集団疎開
「疎開」について
これは終戦を挟んだ約2年間の、東京都立淡路国民学校で当時の学童や訓導(教職員)が直面した「学童疎開の話」である。
「疎開」といえば「集団学童疎開」ばかりと思われて居ますが、当初の国の施策で老齢者や幼児と共に世帯単位で実施された疎開が、その後学童だけで「縁故疎開」した同級生達も多かった。
わが校を含む神田区の各学校から数人づつ選抜されて、船橋市宮本町へ「戦時体験疎開」をした人や、「強制疎開」で住居を取り壊されて止むなく転校した友も居りました。
又、終戦時まで当学区内に残った友達や、幼い弟妹達は「残留者」と呼ばれました。
サイパン島等が陥落し戦局が敗勢に向かう中、昭和19年8月26日 本校学童の大部分は、埼玉県北葛飾郡の4ヶ町村へ「集団疎開」に出発した。
資料によると、当時の学寮はすべてお寺で、
第3学年・男女40名、 吉川町吉川 「延命寺」訓導2名、寮母1名。
第4学年・男女50名、 金杉村築比地 「観音寺」訓導2名、寮母1名。
第5学年・男女50名、 松伏領村松伏 「静栖寺」訓導1名、寮母2名。
第6学年・男女63名、 旭村下内川 「正覚院」訓導2名、寮母1名。 |
※昭和20年3月 新6年生男子のみが「静栖寺」から「正覚院」に移動。
同年4月 新1・2・3生は4ヶ所に分散疎開。
※昭和20年11月8日 各学寮・全員引き揚げ。
学寮の開設については当時の父兄会(現・PTA)や学校側と地元の受け入れ側との困難かつ緊急を要する諸問題で非常なご苦労が有った事と思われます。
当時6年生の私達が過ごした7ヶ月の体験は「集団疎開の想い出」の座談会記事として創立100周年記念誌の42ページに詳細に語られて居ります。
それと重複しますが4月29日(天長節)から11月3日(明治節)までは「裸足通学」が現地の決まりで、ほぼ全員に「魚の目」が出来て、相当に痛かった記憶があります。
又、女子では頭髪に「シラミ」がたかり、大変苦労をした様子です。
「疎開後援会」は、当時の現地では調達出来なかった食べ物や、貴重な物資を(例えばシラミ用の水銀軟膏等)を父親たちが真っ赤な自転車などに満載にして、神田から日光街道を北上して各学寮を巡回して呉れた事を鮮明に覚えて居ります。
私達「神田・淡路の会」では、有志の17名で「50年ぶりの修学旅行」と称して、平成7年3月12日(日)に父親達が通ったと思われる道筋を「マイクロバス」でたどり、当時の学寮「正覚院」や「旭小学校」などを訪れました。
この日の翌日は、奇しくも私達が50年前に「中学校や高等女学校」を受験する為に帰京した日で有りました。
「当時の事は思い出したくも無い」という人も多い。
又、「懐かしい」や「第二の故郷だ」だけでは、それらの本質を見失う恐れがある。
しかし、その疎開体験の記録を残して置きたいと感じるのは、いわゆる年のせいか?
平成12年7月
松下 彰 記
昭和19年度卒 神田・淡路の会 事務局
今回この「集団疎開」のページの担当を勤めることになりました。
「疎開に関する資料」の各種を神田・淡路の会で収集・所有して居ります。
現在「淡路小」とともに「昌平小」に統合された「芳林小」の疎開資料の冊子「幸手栗橋ゃ千里の先ょ」は疎開に関心のある方には必読本です。

旭村学寮 江戸川土手 昭和20年

旭村学寮 昭和20年3月12日 広瀬中佐の前で解散式
疎開写真アルバム その一
疎開写真アルバム その二
学童集団疎開(昭和19年8月〜20年11月)の思い出
埼玉県北葛飾郡吉川町(現・吉川市)延命寺
酒井義雄・平成7年10月 記
(疎開時;淡路国民学校三年/四年)
空襲/生活/学校
夜間空襲で東京の空は皓々と赤い、この世で見た最も美しい光景だった、自分の家も燃えていた。
吉川町に夜、焼夷弾が落ちた,「ゴー」という表現できない程の大きな音がしたのには驚いた。
夜間、敵機を撃つ機関砲の弾が、ゆらゆら揺れながら飛ぶ、鳥の群のように見えて上空に消えた。
終戦直前、真昼の空襲で友軍の戦闘機(陸軍の“鐘馗”だったと思う)が、エンジン全開のまま、垂直に地上に向かって突っ込むように墜落して行くのを本堂前の境内から見た、越谷方面だった。戦後数年経ってから、
田んぼに10mも埋まった戦闘機の機体を引き上げたという新聞記事があった、 九州出身の搭乗員だった。
高々度上空、飛行機雲を曳きながら全速で飛ぶB29偵察機の白銀に輝く美しさも、あの不気味な爆音とともに忘れられない。
墜落したB29の残骸が吉川警察署(延命寺の斜向かい)に運ばれて来た、ジュラルミンを初めて見てさわった。
捕虜のB29乗組員が目隠しをされ、3人の憲兵が突き出す銃剣に支えられて、オート三輪車に立たされたまま、警察署に連行されて来た。
顔が赤かった。 胸に三角の大きなピストルケースが締められていた。女性乗組員も運ばれて来た。
B29がばら撒いたアメリカの宣伝ビラと、電波探知機を妨害するふわふわとした帯状のアルミ箔の塊を畑で拾った。
中川の河原で不発焼夷弾の爆発実験があった。 みんな橋の上で見た、六角形の筒状(1m位の長さだったかな?)の端に出た導火線(布)に火がつけられると、一分ほどしてから鈍い音をたてて爆発し、筒の両端から火(油脂)が飛び散った。川に落ちた油脂は燃えながら流れていった。
朝だったか、夕方だったか、境内で腰に手を当て身体を左右にゆらして軍歌を歌った。(戸井田先生)
夜、校庭にスクリーンを張り、映画「加藤隼戦闘隊」を観た。
夕方、吉川橋の上で、みんな東京方面に向かい「お父さん、お母さん、おやすみなさい。」 ホームシックでわんわん泣いた友もいた。
勉強をした記憶が無い。(私だけ?)山口先生が本「江田島」を読んでくれた。
納骨堂から暗い渡り廊下で便所がある、夜は怖くて行けなかった。
大雪の日、裸足で登校した、辛かった、寮に帰るとタライに用意して有るお湯に足を入れると今度はたまらなく痛かった。
登校時、寮を出るとき敬礼をして「寮内、ごくろうさまです。酒井、学校へ行って参ります。」 下校時は「寮内、ごくろうさまでした。 酒井、ただいま学校より帰りました。」(戸井田式)
縄を綯うことを覚えた。一尺ほどの間隔を60回巻いて「一ぼ」、わらじも作った
戸井田先生が召集され、あとに竹本先生がいらっした。
一と月に一度、まだ陽が高い時間、みんなで町の銭湯にいった。
頭上に敵機。 竹本先生がひとりで境内の片隅を開墾していた。
竹筒を布袋にくくり付け、いなご採りをした、から煎りして食べたかな?。
寮母として児童の世話をしてくれた斉藤君のお姉さんは優しかった。山口先生はいつも怒っていた。 が、おできの手当をよくしてくれた。
食事、はじめはご飯だったが、あとは「すいとん」しか記憶が無い、美味しいと思った。「おじや」もあったかな?ふかしたカボチャは不味かった。
土手沿いの道端に50センチ間隔位で枝豆を植えた、実がなった。
食べたかな? 食べたはずだ。
松伏寮か、旭寮に上級生をみんなで訪問した、裏が川で、日陰の霜柱が冷たかった。
「つぎの世を 背負うべき身ぞ たくましく 正しく生きよ 里にうつりて」。
地久節(皇后陛下の誕生日)にあたり、疎開学童に詠める皇后陛下の和歌、恩賜のビスケットを1枚貰った、すぐ食べた。
本堂の納骨堂にときどき十数人の近所のおばあさん達が集まり、みんなでご詠歌?を唱和っていた、節とともに歌詞の一端を覚えている、「あー そりゃきえた・・・あー そりゃきえぇ・・・」
夜、一人ずつお墓を一巡して、肝試しをした、夢中で駆け抜けた。
朝は境内に出て、宮城の方向に向かい最敬礼。(斉藤アルバムに写真あり)。
「みんな聞け、良い知らせがある、ルーズベルトが死んだ!」と竹本先生、みんな手を叩いてよろこんだ。
境内に大きな松の木が数本有った、或る日、そのうち何本かが切り倒された、松ヤニから飛行機の燃料を採るという話を聞いた。
たまらなく暑い日だった、 重大放送が有るとラジオは朝から呼びかけていた、早めに下校すると、昼、みんな広間に正座してラジオに向かった、竹本先生はラジオの横に座った、玉音放送が始まった、
何のことか判らなかった、こわばる竹本先生の腕がガタガタと震えはじめた。
玉音放送が有った2.3日後、“赤とんぼ”(陸軍練習機)が低空で飛来し、人を見付けるとビラを撒いた、「我々はあくまでも戦う、徹底抗戦を続ける」という内容だった。 枝豆の植えられた道端で拾った、妙に興奮した。
終戦直後の、ある暑い日の昼過ぎ、大きな地震があった。
まだまだあるが、以上
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