鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
特攻兵器「回天」「桜花」「震洋」「マルレ艇」 2005
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◆特殊奇襲兵器;人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」「マルレ艇」


写真(左):人間魚雷「回天」;回天は潜水艦の甲板に搭載された。1944年以降,約400基が製造され,約100基が特攻作戦suicide missionsに使用された。航続距離は,78km/10 knots,43km/20 knots,23km/30 knots.1974年米国での撮影。
写真(右):人間爆弾「桜花」;米陸軍航空隊第9爆撃軍団のB-29搭乗員が,沖縄の基地に不時着したとき撮影。9th Bomb Group Photo

◆2013.7.24 「桜花」カタパルト発射台を装備する比叡山(848m)山頂付近の秘密基地の写真が見つかった。旧制中学の京都三中の生徒が戦後に撮影したとみられる。しかし、カタパルト発射可能な桜花43型は胴体後部にジェットエンジン装備で試作中ではあったが、エンジンすら実用化できていない。「幻の基地」というより幻の兵器の実用化を前提に軍が建設を強行したものである。 「桜花カタパルト発射基地は、アメリカ側の記事にも出ているが、当時の写真は見つかっていなかった。
浅野昭典氏(第721海軍航空隊)証言
8月始めには、わたし、宿坊で寝泊りして、(下の)その飛行場まで(零戦の飛行)訓練に行ったでしょ。それで、日にちはよくわかりませんが、5日から、10日までの間だったんじゃないかな。カタパルトが完成してるんです。それはまぁ、今で言う、建設省かなあ。海軍じゃないんだ。建設省なんです。たぶんね。そこでもって出来たぞ」で、15日に引渡しだけど、「一遍、発射実験をやるから、皆さんね、パイロットの人は、ご覧になりませんか」っていうことで、見せてくれたわけ。それで、台車の発射実験をやって、火薬使ってね。で、それ1回だけじゃないのかな。実験っていうのは。
Q.それは、どんな風な実験だったんですか。
いや、ちゃんとほら、カタパルトができているでしょ。こっち側に飛行機を継ぐ台車っていうのがあんだ。それで、飛行機は来てませんけど、台車だけ。そこにもって、科学のロケットついて、それを噴かしていくわけだ。すると、カタパルトの前にワイヤーが張ってあって、その台車にワイヤーがぶつかる。ぶつかると台車がパタンと倒れる。それで、飛行機が浮くわけですね。それで、後は(桜花の実機があったとすれば)自分の力でもって、エンジンついてますから、それで飛ぶわけ。 
Q.その発射実験、ご覧になって、どうですか?今までの訓練と、また違ってましたか。
違うっていうか、ゼロから、ここへ来て、60メーターぐらいしかないんですから、スピードがね、それだけ出るのかなと思ったけど、やっぱり、火薬でもって噴かすから、スピードが出て、これでいった時から、(まだ見てもいないが)飛行機の方にもエンジンがついてるわけだから、これである程度飛ぶのかなあと。まぁ、そんなことしかないなあ。(引用終わり)

写真(右):人間魚雷「回天」に撃沈された米海軍給油艦「ミシシネワ」AO-59;1944年11月20日,米軍艦船のウルシー泊地で回転に襲撃され撃沈。

◆2013年8月13日〜17日の四日間で2947名のアクセスがあった。
◆2011年8月13日、ヤフーニュースに当研究室が取り上げられた。その1日だけで47925人のアクセスがあり、戦後66年たっても特攻への関心が衰えていないことに感銘を受けた。
「もう、お前たちの乗る飛行機はない」。大空にあこがれて日本海軍に入った少年飛行兵に、上官は告げた。10代の少年たちを待っていたのは、小型モーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」だった。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦と戦争・平和の話を伺った。


1.日中戦争以来、日本軍のアジアへの侵略行為、残虐行為が連合軍に流布され、日本人への反感が高まっていた。しかし、ジャングル戦などでの日本兵の攻撃精神の旺盛さは、連合軍兵士を悩ませ、恐怖心や劣等感も起こさせた。士気の阻喪を懸念した司令官の中には、「よいジャップは、死んだジャップだけだ」として、日本兵の殺害を推奨するものもいた。連合軍には、日本の侵略行為・残虐行為に日本人への人種的偏見が加わって、対日戦争における欧米流の騎士道精神は期待できなかった。連合国側から見れば、日本軍の特攻作戦は、現在の自爆テロと同じく、狂信的な愚かで卑劣な行為として認識されていた。

真珠湾攻撃を受けた責任を取らされるかたちで太平洋艦隊司令長官キンメル提督は罷免された。キンメルの代わりに,1941年12月16日,新たな太平洋艦隊司令長官としてニミッツNimitz,Chester William提督(大将に相当)が任命された。高速空母部隊の主力となり任務部隊も第3艦隊に配備された。第3艦隊司令官はハルゼー提督であり,太平洋艦隊司令長官ニミッツは彼を指揮する上官の立場にある。

写真(左):第3艦隊司令長官「ブル(野牛)」ハルゼー提督;1944年12月のフィリピン戦の撮影。Third Fleet was originally formed during World War II on March 15, 1943 under the command of Admiral William F. "Bull" Halsey. He opened his headquarters ashore in Pearl Harbor, territory of Hawaii, on June 15, 1944. Third Fleet planned and directed many of the decisive naval operations of World War II in the Pacific. The fleet operated in and around the Solomon Islands, the Philippines, Formosa, Okinawa and the Ryukyu Islands.

 1943年,ケネディJohn F. Kennedy海軍中尉(後の大統領)が魚雷艇指揮官としての1カ月以上の任務を終えて,ソロモン群島ツラギ島に帰還すると,ハルゼー提督が掲げるように命じた大きな看板が目に入った。そこには次のように書かれていた。「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ!もし任務を的確に果たそうとするなら,黄色い卑怯な野獣を殺せ。」

KILL JAPS !KILL JAPS !KILL MORE JAPS ! You will help to kill the yellow bastards if you do your job well " [From "PT 109 - The Wartime Adventures of President John F. Kennedy" by Robert J. Donovan](→Fleet Admiral William F. 'Bull' Halsey 引用)

ハルゼー提督は過酷な戦場では,敵国日本人が肉体的に優れているという米軍の恐怖心を否定する必要性を感じた。そこで,「'Kill Japs ジャップ(日本人ども)を殺せ」Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.'のスローガンを掲げた。「死んだ日本人がいい日本人だ」として人種的に侮辱し,戦意を高めた。

勇猛果敢な戦闘精神の権化ともいえるハルゼー提督は,特攻をジャップの自爆テロとして憎悪し,日本人狩り(Japanese-hater)を辞さない敵愾心を喚起して,米兵の戦闘意欲,士気の向上に結び付けようとした。
He strongly believed that by denigrating the enemy he was counteracting the myth of Japanese martial superiority . . . ' "Halsey's racial slurs made him a symbol of combative leadership, a vocal Japanese-hater . . . "

「米軍兵士はカミカゼ特攻隊を恐れ,畏敬の念を抱いていた」とする日本人識者は多い。しかし,当時,カミカゼはテロリストであり,米兵は、戦利品として,戦死した特攻隊員の遺体を皿に載せ,ジャップ・ステーキとして嘲笑したり,遺骨・特攻機の破片や残骸を戦利品として持ち帰っていた。現在でも、寄せ書きの有る日章旗や軍隊手帳が、遺族に返却される「美談」が報じられる。このような戦利品spoil of warが持ち帰られた一因には、日本兵への敵意や憎しみがあった。現在、「自爆テロリスト」を,愛国心のある立派な戦士とする日本人はまれである。米兵が特攻隊の死体を艦艇上で見つけ,海葬にしてたのは例外である。

冷静な研究者や軍人は別にして,カミカゼに直面した大半の米兵は,戦友や自らの命を奪うカミカゼは「自爆テロ」であり,憎悪,嫌悪の対象である。

特攻隊員たちは,米兵はカミカゼを憎悪,嫌悪していると判断していた。終戦後,特攻隊員は直ちに解散,復員した。進駐してきた米軍将兵に,尋問され,処罰・処刑されるのを避けるためであろう。

特攻隊員たちに,個々の米国人への敵愾心はなかったかもしれないが、日本に侵攻してきて、家族に危害を加える米軍,敵艦隊の撃滅を願う敵愾心があった。特攻作戦は、祖国愛、家族愛に燃えた有意な兵士による自発的な意志,志願に負う部分もあると思われる。

人が命を捧げること,祖国や家族を守るための破壊行為の善悪,それを行う個人の意思を判断するのは容易なことではない。

■⇒レイテ戦の神風特攻隊:特攻第一号と特攻の生みの親の神話

2.1944年10月20日,米軍はフィリピン攻略作戦を開始した。このときに,日本軍の航空機による特攻作戦がはじめて展開された。しかし,1944年3月には、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し,1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図した。
人間魚雷「回天」は,「㊅金物」(マルロクカナモノ)との秘匿名称で1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出された。
陸軍の突撃艇(マルレ艇)は,1944年6月15日に設計を開始し,7月11日に試験演習を隅田川で行った。
1944年8月16日には海軍航空本部が「マルダイ部品」の秘匿名称で、人間爆弾「桜花」を改正試作するように航空技術廠に下令した。このように1944年3月以降,日本軍は,特攻兵器を開発し,特攻作戦を組織的に計画,準備した。

 個人的な行動としての自爆は,帰還不能に陥った航空機による自爆としてしばしば見られた。ミッドウェー海戦でも,日本海軍攻撃隊の友永機が燃料漏れのまま出動した。珊瑚海海戦では,索敵機が,燃料不足を承知で敵空母まで日本の攻撃隊を誘導した。インド洋のアンダマン海ではニコバル島近海で,日本陸軍戦闘機一式戦が体当たり攻撃をし,ニューギニア北西のビアク島でも二式複戦が被弾したためか,敵艦に体当たり自爆した。

写真(左):1945年,鹿屋基地から沖縄方面へ特攻出撃する隊員たち;1944年10月に特攻が始まった当初、念入りな歓送会が開かれた。米軍から見れば、日本の特攻機を操縦する卑劣な自爆テロリストということになる。しかし、特攻隊員は、米国への敵愾心と同時に、家族を愛する純真な若者でもあった。特攻隊員には,予備士官(学徒兵)や予科練(少年兵)出身が多く,兵学校出身は少ない。

 「十死零生」の体当たり自爆攻撃という特攻を軍が立案し,作戦として用いたのは,1944年10月20日以降のレイテ湾の戦い(レイテ島攻防戦)からといわれる。日本海軍機による「神風(しんぷう)特別攻撃」が編成され,連合軍艦艇に自爆体当たり攻撃を実施した。特攻第一号は,敷島隊関行男大尉とされた。

しかし,特攻第一号の関行男大尉(海軍兵学校出身)の戦死する半年以上前,1944年3月に人間魚雷「回天」の試作が,「㊅金物」(マルロクカナモノ)として命じられている。「回天」は,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kgの特攻自爆兵器である。

2006年9月16日映画「出口のない海」(監督:佐々部清)が封切られたが,ここでも神風特攻隊の出撃の遥か以前に人間魚雷「回天」が開発,整備され,その搭乗員が募集されていることがわかる。「回天」を操縦する特攻隊員にとって,「出口のない海」は日本海軍の軍令部と連合艦隊が準備した特攻作戦そのものであり,その中に個人の思いは封じ込められてしまう。軍という組織にあって,特攻隊員が志願したとしても,航空機や特攻兵器を消耗品として使用する自由裁量が,与えられるはずがない。

1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定している。「マルロクカナモノ」のような秘匿名称がつけられ,事実上の特攻兵器を試作を命じた。
特殊奇襲兵器: 「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」 
㊀金物 潜航艇 ⇒特殊潜航艇「甲標的」「甲標的丁型蛟龍」として量産、蛟龍の実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)⇒小型特殊潜水艇「海龍」として試作・量産,実戦参加なし
㊃金物 船外機付き衝撃艇 ⇒水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 ⇒人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器


写真(右):人間魚雷「回天」
;ホノルルの潜水艦「ボーフィン」博物館に展示。「ボーフィン」は,1944年に学童疎開船「対馬丸」を撃沈した。真珠湾で撃沈された戦艦「アリゾナ」の近くに展示してあるのは,報復・仕返しの意味がある。

人間魚雷「回天」とは,重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており,騒音を発し,操縦性も悪い日本の大型潜水艦が,米軍艦船を襲撃するのは,自殺行為だった。「回天」の技術的故障,三次元操縦の困難さも相まって,戦果は艦船2隻撃沈と少ない。

  1943年6月の段階で、侍従武官としてラバウルの戦闘を視察し、その実情を憂えた城英一郎大佐(航空専攻)は,南東方面から帰国後,1943年6月に大西瀧治郎中将に体当たり特攻必要性を提案している。その後,大西中将は軍需省に転任したが、彼も航空機材の生産・整備,搭乗員の要請・補充は困難な状況にあることを身をもって悟った。


写真(右):突撃艇「マルレ」 ;慶良間海洋文化館の展示。緑色の迷彩のため「アマガエル」と呼ばれることもあった。突撃艇の最高速力は20ノットで,駆逐艦(30ノット以上)を追いかけることはできないので,待ち伏せ攻撃をかけるしかない。しかし,輸送船(10ノット)に対してならば、積極的な攻撃を仕掛けることは可能である。

大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』の1944年7月11日には,次の記述がある(保坂正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.167-168引用)
「突撃艇ノ試験演習ヲ隅田川デ実施,
自重1屯(),自動機関ヲ利用,速力20節,兵装ハ爆雷2箇(1箇100瓩())航続時間五時間
右突撃艇ハ泊地ノ敵輸送船ニ対スル肉薄攻撃用トシテ先月十五日(「サイパン」上陸ノ日)設計ヲ開始シ七月八日試作ヲ完了セルモノナリ,
速力及兵装ノ点ニ於テ稍々不十分ナルモ,今後ハ斯カル着想ノ下ニ,此種兵器を大量整備スルヲ要ス」 

軍による特攻「作戦」計画は、1944年6月マリアナ沖海戦での日本海軍空母機動部隊の壊滅が契機になった。サイパン戦で敗北した日本陸海軍は,米軍の航空機,空母任務部隊の威力を思い知り,正攻法で対抗することは不可能と悟った。そこで,1944年7月21日大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,特攻作戦を準備した。

海軍軍令部は,陸軍参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。

日本海軍の統帥部は,軍令部である。「海軍軍令部」は,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。作戦について天皇を輔弼する機関であり、陸軍の参謀本部に相当する。長たる海軍の軍令部総長は,陸軍の参謀総長と対等の立場で,大元帥の天皇に直隷する。

大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。軍令部総長は海軍に対して作戦に関する指揮・指示をする。陸軍では、「指揮・指示」といわず「区処」という。大海指第431号は,海軍軍令部の出した指示で,そこに特攻作戦採用が明示された。軍隊では、命令により部隊が編成され,隊名・隊長が任命される。特攻志願者が、「自発的に」軍の管理する航空機、爆弾、燃料を使用することはできない。

1944年10月5日、第一航空艦隊司令長官に大西瀧治郎中将が任命された。
 大西中将は海軍航空本部総務部長など,海軍航空隊の戦術・訓練・技術に関する要職を歴任していた。1937年の上海事変では,南京空襲など中国への戦略爆撃・渡洋爆撃も実施した。

第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が、フィリピン戦の直前に特攻隊の編成を決心し、特攻隊の生みの親となった、との説が,流布されている。しかし、特攻隊の初出撃(1944/10/20)の2週間前に着任した司令官が、軍令部や連合艦隊の許可を得ることなく特攻隊を編成、出撃させることが、許されるのか。前線の兵士が,貴重な兵器である航空機を使って,自発的に体当たり自爆する作戦を、日本海軍上層部(大本営海軍部[軍令部]や最高司令官)が認めるのか。

3.フィリピン戦線を指導した第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が,「特攻の生みの親」であるという俗説は,日本の大本営海軍部(軍令部)の特攻隊編成と特攻作戦の組織的実施を隠蔽するかのごときである。1944年7月21日,大本営海軍部の「大海指第431号」では,既に特攻作戦が計画されている。「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文では「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度,攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」としている。つまり,軍上層部は,大西長官の赴任の3ヶ月前から神風特別攻撃隊の作戦を進めていた。

 海軍の初の組織的な特攻攻撃は,「神風特別攻撃隊」として,国学者本居宣長の歌から,敷島隊,山桜隊など4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男(23才)を特攻隊指揮官に任命した。フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,海軍中将大西瀧治郎で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられた。

大西長官は,特攻隊を「統率の外道」であるが,必要悪として認め,作戦として実施すべきと考えていた。一説には,大きな戦果を挙げて,日米和平の契機を作ることを真の目的にしていたと言われる。

しかし大西中将は,神風特攻隊を発案したわけでもないし,特攻を時間をかけて編成,準備したわけでもない。

特攻機が出撃したのは,フィリピンのルソン島の航空基地からで,1944年10月20日,21日と連日のように出撃し,見送りが盛大に行われた。しかし,連日の出撃にもかかわらず,敵艦隊を発見できずに引き返していた。日本側の資料では,特攻隊は10月25日に初めて,明確な戦果をあげ,関行男大尉が特攻第一号として公認され,敷島隊の五名だけが全軍布告された。それ以前に未帰還だった特攻隊員は,黙殺され,特攻(第一号)の認定は受けることができなかった。

写真(左):人間魚雷「回天」;ハワイの潜水艦博物館,靖国神社などにも展示されている。「マル六金物」という秘匿名称で開発,製造された特殊奇襲兵器の一つ。

大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。 
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

1.各種作戦
ヾ霖蝋匐部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

2.奇襲作戦
ヾ饅浦鄒錣謀悗瓩襦E┫和發鯀或丙拠地において奇襲する。
∪水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
6秒牢饅永捨呂鯒枷し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。

特殊奇襲兵器=特攻兵器を推進した作戦要領)

以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特攻,特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。また,統帥権を侵犯する特攻はありえないので,大元帥が特攻作戦の発動準備をしていることを知らないでいたということもない。(特攻計画は報告されている)

軍の統帥権を持つ大元帥昭和天皇に,特攻作戦を知らせないままに済ましていたのであれば,天皇の赤子である有意な兵士を勝手にしに至らしめ,天皇の軍隊を私兵として勝手に(自主的に)運用したという軍法違反(専権罪・叛乱罪)を犯したことになり,大本営に関与した軍令部総長,参謀総長,その下にある部員は,処罰されるべきである。

やむにやまれず特攻を採用したというのであれば,敗戦の後になって,「自害するなり何なり勝手になすべく」責任をとることもできた。統率の外道をおかしたと認識していた大西中将は,自刃,割腹している。宇垣纒中将も,部下を道連れにする私兵特攻という罪を重ねた。 死にきれなかった軍上層部の将官や佐官以上の将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人もいえる。自殺など容易にできることではない。しかし,特攻隊を編成した高級軍人の中には,参議院議員,大会社顧問に就任して,堂々としていた人物もいる。軍の名誉と特攻隊・犠牲者への思いはどうなったのか。

彼らが「自発的に体当たり攻撃を始めために特攻隊が生まれた」というのは,英霊の名誉と自己犠牲の精神に共感するからではない。大本営,軍上層部の要職にあった自分たちの,指揮官としての責任を認めないからであろう。

 戦局挽回のためには,体当たり特攻攻撃を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものである。
〕ダな米軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
∧瞳海鉾新發靴討癲て本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
D名鏐況發鮖迭櫃韻董て本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも,必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。

〃蛎發僚斗廚癖軸錣任△觜匐機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
5爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
て湛饗發了峇蠎圓鯤腓,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。


  写真(右):軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);特攻による戦果ではなく,通常爆撃によるが,日本軍はこの高速の軽空母(低速の護衛空母ではない)「プリンストン」の撃沈を発表していない。特攻作戦の障害になると深慮したのか。翌日10月25日の敷島隊特攻機による護衛空母「セントロー」撃沈は大々的に発表した。USS Reno (CL-96) stands off the starboard quarter of USS Princeton (CVL-23), while fighting fires on board the bombed carrier, 24 October 1944. Note Reno's forward 5"/38 twin gun mounts in the foreground, with local fire control sights on top. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval Historical Center (# NH 63439).

自発的な特攻や体当たり攻撃がやむをえない状況で行われのは確かであるが,それば「特攻隊」という部隊編成の形で行われた攻撃ではない。特攻「隊」は,軍の統率する部隊であり,自然発生的に生まれるれるものではない。特攻隊は,軍上層部の事実上の命令によって作られた。

人間魚雷「回天」は,靖国神社遊就館にも展示されている。重量 8,3 t,全長 14,75 m,直径 1 m,推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット,乗員 1名,弾頭 1500 kg。 優秀な酸素魚雷を基に作られた特攻兵器である。「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は,1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。

特攻兵器を開発・量産している以上,軍が特攻作戦を推進したことは明らかであり,日本軍の作戦の一環であり,「特攻自然発生説」(現地部隊の発意による犠牲的精神の自発的な表現が特攻である)は成り立たない。

 特攻隊として出撃した若者たち,下級兵士,学徒には,その気落ちを思うと複雑な心境になる。たしかに,自己犠牲によって,命を家族や日本に捧げようと思ったり,捧げざるをえないと諦観に達したりしたのだと思うと,若者たちの健気さに圧倒される。現在の若者たちは,特攻隊員を犬死であると軽蔑していると一方的に決め付ける「識者」もいるが,そんなことはない。横山 秀夫(2004)『出口のない海』のレビューを呼んでも,特攻隊員の志は,尊重され,作戦には怒りが投ぜられている。問題は,個人の思惑,感情に拘泥されないで生み出された日本軍の特攻作戦の冷酷さと非人間性にあると思われる。

軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布した。つまり,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,後に続く特攻隊員の確保にも配慮した。

日本海軍は特殊任用令によって、攻撃により偉勲をたてたと認められ、全軍布告された特攻隊員について、下士官は少尉に特進させ、兵は准士官に特進させる「特別任用」を採用した。

特攻兵器(奇襲特殊兵器)の開発・量産も,一軍人のなしえることではなく,軍が主導して当然である。個々の兵士も,軍のメンバーであれば,軍が進める特攻化の中に組み込まれる。個人の意思で特攻を選択するかどうかは,最終的には問題とならない状況におかれている。

  公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)で「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とあるし (p.245)、「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(同年4月1日)には「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」としている(p.199)。

 つまり,戦争末期になると,全軍特攻化するしかない状況に追い詰められた。そこでは,将兵の個々の意思で特攻を志願するかどうかは,すでに問題ではない。全軍特攻化であれば,将兵は,いやおうなく特攻隊員に組み込まれる。

しかし,日本軍は,特攻隊員とその家族・遺族に配慮をした。特攻隊員が,祖国,家族を守るために特攻するのであれば,家族のことを配慮することが,隊員の士気を鼓舞することになる。このように遠謀深慮した日本軍は,特攻隊員の家族・遺族に対して,特別に年金を割り増した。1944年11月29日,日本陸海軍は,特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制を公布し,特攻戦死した将兵で,戦効をあげた者には,特殊任用として,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにした。その遺族の年金額は,引き上げられた。家族を保護して,後に続く特攻隊員を確保したのである。
特攻で全軍布告することで,死後昇進すれば,遺族への軍人恩給(遺族年金)は倍化し,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができた。

特攻隊員たちも,残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟する。特攻による名誉の戦死は,「親孝行」になった。


特攻隊の戦死者に二階級特進を超える特別任用制の結果、神風特攻隊敷島隊所属の関行男大尉以下5名は,特別任用の初めての対象となった。敷島隊の特攻作戦で,四階級特進して飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は三級特進して少尉となった。特攻で全軍布告することで,軍人恩給(遺族年金を含む)は倍化され,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得た。

 作戦自体を描写するよりも,作戦の意図やそれに関与し,巻き込まれた人々の立場や真意を推し量るのは重要だが,困難なことでもある。遺書には,残された家族に迷惑をかけることは一切かかれるはずがないが,その書かれなかった行間に,憂慮,苦悶,怒り,生命が隠されている。

特攻隊に任命された若者は,自分を死に向かわせた状況=敗色濃い戦争を受け入れても,特攻隊を作戦として利用するが必死からは逃れうる人々=軍司令官や部隊指揮官に対して,無感動,無感情でいられたとは思えない。しかし,軍隊の中で,上官の命令を議論しても無駄であることをみな知っていた。自分の死を有意なものしなければ,特攻から逃れたくなるかもしれない。逃れられない運命であれば,愛するもの=家族・日本を守るために,命を捧げる,として自分の死と命を一つにするしかないのではないか。

特攻に散った若者たちには,感服する。エンジンを故意に不調にさせたり,故意に不時着したりして,命を永らえたもの,特攻隊に入らないように,練習教程で手を抜いていたものに対しても,共感は持てる。特攻を拒否して,通常攻撃をかけたものには,納得できる。決して,特攻死したから犬死である、逃避したから卑怯者であると軽蔑することはできない。

写真(左):潜水艦の甲板に搭載された人間魚雷「回天」;約400基が製造され,約100基が特攻作戦suicide missionsに投入された。航続距離は,78km/10 knots,43km/20 knots,23km/30 knots
写真(右):「回天」天武隊;桜の枝を手にした横田隊員たち。Yokota (far left) with Tembu Group holding cherry blossom branches.

4.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」としており,奇襲可能な体当たり自爆兵器の開発・作戦計画を検討し始めている。1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ人間魚雷「回天」の試作命令がでている。日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷,人間爆弾,人間機雷,特攻戦車など配備され,組織的に行われた。自生的,自発的に5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。純粋な犠牲的精神の発露ではあるが,事実上,出撃を強要した日本人がいた。その責任を回避するために,英霊の自生的,自発的特攻をことさら強調しているのであれば,これこそ無責任な英雄・犠牲者への侮辱である。

写真(左):人間魚雷「回天」;艦内は狭く,6時間が運用限度であった。

 特攻は最善の方法だったわけではないが,跳飛爆撃などほかの手段は,特攻隊員はもちろん,大半の軍人でも選択することは不可能であった。1944年の段階で,「特攻作戦の是非」を決めることは,大元帥,将官クラスの軍人にしか許されないことであろう。

条件付降伏の提案も考慮できないような戦争指導の中で,とにかく戦機を得て敵に大打撃を与え,和平への糸口を掴むという方針で臨んだようだ。しかし,米軍にしてみれば,損害を与えられたからといって,怖気づいて和平交渉に応じるつもりは,戦争を始めてから一度たりともなかった。戦意が旺盛な米軍は,日本を無条件降伏させるという強硬な方針を貫こうとしていた。日本は,国体,すなわち天皇制の護持を最優先事項にしており,それに気がついていた米軍の軍人もいた。しかし,ひとたび参戦した以上,米英とも無条件降伏にこだわった。したがって,たとえ特攻作戦がより大きな戦果を挙げたとしても,日本は米国と和平交渉を始めることはできなかったと考えられる。

写真(右):人間魚雷「回天」を甲板に搭載した伊号潜水艦

  1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定した。これは,「㊅金物」(マルロクカナモノ)のような秘匿名称がついた,事実上の特攻兵器の試作である。
「㊀〜㊈兵器特殊緊急実験」
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」改良型「蛟龍」として量産、実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型潜水艇「海竜」として試作(若干の量産?)
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・使用
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器



写真(左):太平洋上、ウルシー基地で米軍に引き揚げられた人間魚雷「回天」の後部
;1944/11/20,人間魚雷「回天」が米軍の前進根拠地を奇襲攻撃した。


 体当たり自爆兵器の一つである「㊅金物」(マルロクカナモノ)と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出されている。1943年12月28に,海軍の特殊潜航艇「甲標的」第5期講習員であった黒木博司中尉、特殊潜航艇「甲標的」第6期講習員であった仁科少尉が,人間魚雷計画を海軍省へ陳情しているが,自分勝手に兵器の研究に,時間・資材・金銭を費やすことのできる軍人はいるはずがない。

 海軍兵学校58期,第6艦隊(潜水艦部隊)水雷参謀 鳥巣建之助中佐は,人間魚雷「回天」KAITEN SPECIAL ATTACK SUBMARINEの作戦を担当し,回天作戦の著作も多く、経験に則った有意義な分析が含まれる。しかし,参謀クラスの有能な指揮官として,回天特攻隊生還者の心中を聞かれて,「特攻は,われわれ下っ端のとやかく言う問題ではない」と責任を負うこのできる立場にないとの発言をした。それなら責任を負うのは誰なのか。それとも、そういう時代だったのか。


写真(右):人間魚雷
;米国に展示してある人間魚雷「回天」の細部


1983年12月4日,日経新聞に『人間魚雷』の著者鳥巣建之助(回天部隊の元参謀)の言葉がある(という)。
「特攻は最大の愚行であり、特攻隊員の死は犬死以外の何ものでもなかった。」という考え方が戦後永く続いていますが、本当にそうでしょうか。
二十数年前に、人間魚雷回天の映画を見ましたら、出撃前夜に、特攻隊員がヤケ酒を呑んで泣いているんです。(こんなことは絶対に無かった)。これはいけないと思いました。真実を書き残しておかないと、彼等の霊は浮かばれないと思いまして、細々と書き始めたのです。神風や回天などの特攻精神は・・(新約聖書にもあるように)・・まさに自己犠牲そのものであり、至純至高の愛であった。・・(特攻隊のみならず)とことんまで頑張った人達が居たからこそ、あのような終戦が迎えられたのであって、和平派(降伏派)が前面に出過ぎていたら、ああはならなかったでしょう。あれは明らかに(無条件ではなく)有条件降伏ですよ」と。(→戦後の風潮引用)

防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 軍航空の軍備と運用(3)』では,
 「1944年3月、参謀本部はついに艦船に対する体当たり戦法の採用を決意した。----特攻兵器の開発は、射撃爆撃器材、化学兵器の研究を担任する第3航空研究所長(正木博少将)に命じられた」(pp.264-265)。

 実際,陸軍上層部は、特攻隊の編成をめぐり,本来であれば,統帥権を保持する大元帥昭和天皇に上奏裁可を仰ぐ必要があるが,それを回避することを検討した。

しかし、その一方で、大本営参謀は語る「特攻隊は自然発生した」とも信じられている。

1944年11月9日,伊号潜水艦(基準排水量1,000トン以上の日本海軍の潜水艦)伊36,37,47の3隻が各々4隻の「回天」を搭載して,菊水隊として、米軍の根拠地の攻撃に出撃した。人間魚雷は,潜水艦の前部甲板に2基,後部甲板に2基搭載された。この時期,「回天」に搭乗するには、潜水艦が浮上してから乗り移るしかなかったが、鈍足で、騒音のひどい大型潜水艦が、敵海域で浮上すれば,その隠密性は完全に失われ、容易に発見されてしまう。

中部太平洋のサンゴ礁には,艦船が多数停泊できるラグーンもあり,そこが米軍の前進基地になった。米軍艦隊を奇襲攻撃するために,人間魚雷「回天」を搭載した伊37は,パラオPlaus環礁,伊36,伊47の2隻はウルシーUlithi環礁に向かった。(日本海軍の潜水艦は、排水量1000トン以上のクラスは「伊号潜水艦」、伊37号,イ37のように呼んだ。)

写真(右):1944年11月8日,伊47潜水艦を母艦にして出撃する菊水隊の人間魚雷「回天」;伊47潜は菊水隊は,11月20日、ウルシー環礁を攻撃。回天に搭乗した仁科関夫中尉、福田斎中尉、佐藤章少尉、渡辺幸三少尉が戦死。

ウルシー基地の近くで,伊47が「回天」を発進したとき,米軍の駆逐艦ケースCaseは,3隻の重巡洋艦,3隻の駆逐艦とともにサイパンSaipan島へ向かうために,ウルシー環礁の外側にいた。

駆逐艦「ケース」は,潜望鏡を発見し,基地に潜入しようとする小型潜水艦Midget Submarineであると考えた。当時はまだ人間魚雷は秘密兵器だったのである。駆逐艦「ケース」は小型潜水艦に体当たり衝角攻撃をかけ,潜水艦を破壊した。環礁の内側では,巡洋艦「モービル」"Mobile"が小型潜水艦を発見し,砲火を開いた。

㊅金物「回天」の操縦は、潜望鏡(特眼鏡)の視界が狭く、狭くて劣悪な居住性、魚雷改造のため、運動性が良くなく、後進もできないなど、困難であった。サンゴ礁の浅瀬を通ってラグンーンの基地に進入するのは、困難であった。後に、相対的に防備がゆるい洋上攻撃をかけることで大戦果を挙げるようになった、と日本側の記録や戦記には述べられている。しかし、米国側の資料によると、駆逐艦1隻を撃沈した程度で、輸送船への被害はほとんどない。


写真(左):人間魚雷「回天」に撃沈された米海軍給油艦AO「ミシシネワ」
;Ashtabula class Fleet Oiler,排水量25,440 tons
全長: 553',全幅: 75',全高 32'
30,400馬力Maritime Commission,2軸,速力 18 knots
兵装 1 5"/38 DP, 4 3"/50 DP, 4x2 40mm, 4x2 20mm
乗員 314名 ,搭載容量 146,000バーレルbarrels
建造所 Bethlehem, Sparrows Pt.
竣工 1944/05/18,沈没 1944/11/20


敵の制海権・制空権の下にある海で,鈍足で騒音も大きな日本潜水艦は、米国の護衛駆逐艦、対潜哨戒機によって制圧された。戦果を挙げることも、戦果を目視確認することも容易ではない。爆発音から戦果を判断したために、台湾沖航空戦と同じような課題戦果になったのではないかと思われる。

米海軍給油艦「ミシシネワ」は,迷彩塗装を施して,潜水艦に発見されても,進路,速力が判別しにくいようにしている。しかし「回天」によって,停泊中を襲われたため,逃げようがなかった。

出撃した「回天」搭乗員は,第一目標は空母にしていた。つまり,給油艦が人間魚雷「回天」によって攻撃されたのは,空母など大型の艦艇に見間違えたようだ。狭く暗い艦内で安定性の悪い「回天」を操縦して,視野の狭い潜望鏡を使って目標に命中させるのは困難である。「回天」には,機関,深度調整,配電,操舵などの故障もあったようだ。


写真(右):全備重量8.3トンの人間魚雷「回天」の命中によって黒煙を上げる米給油艦「ミシシネワ」;1944/11/20/0545,2万5000トンの大型タンカーが爆発し63名が犠牲になった。人間魚雷の弾頭は1.5トンの爆薬である。


0545, 44万ガロンの船舶燃料,ディーゼル油,航空燃料を満載していたタンカー「ミシシネワ」 "Mississinewa" は,人間魚雷「回天」の命中を受け大爆発を起こした。5分後,5インチ砲弾薬も爆発し,タンカーは沈没した。将校3名,下士官・兵60名が死亡した。

徳山沖の大津島には魚雷試験発射場があったが,そこを改造して、「回天」訓練部隊が創設された。その後、訓練基地は1944年11月に光、平生、大神と増設され、人員も急増した。「回天」部隊には,終戦までに1375名が訓練を受けた。しかし,大津島での最初の士官34名中,考案者黒木博司大尉を含めて3名が訓練中に殉職した。


写真(右):人間魚雷によって大炎上する米給油艦「ミシシネワ」;1944年11月20日撮影。Ulithi lagoon, 20 November 1944

戦果が数隻の艦船だけであることを考慮すると、回天は兵器として成功したものとはいえない。若者の死は、命を懸けて家族、祖国を守ったという点で、無駄であったとはいえないが、犠牲としては大きすぎた。

ウルシー奇襲攻撃には,合計2隻の日本海軍伊号潜水艦から,合計5基の自殺潜水艦suicide subs「回天」が発進した。1基はリーフにぶつかり爆発した。1基は環礁の内部に侵入できず終わった。

米国海軍駆逐艦「ケース」Case(DD-370)は3基目の人間魚雷「回天」を発見し,体当たりで撃沈した。2基の「回天」が基地に潜入したが,駆逐艦「レイル」Rall(DE-304)が爆雷攻撃で4基目の「回天」撃沈した。しかし,西田佐喜男が搭乗していたと思われる5基目の「回天」が,高速で給油艦「ミシシネワ」Mississinewa.の舷側に衝突し,撃沈した。(→引用)

ウルシー奇襲攻撃では、給油艦「ミシシネワ」撃沈(人間魚雷「回天」初戦果)が唯一の戦果である。発進命令の出た3基は,潜水艦のラックが外れずに出撃できず、出撃した5基の「回天」のうち4基は戦果を挙げることなく撃破あるいは行方不明になった。

写真(左):イ47潜水艦から出撃した「回天」に撃沈された米海軍給油艦「ミシシネワ」;迷彩塗装を施して,潜水艦に発見されても,進路,速力が判別しにくいようにしている。
写真(右):1945年6月11日,人間魚雷に撃沈された米海軍駆逐艦DE-682「アンダーヒル」;人間魚雷「回天」が撃沈した軍艦は駆逐艦1隻だけと思われる。輸送船(民間商船)も撃沈したかもしれないが,これは民間人無差別攻撃である。ただし,無制限潜水艦作戦は,米軍も採用した。


グアムGuam島,ニューギニア島ホーランディアHollandiaに向かった潜水艦「回天」部隊は、行方不明となった。警戒の厳重な基地を奇襲攻撃したが、戦果は給油艦1隻のみで、「回天」搭載の潜水艦は5隻が出撃、3隻撃沈。「回天」20基があったが、故障で発進できずに日本に帰還したものが3基、撃破・行方不明が15基,戦果を挙げたのは1隻。回天特攻は、大失敗だった。


写真(左):人間魚雷が唯一撃沈した米駆逐艦「アンダーヒル」USS Underhill;1944年6月11日ボストン海軍基地the Boston Navy Yard撮影。この1年後に撃沈。 
CLASS: バークレー級駆逐艦Buckley TYPE: TE (turbine-electric drive, 3" guns)
排水量: 1,400トン(std) 1,740トン(full)
大きさ: 306' (oa), 300' (wl) x 36' 9" x 13' 6" (max)
武装: 3 x 3"/50 Mk22 (1x3), 1 x 1.1"/75 Mk2 quad AA (4x1), 8 x 20mm Mk 4 AA, 3 x 21" Mk15 TT (3x1)
1 ヘッジボッグ投射機Hedgehog Projector Mk10 (144発), 8 Mk6爆雷投射機depth charge projectors, 2 Mk9爆雷投下レールdepth charge tracks
機関: 2 "D" Express boilers, G.E. turbines with electric drive, 12000 shp, 2 screws
速力: 24 knots 航続距離: 4,940マイル @ 12 knots
乗員: 15 / 198


人間魚雷「回天」募集要綱には,学徒出身の予備士官及び予科練出身者の場合,「右特殊兵器は,挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とあるという。

海軍兵学校(海兵)・海軍機関学校(海機)出身者の場合,本人の配属希望を考慮し選考し,口頭での転勤命令(指名)による。
したがって,特殊兵器の内容は,機密事項として公表しないまま志願者を募ったり,命令によったりして,人間魚雷「回天」の搭乗員となる特攻隊員が選ばれていた。画期的な最新兵器を扱うと期待感に胸膨らませた兵士たちが,人間魚雷の実態を知ったとき,どのように感じたのか。

人間魚雷「回天」は洋上襲撃では,輸送船も含めて10隻以上を撃沈したと日本側で言われるが,米軍の資料によれば給油艦「ミシシネワ」1隻,駆逐艦「アンダーヒル」1隻しか確実な戦果をあげていない。米軍も戦時中は、徴用された民間輸送船など商船の撃沈・被害については、情報を公開しなかった。商船を人間魚雷「回天」が撃沈した可能性は残る。


写真(左):人間魚雷「回天」に撃沈された給油艦AO-59「ミシシネワ」;1944年11月20日にウルシー基地の給油艦を撃沈したのが初戦果。


人間魚雷「回天」の操縦困難と技術的未成熟さ 
「回天」の潜望鏡(特眼鏡)の視野の狭く、倍率の上から距離感もつかみにくい。そこで,回避運動する商船に対して体当たりすることは非常に難しい。これは,世界の小型潜航艇と同じく,三次元の海中を上下左右に航行すること自体が,1-2人で対処できるだけの技術が未完成であり,機構が技術的に複雑で取り扱い困難なためであろう。

魚雷のような直進性を重視した円筒形の水中物体を目標まで30ノット近くの高速で操縦するのは難しい。特に夜間、目視に頼っていれば、目標追跡すら困難であろう。動いている敵艦船の将来位置を見越して進路を決めて航行するのは、潜水艦でも熟練した何人もの乗員がいなければできない。
電動モーターの電池が切れればそれ以上の航続はできず、進路・深度を変更し、姿勢を安定させることも不可能になる。こうなれば自爆するしかない。

潜水艦部品のような精密機械でも熱意は未熟練労働者が製造していたという事実もある。たとえば,呉第一高女生の回想にもあるが,三年・四年(1944年6月5日当時16歳)が、呉海軍工廠への勤労動員され,水雷部の操舵機工場へ配属された。1944年11月初めごろ,5人の学徒が工場長に呼ばれ、「君らには、これからマルロクの仕事をしてもらう」と言われたという。仕事の内容は人間魚雷の操舵機の調整である。彼女たちの熱意には感服するが,当時の手作業で,精巧な工作をするのには,熟練が必要であった。



写真(左):1945年7月14日「回天」を搭載して出撃する多聞隊の伊53潜水艦:1945年7月25日に勝山淳海軍少佐搭乗の「回天」が発進し,戦死。駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈した。

伊53潜搭乗の「回天」多聞隊として1945年7月14日〜8月8日に出撃した「勝山淳海軍少佐 航海日記」七月二十二日(1945年)に,次のような記載がある。 
今日で出撃以来十日 未だ好運に恵まれずして見参の機を得ず。段々 回天が心配だ。
一号艇は前部浮室満水。---一番心配なるは端蓋の蝋付部の不良による浸水なり。深度改調装置は明日増締めする筈。
若し端蓋ならば此所にては処置なし。唯 発進後 注水要領を変えて浮量とツリムの作成に遺憾なきを期し 轟沈を期さん。

之を要するに 出撃前の深々度確認に於て 浸水に対し最厳密に試験する要あり。長期行動の 而も潜航時間大なる潜水航行艦襲撃に於て 一番苦手なるは浸水なり。殊に九三魚雷は水上艦艇用なれば その用法に於て各部の水密気密は潜水艦用の九五魚雷のそれの如く 余り重大問題にならざるため 調整上も関心少し。
---回天のみは左に非らざるも---未だ嘗つて前部浮室 気筒 深度機室に対する浸水を考慮せるものなし---。
その因は 発射直前まで陸上にあり。発進用意終りて 水に浸りて 発射するまで数分 又訓練時間一時間而もその間 深度平均五米 浸水箇処あるも その量 潜水艦の潜航時間に対するに位べれば1/16〜1/20なり。よって抱打にて 各部に二立づつ浸水あれば 潜水艦潜航に於ては四十立づつの浸水あるなり。此の点 浸水に対し 十二分関心を持って調整する要あり。<あと略>

写真(右):短刀を受ける回天特攻「多聞隊」隊員たち伊58潜から1945年8月10日に「回天」で発進し,戦死した水井淑夫少尉(九大出身の学徒兵)との解説がある。回天特攻隊の出撃は、航空機の出撃とは違って、事前に定められた計画に従っている。つまり、敵が現れるかを待ちつづけて、不意に出撃する航空特攻とは異なる。そこで、報道班(ライター)の取材が行いやすく、写真・資料が残っている。内外の出版物やweb資料にも、回天を多数掲載している。

「勝山淳海軍少佐 航海日記」七月二十三日には,次の記載がある。 
三号艇 短絡 充電不能
二号艇 四番海水タンク下部排水口螺蓋弛緩 全然用を為さず。前部浮室下部排水口螺蓋にて代用
三号艇の螺蓋は 磨耗甚しく殆ど離脱状況 螺入し直さんとするも一号艇 前部気室 漏気箇所 チューインガムにて充填 テープにて巻き相当止まり 先づ差支なし
此の度 最不審に感ぜるは 電液0の電池相当ありたる事なり


写真(右):人間魚雷「回天」
;大きさ 14.75m(48'4") x 3'3" x 3'3" ,重量 8.3 tons,最高速力30 knots,航続距離 78 miles @ 12 knots, 弾頭 3300 lbs(1,500 kg)


人間が魚雷に搭乗して操縦するから「百発百中になるはず」というのは、当時の機材の技術水準、整備水準、搭乗員の熟練度・技術水準から見て短絡的過ぎる。狭い艦内に搭乗した乗員が,針路・深度の安定維持,操縦の複雑さを克服しても,計器・動力の故障や不調があればいかんともしがたい。
潮流の早い,波も高い外洋で操縦困難と技術的未成熟さを抱えた人間魚雷が敵艦に体当たり自爆するのは至難のわざと言える。
したがって、「回天」搭乗員や母艦となった潜水艦乗員の意思と希望とは別に、「回天」が洋上攻撃して撃沈した艦船が1隻(米海軍駆逐艦「アンダーヒル」DE-682)でもあるということのほうが驚異である。搭乗員の修練,技能の賜物であろう。

写真(右):人間魚雷「回天」に撃沈された給油艦AO-59「ミシシネワ」;1944年11月20日にウルシー基地の給油艦を撃沈したのが初戦果である。

人間魚雷「回天」の損害
 回天特別攻撃隊、菊水隊から多聞隊まで,「回天」搭乗員の死者89名,出撃前の訓練中の殉職15名、自決2名。さらに,「回天」を搭載した潜水艦の未帰還8隻,その乗組員845名,「回天」整備員35名も死亡。人間魚雷「回天」を開発し,400基量産し,部隊も編成した。その投入した資材,人員とその被害と比較して,「回天」のあげた戦果は給油艦「ミシシネワ」1隻,駆逐艦「アンダーヒル」1隻にとどまっている。

終戦時,米海軍司令官が,「回天」がある以上は,爆弾の上に載っているようなものなので,「回天」部隊に直ちに降伏するように伝えよ、といった逸話が流布されている。この逸話によって,日本の人間魚雷の威力や特攻隊員の成果を示すしかなかったということは,とても悲しい。多数の敵艦船を撃沈するという当初の目的を,人間魚雷「回天」は達成できなかった。


<イタリア海軍の人間魚雷>
1944年7月21日の大海指第431号で奇襲特殊兵器の人間魚雷「回天」を正式に開発した日本軍であるが,イタリア,英国,ドイツでも,同様の奇襲特殊兵器「人間魚雷」Human Torpedoを,早くから開発し,実戦で使用していた。

写真(右):イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」;1940年には部隊配備され,港湾に停泊する英国艦船を攻撃して大きな戦果を挙げた。

イタリアのSLC(Siluro a Lenta Corsa)「マイアーレ」Il Maiale(豚), 英国の「チャリオット」「X艇」,ドイツの「ネガー」「マーダー」がそれである。

イタリア海軍では1935年に人間魚雷の計画が持ち上がり,1936年には試作品が完成した。そして,1940年にはイタリア第10軽装艦隊the Italian 10th Light Flotillaに,2人乗りの人間魚雷SLC(Siluro a Lenta Corsa;低速走行魚雷)「マイアーレ」Il Maiale(The Pig 豚)が配備された。

写真(右):イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」;1940年には部隊配備され,港湾に停泊する英国艦船を攻撃して大きな戦果を挙げた。体当たり自爆攻撃ではなく,停泊している艦船の底に時限爆弾を仕掛けてから脱出する。

「マイアーレ」の性能
全長6,70 meters,幅 533 mm
潜行深度 15〜30 meters
電動モーター 1.6 HP
最高速度 4,5 knots - 巡航速度 2,3 knots
航続距離4.5ノットで 4 miles,2.3ノットで75 miles
兵装Mark I: 高性能爆弾 220 kg,後期型 高性能爆弾250 kg,最終型 高性能爆弾300 kg

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」を2基搭載したイタリア海軍潜水艦Gondar(ラ・スペッツァ港にて);1940年9月29日,ジブラルタル港攻撃と同日にエジプトのアレキサンドリア港の英軍艦船を「マイアーレ」で攻撃する計画だった。しかし,潜水艦「ゴンダー」Gondarは英軍に発見され,撃沈された。

人間魚雷「マイアーレ」は,電動モーターで無音走行し,二人の搭乗員によって操縦される。そして,高性能爆弾を敵艦船の竜骨下の海底に配置し,時限爆破装置を作動させる。二人の搭乗員は,その爆破前に脱出するのである。

また,日本海軍の特殊潜航艇が真珠湾を攻撃して戦果を挙げることなく全滅して2週間と経っていない1941年12月19日,イタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」3基は,エジプトのアレキサンドリア港攻撃を実施し,英戦艦「ヴァリアント」H.M.S Valiant ,同じく戦艦「クイーンエリザベス」H.M.S. Queen Elizabeth,タンカー「サゴーナ」Sagonaの艦底に各々300kgの爆弾を仕掛けた。目標とした空母「イーグル」が不在だったので大型タンカーを爆破することにしたのである。(目標を誤認したわけではない。人間魚雷「回天」のウルシー基地攻撃の戦果もタンカーだった。)

写真(左):人間魚雷「マイアーレ」搭乗員:スキューバダイバーと同様の潜水服を着用する。爆弾装着後は,脱出する。

「マイアーレ」指揮官ルイジ・ドゥランド・デラペンネLuigi Durand de la Penne中尉とダイバーのビアンチは,捕虜となった。そして英戦艦「ヴァリアント」に監禁された。捕虜となったイタリア海軍のデラペンネ中尉とダイバーのビアッチは,何の情報も与えなかったが,十分な時間が経過した後,この戦艦は爆破されるので,乗員を退避させるように警告した。

英軍は,その警告を聞き入れたが,デラペンネ中尉は独房に監禁されたままで,爆破時間を迎えた。イタリア海軍将兵は,捕虜になっても義務・任務を果たしたとして堂々としていた。英国海軍も敵の捕虜を虐待することなく扱ったようだ。

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」の攻撃で大破した英国戦艦「ヴァリアント」と「クイーンエリザベス」:スキューバダイバー2名の搭乗したイタリア海軍の人間魚雷に攻撃され大損傷を受けた。攻撃日は1941年12月19日で真珠湾攻撃(12月8日)から11日後である。潜航艇の性能を比較すると,日本の甲標的のほうが速力もはるかに速く,攻撃力,航続距離も大きい。しかし,出撃後は生還も捕虜になることもできず死ぬだけであり、失敗は許されないという緊張感、死を免れないという恐怖は、沈着冷静さが必要な回天操縦にはマイナスに作用したはずだ。他方、イタリアの「マイアーレ」は、低速で航続距離も短いが、操縦性と隠密性では回天より優れていた。また,攻撃後,イタリアでは投降が認められており,勇戦の後の降伏は不名誉ではなかった。この寛容な将兵の扱いは、士気を高めると同時に、沈着冷静さを維持するのに役立った。

0600,第一発目の爆弾がタンカー「サゴーナ」で爆発し,燃料補給をしていた駆逐艦 「ジェービス」ともども大破した。「ヴァリアント」の爆弾は0620に爆発し,「クイーンエリザベス」の爆弾は0624に爆発した。

戦艦「ヴァリアント」は,弾薬庫などに浸水しアレキサンドリア港で応急修理の後,ダーバンで1941年4月15日から7月7日までかけて修理された。戦艦「クイーンエリザベス」は着底し,引き揚げられた後,米国で1942年9月2日から1943年6月1日まで修理された。結局,17ヶ月以上,戦列を離れたことになる。

写真(右):人間魚雷「マイアーレ」を搭載した秘匿商船「オルテラ」Olterra:The Olterra redesigned for Human Torpedo attacks

ダイバー2名の搭乗したイタリア海軍の人間魚雷「マイアーレ」は,速度は遅いが,無音走行でき,操縦性も決して悪くはなかった。アレキサンドリア港の攻撃日は1941年12月19日で真珠湾攻撃(12月8日)から11日後である。日本とイタリアの特殊潜航艇「甲標的」と人間魚雷「マイアーレ」の性能を比較すると,日本の甲標的のほうが速力もはるかに速く,攻撃力,航続距離も大きい。しかし,操縦性と隠密性ではイタリアの「マイアーレ」のほうが優れていたようだ。また,攻撃後,イタリアでは投降が認められており,勇戦の後の降伏はぬ名誉ではなかったという将兵の扱いの際も大きい。

さらに,ジブラルタルの英軍基地の近くのスペイン領に秘密基地を作ったイタリア軍は,そこから商船を改造し「マイアーレ」を搭載し,海面下の舷側の秘密扉から潜伏,発進した。そして,ジブラルタルの英国海軍艦艇や商船を攻撃したのである。軍艦を攻撃した際には,搭乗員の80%が生還しなかったが,防備の手薄な商船に対する攻撃では,少ない被害で大きな成果を上げることができた。

人間魚雷SLC「マイアーレ」の戦果は,1941年3月から実戦に参加し,終戦(1943年9月)までに連合国の軍艦 8万6,000 tを撃沈破,民間商船 13万1,527 tを撃沈破する戦果を挙げた。

イタリア海軍が,高性能とはいえない人間魚雷「マイアーレ」を駆使して大きな戦果を挙げえたのは,1943年当時の英軍の戦備の甘さ,イタリア海軍の作戦の適切さもあったが,「マイアーレ」搭乗員たちの勇気と技能も寄与している。大胆不敵な作戦を実施できたのは,捕虜になっても,殺害されるわけでも,自決する必要もないという心理的負担の小ささが背景にあると考えられる。日本軍将兵の切羽詰った心理的負担は,訓練にあっても実技より精神修養(死の覚悟)に偏重し、実戦にあっても帰還できないというたった一回のチャンスという重圧があり、作戦にはマイナスに作用したであろう。


写真(左):ドイツ海軍の人間魚雷「ネガー」Neger
:潜行はできず,水面すれすれを走行した。潜行可能に改良した「マーダー」もほぼ同型である。魚雷を応用した本体の下に魚雷を搭載し,攻撃も久料を雷撃する。体当たり自爆攻撃を企図したものではない。
写真(右):ドイツ海軍特殊潜航艇「ビーバー」Biber:小型魚雷2本を搭載する。体当たり自爆を企図したものではない。


写真(右):英国海軍の人間魚雷(特殊潜航艇)「X艇」X-Craft (Midget Submarine):全長 15,76 meter 全幅 1,8 meter 深さ 1,62 meter 浮上排水量 27 tons 潜水排水量 29,7 tons 舷側搭載重量 4 tons。特殊潜航艇 X5 Class midget submarine は、小型爆雷2発を搭載する。体当たり自爆を企図したものではないが英軍では「人間魚雷」と呼称する。X艇(とその改良型XE艇)は,1944年にドイツ戦艦「ティルピッツ」をノルウェーの湾内で,1945年に日本巡洋艦「高雄」をシンガポール港で航行不能に陥れている。

ドイツ海軍の人間魚雷「ネガー」(Neger:黒人),「マーダー」(テン),特殊潜航艇「ビーバー」Biberも,水上4.2kts,水中 3.2ktsという低速ながら,1944年6月の連合軍ノルマンディー上陸部隊を護衛する軽巡洋艦HMS DRAGON(4.850t), 掃海艇HMS MAGIC(1,110t),HMS PYLADES, HMS CATOと軍艦4隻を撃沈し,成果を挙げている。このような大戦果をイタリア海軍人間魚雷「マイアーレ」が揚げたのに対して,特殊潜航艇「甲標的」,人間魚雷「回天」は,被害に比して,戦果はごくわずかだった。


写真(右):人間魚雷「回天」
;人間が1人が狭い魚雷の内部に搭乗して,目標となる敵艦船まで魚雷を操縦し,体当たり自爆する。精巧な機材を用いているが,故障が絶えず,機材が順調に機能したとしても,操縦性が極端に悪く,水中から目標を見定め操縦するのは非常に困難だった。ハワイのオアフ島潜水艦博物館に展示。

人間魚雷「回天」の場合,一たび発進したら,敵艦に体当たりするしかないが,途中で機械が故障したり,目標を見失ってもどうすることもできない。自爆するのみである。故障しがちな機械を操り,訓練もつんできた搭乗員を,1回の出撃で,戦果を挙げることなく失ってしまう確率が非常に高い。また,「回天」搭乗員も,一たび出撃したら失敗は許されないという心理的な圧迫感に,攻撃行動が真剣になる反面,極度の緊張が過失をもたらす。また,目標に命中できないと判明した場合,いつまでも洋上にとどまることはできないと考えると,余裕がなくなり,拙速な行動に出てしまうかもしれない。

経験をつむことなく,たった1回の出撃で次回に生かされる戦訓もない。搭乗員たちは,回天の状況や技術的問題に関して多くのメモや伝言を残しているが,これは1回の出撃しか許されないからである。強い将兵は、経験,実戦を経て養成されていくが、体当たり特攻の場合はそれが不可能であり,士気の高い戦士をたった1回の出撃で殺してしまうという意味で、非常に非効率的な作戦であった。

写真(左):伊53潜で出撃する「回天」多聞隊;1945年7月14日に発進した伊53潜には7月24日米駆逐艦「アンダーヒル」を体当たり撃沈した勝山淳中尉(海兵73期)も乗艦している。これら隊員たちの締めた鉢巻が,勤労女子学徒の手になる「血染めの鉢巻」と思われる。

しかし,「回天」は,その生産にかかわった人々に多くのものを残した。
勝山少佐は大津島で通信隊の担当をしていたが,呉へ出かけた時に,呉第一高女の女学生が血書で「日の丸」を書いた鉢巻と写真を、大津島回天隊の海兵同期全員に貰ってきてくれた。

勝山淳海軍少佐に贈られた血染の鉢巻は,回天の部品製造にあった呉第一高女生たちが作ったものである。彼女たちは勤労動員され。前述のように呉海軍工廠水雷部操舵機工場で働いていたのである。その体験談が載っている。

「マルロク(回天)の仕事にも大分なれたころ、五人の中のだれの発案だったのか、ある案が示されたのです。みんな賛成して次の日曜日にTさんの家に集まってそのことを実行しました。そのある案とは、本当に純粋な乙女の願いとして、回天の突撃が成功しますようにと血染めの鉢巻を作ることでした。
物資の統制下のこととて新しい布はなく、私は母に昔の着物の袖裏の白いもみの布をもらい、それで丁寧に鉢巻を縫いました。鉢巻の中心に日の丸を血で染めました。自分で自分の小指を剃刀で切って、したたり出た血で丸く布を染めて日の丸にしたのです。
自分の血で染めた鉢巻は、自分が調整した操舵機を操縦して出撃する搭乗員にしめてもらうように指導員を通じて送りました。」(引用終わり)

人間魚雷「回天」操舵工場に勤労動員されていた呉第一高女の学生たちから「回天」搭乗員に贈られた血染めの鉢巻:受け取った峯眞佐雄氏は,搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に出せなかった」。大切に保管されていた血染めの鉢巻が,2002年に、回天記念館に寄贈された。

保存されていた血染の鉢巻の寄書
峯少尉 「日の丸」赤心 祈御成功
広島県呉第一高女 四年い組
見もやせぬ君のみすがた 目にうかべ 神々しさに頭さがりぬ  紀美子
一発必中  泰子
萬朶の花と咲き咲かん  典子
轟沈  登美子
生ける志るしあり  芳恵
誠心  千代子
萬古仰天皇  和子
昭和二十年一月二十一日
呉海軍工廠水雷部 縦舵機工場調整班 動員学徒佐光登美子

平成16年9月2日中國新聞に記載された血染の鉢巻の保存の経緯は,次のとおり。
体当たりで敵艦を攻撃した人間魚雷「回天」に乗り込む寸前に終戦を迎えた、千葉県本埜村の峯眞佐雄さん(80歳)が、当時の女学生から受け取った血染めの鉢巻きを、周南市大津島の回天記念館に寄贈した。

峯さんは1945年8月、出撃を控えて千葉県大原町に移動。しかし、搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に出せなかった」。

峯さんは毎年11月、回天の遺族らが大津島で開く慰霊祭に参列。偶然、鉢巻きが話題になり、遺族からも寄贈を勧められて「当時の状況を考えてもらえるなら」と決めた。長男の会社員峯一央さん(48)から鉢巻きを受け取った、記念館の小川宣館長(74)は「多くの人を巻き込んだ戦争だったことを示す証拠。大切に展示したい」と話している。(引用終わり)


写真(左):米国の女性工場労働者米国航空機生産計画によると,生産数は1957機(前月実数1811機)で,これは英国の生産数1688機,カナダの生産数98機を上回る。そして,外国への供与予定機数は,ロシア275機,オーストラリア106機,インド40機など,世界の兵器庫として企画されている。写真(右):1942年6月カリフォルニアの航空機工場で働く米人女性労働者。;Woman aircraft worker, Vega Aircraft Corporation, Burbank, Calif.

1944年に米国は,14万機もの航空機を製造したが,航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。日本で学徒勤労動員された女子と間接的に殺しあうことになった。双方とも祖国,家族を守ることを大義名分にして。

 
写真(上):輸送艦「ネソーバ」NESHOBA APA 216(排水量14,833t)乗員のSwede Larson-Ray Allen(写真左)とWavrin-Ray Allen-Sullivan-Klein-Reiger(写真右)
;人間魚雷「回天」が撃沈しようとした米軍艦船の乗員も若者である。轟沈の響きの中で、米国人の命も失われる。「回天」特攻隊員や「回天」の生産に従事した勤労学徒は、このような米国の若者の命を奪いたかったわけではないであろう。相手への憎しみがあったのか。なぜ、日米の若者が、殺しあうことになったのか。
輸送艦「ネショーバ」は速力18ノット、貨物積載量2,900 tの大型輸送艦である。
1945年4月沖縄攻略に参加し、グアム、真珠湾、グアム、沖縄、サイパンと輸送任務に従事し、そこで終戦を迎えた。マリアナ、沖縄は、人間魚雷「回天」が頻繁に攻撃した海域である。サンフランシスコに帰還後、日本占領軍を東京湾に運んだ。NESHOBA PICTURES FROM RAY ALLEN( Amphibious Forces of WWIIより許可を得て写真掲載)


写真(右):1944年12月1日にイ56潜水艦で出撃する「回天」金剛隊;ニューギニア島北岸のマヌス島アドミラルティ基地に向かうも警戒厳重のため攻撃不能で,1945年2月3日帰還。しかし,多々良隊として,4隻の潜水艦で1945年3月28日に沖縄海域に出撃するも,消息不明。6名の回天乗員とともに艦長正田啓治少佐以下122名戦死。(→回天特別攻撃隊潜水艦戦死者名簿

故勝山 淳海軍少佐「最後の書簡」 
 拝啓、御両親様はじめ皆様益々御元気に御過しの事と拝察致し居り候。
降て不肖淳相変らず頑健、一意専心本務に邁進致し居り候間、御休心遊ばされ度く候。
戦局正に逼迫、真に神国興廃の決す秋、不肖、唯不撓の精神、旺盛なる体力、体得せる技を以って醜敵を撃滅致し、大御心を安んじ奉らんと期し居り候。右取急ぎ一筆相認め候。
末筆乍ら皆様の御健康を祈り上げ候。
                   敬具
                   淳拝

平成16年9月12日中國新聞に記載された人間魚雷の島の案内役は,次のとおり。
周南市大津島の回天記念館。案内役の安達辰幸さん(71)が60年も昔の記憶をたどる。この島で生まれ育ち、1944年11月8日朝、人間魚雷「回天」の菊水隊が「伊36号」など三隻の潜水艦で出撃するのを見送った。
華々しい出航という記憶はない。「生き神さま」と呼ばれた搭乗員たちに手を振ると、軍刀を振って応えてくれた。
「悲壮感はない。それが当たり前で、うらやましくもありました」

搭乗員たちは今の記念館の近く、士官宿舎に住んでいた。安達さんらも野菜を持って訪ねたこともある。回天のことは知っていたが、秘密兵器ゆえ口にできない。一方、兵士たちはひもじかったのか、住民たちに食べ物をせがんだ。ふかしたサツマイモを夜、石垣の間に差 し入れしたりしたという。(引用終わり)

写真(左):1945年2月21日、伊370潜水艦(輸送用大型潜水艦)に搭載され回天特攻「千早隊」が出撃。伊370潜は、輸送潜水艦で、魚雷装備は貧弱だったが、人間魚雷「回天」5基を搭載できる排水量があった。硫黄島近海に到達したが、1945年2月26日、伊370は米駆逐艦「フィネガン」により撃沈された。「回天」は発進できず、潜水艦搭乗員もろとも全滅した。

1945年2月21日、回天特攻「千早隊」
 海軍第一潜水部隊は硫黄島を包囲する米艦隊を攻撃するため、伊44(回天4基搭載)・伊368(同5基)・伊370(同5基)の3隻で「回天特別攻撃隊千早隊」を編成した。出撃は1945年2月21日で,2月25日には硫黄島近海に到着した。しかし、2月26日に伊370が、駆逐艦「フィネガン」FINNEGAN (DE-307)に、翌27日には伊368が護衛空母「アンティオ」USS ANZIO (CVE-57)搭載機によって撃沈された。

写真(右):1945年2月26日、伊370潜水艦を撃沈した米駆逐艦「フィネガン」USS Finnegan (DE-307)排水量: 1,140 (std), 1,430 tons (full)
兵装: 3 x 3"/50 Mk22 (1x3), 1 x 1.1" / 75 cal. Mk2 quad AA (4x1), 9 x 20mm Mk 4 AA, 1 Hedgehog Projector Mk10 (144 rounds), 8 Mk6 depth charge projectors, 2 Mk9 depth charge tracks
機関: 4 GM Model 16-278A diesel engines, 6000 shp, 2 screws
速度: 19 knots 航続距離: 4,150 nm @ 12 knots 乗員: 15 / 183。


U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945
2/26の米海軍艦艇の損害
軽巡洋艦PASADENA (CL-65), by naval gunfire, 本州南部、31 d. 20'N., 141 d. 15'E.
駆逐艦 PORTERFIELD (DD-682), by naval gunfire, 本州南部、33 d. 10'N., 143 d. 30'E.
掃海艦 SAUNTER (AM-195), by mine, ルソン島近海、14 d. 17'N., 120 d. 38'E.
戦車揚陸艦 LST 121, by collision and grounding,硫黄島近海、24 d. 46'N., 141 d. 19'E
LST 760, and LST 884, by coastal defense gun, 硫黄島近海

写真(右):1945年2月26日、伊368潜水艦を撃沈した米護衛空母「アンティオ」USS ANZIO (CVE-57)排水量: 7,800
兵装: 1 x 5"/38AA 16x 40mm, 20 x 20mm, 27 Aircraft
機関: 9,000 IHP
速度: 19 knots 乗員: 860
ANZIO resumed combat support operations on 16 February. Three days later, she launched a strike to the north on Chichi Jima in the Bonin Islands. From 19 February through 4 March, ANZIO followed a schedule of launching her first flight just before sunset and recovering her last just before dawn. During these nocturnal operations, she completed 106 sorties without a single accident.


2/26の日本軍艦艇の損害
潜水艦 伊-368, by aircraft (VC-82) from 護衛空母 Anzio (CVE-57), 硫黄島近海、 24 d. 43'N., 140 d. 37'E.
潜水艦 伊-370, by 護衛駆逐艦 FINNEGAN (DE-307),父島近海、22 d. 45'N., 141 d. 27'E.
潜水艦 呂-43, by aircraft (VC-82) from 護衛空母 Anzio (CVE-57)、父島近海, 24 d. 07'N., 140 d. 19'E.
海防艦 SHONAN, by 潜水艦 HOE (SS-258), 南シナ海、17 d. 08'N., 110 d. 01'E.
哨戒艇, by naval gunfire, 本州南部

 伊44は米軍に発見されて制圧され、攻撃可能距離まで近づけず、46時間の追跡から脱出し帰還した。同艦は長時間の戦闘と潜水により艦内の酸素が不足するなど危険な状況に陥り、乗員の必死の努力で生還したが、第六艦隊司令部は「回天を発進させずに引き返した」ことを命令違反・戦意不足と判定して、艦長を更迭した。その後、伊44は回天特攻隊「多々良隊」の一艦として1945年4月に沖縄へ出撃、米駆逐艦隊と交戦して撃沈された。強行突入はなんら成果をあげることなく全乗員が戦死した。

5.米軍は,1944年3月26日沖縄諸島の慶良間列島列島に上陸した米軍は、水上自爆艇「震洋」を鹵獲し、4月1日に沖縄本島に上陸した後,嘉手納・読谷飛行場で人間爆弾を鹵獲し,Bakaと名づけた。これは, 1944年7月21日の大海指第431号で奇襲作戦をになうとされた人間爆弾「桜花」である。さらに、自爆攻撃にしか使用できない車輪投下式の特攻機「剣」キ-115も設計、製造された。人間爆弾の発案者は太田少尉とされるが,このような特殊兵器の開発・部隊編成は,軍上層部が積極的に関与しない限り不可能である。ドイツでは,無人誘導爆弾,飛行爆弾が実用化され実戦に投入されていたが,それだけの技術力のない日本軍は有人爆弾を開発し,体当たり自爆攻撃を行った。


写真(左):ドイツ空軍のヘンシェルHs293誘導爆弾;500 kg爆弾を装備した無線誘導爆弾。RAF museum at Cosford.後方は,ラムジェット推進の無人飛行爆弾V1号で,1944年後半に英国に1万発前後発射されて大きな被害を与えた。写真(右):ドイツ空軍のフリッツX誘導爆弾;1.4トン爆弾PC 1400を改造した誘導爆弾。全備重量1,650 kgで,イタリア戦艦「ローマ」を撃沈した。


 ドイツ空軍では1940年に無線誘導爆弾ヘンシェルHs293を試作し,1943年には1400 FX "Fritz X" Guided Bomb 「フリッツX」も実用化し,敵に寝返ったイタリア海軍の戦艦を撃沈している。フリッツX、Hs293は、いずれも爆撃機に搭載され,目標に投下される。そして,その爆撃機が爆弾投下後,目視による無線誘導を行う。誘導員は爆弾の尾部に取り付けられた発光体を追い,爆弾を誘導する。命中精度は誘導員の熟練度に依存するが,目標が視認できる距離内まで爆撃機を接近させる必要がある。また、無線誘導のために,妨害電波を発射され,誘導ができないなどの難点があった。

しかし,ドイツ軍のような無人誘導兵器を実用化できなかった日本軍としては,人間が搭乗して誘導する「有人爆弾」を作成するしかなかった。技術の未熟を人間の精神力で補おうとしたため,結果として,命を粗末にし,若者の命を奪うことになった。

1944年7月21日の大海指第431号では「奇襲作戦」を重視し,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」とし,「奇襲戦=特攻」を作戦として企図していた。

航空機による自爆攻撃という必死の特攻隊が,軍上層部の命令,許可によって部隊として編成されたことは,(→人間爆弾「桜花」を配備された神雷部隊引用)の編成をみれば容易に理解できる。

 神雷部隊は、1944年10月1日新編成された第721空の別称で、戦局を挽回するために,米軍からはBakaと名づけられた人間爆弾「桜花」を配備したの特攻隊である。Over 800 Baka Bombs were built before the end of the war, but only 50 were used. Nonetheless, the weapon had its successes: in April 1945 the U.S.S. Mannert L. Abele, a destroyer, was sunk by a Baka.


写真(右):人間爆弾「桜花」
;沖縄で鹵獲された人間爆弾。

Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom") の桜花11型のデータ;
乗員1名,全長 6.10 m (20 ft 0 in),全幅 5.10 m (16 ft 8 in),全高 1.20 m (3 ft 11 in)
主翼面積 6 m² (65 ft²),重量 2,140 kg (4,708 lb)
ロケットエンジン 3基×800kg, 推力7.8 kN (1,760 lbf)
最高速度 630 km/h (394 mph),航続距離 36 km (23 miles)
翼面荷重 356 kg/m² (72 lb/ft²)。爆弾1,200 kg (2,640lb)

横須賀Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom")
人間爆弾「桜花」は,大田正一少尉が考案したされるが,一下級士官が新兵器の試作を,暇な時間に自主的に行うことなど,軍隊という組織では考えられない。

桜花は,増速用ロケット推進装置をつけた飛行爆弾で、全長6辰曚匹瞭溝里防5辰曚匹両さな翼をつけた。体当たり自爆用なので,帰還するための脚や車輪など降着装置はない。胴体の頭部が 1.2鼎梁膩診弾、中央部がパイロットの座席、後部に推進用火薬ロケットが収納されている。全重量約2邸

 母機の一式陸上攻撃機に懸吊(ちょう)して運ばれ、敵艦に接近して投下される。その後は滑空を主に、ときにはロケットを噴射し、パイロットもろとも敵艦に突入する。

写真(左):人間爆弾「桜花」と外された弾頭;1945年4月1日,沖縄本島の飛行場で米軍に検分されている。先端にある1.2トンの弾頭がむき出しになっている。

神雷部隊(第721海軍航空隊)[龍巻部隊]の編成
 第721海軍航空隊「神雷部隊」は、人間爆弾「桜花」、「桜花」を運ぶ母機の陸攻隊、これらを援護する戦闘機隊の3隊から構成される。

「桜花」特攻隊員の募集は最初、1944年8月中旬、全国航空隊から,隠密裏に行われた。9月15日、桜花を基幹とする特攻専門部隊の編成準備に当たる正副委員長が決まり、10月1日、百里原(茨城)に第721海軍航空隊が編成され、横須賀鎮守府に編入された。「桜花」特攻隊の編成準備は,レイテ戦の神風特別攻撃隊の編成(1944年10月中旬)よりも2ヶ月も早く組織的に進められていたのであり,特攻は将兵の犠牲的精神の発露,自発的行為という俗説の誤りを例証している。

1944年11月1日、神ノ池基地(茨城県)に移転、「海軍神雷部隊」の門札が掲げられた。721空に「神雷部隊」の名称がついた期日は,フィリピンで神風特攻隊「敷島隊」が空母撃沈の大戦果を挙げた10月25日から,1週間後である。
「桜花」による特別攻撃の応募者の中から約 200名が1944年10月から11月にかけて721空に着任し,11月末には4個分隊が編成された。母機の一式陸上攻撃機は,「桜花」1基を胴体下に搭載し,これを2個戦闘飛行隊で援護することになっていた。
1944年11月19日,軍令部総長及川古志郎大将が「桜花」計画について大元帥昭和店天皇へ上奏した。大元帥の統帥権を踏まえた厳格な軍紀が,日本軍司令部では維持されていた。  

沖縄戦では,米軍直前になって急遽,読谷飛行場,嘉手納飛行場(当時は北・中飛行場と呼称)を破壊放棄した。しかし,あわただしく準備不十分だったために,飛行場は小破壊しただけで,多数(10-20基以上)の「桜花」がほとんど無傷で米軍に鹵獲された。米軍は、人間爆弾を"Baka"と呼んだ。奇襲秘密兵器といっても,多数を米軍に捕獲されているようでは,「桜花」搭乗員も「桜花」を運搬した一式陸攻搭乗員も浮かばれない。

桜花の訓練:
『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』 によれば,「桜花」のように、重い機体に小さな翼をつけた機体は、高速でなければ失速する。しかし、高速では着陸できないので,訓練用に、爆弾・ロケットを外した軽い「桜花練習機」を作り、操縦感覚を体得することにした。しかし、着陸時は,高速になるので,陸攻から投下後、エンジンなしで飛行場に着陸することは危険で至難の技であった。

 そこで、まず事前訓練として零戦を使い、エンジンを「桜花練習機」の着陸最終パスなみの 110ノットで滑空、ねらった場所に着陸する練習を重ねた。また,別に、零戦でフルパワーの高速緩降下突撃訓練を行い、「桜花」突進時の感覚を養った。

 投下訓練は、投下後まず実機の最良滑空速度 260ノットで飛び、舵の効き具合いを試して実機の感触をつかむ。次に速度を激減し、最後はフラップを下ろし 110ノットでパスに乗る。目の高さ地上1辰曚匹膿緤身行に移ると、間もなく橇(そり)が設地する。

写真(左):人間爆弾「桜花」を搭載した一式陸上攻撃機;三菱G4Mは最高速度430kmの攻撃機(日本海軍では水平爆撃・雷撃を行う機種をさす)であるが,1トン以上ある「桜花」を胴体下に吊り下げてたため,空気抵抗も大きくなり,速度は350km程度に低下したであろう。「桜花」の攻撃は数回行われ、「桜花」20機以上が出撃したが、攻撃前に母機の一式陸上攻撃機とともに撃墜されることが多く、「桜花」命中による撃沈は、駆逐艦「マナート・アベル」Mannert L. Abeleただ1隻である。

 神之池基地 特攻機・桜花の乗員養成(茨城新聞)によれば,「桜花」は「本来は着陸する必要がないから車輪は付いてなかった。訓練用は機体の下にソリを付け、着陸できるようにしていた。爆弾の代わりに水や砂を積んで、一人一回ずつ訓練した」。神雷部隊は1944年10月、戦局を一気に挽回する狙いから、人間爆弾「桜花」を主戦兵器に組織された。

神之池基地には南北と東西二本の大きな滑走路が整備されたが,隣接する内閣中央航空研究所鹿島実験場実験場には、広い砂地の野原に、南北に長さ2km以上の砂地の滑走路が造られていた。車輪を持たない桜花にとって、この滑走路が着陸するのに好都合だった。桜花隊の元分隊長(81)=神奈川県座間市=は、「ソリで着陸するのに、コンクリートの滑走路では摩擦熱で機体が炎上しかねなかった」と説明する。訓練は、母機が神之池基地内の飛行場を離陸し、上空で放たれた桜花は、同実験場内の滑走路に着陸する方法で行われた。

部隊の大部分は翌年1月、鹿児島県・鹿屋基地に移され、新たに桜花搭乗員の養成を行う竜巻部隊が組織された。

 桜花搭乗員に求められたのは、敵艦に向かって降下する技術で、着陸技術ではなかった。投下訓練を一回終了した隊員は、あらゆる状況で作戦可能とされる練度「A」の判定を受け、前線の特攻基地に送られた。

写真(右):人間爆弾「桜花」の操縦パネル;降下練習は命がけで,1回しか行わなかったようだ。連合艦隊司令長官などが視察に来るというので,模範演技を依頼された隊員も,「次に桜花で降下するのは本番だけです」といって,断った。降下,着地に失敗して死亡した隊員も少なからずいる状況では,見世物としての降下訓練は,リスクが高く,部隊指揮官たちも,再降下を見せるのを諦めた。

神雷部隊編成に至る経緯:戦友会編『海軍神雷部隊』
1944年5月1日;1081空分隊長大田正一少尉、隊司令菅原英雄中佐に「人間爆弾」の構想を明かす(大型爆弾に翼をつけ、投下後は人間が操縦して敵艦に突入する「必死・必中・必殺」の新兵器)。
1944年5-6月;大田少尉、菅原中佐の推薦により、構想を航空技術廠長和田操中将に提案。中将は航空本部に進達。航本の伊東裕満中佐と軍令部源田実中佐が協議して研究を進める。
1944年6月20日頃;筑波航空隊で、戦闘機操縦教官7〜8名に対し、次の諮問があった。−どうにもならぬ戦局に対し、生還は絶対不可能であるが、成功すれば戦艦でも正規空母でも確実に撃沈できる「新兵器」の提案があった。
上層部は「非人道的」なるが故に採用をためらい、まず搭乗員の意見を聴取することになった。諸官のうち、この「新兵器」搭乗希望者が2名以上あれば研究開発を進め、1名以下の場合は廃案にするという。諸官は「新兵器」搭乗を希望するか否か、と。

1944年6月27日;岡村基春大佐(341空司令)、軍需省に航空兵器局総務局長大西瀧治郎中将を訪れ、体当たり戦法の重要性を強調し、(特攻用)航空機の開発を要望。

写真(右):人間爆弾「桜花」など特攻兵器を推奨した源田実参謀(1904-1989);真珠湾奇襲作戦、ミッドウェー作戦、南太平洋海戦、マリアナ戦、未遂の「雄」作戦などの海軍作戦に関わった有能な軍人であるから、特攻作戦にも関与していたであろう。

1944年8月初旬;大田少尉、民間技術者(東京大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所)の協力を得て「人間爆弾の私案」を航空本部に提出。
1944年8月16日; 航空本部、大田私案に「マルダイ部品」(○に大の字)の秘匿名称をつけ、航空技術廠に改正試作を下令。試作番号「MXY7」。
1944年8月中旬; 第一線部隊を除く全国航空隊で、秘密裡に特攻兵器の搭乗員希望を募る。航空技術廠が「MXY7」の単座練習機「K1」の試作を開始。
1944年8月18日; 軍令部第2部長黒島少将、軍令部会議で「マルダイ兵器」を発表。
1944年8月28日;軍令部源田部員、マルダイの性能、用法、兵力について軍令部打ち合わせ会議で発言。
1944年8月下旬; 航空本部がマルダイ兵器を「桜花」と命名。
1944年9月15日; 「桜花」部隊の編成準備のため、準備委員長岡村基春大佐(341空司令)などを横浜航空隊付に発令。

(→『海軍神雷部隊』戦友会編を掲載した神雷部隊と新兵器「桜花」引用)より)

帝国海軍の逸材といわれる参謀源田実中佐が,神風特別攻撃隊に関与していなかったとは考えられない。真珠湾攻撃,ミッドウェー海戦,マリアナ沖海戦と作戦を企画してきた参謀が,フィリピン戦について寄与していないはずがない。

参謀源田実中佐(戦後は参議院議員)の名著『海軍航空隊始末記』でも、フィリピン戦や沖縄戦での特攻作戦について記述がない。にもかかわらず、1945年の日本海軍航空隊最後の花道とされる四国松山の戦闘機隊343空司令として大活躍,大戦果には詳しい。日本海軍航空隊の撃墜王を集めて編成された新鋭戦闘機「紫電改」で編成された戦闘機部隊には,新鋭偵察機「彩雲」も配備され,人材と機材を完備した。

沖縄戦のころの特攻隊は,中古戦闘機,練習機,水上偵察機など旧式な航空機の寄せ集め部隊が多く,搭乗員も実戦経験のない未熟練新米パイロットが大半であった。戦闘機隊343空司令は,特攻隊,特に人間爆弾「桜花」の開発・部隊編成に関与したにもかかわらず,戦後は特攻について語らず、特攻隊とは雲泥の差がある最強エリート部隊を率いてたことを誇りにしてた。


写真(上):米軍に鹵獲された人間爆弾「桜花」;右は戦後,横須賀で鹵獲されたと思われる「桜花」で濃緑色の迷彩塗装を施してある。右は,練習複座型「桜花」で,後方は四式重爆撃機。

  1945年4月11日1440、沖縄近海で 米海軍駆逐艦「マナート・アベル」DD-733 Mannert L. Abele は、日本機1機を撃墜したが,別の1機が4000ヤード離れた海面に激突した。5インチ砲と機銃の命中にもかかわらず、煙と炎をたなびかせて、三番目のカミカゼが甲板に命中し、機関室が爆発した。At about 1440 three Zekes broke orbit and closed to attack. Mannert L. Abele drove off one and splashed another about 4,000 yards out. Despite numerous hits from 5-inch bursts and antiaircraft fire, and spewing smoke and flame, the third kamikaze crashed the starboard side and penetrated the after engineroom where it exploded.

駆逐艦「マナート・アベル」は、直ぐに艦首を下にして沈没しはじめ、機械室にも浸水した。竜骨が折れて、艦橋からの管制が不能になり、動力が利かなくなった。Immediately, Mannert L. Abele began to lose headway. The downward force of the blast, which had wiped out the after engineering spaces, broke the destroyer's keel abaft No. 2 stack. The bridge lost control and all guns and directors lost power.

写真(右):駆逐艦「マナート・アベル」USS Mannert L. Abele DD-733 ;off Boston, 1 August 1944.1945年4月12日に特攻機と人間爆弾「桜花」の合計2機の命中を受けて,撃沈。大きく連装砲塔も並んでいるので,実戦経験のない特攻機搭乗員は,大型巡洋艦あるいは戦艦と見間違えたかもしれない。

特攻機と「桜花」の2発の命中を受けて撃沈した駆逐艦「マナート・アベル」USS Mannert L. Abele DD-733 (サムナー級)のデータ
排水量3218トン,全長 376' 6"(oa) x 40' 10" x 14' 2" (Max)
武装 6門 x 5インチ/38AA (3x2), 12門 x 40mm対空機関砲, 11丁 x 20mm 対空機銃, 10門 x 21インチ魚雷発射管(2x5).
機関 60,000 SHP; General Electric Geared Turbines, 2 screws
最高速力 36.5 Knots, 航続距離 3300馬力 20 Knots, 乗員Crew 336名.
竣工 1944/4/13,撃沈1945/4/12. 乗員73名死亡。

1分ほどしてから,4月11日1446、駆逐艦「マナート・アベル」に人間爆弾「桜花」が舷側に命中した。2600ポンドの弾頭が爆発し、艦内の通信、電灯がすべて不通になった。A minute later, at about 1446, Mannert L. Abele took a second and fatal hit from a baka bomb a piloted, rocket powered, glider bomb that struck the starboard waterline abreast the forward fireroom. Its 2.600 pound warhead exploded, buckling the ship, and "cutting out all power lights, and communications."

駆逐艦「マナート・アベル」は、直ぐに真っ二つに切断され、急速に沈みはじめた。生存者は敵機の爆撃した海域に漂うことになった。中型揚陸艦189号、190号がパーカー指揮官の下で、攻撃を受けながら、生存者救出という支援艦として黄金と同じ重量に匹敵する仕事をした。Almost immediately, Mannert L. Abele broke in two. her midship section obliterated. Her bow and stern sections sunk rapidly. As survivors clustered in the churning waters enemy planes bombed and strafed them. However LSMR-189 and LSMR-I90, praised by Comdr. Parker as "worth their weight in gold as support vessels," splashed two of the remaining attackers, repulsed further attacks, and rescued the survivors.

駆逐艦「マナート・アベル」Mannert L. Abeleは,人間爆弾「桜花」 the baka bombによって撃沈された唯一の艦艇である。沖縄方面で,レーダー警戒の任に就いている3隻が特攻機の命中を受けた。

日本軍は沖縄作戦に力を注いだが,小型艦艇によるレーダー警戒網の整備が進展していたおかげで,沖縄方面の米艦艇の防衛は成功したといってもよい。Despite the enemy's desperate efforts, the radar pickets successfully and proudly completed their mission, thus insuring the success of the campaign.

人間爆弾「桜花」の胴体後方には速力増加の火薬燃料式ロケットが装備され,敵艦めがけて突入することになっていた。しかし,出撃した数よりも,米軍に鹵獲された数のほうが多いようだ(敗戦後ではなく戦時中に)。沖縄戦では,日本軍守備隊は、米軍上陸直前に急遽,読谷飛行場,嘉手納飛行場(当時は北・中飛行場と呼称)を破壊放棄した。しかし,準備不足のために,飛行場の破壊は不十分で,格納庫も破壊していない。そして、多数(10-30基)の人間爆弾「桜花」がほぼ無傷で米軍に鹵獲されている。奇襲秘密兵器といっても,その程度の㊙扱いしか受けていなかった。これでは,「桜花」搭乗員も,運搬する神雷部隊の陸上攻撃機搭乗員も浮かばれない。

写真(右):人間爆弾「桜花」;後方には速力増加の火薬燃料式ロケットが装備されている。

桜花は約850機製造され,その大半は11型である。

神雷部隊と作家たち
 山岡荘八・川端康成の両氏は1945年4月末から終戦まで、ずっと桜花隊と一緒に生活し、神雷部隊とはもっとも馴染みの深い作家だった。
 山岡はセッセと隊員の間を回って話しかけ、誰がどこで何をしているか、戦友仲間よりもよく知っていた。終戦後、鹿児島県鹿屋における体験をもとに新聞に「最後の従軍」を寄せたり、かなりまとまった一冊を書いた。「特攻隊員の心を心として、恒久平和を願って徳川家康を書いた」とも後に語っている。
 川端は山岡のように隊員とは付き合うことはしなかったが、顔を伏せ、あの深淵のような金壷眼の奥から、いつもじっと隊員の挙措を見つめていた。終戦後、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と鳥居達也候補生(要務士)に約束した。だが川端は特攻隊について一字も書いていない。(→異説あり)
 三島由紀夫は自殺(1970年11月25日)の1カ月前、江田島(広島)の海上自衛隊第一術科学校教育参考館で一通の遺書を読み、声をあげて泣いたという。その名文の主は第8桜花攻撃隊陸攻隊指揮官として出撃(戦死)した古谷真二中尉である。(引用終わり)

Web上に三島由紀夫と特攻隊に関して,次の記事がある。
「私の修業時代」で三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続けた。
「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」(「愛の渇き」)

昭和天皇は、二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員を裏切ってしまった。特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまうではないか、と三島は言う。

三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。(引用終わり)

三島由紀夫は、作家として有名であるが、同時に愛国心、益荒男ぶり、力強い男を好んだ。日本の栄光ある歴史を自分が背負っていると考えていたようだ。自分は小さきものだが、何かしなければならない。自分のためにではなく、日本のためにである。

写真(右):写真:1972年自衛隊市谷駐屯地に乱入した三島由紀夫;自衛隊に決起を促したが,反応を得られず,部下とともに割腹自殺。特攻隊員は神である天皇のために,祖国を守るために死んだとし,それを至高の存在と捕らえ,自らの目標とした。

彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。そこで彼はこう解説するのである。
「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」

彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。
「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」

自衛隊の決起を促すために自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し,撒いたビラの末尾には,「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と書かれていた。(引用終わり)

三島由紀夫は,特攻隊員の心情を独自の解釈で無効性に徹することによる有効性と捕らえたが,何のために特攻隊員の死が有効だったのか。生命尊重以上の価値の所在はどこにあるのか。

1943年9月の早慶卒業式(戦局悪化から卒業が6カ月早まった)
 翌朝の朝日新聞の記事は大きく三色旗に送られて校門を出る我々を写していた。
 午前十時から1400の新卒業生を送る卒業式は父兄、卒業生だけを講堂に集めて厳粛に開式、特に卒業生のために教育勅語をこの式場に奉讀した小泉塾長は,次のように述べた。
 「吾々は諸君とともに遠く上海、南京、徐州、漢口の捷報を聞き共に宣戦の大詔を拝し、共に陸海将兵の壮烈なる功業に泣き、いまは国家存亡の機の正に目前に在るを見る、諸君は父兄よりも更にこの機を知っている、すでに幾多の諸君の学友は軍務に服し、けふ三田の丘で卒業式行はるゝを想いつゝ猛烈なる訓練をやってゐるのである」
  「今後ももっとも激烈、困難、危険にしてもっとも信頼すべき人物を必要とする場合にはそこに慶応義塾の者が在らねばならぬ、慶応の数箇年の教育は諸君をかかる人物に育成した筈である、国家百年の士を養ふはたゞこの一日のみ、今日の一日の用をなさしめんがためであった」

この日慶応義塾卒業の前に古谷君は次のような遺書をのこしている。

 「御両親はもとより小生が大なる武勇をなすより、身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんことを、朝な夕なに神仏に懇願すべきは之親子の情にして当然なり。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。大君に対し奉り忠義の誠を致さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干伐を執るらんの覚悟なり。」

1945年5月11日「第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」隊員として、一式陸上攻撃隊に搭乗、鹿屋基地を出撃、南西諸島で戦死した海軍少佐古谷真二君の遺書。決起を呼びかけて割腹自殺した三島由紀夫がその一カ月前これを読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と、声を出して泣いたという(三田評論10/94丸博君の記事による)。この遺書は靖国神社遊就館に展示され,三島の逸話も紹介されている。

写真:1945年4月海軍報道班員として人間爆弾「桜花」を装備した神雷部隊を取材した川端康成(1899-1972);川端康成年表:終戦の翌年「婦人文庫」に発表した小説「生命の樹」では,鹿屋基地にある海軍将校の親ぼく団体「水交社」で働く啓子と、思いを寄せる特攻隊員植木らの日々を描いた。1945年4月、海軍報道班員として、鹿児島県鹿屋の基地に行く。五月、鎌倉在住の文士の蔵書を基に貸本屋鎌倉文庫が開店。終戦後、大同製紙の申入れがあって、鎌倉文庫は出版社として発足し、その重役の一人となり、老大家たちの原稿依頼に歩く。 1972年、交遊の深かった三島由紀夫の割腹自殺と同じ1972年にガス自殺。遺書はなかった。

物語の中のふるさと − 九州発によれば,川端康成は終戦間際の1945年4月、報道班員として鹿屋海軍航空基地を訪れ、特攻隊員と接した。戦後に著したのが「生命(いのち)の樹」である。
 埼玉県在住で、鹿屋海軍航空隊の神雷部隊桜花(おうか)隊大尉だった林冨士夫さん(82)は、川端をよく覚えている。
「背が小さくてやせ、スポーツ選手でもないのに色黒だった。無口。じっと隊員を上目遣いで観察するように見つめていました。とてもこちらから話しかける気分にはなれなかった」と電話の向こうで話してくれた。
 士官たちに「いつか必ず特攻隊の物語を書きます」と約束した川端。それは「生命の樹」で果たされた。

 〈「これが星の見納めだとは、どうしても思へんなあ。」(中略)植木さんには、ほんたうにそれが、星の見納めだつた。植木さんはその明くる朝、沖縄の海に出撃なさつた。(我、米艦ヲ見ズ)そして間もなく、(我、米戦闘機ノ追蹤ヲ受ク)ニ度の無電で、消息は絶えた〉

 鹿屋海軍航空基地初の特攻は「菊水部隊梓特別攻撃隊」が1945年3月11日、ウルシー環礁に出撃した陸上爆撃機「銀河」による「第2次丹作戦」で,それから終戦まで、16〜35歳の隊員908人が出撃した。

 神雷部隊桜花隊員は、基地の西側すぐ近くにあった野里小に寝泊まりしていた。川端のほかにも山岡荘八、新田潤らの作家が報道班員として付近に分宿していた。川端が隊員と距離を置いていたのと対照的に、山岡は積極的に隊員に話しかけ交流を深めたそうだ。川端と山岡は、終戦まで桜花隊と行動を共にした

。  「桜花」の悲惨な攻撃とは裏腹に「作家の人たちは、鹿屋の特攻隊員には悲壮感が全くないと話していた」と林さんは言う。
 「桜花隊は1944年8月中旬に志願してから出撃までに時間があったため、全員が生死を超越していたのですよ」

 司令から命じられ特攻出撃者を選ぶ林さんは苦しさから逃れようと、何度も自分の名前を名簿の筆頭に書いた。だがすべて却下され、出撃の度に隠れて泣いたという。「桜花」による特攻作戦のほとんどは、戦果をあげることはなかった。

 〈あの基地は、特攻隊員が長くとどまつておいでになるところではなかつた。(中略)新しい隊員と飛行機とが到着しまた出撃する。補給と消耗との烈しい流れ、昨日の隊員は今日基地から消え、今日の隊員は明日見られないといふのが、原則だつた〉(引用終わり)

山岡荘八『最後の従軍』昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」
あのころ――沖縄を失うまでは、まだ国民のほとんどは勝つかも知れないと思っていた。少なくとも負けるだろうなどと、あっさりあきらめられる立場にはだれもおかれていなかった。何等かの形でみんな直接戦争に繋がれている。といって、楽に勝つであろうなどと考えている者も一人もなかった。

そんな時……昭和二十年四月二十三日、海軍報道班員だった私は、電話で海軍省へ呼出された。出頭してみるとW(ライター)第三十三号の腕章を渡されて、おりから「天号――」作戦で沖縄へやって来た米軍と死闘を展開している海軍航空部隊の攻撃基地、鹿児島県の鹿屋に行くようにという命令だった。同行の班員は川端康成氏と新田潤氏で、鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった。

<中略>私たちが、野里村(現鹿屋)にはじめて行ったのは、日記によると四月二十九日、天長節の日であった。----その途中でも二度、サイレンが鳴っているが、その時の私は、敵機などより数倍おそろしい妄想を描いて震えあがっていた。他でもない。これから行く「神雷部隊――」そのものが恐ろしかったのだ。私は、戦争では、あらゆる種類の戦争を見せられている。陸戦も海戦も空中戦も潜水戦も。そして何度か、自分でもよく助かったと思う経験も持っている。しかし、まだ必ず死ぬと決定している部隊や人の中に身をおいたことはない。報道班員はある意味では、兵隊と故郷をつなぐ慰問使的な面も持っている。とりわけ「ライター班」はそうだった。 それが、こんどは必ず死ぬと決まっている人々の中へ身をおくのだ。従来の決死隊ではない……と、考えると、それだけで、私は彼らに何といって最初のあいさつをしてよいのか……その一事だけで、のどもとをしめあげられるような苦しさを感じた。(昭和三十七年八月六日)

私は、最初の特攻隊としてフィリピンから飛び立った関大尉や中野、谷、永峰、大黒などの敷島隊員の記事が報道(昭和十九年十月二十九日)されたとき、その心事をしのんで茫然としたものだった。その時の関大尉のマフラーをつけて屹然と空をにらんで立った姿は、いかなる仏像よりも荘厳な忿怒像として目に残っている。清純な若者たちをこのように怒らせてよいものであろうか。そして、そのきびしい犠牲の陰でなければ生きられないのかと思うと、自分の生存までがいとわしかった。

ところが、その必死隊に、いよいよ私は入ってゆかなければならない。むろん彼等には慰めの言葉などは通用すまいし、といって、話しかける術も知らず質問もなし得なければ、いったいどうして居ればよいというのか……。

<中略>だれも明るく親切で、のびのびしている。どこにも陰鬱な死のかげなどはない……そう書くことは出来ても「そんなはずはない」と反問されると、私にはそれを更に説得するだけの力はない。これは今の私が性急に割切って書こうとしてはならないことだ。それよりも、こうして底抜けの明るさを私に見せている人々が、最後にどのような心境で出撃してゆくか?出来るだけ自然にその筆跡を残したい……そう思って私は不案内な鹿屋の町の文房具店で、ようやく一冊、ほこりにまみれてあったわとじの署名帳を捜し出して戻って来た。……

秋風と共に去った男 時岡鶴夫
人生恩に感ず 大木偉央
大き夢に生きん 本田耕一
一念 吉田信
今死を知らんとす亦楽しからずや 町田道教
敢闘精神 石丸進一
南無阿弥陀仏 高野(次郎)中尉 等々

和歌を書いたり、大義、撃沈、無、必中など書いて飛立った人々もあれば、きちんと官姓名だけを書き残していった人もある。-----無阿弥陀仏と書いていった高野次郎中尉は、台湾生れの小林常信中尉と同室していて、彼らはどちらも童貞のままでいった。高野中尉は温和なエンジニア、小林中尉は絶えずみんなを民謡や踊りで笑わせるユーモリストで、彼等は自分たちの部屋に戦災孤児のアキオという少年をとめていた。六つか七つのこの迷い子がひどくいたずらで、よく小林中尉に裸にされては洗われていたが、部隊からの連絡で叔父が熊本から迎えにくると、中尉たちと一緒に飛行機で戦いに行くのだとダダをこねて困らせた。そして「帰らないと連れていってアメリカの上に落としてやる」。 そういわれると、ようやく納得し、新しい大人のダブダブのシャツを着せられ、中尉たちの集めてくれた彼にとっては大金をポケットに納め,ようかんを背負わされてベソをかきながら叔父に連れ去られた。

その小林中尉は高野中尉と一緒に出てゆく前にせっせと麦刈りを手伝っていたが「さて、あちらで結婚式場の用意がよろしいそうで」私の肩を軽くたたいて出撃していった。

こうした思い出を書いてゆくときりがない。私はいつかアキオと同じように、この必死部隊の、明るさ親切さに魅せられ、川端さんや新田氏とわかれ、そのままここを離れ得ない迷い子になってしまっていた……
(昭和三十七年八月八日)(→山岡荘八「最後の従軍」昭和三十七年八月六日〜八月十日「朝日新聞」引用)

6.日本陸海軍は、水上特攻のための体当たり自爆用のモーターボート突撃艇を量産,配備した。そして,1945年10月から1945年2月のフィリピン戦で、水上特攻艇による自爆体当たり攻撃を、米軍艦船に対して実施した。これも, 1944年7月21日の大海指第431号で奇襲作戦をになうとされた特攻艇「震洋」あるいは,陸軍のマルレ艇である。特攻艇の発案者は伝えられていない。この特殊兵器の開発・部隊編成には,軍上層部が積極的に関与したのは当然である。

特別攻撃は特攻と呼ばれ,体当たりの自爆攻撃であるが,海軍の兵士たちの志願,自発的な希望によって開始されたと言われる。しかし,軍隊で勝手な個人的行動が認められたり,兵器を勝手に開発・製造したりすることはできない。軍隊とは,すべて作戦命令によって行動するところである。

陸軍の特攻兵器には,モーターボート突撃艇「マルレ艇」,海軍の特攻兵器には,モーターボート特攻艇「震洋」,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」などがあるが、これらの奇襲兵器の試作・開発・整備とその・乗員訓練・部隊編成は、軍令部の命令によっている。自由時間と資金に縁のない軍人の着想だけで,特攻兵器は開発できない。軍隊組織で、自発的な意思で特攻隊が自然発生することもありえない。

大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』の1944年7月11日には,次のようにあるという(保坂正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.167-168引用)
「突撃艇ノ試験演習ヲ隅田川デ実施,
自重1屯(),自動機関ヲ利用,速力20節,兵装ハ爆雷2箇(1箇100瓩())航続時間五時間
右突撃艇ハ泊地ノ敵輸送船ニ対スル肉薄攻撃用トシテ先月十五日(サイパン上陸ノ日)設計ヲ開始シ七月八日試作ヲ完了セルモノナリ,
速力及兵装ノ点ニ於テ稍々不十分ナルモ,今後ハ斯カル着想ノ下ニ,此種兵器を大量整備スルヲ要ス」。


  写真(右):慶良間列島の水上特攻艇;日本海軍の「震洋」,陸軍の「マルレ艇」があった。 A US Army report in PT Boats, Inc.’s archives indicates that 1000 of these boats were to attack Allied Forces assaulting Okinawa. They were concealed in artificial and natural caves. These one-man boats were made of light plywood with reinforced wooden beams. Many were powered by US made Gray Marine four and six-cylinder engines. Horsepower was between 70-80. They carried two depth charges, 260 pounds each, which were released by hand or on impact with their targets. They were painted green.

沖縄戦では、1945年3月26日、米軍の慶良間列島上陸攻防戦の時以来、航空機による特攻と併用して、水上特攻艇(突撃自爆艇)を出撃させた。 

 米軍は,沖縄本島に上陸する前に本島西方の慶良間列島に上陸した。慶良間は座間味村と渡嘉敷村の通称で、沖縄本島から見て手前に見える渡嘉敷村を「前慶良間」、後方の座間味村を「後慶良間」と呼んでいたところである。日本軍は慶良間列島には米軍は上陸しないと考え,水上特攻隊を配備し,背後から米軍艦船を水上特攻自爆艇で襲うつもりでいた。

水上特攻艇とは,木製小型モーターボートに爆薬を搭載して体当たり攻撃するものである。海軍では「震洋」と陸軍では「マルレ」と呼ばれた。

写真(左):長崎の特殊潜航艇「甲標的」と水上特攻艇製造工場;戦後になって米軍が撮影したもの。Nine Midget Submarines. There are nine midget submarines in various stages of completion. Reportedly these submarines were piloted by Kamikaze submariners. These submarines were to be equipped with the bare necessities to enable them to approach U.S. ships and fire a torpedo or two. In many instances the pilots would be expected to ram U.S. ships.

  1944年3月、軍令部(陸軍の参謀本部に相当)が「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定している。これに応じて、1944年5月27日に,な軸錣了邵酊,すなわち後の「震洋」が完成。。1944年7月5日,つ第一次要員が発令,7月15日に講習が開始。。

 乗員1名の特攻艇は、艇首に250圓稜薬を装備し、自動車エンジン(トヨタ自動車80馬力の中古エンジン1基)を搭載した木造合板型(ベニヤ板)の高速ボートで、敵の揚陸部隊が上陸点に侵攻してきた時、夜陰に乗じて奇襲による体当たり攻撃をするつもりでいた。

1944年8月28日に制式され「震洋」と命名された特攻艇は,1945年1月にフィリピン群島マニラ湾入り口のコレヒドール島で米軍に対して初めて使用されている。(⇒水上特攻隊のフィリピン戦での戦果

  写真(左):水上特攻艇;長崎の製造工場の埠頭にて米軍が占領後撮影。 “Special Attack” was the Japanese phrase used to describe tactics that generally involved the loss of a human operator. Laden with explosives, special attack boats were used in a suicidal fashion against American vessels in the Pacific during World War II. However, very few attacks were successful, as these boats were easily spotted and were frequently destroyed before they were deployed.

 1944年8月28日に制式され「震洋」と命名された特攻艇は,震洋特別攻撃隊を編成し,小笠原諸島,ボルネオ島,フィリピンに進出した。
フィリピンには,1944年10月26日第九震洋隊,11月1日 第八〜十一震洋隊,11月21日 第七震洋隊,12月15日 第十二震洋隊がフィリピンに向かった。

1945年1月にフィリピン群島マニラ湾入り口のコレヒドール島で米軍に対して初めて使用。

 陸軍も同様の特攻艇を「マルレ艇」「○レ」と秘匿名称で整備。1945年1月9日に,フィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍に対して,陸軍海上挺身第12戦隊のマルレ艇70隻が突入。護衛駆逐艦ホッジス、輸送艦ウォーホーク、LST2隻に損傷を与え、全滅している。

 日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々にも海上特攻艇200隻をしのばせていた。
ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸の補給基地とした。

写真:水上特攻艇「震洋」の体当たりを受けた米輸送艦AKA-67「スタール」 Starr;1945年4月9日0420に攻撃された。排水量8,635 t.(lt) 13,910 t.(fl); 速力16.5kts; 乗員 将校62名,下士官兵 333名 40mm連装対空機銃4基 16丁× 20mm対空機銃。搭載舟艇, 14隻×LCVP, 8隻×LCM; 貨物等裁量, 380,000 cu ft, (5,275 t. )

渡嘉敷島・阿波連島
△(球)海上挺身第三戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊の1個小隊
座間味島 
△(球)海上挺身第一戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊
阿嘉島・慶留間島
△(球)海上挺身第二戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊

(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍引用)

 海軍「震洋」,陸軍「マルレ艇」は,慶良間列島に配備され,沖縄本島の西部海岸(飛行場設営適地)に上陸しようとする敵海上部隊を,背後から突撃艇で襲撃しようとした。

写真:1945年4月9日0420,米輸送艦AKA-67「スタール」を攻撃後,甲板に引き上げられた水上特攻艇「マルレ艇」あるいは「震洋」の残骸;米兵4名が負傷し,船体側面に穴が開いた。突撃艇の日本兵2人は,死んだ。At 0420 on April 9, 1945, the USS Starr was hit on the starboard side by a apanese suicide boat. Four men aboard the Starr were injured and a hole was put in the side of the ship. The two Japanese occupants of the boat were killed.

慶良間列島に侵攻した米軍Seizure of the Kerama Islandsあるいは渡嘉敷村の歴史によれば,慶良間列島の沖縄戦は次のように要約できる。

  米軍は,慶良間列島に艦船の停泊地,補給修理基地として活用する意図で,沖縄本島上陸に先立って,慶良間列島を攻略した。米軍の攻撃のあった1945年3月27日,慶良間。しかし,戦果が不明のまま半数が戦死した。1945年4月1日にも第22震洋隊に出撃命令が下り,米軍の中型揚陸艇LMS(R)-12,歩兵揚陸艇LCI(G)-82を撃沈したようだ。

1945/04/04.特攻艇が沖縄沖で撃沈した中型揚陸艦LMS(R)-12;LSM-12 beached, date and place unknown.

  USS LCI(G)-82は1945/04/04夜,中城湾で,レーダーによる警戒ピケを張っていた歩兵揚陸艦であるが,日本海軍の九七式艦上攻撃機を対空射撃で撃墜した。脱出したらしい救命艇の3名の乗員を捕虜にしようと接近したが,一人が手榴弾の紐を引いたようだったので,3名は殺された。

 日本海軍の九七式艦上攻撃機が搭載していたと思われる救命艇は戦利品として,引き揚げた。敵機を撃墜して数分後,自爆艇が高速で接近し,前部に命中した。舷側から甲板まで穴が開き,二つの燃料タンクから火災が発生した。艇長は乗員に対して中型揚陸艦LMS(R)-12を放棄し退艦を命じた。その際に,日本機から獲得した救命艇が役立った。(→新聞記事引用)


中型揚陸艦LMS(R)-12
;1945年4月4日,日本の体当たり水上艇によって撃沈された。LSM-12 broached and abandoned on the coral reef off Okinawa, mid-April 1945. The ship was cannibalized for her spare parts.

   1945/04/04.水上特攻艇がLSM-12を沖縄沖で撃沈。Broached on the beach at Okinawa and broke up, 4 April 1945 Decommissioned, 24 April 1945, at Okinawa Struck from the Naval Register (date unknown) Final Disposition, hulk donated, 10 July 1957 to Government of Ryukyu Islands

1945年4月4日,特攻艇が撃沈したLSM-12のデータ
排水量 520 t.(light), 743 t. (landing) 1,095 t.(満載時)
全長 203フィート 6インチ o.a.,全幅 34' 6"
深さ light, 3' 6" forward, 7' 8" aft, fully loaded, 6' 4" forward, 8' 3" aft
速力 13.2ノット(kts.) (max.), (928 tons displacement)
Complement 5 officers, 54 enlisted
武装 one single bow mounted 40mm gun, four single 20mm gun mounts
搭載物件 Vehicle/Boat Capacity 5 medium or 3 heavy tanks, or 6 LVT's, or 9 DUKW's
乗員Troop Capacity 2 officers, 46 enlisted
装甲Armor 10-lb. STS splinter shield to gun mounts, pilot house and conning station
機関 Propulsion two Fairbanks Morse (model 38D81/8X10, reversible with hydraulic clutch) diesels. Direct drive with 1,440 BHP each @ 720rpm, twin screws,
航続距離 Endurance, 4,900 miles @ 12kts.(928 tons displacement)
1945/04/27. USS Hutchins (DD-476)が大破し終戦後も修理されず。

海上特攻隊の沖縄戦での戦果


写真(右): ロケット弾搭載揚陸艦LMS(R)-188
;排水量758 t.(light), 983 t. (attack) 1,175 t.(fully loaded)。全長 203フィート6インチ,全幅34フィート。最高速力13.2 kts(ノット)。ジェネラル・モーターズGeneral Motors のジーゼルエンジンを2基搭載,1,440馬力(720rpm),スクリュー2基。航続距離は3,000miles @ 12kts(ノット)。

  米軍が慶良間列島を占領した1945年3月27日ごろ,多数の特攻艇「震洋」「マルレ」を鹵獲している。そこから推測して,慶良間列島から出撃した特攻艇は,100隻もないと思われる。既に,フィリピンのルソン島で3ヶ月前に実戦に使用しているが,機密であるはずの特攻兵器を多数米軍に鹵獲されている。人間爆弾「桜花」も,1945年4月1日の米軍沖縄本島上陸日に,読谷村の北・中飛行場(現在の嘉手納基地)で鹵獲されている。

こうなると,日本陸海軍は,特殊奇襲兵器を十分に秘匿したとはとてもいえないのであって,安易な精神主義が跋扈し,冷徹な科学的,合理的な作戦計画を立案していなかったように思えてくる。

 慶良間列島には2,335名の日本軍兵士が配備されていたが,大半は水上特攻隊(海上挺身隊)Sea Raiding unitsである。彼らには,特攻艇,それに装着する爆雷だけでなく,機銃,迫撃砲も装備されていた。
慶良間列島の特攻艇は約300隻で,600名の朝鮮人労働者も作業に当たっていた。

  戦後、812隻971トンの特攻艇が中華民国に引き渡されたようだが、ベニヤ板の粗雑なつくりのボートは破損しており,すべて廃棄されたようだ。
(→中国の戦後拿捕艦艇「有"震洋"自殺艇812艘計971噸因不堪使用,全部報廢」参照)

慶良間列島には、体当たり自爆特攻艇操縦者300名とともに、朝鮮人労働者600名と基地要員100名も残っていた。慶良間列島の日本軍には、機銃や迫撃砲なども装備されていた。(There remained on the Kerama group only about 300 boat operators of the Sea Raiding Squadrons, approximately 600 Korean laborers, and about 100 base troops. The garrison was well supplied not only with the suicide boats and depth charges but also with machine guns, mortars, light arms, and ammunition.)→Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻引用
 

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

水上特攻隊のフィリピン戦での戦果 
1945/01/10. LCI(G)-365,LCI(M)-974をルソン島リンガンエン湾で撃沈
1945/01/31. PC-1129をルソン島Nasugbuで撃沈。
1945/02/16. LCS(L)-7, LCS(L)-26, LCS(L)-49をコレヒドール島Marivelesで撃沈。  

水上特攻隊の沖縄戦での戦果も,被害に比べると大きいとはいえない。

海軍の特攻兵器である自爆艇「震洋」,人間魚雷「回天」の試作・開発・乗員訓練・部隊編成は、命令によっている。一将兵には,時間も資金もなく,特攻兵器の発想があったとしても,それを具体化する開発,試作は不可能である。軍という厳格な階級では,将兵個人による特攻兵器の開発,特攻隊の編成もありえない。軍上層部の命令・許可なくして、独断で兵器の特攻仕様への改造,特攻隊の編成をすれば,命令違反の抗命罪,専権罪として,軍法会議で処罰の対象となる。


写真(右):海軍横須賀航海学校から「震洋」特攻隊に移った田英夫元議員;1923年(大正12年)6月9日東京・世田谷生まれ。1945年海軍横須賀航海学校入学、震洋特攻隊員として出征。航海学校一分隊二区隊第四班。1944年10月のある日のタ方、予備学生、生徒が突然剣道場に「総員集合」を命ぜられた。いつになくモノモノしい雰囲気で、入口には教官が立ち並び、窓はすべて閉められていた。壇上に立った田口学生隊長は、「おまえたちの中から特別攻撃隊員を募る。種類は潜水艦によるもの、魚雷によるもの、舟艇によるものである。応募者は明朝○八○○までに区隊長に申し出ろ。以上」一瞬私たちの間にピーンとした緊張感が走った。
自爆艇「震洋」は、本土決戦に向けて、日本各地にも配備された。このような部隊を編成とこの人選の経緯が、参議院外交防衛委員会(2001年5月31日)の田英夫議員の発言から窺われる。

昭和19(1944)年の10月ですか、私は横須賀の海軍航海学校というところに約400人近い予備学生と一緒に、いわゆる学徒出陣で出た同期の人と一緒に訓練を受けていた。ある日突然、総員集合、全員集まれということで、剣道場に集められました、夕方でしたが。
学生隊長というのは大佐です。その人が物々しい雰囲気の中で壇上に上がって言ったのは、おまえたちの中から特別攻撃隊員を募集すると。種類は、船舶によるもの、潜水艦によるもの、魚雷によるもの、三種類であると。希望者は明朝〇八〇〇までに当該教官に申し出ろ、以上。

 つまり一つは、船舶によるものというのは、私が行った震洋特攻隊という、小さな船で体当たりする。潜水艦というのは特殊潜航艇です。魚雷によるものというのは回天です。いわゆる人間魚雷回天です。

 夕食を食べ、最後寝てもだれも口きかない。お互いにふだんは夕食のときは楽しく談笑するんですが、その後勉強をして寝てもだれもまた一睡もしなかったと思うんです。階段ベッドで寝ているんですが、上の段の男がもう身もだえをするようにして寝返り打って寝られないでいるのが手にとるようにわかる。そのうちに、数時間たったときに、隣のベッドの上の段の戦友がベッドを出て教官室へ向かっていった。入りますと言っている。聞こえます。ああ、あいつは志願したなと思いました。ますますこっちは焦るわけですよ。と、彼は帰ってきていびきかいて寝てしまう、決断をしたから。

(航海学校一分隊二区隊第四班。寝室(居住区)では階段ベッドで私は下段、上段は松本素道君だった。すぐ隣の上段が荻野雅君、下段が蓼原一夫君だったと思う。「巡検終わり。タバコポン出せ」の号令がマイクで流れても、いつものように雑談をする者もない。一分隊二区隊第四班の私の部屋もシーンと静まりかえっていた。皆ベッドに入ってはいるが眠れない。----私の上段の松本素道君もベッドをきしませて返りをうつ。私もまったく眠れない。「走馬灯のように……という言葉のとおり、幼かつたころのこと、父母と旅行したときのこと、そして私の上段で悩みぬいていた松本素道君は「大和」で戦死してしまった。)

私はとうとう朝まで寝られませんでしたね。私の上の段の男も寝られなかった。手にとるようにわかったんですが、彼は戦艦大和で死んだんです。隣のベッドの上下志願して、やはり死にました。そのときに400人のうち40人が志願して全員死にました。そのとき志願すれば死しかないんですね。

 悶々として考えたのは、つまり自分で特攻隊を志願するということは、死を覚悟することですよ。どうせ戦況からしていつかは死ぬかもしれない状況であることは事実なんですが、やはり人間というのは、みずから決断をして特攻隊を志願するとなるとそう簡単なものじゃない。
----走馬灯のようにという言葉がありますが、本当にそうですね。-----学校の先生が国のために命をささげることは美しいことだぞと、こういうことを本当に言いましたから、我々のころは。そういうのがぽっと先生の顔と一緒に浮かんでくる。次の瞬間、家族と一緒に旅行したことがぱっと写真のようにして頭に浮かぶ。次々次々に一枚の写真のようにして変わっていく。それが結局朝まで続いたわけです。私はそのとき志願しなかったんです。それから二カ月後に、少尉に任官すると同時に特攻隊へ行きました。

 -----大和で死んだ上段の男も苦悩してそして死んだんですが、彼のことを、戦争が終わって二十年ほどたって、生き残った当時の戦友たちが集まって教官も交えて懇親会をしたら、そのときの学生隊長が、まさに募集をした学生隊長が生きておられて出てこられました。そして、懇親会の席で私に、田、おまえは次男だったなと言われたんで、そうですと言ったら、うん、おまえはだから特攻隊へ行けたんだと。君の上に寝ていた松本君というのは母一人子一人だった、だから死なしちゃいけないと思って大和に乗せたんだよ、こういう話をされました。

 そういう戦争の何というか、表に出てみんながわかる、空襲で死ぬことも含めて、あるいは、陸軍の本当に弾が飛んでくる中で死んでいくということと、そういう現象だけじゃなくて、内面的な人間の苦しみというもののひどさ、そういうことをぜひわかっていただきたいということをまず前提に申し上げておきたいと思います。(引用終わり)

写真(右):慶良間列島の水上特攻艇;米軍は体当たり特攻攻撃をかける爆薬装備のモーターボートを、Sucide Boat(自殺艇)と呼んだ。これらは米軍に鹵獲されたもの。

 日本陸軍では,特攻「マルレ艇」を配備した「海上挺進隊」を編成し,沖縄本島西方の慶良間列島に展開した。(→徴兵と沖縄戦関係の日本軍参照)

渡嘉敷村の歴史によれば,慶良間諸島は、渡嘉敷島、前島、座間味島、阿嘉島、慶留間島、屋嘉比島、久場島、など大小20余の島々からなり、渡嘉敷村と座間味村に分かれている。日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に海上特攻艇200隻をしのばせていた。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、ついに3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保した。

 特攻艇の海軍「震洋」,陸軍「マルレ艇」が慶良間列島に配備され,沖縄本島に上陸する米軍を迎撃する予定だった。沖縄本島の西部海岸(飛行場設営適地)に上陸しようとする敵海上部隊を,背後から自爆体当たり艇で奇襲し撃破しようとした。


写真(左):慶良間列島渡嘉敷島に座礁した米駆逐艦「ハリガン」 ;1945年3月26日に、渡嘉敷島沖12マイルで、機雷により大破し、沈没を免れるために渡嘉敷島に乗り上げた、と報告されている。最高速度38ノットの高速艦なので、水上特攻艇よりも早いが、排水量2900トンと大型のため、喧騒の戦場では、エンジン音を響かせて突っ込んでくる小さな自爆艇を発見できなかったのかもしれない。機雷に触れたと報告しているが、自爆艇が海上で停止して待ち伏せしたのかもしれない。


 米軍は,慶良間列島が艦船の停泊に優れており,そこを補給基地,修理泊地として活用する意図で,沖縄本島への上陸に先立って攻撃した。そこで,1945年3月27日,配備されていた第22、第42震洋隊に出撃命令がでた。

慶良間列島渡嘉敷島に座礁した米駆逐艦「ハリガン」Halliganの戦歴
Assigned to a fire support unit, she arrived off the southwestern part of Okinawa 25 March and began patrolling between Okinawa and Kerama Retto. In addition she covered minesweepers during sweep operations through waters which had been heavily mined with irregular patterns.

Halligan continued her offshore patrols 26 March. At about 1835 a tremendous explosion rocked the ship, sending smoke and debris 200 feet in the air. The destroyer had hit a moored mine head on, exploding the forward magazines and blowing off the forward section of the ship including the bridge, back to the forward stack. PC 1128 and LSM-194 arrived soon after the explosion to aid survivors. Ensign R. L. Gardner, the senior surviving officer who was uninjured organized rescue parties and directed the evacuation of the living to waiting rescue vessels. Finally, he gave the order to abandon ship as the smoking hulk drifted helplessly.

The gallant Halligan, veteran of so many important operations in the Pacific, lost one-half her crew of 300 in the disaster; and only 2 of her 21 officers survived. The abandoned destroyer drifted aground on Tokashiki a small island west of Okinawa, the following day. There the hulk was further battered by pounding surf and enemy shore batteries. Her name was struck from the Navy List 28 April 1945, and in 1957 her hulk was donated to the government of the Ryukyu Islands.

1945年3月26日(日本側27日)に渡嘉敷島沖で撃沈した駆逐艦「ハリガン」DD-584 USS HALLIGAN(フレッチャー級)の撃沈については,米軍は,沖合いで機雷に触れて,島に乗り上げ座礁・沈没した Struck mine off Okinawa and sank March 26 1945 とする。しかし,特攻艇による戦果である可能性もある。3月29日に第42震洋隊に出撃命令がでたが,戦果が不明のまま半数が戦死してしまう。1945年4月1日にも第22震洋隊に出撃命令が下ったが,このときは,歩兵揚陸艇1隻,駆逐艦1隻を撃沈したようだ。

1945年4月4日の上陸用舟艇LCI(G)-82への水上特攻艇の体当たりについて、米軍の資料にも興味深い話が記載されている。

中型揚陸艦LMS(R)-12も1945年4月4日,日本の体当たり水上艇によって撃沈された。


写真(左):特攻艇に撃沈された可能性が高い米駆逐艦「ハリガン」
;沈没に伴い乗員162名死亡。On March 26 1945 Haligan was headed south from Okinawa for independent patrol when she stuck a mine which detonated beneath her forward magazines. PC-1128 and LSMR-94 took aboard the survivors. Halligan then drifted for 12 miles before pilling up on a reef off Tokashiki Island. This is an aerial view as she rests on the reef. A closeup of the destruction to the forward section of the Halligan.



写真(左):フレッチャーFLETCHER級駆逐艦「ハリガンリ」 ;最高速度38ノットの高速艦で、水上特攻艇よりも遥かに優速である。排水量2900トンと大型艦であり、喧騒の戦場では、エンジン音を響かせて突っ込んでくる小さな自爆艇を発見できないまま、自爆された可能性がある。優速の駆逐艦を低速ボートで追いかけても、体当たりできないので、自爆艇は海上待ち伏せ攻撃を仕掛けたのではないか。


3月26日(日本側27日)、水上特攻艇が渡嘉敷島沖で撃沈した可能性の高い駆逐艦「ハリガン」DD-584 USS HALLIGAN(フレッチャー級)のデータ。
排水量 2924 Tons (Full), 全長, 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max)
兵装 5 x 5インチ38口径対空砲, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5).
機関出力, 60,000 馬力; General Electric Geared Turbines, 2軸
速力, 38 Knots, 航続距離 6500マイル @ 15 Knots, 乗員 273名.

米軍が慶良間列島を占領した際,多数の特攻艇を鹵獲している。既に,フィリピンのルソン島で3ヶ月前に実戦に使用しているとはいえ,軍機である奇襲特攻兵器を多数米軍に鹵獲させてしまった。さらに,人間爆弾「桜花」も沖縄本島の読谷村の北・中飛行場で鹵獲されている。

日本陸海軍は特攻兵器を優先配備したが,体当たり特攻艇「震洋」,人間爆弾「桜花」など秘匿すべき奇襲兵器をいとも簡単に米軍に鹵獲されている。奇襲兵器の秘匿性が暴露されるという失態のために,米軍は事前に特攻を警戒し、対策を強化できた。日本軍の特攻兵器の戦果が芳しくなかったのは,このような日本軍の作戦計画の不備にも原因がある。日本では,特攻作戦にあたっても,安易な精神主義が跋扈し,冷徹な科学的,合理的な作戦計画を立案していなかったようだ。


写真(右):隠匿された特攻艇
;奇襲秘密兵器のはずだが,人間爆弾「桜花」同様,沖縄では米軍に多数鹵獲されている。日本軍の秘密兵器の管理は,厳格ではなかったようだ。暗号も解読され,日本軍将兵には自ら捕虜になった際の権利も教えていない。米軍捕虜に対する尋問から,特攻兵器や戦艦「大和」に関する情報をかなり得ていた。 


体当たり特攻艇は,劣悪な性能であり,その存在もは,米軍に知れ渡っている中で,戦果を挙げるのは容易ではない。敵艦艇よりも速度は遅く、エンジン音もやかましい。人間魚雷「回天」も、操縦と技術的故障の多発から、戦果は少ない。しかし,このような操縦困難な故障頻発の特攻兵器が、1隻でも2隻でも,戦果を挙げることができたことのほうが不思議である。まさに,特攻隊員の勇気と修練の賜物であろう。

慶良間列島に侵攻した米軍Seizure of the Kerama Islandsでは,次のように記述している。

米海軍と航空部隊の慶良間列島への攻撃は,上陸の2日前から始まっている。1945年3月24日,第58任務部隊Task Force 58の空母と戦艦の援護の下に,掃海艇による慶良間列島周囲の機雷除去を行い,3月25日にはVice Admiral William H. Blandyの支援部隊も掃海に参加した。3月26日の午前中に米陸軍第77師団の大隊上陸部隊battalion landing teams (BLT's)が慶良間列島に上陸した。戦車揚陸艦LSTから,阿嘉,慶留間,外地,座間味の四島にも上陸が行われ,巡洋艦,駆逐艦などが海岸を5インチ砲で地ならしした。空母艦載機は,日本軍の潜水艦,航空機の攻撃を警戒して上空援護にあたった。

There remained on the Kerama group only about 300 boat operators of the Sea Raiding Squadrons, approximately 600 Korean laborers, and about 100 base troops. The garrison was well supplied not only with the suicide boats and depth charges but also with machine guns, mortars, light arms, and ammunition.
(→ Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻引用) 

  ⇒特攻兵器:海上挺進隊・水上挺身隊 

慶良間列島座間味島(座間味村)には戦時中、特攻艇関係の陸軍部隊が約1,500名駐屯していた。1945年3月26日、米軍が上陸した。「住民の戦闘意識は激しく、女子青年隊まで組織して戦った」と軍民一体の勇敢さを誇示するweb資料もある。また,軍に半強制的に徴用され,軍に労働力や下級の兵卒として奉仕することを強要されたともいう。

渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数は,日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人とされる。一般住民368名の犠牲ののうち,集団自決あるいは追い詰められての集団死の犠牲者329名とされる(→渡嘉敷村史資料編)。

人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」「マルレ」、特攻専用機「剣」キ-115のような特攻兵器を設計、製造し、部隊編成をしていること自体、特攻が自然発生的なものでは決してなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められたことを物語っている。

7.日本陸軍は、特攻専用の航空機キ-115「剣」を試作,量産したが,実戦では使用されなかった。

特攻専用機のキ-115「剣」は1945年1月20日に「特殊攻撃機」として試作命令が下った。中島飛行機製作所で設計され、トタン板のように簡素なつくりであって、離陸に使用した車輪は、投下回収して別の機体に再使用する。これは、資材の節約と重量軽減のためで、特攻するので帰還することを考慮しない片道切符に等しい。

戦争末期の物資欠乏の時代,陸軍 中島キ-115「剣」を,1回の体当たり自爆で失ってしまうには,よほどの戦果が期待されなければならない。しかし,従来の「まっとうな」航空機2000機の特攻でも,それに見合う大きな戦果を挙げられないのであるから,特殊攻撃機でも,敵に打撃を与えるのは困難である。キ115「剣」は,使い捨て機であり,その搭乗員も使い捨てにされてしまう。

  ⇒◆特殊攻撃機キ115「剣」と特別攻撃を読む。

8.日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」は,航続距離は短く,操縦性も悪いので,帰還することが期待できなかったが,1941年12月の真珠湾攻撃に「特別攻撃隊」が編成された。1945年には,小型の「海龍」も開発,量産されしたが,魚雷不足と訓練不足から,艦首に爆薬を搭載して人間魚雷として配備された。



  ⇒◆特殊潜航艇「甲標的」による特別攻撃と人間魚雷「海龍」を読む。

日本軍は,本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃するつもりでいた。そのために,兵器開発も特攻が優先された。正攻法では,量,質の両面で連合軍に対抗できなくなっており,戦争末期,軍高官は,精神主義を振りかざして,全軍特攻化を決定し,特攻を唯一の対抗手段とした。

特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。

しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。
特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。


『写真・ポスターに見るナチス宣ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社でドイツ政治を詳解。

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