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◆ワルシャワ・ゲットー Warsaw Ghetto;Warszawa Getto
写真(上):1940-43年,ポーランド・ワルシャワゲットーのストリートチルドレン(浮浪者)ユダヤ人は居住地から追放され,狭いユダヤ人居住区ゲットーに隔離された。家屋・土地など不動産はもちろん,家具から仕事・教育,移動の自由まで失った。ゲットーのユダヤ人は,孤児たちに助けを差し伸べることはできなかった。Polen, Warschau.- Zwei Kinder in zerlumpter Kleidung (bettelnd?) auf dem Gehsteig an einer Hauswand sitzend Dating: 1940/1943 ca. Photographer: Herrmann, Ernst撮影。上記写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。

写真(右)1941年5月,ポーランド,ワルシャワに設けられたユダヤ人を強制隔離した居住区「ゲットー」からアーリア人(ドイツ人)の工場に派遣される労働者第二次大戦が1939年9月に勃発,ドイツが占領したポーランドには大量のユダヤ人を収容する施設として,都市にユダヤ人居住区「ゲットー」Ghettoが設けられ,ポーランド人が追い出された後に,多数のユダヤ人が強制移住させられた。蓄えのなかった貧しいユダヤ人は,ゲットー内部の後片付け,廃品・廃材工場などに働きにでるしかなかった。
Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、外国人排除、独裁政権獲得という本音のようだ。
◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
◆2011年9月2日・9日(金)21時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」で「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。これらは、ZDF「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl」をもとにした番組。

1.ナチスドイツによるユダヤ人迫害

ファシズムの軍備拡張、領土拡張につれて、既存の秩序・権益を主張する米英仏と対立した。ヒトラー総統(Führer:フューラー)は,東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得することを1925年の『わが闘争』で公言し,ドイツ弱体化を謀るユダヤ人は,共産主義者のペストであるとのアンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝,ユダヤ人への憎悪を煽動した。

反ユダヤ主義に基づいて,1933年4月,公職追放,5月,焚書,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止,1934年,医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々と出された。1938年4月,財産の登録義務を課し、登録料を徴収。11月,ユダヤ人商店破壊(クリスタルナハトKristallnacht)。

人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,生物学的に,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,人「種」ではなく,「亜種」に過ぎない。

人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われており,似非科学な偏見,恣意的な区分,プロパガンダに基づいている。宗教と人種民族の境界も,恣意的である。厳格な区分が不可能な亜種である人種・民族を,為政者は都合よく差別し,特定の人種民族を迫害した。


親衛隊SS長官ヒムラー(警察長官)は,1933年から,下等劣等人種ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシーなどドイツの敵を拘束する強制収容所KL(Konzentrationslager:ラーゲル)を,オラニエンブルク,ダッハウに設置した。

ナチスの時代,ユダヤ人への温情は,違法行為であり,言論の自由がない状況で、政府批判は,強制収容所送りになった。大戦前,総統に忠誠を誓ったドイツの将兵,市民は,ユダヤ人迫害は仕方がないと諦めた。

しかし,十一歳のアンネが置かれた状況とを比較すれば,利己的な現実主義は,自分の弱さによっている,と気づかされる。自分の無力さを前提に「しかたがない」とするニヒリズムである。

写真(右)1943年,ナチス親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー:人種民族差別主義者だったが,人的資源が枯渇すると,外国人を兵力化するために,外国人からなる武装親衛隊を編成し,志願兵を募った。ドイツ軍のために利用しようとしたのである。ヒムラーは、1945年敗戦を迎えたドイツで逃亡中に発見され自殺した。
インド国民会議派・元議長のチャンドラ・ボースは,インドからドイツに亡命していたが,ヒムラーの助力を得て,自由インド旅団を設立,連合国と戦った。ボースは,後に潜水艦で日本に渡り,アンダマン諸島にインド仮政府を設立,その首班に任命された。終戦時,ソ連に渡航しようとして,台湾で飛行機事故で死亡。
Heinrich Himmler mit einem SS-Sturmhauptführer in der Feldkommandostelle anläßlich eines Besuchs von Subhas Chandra Bose Dating: 1943 Photographer: Alber, Kurt撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツでは,戦前1938年4月,ユダヤ人の財産の登録義務を課し、登録証を徴収。そして、親衛隊国家長官ヒムラーの下に、1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合後のオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が増設。1938年6月15日,ユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。

◆1933年のナチス政権獲得直後、ドイツ国内では、反ナチス的人物を拘禁する強制収容所が開設され,下等劣等人種として,ドイツ・ユダヤ人に対する迫害が開始された。ドイツ国籍ユダヤ人を迫害してきたナチスドイツは,第二次大戦中、ポーランド・ユダヤ人に対して、いっそう激しく迫害した。

リチャード・ウィリアムソンRichard Williamson )司教は,「ガス室は存在しなかった」と公言するなどホロコーストを史実と認めず,ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。
しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。

ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。

1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。
だが、ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。

写真(右)1939年,ポーランド,ドイツ軍が集合させたユダヤ人(?)の老人:1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻直後,国家保安本部ハイドリヒは,ユダヤ人をゲットーに隔離することを命じていた。また,ポーランド侵攻には5個中隊分のアインザッツグルッペ(特別行動部隊)が国防軍に付帯され,ユダヤ人,教員,聖職者,官僚など反ドイツ容疑者を拘束,処刑した。Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), alte Mann mit Bart; PK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Amphlett, Eduard 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

 問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。

 ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。

 ローマ法王が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。

 ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世のローマ法王就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世は法王就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回のウィリアムソン司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。

法王は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。

ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」Nostra Aetate:DECLARATION ON THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。


2.ドイツ軍ポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦

写真(右)1939年9月1日,ドイツ国防軍がポーランド侵攻,ダンチヒ国境ゲートを破壊:ポーランドのワシの標章がついたバーをへし折るドイツ軍兵士と国境警備隊。
Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf Polen am 1.9.1939. Soldaten zerstören den Schlagbaum an der deutsch-polnischen Grenze in der Nähe von Danzig Archive title: Polenfeldzug, bei Danzig, Straße Zoppot-Gdingen.- Beseitigung eines Schlagbaums mit polnischem Wappen an der deutsch-polnischen Grenze durch deutsche Soldaten. [aus Serie mit mehreren (gestellten) Motiven: (1) Bild 183-E10457, (2) Bild 183-E10458, (3/4) Bild 146-1979-056-18A und Bild 183-51909-0003] Dating: 1. September 1939 Photographer: Sönnke, Hans撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入された宜羸鐚:歩兵を追い越してゆく宜羸鐚屬世,機銃しか装備していないうえに,装甲も薄かった。右の煙突のある貨車は,食事を作る調理車両。
Polen.- Panzer I und Infanterie auf schlammiger Straße; PK 637 (Ost) Dating: September 1939 Photographer: Wagner 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ軍は1939年9月1日,ポーランドに侵攻。ポーランド軍は,果敢に抵抗したが,1939年9月27日, ワルシャワ陥落,10月6日, ポーランド降伏。

写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻参加した宜羸鐚:7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車。
An den Ufern der Brahe sichern deutsche Panzer das Gelände gegen Überfälle von versprengten polnischen Truppenteilen. Angespannt beobachtet der Kommandant mit dem Glas das Gelände, um sofort auf auftauchende Polen das Feuer eröffnen zu lassen. 4.9.1939 [Herausgabedatum] "Fr.OKW"-Sche Es muß genannt werden: Foto: Weltbild-Schwahn Dating: September 1939 Photographer: Schwahn 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。

写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入された傾羸鐚:3.7センチ砲装備の戦車で,ポーランド軍を圧倒できた。
Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese stehend hinter einer Ortschaft. Panzersoldaten am Turm eines Panzer III Ausf. D; KBK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Rascheit撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,狭羸鐚(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

新型の傾羸鐚(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)と弦羸鐚(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)は少なかった。傾羸鐚屬蓮つ綱た3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。

写真(右)1939年9月,18年式10.5センチ榴弾砲を牽引する5トン牽引車(Sd.Kfz. 6):8.8センチ砲よりも軽量の10.5センチ榴弾砲などを牽引した。全長 4.7メートル,全幅 1.8メートル,全高 1.6メートル,重量 5トン,乗員2人,兵員乗車 6人。
Polenfeldzug.- Mittlerer Zugkraftwagen 5 t (Sd.Kfz. 6/1) mit angehängter leichter Feldhaubitze 18 und Krupp-Protze beim Durchfahren einer Ortschaft; PK 637 Ost Dating: September 1939 Photographer: Falk撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


北方軍集団(フォン・ボック大将)は,クルーゲ大将の第四軍,キュヒラー対象の第三軍,あわせて22個師団からなる。北方軍集団は,ドイツ領の東プロイセンから前進した。

ポーランド侵攻「白(ヴァイス)」作戦の目標は,ヴィスワ川の西方でポーランド軍を包囲殲滅することである。

写真(右)1939年9月,ポーランド、ブレスト=リトフスク(Brest-Litowsk)を低空で空爆するドイツ空軍ハインケルHe-111爆撃機の機首に装備されたMG-17旋回機銃:爆撃手の視界は良好で眼下には,対戦車壕が観察できる。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-S52525 Original title: info Die deutsche Luftwaffe an der Ostfront. Neben dem sich unten nach der Mitte des Bildes hinziehenden Festungsgraben erkennt man auf dem Wall die Schützengräben. Brest-Litowsk 11576-39L [PK-Stempka Scherl Bilderdienst] Archive title: Polen.- Blick aus der Bugkanzel eines Flugzeugs Heinkel He 111 mit Maschinengewehr auf Brest-Litowsk Dating: September 1939 Photographer: Stempka Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ハインケルHe-111爆撃機諸元:全長16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル,全備重量 1.4トン,Jumo211F液冷エンジン(1200馬力)2基,最大速度 440キロ,航続距離 2800キロ,武装 7.92ミリMG15機関銃5丁 爆弾2トン。

ワルシャワ・ゲットー日記―ユダヤ人教師の記録 ワルシャワ陥落,ポーランド降伏を体験した一ユダヤ人教師は,ユダヤ人の歴史を記録するために----と自分にいい聞かせながら,苦難の中,日記をつけ続けた。これが,カプラン,ハイム(2007)『ワルシャワ・ゲットー日記―ユダヤ人教師の記録』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan風行社 である,開戦当日の日記は,次のようである。

「1939年9月1日の朝,ポーランドとドイツの間に,間接的に言えば英仏とドイツの間に戦争が勃発した。今回は英仏は同盟を守り,チェコスロバキアのようにポーランドを裏切ることはないだろう。-----実際,この戦争は人類の文明を破壊するだろう。しかし,それは破壊されるべき文明である。ヒトラー率いるナチスが,最終的に打ち倒されることは疑いない。ドイツの野蛮人が人類から簒奪しようとしている自由のために,最後には多くの文明国が立ち上がるだろうから。

ヒトラーは,ある演説で戦争が始まればヨーロッパのユダヤ人を絶滅する,と脅した。ユダヤ人は,いつかは解放されるにせよ,ヒトラーの占領地では,自分たちに何が待ち構えているかを感じ取っている。それゆえ,ユダヤ人が身をもって祖国ポーランドに献身しようとするのは,驚くべきことではない。空襲から身を守るために,市民は防空壕を掘るようにとの命令が出たときに,大勢のユダヤ人が参加した。」

カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan1939年9月4日:
「我々は次第に戦時を生活の場と感じ始めている。普通の生活は終わり,世界は混沌と化した。郵便物は届かず,許可なしで旅行もできない。また,銀行は預金のごく一部しか払い戻しをせず,生活費を得るすべはない。食料品店と薬局を除いて,すべての店は閉ざされ,食糧販売店と薬局には客が押し寄せる。-----

我々は,その(公式報道)の行間を読むことにより,我が軍が重要な都市を放棄しつつ,徐々に退却していることを知る。」

写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻作戦「白の事例」の時期のアドルフ・ヒトラーと秘書のマルチン・ボルマン、エルヴィン・ロンメル少将、ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将:第二次大戦勃発前年の1938年、ヴェルナー・フォン・ブロンベルク将軍(ヒトラーへの忠誠宣誓を国防軍に導入)がヒトラーの戦争計画に疑念を表明して陸軍大臣を退任させられたが、このとき陸軍総司令官候補の一人にあげられたが、親ナチ党のライヒェナウだった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-013-0064-35 Archive title: Polenfeldzug.- Martin Bormann, Adolf Hitler, Erwin Rommel und Walter von Reichenau mit Feldstechern und Scherenfern-gläsern; PK 637 (Ost) Dating: September 1939 Photographer: Kliem撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,保安警察特務部隊アインザッツグルッペ Einsatzgruppen)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置した。

写真(上左):1939年9-10月,ポーランド,ワルシャワのドイツ軍将官:ゲッペルス博士を大臣とする啓蒙宣伝省を設立したナチスは,ポーランド占領後,宣撫を開始した。
Polen, Warschau.- Verteilung von Propagandamaterial. Auto mit deutschen Soldaten umringt von Bewohnern; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Rieger, Alfons 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
 

ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊 Einsatzgruppenのうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士号をもつSS大隊長(中佐)だった。特別機動部隊 は,ポーランドの反ドイツ活動を弾圧しようと,パルチザン容疑者を即決銃殺していった。

1939年9月21日,開戦から3週間,SS国家保安本部長官ハイドリヒは,ドイツ陸軍総司令部(OKH)の了解を得て,ポーランド・ユダヤ人の強制移送を,親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)に指示。これが,後のゲットーへのユダヤ人囲いこみに繋がる。

写真(上右):1939年9-10月,ワルシャワにおけるドイツのポーランド人宣撫工作:ゲッペルス博士を大臣とする啓蒙宣伝省を設立したナチスは,ポーランド占領後,宣撫を開始した。
Polen, Warschau.- Verteilung von Propagandamaterial. Auto mit deutschen Soldaten umringt von Bewohnern; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Rieger, Alfons 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
 

◆第二次大戦の勃発直後から,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに強制移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国,オランダ,フランスの一部の警察・住民は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。

英仏は対独攻勢をかけず、ポーランドを見殺しにした。その後,フランスに勝利した1940年には,仏領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討されたほどだった。

写真(右)1939年3月,ポーランドで虐殺された民族ドイツ人(ドイツ系ポーランド人):チェコスロバキアでも,ステーテンランドの民族ドイツ人を支援したヒトラーは,ポーランドでも領内の民族ドイツ人を煽動した。これは,ポーランドに対する分割統治であり,国民を対立させ,紛争を起こさせる手段である。
ナチスに優遇された民族ドイツ人は,ポーランド人から裏切り者と思われたに違いない。本来,地域あるいは国家に複数の人種民族が共生していた状況を,為政者がプロパガンダ,人種民族偏見,軍事力によって,分断し,対立させたのである。
第二次大戦がドイツの敗北に終わると,今度は民族ドイツ人が,ポーランド,チェコスロバキアなどから,ドイツに追放された。これはドイツに占領された東欧諸国の報復ともいえる。
Zu den bestialischen Geiselmorden in Bromberg Scherl Bilderdienst, Berlin 7.9.39 [Herausgabedatum] 11273-39 18 am Bromberger Kanal gefundene Leichen nebeneinander, darunter 2 Kinder. Bis auf einen einzigen waren allen die Hände auf dem Rücken zusammen gebunden. Archive title: Polen.- Leichen getöteter Volksdeutscher (Opfer des "Bromberger Blutsonntag") Dating: September 1939 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


『アサヒグラフ』1939年4月19日発行は,「大独乙ついに三割半の膨張 ボヘミア・モラヴィア・メーメルの編入」と題して,「一九三九年の火の手は果然チェコスロヴァキアの内紛と共に中欧より燃上がり,-----二十二年の歴史を誇った中欧の共和国チェコスロヴァキアはここに全く世界地図から姿を抹殺されるに至った。全世界を震撼したかの独墺合邦から満一年,ズテーテンを接収してから僅かに半歳にして,又してもヒトラー総統は大ドイツの旗印も鮮やかに無流血の併合に成功したのである。-----

チュニジア,スエズ,ジブチをと叫んだイタリアは逆にアルバニアの一角より新行動を開始せんとし,独伊枢軸の圧制の下にバルト海からバルカンに及ぶ広大なる地域は今や全く口火を切られた爆弾の如く無気味な燻りを続けつつある。独爆撃機の急襲に怯える英国の姿はそのまま今日の欧州でもあり動揺する弱小国家群こそは仮面を脱いだヨーロッパの真顔であろう。」

ユダヤ人の人権を制限する迫害が始まった時,それに反対する人権・民主主義確保の動きは,大きくなることができなかった。ユダヤ人が迫害され,追放されることで,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の中には,ユダヤ人の人権制限を許容した人たちもいた。

写真(右)1939年11月、ポーランド、クラコウ、ドイツ占領下ポーランド東部を総督領(首都クラコウ)として統治したポーランド総督ハンス・ミヒャエル・フランク(Hans Michael Frank: 1900年生まれ、1946年10月処刑)法学博士:1930年の国会議員選挙でナチ党から出馬して当選した当時30歳だった。ポーランドを占領した後、1939年10月10日、ヒトラーによって、フランクはポーランド総督に任命されたが、親衛隊が各国のユダヤ人を総督領のゲットーに送り込み、総督領を掃きだめとしているとして、対立することも多く、さらにポーランドからの掠奪争いも起こしている。しかし、法律専門家としての意識を垣間見せて、親衛隊の実施しているテロを批判することもあった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-2011-1107-500 Original title: info Der Generalgouverneur für die besetzten Gebiete, Reichsminister Dr. Frank, in seinem Arbeitszimmer auf der Burg von Krakau. 14-11-39 Archive title: Polen, Krakau.- Hans Frank am Schreibtisch sitzend Dating: November 1939 Photographer: Hoffmann, Heinrich Agency: Scherl
写真はWikimedia Commons, File:Bundesarchiv Bild 183-J31305, Auszeichnung des Hitlerjungen Willi Hübner.jpg引用(他引用不許可)。


ナチスの起こした大規模公共事業を失業者をなくした「偉業」とする見解もある。しかし,ヒトラーの意図は,ドイツの産業を興隆させ,壮麗な建築物を配置して,ドイツの威信を世界に示すことであった。そして,優秀なドイツ人の維持・保全のために,下等劣等人種であるユダヤ人,スラブ人などを排除することだった。


3.1940年10月ワルシャワゲットーWarsaw Ghetto設置

1939年9月,東プロイセン(現ポーランド)でも,顎鬚など特徴あるユダヤ人は,集合を命じられ,ユダヤ人登録された。1940年8月になると,ゲットの仕切りとなる壁を,ユダヤ人評議会自らの負担で建設することが命じられた。そして,強制労働法が施行され,すべての12-60歳のユダヤ人が登録され,建設,沼沢地干拓,治水など重労働に無償酷使された。労働者はテントに寝泊りして,1日当たりパン250グラムを支給されただけであった。

ポスター(右):1939年9-10月,ポーランド,ワルシャワで馬車を使って移動するユダヤ人(?):ゲットーに移住するといっても,家屋,土地など不動産はもちろん,家具・食器など日常生活に必要なものも一部しか運搬することはできなかった。今日のように,一家だけのトラック引越しではなかった。職も学籍も故郷も失い,自由を奪われることになった。
Polen, Warschau. - Menschen auf Pferdekarren; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Schulze 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1940年10月初旬,ゲットー設置の噂が広まっていたワルシャワでは,出入り可能な開放ゲットーが設置されることになった。ユダヤ人地区のポーランド人,ポーランド人(アーリア人)地区のユダヤ人は立ち退きを求められ,分離された。

カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』 The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan (1940/10/12)
「我々は今日の夕方,まだ涙も乾かないうちに,新たな法令が出されたことを知った。その野蛮な法令は,これまでわれわれに対して出されたどんなものより重要であり,重大な結果をもたらすだろう。----

結論を言えば,ついにゲットー令が施行されたのである。差し当たりは開放ゲットーとされているが,すぐにも閉鎖されることは間違いない。ウッジでも,ゲットー令はすべて一挙に交付されたのではなく,段階を追って,発令されていった。----

10月31日までに,壁の外側にすんでいるユダヤ人は,一人残らず内側の通りに移り住まなくてはならない。壁の内側に住んでいるアーリア人(つまりポーランド人)は,アーリア人地区に移らなくてはならない。----ポーランド人は,ゲットーからの立ち退きを命じられただけではなく,ドイツ人地区からも移住しなければならない------。

ナチズムはあらゆる人々を分離しようとする。主人は主人,臣下は臣下,奴隷は奴隷。祝福されたものとのろわれたものが一緒に住むことはできないのだ。

ユダヤ人であろうとアーリア人であろうと,生活を変えなければならないのは,辛く苦しい。それゆえ,残虐な主人に捕らわれ,ワルシャワは,今,大パニックに陥っている。」


Children in the Warsaw Ghetto :ワルシャワゲットーのユダヤの子供たち

写真(右)1940年3月,ポーランド,リッツマンスタットで退去を命じられたユダヤ人:家屋・土地など不動産はもちろん,大半の家具や家畜までほとんど手放して,移住を明示された。持ち出す荷物の重量,持ち出し時間には厳しい制約が貸されていたので,強制移住は,事実上,財産の略奪でもあった。移送されてきたユダヤ人が,通りで,自分たちを受け入れてくれる住居を探しているのかもしれない。やっと持ち出した家具や荷物を受け入れるだけの居住空間がないことも多かった。それを見越して,移住者からの家具や物資を買い付ける業者が集まってきた。
Old signature: Bild 146-1971-096-28, Bild 110 Original title: Litzmannstadt. D.[eutsches] R.[eich] Auszug der Juden aus Litzmannstadt. Dating: März 1940 Photographer: Rode und Kiss 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan (1940/10/14)
「ワルシャワのユダヤ人に対して,完全な形のゲットーが設定され,そこに約50万人のユダヤ人が住むことになる。ゲットー,数十万人の人々の避難所に指定されたのは,市の狭隘な一角であり,今後,この地区はあらゆる種類の凶行,邪悪な所業が横行する所となるだろう。混雑した狭い通りが交差するこの地区は,近郊の町からの避難民で足の踏み場もないほど埋め尽くされている。ゲットーの中は立錐の余地もない。雨露をしのぐことができる場所には,どこにも人が住み着いている。」

1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)

第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランド,バルト諸国Baltic Countriesの警察も,ユダヤ人迫害,ゲットー追放に協力した。ゲット−隔離前,ドイツはユダヤ人の個人情報を収集する登録を命じた。

写真(右)1939年9月,ポーランド、ドイツ警察の監視下でトラックで労働作業に向かうユダヤ人男性
Polen;- Transport verhafteter Juden auf einem LKW unter Bewachung durch Polizei und SD; KBK Lw 4 Dating: September 1939 Photographer: Lifta 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1939/10/10) :
「ユダヤ人だけが強制労働に連行されている。筋骨たくましいポーランドの若者は,労苦の重荷にひざまづくユダヤ人を遠くからあざ笑う。敵はもっとも嫌われる仕事,たとえばトイレ掃除や床磨き,その他こういう類の仕事にユダヤ人だけを選んで就かせる。そして,次のような事件が起き,私は一人の若者からその話を聞かされた。------

彼らドイツ兵士は,仕事に就かせるために,その若者を捕らえ,不潔な場所を綺麗にするように命じたが,何の道具も与えなかった。彼が道具を求めると,彼らは素手で掃除をし,バケツの代わりに自分のコートを使うように命じた。それに抗議すると,彼らは彼を叩き打った。

その場に居合わせた兵士の中には,罪無き男が苦しむのを見るに耐えかねる者もいて,暴力漢に向かい,人間に対してそのような振る舞いをすべきではない,説いた。将校は,それに対して,ユダヤ人は戦争を望んだのだから,このような不幸が降りかかるのは当然である,と答えた。既に1万人以上のドイツ人が犠牲となったのに,ユダヤ人どもをこの戦争から利益を貪っている,と。
その後,彼らはその若者をさらに打ちすえた。そして,7時間にも及ぶ卑しい仕事の後,彼はパンも水も口にすることなく帰宅した。」

写真(右)1939年9-10月,ワルシャワで通りの後片付け・清掃をさせられるユダヤ人(?)。左端のドイツ兵は,使役するユダヤ人を監督しているが,小銃をもっていない。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人を使役して,自らが破壊したワルシャワの通りを清掃させた。この程度の差別的使役であれば,命令されたユダヤ人も従った。
ユダヤ人を清掃作業に当たらせるのには,非武装の兵士で十分だったのは,ユダヤ人にとって使役の内容が許容でき,積極的に反抗されなかったためである。親衛隊は,ユダヤ人を軽蔑しつつも,恐れていたから,ユダヤ人の反乱を警戒して,ユダヤ人迫害,絶滅の方針を隠蔽した。
Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Rutkowski, Heinz 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ユダヤ人を警戒させずに登録するための名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだった。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。こようにしユダヤ人は自ら出頭して使役の義務を終えて、これ以上の苦役が家族に課せられないように家族全員を登録した。登録したことでこの一家の安全を保障しようとした。しかし、ドイツ人が重視していたことは、ユダヤ人を使役することではなく、ユダヤ人全員を登録し完全に管理する準備をすることだった。

ナチスドイツは,占領したポーランドのユダヤ人を,いきなりユダヤ人居住区ゲットーGhettoに隔離したのではない。ゲットーに移す前に,ユダヤ人の氏名・住所などの情報を集める登録作業を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだったようだ。

ユダヤ人は,戦禍の片付け作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。しかし,清掃に従事することで生活を維持しようとしたユダヤ人は、やむを得ずユダヤ人登録に応じてしまう。こうしてユダヤ人を出頭させ登録によってユダヤ人個々人をを把握することに成功した親衛隊は,リストに載ったユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。

◆ユダヤ人は,戦災後片付けのための労働は仕方がないと登録に応じた。家族の妻や子供たちの労役は免除されているが,これは夫が家族の氏名を登録させられたからだろう。夫は,これで妻や子供は苦役から解放されたと考えたに違いない。清掃作業を終わらせれば,苦役から解放されると,頑張ったかもしれない。

しかし,清掃のような「軽」労働は,ナチスにとって問題にならなかった。登録をして住所・氏名・家族を把握されたユダヤ人は,市内一角のゲットーに強制移住させられることになる。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まった。


1940年1月19日までに,ユダヤ人は現金,商品,債券,不動産など財産登録を義務付けられ,2月10日までに,12歳から60歳まで,強制労働の対象として,ユダヤ人評議会に登録しなければならなくなった。このころから,毎日のように,数十人のユダヤ人家族が財産を奪われ,トラックで運びされれた。そして,武器の捜索を口実に,貴金属,宝石,毛布,衣類,家具までもとっラックで運び去られた。

1940年3月に,ユダヤ人評議会がポーランド総督フランク博士に呼ばれ,指定されたユダヤ人居住区(ゲットー)に強制移送される住民が出始めた。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。

1940年5月のフランス軍の大敗北後,ワルシャワの通りを分断する壁が築かれたが,これはドイツの命令だった。ユダヤ人評議会が作らされ,街はアーリア人居住区,ユダヤ人居住区に区分され,ユダヤ人は,ユダヤの星マークをつけるよう命じられた。ワルシャワには,まだ閉鎖式のゲットーは設置されていないが,ユダヤ人地区はできた。1940年7月30日,クラコウの全ユダヤ人の追放のニュースが,ワルシャワにも届いた。

ユダヤ人は,ポーランド各地のゲットーの狭い区画の中に隔離,囲い込まれた。ウーチでは,6万2000人のユダヤ人が住んでいた地区がゲットーとされ,近郊から10万人のユダヤ人が押し込まれた。市内交通確保のため,路面電車の通りは柵と鉄条網によって,ゲットーから隔離された。

ラドム,ヘウムノのゲットーでは,当初は,ポーランド人の出入りは自由で,ユダヤ人もゲットーの外に出ることが可能だった。が,その後,出ることはできなくなった。

写真(右)1939年9月末,ポーランド,白いテーブルクロスのリビングでテーブルを囲むユダヤ人の老人と少年:祈祷に用いるのか,卓上にある本は聖典かもしれない。
ドイツは,ポーランド侵攻の最中に,ユダヤ人をゲットーをつくり強制的にそこに移住させる命令を出していた。ポーランドの全てのユダヤ人がゲットーに住まわされたわけではない。しかし,大都市に住んでいた大半のユダヤ人は,新設させたゲットーに強制移送された。
Polen.- Drei alte Männer und ein Junge (Juden?) um einen Tisch mit weißer Tischdecke Bücher sitzend; PK Lw 1 Dating: September 1939 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1940/6/27) :
「----スターリンと総統との間に戦争が起こると,予言する者がいる。知識人の多くは否定するが,噂は絶えない。------

(ユダヤ人地区の)通りの往来は,日が暮れるころに,いっそう騒々しさを増す。そのころには,仕事で行き交う通行人に加え,黒を知らない若者が多数うろつき回る。今がどういう時なのか,彼らには分かっていない。公園は閉鎖され,劇場は開かれず,市を離れれば危険が大きいため,夏季キャンプ場には人影が無く,映画も禁じられている。そのため,人々はレシュノ街とカルメリツカ街に集中する。-----

彼ら(征服者ドイツ人)どもは,ユダヤ人評議会に対して,これら通りの交通を元の状態に戻すように,通告してきた。彼らは,非常に繊細なので,ドイツ国民が敵の刃に倒れた若者の死を嘆き悲しんでいるこのとき,ユダヤ人の若者が響かせる笑い声に耐えられない。
これが彼らの理由である。ユダヤ人の若者は生きる権利,それも静かに降伏に生きる権利を奪われたのである。

彼らは通行する一方で,次のような警告を付け加える。もしユダヤ人評議会が往来を鎮めることができなければ,自分たちが自分流のやり方で取り締まる,と。彼ら流のやり方とはどのようなものかは,われわれにはすぐに予測できる。」

ポーランド降伏から1年後,1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを作る法令が出された。

ワルシャワでは,1940年10月12日ゲットー設置命令以降,1940年10月第3・4週だけで,ポーランド人キリスト教徒11万3000人が立退かされ,13万8000人のユダヤ人が流入した。ワルシャワの2.4%の区域のゲットーに,ワルシャワ人口の30%を占めるユダヤ人が押し込められた。その結果,人家族が住んでいたアパートに2-3家族が暮らすことになった。

1940年11月16日,ワルシャワ・ゲットーは封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーから出ることはできなくなった。

ゲットーGhetto内部の物資は不足し,配給も少なかったために,餓死や病死が増え,1941年には,ワルシャワゲットー人口の10%以上の4万3000人が死亡した。

ゲットー内で生きてゆくには,地下水道やコネをつかって,外界のポーランド人に賄賂を渡し,あるいは外に忍び出て盗みをし闇物資の密輸をしなければならなかった。闇物資を,ゲットー内で法外な価格で買い入れることのできたユダヤ人は,生きてゆくことができた。しかし,闇物資(密輸品)を入手できなければ,生活は困窮した。


912 days of the Warsaw Ghetto:ワルシャワゲットーのユダヤ人

1941年9月1日,ドイツで,ダビデの星Star of Davidをつけることについての警察条令が発令:満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。
ユダヤの星Juden Sternは手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左胸に縫い付けること。


しかし,ドイツ市民の中には,ユダヤの星を着けさせられたユダヤ人に同情を示したものも少なくなかった。また,ユダヤ人も「誇りを持って,ユダヤの星をつけよう」"Wear It With Pride, The Yellow Badge" と訴えた。

そこで,ユダヤの星 yellow badge着用条令発令の2ヵ月後,1941年10月24日,ユダヤの星を着けたユダヤ人への共感を示したものに対して,3ヶ月間の強制収容所拘禁を命ずる布告が出された。

1941年11月4日,ドイツ帝国財務省令:国民経済に重要な企業で就労していないユダヤ人は,数ヶ月以内に,東方に追放する。追放されるユダヤ人の財産は,ドイツ帝国のために没収する。

1942年1月23日ヒトラー卓上談話 Hitler's Table Talk:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。


ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランドでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人のゲットー押し込め,強制収容所移動に対して,反発はほとんど起きなかった。オランダのように,ユダヤ人を匿うこと,ユダヤ人に食料などを支援する動きは,弱かった。

ドイツは占領後,ポーランドに、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置、何万人ものユダヤ人を狭い空間に押し込めた。ドイツ本国のユダヤ人も追放された。1940年に降伏させたフランス領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討された。

写真(右)1939年10月5日,ポーランドを降伏させた大ドイツ第三帝国アドルフ・ヒトラー総統と陸軍総司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥:第一次大戦のドイツ敗北は,ドイツ軍が有閑に戦っている背後で,ユダヤ人が策謀,陰謀を働いたためである。ドイツ人の中には,ユダヤ人がドイツ人を排除しようと戦争を煽動していると考え,ユダヤ人には人権を認める必要がないとするものが少なくなかった。
Der Führer und der Oberbefehlshaber des Heeres Wieder jährt sich der Tag, an dem durch den kühnen Entschluß des Führers eine der härtesten und drückendsten Fesseln von Versailles abgestreift wurde und Deutschland sich seine Wehrfreiheit wiedernahm. UBz: Adolf Hitler, den Obersten Befehlshaber der Wehrmacht und Generaloberst von Brauchitsch, den Oberbefehlshaber des Heeres. Scherl Bilderdienst 15.3.40 [Berichter Mensing] Archive title: Polen, Warschau.- "Führerparade", Parade der Wehrmacht vor Adolf Hitler und Generälen, Walther von Brauchitsch und Adolf Hitler in Ledermänteln bei der Parade am 5. OKtober 1939 Dating: 5. Oktober 1939 Photographer: Mensing 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラー卓上談話(テーブル・トーク)
ナチ党官房長官マルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を記録をとらせ,作成された。ボルマンはこの原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。

1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。-----われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。
----ボルシェビキ支配が今後二百年も続けば,われわれの作品がどのくらい子孫に残せるだろうか。偉大な人物が忘れ去られるか,犯罪者やならず者のように扱われるだろう。
-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。-----時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。

1941年11月5日:「善良な国民が(東部の)最前線で戦死しているこの時,(人権に配慮した刑罰制度によって)犯罪者ばかりを保護すれば社会のバランスは崩れ,国家の健全さは打撃を受けるだろう。----国家が窮地に陥っている時,手厚い保護の下に置かれている一握りの犯罪者は,最前線の兵士たちの犠牲によって得た賜物を簒奪するだろう。これは1918年(第一次大戦の敗北)に経験済みだ。この対策としては,この種の犯罪者は直ちに死刑に処す,これしかない。
-----こんな屑どもに団結する機会を与えるのは非常に危険だ。
」 (『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年 参照)

1941年11月5日,ヒトラー卓上談話:「----この戦争の終結は,ユダヤ民族の絶滅を意味する。---ユダヤ人は精神的なものに全く関心を持たない。------奴らは言葉をもてあそぶだけだ。他人を言いくるめるのだけは,実に上手い。----簡単に言えば,ユダヤ人は自分たちの人種思想に宗教的カモフラージュを施したのだ。奴らのやることなすことすべて,嘘に立脚している。
----ユダヤ人が生きるための戦いは,嘘こそが武器だった。
ユダヤ人は有能だというが,奴らの能力は,他人のものを弄び騙し取ることだけだ。
----とにかく私が言いたかったのは,ユダヤ人が被創造物の中で,最も悪魔的かつ愚鈍だということなのだ。----嘘つき,詐欺師,ペテン師!やつらが成功したのは,騙された人間がいたからだ。
----アーリア人は,ユダヤ人なしで生きてゆけるが,奴らはわれわれなしでは生きてゆけない。これにヨーロッパ人が気がつけば,ヨーロッパ人として連帯意識を持てるようになるのだが,その連帯意識を邪魔しているのがこれまたユダヤ人なのだ。」

1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。,
------だが,自由意志で彼らが出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。

◆人種汚染・人種民族差別は,独ソの過酷な殲滅戦、占領地における治安悪化が結びついた。さらに日米開戦を契機とした対ユダヤ人世界戦争の開始が,ヒトラーに,本格的なヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策を強行させた。なぜなら,ユダヤ人がドイツに戦争を引き込んだからである。

ユダヤ人迫害の理由は,ヨーロッパ・ユダヤ人という下等劣等人種Untermenschが,アーリア人を人種汚染Introgressionし,後方を撹乱し,共産主義革命,パルチザン活動を起こすからである。

ドイツは,敵性住民ユダヤ人をゲットーをつくり隔離しようとした。ドイツのユダヤ人移送は,1941年後半に始まっている。全ユダヤ人がゲットーに移送されたわけではないが,都市に住んでいた多数のユダヤ人は,ゲットーに移送された。当初は,ゲットーが鉄条網や壁に完全に囲い込まれることもなく,外出も可能だった。

ナチス親衛隊は,ユダヤ人評議会Judenrat(Jewish Council),その配下のユダヤ人警察(自警団)を通じて,ゲットーのユダヤ人を管理した。

写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻したドイツの警察・SDが,ユダヤ人を集め整列させた。カメラマンが,手前に二人以上いて記念撮影をしている。ドイツの敵である下等劣等人種ユダヤ人を捕らえたことを戦果と考え,誇らしく感じていたようだ。現在の感覚では,社会的弱者に対するいじめであるが,ナチスの新秩序の下では,人種汚染し,ドイツを滅ぼそうとするボリシェビキ・ユダヤ人は排除されるべきであるとされた。そこで,敵を捕らえた記念撮影をしているのであろう。
Polen;- Filmen verhafteter Juden unter Bewachung durch Polizei und SD, PK-Filmberichter (?) mit Kamera bei Aufnahmen; KBK Lw 4 Dating: September 1939 Photographer: Lifta 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ占領下のポーランドでは,地方にあっても,多数のユダヤ人が拘束,強制移送Judendeportationされた。ユダヤ人は,鉄条網や柵に囲まれた露天の収容施設(ラーゲル)に集められ,そこからゲットーや収容所に移送された。

ドイツ国防軍に,弱いものイジメBullyingに戸惑った将兵も少なくなかったようだ。しかし,ユダヤ人殺害が最高位からの命令と知ると,治安維持任務を親衛隊に任せ,国防軍の責任を回避しようとした。

親衛隊Schutzstaffel (SS)にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないことで,国防軍の名誉が守られると考えた。

敵性住民・下等劣等人種とされた全ユダヤ人は,ゲットーに収容されることになった。地方では目立たないかたちで,あるいは隠れるように家に残っていたユダヤ人もあった。他方,ユダヤ人であると発覚した場合の処罰を恐れて,身の安全のため自らユダヤ人であると名乗り出るものもいた。

写真(右)1941年10月6日,ポーランド中部レスラウ(現在のブロツラベクWłocławek)からのユダヤ人の強制移送:バルタランドは,ドイツ第三帝国の版図となったため,そこに住むユダヤ人は追放された。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離した。
ドイツの敵である下等劣等人種ユダヤ人を捕らえた「戦果」を,誇らしく感じていたのか。現在の感覚では,社会的弱者に対するいじめだが,ナチス新秩序の下では,人種汚染し,ドイツを滅ぼそうとするボリシェビキ・ユダヤ人は排除されるべきであるとされた。
Wartheland. D.[eutsches] R.[eich] Transport von Juden durch die Straßen von Leslau Dating: 6. Oktober 1941 Photographer: Holtfreter, Wilhelm撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ゲットーに移住するといっても,家屋,土地など不動産はもちろん,家具・食器など日常生活に必要なものも一部しか運搬することはできなかった。今日のように,一家だけのトラック引越しではなかった。職も学籍も故郷も失い,自由を奪われることになった。

ポーランドのユダヤ人は,ユダヤ人登録をして,戦禍の片付け作業に従事した。しかし,迫害は一時的な苦役の程度ではすまなかった。持ち出す財産を制限され,ゲットーに強制移送させられた。これは,都市のユダヤ人だけではなく,郊外や農村のユダヤ人も同様だった。農地,家畜を手放し,家屋を残したまま,ゲットーに移住を命じられた。

写真(右)1941年10月6日,ポーランド中部レスラウ(現在のブロツラベクWłocławek)で,鉄道駅に向かうユダヤ人追放者の強制移送:家屋・土地,家畜・家具全てを置き去りにして,抱えられるだけの荷物を携行して,移送されるユダヤ人。かさばらない通貨,宝石,貴重品なども携行していたであろう。しかし,追放されたユダヤ人が持ち出せた資産は僅かだった。家屋・土地はもちろん,思い出の故郷と断ち切られた。
Wartheland, Evakuierte Polen in Schwarzenau in der Nähe des Bahnhofs Dating: 1939/1941 ca. Photographer: Holtfreter, Wilhelm撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人追放は,軽い差別ではない。追放に際して,持ち出せた資産は僅かだった。不動産 (Real Estate),家具のほかに,仕事も,学籍も失った。ユダヤ人追放は,後のユダヤ人絶滅と比較すれば軽いが,現在の視点から見れば,とてつもない迫害である。

ユダヤ人のゲットー移送は,失職・失業Unemploymentし,学校から締め出され,自分の住む家から追放されることで,これだけで十分な迫害である。

◆強制的な移動,財産権の制限は,家屋や不動産など居住設備を失うことを意味し、基本的人権の侵害,迫害に相当する。ユダヤ人のゲットー生活は,外界からの物資流入が阻まれ,困窮を極めた。 


4.ゲットーを管理したユダヤ人評議会・ユダヤ人警察

写真(右)1941年,ワルシャワ・ゲットーの大通り。このゲットーは,ワルシャワ一角に設置され,住んでいたポーランド人は追放された。その後に,ユダヤ人30-40万人が押し込まれたために,十分な居住区画はなかった。
住民の間の住まい,食料,仕事を巡る争いが頻繁にあったが,これはゲットーを作った者たちの意図するところでもあった。ゲットー生活が困窮するにつれて,住民の人間性は麻痺し始めた。Polen, Warschauer Ghetto.- Straßenszene, Menschenmenge beim Überqueren einer Straße; PK 689 Dating: 1941 Sommer Photographer: Cusian, Albert撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1939年9月1日,ポーランドに侵攻したドイツに対して,連合国の英仏は,宣戦布告して,第二次大戦が始まった。
1940年5月10日に、戦時挙国一致内閣としてチャーチルWinston Churchillが英首相に就任した当日,ドイツのフランス侵攻作戦開始。

5月17日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏、6月5日、ダンケルク占領。ただし,連合軍兵士34万名は,英本土に脱出。6月10日、ノルウェー降伏,6月22日フランス降伏。

しかし,1940年に,フランスが降伏すると,ヨーロッパ大陸は,東方ソ連の勢力圏以外,ナチスドイツの支配下に組み込まれた。

第一次大戦の時,オーストリアに避難してきた東欧ユダヤ難民は,ウィーンに長らく住んでいたユダヤ人と反目することがあった。これは,貧しい東欧ユダヤ難民の流入によって,オーストリアの豊かさと文化に悪影響が生じ,反ユダヤ主義(アンチセミニズム)が広まることを,オーストリア・ユダヤ人が警戒したためである。

戦局悪化の中,オーストリア・ユダヤ人は,ナショナリズム(国民国家中心主義)Nationalismを主張,戦争に協力した。1918年,ドイツオーストリア・ユダヤ民族評議会を設立した。しかし,ユダヤ文化を守ろうとするユダヤ人はこれに反発した。 

ヨーロッパ・ユダヤ人同志の反目の仲で、ユダヤ人ナショナリストと反ユダヤ主義者とが共同して,パレスティナへのユダヤ人国家創設の動きを展開する。これが,シオニズムZionismに結びついた。

当初,ナチスも,シオニズムを支援し,英国支配下のパレスチナPalestinaに,ユダヤ人を追放できると考えた。しかし,戦争の成行きは,パレスチナへのユダヤ人追放の可能性を失わせた。ユダヤ人を排除すべき場所は,ドイツ支配下に限られた。

写真(右)1941年5月25日,ポーランドのワルシャワ・ユダヤ人居住区ゲットーGetto warszawskie:右端の制服は,ユダヤ人評議会の下でゲットー内の治安維持に当たったユダヤ人警察(自警団)。1933年,ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)はダッハウ強制収容所を開設したが,主に反ナチスのドイツ人用の懲罰的施設だった。
しかし,第二次大戦が1939年9月に勃発,ドイツが占領したポーランドにいた大量のユダヤ人を,収容する施設として,ゲットーが設置された。ドイツは,都市の一角のゲットーに,ユダヤ人を隔離した。富裕なユダヤ人も,貧しいユダヤ人も,大人も子供も,人口に比して狭い地区に押し込められた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Angehöriger der Ghettopolizei auf einer Kreuzung den Verkehr regelnd, Passanten und Rikshas auf der Straße; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ワルシャワのユダヤ人居住区ゲットーは,全長18キロの壁に囲まれてた閉鎖域だった。

1939年11月,ドイツ軍は伝染病Epidemicの蔓延を理由として,ワルシャワのユダヤ人居住区だった旧市内を立ち入り禁止にし,内部のユダヤ人を隔離した。そして,ユダヤ人自らに,ユダヤ人評議会をつくらせ,住民名簿の作成させ,命令を実施する手先機関とした。

ドイツはユダヤ人評議会,ユダヤ人警察(自警団)を使ってゲットーを間接支配した。夷をもって夷を制する方法である。後に,親衛隊は,ユダヤ人評議会に命じて,ユダヤ人を集めて収容所に移送するように強要した。

写真(右)1942年6月,ワルシャワゲットーGetto warszawskieのゲート:手前はポーランド人ワルシャワで,ドイツ兵が歩哨に立っている。ゲート周囲の鉄製フェンスは高さ3メートルほどで,その両側に立つ民間人は,ポーランド人のようだ。
ゲート内側は,ユダヤ人警察(自警団)が歩哨に立ち,あるいは交通整理をしている。燃料不足のゲットーでは,リキシャ(人力車)が個別輸送を担っていた。ゲート直ぐ近くの木製歩道橋は,大ゲットーと小ゲットーを繋ぐ歩道橋。
Polen, Warschauer Ghetto.- Drahtzaun, Passanten auf Straße; PK 697 Dating: Juni 1942 Photographer: Amthor撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ワルシャワ・ゲットーには,ウッジ(ウーチ)と同じような多少小型の歩道橋があって,やはりゲットーの間を路面電車,自動車などが通行できた。

1940年10月,開放式のワルシャワ・ゲットーが設置された当初,市電を利用したいユダヤ人は,運賃25グロシュ(0.25ズロチ)に加えて,年間60ズオチ支払わねばならないとされた。
11月になっても,ドイツのラジオ放送は,ここがゲットーではないこと,単なるユダヤ人居住区に過ぎないことを繰り返し主張していた。

「アーリア人」(ポーランド人)とユダヤ人の居住区の間には,高い壁が築かれたが,市電の軌道は,ユダヤ人地区から「アーリア人」(ポーランド人)地区に続いていたのである。しかし,11月17日朝以降,ユダヤ人がアーリア地区に外出することは許されなくなった。

つまり,ワルシャワ・ゲットーでは,当初,ユダヤ人も市電に乗車できたが,すぐに,ユダヤ人は乗車を禁じら,ゲットの外に出ることもできなくなった。しかし非ユダヤ人(アーリア人)は,路面電車に乗って,ゲットーの一角を見ることができた。その時に撮影した写真が何枚かアーカイブに保管されている。

写真(右)1942年6月,ワルシャワゲットーGetto warszawskieのゲート:外界との人的・物的な交流は原則禁止されていたが,このようなゲットーでは,当初,子供たちが外に食べ物などを探しに密かに外出した。ポーランド人相手の密輸商品によって,ゲットー内にヤミ物資が集まった。
Polen, Warschauer Ghetto.- Drahtzaun, Passanten auf Straße; PK 697 Dating: Juni 1942 Photographer: Amthor撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1940年11月下旬からは,ワルシャワ・ゲート内部のユダヤ人は,ポーランド人など外部の人間との取引が原則禁止された。ユダヤ人居住区は,ドイツ軍の命令で,レンガブロック,フェンス,鉄条網で囲まれていたが,当初は何箇所かの出入り口が残されたままだった。

ドイツは,ゲットー内部の住民管理や行政を,ユダヤ人評議会に代行させた。ドイツのポーランド総督Generalgouvernement für die besetzten polnischen Gebiete,親衛隊の手先として,ユダヤ人組織をつくらせた。ドイツは,ユダヤ人評議会に命令して,思い通りに動かそうとした。

ゲットー設置前から,ユダヤ人評議会(ユーデンラート)はあった。しかし,ユダヤ人は閉鎖ゲットーに隔離されたことではじめて,ユダヤ人評議会が政府として自治権を持つことができた。もちろん,親衛隊は,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察(自警団)を支配しているから,ユダヤ人評議会の下での「ユダヤ人自治」というのは,あくまでドイツの意向に沿う限りにおいてである。

ユダヤ人評議会の配下には,ユダヤ人警察(自警団)があって,ゲーットー内の治安維持に当たっていた。ゲットーでは立法,司法は認められなかったが,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察は,唯一の行政機関として,ゲットー内の住民には恐れられた。

課税,警察,教育とあらゆる行政を担った。1940年9月には,閉鎖されていたユダヤ人評議会教育局が,活動を再開した。11月,ユダヤ人警官が簿有され,5ズオッチ支払って,9000人の若者が警官候補として登録された。12月には,この中から4000人の若者がユダヤ人警官に任命された。

写真(右)1941年5月,ワルシャワゲットーGetto warszawskieのユダヤ人警察
Polen, Warschauer Ghetto.- Gruppe jüdischer Ghettpolizisten über eine Straße rennend; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人警察は,ナチス親衛隊の下請けとして,ゲットーの歩哨に立ち,あるいは交通整理にあたった。後に,ゲットーからユダヤ人の東方あるいは収容所への移送命令が親衛隊からであると,ユダヤ人評議会Judenratが人選し,ユダヤ人警察The Jewish Order Police が人を集めて,移送者を送り出した。

ユダヤ人警察(自警団)が管理したゲットーから,外部に密かに脱出することは可能だった。実際,ユダヤ警官が,ゲットーのユダヤ人がアーリア人地区に忍び込み,ヤミ物資を購入,ゲットーに密輸するのを幇助した。ユダヤ警官は,密輸業者から賄賂をせしめた。

しかし,ユダヤ人がゲットーを脱出しても,そこでユダヤ人が生活を営むのは困難だった。住む場所も匿ってくれるポーランド人もなかった。ユダヤ人は,ゲートの外で逮捕されれば,死刑になった。ゲットーからの無断外出は命がけだったため,密輸人の持ち込むヤミ物資は,高価な値段になった。 写真(右)1941年,ワルシャワゲットーGetto warszawskieの市場:各自が中古品の持ち物を手にして売買している。外界からの物資流入が断たれたゲットーでは,各人蓄えを売り介するしかなかった。マーケットといっても,必要な品物を見つけるのは難しく,その価格も法外なものになった。
Polen, Warschauer Ghetto, Markt; PK 689 Dating: 1941 Sommer Photographer: Cusian, Albert 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


アンネ・フランクAnne Frankたちは,オランダで隠れ住むことができた。これは,オランダ人が,ユダヤ人に対して同情的で,中には積極的にユダヤ人を匿い,物資を差し入れてくれる支援者がいた。レスキュアー,ユダヤ人に同情的なオランダ市民があったから,アンネたちは,孤立した隠れ家で生活することができた。

◆ポーランドのゲットーの惨状は,連合国も知っていたが,優勢なドイツ軍を前に,ゲットー,ポーランドの解放は,後回しとなった。英首相チャーチルの関心は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことだった。

ポーランドとの相互援助条約を口実に第二次大戦をはじめた大英帝国だったが,ポーランドの問題は,もはや忘れられた。

1940年初め,ユダヤ人居住区は伝染病にはかかわりなく,ゲットーが設置され,ユダヤ人隔離施設となった。そして,ワルシャワ全域のユダヤ人を,狭い一角を指定して,そこに移送し,押し込めた。伝染病が蔓延するのを防ぐと偽って,ゲットーを設置したのは,隔離され,自由が永続的に奪われるとなれば,ユダヤ人の逃亡・抵抗が予測されたためである。

写真(右)1941年,ポーランド,ワルシャワ・ゲットーGetto warszawskieの大通り:1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻中にゲットーにユダヤ人を移住させる命令が出ていた。ポーランドでは破壊された都市復旧に,ユダヤ人が駆り出され,後片付け作業に従事させられた。この時,労役に従事したユダヤ人を登録し,以後,家族を含めて,労役を課さないと宣伝したようだ。
ユダヤ人には,労役をこなして,家族の身を保障しようとしたが,これはユダヤ人を把握して,ゲットーに移送するための姦計だった。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラーは,下等劣等人種が団結すれば,ドイツに反する行動をとるとして警戒していた。そして,ユダヤ人を排除するという目的のためには,手段を選ばなかった。そこで,戦争で破壊された市街の清掃・整備など労役をユダヤ人に課すとの布告をし,この労役を断れば処罰すると脅した。

軽度の労役なら,ユダヤ人も承諾し,家族の安全を守るために,労役に応じた。この姦計によって,ユダヤ人を登録し,その後にゲットーに登録したユダヤ人を強制移送した。こうして,ユダヤ人たちは,外界との接触を断たれ,隔離された。

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワ・ゲットーの街頭で、腕章を巻いたユダヤの人々が歩道に行列している。ユダヤ人評議会は,ゲットー整備のために,仕事のない者に,清掃や瓦礫の後片付けなどの労働を命じた。
別の写真では行列の先は,ビルなので,ユダヤ評議会における仕事・住所の登録のために長蛇の列を作って待っているのかもしれない。強いられた生活を続ける中で,ユダヤ人は反目したり,ユダヤ人評議会を憎んだりしたが,団結を強め,危機を乗り切ろうとしたユダヤ人も多かった。
Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワ・ゲットーで、トラックを待つ若いユダヤ人男性の行列:左側には既にトラックに乗り込んだ男性たちが見える。ユダヤ人評議会の行政運営の下で,若いユダヤ人男性は,ゲットー内部のユダヤ人工場や土木作業に行かされた。ゲットー外部の労務作業に派遣されることもあった。しばしば集められ,トラックに乗せられ連れ去られたようだ。
隔離され,外部とのヒト,モノ,カネの取引が大幅に制限されたゲットーでは,仕事が無く,生活物資に困窮した。僅かな配給を目当てに,いわれたまま働くしかなかった。ゲットー内部にも,社会階層ができていた。ナチスは,ユダヤ人をゲットー内部で対立,反目させ,ドイツに対して団結して反抗することを防いだ。
Polen, Warschauer Ghetto.- Straßenszene, wartende Menschen auf Gehsteig vor einem Gebäude; PK 689 Dating: Mai 1941 撮影者:クノブロッフ、ルートヴィヒ(Knobloch, Ludwig)。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1940/7/8) :
「----市内での勤労奉仕,これは征服者どもがユダヤ人評議会に責任を持たせたもので,労働部隊という特別な名称で知られているが,この労働部隊への命令が完全に実施されるようになった。

臨時に生じるさまざまな一時的な仕事のために,ユダヤ人評議会に,1日当たり1万人の人員を差し出さなければならない。その上,通りを歩いている罪も無いユダヤ人通行人の中から数百に及ぶ人々が捕らえられる。

ユダヤ人評議会は,この目標を達成するために,数百人の事務員と監督者を雇い,完全な組織を作り上げた。16歳から55歳までのユダヤ人全員が,1ヶ月当たり9日間の労働を提供するように要請された。-----労働を免除してほしい者は,1ヶ月当たり60ズオチの代価を支払わなければならない。」

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーで、トラックに乗るユダヤの若い男性:別の写真には,ドイツ兵士も写っているので,ゲットーの内外に労務者として,あるいは工場労働に派遣されるところではないかと思われる。Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

ゲットーに押し込まれたユダヤ人たちは,ゲットー外部に労務者として派遣され,建設,清掃,工場の労働に従事した。ゲットー内部に賃金労働は限られていたから,ユダヤ人はたとえ報酬が僅かであっても,労役に従事するしかなかった。労働中に脱走することは可能だったようだが,ゲットーに残された家族に危害が及んだ。さらに,脱走に成功しても,ユダヤ人を匿ってくれるポーランド人はほとんどいなかった。ユダヤ人がゲットーの外で,生きてゆくことは困難だった。

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーで、トラックに乗り終わったユダヤ人男性:ゲットー内外に労働者として派遣されたが,報酬は低く,ただ働きに等しかった。しかし,ゲットーの外に出ることが困難なユダヤ人にとって,与えられた仕事以外,選択の余地はなかった。
Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


独ソ戦勃発4ヶ月後,1941年10月14日から11月4日にかけて、ドイツのベルリン、ケルン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルなどのユダヤ人1万9953名が第一陣として、ポーランドのウーチ・ゲットーに強制移送された。1941年11月25日のドイツ国公民法第11令によれば、ドイツ国籍ユダヤ人が外国に移住すれば、その資産はすべてドイツ国のものとなるとされた。

写真(右)1941年5月,ポーランド,ワイクセル川護岸工事に従事するワルシャワゲットーのユダヤ人労働者:「勤労奉仕」ということになっていたが,ゲットーのユダヤ人に割り当てられた強制労働だった。
Polen, Warschauer Ghetto.- Zwangsarbeit von Juden außerhalb des Ghettos an einem Fluss (Weichsel), Männer mit Spitzhacken am Ufer; PK 689 Dating: Mai 1941 ca. Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ナチ党大会が開催されたニュルンベルクから強制収容所に送られたユダヤ人が多数いた。1941年11月25-26日、ニュルンベルクのユダヤ人512名が集められた。戦後1951年の戦犯裁判において、ニュルンベルクから移送されたユダヤ人の死者は4854名である。また、ニュルンベルク市内に限っても、移送されたユダヤ人1931名のうち、生き残ったのは72名、生還率は4.4%に過ぎなかった。(芝健介『ヒトラーのニュルンベルク』180-193頁)

 ドイツ市民たちの中には、ユダヤ人に同情を感じたものも少なくなく、移送した警察・親衛隊が、暴力的だったわけでもないようだ。しかし、彼らは、ユダヤ人移送は仕方がないとのニヒリズムに陥っていた。隣人だったドイツのユダヤ人が追放、移送されても大きな反対派起こらなかった。弱者への同情は,弱さの現れであり,ドイツの敵,ユダヤ人に対しては,厳しい措置を冷徹に遂行すること,服従が,美徳とされた。


German Jewish deportees arriving at the Warsaw Ghetto:ドイツからワルシャワゲットー追放されたユダヤ人

写真(右)1941年5月,ポーランド,ワイクセル川護岸工事を命じられたワルシャワゲットーのユダヤ人労働部隊:ゲットーのユダヤ人に割り当てられた強制労働をこなす。
Polen, Warschauer Ghetto.- Zwangsarbeit von Juden außerhalb des Ghettos an einem Fluss (Weichsel), Männer Schubkarren über eine Holzbrücke schiebend; PK 689 Dating: Mai 1941 ca. Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
ナチズムは「人間性を踏みにじる強靭な残酷さを持ち,もっとも基本的な人間的感情に対しても無常に接することができる」(1940/2/3)

「これまでも,我々は残酷な人間を数多く見てきた。しかし,ナチズムが出現するや,一つの政党,そしておそらくは一つの国民全体が,残虐という病に起こされたのである。

かつては,サディストにも羞恥心があり,サディステックな行動が極端に走るのを抑えていた。残虐行為は,隠れたところで密かに行われ,公衆の目に触れることはなった。しかし,ナチズムが登場してから,残虐行為を公然と実行するれするほど素晴らしいこととされるようになった。

ここ数日間はユダヤ人への野蛮な恐ろしい仕打ちが頂点に達し,我々は息をすることさえできない。ナチズムは狂気以外の何物でもない」(1942/5/14)

「虐殺者の背後にある動機は何なのか。それを探り出そうと,大勢のものがさまざまな憶測を重ねる。若し動機が見つかれば,我が身に起こる危険がどれほどのものなのか推し量ることができる。しかし,いかなる解釈にも根拠が見つからない。----

彼らの動機は憶測を越え,論理を逸脱している。----破壊,殺害,絶滅。これが彼らの唯一の動機である。---彼らのすさまじい怒りの前には,統治の原理など,消え去ってしまう。これまでどんな独裁国家であれ,一民族の絶滅を図ろうとしているなどと公に主張することはなかった。状況が困難になるにつれて,彼らはすさまじい怒りをわれわれに浴びせかけ,敗北が色濃くなるにつれて,われわれへの迫害も激しさを加える。----

追放者が計画的に強制退去させられるのは,彼らを絶滅するためだ,ということである。幼子や不具者,傷病者,老人,病弱な者へのいたわりなど,全く見られない。それどころか,道中を容易にするため,そのようなものたちは真っ先に殺されてしまう。」(1942/6/9)

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーの裁縫工場:ゲットーに閉じ込められたユダヤ人でも,仕事をしなくては,食べていかなかった。外部との取引は原則禁止されていたが,ドイツ側が許可した仕事を請け負うことはできた。ミシンを使った縫製をするユダヤ人女性たち。
Polen, Warschauer Ghetto.- jüdische Frauen und Männer bei der Arbeit in einer Schneiderei an Nähmaschinen; PK 689 Dating: Mai 1941 ca. Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ゲットー内では,雇用機会は極度に不足していた。そこで,ゲットーで仕事を得ることができるかどうか,ユダヤ人評議会とのコネクションに依存していた。コネを作るのには,資金も必要だった。貧しいユダヤ人は,仕事もなく,飢え,病気にもかかりやすくなった。仕事がなければ,蓄えを食い潰して生きてゆくしかない。

写真(右)1941年5月,ワルシャワ・ゲットーの衣類消毒作業:消毒室にいる男性の腕章には,ユダヤの星がついている。看護婦は,ヒールの革靴をはいている。右には,男たちが服を脱いでいるが,ハンガー,衣裳掛けも整っている。
Polen, Warschauer Ghetto.- Krankenschwester, Männer ziehen sich aus, z.T. mit freiem Oberkörper, (Kleiderwechsel, Ausgabe neuer Kleidung?); PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ゲットーでは消毒室での勤務は,ゲットー内の「良い仕事」だったと思われる。多数のユダヤ人を抱えるゲットーでは,病気が蔓延していた。そこで,少しでも衛生的な環境にしようと,衣類の消毒が行われていたようだ。

シラミによって媒介される発疹チフスは、戦争、貧困、飢餓など社会的悪条件下で流行することが多く、第一次大戦中,ヨーロッパで数百万の死者を出した。衛生状態の悪化でシラミが大量発生すると,発疹チフスが流行しやすくなる。

写真(右)1941年5月,ポーランド,ワルシャワ,伝染病予防のため消毒・散発をするユダヤ人:シラミを媒介とする発疹チフス,細菌感染症などを防ぐために,シラミ駆除が行われた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Frisör Männer mit freiem Oberkörper die Haare schneidend; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1940/3/27) :
「われわれの苦難を増し,危害を大きくする新たな一幕が始まった。伝染病を防ぐための業務規則が定められたのである。-----災いなるかな,伝染病の発生した中庭付き集合住宅に住む者たちよ。病人が運び出された後も,その集合住宅は,二週間閉鎖され,隔離期間が終わると,アパートはすべて消毒される。------

アパートの消毒の後,住民は自分の意思に反して,身体と衣服の消毒のために,浴場に連れて行かれる。そして,ここで本当の苦しみが始まる。この浴場は普通のものとは違い,スチームである。身体を消毒するとき,女は髪を切られ,男は髭を剃られる。消毒された衣服が持ち主に帰されるとき,それはさんざんに踏みつけられていて,もはや着ることはできない。引き裂かれたしわくちゃのボロキレになっていて,もう二度と使うことはできない。

浴場に連れて行かれる時は,百人単位に分けられ,15時間から20時間もの間,そこに留め置かれる。その苦しみは想像を絶する。さまざまの段階の消毒があり,それぞれに4,5時間留め置かれる。---」

ワルシャワ・ゲットーは,1941年当初,人口は30万-45万人だった。1940年11月からの初期のゲットーを囲い込む壁は,1942年9月以降,縮小された。これは,物資不足,飢餓・病気に加え,ゲットーからトレブリンカなど絶滅収容所への移送が大規模に始まったためである。

ワルシャワ・ゲットーから強制収容所へのユダヤ人移送は,まずは小ゲットーが解体され,1942年9月には大ゲットーも撤去されることになり,狭い区画に追いやられた。現在,ワルシャワにはゲットー記念碑がある。

ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人は,50万人あった上に,周囲は壁で囲まれていたため,食料など生活物資が極端に不足した。


5.密輸業者・闇物資で栄えた遊興施設

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーにあった秘密のカフェあるいはナイトクラブ:初期のゲットーでは,閉じ込められたユダヤ人の中にも,富裕な者な階層の人たちもあった。ドイツ連邦アーカイブには,ゲットー内部にあったナイトクラブ,劇場の画像もある。
しかし,これをもって,ユダヤ人たちがゲットーで通常の社会生活を送っていたと誤解したり,ゲットー内部の贅沢を非難することはできない。
囲い込まれても豊かな生活が可能だったユダヤ人が,少数あった。これは人間性を残そうと,苦渋と不安の生活を忘れようとしたのであろう。ゲットーにナイトクラブがあったことを知ったとき,驚くとともに,人間味が残っていたことに安堵した。Polen, Warschauer Ghetto.- Juden beim Feiern in einem Nachtclub an Tischen sitzend; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan (1942/1/7):
「ゲットー住民の中には,少数ながら,同胞の窮乏につけ込んで商売をし,富を蓄えるものがいる。守ることが事実上不可能な厳しい制限は,向こう見ずな密輸業者や闇承認を多数生み出した。彼らの商売は,文字通り命がけだが,得るものも大きい。-----とりわけわれわれの閾値を吸い取るのは,ナチスと提携して殻らの目論見を助長し,略奪品を山分けする大物の密輸業者である。
危機の時代でも「飲み食いして陽気に騒ごう」という衝動は,少しも衰えることがない。これが人間の本性なのだ。----

ゲットーの中には,遊興施設があり,毎晩,入りきれないほどの賑わいである。---贅沢な衣装に身を包み,音楽を楽しみ,パイやコーヒーを味わう大勢の人達。これらの人々が独裁者の迫害に苦しむ犠牲者であると,どうして信じられようか。---こうした優雅なカフェの戸口にも,ときによるいと,飢えの犠牲となった遺体が転がっている。

ゲットーの歓楽街の中心は,レシュノ街である。ここにはあらゆる遊興の場があり,密輸業者や闇商人など,われわれの窮状から暴利を貪る好運な者どもを迎え入れる。ゲットーの子供たちは,みな,誰がそれを経営し,いくらの値をつけているかを知っている。有名なヒリシェフェルト兄弟は,レシュノ街64番地に豪華なカフェを開いた。

ある平日の夜,わたしは束の間の安らぎを求め,一人の友人と共に,カフェに行き音楽に耳を傾けようとした。しかし,席は埋め尽くされ,立ち席にも秋はなかった。ここは,カフェの入り口近くで,値段がもっと安い。この奥の部屋でオーケストラが音楽を奏で,値段は倍になる。さらに奥まった部屋には,トランプ遊技場があり,そこは時間単位の料金が請求される。オーナーの収入は,1日当たり1000ズオチにも達するだろう。人々はそのように,噂している。」

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーのカフェあるいはナイトクラブに集う男女:ユダヤの星の綺麗な腕章を巻いている男女だが,このマーク自体に反発はなかったのだろうか。ウイスキーなど洋酒ガラスボトルが35本くらい並んでいる。左のガラス瓶に巻いて入っているのは,紙ナプキンか(注文請求書?)。右の壁は,ガラスが敷き詰めてあるらしく,ナイトクラブに集う男女の背中を映し出している。
ゲットーの貧困者に比べれば,贅沢の極みかもしれないが,今日でも,世界中の生活水準の格差を踏まえれば,非難することはできないだろう。
豊かな生活に憧れ,それをゲットーに持ち込んだ少数のユダヤ人富裕層は,人間性を映し出している。Polen, Warschauer Ghetto.- Juden beim Feiern in einem Nachtclub an Tischen sitzend; Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ワルシャワゲットーにも秘密のナイトクラブ地下の劇場があり,ある程度豊かに暮らしていたユダヤ人が少数いたのは事実である。

しかし,ゲットーの富裕なユダヤ人であっても,暮らし続けるうちに,資産を食い潰し,いづれ貧しくなるのは明白だった。物資不足にもかかわらず,外界からの物資流入が閉ざされていたゲットーでは,日増しに物価が高騰していったと言う。豊かな生活は蓄えを食い潰しての一時的なもので,持続することは不可能だった。

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットーにあった地下劇場:人間性を残そうと,演劇活動をしていたゲットーのユダヤ人がいた。ゲットー内部の貧しさを考えれば,贅沢三昧ともいえるが,現在の世界にも,日本社会の内部にも,大きな格差は残っている。
金持ちは贅沢すぎると思う反面,演劇文化を維持したいという芸術的欲求も理解できる。紙で作った子供だましのヤシ木の舞台装置が物悲しい。Polen, Warschauer Ghetto.- Kabarett-/Theatervorstellung; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ユダヤ人絶滅は,国会演説,ラジオ放送でも公言されていたが,これは過激なプロパガンダに過ぎないと考えたドイツ人,占領下の住民,ユダヤ人が多かった。ドイツの指導者の中には,東方移送されたユダヤ人が殺戮されていることを知っているものもいた。が,知っているものは,知らないふりをした。

人間とは,知りたくない情報,認めたくない事実を率直に受け入れることはできないものである。不名誉な事件,残虐な殺戮などあってほしくはない,あるはずはないと思い込むことで,気分が紛れてくる。

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワゲットー秘密地下劇場舞台の俳優たち:簡単な舞台装置で演劇をする俳優・女優たちは,ゲットーの悲惨さを感じさせない。富裕なユダヤ人がゲットーのつらさを乗り越えるためか,芸術的欲求を満たそうとしてか,観劇にやってきた。
「戦場のピアニスト」The Pianistのウワディスワフ・シュピルマン(1911-2000)もゲットーの中でピアノ演奏者の職を手に入れた。しかし,1943年中に,劇場で働いていた俳優・女優も,現状やナイトクラブに通っていた富裕なユダヤ人も,ゲットーの貧しい人々と同じく,全員,トレブリンカ絶滅収容所などに移送されてしまう。ワルシャワゲットーも完全に解体されてしまう。
Polen, Warschauer Ghetto.- Kabarett-/Theatervorstellung; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用



6.不当現実主義を受け入れたドイツ人ハンス・フランク総督

◆ナチス指導者,一般市民は,収容所に送り込まれたユダヤ人の運命を察することができた。しかし,誰もその責任を取りたくなかった。誰もユダヤ人がどうなったのかを知りたくなかった。これが,「仕方がない」という無責任なニヒリズムNihilism ,不穏当であっても現実を受け入れてしまう不当現実主義である。

写真(右)1939-40年,ポーランド,クラコウのポーランド総督ハンス・フランク博士(1900年5月23日 - 1946年10月16日):1939年,ドイツ占領下のポーランドにゲットーが作られ,ユダヤ人が押し込められた。貧しかったもの,親のいない子供,病人は,隔離されたゲットーでの生存競争にさらされ,まっさきに亡くなった。
Generalgouverneur Dr. Frank Archive title: Polen, Krakau.- Polizei-Parade, Porträt Dr. Hans Frank, Generalgouverneur von Polen Dating: 1939/1940 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランド総督ハンス・フランクHans Frankは,後に,自分自身を含めて「何も知らないということを信用してはいけない。われわれは,詳細は知らないまでも,このシステムは尋常ではないと,誰もが感じていた。要するにわれわれは,知りたくなかったのでだ。システムに従って生活し,家族を養い,それが正しいことであると信じているほうが気楽だった。」と語った。(トーランド『アドルフ・ヒトラー 4』122-123頁)

ハンス・フランクHans Frank博士は,1939年9月26日,39歳の若さで占領したポーランドの総督に任命され,ワルシャワ,クラコウKrakauなどポーランド中部を統治した。ここにユダヤ人居住区ゲットーが作られたが,彼自身はゲットーを病原菌,下等劣等人種(Rational discussion)の巣窟と考え,撤去することを要請していた。古参党員としてヒトラーに気に入られたが,軍事・警察・司法の権力を拡大し,ポーランドの物資・美術品を略奪し,贅沢な生活をした。
しかし,フランクは,親衛隊SSとポーランド支配を巡って対立した。これは,
.檗璽薀鵐描軻追椶療治権を巡る対立が生じたこと,
▲罐瀬篆佑ゲットー受入れDEPORTATIONSが,ハンス・フランクの支配する「王国」に,食料,資源エネルギー,交通に負担をかける存在だったこと,
1942年夏の絶滅収容所Extermination campにおけるユダヤ人殺戮開始後,立法の遵守,警察国家の否定,人間性の尊重,獣性の否認を公言する演説をドイツ各地の大学で行い,殺戮に反対したこと,
が指摘できる。1942年8月24日,フランクはポーランド総督解任の事例を受けた。しかし,古参ということでヒトラーはクラコウでの総督ポストにとどめたままにした。

ナチ党法律顧問,バイエルン司法大臣,無任所大臣, ポーランド総督,国家司法監察官を歴任したハンス・フランク博士ですら,ユダヤ人絶滅Die Endlösungの現実は不当なように感じつつも「仕方がない」という無責任なニヒリズムに陥っていた。しかし,不当な現実を受け入れた不当現実主義者であっても,全てをヒトラー総統,親衛隊ヒムラー長官による1942年4月ユダヤ人問題「最終解決」Final Solution命令に転嫁することはできない。

ワルシャワは,人口の30%に当たる37万5000人がユダヤ人で,ニューヨークについでユダヤ人の多い都市だった。ドイツが任命したユダヤ評議会は,60歳のアダム・チェルニアコフAdam Czerniakowを議長とし,24人の評議委員がいた。その下に,ユダヤ人市民委員会,ユダヤ人警察が組織された。

写真(右)1941年5月,ワルシャワゲットーの市場でパンを売るユダヤ人たち:ゲットーは,食料にも事欠いたが,闇で外部から仕入れたり,ユダヤ人評議会を通して,食料を搬入したりできたようだ。子供たちが,ゲットーの外に密かに外出して,ポーランド人から食料を購入して,ゲットー内部に持ち込んだものかもしれない。パンの価格は法外なものだったろうが,何か食べられると思っただけで嬉しくなって笑顔がこぼれたのかもしれない。
Polen, Warschauer Ghetto, Marktszene; PK 689 Dating: 1941 Sommer Photographer: Cusian, Albert 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランド降伏から1年後の1940年11月16日,ゲットーは封鎖された。配給は不足していたから,餓死や病死が増え,1941年には,ワルシャワゲットーWarsaw Ghetto人口の10%以上の4万3000人が死亡した。

ゲットー内で生きてゆくには,外界のポーランド人に賄賂を渡し,あるいは盗みをして外界から闇物資持ち込みが,不可欠になった。ゲットーに密輸された闇物資を,法外な価格で買い入れることのできたユダヤ人は,生きてゆくことができた。しかし,闇underground enonomy物資を入手できなければ,生活は困窮した。


ゲットーの外にある墓地に遺体を運ぶ荷車も巧妙に闇み物資を持ち帰った。子供たちも,ゲットーを抜け出し,同情を引いたり,盗みをしたりしながら,闇物資,密輸商品をゲットー内に持ち込んだ。

他方,ユダヤ評議会は,ゲットーの貧困者に配慮して,無料食堂,学校,シナゴーグ(礼拝所)印刷所を作り,自主管理をした。

写真(右)1941年ごろ,ポーランド、ワルシャワ・ゲットーのリキシャー:ゲットー内部の近代的な公共交通機関は,燃料不足もあって,一切なかったようだ。2地区あるゲットーの境界を走っていた市電は,あくまでも非ユダヤ人の交通機関だった。
そこで,ゲットー内部には,荷物運びようの自転車を改造したリキシャ(人力車)が生まれた。ただし,このような「人力」公共交通機関を使うことができたのは,一部の富裕なユダヤ人だけだったようだ。リキシャに乗っている婦人たちは,立派なコートを着て,ヒールの革靴を履いている。Polen, Warschauer Ghetto.- Straßenszene, Personenbeförderung im Fahrrad-Taxi ("Rikscha"); PK 689 Dating: 1941 Sommer Photographer: Cusian, Albert 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ヤヌシュ・コルチャックJanusz Korczakは,戦前,児童書,子供新聞を刊行していて,ラジオ番組でも紹介されていた。彼は,ワルシャワゲットーの孤児院Orphanageで働いた。

コルチャック先生Janusz Korczakは,孤児に,衣食住を提供し,教育を施すなど,ベーシックヒューマンニーズBasic Human Needsの充足に務めたが,8月6日,192人の子供たちとともにトレブリンカのガス室に送られた。

写真(右)1941年5月,ワルシャワ・ゲットーのストリートの行倒れ(ルンペン:浮浪者):1939年,ドイツ占領下のポーランドにゲットーが作られ,ユダヤ人が押し込められた。貧しかったもの,親のいない子供,病人は,隔離されたゲットーでの生存競争にさらされ,まっさきに亡くなった。
Polen, Warschauer Ghetto.- Zwei auf dem Gehweg liegende, zusammengebrochenen jüdischen Kinder in Lumpen (krank oder tot?) vor einem Geschäft; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人評議会Judenratユダヤ人警察 Ordnungsdienst は,なぜナチスドイツに協力し,ゲットーのユダヤ人を管理し,トレブリンカ強制収容所Death Camp Treblinka に再移送したのであろうか。

.疋ぅ弔蓮ぅ殴奪函爾鯤頂燭掘て睇瑤魘食いのような状況におき,ユダヤ人が団結することを阻んだ。

▲罐瀬篆揺承腸顱ユダヤ人警察Jewish Ghetto Policeは,地位を確保しようと思えば,同胞を犠牲にして,ドイツに協力するしかなかった。

トレブリンカ強制収容所への再移送は,東方への移住と偽って行われた。殺害目的を隠蔽するナチス親衛隊の姦計によって,ユダヤ人再移送が続けられた。

ず動楞が殺害を意味すること予測されても,ゲットーに残されたユダヤ人がいた。残されたユダヤ人の命を助けようと思えば,犠牲になるユダヤ人が出てもやむをえないと考えた。


ゲットーにユダヤ人が囲い込まれた理由は,ドイツ民族の敵,ドイツ人を人種汚染する下等劣等人種とした差別があったからである。優秀なアーリア人は,冷徹な使命感を持って,このようなユダヤ人を排除しなければならず,同情するのは,弱さのしるしとして,軽蔑された。こうして,エセ科学で粉飾された差別観が,特定人種民族に対する迫害,虐殺に繋がった。

ナチスは,ゲットーに囲い込み管理しているユダヤ人を,東方ソ連に追放,移住させれば,ドイツにとっての災いの種になることを知っていた。そこで,ナチスは,ゲットーに集めたユダヤ人を,困窮,死亡するに任せた。

ナチスは,ゲットーの生存競争に生き残ったユダヤ人たちの「ちから」を恐れた。ヒトラーは,弱肉強食の生存競争の摂理を信じていたから,生き残っているユダヤ人こそドイツ人にとって脅威だと感じた。そこで,ゲットーのユダヤ人を,トレブリンカなど絶滅収容所に移送して,殺害することにしたのである。

ポーランド総督は,ゲットーは病原菌の巣窟であり,早期に解体撤去することを求めていた。
しかし,居住地を追われてゲットーに押し込められ,隔離されたユダヤ人を追放する場所はなかった。東方ソ連の肥沃な大地,資源は,入植するドイツ人,民族ドイツ人のためのものだった。

独ソ戦勃発後の1941年6月22日以降も,ユダヤ人を,ドイツが占領した東方ソ連占領地に移住させる計画はなかった。ナチスは,ドイツ人(ゲルマン人,アーリア人)を人種汚染する下等劣等人種ユダヤ人は,自由にさせれば,ドイツへの反逆,反乱を企む存在と考えていた。


7.日常的な死・埋葬

写真(右)1941年5月25日,ワルシャワゲットーの死体置き場:腕章を巻いたユダヤ人が,奥の死体置き場で記録をとっている。このような悲惨な状況に陥るくらいなら,強制収容所に移送され,労働に従事して生きるほうがよいと考えるユダヤ人もいた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Zwei Männer (Juden) mit Armbinden mit Judenstern vor Leichen in einer Halle; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』 The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan (1941/10/9)
「確かに,ゲットーの外とされたプラガへ続く道は,フェンスに囲いもまれている。しかし,ゲンシャ街のユダヤ人共同墓地とアーリア人畜との間には,実質的な境界は存在しない。------

ゲットーでは,死が大きな利益をもたらす大産業になっている。平和な時代には,ユダヤ人共同体の手によって葬儀が行われた,-----いかし,今ではそうではない。どこを向いても葬儀屋の事務所があり,店先には黒塗りの荷車が置かれている。これは,飢えとチフスによって死んだ者への緊急援助であり,そのような死者は,今では数万にも及んでいる。

死者が出ると,会葬者は葬儀屋に商品(遺体)を引渡し,葬儀屋がその子を取り仕切る。こうして,馬が引くあるいは,葬儀屋に雇われた者が人力車のように引く黒塗りの荷車が,遺体を次々と受け取って,積めるだけ積み込み,山となった遺体を墓地へ運んで行く。-----

この死の行列に心を動かすものは一人もいない。死は,ジョイント(米国援助団体)のスープ給食所やパンの配給カード,ドイツ兵に向かって帽子を脱ぐことと同様,日常的な出来事になってしまったからである。-----

清めの建物は,数百者遺体を収容しきれない。既にいっぱいなのに,遺体はなおも運び込まれ,墓地の馬小屋が死体安置所として使われている。異体は最小のスペースに最多の商品が納められるよう,見事な手並みで並べられる。-----

ユダヤ人評議会の共同墓地には,数百人もの職員が配置され,利権を貪る。---我々は評議会ではなく,墓地の会計係りに像儀の支払いをしなくてはならない。より正確に言えば,墓地の係員に支払い,彼はその金を自分の懐に入れてしまう。係員の男は,遺体を埋葬する指示を与えるが,一定の場所を指定することはない。共同墓地事務所は,区画の割り当てをせず,埋葬の許可を与えるだけである。-----

許可を手に入れた後,会葬者と埋葬を行う者たち,すなわち埋葬を委託された業者との間で,個人的に折衝しなければならない。」

写真(右)1941年5月25日,ワルシャワゲットーの死体置き場。ゲットーのユダヤ人は,隔離され,物資不足に苦しんだ。病気になっても医薬品は不足し,満足な病院も無かった。ドイツがゲットーのユダヤ人を強制収容所に移送する前から,ゲットーではたくさんの人々が亡くなっていた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Übereinandergestapelte, abgemagerte Tote aus einem Holzgestell; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年の夏以降,親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーから絶滅(強制)収容所に送ったが,これは収容所で労働に従事させるためと言う名目だった。ドイツ側は,ゲットーで労働力を調達していたが,恒常的に奴隷労働者とすることは困難だった。ゲットー内で自由の残っているユダヤ人を奴隷として処遇すれば,ユダヤ人は警戒して集まらなかった。

◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っている国際金融界のユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。

フランスのユダヤ人迫害を読む。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

ヒトラーの対米宣戦布告の国会演説の翌日、12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした---。

◆ヒトラー総統は,ソ連に侵攻,領土を拡張し,東方の肥沃な大地に,ドイツ人の生存圏を作ろうとした。そこは,ドイツ人,民族ドイツ人(ドイツ系ポーランド人,ズテーテン人など)の移民する大地である。そこに,ユダヤ人を追放することは考えられない。早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのも無益である。ゲットーのユダヤ人の抹殺がこうして始まった。

写真(右)1941年5月25日,ワルシャワ・ゲットーの痩せ衰えた遺体。骨と皮が目立つ無残な遺体が,無造作といってもいいように無遠慮に積み重ねられている。
ゲットー内部にナイトクラブ,劇場が残っていた時期,既に食糧物資の絶対的な欠乏によって,ゲットーの最底辺にいた貧しいユダヤ人たちがなくなっていた。ゲットー内のどこかに埋葬できたのか。強制収容所,絶滅収容所に本格的にユダヤ人が移送される前,ゲットーにあっても,無残な死が日常化していた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Übereinandergestapelte, abgemagerte Tote; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


同盟国イタリアのユダヤ人に対しては,ドイツも直接介入できなかった。しかし,1943年後半,ムッソリーニ政権が倒されると,ドイツ軍はイタリアを占領。空挺部隊を派遣,監禁されていたムッソリーニを救出した。ヒトラーは,ムッソリーニを首班とする傀儡政権を樹立,ユダヤ人狩りをさせた。

ナチスは,ゲットーに囲い込み管理できるようになったユダヤ人を,東方ソ連に追放,移住すれば,ドイツにとっての災いの種になることを知っていた。そこで,ナチスは,ゲットーに集めたユダヤ人を,困窮するに任せた。物資不足の中で,貧しく病弱なユダヤ人から,順次,死んでいった。

ゲットーに強制移送されるとき,ユダヤ人は蓄えを隠し持ってきていた。親衛隊は,ユダヤ人の抵抗を和らげようと,資産を持って移住することを認めた。ユダヤ人たちは,持ち込んだ物資・資産を小出しに使ったり,物々交換に使ったりして,生き延びようとした。


The Great Deportation in the Warsaw Ghetto - Abraham Lewin’s Diary:ワルシャワゲットーから(絶滅収容所)へ移送されるユダヤ人

ナチスにとっては,ゲットーの過酷な生存競争に生き残ったユダヤ人は,脅威である。弱肉強食の生存競争を神の摂理を信じていたヒトラーは,生き残ったユダヤ人こそ根絶やしにすべき存在とみなした。そこで,ゲットーのユダヤ人を,トレブリンカなど絶滅収容所に移送,殺害することが決まった。

ニュルンベルク法が,ユダヤ人を宗教による分別したとの俗説があるが,宗教や国籍ではなく,人種的特長,歴史を踏まえて,祖先がユダヤ人だったことを基準にしている。このような恣意的な区分は,実は,ドイツの敵となりうる人間,潜在的な敵性住民,人種汚染を排除するため定められた。敵を排除し,ドイツ人の種族保全のために,ユダヤ人を排除したのである。

ユダヤ人迫害の主導者は,ナチスと親衛隊だが,それだけではない。一般市民や現地住民のなかにも,やむをえないと思いつつ,差別・迫害に加担した人たちがいた。当時,ユダヤ人差別反対を表明すること自体が,反逆であり,処罰対象だった。保身のためには,ユダヤ人迫害もやむをえないと考えた人々が大多数だった。このようなドイツの世論が,ヒトラーを慢心させ,ユダヤ人差別・迫害を激化させた。

何回にも分けて,ドイツはユダヤ人をゲットーから強制収容所に移送した。もちろん,絶滅収容所送りとわかれば,ユダヤ人の反乱Insurgencyを起こしかねない。そこで,表向きは,労働収容所で働かせ,食料も与えるという触れも込みをした。


8.「ラインハルト作戦」とトレブリンカ絶滅収容所

◆トレブリンカ絶滅収容所への強制移送は,1941年7月20日から開始された。
ソ連侵攻バルバロッサ作戦開始から1ヵ月後の1942年7月20日,ユダヤ人指導部(ユーデンラットJudenra)は,労働不能なユダヤ人を東方に送る,実際には絶滅収容所に移送する命令を受けたのである。

◆ワルシャワのユダヤ人評議会Jewish Councilの議長アダム・チェルニアコフAdam Czerniakowは,ナチスドイツから,ユダヤ人を1日当たり6,000人毎週移送するように命じられた。再移送の人数は,後に1日当たり7,000人に引き上げられた。再移送は,ゲットーのウムシュラーク広場Umschlagplatzから列車に乗り,東部国境ブーク川沿いトレブリンカTreblinkaであった。トレブリンカ絶滅収容所への総移送数は,26万5,000人だったという。


1942年には,強制収容所への移送されれば,殺害されるという噂が広まっていた。しかし,それでも労働力として使えるユダヤ人をヒトラーが殺すわけはない,と考えるユダヤ人も多かった。ゲットー住民は,行き倒れ,病死,餓死しているのを,ドイツが放置している状況をみていた。

ナチスが,ユダヤ人をどのように処するつもりか,情報が隔絶されていたゲットーのユダヤ人には,理解できなかった。また,自分の置かれた現在の苦境よりは悪くないと,未来を喪失したくない心情も,理解できる。
 現在でも,ユダヤ人絶滅を信じない人がいる。

写真(右)1941年夏(?),ポーランド,ワルシャワ・ゲットーの行き倒れ:夏の撮影というが,コートを着ているので秋口に入っての撮影であろう。
Polen, Warschauer Ghetto.- Jude an einer Hauswand liegend; PK 689 Dating: 1941 Sommer Photographer: Cusian, Albert撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1942年7月22日,ワルシャワゲットーは,ドイツ軍とそれに協力するウクライナ兵,ラトビア兵に包囲され,ユダヤ人の強制移送が始まった。これは,ハインリヒ・ヒムラーHimmlerが「12月31日までに,ポーランド総督領のユダヤ人を全員再移送すること」"the resettlement of the entire Jewish population of the General Government be carried out and completed by December 31." とのゲットー・ユダヤ人の一掃命令を受けたものである。 ワルシャワゲットーから強制収容所への移送が続いた1942年夏の間に,ゲットー内のユダヤ人30万人が集められた。これは,ユダヤ人警察が,ラトビア兵,ドイツ兵士などの指揮の下で駆り集めたユダヤ人だった。そして,ウムシュラークプラッツの駅から,貨物車・家畜運搬車に詰め込まれ,100キロ先のトレブリンカ絶滅収容所に列車輸送された。

しかし,このころには,ゲットーの住民は,強制移送が殺害を意味するとは考えていなかった。ユダヤ人評議会・ユダヤ人警察は,ゲットーからの再移送が死を意味することに気づいていた。が,残る命を守るために,労働不能者の引渡しを承諾した。

写真(右)1941年夏(?),ポーランド,ワルシャワ・ゲットーの行き倒れ:手にしていた帽子は,小銭を恵んでもらうため,裏返しにされているようだ。夏の撮影というが,コートを着ているので秋口に入っての撮影であろう。
Polen, Warschauer Ghetto, Kranker Mann an einer Hauswand liegend; PK 689 Dating: 1941 Sommer Photographer: Cusian, Albert撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1942年7月23日,ユダヤ人評議会議長チェルニアコフは,ナチス親衛隊から下されたゲットー内ユダヤ人移送命令書に署名することなく,自殺した。同胞のユダヤ人を殺戮されると分かっていながら,絶滅収容所に再移送することを,認めることができなかったからである。この自殺によって,従来まで強かったユダヤ人評議会議長として,私服を肥やしているとの批判は,弱まった。ドイツが突きつけてくる過酷な要求を,少しでも緩和するために,尽力していたことがゲットーのユダヤ人にも分かったからである。

ユダヤ人の死への再移送は止まらない。再移送者を選択,集めるために,ゲットー内ユダヤ人を対象とした人狩りが行われた。ユダヤ人警察は,ドイツの命令に服し,ドイツに対するユダヤ人の反抗も(まだ)起きなかった。移送対象のユダヤ人は、移送は東方移住のためと信じようとした。生き残る可能性に期待したため,強制移送に対する反乱は起こらなかった。

ヘウムノゾビボルから脱走したユダヤ人が,ゲットーに虐殺の情報をもたらし,それが地下秘密新聞で流されていた。ユダヤ人の中には,虐殺を信じないものも多かった上に,武器はごくわずかしかなかった。しかし,若者を中心に,武力抵抗,蜂起が起きた。

写真(右)1942-44年,ポーランド・トレブリンカ絶滅収容所の概念図:ー容者を降車させる鉄道と駅プラットフォーム,駅舎:主要者に違和感をもたれないように普通の駅のように錯覚させた。J室法きぅス室:ここでディーゼル排気を用いたガス殺が行われた。ゥ團奪函Щ狢両撞兢貊蝓Das Nazi-Konzentrationslager Treblinka. - Zur Verhaftung des ehemaligen Kommandanten Franz Stangl in Brasilien Nicht weit von der Eisenbahnstation Malkinia, nordöstlich von Warschau, liegt Treblinka, wo die Nazi-Kriegsverbrecher eines der schrecklichsten Konzentrationslager errichteten, in dem annähernd 750.000 Juden aus allen Ländern Europas vernichtet wurden. Unter härtesten Bedingungen und bei strengster Aufsicht von Nazipolozisten mußten die Gefangenen hier arbeiten. Das Straflager Treblinka II war gerade fertiggestellt, als die Massendeportation aus dem Warschauer Ghetto begann. Eine besondere Eisenbahnstation mit Umkleidehalle wurde errichtet. Die Opfer erhielten Seife und wurden zum "Bad" geführt, in dem die Gaskammern eingebaut waren. Täglich kamen die Transporte an, die Menschen waren in Güterwagen - sogenannte Viehwagen - gepreßt, hatten weder Nahrung, Wasser noch frische Luft. Wenn sich die Transporte häuften, wurden die Opfer unter Schlägen mit Reitgerten zu den Gaskammern getrieben. UBz: Lageplan des Todeslagers in Treblinka. 1) Auslade-Bahnsteig. 2) Eine falsche Bahnstation. 3) Baracken, in denen sich die Opfer entkleiden mußten. 4) Gaskammern. 5) Gruben in denen die vergasten Opfer verbrannt wurden. Dating: 1942/1944 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

トレブリンカ,ベウゼッツ,ソビボールの絶滅収容所は,ハイドリヒの一連の出動命令におけるユダヤ人問題の最終解決のために,ポーランドに設置された初期の絶滅収容所である。これらの絶滅収容所は,独ソ戦開始後の1941年秋-冬に設置された。収容所の仕事は,親衛隊の指揮の下で,ウクライナ人や民族ドイツ人(ドイツ系諸民族)も加わった。そして,ポーランドのユダヤ人をディーゼル排気ガスを用いて殺戮した。

ゲットーのユダヤ人を絶滅収容所に移送する名目として,東方への移住や労働収容所への移送が挙げられた。これは,ユダヤ人が殺害されることを知れば,反乱を起こし,抵抗するからである。ユダヤ人問題の最終解決に支障が生じないように,ユダヤ人の殺害命令は最高機密とされた。

ユダヤ人絶滅の方針は,最高機密とされた理由は,殺戮を行っていることが知れれば次のような支障が生じるからである。

.罐瀬篆佑殺害されると知れば,反乱を起こす。そこで,ユダヤ人の積極的な抵抗を防止するために,東方への移送,収容所での労働を偽りの名目として,絶滅収容所へ移送した。

▲罐瀬篆誉簗任里茲Δ併諜垤坩戮蓮は合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。

8緤・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人殲滅戦争は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にもユダヤ人殺戮を秘匿する必要があった。
 

1940年11月,ワルシャワにゲットーが設置、ユダヤ人警察を配下に置くユダヤ人評議会が組織され,親衛隊SSの命令を実行する代行機関として,管理した。しかし,独ソ戦の戦局が悪化した1942年7月には,ユダヤ人の強制収容所への移送が強行された。名目は東方への移住,労働従事ということだった。

ワルシャワゲットーでは,ユダヤ人評議会が,ナチスの代行機関として,収容所への移送者を集める役割を負わされた。しかし,ユダヤ人評議会チェルニアコフ議長は,ユダヤ人移送任務に悩み,同胞を売ることを拒否して自殺した。ゲットーの住民にも,東方移送や強制収容所への労働派遣が,殺戮を意味するのではないかとの噂が真実味を帯びてきた。
ガス室による殺害、絶滅収容所の流言が広まった。

  1943年1月,第二次大戦における最大規模の決戦スターリングラード攻防戦で,ドイツ国防軍は,大敗した。多数のドイツ兵が死亡し捕虜になった時期,ゲットーでユダヤ人が生きながらえていることに,ヒトラーは耐えられなかった。ついに親衛隊ヒムラー長官に,全ユダヤ人を殲滅する口頭命令を下した。

第二次大戦中,軍需生産を拡大するには,労働力が必要で,そのために,ナチス・ドイツでも,ユダヤ人を労働者として雇い入れる,このような姦計・策略を親衛隊SSは行った。当初は,絶滅収容所に到着したユダヤ人が投函した「労働収容所」に関する手紙もゲットーのユダヤ人に着いた。もちろん,これは,親衛隊が,一部のユダヤ人を労働任務につかせて,ゲットーのユダヤ人を欺いたものだった。

横浜市立大学永岑研究室「ベウゼッツ収容所」によれば,絶滅収容所は,次のようなものである。

ベウゼッツは、ユダヤ人殺害のためのラインハルト作戦でつくられた三つの絶滅収容所(ソビボール、トレブリンカとならぶ)の最初のものである。着工は41年11月,有刺鉄線で囲まれた265メートル×275メートルの敷地で,ルブリン地区南東境界線近くに設置された。

ベウゼッツ収容所の最初の司令官クリスティアン・ヴィルトChristian Wirthは,ドイツ人障害者の安楽死計画T4作戦で指導的役割を演じた人物であった。収容所の監視、ガス室運転等の作業には,約80人のウクライナ人、バルト人、あるいは民族ドイツ人 がいた。

 ベウゼッツ収容所では、1942年3月から1942年/43年の年の瀬までに、60万人以上のユダヤ人が殺害された。主として、ポーランド総督府の南部のラドム、クラカウ、ルブリン、ガリツィアのユダヤ人である。ドイツ本土やチェコスロヴァキアのユダヤ人もあった。

 ベウゼッツに到着したユダヤ人は、「東方への移住」が告げられる。そして、衛生上の理由から、その前に、シャワーを浴びなければならない、と。ユダヤ人は、衣類や財貨を引き渡さざるを得なくなる。そして、グループごとに、夏は花で飾られ、シャワー室に偽装されたガス室に追い立てられた。そこには、ディーゼル排気ガスが引き込まれていた一酸化炭素中毒の犠牲者は、最初は大きな穴を掘って土で埋葬され、1942年末以降は、薪の山の上で焼かれた。

 1942年6月にこれまでよりも大きなガス室が建設された後は、ベウゼッツの殺害能力は相当に上昇した。さしあたりの間は絶滅を免れた約1000人のユダヤ人からさまざまな労働隊を編成し、このユダヤ人作業部隊に犠牲者の選別作業や死体除去の作業をやらせた。

 1943年春、この収容所は証拠隠滅(犯罪隠蔽)のため、消し去られた。そして、隠蔽(カムフラージュ)のため、農民の屋敷が建てられた。(引用終わり)


9.ラインハルト作戦終了

ユダヤ人評議会は,ゲットーの行政を担い,ユダヤ人警察がゲットーの治安を維持した。親衛隊は,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察を支配し,彼らに,ゲットーから強制収容所に移送する人数を指定した。ユダヤ評議会が登録名簿から,移送者名簿を作成,ユダヤ人警察が移送すべきユダヤ人を集めた。

1942年,トレブリンカ,ベウゼッツ,ゾビブルに絶滅収容所が完成,ゲットーのユダヤ人は,順次,絶滅収容所に再移送された。名目は,東方への移住,労働収容所への移送だった。もちろん,移送されるユダヤ人の反抗,逃亡を防ぐための偽りだった。

しかし,1943年に入ると,強制収容所への移送が死を意味することを悟ったユダヤ人も増えた。再移送に協力すべきユダヤ人評議会・ユダヤ人警察も,引渡しを遅延させた。

1943年1-5月,強制収容所への再移送が死を意味することに気がついたユダヤ青年たちは,移送を拒否し,反乱を起こした。これが ワルシャワ・ゲットー蜂起である。

しかし,シュトロープ将軍は,5月には ワルシャワゲットー蜂起Warsaw Ghetto Uprisingを鎮圧した。

ベウゼッツ・ソビボール・トレブリンカ絶滅収容所解体報告書:ラインハルト作戦を遂行したグロボチニクの親衛隊ヒムラー長官宛の書簡(1943年11月4日付け)
「私が総督府で遂行したラインハルト作戦を1943年10月19日を持って終了いたしました。そして、すべての収容所を解体しました。」
収容所のバラック,柵など施設を撤去するために,親衛隊,ウクライナ人が残り,トレブリンカでは囚人にも破壊をさせ,作業終了後,殺害した。収容所の痕跡をなくすために,植林がなされ,農家が建てられた。

ゲットーに集合させたユダヤ人を東方に分散,移住させれば,反ドイツのパルチザン活動を監視できなくなる。したがって,ユダヤ人の東方追放は,ユダヤ人による人種汚染,戦争に対する予防措置とはならない。ナチスは,強制収容所に拘束したユダヤ人は,労働力として使い捨てにするか,殺戮するつもりだった。

◆ユダヤ人大量殺戮には,次のような障害があった。
〇戮に伴う処刑者の精神的負担
∋餮察ο力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
B舂婿戮発覚によるユダヤ人などの抵抗勢力の増大とユダヤ人の武力蜂起
 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,ユダヤ人殺戮が事実上行われていた。労働に適しないユダヤ人は,ガス室が完備する前から,処分の対象だった。


ヒトラー総統や親衛隊にとって,ユダヤ人絶滅は,人種汚染排除の掟を中核とする弱肉強食の自然の摂理に即した組織的殺戮だった。が,その過度の残虐性,非合理性の故に,ユダヤ人絶滅が実施されたはずがないと誤解する者もいる。これは,当時のドイツ人,ドイツ占領地の市民,連合国の市民についても当てはまる。ヒトラーやヒムラーの公言したユダヤ人絶滅は,誇張されたプロパガンダにちがいない,このように考えたくなる。

◆ヒトラー総統の政治的遺書には,ドイツ人を抹殺しようと戦争を仕掛けてきたユダヤ人を殲滅すべきであるとの人種民族差別が示されている。ヒトラーは,1939年1月の国会演説,1914年12月の対米宣戦布告の国会演説でも,ユダヤ人の共産主義者と国際金融資本が,ソ連と米英政治家を操ってユダヤ人世界支配のための戦争をドイツに仕掛けている,よってユダヤ人を殲滅するために世界戦争を戦うと公言した。1945年4月のヒトラーの政治的遺書でも,戦争に責任があるユダヤ人に対する絶滅戦争を継続するように指示し,自決した。

ユダヤ人問題の「最終解決」は,戦前は,ユダヤ人のドイツからの追放だったが,戦時中は,強制収容所に拘束し奴隷労働に従事させ,疲弊し病気になった労働不能者を処分することだった。アーリア人を人種汚染し,ユダヤ人共産主義者がソ連を,ユダヤ人金融資本家・マスメディアがアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域もない。このような状況で,ヨーロッパのユダヤ人排除とは,ユダヤ人殺戮に至ってしまう。

ゲットー内部にも,今までの社会階層がそのまま持ち込まれた。しかし,これはゲットーが開設された初期,おそらく1942年までだったであろう。壁で囲い込まれて,外界との取引ができなくなっていたゲットーでは,僅かな密輸・闇取引以外,外界から物資,資源の搬入はできなかった。蓄えていた資源が減少するにつれて,物資の価格は急上昇した。インフレのために資産を使い尽くしてしまえば,それまでだった。

◆ナチス・ドイツの開設したユダヤ人居住区ゲットーでは,生産・流通・消費・リサイクルの循環的な流れをもつ持続可能な社会を構築することは不可能だった。資源・物資・資金を使い。消費するだけのワンウェイ型社会では,蓄えていたものを使い尽くせば,それで終わりだった。

1942-43年中に,ゲットーのユダヤ人は全員,強制収容所あるいはトレブリンカなどの絶滅収容所に移送された。ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人の財産没収,強制収容所への移送は当然のように知っていた。1943年に入って,戦局が悪化する中,ユダヤ人が外国やドイツ軍占領地に追放されているのではない,収容所に収監されていることも,明白だった。
ドイツ軍が後退している以上,ソ連の独軍占領地であるはずがなく,ユダヤ人は強制収容所から外に出ることはできないと予測できた。

◆ヨーロッパ中のユダヤ人が,東方に送られていることを,ドイツやフランスの鉄道職員はみな知っていた。フランス,オランダ,ドイツではユダヤ人を満載した貨車や客車が,東方に向かっているのを,沿線住民も見ていた。噂から,ヨーロッパ中のユダヤ人は,強制収容所に移送され,外に出たものがないことも知っていた。

ドイツの市民も連合国の市民は,人間性を無視する忌むべきユダヤ人絶滅が行われているかどうかよりも,戦局に関心があった。ユダヤ人迫害を告発すれば,処罰され,強制収容所送りになった。そこで,虐殺を知らないふりをした。
当時の日本人も,ユダヤ人絶滅が同盟国で行われているとは,思い至らなかったが,追放や差別は許容された。日本軍による虐殺の噂も,許容された。「戦争だから仕方がない」と。

虐殺の噂は,人々にとって,歓迎される話ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものだからである。戦時,人々は,虐殺の事実を認めようとしなかったし,認めたくなかった。ドイツ人は,虐殺の責任を回避しかった。ユダヤ人ですら,自分たち殺害されるとは思いたくなかった。

◆戦争は善良だった人間をも変えてしまう。「殺さなければ殺される」「戦争だから仕方がない」というニヒリズムにさいなまれた。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と不当な現実を肯定する無力感に陥った。

ニヒリズムが蔓延する一方,ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人教師ハイム・A・カプランは,冷静に事実を見つめていた。ナチスは,ユダヤ人が戦争を始めたとして,戦争の責任を取らせようとして,ユダヤ人を殺戮した。この人種民族差別に基づく組織的迫害を,カプランは記録し,後世に残そうとした。ゲットーで困窮していたカランにとって,日記を続けることが,最大限のレジスタンスだった。現代の,自由なわれわれには,何ができるのであろうか。


◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
そこでは、フランス侵攻、レジスタンス弾圧、東方生存圏、ソ連侵攻バルバロッサ作戦も解説しました。
> ◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスの優生学:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー暗殺ワルキューレ作戦:Valkyrie
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
反ナチス・白ばら抵抗運動:White Rose resistance
ナチスドイツの参考文献・資料引用
イギリス戦時内閣ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
ドイツ空軍総司令官ヘルマン=ゲーリング(Hermann Goering)元帥
ドイツ空軍(Luftwaffe)の偵察機・輸送機・水上機・グライダー
ドイツ空軍メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109戦闘機

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