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今月の特集

               戦国絵巻名所巡り    報酬編
                   戦国絵巻名所巡り

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巡時人の今週のコラム

歴史上有名な者だけが主人公ではない、彼らが主役なら必ず彩りを添える者がいる。
華やかな脚光は浴びずともキラリと光る名将たち。

今週は真田幸村の兄である真田信之をとりあげます。

1566年、真田昌幸の長男として生まれる。幼名は源三郎。母は宇多頼忠の娘・寒松院。父の
昌幸が甲斐国の武田氏に臣従したため、信幸は人質として過ごした。武田勝頼の嫡男・武田信
勝の元服と同時に元服を許され、信勝の1字を賜って信幸と名乗った。1582年に武田氏が織
田信長・徳川家康によって滅ぼされると共に父のもとへと逃れた。

1585年、昌幸が徳川家康から要求された上田城開城を拒絶すると、信幸は父と共に家康軍と
戦う。その後、昌幸は豊臣秀吉に臣従し、1589年には家康とも和睦が成立すると、信幸は徳
川氏の家臣となった。このとき、家康は信幸の才能を高く評価し、家康は重臣の本多忠勝の娘
小松姫を養女とし、信幸に娶らさせた。

1590年、後北条氏征伐である小田原合戦で功を立てて沼田城主となる。1594年には従五位
下伊豆守に叙位・任官される。豊臣秀吉の朝鮮征伐である文禄・慶長の役では肥前国名護屋ま
で赴いている。

秀吉死後に五大老となった徳川家康に接近し1600年に失脚していた五奉行の石田三成が反
家康の挙兵を企て、真田氏にも呼応を持ちかけられる。父と弟・信繁は三成ら西軍に付いたのに
対し、信幸は家康ら東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻めに参加する。こ
のとき、信幸は上田城の支城である戸石城攻略の武功を挙げた。しかし秀忠の軍は昌幸の善戦
にあって関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加することができなかった。

戦後、昌幸の領地であった上田などを加増されて9万5,000石となり、上田藩主となった。信幸は
昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。
昌幸らは助命され、紀州国九度山へ流罪となる。1614年からの大坂の陣では病気のために出
陣できず、長男の真田信吉と次男の真田信政が代理として出陣している。1622年、信濃松代藩
に加増移封され、13万石の所領を得る。

長男の真田信吉がすでに死去していたため、1654年に次男の真田信政に家督を譲って隠居す
る。しかし1658年2月に信政も死去した。このため、信政の子・真田幸道に第3代藩主を継がせる
が、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った。しかし信之も10月17日に死去した。享年93。

信之の死後、真田家では分家の沼田藩主・真田信利(信之の孫)が幸道の家督相続に不満を持っ
て騒動を起こし、江戸幕府の介入を招くことになる。

さて後世に「真田幸村」と呼ばれた真田信繁という伝説化してしまった人物が弟にいることで、信
之の影は薄く感じられ、時に戦国期を代表する愚兄賢弟の様な扱いをされる時もある。だが、信之
はどちらかと言えば武闘派の弟に対し政治的手腕に長けた人物であり、混乱の戦国末期を徳川
への忠誠と父譲りの才気で乗り切り、家中の騒動を収め、その卓越した政治力と生命力で真田の
名跡と血を残したのは信之の功績そのものであり、活躍は弟・信繁の華々しく伝えられる武功に
劣るものではない。当時としても異例とも言える93歳との長寿もあり、晩年は戦国時代を生で知る
最後の生き残りとして幕府内でも一目置かれる存在であった。しかし、戦場における華々しい活躍
よりも政治面での活躍が中心であったことから地味な印象は免れ得ず、信繁の存在ゆえに過小評
価されることが多い人物といえる。

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