俺達卒業して34年 愛の旅人 “ガラシャ”
 信長・秀吉・家康が登場する歴史物に、エピソードの脇役として登場することの多いガラシャ。日本の歴史
の大きなうねりの中に、その名を残す数少ない女性・・・ ガラシャ。
NHK大河ドラマ「功名が辻」においても、2006年6月現在、丹後の国味土野の山中で幽閉生活を送っている。
そのやさき、2006年6月24日(土)の朝日新聞朝刊Be on Saturday 「愛の旅人」にて細川ガラシャ夫人が取り
上げられ京都・味土野と大阪・玉造が紹介された。
ガラシャに特別な思い入れを抱くCUMC1972としては、2001年9月に藤井・高橋が探訪の旅に出た事を申し
添えておく。
“細川ガラシャ” 探訪の旅
苦悩超え光ふたたび
(引用:朝日新聞)
< 細川ガラシャと忠興 >

 京都・富津から、天橋立をつたうようにして対岸へ渡り、丹後半島の山中に車で1時間余り分け入る。 住宅
や田畑といった人の気配が次第に間遠になり、緑ばかりが濃くなっでいく。
京丹後市弥栄町の味土野地区。谷の奥の細い道を登りきったところに「女城跡」(めじろ)はあった。1582(天
正10)年夏から約2年間、宮津城主細川忠興の妻・玉が隠れ住んだところだ。小さな丘の上にこぎれいな空間
が広がり、「細川忠興夫人隠棲地」の碑が立つ。ここに小さな館があったらしい。
昭和初期の味土野には約40戸が点在したというが、現在はわずか3戸。豪雪などで住民が次々と去り、分校
も閉鎖された。夏の涼風とそばが好評だった分校跡の「ガラシャ荘」も、閉鎖されて久しいという。
本能寺に織田信長を討った玉の父・明智光秀は、10日余りののち、謀反人として非業の最期を遂げた。「謀
反人の娘」となった妻を、忠興は家臣と侍女をつけて味土野へ送った。

 政略結婚だらけの戦国時代。実家が敵方となった嫁は実家に帰されたり、殺されたりするのが常だった。
まして謀反人の家族は根絶やしが「常識」。しかし、忠興は玉を隠した。
女城と向き合う斜面には護衛のための男城を設け、織田方・明智方からの襲撃に備えた。 「この美しい宝は
誰にも渡さぬ」。楊貴妃桜のようにあでやかな美貌、とうたわれた妻への、忠興の並々ならぬ思いを感じる。
琵琶湖畔の坂本城(大津市)、堀のある勝龍寺城(京都府長岡京市)、天橋立を望む海辺にある宮津城-広々
とした水のある風景の中で暮らしてきた20歳の玉は、ここでの暮らしをどう受け止めただろうか。                              
ガラシャが幽閉されていた味土野には、深い山中に石碑だけが立っていた
(京都府京丹後市)
 2年後、天下人となった父の敵羽柴(豊臣)秀吉に許された玉は、大坂城にほど近い忠興の屋敷に入り、夫
や2人の子どもと再会した。 だが、ともに教養が高く、激しさをもち、仲が良かったという夫婦仲は、様変わりし
ていた。忠興が留守中に側室を置いたのも一因だったが、玉自身も大きく変わっていたのだろう。
玉は2児を次々と産んだが、「籠の鳥」でもあった。独占欲が強い上、玉の美しさが女好きの秀吉の目に触れ
ることを恐れた忠興は、外出を禁じた。

 玉は心のよりどころを求め、1587(天正15)年、キリスト教の洗礼を受けた。細川ガラシャの誕生である。
悲しみに心を閉ざし、怒りっぽく無愛想だったという玉は、明るく柔和で、辛抱強く愛らしく 「別人のようになっ
た」と修道士の書簡は伝える。
「困難に出会って人の徳は最もよく磨かれ、美しい光彩を放つようになる」との教えで心は定まった。1939(昭
和14)年に戯曲「細川ガラシア夫人」を書いたヘルマン・ホイベルス神父は、序にそう記した。
玉は、輝きを取り戻し始めた。


< 花散らし乱世生き抜く >

 大坂城の南、玉造(大阪市中央区)の細川屋敷で、ガラシャ(玉)は、16年間ほとんど外に出ることなく、キリ
スト教を学び、洗礼を受けた。その敷地の一部に、白壁のカトリック玉造教会が立つ。入り口にはガラシャ像
がたたずむ。大聖堂の正面に掲げられた壁画には聖母マリアのそばにガラシャが描かれ、炎に包まれた中
で最期の祈りをささげる姿の壁画もある。
 細川邸跡を意識することなく建てられたが、1963年に建て替えた際に、親しまれる教会にしようと飾られた。
神父の神林宏和さん(68)は「地元ではガラシャヘの関心が強いのです。数年前までは顕彰祭があって司祭
が招かれていましたよ」と説明する。

 しかし長い間、カトリック教会内でのガラシャの立場は微妙だった。教えが禁じている自殺をしたと考えられ
ていたからだ。「江戸幕府のキリシタン迫害で、記録が少なかったために誤解されたんですね」と神林さんは
言う。ローマ法王庁の古文書館に残る、和紙に細筆でつづった宣教師たちの手紙などを調べてガラシャの
実像に迫り、自殺ではないという観点で戯曲を書いたのが、上智大の学長だったヘルマン・ホイベルス神父
だった。
 ガラシャ隠棲の地・味土野の発見にも一役買ったホイベルス神父は、それまで 「自害して夫と家族を守っ
た貞女の鑑」とだけ伝えられていたガラシャ像に、血を通わせた。教会から大坂城へ向う道路脇に、ガラシャ
も使ったとされる井戸「越中井」があり、徳富蘇峰の筆によるガラシャ辞世の歌が刻まれた碑が立つ。
  
        『 散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ 』
                                                      
ガラシャ最期の地、細川屋敷跡に立つカトリック玉造教会の大聖堂で、日曜のミサが
行われていた。堂内にはガラシャの姿がそこここに(大阪市中央区)
 その「時」を決めたのは、夫忠興だった。忠興は常々、屋敷を離れる時は 「万一妻に危険が及んだら、妻
を殺して切腹せよ」と家臣に言い置いた。美しい妻を誰にも渡すまいとしたのだろう。
ガラシャもそのことを知った上で、武将の妻として、キリシタンとしてふさわしく死ぬにはどうしたらよいかと、神
父に手紙で相談していた。徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が激突した関ケ原合戦の前夜、忠
興が徳川軍に加わるために出陣した時も、そうだった。
 家康を背後から攻めようとした三成は、徳川軍の混乱を狙い留守宅の妻を人質にしようと、まず忠興の屋
敷を囲んだ。ガラシャは子どもや侍女を逃がし、家臣の刃を受けて死去。屋敷には火が放たれ、焼け落ちた。
1600(慶長5)年7月17日、38歳だった。
 スペイン出身のキリシタン史研究者で、日本二十六聖人記念館(長崎市)の前館長、結城了悟さん(83)は
「彼女はキリシタンとして死にましたが、それは信仰ではなく、夫のための死でした」と話す。ガラシャの死に
よって他家から人質を取れなくなったばかりか、人心まで失った三成は大敗。忠興は家康の信用を勝ち得た。

 忠興は、宣教師ルイス・フロイスの書簡に「生来非常に乱暴で、特に嫉妬深く、邸の中で厳格」と書かれ、
ガラシャや侍女たちの信仰を邪魔する悪役として登場することが多い。
「でも、宣教師の手紙には、ガラシャは初め、忠興を通して、高山右近が語ったキリスト教の教えに触れたと
あるのも確かです」と結城さんは言う。秀吉のキリシタン弾圧が緩むと、邸内に祈りの場を設けるなど、ガラシ
ャの信仰に理解を示すこともあった。
 細川家には、ふたりの愛の遺品がわずかながらも残る。 ガラシャが仕立てたという忠興の上着、その中に
入っていたガラシャ手描きの墨絵をあしらった袱紗(ふくさ)、忠興が亡きガラシャのために作らせたとみられ
る南蛮鐘・…。現当主の元首相、細川護煕さん(68)は「幕府の手前、足跡を意識的に消したということもある
のか、ガラシャの史料はわずかですが、ふたりは大変信頼しあっていたと思いますよ」と話す。

 忠興はガラシャの死の1年後、大坂でキリスト教式の葬儀を営み、涙を流した。 新領地となった小倉(北九
州市)にも、ガラシャと文通していたグレゴリオ・デ・セスペデス神父を同行させた。教会を建て、ガラシャの命
日にはミサをあげてもらうなど、妻をしのび、キリスト教のよき理解者としてふるまった。
しかし、1610(慶長15)年ごろ幕府のキリシタン弾圧が強まると一変。セスペデス神父の急死や禁教令を機に
迫害に転じた。
 時流を読み、したたかに乱世を泳ぎ切った忠興は、押しも押されもせぬ大大名となり、83歳で死んだ。
ふたりの墓は、熊本と京都の寺で、寄り添うように立っている。
                                                     文・魚住ゆかり
                                                     写真・荒元忠彦
復元された勝竜寺城の堀 (京都府長岡京市で)
First updated 2006/07/09
Last updated 2006/07/09