鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
レイテ沖海戦の神風特攻 1944年 2005
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◆レイテ沖海戦の神風特攻◇The Leyte Attacked & Kamikaze
写真(左):護衛空母「キトカンベイ」からみた砲撃される護衛空母「セントロー」USS ST. LO (CVE-63) ;1944年10月25日,フィリピンのレイテ島沖合で日本艦隊の砲撃を受けるも,艦上機で反撃し,日本海軍巡洋艦などに損害を与えた。しかし,同日,神風特別攻撃隊の体当たりを受けて撃沈。
写真(右):護衛空母「スワニー」SUWANNEE (CVE 27);1944年10月25日,レイテ沖で栗田艦隊と戦闘した後,特攻機が飛行甲板に命中。米本土に回航,修理された。1945年1月26日プゲットサウンド海軍工廠Puget Sound Navy Yardで撮影。米軍の造船,修理能力は際立っていた。
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
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写真解説:米国の兵力動員:陸軍・海兵隊・民間防衛軍
自衛隊幕僚長田母神空将までの戦争論
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1.1944年10月,米軍はフィリピン攻略作戦を開始した。フィリピン攻略には,次のような戦略的意義がある。
‘本本土・中国・インドシナ半島・オランダ領インド(インドネシア)への前進基地確保,
日本のシーレーンなど補給路の遮断・封鎖,
F本占領地域の解放,
1942年に米軍が降伏したフィリピンを奪回するという日本への報復と威信回復。


 フィリピン島攻略を目指す米軍は、米第6軍The U.S. Sixth Armyによる中部フィリピンのビサヤ地方レイテ島への上陸作戦を実行する。米軍は、当初は南部フィリピンのミンダナオ島への上陸を計画していたが、日本軍の守備兵力と空軍力の弱体化を察知して、フィリピンの心臓部ルソン島により近いレイテ島に上陸に計画変更した。


写真(上):レイテ島に上陸した米軍
;1944年10月20日。陸軍のほかに沿岸警備隊,海兵隊もフィリピン攻略に参加した。

陸軍中将クリューガーLt. Gen. Walter Krueger司令官の下にある米第6軍は,2個師団からなる軍団2個を擁し,兵員数は20万2,500名に達した。 これはレイテ島を守備する日本陸軍第16師団の10倍の兵員数を誇っていた。これに、大砲、迫撃砲、機関銃などの火力、戦車、トラックなどの機動力、航空機攻撃や艦砲射撃による支援を含めれば、米軍兵力はは日本軍より100倍も大きかったといえよう。

写真(左):1944年10月20日,レイテ島上陸を演じるマッカーサーDouglas MacArthur元帥(1880年1月26日生 - 1964年4月5日没);2005年にレイテ攻略50周年を祝う米国国防省のバナー。フィリピン亡命政府大統領オスメニャを引き連れて何回も撮影し,取り直したヤラセの映像である。When Americans stormed ashore at Leyte, it fullfilled a promise made by Gen. Douglas MacArthur made in the dark days following the fall of the Philippines to the Japanese in 1942. 

フィリピン攻略には,連合軍西南太平洋方面総司令官マッカーサーDouglas MacArthur将軍の執念が込められていた。マッカーサーは,フィリピン軍元帥として長らく米国植民地フィリピンの米軍と新たに編成したフィリピン軍を統率していた。日米開戦前の1941年7月26日,マッカーサーは米軍極東陸軍司令官に就任している。

しかし,ルソン島リンガンエン湾に日本軍が上陸すると,マニラを放棄し,バターン半島に籠城した。持久戦を戦い,米国本土からの援軍を待ち受けるつもりが,日本軍の猛攻の前に,米比軍(米軍とフィリピン軍)は敗退してしまう。バターン半島南端のマニラ湾口に浮かぶコレヒドール島の要塞を死守することなく,1942年3月31日に日本軍包囲下のからオーストラリアに逃げ出した。

写真(左):レイテ島に上陸した米軍司令官ダグラス・マッカーサー;1944年10月,フィリピンの亡命政権の大統領オスメニャ(手前)を引き連れて上陸。かつて日本軍に駆逐されたフィリピンに復帰することは,雪辱を晴らすために絶対必要なことだった。しかし,この有名なレイテ島上陸の写真・映像は,完全な演出(ヤラセ)である。1回目の上陸シーンは,威厳が保てず宣伝効果が薄いと判断し,何回も撮り直して仕上げたものである。

米軍極東陸軍司令官マッカーサー将軍は,司令官就任から半年もたたない1942年3月31日、日本軍に包囲されつつあるフィリピンのコレヒドール島を脱出して,オーストラリアに逃げ延びた。このとき“I shall return.”「私は帰ってくる」と言い放ったが,どうみても「敗軍の将」だった。
マッカーサーは,1942年4月19日に米・オーストラリア・オランダ連合軍西南太平洋方面総司令官に就任し,太平洋戦争を指揮した。これは,彼の能力の高さ,政治手腕と並んで,政府が米国の最高位の将軍が,敗戦の将となる汚名を負うのを避けたためであろう。

マッカーサー司令官は,1944年7月20日に自らのレイテ島上陸した。上陸シーンを撮影させたが,初回の上陸はゆったりと桟橋をわたっている感じになっていた。これでは,迫力がないとして,上陸を再度やり直し,映像も採り直しさせた。こうした手の込んだ演出(ヤラセ)によって,米軍がフィリピンを開放するために戻ってきた,フィリピンの解放者・自由の旗手マッカーサー司令官というプロパガンダを展開した。2004年はフィリピン奪回=フィリピン解放60周年であり,このときも有名なマッカーサー将軍の「私は帰ってきた」との印象を強調したプロパガンダ写真が,さも事実のように公開されている。

写真(右):米海軍太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥と第3艦隊司令長官ハルゼー提督

フィリピンの書籍にも,このようなマッカーサー将軍のフィリピン帰還のヤラセを紹介する書籍もある。米国のフィリピン支配の横暴と巧みさを分析した研究論文もある。しかし,大半のフィリピン国民にとって,マッカーサーはフィリピン解放の英雄と考えられている。日本軍を悩ませたフィリピン人ゲリラよりも,米軍のほうが高い評価を得ているようだ。

陸軍少将サイバートMaj. Gen. Franklin C. Sibert司令官の第10軍団 X Corpsは,第1騎兵師団the 1st Cavalry Divisionと第24歩兵師団the 24th Infantry Divisionからなっていた。陸軍少将ホッジ司令官Maj. Gen. John R. Hodgeの第24軍団 XXIV Corpsは,第7師団,第96師団からなっていた。ただし,両師団とも1個連隊を割いて独立戦闘部隊an independent regimental combat team (RCT)を設けていた。

補給部隊Service Command (ASCOM)は,ケイセー少将 Maj. Gen. Hugh J. Caseyに率いられ,橋頭堡での物資補給や道路・飛行場の建設が任務であった。クリュ−ガー将軍の配下の陸上部隊は,合計で20万2,500名である。米軍兵力は,レイテ島守備部隊の第16師団の10倍の兵力である。

 個人的な行動としての自爆は,帰還不能に陥った航空機による自爆としてしばしば見られた。ミッドウェー海戦でも,日本海軍攻撃隊の友永機が燃料漏れのまま出動した。珊瑚海海戦では,索敵機が,燃料不足を承知で敵空母まで日本の攻撃隊を誘導した。インド洋のアンダマン海ではニコバル島近海で,日本陸軍戦闘機一式戦(阿部中尉)が体当たり攻撃をし,ニューギニア北西のビアク島でも二式複戦(高田戦隊)が被弾したためか,敵艦に体当たり自爆をした。ただし,この体当たりの先駆という報道は,1945年11月になって,海軍の「神風特攻隊」が大活躍した時期に,陸軍も特攻をしていたことを,遅ればせながら立証するのに使われている。

 「必死」攻撃を「特攻」作戦として軍が採用したのは,1944年10月20日以降のレイテ湾の戦い(レイテ島攻防戦)からである。日本海軍機による「神風(しんぷう)特別攻撃」が編成され,連合軍艦艇に自爆体当たり攻撃を実施した。

陸軍も体当たり攻撃を準備し,鉾田の軽爆撃機教育部隊で体当たりを研究し,部隊編成を開始していた。ただし,実戦出動は,部隊長戦死など人為的事故のために,遅れてしまい,大きな線かも確認できなかった。

2.連合国では,日中戦争以来、日本軍のアジアへの侵略行為、残虐行為が知れ渡り、日本人への反感が高まっていた。しかし、ジャングル戦などでの日本兵の攻撃精神の旺盛さは、連合軍兵士を悩ませ、恐怖心や劣等感も起こさせた。士気の阻喪を懸念した司令官の中には、「よいジャップは、死んだジャップだけだ」として、日本兵の殺害を推奨するほどであった。日本の侵略行為・残虐行為に日本人への人種的偏見が相俟って、対日戦争では欧米流の騎士道精神は期待できなかった。日本軍の特攻作戦も、米軍からみれば現在の自爆テロと同じく、狂信的な愚かで卑劣な行為として認識されていた。
写真(左):ハルゼー提督;"Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' His 'bloodthirstiness' was not just a put-on to gain headlines.

 1943年,ケネディJohn F. Kennedy海軍中尉(後の大統領)が魚雷艇指揮官としての1ヶ月以上の任務を終えて,ソロモン群島ツラギ島に帰還すると,ハルゼー提督が掲げるように命じた大きな看板が目に入った。そこには次のように書かれていた。「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ!もし任務を的確に果たそうとするなら,黄色い野獣を殺すようにせよ。」

KILL JAPS !KILL JAPS !KILL MORE JAPS ! You will help to kill the yellow bastards if you do your job well " [From "PT 109 - The Wartime Adventures of President John F. Kennedy" by Robert J. Donovan](→Fleet Admiral William F. 'Bull' Halsey 引用)

ハルゼー提督は,敵国日本人が過酷な戦場では肉体的に優れているという米軍の恐怖心を否定することがぜひ必要であると信じていた。そこで,「'Kill Japs 日本人どもを殺せ」というスローガンを掲げた。「死んだ日本人がいい日本人だ」として人種的に侮辱し,戦意を高めた。勇猛果敢な戦闘精神の権化ともいえるハルゼーは,特攻をジャップの自爆テロとして,卑劣な行為として憎悪した。
He strongly believed that by denigrating the enemy he was counteracting the myth of Japanese martial superiority . . . ' "Halsey's racial slurs made him a symbol of combative leadership, a vocal Japanese-hater . . . "

米軍兵士がカミカゼ特攻隊を恐れ,尊敬していたとする日本の識者は多い。しかし,カミカゼが吹き荒れていた当時,カミカゼ・パイロットを尊敬していた米兵は例外である。米軍は,戦死した特攻隊の死体を艦艇上で見つけ,海葬にしてた時もあった。しかし,戦利品として,戦死した特攻隊員の遺体を皿に載せ,ジャップ・ステーキとして嘲笑したり,遺骨・特攻機の破片や残骸を戦利品として持ち帰っていた。現在でも、寄せ書きの有る日章旗や軍隊手帳が、遺族に返却される「美談」が報じられるが、こそような戦利品spoil of warが持ち帰られた一因には、日本兵への敵意や憎しみがあった。

 自爆テロを行うジャップは英雄どころか,卑劣な憎むべき敵である。戦記や軍記の分析は,冷静な研究者や元軍人によるが,カミカゼに直面していた大半の米兵たちは,戦友や自らの命を奪うカミカゼを「自爆テロ」として,憎悪,嫌悪していた。ハルゼー提督は,日本人狩り(Japanese-hater)を辞さない敵愾心を戦闘意欲,士気に結び付けようとした。


写真(右):日本艦隊に砲撃される護衛空母「ガンビアベイ」USS GAMBIER BAY (CVE-73)
;1944/10/25、日本海軍の第一遊撃部隊の戦艦,巡洋艦に砲撃さら撃沈。志望者130名以上。

1942年の日本による米軍の放逐,フィリピン占領は,当初こそ,フィリピン独立の早期実現を期待させたものの,フィリピンにおける麻,タバコ,木材など資源の収奪,飛行場建設や物資運搬などフィリピン人労働力の徴用が強化されると,日本軍への反感が高まった。また,フクバラパッフのような共産系ゲリラ組織も米軍占領時期から力をつけていた。そして,放逐された米軍も,密かに日本占領地での諜報活動,破壊活動を実施する後方撹乱のゲリラ部隊を組織した。これは,銃器・無線機の供与から,給与支払い債券の発行,米国人連絡諜報員の派遣まで,さまざまである。

1944年10月20日,米軍がレイテ島に上陸すると,フィリピン人は日本軍の圧制からの解放者として,米軍を歓迎した。これは,米軍の物資運搬,洗濯,道案内,通訳,ゲリラ活動などの仕事を請け負えば,給与や現物支給が受けられたからでもある。その意味で,徴用を強化し,強制労働をも強いた日本軍をアジアの解放者と認めるフィリピン人は少なかった。

写真(右):レイテ地上戦で米軍第1騎兵師団の荷物を運搬するフィリピン人;1944年10月に米軍が上陸すると,フィリピン人は日本軍の圧制からの解放者として,米軍を歓迎した。これは,米軍の仕事を請け負えば,給与や現物支給が受けられたからでもある。

 フィリピン人の特攻への評価については,愛国心,忠誠心を重視する立場から,肯定的なものもある。日本とのビジネスも考慮して,高い評価を与える人もいる。特攻隊慰霊碑や反米軍的な研究書もある。しかし,特攻攻撃によって米軍が撃滅されても,それがフィリピンの自由,解放につながらない以上,特攻作戦の目的=米軍艦船の撃沈,を高く評価するものはいないといえる。愛国心や国家への犠牲的精神は讃えらている側面があるが,行為自体は,現在の自爆テロと同様,許容できるものではないであろう。

「敵国アメリカへの恨みも憎しみもなかったことだけはほとんどの隊員に共通していた真実と思われる。----戦没予備学生の遺書を読んでも、予科練など少年航空兵の遺書を読んでも、米英に対する狂信的なまでの敵愾心を綴った者はいない。現在、世界には自らの体に爆弾を巻きつけて自爆テロを決行する若者たちがいるが、彼らの標的の大部分が軍事目標ではなく無力な一般市民であるという手段の卑劣さを抜きにしても、なおその心情において特攻隊員たちとはまったく別世界のものなのである。「無抵抗・無警戒の一般市民に狂暴な怒りを向けるテロリストと、狂信的な敵愾心を示すことなく強大な米艦隊に向かって出撃して行った特攻隊員たちとを同列に論じてはならない。」とする識者もいる。これは,含蓄に富む「特攻隊員」に関する判断で,尊重すべき意見である。テロリストたちは、総力戦の認識から、世論形成、金融力を持つ市民を「無辜の市民」と考えないのである。

写真(左):レイテ島のフィリピン人と米兵;闘鶏用のニワトリを見ている。闘鶏をみんなで楽しんだようだ。米軍の多くは,住民に歓迎された。

しかし,個々の米国人への敵愾心はなかったかもしれないが、日本に侵攻してきて、家族を殺害しようとする米軍への敵愾心はあったであろう。たしかに,特攻作戦は、祖国愛、家族愛に燃えた有意な兵士による自発的な意志,志願に負う部分もあるはずだ。

人が死を選び,命を捧げ,投げ出すとき,容易なプロセスで,計画的な必死の作戦を遂行できるものではないだろう。祖国や家族を守るための破壊行為の善悪,それを行う個人の意思を判断するのは容易ではない。

しかし、特攻隊員が自ら体当たり自爆攻撃を志願したからといっても,航空機を勝手に消耗品(特攻機)として使用する裁量が,兵士個人に与えられることはない。実際,特攻実施の3ヶ月前、1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図していた。これは、軍による特攻「作戦」の計画であり、体当たり自爆攻撃の発案自体は、この特攻作戦命令となった大海指第31号発令よりも数週間前,たぶん1944年6月中旬のマリアナ沖海戦での日本海軍の大敗北が契機になったものと思われる。

1944年5月から6月にマリアナ諸島、あるいはパラウ諸島へ米軍が大挙侵攻すると予期したが、燃料供給地は、スマトラ島パレンバンなど、遠方であり,本国への海上輸送にも配慮すれば,、輸送船舶は決定的に不足していた。そこで、航続距離に余裕のある海面、すなわちフィリピン諸島ミンダナオ島とパラオ環礁の中間、フィリピン海での空母艦隊決戦を想定して計画を準備した。サイパン島、テニアン島の基地航空兵力と空母機動部隊とによって、米空母任務部隊を邀撃する「あ号作戦」が、Z作戦計画のマリアナ諸島方面への対策案そのままに、準備された。

3.1944年初め、日本海軍は,侵攻してくる米空母任務部隊を邀撃する計画を立てており,それをZ作戦計画として準備した。しかし、フィリピン人ゲリラ部隊は、1944年3月末、連合艦隊司令部の将官など主要メンバーを捕虜にし、そこから機密情報を得た(海軍乙事件)。米軍の「あ号作戦」情報入手はフィリンゲリラ活動の賜物である。

1944年3月30日、米空母任務部隊は、トラック諸島から移転していた連合艦隊司令部と海軍艦艇を、パラオ諸島に奇襲攻撃する。パラオ諸島の日本海軍機は、壊滅させられ,艦艇12隻ほかを損傷してしまう。そこで、連合艦隊司令部は、米軍上陸による殲滅を避けるために、予定を繰り上げて、フィリピン群島ミンダナオ島ダバオ基地に移転することを決める。

連合艦隊司令長官は、米軍の攻撃を前にして、怖気づいて脱出したのではなく、事前に計画されていた司令部の移転を、米軍の攻撃を前に、早めただけである。

写真(右):1944年3月31日、パラオ諸島から連合艦隊司令部を空輸した二式大型飛行艇;22型 H8k3;全幅  38.328m 全長  28.12m 自重  18,570kg 発動機 三菱火星22型 1850馬力4基 最高速度 470km/h 航続距離 偵察時 7153km=一二型 8223km=二二型。開戦直後の1942年3月、大航続力を生かして3機が真珠湾を爆撃(K作戦)。航続力を生かして、偵察・爆撃に活躍した。米軍に鹵獲されていた機体が返還され、1980年代から「船の科学館」に展示され、2004年4月末からは海上自衛隊鹿屋航空基地資料館で保管。

しかし、これは、連合艦隊司令部の脱出として,語られる。連合艦隊司令長官以下,司令部は、1944年3月31日夜、二式大艇2機に分乗して、ダバオに飛び立った。1番機には、連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将、艦隊機関長上野権太大佐が、2番機には、連合艦隊参謀長福留繁海軍中将、作戦参謀大久保信大佐、山本祐二中佐が便乗した。

出発後、激しい風雨に見舞われ、1番機は行方不明、2番機はフィリピン群島ビサヤ地方セブ島に不時着。乗っていた福留繁中将と作戦参謀山本祐二ら生き残りの将兵らは、フィリピン人ゲリラ兵の捕虜となった。

連合艦隊参謀長福留繁海軍中将、作戦参謀山本祐二中佐は、Z作戦計画の関連書類と艦隊司令部用信号書(暗号書)を携行していたから、証言はどうであれ、Z作戦計画書は敵に奪取され、高級将校は厳しい尋問を受けたと考えられる。連合艦隊将官を含む最高級の捕虜9名は,フィリピンゲリラのマルセリーノ・エレディアノ大尉は、日本語で尋問をし、セブ市西方トパス山中のクッシング中佐の根拠地に収容された。一連の事件を「乙事件」と称し秘匿した。

しかし、フィリピン駐屯の日本軍は、対ゲリラ戦を繰り返しており、このときもゲリラ討伐を行っていた大西中佐率いる陸軍独立混成第31旅団独立歩兵第173大隊が、クッシング中佐らゲリラ幹部を包囲した。そこで、クッシング中佐は、捕虜にしていた岡村中尉を派遣し、日本軍の包囲網を解けば、捕虜交換に応じて,高級将校たちを引き渡すと約束した。大西中佐の機転で取引は合意され,、 日本軍高級将校を含む捕虜全員が引き渡された。

福留中将は、本名を名乗らず、将官であることも隠していたが、捕虜交換後も、門妙は隔しとおしていた。しかし、海軍のセブ派遣隊に引き取られた。

海軍ではことの重大さを認識しており、第三南遣艦隊は、参謀山本繁一少佐を派遣し、捕虜から解放された連合艦隊参謀長福留繁海軍中将に対して、Z作戦計画に関して問いただした。福留中将は山本繁一少佐に対して、機密書類を納めた書類カバンを軍服等と共に現地人に奪われたが、ゲリラは書類内容には関心を抱いていなかったようだと答えた。(吉村昭『海軍乙事件』引用)

しかし、格下の派遣参謀の海軍少佐が、連合艦隊参謀長の海軍中将を「尋問」できるわけがない。一介の少佐による中将にたいするお伺いによって、Z作戦計画の遺漏に関して、厳格な調査を望むことは不可能である。

福留中将、山本中佐はセブから東京の羽田へ空輸され、海軍大臣官邸で海軍次官沢本中将などが、事情聴取をするが、連合艦隊参謀長という実戦部隊の最高の要職(司令長官の古賀大将は行方不明)の中将を同じ中将が事情聴取しても、組織内のかばい立てに終始してしまったようだ。

名誉ある連合隊参謀長福留中将らが、Z作戦計画の遺漏は無いと証言すれば、それを信じるしかない。また、国内にいた日本軍指導部の軍人(俗に言うお偉方)は、フィリピン人ゲリラの有能さを最後まで理解できなかったから、文盲のゲリラは、Z作戦計画が重要であることが認識できず、米軍の手に渡すほど、機転も利かないと思い込んでいたのであろう。

結局、海軍乙事件とよばれる事件は,Z作戦計画の遺漏よりも、高級将校が捕虜となり、生還したことを問題にしていたのである。虜囚の辱めを受けた将官をどのように処遇するかという問題である。

<乙事件関係者に対する処遇の件>(新・東洋思想引用)
1、関係者を俘虜査問委員会に附する要なしむと認む
理由
(1)捕虜の定義と称すべきもの無く 従って乙関係者が俘虜となりたるや否やの判定は困難なるも少なくとも相手より俘虜と取扱を受けたる事実は無きものと認む
(2)相手は必ずしも敵兵と見なし得ず 特に土民は敵に非ざること明瞭なり。又クッシング中佐が果たして米国政府の命を受け戦闘行為をなしつつあるものなりや否や不明にして正規の敵兵として断定しえず。
(3)何等相手の訊問等を受け又は自己の意志を拘束せられたる事実を認め得られざるを以て相手に降伏せるものと認め得ず
(4)仮に広義的に一時俘虜の経路を辿られるものとするも海軍大臣に於て其事実を知り、かつ何等利敵行為等なく責任を調査するの要を認めざるを以て査問会にて更に調査の要なし

2、関係者を軍法会議に附する要なしと認む
  法律上の罪を犯したりと認むべきものなし 即ち
(1)事件発生は操縦者以外は不可抗力なりしこと
(2)「敵に降り」たる事実を認め得ず
(3)利敵行為なし
(4)軍機保護法に触るるが如きことを為しあらず

3、処置
前諸号に依り関係者を問ふべき筋なきものと認むる所、従来敵国の俘虜となりたる者に対しては其の理由の如何を問わず極端なる処置を必要とするが如き理外の信念的観念を以て対処したれる事実あり。
故に今次の処置は 右の根本的観念を破壊せざること肝要にして(従来の観念を変更せんとせば重大問題を惹起すべく、かつ変更すべきにあらずと信ず)之が解決の途は一つなり即ち海軍当局の方針を明確にならしむる点之なり。(新・東洋思想 戦争責任の探求−日本兵捕虜;帝国海軍最大の失態「海軍乙事件」引用)

日本軍上層部は、不正規兵であるフィリピンゲリラを見くびっていたとしか思えない。中国大陸における中年の戦闘で、支配地域の住民の反抗、ゲリラ兵(共産党軍)の跳梁に悩まされていたにもかかわらず、フィリピンに形だけの独立を与えれば、日本の威光に服して従うと錯覚してしまった。

表1 米軍に公認されたフィリピンゲリラ部隊と部隊指揮官

部隊名称

指揮官

編成人員

死傷者数

公認期間

Anderson's Command* アンダーソン部隊 Anderson

  6,668

    435

1945/1/9-1945/6/30
Bulacan Military Area* ブラカン軍区 Santos

  7,566

    889

1945/1/9-1945/6/13
Fil-AM Irregular Troops フィリアム不正規軍 Straughn

  4,898

      93

1945/1/9-1945/6/ 25
Hunters ROTC* ハンターROTC Adevoso

  7,802

 1,059

1945/1/9-1945/6/27
Luzon Guerilla Army Forces ルソンゲリラ軍 Laphan

14,224

    813

1945/1/9-1945/6/24
Magirog Unit マギログ部隊 Iruguin

  1,196

 

1945/2/2
Marking's Fil-AM Troops マーキングフィルアム軍 Marking

11,667

    556

1945/1/9-1945/6/11
Pres. Quezon's Guerillas プレスケソンゲリラ Umali

  6,592

    819

1945/1/9-1945/4/5
South Tarlac Mil. Dist. 南タルラック軍管区 Bruce

  2,706

    212

45/1/1-4/225
USAFIP, NL* 米比解放軍 Volckmann

22,167

 3,861

1945/1/9
Zambales Mil. Dist. ザンブレス軍管区 Magsaysay

10,441

    392

1945/1/29-5/26
III Army Corps* 第三軍 David

  4,014

    585

1945/1/9- 6/9
Bohol Area Command* ボホール地区部隊 Ingeniero

  5,429

      59

1943/10/21
Cebu Area Command* セブ地区部隊 Cushing

  9,159

 1,240

1944/2/12
Leyte Area Command* レイテ地区部隊 Kangleon

  4,053

   475

1943/10/21

Marinduque Guerilla Forcesマリンドゥーケゲリラ軍

Untalan

     256

 

1944/2/15
Masbate Guerilla Regiment*マスバテゲリラ連隊 Donato

     894

     58

1945/4/3
Mindoro Prov. Battalion ミンドロ州大隊 Raffy

     619 

     76

1944/12/15
Palawan Special Battalion ミンドロ州特別大隊 Muyco

  1,150

     48

1944/2/28
Samar Area Commandサマール区域部隊 Smith

  3,381

     53

1944/10/4
Sulu Area Command* スルー区域部隊 Suarez

  3,468

   246

1944/2/11
6th Military Dist. 第6地域 Peralta

21,268

 2,188

1943/2/13
East Cent. Luzon Guerilla 東中部ルソンゲリラ Ramsey

13,308

 2,246

1945/2/35-7/18

7th Military Dist.第7地域 Abcede

10,007

 1,438

1943/7/8
10th Military Dist. 第10地域 Fertig

29,264

 2,810

1943/2/13
Independent Unit その他の独立部隊  

35,332

 1,168

1942/5/10-1945/8/15
 

合計

237,529

21,819

 


  注)http://www.angelfire.com/on4/zambalesforum/recognizedphilguerilla.htm より引用。

1944年10月の米軍レイテ島上陸以来、フィリピンゲリラの活動は、盛んになり,現地部隊は、その対策に終われるようになる。しかし、1944年3月の時点で,フィリピンゲリラは、米軍のフィリピン解放を完全には信じることはできず、日本軍の軍事力に押さえ込まれていた。米軍が、このようなゲリラ部隊を公認するのは、多くの場合、ゲリラ部隊が駐留している地区に上陸して以降である(表1参照)。

しかし、正面切手の武力闘争ではなく、情報戦を戦っていたのであり,情報収集,スパイ活動、民衆宣撫工作は、盛んだった。日本軍は、中国での失敗に学ぶことが少なく、フィリピンでの情報戦で、Z作戦計画の情報遺漏という過ちを犯した。それに気がつけばよかったが,三号艦隊参謀長が捕虜になり、その携帯していたZ作戦計画の書類を、ゲリラに奪われたと知っていた。にも拘わらず、情報遺漏が無かったとして、対策を講じないままに放置したのは,連合艦隊の大失敗であった。その失敗の責任をとる上級司令官はおらず、手の内を読まれている部下たちが、次々に殺害されることになる。情報戦の失策が、中部太平洋方面での基地航空隊の壊滅、空母決戦での艦載機壊滅「マリアナの七面鳥撃ち」に繋がった。

4.米軍は1944年6月に日本への戦略爆撃機の基地を確保する目的で,サイパン島,テニアン島などマリアナ諸島に上陸してきた。これを迎撃した日本海軍の基地航空隊,空母機動部隊は,大敗北を喫した。米軍が1944年10月後半,フィリピン攻略作戦を始めるころには,日本軍の航空兵力,空母部隊は壊滅的な打撃を被っており,正攻法では米軍の撃退は困難であった。航空機による体当たり自殺攻撃を行わざるをえない状況にあると認識されたのである。

写真(左):マリアナ沖海戦の時の米艦隊上空の飛行機雲;1944年6月19日,巡洋艦「バーミンガム」USS Birmingham (CL-62),より撮影。Fighter plane contrails mark the sky over Task Force 58.

   真珠湾攻撃を受けた責任をとらされ,10日後には太平洋艦隊司令長官にあったキンメル提督は罷免された。その代わりに,1941年12月16日,新たな太平洋艦隊司令長官としてニミッツNimitz,Chester William大将が任命された。高速空母部隊の主力となり任務部隊も第3艦隊に配備された。第3艦隊司令官はハルゼー提督であり,太平洋艦隊司令長官ニミッツは彼を指揮する上官の立場にある。

   1943年6月の段階で、侍従武官としてラバウル基地の戦闘を視察し、その実情を憂えた城英一郎大佐(航空専攻)は,南東方面から帰国後,1943年6月に大西瀧治郎中将に体当たり特攻必要性を提案している。その後,大西中将は軍需省に転任したが、彼も航空機材の生産・整備,搭乗員の要請・補充は困難な状況にあることを身をもって悟った。

1944年10月5日、第一航空艦隊司令長官に大西瀧治郎中将が任命されている。
 大西中将は海軍航空本部総務部長をはじめとして,海軍航空隊の戦術、訓練、技術などに関する要職を歴任していた上に、1937年には南京空襲など中国における戦略爆撃も実施した航空戦の第一人者である。

しかし、第一航空艦隊司令長官に大西瀧治郎中将が、フィリピン戦の直前に特攻隊の編成を決心し、特攻隊の生みの親となった、と生き残った有能、有名な軍人が流布しているが、この説は実に不思議である。特攻隊の出撃(10/20)の2週間前に着任した司令官が、勝手に特攻隊を編成、出撃させることが、大元帥昭和天皇を戴く日本海軍で許されるのであろうか。下級兵士が自発的に陛下の貴重な兵器である航空機を体当たりで壊してしまう行き当たりばったりの作戦を、日本海軍上層部(大本営や最高司令官)が認めるのであろうか。

写真(右):米軍機の攻撃を受け回避運動をする日本空母「瑞鶴」(上);1944年6月20日午後,マリアナ沖海戦のときの撮影。Japanese aircraft carrier Zuikaku (top) and destroyer maneuvering, while under attack by U.S. Navy carrier aircraft. Zuikaku was hit by several bombs during these attacks, but survived. Naval Historical Center引用。

戦局はますます悪化の一途をたどる中,日本海軍は、サイパン島、グアム島、テニアン島などマリアナ諸島の東方海上に米軍艦隊,特に高速正規空母を基幹とする任務部隊を誘致し、撃滅する「あ」号作戦(当初はZ計画と呼ばれた)を立てた。この計画は、実はフィリピンのゲリラに捕まった海軍の福留中将たち(後に陸軍部隊によって救出される)の所持していた文書から、米軍側に漏れていたようだ。劣勢な上に作戦計画まで米軍に伝わっていたとすれば,日本海軍の第一機動部隊の司令長官小沢治三郎提督に勝ち目はない航空決戦であった。

写真(左):マリアナ沖海戦,レイテ沖海戦で日本空母機動部隊を率いた小沢治三郎提督;1944年6月19日,マリアナ沖海戦で「アウトレンジ」戦法を採り先制攻撃に成功したが,惨敗した。しかし,これに懲りず,レイテ沖海戦でも,囮として日本海軍空母部隊を率いて,ハルゼー提督の米海軍任務部隊を北方にひきつける役を果たした。

 1944年6月にマリアナ諸島東方海上において米軍任務部隊を迎撃する「あ」号作戦は,日本海軍が乾坤一擲の空母機動部隊,基地航空隊を準備した大作戦であったが,日本海軍は,大型正規空母撃沈2隻(「大鳳」「翔鶴」),中型改装空母撃沈1隻(「飛鷹」),艦載機の損失400機など,大敗北に終わってしまう。この史上最大の空母同士の対決は,日本ではマリアナ沖海戦というが,米国ではマリアナ諸島攻略作戦Campaign In the Marianasの最中に起こったこの海戦を,Battle of the Philippine Sea(フィリピン海戦)という。

写真(右):1944年6月,マリアナ沖海戦で日本機の攻撃を受ける米護衛空母「キトカン・ベイ」USS KALININ BAY (CVE 68);フィリピン海の戦いで日本機を撃墜したが,この4ヵ月後に,レイテ島沖で特攻機に突入されることになる。

 米軍のフィリピン作戦Philippines Campaign (June 1944 - Aug 1945)
(米軍にとっては,マリアナ諸島の攻略もフィリピン作戦の一環として認識されている)
 フィリピン海戦Philippine Sea 1944/06/19-20; 米第58任務部隊Task Force 58の空母 15隻が参加し,日本空母「翔鶴」を撃沈。
フィリピン南部ミンダナオ空襲Mindanao Raid 1944/09/7-10
第一次フィリピン中部ビサヤ空襲First Visayas Raid 1944/09/12-13
ルソン島および第二次ビサヤ空襲Luzon and 2nd Visayas Raid 1944/09/21-24
沖縄空襲Okinawa Raid 1944/10/10

米戦艦「ニュージャージー」USS New Jersey (BB-62)は、フィリピン攻略戦の時の第3艦隊(任務部隊を含む)旗艦であり、司令官ハルゼー提督が乗艦した。その上官が、太平洋艦隊司令長官ニミッツNimitz,Chester William提督(真珠湾攻撃後の1941年12月16日任命)である。

写真(右):戦後,マニラ軍事法廷の山下奉文将軍:シンガポール攻略の英雄となった山下大将は、二二六事件反乱軍皇道派と親密な関係にあったとされ,東條英機首相からは遠ざけられていた。そこで,内地に錦を飾ることを許されないまま,満州に配置された。しかし、戦局悪化の中で,その人材が再評価され,1944年,第十四方面軍司令官に就任,フィリピンに赴任した。しかし,前司令官の黒田重徳中将を引き継いで第十四方面軍司令官に就任したのは,マッカーサーがレイテに上陸する1ヶ月前,1944年9月26日だった。レイテ決戦には反対し,ルソン島での決戦を主張したが,大本営と南方軍総司令官寺内寿一元帥の圧力で、予定になかったルソン島での決戦を強いられた。フィリピン占領中の捕虜虐殺,民間人虐殺の責任を咎められて処刑。Japanese War Crimes Trials. Manila: ca. 1945 - ca. 1948 ARC Identifier 292615 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

5.米軍任務部隊による1944年10月10日の沖縄空襲に際して,日本海軍航空隊は反撃して「台湾沖航空戦」となった。日本の基地航空隊は,正攻法で反撃したが,戦果はほとんど挙げられず,撃沈した艦船もなかった。しかし,航空機の自爆を敵艦炎上と見誤ったのか,大戦果を挙げたと錯覚してしまう。日本陸軍もこの大戦果を信じて,フィリピンのレイテ島に上陸してきた米軍相手の決戦を急遽準備する。

1944年10月初旬、台湾沖航空戦が起こり、日本軍機は米国任部部隊を攻撃して大戦果を挙げたと報道した。しかし、この戦果報告は,不十分な偵察,撃墜した機体の炎上を敵艦撃沈と見間違えたためにもたらされたものであり,後に健在の米任務部隊が発見されて誤報と判明した。しかし,日本海軍は,誤報とわかった後も,日本陸軍には訂正をしないままに,台湾沖航空戦の大戦果を挙げたことにしてしまう。誤報が訂正されなかった理由は,既に大戦果が大元帥昭和天皇の上聞に達していたためである。大元帥に誤りを伝えた責任を取る勇気は,大本営の司令官,参謀たちにはなかったようだ。

写真(左):戦艦「武蔵」甲板で記念撮影をする大元帥昭和天皇;1943年。

 赫々、台湾沖航空戦によると次のように大本営は戦果報告を行った。

1944/10/12/1720: 「大本営発表 本十月十二日七時頃より優勢なる敵機台湾に来襲、十五時頃尚彼我交戦中なり。我部隊の収めたる戦果中十三時迄に判明せる撃墜敵機約百機なり」

 10/13朝日新聞は,米軍機は翼に日の丸を描く偽装をして、台湾の各都市を無差別爆撃している、とある。
 1942/10/13/1130: 「大本営発表  一、我が航空部隊は十月十二日夜台湾東方海面に於て敵機動部隊を捕捉し夜半に亙り反復之を攻撃せり。我方の収めたる戦果中現在迄に判明せるもの左の如し。撃沈、航空母艦一隻、艦種不詳一隻、撃破、航空母艦一隻、艦種不詳一隻、二、我方若干の未帰還機あり」

 1944/10/14/1700: 「大本営発表 我航空部隊は爾後引続き台湾東方海面の敵機動部隊を猛攻中にして現在迄に判明せる戦果(既に発表せるもの含む)左の如し、轟撃沈、航空母艦三隻、艦種不詳三隻、駆逐艦一隻、撃破、航空母艦一隻、艦種不詳一隻」

写真(左):日本陸軍重爆撃機キ-67「飛龍」;1944年10月の台湾沖航空戦では,このように魚雷を抱いた雷撃機として参戦した。海軍と陸軍の搭乗員が協力した珍しい事例である。機動部隊合計部隊は,「T攻撃隊」と呼ばれたが,この部隊の編成には軍令部の源田実参謀が関わっている。

 1944/10/15/1500:「大本営発表 台湾東方海面の敵機動部隊は昨十四日来東方に向け敗走中にして、我部隊は此の敵に対し反復猛攻を加え戦果拡充中なり。現在迄に判明せる戦果左の如し。轟撃沈、航空母艦七隻、駆逐艦一隻、(注)既発表の艦種不詳三隻は航空母艦三隻なりしと判明せり。撃破、航空母艦二隻、戦艦一隻、巡洋艦一隻、艦種不詳十一隻」

 1944/10/16朝日新聞は,敵の死傷1万3000名を下らず、600機が艦船と一緒に沈んだと分析、追撃戦に移るように主張した。
 1944/10/16/1500: 「大本営発表 我部隊は潰走中の敵機動部隊を引続き追撃中にして現在迄に判明せる戦果(既発表の分を含む)左の如し。轟撃沈、航空母艦十隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻、撃破、航空母艦三隻、戦艦一隻、巡洋艦四隻、艦種不詳十一隻」

 写真(右):日本海軍の一式陸上攻撃G4M;開戦時には,英国戦艦2隻を魚雷で撃沈した。しかし,1944年10月の台湾沖航空戦では,練度の比較的高い搭乗員を集めた「T攻撃隊」の一式陸攻も戦果を挙げ得なかった。機種にレーダーを装備している。

 <台湾沖航空戦の戦果>1944/10/19/1800
 「大本営発表 我部隊は十月十二日以降連日連夜台湾及ルソン東方海面の敵機動部隊を猛攻し其の過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり。 
一、我方の収めたる戦果総合次の如し。轟撃沈、航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、巡洋艦若は駆逐艦一隻、撃破、航空母艦八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、巡洋艦若は駆逐艦一隻、艦種不詳十三隻、其の他火焔火柱を認めたるもの十二を下らず。撃墜、百十二機(基地に於ける撃墜を含まず)。
二、我方の損害、飛行機未帰還三百十二機。(注)本戦闘を台湾沖航空戦と呼称す」

写真(左):大本営陸軍部作戦課参謀(作戦班長補佐)の瀬島龍三中佐;1939年の陸軍大尉の時の撮影。1939年1月15日に第四師団参謀として満州に、5月15日には第五軍(軍司令官土居原賢二中将)参謀、11月22日に参謀本部部員(大本営陸軍部幕僚付)と目まぐるしく栄転している。1944年10月、台湾沖航空戦の過大な戦果報告修正の打電を、上層部に伝えることをしなかった。そのため、誤報に基づいて、日本陸軍はレイテ決戦のために、ルソン島から兵員、物資を抽出し、レイテ島に強行輸送しようとした。

 当時,実戦に不慣れな未熟練搭乗員が多く,空母の損傷を撃沈に、巡洋艦の大破を轟沈にと見間違え、誤報を集計したら過大な大戦果になった。しばらくして海軍の軍令部は実際の戦果はそんなに大きなものでない事に気づいたようだが、陸軍に伝えなかった。(→赫々、台湾沖航空戦引用)

海軍航空隊の鹿屋基地に派遣されていた堀栄三参謀(陸士46期)は,1944年10月の台湾沖航空戦の戦果誤認訂正電報を大本営に打電した。しかし,過大な戦果誤報が既に大元帥昭和天皇の上聞に達していたため,参謀瀬島龍三中佐は,修正電報を握りつぶし,誤った過大な戦果報告を訂正しなかった。
これは,大本営陸軍部作戦課参謀の瀬島龍三中佐が,既に天皇の上聞に達した誤報の大戦果を訂正するという,軍人としては最大の失態の責任を負うことを恐れたためである。大元帥昭和天皇に大戦果を報告し喜ばせた後,それがが誤りであると認めて謝罪するのであれば,大本営参謀を辞任するか,自害するしかない。参謀としての高い地位,安全な場所を維持するためには,誤報訂正という「引責辞任につながる行為は回避される。つまり,誤った戦果を訂正しない責任逃れの可能性がある。

写真(右):1946年東京裁判にソ連側証人として出廷した元大本営参謀瀬島龍三中佐;瀬島参謀は、1944年末-45年初頭、外交特権を保持する伝書使(ク−リエ)として、ソ連モスクワの日本大使館を訪問した。ソ連の中立維持、日本の軍事情勢に関する情報を、モスクワの武官に伝える役目だったようだ。1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務、1945年7月1日、関東軍参謀,満州赴任の伝達を受けた。終戦時にソ連軍の捕虜になり、1946年9月に東京裁判に、ソ連側の証人として出廷した。「日本は対ソ侵攻計画を準備していた」との証言で、日本側弁護人に打撃を与えた。

大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は,1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務となり、2月末、連合艦隊司令部(日吉、現慶大キャンパス)に着任し、豊田副武長官、草鹿龍之介参謀長などに申告した。また、戦艦「大和」海上特攻を立案した先任参謀の神重徳海軍大佐とも旧知の間柄という。
自伝(1995)『幾山河−瀬島龍三 回顧録』p.167では、連合艦隊の戦力低下を指摘した後、特攻の自然発生説を主張している。

「しかし、帝国海軍伝統の士気は極めて旺盛であった。3月17日からの九州/沖縄航空戦、次いで3月25日の慶良間列島への米軍上陸、4月1日の沖縄本島への米軍上陸などにおいて水上特攻、空中特攻(菊水)、人間魚雷(回天)、人間爆弾(桜花)など各艦隊、格部隊、第一線の将兵が自らの発意で敵に体当たりし、国に殉ずる尊い姿には、襟を正し、感涙を禁じ得ないものがあった。」

1945年7月1日、関東軍参謀,満州赴任の伝達を受け、対ソ連戦に従事した。終戦後は、ソ連に抑留され、ソ連側証人として、1946年の東京裁判(極東軍事裁判)に出廷した。ソ連抑留時代には、収容者団長としてほとんど「強制労働」には服していない。1956年の帰国後,日本のビジネス界,政界,出版会で大活躍した。「特攻隊は自生的に発生した」と主張し,軍上層部は特攻を強要していないとしている。山下奉文大将が戦犯として処刑されたフィリピン・ルソン島ラグナ州カランバの慰霊碑修復で,碑文をしためた。

写真(左):南方軍総司令官寺内寿一;1879年(明治12年)8月8日生まれ - 1946年6月12日没) 第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。

 日本陸軍は,当初の予定ではルソン島で米軍を迎撃し,他のフィリピンの島々では,遊撃戦を戦う程度に計画していたのを,大湾沖航空戦の誤った大戦果を信じて,急遽,米軍が上陸してきたレイテ島での決戦に変更してしまう。大損害を負った米軍が無謀な上陸作戦をしてきたと判断したのは,民主主義の米国では,世論や政治家の保身を優先する作戦のために,大損害を認めずに,軍事的配慮の欠けた作戦を実施すると考えたからであろう。台湾沖航空戦の誤った過大な戦果報告を信じて,日本軍は予定のなかったレイテ島での総反撃(決戦)を実施してしまう。当初,ルソン島以外の島々では,持久戦に徹し,米軍に対する正面攻撃は避ける方針だったのである 

 レイテ島は、第16師団2万名が配備されていたが東海岸に若干の防衛陣地を構築しただけで,米軍の大群を迎え撃つ準備はしていなかった。これは,第16師団の手抜かりではなく,日本軍のフィリピン防衛計画は,フィリピン最大の島であるルソン島で決戦することであった。つまり,ルソン島以外の島々では,遊撃戦,持久戦を行い,米軍に対する総攻撃はルソン島で実施する方針だったのである。

しかし,台湾沖航空戦で,米軍艦艇多数を撃沈したとの誤報を海軍から受けた日本陸軍は,10月17日,米軍がレイテ湾東方とサマール島の間にあるスルアン島に上陸してきた。台湾沖航空戦の直後であり、大本営はこれを米軍の本格的進攻と判断し、10月18日夜,「捷1号作戦」を発動した。台湾沖航空戦で大きな被害を受けたという米軍が,無謀な上陸を敢行してきたと錯覚してしまったのである。実際には,米軍艦艇はほとんど損害を受けておらず,台湾沖の航空攻撃の日本軍の戦果は,誤報だったのである。


写真(上):レイテ島攻略に加わるマッカーサー司令官
;1942年,日本軍の攻撃を受けて,フィリピンのコレヒドール島から部下を置き去りにして脱出。そのときの雪辱戦として,フィリピン攻略に執念を燃やしていた。1944年10月20日,レイテ島に上陸した。

第14方面軍司令官山下奉文大将は,ルソン島での決戦を準備しており,レイテ島では地上決戦する計画はなかった。総兵力は,朝鮮半島から徴用した建設労働者も含めて43万2,000名であった。

写真(右):戦艦「大和」;サマール島で攻撃を受けたが,生き残った。

しかし,台湾沖航空戦の大戦果を誤って信じていた大本営,南方総軍寺内元帥は、フィリピン上陸を始めた米軍が撃滅できると判断した。米軍の艦艇,航空兵力の支援がなければ,上陸した敵地上部隊に対して,日本陸軍部隊は互角以上の戦いができると信じたのである。

第14方面軍司令官山下奉文大将は,ルソン島での決戦の方針を変更するつもりがなかったが,上部組織の大本営,南方軍が米軍を撃滅する絶好の機会と誤って判断し,急遽,レイテ島での決戦に変更し,山下大将にレイテ島へ増援部隊を送ることを求めた。

こうして,10月22日、南方軍総司令官寺内寿一元帥の命令を受けて、山下大将は第35軍司令官鈴木宗作中将に対してレイテ決戦を電命した。

6.米軍は,1944年10月20日にレイテ島に上陸した。日本軍の航空兵力,空母部隊は劣勢で,正攻法では反撃でなかったため,日本海軍は,水上艦隊をレイテ湾に突入させ,砲撃する作戦を実施した(レイテ沖海戦)。このレイテ湾突入を支援するために,航空機による体当たりを,特攻作戦として実施した。


写真(上):
;1944年10月以降の撮影。右は戦車揚陸艦LST-168,右はLST-18。 Coast Guard-manned LST-168 prepares to unload its cargo during the Philippine assault. Coast Guard-manned LST-18 unloads at Leyte.     1944年10月17日にフィリピンのレイテ島東方スルアン島に上陸し。これは,レイテ島上陸準備のためである。米軍のレイテ島上陸部隊の兵力は、15万名で,150万トンの物資,23万トンの車両、20万トンの弾薬を準備していた。レイテ島の守備が手薄であることをゲリラの通報で熟知していた米軍は,1944年10月20日,レイテ島に上陸した。米軍は,海軍艦艇の砲撃,爆撃によって,第16師団の水際陣地を粉砕して上陸した。

写真(右):回避運動をする戦艦「大和」;レイテ沖海戦Yamato under attack in the Sibuyan Sea.世界最大の46センチ砲を備えた戦艦も,航空兵力が戦闘の主流となると,あまり使い道がなかった。  

 レイテ決戦を決断した背景には、台湾沖航空戦の誤報以外にも大きな判断の誤りがあった。第一は,米軍の上陸部隊を2個師団と見誤ったことである。第二は,パラオ諸島ペリリュー島,サイパン島におけるよりも遥かに大きいレイテ島にあって,米軍の進撃速度は遅いと考え,橋頭堡の守備を固めてから、内陸に進撃を開始するまで,1週間前後かかると,過大に見積もったことである。

 第35軍鈴木宗作中将は,フィリピン中部ビサヤ途方の担当で,セブ島,ネグロス島,レイテ島などの日本軍を統率していた。しかし,米軍がレイテ島に上陸したときの、レイテ島守備兵力は,牧野四郎中将率いる垣兵団(京都第16師団)1万名と警備隊併せて2万名に過ぎなかった。

この第16師団というのも1944年4月、レイテ島移駐してきた部隊であり,砲兵は乏しく,米軍に抵抗できるだけの火力は備わっていない。また,第16師団第33連隊は師団司令部に遅れて、ルソン島南部の駐屯地からレイテ島に渡ってきている。

したがって,米軍のレイテ湾上陸当時,日本軍の陣地は構築は進んでおらず、米軍の猛烈な砲爆撃で水際陣地は容易に壊滅させられてしまう。その際,通信設備も破壊され,師団の統制が困難になった。

写真(左):レイテ島に戦車揚陸艦LSTで上陸する米軍;1944年10月に米軍は,レイテ島東岸タクロバン付近に上陸してきた。

米国の沿岸警備隊The Coast Guardの舟艇や輸送船もフィリピン攻略に参加した。そして,他の米軍艦船と同じくカミカゼ攻撃the kamikaze attacksを受けた。約30隻の沿岸警備隊の艦船が,海兵隊や陸軍部隊をフィリピンに上陸させた。

 米軍の2000トン未満の揚陸艦,上陸用舟艇は,観音開きの扉が全部にあり,砂浜に乗り上げて,戦車,車両,歩兵,物資を揚陸できた。しかし,1万トン級輸送船からの揚陸には,港湾設備が必要である。

米軍は,レイテ島に上陸すると,日本軍の抵抗を排除しつつ,すぐに内陸に侵攻を開始した。空母に搭載した艦載機,艦砲,陸揚げした重砲や戦車によって,第16師団を粉砕し,10月21日にはタクロバン市を,10月24日には,第33連隊を壊滅させてパロ市を陥落させた。この時点で,第16師団は通信施設を失い,師団単位の連絡がとれずに,組織的に反撃することが困難になっている。第33連隊も,砲撃と爆撃で壊滅してしまう。

写真(左):レイテ島で殺された日本兵;1944年,3名の日本軍狙撃兵を倒したと解説してある。

米軍は10月25日、海岸から内陸20kmのブラウエン市を陥落させ、周辺にある飛行場群を28日までに制圧した。レイテ島東部の主要飛行場は海岸に1ヶ所,内陸ブラウエンに2ヶ所あったが,みな米軍が制圧し,数日で米軍が飛行場を利用するところとなる。

日本軍は,レイテ島への補給には,西岸のオルモックを,米軍は補給に東岸のタクロバンを使った。しかし,島内の飛行場を使用できたのは,米軍だけであり,制空権は米軍航空部隊に握られていたから,レイテ島への日本軍の海上輸送は,空襲によって大きな被害を受けた。

水際で上陸する米軍に日本軍が抵抗できなかったのは,航空兵力・重砲の支援が得られず,堅固な地下陣地の構築ができなかったためであるが,1945年4月1日の沖縄本島に米軍が上陸してきた時も同じ展開になった。
ヽご瀛震遒貌本軍の既成の飛行場があり,
△修譴鮠緡Δ靴討る米軍から防備できずに,すぐに放棄せざるをえなくなったものも,
8紊砲覆辰董て本軍が飛行場の奪回を企図し,攻撃するのも,
ど死の空挺部隊(高千穂部隊と義烈空挺部隊)を飛行場に突入させるのも,
ザと海の特攻を行うのも,Δ修靴篤本軍が惨敗するのも,まったく同じである。
レイテ戦と沖縄戦は,実に似ているところが多い。

日本海軍の水上部隊や航空部隊の活躍によって,10月末までに第35軍へ増援された第102師団独立歩兵第139、171大隊、独立混成第55旅団独立歩兵第364大隊の半分、セブ島駐屯の補充兵を仮編成した天兵大隊、第30師団歩兵第41連隊、独立速射砲第20大隊が到着していた。

地図(左):レイテ戦の経緯;東海岸タクロバンに上陸した米軍は,ブランエンの飛行場を奪取し,北周りで西岸に侵攻し始めた。

満州に配備されていた東京第1師団も,レイテ島に派遣することが決まっていた。1944年10月30日夜、マニラを出向した第1師団を乗せた船団は、11月1日、レイテ島西岸のオルモック上陸を無事果たした。

当時は,日本の艦船は,米軍機の偵察や空襲を受けるが場合が多かったのであるが,日本海軍艦艇との決戦に戦力を集中するため,米軍の艦艇,航空機による日本輸送船団の偵察,攻撃は手薄になっていたようだ。1944年末まで続くレイテ戦では,日本軍はレイテ島に歩兵部隊や補給物資を輸送する「多号作戦」を実施した。しかし,輸送に使われた艦船のうち49隻が沈没、機帆船や大発など小型舟艇も300隻が沈没している。

11月9日,第14方面軍司令官山下奉文大将は,第35軍に対してブラウエン飛行場の奪回のための「和号作戦」を命じる。作戦決行は12月1日で,12月5日にはブラウエン飛行場に突入するとともに,台湾少数民族出身者を多数含む落下傘降下部隊による空挺作戦「義号作戦」をも実施する予定であった。こうして、米軍の陸上基地航空兵力を封じた上で、レイテ島に増援部隊を送り込み,米軍を地上戦で壊滅させる計画が立てられた。

   台湾で待機していた日本陸軍第68旅団は11月30日にマニラに着き,引き続きレイテ島に向かうが,上陸日の12月7日、上陸予定地レイテ島西岸オルモック近くイピルに米軍第77師団が上陸してきた。そして,手薄な日本軍を駆逐し,12月10日にはオルモックを陥落させてしまう。揚陸予定地オルモックが占領されてしまった日本陸軍の援軍第68旅団は,レイテ西岸のサンイシドロに急遽上陸した。

写真(右):沈没直前の空母「瑞鶴」;1944年10月,総員上甲板で退去命令を受けた。日本に残された最後の3万トン級の正規空母も囮として使われ,米空母艦載機によって撃沈された。しかし,米海軍任務部隊をレイテ湾から北方に誘致することに成功した。The crew of Zuikaku salute as the flag is lowered, and the Zuikaku ceases to be the flagship of the Japanese Navy.

  兵力劣勢な日本軍は,山岳地帯に追い詰められ,食糧,弾薬にも不足し,フィリピン人ゲリラの襲撃も受けて、組織的抵抗は困難になる。1945年3月ごろまでは,米軍に抵抗を続けていたが,その後は組織的行動が不可能となり、小グループに分かれての兵士個人の自活を図るようになる。

 台湾沖航空戦のとき、フィリピンに赴任する途中、台湾に着いた大西瀧治郎中将は,おなじく台湾にいた連合艦隊豊田長官とともに,じきに台湾沖航空戦の過大戦果報告に気づいたと思われる。しかし、大西中将は16日に台湾の新竹を出発、17日マニラの第1航空艦隊司令部に到着し、特攻攻撃の編成に着手する。第1航空艦隊司令官への正式な任命は10月20日である。

写真(左):レイテ沖海戦の時の第1遊撃部隊司令官栗田健男中将;(1889 - 1977)1944年10月に戦艦「大和」「武蔵」などを率いて,米軍艦船の攻撃のためにレイテ湾突入を図った。しかし,途中で反転して引き返してしまう。

 同じ10月17日,米軍はフィリピンのレイテ島・サマール島の海峡に浮かぶ小島のスルアン島に上陸した。これは,フィリピン侵攻の足がかり,機雷掃海のためである。第1航空艦隊には,40機程度の航空機兵力しかないまま,10月18日に「捷」1号作戦が発動された。

 連合艦隊は,陸上基地航空部隊,特に特攻隊の支援の下に,戦艦「大和」「武蔵」「長門」など栗田健男中将率いる第一遊撃部隊を主力とする水上艦隊を,米軍の主上陸地点のレイテ湾に突入させようと企図した。

日本海軍のレイテ戦海上兵力の部隊編成は次の通りだが,豊田副武大将の連合艦隊司令部は「船団撃滅」を,栗田健男中将率いる第2艦隊は「艦隊決戦」を企図しており,作戦目的に齟齬をきたしてしまう。日本海軍は最後まで、艦隊決戦(空母艦隊決戦を含む)の思想を抜けきらないまま、補給や輸送任務の重要性に気づかなかったようにみえる。

写真(右):戦艦「武蔵」;世界最大級の戦艦で46cm砲9門を装備していたが,水上艦艇を砲撃したことは一度もないまま,米海軍機に撃沈された。

第一遊撃部隊
第1部隊(第二艦隊司令長官 栗田健男中将);戦艦3隻(大和、武蔵、長門),重巡洋艦6隻(愛宕、高雄、摩耶、鳥海、妙高、羽黒),軽巡洋艦1隻(能代),駆逐艦9隻
第2部隊;戦艦2隻(金剛、榛名),重巡4隻(熊野、鈴谷、利根、筑摩),軽巡1隻(矢矧),駆逐艦6隻
第3部隊(第二戦隊司令官 西村祥治中将);戦艦2隻(山城、扶桑),重巡1隻(最上),駆逐艦4隻
第二遊撃部隊 (第五艦隊司令長官 志摩清英中将)
重巡2隻(那智、足柄),軽巡1隻(阿武隈),駆逐艦7隻
第一機動艦隊(第三艦隊司令長官 小沢治三郎中将)
空母4隻(瑞鶴、千歳、千代田、瑞鳳),戦艦2隻(伊勢、日向),軽巡3隻(多摩、五十鈴、大淀),駆逐艦8隻,空母艦載機116機

写真(左):レイテ湾近くで米軍の攻撃を受ける戦艦「武蔵」

そこで,基地航空部隊は、水上艦隊の突入作戦とあわせて,米空母を攻撃し,撃沈するか、米軍艦載機を利用できないように飛行甲板を破壊することが求められた。

  7.1944年10月20日にレイテ島に上陸した米軍を迎撃する日本軍の航空兵力,空母部隊は劣勢で,正攻法では反撃でなかった。そこで,日本海軍のレイテ湾突入を支援するために,神風特攻作戦を実施した。日本海軍では,特攻作戦は,戦局の悪化を憂えた将兵の発意による自発的な体当たり攻撃とする「特攻自然発生説」が唱えられた。

 1944年10月後半には,日本の航空隊は,マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦などで、米海軍兵力を攻撃する戦力を大幅に消耗したていたが、その間,戦果はほとんど挙げられなかった。1隻の空母も、巡洋艦も撃沈できなかったのである。日本の航空機など兵器の生産は、資源の輸送が途絶え、熟練工が徴兵に取られたことからたことから大幅に低下し、人的資源の不足から兵士の訓練・要員補充も困難な状況に陥った。日米開戦当初に揃っていた熟練搭乗員の多くも失っていた。

 そこで,フィリピンで米軍を迎撃する捷一号作戦のために,日本海軍は,大西中将をフィリピン防衛を担任する第一航空艦隊の司令長官に任命し、戦局打開を図った。この人事は,海軍の最高司令部が,「特別攻撃」の名の下に体当たり自爆攻撃を作戦として実施することを認めたことを意味する。体当たり攻撃を作戦として実施させるには、航空関係者に信望のある大西中将が必要であると考えたのである。

1944年6月のマリアナ沖海戦(フィリピン海の戦い)では,日本海軍は正規空母3隻,軽空母6隻を中核とする機動部隊と基地航空隊を準備して,サイパン島に侵攻してきた米任務部隊を迎撃した。しかし,戦果を揚げることなく,正規空母2隻,軽空母1隻を撃沈され,艦載機だけでも350機を失って壊滅した。つまり,正攻法によって米軍を攻撃することは,兵力の量と質の上から不可能と判断された。

こうして,特攻隊を編成し,作戦を遂行することが決定したが,特攻作戦の命令系統,戦闘序列が問題になる。もしも,特攻作戦を軍上層部が計画し、実行すれば、指揮官の権限を明確にし、訓練も充実できる。しかし、特攻という必ず死ぬ作戦を命じたものは、その責任を取る必要に迫られる。「勝利か、死か」、作戦が失敗すれば、部下を無駄死にさせた責任を負わなくてはならない。そして、その責任は、最終的には、赤子を死地に送り出すことを命じた(認可した)大元帥が追わなくてはならない。あるいは、大元帥の身代わりとして、将官クラスが死をもってお詫びしなければならない。
将官、佐官クラスの高級将校など軍上層部にとって、命令による特攻は、自ら責任の所在を明らかにすることであり、勝利したとしても、部下を死地に送り出した責任をとる覚悟が必要である。それはできない。

司令官が特攻作戦の最終責任を負うことを回避するには、部下の下級将校、あるいは下士官・兵が自ら発意して、自己犠牲の精神を特攻に発揮してもらうのがよい。第一線の将兵が、国土を守り、国体を護持し、家族を敵のヤイバから救うために、自発的に特攻(体当たり自爆)を志願してくれるのが望ましい。第一線指揮官が臨時に特攻隊を編成して、第一線将兵の自らの犠牲の上に特攻を行うのである。この場合は、大元帥の名において、将官や高級将校が特攻を命令する必要はない。部下の発意に、「よし。頼む」と特攻の承諾を与える場合、将官・高級将校には「特攻に部下を送り出した」という表現は馴染まない。

   結局,日本軍は、特攻は部下、特に第一線の将兵が、自発的な発意として実施を迫ったものであり、志願者(ボランティア)による行動であるとの建前をとった。尊王殉国の志士の集団が,やむにやまれない心情から,志願して体当たり攻撃を仕掛けた、だから司令官は特攻を命じたわけではなく、特攻の責任もないというのである。

 海軍の初の組織的な特攻攻撃は,「神風特別攻撃隊」として,国学者本居宣長の歌から,敷島隊,山桜隊など4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男(23才)を特攻隊指揮官に任命した。そして,レイテ戦における特攻第一号は,1944年10月25日,護衛空母「セントロー」を撃沈した関行男大尉(海軍兵学校出身)とされる。特攻隊長が,特攻戦死第一号になる,単純に考えて当たり前かもしれない。

 関大尉の特攻第一号は,連合艦隊が全軍に告示したものだ。しかし,10月21日の特攻「敷島隊」初出撃では,この隊は突入せず,引き返してきた。しかし,同し10月21日、「大和隊」久納好孚中尉(学徒出身)は,未帰還になった。大和隊の久納中尉は,特攻第一号とは認められず黙殺された。戦果の不明な特攻が第一号では,特攻を出撃させた軍上層部の面子が立たないからである。(久納好孚中尉の爆装零戦は、実際には、重巡洋艦「オーストラリア」に損害を与えた。)
1944年10月24日には、軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)が,ルソン島東部で通常爆撃により火災,撃沈した。Rear AdmiralシャーマンFrederick C. Sherman指揮下にあり,空母「エセックス」Essex を旗艦とする第38任務部隊3(Task Group Three, TG38.3)に所属していた。最高速力32ノットの「インディペンデンス級」の高速小型空母であり、低速小型の護衛特設空母ではない。しかし、この通常攻撃による軽空母撃沈の戦果は、大本営には、特攻でないために無視される。

1944年10月25日の出撃に関しても,神風特別攻撃隊の朝日隊,山桜隊,菊水隊はミンダナオ島ダバオ基地を0630に出撃している。敷島隊の出撃はルソン島マバラカット基地を0725の出撃であり,1時間近く遅いうえに,出撃基地からレイテ島近海にあると思われる目標までの距離も遠い。あきらかに,敷島隊の関行男大尉以外の特攻隊員のほうが,出撃,突入,戦死の時間は早い(→●特別攻撃戦果一覧 参照)。しかし,敷島隊以外の諸隊が,特攻第一号とは認められなかったし,有名になることもなかった。

敷島隊指揮官(海軍兵学校出身)関行男大尉が特攻第一号となることは,既定の事実だったようだ。海軍のエリートである海軍兵学校の指揮官が自ら部下を率いて体当たりし,大戦果を揚げる。(下級将校・下士官・兵の)諸君も軍神関行男大尉に続け,というプロパガンダである。戦果を揚げずに行方不明になった学徒出身の特攻隊員,特攻隊長が直接率いていなかった部隊の特攻隊員,これらの人々は軍上層部に黙殺された。10月28日には,連合艦隊司令長官豊田副武大将から関行男大尉ほか敷島隊5名だけが全軍布告され二階級特進の栄冠を与えられた。

 フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,海軍中将大西瀧治郎で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられ,事実上,特攻を行った軍人の責任を全て背負うことになった。

 大西瀧治郎中将は,1937年に中華民国首都南京への「渡洋爆撃」というと戦略爆撃を実施している。海軍航空部隊の専門家である。しかし、実は、大西長官は,特攻隊を「統率の外道」であるが,必要悪として認め,作戦として実施すべきと考えていた。一説には,大きな戦果を挙げて,日米和平の契機を作ることを真の目的にしていたとも言われる。
しかし大西中将は,内地から第一線のフィリピンに来たばかりであり,それまで部隊を率いていない軍行政職である。大西中将は,神風特攻隊を発案したわけでも,特攻隊を時間をかけて編成,準備したわけでもない。そもそも,フィリピンで特攻作戦が開始されるよりも3ヶ月前,1944年7月21日には,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」を整備することが決定している。これらの特攻兵器の開発は,はるかそれ以前から行われていたのである。

提督Vice Admiralトーマス・キンケード Thomas C. Kinkaid指揮下の 第7艦隊は,太平洋における米国最大の艦隊である。

第7艦隊には,オーデンドルフJesse B. Oldendorf少将の指揮の下に支援部隊として6隻の戦艦Battleships, 4隻の重巡洋艦Heavy Cruisers, 4隻の軽巡洋艦Light Cruisers, 29隻の駆逐艦がある。また, DestroyersスプレーグThomas L. Sprague少将指揮下の第77任務部隊に,18隻の軽空母・低速護衛空母,22隻の駆逐艦が配備されていた。さらに,フィリピンを攻略するための陸軍部隊を輸送し,揚陸するために,戦車揚陸艦LSTs (landing ships, tank) 151隻,輸送艦58隻,戦車揚陸艇LCTs (landing craft, tank) 221隻,上陸用舟艇LCIs (landing craft, infantry)79隻と数百隻の輸送船を擁していた。
第7艦隊の艦船総数は738隻に達していた。

写真(左):米空母イントレピット;Japanese Kamikaze suicide plane disintegrates in flames after hitting USS Intrepid (CV-11), during operations off the Philippines on 25 November 1944. Collection of Fleet Admiral Chester W. Nimitz.

第3,第7艦隊を併せて,フィリピン攻略部隊を支援し護衛する役割を負っていた。空母(艦隊正規空母,軽空母,小型・低速の護衛空母)32隻に艦載機は1500機近くを搭載していた。支援部隊は,戦艦12隻,巡洋艦23隻,駆逐艦100隻以上である。(→The Battle of Leyte Gulf引用)

1944年10月、レイテ侵攻艦隊は、ハルゼーHalsey提督の第3艦隊Third Fleetに援護されてレイテ地上戦を展開したが、大雨のために占領した飛行場を使用するのは困難であった。そこで、空母の指揮官たちは、レイテ海岸にとどまり、上陸部隊を援護することにした。しかし、1944年10月25日以来、神風"Divine Wind" - Kamikazeと呼ばれる作戦を実行していた。これは、米国水兵たちから皮肉を込めて、悪魔のダイバー "Devil Diver"と呼ばれた。この特攻隊は、爆弾を搭載して目標に急降下、体当たりする攻撃である。These attack groups would dive their bomb-laden planes into their targets, preferably carriers.1944年10月29日、空母「イントレピット」Intrepidは、初めて特攻を受けたが、ほとんど被害はなかった。

写真(右):米空母イントレピット;1944年10月24, 25, 26日,レイテ湾海戦(レイテ沖海戦)Battle of Leyte Gulfに参加し,超戦艦super-battleship「武蔵」の撃沈に貢献した。しかし,1944年10月30日,特攻機により損傷(軽破)した。1945年11月25日に特攻機により大破した。

レイテ沖海戦の米軍と日本軍の動向は,The Battle for Leyte Gulfを参照。
 

⇒レイテ沖海戦に続く◆フィリピン戦での特攻作戦:「神風特別攻撃隊と陸軍特攻隊」を読む。

参謀源田実中佐著『海軍航空隊始末記』では、レイテ沖海戦,フィリピン戦や沖縄戦での特攻作戦について記述がない。特攻隊は,中古機,練習機,水上機など旧式航空機の寄せ集め部隊が多く,搭乗員も実戦経験のない未熟練新米パイロットが大半であった。源田実中佐は,特攻隊,人間爆弾「桜花」の開発・部隊編成に強く関わった過去を断ち切るように,特攻隊とは雲泥の差があるエリート部隊,すなわち新鋭戦闘機とエースパイロットを集めた戦闘機隊343空司令に就任して「海軍航空隊最後の花道」を歩んだ。

特攻に関与した軍人たちは,戦後まで生き延び,華やかな生活を送った人物も多い。
 富永恭次中将は,捷一号作戦では日本陸軍航空隊の第四航空軍司令官として,フィリピンでの特攻攻撃を指揮した。しかし,フィリピンでの日本の敗退が明らかになると,台湾に命令なしに自主的に逃げてしまう。特攻が自生的に行われたとする大本営参謀瀬島龍三中佐は,捷一号作戦(フィリピン作戦)を担当し、沖縄戦でも特攻隊を送り出した第五航空軍の作戦にあたった。 青木司令も1945年8月11日、朝鮮元山の海軍基地から家族ぐるみで日本に逃亡した。源田実中佐は,参議院議員になり,瀬島参謀も大企業最高経営責任者,政治顧問となった。菅原道大は1944年6月航空総監部次長のち総監,7月教導航空軍司令官,1944年12月 第六航空軍司令官として,特攻隊編成,特攻作戦を指揮した。戦後は、部下が航空自衛隊で活躍した。特攻観音を作るのに尽力した。しかし、特攻が犠牲的精神の自然な発露であり,志願によるものであるとの立場は貫いた。

⇒◆特攻作戦の崩壊:「特攻自然発生説の否定」を読む。


1944年海軍婦人部隊WAVEsとダブル・デートする米海軍水兵。米国は、犠牲者をもつ勇者でも、自殺攻撃をする必要はない。それどころか,本国では休暇中にデートまでできた。日本では、戦争中期以降姿を消した「海軍勤務も楽しいよ」というプロパガンダも行われたのである。それとも,堕落した快楽主義者なのか。このような米兵が殺されれば,前途ある若者の将来を平然と奪った「テロリスト」を殲滅せよと、報復のヤイバが向けられる。軍人であるから殺されても仕方がないと諦めるのは、負け戦ならともかく、勝ち戦、人命重視の国ではありえないのである。日本人が米軍に殺されても、親米になれたという尺度で「特攻」を解釈すると誤りに陥りやすい。現在のイラク紛争で、もしも日本の自衛官が殺害されれば,戦争だから仕方がない、と思う市民は少数であろう。それと同じである。時代,国・地域によって、(現在の日本人と)同一の基準が通じるとはいえない。

Leyte:The U.S. Army Campaigns of World War II ;米国陸軍レイテ戦記
沖縄戦の特攻:菊水作戦


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