鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑 2005
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◆沖縄戦での住民集団死(集団自決)・捕虜処刑 ◇渡嘉敷島・座間味島


写真(左):1945年4月頃,沖縄で米軍将兵にレーション(携行食糧)を手渡される沖縄の老婦人
;米軍は4月1日に沖縄本島に上陸し,軍政を敷いた。そして,沖縄の民間人を収容所やキャンプに隔離,収容した。U.S. Marine and Japanese civilian on Okinawa引用。写真(右):米軍に保護された沖縄の女性;米軍将兵の所望によって,手に施した刺青(イレズミ,タトゥー)を見せているのであろうか。 Amphibious Forces of WWII引用。

写真(右):米軍の民間人収容施設(捕虜収容所)の柵;1945年,沖縄住民を収容するために,沖縄本島,渡嘉敷島などに,日本人用の収容施設,テント部落などをつくった。

News
◆2011年8月13日ヤフーニュース「元隊員が語る特攻艇『震洋』」に当研究室が掲載されました。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦とスパイの話を伺った。
2008年6月23日「沖縄戦の慰霊の日」,沖縄戦の体験を語り続ける大城盛俊さん(75歳)は,語り部を引退することを決意した。沖縄戦を全国に訴える会会の大城さんは,沖縄戦の5月当時12歳で,父は,「男の子は何をされるか分からない」と案じて,おかっぱ頭にして女の子の服を着せた。戦時中、敵兵に捕まると暴行され殺されると信じ込んでいた。信じ込まされていた。住民が避難していたガマに入ってきた日本兵に黒糖を奪われそうになった大城さんは抵抗し,殴る蹴るの暴行を受け,右目を失明する大怪我を負った。母は,別のガマから大城さんに会いに来た帰りに,日本兵からスパイの嫌疑をかけられ,ガマに閉じ込められ,手榴弾で殺された。
住民を『スパイだ』と決め付けて虐殺したところも見た。捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は暴行され殺されると言い聞かせ、住民を死に追い込んだのは日本兵だ。」大城さんは,喉頭がん手術のため,人工発声器を使い全国で1230回講演をしてきた。

文部科学省2007年3月30日公表「2006年度の教科書検定」で、高校の地理歴史・公民では、沖縄戦の集団自決が「日本軍に強いられた」という内容に対し修正を求める意見が初めてついた。日本史では、沖縄戦の集団自決に関して「日本軍に強いられた」とした教科書7点が「命令したかどうかは明らかと言えない」と指摘された。

判断基準変更の理由
 峽海量仁瓩あった」とする資料と否定する資料の双方がある
慶良間諸島で自決を命じたと言われた元軍人やその遺族が2005年に名誉棄損の訴訟を起こした
自決命令の有無より住民の精神状況が重視されている
 この報道がなされた3/30-3/31の両日で本webへのアクセスは1万2600件を超えた。

沖縄一中 鉄血勤皇隊 岩波書店大江健三郎氏は2007年4月4日に「元少佐側の主張のみを取り上げて教科書の記述を修正させる理由としたことは誠に遺憾で、強く抗議する」との文章を伊吹文部科学相に送付した。文科省が「日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいる」とした教科書の訂正申請を承認した12月26日、本webへのアクセスは1万3300件を超え、沖縄戦の集団自決問題の重要性を再認識した。

◆大江健三郎氏は,『沖縄ノート 』の中で次のように述べた。「新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいっても米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、『命令された』集団自殺を引き起こす結果を招いたことのはっきりしている守備隊長が、戦友ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく,沖縄におもむいたことを報じた。僕が肉体の奥深いところを、息もつまるような力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この守備隊長が、かつて『おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい』と語っていたという記事を思い出す時である。」
 「沖縄ノート訴訟」ともいうが,沖縄の戦後を幅広く考察した1970年の著作は,ひめゆり学徒の生活,疎開,慶良間列島の海上挺進隊,チビチリガマ住民集団自決などの「沖縄ノート」ではない。が,ノーベル賞受賞作家の戦争判断は,著作発表後35年以上経って,政治問題化し,著作を読んでいない人の書評,所信表明も多数web掲載されている。

集団自決を命じたとの『沖縄ノート』(大江健三郎,岩波新書,1970年)の記述で名誉を毀損されたとして,集団自決訴訟(出版差止等請求事件,謝罪広告・損害賠償も含む)をおこしていた,陸軍海上挺進隊第一戦隊長梅沢裕少佐(陸士52期),第三戦隊長赤松嘉次少佐(陸士53期)側は,2008年3月28日の大阪地方裁判所第9民事部の一審判決で棄却された。
「沖縄の座間味島および渡嘉敷島の各守備隊長であった元軍人が住民に集団自決を命じたという記述及びこれを前提とした意見,論評の記述のある書籍について,元軍人及び遺族が,同書籍を出版し又は執筆した被告らに対し,同記述は虚偽の事実を摘示したものであり,元軍人は名誉,人格的利益を侵害され,遺族は亡元軍人に対する敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を侵害されたと主張して,損害賠償及び謝罪広告の掲載を求めた事案において,上記書籍の記述どおりの元軍人の命令を認定することはできないが,同命令があったことを真実と信じるについての相当の理由があったものと認められるなどとして,上記請求が棄却された」。

◆2008年2月,集団自決訴訟の一審判決直前,『証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』 (謝花直美著,岩波新書)とそれに反対する立場の『沖縄戦集団自決-虚構の「軍命令」―マスコミの報道ではわからない』(明成社)が刊行された。

2008年10月31日,沖縄集団自決訴訟の二審大阪高裁判決:請求を退けた一審・大阪地裁判決を支持、控訴を棄却。判決理由;集団自決に「日本軍が深くかかわったことは否定できず、総体としての軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」。 

◆沖縄戦の海上挺進隊の被害は,座間味島の第一戦隊は梅澤隊長は捕虜になったが,第一中隊長伊達達也中尉(陸士57期)・第二中隊長阿部直勝中尉(陸士57期)・第三中隊長津村一之中尉(陸士57期)名を含め戦死70名。第二戦隊は,野田義彦少佐(陸士52期)は捕虜となったが,第一中隊長大下真男中尉(陸士57期)を含め戦死41名,渡嘉敷島の第三戦隊は,赤松隊長は捕虜になったが,戦死22名。沖縄戦の捕虜まつわる歴史的背景は,重要である。ひめゆりの塔

◆1945年,沖縄本島「学徒出陣壮行会」には沖縄女子師範学校の女学生も参加した。宮良英加の答辞。「私は,徴兵検査が繰り下げになって,19歳から入隊しなければならないということを聞かされた時,頭の先からつま先にかけて,鉄の棒を突き刺されたようで,非常に残念でたまらなかった。師範学校に入学したからには,一度は生徒を教えてみたかった。----しかし,いったん戦場に出たからには,生きのびて帰れるとは思えない。女の人は,男子より助かる機会が多いから,生き残ったら必ず伝えて欲しい。戦争は非常なものだ。どんなに勉強したくてもできない。したいことがまだまだたくさんあったのに。戦争のない時代に生まれたかったということを,のちのちの人に伝えて欲しい」(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』pp.73-75参照)。

1.米空母任務部隊は,1945年3月,沖縄攻略の前哨戦として,沖縄,九州,本州を艦載機で攻撃し,重爆撃機B-29で本土の都市を無差別爆撃した。悪化する戦局のなかで,本土決戦の準備次官を稼ぐために,日本陸軍は,沖縄を持久戦の場,「捨石」として位置づけた。

1945年(昭和20年)3月,米軍の沖縄攻略計画「アイスバーグ作戦」発動:中国沿岸、日本本土を爆撃圏内に入れ,中国・南方から日本本土への海上輸送ルート(Sealane)を完全に遮断する。本土空襲をした爆撃機の不時着基地としても活用。

1944年7月7日サイパン島陥落後,日本は,「疎開」を開始した。
1944年7月19日,沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令,学校単位で疎開を開始。沖縄守備隊が,本土,台湾,中国大陸から沖縄に移駐すれば,沖縄の食糧・用地・施設を軍が確保する際,沖縄住民,民間人が足手まといになるからである。1944年7月から1945年3月の最終疎開まで、沖縄から出航した疎開船は,延べ187隻,疎開者は約8万人に達する。
1944年8月22日2223,疎開船「対馬丸」が撃沈。7-14才の学童疎開者775名(引率者を含め804名),一般疎開者569名が殺害。疎開船「対馬丸」撃沈


ビラ(右):米軍が航空機から撒いたビラ
;サイパン島,硫黄島を攻略した米軍は,日本の都市を爆撃,空襲して灰燼に帰すことを予告している。恐怖によって日本人の厭戦気分を高め,軍民離間を策した。ビラを拾った者は、警察にビラを届けることになっていた。


1944年11月,サイパン島,テニアン島などから,日本本土にB-29爆撃機が空襲を開始。(中国からの日本本土空襲は1944年7月)
都市無差別爆撃では、労働者の住宅の密集する住宅地を標的に、軍需生産を担う労働者を殺害、家屋を破壊し、戦意を挫こうとした。

1945年3月、米軍の沖縄攻撃は,日本本土空襲,国体変革の危機の時期である。沖縄は,本土決戦の準備時間を稼ぐ捨石となった。

天号作戦指導要領
1.1945年3月末を目途に航空作戦準備を完成し,来攻部隊を撃破。 
2.航空作戦の主要目標は輸送船団。
3.米空母任務部隊の撃滅のために,空母部隊が本土に来攻した場合,本土配置の特攻兵力の全力を使用。南西諸島方面に来攻した場合,特攻兵力の一部を使用。
4.航空基地を整備し,地上部隊による確保にも配慮。

1945年3月26日,米軍の慶良間列島上陸により,連合艦隊司令長官豊田大将は「天一号作戦」を発動。 

写真(右):1945年4月1日,14インチ砲を射撃する米戦艦アイダホBB63:高速戦艦は空母の護衛任務に、低速旧式戦艦は上陸部隊への支援射撃を担当した。沖縄住民の中には,沖合いに集結していた米国艦船を見て,日本軍の演習が始まったと誤解したものもいた。当時の沖縄住民が,どこまで米軍の艦船,航空機,地上兵力の優位を認識していたかは不明であるが,日本軍のプロパガンダを真に受けて,敵撃滅作戦を本気で信じていたものも多かった。

1944年6月にサイパン島が攻略されると,日本軍は,フィリピンと沖縄の防衛を強化する。沖縄方面には,1944年2月設立の陸軍第三十二軍があった。その司令官に新たに牛島満中将が任命され,第九師団・第二十四師団・第六十二師団が増強され,第三十二軍直轄部隊として砲400門以上を擁する第五砲兵司令部も置かれた。


写真(右)米軍太平洋方面艦隊司令官ニミッツ提督
;1940-41年撮影。1945年3月26日,慶良間列島上陸と同時に,軍政布告を行った。1941年12月16日に,太平洋艦隊司令長官に就任。1945(昭和20)年3月26日 アメリカ海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)を公布。


第三十二軍:沖縄陸軍守備隊8万6,400名,民間人からなる沖縄県民防衛隊・学徒隊・義勇隊2万2,000名。沖縄方面海軍根拠地隊(司令官大田實少将): 1万名。(→米軍の予測した日本軍地上兵力) 

米軍地上兵力:上陸時の総兵力18万3,000名。15万4,000名が7個師団に配属,全てに戦車大隊,トラック・トラクター大隊が付属。 

米軍の第一波沖縄上陸部隊は,総勢 11万6,000名。 

第1海兵師団Marine Divisions2万6,274名,第6海兵師団 2万4,356名のほか,2500名の建設大隊naval construction battalionが付属。
米陸軍の第7師団,第77師団,第96師団は1個師団当たり平均2万2000名。各師団に,1,000名の新兵understrength in organic infantry personnelがいた。
第27師団1万6,143名は予備軍(新兵2,000名)。第2海兵師団(予備軍)2万2,195名。 

Battle of Okinawa/Wikipedia によれば,沖縄戦の参加者・死傷者は次のとおり。米軍兵力は作戦当初15万名から最終的には30万名まで増加。 

写真(右):日本軍の沖縄守備隊司令部;1945年撮影。台湾の安達将軍指揮下の第10方面軍の隷下にあったが,台湾の地上部隊は,孤立しており,沖縄戦に寄与できなかった。

日本陸軍兵力:7万6,000名,民間兵士2万4,000名。
米軍の損害:死者1万8,900名,負傷者3万8,000名,戦闘以外の負傷者non combat wounded 3万3,096名 , 航空機763機喪失。 

日本軍の損害:兵士の死者7万6,000名以上,民間兵士(動員された住民)死者2万7,000名
    投降・捕虜7,455名 surrendered/captured (日本人2,300名), 民間人死者10万名以上(⇒沖縄戦の統計

2.日本軍は慶良間列島(座間味村と渡嘉敷村)には米軍は上陸しないと考え,水上特攻隊を配備し背後から米軍艦船を攻撃する計画だった。しかし,米軍は,迫地と補給基地を確保するために,沖縄本島上陸前の1945年3月26日,慶良間列島に上陸した。 

 1944年3月に海軍軍令部は「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定,1944年5月27日,な軸錣了邵酊,すなわち後の「震洋」が完成。乗員の準備は,1944年7月5日,つ第一次要員が発令され,7月15日に講習が開始。

軍という厳格な階層・命令社会では,将兵個人の力で,特攻兵器の試作,特攻隊編成は不可能である。
独断での兵器の特攻仕様への改造,勝手な部隊編成は,命令違反の抗命罪,専権罪として,軍法会議で処罰の対象となる。 

特攻艇は,フィリピン,沖縄本島,慶良間列島,志布志湾,房総海岸など,米軍の侵攻が予想される地点に配備。1945年1月9日,フィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してた米軍に対して使用。(→水上特攻隊のフィリピン戦での戦果) 

写真(右):慶良間列島の水上特攻艇;日本海軍「震洋」,陸軍「マルレ」には,洞窟陣地に秘匿されていたものもある。しかし,300隻もの特攻艇を隠匿できる壕はなかった。特攻艇は,薄いベニヤで,木製船体で,出力70-80馬力。爆雷depth charges2発,合計260ポンドを搭載。爆雷は,手動投下するか,体当たりの衝撃で爆発。艇は緑色に塗装。米軍は体当たり特攻攻撃をかける爆薬装備のモーターボートを、Sucide Boat(自殺艇)と呼んだ。これらは米軍に鹵獲されたもの。

日本陸軍では,自爆特攻「マルレ艇」を配備した海上挺進隊を編成,沖縄本島西方の慶良間列島に展開。渡嘉敷,座間味には「球」の秘匿名称の海上挺身第一から三戦隊があり,その下に特設水上勤務中隊があった。(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍引用)

渡嘉敷村の歴史によれば,沖縄本島に上陸する米軍の背後を奇襲しようと、慶良間列島に特攻艇200隻を配備。 

Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻によれば、慶良間列島には、海上挺進隊Sea Raiding unitsなど2,335名の日本軍兵士,特攻艇約300隻,600名の朝鮮人労働者が配備。挺進隊は、特攻艇用の爆雷,機銃,迫撃砲も保有。  

写真(右):米軍に保護された「自殺艇」;ダグパンで米軍が鹵獲。

 
慶良間列島が艦船の停泊に優れているために、米軍は、そこを補給基地,修理泊地としようと,沖縄本島への上陸に先立って攻撃、占領した。

特攻艇出撃命令は,1945年3月27日,第22、第42震洋隊に,3月29日に第42震洋隊に,4月1日に第22震洋隊に下った。戦果不詳。1945/03/26(日本側27日)に渡嘉敷島沖で駆逐艦「ハリガン」DD-584 USS HALLIGAN(フレッチャー級)が撃沈。米軍は機雷によるというが,特攻艇の戦果かもしれない。1945/04/04中城湾で,日本軍の水上特攻艇はLCI(歩兵上陸用舟艇)を撃沈。 

日本陸海軍は,特攻艇のほか,人間爆弾「桜花」など秘匿すべき奇襲兵器を,簡単に米軍に鹵獲されていた。日本軍の特攻兵器の戦果が芳しくなかったのは,日本軍の作戦準備の不十分さにも要因がある。 

渡嘉敷村の歴史は,慶良間列島の戦いは、次のように描写:

日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後を奇襲しようと、慶良間の島々に海上特攻艇200隻を配備。
米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、3月26日には座間味の島々に、3月27日には渡嘉敷島に上陸。沖縄本島上陸作戦の補給基地として攻略。 

 ⇒沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

写真(左):慶良間列島;LSM(R)のMK 30 ロケット弾で砲撃された。島の日本軍部隊は、上陸した米軍に大きな反撃を加えることはなく、潜伏を図った。慶良間列島は、小さい島だが山が険しいために、日本軍は終戦まで、降伏することなく生き延びることができた。

米軍のSeizure of the Kerama Islandsは,次のように述べている。 

3月26日午前,米陸軍第77師団の大隊上陸部隊battalion landing teams (BLT's)は慶良間列島に上陸。LSTを使い,阿嘉,慶留間,外地,座間味の四島にも上陸。巡洋艦,駆逐艦などが海岸を5インチ砲で地ならし。空母艦載機は,日本軍の潜水艦,航空機の攻撃を警戒して上空援護。米軍は日本軍を撤退させ,慶良間列島を占領。(引用終わり)

慶良間列島には,日本軍兵士や住民が丘陵に隠れていたが,米軍は積極的には掃討をしなかった。特攻出撃して未帰還の隊員もいたが,島の日本人は,多数が,戦後まで生き残った。

水上特攻艇の搭乗員や整備員は,丘陵に避難し,玉砕をさけた。低性能の特攻艇で自爆するより,地上で持久戦を戦うことを選択したのか。 

米陸軍公刊戦史『沖縄−最後の戦い』第二章:慶良間列島には日本軍将兵2,335名が配備。 米第77師団は,日本軍が慶良間列島に配備していた350隻以上の特攻自爆艇suicide boatsを破壊または鹵獲。

 慶良間列島攻略戦における米軍の死傷者は少なく,3月26-31日で,第77師団の将兵31名が戦死,81名が負傷。敵530名を殺し,121名を捕虜にした。

 
写真(右):座間味島の米陸軍墓地
;1945年7月撮影。海軍の兵士も埋葬されている。後に遺体は,米国へ再埋葬された。U.S. Armed Forces Cemetery, Zamami Shima, Okinawa, July 1945.
 

座間味村公式HPでは,戦中の様子,戦後の軍政を,次のように記している。
1945年3月22日米軍は数百の艦艇で慶良間列島を囲み海空から砲爆撃を行ない、遂に1945年3月26日沖縄戦の第一歩となる上陸を印すこととなった。当時戦争の犠牲となった村民の数は村三役を含め402名に達した。

米軍は座間味島に駐屯して住民は軍の保護を受けるようになり、本村、渡嘉敷村、渡名喜村の三村を統合する慶良間列島制を施行し列島長及び各部落長が軍から任命された。1945年8月軍は各部落代表を招集して戦後初の列島自治制施行を布告し列島議員の選挙及び列島長の選挙を施行し住民の治安が維持された。

1946年4月列島制度が廃止され同年5月軍の命令により村長並びに諮問機関として村政委員(戦前の村議会議員)が任命され行政組織が整えられた。

座間味港をのぞむ道端に石碑がある。そこでには,「太平洋戦争沖縄戦上陸第一歩の地  昭和二十年三月二六日午前九時上陸」とある。

 3.1945年3月末、米軍の慶良間列島上陸直後,渡嘉敷島,座間味島などで,沖縄住民は,米軍による虐待・処刑を恐れて,集団死/集団自決した。  


写真(右):座間味島からの慶良間列島;多数の島々の浮かぶサンゴ礁の島で,沖縄地上戦が開始され,多数の住民が亡くなった。高月山展望台の近くに,平和の塔が立っている。1945年3月22日米軍は慶良間列島に海空から砲撃を行い、座間味島に同月26日沖縄戦の第一歩となる上陸が行われた。集団自決者402名を含め軍民あわせて1,220柱の英霊を平和の守り神として合祀してあるのが平和の塔である。(1957年3月建立)
座間味島高月山展望台から阿護の浦、古座間味を望めば,ここが戦場であったとは思えない---といった感想を抱く場所である。
座間味村の人口は, 座間味島 650人,阿嘉島 342人,慶留間島 85人の合計1,077人。(2005年11月末時点)


慶良間列島座間味島(座間味村)には戦時中、水上特攻艇関係の陸軍部隊が約1,500名駐屯していた。1945年3月26日、米軍が上陸した。「住民の戦闘意識は激しく、女子青年隊まで組織して戦った」と記述するweb資料もある。また,軍に半強制的に徴用され,軍に労働力や下級の兵卒として奉仕することを強要された。 

母の遺したもの 新版 宮城晴美(2000)『母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい事実』高文研 (座間味島の集団自決の生き残りの証言)では、次のように語られる。
座問味村は1901年に沖縄ではじめてのカツオ漁業を開始、それが軌道に乗り出した明冶末期から子どもたちを上級学校に送り出し、教育熱が高く、皇民化教育を受け人れる土壌が整えられていた。

1944年9月、座間味島に日本軍が駐屯,島に特攻艇の秘密基地が設けられた。そこで,漁のため小舟を出すにも軍の許可証を必要とした。また, 日本軍の駐屯で、ほとんどの家が兵隊の宿舎となり、住民たちは裏座敷に住みながらも、兵隊と交流した。その中から「戦陣訓」を学び、在郷軍人(退役軍人)から中国戦線で日本軍が中国人を相手に行った残虐行為が伝えられ、敵に捕まったときの惨めさが語られた。日本人は,戦陣訓に呪縛されていたというより,捕虜となれば,敵から,あるいは家族が日本人から,どんな目にあうかを心配し,恐れていた。

写真(右):戦車揚陸艦LST-649;1945年3月26日慶良間諸島Kerama-Retto上陸時のLST(排水量 1,625t).. AMTRACS scurry around unloading troops and equipment and LCT 1409 has yet to be unloaded from the LSTs main deck and put into operation. This was LST-649's first day participating in the Invasion of Okinawa, 26 March 1945.

1945年3月25日、三日前から続いた空襲に代わって、座間味島は艦砲射撃された。方々で火の手があがり、住民は壕の中に穏れ、おびえていた。夜おそく「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令の声が届いた。伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している、有力著の一人から一緒に来るように言われ、四人についていった。 

有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最期のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんぱかりのショックを受けた。 

いつ上陸してくるか知れない米軍を前に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返したが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ぬ前に仲間たちと軍の弾薬は運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけたのである。

伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に「自決」とか「玉砕」という言葉を聞いていない。「忠魂碑」の名が出たことが、住民たちを「玉砕思想」へと導いたようだ。海を一面に見下ろせる場所に建てられた忠魂碑は紀元2600年(1940年=神武天皇即位以来2600年--)を記念して、座間味村の在郷軍人会、青年団によって1942年に建立された--- 

太平洋戦争の開戦日(1941年12月8日)を記念して毎月八日に行れれた「大詔奉戴日(たいしようほうたいび)」の座間味島での儀式の場所であった。これは住民の戦意高揚をはかるのが目的で、儀式の内容は、宮城遥拝「君が代」「海ゆかば」斉唱、村の有力者や在郷軍人会による、戦勝にむけての訓話などであった。 

この忠魂碑に集まれというのだから、住民としては「自決」ど結びつけざるをえなかった。結果的には、住民は激しい艦砲射撃のため、忠魂碑に集まることができず、それぞれの壕で一夜を明かしたものの、翌日、上陸した米軍を見て住民がパニックを起こして家族同士の殺し合いが始まった---。 

住民の集団自決は「生きで捕虜になるよりは、死んだほうがいい」という戦陣訓と、「敵につかまると女は強姦され、男は八つ裂きにして殺される」という皇民化教育や在郷軍人会の教えによるものであった。(→母の遺言 宮城晴美女史引用。特攻隊(特攻艇の整備部隊を含む)隊長だった梅沢・赤松の両隊長は,生き残り,米軍の捕虜となった。)

渡嘉敷島は,15.3平方キロ,周囲19.6キロ,最高海抜 227m の小島だが,そこでも1945年3月末に住民集団死があった。


米陸軍公式戦史『沖縄−最後の戦い』ChapterII:Invasion of the RyukyusSeizure of the Kerama Islands

In Kerama Retto, "Island Chain between Happiness and Good," the Japanese tradition of self-destruction emerged horribly in the last acts of soldiers and civilians trapped in the hills. Camping for the night of 28 March a mile from the north tip of Tokashiki, troops of the 306th heard explosions and screams of pain in the distance.

In the morning they found a small valley littered with more than 150 dead and dying Japanese, most of them civilians.
Fathers had systematically throttled each member of their families and then disemboweled themselves with knives or hand grenades. Under one blanket lay a father, two small children, a grandfather, and a grandmother, all strangled by cloth ropes.

Soldiers and medics did what they could.
The natives, who had been told that the invading "barbarians" would kill and rape, watched with amazement as the Americans provided food and medical care; an old man who had killed his daughter wept in bitter remorse.


写真(右):現在の渡嘉敷島
;渡嘉敷村全戦没者日本兵76人、軍属87人防衛隊41人、住民368人。8月19日 水上特攻隊を率いていた赤松大尉、国民学校々庭にて武装解除降状。(→渡嘉敷村の沿革(1/3))
 

Only a minority of the Japanese, however, were suicides. Most civilians straggled into American positions, worn and dirty.
In all, the 77th took 1,195 civilian and 121 military prisoners. One group of 26 Koreans gave up on Zamami under a white flag.

On Aka one Japanese lieutenant surrendered voluntarily because, he said, it would be "meaningless" for him to commit suicide. A Japanese major captured by a patrol on Zamami late in May assisted in efforts to induce Japanese remaining in the islands to surrender. (引用終わり) 

写真(左):渡嘉敷島住民の集団死(?):第32連隊の布陣地帯からのがれようとして、弾丸に倒れた非戦闘員たち(6月21日)ともいう(沖縄県平和記念資料館:沖縄戦米軍記録写真140)。同じ写真は,『決定版 日本の終戦46人の目撃者 米国国防総省報道写真班の証言秘録』1985年 双葉社にもある。
 他方,座間味村で67名が犠牲となった「産業組合壕」を、米軍が上陸後に撮影したとみられる映像が,沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会保有フィルムに収録。これは,慶良間諸島に上陸した米第77師団が座間味島を撮影した一連のフィルムの中にあったという。
 画像資料には,撮影時期,撮影場所,撮影者,被撮影者の死亡原因などの記録がない場合が多い。また,戦利品,「戦果」を記念撮影する場合,自己顕示欲から「自分たちの戦果」と解釈することもある。

1944年9月8日 鰹漁船嘉豊丸、源三丸、神佑丸、信勝丸、同乗組員130人軍需部漁労班に徴用。村営航路船嘉進丸、軍船舶隊に徴用。日本軍基地隊、鈴本少佐以下1,000有余人駐屯部落内民家、小学校々舎を隊員宿舎に駐屯。9月20日 赤松嘉次大尉を隊長とする特幹船舶隊130人入村、渡嘉敷、渡嘉志久、阿波連に駐屯。 10月 防衛隊員79名現地徴集。1945年1月 青年会、婦人会に徴用令。学童6年生以上軍に協力。鈴木部隊沖縄本島へ移動、朝鮮人軍夫220人入村。3月27日米軍渡嘉敷島上陸、翌3月28日の住民集団自決で329人死亡。6月23日 牛島中将自決。渡嘉敷村全戦没者日本兵76人、軍属87人防衛隊41人、住民368人。(→渡嘉敷村の沿革(1/3))

米国陸軍公式戦史『沖縄−最後の戦い』Seizure of the Kerama Islandsの鳥飼研究室邦訳
慶良間列島とは「慶びと良いことの間に連なる島々」の意味であるが,そこで、丘陵に追いつめられた軍人・民間人が日本人の伝統として自決し、悲惨な末路を辿った。

写真(右):2001年1月撮影の渡嘉敷島空中写真;右の入り江が渡嘉敷村の集落。  

1945年3月28日夜半,渡嘉敷島北端に野営していた米第77師団第306連隊の兵士たちは、遠くで爆発音が鳴り苦痛の悲鳴があがるのを聞いた。
翌朝,兵士たちは,小さな谷間で,死体や死にかかっている日本人150名以上がうずくまっているのを発見したが,その大半は住民であった。父親たちは,自分たちの家族一人ずつの喉をかき切り,その後,短刀や手榴弾で自らの命を断った。

1枚の毛布の下に、父親,幼い子供2人,祖父母が身体を一緒に着物の帯で縛り、離れないようにした上で自殺していた。

米兵も医療班も最善を尽くした。  
住民は,侵攻してくる「鬼畜ども」が,殺人とレイプをすると思っていたが,アメリカ人が食食糧と医薬品を提供してくれたので,大変驚いて見つめていた。わが娘を殺したというある老父は後悔の念から泣き伏した。

(→米軍陸軍公式戦史Seizure of the Kerama Islandsを邦訳紹介した大田昌秀・前沖縄県知事講演「戦後沖縄の挑戦」

しかしながら,自殺した日本人は少数派である。大半の民間人は,米軍に疲れきって,米軍にばらばらに収容された。結局,第77師団は,1日本の1,195名の民間人と121名の軍人を捕虜とした。26名の朝鮮人の集団は,座間味島で白旗を掲げて投降した。

阿嘉島では,日本軍中尉が自発的に投降したが,これは彼が言うに,自殺することなど意味ないことだからである。5月後半,座間味島の米軍パトロールに,日本軍少佐(第一戦隊長梅沢裕少佐)が捕虜となり,慶良間列島に残っている日本人を降伏させることに協力した。

◆集団自決「命令」の推測:沖縄戦初期に座間味島守備隊長(第一戦隊長)梅沢裕少佐は,戦意を鼓舞するため,普段から,いざとなったら自決すべきであると,公言し,自らを奮い立たせていたのか。忠実な,特に下級兵士や住民は,尊敬する隊長の「放言」を,「命令」として聞いていた。戦時中,島の最高指揮官の公言したこと(言霊)を,彼の部下ではない,軍人ではないからといって,無視した日本人は,一人もいなかったはずだ。
 梅沢少佐は,米軍の捕虜となって,日本軍民の投降勧告に協力した。しかし,守備隊長が,徹底抗戦,玉砕しなかったことを責め,捕虜になったことを恥だと批判するのは誤りである。勇士でも命を「捨てる」ことはできないし,しないものだ。



写真(右):米軍に鹵獲された日本陸軍の九一式手榴弾;九七式に続き九九式手榴弾が制式。外国製に比べて炸薬が少なく、威力が小さいが,擲弾筒から発射できる。三月二十七日,集団自決を体験した渡嘉敷島生まれの当時十六歳の金城重明は、軍から手榴弾が二個あらかじめ渡され(一個は敵に投げ、もう一個は自決用)ていた事実をあげて、軍によって「集団自決」への道が事前に備えられていたとする。攻撃用あるいは自決用に住民に手榴弾が手渡されていたのであれば,自決命令が口頭ででていたともいえる。
米軍に鹵獲された九七式手榴弾もある反面,沖縄住民を徴集して編成された民間防衛隊には,ほとんど武器は支給されなかった。 

 
渡嘉敷島の戦没者数:日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人。一般住民368名の犠牲のうち,守備隊長の命あるいは追い詰められての集団死の犠牲者329名とされる(→渡嘉敷村史資料編)。

1957年3月,「平和の塔」が,集団自決者402名を含め、軍民1220柱の英霊を慰める平和祈願の塔として建立。 

「渡嘉敷村の歴史」記載渡嘉敷島の少年(当時14歳)による住民集団自決体験談
アメリカが上陸するまでは、西側(部落の)壕にいたが、その夜(26日)防衛隊が「敵が上陸して危険だから移動しろ」と、いう事で、一応南側の山に避難した。シジミチ山で一晩すごしました。そこから見える慶良間海峡には、軍艦がいっぱい並んでいるのが見えて、もうそこら辺りにも敵は入りこんでいるなと思って、また、部落に降りて北山に行った。
 その日は、だいぶ雨が降って、母の両親は、もう年で歩くこともできない状態で、じいさんばあさんに「あんたたちは、若いから、出来るだけ命を永らえるようにしなさいよ」と、いわれ、別れました。その夜、北山の、今、玉砕場とよばれている処についた。 

 僕らは、手榴弾なんか持ってなかったけれど、隣りに座っていた人たちや他の人たちは持っている人もいた。親戚 同志で集まり座っていた。僕らは、夜明け前に着いたが、夜が明けてから村の人たちが、どんどん避難してきた。どこから命令があったのか知らないけど,みんな集まって来るから、僕は、そこが安全な避難場所だとばかり思っていた。 

 誰が音頭をとったか知らないが、”天皇陛下バンザイ”と三唱やった事を覚えている。しばらくして、母が、振子のような”カッチ、カッチ”と、いう音を聞いて同時に、あっちこっちで爆発しはじめ、僕らは、びっくりしてうつぶせになった。
やがて、静かになったと思って顔をあげると、周りは、血だらけで倒れている人、死んでいる人でいっぱいだった。
僕らの家族、おばの家族と母の兄弟の子どもたち7名全員無事だった。

 その後は、ごろごろ死んでいる人、傷を受けた人たちは、ものすごい悲鳴をあげている。ここに居たら大変だ、と怖くなって、川の下流の方に逃げていった。 

 川下は、ちょっと安全な場所だったから、そこで日が暮れるのを待ち、自分たちの元の壕にに戻ろうという事になった。元の壕に帰るには、山の地形で、もう一ぺん玉砕場を通らなければならないし、暗闇のなかを、倒れている(死んでいる)人たちの間を、手さぐり、足さぐりで通 って、北山の頂上まで登り、そこから尾根を越えて南側に降りていったら泉があるので、そこで一晩すごした。 

 そこには、島の東の海岸にいた人たちが避難していた。2日間、食べ物もなく、水だけ飲んで山を登ったり、降りたりして、3日目にやっと元の壕に帰る事が出来た。上陸したアメリカ軍は、一ぺん船にもどり、日本兵が、だいぶ生き残っている事を知ったかどうか、再上陸して来た。アメリカ軍が再上陸しない前は、部落を出歩く事も自由で、山羊や羊、豚を捕まえてはつぶし、食事もそんなに不自由しなかったが、生き物も捕りつくし、仔山羊なんか捕まえて、壕の近くで飼ったりもしていた。


写真(上):沖縄戦で戦死した日本兵(左)と米軍に収容された沖縄の婦女子(右)


 再上陸の後は、ずーっとアメリカ軍は居続けて、部落に降りる事も出来ない状態になった。しばらくして、伊江島の人たちが入って来て、アメリカ軍は、部落内にテントを張り、陣地を構え、伊江島の人たちの保護をしながら、時どき斥候を出して、山に登って機関銃を射ったりするものだから、おじいさんの掘った壕にも居られなくなり、山の中に、新しい壕を掘って、終戦まで生活していた。

 食べ物は、底をついて、芋も掘りつくしたが、かずらを植える余裕もないし、ソテツを倒して、デンプン採ったり、野草を食べたり、ソテツは、5月頃から食べはじめていたでしょうね。
 夜になると、ソテツを倒しに行ったが、その頃、アメリカ軍は、あっちこっちに地雷を埋めてあって、それを踏んで死んだ人もたくさんいる。稲が植えてあったから、穂を摘んで、一升ビンで精米して、ソテツを混ぜて食べましたね、あれは、だいぶ助かった。 

 たまたま米軍の船が特攻機にやられた時など、缶詰、メリケン粉、卵の粉、コンビーフ、ビスケット、野菜缶 などが、海岸に流れてきたのを、夜になって採りに行ったりもした。慶良間海峡のアリガーという所は、よく漂流物が着くところだったが、年配の人たちが採りに行って、アメリカの軍艦から攻撃されて、やられた人もいる。みんな命からがら逃げ帰ったり、食べ物あさりも命がけで、結局はそういう状態が8月まで続いて・・・・ 

 アメリカーと、最初に出会った人は、”芋掘りをしているところを捕まったが、別に撲ったり、乱暴されたりもしなかった”という情報が入ったりしているところに、島の防衛隊が、斥候に出て、アメリカーの監視哨を突破して、部落内に入り込んで、伊江島の人たちをびっくりさせたらしいが、伊江島の人たちの話では、アメリカーは、何にも危害を加えない、食糧もくれると、いう話が伝わって来た。僕らは、山にいて食べる物もない、このままだと死んでしまう、それより山を降りようと、集団で(8月)17、18日に山を降りた。 

 しかし、日本兵が監視しているから、そこを突破しないと、降りられないし、芋掘りに行くんだと、嘘をついて、部落の反対側に夜おりて行ったら、アメリカーが待っていた。あっちこっちの山から、3日くらいで全部おりてきたようだった。部落内の残っていた家には、伊江島の人が住みついているので、山羊小屋に床を張ったり、アメリカテントに集団(数家族)で入ったりした。(⇒「渡嘉敷村の歴史」戦争体験引用終り)

写真(右):シュガーローフ・ヒルの日本軍を攻撃する米兵;丘陵地帯は石灰石でできており,頑丈な地下壕や洞窟陣地を日本軍は築いていた。トラック木造建築が多い沖縄では,砲爆撃に耐えられるような軍事施設の多くは,地下に作られた。他方,慶良間列島では海岸部分の洞窟(特攻艇隠匿用)は直ぐに米軍に発見されてしまうため,抵抗は放棄されている。秘密兵器の特攻艇を破壊しないままに鹵獲されたところもあり,多数の写真が残っている。水上特攻隊員は,体当たり訓練だけで,陸戦訓練も陣地構築も行っていない。これでは,山中に退避するしかない。 

 
60年目の証言 沖縄戦「集団死」の真実
沖縄キリスト教短大金城重明名誉教授は、沖縄戦で住民が互いに殺しあう『集団死』を体験した。
1945年3月26日、金城さんが住む渡嘉敷島に米軍が上陸。圧倒的な兵力を前に成す術がない住民たち。旧日本軍から見放され、行き場所をなくし極限状態の彼らは捕虜となったら死ぬ以上の苦しみを受けると教えられ、米軍を恐れていた住民は集団死に追い込まれた。「紐を使ったり棍棒を使ったり刃物で頚動脈を切ったり…何でも手に取る物は凶器になった」 

当時16歳だった金城さんは、両手に持った石を何度も母親の頭に打ち下ろした。妹と弟の命も自らの手で絶った。「自分たちだけ生き残ったらどうしようと。早く死ななくちゃ、という状況で、ある一人の少年がここでこんな死に方するよりは米兵に切り込んで死のう、と」。棒切れ一つで米兵に挑んだ金城さん、しかし、捕虜となり生延びることとなった。 

4.1945年3月末の座間味島,渡嘉敷島における沖縄住民の集団死あるいは集団自決には,軍の自決命令があったかどうかで,事実認識に食い違いがある。軍人が民間人に命令する権限はないから,軍人が民間人に対して,「いざとなれば自決せよ」と言っても「放言」にすぎない。しかし,実直な住民にとって,尊敬すべき軍人の「自決せよ」の放言は,日ごろからの皇民化教育とも合致しており,命令と同じく,尊重され,実行された。  

沖縄集団自決冤罪訴訟では,集団自決をさせた命令はなかったとして,訴訟を起こしている。
渡嘉敷島の第3戦隊長赤松嘉次大尉を隊長とする海上特攻隊130名は,上層部の命令により特攻出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した。
そして住民300名に手榴弾を渡して集団自決を命じたとされる。この理由は,非戦闘員を自決させ、軍人が島に残った食糧を確保して、持久戦を戦うというものとされる。
座間味島の第1戦隊長梅澤裕少佐も、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失ったという。

写真(左)中国捕虜の刺殺;1938年2-3月に,津浦線沿いに南下した北支那方面軍は,台児荘で中国軍に反撃され後退。このような日本軍の苦戦の中で,三八式小銃の先につけた銃剣で捕虜を刺殺した。捕虜の刺殺は,度胸試し,弾薬節約,見せしめなどの効果を期待して行われた。アジアの平和を目指す日本に反抗し,天皇を否定する者に対して,処刑は当然であり,残虐行為とは認識されていなかった。
写真は,大阪毎日新聞の収集した写真で,日本陸軍報道部が検閲した結果,不許可になった写真の一枚(不許可写真―毎日新聞秘蔵引用)。このように捕虜処刑が当然行われると恐怖していた沖縄の住民は,自決用の手榴弾,小銃が欲しいと思ったであろう。
米軍が艦隊,航空機の援護とともに上陸し,日本守備隊が頼りにならないと分かったとき,住民は,鬼畜の米軍兵士によって残酷に処刑されるよりは,自ら死を選ぶほうがよいと感じたであろう。しかし,同時に,日本軍によって,利敵行為となる米軍への投降を事実上禁じられていたという心理的負担も大きい。日本軍守備隊が住民に,徹底抗戦し,決して捕虜になるな,と言っても,満足な武器も陣地も準備していなかった住民は,死を選ぶか逃げるしかない。
 

しかし,座間味島と渡嘉敷島のいずれにおいても、日本軍による自決命令はなかったとの訴訟が梅澤元少佐より起こされた。
ここでは,1945年3月25日に米軍の攻撃があった際、座間味村の幹部5人が梅澤少佐を訪ね、「集団自決させて欲しい、駄目なら手榴弾が欲しい。小銃があるから実弾を下さい。」と懇願したが、梅澤少佐に「生き延びてくれ、弾薬は渡せない」と拒絶された。しかし、村民らは、梅澤少佐の説諭にもかかわらず、次々と集団自決を決行し、凄惨な最期を遂げた。 

梅澤少佐の集団自決命令については、神戸新聞が昭和60年7月30日、61年6月6日付で、架空のものであったことを報道し、62年4月18日では「遺族補償を得るために『隊長命令に』」とその真相を報道し、さらに東京新聞は昭和62年4月23日「大戦通史 勇気ある訂正」「弟が証言補償得やすくするため」と報じた。

赤松大尉の集団自決命令には曽野綾子著『ある神話の背景』で,曽野綾子が現地に足を運び、関係当事者に直接取材するなどの徹底した調査を行い、昭和48年のこの著作で、赤松大尉による集団自決命令があったことを支持する証拠がないことを明らかにしたと主張する。(⇒沖縄集団自決冤罪訴訟引用) 

第34回司法制度改革審議会議事次第(平成12年10月16日)での曽野綾子女史の証言は次のようなものである。
「激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。 」(⇒第34回司法制度改革審議会議事次第の曽野綾子女史の証言引用) 

5.沖縄住民の集団死あるいは集団自決が,軍の命令であったとするのは,軍の指揮下にあったとすることで,戦傷病者戦没者遺族等援護法による遺族年金の受給をするための虚言をであったという説がある。しかし,援護法では,(砲爆撃負傷者ではなく)戦闘死傷者者という地位を獲得すればよく,軍の自決命令の有無や軍属かどうかは,直接は関係ない。  

曽野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』によれば,日本軍の命令で住民が集団自決を強いられた、とする説が独り歩きするようになった発端は、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』である。渡嘉敷島に米軍が上陸してから二日後の昭和二十年三月二十八日、同島の恩納河原に避難していた住民に対し、守備隊の海上挺進隊第三戦隊長、赤松嘉次大尉から自決命令が出され、住民三百二十九人が手榴弾などで自決した、と書かれてい る。昭和三十二年、旧厚生省援護局も現地で聞き取り調査を行い、日本軍の命令による集団自決だったと認定した。集団自決した住民は準軍属とみなされ、遺族らには援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)に基づく年金が支給されている。(⇒曽野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!』引用)

正規の軍の命令がないままに,住民が軍人・軍属とされたのかどうかで,部隊なのか学徒隊・民間人の烏合の衆なのか,あるいは軍人年金・遺族年金が支給されるのか否か,が異なってくる。「国家総動員法」に基づき、十四歳以上四十五歳までの健康な男子は「防衛隊員」として召集されていたのなら,軍の動員による「正規軍」一員となるのか。集団自決についても,軍命が下されたのなら,民間防衛隊として徴集された軍属部隊に対してであり,軍人に準じて遺族補償を受けることができる。

写真(右):戦災で焼けた集落;雨水をためて飲料水とするので,コンクリート製の円筒型タンクがある。

宮城晴美(2008)『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい事実』では,援護法と集団自決命令について, 「『玉砕』は島民の申し出 援護法意識した『軍命』証言」として,次のように野出ている。

母は、どうして座間味村の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったのか、その真相について私に語りだしたのは、1977年だったと思う。

戦傷病者戦没者遺族等援護法(いわゆる援護法)の適用を受け、座簡味村では1953年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから3年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。 

「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)は、軍人・軍属を対象に適用されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。それを村当局は、隊長の命令で「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張した。つまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者にだけ補償されるという論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。 

その「隊長命令」の証人して、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。母とともに、梅澤隊長のもとを引き揚げ四人全員が「集団自決」で亡くなってしまっため、戦後、母が“証言台”立たされたのである。母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材・財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。

それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の個所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。1980年の暮れ、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出で以来、彼の戦後の生活が惨澹たるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分が生きているうちに、本当のことを伝えたいと思っていた からである。(→母の遺言 宮城晴美女史引用)

戦後の1946年,GHQの命令で軍人恩給が停止されたが,サンフランシスコ講和条約後の1952年に戦傷病者戦没者遺族等援護法が成立し、1953年以降,軍人軍属や戦傷者などを対象に,障害年金、障害一時金、遺族年金、遺族給与金又は弔慰金が支給されることとなったが,これは軍人恩給の事実上の復活である。

同法では「公務傷病の範囲」として,次のように定めている。
 第4条 軍人が負傷し、又は疾病にかかつた場合において、恩給法の規定により当該負傷又は疾病を公務によるものとみなすとき、及び軍人たる特別の事情に関連して不慮の災難により負傷し、又は疾病にかかり、審議会等(国家行政組織法(昭和23年法律第120号)第8条に規定する機関をいう。)で政令で定めるものにおいて公務による負傷又は疾病と同視すべきものと議決したときは、この法律の適用については、公務上負傷し、又は疾病にかかつたものとみなす。 

つまり,軍人軍属に加えて,戦闘に参加した傷病者にも,援護法が適用される。実際,沖縄では日本軍のために住民が飛行場建設,道路整備,防衛隊参加,道案内、食事・宿舎の提供などで協力したため,14歳以上の者を対象としたようだ。
また,集団自決については,戦闘参加者と違って1962年以降,〇歳ノ乳幼児モ対象になっているという。こうして戦後補償,社会保障を獲得するためにために,集団自決命令の説が流布されたとの俗説である。 宮良ルリ(1995)『私のひめゆり戦記』ニライ社


負傷者を看護した「ひめゆり学徒」は,攻撃を受けている最中でも,負傷者から,「おれたちは貴様らの沖縄を守りにきて,前線で負傷してこの壕に来たのだ。弾の中でも水を汲んでくるのが,お前等の務めだ。壕から出て,水を汲んで来い。」と要求された。
しかし,「こんな弾の中,誰が行けるもんか。無茶を言うな。」と学生を庇ってくれる兵隊もあった。
この戦は負ける,という兵隊に対して,看護学生は「弱気でどうするの。物量より精神よ。勝利の日まで頑張ろう」と励ました。壕の中は,血や膿,大小便の臭いなどが入り混じり異様な臭気を発し,それが鼻からも口からも体に入り込んで,人々の体に深く染み込んでしまった。 

首里から撤退した後,住民は右往左往し,やっと壕には入れても,子供泣くと米軍に悟られるから,出て行けと言われて,弾の飛び交うなかに,すごすごと出てゆく母親もあった。 

1945年6月18日,第三外科壕の中央に集められた「ひめゆり学徒」は,宮崎婦長から「これまで生徒のみなさんは,軍に協力してきたけれど,ただ今,解散命令が出された。今後は,一人ひとり自由に行動してよろしい。本島にご苦労であった。看護婦採用試験に合格したものは,軍が責任を持つ。軍と行動を共にするかどうか,本人の意志に任せる。---」と告げられた。 

沖縄南端島尻まで来て,敵を目前に解散命令が出たことに,いったいどこに行けというのか。国難に殉ずる気概でやってきたのに,この場になって,解散とは何事だという憤慨が,ひめゆり学徒たちに,こみ上げて来た。しかし,しばらくすると,北部国頭出身の生徒は,親元に帰れるとの喜びの声にかわっていった。分散会が開かれ歌を歌った。

翌朝,壕の入り口で,日本人による投降勧告があった。「----出てこないとこの壕は爆破します」と言われたが,誰も出てゆかない。ガス弾が投げ入れたようで,壕の中に白煙が立ち込めた。いざというときのために,生徒は兵隊を拝み倒して手榴弾をもらっていたが,先生から「死ぬときは皆一緒だ。死ぬときは,先生が殺してやろう。」手榴弾は先生が取り上げられていた。「殺して」の声が響く,阿鼻叫喚の中,宮良ルリは意識を失った。教職員・生徒48名中,43名が死亡(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』参照)。 

1945年6月19日深夜,第二外科壕から脱出した第二外科診療主任目大尉以下,軍医,衛生兵,看護婦,生徒は,銃撃にさらされた。米軍砲兵を見方と誤認し接近し,砲撃された。仲村渠(なかんだかり)郁枝は,将兵三名についていったが,大尉から「これで死ぬと楽だ」と,青酸カリ1ビンを分けてもらい,感謝した。大尉はためらった後に,青酸カリを飲んだ。見習士官は,二等兵と看護婦の二人はに友軍を捜してどこまでも生きのびてゆくように諭した。見習士官も服毒したが,1ビンの半分では利かなかった。仲村渠のを半分わけてくれと頼み,服毒した。夜が明けると,ざわめく人声がした。仲村渠は,夢中で人々の群れを追っていった。 

6月19日の看護隊解散後,壕を出て,国頭に脱出を図ったが,砲撃の中,負傷した喜舎場敏子は,アダンの影に横たわるしかなかった。26日,水を求めて山を下り,日本兵に助けられて,壕に入った。27日早朝,「でてこい,もし出てこなければ火炎放射器でぶっ放すぞ」と流暢な似本後の投降勧告があった。「君ら女だけ三名でてゆけ」「兵隊さん,どうぞ一緒に死なしてください」山本班長は,「今裸で出るから弾はうつな」と出ていった。喜舎場敏子は,捕虜になるより死んだほうがよい,学校の不名誉だと,同僚と手を握り合って震えた。「オーイ,出て来い」班長が呼び「おい,出てこんか」と怒鳴られた。喜舎場敏子がでると,壕の入り口には米兵30名が銃を向けていた。その一人が,彼女の腕時計をとった。(仲宗根政善(1983)『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』角川文庫 [初版1951年]引用)

ひめゆり平和祈念資料館および林博史(1987)「沖縄戦記録・研究の現状と課題 ―“軍隊と民衆”の視点から」『自然・人間・社会』第8号参照。

6.沖縄住民の集団死/集団自決は,自己犠牲的精神に彩られた愛国心の発露であり,差別されていた沖縄県民が臣民としての忠誠を尽くした証拠とみる説がある。しかし,当時の住民は,鬼畜米英という日本のプロパガンダを信じ,日本軍が中国・フィリピンでしたように,捕虜となれば虐待・処刑されると考えていた。殺されるくらいなら,自決したほうがよいとする恐怖に支配された選択が集団死だった。  

写真(左):米軍に投降した沖縄の第三十二軍の将兵;沖縄戦線で撮影。沖縄玉砕戦というが,日本軍将兵でも捕虜となるために投降したものも7000名ほど出た。彼らを敗北主義の卑怯者,非国民と非難することはできない。A group of IJA 32d Army survivors after surrendering to U.S. forces

慶良間列島に配備された海上挺身(水上特攻艇)隊員の言葉
「防衛召集兵の人たちが、軍人として戦いの場にいながら、すぐ近くに家族をかかえていたのは大変だったろうと思います。今の考えの風潮にはないかも知れませんが、あの当時、日本人なら誰でも、心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して、軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持はあったでしょうし、家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。
つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、自らの命を絶った、という面もあると思います。死ぬのが恐いから死んだなどということがあるでしょうか。」 

 むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさをおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」(⇒曽野綾子(1992)『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決』赤松大尉指揮下の第二中隊長富野稔元少尉の言葉引用)

防衛庁の防衛研究所戦史室の記録は、「この集団自決は、当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮が、きわめて強かったことがその根本的理由であろう。…小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた。」

集団死,集団自決を「崇高な犠牲的な精神の発露」とするのは,大日本帝国の末端の沖縄県の,標準語も話せない二等臣民という前提で,沖縄住民が、本土の「大和民族」として認められるため,兵士の邪魔にならないように、率先して自決したと考えたいからであろう。

写真(右):米軍の保護下にある平安座の住民;海を渡り本島から,薪,食糧などを運搬する。米軍兵士が平和な時の沖縄を想起させるとして撮影した。「死んだジャップがいいジャップだ」との反日感情,敵意をすべての米国人が抱いたわけではない。鬼畜米英と呼ばれた敵将兵も人の子である。
日本軍に,民間人用の避難壕を作る余裕はなかったが,住民は飛行場建設,宿舎建設,陣地構築,食糧供出など,さまざま方面で,男女が日本軍に協力した。サイパンや沖縄の戦いは,「玉砕戦」といわれるが,生き残り,米軍に保護されたり,捕虜となった住民のほうが,死んだ住民よりも多かった。しかし,日本国内の報道では,住民も日本軍人とともに玉砕したと虚偽の報道が行われた。 敵に捕らわれれば,処刑されるとの認識が,日本軍将兵と住民双方にあった。


水上特攻を任務とする勇敢な特攻隊員は,慶良間列島山中に隠れて生き残ったが,なぜ愛国心のために、自らの命を絶つことがなかったのか。特攻隊が敵の捕虜となればどのような待遇を米軍から受けると思っていたのか。捕虜となることの恐ろしさを証言してほしいと思う。決して臆病だとは思わない。 

 慶良間列島の日本軍守備軍は、慶良間列島への米軍上陸を予期しておらず,地上戦準備を怠っていた上に,死を賭けた戦いを任務として命令されていた水上特攻隊員からみて,戦意・士気の萎えた住民は足手まといになる。敵に寝返るスパイとして嫌悪されたかもしれない。食糧不足がなかったとしても、戦場から離反しようとする敵性住民に対しては,非国民,裏切り者,スパイとして処断しようとする気持ちが出ても不思議ではない。 

沖縄の日本軍は,戦闘の時,住民が食糧確保の障害になるだけではなく,利敵行為をすることを恐れた。これは,敵への情報提供,捕虜になり,道案内・通訳として働くこと,日本軍の配備上方をもらすこと,捕虜となり生き延びうることが日本軍将兵に知れ渡り、士気が低下すること,などである。日本軍は,「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」との考えを,住民にも警告的に流布していた。 

日本軍による中国やフィリピンでの捕虜・敵性住民の虐待・処刑の経験から,日本軍将兵はその事実を沖縄住民に伝えた。国策上も,鬼畜米英のプロパガンダが行われていた。このような状況で,沖縄住民,守備部隊将兵は,米軍も日本軍同様に捕虜を処断し、女は辱めを受けると信じ込んでいた。捕虜となれば悲惨な末路を遂げる,このな認識の下で,自らの手で家族,友人とともに死ぬ集団死はせめてもの慰めとなった。これは異常な状況である。 


写真(上左):フィリピンのバターン半島で捕虜になり処刑されたフィリピン兵

写真(上右):バターン半島で捕虜になり足蹴にされるフィリピン兵士
;バターン死の行進として,悪名高いが,米軍とともに戦ったフィリピン軍兵士もにも災難が及んだ。

沖縄では,日本軍による住民の食糧徴発・統制,防衛隊への徴集,住民の勤労奉仕への要請がされた。住民にも,鬼畜米英は卑劣な行為をし,民間人への虐待,処刑を行うとの認識が広められていた。 

「集団自決の命令」とは,日本軍守備隊による住民への自殺命令の布告という形態ではなかったようだ。しかし,軍、政府の住民指導、プロパガンダが利敵行為につながる捕虜,虐待・処刑される捕虜となってはいけない、捕虜となれば暴行・殺害されるという恐怖の心理に住民も兵士も追いやった。軍・政府も方針が、集団死を促したことは間違いない。

生き残った人々,集団死を身近に感じた人々からしてみれば,政府・軍の「鬼畜米英」のプロパガンダと作戦指導に基づいて行動した結果,集団死を選択せざるを得なかった。このような人々は,事実上,軍の指示・命令によって殺されたに等しいと考えた。

それを、遺族年金欲しさに,嘘の集団死の文書命令・口頭命令をでっち上げた非国民と呼ぶことは,当時の戦闘体験者の恐怖を無視している。軍の集団自決の命令は,援護法に基づく年金支給には,必要条件ではない。 

援護法では、陣地構築、壕の提供など軍に協力したこと、その結果死亡したことが証明できれば、補償が受けられる。「集団自決」についても、慶良間列島、伊江島など軍の命令があったとされた地域では認められている。しかし、軍への協力を遺族が証明するのは困難で、別の理由で年金を申請したこともあろう。 

個人の記憶違いだけではなく,援護法の補償対象者認定という法律的な形式を重んじる状況で,死亡理由を述べたが、それを「カネほしさからついたウソ」というのは、戦闘体験者の人格・経験を踏みにじる暴言である。


写真(上):沖縄で米軍に収容された住民
;米軍は3月26日に慶良間列島上陸時に軍政を敷いた。そして,沖縄の民間人を収容所やキャンプに隔離,収容した。食糧などを支給したことをもって,保護したとも言える。沖縄は焦土と化した---とも言われるが,日本本土が焦土と化したというのと同じく,戦災を免れた集落もある。


軍と国家の名誉を重視するのか、経済的補償を得る事を重視するのかで、歴史が書き換えられることは、本来あってはならない。しかし、真実を隠蔽し、個人の意思を踏みにじることが、遺族の窮状に対して、何ら配慮をしない姿勢を助長するのも確かである。

「現在も県民の4人に一人が援護法の適用を受けているので影響力は大きいんですが、そのために本当にあったことを子や孫に伝えられないという状況はおかしい。さらに、集団死の実態というのは本当に国の資料にあるように『崇高な犠牲的精神により自らの命を絶った』というものであったのかどうか。」(⇒遠ざかる記憶 集団死と援護法(高良明秀氏)引用)

沖縄守備隊の海軍根拠地隊司令官大田實少将が海軍次官あてに出した6月13日最終報告「大田少将 決別の辞」では,次のように述べている。
沖縄戦の開始以来,陸海軍は防衛戦闘に専念していたため,県民を殆ど顧みることがなかった。しかし,県民は,青少年を全部を防衛召集に捧げ,家屋と家財を焼却させられ,残る老人幼児婦女子も軍の作戦に差し支えのない小防空壕に避難した。若き婦人も看護婦,炊事婦は元より,砲弾運び,挺身斬込み隊へ申し出るものもあった。所詮,敵来たりなば,老人子供は殺され,婦女子は後方に送られ毒牙に供せられるから,親子生き別れて,娘を軍の衛門に捨てる親もあった。
日本陸海軍部隊が沖縄に進駐して以来,勤労奉仕,物資節約を強要せられて,一部は悪評なきにしもあらざるも,日本人としてご奉公の護りを胸に抱き,沖縄島は焦土化せん。沖縄県斯く戦へり。県民に対し後世特別ご高配を賜らんことを。

写真(右):米軍に収容された沖縄住民 

「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」との戦陣訓と同様の認識が,日本人にはあった。これは,勇猛果敢に戦い,決して降伏しないという兵士の決意を固めさせるものであるが,負の側面としては,降伏して捕虜となれば,過酷な扱い,残虐行為を受け,場合によっては,処刑されるという脅し,恐怖の心理である。集団死の文書命令・口頭命令を受けていたと証言する住民は,当時は当然だった「降伏するより死を選べ」という放言を守った。降伏できないまま,潔く死ぬ日本人は,自己犠牲的な愛国心の発露というには,あまりにも苦痛に満ちている。苦悩した末の,恐怖の選択であったと思う。

生き残った人々にも、苦難があった。座談会・戦争と記憶―戦後60年に次のような記述がある。
「『集団自決』では, 親が子どもを殺すということがおきた. 私の身内の例でいうと, 祖父が自分の妻や子どもたちの首を切り, 最後には自分も首を切った. そして, 結果として息子が一人死んでしまった. 戦後生き残った家族は悲惨なわけです. おじいさんは「加害者」よばわりですよ.----- 祖母が早く殺してくれと騒いだことで, 米軍が目の前に来ていますから, 祖父が手をかけた. そのことで息子が死んだ. 祖母も自分自身の罪の意識があったと思う. その辛さを祖父にあたった。」

日本人は,中国戦線で,連合国(中国軍)兵士や民間人が処刑された歴史を知っていたであろう。米軍に逆らった日本軍側の住民も,鬼畜米英に捕まり,虐待・処刑されるであろうが,そんな悲惨な目にあうよりも,自ら命を絶つほうがよい。このように考えた沖縄住民が多かったのは確かである。
標準語を話せず,天皇の偉大さを理解していない沖縄県民に対する皇民化教育の影響も指摘できうる。また,米軍への情報提供,労力提供などの利敵行為を防止するために,沖縄住民に事実上,投降を禁じていた。(実際には,4月末には沖縄住民12万名が米軍軍政の下に保護された。) 

沖縄住民が「軍の命令で自決せざるをえなかった」と証言するのは,軍による防衛隊召集,投降禁止,「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」という事実上の自決強要を指しているのであろう。米軍に収容され逃げ出したり,保護されて生活したりする住民の中にも,日本軍将兵に殺された者がいたが,これは,利敵行為(スパイなど)をする敵性住民,卑怯者への報復として行われた。

<集団自決か集団死か>
沖縄タイムス社(1993/1950)『沖縄戦記 鉄の暴風』で沖縄住民「集団自決」を契機として、マスコミや研究者が「集団自決」を話題にするようになった。戦時中は、アッツ島守備隊「玉砕」、サイパン島軍民「玉砕」など、軍人・民間人が、戦場で死亡・戦死・万歳突撃・自決する状況を、「玉砕」と表記していた。「玉砕」した民間人を「集団自決」と表現したようだ。
その後、家永三郎(1913〜2002年)著の歴史教科書問題で、沖縄戦の「集団自決」も記述するようにと,文部省から指示があった。家永教授は、他の修正部分と併せて提訴し、これが集団自決の議論に発展した。

つまり、「自決」とは、軍人が全力をつくして戦ったのち、戦局が挽回できない、捕虜になるのを避けるなどの理由のために、「軍人が自ら死を選ぶ」軍隊用語であり、軍人の責任をもってする自殺である。つまり、戦争の犠牲になり,死に追い詰められた沖縄住民は、「自決」の語は適切ではないとも考えられる。

住民の「自決」という表現は、皇民育・軍国主義教育、日本軍の作戦指導によって死に追い込まれたという要素を取り去ることになり、沖縄戦の日本軍の責任を免責することになる。換言すれば,沖縄戦の本質を見誤らせることになるという批判がある。そこで,「集団自決」に替えて「集団死」と表現する場合も出てきた。(⇒強制的集団死および「集団自決」と「集団死」引用)

集団死は,慶良間列島の渡嘉敷島では329人、座間味島171人、慶留間島53人の集団死をはじめ、伊江島100人、読谷村84人以上、喜屋武半島数百人などが起こり、日本軍による住民殺害は、渡嘉敷島11人、久米島20人、伊江島6人、伊是名島5人、大宜味村約30人、喜屋武半島24人、久志村約40人、今帰仁村5人と言われる。


写真(上左):人を貪り食う鬼畜米英のチャーチル首相とルーズベルト大統領
;「平和を口にし人道正義をいう彼らこそ,その真実の姿は鬼畜野獣である。」
写真(上右):病院船攻撃という国際法無視の米軍
;「わが病院船も13回の攻撃を受けた。敵はわが国将兵や白衣の勇士たちの命を奪うけだものだ。」武士道を持たない敵は,情け容赦なく民間人も殺害する。


米軍が上陸した慶良間列島で、肉親同士が殺し合う「集団死」は,現在では想像困難な異常な心理状況に追い込まれたことで,発生した。逆に言えば,住民を異常な心理状況に追い込んだ要因,追い込んだ人があった。つまり,「鬼畜米英に捕らえられ暴行・処刑されるよりは,サイパン島住民と同じく,潔く自決すべきである」「名誉ある皇国臣民として,日本軍の足手まといにならないよう行動すべきである」というプロパガンダがあった。


写真(右):寄せ書きの日章旗
;米軍兵士たちは,日本軍の公式の戦闘旗と誤解をして,最大級の戦利品とみなした。しかし,このような日章旗の多くは,出征した日本兵士に家族・親類が贈ったもので私物である。Holding a Japanese flag they captured during the initial assaults on Ryukyu islands, are (l-r) Donald J. Morehouse, motor machinist mate second-class, Daniel Walker, 21, electrician mate, third-class, and Art Sivanch, 21, seaman first-class. The three coastguardsmen served aboard an LST during the assault landings on Aka Gima, Zamami Jima, Ie Jima and Okinawa. (U.S. Coast Guard photo.)
戦利品となった日章旗
(1945年6月,沖縄本島にて撮影)はいくつも残っている。米軍兵士も敵日本兵を倒した記念品(戦利品)を収集し,売買していた。持ち運び容易で,見栄えのする日章旗(家族・友人の寄せ書きの入った私物)は,戦闘旗とみなされ,軍刀と並んで一番人気だった。しかし,中には日本兵の歯や頭蓋骨を記念品とした米軍兵士もいた。


一憶総特攻の中,日本人に捕虜となって生き残る道を与えてはならない。終戦を期待させてはならない。「生か死か」の二者択一の中で,将兵・民間人は死ぬまで徹底抗戦しなければならないという日本軍の規律があった。将兵も民間人も捕虜となれば処刑されるから,徹底抗戦が叶わなければ自決すべきである。こうした,日本人の軍国主義的規律があって,日本兵・住民の「集団死」が導かれた。

月刊雑誌『WILL』200年8月増刊号「私は集団自決など命じていない・梅澤元少佐独占手記」梅澤裕(元海上挺進第一戦隊長) 取材・構成 鴨野守 ジヤーナリスト、によれば、沖縄座間味島の海上挺進第一戦隊長梅澤裕少佐は、1945年6月初め捕えられ生き残った。そして、次の証言をしている。

「戦局が次第に厳びしくなる中で、昭和十九年一月、私は船舶兵への転科命令を受けました。そして、事態打開を図る一環として出てきたのが、船舶特攻のマルレです。

 特攻と言えば「神風」や、海軍の水中特攻「回天」などが知られていますが、陸軍が作った船舶特攻艇がマルレでした。船幅一・八メートル、艇長五・六メートルのべニア張りのボートに百二十キロの爆雷一、二個を搭載します。米軍が沖縄本島に上陸したあと、食料や戦車、武器弾薬を運んでぐる。輸送船をやっつけよう、大打撃を与えようというのが、マルレの目的でした。

 もちろん、敵の艦船に突撃すれば、乗り込んだ隊員の生還はない。だから、思慮のあるやつよりも、とにかくがむしゃらな若者を訓練して、敵にぶつかっていけというのが首脳部の考えで、十六歳から十八歳ぐらいの特別幹部候補生が選ばれたのは、そうした事情があったと見ています。

 私の海上挺進第一戦隊は、各戦隊のトップを切って昭和十九年八月上旬、小豆島そばの豊島で訓練をスタートしました。自分でいうのもなんですが、それまでの戦揚での活躍が評価され、戦隊長に選ばれたと思っています。

 秘密作戦という性質上、昼は休み、夜に舟艇の取り扱いや操縦航行に励んだ。だが、まだ二十歳にもならない若者を爆死させてよいものか悩みました。そこで、攻撃方法を工夫しました。敵艦に接近したら、直突せずに角度を持ってすり抜け、手動で爆雷を落とす。爆雷を落した四秒後には舟は二十メートル退避できるはず。十人のうち五人くらいが生還でき、次の戦いに臨むこともできると。

 宇品の司令部に行き、船舶司令官の佐伯中将に意見具申しました。佐伯中将は、多くの参謀とともに話を聞いてくださり、しばらく瞑目された後、「よし、それでゆけ」と決裁をくださった。こんな感激はなかったです。隊員の特別幹部候補生も大喜びし、訓練にも熱がこもったことは言うまでもありません。

 ただひとつ気ががりなことがあった。敵はフィリピンに来るか沖縄に来るか。沖縄に先に来たら、敵の輸送船をひっくり返してやろうと思って訓練した。だがフィリピンが先だったら、マルレの存在が敵に知られてしまうのは必至です。フィリピンに先に出撃されたらもう終わりだと思った。なぜなら、捕虜は必ず厳しく調べられる。アメリカ軍の裏をかいて、慶良間諸島でマルレが密かに待ち受けているという情報が必ずや敵に知れ渡ると覚悟した。残念ながら、この予想は的中してしまいました。」

「昭和十九年九月、私たちが座間味に入ったら、もう基地隊が待っていました。私たち特幹隊百四名はファイター、戦争する兵土です。それをバックアップして助けてくれる基地隊、これがすでに千人来ていました。村と打合せをして、私たちは小学校を宿舎にして、基地隊のメンバーは村落の中に舎営していました。

 歓迎会が行われた翌日から基地隊は、敵の襲来に傭えて陣地作りや、穴掘り、鉄条網張り、機閥銃の台座作りから、大砲を撃つ砲座まで作ってくれました。ものすごく優秀な工兵です。

 あと整備中隊が百五十人。これはエンジン専門です。我々が持っているモーターボートを整備する。エンジンを修理する、舟が傷んだら直してくれる。両方が一緒になって、我々を補助して戦えるように押し出してくれるのです。渡嘉敷海峡に面した古座間味の山腹に穴を掘る。そこに、長さ五メートルほどのマルレを三隻入れるわけです。そんな穴をたくさん掘った。

 この基地隊の指揮官は小沢という少佐でした。彼は士官学校出身の、正規の順序を踏んだ将校ではなく、下士官からものすごく努力して、曹長になり、その中から成績のいい者は一年だけ士官学校に行くことを許すという制度があり、その試験に合格して士官学校に入った将校です。少尉候補者十一期生の優秀な人ですが、年はすでに四十歳くらいでした。私は中国で六年も戦場を体験しており、彼はべテラン。良い組み合わせでした。

 マルレを隠す穴を掘るには、材木で補強する必要があります。座間味の山は密林ですから、そこから切り出さないといけない。それを村人に頼むんです。命令じゃありません。「ご苦労さんだけど、明日から何日か、材木伐採するから手伝ってください」と。そしたら村長や助役が「わかりました」と言って受けてくださる。若い人は戦争に行って島にいないから、三十過ぎから四十歳くらいの島民二、三十人を集めて、基地隊に木材を渡してくれる。下士官がそれを貰う。片一方では穴を掘ったり、村の中にいろいろ陣地を作ってくれる。そういうことをやっていた。

 九月の中旬から翌年の三月二十六日までぶっ通しで応援してくれました。私は誇りを持って言いますが、私たち部隊と、住民との関係は当時ぴか一だったと思う。道端で出会った村びとが重い荷物を担いでいたりしたら、部下が率先して手伝った。また、村びとも珍しいものが手に入ると食卓に並べて、家族同様のもてなしをしてくれたものです。戦後、慰霊のために現地を訪れた折り、我々を大歓迎してくれ、また島を離れる時は、船着き揚まで見送りをして別れを惜しんでくれた。この関係は、昔も今も変わりません。」

「敵が攻撃してきたのは忘れもしない昭和二十年三月二十三日。空襲は二十三日から四月二日まで続いた。二十五日、大艦隊が海峡に侵入し、艦砲射撃が始まりました。何とミズーリ級が一隻、インディアナポリス級が一隻、駆逐艦が二隻も攻めてきました。戦艦、巡洋艦、駆逐艦が慶慶良間諸島の沖合い一キロのところにデンと停まって攻撃してくる。

 駆逐艦の大砲は直径が十二、三センチ、巡洋艦は二十五センチ。これが至近距離に飛んできたら大変ですよ。一分に五、六発から十発くらい飛んでくる。戦艦の大砲の直径が四十センチ。もちろんこれは、戦艦相手に戦う場合に使うもので、山の壕の中の小さな舟を壊すくらいなら、二十センチから二十六センチくらいの砲弾を撃ち込みます。

 「これは大変なのが来るな」と思った。ドカーンと攻撃が始まったら、百発百中こちらの特攻挺に命中するじゃないですか。それもそのはず、後で判明したことですがスパイが撃つべきところを教えていた。潜水艦のフロッグマンがゴムボートで夜、島に来ていろいろ連絡していたのです。(これはスパイを恐れる疑心暗鬼の強さを物語る。<鳥飼研究室註>) 

   それで徹底的にぶっ壊されて、壕の中の弾薬も食糧も、壕の下にあった食糧倉庫も、全部が破壊されてしまった。我々は海で戦うつもりが結局、マルレが潰されたものですから、出撃できない。阿嘉島も渡嘉敷島もマルレはたくさん残っていたのですが、渡嘉敷島では攻撃のタイミングがずれて自沈せざるをえなかった。座間味島の場合、完全に標的とされて潰されました。(奇襲され秘密兵器を破壊されれば隊長は処分される可能性もある。謀略や兵力差を強調するのは当然である。<鳥飼研究室註>)。

 戦隊の百四人は、将校がピストルや軍刀を持っているだけ。五十七期の士官学校卒業したてで、戦争が初めてという少尉を中隊長として、そのもとに二人の工兵科の幹部候補生の予備士官学校卒業ホヤホヤの少尉が群長で三十人の部下。そのような編成が三つある。だがいくらべテランの私でも、武器がなければ戦えない。とんでもないことになったと思いました。とにかく何とか敵のものすごい攻撃を避けて山の中に隠れて持久戦に持ち込むしかない。」

めちゃくちゃにやられてしまった三月二十五日の晩に、いよいよ私は部下を集めた。部下といっても十七、十八歳の少年です。お前達はもう兵器がないんだから、とにかく明日から、山を越えた向こうの部落の方に避難してくれと。

 その頃、千人いた基地隊の兵隊が沖縄本島に七百人取られて、三百人しか残っていなかった。その三百人のうち百二十人くらいは小銃を持っていて、重機関銃も二つあった。それで俺は戦うから下がれといったら、しぶしぶ下がった。阿佐の海岸の近くまで下がって待機していました。マルレもなくなり出撃不能だから、明日二十六日は陸戦になるだろうと。基地隊と整備中隊を集めて、一番高い番所山、高月山の下にとにかく陣地を作って敵が上陸するのを迎え撃つ方針を定めた。

 すると、夜十時頃、村の幹部ら五人が来て、驚くべきことを言い出したんです。その五人とは役場の助役・宮里盛秀、収入役の宮年正次郎、小学校長・玉城政助、役場の事務員及び女子青年団長宮城初校でした。助役が代表してこう言いました。

「いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。  私たちは申し合わせが出来ているから、死ななければならない。覚悟しています。私たちは島の指導層だから、知らん顔できないから一緒に死にます。  村の忠魂碑前の広場に女子供、老人をはじめ、みんなを集めるから、敵の緒にぶつける爆薬、ドラム缶に入った百二十五キロの爆薬を、みんなが集まっている真ん中で爆発させてください。老幼婦女子が集まりますから、ふっ飛ばしてください。だめなら小銃弾をください。手榴弾をください。そうしないと、私たちは死ねと言われてもどうやって死んだらいいかわからんのです」

 今でも忘れることができません。去年昭和十九年十一月三日の、沖縄県の決起大会から決議されて指令が出ている。死ななきゃいけないんだ、と言う。戦う人達の後顧の憂いをなからしむために自決して、死にます、弾をくださいと言われて、私は愕然としました。考えたこともない、とんでもない話です。村の人達はおとなしくて純朴で親切で、本当によくやってくれた。女子青年団もよくやってくれた。日本の内地の女よりもよほど立派だと感心していたんです。

 私は玉砕の申し出に、びっくりすると同時に唖然として、強い口調でこう言いました。「我々は明日から戦おうと思っているのに、なんてことを言うのか。とにかく死んではいけない。どうして死ぬなんていうのか」と。

「我々も必死で、この後ろの山で戦う。山の後ろの方、島の東の山の中に隠れて避難してくれ。山の向うには密林があって、密林の中に壕も掘ったじゃないか、食糧も蓄えたじゃないか。それをやったのはみんな、そこで生き延びてくれと言うことだ。死んでどうなるんだ、絶対に生きなければならない。死んではいけない」

 こう強く諭すのですが、「いや、私たちは上の方から言われて、申し合わせており、どうにもなりません」と思い詰めた表情で言う。特別の空気があった。一番最初に言ったのが、村の助役をしていた宮星盛秀です。彼は、鹿児島で除隊した退役軍人です。非常に優秀な兵隊だったと思う。私はその男が非常に好きだった。私が村の人達と大事なことを話す時、いつも彼が窓口でした。だから私がこんこんと「死ぬ必要はない」と止めているのに、「覚梧は出来ています」と言って聞かない。それで私は怒鳴りつけたんですよ、「弾丸はやれない、帰れ!!」と。 (月刊雑誌『WILL』2008年8月増刊号梅澤証言引用終わり) 

写真(右):沖縄県座間味島「平和の塔」:2012年8月撮影;沖縄戦における死者を慰霊する平和祈念塔は、集団自決の現場近く、高月山展望台にのぼる車道の近くの傾斜地に立っている。けれども集団自決を特に強調してはいない。座間味島に訪れる観光客には、中国、アメリカなどの外国人もあるが、日本人の観光客の大半が那覇から日帰り一日観光である。座間味島内には、民宿を中心に快適な宿泊施設が揃っており、夏場の宿泊客は多いが、この平和の塔を訪れる観光客は、数えるほどである。

事件番号 平成17(ワ)7696 事件名 出版差止等請求事件
裁判年月日 平成20年03月28日 大阪地方裁判所第9民事部
判示事項の要旨
 太平洋戦争後期に沖縄の座間味島および渡嘉敷島の各守備隊長であった元軍人が住民に集団自決を命じたという記述及びこれを前提とした意見,論評の記述のある書籍について,元軍人及び遺族が,同書籍を出版し又は執筆した被告らに対し,同記述は虚偽の事実を摘示したものであり,元軍人は名誉,人格的利益を侵害され,遺族は亡元軍人に対する敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を侵害されたと主張して,損害賠償及び謝罪広告の掲載を求めた事案において,上記書籍の記述どおりの元軍人の命令を認定することはできないが,同命令があったことを真実と信じるについての相当の理由があったものと認められるなどとして,上記請求が棄却された。 (平成20年03月28日 大阪地方裁判所第9民事部引用終わり)

主文 平成20年3月28日 大阪地方裁判所第9民事部 裁判長裁判官深見敏正

慶良間列島は,沖縄本島・那覇の約20キロメートル西方に位置する,渡嘉敷島,座間味島,阿嘉島,慶留間島などの島々の総称である。慶良間列島には,昭和19年9月,陸軍海上挺進戦隊が配備され,座間味島に原告Bが隊長を務める第一戦隊,阿嘉島・慶留間島にO隊長が隊長を務める第二戦隊,渡嘉敷島にD大尉が隊長を務める第三戦隊が駐留した。昭和20年3月の米軍進攻当時,慶良間列島に駐屯していた守備隊はこれらの戦隊のみであった。海上挺進隊は,当初,小型船艇に爆雷を装着し,敵艦隊に体当たり攻撃をして自爆することが計画されていたが,結局出撃の機会はなく,前記船艇を自沈させた後は,海上挺進隊はそれぞれ駐屯する島の守備隊となった。

慶良間列島は,後記の集団自決発生当時,米軍の空襲や艦砲射撃のため,沖縄本島など周囲の島との連絡が遮断されており,敵の包囲・攻撃があったときに警戒すべき区域として戒厳令によって区画した区域である「合囲地境」ではなかったものの,事実上そのような状況下にあったとする文献もある。合囲地境においては,行政権及び司法権の全部又は一部を軍の統制下に置くこととされ,村の幹部や後記の防衛隊による指示は,軍の命令と捉えられていた。

また,前記のとおり,後記の集団自決発生当時,慶良間列島は沖縄本島などとの連絡が遮断されていたから,食糧や武器の補給が困難な状況にあった。

慶良間列島に配備された陸軍海上挺進戦隊は,もともと特攻部隊としての役割を与えられていたことから,米軍に発見されないよう,後記の特攻船艇の管理は厳重であり,その他の武器一般の管理についても同様であった。

b 座間味村は,渡嘉敷島の西方約2キロメートルに位置する座間味島,阿嘉島,慶留間島など複数の島々で構成される離島村である。昭和15年の統計によれば,座間味村の人口は約2350人であった。座間味村では,防衛隊長兼兵事主任のP助役が,伝令役の防衛隊員であり役場職員であるVJを通じて軍の指示を住民に伝達していた。兵事主任は,徴兵事務を扱う専任の役場職員であり,軍の命令を住民に伝達する立場にあった。そのほか,住民は,Sが団長を務めた女子青年団などが中心となって,救護,炊事などで日常的に部隊に協力していた。

c 渡嘉敷村は,渡嘉敷島を中心として,その他複数の小島で構成されている。昭和19年当時,渡嘉敷村の人口は約1400人であった。渡嘉敷村では,Q村長,防衛隊長のVK,N兵事主任,M巡査らが軍の指示を住民に伝達していた。昭和19年9月9日,XL少佐を隊長とする第三基地隊と呼ばれる約1000人の兵隊が,渡嘉敷村に上陸し,上陸後直ちに陣地構築に取りかかった。渡嘉敷村の村民も,国民学校の生徒を動員するなどして陣地構築作業に従事した。

同月20日には,D大尉を隊長とする海上挺進第三戦隊104人が,渡嘉敷島に駐屯した。第三戦隊は,同年4月に海上特攻隊として編成された部隊であり,○レ(マルレ)と呼ばれる特攻船艇を約100隻保有していた。渡嘉敷村は,同年10月10日に空襲を受け,この空襲以降,慶良間列島の戦況は悪化していたが,このような状況下で,それまで徴用で陣地構築作業に従事していた男子77名が改めて召集され,兵隊と ともに国民学校に宿営することとなった。そのほか,渡嘉敷村の婦人会や女子青年団は,救護班や炊事班などに徴用され,学童に対する授業は停止した状態であった。

前記第三基地隊は,昭和20年2月中旬,特攻基地がおおむね完成に近づいたころ,勤務隊の一部と通信隊の一部とを第三戦隊の配下にして,沖縄本島に移動した。その後,第三戦隊は,同年3月20日に陣地を完成させ,特攻船艇の点検も行い,米軍を迎え撃つばかりの状況となっていた。

イ集団自決の発生

(ア) 座間味島

座間味島は,昭和20年3月23日,米軍から空襲を受け,これにより,日本軍の船舶や座間味部落の多くが被害を受けた。座間味島は,同月24日,25日も空襲を受けた。住民は壕に避難するなどしていたが,同月25日夜,伝令役のVJが,住民に対し,忠魂碑前に集合するよう伝えて回った。その後,同月26日,多数の住民が,手榴弾を使用するなどして集団で死亡した(従来,これを集団自決と呼んでいるが,後記諸文献に記載されているとおり,その実態は,親が幼児ら子を殺害し,子が年老いた 親を殺害するなど肉親等による殺害であり,自決という任意的,自発的死を意味する言葉を用いることが適切であるか否かについては議論の余地がある。

しかし,集団自決という言葉が後記諸文献で定着していると考えられるので(誤解を避ける意味でかぎ括弧付きで「集団自決」と表記しているものもあるけれども),次の渡嘉敷島での事例も含めて,本判決では,以下において,集団自決と呼称することとする。)。自決を遂げた住民の正確な数については,後記(ウ)のとおり,明らかとなっていない。

(イ) 渡嘉敷島

第三戦隊は,昭和20年3月25日,特攻船艇への爆雷の取付けやエンジンの始動も完了し,出撃命令を待っていたが,D大尉は出撃命令を出さなかった。結局,D大尉は,米軍に発見されるのを防止するためとして,特攻船艇をすべて破壊することを命じた。 同月27日午前,米軍の一部が渡嘉敷島の西部から上陸した。

D大尉は,米軍の上陸前,M巡査に対し,住民は西山陣地北方の盆地に集合するよう指示し,これを受けて,M巡査は,防衛隊員とともに,住民に対し,西山陣地の方に集合するよう促した。渡嘉敷島の住民は,同月28日,防衛隊員などから配布されていた手 榴弾を用いるなどして,集団で死亡した。死亡した住民の正確な数については,後記(ウ)のとおり,明らかとなっていない。

(ウ) 自決者の人数

沖縄戦においては,戸籍簿をはじめとして多くの行政資料が焼失したため,住民の犠牲の全貌を明らかにすることは困難とされており,現在もなお,犠牲となった住民の正確な数は明らかとなっていないが,主な公的資料等では,集団自決の犠牲者数について,次のとおり記録されている。

「鉄の暴風」では,厚生省の調査による座間味島及び渡嘉敷島の自決者の合計人数が約700人であったとされている。「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」では,作戦遂行を理由に軍から自決を強要された事例として,座間味村155人,渡嘉敷村103人の自決者があったとされている。「沖縄作戦講話録」では,援護法の戦闘協力者として昭和25年3月末までに申告された陸軍関係死没者4万8509人のうち14才未満の死没者1万1483人についてこれを死亡原因別に区分して,沖縄戦全体で「自決」313人となるとされている。また,「沖縄作戦講話録」では,渡嘉敷村329人,座間味村284人の自決者があったとされている。「沖縄県史第8巻」では,「集団自決」が613人とされている。「座間味村史上巻」では,座間味村の座間味部落だけで200人近い犠牲者がいるとされている。

(エ) 座間味島及び渡嘉敷島以外の集団自決

座間味島及び渡嘉敷島の集団自決のほか,数十人が昭和20年3月下旬に沖縄本島中部で,数十人が同月下旬に慶留間島で,約10人が同年4月上旬に沖縄本島西側美里で,100人以上が同月下旬に伊江島で,100人以上が同月下旬に読谷村で,十数人が同年4月下旬に沖縄本島東部の具志川グスクなどで,それぞれ集団自決を行った。

以上のうちの慶良間列島の慶留間島には,前記のとおり,第二戦隊が駐留していたが,第二戦隊のO隊長は,昭和20年2月8日,住民に対し,「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示し同年3月26日,米軍の上陸の際,集団自決が発生した。

以上の集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており,日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では,集団自決は発生しなかった。

 援護法は,軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し,国家補償の精神に基づき,軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的して制定された法律であり,昭和27年4月30日に公布された。

(イ) 沖縄は米軍の占領下にあり,日本法を直ちに適用することができなかったため,日本政府は,同年8月,那覇日本政府南方連絡事務所を設置した。同所と米国民政府との折衝の結果,日本政府は,昭和28年3月26日,北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に現住する者に対して援護法を適用する旨公表した。 他方,琉球政府においては,同年4月1日,社会局に援護課が設置され,援護事務を取り扱うこととされた。

(ウ) 日本軍が沖縄に駐屯を開始したのは昭和19年6月ころであったが,駐屯当初,日本軍は,公共施設や民家を宿舎として使用し,軍人と住民が同居することがあった。そのほかにも,住民は,陣地構築や炊事・救護等で,軍に協力する立場にあった。また,沖縄戦は,島々を中心に前線もないままに戦闘が行われたため,軍と住民は,軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。

このような事情により,住民を戦闘参加者と戦闘協力者に区分することは容易ではなかった。この点について,WFは,「複雑多岐な様相を帯びている沖縄戦では,戦斗協力者と有給軍属,戦斗協力者と一般軍に無関係な住民との区別を,如何なる一線で劃するか,誠に至難な問題が介在している。結局総ゆる事例について調査解明して最も明瞭なものから,逐次処理しつつ,其の範囲を縮少し,最後に左右いずれにするかの『踏み切り』をする以外にないように思われる。」としている。

戦闘参加者の範囲を決定するため,厚生省引揚援護局援護課の職員が沖縄を訪問し,沖縄戦の実態調査を行った。沖縄県の住民は,沖縄県遺族連合会が懇談会,協議会を開催するなど,集団自決について援護法が適用されるよう強く求め,琉球政府社会局を通して厚生省に陳情する運動を行った。

 以上の実態調査や要望を踏まえて,厚生省は,昭和32年7月,沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱を決定した。この要綱によれば,戦闘参加者の対象者は,ゝ鼠β癲き直接戦闘,C凸堯食糧・患者等の輸送,た愧蝋獣曄きタ羯・救護等の雑役,食糧供出,Щ融局隊への協力,┨茲猟鷆 き職域(県庁職員・報道関係者),区村長としての協力,海上脱出者の刳舟輸送,特殊技術者(鍛冶工・大工等),馬糧蒐集,飛行場破壊,集団自決,案三篤癲き瑛祁眄鏘力,殴好僖し疑による斬殺,概撈勤務,感佻奉仕作業, の20種類に区分され,軍に協力した者が広く戦闘参加者に該当することとされた。その結果,約9万4000人と推定されている沖縄戦における軍人軍属以外の一般県民の戦没者のうち,約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。

集団自決が戦闘参加者に該当するかの判断に当たっては,隊長の命令によるものか否かは,重要な考慮要素とされたものの,要件ではなく,隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定されたものもあった。
(以上主文 平成20年03月28日 大阪地方裁判所第9民事部 裁判長 深見敏正引用終わり)

『琉球新報』岩波・大江「集団自決」訴訟:軍関与認めた判決確定 「集団自決」めぐる岩波・大江訴訟 2011年4月23日
 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」などの記述をめぐって、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めた上告審で、最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は2011年4月22日、一審・二審に続き、上告を棄却した。これにより軍関与を認めた一、二審判決が確定した。同小法廷は、原告の申し立てを「上告理由にあたらない」とした。

 棄却を受けて大江氏は「自分たちの主張が正しいと認められた。訴訟で強制された集団死を多くの人が新たに証言し、勝利を得る結果になった」と述べた。  同裁判では、2008年3月の一審・大阪地裁判決で、両隊長による自決命令は推認できるが、「断定できない」と判断。大江氏が隊長による集団自決命令を事実と信じるには相当な理由があったとして名誉棄損を退けた。
 2008年10月の二審・大阪高裁判決は一審判決を支持した上で、「総体として日本軍の強制ないし命令と評価する見識もあり得る」とした。さらに、「表現の自由」に考慮し、公益目的で真実性のある書籍が新たな資料により真実性が揺らいだ場合、記述を改編せずに出版を継続しただけでは不法行為とはいえないとした。
 裁判原告の「隊長の自決命令は聞いてない」などとする陳述書が契機となり、06年度の教科書検定意見によって、高校日本史教科書の「集団自決」における軍強制の記述が削除された。記述削除に対し、「沖縄戦の実相をゆがめるもの」という反発が県内で起こり、2007年9月に県民大会が開かれるなど、沖縄戦体験の正しい継承を求める世論が高まった。

「県民の思い受け止めた」/大城県教育長
 最高裁の上告棄却を受け、大城浩県教育長は「教科書検定問題については2007年の県民大会の結果、広い意味での『日本軍の関与』の記述が回復され、高校生がこれまで同様に学習できると考える。最高裁の判決は、県民の思いを受け止めた判決」とコメントを発表した。(『琉球新報』岩波・大江「集団自決」訴訟:軍関与認めた判決確定 「集団自決」めぐる岩波・大江訴訟 2011年4月23日引用終わり) 

大江さん勝訴 軍関与認める司法判断 2011年4月23日
 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書などをめぐる出版差し止め訴訟で、最高裁は原告側の上告を退けた。これにより大江さん側勝訴の一、二審判決が確定した。
 一審、二審判決はいくつかの重要な判断を示した。まず「表現の自由」を考慮し、大江さんの記述は「公益を図るものであることは明らか」であり「公正なる論評の域を逸脱したとは認められない」としたことだ。
 次に歴史的事実の認定の問題だ。沖縄戦から60年以上経過し、当時を知る証言者はほとんど存命しない。軍命が口頭で行われ命令書の類いが廃棄されたとみられる中で、オーラル・ヒストリー(口述証言)を証拠として採用した。
「集団自決を体験したとする座間味島、渡嘉敷島の住民の供述やそうした記載をしている諸文献が重要な意味を有することは明らか」(二審)と指摘している。
 第3に、オーラル・ヒストリーを証拠とし採用する一方、原告側の新たな証拠の信ぴょう性を疑い、隊長命令が捏造されたという主張をことごとく退けた。
第4に、最新の沖縄戦研究を踏まえて判断された。沖縄戦の特徴は「軍官民共生共死の一体化」という方針にあった。住民を戦力として利用する一方、米軍への恐怖をあおりながら、軍事機密を知っている住民の投降を禁じた。

 判決は米軍資料も採用しつつ、座間味と渡嘉敷の「集団自決」について「軍官民共生共死の一体化」方針の下、日本軍の深い関与は否定できないとした。そして広い意味で「日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」(二審)と判断した。(『琉球新報』岩波・大江「集団自決」訴訟:大江さん勝訴 軍関与認める司法判断 2011年4月23日引用終わり) 

戦後まで生き残ってくれた慶良間列島の海上挺進隊赤松大尉,梅沢少佐は,住民の集団死に関して,貴重な意見,重要な証言をしてくれた。集団自決,集団死にまつわるさまざまな事実、特に当時の住民と特攻隊員のおかれた緊迫感、恐怖が明らかになることを期待したい。

米国の反日プロパガンダのポスター;「血の凍るような殺人」「悪魔のようなジャップ」「日本兵の恐怖から我が家を守れ」殺人鬼を倒すために戦時公債を買おう。」「これが我々の敵だ」婦女暴行・殺人・放火する日本のケダモノを倒せ。「ヤツを止めろ」撃ち殺せ。「ジャップの蛇を絞め殺せ」「ジャプの鼠を罠にかけろ」。このように,民主主義国でも偏見を煽り,敵愾心を沸き立たせる卑劣なプロパガンダが展開された。

総力戦では,兵士だけでなく,銃後・後方の国民も,資金,生産,労働,消費節約によって,戦争に参加する。そのためには,戦争目的が重要であり,「正義のための戦争」「平和のための戦争」「ファシズムを倒す戦争」「家族を守る戦争」「人々を恐怖に陥れる敵=ケダモノの殲滅」が正当化されてゆく。敵を倒すために団結して戦う世論を形成するためには,敵は悪魔のような存在でなくてはならない。同情の余地を与えてはならない。

日本人を敵とする立場からみれば,特攻してくる敵は「英雄」ではなく,「テロリスト」である。爆撃目標にいるのは,無辜の市民ではなく,武器を作る憎むべき労働者である。商船乗って物資を運んでいるいるのはテロリスト支援者である。日本の児童は,いずれテロリストとなる。

日本では,鬼畜米英・残虐な殺人鬼のように米英将兵を扱った。しかし,連合軍でも日本人を同じよう野獣。狂信者と認識していた。多くの敵対する市民・将兵は,敵国を悪の権化として憎み,戦意を高めた。戦争プロパガンダは,国民に敵愾心を抱かせ,一致団結させた。させようとした。

6.米軍は,1945年4月1日,沖縄本島に上陸した。その直後,慶良間列島と同様,捕虜になれば虐待・処刑されるという恐怖心に支配された本島住民が,避難所で集団死,集団自決した。特に,読谷村チビチリガマ(洞窟)では,避難した民間人140人の内、83人が非業の死を遂げた。  

家族や壕の避難民単位で行われた集団自決は、日本軍の支配地域であった。本島南部、慶良間諸島、伊江島,読谷の共通点は,集団自決と日本軍配備が一致しているという事実であるという。

チビチリガマ集団自決,楚辺クラガーでの入水自決,恩納村安富祖での集団自決,クーニー山壕での集団自決などの状況は,読谷村史「戦時記録」上巻,第二章「読谷山村民の戦争体験」第三節5「集団自決」に紹介されている。

チビチリガマ集団自決
チビチリガマは、沖縄本島読谷村字波平の集落から西へ500m行った深さ10mほどのV字谷の底にある。集落内に源をもつ湧水が流れ込む所で、川が「尻切れる」という意味で「チビチリ」(尻切れ)の地名が付ようだ。米軍上陸地点からは,内陸に800m入った所にある。

集団自決のあったチビチリガマ;読谷村の湧き水が流れ込む終点にある。 チビチリガマ洞窟への避難者約140人の内、住民83人が非業の死を遂げた。海邦国体ソフトボール会場での「日の丸焼き捨て事件」に対して、チビチリガマ「平和の像」破壊という報復行為がなされた。その後、1995年4月、像は再建され、石碑も建立された。戦後,遺骨の一部を回収,埋葬したが,未だにガマ内部に遺骨,鎌,椀,味壷、一升瓶,やかんなど遺品も残っている。遺族会の要望により,1995年4月以降,ガマへの立ち入りは禁じられた。

米軍の沖縄上陸から2日目,チビチリガマでは、21家族83人(10歳以下29人)が集団自決した。発端は,1945年4月2日,一人の男がふとんや毛布などを山積みにし、火を付けたことだ。中国戦線での経験を持つその男は、日本軍が中国人を処刑したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺されると思い込んだ。
 ガマでは,自決を決めた人々と活路を見い出そうとする人たちが争いとなったが、燃え広がる炎と充満した煙によって人々は死に追いやられた。

 <集団自決に至る伏線>
1945年4月1日、上陸したばかりの米軍に発見されたチビチリガマの避難民は「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の言葉が信用できず、逆に竹槍を持って反撃に出た。上陸直後のため敵兵も少ないと錯覚し,突撃したが,ガマ上には戦車と米兵が集結していた。竹槍で突撃した避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込た。この突撃で日本人2人が重症を負い、その後死亡し,ガマの避難民の恐怖心はさらに高まった。

 米軍上陸当日、南洋帰りの2人が「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ,着物や毛布などに火を付けようとした。避難民たちの間では「自決」の賛否について、激しく対立し、口論が湧き起こった。2人の男は火を付けた。その時、4人の女性が火を消し止めた。4人には幼子がいた。


写真(左):米軍の前に斃れた日本兵;死傷者は,ゲートルをひざ下に巻いているので日本兵のようだ。

 米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった。その間,18歳の少女が母の手にかかり死亡し、看護婦の知花※※らのように毒薬を注射して「自決」した人々もいた。

 横たわる死体。そこへ再び入ってきた米兵…。ガマの中の混乱は極限に達した。ひもじさの余り米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと応じない者もいた。アメリカーに撃たれて楽に死のうとガマを出た人もいた.

 そして毛布などに,ついに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。奥にいた人たちは死を覚悟して、自決していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。避難民約140人のうち83人が「集団自決」という形で亡くなった。チビチリガマでの一大惨事の真相が明らかになったのは,戦後38年たってからであった。全犠牲者の約6割が18歳以下の子どもたちであった。(→チビチリガマ犠牲者名簿)

『楚辺誌「戦争編」』によると「米軍が上陸した四月一日にはすでに、クラガーの上まで米軍は侵入し、クラガーに避難していた人たちは恐怖のどん底に落とされてしまった。『デテコイ、デテコイ』という米軍の呼びかけに応じて、一部の人たちは出て行ったが、『殺される』と再びクラガーに戻ってきた人もいた。そうしているうちに、壕内で息をひそめ恐怖に脅えていた避難民は窮地に追い込まれ、『アメリカーに殺されるよりは、自分たちで……』と、次の八人が『入水自決』し、犠牲となってしまった」((→楚辺クラガーでの入水「自決」と犠牲者名簿)

4月2日夕方、クーニー山壕も米軍に発見され、米兵は壕内探索に入って来た。--そんな中、突然日本兵の一人が銃を発射、米兵一人を射殺した。--翌日は、壕の周辺は米軍によって放火され、壕内にも放火用に使ったとみられる油の臭いがたちこめた。生存者の一人は「壕から出ると、山は全部焼かれていた」と後に証言している。
 壕内が修羅場と化したのは午前十時半ごろだったという。日本兵が「死にたいのは集まれ」と大声で叫び、十数名が集まったとたん手榴弾が爆発した。死者は住民14人(10歳以下2人)、兵士2人だったとされる。」(→クーニー山壕での「集団自決」と犠牲者名簿)
60年目の証言 沖縄戦「集団死」の真実引用

写真(左):日本軍の防御拠点となった地下壕;周囲の草木が焼き払われると陣地の入り口が見える。岩の下に空間があるといっても多数の人間が隠れるには狭いであろう死,水や食料を保管するスペースもないであろう。排泄はどうするのか。いずれにせよ、米軍が壕を発見すれば、内部に日本兵が潜んでいるとして攻撃してくるであろう。自ら洞窟を出て行かない限り、降伏し捕虜になることはできない。いつまでも潜んでいれば、抵抗する意思のある兵士として火炎放射器で焼き殺され,砲撃爆破され,あるいは生き埋めにされてしまう。

 
集団死は沖縄戦が激化していくとともに各地に広がっていった。犠牲者は沖縄全土で数千人とも言われている。沖縄本島の旧具志川市(現うるま市)。ここでも60年前、海に面する壕の中で少年少女ら14人の命が集団死で失われた。9人いた生存者は今や6人となってしまった。そのうちの一人、当時18歳の比嘉圭市さん。
当初、東海岸から米軍が上陸すると想定していた旧日本軍は、早くから具志川に入り陣地を構築した。しかし米軍は西海岸から大規模な上陸作戦を展開したため、首里城の軍司令部を守るため、軍は南に移動、住民たちは取り残された。

捕虜となったら年の若い順に殺される。そう教え込まれていた少年少女たち。米軍に一矢報いてから死のうと、撤退する日本軍から渡された手榴弾を手に海に面した壕に入った。4月4日午前10時頃、立てこもった壕に米軍が接近してきた。
「手榴弾で応戦しようと投げ始めたら一斉に機関銃で…」。
壕に入った彼らの平均年齢は18歳。捕虜となって辱めを受けないよう少女8人も加わっていた。手榴弾を囲むようにして23人の少年少女らは2つの円陣を作った。当時16歳の又吉国雄さんは「その時は恐いとかなんとか、そういうことはない。“海ゆかば"という唄があるわけよね。落ち着いて歌いながらやってるんですよ」。
自爆、の号令で入り口から右手のグループは全員爆死。しかし、左のグループの手榴弾が不発だった。比嘉さん他、生き残った9人は捕虜として捕らえられた。(→60年目の証言 沖縄戦「集団死」の真実 2005年6月23日報道ステーション放送引用終わり)

写真(右):日本兵による中国軍捕虜の銃剣刺殺。1938年7月から1年間、南京の兵站病院で衛生伍長として勤務した日本兵村瀬守保『私の従軍中国戦線―村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録』撮影。

社団法人 全日本銃剣道連盟のHPには,次のようにある。「我が国における 銃剣道の芽生えは、明治初期、フランスから伝来した西洋式銃剣術を取り入れ、 研究がなされたものである。その後、日本独自の銃剣術として、宝蔵院流・佐分利流・疋田流・貫(管)流といった日本古来の槍術の心技に源流を置き、剣道の理論等を合わせて 研究を重ね、最も日本人の性格、体格等に適合した武道として地位の確立がなされた。また、銃の変遷に伴って展開されたもので、初めは「銃槍格闘」、または「銃剣格闘」と呼ばれ、次いで「銃剣術」と名付けられ、さらに昭和16年、大日本銃剣道振興会が設立されたとき、「銃剣道」と改められたものである。当時は、銃剣道も他の武道と同様、実戦武技としての域を脱することは甚だ困難な状態であった。従って、その普及対策も一応競技会が実施されていたものの、それにも増して戦闘のための訓練に重点が置かれていた。」武術・スポーツは,戦時には,歪んだ形で戦力化されてしまった。


「集団自決」体験記 知花※※(大正八年生)
三月二十六日に、私たちはチビチリガマに避難した。とにかくすごい空襲と艦砲射撃で、それまで隠れていた自分たちの壕では安全ではないと思って、チビチリガマへ避難したわけ。---私は昼間は壕に隠れて、夕方になると朝・昼・夜の三食分の食事を用意するために部落へ戻っていた。

 四月一日に米軍に壕を囲まれて、ある男女が「日本男児じゃないか、竹槍を持て」と言って外に出たわけよ。一二、三名は出たはずよ。---この人たちが米軍に攻撃されて、怪我したもんだから、すぐ引き返して来たわけよ。それからはもう、誰も動かん、外にも出ない。--

 朝の八時半頃、壕の中に南洋帰りの人がいたんだけど、その人が壕の中で火を燃やしたら煙りで窒息できるから、そうしようと言った。----このときにアメリカーが壕の中に入ってきた。アメリカーが四名、一人は通訳がついていたんだが、「着物もたくさんある、食べ物もたくさんある、出てこい、出てこい」と書いてある紙を私たちに見せた。それをみんなで回して見たけど、「これは嘘かもしらん、アメリカー達が言うのは、嘘かも知らんから、それではいかん」とみんな疑って、そのまま出る人はいない、中で隠れていたさ。

 ---「じゃ、死ぬなら自分たちもアメリカーのもの一個ずつでも食べてからに死んだほうがましじゃないか」と家族で話し合って、子どもの分は私が預かった。---みんなで食べたんだけど「貰って食べるのは、アメリカーと一緒だから」と言ってみんな私たちをガイガイと騒いだ。でも私たちは家族に「これは、同じ死ぬ事なんだから、食べて死んだ方がいいから、どうもないよ、食べなさい」と言って食べさせた。

 ----※※さんがお母さんに「敵にやられるよりか、お母さんの手で殺して下さい、殺して下さい」と膝まづきして願うんだよね。----この母親も「そうか、敵にはさせないで自分でやろう」と言ってさ、近くにいた看護婦が、「右の首を切っては駄目ですよ。左の首、きれいに奥まで通すことが出来たら…」と母親に教えてね。

もう血がスーッと跳んで、私たちは返り血を浴びた。※※さんの次に、母親は目の見えない※※さんの兄弟に馬乗りになってドンドンドンドン包丁で突いた。「長男だから、自分の手で殺す」と言って。その時にまたアメリカーがふたり入ってきて、すぐ、目の見えない長男の足を捕まえて、そのまま壕から引っ張ってチャー出ししたようです。

---「火を燃やしたら窒息できる」と前に言っていた南洋帰りの人が、入口から一五メートルぐらい奥に入った所で、布団を山積みにして火を付けた。私たちはかなり奥に居たから前方から煙りがどんどん流れてきた。また、すぐ近くでは看護婦だった人が「注射しても死ねるから」と、親戚に注射をドンナイしていた。注射を待つ人が長い列になってさー。注射した後で水を飲んだらポックリ死ねるから、とそういう話がまわってきていた。

この看護婦のおばさんにあたる人が、一番に注射を打たれた。このおばさんは水飲んだらころっと死んで、「あらあんなにも早く死なれる人もいるね、羨ましいね」って思ったよ。でも看護婦は、親戚だけにしか注射を打たない。「薬があんまり無いから親戚だけだよ、親戚だけだよ」

 もうその時には煙りはどんどんくるし、火をつけてから一〇分か一五分ぐらい経っていたと思うが、みんなが何をしているのか、全然わからん。もうガイガイガイして大騒ぎだから。とにかく、ほとんどの人がもう死ぬ希望ね。

この火が燃えている場所よりも前方にいた人しか、外にすぐは出てないから。火が燃えている所から奥にいる人は「死ぬ」それしか考えられない。「もう死んだ方がまし、アメリカーにやられたら、強かんされるか、耳、鼻、みんな切られてしまうから、自分で『自決』した方がいい」とね、

 「出たい人は出なさいよう!うちなんかは出るよう!」って、誰かが大声で呼びかけたから、私たちも出ようと決めた。混乱の中、私が長女を抱いたまま、手を伸ばして近くの人を掴まえたら、その人がすーっと立って歩くもんだから、私も引きずられるように歩きだすことになった。----姑の手を掴まえて、東に歩いているのか西に歩いているのか、真っ暗だから何もわからない、ただ前の人の背中を捉まえて、夢中に歩いていた。

 火を燃やしている所を通り抜けたら、すこし明かりが見えてきた。「あー向こうで明かりが見える。こっちはガマの入口かも知らん」って思ってかがんで、体を滑り込ませたら、やっぱり壕の入口になっていた。出てみるとアメリカーがいっぱいいるさあーね、すぐ近くに七、八人ぐらいいたよ。

 抱っこしていた生後六か月の長女は、壕内の煙で窒息グヮして、顔がどす黒く変色していた。---ひとりのアメリカーがキビを持っていたみたいで、それを切って三本位の束にして、石の上に置いて短刀でつついて柔らかくすると、赤ちゃんの口の上でぎゅっと絞って汁を入れたわけよ。口の中がキビの汁で一杯になったから、長女は「ゴウ」と息を吹き返した。

-----今度は姑と長男を連れ出しに行こうと思った。アメリカーに「電灯一つ貸して」という仕草をしたら、貸してくれたので、ガマに入ってみたんだけどあまりに暗くて一つでは駄目。だから戻って一つ貸してとお願いして二本持って壕に入ったが、あんまりにも煙りが強くて中に進む事もできない、見ることもできない。この時「もし、このまま私が戻れなくなったら、壕の外に出したあの長女はどうなるのか」と思って、もう心配でしょうがなくて、「仕方がない。出した子供を助けよう」と。---「考えていても仕方がない。引き返そう」と引き返してきたわけ。

----その後、チョコレートやらチーズなんかをもらって、水も飲んで、腹ごしらえしてから、夕方に戦車に乗るように言われて、暗くもなるしみんな乗った。だけど浜に向かって走るから「もう海に連れて行って捨てる、海に投げ捨てるんだなぁ」とみんな心配したさー。でもそうじゃない、都屋に収容所が在ったわけさ。そこは人がいっぱいしていたよ。 」((→「集団自決」体験記 知花※※(大正八年生)引用終わり:『沖縄・チビチリガマの“集団自決”』参照) 

沖縄の海軍司令部地下壕は,艦砲射撃にも耐えることができる。住民の集団自決のあったガマとは違い,コンクリート防御の安全な地下陣地だった。このような頑丈な軍の地下壕は、兵士,設営隊,沖縄住民・朝鮮人を含む労働者の力で作られた。
他方、住民用の避難壕は,構築されたことはない。住民は、ガマと呼ばれた溶岩自然洞窟の小さなものや自分たちの祖先の亀甲墓に隠れた。が、水・食料不足で、いつまでも隠れることはできなかった。

米軍からみて、地下壕にいるのが,民間人なのか、将兵なのかは区別できない。リスク回避のため,米軍は、日本兵が立て篭もっている考え、攻撃した。投降勧告が壕になされたのは、軍政部隊が組織され、住民収容の準備されていたからである。

写真(右):米戦艦「インディアナ」艦上のカトリックの祈祷;1945年4月1日、沖縄本島上陸攻撃の直前に、安全を祈ってカトリックのミサが執り行われた。

「集団自決」体験記 上原※※(昭和八年生)
  四月一日にね、米軍が上陸したわけですよ。それで、朝の九時ごろだったかな、ガマの中にいた三人が竹槍を持って外の米兵に向かって行ったんですよ「ヤーッ」って言ってね。この三人は男の人が二人で彼らは兄弟、そして女の人が一人、この女の人は看護婦で飛び出した人のどちらかの娘にあたっていたようです。彼らが外に出た時には、ガマの外はアメリカ兵でいっぱいなんですよ。それで多分、男の人が前に立っていたんでしょう、銃撃されてね。もう、至近距離ですから、ねらい撃ち。---それで負傷して彼らがガマに戻ってきて、「もう大変だ」という事になった。

 そして、その日の午後。チビチリガマの入口は、当時はもっと小さかったんですよ、当時十二歳の私が、這いつくばってやっと入れるぐらいでしたから。ある人がそこに布団なんかを置いてね、火を付けようとした。それで、ジラーナーカのオバアーという人とね、フシミーウージャといったか、ある一人のおばさんがね、二人で火、消したんです。--

 それから翌、四月二日。半ズボンを着た白人がね、ガマの中に入って来たんですよ。武器を持たないで、本グヮー持ってね。その本には、片一方日本語、片一方英語で「日本は戦争負けました」とか「殺しませんから、出なさい」とか書かれていました。入ってきた白人がその本をみんなに見せたんですよね。前日には斬り込みに出たようなガマなのにね、そんな殺気立ったところに入ってくるなんて普通の人じゃできないですよ。----武器も持たないで入ってくるというのはね。---

 しかし、この白人が持ってきた本を「ンジュナヨー」って、これ「見たらいかんよー」と、ボスみたいな役割の人が言うんです。「誰も見るな」とみんなのところをぐるりと回って、私の前にまで見回りと言うんですかね、来たんですよ。

 それでもう「トーナー、チャーンナランサ」って言ってね。もう、これは終わりだと。もう、自分達でね、自分達の始末せないかんと。そう言って、「集団自決」が始まったわけですよ。子供を殺したりね、注射したり……。

 看護婦していた人にね、私も注射をしてくれって頼んだんですよ。看護婦さんの前にずらっと並んだ行列に私も並んでね。注射は、重傷者から先に打っていました。私の番になったんですが、この看護婦さんは私に「※※ちゃん」って呼びかけて「※※ちゃん、どいておきなさい。友達と親戚が先で、そして余ったらあなたにもしてあげるさ」と言ったんです。それで私はそばにのけられて、やがて「はい、薬はもうなくなった」って、看護婦だった姉さんは自分にも薬を打って寝たんです。--

 そして最後に、前の日に布団を燃やそうとした人たちが、とうとう火を付けたわけです。そしたら、モオーッとね、真っ黒い煙が来ましたよ。

 その時うちの母が「出よう」と言ったんです。「とにかく外にでよう。あんなに苦しい思いで死んだらいかん」と。それで私たちの家族が、一番最初に出ました。しかし、おじいさんはもう、中に置いて出ました。

 母が私たちを連れてガマを出たのには理由があった。実は出征していた父が「この戦は負けるから、私も、隙があったら逃げてくるからね。子供達を、一分でもいいから、長く生かしておいてくれよ」と母に言いつけてあったらしい。それで、もうみんなで死のうという時に母が父の言葉を思い出したというのだ。

 ガマの外に出たらね、もう、アメリカ兵の歓迎ですよ。「ああ、いらっしゃい」ってなものですよね。現在の、チビチリガマへおりる階段があるでしょう、そこらへんに兵隊がいっぱいいましたよ。食べ物を渡されましたが、「缶詰、これよー、食べたらいかん。毒が入っている」と大人に教えられたので、私はすぐそばの畑から、ウージを取って食べましたがね。
 それから、救出された者たちはみんな米軍の車に乗せられて、都屋に行きましたよ。そこには、一週間ぐらい居ましたかね。(⇒「集団自決」体験記 上原※※(昭和八年生)引用終わり) 

このように,沖縄戦で死傷した住民は多数いたが,米陸軍公刊戦史Chapter XVI Behind the Front;Military Governmentによれば,軍政下におかれた沖縄住民は,上陸から1ヶ月が過ぎた4月末に,12万6876人いた。そして,首里の防衛線が崩壊した5月中,その数は増え続け,6月初めには,14万4331人にまで増加した。つまり,戦闘で殺害され,あるいは集団死した沖縄住民は9万人に達したが,米軍軍政下に保護・収容された住民はそれよりも多い約14.5万人あったのである。

写真(左):米兵に保護された沖縄住民;1945年5月. Civilians of Okinawa, casualties from the battle areas, await their turns at the military government medical aid station, Gushikhan, Okinawa, June 1945. On 30 April (D + 29), approximately 125,000 civilians were under Military Government care. For security reasons, these civilians were made to congregate in villages well to the rear of the combat zone, or were sealed off in wire enclosures. All of this necessitated large mass movements of refugees. On the Katchin peninsula, 31,825 Okinawans were in one wire-enclosed camp. By native standards, health in these camps was good and no epidemics were encountered, but scabies and louse infestation were common.

 集団自決は、日本人は捕虜にならないという名誉の掟,軍の強制または誘導によって、死へ追い込まれたと思われるが,日本人が捕虜になった場合,処刑され,惨殺されると恐怖していた事実も指摘できる。中国戦線をはじめ,日本軍兵士による捕虜や敵性住民の取り扱いは厳しく,しばしば処刑・斬殺していることは,沖縄住民も,帰還兵や派遣部隊の兵士から聞き及んでいた。

「集団自決」体験記 玉城※※(字儀間)
 昭和十九年当時、私は大山医院で住み込みの看護婦をしていて、後にチビチリガマで「自決」された知花※※さんとは、とても親しくしていました。---彼女は「満州」で従軍看護婦をしていたそうですが、そこで知り合った本土出身の男性との結婚の了解を得るため、両親のもとにいったん帰って来たのだそうです。しかし戦況が悪化して「満州」に戻ることができなくなり、しばらくは大山医院で働いていたそうですが、私が大山医院に勤める頃からは、北飛行場の医務室で看護婦として働いていました。

 彼女は、医務室の薬が切れると大山医院に取りに来たりするので、話をする機会がよくありました。当時は女に生まれて、国のために何が出来るかと考えると、従軍看護婦の道ぐらいしかありませんから、私は従軍して戦場で働き、天皇陛下のために死のうと考えていました。しかし諸事情から、従軍看護婦の道を諦めざるを得なかった私にとって、「満州」で従軍看護婦をしていた彼女は憧れのお姉さんでした。とても有能な人で、看護婦の免許のほかに産婆の免許を持ち、話すことも知的でいつも希望に燃えていました。---

 「※※ちゃん頑張るんだよ、大和魂で負けたらいかんよ。最後の最後まで頑張らんといかんよ。最後はどうなるか分からんし、私もどうなっていくのかわからんけど、もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」彼女はそう言うと、「満州」で「支那事変」帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。

----戦争が激しくなると、「満州」にいる恋人のことが心配で落ち着かなかったのでしょう、大山医院の院長先生に相談に来ることもありました。「ねえ、先生、どうしよう、どうしよう」と彼女が言うと、医院長先生は「どうもこうもない。戦争だぞ。お前はもう、ここで働きなさい。満州には帰れないだろう、そうでないと一人の恋人のために命を捨てることになるぞ」と彼女をたしなめていました。

 ※※さんは戦後、チビチリガマの「自決」のことが明るみに出てから、いろいろ思われたようですが、私は彼女が悪いんじゃない、すべて日本の教育が間違っていたんだと思います。彼女は日本の教育をまともに受けただけなんです。日本の教育が、彼女を「大和魂の女性」にしたんだと思います。また従軍看護婦時代に、「支那事変」帰りの兵隊にいろいろ聞いたことも、後の行動に大きな影響を与えたのだと思います。(⇒ 「集団自決」体験記 玉城※※(字儀間)引用終わり)

写真(右):フィリピンのバターン半島で捕虜になり処刑されたフィリピン兵;Executed Filipino Soldiers During the Bataan Death March
バターン半島で捕虜になり斬首されるフィリピン兵士
;カバナツアンの日本軍が管理していた捕虜収容所。


「沖縄の地上戦を生き延びて」(2005年8月15日朝日新聞社/滋賀):1945年4月、沖縄戦当時6歳だった上江洲(うえず)清さん(66歳)が、親類とともに沖縄本島内を逃げ回っていた時の体験。

米軍の地上部隊はそこまで迫っていた。耳をつんざく爆発音の中で、母親や伯父らと防空壕で身を潜めていると、軍服姿の男性が飛び込んできた。男性は上江洲さんらと同じ壕にいた自分の家族に『もう日本はおしまいだ、いざという時はこれを投げよ』と言い、1個の手榴弾を手渡した。壕を出た男性は百メートルほど歩いたところで砲撃にあい、吹き飛んだ。

残された男性の妻は泣き叫びながら、手榴弾を強く握りしめていた。その時だった。
『命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)、死じぇならん』
上江洲さんの伯父が手榴弾を奪い、壕の外へ投げ捨ててこう叫んだ。伯父は、自分の身に着けていた白いふんどしを脱いで頭上に掲げながら、壕の外へ出た。上江洲さんらは米軍の捕虜となって県内の収容所に送られ、生き延びた。

◆1945年沖縄戦の集団自決/集団死について、軍の関与が裁判で争われた。確かに、民間人がなぜ手榴弾を配布されたのかを思えば、兵器を管理している日本軍の関与は明らかである。日本の将兵は「捕虜となれば虐待、処刑される。それよりも自ら死んだほうがましだ」ということを、自らの経験・伝聞から、住民に伝えた。捕虜となった場合に受ける残虐行為を恐れる余りの忠告だったようだ。しかし、配下の将兵に対してでなく、民間人・軍属に対し「捕虜となるくらいなら自決せよ」と軍人が言い放ったことは、どのように認識すべきか。軍人の放言は,形式上は「軍の命令」ではない。しかし,軍人の言うことを信じていた住民は,軍人の放言ではあっても,口に出された言霊である以上,「自決すべき」命令として忠実に尊重した。

◆沖縄で自決命令を出したとされた日本軍将校は、水上特攻艇部隊の隊長だった。死が目前にあった特攻隊の将兵は、自決をどのように考えたのか。統帥上,軍民共死がとなえられたが、自らもそれを信じていたのか。しかし、住民、将兵は、捕虜になり、生き残ることができた。中には、日本軍から与えられた手榴弾を起爆しようとしたが、中古不良品だったために爆発せず、生き残った住民もいた。日本軍の将兵が,投降命令もなく,米軍に投降したり,捕まったりしたことが,徹底抗戦の命令あるいは玉砕命令に忠実だったといえるかどうかは、軽々しくは判断できない。しかし、生き残ったことは、良かったことだと思う。その生き残り同士がいがみ合い争うことになっては悲しい。そう思っての謝罪だったのであろう。その心情をイデオロギーの立場で曲解してはならないだろう。

第三師団第二陸上輸卒隊兵士の出した軍事郵便(1938年1月年賀状)小池善之(1999)「南京大虐殺と軍事郵便」静岡県磐田郡浅羽町町史編纂事業に所収
 「-----天津でも毎日毎日便衣隊が我々の手に捕われるのですが、道路上で皆銃殺してしまいます。幾日も幾日も置いて紫色にくさった様を見て、初めは食事もとれませんでした。しかし今は何とも思いません。---」

 「このころは毎日、保定永定河近くに自動車にて残兵狩に出ています。今いる自分等のところから近いので、自分等の夜も安心するように毎日出ていくのです。毎日五人や十人くらい殺して帰ります。中には良人も殺しますが、何分気が立っているので、いる者は皆殺しです。哀れな者さ、支那人なんて全く虫だね。」

「-----去年の三十一日まで支那兵の捕まえたのを、毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に、手を縛って落としておいて、上から銃で撃ったり刀で首を切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるで鶏でも殺すような気がするよ。十二月二十七日の夜は、兵站部に食糧を盗みにきたので七人捕まえて銃剣で突き殺したが面白いものだったよ。--」 (1938年1月年賀状)


写真(上):1938年南京郊外の中国兵捕虜の公開斬首;暴虐にも天皇陛下に反逆した中国兵捕虜を極刑に処す勇ましい処刑を,複数の日本兵がカメラを持ち,さまざまな角度で記念撮影した。残虐行為というよりも,暴虐な敵を討ち取った記念として,武人と同じように斬首に処した----このような歪んだ武士道が,日本軍の慢心,残酷さを象徴している。しかし,当時の認識では,国体の破壊,国家転覆をたくらむような重罪人は,成敗されて当然であった。これらの写真を現像した写真店の中国人がこれらの写真を無断で焼き増しして「写真帳」として秘蔵した。米英も,この日本の残虐行為を広く雑誌,新聞で流布し,反日感情を盛り上げた。
南京近郊で公開処刑される中国兵捕虜の写真(1938年頃)にあるように,捕虜に対しては,戦友を殺害し,日本人居留民を虐待し,アジアの平和を撹乱した中国人として,情け容赦なく処刑した。公開処刑,銃剣による刺殺,斬首など今日では残虐な行為と見えるが,戦時には重罪人・犯罪者に対する当然の処置だった。

日本刀(軍刀)は,士官・下士官の象徴でもあるが,使ったこともない飾り物という汚名を避けるために,武士の作法として,あるいは勇猛さを誇示するために,敵兵を斬首したこともあった。戦場における勇ましさを尊ぶ心理が,ゆがんだ形で具現した。

現在の視点では「残虐行為」でしかない斬首,刺殺は,当時の日本軍兵士,日本国民にとって,兵士の勇猛果敢さを示す行為であり,八紘一宇を実現しようとする萬世一系の天皇制=国体を破壊しようとする反逆者への処罰でもあった。死刑と同じく,捕虜処刑は,残虐行為とは認識していなかった。

また,多数の捕虜を収容施設で管理しようとすれば,収容所の建設・運営,捕虜のための水・食糧の準備,捕虜の糞尿処理まで,大変な費用と資金がかかる。戦友や爆撃して市民を殺害した(であろう)敵兵の生命を保障することは感情的にもできない。このような認識は,日本臣民でも,沖縄県民のでもさして変わりはない。

日本軍が敵の捕虜を処刑しているうえに,軍のプロパガンダ、日本軍兵士の戦場体験とその伝聞が広まっていたために,日本人が鬼畜米英の捕虜となれば,暴行され,処刑されるとの認識は,沖縄の日本軍将兵・住民に、広くいきわたっていた。こうして,捕虜になり処刑されるより,集団死を選択したようだ。


写真(上左):日本兵に辱められる中国女性
;1937-38年撮影。獲得した戦利品として,記念写真を撮る。一人の人間の人権を蹂躙している。旧日本軍将兵だけではなく,現在の先進国の軍人でも,このような暴行行為,捕虜・民間人の虐待を行っていることが明らかになっている。暴行が露見し厳しい処罰を受けるのであれば,暴行も記念撮影もできないが,やはりプライベートな写真・ビデオの撮影は行われてている。また,婦女暴行は,明日の命をも知れない兵士には,世界共通に起こることだという識者も少なくない。日本軍将兵の体験談を漏れ聞いていた日本の女性たちも,沖縄戦に際しては,自分たちが同じ暴行にあうと考えた。決して,日本軍将兵だけが乱暴だったとか,アジア人だから野蛮だった,中国の国民性だといった,単純な問題ではないであろう。

写真(上右):銃剣で刺されたフィリピン女性
:敵性住民である女性を斬首しても、一流の刀剣の使い手とはみなせない。しかし,暴行した女性が、婦女暴行罪で訴えることが、万が一にもないようにで黙らせ、脅す手段として、発砲音のしない銃剣による刺殺、殺傷があったようだ。また、女性民間人であっても,敵への情報提供、物資徴発の妨害、労役拒否など、反日的行動,スパイを理由に処罰することはあったと思われる。


1931年の満州事変,日中戦争以来,日本でも作戦や兵器の軍事機密はもちろん,残虐行為や戦争の悲惨さを訴える反政府的な記事・写真を差し止める報道管制がしかれており,報道の自由など認められたことはなかった。対照的に,中国,米英独など列国の外交官や報道関係者は,日本軍の報道管制の下にはない。当時の米英のマスメディア(新聞,雑誌,ラジオ放送)は,日本軍の残虐行為を非難していた。反日プロパガンダも盛んに行っていた。しかし、中国,米英のメディアで報道されたような婦女暴行、捕虜処刑のニュースを耳にしたり、そのような外国の雑誌、写真を目にした民間人はほとんどいないであろう。 

しかし,日本軍将兵の暴行・強姦の体験談が,男同士で話されているのを漏れ聞いていた日本の女性たちは多かったし,沖縄戦に際しては,日本軍将兵が,自分たちの暴行体験・目撃体験から,住民に警告していた。「捕虜となれば残虐な取り扱いを受けるから、死んだほうがよい」と。

戦争初期は弱い腰抜け米英軍であったが、末期には、鬼畜米英のプロパガンダが徹底し、兵士と民間人の敵愾心をあおっていた。政府・軍からの公式情報を信じた住民は,捕虜となれば,暴行・処刑されると考えていた。捕虜となることは,命をあっさり失う以上の,苦痛,辱め,苦しみ,恐怖そのものであった。死は、軍の足手まといにならないための、犠牲的精神の発露というと透明感がある。しかし、現場ではは、米兵にかかって無残に殺されるか、家族・友人とともに集団で死ぬかという恐怖であり、どちらを選択するのも、死の苦しみを覚悟しなくてはならない。

写真:日本将兵向けの米軍投降票;121-J-1. I cease resistance. Dropped over Cagayan in the Philippine Islands on 27 April 1945.
25-J-1. I cease resistance. No photograph of prisoners on the front. Instead, a hand holds a safe conduct pass on a stick. The back has text, "Your comrades in arms who are on the road to rebirth" and "Yesterday we were enemies, today we are friends." This leaflet depicts the life of Japanese prisoners of war in Allied camps.


1945年3月30日には,沖縄本島上陸も必至となったため,米軍に使用させない目的で,沖縄守備隊は、沖縄本島西岸の北・中・南の3飛行場を自ら破壊しようとした。しかし,爆薬不足のため,破壊できなかった。4月1日読谷海岸に上陸した米軍は,日本軍の抵抗が弱いと分かると,飛行場を手に入れるために,地上兵力を急速に展開していった。そして,軍政を敷くとともに,日本の将兵・住民に対する投降を勧告し,投降勧告ビラを撒いた。

米軍は上陸と同時に,日本軍と住民に対して,投降を促し,拡声器を使った誘導,投降勧告と投降票の撒布をした。当初,投降勧告ビラは効果がないと思われていたが,沖縄では住民,民間人に対する投降勧告と併用して実施された。軍政を敷くための要員,資材,ノウハウを準備した米軍は,日ごろ,日本兵投降に関心のない米軍将兵にも,敵が降伏すれば,米軍将兵の命が救われると説得した。

1944年11月,日本兵100名の死者につき日本兵捕虜の比率だったが,2ヵ月後には 60:1になり,その三ヶ月後には 30:1と捕虜の比率が高まった。1945年7月までに日本兵の死者7名につき捕虜1名の比率となった。1945年初頭, フィリピン戦で捕まった捕虜の46%は,連合軍のプロパガンダ・リーフレット に影響されて投降した。

約6万枚のリーフレット(大きさは 5 x 8 インチ)が,敵に示された。 敵が実際に見た投降リーフレットは1万枚で,配布したものの15%に達したようだ。

読谷村の住民の一部は,北部の国頭村へ避難していたが,未だに数千人が村に残っており,上陸時には溶岩洞窟「ガマ」や亀甲墓などに避難していた。その中から,集団死,集団自決に追いやられた人々がいた。決して,日本軍の足手まといになってはいけないという理由から,自己犠牲的な愛国心を発揮して,命を潔く絶ったのではない。

当時婦人会長を務めていた喜名の安里※※は次のように証言している。
 日本軍が沖縄に入ってからは、行軍といってたくさんの兵隊さんが隊列を作って歩くようになりました。そんな時には役場の入口で婦人会幹部が湯茶を準備して接待したりで、軍の対応が仕事になっていました。毎日のように役場には呼ばれ、さらに日本軍に供出する鶏の卵を集めた事もありました。それも婦人会の仕事でした。
鶏は各戸飼っていましたから、家々を回って集めるのです。各戸から二個ずつ集めましたがザルの一杯も集まりました。役場からは卵代としてお金もありました。あの当時、仲吉医院の奥さんは副会長で、よく二人で家々を回って集めたものです。

日本軍将兵の宿舎として,沖縄住民の住居が割り当てられていた。将兵を受け入れた住民は,脇で生活していたが,日本軍将兵への信頼のためか,表立った不平,不満は出てこなかった。それどころか,住民は,徴用されていなくとも,衣食住で積極的に日本軍に協力した。

喜友名※※(座喜味)大正八年生

 イシンニーバルにいた高射砲部隊(野戦高射砲第七十九大隊)の小峰隊長(第一中隊長陸軍中尉 小峰康敏)たちが、井戸があるという事で私の家にいました。これは役場から連絡が来て、受け入れることになりました。小峰隊長は長崎の人で、二十二、三歳ぐらいで、いつも仏壇の前に座ってね。小峰隊長の他に、事務が二人、給仕係りが三人いました。ここは部隊事務所になっていたんです。昭和十九年夏頃から来て冬もいましたね。

 台所では東京からきた新兵の阿部上等兵が隊長の世話係りをしていました。一番座から台所まで、全部兵隊が使っていました。時折、彼らは慌ただしく、鐘をならしたり、ナーカヌカーに走って行ったりしていました。私たち家族八名はクチャグヮー(裏座)に入っていました。台所も兵隊に占領されていたので、食事もシンメー鍋一つに芋を炊いて食べていました。そうして、私たちの家に電話がひかれて、軍隊の連絡はここに来ていました。(→読谷村民の証言引用)

沖縄の泥の中を進撃する米軍;トラックをブルドーザーが先導している。機械力のない日本軍は住民を大動員して陣地や飛行場の構築、物資運搬、兵員への食料・宿舎の提供に当たらせたが、米軍は工作機械、トラックなど豊富な機材を使って、労働力を機会で代替した。

 1945年1月30日付の第三二軍参謀部の資料によると、2月はじめの時点における徴用労務者の部隊ごとの割当て数が記されていた。
第六二師団(石部隊)には労務者3500名、学徒255名、計3755名(島尻郡から1350名、中頭郡から2405名)、北飛行場(読谷)には労務者1400名、学徒100名、計1500名(すべて中頭郡より)、など沖縄本島・伊江島の3万9742名が徴用されることになっていた。
 

 また戦闘直前の3月6日におこなわれた防衛召集について第六二師団の召集者の村ごとの割当てと召集人数がわかった(米陸軍資料)。たとえば西原村では待機者461名中400名、読谷山では624名中550名が第六三歩兵旅団に配属されるよう命令されていた。第六二師団の管轄地域では待機者6940名に対して5489名を召集することとなっており、行政関係者や病人などを除くと根こそぎ動員と言ってよいだろう。


写真(右):米軍上陸後,すぐに占領された嘉手納飛行場;日本軍は,飛行場防備を事実上放棄していたが,飛行場の破壊は不完全で,米軍は早速飛行場を整備し始めた。

 3月31日の空襲と艦砲射撃
 31日は延べ約700機が大挙来襲した。奄美大島地区約140機、宮古および石垣方面には各約50機の来襲があった。その日、九州方面にはB29約150機が来襲していた。  米軍の艦砲射撃は北、中飛行場方面が約500発、北谷方面約100発、小禄方面420発、港川方面110発であった。
読谷村史第五巻引用)

この飛行場を「嘉手納基地」「読谷基地」として整備した米軍は,空母艦載機に頼らずに,陸上機による上空援護,支援航空戦を戦える。

日本軍は,海岸近くの平野部にある北・中の二大飛行場は,米軍の攻撃には耐えられないと,弱小部隊を貼り付けたのみで,事実上,飛行場群を放棄していた。しかし、これは沖縄守備隊の第32軍の独断に近い。守備隊の上位にある大本営、陸軍参謀本部は、飛行場を米軍に渡す事のないように指導していたのである。沖縄に米軍の航空基地が整備されれば、九州方面は米軍重爆撃部隊と護衛戦闘機部隊の攻撃圏内に入り、硫黄島からの米軍護衛戦闘機の攻撃と並んで、本土の制空権を米軍に奪取されてしまう。

後日、日本軍は沖縄飛行場への空挺部隊特攻作戦を実施したが、無謀な攻撃よりも、飛行場の防衛あるいは徹底破壊に沖縄の日本軍守備隊を活用するほうが遥かに効果的だった。

1945年(昭和20年)3月23日,米艦隊が沖縄本島に艦砲射撃を開始。米艦隊が撤退せず攻撃を続けたため,上陸を覚悟した日本軍は,3月25日に県庁を、首里城内の軍司令部地下壕に移転。沖縄守備隊の第32軍は、甲号戦備(戦闘準備)を下令。本土の第10方面軍と海軍は,「天一号作戦」(日本陸軍機・海軍機を主力としたと迎撃)を発動。 

  3月26日には,米軍は本島上陸に先立って,慶良間諸島に上陸,3月29日占領。3月30日,本島上陸も必至となったため,米軍に使用させない目的で,沖縄守備隊は、沖縄本島西岸の北・中・南の3飛行場を自ら破壊。しかし,爆薬不足のため,完全に破壊されたとはいえない状態だった。読谷村の住民の一部は,北部の国頭村へ避難していたが,未だに数千人が村に残っており,上陸時には溶岩洞窟「ガマ」や亀甲墓などに避難していた。 


写真(左):沖縄で設営した米軍基地の上空写真
;テント式居住区のようだが,バラック式の木造居住区もあった。


米軍は,沖縄本島に上陸した4月1日以前に5インチ以上の大口径砲弾を 4万1,543発消費していたが,そのうち14インチ以上の砲弾だけでも4800発を占めている。
第二次大戦中の米軍のLST(戦車揚陸艦)は3種類あり,LST-1 CLASS は390隻,(100隻が1942年9月16日にキャンセルされた),LST-491 CLASSが50隻,LST-542 CLASS”CHELAN COUNTY CLASS"が 612隻建造された。

米軍は,補給に配慮し,補給担当将校を重要視し,現地に依存せずに,地上軍を展開した。これは物資供給と作戦を区分し,補給(輜重)を軽視した日本軍とは対照的である,日本軍の補給司令官は,正面作戦担当者に隷属,冷遇されていた。

8.特攻兵器を開発・生産し,特攻隊を編成していた日本軍上層部は,沖縄戦,その後の本土決戦でも,主要攻撃手段を,特攻とし,全軍特攻化を進めた。首相小磯国昭・鈴木貫太郎らが,国民を巻き込んだ「一憶総特攻」を叫ぶと状況の中で,住民の生命財産の保全は二の次とされた。

「特攻の系譜:特殊奇襲兵器」によれば,特攻は軍上層部が率先して実施しようとしていた。特攻兵器の開発・生産,特攻隊の編成も進めている。1944年12月,海軍特殊任用令により、特攻攻撃により偉勲をたて、全軍布告の対象となったものについて、下士官は少尉に、兵は准士官に特別任用することが決定。

1945年1月20日、大本営の帝国陸海軍作戦計画大綱を決めたが、「皇土特ニ帝国本土ヲ確保スル」目的をもって沖縄を縦深作戦遂行上の前縁として,本土防衛の準備をすることとした。また,沖縄・硫黄島などに敵の上陸を見る場合においても、極力敵の出血消耗を図り、且つ敵航空基盤造成を妨害するという持久戦の方針を確認した。
海軍は「天号作戦」を、陸軍は「決号作戦」を策定、沖縄守備軍第32軍は、住民に対して「軍民の共生共死」を決めた。

1945年1月25日,最高戦争指導会議決定「決戦非常措置要綱 」の戦争方針:
第一条 ---物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立

第二条 国力並戦力造成要綱:
 一 作戦上ノ中核戦力トシテ依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス
 二 国力ノ造出ハ日、満、支資源ヲ基盤トシ自給不能ナル南方資源ヲ充足シ---併セテ各地域毎ノ攻戦略態勢ノ強化ヲ図ル こうして,軍民一体,全軍特攻化の方針が最高戦略となった。

特最高戦争指導会議とは,1944年8月4日以降小磯国昭内閣で設けられたが,それ以前の東条英機内閣のときの特大本営政府連絡会議のことである。
最高戦争会議の出席者は,政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が参加し,軍部からは陸軍参謀総長、海軍軍令部総長が出席した。蔵相ほか閣僚や参謀次長・軍令部次長などが列席する。天皇も臨席する。

天皇には,大臣による上奏,事前の内大臣・侍従長・侍従武官による情報伝達,参謀総長・軍令部総長による帷幄上奏など,さまざまなルートで最新の情報が伝達されていた。それに対して,天皇からの御下問があれば,それに答えていた。戦局や戦争方針について,統帥権をもつ大元帥昭和天皇は,明確な情報にもとづく裁可を下した。 当時の大日本帝国の版図にある人口は,大日本帝国憲法の庇護を受けない台湾人・韓国人を除くと,8000万人であるが,大日本帝国では,国民が全員,特攻精神で米英に対決するとして,「一億総特攻」を叫んでいた。
一億総特攻のためには,国民一人一人の生命や財産はもはや保全の対象とはなり得ない。全軍特攻化,一億総特攻によって,守るべきものは,日本の国体である。

米軍でも,日本軍兵士は,狂信的で,死ぬまで戦い続けるケダモノ,特攻は自殺攻撃=自爆テロ,特攻隊員=テロリスト,いいジャップは死んだジャップだけだと謳った。特攻隊員を尊敬していた連合軍兵士は,少数派である。 

「一憶総特攻のさきがけ」なら,軍司令長官,陸軍海軍大臣,参謀総長・軍令部総長,参謀など高級軍人か、軍籍にある宮様が、特攻機の後部座席,水上自爆艇に自ら一人乗り込んで体当たり攻撃を仕掛けるのが効果的である。そうなれば、日本陸海軍の下級兵卒から小国民まで感服し,現在でも顕彰されたであろう。


写真(左):日本軍の地下壕を攻撃する第731戦車大隊米軍戦車M4
;米軍は,歩兵しかない日本軍に対しては,戦車「シャーマン」を米軍歩兵支援用に活用した。TANK-INFANTRY ATTACKS marked the battle for the escarpment. An armored flame thrower of the 713th Tank Battalion, protected by infantry against enemy satchel-charge attacks, sprays flame over a knob on the crest of the escarpment. 写真(右):沖縄本島の米軍兵士;M1ガーラント自動小銃を手に進撃する歩兵。


マサダの集団自決の神話
住民を巻き込んだ戦いは、古代からあるが、有名な集団自決の伝説は、紀元73年の第一次ユダヤ・ローマ戦争におけるマサダMasadaの要塞でのものである。これは、ローマの大軍に包囲されたユダヤ兵士・住民960人が集団自決collective suicideした事件で、ローマ市民権を持つ歴史家ヨセフスJosephus Flaviusのあらわした『ユダヤ戦記』The Jewish Warが唯一の文献証拠である。

ローマ軍は西暦70年にエルサレムを攻略し、ユダヤ人の叛乱は鎮圧し、抵抗したユダヤ人は、捕虜になった後、殺害された。一説には、ユダヤ人が宝石や金を飲み込んでいると思われ,腹を裂かれた。ティトゥス将軍はローマへと凱旋したが、エルサレム以外で抵抗を続けた兵士・住民は、難攻不落といわれたマサダの要塞に2年間籠城した。

写真(左):マサダの要塞;73年にユダヤ人960名が集団自決したとされ、イスラエルの聖地(世界遺産)になっている。The summit of Masada sits 190 feet (59 m) above sea level and about 1500 feet (470 m) above the level of the Dead Sea. The mountain itself is 1950 feet (610 m) long, 650 feet (200 m) wide, 4250 feet (1330 m) in circumference, and encompasses 23 acres.

死海の西にあるマサダの要塞は、470メートルの丘上の街で、宮殿、貴族の家、シナゴーク、食糧庫、町をまもる軍事施設、展望台があり、岩をくりぬいて作った貯水槽には4万トンもの水を蓄えることが出来た。

 マサダ集団自決のの悲劇とは、マサダ要塞に篭城した兵士・住民960人が、ローマ軍の2年間の兵糧攻めに合い、集団自決したという伝説である。マサダの司令官Elazar ben Yairの最後の演説は、次のようであったという。 

“Since we long ago resolved never to be servants to the Romans, nor to any other than to God Himself, Who alone is the true and just Lord of mankind, the time is now come that obliges us to make that resolution true in practice...We were the very first that revolted, and we are the last to fight against them; and I cannot but esteem it as a favor that God has granted us, that it is still in our power to die bravely, and in a state of freedom.”我々にはまだ勇敢に死ぬ力があり、自由の国にとどまっている。

マサダ要塞では、ユダヤ人男性が妻子を殺害し、そのごお互いの命を絶った。その自決の様子を、洞窟に隠れていた女2人、子供5人が生き残り、ヨセフスに伝えたという。

マサダの集団自決committed suicide は、民族独立の戦いの尊さを示し、捕虜とならずに自決した潔さから、ユダヤ人の美談,名誉の象徴となった。現在のイスラエルにとっても、祖国存続の基盤となる物語である。イスラエル軍入隊宣誓式は、マサダ要塞上で国旗掲揚、旧約聖書ヨシュア記朗読の中で行われる。そして、「マサダは二度と陥落しない」と誓う。Masada symbolizes the determination of the Jewish people to be free in its own land.

曾野綾子(2003)「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」『正論』平成十五年九月号所収は、「イスラエルでは今でもこの地を民族の歴史の誇りとして扱う。----同じような悲劇を持つ沖縄では、自決した人たちの死は軍から強制されたものとすることに狂奔した。それは死者たちの選択と死をおとしめるものであろう。イスラエルと日本のこの違いはどこから来るのか。私はそのことの方に関心が深いのである。」

写真(右):マサダの要塞;Masada today is one of the Jewish people's greatest symbols. Israeli soldiers take an oath there: "Masada shall not fall again." Next to Jerusalem, it is the most popular destination of Jewish tourists visiting Israel. As a rabbi, I have even had occasion to conduct five Bar and Bat Mitzvah services there. It is strange that a place known only because 960 Jews committed suicide there in the first century C.E. should become a modern symbol of Jewish survival.  

マサダで集団自決した兵士・住民は,ローマ軍によってエルサレムが陥落された時の住民虐殺、投降し捕虜となった場合の恐怖を抱いた。捕虜になって、残虐行為を受けるよりは,自ら死んだほうがましであるとの恐怖である。 

さらに、マサダの集団自決の悲劇自体に、歴史学から疑問が呈されている。
・戦争はエルサレム攻略でほぼ終了し辺地のマサダで大規模戦闘はきていない、
・1000人のユダヤ人を1万人のローマ軍団が3年も包囲する必要がない,
・ヨセフス『ユダヤ戦記』の集団自決の証言は、生き残りの女性からの口伝とされている、
・口伝律法を6世紀頃まとめたタルムードTalmud/には、重要であるはずの「マサダの悲劇」について言及がない(→Talmudを読む)
・ユダヤの律法では自殺を禁じており,同朋殺害も美徳とは認められない、
このような様々な反証がされているが、マサダの悲劇は、「民族国家のために死ぬまで戦うという名誉」というメッセージを伝える者にとって、あるいは現在のイスラエルにとって、重要な国家的意義を表す伝説であり,兵士・住民の集団自決の美談は語り継がれねばならない。960人のユダヤ人集団自決(マサダの悲劇)は、証拠不十分で、立証できていないが、これは重要なことではない。After all, the heroism in the Masada narrative and in the context is not at all self evident or understood.

写真(右):日本のために戦死した男女を神(ミコト)として奉る靖国神社本殿;軍人・軍属で日本のために戦い死亡した男女を,神として慰霊する。日本軍人だけではなく,政治家,朝鮮半島や台湾出身者,学徒や女子挺身隊も,遺族の意思にかかわらず,奉られている。

マサダ要塞の集団自決の美談は、歴史の一コマとしては扱うには荷が重過ぎる。国家の戦略、民族の栄光に直結する重要事項に関しては,歴史的事実認識以上の高度な政治的国家宗教的判断が要求される。沖縄での住民自決も、マサダでのユダヤ人自決も、歴史的事実の認定以上の高度の政治的国家宗教的判断から、認定がされている。(される必要がある?)

日本の靖国神社を,軍国主義精神の表れのように理解する識者も多いが,これは狭い見解であろう。国民統合のための宗教的祭礼装置として,祖国防衛,国防と天皇制,国体の護持が結びついていることを評価すべきである。戦後,極東軍事裁判における平和の罪,人道上の罪を犯した政治的指導者(A級戦犯)が奉られているといった一部の死者に関する「奉られた命」問題は,靖国神社の国家宗教的最高神格化を踏まえれば,大きな問題ではないかもしれない。靖国神社は,天皇制国家の宗教の場で,天皇制に基づく日本国の統治理念を具現化したものである。経典,教義が明確に確立していない宗教では,祭礼,儀式,寺院・偶像などの宗教装置が「宗教」となる。

9.米軍が沖縄攻略に多数の艦艇,航空機,兵員を投入し圧倒的に優勢だった中で,沖縄周辺の島々では,孤立無援で,自活しながら,防衛の強化を図っていた。米軍の上陸に,全軍特攻化,決死の覚悟を決めるしかなかった。このように緊迫した恐怖が支配する状況で,石垣島では日本軍将兵が捕虜とした米軍航空兵を斬首,刺殺した。 

写真(左):日本軍の防御拠点を攻撃する火炎放射戦車;周囲の草木を焼き払うとともに,陣地の日本人も焼死させる。M4「シャーマン」戦車の改造型。

沖縄32軍は反撃開始を4月7日とし、支援のため、戦艦「大和」などの第一遊撃隊が沖縄に向け出撃した。日本陸・海軍は,航空隊と艦隊の共同作戦によって、4月6日・7日と米軍の地上部隊・艦隊に総攻撃を実施した。しかし,これは失敗し,米軍が石垣島,宮古島,徳之島などに米軍が上陸するのではと,各島の守備隊は怯えるようになった。沖縄本島ですら,持久戦の中,自活を強いられて,苦戦している。その他の小島に,米軍が上陸しても,日本軍上層部は,なんらら対抗策をとらないことは必至である。孤立無援の沖縄周辺の島々では,日本軍将兵,住民が不安,恐怖の中で,自活準備,防衛強化に取り組んでいた。 

「BC級戦犯田口の悲劇」石垣島事件/講演「戦後沖縄の挑戦」大田昌秀によれば,沖縄と西表島の中間にある八重山群島石垣島にも,水上特攻艇「震洋」が配備されていた。米軍が沖縄本島へ上陸した4月1日から2週間後の4月15日午前9時、石垣島上空で米空母任務部隊の艦載機TBM「アベンジャー」雷撃機が撃墜され,パラシュート脱出した搭乗員3名が捕虜になった。 


写真(左):米空母「エセックス」の「アベンジャー」(復讐者)艦上雷撃機
;1945年5月20日沖縄方面で撮影。尾翼を失った「エセックス」の「アベンジャー」は,安定性がよく,防弾装備も整っているのは,生還率を高めるため。この雷撃機も尾翼を破壊されたが,この機の搭乗員は無事だった。「アベンジャー」は1941年8月7日に初飛行、1942年から運用開始。対空砲火と敵直援戦闘機の攻撃にさらされることを前提に,安定性・防弾性・攻撃力が重視されていた。

TBF/TBM「アベンジャー」雷撃機
;乗員: 3名,全長: 40 ft,翼幅: 52.2 ft ,空虚重量: 10,080 lbs,満載重量: 13,667 lbs,エンジン: 1,723馬力空冷,武装: .30-caliber 3丁,搭載: 魚雷1本または爆弾1,500 pounds,最高速度: 271 mph,航続距離: 1,215 miles,上昇限度: 22,400 ft,上昇率: 700 ft/min.


 石垣島の飛行場には、台湾を発った特攻機が沖縄へ向かう途中,補給に立ち寄る。それを狙う米軍機が来襲した。しかし,米軍機が急降下,反転する時、日本軍の25ミリ機銃射撃が命中した。
 パラシュート脱出した次の3名は、大浜海岸の珊瑚礁の上に漂着し、海軍警備隊の捕虜となった。  操縦士 バーノン・ティーボ中尉(28歳) イリノイ州出身 
 通信士 ウォーレン・ロイド兵曹(24歳) ニューヨーク州ロングアイランド出身
 航法士 ロバート・タグル・ジュニア兵曹(20歳) テキサス州レインジャー出身

 石垣島の海軍警備隊司令の井上乙彦大佐は、取り調べが終わると、午後5時半、3人を処刑するための処刑場の準備を榎本宗応中尉と前島勇少尉に命じた。埋葬用の穴が掘られた。午後6時ごろ、井上司令は、水上特攻「震洋」の隊長の幕田稔大尉に捕虜1人の斬首を命じた。

写真(右):斬首されようとする連合軍捕虜Life Magazine が入手したもので,南東方面でのオーストラリア兵と思われる。バターン半島で捕虜になり斬首されるフィリピン兵の写真もある。;Filipinos Being Executed by Decapitation (James Litton)

副長の井上勝太郎は、電話で、田口泰正少尉に捕虜1人の斬首を、榎本中尉に下士官兵を指揮して銃剣で捕虜1人の刺殺を、井上司令の命令として伝達。榎本中尉は刺殺用の捕虜を縛る柱を立てた。

 午後7時半ごろ、榎本中尉の伝令として前島少尉が処刑場の準備完了を井上乙彦司令と井上勝太郎副長に報告。
 午後9時ごろ、井上乙彦司令が処刑の執行を井上勝太郎副長に命ずる。井上副長は幕田大尉、田口少尉にそれぞれ捕虜1人の斬首を、榎本中尉に下士官兵を指揮して捕虜1人の刺殺を、前島少尉に捕虜たちを処刑場に護送するよう命じる。
 井上勝太郎副長は、当直将校に全員が処刑場に集合するよう命じる。
 午後9時20分ごろ、処刑開始。 

 田口は4ヶ月前に少尉に任官した22歳。処刑に関わった唯一の学徒兵。
 幕田はティボー中尉の首を、田口はタグル兵曹を斬首。続いて榎本がロイド兵曹を銃剣で刺殺、さらに40人の部下が胸や腹を刺した。集団で刺殺する処刑方法は、肝だめしのために中国大陸でも中国人捕虜に対し行なわれていた。

写真:バターン半島で捕虜になり虐待されるフィリピン兵;バターン死の行進として有名になるが、米軍の大多数がフィリピンでの捕虜である。写真:ビルマで解放された連合軍捕虜;ビルマとタイをつなぐ鉄道建設が、特に多数の病死者、死傷者を出した。 

10.沖縄戦では20万名の日本軍将兵・住民が死亡し,米軍艦船に対する日本の特攻機は,2000機が出撃し,3000名の搭乗員が戦死した。石垣島で捕虜を処刑し日本軍将兵も特攻隊員あるいは捨石にされた地上戦闘員として,戦死するしかないと認識していたであろう。そのなかで,終戦まで生き延びたものも,捕虜処刑の咎で死刑になった。

戦後、連合国最高司令部GHQは,石垣島の捕虜処刑事件を調査し,46人を起訴した。一審は46人中41人に死刑判決。死刑の判決を受けた41名の中に沖縄出身者は7名いた。その中の1名だけが正規の軍人で、残りは沖縄現地から召集された農民あがりの俄兵士(20歳未満は3人)で、事件発生から3、4カ月前か、2週間前に入隊したばかりだったという。
 被告の中には無罪放免となった県出身者が1人いて、彼は判決後すぐに上京して死刑を宣告された仲間の減刑運動に取り組んだ。しかし,第八軍の再審でも13人が死刑判決。GHQの再々審で死刑は7人となったが、東京水産大学出身の学徒もその中にいた。

死刑が確定した7人は次の人たちであった。 
 井上乙彦(大佐、警備司令) 48歳 
 井上勝太郎(大尉、警備隊副長)23歳
 幕田稔 (大尉、震洋隊長) 27歳 
 榎本宗応 (中尉、甲板士官) 41歳
 田口泰正(少尉、第1小隊長)22歳
 成迫忠邦 (1等兵曹、下士官)23歳
 藤中松雄(2等兵曹、下士官)25歳


(→「BC級戦犯田口の悲劇」引用)

 死刑と判決された沖縄出身者は,最終的に1人残らず死刑を免れまたが,最年少の17歳で死刑を宣告された後、重労働の刑に処せられた少年は、刑を終えて出獄した後、次のように述懐しているという。
 「思えば、志願兵として入隊し、東西もわからないままただ皇国日本の勝利を信じつつ上官の命令するままに動かされてきた青春、そして戦犯として5年余り刑務所生活を余儀なくさせられた青春、平和時の今日よく考えて見ると同じ人間でも戦下の人間は精神的状態が異常になるのです。--」(→石垣島事件/講演「戦後沖縄の挑戦」大田昌秀引用)

11.日本軍の捕虜となった連合軍の兵士・連合国の民間人は過酷な取り扱いを受けた。その結果、ナチス・ドイツにつかまった連合国の捕虜よりもはるかに高い死亡率を記録している。日本軍における残虐な捕虜、敵国民間人の扱いが、日本の民間人にも当然のこととして受容されており、その裏返しとして、日本人も米軍捕虜になった場合、残虐行為うけると想起できた。恐怖が迫る中で、日本軍兵士は死ぬまで戦い、民間人も含めて、逃げ延びることができなければ、降伏して捕虜になる(=殺される)よりは、自ら死を選んだ。


写真(上):フィリピン戦で捕虜になったルソン島バターン半島の米軍兵士
;1942年にバターン半島で降伏した米比軍兵士の扱いは,このようだった。脱走を試みたとして,処罰された。食糧・医薬品の不足で,健康を損ねたりするのは当たり前であった。鬼畜米英の兵士は,これよりひどく日本の捕虜を扱うはずである。


POW Statistics(捕虜統計)によると、次のように捕虜(POW:PRISONER of WAR )の概要が述べられている。

日本の連合軍捕虜 POWs of the Japanese:


国籍別の死亡率



米国 American
POWs合計: 25,600
POW 死亡: 10,650
死亡率:    41.6%

British英国、オーストラリア、インド
POWs合計: 130,000
POW 死亡:   8,100
死亡率:     6.2%

オランダ
POWs合計: 37,000
POW 死亡:  8,500
死亡率:     23%

強制労働者(オランダ領インドシナ、現インドネシア)
労務者:    300,000
労務者死亡: 230,000
死亡率:     76.6%

第二次大戦中の米国POWs

軍人捕虜

合計で、米軍捕虜は 130,201名である。2000念1月1日現在, 38,114名画生存しているが、生存率は29.2%である。日本軍の捕虜となった米兵は合計 36,260名で、2000年1月1日現在 5,745名が生存している。生存率は15.8%であるが、これは、ドイツ軍につかまった米軍捕虜の生存率47.6%よりもかなり低い。           

 ドイツ軍捕虜   %   日本軍捕虜 %

第二次大戦中の米軍POW:

93,941

---

36,260

---

死亡したPOW:

1,121

1.1%

13,851

38.2%

2000年1月現在生存中のPOW:

44,773

47.6%

5,745

15.8%

民間人捕虜

第二次大戦中の米国民間人の捕虜は 18,745名で、2000年1月1日現在 3,018名が生存している。生存率は16.1%である。日本軍の捕虜は, 13,996名で、1999年1月1日現在の生存者は、僅か1,497名で生存率は10.7%である。軍人同様、民間人の捕虜も、ドイツでより、日本でのほうが生存率が低い。



  ドイツ軍   %   日本軍  %

米国民間人捕虜

4,746

---

13,996

---

死亡した捕虜

168

3.5%

1,536

11%

2000年1月1日の生存者:

1,521

32%

1,497

10.7%

Source: AXPOW Association, March 15, 2000

"The Veterans Administration reports that 46,417 ex-prisoners-of-war were alive as of January 1, 2001. The numbers of living Ex-POWs is dwindling rapidly. The number living as of January 1, 1998, was 55,999. Clearly our numbers are decreasing at well over 3000 per year and this rate is accelerating." -- Wally Nelson, EX-POW Bulletin, June 2001

太平洋戦線の米国 POWs



地域別の捕虜人数
Philippines: 22,000
Wake Island :1,555
Java (Indonesia): 890
Guam: 400
Japan & elsewhere :300
Celebes (Indonesia): 255
China: 200
Total :25,600

殺害・死亡した捕虜人数
Philippines: 5,135
On prison ships: 3,840
Japan: 1,200
Manchuria (China): 175
Burma: 130
Wake Island: 100
Korea: 70
Total :10,650

解放されたPOWs(解放地域別)
Japan: 11,400
Philippines: 1,500
Manchuria (China): 1,200
Burma-Thailand: 480
Celebes (Indonesia): 200
Korea: 150
China: 20
Total: 14,950

Source: Surrender and Survival: The Experience of American POWs in the Pacific by E. Bartlett Kerr, 1985

日本側の米国POW統計

国・地域  POWs合計  POW 死亡   死亡率 (%) 
Britain

50,016

12,433

24.8%

Holland

37,000

8,500

22.9%

Australia

21,726

7,412

34.1%

United States

21,580

7,107

32.9%

Canada

1,691

273

16.1%

New Zealand

121

31

25.6%

合計

132,134

35,756

27.1%

Source: Horyo Saishu Ronkoku Fuzoku-sho B, Feb. 19, 1948

ソ連に捕虜・抑留された日本人は、 575,000名であり、そのうち 55,000名が死亡した。死亡率は 9.6%である。.


POWs 統計については、 Prisoners of the Japanese in World War II -- "Out of about 1 million captives, well over one-third died -- a needlessly and tragically high figure."、Statistics Of Japanese Democide -- Estimates, Calculations, And Sources. の Table を参照。

戦後すぐの報告された公式報告から推計すると、合計でPOWの死亡者は138,000 である。日本軍につかまった米国POWの 29%が死亡している。.



東野利夫(1979)『汚名―「九大生体解剖事件」の真相 』によると、1945年5月5日にマリアナ基地から出撃したB-29爆撃機が、久留米空襲から帰投中,撃墜。搭乗員11名がパラシュート降下,村人が猟銃、竹槍、草刈鎌・鍬を持ち出し、報復に向かった。B-29搭乗員1名は自決、1名は警防団の銃撃で死亡、1名は樹に引っ掛かって負傷、9名が捕虜として,福岡市西部軍司令部に護送された。

防空担当参謀の元に、東京から,俘虜収容所は一杯なので敵機搭乗員のうち情報価値のある機長だけ送り,残りは各軍司令部で適当に処置すべき事を伝える電文がきた。参謀は,九大医学部出身の軍医に「捕虜銃殺は時間の問題。医学で役に立てる方法はないか」と相談。こうしてB-29の捕虜8名は,九州大学解剖実習室で,5月17日から6月3日の間に、生体解剖された。肺、心臓、肝臓などを標本としたという。

1946年7月12日、GHQは、九州大学生体解剖事件の関係者逮捕令を通告,教授は逮捕後の18日午前零時、独房で縊死。遺書に「オロカナ馬鹿なことをしたことを許してください。(略)一切は軍の命令、責任は余にあり。(助手の)××は、余の命令にて動く。願わくば速やかに釈放されたし。(解剖実習室の)××君、すまぬ」とあったという(北沢杏子の今月の一言引用)。

12.沖縄戦では、特攻、地上戦が展開され、日本軍・米軍の双方に大きな損害、死傷者がでた。特攻の戦果は、確かに大きかったが、その損失は戦果を上回った。つまるところ、損害とはいっても、人間の命を奪いあう殺害である。住民の集団死・集団自決、捕虜の処刑は、悲惨な出来事であるが、沖縄戦では、日米双方の多数の人命が奪われた。しかし、戦車・航空機よりも攻撃が容易で、より高価な(傷害治療・埋葬費・遺族年金の負担がかかる)人間を攻撃するテロは,効果的な戦術である。民間人も、兵士の予備軍であり、軍需生産、食糧生産、世論の支持という総力戦を担っているという状況では、前線・戦場と後方・銃後は異なるといった発想は通用しなくなる。戦争の本質は、殺し合い,テロリズムにあるのかもしれない。 

沖縄戦の被害
米国側;地上での死者7,373名(戦死以外の病死・事故なども含む),負傷者3万2,056名。
日本側:死者10万7,000名,軍人の捕虜7,400名。 It is possible that the Japanese lost another 20,000 dead as a result of American tactics whereby Japanese troops were incinerated where they fought.

沖縄戦において、日本軍は、航空機約1,900機(海軍1,000機、陸軍900機)とその搭乗員約3000名(海軍2,000名、陸軍1,000名)を特攻作戦に出動。
 沖縄特攻の戦果は、艦船の撃沈26隻,損傷164隻。ただし,空母,戦艦,巡洋艦は1隻も撃沈していない。米海軍の沖縄方面の人的損害(1945年4月から6月末)死者4,907名、負傷者4,824名。

 米国商船の被害一覧によれば,沖縄方面で被害を受けた米国商船は,特攻,爆撃,魚雷,機雷,友軍の誤射など合計24隻,撃沈4隻のみ。

写真(右):那覇市内を掃討する米軍兵士;持久戦を戦うために,日本軍は那覇を放棄,首里の陣地に立てこもった。徹底抗戦するにも,コンクリート建造物がなかった沖縄では,市街持久戦は不可能だった。住民も日本兵とともに撤退した。しかし,フィリピンのマニラでは,撤退しなかった日本海軍部隊が交戦を続け,米軍,フィリピン市民に大きな死傷者がでた。

6月17日までに米軍は,摩文仁の岳の日本軍司令部壕まで前進,6月18日,米軍沖縄上陸部隊司令官バックナー中将が,牛島司令官に降伏勧告状を送った。しかし,牛島司令官は降伏を拒否,第十方面軍宛に訣別電報を送る。バックナー中将は,真栄里部落で日本軍との砲撃戦であるいは狙撃によって死亡。

海軍根拠地隊司令官大田實少将の司令部地下壕は,今日でもツルハシの跡、手榴弾の弾痕,司令官室の墨書も残る完備された海軍の地下壕だった。1944年に日本海軍設営隊「山根部隊」の建設になる。450mをカマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと坑木で固めて、米軍の艦砲射撃,空爆に耐えた。4000人の兵士を収容できた。 

海軍司令部壕は,戦後しばらく放置されていたが、数回に渡る旧海軍壕遺骨収用作業が行われ,2,400人の遺骨が発見。1970年3月観光開発事業団によって司令官室を中心に275m復元。 

6月17日,第3外科配属のひめゆり学徒隊が伊原壕で自決。牛島中将は決別電文を送信した19日,「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し,最後まで敢闘し,悠久の大儀に生くべし」と徹底抗戦、降伏禁止命令を出した。23日未明,長勇参謀長と共に,摩文仁の丘で自決。
(→糸満市引用)


写真(左):平安座島の沖縄女性;米軍補給物資に集まってきた。
写真(中央):薪を運ぶ沖縄婦人;煮炊きの必需品が薪炭だったので,柴刈りに出かけることもあった。
写真(右):米軍に保護された沖縄住民;いずれも平安座島の住民で,1945年5月ごろにEdward Schwartz 撮影
 

沖縄では,住民によるゲリラ戦,投降を装った敵対行為,スパイ活動,破壊工作はほとんど行われなかった。現在の中東におけるゲリラ的な「テロ活動」は長期化しているが,米軍による軍政が,沖縄の住民に徹底抗戦を放棄させた。 

写米陸軍公刊戦史Chapter XVI Behind the Front;Military Governmentによれば,1945年4月1日の米軍沖縄上陸から,米軍による軍政下におかれる沖縄住民が急増し,1944年4月30日,沖縄の住民12万5000人が米軍の軍政下にあったが,安全保障上の理由から戦場から離れた集落に集められたり,鉄条網で囲われた収容所に入れられた。3万1825人のいる囲われた収容キャンプもあった。

4月末は,住民12万6876人が米軍軍政下に保護・収容された。そして,首里の防衛線が崩壊する5月中に,その数は増え続け,6月初めには,14万4331人にまで増加した。



米軍に保護された沖縄の子供たち
Edward Schwartz 撮影

■ 沖縄戦による戦没者数 200,656名

  (日本側 188,136名) 
  ・他都道府県出身(軍人軍属) 65,908名
  ・沖縄県出身(軍人軍属)   28,228名
  ・沖縄県出身(戦闘参加者)  56,861名
  ・一般沖縄県民(推計)    37,139名

  (米軍側  12,520名)
沖縄地上戦と住民沖縄戦の特攻沖縄戦の統計

■沖縄戦での集団自決/集団死は、各地で33件約1122人が死亡したと推計される。
 沖縄戦での日本軍兵士による住民・同胞殺害は、各地で46件162人(朝鮮人軍夫12人)とされる。
沖縄戦における「集団自決」と「住民虐殺」の事例一覧
沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会:所信表明
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,海上挺進隊,沖縄戦,集団自決についても分析しています。
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