鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
神風特別攻撃隊のフィリピン戦 1944年 2005
Search the TorikaiLab Network
◆特攻の検証;レイテ戦の神風特別攻撃隊 The Leyte Attacked & Kamikaze 1944
写真(左):空母「プリンストン」;1944年10月24日,フィリピンのレイテ島沖合で日本機の攻撃を受け沈没した。「プリンストン」は,フィリピン戦では初の空母沈没であるが,特攻による戦果でないために,あまり取り上げられない。他方、日本軍は、1944年10月25日に海軍航空隊の神風特別攻撃隊「敷島隊」の戦果を喧伝した。特攻作戦当初は一時的攻撃で,終了するつもりだったかもしれない。しかし,効果的とされ,特攻の規模が拡大され,作戦も永続的なものとなってゆく。
写真(右):フィリピンのバンバン飛行場を出撃する特攻隊;零式艦上戦闘機や九九式艦上爆撃機が海軍の特攻隊の中核となった。

写真(右):米海軍太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥;米国海軍はフィリピン攻略を成し遂げたニミッツ提督のために,1944年12月「元帥」の称号を制定して,彼に贈った。
◆2011年8月13日ヤフーニュース「元隊員が語る特攻艇『震洋』」に当研究室が掲載されました。
◆2006年発見の米軍資料から「特攻機の命中率50%」という俗説は,「目標に到達した特攻機のうち,米軍が目視で数えることのできた機数を分母にして,艦船に被害を与えた特攻が半数あった」ことを意味しています。米海軍では,特攻機が命中しなくとも,破片が当たるなどすれば,すべて損傷と解釈しました。

1.1944年10月,米軍はフィリピン攻略作戦を開始した。フィリピン攻略には,次のような戦略的意義がある。‘本本土・中国への前進基地,日本の補給路の遮断・封鎖,F本占領地域の解放,1942年に米軍が降伏したフィリピンを奪回するという日本への報復。

マッカーサーDouglas MacArthur将軍は,フィリピン軍元帥として長らく米国植民地フィリピンの米軍と新たに編成したフィリピン軍を統率していた。日米開戦前の1941年7月26日,マッカーサーは米軍極東陸軍司令官に就任したが,日本軍の攻撃を受けた8ヵ月後コレヒドール島から脱出し,1942年3月31日にオーストラリアに逃げた。このとき“I shall return.”「私は帰ってくる」と言い放ったが,どうみても「敗軍の将」だった。
マッカーサーは,1942年4月19日に米・オーストラリア・オランダ連合軍西南太平洋方面総司令官に就任し,太平洋戦争を指揮した。これは,米国政府が最高位の米国人将軍が,敗戦の将となる汚名を負うのを回避するためであろうが,フィリピン奪回はマッカーサーの汚名を返上するための必要条件となった。

写真(右):1944年10月20日,レイテ島上陸を演じるマッカーサーDouglas MacArthur元帥(1880年1月26日生 - 1964年4月5日没);2005年にレイテ攻略50周年を祝う米国国防省のバナー。フィリピン亡命政府大統領オスメニャを引き連れて何回も撮影し,取り直したヤラセの映像である。When Americans stormed ashore at Leyte, it fullfilled a promise made by Gen. Douglas MacArthur made in the dark days following the fall of the Philippines to the Japanese in 1942. 

陸軍中将クリューガーLt. Gen. Walter Krueger司令官の下にある米第6軍The U.S. Sixth Armyは,2個師団からなる軍団2個を擁し,兵員数は20万2,500名に達した。 これはレイテ島を守備する日本陸軍第16師団の10倍の兵員数を誇り,火力、機動力、航空機,艦船を含めれば、米軍兵力は日本軍の100倍以上といえよう。

マッカーサー司令官は,1944年10月20日,レイテ島上陸し,上陸シーンを撮影させた。しかし,初回の上陸はゆったりとした感じになっていた。そこで,上陸を再度やり直し,映像も採り直しさせた。こうした演出(ヤラセ)によって,米軍がフィリピンを開放するために戻ってきた,フィリピンの解放者マッカーサー司令官というプロパガンダを劇的に展開した。

フィリピンの書籍にも,マッカーサー将軍のフィリピン帰還のヤラセを紹介する書籍や米国のフィリピン支配の横暴と巧みさを分析した研究論文もある。しかし,大半のフィリピン国民にとって,マッカーサーはフィリピン解放の英雄である。日本軍を悩ませたフィリピン人ゲリラよりも,米国軍人のほうが評価が高い。

米軍がレイテ島に上陸した1944年10月20日から,日本海軍機による「神風(しんぷう)特別攻撃」が出撃している。これは,艦船への航空機による体当たり攻撃である。

レイテ沖海戦:特攻作戦の背景を読む。

2.連合国では,日中戦争以来、日本軍のアジアへの侵略行為、残虐行為が知れ渡り、日本人への反感が高まっていた。しかし、ジャングル戦などでの日本兵の攻撃精神の旺盛さは、連合軍兵士を悩ませ、恐怖心や劣等感も起こさせた。士気の阻喪を懸念した司令官の中には、「よいジャップは、死んだジャップだけだ」として、日本兵の殺害を推奨するほどであった。日本の侵略行為・残虐行為に日本人への人種的偏見が相俟って、日本軍の特攻作戦も、現在の自爆テロと同じく、狂信的な愚行として認識されていた。

写真(左):ハルゼー提督;"Halsey's bellicose slogan was 'Kill Japs, Kill Japs, Kill more Japs.' His 'bloodthirstiness' was not just a put-on to gain headlines.

1943年,ケネディJohn F. Kennedy海軍中尉(後の大統領)が魚雷艇指揮官としての1ヶ月以上の任務を終えて,ソロモン群島ツラギ島に帰還すると,ハルゼー提督が掲げるように命じた大きな看板が目に入った。「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ!もし任務を的確に果たそうとするなら,黄色い野獣を殺せ。」
KILL JAPS !KILL JAPS !KILL MORE JAPS ! You will help to kill the yellow bastards if you do your job well " [From "PT 109 - The Wartime Adventures of President John F. Kennedy" by Robert J. Donovan](→Fleet Admiral William F. 'Bull' Halsey 引用)

ハルゼー提督は,敵国日本人が過酷な戦場では肉体的に優れているという米軍の恐怖心を否定することが必要であると信じていた。そこで,Kill Japsというスローガンを掲げた。「死んだ日本人がいい日本人だ」として戦意を高めた。
He strongly believed that by denigrating the enemy he was counteracting the myth of Japanese martial superiority . . . ' "Halsey's racial slurs made him a symbol of combative leadership, a vocal Japanese-hater . . . "

米空母任務部隊を率いていたハルゼー提督は,「日本人を殺せ」を標榜し,日本人狩り(Japanese-hater)を辞さないほど敵愾心を燃やしていた。これを知らないかのように,日本の識者には,米軍兵士がカミカゼ特攻隊を恐れ,尊敬していたとする者が多い。しかし,カミカゼが吹き荒れた当時,戦友を殺し,自らを負傷させたカミカゼ・パイロットを尊敬していた米兵は例外である。米軍は,戦死した特攻隊の死体を艦艇上で見つけ,海葬にした時もあった。しかし,戦利品として,戦死した特攻隊員の遺体を皿に載せ,ジャップ・ステーキとして嘲笑したり,遺骨・特攻機の破片や残骸を戦利品として持ち帰っていた。現在でも、寄せ書きの有る日章旗や軍隊手帳が、遺族に返却される「美談」が報じられる。しかし,これは戦利品spoil of warあさりが蔓延していたことを意味している。

ジャップは卑劣な憎むべき敵であり,戦友や自らの命を奪うカミカゼは「自殺攻撃」として,憎悪,嫌悪しており,自殺攻撃と自爆テロは同じ行為である。(ただし,自爆テロと自殺攻撃では,意味や価値判断は若干異なる)


写真(右):護衛空母「スワニー」に命中した特攻機のエンジン。
;1944/10/25、日本海軍の零戦の「栄」エンジンが、第64番フレームで発見された。Damage in action of 25 October 1944. Motor from Jap "Zeke" found in vicinity of hit at Frame 64 stbd.

1942年の日本による米軍の放逐,フィリピン占領は,当初こそ,フィリピン独立を期待させたものの,フィリピンにおける麻,タバコ,木材など資源の収奪,飛行場建設や物資運搬などフィリピン人労働力の徴用が強化されると,日本軍への反感が高まった。
1944年10月20日,米軍がレイテ島に上陸すると,フィリピン人は日本軍の圧制からの解放者として,米軍を歓迎した。これは,米軍の物資運搬,洗濯,道案内,通訳,ゲリラ活動などの仕事を請け負えば,給与や現物支給が受けられたからでもある。その意味で,徴用を強化し,強制労働をも強いた日本軍をアジアの解放者と認めるフィリピン人は少なかった。

写真(右):レイテ地上戦で米軍第1騎兵師団の荷物を運搬するフィリピン人;1944年10月に米軍が上陸すると,フィリピン人は日本軍の圧制からの解放者として,米軍を歓迎した。これは,米軍の仕事を請け負えば,給与や現物支給が受けられたからでもある。

 フィリピン人の特攻への評価については,愛国心,忠誠心を重視する立場から,肯定的なものもある。日本とのビジネスも考慮して,高い評価を与える人もいる。特攻隊慰霊碑や反米軍的な研究書もある。しかし,特攻によって米軍が撃滅されても,それがフィリピンの自由,解放に結びつかない以上,フィリピンでは,特攻隊員の愛国心,犠牲的精神が評価されているのであって,特攻自体を賛美するものではない。

人が死を選び,命を捧げ,投げ出すとき,容易なプロセスで,計画的な必死の作戦を遂行できるものではないだろう。祖国や家族を守るための破壊行為の善悪,それを行う個人の意思を判断するのは容易ではない。

しかし、たとえ特攻隊員が自ら体当たり自爆攻撃を志願したからといっても,航空機を勝手に消耗品(特攻機)として使用する裁量が,兵士個人に与えられることはない。実際,特攻実施の3ヶ月前、1944年7月21日の大海指第431号では「潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」として,奇襲戦(=特攻作戦)を企図していた。これは、軍による特攻「作戦」の計画であり、体当たり自爆の発案は、大海指太31号発令よりも数週間は前に行われていたはずだ。たぶん、1944年6月中旬のマリアナ沖海戦での日本海軍の大敗北が契機になったものと思われる。

3.米軍は1944年6月に日本への戦略爆撃機の基地を確保する目的で,サイパン島などマリアナ諸島に上陸した。これを迎撃した日本海軍の基地航空隊,空母機動部隊は,大敗北を喫した。米軍が1944年10月後半,フィリピン攻略作戦を始めるころには,日本軍の航空兵力,空母部隊は壊滅しており,正攻法では米軍の撃退は不可能であった。体当たり攻撃を行わざるをえない状況にあると認識されていた。

写真(左):マリアナ沖海戦,レイテ沖海戦で日本空母機動部隊を率いた小沢治三郎提督;1944年6月19日,マリアナ沖海戦で「アウトレンジ」戦法を採り先制攻撃に成功したが,惨敗した。しかし,これに懲りず,レイテ沖海戦でも,囮として日本海軍空母部隊を率いて,ハルゼー提督の米海軍任務部隊を北方にひきつける役を果たした。

 1944年6月にマリアナ海域に侵攻してくる米軍任務部隊を,日本海軍は空母機動部隊,基地航空隊で迎撃しようとして,「あ」号作戦を準備した。これおは,Z作戦として計画されていた。しかし,パラオ諸島からフィリピンに撤退するとき,連合艦隊司令長官古賀大将は遭難死し,参謀長の福留中将は不時着,フィリピン人ゲリラに捕虜にされた。この時。Z作戦計画を奪われ,作戦計画は米軍の知るところとなった。
マリアナ沖海戦は,米国のマリアナ諸島攻略作戦Campaign In the Marianasの最中に起こった海戦で,米軍はBattle of the Philippine Sea(フィリピン海の戦い)と呼ぶ。ここで,日本海軍は,大型正規空母撃沈2隻(「大鳳」「翔鶴」),中型改装空母撃沈1隻(「飛鷹」),艦載機の損失400機など,大敗北を喫してしまう。

1943年6月の段階で、侍従武官としてラバウル基地の戦闘を視察し、その実情を憂えた城英一郎大佐(航空専攻)は,南東方面から帰国後,1943年6月に大西瀧治郎中将に体当たり特攻必要性を提案している。その後,大西中将は軍需省に転任したが、彼も航空機材の生産・整備,搭乗員の要請・補充は困難な状況にあることを身をもって悟った。

1944年10月5日、第一航空艦隊司令長官に大西瀧治郎中将が任命された。
 大西中将は海軍航空本部総務部長をはじめとして,海軍航空隊の戦術、訓練、技術などに関する要職を歴任していた上に、1937年には南京空襲など戦略爆撃も実施した航空戦の第一人者である。

写真(左):戦艦「武蔵」甲板で記念撮影をする大元帥昭和天皇;1943年。



第一航空艦隊司令長官に大西瀧治郎中将が、フィリピン戦の直前に特攻隊の編成を決心し、特攻隊の生みの親となった、と生き残った有能、有名な軍人が流布しているが、この説は実に不思議である。特攻隊の出撃(10/20)の2週間前に着任した司令官が、勝手に特攻隊を編成、出撃させることが、大元帥昭和天皇を戴く日本海軍で許されるのであろうか。下級兵士が自発的に陛下の貴重な兵器である航空機を体当たりで壊してしまう行き当たりばったりの作戦を、日本海軍上層部(大本営・軍令部や最高司令官)が認めるのか。

4.米軍任務部隊による1944年10月10日の沖縄空襲に際して,日本海軍航空隊は反撃して「台湾沖航空戦」となった。日本の基地航空隊は,正攻法で反撃したが,戦果はほとんど挙げられず,撃沈した艦船もなかった。しかし,航空機の自爆を敵艦炎上と見誤ったのか,大戦果を挙げたと錯覚してしまう。日本陸軍もこの大戦果を信じて,フィリピンのレイテ島に上陸してきた米軍相手の決戦を急遽準備する。

写真(左):日本陸軍重爆撃機キ-67「飛龍」;1944年10月の台湾沖航空戦では,このように魚雷を抱いた雷撃機として参戦した。海軍と陸軍の搭乗員が協力した珍しい事例である。機動部隊合計部隊は,「T攻撃隊」と呼ばれたが,この部隊編成には軍令部の源田実参謀が関わっている。

1944年10月初旬、台湾沖航空戦が起こり、不十分な偵察,撃墜した機体の炎上を敵艦撃沈と見間違えて,台湾沖航空戦の大戦果をあげたとされた。

 赫々、台湾沖航空戦によると次のように戦果報告を行った。

<台湾沖航空戦の戦果>1944/10/19/1800
 「大本営発表 我部隊は十月十二日以降連日連夜台湾及ルソン東方海面の敵機動部隊を猛攻し其の過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり。 
一、我方の収めたる戦果総合次の如し。轟撃沈、航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻、巡洋艦若は駆逐艦一隻、撃破、航空母艦八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、巡洋艦若は駆逐艦一隻、艦種不詳十三隻、其の他火焔火柱を認めたるもの十二を下らず。撃墜、百十二機(基地に於ける撃墜を含まず)。
二、我方の損害、飛行機未帰還三百十二機。(注)本戦闘を台湾沖航空戦と呼称す」

  写真(右):日本海軍の一式陸上攻撃G4M;開戦時には,英国戦艦2隻を魚雷で撃沈した。しかし,1944年10月の台湾沖航空戦では,練度の比較的高い搭乗員を集めた「T攻撃隊」一式陸攻も戦果を挙げ得なかった。機首にレーダーを装備している。<

 当時,実戦に不慣れな未熟練搭乗員が多く,空母の損傷を撃沈に、巡洋艦の大破を轟沈にと見間違え、誤報を集計したら過大な大戦果になった。しばらくして軍令部は実際の戦果は大きなものでない事に気づいたようだが、陸軍に伝えなかった。(→赫々、台湾沖航空戦引用)

しかし,海軍航空隊の鹿屋基地に派遣されていた堀栄三参謀(陸士46期)は,1944年10月の台湾沖航空戦の戦果誤認訂正電報を大本営に打電した。にもかかわらず,過大な戦果誤報が既に大元帥昭和天皇の上聞に達していたため,参謀瀬島龍三中佐は,修正電報を握りつぶし,誤った過大な戦果報告を訂正しなかった。

写真(左):大本営陸軍部作戦課参謀(作戦班長補佐)の瀬島龍三中佐;1939年の陸軍大尉の時の撮影。1939年1月15日に第四師団参謀として満州に、5月15日には第五軍(軍司令官土居原賢二中将)参謀、11月22日に参謀本部部員(大本営陸軍部幕僚付)と目まぐるしく栄転している。1944年10月、台湾沖航空戦の過大な戦果報告修正の打電を、上層部に伝えることをしなかった。そのため、誤報に基づいて、日本陸軍はレイテ決戦のために、ルソン島から兵員、物資を抽出し、レイテ島に強行輸送しようとした。

これは,大本営陸軍部作戦課参謀の瀬島龍三中佐が,既に天皇の上聞に達した誤報の大戦果を訂正するという,軍人としては最大の失態の責任を負うことを恐れたためである。大元帥昭和天皇に大戦果を報告し喜ばせた後,それがが誤りであると認めて謝罪するのであれば,大本営参謀を辞任するか,自害するしかないではないか。

写真(右):1946年東京裁判にソ連側証人として出廷した元大本営参謀瀬島龍三中佐;瀬島参謀は、1944年末-45年初頭、外交特権を保持する伝書使(ク−リエ)として、ソ連モスクワの日本大使館を訪問した。ソ連の中立維持、日本の軍事情勢に関する情報を、モスクワの武官に伝える役目だったようだ。1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務、1945年7月1日、関東軍参謀,満州赴任の伝達を受けた。終戦時にソ連軍の捕虜になり、1946年9月に東京裁判に、ソ連側の証人として出廷した。「日本は対ソ侵攻計画を準備していた」との証言で、日本側弁護人に打撃を与えた。

大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は,1945年2月25日付で連合艦隊参謀兼務となり、2月末、連合艦隊司令部(日吉、現慶大キャンパス)に着任し、豊田副武長官、草鹿龍之介参謀長などに申告した。また、戦艦「大和」海上特攻を立案した先任参謀の神重徳海軍大佐とも旧知の間柄という。
自伝(1995)『幾山河−瀬島龍三 回顧録』p.167では、連合艦隊の戦力低下を指摘した後、特攻の自然発生説を主張している。

「しかし、帝国海軍伝統の士気は極めて旺盛であった。3月17日からの九州/沖縄航空戦、次いで3月25日の慶良間列島への米軍上陸、4月1日の沖縄本島への米軍上陸などにおいて水上特攻、空中特攻(菊水)、人間魚雷(回天)、人間爆弾(桜花)など各艦隊、格部隊、第一線の将兵が自らの発意で敵に体当たりし、国に殉ずる尊い姿には、襟を正し、感涙を禁じ得ないものがあった。」

1945年7月1日、関東軍参謀,満州赴任の伝達を受け、対ソ連戦に従事した。終戦後は、ソ連に抑留され、ソ連側証人として、1946年の東京裁判(極東軍事裁判)に出廷した。ソ連抑留時代には、収容者団長としてほとんど「強制労働」には服していない。1956年の帰国後,日本のビジネス界,政界,出版会で大活躍した。「特攻隊は自生的に発生した」と主張し,軍上層部は特攻を強要していないとしている。山下奉文大将が戦犯として処刑されたフィリピン・ルソン島ラグナ州カランバの慰霊碑修復で,碑文をしためた。

写真(左):南方軍総司令官寺内寿一;1879年(明治12年)8月8日生まれ - 1946年6月12日没) 第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。

 日本陸軍は,当初の予定ではルソン島で米軍を迎撃し,他のフィリピンの島々では,遊撃戦を戦う程度に計画していた。しかし,10月17日,米軍がレイテ湾東方とサマール島の間にあるスルアン島に上陸してきた。大本営は台湾沖航空戦の誤った大戦果を信じて,10月18日夜,「捷一号作戦」を発動した。民主主義の米国では,世論や政治家の保身を優先するために,大損害を認めずに,軍事的配慮の欠けたフィリピン攻略作戦を実施すると考えたからであろう。台湾沖航空戦で大きな被害を受けた米軍が,無謀な上陸を敢行してきたと錯覚してしまったのである。実際には,米軍艦艇は,巡洋艦2隻の損傷であった。

第14方面軍司令官山下奉文大将は,ルソン島での決戦を準備しており,レイテ島では地上決戦する計画はなかった。総兵力は,朝鮮半島から徴用した建設労働者も含めて43万2,000名であった。しかし,台湾沖航空戦の大戦果を誤って信じていた大本営,南方軍総司令官寺内寿一元帥は、フィリピン上陸を始めた米軍が撃滅できると判断した。第14方面軍司令官山下奉文大将は,ルソン島での決戦の方針を変更するつもりがなかったが,大本営,南方軍は山下大将にレイテ島へ増援部隊を送ることを求めた。

10月22日、第14方面軍司令官山下奉文大将は第35軍司令官鈴木宗作中将に対してレイテ決戦を電命した。

5.米軍は,1944年10月20日にレイテ島に上陸した。日本軍の航空兵力,空母部隊は劣勢で,正攻法では反撃でなかったため,日本海軍は,水上艦隊をレイテ湾に突入させ,砲撃する作戦を実施した(レイテ沖海戦)。このレイテ湾突入を支援するために,航空機による体当たりを,特攻作戦として実施した。


写真(上):
;1944年10月以降の撮影。右は戦車揚陸艦LST-168,右はLST-18。 Coast Guard-manned LST-168 prepares to unload its cargo during the Philippine assault. Coast Guard-manned LST-18 unloads at Leyte.

    1944年10月17日にフィリピンのレイテ島東方スルアン島に上陸し。これは,レイテ島上陸準備のためである。レイテ島の守備が手薄であることをゲリラの通報で熟知していた米軍は,1944年10月20日,レイテ島に上陸した。米軍のレイテ島上陸部隊の兵力は、15万名で,150万トンの物資,23万トンの車両、20万トンの弾薬を準備していた。レイテ島守備兵力は,2万名に過ぎなかった。米軍は,レイテ島に上陸すると,日本軍の抵抗を排除しつつ,すぐに内陸に侵攻を開始した。

水際で上陸する米軍に日本軍が抵抗できなかったのは,航空兵力・重砲の支援が得られず,堅固な地下陣地の構築ができなかったためであるが,1945年4月1日の沖縄本島に米軍が上陸してきた時も同じ展開になった。
ヽご瀛震遒貌本軍の既成の飛行場があり,
△修譴鮠緡Δ靴討る米軍から防備できずに,すぐに放棄せざるをえなくなったものも,
8紊砲覆辰董て本軍が飛行場の奪回を企図し,攻撃するのも,
ど死の空挺部隊(高千穂部隊と義烈空挺部隊)を飛行場に突入させるのも,
ザと海の特攻を行うのも,Δ修靴篤本軍が惨敗するのも,まったく同じである。
レイテ戦と沖縄戦は,実に似ているところが多い。

1944年末まで続くレイテ戦では,日本軍はレイテ島に歩兵部隊や補給物資を輸送する「多号作戦」を実施した。しかし,輸送に使われた艦船のうち49隻が沈没、機帆船や大発など小型舟艇も300隻が沈没している。

 台湾沖航空戦のとき、フィリピンに赴任する途中、台湾に着いた大西瀧治郎中将は,おなじく台湾にいた連合艦隊豊田長官とともに,じきに台湾沖航空戦の過大戦果報告に気づいたと思われる。しかし、大西中将は16日に台湾の新竹を出発、17日マニラの第1航空艦隊司令部に到着し、特攻攻撃の編成に着手する。第一航空艦隊司令官への正式な任命は10月20日である。

写真(左):レイテ沖海戦の時の第一遊撃部隊司令官栗田健男中将;(1889 - 1977)1944年10月に戦艦「大和」「武蔵」などを率いて,米軍艦船の攻撃のためにレイテ湾突入を図った。しかし,途中で反転して引き返してしまう。

 大西中将がフィリピンに赴任した同じ10月17日,米軍はフィリピンのレイテ島・サマール島の海峡に浮かぶ小島のスルアン島に上陸した。第一航空艦隊には,40機程度の航空機兵力しかないまま,10月18日に「捷」一号作戦が発動された。

 連合艦隊は,陸上基地航空部隊,特に特攻隊の支援の下に,戦艦「大和」「武蔵」「長門」など栗田健男中将率いる第一遊撃部隊を主力とする水上艦隊を,米軍の主上陸地点のレイテ湾に突入させようと企図した。

日本海軍のレイテ戦海上兵力の部隊編成は,豊田副武大将の連合艦隊司令部は「船団撃滅」を,栗田健男中将率いる第2艦隊は「艦隊決戦」を企図しており,作戦目的に齟齬をきたしてしまう。他方,日本海軍の基地航空部隊は、水上艦隊の突入作戦とあわせて,米空母を攻撃し,撃沈するか、米軍艦載機を利用できないように飛行甲板を破壊することが求められた。

  6.1944年10月20日にレイテ島に上陸した米軍を迎撃する日本軍の航空兵力,空母部隊は劣勢で,正攻法では反撃でなかった。そこで,日本海軍のレイテ湾突入を支援するために,神風特攻作戦を実施した。日本海軍では,特攻作戦は,戦局の悪化を憂えた将兵の発意による自発的な体当たり攻撃とする「特攻自然発生説」が唱えられた。

写真(右):1943年12月4日クェジェリン環礁で撃墜される九七式艦上攻撃機;空母「ヨークタウン」より撮影。正攻法で撃墜されるなら,特攻して命中し,死んだほうがよい。このような計算から特攻が開始された。しかし,そ敵艦まで辿り着くことができない日本機のほうが多かった。 "Jap torpedo bomber explodes in air after direct hit by 5 inch shell from U.S. aircraft carrier as it attempted an unsuccessful attack on carrier, off Kwajalein." U.S.S. Yorktown. CPhoM. Alfred N. Cooperman, December 4, 1943. 80-G-415001.

 1944年10月後半には,日本の航空機など兵器の生産は、資源の輸送が途絶え、熟練工が徴兵に取られたことからたことから大幅に低下し、人的資源の不足から兵士の訓練・要員補充も困難な状況に陥った。日米開戦当初に揃っていた熟練搭乗員の多くも失っていた。

 そこで,フィリピンで米軍を迎撃する捷一号作戦のために,日本海軍は,大西中将をフィリピン防衛を担任する第一航空艦隊の司令長官に任命し、「特別攻撃」の名の下に体当たり攻撃を作戦として実施することに決した。体当たりを作戦として実施するには、航空関係者に信望のある大西中将が必要であると考えたのである。

こうして,特攻隊を編成し,作戦を遂行することが決定したが,特攻作戦の命令系統,戦闘序列が問題になる。もしも,特攻作戦を軍上層部が計画し、実行すれば、指揮官の権限を明確にし、訓練も充実できる。しかし、特攻という必ず死ぬ作戦を命じたものは、その責任を取る必要に迫られる。「勝利か、死か」、作戦が失敗すれば、部下を無駄死にさせた責任を負わなくてはならない。そして、その責任は、最終的には、赤子を死地に送り出すことを命じた(認可した)大元帥が追わなくてはならない。あるいは、大元帥の身代わりとして、将官クラスが死をもってお詫びしなければならない。
将官、佐官クラスの高級将校など軍上層部にとって、命令による特攻は、自ら責任の所在を明らかにすることであり、勝利したとしても、部下を死地に送り出した責任をとる覚悟が必要である。それはできない。

司令官が特攻作戦の最終責任を負うことを回避するには、部下の下級将校、あるいは下士官・兵が自ら発意して、自己犠牲の精神を特攻に発揮してもらうのがよい。第一線の将兵が、国土を守り、国体を護持し、家族を敵のヤイバから救うために、自発的に特攻(体当たり自爆)を志願してくれるのが望ましい。第一線指揮官が臨時に特攻隊を編成して、第一線将兵の自らの犠牲の上に特攻を行うのである。この場合は、大元帥の名において、将官や高級将校が特攻を命令する必要はない。部下の発意に、「よし。頼む」と特攻の承諾を与える場合、将官・高級将校には「特攻に部下を送り出した」という表現は馴染まない。

   結局,日本軍は、特攻は部下、特に第一線の将兵が、自発的な発意として実施を迫ったものであり、志願者(ボランティア)による行動であるとの建前をとった。尊王殉国の志士の集団が,やむにやまれない心情から,志願して体当たり攻撃を仕掛けた、だから司令官は特攻を命じたわけではなく、特攻の責任もないというのである。

 海軍の初の組織的な特攻攻撃は,「神風特別攻撃隊」として,国学者本居宣長の歌から,敷島隊,山桜隊など4隊を組織し,海軍兵学校出身艦上爆撃機パイロット関行男(23才)を特攻隊指揮官に任命した。そして,レイテ戦における特攻第一号は,1944年10月25日,護衛空母「セントロー」を撃沈した関行男大尉(海軍兵学校出身)とされる。特攻隊長が,特攻戦死第一号になる,単純に考えて当たり前かもしれない。

 関大尉の特攻第一号は,連合艦隊が全軍に告示したものだ。しかし,10月21日の特攻「敷島隊」初出撃では,この隊は突入せず,引き返してきた。しかし,同し10月21日、「大和隊」久納好孚中尉(学徒出身)は,未帰還になった。しかし,大和隊の久納中尉は,特攻第一号とは認められず黙殺された。戦果の不明な特攻が第一号では,特攻を出撃させた軍上層部の面子が立たないからである。(久納好孚中尉の爆装零戦は、実際には、重巡洋艦「オーストラリア」に損害を与えた。)
10月25日の出撃に関しても,神風特別攻撃隊の朝日隊,山桜隊,菊水隊はミンダナオ島ダバオ基地を0630に出撃している。敷島隊の出撃はルソン島マバラカット基地を0725の出撃であり,1時間近く遅いうえに,出撃基地からレイテ島近海にあると思われる目標までの距離も遠い。あきらかに,敷島隊の関行男大尉以外の特攻隊員のほうが,出撃,突入,戦死の時間は早い(→●特別攻撃戦果一覧 参照)。しかし,敷島隊以外の諸隊が,特攻第一号とは認められなかったし,有名になることもなかった。

敷島隊指揮官(海軍兵学校出身)関行男大尉が特攻第一号となることは,既定の方針だった。海軍エリートの海軍兵学校出身者が自ら部下を率いて体当たりし,大戦果を揚げる。(下級将校・下士官・兵の)諸君も軍神関行男大尉に続け,というプロパガンダである。戦果をあげずに行方不明になった学徒出身の久納好孚中尉,特攻隊長が直接率いていない朝日隊,山桜隊,菊水隊の特攻隊員は,軍上層部に黙殺された。10月28日には,連合艦隊司令長官豊田副武大将から関行男大尉ほか敷島隊5名だけが全軍布告され二階級特進の栄冠を与えられた。

 フィリピン防衛に当たる第一航空艦隊の(仮)司令官は,海軍中将大西瀧治郎で,「特攻隊生みの親」と後に祭り上げられ,事実上,特攻を行った軍人の責任を全て背負わされた。

 大西瀧治郎中将は,1937年に中華民国首都南京への「渡洋爆撃」というと戦略爆撃を実施している。海軍航空部隊の専門家である。大西長官は,特攻隊を「統率の外道」であるが,必要悪として認め,作戦として実施すべきと考えていた。一説には,大きな戦果を挙げて,日米和平の契機を作ることを目的にしていたとも言われる。
大西中将は,内地から第一線に来たばかりで,それまで部隊を率いていない軍行政職にあった。大西中将は,神風特攻隊を発案したわけでも,特攻隊を時間をかけて編成,準備したわけでもない。そもそも,フィリピンで特攻作戦が開始される3ヶ月前,1944年7月21日に,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」の整備が決定している。これらの特攻兵器の開発は,1944年以前から行われていたのである。

写真(右):1944年1月3日、シアトル沖の軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);1944/10/24,ルソン島東部で通常爆撃により火災。Rear AdmiralシャーマンFrederick C. Sherman指揮下にあり,空母「エセックス」Essex を旗艦とする第38任務部隊3(Task Group Three, TG38.3)に所属していた。最高速力32ノットの「インディペンデンス級」の高速小型空母である。

提督Vice Admiralトーマス・キンケード Thomas C. Kinkaid指揮下の 第7艦隊は,太平洋における米国最大の艦隊である。

第7艦隊には,オーデンドルフJesse B. Oldendorf少将の指揮の下に支援部隊として6隻の戦艦Battleships, 4隻の重巡洋艦Heavy Cruisers, 4隻の軽巡洋艦Light Cruisers, 29隻の駆逐艦がある。また, DestroyersスプレーグThomas L. Sprague少将指揮下の第77任務部隊に,18隻の軽空母・低速護衛空母,22隻の駆逐艦が配備されていた。さらに,フィリピンを攻略するための陸軍部隊を輸送し,揚陸するために,戦車揚陸艦LSTs (landing ships, tank) 151隻,輸送艦58隻,戦車揚陸艇LCTs (landing craft, tank) 221隻,上陸用舟艇LCIs (landing craft, infantry)79隻と数百隻の輸送船を擁していた。
第7艦隊の艦船総数は738隻に達していた。

写真(左):米空母イントレピット;Japanese Kamikaze suicide plane disintegrates in flames after hitting USS Intrepid (CV-11), during operations off the Philippines on 25 November 1944. Collection of Fleet Admiral Chester W. Nimitz.

第3,第7艦隊を併せて,フィリピン攻略部隊を支援し護衛する役割を負っていた。空母(艦隊正規空母,軽空母,小型・低速の護衛空母)32隻に艦載機は1500機近くを搭載していた。支援部隊は,戦艦12隻,巡洋艦23隻,駆逐艦100隻以上である。(→The Battle of Leyte Gulf引用)

1944年10月、レイテ侵攻艦隊は、ハルゼーHalsey提督の第3艦隊Third Fleetに援護されてレイテ地上戦を展開したが、大雨のために占領した飛行場を使用するのは困難であった。そこで、空母の指揮官たちは、レイテ海岸にとどまり、上陸部隊を援護することにした。しかし、1944年10月25日以来、神風"Divine Wind" - Kamikazeと呼ばれる作戦を実行していた。これは、米国水兵たちから皮肉を込めて、悪魔のダイバー "Devil Diver"と呼ばれた。この特攻隊は、爆弾を搭載して目標に急降下、体当たりする攻撃である。These attack groups would dive their bomb-laden planes into their targets, preferably carriers.1944年10月29日、空母「イントレピット」Intrepidは、初めて特攻を受けたが、ほとんど被害はなかった。

写真(右):米空母イントレピット;1944年10月24, 25, 26日,レイテ湾海戦(レイテ沖海戦)Battle of Leyte Gulfに参加し,超戦艦super-battleship「武蔵」の撃沈に貢献した。しかし,1944年10月30日,特攻機により損傷(軽破)した。1945年11月25日に特攻機により大破した。



レイテ沖海戦の米軍と日本軍の動向は,The Battle for Leyte Gulfを参照。
 
9.有意な日本の若者が,愛する国や家族を守るために体当たり特別攻撃を行った。彼らには,熱意,迷い,諦観などさまざまな思いがあった。

「海軍航空隊特別攻撃隊を命ぜられて」
「この航空隊を大きな桜の木に例えるならば君たちは1本1本の枝に咲いた綺麗な花である。お国のために潔く見事散って欲しい」これは終戦も間近な昭和20年春、桜の咲いた飛行場で整列しながら、特別攻撃隊を命名されたときの航空隊司令の訓示の一部である。当時私は海軍の九六式陸上攻撃機の乗員だったが、葬送式用の写真も撮り遺書も書いて「心」の準備もできて待機していたが、戦友は次々と帰らぬ旅に飛び立っていったが、毎日飛行場の指揮所に貼り出される出撃者名簿に、くる日もくる日も名前がでないので業を煮やして、飛行分隊士のところえ「如何して出撃させない」と怒鳴りこんだところ「死に場所は幾らでもある・・・今しばらく待て」という返事、あの時の心境は戦友に遅れをとりたくない思いと、国の礎になるのだという純粋な気持ちのほかは、18才の少年の心の中には何もなかったような気がする。

写真(左):神風特攻隊の関行男大尉たち「敷島隊」;1944年10月20日以降特攻に数回出撃しては,目標が捕らえられず帰還していた。
写真(右):零式艦上戦闘機;1944年10月からは特攻機として多用された。

写真(右):レイテ島に上陸してきた米軍;1944年10月。戦車揚陸艦LST,歩兵揚陸艦などを投入し,砂浜から兵士,物資を上陸させることができた。

あの時なぜ、「あんな馬鹿なことをしたのだろう」とは今もって思ってはいない。あの当時としては、それが「自分を生かす途」だと考えていたからてある。---遺書は今は無く、なんと書いたかは定かではないが、たしか「これまで育ててくれたお礼と、お国の為に散ることの誇り」を書いたような気がする。
台湾沖航空戦を前にして台湾の基地に進出することになったとき乗り物酔いの母が父と一緒に汽車に乗って鹿児島からわざわざ岩国まで面会にきてくれた。その時のことである、普段は騙して食べさせても差し出した飴や菓子類は牛乳が入っていると口に入れてからでも吐き出していた母が、私の差し出した牛乳の入った菓子を黙って飲みこんでくれた。どんな思いで呑みこんだかと思うと目頭が熱くなったものである。
写真は葬送式用として撮影したものであるが、いまだに私の手元にあって朝夕眺めながら複雑な気持ちにさせられるのである。

同期生の約半数を特別攻撃隊で失い、幸か不幸か出撃を間近にひかえた時、8月15日を迎えたのである。---現今のこの世相の中では生きていて良かったのか如何か考えさせられるところではあるものの、折角与えられた命の尊さを胸に刻みながら、残された人生を精一杯有意義に送りながら、この繁栄した国の礎となった戦友の冥福を祈りながら暮してゆきたいと心に念じています。(「海軍航空隊特別攻撃隊を命ぜられて」引用終わり)

写真(左):レイテ島に援軍を送ろうとした日本軍輸送船;レイテ湾に物資や兵力を上陸しようとしたが,米軍機に撃沈される船が多かった。1944年10月ごろ。

特攻隊のこと
昭和一九年の一〇月のある日のタ方、私たち予備学生、生徒が突然剣道場に「総員集合」を命ぜられた。いつになくモノモノしい雰囲気で、入口には教官が立ち並び、窓はすべて閉められていた。壇上に立った田口学生隊長は、「おまえたちの中から特別攻撃隊員を募る。種類は潜水艦によるもの、魚雷によるもの、舟艇によるものである。応募者は明朝○八○○までに区隊長に申し出ろ。以上」一瞬私たちの間にピーンとした緊張感が走った。剣道場を出てもだれも口をきく者はなかった。タ食、そして夜の学習の時も皆口数が少なかった。

「巡検終わり。タバコポン出せ」の号令がマイクで流れても、いつものように雑談をする者もない。一分隊二区隊第四班の私の部屋もシーンと静まりかえっていた。皆ベッドに入ってはいるが眠れない。しきりに。寝返りをうつ者が多い。私の上段の松本素道君もベッドをきしませて返りをうつ。私もまったく眠れない。「走馬灯のように……Lという言葉のとおり、幼かつたころのこと、父母と旅行したときのこと、そして私の上段で悩みぬいていた松本素道君は「大和」で戦死してしまった。良い男であった。(一分隊二区隊四班)文集から(特攻隊のこと引用終わり)

<特攻敷島隊指揮官関行男大尉(のち特進し中佐)の遺書>
西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。
武人の本懐此れにすぐることはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。
皆様御体大切に。父上様、母上様。
教え子へ(第42期飛行学生へ)
教え子は 散れ 山桜 此の如くに。  1944年10月25日
(→ 五軍神の部屋引用)
このような状況で,花婿のいない結婚式も行われ,写真も残っている。外地に出征している兵士との結婚もあるが,中には,特攻隊で戦死した兵士と結婚式を挙げた事例もある。
現代日本の「写真だけの結婚式」とは大いに異なる状況と新郎新婦の絆の深さが感じられる話である。

8.フィリピンで戦った第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が,「特攻の生みの親」であるという神話は,軍令部の特攻隊編成,特攻作戦の組織的実施を隠蔽するかのごとき表現である。1944年7月21日,大本営「大海指第431号」でも,奇襲攻撃として特攻が計画されている。「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,到着後,特攻隊戦果の確認できた10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表の際は,戦意高揚のため,特攻作戦の都度,攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となっている。つまり,軍上層部が,神風特別攻撃隊の作戦を進めていたのである。  

写真(左):特攻機が出撃するフィリピンのルソン島の航空基地;1944年10月21日。特攻隊の見送りは,盛大に行われた。しかし,10月21日から連日出撃しても,敵艦隊を発見できずに引き返していたのである。日本側の資料では,特攻隊は10月25日に初めて,戦果をあげた。しかし,それ以前に未帰還の隊員もいた。

海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部である。軍令部と参謀本部は,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。軍令部も参謀本部は天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。

戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。陸海軍の総長は,天皇によって中将か大将から任命(親補)される勅任官であり,次長とは総長を補佐する者で,総長と同じく御前会議の構成員でもある。

日本海軍の統帥部は,軍令部である。これは,以前は「海軍軍令部」と呼ばれていたが,1932年「軍令部令」により「軍令部」と呼ばれるようになった。作戦について天皇を輔弼する機関であり、陸軍の参謀本部に相当する。長たる軍令部総長は天皇に直隷する。軍令部総長は、天皇の命令を各部隊に伝達する任務を帯びているが,実際には命令は軍令部総長(および軍令部)が立案したものにほかならない。形式上、天皇が決定した命令を伝達するのである。また,この命令には、「細部については軍令部総長から指示せむ」との但し書きをつけ、大綱を述べるに過ぎない。

戦時には,天皇の下に「大本営」を設けて陸海作戦の調整にあたるが,大本営は、参謀本部と軍令部からなる。したがって,大本営が設けられると,軍令部は「大本営海軍部」として指揮・指示を出すことになる。

写真(右):日本陸軍百式重爆撃機キ-49「呑龍」;特攻機としても使用されたが,大型,低速のために,米軍戦闘機のよって捕捉,撃墜されにくいように夜間攻撃をかけるべきであったが,昼間特攻を強いられた。

実際は,軍隊の特徴として、部隊が編成され,隊名・隊長が任命され,正規の作戦の一環として体当たり特攻攻撃が採用されていく。志願者の集まる自然発生的な部隊であれば,特攻隊の要員には,統帥も及ばないし,指揮官にも任命,訓練,昇進など人事に関する統率権はないはずだ。

大本営海軍部が大元帥天皇の名において発する命令が「大海令」である。これは「大本営海軍部命令」の略ともみえるが、第一次大戦では大本営は設置されないまま「大海令」は出されているから「大海令第×号」で固有名詞と考えてよい。軍令部総長は海軍に対して作戦に関する指揮・指示をする陸軍では、「指揮・指示」といわず「区処」という言葉を用いていた。大海指第431号は,海軍軍令部の出した指示であり,そこに特攻作戦の採用が命令されているのである。

写真(右):5000名以上が特攻隊員として戦死した

大海指第431号(1944/07/21)
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。 
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
   3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

作戦要領は次の通り。
1.各種作戦
ヾ霖蝋匐部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

2.奇襲作戦
ヾ饅浦鄒錣謀悗瓩襦E┫和發鯀或丙拠地において奇襲する。
∪水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
6秒牢饅永捨呂鯒枷し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。


以上,フィリピン方面の捷1号作戦が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲作戦、特殊奇襲兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特攻,特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。ただし,大海令ではないので,大元帥昭和天皇が奇襲作戦を命じたという形態は採っていない。もちろん,統帥権を侵犯するような特攻攻撃はありえないわけであり,大元帥が特攻作戦の発動準備をしていることを知らないでいたということはない。

写真(右):ルソン島で特攻隊員に訓示する大西滝治郎中将;1944年10月20日の初出撃から訓示や見送りが行われている。しかし,特攻隊員は3回出撃して,帰還している。

軍令部からフィリピンの第一航空艦隊長官(寺岡謹平中将から10月20日に大西中将が引継ぎ)宛(→「大海機密第261917番電」は,1944年10月13日起案,10月26日発信である。この電文は「神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」となっていて,現地ではなく,軍中央上層部で神風特別攻撃隊の編成が策定されたことがわかる

 この電報は軍令部作戦課(第一課)の航空担当源田実中佐(海兵52期)が10月13日起案し、上司の承認を得て発信している。とすれば,ある識者が,源田実中佐が「人間爆弾「桜花」開発推進の実力者であったとすれば、もちろんそのことは源田が最後まで隠しておきたかったことであろう。」と推測しているが,もっともである。(→戦史のウソ引用)

軍令部からフィリピンの第一航空艦隊長官(寺岡謹平中将から10月20日に大西中将が引継ぎ)宛(→「大海機密第261917番電」は,1944年10月13日起案,10月26日発信である。電文は「神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」となっていて,現地ではなく,軍中央上層部で神風特別攻撃隊の編成や部隊名称が策定されたことが確認できる。

写真(左):The Kamikazi Plane Yokosuka MXY7 Ohka (cherry blossom);人間が搭乗したまま,大型攻撃機(一式陸上攻撃機)から投下され,目標(敵艦船)まで操縦して爆弾を誘導する。搭乗者はそのまま,体当たり自爆する。このような特攻専用兵器を,兵士個人の発想で開発,試作,量産することは不可能で,軍による組織的対応が不可欠である。人間爆弾「桜花」の存在は,特攻という体当たり自爆攻撃が,軍の作戦として組織的に進められたことの一つの証である。RAF museum at Cosford near Wolverham 英国空軍博物館に展示してある人間爆弾「桜花」で,後方は,日本陸軍の百式司令部偵察機。

桜花のような特攻兵器は、カミカゼ特攻隊編成前の1944年7月の段階で決定しており、特攻作戦はレイテ戦以前から既定の方針だった。つまり、大西中将が現地で採用した作戦では決してなく、軍上層部で、マリアナ沖海戦の大敗北後に作成されていたのである。

体当たり特攻隊は,日本陸軍航空隊でも編成されていた。陸軍は,九九式双発軽爆撃機キ-48や百式重爆撃機キ-49「呑龍」,四式重爆撃機キ67「飛龍」を専用特攻機として改造した。これは、起爆信管の追加,大型爆弾を搭載できるような改装などで、陸軍の専門的な部隊が研究,改造したのである。決して、部隊が独自に行ったり、個人が自発的に行ったりしたのではない。軍隊では、このような改装を自発的に行えば、軍規違反であり、許されない。

写真(左):陸軍の特攻機として使用されたのと同じ九九式双発軽爆撃機(九九双軽);戦後の撮影のためか,米兵も点検している。通常は爆弾搭載量500kgと,米国の戦闘機程度しかなかったうえに,機銃装備も貧弱であった。さらに,陸軍の航空機であり,洋上攻撃の装備もまったくなかった。

日本陸軍航空隊の特攻隊は,鉾田陸軍飛行学校で編成されている。この学校は、1940年12月に茨城県鹿島郡鉾田に設置された軽爆撃機,襲撃機の幹部養成と研究を行う航空学校である。1944年6月には鉾田教導飛行師団に改称され、航空要員の養成と実戦指導に当たることになった。1945年7月には,教育活動を行うだけの要員も燃料も不足したために,実戦部隊の第26飛行師団に改編された。 

鉾田教導飛行師団で,九九式軽爆撃機を特攻攻撃用に改装する研究と作業が行われ,特攻要員の訓練が実施された。つまり,陸軍特攻隊は,命令によって,鉾田教導飛行師団で編成されたのである。陸軍初の特攻隊は「万朶隊」(ばんだたい)であり,海軍の神風特攻隊(敷島隊など4隊)よりも2ヶ月ほど早く,日本初の特攻隊として(命令により)部隊編成がされた。

陸軍特攻隊「万朶隊」(ばんだたい)を率いたのは,1943年,鉾田飛行学校の教官岩本益臣(ますみ)大尉(1917-1944)である。
 彼は米軍が既に実施していた「跳飛爆撃」,すなわち超低空飛行で爆弾を海面に水切り反跳させ,敵艦船に命中させる爆撃を,日本陸軍航空隊にも導入しようと尽力していた。

写真(右):陸軍特攻機として使用されたのと同じ九九式双発軽爆撃機(九九双軽);陸軍は,海軍の神風特攻隊よりも早くから航空機の特攻隊を編成していたが,実戦への投入は海軍よりも遅れた。 「万朶隊」隊長岩本益臣(ますみ)大尉(1917-1944)のプロフィールは次の通り。
1943年結婚、新婚生活は10ヶ月半。
1944年8月、台湾の基隆港で九九式双発軽爆撃機によりで跳飛爆撃を行い最高の命中率をあげた。

1944年10月、捷一号作戦が発動されるに伴い,岩本大尉以下24名は第4航空軍(フィリッピン)の陸軍特攻隊「万朶(ばんだ)隊」として出動した。

鉾田教導飛行師団では,このほかに,鉄心隊、勤皇隊、皇魂隊、振武隊4隊、神鷲隊12隊、外4隊と合計24の特攻隊が編成さている。

陸軍による特攻は,1944年11月のフィリピンであり,海軍の特攻に遅れたが,最初に編成された特攻隊は,陸軍航空隊「万朶隊」である。しかし,陸軍の特攻実施が部隊編成と搭乗員の問題から海軍よりも遅れた上に,空母撃沈のような華々しい戦果が挙げられなかったために,「万朶隊」は日本軍の中で故意に黙殺されてしまう。

写真(左):九九式双発軽爆撃機(九九双軽);機首,後上方,下方の3ヶ所に7.7mm機銃を装備しただけの軽防備で,燃料ダンクの防弾装置もなかった。「万朶隊」が特攻出撃したときには,防御兵器などはすべて撤去して,重い500kg爆弾を搭載したようだ。

特攻隊を犬死とするような「自虐的史観」はけしからぬ,と主張してきた有能な軍人やその思想の後継者であれば,戦果の大小にかかわらず,特攻隊を処遇すべきであろう。「神風特攻隊敷島隊関行男大尉が特攻第一号」「特攻は自然発生的に行われた」「特攻隊の生みの親は大西中条」といった海軍兵学校出身のエリート士官重視,特攻隊を編成した軍上層部の責任逃れ,戦果重視の思想は,特攻隊員を辱める行為となると考えられる。(靖国神社では,海軍兵学校出身の関行男中佐(死後二階級特進)を特攻第一号としているが,それ以前に特攻出撃し戦死した学徒出身者を特攻第ゼロ号として紹介している)

戦局挽回を図るため,陸軍航空技術研究所所長正木博少将などは,熱心に特攻攻撃によって,一機で一艦を屠るべきである主張した。「跳飛爆撃」のような艦艇撃沈にふさわしい戦法は試みられることはなくなった。かわって,旺盛な突撃精神を発揮しての特攻(体当たり自爆攻撃)こそが日本軍にふさわしいと判断されたようだ。これは,軍事戦略,戦術を冷静に合理的考えることなく,肉弾突撃の白兵戦と同じ精神主義で相手に戦いを挑む寓を犯したことになる。

体当たり自爆攻撃は,航空機が軽いジュラルミンで作られており,突入速度も600kmと爆弾よりも遅く効果が少ないとして,さらに,高速で突入する特攻機を操って,目標に体当たりするのには熟練搭乗員が必要だが,そのような搭乗員は少なく,訓練のための燃料が不足しているう状況では補充もできないと,岩本大尉は特攻に反対していた。陸軍初の特攻隊指揮官となった士官も,技術的理由から特攻の成果はあまり上がらないと考えていたのである。

 特攻は統率の外道であるとわかっていたのであれば,特攻など命じるべきではなかった。特攻隊員の命を犠牲にして任務を遂行することは,人命軽視であるだけでなく,有意な熟練兵士の命を1回限りで使い捨てるという犠牲が多く効果の少ない作戦の典型である。

陸軍による特攻作戦第一号は,1944年11月7日のフィリピン戦であり,海軍の特攻に遅れたが,最初に編成された特攻隊は,陸軍航空隊「万朶隊」である。しかし,陸軍の特攻実施が部隊編成と搭乗員の問題から海軍よりも遅れた上に,空母撃沈のような華々しい戦果が挙げられなかったために,「万朶隊」は黙殺されてしまう。陸軍は,1944年11月7日〜1945年1月13日までに,特攻突入148機,未帰還170機、自爆24機を出したというが,実際の特攻機突入はそれほど多くはないようだ。

九九双軽による「万朶隊」は,陸軍の特攻第一号といえるが,戦果をあげることができなかった。陸軍は,海軍の空母撃沈という戦果と比べられたくなかったのか,陸軍特攻第一号の「万朶隊」を,事実上,戦史から黙殺してしまう。カミカゼ=特攻(本来は海軍の航空特攻)といった認識が広まっているのも,陸軍の特攻がフィリピンで戦果を挙げられなかったことが端緒になっている。日本の戦記,生き残った(戦闘経過を知っている)特攻隊指揮官は,日本軍による特攻が戦果をあげていないとは認めたくなかった。
しかし,このような戦果を揚げられなかった特攻隊は黙殺する,戦果がないから特攻には意味がないといった認識は,「愛国者」には全くふさわしくない。にもかかわらず,軍司令官,高級将校の多くは,戦時中に,戦果をあげていない特攻隊を黙殺した。
彼らにとっては,戦果こそ全てだった。そのような人物が,戦後復興のために生き残って,陸軍特攻の聖地として知覧を賛美し,特攻で死んだ人たちがいるからこそ,今の日本がある,というのは,どのような了見からなのか。


体当たり自爆攻撃は,航空機が軽いジュラルミンで作られており,突入速度も600kmと爆弾よりも遅く効果が少ない。高速で突入する特攻機を操って,目標に肉弾突撃するのには熟練搭乗員が必要だが,そのような搭乗員も少なく,訓練のための燃料が不足しているう状況では補充もできない。こう考えた岩本大尉は特攻に反対した。陸軍初の特攻隊指揮官となった優秀な士官でも,技術的理由から特攻の効果はあまり上がらないと考えていた。

 特攻は統率の外道であるとわかっていたのであれば,特攻など命じるべきではなかった。特攻隊員の命を犠牲にして任務を遂行することは,人命軽視であるだけでなく,有意な熟練兵士の命を1回限りで使い捨てるという犠牲が多く効果の少ない作戦である。


写真(上):日本陸軍重爆撃機キ-67「飛龍」
;左写真は通常の爆撃型,右写真が特攻専用機。1944年10月の台湾沖航空戦では,雷撃機として活躍したが,フィリピン戦では特攻機として使用された。機種先端には,爆弾を破裂させる長い棒状の信管がついている。特攻用に機首の爆撃観測用のガラス窓が金属で覆われている。特攻専用なので,爆撃用装備は一切不要なためである。しかし,搭乗員は一蓮托生として,同乗する必要が必ずしもない爆撃主,偵察員なども特攻している。

日本陸軍は,当初,川崎九九式双発軽爆撃機キ-49と重爆撃機三菱キ-67「飛龍」を体当たり自爆攻撃専用機に改造して特攻を準備した。九九式双発軽爆撃機爆弾搭載量も少なく腹部下方に見える爆弾倉に通常は100キロ爆弾4発,最大で500キロ爆弾1発だった。特攻機として使うために,500キロ爆弾2発を装備できるように改造したようだ。

写真(右):陸軍特攻隊「富嶽隊」の重爆撃機キ-67「飛龍」;特攻専用機が出撃するところ。機首が金属で覆われ,後方の20mm機銃も取り外されている。特攻専用なので,爆撃用装備も機銃装備も一切不要なためである。

重爆撃機キ-67「飛龍」は,最大爆弾等裁量800kgのところ,自爆体当たり用には800kg爆弾2発を搭載した。特殊装備なので,不要となっても爆弾は投棄できない危険な構造だった。重爆撃機キ-67「飛龍」は,陸軍特攻隊「富嶽隊」と呼ばれた。800キロ爆弾2発を搭載したのは,一機よく一艦を屠るためである。しかし,鈍重になった爆撃機が,多数の戦闘機,護衛艦艇に守られている空母や戦艦に体当たりするのは至難の業であった。機体が大きいゆえに,レーダーにも察知されやすかった。

 軍事作戦の上からは,劣勢にあっても,優秀な兵士は長期間,何回も出撃する,休養をとらせるのが,本来の作戦で効果的な戦闘を継続できる。特攻隊員の心情は別にして,作戦としての特攻攻撃は,通常攻撃よりも効果が小さい。体当たりしそうなほど接近して爆弾を投下するほうが,命中率がよく,爆弾の衝撃・爆発の効果も大きい。

軽量化した骨組みの日本軍機は,急降下しても時速600kmくらいのスピードしか出せない上に,航空機の機体は,剛体(鉄の塊)ではないから,爆弾よりもはるかにもろい。したがって,特攻機の衝撃は,投下された爆弾よりもはるかに小さい。唯一の利点は,燃料を搭載している場合,引火しやすいということだけである。

写真(左):輸送艦「ネショーバ」USS Neshoba (APK-219)の乗員たち;「ネショーバ」は,満載排水量1万2000トンの輸送艦で,1944年11月に就役した。1945年3月に沖縄攻略作戦に参加した。日本の特攻機が狙った艦船あるいは輸送船には,このような米国の若者たちが乗っている。特攻機が命中するということは,彼らを殺害することを意味する。Pictures from Ben Domack

特殊奇襲兵器でも,次のように軍上層部の関与を示している。
1944年6月19日,341空司令岡村大佐は,福留中将に対して「体当り機300機をもって特殊部隊を編成されたい」と意見具申。
1944年6月25日、サイパン島奪回作戦に関する会議の席上、元帥伏見宮博恭王が「特殊の兵器の使用を考慮しなければならない」と発言。

こうした中,最後の空母・航空機決戦であるマリアナ沖海戦で艦載機だけでも350機以上失い,熟練搭乗員,大型航空母艦も壊滅状態に陥った日本海軍は,大敗北を喫したことを認め,正攻法による作戦では勝ち目がないことを悟る。この時期に,特攻「作戦」の採用が決まったといえる。
1944年7月、戦備考査部会議で「特殊兵器緊急整備計画」が策定され海軍水雷学校長大森中将の指揮する特殊兵器整備促進班を設ける。

写真(右):1944年10月16日,魚雷を受けた米海軍軽巡洋艦「ヒューストン」USS Houston (CL-81) ;10月14日にも魚雷を受け死傷者を出している。台湾沖航空戦では,日本海軍はT攻撃隊という精鋭部隊を投入した。部隊は,新鋭機「銀河」「飛龍」や一式陸上攻撃機を用いてで,雷撃,爆撃を行った。その戦果は,軽巡洋艦「ヒューストン」に10月14日,10月16日に各々魚雷1本命中,中破,重巡洋艦「キャンベラ」に10月13日夕刻に魚雷1本命中,中破である。しかし,日本軍は空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻などを撃沈したと考え歴史的な大戦果を挙げたと考えた。

1944年10月の台湾沖航空戦の戦果誤認訂正電報を大本営で受けた瀬島龍三参謀は,過大な戦果(空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻などを撃沈)が既に大元帥昭和天皇の上聞に達していたという理由で,この修正の電報を握りつぶし,誤った過大な戦果報告を訂正しなかった。(→「山下奉文大将終焉の地 慰霊碑修復計画」に異議あり引用)

特攻が自生的に行われたとする大本営参謀瀬島龍三中佐は,捷一号作戦(フィリピン作戦)を担当し、沖縄戦でも第五航空軍で特攻作戦にあたった。大本営参謀瀬島龍三中佐は、戦後伊藤忠商事に入社、戦後賠償に関わる援助ビジネスに関与し、伊藤忠会長にまで昇りつめた。退社後,中曽根首相の臨時教育審議会委員や臨時行政改革推進審議会会長も引き受けた。「特攻は自然発生的なもの」で,特攻作戦に関する上官の責任など,一切ありえないとの立場をとった。(2007年9月4日死亡)

  富永恭次中将は,捷一号作戦でフィリピンの日本陸軍航空隊,第四航空軍司令官として活躍した。「最後の1機に乗って特攻に加わる」として,特攻隊を送り出した。しかし,富永中将は,撤退命令のこないうちに,台湾に逃げてしまう。これは,部下も置き去りにした「敵前逃亡」(軍法では最高死刑)に等しい軍紀違反である。
日米開戦時に陸軍省人事局長だった富永恭次中将は,瀬島龍三参謀の庇護者である。陸軍航空隊(特攻隊を含む)総元締めの第四航空軍司令官だった>

朝鮮半島の元山空は,零式練習戦闘機(練戦)を配備していた。訓練に使われたのは、古いものばかりだったようだが,教員・教官も,練習生も「飛べれば結構」と、新旧はあまり問題にしていない。しかし,特攻機としても練習機・搭乗員を送り出している。青木司令は,司令会議で博多に出張しているが,そのときにも練戦を使用した。
NPO九州アジア記者クラブによれば,青木司令も、1945年8月11日、朝鮮元山の海軍基地から家族ぐるみで日本に逃亡した。

菅原道大(1888年11月28日生〜1983年12月29日没)
1939年10月 中将昇進,航空総監部附,1939年12月 下志津飛行校長
1940年8月 第一飛行集団長,1941年9月 第三飛行集団長(のちにマレー戦・蘭印戦参加)
1942年7月 第三航空軍司令官,1943年5月 埼玉県の陸軍航空士官学校校長
1944年7月 航空総監・航空本部長,8月 (兼務)教導航空軍司令官
1944年12月 第六航空軍司令官(沖縄方面の特攻指導)
陸軍航空部隊の頂点に立った菅原道大大将は,特攻を主導し,「最後の1機で特攻出撃する」といって部下を特攻に送り出した。しかし,大元帥から軽挙妄動を慎むように支持がなされたたため,戦後処理の大任を引き受けた。

ウォナー夫妻(1982)『神風 (下)』によれば,海軍の宇垣纒中将が特攻出撃,戦死した報が伝わると,最後の出撃により死ぬ機会をあたえてほしいと要望する隊員が、陸軍でも出た。第六航空軍高級参謀鈴木京大佐は,重爆1機を用意した。そして,菅原司令官に「一機用意いたしました。鈴木もおともします」と言った。この申し出に、菅原大将は「宇垣が死ねことにきめたとしても、自分にとってはこれからの後始末が大事だと答えて、『死ぬばかりが責任を果たすことにならない。それよりは後の始末をするほうがよい』と語った」

菅原司令官は,戦後,特攻の慰霊碑事業を指導した。1952年特攻隊「戦没者異例平和祈念協会をやはり戦後も生き残った及川古志郎海軍大臣,寺岡謹平司令官たちと立ち上げた。

軍上層部は,明確に「自爆体当たり攻撃をせよ」との命令を下したわけではなく,米軍の言う「自殺攻撃」「自爆テロ」のかわりに「特別攻撃=特攻」という言葉を作り出した。この「特別攻撃」の語は,1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃に際して,特殊潜航艇による湾内突入雷撃計画にも使用されている。このように明確な自爆体当たり命令がないことが,「自発的な志願者による犠牲的精神の発露として,特攻が行われる」との説が流布している理由である。

しかし,犠牲的精神を要求した上官の責任を一切認めようとしない態度こそ,特攻隊員に対する欺瞞であろう。事実上の命令で特攻隊員に任命され,特攻隊が編成された。若者に犠牲的精神を求め,その命を要求した責任は,命令者たる上官がとらなくてはならない。


写真(左):護衛空母「サンガモン」USS Sangamon(CVE-26)
;基準排水量1万1,400トン,速力18ノット,搭載機32機の低速小型空母。1944年10月末,神風特別攻撃隊敷島隊は、護衛空母「スワニー」「サンティー」に突入した,その後、護衛空母「サンガモン」も特攻機の被害を受けた。しかし、これらはみな戦列に復帰し、沖縄攻略に参加した。1945年5月4日1900、沖縄近海で「サンガモン」は特攻機に艦橋の通信アンテナをもぎ取られた。その33分後,特攻機が命中し大破。米国本土に修理のため回航。しかし,全損となり、戦後にスクラップにされた。

軍上層部は,明確に「自爆体当たり攻撃をせよ」との命令を下したわけではなく,米軍の言う「自殺攻撃」「自爆テロ」のかわりに「特別攻撃=特攻」という言葉を作り出した。この「特別攻撃」の語は,1941年12月8日の真珠湾奇襲攻撃に際して,特殊潜航艇による湾内突入雷撃計画にも使用されている。このように明確な自爆体当たり命令がないことが,「自発的な志願者による犠牲的精神の発露として,特攻が行われる」との説が流布している理由である。

しかし,犠牲的精神を要求した上官の責任を一切認めようとしないことこそ,特攻や特攻隊要員に対する欺瞞であろう。事実上の命令で特攻隊要員が任命され,特攻隊が編成されたのであり,若者に犠牲的精神だけではなく,その命を(事実上)要求した責任は,命令者たる上官がとらなくてはならない。

9.米軍は,1944年10月後半,フィリピン攻略作戦で,初めて航空機による組織的な体当たり自殺攻撃に見舞われた。これは,日本軍が神風特別攻撃隊を編成し,航空機による体当たり攻撃を大規模に実施したためである。兵士個人はもちろん,現場の部隊指揮官が,航空機という軍の貴重な兵器を勝手に体当たりに使用したり,勝手に部隊を編成したりすることは許されない。日本軍の最高司令官の命令,許可,暗黙の了解をもって,特攻隊を組織し,作戦に組み込んで運用した。

写真(右):レイテ沖海戦,連合艦隊司令長官だった豊田副武大将;パラオ諸島からフィリピンのミンダナオ島ダバオへ移動中に飛行艇が墜落して殉職した古賀峰一長官の後をついで,連合艦隊司令長官に就任した。1944年6月19日,20日のマリアナ沖海戦(あ号作戦)、10月25,26日のレイテ沖海戦(捷1号作戦)、1945年4月の戦艦「大和」沖縄海上特攻(天号作戦)を命令したが,いずれも惨敗した。豊田副武大将は,1885年(明治18)5月22日大分生まれ - 1957年9月22日没。1944年(昭和19年)5月3日 - 1945年5月29日の期間,連合艦隊司令長官を務め,沖縄戦で天一号海上特攻作戦も発令した。重光葵・元外務大臣と同じく,県立杵築中(現・杵築高校)の出身。豊田長官は,母校に日の丸を贈り,在校生たちは、毎日、同級生の吹くラッパの音とともに国旗を掲揚していた。及川古志郎は,1940年9月5日から海軍大臣を1941年10月18日まで務め,1944年8月2日から軍令部総長。盛岡中学校の出身で,後輩には板垣征四郎陸軍大臣,石川啄木,同窓には金田一京助,先輩には米内光政海軍大臣がいる。幼年学校出身ではなくとも,軍の最高司令官になった人物はたくさんいる。

 連合艦隊司令長官だった豊田副武大将は,フィリピン戦での捷1号作戦では,水上部隊によるレイテ湾突入を計画したが,現地指揮官栗田健男中将は「全軍突撃せよ」との上官豊田大将の命令を無視したかのように,反転,撤退してしまう。第一航空艦隊は,特攻作戦を採用し,第一遊撃部隊のレイテ湾突入を援護したつもりでいたが,水上部隊の指揮官は,敵艦隊,敵輸送船に対する突撃,砲撃を決断できなかった。

レイテ湾突入直前の栗田艦隊の「なぞの反転」には諸説がある。
ゞ瓩にいる米任務部隊の航空母艦を攻撃するために反転したとの説(栗田長官の言):既に航空母艦を砲撃している以上,信憑性がない。
▲譽ぅ届僂貌容しても空の輸送船しかなかったとの説(戦史家伊藤正徳):米軍が輸送船に艦船の護衛をつけずに放置することがない以上,これも信憑性がない。
J瞳海凌緇經和癲航空機の同時攻撃によって全滅してしまう悲劇を回避するために,レイテ湾に突入しなかったと考える説(『レイテ戦記』著者の大岡昇平の説):合理的である。

栗田中将が臆病者であるとは思わないが,日本海軍上層部や作戦に参加しなかった高級将校は,命を惜しんだと判断した。下級士官や下士官・兵からなる特攻隊員が命を捧げるのを潔いとして大宣伝していた海軍にあって,将官クラスが無事撤退した。日本軍では,将兵の命は軽んじられ,軍艦。航空機を破壊すれば,元は取れるという物質主義的計算をしていた。兵士よりも,資金,兵器を貴重なものであるとする貧しい国の発想だった。

写真(左):フィリピンで物資を積み込む米軍;フィリピンを後方基地として、ここで沖縄攻略用の物資を備蓄した。艦首が観音開きに開く戦車揚陸艦LSTによって、沖縄の陸上部隊への物資供給が行われた。上空には偵察連絡機「グラスホッパー」。Barrels of fuel and boxes of other materiel are shown below being loaded at Leyte. このようは上陸地点を攻撃することの意義を,栗田艦隊は理解していたのか。輸送船や上陸地点を艦砲射撃しないまま,撤退してきた理由は何か。敵艦隊と航空部隊による攻撃で,全滅させられることを回避したかったのであろう。

大西瀧治郎中将が指揮するフィリピンの第一航空艦隊は、350機以上の保有機があるはずであったが,10月1日の実働140機程度,10月20日頃になると,40機(零戦37機,艦上攻撃機「天山」3機,陸爆撃機「銀河」1機)に減少していたようだ。

 大西瀧治郎中将は1944年10月9日東京出発し、鹿屋についたが,10月10日には沖縄の那覇が米任務部隊の艦載機の大空襲を受けた。そこで,米国艦載機を避けるように,上海を経由して10月11日台湾高雄に到着した。同日,連合艦隊司令長官豊田副武長官がフィリピン視察の帰途に,台湾新竹基地に立ち寄っていたため,新竹に豊田長官を訪問したところ,10月12-14日と台湾は米海軍機による空襲を受けた。日本海軍機も反撃して「台湾沖航空戦」となった。

「大西瀧治郎中将は豊田長官と共に、新竹上空における日本軍機と米軍機との空中戦闘を見守り、わが搭乗員の技術の未熟,練度の低さを実感し,体当たり自爆攻撃以外に方法はないとの感を一層強くした。」といわれることもある。

しかし,台湾沖航空戦の緒戦では,八幡部隊など日本軍の新鋭機「銀河」,キ67を含む雷撃機,爆撃機が米空母を多数撃沈したとの報告を日本海軍は受けた。したがって,大西中将が,台湾沖の攻撃で,米海軍艦艇に大損害を与えたとしても,それだけでは満足していなかったことは確実である。徹底的に攻撃を反復し,米海軍兵力を撃滅、殲滅することを望んだようだ。つまり,特攻攻撃という作戦は,台湾沖航空戦の成否,戦果によって、変更されることはない規定の作戦だったことが窺われる。日本軍上層部の既定の方針として,航空機に爆弾を搭載したたまま体当たり自爆をする「特攻」が進められるようとしていた。

10.神風特別攻撃隊は1944年10月20日に初出撃したが,敵を発見できなかった。その後,10月21日,22日,24日とほぼ連日のように出撃したが,やはり敵を見なかった。大半の特攻機は帰還したが,一部は未帰還機になった。また,日本機による通常攻撃も行われており,10月24日には,日本(急降下爆撃)機がはなった爆弾が高速小型空母「プリンストン」に命中,撃沈した。この日本機の通常攻撃とその戦果は当時から過小評価されていたし,戦後の戦史にもあまり取り上げられていない。これは,通常攻撃では戦果は挙げられないから,体当たり特攻隊を編成するしかないと考える軍上層部には好都合である。

写真(右):軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);空母は火災を起し,弾薬庫に引火して大爆発した。このとき,消火作業に当たっていた米海軍巡洋艦「バーミンガム」も,爆発の巻き添えとなり,舷側部分に多数の爆破片が降り注ぎ,死者85名,負傷者300名を出した。1944/10/24,USS Princeton on fire east of Luzon, 24 October 1944

1944年10月24日,日本海軍は北と西からフィリピンの米軍に攻撃をかけてきた。米軍のフレデリック・シャーマンFrederick C. Sherman提督の第58任務部隊Task Group 38.3は,ルソン島中部から100マイル東方で活動していた。

米海軍ウィリアム・ハルゼ−William F. Halseyの第三艦隊Third Fleetとともに,第38任務部隊TG38.3は,レイテ島侵攻を開始した米軍を支援していた。24日朝,シャーマン提督の空母「エセックス」Essex, 「レキシントン」Lexington, 「プリンストン」Princeton,ラングレーLangleyの4隻は,日本機の攻撃を受けた。 
作戦に際して,空母「プリンストン」は,戦闘機23機,雷撃機10機を搭載していた。

写真(左):軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);1944/10/24,USS Princeton on fire east of Luzon, 24 October 1944

大半は,撃墜されたり,撤退したが,1機の「彗星」艦上爆撃機(米軍呼称"Judy")が0938に250キロ爆弾を空母プリンストンの飛行甲板に投下した。 爆弾は,6機のTBF「アベンジャー」雷撃機の係留されていた格納庫hangarを突き抜けて,乗員控室で爆発した。空母「プリンストン」はいまだに航行していたが,格納庫を閉鎖した後,1002に大爆発を起こした。空母の消火,救助作業に軽巡洋艦Light cruisers「バーミンガム」Birmingham,(防空巡洋艦)レノReno, 駆逐艦destroyer「アーウィン」Irwin (DD-794),「モリソン」Morrison (DD-560)が加わった。

しかし,1523, 空母「プリンストン」は再度,大爆発を起こし,消火と救助作業のため横付けしていた巡洋艦バーミンガムは爆風で飛ばされた船体の破片を受けて,甲板にいた乗員数百人が死亡した。救助は放棄され,残っていた空母「プリンストン」乗員は運び出され,合計1,361命の乗員が生き残った。

駆逐艦「アーウィン」が雷撃と砲撃で空母を処分しようとしたが果たすことができず,巡洋艦レノが空母「プリンストン」の爆弾格納庫近くに魚雷を命中させ,空母「プリンストン」は大爆発を起こした。空母は米海軍自らの手で海没処分されたのである。(→Loss of USS Princeton (CVL-23), 24 October 1944NAVAL HISTORICAL CENTER,およびUSS Princeton (CVL-23)の翻訳引用)

軽空母「プリンストン」の乗員は,死亡347名,負傷552名,行方不明4名。この惨劇をwebで目撃証言をしたHarry Pophamも片足を失っている。In the explosion that occurred hours after the Judy's bombing run, my right leg was blown off at the knee and buried at sea. So, in effect, I already have one foot in the grave.そして,爆発は6機のTBMには,ガソリン2,500ガロンが満載で,魚雷もあったために,大火災となり,煙が充満した。艦内のスプリンクラーは,10分たたないうちに作動しなくなった。
空母プリンストンの爆発に巻き込まれたっ巡洋艦バーミンガムの乗員の死亡230名,負傷408名,行方不明4名。(→Eyewitness to Tragedy: Death of USS PrincetonBy Harry Pophamの翻訳引用)


写真(上):1944年10月24日、日本機の爆撃で炎上した軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)に巡洋艦「レノ」が消火作業に接近
;1944/10/24,USS Princeton on fire east of Luzon, 24 October 1944 USS Reno (CL-96) stands off the starboard quarter of USS Princeton (CVL-23), while fighting fires on board the bombed carrier, 24 October 1944. Note Reno's forward 5"/38 twin gun mounts in the foreground, with local fire control sights on top.Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval Historical Center (# NH 63439).

クリ-ブランド級軽巡洋艦「バーミンガム」CL-62 USS BIRMINGHAM
軽空母「プリンストン」の消火活動の最中に、空母の爆発に巻き込まれて大損害を負った。
排水量10,000トン, 全長610' 1" (oa) x 66' 4" x 25' (Max)
兵装 12門 x 6インチ砲/47口径, 12門 x 5インチ砲/38口径対空砲, 28門 x 40mm機銃, 10丁 x 20mm機銃, 航空機4機搭載
装甲 5インチ/舷側,6インチ/砲塔, 2インチ/甲板, 5インチ/艦橋。
10万馬力タービン, 4軸スクリュー,速力 32.5 Knots, 乗員 1255名

写真(左):10月24日1523,大爆発を起こして撃沈した軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);軽空母「プリンストン」の損害は,死者347名,負傷者552名,行方不明4名。空母に横付けして消火作業に当たっていた巡洋艦「バーミンガム」も死者200名以上の大損害を受けた。Heavy explosion aft on USS Princeton (CVL-23), with USS Birmingham (CL-62) alongside, 24 October 1944. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives (photo # 80-G-281663-3).

駆逐艦「アーウィン」は,2,500ヤードで第1発目の魚雷を発射したが,効果なし。1分後,第2発目の魚雷を発射したが,効果なかった。2分後,1,500ヤードから第3発目の魚雷を発射したが,魚雷はUターンしてきたので,危うく回避した。3分後,第4・5発目の魚雷を2発発射したが,魚雷は外れた。

 米軍による後の調査で,駆逐艦「アーウィン」の魚雷発射管が空母の救助作業で損傷していたためとわかった。防空巡洋艦レノが魚雷2発を発射し,空母の積載していた70トンの爆薬が爆発した。45秒後に,空母「プリンストン」は海に消えた。(→Eyewitness to Tragedy: Death of USS Princeton(4)By Harry Pophamの翻訳引用) 

空母「プリンストン」は,護衛空母ではなく,高速の小型空母である。その意味で,空母の撃沈は,日本航空隊の大きな戦果であるが,これは日本木の体当たり自爆という特攻ではなかったようだ。通常の急降下爆撃による攻撃で,米空母を撃沈したのであろう。

しかし,おかしなことに,日本における当時報道は,過大で誇張された傾向にあったにもかかわらず,空母「プリンストン」撃沈については,ほとんど取り上げられていないようだ。これだけであれば,日本軍の情報収集能力,戦況。戦果の把握能力が,航空機不足,通信装備の貧弱さ,通信・暗号技術の低さのため,空母撃沈の真相がつかめなかっのかもしれない。

戦後になっての日本の戦記や,公刊物の取り扱いを見ると,空母「プリンストン」撃沈が無視されているかのごとく,「そのほか,所属不明の日本機が軽空母「プリンストン」も撃沈した」と,手短に述べるにとどまっている。過大な戦果で,1隻の撃沈できなかった台湾沖航空戦は,T攻撃隊など,それなりの分量を当てて記述している公刊物も,空母プリンストンの撃沈という当時の大戦果を目立たないように記しているのである。

写真(右):レイテ戦の米第1騎兵師団;1st Cavalry Division troops advance inland through swampy terrain. (National Archives). 第1騎兵師団は、レイテ島タクロバンTacloban飛行場を占領した。他方、米だい24歩兵師団Infantry Divisionは、上陸したレイテ東海岸のHill 522を占領した。この戦闘での戦死者は49人、負傷者は192人、行方不明 6人である。

特攻機の出撃に先立って、敵艦艇の位置を発見し、攻撃部隊を誘導する偵察部隊の活躍も、体当たり特攻の影に隠れてしまうが、決死の行為には違いなかった。 鈴木保男氏の所属した偵察第四飛行隊は、レイテ方面の局地偵察、洋上索敵に従事したが、その様子は次のように記述されている。(字体を統一のため洋数字に変更)

「1944年7月、三重県鈴鹿基地にあった141空(彗星(二式艦偵二座機使用)はその後、---実動ペアは鹿屋基地、沖縄小禄基地に進出、沖縄沖航空戦、台湾沖航空戦における指揮官の耳目となって働いた。---

レイテ島タクロバン泊地の局偵は燃料満タンクにして泊地侵入前、落下増槽を落とし全速航過、写真並びに目視偵察をして来るのであるが、あの頃、泊地上空は概ね天候悪く低空侵入のため、敵戦闘機に食われた機がかなりあったようである。泊地にはおびただしい敵艦船が入っており、アメリカの物力の偉大さを痛感させられた---。

基地に帰って司令に報告後、マニラ郊外の民家のこもった司令部に行くのに自動車で約30分かかる。途中匪賊にやられる場合があり夜など拳銃発射用意をして、気が気でなかった。司令部には当時大西滝次郎中将がおられ小生も再三報告に行ったことを記憶する。多くの隊員達が「テ」連送(敵機動部隊見ゆ)ヒ連送(敵艦上機見ゆ)またはラ連送(われ不時着す)の連絡で未帰還、連絡の入らない者は電信室に誰も心配顔できき耳を立て、日暮れてからも灯をつけて待つが遂に帰らず親しき友はただ万こくの涙をかみしみるだけであった。---」

写真(左):海軍偵察機「彩雲」C6N

1944年12月---、パンパン基地に移動することになり、使用機も彗星から彩雲に漸次切替えられるようになり、-----前隊長立川大尉は動かざる飛行機(可動機四分の一程度)の犠牲となった形で転勤先、硫黄島に向けダグラス便で出発された。----待望の彩雲も五機、六機と空輸されてくるにおよんで、隊員の士気は軒昂たるものだった。

1944年12月31日、---その前日、搭乗割をいつもの通り自分で決定し、明日は自分のペアを飛ぶことにしておいた。敵機動部隊がルソン島東方海面にいる模様の情報は、前夜夜間索敵機の電探より入った。スハ明日こその決意のもと、例により計画を綿密に打ち合わせ11時就寝、この日4時起床、特に司令中村子之介大佐の命により、この日は小生のペア彗星で(操)高森少尉と組み、無理をしても任務完遂を諭されて出る。
0606基地離陸マラヤット山(1035m)を右に見て、針路90度高度800m、速力230ノットでヂソガラン湾の海岸線を過ぎる。(さらに北方海面をもう一機彩雲のペアが出た。)天候曇、雲量八、雲高1000、視界30マイル、受持海面一点も見落すまいと捜索しながら飛ぶ。
0710エンジンの爆音不調、(操)より直ちに引返すといってくる。機位を見ると間もなく変針点なので、任務続行を下令、高度を除々に上げる。
0715右変針、数分間飛び、索敵のポイントに対し厳重な見張りをしつつあった時、突然「ババーン」右排気管より焔をはきエンジン停止、直ちにグライドに入る。「落ち着いて、落ち着いて」を(操)に繰り返す。----「沖縄で多く末備還になった友も、かくて海に突っ込んで最後を遂げたのだろう」という観念が脳裡をかすめる。高度はグングン下って200m、フ連送の電鍵を叩く。---搭乗時間3000時間を越す老錬なる高森少尉あわやという所で不具合ながらエンジンは再び掛った。右シリンダーがプチ抜けています。」前席から言ってくる。
速力はやっと90ノット。----哨戒から帰りらしいB24リベレーターに遭遇してしまった。最早絶望と観念せざるを得なかった。エンジンは相変らず.バタンコン、バタンコン焔をふいている。---「最後まで闘う」を前席に繰り返す。

敵は遠くより迂回して追尾、1000m位よりグングン近接して来るや、丁度いい所で機銃発射。こちらは海面すれすれに垂直旋回、速力は無理をもても巡航の半分しか出はい。火焔と白い煙は右排気管から絶えず出ている。----曳痕弾が蛇の頭のように左右の翼を夾叉して行く。旋回銃の安全装置を外して引き金を引くが、開挺が途中で焼きついていて動かない。拳銃の試射をやる。第一発不発。第二発が出た。何時でも死ぬ用意は出来た。「われ敵と撃戦中」も打電した。----高度計はマイナスを指している。かくして深刻な危機は30分近く続いた。もはやこれまで「近づいたら体当りする」前席に下令。しかし幸いなるかな、敵も燃料が切れるか、あきらめたらしく、ついに針路を南に変えて見えなくなって行った。

それからが大変である。何しろ30分近く動いてしまっているので、正確な機位が判らない。とに角、針路230度で徐々に高度を上げる。---
「鈴木中尉、陸岸が見えます」前から絶叫して来た。直ちにそれに向け少しずつではあるが高度を上げつつ飛ぶ。カタンヅァネス島らしい。高度6000。速力100ノット。相変らずのエンジンの調子。チャートを探すと「ナガ」不時着場が最も近いようだ。「ナガに不時着する」打電後それを捜すも見当らず、前方にマリンヅケ島を確認「ルセナ」に不時着の決意をして、右前方10マイル附近に「ルセナ」の街が白く見える頃「ルセナ」の町が見える。「右変針之に向う」を下命、右に旋回し出し時、エンジン停止。今度こそ絶望だった。「着陸します」前より厳然たる声「落着いて」を繰り返す。高度はグングン下る一方。速力高度を読んでやる。「高度150、速力100、95、90・・・高度50・・・」とたんに何物か森のような塊が右翼にプチ当ったと思うと、機はザザーツと泥田に滑り込んだ。時に10時45分天気も晴れて南の太陽はヂリヂリと照りつける。

騒然たる爆音がハタと止り、あたりはむし暑い田甫の中、緑の稲が50cmばかりに伸びている。----まず拳銃発射用意をして、(操)の救出につとめる。高森少尉は全く意識を失って前席に血だらけになって突っ伏している。----左手が利かないので袖をまくって見ると、手首の所がポッキリ折れて不気味にハレ上っている。併し痛まない。何とか(操)を前席より引っぱり出してスイッチオフにする。----唇はたてにさけ顔面出血がひどい。エンジンはポキリと取れて五米程前にコロがっている。----まず暗号書と地点図と水晶発振子を焼却。靴で踏みつけてしまう。ふと向うの方を見渡すと一人の土人がいる。敵性の土人だと危険なので、充分警戒して手招きすると近づいて来た。いろいろジェスチャーを使って意志の疎通をして見ると、どうやら悪性ではないらしい。---」(→偵察第四飛行隊引用)

写真(左):空母フランクリン;1944/10/30フィリピンのレイテ島沖合で特攻機の命中を受け損傷。USS Franklin (CV-13) afire after kamikaze hit, 30 October 1944.

 戦局挽回のためには,体当たり特攻攻撃を採用するほかないと考えられる理由は,次のようなものであろう。
〕ダな米軍航空隊の前に、少数の日本機が反撃しても,搭乗員の技術と航空機の性能が低いために,戦果は上がらない。
∧瞳海鉾新發靴討癲て本機は撃墜され,搭乗員の損失も増えてしまう。
D名鏐況發鮖迭櫃韻董て本機・搭乗員が無駄に費やされれる「犬死」よりも,必至必殺の体当たり攻撃を仕掛けたほうが,戦果を期待できる。
そして,米軍に対して必殺攻撃を仕掛けて大戦果をあげれば,日米和平の動きも可能となると期待したかもしれない。

11.連合国の資料では,1944年10月にフィリピン戦で初めて航空機による体当たり自爆という特別攻撃を受けたとするが、特攻の初戦果は,1944年10月21日のオーストラリア海軍の重巡洋艦「オーストラリア」への攻撃とする場合が多い。日本側は,1944年10月25日、敷島隊の海軍兵学校出身指揮官関行男大尉の零戦による体当たりで,米国海軍の護送空母「セント・ロー」を撃沈したのを初戦果として、大々的に報道した。それ以前の特攻隊の戦死者は,黙殺されたが,これは「特攻は、海軍兵学校出身が率先して行ない、一機よく一艦撃沈した」との喧伝のためである。

写真(右):連合国側資料では,1944年10月21日,オーストラリア海軍の重巡洋艦「オーストラリア」が初めて特攻を受けたとする。
Type: County Class Heavy Cruiser 基準排水量: 10,000トン、全長Length: 630 feet (overall)、全幅Beam: 68 feet 4 inches
建造所Builder: John Brown & Co Ltd, Clydebank, Scotland 進水Laid Down: 26 August 1925、艤装竣工Launched: 17 March 1927、完成引渡しCompleted: April 1928
機関Machinery: Brown-Curtis Geared Turbines, 4 screws、馬力Horsepower: 80,000
速力Speed: 31½ knots、航続距離Endurance: 10,400 miles (11 – 14 knots)
兵装Armament: 8門 x 8-inch guns、8門 x 4-inch guns、4門 x 3-pounder guns
乗員Complement: 848 (war), 679 (peace)


写真(左):重巡洋艦「オーストラリア」の艦橋と全部砲塔

実際の日本軍の航空機による特攻作戦が開始されたのは,米軍がフィリピンレイテ島に上陸を開始した1944年10月20日からである。しかし,度重なる特攻隊の出撃にもかかわらず,5日間は戦果を上げることができなかった。日本では,1944年10月25日の「敷島隊」零戦による体当たり攻撃で,米国海軍の護送空母「セント・ロー」を撃沈したのが,初戦果であると広く認められている。

しかし,連合国の資料では,日本軍自殺航空機Japanese suicide planeによる特攻の初戦果は,1944年10月21日レイテ湾Leyte Gulfにいたオーストラリア海軍の重巡洋艦「オーストラリア」の損傷である。この体当たり攻撃で,6名の将校,23名の下士官・兵が殺された。9名の将校と52名の下士官・兵が負傷した。

この損傷を与えたのが,本当ににカミカゼ攻撃によるのかどうかは,不確実ではある。被弾した日本機が,覚悟を決めて,体当たり攻撃をしたのかもしれない。いずれにせよ,航空攻撃で損傷した重巡洋艦「オーストラリア」は,ニューギニア島近くのマヌスManus島基地にオーストラリア海軍軍艦HMAS WARRAMUNGAによって護送され,そこからニューヘブリデス諸島the New Hebridesのエスピリット・サントEspiritu Santo基地に修理のために送られた。

On 21 October 1944, after bombardments in Leyte Gulf in the Philippines, AUSTRALIA was hit by a Japanese suicide plane. Six officers and 23 ratings were killed and her Commanding Officer, Captain E.F.V. Dechaineaux DSC RAN, later died of wounds. Nine officers, 52 ratings and one AIF soldier were wounded. Whether this was the first deliberate Kamikaze attack on allied ships is uncertain.

写真(左):重巡洋艦「オーストラリア」;「女王陛下のオーストラリア海軍」HMAS AUSTRLIA Returns from Philippines Campaign - Missing Fwd Funnel and other serious damage.

1945年1月5日までに,重巡洋艦「オーストラリア」は,ルソン島侵攻作戦参加のために,リンガンエンLingayen Gulfに戻った。 そして,今度は確実なカミカゼ攻撃を受けた。重巡洋艦「オーストラリア」AUSTRALIA は,11945年月5日, 6日, 8日,9日と連日のように特攻を受けた。死者は,将校3名,下士官・兵41名,負傷者は,将校1名,下士官・兵68名である。これが,第二次大戦でのこの巡洋艦の最後の作戦であった。1945年5月24日に重巡洋艦「オーストラリア」は,米国経由で英国に航海し,プリマス港に1945年7月1日に到着した。

写真(右):重巡洋艦「オーストラリア」の損傷;1944年10月21日,自殺機により損傷。 Six officers and 23 ratings were killed and her Commanding Officer (CAPT E. F. V. Dechaineaux, DSC) later died of wounds. Nine officers, 52 ratings and one AIF soldier were wounded.

重巡洋艦「オーストラリア」と初めての特攻の戦果に関するリンク
First Kamikaze? Attack on HMAS Australia -- October 21 st, 1944
HMAS Australia
Japan's Suicide Pilots of World War II Kamikaze
H.M.A.S. AUSTRALIA
HMAS AUSTRALIA (II)
HMAS Australia Wikipedia
World War II service records;オーストラリア
'kamikaze' オーストラリアの戦争;
The Return The Philippines;オーストラリアの戦争

Here she was subjected to repeated suicide attacks, this time there was no doubt of the Kamikaze nature of the Japanese planes. AUSTRALIA was hit on 5, 6, 8 and 9 January, losing 3 officers and 41 ratings killed and 1 officer and 68 ratings wounded. This was the ship’s last action in World War II. After repairs in Sydney, AUSTRALIA sailed for the United Kingdom via the United States on 24 May 1945 for a major refit, arriving at Plymouth on 1 July. (→HMAS AUSTRALIA (II) 引用)

写真(右):空母Aircraft Carrier 「フランクリン」;1944/10/30,フィリピンのレイテ島沖合で特攻機の命中を受けた。USS Franklin (CV-13), at right, and USS Belleau Wood (CVL-24) afire after being hit by Japanese kamikaze suicide planes, while operating off the Philippines on 30 October 1944. Photographed from USS Brush (DD-745). Note "flak" bursts over the ships.

フィリピンには,日本海軍航空隊の第一航空艦隊の中に特攻隊が編成されていた。この最初の出撃は1945年10月21日であった。日本の資料では,一様に10月21日には,米海軍任務部隊を発見することができなかったとする。しかし,米国歴史学会その他では,オーストラリア海軍の旗艦である重巡洋艦「オーストラリア」が特攻機の命中を受けた。特攻機は500キロを搭載していたが不発で,爆発しなかった。しかし,ガソリンなどに引火して巡洋艦は損傷し,30名以上の乗員が死亡した。

日本側の記録では,特攻隊の初回は,10月25日とされるが,実はこの特攻は4回目の出撃である。体当たり攻撃は,10月20日以来,海軍航空隊の神風特別攻撃隊「敷島隊」「朝日隊」「菊水隊」が行っていた。決して10月25日の敷島隊の出撃が,初めての特攻ではない。


写真(左):護衛空母「セント・ロー」
;1944年10月25日、米海軍USS護衛空母「セント・ロー」St. Lo (以前は、護衛空母「ガンビア」Gambier Bayといわれていた写真)に、煙幕smokescreenを張る護衛艦。サマール島沖戦Battle off Samarの撮影。

しかし,10月25日以前の特攻隊未帰還機は,特攻が失敗に終わったという汚名を残さないために,特攻隊として戦死したことすら秘匿された。戦果を上げられずに未帰還になった特攻隊員たちを黙殺しておきながら,特攻は自然発生的なものであるといい,特攻隊の英霊の志は神々しい立派なものであると喧伝する行為こそ,英霊をさげすむ行為であろう。

 1944年10月25日0725,ルソン島マバラカット飛行場を発進した神風特攻隊敷島隊の零式艦上戦闘機9機(特攻5機,直援4機)は、レイテ島方面に南下した(→特攻機の出撃の映像を見る)。

1944年10月25日1040,レイテ湾で敵空母群を発見した。特攻機は編隊をといて米軍のレーダースクリーンを避けるように、海面近くの低空から空母に接近した。敷島隊は,1045に護衛空母「セントロー」突入した。その30分後,1115に「セントロー」は沈没した。 


写真(左):護送空母セントローUSS ST. LO (CVE-63)
;火災が弾薬庫bomb stowageに達したため,大爆発を起こした。空母「セントロー」は,排水量7,800トン,全長 512' 3" (oa) x 65' 2" x 22' 4" (Max)
兵装 1 x 5"/38口対空砲, 8 x 40mm, 12 x 20mm, 搭載航空機27機
機関出力 9,000馬力、2軸、速力 19 Knots, 乗員Crew 860名.


  敷島隊の直掩機(援護戦闘機部隊)の名パイロット西沢広義兵曹長は,1220に、レイテ島西方の海軍基地セブ飛行場から、マニラの第1航空艦隊司令部に次の様に打電されている。「神風特別攻撃隊敷島隊は、1045スルアン島北東30カイリ(1ノーティカル・マイル=1.852km)にて、空母4を基幹とする敵機動部隊に対して奇襲に成功、空母1に2機命中撃沈確実、空母1に1機命中大火災、巡洋艦1に1機命中轟沈。」
 10月25日、2000,ラジオが大本営発表で、神風特攻隊の戦果と関大尉の戦死を告げる。
 10月29日、各新聞に、出撃時の隊員の表情と模様を大きく取り上げる。
 10月28日の大本営発表では「敷島隊」が大々的に喧伝された。
(→五軍神の部屋引用) 

写真(左):護衛空母Escort Carrier「サンティ」Santee (CVE-29);1944年1月撮影。翌年,フィリピンのレイテ島沖合で特攻機の命中を受けた。June 1944, off Guam, showing wear and tear of combat operations。排水量: 11,400 tons; 満載時24,275 tons
大きさ(wl): 160 x 22.9 x 9.3 meters
最大長・幅: 168.6 x 34.8 meters,装甲なし
  エンジン: 4ボイラー(450 psi); 2蒸気タービンsteam turbines; 2 軸; 13,500shp
速力: 18+ knots
航続距離: 23,920マイル/15ノット (燃料4,780トン搭載)
武装: 2門×5インチ/51口径; 4基×二連装40-mm56口径機関砲; 12丁 20-mm70口径機銃
艦載機: 25機,エレベーター2基; 水蒸気カタパルトhydraulic catapult 1基
乗員Crew: 830名 (艦船要員ship's company + 航空部隊要員air wing)


写真(左):護衛空母「サンティ」SANTEE(ACV-29);1944/10/25,フィリピンのレイテ島沖合で特攻機の命中を受けた。Kamikaze strikes USS Santee (CVE-29), 25 October 1944.

1943年8月11日,第三段作戦に関する戦備方針の会議で、日本海軍軍令部(陸軍の参謀本部に相当)の第2部長黒島亀人大佐が、「必死必殺戦法」を具現できる特攻兵器の開発し不敗の態勢を確立するべきであると主張。
1944年2月,海軍の呉工廠魚雷実験部に人間魚雷「回天」の試作が命じられ、4月には量産開始。
1944年9月上旬には,ロケット推進の人間爆弾「桜花」試作1号機が完成し、9月末には桜花部隊となる第721航空隊(司令岡村基春大佐)が編成。
1944年9月頃,250キロ爆雷を積載したベニヤ合板製の体当たり用小型モーターボート「震洋」の量産開始

つまり,軍上層部は着々と特攻を作戦として実施すべく,特攻兵器を開発,生産していたのであり,当然それを扱う搭乗員の編成も準備していたといえる。特攻隊は,決して自然派生的に生まれたものではない。

写真(右):護衛空母「スワニー」SUWANNEE(ACV-27);1944/10/25,フィリピンのレイテ島沖合で特攻機の命中を受けた。

 <敷島隊の特攻機5機の戦果>
護衛空母「セント・ロー」撃沈,死者114名,負傷者 400名。
護衛空母「カリニン・ベイ」中破
軽巡1隻撃沈(と報じられたが,撃破)。
<春日隊,菊水隊の戦果>
護衛空母「サンティ」中破 死者 16名,負傷者 27名。
護衛空母「スワニー」中破 死者3名,負傷者 7 名

したがって,20機に満たない特攻機が,援護戦闘機とともに,偵察機が発見した攻撃目標に出撃して,小型低速の護衛空母の撃沈1隻,撃破3隻という大戦果をあげたのである。これは,米軍の空母部隊が,特攻という体当たり自爆攻撃をまったく予期していなかったために,まさに奇襲攻撃として効果を挙げたためである。

 
写真(左):空母「スワニー」;1944/10/25,フィリピンのレイテ島沖合で特攻機の命中を受けた。米国の空母の飛行甲板Flight Deckは、正規空母も護衛空母もみな木製板張りである。写真は、飛行機格納庫hangarでの爆発を、艦橋から撮影したもの。

大西 瀧治郎 (統合戦争辞典より引用)
1891(明治24)年6月2日生-1945(昭和20)年8月16日没 兵庫県氷上郡芦田村出身
父亀吉,母うたの5人兄弟の第3子
妻、大西淑恵
1912(明治45)年7月17日 海軍兵学校(40期)卒業 卒業成績144人中20番
1916(大正5)年4月 横須賀航空隊勤務
1918年12月 大尉,1924(大正13)年12月 少佐に昇進
1926(大正15)年2月 佐世保航空隊飛行隊長
1927(昭和2)年12月 結婚
1928年11月 鳳翔飛行長
佐世保航空隊司令,横須賀航空隊副長,第2連合航空隊司令官を歴任

写真(左):大西瀧治郎;終戦後に自刃した潔さもあって,特攻隊の創設者のように祭り上げられている。実際は,「特攻は,統率の外道」と称していたから,米国の軍事力・生産力の高さの前に,劣勢の日本軍が効果的な作戦を遂行することが困難であることは承知していた。しかし,敗退を,軍上層部や天皇の責任に記すわけにはいかず,起死回生の策として,特攻隊を編成する先導者としての地位を引き受けたようだ.

1939(昭和14)年11月少将に昇進、1940(昭和15)年11月 第1連合航空隊司令官
1941年1月 第11航空艦隊参謀長として、連合艦隊司令長官山本五十六大将から真珠湾奇襲の作戦立案を命じられ,源田実参謀、黒島亀人参謀と立案
太平洋戦争開戦後、第11航空艦隊はフィリピン、蘭印攻略戦等を支援
1942年3月 航空本部総務部長 内地帰還
1943年5月 中将,11月 軍需省航空兵器総務局長
1944年10月 第1航空艦隊司令長官就任 フィリピンに赴任 航空戦の指揮をとる 最初の神風特別攻撃隊を出撃させる
1945(昭和20)年5月10日 軍令部次長発令内示、5月13日 1式陸攻で新竹を出発,内地帰還
5月19日 軍令部次長、終戦に際し、徹底抗戦を主張するも8月16日 自刃

12.神風特別攻撃隊は,自発的に体当たり攻撃を志願,実施したという「特攻自然発生説」の主張には無理がある。兵士個人はもちろん,現場の部隊指揮官が,航空機という軍の貴重な兵器を勝手に体当たりに使用したり,勝手に特攻隊を編成したりすることは許されない。日本軍の最高司令官の命令,許可をもって,特攻隊を組織し,作戦に組み込んで運用した

写真(右):関行男大尉など敷島隊の特攻隊員を前にした第201航空隊(201空)山本大佐;1944年10月。大西長官にマニラに呼ばれた要務飛行で、搭乗機の事故で葦を負傷した。

 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会の「第一神風特別攻撃隊敷島隊について」会報特攻49号によれば,大西中将は10月19日、フィリピンのルソン島飛行場群クラーク基地の761空(前田孝成大佐),マバラカット基地の第201航空隊(201空司令山本栄大佐),飛行長中島正少佐などに特攻攻撃の意向を伝えようとマニラに来るように命じた。201空の山本栄大佐,飛行長中島正少佐は,マニラに向かったが,大西中将が自らマバラカット基地に出向いたので行き違いになってしまう。

 マバラカット基地で,大西瀧治郎中将,第一航艦首席参謀猪口力平中佐らは,特攻攻撃の編成を,201空に命じた相手は,司令不在のため,副長玉井浅一中佐である。そこで、玉井中佐は隊長と相談して、戦火をともに潜り抜けた9期練習生の集合を命じ,集まった搭乗員23名に特攻攻撃の志願を呼びかけた。

つまり,特攻隊の編成は,大元帥はもちろん第1航空艦隊司令からの明確な文書命令がないまま,「口頭命令を受けた搭乗員の志願」という外見を伴った。この有意な若者たちの志願を犠牲的精神の自発的発露として,特攻隊は命令によるのではなく,志願によっているという解釈が作られた。

写真(左):特攻隊を前にした大西瀧治郎;1944年10月21-25日頃。ルソン島のマニラ近くのマラカバット飛行場の敷島隊の出撃。大西長官はマニラにいたので、「神風特攻隊」の出撃に際しての長官自らの見送りは、マニラ近くに待機していた敷島隊についてのみ行っている。

 当時の,第1航艦首席参謀猪口力平中佐,201空飛行長中島正少佐は,戦後日本の復興のために命を永らえた現地の高級指揮官であるが,その戦後の著作『神風特別攻撃隊』では,体当たり攻撃の呼びかけに,搭乗員たちは「喜びの感激に興奮して全員双手を挙げて賛成」した。志願者が解散した後,玉井中佐の部屋にも熱烈志願の搭乗員がやってきたが,「小さなランプ一つの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らして立派な決意を示していた顔は、今でも眼底に残って忘れられない」と記している。

指揮官の人選をした玉井副長と猪口参謀は,体当たり攻撃の指揮官は人物、技倆、士気を兼ね備えた人物として,戦闘第301飛行分隊長関行男大尉(海軍兵学校第70期)を当てた。関大尉は、本来は1944年2月に艦上爆撃機の練習航空隊教程を卒業しており,の飛行教官を経て、1944年9月25日付で戦闘第301飛行分隊長に補任している。つまり,艦上爆撃機から戦闘機に転化したばかりであり,フィリピンに着てから1ヶ月もたっていない新人であり、実戦経験もほとんどなかったのである。<

妻子のある関大尉は,兵学校出身ではあるが,艦上爆撃機の教官であったため,実戦経験もなく,特攻隊長にふさわしい人選ではない。しかし,実戦経験ある兵学校出身の戦闘機隊長たちが「特攻を拒否した」ために,急遽,特攻隊長の人選に入ったと思われる。彼が特攻を拒否すれば,別の人物の人選に時間がかかり,特攻が栗田艦隊のレイテ突入に間に合わなくなっていたであろう。幹部としては,是が非でも関大尉に特攻隊長を引き受けさせたかったのである。

写真(左):マニラの湾岸道路から出撃する零戦特攻隊;レイテ島に米軍飛行場が整備されると,ルソン島の制空権をも米軍陸軍航空隊に奪取された。既存の飛行場ではなく,マニラ繁華街の湾岸道路を秘密飛行場の滑走路として利用した。零式艦上戦闘機に250kg爆弾を積んだ爆装戦闘機。1944年撮影。

副長玉井中佐は,出頭させた関大尉に,「体当たり攻撃隊の指揮官になって貰いたい旨を告げ、大尉の意向を尋ねた。関大尉はしばらく沈思黙考したのち『是非、私にやらして下さい』と、明瞭な口調で返答した。」というが,軍隊で,特攻隊の指揮官になって貰いたい旨を告げたとは,命令以外の何者でもないのは,常識である。

写真(左):敷島隊指揮官関行男大尉;最初の神風特攻隊の指揮官で,海軍兵学校出身のため,最初の特攻機とされることもある。死後,特別任用により2階級特進し,海軍中佐。

 しかし,特同盟通信特派員の小野田政の記述によれば,特攻に潔く志願したと簡単に片付けることのできるほど,関大尉の心境は単純ではない。
 数日間下痢に悩んでいた関大尉は、その日の夕方、マバラカット基地バンバン川の土手で同盟通信特派員の小野田政に会った。
 関大尉の話しぶりは、特攻攻撃のやり方全般について、それほど気乗りしていない様子であった。関大尉はこう語った。
 「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA(妻のこと)のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」

写真(左):出撃前の水杯を手渡す第2航空艦隊長官福留繁中将(1891〜1971);第ニ航空艦隊は, 1944年6月,基地航空部隊として新編成され,台湾・比島方面を作戦海域とした。1945年1月解隊。250kg爆弾を積んだ爆装戦闘機を特攻機とした。1944年末に毎日新聞社撮影。福留繁中将は,1943年5月連合艦隊参謀長,1944年3月連合艦隊司令部移動のため古賀司令長官らとダバオへ向かう途中遭難。不時着して抗日ゲリラの捕虜となり,「あ」号作戦(Z計画)の機密書類を奪われた(海軍乙事件)。福留長官たちは第31警備隊に救助され、事件については不問とされた。1944年6月,第二航空艦隊司令長官に就任。海軍兵学校第40期で、大西瀧治郎,宇垣纏と同期。

 第201航空隊から体当たり(自爆)特別攻撃隊24名が任命されたのであり,志願者が自発的に24名集まったのではない。人選といえば聞こえがいいが,任命,指名である。10月20日0100過ぎに,猪口参謀は、24名を大西中将に報告しその了承を得ている。攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と命名され,4隊に区分された飛行隊は「敷島」「大和」「朝日「山桜」と隊名を付されている。

 大西中将は、10月20日1000、特別攻撃隊全員を201空本部に集め、訓示した。「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。どうか成功を祈る。

皆は既に神である。神であるから欲望はないであろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが、無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りにつくのであるから、残念ながら知ることも出来ないし、知らせることも出来ない。だが自分はこれを見届けて、必ず上聞に達する様にするから、そこは安心して行ってくれ」

 訓示を終って、大西中将は隊員の一人一人と熱い握手をかわした。

写真(左):201空の特攻隊の零式艦上戦闘機;250kg爆弾を搭載している。片足に包帯を巻いているのが201空司令の山本大佐。マニラに大西中将に会いに行く際に,航空機事故で負傷。

 10月20日夕刻,マニラの司令部に帰着した大西瀧治郎中将は、2000に寺岡謹平(前)司令長官から正式に第1航空艦隊の指揮権を引き継ぎ,第1航空艦隊司令長官として発令された。そこで,大西長官は、まず201空(第201航空隊)司令に対して正式に体当たり攻撃隊の編成を命じるとともに、豊田長官に対し同攻撃隊を編成した旨を報告した。

 10月22日-26日、更に零戦4隊(菊水、若櫻、葉櫻、初櫻),「彗星」艦上爆撃機1機の特攻隊が編成された。特攻隊とはいっても,全機が体当たり機ではなく,体当たり自爆機2-4機、直掩、戦果確認2-4機をもって一隊が編成される。

写真(右):艦上爆撃機「彗星」;D4Y (Judy)。最高速度520km,爆弾250kg-500kgと性能は優秀だったが,エンジンや電気系統の故障が多く,実用性が低かった。通常攻撃によって,軽空母「プリンストン」を撃沈し,救助に当たっていた巡洋艦「バーミンガム」乗員を多数死傷させたこともある。しかし,日本の特攻隊の記録では,零式艦上戦闘機による護衛空母の撃沈が最初の戦果とされている。

第6基地航空部隊でも,10月27・29日,艦上爆撃機「彗星」8機が特攻隊に編成された。第5基地航空部隊のものを「第一神風特別攻撃隊」、第6基地航空部隊のものを「第二神風特別攻撃隊」と呼称する。

 大和隊は10月20日,朝日・山櫻隊は10月23日にレイテ湾に近いセブ基地に進出し、菊水隊は10月24日にレイテ湾南のミンダナオ島ダバオ基地に進出した。マバラカット基地には,敷島隊のみ残留した。四隊は,レイテ湾を囲むように展開した。

 10月21日から各隊は出撃したが、10月25日まで敵を発見していない。しかし,10月21日,大和隊の久野好孚中尉たちは,1430セブ基地から,索敵情報にある空母2隻、特設空母(護衛空母)2隻からなる米任務部隊攻撃のため,発進直前,米軍機の攻撃を受け全6機が炎上していまった。予備機を準備して1625,零戦3機(指揮官久野好孚中尉)が発進したが,悪天候に阻まれ、2機は敵を発見せず帰投した。久野中尉機は戦果不明のまま未帰還となった。10月23日,大和隊の佐藤馨上飛曹も,出撃したまま帰還しなかった。

このような攻撃失敗の特攻隊員は、戦史の中で故意に黙殺されている。特攻作戦を大々的に展開するためにも、特攻が失敗することは許されなかった。失敗に終わったものは抹殺された。まさに日本軍上層部こそが特攻作戦の当初から、特攻隊員を無駄死にさせていた。現在の靖国神社遊就館では,久野好孚中尉を「特攻第ゼロ号」に位置づけてはいるが。

写真(左):護衛空母「ガンビア・ベイ」Gambier Bay(CVE-73);1944/10/25,レイテ島沖合で特攻機の攻撃を受け、その後、日本海軍第一遊撃部隊の戦艦、巡洋艦の砲撃を受け沈没。

On October 21, 1944, in the lead-up to the Battle of Leyte Gulf, Australia was hit by a Japanese plane carrying a 200 kg (441 pound) bomb, in the first-ever kamikaze attack. The plane struck the superstructure, above the bridge, spewing burning fuel and debris over a large area. However, the bomb failed to explode; if it had, the ship might have been effectively destroyed. At least 30 crew members died as a result of the attack, including the commanding officer, Captain Emile Dechaineux; among the wounded was Commodore John Collins, the Australian force commander.

On October 25, the Australia was hit again and was forced to retire to the New Hebrides for repairs. The ship returned to combat in January 1945; by the end of the war, she had survived being hit by kamikazes on six separate occasions, which had resulted in the loss of 86 lives. (→Encyclopedia: HMAS Australia (1927) 引用)

写真(左):軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);1944/10/24,レイテ島沖合で通常攻撃(特攻機?)の命中を受け撃沈。USS Princeton on fire east of Luzon, 24 October 1944

 On the 20th, landings were made at Dulag and San Pedro Bay, Leyte. Princeton, in TG 38.3, cruised off Luzon and sent her planes against airfields there to prevent Japanese land based aircraft attacks on Allied ships massed in Leyte Gulf. On the 24th however, enemy planes from Clark and Nichols fields found TG 38.3 and reciprocated. Shortly before 1000, a lone enemy dive bomber came out of the clouds above Princeton.

At 1500 feet the pilot released his bomb. It hit between the elevators , crashed through the flight deck and hanger, then exploded. Initial fires soon expanded as further explosions sent black smoke rolling off the flight deck and red flames along the sides from the island to the stern. Covering vessels provided rescue and fire-fighting assistance and shielded the stricken carrier from further attack.

At 1524, another, much heavier explosion, possibly the bomb magazine, blew off the carrier's stern and with it the after flight deck. The cruiser Birmingham (CL-62), alongside to fight fires, suffered heavy damage and casualties.

Efforts to save Princeton continued, but at 1604 the fires won. Boats were requested to take off remaining personnel and shortly after 1706, Irwin (DD-794) began to fire torpedoes at the burning hulk. At 1746, Reno (CL-96) relieved Irwin and at 1749 the last, and biggest, explosion occurred. Flames and debris shot up 1000-2000 feet. Princeton's forward section was gone. Her after section appeared momentarily through the smoke.

By 1750 she had disappeared, but 1,361 of her crew survived. Included in that number was Capt. John M. Hoskins, who had been prospective commanding officer of CVL-23 and lost his right foot with her, but who, despite the loss, would become the 1st commanding officer of the fifth Princeton (CV-37).

写真(右):通常爆撃で破壊された軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23)の飛行甲板;View of Princeton's after port side and flight deck, seen from USS Birmingham (CL-62) as she came alongside to help fight fires during the afternoon of 24 October 1944. Note aircraft elevator blown out of position and turned upside down, and flight deck buckled by the hangar deck explosions that followed a Japanese bomb hit. The ships were operating off the Philippines.Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives (# 80-G-270359).

Losses and damage to assisting vessels were heavy:
Birmingham--85 killed 300 wounded, a heavily damaged topside, and loss of 2 5", 2 40mm. and 2 20mm. guns Morrison (DD-560)--foremast lost, portside smashed Irwin--forward 5" mounts and director out, starboard side smashed Reno--one 40mm. smashed Princeton earned 9 battle stars during World War II.

The Princeton University Chapel still displays a service flag that once flew on this Princeton.

 朝日,山櫻、菊水隊は0630,ミンダナオ島ダバオ基地からミンダナオ島東方海面に対し索敵攻撃に発進。 菊水隊の零戦3機は,特攻2機は,宮川一飛曹、加藤一飛曹、直掩隊1機は,藍森上飛曹であり,0830,北進中の空母5隻(うち特設空母3隻)、戦艦2隻を発見。特攻機1機が空母の艦尾に命中したのが認められた。戦果は直掩機のセブ基地帰還後、同基地から0948に打電された。

 敷島隊よりも約3時間前に特攻して命中したが、菊水隊は,特別攻撃における最初の戦果を挙げた隊としては、認められなかった。これは,戦果確認に手間取り連合艦隊司令長官への報告が遅れたためというよりも,最初の特攻攻撃は海軍のエリートである「海軍兵学校出身者」にすること,戦果を挙げることが事前に決められていたためであろう。最初の特攻隊の栄誉は,空母を撃沈した海軍兵学校出身の指揮官関行男大尉の敷島隊が担うのがふさわしいと,判断された。

妻子のある関大尉は,兵学校出身ではあるが,艦上爆撃機の教官であったため,実戦経験もなく,特攻隊長にふさわしい人選ではない。しかし,実戦経験ある兵学校出身の戦闘機隊長たちが「特攻を拒否した」ために,急遽,特攻隊長の人選に入ったと思われる。彼が特攻を拒否すれば,別の人物の人選に時間がかかり,特攻が栗田艦隊のレイテ突入に間に合わなくなっていたであろう。幹部としては,是が非でも関大尉に特攻隊長を引き受けさせたかったのである。
 朝日隊の零戦3機(特攻2機、直掩1機)と山櫻隊の零戦4機(特攻2機、直掩2機)は,1020,ルソン島南端レガスピー基地に帰投した山櫻隊の直掩2機のほかは,5機が未帰還となり、戦果は不明。

写真(左):軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);1944/10/24,ルソン島東部海上で損傷,沈没 したが,通常攻撃によるものだったので,日本側では戦果として注目されていないようだ。通常攻撃で軽空母(低速小型の護衛空母ではない)を撃沈できるのであれば,特攻をかけるいい意義が低下してしまうため,通常攻撃の有効性が再認識されることを恐れたのであろう。

愛媛県西条市楢本神社では毎年10月25日に、神風特攻隊の『第一号』敷島隊の五軍神を放散する慰霊祭が盛大に行われる。ここの「関行男之慰霊碑」碑文には「大東亜戦争末期、的の大機動部隊のレイテ湾進攻を阻止し大和民族の純潔を守らんとして神風特攻第一号敷島隊は、一機一艦轟沈を目差して世界最初の公式の人間爆弾となり国家悠久の大義に殉ず」とある。
関大尉よりも先に戦死した久野好孚中尉のような隊員、出撃した部隊は、戦史から忘れられようとしている。しかし、このような作為が、特攻隊編成当初から仕組まれたことであったとすれば悲しく、かつ憤りを感じる。

敷島隊の零戦9機(特攻5機、直掩4機)は、0725マバラカットを発進、比島東海岸沿いにレイテ島タクロバンに向かって索敵攻撃の途中、1010、戦艦4〜5隻、巡洋艦、駆逐艦等30隻以上、F6F25機在空の艦隊が北進しているのを認めた。これは,日本海軍のレイテ湾突入艦隊である第一遊撃部隊と思われる。

 1040、タクロバンの85度約90マイルに、空母4隻、巡洋艦、駆逐艦など6隻の艦隊を発見。1045,特攻機は空母めがけて突入。直掩機により確認された戦果は,零戦2機が1隻の空母に命中、沈没。特攻機1機の命中を受けた別の空母は火災を起こし停止。特攻機1機は巡洋艦に突入、轟沈。

 日本の最多撃墜王である西澤廣義飛曹長を指揮官とする零式艦上戦闘機の直援隊は,米海軍のグラマンF6F艦上戦闘機2機を撃墜したものの,菅川操飛長の零戦1機が対空砲火を受け撃墜された。
 敷島隊の戦果はセブ基地から1205、空母1隻2機命中撃沈 空母1隻1機命中火災停止 軽巡1隻1機命中轟沈(セブ基地機密2512:05番電)と打電された。

 日本軍は特別攻撃隊を作戦の一環として活用したのであり,自発的に体当たり特攻攻撃が行われたというのは,詭弁である。

〃蛎發僚斗廚癖軸錣任△觜匐機を,個人や現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻用に改造したり,体当たり用の航空機・爆弾を準備することはできない。
軍隊の重要な兵力である兵士を,現地部隊が司令官の許可を得ずに勝手に特攻隊の要員として編成することはできない。
5爆信管を備えた特攻専用機・体当たり用の魚雷など特攻兵器を軍の研究所で計画・準備した。
て湛饗發了峇蠎圓鯤腓,特攻隊員が帰還・不時着しても,再度,特攻隊に編入した。
以上のような理由から,「特攻」とは日本軍の作戦の一環であり,自発的な攻撃とはいえない。自発的な攻撃は,軍事作戦としては立案も実施も不可能で,成り立たないのだから。

  特攻隊として出撃した若者たち,下級兵士,学徒には,その気落ちを思うと複雑な心境になる。たしかに,自己犠牲によって,命を家族や日本に捧げようと思ったり,捧げざるをえないと諦観に達したりしたのだと思うと,若者たちの健気さに圧倒される。現在の若者たちは,特攻隊員を犬死であると軽蔑していると一方的に決め付ける「識者」もいるが,そんなことはない。その志を多くの若者は尊重している。

日本軍は,陸上基地や艦船に備える大型レーダーを実用化してはいたが,故障も多く,取り扱いも困難であった上に,航空機搭載型レーダーの数は少なかった。航空機搭載の通信装置も感度が悪く,空対空の通信は電信しか使えなかったといってよい。そこで,米国艦船の所在を求めて索敵機,偵察機を発進させても,なかなか目標を発見できなかったし,発見しても目標への誘導が困難であった。

写真(左):4947機もの日本木を撃墜したというグララマンF6F艦上戦闘機(空母「ホーネット」第11戦闘機部隊所属);VF-11 SunDowner F6F-5 Hellcat "Ginger-29" on the USS Hornet 1944/1945

 他方,米軍は,レーダー管制による通信装備を航空機に完備しており,歓待の護衛や,敵目標の攻撃・誘導を行っていた。また,VT信管という電波反射感知により爆発する対空砲弾を配備していた。このような日本の真似できないような技術と戦術を採用していた米君艦船に日本の特攻機が向かっていっても,撃墜される確率が高い。したがって,特攻機を送り出しても,多くは米軍の強力な戦闘機部隊に捕捉された。

 米グラマン社F6F「ヘルキャット」戦闘機は,6000機以上の日本機を撃墜・破壊している。そのうち,4947機は,航空母艦に搭載されたF6Fが撃墜しており,209機は海兵隊や英軍などのF6Fが撃墜した。F6Fがもっとも威力を発揮したのは,1944年6月19日のマリアナ沖海戦(フィリピン海戦)で,1日で160機以上の敵機を撃墜している。この日は,「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれた。

The Hellcat was eventually credited with destroying more than 6,000 Japanese aircraft - 4,947 of these by F6Fs of the USN carrier squadrons (209 of the others by land-based Marine Corps F6Fs, and the remainder by Hellcats of other Allied countries). The F6F's most spectacular exploit was the destruction of more than 160 enemy aircraft in one day - 19 June 1944 - in the Battle of the Philippine Sea, in the aerial massacre usually known as "The Great Marianas Turkey Shoot."

写真(右):空母「レキシントン」のF6F戦闘機(1943年11月23日,ギルバート諸島攻撃時の撮影);1943年後半までには,米軍にF6F戦闘機が多用されるようになる。こうなると,航空機の速度,武装,防弾,通信などの性能の上で,米軍戦闘機が,日本の代表的戦闘機「零戦」を上回るようになった。特攻機が出撃しても,米軍戦闘機に捕捉,撃墜される可能性が高く,体当たり攻撃でも「百発百中」は不可能である。Lexington (CV-16) Grumman F6F- 3 being launched 23 November 1943, during Gilberts campaign

 日本機が出撃しても撃墜される危険の高いし状況に,重い爆弾を無理に搭載した特攻機を送り出す決定をした航空作戦の高級指揮官,司令官は,特攻の採算をどのように計算していたのか。神風特攻隊の第1号を海軍兵学校出身関行男大尉と公認しながら,その後の特攻隊には海軍兵学校出身者がほとんどいないのは,なぜか。将校クラスの特攻隊長の多くが学徒出陣に相当する予備学生出身未熟練搭乗員で占められたのはなぜか。
   体当たり自爆攻撃も作戦の一環として実施されるであれば,攻撃兵器をいかに有効に使うかという枠組みで,兵士の命を扱うしかない。これもつらいことだ。司令部や航空基地勤務のために,特攻に出撃しないで生き残る指揮官,整備員たちも,自分の命も「必死」の運命においたと感じていたにちがいない。
 特に,特攻隊に出撃を命じる指揮官には,特攻隊との生死の隔絶を縮めようとする心理が働いていたと思われる。「散る桜,残る桜も散る桜」「貴様たちだけを死なせはしない」「最後の一機で俺も特攻に出撃する」こんなつらい思いが口にされていたようだ。しかし,実際に特攻を送り出した責任をとる形で命を絶つのは難しい。特攻隊に志願,任命されれば別であろうが。

軍人の人事と階級は任用令によるが,日本海軍には大正7年10月2日勅令第三百六十五号「海軍武官任用令」があった。しかし,1944年11月29日,日本陸・海軍は,特攻隊の戦死者に2階級特進を超える特別任用制を公布した。つまり,兵は准士官、下士官は少尉に特進できるようにして,特攻の偉功を讃え,後に続く特攻隊員の確保にも配慮した。

 日本海軍は特殊任用令によって、特攻攻撃により偉勲をたてたと認められ、全軍布告された特攻隊員について、下士官は少尉に特進させ、兵は准士官に特進させるという「特別任用」を採用した。その結果、海軍初の組織的特攻を行った敷島隊所属の関行男大尉以下5名は,特別任用の対象となった。敷島隊の特攻作戦で,最も階級が低かった大黒繁男上等飛行兵は、5階級特進して飛行兵曹長に,永峰肇飛行兵長は4階級特進して飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は3階級特進して少尉となった。特攻で全軍布告することで,軍人恩給(遺族年金を含む)は倍化され,全軍布告された特攻隊員を輩出した一家は,経済的な保障を得ることができたのである。

 特攻隊員たちも,残された家族の生活が保障されるのであれば,まさに「家族を守るため」に特攻出撃を覚悟することもあったはずだ。

ある代表取締役社長は,次のように述べている。
 「航空特攻は、『軍国主義イデオロギーによって洗脳された純粋な青年たちが、いのちを捨てさせられた非人間的な行為』と喧伝されてきた。戦後作られた戦争映画やドキュメンタリーもまた、『戦争=暴力=軍隊=悪』といった単純三段論法で、戦争の本質や軍事の問題をきちんと検証し考えようともせず、ただ戦争の恐ろしさ、悲惨さを訴えるだけの感情的反戦ヒューマニズムの視点で、ほとんどが作られて来た。」

写真(左):;1944年11月撮影。ニューギニアには,フィリピンで戦っている米兵のためのクリスマス・ギフトが山のように届いた。

「人は人生の最後のとき、かくありたいと願い、遺書に書くことはあっても、嘘は書かないものである。まして、自らの血をもって書かれた最後の遺書に、嘘など書くとは考えられない。ほとんどの特攻隊員は、遺書を残して逝ったが、彼らは、心底、自分をはぐくみ育てた父や母、兄弟姉妹、同胞、そして懐かしい故郷と祖国を守りたかったのである。それは、軍国主義イデオロギーの洗脳による思想的熱狂で行われたものでは決してなかった。

 敵のいのちを奪うこと、あるいは味方や同胞のいのちが奪われること、そして自らも又いのちを失うこと等、特攻の英霊は、人の世の常ともいえる戦いと生死の現実を見つめ、その中に、深い「もののあわれ」を感受することが出来る人々だった。だからこそ、戦闘的熱狂や興奮ではなく、静かな笑顔で、愛機と共に堂々粛々出撃し、突入散華して行ったのである。彼らはまさに「日本武士(もののふ)のこころ」の持ち主だった。
 この日本独特の武人精神は、言い換えれば、大和魂(やまとたましい)とも言えるのだが、戦後、故意に軍国主義イデオロギーと混同させられたり、あるいは故意に無視され、忘れ去られているのである。」(引用終わり)

重要なことは,当時の特攻隊,特攻隊の指揮官や作戦を立案した司令部,特攻隊を送り出した家族・地域,攻撃を受けた連合軍の兵士,殺された家族がどのように特攻,自爆体当たりを認識したか,認識しているかであろう。体験,経験のないものが,勝手に彼らの意思や思いを,専断することがあっては,的確な事実認識とはならない。

作戦自体を描写するよりも,作戦の意図やそれに関与し,巻き込まれた人々の立場や真意を推し量るのは困難である。遺書には,残された家族に迷惑をかけることは一切書かれないが,その行間に憂慮が隠されているのではないか。

写真(右):敷島隊指揮官関行男大尉;最初の特攻隊の指揮官であるが,実際の特攻に出撃したのは,彼ではない。海軍としては、初の特攻隊には、海軍エリートとして自他共に認める海軍兵学校出身者を当てたかったに違いない。関大尉の思惑とは関係なく、海兵出身者を初の特攻指揮官として喧伝するのは、既定の方針であったに違いない。

海軍士官だった角田和男『修羅の翼』に,援護戦闘機隊の士官として,特攻隊員もいる下士官兵の搭乗員室に泊まりに行ったときの体験が記述されている。

 暗闇の坂道を山裾の搭乗室に向かう。搭乗員室とは名ばかりで、道端の椰子の葉で葺いた掘っ建て小屋、土間に板を並べただけのものである。その入口に近づいた時、突然、右手の暗闇から飛び出して来た者に大手を広げて止められた。 
「ここは士官の来るところではありません」と押し返してくる。
 私はその声に聞き覚えがあって「むっ」とした、それは二○三空の倉田上飛曹であった。厚木の教員時代、同じ分隊におり、同じラバウル帰りの長野、山本の同年兵である。三人組で私の下宿へ押しかけて来ては、妻の酌で飲んでいった奴である。
「何だ、倉田じゃないか、どうしたんだ」
私の声に彼も気がついた。
「あッ分隊士ですか、分隊士なら良いんですが、士官がみえたら止めるように頼まれ、番をしていたものですから」と、変なことをいう。不審に思ってわけを聞いてみると、
「搭乗員宿舎の中を士官に見せたくないのです。特に飛行長には見られたくないので、交代で立番をしているのです。飛行長がみえた時は中の者にすぐ知らせるのです。しかし、分隊士なら宜しいですから見て下さい」

 そう言われてドアを開けた。そこは電灯もなく、缶詰の空缶に廃油を灯したのが三、四個置かれていた。薄暗い部屋の正面にポツンと十人ばかりが飛行服のままあぐらをかいている。そして、無表情のままじろっとこちらを見つめた眼がぎらぎらと異様に輝き、ふと鬼気迫る、といった感じを覚えた。
 左隅には十数人が一団となって、ひそひそ話をしている。ああ、ここも私たちの寝床ではない、と直感して扉を閉めた。

「これはどうしているのだ」倉田兵曹に聞いた。彼の説明では、「正面にあぐらをかいているのは特攻隊員で、隅にかたまっているのは普通の搭乗員です」と言う。私は早口に質問した。
「どうしたんだ、今日俺たちと一緒に行った(特攻隊の)搭乗員たちは、みな明るく、喜び勇んでいたように見えたんだがなあ」
「そうなんです。ですが、彼らも昨夜はやはりこうしていました。眼をつむるのが恐いんだそうです。色々と雑念が出て来て、それで本当に眠くなるまでああして起きているのです。毎晩十二時頃には寝ますので、一般搭乗員も遠慮して彼らが寝るまでは、ああしてみた起きて待っているのです。しかし、こんな姿は士官には見せたくない、特に飛行長には、絶対にみんな喜んで死んで行く、と信じていてもらいたいのです。だから、朝起きて飛行場に行く時は、みんな明るく朗らかになりますよ。今日の特攻隊員と少しも変わらなくなりますよ」


写真(左):1945年4月,鹿屋基地で鉢巻を締める特攻隊員;1944年10月に特攻攻撃が始まった当初は、出撃に際して、念入りな歓送会が開かれた。

 私は驚いた。今日の(特攻出撃時の)あの悠々たる態度、喜々とした笑顔、あれが作られたものであったとすれば、彼らはいかなる名優にも劣らない。しかし、また、昼の顔も夜の顔もどちらも本心であったかも知れない。何でこのようにまでして飛行長に義理立てするのか、私の追及に、倉田は、
「それは、特攻隊編成の際、隊長の人選が長官の想い通りに行かず、新任で新妻のある関大尉を選出したことで長官の怒りに触れ、他の飛行隊長は全部搭乗配置を取り上げられたという噂があるのです。それで、201空の下士官兵は、自分たちだけでも喜んで死んでやらなければ、間に立たされた司令や副長が可愛想だと思っているらしいのです」
とのことであった。
 割り切れない気持ちを残して、私たちはまたトボトボと坂道を明るい士官室へと引き返して行った。(引用終わり)

特攻隊に任命された若者は,自分を死に向かわせた状況=敗色濃い戦争を受け入れても,特攻隊を作戦として利用するが必死からは逃れうる人々=軍司令官や部隊指揮官に対して,無感動,無感情でいられたとは思えない。しかし,軍隊の中で,上官の命令を議論しても無駄であることをみな知っていた。自分の死を有意なものしなければ,特攻攻撃から逃れたくなるかもしれない。逃れられない運命であれば,愛するもの=家族・日本を守るために,命を捧げる,として自分の死と命を一つにするしかないのではないか。

特攻に散った若者たちには,感服する。しかし,エンジンを故意に不調にさせたり,故意に不時着したりして,命を永らえたもの,特攻隊に入らないように,練習教程で手を抜いていたものに対しても,共感は持てる。特攻を拒否して,通常攻撃をかけたものには,納得できる。決して,愚かな犬死であると軽蔑することはできない。

特攻は最善の反撃方法だったわけではなく,跳飛爆撃/反跳爆撃などほかの手段もあったが,隊員が自発的に反撃手段を選択することは許されない。1944年の段階で,「特攻作戦の是非」を論ずることは,大元帥,将官クラス,軍令部・参謀本部の参謀たち,現地司令官とその参謀たちには可能であった。

写真(右):米空母イントレピット;1944年11月25日に特攻機により大破した。

In the next several weeks, the Carrier Task Force remained further off shore, supporting directly and indirectly the ground forces, and in the last week of November, operations were again begun against the main Philippine island of Luzon. Intrepid was part of Rear-Admiral Gerry Bogan's TG 38.2, as were Bunker Hill, Cabot, and Independence. Air attacks began on November 25th with what was left of the Carrier Force - Sherman's and Davison's forces having retired to Ulithi. It was left to Bogan's and Montgomery's forces to strike Luzon again and then, the Visayas.

写真(左):米空母イントレピット;1945年11月25日に特攻機により大破した。

1944年11月25日,重巡洋艦「那智」をマニラ湾で撃沈したのもつかの間,日本軍機の反撃のために,米任務部隊は大きな被害を受けることになる。

1944年11月25日1248,零式艦上戦闘機の編隊が攻撃を開始し,5分後に1機が空母「イントレピッド」Intrepidに体当たりし,空母は大炎上した。そして,別の1機が空母「キャボト」Cabotに命中した。火災は沈下することができたが,1300に三番目の特攻機が命中した。(第一次攻撃では特攻機の命中を受けた艦船はなかったが,第二次攻撃で命中を受けたのである。 It dove from low height into the twisting Intrepid's deck, blowing a hole into her flight-deck and setting afire the hangar from stern to stem. Though these fires were under control quickly, their heat helped other fires throughout the ship, and the badly damaged flight deck, including her arrestor gear, made flight operations impossible. Her strike planes and CAP were taken aboard by other carriers, and 空母「イントレピッド」はウルシー基地に後退し,そこから真珠湾に向かった。この攻撃で,69名が死亡し,35名が重傷を負った。

写真(右):米空母イントレピット;1945年11月25日に特攻機により大破した。

空母「イントレピッド」USS Intrepidの経歴 History
* 1944/10/24, 25, 26: Participated in Battle of Leyte Gulf. Helped sink the super-battleship Musashi.
* 1944/10/30: Hit by kamikaze--slight damage.
* 1944/11/25: Hit by two kamikazes--heavily damaged.
* 1945/03: Strikes against Tokyo and Okinawa. Near miss by a Japanese heavy bomber kamikaze.
* 1945/04/06: Helped sink the Japanese super-battleship Yamato.
* 1945/04/16: Damaged during invasion by kamikaze attack off Okinawa. 

条件付降伏の提案も考慮できないような戦争指導の中で,とにかく戦機を得て敵に大打撃を与え,和平への糸口を掴むという方針で臨んだようだ。しかし,米軍にしてみれば,損害を与えられたからといって,怖気づいて和平交渉に応じるつもりは,戦争当初から一度たりともなかった。戦意が旺盛な米軍は,日本を無条件降伏させるという強硬な方針を貫こうとしていた。日本は,国体,すなわち天皇制の護持を最優先事項にしており,それに気がついていた米軍の軍人もいた。しかし,ひとたび参戦した以上,米英とも無条件降伏にこだわった。したがって,たとえ特攻作戦がより大きな戦果を挙げたとしても,日本は米国と和平交渉を始めることはできなかったであろう。

14.大海指第431号では,「潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」としており,奇襲可能な体当たり自爆兵器の開発・作戦計画を検討し始めている。1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ人間魚雷「回天」の試作命令がでている。日本軍の特別攻撃隊は,航空機,人間魚雷,人間爆弾,人間機雷などが考案され,上層部,最高司令官の命令,推奨によって,組織的に行われた。これを,自生的,自発的に大規模な5000名もの特攻隊が編成されたというのは,軍上層部の責任回避である。純粋な犠牲的精神の発露ではあるが,事実上,犠牲を強要した日本人がいた。その責任を回避するために,英霊の自生的,自発的特攻をことさら強調しているのであれば,これこそ無責任な英雄・犠牲者への侮辱であると思われる。

大海令は、軍令部総長が大海令を起案し、天皇に裁可を受けたのち、各指揮官に伝達(奉勅)した。ここに示された基本事項を具体的に指示するのが、「大海指」である。

1944年7月21日の大海指第431号で奇襲作戦をになう特攻兵器には,人間爆弾「桜花」,人間魚雷「回天」,自爆艇「震洋」がある。兵器の開発・部隊編成は,軍上層部が積極的に関与しない限り不可能である。特攻兵器を設計、製造し、部隊編成をしていること自体、特攻が自然発生的なものでは決してなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められたことを物語っている。

1944年3月、日本海軍の軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定した。これは,「○六カナモノ」のような秘匿名称がつけられた。
「 銑兵器特殊緊急実験」 
㊀金物 潜航艇 →特殊潜航艇「甲標的」改良型「蛟龍」として量産、実戦参加なし
㊁金物 対空攻撃用兵器
㊂金物 可潜魚雷艇(S金物,SS金物)→小型潜水艇「海竜」として試作(若干の量産?)
㊃金物 船外機付き衝撃艇 →水上特攻艇「震洋」として量産・使用
㊄金物 自走爆雷
㊅金物 →人間魚雷 「回天」として量産・実戦使用。人間魚雷回天は潜水艦の甲板に搭載された。約400基が製造され,約100基が特攻作戦suicide missionsに使用された。航続距離は,78km/10 knots,43km/20 knots,23km/30 knots.
㊆金物 電探
㊇金物 電探防止
㊈金物 特攻部隊用兵器

 体当たり自爆兵器の一つである○六金物と秘匿名称で呼ばれた人間魚雷は1944年2月26日,海軍省より呉工廠へ試作命令が出された。

公刊戦史『大本営海軍部・連合艦隊(7)』では,「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」(1945年3月1日)に「特攻兵力ノ整備竝ニ之ガ活用ヲ重視ス」とある (p.245)。
「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」(1945年4月1日)では「陸海軍全機特攻化ヲ図リ・・・」とされた
(p.199)

    ⇒特攻兵器の開発:人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」自爆艇「震洋」特殊攻撃機「剣」特殊潜航艇「海龍」

「特殊奇襲兵器」でも,次のように軍上層部の関与を示している。
1944年6月19日,341空司令岡村大佐は,福留中将に対して「体当り機300機をもって特殊部隊を編成されたい」と意見具申している。

1944年6月25日、サイパン島奪回作戦に関する会議の席上、元帥伏見宮博恭王が「特殊の兵器の使用を考慮しなければならない」と発言。

こうした中,最後の空母・航空機決戦であるマリアナ沖海戦で艦載機だけでも350機以上失い,熟練搭乗員,大型航空母艦も壊滅状態に陥った日本海軍は,大敗北を喫したことを認め,正攻法による作戦では勝ち目がないことを悟る。ついに,特攻作戦の採用が決まったといえる。

1944年7月、戦備考査部会議で「特殊兵器緊急整備計画」が策定され海軍水雷学校長大森中将の指揮する特殊兵器整備促進班を設ける。

命令を下した司令官がいない,自発的な志願者による犠牲的精神の発露として,特攻が行われたようにみせかける。しかし,このような犠牲的精神を要求した上官の責任を一切認めようとしないことこそ,特攻や特攻隊要員に対する欺瞞であろう。事実上の命令で特攻隊要員が任命され,特攻隊が編成されたのであり,若者に犠牲的精神だけではなく,その命を(事実上)要求した責任は,命令者たる上官がとらなくてはならない。

海軍航空隊の著名なエースであった坂井三郎は,1944年7月にすでに,硫黄島の航空基地で体当たり攻撃を明示されている。1944年7月4日、硫黄島の海軍航空隊は,残存する雷撃機8機、戦闘機9機に「体当たり攻撃」の命令を出したという。出撃に際して,指揮官は次のように語った。
「今から山口大尉の率いる戦闘機9機、○○大尉の率いる天山艦攻8機をもって敵第58機動部隊に対する白昼強襲をかける。とくに戦闘機隊に対して注意を与えるが、本日は絶対に空中戦闘を行なってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはいけない。戦闘機、雷撃機打って一丸となって全機敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。」

この記述を紹介した識者の神風特別攻撃隊も,「こういう異常な命令が、特攻作戦が正式に採用される4ヶ月も以前に、現地指揮官の一存で下せるものだろうか。前にも書いたが、作戦が失敗して坂井氏たちがやっとの思いで硫黄島に帰ってきた時に酒を飲んでいたのがこの指揮官である。」と述べている。

写真(右):人間爆弾「桜花」など特攻兵器を推奨した源田実参謀(1904 - 1989);真珠湾奇襲作戦、ミッドウェー作戦、南太平洋海戦、マリアナの空母攻撃「雄」作戦などの中核的な海軍作戦に関わった有能な軍人が、特攻作戦に関与していないということはありえない。

参謀源田実中佐著『海軍航空隊始末記』では、フィリピン戦や沖縄戦での特攻作戦について記述がない。特攻隊は,中古機,練習機,水上機など旧式航空機の寄せ集め部隊が多く,搭乗員も実戦経験のない未熟練新米パイロットが大半であった。源田実中佐は,特攻隊,人間爆弾「桜花」の開発・部隊編成に強く関わった過去を断ち切るように,特攻隊とは雲泥の差があるエリート部隊,すなわち新鋭戦闘機とエースパイロットを集めた戦闘機隊343空司令に就任して「海軍航空隊最後の花道」を歩んだ。

特攻に関与した高級指揮官たちは,戦後まで生き延び,華やかな生活を送った人物も多い。

 富永恭次中将は,捷一号作戦では日本陸軍航空隊の第四航空軍司令官として,フィリピンでの特攻攻撃を指揮した。しかし,フィリピンでの日本の敗退が明らかになると,台湾に命令なしに自主的に逃げてしまう。特攻が自生的に行われたとする大本営参謀瀬島龍三中佐は,捷一号作戦(フィリピン作戦)を担当し、沖縄戦でも特攻隊を送り出した第五航空軍の作戦にあたった。

青木司令も1945年8月11日、朝鮮元山の海軍基地から家族ぐるみで日本に逃亡した。源田実中佐は,参議院議員になり,瀬島参謀も大企業最高経営責任者,政治顧問となった。

陸軍の菅原道大は1944年6月航空総監部次長のち総監,7月教導航空軍司令官,1944年12月 第六航空軍司令官として,特攻隊編成,特攻作戦を指揮した。戦後は、部下が航空自衛隊で活躍した。特攻観音を作るのに尽力した。しかし、特攻が犠牲的精神の自然な発露であり,志願によるものであるとの立場は貫いた。

⇒◆特攻作戦の崩壊:「特攻自然発生説の否定」を読む。

写真(右)1944年海軍婦人部隊WAVEsとダブル・デートする米海軍水兵。米国は、犠牲者をもつ勇者でも、自殺攻撃をする必要はない。それどころか,本国では休暇中にデートまでできた。日本では、戦争中期以降姿を消した「海軍勤務も楽しいよ」というプロパガンダも行われたのである。「自爆テロリスト」から見れば,堕落した快楽主義者と思われるかもしれない。しかし、このような米兵が自爆テロで殺されれば,前途ある若者の将来を平然と奪ったテロリストを殲滅せよと、報復のヤイバが向けられる。

◆ 2011年7月刊行『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との戦争論を見直したいと思います。
当サイトへのご訪問ありがとうございます。2005年7月12日以来,Counter名の訪問者があります。写真,データ引用の際は,URLなど出所を明記、リンクしてください。

◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
連絡先: torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
free counters


Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 3000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright (C) 2005 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.