
1941年4月15日 特別攻撃隊発令
1941年11月18日 特別攻撃隊(伊22潜)として倉橋島から出撃
1941年12月8日 ハワイ真珠湾にて享年26才で戦没

岩佐中佐遺書
昭和の鴻業(こうぎょう)未だ半ばにして 前途益々多端今一歩を誤らんか
   三千年の光輝ある厂史は一朝にして破摧(はき)され 延びゆく大和民族の壮圖(そうと)は中道に挫折す
此(今年)の秋 此の世に生を承(う)け この難関突破の使命を負ふを得たる
まして軍人として國民の第一線に立ち 大和厂史の擁護者として 現下の時局に對処し得たる 此(これ)直治 最大の榮譽なり
 ましてや選ばれて 單身敵港湾に突入 以て直撃一挙に敵意図を打破し 大和正義を認識せしめ 民族の福祉と世界平和招来の大任を帯ぶるにおいておや
今 勇躍壮図(そうと)に就くに際し 思いを述ぶれば 皇國の安危(あんき)比岐(ささぐ)るる時
 命(めい)を承(う)け此の大任に就く 武人の本懐これに過ぐる無し
御稜威(ごみいず)の下 必ずや 大任を果たし得るを確信するものなり
然れども又此の業 容易のものに非ず 再會を期し難し
願はくは此の世に生を承けてより二十有七星霜(せいそう)暑きにつけ寒きにつけ 御心の程をなやまし
 子としての務まだ務めざりし 御許し被下度(くだされたく)
此行果し得ば 後果つるとも御讃(おなぐさ)め被下度 又行半ばにして果つるとも 直治の魂の赴く所を得さしめられ度(たく)

稲垣清二曹)  櫻花(さくらばな)散るべき時に 散りてこそ
     大和の花と賞(めぜ)らるるらん

 身はたとえ異境の海に はつるとも
     護らでやまじ 大和皇國(みくに)を
                          直治(なおじ)
父上
母上  様

1942年に真珠湾の特殊潜航艇の特攻隊を記念する軍歌として、「特別攻撃隊」選詩:読売新聞社、作曲:東京音楽学校、「嗚呼(ああ)特別攻撃隊」作詞:米山 忠雄,作曲:若松 巌という少なくとも2曲が造られている。

「嗚呼特別攻撃隊」
二、許して下さいお母さん だまって別れたあの夜の せつない思い必勝を 固く誓った僕でした
三、我儘(わがまま)言った僕ですが 今こそ征(ゆ)きます参ります 靖国神社へ参ります さらば母さんお達者で
四、師走(しわす)八日の朝まだき 僕は特別攻撃隊 男子の本懐(ほんかい)今日の日よ 待っていましたお母さん
五、天皇陛下万歳と 叫んだはるか海の底 聞いて下さいお母さん 遠いハワイの真珠湾


左:1941年12月7日、真珠湾で炎上する戦艦「アリゾナ」USS Arizona (BB-39):左には、戦艦「テネシー」の甲板上で消火用ホースで消防活動に従事する人々が見える。Naval Historical Center
右:真珠湾に沈没・着底した戦艦「アリゾナ」USS Arizona (BB-39):真珠湾攻撃から数日後の撮影。Naval Historical Center


「特別攻撃隊」の作詞でも、「史上例なき肉弾に 必殺ちかう海の底」「大東亞聖戦の 基かためし軍神 燦たり特別攻撃隊」など、特攻隊の犠牲的精神を高く評価している。特攻隊を称える2曲は、敵愾心が見えてこないまま,祖国と家族への愛情ゆえに,潔く死んでゆくさまを謳っている。開戦劈頭ではあるが,戦局の悪化した大戦末期と同じような「自己犠牲を厭わない勇士」の感覚こそが「特別攻撃」という自殺攻撃を正当化できることが読み取れる。
⇒■戦争画と文化人

たしかに、Japan and the Second World War in Asia ;Fujita Tsuguji, "The day of the Saipan gyokusai [Saipan-to gyokusai no hi]" (oil). Theodore F. Cook, Jr. William Paterson Universityでも、多角的視点から藤田の戦争画を取り上げている。特攻という生命を祖国に捧げる行為を正当化するのには,宗教にも似た家族愛、祖国愛、天皇などの高次元の精神を体現する必要があろう。


1942年5月真珠湾攻撃犠牲者追悼式がカネオヘ基地で行われた。米国でも、犠牲者を勇士として顕彰し、戦意高揚を図っている。戦争プロパガンダは、宗教的体裁を採って行われることも多い。

連合国の戦争画
米国陸軍の戦争画
米国陸軍の戦争画(2)

オーストラリアの戦争画
英国の戦争画
カナダの戦争画

1942年4月『画報躍進之日本』の殉忠特別攻撃隊九軍神の逸話では、特殊潜航艇を思索し,真珠湾突入の作戦を計画したのが、一軍人に任せられ、その熱意と修練が戦果をあげたたよう書かれている。しかし、特殊潜航艇の整備。点検,それを運搬する潜水艦との打ち合わせ,このような作戦行動を個人が取り仕切ることはできないし,それが軍で許されるはずもない。海軍の組織として、兵器を準備し,作戦を実施したのであり,この特殊潜航艇による特別攻撃も、海軍の作戦の一環である。

にもかかわらず、特攻について、一軍人の犠牲的精神の発露という面だけを強調・賞賛して、軍の関与を最小限に抑えた発表をしている。このような発表は、軍の関与を隠蔽しようとした所作であり、戦果不明にもかかわらず、「襲撃成功」の無電を偽装し、特別攻撃が失敗した責任をも回避しようとした。真珠湾への特別攻撃隊九軍神は、特攻プロパガンダとして歪められて流布された。

特殊潜航艇の搭乗員たちは勇ましく,自己犠牲をいとわなかった。しかし、特攻隊員を指揮する海軍上層部は、特攻作戦の実施とその失敗の責任をとろうとはしなかった。特攻が、戦果を揚げなかったかもしれないことは承知していたようだが、決して事実として認めようとはしなかった。同じことが,1944年10月のフィリピンのレイテ戦での航空特攻についても当てはまる。これこそ、勇敢に戦い、戦死したり捕虜になったりした特攻隊員の誠意を、自己の栄達のために、歪めて利用する行為であろう。


前部弾薬庫が炎上爆発した戦艦「アリゾナ」USS Arizona (BB-39), 7 December 1941. 輸送艦「ソレース」USS Solace (AH-5)から撮影された動画の一部。

福田逸の備忘録に記載された「特別攻撃隊員」
昭和17年3月7日の朝日新聞に「殉忠古今に絶す軍神九柱」「偉勲輝く特別攻撃隊」「九勇士ニ階級を特進」として、次のな記事が紹介されている。
 連合艦隊司令長官山本五十六大将は、1942年2月11日、ハワイへの特別攻撃隊は「多大の戦果を揚げ、帝国海軍軍人の忠烈を中外に宣揚し、全軍の士気を顕揚したることは、武勲抜群なりと認む」として、感状を授与した。

また、山本長官の談話として「特別攻撃隊が少なくとも戦艦1隻を撃沈したることは明瞭にして兵学校卒業1年前後の若武者の加える決死隊が敵港の突入して戦果を揚げたるを思えば、今の若者はと口幅ったきことと申すまじきとこと しかと教えられ、これまた感涙に堪えざる--」と述べた。

小見出し「松添画伯描く白昼攻撃」の後、「鬼神も哭け、特別攻撃隊の千古に香るその偉勲よ!ああ軍神九柱――一億斉しくをろがむ、眼に結ぶ涙は水漬く屍と大君の御ために死を鴻毛の軽きにおいた軍神九柱の純忠無比の大和心を称へる感激なのだ、海洋画家松添健画伯はこの一億の感激を一管の筆に籠め壮烈無比譬ふべくもない特別攻撃隊襲撃の状況を描き上げ……」。

朝日新聞に「特攻九軍神を讃へた三好達治の詩「九つの真珠のみ名」、吉川英治の随筆「人にして軍神−ああ特別攻撃隊九勇士」も掲載されている。

朝日新聞自体も、次のように断じたた。
「六日午後三時大本営から昭和の軍神特別攻撃隊の発表があつた、この特別攻撃隊の名称はかの(日露戦争の)軍神廣瀬中佐の「旅順港閉塞隊」と同じく、固有名詞として永く国民の記憶に留めようためなので、岩佐中佐以下九柱の功績を称へる場合は、必ず『特別攻撃隊』の名称を用ひ、例へば「特殊潜航艇」などのごとき勝手な呼び方をして英霊の事績を汚さぬやう国民は自戒すべきである。」ここまでくると、軍に強要された記事というより、率先して軍神顕彰のお先棒担ぎとなったといえよう。(→福田逸の備忘録に記載された「特別攻撃隊員」引用)


真珠湾で撃墜された九九式艦上爆撃機:空母「加賀」の艦載機。被弾した日本機は、捕虜になるのを避けるために、勇敢に敵艦や敵軍事施設に体当たり自爆したとされるが、この機体のように原型をを留めているものもある。Official U.S. Navy Photograph

真珠湾攻撃に際して,軍神扱いされたのは,特殊潜航艇による「特別攻撃隊」隊員だけではない。空母6隻を中心とする機動部隊は米海軍太平洋艦隊が終結する真珠湾に、航空機を主力とする攻撃を敢行した。このとき,日本側も特殊潜航艇5隻(戦死9名)と未帰還機29機(戦死49-54名)の損害を受けた。

その中でも勇敢な行為,すなわち敵艦や敵航空施設に体当たり自爆した機体の指揮官は,勇気と戦功を評価され、戦死後に,二階級特進の扱いを受けた。真珠湾攻撃時の二階級進級者は,少なくとも7名いるようだが,特に有名なのは「海鷲三士官」として称えられた牧野三郎海軍大尉(31歳)、飯田房太海軍大尉(29歳)、鈴木三守海軍大尉(37歳)の3名で,いずれも海兵60-65期の出身者である。

牧野機「加賀」艦爆隊:敵艦爆撃後,大火災、猛噴煙のなかに消えた。
飯田機「蒼龍」艦戦隊:燃料タンクに被弾したが,列機に帰投方向を示した後で、反転して飛行場の格納庫に突入。
鈴木機「加賀」雷撃隊:魚雷命中、そのまま敵艦に体当り。

加賀雷撃隊の植田米太郎(乙飛6)海軍飛行特務少尉(23歳)も,下士官として「真珠湾攻撃ニ参加シテ 壮烈ナル自爆ヲ遂ゲ 夫々二階級進級 軍神トシテ仰ガル」(碑文より)

開戦当初とはいえ,体当たり自爆は潔いことであり,敵の捕虜となるような落下参考や胴体着率(不時着)は命を惜しむ女々しい行為であり,恥と考えられていたようだ。捕虜になるのを許されない状況で,空の自決=体当たり自爆を選択したと考えられる。

開戦当初の体当たり自爆は,決して命じられた自爆攻撃ではないが,航空機搭乗員が,帰還できない状況に陥ったとき,捕虜とならないためには,自爆するしかなかった。日本軍は,不時着した航空機の搭乗員を捜索,救出,救護する装備も兵器も不足していた。

日本海軍では,落下傘も,航空機搭載用の救命ゴムボートも実用化されていた。しかし,搭乗員救出のための航空機,潜水艦などの艦艇はほとんど準備されていなかった。真珠湾攻撃の際も,不時着救出地点が前もって決めてあったが,救出できた搭乗員は一人もいない。搭乗員と救出部隊の合同訓練も実施されていないし,緊急時の脱出・救出の訓練も全く行われていない。つまり,日本軍にはまっとうな搭乗員救出計画などなかったのである。いざとなれば,自爆するしかない状況に陥るのである。


真珠湾口で潜水艦に発砲した駆逐艦「ウォード」
;1941年5月撮影。2隻は同型艦で奥のDD-139がウォード。煙突が林立するのは,旧式駆逐艦の証であるが,低速でも潜水艦攻撃には有効なので,哨戒や輸送船団の護衛任務に多用された。1940年に英国に譲渡されたのもこのような旧式駆逐艦である。真珠湾で最初に敵に向けて発砲したウォードは,3年後の12月7日,フィリピンで特攻機の体当たり攻撃を受け沈没。


ハワイ真珠湾空襲部隊の第1次攻撃隊第1波183機の発進は、午前5時55分、第2波167機の発進は、午前7時5分。しかし,真珠湾口では午前6時30分に、雑役補給艦「アンタレス」が国籍不明の潜水艦を発見し、米海軍駆逐艦ウォード(1200トン)に連絡し、午前6時3分には哨戒機が発煙弾を投下して、潜水艦の所在を教えている。駆逐艦ウォードが、特殊潜航艇に先制攻撃し,撃沈したのはこのときである。

水雷戦術の権威である南雲中将率いる機動部隊は,1941年12月7日(ハワイ時間)真珠湾「空襲」の1時間以上前、午前5時30分に日本海軍の重巡洋艦「利根」から零式水上偵察機を発進させ、真珠湾上空を偵察させ、在泊中の艦船の情報を得ている。
偵察であるから,戦闘行為でないという詭弁は通用しない。駆逐艦「ウォード」の発砲以前に、上空侵犯して敵の港湾を偵察する行為自体,立派な戦闘行為である。また、空母機動部隊を完全武装で真珠湾近くに隠密裏に接近させ、魚雷を搭載した特殊潜航艇を真珠湾に突入ささせているが,これらの行動は、攻撃そのものである。やはり、駆逐艦「ウォード」の「初砲撃」にもかかわらず、軍事的には,日本軍が米国への先制攻撃をおこなったといえる。
  ⇒◆日米開戦は真珠湾攻撃を参照


ワシントンDCのジェファーソン記念堂を正装して訪れた米海軍婦人部隊WAVEs:ジェファーソン記念堂は、生誕200年にあたる1943年12月に4年間をかけて落成した。基礎をうったのは、フランクリン・ルーズベルト大統領で、巨大な青銅製のジェファーソンの像は1階にあったが、今は堂内に移転されている。周囲には,1912年に日本から送られた「ワシントンの桜」が植えられているのが悲しい。The memorial was dedicated in 1943 on the 200th anniversary of Jefferson's birth, four years after President Franklin Roosevelt laid the cornerstone. The memorial appears at its most beautiful in early spring when the Japanese cherry trees are in bloom. The trees were presented as a gift from the city of Tokyo to the city of Washington in 1912.

宗教と国家が一致している日本では、天皇・神道が忠誠表明とあり、靖国神社が英霊をまつる。米国では、国家とキリスト教が憲法上、一致することを認めていないので,祖国に対する忠誠は、国旗、歴史的記念物、墓地などで示される。ワシントンDCのジェファーソン記念堂(Jefferson Memorial)は、アメリカ合衆国の第3代大統領Thomas Jefferson(1743-1826)を記念する国立の記念建造物。ジェファーソンは、独立宣言を起草した英雄である。キリスト教では、人間が神(命、ミコオト)になることはないが、偉人は死後に、英霊として尊敬され,国家顕彰の対象となることがある。

軍神顕彰など戦意高揚のプロパガンダが徹底されたのは、日中全面戦争以来、総力戦に突入し、日米開戦によって一層の兵士,兵器,資源,輸送手段、労働力が求められるようになり、その物資・人員を動員する必要からである。戦争は、前線の戦闘部隊だけでなく後方、すなわち銃後の国民によっても戦われている。これは、兵器生産,資源節約,食糧増産、兵員供給、物資運搬など、国民生活のあらゆる方面に関連した「総力戦」である。

特攻隊を顕彰するのも、その総力戦に必要な動員を、精神的にするめ,総力戦に適する世論を形成するためである。純粋に軍事的な観点からは、特殊潜航艇の効果に疑問が合ったとしても、それを公表することはなく,あくまで動員に有利な世論を作り上げるために偉勲をあげた自己犠牲の戦士、すなわち軍神が必要になる。このような世論操作,プロパガンダのために、真珠湾攻撃をした特殊潜航艇とその乗員たちが、利用された。ただし、戦果がなかったこと,捕虜がでたことは、隠蔽され,黙殺された。

女学生も母親も、学童・児童すらも総力戦にあっては「戦争をしている」のである。総力戦は,日本だけでなく、敵連合国、米国でも同様である。女子の労働力を純授産業に大量投入し,黒人労働力・黒人兵士も導入した。男子大学生だけでなく、女子大生も、学徒動員されあるいは、軍事訓練を施されていた。米国は民主主義を標榜していたが、ファシズムの「大日本帝国」と同じように,総力戦のための物資/人員の動員が協力に推し進められ,そのためのプロパガンダが徹底的に行われた。


靖国神社の大鳥居:靖国神社は1869年に創建。祖国を守る意義ある死に方をした軍人/民間人を祭る。大鳥居(第一鳥居)は、戦時中に金属徴用され再建された。笠木(上の横木)の長さは約34メートル、柱の高さが約25メートル、重量は100トン。鋼管製1974年竣工。

 真珠湾を攻撃をした特殊潜航艇「特別攻撃隊」は、自らの命を捧げ、勇敢な攻撃を行い、大戦果を揚げたとされた。総力戦に役立つように、特別攻撃を都合のいいように解釈し、国民を総力戦に動員しやくすくる擬似宗教的軍人精神増幅装置が、九軍神の神話によってつくられた。

勇敢に戦って死んだ戦士を,祖国のために殉じた英霊として祀る宗教も動員される。靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建され、東京招魂社と呼ばれた。1879年に靖国神社と改称された。後に1853年ペリー来航以来、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった。

靖国神社への合祀は、陸・海軍の審査で内定し、天皇の勅許を経て決定された。被祀者の遺骨・位牌などはなく、霊璽簿に氏名を記入し、合祀祭を行うことで、「御霊(みたま)」を招来して祀っている。祭神であるという理由から「柱(はしら)」という単位で数える。合祀祭には大元帥の天皇が祭主として出席した。2004年10月現在、 軍人,民間人に関わらず命(ミコト)として祀られた人柱の数は、支那事変 191,25、大東亜戦争133,915 など合計 2,466,532柱に達している。

 真珠湾攻撃では、特別攻撃隊が「九軍神」とされたが、祖国に殉じた者は、兵士、軍属、民間人を問わず、靖国神社に御霊を合祀され、軍神となることができる。その意味では、軍神は何百万人も存在し、祖国のために殉じる模範を示しておられるということになる。

靖国神社の合祀は、殉国者とその遺族にとって最大の名誉である。生きている国民,兵士は、九軍神に続いて、命を投げだし、大御心(おおみごころ)に沿うように、ご奉公しなくてならない。祖国への犠牲は、靖国神社に御霊として合祀されることで癒される。これは、軍人恩給、遺族年金などお金では得ることのできない高次元の宗教的慰安を提供する。そして、靖国神社で命(ミコト)として永遠不滅の名誉を手に入れ顕彰されることになる。

 米国でも星条旗に忠誠を誓って、総力戦に賛意を表明し、動員に全面的に協力しなくてはならない。日米の自己人的なつながり、交流は、総力戦の前に否定され、黙殺されなくてはならない。敵も親であり子供である、敵にも家族があるなどという親近感は暗黙裡に排除され、敵愾心を燃やして、戦意向上を図ることが第一となる。


写真(左):米国に鹵獲された日本海軍の特殊潜航艇
先端に魚雷が2本搭載されている。"captured from the Japs after the sneak attack on Pearl Harbor”. 撮影場所はカリフォルニア州バレッジョVallejoであるが,潜航艇をトレーラーに乗せて全国を巡回展示している。目的は,戦時公債,戦時切手販売のための客寄せである。The purchase of a war stamp or bond entitles the buyer to a peek at the inside of the vessel.


1941年12月7日午前6時45分、米国駆逐艦「ウォード」が,真珠湾入り口で発見された国籍不明の潜航艇(実は日本の特殊潜航艇)を4インチ砲で砲撃し、航空機が爆雷攻撃している。つまり、真珠湾攻撃においては,日本軍ではなく,米軍が「先制攻撃」したのである。

これは、戦争が差し迫っていることを認識していたキンメル海軍大将から、疑わしき場合も、敵対的行動に対して、即座に反撃、発砲せよと事前通告が出ていたためである。暗号解読によるマジックの報告を受けたルーズベルト大統領は,キンメル大将に,日本の攻撃が差し迫っているという警告を1941年11月25日には与えていた。日米開戦を予期した米軍は,真珠湾攻撃の12日前に日本軍による奇襲を警戒し,国籍不明の敵対的行動にも躊躇せず攻撃せよとの事前通告を出していたのである。


米国に鹵獲された日本海軍の特殊潜航艇:船尾のスクリュー1基が明瞭にみえる。

1941年11月25日,ホワイトハウスでは,陸軍情報部ブラットン大佐は,ルーズベルト大統領ん,戦争を予測できる十分な情報を入手したことを伝えた。彼は,日本の無線を傍受して,日本海軍の暗号解読する「マジック」のメンバーで,フリードマン大佐は日本の最高機密を扱うパープル暗号を解読していた。11月25日のホワイトハウスでの首脳会議で,ルーズベルト大統領,スチムソン陸軍長官,ノックス海軍長官は,来週(12月1日)には日本の米国攻撃が差し迫っていることを理解しており,これは宣戦布告なく行われると考えていた。

真珠湾を攻撃して失敗した甲標的は,戦時中にも2隻が引き揚げられ、1941年12月8日に米軍がオアフ島東海岸で鹵獲した特殊潜航艇にはハ19号と固有名称をつけた。オアフ島東海岸に座礁していた甲標的の艦内からは,真珠湾内の詳細な海図も発見された。「ハ19」の記号があったため,米国ではHa-19号として,全米を回り,戦時国債販売のための宣伝材料にされた。1960年6月に真珠湾入り口で1隻の甲標的が引き揚げられた。


写真(右):シドニー港を攻撃した甲標的甲型;甲型は電動モーターしか搭載していないため,放電後は動けなくなってしまった。


甲標的は帰還する計画にはなっていたが,収容訓練などの準備はしておらず,事実上,片道攻撃の特攻であった。真珠湾攻撃の大本営発表では、「特殊潜航艇」の名称が用いられた。

甲型は搭乗員は2名で,当初は,母艦に搭載して、海戦の際、敵戦艦の前路に投下する奇襲用に建造されたが、実際は港湾内を攻撃するのに使われた。二人乗りで、九七式45cm魚雷2本を装備。

1942年5月31日にはマダガスカル島北東岸にある英海軍基地のディエゴスワレス基地(元フランス海軍基地)、オーストラリアのシドニー港を同時に攻撃した。伊22、伊24、伊37からシドニー湾に向け3隻が発進した。うち2隻が後に豪海軍によって引き揚げられ搭乗員は丁重に葬られた。

マダガスカル島ディエゴスワレス基地では、伊16、伊20から発進、泊地で英戦艦「ラミリーズ」と大型油槽艦を攻撃した。甲標的2隻は帰還せず、どちらかの乗員2名が陸上で発見,射殺された。


甲標的;写真左は,ソロモン諸島ガダルカナル島で米軍に1943年に引き揚げられた特殊潜航艇。後方は,米軍に破壊,座礁した日本の輸送船。甲型は電動モーターしか搭載していないため,放電後は動けなくなってしまった。写真右の甲標的丙型は,エンジンを搭載して,電池に充電できるようにした。そのために,航続距離が伸びた。


ソロモン諸島ガダルカナル島への攻撃にも使用されたが,これも潜水艦から発進し,ガダルカナル島沖合いの米軍艦船や船舶を雷撃しようとした。攻撃失敗した甲標的が,島沖合いから米軍によって引き揚げられた。
その後,警戒の厳重な港湾への攻撃は,被害が多く,戦果が挙がらないために,中止された。これは,人間魚雷「回天」の場合と同じである。


写真(右):甲標的;1943年キスカ島を占領した米軍が,撤退した日本軍の甲標的を鹵獲した。撤退に成功した日本軍だが,奇襲特殊兵器を完全に破壊することはしなかった。


1943年にはアラスカのアリューシャン列島キスカ島の日本軍防衛のために,キスカ島にも配備された。1943年キスカ島に上陸した米軍が,撤退した日本軍の甲標的を鹵獲した。秘密兵器のはずが,ここでも敵に情報漏洩をしてしまっている。キスカ撤退は,日本海軍の作戦大成功の事例として顕彰されているが,秘密兵器を完全に破壊することなく,米軍に鹵獲されるという失策を犯している。

出撃しても,充電が切れた後は,身動きできなくなってしまう。冷たい北の海に出撃し,敵艦隊を攻撃することができたとしても,帰還収容施設も無線誘導施設もない基地では,決死の覚悟が必要であろう。事実上,使い捨ての特殊潜航艇であるが,搭乗する人間も使い捨てになってしまったであろう。

2.1944年10月20日,米軍はフィリピン攻略作戦を開始した。このときに,日本軍の航空機による特攻作戦がはじめて展開された。1941年12月の真珠湾攻撃で特殊潜航艇による特別攻撃を実施していたことが,特攻を組織的作戦として俎上に上げる上で役立ったはずだ。

 個人的な行動としての自爆は,帰還不能に陥った航空機による自爆としてしばしば見られた。しかし,「必死」の攻撃を軍が立案する「特攻」作戦として用いたのは,1944年10月20日以降のレイテ湾の戦い(The Battle for Leyte Gulf)からである。日本海軍機による「神風(しんぷう)特別攻撃」が編成され,連合軍艦艇に自爆体当たり攻撃を実施した。

しかし、たとえ特攻隊員が自ら体当たり自爆攻撃を志願したからといっても,航空機を勝手に消耗品(特攻機)として使用する裁量が,兵士個人に与えられることはない。実際,特攻実施の3ヶ月前、1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図していた。

1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「奇襲特殊兵器」の試作方針を決定している。これは,「マルロクカナモノ」のような秘匿名称がつけられたが,事実上の特攻兵器を試作を命じるものである。
「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」

写真(左):人間魚雷「回天」;「マル六金物」という秘匿名称で開発,製造された特殊奇襲兵器の一つ。「回天」のデータ;重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。

㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」「甲標的丁型蛟龍」として量産、実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型特殊潜水艇「海竜」として試作・量産
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器

これは、軍による特攻「作戦」計画で、体当たり自爆攻撃の発案自体は、この命令よりも数週間は前に行われていたはずだ。たぶん、1944年6月中旬のマリアナ沖海戦での日本海軍の大敗北が契機になったものと思われる。

3.1944年7月21日,日本の大本営海軍部(軍令部)の「大海指第431号」でも,奇襲攻撃として特攻作戦が計画されている。「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度,攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となっている。つまり,軍上層部が神風特別攻撃隊の作戦を進めていたことがわかり,これは真珠湾攻撃における特殊潜航艇による「特別攻撃」と同じである。

1944年10月、トーマス・キンケードThomas C. Kinkaid)中将(Vice Admiral)指揮下の第7艦隊に援護されアメリカ軍はフィリピン侵攻(Philippines Campaign (June 1944 - Aug 1945) を開始。第7艦隊は、戦艦6隻,重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦29隻に加え、スプレーグ(Thomas L. Sprague)少将指揮下の第77任務部隊に,18隻の軽空母・低速護衛空母,22隻の駆逐艦が配備されていた。さらに,フィリピン攻略のためのの陸軍地上部隊を輸送,揚陸する戦車揚陸艦LSTs (landing ships, tank) 151隻,輸送艦58隻,戦車揚陸艇LCTs (landing craft, tank) 221隻,上陸用舟艇LCIs (landing craft, infantry)79隻があった。

米軍は、まず10月17日、レイテ湾口のスルアン島に上陸。翌10月19日、日本軍は捷一号作戦を発動した。10月20日、艦砲射撃支援のもとに、Douglas MacArthur)将軍指揮下の米地上軍は、第6軍The U.S. Sixth Armyを主力、レイテ島東岸タクロバンとドラッグに上陸を開始。しかし、悪天候のために占領した飛行場を使用できず、空母部隊が、レイテ海岸にとどまり、上陸部隊を援護することになった。

1944年10月24日、 軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)は,急降下爆撃機「彗星」の爆撃にとって撃沈。日本軍は高速の軽空母(低速の護衛空母ではない)「プリンストン」の撃沈を,特攻を推進する障害になると深慮したのか,発表しなかった。翌日10月25日の敷島隊の特攻機による護衛空母「セントロー」撃沈は、特攻による大戦果として発表した。

 海軍の初の組織的な特攻攻撃は,「神風特別攻撃隊」として,国学者本居宣長の歌(愛国百人一首に所蔵)から,敷島隊,山桜隊など4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男(23才)を特攻隊指揮官に任命した。フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,海軍中将大西瀧治郎で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられた。大西長官は,特攻隊を「統率の外道」であるが,必要悪として認め,作戦として実施すべきと考えていた。一説には,大きな戦果を挙げて,日米和平の契機を作ることを真の目的にしていたと言われる。 しかし大西中将は,神風特攻隊を発案したわけでもないし,特攻を時間をかけて編成,準備したわけでもない。

海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。

日本海軍の統帥部は,軍令部である。これは,以前は「海軍軍令部」と呼ばれていたが,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。大海指第431号は,海軍軍令部の出した指示であり,そこに特攻作戦の採用が命令されている。

大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。 
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

1.各種作戦
ヾ霖蝋匐部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

写真(左):1943年11月空母「レキシントン」;左側は12.7センチ対空砲を備えた艦橋、搭載米空母任務部隊が、日本軍を強襲し、殲滅した。優勢な米海軍艦隊に正攻法が通じなくなった日本海軍の連合艦隊は、海空からの体当たり特攻を主戦法とするようになった。

特殊奇襲兵器=特攻兵器を推進した作戦要領は次の通り。
2.奇襲作戦
ヾ饅浦鄒錣謀悗瓩襦E┫和發鯀或丙拠地において奇襲する。
∪水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
6秒牢饅永捨呂鯒枷し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。


以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特攻,特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。また,統帥権を侵犯する特攻はありえないので,大元帥が特攻作戦の発動準備をしていることを知らないでいたということもない。(特攻計画は報告されている)

戦局挽回のためには,体当たり自爆特攻を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものであろう。
〕ダな米軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
∧瞳海鉾新發靴討癲て本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
D名鏐況發鮖迭櫃韻董て本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも,必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。

体当たり自爆=特攻が、自然発生的でも、個人の発案になるのでもなく、日本軍の作戦として実施された論拠は,次のようなものであろう。
〃蛎發僚斗廚癖軸錣任△觜匐機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
5爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
て湛饗發了峇蠎圓鯤腓,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。



写真(左):戦後,横田基地に展示された特殊攻撃機キ115「剣」
;特攻専用機の開発,量産を行っていることは,軍が組織的に特攻を実施していることを意味する。


 全軍特攻化するのであれば,特攻専用の兵器(奇襲特殊兵器)の開発も軍が主導して当然である。個々の兵士も,軍組織の一メンバーであれば,軍が進める特攻化の中に組み込まれ手しまう。個人の意思で特攻を選択するかどうかは,最終的には問題とならない状況におかれているといえる。

公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)で「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とあるし (p.245)、「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(同年4月1日)には「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」としている(p.199)。

 つまり,1944年10月フィリピン戦以来,特攻が作戦の主流になってきたが,戦争末期になると,正攻法は一切通用しないほど戦局が悪化し,全軍特攻化するしかない状況に追い詰められたことを,日本軍は認めた。そこでは,将兵の個々の意思で特攻を志願するかどうかは,すでに課題とはなってこない。基本方針が特攻化であれば,日本軍将兵は,いやおうなく特攻隊員に組み込まれるのである。

しかし,日本軍は,特攻させる兵士に配慮をしなかったわけではない。特攻隊員が,祖国,家族を守るためにとっく尾するのであれば,家族のことを配慮することが,将兵の指揮を鼓舞することになる。このように深慮した日本軍は,特攻した将兵の家族に対して,特別に遺族年金を割り増しした。

 軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布した。

つまり,特攻し戦死した将兵で,戦効をあげた者には,特殊任用令によって,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,その遺族年金を引き上げることで,家族を保護するとともに,後に続く特攻隊員確保に配慮したのである。

特攻で全軍布告することで,死後昇進すれば,予科飛行練習生出身という下級の兵卒であっても、遺族への軍人恩給(遺族年金)は倍化し,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができたのである。


 特攻隊員たちも,残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟することもあったはずだ。,予科飛行練習生など特攻による名誉の戦死は,まさに「親孝行」につながったのである。


4.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」としており,奇襲可能な体当たり自爆兵器の開発・作戦計画を検討し始めている。1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ人間魚雷「回天」の試作命令がでている。日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷,人間爆弾,人間機雷,特攻戦車など配備され,組織的に行われた。自生的,自発的に5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。純粋な犠牲的精神の発露ではあるが,事実上,出撃を強要した日本人がいた。その責任を回避するために,英霊の自生的,自発的特攻をことさら強調しているのであれば,これこそ無責任な英雄・犠牲者への侮辱である。


写真(左):横須賀海軍工廠で量産された「海龍」
;1945年9月撮影。

1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定した。これは,「㊅金物」(マルロクカナモノ)のような秘匿名称がつけられた,事実上の特攻兵器を試作するというものである。
「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」改良型「蛟龍」として量産、実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型潜水艇「海竜」として試作(若干の量産)
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器


 体当たり自爆兵器の一つである「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。1943年12月28に,海軍の特殊潜航艇「甲標的」第5期講習員であった黒木博司中尉、特殊潜航艇「甲標的」第6期講習員であった仁科少尉が,人間魚雷計画を海軍省へ陳情しているが,自分勝手に兵器の研究に,時間・資材・金銭を費やすことのできる軍人はいるはずがない。

 海軍兵学校58期,第6艦隊(潜水艦部隊)水雷参謀 鳥巣建之助中佐は,人間魚雷「回天」KAITEN SPECIAL ATTACK SUBMARINEの作戦を担当し,著作も多い。しかし,参謀クラスの有能な指揮官であっても,鳥巣参謀は、回天特攻隊生還者の心中を聞かれて,「特攻は,われわれ下っ端のとやかく言う問題ではない」と責任を負うこのできる立場にはないとの発言をしている。


写真(上左):人間魚雷の命中を受けた給油艦AO-59「ミシシネワ」Mississinewaから揚がる黒煙
;1944年11月20日ウルシー環礁基地を攻撃した潜水艦は伊47,36の2隻で,伊37は途中で撃沈された。
写真(右2コマ):沈没直前の給油艦AO-59;1944年11月20日にウルシー基地では,多数の米兵が給油艦の大火災を目撃している。


1944年11月20日、日本海軍潜水艦の伊47,36,37の3隻は,米軍基地のあるウルシー環礁を攻撃した。これは,人間魚雷「回天」による「初の攻撃であり,の給油艦AO-59「ミシシネワ」を撃沈することに成功した。しかし、その後、米海軍の泊地は、警戒が厳重になり、人間魚雷「回天」は、外洋で航行する幹線を攻撃することになった。しかし、30ノットもの高速を出せる航空母艦を攻撃するには能力不足であり,敵の対潜水艦護衛部隊も有力である。戦果は、駆逐艦1隻にとどまった。

5.日本海軍は、特殊潜航艇「甲標的」を改造し,航続距離を伸ばした「甲標的丙型」や「甲標的丁型(蛟龍)」を量産した。特殊潜航艇は,本来は直径45センチの九七式魚雷を2本搭載する予定であったが,魚雷不足と訓練機材の不足から,艦首に爆薬を搭載しての人間魚雷としても使用される予定だった。「蛟龍」は,水中特攻隊として部隊編成はされたものの,実戦では使用されなかった。


写真(左):甲標的丙型;1945年フィリピン群島南部ミンダナオ島ダバオ港で,米軍偵察機に撮影された甲標的。離島防衛用に配備されたのは,充電式に自走できる丙型が多い。


1944年には、水上航走用と充電用の機関を搭載した3人乗りの丙型が,フィリピン防衛に投入された。何隻かの輸送船を攻撃,撃沈した可能性があるが,戦果ははっきり確認されていない。

小笠原諸島の甲標的やグアム島の甲標的も確認されている。確かに,基地から発進して,帰還する事を前提とした攻撃なので,必死の特攻攻撃とはいえない。

しかし,甲標的による攻撃方法を踏まえれば,決死の兵器である。つまり,甲標的単独での攻撃では,魚雷2射線に過ぎないので,命中率は低く,攻撃目標に肉薄しての攻撃とならざるをえない。しかし甲標的の場合には運動性能も通信能力も貧弱であるから、編隊を組んでの攻撃も不可能である。そこで,近距離から発射するしかないが,魚雷発射後に甲標的が水面上に飛び出してしまうという欠点がある。、船首の魚雷が無くなって重量が軽くなり,浮力が大きくなる。そして、甲標的の場合には魚雷2本の占める重量が大きいので、魚雷が無くなった場合のトリムと浮力バランスの変化が大きく崩れる。そこで,魚雷発射後,甲標的は船体前半が浮上してしまい,敵艦から発見されてしまう。米軍艦艇は単独ではなく,編隊を組んでいるいるから,攻撃目標以外の艦艇や上空哨戒機から発見,攻撃されてしまうのである。


写真(左):甲標的丁型(蛟龍);1945年には5人乗りの丁型が開発され、「蛟龍」(コウリュウ)として,呉の海軍工廠や長崎造船所大量産された。

大浦崎特殊潜航艇基地跡(倉橋島)「建碑記」
八幡神社の「鳴乎特殊潜行艇」(昭和四十五年八月特殊潜行艇関係者有志建之 施工者 中田政雄 石工今井某)裏にある「建碑記」には,次のようにあるという。

「建 碑 記
昭和十六年十二月太平洋に戦端開くや長駆してハワイ軍港に潜入 米艦隊主力を強襲して緒戦を飾れるは我が特殊潜航艇甲標的なり即ち特別攻撃隊の初とす
次で西にマダガスカル南にシドニーに遠征英濠艦隊を震撼せしめ全軍の士気大いに振う
 更にキスカにソロモンに転戦して戦局を支え 特運筒また前戦の補給に挺身す 時に部隊はこれを各地に迎え撃ち、ミンダナオに沖縄に蚊龍の戦果見るべきあり
 回天またこの地に発して粉塵し 海龍ともども本土決戦に備う
 二十年八月遂に兵を収め戦没並びに殉職の英霊三百余柱を数う 戦友ここに相計り その勇魂を仰蒸し 特殊潜航艇の偉功をとどめて後世に伝う
    昭和四十五年八月」


写真(右):呉海軍工廠で量産された甲標的丁型(蛟龍)
;全長:26.3m ,全幅:2.0m ,排水量:水中60t,最大速度:水上8kt、水中16kt ,水中航続距離:231km(125マイル)/2.5kt ,水上航続距離:1850km(1,000マイル)/8kt ,兵装:45cm魚雷発射管×2、魚雷×2 潜航限度100m.
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%9F%E9%BE%8D" より作成。1932年の研究が開始された甲標的は,1940年に搭乗員訓練が開始,1943年7月、乙型試作、9月に丙型の生産が始まった。丁型は1944年5月に試作された。


元蛟龍搭乗員KORYU5の証言
1944年3月30日、この日、私は生まれて始めて馬に乗った。第14期飛行予科練習生として入隊すべく故郷を発つ日であった。
寄書きをした国旗をタスキに掛け、軍艦旗をしっかり握り、祝い酒で顔を真っ赤にして馬の背にゆられながら氏神様へ向かった。其処で集まってくれた部落の人達に何と挨拶したか、今は、もうさだかではない。あるいは、興奮した口調で「後に続いて来る事を信じます」などと言ったかも知れない。

 塩山の駅で近郷の仲間と合流、甲府で山梨県下254名の予科練の卵と一緒になって、県庁の前で挙行された壮行式に臨んだ。この時私は15歳と4ヶ月、最年少であったが、どうやら体格においても大分劣っているように思えた。「なに、負けるか」と唇をかみながら、母校日川中学の列に入った。

 県庁前は大変な人の波だった。 午後8時過ぎだったか、いよいよ列車に乗りこんだ。ホームもまた、人で埋まっていた。その人垣の最前列、ちょっと離れたところに母の姿が見えた。
 「エイゾー、しっかりやれー、犬死するなー」と、怒鳴っている。
思わず、「オカーチャーン、がんばるよーっ」 と怒鳴り返した。

  元蛟龍搭乗員の証言
4月5日、晴れて三重海軍航空隊奈良分遣隊に、海軍甲種飛行予科練習生として入隊した。森本分隊長は、「予科練の二等兵らしく、強く、正しく、明るく」 と最初の訓示をした。通信で苦しむ者、駆け足で苦しむ者、マット体操、数学、物理と人それぞれに苦手はある。しかし、海軍では、それは許されなかった。出来るまでやらされるのだ。

昭和20年3月のある日、大阪が大規模な空襲を受けた。宿舎の屋上から見ると、南の空が真っ赤だ。---一刻も早くあの仇を打たねばと心ばかりがはやる。それから何日か後、---突然、(予科練)14期生全員宝塚に集合の命令が出た。宝塚の大劇場に集まった我々は、これは何かあるな、心中穏やかではなかったが、案の定、特攻隊行きの話であった。

 やがて全員に紙が配られた。名前の上に二重丸、熱望と書くようになっているのだが、私はもう一重増やし、熱望の上に大の字をつけて、三重丸の大熱望として提出した。あの時,あのような教育を受けて、特攻を望まぬ者がいるだろうか。早く決戦の大空へと、胸さえ踊った。


元蛟龍搭乗員KORYU5の証言
その時私を含めて、宝塚空の同期生の中から五十名が選ばれ、一週間の休暇が与えられてそれぞれ帰郷する事になった。---ところが、私が帰ったのを見て母は仰天した。どうして帰ってきた、訓練がきつくて逃げてきたのではないか、どうしたんだと----質問する。
 特攻隊に行くとは言えないから、予科練の卒業休暇だと言ってやっと納得させた。---予科練の良い所、楽しいところばかりを話し、又、分隊長の私室で面会した時の事や、土曜日の夜、慰問に来る宝塚少女歌劇の事などを話したが、夜は人知れず泣いた。
   少しでも故郷の山々や、畑を見ておこうと、一人田んぼに出た。付近の山に登り、大声で、「特攻隊へゆくぞーっ」と怒鳴ったりもした。休暇の最後の夜、そっと本堂へ行き (私は禅寺の三男として生まれた)、寺の過去帖の間に血書で、"さようなら、元気で喜んでやってきます"、 と書いた遺書を挟んだ。 そして翌朝、母の握ってくれた赤飯の握り飯を持って塩山を後にした。

宝塚空に帰って、あわただしいニ、三日が過ぎた後、我々五十名は残留の同期生に「先に行って待ってるぞ」と言い残して宝塚の駅に向かった。我々はよろい戸の閉まった列車に乗せられた。
 「どこへ行くのだろう」---などと話ながら、一晩中走りつづけ、翌朝四時、我々が降り立った所は柳井の駅だった。駅前にはトラックがまっていて暫らくゆられた後、隊門の前で下車した。
 皆いっせいに隊門に書かれている字を見た。ところが、どう見てもそれは、 ”海軍大竹潜水学校・柳井分校” としか読めない。てっきり飛行機に乗れるとばかり思っていたが、潜るのだ。

 潜校に入ると、外部とは一切遮断されるが、その代わり、それまで知らなかった色々の機密も判ってくる。我々は゛蛟竜゛に乗るのだ。---潜校の直ぐ隣には回天の基地があった。乗員は艇長(海兵または予備学生出身者)以下、航海、機械、電気、電信各1名の計五名である。私は電気の艇付きとなった。潜校での訓練も楽ではなかった。艇内の配線図を頭に入れるのに、巡検後夜遅くまで、頑張らなければならなかった---。

元蛟龍搭乗員KORYU5の証言
二ヶ月間の潜校での生活はあっという間に過ぎて、いよいよ基地隊へ配属される事になった。蛟竜隊の行き先は、小豆島か大浦(倉橋島)である。大浦には戸泉大尉がいる。転属の日、我々を乗せた秋津丸は、瀬戸内海を東に向かった。

大浦の工廠へ蛟竜の艤装を見に行く回数も段々多くなり、乗艇を受け取る日も近い事を感じ始めた頃、敵機の来襲がひんぱんになってきた。
 すでに(1945年)七月に入っていたと思う。空襲があると、我々のように自分の艇を持たない者は、交替で練習艇を沈座させる任務につく。
海底に退避するわけだが、実敵を前にして潜航するのは、なんとも言えぬいやな気持ちだった。深度計の針が動くのを見つめながら、その気持ちを同僚に悟られまいと必死だった。

 
写真(右):須山氏・大村氏など「蛟龍」水中特攻部隊の隊員たち
;1945年3月に予科練から特攻隊に選抜されて以降の撮影と思われる。

元蛟龍搭乗員KORYU5の証言

そうする内に、いよいよ私達の艇長が決まった。兵学校七十四期の玉川少尉【蛟竜十六期艇長】だ。---その上、艇長は兵学校か、予備学生出身の士官、艇員は予科練の中から選ばれた我々という自負があった。水中特攻部隊は急激に増え、"いまや我々こそ連合艦隊の主力" を合い言葉として、みな、誇りを持って訓練に励んだ。

巡検後海岸に出て砂浜にひっくり返り、 大村達と、波間に光る夜光虫や星を眺める時には、やはり微妙に揺れる心を感じない訳には、ゆかなかった。「おい、女の味って知っているか」 「うん、俺達、このまま出撃してしまうと、女も知らずに行ってしまう事になるんだなあ」 「今夜は皆どうかしているぞ」。星が流れる。かなり大きな流星だ。また大村が、「あの流れ星、お袋さんも見たかも知れんな」 と言う..。みんなシュウンとしてしまった。

田上大尉の蛟竜283号艇は出撃のため、三机基地に向かったが、あと少しというところで、電気系統に故障を起こし、ニッチもサッチも行かなくなってしまった。仕方がないので、電池室の板をはずして蛟竜の背にまたがり、バシャ、バシャ漕いでよたよたと桟橋に着くという、こっけいだが笑えない事故も有った。 

敗戦の日、出撃の途にあった畠中艇は「上ノ命令ハ命令ト思ハズ、爾後ノ行動ハ単独行動トス」と電信を打って沖縄に向かったが、故障の為果たし得ず、従容として大隈半島沖に自決を遂げた。

蛟竜は、完成115隻、建造中496隻、隊員やく四千人を超える大部隊となっていたが時すでに遅く、八月十五日を迎えた。(引用終わり)

元蛟龍搭乗員(甲飛13期出身)の証言
柳井潜水学校での座学は、10時間程度の短期詰め込みで、蛟龍の構造をはじめ基礎理論を修得、土・日は体育と模擬艇操縦訓練を行い、操縦適正を審査された。この模擬艇は特眼鏡を付けた漁船で舟艇と艇付の両方の訓練を行った。主に達着訓練である。その他、実習は魚雷・電動機・発電機・羅針儀等の取り扱い、内燃機器、電信機は各専門担当者優先だった様に記録している。

 海龍組は2ヶ月修了後5月末に横須賀へ転進。6月15日には、通信と内火担当が卒業、電気・水雷が6月。丙型で訓練開始、水上航行より徐々に速力と回頭訓練、惰力と舵の効きとの関係と、ジャイロの振れとの関係を各艇の癖をのみ込むのが大変、あて舵の効き、スピードとの関係、これを針の振れだけで確実に定針するのは大変で、年中指揮官に怒鳴られ、艇長は自分の目測にヘタレ参っているが、再三あった。

写真(左):長崎造船所で量産された甲標的丁型(蛟龍);1945年10月に米軍による撮影。

呉には甲標的丁型(蛟龍)が多数配備され,1945年3月に呉鎮守府に第2特攻戦隊が置かれた。そこには,瀬戸内海の島々に大浦、光、平生各突撃隊が設けられ,1945年7月には,大浦突撃隊に第52、54、56蛟龍隊が編成され、36隻の蛟龍が配備されていた(『戦史叢書海軍軍戦備<2>』)。

元蛟龍搭乗員(甲飛13期出身)の証言
あて舵○度「宜候」(ヨウソロー)「戻せ」のタイミング遅れで、目標に定針しないと指導官にボヤボヤするなと艇長が怒鳴られ、腹いせが艇付にくるわけです。勘の鈍いのに当たると散々であった。ペアを組む頃になると以心伝心でスムーズであったが、それまでは大変であった。
横舵担当の水雷は、深度計と傾斜計を注意、電信は水中では水温関知計、内火は後部リレーや過負荷、遮断器の焼き付きを注意、あとバラスト要員であった。コック、バルブの開閉は、身近なものの役割であった。蛟龍での訓練の前に丙型練習艇でやるが、後部電池室へ交代要員を乗せているので、彼らに指導官の怒鳴りと関連して失態を見られたくないと、初めはものすごく緊張したものである

魚雷発射訓練は水雷の担当だが、魚雷用気蓄器のゲージを見ながらメイン気蓄器から充填送気高圧バルブの開閉を慎重に行った。潜航中のバランスを考えてダウンをかけて行った記憶がある。ペアを組む前は誰と組むかは分からず、勘の良し悪しにより苦労した覚えがある。


写真(右):甲標的丁型(蛟龍);呉海軍工廠で戦後撮影。呉や長崎で量産されたが,実戦には投入されていないようだ。完成はしていても,試運転も,実用試験も行う時間がなかったためと思われる。


(少ない)訓練艇と(多い)搭乗員の数とのバランスが取れていなかったので、後期組みの方が実艇に乗るチャンスが少なかった。丙型訓練艇で電気、水雷担当と艇長が優先的に訓練を行った。通称「凧」という浮きを引っ張って、必ず監視艇が付き追走して事故の有無を見ていた。それほど事故があったと言う事である。訓練海底は起伏とヘドロ的な砂だまりがあり、そこでバランスを崩して艇尾や艇首から突き刺さったり、埋まって動けなくなったりした。

丙型で基礎の操縦を修得するため、電気(縦蛇)と水雷(横舵)の専任担当別に訓練を行った。しかし、一通りは誰でもできる。起床から就寝まで、日課が前日までに決められてあり、週間、月間、艇付の課業があった。当直と非番があり、当直は訓練、監視の作業であり、非番は学習と送気、燃料作業、防空作業。送気、蓄電作業は旧潜水艇から取った記憶がある。

燃料はあらかじめ呉周辺の防空壕にあるタンクから大発でドラム缶に入れ、これを基地の燃料防空壕に保管、その都度ギヤポンプで1缶、1缶吸い上げて蛟龍や丙型に入れた。おおむね夜間に行った。油でドロドロになる作業でその後の風呂が大変であった。

蛟龍のガラス張りの流線型をした司令塔を見て、甲・丙型より大変格好いいと先づ思ったが、乗るときになって足のせと手すり以外は、手かがりがなく乗り組みにくいと思った。波よけに足をかけなければ乗りにくいが、菊水マークと日の丸があるため足かけを作るのを避けたのではないかと思う。

中は潜望鏡の足のせ台がなければ足のかかりがなく、外と中の明かりが違うので足下が見えず、慣れるまで一寸戸惑う。うっかり機巻類や弁、コソクロさわれば事故の元となると思った。---メインの電線が銅の延べ板にラバーテープの二重巻き下したものなのにはビックリした。直流なので感電の心配はないが、1800アンペア200ボルトなのでうっかりすると危険であり、工具を絶対ぶつけるなとうるさく言われた。被膜のテープが破れて漏電する事を恐れたものと思う。

「蛟龍」用特H型蓄電池取扱説明書
「海龍」用特K型蓄電池取扱説明書

電池室の板の上での仮眠することや、バラストの移動時は這って移動するのは大変だった。後部の継電機、過負荷遮断機の焼き付けの時はこじ開け等、いきなり要領と注意を狭いところで受けビックリしたのが記憶に残っている。猿の腰掛けのような便座があったが、これで用を足すのは困難なため、一斗缶で小のみをする要注意を受けた。

空気洗浄のため炭酸ガス吸収箱の取り付け方、水素ガス探知機の見方、各弁、コックの操作、スイッチの入切、計器の見方、舵とスピードと半径の関係、あて舵と聞くまでの秒数等、いろいろといっぺんに教えられ、必死になってノートにとった覚えがある。

---豆潜水艇の感が強く、必死体当たりの回天や海龍、震洋とは一味違って気持ちにゆとりの様なものが出て来たのも事実だった。

魚雷調整をやっている防空壕の奥で、整備に戻ってきてももうつむ魚雷はあるいませんよと言われたときは、やはり最後は爆装になるかなと思ったりもした。事実、海龍は3発目は自爆としてあったようだ。


青木飛長のノートに残された「蛟龍」特攻隊員のサイン「青木飛長の別れのノート」1945年7月記帳。

特殊潜航艇「蛟龍」の搭乗員も,秘密兵器を扱う特攻隊として,秘密裏に募集された。そして,搭乗員は,潜水学校で講習生として2ヶ月間訓練を受け,基地隊から派遣されてい教官は「特攻長」と呼ばれていた。潜水学卒業後は,「特攻隊」に編入され,体当たり自爆を行うものと認識していた。

1945年7月,青木荘一郎飛長が大浦基地の特殊潜航艇「蛟龍」隊から淡路島守備隊に転出することになった。その際,予科練の仲間,すなわち一次特攻隊の4名,二次特攻隊8名,見送り12名の合計24名が,青木飛長のノートに別れの言葉を書き込んだ。

青木飛長の別れのノートには,特殊潜航艇「蛟龍」部隊の予科練出身者24名が「見敵必沈 一撃一艦 体当たり」「一撃必中 轟沈」「特攻魂」「必殺必中」「一撃必殺 体当たり」「必死必沈」など,水中特攻の本領を示す言葉を書き連ねている。特殊潜航艇「蛟龍」は,高性能小型潜水艦のようにいわれるが,々況睛僂竜雷が整備されていなかったこと,隊員の募集が「特攻隊員」として行われ,部隊も水中特攻部隊と称していたこと,B皸が体当たり自爆すると認識していたことの3点から,人間魚雷として使用するものとして準備されていたといえる。特殊潜航艇「蛟龍」は,当時の状況では,特攻用に使用するのもやむなしとされていたし,そのことは搭乗する隊員たちにも周知の事実だったのである。

青木飛長のノートに残された「蛟龍」特攻隊員のサイン「青木飛長の別れのノート」
平成17年7月5日東京新聞・中日新聞 夕刊「青木飛長の別れのノート」

6.1944年7月21日,軍令部は「大海指第431号」で,奇襲特殊兵器の一環としてSS金物、すなわち水中有翼艇「海龍」が計画されている。「海龍」は当初は魚雷2本を装備する予定であったが,実際の部隊編成では魚雷は装備されず、艦首に600kg爆薬を仕掛けての、体当たり自爆艇、人間魚雷として本土決戦に投入されようとしていた。

特殊潜航艇「海龍」戦史と開発
「海龍」は海軍工作学校教官・浅野卯一郎機関中佐(海機)の発案で開発された、二人乗りの有翼潜水艦である。80馬力の電動モーター,85馬力のガソリンエンジンを備え,充電しながら水上航行を行った。最高速度は,海中10モット,水上7.5ノット。

Propulsion was an 80 horsepower electric motor with an 85 HP gasoline engine for battery charging and surface running. Speed was 10 knots submerged and 7.5 knots on the surface.

局地防禦用の特殊潜航艇であり、その構造は従来の潜水艦や「甲標的」等とはかなりの部分で相違があった。頭部に600kgの炸薬を搭載し人間魚雷「回天」と同様に必死の特攻兵器だった。


写真(上):横須賀海軍工廠で200隻量産された「海龍」Japanese "Kairyu" Type Midget Submarine
;写真は,1945年9月7日,米軍による撮影。いずれの潜航艇にも,舷側に魚雷搭載を装置したとの指摘もあるが,訓練専用機材を整備するだけも,日本軍には手一杯であった。すでにこの時期には「全軍特攻化」の方針が決定していたのである。A total of 760 boats were planned. Over 200 were delivered by August 1945, the great majority of these having been constructed at Yokosuka.

1944年5月、横須賀鎮守府指令長官は「海軍工作学校長をしてSS金物一基建造せしむべし。横須賀海軍工厰長、海軍航空技術厰長をしてこれを援助せしむべし」との訓令により作業が進められ、6月27日にSS金物の試作艇が完成した。

1944年6月19日,横須賀海軍工廠長宛に「仮称SS金物実験の件の通帳」が出され、 6月28日に横須賀鎮守府、呉鎮守府、第六艦隊、それぞれの司令長官宛に、官房艦機密第四〇七五号「仮称SS金物の実験訓令」が発令された。
呉の潜水学校、第一特別基地,呉工廠および横須賀の水雷学校に、大浦の甲標的部隊(一特基)の前田冬樹大尉、久良知滋大尉(海兵71期) が派遣された。
前田冬樹大尉、久良知滋大尉は,SS金物は局地防禦用兵器として活用し、本土防衛用に量産すべきであるとした。
1944年11月、三浦半島油壷の東京帝大臨海実験場に「海龍」訓練基地が開設され、海兵士官、予備学生、甲飛13・14期生らが着任した。

1944年12月3日付訓令では12月中に3隻、1〜3月で各5隻、計18隻の製造が認められたという。
1945年3月、第一特攻戦隊が編成され、その下に横須賀突撃隊、第十一突撃隊が編成された。
海龍は、鳥羽・江之浦・下田・油壷・勝山・小名浜に前線基地を設営し、逐次展開する予定で、 1945年6月中旬に第十一突撃隊の36隻が油壷に展開した。(⇒水中有翼艇「海龍」戦史と開発引用)


写真(右):横須賀海軍基地に展示された「海龍」;1951年5月11日,横須賀海軍基地で米重巡洋艦USS Saint Paul (CA-73)乗員による撮影。


当初の計画では,水中有翼艇「海龍」は,45センチ魚雷2本を両舷側下方に取り付ける予定であったが,量産された「海龍」の写真を見ると,魚雷搭載装置が未装備である。つまり,魚雷不足のために,「海龍」に魚雷を装備することはなく,艦首に爆薬600kgを装備して,体当たり特攻の人間魚雷として使用することになった。

人間魚雷「海龍」は,人間魚雷「回天」よりも速力は半分の10ノットほどで遅いが,航続距離が長く,操縦性も若干改良されていたようである。低速のために,人間魚雷「海龍」の攻撃目標は,空母や戦艦などの艦艇ではなく,低速の輸送船だった。

特殊潜航艇甲標的丁型「蛟龍」の部隊は、魚雷を装備され,その調整をしていた(予備魚雷はなし)所もあったが,低性能の「海龍」の場合は,魚雷を装備し,訓練していた形跡が見られない。やはり、数百本の魚雷を準備することができず、低性能の「海龍」には装備しないで、軍艦ではなく輸送船に体当たり自爆する作戦を決めていたようだ。


写真(左):横須賀海軍工廠で量産された「海龍」;1945年10-12月撮影。U.S. Naval Historical Center Photograph


元海龍搭乗員の証言;第5期兵科予備学生、海兵74期、第3期予備学生出身者への聞き取りの記載
私は昭和19年10月、大学2年生を終えた時点で「第5期兵科予備学生」として海軍に入りました。まず武山海兵団で1200名の大学生が、海軍士官としての基礎教育を受けます。教官は海兵出身3人と予備学生出身7人くらいの割合で、早く我々第5期兵科予備学生を一人前にしようと熱心でした。

5ヶ月で基礎教育を終わり、昭和20年3月に大竹潜水学校に転じ、潜水艦に関する基礎教育を1ヶ月、続いて柳井潜水学校分校に移って教材用に外板をくりぬいた海龍に乗り込んで、操縦訓練(号令をかけるだけ、艇は陸上に座っている。)を1ヶ月。

潜水学校では予備学生340名に対し、教官はたった3名。----教育中は新聞もラジオもなく、戦争がどうなっているのか、ぼんやりしか分からなかったが、今の時点で当時(昭和20年3月)を見ると、もう日本は負けが決まっている状態で、無駄な教育を受けたわけだが、当時は「なんとかじなくちゃ」と思っていた。

潜水学校で2ヶ月経ったとき。海龍組と蛟龍組に分かれる。ほとんど各人の希望どおりだったと思う。海龍の基地が横須賀にある事がしれていたので、関東以北の出身者が海龍を選んだようだ。

写真(右):1978年に引き揚げられた「海龍」;呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)では、胴体の両脇に魚雷を各々1本装着しているが、これは初期計画だけで実際にはありえない。実際には艦首に爆薬600kgを搭載して自爆艇として使用されることになっていた。この特攻兵器が、いかにも魚雷を装備した小型の高性能潜水艦のように展示してあるのは、当時の隊員にも礼を失しているし、当時の日本の工業技術・生産設備を過大評価させるように思われる。魚雷なしの本来の使われ方を示す展示にすべきであろう。

1945年、艇尾部に米軍機のロケット弾(不発)の直撃を受け沈没した「海龍」を、静岡県熱海市網代港の北北東300メートルの海域からで1978年5月27日に引き揚げた。引き揚げ時の写真には、魚雷は搭載されていないようだ。「海龍」が本土決戦の特攻兵器として、上陸予想地点(関東圏では相模湾や九十九里浜)沿岸各地に配備されていたことが確認できる。


艇が小さいだけに一番我々を悩ませたのは、水上航走かた水中に潜航する一瞬のエンジン停止。動作の順序手段が間違いを起こす事が多く、艇内が真空状態になることを避けるための指導は徹することが大変だったことは、特に記憶にある。いずれは出撃するための航法と、襲撃要領などは研究の暇もないくらい、とくかく要員の要請に文字通り夜も昼もないすさまじいものでありました。

火のつくような厳しい訓練に耐えた4期予備仕官4名と甲飛13,14期の艇長、艇付24名の艇隊編制を終了、伊豆下日の第16突撃隊の前進基地に展開したのが昭和20年6月中旬だったと思います。その後、前進基地の碇泊場所の設置、艇をつなぎ止めるブイの位置変更等の作業に追われる日々の最中に米艦と攻撃機の空襲に晒される目にあったりしている-----。

甲種予科飛行練習生を昭和19年3月に卒業すると同時に滋賀航空隊に別れを告げ、紫電改戦闘機の飛行場になる福知山に、整備のために派遣されたが飛行機の燃料となる松根湯を取るため、毎日松の根堀をやらされ、1ヶ月を経過しました。----福知山にて1ヶ月経たとき「○○特攻兵器志願者募集」があり、やっと実戦部隊に行けると思い志願しました。しかし何に乗るかは分からず、たぶん「桜花」ではないかと思っていましたが、山口県の柳井潜水学校分校にて初めて「海龍」に会いました。

柳井では毎日学課翌日試験の繰り返して、ほとんど学課、海龍の構造、魚雷の構造、航法、手先信号等、その後海軍体操、棒倒し等の訓練がありました。約2ヶ月あまりと思いますが、柳井潜水学校を修了し、高等科のマークを腕に付け、二等下士官となり横須賀の軍港である海龍の基地に赴任しました。

写真(左):SS金物と秘匿名称で呼ばれ開発された海龍と三浦半島の基地;戦後,1945年9月22日,米重巡洋艦「ボストン」Boston (CA-68)乗員たちが,鹵獲した「海龍」Japanese "Kairyu" Type Midget Submarineとその基地を訪れた。特殊潜航艇は,地下壕に引き込まれ隠匿されていた。1945年に700隻以上の生産が計画され200隻が生産された。翼を有し、飛行機のように上昇と下降を行うため、構造が単純で操縦性がよかったとされる。魚雷を2本搭載する計画だったが,魚雷と訓練機材の不足から,艦首に爆薬を詰めて人間魚雷として使用されることになっていた。本土決戦のために沿岸各地に配備が予定されたが,実戦に投入されることはなかった。

昭和20年5月に横須賀基地に転じ、ここで実際に海龍に乗っての訓練になったが、1日1回約1時間の搭乗訓練を、最初2回ほどは教官同乗、あとは教官なしで東京湾と言っても、横須賀の沖をうろちょろ潜ったり浮いたりの訓練をしていた。搭乗しない時間は、戦友の訓練艇の後から漁船に乗って追随していって監視したり、艇の回送(訓練基地から修理基地まで)をしたり、トランプをしたり、寝たりの生活であった。外出は「おまえ達は秘密兵器だから」という理由で、一切させてもらえなかった。

予科練も特攻も軍の命令ではなく、個人の志願によるものであるので、軍人として最後のご奉公であると思っていましたので、別に特別な感情はありませんでした。ただし予科練を志願し卒業し、航空隊員として先輩に続き大空に羽ばたくつもりで、懸命に努力してきたものを全部捨て、海に中に潜り潜航艇で戦うという事は予想していなかったので、残念な思いは続きました。ただし当時横須賀基地にいる地上部隊は小銃も全員に渡らず、わずか手榴弾2個だけという状況でしたので、贅沢はこの上ない我々は、海龍という特攻兵器を本土防衛のため使用できるのだ、と思いその後は不安な気持ちは一切なく、その任務に邁進できたと思います。

慣れてくると思うままに操縦できた。魚雷を装着し、爆薬も艇首に付けてからは一層慎重な操縦をするようになった。漏水には特に注意していた。敵大船団に対しての襲撃だから十分に雷撃も体当たりも大丈夫、成功すると考えていた。昭和20年7月30日の出撃命令の時には、部下に平時の訓練通りにやるよう指示した。

写真(右):後方から見た水中翼艇「海龍」;呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の「海龍」は魚雷を両舷に1本装着した状態で展示。1945年、静岡県網代湾で艇尾部に米軍機のロケット弾(不発)の直撃を受け沈没したことを裏付けるように、船尾スクリュー軸の根元上部に被弾した跡が残っている。

艇長講習を一応終えた同期の工藤、一迫両中尉と私は先に試行錯誤の実験を繰り返して、漸く実験艇としての見極めをえた2人乗りの水中翼艇海龍の教官として、横須賀工作学校に着任したのが昭和20年2月の初めでした。当時は海龍の1号艇、2号艇しかなく実験艇としての域を出ていなかった。----たとえば艇首は先が尖った鉛筆の様で、小さいながらもスマートな形をしておりました。(頭部に炸薬を詰め、魚雷発射後に敵艦に体当たりするように設計変更は、大量生産と平行して行われました。)

横須賀海軍工廠の工場内に置いてある海龍訓練艇に初めて乗ったときの感想は、全長17.28m、直径1.30mですので、本当に狭く座席に座って頭の上くらいも隙間はありません。艇首に600kgの炸薬を装着してありますので、訓練中障害物にぶつかり、爆発する危険がありますので、防止のため安全レバー3本が前部操縦席の右奥にありました。これは敵艦に突入するとき3本のレバーを全部引いて、ぶつかると爆発するようになっていて「安全解脱レバー」と呼んでいました。

艇内は海水と錆のにおいで良い環境と這いません。2式魚雷を2本装備していますが、発射筒の中に納められ、ロケット式に発射しその反動で発射筒がレール式で後部海中に落下する様になっていました。海上航行時エンジンを起動するとき、エンジンの吸排気弁を開けずに行うと、艇内の空気がなくなり、出入り口のハッチも開かなくなり危険状態となる。速力はおそく長距離航行するとき水上5ノット水中3ノットくらいに落ちる。性能はあまり良くないと思います。ただし、胴体に水中翼がついており、操縦桿で上下左右できるので、急速潜航は8秒くらいでできる。

(⇒元海龍搭乗員の証言 を引用)

「海龍」搭乗員だった甲種予科飛行練習生の記憶によれば、魚雷発射後、艦首に装備された爆薬もろとも敵艦船に体当たりすることになっていたという。つまり、「海龍」に魚雷2本を搭載したようにも受け取れる。しかし、基地では、「海龍」から魚雷発射の訓練はしていないようだし、搭載する魚雷の整備・調整も行っていない。戦後の米軍の撮影になる「海龍」も、魚雷を搭載したものが1枚も写っていないし、搭載されるべき魚雷も見当たらない。したがって、水中翼艇「海龍」は、魚雷2本を搭載する予定はあったものの、特殊潜航艇「蛟龍」とおなじく、魚雷が準備できず、体当たり自爆する人間魚雷として戦備に組み込まれていた。

諸説があるが、日本潜水艦史によれば、特殊潜航艇、人間魚雷の生産数は、次のようである。
 甲標的 甲型        36隻建造。
 甲標的 丙型        40隻建造(乙型3隻を含む)。
 甲標的 丁型「蛟龍」    約110隻建造。
 回天 1型          420基完成。
 回天 2型          200基完成(本体部のみ)。
 「海龍」6睚(SS金物)  110隻完成(200隻の資料もある)。

7.イタリア海軍は、日米開戦前の時期から,人間魚雷「ブタ」を開発し,部隊配備し,実戦に使用した。これは,低速小型の特殊潜航艇だが,搭乗員の勇気を生かした適切な作戦と秘匿性から,英国の艦船に大きな被害を与えた。

<イタリア海軍の人間魚雷>
1944年7月21日の大海指第431号で奇襲特殊兵器の人間魚雷「回天」を正式に開発した日本軍であるが,イタリア,英国,ドイツでも,同様の奇襲特殊兵器「人間魚雷」Human Torpedoを,早くから開発し,実戦で使用していた。

写真(右):イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」;1940年には部隊配備され,港湾に停泊する英国艦船を攻撃して大きな戦果を挙げた。

イタリアのSLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ」Il Maiale(豚), 英国の「チャリオット」,ドイツの「ネガー」,「マーダー」がそれである。

イタリア海軍では1935年に人間魚雷の計画が持ち上がり,1936年には試作品が完成した。そして,1940年にはイタリア第10軽装艦隊the Italian 10th Light Flotillaに,2人乗りの人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa;低速走行魚雷)「マイアーレ」Il Maiale(The Pig 豚)が配備された。

写真(右):イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」;1940年には部隊配備され,港湾に停泊する英国艦船を攻撃して大きな戦果を挙げた。体当たり自爆攻撃ではなく,停泊している艦船の底に時限爆弾を仕掛けてから脱出する。

「マイアーレ」の性能
全長6,70 meters,幅 533 mm
潜行深度 15〜30 meters
電動モーター 1.6 HP
最高速度 4,5 knots - 巡航速度 2,3 knots
航続距離4.5ノットで 4 miles,2.3ノットで75 miles
兵装Mark I: 高性能爆弾 220 kg,後期型 高性能爆弾250 kg,最終型 高性能爆弾300 kg

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」を2基搭載したイタリア海軍潜水艦Gondar(ラ・スペッツァ港にて);1940年9月29日,ジブラルタル港攻撃と同日にエジプトのアレキサンドリア港の英軍艦船を「マイアーレ」で攻撃する計画だった。しかし,潜水艦「ゴンダー」Gondarは英軍に発見され,撃沈された。

人間魚雷「マイアーレ」は,電動モーターで無音走行し,二人の搭乗員によって操縦される。そして,高性能爆弾を敵艦船の竜骨下の海底に配置し,時限爆破装置を作動させる。二人の搭乗員は,その爆破前に脱出するのである。

また,日本海軍の特殊潜航艇が真珠湾を攻撃して戦果を挙げることなく全滅して2週間と経っていない1941年12月19日,イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」3基は,エジプトのアレキサンドリア港攻撃を実施し,英戦艦「ヴァリアント」H.M.S Valiant ,同じく戦艦「クイーンエリザベス」H.M.S. Queen Elizabeth,タンカー「サゴーナ」Sagonaの艦底に各々300kgの爆弾を仕掛けた。目標とした空母「イーグル」が不在だったので大型タンカーを爆破することにしたのである。(目標を誤認したわけではない。人間魚雷「回天」のウルシー基地攻撃の戦果もタンカーだった。)

写真(左):人間魚雷「マイアーレ」搭乗員:スキューバダイバーと同様の潜水服を着用する。爆弾装着後は,脱出する。

「マイアーレ」指揮官ルイジ・ドゥランド・デラペンネLuigi Durand de la Penne中尉とダイバーのビアンチは,捕虜となった。そして英戦艦「ヴァリアント」に監禁された。捕虜となったイタリア海軍のデラペンネ中尉とダイバーのビアッチは,何の情報も与えなかった。時間が経過した後,この戦艦は爆破されるので,乗員を退避させるように警告した。

英軍は,その警告を聞き入れたが,デラペンネ中尉は独房に監禁されたままで,爆破時間を迎えた。イタリア海軍将兵は,捕虜になっても義務・任務を果たしたとして堂々としていた。英国海軍も敵の捕虜を虐待することなく扱ったようだ。

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」の攻撃で大破した英国戦艦「ヴァリアント」と「クイーンエリザベス」:スキューバダイバー2名の搭乗したイタリア海軍の人間魚雷に攻撃され大損傷を受けた。攻撃日は1941年12月19日で真珠湾攻撃(12月8日)から11日後である。潜航艇の性能を比較すると,日本の甲標的のほうが速力もはるかに速く,攻撃力,航続距離も大きい。しかし,操縦性と隠密性ではイタリアの「マイアーレ」のほうが優れていたようだ。また,攻撃後,イタリアでは投降が認められており,勇戦の後の降伏は不名誉ではなかった。このような将兵の扱いがかえって、マイアーレ乗員の勇気を掻き立てたと考えられる。捕虜の取り扱いの日本とイタリアの差異が、戦果にも反映したものと推測できる。

0600,第一発目の爆弾がタンカー「サゴーナ」で爆発し,燃料補給をしていた駆逐艦 「ジェービス」ともども大破した。「ヴァリアント」の爆弾は0620に爆発し,「クイーンエリザベス」の爆弾は0624に爆発した。

戦艦「ヴァリアント」は,弾薬庫などに浸水しアレキサンドリア港で応急修理の後,ダーバンで1941年4月15日から7月7日までかけて修理された。戦艦「クイーンエリザベス」は着底し,引き揚げられた後,米国で1942年9月2日から1943年6月1日まで修理された。結局,17ヶ月以上,戦列を離れたことになる。

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」を搭載した秘匿商船「オルテラ」Olterra:The Olterra redesigned for Human Torpedo attacks

ダイバー2名の搭乗したイタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」は,速度は遅いが,無音走行でき,操縦性も決して悪くはなかった。アレキサンドリア港の攻撃日は1941年12月19日で真珠湾攻撃(12月8日)から11日後である。日本とイタリアの特殊潜航艇「甲標的」と人間魚雷「マイアーレ」の性能を比較すると,日本の甲標的のほうが速力もはるかに速く,攻撃力,航続距離も大きい。しかし,操縦性と隠密性ではイタリアの「マイアーレ」のほうが優れていたようだ。

また,特別攻撃後,イタリアでは投降が認められており,勇戦の後の降伏は不名誉ではなかったという将兵の扱いの際も大きい。
さらに,ジブラルタルの英軍基地の近くのスペイン領に秘密基地を作ったイタリア軍は,そこから商船を改造し「マイアーレ」を搭載し,海面下の舷側の秘密扉から潜伏,発進した。そして,ジブラルタルの英国海軍艦艇や商船を攻撃したのである。軍艦を攻撃した際には,搭乗員の80%が生還しなかったが,防備の手薄な商船に対する攻撃では,少ない被害で大きな成果を上げることができた。

生き残っても戦果を挙げればよいので、自決・死に思い悩むことも少なく、作戦に体力と精神を集中できる。特別攻撃でも自爆覚悟ではなく、ぎりぎりまで敵に肉薄して爆薬をセットし、逃げればよい。逃げ切れなければ、捕虜になるが、これは不名誉なことではない。このような状況で、イタリア海軍将兵は勇戦した。

人間魚雷SLC「マイアーレ」の戦果は,1941年3月から実戦に参加し,終戦(1943年9月)までに連合国の軍艦 8万6,000 tonsを撃沈破,民間商船 13万1,527 tonsを撃沈破する大戦果を挙げた。

イタリア海軍が,高性能とはいえない人間魚雷「マイアーレ」を駆使して大きな戦果を挙げえたのは,1943年当時の英軍の戦備の甘さ,イタリア海軍の作戦の適切さもあったが,「マイアーレ」搭乗員たちの勇気と技能も寄与している。大胆不敵な作戦を実施できたのは,捕虜になっても,殺害されるわけでも,自決する必要もないという心理的負担の小ささが背景にあると考えられる。日本軍将兵の切羽詰った心理的負担は,作戦の実施にはマイナスに作用した。

写真(左):ドイツ海軍の人間魚雷「ネガー」Neger:潜行はできず,水面すれすれを走行した。潜行可能に改良した「マーダー」もほぼ同型である。魚雷を応用した本体の下に魚雷を搭載し,攻撃も久料を雷撃する。体当たり自爆攻撃を企図したものではない。
写真(右):ドイツ海軍特殊潜航艇「ビーバー」Biber:小型魚雷2本を搭載する。体当たり自爆を企図したものではない。


ドイツ海軍の人間魚雷「ネガー」(Neger:黒人),「マーダー」(テン),特殊潜航艇「ビーバー」Biberも,水上4.2kts,水中 3.2ktsという低速ながら,1944年6月の連合軍ノルマンディー上陸部隊を護衛する軽巡洋艦HMS DRAGON(4.850t), 掃海艇HMS MAGIC(1,110t),HMS PYLADES, HMS CATOと軍艦4隻を撃沈し,成果を挙げている。このような大戦果をイタリア海軍人間魚雷「マイアーレ」が揚げたのに対して,特殊潜航艇「甲標的」,人間魚雷「回天」は,自らの被害が大きかった割に,戦果は小さかった。

写真(左):英国海軍の人間魚雷「X艇」X-Craft (Midget Submarine):全長 15,76 m 全幅 1,8 m 深さ 1,62 m 浮上排水量 27 t 潜水排水量 29,7 t 舷側搭載重量 4 t
英国海軍特殊潜航艇 X5 Class midget submarine は、1943年に降伏したイタリア海軍のマイアーレのコピーに近いようだ。やはり、小型爆雷2発を搭載した。X艇(とその改良型XE艇)は,1944年にドイツ戦艦「ティルピッツ」をノルウェーの湾内で,1945年に日本巡洋艦「高雄」をシンガポール港で航行不能に陥れている。


特殊潜航艇や人間魚雷「回天」の場合,長距離にある海軍艦艇を目標にしたために,一たび発進したら,帰還するのは容易ではない。途中で機械が故障したり,目標を見失っても,捕虜になることも許されない。自爆するのみである。したがって,故障しがちな機械を操り,訓練もつんできた搭乗員を,1回の出撃で,戦果を挙げることなく失ってしまう確率が高い。

特殊潜航艇や「回天」搭乗員は,一たび出撃したら失敗は許されないという心理的な圧迫感に,攻撃行動が真剣になる反面,極度の緊張が過失をもたらす危険もある。目標に命中できないと判明した場合,いつまでも洋上にとどまることはできないと考えると,余裕がなくなり,拙速な行動に出てしまうかもしれない。

いずれにせよ,経験をつむことなく,たった1回の出撃で,訓練経験も何もかも,次回に生かされることはない。搭乗員たちは,回天の状況や技術的問題に関して多くのメモや伝言を残しているが,これはたった1回の出撃しか許されないからである。強い将兵は、経験,実戦を経て養成されていくが、日本の特別攻撃の場合はそれが不可能であり,士気の高い戦士をたった1回の出撃で失ってしまうという意味で、非常に非効率的な作戦であった。


写真(右):人間魚雷「回天」
;人間が1人が狭い魚雷の内部に搭乗して,目標となる敵艦船まで魚雷を操縦し,体当たり自爆する。精巧な機材を用いているが,故障が絶えず,機材が順調に機能したとしても,操縦性が極端に悪く,水中から目標を見定め操縦するのは非常に困難だった。ハワイのオアフ島潜水艦博物館に展示。
⇒◆人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」自爆艇「震洋」「マルレ」

8.日本軍は,本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃するつもりでいた。そのために,兵器開発でも特攻が優先された。特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められ,かれらの犠牲を前提とした非道な作戦が立てられた。このような状況は、現在の自爆テロ/自殺攻撃にも当てはまるように思われる。

正攻法では,量,質の両面で連合軍にまったく太刀打ちできなくなっており,このことを戦争末期になってやっと認識した軍高官は,精神主義を振りかざして「断じて行えば鬼神もこれを避く」として,特攻を唯一の対抗手段としようとした。
大海指第431号(1944/07/21)に基づいて、人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機キ115「剣」,このほかにも潜水艦搭載の特殊攻撃機「晴嵐」,体当たり自爆改造戦車,対戦車爆雷を抱いたまま突っ込む肉弾兵,爆薬を持って海中に潜み自爆する「伏龍」という特攻兵器も開発、生産。配備された。

⇒◆特殊攻撃機キ115「剣」と特別攻撃を読む。
⇒◆特殊潜航艇「甲標的」による特別攻撃と人間魚雷「海龍」を読む。



写真(上):米軍に鹵獲された人間爆弾「桜花」;右は戦後,横須賀で鹵獲されたと思われる海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」。右は,「桜花」後方の火薬指揮推進ロケットの部分。

1944年6月19-20日、マリアナ沖海戦で大敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を諦めた。1944年7月21日、大本営[軍令部]は「大海指第431号」によって、奇襲特攻を作戦として採用した。1944年3月にすでに人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」と(後日になって)名づけられた特攻兵器による作戦も決定した。桜花を配備した特攻隊神雷部隊の編成も、1944年9月に開始されている。

特攻の生みの親とされた大西瀧治郎中将は、1942年3月以来、海軍の航空本部総務部長に就任しており、実戦部隊とも練成部隊とも遠ざかっていた。その大西中将が、急遽、1944年10月に、フィリピンに派遣され、そこで正式に第一航空艦隊司令官となった。彼は、海軍大学を卒業しておらず、海軍軍令部(陸軍の参謀本部に相当)の艦隊決戦の方針に反対していた反骨の人物である。軍令部としては、航空の実力を発揮して、大戦果をあげてみよと、過酷な命令を下したのであろう。

現場に着任後、やっと正規の司令官にしてもらっているのも、おかしな話である。特攻隊の編成を命じてはいるが、特攻のように兵力を激減させ、将兵の士気に衝撃を与える作戦を現地司令官大西中将が独断で採用する権限はない。

軍令部からフィリピンの第一航空艦隊長官(寺岡謹平中将から10月20日に大西中将が引継ぎ)宛(→「大海機密第261917番電」は,1944年10月13日起案,10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」となっていて,現地ではなく,軍中央上層部で神風特別攻撃隊の編成が策定されたことがわかる

つまり、有名な神風特攻隊の部隊名称も、軍令部において編成前から決められていたのである。1944年10月13日起案の「大海機密第261917番電」で、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「大和隊」等をも併せて発表すべきことが既定の事実であった。本居宣長の「しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花(はな)」を思い起こして採ったとの証言は、俗説として広まっているが、実際には1942年発行の日本文学報国会『愛国百人一首』や1943年発行の坂口利夫『愛国百人一首通釈』 をめくって、60番の本居宣長を選んだのである。特攻隊の部隊名称が、軍令部からの指示で名づけられ、戦果発表と同時に大々的に宣伝し、彼らを軍神として讃え、海軍航空隊特別攻撃隊を編成する方針が示されていた。

 この1944年10月13日起案の「大海機密第261917番電」は軍令部作戦課(第一課)の航空担当源田実中佐(海兵52期)が10月13日起案し、上司の承認を得て発信している。とすれば,ある識者が,源田実中佐が「人間爆弾「桜花」開発推進の実力者であったとすれば、もちろんそのことは源田が最後まで隠しておきたかったことであろう。」と推測しているが,もっともである。(→戦史のウソ引用)

特攻機とされた零戦に250キロ爆弾を装備したが、固定したままで爆発可能なように信管解除装置を改造している。従来の爆弾には、落下中の風圧で解除される風車式信管がついていたが、これを機上で操作できるように改造したのである。現場で大元帥から下された兵器を勝手に改修、配備することは許されないし、改造方法を研究する時間もないから、大西中将は、軍令部の指示で改造したのであろう。

軍令部が定めた特攻作戦が、現場で部隊は発意あるいは大西中将の英断を装って実施に移された。明らかに、作戦の指揮をとるべき軍令部の責任回避であろう。

特攻隊員たちは、苦悩して、それでも純真な気持ちで空母機動部隊目指し体当たりしようとしたのであろう。しかし、軍令部やその生き残りたちが流布した「大西中将は特攻隊員の生みの親」という俗説は、特攻隊員たちの心情を思うと、否定されるべきものとと考えられる。

日本軍は,1945年1月18日、戦争指導大綱で、本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃することを決定した。そのために,兵器開発も特攻が優先された。正攻法では,量,質の両面で連合軍に対抗できなくなっており,戦争末期,軍高官は,精神主義を振りかざして,全軍特攻化を決定し,特攻を唯一の対抗手段とした。

特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。

しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。



写真:(左)戦車揚陸艦LST-884号の乗員たち。
;戦利品の日章旗を誇示している。1945年4月1日特攻機の被害を受けた乗員が、ウルシー環礁海軍基地に無事帰還したときに撮影。LST-884 crew photo. Notice the many different uniforms, a result of the crews lose of almost everything in the fire. This picture was taken once the crew was reunited at Ulithi.
写真(右):米戦艦「ミズーリ」前甲板で祈りを捧げる米軍将兵
1944年夏撮影。排水量 45,000トン, 主砲 9門 x 16インチ(40センチ)砲の新鋭戦艦。1945年4月11日、沖縄で特攻機に襲われ小破した。
『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機に及んでいる。


このような特攻に関する分析から、現在の自爆テロを再考すると、興味深い類似点が明らかになる。特攻隊の心情を理解し、それに共感できるために、彼らを「自爆テロリスト」と同一視することはできない、したくないが。しかし、特攻隊が,戦闘的熱狂や興奮ではなく、静かな笑顔で、愛機と共に堂々粛々出撃し、突入散華できたのであれば,同じことを行う人々が現在いても軽蔑はできない。攻撃対象が一般市民であるとか,戦争中の行為ではないとかは,「攻撃成果」の観点からは問題ではないのだから。

<特攻と自爆テロとの関連を再考する>

自爆テロ(Terror)とは、自らの命を犠牲にした爆破行為,すなわち自爆によって,物理的,心理的,社会的恐怖心を引き起こし,所与の目的を達成しようとする行為であり,目的とは,戦果をあげること,政治的主張,家族を守ること,祖国を防衛すること,民族自立を図ることなど,さまざまである。自己の生命をもって,他人の生命・財産・平和人権を破壊する行為である。しかし,自爆者の視点からみれば,テロではなく,純粋な防衛あるいは建設的行為であり,愛国心,殉教,新世界の形成,伝統の維持,宗教的使命など積極的な意味を持っているのかもしれない。


写真:(左)1941年12月7日(日本時間8日),ハワイ真珠湾奇襲攻撃で炎上した戦艦「ウェストバージニア」
;米国では,真珠湾騙まし討ちとして卑劣極まりない行為として,反日感情が爆発した。2001年の9.11同時多発テロのときに,真珠湾以来のテロを受けたとして,マスメディア,大統領もその憤慨を公言している。
写真(右):真珠湾攻撃と世界貿易センタービルへのテロMichael Ramirez, California -- The Los Angeles Times


Suicide Attack/自殺攻撃と特攻・真珠湾攻撃との類似性
;9・11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃ANOTHER PEARL HARBORである。


写真(左):戦車揚陸艦LST-884号に突入した特攻機残骸;1945年4月1日、沖縄上陸当日に特攻機の被害を受けた。日本機搭乗員の遺体の跡にしるしが付けられている。Damage to LST-884 from Japanese kamikaze attack at Okinawa on 1 April 1945. Note twisted remains of aircraft and charred outline of Japanese pilot in the damaged area

世界の著名なメディア,政治的指導者にとって、あるいは世界各地の自爆テロを計画するテロ首謀者にとって,日本の特攻隊は,自爆テロ/殉教と同じように認識されているようだ。つまり,狂信的な天皇への忠誠心があり,国体護持のためには自らの生命も犠牲にしても惜しくはない。自分のような醜いものでも、天皇陛下をお守りする盾になることができる。天皇陛下万歳といって体当たり自爆する。
日本軍の将兵について、多数の連合国の市民や将兵が、「日本人は天皇を守るためには死をも厭わない狂信者である」「日本人は死ぬまで戦い続ける好戦的な侍の精神を持っている」「日本人は捕虜・敵国民間人など敗者を情け容赦なく処刑する」と認識していた。

このような日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連合国にとって、攻撃・反抗という破壊的行為を行ういう日本人は「テロリスト」と判断される。特攻隊は自爆テロリスト集団とみなされてしまう。

What was needed for America to dominate much of humanity and the world's resources, it said, was "some catastrophic and catalysing event - like a new Pearl Harbor". The attacks of 11 September 2001 provided the "new Pearl Harbor", described as "the opportunity of ages". テロ攻撃を知っていて見逃したという大統領陰謀説とあいまって,「9.11同時多発テロは,第二の真珠湾攻撃である」とも主張されている。(→A New Pearl HarborGeorge W Bush said what America needed was "a new Pearl Harbor"A Second Pearl Harbor?The Bush administration and September 11

On September 11, 2001, the topic of kamikaze hijackings suddenly became MUCH more interesting to everyone, as two airplanes smashed into the World Trade Center towers and utterly obliterated them, and a third crashed into the Pentagon.自爆テロとカミカゼ特攻は同じとも言われる。(→Kamikaze Jet HijackingWar on Terror Masks Bush's Grand Strategy

このように,自爆テロと,特攻および真珠湾攻撃と同じであるというのは,第一に,予期しえない卑劣な対米攻撃,奇襲攻撃という意味がある。そして,第二に,攻撃を,狂信的なテロと同一視し,攻撃者を狂信的な,理解しがたいテロリストとみなしている点である。

特攻の「(天皇の)大御心(おおみごころ)に沿うために命を投げ出す攻撃」という狂信・軍国主義あるいは宗教的心情・愛国心の側面だけを受け入れるのであれば、「自爆テロ/殉教と特攻は同じ」である。自爆テロも特攻も,狂信と洗脳が生み出したもの、あるいは殉教精神・祖国愛・家族愛が生み出したものであると対極的に論じられてしまう。


自爆テロと日本の特攻の異なる点として、
ー爆テロは無辜の民間人を標的にする卑劣な行為が、特攻は軍事目標に行われた英雄的行為である、
⊆爆テロは狂信的な宗教的妄信が生み出したが、特攻は祖国愛・家族愛が生み出した、
自爆テロは世界を混乱させる平和を乱す行為であるが、特攻は祖国と家族を守る平和のための行為である、
と主張されることもある。しかし、自分の命を犠牲にしてまで、叩き潰したいなにかがあり、その敵愾心は、民族や家族を守るための冷静な判断の下に、自己犠牲的に行われる破壊行為である点は共通している。

民間人も、食糧生産、兵器生産、補給、労働力として戦争に協力しており、無差別攻撃は軍事的にも、効果的である。また、敵愾心とは狂信的な一時的なものでなく、冷徹な論理一貫した憎しみである。ナチスのホロコースト、現代の自爆テロも、決して一時的な狂信的行為ではなく、計画された「作戦」である。


写真(左):前線の米海軍将校から戦利品の日本兵の骸骨を贈られたナタリー;米海軍中尉が、ニューギニアの海岸で見つけた日本への髑髏にサインして、フェニックス市に住む恋人ナタリー(Natalie Nickerson、20歳)に贈ってきた。中尉さんに返事のラブレターを書くナタリーにとって、髑髏は化石と同じで、不気味な思いをさせることはないようだ。Life掲載写真。

現代は短期決戦の時代のように言われるが、「テロとの戦い」は決して短期でも決戦でもない。長期間、いたるところで民間人のいる経済社会基盤(生産、流通、金融、輸送、エネルギー、水供給などの生活基盤)を巻き込み、世論を誘導して戦われる総力戦である。総力戦では,一般市民も世論の支持による戦争継続,ビジネス活動,納税・国債購入による軍資金提供,生産のための労働力,個人消費節約による軍需への資源の移転など,戦争協力している。こうなれば,(少なくとも敵から見て)みんなが戦争協力する敵対者とみなされる。「無辜の市民」はありえなくなる。

攻撃目標が、軍艦か輸送船か、あるいは兵士か民間人かは、総力戦にあっては目標選定の基準とはならない。敵の戦力,経済力,世論,生産基盤、金融、通貨の信用力などに、効果的な打撃を与えられるかどうかが、攻撃目標選定の基準となる。反対に,テロリストを捕らえ、殺害するるための戦争もありえるということだ。

写真(右):小月飛行場にいた特攻隊員と女子学生;Life掲載写真。山口県下関市の小月飛行場には、1944年7月、第十二飛行師団司令部が置かれ、西部地区防衛を担当。女子学生は、女史挺身隊として将兵の身の回りの世話(洗濯,裁縫,宿舎の掃除)や飛行機の整備、出撃の見送りに動員された。勤労動員された若者は、祖国と国民を愛し、犠牲的精神で特攻隊に志願した若者を尊敬し、英雄と見なしていた。しかし、米軍から見れば、特攻隊員は、日本の特攻機を操縦する卑劣な自爆テロリストであり、勤労学徒は、それを助けるテロシンパとされてしまうかもしれない。敵に情けをかければ,殺戮はできなくなるが,敵の残虐さ,卑劣さを心に刻み込めば,敵を殲滅するのにためらいはない。

総力戦であれば,軍艦に乗る乗員であっても,軍需生産,補給物資の運搬を担うような民間人であっても,重要な戦力として,攻撃対象となる。自分の命をかけて,祖国,家族を守るために,敵に打撃を与える必要があり,その攻撃目標は,航空母艦・駆逐艦など敵艦艇,輸送船など敵民間商船,あるいは金融センター・交通ターミナル・国防省など敵経済・軍事中枢など様々である。効果的な攻撃目標の選定が重要となり,民間人が含まれるかどうかは問題ではないともいえる。

軍艦1隻を沈没させるよりも,巨大ビル1棟を倒壊させるほうが効果は大きい。とくに,一般市民が特攻あるいはテロの標的にならないように,防御させることにつながれば,市民の安全を保障するためには至る所で、いつでも警戒しなくてはならず、膨大なコストを負担しなくてはならない。一般市民へのテロとその恐怖は,市民を守ろうとする政府や軍隊に,多大な負担をかける。テロリストから見れば,敵に負担を強要するには,一般市民を標的にして,殺害するテロが効果的である。トラック,戦車はいくらでも生産できるし,軍艦のは代わりもあるが,殺された人間の代わりはいないという意味で,テロの被害は大きい。

軍艦,軍用機,軍人を攻撃しようとしても,防備が固く、警戒しているために、戦果を揚げるのは困難である。軍事施設,軍艦、戦車に自爆テロを仕掛けても、多くは事前に発見,阻止されてしまう。また,「人の命の値段」=遺体捜索・運搬費用,葬儀費用,国家補償,生命保険,遺族年金などの負担は,高所得で人権を重視している先進国では,非常に重い。負傷者の医療や看護の費用も政府や家族が負担する必要がある。「人命は地球より重い」。人命が高価な敵に対しては,特攻による攻撃も人を対象にすることが,もっとも費用対効果が大きいといえる。

1944年後半の米軍に対する特攻も,空母や戦艦ではなく,ヒトを大量に殺すことを目的に、輸送艦、商船を攻撃するほうが,損害が大きく,米国の負担も大きかったであろう。米軍が日本本土侵攻をするにしても,その兵器の損害は回復できるが、失った兵士の命は取り戻せない。日本本土侵攻作戦に際しても,自国の若者の死傷者を如何に少なくするかが問題となっていた。原子爆弾の投下を正当化する第一の理由も,日本本土上陸作戦に伴う死傷者を抑えるため,というものである。(現実には,戦後の対ソ戦略や最新兵器の実戦使用への誘惑の影響が大きいが。)
米国に対して大損害を与えるためには、米軍将兵,米国市民を効率的に殺害すればよい。大量殺戮が可能になれば,戦局を挽回できる、戦争で優位なれる。こちらの物資,人員,資金を節約しつつ、効果的に敵を大量殺戮することが、戦争の当面の目標となる。----こんなに愚かしいことはない。戦争の本質とは,大量殺戮,大量破壊である。20世紀の大戦以降,戦争は決して外交の延長手段などではない。

写真(右):飛行場で別れの杯を交わす特攻隊員と指揮官;Life掲載写真。航空機を隠す掩護覆いのついた格納庫が整っているので内地の飛行場であろう。出撃の見送りをする指揮官は、大きな戦果を揚げてくれることを期待すると同時に、特攻隊員を目の前にして、死に行く若者を立派であると感じていたのではないか。特攻に出撃する部下が、送り出す指揮官よりも、精神的にはるかに上位にあるはずだ。しかし、特攻に出すもの,出されるもの苦衷は、彼らの顔からは読み取れない。特攻に出されるものは,この期に及んで恥をさらすわけにはいかず、同僚たちと同じく、にっこり笑って死ぬしかない。このように考えたのではないか。

他方,特攻隊・テロ実行犯として指名されたり、志願を強要されたりした若者は、運命を受け入れて、祖国、民族、家族、神の栄光のためと思って、死ぬことを自分に納得させる以外の道はない。
死から逃走、逃亡しようと思えば,特攻/自爆をやめて、同僚・周囲から非難され,家族を窮地に陥れ、さらに自分も抹殺されることを覚悟しなくてはならない。これが分かっている特攻隊員は、苦しんだ末、やはり特攻出撃するしかないのではないか。認知的不協和の理論からいって,自分の特攻死に意味がないとは,犬死だとは認める分けにはいかない。祖国のため,家族のために何か役に立てると信じ,あるいは残された者に期待できたからここそ,諦観し,特攻に出撃したのであろう。

北アフリカや南米で郵便飛行の仕事をし,大戦中,偵察機パイロットとして地中海で活躍したアントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリ Antoine Marie Roger de Saint-Exuperyは,1931年の『夜間飛行 Vol de Nuit』のなかで,「勇気というやつは,大して立派な感情からはできておりません。憤怒が少々,虚栄心が少々,強情がたっぷり,それにありふれたスポーツ的楽しさが加わったという代物です」と述べた。勇者と勇者が戦争という極限状況ででぶつかれば,殺し合いとなり,陰惨なものとなる。
ドゥ・サンテグジュペリは,1943年の『星の王子様Le Petit Prince』で有名なフランスの作家であるが, “War is not an adventure. It is a disease. It is like typhus.”「---戦争はチフスのようなもの」とも述べている。1944年7月31日,彼の乗ったP38「ライトニング」改造偵察機は,マルセイユ沖で墜落,彼は戦死した。彼の部屋には,General X宛ての手紙が残されていた。
"I do not care if I die in the war or if I get in a rage because of these flying torpedo's which have nothing to do with actual flying, and which change the pilot into an accountant by means of indicators and switches. But if I come back alive from this ungrateful but necessary "job", there will be only one question for me: What can one say to mankind? What does one have to say to mankind?"
「私は,戦争で死んでも,憤怒に陥っても,かまわない。戦争の道具として飛ぶことは,実際の飛行とは比べ物にならないのだから。それは,パイロットを計器とスイッチの一部にしてしまった。しかし,もし,この不快なしかし必要な任務から生きて帰れたなら,ひとつの問題が生まれるだろう。人は人類になんということができるのか,なんというべきなのか。」 

特攻やテロ行為は,戦争と同じく正当化することはできない。もし,特攻や自爆テロを,そして戦争が正当化できる大義があるのであれば,無防備な市民を効果的な攻撃目標として認めることになる。特攻,自爆テロ,戦争を許せば,平和は遠のいてしまう。

しかし,最も非難され、追及されるべき人物は、特攻隊員・自爆者ではないし,特攻隊員・自爆者の抱く犠牲的精神、祖国愛、殉教精神ではないであろう。
非難されるべき人物・行為とは次のようなものであろう。
‘湛饗癲自爆者(殉教者)を平然と送り出している司令官・参謀(テロ首謀者)たち、彼らこそ無防備な市民を殺害し,悲しみと報復を招来し,防衛措置をしいて,社会に余分な負担を負わせる。
特攻隊・殉教者を送り出したにもかかわらず「特攻・殉教は自然発生的に行われた」として特攻/自爆テロ作戦の責任を回避しようとする「特攻/自爆しない」司令官・参謀たち、彼らこそが特攻/自爆テロの現実的果実を不当に独占する。(特攻隊員・自殺攻撃者は死んでいる)
F湛供自爆のもつ「大義に殉じ、家族を守ろうとする犠牲的精神の発露」という一面を英雄的行為として過大に賛美し、プロパガンダを展開して、純真な若者に特攻(自爆テロ)を志願させ、愛国者,殉教者の名のもとにテロリストを育成、編成する行為、それを画策する政治的指導者・軍司令官(テロ首謀者)たち、彼らこそ,エセ大義のもとに社会から平和を奪う扇動者である。
彼らやその行為こそ憎むべきものである。特攻隊員の抱いた忠誠心・祖国愛・家族愛だけではなく,彼らの苦衷と特攻/自爆テロを展開した司令官への憤怒を心に留めることが,現代の我々には必要なのではないか。


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