
かぶとがに No.13 (1993)
カブトガニの生まれた海・・・・・テーチス海
二億年以上の昔、地球の大陸は一つにまとまっていて、東に開いたテーチス海と呼ばれる大きな内海がありました(図1)。石油の元になったといわれる大サンゴ礁の広がるテーチス海で、三葉虫やアンモナイト、シーラカンス、そしてカブトガニが生まれ、栄えていったのです。このテーチス海の奥、西の端が今のアメリカ東海岸の近くであり、テーチス海の出口、東の端が日本など東アジアに当たります。
カブトガニは生きている化石と呼ばれ、五億年以上前の古生代初期に三葉虫と分かれ生じましたが、二億年前の中生代三畳紀以後は、ほとんど形態を変えずに生き残ってきた貴重な動物です。恐竜などよりはるかに古い生き物なのです。二億年前ごろから起きた大陸の分離と移動に伴い、カブトガニはいやおうなしにアメリカ大陸とユーラシア大陸に分けられ、北アメリカ東海岸と東アジアの海岸に生き残りました。
カブトガニの危機はいろいろな人が、いろいろな方法で訴え、救う方法をいろいろ考えています。ここでは、そうした事をくどく繰り返すのは避け、美しかったテーチス海の語源になったギリシャ神話の女神テーチスの話をしながら、海を愛した私たちの先祖をしのび、海を守る気持ちを育てていきましょう。
海の女神? 海の怪物? ティアマト
海の女神テーチスはギリシャ神話に登場する女神ですが、その原型がメソポタミアの神話に登場する同じ海の女神ティアマトに見られます。
メソポタミア(イラク地方)の神話は現在残っている世界の神話の中で、最も古いものです。これからお話しする神話は今から四千年も前にできていました。少なくとも、キリスト教の聖書やギリシャ神話はこのメソポタミアの神話の影響を強く受けています。
メソポタミアの神話によれば、天も地もない大昔、この世にあったものは水と二人の神様でした。塩水を支配していたのが女神ティアマト、真水を支配していたのが夫のアプスーでした。しかし、その頃、塩水と真水はまじりあっていて、完全な海はありませんでした。
ティアマトは生命を生んだ乙女とも呼ばれています。ティアマトたちの孫に、天上の精霊アンシャルと地上の精霊キシャルが生まれ、この二人の子供が,後に空の神になるアヌです。そして、アヌの子がたいへん頭の良い神エアです(図2)。
こうして、神々は増え、自分勝手なことを始め、ティアマトやアプスーの言う事を聞かなくなります。そして、ティアマトの反対に関わらず、アプスーは乱暴な神々を滅ぼそうとしたのです。アプスーのたくらみに気づいたエアは逆にアプスーを滅ぼしました。
このエアの子が神々の中で最も強いマルドークです。マルドークは、眼が4つ、耳が4つで、口から炎を吐く化け物のような神です。そして、たいそう乱暴者でした。あるとき、風をしばったので、風が吹かなくなりました。また、神々にもいたずらをしました。神々はマルドークの乱暴ぶりをティアマトに言い、マルドークを除くように頼みました。ついに、ティアマトは秩序を守るため、マルドークを滅ぼす決心をしました。
ここに、神々の戦いが始まりました。それは、天と海の戦いのようでした。エアは子供のマルドークを助けようとして、天の精霊アンシャルに、「女神ティアマトが天宮を滅ぼそうとしている。」と嘘をつき、アンシャルを味方に引き入れたのです。エアの父に当たるアヌもマルドークの味方になりました。いつの間にか、神々に反逆したのは、マルドークではなく、ティアマトだということになってしまったのです。
最初の戦いで、エアがティアマトに立ち向かいますが、ティアマトの作り出した竜などの十一頭の怪物に恐れおののいて敗れ、逃げ帰ってしまいます。続いて、アヌが女神ティアマトに立ち向かいますが、怒り狂ったティアマトの前に、やはり敗れてしまいます。
最後に、もしティアマトを倒したら自分が神々の王になるという約束を神々と取り交わしたマルドークが進軍します。手には雷を持ち、つむじ風の戦車で前進します。怒り、残酷、嵐、突風の四頭の怪物がその戦車を引きます。ティアマトの軍勢はその姿に恐れおののきます。さすが、ティアマトだけはひるむことなく前進しました。しかし、巧妙に仕掛けられた罠にかかってしまいます。
それでも、どんな武器もティアマトの体を傷つける事はできません。そこで、マルドークの軍にいた大嵐がティアマトの顔面に強い風を吹きつけ、ティアマトの口を閉れなくします。そこへ、マルドークが大弓を引き、矢を放ったのです。矢はティアマトの口を通って、内臓を貫き、心臓を引き裂いてしまいました。その血は風が吹き飛ばしてしまいました。海の女神ティアマトは敗れたのです。
マルドークはティアマトの体を二つに分け、一方を高く上げて、大空にしました。ティアマトの体の残り半分で大海の一部をおおい、大地の土台としたのです。空と陸ができたのです。
アヌを空(大気)の神にし、そして、エアを海の神にしました。エアは、ティアマト軍の大将軍だったキングーの血と骨を材料に、人間をつくりました。ティアマトを倒した、あの大弓は大空にかけられました。大空にかけられた大弓は、虹、天の川、または太陽の通る道、黄道の十二の星座になったといわれています。
こうした神々の戦いは、メソポタミアで起った権力の交代とそれに伴う戦争を反映しているのでしょうか。世界最古といわれるメソポタミアの文明を作った人々は、はじめは海の女神ティアマトを信じていたと思われます。しかし、異民族の侵入も多く、権力の交代も激しかったメソポタミアの地で、信仰の対象は神王マルドークに移っていったのです。マルドークの神殿は空高く築き上げられました。キリスト教の聖書に出てくるバベルの塔はマルドークの神殿がモデルだといわれています。バベルの塔は神に近づきすぎたとして破壊されるのですが、その話そのままに、マルドークの神殿も今に残りません。マルドークもまた、ティアマトと同じ道を歩み、人々の心から消えていったのです。マルドークの信仰の後、イラン(ペルシャ)に生まれたアフラを主神とするゾロアスター教がこの地方に広まったものと思われます。そして、ゾロアスター教もいずれイスラム教に追いやられていくのです。
ティアマトはメソポタミア(イラク地方)の海の女神ですから、その海はペルシャ湾ということになります。ペルシャ湾は、つい最近も戦争による原油流出によって汚されてしまった事は記憶に新しいところです。私も湾岸戦争直後に調査に行ってきましたが、ひどいものでした。
戦いに敗れたティアマトは、メソポタミアの神話に続くギリシャ神話にも登場します。しかし、海の女神としてではなく、海の怪物としてなのです。いけにえにされたアンドロメダ姫を襲う海の怪物の名前がティアマトなのです。海の怪物ティアマトは、アンドロメダ姫を救った英雄ペルテウスによって石にされてしまいます。時代の流れとはいえ、海の女神の扱いにいささかの怒りさえ覚えます。人類最古の文明を築き、女神ティアマトを信じていたと思われる人々は、ティアマトを残し、どこへ行ってしまったのでしょうか。
ある地域の神様が、別の地域あるいは別の神話で逆の扱いを受ける事は良くあります。ペルシャ地方のゾロアスター教の主神で、火や明るさ、そして正義の神であったアフラは、バラモン教、ヒンズー教、そして仏教で、アスラまたはアシュラ(阿修羅)として、むしろ邪神として扱われるようになりました。トルコ地方のメデューサも、ギリシャ神話では怪物の扱いです。
エジプトの神話では、根源の神アトン・ラーの子供に、大気の男神シュウと、水の女神テフヌトが出てきます。その名前の類似からも、テフヌトは、女神ティアマトとの関連が感じられます。テフヌトとシュウの子が、天の女神ヌウトと大地の男神ゲブです。その二人の子に、エジプト神話で有名なオシリスとか、イシスがいます。
メソポタミアと同じ中近東で生まれたキリスト教の聖書には、神エホバ(またはヤーべ)が天地を創造する話があります。最初、この世は水でおおわれ、神の霊が水面にあったとされています。そして、そこに光を与え、昼と夜ができ、一日目が終わります。次の日、神は水を上の水と下の水に分け、その間におおぞらを置き、そのおおぞらを天(空)と名づけます。二日目です。三日目に、神は下、すなわち地上の水を一か所に集め、海と陸を分けます。そして、植物をつくります。四日目に太陽と月と星をつくり、五日目に海と空の動物、すなわち、魚と鳥をつくり、そして、六日目に陸上の動物をつくった後に、自らの手で、粘土から人間アダムとイブをつくり、七日目に休んだとされています。この神話は、水がこの世の最初にあったとする世界中いたるところにある神話と共通するタイプの神話です。古代の人々にとって、海はそれほど広大で永遠なものと思えたのでしょう。
海の女神テーチス
では、海の女神テーチスの出てくるギリシャ神話を見ていきましょう。
ギリシャ神話によれば、原始、この世は何もなく、ただ混濁(カオス)だけが存在していました。そのカオスの中に一筋の光がさし、天と地が分かれていきます。天の神の名はウラノス、男性です。大地の神の名はガイア、女性です。二人は結ばれ、ひとりの娘が生まれます。それが、海の女神テーチス(テーチュス)なのです(図3)。

別の言い伝えでは、テーチスと大洋の神オケアノス(オーシアヌス)が神々の始祖であり、万物の始祖であり、この世のすべての始まりの時に存在していたとされています。この言い伝えによれば、大地も天も、海の女神テーチスの子供たちなのです。むしろ、この言い伝えのほうが古い物語のようです。
テーチスがどのような容姿であったか、ギリシャ神話は詳しくは伝えていません。その瞳はエーゲ海のようなエメラルド色だったのでしょうか。それとも、宝石の様な貝にも似たブラウンだったのでしょうか。やさしい潮風に揺らぐ長い髪は、光り輝く波間にも似た黄金色だったのでしょうか。夕焼けにきらめく黒髪だったのでしょうか。浜辺に寄せる透明な水のように、美しい肌をしていたのでしょう。気持ちも、大海のように豊かで暖かく、優しい女神だったと思われます(図4)。
天ウラノスと大地ガイアは、テーチス以外にも多くの子供や孫をつくりました。タイターンと呼ばれる巨大な神々です。タイターン神族の神々には、ウラノスの後を継ぎ、神々の王になったクロノス(ローマ神話ではサターン)や、天を支えているアトラスなど大勢います。アトラスはアフリカの北西部、大西洋のそばで天を支えています。その名は大西洋(アトランティック・オーシャン)の語源となりました。アトラスの大洋の意味です。
テーチスもいずれ恋をします。相手はタイターン神族のオケアノスでした。オケアノスは大洋の神です。その名は大洋(オーシャン)と同じ語源です。オケアノスとテーチスの夫婦は、ふたりで仲良く、海を見守っていたのです。オケアノスも大洋のように、包容力のある豊かな神だったと思われます。ふたりは幸せに暮らしていたのです。住まいは、西の大海、すなわち、大西洋の中でした。ヨーロッパの人々は、その西の大会に夢を膨らませました。西の果てに、落日に紅色に輝く、ヘラクレスの行った紅色の島、エリュウティアの島があるとされ、アトランティス大陸の伝説が生まれました。
しかし、テーチスたち、ふたりの幸せは戦争によって消えていく事になります。いつの世でも、恐ろしいのは戦争です。どこから来たのでしょうか。タイターン神族の神々の座を狙って、新しい神々が侵入してきたのです。この戦いは現実のギリシャでの支配の交代を意味しているのでしょうか。
攻めてきたのは、クロノスの息子とされるゼウス(ローマ神話ではジュピター)、ハデス(プルトー)やポセイドン(ネプチューン)兄弟たちでした。テーチスたち、タイターン神族は死力を尽くして防戦しますが、地獄の底からよみがえり、海底から出現した、五十の頭と百の腕を持つ巨人ヘカトンケイルなどによって、とうとう打ち負かされてしまい、ヘカトンケイルがその牢番をすることになる、地獄の奥底の牢に閉じ込められてしまうのです。そして、勇者アトラスは永遠に空を支える仕事をさせられたのです。
この戦いの後、ゼウスが天を、ハデスが死後の世界を、そして、ポセイドンが海を支配することになります。ポセイドンは三又の鉾(ほこ)をもった雄々しい神です。この戦いの後、テーチスはギリシャ神話から消えてしまいます。
海の神様は世界中の神話に登場します。ギリシャ神話では、テーチス以外に、海から生まれた女神として、美と愛の女神アフロディーテ(ローマ神話ではビーナス)が有名です。インドでは、古い時代に創造主と考えられた水天バルナがおり、海から生まれた女神として、赤の女神ラクシュミーがいます。ラクシュミーは日本では吉祥天女と呼ばれ、愛と幸福の女神とされています。日本古来の海の神様も、おおわたつみの神や、すさのおの命、たぎり姫、いちき島姫、たきつ姫など大勢います。最後の三人は福岡地方の海の女神です。
このように、私たちの先祖は世界中で海を尊敬し、そして愛していたのです。
カブトガニが滅びる海
ところが、その愛するべき海で、テーチス海の時代から生き延びてきたカブトガニが滅んでいこうとしているのです。瀬戸内海のカブトガニは、アジアのものとして北限そしてと東限に生息するものであり、また、日本全体を見ても、瀬戸内海以外には北部九州にしかいないのです。このテーチス海の子とも、孫とも言える瀬戸内海で、今、カブトガニが滅びようとしています。私たちが何もせず、このまま放って置けば必ず滅びます。
かつて、カブトガニは瀬戸内海全域に生息し、大阪湾にもいたといわれていますが、東のほうから減りだして、四国の海岸の繁殖地は、沿岸の開拓などによって全滅の状態になりました(篠原、1989)。それでも、1970年代までは、中国地方、例えば岡山県笠岡市の海岸には、かなりの産卵が見られ、幼生も見られました。ところが、1980年代に入ると年毎に減少し、1990年までに、ほとんど見られなくなりました。私は1992年の調査で、山口県のはずれ、下関の王喜海岸でカブトガニの産卵を確認しましたが、同じ山口県の繁殖地として知られていた秋穂や植生では、激減していました。瀬戸内海以外のカブトガニ繁殖地として知られる九州北部の博多湾、唐津湾、そして伊万里湾などの海岸でも、カブトガニの減少が伝えられています(若宮、1989;関口、1989;吉永、1989)。
なお、カブトガニの親はかたい外骨格に包まれ、丈夫で、多少の環境変化には耐えられるので、年毎に減少してはいますが、現在も瀬戸内海の海域に生息しています。しかし、次の世代の繁殖を担う幼生のいない状態では、近い将来の全滅を疑う事はできません。
胚は非常に弱く、ごくきれいな海水中でなければ発生できないし、他の動物には異常の起きないわずかな薬物も、卵の中に取り入れ、異常を起こします(伊藤ら、1991)。生まれたての幼生は、きれいな海水中の泥の干潟という特別の生息地を必要とします。その一方で、動作が鈍く、魚などの格好の餌になってしまうのです。人間とカブトガニを比べた場合、人間のほうが大事であることは言うまでもありません。しかし、海が汚れてくれば、まず、特にきれいな海水中でないと発生できないカブトガニの胚(卵)が死に、次に魚介類に影響が出て、ついには人間に及ぶ事になります。カブトガニの死滅は、海の状況の悪化を人類に知らせる危険信号と捉える事ができるのです。
日本の海を怪物ティアマトの海にしないために
カブトガニが生息できるためには、次の五つの要素が必要です。第一に、産卵のための砂浜が満潮線付近にある事、第二に、この砂浜でふ化した幼生が生育するための泥質に富んだ干潟が近くにある事、第三に、2令以後のカブトガニが、成熟するまで、多量の餌を取る事のできる数メートルの深さの浅い海がある事、第四に、成体が越冬をするための深さ十数メートルのやや深い海がある事、そして、第五として、そうした生育を保障する、まわりの海水が汚染されていない事、です。
カブトガニの激減の最大の原因が、埋め立て、護岸工事、そして汚染など環境破壊である事は言うまでもありません。カブトガニは自分たちの好む環境に非常によく適応し、古生代からの五億年以上の年月を、今と同様な姿になってからでも二億年もの間、生き延びてきたのです。このことは、彼らの生息している環境がこのまま続く限り、今後さらに何億年も生き続けて行けることを示しています。しかし、事実はまさにその逆なのです。
しかし、現在の瀬戸内海からまったくカブトガニがいなくなってしまったわけではありません。時のような絶望的な状態になってしまってはいないのです。瀬戸内海に面した大分県別府湾では、一時カブトガニの急速な減少が伝えられましたが(惣路、1989;川原、1989)、回復の報告も入ってきています。大分の県庁や市役所の話では、みかん農家の減反による農薬の流入減少による海の水質回復が、カブトガニの回復の原因の一つと考えられるそうです。中国地方で産卵の確認されている山口県王喜の海岸は、自衛隊基地の裏にあり、自然がかえって守られる形になっています。
環境を取り戻す方法は、理論的には、それほど難しくはありません。海も含めて、自然には浄化作用があるのです。それは、そこにすむ生物たちが重大な役割を担っています。生物たちが健全ならば、彼らがある程度の浄化はしてしまうのです。私たちはそのお手伝いをすれば良いのです。その為に、@まず、生物のすめる自然海岸を保護しなければなりません。Aそして、汚染物質を取り除く必要があります。Bさらに、汚染物質の流入を防げばよいのです。Cカブトガニや他の生物のいなくなった地域には、幼生などの放流も必要でしょう。
あなたは、女神テーチスの海が好きですか。それとも、怪物ティアマトやヘカトンケイルの海を望みますか。
図1. 地球の歴史と海
図2.メソポタミアの神々
(白ぬきは女神)
図3.ギリシャ神話の神々の系図 (白ぬきは女神)
図4.海の女神 テーチス (深川陽子 図)